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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈 三十三話の総括



 
 第三十三話の最初に
その精にしても年功や行跡によっては神格を得るものさえ…中略…普通の精とは大分違ってくる
という説明がなされ、これが前置きになっており、そして 
滝の精や滝壺の精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計るとともに、人間の霊の向上のためにも助力することを自分達の努め
ということを太霊は述べておられる。

 この
精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計る”、
これと
人間の霊の向上…中略…助力”、
これが“自分達の努め”と称されている。

 そしてそれは
常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの
なのであり
滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ”た
滝壺の奥に必ず立派な洞窟”と
三本の廊下…中略…一つの廊下に各十二の室
という説明がなされている。

 大事なのは、これが何のために作られたのか、それは先にピックアップしたように
精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計る
そして
人間の霊の向上のためにも助力
これは
本当の行人”と“上”が認め得るような人間を輩出する、という意図があることを読み取らねばならない。

 これは“その五”で述べたように、“”やり始めた人間、あるいはもっと程度の低い信仰ごっこをしている人間、こういった人間はただ雰囲気に酔っぱらっているケースがほとんどであり、“本当の行人”とは認めない、という太霊の意図を読み取るべきである。
 またその“本当の行人”ならば、最終的には“行人が神として行動を起こす”という段階に至るものであり、これを意図しているのがまた“滝の精や滝壺の精”でもあることを知らねばならず、また、自分たちの“上”とはこういった思惑を持っているのだということもしっかり理解しなければならないものであると言いうる。

 そのため、自分たちが“”で“”やるならば、
肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者
そして
精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない
ということを知り
そこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える
この
神体が神の御胸に添うべき元となる”
そして
他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行
ということも解っておかねばならないものである。

 それでこういうことを目的としている、意図している、その思惑があって、先の
滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ”た
滝壺の奥に必ず立派な洞窟”と
三本の廊下…中略…一つの廊下に各十二の室
これを
念の力によって目に見える形に造り上げた
のであるし、そこで“真の行者”、そして“本当の行人”を輩出する、ならばそれは
その精にしても年功や行跡によっては神格を得る
これに当たるものであると解するし、重複するが、自分がどこでどんな“行”をする(どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも)、それは自由であるが、それが“”ごっこではいけない、“上”が“真の行者”、そして“行人が神として行動を起こす”そして“本当の行人”と認め得るよう自分たちは頑張らねばならない、真摯に向き合わねばならない、ということを“その五”で述べたので、これをしっかり認識(悟り、幸取=さとり)とするべきである。

 次回のこのカテゴリーでは、第三十四話 精の形とその利用法 に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その五”



 今回は、第三十三話の文末の文言の解釈を述べる。

この道場に入いる者の中には、仙道、道教、仏教などの行者は固より精や山霊まで含まれ…中略…各の室は以上のような力を持って…中略…一室へでも入いることが出来れば、その者は滝について十分な知識…中略…汝等が滝で修行をするならば、その滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像して、仮令一瞬間でもその清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ、霊を知り神を知ることが出来る…中略…ただ一つの滝でさえ人間を立派に磨き七十二の変化(へんげ)の術を備えさしてくれる…中略…どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも、その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人…以下略…

 冒頭の
この道場に入いる者の中”、
大概の人間は、自分たちのことしかわからないから、一切の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとしていることに認識がない。
 それだから“仙道、道教、仏教などの行者は固より精や山霊まで含まれ”ということを太霊は教えていらっしゃる。
 そして“一室へでも入いることが出来れば、その者は滝について十分な知識”、この“十分な知識”というのは、“その二”で取り上げた文言、それは“行人”が、
自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者と言えるのである。汝等もその力を十分に知り、精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない
この“滝が何を教えようとしているか”これを“さとり得てこそ、真の行者と言える”と称されているその文言の裏には、“上”が“真の行者”と認め得る“行人”はそんなにいないということである。 
 それともう一つ“本当の禊の行にはならない”、それは
滝によって示されている理想に合体しなければ”、
これと
精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ”と、前置きされていることに気づくべきであり、これも大概の“行人”が“本当の禊の行”を実践していない、という言い回しであるし、自分が“”やっているならば、それが“本当”かどうか常に鑑みるべきでもある。
 また同じく“その二”で取り上げた、
水を被(かぶ)るとか被らないとかの問題ではなく、その中に入いりそこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える
この
そこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力
そして
これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行”、
これらが“”での“”、そのものといいうることだが、大概の人間はここまでのことを知り得ないので“滝について十分な知識”がないに等しい。
 それゆえ“一室へでも入いることが出来れば”という言い回しをされているものである。

 これに続く
汝等が滝で修行をするならば、その滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像して、仮令一瞬間でもその清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ、霊を知り神を知ることが出来る

太霊は、“滝について十分な知識”がないお前たちに“滝壺の奥にはこのような殿堂のあること”をローム霊訓講話とローム太霊講話集で教えたのであるから、その“知識”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)として
滝壺の奥にはこのような殿堂のあることを想像
その清流によって自我を没却し自分の肉を粉々(こなごな)にし、心そのものをもってその一つ一つの室を訪れようという気構えになってこそ
これはこういう息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をせよ、そうすれば
霊を知り神を知ることが出来る”、
これは先回取り上げた“第一”から“第十二”の“”、いわばそれは生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのことで、それだからこそまず“霊を知り”、そして進化が神格化であるからこそ“神を知ることが出来る”と称されていることに気づくべきである。
 それで、これをお前たちは知らない、それゆえ
汝等が滝で修行をするならば”、
お前たちが“”やるならば、これを意識して息吹け、そうすればお前たちの霊的成長度に応じた振動の受信、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるものである、という重要な事柄を述べておられる。
 
 これに続く
ただ一つの滝でさえ人間を立派に磨き七十二の変化(へんげ)の術を備えさしてくれる
この文言は“人間を立派に磨き”が大事であって、“七十二の変化(へんげ)の術”は、“”やっていくならば“”(“力”の顕現)は得られるし、“七十二”というのは“仙道”や“天狗道”で言われていることであるが、その具体的な“”は、当人が何を思惑としているか、どんな行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするか、において、その場その場において変容する、よって何々の“”とは決められないが、“”が進めばその贖い(あがない)において必ずそれは得られ、最終的には先回取り上げたように“行人が神として行動を起こす”という段階に至る、ということを述べておく。

 これに続く
どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)でも、その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人
この文言が第三十三話の最も重要な要旨であり、“”やり始めた人間、あるいはもっと程度の低い信仰ごっこをしている人間、こういった人間はただ雰囲気に酔っぱらっているケースがほとんどであり、“本当の行人”とは認めない、という太霊の意図を読み取るべきであり、じぶんが信心している、宗教の勉強をした、それに関わった、あるいは滝に入った、もっと進んで太陽凝視をやっている、それらを含め“どんな道場どんな斎庭(ゆにわ)”と称されているそこにおいて
その中に存在する真なるものを見出してそれを身に付けていってこそ、本当の行人
この“真なるもの”、それは第十九話の
神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間
これに当たるものであることを述べておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その四”


 今回は、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

その広間を通り抜けて奥へ行くと、そこから三本の廊下が出ていて、一つの廊下に各十二の室が付いて…中略…三本の廊下というのはそれぞれの行人が理想とする道を三つに大別…中略…十二の室というのはその一つの道を選んだ者の修行の場で…中略…第一室から段々進んで第十二室で完成…中略…内容を簡単に話すと、第一は自分の理想を固める室、第二は神の命を自分が媒体となって受入れる室、第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める室、第四は術を学ぶ室、第五は道を学ぶ室、第六は命を学ぶ室、第七は光の波動、例えば現界より細かい幽界の波動を受入れるための室、それ以上は非常にむずかしくなるから名前だけを並べると、第八は光の上の空に対する室、第九はその上の無に対する室、第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁に対する室、第十一は以上の修行を綜合して行人が神として行動を起こす力を与えられる室、第十二はそれらのものが完成して、自分の与えられた理想があらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす室

 まず
広間を通り抜けて奥へ行くと、そこから三本の廊下が出ていて、一つの廊下に各十二の室が付いて…中略…三本の廊下というのはそれぞれの行人が理想とする道を三つに大別

この“行人が理想とする道を三つに大別”に関しては、第三十四話に“肉体と精神と物質”という言い回しがあり、これに当たる“行人が理想とする道”であろうと推察する。 それは“肉体”の完成、“精神”の完成、“物質”とはその言葉通りではなく、外側(外国と幽界)の事象、そこにおける“物質”と認識されうるそれ、あるいは“物質”で構成されている“現界”のこと、である。
 この“三つ”を何とかする、何とかしたい、完成を目指したい、力を顕わしたい、というのが“行人が理想とする道”と解することとする。
 そこにおいて
第一室から段々進んで第十二室で完成
と説明されており、
第一は自分の理想を固める室
これは先の“理想とする道を三つ”に対して、自分はどうしたいのか、である。

 次の
第二は神の命を自分が媒体となって受入れる室
これと
第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める室

これは、先の“第一”で“固め”た“行人”の“理想”、これが“神の命”に適う(条件にあてはまるの意)、それは“行人”がその“理想”を神の思惑と一致させようとする思想を構築する、それはいずれ、というよりも、最終的には、第二話の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
この“神の気持ち”に沿った“理想”となる、というより、そうなっていくのが自然でもある。
 これを換言すれば、“自分が媒体となって”というのは先の第二話の“神の気持ち”を“現界”に顕現するようになる、その資質を得る(ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たす)、そうなるにはただ“”を求めるという段階のことではなく、“行人”自身が思う自分の存在の意義というものを認識(悟り、幸取=さとり)としていく、いわゆる自分自身と神の関係をしっかり理解して、そのうえで“理想”を構築して、その“理想”所以の思想や行動をしていくための“”であるといいうるし、それをするには“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が必須でもある。

 次の
第四は術を学ぶ室

これは文言通り、“行人”の“理想”を顕現する具体的な“”(“力”の顕現)の獲得である。

 次の
第五は道を学ぶ室

これは“”の“理想”を顕現するための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識(悟り、幸取=さとり)とするの意。

 次の
第六は命を学ぶ室

これは“行人”の“理想”が、先の“第三の”で述べた“いずれ”と称したことに該当する。

 次の
第七は光の波動、例えば現界より細かい幽界の波動を受入れるための室

これは“行人”がこれまでの“行”では得られない高い振動を獲得するための“行”であるといいうる。
 それは“光の波動”と称されてはいる、そして“現界より細かい幽界の波動を受入れる”と称されている通り、いきなり厳しい太陽凝視ではなく朝日とか夕日を見る、そして月の凝視とか、星空を見る、くらいから始まり、そこで得られる“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを獲得するのだと察する。

 次の
それ以上は非常にむずかしくなるから名前だけを並べると、第八は光の上の空に対する室、第九はその上の無に対する室、第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁に対する室

これはS会=紫光会の真言、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)が、“(まこと)”の“”の“”、存在するのそれ、は、“”(奇才の奇、あらわれの意、普通の程度をはるかに超えてすぐれているの意)であり、それは振動の高低を表す“”→“”=“”→そして“”、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”の根源たる振動である“愛(炁)”であるからこそ“第十はその上のあらゆる創造の根源となる炁”と称されている。
 この“愛(炁)”に関しては画像を作成したので以下に貼っておく。

炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁の解字 

  この“第七”から“”の“”、これがまた炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味合いと合致するものであり、ネット上ではこの言葉に対しててんで低い解釈を述べている人がいるが、おそらくそれはゴーストライターが本を売るという商売の為にご利益を強調して書いた全く程度の低い本を読んだうえで思ったことであると察するが、これがどれくらい罪深いことかを考えてもらいたいものである。
 本題に戻り、さらにS会=紫光会の経文、三光道真教句録 には 物光空無 炁在存為 置位天宙 三光秘経 の表記がある。
 これは 物光空無 が振動の高低を指す表記、炁在存為 は、高い愛()と 在 と 存 がある理由と根拠、それを、 と称し、それは、置位天宙 天 と 、“上”にある、それを、置位 と称され、それ自体が高い振動、低い振動で構成された心(靈)から“観察と認識”するならば、 光 と感じられ、それはまた生命の存在意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の訣とえなのだということを、三光秘経 と称されている。
 また 在 と 存 は、ローム太霊講話集のあとがきから引用して、
在 は宇宙万物を構成するあらゆる材料の根本、 はこの材料を使って宇宙万物を創造する力の根源、この二つを一定の計画の下に結合させる何ものか、それは現在のこの真善美に徹した一糸乱れざる宇宙万物の創造、これに関与する何ものかをと名付ける」
と述べられている。 これはローム霊訓講話で太霊が述べたことを編集者が編纂したものであろうと推測する。

 次の
第十一は以上の修行を綜合して行人が神として行動を起こす力を与えられる室

この“行人が神として行動を起こす”、これは先の“第二は神の命を自分が媒体となって”と“第三はこの神の命と自分の理想とを纏めて根本の針路を定める”、これがあってこそのことであり、それは“現界”においては“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であろうし、あるいは“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)、これ等を実際に行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)とする、その“力を与えられる”と称されているので、うんと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、神に認められた資質をもった際のことであろうし、それゆえ“以上の修行を綜合して行人が神として”と称されているものである。

 次の
第十二はそれらのものが完成して、自分の与えられた理想があらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす室

先の“行人が神として行動を起こす”、これは“行人”の“理想”が神と一致する、そうなるならば、“行人”が思うこと事態が神の思惑の顕現につながる、それはすでに解釈を終えた“日月神示” 地震の巻 の、“直接内流”が高度なそれになったという言い方もできうる。
 そしてこの文言の意味するところ、“あらゆる所で実現出来る”、それはその“行人”の心(靈)が 現界、幽界、霊界、神界、のどの場(フィールド)に位置していても、その事象において“思惑の顕現”が可能であり、それ自体が神の思惑と一致する、それはまた“日月神示”表記の“大歓喜”でもある。
 さらにそれは、個の心(靈)としての“最高の境地”であるし、重複するが“行人”の“理想”が神と一致して、その事象において“実現”となしていくことを“あらゆる所で実現出来る最高の境地を顕わす”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その三”



 今回は、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

そこで滝壺の奥の殿堂について一応説明…中略…先ず洞窟の入口の扉…中略…術によらないと開かない…中略…入いると暗い所が五十間ほど続くが、ここは穢れは穢れとして祓い、善いものは善いものとしてその者に光明を与える場所…中略…過ぎると次第に明りが射してきて岩の階段…中略…体を出すと、不思議なことにそこはもう洞窟ではなく雲のない空の下に草原…中略…大殿堂が聳え…中略…その壁は凡て光で出来ており、殿堂は古代ローマの神殿のような造り…中略…入いって行くと、大広間が一般の集会所のようになっていて、世界の国々から集めた立派な彫刻や絵画が飾られ…中略…それらは凡て人間に知られた有名人のものではなく、いずれも隠れた偉人の像や未知の天才の作品…中略…恐らく人間にとっては博物館に入いったような気が…中略…そこには世界のあらゆる人種が集まって来て…以下略…

 今回の文言は先回の
肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり”、
この状態でないと“探知”して“滝壺の奥の殿堂”の様子を説明されている上記の事柄を“観察と認識”しえないということである。

 それで、これに入っていくならば、まず“穢れは穢れとして祓い、善いものは善いものとしてその者に光明を与える”という過程がある。 
そ の過程は、“穢れとして祓い”とは自省(胸の磁性“十”)であり(“本津宮”(もとつみや)へ帰れ)、これをしなければ自分の心(靈)の動きにある“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の要素を自分で律することが出来ない。 
 それは“自分の所に来て修行をする人間を親切に指導してくれる”(第三十二話の表記)、この“指導”を受けるに値する心(靈)となるのに必須の要綱であり、そうなれば“善いものは善いものとしてその者に光明を与える”、自分の心(靈)を構成している振動より相対的に高い振動は光として感知する、これは物理法則でもあり振動の法則性であるが、その意で“光明”と称されているものである。
 よってこの“暗い所が五十間ほど続く”は、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す過程でもあるといいうる。 
 そして“善いものは善いものとしてその者に光明を”というのは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指した文言である。

 これに続く
体を出すと、不思議なことにそこはもう洞窟ではなく雲のない空の下に草原…中略…そこには世界のあらゆる人種が集まって来て
これは先回の
滝に対する壺の精の安息所であると同時に、常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの…中略…元々滝壺の精が自分の理想を実現するために創造…中略…実際には壺だけではなく、滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ…中略…全く人間的な手法によって完成されている
これによることである。 
 そしてそこには“ほんとう”に価値のあるもの、それは“世界の国々から集めた立派な彫刻や絵画が飾られ…中略…それらは凡て人間に知られた有名人のものではなく、いずれも隠れた偉人の像や未知の天才の作品”、これを“飾られ”ているというのは、“滝に対する壺の精”が“ほんとう”の価値を求めている、それは人間が人間の作品をほめそやした“有名人のもの”が果たして“ほんとう”なのか、これをよく判っているからであるといいうる。
 また“大殿堂が聳え…中略…その壁は凡て光で出来ており”というのも、“幽体”における事象の“観察と認識”であるが、先の“光明”と同義、その場(フィールド)が高い振動で構成されているの意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その二”



 今回は、先回取り上げた文言の文末を含めている以下の文言の解釈をする。

滝の水が間断なく落ちてくる力を滝壺は刻々に受入れ…中略…滝の精が下の壺で満たそうとしてその希望を燃やしているのに対し、滝壺の精は常に叩かれながらそれを甘受…中略…実に菩薩の姿…中略…常に叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備えているのと同じ…中略…この精は自分の滝壺の奥に必ず立派な洞窟を…中略…入口は強い意志の力を象徴するかのような大きな岩でしっかりと塞がれ…中略…何故洞窟などを造るのかというと、これは滝に対する壺の精の安息所であると同時に、常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの…中略…元々滝壺の精が自分の理想を実現するために創造…中略…実際には壺だけではなく、滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ…中略…全く人間的な手法によって完成されている…中略…娯楽場と化して、花やかな雰囲気の中に真に人間の望むところのものは凡て満たされる…中略…そこを本当に探知することが出来れば、滝の修行もその面目を一新する…中略…自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者と言える…中略…汝等もその力を十分に知り、精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない…中略…水を被(かぶ)るとか被らないとかの問題ではなく、その中に入いりそこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える…中略…こうして滝の精や滝壺の精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計るとともに、人間の霊の向上のためにも助力することを自分達の努め…以下略…

 今回取り上げている文言は、文末から取り上げていくと理解しやすい。
 まず
滝の精や滝壺の精は、それぞれの理想に従い精としての向上を計るとともに、人間の霊の向上のためにも助力することを自分達の努め

 文言中の“人間の霊の向上のためにも助力することを自分達の努め
そして
それぞれの理想に従い精としての向上を計る
これは“滝の精や滝壺の精”自身の存在の意義である。 ことに前者は“人間に近付こうとしてあらゆる行(ぎょう)を積んでいる”(第二十八話の表記)に当たることでもある。

 その前の文。
自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者と言える…中略…汝等もその力を十分に知り、精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない…中略…水を被(かぶ)るとか被らないとかの問題ではなく、その中に入いりそこの守り神や精達と提携することによって、自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力すると同時に、これを他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行と言える

 読めば理解できるように、これは“行者”が、
自分の神体が神の御胸に添うべき元となるよう努力する
そして“神の御胸に添うべき元”これを
他の人間に教え伝えてこそ、滝や滝壺の精に対する報恩の行
もと称されている。
 それは、“行者”が第三十二話の“”を求めるという段階からうんと進んでいって、“神体が神の御胸に添うべき元”、これは、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”や智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得するその“”、自分の存在の意義、自分の獲得した“力”の使い方、自分の在り方、など、智性(神性)を行使する段階に至る、またこれは、うんと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、いずれ“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)につながっていくものであるし、その“”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、それは“同時に”“”の“ほんとう”の意味合いを見出したならば、ということであるが、それだからこそ“神体が神の御胸に添うべき”という言い回しがされているものである。
 これがまた“滝が何を教えようとしているかをさとり得て”に当該することであり、これは“行者”にとっての“上”である“守り神や精達”が、第三十二話で言われている通り“自分の所に来て修行をする人間を親切に指導してくれる”、それは“行者”の“神体”が“神の御胸に添うべき”その“”、それを教え、そうなるべく指導してくれている、そういった思惑を持っているのだと読み取るべきである。
 その具体的なこととして
水を被(かぶ)るとか被らないとかの問題ではなく、その中に入いりそこの守り神や精達と提携する”、
この“提携”とは、先の“”を“行者”自身が得るべく息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)する、そうすると“守り神や精達”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“行者”の心(靈)が影響を受けて育っていくのだ、ということである。
 そしてその前の
汝等もその力を十分に知り、精が人間のためになそうとする行為の一端を受けつつ清流に穢れを祓い、その滝によって示されている理想に合体しなければ本当の禊の行にはならない”、
これは先の“提携”のことであり、その前の
自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり、この滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ、真の行者と言える”、
これは、この“提携”があってこそ“真の行者と言える”のであり、先の“”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としてさらなる“”に進んでいくことが“滝が何を教えようとしているかをさとり得てこそ”に当たるものである。
 そしてその前の
自分の肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり
というのは、肉体より細かい振動で出来ている“幽体”で感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をする、という意味合いのことである。

 その前の文。
この精は自分の滝壺の奥に必ず立派な洞窟を…中略…入口は強い意志の力を象徴するかのような大きな岩でしっかりと塞がれ…中略…何故洞窟などを造るのかというと、これは滝に対する壺の精の安息所であると同時に、常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの…中略…元々滝壺の精が自分の理想を実現するために創造…中略…実際には壺だけではなく、滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ…中略…全く人間的な手法によって完成されている…中略…娯楽場と化して、花やかな雰囲気の中に真に人間の望むところのものは凡て満たされる…中略…そこを本当に探知することが出来れば、滝の修行もその面目を一新する

 文末の“本当に探知することが出来れば”は、先の“肉体は岩の上に在りながらその幽体は洞窟の中に入いり”にかかり、“幽体”で“探知”しなければ、“洞窟の中”には入れないのだ、と述べられているし、こういった方法でなければ、先の“滝が何を教えようとしているかをさとり得て”とはならないことを示されている。
 それは自分が“行者”として“”で“”するならば、ここまでのことを目指してみよ、これは換言すれば“幽体”における“観察と認識”をせよ、“肉体”で得られる以上の振動を“感受”(心(靈)で感じ取る)せよ、その振動の受信による現津(あきつ)、観察され得る事象を自分の心(靈)に“映像”(地震の巻 表記)(個の心(靈)が“観察と認識”している事象そのものは、自分の心(靈)の中に投影された“映像”である)とせよ、でそうでなければ先の“真の行者”ではないのだ、ということでもある。
 その“映像”された事象について
滝壺の精が自分の理想を実現するために創造…中略…実際には壺だけではなく、滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ…中略…全く人間的な手法によって完成されている…中略…娯楽場と化して、花やかな雰囲気の中に真に人間の望むところのものは凡て満たされる
と述べられているし、それは
滝に対する壺の精の安息所であると同時に、常に叩かれている者が自分の理想を実現するために、何千年かの長い歳月をかけ、念の力によって目に見える形に造り上げたもの
であり、ここで重要なのは
念の力によって目に見える形に造り上げた”、
これは“壺の精”自身の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”ということでもある。
 そしてその“創造”された“滝壺の精が自分の理想を実現するために創造…中略…実際には壺だけではなく、滝全体の理想がその中に織り込まれ纏められ”たその事象を“行者”が“幽体”で“探知”すること事態が、先の“守り神や精達”が“自分の所に来て修行をする人間を親切に指導してくれる”(第三十二話の表記)に当たるものである。

 そしていま述べたこと事態は、その前の文を読むと解りやすい。
滝の水が間断なく落ちてくる力を滝壺は刻々に受入れ…中略…滝の精が下の壺で満たそうとしてその希望を燃やしているのに対し、滝壺の精は常に叩かれながらそれを甘受…中略…実に菩薩の姿…中略…常に叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備えているのと同じ

 この“常に叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備えているのと同じ”、
常に叩かれている”が“真の行者”の姿であり、この“円満な力を備えている”の“”が、“自分の所に来て修行をする人間を親切に指導”によって得られるのである。
 また“常に叩かれ”と“実に菩薩の姿”、この文言、自分が“”やっているならば、これを忘れてはならないし、この文言で自分を律するべきである。
 そうすると
神の御胸に添う
それは“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)という段階にいずれ至る、参考のために、第十八話 地仙と天仙 から以下にコピペしておくのでしっかり読んで理解していただきたい。

幽界を通り越して直接霊界に行けることは、生きている間に現界、幽界、霊界を常に往来して鍛錬されていたからで、この天仙ともなられる方は神と言っても差支えない…中略…ここまで来ると前に言った仙道の三要素などは最早問題ではなく…中略…不老長寿というよりは衆生済度とか真理の探究とかそれぞれの名の下に、いわゆる天行仙というような一つの格をもってその目的の所に自分の体を合体され…以下略…

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第三十三話 滝壺の精とその洞窟 Kellyさん的解釈“その一”



 今回から第三十三話の解釈に入る。 まず冒頭で述べられている以下の文言について解釈を述べる。

今日は次の滝壺の話…中略…この前も言ったように滝と滝壺とは自ずからその働きも変ってくる…中略…滝全体を司っておられるのは滝の神であって、滝そのものや滝壺そのものに付いているのは精…中略…その精にしても年功や行跡によっては神格を得るものさえ…中略…普通の精とは大分違ってくる…中略…滝の周辺で人間として感知出来るのは、大体滝全体を支配されている神と、滝とか滝壺とかの個々の精と、そこに纏(まつ)わっている諸々の霊位(くらい)のもの…中略…そこで滝壺の話になるが、これはお伽噺のようなつもりで聞いて…中略…滝の水が間断なく落ちてくる力を滝壺は刻々に受入れて…中略…滝の精が下の壺で満たそうとしてその希望を燃やしているのに対し、滝壺の精は常に叩かれながらそれを甘受している…中略…これは実に菩薩の姿であり、常に叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備えているのと同じ…以下略…

 今回取り上げてる文言の前半、
この前も言ったように滝と滝壺とは自ずからその働きも変ってくる…中略…滝全体を司っておられるのは滝の神であって、滝そのものや滝壺そのものに付いているのは精…中略…滝の周辺で人間として感知出来るのは、大体滝全体を支配されている神と、滝とか滝壺とかの個々の精と、そこに纏(まつ)わっている諸々の霊位(くらい)のもの

これはすでに第三十二話で述べられたことと重複している点が多いが、その中で大事なのは、
人間として感知出来るのは、大体滝全体を支配されている神と、滝とか滝壺とかの個々の精と、そこに纏(まつ)わっている諸々の霊位(くらい)のもの

文中の“人間として感知出来る”、この言い回しの裏にあることとして、これは肉体を持った心(靈)である“人間として”感応出来得るということと、その存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して=その存在の振動を“感知”して、“感受”(心(靈)で感じ取る)して、そのうえでその存在を認識出来得る、それは自分が観察しうる事象とするのだということ。 
 そしてそれはここで述べられている通り“滝とか滝壺とかの個々の精”と“纏(まつ)わっている諸々の霊”、これは“滝とか滝壺とかの個々の精”とその眷属、そして第三十二話で説明されている“地縛になっている人間の霊”、またその周辺の動物霊や自然霊などを指していることがすぐ理解できる。

 もう一つ重要なこととして
その精にしても年功や行跡によっては神格を得るものさえ…中略…普通の精とは大分違ってくる…中略…
これは第二十八話で述べられている通り
人間に近付こうとしてあらゆる行(ぎょう)を積んでいる
と“妖精”や“”が“行(ぎょう)を積んでいる”のであり、これが高じてくると第二十九話、
精の中でも高級になると、奇鬼神の位のものさえある
そして先の文言通り“年功や行跡によっては神格を得る”ということを述べておられる。

 それでここまでは“”の説明が中心であるが、今回取り上げている文言で重要なのは
常に叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備えている
それは
滝の水が間断なく落ちてくる力を滝壺は刻々に受入れて…中略…滝の精が下の壺で満たそうとしてその希望を燃やしているのに対し、滝壺の精は常に叩かれながらそれを甘受している
これを
実に菩薩の姿
と称されており、先の“叩かれている人間が何処へ出ても円満な力を備え”、常に目前の試練を“神の采配”として真摯に受け止めて、そして間断なき“行”で自分のエネルギーを贖って(あがなって)いる人間は“円満な力”を顕現しうるのだ、ということであり、S会=紫光会の交霊会で幾度となく言われた“神は乗り越えられない試練は与えない”、
そしてローム太霊の言葉“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん
更に“粘りとやせ我慢”、これらの意味をよく理解していかねばならない。

 またそれは第三十二話の文末の
人間は誰しも…中略…いざその場になって困難にぶつかると挫けてしまうものであるが、兎に角それを切り抜けることが出来れば、一人前の…以下略…
この文言と合わせて読み、自分の生き方の指標とするべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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目上(めうえ)と目下(めした)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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ローム太霊の教え
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発売中の一冊目は


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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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