“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

日月神示” 風の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり。 世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ。 
この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。 世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ。 金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ。 この巻かチの巻。
ひつくのか三、二月十六日。

 冒頭の文。
“新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり。 世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ”

 先回も述べたが、神と人間、“上”と“下”、“上”の介入、これが何を“下”である人間に指し示すのか、それはたった今の事象は“下”(低い心(靈))である人間の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”で腐った事象になっており、その息吹している人間の自己責任、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉を受けているが、それに気づかない人間が圧倒的多数、これはもうどうしようもない事態である。 
言うまでもなくほとんどの人間の神に対する認識は低く、神を意識していくならば自分はどう生き、どう在るべきか、など考えたことのない人間、これは霊的成長度の低さを示し、事象の観察に対しても大して意味を見出さない、○○○大先生は著書で「すべての事象は自分の在り方を示す」と述べたが、この文言の意味合いを理解できる人間はほとんどいないだろう…というのが現状。
 だが今後=アセンション後は、今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人間だけになり、そこにおける常識とか既成概念は神と人間ということを鑑みた人間だけであるから、だからこそ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方や、自分の生き方、在り方、自我を諌め(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となり“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とする人間だけになっていくならば、これ自体が神の思惑の顕現であり、そこには“神の咎め”はもう必要でなくなるので、それを“新しき世とは神なき世なりけり”と称され、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人間は“人(が)神となる世にてありけり”であり、これが生命(生きる使命=存在理由)としての人間のまっとうな姿、それは神格化の方向性でしかないので、“世界中 人に任せて神々は楽隠居なり”であり、先回の第十三帖の、“神いらん世にいたして呉れ”、これと同義でもあり、同じく第十三帖の“善一筋”、いずれは“絶対の善”の顕現ということになっていくが、そうなったならば重複するが“上”の介入は不要、人間自体が神の思惑の顕現を果たすからそれを“人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ”と称されている。

 次の文。
“この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。 世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ。 金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ”

 文頭の“この世の頭(かしら)いたして居る者”、これはたった今の腐った事象において形骸の権威を示している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のトップに相当する人間に対する言い回し、こういった人間は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”に至るには、相当“神の咎め”を受けなければならないとは思うが、艮(うしとら)の金神は多くの人間を次の事象に移行させたい思いがあるからこそ、こういった言い回しをしていると思うし、この文言を読んで理解したならば、このトップに相当する人間の低さを解り、反面教師として自分の在り方を考えるべきであり、たった今の事象はこういった人間が権力をふるっているからこそ“下の苦労いたすが長うなる”と称されていることに気付くべき。 またこういった人間に対し“神の咎め”を与え、これは先に述べた上の介入であり、人間に人間の在り方を示唆するためのことであるが、これに関して“此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか”とまで言われている。
 これに続く“世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ”の“この方”は、
第一帖の“ 風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ”の“風 第一 (王の世ローレンツ力)   (おう)”に相当し、

風の巻 第一(おう、をう、わう、ローレンツ力) 

これは、太陽の象形文字と|(たてぼう、こん)で構成された表記だが、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしてその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で事象の“創造”をしていく、そういった人間を指すものであり、今後=アセンション後の事象の人間の指標たるものとなれ、の意味合いで“世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下され”と言われている。
 これに続く“金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ”、これはたった今の人間の価値基準を揶揄した言い回し、金だろうが銀だろうが銅だろうが鉄だろうが鉛だろうが、たった今の人間はその価値を金額で判断するが、それぞれ種類が違うだけであり、それぞれに価値があるので、その低い認識由来の価値基準は間違っているのだと示唆した言い回しであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思う価値基準は(通貨としての)金と権力由来のことが多いが、今後=アセンション後は(通貨としての)金の無い事象になるし、そうなったならば自分の利益のために“力”を示す程度の低い人間はいない、形骸の権力を示す馬鹿者もいないものであり、それだからそこには(通貨としての)金という報酬はなく、一切の事象において、まっとうな“力”を示す、行使する、そうしていくならばまっとうなものが返って来る、ということを示しており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値基準、既成概念や常識はてんで低い認識なのだ、と言われていることに気付くべき。
 
 最後の文。
“この巻かチの巻”

このひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“か”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
の意があるが、これを人間側から観たなら、という意味合い。 そして、
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
であるので、“かチ”とは、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)の“力”を事象に顕現していく、事象の“創造”をしていく、ただしそれは今後=アセンション後において、まっとうなものであるし、たった今がまっとうではない、だから“かチ”(勝ち、価値)ではないのだ、ということを暗に示しているものと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



日月神示” 風の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、風の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。 人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。 肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。
今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。 このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ。
和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。 一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。 神いらん世にいたして呉れよ。
二月の十六日、ひつくか三。

 この第十三帖は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観や幸福感、既成概念、それが低すぎる、よって認識を改めよ、そうしなければ次の段階に移行しえないのだというのが要旨である。

 これを踏まえて冒頭の文。
“楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。 人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。 肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ”

 文頭の“楽してよい御用しよう”、こんなことを思うこと事態がどうかしているとは思うが、これが一般の人間の当り前なので、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を観させる手法は横行しているものであるし、ご利益を強調して金をとる“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))も台頭しているのがこの事象。 また“役員づら”に限らず、今、金をたくさん集めて持っている人間、政治家だろうが商売人だろうがこれらは無知な人間をだましている、それはローム太霊講話集第五十七話の“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”でもあるし、それはまた程度の低い存在との感応、自分と感応する存在が同じような心(靈)しか持っていない=“悪の守護神に使はれてゐる”である。
 だがそんなことはいつまでも“上”は許しておかないものであり、先回も述べたようにたった今「馬脚を現す」人間は多い。
 それで、今後=アセンション後の事象は、自分が誠実に何かを為そうとしたことに対してその結果が出る、まっとうな事をすればまっとうな事象に遭遇する。
 これに相対し不誠実な人間は(通貨としての)金と形骸の名誉、本能由来の欲望の満足くらいしか得られず、結果としてその人の一生は霊的成長度が低いまま死に至る。 死に至ってから自省(胸の磁性“十”)しても次の段階に移行しえない、移行出来得る資質というものがないといいうる。
 上記の二つの結果、人間がやることはこの二つしかないが、これは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対する“正当な報酬”である。
 これに続く“人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ”、これは自我の肥大した人間の縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)による国家間の戦争も含め、自分さえよければよいという思いがあるからこそ他者を殺そうと思う、これ事態が点で霊的成長度が低い、奪い合い、保身、これらは霊的成長度の低い心(靈)の発想であり必ず殺し合いになるもので、殺し合いをもくろんでいる“悪の守護神”は、恨みの連鎖の霊的干渉の増大で人間を滅ぼそうとしているものであることを幾度となく述べてきたし、この文に続く“肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ。いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ”とは、先の“人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふ”この恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を示している。
 これに関して、平成二十七年10月12日の○○○大先生の読者会で行ったディスカッション、そのまとめが解りやすいので以下にコピペしておく

 テーマ 
 アメリカで多発する銃乱射には、どういった霊的干渉があるのか

 これは、アメリカが戦争でたくさんの人間を殺してきたからであるといえます。 
 正確な数字はわかりませんが、戦後、アメリカが関与した数多くの戦争、朝鮮戦争、パナマ侵略、ベトナム戦争、ドミニカ共和国侵攻、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、レバノン空爆、リビア空爆、ニカラグア侵攻、パナマ侵攻、イラク湾岸戦争、ソマリア侵攻、ハイチ侵攻、スーダン空爆、アフガニスタン空爆、侵攻、コソボ侵攻、リベリア侵攻、イラク侵攻、ハイチ侵攻、これらでアメリカが殺戮した人数の合計は1000万人以上で、その内の九割が民間人だそうです。
 当然のことながら殺された人間は殺した人間を恨む、これはローム太霊講話集の第十話が解りやすいです。
何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである。
 それで、銃乱射の実行犯が、自我の肥大をしていて、自我の確立=固定化の進化過程であるから憑依現象が起きやすい、という要因があり、当然のことながら自分に起きている憑依による殺意を自分で諌める心(靈)の発現が弱いからであるといえます。
 余談ですがもうひとつ、ローム太霊が述べた“その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う”こととして、戦争から帰還した人の自殺が増えていることもアメリカでは報道されており、これはアメリカだけではなく日本の自衛隊でも同じことが起きています。
 どんどん悪の霊団に加担する霊を増やしているということになります。

 次の文。
“今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。 このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ”

 “今迄のやり方”は先に述べたとおり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観や幸福感や既成概念、低い思想と低い行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のことで、今後=アセンション後はこれも先に述べたとおりまっとうな事をすればまっとうな結果としてまっとうな事象に遭遇し、これは自分のまっとうさに対する“正当な報酬”である。 これを為すため岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の発現と強化をする、これ自体が現地球人の霊的成長度より“上”であるし、この例的成長度の心(靈)は奪い合う心(靈)を諌め、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者だけになっていく。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い心(靈)、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、こういったことをする人間がいなくなるのが文中の“善一筋”の第一歩であるが、“善”はいずれ“絶対の善”という認識になり、それが顕現した事象になっていくのが高い事象と言いうる。
 文末の“与へる政治で見事建替”は、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の台頭を指し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で構成されているたった今の政治を揶揄した言い回しである。

 次の文。
“和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。 一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。 神いらん世にいたして呉れよ”

 ここまでの解釈をお読みになり理解できたならあえて解釈の必要の無い文であるが、“和合”は、奪い合いや保身、殺し合いに相対した言い回し、“一家揃ふたら”“一国そろたら”も同義、そうなったならば“上”が認め“上”が援護する、それを“どんなおかげでもやる”“どんな神徳でもやる”、先に述べたように自分の心(靈)が育ち、自我を諌めて(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となり、まっとうな心(靈)と行動でまっとうな結果を“正当な報酬”として得ることを“おのづから頂ける”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していったなら当然の事象であり、これに相対してたった今の事象は腐った心(靈)が腐った息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で腐った事象を創造している、だから“上”の介入があるものだが、こんな風でなくなったならば“上”は介入しなくてもよい、という意味合いで“神いらん世にいたして呉れ”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



日月神示” 風の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 



今回も、風の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。 よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。
神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。 改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。 この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。 実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。 五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ。 慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ。
二月十六日、ひつ九のか三。

 冒頭の文。
“日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。 よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ”

そのまま読んでも意味は通じる。 だが、風の巻 (カ千の○キ) の“カ千”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”(シンクロトロン放射)
なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした生命は神の思惑を顕現するがその際の発振、発信は胸の磁性“十”と頭のシンクロトロン、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、その“○キ”は、その心(靈)、霊○と、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、進化した生命の事象の“創造”、“上”と感応しながら現津(あきつ)、観察され得る事象を顕現していくの意がある。

これを考えるから次のような解釈をする。
まず“日本の人民”は日本人だけという意味合いではなく、日は太陽、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで霊的成長を目指す人間、あるいはそれをさせようとしている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在を含む、本は“本津宮”(もとつみや)のそれ、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)とそれを強調する下の横棒━(よこぼう、水平磁場)、艮(うしとら)の金神を名のる霊団は、最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯がある。
それで“日”“本”を観るならばこの二つの要素、太陽凝視=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みと、自省(胸の磁性“十”)の“行”、これを教えるために艮(うしとら)の金神は“日月神示”を書かせ、多くの人間の霊的成長をもくろんだと言いうる。
だが、太陽凝視に関しては長時間の太陽凝視をさせたくない存在が不食云々などのご利益を強調してそれを求めさせている。 確かに食事をしないで“行”をするという方法や段階はあり得る。
だが、長時間の太陽凝視、例えば○○○大先生は真夏に十時間以上太陽凝視をすることが多々あるが、食わないで長時間の太陽凝視をしたならば、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)の妨げになることを以前このブログで述べたし、この意のことをS会=紫光会の交霊会でも聞き及んでいる。 真摯に太陽凝視を行い、その意味を追求しようとしている人はこれを参考にされたらよいし、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)のような存在は、人に飛躍的な霊的成長をさせたくないので、不食やダイエット、はては超人になるなどという間違った情報を流布させているものであるが、それを“餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか”から感じ取れるものである。
これに続く“よほどしっかりと腹帯締めおいて下され”は、腹の心(靈)、自我、自我が肥大した人間ほどご利益に引っかかりやすい、だから自我の肥大を諌めよの意であり、また、腹のエネルギーは左回転して大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)、“慈悲”と“慈愛”、こういった心(靈)になっていくことを示している(これは○○○大先生の未刊行の著書、<7>で述べられている)、その意味合いで腹のエネルギーを“締めおいて”と称されている。

次の文。
“神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。 改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。 この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ”

 最初の“神には何もかも仕組てある”は、霊的成長度の高低における区分け、アセンションそのものが神の計画であることを指している。 
これに続く“改心出来ねば気の毒にするより方法ない”は、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、これらすべて“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、これが出来なければたった今の平均的地球人の霊的成長度(自我の確立=固定化、自我の肥大)より上に行けないからであるし、“待てるだけ待ってゐる”は、艮(うしとら)の金神が先に述べた“日”“本”、これを教え多くの“人民”が次の段階に移行しうる資質を獲得する、これをもくろんでいるからこういう言い方をされるものである。
これに続く“月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護”これは“月”が砌(みぎり)、“日”が日足(ひたり)であり、砌(みぎり)の極性、自分の思惑を事象へ顕現、それは自我という心(靈)がなければならないが、これを)に関して“月の大神様が水の御守護”と称し、“日の大神様が火の御守護” これと同じ表記が
雨の巻 第三帖にあるので解釈とともに以下にコピペしておく。

“天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
これは“上”=“天から”“ミロク”、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を顕現した生命、の意、を示した言葉であるが、それが“みづの御守護遊ばすなり”、この“みづ”は、稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)のことであると思える。 
 そして“日の大神様は火の御守護なさるなり”=太陽からの振動は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と点二つ(回転を示す)で構成された“火”は、自らのローレンツ力
ローレンツ力 で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め肉体が持つ円形加速粒子機の構造で“一二三”のオーラを発振、発信して事象の“創造”をする、それが“火の御守護なさるなり”であるし、ここまでの、進化の仕組み、進化の理由と根拠、生命の存在の意義と意味、生命と“創造”の“主(ヌシ)”の関係、これらを“日月神示”で幾度となく述べられ、それをみずからのにんしきとせよ、という意味合いで“此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らん”と称され、この“判らん”に当たるのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)である。

 なお、日足と砌(ひたりとみぎり)については、
天つ巻 第三十帖を読んでいただき参考にされたい。

“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ…中略…火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ”
この“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ”って言われているとおり、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、これは、肉体の腹と胸であり、心(靈)の動きとしては、自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”を発現していく様子を言い表しているって解釈をした。
そしてそれは、愛(炁)の顕現の順番でもあるし、地球人の心(靈)の変容は、今後=アセンション後にむけて、こうあるべきだからこそいろんな宗教で、たとえば汝の隣人を愛せよとか“慈悲”と“慈愛”を説いたと思われ、それぞれ言葉が違うだけで、それは結局、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度、“日月神示”なら腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、その“上”が、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”ってことになる。
そして自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の発現にいたるには、どんな霊的存在が憑依して通信を送るのかが大事であるし、それは言うまでもなく“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がかからねばならないからこそ“いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐる”って言われている。
 ほんでから“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)がかかれば、それは自我の肥大になり、心(靈)の動きは脾=“思う、憂う”から肝=“いきり立つ心(奴と心)”になり、それは“上”から見たならば右回りの回転になる。

 
 それでこれに続く“お土つくり固めたのは、大国常立の大神様”、この“お土”は肉体のこと、“大国常立”は、大が人間が手足を広げた様、“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す、それが常に立つ、これは平均的地球人より上の霊的成長度を指す意味合いである。
 よって“この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ”、肉体を持った心(靈)、そして日足と砌(ひたりとみぎり)、ことにここで述べられている日足と砌(ひたりとみぎり)は霊的成長の法則性、カテゴリーが違うがローム太霊講話集解釈で述べた“法(のり)”進化に伴う絶対の法則性、これが現地球人の場合、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の“行”、こういった心(靈)になっていくことを示し、これをしなければ“此の世、くにゃくにゃ”、これは先に解釈した“餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか”と併せて考えていただきたいものである。

 次の文。
“実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。 五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。 出来ねばお出直しぞ。 慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ”

 “実地”は、“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションに伴う事象、その後、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のいない世界、これを示すためたった今の事象はやってきたことの結果、ことに程度の低い人間が行ってきたこと、それは「馬脚を現す」、これは言うまでもなく、本性をあらわす、ボロを出すの意であるが、これまでうまく人をごまかして漁夫の利を得てきた人間が神の思惑通りではないからこそ“神の咎め”を受けるものであり、こういった事例は年年歳歳、馬鹿らしいと思えるほど増えているものである。 こういったことを観て何を思うべきか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いは欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかであり、それは神の思惑通りではないからこそ“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)するが、そんなレベルでは次の事象に移行する資質などないのであり、低い心の動きの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を観たならばそれを反面教師として自分を諌めるべき、その意味合いで“実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さす”、これは程度の低い人間の批判ではなく、自分たちも自我を持っているから自分の在り方を間違えるとこうなってしまうのだ、ということを知れ、自我の肥大を諌めよ、の意味合いである。
 これに続く“五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさす”、これは年齢のことも言っている、ある程度の年齢になったら分別を持て、自分の低い心(靈)くらい諌められるようになれ、でもあるが、“五”は糸巻の象形文字、進化した生物は神経が密になりそれ由来のローレンツ力の強化があるからこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を下等な生物よりも取り込むことが出来得るのであり、“十”は人間が持っている胸の磁性“十”であり、“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)であるし、“六”は爻部(こうぶ)、交わるの意味であり、これは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成された文字であるので、生物として進化してきた人間、“日止、霊止”(“上”からの振動を止める意)のことを指した表記であり、これに続く“いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさす”の“いろは”と“一二三(ひふみ)”は、ここまでの“日月神示”に幾たびか登場しているが、“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、これも含めて“いろは”に関しては、
キの巻 第十一帖が解りやすいので以下にコピペしておく。


“皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか”

“唱えさせよ”は、受発信のこと、“五柱”の五は糸巻の象形文字、神経が密になった様、コイル線の巻数が多い様子、磁場の強化で、
(“慈(しげる)”の意味でもあり、心(靈)(ヒ)が“慈(しげる)”ならば、“慈悲”と“慈愛”、すべての事象を慈しみ悲しみ慈しみ愛しむ(いつくしみかなしみいつくしみいつくしむ)ということになる)
磁場の強化があってこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めて加速して発信するの意。
(それがまた“畐”の意味でもある)
(“畐”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記“一”を吸収する、取り込む意の口、そしてそれは頭で高い振動を止めるから、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の表記がされている)

 そして“八柱”は、人が持つ“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことを指し、“十柱”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)のこと、シンクロトロンの構造を指す。
 そして“五十連(いつら)ぞ”の、“五”と“十”は先に述べたことを強調するものであり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”という意味合いのことでもある。
 そして進化した生命が成すこと、それが“意露波(いろは)”で、“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、

雨の象形文字 解字 

そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されているものである。


 また、
松の巻 第十帖でも“今度はいろはの世に戻す”の表記があり、その際に以下のように解釈した
 
この“いろは”は、ひらがな表記なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の目線による“観察と認識”であり、“イ”“ロ”“ハ”それぞれの意味は、
“イ”は、生気生命の発生力
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)
“ハ”は、生命発現成長の音義
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命(生きる使命=存在理由)を“創造”し、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であるが、たった今はそうではなく=人間と神の関係性などを感じうる事象ではないので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍する事象なので、“今度はいろはの世に戻す”、今後=アセンション後は違ってくるのだという意味合いである。


 これに続く“出来ねばお出直しぞ”は、次の事象に抗する資質を持ちえないならば、今の奪い合いの地球のような星で出直せよ、であり、“慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ”、これは、自我の肥大による勘違い、アセンションにご利益しか求めない、時期が来ればアセンション出来て皆幸せになれる、など、こんなバカげた勘違いをしている人間は多すぎるので“慢心、早合点 大怪我のもと”であり、これに続く“今の人民、血が走り過ぎてゐる”、これは、血の気が多い、詳細を観ずに物事に入れ込んでいる、そして興奮しやすい、あるいはすぐ激昂する、いわゆる低い情動中心の心(靈)のダメな点の指摘であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間は“ほんとう”を求めることに対して慎重に鑑み、その上で事象の“観察と認識”をして自分の在り方を見出すべき、その意のことを“気付けおくぞ”と称されていると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 三光道萬壽壽経文 第一巻の総括



 三光道萬壽壽経文の第一巻は、人生、生きている間、その時々における外側(外国と幽界)の事象の事象で自分が育つために“上”が課す試練や課題、これを乗り越える過程において自分の内面とか内側(心の中と感じている事)において心(靈)が動き、心(靈)が育ち、その育ちつつある心(靈)は“上”の振動と感応し、変容し、第一巻最後の文言の 炁一定身 となしていく、これが第一巻の要旨である。

 まず、人生における時間の進行を船の運行にたとえ 無音東辺 陸々陵々 洋碧左舷 赤壁右現 と称され、外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)おける心(靈)の動き、この心(靈)の動きにはすべて“上”の采配があり、この“上”の采配そのものが自分の心(靈)を育てるものであり、これを 雲運龍昇 と称され、それに向き合っているときの心(靈)の動きを 水域模索 これは右往左往と左往右往の意味合いを持つが、こうして心(靈)は育っていくものであることを述べられている。
 
 そして、心(靈)が育っていくならば 振動水平 自分の心(靈)の中の日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があいまって良い形の心(靈)となっていくものであり、そうなるならば、心(靈)の極性の偏りが少なくなるので、程度の低い存在との感応がなくなっていくことを 秒魔堆散 と称される。 またこれは低い情動を自分で諌める段階にまで心(靈)が育ったならば、低い存在、悪霊(魔)とは感応しにくい、ということを暗に示してもいる。

 そして、人生においての時間の進行とともに“神の咎め”と“神の采配”を認識しながら心(靈)が育って日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を悟っていく、この極性が一切の事象、外側(外国と幽界)の事象にも内面とか内側(心の中と感じている事)にもあり、それが又、一切の根元なのだ、日足と砌(ひたりとみぎり)は両翼なのだ、の意味合いで 根元兩翼 と称される。

 そしてその心(靈)の育つこと、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるが、それは神の“思惑の顕現”、であり、それを 天辺良地 と称され、これは、神の子である人は“上”(天)を目指して生きる、これ事態が進化の過程であり、なぜ人は自分の良い形を望んで求め、それに対して努力するか、それは神の思惑をこの地に顕現するためであり、その意味合いを含んだ文言である。

 そうして心(靈)の極性の偏りも少なくなり、低い情動を諌められるほど心(靈)も育っていくならば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これとより感応するようになっていく、これは程度の低い人間の心(靈)は動物に近い振動としか感応していないから、やることや心(靈)の動きが動物に近いのであり、進化を果たしていくならば、たった今よりも、“上”からの振動の高い部分と感応して心(靈)はより育つ、そしてそれ自体が心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に反映していくものである、その意の事柄を 砂平衰峻(高く険しい日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の偏りはない) 平盡漠照(“上”からの振動は、陰影なく、一面の砂漠に降り注ぐ太陽のように一様に照る)と称されているものである。

 それで現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化であり、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということすらあまり体験の無い心(靈)の持ち主が大半、要は自省(胸の磁性“十”)が足りない、そこまで心(靈)が育っていない、しかしそれも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程であるという意味合いで 黄駄理利 無盡赤心 黄色は軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、赤心は一番下の心(靈)、波長の長いオーラの色、しかしこれは、自分が生きている間と死んでから=いわゆる存在ある限りという意味合いだがが、それ自体は尽きることがないので、盡(つきる、つくす)無(なくならない)と称され、その黄色と赤は、腹にとどまっている、それを 一點泉
せき 三光道萬壽壽経文 小   (せき) と称されているし、それがたった今の地球人の平均的な心(靈)である。

 これに続く 常陽無盡 白砂平等 これは先の 砂平衰峻(高く険しい日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の偏りはない) 平盡漠照(“上”からの振動は、陰影なく、一面の砂漠に降り注ぐ太陽のように一様に照る)に意味が近く、常に“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意=陽、太陽の陽は、つきることなく=無盡、であり、その振動を受け止め溜める場(フィールド)が、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性に偏りが無ければ=平等、白く輝く砂のように見えるの意であり、霊的成長をある程度果たしたうえでの表記である。 

 これに続く 行目金扉 来樂個々 “行”(“行”と生業(なりわい)の“行”)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が目的の価値のある(金)扉、それを為すならば個々の心(靈)には、真の樂(楽の旧字)が来るものであり、そうなっていくならば、眞容白扇 眞(まこと)を容れる、認識(悟り、幸取=さとり)とする、これが進化の一側面でもあり、そうなっていくならば、“上”から白扇と称される価値のある何かを贈られるものである。

 これに続く 常々非無 これは先の 常陽無盡 白砂平等 にかかり、“上”からの振動は無に非ず(あらず)、それは休まず常に“上”から降り注ぐの意。
 
 これに続く 三振一握 三振は、右往左往と左往右往、自らの心(靈)の動きと行動、そして日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、この三つの行使で得る認識(悟り、幸取=さとり)、これは自らと日足と砌(ひたりとみぎり)=三に対して、認識(悟り、幸取=さとり)は一と称され、またこの一は、“一”=智性=1番目のオーラの意。

 これに続く 友愛母神 月明日發 閃光光明 これは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を称した文言。

 これに続く 彩瑳玉善 無盡自悟 この二つ文言は霊的成長を果たした様であり、それは“玉(ぎょく)”であり“善(神格化の方向性と智性の受信)”であり、それをあざやかに切磋琢磨せよであり、自分自身の悟りは霊的成長の過程において尽きることがない(無盡)、そうなっていくならば 従容陽樂 この樂は先の 来樂個々 のそれと同義。

 次の 非世觀容 長離無外 萬別陸泉 急喼如命 亂離翩翻 粛々動静 久遠差示 巢賀綠身 これは自分が霊的成長を果たしていき 巢賀綠身(アナハタチャクラの内奥の色、緑、心(靈)の動きならば自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”、これが身に巣くう、それは賀(よろこび、寿ぎ))となるまでに 非世觀容 長離無外 これは自分の心(靈)が行う事象の観察でなにを悟っていくのか、萬別陸泉 萬別は、自分が遭遇するさまざまな事象の区別、これらをなしていって 急喼如命 早く早く(急喼)使命の如く悟り 巢賀綠身 とせよの意。しかしその過程では 亂離翩翻 事象に遭遇して心(靈)が乱れ右往左往と左往右往するものであり 粛々動静 久遠差示 粛々と自分の心(靈)の動きの動静を観察し、長い時間(久遠)を振り返って、体験してきた事象、その時々の心(靈)の動きが“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、この差を示す、認識せよ、そうして 巢賀綠身 とせよの意。

 次の 無搖立氣 綠辺無想 自分の自我に振り回されない無想の心(靈)は綠(アナハタチャクラの内奥の色、緑)、その揺るぎ無い氣を立てよ、そうすれば 萬樂盡陽 萬(万)の樂(楽)、先の 来樂個々 従容陽樂 のそれと同義であり、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、それは陽であり、尽きるものではない(盡)の意。

 これに続く 宇外色食 本能由来の欲望など自分の外に捨て置け、そんなものに捉われるな、の意であり 高辺怠惰 骨粉散飛 土壌解理 これは程度の低い心(靈)と程度の低い心(靈)ならば肉体は崩壊して低い存在としか感応しないし、この状態自体が“玉(ぎょく)”とは真逆になり、“上”と感応しえないことまで暗に示している文言。

 次の  命々梵鐘 天道多盡 神聖な二つの命、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の為の“行”と苦痛や苦悩を体験しエネルギーを贖って(あがなって)、認識を高め、尽きる(盡)ことがないくらい多くの道を歩むのが“上”=天に至るの意。

 次の 即壁無償 これは、壁=“上”の采配、霊的成長のための試練において、無償、代価を求めない、苦痛や苦悩と戦ってエネルギーを贖って(あがなって)得られるものは心(靈)の中の認識であるの意。

 次の 
盡打 
盡打眞力 匕部と県  盡と打と力は、先の壁、“上”の采配、試練に対するエネルギーの贖い(あがない)を指し、頑張って頑張って自分の持っているエネルギー(力)をこれ以上ないくらいつくす(盡)、それで は、眞(まこと)であり、眞は匕部(ひぶ)ひ、さじ、さじのひ、(さじ、あるいは変化の意符をもつ)と鼎(かなえ)の意があり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を掬い肉体(鼎)で獲得せよの意。
 次の 絹布流達 渾々利勝 進化を果たした肉体は神経線維は絹の布のように密になり、第一巻は人生を船の進行にたとえているから流れ達すると称され、それは“上”から観た利、利福、利生(りしょう)これが渾々(こんこん)、、尽きることなく湧くさま、のようになっていくの意。

 次の 悠備遠達 遠々千里 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道のり、道程、その時間の進行に伴うエネルギーの贖い(あがない)、これを示した文言。

 次の 磨化良非 磨いて=進化して良い肉体(生体内電流による肉体組織の結晶化、“玉(ぎょく)”)と、進化していくべき、あるいは進化を果たした心(靈)になるのが、もともと持っていた肉体と心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものであり、それが又、生命(生きる使命=存在理由)でもあり、それは化ける、違う存在になる、ということに非ず(あらず)の意。

 次の 千便羅布 “羅(目の下の錐体状の神経)”は進化した生物ゆえの目と脳下垂体と神経の成り立ち、その神経が密になったさまが布という表記、それを千回=何回も何回も、そして便は、障りなく事が運ぶ、都合よく事を運ぶ、の意味合いがあるが、これは神経を伝わる情報=生体内電流、このやり取り、末梢から中枢へ、中枢から末梢へ、ということである。

 次の 飛楊潜在 樂々陽々 飛楊は、楊(かわやなぎ、ねこやなぎ)が、風に揺られ飛んでいるかのような、一見楽しそうな、進化した心(靈)にはそれが潜んで内在し、これは自分の心(靈)が 樂々陽々 ならば、という意味合いで、この樂(楽)は先の 来樂個々 萬樂盡陽 のそれと同義。

 これに続く 變闘盡慾 氣殺煩悩 慾(欲、むさぼる心(靈)の動き)は、自身の霊的成長度が高まれば、慾は、変容する(變)もの、それは霊的成長の過程=“上”が課す試練との闘い(たたかい)の結果、氣殺煩悩 煩悩=目下(めした)の心(靈)由来の欲望を、 無搖立氣 (揺るがない氣(気)を立てよ)の氣、これで煩悩を諌める(殺)の意。

 次の 條理多變 條は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を野放図に使わない、“力”をどう扱うべきか考え、それを理念とする、それは法則性といえ、“力”の使い方の悟りは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であるが、その意のこと。

 次の 物々倫理 現界における外側(外国と幽界)の事象、これを物々と称し、これに対して、倫理=人としての生き方の規範、道徳やモラルの意、これを見出していくの意。

 これに続く 歡樂翻飜 歡樂(歓楽)、喜びに対する認識、楽しい、と思うことに対する認識、これ自体が霊的成長の過程で変容(翻飜)するの意。 いわゆる価値観の変容。

 最後の 粒子遂全 綠秘無風 清涼流々 炁一定身 これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、粒子をまっとう(遂全)し、アナハタチャクラの内奥の色、綠、その心(靈)の動きは霊的成長の秘訣であり、その心(靈)は自我と相対して、無風であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁、“創造”の“主(ヌシ)”の愛(炁)を 清涼流々 と称し、それを獲得して身に定め、“一”=智性=1番目のオーラとすることを、炁一定身 と第一巻では括られているが、冒頭でも述べたようにこれは第一巻が人生において様々な事象に遭遇して心(靈)が育ち、その過程で心(靈)も肉体も変容して“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をより獲得し(“日止、霊止”の意)、“一”=智性=1番目のオーラを獲得していき神格化していくのだということを述べていると解する。 

 なお、個々の文言の詳細な解釈については、端折ったところもあるので、それぞれの解釈を詳細にお読みいただきたい。

次回のこのカテゴリーでは、三光道萬壽壽経文 第二巻の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 三光道萬壽壽経文 第一巻より“その十”



 今回取り上げるのは三光道萬壽壽経文の 變闘盡慾 氣殺煩悩 條理多變 物々倫理 歡樂翻飜 粒子遂全 綠秘無風 清涼流々 炁一定身 までとする。

 まず 變闘盡慾 慾(欲、むさぼる心(靈)の動き)は、自身の霊的成長度による心(靈)の変容、それは霊的成長の過程=“上”が課す試練との闘い(たたかい)の結果といえるし、そこにおいて苦痛や苦悩を味わい自分のエネルギーの贖い(あがない)、これを尽くす(盡)と、その“道”(時間の進行)、“理(ミチ)”(法則性の認識)、によって、慾は、変容する(變)ものであるの意。

 次の 氣殺煩悩 これは煩悩=目下(めした)の心(靈)由来の欲望、これを、“その七”で解釈した 無搖立氣 (揺るがない氣(気)を立てよ)の氣、これで煩悩を諌める(殺)の意。

 次の 條理多變 物々倫理 條は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きで野放図に使わない、“力”をどう扱うべきか考え、それを理念とする、それは法則性といえ、“力”の使い方の悟りは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であるが、その意のこと。
 ちなみに條について 
“ローム太霊講話集”第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙 Kellyさん的解釈“その三”で、以下のように述べた。


行が益々進んで術となり條となり現、幽を通じて一人前の者に育て上げられ…中略…そこで初めて山神、海神、木神、草神などの自然を守る神や男女老中幼の人間を守る神の下で働くようになる
これは
肉体を物体に変化させ…中略…例えば、肉体を杖とか剣とか槍とかに変える
に相対した言い回しでもあり、だからこそ
同じ尸解仙でもその力の現われ方によってはっきり区別される”と述べていらっしゃるものであるが、これはどちらがまっとうなのか、鑑みよ、という太霊の思惑を感じ得るものであるし、この文言で大事なのは、“行が益々進んで術となり條となり”、“”(“力”の顕現)を使っていくうちに“”を認識していく、この“”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で以下のように述べている。

 それは、ロームさんの言う“道”を自分で確立し、そしてそのために努力する=贖う(あがなう)。努力っていう字は“いきり立つ心(奴と心)”に“力”、そして、もう一つ“力”。“力”が二つ重なった熟語だね。
そしてそれは贖うことだし、それに応じた霊的干渉もある。そしてそれは“術”を…“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現することになっていく。しかし、その時点ではただ、“術”や“力”の獲得でしかない。“術”や“力”を使い、右往左往して左往右往して、使い方を考えるようになり、そしてそれは“條”になり“法(のり)”になり…それらは、心の動きを表わす言葉でもあり“力”と“術”を、この世界に現すための、心の発現と、法則ってことをいっている。“條”の意味は、条と同義らしく、それは、細長い枝、桑条(ソウジョウ)、桑の細い枝とか、すじ、筋道の筋(すじ)、細長いすじや紐(ひも)、あるいは、ひとすじずつ書いたものの意味、それは、条文とか条項、箇条書き。そしてそれは、物事の道理の筋道(すじみち)…条理。…そういう意味の字だよ。そしてそれは、大日如来の条帛(じょうはく)の意味でもある。


 いわゆる“”は、“力”の使い方、“どういうつもり”で“術”(“力”の顕現)を使うか、その法則性を認識したならば…という意味合いのことであるし、少々余談になるが、これを獲得したうえで、ローム太霊講話集で述べられている“法(のり)”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の絶対の法則性、これを認識していくものでもある。
 題に戻り、條理、これは“力”の使い方=條、“理”は法則性を獲得したならば、それを理念とせよ、であり、多變というのは、霊的成長度の低い段階から心(靈)が育ち“力”の使い方を悟り認識も変容し生き方も変わり自分の存在ということに対しても認識が変わり、これら心(靈)の中の変容は霊的成長の過程において多くあるものであり、認識(悟り、幸取=さとり)がどんどん変容していくことを指している意であるし 物々倫理 は、現界における外側(外国と幽界)の事象、これを物々と称し、これに対して、倫理=人としての生き方の規範、道徳やモラルの意、これを見出していくの意。

 これに続く 歡樂翻飜 歡樂(歓楽)、喜びに対する認識、楽しい、と思うことに対する認識、これは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)から育って智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得していくならば、何が歓びか、何が楽しいのか、それはいわゆる価値観の変容とも言いうるが、それが翻る(ひるがえる)、これに続いている 飜 も、ひるがえる、裏返す、の意であり、歡樂(歓楽)と認識しうる事柄は、霊的成長の過程によって変容し、動物に近い心(靈)の価値観、本能中心のそれ、先に解釈した 氣殺煩悩 の煩悩由来の程度の低い歡樂(歓楽)、これに相対し“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念として生き、そのために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え=先に解釈した 條理多變 の條、これを自分に課していくと、心(靈)の動きには神に認められているという認識ゆえの高い功名心と自尊心へと変わり、そこに自分の存在の意義、神の子としての自分の存在意義を見出していく、それが“ほんとう”の歡樂(歓楽)である、の意。

 これに続く 粒子遂全 この粒子の意味は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、遂全(経文の読みは、まっとう)は、“上”からの振動を全て(すべて)遂(なしおおせる、なしとげる、遂行のそれ)せよ、の意。

 これに続く 綠秘無風 綠(緑)はアナハタチャクラの内奥の色、自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動き、それは霊的成長の秘訣、それを獲得したならば霊的成長のための試練、自省(胸の磁性“十”)の“行”に至るまでの自我の肥大を諌める“業行”(生業(なりわい)と“行”)は卒業となるので、自分が“観察と認識”する現津(あきつ)、観察され得る事象、これは今まで(自我の肥大を諌める段階)と相対し、無風と感じられる、そう認識しうるものであるの意。

 次の 清涼流々 炁一定身 炁、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、神の愛(炁)、それを、“一”=智性=1番目のオーラ、とせよ、身に定めよ、あるいは、身と定めよ、いわゆる“創造”の“主(ヌシ)”との感応をせよ、そしてその心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をこの事象に示して顕現せよ、の意、であり、清涼流々 は、“上”からの振動(清涼)が“下”である(清涼ではない)人間に流れ注がれる様子、これは神の愛(炁)が生命(生きる使命=存在理由)を育てているとも言いうるが、その神の愛(炁)、“上”から注がれる振動、これを言い表わした表記である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 三光道萬壽壽経文 第一巻より“その九”



 今回取り上げるのは三光道萬壽壽経文の 絹布流達 渾々利勝 悠備遠達 遠々千里 磨化良非 千便羅布 飛楊潜在 樂々陽々 までとする。

 まず 絹布流達 絹の布という表記は、繊維が密なさま、これは肉体の神経線維を指すもの、生物は進化すればするほど神経が発達し、密に巻かれた神経線維は骨とともに電磁石の構造を持ち、神経に電流が流れればローレンツ力が派生して“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を取り込むことは幾度となく説明してきており、この文言ぞのものが生物としての人間の神経線維の様子を示し、少々先走るが、今回取り上げる 千便羅布 の、“羅(目の下の錐体状の神経)”と布、これも同様の意味合いを持つ。 
 流達というのは、三光道萬壽壽経文 第一巻 は、人生を船の進行にたとえたと解釈しているが、船の進行、流れ、それは、神経が密、そういった肉体になる、そこに達する、という意味合い。 

 次の 渾々利勝 この渾々(こんこん)は、水がさかんに流れるさま、尽きることなく湧くさま、物事の尽きないさま、利は、仏教の言葉として、ためになること、法力によって恩恵を与えること、自らを益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利益といい、神仏の力によって授かる利福、利生(りしょう)、その意であり、勝は、利を勝ち取る、どうやって勝ち取るのかは先回解釈した 命々梵鐘 天道多盡 即壁無償 盡打
盡打眞力 匕部と県  が解りやすい。

 次の 悠備遠達 遠々千里 この二つの文言には、悠(悠久のそれ、はるか)、これが備わり遠くに達する、そして千里、さらに遠いに々を付けて同じ意味合いを強調した表記になっているが、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道のり、道程、その時間の進行に伴うエネルギーの贖い(あがない)、これを示した文言である。

 次の 磨化良非 磨いて=進化して良い肉体(生体内電流による肉体組織の結晶化、“玉(ぎょく)”)と、進化していくべき、あるいは進化を果たした心(靈)になるのが、もともと持っていた肉体と心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものであり、それが又、生命(生きる使命=存在理由)でもあり、それは化ける、違う存在になる、ということに非ず(あらず)の意、たった今の自分はどんなに霊的成長度が低かろうが悪行を重ねていようが、まっとうな“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って自分の心の在り方を鑑みて、それを外側(外国と幽界)の事象に活かす=行動するならば、“上”から観て良しとする、の意。

 次の 千便羅布 これは先に少し述べたが、“羅(目の下の錐体状の神経)”は進化した生物ゆえの目と脳下垂体と神経の成り立ちであり(これについては“波羅密”の解釈を著書で述べた)、その神経が密になったさまが布という表記、それを千回=何回も何回も、そして便は、障りなく事が運ぶ、都合よく事を運ぶ、の意味合いがあるが、これは神経を伝わる情報=生体内電流、このやり取り、末梢から中枢へ、中枢から末梢へ、ということである。

 次の 飛楊潜在 樂々陽々 飛楊は、楊(かわやなぎ、ねこやなぎ)が、風に揺られ飛んでいるかのような、一見楽しそうな、進化した心(靈)にはそれが潜んで内在している、という表記、これは自分の心(靈)が 樂々陽々 ならば、という意味合いで、この樂(楽)これは“その四”で解釈した 来樂個々 と、“その七”の 萬樂盡陽 のそれと同義で、意味は真の樂(楽の旧字)、それは目先の喜びでもなく快楽でもなく物欲でもなく、自分が神の子であることを認識したうえでの喜び、そして陽は、太陽の陽、“上”からの振動の意であり、それぞれに々を付けて意味を強調しているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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初めての方は、
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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