“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、45年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第五帖の解釈に入ることとする。 第五帖の原文は以下の通り。

全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。 過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。 故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。 部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる。 本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。 悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。 故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。 善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。 生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。 生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。 生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。 悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。 何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。 地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。 これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。 しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである。 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である。 生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては○ である。 ○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、ローレンツ力   と集約される。 故に、これらの総ては無にして有である。 人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。 故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。 悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。 歓喜に審判なく、神に戒律はない。 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。 このことは神自らを切断することである。 裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。 行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。 生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。  ローレンツ力と ○ は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。 これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。 生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。 地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。 地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。 しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

 今回解釈するのは
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。 過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。 故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。 部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる”
ここまでとする。

 ここまでの地震の巻で述べられていたこと、自分たちを含め“一切万象”“全体”、それは“生命”事象の実相、であり、それを個々の心(靈)が“観察と認識”して“形式”“分類”としている、このことが理解できているなら
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである”
この意味は解る。
そして、自分を含めた一切が神、その神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を自分の心(靈)の中にローレンツ力 
ローレンツ力 で取り込んで存在しているのが自分たちであり、またそれはそれぞれ個々の心(靈)に神が存在しうるカタチであるということを解っていたなら
“故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である”、
これは“一切万象”“全体”がフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを述べていることに気付けるはずであるし、“一切万象”“全体”の元が、神であり=“神そのものの現われの一部”、その顕現が、個の心(靈)、個々の生命であったり、“形式”“分類”され得るそれぞれの事象であることが理解できる。
 これに続く“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
これは個の心(靈)の中で“弥栄”し続ける神、“神性”と称してもよいが、これが一切の生命に共通である“観察と認識”という行為そのものであり、その個の心(靈)の中の“観察と認識”の中では“現在”と言え、その認識においては“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在”しうるのだということ。 
これに続く“生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
これは個の心(靈)の中にある認識の“生前も死後の世界も”、これらを含め先に述べたように一切が神である、“生前”“死後”という認識は個々の心(靈)の中にあるのであり、“地上人”と“霊界人”の区別なく、それら個々の心(靈)の“神性”はあり、それがまた神の存在であり、そこで息吹くことをして“弥栄”しているのだの意が
“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
この文言から読み取れるものである。
 これに続く
“故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている”
これは個々の心(靈)の“観察と認識”が“分類”“形式”をするからこそ“一切万象”“全体”、“生命”事象の実相は、“弥栄”する、それは第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
この文言を思い起こさせるものである。
 これに続く
“部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる”
これはここまで述べたことを総括している言い回し、“一切万象”“全体”これを個々の心(靈)が“観察と認識”して“分類”“形式”として“雑多”になるが、それが“全体”であり、その“雑多”ゆえ、そして先の第一帖の“われわれの一切は生れつつある”であるから、“全体は存在し、力し、弥栄し、変化する”のであり、それがまた“歓喜が生ずる”これは神そのものの“弥栄”であるの意、である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである。

 冒頭の文。
“されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる”

 文中の“されど、地上人に於て”そして“地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ”は、先回の“生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである”にかかる文言で、“地上世界”の“地上人”は“一貫せる大神の大歓喜の流れ”に沿っていない、沿えない、またそれは“地上人としての尊きかなしさが生じてくる”と称され、それは“其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなる”であり、これには理由と根拠があることをこの後の文言で説いている。

 次の文。
“霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである”

 この文言で大事なのは“悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない”そして“悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許され”、これは“地上人”の“光栄ある大使命”であり、これがあるからこそ“何故ならば、それがあるために弥栄し、進展する”と称されている。
 この“地上人の光栄ある大使命”が“霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない”、これに“地上人”が該当しない、先の“一貫せる大神の大歓喜の流れ”に沿っていない、沿えない、またそれは“地上人としての尊きかなしさが生じてくる”と称され、それは“其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなる”、こうだからこそ“悪を御用の悪として育て”ているのであるし、それは“一切万象”の“弥栄”、進化につながることであり、“必要悪、必要偽”は、“善”と“真”の相対的、“二義的”なことであり、“善”“悪”そして“真”“偽”があるからこそ、“地上人”であろうが“霊人”であろうが、“一切万象”の進化=“弥栄”になると説かれているのである。

 次の文。
“悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。 霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである”

 先の“御用の悪”があるからこそ“一切万象”は“弥栄”するのだということが理解できていれば“悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである”の文言の意味合いはすぐ理解できる。 そしてこれに続く“霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである”は“地上人”と“霊人”それぞれの関係性を説いた文言であり、これに続く“霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである”も“地上人”と“霊人”の関係性、そして“地上人”“霊人”と“神”、“一切万象”の関係性を示した文言で、“霊”だけ、あるいは“地上人”だけ、あるいは“神”だけ、では、“一切万象”は“弥栄”しえない、それぞれの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“成長”それぞれの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“呼吸”、これが“全体”“一切万象”の“弥栄”であり、これ自体が人間の低い情動などでは想像しえない“歓喜”であり、これをわれわれ“地上人”と“霊人”が“観察と認識”したならば“神と現われ給う”、“一切万象”、自分たちの“弥栄”に“神”を見出せる、という文言である。 
これに続く“霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである”、“地上人”は肉体を持った“地上人”を生む、という当たり前のことに相対した文言ではなく、“一切万象”の“弥栄”がある、先の“地上人”の“御用の悪”も含め“一切万象”の“弥栄”もあるからこそ、“霊人”の“子”は“歓喜”なのである、という意味合いの文言であり、これも“全体”“一切万象”の“弥栄”の一端と言いうることなのだ、である。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 
ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる。 生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。 

 文節の区切りが中途半端であるが、まず冒頭の文。
“歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり”

 文中の“歓喜”に関してはここまで解釈してきたので述べないが、冒頭の“歓喜の愛”とこれに相対する“歓喜なき愛”、これに対し“愛の善”そして“愛の悪”という言い回しに何を見出すべきか、当然のことながらこれは“地上人”に対して言われていることでもあり、お前たちは“上”からの振動を取り込み自分の在り方を鑑みながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではない高い愛(炁)を行使していく、そうするならばそれは“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのだ、であり、“上”からの振動を取り込んでいない、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しながら愛(炁)を行使するならばそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのだということでしかない。 これは○○○大先生の著書の<4>以降をしっかり読んだ人ならすぐ理解しうる文言であると思える。
 そして“歓喜の中に、また歓喜があり”というのは、“上”からの振動=神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“歓喜”を取り込んでいる個の心(靈)、個の心(靈)がその振動の取り込むこと自体が個の心(靈)にとっての“歓喜”と言え、重複するが“上”からの振動そのものが神の思惑であり神の智慧であるからこそこれも“歓喜”である。 
それは、お前たちの心(靈)は“上”からの振動=“歓喜”の取り込みで成り立っているのだ、またその振動そのものに神の“観察と認識”があるものであり、その神の振動そのものも生命であり、意志あるものであり、“観察と認識”をお前たちの心(靈)の中で行っているものであるがそれも歓喜なのだの意であり、心(靈)の成り立ちに関してはこのブログで幾度となく使ってきた以下の画像どおりである。
“メグリ”(帀)の解字 


雨の象形文字 解字 
靈の解字 
靈(心)の解字 

 また、お前たちの“歓喜”は、お前たちの霊的成長度により取り込める振動、それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の過程があるから高低があるのだけれど、その高低に関わらず“上”からの振動は“歓喜”そのものと形容しうるのだ、である。 

 それでこれに続く
“真があり、真の真と顕われ”
というのは、今述べた霊的成長度の高低による“上”からの振動の取り込みにより、お前たちが“観察と認識”しているこの事象に対し“真”を如何に顕現しうるか、程度の低い段階においての“真”は“真があり”程度のことであり、お前たちが霊的成長を果たして“上”に向かっていくならば“真の真と顕われ”と称されるくらいになる、“上”から観たらそう観えるくらいになるが、それを程度の低い霊的成長度である“地上人”は目指すべく生きよ、そう読み取るべきである。

 そしてこれに続く
“ 
ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”
最初の“ 
ローレンツ力と ○ ”は“上”からの振動を取り込みながら進化していく個の心(靈)であり、個の心(靈)の進化はさらに“上”からの振動の高いものを取り込んでいくようになる

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によりローレンツ力も変容し

“ 
ローレンツ力 と集約され”、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は高いものに変容する、その意であり、これに続く“その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)してローレンツ力が変容してより高い振動を取り込むその段階において、個の心(靈)=“集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ”ていくものであるの意、そして“更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”は先の“上”からの振動、神の息吹、そして神の思惑、神による“観察と認識”、これが個の心(靈)に反映することを指す文言であり、これは“真があり、真の真と顕われ”の“真の真”、個の心(靈)が進化しながら顕現する“真”は、神の思惑、この顕現と同義であるし、それを取り込むローレンツ力をも指した文言が、重複するが“更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”である。

 これに続く
“生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である”
お前たち“地上人”の“観察と認識”では“生前”から“地上世界”から“死後の世界”という区切り(“分類”と“形式”)とするであろうが、神は“一切万象”であり、“生命”事象の実相、そのものであるといえ、そこにおいて
“一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである”、
お前たちの区切りなど関係なく“一貫せる大神の大歓喜の流れ”であるのだ、そして神は個の心(靈)の中で“観察と認識”をして“弥栄える”、よって
“大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり”そして神自体も“完成より大完成へ向い進む”のであり、その過程における神の息吹をさらにこの心(靈)が受け取るものであるが、この神の息吹を“完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸”、息吹=“大歓喜の呼吸”と称している。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。 総ては
ローレンツ力と ○   の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである。  ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合もローレンツ力   はローレンツ力   であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして  ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない。 

 冒頭の文。
“またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない”

文中の“集団”の表記は、先回と先々回で取りあげた“同気同一線上にいる霊人たち”であり“類魂”による“霊団”のこと、またそれはそれぞれの“集団”の“情態”による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が違う、そして霊的成長度にも相違があるからこそ“集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない”と述べられており、これはまた“集団”を構成している個の心(靈)がもつ振動の相違と言えるし、“集団と集団との交流は…中略…自由ではない”、これ自体が振動の法則性でもある。
それはさておき、“地上人の如く自由”、この文言を読んで“地上人”の世界は、霊的成長度と“情態”による息吹に相違があっても交流出来得るのだ、それは○○○大先生が著書で述べた“玉石混交(淆)”、程度の高いものも程度の低いものも同じ場(フィールド)に位置しているのだ、程度の高いものは程度の低いものに対し高いことを示しそれ自体が“理(ミチ)”を示すことにもなり得る、そういった影響を与えうるのだ、ということまで気付くべきである。

 これに続く次の文。
“総ては 
ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである”

 これは個の心(靈)のことではなく、先の“集団”、“類魂”による“霊団”のことであり、先回解釈したように、“集団”における強化された息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とローレンツ力
ローレンツ力 により、“上”からの振動を取り込んで“集団”自体が“弥栄”していく様を述べており、それはこの文言の最初の“ローレンツ力と ○”は集団を指し、その集団によるローレンツ力を“ ローレンツ力 ”で示し、次の“ローレンツ力と ○ ”は“集団”によるローレンツ力で上からの振動を取り込んで“集団”として“姿を形成している”ことを示している、それは先回の
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである”
これを言い換えた言い回しである。

 次の文。
“ 
ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合も ローレンツ力 は ローレンツ力 であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである”

 この文の前半は先の“集団”の詳細な説明であり、この文におけるローレンツ力 
ローレンツ力 は“集団”と、それを構成する個の心(靈)における“同気同一線上”の息吹、それによる“上”からの振動の取り込みのことを指す。
それで、その振動の取り込み、“集団”の息吹による“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“上”からの振動すべてではないことに気付くべきであり、“集団”を構成する個の心(靈)すべてが同じ振動しか取り込んでいないならば、それは多様性とはならない、個の心(靈)の個性とはなり得ない、そのことを
“ 
ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではある”
と称されており、“集団”を構成する霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がその“集団”において進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していき、ある段階に入ったならば
“或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる”
となり、それまでとは違う進化に入ると説明され、“集団”を構成する個の心(靈)が、その“集団”で取り込む振動と違う振動を取り込む、それを“分離”と称されている。 
 これに続く“しかし、この場合も
ローレンツ力   は ローレンツ力 であり○ は○ である”は、個の心(靈)の構成、そして個の心(靈)の集まりである“集団”、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はローレンツ力による“上”からの振動の取り込みであり、その振動との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により、“上”の思惑、“歓喜”と称してもよいと思うが、それが反映するのが心(靈)=○、そして心(靈)の集まりである“集団”=○、であるということ。
 重要なのはこれに続く
“これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである”
であり、“生前”と“地上の世界”には相違があり、個の心(靈)の個性、多様性、これを高める=“その分離、乱用の度が更に加わって”これが起きるのが“地上世界”なのだ、というのがこの文の要旨である。
 この文の解釈、これに近い内容は第四帖の以下の表記があり、それぞれの解釈も参考にされたい。
“その二”
“生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している”
“その一”
“生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”

 これに続く次の文。
“悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして 
ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”

 冒頭の“悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである”は、先の“地上世界の行為に移りたる場合”であり“真偽混乱に及ぶもの”、この“真偽”の“混乱”は、“地上人”ゆえの自我の肥大によることだと思え、その自我の肥大は“生前界”には強く反映しない、反映しえないから“集団”を構成しうると解するものである。
 その“地上世界”に相対して“生前界”の“悪”ということが説かれているが、これは“地上人”が“地上世界”で行うそれとは違い、“御用”であると称されている。 その意は、“生前界”の“御用の悪”は、“地上世界”の個の心(靈)に、何が“善(神格化の方向性と智性の受信)”か何が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、その指標たることを“集団”が、息吹いているものと解しその“生前界”の“御用の悪”は“地上世界”の“悪”とは違うのだ、それを
“生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして 
ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない”
と称され、ことに“  
ローレンツ力と ○ の ○ であること”の表記は、“上”からの振動をローレンツ力で取り込んだ心(靈)=○が行っているのだ、重複するがそれは“御用”、他者、自分以外の個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのことなのだ、ということであるし、これに続く“即ち、道を乱すが故である”は、“地上世界”の個の心(靈)にたくさんの種類の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をさせる、個性、多様性、の獲得のため、“生前界”の“集団”のような、一様な振動の取り込みではなく、様々な事を思わせ、自我由来の欲望の達成もさせそのためにエネルギーを購わさせること事態が“地上世界”におけるこの心(靈)の進化に結び付くのだということであるし、“生前界”の“集団”が、その“集団”の種類における息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をしている、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもあり、“御用の悪”でもあり、このこと事態が“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、先の個性と多様性の獲得に結び付くのだの意が示されているのが、“地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される”
である。
 そして“地上人の悪人にも善人”にも、何を考え何を為すか、いわゆる“思惑の顕現”をして現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”をしていき、成長をしていく、その過程を“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する”、程度の低い愛(炁)から“慈悲”と“慈愛”、そして“真”=“ほんとう”を求め顕現すること事態が、愛(炁)の度数(アミ 小さな宇宙人シリーズにおける表記)の高まりとなり、自己奉仕者から奉仕者(テオドールから地球へ における表記)になり、これ自体が“地上世界”に位置する個の心(靈)の進化であるが、なぜこれを行うのか、そのために“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を体験しなければならないのか、なぜ右往左往と左往右往を繰り返すのか、それは神が愛であり、“歓喜”であり、神に近付くこと事態が自分の心(靈)が歓びしかないという状態になる、そのため沢山の体験をして苦しんだり歓んだりするのが個の心(靈)の成長に必須である、という、常々○○○大先生が考えていることを示唆する文言が
“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”
であり、個の心(靈)である自分や他者が“観察と認識”する(自分を含めての)“一切万象”は、自分たちが神に近付くためにあり、神に近付くこと事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、その具体的な事が“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する”であり、その過程における個の心(靈)の息吹が“上”からの振動を取り込む=“根底力をなすは歓喜”であり、最後の“歓喜なき所に真実の愛はない”は、神があるからこそ“真実”と“愛”がある、個の心(靈)が“真実”と“愛”を認識しうる理由と根拠は、神が実在する

“その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”
ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している。 生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。 

 今回取り上げる文言も、先回に引用したローム太霊講話集の“類魂”と“霊団”の理解があれば解釈はしやすい。

 冒頭の文。
“生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している”

 この文言は先回取り上げた“同気同一線上にいる霊人たち”の説明であり、その“霊人”の心(靈)の動きは“自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われ”と説かれているし、“自分自身のもつ内の情動”に対し“反する顔面をもつことは許されない”、そしてそれは“一時的に満たすことはできても、長くは続かない”と述べられている。 
これは、その“同気同一線上にいる霊人たち”、“類魂”と“霊団”が、何を目的としているのか、何を目的として集まったか、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“同気同一線上”であるのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるということの説明であり、それは“地上人”においても、換言すれば“霊人”が先回の表記の“肉体人”となっても、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“同気同一線上”に近い=“この情態の原理は、地上人にも、反影している”ではあるが、先回取り上げた文言にあるように“その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない”のである。

 次の文。
“生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである”

 これは“類魂”と“霊団”のことであり、“生前の世界”において、“同気同一線上の霊人たち”が“肉体人”“地上人”となることをここまでの第四帖で述べられているし、“生前の世界”は“類魂”による“霊団”で構成されているのだと読み取ることもできうる。  
それはここで述べられている
“同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい”
“各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている”
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている”
“若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない”
これらすべて“類魂”による“霊団”ゆえのことであり、ことに重要なのは
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め”
これは
“惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっている”
この“惟神”(かんながら)の表記はこれまでの“日月神示”に幾たびか登場しており、“役員づら”の神主が述べている概念、「神でおわしますまま、神の御心のまま」というあいまいな表現よりも、自らが霊的成長して“上”と感応する智性(神性)を獲得し、それを心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす、常に“上”と感応している、という言い回しが正鵠であると断言するが、“類魂”による“霊団”=“集団の中心”においては、“最も神に近い霊人が座を占め”=最も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を有した者が“座を占め”そして“惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっている”、その“集団”における強化された息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とローレンツ力により、“上”からの振動を取り込む=“歓喜によって”=神の思惑によって、その“集団”自体が“自ら定まっている”のだと解することが出来る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第四帖の解釈に入ることとする。 第四帖の原文は以下の通り。

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。 生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。 生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している。 生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。 またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。 総ては 
ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである。 ローレンツ力   と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合もローレンツ力   は ローレンツ力 であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして  ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない。 歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中にローレンツ力と ○   を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる。 生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。 されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである。

 今回解釈するのは
“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。 生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”
ここまでとする。

 上記文言には、ローム太霊が述べた“類魂”と“霊団”、これと共通の要綱があり、これに関してはローム太霊講話集から以下に引用するが、第四帖の文言全体の解釈をするにあたってもこの概念が必須であることを前もって述べておく。

第九話 死の前後 殺人の場合
この執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる…中略…その者の手にかかるか 公(おおやけ)の裁(さば)きによるかして殺される相手の霊は、必ず自分が前に殺した者の霊と一団となってそこに再び二つの魂の争いが続けられる…中略…それらの魂は凡て同じ系統を引いた類(るい)魂(こん)によって、憎悪の霊団に入いりその一員となる仕組み…以下略…
一つの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ、主護神、主護霊の導きの下に大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪ではなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり、死に際しては凡てのことを後輩に委ね、自分は幽界から霊界への神の道一筋に進むよう心掛ければよい

第十話 死の前後 天災、戦争による集団死の場合
一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う…中略…戦敗国の戦死者の霊団は固より…中略…相手国の首脳や国民を永遠に恨む…中略…戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続ける…中略…そこで高級な神霊達は協力して、それらの霊を集団的に幽界の特別な場所に連れて行き、その浄化向上を…以下略…

第十一話 死後の種々相 正常死の場合
自分の犯した欺瞞は生きている間に発表して世の人に批判を受けるべき…中略…反対に、常に善いことをしていながら、世間からどんなに偽善者呼ばわりされようとも、確固たる信念をもって自分に偽るところなければ、それでよい…中略…これらのことが幽体の進む方向の霊団に入いる元となる…中略…汝等は自らを欺いてはならないと同時に、自分の存在は何万年もの前から続いている先祖の現在での現われであるから、自らを欺くことは先祖を欺くことになる
同じ波動を持つ類似の霊団へと導かれて行くものと思えばよい

第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合
生前一つの宗教に凝っていた場合は、その野原に来ると迎いに集まった類魂の連中がその者を取り巻いて自分達の広場に連れて行き、そこでその宗教の戒律に従ってその幽体が完全に形成されるようにするのであるから、宗教というものも中々よく出来ている。それと同じように、凡てのものを通じてその一番奥を研究している心霊とか密教とか秘密結社の特殊な団体とかでは、その自悔の原でその者が完全な幽体として立派に独り立ちが出来るようになるまで見守ってから自分達の城郭に連れて行き、そこで霊団の一員としての新しい使命を授けて、その道に従い修行をさせることになる

引用終わり。

 冒頭の文。
“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ”

 文中の“同気同類”は先の“類魂”“霊団”に相当する、そしてそれは“同一の情態” (情態は心(靈)のありさまの意)であり、“同じ所に”は、“無限段階”である場(フィールド)の特定の位相と解し、その特定の位相に位置する理由と根拠たることは、心(靈)の動きと霊的成長度が近いからであると解するし、これに続く“和し、弥栄え”は、霊的成長度の近いもの同士の寄り集まり、これは霊が荷電粒子の回転であることを鑑みれば、霊自体にも磁束が発現し、それはローレンツ力となり“上”からの振動を取り込むものであるから、一人の靈よりも近いもの同士が寄り集まり集団(霊団)となり、その“情態”が同じように息吹くならば、ローレンツ力も人数分、あるいはそれ以上に強力になることが考えられる。 これに続く“然らざるものは”(そうでない、そのようではない、の意)は、“類魂”でも“霊団”を構成するものではないから、“その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる”と述べられ、違う霊的成長度、違う“情態”ならば、別々に“弥栄え”となり、これに続く“同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ”は“類魂”と“霊団”のことである。 

 次の文。
“生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる”

 文中の“生前の世界は、地上人の世界の原因”、これは第一帖の
“生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
これと併せて読むと理解しやすいが、大概の“地上人”の認識においては、地上での生活しか視野にないので、“生前、生後、死後は一連の存在”などと考えることが出来得ないものである。 この文は“生前の世界”から“地上人の世界”に影響を与え、その影響自体が“主体”なのだ、そしてそれは“地上人”の“死後”においても“通ずる”のだと述べている。
 その意としては、第一帖の文言の解釈を以下にコピペしておく。

“地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく”
これが“地上人”ではあるが、実相は
“しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ”
これが先の
“一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
また
“総て永遠の生命”“弥栄”“存在は生命であり、生れつつあるもの”
ということを知れ、であり、先の“生前、生後、死後”も“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”そして“地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”これら一切が“存在以外の何ものもない”であり“存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”ということを知れ、に関して
“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
この“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない”、これは先の“地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない”であり、これに相対し事象の実相の説明として
“必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
お前たち“地上人”が思うこと以前に“その前なるものによって”、生命はこういうものなのだ、と定められ、それは“呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する”ものなのだ、そしてそれは“地上人”から観たならば“無なる”と認識するだろうが“総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”、これが“生命”であり、事象の実相であるということを示している。


 この““生命”であり、事象の実相である”ということを理解しておけ、でもあり、“生前、生後、死後”においても“一連の存在”と称されているのは、先の“類魂”と“霊団”所以の目的があってこそ、お前たち“地上人”においては、どんな心(靈)であっても、また、それぞれの個の心(靈)においても“生前、生後、死後”という過程があるのだということを知れ、である。

 次の文。
“同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる”

 これは“類魂”と“霊団”、同じ“情態”、そして“上”“下”はあったとしても、霊的成長度が近い“霊人”の集まりのことを述べ、そこにおいては“地上人”とは違い“且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる”、この集団を構成する心(靈)対心(靈)においては、“同気”=同じような“情態”、“同一線上”=同じような霊的成長度、ならば、こういったものなのだ、と述べられている。

 次の文。
“生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”

 先の“同気同一線上にいる霊人たち”を“かかる霊人”と称し“肉体人として生れ出でた場合の多く”においては、“同気”であるから“同一の思想系をもつ”と述べられ、これに関してはあえて解釈することでもなかった感があるが、大事なのはこれに続く“但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる”
この“時間と空間に制限されるが故”“相会し、相語られざる場合も生じてくる”、これはこの後の文言の“部分的には相違し、同一のものは一つとしてない”あるいは“生前の生活と同様のことを繰り返すこともある”ということを説明している文言であり、“同気同一線上にいる霊人たち”“根本的容貌は非常に似ている”であっても“肉体人として生まれ出た場合”は、“部分的には相違し”“同一のものは一つとしてない”ということになり、これは多様性であり、またこういったこと事態が神に近付くことである、それはまた“生前、生後、死後”において同じことの繰り返しをしているならば“弥栄え”ではないし、ことに“時間と空間に制限される”“地上人”の過程においては、その“制限”ゆえに模索もある、間違えたりもする(これは右往左往と左往右往の意味合いでもある)、そして人生の在り方(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を見出そうとするものである。
それは“生前、生後、死後”において、この過程が大事だからこそ“生後”=“地上人”として生まれるのだ、であり、それはまた“存在の意義”でもあり、先の、“制限”ゆえに模索もある、間違えたりもする、これがあるからこそ“真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくる”と言われている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (503)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (23)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (115)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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