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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在47年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈 五十七話の総括

 
 “その一”で述べたように第五十七話は第五十六話の

神に通ずる人間とならなければならない

その資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

これに繋がっている話であり、人間の在り方、神に認められる人間、ということを念頭に置いて読むべきである。

 

 それは

人間が…中略…自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んで

これが“”が自分たちに望んでいることであるという文言通りの事であり、そこで

これ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない…中略…人間が全力を尽すということは、死を意味する

生業(なりわい)であろうが“行”であろうが、これくらい頑張ってみよ、これが出来ない、こんなことは到底できないと思う人間は先の“自分の力を卑下(ひげ)している”のであることを知れ、である。

 

 また人間は、動物とは違い“善悪”を判別しうるし、これを自分の思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にあてはめ、規範とすることが出来る。

 これに関し、先ず

全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げている者もたまにはある

ということを述べられ、そのうえで

人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得

人間としては自分が考える善において得ればよい…中略…それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる

これは“本霊の発する心の言葉”(“その一”参照のこと)に照らし合わせていけばよいということである。

 

 そこで太霊は

人間は…中略…自分を小さく見がち…中略…自分を小さく見過ぎている

ということを再度述べられ、

物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれる…中略…それがロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせる

これを“常に心の中に縫い付け”とまで述べておられ

尚一段の行業一致のひたむきの努力は、必ずその身に光を現わして

神に認められ得る、“上”が評価しうる“光を現わし”となれよ、と述べられ

そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれる

と述べておられる。

これに関して、第五十二話で

自分があってのそのものを乞うのでなく、神即ち宇宙があっての自分の力を整えるのでなくてはならない

自分が無ければ世もない神もないという自己主義はもう過去の夢であって、汝等は無限に大きい宇宙の中の一つのごみにしか過ぎないが、しかしその中に初めて自分が見出されたその喜びを思い合せ、自分というものを真に悟り得るならば

ということを述べておられ、文言中の“自己主義”というのが如何に狭い視点か、たった今の自分はこれに当たるのではないか、ということを、ローム太霊講話集を読まれた方は常に自分に問うべきであり、“無限に大きい宇宙”そして“神即ち宇宙があっての自分”ということを考え得るならば、当然のことながら他者を対象に“抱擁出来る人間になれる”のであり、常々述べている通り“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の考えや行いは、他者に対し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をして他者を利用し他者から奪っているということになっており、これを行ってはならないのだと厳に自分を戒めなければならない。

 また

自分というものを真に悟り得るならば、相対(そうたい)する善悪の理も自(おの)ずから分って

とも述べておられ、前後するが先のこの“個人が良心によって定める善悪に従って努力”に対し

真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡(ろうらく)している者も沢山いる

という指摘もされておられる。

その指摘の後に

人間は(まこと)というものを良く知りぬいて、自分の(まこと)の上に他の人のよいところの(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来る

と述べておられるその太霊の意図、これをよく理解しなければならない。

 

 そうしていくならば

神から与えられた想像(創造に通ずる)の力を益々伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務

自分の心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”が出来うるのであり、それを“考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”と称しておられ、この文言を読んだだけでは理解が難しいであろうから、これを取り上げた記事を以下に貼っておく。

 

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈“その三”

 

 また“考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”に関し

人間は…中略…永遠に種を残してその生命と仕事とを守って…中略…これこそ神の望まれるところ

汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来る…中略…その行為の一つ一つは陰徳となって現われ、倹約となって現われ、奉仕となって現われ、また感謝となって現われる…中略…人間各自が全生命をその中に注ぎこみ、病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ、真の幸福がそこに現われてくる

と、自分の頑張りと贖い(あがない)、

その力を偉大にし自分を立派にしてこそ

そうすると自分以外の全体に対して

国家を立派にし世界を立派にすることが出来る…中略…その行為の一つ一つは陰徳となって現われ、倹約となって現われ、奉仕となって現われ、また感謝となって現われる

こうなっていくのだ、だからこそ先の“自己主義”などということは“上”が認めない、“過去の夢”、これは今後=アセンション後に対しての、という言い回しであることに○○○大先生の著書の読者ならすぐ気づくはずである。

 そしてそれは“真の幸福がそこに現われてくる”に繋がり、たった今はそうではない、薄っぺらい幸福感が既成概念になっており、“自己主義”“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“ただ巧言を持って人を籠絡(ろうらく)している者、これらが奪い合いの世界を構築してしまっている現状をよく解らねば真の幸福”という文言の理解には到底及ばないし

人間の心の偉大さをよく悟り、神の道一筋に進んで行けば、必ず行業の目的の一端が達成される

これはお前たちが“心の偉大さ”を解っておらず、先の“神の望まれるところ…中略…その力を偉大にし自分を立派にして…中略…行為の一つ一つは陰徳となって現われ、倹約となって現われ、奉仕となって現われ、また感謝となって現われ”これが出来ているか、 神の道一筋”に進んでいるかどうか、考えてみよ、という意図を感じるものであり、これが出来うるならば“行業の目的の一端が達成される”、これ事態が第十九話の

行業一致、即ち肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成すると共に、この目に見えない精神をも立派に完成することが現界人としての使命…中略…神自身もまた同じ考えで…中略…汝等はこの行業一致の精神を凡てのことに取り入れて、神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

この下線を引いた部分に当たるようになるのだということを述べて、五十七話の総括とする。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第五十八話 人間への感謝の祈り これに入ることを告知して今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈“その四”

 


 今回は先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

 

人間は、発生以来連綿と続いて死滅…中略…なく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守って…中略…これこそ神の望まれるところ…中略…それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来る…中略…その行為の一つ一つは陰徳となって現われ、倹約となって現われ、奉仕となって現われ、また感謝となって現われる…中略…人間各自が全生命をその中に注ぎこみ、病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ、真の幸福がそこに現われてくる…中略…汝等は人間の心の偉大さをよく悟り、神の道一筋に進んで行けば、必ず行業の目的の一端が達成されるもの…以下略…

 

 まず

これこそ神の望まれるところ

これについて

発生以来連綿と続いて死滅…中略…なく、永遠に種を残し

その生命と仕事とを守って

という説明をされたうえで

汝等はその与えられた名前の下に

この“名前”に関しては、命名、それは使命の種類としての名、そして宿命、さらにそれは“神の命”、あるいは現界人の間、生きている間、それが“人間”と解し、これは両方とも“現界”に位置している間のことを指しているが、そこにおいて

その力を偉大にし自分を立派にしてこそ

いわゆる“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)、そして霊的成長度、どれくらい神の思惑を理解して、その神の思惑と自分の“力”、この両方会いまった行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を実行出来うるのか、その程度が、どれくらい神に近いのか、ということになり得ると言え、そうするならば

国家を立派にし世界を立派にすることが出来る

文中の“国家”は右翼が思うちっぽけなそれ、敵対する国家をねん出するそれではなく、“世界”とは、地球全体、或いは宇宙全体、観察しうる事象すべて、それは“日月神示”地震の巻の表記の“一切万象”である。

 そして

その行為の一つ一つは陰徳となって現われ、倹約となって現われ、奉仕となって現われ、また感謝となって現われる

これは先の“与えられた名前”が、自分がなす“現界”における“行為”、それが“陰徳”、これに関しては解釈の要はない、“倹約”、これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が限られた何かを自分たちのためだけにぜいたくに使うことに対する言い回しであり、人間にとって「必要なもの以外は必要ではない」、これは○○○大先生が著書で述べたことだが、これを多くの人間が理解して自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすとしたならば、たった今の状況から比べどれくらい“倹約”になるのか考えてほしいものであるし、こういったこと自体が先の地球全体、宇宙全体、観察しうる事象すべてへの“奉仕”となり、こういったことを“行為”する存在だけの場(フィールド)では、奪い合いはないし、すべての存在が“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)に当たる思想と行動をするからこそ、そこには“感謝”しかない、恨みや嫉みなどはあり得ない場(フィールド)になるということ。

 

 これに続く

人間各自が全生命をその中に注ぎこみ、病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ、真の幸福がそこに現われてくる

これは“全生命をその中に注ぎこみ”は先の“名前の下”に当たり、生きている間に何をなすのか、なんのために頑張るのか、これを考えよ、であり、

病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ

これに関しては第五話

人間は健康な間は体のことなど忘れて外の事に取り紛れているが、一旦病気になると心の平静を失う

また、これに関連することとして第四十八話

病人の中にはぴんぴんして働いている人間を妬んでいる者が恐らく半分はいる

こういったことがまっとうなことではないなので

完全な体になって神を拝んでこそ

そうなれよ、そのために“仙道”や“四方の祈り”を教えていただいているのである

 そしてこれに続く

真の幸福

これは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う薄っぺらい幸福感ではなく、“ほんとう”のという意味合いと、“夭と屰”(ようとげき)、夭折(早死に)に逆らうの“屰”生きている間に沢山の認識(悟り、幸取=さとり)を獲得する、それが幸せの字の意味合いであり、福は神の意がある示す偏(へん)と“畐”は“一”=智性=1番目のオーラと、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む意味合いの口と、その振動を溜め“一”=智性=1番目のオーラとする“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)のことである。

 

 これに続く

汝等は人間の心の偉大さをよく悟り

これは第三十四話の

光以下のものは凡て物質に譬えられるとしても、光以上のものは物でないから簡単な言葉で表わすとすれば波動というよりない…中略…この地球の上の粟粒にも過ぎない人間の心が、地球そのもの以上の力を持つことの出来るのは、物質でないこの無限に存在する波動を受け入れる

これをよく理解して、次の

神の道一筋に進んで行けば

これは第三十六話の

炁の力の無限の所有者である神というものを自分の心の中に据えて

これは“心の中に据え”=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)せよ、ということである。

 そうしていくならば

必ず行業の目的の一端が達成されるもの

この“行業の目的”をどうとらえるのか、それは先の“名前の下”、“神の命”であり、これが理解できているならば第十九話の

行業一致、即ち肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成すると共に、この目に見えない精神をも立派に完成することが現界人としての使命…中略…神自身もまた同じ考えで…中略…汝等はこの行業一致の精神を凡てのことに取り入れて、神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

この文言の意味合いもよく理解出来うるものである。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈“その三”

 
 今回は先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

 

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきの努力は、必ずその身に光を現わしてくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれる…中略…世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡(ろうらく)している者も沢山いるが、人間は(まこと)というものを良く知りぬいて、自分の(まこと)の上に他の人のよいところの(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来る…中略…そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力を益々伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と…以下略…

 

 冒頭の

尚一段の行業一致のひたむきの努力は、必ずその身に光を現わしてくれる

これは第五十六話の“神に通ずる人間”に当たる、それは神が認める人間と換言出来うる。

 そして

人を抱擁出来る人間になれる

これは“神に通ずる”神と思惑が一致していくのであるから、第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

この“神自身の本当の気持ち”所以の“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)の思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)となっていくことを指していると解することが出来、これに続く

世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡(ろうらく)している者も沢山いる

こんな人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なので、他者を“抱擁出来る”には当たらない。

それでこの文言通り、たった今の世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がほとんどであるから、自分の損得、保身などという程度の低い考えしかない者が大多数、よって“真心(まごころ)がなく”、自分の利益と保身などのために“巧言を持って人を籠絡(ろうらく)”している成功者と称され形骸の権威をふるっている人間がとても多いし、それに肖る(あやかる)程度の低い人間も多い。

 こういったことを神が認めるわけがない、それは先の第二話の“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土”にはなり得ない、一部の人間が薄っぺらい幸福感に酔っぱらっているから汚い金を集め経済という奪い合いを行い、その経済は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の大きな要因となっていることを○○○大先生は著書で述べたが、こんなことを説明しても一笑に付す人間のほうが圧倒的多数である。 

それだからこそ太霊はこういった指摘もしていらっしゃるものである。

 

そこで

人間は(まこと)というものを良く知りぬいて、自分の(まこと)の上に他の人のよいところの(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来

この“(まこと)というものを良く知りぬいては、誠実さ、“ほんとう”のこと、であり、自分の損得や保身を中心に考える人間は不誠実であり、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということをするが、そんな人間を神は認めるはずがない、ということを良く知りぬいて”であり、“自分の(まこと)”ということがあるならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はその人間を評価しもっともっと育てようとするし、“上”として“力”を加えたり、加護や庇護もする、また自分と同じような人間と霊縁を付ける。

それはその霊縁によって不誠実や保身中心に考える人間は縁が切れ、誠実さ、“ほんとう”を求める人間と縁がつき、これらによって自分は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向にますます向かっていく、それは“その一”で取り上げた

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい

これに繋がっていくことになる。

これらがあってこそ“自分の最大の力を発揮することが出来”、この“最大の力”とは、先の“神に通ずる人間”だからこそ、と読み取れ、程度の低い人間が間違って解釈しそうな、金や権威など、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来の見方や価値観ではなく、重複するが“神に通ずる”という意味合いで“最大の力”ということである。

 

 これに続く

そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力を益々伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務

 

人間としては“自分の(まこと)”これを“よく見通して”そのうえで“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力を益々伸し”、これは第三十七話の

人間が自分の頭で考えられる範囲内で一つの想念を繰り返していると、それが現実の想像となり…中略…想像がやがて現実の創造となる

いわゆる自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”であり、結果それは“(“自分の(まこと)”所以の)考えの現われを現界に残してゆく”ということになる。 

またこれは、“日月神示”地震の巻 第一帖の

“個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”

これに相当することでもあるし、これが“凡ての人間に課せられた義務”、この“義務”は、“創造”の“主(ヌシ)”が被造物である人間に課したのだ、ということをよく解っておけ、ということである。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈“その二”

 

  今回は先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。

 

ところが人間は…中略…あんな所まで手が届かない…中略…大きな仕事は(がら)ではない…中略…自分を小さく見がち…中略…が、一旦思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間…中略…例えばここにABCの三人の人間…中略…Aは一億円持って…中略…Bは百万円…中略…、Cは一万円しか持っていない…中略…そういう場合に、Cは自分には到底一億の金は出来ないと思う。それが自分を小さく見過ぎているのであって、物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれる…中略…それがロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものであるから、このことは常に心の中に縫い付けておいて…以下略…

 

 今回取り上げている文言の要旨は

思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間

そして

物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれる

である。

 

 上記文言中の“その者の努力次第”に関しては、先回取り上げた

実際に自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない…中略…人間が全力を尽すということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言える

これを、自分が生業(なりわい)なり“行”なりにおいて頑張る(元の気を張る)ための指標にするべきである。

 

前後するが

人間は…中略…あんな所まで手が届かない…中略…大きな仕事は(がら)ではない…中略…自分を小さく見がち…中略…が、一旦思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間…中略…例えばここにABCの三人の人間…中略…Aは一億円持って…中略…Bは百万円…中略…、Cは一万円しか持っていない…中略…そういう場合に、Cは自分には到底一億の金は出来ないと思う。それが自分を小さく見過ぎている

そして、先に取り上げた

物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与え

ということを太霊は述べておられるが、これに対しては、先回の

人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んで

この“神は…中略…最も望んで”、

それと今取り上げている文言中の

が、一旦思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間

これをすべての“人間”に望んでいるのだ、ということをしっかり理解すべきであるし、そのために太霊は

ロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせる

と“必ず”という文言を使っている事に気づくべきであるし、その“奇跡を起こさせる”は、第五十六話の

神に通ずる人間とならなければならない

その資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

これに当たることでもある。

 よってこのことを“常に心の中に縫い付けて”と教えておられるのである。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第五十七話 行業一致の一途の努力 Kellyさん的解釈“その一”

 
 今回から第五十七話の解釈に入る。 まず冒頭で述べられている以下の文言について解釈を述べる。

 

人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んで…中略…が、実際に自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない…中略…人間が全力を尽すということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言える…中略…その全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げている者もたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ている…中略…しかし神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい…中略…それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる…以下略…

 

 最初に断っておくが、第五十七話は第五十六話の

神に通ずる人間とならなければならない

その資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

これに繋がっている文言である。

 

 冒頭の文。

常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んで

これは第五十六話の

凡ての人間は皆それぞれの役目によって働かされている…中略…常にその誇りを失わず、自分はこれだから駄目だ、修行が足りないから駄目だというような、卑屈な心は決して持ってはならない。一個の人間としての力を与えられている以上、神そのものの分霊であり、神と同じであると思えばよい

これにつながる文言である。

 

 次の

が、実際に自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない…中略…人間が全力を尽すということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言える

これは先の“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んで”にかかる文言であるし、自分が何かを得ようとして、生業(なりわい)なり“行”なりをするにあたって“人間が全力を尽すということは、死を意味する”ということを念頭において頑張る(元の気を張る)ならば、その生業(なりわい)なり“行”なりは厳しいものになり、そうなっていくならば第五十六話の

自分の身を犠牲にしてあらゆる努力をしている者が、神の目に止まらぬはずは絶対にないのであって、神は隅から隅まで凡てを見通されているから…中略…汝等もその資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

この“その資格が出来”に該当するような人間になれることを読み取るべきである。

 

 次の

全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げている者もたまにはある

これは第三話の

どうしたら現在の生活が幸福になるか…中略…これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…所が、それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い…中略…この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する…中略…どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない

これの“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”これに当たるケースが多いことに留意すべきであり、とかく人間は目先の事しかわからないから、たった今、沢山金が入ってきて周囲の人間やマスコミなどにほめそやされていても、それが汚い金や形骸の権威であったなら、“正当な報酬”としての“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)があるし、これ事態が人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を示し、また本人の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもあるが、大多数の地球人、生きていることに対して何の考察もなく生きる意義や意味など考えたことのない動物的なあたまの持ち主”(第二十一話の表記)にはこのことが理解できないどころか、そういった“殆んど手を下さずに自分の思いを遂げ”に憧れて、そんな息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をしている人間のほうが多いものである。

 

 そこで太霊は

普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ている

と前置きされてから

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい

という重要なことを述べておられる。

 この文言の意味合いと合わせて理解しなければならないことは第四十三話の

本霊というのは本体の霊、言わば人間に内在する神

心の中で叫ぶもの…中略…一般には良心と呼んでいるが、これが本霊の声と思えばよい…中略…従って、何事に対しても本霊の発する心の言葉が一番間違いない

この“心の中で叫ぶもの”に当たるのが、次の

一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる

これの“各の個人が良心によって定める善悪”であり、そうしていくならば“必ず善において物が得られる”ということになるので、先の

一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する

とはならないのだ、ということを読み取るべきである。

 

 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“ローム太霊講話集” 第五十六話 次現界に入いる完全な方法 Kellyさん的解釈 五十六話の総括

 

 第五十六話の重要な要旨、これを読み取るにあたっては、文末から取り上げていくと理解しやすい。

 まず

神の慈悲の公道…中略…永遠の道に進み入るために、汝等は日々の祈りをなし、日々の行をなし、この斎庭での努力をなしている

この文言中の“斎庭での努力”について

一個の人間としての力を与えられている以上、神そのものの分霊であり、神と同じであると思えばよい…中略…そこに必ず不思議が現われてくる…中略…汝等もその資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

と述べておられ、下線を引いた“その資格”については

自分の身を犠牲にしてあらゆる努力をしている者が、神の目に止まらぬはずは絶対にない

それは

神は隅から隅まで凡てを見通されている

からであると説明されておられる。

 そして

凡ての人間は皆それぞれの役目によって働かされている

この“働かされている”という表記は、何者かによって、ということであり、それが何かは、これに続く次の文言を読むと理解できる。

常にその誇りを失わず、自分はこれだから駄目だ、修行が足りないから駄目だというような、卑屈な心は決して持ってはならない。一個の人間としての力を与えられている以上、神そのものの分霊であり、神と同じであると思えばよい…中略…そこに必ず不思議が現われてくる

誰もが、“神そのものの分霊”であり、それだからこそ“人間は皆それぞれの役目によって働かされている”のである。

 

 前後するが“そこに必ず不思議が現われてくる…中略…汝等もその資格が出来るまで”と称されており、この前の文言では

神に通ずる人間とならなければならない

と述べられておられるが、これらを、お前たちに望んでいる、こうなってほしいのだ、という太霊の意図を読み取るべきである。

 

 この“神に通ずる人間”を説明するために

これまでに積んできた修行の結果が今日の自分となっている

これをよく知れ、そしてこれ事態が

それを土台にして益々力を伸し、神に通ずる人間とならなければならない

これにつながるその意味合いが

斎庭(ゆにわ)そのものが自分の霊の向上

この“斎庭(ゆにわ)”について

今この家の中でもこうやって大きな神の霊と汝等の霊肉との波動の交流が、汝等を身滌(みそぎ)ぎさして立派な力を与え

これは、いわゆる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応について、この重要性を解れ、と述べておられ、更に“自分の霊の向上”のために、お前たちは

次現界へ行く近道を教えられ

これも、“肉体”より“上”の振動との感応、そして“精神統一”になっていくことであると解釈してきたが、これを、太霊を通じて神が教えているのだ、と読み取るべきであるし、そこで“その一”でも述べたように、副題通り、次現界に入いる完全な方法 これについて五十六話の冒頭で述べられたのである。

 

 よって、すでに述べたことではあるが、副題に惑わされず、五十六話の要旨は

神に通ずる人間とならなければならない

その資格が出来るまで、ロームの言う「ねばりとやせがまん」をもって一歩一歩進んで行けばよい

これであることを指摘させてもらい、五十六話の総括とする。

 

 次回のこのカテゴリーでは 第五十七話 行業一致の一途の努力 これに入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

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tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (109)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (25)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (35)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (603)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (46)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (273)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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