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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集” 第三十四話 精の形とその利用法 Kellyさん的解釈“その三”



 今回も、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

人間は物を沢山持つことによって裕福に…中略…この物質だけの問題なら、その妖精を可愛がることによってそれを完全に握ることが出来る…中略…そのため多くの宗教では、現実の利益を目的として稲荷とかその他の眷属を使いこれを利用して人間の心を弄ぶものも…中略…汝等大道に生きる者は、そういう物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じていればよい…中略…人間の真の道は物でないことがはっきり分る

 冒頭の文言には、
人間は物を沢山持つことによって裕福
と述べられ、それから、
物質だけの問題なら、その妖精を可愛がることによってそれを完全に握ることが出来る
と称されている。
 これに関しては“その一”で取り上げた
自分に必要と思う精を可愛がってその気を十分に捉える…中略…現界での希望は大体満たされる
と、ほぼ同義でもある。

 だが、これは誰もが持っている物欲(目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階))、これを満たす際の事柄のみを述べている。

 それで、この後の文言の“人間の真の道は物でない”、これに相対した言い回しが“物質だけの問題”であり、“物を沢山持つことによって裕福”になれると自分が思うならば“その妖精を可愛がることによって…以下略…”と述べられていることに気づかねばならないし、“ほんとう”の“裕福”が、“物を沢山持つこと”ではないから
汝等大道に生きる者は、そういう物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じていればよい
と述べられ、これが太霊の教えであり“大道に生きる者”となれ、これを考えよ、という意図のある文言であることにも気づくべきである。

 そして前後するが、“質だけの問題”、これしか頭にない人間をだます手法としてのことが以下のように述べられている。
多くの宗教では、現実の利益を目的として稲荷とかその他の眷属を使いこれを利用して人間の心を弄ぶものも
 これも、お前たちは“ほんとう”の“裕福”ということは何かを考えよ、その指標としての意味合い、それは“現実の利益を目的として”、この低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応する“稲荷とかその他の眷属を使い”、結果としてその人間の霊的成長を妨げる、それは“これを利用して人間の心を弄ぶ”、これに気をつけよ、そして先の“大道”とは何か、どうしたら自分は“大道に生きる”と“上”が認め得る人間となるのか、これについて考えよ、であるし、その考える指標として
人間の真の道は物でない
よって
物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じ
これは神に任せる、任せることが出来るのは、その資質とは、“大道に生きる”、あるいはこれを真摯に求める、であり、“物を沢山持つことによって裕福”だと思うのは低い心(靈)なのだ、ということを知るべきである。
 それは“その一”で取り上げた“高級なものから低級なもの”という表記にもこの意味も含まれていることに気づいてもらいたいものであるし、その“低級”、それは“人間の真の道は物でない”のであり、この“”、これは読み仮名が付いていないが、
(これを書いているS会=紫光会の会員で交霊会に何回も出席し、“”(まこと)という言葉を直接何回も聞いた児玉登としては)
まこと”という言葉をあてておくべきであるし、この表記の意味は、古神道の表記の真固止、何を真に固く止めるのか、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神の思惑を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としてこの現津(あきつ)、観察され得る事象(現実)に活かす、これがまた“日止、霊止”、太陽を止める、靈を止める、の意味でもある。
 ちなみに、靈を止める、に関しては以下の画像を参照のこと。
靈の解字 

 この“人間の真の道”、霊的成長度の低い人間は“物を沢山持つことによって裕福”だと思うだろうが、それは、“低級”なのであり、よって、“人間の真の道は物でないことがはっきり分る”、これは太霊の言い回しとして“はっきり”と分かれよ、という意味合いであることを述べておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第三十四話 精の形とその利用法 Kellyさん的解釈“その二”



 今回は先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

この精の形状(かたち)は、その種類によって違う…中略…その一つ一つの精については大体決まって…中略…木や金の精は一目みて直ぐ分る…中略…ところが、この前の滝の精などになると、自然現象の闇や雲の精と同じように、漠然とした大きなものが一つの形を造ってその力を十分に発揮出来る状態…中略…そのため滝の精が不動明王の姿を現わしたり、雲の精が老人に見えたり、闇の精が黒い塊(かたまり)になったり…中略…この場合は同じ種類の精は必ず一定の形を取るというわけではなく、ただその現われている所がその精の中心と思えばよい…中略…それゆえ、精というものは、草や木や滝や山などに限らず、空気とか雲とか闇とか山彦とか人間が感覚によって捉えられる凡ての現象にも形作られる…中略…これは地球の上だけのことではなく、地球以外のあらゆる所では寧ろより以上に行なわれていることを知らなければならない。この精はやはり自然霊の一部分と思えばよい…以下略…

 この文言を読んで“”の解説だけである思ってしまうなら、“”が“思惑の顕現”=現象化にかかわっているということに理解が足らないと言いうる。
 それで文言中の
この精の形状(かたち)は…中略…ただその現われている所がその精の中心と思えばよい
これと
精はやはり自然霊の一部分と思えばよい…以下略…
に関しては、人間が知り得ない“”のことを説明しておられる。

 大事なのは、
精というものは、草や木や滝や山などに限らず、空気とか雲とか闇とか山彦とか人間が感覚によって捉えられる凡ての現象にも形作られる
この
人間が感覚によって捉えられる凡ての現象にも形作られる
これは第三十二話でも
水やそれに関連した滝、湖水、海、また上にのぼって空や宇宙についての話に…中略…それらのもの自体の気も一応この妖精に関係のあることをよく頭に入れ
という言い回しがされており、個の心(靈)である人間が“感覚によって捉えられる凡ての現象”に“”の存在を“観察と認識”しうるのだということである。
 これとほぼ同義のことが、
第三十二話の総括で引用した○○○大先生の著書の<1>において、以下の言い回しで述べられている。


言葉は、事象を認識する道具だといえる。したがって、言葉で表現され得る対象は、実在だと思っている…中略…アタシたちの認識の中に存在するものであるともいえる

 この“言葉で表現され得る対象は、実在”これは“それらのもの自体の気”(三十二話の表記)にあたり、この“”=振動を、個の心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が受けると事象の“観察と認識”となり、“言葉で表現され得る”ということになり得る。 
 
 それでこの文言では“”が“凡ての現象にも形作られる”とも述べておられる。 これは以下の文言につながっている。
これは地球の上だけのことではなく、地球以外のあらゆる所では寧ろより以上に行なわれていることを知らなければならない

 この“地球以外のあらゆる所では寧ろより以上に行なわれ”、個の心(靈)である人間が、事象の“観察と認識”をした際、そこに“”をも“観察と認識”しうるものである。 
 ただしこれは“地球以外のあらゆる所”なのであり、これはたった今の“地球の上”ではてんで少ないからこういった言い回しをされ、てんで少ない理由は地球人の霊的成長度が低すぎる、それは物質しか見ていない、心(靈)というものが分かっていない、よって 
念の固(かた)まりが物質化”(第二十七話)
気の固(かた)まりが精”(第二十九話)
などということには理解が及ばず、自分の思惑が“”“”=振動であるということが分かっていない。
 また息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)も脆弱である。
 さらに自分の思惑が現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するという“創造”の法則性に対しての理解がないから、これを踏まえた心(靈)の動き(“観自在”、自分の在り方を観る)ということなど考えもしない。
 それで“知らなければならない”それは“寧ろより以上に行なわれていること”なのであるが、物質しか観ていない程度の低い個の心(靈)は、第二十九話の
自分の念の使い方によってその妖精と気を合わせることが出来る
また第二十七話の
妖精の念の上に人間の念が加わる
そうすると
妖精と人間の霊とが一緒になると、一つの強大な妖精となって
などということに対して理解できるはずもない。

 重複するが、個の心(靈)が行っている、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”というのは、自分の息吹によるものであり、それだからこそ太霊は第三十話で
想像の実現と妖精の出現と同工異曲
と述べておられるのであり、たった今これが行われていない(行えない、行うほどの資質がない)。
それだからこそ“知らなければならない”のは、“日月神示”の表記の“半霊半物質”(今の事象よりも思惑が早く顕現する)という事象が、今後=アセンション後のそれであるからである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第三十四話 精の形とその利用法 Kellyさん的解釈“その一”



  今回から第三十四話の解釈に入る。 まず冒頭で述べられている以下の文言について解釈を述べる。

一口に精と言っても高級なものから低級なもの…中略…前にも話したように、自分に必要と思う精を可愛がってその気を十分に捉える…中略…現界での希望は大体満たされる…中略…人間がこの世に生きていく上に金力というものは三割位必要…中略…落ちている小銭(こぜに)にしても馬鹿にせずに拾いあげて大事(だいじ)…中略…その精は喜こんで仲間を呼んで…中略…金でも物でも、凡て徳を施してやればその同類が寄り集まって来る…中略…その人間はあらゆる物質を自由に出来る分限者(ぶんげんしゃ)…中略…それと同じ訳で、仮に自分の茶碗が割れたとしたら、こんなもの捨ててしまえと言う代りに…中略…自分を養ってくれたご飯の入れものであるから、お前をここにおいて人に怪我をさせるとわるいから元の神に返っておくれ長らく世話になって有難う…中略…感謝の心で埋めてやるのが本当…中略…物を大切にする人には必ず物の精が付いて…以下略…

 冒頭の文。
一口に精と言っても高級なものから低級なもの

 この文言、これを読み、この文言に対して“”の説明だけであると思うならば、人間の心(靈)の“上”と“下”ということが全く解っていないと言いうる。
 それは“”が第二十七話で説明されている通り
妖精は単に精とも呼ばれ…中略…森羅万象に存在するもの…中略…その念の固(かた)まりが物質化したようなもの
そして同じく二十七話
妖精と人間の霊とが一緒になると、一つの強大な妖精となって
この二つのことを含めて説明をされていることに気づくべき。
 これについて解りやすい説明すると、“人間の霊”、これは心(靈)であるが、その心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)であるならば、“妖精と人間の霊とが一緒になる”、この際に、“低級”な“”が、“妖精と人間の霊とが一緒になると、一つの強大な妖精”となりうるし、それはまた、第二十九話の
妖精についての話は無数にあって、その形状も大悪魔とも言われる大きなものから目に見えない程の細菌に至るまで多種多様
この“大悪魔”に当たるものすら輩出しうるものであり、第二十七話の恨みの連鎖の霊的干渉の実例としての“ブルー・ストーンの物語”、こういったことが“高級”か“低級”か、考える要素のある文言であるし、重複するが“妖精と人間の霊とが一緒になる”そして“一つの強大な妖精”となるということ、ローム太霊講話集を熟読した人ならばここまでのことに気づくべきである。

 これに続く次の文。
前にも話したように、自分に必要と思う精を可愛がってその気を十分に捉える…中略…現界での希望は大体満たされる

 これは自分の心(靈)の息吹と“”との感応を指す言い回しである。 それゆえ“自分に必要と思う精を可愛がってその気を十分に捉え”、この“必要と思う精を可愛がって”が、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり“”であるし、“気を十分に捉える”とは“”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するという意。
 そうするならば、“現界での希望は大体満たされる”と称され、これについては次の文から引用する。

人間がこの世に生きていく上に金力というものは三割位必要…中略…落ちている小銭(こぜに)にしても馬鹿にせずに拾いあげて大事(だいじ)…中略…その精は喜こんで仲間を呼んで…中略…金でも物でも、凡て徳を施してやればその同類が寄り集まって来る…中略…その人間はあらゆる物質を自由に出来る分限者(ぶんげんしゃ)…中略…それと同じ訳で、仮に自分の茶碗が割れたとしたら、こんなもの捨ててしまえと言う代りに…中略…自分を養ってくれたご飯の入れものであるから、お前をここにおいて人に怪我をさせるとわるいから元の神に返っておくれ長らく世話になって有難う…中略…感謝の心で埋めてやるのが本当…中略…物を大切にする人には必ず物の精が付いて…以下略…

 この
落ちている小銭(こぜに)にしても馬鹿にせずに拾いあげて大事(だいじ)…中略…その精は喜こんで仲間を呼んで…中略…金でも物でも、凡て徳を施してやればその同類が寄り集まって来る
そして
自分の茶碗が割れたとしたら…中略…元の神に返っておくれ長らく世話になって有難う…中略…感謝の心で埋めてやるのが本当
これはわかりやすい具体例を述べておられるのであり、こういうことを自分自身の認識(悟り、幸取=さとり)として
馬鹿にせずに拾いあげて大事(だいじ)
感謝の心で埋めてやる
これは“”に対し、誠実に向き合う、一つの存在として真摯に向き合う、
(これは、一切万象が神である、という“日月神示” 地震の巻 の概念が当てはまることでもある)
結果それが“物を大切にする”という行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)につながるものである。
 そうするならば、先の“現界での希望は大体満たされる”、そして“その人間はあらゆる物質を自由に出来る分限者(ぶんげんしゃ)”となりうる。
 それは“物を大切にする人には必ず物の精が付いて”ということになったうえでの結果なのだ、またそれは“物を大切にする”という心(靈)の動き、その息吹なのだ、ということを読み取るべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈 三十三話の総括



 
 第三十三話の最初に
その精にしても年功や行跡によっては神格を得るものさえ…中略…普通の精とは大分違ってくる
という説明がなされ、これが前置きになっており、そして 
滝の精や滝壺の精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計るとともに、人間の霊の向上のためにも助力することを自分達の努め
ということを太霊は述べておられる。

 この
精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計る”、
これと
人間の霊の向上…中略…助力”、
これが“自分達の努め”と称されている。

 そしてそれは
常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの
なのであり
滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ”た
滝壺の奥に必ず立派な洞窟”と
三本の廊下…中略…一つの廊下に各十二の室
という説明がなされている。

 大事なのは、これが何のために作られたのか、それは先にピックアップしたように
精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計る
そして
人間の霊の向上のためにも助力
これは
本当の行人”と“上”が認め得るような人間を輩出する、という意図があることを読み取らねばならない。

 これは“その五”で述べたように、“”やり始めた人間、あるいはもっと程度の低い信仰ごっこをしている人間、こういった人間はただ雰囲気に酔っぱらっているケースがほとんどであり、“本当の行人”とは認めない、という太霊の意図を読み取るべきである。
 またその“本当の行人”ならば、最終的には“行人が神として行動を起こす”という段階に至るものであり、これを意図しているのがまた“滝の精や滝壺の精”でもあることを知らねばならず、また、自分たちの“上”とはこういった思惑を持っているのだということもしっかり理解しなければならないものであると言いうる。

 そのため、自分たちが“”で“”やるならば、
肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者
そして
精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない
ということを知り
そこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える
この
神体が神の御胸に添うべき元となる”
そして
他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行
ということも解っておかねばならないものである。

 それでこういうことを目的としている、意図している、その思惑があって、先の
滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ”た
滝壺の奥に必ず立派な洞窟”と
三本の廊下…中略…一つの廊下に各十二の室
これを
念の力によって目に見える形に造り上げた
のであるし、そこで“真の行者”、そして“本当の行人”を輩出する、ならばそれは
その精にしても年功や行跡によっては神格を得る
これに当たるものであると解するし、重複するが、自分がどこでどんな“行”をする(どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも)、それは自由であるが、それが“”ごっこではいけない、“上”が“真の行者”、そして“行人が神として行動を起こす”そして“本当の行人”と認め得るよう自分たちは頑張らねばならない、真摯に向き合わねばならない、ということを“その五”で述べたので、これをしっかり認識(悟り、幸取=さとり)とするべきである。

 次回のこのカテゴリーでは、第三十四話 精の形とその利用法 に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その五”



 今回は、第三十三話の文末の文言の解釈を述べる。

この道場に入いる者の中には、仙道、道教、仏教などの行者は固より精や山霊まで含まれ…中略…各の室は以上のような力を持って…中略…一室へでも入いることが出来れば、その者は滝について十分な知識…中略…汝等が滝で修行をするならば、その滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像して、仮令一瞬間でもその清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ、霊を知り神を知ることが出来る…中略…ただ一つの滝でさえ人間を立派に磨き七十二の変化(へんげ)の術を備えさしてくれる…中略…どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも、その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人…以下略…

 冒頭の
この道場に入いる者の中”、
大概の人間は、自分たちのことしかわからないから、一切の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとしていることに認識がない。
 それだから“仙道、道教、仏教などの行者は固より精や山霊まで含まれ”ということを太霊は教えていらっしゃる。
 そして“一室へでも入いることが出来れば、その者は滝について十分な知識”、この“十分な知識”というのは、“その二”で取り上げた文言、それは“行人”が、
自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者と言えるのである。汝等もその力を十分に知り、精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない
この“滝が何を教えようとしているか”これを“さとり得てこそ、真の行者と言える”と称されているその文言の裏には、“上”が“真の行者”と認め得る“行人”はそんなにいないということである。 
 それともう一つ“本当の禊の行にはならない”、それは
滝によって示されている理想に合体しなければ”、
これと
精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ”と、前置きされていることに気づくべきであり、これも大概の“行人”が“本当の禊の行”を実践していない、という言い回しであるし、自分が“”やっているならば、それが“本当”かどうか常に鑑みるべきでもある。
 また同じく“その二”で取り上げた、
水を被(かぶ)るとか被らないとかの問題ではなく、その中に入いりそこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える
この
そこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力
そして
これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行”、
これらが“”での“”、そのものといいうることだが、大概の人間はここまでのことを知り得ないので“滝について十分な知識”がないに等しい。
 それゆえ“一室へでも入いることが出来れば”という言い回しをされているものである。

 これに続く
汝等が滝で修行をするならば、その滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像して、仮令一瞬間でもその清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ、霊を知り神を知ることが出来る

太霊は、“滝について十分な知識”がないお前たちに“滝壺の奥にはこのような殿堂のあること”をローム霊訓講話とローム太霊講話集で教えたのであるから、その“知識”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)として
滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像
その清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ
これはこういう息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をせよ、そうすれば
霊を知り神を知ることが出来る”、
これは先回取り上げた“第一”から“第十二”の“”、いわばそれは生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのことで、それだからこそまず“霊を知り”、そして進化が神格化であるからこそ“神を知ることが出来る”と称されていることに気づくべきである。
 それで、これをお前たちは知らない、それゆえ
汝等が滝で修行をするならば”、
お前たちが“”やるならば、これを意識して息吹け、そうすればお前たちの霊的成長度に応じた振動の受信、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるものである、という重要な事柄を述べておられる。
 
 これに続く
ただ一つの滝でさえ人間を立派に磨き七十二の変化(へんげ)の術を備えさしてくれる
この文言は“人間を立派に磨き”が大事であって、“七十二の変化(へんげ)の術”は、“”やっていくならば“”(“力”の顕現)は得られるし、“七十二”というのは“仙道”や“天狗道”で言われていることであるが、その具体的な“”は、当人が何を思惑としているか、どんな行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするか、において、その場その場において変容する、よって何々の“”とは決められないが、“”が進めばその贖い(あがない)において必ずそれは得られ、最終的には先回取り上げたように“行人が神として行動を起こす”という段階に至る、ということを述べておく。

 これに続く
どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも、その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人
この文言が第三十三話の最も重要な要旨であり、“”やり始めた人間、あるいはもっと程度の低い信仰ごっこをしている人間、こういった人間はただ雰囲気に酔っぱらっているケースがほとんどであり、“本当の行人”とは認めない、という太霊の意図を読み取るべきであり、じぶんが信心している、宗教の勉強をした、それに関わった、あるいは滝に入った、もっと進んで太陽凝視をやっている、それらを含め“どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)”と称されているそこにおいて
その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人
この“真なるもの”、それは第十九話の
神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間
これに当たるものであることを述べておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その四”


 今回は、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

その広間を通り抜けて奥へ行くと、そこから三本の廊下が出ていて、一つの廊下に各十二の室が付いて…中略…三本の廊下というのはそれぞれの行人が理想とする道を三つに大別…中略…十二の室というのはその一つの道を選んだ者の修行の場で…中略…第一室から段々進んで第十二室で完成…中略…内容を簡単に話すと、第一は自分の理想を固める室、第二は神の命を自分が媒体となって受入れる室、第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める室、第四は術を学ぶ室、第五は道を学ぶ室、第六は命を学ぶ室、第七は光の波動、例えば現界より細かい幽界の波動を受入れるための室、それ以上は非常にむずかしくなるから名前だけを並べると、第八は光の上の空に対する室、第九はその上の無に対する室、第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁に対する室、第十一は以上の修行を綜合して行人が神として行動を起こす力を与えられる室、第十二はそれらのものが完成して、自分の与えられた理想があらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす室

 まず
広間を通り抜けて奥へ行くと、そこから三本の廊下が出ていて、一つの廊下に各十二の室が付いて…中略…三本の廊下というのはそれぞれの行人が理想とする道を三つに大別

この“行人が理想とする道を三つに大別”に関しては、第三十四話に“肉体と精神と物質”という言い回しがあり、これに当たる“行人が理想とする道”であろうと推察する。 それは“肉体”の完成、“精神”の完成、“物質”とはその言葉通りではなく、外側(外国と幽界)の事象、そこにおける“物質”と認識されうるそれ、あるいは“物質”で構成されている“現界”のこと、である。
 この“三つ”を何とかする、何とかしたい、完成を目指したい、力を顕わしたい、というのが“行人が理想とする道”と解することとする。
 そこにおいて
第一室から段々進んで第十二室で完成
と説明されており、
第一は自分の理想を固める室
これは先の“理想とする道を三つ”に対して、自分はどうしたいのか、である。

 次の
第二は神の命を自分が媒体となって受入れる室
これと
第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める室

これは、先の“第一”で“固め”た“行人”の“理想”、これが“神の命”に適う(条件にあてはまるの意)、それは“行人”がその“理想”を神の思惑と一致させようとする思想を構築する、それはいずれ、というよりも、最終的には、第二話の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
この“神の気持ち”に沿った“理想”となる、というより、そうなっていくのが自然でもある。
 これを換言すれば、“自分が媒体となって”というのは先の第二話の“神の気持ち”を“現界”に顕現するようになる、その資質を得る(ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たす)、そうなるにはただ“”を求めるという段階のことではなく、“行人”自身が思う自分の存在の意義というものを認識(悟り、幸取=さとり)としていく、いわゆる自分自身と神の関係をしっかり理解して、そのうえで“理想”を構築して、その“理想”所以の思想や行動をしていくための“”であるといいうるし、それをするには“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が必須でもある。

 次の
第四は術を学ぶ室

これは文言通り、“行人”の“理想”を顕現する具体的な“”(“力”の顕現)の獲得である。

 次の
第五は道を学ぶ室

これは“”の“理想”を顕現するための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識(悟り、幸取=さとり)とするの意。

 次の
第六は命を学ぶ室

これは“行人”の“理想”が、先の“第三の”で述べた“いずれ”と称したことに該当する。

 次の
第七は光の波動、例えば現界より細かい幽界の波動を受入れるための室

これは“行人”がこれまでの“行”では得られない高い振動を獲得するための“行”であるといいうる。
 それは“光の波動”と称されてはいる、そして“現界より細かい幽界の波動を受入れる”と称されている通り、いきなり厳しい太陽凝視ではなく朝日とか夕日を見る、そして月の凝視とか、星空を見る、くらいから始まり、そこで得られる“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを獲得するのだと察する。

 次の
それ以上は非常にむずかしくなるから名前だけを並べると、第八は光の上の空に対する室、第九はその上の無に対する室、第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁に対する室

これはS会=紫光会の真言、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)が、“(まこと)”の“”の“”、存在するのそれ、は、“”(奇才の奇、あらわれの意、普通の程度をはるかに超えてすぐれているの意)であり、それは振動の高低を表す“”→“”=“”→そして“”、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”の根源たる振動である“愛(炁)”であるからこそ“第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁”と称されている。
 この“愛(炁)”に関しては画像を作成したので以下に貼っておく。

炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁の解字 

  この“第七”から“”の“”、これがまた炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味合いと合致するものであり、ネット上ではこの言葉に対しててんで低い解釈を述べている人がいるが、おそらくそれはゴーストライターが本を売るという商売の為にご利益を強調して書いた全く程度の低い本を読んだうえで思ったことであると察するが、これがどれくらい罪深いことかを考えてもらいたいものである。
 本題に戻り、さらにS会=紫光会の経文、三光道真教句録 には 物光空無 炁在存為 置位天宙 三光秘経 の表記がある。
 これは 物光空無 が振動の高低を指す表記、炁在存為 は、高い愛()と 在 と 存 がある理由と根拠、それを、 と称し、それは、置位天宙 天 と 、“上”にある、それを、置位 と称され、それ自体が高い振動、低い振動で構成された心(靈)から“観察と認識”するならば、 光 と感じられ、それはまた生命の存在意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の訣とえなのだということを、三光秘経 と称されている。
 また 在 と 存 は、ローム太霊講話集のあとがきから引用して、
在 は宇宙万物を構成するあらゆる材料の根本、 はこの材料を使って宇宙万物を創造する力の根源、この二つを一定の計画の下に結合させる何ものか、それは現在のこの真善美に徹した一糸乱れざる宇宙万物の創造、これに関与する何ものかをと名付ける」
と述べられている。 これはローム霊訓講話で太霊が述べたことを編集者が編纂したものであろうと推測する。

 次の
第十一は以上の修行を綜合して行人が神として行動を起こす力を与えられる室

この“行人が神として行動を起こす”、これは先の“第二は神の命を自分が媒体となって”と“第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める”、これがあってこそのことであり、それは“現界”においては“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であろうし、あるいは“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)、これ等を実際に行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)とする、その“力を与えられる”と称されているので、うんと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、神に認められた資質をもった際のことであろうし、それゆえ“以上の修行を綜合して行人が神として”と称されているものである。

 次の
第十二はそれらのものが完成して、自分の与えられた理想があらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす室

先の“行人が神として行動を起こす”、これは“行人”の“理想”が神と一致する、そうなるならば、“行人”が思うこと事態が神の思惑の顕現につながる、それはすでに解釈を終えた“日月神示” 地震の巻 の、“直接内流”が高度なそれになったという言い方もできうる。
 そしてこの文言の意味するところ、“あらゆる所で実現出来る”、それはその“行人”の心(靈)が 現界、幽界、霊界、神界、のどの場(フィールド)に位置していても、その事象において“思惑の顕現”が可能であり、それ自体が神の思惑と一致する、それはまた“日月神示”表記の“大歓喜”でもある。
 さらにそれは、個の心(靈)としての“最高の境地”であるし、重複するが“行人”の“理想”が神と一致して、その事象において“実現”となしていくことを“あらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (107)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
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Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
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“日月神示” 上つ巻 (42)
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“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
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“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
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☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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