“ローム太霊講話集”第二〜三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その一”


 表題の通り、今回からローム太霊講話集の「四方の祈り」の解釈に入っていきまんねん。

それでまず「第一話 物と心の満足を得る法」の解釈でも述べたことと重複するけど、程度の低い人間、霊的成長度が低い人間、“上”が望んでいない人間、アセンションによって“下”に振り分けられる人間、その低い心(靈)の持ち主の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在、それは悪霊のたぐいでしかないが、この第二話と第三話の中にはそのことに対する指摘も述べられており、なぜローム太霊がそのことを指摘しているのか、どういう表記を使って自分たちの心(靈)の動きの低さを指摘しているのか、それについて今回は述べることとしまんねん。
まず、これまでも散々述べてはいるが、霊的成長度が低い人間、それを具体的に列挙すれば…

 天の僥倖しか求めない人間(ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁の表記))。
 自分のエネルギーを贖う(あがなう)ことを最小限に済ませ、良い結果、それは自分にとって都合の良い結果だけを願う甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間。
 現世利益しか求めない人間、自分の低い欲望を充たすことが幸福だと思っている低い認識の人間。
 価値のありそうなことに肖る(あやかる)だけの人間。(例えば自称だれだれの弟子とか)
結果としてそれは価値のある何かを利用して商売をして、その価値のある何かを低いものとする、あるいは、我田引水な解釈で間違ったものにしてそれを流布する(“日月神示”表記の“役員づら”)。

こういった心(靈)しか持ちえない人間が「第二〜三話 四方の祈り 東」を読んだとしたなら、多分、東の方角を拝めば自分の欲望は満たされるという安易な考えしか持たないだろう。 
だがローム太霊講話集には、一貫して自分たちの心(靈)の在り方、霊的成長の方向性などが説かれている。 それに気付かない、そのことを読み取れないのは、ただ単に低いとしか言いようがないし、その霊的成長度は自我中心、我欲中心であるし、このたぐいの人間が大多数なのがこの世界でもあるし、だからこそ霊的成長度の高低によって振り分ける=時間の進行によって“道”が違う事象のアセンションという神の計画があるのだが、その低い心(靈)のまま、そのままではローム太霊が愛着を持っているS会=紫光会の会員の大多数がその霊的成長度だからこそ、間に合う霊的成長度ではないし、そしてS会=紫光会の会員だけでなくローム霊訓講話を一般の人にも読める本という形にしろとS会=紫光会の高い霊的存在はローム太霊講話集を編纂した人に通信を送ったのは、平均的地球人が、霊のこと=自分たちの心のことを含め、心(靈)(ヒ)のことをあまりにも知らなさすぎる…自分たちの心(靈)の高低なんて認識すらないだろうからこそである。 

それは、第三話の最後に述べられている以下の文を読むと、今述べたことがよく分かると思う。

どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い”。
そしてこの文に続く
この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである…中略…よくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”。

この文で述べられている“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”こういうことが自分の欲望という発振、発信によっておこり、だからこそ“背後を見極め”これそのものが自分の心(靈)の動きによって感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する存在の高低と“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の方向性を見極めることと同義。
それで先に述べたことと重複するが、その感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を招いているのは、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることを知らなければならない。 
それに先に列挙した自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間のことをローム太霊は“自分が正当に与えられたり貯えたりしたもの以外に奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている者もある。しかしこれは一つの物質に非ざる力で、各宗教で多少ともその力を与えられている信仰者が常に願っているのがこれであるが、こういう力が増せば増すほど動かない人間が殖えることになるから中々そうはいかないのである”と述べられている。 
ローム太霊講話集のこの文を読めば分かることだが、これは「第一話 物と心の満足を得る法」で“人間が物を得るには”と前置きされて述べられたことが第二話の冒頭で“自分の努力の積み重ねによるもの”そして“偶然の奇跡によるもの”それと“他の力の助けによるもの”、この三つの要素があると前置きされているが、これらすべて自分が努力するなり頑張るなりして、そのエネルギーの贖い(あがない)を“上”が観ているからこそ、“上”が許可するからこそ、結果として物は得られるという(その事象を自らの心(靈)が感得する)ことになる。 それで、このことを実感できないとか、あるいは似非スピリチュアルのように甘い夢だけ見させるものだけ信じ込んでいるような人間は、ただただ自分にとっての都合の良い結果だけを望むから、自分のエネルギーの贖い(あがない)なんてことを真剣に考えず、目先の苦難が自らの霊的成長のための試練とは思わず…話がそれているが、その類の人間は、ただただ東聖大権現太神を拝めば自分にとって都合の良い結果、(通貨としての)金が入るとか物が入るとか欲望が満たされるとか、そんなことしか思わないだろう。
だがそれは、“天の神、地の神と言われる正統な神の操作”ということではなく、それが実現したならば“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”ということになっている。 
そしてそのこと事態=悪霊と自分の低い心(靈)の動きとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“思惑の顕現”=現象化、これは自分自身の霊的成長のための失敗を体験することが必須という意味合いで右往左往であり、それがあってこそ自分の在り方、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、これを考え行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念とする人間が出来上がるのだし、この人間を“上”が望むからこそ我欲中心の人間はアセンション後の地球より“下”に位置させられ、だからこそローム太霊は先に指摘したように“どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い”、そして第二話に“自分が正当に与えられたり貯えたりしたもの以外に奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている者も…中略…これは一つの物質に非ざる力で、各宗教で多少ともその力を与えられている信仰者が常に願っている…中略…こういう力が増せば増すほど動かない人間が殖えることになる”と低い心(靈)を揶揄しておられる。
そして神の計画であるアセンションについて、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆した文が、第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であり、これに続く“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”は、今後=アセンション後に移行すべき心(靈)の在り方を述べているのであるが、第二話を読み、低い甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をする人間が多いだろうから“下手な神心や仏心は返って相手に害を及ぼす”と述べられておられるのだと思うし、これを思う人間こそが人生で大した苦難を体験していない、試練を乗り越えていない甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間であると感じるものでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

2012.05.11 11:22 | Comment(0) | Trackback(0) | Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 | Edit

“日月神示” 日の出の巻 第五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

右(みぎり)に行かんとする者と左りに行かんとするものと結ぶのが
渦巻き 左回転 の神様ぞ、 渦巻き 左回転 の神様とは素盞鳴の大神様ざぞ、この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、 渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ。男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろがな。
十二月三日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文の“行かんとする者”“行かんとするもの”これは時間の進行(“道”)が前提にあっての表記である。 
そして第五帖の表記“右(みぎり)”は、“思惑の顕現”=現象化であり、“左に行かんとするもの”は、“者”という漢字が当てられていないからこそ、心(靈)(ヒ)の動きである思惑、日足(ひたり)を指した表記であると解釈する。
 そして“思惑の顕現”=現象化、砌(みぎり)、これは現津(あきつ)、観察され得る事象の観察という心(靈)(ヒ)が行う行為によって成り立つのであるが、この文では“右(みぎり)に行かんとする者”=事象の“創造”を行うこと、あるいは事象の“創造”を行う者(個々の肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ))と、“左りに行かんとするもの”=事象の“創造”を思惑とする心(靈)(ヒ)の動き、その二つの神の極性を“結ぶのが
渦巻き 左回転 の神様ぞ、渦巻き 左回転 の神様とは素盞鳴の大神様ざぞ、この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、 渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り 渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ”と書かれているが、これは日月の巻 第二十八帖渦巻き 左回転 の表記と意味が同じであると思う。 第二十八帖で示した画像をいかに貼っておく。

日月の巻 第二十八帖 砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転

 それで、日月の巻 第二十八帖では“
渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりた”の表記を、被造物である人(日止、霊止)(あるい人間以外の肉体を持つ生命体っていってもよいと思うが)が、心(靈)を発現させ=持ち、それを時間の進行(“道”)に沿って進化させ、ある程度進化したからこそ“創造”の“主(ヌシ)”=神を認識し、それは“上”からの荷電粒子を肉体の磁性=“日月神示”表記のローレンツ力 で、取り込んでいき、そして肉体を持ったまま神格化するためのこととしていわれている…それと、“ 渦巻き 左回転 (うご)いて”っていう表記は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が顕現(動く、動いて)した(“創造”の意)っていう意味であり、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈)という、心(靈)を持った被造物は出来上がってきたのだということを示唆していると解釈した。 
 要は生命の“創造”は“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であり、そしてそれは今の地球人の大半が進化とはこうだと思っている外側(外国と幽界)の事象の観察による認識である肉体(月(ツキ))の進化ばかりではなく、心(靈)(ヒ)の進化が真の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現が進化の究極(○ 九 十 の意味)であり、そしてそれは“上”からの荷電粒子の取り込み、それを自我(腹の水)に貯めること(“素盞鳴(スサナル)”の“盞”(杯、さかずき))により心(靈)は育ってきたのであり、その裏にあるのが肉体(月(ツキ))の電気特性の変容と強化である自凝(おのころ)の仕組みであり、そこには“石”(帯電するミネラル)が必須でもあるという“日月神示”の表記の意味がある。
要は、心(靈)(ヒ)の動きとその発現により肉体(月(ツキ))は下等な生物から人(日止、霊止)にまで進化してきたのであるが、それを示しているのが“この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、”であり、先に述べた“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化である生命の“創造”は重複するが“この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ”に示されていると思う。 
 そして“
渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り 渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ”というのは、“まつり”が先に示しが画像の注釈にあるように“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示し、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の目的、根拠、生命が存在する理由、これらはすべて個々の生命の神格化であるから“神国の祀り渦巻き 左回転 である”と“神はその全き姿ぞ”という言い回しがされているのだと思うし、この場合の“神国”は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を有した心(靈)(ヒ)で“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであり、それが“上”と“祀り”=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して自らの思想を構築していくのが進化した人(日止、霊止)であり、その心の持ち主、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を今の平均的地球人(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程)よりも多く持ち、その思想を顕現する人は、その思想で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人は、今後=アセンション後に位置できる資格を有しているといい得る。 
要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”では無いってことになる。
 そして“男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろがな”というのは、日足(ひたり)の極性=男、その魂というのは、魂という表記自体が心(靈)(ヒ)とは少しニュアンスが違い、それは肉体(月(ツキ))を示す二と厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)、そしてこの世に顕在していない、この世にあらざる者としての鬼、要は心(靈)(ヒ)の一部でこの事象に関わっている低い部分というのがこの表記の意味だと思うが、その日足(ひたり)の極性の顕現が砌(みぎり)=事象に表わすということであり、それに対し“女の魂”は砌(みぎり)ばかりを思うから、それは失敗であり、失敗だからこそ教訓を得て日足(ひたり)の極性は強まるのだということだと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

2012.05.02 09:13 | Comment(0) | Trackback(0) | “日月神示” 日の出の巻 | Edit

“日月神示” 日の出の巻 第四帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。
其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。
桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。
十二月二日、ひつくのかみ。

 冒頭の日付の表記がある文は、これまでも解釈してきたとおり“十”は胸の磁性“十”(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に至る心(靈)の発現)、“八”は左右、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽(日)の気道と月の気道、それは日足と砌(ひたりとみぎり)という神の極性の顕現、“五”は糸巻の象形文字=脊椎動物としてコイル状(磁束の発現と強化、多様化)に発達した神経、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、あるいは“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、そして“日”は日足(ひたり)の極性、それは人(日止、霊止)においては心(靈)(ヒ)=精神性であり、人においての砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“月”は肉体、これらの意味を足さなければ“日月神示”の日付のある文の意味は通じないと思う。 重複するがこのことを前提に冒頭の文を見れば“十月八日、十八日”は胸の磁性“十”、“五”はコイル状に発達した神経(磁束の発現と強化と多様化)、“三”は肉体(月(ツキ))と日足の極性(心(靈)(ヒ))、要は肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)は、神の極性の顕現であるし、人(日止、霊止)は神の子だからその両方の極性を持つ(この事象に顕現している)。
 要はこの日付の表記のある文は、人(日止、霊止)の進化、霊的成長、神格化に向かうことを指し示し、進化が神格化に向かうことであるからこそ“此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが”と称され、またこの文は霊的に低い=心(靈)の発現が低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては、“臣民には恐い日”とされており、この場合の表記はもうすぐ進化程度の高低において分けられるアセンションの事象のことを指し、これに続く“神には結構な日ざぞ”は、アセンションの時期も示唆しているが、神の計画に沿った日足(ひたり)の極性=心(靈)(ヒ)という意味合いも感じ取れるものである。 
そしてその進化の“種”となる心(靈)(ヒ)というのは“神心になれば神とまつはれば”=“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し(“天詞様”)、神とともにこの事象を“創造”すれば=“神とまつはれば神とあななへば”、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”=“神とあななへば臣民にも結構な日となる”であり、そこにはもう自我の肥大という心(靈)が創造する事象(“石屋の仕組み”)は無いから、“上”の思惑に沿った“結構な日となる”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉の現象もなくなるものであるし、その事象を“創造”する心(靈)が“五六七(みろく)”であり、それは神経が発達し(“五”)、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)としての生命(生きる使命=存在理由)の進化、(霊的成長、神格化に向かうこと)の究極(“九”)が“五”で示され、次の“六”が爻部(こうぶ)、交わるの意味を持ち、何と交わるのかは、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。

 そしてこれに続く“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、”は、霊的成長度の高低において分けられたならば、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は盛んになり=“神激しく”、そして今までの低い進化程度の地球では自分たちだけの思惑でこの世界を作ってきたみたいなものだから…自我が肥大しているからこそそう認識しているのだろうけども、そこには低い存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があり、恨みの連鎖の霊的干渉が中心であり、だから平均的地球人の行動というのは、ディスプレイ(動物の発情行動)と欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで自分の利益を追求するという心(靈)の動きが中心でもあるのだが、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が出来得る心(靈)、それは自省(胸の磁性“十”)を十分に体験した“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を持ち、さらに“一”=智性=1番目のオーラを高める方向性に心が動いていなければ=目上(めうえ)の脳を使わなければ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではなく、それが出来ない進化程度の人間は、当然のことながら“次の世”(“日月神示”表記の今後=アセンション後の事象のこと)に存在する(位置する)資格がないし、その“次の世”になったならば、恨みの連鎖の霊的干渉による事象(戦争、天災、低い存在の憑依による事件や事故、因縁、右回転の荷電粒子が引き起こす遺伝子崩壊が原因の病気など)というものはなくなるから“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となる”とやや揶揄(やゆ)した言い方をされている。

それでこれに続く“日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、”は、時間の進行の意味を持つ表記の“日日(ひにち)毎日”、それは今後=アセンション後の事象であり、そこでは“富士晴れる”=“富士(二二)”は肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道が、晴れるという意味合いのことと、これに続く“臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ”、この表記の“臣民の心の富士”は心(靈)(ヒ)の動きの極性の意味合いでの“富士(二二)”であり、それは心(靈)(ヒ)の極性としての砌(みぎり)は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、自我の確立=固定化という進化過程における日足(ひたり)の極性は脾=“思う、憂う”であり、それは“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”という心(靈)の動きになっていくのであるし、その心の持ち主が“創造”する場(フィールド)=アセンション後の事象は、これに続く文の“富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ”であり、当然のことながら今の事象とは違う=恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象を観察するということが段々無くなっていくのだから“心晴れたり”でもあるし、そうなるには“富士は晴れたり日本晴れ”が重要であり、これについては以前作った画像で意味を示すこととして、今回はこれくらいにしときまんねん。


富士の解字


“晴れたり日本晴れ”の解字

2012.04.26 11:00 | Comment(0) | Trackback(1) | “日月神示” 日の出の巻 | Edit

“日月神示” 日の出の巻 第三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日出の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ、 ローレンツ力と ○ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 の月の世ぞ、取違ひせん様に致して呉れよ。
智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ、月の神様 祀りて呉れよ、素盞鳴(すさなる)の神様 祀りて呉れよ、今に会得(わか)る事ぞ、日暮よくなるぞ、日暮(一九れ)に祀り呉れよ、十柱揃ふたら祀り呉れいと申してあらうがな、神せけるのざぞ。
十二月二日、ひつくのかみふで。

 いうまでもなく冒頭の“次の世”は今後=アセンション後のことであり、それは今後=アセンション後に移行できる霊的成長度の心(靈)から観れば、相対的な比較として低い霊的成長度である自我の確立=固定化の進化過程(平均的地球人)の心(靈)が創造する事象ではない。 だがこのことが理解できる心(靈)(ヒ)の持ち主は少ない=アセンション後に移行できる資格を持つ心(靈)(ヒ)の持ち主は少ないといい得る。
それでこの文の“通基(月)の世”“一二(ひつき)の通基(二)の世”は基と通じる、そして“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラと肉体(月(ツキ))の意味合いでの“二”が書かれている。 要は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を顕現する肉体(月(ツキ))が“一二(ひつき)の通基(二)”という表記の意味であると確信するし、それが今後=アセンション後に移行出来得る資格(霊的成長度)を示唆しているものでもある。
そしてこの冒頭の文、それは以前、
日月の巻 第二十五帖で解釈したことがあるので、以下に抜粋してコピペしておく。

この画像
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 は、“月”“通基(二)”であり、“月”は砌(みぎり)の極性であり、さらに先に述べたように は、新月から満月に移行する様子を示す。  それは、日足(ひたり)の極性が強まった後の肉体そのものであり、そして“月”“通基(二)”は肉体のオーラ(土)2〜3番目のオーラを発振、発信するものでもあるし、さらに“通基(二)”、それは基を通す=神の理(ことわり)を通す(顕現する)肉体の意味であると思う。 

…中略…

ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用“月”“通基(二)”は、先に述べたとおり、天意を顕現する肉体、それは古神道の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子、太陽=日を止める、“上”からの荷電粒子を三つの口で止める意味の靈、それを止める表記)であるとするのが、妥当だと思う。
 引用終わり。

それでこの文と日月の巻 第二十五帖の表記ので使われた以下の表記、この解釈を“取違ひせん様に致して呉れ”と称されているが、この解釈が出来る霊的成長度(“一”=智性=1番目のオーラが大きい)の人間はそうたくさんいないとも思うし、程度の低い人は程度の低い解釈しかできないということも示唆しており、ただ書いてあることをありがたがるだけの人間が多いし、そのただありがたがるという心理はよい結果だけが欲しいだけの心(靈)しか持っていないのだし、そういう人間に限って“上”から垂れた“日月神示”やローム太霊講話集、様々な経文、真言など、人の霊的成長の指標となるものの意味を読み解くことが出来ずに引用したり肖ったり(あやかったり)するが、それはただ利用しようとする心理が中心であるし、あるいはその心理の裏には御利益しか求めないとか、努力(肝=“怒り、いきり立つ心(奴と心)”で“力”を示さないで天の僥倖を求めるとか、あるいはローム太霊が揶揄(やゆ)した言い方である“ぼたもち坊ちゃん”(ローム太霊講話集316頁)であり、そんな低い心(靈)の人間を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は求めているのではないことを指摘しておく。
蛇足のようなことだったが、次の文、“智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ、”の表記は、今述べた低い霊的成長度の心(靈)の持ち主は、ただ引用するとかに終わり、あるいは点で的外れな解釈をしたりするが、それを示しているのが“智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ”であり、この“六ヶ敷い”については以前(
上つ巻 第十五帖)解釈したことがあり、それは、六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現、それを敷く=法則性に従って展開するということで、先に述べたように“次の世”に移行出来得る心(靈)(ヒ)の持ち主はごく少ないが、“上”はそういう霊的成長度の人間を求めているといえる…だからこそ“六ヶ敷い”のでもある。 それで“智や学がありては邪魔になる”は、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”をやっておらず=自らの霊的成長のためにエネルギーを贖う(あがなう)ことをあまりせず、よってそれは目先の事象に対しても認識(悟り、幸取=さとり)が低く、ただ理屈だけをこねている人間であり、それは先に述べた、引用しかできないとか肖ることしかしないとかの人間のことを指摘しているいい方であり、本当に“上”の真意を理解できてそれを顕現出来得る人間はごく少ないからこそ“六ヶ敷い”(六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現、それを敷く=法則性に従って展開する)といわれているのだと思う。

次の文、“月の神様 祀りて呉れよ、素盞鳴(すさなる)の神様 祀りて呉れよ、今に会得(わか)る事ぞ、”。 これはいうまでもなく肉体(月(ツキ))の意と“素盞鳴(スサナル)”に示された“上”からの荷電粒子を止める仕組み、これを知れということであるし、“素盞鳴(スサナル)”は以前示した画像をいかに貼っておく。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字



これに続く“日暮よくなるぞ、日暮(一九れ)に祀り呉れよ、十柱揃ふたら祀り呉れいと申してあらうがな、神せけるのざぞ。”の“日暮(一九れ)”も、それは“一九れ”の“一”は智性=1番目のオーラであり、“九”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そしてそれは“日月神示”表記の ○ 九 十 の“九”でもあるし、この“九”と“十”は卆(そつ、卒業の卒の異体字)であり、これまでの進化(自我の確立=固定化)を卒業するの意でもあるし、その意味において前回の日の出の巻 第二帖の“九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ”と共通の意味を示す表記である。 
そして“十柱揃ふたら祀り呉れ”は、自らの心(靈)の動きに胸の磁性“十”=自省の心(靈)(ヒ)、これが芽生え(柱のように)確立されなければ(“青人草”(あおひとくさ)の“草”、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと太陽(日)と胸の磁性“十”にも示されている)、“日暮(一九れ)”という霊的成長の段階に至らないということだと思う。 ちなみにこれは、決して十体の神さんが揃ったらなんてことではない。
最後の“神せけるのざぞ”についてはアセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が迫っているからそれに間に合う霊的成長度を自らの心(靈)に確立せよということでしかない。

今回はこれくらいにしときまんねん。



2012.04.23 11:24 | Comment(0) | Trackback(0) | “日月神示” 日の出の巻 | Edit

“日月神示” 日の出の巻 第二帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ。
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ。
月日の巻 十人と十人の役員に見せてやりて呉れよ、時節到来したのであるぞ。桜咲き神の御国は明けそめにけり。
十二月二日、ひつ九のか三しらす。

 第二帖は“九”“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”“五六七(みろく)”“五”“十”の表記で意味が示されている。 それぞれの数字の表記の意味はこれまでも述べてきたが(“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”“五六七(みろく)”に関しては
“日月神示” 富士の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 が分かりやすい)、それを交えて解釈することとする。  
まず“九”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そしてそれは“日月神示”表記の ○ 九 十 の“九”でもあるし、この“九”と“十”は卆(そつ、卒業の卒の異体字)であり、これまでの進化(自我の確立=固定化)を卒業するの意でもある。 その今までの平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)をもう終えるからこそ“神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ”と述べられていると思え、ちなみに“紀(もと)”の表記の意味は、筋道をきちんと立てること、紀律、風紀など、あるいは筋道や順序を辿って整理して記録する意(紀行、紀伝)順序を辿り記録した文章の意や年代(紀元、世紀)、あるいは黄道十二宮の周期である十二年を一紀とするの意(歳星(木星)が天空を1周する期間)であるから、今述べたそれぞれの意が込められている表記であると思う。 
それとこの文の“神界”は(心(靈)としての)智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のことであるとこれまでも解釈してきた。 
それだからこそ、今の地球人の平均的進化過程である自我の確立=固定化より“上”、“慈悲”と“慈愛”や智性(神性)の心(靈)の発現を示唆した“神始めの年”という表記が使われているし、今後=アセンション後の場(フィールド)では(これまで散々述べたように)ケダモノよりほんの少し上の進化過程(“日月神示”表記の“われよし”、“江戸と尾張”、自我の肥大、“石屋の仕組み”)の心(靈)の持ち主はいなくなるものでもある。

 そして“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”については、今まで解釈してきたとおり“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体が加わった“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を真に固く止める(真固止)表記)を“三”と示され、また“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラでもあり、その三つのオーラに関わる心(靈)の動きが砌(みぎり)に傾いたり日足(ひたり)に傾いたりすることを“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラがそれぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往することと以前解釈した。 
その右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするのは、それを体験した心(靈)(ヒ)がこの事象の“創造”を高めるのに必然であり、事象の“創造”を神の思惑に沿ったものにするのは自らの霊的成長が必須だということでもあるし、だからこそ右往左往と左往右往して認識が高まった心(靈)(ヒ)は天意を受信して自らの心(靈)の動きとして行動する。
その心(靈)(ヒ)の持ち主を“日月神示”では“天詞様”と称されているものであり、その意味で三つのオーラがバランスよくなった心(靈)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)することを“四”(“日月神示”表記の“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信)と示され、“五”は神経がコイル状に密になった意味合いで糸巻の象形文字である。
 
そして“五六七(みろく)”は、神経が発達し、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)としての生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の究極(“九”)が“五”で示され次の“六”が爻部(こうぶ)、交わるの意味を持ち、何と交わるのかは、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。
 要はこの文の“五六七(みろく)”は、次の事象、アセンション後の事象の“創造”の元をする存在のことを指した表記である(ちょっと違う意味合いの表記のこともある)。 
それが次の文の“五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ”に示され、この文の“歳”という字は戉(エツ、刃物の意)と歩からなる字とされ、歩には時間の進行の意味があり、刃物で稲穂を刈りとるまで、それは収穫に要する時間を示しているのが“歳”であるから、“五の歳”は神経が密になって一応の完成を見た肉体(月(ツキ))、“子の歳”は十二支の始まりが子であるから、今後=アセンション後の“創造”の始まりを示している表記。

 それでこれに続く文“月日の巻 十人と十人の役員に見せてやりて呉れよ”の“月日の巻”は、先に解釈した日月の巻と太陽=日と肉体(月(ツキ))の順序が違うが、日月は日(日足(ひたり)の日、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である人間としては心(靈)(ヒ)のこと)が先に書かれ、月日は月(肉体(月(ツキ)))が先に書かれているからこそ、自我の確立=固定化をしている現地球人の平均的進化過程を指し示すものだと思う。
(このことはS会=紫光会の経文、四空経録の中の“日心月物”の日と月の表記の順序にも感じ取れる)
 それで今取り上げた文をよく読めば、今までの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を“十人と十人の役員に見せてやりて呉れ”と書かれ、それはよく分かれ、よく認識(悟り、幸取=さとり)せよという意味であり、“十人”は数としての“十”ではなく胸の磁性“十”であり、だから胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、それは今後=アセンション後の事象の“創造”をなす心(靈)(ヒ)を持った人であるといい得るし、それが二回書かれている“十人と”であり、“十人と”というのは、今述べた次の事象の“創造”の資質を持つ心(靈)のことであり、これに続く“十人の役員”は、この資質を持つのが役員であることを強調した表記であると思う。

 それで次の表記“時節到来したのであるぞ。桜咲き神の御国は明けそめにけり。”の“神の御国”の“国”は囗くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しているから、智性(神性)を獲得した心(靈)(ヒ)のこと、それは“明けそめにけり”であり、太陽=日と、月の振動で“そめにけり”=その荷電粒子を浴びている様であると解釈し、いうまでもなく“時節到来した”は霊的成長度の高低で分けられるアセンションの事象のことで、“桜咲き”はよい時期になることを揶揄した表記である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

2012.04.19 09:37 | Comment(0) | Trackback(0) | “日月神示” 日の出の巻 | Edit

“日月神示” 日の出の巻 第一帖 Kellyさん的解釈

 
 今回から、日の出の巻の解釈に入りまんねん。 まず第一帖の原文は以下の通り。

春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ、此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、少しは会得(わか)りたか。
石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場ざぞ、否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ。
十二月一日、一二
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の“春”と“萌(もえ)出づる”は、それぞれの漢字の解字がポイントであると思う。 春は、“三”=“一二三(ひふみ)”、1番目、2番目、3番目のオーラと、その“三”を貫く形の丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それと太陽を表す“日”。 そして“萌”は艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、と、太陽を表す日と、月は肉体の表記であり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示していることでもある。 
よって“春とならば萌(もえ)出づる”という表記は“ならば”=今までの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の土=2〜3番目のオーラの“業行”(生業(なりわい)と“行”)とは違う段階に入ることを示唆した表記であり、それは“一”=智性=1番目のオーラ、智性(神性)が増した表記が“三”であり、さらにこれに続く“草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ”の“草木”は“日月神示”の言葉の使い方のルールとして、芽生えるの意の艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、太陽=日と、胸の磁性“十”で“草”、そして胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で“木”であるが、これは太陽の振動(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介して送る役割が太陽でありそれを積極的に受け入れるのが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)を取り入れ自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)のことであり、よって“春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づる”は、次の段階(今後=アセンション後)の進化過程に地球と地球人が入ったならば、すべての事象、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も変わってくるという意味合いで“草木許りでないぞ、何もかも もえ出づる”ということであると思う。
 それでこれに続く文の“此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、少しは会得(わか)りたか。”は、このことは必ず顕現(“創造”の“主(ヌシ)”の計画として実現する)するのだという言い回し。 
 次の“石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。”の“石もの云ふ時来たぞ”は自我の肥大、“石屋の仕組み”が盛んになることを示した表記で、それはまたその場(フィールド)、次元が、低い砌(みぎり)の心(靈)の動きで出来上がっているからでもあり、具体的にいえば利益優先とか心無い行いをしても儲けるとか多少の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は容認するとかであるが、こういう心(靈)の動きをする人間はただ低いのであって、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”に今後=アセンション後の“創造”を託されるなんてことはありえない。 そして“此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、”は、当然のことながら“日月神示”に書かれている“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示唆した表記で、“道”は“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションの時期と“理(ミチ)”は今後=アセンション後の“創造”の法則性を示し、それは岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くであり、第四密度に移行するというチャネラーの表記でもありマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの覚醒=自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現とその心の行使、それは自省(胸の磁性“十”)そのものであるし、自我の肥大というのは心(靈)(ヒ)の中における砌(みぎり)の極性の強化で、これが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きにもなるが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、自我より“上”の心(靈)が発現しなければ“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿った事象の“創造”は出来ないからこそ、霊的成長度の高低において分けられる事象であるアセンションという事象を体験しなければならない。 そしてそれは“那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時”という表記が示されている砌(みぎり)の極性の高まりと、その心の動きの高まりが“岩戸閉め”であり、これは自我の肥大を示していると思うし、岩戸が占められているからこそ“上”の振動を自らの心(靈)に取り入れることが出来ない(“上”からの通信を受け入れない、自分が悪い方向に向かっていることを認めたくない=自省(胸の磁性“十”)しない)、それを示した表記であると思われる。 
 それで“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時”であるが、これについては画像で意味を示すこととする。

須佐之男神の解字 


 この画像で示した通り須佐之男は日足(ひたり)の極性=神の思惑を“力”として顕現せよの意であるから、それをさせないのが自我の肥大=岩戸閉めであり、そのことを“罪着せし時”と称されていると思う。
それで、その低い砌(みぎり)の極性が高まった時に起きるのがローム太霊の言葉である右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという心(靈)の進化の“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法側性)であり、これが起きること、左往右往するには自省(胸の磁性“十”)するという心(靈)が必須であり、よってアセンションはその場(フィールド)その次元に存在する心(靈)が日足(ひたり)の極性に向かうことであり、それが出来ない心(靈)が今の地球と同程度の進化程度の場(フィールド)に移行させられるものであり、だからこそこの第一帖では“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ”といわれ、神の“思惑の顕現”=現象化の妨げになる自我の肥大が高まった時が“岩戸閉め”と称され、その自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持つことと“上”からの荷電粒子を受け入れ止めることが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くという肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の変容であり、今度の岩戸開きは、これまでで一番大変であると示され、この次のアセンションは地球自体が進化するのだからもうアセンションに伴う醜い事象は起こらないし、そこに位置する人は自我の肥大を諌める心を十分に持った心(靈)(ヒ)であり、そういう心の持ち主でなければ次の段階の地球に移行できないということである。
その心の持ち主となるには、“愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場”と、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”には、自分が自我の肥大をして失敗するからこそ、厳しくなることが必然であるし、その状況に陥ってこそ自省(胸の磁性“十”)する=“正念場”といわれ、自らの自我の肥大を諌めよ、自省(胸の磁性“十”)せよという意味合いで次の言葉で“裸”という表記が使われていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ”
2012.04.17 09:36 | Comment(0) | Trackback(3) | “日月神示” 日の出の巻 | Edit
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