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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十五”



 今回は第十五帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十五帖では、“創造”の“主(ヌシ)”を含む“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命、これら個の心(靈)が“観察と認識”する事象について、まず最初に、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であることが述べられている。
“霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。 故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。 住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。 霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。 と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する”

 前にも述べたことが幾度かあるが、たった今の平均的地球人の事象の“観察と認識”は外側(外国と幽界)の事象が主体、というよりも外側(外国と幽界)の事象しか観ていない傾向があるので、この文言中の重要な要旨である以下の文言、
“霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様である”、
この“思想なり”“ことごとく同様である”これを読み飛ばし意味をしっかり考えない人が多いと思えるが、これは“霊人”と“地上人”の内面とか内側(心の中と感じている事)、これもフラクタル(fractal)であるということを述べているのであり、これに気付く人はごく少数であると思え、よってこのこと事態をしっかり認識しえないものである。
 それは“創造”の“主(ヌシ)”も“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命も個の心(靈)であり、その心(靈)の構造には“上”と“下”があり、その頂点が“創造”の“主(ヌシ)”であり、“創造”の“主(ヌシ)”は“上”から“下”までの振動を送り贈るからこそ生命は発生し、それぞれの個の心(靈)はその生命自体のローレンツ力 
ローレンツ力 で“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込み、これ事態を第十五帖では“直接内流”とも称されており、これを個々の生命が肉体と心(靈)の活動により増幅し発振、発信している、それが生命(生きる使命=存在理由)であり、さらに生命には“上”“下”があり、それは進化過程であり、その実情として、霊的成長の過程は、普遍的に実在する“創造”の“主(ヌシ)”のオーラ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)との感応共振の段階であるということを今後=アセンション後に移行する人は理解すべきである。 

 本題に戻り、これは“霊人”も“地上人”も、ということを読み取るべきであり、これ事態も“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の取り込みによることであり、さらに現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”は“直接内流”の取り込み如何、感応如何によることなのだということを知るべきであり、それはたとえ同じ場(フィールド)に位置している個々の心(靈)が多数あっても、その“観察と認識”は霊的成長度の高低により相違があることをも、知るべきである。

 この霊的成長度の高低、これに関して次の文では“内分”という表記が使われている。
“また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。 その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる”

 これは先のフラクタル(fractal)ということと、“同気”“同類”“同気同一線上”ということを述べている。

 これに続く次の文。
“そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。 霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である”

 これも“霊界”と“地上人の世界”がフラクタル(fractal)であることを述べているし、それは“これらの総てが霊界に存在するが故”、“霊界を主とし、霊界に従って”、これらにより“地上世界に、それの写しがある”“地上にうつし出されたのが、地上人の世界”であることを知るべきである。

 これに続く次の文は、たった今の平均的地球人、“地上人”の“観察と認識”の実情を述べている。 
“地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない”

 そしてこれらは“内分”、霊的成長度の高低によるものであることを次の文で述べている。
“これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。 また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる”

 文言中の“これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたもの”これが“霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る”これに霊的成長度の高低を読み取り、さらに“天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。 高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着する”これも“内分”の相違、霊的成長度の高低によることであることを読み取るべき。 そしてこの霊的成長度の高低を表わしているのが“天人”“霊人”の個の心(靈)の外側(外国と幽界)である“衣”と解する。

 次の文も霊的成長度の高低について述べている。
“彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。 理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。 但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である”

 “理智”という表記、これはどれくらい智性(神性)を獲得した心(靈)なのか、その程度、によることであるし、智性(神性)を獲得した心(靈)であるからこそ“理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる”と称されている。 
そして個の心(靈)が神に近くなればなるほど=“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”は、
“衣類を着していないのである。 この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故”
これは“他は自己であり、自己は他である”ので、外側(外国と幽界)の事象とか内面とか内側(心の中と感じている事)とかの区別もない、また文面通り“自己”と“他”の区別もない、という認識に至っており、それは一切が神であるという認識(悟り、幸取=さとり)を獲得したうえで、個の心(靈)として“創造”の“主(ヌシ)”からの“直接内流”の頂点(この表現自体が少々不適切な感がある)に近い、あるいは頂点そのものの振動と感応し取り込んでいるからこそ、神と同等か、あるいは少しだけ“創造”の“主(ヌシ)”より“下”の心(靈)になり得た存在が“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”であると称されているものである。

次の文は霊的成長度の高低による“観察と認識”の相違、を述べている、それは同じものを見ても観察したすべての心(靈)には同じように“映像”され得ない、自分の“内分”に応じた事柄しか認識しえないことを述べている。
“しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。 また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである”

 “地上人”の言葉に「己を以て人を量る」(人は、自分の考えを基準にして他人の心を推し量り、自分の能力をもって他人の才能や能力を推察するもので、つまらない人間だと、他人のことも同じような程度としかとらえることができない、という意味)がある。 そして○○○大先生は著書で、自分が持っている認識と同等、あるいはそれよりほんの少し“上”しか認識しえない、ということを述べた。
これらも振動の法則性所以のことであり、自分(の心(靈))が持っている振動と近いものしか感応し得ない=観察と認識しえないということ。 
それゆえこの文言では“見る霊人の心の高低によって”=観察する側の心(靈)の“内分”の程度による観察しか出来得ないから、観察する側の心(靈)が育ったならもっと違う要素も見えてくる、それはなぜなのかと言えば観察対象の“最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たち”は神に近いが、観察する側の個々の心(靈)はまだまだ神から程遠いから、心(靈)の育ち具合で“心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆる”、自分の心(靈)が育ったならますます神に近いものが見え得る、またそういった観察の変容があるならば、まだまだ神から程遠いということになり得る、当たり前である。
それだからこそ観察対象の“霊人”が自分より高かったならば、自分が観察するその“霊人”の外側(外国と幽界)の事象、“衣類”は、“衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである”、これはその“霊人”の心(靈)の霊的成長度の変容“状態の変化”により、観察する側には“変化して行く”と観られるものである。

 次の文。
“霊人はまた、いろいろな食物を食している。 云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。 食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。 地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。 そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。 食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。 以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である”

 先の“衣”“衣類”は個の心(靈)の外側(外国と幽界)で、その個の心(靈)を観察対象としたときに外側(外国と幽界)の事象が“衣”“衣類”と見受けられると解釈したが、この文言の“食物”は振動の取り込みを指した表記であるし、その“食物”=振動の取り込みも、霊的成長度の高低により変容する、それは文中で“地上人”を例に挙げて“地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである”と称され、そして“食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。 霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなる”と称されている。
 言うまでもなくその振動は“創造”の“主(ヌシ)”の息吹が自分に相応し低振動化した“直接内流”であり、それは“地上人”はまず物質を食うという段階から振動の取り込みが始まるのであり、そして空気を吸う、音を聞く、さらに光(可視光線)を取り込む、光以上の振動を取り込む、という段階の“行”があるが、恐らく“霊界”においても“地上人”の世界とフラクタル(fractal)であるから、“霊界”においての“食物”の取り込みから始まるが、そこは“地上”ではないから、“要するに歓喜を食べている”ということになり得る。 そしてそれは“霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となる”のであり“霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とする”と称され、しかしながら振動、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹そのものは、この心(靈)に入り込んで事象の“観察と認識”をしているので“食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなる”と称されている。 これは少々先走るが第十六帖の
“考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである。 この内奥の自分は、神につながっている。 故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うている”
この文言の理解が出来ていれば、“創造”の“主(ヌシ)”が個の心(靈)と“つながっている”ということが解る筈である。
 それだからこそ“食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである”と称され、さらに“以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である”とも称されているのである。

 次の文。
“また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。 何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。 そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。 そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。”

 これに関しては自分の霊的成長のための指針とする文言、
“霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。 現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない”
“性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。 霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となる”
そして“”これをピックアップするにとどめる。

 次の文。
“すべての善は 
ローレンツ力 より起り、 ローレンツ力 にかえるのと同様、総ての悪もまた ローレンツ力 より起り ローレンツ力 にかえる。 故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。 殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。 この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。 この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。 悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。 所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである”

 “善”“悪”“美”“醜”“真”“偽”“愛”“憎”という表記はたびたび地震の巻に登場する。
これら“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄は、個の心(靈)が“観察と認識”する事象、心(靈)の中に“映像”され得る事象に対して、自分自身がこういった言葉で認識するが、これらすべてが自分自身の“直接内流”の取り込みの変容による“状態の変化”でもあり、それだからこそ
“この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄する”
それは“直接内流”を取り込んで自分の心(靈)は育っている、“状態の変化”をしているからこそ
“神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ない”
ので、“善”“悪”“美”“醜”“真”“偽”“愛”“憎”と、事象を観察して認識したならば自分自身の“弥栄”の指標となり得るものである。
それだからこそ、重複するが“神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ない”と称されており、すべて自分自身の“弥栄”のための“御用”であることを知るべきである。 また“御用”であるからこそ“殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなる”とも称されているものである。
 簡単にまとめたが、これに関しては
第十五帖解釈“その四”をしっかり読んでいただき理解を深めていただきたい。

 次の文。
“地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。 地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。 その平衡するところに力を生じ、生命する。 しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの 
ローレンツ力 が与えられると見えるものである。 これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。 故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである”

 これに関しては特に書き加えることが無いので
第十五帖解釈“その五”を参照のこと。


 次の文も特に書き加えることが無いので
第十五帖解釈“その六”を参照のこと。
“神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。 法則とは歓喜の法則である。 神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。 これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。 神は、左手にて 
左手 地震15   の動きをなし、右手にて 右手 地震15  の動きを為す。 そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。 地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。 この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。 その平衡が、神の御旨である。 平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。 左手は右手によりて生き動き、栄える。 左手なき右手はなく、右手なき左手はない。 善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。 神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。 新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。 始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十四”



 今回は第十四帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十四帖には“状態の変化”という表記が幾度か登場する。 これは何を指す表記なのか、その結論から言えば“状態の変化”は“直接内流”の取り込みの変容に関わることであると言いうる。
 それだからこそ、一切の個の心(靈)、“創造”の“主(ヌシ)”から“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の個々の生命が“状態の変化”をなすものと“観察と認識”しうるものであり、それは重複するが“直接内流”の取り込みの変容に関わることであると言いうる。 

 また“状態の変化”という表記を使っていない第一帖の冒頭の以下の文言において、その意味と意義を指す述べ方をしているものである。
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある”

 この“生まれつづけている”“存在するものがうまれつつある”、そして“常に弥栄えつつ”であるがゆえに、個の心(靈)に“映像”され得る事象、そして“創造”の“主(ヌシ)”と“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の個の心(靈)、それ自体も“状態の変化”をしていくものである。
 これが“歓喜”であり、先の“弥栄えつつ”であり、それをまた個の心(靈)が言葉で分類したならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄、であるといえるものでもある。

 また、“地上人”が知り得ない“霊界”と“霊人”の事情として、第十四帖の冒頭で
“霊界には、時間がない。 故に、霊人は時間ということを知らない。 其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。 即ち、時間はないが状態の変化はある。 故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。 この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。 永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである”
こう述べられており、それはたった今の“地上人”が“霊界”と“霊人”に対して無知であるから
“霊界には、時間がない。 故に、霊人は時間ということを知らない。 其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している”
これと
“霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。 この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである”、
この“霊人”自体の“永遠”という認識について述べ、これに相対してお前たち“地上人”が考えなければならないこととして“永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべき”と述べられているものである。
それは例えば“地上人”の“永遠”の認識は、物質と時間の進行というものが主体になっているからこそ、永遠不滅、などと思うが、もともと“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、先の第一帖の“生まれつづけている”“存在するものがうまれつつある”であるから滅することなど無い。 しかしながら“地上人”の狭い認識の中においては、何かの終わり、みたいな認識があるものであるが、それは単に“地上人”の狭い認識にすぎず、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、には、終わりなどないのであり、その解り易い一例が“地上人”の認識の死であったりもする。 
しかし“死”も“状態の変化”の一端であり、またそれは一切の生命が“永遠”であることを知らないから、滅するとか終わりとか、それに相対する不滅とかの概念をもつのだろうが、恐らく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした世界においては、この言葉すら大して意味をなさなくなるのではないか、その概念すら消失するのではないか、という私見をもつ。

  これに続く次の文では、“上”の思惑が“地上人”に届く様、その際に、“地上人”が受け取る“上”の思惑それそのものの“状態の変化”を説いている。
“故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語るのである。 しかし、この霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。 また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである”

 これは第十二帖の以下の文言の解釈を合わせて読むと理解しやすい。
“霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。 霊人が地上人に来る時は、その人の知る総てを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。 霊人は現実界と直接には接し得ない。 また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。 しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。 為に地上人は直接なし得るものと考えるのである”
これに関しては、 変圧”の過程をいくつもいくつも重ねていく、それを“それぞれの仲介を通じ”と称され、結果としては“創造”の“主(ヌシ)”→自分と感応し得ない高い“霊人”→自分と感応しうる“霊人”→そして“地上人”である自分、という過程があるということを述べた。
 それを第十四帖のこの文言では“霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語る”、この際の“状態”とは霊的成長度の高低であり“語る”とは“霊人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、それを“地上人”が受け取るのは感応であるが、その際“対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくる”、いわゆる“地上人”にも理解しうるが、それは“固有的地上的なものと映像されてくる”という“状態の変化”がある、これを一言で言ってしまえば“創造”の“主(ヌシ)”の息吹が“変圧”の過程を経て“地上人”に伝わる、と称してもよいと思える。

 次の文。
“多くの地上人は、霊人を知らない。 霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。 但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである。 地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。 例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。 つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。 所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。 しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。 霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。 霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。 それは、地上に於ける場合と同じである。 太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる”

 これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、が、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”であるがゆえに、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるが、その場(フィールド)の段階、個の心(靈)においては霊的成長度の高低、“直接内流”の取り込みの段階、その相違がまた“状態の変化”であるがゆえに、“霊界”と“霊人”、これに相対する“地上界”と“地上人”には相違があることを示した文言であり、重複するが、これも“創造”の“主(ヌシ)”の息吹の“状態の変化”と言いうることである。

 次の文も“霊界”と“霊人”の場(フィールド)に対する認識が、そして“地上界”と“地上人”のそれとは違うことを述べている。
“また、霊界には物質世界の如く空間はない。 このことを地上人は中々に理解しないのである。 霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。 霊界に距離はない。 空間もない。 只、あるものはその状態の変化のみである。 故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る”

 文中の“内分”の表記、これも“状態の変化”であり、ことにこの表記の場合は“直接内流”の取り込み具合と感応の程度、その段階の高低、を、示す表記であり、同様に“同一線上”というのも“直接内流”の取り込みと感応が同程度の個の心(靈)同士、であることが読み取れる。


 次の文は、“状態の変化”が要因の“同気同一線上”のことが述べられている。
“物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。 故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである”

 “地上人”においても、“内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様”である。 なぜこれが述べられているのかについては、第十四帖解釈“その五”において、以下のように述べた通りである。

“地上人”同士は心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でそれぞれの思惑を理解することもできず、互いの心(靈)の動きを理解することもできない、それを“内分の相違によって、感覚の対象とならない”と称され、これに続く“無いのと同様であることを知り得る”と述べられている理由と根拠は、“地上人”が霊的成長度の高低が解らない、それは個の心(靈)の“内分”に理解が無い、それを“観察と認識”する資質もない、といえる。
それは、霊的成長度の高低における区分け、今後=アセンション後においての区分け、これは“内分”によるものであるが、これの理解が足らない、さらに“内分”の理解が足らないからこそ移行しうる心(靈)の資質も解るわけがない、ということまで示唆している文言である。


今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十三”


 今回は第十三帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十三帖は、まず以下の文言で、霊的成長度の高低における認識の相違と、霊的成長度の高低における息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これを中心に述べている。
“地上人が、限りなき程の想念的段階(霊的成長度の高低における認識の相違)をもち、各々の世界をつくり出している如く(霊的成長度の高低における息吹、それによる事象の“創造”)、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある”
“下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。 美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある(霊的成長度の高低における認識の相違)”

 しかしながら、この霊的成長度の高低における認識の相違と事象の“創造”、それぞれの段階、地震の巻表記の“無限段階”と“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事象があり、またそれは“地上人”と“霊人”の関係においてもあるのだからこそ、相互に影響し合って“弥栄”するの意が次の文言である。

“其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。 と同時に、 + (真善) ✳ (真善美愛) ✳ (歓喜) 
地震13大歓喜 (大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。 故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。 下級霊人自身が 渦巻き 左回転 (善)なりと信じて行為することが、地上人には渦巻き 右 回転   (悪)と現われることが多いのである”

 そしてたった今の“地上人”がしっかり認識していない“下級霊人”との霊的干渉について以下の文言で述べられている。
“何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。 それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。 所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。 地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。 奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。 かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。 浄化し、改心し得ないものである。 また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。 脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。 総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。 半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。 それは強(シ)いるが為である”

 ことに上記文言の後半の“地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものを……”、悪霊の憑依による現象、霊能力者などと誉めそやされている人間の大半はインチキであったりもするが、そうではないごく一部の霊能力者たちの“力”の顕現は、人の目を引くものであったり、人に甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見させたりするものが多い。
一般の認識=たった今の“地上人”が思うこととして、これらが悪魔のささやきであり悪魔の影響、加担による現象であるという観方が出来なければ、霊的干渉の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出すことは出来得ないのだ、ということを述べておく。

 また“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、自身で選択していくものであるからこそ、その選択、自身の成長の意志は“直接内流”の顕現であり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のそれそのものとなり得るからこそ
“総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない”
“半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。 それは強(シ)いるが為である”
この一見理解しにくい文言の意味合いを、よく理解しなければ、“直接内流”による進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は達成しえないという意見をもつ。

 そして“直接内流”に関しての文言が、この後の表記の
“大神の内流によって弥栄する世界”
“中心に座す太神(“創造”の“主(ヌシ)”)のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられる”
である。 
また“順を経て霊人に至り、地上人に伝えられる”とは、“変圧”の段階を意味する表記でもある。

 またその“変圧”の過程を踏んで“地上人”に“中心に座す太神のお言葉”が伝えられ、“地上人”の認識となる過程について説かれている文言が以下のそれである。

“中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。 霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。 直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。 但し、高度の霊人となれば文字はない。 ただ文字の元をなす 
ローレンツ力 と ○ と + があるのみ。 また高度の霊界人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。 数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。 しかし これは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである”

 以上、詳しいことは述べずに要旨だけ述べたが、この記事を読まれた方は以下の解釈を読んでいただき、理解を深めてもらいたい。

第十三帖解釈
“その一”
“その二”
“その三”
“その四”


今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十二”



 今回は第十二帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。
 
 
それで、第十二帖から第十五帖は、第十五帖の表記の
“地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの 
ローレンツ力 が与えられると見えるものである。 これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。 また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。 そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する”
この文言中の“直接内流”、これを理解させるため述べられているものである。

 これを念頭においてそれぞれの帖を読むと理解しやすいことを最初に述べておく。

 まず第十二帖の冒頭の文。
“霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。 霊人が地上人に来る時は、その人の知る総てを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。 霊人は現実界と直接には接し得ない。 また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。 しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。 為に地上人は直接なし得るものと考えるのである”

 文中の“想念が同一線上に融和するが為”、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり
“霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話している”
とは、振動に“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という過程があり、“地上人”は“霊人”の思惑を、“地上人”自体の霊的成長度でしか感応し得ないからこそ、そこで“変圧”の法則性により自身の霊的成長度で受け取れた認識を、“霊人”の思惑だと思うが、そう思うこと事態が間違いであり、それは“地上人”が“霊人”と感応し得たその情報は、“地上人”の心(靈)の中にある、がゆえに、“霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話している”と称されている。
 またこの“変圧”の過程をいくつもいくつも重ねていく、それを“それぞれの仲介を通じ”と称されていることに気付くべきであり、結果としては“創造”の“主(ヌシ)”→自分と感応し得ない高い“霊人”→自分と感応しうる“霊人”という過程があると読み取るべき。
 それでこの文言は、冒頭で取りあげた第十五帖の
“地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの 
ローレンツ力 が与えられると見えるものである”、
この“地上人と、霊人と一体化したる場合”、これには“地上人”の霊的成長度、どれくらい高い振動を自身に止めることが出来得るのか、換言すれば、どれくらい神の思惑を認識とし得るのか、という要素があることを知らねばならない。

 これに続く次の文も、今述べたことを念頭において読み解くと理解しやすい。
“地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。 故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。 しかし、映像と実相のへだたりは かなり遠いものである。 霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互に交わされる談話に於ても前記の如くであることを知らねばならない”

 文中の“霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬ”そして“互に交わされる談話に於ても前記の如くである”、これは“変圧”の過程を“交流”“この間”
“互に交わされる談話”の“真相”であると読み取るべきであり、それゆえ、“地上人の想念の中”と“霊人の想念の中”に“映像”されている“霊界”と“現実界”は、“この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。 しかし、映像と実相のへだたりは かなり遠い”ということを、よく知っておけ、である。

 次の文。
“霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、且つ聞いているのである。 霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記の如き原則によってあり得ないのである。 しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。 故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。 しかし、神の言葉は、如何に地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には、伝え得ないのである。 語れども聞き得ず、読むとも その真意は通じ得ないのである。 霊人の中には、自分達の住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。 それは丁度、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないのと同様である”

 この文言も“変圧”の過程がある感応共振ということに理解が及んでいるならば、
“外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。 故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなる”
これは決して“地上人”が思う“霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したり”ではなく、“霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、且つ聞いている”=自分が取り込んだ振動による認識(悟り、幸取=さとり)を自分自身が“観察と認識”しているのである、ということを知れ、である。
 そして自分自身の霊的成長度が神から遠いからこそ
“故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。 しかし、神の言葉は、如何に地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には、伝え得ないのである”
この文言にも“変圧”と、霊的成長度による感応、これを“それぞれの順序を経て地上人に感応”と称されている。
 そして“神の言葉は、如何に地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には、伝え得ない”
この文言から、自分自身が神に近くなった霊的成長度になったならば“神に通ずる想念を内蔵”したならば、神の思惑を理解しうるものであるということを読み取るべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十一”



 今回は第十一帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 度々述べていることではあるが、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、自分も他者も、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”も“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命も、個の心(靈)であり、その心(靈)は振動で構成されている。
 そして“創造”の“主(ヌシ)”も“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命も事象の“観察と認識”を行っているが、それも振動の受信により“映像”され得るものである。
 また“創造”の“主(ヌシ)”と“創造”の“主(ヌシ)”以下の一切の生命が行いつつある事象の“創造”は、それぞれが個の心(靈)であり常に息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しているからである。
 そして息吹く振動は、思惑そのものである。 これに関しては、“地上人”が電磁波を使って情報のやり取りをするようになったこと、これ事態が今述べたことの証明になり得ることでもある。
 また振動そのものに“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という法則性があるので、地震の巻では“同気”“同類”“同気同一線上”ということが説明されているものでもある。

 これらの事柄を踏まえて第十一帖を読むと理解しやすい。 
 まず、振動が思惑であるという文章が以下の文。
“霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。 同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。 しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。 またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する”

 上記文中の“言葉”、これが“霊人”においての思惑のやり取り、息吹、これを受け取った際に“言葉”となる、の意である。

 これに続く次の文。
“霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。 故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。 しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである”

 お前たち“地上人”の“言葉”のやり取りは、“霊人”のそれとは違う、問題はその“言葉”の内容、どれくらいの思惑を含んだ息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるのか、これについて述べられている文言ではある。 それゆえ、“霊人”対“地上人”の思惑のやり取りは“霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない”のであるし、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。
 少々蛇足だが、大体“地上人”の“言葉”は、“真”ではないケースも多いが、この文言ではそれについて触れられていない。 それは“地上人”の“言葉”が稚拙であり個の心(靈)としての“地上人”の“言葉”に対する認識も低すぎるので、そこには“真”“偽”を見出すこととも出来得ないケースが多々あるからであるし、“地上人”の認識が稚拙ゆえに“真”“偽”も見出しにくいという事情がある。
話を戻し、今述べた“地上人”の“言葉”などより、文中にもあるように霊的成長度の高い“霊人”の息吹は、“内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくる”と称されているものである。

 次の文は、振動は“言葉”として認識され得るのであり、それは息吹であり、思惑であり、思惑は一切の個の心(靈)が“観察と認識”している事象に顕現する、の意を述べている。
“原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。 言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう”

 文中の“原因と結果”は“思惑の顕現”である。 
そしてその結果を“観察と認識”した個の心(靈)の息吹は、さらなる事象の“創造”になり得る
=“更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現”と称されている。
また“言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。 言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てである”とは、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、振動で構成され、個の心(靈)の息吹により“状態の変化”をする、それは“生命”であり、その“行為”が“弥栄”である。 
弥栄(いやさか)については幾度となく使った画像を以下に貼っておく。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 

 この画像を観て“地上人”の肉体の構造、神経、背骨、脳幹、大脳で構成され得る磁束でチャクラ(荷電粒子の回転を示す)が成り立つことを理解していただきたいものである。

そしてこうも述べられている。
“それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。 また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。 だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない”

 これに関しては
第十一帖解釈“その四”より以下にコピペしておく。

“それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。 また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である”
個の心(靈)は輪廻転生を繰り返し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくならば、というのを“生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である”と称され、その輪廻転生=“生前”“地上人”“死後”において“霊人”であったり“地上人”であったりするが、それぞれの立場、と、その霊的成長度の段階、と、その場(フィールド)に位置していた時の“原因”と“結果”=“思惑の顕現”、これを自分自身が“観察と認識”する、その情報はすべて個の心(靈)に内包されており、さらにそれは息吹いているものである。
 そしてそれは進化程度が低いと、それぞれの場(フィールド)に位置して、新たな体験をして様々な教訓を得る必要性があるから、過去のことは忘れるような仕組みになっている。 だが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進めば必ずこれまで輪廻転生、体験してきたこと、すべて思い出す過程に至るし、そこまで至ると心(靈)の中の認識としての時間の進行と物理的な距離は一切関係なくなるので、“また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって”と称されている。

 次の文。
“だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない”

 文中の“内的な生命をもっている”とは、自分たちが輪廻転生を幾度となく繰り返している個の心(靈)であり、そこにおいてお前たちはまだ未熟だが、お前たちなりの輪廻転生における“思惑の顕現”をしてきている。 
 そして輪廻転生していきながら育っていくのは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であるし、たった今の“地上人”でもわずかながら“一”=智性=1番目のオーラを持っているし1番目のオーラを発現して心(靈)の動きとしての智性(神性)をもっているからこそ、“それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない”と称され、“それを知り得る”は、自分自身、自分という個の心(靈)が、“言葉そのものが弥栄であり、生命である。 また総てであるということ”を理解し、先の場(フィールド)や時間の進行において、たった今の段階では自分の心(靈)の中の情報をすべて思い出すに至る資格や資質は無いのだが、“一”=智性=1番目のオーラを大きくし神格化していくならば、“それを知り得る”ものであると解する。


 これに続く以下の文言に関しては、“霊人”の“言葉”について述べられている。 特に書き加えることが無いが、この文言で大事なのは
“霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもある”
これと
“言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全(如何に神に近いか)、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは(霊的成長度の低い息吹は、その“言葉”は)、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである”
この意味合いを以下のリンク先を読んでいただき理解を深めていただきたい。
解釈“その五”
解釈“その六”
“霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり、太陽の 
ローレンツ力と ○ (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。 また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。 また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。 また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。 そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。 しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の ローレンツ力 をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。 霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。 それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。 またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。 即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。 言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”地震の巻の解釈を終えてから…感じた事。“その二十”



 今回は第十帖から“神律”を感じさせる文言を取り上げて解釈する。

 第十帖は、本文にあるように“平面的頭脳では、中々に理解しがたい”と揶揄されている大多数の“地上人”に向けられた文言で、その要旨として文末の以下の文を取り上げる。
“この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体していく力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。 この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。 生成発展もなく神も歓喜し得ない。 この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。 故に、生命しないのである”

 この文言は逆から読むと理解しやすい。
まず
“故に、生命しない”

それは以下に理由による
“この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない”
“この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。 生成発展もなく神も歓喜し得ない”

その“この力”と“この二つの力”とは
“この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体していく力こそ、神そのものの力であり、歓喜である”
である。

 それでは“この力”と“二つの力”とは、であるが、それは第十帖の中ほどの以下の文で述べられている。
“地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。 その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成るものである。 形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。 形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。 差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。 共通性なきものは、差別し、区分することができない。 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく。 これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。 されば差別は、平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。 霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為であることを知らねばならぬ”

 個の心(靈)と個の心(靈)を通じて“創造”の“主(ヌシ)”、この両者は事象の“観察と認識”を行っており、その事象には“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄を“分類”と“形式”としている。 それを上記文言では、“地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある”、個の心(靈)に“映像”され得る事象には“地上”と“霊界”、“物質的形式”と“霊的形式”があり、それぞれの成り立ちを“その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成る”これに関しては第十帖解釈“その二”で以下のように解釈した。

“その形式”と観察しうる理由と根拠は、個々の心(靈)そのものに神に近付くという意味合いの“歓喜”があり、“歓喜”所以の“弥栄”を“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)としているからこそ、“地上”と“霊界”という個の心(靈)が位置する場(フィールド)を認識しうる。

 この“個々の心(靈)そのものに神に近付くという意味合いの“歓喜”があり”とは、生命の存在意義と意味合いであるし、個の心(靈)と個の心(靈)を通じて“観察と認識”をしている“創造”の“主(ヌシ)”、この両者が観察しうる“生前”“地上人”“死後”という“分類”と“形式”、これについて個の心(靈)はいろいろ思い考えることをする、それゆえ自分とは何か、神とは何か、自分の存在意義とは何か、などを鑑みるし、これらを鑑みることをすればするほど、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、同時に第三帖の表記の“個の弥栄”となり得るし、さらにそれは
“愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。 地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。 個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである”
この“霊界と物質界は、かくの如き関係におかれ”を第十帖の今取り上げている文言で説明しており、それ故に“大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆく”となり得るものであることを述べられている。
 それで“この力”と“この二つの力”に関して
“形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。 形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。 差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。 共通性なきものは、差別し、区分することができない。 霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”
と称されている。
それで、これの詳細に関しては
第十帖解釈“その二”を参照のこと。
 ことにこの文に関しては“内質”があるがゆえに“差別”と“区分け”があり、それがあるがゆえに“総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄する”、霊的成長度の高低を見出したならば、その“上”“下”において“共通する内質”“共通性”において“常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”ということを“平面的頭脳”である“地上人”には“理解しがたい”のだ、ということを“地上人”であるわれわれは知らねばならない。 
 また“この力”と“この二つの力”が“常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく”であるからこそ、個の心(靈)は神に近付くのだし、それゆえ“神律”の一端と言いうるものである。

 そして今取り上げている前の文言として
“地上人は、内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通ずる。 地上人が、生前を知得するのは、この霊人を通ずるが故であり、死後を知得するのも、また同様に通ずるからである。 生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない”
と述べられているが、これの詳細に関しても
第十帖解釈“その一”を参照されたい。
 これは霊的干渉の“上”“下”、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、があり、お前たち個の心(靈)は“地上人が、生前を知得するのは、この霊人を通ずるが故であり、死後を知得するのも、また同様に通ずる”ということの説明が主である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (106)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (598)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (41)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (115)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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