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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その九”



 先回告知したように、今回は第十六帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べることとする。 
 それで第十六帖は“その六”で述べた以下の意味合い

“一”、“創造”の“主(ヌシ)”、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”からの振動、それを生命(生きる使命=存在理由)が受け取った際には“直接内流”

これを中心に述べている文言であり、今回はその観点で第十六帖の文言中の“一”、“直接内流”に関する事柄をピックアップして、“二”“三”に関しても解釈をすることとする。

 第十六帖の冒頭では以下のように述べられている。
“考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである。 この内奥の自分は、神につながっている。 故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。 其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある”

 この“考えること、意志すること”その結果としての=現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現としての“行動すること”、その根本は
“肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである”、そしてそれは“内奥の自分は、神につながっている”
と称されている。
 これはほとんどの“地球人”が考えたことが無いことであるといえ、なぜそれを考えられないのかは、自分は自分、神は神、別々である、という自我主体の考えが台頭しているからだと言いうるし、神が
“自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うている”
などということを知り得ないからだといえる。 

 だがこれがたった今の地球人、“地上人”が知り得ない実相であると言いうる。

 だからこそ人間は動物より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“一”=智性=1番目のオーラを発現し、智性(神性)由来の認識、例えば“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す、幸福の概念をもつ、神の概念を持つ、自分の存在の意義を見出そうとする、などの心(靈)の動きを持つこと事態がある程度動物より進化を果たした証明とも言いうる。

 それゆえに
“内奥の自分は、神につながって…中略…自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うている…中略…其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある”
自分たち、それは“地上人”に対し、お前たちの“内奥の自分”は“現実界への営みを神がなし給うている”と述べられ、だからこそ“人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質”であり、またこれは一切が神、であり、お前たち“地上人”も“内奥の自分”これは“直接内流”によるものと換言出来得るが、そういった存在である、それが生命(生きる使命=存在理由)であるということ知れ、の意味合いである。

 そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”であるからこそ、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるというのが以下の文言である。
“人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、即ち肉体をもち、霊界に入った時はそれに相応した霊体をもつ。 そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である。 大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、又内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない”

 この“完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である”に関して、この文言の前で以下のように述べられている。

“肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。 霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。 また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。 霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。 この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である”

 この“二つのうごき”、“想念”と“情動”これは“想念”が日足(ひたり)であり、“情動”は自分自身をも含めた事象に対して何かを為す、あるいはよい形を求めるための心(靈)の動きと言える…少々表現が陳腐な感があるが、要は“想念”と“情動”は“その六”で述べた

“二”、日足と砌(ひたりとみぎり)、“二義的”な事象

“内奥の自分”の“二義的”な事柄と言いうるし、また“歓喜”は日足(ひたり)、“弥栄”は自分を含めた一切の事象への顕現であるといえるから、砌(みぎり)であるといえる。

 そして“直接内流”と“想念”と“情動”これは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を止めるからこそ、であり、神が在る、その存在が根拠ゆえに、個の心(靈)には“直接内流”と“想念”と“情動”があり、“歓喜”と“弥栄”があるのだといえる。

 そしてそれは以下の文言でまとめられている。
“表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。 其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである”

 この“表現極めて困難なる神秘的二つのもの”、これは“直接内流”と“想念”と“情動”、あるいは“直接内流”と“歓喜”と“弥栄”と解することが出来、それは“創造”の“主(ヌシ)”から観たら“二義的”というよりも、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹を“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命が自分の心(靈)に止めたなら“直接内流”と“想念”と“情動”、あるいは“直接内流”と“歓喜”と“弥栄”となり得るのだ、そしてそれは、“一”、“直接内流”に対するも日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性といえるのだ、と解することが出来、それは一切の事象に顕現するから“三つの現われである”と称されている。
 そこに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命としての人間としてのお前たち“地上人”は、“人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有している”、これをよく自分自身の認識としておけよ、という意味合いの文言である。

 次回は第十八帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べる。
今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その八”



 先回告知したように、今回は第五帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べることとする。

 今回取り上げる第五帖の文言は以下の通り。
“天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである。 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である。 しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである。 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である。 生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては○ である。 ○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、 ローレンツ力 と集約される”

 第五帖は、先回も取り上げた
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である”というように、一切が神である、ということから始まっている。

 それで今回ピックアップした上記文言中には“思念すること”の表記があり、これは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と換言することが出来得る意味合いを示すものである。
 その“思念すること”により、“二義的”である“既に無き地獄”、これを“自らつくり出し、生み出す因である”、と称され、これは“天国や極楽があると思念する”個の心(靈)が“観察と認識”している事象であり、自分の心(靈)の動き、息吹=“思念すること”により、事象の“創造”をする、それは自分の心(靈)の中に“映像”されうるのであり、これ自体に対し“自らつくり出し、生み出す因”と述べられている。
 これこそが、現実、現津(あきつ)、観察され得る事象、自分の心(靈)に“映像”されているそれの“因”(もとたること、事の起こり、もとのままに従う、もとづく、ちなむ、由来する、わけ、理由、などの意)であることを“地上人”は知り得ないし、この文言そのものは“天国や極楽があると思念する”という程度の低い霊的成長度の個の心(靈)に対する言い回しでもある。
 しかしながら“思念すること”による事象の“創造”、これは“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の生命に共通することである。
 それで重複するが、“思念すること”これが一切の事象の“創造”の“因”であることをお前たち“地上人”は知らねばならず、なぜそれを知って認識(悟り、幸取=さとり)とするのかについては、
“本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する”
これは“思念すること”による“因”が、“二義的”な“創造”をする。
 そして“二義的”なそれ、
“地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである”
この“地獄”と“天国”、そして“善”と“悪”、片方だけではそれを認識しえない事象を“生ずる”“生み出す”とされており、これ事態が
“一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である”
“創造”の元たることとして“一あり”、これを“思念すること”により“二と分け”、それは“二義的”な事象であり相対するものであるから“はなれて”と称され、これらを含めたものが“三と栄ゆる”、この“三”は“その六”で前置きした以下の意味合いである。

“三”、“一”と“二”の意味合いが加わった何か、あるいは個の心(靈)が“観察と認識”している“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命、“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の個の心(靈)が“創造”している事象そのもの

 そしてこの“創造”の過程、行程、“状態の変化”たること事態が、“創造”の“主(ヌシ)”を含む一切の生命に共通であり、これもまたフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であり、“一あり二と分け”は、“創造”の“主(ヌシ)”が日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を創った、生みだした、と言えることであり、それだからこそ“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、には、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が“観察と認識”され得るものである。
 そしてこの過程、行程、“状態の変化”があるゆえに、
“分けることによって力を生み弥栄する”
と称され、前後するが
“一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる”
のであり、それは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、=“三”であるから
“即ち、一は二にして、二は三である”
と称され
“尚それらの総ては○ である。 ○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、 ローレンツ力 と集約される”
これは“三”、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、が、個の心(靈)、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)で構成され、その息吹で事象は“創造”され、“歓喜”と“弥栄”のため、“上”からの振動の取り込みを自らの心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、そのローレンツ力 
ローレンツ力 で取り込み、“上”からの振動は自らの霊的成長度の高低において感応しうる“直接内流”であり神の思惑であるからこそ、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転“渦巻き 左回転  ”であり、さらにそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に向かうからさらなるローレンツ力の“状態の変化”となるので“ローレンツ力   と集約される”と称されている。

 それでここまで述べてきたことをしっかりし介したならば、第五帖の後半で述べられている以下の文言は理解しやすい。
“行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。 生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。 
ローレンツ力と ○   は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。 これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。 故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである”

 この
“これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ”
これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、のフラクタル(fractal)を示唆し、前後するが、
“ 
ローレンツ力と ○ は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られる”
これは“歓喜”が“直接内流”の取り込みによる“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性でしかないことを指し、これ自体が個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを示唆しており、
“これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである”
これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、意味合いが重複するが“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の生命、これを“三”と称し、その“根本”は、“一”“創造”の“主(ヌシ)”であるのだ、“創造”の“因”なのだ、の意である。

 次回は第十六帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べる。
 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その七”



 先回告知したように、今回は第三帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べることとする。

 今回取り上げる第三帖の文言は以下の通り。
“すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない”

 これは同じく第三帖の
“個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”
この文言にかかっており、それは“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、“弥栄”が、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、と相関であることを示唆しており、そして“観察と認識”しうるその対象物なり生命なり、すべてが神であるということを述べている。 

 このことを理解するには第五帖の以下の文言が解り易い。
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である”

これは、先の、すべてが神、ということを述べ、さらにそれは“創造”の“主(ヌシ)”とフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であることまでを、述べている文言である。

 また、今回取り上げている“一にして二、二にして三である”これは“一”と“二”と“三”が、それぞれ別のなにか、という意味合いの文言ではない、それは“にして”という言葉で示されている通り。 よって“一”“二”“三”は、フラクタル(fractal)を示唆している文言であることを理解しうるものである。

 それと“個の弥栄は、全体の弥栄……”に続く
“個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である”
“個の弥栄”そのものが、“個と全体、愛と真との差が益々明らかに”、これも一切の生命が“観察と認識”しうる事象においてのことであり、さらに“無限段階”における“全体は益々その次を弥栄する”のであり、これも“神律”であると称されている。

 これに続く
“霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである”
これは言葉通り、“霊界”と“物質界”は相関しており、またこの両者も“二義的”な事と言いうるし、その両者の“弥栄”は“大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆく”と称されている。 

 そしてこれに続く
“更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。 極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す”
この“映像”が、“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の生命であると言いうる個の心(靈)が観察しうる事象であり、その事象は振動の受発信、一切の生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されているものである。 それを“極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界”と称され、また“極内は極外に通じ”は先の“霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている”と同義であり、ここで大事なのは、その事象自体も、事象を“観察と認識”している一切の生命も“ 
渦巻き 左回転 を為す”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転日足(ひたり)回転が表記されていること事態も“神律”の一端と言いうる。

 そしてそれは今回取り上げている文言を含めた以下の文言に続く。
“すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。 かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  
渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である”

 この文言中の
“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る”
そして
“太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給う”
これは、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えた艮(うしとら)の金神が伝えたいことのひとつであると思える。
 そして
“ 
渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”
この“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転“
渦巻き 左回転  ”日足(ひたり)回転、これが“更に”そして“新しき総て(新しき一切の事象、そして新しき一切の生命)は、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”、これも一切が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくことと、“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切が、“大完成に向って進みゆく”という“神律”の要たることを述べている文言であると確信する。

 次回は第五帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べる。
 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その六”



 今回は、地震の巻で幾度か登場している表記の“一”“二”“三”について私見を述べることとする。
 それで、これから数回に分けて取り挙げる“一”“二”“三”は、以下の意味合いを持つもののみをピックアップしている。 このことを最初に断わっておく。

“一”、“創造”の“主(ヌシ)”、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”からの振動、それを生命(生きる使命=存在理由)が受け取った際には“直接内流”

“二”、日足と砌(ひたりとみぎり)、“二義的”な事象

“三”、上記“一”と“二”の意味合いが加わった何か、あるいは個の心(靈)が“観察と認識”している“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命、“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の個の心(靈)が“創造”している事象そのもの

 まず、第二帖の以下の文言。
“ 
ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。 一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない”

 この場合の“ 
ローレンツ力 について”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を“直接内流”として受け取り“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)している様が、心(靈)を指す霊=○、荷電粒子の場(フィールド)で示されているので、“○ に於ては二となり三となり得る”である。
 その、“一”=“創造”の“主(ヌシ)”の振動、思惑、これを受け取れる(感応する)資質は霊的成長度の高低によることを幾度となく述べてきており、それは“地上人”、これは動物よりも進化していると注釈を入れると解り易いが、だからこそ“地上人”は事象の“観察と認識”において“二”=“二義的”なものを見出しており、またその“地上人”が見出す“二義的”な事象は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕現であるといえ、またその極性の顕現“二”と“創造”の“主(ヌシ)”の思惑“一”とがあいまって“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出すものであるが、これを“地上人”が見出す、そのこと事態を“三”、この文言の場合“○ に於ては二となり三となり得る”と称されている。

 この“創造”の“主(ヌシ)”を含めた一切の個の心(靈)の“観察と認識”においてこそ、“一は一のみにて一ならず”、これは“創造”の“主(ヌシ)”単体では“創造”の“主(ヌシ)”になり得ないし、“創造”の“主(ヌシ)”を“観察と認識”しうる“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命があるからこそ“創造”の“主(ヌシ)”であるの意であり、“善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない”は、“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命が見出す日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“二義的”なことがあってこそ、“善”“真”を見出せるのだ、の意味合いである。

 それで、同じく第二帖の後半で以下のように述べられている。
“一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである”
 これは先の“ 
ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。 一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない”これを強調した言い回しであり、“一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなす”、この文言自体が“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命の事象の“観察と認識”を指しており、“地上人”の低い認識における“二義的”な“分類”と“形式”を当ててみても、お前たち“地上人”が知らねばならないことは
“みなこれ歓喜する歓喜の現われ”
であり、これに続く
“生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える”、
これはフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)を指している文言でもあり、さらにこの“生み出し”は、“歓喜は神であり、神は歓喜”の所作に相当し、これを“創造”の“主(ヌシ)”以下の個々の心(靈)が“分類”と“形式”として認識している。 
そしてそれは“歓喜”であるがゆえ、第一帖の
“只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは 
ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転  なるが故である。  ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体であり、 渦巻き 左回転 はその用である”
この文言中の“ 
ローレンツ力と ○ ”は“直接内流”を受け取る個の心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力を指す“ ローレンツ力 ”の表記であり、これ事態が“創造”の“主(ヌシ)”以下の生命を指している。 だからこそ“それは ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。 ローレンツ力と ○   は大歓喜の本体であり、  渦巻き 左回転 はその用である”と称され、この“善(神格化の方向性と智性の受信)”の日足(ひたり)回転“ 渦巻き 左回転 ”となっていくのが“その用”であることを“地上人”は知るべきである。

 次回は第三帖の“一”“二”“三”の表記について私見を述べる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その五”



 今回も“観察と認識”における“二義的”、そして“地獄”の表記について私見を述べることとする。

 われわれ“地上人”は言うまでもなく神から程遠い、それゆえ、“神律”という文言を観ても、理解できるはずがないが、地震の巻ではこの低い霊的成長度の“地上人”の個の心(靈)に“神律”の一端を理解させるべく“平衡”という文言を使っている。

 最初に“平衡”の表記が登場するのは第三帖の以下の文言である。
“地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである”

 この“大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれる”、
 これが
“地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを(“地上人は”)知らねばならない”
のであり、だからこそ
“この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである”
と称されている。
この文言の解釈が肝要で、“この平衡の上に”という言い回しは、“平衡”をしっかり認識した存在でなければこういう表現は出来得ないし、当然のことながら現地球人“地上人”には“平衡”が解らないから、二義的な事、“過去”と“現在”と“未来”、“生”と“死”、“善”と“悪”、“真”と“偽”、“美”と“醜”、“愛”と“憎”、これをそれぞれ別のものと捉えて考えるのであり、それは第七帖の
“悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤って”
であり、第三帖の“地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われである”ということを理解する資質が無いといえるが、大体、霊は無いとか死んだら何もないとか思う人間が多いたった今の事象で、これを理解しうる人間があまりにも少なすぎる感はある。

 話を戻し、“神律”の一端である“平衡”がある故に、第五帖では
“要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ”
この“真相を知らねばならぬ”のは、今後=アセンション後に移行すべく“地上人”であるといえる。

 さらに第十五帖では
“所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである”
そして
“神は、左手にて 
左手 地震15  の動きをなし、右手にて 右手 地震15  の動きを為す。 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。 この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。 その平衡が、神の御旨である。 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。 左手は右手によりて生き動き、栄える。 左手なき右手はなく、右手なき左手はない。 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。 新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである”
と称され
第十七帖では
“地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。 しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。 大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである”
この“第三者”は、先の“平衡”を認識して事象の“観察と認識”をしている個の心(靈)であるといえるし、文末の
“大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである”
この“大神は大歓喜であり、人群万類の生み主”、“創造”の“主(ヌシ)”と言えるが、その“大神の中に、すべてのものが生長している”そしてそれは“ため”、理由と根拠であるが、それゆえに、“その用”“御用”があるのだということを、われわれ“地上人”はしっかり認識すべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その四”


 今回も“観察と認識”について述べることとする。

 先回は、程度の低い個の心(靈)である“地上人”が“二義的”な何かを事象に見出したなら、そこで自分はどう在るべきか考えるべきである、そしてその考えを活かして自分は“地上世界”という場(フィールド)に存在すべきである、ということと、その考えを活かす、活かして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する、このこと事態が“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、における“神律”のその一端であり、これを“地上人”はよく自分の認識とすべきであることを述べた。

 今回からは“二義的”な事にとらわれている“地上人”が、思い描く意の想像、をする、そしてその想像による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、事象の“創造”となるが、そこにおける“善”と“悪”、そして“真”“偽”“美”“醜”“愛”“憎”、またそれに関連することとして地震の巻に幾たびか登場した表記の“地獄”について述べる。

 まず、第二帖では以下のように述べられている。
“生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。 偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。 この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する”

 これは“生存時”、いわゆる“地上人”が“死後”に移行した際のことを述べているし、“生存時”の生き方において“偽りのなかった”と“偽りの生活にあった”、この違いを述べている。
それで、後者の場合は“地獄的暗黒に自分自身で向かう”、これは自分に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認した、容認する理由は自分の都合しか考えない心(靈)の息吹であり、その心(靈)の動きが“地獄的暗黒に自分自身で向かう”、その結果として“生存時に於ける、あらゆる行為が清算される”、これ事態は自省(胸の磁性“十”)の“行”である。
だが、上記文言の要旨は、その際の“霊人”の息吹は“悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する”、これは“霊界”に“地上世界”のような時間の進行が無いから、その息吹は“地上世界”における個の心(靈)の既成概念では理解しにくいが、消えることがなく“地上世界”と“地上人”に影響を与えることを示唆しているし、これもまた先回取り上げた“その用”“御用”である。

 これに関しては第七帖の以下の文言が理解しやすい。
“霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。 また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。 しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。 その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。 故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである”

 これは“霊界”と“地上”との相関を述べており、“地上”の事象の“原因”たることが“霊界”にあるのだが、そこに“これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されている”ので“霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。 また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない”と称され、もし仮に“そのまま”“地上”と“霊界”に“結果”したならば、そこには“秩序、法則”がないと読み取れるが、なぜ“秩序、法則”があるのかは“総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって”であり、これが先回取り上げた“神律”の一端であることをお前たち“地上人”は知らなければならず、“歓喜によって秩序され、法則され、統一されている”からこそ“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、“弥栄”しうるのだと読み取るべきである。

 だからこそ今取り上げた第七帖の文言の後には以下のように述べられている。
“これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。 しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。 生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである”
 
 この“生命の本体”そして“生きたる真理の大道であり、神の御旨なること”、これも“神律”の一端を換言した言い回しである。

 そしてそれは“地上人”が思う“地獄”などという既成概念には該当しないことを
“本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。 これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である”
この文言の“生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜”そして先に述べた
“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、“弥栄”しうる、
そして
“生命の本体”さらに“生きたる真理の大道”“神の御旨”、
という文言に、“地上人”である程度の低いわれわれ個の心(靈)は、“神律”の一端をうかがい知ることが出来得るのだ、と、言いうる。

 次回も“観察と認識”における“二義的”、そして“地獄”の表記について私見を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。


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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
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出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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アセンションを見誤る

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太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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目上(めうえ)と目下(めした)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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日足(ひたり)と砌(みぎり)


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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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