今回から 天つ巻の解釈に入りまんねん。まず第一帖の原文は、以下の通りでんねん。
二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。
五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。
一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、
天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、
天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、
天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。
の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。
八月の三十一日、一二のか三。
冒頭の文、
“二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。
五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。”
この“二二”は、富士の巻でも言うたけど、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことやと思われる。
“晴れたり日本晴れ”については、以前作った画像を以下に貼っておきまんねん。
ほんでから“二二に御社(みやしろ)”って言うのんは、“社”って言う字が、示す偏(へん)と土で構成された字やから、肉体のことを言うてる。
このことは前のブログで先生と話したことや。
ほんでから“御社(みやしろ)してこの世治めるぞ”って言う言い回しは、やはり、富士の巻の続きみたいなもんで、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があって、神さんの思惑を取り込んだ人が事象の“創造”をしていくってことを指した言い回しでもあると思える。
ほんでからこの文の“五大州”…通常、五大州って言う用語は、アジア大陸、アフリカ大陸、ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸.を指す言い方やけど、その意味もあるかもしれへんけど、ちょっと違うかもしれへん。
五は、糸巻きの象形文字。進化した生命が持つ複雑な神経。それはコイル状になる。
大は、“一”=智性=1番目のオーラと、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
ほんでから州は、中州(なかす)、川に囲まれた陸地って言う意味がある。
そやから富士の巻でよく出てきた表記の、海、川、河、江戸、エドなど、それらはすべて腹の水を指し、そやから体液中にある臓器として、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)を構成するコンデンサーとしての役割を持つ臓器としての、“五臓”(心・肺・脾・肝・腎)なのかもしれへんな。ほんでからチャクラは、心(靈)の動きそのものに関わるものでもある。
そやからこの“五大州”が、臓器を示す表記やったとしたならば、“五大州ひっくり返りてゐる”の意味がとても通じやすい。
人(日止、霊止)の心(靈)の動きって言うのんは、心と肺、アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが支配すべきで、腹の臓器、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ由来の心(靈)の動き中心の行動って言うのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になるから、それは神さんが望んでいる人(日止、霊止)の良いカタチではないからこそ、“ひっくり返りてゐる”ってことなのかもしれへん。
要は、今の事象は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してて、それは、“上”の思惑とは違うって言う意味のこと…Kellyさん的にはこの解釈の方が妥当やと思う。
ほんでから、次の文。
“一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、”
これは言うまでもなく、“一二三”のオーラのことで、それぞれ1番目、2番目、3番目のオーラに、“上”の思惑を足した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしろっていうことやから“まつれ”って言われてる。
ほんでから次の文。
“天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、”
“天”は、“上”からの荷電粒子。
“地”は、地磁気、“下”からの荷電粒子。
人(日止、霊止)の肉体は、頭から尾骨まで、一個の電磁石と考えればいいし、その磁束によるローレンツ力で、“上”と“下”からの荷電粒子は回転をする。
それは円形粒子加速器の構造を持っているってこと。そしてその荷電粒子の回転は、霊=
、荷電粒子の場(フィールド)を構成する。それそのものが心(靈)でもある。
そして肉体には、頭、胸、腹、それぞれ内容の違うコンデンサーの構造が観られる。そやからこそ1番目、2番目、3番目のオーラのオーラは、振動の高低がある。
そしてそれは、“下”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程の低い段階の心(靈)から言えば、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。
そやからそれは、“上”からの荷電粒子に対する感応共振は、智性(神性)になるけど、“下”からの荷電粒子に対する感応共振は、生きるために必要な、肉体の存続のために必要な、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの強化になることを指し示した文章やと思われる。
要は、“上”も大事、“下”も大事、“上”と“下”が調和した漢字が、“正しい”ってことでもあると思える。
ほんでから次の文も今言うたことと同様の意味やと思われる。
“天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、”
“上”からの思惑は、人(日止、霊止)の智性(神性)になり、“下”からの地磁気は、肉体の存続と強化になり、“下”のエネルギーがなければ、三つのコンデンサーの構造を持つ肉体はコンデンサーが直列につながっているからこそ、3番目のオーラ、荷電粒子の回転は“上”に昇り、それは日足(ひたり)回転して昇るからこそ、大日如来の条帛(じょうはく)のように昇る。
また回転して昇る理由は、肉体に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があるからでもある。
そやからそれは“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
そしてそのエネルギーの上昇は、心(靈)の動きとして、自我から、“慈悲”と“慈愛”の発現になっていく。今まで言うてきた心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程そのもののことを言うてる文やと思われるな。
そして次の文も今言うたことと同様のことを言うてると思える。
“天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。
の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。”
“天の御神、地の御神、手をとりて”って言うのは、“上”からの荷電粒子と“下”からの地磁気の影響を受け、自分が持っている“下”のエネルギーは昇華して、自我から“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)の発現に至ればそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではなくなる。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、それを人に望んでいて、そやから今の事象より、相対的比較として“うれしうれしの御歌うたはれるぞ。”っていわれてると思えるな。
ほんでから“
の国は神の国、神の肉体ぞ”って言うのんは、富士の巻 第一帖でも言われてたことと同様で、肉体の磁性が持つローレンツ力と、ローレンツ力由来の荷電粒子の回転が、霊=
、荷電粒子の場(フィールド)を構成している。
この文の“国”って表記は、((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す。これも前のブログで先生と話したことであり、人が“玉(ぎょく)”になるって言うのんは、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をしていくことでもある。それが真に価値のある宝=體(骨が豊か、宝のアナグラム)でもある。
そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込む仕組みそのものが、
、霊=
、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力でもある。
そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んで今後=アセンション後の“創造”をしなければならないからこそ、神の“思惑の顕現”=現象化をしていく使命を“日止、霊止”が持っているからこそ“神の肉体ぞ、”って言われ照ると思える。
ほんでから“汚(けが)してはならんとこぞ。”って言うのんは、霊=
、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組みでもあり、肉体が持つ霊的成長の秘密でもある。
そやけど現時点の地球は、自己奉仕者の心(靈)の動きで、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになっていて、だからこそ大半の人がたいして認識を得られずに死んでいく=幸(“夭と屰”(ようとげき))の反対になっている。そしてその恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こす霊的存在は、右回りの荷電粒子の回転でもある。それを心(靈)の動きで言い表せば、脾=“思う、憂う”→肝=“いきり立つ心(奴と心)”→腎=“恐れ”(本能)ってことになり、そしてそれは、自我って心(靈)から“下”に向かう心(靈)でもある。さらにそれは、仏教で言えば、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)って心(靈)の動きになる。
そやからその霊的干渉と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない自分を確立せよって言う意味で、“
の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。”って、強調して言われてると思えるな。
今回はこれくらいにしときまんねん。
前回で、富士の巻 全二十七帖の解釈を終えて、Kellyさん自身が富士の巻全体に感じた印象は、まず “創造”の法則性、それは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と人の心(靈)の在り方。
それは、“上”の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなければならないこと。それ自体が“創造”の法則性であること。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程において、“創造”の段階は違う。
だからこそ、今、醜い事象になっていて、それは自己奉仕者の活躍による“創造”が中心。
そして自己奉仕者中心の“創造”の段階から次の段階は、当然、現津(あきつ)、観察され得る事象も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するべきであるからこそ、自己奉仕者の心(靈)の動きを顕現しない=内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に囚われることのない人(日止、霊止)が活躍する事象になるべきでもあるし、それが神の計画としてのアセンションでもある。
富士の巻は、そのことまで指摘している文章やったっていうのんがKellyさん的な感想でもあるけれど、その点で、富士の巻の中で印象に残った文を、以下に列挙しまんねん。
まず、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す表記として、第一帖の“元の道は一つぞ”“元の道は初めの道、神のなれる道、”“神のなかの
なる初め、
は光の真中
は四の道、”って示されてた。
その詳細は、もう一度、富士の巻 第一帖のKellyさん的解釈を読んで欲しいねん。
ほんでから第四帖では、“一”=智性=1番目のオーラが発現した生命(生きる使命=存在理由)が、神の思惑を取り込んだ世界の“創造”を行っていく。そのことを示した文が、次の文、“一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、”であると思える。この文の“一二三”は、1番目、2番目、3番目のオーラのことを指し示してる。
ほんでから、第五帖では、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、ローレンツ力による“上”からの荷電粒子の取り込みが無ければ、成しえないことを説明している。
余談やけど、そのことを先生は、“改”で、進化に対する自分の解釈を説明している。そやけど、Kellyさんが主役のこのブログで生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程にまで言及してたなら、とても長い文章になるから、それは省きまんねん。
そやから、第五帖の文の要点は、“
ばかりでも何も出来ぬ、
ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、”…で、これは、この事象の“創造”は、“日止、霊止”の心(靈)=
と、神の思惑の受信=ローレンツ力
によって成り立つってことを言うてる。
そして、同じく第五帖の文の中で、今後=アセンション後のことを指している表記、“それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。”って言われてる。
そやからそれは、さっきも言うた様に“上”との感応共振をして、今後=アセンション後の事象を創造する。それを強調した言い方でんねん。
ほんでから同じく第五帖の次の文も、“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の中の“上”と“下”を自分の智性(神性)で見出して、そして“上”との感応共振を指すことを言うてる。
“今度の行は
を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。”
この文の表記の“よき御用”は、言うまでも無く、アセンション後(神の思惑が現時点より顕現する世界)の“創造”を担う資格を持った“日止、霊止”を指した表記でんねん。
そして第八帖にも、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記がある。 それは、“神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。”
この文にもある“祀り”と“祭り…この表記が出てくるたびに毎回のように思うことやけど、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記の“祀り”、そして“上”の思惑を取り込み、自分の思想として、その上で行動することの意味である“祭り”、これはとても重要な意味を持つ。
そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑=上から注がれる荷電粒子を生命が取り込んで進化するって言うのんは、生命が神さんに近づいていくことでもあるし、神さんに近づき、神さんの思惑を自分の思想に出来る資格は“一”=智性=1番目のオーラの大きさによるし、そして今、自我の肥大=土=2〜3番目のオーラの進化過程だからこそ、ある程度智性(神性)を発現した人がこの世界を観れば、おかしくなっていると、感じ(感じる磁性)る。
ほんでから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“上”の荷電粒子との反応と取り込みっていえるからこそ、何回も言うて来た肉体組織の結晶化、それは骨が重要でもあり、だからこそ、体の旧字である體は、骨が豊かで、それは、宝のアナグラムでもある。
そのことを示す文章として、第十二帖では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の事を言うてる。 それは、“いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、 今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。”…この“軽石”って表記がとても大事で、そやから軽石のような骨って言うのんは、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)できない。
だから、“軽石”の進化程度の人は、骨がダメで、それは生体内電流の強化=“行”と“修行”による灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)の、結晶化=真固止(まこと)ではなく、真固止の骨になっていない人は、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない。
その霊的成長度の人は、低い霊的存在との感応共振をして、自己奉仕者になる。そして低い霊的存在って感じ(感じる磁性)る霊は、低い進化過程のまま死んだ浮遊霊でもある。だから、同じ心(靈)の程度同士は、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し合うってことなんやけど、その分析が一般に無さ過ぎるな。
まあエエわ。このブログをしっかり読んではる人は、なんとなくそのことは理解できるやろから。
ほんでから第十七帖でも、ここまで言うたことと同様の意味、“上”との感応共振をすることが大事って強調している。
“臣民の身も神の宮となりて神まつれ、祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、”
ほんでから、今現在の地球人の進化過程=霊的成長度=愛(炁)の顕現の程度が、創造の法則から外れていることを指摘している文や表記もたくさんあった。
言うまでもなくそれは、今後=アセンション後の“創造”を神さんから託される霊的資格を得られないことでもあり、それは言い方を変えれば、人(日止、霊止)の心(靈)の在り方が間違ってまっせ〜〜って言われてまんねん。
さらに、今後=アセンション後に移行できない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対するメッセージ、その自己奉仕者の行いを、よく観て、認識しておけよって感じに受け取られる表記も多かった。
それらの表記も、以下に列挙しまんねん。
まず、第一帖の“どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、それが悪の深き腹の一厘ぞ。”
この“腹”って表記がとても重要。
言うまでもなくそれは、下三つのチャクラ、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)としては、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラのことでもあり、そこまでのチャクラの覚醒段階は、自我の確立=固定化であり、自我の肥大が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
ほんでから第二帖には、“言ふこときかねば一度は種だけにして、根も葉も枯らして仕まうて、この世の大掃除せねばならんから、種のある内に気つけて居れど、気つかねば気の毒出来るぞ。”
この文の要点は、現時点、人の心(靈)の在り方が間違っているからこそ、神の計画としてのアセンションが起きることを、強調されていると思える。
人の心(靈)の在り方の間違いを具体的に示した表記として、第三帖には、“学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。”って表記もあり、この文の“学と神力”は、知恵と知識を、智性で使ってないことを指摘している。
智性(神性)が発揮できた人(日止、霊止)の、事象の“創造”は、失敗の世界ではない(右往左往ではない)。
今後=アセンション後は、そういう世界になるのが当然であり、それは下つ巻に良く出てきた表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)も“学”を自分たちの低い欲望の達成のためにしか使わないって言う意味でもあるけれど、そんなふうに智性(神性)を活かさない“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をするのは、言うまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、それは良い世界の“創造”をするべき“日止、霊止”の“道”“理(ミチ)”からはずれてるから、“理(ミチ)”を屈するという表記の“理屈”って表記もあった。
そやからそれは、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考えなければ、良い世界の“創造”は出来ないって、当たり前のことなんやけど、智性(神性)の行使ができていない自己奉仕者=自我の肥大をした人は、貴い何かを自分の低い欲望の達成のために使う。
それは第二十七帖のKellyさん的解釈の途中で先生が言うてたこととして、実際そんな人がアセンションを題材にした本を書いたりもしてて、そんな本が結構売れてたりして、本を書いた人もその本を読んだ人も、真剣にアセンションのことを考えていないし…そんな事例を見れば見るほどほんまこの世界は腐りきっているって感じてしまう。
…話を戻し、そやからアセンションで分けられる霊的成長度における心(靈)の動きを、第四帖では“獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、”って示されてる。
言うまでもなく“獣”って表記は、人(日止、霊止)の進化過程において動物と共通の脳、目下(めした)の脳(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)であり、だからこそ、自我の確立=固定化、自我の肥大、それは、保身、本能と情動由来の低い幸福感、そして“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)にもなる。
ほんでから、第六帖には、現状の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してて、大概の人が霊的成長や神格化を見出していないって指摘されている。
そやからそれは、“今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるからよほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。”でもある。
また、今言うてたことと同様の意味で、第七帖にも、“悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。 今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、”って言われてる。
さらに、第十八帖では、現状の自己奉仕者が活躍している世界が理想とか正しいとか思ってる人に対して、あんたら間違ってまっせ〜って言う意味のこととして、それは霊的成長、神格化に向かうことの“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)ではなく、正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)方向性を見出せって言われてて、そやからそれは、こんなふうに言われてる。 “物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、理屈は悪魔と知らしてあろが、保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。”
そやから進化程度の低い人、その心(靈)の動きとしての自我の肥大は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで、自分だけの利益を増やす。そういう思いそのものが悪魔のささやきって認識が無い。
そしてその思いを助長するのは貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の浮遊霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で、それを示した漢字が广(まだれ)頭、思想の意味 + 左右の極性、木部、+ この世にあらざるもの、鬼で、それを縮めた表記が“魔”でもある。
このことは前のブログで先生と話したことでんねん。
そして進化程度の低い人を指摘した文として、第十九帖では、“四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、”とも言われてる。
ここまで列挙してきた富士の巻の文は、自己奉仕者は、アセンション後の“創造”を担うことは出来ない。アセンション後の“創造”を担うべき霊的進化程度は、真固止(まこと)、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であり、富士の巻には出てこない表記やったけど、それは、神さんの最後の段階の生命の創造でもある ○ 九 十でもあり、だからこそそれは、“日止、霊止”、日を止める、靈をとめるって“日月神示”の表記に表されている。
さらに、富士の巻では、自分の思想、現時点での地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程としての自我の確立=固定化、マニピューラチャクラ、そこに“上”の思惑を取り込む意味で、第二十帖では“江戸に先ず神まつれと、くどう申してあることよく分かるであろがな。”この“江戸”は、“江戸と尾張”で、それは、腹の水、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことでもある。
ほんでから、第二十一帖では、“山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。”って言われてて、このときに解釈したけど“山”=脳、“川”=腹の水、“野(ぬ)”は、以下の画像で示しまんねん。
ほんでから“里にも家”の“里”は“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と肉体を示す意味の土でもあり、事象の“創造”をする2〜3番目のオーラの発振、発信でもある。
ほんでから“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)って言う意味で、動物と共通の肉体の構造を持つ人(日止、霊止)には、頭がありまっせ〜って言う意味の表記で、いうまでもなくそれは目上(めうえ)で、人(日止、霊止)の進化過程は、智性(神性)の獲得と行使で、“一”=智性=1番目のオーラを発揮しろってことでんねん。そやからこの“里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。”って言うのも、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、智性(神性)由来の自分の思想を持ち、智性(神性)で“創造”をしろって言われてて、それが神の思惑としての創造の法則だからこそ“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)って言われてる。
ほんでから今の話の“上”との感応共振を、第二十二帖でも“まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。”とも言われてて、この文は、自己奉仕者が宗教や政治(まつりごと)を形骸にしたことまで指摘している。ほんでから自己奉仕者の心(靈)の動きである自我の肥大についても“慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。”って言われてる。そやけどこれを読んだ自己奉仕者の心(靈)の動きの人には、ピンと来ない解釈やろな。
まあエエわ。
ほんでから、第二十三帖では、霊的成長度に於ける認識の違いと、生命の存在の意味と意義は、神格化であり、誰もが避けて通ることができない“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるってことを言われてる。
そして今後=アセンション後に移行でき得る霊的成長度の人を指して“因縁のみたま”って称されている。
それは、この文、“因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、おそし早しはあるなれど、いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。”で、この文の“神の御用”は言うまでも無くアセンション後の“創造”であり、そのために、霊的成長度に於いて分けるから“選(よ)りぬいて引張りて居るぞ”って言われてまんねん。
さらに二十三帖に、霊的成長の道筋=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)として以下のようにも言われてる。
“早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。”
言うまでもなく“身魂磨き”は、“行”と“修行”により、生体内電流による肉体組織の結晶化。それは“上”の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を起こし、自分の思想が今後=アセンション後の“創造”に見合ったものになっていく。
それが“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。
そして、第二十五帖に、現時点での霊的干渉、自分の心(靈)の動きに対する霊的存在の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が、良くないってことを以下の文で指摘されている。
“大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。”
説明するまでもなくこれは、今、大半の人が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしている。そして自我の肥大=自己奉仕者に成り下がっている。
また、第二十六帖にも“向ふの悪神は今度は
の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、その積りでフンドシ締めて呉れよ、”と称され、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む存在の思惑を良く知ってくれれば、またそれは、本当の意味での進化を認識することにもなり得る。
ほんでから第二十七帖でも、今までの自己奉仕者の価値観では、今後=アセンション後の世界の創造には成りえず、仮にアセンション後でそんな心(靈)の動きをしたならば、間違いはすぐに正されるって言う意味のことまで言うてる。
“神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。”
要は、富士の巻は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と、自我の肥大は(“江戸と尾張”)、今後=アセンション後の“創造”を担う資格を持ち得ないことを指摘している。そのことを、平均的地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程である、自我中心の心(靈)の動きの人に伝え、人の認識を改め、そしてその認識を“一”=智性=1番目のオーラにしていく。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はそれを人(日止、霊止)に望み、そうなって欲しい…それを伝えた文章でもあると思えるし、そやから“富士”は、頭=宀(うかんむり、頭の意味)、“一”=智性=1番目のオーラ、口、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)が重なった表記が、富士の“富”であり、また“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道があることまで感じさせる文章やった。
そやからそれは、端的に言えば、“上”は人(日止、霊止)の霊的成長を望んでて、アセンションはそのために霊的成長度に於いて分ける作業であり、アセンション後に移行できる人(日止、霊止)を多くしたいから、富士の巻は書かれたのであり、“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)が表れた文章やとKellyさんは思いまんねん。
ほんでから“日月神示”の解釈、アセンションの情報を引用した本、サイト、そんなものはとても多いけど、自分の智性(神性)がしっかりしていれば、その真贋を自分で判断できるし、そのために“上”との感応共振をして智性(神性)由来の見方(“観察と認識”)をして欲しい…そのことまでかんじさせる文もあり、そやから、その“上”の思惑を、多くの人(日止、霊止)に解って欲しいもんでんな。
次回からの“日月神示”のKellyさん的解釈は、天つ巻に入りまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
今回も、富士の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。
神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、
九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、
これからはその場で引繰り返る様になるぞ。
誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、
神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、
早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、
鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、
どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。
江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、
今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。
それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。
秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、
臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、
神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。
八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終わりぞ。
この神示は富士(二二)の巻として一つに纒(まと)めておいて下されよ、
今に宝となるのざぞ。
八月の三十日、
のひつ九
。
冒頭の文、これはここまでKellyさん的“日月神示”解釈を読んではった人ならすぐ理解できると思う。
“神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、
九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、
これからはその場で引繰り返る様になるぞ。”
これまでは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が、活躍する世界やった。
そやけど、今後=アセンション後は、そんなことは許されんに決まってるやん。
そやから“神の堪忍袋 切れるぞよ”でんねん。
ほんでからそれはギリギリまでやらせておくって言う意味で“九分九厘でグレンと引繰り返ると申してある”って言われてまんねん。
そやからそれは、今までの形骸の価値観、形骸の名誉、形骸の地位、そしてたいしてエネルギーを贖う(あがなう)でもなく、たとえばそれは、霊的成長の段階として低い段階の芸能界とかプロスポーツとかに付加価値を付けて(通貨としての)金を動かしたり、きれいな石ころに付加価値をつけて商売したD社とか(これに付いては、春に発売予定の<4>をお読みください)、金のために政治家になったとか医者になったとか、ファッションとかブランドとか美容とかエステとかグルメとか、現世利益の宗教とかアセンショングッズとかパワーストーンとか、薄っぺらいおかげ話とか感謝って言葉を多用して見せ掛けの癒しや見せ掛けの愛を語るとか…すべてその裏に(通貨としての)金に対する執着があり、その価値観で大半の人は動いている。
それがこの文の表記では“臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ”って言われてる。
そやからこそ今後=アセンション後は、(通貨としての)金の無い世界になるって“日月神示”内で何回も言われてる。
そして今後=アセンション後は、自分がエネルギーを贖い(あがない)、自分と他者に奉仕する。それは進化過程として“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の動きがこの世界の“創造”に関わるからでもあり、ただ単に今までは、自我の確立=固定化と自我の肥大って心(靈)の動きによる事象の“創造”が行われてきたってことでんねん。
ほんでから自己と他者に対し、たくさんのエネルギーを贖い(あがない)、形骸の名誉や地位や(通貨としての)金などに心が惑わん人。
それはS会=紫光会の経文(四空經録)の言葉を引用すれば“世為人為 陰徳普及”、また“陰徳溢身”でもある。
ほんでから、“これからはその場で引繰り返る様になるぞ。”って言うのんは、これまでの地球人の平均的進化過程は、自我の確立=固定化に於ける自我の肥大(“石屋の仕組み”になる心(靈)の動き)でもあったけど、もうそんなことは許されんって言われてるだけでんねん。
言うまでもなくその許されん段階に入るのが、神の計画としてのアセンションで、アセンションにはタイムスケジュールがあるからこそ、こういう言い方をされてまんねん。
(S会=紫光会の経文については、全文を公開するつもりはありません。その理由は、なんでもネット上に公開されたものをただ利用だけしようとする輩が多いからでもあります。
また、最近、ただ興味本位で、見たいから見せてくれなんて要望を聞いたからでもあります。
それは、貴い何かの価値を見出せず、自分にとってのそれはただ興味があるからとか、商売に利用できそうだとか…そんな発想をする人が、ネット上にも世間にも多数いらっしゃるし、この記事の本文にあるとおり、この世界は、自我の肥大により創造された事象だからでもあります。
そして貴い何かを利用するだけの輩の一例として、T霊媒=竹内満朋やローム太霊のことを商売に利用し、ゴーストライターにアセンションの情報を利用しただけの本を書かせ、それらで儲けた金で、酒色に溺れただけの輩も知っており(またネット上では、そんな程度のことを成功者と褒めそやす程度の低い輩もいます)、いずれその人は“神の咎め”として半身不随などになり、自分のやったことを振り返る“行”=自省(胸の磁性“十”)の“行”…いうまでもなくそれは、左往右往の人生に入り、そして人生を終えたりもするのでしょうが…現状、その人本人には、貴い何かを自分のために利用しただけの人生を送ってきたとの自覚が無いようです。
アタシ的にはその輩が、S会=紫光会やT霊媒=竹内満朋の業績、ローム太霊の言葉、それら貴い何かを利用しただけで、自分の低い功名心と自尊心を満足させてきたということに、すごく腹を立てています。
人間としての一生を送り、晩年さびしい老人であったT霊媒=竹内満朋はともかく、ローム太霊が人に望むのは、そんなことではない…それは明白です。
それはその輩が、何のためのS会=紫光会であり、何のためにローム太霊は人に情報を与えたのか、そしてT霊媒=竹内満朋は、交霊会のたびに毎回“死ぬ思い”までして(このことは竹内先生から直接アタシが聴いた言葉です)、そこまでエネルギーを贖ったのか。
その意味をまったく理解していないと思われます。
話を戻し、自分自身が自分の存在の意味や意義、そして生き方、さらに霊や神の概念を認識し、その上で疑問を持ち、その疑問に対し、真摯に真実=真固止を求めれば、何らかのカタチで“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は回答をくれるものです。
ですからそれは、アタシの場合、T霊媒=竹内満朋、ローム太霊、S会=紫光会霊団の霊的存在、そして、太陽凝視を教えてくれたKさん、ダキニホンテン…etc.、それぞれと霊縁があり、自分が求めた疑問に対する回答を、自分の認識として得てきた=“上”が示したのでもあり、それがまた貴い霊縁でもあります。
よってアタシは、ブログ内でS会=紫光会の経文や情報を引用しますが、それはアタシが今まで人生においてたくさんの苦悩を体験し、また“行”でエネルギーを贖い(あがない)、それを観ている“上”の存在は、これくらいは引用してもいいという通信を送ってくるものであることを、ここでお伝えしておきます。 by ○○○大先生)
ほんでから次の文。
“誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、
神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、
早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、
鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、
どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。”
この文も、今の進化過程=自我の確立=固定化と自我の肥大の心(靈)の動きをしている人に言われてて、形骸の価値や形骸の名誉や形骸の地位や薄っぺらい幸福の概念や(通貨としての)金に対する執着などには、霊的成長=神格化へのステップとしての邪魔になるだけやから“早く兜脱いで”って言われてる。
そやからそれは、相対的に今までと違う価値観=腹より“上”の心(靈)の発現由来の思想を持てば、腹の段階の心(靈)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)ではなくなるって言われてる。
要は自分の心(靈)に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は、自我との感応共振なのか、“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の動きによる霊的干渉なのか、その違いがあることを示した文章やと思われる。
冒頭の文でも言うたとおり、今後=アセンション後は、自我の肥大による事象の“創造”は“上”が許さんって言うよりも、自分たちの心(靈)が“上”と感応共振していれば、自我の肥大による“創造”は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であることをしっかり認識でき得るもんでんねん。
そやからその意味で“神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。”って言われてまんねん。
ほんでから補足として、“兜”って表記は、富士の巻 第二十四帖ではじめて出てきた表記やから、以下に第二十四帖の“兜”の解釈をコピペしときまんねん。
↓
“次の文も、今指摘した、心(靈)が右回転して、自我の肥大している大半の人が信じ込んでいる何か。
それは、下つ巻によく出てきた表記の、“役員づら”、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)やと思えるけど、それを信じている人はとても多い。
その人たちのことを指摘した文章やと思える。
“折しもあれや日の国に、一つの光 現はれぬ、
これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、
目にうつれるは何事ぞ、
攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨ふらす、
火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、
これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、
兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ、”
この文の冒頭の、“日の国”は、この国である日本って言う意味もあるやろ。そやけどそれは、霊的成長を託された国って言う意味ではなく、経済大国である日本って意味やろ。
そやからこの文そのものが、霊的成長を託された日本って命名であるにもかかわらず、形骸の価値や薄っぺらい幸福感で満たされた人が多いことを指摘して揶揄(やゆ)した言い方やな。
そやからその薄っぺらい幸福感と形骸の価値観ゆえの解釈は“一つの光 現はれぬ、これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、目にうつれるは何事ぞ、”…信じ込んでいる何かが間違ってるって言われてるだけやねんな。
ほんでからその薄っぺらいもんを信じ込んで、アセンション後は不幸の無い世界になるとか、何もしないでアセンションを迎えれば自分たちは成長するとか、そんなことを思っている大半の人たちに対し、“攻め来る敵の大将”は、悪霊の大将って言う意味やな。
そしてその影響を受けることを=感応共振することを次の言い回し“大き光と呼応して、”って称されてると思えるし、その後の文の“一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、”って言うのんは、醜い事象を観察して思うことでもあるやろ。
そやから今“役員づら”…その人たちの情報を信じている人たち。それは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑であり、それはまた人(日止、霊止)が認識した言葉として、悪魔であり、悪魔は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)でもある。そやからその思惑にはまりこんでいる人たちは、アセンションに伴う“神の咎め”としての醜い事象を体験するからこそ、“一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ”ってことになり、この文の“まことの神はなきものか”って心底思わされる。
そして、“これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ、”…この“兜を脱がんとするものの、”って言うのんは、思想、頭の機能、そして自己奉仕者の思想は形骸の価値観だからこそ、外側(外国と幽界)の事象のみを大切に思う。
その外側(外国と幽界)の事象を対象にした言い回しやから、頭の中身って言う意味ではなく“兜”と称されていると思える。
そしてその形骸の価値観を捨てても、もうこの世界は形骸の価値観に染まってて、何もかもが腐ってるから、“次から次にあらわれぬ、”って称されてると思える。”
↑
引用終わり。
ほんでから次の文。
“江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、
今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。
それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。”
この文も、一見して浅読みすると、東京が火の海になるなんて思うやろけど、そんなんは解釈ではなく、書いてあることの一部を強調しただけでしかない。
これまで何回も“日月神示”表記の“江戸”は、腹の水=で、“江”は、大河の意味があり、そして腹の水の心(靈)の発現が、“石屋の仕組み”で、それは、帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであることを言うてきた。
そやからそれは、この第二十七帖で言われてるとおり、現時点での地球人の平均的霊的進化程度は、自我の確立=固定化であり、活躍してる人は自我の肥大をして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になっている。
そやけどそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程として、通り越さねばならないってことを“それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。”って言われてまんねん。
ほんでから“江戸は何うしても火の海ぞ”って言うのんは、腹のサイクロトロンを構成する臓器は、肝臓と脾臓。
肝臓はいうまでも無く人体における化学工場であり、食べたもの、呼吸した酸素、それでエネルギーを作る。それは、肝=“いきり立つ心(奴と心)”でもある。やる気を出すとか行動に移すとかの根源のエネルギーでもある。 その意味で“火の海”って言われてて、ほんでから“海”“川”“江”って言うのは、たくさんの水を示した表記でもあるし、“日月神示”でその表記が使われているときは、大体、腹の段階の心(靈)の発現と動きを示していると思われる。
そやからそれは、“一二三”のオーラの発振、発信を考えればよく分かる。
人体の三つの大きなコンデンサーの構造として、三番目のオーラは、腹の発振、発信でもある。そやからこの表記は、その部分を言い表した表記でもあり、ほんでからもうひとつ、“エド”って表記は、“エ”は、“二”に|(たてぼう、こん、縦の磁性))を足した表記。
そやからそれは、“二”=肉体の意味でもあり、また、2〜3番目のオーラを示す“二”に、縦の磁性を足した表記だと思える。
ほんでから“エド”の“ド”…濁点が付いてるのは強調されてる意味があると思え、ほんでから“ト”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ト”は、“止”でもあり、とどまるっていう意味がある。
そやから“エド”は、腹の段階の心(靈)の発現から“上”に行かないで、そこで止まる(とどまる)の意味があると思える。
要は自我の確立=固定化と自我の肥大を指した表記であるということでんねん。
ほんでから次の文。
“秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、
臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、
神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。”
この文も、人の霊的進化過程のことを言うていると思え、そやからそれは、“草木”の“草”って言うのんは、クサカンムリ(芽生える)と太陽を示す“日”と胸の磁性“十”が重なった表記でもある。
そして“秋”と“木”…これまで何回も解釈してきたからあえて詳しくは説明しないけど、自省って心(靈)の動きと、それに胸の磁性“十”が重なった表記であり、そやからそれは、この第二十七帖に共通な、自我の肥大から胸の心(靈)の発現、アナハタチャクラの覚醒、第四密度、その段階に至れってことでんねん。
そしてそれは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)って部首が、それぞれの字に重なって書かれている。要は、“上”と、“下”である人が、感応共振しあって、次の事象の“創造”をしていくってことでんねん。
それが、今後=アセンション後の事象の“創造”であり、それを知って欲しいから“神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ”って言われてて、ほんでから、“臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ”って言うのんは、さっきの“エド”って表記みたいに、自我の肥大から“上”に行かん心(靈)の動きでは、霊的進化ってことではないし、それはアセンション後の“創造”を担う霊的進化の段階ではないってことを言うてるだけで、それを“上”の存在は懸念してる…その言い回しでんねん。
ほんでから次の文。
“八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終わりぞ。”
これも今まで何回となく言うてきたとおり、“八”=“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道…これと同義。
“十”は、胸の磁性“十”、シンクロトロン放射の構造。“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現。
“五”は、糸巻きの象形文字。生物が進化して神経が密になる様子。
“九”は、“創造”の“主(ヌシ)”の最後の仕事としての人の“創造”。それは“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。“日月神示”表記の○ 九 十 の中の“九”。それは霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、最後の段階の“創造”を示す“九”と、胸の磁性“十”が重なった表記。
ほんでから“九”は“創造”の“主(ヌシ)”は、人間にこの世界の“創造”を託したという意味もあるな。
ほんでから“月”って言うのんは、肉体のこと。肉体って物質をまとって、霊的進化した生命としての人(日止、霊止)ってことでんねん。
それが分かってれば、この文の解説は不要でんねん。
ほんでから次の文。
“この神示は富士(二二)の巻として一つに纒(まと)めておいて下されよ、
今に宝となるのざぞ。”
この文の“宝”の意味が解らへんと、何を“一つに纒(まと)めておいて下されよ”って言われてるのか解釈できへん。
言うまでもなく“一”は“一二三”のオーラの“一”であり、智性(神性)であり、それは、自省をする心(靈)の動きを示す“玉(ぎょく)”の上に頭の意味を持つ宀(うかんむり、頭の意味)が合わさった表記が“宝”であり、霊的成長し“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現しそれを顕現してこの現津(あきつ)、観察され得る事象の創造をすることそのものを、先生は“宝玉の仕組み”って言い表した。そして“宝”は體(骨が豊か、宝のアナグラム)でもあり、それは体の旧字でもある。
そやから富士の巻で言われてきている“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“一”=智性=1番目のオーラになり、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするために人(日止、霊止)の肉体には日足と砌(ひたりとみぎり)の磁性がある。
そやからそれは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道って解釈をしてきた。
それは“一”=智性=1番目のオーラになっていくものであるからこそ、“一つに纒(まと)めておいて下され”って言われてて、要は、自我の肥大をしている人は、さっき指摘したとおり“エド”から“上”に心(靈)が向かわへん。
それはアセンション落第組であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
それに対し、本当の“宝”は、今言うたとおりで、自己奉仕者の認識の、(通貨としての)金による価値観で判断された宝ではないことを、あえて言うときまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
今回も富士の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。
戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、
向ふの悪神は今度は
の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、
その積りでフンドシ締めて呉れよ、
誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、
臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ。
八月の三十日、
のひつ九の
。
冒頭の文。
“戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、”
これは、“日月神示”が戦争中に自動書記で書かれてるから言われてるのでもあるやろけど、そんなことだけではなく、今の比較的穏やかな状況、それは、嵐の前の静けさみたいなもんで、今後=アセンション後に移行する際に、天変地異や戦争や訳の分からへんことがいろいろ起きる。大事の前の小事として、恨みの連鎖の霊的干渉によるわけの分からへん事件はたくさん起きだしてるけど、それは世界的な規模ではないし、まだまだ一日に何千人も何万人も死んでいるわけではない。
そやけど、飢餓貧困で死んでる子どもたちは単純に計算して一日平均28800人になるけれど、本当はこのことも問題にすべきなんやけど…。
要は、何事も起きてないかのように大半の人が錯覚してるから、こんな言い方で言われてるだけやねんな。
ほんでから次の文。
“向ふの悪神は今度は
の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、
その積りでフンドシ締めて呉れよ、”
この文の“
の元の神”○は、縦の磁性で構成されてる荷電粒子の集合体。そしてそれは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)。 は、縦の磁性によるローレンツ力
、そして、“元”は、肉体を示す“二”。
それに時間の進行の意味を持つ儿部(じんぶ、にんにょう)。
要は、“
の元”って言うのんは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みを言っているし、それは神の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑でもある。
神さんは人(日止、霊止)に何を望んでいるのか、それは言うまでも無く神格化。
ほんでから神さんの思惑そのものが“亜”が出ずる、泉、であり、それがアイであり、愛(炁)であり、“一”の書き方、左から右に筆を動かして書くのは、そのことを示しているって何回も言うて来た。
そやけど甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)って言うのんは、すべての生命の行動の動機である愛(炁)アイ、“亜”が出ずる、泉、の間に、“魔”=マーラ(魔羅)が入り込む。
その思想になってしまうことが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻むことになる。
ほんでから“魔”=マーラ(魔羅)が入り込みやすい場(フィールド)、それがこの文の“向ふの悪神は今度は”“根こそぎに無きものにして仕まふ計画”と称されていると思え、それは具体的には、たくさんの浮遊霊を増やす。
たくさんの浮遊霊を増やす仕組みは“石屋の仕組み”でもある。
“石屋の仕組み”は、帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、その段階の心(靈)の発現と動き、簡単に言えば自我の肥大で、どうでもエエこと(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋とは関係の無い形骸の美、形骸の地位や名誉など)に付加価値を付け、経済を動かし、地球上の一部の人間だけが低い功名心と自尊心を満たし、その裏で、三秒に一人子供が死に、家畜は殺され、それらすべてが貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った浮遊霊になる。
ほんでからこの世界に執着を持ってる浮遊霊は、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持っているから、それは心(靈)が“下”に向かう=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”やから、“日月神示”表記の右回転になる。
以下に、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、日足(ひたり)回りと砌(みぎり)回りの解釈の画像を貼っておきまんねん。
ほんでからこの文の“その積りでフンドシ締めて呉れよ、”って言うのんは、フンドシは、腹の縦の磁性と横の磁性を示すと思われる。
要は、臍(へそ)から下のチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラだと思われ、それは平均的地球人の進化過程である自我の確立=固定化、マニピューラチャクラのエネルギーに昇華されるものである。さらにマニピューラチャクラ、腹の段階の同位相のサイクロトロン、それは胸の磁性“十”で、シンクロトロンに移行していく。
そのこと自体が、自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きになっていくものでもあるし、それが神格化の“道”“理(ミチ)”でもある。
要は、“フンドシ”って言うのんは、腹のエネルギーであり、その意味のことだと思われ、それは古事記の天照大神が天の岩屋戸から出てくる時の表記にも表れてるって言うのが先生の説。それは前のブログのエピローグから引用しまんねん。
“天照大神が天の岩屋戸から出てくる時の天の宇受売の命(あめのうずめのみこと)…その時の様子は古事記では、“胸乳(むなち)を掛き出で、裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。爾に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲(わら)ひき。” …って書かれてる。それは、天の宇受売の命(あめのうずめのみこと)が、陰部をさらけ出して踊ったっていうのとは違う…って、先生は思うてる。それは、“胸乳(むなち)”は、胸の磁性“十”で、“裳緒(もひも)”は、腰と腹の横の磁性(水平磁場)、それは、腹の段階のサイクロトロンの荷電粒子の回転も示してるし、ほんでからにそれは、3番目のオーラでんねん。
ほんでからに、“裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。”…っていうのんは、下三つのチャクラで構成される縦の磁性…それを表現してるっていうのんが、先生の説でんねん”
引用終わり。ほんでから次の文。
“誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、
臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ。”
これも、誰かに教えられることなく、自分たちの“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為の源とか原因って言うのんは、自我の確立=固定化のときに起きやすい自我の肥大って心(靈)の動きが、この世界を腐らせているってことに気づけってことを言うてる。
それに気づくために、自分の心(靈)の動きって言うのんを自分の智性(神性)で判断する。
要は、自分自身の心(靈)の動きが“上”か“下”か、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”かってことを自分で知る。自我の肥大が起きていたなら自分の都合の良い考え方をするってことでもある。それは言い換えれば、今まで何回も言うてきたように“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ってへんって事でもある。自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無ければ、内在する悪に囚われるってことでもあるし、繰り返すけど、自分の心(靈)を自己観察して“上”と“下”、“善”と“悪”を見出すのが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
そして智性(神性)を顕現するために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしなければならないのだけれども、“上”の振動を自分に取り込むためには、これも“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしなければならない。
(そのために高い振動を取り込む苦しい“行”としての“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことがある)
そやから、この文の“臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐる”って言うのんは、自分たちの認識の高まりが、自分たちの神格化につながるからこそ、神はあえて何も言わんって言い回しでんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
…Kelly…爆睡中…
(今回は、ネタがありませんので、Kellyさんが寝ている場面の画像は、省略)
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
…また夢を見てるな…いつもの公園にむかってる最中やな。 おっ!! 犬たち待ってはるやんか。待たせてしもたから、犬目線で走ったりましょ。
お〜〜い。バティはん、ミュウミュウはん、コロンはん、アズキはん、キナコはん。
お待たせでんがな〜〜〜。
Kellyさんだ! Kellyさんだ! Kellyさんだ! Kellyさんだ! Kellyさんだ!
わんわんわんわんわんばんこ!!
「お待たせでんがな。今夜は何の話をしたらええやろか」
「今夜は、変なコマーシャルについて教えて欲しいです」
「それは、ママ(
)とテレビを見ていたときのことです」
「そのとき、変なコマーシャルをみて、僕たちとママはびっくりしたんです」
「その前に、どんなふうにママと僕たちがテレビを見ていたのか…」
「まず、そのときの状況を、以下の画像で示します」
「和気あいあいの雰囲気でんな。そうやってあんたらは、A野はんとテレビを見て、人間のことを勉強しようとしてるんやな。なるほど」
「そうなんです。それで…」
「そのときに…唐突に…」
「変なコマーシャルが放送されて…」
「ビックリしたんです」」
「ビックリした状況を、以下に画像で示します」
「……そうでっか…」
「そのコマーシャルは、お薬のコマーシャルなんですが…」
「なんで中年のおばさんがこんな行動をとるのか…」
「その理由がわかりません」
「そうだ。そうだ」
「そうよ。そうよ」
「そうでっか。そやけどそのコマーシャルがどんなもんやったか…それが分からんとなんにも話ができへんやんか」
「その通りですね。でも、そのコマーシャルを詳細に説明するには…」
「私たちの言葉や知恵では、限界があります」
「だから、そのコマーシャルを、今からバティがまねをして、それをKellyさんに見てもらいます。ビックリしないでください」
「ちなみに僕は、そのコマーシャルをみて、すごくビックリしました。
それはいつか、Kellyさんにスネション攻撃を仕掛けて、ママにすごぉ~~く怒られたときみたいに、○ン○ンが縮み上がりました。 Kellyさんも、びっくりして縮み上がらないようにしてください」
「私もビックリして、思わずお漏らししそうになりました。だからKellyさん、ビックリしてお漏らししないでください。
では、バティ(実はキナコとアズキのパパ)が、そのコマーシャルのまねをしますので、心の準備をしてください。
それでは、以下の画像をご覧ください」
「Kellyさん…」
「変な顔…」
「ママのブタ顔(
)よりすごい」
「そうだ。そうだ」
「そうよ。そうよ」
「そやけどビックリしまんがな。あんたらやA野はんがコケるのもよう分かりまっせ」
「でも僕たちは、僕たちやママがビックリしてコケたことを問題にしてるのではありません」
「この薬のコマーシャルは、どうしてこんなコマーシャルになったのか…」
「どうしてこのおばさんは、こんな行動をとったのか…」
「その理由を知りたいのです」
「訳が分かりません…」
「そうか…あんたらの着眼点はなかなか鋭いな。そやからそれは、なぜ大げさなコマーシャルになってるのか?ほんでからにこのおばさんの行動は、薬の効能を示しているとしても、ちょっと訳が分からん…あんたらはその理由を知りたいってことやな」
「そうです」
「その通りです」
「薬のコマーシャルなら、本来、大げさに宣伝する必要など無いと思うのですが…」
「薬が必要な人は、薬を買うに決まってます」
「必要なものは必要だからです」
「その通りやな。
そやけど、同じような薬がたくさんあるから、テレビ見てる人に、自分のところの製品だけを買って欲しい。そやから大げさなコマーシャルを作るんやけど、今キナコはんが言ったみたいに、“必要なものは必要”…そんなことを思うてたら、自分ところの薬は売り上げがあがらへん。
そやから薬メーカーは、広告代理店にコマーシャルの作成を頼んで、広告代理店はタレントを使ったコマーシャルを作るんやけど…ほんでから、印象に残るコマーシャルでないと、薬のことを覚えてくれへんって思うてるから、広告代理店の人たちは、大げさなキャッチコピーや、大げさな演出なんかを考える。
そやけどそれは、薬の効用を示すものって感じではなくなっている。そやからあんたらは、このコマーシャルに違和感を覚えた」
「今Kellyさんがおっしゃっていただいたこと…」
「私たちは、人間ではないから、上手く言葉を使って表現できませんけど…」
「今のKellyさんの言い回しは、僕たちが思ってたことを正確に代弁してくれたと思います」
「さすがです!!」
「勉強になります!!」
「そんな褒めてもろたら恐縮でんねん。
そやから、本来、コマーシャルって言うのんはどうあるべきなのか。
それは、人間が定めた“放送基準”ってもんがありまんねん。
その第13章に、“広告の責任”って項目がありまんねん。それはこんなことが謳ってありまんねん。
“広告は、真実を伝え、視聴者に利益をもたらすものでなければならない。”
“広告は、視聴者に対して真実を伝え、責任の持てる取り扱いをしなければならない。”
“事実を偽ったり必要以上に誇張するなどして視聴者に誤認を起こさせること はもちろん、一方的な自己主張に偏り、例えば消費者の心身に悪影響を及ぼしたり、経済的損失を与えたりするような広告は取り扱ってはならない。”
“広告は、常に視聴者に利益をもたらし、健全な社会生活に役立ち、広く社会の信頼をかち得るように努めなければならない。”
「あのおばさんの行動は、“真実を伝え”って項目に当たるんだろうか」
「あのコマーシャル自体は“責任の持てる取り扱いをしなければならない”…はたしてそうなんでしょうか」
「“事実を偽ったり必要以上に誇張するなどして視聴者に誤認を起こさせる”って項目に、該当するのではないのだろうか」
「“一方的な自己主張に偏り”…これに該当するのではないのだろうか」
「そしてあのコマーシャルは“広く社会の信頼をかち得るように努めなければならない”…はたしてそうなのでしょうか」
「あんたらの言うとおりでんな。確かに矛盾を感じまんな。
ほんでからこのコマーシャルに限らず、コマーシャルって言うのんは、大体、大げさでっしゃろ。
そやからあんたらの疑問って言うのんは、何でこんな大げさなことをするのか、それが知りたいってことやと思うけど、それは一言で言えばこのあいだの話の、○○歌合戦に出場した人や、N○Kのキャッチコピーに共通する“ただ目立ちたい”って心(靈)の動きでんねん。
そやから、目立って目立って印象深いものにしたい…そやけどKellyさん的には、あのコマーシャル内でのおばさんの行為は覚えてるけど、どのメーカーの薬やったのか、どんなときに使ったらエエのかは、あんまり印象に残ってへん感じやな」
「やっぱり変だ」
「なにかおかしいわ」
「それはやはり、このあいだ僕たちが思ったみたいに、ただ目立ちたいって思いは、(通貨としての)金が絡んでいるからだ。
仮にさっきキナコが言ったみたいに、“必要なものは必要”…そんな認識であったならば、効果を誇張したり、大げさな演出のコマーシャルを作る理由なんてないはずだ」
「コロンの言うとおりだ」
「目立ちたいって思いが、大げさなコマーシャルを作り、コマーシャルの作成に(通貨としての)金をかけ、タレントを雇うのに金をかけ、そんなことをするから、なおいっそう儲けなければならなくなるのではないのでしょうか」
「あんたらの言うとおり、大げさなコマーシャルを作る理由はやっぱり儲けたいからでんな。
大体あの薬は、絶対に必要な薬では無いやん。使わへんかったなら、ちょっとかゆいかもしれへんけど、そんなもんは人の生死に関わることではないし、無ければ無いで、それですんでしまうもんやと思いまんねん。
そやからそれはたいして必要なものではないけど、それを売ってまで儲けたいと思うのも、言うまでもなく(通貨としての)金が絡んでいるからでんねん。
そやからそれは、このあいだと同じような話になるけれど、人間の幸福の概念は、ちょっと間違えてて、(通貨としての)金がたくさん欲しい。ほんでから物欲が満たされることが幸せやと思うてる人はとても多い。
そんなこんなが理由で、そやから広告代理店は、視聴者の印象に残るコマーシャルを作ろうとする。ほんでからタレントを起用する。
さっきキナコはんが“なおいっそう儲けなければならなくなる”って指摘したみたいに、すごく(通貨としての)金がかかる。
こんなことをせんならん理由は、やはり(通貨としての)金や物欲って価値観と、その価値観が前提になってる幸福の概念がある。
それは、あんたら動物より少し進化した人間が持ってる“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)のうちの、知恵と知識と学問と能力を、どんなふうに使うのか。
“どういうつもり”で使うのか。
そこに問題があり、(通貨としての)金と物欲のために知恵と知識と学問と能力を使うってことでんねん。
ほんでからに人間が思ってることとして、(通貨としての)金と物がたくさんあると名誉やと思ったりもする。
そやから金儲けに走り、物欲由来の幸福の概念を持ったりもする。
そやからこの間も言うたけど、形骸の価値、それは自我の肥大に由来することでもある。自我が肥大するから、ほんまの幸福って言うのが分からんようになるもんでんねん。
ほんでからこの世界はそんな人間がたくさんでんねん。
そやから、今夜、あんたらが問題にしたコマーシャルでもそうやけど、大体テレビは、目立つ番組、センセーショナルな話題、視聴率を稼ぐための番組作り…いちいち例を挙げるときりが無いけど、それはすべて人の心(靈)が生み出してきたものであることは理解できまっしゃろ。
それを生み出してきた人の心(靈)には、金儲けと物欲由来の幸福の概念があり、そやからさっきあんたらが指摘したコマーシャルみたいに、放送基準の第13章、“広告の責任”に照らし合わせるとなんとなくおかしいって結果になるって思いまんねん。
ほんでからそれは、自我の肥大(と言う、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程)による幸福の概念の間違い、勘違いがあると思いまんねん。
それに比べ、あんたらはまだ自我の肥大ってことがあんまり無いし、そして人間ほど、知恵や知識や学問や能力ってもんを獲得していない。
だからこそあんたらの人間の観察は、人間の心(靈)の醜さってことを指摘できるんやろし…ほんでからあんたらの幸福の概念は…人ほど穢れて(けがれて)いないってKellyさん的には、思えるやんか」
「僕たちは、ママと一緒に暮らして、ママと仲良くするのがうれしい。それとたまにKellyさんとママと公園で遊ぶのがうれしい」
「私たちの欲望や幸福の概念は、その程度だわ」
「それと、ドッグフードが毎日食べられればいい。
でも、たまにはウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードも食べたいけど、それは、僕たちがママやKellyさんに芸を見せたときだけでいい。
だからそれは、僕たちの芸に対する正当な報酬だ」
「そうだ。そうだ。人間は正当な報酬以上の何かを求めるから大げさになるんだ」
「そうよ。そうよ。人間は欲張りすぎよ。分相応ってことを忘れてるのよ」
「まったくそうでんな。
(この犬たちのセリフは前回の記事のコピペやな。キナコはんの画像がブラジャー(ちちふんどし)付きになってるだけやんか。 …○○○大先生、手抜きでっせ!!)
そやからアズキはんが今言った“正当な報酬”、そしてキナコはんが言った“分相応”これを忘れさせてしまうのが自我の肥大で、自我を肥大させる理由は、薄っぺらい幸福の概念で、薄っぺらい幸福の概念を構築したのは(通貨としての)金に対する執着と物欲でんねん。
ほんでから、目立ちたいって思いはあんたらでも分かると思うけど、あんたらが今まで、犬芸をしてウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードをもらったとき、嬉しかったやろ。
そやけどそれは、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードをもらったから嬉しかっただけではなく、自分たちの芸に対する評価に対しても、嬉しかったと思いまんねん。
そやからそれは、あんたらが工夫して頑張って(元の気を張って)、自分たちの芸を自分たちで獲得してきたやん。
それは、あんたら自身が思う自分たちの“力”の示し方でもあるし、“力”を示したからこそ、正当な報酬として、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードをもらえたんだってあんたら自身が自覚を持ってはるやんか。
そやからそれは、あんたらが自分の在り方ってことをしっかり分かってて、そやからこそ、あんたらには、人間よりも“正当な報酬”とか“分相応”ってことがよく分かってるみたいにKellyさんは見えまんがな。
そやから今夜のコマーシャルの話は、たいして必要でもない薬を、法外なギャラを取るタレントを起用して…大体タレントの報酬なんて高すぎると思うし…ほんでから、大げさな演出をする。広告代理店や薬メーカーは、そんなことまでしてたくさん売ろうって思惑を持ってるってことでんな。
それが、一般の地球人の心(靈)の発現と動きって言うのんを如実に表してて、そこには自我の肥大ゆえの薄っぺらい幸福の概念があり、ほんでからテレビ見てる人も同じような心(靈)の発言と動きを持ってはる人が大半やから、たいしてあのコマーシャルがおかしいとか変とかの意識を持たんのやろな。
…大体こんな説明でエエんやろかな」
「大体分かりました」
「人間って、欲張りなのね」
「僕たちにも欲はあるけど、自分の欲望を満たしたいなら、それなりに頑張らなければならない。僕たちはそう在るべきだと思うし、だからこそ僕たちは、僕たちの犬芸を、ママやKellyさんに見せてきたんだ。
そしてそれは、○○○大先生の言い方を真似すれば、エネルギーを贖う(あがなう)ってことなんだな。そして僕たちの犬芸は、“術”(“力”の顕現)ってことなんだな」
「そうだそうだ! 僕たちは人間のような大げさなことをして、たくさんの(通貨としての)金や、たくさんのエサが欲しいなんて思わない」
「そうよ。エサの摂り過ぎはメタボ犬になるからいけないのよ。メタボ犬になって、スタイルが悪くなって、Kellyさんにもらったブラジャー(ちちふんどし)が似合わなくなってもいけないのよ」
「わかってくれはったようでんな」(キナコはん…ちょっとボケてるけど…)
「分かりやすい話をしてくれてありがとう。Kellyさん」
「これからも寝てるときに、話をしたいです」
「今夜の話題以外にも、人間のやることにたくさんの疑問を感じてます」
「お願いします」
「お願いします」
「承知しましてんな。夢の中ならいつでも話できまんがな。遠慮せんといつでも登場してくださいでんねん」(また…前回のセリフを少し編集しただけのコピペや…)
「それじゃ〜今夜は失礼します」
「また、お邪魔します」
「この次も、僕たちに分かりやすい話をお願いします」
「じゃあね〜〜」
「さようなら〜〜」
「帰っていきはった。おっ!!キナコはんだけ戻ってきたやんか」
(またまたコピペやな。すごい手抜きでっせ)
「Kellyさん。
実は、このあいだキナコは、前回の記事にコメントいただいた、
さんのところに、暖かいコメントをいただいたお礼を言いたくて、おじゃましました。
そのときに
さんに、こんな提案をしてもらいました。
“あのね、キナコちゃん。
人間の女性がつけるブラジャーはインナー、下着なの。
下着姿を人前にさらすのはお行儀悪いかも…。
でもね、Kellyさんお手製のブラジャーはとってもおしゃれだし、下着にはもったいない。Kellyさんに同じ布でアウター用ショーツ (^o^)を作ってもらって、ちょっぴり挑発的で可愛い水着にしちゃったらどうかしら?キナコちゃん、きっと似合うわよ〜真夏のビーチで踊ったら拍手喝采間違いなし…うん!”
それでKellyさんにお願いがあります。 もともと私たち犬には、全裸で恥ずかしいとかの認識は無いのですが、ブラジャー(ちちふんどし)とピンクのリボンだけ着けているのは、なんとなく変だと思います。
だから、
さんが提案してくださった“アウター用ショーツ (^o^)”に相当するものを作って欲しいんですけど、お願いできますか」
「作ったげるのはかまわへんけど…そやけどキナコはん、“アウター用ショーツ (^o^)”には、ちょっと問題を感じまっせ。 あんたら犬には、人間には無い大事な習性がありまんがな」
「マーキング(犬のおしっこ)ですね。マーキング(犬のおしっこ)のたびに“アウター用ショーツ (^o^)”を脱がなければならない。それと私たちは、人間同様、小もするし、大もする。 そのたびごとにママに迷惑をかけることになります。
だから…Kellyさん。
さんの意見も尊重していただいて、キナコの下半身にちょうど良いなにかを考えて欲しいのです」
「承知しましてんな。
そやったならじっくり考えて、キナコはんにちょうどエエなにかを今度までに作っときまんがな。それでエエやろか」
「うん!!やった〜〜!!楽しみにしています。それじゃ〰失礼します」
「気をつけて帰りなはれ。ほなさいなら」
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
セリフを引用させていただき、ネタにさせていただいた、fumi
さんに、感謝です。
ちょっと引っ張りますけど、次回、犬たちが登場したとき、キナコ
は、なにかを着用する予定です。
乞うご期待です(爆)。 by ○○○大先生
「Kellyさん、お呼び出ししてすみません。
今日は、この間、僕が一人で考えたことを聞いてもらって、Kellyさんの意見をうかがおうと思います。よろしいでしょうか?」
「承知しましてんな。ぜひ、お聞かせくださいでんねん」
…斯々然々(かくかくしかじか)…
Yっちゃん先生〔 ´゚Д゚`〕、この間一人で考えて導き出した結論と、
その結論を導き出した過程で考えたことを、
詳細に説明中……
「……人が智性を発揮しない。そして今の地球人はたいして智性(神性)を持っていない。そして霊的存在も智性を発揮していない。
さらに目上(めうえ)の脳内の生体内電流の弱体化…それを引き起こす、タバコ、飲酒、薬物など。
そして心(靈)の動きとしての自我の肥大。
その結果は、“一”=智性=1番目のオーラが弱まるって言うのか…どう言い表していいのかよく分からないのですが、その状態の人は、同じように智性(神性)を発揮していない霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を起こす。
だから、躁(そう)と鬱(うつ)は発症する。
だからそれは、頭の磁性の弱まりを起こし、その状態の人は智性(神性)を発揮した心(靈)の動きになりにくいし、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は、目下(めした)の心、本能、情動、功名心、自我、低い愛(炁)、そんな心(靈)の構成になるだろうからこそ、その人の心(靈)が“下”に向かいやすいのかもしれない」
「…よう考えはったな。さすがでんなッ!お見事ッ!勉強になりまっせッ!」
J゚´艸`゚し ムププププププププププププププププププ!!
「Kellyさん…茶化してるでしょう…」
「その通りでんねん。すんまへんな。そやけどほんま、よう考えはったと思いまっせ。
そやからそれは、自分自身がほんまのことを知るには、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ことをせんとアカンやん。
ほんでからYっちゃん先生が頭使って考えたのは、言うまでもなくYっちゃん先生の脳内の生体内電流の強化にもなるし、ほんでからにしっかり分析して結論を導き出したって言うのんは、目上(めうえ)の脳で考えはったことやおまへんか。
そやからそれは、Yっちゃん先生の智性(神性)の行使ってことでんがな。それはとても尊いことでっせ」
「はあ、それはそうですね」
「Yっちゃん先生が智性の行使をして考えはった。(それは本当のことを見出そうとする心(靈)の動きって言うてもエエんやけど)
そやからこそYっちゃん先生は、躁(そう)と鬱(うつ)のことを考え、自分なりの結論を導き出した。
そやからそれは、この間話をしたように、鬱(うつ)や躁(そう)に付いての命名って言うのんは、同義反復みたいな言い方をすることが多いやん。
それは物事を分析する視点って言うことから言えば、ちょっと問題ありって感じがする。
この間Yっちゃん先生と話したときにもそのことを言うたし…」
「そうですね。ただ症状名を付けて呼称してるだけのことが多いですね。しかしそれは、その人の心(靈)の動きと行動を観察して名称を付けただけ。その心(靈)の動きと行動の根拠をうかがい知ることはできない感じですね」
「そうでんな。
そやから今の話、症状名を付け、そしてその呼び方で分類をする。それではほんまの原因を追究することができないって言う言い方は、ちょっと乱暴でもあると思うけど、今いろんなことが単なる同義反復になってることが多いと思いまんねん。
ほんでから、同義反復の分析を見てるだけで、それ以上のことを追求しない。
そやからそれは本当のことを追求しようとしている心(靈)の動きを持っている人はとても少ない。こんなことはどんな分野でも見られることやと思いまんねん。
そやけど、この話を具体例を挙げてYっちゃん先生と話していくと、とても長い話になりそうやから…そやから、“同義反復のものの見方”ってことが、今一般に多いってことを、忘れんようにするって事が大事」
「そうですね。覚えておきます」
「ほんでから今回Yっちゃん先生が考えてきはったこと。
それはあえて言うまでもないと思うんやけど、Yっちゃん先生の智性って心(靈)の動きに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した霊的存在がいてる。それは判りまっしゃろ」
「ええ、それは理解できます。霊的干渉と無縁の事象なんて無いって前のブログで○○○大先生が言ってらした。またそのことが、今回の僕なりの結論を導き出したことでもありますね。
でも普段、そのことをあまり意識していない。一般にもその認識はありませんよね。
それと大体、一般の通念として、霊ってことにたいしての認識が低すぎる。
だからこそ、霊のことを吹聴して金儲けしている人がいる。インチキ霊能力者や、法外な料金を請求するスピリチュアルカウンセリング、何の“行”もやってなくて、霊的成長なんてことをしていないと思われる占い師なんかが霊のことを語ったりもして、こんな馬鹿げたことが横行してますけど、一般の人たちが霊に対しての認識がとても低いし、無知でもある。
そんな認識が低い人に対して、霊って言葉を利用して金儲けしてる人は、霊的なことを自分勝手な解釈をして、たいして何の分析も無く、ただただ知識を吹聴したり憶測をえらそうに言うだけだったりもするって感じですね。
それは、霊や、霊的干渉を分析する視点が無い。また、神仏を観る視点も低い。だからご利益だけ求めたりもするし、悪霊祓いや浄霊を商売にしてる人もいて、そんな商売が成り立っていたりもする。
それは、霊的干渉に付いてもただただ興味本位とか、それと、そんな現象を見ると面白がったり怖がったりするだけ。
そんな人たちは、智性(神性)由来の“観察と認識”をしていない。それはいえますね」
「まったくそうでんな」
「今、躁(そう)と鬱(うつ)のこととは、違う話になってますけど、この間から僕が思っている、何か恫喝するような言葉や言い回しで(通貨としての)金をとるってことが多すぎるような気がする。
それはスピリチュアルカウンセリングでも占いでもお祓い屋でもインチキ霊能力者でも…そして、医者でもそうですよね。
なんとか病の疑いがあります…そして、検査検査検査…そしてたくさんの薬をだす。そんなことも考えたんです」
「そうでっか。
今Yっちゃん先生が言わはったこと。今Yっちゃん先生が指摘した人たちの行動の根拠って言うのんは、低い欲望でっしゃろ」
「その通りですね。自分だけ良い目を見たいってことですね。それは明白ですよね。そしてその心(靈)の動きをする人は、たいして霊的成長を果たしていない。
言い換えればそれは、智性由来の考えではない。
そして自分の医者としての立場として思うのは、医者の知識を利用して、相手を恫喝したりして診療報酬をとったりもする医者が多い。そんな傾向はありますよね。
しかし、今の話でも、さっきの“同義反復のものの見方”って概念を当てはめて言い換えれば、その人たちの行動を観察して問題があるって指摘するだけでは、単なる同義反復でしかない。
その人たちの行動の根拠、それが今Kellyさんが言った“低い欲望”…その視点が大事で、低い欲望由来の行動をとる人は、自分たちの仕事を神聖に感じていない」
「そうでんな。その一例として、これは恫喝ってことではないけど…この間先生が少しぼやいてたことで、ちょっとひどい話があったやん。
それは先生の治療院にときどきいらっしゃる人の話なんやけど、その人は前立腺肥大で泌尿器科に通院していらっしゃる60歳ちょっと過ぎの人なんやけど、診察中に、自分は性的にだめになったなんて一言も言っていないのに、バイアグラを処方され、8000円近く払ったなんて話を聞いたそうでんねん。
これはどういうことでっかって思いまっしゃろ。
ほんでからに最近発覚したこととして、とある接骨院の保険水増し請求とか、こんなことはどんな心(靈)の動きで行われてることなのか、言うまでもないことでんな」
「そうですね。
だからそれは、Kellyさん的“日月神示”解釈の表記を引用すれば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ですけど…しかしひどい話ですね」
「そやけどこんなことは単なる一例に過ぎない。
今、どんなことでも自己奉仕者の霊的成長度の人が活躍してて、その心(靈)の動きのまま死んでしまう。
これがとても大事な視点でもある。
自己奉仕者の心(靈)の動きをする人には、自己奉仕者の心(靈)の動きを持った霊的存在が憑依する。感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でんな」
「そうですね」
「そやから一般に多い霊的干渉って言うのんは、一般の人たちの心(靈)の動きに感応共振する霊的干渉が多い。これも理解できまっしゃろ」
「そうですね。
今、Kellyさんがおっしゃったこと、それは自己奉仕者の心(靈)の動きをする人に、自己奉仕者のまま死んだ浮遊霊たちが憑依する。
そしてそれは、智性を持った人、智性を行使して死んだ人、そんな霊の憑依ではない。
霊的存在自身が、智性の行使をする存在であるなら、ちょっと表現が適切ではないかもしれないですが、何か祟ったり(たたったり)はしないですよね」
「そうでんな。
そやから、進化した=霊的成長した霊的存在は、肉体を持っていようがいまいが、自分の在り方を考える。こんな行動をしていて良いのだろうかとか、今、自分が行っていることはどんな意味と意義があるのかとか、常に考えるもんでんねん。
そやから自分自身に対し、そんなものの見方が出来得るならば、自分以外の他者、回りくどい言い方をしたけど、誰かに害を及ぼすなんてことはせんもんでんねん。
ほんでからYっちゃん先生にあえて言うまでも無いことやけど、このことは、霊、対、霊、であろうが、人、対、霊、であろうが、肉体って物質をまとった心(靈)=人、対、肉体って物質をまとった心(靈)、であろうが…」
「おっしゃる意味はよく分かります。
だから悪霊、霊現象、霊の種類とか…何か霊障って影響を及ぼすと思われる因縁霊とか浮遊霊とか自縛霊とか。
こういう呼び方もその霊的存在の心(靈)の動きを言い表した適切な呼び方ではないし、そして、どうして悪霊って感じられる霊的存在になったのかって言う根拠を示した呼び方でもない。
今のKellyさんの言い方は、そのことまで指摘している言い方ですね。
だから結局、心(靈)の動きの根拠って視点が無い」
「そうでんな。
そやから、今回、Yっちゃん先生が考えてきはったのは、智性の無い心(靈)の動きってことで、それは人だろうが、霊的存在だろうが、その両者に言えることでっしゃろ」
「そうですね。それはいえると思います」
「そやからそれは、如何にこの世界が進化していないのかの証明になることでもありまんねん」
「そうですね。
○○○大先生とKellyさんの概念の、進化は、霊的成長、神格化に向かうこと、だから神格化って言うのは智性(神性)の発現と行使、そして“一”=智性=1番目のオーラの拡大。
今、話していた、低い行動をする人と霊的存在は、智性を持っていないか、智性を発現していないか、自分の心(靈)の中の智性由来の考えを無視している。
そしてこの世界は、人だろうが霊だろうが、そんな存在でいっぱいの世界なんだ」
「そうでんねん。そやから、低い行動をする人、同様に低い心の霊的存在は、今後=アセンション後の事象の“創造”に参加できん。
そやから分けんならん。それが神さんの計画でもある。
言うまでもなくその計画は、相対的に良い世界の“創造”をしていく人をより分ける。
そやけどほんまは、より分けられのではなく、自分の心(靈)の動きと、それまで(アセンションの時期)に、どんな霊的成長をしたのかによる。
自己奉仕者の人と、自己奉仕者の心(靈)の動きを持った霊的存在は、次の段階の“創造”を担うことは出来ない。仮にその存在たちが次の段階に移行したなら、今と同じ程度の世界にしかならへん。
今Kellyさんが言うたことを検証するために…仮に、この世界が智性(神性)を行使する存在だけの世界になったなら、自分が何かの因縁や、恨みの連鎖の霊的干渉の結果として突然死しても、それは悪霊にはならないと思えるやないですか。
智性を持った霊的存在は、自分がなぜ突然死したのかその理由を考える。その意味と意義を考える。
例えば、自分の生きてきたときの行動に問題があれば、自省(胸の磁性“十”)する。
因縁を背負っていて突然死したなら、その因縁がなぜ起きたのか考える。
恨みの連鎖の霊的干渉の影響を受けたとしたなら、自分がなぜその霊的干渉の影響を受けたのか=どんな心(靈)の動きをしていたのか、自分なりに分析する。
そやからそんな考えがあったとするなら、自分が悪霊や因縁霊、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する存在になるなんてことを、自分に許さんようになる」
「そうか。だから、智性を発現していない人が突然死したら、突然死したことしか考えず、その理由を考えない。
ですからそれは、長患いの病人でも同じことが言え、自分の行動の結果としての病気、いつだったか糖尿病の話もしましたけど、結果それは、自分が悪いんだって思っていない。自分の生活の結果が病気なんだって自覚が無い。そして病気が、自分にとっての正当な報酬だって考えもしない。
そしてその人が死んだなら、子孫に自分の苦しみを分かって欲しい因縁霊になる……って言うよりも、因縁霊に成り下がるって言うのが妥当ですね。
そうなってしまうのはその存在の心(靈)の在り方に問題がある。
だから仏教では、自省(胸の磁性“十”)をする地獄、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)って地獄があるって説かれてるけど、お坊さんはただ地獄があるとしか言ってないみたいなものですね。糖尿病や通風や…そんなお坊さんも多いから」
「そうでんな。そやからそれは、自分の心(靈)が低い欲望に支配されてるって認識が無い。だから生きてたことのうちの、なんとなく楽しかったって思っていたことに執着するから悪霊になるってことでんねん。
言うまでもなく“なんとなく楽しかったって思っていたこと”は、食う、やる(性的なこと)、など、本能に由来することや、物欲が満たされてたときとか…他にもあるけれど、そやからそれは、下の心(靈)の動き、本能って心(靈)の動き、その上の情動、そしてその上の、自我、低い功名心と自尊心、その心(靈)の動きしか持っていない霊的存在は、同じ進化程度の人と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をする。
今回Yっちゃん先生が導き出した結論は、このことを示してまんな」
「そうかもしれません。
だから、智性(神性)を持った存在だけの世界になったとしたらば、低い霊的干渉は無くなっていく。
そしてそれは、因縁霊由来の霊的干渉とか、恨みの連鎖の霊的干渉とか、現象から言えば突然死とか、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)から発症する病気とか、他にも殺人…殺したから殺すなんて霊的干渉も無くなっていく。それは考えれますね」
「そうでんな。
そやから躁(そう)と鬱(うつ)、これも、発症した人が智性をしっかり持っていたとするなら、自分で自分の在り方を考え、低い霊的存在=智性(神性)を持たない霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)はおき得ないもんでんねん。
そやけど、躁(そう)と鬱(うつ)はこの間も話したとおり、人生においての右往左往と左往右往って側面もあるもんでんねん。それをちょっと大げさに扱いすぎる傾向もある。
それはいつやったか、ヤフーニュースにこんなことが書かれてた。
“抑うつなどの症状が続くうつ病の患者数(躁(そう)うつ病を含む)が、初めて100万人を超えたことが、厚生労働省が3年ごとに実施している患者調査でわかった。 長引く不況などが背景とみられる一方、新しい抗うつ薬の登場が患者増につながっていると指摘する声もある。 患者調査によると、うつ病が大半を占める「気分障害」の患者数は、1996年に43万3000人、99年は44万1000人とほぼ横ばいだったが、2002年調査から71万1000人と急増し、今回の08年調査では、104万1000人に達した。 10年足らずで2・4倍に急増していることについて、杏林大保健学部の田島治教授(精神科医)は、「うつ病の啓発が進み、軽症者の受診増も一因」と指摘する。
うつ病患者の増加は、新しいタイプの抗うつ薬が国内でも相次いで発売された時期と重なる。パナソニック健康保険組合予防医療部の冨高辰一郎部長(精神科医)は、「軽症のうつは自然に治るものも多い。しかし日本ではうつを早く発見し、薬を飲めば治るという流れが続いており、本来必要がない人までが、薬物治療を受けている面があるのではないか」と話す”
この記事は、鬱(うつ)病の増加と、そして鬱(うつ)病の啓発と新薬の開発、その問題点まで指摘してる」
「そうですね。軽症の鬱(うつ)に投薬する。軽症者の受診数の増加。これは、自分に起きたことを大げさに扱うって傾向があるのだろうし、自分が“かわいそう”って思いですね。
自分が“かわいそう”…これは苦難を試練としない考えですし、またそこには、自我の肥大もある。
そしてその思いに感応共振する霊的存在が多数いる。それは○○○大先生の一冊目の本の中でKellyさんが月の凝視をしていたときに考えいらっしゃったことでもありますよね。
(ローム太霊との出会い ウエサク際月の祭り “続き” 参照)
要は“自分がかわいそう”って言うのは、ちょっと甘い。そしてそれは、自分に起きたことに対し、智性(神性)由来の観察をしていない。だからそれは、多分、患者も薬を要求するし、医者も軽症の鬱(うつ)に投薬する。それを指摘しているニュースでもありますね」
「そうでんな。ちょっと問題でっしゃろ」
「そうですね。患者も医者も、物事の見方が低い感じですよね」
「それが判ったなら結構なことでんがな。
そやから、Yっちゃん先生にはそんな物事の見方をする人になって欲しくない。なんでも理由を考え、人の心(靈)の動きの根拠ってことを考える。
それは“思惑の顕現”=現象化を分析するにあたって、重要なことでんねん。
その考え方をする人は、言うまでも無く、智性(神性)由来の思想を持ち、自分の智性(神性)由来の考え=発振、発信は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との霊的干渉が起き、“上”の通信を受け、それが自分の思想になっていく。そういう人との出会いを○○○大先生とKellyさんが望でいて、そういう霊縁を求めてまんねん。
そやから躁(そう)と鬱(うつ)から話が大幅にそれてるけど、けっかそれは、どれくらい智性(神性)を発揮しているのかによる。
そしてこの世界は、智性(神性)を持っている人と霊的存在は、少ないってことが判りまんねん。
ほんでからそのことが、因縁や、事故や災害などの突然死や、人を恨んでる霊的存在の通信を受けていて自殺する人や、殺したから殺すって言う思いを受けて人殺しをする人や、こんなこと具体的に例を挙げてたらきりが無いけど、その現象=事件の裏側には、人の心(靈)の動きと、その心(靈)の動きに感応共振する霊的存在が居てる。
今回Yっちゃん先生が導き出した結論には、そのことまで思わされるものやって、Kellyさんの感想を述べさせてもらいましてんな」
「そうでしたか…ですけど、難しい話になりましたね」
「そうでんな。
ほんでから今日は鬱(うつ)について感じたことをKellyさんはYっちゃん先生と話したかったけど、ちょっと長い話になったからくたびれましたやろ。そやから今回は見送りまんねん。この次に話しようやおまへんか」
「そうですね。今日話したことを、僕なりに整理したいですし…」
「そうしてくださいでんねん。
ほんでから、この間うちKellyさんは検索してて、頭から通電する治療があることを知ったやん」
「それは、mECTとか、TMS 、rTMSとかですか」
「そうやな。それについて思ったことがありまんねん。
次回にYっちゃん先生と話すとき、それについてもKellyさんの意見を聞いてもらおうと思ってるけど、エエですやろか」
「わかりました。
mECTとか、TMS 、 rTMSについては僕の専門外なので、自分なりに調べてきます。それからKellyさんと話した方がいいですよね」
「そうでんな。そやから今回はここまでにしようやおまへんか」
「承知しました。
それじゃ、また連絡させてもらいます。今日はこれで、失礼します」
「ほな、さいならでんねん」