…また、前回の続きでんねん。
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「さてね、(前回紹介した)画像を観て、(パチモン)Kellyが感じたのは、どんなことかな?」
「まず、動物と人(日止、霊止)、進化した人(日止、霊止)の心(靈)の構成って言うのんか、心(靈)の成り立ちって言うのんか、先生は前のブログでいろんな言い回しをしましたやんか。
そやからそれは、この画像を見るとすぐ分かるやん。
これは平均的地求人のオーラの構成でんな。智性(神性)のオーラ、“一”=1番目のオーラが小さい。
そやから平均的地球人の心(靈)の動きは、自我から“下”の心(靈)の動きが中心やってすぐ分かる。
その心(靈)の動きでの、(前回のアップロードで言うた)“思惑と顕現”そして“思惑の顕現”、これは一言で言うたなら“どういうつもり”で行動するのかってことや。
そこに自分たちはどんな心(靈)の動きを見出せるのか、言い換えれば、行動の動機って言うのんはすべて愛(炁)が動機なんやけど、その愛(炁)の顕現が高いか低いか判断することができるやん。
そやから、人の行動って言うのんを観れば、言い換えれば人の心(靈)が顕す行動は、自己奉仕者と奉仕者って違いになる。
そやから自我の確立=固定化の段階、自我中心の心(靈)の動きの人の愛(炁)の顕現って言うのんは低い。
そやけど、人は、進化して神さんに近くなっていくと、愛(炁)の顕現の程度が高くなり、思想にも行動にもそれが顕れるようになる。
…こんなことはいまさら先生と話すようなことでは無いんやけど」
「そうだね」
「ほんでからあえて言うとけば、自己奉仕者の世界は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、ほんでから奪い合いが続けば、最後には殺しあいになる。
そやからそれは、如何に大義名分を振りかざしてても結局は人殺しをして自国の経済を潤してるどっかの国は、その解りやすい一例や。正義って言葉を、自分たちに都合よく、うまいこと使ってるだけや。
そやけど自己奉仕者の低い心(靈)の動き、それも霊的進化に必要で、醜い行動であろうが、美しいと思われる行動であろうが、要するに“上”の心(靈)の顕現なのか、“下”(低い心(靈))の心(靈)の顕現なのかなんやけど、そのどちらもエネルギーを贖うことには違いない。
そやから進化って言うのんは、やってることの“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)とか、美しいと感じられる行動か、醜いと感じられる行動か、その“上”と“下”の程度に関わらず、すべての生命(生きる使命=存在理由)は、進化してるってことでしかない。
ほんでから先生は、前のブログで、ミミズ、ヒル、ゴカイ君を引き合いに出して、進化や霊的成長度の違いを説明した。
また、霊的成長度は進化過程で、その過程に於ける肉体の違いも説明したやん。
それは、ミミズ、ヒル、ゴカイ君は、目ん玉が無い。脳が無い。心臓も血管が発達した程度のものしか発現していない。
それは言い換えれば、心(靈)の発現も、とても低いってことや。それは、肉体が持ってる磁性も小さいからや。
ほんでからその磁性を構成する肉体の器官も、進化過程として低いからや。
それをチャクラで言い表せば、ムラダーラチャクラの幼稚なもんみたいなもんでんな。一番最初の心(靈)の発現とも言える本能すら、とても低いってことや」
「そうだね」
「ほんでから、ミミズ、ヒル、ゴカイ君は美しいと感じられる生命ではない。
そやけどその見方は、私たち人間の見方でしかなく、その下等な生命かて進化過程には違いない。ただ低いだけや」
「そうだね。アタシたちの進化程度が、進化程度の低いミミズ、ヒル、ゴカイ君を醜いと感じ(感じる磁性)る。それも自分たちの心(靈)による、事象の観察の結果だね」
「ちょっと話がそれてしもてるけど、今の話、人は、下等生物を見て“美”と“醜”、“上”と“下”を見出せる。
ほんでから人は、他者の行動や自分の行動に対し、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出せる。
それは、人(地球人)が、わずかに獲得した智性(神性)で判断してるってことや。
そやからさっきの話、霊的進化程度の低い人は、自己奉仕者の行動をとり、それは智性(神性)をあんまり持ってないから、この画像のようなオーラの構成になる」
「そやからそれは、“上”から注がれる振動を、肉体の磁性で取り込んでるのが進化過程でもあるけれど、この画像を見てすぐ判るように、平均的地球人は、低い部分が中心の感応共振しかしていない。
言い換えれば、平均的地球人は、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の低い部分との感応共振で心(靈)が構成されているのがすぐ判るやん。
ほんでから低い部分の感応共振、それは霊的干渉にも言えることや。
同じような心(靈)の発現と、同じような心(靈)の動きの霊としか感応共振しないし、それは、アミの本で使われた表現“変圧”でもある。
いきなり高い霊的存在は平均的地球人と感応共振しないことも、この画像ですぐ理解できる。
そやから(パチモン)Kellyさん的にさっきの画像を補足したなら、こんな感じになりまんな」
「それに対し、霊的成長を果たした人、霊的に進化した“日止、霊止”、今後=アセンション後の地球人は、“王”って言う字が示すように、1番目、2番目、3番目のオーラのオーラの大きさのバランスが、現時点での平均的地球人とは違ってくる。
それは、胸の磁性“十”と頭の磁性によることや。
胸の磁性“十”は、“日月神示”表記の“江戸と尾張”腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、シンクロトロンに移行して、“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現をするようになる。
それがほんまのアナハタチャクラの覚醒やな。
そして“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現した人は、事象を観察する視点も違ってくる。
ほんでからにそれは、自分の心(靈)の動きを観るにあたっても、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”由来の観方をする。そやからこそ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現の在り方を考える。
そやからそれは、一言で言えば自己奉仕者ではなくなる。
それは自分の“力”をどう扱うのか考えて思うってことなんやけど、その、考えて思うことは、日足(ひたり)のエネルギーラインでもあるんやけど、それは結果として、大脳新皮質、目上(めうえ)の脳の進化になっていく。
そやから要は、智性(神性)の発現とその心(靈)の動きは、頭の磁性、目上(めうえ)の脳の進化につながっていく。
そしたら、“上”から注がれてる荷電粒子との感応共振も、違ってくる。
そしてそれはオーラにも反映する。そやからそれは、こんな感じになりまんな」
そやからそれは、智性(神性)の発現で、その霊的成長度の人の行動も、当然、智性(神性)が顕現したものになる。
そうなれば、自分が獲得した“力”の使い方っていうのんは、自己奉仕者のような低い使い方はせんようになる。
すべてが良いカタチになるように“力”の使い方を考えて思い(日足(ひたり))、それを行動に活かすようになる。(左往右往)
すべてが良いカタチになるって言うのんは、それそのものが“創造”の“主(ヌシ)”、神さんの思惑やろし、“日月神示”の表記なら“うれしうれし”“大歓喜”やろし、それがこれからの地球人が進んでいくべき進化過程やな」
「そうだね」
「ほんでからそれは、現状の進化過程の地球人=比較的動物的な人から、神さんに近づいていく人への霊的成長の過程や。
そやから、動物から人、その違いって言うのも行動に顕れるやん。
そやから、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を起こすのは、さっきも言うたとおり、愛(炁)の顕現に於いての、その動機とも言いうる心(靈)の動きの“上”と“下”がある。
心(靈)の動き、それは肉体で言えば、目上(めうえ)と目下(めした)=大脳新皮質と大脳旧皮質と古皮質。
智性(神性)と、智性(神性)以下の振動、それは“下”(低い心(靈))から、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵(知識)って言ってもエエな。
ほんでから人と動物の相違点、動物より霊的に進化した人間は、智性(神性)を持って智性(神性)以下の心(靈)の動きを制御できる。
ほんでから人間は、自分たちの心(靈)の動きも観察できる。
そして、人は、自分たちの心(靈)ってもんを、事象を観察して認識する道具としての言葉で、認識をし始めたとも言いうるけど、言葉の意味をよく理解していない人も多い。さっき言うた、大義名分で人殺ししてるどっかの大国なんてのもその一例や。
そやけど、事象を観察して認識するための道具としての言葉、これは先生の言い回しやったやん。
そやから人は、自分たちの心(靈)の動きを言葉で分類してる。当然これは、動物には出来ないことでもあるやん。
ほんでからもうひとつ、私たち人は行動や心(靈)の動きに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出せるようになった。
これも、動物には出来へんことや。
そやから“一”=智性=1番目のオーラがあるって言うのんは、自分の心(靈)の動きを言葉で認識できる。そして自己観察できる。自分の心(靈)の動きに“上”と“下”を見出せる。本能由来の行動か、智性(神性)由来の行動か。その違いを知るのは、智性(神性)でしかない」
「そうだね。
だから、言葉を使いこなすのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程としての必須条件でもあるね。
しかし、そのことすら平均的地球人には、あまりしっかしした認識が無いね」
「そうでんな。
そやから現時点の平均的地球人の認識って言うのんは、言葉を知ってるだけでしか無いみたいなもんでんな。
ほんでから、今後の世界は、霊的進化した人の世界になる。それは、言葉に対しての認識も変わってくるやろし、そやから“誠”って言う言霊は、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成するってことになるんやろ」
「そうだね」
「そやから、前のブログで使った、真実=真固止、ほんでから“日月神示”表記の、○ 九 十(まこと)、ほんでからに今言うた、誠。
すべて霊的成長に伴う表記でんな。
ほんでからそれは、自分たちの心(靈)に真実=真固止って認識ができたっていう霊的成長過程でもあるんやな」
「その通りだね。
だから、平均的地球人って言うのは、真実って言葉を知っていても、それを体現していない。それは言葉だけを知っているだけとも言い得るし、体現できない=行動に顕せないのは、真実を認識した霊的成長度では無いとも言いうる」
「真実って言う言葉だけしか知らん。真実を行動に移さへん。そやから霊的成長のための宗教とかヨガとか、価値のあるものは形骸になって商売に利用されたり、自己奉仕者の道具に成り下がってしもてる。
低い霊的成長度の人たちの欲望の実現のための道具に使われてしもてるってことや。
そやけど、今後=アセンション後は、そんな霊的成長度の人は存在を許されへん。
それがアセンションの真の意味と意義で、そやからこそ、アセンション後の事象は、真実=真固止の世界になる。そういう言い方も出来まんな」
「そうだね」
「ほんでからアセンションは神さんの計画で、時間の進行=進化を認識している生命である私たち人が、心(靈)で感じてる、神さんのプログラムでもある」
「そうだね。
霊的成長って言うのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプログラムでもあることすら認識が無いから、アセンションを間違えた解釈をするんだろう」
「そうやな。
そやけど、今言うてたのは、人間と動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の違いやった。いつの間にかアセンションの認識に対する話になってしもてる」
「いいんじゃないかな。アセンションに対する認識の違いも、霊的成長度によるんだから」
「そうでんな。
…話を戻して、人と動物の違いを観れば、これは当たり前のことでもあるけど、当然、動物にはアセンションなんて認識は無い。
それ以前に、動物には進化の認識が無い。
それ以前に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とか認識(悟り、幸取=さとり)とかの言葉を持ってへんやん。ワンワンニャ〜ニャ〜ブ〜ブ〜モ〜モ〜コケコッコ〜なんやから。
ほんでから今言うてた霊的成長度の低い人のアセンションって言うのんは、それを知ってる人間でも、その認識はずいぶん違うもんになってる。アセンションって言葉と、アセンションの情報しか知らんからや。
それは、甘い夢ばかり見たい霊的進化過程の人が多いからや。
その進化過程は自我の確立=固定化の段階の進化過程で、また“一”=智性=1番目のオーラが小さい霊的成長度の人や。そやからその人たちはアセンションの真実を認識出来んやん。
何回も考えたことやけど、今後=アセンション後は、霊的進化をある程度果たした人の世界で、それは智性(神性)と“慈悲”と“慈愛”由来の心(靈)の動きってもんがないとアカン。
ほんでからそこには、自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱っていくのか?
その違いが出てくると思われるやん。
そやからそれは、今までの地球上の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方って言うのんは、霊的成長度が低い人がほとんどの世界やから、個人の欲望、あるいはその人の狭い範囲での欲望の達成が目的で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使う。
そやからそれは、“上”から受信した“力”ってもんを、自分だけ、あるいは自分たちだけのものやと思い込む。
それが自我の確立=固定化の進化過程。
ほんでからそれは、土=2〜3番目のオーラの進化過程でもあるやん。“一”=智性=1番目のオーラを持ってない動物に近い進化過程=霊的成長の過程でもありまんな。
そやけど今後=アセンション後は、自分たちがエネルギーを贖って(あがなって)手に入れた“力”の使い方、顕現の仕方は、今とは変わってくる。
それは地球人の“一”=智性=1番目のオーラが、平均的に今より大きくなってくる。
その違い、“一”=智性=1番目のオーラが小さい人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)って言うのんは、自己奉仕者になるし、当然智性(神性)が無いんやから、“慈悲”と“慈愛”なんて心の発現は無い。
そやからそれは智性(神性)を発現した人から見たならば、自我の確立=固定化の心(靈)の進化過程の人は、動物的に観える。
今(パチモン)Kellyさんが言うたことは、今までの“日月神示”の解釈に何回も出てきてることやし、そやからこそ“日月神示”って言うのんは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことで、智性(神性)のオーラ、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする方法でもあると思えるやん」
「そうだね。
だから“日月神示”って言うのは、霊的進化とアセンションのことを説いているね。でも大概の人は、それに気がつかない」
「それは今、(パチモン)Kellyさんが言うたみたいに、平均的地球人の霊的成長の過程は、“上”との感応共振をしていない。
そやから“日月神示”を利用して本を書いたりしてる人は多いけど、大体、現状を批判してるとか、おんなじ様なことしか言うてないでんな。
そやから“日月神示”の言葉の一つ一つに霊的成長の秘密を読み取ることが出来てない。それは、如何に低い心(靈)で“日月神示”を見てるのかって事でもあるんやけど、今話してるのはそんな話や無かったでんな。
またまた話を戻し、自我の確立=固定化の段階の進化過程での霊的干渉の一例といえるのは、物理霊媒や自動書記、ひどい場合は低い霊的存在に取り憑かれておかしくなるケースもある。
そやけどT霊媒=竹内満朋はんや、岡本天明はんみたいに、霊的に高い存在の思惑があって、人の霊的成長のために何かを教えるのは、“上”からの“命”があって起きてる霊的干渉で、それによる現象はちょっと違う例や。
そやけど一般に多い憑依現象や、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕すための霊的干渉って言うのんは、自分の心(靈)の動きに感応共振してくる憑依霊が多いやろし、また因縁霊の思惑かてあるやん。
それは、智性(神性)との感応共振ではないからや。
自分の心(靈)が自我中心やから、感応共振する霊的存在も、自我の確立=固定化の段階の進化過程の霊的存在と、感応共振する。
そやからそれは、自我の進化過程の人、対、自我の発現の進化過程で死んだ霊的存在の感応共振って言うのんは、自我までの心(靈)の動きしか顕すことができないみたいなもんや。
またそれが、近い進化過程の霊的干渉で、極端な“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の無い、自然な霊的干渉でもありまんな」
「そうだね」
「ほんでから、現状の霊的干渉に対して、今後=アセンション後の場(フィールド)は、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人で構成されるから、霊的干渉かて“日月神示”の表記のように天意を受けるとか、“天詞様”とか、要は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想にして行動する“日止、霊止”ばかりになるってことで、とうぜんそれは、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現にも反映する。
そやから“力”の顕現は、“術”ってことで、“力”を良い“創造”のために顕すのは、“上”との感応共振が必須やし、“上”と感応共振するには、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければならないやんか。
そやから“一”=智性=1番目のオーラの大きい人は、仕事とか霊能力、それを真実と認識して、価値のあるものを貴く扱い、価値のあるように顕現する。
言い換えれば、貴いものは貴い。神聖なものは神聖に扱う。
そうやって使わんならん。
それをまたまた言い換えれば、ほんまに価値のある“力”の顕現をしようとする。そやから、霊的進化した人(日止、霊止)の場(フィールド)である今後=アセンション後の地球は、そうなると確信できまんな。
それに対し、霊的進化程度の低い自己奉仕者は、貴い神聖なものを利用して商売にして自分の低い欲望の達成のために利用してる。
そやからそれは、平均的地球人のオーラの構成を観ればすぐ判るやん。
智性(神性)があんまり無くって、腹の心(靈)の発現の、自我中心なんやから。
…そやけど、霊的資格ってことを考えてると、知らんうちにこんな話になりまんな」
「(パチモン)Kellyに言うまでもないことだけど、霊的資格は、霊的成長度による“力”の顕現でもある。
同時にそれは、“思惑の顕現”でもある。
だから、仕事でも憑依現象でも同様の法則性があるから、(パチモン)Kellyはそれを自分の心(靈)にしっかり認識してるから、今、話してたみたいな言い回しになるんだろう」
「そうやろな」
「今話してたのは、“術”(“力”の顕現)とか、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を表すための行為としての仕事とか、憑依現象の具体的な分析には、欠かせないことだ。
だから、今、(パチモン)Kellyが話したことは、分析をする上で大事な認識ってことだ」
「そうかもしれへん。そやけど…具体的な話になってまへんな」
「うん、今の、霊的干渉と、“術”(“力”の顕現)としての仕事、この話は具体例を挙げて話すと理解しやすい。
その話を(パチモン)Kellyとしようと思っていたんだが、その前に、大事な認識を(パチモン)Kellyは、語ってくれたわけだ。
…で、これから具体例を挙げて二人で分析しようと思うんだが、部屋にこもりきりで長い話をして酸欠になっているから、少し散歩しようか」
「そうやな。それも大事なことでんな。
頭が酸欠やったなら、目上(めうえ)の脳がしっかり働けへんやろし。
ほな、出かけようやおまへんか」
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…○○○大先生と(パチモン)Kellyさん、近所の公園まで散歩中…
「先生、あそこに退屈そうにしてる犬が居てまっせ!!」
「ほんとだね。それじゃ、あの犬をちょっとだけちょ〜らかすことにしようか」
「オッ○ー牧場でんがな」
(“ちょーらかす”は、名古屋弁でからかうの意)
この画像の意味が解らへん方は、以下の記事をご覧くださいでんねん。
↓
Kellyさん、チョ〜ベッピンはんのA野さんに、真実=真固止の“美”…その認識(悟り、幸取=さとり)を獲得し、本当のチョ〜ベッピンはんを目指して欲しい…って、真剣に話をする。
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…散歩した後で話したことは、次回のアップロードで。
…前回の続きでんねん。
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「さて、もうひとつドライブ中に話したのは、霊的資格ってこと。
モノホンKellyさんとそんな話になったいきさつとして、それは、人がどんな仕事をするのか…職業の選択の話から、そんな話になったのだが」
「モノホンKellyはんはたくさんの仕事を体験してるからやな」
「そう、なんでもないような話から、そんな話になった。
それは今回、モノホンKellyさんが、今まで体験したことの無い職についたから話をしたんだと思う。
(そんな話になったのは、“上”の思惑があって、霊的成長度に於ける仕事の選択ってことを確認するためにだと思えるな)
また、モノホンKellyさんは、今までいろいろ自分の理想を追い求めていたから、たくさんの職についたんだと思われる…憶測だが。
それで、(パチモン)Kellyは理解していると思うけれど、職業は、当然“力”の顕現であること。
それは、簡単に言えば、自分が思った理想を実現することでもある」
「そうでんな。
そやけど、先生が今言うた言い回しの“自分が思った理想を実現すること”…先生にしては珍しい簡潔なものの言い様でんな。
先生が言うたその簡潔な言葉の裏にあることとして、それは、理想を実現するために、そのときの心(靈)の動きや、神のオーラ(普遍的に実在する創造主のオーラ、宇宙背景放射)との相互干渉があるし、ほんでからそれを取り込んだ憑き物の霊的干渉もあって、それそのものが神の“力”や智慧を変圧の過程で人が取り込む仕組みがあるやん。
ほんでからにもうひとつ、霊的資格って言うのんは、チャクラの覚醒の度合い、そしてそれは心(靈)の動きにも関連することや。
そやからそれを今、説明したいんやな」
「うん、それはそうなんだが、そこまでのことをドライブ中にモノホンKellyさんと話したわけではない」
「そうなんや。そやけど、ドライブ中に発想したことがあるから、今、(パチモン)Kellyさんと話をしてるんやな」
「そうだね。
だから、(パチモン)Kellyと前(のブログ)で話したときに“思惑と顕現”=現象化っていうニュアンスで話をした。
それは、“上”の思惑と自分の理想、心(靈)の動きが感応共振して、自分の肉体や心(靈)に、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)=思惑=荷電粒子を取り込む。
その心(靈)が行っていることは、“観察と認識”で、その対象は、外側(外国と幽界)の事象、内面とか内側(心の中と感じている事)に関わらず、すべての事象であること。
そしてそれは心(靈)は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)で、観察行為は電磁波の受信であること。
また、自分の心(靈)の動きは、生体内電流に反映し、発振、発信されるオーラになり、
オーラは認識の程度を示すものでもある。
そしてオーラの発振、発信に応じた霊的干渉があり、自分に憑依させる霊、霊的干渉は、自分の心(靈)の動きと自分の心(靈)の姿勢である心(靈)の在り方でもある。
そしてそれが、また“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもある」
「そうでんな」
「人が持つ理想、“力”を求める動機、その心(靈)の動きについては、人(日止、霊止)は動物と違い、目上(めうえ)の脳が進化した。(大脳新皮質)
だから、人は、筋肉由来による身体能力では動物に劣る部分が多いが、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の中でも、知恵、知識、学問、そして霊能力、それらを行使することが出来るようになったとも言いうる」
「そうやな。
目上(めうえ)の脳、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をした人は、“力”を発現したとしても、良いカタチの使い方、言い換えればよいカタチの“創造”をしようとする。
その、よいカタチの“創造”を思うって言う点で、今より霊的進化していけば、誰かが誰かを害する今の地球みたいな場(フィールド)ではなくなる。
そやからそれは、自己奉仕者はいなくなるってことや。
ほんでからにそれは、智性(神性)由来の、目上(めうえ)の脳の行使、その視点、それで自分の獲得した“力”の使い方を思い、行動するようになる。
それがまた、アセンション後の地球やな」
「その通り。こんなことは、あえて(パチモン)Kellyに言うまでも無いことだね。
そしてよいカタチの“創造”、理想を実現すること。
そこには霊的成長度に於ける“上”と“下”があろうが、何かを求めるとか達成したいとか、その動機が、愛(炁)で、アイで、“亜”が出ずる、泉、であることも説明したし、それは日足(ひたり)=思惑から、砌(みぎり)=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもあることも言ったし、そうやって人間は認識を高め、霊的成長することも言ったね」
「そうでんな。
それが“創造”の“主(ヌシ)”を示す、“一”で、“一”を書くとき、向かって左から右に筆を移行する。
それがまた、“思惑と顕現”、あるいは、“思惑の顕現”。
この二つの言葉の言い回しは、“と”“の”の違い、これは格助詞なんやけど、かなりニュアンスが違うやん。
“の”は、最初の言葉、この場合は“思惑”なんやけど、その動作や状態の主体を表したりするけど、“と”は、動作や関係の及ぶ対象を示したりもする。
そやから“思惑と顕現”そして“思惑の顕現”…後者は、そこにどんな心(靈)の動きがあるのか…それを感じさせる言葉やな。
そやから“思惑と顕現”って言い回しのニュアンスは、自分が理想を追い求め、幸福の概念を持ち始め、最初は低い幸福の達成を追い求め、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程が低いと、智性(神性)を持っていないと、低い欲になる。そして“力”を求め、それを現象化させる=この世界に現す…表す…顕す…ほんでからそれは、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の奇、奇才の奇(あらわすの意味がある)でもありまんな。
そやからただ単に、“思惑と顕現”って言うたなら、それは、自分の心(靈)が何を求めて、そして求めたものを顕現=現象化させるために頑張って(元の気を張って)時間の進行を感じ(感じる磁性)ながら生きる。その意味の言い回しやな。
そやけど、“思惑の顕現”って言う言い回しのニュアンスは、そこに自分の心(靈)が“どういうつもり”で動いてるのか…その心(靈)の動きは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か…そこまでのことまで感じさせるやん。
そやからこの二つの言葉は、自分の理想、幸福の概念、“力”を求めること、“力”を顕現して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)することで、その意味を含んでいるけど、“思惑と顕現”って言うたならばちょっと繰り返すけどそれは、思ったことを顕現しただけの事を言い表した言い方やな。
ほんでからに“思惑の顕現”は、心(靈)の“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、“どういうつもり”…低い欲か、崇高な思いか…いろんなニュアンスを思い起こさせるやん。そこまでのことを、“思惑の顕現”って言い回しには、感じるやんか」
「そうだね。
だからモノホンKellyさんと話したのは、仕事でも何でも、自分が理想を求め、それをカタチにして自分が観察している=自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)ている事象に対し、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示す。
だから、“力”、それはすべて愛(炁)が動機の“思惑の顕現”でもあるから、それは“術”(“力”の顕現)で、霊的干渉と自分の心(靈)の動きによる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。
そしてそれに大事なのは“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子(“カネ”の言霊)でもある。
自分たちが何か理想を抱き、目標を思い、それを達成しようとする。
そしてそれは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、エネルギーを贖う(あがなう)=生体内電流の強化になる=身体磁場の強化につながり、オーラは大きくなる。
そしてそのオーラの発振、発信に応じた感応共振する霊的存在が“力”の顕現に手を貸す。
だからこそそれは、仕事や行為の“善悪”に関わらず、その“術”(“力”の顕現)を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現す資格って言うのは、霊的成長度に応じた資格でもある。
ちょっと話がそれるが、一般に今言った認識が無いからこそ、仙人って聞けば、甘い(亜、魔、出ずる、泉)発想で、何か特別な術を使えるのではないのかって思う。でもそれは間違った認識とも言え、幼稚なものの見方でもある」
「そうやな。それは天の僥倖、棚から牡丹餅、のびた君がドラえもんに何かを頼む心理みたいなもんでんな。ただ単に甘い夢を見たいだけでんな」
「うん。大多数の地球人の認識って言うのはそんなところだろう。価値のある貴いものは自分で獲得しなければならないなんて“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を感じないだけだ」
「そうやな」
「その点でも、ローム太霊が御天筆でアタシに教えた力と“術”(“力”の顕現)の意味合い、それを、亻(にんべん)と、山=脳で示した。
(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) 霊的干渉 目上(めうえ)と目下(めした)“その六” 参照)(もうすぐ発売です)
だから、すべての“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現は、“術”と称するべきだ。
そして“力”の顕現には、資格が要る」
「それは、自分が求める理想に対し、どれくらい“行”したか=どれくらいエネルギーを贖ったか=どれくらい生体内電流の強化をしたのか。それによる霊的干渉、エネルギーを贖う(あがなう)からそれを見ている霊的存在は、憑依現象や通信を送ったりして“力”を貸したり、あるいは、何かを発想させることをする。それが身体能力やったり、発明発見やったりもする。
地球人はそうやって進化してきたやん。
そやけど今、“力”の使い方を間違えてる。
ほんでから、間違えてることに気が付かん。
そやから“力”を示すために経済が発展したり、経済を潤すために戦争をしたり、その結果は恨みの連鎖の霊的干渉の拡大…増大…今おかしな事件が多いのは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としか思えへん。
そしてこの星はどんどんおかしくなっていく。そやけど大半の霊能力者は、それを指摘する視点を持ってない。霊能力の使い方を間違えてるからや。
こんなことを指摘して言ったならキリが無いんやけど、解らへん人が多すぎるからアセンション後に移行できる資格のある人は少ない。
それも霊的資格ってことで、(パチモン)Kellyさんがこのブログで何回も言うてきたことなんやけど、理解できん人があまりにも多すぎるやん。
大半の人が霊的成長度が低く=“一”=智性=1番目のオーラが小さいから、認識(悟り、幸取=さとり)できへんのや」
「そうだね。今(パチモン)Kellyが言ったのは、“力”の使い方は智性(神性)によるものでなければならない。それが良い世界の“創造”の法則性でもあるってことで、このことは何回も話をしたんだけれど、その霊的成長度、チャクラの覚醒度合い、“一”=智性=1番目のオーラと、肉体を示す“土”=2〜3番目のオーラ、このブログで(パチモン)Kellyが使ってる表記なら“一二三(ひふみ)”のオーラ、その大きさ。それと、心(靈)の動きとしての“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往。
それと“上”の思惑の相互干渉と霊的干渉。そして個人々々の霊的成長度。
これらは、画像にしたら理解しやすいのではないのかって、今回のドライブ中に発想したんだ。
またこの画像は、霊的成長度と、どんな仕事、言い換えればどんな“術”(“力”の顕現)を顕すのか、“どういうつもり”(心(靈)の動き)で顕すのか?
それについてと、霊的成長度=霊的資格を理解するのに、ちょうど良いのではないのかって思ったわけだ」
「これは…いろんなことを感じさせる画像でんな」
「うん。
それで、この画像を中心に、“術”(“力”の顕現)や仕事、憑依現象を分析すると非常に解り易い。
言い換えれば、仕事の選択と、霊的資格=霊的成長度に於ける“術”(“力”の顕現)の発現、それと、霊能力の発現もこの画像を使いながら解釈していくと、とても解りやすいと思う。
それを(パチモン)Kellyと考えようと思ったんだが…ちょっと長い話をしたから、お腹がすいたね。(パチモン)Kellyはお腹はすいてないかい?」
「すいてまんがな」
「話は一服して、野菜たっぷりにゅう麺でも作ろうか。
実は、今年のうちのベランダは、青唐辛子が豊作だった。青唐辛子の収穫は暑いときが中心なんだけど、今でも収穫できているくらいだね。
それで、青唐辛子の味噌漬けや、醤油漬けを作ったんだ。
余談だが、今回、モノホンKellyさんがうちで合宿したときに、冷奴を青唐辛子の味噌漬けで食べてもらい、大絶賛だった。
話を戻し、その青唐辛子醤油漬けを、にゅう麺に使うと実にうまい。ちょっと辛くてマニアックな味になるけどね。
アタシがそれを作るから、(パチモン)Kellyに食べてもらって、そのあとで、今回発想した画像でいろいろな分析をしよう」
「それは楽しみでんな。ご馳走になりまんねん」
…にゅう麺を食べたあとに話した内容は、次回のアップロードで。
「先生、こんにちはでんねん。先生と話をするのはすごい久しぶりでんな」(三月以来)
「そうだね。
まあ、連絡したときに説明したように、この間(前回の記事)モノホンKellyさんと、御嶽山、瀧原宮、伊勢神宮の内宮…その後、モノホンKellyさんが○○市に帰る途中、三ノ宮からの高速バスが好都合なようだったから、そこまでドライブしたんだが…」
「そやからそれは、先生とモノホンKellyさんはたくさんの話が出来たって事なんや」
(それも、五月に先生とモノホンKellyさんが、ばあちゃん所へ行って以来って事なんやな)
「うん。
その話の中で、(パチモン)Kellyにちょっと分かって欲しいこともあったもんで、今日は来てもらった」
「そうなんや。いろんな話をしたんやろけど、先生がわざわざ、(パチモン)Kellyさんと話したいって思うたことがあるんや」
「その通り。
まず話したいのは、こんな話をモノホンKellyさんから聴いた。
それは、かなり前のことらしいが、モノホンKellyさんのおじさんとおばさん夫婦が、旅行に行って交通事故に遭った話。
それはあるとき、おじさんとおばさんは旅行の計画を立てた。そして二人は旅行に行って事故に遭った。
そしておじさんは、その計画を立てた前後かな? その辺はよく聞かなかったのだが、事故に遭う何ヶ月も前から、自分が車の事故に遭う夢を見ていたそうだ」
「それは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信やな。ローム太霊講話集でローム太霊さんが述べてたことでんな」
「そう。
そして、そのおじさんが見た夢の話をおばさんにしたんだが、おばさんは、“そんなこと気にしないで、もう宿の予約を取ったから行こう”って言って、結局二人は旅行に出かけたわけだ。
それで、夢で“上”から教えられていた通り、事故に遭った。
おばさんは車外に投げ出され即死、おじさんは、運転席で足を挟まれて何時間もかけて救出される目に遭った。
それで、アタシがモノホンKellyさんからその話を聴いて感じたのは、今、(パチモン)Kellyが指摘した、ローム太霊講話集のその文章を読むと、霊的成長度の低い人は甘い解釈をしがちで…」
「そうか。先生がモノホンKellyはんに話した内容が、大体、解りましてん。
そやからそれは、ローム太霊さんが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受けることは、ローム太霊講話集の 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 で説明してる。
それは、ローム太霊講話集の38ページに、
“電車や汽車に轢かれたり撥ねられたりする場合は、恐らく半年前から予告されている筈であるが、本人がそれを知らないのはその背後の霊が強力ではないからであろう。”
…って言うてはるやん。
そやけど普通、その文章を読んでも、ただ、そうなんや…としか思わへんやろな。
ほんでから、このローム太霊さんの説明に対して甘い解釈をしたなら、事故や災難から逃れられるって思うやろな。
そやけどそれは、てんで低い解釈でんな。
それは、ちょっと間違えた解釈をしたなら、できるだけ災難に遭わへんように“上”は教えたって解釈をするってことや。
そやけど、自分たちが事故や災難に遭うには必ず理由があって、その理由を知ることも大事。
そやから自分たちの“上”の存在は、自分たちの良いカタチを願うから教えようとしてるし、それは死んでからのことも含んでる。
おじさんが死んでからも、その事故に遭った事と、“上”から通信を受けた意味と意義を考える。
それが必要やから、おじさんの“上”は、おじさんに夢を見させたんや」
「そう」
「そやけど普通、生きてる人間は、生きてる間のことしか念頭にないから=生きてる期間、肉体を持った心(靈)としての時のことしか認識がない。
そやから、この文章を読んだ認識の低い霊的成長度の低い人は、夢を見させることは、“上”が、災難や自己から逃れさせたいからや!…って甘い解釈をする」
「そうだね」
「そやから、こんな夢を見させる“上”の意図って言うのが大事。
それは、大概の人はたくさんの因縁を背負ってて、不幸な事象に遭うことそのものが、恨みの連鎖の霊的干渉によることで、その恨みの連鎖の原因になってる=恨みを買った先祖とかに、その事象を観せんならん。
観させることが必要やからなんや。
そやから、先祖が子孫を観察する…子孫が不幸な目に遭う…それを観た先祖は、自省(胸の磁性“十”)する。
自分がしでかしたことで、子孫が不幸な目に遭うことを知るからや。恨みの連鎖の種をまいた先祖は、それを観んならんやん。
ほんでから、種をまいたから、そのために因縁による不幸な事象は起きるやん。
ほんでからおじさんは、死んでからすぐそのことに気が付かんやろけど、だんだん判って行く。理解して行かんならん。
恨みの連鎖の霊的干渉=因縁としての事故に遭遇する。
それがまた、おじさんの人生の意味と意義の一端でもあることを、おじさん自身が、おじさんの心(靈)が知って認識するって事や。
“上”が不幸な事象が起きることを夢で見させる意図は、そこにありまんな」
「そうだね。
しかし、おじさん自身も、おじさんに恨みの連鎖の霊的干渉を背負わせた先祖も、そのことにすぐ気付くことはないね」
「そうでんな…。
そやから、おじさん自身のことだけ思っても、おじさんの心(靈)がそのことに気付くのは、多分…死んでから自分の“主護霊”と感応共振できるくらいの認識になったときやな。
言い換えれば、おじさんが死んでから、ある程度、霊的成長を果たしてから、“主護霊”はんが、おじさんの目の前に現れるってことや」
「うん」
「そやから、死んで間もないときは、自分に起きた災難が恨みの連鎖の霊的干渉によるものなんて認識は無いやろ。
(そやからこそローム太霊さんは、S会=紫光会のローム霊訓講話で、死のことを、比較的最初に述べたんや)
その認識を獲得するために、あっちの世界(死んでからの場(フィールド))では、いろんなことに遭遇するやろし、それもおじさん本人の霊的成長のために、“上”が意図的に遭遇させることやろし、ほんでから、そのたびごとに“上”は、その人自身の心(靈)に、認識(悟り、幸取=さとり)を得させようとする通信を送るやろ。
それがその死んでしもた人のオーラになっていって、それは“一”=智性=1番目のオーラで、そうなれば始めて“主護霊”はんが登場して、その人が死んでしもた理由を説明する。ほんでから、恨みの連鎖の霊的干渉についても、その人とその人の先祖が背負っていたことについて説明する」
「その通りだね。
そして、もうひとつ大事なのは、“予告されている筈であるが、本人がそれを知らないのはその背後の霊が強力ではない”って指摘されてる所だが、(パチモン)Kellyにはこの言い回しの意味はすぐ理解できるよね」
「そやからそれは、“上”の通信を妨害してる“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在がたくさん憑いてたなら、受けられへんって事でんな。
それは先生の“主護霊”はんの言い回しの、“動きが取れない”って事でんな。
(ローム太霊との出会い 146ページ 参照)
たくさんの悪霊が憑いてたなら、“上”は通信を送られへん。簡単なことやおまへんか。
ほんでから不幸な事象を願ってるのが悪霊=“下”の霊的存在なんやからこそ、“上”の通信を妨害する。
目先の楽しさばかりに注目させるとか、この場合は、おばさんが“そんな夢など気にせずに”…なんて言うた。それをおじさんが受け入れる。
因縁を贖う(あがなう)って言う意味合いでは、この事故を受け入れる必然はあったやろけど、因縁を贖わんとアカンからなんやけど…」
「うん。おばさんがおじさんに夢のことを気にしないでっていったことについて、たいして罪はないよ。
ただ、おばさん自身が霊的に低い。それとおじさんも、その夢を見たからっていう理由で、自分の行動を決定できなかっただけだよ」
「そうやな。
そやからそれは、おばさんが、おじさんの見た夢に対し、たいして意味を考えへんかった。
それは、おばさん自身が“上”から通信を受けてないのか、妨害されてたのか…。そやからそれは、旅行に行くって言う目先の楽しさが心(靈)を支配してたからや。
そんなことを本人に思わせるなら、簡単に“上”の通信を妨害させることが出来る。
ほんでから通常、“上”の通信を受けられへんのは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果が因縁で、不幸な事象で、その意味まで理解してる“主護霊”はんとかはあんまり居てへん。
それは“主護霊”はん自身が低いからや。
そやから不幸な事象を夢で見させるほどの強力な“主護霊”はんが、仮にその人と一緒でも、その本人の霊的成長度と極端な違いがあったなら、感応共振できへん。そんなふうにはなってまへんな。
そやけどそれも、一般にあんまり認識のないことでんな。それも、前に先生との話でよく出てきた、霊的干渉の変圧の概念でんな」
「そうだね。
今(パチモン)Kellyが言ったことをまとめれば、生きている人に通信を送れるような強力な“主護霊”は、中々居ないってことだし、それは、その人とその人の“主護霊”の霊的成長度はバランスしていなければならないって事でもあるし、ほとんどの人は、霊的成長度が低いからこそ、その人の“主護霊”もあまり高い存在ではない。
また、その人の霊的成長度が低かったなら、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振は許可されない。
その具体例として解りやすいのは、S会=紫光会の主護霊会に出席した人の中でも、“主護霊”が出なかったケースもあった。
アタシ自身、何回も交霊会に出席したが、そんなケースがあったのを覚えている。
要は、霊的成長度の低い人は、T霊媒=竹内満朋の物理霊媒の能力に遭遇する縁があっても、その人の“主護霊”もその人自身も低いから、“主護霊”が言葉を発して指導するって言う許可が出ない。
結果として“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の指導を直接受ける霊縁が無かったってことになる」
「そうでんな。
そやから、重要なのは、このローム太霊講話集の中でローム太霊さんが言うてるのは、すべての地球人の霊的成長度に当てはまることではない。
そやから同じ意味のことを繰り返せば、“その背後の霊が強力ではない”って言うのんは、その人本人がまだ低かったなら、その人の“上”は、“主護霊”はんは本人に通信を送ってもそれが許可にならへんって事や。
ほんでから“主護霊”はんからの通信や指導が無かったなら、当然のこと何やけど、自分たちは霊的成長して行かんやん。
そやからこそ“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を妨害する。
そして恨みの連鎖の霊的干渉による因縁って認識の無い霊は、言い換えれば不幸な事象で死んでしもた人は、恨みの連鎖の霊的干渉に加担していく霊的存在になる。
ほんま、ローム太霊さんのこの話を聴いたならそこまでのことを思わんならんし、思うべきでんな」
「そうだね。
しかし、通常、そこまでのことは思い当たらない。
だから、通常の人=霊的成長度の低い人は、ローム太霊講話集の言葉を自分の商売に引用したり、文章そのものを引用した本を書いたりとか、ローム太霊講話集をぼろぼろになるまで読んで成功者になったって思ってる人もいるようだけど…」
「それは形骸の価値観での成功者でんな。
成功って概念は、物欲と(通貨としての)金と形骸の名誉に起因する発想でんな。そやからそれは、自己奉仕者の発想でしか無いやん。
そやからそれは、ローム太霊さんが人に望んでることでもありまへんな。
ローム太霊さんは、真実=真固止を認識できる人を望んでるんやし、人の霊的成長を望んでるから神への“道”を説いてる。
そやから、形骸の価値観での成功者は、ローム太霊さんが望んでる人では無いやん。
ほんでから大体、あの本は、何回も読まんならんから、ぼろぼろになるのは当然で、先生かて何冊も買いなおしたんでっしゃろ。
ほんでから何十人もの人に読んでもろたんやろし…そんな話を前にしましたやんか」
「そうだったね」
「そやから今の話、ほんまの成功者って言うのんは、霊的成長を果たし、どれくらい神に近づき、神さんに認められる人になったのか…その視点で論じられるべきことでんな」
「その通り、あえて(パチモン)Kellyに言うまでもないことだったね」
「まあエエですわ。何回も確認せんならん重要な事柄やと思いまんがな。
そやから話を戻して、今話をしてるローム太霊講話集の死の前後を説明してはる中で、第九話には、“憎悪の霊団”って表現も出てくる。
そやけどそれは、いうまでも無く霊的成長の方向性ではないやん。
恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こす原因としての霊団でしか無いやん。
そやからローム太霊さんが人に望むこととして、第九話 死の前後 殺人の場合 の文の最後で、次のことを言うたと思いまんねん。
“それゆえ、ここで悟らなければならないことは、汝等は常に心の鍛錬をしているが、人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも傷つけられないという立派な精神になることである。誰に何と言われようと、大木の如くまたは柳の如く、それを正面(まとも)受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行であって、どんなに恨まれ手も決して恨まない心(靈)を造ることが大切である。
…中略…
汝等は今話したひとつの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ、主護神、主護霊の導きの下に大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪でなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり、死に際しては凡てのことを後輩に委ね、自分は幽界から霊界へと神の道一筋に進むように心掛けていればよいのである。”
この文の“確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも傷つけられないという立派な精神になること”…この言い回しは、自分の外側(外国と幽界)の事象の形骸の価値や概念に振り回されてるようではアカンっていうことも感じさせられるし、大体、悪霊がささやくこと、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在の思惑は、目先の欲望で人を堕落させて、その人自身に不幸な死に方をさせて恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こす霊団の一員にする。
ローム太霊さんはそのことに対する注意を喚起したから、それが“心の鍛錬”でんな。
そやからこの文は、自分の“道”は、神格化で、それを忘れてはアカンっていうことも感じさせる。
それがまた“ひとつの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ、主護神、主護霊の導きの下に大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪でなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり”って言い回しに感じられる。
それは心が“上”に向かっていくことでもあるやん。神格化の道程でもあるやん。
そやからローム太霊講話集の第八〜九話は、恨みの連鎖の霊的干渉の結果として事故に遭ったとしても、殺されたとしても、自分たちは“憎悪の霊団”の一員になってはアカン。
不幸な事象には、それなりの理由があり、ほんでからそれは、恨みの連鎖の結果として正当な報酬でもあるやん。
ほんでから生きてる人間は、先祖から受け継いでる恨みの連鎖の結果=因縁を贖わんとアカン。
先祖と子孫、子孫が因縁を贖うことそのものが、恨みの連鎖の種をまいた先祖の霊が、自省(胸の磁性“十”)することになる。
当然、先祖の霊は、子孫が事故に遭うところを観せられるやん。
それが、何回も先生との話しに出てきてた、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)でんな。
そやけど地獄の閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)かて、自分の心(靈)の中の事象でんな。
それはそれを観てる本人の心(靈)がそう感じ(感じる磁性)るってことで、それを観て自省(胸の磁性“十”)せんと、先祖もその人も“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至らへんやん。
それがまた、この文の中の自我で認識する場(フィールド)、外側(外国と幽界)の事象から、自己観察、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をするための、霊界、霊界っていう表現そのものがそれは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の観察でんな。
それをして行かんならんと、現時点の地球人の霊的成長度から“上”に行かん。
それをローム太霊さんは、今まで生きてきた世界に執着を持たず=執着を持った浮遊霊にならず、あるいは、因縁霊にならず、自分の心(靈)は“上”に向かわんならんからこそ、それが霊的成長であるからこそ、“死に際しては凡てのことを後輩に委ね、自分は幽界から霊界へと神の道一筋に進むように心掛けていればよい”って言うたんやな」
「そうだね。
この文は、自分が感じている認識(悟り、幸取=さとり)のことを言っているね。それは今(パチモン)Kellyが言ったように、
幽界から霊界、
腹から胸、
マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒、
自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、
その段階の霊的成長のことを言っているし、その時点々々での認識の違いまでも、感じさせる言い回しだね。
だから自分が感じ(感じる磁性)る事象は、生きていようが死んでいようが、良いことと感じることだろうが、悪いことと感じることだろうが、そこには“上”の意図って言うのはある。
そして、自分が相対してる事象を観察し、感じ(感じる磁性)てから、自分は何を思うのか?どう在るべきなのか?
それが大事だね。
それと、ちょっと繰り返すけど、そのことを考えるのは、生きている間だけではなく、死んでからも永遠に考え続けることを知らなければならないね」
「そやからそれは、先生の人生においての認識(悟り、幸取=さとり)でんな。“すべての事象は自分の在り方を示す”ってことでんな。
そやから事象って言うのんは、嬉しいことや悲しいことや、幸福感を感じることや、不幸って思うこともあるけど、そのときの自分の心は“上”に向かっているのか“下”に向かっているのか?
それを自分で見極めて、自分の今後の在り方を考えるのが智性(神性)で、“一”=智性=1番目のオーラが小さいとそれを考えられへん。
そやからローム太霊講話集 第八〜九話の、ローム太霊さんのこの言葉は、そこまでのことまで思い起こさせるやん」
「そうだね。
…まあ、今、(パチモン)Kellyが話したようなことを、モノホンKellyさんに話したつもりなんだが、なにぶん、ドライブ中に発想したことだし、当然、文章にしてないから、モノホンKellyさんにうまく伝わったのかどうか…そのこともあったから、今回(パチモン)Kellyと話すことにしたんだ。
楽屋落ち的言い方だが…」
「まあ、楽屋落ち的言い方はよろしいやおまへんか。
大体、○○○大先生と(パチモン)Kellyさんとの会話は、○○○の心(靈)の中の二面性なんやから。
そのことは、モノホンKellyさんは承知してるし、先生の本の読者や、前のブログから霊縁のある人も承知してることやと思いまんがな。
ほんでからに、今話してたこと以外のことも、モノホンKellyさんと話したんでっしゃろ」
「うん。それも話したいが、ちょっと一服して、茶を飲んでから話そう」
「それはあんまり話が長くなると、モノホンKellyさんが文章の長さに辟易(へきえき)するからやな。
承知しましてんな。
ほな、(パチモン)Kellyさんが茶をいれさせてもらいまんねん」
J゚・o・゚し _且~~ ソチャハ イカガ?
【〈 ̄ =3 =3 旦フーフー・・・ 【< ̄>日< ̄>】 グビグビ・・・
シブーイ!!【<≧〜≦>】o旦~~~
J゚ ̄ =3 =3 旦フーフー・・・ J゚ ̄日 ゚̄し グビグビ・・・
シブーイ!! J゚≧〜≦゚しo旦~~~
☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀
…茶を飲んでから二人が話したことは、次回のアップロードで。
前のブログ、三冊目の発売が決定しましてんな。
12月5日(土)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。
お近くの書店に見当たらない時は、 たま出版のサイト、あるいは、Amazon 楽天 YAHOOなどで、お買い求めくださいでんねん。
ほんでから、この本のタイトルの、目上(めうえ)と目下(めした)は、ちょっと難しい意味がありまんねん。
それについて先生は、Amazon用の“著者からのコメント”の文章を用意してはって、それは、
○○○療院のホームページ内の、本の紹介
に公開してあって、それを読んでいただいたら、目上(めうえ)と目下(めした)の意味も、大体、分かっていただけると思いまんねん。
ほんでからこの項目には、すでに発売済みの<1><2>のAmazon用の“著者からのコメント”も載ってまんねん。
そやからそれは、今、一般に、タイトルだけ見て、内容を観ないで批判するだけの人が多いから、先生は、こんな文章を作りましてんな。
よかったら、読んでやってくださいでんねん。
以上、パチモンKellyさんからの告知でした。
○○○大先生は、先週、モノホンKellyさんから突然、就職が決まったってメールをもらいましてん。
それもモノホンKellyさんにとって、中々の良い条件でんねん。
(モノホンKellyさんはここんとこしばらくの間、無職で悶々としてはったようでんねん)
そやから先生は、モノホンKellyさんに、以下の画像を添付して、おめでとさんメールを送りましてん。
ほんでからモノホンKellyさんは、職が決まらんうちに(プー太郎のうちに)、
モノホンKellyさんのばあちゃんが住んではるところ(石鎚山のふもと)の、秋の祭りに行く予定やったんやけど、仕事が決まったので、行けんようになりましてん。
そやから、モノホンKellyさんは本格的に仕事が始まらんうちに(プー太郎のうちに)、
かねてから、
先生から、 “いっぺん行ってみよまい”…ってお誘いを受けていた、御嶽山と瀧原宮(たきはらぐう)に行ってみたいって発想しましてんな。
そんないきさつで、モノホンKellyさんと先生は、メールや電話で打ち合わせして、
10月27日
御嶽山(ほとんどドライブだけやったんやけど)
28日
瀧原宮
(この神社については、こちらの記事を読んでくださいでんねん)と、ついでに、伊勢神宮の内宮に行きましてん。
今回紹介する写真は、その時に撮った写真でんねん。
☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀
御嶽山、七合目、田の原遊歩道から見た御嶽山。大陸の高気圧がやってきて、冬型の気圧配置になり、冷気を含んだ風が御嶽山の頂上にぶつかり、雲が出来る様子。(ものすごく寒かったって二人が言うてましてん)
田の原遊歩道、展望台から見た、開田高原方面。
田の原遥拝所で、寒さをこらえながら雲が切れるのを待つ○○○大先生。(モノホンKellyさん撮影)
田の原から少し降りたところにある八海山神社。
八海山神社は、目の神さんなので、その御利益を強調するモノホンKellyさん。
夏に、先生と、太陽凝視を教えてくれたKさんの長男、YAはんと、四男のTAはんが、滝行した新滝。
新滝に向かう、モノホンKellyさん。
新滝、滝つぼ近くでの、モノホンKellyさん。
新滝の少し下にある、清滝にも行きましてんな。
清滝の滝つぼに、虹が出てる写真。
清滝付近で撮った、割とベタな紅葉の写真。
滝を見てから、もう一度、上のほうに車を走らせて、再度撮った御嶽山の写真。初冠雪がきれいでんねん。
☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀
ここからは、瀧原宮と伊勢神宮の内宮の写真でんねん。
これは瀧原宮の入り口。
瀧原宮で写真を撮るモノホンKellyさん。
以下、瀧原宮。
瀧原宮にお参りする、自称、ブラッ○ジャッ○風の衣装のモノホンKellyさん。(男運を願っているかもしれない…)
瀧原宮にお参りする、○○○大先生。(願うことは二つ。
先生の本を読んだ人の認識の変容があること。
もうひとつは、先生の理想の若いネーチャンと出会えますようにって祈っているのに違いない)(爆)
以下、伊勢神宮内宮で撮った写真。
内宮でのモノホンKellyさん。(先生の写真を撮っているところ)
モノホンKellyさんが撮影した○○○大先生の写真。
菊の展示がありましてんな。
☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀
…っちゅうことで、今回の写真はここまでなんやけど、この二日間、先生とモノホンKellyさんはたくさん話をしましてんな。
その中には、とても大事な話もあったようで、そのことについて話したいって、(パチモンの)Kellyさんは、先生から連絡を受けてまんねん。
そやからそのうち、先生と(パチモン)Kellyさんは、今回、モノホンKellyさんと先生との話で、話題になったことについて、先生と話をする記事を、アップするつもりでんねん。
今回も、富士の巻 第十七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。
九十が大切ぞと知らしてあろがな、
戦ばかりでないぞ、
何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、
上の臣民 九十に気つけて呉れよ、
お上に神祀りて呉れよ、神にまつらうて呉れよ、
神くどう申して置くぞ、
早う祀らねば間に合はんのざぞ、
神の国の山々には皆神祀れ、
川々にみな神まつれ、
野にもまつれ、
臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、
まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。
臣民の身も神の宮となりて神まつれ、
祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、
神は急(せ)けるぞ。
八月二十五日、
のひつ九
。
冒頭の文、
“九十が大切ぞと知らしてあろがな、
戦ばかりでないぞ、
何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、
上の臣民 九十に気つけて呉れよ、”
これも今まで言うてきた様に、“九”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
そして“十”は胸の磁性“十”。シンクロトロン放射。人(日止、霊止)の心(靈)が、自我の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)中心になっていくこと。
そして、この文は“上の臣民 九十に気つけて呉れよ、”って言われてる。
そやから“九”って言うのは、神の思惑を自分の思想に取り込んで、“一”=智性=1番目のオーラ由来の乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)をする。それは現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”になる。
それは、天意=“上”の思惑を受けて、創造をするさまを“九”で表しているし、“十”については、今までくどいほど何回も言うたから、あえて説明しませんねん。
ほんでからこの文の、
“戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、”って言うのんは、外側(外国と幽界)の事象の観察=“戦”を見てるだけでは、自分の在り方は判断できんって言う意味やと思う。
その判断できない心(靈)の動きは、自省(胸の磁性“十”)をしてないからで、それはまた、右往左往であり、砌(みぎり)の心(靈)中心のときでもある。
そやから“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をしたならば、それは左往右往で、日足(ひたり)の“行”に入り、その人たちの心(靈)の動きは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではなくなる。
今後=アセンション後の世界は、誰もが霊的成長を目指し、その足を引っ張る(恨みの連鎖の霊的干渉の現象化)悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)のいない世界になるってことでんねん。
そやから今まで何回も言うてきた様に、その段階に入るのが、アセンションでもある。
ほんでから次の文も、今言うたことをもう一度言うてる。
“お上に神祀りて呉れよ、神にまつらうて呉れよ、
神くどう申して置くぞ、
早う祀らねば間に合はんのざぞ、”
この文の“お上に”って言うのんは、今の指導者たちは低い霊的干渉しかおきていないから言われてることで、言うまでも無く今活躍してる人たちの大半は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)でもある。
その人たちが目指してるのは、低い欲望の達成であり、(通貨としての)金を得る事でもあり、自己奉仕者が自己奉仕者を誉めそやし、形骸の名誉を欲する世界でもあり、それは、政治家やプロスポーツや芸能人…etc いろんな世界がそんな場(フィールド)に成り下がってる。
ほんまに褒めそやされるのは…言い換えれば、誉めそやされるべき行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が評価するものでなければならないし、そやから自己奉仕者、そんな人たちが活躍する世界は、壊れるに決まってる。
そやから天意にそった“創造”をしてくれって言う意味で“神にまつらうて呉れよ、神くどう申して置くぞ、”でもあり、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が、決まっているから、“早う祀らねば間に合はんのざぞ、”って言われてる。
ほんでから次の文、
“神の国の山々には皆神祀れ、
川々にみな神まつれ、
野にもまつれ、
臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、
まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”
この文の“山々”は、大脳新皮質、左右の大脳半球を指す。
これについては前のブログ、目上(めうえ)と目下(めした)をしっかり読んで理解して欲しい。
(ほんでから先生の三冊目の著書にしっかり書いてありまんねん)
そやからそれは、天意を受けた上での思想を構築する=智性(神性)の発現であり、それによって出来上がる=“創造”され得る現津(あきつ)、観察され得る事象は、その場(フィールド)は、“神の国”って称されてて、神は、示す偏(へん)に“呂”=エネルギーの回転。国は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”。
これも何回も説明したから省略しまんねん。
ほんでから“川々”は、“山々”と同様の表記やから、これも左右の極性を示し、それは川やから、水の極性で、錯体のことを言うてると思える。
そやからそれは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ってことでんねん。
あえて補足しとけば、肉体内の電磁誘導のラインとしての、左右=日足と砌(ひたりとみぎり)でんねん。
ほんでから“野”については、画像で示しまんねん。
ほんでから“臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、”の“家”は宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ)(家畜の意味)、そやから“家”って表記は、頭=“一”=智性=1番目のオーラを持った動物って言う表記でんねん。前にも同じ解釈をしましてんな。
そやからこの文は、天意、“上”の思惑、神の思惑、それを受信して自分の思想にすることを言うてて、それは“五六七(みろく)”、“五”=糸巻き、神経が発達した様子と、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。
それと“七”=“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
それをこの文では“まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”と、称されている。
ほんでから次の文も、同様のことを言うてる。
“臣民の身も神の宮となりて神まつれ、
祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、”
要は、“身”=肉体を、“神の宮”にするって言うのんは、“上”の思惑を受信できる肉体ってことで、それはこの十七帖では触れられてないけど、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でしか、そうはならない。ほんでから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ電磁波は、太陽光と、可視光線以上の波長の電磁波でもある。そやからそれは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。
ほんでからこの十七帖の“まつれ”“まつり”“祭り”“祀り”の表記の違いは、ひらがな表記のものは、まつらう=“上”の思惑を取り込んだ“創造”のいみ。
それは法則性=ローム太霊が教えた“條”(“力”を使う法則性)、そしてそれは、大日如来の条帛(じょうはく)の“条”と同義。これも前のブログで指摘してる。
そやからひらがな表記の“まつれ”“まつり”は、法則性を認識しろってことでんねん。
法則性を知らん“創造”をしてるから=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してるから、この世界は壊れて行きまんねん。
何回も言うてきたことでんねん。
ほんでから、“祭り”と“祀り”、これについては何回も使った画像を以下に貼っておきまんねん。
そして最後の文は、さっきも言うたけど、時期(磁気)が迫ってるから言われてまんねん。
“神は急(せ)けるぞ。”…今回はこれくらいにしときまんねん。