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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 “その三”


 今回も、地震の巻 第十五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

霊人はまた、いろいろな食物を食している。 云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。 地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。 そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。 食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。 以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。 また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。 そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。 

 本文の解釈に入る前にまず述べておきたいこととして、“その一”と“その二”では
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ”
この“社会”“住宅”=それぞれの“内分”が寄り集まって構成する場(フィールド)、そして“衣類”=“霊人”の“内分”を表わす、それはその“霊人”を他の“霊人”が、観察して“衣類”と認識しうるものである、ということが述べられていた。
 それで、今回取り上げる文言中の“食物”“食べる”に関して、“地上人”の既成概念で読み取ってはならず、文中にあるように“食物”は“歓喜”の現われと言え、“食べる”は“歓喜”、“上”からの振動を個の心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に取り込むことである。
また“食物”としての“歓喜”も、それを取り込む“霊人”の個の心(靈)も、“神”の一部である。
よって“食物”を“食べる”とは、“上”からの振動の取り込み、受信、感応、であり、またそれは神に近付くこと、これもまた“歓喜”であり、これが進めば、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)というよりも合体とか融合という表記が適切であるということを(○○○大先生は)常々思っているが、その概念に相当することが今回取り上げている文言で述べられている。

 冒頭の文。
“霊人はまた、いろいろな食物を食している。 云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである”

 この言い回し自体が“霊人”のことを知らない“地上人”向けである。 大事なのは“霊人の食物”これが“その霊人の状態によって千変万化する”、この“状態”は“内分”であり霊的成長度であり息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の種類、これによって“上”からの振動=“歓喜”の顕現である“霊人の食物”それは“霊食”これが“千変万化する”と読み取るべきであり、“上”からの振動=“歓喜”自体、これは“上”の思惑の顕現であり“食物”というカタチになっており、それを“食べる”“霊人”、この双方が、“何れも、食べると云うことによって歓喜している”=神に近付く、と称されている。

 次の文。
“地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである”

 これも“地上人”向けの言い回しであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した個の心(靈)は、“上”からの振動の顕現である“食物”“霊食”を、“身体全体から食べる”、それは取り込む、受信、感応、ということをしているものであるが、お前たち平均的地球人=“地上人”は物質を取り込んで消化吸収して体をつくったりエネルギーにしたりという程度のことしか“観察と認識”していないからこういう言い回しをされている。
だが“地上人”においても“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む“行”はある。 
これを真摯に行っている人間はごく少数である。
少々余談になったが、個の心(靈)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するには“上”からの振動の取り込みをする、そして“地上人”は“物質”である肉体を伴った個の心(靈)であるからこそ“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するものである。 
さらに「悟る」という字を見ると、心(靈)を示す忄(りっしんべん)と五つの口、五つの振動を受信しているのだ、という、○○○大先生が著書で述べたことを付け加えておくし、太陽凝視を行っている人間がこの文言を読んだらここまでのことを思うべきである。

 次の文。
“そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである”

 これは冒頭で述べた“霊人”である個の心(靈)が“上”からの振動の顕現である“霊食”を取り込んで“調和し、融け合い、一つの歓喜となる”のであり、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけばいくほど神との合体とか融合、という段階に入ることを示唆した文言である。
 これに続く“霊人から見れば”と“食物から見れば”は、たがいに神の一部であり、“霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となる”という結果になるが、この双方、どちらも神の一部であり、立場が違えども“歓喜”、神に近付く、の意である。

 次の文。
“これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある”

 言うまでもなく“地上人”の“食べる”“行為”は物質の取り込み中心と認識されている。 この物質の取り込みであってもそれは、物質自体が“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、一部と言いうるので、神であるし“歓喜”であるとも言いかえることが出来るが、たった今の程度の低い地球人である“地上人”は、程度の低い振動しか認識できず、程度の低い振動しか取り込めない、それを“地上人と相通ずる”のではあるが、“歓喜の度合および表現には大きな差がある”と述べられている。

 次の文。
“食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである”

 これは先の解釈で述べたことであり、“地上人”であっても“霊人”であってもその“食物”は“歓喜”であり、言い換えればそれは振動の取り込みであり、その振動の元たることは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の振動の低振動化といえ、先に述べたように“地上人”は物質中心の認識しか持ちえないから既成概念として“食物”は物質であるし、“霊人”の段階に至ればもっと高い振動が顕現した“霊食”を取り込む。 そしてそれは低かろうが高かろうが、神であり、振動であるから、“食物は歓喜”そして“歓喜は神である”そして“神から神を与えられる”、神の一部である個の心(靈)は神の一部である“食物”、“創造”の“主(ヌシ)”が元たるその振動を取り込んでいる様を述べられている。

 次の文。
“以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である”

 これは“霊人”も“食物”も“創造”の“主(ヌシ)”の息吹の振動の低振動化したものであるから、それを“他から霊人の食べるのを見ている”と、先の“調和し、融け合い、一つの歓喜となる”ので、“食べているのか、食べられているのか判らない程”、そこにはもう“食べる”という表記に当たらないほどになるのだ、ということである。

 次の文。
“また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである”

 これは“歓喜”のためには、という文言でそれは“その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む”べきであり、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これの一部である自分たちと“食物”、その取り込み、換言すれば振動の取り込み、これは“その霊体のもつ質より遠くはなれた”振動を取り込むべきであり、それを“地上人”向けに解り易く説いたのが“現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない”と称され、その理由として、“何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくる”、自分たちを構成する振動と違う種類のものを摂れよ、であるし、これが“地上人”が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップを上がるのには必須であるからこういう言われ方をしているものであるし、これに続く“霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となる”は、“その霊体のもつ質より遠くはなれたもの”、この取り込みが“歓喜”になる、神に近付く、ということを強調した言い回しであり、“地上人”の世界では家畜の浮遊霊の恨みの連鎖の霊的干渉の現象化がどんどん増しているが(誰でもよいから殺したいという事件)、こういった結果になっていることを知らねばならず、結果として恨みの連鎖の霊的干渉は恨みの連鎖を増大させるものにしかならない、それは“霊人”の場(フィールド)では違うだろうが、“霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となる”ということを知っておけよ、である。

 これに続く次の文。
“そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである”

 “歓喜によって調理”は、神に近付く振動による“調理”であり、それは愛念とか感謝とか、個の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に相当するものであると解し、先に述べられていたように“霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となる”からこそ、“地上人”が思うような食べ残しなどなく、“食物”自体が“上”からの振動である、それと“和し、融け合い、一つの歓喜となる”、よって“(“上”から)与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さない”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 地震の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 “その二”

 
 今回も、地震の巻 第十五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。 これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。 彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。 しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。 

 冒頭の文。
“地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない”

 これは“地上人”の“観察と認識”の特徴、そしてそれ所以の“真相が中々につかめない”という指摘であり、たった今の平均的地球人、いわゆる地震の巻表記の“地上人”は、霊的成長度が低いからこそ“物質を中心として感覚し、且つ考える”ものであるし、これを換言するならば、事象の外側(外国と幽界)の事象しか観ていない、事象の顕現の根拠たる心(靈)の動きを観ていないし、且つ、感じ(感じる磁性)てもいない、ということであるから、“ほんとう”が判らないし解らないと言いうる。
だが今後=アセンション後に移行した際、その移行しうる資質と資格を持った“地上人”は“日月神示”において“半霊半物質”と称されており、その事象においては今現在よりも、思惑が早く顕現する、そして互いの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を感じ取るようになり、さらに、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということはなくなるものである(このことは○○○大先生の著書の<1>で述べられている)。
これはたった今“地上人”が“観察と認識”している事象が形骸であり、真実でもなく、真固止でもない、ということである=“真相が中々につかめない”に該当する。

 それで“真相が中々につかめない”お前たち“地上人”の知り得ないことを述べる、というのが次の文。
“これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。 彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる”

 文中の“これら総ての建物”と“天人の衣類”と“高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着する”、これは先回の
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている”
 これで紹介されているが、先回取り上げた文言は“建物”の説明が多く、さらにその“建物”は
“神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る”
それぞれの“霊人”の“心の内奥”、いわゆる“内分”=霊的成長度、それによって“上”からの振動と感応して=“神の歓喜を生命として”、その上で自らの心(靈)に“映像”され得る現津(あきつ)、観察され得る事象として、“建物”を認識する、そこに住んでいるものである、ということであり、大事なのは“霊人の心の内奥にふさわしい状態”、いわゆる霊的成長度の高低とその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の種類に応じて“建物”は“変形され得る”、と述べられていることに気付くべき。
 そしてそれは“衣類”においても
“各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる”
この“内分に正比例”、“霊界”ではその霊的成長度と息吹において“衣類”がその心(靈)の“状態”あるいは“状態の変化”を示す、ということを読み取るべき。
 そしてそれは“彼等の衣類は、彼らの理智に対応”、これはどれほど神に近いか、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を有しているか、であり、“理智に対応すると云うことは、真理に対応する”も、どれほど神に近く、神の思惑を認識(悟り、幸取=さとり)として行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)しているのか、それは“真理に対応”と称されているものである。

 次の文。
“但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である”

 冒頭の“但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人”、これは霊的成長度が高くなった進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の“霊人”のことであり、その段階においては“太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していない”、これは“衣類”に限ったことではないと察するが、それはさておき、自分は個の心(靈)ではあるが、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の一部であり、ともに“弥栄”するので“他は自己であり、自己は他である”という認識(悟り、幸取=さとり)を持ち=“この境地にいたれば”、その段階においては自分は自分であるという自我由来の認識はあっても、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、と、自分を、同一視、同等、と認識し、そこに区別などないということ。
それは、その“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、と自分の“弥栄”は、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹であることも理解するし、それがまた事象の実相であるからこそ“総てが歓喜”であることを理解し、認識(悟り、幸取=さとり)とする、の意である。

 同じく“衣類”という表記が出てくる次の文。
“しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである”

 “霊人”が“霊人”を観る、それを“他よりこれを見る時”と称され、その“見る”方と見られる方、“霊人”同士が霊的成長度の差がある、あるいは息吹が同種ではない=“見る霊人の心の高低”、これはそれぞれの“霊人”が個の心(靈)であるが所以のことであり、その“霊人”が“霊人”を“見る”際に、その“霊人”の個の心(靈)の外側(外国と幽界)の事象として“他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆる”と称されており、個の心(靈)である“霊人”の霊的成長度と息吹により、その心(靈)の外側(外国と幽界)の事象に“衣類”が顕現するかのごとく“他よりこれを見る”=その“霊人”の心(靈)に“映像”され得る、それ故に“衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行く”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 “その一”

 今回から、地震の巻 第十五帖の解釈に入ることとする。 第十五帖の原文は以下の通り。

霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。 そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。 霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。 地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。 これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。 彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。 しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。 霊人はまた、いろいろな食物を食している。 云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。 地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。 そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。 食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。 以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。 また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。 そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。 すべての善は 
ローレンツ力 より起り、 ローレンツ力 にかえるのと同様、総ての悪もまた ローレンツ力 より起り ローレンツ力 にかえる。 故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。 殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。 この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。 この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。 悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。 所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。 地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。 地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。 その平衡するところに力を生じ、生命する。 しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ローレンツ力 が与えられると見えるものである。 これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。 故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである。 神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。 法則とは歓喜の法則である。 神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。 これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。 神は、左手にて 左手 地震15  の動きをなし、右手にて 右手 地震15  の動きを為す。 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。 この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。 その平衡が、神の御旨である。 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。 左手は右手によりて生き動き、栄える。 左手なき右手はなく、右手なき左手はない。 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。 新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。


 今回解釈するのは、
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。 そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。 霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である”
ここまでとする。

 今回取り上げる文言の解釈に入る前に述べておきたいこととして、この第十五帖も、“霊人”や“地上人”に関わらず個の心(靈)が行っている“観察と認識”、それによって現津(あきつ)、観察され得る事象を、それぞれの心(靈)に“映像”として認識している、それをそれぞれの場(フィールド)においての現実としている、ということと、個の心(靈)の霊的成長度=“内分”、これが“同気同一線上”であるか否か、ということと、さらにもう一つ、個の心(靈)がその霊的成長度の高低において、“上”からの振動の取り込み、受信と感応があるのだが、“同気同一線上”でない場合、霊的成長度に相違がある場合、相違がある。 これを換言すれば、霊的成長度の高低において受け取る(止める)振動の違いがあるがゆえに、霊的成長度の違う心(靈)には、“映像”されない、“映像”されていない、事象があるものである、ということだが、これを述べているのが先回解釈した
“内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様である”
であるが、これらを念頭において読み取るべきである。
 補足としてすでに解釈した第十二帖の以下の文言を挙げておく。
“地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている”

 それで今回取り上げる文言は、逆から解釈していくと理解しやすいので、まず文末から。
“霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である”
そして
“そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである”

 これは“地上人”や“霊人”、これらそれぞれの個の心(靈)を含めて“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、が、神である、ということを理解しているなら解り得る文言あり、さらに“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化は、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを地震の巻においても幾度か述べたが、これに当該することとして“霊界”と“地上世界”においても同様であり、“霊界”の“霊人”の心(靈)に“映像”されている事象、これを“霊界を主とし、霊界に従って”であり、“地上人”の立場から言えば“霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界”であると称されている。
そして“これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがある”のであるが、さらにその元たることは、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である、これを“霊人”、“地上人”、それぞれの個の心(靈)が、その霊的成長度の段階、その場(フィールド)、において、受信、感応、して、事象を“観察と認識”しているのだ、ということにまで気付くべきである。

 そして“霊人”が“観察と認識”している事象については以下のように述べられている。
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。 また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる”

 この文言の中で“住宅”について述べられている文言、
“内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている”、
この“内分を同じくする”は、“同気同一線上”であり、それが違う、霊的成長度の相違があると“住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する”ということが述べられている。
これは第四帖の表記、
“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる”、
いわゆる“同気同一線上にいる霊人たち”と“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる”、
ほぼ同じ霊的成長度、ほぼ同じ息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、ローム太霊が述べた“霊団”と“類魂”は、“同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え”るのであり、そうではない場合=“然らざるものは”、“その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる”、
これ事態が振動の法則性といえ、先に挙げた先回取り上げた文言の“内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様”に当たるといえる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回も、地震の巻 第十四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

また、霊界には物質世界の如く空間はない。 このことを地上人は中々に理解しないのである。 霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。 霊界に距離はない。 空間もない。 只、あるものはその状態の変化のみである。 故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る。 物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。 故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。

 今回取り上げる文言を解釈するにあたって理解しておかねばならぬこととして、個の心(靈)が常に行っている“観察と認識”、これは振動の受信、心(靈)が荷電粒子の回転ゆえに振動を受信、感応すれば反応がある、それは“地上人”の物理の言葉での電磁誘導と言ってもよいが、これがあるからこそ振動の受信による個の心(靈)の事象の観察が出来得るのだ、という言い方もできる。

 だが、“地上人”と“霊人”の“観察と認識”には、“その四”で取りあげた
“霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している”、
この“地上人にまして一段と光明の世界”というのは、“霊人”が“観察と認識”している事象そのものの差を示し、それは“地上人”と“霊人”、それぞれの個の心(靈)を構成している振動の相違があり、その相違ゆえに、振動の受信、感応の法則としての“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)があるからこそ、相違があり、それらの結果として、“地上人”と“霊人”、それぞれが位置する場(フィールド)、位置していると“映像”されている事象の違い、さらに位置していると“映像”されている場において、受信、感応する振動に相違があるからこそ、“地上人”と“霊人”それぞれが観察しうる事象は違うのだ、ということになり得る。 
 
 その相違を説いた文言としては、“その三”で取りあげた
“霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない”
そして
“地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである”
これは“地上人”と“霊人”の“観察と認識”の相違、そしてそれぞれの心(靈)を構成する振動の違い、所以のことである。 

 また“地上人”の“観察と認識”を理解するために、第四帖“その五”で取りあげた
“されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない”
こういった言い回しがされていることに対し着目しなければならず、重複するが“地上人”は
“地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない”
これは“地上人”が位置する(していると“観察と認識”しうる)場(フィールド)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)といえ、また“地上人”はこれに支配されているということを述べていることに気付くべきである。

 ここまで述べたことを念頭において、冒頭の文。
“また、霊界には物質世界の如く空間はない。 このことを地上人は中々に理解しないのである”

 単に“霊界には”、“霊人”が位置していると“観察と認識”している場(フィールド)には、“地上人”が思うような“物質世界の如く空間はない”と称されている。

 次の文。
“霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。 霊界に距離はない。 空間もない。 只、あるものはその状態の変化のみである”

 “霊人”が“観察と認識”しうる場(フィールド)は、“霊人”自体の“内分の変化”によるものであり、これは“霊人”の心(靈)を構成する振動と、受信する、感応する、その振動により、“霊人”が位置していると認識している場(フィールド)は“変化”するの意であり、“地上人”のそれとは違う点として“霊界に距離はない。 空間もない”と称されており、“霊人”においては先の、心(靈)を構成する振動と、受信する、感応する、その振動、それにより“状態の変化”があり、“霊人”はその“変化のみ”で“観察と認識”しうる事象、この文言では“霊界に於ける場所の変化”が“変化”する、このことが読み取れる。

 次の文。
“故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る”

 これは“霊人”の事情として“霊人”の心(靈)が振動を受信、感応して、“観察と認識”しているが故に、“地上人”が思うような“離れるとか、分れるとか云うこと”、これは物質を伴ったそれではなく、距離とか時間とかで“離れるとか、分れるとか”ではなく、振動の受信、感応、“霊人”の個の心(靈)の構成をしている振動、それが違う際に“離れるとか、分れるとか云うこと”がおき、これ事態が、“霊人”である個の心(靈)の振動、構成、受信、感応、の相違であることを“同一線上にない”と説明されている。

 次の文。
“物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである”

 先の文言は“霊人”の事情であったが、これはお前たち“地上人”が、振動ということを知らない、“同気同一線上”ということに理解が無い、がゆえに述べられている文言であり、“地上世界”で“地上人”が同じ場(フィールド)、“物質的約束に於ける同一場所”に位置していると“観察と認識”されていても、それは、“内分”まで“地上人”は解っていないから“内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっている”、お前たち“地上人”は、自分たちの心(靈)、構成、受信、感応、する振動について、その道理を知らず、重複するが、“同一場所にあっても”、それぞれの心(靈)が違うならば“相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっている”、振動とは、またそれぞれの個の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とは、そういうものなのだ、ということを知れよ、である。

 次の文。
“故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである”

 先の解釈が理解できていたならすぐ解るとは思うが、“地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団”、これは“内分の相違によって”、個の心(靈)を構成、受信、感応、する振動によって、認識しえない、ということ。
またこれは霊的成長度の違い、その高低、と換言してもよいが、その“相違”があるが故に、“地上人”同士は心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でそれぞれの思惑を理解することもできず、互いの心(靈)の動きを理解することもできない、それを“内分の相違によって、感覚の対象とならない”と称され、これに続く“無いのと同様であることを知り得る”と述べられている理由と根拠は、“地上人”が霊的成長度の高低が解らない、それは個の心(靈)の“内分”に理解が無い、それを“観察と認識”する資質もない、といえる。
それは、霊的成長度の高低における区分け、今後=アセンション後においての区分け、これは“内分”によるものであるが、これの理解が足らない、さらに“内分”の理解が足らないからこそ移行しうる心(靈)の資質も解るわけがない、ということまで示唆している文言であると言いうる。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第十四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。 霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。 それは、地上に於ける場合と同じである。 太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる。  

 冒頭の文。
“霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している”

 これは先回の“霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧である”=“霊人”が“地上人”より神に近い、よって“構成するものが精巧”=高い振動、ということを示す表記、なのだと解釈した。 当然のことながら“霊人”の位置する場(フィールド)は“地上人にまして一段と光明の世界にあり”、そして“地上人”にもある“霊体”より“一段とすぐれた霊体を有して”と称されている。 ちなみにこの文言は“その五”で解釈する文言にかかるものである。

 次の文。
“霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。 それは、地上に於ける場合と同じである”

 この文言中の“太陽”は天体としての太陽ではなく、日足(ひたり)の極性、そして“太陰”は砌(みぎり)の極性を指すものであり、この二つの極性により“霊界”であっても“地上に於ける場合”であっても“事物は総て…中略…太陽と、太陰とによりて生れてくる”ということが述べられているが、これは二つの極性があるが故に一切の“事物”があり、現津(あきつ)、観察され得る事象があり、生命(生きる使命=存在理由)があり、“創造”があり、ということが指摘でき、これら一切の根拠と理由が二つの極性所以のことなのだ、ということである。

 次の文。
“太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる”

 この文言に関しては、第十三帖“その一”の
“ + (真善) ✳ (真善美愛) ✳ (歓喜) 
地震13大歓喜 (大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり”
この解釈で述べた磁束の多様性、それは磁束による“上”からの振動の取り込みと、それを増幅して発信する円形加速粒子器の構造、いわゆるオーラの発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、一切の生命には息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)があり、それはオーラと観測され得るものである。 
そして“上”からの振動の元たることは、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹、オーラであり、またそれは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、それを取り込んでいるのが一切の被造物である生命(生きる使命=存在理由)であり、心(靈)であり、その被造物自体が持つ磁束で“上”からの振動を取り込んでいるが、それを磁束の交叉による円形加速粒子器の構造により息吹、オーラとして、他の被造物に影響を与えているものであるが、これらを
“太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜”
これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を取り込んでいる様を示し、
“その生れたるものは更に一層の光輝を放ち”
というのは、被造物同士の息吹による影響、これを示し、結果このことは“創造”の“主(ヌシ)”の振動が“更に一層の光輝”となり、これが“弥栄”なのだ、の意である。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地震の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 “その三”



  今回も、地震の巻 第十四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

多くの地上人は、霊人を知らない。 霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。 但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである。 地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。 例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。 つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。 所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。 しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。 

 今回解釈する文言も、先回先々回と述べた通り、“霊人”と“地上人”、このそれぞれが位置している、そう認識している場(フィールド)、それは“霊界”と“地上人”の世界、現界、と言ってもよいだろうが、そこにおけるそれぞれの認識の相違、“霊人”という段階における現津(あきつ)、観察され得る事象、そして“地上人”という段階における現津(あきつ)、観察され得る事象、ということを理解して読み取らねばならない。

 冒頭の文。
“多くの地上人は、霊人を知らない”

 これに関しては、まず一つ目として、お前たち“地上人”が“霊界”や“霊人”のことを知らなさすぎる、そしてお前たち“地上人”の段階の個の心(靈)は、その実相を認識する資質もないからこそ、先回の
“霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくる”
そして
“また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである”
こういう通信手段と“霊人”の認識が“地上人”に伝えられていく過程において、お前たち“地上人”の認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、そしてこの事をよく念頭に置いておけ、ということでもある。
 二つ目は、先に述べた“地上人”が“霊界”や“霊人”のことを知らなさすぎる、これがお前たち“地上人”=平均的地球人の認識である、という意味合いである。

 今解釈した事柄は次の文で述べられている内容に続いている。
“霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。 但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである”

 “地上人”が“霊界”や“霊人”のことを知らなさすぎるのと同様に、
“霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しない”
のであり、これは“霊人”の認識由来のこと、“霊界”中心の“観察と認識”しかしていない、自分たちとは違う世界が“地上人”の世界、という認識であるということであり、なぜ“地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在する”に関しては、これに続く、
“霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない”
これは“物質地上世界”が“霊界を物質的に表現した”事象ではあるのだが、“霊人”は“霊界”中心の“観察と認識”しかしていないがために、
“霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない”のであり、これは“地上人”の段階の個の心(靈)が“観察と認識”している“地上世界”は、“霊界を物質的に表現した”事象であることを述べているが、“霊人”は“霊界”中心の“観察と認識”をしているが故に、“霊界を物質的に表現した物質地上世界”に対して、“反対に”“物質地上世界のあることを中々に理解しない”ということが述べられている。  
 そして、ここまで述べられていることに相対して
“但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶している”、
これは“死後の霊人”のケースならば、という意味合いであり、いずれ“生後”生きていた間、“地上人”の段階のことに対し執着を捨て去って“霊人”となるが故にこう述べられているに過ぎない。

 それで、ここまでの文言は冒頭で述べた通り、“地上人”と“霊人”の“観察と認識”における現津(あきつ)、観察され得る事象の違いゆえの、それぞれの認識の相違、ということであり、さらに次の文では“地上人”の認識について述べられている。
“地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。 例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。 つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである”

 “地上人”がその段階の“観察と認識”において思うことには
“地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっている”
だからこそ
“霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるため”
そして
“霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考える”
こう指摘されているが、その認識は低い、間違っている、ということ。

 その低い認識と間違いを正すために、次の文。
“所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。 しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう”

 これは先の
“地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在する”
“霊界を物質的に表現した物質地上世界のあること”
これが“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、この構成の要素と言え、だからこそ
“実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない”、
これを知っておけよ、であり、換言すれば、“霊界”主体の“地上世界”“物質界”であるということであり、もう一つ言い換えれば、心(靈)は思惑、日足(ひたり)の極性、“霊界”はそういった事象、そして“地上世界”“物質界”は、砌(みぎり)の極性で、現界の事象への顕現、であり、これは“創造”の“主(ヌシ)”が思惑と顕現であるが故に、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であることを感じさせ得るものでもある。 


“創造”の意味と意義 

 そして“地上人”向けに述べられている“日月神示”、何を伝えようとしているのか、その目的の一つとして
“霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証される”
この文言中の“それを構成するものが精巧である”これは“霊人”が“地上人”より神に近い、よって“構成するものが精巧”=高い振動、ということを示す表記であることを指摘出来る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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