“日月神示”下つ巻 第三十三帖 Kellyさん的解釈
今回も下つ巻 第三十三帖を解釈しまんねん。
原文は以下のとおり、
親となり子となり夫婦となり、兄弟(はらから)となりて、
生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、
臣民同士、世界の民、みな同胞(はらから)と申すのは喩へでないぞ、
血がつながりてゐるまことの同胞ぞ、
はらから喧嘩も時によりけりぞ、
あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、何んな事あるか知れんぞ、
この道の信者は神が引き寄せると申せば役員ふところ手で居るが、そんなことでこの道開けると思ふか。
一人が七人の人に知らせ、その七人が済んだら、次の御用にかからすぞ、
一聞いたら十知る人でないと、この御用つとまらんぞ、
うらおもて、よく気つけよ、
因縁の身魂はどんなに苦しくとも勇んで出来る世の元からのお道ぞ。
七人に知らしたら役員ぞ、
神が命ずるのでない、自分から役員になるのぞと申してあろがな、
役員は神のぢきぢきの使ひぞ、神柱ぞ。
肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ、
この道 十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。
八月の三日、ひつ九のか三。
冒頭の文章、
“親となり子となり夫婦となり、兄弟(はらから)となりて、
生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、
臣民同士、世界の民、みな同胞(はらから)と申すのは喩へでないぞ、
血がつながりてゐるまことの同胞ぞ、”
この中の表記の“兄弟(はらから)”“御用”は、この星(地球)の生命が、なんのため存在し、何が目的なのか、生命の存在の理由って何なのかってこと自体に、認識(悟り、幸取=さとり)が一般にないからこそ、伝えられた言葉やと思える。
そやから“生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、”…何回も転生を繰り返し、そして人(日止、霊止)は神格化していく。
この下つ巻 第三十三帖の“御用”って言い回しは、その段階のことを含めて言うてると思える。
そやからその“御用”には、その人の霊的成長度に於いて、いろんな段階があるけれど、一般のことを言えば…因縁を贖って(あがなって)因縁の因果の因でもある恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こした霊…もうこの世界にいない心(靈)に、たとえば子孫が恨みの連鎖の霊的干渉を引き継ぎそれが因縁にもなるんやけど、自分たちが物質世界で低い心(靈)の動きの行動をした結果が因縁になることを観せられる。そして因果の因を作った霊的存在は、死んでから自省(胸の磁性“十”)する。
それが、仏教で言われてる閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)でもある。
そやからそれは、前のブログでもこのブログでも何回も言うたけど、現状の平均的地球人の霊的進化過程は、マニピューラチャクラの覚醒の段階、自我の確立=固定化の段階で、その“上”のアナハタチャクラの覚醒の段階に移行しようとしている。
そしてその覚醒段階には個人差がある=霊的成長度の差がある。そやからこの星は、程度の低い人とほんの少し“上”の心(靈)の発現をしている人が混在している=“玉石混交(淆)”でもある。
そこまでのことを思い起こさせる文章でもあるな。
ほんでからに、次の文、
“はらから喧嘩も時によりけりぞ、
あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、何んな事あるか知れんぞ、”
今の自己奉仕者の心(靈)の動きは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで、自分の利益を中心に追求する。
そやからそれは、さっき取り上げた冒頭の文章の“兄弟(はらから)”“臣民同士、世界の民、みな同胞(はらから)と申す”“血がつながりてゐるまことの同胞”…にかかる言葉でもある。
そやから自己奉仕者の低い心(靈)の動き、それは、自我の確立=固定化の段階の低い心(靈)の動きで、そしてそれは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の動きでもあり、その霊的進化程度=霊的成長度の段階でもある。
そしてその段階は、まだ、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”があまり発現していない霊的成長度でもある。
何回も言うけど、その低い霊的成長度の段階では、アセンション後の“創造”を担うことはできない。
そやからそれは“上”が認めないっていってもエエな。
そして自己奉仕者は、他者のことを考えないから、ほんの少し具体例を挙げれば、戦争がおき、飢餓貧困がおき、災害がおき…恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいの星になってしもてる。
それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が観てるからこそ“あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、何んな事あるか知れんぞ、”…もうすぐ、霊的成長度に於いて、分けられることを言うてる。
ほんでから次の文章は、霊的進化程度の低い心(靈)の認識を指摘してる。
“この道の信者は神が引き寄せると申せば役員ふところ手で居るが、そんなことでこの道開けると思ふか。”
なんでも神さんに頼んで任せておく……そんな簡単なことではなく、自分たちがエネルギーを贖わんと霊的成長しないってことを言うてるだけでんねん。
それは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が、人(日止、霊止)に望んでることでんねん。
そやからそれは、認識(悟り、幸取=さとり)の低い人、霊的成長度の低い人、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の成長の段階の人、“一”=智性=1番目のオーラをあまり持ってない人、その人たちは、低い心(靈)の発現と低い心(靈)の動きで、宗教を形骸にし、そして、今、とても多い、アセンションや人(日止、霊止)の在り方を説いたサイトや本、ただ受け入れるとか、時期が来れば自分たちはアセンション出来るとか、そのときのために自分たちは、神や霊を意識して、目覚めましょうとか……たいして“行”をしてない人たちの解釈は、大体パターンがある。
ほんでから、ただ、耳心地のよい言葉を多用する。
それは、自分たちの体験や知識や低い認識をひけらかし、そしてそれに共感する人たちを集める。
そやから、そんな人たちは、今の形骸の宗教を批判していても、やってることは程度が違わへんやんか。
そやからそれも、おんなじ心(靈)の動きでんねん。
そこには、その行動そのものに、低い心(靈)の動きである低い功名心と自尊心がある。
形骸になった宗教を批判してても、信者集めみたいなことをして、低い功名心と自尊心を満足させてるようにしか見えへん。
そやから、霊的成長っていうのはきわめて個人的な作業で、ほんでから自分がどんな生き方をするのかは(愛(炁)の果実としての)自由やし、誰かが誰かを成長させるものではないからこそ、個人の認識が個人を成長させるのであるからこそ、集団を作ってはいけないって“日月神示”では述べられてるやんか。
そやから集団を作ったりして低い功名心や自尊心を満足させてる人。その人たちの霊的成長度は、S会=紫光会の言葉でもある“神は乗り越えられない試練は与えない”という言葉の意味を考えたら、霊的成長度の低い人には、たいした試練は与えられへん。
そやから、たいして苦しんだ人生を送っていないやろし、そやからこそ人生に意義を見出せない。そやからその程度の認識の人は、低い認識に寄り集まる。
先生やKellyさんが言いたいのは、生きていることそのものが、霊的成長に結びつき、それは神格化への“道”である。
その点で、低い霊的成長度の人たちは、神や霊を知ることから始まるんやけど、そやけど、そんな程度の霊的成長度の人には、霊的成長のための“行”なんて概念はないやろ。
そやからそれは、人が“上”の思惑を受信し、自分の思想にして、そしてこの世界に活かす。
それが、霊的成長を果たした人の“御用”でもある。それは、恨みの連鎖の霊的干渉の因縁を贖う(あがなう)だけの段階とは、違う進化過程でもある。
そして、高い存在の思惑を受信する仕組みは、先生の言い回しなら“人が宝玉になる”…それは前のブログで詳しく説明した。
それを“日月神示”の表記を引用するなら、“上”を目指す心(靈)の在り方が、ある意味、“身魂掃除”“身魂洗濯”で、それは心(靈)の動き(発振、発信)の“上”と“下”を知ることになり、そして現状より高度な自己観察になっていく(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)。
そして“上”の思惑=高い振動を自分の心(靈)に受信する肉体の仕組みが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。
そやから“行”や“修行”は、そのためにある。
そやけど、霊的成長度に於いて、“行”や“修行”の具体的方法は違う。
それは一言で、程度が違うってことで、進化程度の低い人は、2〜3番目のオーラを大きくすることが必要なので、断食したり、滝行したりする。そして、力んで(りきんで)耐えて、砌(みぎり)のエネルギー=肝=“いきり立つ心(奴と心)”を強くする。
その“上”の“行”は、智性(“一”、1番目のオーラ)の獲得になっていく。
もっとも、今言うた二つの“行”のパターンの間にも何種類もの“行”はあるやろけど、いちいち説明してたらきりがないから言わへんけど、要は、“行”って言うのんは、すべてオーラに反映する。
そして“一二三”のオーラは、心(靈)の動きと霊的成長度を示すものでもある。
そやから“一二三”のオーラのオーラのどの部分の“行”をするのか…それは“上”がよく観察し、その“行”と、その“行”を行う人との霊縁を付ける。
そやからこそ、霊的進化程度の低い人は、長時間の太陽凝視は出来ないし、それ以前に“行”の概念が形骸になってしもてる。
それは、なんでも“行”ごっこになってるってことやし、“行”ごっこになってるのは形骸の宗教の責任でもあるし、ほんでからさっき言うた、たいして“行”をしてない人の認識…ただ受け入れるとか、時期が来れば自分たちはアセンション出来るとか、そのときのために自分たちは、神や霊を意識して、目覚めましょうとか……そんなふうにしか思えないのが、その人の認識の程度の低いことを表してる。
話がそれてしもたやん。本題に戻り、次の文章…この文に出てくる“一人”と“七人”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)やと思える。 以下、“七人”に関して、画像を貼っておきまんねん。
そやから、この文の、
“一人が七人の人に知らせ、その七人が済んだら、次の御用にかからすぞ、”
これは、今言うたとおり、“一”=智性=1番目のオーラの大きさは、天の御目(あめのおめ)でもあり、それは、事象の“創造”の指針でもある。
“一人”は、“一”=智性=1番目のオーラを指し、それに丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)を足した表記、そして“七人”は、画像で示したとおり、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と、それにまた、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)を足した表記でもある。
そやからそれは、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ、“上”の思惑を顕現した世界を創造することが出来ない。
“一”=智性=一般にその基準を持ってへんからこそ、低い心(靈)の動きを自分に許すことになってる。
そやからこの世界は自己奉仕者の世界になるのが当然でんねん。
そやけど程度の低い認識の人がこの文を見れば、なんやしらん、マルチ商法見たいな言い回しにしか聞こえへんやろな。たくさんの人に伝えるのは結構なこと何やけど、この文の表記は“一”と“七”と謳ってある。それに大事な意味を見出さんならんと思うし、ただ、自分の認識をたくさんの人に伝えなさい……なんて、そんな程度のことを、高い存在は言わへんねん。低い心(靈)の発現の人は、信者集めをして、自分の低い功名心と自尊心を満足させる…さっき言うたばかりでんねん。
ほんでから次の文章、
“一聞いたら十知る人でないと、この御用つとまらんぞ、
うらおもて、よく気つけよ、”
この文も、ただ単に、目端(めはし)が利くとか、理解力が高いとかのことを言うてるだけではなく、“一”=智性を、“聞いたら”=受信したなら、胸の磁性“十”が高まる。
それが“知る”=認識として自分の心(靈)に獲得するってことで、そう人でなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を活かした世界の“創造”は出来ない。
ほんでから次の文は、
“因縁の身魂はどんなに苦しくとも勇んで出来る世の元からのお道ぞ。”
これも、さっき説明した、因縁を背負っている人たちがエネルギーを贖う(あがなう)ことにより、因縁の因を“創造”した霊的存在の自省(胸の磁性“十”)の“行”を促す意味で、因縁を背負って苦しんでいる人に対し“どんなに苦しくとも勇んで”…ってことも言うてるけど、もうひとつ、“世の元からのお道ぞ。”って言う言葉にかかってるから、それは、生命(生きる使命=存在理由)の霊的成長、そのための“行”をする人(日止、霊止)のことも言うてる。
そやから今、霊的成長のために、ひそかに“行”やってはる人も居てる。それは、今後=アセンション後の世界の“創造”を担うための霊縁という意味での“因縁の身魂”でもある。
ほんでから次の文、
“七人に知らしたら役員ぞ、
神が命ずるのでない、自分から役員になるのぞと申してあろがな、”
“七人”はさっき言うたとおり、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
それが出来たなら“役員”…アセンション後の世界を創造する資格を“上”から認められたという意味での“役員”って表記でんねん。ほんでから“神が命ずるのでない、自分から”って、敢えて言われてるんやから、自分で自分の認識を変え、そして自分なりの“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていかんと、“役員”=アセンション後の創造を担う資格を持ち得ないって言うてる。
その意味で次の文、
“役員は神のぢきぢきの使ひぞ、神柱ぞ。”
そやから、今、“行”をしてはる人は、“神柱”と呼称されるくらいの霊的成長を果たさんならん。それは今までの“日月神示”の解釈で言うてきた“天意”を受ける=“上”の思惑を自分の認識にする人でもありまんねん。
“上”の思惑を受信する肉体の秘密が、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でんねん。
そやからこそ、形骸の宗教みたいに信者集めしてる程度の低いことしてたら、アカンのやけど、大概、アセンションや“日月神示”や人(日止、霊止)の在り方を説いてる多くのサイトと、本の著者は、心(靈)の発現と心(靈)の動きが低すぎる。
ほんでから、一般にそのことに気が付かんのは、そこに引き寄せられた人たちの心(靈)の発現と心(靈)の動きが低いからでもある。
そやからそれは、同程度の振動の場(フィールド)になってる。そしてそれが、この世界の大多数になってしもてるだけやねん。これはさっき言うたことやけど、敢えてもう一度、言うときまっせ。
ほんでから次の文、
“肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ、”
この文の、“肉体男なら”と“女(おみな)”は、“思惑の顕現”=現象化っていうことやと思える。
そやから、男の役割って言うのんは、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と“力”に現れてる。智性(神性)を顕わすのは、大脳の新皮質=目上(めうえ)の脳やし、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)って言うのんは、智性(神性)由来の使い方をしていかんならん。
そやから“一”=智性由来の“力”の顕現は、男の役割でもある。
それに対し“女”は、人の思想を後世に残す=男の思想を受け継いだ子供を産むという意味がある。
画像をはっておきまんねん。
女の解字
大体…男と女の性そのものが、神の極性でもある。そしてそれは日足(ひたり)と砌(みぎり)でもある。
そして日足と砌(ひたりとみぎり)は“思惑の顕現”=現象化でもある。
さらに、それは、日足(ひたり)から砌(みぎり)に移行する書き方の“一”でもあり、
“創造”の“主(ヌシ)”を示す“一”でもあり、そして、精神性=左が最初になるからこそ“亜”から出る(いづる)という意味で、左から右に筆を動かす書き方の“一”(亜から出ずる、アイ)”でもある。
そやからそれは、良い“創造”は、思いの現象化で、それは、日足(ひたり)があって、そして現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”=砌(みぎり)になっていく。
それを“上”は望んでいるからこそ、今、右往左往=失敗を体験して、自分たちの在り方を思い、その思いは“上”の思惑を受信して、自身の霊的成長に結びつく。
そして、その砌(みぎり)中心の心(靈)による失敗の体験そのものが、自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出し、それは心(靈)の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”でもあり、ほんまの意味での“美”と“醜”でもある。
それらを、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、見極める心(靈)の振動は、“一”=智性=1番目のオーラでもある。そして自分の心(靈)を見極めること、それが“日月神示”内での表記の、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
ほんでから次の文、
“この道 十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。”
この文の“悪魔”が“十(と)りに来る”のは、“この道”=神格化の方向性であるし、そしてこの文章にも、胸の磁性“十”が象徴的に表されてる。
そやからそれは、霊的成長度の低い人は、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしないし、そしてそれは、胸の磁性“十”ゆえの心(靈)の動きでもある“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”をあまり持ってない。
そして“慈悲”と“慈愛”の発現のために、右往左往して左往右往する。
それをさせない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在の思惑は、人(日止、霊止)の心(靈)の動きを貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でいっぱいにするとか、あるいは、低い功名心と自尊心を煽り(あおり)、信者集めをさせたりもする。
それがまた、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもある。結果それは、多くの人の霊的成長を遅らせることになる。
その意味での、信者集め、そんなサイトや本…ほんま、そんな人がこの間うちたくさん目に付いたので、今回は低い心(靈)の発現でもある信者集めってことを、何回も言わせてもらいましてんな。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”下つ巻 第三十二帖 Kellyさん的解釈
原文は以下のとおり、
この道ひろめて金儲けしようとする臣民 沢山に出て来るから、役員気つけて呉れよ、
役員の中にも出て来るぞ、
金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、
生命は国にささげても金は自分のものと頑張ってゐる臣民、気の毒出来るぞ、
何もかも天地へ引き上げぞと知らしてあること近づいて来たぞ、
金かたきの世来たぞ。
八月三日、一二 。
この下つ巻 第三十二帖は、 “太陽凝視を行っている鍼灸師の話” 出版の告知。(前のブログの事です)ち〜となりや〜とかめ(少しだけ久しぶり)の、○○○大先生とKellyさんとの会話でんねん。
でも引用したんやけど、特に、以下の文章の、
“この道ひろめて金儲けしようとする臣民”
“役員の中にも出て来るぞ、”
“金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、”
“金かたきの世来たぞ。”
何回も(通貨としての)金について書かれてる。
そやからそれは、自己奉仕者の心(靈)の発現と心(靈)の動き、それを問題にしている文章でもある。
自分の欲望を満たすための(通貨としての)金でしかないからやねん。
ほんでから、特に先生やKellyさんが言いたいのは、冒頭の文章の、
“この道ひろめて金儲けしようとする臣民 沢山に出て来るから、役員気つけて呉れよ、
役員の中にも出て来るぞ、”
“日月神示”に何回も出て来る表記の“御用”“役員”…これらの表記は、今後の世界の創造を担う人たちを対象にしてる。
そやけど今、アセンションや“日月神示”や霊的成長や、人の在り方や…今後の(アセンション後の)ことを題材にしてるサイト、その程度の低い心(靈)の動きについては今まで何回も言うた。太陽凝視=不食って認識でもそうでんねん。インチキの不食についても過去にバレてまんねん。太陽凝視って言うのんはそんなもんやおまへんねん。何回も言うたことでんねん。
そやからそれは目立ちたい、注目されたい、ディスプレイ(動物の発情行動)でんねん。
その心(靈)の動きそのものが低い霊的成長度でしかなく、仮にその人たちに何か憑依現象が起きてたとしても、とても低い現象でしかない。その人の心(靈)の発現と心(靈)の動きが低いからやねん。そやからハイヤーセルフとか、何とか霊とか何々神とか名のってても、それは低級霊がよく使うパターンでんねん。その人たちの、低い功名心と自尊心を高揚させ、ただ煽る(あおる)だけのメッセージしか伝えてない。
ほんでからその類の本はたくさんあるけれど、ほとんどが印税目当ての出版物でしかない。
そやからそれは、低い憑依現象が起きてる人も、その類の本の著者も出版社も、低い心(靈)の発現の段階の(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)の自己奉仕者でしかなく、自分たちが題材にしていることの重要性とか、その意味と意義とか、ぜんぜん解っていない。
そやからそれは“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)の、なんでも付加価値をつけて商売をして、アセンションや“日月神示”チャネラーに伝えられたメッセージ…その中にはとても意味部会ものがあるけど、結局その貴い情報を、程度の低いものにして行くってことでんねん。
特に霊的成長に関しては、厳しいことを言うてるようでも、それは自分の体験ではなく、何かの引用でしかない文章が多い。いったい誰に書かせてるんやろかって思うやんか。
(このことについては、下つ巻 第二十八帖で言うた。)
特に、アセンションに関しては、前のブログやこのブログでも何回も言うたんやけれども、霊的成長度において分けられる。
“日月神示”でもそのことについて何回も述べられてるやんか。
そやけどほんまは、分けられるって表現は正しくなく、自分たちの心(靈)の成長度と心(靈)の動きにおいて、現津(あきつ)、観察され得る事象は変化する。
それは場(フィールド)の構築と、構築された場(フィールド)と、自分の心(靈)との、感応共振でもある。
そして、それぞれに位置する生命(生きる使命=存在理由)は、霊的成長度においての霊縁によってしか、出会うことはできない。
そやからこそ、自己奉仕者と、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者って表現を何回も今まで言うてきたけど、それぞれを一緒にしておいたなら、それは、良い世界の“創造”にはなって行かんやんか。
そやから、自己奉仕者には自己奉仕者にふさわしい世界がある。
それに対し、自分の心(靈)の中の“善悪”や心(靈)の動きの“上”と“下”を見出し、そして自分の心(靈)に感応共振する霊的存在にも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)があることを知る。
それが“日月神示”の表記の、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
ほんでからその“上”と“下”を見出す基準は、自省(胸の磁性“十”)を果たした人でなければ、獲得できない。
それは胸の磁性“十”をたいして発現してない人は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振がないからでもある。ほんでからそれは、“一”=智性=1番目のオーラに現れるって何回も言うた。
その高い認識=“一”=智性=1番目のオーラを持った人が、次の世界=アセンション後の事象を構築=“創造”する。
それは同時に、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人でもある。
アセンションのもっとも大切な意義はそこにあり、アセンションを題材にして人目を引き印税を稼いでる…そんな本の情報を読んではる人は、その著者とおんなじ程度の心(靈)やからこそ、感応共振するってことを知っといて欲しいもんでんな。
ほんでからこのことは、下つ巻には“役員づら”って表記が何回も出てきてるから、下つ巻の解釈が終わったときに、また、詳しく述べさせてもらいまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
ほんでから余談なんやけど、先日、先生のパソコンが突然不調になり、リカバリーをしたところ、バックアップをとっていなかったファイルはほとんど復元できへんかった。
それで…書きかけやった“続”“改”のファイルも無くなってしもた。
そやから、心(靈)がウジ虫の小心者の先生は、こんなふうに…… 【<~><〜>】…少し落ち込んでしもたんやけど、Kellyさんが活を入れときましてん。
コレッ!! 【<×><×>】☆\J゚`Д´*゚し バシッ…シッカリッセンカイ!!!
…そやけど、消えてしもたワードのファイルも、資料集めからせんならんものもありまんねん。
そやから、またまた、ちょっとの間、このブログも、“改”も、更新が滞りまんねん。
ほんでから先生のdionのアドレスにメールしてくれはった人のアドレスも消えてしもたので、何かの折に空メールで結構やし、“この粗忽者”とでも、送信してくださいでんねん。
ほんでからに、消えてしもた出版原稿のファイルを、わざわざ送っていただいた、たま出版のチョ〜お偉いはんに、この場を借りてお礼を申し上げまんねん。
ありがとさんでした。
【<^>人<^>】J゚^人^゚し
“日月神示”下つ巻 第三十一帖 Kellyさん的解釈
今回も“日月神示”下つ巻 第三十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、
この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、
まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばして呉れよ、
臣民喜べば神も喜ぶぞ、
神喜べば天地光りて来るぞ、
天地光れば富士(二二)晴れるぞ、
富士は晴れたり日本晴れとはこの事ぞ。
このやうな仕組でこの道ひろめて呉れよ、
それが政治ぞ、経済ぞ、真通理(マツリ)ぞ、分りたか。
八月の三日、ひつ九のか三。
冒頭の、
“この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、
まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばして呉れよ、”
この文は、二十九帖と三十帖の文章に掛かる言葉やと思える。
そやからそれは“神の土”=霊的進化した肉体、“八のつく日”=肉体の左右の二つの磁性、日足と砌(ひたりとみぎり)、その両方がないと人は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を顕現出来へん。 “上”の思惑を権限してないからこの世界は腐りきってる。低い心の発現の自己奉仕者の世界になってる。そやから自分がエネルギーを贖って獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑としては、この世界が神格化の方向に向かう心(靈)の動き、それは、自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程とは違う、自己と他者のバランスを考えすべての存在の神格化=(真の意味での)幸福を願い、その為に自分の“力”を顕現する奉仕者の世界を望んでる。
それがこの文の後半、
“何によらん私することならんぞ、
まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばして呉れよ、”…って、言われてる。
ほんでから次の文章は、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の世界、奉仕者の場(フィールド)は、相対的に高い振動を発する。それを強調している文章やと思える。
“臣民喜べば神も喜ぶぞ、
神喜べば天地光りて来るぞ、
天地光れば富士(二二)晴れるぞ、
富士は晴れたり日本晴れとはこの事ぞ。”
“天地光りて来る”…霊的に高い存在は、青方偏移による発光をする。それはフォトンベルトでもそうでんねん。クンダリーニの白光(胸の磁性“十”によるシンクロトロン放射)でもそうでんねん。それを言い表した、現状の自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の世界よりも、高い振動に満ち満ちてくるってことでんねん。
ほんでからそれは“天地光れば富士(二二)晴れるぞ、”…これも“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道って言う意味でんねん。
“富士は晴れたり日本晴れ”に付いては何回も言うたから敢えて説明しませんねん。
ほんでから次の文章、
“このやうな仕組でこの道ひろめて呉れよ、
それが政治ぞ、経済ぞ、真通理(マツリ)ぞ、分りたか。”
今の、自己奉仕者が創造している場(フィールド)、世界に対して、そしてその場(フィールド)で活躍している霊的進化過程が自我の確立=固定化の段階の低い心の発現の人に対して言われてる。
霊的成長が加わった政治経済…今後(アセンション後)、(通貨としての)金なんかなくなるやろけど、政治と経済は、肉体を持った人に対し、生活するのに必要なものでもあるから使われた喩え(たとえ)なんやろけど、大事なのは“真通理(マツリ)”って表記で、これは、真=真固止、○ 九 十(まこと、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、卆=神の最後の仕事(創造)としての九と、霊的成長をして行く過程で発言する胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”)、修理固成、それが通る。
そしてそれは“日月神示”によく出てくる表記の“理(ミチ)”になる。
この“理(ミチ)”って言う字を観ても、“王”と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と“土”=肉体。そして“土”は、2〜3番目のオーラでもある。
肉体がこの世界に対しての自分の心(靈)の顕現でもあり、それは自分の心(靈)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
そやから自分はどんな思惑を持つのか、そしてどんな思惑を顕現して行くのか、それがまた、日足(ひたり)と砌(みぎり)、アからイ、“創造”の“主(ヌシ)”を言い表す意味での“一”の向かって左から右に筆を動かしていく。そこに秘められた意味でもあると思う。
そしてそのアイって言うのんは(神の“思惑の顕現”=現象化でもある被造物としての)人(日止、霊止)の視点から観れば、法則性を感じていくものである。
先生とはなしをし始めた最初の頃、自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の世界は壊滅する。そんな話をした。(ローム太霊との出会い いわゆる悪について 参照)
そやから霊的に進化したなら、自分の“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)に対し、自分がどう扱っていくのか、“どういうつもり”=自分の在り方で、顕現して行くのか、それを考えるようになる。それがまた、ローム太霊さんが言い表した“術”の上の“條”と“法(のり)”でもある。(ローム太霊講話集を参照のこと)
“力”の顕現の仕方、良いカタチの顕現、すべての存在の神格化を願う。そやからそれは、祀り(自分に対し“上”の存在が関わり、その思惑を受信して自分の思想にする)でもなく、祭り(“上”の霊的存在と自分自身が感応共振し、月部(げつぶ、にくづき)と又(手足)=肉体で使っていく)でもなく、真(真固止)=結晶化した骨を持った肉体、高い振動で“身魂磨き”した人(日止、霊止)、それはより高い存在の思惑を顕現するからこそ、“創造”(神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉)の法則性を示す。(“理(ミチ)”)
そやからそれが、下つ巻 第三十一帖の表記の“真通理(マツリ)”であると思える。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”下つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈
今回も“日月神示”下つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、
八のつく日に気つけて呉れよ、
だんだん近づいたから、辛酉(かのととり)はよき日、よき年ぞ。
冬に桜咲いたら気つけて呉れよ。
八月二日、ひつくのかみ。
この文の表記の“八”は、肉体の左右の二つの磁性やと思える。何回も言うたことでんねん。
ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。
そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。そうやって自省(胸の磁性“十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。その意味のことを言うてると思えるな。
ほんでからこの文章の最後の表記はその時期のことを言うてると思える。“冬に桜咲いたら”…冬に桜(そめいよしの)咲く狂い咲きのニュースは昨年暮れにあったやんか。そやから、もう、その時期に入ってまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”下つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈
今回も“日月神示”下つ巻 第二十九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、
神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、
それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。
白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、
薬のお土もあれば喰べられるお土もあるぞ、
神に供へてから頂くのぞ、何事も神からぞ。
八月二日、一二
この文の表記の“土”そして“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”これは、今までの解釈からして“土”=2〜3番目のオーラ、その受発信は肉体の構造に由来する。あるいは、“土”そのものが(物質である)肉体を言い表した表記やと思える。
ほんでからそれは、帯電するミネラルをさすと思える。
ほんでから五行思想では、“白、赤、黄、青、黒”は、肺、心、脾、肝、腎、に相当する。
そやからそれは、肺=“悲しみ”、心=“喜び”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”腎=“恐れ”(本能)…それぞれの心(靈)の動きを指していると思える。その心(靈)の動きそれぞれは、霊的成長のためのものであり、神格化への心の動きを指し示す表記やと思える。
心(靈)の発現は、進化過程の最初は本能から始まり、そやから先生は、前のブログで本能って心(靈)の発現しかしていないミミズ、ヒル、ゴカイ君達のことをよく引用した。
ほんでから本能より“上”の心(靈)の動きは、情動であり、情動と本能がプラスされて低い欲望になり、それは自ら(みずから)が、個を意識する(独り神(ひとりがみ、日取り神))になる過程)ことと同義でもあり、そして自我が発達し、そこから“上”の心(靈)が発現していない人は、自己奉仕者になり…そやからそれは、何回も言うてきた進化過程=霊的成長の過程なんやけど、自我の発達は、その心(靈)の発現=霊的進化過程は、四足獣の領域とも言い得る。
ほんでからその“上”の進化は、直立歩行をし始めた猿、それは直立したことにより、マニピューラチャクラの強化が行われる(腹と腰の筋肉の強化と腰椎に掛かる上半身の体重の負荷、腰椎に掛かる負荷そのものが圧電を引き起こし、椎骨の結晶化を促す)。
そしてもうひとつ、手を使うようになった。それは前足が手の機能を発現する=指先の神経が密になる=胸の磁性“十”の発現でもある。そして手を使うようになって大脳の前頭葉が発達してきているように観察される。
こんな説明では解りにくいやろけど、このことは前に先生が前のブログの、思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)で、一部説明した。
ほんでから今Kellyさんが言うたこの概念は、生命(生きる使命=存在理由)の霊的成長=生物の進化…進化の意味は霊的成長と神格化、ほんでからそれは、神の“思惑の顕現”=現象化でもある。先生はそのことに確信を持ってはる。
そやから、この文の表記の“土”そして“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”に付いて、ちょっと長い説明になってしもたんやけど、今言うたことを踏まえ、この第二十九帖の文章を解釈すれば、
“神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、”
これは一言で言えば、心(靈)の動きが肉体に反映する事を言うてる。“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもある。ほんでから“気血栄衛(營)”の大切な要素である事象の観察による心(靈)の動きは、自分達の心(靈)の動きになるってことでもある。
ほんでから、この下つ巻 第二十九帖の表記では、わざわざ“神の土”って断ってある。何のために“神の土”って言うてるのか、それを考えんならん。そやからそれは次の文章につながっていく。
“それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。”
この文章の表記の“国々”は、“玉(ぎょく)”と(囗)くにがまえやと思える。
人(日止、霊止)の完成された姿、霊的進化を果たした姿を“王”と言う字で示され、そして人(日止、霊止)が、霊的進化して行く心の動きを表現した字が、“玉(ぎょく)”って、先生は前のブログで言うた。そやからこの文の表記の“国々”は、外側の事象の観察で得られる日本とかアメリカとかロシアとかの国って言う意味ではなく、人が神格化して行くための心(靈)の動き=“玉(ぎょく)”に(囗)くにがまえを足した表記やと思える。
そやからこの文章の表記の“ところどころから出るのぞ。”は、さっき説明した、“白、赤、黄、青、黒”は、肺、心、脾、肝、腎、に相当し、それは、肺=“悲しみ”、心=“喜び”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”腎=“恐れ”(本能)…それぞれの心(靈)の動きを指していると思える。
それが次の文、“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”さっき説明したとおりでんねん。
ほんでから次の文章、
“薬のお土もあれば喰べられるお土もあるぞ、”
神格化のための役に立つ心(靈)の動き、それは、心(靈)の動きそのものが事象の観察による肉体内の電磁誘導でもあり、その電磁誘導による生体内電流は帯電するミネラルに蓄積され、骨として固まっていく。その激しいものが、生体内電流の強化が“行と修行”でもある。その結果は、修理固成と真固止でもあり、神格化の方向性として言い表されてることでもある。そやからこの文は、それを言い表した表記と思える。
そやから“薬”=今より“上”に向かうためのこと、今の心(靈)が病んでいるからこそ、神格化の方向性に向いていないからこそ、それは自己奉仕者の心(靈)の発現やからこそ“薬”って称されてる。
そして、肉体と心(靈)で感じ(感じる磁性)、自分の一部になっていく情報を含んでいる“土”=帯電するミネラルやからこそ、“喰べられる”と言い表されてると思える。
ほんでから次の文も、今言うたことを踏まえて読むと、深い意味がある。
“神に供へてから頂くのぞ、何事も神からぞ。”
この文の“神に供へてから頂く”は、自分がエネルギーを贖ったって表記でんねん。
何かの目的のために、欲望や希望や、その目的が程度の高い低いや、善悪はあっても、人は、エネルギーを贖う(あがなう)んやけど、その対象や、その時の自分の在り方=“どういうつもり”で、頑張って(元の気を張って)努力(肝=“怒り、いきり立つ心(奴と心)”で“力”を示し、現象化=現津(あきつ)=観察され得る事象にして行くのか…それそのものが砌(みぎり)の“行”でもある)をして行くのか。
そやから程度の低い心の発現の人は、右往左往から始まり、教訓を獲得し、今後の在り方を思うことができ、その教訓を活かしながらエネルギーを贖い(あがない)、そして事象の“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く=左往右往になる。
そやからそれは神の思惑ってもんが活かされた事象の“創造”になるべきやからこそ、“何事も神からぞ。”って結ばれてると思う。
ほんでから、この、下つ巻 第二十九帖の表記の“神の土”…これに関しては、富士の巻 第十一帖に“神土(かみつち)”って表記がある。そして富士の巻 第十一帖は、同じく第十二帖に続いてる文章でもあるので、その時に再度、今言うたことを踏まえ、もう一度じっくり解釈しまんねん。
ほんでから前に解釈した、上つ巻 第一帖にも、
“このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。”って表記があり、やはり“お土”は、神格化に向かうための肉体の表記やと思える。
(“善(神格化の方向性と智性の受信)” “身魂掃除”“身魂洗濯”=心(靈)の在りようを自分の智性=“一”=智性=1番目のオーラで見極めること)
ほんでから天つ巻第二十帖にも、
“神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、”って表記があるし、そやから“土”って表記は、今後も出てくると思える。そやからKellyさんは、そのたびごとに、“土”=肉体って解釈で読み解いていくつもりでんねん。
ほんでから、この表記そのものが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の選んだ言葉でもあり、一貫した法則性を感じさせる意味深い言葉やと思いまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 出版の告知
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ほんでから先生が、前のブログで、太陽凝視を行っている鍼灸師の話<1>ローム太霊との出会い を通じて、縁が出来た人にお礼を言うてまんねん。
よかったら、そちらも読んでやってくださいでんねん。
以上、パチモンKellyさんからの告知でした。







