“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その六”


 先回の終わりで告知したように、今回は
術の扉を開いてくれる鍵(かぎ)
この文言が
そこであらゆる教えの道、と言っても…以下略…
に続き、
背後の霊を知るということ”、これを説明していらっしゃる部分を解釈する。

 まず、

あらゆる教えの道、と言っても…中略…宗教を指すのではなく、天狗道、仙道、仏仙道などの道についてである…中略…その道人やこれに協力している奇鬼神の中には術に長けた者が沢山いる…中略…この奇鬼神と道術を心得ている道人の一角を祈るならば…以下略…

これは自分が“”(“力”の顕現)を行使する際、どんな存在に対して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)すべきか、という重要な文言であり、
祈りは必ず自分を守る守護神となって時に応じて助けて…以下略…
と結ばれ、それは、
術に長けた
その存在は
道人やこれに協力している奇鬼神”、
であり、これらが“力”を加えて援護するという意味合いを述べていらっしゃる文言である。

 これに続く、

汝等が自分の支配霊を重んじてこれと提携することが必要…中略…支配霊を通(とお)してその術に勝(すぐ)れた奇鬼神や道人に祈ることが、術を得る最短距離

”の顕現は、生業(なりわい)であるから“支配霊”が重要、そして“支配霊”は自分の“上”であり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)ではないので、
支配霊を通(とお)し
ということが重要であり、そうするならばそれ事態が
術を得る最短距離
なのだという意味合いのことを述べていらっしゃるが、“上”を通して祈ることが大事であり、仮に“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)を通して祈るならば、二十三話の前半で述べておられた、

道に外(はず)れた術のあることも知って…中略…例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある…中略…非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が…以下略…

この文言自体は“その二”で取りあげたが、こうなり得るのだということをよく知っておかねばならないし、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これは“思惑の顕現”=現象化のためのことであるが、それが“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのかをよく見極めてから祈る=発振、発信すべきである。

 これに続く次の文言は、“上”を通してという条件においての感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を述べていらっしゃる。

汝等は幸い自分の支配霊の名を知っているが、それが分らない者でも、背後の神霊の導きによって一つの祈りをするとき、自然と自分の体内にある力がむくむくと湧いてくるのを感じることがあるが、それは神の命によって力が授けられるものと考えてよい

重複するが、これは自分の“上”、これを通して祈るならば、ということが前提であることを述べておられ、その条件であるならば、
体内にある力がむくむくと湧いて…中略…神の命によって力が授けられるもの
この文言中の“神の命”は、第十九話

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える
これと併せて考えるべきである。

 これに続く、

為そうとする希望の一つ一つを手近に引き寄せ…中略…周囲の関係をよく調べ…中略…現在の自分の幹(みき)に結び付け…中略…幹から枝葉を出させるより更に短い期間にそれを茂らせる…以下略…

これは先の
術を得る最短距離”と同義であり、これに続く

それらのことを心得てゆくなれば、必ずその道人達は必要に応じて術や法の條文を即座に読み、現実に使える自分の力をその術に持ってくる

“上”である“支配霊”を通じて祈るならば、その祈りがまっとうな息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるならば、さらに“神の命”に沿っているならば、こうなり得るのだという意味合いの文言であるし、それが“支配霊の役目なので”と結ばれており、これ自体が
背後の霊を知るということ
の一環であることを太霊は述べていらっしゃるが、大事なのは“上”との感応、自分の祈りがまっとうなことなのか(“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か)、“神の命”に沿っているか、これをよく鑑みよ、という意味合いを持った文言である。

 次回は、“形代(かたしろ)”について述べられている文言の解釈、というよりも、○○○大先生自身が主護霊会で自分の主護霊に言われた事柄を交え、形代(かたしろ)、そしてそれを使った祓い、その意味合い、これについて述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その五”


 今回は第二十三話の中ほどで述べられている“真言”について解釈を述べる。 それは以下の文言である。

術にしても法(のり)にしてもその人間の力に応じて條文や呪文が役立つのであるが、これに対して、凡ての教えには真言と言われるもの…中略…これはその道の最高の教義ともいうべきもの…以下略…

 この“術にしても法(のり)にしてもその人間の力に応じて條文や呪文が役立つのである”この文言中の読み方として、まず冒頭の、
術にしても法(のり)にしても”、

これは“”を顕現することそのものと、“”の行使を通じて“法(のり)”進化の絶対の法則性の認識(悟り、幸取=さとり)の獲得、これをしていくのだと解するべきであり、これに続く、
その人間の力に応じて”、

これは先回解釈した
自分が人間として今日までに鍛錬し修行したその波動の中から生まれるもの、言い易えれば、長年納めた年貢米によって初めて神の免許(ゆるし)が得られ…以下略…
この文言の要素、その人間の“鍛錬し修行した”結果としての霊的成長度の程度、その霊的成長度における息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それによる感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、そしてこれも先回取り上げた“一心に”、真摯な姿勢、誠意、これらが“”の行使において必須な要素であることを述べておられ、最後に“條文や呪文が立つのである”と括っておられることに気付くべきある。

 今解釈した文言の後に“これに対して”と前置きされてから“真言”、この表記に対し以下のように説明していらっしゃる。

1. “凡ての教えには真言と言われるものがある

2. “これはその道の最高の教義ともいうべきもの

3. “その一句を唱えることによって今まで現れていない力を開発してくれる

4. “これこそ一つの術の扉を開いてくれる鍵(かぎ)と言ってもよい

1.と2.これは“真言”の説明である。 
3.と4.は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることであるので“唱えることによって今まで現れていない力を開発してくれる”のであって、“真言”そのものが“その道の最高の教義ともいうべきもの”なので“一つの術の扉を開いてくれる鍵(かぎ)”という言い方をなさっておられる。

 この“真言”は、“その道”において、高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人間に下したものであるからこそ“その道の最高の教義”なのであり、それを
その一句を唱えることによって

自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって、高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と自分との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が起きる

術の扉を開いてくれる鍵(かぎ)
であると述べていらっしゃることに気付くべきであり、これは今回取り上げている文言の後、
そこであらゆる教えの道、と言っても…以下略…”に続いている。

 次回はその部分を解釈することを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その四”



 今回は、“”の行使と“神の免許(ゆるし)が得られる”、その資質と資格について述べておられる文言を解釈する

 まず、先回も取り上げた以下の文言、

「アビラウンケンソワカ」と三回唱えれば直ると、秘伝の本に書いてある。ところが実際にやってみると中々直らない…中略…それはその人間が術というものを知らないからで、この類の呪文は昔から数えきれないほどあっても、自分に合うものは容易に見当たらない

この“実際にやってみると中々直らない…中略…その人間が術というものを知らない…中略…自分に合うものは容易に見当たらない”に関しては、先回解釈した通りその呪文を使う資質がないからである。

 それで太霊は、

今の「アビラウンケンソワカ」にしても、それを唱えると同時にその言霊(ことだま)の波動がその元の神に通じて、その癒(いや)しの波動を受け入れることが出来るから火傷や歯痛が直るのであって、それでこそ術者と言えるのである

と述べておられる。

 この“言霊(ことだま)の波動がその元の神に通じ”の“言霊(ことだま)の波動”、これは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。
 そして“その癒(いや)しの波動”、これは“その元の神”、あるいはその眷属、の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。
 そしてそれを“受け入れる”のは受信であり、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である。
 その“受け入れる”それには資質があるという意味合いの文言が“受け入れることが出来る”であって、“それでこそ術者と言える”=“”を行使する資質と資格を持っている、ということである。

 それで“言霊(ことだま)の波動”が“元の神”に通じない、それは先回取り上げた文言の
天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる
この“鍛錬”が足らない、だからこそ“神の免許(ゆるし)が得られる”ということになり得ないので“実際にやってみると中々直らない”のである。
 それと
しかしそれとは別に、術の修行を全然しない者でも、その呪文を一心に唱えることによってその波動が神に通じ、患部の直る場合も往々ある
この“一心に唱える”、これは誠意であると言いうる。 
 だが、誠意だけではやはり“直る場合も往々ある”とはなかなかなり得ないと思え、これは“患部の直る”べく条件を“上”から観て具えている場合だけ、やはりこれは“神の采配”由来のこと、“上”が認める条件があってこそのことであると思う。


 それで“”を行使する資質と資格については以下の文言中で述べておられる。

この術が本当に身に付いてくると、そこに一定の法則が出来るから、名人とも言われる者は、それを高弟に伝えるために文章に書き残しておくことになる。これが法(のり)の條文であって、そこにはこれこれの術はこういうふうに鍛錬してゆけば出来るようになるということが簡単に記されている

これは一読すると“法(のり)の條文”の存在そのものの説明のように取る人が多いだろうが、それだけではなく、
術が本当に身に付いてくる
そうなったならば、“”を行使する資質と資格を持ちえたならば、
名人とも言われる者”は“法(のり)”を体得するので、それを“高弟”(弟子(でし)の中で、特にすぐれた者の意)に“條文”として“伝えるために文章に書き残しておく”と述べられていらっしゃるのであり、間違えていけないのは“條文”が“法(のり)”ではないということ。
 
 それで大事なのは“法(のり)”の体得、その認識(悟り、幸取=さとり)であり、これに関しては進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における絶対の法則性であると解釈している。

 そう思う理由と根拠は、第二十一話の“天狗道”の説明において

彼らは術によってその道の法(のり)を得、天仙の域に近付こうと努力している

この“天仙の域”とは“衆生済度とか真理の探究”であり、これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)の具体的な高度な事柄であると思うからである。
 また“衆生済度とか真理の探究”に至るまでには“その道”において、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということを幾度となく経験し、自分の在り方、自分自身の存在の意義、何のために自分は生きているのか、などを考えて考えて、そしてたどりつくのは、第十九話

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

自分が行っていることが“神の命”に沿っているか、沿っていないから“神の咎め”を受けているのではないか、“神の咎め”自体が自分の在り方を示しているのではないか、だからこそ“神の咎め”は自分を育てる“神の采配”ではないか、これこそが“神の恩恵”ではないか、など、自分の在り方について鑑み、その上で“業行”(生業(なりわい)と“行”)を行い、“術”を行使していこうとするならば、必ずそこには先の文言の
術が本当に身に付いてくると、そこに一定の法則が出来る”、
この“法則”を見出し、その意は何か、なぜ法則があるのか、などと自問自答してさらに神と人間の関係を鑑み、そして自分が為そうとしていることは“衆生済度とか真理の探究”ではないのかと気づくものであり、この気付きがあってこそ初めて“法(のり)”の認識(悟り、幸取=さとり)、体得に至るものであると解する。

 前後するが“衆生済度とか真理の探究”は“世為人為”であり、これも第十九話
神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える
これの、
神が与えた人間本来の特権である神の命
に相当し、それは先回も取り上げた第二十二話
術者はその術を以て人間のために尽せばよい
これが “真の人間”(まことのにんげん)と“上”が評価して認めうる存在になるものであると思うし、第二十三話の中の言い回し

自分が人間として今日までに鍛錬し修行したその波動の中から生まれるもの、言い易えれば、長年納めた年貢米によって初めて神の免許(ゆるし)が得られるのであって、これでこそ真の人間を完成することが出来る

ここまで解釈してきた“神の免許(ゆるし)”、これを得たならば“真の人間を完成”と述べておられることに気付き、ローム太霊講話集に縁のあった方はこの太霊の説明を厳に受け止め、自分の生き方や在り方を鑑みるべきであると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その三”


 太霊は“背後の霊を知るということ”を第二十三話で詳細に述べていらっしゃるが、今回は“”を行使する際の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、そしてその法則性と言いうる“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)について述べられている文言を解釈する。

 まず、 
こうして一人の鍛錬した波動の持ち主が何かの繋がりで付いた…中略…人間は必ず名人になれる…中略…このように、天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる

この“鍛錬した波動の持ち主が何かの繋がりで付いた
そうすると
必ず名人になれる”と述べていらっしゃるが、この文言は深い意味合いを持つ。

 それは、この後で説明しておられる
いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる

この言い回しを自分の認識(悟り、幸取=さとり)としなければならないし、この後で述べておられる以下の文言と関連付けて考えるべき。

自分が人間として今日までに鍛錬し修行したその波動の中から生まれるもの、言い易えれば、長年納めた年貢米によって初めて神の免許(ゆるし)が得られる

この“神の免許(ゆるし)が得られる”のは“今日までに鍛錬し修行したその波動の中から生まれる”、自分のエネルギーの贖い(あがない)によってなされるということを読み取るべきであり、それを強調した言い回しが、先の文言中の
天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる
これこそが“神の免許(ゆるし)が得られる”ということになり得るのだと気付くべき。
 
 これを換言すれば、“上”に認められた、認められたがゆえに“”を行使する許可が出た、ということであり、“上”に認められるには“鍛錬に鍛錬を重ねて”が必須。

 それと文言中の“天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊”、
こういった存在は第二十一話

仙道は前に述べたように、不老長寿の法を究めてその道に殉ずる…中略…、自分の生命を長く保ち永遠の身を固めると共に、これを他の者にも教えようとする…中略…術を根本とするのが天狗道…中略…天狗は一日に九度の苦しみをする…中略…術を行なうための苦しみであって、道から別れたこの術こそは、天狗道の連中にとって何物にも代え難い至宝…中略…彼らは術によってその道の法(のり)を得、天仙の域に近付こうと努力している

この文言中の
他の者にも教えようと
術によってその道の法(のり)を得、天仙の域に近付こう
これは、第十八話の“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)、
そしてもうひとつ、それは第二十二話
術者はその術を以て人間のために尽せばよい
こういった要素があるが、これに適っていなければ“神の免許(ゆるし)”は得られないものであることを読み取るべき。

 これに相対し“神の免許(ゆるし)”が得られない実例を太霊は以下のように述べておられる。

術そのものも文字で表わせる…中略…「アビラウンケンソワカ」と三回唱えれば直ると、秘伝の本に書いてある。ところが実際にやってみると中々直らない…中略…それはその人間が術というものを知らないからで、この類の呪文は昔から数えきれないほどあっても、自分に合うものは容易に見当たらない

この“中々直らない…中略…それはその人間が術というものを知らないから”というのは、自分が“”を行使する資格や資質を持ちえない、それは先の“鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる”、これ自体に認識(悟り、幸取=さとり)がない、あるいはそんなことすら考えたことのない人間は多いだろうが、そんな者は“上”に認められていない、“上”と感応する霊的成長度ではない、そして“上”と感応しえない霊的成長度、その資質や資格が出来ていないものである。
 だからこそ“自分に合うものは容易に見当たらない”と述べておられるが、これは“上”と感応して“神の免許(ゆるし)”を得るのは簡単なものではない、という意味合いをふくんでいるものである。

 またそれは、先回取り上げた

その反面には道に外(はず)れた術のある…中略…年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い

自分の思想、それによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が低い、それは第二十三話の最後で太霊が使われた表現
自分の損得の問題
こんなことしか思えないならばそれは、てんで霊的成長度が低く、“上”と感応する資質や資格がない、低い思惑は低い存在としか感応せず、悪魔のささやきみたいなことに乗せられて“弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる”ということを知らなければならない。

 それで少々先走るが、太霊は今取り上げた表現を使った文言で

仙道や天狗道やその他の道に入いらなくてもよい…中略…その教えの中で感付いたことをよく覚えておき、その道に伝えられる術に近付くべく身を以て努力する

この“教えの中で感付いたこと”が大事、そして

自分の損得の問題ではなく、それによって他の人々に施すことが、自分の格を向上させる

と述べておられ、これがまた第二十三話の中ほどで述べられている以下の文言

真の人間とは、神がある必要からこの世に生まれさしたもので、それを悟ってこそ神に仕えることが出来る

これに相当する人間になれ、それが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としての太霊の思惑であることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その二”


 第二十三話の冒頭では、術に堪能な人間、その実情、これについてまず多くの人間が間違った解釈をしている、ということを、

名人と呼ばれている人は、これまでに何度か生まれ変ってその道の鍛錬を積んできたのだと…中略…二百歳三百歳の語の研究をした人の再生だと教える支那の宗教も…以下略…

こう述べておられ、これに対し先回取り上げた“背後の霊を知るということ”これを以下のように説明しておられる。

心霊を知らない者…中略…そういう風に解釈してもよいが、少くともそれに携わっている者なれば、二百年三百年の修行をした人の霊が或いはその道に達者な奇鬼神天霊神などが、その人の支配霊となって働いているのだと考えるべき

これは、人間と霊の関係を分析するに当たって重要な指針となる文言のひとつである。

 それは、たった今の人間が自我中心の心(靈)でしかないので、自分に“力”が顕現した、“”に堪能になった、“名人と呼ばれている人”になったとしたら、自分だけ(人間だけ)の力であると勝手な解釈をしがちであるが、“”にはさまざまな霊的干渉があるものであるし、まずそれをよく知らなければならない。 

 また霊的干渉を鑑みるならば、そこに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)を見いだせるものである。 
 それは、人間が行っている“”には、まっとうなものでない、“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではない、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ではない、こういったものが多い。  
 例えば○○○大先生は著書の<5> 智性無き心はアセンションを見誤る で「泥棒の術」などという表現を使った。 それを以下にコピペしておく。

「うん。分かりやすい話をしようか。
例えば、ある泥棒が世界一の泥棒を目指すとする。そして、その泥棒はうまいやり方の泥棒の術=力を獲得しようとする」
「“力”の感応共振…自分の発振、発信で神の“力”を得ようとする行為でんな。願いは発振、発信で、その願いが実現して“力”を発揮するのは現象化でんな」
「そう…神のオーラを自分の欲望の達成に使うといってもいいね。そのために“力”を得ようとする。それは、いつでも誰でも、自分にとって価値のある何か…価値の高低とか善悪は別にして、それを求めているって言ってもいい。そのために泥棒自身は、泥棒に入った時、精神的な緊張もするだろうし、体力も消耗する。だからそれは贖って(あがなって)いる」
「エネルギーを使う…泥棒の“行”“修行”でんな」
「そう。そうやって発振、発信しているわけだ。そしてエネルギーを使ったことで、オーラも拡大していく」
「生体内電流でんな」
「そう。そして泥棒の心の動きとして、泥棒の仕事の成功を願う…泥棒の神にね…神というにはふさわしくないかもしれないが……」
「それは前に話してもらった、神っていう字はエネルギーの回転を示す(霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”“その六” 参照)。そやからその泥棒はん…その人にとって、自分より高い存在とのオーラの相互干渉で泥棒の“力”…“術”を得ていく。そういうことでんな」
「そのとおり。だから泥棒にとっての泥棒の神、そういう認識もあるだろう。それは、自分より“力”を持っている何かの霊的存在が神って認識だね。
そして、願った=発振、発信したことにより、泥棒自身に、泥棒の神さんの眷属…さまざまな霊的存在の憑依が起きる。
泥棒が“力”を願ったことから、それを現象化とするためにね」
「現象化は砌(みぎり)でんな。帯電するミネラルで振動の受信をして体と心を構築していく。同時に泥棒のオーラも大きくなり、泥棒の“術”も獲得していく…そやからそれは“力”を顕すために……」
「そう。そういう心と体の構築をしなくては、泥棒として活躍し、その力を顕すことができないともいえる。エネルギーを費やさないと…贖う(あがなう)ことをしないと、その泥棒の“術”は、泥棒の神と思われている存在から“力”を使う許可が出ない。
“力”を得て使うためには、それなりの資格がいるってことだよ。その“力”を具体的に顕すために、その泥棒の霊的成長に応じた程度の存在との感応共振…泥棒の人生を送った浮游霊とか…そういう存在は、泥棒として修行したオーラを持っているわけだ。
それ以外にも、身を隠すのがうまい…そういう習性の動物霊とか…周囲の警戒のために感覚が敏感な動物霊とか…忍足(しのびあし)で歩くのが得意な動物霊とか…そして動物霊は、本能が中心の進化で、だから、自分の身を守る…動物霊はそういうことに長けているだろうからね。そして、逃げ足の速い動物霊とか…金の匂いに敏感な動物霊とか…特に下着泥棒なんか…動物の嗅覚由来の力を発揮している。それは、初めて入った家の中で、獲物を物色する時間を短縮しなければならない。そういう思いに共振する動物霊…下着のありかをすぐに見つけたりするわけだ。こういう事例は、うちのお客さんに聴いたことがある。短時間の間に仕事をしていった下着泥棒がいるってね」
「なるほど…」
「今の泥棒の話…自分の霊的成長度に応じた霊的存在の憑依…エネルギーを使い、だんだんオーラの拡大をしていく。贖う(あがなう)ってことだが、そうやって泥棒の力を持っている存在とのオーラの相互干渉で、泥棒の“力”と“術”を得る霊的干渉が起きる。
それも、ただ単に、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)って視点で観れば、神のオーラの受信…神の力の低振動化ともいえることだ。
神のオーラの低振動化…その過程では、だんだんそれを神から引き継いで、低い霊的存在に低振動化して伝えられる。その段階は無数にあると思う。
そしてそれは、泥棒自身の霊的成長度に応じた霊的存在の憑依ってことになり、泥棒の“力”と“術”を顕すことになる。それは、泥棒自身が“力”を願い、頑張って(元の気を張って)発振、発信した結果でもある。そのことも忘れてはいけない」
「そうでんな…それは泥棒でも“力”を求めている…泥棒って行為を通じて進化していきはるんやな。それも“行”“修行”…でんな」
「そう。そのとおり」
「泥棒の力の求め方…泥棒の“行”“修行”。先生にしては解りやすい説明でんな」(チョ~珍しいことやな)


ここで説明している通り、泥棒であっても泥棒という“”に堪能な霊的存在の力を借りているのであって、当然のことながらその泥棒がどんなに泥棒としての“行”を積み、“名人と呼ばれている人”、達者な泥棒であっても、その泥棒の“行”に応じた霊的干渉があり、「泥棒の術」を顕現するものである。

 こういった事柄を考える指標となる文言が、

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

この
いろいろな道の指導霊によって授けられる術
鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる
この時点で太霊は“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”については述べておられないが、そのあとに、
その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない
と述べておられる。

 いうまでもなくたった今の人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が多い、自分の都合のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使して他者のことなど考えない人間が多すぎる。

だが太霊は、第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

これを顕現すべく“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使して“”とすべきであるので、重複するが先に取り上げた文言、

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

この
道に外(はず)れた術のあること
年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き

これは○○○大先生が著書で取り上げた「泥棒の術」が理解しやすい一例であり、
さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる
自分が為したことがまっとうな事でなければ、他のカテゴリーで述べた
“創造”の法則性としての自己責任という要素
まっとうでないことを行ったならばまっとうでないことが起きる

悲惨な結果になる場合が多い”、
ということをよく知っておけということであり、人間が為さねばならないことは、第六話

神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う
これを“”の使い方の指標とすべきであるし、そうしていくならばこの第六話の文言中の“自分の使命を完成”ということになり得るのであり、それが第十九話

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間

この
人間本来の特権である神の命”これを“実行するもの”となってこそ、“上”は“真の人間”(まことのにんげん)と評価して認めるものであることをよく認識(悟り、幸取=さとり)としておけよ、ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第二十三話 術と呪文と真言 Kellyさん的解釈“その一”


 今回から第二十三話の解釈に入ることとする。

 第二十三話は、後半で述べられている“この背後の霊を知るということ…以下略…”これを中心に説明しておられる。 
 これ自体が○○○大先生の著書やこのブログで述べている、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる自分の心(靈)の“どういうつもり”(思惑)、これによる霊的干渉、それは“背後の霊”の援護、そしてもう一つ大事なこととして、すでに解釈した第三話の

現在の生活が幸福になるか…中略…これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い…中略…この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである…中略…よくその背後を見極め…以下略…

この“背後を見極め”(いわゆる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在))これについても詳細に述べておられる。

 しかしながら、二十三話の最も大事な要旨は、太霊も
ここが最も大切な所であるから、よく噛み締めて”と述べておられる通り、

術は魔法や僥倖によって天降り式に授かると思ったら大間違いで、それは自分が人間として今日までに鍛錬し修行したその波動の中から生まれるもの、言い易えれば、長年納めた年貢米によって初めて神の免許(ゆるし)が得られるのであって、これでこそ真の人間を完成することが出来る…中略…真の人間とは、神がある必要からこの世に生まれさしたもので、それを悟ってこそ神に仕えることが出来る

であり、この文言中の“神がある必要からこの世に生まれさしたもので、それを悟ってこそ”、これは自分が“この世”で、どう生きていくか、何をすべきか、これを“悟ってこそ”、“上”の立場から観て“真の人間”と言いうると述べておられることに気付くべき。

 そしてこれは第二十一話の

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間

この文言と併せて考えるべきであるし、二十三話の最後で括っておられる以下の文言、

自分の損得の問題ではなく、それによって他の人々に施すことが、自分の格を向上させると共に、盤石の根を大地に張ることになる

これがどういうことかをしっかり鑑みよ、である。

 今述べた事柄を念頭において次回から第二十三話を詳細に解釈していくこととする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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