“日月神示”補巻 月光の巻 第四十四帖 Kellyさん的解釈
今回は、補巻 月光の巻 第四十四帖の解釈をする。 原文は以下の通り。
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。
文言中の“借銭”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使して自分たちだけの利益を得ている、しかしながら自分たちが獲得した“力”の行使というのは、万人のためのものである、というのが霊的成長度の高い者の考えである。 そこで自分たちだけの利益の追求の“力”の行使は、恨みの連鎖の霊的干渉の増大になっていることを述べてきているが、この二つの意が“借銭”にはあるものである。
これを踏まえ、冒頭の文。
“この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ”
“この道”というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度から脱却し、その脱却のために“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”ということを“日月神示”では教えており、そうして自省(胸の磁性“十”)して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となっていくその過程に於いて
、自分たちが背負っている恨みの連鎖の霊的干渉、“借銭”は現象化して、その現象化を体験し味わってこそ自分は真摯に自省(胸の磁性“十”)し得るのであるということを“この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくある”と述べ、そこで“なれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐる”お前たちが自省(胸の磁性“十”)をしなければ“大難を小難”とはならない、これは“上”の采配であることを知らねばならない、ということを教え、その内実として“又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐる”、これの“めぐり”というのも恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことであることは既に何回も述べてきているが、これを身を持って味わい、そこに苦難と苦痛があってこそ自分は真摯に自省(胸の磁性“十”)の“行”をする、ということを述べている。
次の
“借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ”
これの“借りたものは返さねばならん道理”は先に述べたことが理解できているなら解釈の要は無いのであり、その恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を味わい自省(胸の磁性“十”)することを“損もよい、病気もよいぞと申してあろうが”と述べ、こうして自省(胸の磁性“十”)して“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者へと育っていくその“道理”を知らない霊的成長度の者は“此処の道理もわきまへず理屈申してゐる”自分たちの都合のよいことばかり考えているが、今後=アセンション後に移行し得る時期は近付いているのだから“そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ”、と述べられ、これの“神心”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度を表している“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”“四つ足”、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きをしている者だが、これに相対した言い回しであり、お前たちはほんの少しでも、神に近づけ、また神に近づくということはどういうことなのかをよく鑑みよ、の意である。
次の
“そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか”
お前たちは“日月神示”で述べられている霊的成長の秘訣を知ったとしても、それを“行”としているのか、よく自分を省みよ、という文言であり、「霊的成長の秘訣」を自分に課し、課したことに沿って自分の在り方や振る舞い方を考え、そしてそれを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移すことをする、このことを“そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん”と述べ、それを現界においてなさねばならないのだ、の意で“地上人は物としての行動をしなければならんぞ”と述べ、そして“口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか”については先に述べた通りであるので解釈の要は無い。
今回はこれくらいにしときまんねん。
紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 四空経録 西霊大眞如太神 より“その七”
今回取り上げるのは 墳駄引地 天西積物 次現抱擁 までとする。
墳駄引地 これは先回の 力土墳力 立塔自力 これにかかり 墳駄 というのは 墳 が先回解釈した通り、遠津御祖(とおつみおや)、先祖代々の力、これを 駄 これは馬に荷を積むの意であるが、遠津御祖(とおつみおや)と自分の力で 引地 これは 地 が現界の意、そこに 力土墳力 立塔自力 の 力 を 引 引き込むの意である。 その 力 それは“思惑の顕現”=現象化でもあるが、それは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、これを 天 と称し 西 は“その五”で取り上げた 秋光西茜 茜大転朝 これの意であり、これらによって 積物 物 は現界の意、これに 積 積み上げる、これ事態が“思惑の顕現”=現象化であるということ。 そして 力土墳力 立塔自力 となっている者に対し 次現抱擁 これの 次現 は、次現界の意、次現界からの援護、干渉があるの意で 抱擁 と称している。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”補巻 月光の巻 第四十三帖 Kellyさん的解釈
今回は、補巻 月光の巻 第四十三帖の解釈をする。 原文は以下の通り。
そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ。教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となってゐるのぞ。理(ミチ)でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか。
文言中の“方便”、これの本来の意味は、仏教用語、upāya(ウパーヤ)、この言葉の意味は「近づく」「到達する」の意であるが、ここで気づく重要なこととしては、自分は何に近づくのか、何に到達するのか、ということである。 しかしながらこの言葉の解釈が、現、既成宗教の仏教に於いては、人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段、あるいは巧みなてだて、便宜的な手段や方法、という解釈をされている。 そこで今述べたことを纏めれば、前者は、自分が霊的成長して神に近づき、そして自分は神格化に到達する、ということであり、後者は、いわゆる、嘘も方便、という二つの意味合いがあり、ネットで方便を検索すると、この二つの意味合いが混ぜこぜになっている感がある。
また、すでに解釈を終えた、日の出の巻 第十三帖
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-435.html これの
“方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ”
この文言の“方便”は、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、それは“役員づら”に多いのだが、自分の欲望を充たすために貴いものを利用することである、という解釈をしたが、この意のことをも含めると解するなら、今回取り上げている文言の“方便”には、三つの意味合いがあることになる。
ここまでのことを踏まえて冒頭の
“そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ”
これは先の「人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段、あるいは巧みなてだて、便宜的な手段や方法」ということを指摘しており、それでは「自分が霊的成長して神に近づき、そして自分は神格化に到達する」とはなり得ないから“方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のこと”と称し、ことに“平面の教え”というのは、“上”に向かわない、何時までも同じ段階にいる、という意味合いを持ち、またそれは既成宗教の姿であり、“役員づら”が自分の欲望を満たすために“方便”を使っているということをも“仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか”と述べているのである。
これに続く
“教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となってゐるのぞ。理(ミチ)でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが”
この文言は、お前たちが「自分が霊的成長して神に近づき、そして自分は神格化に到達する」ということを自覚してそれを目指すことをしていない、これを前提に述べているのであり、よって今後=アセンション後に移行しうるに当たって“教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となってゐる”そしてお前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を解らねばならないの意で“。理(ミチ)でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならん”と述べられ、次の“【方便】の世はすんで【ほうべん】の世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが”これの“【方便】の世”は「人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段、あるいは巧みなてだて、便宜的な手段や方法」そして「“役員づら”が自分の欲望を満たすために“方便”を使っている」の意であり、これに相対する“【ほうべん】の世”、これのひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記は、神の“理(ミチ)”がこの事象に顕現しなければならない、それゆえに漢字ではなく、ひらがなで示されているのであるのであり、お前たち自身が先に述べたように「自分が霊的成長して神に近づき、そして自分は神格化に到達する」ということを自覚して目指す、ということをしていくならば、それもある段階に至ると“そのほうべんの世もやがて終る”、その自覚と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すということ事態が、当たり前になる、あえて意識する必要など無くなる、の意であると解する。
よって次の
“理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか”
これの“弥栄ぞ。喜びぞ”は一切万象(“三界”)の“大弥栄”“大完成”、そして“うれしうれし”“大歓喜”、ということに達する、そのための“方便”、「自分が霊的成長して神に近づき、そして自分は神格化に到達する」ということを自覚して目指す、それは“理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ”、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。 そしてそれは“神の息吹きぞ”、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これが自分たちに到達する、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意であり、これには、神の思惑が含まれ、またその取り込みは自分自身を育て得るのだ、ということをよく解れよ、の意味合いである。
今回はこれくらいにしときまんねん。
紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 四空経録 西霊大眞如太神 より“その六”
今回取り上げるのは 天与済仏 無一有一 摩天制圧 力土墳力 立塔自力 までとする。
天与済仏 これは先回の 成生物完 これにかかっており、現界に於いての“思惑の顕現”=現象化、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これをまっとうするには、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを取り込み、またその天意を活かして現界に於いての“思惑の顕現”=現象化を為すこと事態を、天与 とし、また 済 は、その“思惑の顕現”=現象化を 完 とすると同義の 物事を成就させる、の意であり 仏 は、“行”やって天意を獲得してそれを認識とした、いわゆる悟りを開いた修行者、の意である。 無一有一 は、その“思惑の顕現”が天意の獲得によることであり、このこと自体を“行”やってない者、たいして認識を得ていない霊的成長度の低い者が観るならば 無一 何も無い、何の効用も無いかのように見え得るが、それは“行”やった者が神と自分の思惑の一致を為して厳然と現象化しているのである、それを 有一 その事象に確実に、確固として存在し得る、の意であるし 摩天制圧 これの 摩天 は、“行”やった者が天意を自分なりに 摩 こすって磨く、の意であるが、自分の思想と天意を自身の心(靈)の中に於いて、練って練って、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、事象に顕現するのだ、の意であり、それは自分の“創造”し得る事象を、天意によって、神の“理(ミチ)”、事象の“創造”のことわり、法則性、によって 制圧 とする、の意であり その“行”やった者の息吹、事象の“創造”のための 力 は、肉体 土 この土 の積み重なりの意で 墳 古墳(墓)のそれであるが、これは先祖代々、そして遠津御祖(とおつみおや)の意を含み 自分と先祖の力が合わさって現界の事象に顕現することを 力土墳力 と称しておりこれに続く 立塔自力 これの 立塔 は“思惑の顕現”=現象化をまっとうするの意で、それを 自力 先の「自分の思想と天意を自身の心(靈)の中に於いて、練って練って、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、事象に顕現する」、これを表した文言である。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示”補巻 月光の巻 第四十二帖 Kellyさん的解釈
今回は、補巻 月光の巻 第四十二帖の解釈をする。 原文は以下の通り。
未来にもえることが現在に生きることであるぞ。そなたは現在に生きる努力が足らん。夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ。そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。先祖はそなたではないか。地下にあるそなたの根が先祖でないか。根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、よく考へて下されよ。根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。分家しても先祖まつらねばならん。先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか。
冒頭の
“未来にもえることが現在に生きることであるぞ。そなたは現在に生きる努力が足らん。夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ”
これの“現在に生きる努力が足らん”とは、お前たちが“思惑の顕現”=現象化のためのエネルギーの贖い(あがない)をしているが、これが足らない、の意である。
それは、お前たち自身がたった今やっていること、生業(なりわい)であろうが“行”であろうが、また言い方を変えれば、一切の心(靈)の動き、崇高なことであろうが下賤なことであろうが、これらを顕現すること事態が、“行”であるという認識が足らない、ということを述べているのであり、“思惑の顕現”=現象化というのはそれぞれの霊的成長度に於いて相違があり、またそこに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の区別もあるが、“思惑の顕現”自体が自分の所作であり、すべての生命(生きる使命=存在理由)に共通することであるのだが、このことを“未来にもえることが現在に生きることである”と述べ、“未来にもえること”が思惑であり、そのためのエネルギーの贖い(あがない)のために“現在に生きる”のである、ということを読み取らねばならず、よって自分は“思惑の顕現”=現象化のために自身のエネルギーを贖う(あがなう)ことをする、それが一切万象の“大弥栄”“大完成”に繋がっていくことであるということを再認識せよ、ということであり、また“夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ”というのは、そのエネルギーの贖い(あがない)をたいしてしないで自分の都合のよいことばかり夢想している様を“うたかた”、泡沫、すぐに消えてしまう泡のようだ、と称されているのである。
次の
“そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。先祖はそなたではないか。地下にあるそなたの根が先祖でないか。根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、よく考へて下されよ。根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。分家しても先祖まつらねばならん。先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか”
この文言で述べられている“先祖”と自分たちの関係、それは“先祖はそなたではないか”そして“よく考へて下されよ。根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。分家しても先祖まつらねばならん。先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか”と述べられているが、これに関しては最近行った冬の巻の以下の文言とその解釈が理解しやすい。
“総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。このことよくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。
死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。
死後に於ても、現実界に自分がある。それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。
自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。
霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。
一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。それは霊なるが故にであるぞ。霊には霊の霊が感応する。又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。
二重三重人格と申すのは、二重三重のつきものの転換によるものであり、群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。霊が元と申してくどう知らしてあろうが。人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。
調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ”
上記文言の解釈は以下のリンク先を参照されたい。
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1758.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1760.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1761.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1763.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1764.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1767.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1768.html
http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1770.html
今回はこれくらいにしときまんねん。
紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 四空経録 西霊大眞如太神 より“その五”
今回取り上げるのは 秋光西茜 茜大転朝 東光飛雄 遠山即日 成生物完 までとする。
先回の 黄光無病 自我が強化された、あるいは自我が強化された者の意、これに続いている 秋光西茜 これの 秋光 は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、“慈悲”と“慈愛”、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)自分に対する厳しさ”であるが、“日月神示”にも同様の表記があり、その解釈の際に作った画像を以下に貼っておく。
そして 西茜 の 西 は太陽が沈む方角、この太陽が沈む方角というのが、人間が年老いて分別を得て自分の在り方や振る舞い方を考え、これ自体が身についている、それは、心(靈)が完成に近づいた、また、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きを自分自身で諌め得るほどになった、の意でもあり、太陽が沈む、夕日を示すのが 茜 茜色である。 その 茜 夕日は翌日には朝日として昇ってくることを 茜大転朝 の文言で示し、これの 大 は人間が手足を広げた様の意であり、それはその人間が活躍するの意であり、その活躍は 黄光無病 秋光西茜 があってこそであり、それは自我が強化され、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)を諫め得るほど心(靈)が育った者の活躍、の意である。 これに続く 東光飛雄 これの 東光 は、先の 茜大転朝 朝日が東から昇ってくる、の意と 飛雄 鳥が大空に飛び上がるように、羽ばたくように、大きな志をいだいて盛んに活動する、の意、であり、また 東 は、古語では、ひむかし、それは、日向かし、の意であり、太陽が昇る方角と、太陽に向かう、の意、それは、太陽に向かう、太陽の振動を受ける、の意であり、その“行”をする、という意味合いでも 飛雄 である。 その者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”というのは 遠山即日 成生物完 その者の思惑、理想たることを 遠山 遠くにある山遠くに見える山、そこにたどり着くのが困難、の意であるが、それを 即日 短い期間で成し遂げ、またそれは 成生物完 これの 物 は、物質の振動で“観察と認識”し得る現界の事象の“創造”を示し、現界に於いて“思惑の顕現”=現象化を 成生 として、まっとうするの意で 完 と称されている。
今回はこれくらいにしときまんねん。