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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集”第三十九話  お札と御守りとその効用 Kellyさん的解釈“その四”



 今回も、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

この御守りは、ただ刷っただけのもので拝みもしないのであるから、どうせ効き目はないと思うであろう…中略…持つ人によってはこれが立派に身代りになってくれる…中略…刷っただけでなく、拝み込んだり霊気を入れたりしたものがあれば尚更よいのはいうまでもない…中略…神の御札であろうが仏の像であろうが、凡て祈りの対象となるものは神、仏といって差支えない…中略…それを偶像崇拝などと唱えて貶す馬鹿者もいるが、神が下した八大宗教の中にも名前こそいろいろに違えその対象物が存在しているのは、普通の人間にはそれなしには到底そこまで通ずる力が無い…中略…御札を取り替える時期は十二月で、新しい御札をお祭りしたら、古い分は全部一纏めにして紙に包み紅白の水引をかけ、「有難うございました」と感謝してから、自分の家で焚上するか、神社に持って行って焚上(たきあげ)してもらうか…以下略…

 冒頭の
御守りは、ただ刷っただけのもので拝みもしないのであるから、どうせ効き目はないと思うであろう…中略…持つ人によってはこれが立派に身代りになってくれる
この“持つ人によって”の意味合いは、“役員づら”のインチキなご利益のためにさい銭を放り込んでくる信心ごっこをしている人間のことではないのは当然。
 それは、自分が何のために生きているか求めている、そして自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう活かすべきか考えている、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための真実を求め、そのための“行”やっている人間ならば、“上”は動くものであるしその加護も庇護もあるものであるということ。

 これに関しては第三十六話の以下の文言が解りやすい。

炁の力の無限の所有者である神というものを自分の心の中に据えておけば、そのおかれた神は必ず現世の福をもたらすものと考えてよい…以下略…ただこれを観念することが中々むずかしい…中略…若しそこに大きな力を信ずる燃えるような心が存在するならば、その行為も亦その方向に動いてゆく…以下略…

 この“大きな力を信ずる燃えるような心が存在する”その対象は“炁の力の無限の所有者である神”であり、これを“心の中に据えておけば”ということが説かれているものであるし、この文言を読んだなら自分がどう神と向き合うか考えるべきである。
 また先に述べたように、“役員づら”の手法に乗せられている信心ごっこをしているような人間が大多数であるからこそ“これを観念することが中々むずかしい”と揶揄されていることにも気づくべきである。

 今述べたことを念頭に置いておくならば以下の文言は理解しやすい
神の御札であろうが仏の像であろうが、凡て祈りの対象となるものは神、仏といって差支えない…中略…それを偶像崇拝などと唱えて貶す馬鹿者もいるが、神が下した八大宗教の中にも名前こそいろいろに違えその対象物が存在しているのは、普通の人間にはそれなしには到底そこまで通ずる力が無い

 ことに“普通の人間にはそれなしには到底そこまで通ずる力が無い”、“行”やって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしたならば“通ずる力”=“上”と“感応”しうるのであるが、平均的地球人=“普通の人間”では、その霊的成長度に応じての“上”としか“感応”しないし、平均的地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心であるから、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在と“感応”しやすいので、“通ずる力が無い”と言いうる。
 ちなみに“感応”に関しては“その一”で取り上げた
御札とか像とかが完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると心(しん)から思い込める気持になれてこそ、初めて感応というものが生まれ
この文言の解釈をしっかり読んでいただきたいものである。

 前後するが
刷っただけでなく、拝み込んだり霊気を入れたりしたものがあれば尚更よいのはいうまでもない
これは、“刷っただけ”であっても先の“祈りの対象となる”には違いない。 
 そこで霊的成長度が高い人間が“拝み込んだり霊気を入れたり”すると、その人間の霊的成長度に応じた存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が起きるからこそ、“拝み込んだり霊気を入れたりしたものがあれば尚更よい”のであるが、何の“行”もやっていない、あるいは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿わない“行”ごっこをしている、そして商売になっている既成宗教に携わっている人間、いわゆる“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)がこれを行っても、大した存在とは“感応”しないことを指摘しておくし、それは単に“刷っただけ”、あるいは商売中心の既成宗教関係者が“拝み込んだり霊気を入れたり”のまねごとをしても、たいして“上”ではない存在、また“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在とは“感応”しえないということを厳に指摘しておく。

 最後に述べられている
御札を取り替える時期…以下略…
これに関しては特に解釈の要はない。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集”第三十九話  お札と御守りとその効用 Kellyさん的解釈“その三”



 今回は、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

同じ御札でも、この盗難(とうなん)除(よけ)のように一定の形式と目的とをもって…中略…ただ自分の体に付けているだけで一切の災難を引受けて割れたり灰になったり…中略…俗に御守りと呼ばれるものとではまた大分違う…中略…守り札の場合は、神というより その者を実際に守っている神の眷属とその者の主護霊との合作によるもの…中略…その者の身に危難が起こりかかると、眷属は直ちにこれを主護霊に通じる…中略…主護霊は咄嗟の機智によって当人の身代りとなる副体を造る…中略…それゆえ、この守り札はアンテナのようなもので、災難が迫るとそれを事前に感受して主護霊に知らせ、主護霊が飛んで来て適当に処理する…中略…この凡ての仕事が一秒の何十万分の一、時には百万分の一位の本当の瞬間に行なわれる…中略…この一事を以てしても霊界には時間の無いことが分る…以下略…

 今回取り上げている文言は“御守り”“守り札”が、“体に付けているだけで一切の災難を引受け”、この際に何が起きているのかを説明されておられる。
 これに関しては本文をしっかり読めば理解できるものである。

 そこで大事な事柄は、
その者の身に危難が起こりかかると、眷属は直ちにこれを主護霊に通じ…中略…それゆえ、この守り札はアンテナのようなもの…中略…事前に感受して主護霊に知らせ、主護霊が飛んで来て適当に処理
その際に
当人の身代りとなる副体を造る
ということをして守ってもらっている。

 これらを“現界”にいる人間からすれば
凡ての仕事が一秒の何十万分の一、時には百万分の一位の本当の瞬間に行なわれる
ということが述べられている。
 なぜならば
霊界には時間の無い
と称されている通りであり“霊界”から“現界”を観察した際の相違が述べられている。

 これはすでに解釈が終わった地震の巻にも同様の意味合いの表記があり、例えばそれは第二帖、
“霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである”
第四帖
“地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない”
という表記が解りやすい。

 よって物質世界、物質を“観察と認識”しうる場(フィールド)である“現界”においてのみ“時間”を“観察と認識”しうるものである、ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集”第三十九話  お札と御守りとその効用 Kellyさん的解釈“その二”



 今回は、先回取り上げた文言を含めた以下の文言を解釈する。

御札とか像とかが完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると心(しん)から思い込める気持になれてこそ、初めて感応というものが生まれ…中略…これらは一定の場所に祭ってある御札のことを言っているのであるが、家の柱や戸口などに貼ってあるものはまた大分違う…中略…御札をただ貼っておく場合にしても、その神の波動がそこにくることに変わりはないが、例えば、三峯大神の御札を入口に貼っておくと何故(なぜ)泥棒避(よ)けになるか…中略…三峯の眷属が恐ろしいというだけでなく、御札にはそれぞれの故事来歴があり泥棒には泥棒の仁義があって、三峯の御札を見ると必ず掴まるとか後で悪いことが起こるとか言い伝えられて…中略…駆出しの者ならいざ知らず、年季を入れた泥棒はその御札のある家には入いらない…中略…その裏を探ってみると、三峯の眷属は確かに物凄い連中…中略…実際にその者を嗅ぎ出して縛りあげてしまう…中略…この三峯の本来の力は、盗難だけでなく落し物忘れ物などのないように守って下さる神であるから、これを常に拝んでいれば、そういう災難が避けられるのは当然…以下略…

 今回取り上げている文言は“三峯大神”のことと、先回取り上げた“感応”、この二点が要旨である。

 自分が、第三十九話の副題の「お札と御守りとその効用」を求めるならば、
完全に自分の祈りの対象となる
本物自身であると心(しん)から思い込める気持
があってこそ“初めて感応というものが生まれ”と称されていることをよく承知しておかねばならない。
 そして今回取り上げている文言中の
御札をただ貼っておく場合にしても、その神の波動がそこにくることに変わりはない
これもよく承知しておかねばならないことである。

 それで、たった今の神社仏閣、またそこで手に入れられる御札や御守りなどはさい銭集めのインチキな御利益ばかりを強調しており、こういったこと自体が“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の所業であり、また既成宗教の信者もどきも、単に薄っぺらいご利益を求めるだけの人間が多く、これは神に対する認識が低すぎるからこそ“役員づら”の金集めのかもとなっている。
 あえて述べるまでもないことではあるが、そんなものは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との“感応”ではないことを指摘しておく。

 また、自分が何を息吹くのか、何のために息吹くのか、換言すれば何を祈るか、であるが、これを自分自身がしっかり見極めることが必須であり、その祈りに応じて祈る対象は、なんでもよいわけではない。 その祈りに応じた対象の選択が必須なのだが、大概の人間はそこまでのことを考えて神社仏閣や御札に祈ったりはしない。 単に自分にとって都合の良いことばかりを息吹いているだけの人間が多いし、神社仏閣や御札に対し“本物自身であると心(しん)から思い込める気持”を持っている人間はほとんどいないものと見受けられることを指摘しておく。

 それで“三峯大神”の件に関しては、特に解釈の要もないので、しっかり読んでいただき理解していただきたい。

 今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“ローム太霊講話集”第三十九話  お札と御守りとその効用 Kellyさん的解釈“その一”



 今回から第三十九話の解釈に入る。 まず冒頭で述べられている以下の文言について解釈を述べる。

御札(おふだ)のことについて少し話そうと…中略…昔から神棚に御札や神の像を祭るが、これはそこが神の下(お)りて来られる場所と思えばよい…中略…御札に天照皇大神宮と書いてあれば、その神の波動がそこに来て、その神がそこにおられると同じような働きをする…中略…どの御札も同じことで、神が一度下(くだ)られると、それに神光とか霊光とか幽体の幽光というような光が付いて…中略…この光の相違(ちがい)はそこに祭られている神の資格による…中略…人間がそのものを本当にその神であると信じ込むようになれば、そこに神と人との交流が行なわれる…中略…普段手を合わせないお宮の中には何もないが、毎日拝んでいる御札には神光か霊光か幽光かの波動が充満していて、そこに神在(いま)すと言うことが出来る…中略…その御札が変る毎にその祈りの言葉も変るのは当然…中略…御札とか像とかが完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると心(しん)から思い込める気持になれてこそ、初めて感応というものが生まれ…以下略…

 今回取り上げている文言の要旨は文末の
初めて感応というものが生まれ
である。 

 ○○○大先生の著書でもこのブログでも感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)ということを述べているが、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)や“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の影響を受けることであり、“感応”が起きる条件は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。

 それで、息吹に関して太霊は
御札とか像とかが完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると心(しん)から思い込める気持になれてこそ
この“本物自身であると心(しん)から思い込める気持
もう一つ、中ほどの文言の
人間がそのものを本当にその神であると信じ込むようになれば、そこに神と人との交流が行なわれる
こういう心(靈)になれよ、それ由来の息吹が“感応”の秘訣であると説いておられる。

 そして“感応”を解りやすく説明するために太霊は、
神の下(お)りて来られる場所と思えばよい
神の波動がそこに来て、その神がそこにおられると同じような働きをする
と述べておられる。
 これも息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)あってこそ、ということであり、それを解りやすくするために
普段手を合わせないお宮の中には何もないが
と述べておられることに気づくべき。

 そして
神が一度下(くだ)られると、それに神光とか霊光とか幽体の幽光というような光が付いて…中略…この光の相違(ちがい)はそこに祭られている神の資格による
この“神の資格”とは一言でいえば、どれくらい“上”か、それには霊的成長度の高低があることを述べておられる。

 なぜこれを述べておられるのか、それは、祈る方である自分がどの霊的成長度の神と“感応”するのかについて考えるべき要素があり、それは、自分の人生の局面、どんな生き方をしているのか、たった今の自分がどれくらいの霊的成長度に当たるか、その具体的な事柄として少し例を挙げれば、低い生業(なりわい)の“行”を頑張り金儲けにいそしむ、そして目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望の達成を望む、こういった人間は多い。 
 それは霊的成長度が低いのであるのだが、これも努力にはちがいないのであり、その段階の人間にとっての“行”であると言えるし、欲望の達成のために神に祈るものである。 
 これに相対し、自分と神との関係を考え、自分の生き方を求めてその真実を求めるために“行”やっている人間、この両者に“感応”する存在には“相違(ちがい)”があるのが当然のことである。
 こういった人間の心(靈)の動きの要素、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、心(靈)の動きの要素によって息吹には相違があり、その息吹に“感応”する神にも“光の相違(ちがい)”があることを示唆している文言である。

 また、今述べた心(靈)の動きの違いがあるから、自分が金儲け主体の人生から一段ステップアップして、自分の人生の在り方を求めるようになったならば、
祈りの言葉も変る
のであり、違う段階の人生を歩むようになったことを
その御札が変る毎
と示しておられることを、この文言から読み取れる。

 これらの事柄を念頭に置いて
神が一度下(くだ)られると、それに神光とか霊光とか幽体の幽光というような光が付いて…中略…光の相違(ちがい)はそこに祭られている神の資格による
という文言を再度見ると、意味が解りやすいのではないか、と思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集”第三十八話  黴菌とその予防の法 Kellyさん的解釈 三十八話の総括

 
 第三十八話は副題の「黴菌」について、以下のことが述べられている。
  •  “黴菌(ばいきん)がある…中略…妖精を司っておられる神が、人間に一つの対抗物を与える”
  •  “妖精を司っておられる神が、人間に一つの対抗物を与えると同時に、黴菌の力がどれほど立派に人間に対して活躍出来るかを試される”
  •  “一度罹れば注射をしたように免疫…中略…恵みがある…中略…これらの黴菌が後々まで利益をもたらす…中略…人間に分らない病気が出た場合など、その黴菌の繁殖する力によってそれを癒すための原料となるもの、例えば抗毒素のようなものが造られる…中略…黴菌の散布ということも決して無駄ではない”

 そして「予防の法」として以下のことを述べておられる。
  •  “病室の四隅に塩盛り…中略…妖精というものは隅にかたまる性質を持って…中略…塩の気によって溶け
  •  “人間の多く集まる劇場や特に病院の溜りなど…中略…そういう場所に行くと、どうしても自分のきれいな体に沢山の霊を付けてくることになる…中略…それを少なくするために汝等は日々の鍛錬をしている…中略…その力がついてくると自分の体から出る光でそれらを燃やすことが出来
  •  “病人の家に呪文の紙を貼る…中略…その呪文の中に祭られている神がその悪霊共を退散させ粉々にして下さる
  •  “病院や葬式に行く時には、左の手を親指を中に入れて握っていれば悪霊は寄り付かない
  •  “感冒(かぜ)をひきそうな時には、神棚の前で祓(はらい)戸(ど)四柱(よはしら)の大神によって祓ってもらう
  •  “塩の入いった小さい袋を袂に入れておいて済んでから川に流せば
  •  “これらは一般の簡単な方法であるが、流行性感冒のような強いものになるとやはり形代(かたしろ)を使うことが必要

 上記の事柄以外に、太霊は重要なことを述べておられる。
  •  “ところがそれとは反対に、人間が余りに怠惰になり驕慢になり地球のために働かなくなって、神自身がその発展によくないと考えられると…中略…こういう地球の局部的な大掃除は時々行われている…中略…宇宙では、毎日数えきれないほどの星がつぶされごみとなって撒(ま)き散らされ…中略…中にはこの地球より数倍大きいものも沢山ある…以下略…

 この“神自身がその発展によくないと考えられる”が理由となり、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)があるのだと読み取るべきであり、自分たちの在り方を示している重要な文言である。

 もう一つ、太霊は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)について以下のように述べておられる。
  •  “自分のきれいな体に沢山の霊を付けてくる…中略…それを少なくするために汝等は日々の鍛錬をしている…中略…その力がついてくると自分の体から出る光でそれらを燃やすことが出来
 これは“鍛錬”によって派生する生体内電流による肉体組織の結晶化であり、磁束の強化になるから自分の心(靈)が全うであるならば、“上”は援護や助力をするが、その結果を“体から出る光”という表記で示しておられる。
 それと
  •  “真の鍛錬さえしていれば何の心配もない
この“真の鍛錬”の“”については、このカテゴリー全体をよく読んで理解していただきたいし、その理解は認識(悟り、幸取=さとり)となり、その認識由来の息吹ならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応することを読み取るべきである。
 そうすれば先の
その力がついてくると自分の体から出る光でそれらを燃やすことが出来
となる。
 しかしながら
人間にはどうしても隙(すき)があって完全とは言えないから、結局は常なる信仰によって神に守ってもらうより方法はない
この“隙(すき)(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き)があって完全とは言えない”という太霊の指摘を受け止め、自分に対する自戒というものを確立せねばならない。
 またこれが“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)の一環であることを述べておく。

 次回のこのカテゴリーでは、第三十九話 お札と御守りとその効用 これに入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第三十八話  黴菌とその予防の法 Kellyさん的解釈“その三”



 
 今回も、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

次に病人の家に呪文の紙を貼るのがよい…中略…その呪文の中に祭られている神がその悪霊共を退散させ粉々にして下さる…中略…病院や葬式に行く時には、左の手を親指を中に入れて握っていれば悪霊は寄り付かない…中略…感冒(かぜ)をひきそうな時には、神棚の前で祓(はらい)戸(ど)四柱(よはしら)の大神によって祓ってもらう…中略…塩の入いった小さい袋を袂に入れておいて済んでから川に流せば…中略…これらは一般の簡単な方法であるが、流行性感冒のような強いものになるとやはり形代(かたしろ)を使うことが必要…中略…その様式やそこに書く呪文はその年の黴菌の種類によって違ってくるから、その都度教えるより仕方がない…中略…感冒というものも未然に防げるのであるが、真の鍛錬さえしていれば何の心配もないとは言うものの、人間にはどうしても隙(すき)があって完全とは言えないから、結局は常なる信仰によって神に守ってもらうより方法はない…以下略…

 冒頭の
病人の家に呪文の紙を貼る”これは“呪文の中に祭られている神がその悪霊共を退散させ粉々にし
これは“呪文の中に祭られている神”による振動、その効果であるが、これを期待するには今回取り上げている文言の文末の“常なる信仰”ということをしっかり考えなければならない。

 次の
病院や葬式に行く時には、左の手を親指を中に入れて握っていれば悪霊は寄り付かない
これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との約束事である。

 次の
感冒(かぜ)をひきそうな時には、神棚の前で祓(はらい)戸(ど)四柱(よはしら)の大神によって祓ってもらう…中略…塩の入いった小さい袋を袂に入れておいて済んでから川に流せば…中略…これらは一般の簡単な方法であるが、流行性感冒のような強いものになるとやはり形代(かたしろ)を使うことが必要…中略…その様式やそこに書く呪文はその年の黴菌の種類によって違ってくるから、その都度教えるより仕方がない…中略…感冒というものも未然に防げる
これについては解釈の要はない。
 ただし“その一”で取り上げた
妖精を司っておられる神が、人間に一つの対抗物を与える
ということをよく承知して、その認識で、“感冒(かぜ)”というものを解っておかねばならない。

 大事なのは
真の鍛錬さえしていれば何の心配もない
この“真の鍛錬”は先回取り上げた“その力がついてくると自分の体から出る光でそれらを燃やすことが出来”ではあるのだが、これに続く
人間にはどうしても隙(すき)があって完全とは言えないから、結局は常なる信仰によって神に守ってもらうより方法はない
自分たちは不完全である、そしてこの世界は恨みの連鎖による悪霊だらけである、常にその影響を受ける要素が、人間の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きにはあるから、“隙(すき)があって完全とは言えない”と指摘されていることに気づくべきである。 
 それゆえ“常なる信仰”、常に“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する息吹きをせよ、と述べておられるものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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 Kelly & ○○○大先生

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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