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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈 “その四”



  今回も、地震の巻 第十九帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。 よりよく奉仕するのみである。 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。 また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。 指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。 

 先回(“その三”)において、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”による被造物であるそのすべて、は、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)である、ということを述べた。
 そしてそれは“その二”と“その三”で取りあげた
“肺臓が想念の現われとなって呼吸”
“エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応”
“心臓は、その情動の現われとなって脈打つ”
“ オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である”
そして上記の要素は“その二”の表記の
“この二つのうごきが、一貫せる生命の現われ”
これに当たり、これ自体が個々の生命と“創造”の“主(ヌシ)”の共通点である。
それで、今回の文言に登場する“統治者”は“その二”で取りあげた“天国”においての、という意味合いであり、それを以下のように称されていた。
“この 
ローレンツ力 を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である”
この文言は“歓喜の根元”=“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を取り込むローレンツ力 
ローレンツ力 であり、それゆえ“創造”の“主(ヌシ)”の最初の“創造”は、“スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給う”そしてそれは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“総体の統治神”と称されている。
 それで“天国”における“統治者”も、今述べた“創造”の“主(ヌシ)”の最初の“創造”、というよりも、最初、という言葉自体が時間の経過を示す表記なので不適切であり、これはやはり、“状態の変化”と言い表わすことにするが、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“総体の統治神”、これと相似象なのが“統治者”である。

 上記のことを踏まえて冒頭の文を読むと意味がよく解ると思う
“これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。 よりよく奉仕するのみである。 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである”

 文頭の“これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない”、“権力”“指令”などというのは独裁にもつながり他者への尊厳など見失う、こういう発想や概念自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のものであり、“創造”の“主(ヌシ)”、唯一の神は、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”のために“よりよく奉仕するのみである”と述べられているが、こういったこと事態たった今の“地上人”の、自分の損得しか考えない霊的成長度の心(靈)では理解できないことである。
そして“奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し”、これは“創造”の“主(ヌシ)”と個の心(靈)が“融和”する、個の心(靈)がたった今どんな状態であろうが、どんなに進化の程度が低かろうが、いずれは“状態の変化”をして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して神に近付く=“歓喜”となっていき、神の思惑を自分の思想と認識にする事をのべており、“善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし”、“善悪美醜”と“真偽”を個の心(靈)に“観察と認識”させる理由と根拠は個の心(靈)に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性とそれを知ったらどう息吹くか、どう行動するかを考えさせることをさせ、そのために“御用の悪”もある、ということは地震の巻に入ってから幾度か述べたので詳細は割愛するが、そのことを示した文言であり、“これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである”、先に述べた“創造”の“主(ヌシ)”と個の心(靈)の“融和”と個の心(靈)自身が自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出しそれに向かう“状態の変化”をする、それは“これらの総てを神の力”であり、それを“神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力する”、これが“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”のためであり、これは“統治者”でけではなく、すべての“個の心(靈)”がこれを認識しなければならないことでもあると言いうる。

次の文。
“また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。 指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている”

 これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の発想しかない“地上人”向けに言われていること
“統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る”、
これは“統治者”であることを誇示したりしない、当然のことながらその権利など主張したりしない、また、他者に対し意見もしない=“他の善と真とを先とし”そして“先ずよろこび、己はその中にとけ入る”、他者の“善と真”と認識しうること事態が、神の“思惑の顕現”であることを知っている、具体的に述べれば、個々の霊的成長度においての“善と真”がある、それはその霊的成長度において取り込める“直接内流”であることを知っているのがまた“統治者”である。 これに続く“故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである”、“統治者”とそれ以外の“他”の“善と真”、これは“団体”の“弥栄”であり、当然のことながら“統治者”はこのことをよく知っており、また“統治者”自身の“直接内流”は、“その二”“その三”で取りあげた“ス”そして“ア”“オ”“ウ”“エ”“イ”の意味合いを持ち、この“直接内流”所以の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が“他”に及ぶこともよく知っている、それゆえ“統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となる”と、述べられているものである。
 これに続く“指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている”、先の“統治者”であることを誇示したりしない、当然のことながらその権利など主張したりしない、また、他者に対し意見もしない、“統治者”は“直接内流”を取り込み息吹く、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“他”の心(靈)に影響する、それは“統治者”の“直接内流”によって“他”の心(靈)が育ち“善と真”を顕現するものだからこそ、“地上人”のように“指令することは、戒律をつくる”、権利や権限、また意見の主張、これを“他”に押し付ける、などということはしないのだ、それは“戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている”ということであり、先にも述べたが、“統治者”は“総体の統治神”そして“創造”の“主(ヌシ)”とフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるからこそ、ただ“他”を“観察と認識”しても、息吹く、のみ、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“他”の“弥栄”のため、であるということを述べている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈 “その三”


 今回も、地震の巻 第十九帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。 

 今回の文言は、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”による被造物であるそのすべて、は、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを理解していないと読み解くことが出来ない。
 それは、以前にも述べたことがあるが“地上人”の学問としてのフラクタル(fractal)の概念は、形、形状の相似象しか観ていない。 
形、形状は、それを観察した他者の心(靈)が認識しうるものであり、そしてその形、形状はその本体、心(靈)の顕現である。
 その心(靈)の動きは、第十六帖 “その二”で取りあげた以下の文言、
“しかし肉体をすてて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質は衣にすぎないことが判明する。 肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。 霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。 また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。 霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。 この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である”

この文言に対し以下のような解釈をした。
“地上人”が観て認識している“肺臓”“心臓”は、物質であり、…中略…“地上人が死の関門をくぐった”そうすると
“肉体をすてて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質は衣にすぎないことが判明する”
物質は“地上世界”において心(靈)だけ“霊界”へ行くのが“死の関門”でもある。 
その物質としての“肺臓”“心臓”は“地上人”の医学で物質的な解析がされているのだが、地震の巻で述べられていることとしては、第十五帖の“直接内流”、神の思惑を止めている心(靈)、それが第十六帖 “その一”の
“考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである。 この内奥の自分は、神につながっている。 故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである”
また、第十五帖の
“直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する”
これら心(靈)の動き、そして心(靈)の動きあっての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)
=“故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うている”
これらが行われているが、その理由と根拠として、
“肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。 霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている”
“また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。 霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ”
この二点であり、この
“心臓は、その情動の現われとなって脈打つ”、
これは○○○大先生的な言い回しをすれば、一切の心(靈)の動きの根拠たりうる愛(炁)であり、“直接内流”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、その振動であるという言い方が出来得るし、さらにそれは神の“思惑の顕現”=現象化、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“創造”の元たるもの、であるという言い方もできる。 そして“肺臓が想念の現われとなって呼吸する”、この“想念の現われ”とは、○○○大先生が分類した本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、これに該当するが、下等な生物は心臓から発現しそれから肺臓が出来ていくことを鑑みれば、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において“想念の現われ”である先の心(靈)の動きの分類が、進化した動物ほど高度なものになっていくこと、人間という段階になって最終的には智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現とその強化となり…以下略…


 この“肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。 霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。 また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。 霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ”
そして
“この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である”
これもまた“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、神そのものでもあり、自分たち個の心(靈)でもあり。それ以外の存在一切でもある、がゆえに、それを“観察と認識”したなら、“一貫せる生命の現われ”である“肺臓が想念の現われとなって呼吸する”“心臓は、その情動の現われとなって脈打つ”、これを“この二つのうごき”と称され、重複するがこれ事態を“一貫せる生命の現われ”と称されており、この“一貫せる”“生命”という言い回しが、心(靈)の動きがフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるという説明に当たるものである。

 前置きが長くなったが、先に述べた形、形状における相似象がある、それを“これら天国の組織は、人体の組織と対応”という文言から読み取れるし、心(靈)の動きの相似象があるということに関して
“天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである”
から読み取れる。
 この“オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である”、“心臓”に関しては先の“心臓は、その情動の現われとなって脈打つ”、その“情動”は“肺臓が想念の現われとなって呼吸”、この“呼吸”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、その息吹の元たることが“心臓は、その情動の現われとなって脈打つ”であり、それは先回解釈した
“スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い”は、“統治”する“直接内流”は、“ア”であり、それは“オ”生命発生の元根であり“ウ”生物を生み出す力である。
これに当たるものである。
 そして“エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応”、これも先回の解釈を以下にコピペする。
“エとイと動き現われ給う”、“エ”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、“イ”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、この“イ”であり、“ア”の結果とも言いうる。

 また文中の“曲線”は、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、に対し、広く浸潤する、それ故に“曲線”、“創造”の“主(ヌシ)”を中心とした円周のよう、と言い表わされ、それがまた“ア”であるといえ、“ス”であるといえる。 

 これに対し“直線”は、“真”という生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、真実=真固止を顕現する心(靈)の動きと行動を示し、よってこの場合の“真”という表記自体が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、“弥栄”そして神に近付く意の“歓喜”を言い表わした表記であると言いうるし、“上”から“下”を貫く直線状の“直接内流”であるといえる。 

 それで“エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸している”の文言をよく見ると
“エ、イなる真は、直線”は、前述した通り進化(霊的成長、神格化に向かうこと)“弥栄”“歓喜”であり、“直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)の“肺臓”の“想念”=心(靈)の動きは、“一二三”のオーラを示す“三”、そして進化した体が持つ巻き数の多い神経、ローレンツ力のためのコイルの構造を示す“五”(五は糸巻の象形文字)、そして“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記の“七”、これを読み取ることが出来得る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈 “その二”


 今回も、地震の巻 第十九帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

天国は、限りなき団体によって形成されている。 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。 統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。 三人が元となり、その中心の一人は、 
ローレンツ力 によって現わされ、他の二人は、 ○ によって現わされる。 ○ は、左右上下 二つの動きの 渦巻き 左回転 を為すところの立体 渦巻き 左回転 からなっている。 統治者の心奥の ローレンツ力 は、更に高度にして、更に内奥に位する ローレンツ力 の中の ローレンツ力 によって統一され、統治され、 立体 渦巻き 左回転 をなしている。 天国では、この ローレンツ力 を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。 

  冒頭の文。
“天国は、限りなき団体によって形成されている。 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである”

 先回の“天国”の状況の説明、それが“限りなき団体によって形成されて”であり、そして“その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされる”、“政治”に関しては先回を参照のこと。
 そして“最中心、最内奥の歓喜によりなされる”これは“直接内流”、換言すれば神の思惑そのものと言え、ただしその“直接内流”は霊的成長度と、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の種類によるものであることはすでに述べた。 この詳細を理解したい方はこのカテゴリー全体を開き、Ctrl+Fで検索窓を開き“直接内流”と入力して探し出してその解釈を理解していただきたい。 

 次の文。
“統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。 三人が元となり、その中心の一人は、 
ローレンツ力 によって現わされ、他の二人は、 ○ によって現わされる。 ○ は、左右上下 二つの動きの  渦巻き 左回転 を為すところの立体 渦巻き 左回転 からなっている”

 前後するが、文中の“その中心の一人は、
ローレンツ力 によって現わされ”は、高い霊的成長度のローレンツ力ローレンツ力による“直接内流”である。 
 それは神の思惑そのものなので“統治するものは一人”、唯一の“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、“二人であり”“他の二人は、 ○ によって現わされる”は、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)であり、それは心(靈)の動きとなるから霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の表記が当てられている。 
この三つの要素“統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。 三人が元となり”があってこそり、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”となり得るし、それはまた“状態の変化”になり、霊的成長においては第九帖の
“霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。 これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の 
渦巻き 左回転 (うごき)をなす”ということになる。 
そしてそれは第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”
ということそのものであると言いうる。
 これに続く“ ○ は、左右上下 二つの動きの 
渦巻き 左回転 を為すところの立体  渦巻き 左回転 からなっている”は、これを他者から“観察と認識”したならば、という画像を作成したので以下に貼っておく。


地震十九 全体が日足(ひたり) 



 解りづらい画像になっているが、“直接内流”と日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があってこそ“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は 
渦巻き 左回転 回転=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を示す回転、“弥栄”であり“歓喜”となるのだと理解していただきたい。 それと画像の砌(みぎり)の極性は日足(ひたり)回転になっているが、これは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)は、たとえ“御用の悪”であっても、“状態の変化”
があり、“地上世界”においては右往左往と左往右往というローム太霊が説いた事情により必ず“善(神格化の方向性と智性の受信)”の 
渦巻き 左回転 回転となる、よってこの画像にしたことをお断りしておく。

 次の文。
“統治者の心奥の 
ローレンツ力 は、更に高度にして、更に内奥に位する ローレンツ力 の中の ローレンツ力 によって統一され、統治され、立体 渦巻き 左回転 をなしている”

 この文は逆から読むと理解しやすい、先ず“立体  
渦巻き 左回転 をなしている”は、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、であり、“更に内奥に位する ローレンツ力 の中の ローレンツ力 によって統一され、統治され”は、“直接内流”であり、重複するが“更に内奥に位する ローレンツ力 ”は、内面とか内側(心の中と感じている事)、心(靈)の動きによるものであり、その前の“心奥の ローレンツ力 は、更に高度にして、更に内奥に位するローレンツ力   ”は、“統治者”の心(靈)全体の内面とか内側(心の中と感じている事)という意味合いであるが、それそのものが神の思惑ではない、という意味合いと、“統治者”は神の思惑を顕現する心(靈)の動きをしているが、それは“直接内流”そのものではない、という意味。 しかし神は“統治者”を通じ“直接内流”を送り贈り“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、“統治され、立体 渦巻き 左回転 をなしている”ということになると称されている。

 次の文。
“天国では、この 
ローレンツ力 を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である”

 冒頭の“スの神と敬称”は、先の“統治者”に送り贈られている“直接内流”であり、それは“歓喜の根元をなしている”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし神に近付くその“根元”であるの意。 そして“スの神”の“ス”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)
のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
よって“統治”あるいは“統治者”が受け取る神の思惑“直接内流”による作用、と解する。
 これに続く“スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである”のカタカナ表記の意味は以下の通り
“ア”は、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)
“オ”は、生命発生の元根
“ウ”は、生物を生み出す力、産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“イ”は、生気生命の発生力
よって“スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い”は、“統治”する“直接内流”は、“ア”であり、それは“オ”生命発生の元根であり“ウ”生物を生み出す力である。
 これに続く“エとイと動き現われ給う”、“エ”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、“イ”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、この“イ”であり、“ア”の結果とも言いうる。
 これらを称して“総体の統治神”、“総体”は“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の意であり、これを“統治神”、“直接内流”、神の思惑の意である。
これに続く“三神であり”は、“直接内流”と日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“二神である”は、“創造”の“主(ヌシ)”、“直接内流”に相対した日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の意。
これに続く“ア、オ、ウは愛であり”は、究極微粒子“亜”が“オ”生命発生の元根であり“ウ”生物を生み出す力、となることを“愛であり”と称され、“エ、イは真である”は、“エ”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、“イ”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、この“イ”であり、“ア”の結果、であるが、それは事象の“観察と認識”において“真”と評価しうるものになるのだ、真実=真固止なのだ、の意である。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈 “その一”

 今回から、地震の巻 第十九帖の解釈に入ることとする。 第十九帖の原文は以下の通り。

天国の政治は、歓喜の政治である。 故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。 天国の政治は、愛の政治である。 政治する政治ではない。 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる。 天国は、限りなき団体によって形成されている。 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。 統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。 三人が元となり、その中心の一人は、 
ローレンツ力 によって現わされ、他の二人は、 ○ によって現わされる。 ○ は、左右上下 二つの動きの 渦巻き 左回転 を為すところの立体 渦巻き 左回転 からなっている。 統治者の心奥の ローレンツ力 は、更に高度にして、更に内奥に位する ローレンツ力 の中の ローレンツ力 によって統一され、統治され、立体 渦巻き 左回転 をなしている。 天国では、この ローレンツ力 を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。 これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。 これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。 よりよく奉仕するのみである。 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。 また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。 指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。 天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。 一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。 またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。 天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。 歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。 けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。 礼拝生活である。 総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。 与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。 故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。 しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。 地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。 無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。 森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。 天国の政治は、光の政治である。 天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。 一は月球の如き現われ方である。 一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。 愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。 月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。 またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。 光と熱とは、太陽そのものではない。 太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。 光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。 このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。 天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。 太陽の内奥は大歓喜が存在する。 故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜の ローレンツ力 が感じられるのみである。 この歓喜の ローレンツ力 が、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。 歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。

今回解釈するのは、
“天国の政治は、歓喜の政治である。 故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。 天国の政治は、愛の政治である。 政治する政治ではない。 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる”
ここまでとする。

 今回取り上げる文言中の“政治”という言葉に、“地上人”が行っているそれをあてはめて考えてはならない。 
 そもそも“地上人”での認識の“政治”の意味合いは、主権者が、領土、人民を治めること、あるいは、まつりごと、または、社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用、あるいは、国を治める活動。権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり、保ったりすることに関係すること、広辞苑では、人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力、政策、支配、自治にかかわる現象、とされており、大辞泉では、主権者が、領土、人民を治めること、また、ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用、とされているが、“天国”に主権者(国家の主権を有するもの)が存在すると思うのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の発想であり、第十九帖では“統治者”の表記はあっても“主権者”の表記は無い。
 それはまた、第十八帖の
“霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。 即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。 為に、命令的なものはない。 只、ひたすら奉仕があるのみである”
もう一つ、前後するが
“歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。 故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する”
こういった事柄、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の“地上人”には、今回取り上げている文言の“天国”は理解しにくい状況であり、またその場(フィールド)、“天国”あるいは“霊界”に位置する個の心(靈)は上記第十八帖の文言のように行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)し、その心(靈)の動きは“権利”あるいはそこから派生する利益や損得など思わないということを知り、これらを念頭において第十九帖を読み解かねばならない。

 冒頭の文。
“天国の政治は、歓喜の政治である。 故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない”

 先に述べたことが理解できているならこの文言は解釈の要はないと思うが、“地上人”より神に近くなった“霊界”さらに神に近くなった“天国”は、第十八帖の“ひたすら奉仕があるのみ”であり、これが“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”であり、そのための“天国”における“政治”=“天国”という場(フィールド)を“地上人”の政治の意味合いを引用するなら(少々不適切だが)ば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した個の心(靈)の集団、そこにおける秩序の形成、あるいはすべての存在の“弥栄”のための“統治”(第十九帖の表記の“統治者”のそれ)を行う、それが“歓喜の政治”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいないから“故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界である”のであり、この文の“地獄的段階の低い陰の世界”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“権利”や“主権”を主張して自分の損得のためにしか行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)しない場(フィールド)、たった今の“地上人”の“地上世界”であることを読み取るべきである。

 次の文。
“天国の政治は、愛の政治である。 政治する政治ではない。 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる”

 冒頭の“愛の政治”というのは、自分の損得しか考えない“地上人”に向けて解り易く説かれた表現と言え、第十八帖の解釈でも述べた通り“霊界”そしてさらに進化した“天国”においては、自我所以の“権利”“義務”などという概念は消え去り“一つの大きな神の用”のため“奉仕”する個の心(靈)となるがゆえに、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”のための“奉仕”のみの心(靈)の動きとなっていくものである。
これは高い愛(炁)と“地上人”的に“観察と認識”されるし、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、これに追随、あるいは恭順、といえるが、その段階においては追随や恭順という概念も消失しているであろう。


“創造”の意味と意義 


 これに続く“政治する政治ではない”も、地上人が持っている“政治”に対する既成概念が低いので、そんなことではないの意であり、それは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、神であり、神は先の“思惑の顕現”=現象化を行っているから第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”
ということのために、神をも含めたすべての個の心(靈)、すべての生命が存在するのだ、ということまで読み取るべきで、重複するが“霊界”以上の“政治”に相当することは“進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した個の心(靈)の集団、そこにおける秩序の形成、あるいはすべての存在の“弥栄”のための“統治”(第十九帖の表記の“統治者”のそれ)を行う、それが“歓喜の政治””、その意のことである。
 これに続く“より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる”これは“直接内流”、“上”との感応、それは神の思惑を受け取る、それを“内奥の、より浄化されたる愛(“創造”の“主(ヌシ)”の意)そのものからなされる”と称され、だからこそ“故に、与える政治として現われる”、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の奪い合いが現われた“地上人”の“政治”などではないのだ、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈 “その三”


  今回も、地震の巻 第十八帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。 何故ならば、霊と物とは対応しているからである。 生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。 従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。 陽人と、陰人とである。 陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。 太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。 この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。 故に、二は一となり、三を生み出すのである。 これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。 三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。 新しき生命とは新しき歓喜である。 歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。 霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。 この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。 春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。 また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。 故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。

 冒頭の文。
“その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。 何故ならば、霊と物とは対応しているからである。 生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている”

 文頭の“その奉仕”は、先回の“霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じている”そして“ひたすら奉仕があるのみ”これが“地上人であった時の職業と相通ずる”、お前たち“地上人”は、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるから“ひたすら奉仕があるのみ”という進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)の行いと心(靈)の動きを理解しえないだろうが、進化すればするほど、神に近くなればなるほど、自我所以の“権利”“義務”などという概念は消え去り、先々回の“一つの大きな神の用”のため“奉仕”する個の心(靈)となるが、たった今、“地上世界”の“地上人”が自分の利益のために“職業”という生業(なりわい)を行うが、これはお前たち個の心(靈)が“地上人”の段階で行いつつ、少しづつ“上”に進化している過程であって、いずれその“職業”が“一つの大きな神の用”に繋がるものであるから“その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある”のであるし、“職業”、そしてそれを選択した個の心(靈)の動き、これも神の“思惑の顕現”であり、それは“地上世界”と“霊界”においての相違はあっても、神の思惑を担い“一つの大きな神の用”となっていくものであるからこそ“霊と物とは対応している”これは“霊界”と“地上世界”は“対応”していると読み替えた方が理解しやすいし、個の心(靈)の“状態の変化”により少しづつ相違はあるが“生前は生後であり、死後はまた生前”、輪廻転生を繰り返して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していき“一つの大きな神の用”を為していくのであると述べられている。 これに続く“春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄え”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性と、個の心(靈)が“観察と認識”する“地上人”においては時間の経過、“霊人”においては“状態の変化”を述べている表記である。 ちなみに文中の表記の“春秋”は言葉の意味として時間の経過の意、“日月”も年月を重ねる意ではあるが、“春”は自我における肝=“いきり立つ心(奴と心)”、“秋”は脾=“思う、憂う”を指している表記であり、これと“日月”も含めて“日月神示”表記の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、と同義であると思える。

 次の文。
“従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。 陽人と、陰人とである。 陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。 太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである”

 冒頭の“霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる”は、先の日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の現われを示しており、それをまた“陽人と、陰人”と称され、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の説明として“”があるからこそ“陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。 太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜する”と述べられている。

 次の文。
“この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。 故に、二は一となり、三を生み出すのである。 これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。 三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。 新しき生命とは新しき歓喜である”

 冒頭の“この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している”も日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕現したそれを“観察と認識”した際の事柄が述べられ、なぜ神の極性の日足と砌(ひたりとみぎり)があるのかについてはこれに続く“故に、二は一となり、三を生み出す”、文中の“二”は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕現した何かが“一となり”したならば“三”、“二”とは違う新しき何かを“生み出す”と称され、それは
“愛と信の結合、または結婚とも称えられている。 三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。 新しき生命とは新しき歓喜である”
これを“地上人”的に観ると、日足(ひたり)の極性の現われである男が砌(みぎり)の極性の女と結婚して新しい生命を生み出す、みたいなことは理解しやすいし、そこに“地上人”の段階の“愛と信”があるから新しい生命、子供は生まれるのであるが、これが、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”に当てはまり、さらにそれは“三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。 新しき生命とは新しき歓喜である”、これは第一帖の冒頭の文言を思い起こさせるものである。 以下にコピペしておく。

“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”

 次の文。
“歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである”

 この文章は一読すれば理解できるが“地上人”向けの文章であり、お前たちは“物質”を観てもそれが神の“思惑の顕現”であることを知らないから“歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われる”と説明されている。

 これに続く次の文。
“霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。 秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。 この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。 春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。 また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。 故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである”

 冒頭の“春は、陽であり、日と輝き、且つ力する”これと“秋は、陰であり、月と光り、且つ力する”これは先の日足と砌(ひたりとみぎり)の極性=“春秋のうごき”を説明しているし、先の“二は一となり、三を生み出す”、これを“春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。 春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る”とも称されている。 その“神は呼吸し、生命する”、その現われがまた、神の極性の日足と砌(ひたりとみぎり)と言え、その現われである“善悪”は、霊的成長度の高低における視点の相違により違うものであるが、“同気同一線上”における“善悪”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕現であり、はっきり“善悪”と認識しうるものである。 
それゆえに、そこに“御用の悪”がある故に
“悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。 故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給う”
と称され、これも先の“二は一となり、三を生み出す”にかかる文言でもあり、その“生み出す”“歓喜”がまた、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”であり、そこにおいても、その中においても、と言い換えた方が理解しやすいかもしれないが、“故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである”と、括られているものである。

 またこれに関しては、第十五帖の以下の文言を読むと理解しやすいので、文中の“大平衡”の意味を念頭に置きながら読んでいただきたい。

“神は、左手にて 
左手 地震15  の動きをなし、右手にて 右手 地震15  の動きを為す。 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。 この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。 その平衡が、神の御旨である。 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。 左手は右手によりて生き動き、栄える。 左手なき右手はなく、右手なき左手はない。 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。 新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈 “その二”


 今回も、地震の巻 第十八帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。 即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。 為に、命令的なものはない。 只、ひたすら奉仕があるのみである。

 これは先回の
“霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。 そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。 故に、何れの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる”
これにかかる文言であるが、“地上人”の霊的成長度の視点、自我中心の視点では“権利”ということを考える。 これは検索すると、「ある物事をしてよい、またはしないでよいという資格。特に、(一定資格の者に対し)法が認めて保護する、特定の利益を主張・享受し得る力」などと解説されている。 
 これが“霊人”には無い、“権利”など思わない、なぜなら“霊人の仕事”は“より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進”そして“その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしている”さらにそれは“神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる”からである。

 今取り上げた先回の文言と今回のそれは、やはり“地上人”の自我中心のものの観方に対して述べられているのであり、自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“奉仕”をしていく、ならばそれは“その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしている”ということを深く理解し自らの認識(悟り、幸取=さとり)とする、進化した個の心(靈)はこういったものなのだということである。

 それだからこそ今回の文言の“権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということ”そして“義務することが霊人の大いなる歓喜となる”であり、またそれは“為に、命令的なものはない。 只、ひたすら奉仕があるのみ”ということになるが、この段階に至れば自我中心のものの観方による“権利”と“義務”などという概念は消失していると思え、ただひたすら“一つの大きな神の用”のため“奉仕”する、あるいは“奉仕”という概念や言葉そのものも消失していると思え、それを“只、ひたすら奉仕があるのみ”と称され、そうなればなるほど“大歓喜”“義務することが霊人の大いなる歓喜となる”、個の心(靈)が神に近くなる、と、今回の文言から読み取れるものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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