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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在48年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 黄金の巻 第八十八帖 Kellyさん的解釈 

  

今回は、黄金の巻 第八十八帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ。分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ。総てのものを先づ感受せよ。その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ。(一月三日)

 文言中の

“分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ”

これの“悪平等”というその“平等”の概念は、個々の権利に由来することが多いが、これこそが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識であり、それゆえに

“分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山ある”

“世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが”

と指摘されている。

そもそも霊的成長度の高低に於いて“平等”というその言葉自体が当てはまらないものであり、そのことを

“頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが”

と述べているのであり、これに続いている

“同じことであって同じでないぞ”

というのは、人間はみな神の子であるのだが、先に述べた通り霊的成長度の高低というものがある、ということを述べている。

 そして先の「“平等”の概念は、個々の権利に由来することが多い」これが重複するが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の既成概念、一般常識であり、自分たちの保身のための“平等”というのは、他者の権利を阻害し、自分たちだけの幸福を願っているケースとなり得るものであるがゆえに、自分たちが“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)としての窮地に陥った際、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をしがちであり、これが“悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ”であることを読み取らねばならない。 それゆえに

“この道理よく心得なされよ”

と述べている。

 前後するが

“日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ”

これはそれぞれの国家という意味合いではなく、個々の役割、個々の霊的成長度、これらに相違があるものだ、と解するのが妥当であるし、先に取り上げた“同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが”とほぼ同義である。

 最後の

“総てのものを先づ感受せよ。その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ”

自分の人生に於いて自分にとって都合のよいことばかり起きるわけではない、そこには“神の采配”としての苦痛や苦悩もあり、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)もあるのだ、これを“総てのものを先づ感受せよ”と述べ、それを熟して自分が成長する、それを“その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ”と述べており、これは先の「自分たちが“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)としての窮地に陥った際」、この時に“総てのものを先づ感受せよ”そして“その後に感謝せよ”、心(靈)が育ったならそれは“弥栄える”である。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 黄金の巻 第八十七帖 Kellyさん的解釈 

  

今回は、黄金の巻 第八十七帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

まことに改心出来たと、神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もないやうに守って、肉体、顔まで変へてやるぞ。宿命と運命は同じでない。磨けばどんなにでも光るぞ。放っておいても神に背くものは自滅して行き、従ふものは弥栄えて行くぞ。其処に神の能(ハタラキ)、よくさとりて下されよ。人間の処理方法と神の処理方法と融和せねばならん。急がねばならず、急いでは谷底に落ちて出来損なふぞ。ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持ってゐるのぞ。そのものの勝手な道は許さんぞ。大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか。(一月三日)

 

 冒頭の

“まことに改心出来たと、神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もないやうに守って、肉体、顔まで変へてやるぞ”

これの“まことの改心”は先回の“そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ”これのカタカナ表記(人間に相対した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点)の“マコトの改心”を引き継いでおり、第八十七帖に於いてひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記なのは、これが人間に於いてそうなったならば、の意を持つからひらがなであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした、と、“神が見届けたら”ならば“今度はこの世はもとより、何の心配もないやうに守って、肉体、顔まで変へてやる”と述べられ、これの“肉体、顔まで変へてやる”は、今後=アセンション後の場(フィールド)は“神烈しく(はげしく)”の結果であるがゆえに“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の降り注ぎも今と比べると相違があり、よって人間同士が人間を“観察と認識”してもその見た目は変容するのは当然のことである。

 次の

“宿命と運命は同じでない。磨けばどんなにでも光るぞ。放っておいても神に背くものは自滅して行き、従ふものは弥栄えて行くぞ。其処に神の能(ハタラキ)、よくさとりて下されよ

人間は時間の進行、“道”を認識しながらその過程に於いて自身のエネルギーを贖い(あがない)しているものであり、その贖い方により、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する度合いも違う、それゆえに“宿命と運命は同じでない。磨けばどんなにでも光る”と称し、お前たちの人生のアウトラインは決まっていたとしても、その過程におけるエネルギーの贖い(あがない)、頑張る(元の気を張る)こと、それによってお前たち自身が変わり人生も変わるのである、ということを“磨けばどんなにでも光る”と教えているものであり、そこには“理(ミチ)”、法則性というものがあるということを“放っておいても神に背くものは自滅して行き、従ふものは弥栄えて行くぞ”と教え、その“理(ミチ)”について“其処に神の能(ハタラキ)、よくさとりて下されよ”と述べている。

 次の

“人間の処理方法と神の処理方法と融和せねばならん”

これは人間が進化して神に近づくならば、自分の思惑と神の思惑の一致となる、そのことを“融和”と称しており、またこれ事態が自分が神の子としての資質と資格を得たということになるものである。

 次の

“急がねばならず、急いでは谷底に落ちて出来損なふぞ”

これは人生に於いて“神の采配”としての苦痛や苦悩や課題というものがあるが、そこに先の時間の進行、“道”、また法則性、“理(ミチ)”、があるがゆえに、安易に結果を早く出そうとする者は“谷底に落ちて出来損なふ”のであるし、また今後=アセンション後というのは時期が決まっているがゆえに“急がねばならず”と述べているものである。

 次の

“ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持ってゐるのぞ。そのものの勝手な道は許さんぞ”

これは一切万象が神であるということを当てはめて読むと理解しやすいのであり、文言通り“ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持ってゐる”のであり、これは一切万象の“大弥栄”“大完成”に向かうその過程に於いての“御用”であると解するとわかりやすい。 それで“そのものの勝手な道は許さんぞ”というのは、神の子たる資質と資格を持ちえない者が自分たちの勝手な都合で物事を運ぼうとすることを“許さんぞ”と述べているのであり、それは先の“人間の処理方法と神の処理方法と融和”、神の思惑と自分の思惑の一致となっていない、そしてそれは“急いでは谷底に落ちて出来損なふ”に当たるものでもある。

 次の

“大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか”

これは一切万象の“大弥栄”“大完成”となっていくその“大き喜びの中”そこに於ける個の心(靈)である自分たち、先の神の思惑と自分の思惑の一致となっていくなら“、小さい自分の喜び大きく栄える”そしてまた“大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄える”これの“大きな生命”が“創造”の“主(ヌシ)”自体、あるいは一切万象、そこに於ける自分自身が“マコト”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みをして進化を果たしたならば、であるし、これについては第五十三帖を参照されたいが、そこに一切万象の“大弥栄”“大完成”と人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)があるのだ、それを“判りたか”と述べているものである。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 黄金の巻 第八十六帖 Kellyさん的解釈 

  

今回は、黄金の巻 第八十六帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

一分一厘、力一杯、違はんこと書かしてあるのぢゃ。色眼鏡で見るから、違ったことに見えるのぢゃ。神示、嘘ぢゃと申すやうになるのぞ。眼鏡外して、落ち付いてみて、ハラで見て下されよ。世の先々のことまで はっきりと写るぞ。そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ。智慧と、愛が主の座に居らねばならん。物は愛から生れるぞ。ウムものがもとぢゃ。生まれるものはナルのぢゃ。ナルには智慧でなるのぢゃぞ。(一月三日)

 

 冒頭の文。

“一分一厘、力一杯、違はんこと書かしてあるのぢゃ。色眼鏡で見るから、違ったことに見えるのぢゃ。神示、嘘ぢゃと申すやうになるのぞ。眼鏡外して、落ち付いてみて、ハラで見て下されよ。世の先々のことまで はっきりと写るぞ”

 これの“色眼鏡”が何を指すのか、人はその霊的成長度の高低における認識というものがあり、その認識に於いての事象の観察がまた霊的成長度の高低における相違があるものである。 このことは○○○大先生が著書に於いて幾たびか述べていることであるが、これを読み取っている読者はとても少ない感がある。 一部以下に列挙する。

<1> ウエサク祭 月の祭り “続き”

「いきなり神の思想は人間に伝わらないということでもある。自分の持っている認識しか解らない。自分の持っている認識、1番目のオーラと同義だが、1番目のオーラが神と同等、あるいはそれに近くなければ、神の思想全部は理解できない」

<2> 霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”“その二”

「自分の持ってる認識でしか事象を観察できない。それは…1番目のオーラが小さいってことやないか? 認識=1番目のオーラって言い方してはったし…そやから、妄想と勘違いと思い込み…みたいなぁ~~~!! 本当のことを理解しようとしてない…って感じ~~~!!」

 いうまでもなく“日月神示”は高い存在が人間に教えを垂れるために書かれたものであるのだが、これすらわからない者も多く、また自分の人生に於いて漁夫の利を得る、ありがたそうなものを利用して金もうけをしたりする、こういった人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、また“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であることも幾たびか述べてきているが、所詮こういった人間は“日月神示”の価値を見出せず、そこに書かれていることも読み取れていない、または間違った解釈をする、これらを指して“色眼鏡”と称しているものである。

 これに続く

そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ

これの“心の中にゐる獣(ケダモノ)”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)であり、これを諌める指針を教えているのだ、また自分の“心の中にゐる獣(ケダモノ)”を諌めることをしなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し得ないのだ、という言い回しが“言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ”であり、カタカナ表記(人間に相対した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点)の“マコト”に関しては第五十三帖を参照のこと。 http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1487.html

 次の

“智慧と、愛が主の座に居らねばならん。物は愛から生れるぞ。ウムものがもとぢゃ。生まれるものはナルのぢゃ。ナルには智慧でなるのぢゃぞ

冒頭の“智慧”は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の“慧”、真理を見きわめる心の動きであり、間違ったエモーショナルな解釈をされがちな“愛”は“創造”の“主(ヌシ)”の息吹を受け止めた心(靈)の意である。 一切万象は“創造”の“主(ヌシ)”の息吹によるものであるが、それを“物は愛から生れるぞ。ウムものがもとぢゃ。生まれるものはナルのぢゃ。ナルには智慧でなるのぢゃぞ”と述べており、カタカナ表記の“ウム”“ナル”に関しては、第四十七帖を参照のこと。 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1481.html

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示” 黄金の巻 第八十五帖 Kellyさん的解釈

  

今回は、黄金の巻 第八十五帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

裏の仕組に  ローレンツ力入れると表の仕組となり、表の仕組に〇 入れると裏の御役となるなり。 ローレンツ力抜けば悪のやり方となるのぢゃ。どの仕組も判りて居らんと、三千世界の先々まで判りて居らんと、何事も成就せんぞ。神界の乱れ、イロからぢゃと申してあらう。男女関係が世の乱れの因であるぞ。お互に魂のやりとりであるぞ。この世ばかりでなく、あの世まで続くのであるから、くどう気つけておくぞ。コトはモノになる。悪いことすれば悪いもの生れて来て、生れ故郷に喰付いて悪くする。善いことも同様ぞ。因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのであるから、浮いた心で参りて来ても御役に立たん。邪魔ばかりぢゃ。因縁のみたまは何んなに苦しくても心は春ぢゃ。心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢゃ。(一月三日)

 

 冒頭の

“裏の仕組に  ローレンツ力入れると表の仕組となり、表の仕組に〇 入れると裏の御役となるなり。  ローレンツ力抜けば悪のやり方となるのぢゃ。どの仕組も判りて居らんと、三千世界の先々まで判りて居らんと、何事も成就せんぞ”

これの“裏の仕組に  ローレンツ力入れると表の仕組となり”とは、“裏の仕組み”というのがお前たちにとってのそれ、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”である一切万象の“大弥栄”“大完成”というのは現時点のお前たちが知りえない、当然理解もできていない、これをお前たちにとっての“裏の仕組み”と称し、これを解るためにローレンツ力ローレンツ力による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これが出来ていくと、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”がお前たちにとって顕在化されたものとなり、そうなると“裏の仕組み”が“表の仕組み”となる。 

そして進化した人間が“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”を理解し顕現しようとする際のことを“表の仕組に〇 入れる”、これの“〇”は被造物の個の心(靈)を指していることが判る筈であるし、そうなると先の“裏の仕組み”“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”の“御役となるなり”であり、この“御役”を担う人間となるということを述べている。

そこで先に述べた「お前たちにとっての“裏の仕組み”と称し、これを解るためにローレンツ力ローレンツ力による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これが出来ていく」、これに相対することとして“ ローレンツ力抜けば悪のやり方となる”と述べられており、お前たち自身の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が無ければそれは単に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であるという至極妥当なことを述べ、これらのことが理解できていない=“どの仕組も判りて居らんと、三千世界の先々まで判りて居らんと”と称し、お前たちがそうならば“何事も成就せんぞ”と述べている。

次の

“神界の乱れ、イロからぢゃと申してあらう。男女関係が世の乱れの因であるぞ”

これの“神界の乱れ、イロからぢゃと申してあらう”の“神界の乱れ”は海の巻 第九帖http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1418.html

これの

色はにほへど散るものぞ、世の乱れ神界のいろからであるぞ、気つけておくぞ”

これの意を引き継いており、“色”は物質の振動、外側(外国と幽界)の事象であり、これに対し“にほへど散るもの”と述べ、今の物質中心の事象、物質しか認識しえない事象は、神自体の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、である。

また、カタカナ表記(人間に相対した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点)の“イロ”は“イ”は、生気生命の発生力、“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)であるので、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である“イ”が顕現したさまを“ロ”と称していることがわかる。 同様の表記として黄金の巻 第七十帖の“イロタマ(色霊)”も参照されたい。

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1505.html

そこで間違えやすいのは“男女関係が世の乱れの因である”、これは人間のそれの意もあるが、“男女”は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の意であり、先に引用した「神自体の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする」これを“乱れの因”お前たちに“映像される”(地震の巻の表記)現津(あきつ)、観察され得る事象、それの“乱れの因”は一切万象に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があるからであると述べている。

 先の文言を含めこれに続く

“男女関係が世の乱れの因であるぞ。お互に魂のやりとりであるぞ。この世ばかりでなく、あの世まで続くのであるから、くどう気つけておくぞ”

これはたった今のお前たちの右往左往と左往右往が個の心(靈)同士の“やりとり”それは諍いであったり、または諍いを通じて自省(胸の磁性“十”)したり、そうやって心(靈)は育つ、これはお前たちが死んでもその心(靈)自体は急に変化したりしないから“この世ばかりでなく、あの世まで続くのである”と述べ、今の内に“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”自省(胸の磁性“十”)の“行”を行っておけ、の意も含まれているものである。

 今の“お互に魂のやりとりであるぞ。この世ばかりでなく、あの世まで続くのである”を引き継いでいる次の文。

“コトはモノになる。悪いことすれば悪いもの生れて来て、生れ故郷に喰付いて悪くする。善いことも同様ぞ”

これの“コト”は“コ”は、停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意

“ト”は、止まると云う心、であり、“モノ”は、“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)、“ノ”は、延びる 広いところ の意、である。 先の“お互に魂のやりとり”に於いて個の心(靈)同士が受ける振動、それによる“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)を“コト”と称しているのがわかり、それの現象化、顕在化が“モノ”という表記であることもわかるものである。 そこでお前たちの在り方振舞い方として先の“くどう気つけておく”に当たることとして“悪いことすれば悪いもの生れて来て、生れ故郷に喰付いて悪くする。善いことも同様ぞ”、これは因縁や因縁霊のことを述べていることが解る筈であるし、これがまた生きている人間の右往左往と左往右往に大きく関わっていることを忘れてはならない。

 次の

“因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのであるから、浮いた心で参りて来ても御役に立たん。邪魔ばかりぢゃ。因縁のみたまは何んなに苦しくても心は春ぢゃ。心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢゃ”

先に述べた「人間の右往左往と左往右往」、こうして人間は自省(胸の磁性“十”)して“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から脱却するが、このこと事態を“因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのである”と称し、その際の心構えとして“浮いた心で参りて来ても御役に立たん”と述べ、“浮いた心”ならそれは“邪魔ばかりぢゃ”と称し、さらに“因縁のみたまは何んなに苦しくても心は春ぢゃ”、神の試練を理解している、“神の采配”であるという認識があるなら“心は春ぢゃ”と述べている。

そして“心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下され”、次の段階に移行しえない者に対する文言であり、お前たちが育つのを神は待っていた、それは先回の

“神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うたのである”

しかしながら

“が、曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒 切れたぞ”

これを引き継ぐ“神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢゃ”と述べているものである。

 

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 黄金の巻 第八十四帖 Kellyさん的解釈 

  

今回は、黄金の巻 第八十四帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うたのであるが、曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒 切れたぞ。人間が恨みや怒りもつと、その持物までが争ふことになるぞ。早う気持から洗濯して下されよ。死んでも続くぞ。結構に始末せねばならん。上に立つ者 余計に働かねばならん時来てゐるぞ。いくら古くから信心してゐると申しても【肝腎】が判りて居らんと何もならん。よい御用出来ん。想念の自由とは神に向上する より上の、よりよき方に進む自由であるぞ。どの世界の人民も自由もつ。(一月三日)

 

 冒頭の

“神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うたのであるが、曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒 切れたぞ”

これの“曇りがあまりにもひどい”は、“めぐり”恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を体験させて自省(胸の磁性“十”)の“行”をさせようとするその思惑、これを“神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うた”と最初に述べられている通り、しかしこれに対し“思うたのであるが、曇りがあまりにひどいから”と述べていることを読み取り、そして“曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒 切れたぞ”と述べられている通り、“人民に改心さして、世の立替立直し致さう”とはならないと“神は”判断したから“神も堪忍袋の緒 切れた”と述べ、またこれは今後=アセンション後に移行し得る時期というものが迫っているから、ということでもある。

 これに続く

“人間が恨みや怒りもつと、その持物までが争ふことになるぞ。早う気持から洗濯して下されよ。死んでも続くぞ。結構に始末せねばならん。”

これは“めぐり”恨みの連鎖の霊的干渉のことを述べており、自分の心(靈)の在り方ひとつであることを“早う気持から洗濯して下され”そして心(靈)の動きを“結構に始末せねばならん”と教え、これに相対して心(靈)の在り方が“めぐり”を生み出しているその方向性のままであるなら、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は拡大していくことを“恨みや怒りもつと、その持物までが争ふことになる”という言い回しで示しており、その心(靈)の動きのままであるなら“死んでも続く”、自分自身が恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に加担する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一員となっていくことを述べている。

 次の

“上に立つ者 余計に働かねばならん時来てゐるぞ”

これの“上に立つ者 余計に働かねばならん”という言い回しは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観である自分が“力”を振るったならたくさんの報酬が得られ自分の欲望を満たすことが出来る、これが形骸の権威の元となっているものであるが、この考え方自体が“誠一つ”ではない、自分が自分の“力”をどう扱っていくか、自分だけの利益のために使うか、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)とするか、この考え方がないものに対して形骸の権威を振るう“上に立つ者”に対して相対的に“余計に働かねばならん時来てゐるぞ”と教えているし、これをしないなら先の“早う気持から洗濯して下され”に当たらないのであると言い得る。

 次の

“いくら古くから信心してゐると申しても【肝腎】が判りて居らんと何もならん。よい御用出来ん”

これの“【肝腎】が判りて居らん”は、先にも取り上げた“早う気持から洗濯して下され”であり、“役員づら”の台頭により多くの人間が信仰ごっこをしているが、そのことを“いくら古くから信心してゐると申しても”と指摘されていることに気づき、そして“【肝腎】”が心(靈)の在り方であることを“判り”とする、これをしなければ“何もならん。よい御用出来ん”と述べられていることに気づくべきである。

 次の

想念の自由とは神に向上する より上の、よりよき方に進む自由であるぞ。どの世界の人民も自由もつ”

これの“自由”という言葉に対しての認識は、霊的成長度の高低によって大きな相違がある。

たびたび述べている通り“自由”は自らを理由の由とするという仏教用語でもあり、それは何を思い何を行動してもその結果は自分が背負う、自己責任であるという意味合いのことであるが、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き中心の程度の低い者が思う“自由”は、勝手放埓ということでしかなく、その程度の低い思い方自体がローム太霊講話集第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当するものである。 

そこで自分の心(靈)が育ち、自分がどういう存在なのかを考えるようになっていくものであるが、その答えとして“想念の自由とは神に向上する より上の、よりよき方に進む自由である”と述べられているものであり、当然のことながらそれは“どの世界の人民も自由もつ”と言われており、“神に向上する より上の、よりよき方に進む自由”は、人間が徐々に心(靈)が育つことをして神の子としての自分という自覚が出来ていくと、必ずそうなっていくのだ、ということを教えている。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 黄金の巻 第八十三帖 Kellyさん的解釈 

  

今回は、黄金の巻 第八十三帖の解釈をする。 原文は以下の通り。

 

ひかる誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。(一月三日)一二十

 

 冒頭の

“ひかる誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ”

これはお前たちが“ひかる”(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)“誠の行”、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の不誠実さを戒める、これを“さしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来た”、これまではある程度容認してきた、しかしながら、“なれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふ”と述べ、今まで通りにはいかないから“改心”しておけ、その意で“(“善(神格化の方向性と智性の受信)”の)御手柄結構に、褌しめて下され”と述べている。

 次の

“この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ”

これは程度の低い心(靈)の息吹、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きにより、低い霊的干渉しかないそのさまを述べており、その低い霊的干渉は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分のためにしか使わない、これ事態が“神の国”これを“移し”ではない、ということを述べている。

 そこで次の

“地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ”

これの“九二(クニ)”の“九”は“○ 九 十”のそれ、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“二”は肉体であり、霊的成長度の高い人間が神の思惑を受信してそれを顕現すること事態を“地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん”と教え、これは先の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹による低い霊的干渉ばかりになっているそのさまに対して述べているのであり、それゆえに“早う気付いた人民から”、霊的成長度に低い者に対し“救ひの舟を出して下されよ”、教えてやれ、と述べている。

 次の

“これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ”

これは神の試練としての恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、この仕組みがわかるなら、“これと信じたらまかせ切れ”、自分が苦しくても“神の采配”に任せて委ねる、そして恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の具体的な事柄として“損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ”と述べ、そうすると“それによって めぐり取っていただくのぞ”、自分自身の背負っているものの贖い(あがない)が清算され得る、それを“めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ”と述べており、“世界のめぐり大きいぞ”は、個人々々の規模とは違い、天変地異や戦争などを指す言い回しである。

 次の

“真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ”

これの“芸術”“体”の意味は“思惑の顕現”=現象化であり、自分がこの“世”に於いてどう振舞うか、そのことを述べており、思惑の顕現をするには“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)が必須、そしてそれは“思惑の顕現”であるからその“真理”は心(靈)であると述べており、自分が“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いをするに当たっては“正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよい”、他者の“正しい芸術”に“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出し、そこに“神の理(ミチ)”を見出し、これ事態が自分自身の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標となることを教え、これを“入るのもよいぞ。説くのもよいぞ”と述べ、お前たちの思惑が“神の理(ミチ)”に沿っていないと“芸術の行き詰りは真理がない”と教えており、先の“真理”、それが“正しい”、神の思惑に沿っていることを“調和”であることを述べ、その“芸術”は“七つの花が八つに咲く”、“上”の加護と援護があってますます良い結果となるのだ、と教えている。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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