“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 今回から、地震の巻(二曰んの○キ)の解釈に入ることとする。

 この、二曰んの○キ の表記の意味は
“二”は肉体の意、“曰”は、口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“ん”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
 そして、“○キ”は、その心(靈)、霊の表記が○、そして“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”をする霊的成長度の高い生命(生きる使命=存在理由)である人間、あるいはその“思惑の顕現”をする資質、“一”=智性=1番目のオーラを獲得し、高い存在と感応する“ほんとう”の意味での“天詞様”、または、その資質を獲得する法則性、いわゆる“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを示している。

 よって“二曰ん”は、肉体の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の最終段階、最終段階とは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進み、完成に近づいた、ある程度めどが立った、それは“ほんとう”の意味合いでの惟神(かんながら)であり、それは“上”との感応、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を理解し認識(悟り、幸取=さとり)とする、またこれが出来得るのが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まった肉体と心(靈)、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを“行”と指令的成長した者、それであるといえ、“一”=智性=1番目のオーラが高まるならば“日月神示”表記の“天詞様”、“上”と感応して神の思惑を自分の思想に活かしている様、と言いうるし、その“の”“○キ”と処されており、“の”は“二曰ん”にかかり、“○キ”も“一”=智性=1番目のオーラが高まってこの事象に神の思惑、天意、これを顕現する“天詞様”の意である。

 第一帖の原文は以下の通り。

われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである。 善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。 霊人に空間はない。 それは、その内にある情動によって定まるが故である。 また、その理によって一定せる方位もない。 また時間もなく只情動の変化があるのみである。 地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。 創造されたものならば、永遠性はあり得ない。 宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。 その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは 
ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。  ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体であり、渦巻き 左回転 はその用である。 それは、善でもなく悪でもない。 真でもなく偽でもない。 美でもなく醜でもない。 また愛でもなく憎でもない。 プラスでもなければマイナスでもない。 しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。 善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。 これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。 神が意志するということは、神が行為することである。 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。 神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。 神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。 神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。 月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。 故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。 地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。 月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。 ために二義的の歓喜となる。 故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。 おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。 この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。 これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。 地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。 それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。

 この第一帖は、文末の
“以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである”
これを念頭に置いておくと理解しやすいし、この“二義的”を認識しうるのは、平均的地球人には想像もつかないほど高い存在であり、その高い存在ゆえの“観察と認識”によることを説き、事象の実相をお前たちが解れ、というのが、二曰んの○木であると言いうる。
(※ 二義的 根本的でない 主眼の意義でないの意)
 それで地震の巻はそれぞれが長文であり、難解な意味合いを含んでいるので、それぞれの帖をいくつかに分けて解釈していくこととする。 
 今回解釈するのは

“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”

ここまでとする。

 まず冒頭の文。
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
 これは自分たちの心(靈)が“観察と認識”しうる現津(あきつ)、観察され得る事象、その実相について述べているし、その事象は“創造”であり、“創造”の“主(ヌシ)”と自分はともにあるのだ、ということも示されている。 
それは文中の“生れつつある”“生まれつづけている”そして“常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”そして“只存在するものが生れに生れつつある”、さらに“只生れゆき栄えゆくのみ”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)と、さらに“理(ミチ)”(法則性)、これに沿った事象の“創造”を指しており、それは
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
と述べられているものである。
これに続く
“太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”
これはその事象の性質を示し、言ってしまえばそれは日足と砌(ひたりとみぎり)、それぞれの極性のことを述べているし、その極性事態も先の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って“絶えず生れつづけている”ものであると称されている。
 これに続く
“一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”
これは、お前たちの“観察と認識”に相対し、“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”しているこの事象は、ということであり、そこにはお前たちが浅い認識(悟り、幸取=さとり)で思う“一定不変の神”“宇宙”などというものは無い、というよりも(霊的成長度の低い)お前たちには現時点では理解できない、“創造”というものそのものは、“常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”=弥栄(いやさか)は霊的成長、生命が神に近付くと解し、常にそれをしていきながら(それをするのが生命であるが)、生命と生命が存在している場(フィールド)は“限りなく生れに生れゆく”と称されている。
 これに続く 
“過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”
これは先に述べた高い存在、その視点での“観察と認識”であり、人間が思う“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”は、人間の心の中においての“観察と認識”であり、一切の事象は一切の事象であるという観方であり、個々の心(靈)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていったなら必ずそこに到達する、先にも述べたが事象の“観察と認識”は自分の心(靈)の中において行われているものであり、その認識(悟り、幸取=さとり)に低さゆえに“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”という分類をするものであり、これら一切が“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の範疇のことであることをお前たちは知らない、よって“只存在するものが生れに生れつつある”と称され、さらにお前たちとお前たちが“観察と認識”している事象一切は、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である生命、この両者によって成り立っている、それを“只自分自身のみの行為はない”と称され、お前たちが“観察と認識”している事象と“創造”の“主(ヌシ)”の行為は“創造”であるという言い回しが“只生れゆき栄えゆくのみである”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第二十六話 仙道と人間の生活 Kellyさん的解釈 二十六話の総括



 第二十六話で太霊が述べられた最も重要な要旨としては、“その六”で取りあげた
心をより以上に発達
そして
人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知して、現在の生活をより幸福なものにする
これは換言すれば、“行”して“上”から認められ“上”の通信を受け

“(人生を)科学(する)者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与え
その上で
神は…中略…地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ
ということを“”がしているのだ、である。

 そしてそれを実際に行うのは、まっとうに生き、“法(のり)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の絶対の法則性)に沿った“行”をして

仙道の術こそは、それを求めることによって…中略…自分がそれを行えるだけの肉になることが必要

であり、そして“上”から認められ、認められるには、“上”と感応しても“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)ゆえの壁もなくならねばならず、それは自分の霊的成長度が高まる事であり、それゆえ“上”と感応して“”(“力”の顕現)の獲得と行使をする。

 これ自体が“上”の思惑に沿った存在となることであり、その結果としてその者の人生は徐々に“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)に近付いていくものであり、先の“”の獲得と行使は、自分の人生を“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)となしていくものであり、これこそが 第一話 物と心の満足を得る法 こ子で述べておられる以下の文言の

肉体を強化し精神力の充実を計ることが出来るのであるから、その結果として当然精神的な希望が達成されることになる

人間が現界に生きていく上に絶対に必要な、物質と精神との両面の欲望を満足させる二つの原則であるから、これらのことをよく日々の行動に移すと共に、自分の定めた目的に向って意志の集中を計ることが、そのものを完全に導く最大の原動力になる

であり、この意味をよく理解したならば先の

人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知”、

これ自体が“頭脳に神智の閃(ひらめ)き”を得よ、その資質を獲得せよ、である。

 それでその資質とは、今取り上げた文言で述べられている
それを行えるだけの肉になる

何度も述べるがこれは“上”との感応のための“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、であり、そのために

仙道の術こそは、それを求めることによって、その人生に大きな幸運をもたらすものであることを知らなければならない。それには自分がそれを行えるだけの肉になることが必要

という言い回しをされていることに気付き、そのための“行”をせよ、と読み取るべき。

 もう一つ
人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来るもので…中略…科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…この一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべき
それと
過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致する…中略…そこに神の意図がある

この文言中の“神の意図”は、自分たちが“科学”する“”となり、一切の事象に理由と根拠を求めよ、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じて“上”は通信を贈り送るものであり、結果それは

それぞれの道において人間として幸福に進んでゆくのが本当である
ということになり得るものであることを太霊は第二十六話の最後で括っているし、そのための智性(神性)の行使、思索の方法の一例として

仙道にしても道教や喇嘛教にしても俗にいう八大宗教にしても…中略…人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来るものであることは、科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じわけである

と述べておられ、この文言自体が人間の智性(神性)の行使、その具体的な目上(めうえ)の脳の使い方を説明されておられるのだと気付くべきであり、この説明のためにこの前の文言

これまで話してきた仙道では…以下略…”、
これは今までの“仙道”の変遷を説明されており、これに続く

元来道とか宗教とかは、人間の歴史の半面を支配するもの…中略…人間のいろいろな思想の具体化されたものが宗教であり、現実に流通している宗教の思想がその時代の心であるから、歴史そのものは科学であるとともに道である…以下略…
この“歴史”に関わってきたのが先の“科学”する“”なのだ、お前たちも自分が遭遇する一切の事象において、ただ喜怒哀楽するのではなく、ただ神の加護を求めるのではなく、理由と根拠を鑑みよ、鑑みること事態が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、それを“上”は観ているのだ、その努力の贖い(あがない)に応じて“上”は“神の采配”や“神の恩恵”と感じ得ることを贈り送るのだ、それともう一つ、“仙道”や“仙人”に対して甘い夢を抱く人間はてんで霊的成長度が低いのだが、それではダメで

なるほど仙道とはかようなものかということをよく頭に入れ

それとその前の文言の

汝等にとっても大切な話であるから、そこに説かれている仙金法 (錬金術)、調和法(呼吸法)、性に関連した長寿法、いろいろな言葉で顕わされた法(のり)、それらのことをよく悟って

これはお前たちが“仙道”から悟れ、認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、認識とするには鑑みよ、またそこから自分にプラスになることがあれば行使せよ、であり、

仙道は天狗道や奇鬼神の術の外に、もう一つ上の仙道としての独自のものを持っている道の教えであると思えばよい

この“道の教え”という文言をしっかり鑑みるべき。

 それは“法(のり)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の絶対の法則性)の認識と、それを行使した生き方につながるもの、こういったことが述べられていると、第二十六話を読み取るべきである。

 それは 第十七話 仙道 尸解仙とその実例 “その一” で述べたように

仙人の仙、この字の偏(へん)は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん、縦の磁性))、これは神の思惑が下降する様子を表しており、旁(つくり)の山は進化した脳(タンパク質の高分子化した様の意味もある)を指す。
脳が一番進化した動物は人間であり、だからこそ人間は大脳(目上(めうえ)の脳)の発達が未熟な動物に比して勝っており、そこで智性(神性、“一”、1番目のオーラ)を発現させ得る。
またそれを行使しなければならない旨のことは幾度となく述べてきた。
 よって、仙人や仙道の話というのは、霊的成長の話なのだ、これが重要な要旨なのだ、という観点で…以下略…


 人間が霊的成長を果たし、智性(神性)を行使し(先の思索)、“一”=智性=1番目のオーラを大きくしていくならば、最後で述べておられる

人間として幸福に進んでゆくのが本当

であり、この言い回しについて感じるのはこれが出来ていない人間が多すぎる、ただ神さんのご利益を求め(ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)の表記)、自分が遭遇する事象に対して喜怒哀楽するだけ、自分の存在意義、意味、神と人間の関係、自分は何を為すべきか、自分はどう在るべか、こんなことは考えない。 
 換言すれば自我以下の心(靈)の動きでしか“観察と認識”をしていない

目下(めした)の脳しか行使していない、これが今の当り前であるが、それではダメ。

 よって
幸福に進んでゆく
幸福 (“夭と屰”(ようとげき)、示す偏(へん)と“畐”) の解字 
=自らの認識を高め、そうすること自体が
=“進んでゆくのが本当
と述べられていることに気付くべきである。

 次回のこのカテゴリーでは 第二十七話 妖精と宝石に纏わる因縁の話 これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第二十六話 仙道と人間の生活 Kellyさん的解釈“その六”の補足



 今回は、先回取り上げた“一つの道にある人間の心の問題”について、以下の文言を解釈することとする。

神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ、そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられているのであるが、こういうのを宗教というから語弊があるのであって、これは一つの道にある人間の心の問題なのである

 この
宗教というから語弊がある
に関して、“科学”する“”、その人間が頑張る(元の気を張る)、まっとうな目的のために頑張るならば、その努力を“上”は見ているので感応して通信を贈り送るのであり、これ事態が人間の“一つの道”である、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程における“”であり、それは“上”から観て進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に則ったまっとうな時間の進行であることが指摘でき得る。

 それでなぜ太霊が“こういうのを宗教というから語弊がある”という言い回しをされているのか。

 それは宗教の開祖、これ自体が人生を“科学”する“”と言いうるし、それらは自分の人生において苦痛や苦悩を体験し、自分が生きている意味、人生の意義、神と人間の関係、自分の在り方など、先の、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に則ったまっとうな時間の進行=“”を歩もうとしている、あるいは歩んだ、その道程においての贖い(あがない)に応じ、重複するが、それがまっとうならば“上”は通信を贈り送るものである。

 このことを今までも述べ、たった今も述べたが、この宗教の開祖の贖い(あがない)の結果を自分たちの権威や金儲けのために利用している宗教関係者は、決して“科学”する“”ではなく、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であるからである。

 また、言うまでもないことではあるが、太霊は、霊的成長度の低い=“下”である人間の認識を変えようとして、S会=紫光会においてローム霊訓講話(その記録がローム太霊講話集)をはじめとした活動を行ったのであり、これは“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)であると言いうるし、これ事態が高度な“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)でもある。

 これに相対し“役員づら”は…などと説明するのはさんざん述べてきたことであるので省くが、霊的成長度の低い人間、認識(悟り、幸取=さとり)の浅い人間、“役員づら”に刷り込まれたことしか知らない人間、その刷り込まれたことに関して大して疑いを持たない人間&それ以上のことを求めない人間=智性(神性)無き心、これらは自分と自分の人生、自分が遭遇する一切の事象に対して“科学”する“”ではない。

 その浅い認識における宗教の概念ゆえのものの見方をするな、という意味合いで、まず、神の思惑として

神は…中略…地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ

と述べられ、そして

そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与え

と述べていらっしゃる。

 そこで、お前たちの大多数は既成の宗教に刷り込まれ、そのエセ宗教を宗教だと認識しているが、それが“ほんとう”に価値のあることなのか考えもしない、そういう人間が大多数だからこそ
こういうのを宗教というから語弊がある
という言い回しで指摘をされていることに気付かねばならない。

 そしてこの程度の低い人間の概念と認識に対しても
一つの道にある人間の心の問題
程度の低い人間は程度の低いものの観方しかしていないものである、ことに宗教に関しては先に述べたことと重複するが、既成宗教は腐りきっており、それをなんとなく認めている、一切の事象に“ほんとう”を求めない人間=“ブタのけつを見ているアホ”が多すぎるので、これも“人間の心の問題”なのだ、という太霊の指摘をしっかり考えなければならないものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第二十六話 仙道と人間の生活 Kellyさん的解釈“その六”



 先回の最後で述べたように、今回は
一つの道にある人間の心の問題”、
これと、この文言に続く
その心をより以上に発達
そして
人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知して、現在の生活をより幸福なものにする
これについて述べることとする。

 順序が逆になるが、まず“現在の生活をより幸福なものにする”、この“幸福”であるが、たった今の人間の幸福の認識や概念、それは低すぎることを幾度となく述べてきている。
ほんとう”の幸福の意味合いは以下の画像のようになる。


幸福 (“夭と屰”(ようとげき)、示す偏(へん)と“畐”) の解字 

 程度の低い人間が低い価値観で思う程度の低い幸福の概念は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)によるものであるが、太霊が述べている“現在の生活をより幸福なものにする”というのはそんなものではなく、生きている間に高い認識(悟り、幸取=さとり)を獲得せよ、であり、そのために
頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知”、
これは先回取り上げた
科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている
(※ “科学”する“”とは、ここまで述べてきたように自分が遭遇する一切の事象に理由と根拠を求め、その上で自分の人生の意味や意義、自分の存在の意味や意義、そして神と人間の関係を追い求めようとする者である)
これ自体が“上”との感応である。
 
 それで“上”と感応する心(靈)の資質、それは先回述べたように、まっとうな息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でなければならず、この意味合いのことが
その心をより以上に発達
であり、自分は自分の人生において遭遇する一切の事象に対してその理由と根拠を求めて自分の認識(悟り、幸取=さとり)とする、これが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発達であり、この姿勢がまた
一つの道にある人間の心の問題

自分は何を求め何を考えて、認識(悟り、幸取=さとり)とするか、ということになる。

 そして、これが行われるならば
神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ、そのために
これを要約すれば
神は…中略…地球の上にその理想を創造
その具体的な手段が
神智の閃(ひらめ)きすら与え
と述べておられることに気付くべきである。

 また“神は…中略…地球の上にその理想を創造”、
これ事態が第十九話
人間本来の特権である神の命を実行するもの
となり得るものであり、さらにそれは
神の命を実行するものとなってこそ真の人間
であると太霊はすでに述べておられるし、“人間本来の特権である神の命”の“神の命”、これを“実行するもの”、これは
行業一致…中略…肉に与えられたものを立派に完成する…中略…目に見えない精神をも立派に完成する
これが出来た、成し遂げた人間を“神の命を実行するもの”と称されており、またそれが“真の人間”に近づいていくことなのだと示されていることを、しっかり読み取るべきである。

 またこの事に関して

その心をより以上に発達させる…中略…精神的な修行をして…中略…それらは宗教と言われ道と言われその他のいろいろな名で呼ばれていても、結局は人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知して、現在の生活をより幸福なものにするため

とも述べておられ、この
現在の生活をより幸福なものにする”には、
自分の肉体によって感知”、
これは先の“神智の閃(ひらめ)き”と同義、“上”との感応ということであるし、それは結果として“神の命を実行するものとなってこそ真の人間”と称される資質を持ち“行業一致…中略…肉に与えられたものを立派に完成する…中略…目に見えない精神をも立派に完成する”となるのだと、つなぎ合わせて考えることが出来得るものである。

 これらの事柄が先回取り上げた以下の文言
 
過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致

追い求める手法や、やり方、考え方や対象は違っていても

過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば

その結果として人間が得る何か

同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致
であり、それは先に述べたとおり、“上”と感応して
肉体によって感知
神智の閃(ひらめ)き”、
そして
神は…中略…地球の上にその理想を創造
これを託されるべく、肉体と心(靈)を“行”によって作り変え(“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる))、そして“上”と感応する資質を獲得するのは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、であり、その具体的な事は、何をか言わんや、言わずもがな、であるが、それを人生において真摯に行うならば、
神の命を実行するものとなってこそ真の人間
となる。
またそのために“行業一致…以下略…”に則って(のっとって)生きよ、であると言いうるものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第二十六話 仙道と人間の生活 Kellyさん的解釈“その五”



 先回取り上げた、目前の事象に対して思索すること=智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と強化のための太霊の文言

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし
過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致
前後するが
常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべき

これらは目前の事象に対して、自我以下の心(靈)しか発達していない心(靈)ならば、単なる喜怒哀楽という心(靈)の動きと自分の損得しか考えないが、智性(神性)を発揮しようとする心(靈)ならば、その事象のなりたち、その理由と根拠を探り、見極める、何のために今この事象に自分は遭遇しているのかを考える、それは、

変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし

こういった心(靈)の動きをするものであるし、太霊が述べていることはまさにこのためのことである。

 そしてこれらの文言の後に

神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ、そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている

と太霊は述べておられるが、この“科学者”という文言に職業としての単なる学者みたいな解釈をすると太霊の意図を見失う点があると思うので“その三”で述べたことを以下にコピペしておく。

科学
言葉としての意味は、体系化された知識や経験の総称、であり、そこから得られる認識(悟り、幸取=さとり)が重要なのだ、というのが○○○大先生の意見である。


またこれは第三話の以下の文言、

どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている

この“あらゆる努力”をする者に“科学者”が相当するといえ、さらに文言中の
神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造
この下線を引いた部分の意味は第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

これに相当するものである。

 そして

そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられ

というのは、その“科学”する“”、その人間が頑張る(元の気を張る)、まっとうな目的のために頑張るならば、その努力を“上”は見ているので感応して通信を送る、それを
神智の閃(ひらめ)き
と称されており、これはここまで太霊が述べて来られたこと、例えば“”(“力”の顕現)が目的ならば“天狗道”であり、さらにこれが進めば“天仙”の思惑である
衆生済度とか真理の探究”、
これは高い“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であるといいうるが、こういう段階に進んで行くということになり得るものである。

 それで注意しなければならないこととして、まっとうな目的でない頑張り、あるいは堕落した人間の発想というのも人間には多々あり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に悪霊の感応がある、それは第三話

天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する

これに相当し、この極端なものが例えば兵器の開発を目論んでそれに悪霊が手を貸す、などのとても解りやすい具体例があるが、この後の文言の

よくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない

ということを誰もが忘れてはならず、自分がまっとうかそうでないか、常に自分の心(靈)を見張っていなくてはならないものであるし、これがまた先回の最後でピックアップした

一つの道にある人間の心の問題

の意味合いの一つでもある。

 またこれは第十九話

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間

この事の理解を深めるために、“道にある人間の心の問題”という言い回しをされているものである。

 次回も

一つの道にある人間の心の問題”、

これと、この文言に続く

その心をより以上に発達
そして
人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知して、現在の生活をより幸福なものにする
これらについて解釈を述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第二十六話 仙道と人間の生活 Kellyさん的解釈“その四”



 今回は“その一”で取り上げた以下の文言を解釈することとする。

人間は変動しない一つの焦点に対し…中略…凡ての想像を巡(めぐ)らし…中略…あらゆる角度にまで持って来る…中略…そうするとこの一点自体もやはり一つの仮定…中略…常に進化していることには変りない…中略…人間の想像もかくあるべき…中略…過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在以下に遠く離れていようとも、それは同じ一点、例えば北極から飛び立って南極に向う二つの飛行機が、一機は東半球のコースを取り一機は西半球のコースを取ったのと同じように、その最後は再び一点に合致する…中略…そこに神の意図がある

 すでにこれについて簡単に

仙道とはかようなものか”と知ったならば、さらにそこには人間が解らないものを解るようにしてきたその過程、その際の心(靈)の動きを示し、またそれで得られる認識(悟り、幸取=さとり)、自分なりの答、これはまた霊的成長度の高低によって違う各々違う答えになるものであるのだが、それを求めてしっかり得よ、の意図がある

と解釈した。

 それは、人間は何を欲し、何を考え、何を求めるべきか。
 またそれをさせる“神の意図がある”という太霊の言葉はどういった意義を持っているか。
 この二点に要約されるものである。

 太霊がこの文言中で述べておられる

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来るものであることは、科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ

これに続く

そうするとこの一点自体もやはり一つの仮定であって、それは今日のどんな数学でも出すことの出来ないものであるから、常に記録と言いデータ(しりょう)と言っても、それが果たしていつまで有効に使えるかは疑問なのである

この
一つの点の移動によって線が出来た
これはこの文言をよく読めばわかることだが、“科学者”のことを述べているのではないし
この一点自体もやはり一つの仮定
というのは、自分が様々な事象に遭遇しT、その事象の意味と意義、これを追い求めるための指標となる思索の方法を説いておられるものである。
 この“一つの仮定”を説明するにあたって太霊は、この文言の少し前に

仙道にしても道教や喇嘛教にしても俗にいう八大宗教にしても、その九割までは北を中心とした教義を説いているが、それは北半球に住む民族が星をたよりに造り上げたものであるからで、その反対に若しアジア大陸が南半球にあったとしたら、そこに南十字星を中心とした宗教が生まれていた筈

と述べておられ、そのあとに

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし…以下略…

と述べておられることに気付くべきであり、“焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし”ということをしなければ、自分の存在、神と自分の関係、この世界の存在、など、その意味と意義を知ること、認識(悟り、幸取=さとり)とすることが出来ないからである。
 またこうやって思索すること自体、目上(めうえ)の脳の行使となり、これ自体が徐々に智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得となり得るものである。
 
 その具体例として、例えばどんな人でも人生においてはどんな人でも様々な目に遭い、そこには喜怒哀楽もあるものだが、この喜怒哀楽は本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の動きにおいては、やはり自我までの心(靈)の動きでしかないし、自我以下の心(靈)の動きは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の脳の行使でしかない。
 そこで、今、自分はこんな目に遭っている、その意味は何か、自分にとってこれはどういう意味合いを持ち事象なのか、これを鑑みること事態が、自分が背負っている因縁を知り、“神の咎め”を知り、恨みの連鎖の霊的干渉を知り、あるいは神の加護や恩恵を知り、なぜ自分がそれを蒙る(こうむる)のかを考えて浅い認識を獲得して、そうやって神と悪魔の存在を知り、善と悪を知り、これらを知ったならば、どちらに近付くかを考える、これが人間の在り方と言いうるが、先に述べたように様々な事象に遭遇して喜怒哀楽しか無かったならば、それは目上(めうえ)の脳を行使しなかったと言いうるものであるし、目上(めうえ)の脳の行使は左脳から始まり、左脳のタンパク質の高分子化は“上”との感応につながるものであることを○○○大先生は
“総括編” 自凝(おのころ)の強化 “その二十五” 1番目のオーラの強化 で説明している。

 話が少々逸脱した感があるが、自分の人生において“上”は様々な課題を与え、答を導き出させようとしているものであることに気付くべきであり、これは先に解釈を行った“日月神示” 荒の巻 の表記の“答(コタヘ ト トー)”に相当するものでもある。
 常に人間はその答えを求め、答が認識(悟り、幸取=さとり)となり、その認識(悟り、幸取=さとり)を活かした人生を送るべき、その意味合いを感じさせる文言が

電話が発達してラジオになりテレビになったよう…中略…常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべきものと思う

そして

過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致

と太霊は述べておられ、文中の
最後は再び一点に合致
というのは、今回取り上げている文言の後の

一つの道にある人間の心の問題…中略…その心をより以上に発達させるため、汝等は精神的な修行をしているのである…中略…結局は人間の頭で考え得られないことを自分の肉体によって感知して、現在の生活をより幸福なものにするため…中略…そういう意味でこの仙道の術こそは、それを求めることによって、その人生に大きな幸運をもたらすものであることを知らなければならない

これに続いているものである。

 次回は今取り上げた“一つの道にある人間の心の問題”、この文言を含め、そこで太霊が何を伝えようとしているのかについて述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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