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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在47年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集” 第九十八話 不思議な密教 神子(みこ)を中心とするもの Kellyさん的解釈

 

 

 太霊は冒頭で

現在の神子(みこ)式の招霊に似た方法を行なう一派の話

と述べておられる。 

この“神子”は、いわゆる憑依による現象であり、その憑依を神憑りとか神降ろしと呼称され、この憑依によって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)なり“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)なりの思惑を人間に伝える手段、方法であり、例えばそれは霊媒体質による口寄せとかに当たることと言える。 

当然のことながら“上”の憑依ならば、それは御神託ということになり得る。 これに相対し、死んだ人の霊、生霊などの憑依もあるので、それはすべてが“上”であるということになっていない。

 

 そこで、たった今の日本の神道では、巫女(みこ)という字が示す通り未婚の女の人が携わっていることが多いが、これはすでに習わしだけ残っているだけなのであり当然のことながら“招霊”ということにはなっていない。 この「巫」(ふ、かんなぎ)とは、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指すものであった。  また女性は「巫」、男性の場合は「覡」(おとこみこ、おかんなぎ)と言う。

 蛇足だが、1873年(明治6年)115日には教部省(明治初期の太政官制度のもと、宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織)によって、神霊の憑依などによって託宣を得る民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止されたという歴史がある。 

私見ながら、これ事態がたった今の日本人から“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を遠ざけるための悪魔の所作であったと解する。

 

 本題に戻り、第九十八話で太霊が説明されておられるのは

その部落の中から二十人の最高の者、即ち神子が選ばれていて、何か事件が起こると山の中腹に造られた洞穴の集会所に集まって来る

これが先の“神子(みこ)式の招霊に似た方法”に当たる。

そして

病気の場合…中略…連れて来た病人は一同が南に向いているので、大体北側の神子の並んでいる後ろに置かれ…中略…太鼓のような低い音を出すものが四つそろえてあって、それが静かに鳴り始めると中央の神子は次第に体を硬直さし…中略…そして手が両脇にぴったりと付いて動かなくなると、それまで座っていた体が突然真直ぐに立ち上がって、腕を左手に抱え枝を持った右手を高く差し上げるのであるが、そのうちに現在の神子のように全身が震えてきて何か分らないことを呟いていると思うと、振り返りざまその枝葉を椀に入れて病人に振り掛ける。その椀の中には元々何も入いっていなかったのに、いま枝葉を浸して振ると確かに雫が垂れてそれが三、四間も離れている病人に掛かるが、それで大概の病気は治る

これの

中央の神子は次第に体を硬直さし…中略…全身が震えてきて何か分らないことを呟いていると思うと、振り返りざまその枝葉を椀に入れて病人に振り掛ける”、

これが憑依現象によることであり、

椀の中には元々何も入いっていなかったのに、いま枝葉を浸して振ると確かに雫が垂れてそれが三、四間も離れている病人に掛かる

これはその憑依してきた霊的存在と、その“神子”たちの真摯な祈り、それは先回も取り上げた第三十九話

本当にその神であると信じ込む

完全に自分の祈りの対象となるだけでなく

そのものが本物自身であると(しん)から思い込める気持

これが出来ているからこそ、憑依による現象化

元々何も入いっていなかったのに、いま枝葉を浸して振ると確かに雫が垂れてそれが三、四間も離れている病人に掛かるが、それで大概の病気は治る

となり得るのであると述べておられる。

 

 次に

運悪く死んでしまったとすると、今度はその座が直ぐに葬儀の形を取る

と述べておられ

その遺体を神子のいる所に持って来る。そして一定の時間をおいて近親の人達を呼び寄せ、更に相当の時間をおいてからそれを竹で編んだ籠のようなものに入れて持ち運びに便利にし、それを補佐の人達が担いで山の中腹に行くのであるが、そこに埋めると思うと大きな間違いで、その葬送の場が振るっていて木の天辺…中略…それで竹籠の訳も分るのであるが、それを丈夫な木の上に持って行って縛り付けると、下では盛んに死者の昇天を祈る。これは土に埋めるのは悪魔のすることで、自分達のしているのが本当に神に仕える者の所業であると信じているから…中略…そのうちに鳥寄せの上手な者が鳥を呼ぶのであるが、鳥とは言うまでもなく鷹のことで、大きいのが飛んで来ると一同はその前の穴の中に隠れてじっと見ている。鷹は段々に数を増してそれを食べるのであるが、そのバラバラになったものが下に落ちて来るかと思うと、骨までも皆持ち去ってしまう…中略…そこで神子が葬送の終ったことを告げると、一同は一斉に穴の外に出て鳥の()()を拝む…中略…その鳥を神の使いと思っているからである

これも先の第三十九話の引用を当てはめて考えれば

土に埋めるのは悪魔のすることで、自分達のしているのが本当に神に仕える者の所業であると信じている

そして“葬送”の終始、

鳥を呼ぶ…中略…バラバラになったものが下に落ちて来るかと思うと、骨までも皆持ち去ってしまう…中略…そこで神子が葬送の終ったことを告げると、一同は一斉に穴の外に出て鳥の()()を拝む…中略…その鳥を神の使いと思っている

これも

本当にその神であると信じ込む

完全に自分の祈りの対象となるだけでなく

そのものが本物自身であると(しん)から思い込める気持

こういったことがあって行なわれることであると読み取るべき。

 そして

結婚についてもその二十人の者が承認しないと出来ない掟…中略…神子は二人を夫婦の契りを結ばせるために山の頂上に連れて行き…中略…山に残された二人は一日たたないと下りて来られない…中略…帰って来て初めて正式の夫婦として認められる

これも“二十人の者が承認”と述べられている通り“招霊”あってこその“承認”ということである。

 

 最後の

凡ての行事が(そら)を相手として行なわれている密教

この“(そら)を相手”、対象とするのが

病気の場合…中略…北側の神子の並んで

運悪く死んでしまった…中略…一同が南に向いている

この方向の先にあるのが“(そら)”であり、

葬送の終ったことを告げると、一同は一斉に穴の外に出て鳥の()()を拝む…中略…鳥を神の使いと思っている

神子は二人を夫婦の契りを結ばせるために山の頂上に連れて行き

というのも“(そら)を相手”とし“祈りの対象”としていることが分る。

 そして

この一派は今でも残っているばかりでなく

と称されておられる通り、「鳥葬」は現在もインドのゾロアスター教で行われており、現在はどうか不明であるがチベット仏教で行われる葬儀として有名であった。

 また“(そら)を相手”とし“祈りの対象”とし、“神子(みこ)式の招霊”を行なう、それを

この形の変ったものが次第に多くの宗教や不思議の力の元となってきているのである

と括られている。

 これは先に述べた通り、その“祈りの対象”が“上”であり、それを“相手”として“神子(みこ)式の招霊”を行なうなら人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に役立つのだということを述べておられると解するし、言うまでもなく“(そら)を相手”とするなら、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを取り込んでいくことになっていくものであるが、やはりそれぞれの段階があるからいきなり太陽凝視とはなり得ないということも言える。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第九十九話 不思議な密教 目を中心とするもの これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第九十七話 不思議な密教 血を中心とするもの Kellyさん的解釈

 
 第九十七話は“血の交換を中心とした密教”という前置きから始まり、

   この一派は、自分の種族は他の何者よりも高級な神のお使いで、自分達以外の者は凡て奴隷であるというふうに考えていたから、他の種族とは結婚をさせず、自分達が結婚する際は必ず男の血と女の血とを合わせることを儀式の一つに用いていた

   災害で沢山の人が死んで見分けの付かないような場合は、その骨に自分の血を掛けてそれが()み込めば自分の親であり配偶(つれあい)であり子である証拠とし、他人なればそうはならないとされた

   病人が血を吐くと新しい血を口から飲ませるという大変な輸血の方法で強い者の力を借りて病気を治した

   子供が生まれて一週間たつと眉間の所に穴をあける、と言うと大げさだが(きず)を付けて、そこに男親の血と女親の血を小指から垂らして入れる。今で言えば子供は当然両親の血を受け継いでいるのであるが、そういうことが一つの儀式として皆の目の前で行なわれた

   結婚であるが、その時には先ほど一寸触れたように男と女の腕を切ってその血を互いに嘗め合い、更にその腕を合わせて血の交流をするということがその儀式の中に含まれている

   死の場合には、死者の額の上に肉親の年長の者から順番に血を三滴ずつ垂らすのであるが、それが血縁の者であれば何人行なっても直ぐ固まって上に上にと重なっていうのであって、これが肉親として死者に送る最高の儀礼となっている

 

これらは

凡てのことが血から始まってその一生を血の(あがな)いにおいて終る密教と言える

自分達の種族を立派にしていくために、その血を非常に尊んだ

これの説明であるが、その裏にあることとして第三十九話の

 

御札(おふだ)のことについて少し話そうと…中略…昔から神棚に御札や神の像を祭るが、これはそこが神の()りて来られる場所と思えばよい…中略…御札に天照皇大神宮と書いてあれば、その神の波動がそこに来て、その神がそこにおられると同じような働きをする…中略…どの御札も同じことで、神が一度(くだ)られると、それに神光とか霊光とか幽体の幽光というような光が付いて…中略…この光の相違(ちがい)はそこに祭られている神の資格による…中略…人間がそのものを本当にその神であると信じ込むようになれば、そこに神と人との交流が行なわれる…中略…普段手を合わせないお宮の中には何もないが、毎日拝んでいる御札には神光か霊光か幽光かの波動が充満していて、そこに神(いま)すと言うことが出来る…中略…その御札が変る毎にその祈りの言葉も変るのは当然…中略…御札とか像とかが完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると(しん)から思い込める気持になれてこそ、初めて感応というものが生まれ

この文言の“御札”を“”あるいは“血の交換”“血の(あがな)”に置き換えて読むと

人間がそのものを本当にその神であると信じ込むようになれば、そこに神と人との交流が行なわれる

完全に自分の祈りの対象となるだけでなく、そのものが本物自身であると(しん)から思い込める気持になれてこそ、初めて感応というものが生まれ

この“神と人との交流”“感応”による現象なのだということが読み取れる。

 それは“”に限らず、あるいは先回の“生贄”であったとしても、今例に挙げた第三十九話の“御札とか像とか”であっても

そのものを本当にその神であると信じ込む

完全に自分の祈りの対象となるだけでなく

そのものが本物自身であると(しん)から思い込める気持

これが出来ていなければ、先に述べた「“神と人との交流”“感応”による現象」とはならないと読み取るべきである。

それで“”“生贄”などは、今の常識ではちょっと考えにくいことであったとしても、すべてが神、一切万象が神、我々も我々以外も神、であるからこそ、何を対象にしたとしても、“自分の祈りの対象”とするなら、「“神と人との交流”“感応”による現象」は起きうるのだと解するものである。

 

 今述べたことを当てはめ

血を中心とした密教では、神に捧げるものもやはり血

これ以下の説明

儀式の時には先ず各部落から選ばれた二十人の長老が集まり、犠牲となる家畜、例えば羊なら羊の血の中に自分達の血を入れてよく振り、それを皆で分けて飲む…中略…瓢箪のようなものに入れてその口から(じか)に飲むのであるが、不潔などという考えは全然起こらなかった…中略…それが済むと一同は円座を造り、真中に大長老が立って西の方に飾られた神様を拝むのであるが、これは人間の姿ではなく、彼等が霊夢に見たものを石に彫刻したのであるから、その恰好も種種様様で、中にはその力と恐しさを表わすために筋骨の逞しい怪物の全身から何十本もの(つの)が出ているようなものもあって、凡て人間より強大な力を持っているという確信の下に祭られている…中略…次いで大長老は祭壇に登り、用意してある山羊の血と乳とを入れた大きな椀を神に供えて、また暫くの間祈りを捧げる。それが終って各部落の十九人の長老がそれぞれの部下の並んでいる所に帰り、一同が西に向って跪き頭を垂れて拝んでいると、先ほど供えた椀の前にある(うつわ)に油を注いで火が付けられ…中略…どんどん燃え上がって下の方が見えなくなり、神の姿が空中に立っているような格好になってくると、そこに集まった沢山の人達は神に感謝し神の力を得るために、跪いては手を地に付け跪いては手を地につける最敬礼を何十回となく繰り返す…中略…祈りも火勢も段々に烈しくなって最高潮に達すると、大長老はその血と乳の入いった椀を捧げて壇上に立ち、払子(ほっす)のようなものにそれを付けては一同の上に振り撒くのであるが、沢山の部落民がその血に触れようとして集まって来ても余り多くの人には掛からないのである。そして中身が全部なくなるとその椀と払子とを火の中に投げ入れ、今血を受けた者に次の祭りまで幸福を授け給えというようなことを祈って祭りを終る…中略…この血の掛かった者は非常に名誉とされ、結婚もその中の男女でないと出来ないことになって…以下略…

これの

人間の姿ではなく、彼等が霊夢に見たもの…中略…人間より強大な力を持っているという確信の下に祭られている

燃え上がって下の方が見えなくなり、神の姿が空中に立っているような格好になってくる

これが「“神と人との交流”“感応”による現象」に当たる。

 また前半で述べられている

自分達の種族を立派にしていくために、その血を非常に尊んだ

この要素がないと神と人との交流”“感応”はあり得ないのであるが、これに当たるのが

犠牲となる家畜、例えば羊なら羊の血の中に自分達の血を入れてよく振り、それを皆で分けて飲む…中略…瓢箪のようなものに入れてその口から(じか)に飲むのであるが、不潔などという考えは全然起こらなかった

集まった沢山の人達は神に感謝し神の力を得るために、跪いては手を地に付け跪いては手を地につける最敬礼を何十回となく繰り返す

祈りも火勢も段々に烈しくなって最高潮に達すると、大長老は…中略…一同の上に振り撒くのであるが、沢山の部落民がその血に触れようとして集まって来ても余り多くの人には掛からない…中略…中身が全部なくなるとその椀と払子とを火の中に投げ入れ、今血を受けた者に次の祭りまで幸福を授け給えというようなことを祈って祭りを終る…中略…この血の掛かった者は非常に名誉とされ、結婚もその中の男女でないと出来ない

である。

 

 文末で太霊が述べておられる

この密教の流れは文明人の間にも存在している

とは、俗にいう、血縁、血は水よりも濃い、などである。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第九十八話 不思議な密教 神子を中心とするもの これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第九十六話 不思議な密教 生贄(いけにえ)を中心とするもの Kellyさん的解釈

 
 太霊は冒頭で

密教の続きで、何事も生贄(いけにえ)によってその神を喜ばすことが出来るという一派の話

という前置きをされたうえで

太古の時代には実際に生贄によって神の心が静められると信じていた

そして

火山が爆発したとなると、溶岩がどんどん流れてきてその部落を焼き尽くして…中略…そこの女の子を神に捧げればその怒りが解けて静まるとされていた…中略…生身(なまみ)のまま溶岩の湧き出ている噴火口に投げ入れる…中略…火炎(ほのお)の流れは人間など寄せ付ける筈がないのに、その白羽の矢の立った少女は溶岩など物ともせずその上を渡り、われとわが身を火口に躍り込ませる

と述べられ、そして

真に大変な犠牲の好きな神もあるもので、一人の人間を投げ込むことによってその火山は大概静まる…中略…それは(はた)てそこの神霊が(おさ)めるのか、人間が死を以てしたということで何かの科学現象が起こるのか、それは分らないがとにかく噴火が止む

これの

死を以てした

というのが肝要であり、太霊は第五十七話で

人間が全力を尽すということは、死を意味する

ということを述べておられる。 

よって

そこの神霊が(おさ)めるのか

死を以てしたということで何かの科学現象が起こるのか

ということが起こり得る、これに関して“それは分らないが”と述べておられるが、この“分らない”とは、今ピックアップした二点のうちのどれか、あるいはそれ以外の要素もあり得る、という意味合いであると解する。

 

 また以下のようにも述べておられる。

神の怒りは生贄によって静めることが出来ると思った彼等は、その他の自然の悪現象に対しても凡てそれを捧げることにして、その威力が大きければ人間小さければ家畜などを犠牲にした…中略…考えてみれば実に残酷な話…中略…また酋長とか家長とかの(いのち)を延ばす場合には、生きた家畜の首を切ってその血を神に捧げそれによって命乞いの祈りをしたが、ただおかしいことにそれは一村一家の長に限られていて、そこの女や子供に対しては少しの祈りもなかった…中略…今で考えれば不合理な話であるが、当時としては女は金銭の一種であり、子供はその副産物に過ぎなかったのであるからこれも仕方ない

この“当時としては”を念頭に置いて、これに続く

この低級な時代にあって、それは原始人の時代と言ってもよい

という文言を見て、これに続く

こういう一つの媒体を通じて神を動かし彼等の意欲を満足させていたことは、今日の心霊現象において見られる不思議な力と同じ

これの“一つの媒体”が“生贄”で“神を動かし彼等の意欲を満足させ”に至るには、先の“死を以てした”ということの重要性、それは“今日の心霊現象において見られる不思議な力と同じ”であるということを読み取るべきである。

 

 これに続く

生贄を中心とする密教はそれ以来今日まで伝わって、海に面した所では魚介の類を、また内陸や砂漠では動物の肉を生き物の代用として神に捧げ、それによってその怒りを静め或いは感謝の意を表わし…中略…しかし元々は人間を供えたものであって、それが密教の中での生贄の力であることを知っておけばよい

これの“その怒りを静め或いは感謝の意を表わし”が、贖い(あがない)であることを解り、これに続く

密教での生贄に準ずるものに、病気を(なお)すために行なわれるいろいろな方法

について述べておられ

同じ種類のものを以てする場合

これには

親の命を救うために娘が身を投げてその残った寿命を親に与えるのであるから、これが一番効くことは間違いない

次に

多くの財産を以てする場合

これは

自分が苦しんで溜めた財宝を全部神に捧げ裸になって命乞いをするのであるから、やはり命は延びる

次に

自分と同じ形の焼物や鋳物を造り或いは肖像を描き形代を切って行なう

これは

前の二つより劣るがある程度は効く

と説明されておられる。

 これらすべて、贖い(あがない)の程度、ということを思わされ、人間としては先に引用した“死を以てした”、第五十七話の“人間が全力を尽すということは、死を意味する”、これくらい頑張らねばならないのだということを強く思う。

 

 これに続く

この三種類の方法は病気に限ったことではなく、人を恨むとか好きになるとか又は金の問題などに対しても行なわれる…中略…命と財宝と物とを神に捧げるということは古い型の生贄の祭りの()(きた)りが今日に及んでいるのであるから、やはり密教の一部と…以下略…

と説明されておられるが、自分が何かをなそうとする、“思惑の顕現”=現象化をなそうとする際には、贖い(あがない)が必須である、ということを知るべきである。

 

 しかしながら贖い(あがない)である“生贄”に関しては、太霊も“低級な時代にあって、それは原始人の時代”という表現をされておられる通りである。

 たった今の人間は、神、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との“取引”において、第六十七話の

神や霊と自分とを隔てている大きな厚い壁を無くするように努力しなければならない。これは誰しも願うところであるが、この壁を自由に通り抜けさしてくれるのが、間断なき(ぎょう)であり、間断なき祈りであり、間断なき感謝である

これの“間断なき(ぎょう)であり、間断なき祈りであり、間断なき感謝”が肝要であることを認識(悟り、幸取=さとり)とすべきである。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第九十七話 不思議な密教 血を中心とするもの これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“ローム太霊講話集” 第九十五話 不思議な密教 海神の島 Kellyさん的解釈


  第九十五話の文末で太霊は

海神の島の物語であるが、この前より数段上の信仰をもった山人や岳人の来る世界であって、また人間としても入いれないことはない

と述べておられる。

また冒頭では

海の話をする。これは汝等の伝説で浦島太郎が行ったという竜宮と内容は同じであるが場所は大分違うのであって、陸で相当の修行を積んだ山人とか岳人とかいう連中が蓬莱山、即ち不老不死の島を求めて当て()もなく海に乗り出すのである

と述べておられる。

 

 そこで

陸で相当の修行を積んだ山人とか岳人とかいう連中

文末の

この前より数段上の信仰をもった山人や岳人の来る世界

というのが、第八十七話 仏仙と岳仙の霊場の光景 第八十八話 と 世界の霊場と道士仙人より学ぶもの で説明されておられる文言と一致する点が多い。

 

 先ず第八十七話の

一人の道士がようやくその門に辿り着いて大きな声で入れて下さいと頼んだ…中略…大きな門が自然に開き中に入いると同時に閉まる…中略…雪に(おお)われた山中の酷しい寒さで顔や手足も凍るほどであったのに、此処では雪がないばかりか五月頃の陽気

というのが

その島の近くに来たとすると、そこの中心から円い光が空の方に映っている…中略…その下に海神のおられる島があると思えばよい。しかし島がやっと見付かってもそこに近寄るのがまた大変…中略…島と自分との間の海が波が立たず湖水のようになってくればそこはもう海神の領域になっていて、舟は自然に進んで岩の門のような所を中に入いって行く

これに近いことである。

 

 次に第八十七話の

沢山の道士に交じって天道士や地道士の輝く姿も見られ、さながら道士の一大王国の観を呈し…中略…奥へ進んで行くと、ローマの宮殿のような建物がある…中略…ここで営まれているいろいろな生活は、全然人間が想像するようなものではなく、神そのものの生活とさえ思われるのであるが、ただおかしいことに女の道士はおられても、子供の道士はいない…中略…開門を頼んだ道士がその宮殿の中に入いって行くと、大きな広間の正面に仏壇のようなものがあって、上には光背があり下には白金で(ふち)を取った大きな蓮の花びらの台座があり、真中は金地になっている

これに近いのが

そこは洞窟になっているので暗い筈なのに、どこから来るのか明るい光がよくゆき渡って…中略…自分は舟を下りて、洞窟の中をよく見るためにあちらこちらと歩いたがどこも行き止りになっているらしく、広い集会所のような所に来ると正面に神が祭ってあった

である。

 

 次に第八十七話の

道士はその金の所に向い足を揃えて(ひざまず)き、両手を開いて地に付ける面白い恰好の礼拝を何十回か繰り返したが、それが終ると腰を下ろし坐禅の形に足を組む。そうすると、先ず白金の光、次いで金の光が射してきてその体に入いったのであるが、それが余りに強烈であったためか、彼は気を失って倒れてしまう…中略…前からおられた地道士と思われる四人の方が近寄ってやさしく抱き起こし、背骨の十六ある関節の中程を凄い力で叩かれるのであるが、気の付いた彼をよく見ると、今まで八十五、六歳であったその顔が三十そこそこになっている…中略…こうしてこの世界に入いると、肉そのものまでも若返って生活が始まる

これに近いのが

自分はその祭壇の前に座りこれまでの修行の全力を傾けてその海神への祈りを始めた…中略…地の底からまた太鼓の音が響いてきてそれが次第に大きくなると、その室の土台の岩全体がエレベーターのように音を立てて静かに下がっていって数分間で止まったが、それは八十畳敷位の高さが一丈以上もある岩で、その下には二十人程の青年がいて自分を歓迎しているかに見える。自分は前と同じ格好で祭壇に向い拝んでいると、やがて海神と思われる女神が立派な人間の姿で出て来られたが、前身は光のベールによって包まれ、頭の金冠は黄金の縄を三つ重ねたような形でその中央には平たい真珠貝が付いているらしく、三番目の縄の上は全部真珠で飾られている。その女神が左の手を挙げられると、自分の体が自然に仰向けに倒れて頭が地に付いたが、それと同時に青年達はまたどんどこと太鼓を叩き始めた…中略…女神が右の手を挙げられると、その手が五間程も離れている自分の臍に触れたかと思う途端に、あっと全身が何かで焼かれたように感じて一寸気が遠くなったが、直ぐわれにかえり体を見て驚いた…中略…それは汝等も知っているであろうが、十万ボルト位の電気をかけるとその物体は強烈な振動を起こして光を発する、丁度そういう状態になった…中略…また気を失ってどの位だったか分らないが、今度目が覚めた時には今までの岩はどこかに消えて、板敷の室に楽々と寝かされていた…中略…そこへ先程の青年の一人が入いって来て、お前、うしろの鏡をよく見てごらんと言う。自分より年下のくせにお前とはけしからんと思いながら、早速起き上がって鏡を覗くと、なるほど自分はその青年より若くなって肉もぴちぴちと張り切っている

であり、ことに

先ず白金の光、次いで金の光が射してきてその体に入いったのであるが、それが余りに強烈であったためか、彼は気を失って倒れてしまう

これと

女神が右の手を挙げられると、その手が五間程も離れている自分の臍に触れたかと思う途端に、あっと全身が何かで焼かれたように感じて一寸気が遠くなったが、直ぐわれにかえり体を見て驚いた…中略…それは汝等も知っているであろうが、十万ボルト位の電気をかけるとその物体は強烈な振動を起こして光を発する、丁度そういう状態になった

これは高い振動の影響によることでほぼ共通であると解する。

 その結果が

今まで八十五、六歳であったその顔が三十そこそこになっている…中略…こうしてこの世界に入いると、肉そのものまでも若返って生活が始まる

起き上がって鏡を覗くと、なるほど自分はその青年より若くなって肉もぴちぴちと張り切っている

これが第八十八話の

この地域にいる間はそこを守っておられる神の力により、その生命が次現界の人間同様完全に延ばされているからであって、またそこの空気そのものも人間界のものとは大分違っていることははっきり分る

これに相当することであり、すでに

“ローム太霊講話集” 第八十八話 世界の霊場と道士仙人より学ぶもの Kellyさん的解釈“その一”

で述べたように、そこを構成する振動、その振動がわれわれの“現界”とは違うからである。

 

 そして

この前より数段上の信仰をもった山人や岳人の来る世界

これの“数段上”というのが

お前はこれからここの女神の下で働けば、永遠に死というものが無いばかりかあらゆる力が授けられる…中略…この島のどこに住んでもよい権利が得られるのだからこんなうれしいことはないであろう…中略…人間界からこの島を求めてやって来る者は沢山いても中々寄り付けない…中略…食べものは自由であり、命は自由であり、海は自由に歩けるし、七十二のあらゆる術は具えられるから、お前は仕合せ者…中略…たまに面白いことは人間の難儀を救ってやる仕事だが、我々の秘法は人間に真珠を食べさせることである。以上が我々の宗教であり、いや宗教の上の道であるが、こうして人間も魚もこの中にいる動物も植物も凡ての面倒を見るのであるから、大変な力を持っていなければならない筈、とその青年は話し続けた

これの

大変な力を持っていなければならない筈”というのが“数段上の信仰をもった山人や岳人”に当たることであり、“この島”の説明が第八十七話で説明されている“本拠となる都”よりも“数段上”であることが読み取れるものである。

 

 そして第八十八話の

修行をされた道士でさえその一定の地域から外に出ると途端に元の人間の体に返ってしまう…中略…当然のこと…中略…というのは、この地域にいる間はそこを守っておられる神の力により、その生命が次現界の人間同様完全に延ばされているからであって、またそこの空気そのものも人間界のものとは大分違っていることははっきり分る…中略…それゆえ、八十歳でそこに入いった人間が三百年たって出て来たとすれば、三百八十歳になって…中略…雪の上を一丁と行かないうちに足が砕けて倒れ、やがて体も粉々になって

というのが

汝等の伝説で浦島太郎が行ったという竜宮と内容は同じ”、

これの“浦島太郎”の話に共通する点があるものである。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第九十六話 不思議な密教 生贄(いけにえ)中心 これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第九十四話 不思議な密教 女仙の魔境 Kellyさん的解釈

  
第九十四話の冒頭で太霊は

前に述べた密教の(しゅう)(らく)も、俗に仙境と言われるものの中に入れることが出来…中略…山の仙人、海の仙人、草や木の仙人といろいろな種類があって、それぞれの研究をされているのであるから、凡てが同じような生活をしているわけではない…中略…極端なものになると、自分達だけの欲望を満足させるために団体を造り、常に(うま)いものを食べ性欲を()たし長生きをするという人間の最も好むところを伸ばしたものもあって、これが密教となって段々に人間界の方へも入いってきた…中略…これからその一つの例を話そう

と前置きされ、文末で

仙界の一つではあるが、非常に低級な密教から入いった邪淫の世界

そして

逸楽の仙境を狙って今の女神の一派から分かれたものがやはり七つ位は存在している

と教えておられる。

 

 そこで

極端なものになると、自分達だけの欲望を満足させるために団体を造り、常に(うま)いものを食べ性欲を()たし長生きをするという人間の最も好むところを伸ばしたものもあって

非常に低級な密教から入いった邪淫の世界

言うまでもなくこれは目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きであり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“祈りの対象”(第九十話を参照の事)への真摯な“祈り”、また第九十二話で使った表記の「ある意味での一途さ」、これが第七十六話の

雑念の少しも入いらない肉の波動を持つというのは、人間が瞬間的にあらゆる奇跡を現わせる体になっている…中略…この統一を善神に与えれば最も善い事を行なうことになり、これを悪神に与えれば超人的な悪い事を

これの後者、“悪神に与えれば”に当たるものである。

そういった息吹とそれに感応する霊的存在との息吹で構成された場(フィールド)が、“仙界の一つ”“邪淫の世界”“逸楽の仙境”であり、副題の 女仙の魔境 である。

 当然のことながらその場(フィールド)には、我々が“観察と認識”している“現界”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が通用しないので

どこの家でも食べる物や着る物が豊富で、そのうえ欲しいものは何でも手に入いるのに、(かね)というようなものは一つも無い

というある意味とても都合のよいことになっており、しかしながら

この郷には若い女と年寄(としより)の男とだけしかいない

ということになっており、これは“旅の男”を利用する条件である。

 そして

あれほど(いや)がっていたのであるが、霊薬を飲むと同時にすっかり気持が変ってしまい、男は自分から進んでその娘の手を取り前に寝かされたあの絵のある家に連れて行って、共に一夜を明かした

と“旅の男”を利用する手立ても整っている。

 また

凄い断崖を(よじ)り攀り血まみれになって漸くその天辺に来た…中略…そこにはまた大きな岩が突っ立っていたが、娘はその岩の鍵の(しるし)のある所を押せば開くようになっている筈ですと言うので、その印を探して押すとそこがトンネルに

これは第五十話 次現界とはどんな所か これの

あらゆる所に草仙、木仙、水仙、海仙などいろいろな仙人の出入いりする口が出来…中略…仮に野原とすれば、そこには三つの入口があり、いずれも木の株や石を沢山集めて人間の知らない文字の形を造って術者のための目標として…中略…今ある人間が、偶然その入口になっている木の前に立った時に、背中を誰かに押されてその中に入いった…中略…丁度応接間のドアが()いて中に入いったと同じような具合で、後ろでパタンという戸が閉まる音さえ聞こえ…中略…同時に、今までの森は跡形もなくなって、紙一重の差でもう次元が違って…中略…これが仙人達が出入いりする門

これに相当するか、これに近いものと解する。

 そして五十話の“紙一重の差でもう次元が違って”当たることが

洞穴の出口に来たのであるが、途端に気温がぐんと下り北極にでも来たような感じ

ということであり、そして“仙界の一つ”“邪淫の世界”“逸楽の仙境”を構成する振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していた“”は

一緒に逃げて来たあの娘の美しい顔が今は醜い皺で波打ち、体は骨と皮ばかりの何百歳かの老婆の姿となって、自分の傍に死んでいた

という“現界”に来た際の変容を詳細に説明されておられる。

これについては第八十八話、これは“道士”のお話ではあったのだが

八十五、六歳であったその顔が三十そこそこになって…中略…こうしてこの世界に入いると、肉そのものまでも若返って生活が始まる…中略…もう一つ、仮にその道士がこの都を後にし先ほどの門を出て一丁も行くと、彼は八十五、六歳にその中で過ごした年月を加えた見る影もない姿に変っていることを知らなければ

これの“この世界に入いると、肉そのものまでも若返って生活が始まる”その“世界”が、女仙の魔境 の場合、先の“仙界の一つ”“邪淫の世界”“逸楽の仙境”を構成する振動の影響を受けているからこういったことになるのでであると解する。

 

次回のこのカテゴリーでは、第九十五話 不思議な密教 海神の島 これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第九十三話 不思議な密教 ドン教 Kellyさん的解釈


  第九十三話では文末で

これらの教えも裏を返せば凡て長く生きたいということ…中略…その中からよい所を引き出せば現界の人間にも利用出来ないことはない…中略…あらゆる天の生物、地の生物は凡て物であって、土から造られて土に帰るのであり、その土は天の気から造られて天に帰ってゆくのである。汝等は各違う顔、違う肉体を持っていても、凡て人間という一つのものに統一されてしまうのであるから、人間は気であるということがよく分るであろう。汝等はこの教えによって、土は生命の根元であり土ほど大切なものはないということを悟り、よくそのものの気をもらってこそ長寿の元と…以下略…

と、

土は生命の根元であり土ほど大切なものはない

そのものの気をもらってこそ長寿の元

となるのであるから

の中からよい所を引き出せば現界の人間にも利用出来ないことはない

ということを教えられておられる。

 

 そこで私的に思うのは

あらゆる天の生物、地の生物は凡て物であって、土から造られて土に帰る

この“”の意味するところは有機質と、無機質である“石”(帯電するミネラル)でもあり、それは灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)、これらすべて

あらゆる天の生物、地の生物は凡て物

と称されておられるうちの“”とは物質、肉体であり、先の灰分(かいぶん)は肉体のローレンツ力の構成要素である。

また、すべての生命、“創造”の“主(ヌシ)”を含むそれ以下の一切の個の心(靈)が息吹して発振、発信している荷電粒子、その取り込みと増幅にかかわる要素がローレンツ力であり、その発振、発信される振動(思惑)、また個の心(靈)が取り込む振動が、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)とか“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な違いがあったとしても、荷電粒子には違いないから、取り込んで息吹くこと、これにおいて生命が成り立つものであるということを思う。

そして今述べた「“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)とか“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な違いがあったとしても」、これに関しては第九十二話の

或る者は自然霊を使い或る者は仙人を使い或る者は奇鬼神を使い、また高級な者になると天霊神の一部にまで加勢させるのであるから、これこそ俗にいう悪魔の中の力を利用するのであって、自分の好きなものは必ず奪い嫌いなものは殺すというのが、密教本来の信条とも言える

この“密教本来の信条”によることであるから、“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)なことである“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“悪”“真”“偽”“美”“醜”“愛”“憎”、あるいは“生”と“死”あるいは“天国”と“地獄”あるいは“春”と“秋”あるいは“太陽”と“太陰”などにはかかわりなく自分たちの“思惑の顕現”=現象化をするのであると言い得る。

 

 そこで前後するが太霊は“ドン教”の説明として、

   大体に一旦死んだ人間を掘り出してきて再生させる一派

   死んだ人間を乗せてその(よみがえ)りを祈る

   人間界で既に息を引き取った者を自分の仲間(グループ)に入れるために、これに新しく魂を吹き込む

と述べておられる。 

これの説明として

死んだ人間を蘇らせる儀式であるが、これは先ずその死体を先程言った神前の一丈角の台の上に乗せ、その上から土を粘土のように塗り付けていって人間を入れた四角な土の(かたまり)にしてしまう。そうしてそこに集まった首座を初め二百人近くの人がお経を上げていると、その土が次第に溶けていって(しま)いにはすっかり落ちてなくなるが、それと同時に祭壇の女神の眉間から光が射してきてその死体の全部を照らす…中略…その死んでいた人間が台の上に起き上がってその神の方に向い礼拝するのであるが、その時には既に新しい魂が入れられて活動出来る状態になっている…中略…これがドン教での誕生

という説明がされているが、これこそが“”と、その“”に働きかけた“座を初め二百人近くの人がお経を上げている”と“祭壇の女神の眉間から光が射し”という息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることと解する。

 また“ドン教での誕生”に関して

その人間が仮令八十歳の恰好をしていようとここでは一歳…中略…その台から下ろされ段々に信条を教えられて一定の期間が過ぎると、その体は二十五歳位の青年に変って来る

という説明もされている。

 

 上記文言中の“人間界で”という説明に留意して

   深山の人間の来られない所にその祭りの場所を持って…中略…よく言えば仙人の一つの部落のようなもの

これに関しては“これらの部落は、或いは次現の世界かも知れない”とも述べられておられることに着目し、これはおそらく人間の知り得ない“現界”というものもあるだろうが、先の“仙人の一つの部落のようなもの”“次現の世界かも知れない”という観察対象としての場(フィールド)の相違であると解する。

 

 また以下のようにも述べておられる。

   それぞれの首座はいろいろな人間を集めるのであるが、それには一定の条件が付いていて、このドン教を継続さしてゆく力のある者でなければその教団に入いれないことになっている。しかし一度その中に入いってしまえば、仙道と同じように長生きも出来るし、道士と同じような力を持って思いの儘に人間を操ることも出来るのであるから、一応仙人や道士になったのと変りない

   根本の違いはこれらの者はただドン教の一員としての資格を持っているだけで、修行をしていない点である

   こういうものが方々に出来てくると、(つい)には相当な組織的の力を持つことにもなるのであるが、そういう人間が沢山いる筈はないので、その団体も現在では稀にしか見られない状態になっている

 これの

一定の条件が付いていて、このドン教を継続さしてゆく力のある者でなければその教団に入いれない

そして

ただドン教の一員としての資格を持っているだけで、修行をしていない

この“修行をしていない”のでローレンツ力の強化と変容が無いと言えるが、それでも“”の作用により個の心(靈)が構成されうることもあり得る、ただしそれは先に述べた「人間の知り得ない“現界”というものもあるだろうが、先の“仙人の一つの部落のようなもの”“次現の世界かも知れない”という観察対象としての場(フィールド)の相違」という要素があるがゆえに、我々が知っている“現界”の法則性が通用しないのであると解する。

 この「“”の作用により」に関しては第五十四話の

人間が土から出来ているとすれば、その体は悪い所があれば土によって直せる…中略…動物が病気になると土の中にじっと寝て自然に癒す本能

という教えが参考になる。

 そこで太霊は

   人間の力もそこまで来ると殆んど神に近いものになる

という言い方をされておられるが、これも第五十四話の

神が現界…中略…あらゆるものを創造…中略…最後に、土の塵をもって人間を造られた…中略…土によって造られた物は再び元の土に返る

これの“神が…中略…最後に、土の塵をもって人間を造られた”というのが“間の力もそこまで来ると殆んど神に近い”という説明であると解する。

 

 次回のこのカテゴリーでは、第九十四話 不思議な密教 女仙の魔境 これの解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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