“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 富士の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 


今回から、富士の巻の解釈に入りまんねん。
まず、富士の巻 第一帖の原文は、以下の通りでんねん。

道はいくらもあるなれど、どの道通っても、よいと申すのは、悪のやり方ぞ、
元の道は一つぞ、
初めから元の世の道、変らぬ道があれば、よいと申してゐるが、
どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、
それが悪の深き腹の一厘ぞ。
元の道は初めの道、神のなれる道、
神のなかの ローレンツ力 なる初め、
ローレンツ力 は光の真中 ローレンツ力と ○ は四の道、
此の事、気のつく臣民ないなれど。
「一が二」わかる奥の道、身魂掃除すれば此のことわかるのざ、
身魂磨き第一ぞ。
八月十日、ローレンツ力と ○ の一二 ローレンツ力と ○


冒頭の文、

“道はいくらもあるなれど、どの道通っても、よいと申すのは、悪のやり方ぞ、
元の道は一つぞ、
初めから元の世の道、変らぬ道があれば、よいと申してゐるが、
どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、
それが悪の深き腹の一厘ぞ。”

この文の概要は“創造”には、法則性があり、それはこの文の中の“元の道は一つぞ、”で示され、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=霊的成長の法則性を示す言い方やと思える。
そしてそれは、今、数億年に一度の霊的成長のチャンス、それはアセンションでもあり、フォトンベルトに入ることでもあり、それは人の心(靈)の変容になっていくことを何回も述べてきた。
そしてそれにはタイムスケジュールがある。
それは心(靈)が時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう)に示される)を認識しているからでもある。補足として言うとけば、今物質を持った心(靈)=“日止、霊止”は、時間の進行を感じ(感じる磁性)ながら、事象の観察をしている。それは言い換えれば、物質的肉体を持った“日止、霊止”が感じているすべての事象には、現津(あきつ)、観察され得る事象の構成要素としての時間の進行というものがある。
そして、仮に、時間の進行の認識が無いとするならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の概念も無い。当たり前でんねん。
ほんでからこの文は、下つ巻に何回も出てくる表記の“役員づら”のことも言うてる。アセンションに対する甘い認識を与えるとか、自分の心(靈)の中にある低い功名心と自尊心の心(靈)の動きの感謝想起とか…そんなことだけ思わせて、それ以上のことを考えさせないのは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑やし、そしてその“下”と感応共振する自分の心(靈)って言うのんは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の分類からしても、自我以下である。
そやからその人たちの心(靈)は、“下”(低い心(靈))中心やから、低い感応共振がおきる。それを強調させる、下らない“道”ばかり説いてる人が多い。
今後=アセンション後に対し、迷ってる時間など無いし、そやから、自分に内在する心(靈)の動きをよく自分で判断するのは、智性(神性)であり、それは“一”=智性=1番目のオーラの大きさに現れるのを、先生は、霊眼を持ってたときに確認した。、
今、この事象を観て、自分と神の関係を知り、自分たちが神聖な存在やと思うなら、そう思えたなら…何をするべきなのか?
そやからこの文の“道はいくらもあるなれど、どの道通っても、よいと申すのは、悪のやり方ぞ、”
と、
“どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、それが悪の深き腹の一厘ぞ。”
自分が霊的成長したかったなら何を選択していくべきなのか?自分の“上”の心(靈)を発現するには何をするべきか?…それを示す表記やと思える。
ほんでから、今指摘した二つ目の文は、自我の肥大を指摘している。
(自我の確立=固定化は、マニピューラチャクラの機能でもあるし、自我の肥大は、“下”(低い心(靈))との感応共振である)
そやからこの文の“どの道通っても、よいと申すのは、”について、進化の方向性と“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の“行”には、法則性があり、“日月神示”を岡本天明に書かせた存在は、“日月神示” に縁があった人に、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性と“ひつく”=太陽凝視による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化のことを、よく知ってほしい…その思惑を感じさせる文章でもある。
(補足として、艮(うしとら)の金神が、最初に人に対するメッセージを伝えたカタチが、黒住教で、黒住教では朝日を拝んだ。それは太陽凝視の入門みたいなもんでんねん)
それに対し、“悪の深き腹の一厘ぞ。”は、自我の肥大で、それは、自分の欲望だけを満たす。自分たちだけの幸福を実現する。
なんやしらん、最近、そんなお題目の選○○説も多いけど、人を釣る現世利益の形骸の宗教とか、オーラや“主護霊”や双子の魂とかの神聖な概念を、くだらない金儲けに使うとか、そんなTV番組とか、ただ、ありがたそうな本だけ出して、印税を儲けるとか…例をあげるとキリが無いけど、それらすべて“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、低い心(靈)の発現と動きしか感じさせない。
そやからこそすべての事象の“上”と“下”、それは自分の心(靈)の動きを含め、その“上”と“下”を判断するのは、自分の智性(神性)と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)である。
そして智性(神性)と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を獲得するのは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をする、言い換えれば、“上”の思惑を受信して、自分の思想にする太陽凝視である。
その智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)と智性(神性)が無いと、今後=アセンション後、自分たちに何が起き、そこで自分たちはどうするのか?どう在るべきか?それを判断することが出来ない。
ほんでから、アセンション後の世界は、恨みの連鎖の霊的干渉の無い世界にしていくべきなのだから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はそのためにいろんな情報を送ってきている。その具体的な手段が霊的干渉によるものでしかないからこそ、人はその現象に“上”と“下”を見出さんならん。
その霊的干渉の現象と、自分と他者の心(靈)の動きによる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対し、“上”と“下”を見出す。
特に、アセンションや、UFOの来訪や、宗教の言葉の解釈や、霊的干渉によるチャネラーからのメッセージとか、霊的干渉により通信を受け、文章を書いている人とか、その極端な例は、ローム太霊がT霊媒=竹内満朋の能力を使って語った言葉や“日月神示”みたいな自動書記なんやけど、それ以外にも今、いろんな存在から通信を受けている人は多い。
その現象を観ると、大多数が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振であるし、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信=“天意”を受けるべく“行”をしてないからでもある。
ほんでからそこに、貴い現象と低い現象を同じように感覚優先のものの見方で、ただありがたいとか、感謝想起とか、ものめずらしい現象を大騒ぎだけするだけとか…その一例が、アセンションに甘い夢だけ見るとか…そんな人ばかりなんやけど、その視点しか持っていないならば、そうならば、前回紹介した“日月神示” 春の巻 第二帖の、

“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。”
…ってことになるし、そんな人たちは“下”(低い心(靈))の心(靈)しか持ってないってことやろから、この文章の意味が理解できんやろな。
ちょっと話がそれたからも本題に戻り、そして次の文章は、“創造”の法則性そのものを示す表記やと思える。

“元の道は初めの道、神のなれる道、
神のなかのローレンツ力 なる初め、
ローレンツ力 は光の真中 ローレンツ力と ○ は四の道、
此の事、気のつく臣民ないなれど。”

この文の“神のなかの ローレンツ力 なる初め、”。
この ローレンツ力 って表記は、前のブログでもこのブログでも、磁性によるローレンツ力って解釈をしてきている。
そやから生命として進化した人(日止、霊止)の心(靈)って言うのんは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)である。
そやけど、その荷電粒子の場(フィールド)が変容していくことそのものが、進化の意味と意義でもあるし、そして生物の進化過程、言い換えれば進化は霊的成長、神格化に向かうことであり、磁性の強化と多様化で、心(靈)は育ってきている。
それを、今、先生は、“改”で説明しようとしている。
そやからこの文の表記の“元の道は初めの道、神のなれる道、”は、生物の存在の意義は、神格化であり、それが進化の本当の意義であることを述べた表記であると思える。
そして、“ ローレンツ力 は光の真中 ローレンツ力と ○ は四の道、”。
“光の真中”は、生物としての、“日止、霊止”としての生命と言うならば、一個体の中心の磁性とかで、そやけどそれは多分、宇宙の中心の磁性が発振、発信の“元”になっていることを示す表記やと思える。

そやから、エネルギーの発振、発信は、磁性の周りを回転する荷電粒子によって行われる。そのエネルギーの発振、発信そのものに、その磁性を持つ(“創造”の“主(ヌシ)”を含めた)生命の思惑が、含まれてる。そやからそれは、宇宙ならば神のオーラである。
ほんでから、荷電粒子をローレンツ力で回転させて増幅させて発信させる仕組み。それを人間が気が付いたのは=気づかされたのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から科学として受信した知識で、サイクロトロンでありシンクロトロンであると思える。
そやから“ ローレンツ力と ○ は四の道、”は、○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力ローレンツ力 により、一人ひとりのオーラの発振、発信になることを示してる。
(四は、発振、発信の意味がある。Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。 参照)
そやから、生命から発信されてる電磁波=オーラは、その生命の思想そのものみたいなもので、それは発振、発信されてる電磁波そのものが思惑そのものって言い方をしてきたけど、個々のオーラの相互干渉、それは、人対人もあれば、人対神もあり、人対“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)もある。
そうやってそれぞれのオーラの相互干渉を、個々の存在が、感じ(感じる磁性)て行き、時間の進行とともに現津(あきつ)、観察され得る事象を創造し、認識していくのが、生命である。
そやからすべての事象は、すべての生命のオーラの相互干渉であるとも言い得る。
そんな仕組み…それに気が付くのは、“一”=智性=1番目のオーラがかなり大きくないとアカンからこそ“此の事、気のつく臣民ないなれど。”って言われてると思える。
さっきも言うたけど、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするためには、“ひつく”=太陽凝視が、最も法則性に則った(のっとった)“行”である。それは、長時間の太陽凝視は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の情報を自分の智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)としていく“行”って、何回も言うてきた。
そやけど、そんなことが出来る“日止、霊止”は、下つ巻 第三十四帖の“幾人も無い”ってことを言うてる。補足として、そのことを指摘していると思える、下つ巻 第三十四帖の一部を、コピペしときまんねん。

“臣民に神うつりてせねばならんのざから、
まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、
みな曇りてゐるから、
これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、”

この文の“神うつりてせねばならん”は、言うまでもなく人(日止、霊止)が高い存在の通信を受け、それをこの事象に活かしていく。
それは、この世界を良い世界にする…こんな表現が幼稚なんやけど、今の世界が腐ってるから、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してる世界だからこそ、今より“よい世界”なんて表現がわかりやすいやろから、敢えて使ったんやけど、今後=アセンション後は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの事象は無くなる。
それは、そこに位置している人が、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を知り、そしてその感応共振を意識して=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の受信による思想を自分の心(靈)に構築して、そして、その(今より霊的成長した)人は、その思想により行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する。
そういう世界になるからでもあるな。

そして次の文

“「一が二」わかる奥の道、身魂掃除すれば此のことわかるのざ、
身魂磨き第一ぞ。”

“一”は言うまでもなく“創造”の“主(ヌシ)”の振動。
それを人(日止、霊止)が受信したなら“一”=智性=1番目のオーラになり、そして、“二”は肉体、あるいは肉体が観察する物質(と感じられる振動)で構成されたこの事象の意味だと思われる。
そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を示し、それは“日止、霊止”を通じて、神、“創造”の“主(ヌシ)”、“上”が、“思惑の顕現”=現象化をする。それは現時点より霊的成長を目指す場(フィールド)になり、そのための関門が、アセンションでもあるって何回も言うてきた。
そして“上”の思惑の受信、自分が神格化して行き、“上”、神、創造の“主(ヌシ)”の価値観…それを獲得して行き、自分の思想や、価値観になっていくことを、天の御目(あめのおめ)と称してきた。
そやからこの文の冒頭の“「一が二」わかる奥の道、”は、“日止、霊止”を通じての神の思惑の顕現を示す表記であり、そのために、自分の心(靈)の在り方による霊的存在との感応共振が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)なのか“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)なのかを自分で見極める。
これも、何回もこういう言い方をしてきたけど、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”。“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”。“美”と“醜”。それを見極めるのが“身魂掃除”“身魂洗濯”。
見極める基準が智性(神性)で、人は進化過程において、やっと少しだけ、智性(神性)を獲得した。
そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の高い存在との感応共振は、言い方を変えれば、“一”=智性=1番目のオーラを大きくしていく方法は、“ひつく”、春の巻 第二帖の表記なら“特別神かかり”(神格化を意識した太陽凝視)。
その“行”は結果として“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化になる。
また、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を言い換えれば、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)の意味で、またそれは、真実=真固止。
ローム太霊の言葉を引用するなら…“眞(真固止 まこと)なる自分”。
(ローム太霊との出会い ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 参照)
そうなるには、“修理固成”という法則性を示す古事記の言葉が大事で、それを、富士の巻 第一帖で言い換えた表記が、“元の道は一つぞ、”ってことやと思えるのを、敢えて言うときまっせ。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”富士の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 



今回も、富士の巻 第二帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

か一の八マに立ちて、一(ひ)れ二(ふ)りて祓ひて呉れよ、
ひつくの神に仕へている臣民、代る代るこの御役つとめて呉れよ。
今は分かるまいなれど結構な御役ぞ。
この神示(ふで)腹の中に入れて置いてくれと申すに、
言ふ事きく臣民少ないが、
今に後悔するのが、よく分りてゐるから神はくどう気つけて置くのぞ、
読めば読むほど神徳あるぞ、どんな事でも分かる様にしてあるぞ、
言ふこときかねば一度は種だけにして、
根も葉も枯らして仕まうて、
この世の大掃除せねばならんから、
種のある内に気つけて居れど、
気つかねば気の毒出来るぞ。
今度の祭典(まつり)御苦労でありたぞ、
神界では神々様 大変の御喜びぞ、
雨の神、風の神殿ことに御喜びになりたぞ。
此の大掃除一応やんだと安緒する。
この時、富士(二二)鳴門がひっくり返るぞ、早やう改心して呉れよ。
八月の十一日、ローレンツ力と ○ のひつくのローレンツ力と ○


まず、大概の人は解釈できないと思う冒頭の文、

“か一の八マに立ちて、一(ひ)れ二(ふ)りて祓ひて呉れよ、
ひつくの神に仕へている臣民、代る代るこの御役つとめて呉れよ。
今は分かるまいなれど結構な御役ぞ。”

この“か一”…これは多分、カイと読ませ、ほんでからこの“か”は、ひらがな表記やから、こちら側、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物としての人から視点の、“か”と“一”。
ほんでから“カイの御用”って言うのんは前のブログやこのブログで、“櫂(かい)”(舟を漕ぐ櫂)の御用、下位の御用の意味があると思われ、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、その心(靈)の発現と動きを示し、そして腹の中の縦の磁性と、腹の位相のサイクロトロン、そやからそれは、腹の中の磁性の右往左往と左往右往やからこそ、舟を漕ぐ“櫂(かい)”と思われ、そして“一”=智性=1番目のオーラより“下”やから下位と思われるって解釈してきた。
ほんでから“八マ”、この“八”は、左右の磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガならイダとピンガラ。要は、左右のエネルギーラインが“マ”に“立ちて”=上昇していく様子が、“立ちて”と示されてると思えるし、いままでも“八”に対してその解釈をしてきた。
そしてそれは、後述する“富士(二二)”と同義の表記でもある。
ほんでから“マ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、まことの神の意(ココロ)。そして、裏問いすれば、禍根(まがね)。その意味があると示されてる。これらはすべて自分たちの心(靈)が観察する事象を示す意味やと思われる。
ほんでから、さらに、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、正しきと、醜げきとの意味を含むもて…って示されてて、そやからそれはすべての事象に“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、“美”と“醜”を感じ取ることが出来るのが人(日止、霊止)の智性(神性)でもあるし、それは動物より“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“日止、霊止”が果たしたからこそ理解できる言葉と概念でもある。
ほんでから、この“禍根(まがね)”は、自分の心の発振、発信が帰ってくる様子を示し、それは“曲霊(まがつひ)”でもあり、アミの本の引用ならブーメランの法則であり、カルマでもある。
やってきたことの結果は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)問わず、自分が観察する事象になる。
それが自分の、認識由来の発振、発信による。認識の程度って言うのんは、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者では違う。それは後述するとして、その意味での次の表記、“一(ひ)れ二(ふ)りて”。
“一”は、自分の認識由来の思想でもあり、“二”は、肉体の意味を持ち、また、肉体を持った心(靈)が観察する、現津(あきつ)、観察され得る事象でもある。
そやから自分の“一”、認識(悟り、幸取=さとり)と思想は、“一”=智性=1番目のオーラの大きさになる。それを、時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)で、顕現していくのが、“創造”でもある。

ほんでから次の文、

“ひつくの神に仕へている臣民、代る代るこの御役つとめて呉れよ。
今は分かるまいなれど結構な御役ぞ。”

この文の中の“御役”はさっき説明したとおり、“一”=智性=1番目のオーラの大きい人、そして“一”=智性=1番目のオーラを大きくするのは、“ひつく”=太陽凝視。
そやからそれは、太陽凝視は何のための“行”なのか、これも何回も言うてきたことなので敢えて説明しませんねん。
問題は、太陽凝視を低い価値観で、観られ、解釈され、それを一般に広め、本当のことを教えたくない=認識(悟り、幸取=さとり)させたくない存在の思惑を知るべきでんねん。

 …そやから富士の巻 第二帖の、冒頭の文の解釈は、複雑な言い回しとわかりにくい解説やったけど、要は、自分の心(靈)の発振、発信による事象の観察をするってことでんねん。
ほんでからまたまた、敢えて言うとくけど、今後=アセンション後って言うのんは、霊的進化を果たすべく場(フィールド)なんやから、自分の心(靈)の動きに、“上”を目指す心がないとアセンション後の事象には位置できん。それは、自分の心(靈)に“上”の要素が無い人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、観察できないってことでもありまんねん。

ほんでから次の文、

“この神示(ふで)腹の中に入れて置いてくれと申すに、
言ふ事きく臣民少ないが、
今に後悔するのが、よく分りてゐるから神はくどう気つけて置くのぞ、
読めば読むほど神徳あるぞ、どんな事でも分かる様にしてあるぞ、”

この文を見て、アホみたいな解釈をしてる人は、“読めば読むほど神徳あるぞ、どんな事でも分かる様にしてあるぞ、”…これについて、現世利益のご利益みたいなことしか思わへん。
大体、“読む”は、字を見るのではなく、自分の認識(悟り、幸取=さとり)にすることでんねん。アホな人は、それすら解らへん。
そやからそれは自分の心(靈)の動きである自我、“腹の中”に入れんならん。ほんでから、“神示(ふで)”は、画像を貼っておきまんねん。

“神示(ふで)”の解字 

そやからこの文は、自分の“一”、智性(神性)由来の認識(悟り、幸取=さとり)を自分の腹の心(靈)の発現である自我に入れろって言うてる。言い換えれば、自我を智性(神性)でコントロールせよってことでんねん。そやからそれは“上”から“下”(低い心(靈))への順番を敢えて言うとけば、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”でんねん。
それは“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”で芽生えていく。それが“上”の心(靈)の発現と強化でもありまんねん
ほんでから、前にも説明したことを簡単に補足として言うとけば、自我の確立=固定化は、脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程で、それは独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程で絶対に必要な要素でもある。
そやからそれは神格化の道筋ということでんねん。


ほんでから次の文、

“言ふこときかねば一度は種だけにして、
根も葉も枯らして仕まうて、
この世の大掃除せねばならんから、
種のある内に気つけて居れど、
気つかねば気の毒出来るぞ。”

これは言うまでもなく、霊的成長度に於いて、それぞれの心(靈)が、アセンションを体験し、“麦と毒麦は分けられる”という、聖書の言葉がわかりやすいから引用するけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”自我の肥大をして低い欲望のために行動する人、低い自尊心と功名心で智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)ではない知恵を使い、力を示す人、それはアセンション後に位置できる霊的成長度では無い。アセンション後の“創造”を担える人、その資格がある霊的成長度は、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を持つ“日止、霊止”であり、それは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者であるって何回も言ってきた。
そやけどそれは、アセンション後の霊的に成長した場(フィールド)になる地球に位置できる心(靈)は、“幾人も無い”(下つ巻 第三十四帖)……そやからそれは、今、大半の人は自己奉仕者で、自己奉仕者由来の価値観がこの世界の一般常識になってる。
実に情けないことでもある。
だからこそ“一度は種だけにして、”“この世の大掃除せねばならん”と示され、ほんでから自己奉仕者の心(靈)の動きをしている人に対し“種のある内に気つけて居れど、気つかねば気の毒出来るぞ。”と示されてる。ほんでから“気の毒”…これは前にも解釈したけど、かわいそうとかの意味ではなく、“気”=自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が低かったならそれは“毒出来るぞ。”ってことでんねん。
ほんでから敢えて言うとけば、“種”って表記は、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する見方が出来る人。“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考える人。
それは自己奉仕者では無くなる。
そやからこそアセンション後の世界は、誰もが誰もの良いカタチ(真の幸福=神格化を目指すこと)を思い、考え、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)していく。
そうなって行かなければ、アセンションの意義が無いってことでんねん。


“今度の祭典(まつり)御苦労でありたぞ、
神界では神々様 大変の御喜びぞ、
雨の神、風の神殿ことに御喜びになりたぞ。
此の大掃除一応やんだと安緒する。
この時、富士(二二)鳴門がひっくり返るぞ、早やう改心して呉れよ。”

この文の“祭典(まつり)”は“祀り”って表記ではないから、“上”の思惑を受け入れた肉体を持った心(靈)って言う意味。
ほんでから“雨の神、”“風の神殿”これは腹の水と、胸の臓器、肺を示す。
さっきも言うたけど、マニピューラチャクラ=腹の心(靈)、自我は、アナハタチャクラ=“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“によって支配されるべきでんねん。そういう心(靈)の進化過程の人は、自分の“力”を、決して、野放図には使わない。恨みの連鎖の種にはしないし、低い価値観で、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかということに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わない。
そやから、今、活躍している人の大半は、自分の“力”を自分だけのものとして、自分の欲望を満たすために使ったり、自分の低い功名心と自尊心の満足のために使う。
そやからそれは、今までの価値観とそれ由来の創造は肉体の左右の磁性“富士(ニニ)”によって行われてきた。
そして“鳴門”の回転は、自己奉仕者の回転は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、砌(みぎり)回転で、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の回転は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転になる。それが“ひっくり返るぞ、早やう改心して呉れよ。”は、言うまでも無く、自己奉仕者の価値観ではこの世界は自滅して崩壊するし、それを防ぎたかったなら、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を智性(神性)由来の心(靈)の動きで見出す=“身魂掃除”“身魂洗濯”をする。
何回も言うてきたことやし、“日月神示” 標記の右回転と左回転については、前にも紹介したけど、画像を貼っておきまんねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転
そやからこれも、今まで何回も言うたことなんやけど、要は、自我より“下”に向かう心の動きが、右回転で、“上”に向かうのが日足(ひたり)回転である。
そやからそれは、解りやすい一例を挙げて於けば、(通貨としての)金儲けしか頭に無い、低い心(靈)の動きの政治家や経済界のトップや、貴い概念である“主護霊”やオーラや双子の魂って言葉を低い概念にして商売する自称霊能力者や、高名な霊能力者の弟子と称し、その考えや認識(悟り、幸取=さとり)を吹聴してる人や、甘い言葉で“皆さん感謝して生きましょう”って当たり前のことを言うて、日めくりカレンダーの格言程度のことを言って信者集めをする人や、そんな本を売って印税を儲けてたり…話にならへん。
そんなものがもてはやされる世界がこの世界であり、それはさっきも言うたけどこの世界は自己奉仕者が大半で自分に甘い人が大半で、そやから低い心(靈)は、低い心(靈)の動きと、反応し、感応共振するからこそもてはやされる。
それは、ローム太霊が最後のローム霊訓講話で言うたとおり、“自分自身に合ったるものだけを、完う(まっとう)すべく、合わせているだけである。そんなものでは、眞(真固止 まこと)なる自分と言う者を、悟れないのである。”(ローム太霊との出会い ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 参照)…ってことになる。
そやからそれは、自分の心(靈)の動きに対し、甘い(すべての行動の由来になる、愛(炁)の中に、魔が入り込んだ表記)思いを持たず、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”の、ローム太霊の言葉を指標にして、“粘りとやせ我慢”で、“ひつく”=太陽凝視の“行”を頑張って(元の気を張って)行かなければ、“一”=智性=1番目のオーラは、大きくならず、“一”の大きさと質(心の在り方)によってしか、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振はない。
それは真の意味での“王”=“一二三”のオーラを|(たてぼう、こん、縦の磁性)でつないだカタチで、そのことを、敢えて強調しときまんねん。


今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”富士の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 



今回も富士の巻 第三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

メリカもギリスは更なり、
ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、
その覚悟で用意しておけよ。
神界ではその戦の最中ぞ。
学と神力との戦と申しておろがな、
どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、
一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、
畜生にも劣りてゐるぞ。
まだまだわるくなって来るから、
まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。
玉とは御魂(おんたま)ぞ、
鏡とは内に動く御力ぞ、
剣とは外に動く御力ぞ、
これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。
今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、
それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、
それでちりちりばらばらぞ。
アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、
この道理分らんか、
剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。
上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、
身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、
神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。
八月の十二日、 のひつくの 。


“日月神示”の文章は、いつもながら中々、意味深な文章って印象やけど…特に今回の富士の巻 第三帖は、そのことを強く感じさせる文やな。
そやからまず、冒頭の、

“メリカもギリスは更なり、
ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、
その覚悟で用意しておけよ。”

この文の“メリカ”“ギリス”…この表記は、大概の人が、米、英、やと思うやろけど、それは“日月神示” が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から“下”に垂れた=自動書記が行われていた時期が、戦争中やから、その時期に日本と関わっていた国として、“ドイツもイタリもオロシヤも”って書かれてると思う。
そやから時期的に、その当時の人たちのために伝えたメッセージとして、米、英…その意味もあるやろ。
そやけど、アメリカとイギリスの“ア”と“イ”が書かれて無いことにKellyさんは重要性を感じる。
その点で…やはりこの富士の巻 第三帖の“ア”と“イ”が抜かれた“メリカ”“ギリス”この表記は、外側(外国と幽界)の事象の観察を言い表した表記やと思える。
そしてこの文の“神の国”って表記は、智性(神性)の発現とその心(靈)の動きを示すと思われる。
“国”の意味については、前のブログから何回も言うて来たけど、それは後述するとして、そやから、人が、霊的成長、神格化に向かうことを妨げるという形骸の意味での、外側(外国と幽界)の事象の心(靈)…“外国”って表記で、それはした三つのチャクラの覚醒段階=自我の確立=固定化の人たちが見ている事象でもあるし、その段階の霊的成長度の人の認識(悟り、幸取=さとり)は、外側(外国と幽界)の事象だけが事象のすべてだと感じている。
認識が低い=霊的成長度が低いとそんなもんでんねん。そやからそれは、今の、地球人の大半の人たちの進化過程=霊的成長度は、外側(外国と幽界)の事象にとらわれている。
そやからこそ、自分の中に少し持っている“一”=智性=1番目のオーラを、思想や行動に活かすことが出来ていない。
そしてその心の動き由来の創造=この世界は、自己奉仕者の世界、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観で満ち溢れ、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになり、その価値観を持った人は、今、問題にすべきことから目をそらせ(恨みの連鎖の霊的干渉、子供の浮遊霊を増やし、その霊的干渉で人が幼稚な心になること)、甘い言葉や価値観に酔ったり、目先の欲望…性欲とか物欲とか金銭欲とか…八戒(低い欲望に対する八つの戒め)の段階の心(靈)の動きしか持ってない。
そして“国”って表記は、場(フィールド)を示す(囗)くにがまえと、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す表記の“玉(ぎょく)”で構成されている。
この“玉(ぎょく)”って表記の意味については、前のブログの、“思惑と顕現”の前半に書いてある。
要は、“王”の中の点が、腹の荷電粒子の回転を示し、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回りになる。

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転 日足(ひたり)回り



そして腹のエネルギーは、大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、腹の心(靈)の発現である自我に、“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現と動きが加味されて、人は智性(神性)を発現していく。
それが今の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程でもある。
その霊的進化過程=神格化への道程に対し、今、悪魔の思惑が入り込んでいる形骸の概念や、甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉……それは、下つ巻でよく出てきた表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になってる人)の人たちが、低い心の動き=(通貨としての)金に対する執着と、低い功名心と自尊心が生み出している形骸の価値観…その心(靈)の動きの産物でもある。
そやからそれは、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない。
そやから“役員づら”…今、そんな本や、サイト、セミナーなどが多い中で、本当に霊的成長って何なのか知りたい人は、さっき言うた前のブログの記事をぜひ参考にして欲しいもんでんな。
そやから話を戻し、自分の(肉体を伴った)心(靈)って言うのんは、常に、観察と認識ってことを(時間の進行とともに)行っていて、その自分自身(の本質、本霊、神性を含む意識)が観察している、外側(外国と幽界)の事象ってことを意味してると思える。
(そして、観察と認識って言う、すべての生命が持ちうる性質は、すべての生命に共通し、それはすべての生命が、神の“思惑の顕現”=現象化である証明でもあると、思える)
そしてそれは、さっき言うたとおり、“ア”と“イ”が抜けている。
そやからKellyさん的には、今までも言うて来たとおり“亜”“ア”は、現津(あきつ)、観察され得る事象の始まりであり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の始まりでもあり、そして、カタカナ表記の“イ”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん、縦の磁性))で構成されているから、神の思惑が“下”に垂れたカタチを示し、それは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”って行為、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもあり、神の“思惑の顕現”=現象化でもあると思え、それを担っているのが“日止、霊止”で、この“日止、霊止”って表記自体が、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの振動を止めるって表記でもある。 
そやから先生は、“人”って言う字の解字として、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)って解釈をした=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受け、そう思うようになったと思える。

そして次の文、

“神界ではその戦の最中ぞ。
学と神力との戦と申しておろがな、
どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、
一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、
畜生にも劣りてゐるぞ。
まだまだわるくなって来るから、
まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。”

そやから冒頭の文の“外国”と、この文の“神界”さっき解釈した“神の国”と動議屋と思われ、そしてそれは、自分の心(靈)が認識している外側(外国と幽界)の事象と、それを観察している自分、そして智性(神性)、それを感じさせる文章でもある。
そやから簡単な表現をすれば、自分の内面と外側(外国と幽界)の事象の事象、そう認識していることを指し示しており、そして自分の内面が、外側(外国と幽界)の事象に繁栄し、それを認識するのがこの次元での“創造”であることを指し示す文章で、そして今、内面とか内側(心の中と感じている事)と外面のバランスの悪さを指摘していると思える。
そやから補足として説明しておけば、内面とか内側(心の中と感じている事)=思惑=日足(ひたり)。
外側(外国と幽界)の事象=外面とか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)して創造していると感じている事象=砌(みぎり)である。
そやからこそ、この文の表記の“神界”は、自分自身の心(靈)の“一”=智性の場(フィールド)であると感じさせる。
そやから、この文の“学”は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であり、それは外側(外国と幽界)の事象の事象に対するものであり、自分が感じ(感じる磁性)る外側(外国と幽界)の事象の良いカタチを創造するための“力”でもあり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の存在の意味と意義は、そこにしかないけど、今間違った“力”の使い方を自己奉仕者がしている。
“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方…“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“力”の使い方と、“慈悲”と“慈愛”の心を持った“日止、霊止”の“力”の使い方、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ゆえの、高度な自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)由来の“力”の認識(悟り、幸取=さとり)と使い方。
どちらが“上”の思惑に沿ったものなのか。自分が持っている“力”をどう扱っていくのが、神格化に近づいていくべき心(靈)なのか…こんなことは何回も言うた。
そしてそれは、○○○大先生が前のブログとこのブログを通して伝えたい重要なテーマでもある。
その点で、“学と神力との戦”…間違った使い方をしているからこそ言われる言い方でもある。
神格化すべき心(靈)は、今後=アセンションに向け、この世界の文明の崩壊を観察し、失敗を体験し、その体験を認識しなければいけない。
その理由は、自分の心(靈)の教訓にすることでしかないし、その教訓を得た心(靈)は、生きていようが死んでいようが、自省(胸の磁性“十”)の“行”をする。
そしてそれは“力”の使い方を知る=大日如来の条帛(じょうはく)の“条”=法則性……事象の“創造”のための“力”の使い方の“道”と“理(ミチ)”…この二つをあわせて道理って言うけど、今、その道理を知らへん自己奉仕者ばっかりやから、“学と神力との戦と申しておろがな、”って言われてると思える。
ほんでからそれは“一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。”って言われてて、そやからこの世界…この事象の大半は、低い心の動きで腐ってる。この世界は、今の事象は、腐ってるものばかりが繁栄している世界でもある。
ほんでからそれは、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出していて、少し智性(神性)を持ち始めた動物よりも、霊的成長度が少し“上”であるはずの人がやっていることは、まったく動物以下=“畜生にも劣りてゐるぞ。”って強調されていると思える。
そやから人間の心の動きの動物化…そんなことは今まで何回も言うたけど、腐ってる方向性に向かってて、自分の内在する低い心(靈)の動き、低い功名心と自尊心と低い欲望、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしている人ばかりやから、自分たちが腐ってることすら判からへん。
そやから“日月神示”には“改心”とかって表記も何回もでてくるけど、それは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”で、自分たちの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出し、その“上”で自分たちの今後=アセンション後を考えて行かんならんってことでんねん。

ほんでから次の文、これは霊的成長をしていく心(靈)について、前のブログのエピローグで言うたことと同じことを言うてる。

“玉とは御魂(おんたま)ぞ、
鏡とは内に動く御力ぞ、
剣とは外に動く御力ぞ、
これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。”

“玉(ぎょく)”についてはさっき言うたばかりなので省略。
“鏡”は“上”の思惑を受信する肉体の部分、それはアジナーチャクラに相当する。
“剣”は、骨髄中の鉄分子の結晶化を示す言葉でもある。そしてこの事象と反応するのは七つの椎骨=赤 橙 黄 緑 青 藍 紫の振動を認識しうる頚椎でもあるし、肉体の構造としてのチャクラは七つあり、それについては前のブログのエピローグからコピペしときまんねん。

“…“剣”、その意味は、刀を鍛えると鉄分子は磁性を持ちまんねん。
ほんでからに、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙の剣が、
七支の太刀とも言われてるって事は、
七つのチャクラで・・・
或は、首の骨=頚椎七個で、
それは光を認識=受信する為の肉体の器官って事でんねん。
そやからそれは、
七支=鞘だけではアカン。
刀=剣だけでもアカンって事でんねん。
強固な磁性を伴った鉄、それは剣、それを差し込まんとアカンって事でんねん。”

要は、“剣”って言うのんは、この事象の観察と認識をするため、色の認識をするために発達した頚椎七個=赤 橙 黄 緑 青 藍 紫の振動を認識するためであり、それは物質の世界の=現津(あきつ)、観察され得る事象の認識でもある。
“上”から“下”…電磁波の波長の中の、ほんの一部の、可視光=色の認識に関わるって前のブログで言うたから。
ほんでからちょっと前後するけど、“鏡”は、“上”の思惑を受ける部分で、そして自分の心(靈)の動きは、“上”の思惑が加味されたものでなければ自分たちが感じ(感じる磁性)る良い世界の“創造”なんて出来っこない。
また自分たちの心(靈)の動きが“下”(低い心(靈))の心(靈)ならば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在としか感応共振しない。それはたくさんの浮遊霊を自分に憑けることになり、そのときには先生の“主護霊”がS会=紫光会の交霊会で先生に言うた様に“動きが取れない”ってことになる。
(ローム太霊との出会い 良い発振のために 参照)
そやからそれは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑ばかり受信してる=下三つのチャクラの覚醒段階の人は、自我の肥大になり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
言うまでもなく、ローム太霊が、こう書き記せと伝えた“主護霊”って存在は、“主(ヌシ)”を護る存在なのだから、人の神格化を望んでいる存在でもある。
“主(ヌシ)”については画像をはっておきまんねん。

主(ヌシ)の解字


そやから“主(ヌシ)”って言うのんは天之御中主(あめのみなかぬし)の“主(ヌシ)”と同義なんやけど、話がそれるので別の機会に説明するとして…そやから“日止、霊止”の霊的成長は、人の神格化の道程=独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程は、自我が発現し、自己、自分を認識し、“力”を求め、幸福の概念を持ち、“上”と“下”=神と自分を認識し、そして“上”を目指す心(靈)を持ち、神を意識する。
その過程で、自我より“上”の心(靈)は、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”の心(靈)で、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持つには、左往右往して自省(胸の磁性“十”)しなければならない。何回も言うてきたことでんねん。
そやから今、地球人の大半の心(靈)は、心(靈)の動きとして自省(胸の磁性“十”)してない、心(靈)の構造として胸の磁性“十”が足りないので、その意味で、次の文、

“今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、
それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、
それでちりちりばらばらぞ。”

自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きと“創造”の法則性、“道”と“理(ミチ)”=道理である条帛(じょうはく)を示している、“玉(ぎょく)”が無いって言われてる。
良いカタチの“創造”をするための基準、先生の言葉なら天の御目(あめのおめ)を持ってない。
その基準がしっかりしてないから、腐ってるものばかり繁栄する。
だから“それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、”って言われてて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”は、“ちりちりばらばらぞ。”ってことでんねん。

ほんでから次の文、

“アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、
この道理分らんか、”

“アとヤとワ”については前に解釈したからコピペしときまんねん。

“「ア」”は、
アイの“亜”、
ほんでからそれは、愛(炁)でもある。
そやから“亜”は、
根元の材料と認識され得る何か。
すべての原因とか結果とか、
事象を構成する何かとか、
事象の創造の根拠とか・・・色んな言い方が出来ると思える。
それが勢いよく、出(いずる)・・・枯れる事の無い泉のように。
そやからそれは、あい、アイ、愛(炁)・・・
そやけど・・・そのうち、
炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”に付いても、
説明せんならんな。

今回は話が逸れるから、それはまた別の機会にして、

“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。
それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。


そやから上記の通り、“創造”の“元”、基本の材料といえる何かが“亜”“ア”であり、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)を示しているのが、“ヤ”と“ワ”であると思える。
要は“思惑の顕現”が、自分たちの観察しうる事象になっていくってことでんねん。
もう一度言うとけば、“亜”“ア”は、愛(炁)“アイ”の“ア”で、
“ヤ”は、日足(ひたり)の極性、思惑が“上”に向かうことで、それは良いカタチの“創造”のための思惑。
“ワ”は、現象化。思惑と顕現が和することなのかもしれへんな。
多分そうやろ。

ほんでから次の文は、“玉(ぎょく)”の心(靈)の動きを持ってないことを、さらに強調している。

“剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。”

“剣”は、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊(ことだま)で、骨は骨髄中に鉄分子を持っているから、そしてその回りに神経がコイル状に巻いているからこそ、思惑=電磁波を自分の心(靈)に取り込む。
それは(時間の進行とともに)自分の心(靈)の構築になっていく。
そして、さっき説明した“鏡”が受信する=感応共振する霊的存在の思惑は、“上”と“下”がある。
 さっきも言うた様に、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)(低い心(靈))と感応共振していたなら、それは、“日止、霊止”の霊的成長を示す意味での“玉(ぎょく)”ではない。
だからこそそれでは、自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出せず、低い功名心や自尊心にとらわれたり、甘いささやきに乗ったり、それらはすべて自分たちに内在する悪魔のささやきに感応共振する心(靈)の部分と言え、自分たちの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出すことができなくなっている=“上”からの通信を自分の心(靈)に活かしていない……それはさっきも言うたけど、“主護霊”側の言い方として“動きが取れない”ことになる。
大体、霊的成長度の低い人の“上”と“下”の認識ってもんが間違ってるんやけど、そやからそれは、霊的成長度に於ける“上”と“下”ではなく、形骸の名誉や地位や物欲や(通貨としての)金に対する執着による認識で、それが成功者とか勝ち組とか思われてるけど、ほんまの“日止、霊止”の価値は、どれくらい神に近づいたのか=どれくらい“一”=智性=1番目のオーラを獲得したのか…“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はそれを評価するものでもある。
そやからその意味で次の文、

“上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、
身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、
神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。”

この文の、“上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、”って言うのは、今言うたばかりやけど、見せ掛けの、形骸の“上”と“下”の概念にとらわれていることを指し示し、それが今後=アセンション後、ひっくり返る。
そやからアセンション後は、霊的成長度による評価しかなくなる。
それがほんまの“上”と“下”でんねん。
ほんでから“身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、”って言うのんは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、“上”との感応共振になっていき、そうなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
それは自己奉仕者である人の評価ではなく=形骸の価値観の“上”と“下”ではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が評価する。
だからこそ、今後=アセンション後、霊的成長度に於いて分けられるからこう言われてるだけやねん。
ほんでからに今、人の智性(神性)、富士の巻 第三帖の表記なら“神界”=智性(神性)の顕現した事象の“創造”を“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在が邪魔をしているとも言いうるからこそ“神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。”って、この富士の巻 第三帖の纏め(まとめ)として、言われてると思える。
そやから、今まで何回も言うてきたけど、“身魂掃除”“身魂洗濯”をして、それは自分が“上”と感応共振し、自分の智性(神性)を高め、自分自身の心の動きの“上”と“下”を見出す基準を自分が獲得する。
大体“日月神示”って言うのんは、人の霊的成長を示す文章に間違いはないと思うから……それは“ひつく”=太陽凝視で、そして腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、(サイクロトロンがシンクロトロンに移行)そして“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)を活かした“創造”をする。
そのために“日月神示” は“上”から“下”に垂れたと思えるし、あえて言うとけば、“一”=智性=1番目のオーラを、通常の一生の霊的成長の過程より、よりも高める“行”が“ひつく”=太陽凝視でもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 富士の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 



今回も、富士の巻 第四帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、
世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、
五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、
獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、
今度は万劫末代のことぞ、
気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。
今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、
臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。
八月十三日、ローレンツ力と ○ のひつくのか三。


冒頭の文の“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”については、今まで解釈してきたとおり。そやからそれは、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体が加わった“日止、霊止”。
それを“三”と示されてると思える。
また“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラでもある。そやからそれは、頭、胸、腹、それぞれ、内容物が違う=電気特性の違う、コンデンサーの構造を構成しており、だからこそ、1番目、2番目、3番目のオーラは、振動の種類、振動数や波長の違いになる。
それが“一二三(ひふみ)”のオーラであり、すべての生命は、個々のオーラの相互干渉で事象を構成し、その事象を観察して=受信して、心(靈)は構成されていく。
ほんでから次は、“三四五(みよいづ)”の“三”“四”“五”について。
“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体を示す。
ほんでから“四”“五”“六”“七”については、以前の記事、Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。…から引用することにしまんねん。
そやからそれは、まず“四”は、発振、発信の意味がある。ほんでから“五”は、糸巻きの象形文字、神経を示す。言うまでもなく、下等な生物から人(日止、霊止)への進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、神経の発達と脳の発達が、観察されうる。
そして、動物と人間の脳の違いは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)と、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))でもあり、今までにも、心(靈)の構造として、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動って分類をしてきたけど、少し脳のことが解れば、脳のどの部分が神格化に近づくべきものなのか、理解できる。
そやからそれを、あえて言うとけば、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の脳は、本能、情動、低い功名心、自我(の肥大)。
目上(めうえ)の脳は、愛(炁)の顕現の在り方、そして、創造、知恵、さらに、知識としての知恵を智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)とする。それは“一”=智性=1番目のオーラを持ってないと、知恵を智慧に出来ないし、当然、良いカタチの“創造”など出来ない。
今、地球人は、“一”=智性=1番目のオーラが小さい人が大半やから、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の脳の心(靈)が中心で、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人が大多数であり、その霊的進化過程の人は、アセンション後の“創造”を“上”から託されない。
こんなことは今までに何回も言うてきたことであり、だからこそ良い世界の“創造”、良い世界の事象、それを観察するのは、霊的成長を果たした人(日止、霊止)にしか、資格が無い。
その資格を獲得するのは、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現した、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人でなければならない。
話を戻し、ほんでから“五六七(みろく)の仕組”。
“五”は、今、説明したとおり。
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数。ほんでから爻部(こうぶ)は、交わるの意味。そしてその象形文字のカタチを観ると、屋根の下に左右の極性があるように感じ取れる。
そやからそれは、頭と肉体を指し示すと思われる。
参考のために、以前にアップした“六”の象形文字の画像を貼っておきまんねん。

六の象形文字



ほんでから“五六七(みろく)”の、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。画像を貼っておきまんねん。

七の解字 “一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)

これも今まで、同様の解釈をしてきたとおり、“七”は、智性(神性)を受信して発現してる人の“思惑の顕現”=現象化って意味になるから、今の世界と違い、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の世界ではなく、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの心の動きは消失し、その場(フィールド)にいてる人はすべての存在の霊的成長を望む心(靈)になっていることを示す表記やと思える。
それを踏まえ、冒頭の文を観れば、意味がよく通じる。

“一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、
世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、”

そして次の文、

“五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、”

大概の人は、この文の中の弥勒(みろく)を、仏教の弥勒菩薩と関連付けるやろ。
ほんでからに、仏教が伝えたアセンション後という意味での、“弥勒の世”ってことでもあるやろ。
そやからそれは、仏教に於いての、情報としてのアセンションを言い表した言葉でもあるやろけど、それだけではなく、弥勒(みろく)は、“弥”と“勒”で構成されている。
この二つの漢字に、意味があると思える。
まず、弥勒の“弥”は、“日月神示”表記の“弥栄(いやさか)”の“弥”であり、その旧字は、“彌”で、この“彌”の字にも、旧字がある。前のブログで紹介した画像をちょっと直して、以下に貼っておきまんねん。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字

そやから上記の旧字、これは、弓偏(へん)と璽(しるし)でもある。これについても文章にすると複雑になるから、以下に画像を貼っておきまんねん。

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


補足として、“メグリ”(帀)の解字も、以下に貼っておきまんねん。

“メグリ”(帀)の解字

そやからこれは、前のブログで、肉体内にあるチャクラそのものって解釈をした。
ほんでからチャクラを構成するのは、背骨と、左右にある肉体の器官と、神経でもある。
そしてそれぞれのチャクラは、サイクロトロンの構造を持ち、“上”から“下”に降り注がれてる荷電粒子=神の思惑を、自分の肉体に取り込み、同時に、心(靈)にも取り込み、そうやって、(“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しながら)霊的成長を時間の進行とともにしているのが、生命(生きる使命=存在理由)でもある。

ちょっと長い説明になってしもたけど、もうひとつ。
弥勒の勒って言う字は、その意味は、馬の頭にかける革、おもがい。あるいは、くつわ、くつばみ、馬の口にかませて手綱をつける金具、それは制御するとか、おさめるとか抑える(おさえる)とか、しめる、しいる、むりやりに、の意味があり、そやからそれは、生命って言うのんは進化過程において肉体内のチャクラを発達させてきている。そして今の、平均的な地球人のチャクラの覚醒段階は、マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒に移行しようとしている。
だからこそ、弥勒の弥=チャクラに、弥勒の勒が必要になり、それは進化過程で必要な心(靈)の発現と動きでもあり、その進化過程で、必要な事象が、自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、そのときの心(靈)の動きは、“観自在”であり“直日”であるって何回も言うてきた。
そやからそれは、野放図な、自我の確立=固定化の段階から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をしていく。それは“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”になっていく。
人が、そうなったなら、自分が持っている“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分の低い欲望の達成や、低い功名心や自尊心の満足のために使わない。
すべての“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は、神の智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)であることを認識し、だからこそ自分が観察する事象を良いカタチにするために“力”を行使しようとする。
それがアセンション後の人たちでもある。
そして、補足として、仏教で言うところの弥勒、それは、慈悲から生まれたものとされ、その意味を訳して“慈氏”といわれている。また、弥勒菩薩の別名は慈氏菩薩でもある。
この“慈”って言う字は、“慈悲”と“慈愛”でもあり、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、心(靈)が“上”に向かう意味もある。このことについても、今まで何回も言うてきたから敢えて説明はしませんねん。

だからこそ次の文は、人の心の進化過程と、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している。

“獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、”

人の動物化、智性=神性を持っているのに智性を使わない人。その心(靈)の動きはとても醜いけど、今それがもてはやされる風潮があり、本当の価値とか貴いものを見出していく心の動きを持っている人はとても少数である…情けない。
そやからこそ、霊的成長度に於いて分ける=アセンションが起きる。それを言い表した表記が、次の文、

“今度は万劫末代のことぞ、
気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。”

言うまでも無く“今度”は、今後=アセンション後のことであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、“気の毒”が、“出る”=発振、発信されるって言われてて、そんな人は今後=アセンション後の“創造”を託せないから、“洗濯大切”って言われてる。
言うまでも無く“身魂掃除”“身魂洗濯”は、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”して、自分の心(靈)の発現と動きの“上”と“下”を智性=神性で判断し、それから得られた認識(悟り、幸取=さとり)を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす。
それがまた、ローム太霊の言葉の、左往右往でもある。

そして次の文は、アセンション後に位置できる心(靈)を持った人、それを指し示す表記でもある。

“今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、
臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。”

この文の“お役”は、アセンション後の“創造”を担う資格を持った人。
そして“そのままいつまでも続くのざから”…アセンションのその後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、いないって意味のことを言うてる。
敢えて言うまでもないことやけど、言うときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 富士の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 


今回も、富士の巻 第五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、
まだまだ少なくなりて、一時は喰う物も飲む物もなくなるのぞ、
何事も行(ぎょう)であるから喜んで行して下されよ。
滝に打たれ、蕎麦粉(そばこ)喰うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、
今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、
この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、
この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、
今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。
今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。
この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、
早く身魂みがいて下されよ。
外国は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、神の国はローレンツ力 と申してあるが、
ローレンツ力 は神ざ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) は臣民ぞ、
 
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ばかりでも何も出来ぬ、
 
ローレンツ力 ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、
それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、
神急(せ)けるぞ、
この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。
今度の行は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。
どこに居りても掃除出来た臣民から、
よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。
神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、
今は一分もないぞ、一厘もないぞ、
これで神国の民と申して威張ってゐるが、
足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、
穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、
どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、
神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、
この道理よく腹に入れて呉れよ、
この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、
何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。
八月の十四日の朝、 ローレンツ力と ○ のひつ九のローレンツ力と ○

冒頭の文、これは、岡本天明はんに自動書記による憑依現象が起きていた時代背景を考えて読めば、戦争中やから、こうも言われてるのやろけど、きっとこれからも、こういう事態になると思える。

“喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、
まだまだ少なくなりて、一時は喰う物も飲む物もなくなるのぞ、”

今の、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が行っている経済主体の世界は、自分たちに発現した、下三つのチャクラ由来の心(靈)の動きの、本能、情動、功名心、自我…までの、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。
そやからこそ、一部の人だけが(通貨としての)金をたくさん集め、たくさん使い、場(フィールド)としての地球全体の霊的干渉ってもんを考えない。
言うまでもなくそれは、恨みの連鎖の霊的干渉で、飢餓貧困や戦争などは、一部の国の経済の発展の結果でもある。
そして、これも、言うまでも無く、経済大国は日本とアメリカ、そやから不幸な死を迎えた子供の浮遊霊が、恨み妬み、羨み…その心(靈)の動きの裏にあるのは三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)であり、そしてさっき指摘した一部の人たちの幸福の概念は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)のうちの貪、痴(とん、ち、)でもある。そしてそればかり追い求める心(靈)の動きが瞋(しん)でもあるな。
そやから前にも指摘したけど、この国とアメリカの人たちの大半は子供の浮遊霊の憑依でどんどん幼稚になっていて、物事を真剣に考えん。簡単なものしか求めない。目先のことしか分からない。エネルギーを贖わないで簡単に結果が得られるものを求めたりする。(サプリメントとか…)
ほんでから、今自分たちがやっていることに対し、子供の浮遊霊は自我の確立=固定化の成長段階やから、悪いことを悪いと認めないとかの心(靈)の動きもある。ほんでからそれは目上(めうえ)の心(靈)が発現していない、動物霊も加担してる。
そやからそれは、下三つのチャクラ由来の心(靈)の動き=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きしかないからこそ、この世界は恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになっている。
そして日本とアメリカなど、経済を牛耳って自分たちの低い幸福の概念を実現してきた場(フィールド)に居てる人たちは、ブーメランの法則(“曲霊(まがつひ)”)により、言い換えれば因果応報で、今後、飢餓や貧困、そして恨みの連鎖の霊的干渉による事象…事件や事故、犯罪、これらを体験せんならん。
さらに恨みの連鎖の霊的干渉に関わる霊的存在の心(靈)は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、砌(みぎり)回転であるからこそ、“上”から“下”への、縦の磁極性に対し、左=日足(ひたり)回転で構成されたアミノ酸結晶であるはずの、高分子化したたんぱく質や、遺伝子を崩壊させていく…これについては、いずれ、○○○大先生が“改”で、述べていくやろから、ここでは詳細を説明せんけど、要は、自分たちが自国の経済=低い幸福の概念により、蔑ろ(ないがしろ)にしてきたものには、生命としての尊厳がある。
そやから生命(生きる使命=存在理由)を、蔑ろ(ないがしろ)にした結果って言うのんを、知らんならん。
そして自省(胸の磁性“十”)の“行”をして…死んでからか生きてるうちにか知らんけど、それはいずれ自分に降りかかり、自分がそれを真剣に考え、自分たちに責任があったことを認識せんと、次の霊的成長の段階=自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現にならへん。

そして、次の文、これは誰もが体験せんならん大事なことでもある。

“何事も行(ぎょう)であるから喜んで行して下されよ。
滝に打たれ、蕎麦粉(そばこ)喰うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、
今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、
この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、
この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、
今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。
今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。
この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、
早く身魂みがいて下されよ。”

この文の前半は、さっき言うた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の因果応報のことも言うてる。
誰もが恨みの連鎖の霊的干渉を体験し、その意味を考え、自分たちに問題があったことを自省(胸の磁性“十”)する。
それをして行かんと、自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現にいたらないからこそ、“今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、”と、言われ、そしてそれに脱落する心(靈)の成長度の人は、今後=アセンション後の事象を体験できない。
それを以下の言い回しで言われてる。

“この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、
この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、”

そやから、“この行”って言い回しは、既成宗教などの形骸の行の概念ではなく、

“今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。”って言葉に掛かってる。
この文で重要なのは、“今度の御用に使ふ臣民”=霊的成長を果たし、今後=アセンション後の事象の“創造”に携わる資格を持った“日止、霊止”。
そして“はげしき行さして神うつるのぞ。”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を理解出来る“日止、霊止”。それは、肉体の構造が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化出来ている人。
“身魂磨き”した“日止、霊止”でなければ、電磁波として高い振動である“上”の思惑を含んだ振動と感応共振できない。そやからそれは、天意を受けることが出来ないって言い回しが、理解しやすいやろな。
そやから、要は、“創造”には法則性がある。
創造された事象を観察するのは、自分の心(靈)であり、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、現津(あきつ)、観察され得る事象を創造するのであり、霊的に低い人は、低い事象しか観察出来ず=アセンション出来ず、自我より上の心(靈)の発現をした、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”を、自分の認識(悟り、幸取=さとり)にしている人は、アセンション後の“創造”を担う資格を持つ。
このことは前のブログでも、このブログでも、何回も言うてきたことやけど、何回も言わんならんのやろな。
話を戻し、“今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。”…これは今の事象は、何も“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑通りになっていないことを前提に言っている言い方である。
そやから、今後=アセンション後、あるいは、アセンションに向かう過程で、
“この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、”と言われ、さっきも言うたけど、“上”との感応共振をするのは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化で来た肉体で無いといけない。
そやから、今の“行”の概念は、その認識は、宗教関係者が権力の行使や金儲けに走り、そやから大半の宗教関係者は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で霊的に低く、そやからこそ“行”や“修行”の概念は見せかけで、形骸になっていて、ただの“行”ごっこになってる。
“日止、霊止”が“行”をする理由は、生体内電流の強化であり、それは身体磁場の強化になり、生体内電流の強化は肉体組織の結晶化になり、特に骨髄中の鉄分子の結晶化をしなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振は起きず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の心(靈)霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に取り込むことが出来ない。
そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑と感応共振するための、肉体組織の結晶化、“日月神示” 表記の“身魂磨き”…それが、現時点、36年目に入った太陽凝視と、月の凝視と、電気行…それから得られた先生の認識(悟り、幸取=さとり)でもある。
そやから、アセンションって言うのんは、“日止、霊止”の進化過程において、今より“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をしていかなければならない。
そして今後=アセンション後、地球が、その場(フィールド)になる。
それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は、さまざまな宗教や、最近ではチャネリングや、昭和のはじめに排出した物理霊媒、その中で特に高度なのがT霊媒=竹内満朋で、そやからそれは、S会=紫光会の交霊会でもあるんやけど、要は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、さまざまな手段で、人に、今後=アセンション後のことを教え、そのために自分たちはどう在るべきなのか、教えようとして来た。 
それは“日月神示” でもそうでんねん。
ほんでから、そのなかでも特に“日月神示” は、“ひつく”=太陽凝視のことを言うてると思える。
そやから、それらは、すべて、人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の良い形を願う“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化でもある。

話を戻し、次の文、

“外国は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、神の国はローレンツ力 と申してあるが、
ローレンツ力 は神ざ、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) は臣民ぞ、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ばかりでも何も出来ぬ、
ローレンツ力 ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、
それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、
神急(せ)けるぞ、
この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。”

これまでも、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)。 ローレンツ力 はローレンツ力って解釈をしてきた。そして神は示す偏(へん)と“呂”、エネルギーの回転を示すって解釈をしてきた。それを踏まえ、この文を読むと、理解できると思う。
そやから、外側(外国と幽界)の事象って自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)てるのは、心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) で、それは自分自身であるからこそ、“臣民”と言われ、そして自分の(心(靈)と物質である)肉体に、ローレンツ力 ローレンツ力  があり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑である“上”から注がれる高い振動の電磁波を自分の心(靈)に取り込む仕組むがローレンツ力 ローレンツ力 でもある。そやからこそ自分自身の霊的成長を果たす仕組みを、自分自身が認識した言葉そのものが“神”ってことになる。
要は、自分は“下”で、神は“上”ってことでんねん。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、ローレンツ力による“上”からの荷電粒子の取り込みが無ければ、成しえない。
そのことを先生は、“改”で説明している。このブログは、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程にまで言及してたなら、とても長い文章になるから、それは省き、そやから、この文の要点は、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ばかりでも何も出来ぬ、
ローレンツ力 ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、”…で、これは、この事象の“創造”は、
“日止、霊止”の心(靈) ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) と、神の思惑の受信=ローレンツ力 ローレンツ力 によって成り立つってことを言うてる。

そして、今後=アセンション後のことを指す文として、

“それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、
神急(せ)けるぞ、
この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。”って言われてる。
さっきも言うた様に“上”との感応共振をして、今後=アセンション後の事象を創造する。それを強調した言い方でんねん。

ほんでから次の文も、“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の中の“上”と“下”を自分の智性(神性)で見出して、そして“上”との感応共振を指すことを言うてる。

“今度の行は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。
どこに居りても掃除出来た臣民から、
よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。”

“よき御用”は言うまでも無く、アセンション後の“創造”を担う資格を持った“日止、霊止”を指した表記でんねん。

ほんでから、次の文も、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出すことを言うてる。

“神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、
今は一分もないぞ、一厘もないぞ、
これで神国の民と申して威張ってゐるが、
足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、”

そして、次の文は、霊的成長度による資格が、アセンション後の“創造”を担うことをあえて強調している。

“穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、
どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、
神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、
この道理よく腹に入れて呉れよ、
この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、
何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。”

この文の、
“穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、
どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、
神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、”

…この間、先生が立ち読みしたフォトンベルトを題材にしてたなんかの本に、安全なところに移住したなら、自分たちは、アセンションに伴う醜い事象(戦争や災害など)に巻き込まれないって書いてあった。(東京から松山に引っ越した人)
そやからそれは核シェルターとか…そんな程度の認識で、そやからそれは、そんな解釈をする人の認識は、程度が低い。低すぎる。
そやからそれは、アセンションが霊的成長度によって分けられる事象であり、それは霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をした“日止、霊止”でなければ、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”の心(靈)の発現をした“日止、霊止”でなければ、今より“上”の世界に位置できないことを、まったく理解していない。
そやから、今後=アセンション後の醜い事象を通り越し、この自己奉仕者の場(フィールド)である現時点の地球から卒業できるのは、“慈悲”と“慈愛”の発現をして、“上”の思惑を受信できる=理解できる、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来た人でなければならない。

それが、以下の文、

“この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、
何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。”

この文の中の表記“神の仕組み”、“道理”、この言葉に示されてて、それは神の“思惑の顕現”=現象化がアセンションでもあり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の段階と法則性を示す表記が“道理”でもある。言うまでも無くそれは、自我から“慈悲”と“慈愛”の発現でんねん。
よってそれは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と共に、今後=アセンション後の“創造”をしていくからこそ、“神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、”って言われてまんねん。
ほんでから、この、富士の巻 第五帖は、第六帖の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念につながっていく、意味深い文章でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第六帖 Kellyさん的解釈

 

今回も、富士の巻 第六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、
悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるから
よほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。
親や子に悪の神かかりて苦しい立場にして悪の思ふ通りにする仕組立ててゐるから気をつけて呉れよ。
神の、も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世は戦済んでゐるぞ、
三四五(みよいづ)から五六七(みろく)の世になれば天地光りて何もかも見えすくぞ。八月のこと、八月の世界のこと、よく気つけて置いて呉れよ、
いよいよ世が迫りて来ると、やり直し出来んと申してあろがな。
いつも剣の下にゐる気持で心ひき締めて居りて呉れよ、
臣民 口でたべる物ばかりで生きてゐるのではないぞ。
八月の十五日、ひつく ローレンツ力と ○ローレンツ力と ○ のひつ九のか三しるさすぞ。

前のブログでもこのブログでも、何回も言うてきたことやけど、“善”は、神格化の方向性と智性の受信、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と自分の心(靈)との感応共振でもある。
同様に、“悪”は、心の動きの本能化と低振動化で、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)(低い心(靈))との感応共振。そやからそれは、一般に、悪霊って呼ばれてる存在と、自分の心(靈)との感応共振でもある。
また、悪霊の増加は、恨みの連鎖の結果でもある。そやからこそこの星は、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになっている“痛みと悲しみの星”でもある。
そやから、この、富士の巻 第六帖の冒頭から言われてる“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)は、薄っぺらい見方、幼稚な認識での“善悪”ではない。
そやからそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)って言うのんは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるべきで、それを判断するのが天の御目(あめのおめ)でもあるし、その“創造”のよいカタチの基準でもある天の御目(あめのおめ)を獲得するのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振でもある。それを“日月神示”の上つ巻と下つ巻では、何回も言われてきた。そのことは今後の“日月神示”の文章でも何回も言われ、だんだん詳細になって行くのやろな。
話を戻し、人は霊的成長を果たしていき、そして、今後=アセンション後は、人が望む理想と神の思惑がだんだん一致していく。そやからそれをKellyさん的には、前のブログで、ちょっと幼稚な言い方やけど、天国や!!って言い方をした。先生的な表現では、すべての事象が神性と感じられ、また、そう思い、感じていく人が今より少し霊的に“上”に向かった人でもあるって思うてる。そうなって行くやろ。
そやけどそれは、すべての事象は自分の在り方を示すって言う、先生の悟りで今の事象を観れば、今かて自分たちの高い認識を獲得していくために、右往左往、失敗を体験し今後の自分の在り方を思い、そしてその思ったこと、自省したこと、言いかえれば、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、アナハタチャクラの刺激になり、腹=マニピューラチャクラの心(靈)の発現、自我の確立=固定化、自我の肥大から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持ち、それをこの事象に顕現していく。
簡単に言えば、自己奉仕者は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になる。
それを踏まえて、富士の巻 第六帖の冒頭の文を読むと、良く理解できる。


“今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、
悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるから
よほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。”

この“フンドシ”って表記も、腹の、縦の磁性と横の磁性を示す表記やな。

ほんでから次の文は、恨みの連鎖の霊的干渉による因縁を説明してる。

“親や子に悪の神かかりて苦しい立場にして悪の思ふ通りにする仕組立ててゐるから気をつけて呉れよ。”

大体、霊的成長度の低い人は、自分に背負った因縁を薄っぺらい価値観で、悪とみなし、ただそれから逃れることしか考えん。
そやから、低級な霊能力者や形骸の宗教や…見せ掛けの祓いや因縁解消や運命を変えるとのうたい文句の印鑑やパワーストーンや…甘い言葉の出版物や…要は、霊的に低い人ほど、甘い(亜、魔、出ずる、泉)方向を求める。
生きているあいだに背負ってる因縁は、自分に課せられた試練で、それにどう対処していくのかが霊的成長の一端でもある。
敢えて説明することでもないな。

ほんでから次の文、

“神の、も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世は戦済んでゐるぞ、
三四五(みよいづ)から五六七(みろく)の世になれば天地光りて何もかも見えすくぞ。”

この文の“戦済んでゐるぞ、”は、自分の心(靈)の“上”と“下”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出す“身魂掃除”“身魂洗濯”が済んでいるってことでんねん。
そやから、

“神の、も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世の、
も一つ上の神の世は”って、この複雑な表記は、霊的世界の階層を示す表記で、そこには進化過程の低い地球人が今、多数行っている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉は無い。それを言うてるんやけど、そんなことは当然でんねん。
そやからそれは、自分の心(靈)の動きが、事象に反映する。現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分の心(靈)次第で、また、霊的成長度次第でもある。
そやから神と呼称される存在の場(フィールド)には、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は無い。当たり前でんねん。
それを今の低い進化過程の地球人に知らせるには“三四五(みよいづ)から五六七(みろく)の世”…良い世界の“創造”は、霊的に高い場(フィールド)を感じ(感じる磁性)ていくには、そうして行かんならん。
そやから“三四五(みよいづ)”と“五六七(みろく)”、それは、前々回の、富士の巻 第四帖でも言うたけど、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体の意味がある。
“四”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。粗野から現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”のための心(靈)の動きでもある。
“五”は、糸巻きの象形文字=コイル状に巻いてる神経である。身体磁場=オーラの発振、発信と、サイクロトロン、シンクロトロンを示す表記でもあるな。
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数。ほんでから爻部(こうぶ)は、交わるの意味。そしてその象形文字のカタチを観ると、屋根の下に左右の極性があるように感じ取れる。
そやからそれは、頭と肉体を指し示すと思われる。そやからそれは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と自分との感応共振を示す爻部(こうぶ)、交わるの意味である。
“七”は、“一”=“創造”の“主(ヌシ)”、“亜”が出ずる、泉、アイ(向かって左から右、“思惑の顕現”=現象化)、愛(炁)。それに乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
そやからそれは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑(天意)と、自分の心(靈)が一体になり、事象の“創造”をして行くさまでもある。言うまでも無く、アセンション後は、霊的成長度の低い自己奉仕者がいないから、そういう事象になる。

ほんでから次の文、

“八月のこと、八月の世界のこと、よく気つけて置いて呉れよ、
いよいよ世が迫りて来ると、やり直し出来んと申してあろがな。
いつも剣の下にゐる気持で心ひき締めて居りて呉れよ、
臣民 口でたべる物ばかりで生きてゐるのではないぞ。”

この“八月”って表記を、季節を示すことだけやと思うてると、言葉しか解釈できない結果になる。
そやからそれは間違いで、今までも“八”は、肉体の左右の極性や磁性を示す表記やって言うてきた。
そやから“八月”は“日月神示” 表記の“富士(二二)”と同義で、それは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
そやから“八”と、肉体を示す意味での“月”。肉体を持った心(靈)=“日止、霊止”でなければ、この事象の“創造”はできない。当たり前のことなんやけど、それが理解出来てないとこの文章は解釈できない。
そやからそれは、アセンションは数億年に一度の神のプログラムで、“創造”の“主(ヌシ)”の、時間の進行に伴う人(日止、霊止)の進化過程での“思惑の顕現”=現象化でもある。
そやから“いよいよ世が迫りて来ると、やり直し出来んと申してあろがな。”って言われてる。
今、アセンションに間に合わん心(靈)の進化過程、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしてる心(靈)、一言で言えば、(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉を選んでる心(靈)の)自己奉仕者ならば、“やり直し出来ん”…そうなるだけでんねん。
ほんでから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振、いわゆる天意を受けて、天の御目(あめのおめ)を獲得した、“善”の、行い(“思惑の顕現”=現象化)は、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)自己奉仕者の心(靈)ではダメやからこそ、“いつも剣の下にゐる気持で心ひき締めて居りて呉れよ、”と言われてる。
そして、心(靈)が(時間の進行を感じ(感じる磁性)ながら)育っていく…その過程では、さまざまな霊的干渉があり、霊的干渉の“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉=通信を受け、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)していくのは、自分の心(靈)の動きである。
それが結果、善の事象か、悪の事象か、そのどっちかしかないってことでんねん。

ほんでから、通常、自分が生きているのは、肉体の維持やとしか思われてへんから、心(靈)が育って認識を獲得し、“一”=智性=1番目のオーラを大きくしていくのが霊的成長やからこそ、

“臣民 口でたべる物ばかりで生きてゐるのではないぞ。”

…って、言われてる。

そして“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”は、“ひつく”=太陽凝視で、
それはまた、以前紹介した、春の巻 第二帖の表記の“特別神かかり”(神格化を意識した太陽凝視)でもある。
ほんでからそれは、今、ネット上に多い、不食を求めるだけの太陽凝視ごっこではなく、自分に厳しい“行”を課した“日止、霊止”でなければならない。
そやからそれは、心(靈)の“上”と“下”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を、自分の智性(神性)で判断し、自分の心(靈)の動きを注意深く見つめ、すべての事象が幸福=神格化に向かうような、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとる人になる。
それは“一”=智性=1番目のオーラが大きく、“慈悲”と“慈愛”を持った人。左往右往の“行”をして、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をした人。
それを果たした人が、アセンション後の“創造”の中心になるってことを、敢えて付け加えておきまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第七帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”富士の巻 第七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、
善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。
今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、
草木はそれぞれに神のみことのまにまになってゐるぞ。
一本の大根でも一粒の米でも何でも貴くなったであろが、
一筋の糸でも光出て来たであろがな、
臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、
神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、
殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、
天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。
結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ、
神はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。
戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、
それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ。
八月十六日、 ローレンツ力と ○ のひつくのか三。


冒頭の文、

“悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、
善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。
今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、”

この文を、Kellyさん的に言い換えたならば、この世界は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示す場(フィールド)になっている。
そして、今後=アセンション後、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性を見出していく。
そのために今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍している世界は、崩壊し、心(靈)の発現の低さ、心(靈)の動きの低さが、自分たちの失敗を招くことを誰もがにんしきしていく。
それがある意味、ローム太霊の言葉の左往右往でもある。
心(靈)の発現が、低い砌(みぎり)の“行”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の法則性に則って(のっとって)いないから、“神の咎め”(“曲霊(まがつひ)”=発信した振動が自分に返ってくる)があり、それを体験してから自分の在り方を考えるようになる。
また、それが神格化に向かう進化過程でもある。その認識を得た“日止、霊止”は、もう失敗をせん。“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、胸の磁性“十”を獲得するからでもあり、それが第四密度、アナハタチャクラの振動でもある。
そやからそれは、(下三つのチャクラ由来の)低い心(靈)の動きを持っていても“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にはならない。
言い換えれば、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きを、目上(めうえ)(智性(神性)の発現)で、制御できる。
人が、良い世界の“創造”を果たすなら、こんなことは最低の条件でんねん。

ほんでから次の文は、植物って霊的存在は、人の心(靈)に比べ、相対的に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を持ってないってことを言うてるのかもしれへんけど、それとは、ちょっと違う解釈をしてみたい。

“草木はそれぞれに神のみことのまにまになってゐるぞ。”

この“草木”は、くさかんむり=芽生えるの意味と、日=太陽と、胸の磁性“十”で、“草”。
そして、“木”は、胸の磁性“十”に、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。このことも、何回も言うたことやな。

ほんでから次の文は、今言うたことを揶揄(やゆ)した文章のようやな。

“一本の大根でも一粒の米でも何でも貴くなったであろが、
一筋の糸でも光出て来たであろがな、”

ほんでから、次の文の言い方は、冒頭の文に掛かった言い方で、この文の中の“本当のつとめ”ってことを、今の人間がしていない=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)しかもっていないからこそ、言われてる言い方でもある。
 ほんでからにそれは、天意を受けていない。そやからそれは、下つ巻で“天詞様”って表記が、数回出てきてる。
それについては、下つ巻 第三十六帖から、引用しときまんねん。 

                                  ↓

““天詞様”これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=天の、詞(訓読みでことば)って言うてる。さらに詞(ことば)を構成する言(ごんべん)と司。 
これは、言(ごんべん)は“ことば”って意味があり“司”っていうのんは“つなぐ、つぐ”って言う意味がある。(嗣)
そやから“天詞様”って言うのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)とつながっていることでんねん。”


以上でんねん。

そやからそれは、“本当のつとめ”をしていない人は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉で、低い功名心と自尊心を昂らせ、自分の目先の利益しか思わない。
そんな人たちが大多数の場(フィールド)がこの世界…そんな人が、神の思惑を顕現できるわけが無い。
それを踏まえて、以下の文を読めば……

“臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、
神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、
殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、
天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。”

そやから、何回も言うてることやけど、今後=アセンション後は、自己奉仕者の段階の霊的成長度の人は、いなくなる。
それは“本当のつとめ”=神の“思惑の顕現”では無いからでもある。
そしてアセンション後は、霊的成長をどんどん目指す世界になる=今より、(相対的に)神の思惑を顕現した世界になる。
それが“殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、”…“あらはしたなら、”は、今、現してないってことでんねん。
ほんでから“まことの光”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した“日止、霊止”が、天意を受け=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との霊的干渉をして、それを自分の心(靈)の動きにしていく。
そのオーラの発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になる。
それは発信されるオーラそのものが、今より相対的に高い波長や振動数になる。人がそうなっていくために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示した“行”が、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。それは頭の磁性の強化になり、“一”=智性=1番目のオーラの獲得になっていく。
そやから、それを観測する人が、霊的に低いならば、“天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。”ってなっていく。

ほんでから次の文は、日本って国は、地球上では霊的に高い国でもある。地球上では、平均的に“一”=智性=1番目のオーラが大きいのは、日本人でもある。(このことは、前のブログで少し述べてるけど…太陽凝視を教えてくれたKさんが呼び出した高い存在に、先生が霊眼を駆使して“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に訊ね、そのメッセージを読み取り、そして知ったことでもある)
それを前提に言われてる文章やと思える。

“結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ、”

ほんでから次の文は、自己奉仕者に対して言うてるメッセージでもある。諌言(かんげん。いさめること。また、その言葉)ってことやな。

“神はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。
戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、
それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ。”

この文の“気の毒出来る”は、前にも解釈したけど、自分の心(靈)が低く、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉しかないならば、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるオーラは、他者のオーラと相互干渉する。
そしてその相互干渉する人(肉体を持った心(靈))同士は、低い心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の場(フィールド)を創造する。
もう、それは、出来上がってる。この世界そのものでもあるな。
そやから、自分の心(靈)の中の、“上”と“下”、それを見出さんならん。
何回も言うたことやけど、それを言い換えれば、自分の心(靈)の動きの“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す。
見出すのは、智性(神性)で、智性(神性)を発現した人の“一”=智性=1番目のオーラは、大きくなるし、智性は、日を知る性質でもあり、それが“ひつく”=太陽凝視で、今までの“日月神示”解釈で出てきた言葉を引用すれば、“ひつくの民”=太陽凝視を“行”として行い、智性(神性)ゆえの認識を獲得した人でもある。
話がそれたけど、要は、“身魂掃除”“身魂洗濯”は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出すことで、どちらの心(靈)の動きが神の“思惑の顕現”=現象化になっていくのか自分で判断する。
そやから“己の心に巣くうてる悪のみたま”は、自分自身の低い心(靈)の動きと、それに感応共振する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的存在、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った霊的存在。
それは、恨みの連鎖の霊的干渉そのものであることを、あえて、言うときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第八帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”富士の巻 第八帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、
草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、
神々まつり合はすことぞ、
皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。
みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、
物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、
足らぬと思ふてゐるが、余ってゐるではないか、
上(かみ)の役人どの、まづ神祀れ、神祀りて神心となりて神の政治せよ、
戦など何でもなく鳧(けり)がつくぞ。
八月十七日、 ローレンツ力と ○ の一二のか三。


冒頭の文、

“山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、
草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、
神々まつり合はすことぞ、”

これは、私たち人(日止、霊止)が、観察し得る事象…それは、すべて、神の“思惑の顕現”=現象化であることを言うてると思える。
そして、この後の文章は、私たち人の思惑が、事象=現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”に加担していることを言うてる文章やと思える。
そやけど、それだけではなく、“山”=脳。
“川”“海”=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
“雨”=“上”から降り注がれる家電粒子を指し示す。
参考のために、前のブログで使った画像を修正したものを、以下に貼っておきまんねん。

雨の象形文字 解字 

そして、“風”=気体による電磁誘導。言うまでも無く“日止、霊止”は、空気を吸って、肉体のオーラのうちの2番目の発振、発信に関わる器官は、肺で、肺は、肺=“悲しみ”でもある。
“悲しみ”って心(靈)の動きを体験すると、心(靈)が“慈(しげる)”から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを、事象に、顕現できる。
また、“悲しみ”は心(靈)が“非(いたむの意)”でもある。
それがまた、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)で、自省(胸の磁性“十”)の“行”をすることでもあり、さらに、ローム太霊さんの言葉、左往右往の一側面でもある。
そして“天地”、これは、人のオーラの構成を示す“三”って言う字そのものが、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”って言う意味を持つ。
要は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動“一”は、“日止、霊止”、肉体を持った心(靈)ってカタチで顕現したみたいなもんでんねん。
そやから“一”は智性(神性)で、“二”=肉体で、それを足したなら“三”になる。
さらに補足で言うておけば、“三”に|(たてぼう、こん、縦の磁性))を足したら、“王”=人(日止、霊止)の完成された様子にもなるし、“王”の向かって右下、その人の左下に ローレンツ力  を足したなら、“玉(ぎょく)”になり、“玉(ぎょく)”は心(靈)の動きを示した表記でもある。そやから“玉(ぎょく)”…そうなっていくのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあることを前にも説明したから、ここでは敢えて詳しくは述べないことにしまんねん。
…そやから、“山”“川”“海”“雨”“風”“天地”は、上記の意味までも示す文章やと思えるな。

ほんでから次の文、

“皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。”

私たち人(日止、霊止)の心が、観察しているのは、現津(あきつ)、観察され得る事象で、事象の“創造”は、“上”からの荷電粒子と、自分たちの思惑=“畐”(振動の増幅と息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))で、行われている。
それが人って言う字の、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
それがまた、

“神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、
神々まつり合はすことぞ、
皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。”

…でもあるな。

ほんでから、この文の“祭り”…そしてこのあと、“祀り”って表記もでてくる。
それについては、以前紹介した画像を、以下に貼っておきまんねん。

“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い

 

そやから次の文、

“みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、
物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、
足らぬと思ふてゐるが、余ってゐるではないか、”

今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、
奪い合ってるから恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになった。
この星では誰もが衣食住に困らないように“上”は条件付けたんやけど、人(日止、霊止)の心(靈)の進化過程は、自我の確立=固定化で、自分たちだけ自分たちだけって思いが強く、言うならばそれは、霊的成長度が低く、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)しかもって無いんやけど、そんな程度の低い心の動き由来の“創造”では、この世界は壊滅する。
それに気づけってことでんねん。そやからアセンションに伴う、醜い事象を体験して、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るんやけど、もっと早く気づけば、醜い事象を教訓としなくてもエエんやろけど……。

ほんでから次の文、

“上(かみ)の役人どの、まづ神祀れ、神祀りて神心となりて神の政治せよ、
戦など何でもなく鳧(けり)がつくぞ。”

これは、今の形骸の価値観で上に立った社会的地位のある人とか、政治家とか、そんなものは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から観たら、低い心の動きで=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きでトップになったと錯覚してるだけで、そやからそんなものは、霊的成長って観点での“上”と“下”ではない。
“下”=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の霊的干渉は、低い自尊心と功名心と目先の欲望の達成…そんなもんしかあらへんねん。
そやから、甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉で選挙演説をする政治家と、投票する人も、甘い言葉につられ投票する。今の政治なんてもんは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来の心(靈)でしか出来上がってない。
そやからこそ、今後=アセンション後は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想にする“日止、霊止”が上に立ち、“天意”由来の言葉を発するからこそ、“日月神示”表記の“天詞様”、これは、天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)と詞(ことば)になる。
その意味のことを言うてるだけでんねん。
ほんでから敢えて言うまでもないけど、“日月神示”が書かれたのは=上から垂れた時代背景は、戦争中やったから“戦など何でもなく鳧(けり)がつくぞ。”って言われてるけど、
それだけではなく、“戦”は、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出すための“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味を感じさせるな。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第九帖 Kellyさん的解釈



今回も、“日月神示” 富士の巻 第九帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。 

神界は七つに分かれてゐるぞ、
天つ国三つ、
地(つち)の国三つ、
その間に一つ、
天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、
中界(ちうかい)の七つぞ、
その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、
その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。
今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、
今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、
地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、
悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。
この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、
しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、
いつも神かかりてゐる臣民ぞ、
神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、
それが人間の誠の姿ぞ。
いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、
地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、
神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、
神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。
何事も洗濯第一。
八月の十八日、 ローレンツ力と ○ の一二 ローレンツ力と ○


冒頭の文章、

“神界は七つに分かれてゐるぞ、
天つ国三つ、
地(つち)の国三つ、
その間に一つ、
天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、
中界(ちうかい)の七つぞ、
その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、
その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。”

この場合の“神界”は、“創造”の“主(ヌシ)”が“下”に垂れた振動を生命(生きる使命=存在理由)が感じ(感じる磁性)、そして認識していく場(フィールド)であると思える。
これは、ローム太霊さんがS会=紫光会で会員に教えた、肉=現界、幽界、霊界、神界、それぞれの場(フィールド)のことと、同義やと思える。
そやから“神界”=“創造”の“主(ヌシ)”の振動を受信して、感じ(感じる磁性)、自分たちの心(靈)の認識にしている生命が、“日止、霊止”、日を止める、霊を止めるって言われてることやと思いまんねん。
ほんでから、肉体を持った心(靈)として、地球で一番進化している人間は、その心(靈)の発現と動きって言うのんは、七つのチャクラ=背骨と頭で出来ている縦の磁性、|(たてぼう、こん、縦の磁性))のまわりの、荷電粒子の回転により、分類されていることを、先生と前のブログで話した。
それがまた彌栄(いやさか)の弓偏(へん)と旁(つくり)の璽(しるし)でもある。
画像を貼っておきまんねん。

 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字  





そやからそれは、心(靈)の構造、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。
ほんでからローム太霊さんが教えた、現界、幽界、霊界、神界、は、腹の段階までの心(靈)=マニピューラチャクラまでの認識が、現界、そして腹から“上”、物質に酸素を加え=呼吸器官でエネルギーに変えていくことを現した灬(よつてん、れっか、れんが)に、糸=左右の神経が密になり“慈(しげる)”状態になっていくのを示したのが、幽界で、その段階の認識は、現界で体験したことを振り返るための場(フィールド)やと思える。
補足として幽界の“幽”の字は、山ではなく、火の意味を持つ灬(よつてん、れっか、れんが)であることを今までにも言うた。
そして霊界は、自分の心(靈)そのものでもあり、心の内面とか内側(心の中と感じている事)の観察になっていくのであろうし、さらにその“上”が、エネルギーの回転を示す意味での神…神界であると思える。(そやから神界は、ただただ愛(炁)の発振、発信のみを行う場(フィールド)やと思える。それは“創造”の“主(ヌシ)”の“行”でもあるな)
そやけど、それぞれの場(フィールド)って言うのんは、自分の心(靈)が認識しなければ、そこにあると思えない。
ちょっと解りにくい言い回しなんやけど…要は、感じ(感じる磁性)ることが出来ないってことでんねん。
それをこの文章では、“中界(ちうかい)の七つ”…これは心(靈)の認識であり、“天国”と“地国”は、“上”と“下”の認識であると思える。
補足として言うとけば、国は、(囗)くにがまえ=場(フィールド)、そして“玉(ぎょく)”は、“三”と|(たてぼう、こん、縦の磁性))とローレンツ力 ローレンツ力 で、自我から“上”に向かう心(靈)の動きを示した表記でもある。
さらに言うとけば、“三”は、天地人って意味があり、人の心(靈)が観察する対象は、自分と“上”と“下”でもある。くどく説明しとけば、“上”=天で、“下”=地でもある。
ほんでから、自分の心(靈)が感じるからこそ、そこに現界、幽界、霊界、神界があると認識する。
認識するのは自分自身の、心=靈、であり、そやからこそ、自分の霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を、構成している振動の種類によって、自分が現津(あきつ)、観察され得る事象と感じ(感じる磁性)ている場(フィールド)がある。
そして観察している対象の場(フィールド)には、“上”と“下”がある。それは、今、言うたばかりやけど、振動の違いでもある。
そやから人(日止、霊止)が、進化程度に応じてしかすべての現津(あきつ)、観察され得る事象のうちの一部分しか感じ(感じる磁性)てない。
ほんでから、大概の地球人(の、霊的成長度)は、物質世界、現界の認識しか持ってない。
そやからこそ低い霊的成長度の人=低い認識しか持ちえない人は、生きている期間だけが自分の存在のすべてって思ってる。
その低い認識には、“神の咎め”“曲霊(まがつひ)”の概念が無いからこそ、その言葉しか知らへんからこそ、低い欲望のために生きる。それは言うまでもなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
そのことについては先生と前のブログで、目上(めうえ)と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)って話をした。
(余談やけど、目上(めうえ)と目下(めした)の心(靈)の発現について、しっかり理解してほしい“日止、霊止”は、年末に発売予定の先生の三冊目の本を読んでほしいねん。
ほんでから目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の“創造”については、四冊目と五冊目を読んで欲しいねん。そやけど…ちょっと営業入りましてんな(笑))
そやから、自分が持っている振動の違いにより、観察され得る対象である、場(フィールド)は、物質の世界、そして幽界…これは、自分も含め、自分の外側(外国と幽界)の事象って認識でもある。
ほんでから霊界、霊の旧字は靈でもある。これは前のブログでこんな話を先生とした。


                                                             ↓

“靈って言う字の、雨の部分を見れば、神の振動が右にも止まり左にも止まる。
それで、神の振動が自分達の思いになる。

 

靈(心)の解字 


それを示した言葉が神道の言葉、一靈四魂・・・だと思う。」
「それは、一靈は、“直日(なおひ)”
四魂は、
“荒魂(あらみたま)”、
“和魂(にぎみたま)”、
“幸魂(さちみたま)”、
“奇魂(くしみたま)”・・・でんな。
ほんでからに、
“荒魂(あらみたま)”“和魂(にぎみたま)”は、
神が持つ2つの側面の事で、
神の祟りは“荒魂(あらみたま)”の表れ・・・天変地異とか病気の流行とか・・・
それは“神の咎め”みたいなもんやな。
ほんでからに、
“和魂(にぎみたま)”は更に、
“幸魂(さちみたま)”と“奇魂(くしみたま)”に分けられる。
ほんでからに、“幸魂(さちみたま)”は、
運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きとか・・・
“奇魂(くしみたま)”は、
奇跡によって直接人に幸を与える働きとか・・・
これは発振、発信による“術”の獲得とかその霊的干渉とかの事でんな。
ほんでからに“幸魂(さちみたま)”は“豊”、
“奇魂(くしみたま)”は“櫛”と表され、
神名や神社名にその意味が使われてるやん。

ほんでからに、
一靈四魂は“直日(なおひ)”と“勇、親、愛、智、”
“荒魂(あらみたま)”は勇、前に進む力・・・
“和魂(にぎみたま)”は親、人と親しく交わる力・・・
“幸魂(さちみたま)”は愛、人を愛し育てる思いやりや感情を大切にし、
相互理解を計ろうとするとか・・・“許容”って事でんな。
“奇魂(くしみたま)”は智・・・物事を観察し分析し、
悟る力・・・
それは知恵と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)でんな。

一靈四魂・・・それくらいはKellyさんでも知ってまっせ。
神主の孫やから。」
「その四魂の機能って概念も、Kellyには理解出来るでしょう?」
「そうやな・・・
一言で言えば、心の発現と、その顕現・・・って事でんな。
“荒魂(あらみたま)”=勇・・・“いきり立つ心(奴と心)”
“和魂(にぎみたま)”=親・・・ちょっと違うかもしれん解釈やけど、
“思う、憂う”・・・それと、
“慈悲”と“慈愛”みたいな感じやな。

そやから今の靈って言う字の先生の解釈を聴いて、
それは、
砌(みぎり)と日足(ひたり)・・・
その心(靈)の発現・・・それが四つの魂って感じやな。」
「表現が違うのは、それぞれニュアンスが違うのは、
こちらからの見方だからだよ。」
「人(日止、霊止)・・・神さんの被造物としての人からの視点・・・
“下”から“上”の事を解釈するのはよう解らへんって事やな。
そやから多様な言葉で解釈をして行き、
理解して認識して、自分の思想にする為に色んな言葉を使う。
そやから曖昧な表現にもなってるのかもしれへんな。
そやけどそれは、
結局、プラスマイナスとか、陰陽とか、
右と左、砌(みぎり)と日足(ひたり)とか、
そう言う二面性って言うのんか・・・
それで事象は構成されてるって事なんやろな。」”


思惑と顕現 “その十一” “上”の思惑と顕現…“天の御目”参照)

この話の最後の部分のKellyさんが言うた大事なことは、

“砌(みぎり)と日足(ひたり)・・・
その心(靈)の発現・・・それが四つの魂って感じやな。”

もうひとつ、

“プラスマイナスとか、陰陽とか、
右と左、砌(みぎり)と日足(ひたり)とか、
そう言う二面性って言うのんか・・・
それで事象は構成されてるって事なんやろな。”

そやから、自分が観たと感じ(感じる磁性)たり、何かがあるとか、自分がそこに居てると感じたりするのは、自分の心(靈)であること。
ほんでから現津(あきつ)、観察され得る事象には、自分の霊的成長に応じてしか観察できない振動の範囲がある。
それがまた振動の高低であり、すべての事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動と、自分の心(靈)の振動で、認識され得るものでもある。
そやから観察と認識…これは“創造”の“主(ヌシ)”を含め、全生命体に共通の行為でもあり、それそのものが神の性質であり、どんな下等な生物であろうが神に近い人であろうが、観察と認識をしている。
それはまた、振動の受発信と同義でもある。言い方をかえれば、悟りは受信、心(靈)が振動を受ける五つの口を持っていることと、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。そして発信された息吹=情報を持っている荷電粒子、オーラの発振、発信で、それを自分以外の他者が受信したりして、その相互干渉で事象は構成されている。
それが霊界の霊=靈ってことで、現界であろうが神界であろうが、観察しているのは自分の心(靈)であること。
ほんでから自分の心(靈)に“上”の振動を持ってないと、“上”の場(フィールド)は認識できない。
それが感応共振でもあるし、大概の人が現界、幽界、霊界、神界の言葉を知っていてもそれがなんやしらん解らへん理由は、その人の心(靈)が低く、物質世界の振動=認識で、心(靈)が構成されているってことで、それが言い方をかえれば、腹の段階の心(靈)の進化過程(マニピューラチャクラ)、自我の確立=固定化であり、またそれは、動物から人(日止、霊止)への進化過程=霊的成長の過程でもあり、自分を守るための(愛(炁)由来の)行動をする。
そやから自己保存、保身、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示したい。そして目立ちたい=ディスプレイ(動物の発情行動)=低い功名心と自尊心の心(靈)の発現と動きでもある。

そのことを指し示しているのが、次の文、

“今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、
今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、
地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、
悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。”

人(日止、霊止)は、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”を担っている。
そやけど、それを成すには、“創造”の“主(ヌシ)”に近い振動を持っていなければならない。それを指し示す表記は今までの“日月神示”の言葉にたくさんあった。
一部列挙するならば、“天意”“天詞様”“祀り”“祭り”…大体“富士”って表記も“上”の“思惑の顕現”=現象化そのものでんねん。
それが“日止、霊止”に顕現したとき、“一”=智性=1番目のオーラになり、“一”そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の意味がある。
そして“一”の書き方は、こちら側=“日止、霊止”のほうから観て、日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行する。またそれは“亜”が出ずる、泉、でもある。
現時点の地球人の進化過程は、さっきも言うたけど、自我の確立=固定化から、ごく少数の人が“慈悲”と“慈愛”=アナハタチャクラの覚醒に至ってきてる。自省(胸の磁性“十”)の“行”を果たして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程を卒業しようとしている。
それに対し、平均的地球人の進化過程を指し示す表記が“今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、”であると思えるし、そやからそれは、低い心(靈)の発現とその動きで、今の現津(あきつ)、観察され得る事象は“創造”されている。
それを心(靈)の振動、心(靈)の構造って概念で言い換えたなら、本能、情動、功名心、自我に、低い愛(炁)が加わり、そやからそれは自己奉仕者になる。目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の思いで“創造”した世界が、今の地球でもある。
その意味を踏まえ、次の文、

“この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、
しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、
いつも神かかりてゐる臣民ぞ、
神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、
それが人間の誠の姿ぞ。”

要は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受信できる肉体の構築=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出して、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をする。
それは低い憑依現象ではなく=物理霊媒とか、自動書記とかの、自分の意志とは関係なく起きる憑依現象ではなく、言うまでも無くハイヤーセルフとか、何とかの生まれ変わりとかな乗ってる低い霊的存在に誑かされてる(たぶらかされてる)現象でもなく、自分の思想と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が一致する=感応共振していく。
補足として言うとけば、“誑かす(たぶらかす)”は、言(ごんべん)(発振、発信の意味)と、けもの偏(へん)(動物霊の憑依)と、人のオーラの構成を示す“王”でもある。
そやから低い霊に誑かされない、“下”(低い心(靈))との感応共振をしないためには、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”をする。
それは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことが大事でもある。

そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をしている人を指し示した表記が、この文章の、

“いつも神かかりてゐる臣民ぞ、
神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、
それが人間の誠の姿ぞ。”

 そうならんとアカンってことでんねん。

ほんでから次の文は、アセンションに伴う醜い事象、人の低い心(靈)が“創造”してきた結果が現れることを、言うてる。

“いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、
地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、
神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、”

そやから行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の結果、新家庭度の低い人たちが活躍してきた結果が出て、この世界が失敗を体験するための事象と感じ(感じる磁性)た“日止、霊止”は、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る。何回も言うてきたことでんねん。

そやからそれは、

“地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、”

でもあり、地獄って言い表されたことを体験して認識して、それが自分たちの低い心の“創造”の結果であることを知る…それをして行かんならん。

ほんでから地獄…そこには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が無いからこそ、

“神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、”

…って言われてる。
要は、認識(悟り、幸取=さとり)が足らん。“一”=智性=1番目のオーラが小さいってことを言うてるだけでんねん。

ほんでから次の文は、敢えて説明することでもないけど…

“神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。
何事も洗濯第一。”

アセンションは霊的成長度に於いて分けられる。
自分が自分の心(靈)を観察し、自分の心(靈)の“上”と“下”、目上(めうえ)と目下(めした)を知り、そこで自分の在り方を思い、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす。
そうしなければ、よい世界の“創造”、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”って表現されてる場(フィールド)を、自分たちが感じることが出来ない。
その、よい世界、場(フィールド)を構築するのは、自分たちの心(靈)でもある。
そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をする肉体の構築=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をする。そしてさっきも言うたけど目上(めうえ)の脳の磁性由来の、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”は、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。
そして、自分の心(靈)の“上”と“下”、この文の表記なら“神と獣と分ける”…それを自分で見出していくことが、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
何回も言うてきたことでんねん。

そやから、この、富士の巻 第九帖は、“上”の思惑をしっかり受信してくれってことで、
今の平均的地求人は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見たなら動物とそんなに変わらへん。
そやから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くべき“日止、霊止”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)のことをもっと意識しなければ、本当に“上”のことを理解できない。
ほんでから、低い進化程度の人=“一”=智性=1番目のオーラが小さい人は、当然、神に対する認識も低くなり、自分に都合のよい神を作り上げる。
形骸の宗教や、甘い言葉をはく霊能力者や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たちとか、ただ感謝して生きましょう…の薄っぺらい言葉に酔うだけになるとか……。
それらすべて下つ巻によく出てきた表記の“役員づら”でもある。
それらすべて、低い認識由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。
そやから、その一例としてよくあるのは、“主護霊”の概念を低くして、守護霊って書き換えたり、憑いてる霊はみな守ってくれてるなんて解釈をしてる霊能力者や本の著者は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)で、ほんまのことが理解できていない。
また同様に、アセンションやフォトンベルトに対し、ただ言葉を利用して注目を浴びたり、それを題材にしてゴーストライターに本を書かせ印税を儲けたり…そやけどそんなもんを信じる人が…それが大多数…しかしそれは仕方がない。
…動物と変わらへん進化過程の人が大多数の場(フィールド)がこの世界なんやから…。

そやから…せめて、このブログと霊縁あった人は、今回述べたことをよく考えてほしいもんでんな。ほんでからそれは、ブログを始めて、自分の認識を公開した先生の意図でもありまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十帖 Kellyさん的解釈


今回も“日月神示”富士の巻 第十帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

いよいよ戦烈しくなりて喰ふものもなく何もなくなり、
住むとこもなくなりたら行く所なくなるぞ。
神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、
その時になりたらハッキリするぞ、
その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、
神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。
何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、
神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。
てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。
神の臣民 言(こと)に気をつけよ、
江戸に攻め来たぞ。
八月の十九日、ローレンツ力と ○ のひつ九のローレンツ力と ○


冒頭の文は、言うまでもなく、今後=アセンション後に向かう事象のことを言うてる。

“いよいよ戦烈しくなりて喰ふものもなく何もなくなり、
住むとこもなくなりたら行く所なくなるぞ。”

敢えて説明することでもないけど、この文の“戦烈しくなりて”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が、神の思惑に沿っていないからこそ、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になり、恨みの連鎖の霊的干渉を盛んにしているからこそ、これまでも、これからも、醜い事象=“戦烈しくなりて”って言う事象を、今地球に居る人は、観察する。
そして、それを観察した人の心(靈)は、心(靈)の動きの“上”と“下”の違いを知る。
それは、目上(めうえ)と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)。
“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体由来の心(靈)の動き…今まで延べてきたさまざまな認識を得ていく。
そやからそれは、今後=アセンション後に位置するために、必要な認識でもあり、神の思惑に沿った“創造”をするために必要であり、だからこそ、“日月神示”では、“身魂掃除”“身魂洗濯”って言い表してる。
このことも、何回も言うてきたから敢えて説明することでもないけど、自分の心(靈)を、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、心(靈)の動きの“上”と“下”を知る。
それは智性(“一”、1番目のオーラ)が無ければ、“上”と“下”の区別が出来ない=“上”と“下”を認識できない。
そやから動物には“一”=智性=1番目のオーラがほとんど無い…先生がオーラを見る能力に長けていたときの観測の結果は、そういうことでんねん。
ほんでから人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度を指し示すのが、“一”=智性=1番目のオーラでもあり、“一”=智性=1番目のオーラが小さい人は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きになり、自我より“上”の心(靈)の発現をしてないから、自我の肥大ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとり、自己奉仕者になる。
ほんでから、当たり前のことなんやけど、動物には智性=神性が無い。智性=神性の無い人もたくさん居てるのが、この世界でもある。
ほんでから人が、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から“日止、霊止”って呼称される資格を持ったときに、初めて神の思惑を受信して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていく。
そやけど…第十帖の冒頭の文章を解釈すると、前回の、第九帖の後半の文章、これを思い出させるな。
補足として以下に、第九帖の後半をコピペしときまんねん。
            ↓

“この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、
しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、
いつも神かかりてゐる臣民ぞ、
神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、
それが人間の誠の姿ぞ。
いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、
地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、
神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、
神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。
何事も洗濯第一。”


第十帖に戻り、次の文、

“神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、
その時になりたらハッキリするぞ、
その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、”

この文も、アセンション後の“創造”を担う霊的資格を獲得した“日止、霊止”のことを言うてる。
それは、今の世界が、低い心(靈)の“創造”であるからこそ、“その時になりたらハッキリするぞ、”って言われてる。
今の世界は、自己奉仕者が活躍して出来上がった世界で、だからこそ、本当の認識を持っているとか、真実=真固止を悟っている人たちは、活躍できない。
ほんまの認識(悟り、幸取=さとり)と“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を持っている“日止、霊止”が活躍する世界ではないってことでんねん。今現在、右往左往の失敗を体験せんならん事象やから、霊的に高い“日止、霊止”は、活躍を許可されていないってことでんねん。
そやから、自己奉仕者が創造した結果であるアセンションに伴う醜い事象が、ピークに達したころでないと、形骸の何かと、真実=真固止っていうのんは、区別されない。
そやけど、本当のこと、真実=真固止、それを求めようとしている“日止、霊止”はごく少数やけど居てる。(先生として個人的に霊縁が出来つつある)
それをこの文では、

“神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、”

って言われてて、特に、先生みたいに、今の世界が大っ嫌いで、自己奉仕者の人の“下”…低い心(靈)由来の“創造”が大っ嫌いで、毎日ぶつぶつ文句言うてる人に対し、“今から心配せずに神の御用なされよ、”って言われてるみたいなもんでんねん。
そやから必ず、誰もが今までやってきた自分の行いは、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが、今後=アセンションに向かって結果が出る。
そやから今、ひそかに霊的成長のための“行”をしてる“日止、霊止”は、今後=アセンション後の“創造”を担うんやけど、神さんから託されるんやけど、今活躍していないし、それどころか、自己奉仕者からは蔑まれたりしている。
それが下つ巻 第三十七帖の以下の文、


“ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、
その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。
何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、
この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、
ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、
今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、
逆立ち苦しかろがな、
改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。”

って、言われてることでんねん。

余談やけど、この間先生は、太陽凝視を教えてくれたKさんの奥さんと伊吹山に行き、そのとき、奥さんとこの話をしたら、“ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、”が、奥さんのツボにはまったようで、笑ってはったそうでんねん。
それは、奥さんとご主人(故人)、自分たち家族と先生自身でもそうなんやけど、たいして何にも活躍してへん。
今までの人生で、たくさんのエネルギーを贖い、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことをしてきたんやけど、それは今現在、社会的にはたいして何の結果も生んでいない。 そやから、今の人たちから見れば、“ひつくの臣民 落ちぶれてゐる”ってことになるってことでんねん。
それが、少し、太陽凝視を教えてくれたKさんの奥さんには、うけてしもたようでんねん。

話を戻し、次の文、

“神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。
何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、
神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。”

そやからさっき言うた様に、真に霊的成長を果たし、真に霊的成長を果たしたからこそ、今の事象がおかしいと感じ(感じる磁性)、憂いてると、今の世界が嫌になる。
そやけど、自分たちの在り方とせんならんこと。
それは、この世界は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい)が、活躍してる。そんなもんはしょうがない。その程度の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程なんやから。智性=神性の発現が足らんのやから。
そやからたとえ、今、本当の意味での“行”やってて、落ちぶれていたとしても、自分が憂い、この世界が大っ嫌いだとしても、“神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。”で、今の腐った世界でも、自分の在り方を思い、それなりのことをせんならん。
ほんでから真実=真固止、“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしてきた、心(靈)が“上”に向かうべき“行”やってきた人、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行い、今落ちぶれている“日止、霊止”は、“上”が見逃すはずがない。
それが以下の文、

“何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、
神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。”

そやから、智性=神性を発現し、その智性=神性由来の観察で、今の事象を憂うのも、“今は戦して居りて呉れよ。”ってことでんねん。

ほんでから次の文も、今言うたことの補足としか思えへん。

“てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。”

この文の、“てんし様”は、これも今まで何回も言うてきたけど、天意を自分の思想とする“日止、霊止”。
“上”の“思惑の顕現”=現象化をしていく“日止、霊止”。それはアセンション後の“創造”をしていく霊的資格を持った心(靈)ってことでんねん。
すべて、今の醜い事象でも、それは“上”の思惑に任し、自分は霊的成長のための“行”、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことをやっていく。それを感じさせる文でんねん。

ほんでから次の文、これは、今までも言うてきたことやけど、“江戸”の解釈が出来てないと何のことか分からへんやろ。

“神の臣民 言(こと)に気をつけよ、
江戸に攻め来たぞ。”

 今まで解釈してきたように、“日月神示”表記の“江戸と尾張”の“江”は、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを示してる。
そして“戸”は、自我から“上”の心(靈)の発現である“慈悲”と“慈愛”への関門でもあるし、それは、腹のサイクロトロンの構造から、“上”に荷電粒子の回転が移行する。
そやけどそれは“上”の思惑にそった進化(霊的成長、神格化に向かうこと)で、今、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい)が、甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉をはいたり、程度の低いアセンションの情報を流してて、それが大多数になってる。
そやから、真実=真固止を見出して、今後=アセンション後の“創造”を担う人に対し、“言(こと)に気をつけよ、”って言われ、今活躍してる“役員づら”の言葉は、大体、その人の低い功名心や自尊心を煽る(あおる)。
そやから自我を示す“江戸”を刺激する。自我の肥大になる。
それがこの文の表記の“江戸に攻め来たぞ。”ってことやと思えるな。
そやから、前回の第九帖の最後にも言うたけど、今“役員づら”の人たちが活躍し、甘い(亜、魔、出ずる、泉)情報や偽の情報で満ち溢れている。
本当のことを見出そうとしている“日止、霊止”は、それに気をつけてほしいもんでんな。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈



今回も富士の巻 第十一帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

神土(かみつち)は白は、「し」のつく、
黄は「き」のつく、
青赤は「あ」のつく、
黒は「く」のつく山々里々から出て来るぞ、
よく探して見よ、
三尺下の土なればよいぞ、
いくらでも要るだけは出てくるぞ。
八月二十日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のか三。


この文の、“「し」「き」「あ」「く」”そして“山々里々”。
先に“山々里々”から解釈すれば、山々は、今までも解釈してきたように、高い心霊が使う言葉としての、山=脳で、山々は左右の大脳半球を示す表記やと思える。
そして“里々”は、里って言う字は“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と土は、肉体の意味と、2~3番目のオーラのことを指し示すと思う。
それと、“山々里々”は山と里を二回繰り返している。
そやからそれは、左右を示し、二つの極性を示し、そやからそれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道…これらと同義でもあると思う。
さらに、“山々”=脳と、“里々”が書かれてるのは、“里”は、さっきも言うた様に“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と、土=肉体やから、心(靈)の動きや心(靈)の発現を、指し示す言葉やと思える。
それについては
下つ巻 第二十九帖で、出てきた表記の“神の土”で言うたことを、以下にコピペしときまんねん。

                             ↓

“この文の表記の“土”そして“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”これは、今までの解釈からして“土”=2~3番目のオーラ、その受発信は肉体の構造に由来する。あるいは、“土”そのものが(物質である)肉体を言い表した表記やと思える。
ほんでからそれは、帯電するミネラルをさすと思える。
ほんでから五行思想では、“白、赤、黄、青、黒”は、肺、心、脾、肝、腎、に相当する。
そやからそれは、肺=“悲しみ”、心=“喜び”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”腎=“恐れ”(本能)…それぞれの心(靈)の動きを指していると思える。その心(靈)の動きそれぞれは、霊的成長のためのものであり、神格化への心の動きを指し示す表記やと思える。”

…以上でんねん。

ほんでから、この文では、以下のように、

“神土(かみつち)は白は、「し」のつく、
黄は「き」のつく、
青赤は「あ」のつく、
黒は「く」のつく山々里々から出て来るぞ、”

そやからそれは、以下の心(靈)の動きを示すと思われる。

白=「し」は、肺=“悲しみ”。
黄=「き」は、脾=“思う、憂う”。
青赤=「あ」は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”と心=“喜び”。
黒=「く」は、腎=“恐れ”(本能)。

また、下つ巻 二十九帖で言うた五行思想は、“臓腑”の“臓”、それは、帯電するミネラルが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)や“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との霊的干渉。
いわゆるオーラの相互干渉。
それは肉体を持っていようがいまいが=人対人であろうが、人(日止、霊止)対“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)…神と認識される存在であろうが、人(日止、霊止)対悪霊(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動き)であろうが、それは霊的干渉であり、オーラの相互干渉があり、それによって自己と他者の心(靈)が、感応共振して、反応しあい、それぞれの肉体と心(靈)に入り込んだ振動が、心(靈)の動きとなっていくことを示していると思われる。

ほんでからこの文の後半の、

“三尺下の土なればよいぞ、
いくらでも要るだけは出てくるぞ。”

三尺は、大体90センチでんねん。
ほんでからこれは、ただ単に、地面から“三尺下”ではなく、肉体のどの部分から“三尺下”ってことを言われてると思える。
そやからそれは、すべての事象の観察の基準である“天の御目(あめのおめ)”を宿す、両眼を指し、そやからそれは目から下、三尺って言う意味で、ほんでからにそれは、ローム太霊さんが言うた、通枢と丹田の、丹田に相当すると思われる。そして通枢と丹田は、“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)でもあり、それに示す偏(へん)を足すと、“神”って言う字になる。
丹田は、言うまでもなく腹にあり、帯電するミネラルが固まっていない段階のエネルギーの増幅をしているサイクロトロン(荷電粒子の回転が上下する円形粒子加速器)でもある。
そしてその部分での心(靈)の発現と動き、それは、自我の確立=固定化の段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程でもある。
また、その丹田は、食べ物から摂取した帯電するミネラルを吸収するところで、それは“日月神示”表記の“石”でもある。

余談やけど、今までも、“石屋の仕組み”は、帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)って解釈をしてきた。
そやから“石屋の仕組み”は、自我の肥大が低い功名心や自尊心になり、ディスプレイ(動物の発情行動)になり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から観て、たいして価値のないものに付加価値を付け=(通貨としての)金で価値判断を決め、そして、幸福の概念を間違え、薄っぺらい欲棒のために生きる人が、創造し続けている恨みの連鎖の霊的干渉って話を、前のブログで先生と話した。
事象の形骸化 “その十一” 事象を形骸にする仕組み…そして、真実=真固止の無い世界 参照)

そやから富士の巻は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との霊的干渉、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の心(靈)に受信すること=天意を受けること(“天詞様”)、高い存在の思惑を自分の思想にすることを言っているようなので、敢えて、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との霊的干渉である“石屋の仕組み”のことを言うておきまんねん。

ほんでからこの富士の巻 第十一帖は、第十二帖に続く文章でんねん。
そやから今回は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第十二帖を解釈しまんねん。ほんでからこの第十二帖は、前回の第十一帖の続きと思われる文章でんねん。原文は以下の通り。

御土は神の肉体ぞ。
臣民の肉体もお土から出来てゐるのぞ、
この事分りたら、お土の尊いことよく分るであろがな。
これからいよいよ厳しくなるぞ、
よく世の中の動き見れば分るであろが、
汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐるではないか。
いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、
今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。
早う神の申すこと、
よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりて呉れよ。
一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ、
何もかも悪の仕組は分りているぞ、
いくらでも攻めて来てござれ、神には世の本からの神の仕組してあるぞ、
学や知恵でまだ神にかなふと思ふてか、神にはかなはんぞ。
八月の二十一日、ローレンツ力と ○  のひつ九のか三。


今回の、第十二帖の文章は、具体的に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との霊的干渉が可能な肉体のことを言うてし、それが第十二兆を読んだKellyさん的な印象でんねん。
まず、冒頭の文では、肉体の構成要素としての帯電するミネラルのことを言うてる。

“御土は神の肉体ぞ。
臣民の肉体もお土から出来てゐるのぞ、
この事分りたら、お土の尊いことよく分るであろがな。”

ほんでから次の文は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程としてのアセンション後について言われてて、そして今現在、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍していることを指摘している。

“これからいよいよ厳しくなるぞ、
よく世の中の動き見れば分るであろが、
汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐるではないか。”

この文の後半は、ちょっと揶揄(やゆ)したような言い方で、そやからそれは、この文の“汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐる”は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい)や、薄っぺらい価値観で、幸福を求め、物欲や本能由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をして、それが自分たちの成功とか、勝ち組とか思ってる類の人。
そんな人たちが今後=アセンション後に位置したなら、今と同じ世界になる。
そやけど今は、そんな人たちが活躍してて、それがもてはやされてる。
それがこの文では、“汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐる”って、揶揄(やゆ)されてる。
以前の記事で少し指摘したけど、霊的成長やアセンションやフォトンベルトを、ただ人を引きつけるだけの要素とみなし、ゴーストライターに文章を書かせ、ネームバリューを利用して出版し、印税を儲ける…そんな人すら居てることを、先生は、今年になってから知った。
そやからそれは、貴いものを自分たちの欲望に利用する…そんな人が多すぎるし、今のアセンション関係の本はそんなもんが大多数…またそこには、低い霊的干渉しかない。
それは、その文章を書かせた人が智性(神性)を持ってない。
“一”=智性=1番目のオーラが小さい。
そやから貴い価値のある何かを見ても、自分の欲望の達成のためにしか利用しないし、それ以上のものの見方など、無いに等しい。
そやからそれはただの引用に終わる。
あるいは、甘い夢を見させるだけに終わる。今後の事象に対する厳しい視点など無い。
そやからそれは、価値のある何かに教訓を得たり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の言葉に霊的成長の秘密を見出すことが出来ないし、そこに自分なりの解釈など無い…当たり前でんねん。そんな人たちは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化のための“行”やってへんからでんねん
そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振が無く、低い欲望のために利用する発想そのものが“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振でんねん。
そやからそれは、結果として大多数の人に偽の情報を与え、その人は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になる。
そやけどそんな人たちの価値観は、ただ有名になればいい、儲かればいい、功名心と自尊心が満たされればいい…それが人生の成功やと勝手に思い…そんな程度のことしか思わへん。
今、もてはやされてるもんは、そんなもんばっかりなんやけど…そんな心(靈)の動きの人が“創造”してる、世の中の動きを見て、自己奉仕者が活躍してるって認識の無い人は、なんとも思わへん人は、アセンション落第組って敢えて言うときまんねん。

今言うたこと、その意味で次の文、

“いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、
今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。”

 この文の“軽石”は、帯電するミネラルが固まってない人。
そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の振動を、真に固く止めることが出来ない人
“上”の振動を受けるのが日(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介している太陽と言う生命体のオーラ)を止める、霊=靈(“創造”の“主(ヌシ)”としての“一”が、陰陽と中性に別れ、“メグリ”(帀)として下降して、日足と砌(ひたりとみぎり)に止まり、それを三つの口で受け、肉体に顕現する意味がある)を止めるの意味での“日止、霊止”であり、その人たちが創造する事象が、真実=真固止でもある。
そやから“軽石”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してない人。そんな“軽石”の人は、肉体の電気特性自体が低いから、高振動の“上”の存在が思惑を通信しても受信できへん。素通りでんねん。
ほんでからそれが、アミの本で使われた表現、“変圧”でもある。
そやから“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化って何回も言うてるけど、その意味すらたいして真剣に解釈されてない。
そやけどそれは、倒れるほどの“行”やった人でないと“上”から教えられへんことでもあるな。

ほんでから次の文は、自我の肥大、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程のことを言うてる。

“早う神の申すこと、
よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりて呉れよ。”

この文の裏を返せば、ほとんどの人が“神の申すこと、よくきいて”…そうして無いってことでんねん。
誰もが、宗教や、高い霊的存在の言葉を履き違えて、ただ自分の欲望の達成のために利用している。
そやから、こんな言われ方されてまんねん。
 そやけどそれは、“神の入れものになりて呉れよ。”って言われ方は、懇願してるので、現状、到底無理って感じ(感じる磁性)やな。

 ほんでから次の文は、霊的成長度によって作られる場(フィールド)のことを指摘してる。

“一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ、
何もかも悪の仕組は分りているぞ、
いくらでも攻めて来てござれ、神には世の本からの神の仕組してあるぞ、
学や知恵でまだ神にかなふと思ふてか、神にはかなはんぞ。”

同程度の霊的成長度の人は、“上”が霊縁を組み、巡り会わすもんでんねん。
それがその人たちにとって良いカタチやからでんねん。
それがこの文では、“一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ、”って、言われてまんねん。
そやから同程度の心(靈)の発現=霊的成長度の人たちの心(靈)の動きと価値観は、共通点が出てくるし、その人たちの会話や、オーラの相互干渉は、互いが互いを切磋琢磨するもんでんねん。
そやけどそれは心(靈)の方向性としての“上”と“下”がある。
“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かってるのか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に向かってるのか…それを自分の心(靈)に見出していくのが、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でんねん。
補足として、自我の発現とその心(靈)の動きの方向性を示した“日月神示”での表記に対する先生の解釈の画像を何回も紹介してるけど…貼っておきまんねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転

そやから、低い霊的成長度の人と、相対的に高い霊的成長度の人(日止、霊止)は、一緒にしておかれへん。
“玉石混交(淆)”では、良いカタチの事象の“創造”にはならへんし、足を引っ張ったりもする。
さっき言うた“役員づら”みたいな人が出てくるからでんねん。
それをこの文では、“何もかも悪の仕組は分りているぞ、”って言われてて、そやからこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)は、自我の動きの方向性をよく考え、そして今、活躍してる人たちは、どんな心の動きで“創造”をしてるのか見極めるのが必要。
ほんでから以下に“役員づら”の人がこの文の表記の“悪の仕組み”で、大多数の人の低い功名心と自尊心を煽り(あおり)、薄っぺら委低い幸福感を与え、恨みの連鎖の霊的干渉など目もくれず、自分たちの欲望の達成が、恨みの連鎖の霊的干渉を増していることなど気づきもしない。
そやから“役員づら”の人たちが振り回してるのは智性(神性)由来の認識ではなく、そやから以下の文のように言われてる。

“学や知恵でまだ神にかなふと思ふてか、神にはかなはんぞ。”

自分たちの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、霊的成長のために、たとえば宗教の開祖は“上”から“上”の思惑を受信して、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)した。
他にも、“主護霊”や“支配霊”、死後の事象、霊的成長の過程としての仙人や天狗、道士、そして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現としての術には、法則性がなければならないこと、そして“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動きを指摘した密教のこと、そして閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)のこと=自省(胸の磁性“十”)の“行”のことなど、それを人に教えるために、毎回、死ぬ思いで現象を起こしたT霊媒=竹内満朋の偉業や、ローム太霊の言葉をただ引用し、価値のある貴いものを、なんでも、ただ単に利用してる人や、それで(印税を)金儲けしてる人に、聞かせてやりたい感じやな。

ほんでから前後するけど、“上”の思惑は、人の霊的成長と神格化であり、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))が、“日止、霊止”にならねばならない。
それを示してる文章が“神には世の本からの神の仕組してあるぞ、”でんねん。
その意味でアセンションは、神の“思惑の顕現”=現象化でもあり、ただそれは霊的成長度に於いて、場(フィールド)を分け、霊的に高い人(日止、霊止)と霊的に低い=自己奉仕者を分ける。
ただ、それだけでんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示” 富士の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈




今回も、富士の巻 第十三帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、
これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、
一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、
一本の草でも神のものぞ、
野(ぬ)から生れたもの、山から取れたもの、
海の幸もみな神に供へてから臣民いただけと申してあるわけも、
それで分るであろうがな。
この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、
さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、必ず病も直るぞ、
それは病人の心が綺麗になるからぞ、
洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、
この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、
神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んで呉れよ。
よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。
臣民と申すものは馬鹿正直ざから、
神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、
裏も表もあるのぞ。
役員よく知らしてやれよ。
八月二十二日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のか三のお告。


 冒頭の文、これは自己奉仕者に対するメッセージや。

“何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、
これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、
一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、
一本の草でも神のものぞ、
野(ぬ)から生れたもの、山から取れたもの、
海の幸もみな神に供へてから臣民いただけと申してあるわけも、
それで分るであろうがな。”

私たちの心(靈)が感じ(感じる磁性)て、観察して認識している事象…言い換えれば、自分たちが感じ(感じる磁性)ている現津(あきつ)、観察され得る事象は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から観れば、何かが誰かの物ってことは無い。
地球人の低い心(靈)の発現と動き、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程では、所有権や権利を主張して、何かを、自分の欲望の達成のために利用する。
それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程でしかない。
もっと大局的に観れば、土地であろうが家であろうが、自分が持っている“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であろうが、すべての事象は、自分たちの心(靈)が感じるもので、それを、(通貨としての)金で価値基準をつけて、自分たちの欲望のために商売をしてる。
それが今の地球人の進化過程でもあるし、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)でもある。
どうでもエエことに付加価値を付けて、自分たちの欲望の達成と、低い自尊心と功名心を満たすために頑張る。
この文では、土地と家って指摘されたから敢えて言うけど、大体、不動産なんてもんでも付加価値をつけて値段を引き上げて商売してる。
そして、たくさんの(通貨としての)金を集めるものとして、プロスポーツとか、芸能界とかのテレビの中の世界は、まったくの自己奉仕者の集団でしかないし、大体そんな程度のことにたくさんの(通貨としての)金を代価として支払うことがおかしいと思える。
そやからそれも、“石屋の仕組み”でしかない。
他にも指摘すればたくさんある…この間うちから指摘してるけど、霊的成長のための“上”からのメッセージを、自分たちの商売に利用してる形骸の宗教、そしてアセンションやフォトンベルトを題材にしてゴーストライターに記事を書かせ、印税を儲けてる著者。
“日月神示”の解釈本でも、自分たちの欲望のために書かれてるだけの本は、とても多い。
“石屋の仕組み”の仕組みを題材にしてても、自分たちの心(靈)が“石屋の仕組み”になってることに気が付かへん。
大体、“日月神示”では、金の無い世になるって表記が出てくるし、前のブログで先生と話したことなんやけど、霊的に進化した宇宙人たちの世界では、(通貨としての)金など存在しない。
誰かがエネルギーを贖って(あがなって)仕事する意味は、全体に対する奉仕で、それは全体の霊的成長につながることを念頭においている。
ほんでから自己奉仕者の行いは、恨みの連鎖の霊的干渉を創造してる結果になってる。その恨みの連鎖の霊的干渉は、生きている心であろうが=肉体を持った人であろうが、飢餓貧困、戦争、災害など、夭折=心(靈)が幼いまま死んでしまった霊的存在の心(靈)は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持ち、それは“日月神示”の表記なら、悪の回転、右回転、先生の理屈なら砌(みぎり)回転になる。
自我の心(靈)の発現をしてる、肝と脾、肝=“いきり立つ心(奴と心)”と脾=“思う、憂う”…それが“下”(低い心(靈))に向かったとき、自我以下の情動と本能に向かった心の動きのとき、その心(靈)の動きで創造する事象が、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象でもある。
何回も紹介した画像を貼っておきまんねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り




そやから霊的に進化した場(フィールド)では、そこに居てる人たちは、エネルギーを贖ったことは自分に返ってくることをよく認識している。
それは、ブーメランの法則でもあるし、“曲霊(まがつひ)”でもある。
要は、自分が発した振動は、すべて自分に返ってきて、観察し得る事象として自分の心(靈)の中に顕現し、それを自分の心(靈)が認識する。
その、全体に奉仕する心(靈)の動きで創造された場(フィールド)では、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかなんて心(靈)の動きは無く、そんな概念すら無い。
そやから冒頭の文の、“何もかもてんし様のものではないか、”って言うのんは、自分たちの欲望のために対して価値のないものにしがみついている自己奉仕者に対して、揶揄(やゆ)した言い方でんねん。
言うまでも無く、たいして価値の無い物(真、誠、○ 九 十の価値の無いもの)ってのは、外側(外国と幽界)の事象で観察される何かで、それは(通貨としての)金であったり、形骸の“美”の概念のファッションとか美容とかエステとか美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)とか、自分がエネルギーを贖わないでたくさんの(通貨としての)金を得る株とか、不動産とか、どうでもエエ娯楽で人を堕落させて金を儲けてるパチンコとか風俗とか…ディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きの芸能界とか、(通貨としての)金としての報酬が多すぎるプロスポーツなんか、それらは、自己奉仕者が成り上がった人が、スポンサーになり、付加価値をつけた。(そやから自己奉仕者の場(フィールド)の芸能界なんかは、自分の地位を守るため、それは保身のため、低い功名心と自尊心を満足させる薄っぺらい動機で、枕○業なんかするんや。ほんでから枕○業した芸能人の“上”の存在は、そのことを咎める通信を送るから、眠れなくなったり、悩んだり、そやから薬物に走る芸能人が多いんや)
大概の人は、そんな程度のことが、人生に於ける成功やと思う。それは低い価値観=“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)から目線の価値観でんねん。
そやけど、こんな程度の低い事象をいちいち例を挙げてたら、キリが無いけど、とかくこの世界は、形骸の価値観で満ち溢れてて、そこには(通貨としての)金が絡んでる。
そしてたくさんの(通貨としての)金を得たい心(靈)の動きが、自我の肥大で、それは“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)…マニピューラチャクラの進化過程でもある。
そやからそんな価値観は低いってことを、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人(日止、霊止)は、認識(悟り、幸取=さとり)せんならんから言われてまんねん。

ほんでから次の文。

“この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、
さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、必ず病も直るぞ、
それは病人の心が綺麗になるからぞ、
洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、
この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、
神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んで呉れよ。”

この文の“神示”も、ただ文章に書かれただけのことではなく、以前にも紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。

 

“神示(ふで)”の解字

 


要は、“上”の思惑をよく受信しろってことで、それには自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出すための“身魂掃除”“身魂洗濯”が大事で、自分の心(靈)の“上”と“下”を判断するのは智性=神性で、“一”=1番目のオーラでんねん。
何回も言うてきたことでんねん。
ほんでからこの文で指摘されてる、“病”は、自分たちの低い心(靈)が“創造”した結果でんねん。これまでの言うてきたように、自分たちが体験してる醜い事象は、因果の因と結果であり、特に“病”は、悪の回転、右回りの荷電粒子の回転が、“上”の法則性によって創造されてきてる左回り=日足(ひたり)回りで出来上がってきたものを崩す。
そやから左回りで構成されてる遺伝子崩壊がおき、新種のウィルスや、がん細胞や、訳の分からん病気にもなるし、それに罹る人たちの心(靈)は、右回転してるからそんな事象と感応共振する。
その結果がこの文の“病”でもあるし、事件、事故、犯罪…不幸な事象の因縁は、すべて霊的干渉があり、それは自分の心(靈)の動きと醜い事象との感応共振でもある。
そやから今後=アセンション後の醜い事象に巻き込まれる人は、自我から“下”の心(靈)の動きの人でもある。

その意味で次の文。

“よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。
臣民と申すものは馬鹿正直ざから、
神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、
裏も表もあるのぞ。
役員よく知らしてやれよ。”

この文のはじめの“よめばよむほど身魂みがかれるぞ、”は、言うまでも無く“上”からの思惑を理解していく心(靈)ってことで、そやけど、今、感じてる現実、今、感じてる事象をおろそかにしてはいけないって言うてる。
そやからこそ“日月神示”を読んで解釈してる人は多いけど、それはただ現状を憂いてるだけとか、批判してるとか、そんなことに終始してたり、現状を放棄して甘い夢を見たいだけの人とか…得にアセンションに対しての低い人の認識は、そんな傾向の人は多い。
そやからこそそれは、ただ文章を見るだけ=“臣民と申すものは馬鹿正直ざから、神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐる”ってことになりまんねん。
そこには“裏も表もあるのぞ”…これを見出す心(靈)の動きではないってことでんねん。
そやから、霊的成長のための“上”との感応共振は、自分の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必須条件でもある。それが“よめばよむほど身魂みがかれるぞ、”で、“上”の思惑を受信すればするほど、それは日足(ひたり)回転になるからこそ、自我の心(靈)の動きは、“慈悲”と“慈愛”になり、智性=神性の発現になり、そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の振動は、高い振動やからこそ、変圧の過程があるからこそ、肉体の組織は、アミノ酸結晶による高分子化をする。そしてそれは左回り=日足(ひたり)回りで高分子化していく。
それは、肉体の電気特性が変化していくってことでんねん。
先生が“改”で、これから述べていくことでんねん。
そして“上”との感応共振は、自分の心(靈)の動きを自分の智性で判断する=“身魂掃除”“身魂洗濯”をする。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の感応共振は、日足(ひたり)回りで、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振は、砌(みぎり)回りで、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転。
何回も言うてきたことでんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈


今回も、富士の巻 第十四帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

臣民にわかる様にいふなれば、
身も心も神のものざから、
毎日毎日 神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
それでその身体(からだ)をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、
夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ、
それでよく分かるであろうが。
身魂みがくと申すことは、
神の入れものとして神からお預りしてゐる、
神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。八月二十三日、ローレンツ力と ○  の一二のか三。

この第十四帖は、前回の第十三帖の補足と、肉体と心、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に対し、ちゃんと心(靈)と体って認識(悟り、幸取=さとり)を持つようにって言われてる。
そして、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、肉体の電気特性の変化であるからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在と感応共振するってことを言っている。
それを踏まえ、まず、冒頭の文、

“臣民にわかる様にいふなれば、
身も心も神のものざから、
毎日毎日 神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
それでその身体(からだ)をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、
夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ、
それでよく分かるであろうが。”

この文章で大事なのは、
“その身体(からだ)をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、”
…で、それは、人(日止、霊止)…自分たちは、“上”の思惑、神の思惑を受信して、それを自分たちの思想に活かし、そして今より相対的に神に近い思想を持ち、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていく。
そやからそれは、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”って感じ(感じる磁性)られる事象になっていく。
そのために、霊的成長度の違う心(靈)を分けるのが、アセンションであることを何回も言うてきた。
そやからこそ、今後=アセンション後は、神の思惑をだんだん理解できる“日止、霊止”の世界になる。
その神の思惑を受信する霊的資格は、“一”=智性=1番目のオーラが大きく、そして“慈悲”と“慈愛”=アナハタチャクラの覚醒をしていなければならない。
また、今列挙した二つの要素は、肉体の電気特性そのものの変化でもあるし、それは先生の言い回しならば、人(日止、霊止)が宝玉になる。
それは“宝玉の仕組み”って先生は定義付けている。
そやからそれは、宀(うかんむり、頭の意味)と、自我の心が“上”に向かう意味での“玉(ぎょく)”。
“玉(ぎょく)”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))+“一”=智性=1番目のオーラ+“二”=肉体、あるいは“一”=智性=1番目のオーラ + “土”=2~3番目のオーラって言う意味があり、その向かって右、その人本人の向かって左、2~3番目のオーラの中に、ローレンツ力 ローレンツ力 がある。
そのローレンツ力ローレンツ力 は、自我より“上”に向かう心(靈)の動きを示している。
そやから、真に価値のある(神が認めるという意味での)宝は、體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)。
そして、自分が宝玉になるのには、生体内電流の強化があり、その電流の変化によるアミノ酸結晶化が起こり、それそのものが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化で、そしてそれは現時点の進化過程=自我の確立=固定化から、“上”の心(靈)の発現と動きをしていく。
それが地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)として必要なことでんねん。
ほんでからアセンション落第組は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の進化過程であること…今まで何回も言うてきたことでんねん。
ほんでから“身も心も神のものざから、毎日毎日 神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、”は、自分たちが観察し得る事象は、自分の心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)との電磁誘導で、感じ(感じる磁性)ている。電磁波の受信をしてるってことで、それがまた神さんを含め、全生命と、共通の行いでもある“観察と認識”でもある。
話がそれてしもた。
前回の、第十三帖では自己奉仕者の認識について指摘されてた。
それは、“何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、”って言われてまんねん。
そやから、自分たちのものとか、自分たちの何かって言う考えそのものが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程が低く、すべて“上”からの荷電粒子は、自分たちが頑張ってきた結果により心(靈)が進化して、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現していく。
言うまでも無く“力”の顕現は、より良い事象、誰もが神格化を目指す真の意味での幸福な世界を“創造”することでもある。
そやからこそ“力”は、そのために(自分の心(靈)と感応共振して)“上”から与えられる。
そやからそれは、自分が頑張らんと“上”は何もしてくれないってことでもあるし、例えば前のブログでも言うたことなんやけど、発明や発見は自分たちのもんやって思ってること自体が、自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)の動きで、そやからkそ自分たちの欲望の達成と低い功名心と自尊心を満たすために使う。
すべての“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の源は、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信である。
そして“力”が与えられたり、教えられたりするには、霊的干渉の変圧の過程があるからこそ、いきなり“創造”の“主(ヌシ)”は人間に関与できない。
さまざまな霊的存在が仲介して、この事象に対し、人(日止、霊止)は、“力”を顕現していく。
それを人間は知らんからこそ、言われてることやと思える。

ほんでから“夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。”って言うのんは、眠っているときは、肉体の中に自分の心(靈)がいないって思えば解りやすい。
眠っているときは、誰もが、肉体以上の自分としての幽体、霊体、神体が、肉体から離れるって思えばいい。
そやからこそ夢を見る。
夢を見るのは、今の事象より高次元の事象やったりもする。
また話がそれたけど、肉体を持った心(靈)としての人(日止、霊止)は、肉体を顕現している事象の“創造”をしている。
さっきも言うたとおり、この事象の“創造”の良いカタチをするために“力”を得ようとするのが、愛(炁)が動機のことでもあり、愛(炁)は想像の源でもあり、“亜”から“亜”が出ずる、泉、は、“アイ”でもあり、人から視点で“創造”の“主(ヌシ)”をみると、向かって日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を動かす“一”って言う字そのものでもある。
ほんでから日足(ひたり)から砌(みぎり)は、“思惑の顕現”=現象化って言う意味でもある。

話を戻し、ほんでから次の文は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振することを言うてる。

“身魂みがくと申すことは、
神の入れものとして神からお預りしてゐる、
神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。”

この文の“身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、”…そやから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化って解釈を今まで何回もしてきたけど、肉体の電気特性の変化、そして體(骨が豊か、宝のアナグラム)、“波羅密”=受信した振動によって“羅(目の下の錐体状の神経)”が発達してきた進化過程。
それが人(日止、霊止)でもある。
動物と人間の違いでもある。
さらに心(靈)の発現と動きは、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)って分類が出来ることを、先生は指摘した。
要は、人は、神の思惑を受信して自分の思想に活かし、そして人って言う字に現されているように、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が合わさっている。
それが良いカタチの現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”である。
そしてそれは神さんの最後の仕事、生物の進化過程の最後としての人って言う意味で、“玉(ぎょく)”の意味でもある、翡翠(ヒスイ)の翠(スイ)は、“翆”とも書き、卆って言う字を当てられ、それが“日月神示”表記の、○ 九 十(まこと)でもある。
言うまでも無く○ 九 十は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) + “九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、それに、胸の磁性“十”を足した表記でもある。
そやからその意味で、神から託された人(日止、霊止)の使命は、よいカタチの現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”であるからこそ“神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。”って称されていて、その方法論そのものが、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。
そして今、その貴いはずの“行”と“修行”の意味を、自己奉仕者の低い価値観が、宗教を形骸にして、見出せなくなっている。
太陽凝視=不食って認識でもそうでんねん。低い認識由来の解釈でんねん。
“行”と“修行”…その意味と意義は、苦痛や苦悩を自分が体験し、自分がエネルギーを贖い、それは生体内電流の強化と変化になっていく。
そしてそれは、生命(生きる使命=存在理由)の神格化の過程で、必要な行いでもある。
さらにそこには、ローム太霊さんが教えた、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん ”と、“粘りとやせ我慢”で、“行”を乗りこなしていかなくてはいけない。
また、自分自身に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無くてはいけない。
だからこそ“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化になる。 
そして、人(日止、霊止)には“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのオーラがある。
それぞれのオーラを大きくする“行”と“修行”は、方法が違う。たとえば、滝に打たれたり断食したりするのは3番目のオーラの拡大になっていく。呼吸法やお経を唱えたりするのは、2番目のオーラの刺激に、少しはなる。そやけどそれはアナハタチャクラの覚醒そのものではない。心(靈)の動きが伴っていないし、自省(胸の磁性“十”)の“行”って要素が無いからやし…それはおいといて、大事なのは、“一”=智性=1番目のオーラを大きくし、神の思惑を受信して自分の思想にしていく“行”と“修行”そのものが、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。
これも、今まで言うてきたことやけど、敢えて言うときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈



今回も富士の巻 第十五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。
 
一二三は神食。
三四五は人食、五六七は動物食、七八九は草食ぞ、
九十は元に、一二三の次の食、神国弥栄ぞよ。
人、三四五食に病ないぞ。
八月二十四日、 ローレンツ力と ○ 一二 ローレンツ力と ○ ふみ。

この文章の“食”を、ただ物質を取り込む意味での食事って解釈をしたなら、この文を読み解くことは出来へんと思える。
そやからそれは、物質を取り込んでるって認識してることでも、それは、物質って言う振動を口から食うことにより、自分の心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、振動の取り込みによって食事って感じ(感じる磁性)ているに過ぎない。
それは、自分たちが、物質を伴った心(靈)って認識が無いからでもあり、認識が低い=霊的成長度が低いと、その心(靈)って言うのは、物質にしか視点が無い。
それはまた、外側の形しか分からない=低い振動しか受信できない。
言い換えれば、その観察対象になっている高い部分は理解できない。一言で言えば、低い心の観察は低い部分しか分からない。
仮に、高い心(靈)(だんだん神に近づいた心(靈))を持っていれば、観察対象の低い部分、外側(外国と幽界)の事象だけではなく、自分にとってどんな活かし方をすれば良いのか、智性=神性で、判断できるし、その貴い何かを、自分の低い心の動きを満たすものになど、決して使わない。
智性=神性を発現し、だんだん神さんに近づこうとする人間は、そう在るべきでんねん。
それが、智性=神性由来の“観自在”、自分の在り方を観察するってことでんねん。
そやから今、霊的成長のための価値のある何かは、形骸しか分からない人に利用されて、低い心の発現の低い欲望と低い功名心と低い自尊心を満足させるための道具になってしまっている。
“日月神示”でも、宗教でも、ヨガでも、政治でも(まつりごと)、アセンションって情報でも、T霊媒=竹内満朋の偉業でも、ローム太霊さんが人(日止、霊止)に垂れた、“主護霊”の情報をはじめとした貴い教えでも、人間が自分だけに獲得したと錯覚してる発明発見でも、たくさんの知識でも、ほとんどのものは自己奉仕者の行いにより、自己奉仕者の心(靈)の動きにより、金儲けに利用されて、その価値を見出せなくなっている。
そしてそれが、進化過程の低い“われよし”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いでもあるけれど、アセンション落第組の心(靈)の動きでもあるんやけど…話がそれてる。

話を戻し、今言うたんは、“食”=振動の取り込みのこと。
ほんでからこの文に列挙されてる漢数字については、今までも、以下のように解釈してきた。

“一”=智性(神性)、“創造”の“主(ヌシ)”の表記。1番目のオーラ。
“二”=肉体。
“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
“四”は、発振、発信。“日月神示”表記の善言(よごと)。“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。
“五”は、糸巻き。神経が密になり、コイル状に巻いた様。
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数。ほんでから爻部(こうぶ)は、交わるの意味。そしてその象形文字のカタチを観ると、屋根=頭の下に、左右の極性があるように感じ取れる。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
ほんでから前に、“日月神示”表記の“七七七七”は、目上(めうえ)の脳、大脳新皮質の四つの機能、そしてそれは、“一霊四魂”であると解釈した。
“八”は、左右、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕れ。それは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。○ 九 十の“九”。
“十”は、胸の磁性“十”。腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸と手の磁性で、シンクロトロン放射に移行する様。

それを踏まえ、本文の解釈をしていきまんねん。

“一二三は神食。”

これは、“一二三(ひふみ)”のオーラは、神=示すへんに“呂”=エネルギーの回転で発信される荷電粒子を取り込んで、自分の肉体の磁性で増幅(“畐”)して、発信されてる三つのオーラ。

“三四五は人食、” 

“三”は三つのオーラ、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。“五”は、動物から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、その進化した心(靈)に伴い、肉体が変容して、神経が密になった様子。
そして“三四五(みよいづ)”は、この事象の“創造”になる。この世界を創っているってことでんねん。
そしてそれは、肉体+心(靈)、人(日止、霊止) 対 人(日止、霊止)が、それぞれのオーラの相互干渉で影響しあい、この事象の“創造”をしている。そやから、自己と他者、それぞれ、そのオーラを食うこと=吸収することが“人食”。

“五六七は動物食、”

この“五”は、動物から人間の進化過程で発達した神経、そして“六”は、屋根=頭の下に、左右の極性がある形やから、それは動物から人(日止、霊止)への進化(霊的成長、神格化に向かうこと)で、そしてそれは、“七”=“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)になる。
そして智性(神性)は、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))に発現する。
そやから“日月神示”表記の“七七七七”がきちんと出来上がり、きちんと機能して無いと、自分の心(靈)の動きにおける智性=神性と、自我と、情動…いろんな言い回しが出来るけど、要は、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)が区別できない。
またそれは、心(靈)の方向性の“上”と“下”を自分で判断することでもあるし、それを判断したなら、自分の今後=アセンション後の在り方を観ることが出来る。
それは智性=神性由来の、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”やっていう敵たし、ほんでから心の“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、それを判別して、そして行動に活かすことが“身魂掃除”“身魂洗濯”って何回も解釈してきた。
そやからそれは、人が持っている動物の部分と神さんに近い部分ってことでんねん。
そやから事象の観察をして、そして自分の心(靈)の動きも観察して、人の心の動きの“上”“下”を認識(悟り、幸取=さとり)する。
そして人は“上”を目指し、“日止、霊止”になっていかねばならない。
その意味で次の文。

“七八九は草食ぞ、”

この“七”は、さっきも言うたとおり、“一”=智性=1番目のオーラと、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化が、智性=神性由来の“創造”にならねばならない。
それが神さんから託された人(日止、霊止)の使命でもある。この事象を、“うれしうれし”“大歓喜”にしていくのが人(日止、霊止)の使命でもある。
そやから今後=アセンション後は、智性(神性)を発揮した人が活躍する。
それに対し、今は、自分に備わってる智性(神性)を無視し“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、その結果が恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになってしまうから、どんな人がアセンション後に位置できるのか…アセンション後の“創造”を託されるのか…答えは実に簡単なんやと思うけど、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑を受信し、それは、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)の甘い(亜、魔、出ずる、泉)アセンション情報を流してる人があまりにも多い。
ほんでからその程度の低い情報を、ほんまのことと思う人は、ただ霊的成長度が低いってことでんねん。
話を戻し、“八”は左右の極性、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道日足(ひたり)と砌(みぎり)。
“九”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
人(日止、霊止)の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受信して、自分の思想に活かし、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしていく。
それが、智性(神性)を活かした人が活躍するアセンション後の事象でもある。
そやから“九”は、人って言う字に、“一”を足した表記でもあるし、“日月神示”表記で、神さんの最後の仕事としての意味を持つ○ 九 十(まこと)。
その意味も持っている。前に紹介した画像を貼っておきまんねん。

○ 九 十(まこと)の解字 



そして“草食”って言うのんは、クサカンムリに、太陽を示す日と十やから、太陽で胸の磁性“十”を芽生えさせる意味を持つのかもしれへん。多分そうやろ。
そやからそれは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでんねん。

ほんでから次の文。

“九十は元に、一二三の次の食、神国弥栄ぞよ。”

 まず“九十”についてやけど、これも、この富士の巻が自動書記によって書かれたのが八月やからってことで、大概の人は、九月十月って思うかもしれへんけど、そんな程度のことでは決して無いと思える。
 さっきも言うたとおり、“九”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なっており、神さんの思惑を受信した智性(神性)由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が、乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現で、アセンション後の事象はそうならねばならない。
そして“十”には腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、手と胸の磁性で、シンクロトロン放射に移行し、そのときの心(靈)の動きが、“慈悲”と“慈愛”になっていくことを何回も言うた。それを一言で言えば、胸の磁性“十”ってことになる。
ほんでから神道の十種神宝(とくさのかんだから)や、太祝詞(ふとのりと)の、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十は、“創造”の“主(ヌシ)”の、生命(生きる使命=存在理由)を創造していく過程も含まれていて、それは、太陽を示す、日=ヒで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子って意味では、霊の旧字、靈で、それもまた、ヒと読ませる。
それを止めるのが、“日止、霊止”で、“十”は、トでもあり、それを簡略に呼べば、ヒトって表記にもなる。
 ちょっと長い説明になってしもてるけど、“九十”は、今言うた意味を感じさせる。
 ほんでから“元”は、“二”=肉体と儿部(じんぶ、にんにょう)、儿部(じんぶ、にんにょう)は人が歩くさまに象る(かたどる)。
要は、時間の進行とともに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくのが“日止、霊止”ってことなんや。ほんでから時間の進行を認識してる生命(生きる使命=存在理由)は、高等な生物でしかない。
当たり前のことなんやけど、進化過程の低い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の認識では、死後のこととか、自分が永遠の実在であるとかの認識が無いからこそ、今の世界で楽しんで生きるのが幸福やと思い、そやから、自分が持っていると錯覚している“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を利用し、低い欲望の達成のために行使して、他者に対し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてる。
そやからその霊的成長度の人は金儲けしか考えんし、形骸の見せ掛けの言葉を行使したりもする。
それは、政治家や、企業のトップや、形骸の宗教に携わってる人、ほんでからそれは、特に、低い霊能力者に多いパターンやし、ほんでからそれは、アセンションの情報を利用してゴーストライターに本を書かせてる人みたいなもんや。
要は、智性(神性)由来の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をしてへんってことなんやけど、まったく情けないな。
話を戻し、“一二三の次の食、神国弥栄ぞよ。”は、智性(神性)を発揮した場(フィールド)がこの文の“神国”。神は示す偏(へん)とエネルギーの回転を示す“呂”。そして、“国”は、場(フィールド)を示す(囗)くにがまえと、人が霊的成長し、左往右往して自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを発現してるのが“玉(ぎょく)”。そやから先生は、人が自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をして霊的成長していく様を、前のブログで“宝玉の仕組み”って定義付けた。
また、話を戻し、この文の“一二三の次の食”は、この富士の巻 第十五帖の冒頭の“一二三は神食。”に掛かり、そして“神国弥栄ぞよ。”で、纏められている。
それは、今までの地球人の進化過程は、“一二三(ひふみ)”のオーラの発現の段階やった。
そやけど現時点、“一”=智性=1番目のオーラはまだ小さく、そやから地球人は、ユニオン(宇宙連合)の仲間入りをさせてもらえない。宇宙的に観て地球人の進化過程はてんで低すぎるからや。
それはおいといて…霊的成長していく過程が“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
そして人は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受信して自分の思想にして、その人の完成って言うのんが、“王”って字に示されてるって先生は解釈してる。
そして今後=アセンション後は、霊的成長度によって分けられ、“王”に近い完成度を持った人(日止、霊止)の場(フィールド)になる。
それがさっき説明した、智性(神性)由来の“思惑の顕現”=現象化しか観察し得ない事象になり、そこにいてる生命は、弥栄(いやさか)の、言葉としての意味でもある、いっそう栄えるとか、感謝とか、労い(ねぎらい)とか…そういう意味もあるんやろけど、弥栄(いやさか)の旧字、彌栄(いやさか)、そして彌の旧字は、弓偏(へん)に璽(しるし)、これはチャクラを示してるって先生は解釈した。(
思惑と顕現“その十一” “上”の思惑と顕現…“天の御目” 参照)
そやから、完成された人を示す“王”は、“一二三(ひふみ)”のオーラが充実し、それは神に近い完成度を持つ。(補足 完成の完は、宀(うかんむり、頭の意味)と“元”)
またそれは、肉体に備わっている七つのチャクラの覚醒でもある。そして現時点で後求人のチャクラの覚醒は、三番目のチャクラ、マニピューラチャクラの覚醒と強化の段階やからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の世界になっている。それを“日月神示”の表現を借りるなら“江戸と尾張”で、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもある。
またまた、話を戻し、ある程度“一二三(ひふみ)”のオーラが立派になり、その“王”からの発振、発信は、その発振、発信で“創造”された事象は、“うれしうれし”“大歓喜”になるってことで、その意味でも彌=弓偏(へん)と璽(しるし)、チャクラが、弥栄(いやさか)=いっそう、盛んになり、栄えるってことでもあると思える。

そしてそれは次の文章につながっていく。

“人、三四五食に病ないぞ。”

“三四五(みよいづ)”はさっき説明した通り、“三”は三つのオーラ、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。“五”は、動物から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、その進化した心(靈)に伴い、肉体が変容して、神経が密になった様子。
その発振、発信で“創造”された事象を観察して認識する。それは振動を食うことと同義である。要は自己と他者の振動が、今より、神格化に近いからでんねん。
そやからそこには、人が、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と感じ(感じる磁性)る“病”など、言い換えれば、“病”と認識される発振、発信など無いってことでんねん。

そやからこの、富士の巻 第十五帖は、アセンション後の人(日止、霊止)の霊的成長度と、その霊的成長度に於ける“思惑の顕現”=現象化を指し示す表記の文やと思いまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



今回も富士の巻 第十六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

あらしの中の捨小舟ぞ、
どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも分かるまい、
メリカ、キリスは花道で、
味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、
梶(かじ)も櫂(かい)さへ折れた舟、
何うすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、
それでは神も手が出せぬ、
腐りたものは腐らして肥料になりと思へども、
肥料にさへもならぬもの、沢山出来て居らうがな、
北から攻めて来るときが、この世の終り始めなり、
天にお日様一つでないぞ、
二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、
この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、
神々様にも知らすぞよ、
神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ。
八月二十四日、 ローレンツ力と ○ の一二か三。



冒頭の文、

“あらしの中の捨小舟ぞ、
どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも分かるまい、”

これは大半の人が、今後=アセンションを迎えるにあたって、その準備が出来てないことを指摘してるとしか思えへん。
準備って言うのんは、言うまでも無く霊的成長度。
そして心(靈)の方向性って言うのんが判りやすいと思う。
それは今まで言うてきたように、自省(胸の磁性“十”)の“行”、そしてローム太霊さんが言うた、左往右往。それをして行かんと、“慈悲”と“慈愛”と自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が、発現しない。
そしてそれは、智性(神性)由来の事象の観察になる。
またそれは、自分の内面(心(靈)の動き)であろうが、外側(外国と幽界)の事象であろうが、その智性(神性)由来のものの見方、視点は、天の御目(あめのおめ)になる。
そしてその視点を持つことそのものが、すべての事象に対する“上”と“下”を見出すことになる。
さらにそれは、自分の心(靈)の中で判断することなんやからこそ、“身魂掃除”“身魂洗濯”って言うのんは、智性(神性)由来の事象の観察でもある。
そやからKellyさん的に今まで“日月神示”を解釈してきて、“身魂掃除”“身魂洗濯”=事象の観察に“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出し、“上”と“下”を判断する智性(神性)を獲得するには、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受け=天意を受け、自分の思想にすることとか、“上”の存在の通信を受けるために、霊的干渉の変圧の過程があるからこそ、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をするとか、“上”の思惑を直接、両眼で受け、自分の思想にするべく“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことを言うてると、解釈してきてる。
余談なんやけど、太陽凝視に対する認識を低くしてる人は、低い霊的干渉が起きていて、そしてそれは、腹の段階の心(靈)の発現と動き、自我の確立=固定化の霊的成長度の人たちが思う太陽凝視は、不食ってことでしかない。
そして、不食を騒いでる程度のことは、低い功名心と自尊心=マニピューラチャクラ由来の心(靈)の動きでしかない。
話を戻し、霊的成長の過程、だんだん“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を知ること。
通信を受けること。
感応共振すること。
それがある意味、自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるし、生命の存在の理由は、神格化でしかない。
そやからその過程において、やらねばならぬこと、考えなければならぬことがある。
要は法則性ってことで、それは、ローム太霊さんの言葉なら、“條”であり、先生の解釈ならば、大日如来の条帛(じょうはく)、これは心(靈)の動きをも示してるし(“玉(ぎょく)”の中の点)、条帛(じょうはく)と“條”は、同義でもある。
ほんでから、事象の“創造”の法則性って言うのんを“日月神示”内の表記を借りて言えば“理(ミチ)”“道”。
しかし、そのことを大半の人が認識してない。大半の人は、ただ生きてるだけみたいなもんでんねん。
言い換えれば、霊的成長の方向性を知らんってことやし、それ以前に、人生が霊的成長と神格化のための一端であることすら知らん。
そんな認識(悟り、幸取=さとり)に達してる人がほとんどおらんみたいなもんでんねん。
そやからこの文は、そのことも指摘してまんねん。それは“理(ミチ)”が“道”が、“道理”が判からへんから、“あらしの中の捨小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、”ってことになりまんねん。
ほんでから、この文の“船頭さん”は、自分の心(靈)の指標みたいなもんで、霊的成長の“道理”が判からへんから、解らへんから、薄っぺらい価値観でしか事象を観ない。  
そやから、そんな人たちは、宗教を形骸にしたり、ヨガをエクササイズにしたり、太陽凝視を不食のためのものと思ったり、アセンションセミナーで金儲けして、また、雰囲気だけ楽しむ人を増やしたり、アセンションやフォトンベルトの情報で金儲けしたり…見せ掛けの幸福感を求めるから、美食やファッションやブランドや…そんなものに価値があると思い、それを達成するために仕事をしたりする。
そやからそれは自分の外側(外国と幽界)の事象の事象の観察による価値観で、形骸の“美”の概念や、低い欲望を満たすことが幸福と思い込む。
そこには高度な自己観察=智性(神性)由来の価値観って言うのんは無いからこそ、次の文、

“メリカ、キリスは花道で、
味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、”

この文の“メリカ、キリスは花道”は、
富士の巻 第三帖で言うた様に、アとイが抜けている。
そやからこの文の“花道”って言うのんは、形骸の価値観の繁栄、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する今の事象のことを指摘した言い方やな。
そやからこそ、“味方と思うた国々も、”って言うのんは、その価値観や、今までの薄っぺらい幸福感の達成のために頑張ってきたこと、それは霊的成長度の低い人がやってきたことがこれから崩れだす。
もう崩れかかってるな。
それらが“一つになりて攻めて来る、”…すべてダメな結果になっていくってことを言うてると思える。

そして、今言うたことを強調する言い方として次の文、

“梶(かじ)も櫂(かい)さへ折れた舟、
何うすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、
それでは神も手が出せぬ、
腐りたものは腐らして肥料になりと思へども、
肥料にさへもならぬもの、沢山出来て居らうがな、”

霊的成長の指針を見失った人たち=“梶(かじ)も櫂(かい)さへ折れた舟、”の心(靈)の動きは、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無いからこそ、“何うすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、”って言われてる。
そしてそれは、今後=アセンション後に移行する霊的成長度、霊的資格、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしてへんからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がかかれへんからこそ、“それでは神も手が出せぬ、”って言われてまんねん。
ほんでから、今の薄っぺらい“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観は、“上”から観たなら何の価値も無いからこそ、ただただ価値のある何かを利用して、低い功名心と自尊心を満たしてきた人たちの心(靈)の動きは、恨みの連鎖の霊的干渉を創造してきたからこそ、“腐りたものは腐らして肥料になりと思へども、肥料にさへもならぬもの、沢山出来て居らうがな、”って言われてまんねん。
 そやからこの文は、人の甘さ、甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いを指摘してる。大体、人(日止、霊止)が神格化していくのに、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ってもんがないと、自省(胸の磁性“十”)をせんやんか。
そやから、自分を省みることすらせん人に対し=霊的成長度の低い人=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の発現の人は、今後=アセンション後の“創造”を託されん。
それどころか、自我の肥大した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、恨みの連鎖の霊的干渉を想像してこの星を“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)の場(フィールド)にしてる。
何回も言うてきたことやけど、ほんま解らへん人が多いんやろな。そやから“日月神示”でも何回も同じような言い方をされてるんやな。

ほんでから次の文、

“北から攻めて来るときが、この世の終り始めなり、”

この文の“北”は、神々の総元締め、中国の古代思想で、天地、万物の生じる根源という意味での、太乙(たいいつ)、そしてローム太霊さんが、ローム太霊講話集(32ページ)で説明した、北神大極紫微太神(ほくしんたいきょくしびおおかみ)のことやろ。
そやからこの文で言うてるのは、今までの事象の創造は、人の思惑に任せてきた一面があり、そやけどそれは低い霊的成長度の人が大多数やから失敗の事象でもあり、右往左往でもあり、そやからこそ今後=アセンション後は、左往右往に入る。
そして、左往右往するため=良い形の“創造”をするためには、天の御目(あめのおめ)、事象を観察する高い視点、智性(神性)由来の事象の観察が必須やから、大局的なものの見方が必要で、それは天意を受ける人が行う“創造”でなければならない。
その意味のことを言うてると思える。

ほんでから次の文、

“天にお日様一つでないぞ、
二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、
この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、
神々様にも知らすぞよ、”

この文の前半は、今までは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介してきた生命としての太陽があり、そやけど今後=アセンション後は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を受信して自分の思想にする“日止、霊止”が現れることを言うてると思える。
あえて言うまでも無くそれは、智性(日を知る性質)を獲得するのは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行ってきた人.
“日月神示”表記を引用すれば、“ひつくの臣民”。
ほんでからそれは、智性(神性)を発現する人、智性(神性)由来の“創造”をする人、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人の出現をこの文章で指摘してる。
その人たちがこの(今の、現時点での、って言う意味)世界で活躍しだしたならば、今の価値観、低い心(靈)の創造=自己奉仕者の活躍は、終わる。
それが“この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、”ってことでんねん。

 ほんでから次の文、これも今言うたことの補足みたいなことを言うてる。

“神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ。”

 これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の憑依ができる体=體(骨が豊か、宝のアナグラム)のことを言うてる。
そやから、大半の人は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ていないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がかかり、“上”の思惑を伝えることが出来ない。
 今ここに居てる人たちの大半は、用意が出来てないからこそ自己奉仕者であり、事象を観察する視野は狭いし、薄っぺらい幸福の概念を持ち、それを実現し、その結果、恨みの連鎖の霊的干渉を創造し、大体、霊的なことを知ったとしても、商売にしか利用しないからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉なんて認識を、持ち得ない。
 そんな人たちが活躍してるのが今の事象で、それは崩れる。左往右往に入る。
そやから前後するけど“この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、”ってことになりまんねん。

ほんでから今までも言うてきた様に、“上”の思惑は荷電粒子で、それを肉体を介して取り込む際は、肉体の縦の磁性で上から下へ降りるとき、日足(ひたり)回転になる。
それは、“理(ミチ)”で“道”で、条帛(じょうはく)の“条”で、ローム太霊さんの説明した“條”でもある。
一言で言えば法則性。
“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方の法則性。
人の“思惑の顕現”=現象化には、神の思惑が必須であり、神の思惑を受信して認識(悟り、幸取=さとり)とした人は、“日止、霊止”であり、その人たちが今後=アセンション後の事象の“創造”をしていく。
ほんでから“上”の思惑としての荷電粒子は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転でもあり、それは空間(と、個々の心(靈)で認識されうる)場(フィールド)の順流であり、日足(ひたり)であり、それに対し逆流は、右回転=砌(みぎり)回転、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転でもある。
その回転の方向は、霊的成長の方向性ってことを説明せんならんのやけど、簡単に結論だけ言うとけば、宇宙(と、人が認識してる場(フィールド))は、中心の磁束を持ってて、その周りを回転してる場(フィールド)が、宇宙ってことでんねん。
ほんでから低振動化した荷電粒子は、質量がはっきりしてくるから慣性を持つ。
質量があるからこそ、ローレンツ力で回転するとも言いうるな。
そやけどこの概念について、ここで説明するのはお門違いやから、別の項目を設けるか、○○○大先生が“改”で説明することとしまんねん。

ちょっと余談になってしもた…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第十七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

九十が大切ぞと知らしてあろがな、
戦ばかりでないぞ、
何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、
上の臣民 九十に気つけて呉れよ、
お上に神祀りて呉れよ、神にまつらうて呉れよ、
神くどう申して置くぞ、
早う祀らねば間に合はんのざぞ、
神の国の山々には皆神祀れ、
川々にみな神まつれ、
野にもまつれ、
臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、
まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。
臣民の身も神の宮となりて神まつれ、
祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、
神は急(せ)けるぞ。
八月二十五日、 ローレンツ力と ○ のひつ九 ローレンツ力と ○


冒頭の文、

“九十が大切ぞと知らしてあろがな、
戦ばかりでないぞ、
何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、
上の臣民 九十に気つけて呉れよ、”

これも今まで言うてきた様に、“九”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
そして“十”は胸の磁性“十”。シンクロトロン放射。人(日止、霊止)の心(靈)が、自我の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)中心になっていくこと。
そして、この文は“上の臣民 九十に気つけて呉れよ、”って言われてる。
そやから“九”って言うのは、神の思惑を自分の思想に取り込んで、“一”=智性=1番目のオーラ由来の乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)をする。それは現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”になる。
それは、天意=“上”の思惑を受けて、創造をするさまを“九”で表しているし、“十”については、今までくどいほど何回も言うたから、あえて説明しませんねん。
ほんでからこの文の、
“戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、”って言うのんは、外側(外国と幽界)の事象の観察=“戦”を見てるだけでは、自分の在り方は判断できんって言う意味やと思う。
その判断できない心(靈)の動きは、自省(胸の磁性“十”)をしてないからで、それはまた、右往左往であり、砌(みぎり)の心(靈)中心のときでもある。
そやから“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をしたならば、それは左往右往で、日足(ひたり)の“行”に入り、その人たちの心(靈)の動きは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではなくなる。
今後=アセンション後の世界は、誰もが霊的成長を目指し、その足を引っ張る(恨みの連鎖の霊的干渉の現象化)悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)のいない世界になるってことでんねん。
そやから今まで何回も言うてきた様に、その段階に入るのが、アセンションでもある。

ほんでから次の文も、今言うたことをもう一度言うてる。

“お上に神祀りて呉れよ、神にまつらうて呉れよ、
神くどう申して置くぞ、
早う祀らねば間に合はんのざぞ、”

 この文の“お上に”って言うのんは、今の指導者たちは低い霊的干渉しかおきていないから言われてることで、言うまでも無く今活躍してる人たちの大半は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)でもある。
 その人たちが目指してるのは、低い欲望の達成であり、(通貨としての)金を得る事でもあり、自己奉仕者が自己奉仕者を誉めそやし、形骸の名誉を欲する世界でもあり、それは、政治家やプロスポーツや芸能人…etc いろんな世界がそんな場(フィールド)に成り下がってる。
ほんまに褒めそやされるのは…言い換えれば、誉めそやされるべき行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が評価するものでなければならないし、そやから自己奉仕者、そんな人たちが活躍する世界は、壊れるに決まってる。
そやから天意にそった“創造”をしてくれって言う意味で“神にまつらうて呉れよ、神くどう申して置くぞ、”でもあり、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が、決まっているから、“早う祀らねば間に合はんのざぞ、”って言われてる。

ほんでから次の文、

“神の国の山々には皆神祀れ、
川々にみな神まつれ、
野にもまつれ、
臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、
まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”

 この文の“山々”は、大脳新皮質、左右の大脳半球を指す。
これについては前のブログ、目上(めうえ)と目下(めした)をしっかり読んで理解して欲しい。
(ほんでから先生の三冊目の著書にしっかり書いてありまんねん)
そやからそれは、天意を受けた上での思想を構築する=智性(神性)の発現であり、それによって出来上がる=“創造”され得る現津(あきつ)、観察され得る事象は、その場(フィールド)は、“神の国”って称されてて、神は、示す偏(へん)に“呂”=エネルギーの回転。国は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”。
これも何回も説明したから省略しまんねん。
 ほんでから“川々”は、“山々”と同様の表記やから、これも左右の極性を示し、それは川やから、水の極性で、錯体のことを言うてると思える。
そやからそれは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ってことでんねん。
あえて補足しとけば、肉体内の電磁誘導のラインとしての、左右=日足と砌(ひたりとみぎり)でんねん。
ほんでから“野”については、画像で示しまんねん。

野の解字 (富士の巻 十七帖) 


 ほんでから“臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、”の“家”は宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ)(家畜の意味)、そやから“家”って表記は、頭=“一”=智性=1番目のオーラを持った動物って言う表記でんねん。前にも同じ解釈をしましてんな。
そやからこの文は、天意、“上”の思惑、神の思惑、それを受信して自分の思想にすることを言うてて、それは“五六七(みろく)”、“五”=糸巻き、神経が発達した様子と、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。
それと“七”=“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
それをこの文では“まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”と、称されている。

ほんでから次の文も、同様のことを言うてる。

“臣民の身も神の宮となりて神まつれ、
祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、”

 要は、“身”=肉体を、“神の宮”にするって言うのんは、“上”の思惑を受信できる肉体ってことで、それはこの十七帖では触れられてないけど、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でしか、そうはならない。ほんでから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ電磁波は、太陽光と、可視光線以上の波長の電磁波でもある。そやからそれは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

ほんでからこの十七帖の“まつれ”“まつり”“祭り”“祀り”の表記の違いは、ひらがな表記のものは、まつらう=“上”の思惑を取り込んだ“創造”のいみ。
それは法則性=ローム太霊が教えた“條”(“力”を使う法則性)、そしてそれは、大日如来の条帛(じょうはく)の“条”と同義。これも前のブログで指摘してる。
そやからひらがな表記の“まつれ”“まつり”は、法則性を認識しろってことでんねん。
法則性を知らん“創造”をしてるから=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してるから、この世界は壊れて行きまんねん。
何回も言うてきたことでんねん。
ほんでから、“祭り”と“祀り”、これについては何回も使った画像を以下に貼っておきまんねん。

“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い 


そして最後の文は、さっきも言うたけど、時期(磁気)が迫ってるから言われてまんねん。

“神は急(せ)けるぞ。”…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第十八帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

神々様みなお揃ひなされて、
雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、
五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、
今度の仕組の御役きまりてそれぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。
辛酉(かのととり)はよき日と知らしてあろがな。
これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ、
物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、
泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、
理屈は悪魔と知らしてあろが、
保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、
臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、
足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、
足らぬのは、やり方わるいのざぞ、
食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。
それぞれの神様にまつはればそれぞれの事、何もかなふのぞ、
神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか。
戦には戦の神あるぞ、
お水に泣くことあるぞ、保持の神様 御怒りなされてゐるから早やう心入れかへてよ、
この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。
八月の辛酉の日、ひつくのか三さとすぞ。


冒頭の文。

“神々様みなお揃ひなされて、
雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、
五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、
今度の仕組の御役きまりてそれぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。”

冒頭の、“神々様みなお揃ひなされて、雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、五柱、七柱、八柱、十柱の神々様”…これは、何種類もの神さんがいてまっせ~って言うてるのではなく、以下の言葉にかかると思われる。

“今度の仕組の御役きまりてそれぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。”

この文の“今度の仕組の御役きまりて”は、言うまでもなく“今度”=アセンション後のことを指している。ほんでから“今度の仕組み”っていう表現は、今後=アセンション後の人の心(靈)による事象の観察=“創造”を指している。
そやからそれは、その“創造”は、今までの地球人の“創造”ではなく、言いかえれば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きによる“創造”ではない。
このうち、先生と話した“一”=智性=1番目のオーラが大きい人、きちんと天意と反応できる人、神の思惑と感応共振できる頭の磁場を備えた人、そういう人が今後=アセンション後の“創造”を担う。このブログで何回も言うてきたことでんねん。
ほんでから“今度の仕組み”…その仕組みそのものを示しているのが“五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、”やと思える。
この数字と柱、今までにも解釈してきてるけど邯鄲に説明しておきまんねん。
“五柱”は、五=糸巻きの象形文字、神経が密になる様子。
“七柱”の七は、“一”=智性=神性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
“八柱”の八は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、“日月神示”表記なら“富士(二二)”でもある。
“十柱”の十は、胸の磁性“十”。

“柱”の意味は、以前に紹介した画像で示しまんねん。

柱の解字

そして、“柱”の、木偏(へん)をはずした旁(つくり)の部分は、言うまでもなく、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる基本の仕組みとも言いうる“主(ヌシ)”。
生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基本形とも言いうる縦の磁束と水平磁場を示した表記。
(余談やけど、先生が“改”で述べようとしている、縦の磁束と水平磁場によるアミノ酸結晶化は、たんぱく質の高分子化になり、それが下等生物と高等な生物の体の構造の違いになり、それがまた心(靈)の発現の違いになるってことでんねん)
ほんでからそれは、ローム太霊さんがこの表記を使うべきであるとS会=紫光会で述べた“主護霊”。
“主護霊”の意味は、人が“主(ヌシ)”=独り神(ひとりがみ、日取り神)になる成長と過程を護る霊の意味でもある。

これも以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。

主(ヌシ)の解字 


そやから“五柱、七柱、八柱、十柱の神々様”は今述べたとおり、心(靈)の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に関わる表記。
ほんでから“神々様”は、示す偏(へん)に“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)であるから、自分の心(靈)の発振、発信を示すものでもあり、発信された振動は自分に返ってくるから事象の“創造”と観察と認識が出来得る。(これは量子論に近い考えでもある)
そやから“神々様”は、決して特定の神さんを示した表記ではないと思える。
ほんでから前にも言うたことなんやけど、“観察と認識”って言う行為そのものが全生命に共通のことであり、それは神さんでも人間でもミミズ、ヒル、ゴカイ君でもおんなじやねん。

ほんでから前後するけど、“雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、”については、
“雨の神”は、錯体による荷電粒子、そやから腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。“石”(帯電するミネラル)が結晶化していない段階での心(靈)の発現と動き。その進化過程を指す。
要は自我の発現で、自我がなければ自分の存在を認識できない。それがまた、自我って心(靈)を発現しなければ、独り神(ひとりがみ、日取り神)には成りえない根拠でもあると思われる。
そやからそれは、自己と他者の認識が無ければ、独り神(ひとりがみ、日取り神)にはなりえない。
それを分かりやすく言い換えれば、動物の進化過程は、自我の確立=固定化の段階として人より低い。そして自我より“上”の心(靈)の発現は、人より低い。それは“目上(めうえ)と目下(めした)”の違いでもある。このことは、これまでも述べてきたから、あえて詳しく説明しませんねん。
また、植物の心(靈)は、集合意識で一個体を認識しないから神格化しないとも言いうる。
話がそれてしもてるけど、次の“風の神”は、空気を取り込み体内で電磁誘導を指す意味があると思える。(電磁誘導は、磁束が変動する環境下に存在する導体に電位差(電圧)が生じる現象である。また、このとき発生した電流を誘導電流という。)
そして“地震の神”、これは、地は言うまでもなく土であり、“石”(帯電するミネラル)でもある。それが震える=振動する、震動するってことでんねん。肉体内にある“石”(帯電するミネラル)は生体内電流や体液の流れなどで、動き、動くことそのものが一個体内で新たな電磁誘導を起こす。(例えば、鉄分子を持ったヘモグロビンの移動=血液の流れなどは理解しやすいと思う) そやからそれは、生命の営みの仕組みを言い表した言い方でもあると思えるし、また“石”(帯電するミネラル)は結晶化しなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ではない。そやから“日月神示”では“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化って表記が何回も出てくる。
結晶化した肉体組織はだんだん“上”の心(靈)の発現をしていく。このことも前のブログで言うたけど、先生は“改”でこのことの詳細を述べようとしている。
要は自分の心(靈)と“上”との感応共振を果たすべく肉体の構造って言うのんは、下等生物から人への進化過程を観れば理解できるし、学者はその視点で進化を観ていないからでもある。
話を戻し、生体内電流の強化が“行”と“修行”の意義であることを前のブログで何回も延べた。そやから“地震”=“石”(帯電するミネラル)の震動、それはオーラの相互干渉でもあったり、自分自身の生命活動でもあったり、例を挙げていくとキリが無いのでこれくらいにしとくけど、要は高い振動=“上”の思惑を含んでいる荷電粒子との感応共振
が、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化で、それは結果として“一”=1番目のオーラの拡大になり、心(靈)の発現と動きは智性(神性)由来のものになる。
人がそうならなければ、今のような醜い事象の世界にしかならないってことでんねん。当然、今後=アセンション後はそんなことは無くなる。
またまた話を戻し、“岩の神”は、“岩”は、古事記の表記の岩戸で、“岩”の上半分、山は脳の意味、石は今言うたとおり帯電するミネラル。ほんでから“戸”は、腹から“上”に振動が上っていく関門やと思える。そやからそれは“江戸と尾張”の“戸”、横隔膜(マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)、自我から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現でもあり、自省(胸の磁性“十”)の“行”、“観自在”“直日”と同義でもある。
ほんでから“荒の神”は、一霊四魂の荒魂を指し示し、荒魂は、神の荒々しい側面、荒ぶる魂とされており、天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きとされている。そやからそれは、俗に言う神の祟りで、先生とKellyさんとの会話から引用すれば、恨みの連鎖の霊的干渉としての“神の咎め”で、言い方を帰れば因果応報で、またそれは、恨みの連鎖の霊的干渉が減少化した因縁とも呼称され、それはただ単にブーメランの法則でもある。ほんでから“曲霊(まがつひ)”って言うのは、振動が返ってくることを指し、それは肉体の磁性によるローレンツ力に由来することであると思える。
そやから、神の祟り、“神の咎め”、それが起きる理由は、自分たちがやってきたことの結果を知る=右往左往=やってみてから失敗を体験し、それから、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする。
言うまでもなく、今後=アセンション後は、左往右往した人の創造する事象になり、低い進化過程の人はアセンション後の“創造”に加担できない。
そやからその左往右往、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”の要素のことを“荒の神”って表記で示していると思われる。

ほんでから次の文も、同様のことを言うてる。

“辛酉(かのととり)はよき日と知らしてあろがな。
これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ、”

“辛酉(かのととり)”については、下つ巻 第三十帖のKellyさんの解釈から、コピペしときまんねん。

““辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。
そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。そうやって自省(胸の磁性“十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。その意味のことを言うてると思えるな。”

…以上でんねん。そやからこういうことが“これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ”って言われてまんねん。

ほんでからこの文は、以下の文につながって意味を強調している。


“物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、
泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、”

形骸の価値観って言うのんは、物質欲と(通貨としての)金に由来していて、低い幸福感になる。それは進化過程の低い幸福の概念であることをこれまで何回も言うてきた。そやからそんな低い進化過程の人と、今後=アセンション後の“創造”を“上”から託されるべき“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現した人は、分けんならん。そやからアセンションは霊的成長度に於いて、位置する場(フィールド)が変化する。そやけどそのときに、死を体験する人は多い。要は自分の肉体を捨てないと自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ない人が多いってことでんねん。
またまたまた話がそれたけど、今の平均的地球人の進化過程=心(靈)の発現の程度を指摘した表記として“泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ”って言われてる。前のブログで、私たち地球人は、低い幸福の概念、形骸の価値観、目先の喜び、そんなものを追求して恨みの連鎖の霊的干渉を増やし、そのことそのものが悪魔の思惑で、そやから大半の地球人は、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であることを指摘した。そやから言うまでもなく“泥棒が多くなれば泥棒が正しい”って言うのんは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の場(フィールド)では、その心(靈)の発現の段階が当たり前で、そやから恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している形骸の価値観を悪と思わない。それを言うてまんねん。
 
 ほんでから次の文。

“理屈は悪魔と知らしてあろが、
保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、
臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、
足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、
足らぬのは、やり方わるいのざぞ、
食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。”

この文の表記“理屈”は、“理(ミチ)”=神格化への“道”、事象の“創造”の法則性、それを屈する=法則性を曲げるって意味で、それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)であるって指摘され、言うまでもなくそれは、自己奉仕者の行いである。そして自己奉仕者は自分たちの欲望に低い霊的干渉があり、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを発現し、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしている。その霊的干渉は、子供の浮遊霊、殺された家畜の浮遊霊が中心でもあることを今までも言うて来た。
そやからこの文の“臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。”って指摘されてるように、金持ちの日本人とアメリカ人は貪り食い、食欲以外の本能に由来する低い欲望を満たすことが幸福だと勘違いしている=貪。
そして、低い欲望の視点しかないから人を妬み=瞋、その心(靈)の動きには当然自分に対する分相応とか、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”とかは無い。
ほんでから子供の浮遊霊と家畜の浮遊霊の憑依は、その人の心(靈)をどんどん幼稚にする=痴ってことでんねん。
余談やけど、最近の事件を見てると家畜の浮遊霊の現象化がとても多くなっている(死体の損壊)。
せめて、このブログに霊縁があった人、あるいは先生の本の一冊目を読んだ人は、このことをしっかり認識して欲しいもんや。

ほんでから次の文。

“それぞれの神様にまつはればそれぞれの事、何もかなふのぞ、
神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか。”

“それぞれの神様”って表記は、さっき述べた人の神格化への仕組み、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる仕組みと、その法則性を示した表記“神々様みなお揃ひなされて、
雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、今度の仕組の御役きまりてそれぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。”のことで、それに“まつはれば”=法則性に順じ、自分の在り方を思うことを指し示している。ほんでから“神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐる”って言うのんは、言うまでもなく自己奉仕者の価値観と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い認識のこと。その認識=低い霊的成長度では、この世界は崩壊するから“底知れてゐる”って言われてまんねん。

 ほんでから次の文。これも、ここまで述べてきたことを強調していると思われる。

“戦には戦の神あるぞ、”

“戦には戦の神”って言うのんは、自分の心(靈)の動きを含めた事象の観察のことを指し示し、内省をして欲しい“上”の思惑を感じるんやけど、そやからそれは自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出すことでもあり、自分の心(靈)の中の葛藤でもあり、右往左往から左往右往に入る過程でもあり…それを言い表した表記やと思える。

ほんでからに次の文は、アセンション間近の様子を強調していると思える。

“お水に泣くことあるぞ、保持の神様 御怒りなされてゐるから早やう心入れかへてよ、
この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。”

 あえて解釈はいらんと思いまんねん。
 今回は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第十九帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震かみなりばかりでないぞ、
臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、
口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、
四ツン這ひになりて着る物もなく、
獣となりて、這ひ廻る人と、
空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、
獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、
火と水の災難が何んなに恐ろしいか、
今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。
一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、
それが済んでから、
身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、
どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、
高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、
いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。
人間の戦や獣の喧嘩位では何も出来んぞ、
くどう気附けておくぞ、何よりも改心が第一ぞ。
八月の二十六日、 ローレンツ力と ○ のひつくのかみ。


この第十九帖も、アセンションが霊的成長度によって分けられることを強調している文やと思える。そやからそれは、まず冒頭の以下の文。

“神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震かみなりばかりでないぞ、
臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、
口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、”

この文は、アセンションに伴う事象に遭遇した、認識の低い人=霊的成長度の低い人に対するメッセージやと思える。
それは今、アセンションに対する認識はとても低く、大概の人が甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢しか抱いていない。それはただ、情報だけを見ているからでもあるし、アセンションに対し、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を感じ取れないからでもある。
このブログでも前のブログでも、何回も言うて来たように、この世界=今の事象は、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになっている失敗の世界でもある。
失敗の世界、失敗の“創造”、それは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするからだとも、言いうる。
恨みの連鎖の霊的干渉の増大、それは今、この瞬間にも子供の浮遊霊や家畜の浮遊霊は増え続けている。そしてそのことを憂いている人は、ほんの少数でしかない。
子供の浮遊霊が増え続けている理由は、一部の金持ちが住んでいる国の経済の繁栄にあり、経済の繁栄は地球上で貧富の差を生み出し、飢餓貧困や戦争を招き、仏教の概念の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った霊的存在を増やし、それが日本とアメリカのような経済大国の人たちを妬む(ねたむ)嫉む(そねむ)から、経済大国の人たちの心(靈)の動きは三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きになっていく。
それは少し具体的に例を挙げたなら、本能に由来する欲求(食欲、性欲)を貪り(貪)。自我の肥大=低い功名心と自尊心で他者を見下し、他人に対する尊厳を見失い(瞋)。
(瞋は、怒って目をかっと見はり、相手をにらみつける様子。例えば、瞋恚(しんい)は、自分の心に反するものを憎み怒り恨む憎悪の心(靈)の動き)
そして“一”=智性=1番目のオーラの小さい人は、子供の浮遊霊との感応共振の影響を受け、やることなすことどんどん幼稚になっていく(痴)。
これらすべて低い霊的存在と、自分の心(靈)の低い部分との感応共振で、自分たちが進化過程において持っている目下(めした)の心(靈)の動きとの感応共振でもある。
あえて言うとけば、霊的成長は目上(めうえ)の心(靈)の獲得であり、その目上(めうえ)の心(靈)由来の“力”の行使は、失敗の世界の“創造”にはなりえない。
しかし、失敗を失敗と認識するには、失敗を体験しなければならない。
失敗を失敗と認識するのは、智性(神性)でしかない。
そやから霊的成長度の低い人、アセンションに対して低い認識を持って甘い夢を見ている人、目先の幸福感に酔っていてアセンションに伴う醜い事象など起こりえないと勝手に思い込んでいる人、その人たちが今後、さまざまな事象に遭遇し、この世界の“創造”と自分たちの認識が低いってことを思い知らされたときに、この文の“臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、”って言われてまんねん。

ほんでから次の文は、霊的成長度の“上”と“下”を強調し、揶揄(やゆ)した文章やと思える。

“四ツン這ひになりて着る物もなく、
獣となりて、這ひ廻る人と、
空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、”

この文の“獣となりて、這ひ廻る人”は、人のケダモノ化を指している。ほとんどの地球人は、智性(神性)を持っていても、智性由来のものの見方や、智性由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしていない。
そやからそれは目上(めうえ)と目下(めした)の違いでもある。
あえて説明しておけば、目上(めうえ)=大脳の新皮質と、目下(めした)=大脳旧皮質・古皮質の心(靈)の動きの違いは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性って表現を前のブログでもこのブログでも何回も使ってきたけれど、大体本能から自我の確立=固定化までの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程が、目下(めした)の心(靈)の動きでんねん。

ほんでから次の文は、目下(めした)の心(靈)の動き中心の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を指摘している。

“獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、
火と水の災難が何んなに恐ろしいか、
今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。”

 この文の“火と水の災難”は、火事とか水害とかの薄っぺらい解釈ではなく、腹の段階の心(靈)の動きを指していると思われる。そやからそれはマニピューラチャクラでもあり、腹の段階の右往左往と左往右往、サイクロトロンの段階(胸の磁性“十”によるシンクロトロンの段階に移行していない=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をしていない段階)のことを指摘していると思われる。
Kellyさんがそう思う根拠は、右=砌(みぎり)の心(靈)、肝=“いきり立つ心(奴と心)”は、自我の肥大になりやすい。そして肝臓は、食物を溜め込み、酸素と反応させてカロリーを発生させる臓器で、先生がS会=紫光会の主護霊会に行ってはったときでも、たびたび肝臓のことを火と称したそうでんねん。ほんでから火は、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁って言う字の下の部分でもあり、幽界の幽の糸を除いた山みたいな表記も、火の意味を持っているし、そしてそれは自我の確立=固定化の進化過程でもあるし、人が日止、霊止になり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の果てには、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるのにどうしても必要なことでもある。
ほんでからこの文の表記の水は、これまで何回も言うてきた、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことでもある。
そやから“火と水の災難”は、自我の肥大を指し、その心(靈)の動きは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きでもある。

ほんでから次の文。

“一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、
それが済んでから、
身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、”

 この文も、アセンションにより“上”と“下”を分けることを強調して揶揄(やゆ)した文章やと思える。
そやから“身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて”って言うのんは、今まで述べてきたとおり“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑と感応共振できる霊的資格=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の出来た人のことを指しているし、そうなった人は“天詞様”と呼称され、今後=アセンション後の“創造”を担うことが出来るから“神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とする”って言われてまんねん。

ほんでから次の文も、今、大半の人が持っている、アセンションに対する甘い認識を指摘している。

“どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、
高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、
いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。”

…なんかの本に、今後フォトンベルトが近づいてくると、天変地異が起きるから、そしてそれは日本で言えば東京は危ないから東京に居てはいけないって書いてあった。
そやけどさっき解釈した“神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とする”って言うのんは、霊的成長度に於いて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めた人でなければ、次の事象=アセンション後の事象の“創造”を託されないのだから、核シェルターとか、一部のカルト教団みたいに、標高の高いところの土地を買いあさったとか、そんなことで、アセンションに伴う事象から逃れられるわけがない。
そやからそれは、アセンションは霊的成長度に於いて分けられるって何回も言うてきたけど、次の“創造”を担う資格のある人は、どんなところに居ても、どんな目に遭っても次の段階に移行するし、どんなに天変地異や戦争に対し対策をとったとしても、(霊的)資格のない人は、移行できないに決まっている。
そやからアセンションは、霊的成長を果たした=“一”=智性=1番目のオーラの大きい人たちの“創造”になっていくのだから、神の“思惑の顕現”=現象化でもあり、それは宇宙の進化の法則性でもあるからこそ、“上”の思惑に従い“高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、”って言われてまんねん。

 ほんでから次の文。

“人間の戦や獣の喧嘩位では何も出来んぞ、
くどう気附けておくぞ、何よりも改心が第一ぞ。”

 この文の“人間の戦や獣の喧嘩位では何も出来ん”って言うのは、今述べたアセンションに伴う醜い事象に対し、浅い考えで対策を取ったり、あるいは、“日月神示”の解釈本に多いこの世界を憂うだけ、批判するだけの心(靈)の動きを指摘していると思われる。
そやからそれは、貴い“上”からのメッセージを引用して、批判だけしている本やサイト、それらはすべて、自我の確立=固定化の進化過程でしかなく、ただ文句言うてるのに過ぎない。そやからそれは“上”の思惑を受信していない“人間の戦”とか、“獣の喧嘩”って揶揄(やゆ)されている。あんたら認識が低いでっせ~~って言われてまんねん。
そやから、アセンション後の“創造”を担う資格は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化。これは“上”との感応共振を目的とした“行”をやらなければならず、それなりの苦痛を贖う(あがなう)ことをしなければならない。それが神格化を目指すための“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。しかしアセンションはタイムスケジュールがある。“行”をやってこなかった人に対しては、自分の心(靈)をよく自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、自分の心(靈)の中の“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、いうなれば智性と智性以下の心(靈)。それを自分で見出し行動に活かしていくのが、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であることを何回も言うてきた。
そやから失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)した人は、左往右往の心(靈)の動きでもあり、左回転 渦巻き 左回転 であり、“上”との感応共振をする心(靈)の動きでもある。
そやからこの第十九帖の最後にも、“何よりも改心が第一ぞ。”って言われてまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第二十帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

今のうちに草木の根や葉を日に干して貯へておけよ、
保持(うけもち)の神様お怒りざから、
九十四は五分位しか食べ物とれんから、その積りで用意して置いて呉れよ。
神は気もない時から知らして置くから、この神示よく読んで居れよ。
一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな、
米ばかりでないぞ、何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、
臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。
臣民と云ふものは目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、
いざとなりての改心は間に合はんから、くどう気つけてあるのぞ。
日本ばかりでないぞ、世界中はおろか三千世界の大洗濯と申してあろうがな、
神にすがりて神の申す通りにするより他には道ないぞ、
それで神々様を祀りて上の御方からも下々からも朝に夕に言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はすのぞ。
江戸に先ず神まつれと、くどう申してあることよく分かるであろがな。
八月の二十七日、ローレンツ力と ○  のひつ九のか三。


まず、冒頭の文。

“今のうちに草木の根や葉を日に干して貯へておけよ、”

これは食べ物としての“草木”って言う意味ではないと思える。それは前にも“草”を、クサカンムリと、太陽を示す“日”と、胸の磁性“十”って解釈をした。
そして“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が合わさった表記やと思える。
そやから“草”は、胸の磁性“十”の上に太陽を示す“日”があり、そしてそれが芽生えて(霊的)成長するための意味を示すクサカンムリを“上”に付けられている。そやからそれは、以前にKellyさんが解釈した“草木”。
…それについては、
下つ巻 第十一帖から、コピペしときまんねん。





“草木さへ神の心に従ってゐるではないか、
神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、
あの姿に早う返りて呉れよ、
青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。”

この表現も“上”からの振動、特に草木って言うてるからこそ、
太陽のことを指すと思える。
そやから“神の心”=太陽ってことでしかない。
ほんでから“青人草”…これは日本書紀に出てくる、
“顕見蒼生、此をば宇都志枳阿烏比等久佐(うつしきあをひとくさ)と云ふ。”…のことらしく、ほんでから蒼生(そうせい)を青人草(あおひとくさ)と称され、それは国民、人民、民草ってことでんねん。
そやけどKellyさん的にはそんな意味だけではなく、そやからそれは…“青人草”
“青”“人”“草”に分けて考えれば、
青の上半分は生きるって言う字から丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した表現、ほんでからこれは前のブログ、
思惑と顕現その十  上の思惑と顕現・・・“天の御目”に使った画像やけど、重要やと思うから貼っておきまんねん。

 

生きるの解字 丿部(へつぶ)三つのオーラ(たて棒、コン) 



ほんでから“青”の下半分は“丹”やって事で、
これは上つ巻の解釈で何回も言うたことやから詳細に述べるのはやめときまんねん。
ほんでから“人”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。ほんでから“草”は、胸の磁性“十”と“日=太陽”と、クサカンムリ…そんなふうにしか見えへんな。
そやから“青人草”は、
“上”の思惑を取り込み“一二三”のオーラにして縦の磁性(たて棒、コン)で繋ぎ、
それは帯電するミネラルに“上”の思惑を取り込み蓄え肉体組織の結晶化をするのが“青”。
ほんでからそれは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、“人”。
進化して行く様子は“草”に現れてる。
“青人草と申すのは草木の心”
“草木”草と胸の磁性“十”と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)で、“木”。
何を取り込んだら人は進化=神格化して行くのか…それを問うてるように思える言葉やな。





…引用は以上でんねん。
そやから“草木”そして、“青人草”(あおひとくさ)は、同じ意味のことであると述べられてるし、それは現時点の地球人の平均的霊的成長度である自我の確立=固定化から、霊的成長した“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現を指し、それは“草木”“青人草”(あおひとくさ)の文字の中に隠れてる“十”であり、そして“草木”は、“日”と、クサカンムリの表記があるから、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことで、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と動きになって行け…そう読み取れる。

ほんでから次の文。

“保持(うけもち)の神様お怒りざから、
九十四は五分位しか食べ物とれんから、その積りで用意して置いて呉れよ。”


この文の“九十四”は、くとし、あるいは今年(ことし)って読ませるのが一般の解釈やろな。
そやけどこの数字は今まで解釈してきたとおり“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。 そして“十”は、胸の磁性“十”。シンクロトロン放射の仕組み。 そして“四”は、発振、発信の意味。
ちなみに“四”と同じ意味やと思われる“日月神示”の表記の“善言(よごと)”は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。
 そやから今言うたことを踏まえて“九十四”を解釈すれば、生命としての最後の“創造”、神さんの仕事としての最後の“創造”の意味を持つ“九”は、智性(神性)を持ち始めた肉体を持つ生物としての人間。それは自我の確立=固定化、マニピューラチャクラの覚醒段階からアナハタチャクラの覚醒に至り、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現は肉体が持つシンクロトロン放射の仕組みである胸の磁性“十”による。 そして人は“日止、霊止”になり、その心(靈)の発振、発信は、“四”“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信であり、そうなれば、今の地球のような自己奉仕者の“創造”では無くなり、“うれしうれし”“大歓喜”の事象になる。
そやから、もうすぐアセンションって言う事象で、自我の確立=固定化の段階の霊的成長度の人と、“慈悲”と“慈愛”を発現した人とは、分けんならん。 そやからこの文の“保持(うけもち)の神様お怒り”って言うのんは、今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の創造によるものだからこそ、“神の咎め”があり、右往左往から左往右往に入り、人は自省(胸の磁性“十”)をせんならん。
そやから“九十四”は今年って言う意味ではなく、神さんの最後の仕事、創造って言う意味での“九”と、人進化して、自我の確立=固定化の段階である“江戸と尾張”、腹の位相のサイクロトロンから、腹の上にある日足と砌(ひたりとみぎり)の極性により、サイクロトロンは左右の磁性で安定した回転をするようになり、それがアナハタチャクラの覚醒の段階っていうのが先生の私見やけど、今、恨みの連鎖の霊的干渉を見て何にも感じない人は、“慈悲”と“慈愛”って言う心(靈)の動きを自分の心(靈)の中に確立させてない。要はアナハタチャクラの覚醒をしていないから、愛(炁)の顕現の程度が低く、自分の低い欲望の達成が幸福やと思い込み、それ以上のことを考えもしない。
そんな霊的成長度の人がアセンション後の事象に位置したならば、今と同様の自己奉仕者が活躍する世界になるし、それは今の事象と同じ恨みの連鎖の霊的干渉で満ち満ちた世界になり、恐怖と不安でいっぱいの“痛みと悲しみの星”になる。
そやから今まで何回も言うて来たけど、アセンションって言うのは、そんな世界からの脱却でもあり、アセンション後の事象は相対的に霊的成長度の高い人(日止、霊止)が“創造”する事象でもあり、そやからこそアセンション後に位置できる人の心(靈)の成長度は、“江戸と尾張”から、“青人草”(あおひとくさ)のようにならねばならない。
そやから“日月神示”が伝えている霊的成長の仕組みは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことで、“ひつくの民”=太陽凝視を“行”として行い、智性(神性)ゆえの認識を獲得した人を求めているとKellyさん的にはここまでの“日月神示”の解釈で確信を持っている。

ほんでから次の文。

“神は気もない時から知らして置くから、この神示よく読んで居れよ。
一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな、
米ばかりでないぞ、何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、
臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。”

これは実際にもうすぐ食糧難になることも示してるんやろけど、それだけではなく“米”って表記は、“十”の上半分の左右=日足と砌(ひたりとみぎり)に点が二つ、点二つはエネルギーの回転を示す。 そして、下半分に“草木”の“木”と同様に、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が合わさった表記やと思える。 そやからそれは、胸の磁性“十”の“上”に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が現れ、それは位置関係からして胸より“上”のチャクラであり、その心(靈)の動きが示すのは、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性である。
そして“米”の下半分の表記である丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)は、“上”の思惑を受信して自分の思想にした“日止、霊止”が創造する事象の意味であると思える。
そやから、人が観察し得る事象って言うのんは、外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)であり、その両方が自分の心(靈)の中で観察していることなんやけど、外側(外国と幽界)の事象の“創造”は、マニピューラチャクラから下、自我による“観察と認識”であるから、自分と自分以外の認識が出来、その外側(外国と幽界)の事象の良いカタチの“創造”を示した表記が“米”に示されていると思われる。
 それを踏まえこの文を観れば、“神は気もない時から知らして置く”って言うのんは、大半の地球人は今後起きていくアセンションに伴う醜い事象について何の危機感も無く、ほんまひどい例はアセンションを商売にまで利用してる。 そういう認識の低い=霊的に低い人に言うてる言葉でもある。
そやから、アセンションに伴う醜い事象ははあえて言うまでも無いんやけど、霊的成長度の低い人、自己奉仕者が創造した結果でもあり、自己奉仕者の“思惑の顕現”=現象化でもある。
それに対し、“慈悲”と“慈愛”の発現をした次の事象の“創造”を担う資格のある人を分けることが起き始めている。
それは戦争であったり、災害であったり、一見、訳のわからん事件やったりもするけど、その裏には、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の浮遊霊の憑依があり、言うまでも無くそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果である。
ほんでから、心(靈)の右回転が生み出す遺伝子崩壊による新種のウイルスやったり…すべてそれは荷電粒子の右回転で、自我から下への心(靈)の動きが生み出した現象化でもあると思える。 そう思う根拠は、たんぱく質の高分子化は、左回転で行われ、荷電粒子の右回転は、高分子化したたんぱく質の崩壊を招くって言うのが先生の説でもあるんやけど、すべての生命には縦の磁束があり、その磁束ゆえのローレンツ力が“上”の振動を取り込み生命は進化してきた。 その進化してだんだん神に近くなっていく過程の邪魔をするのが右回転でもある。そやけどそれは認識を高めていく上で=霊的成長の過程で必要やからこそ、日足(ひたり)と砌(みぎり)って言う極性があるとも言いうる。
話を戻し、自我から下への荷電粒子の回転は“日月神示”では と称され、それは悪の回転とも示されてる。 なぜ が、悪の回転なのかは、今述べたとおり。
進化過程によりある程度出来上がった生命を、進化=霊的成長、神格化に向かうこととは逆に“亜”に崩す、腐る、朽ちる、だからこそ“悪”の言霊は、“亜”に戻すの意味である、腐る、朽ちる、崩す、でもある。 
そして、言うまでも無く進化(霊的成長、神格化に向かうこと)って言うのんは、愛(炁)、“亜”が出ずる、泉、アイ、そして“一”を書くときに左から右=日足(ひたり)から砌(みぎり)でもある。
補足として、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、自我から下への心(靈)の動きの荷電粒子の回転の画像を、以下に貼っておきまんねん。

 

平均的地球人のオーラの構成と、自我から下へ向かう心(靈)の動き、荷電粒子の回転 

 ほんでから、“米ばかりでないぞ、何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。”って言うのんは、さっきも言うたとおり食糧難のことも示し、そして“米”が示す胸の磁性“十”と、上半分にある日足と砌(ひたりとみぎり)の荷電粒子の回転と、下半分にある丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)による事象の観察が無くなることを指し、ほんまに崩壊するからこそ“何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならん”と言われてると思える。
ほんでから、今の平均的地球人の低い認識の上での、自分に都合の良い神の概念、現世利益とか、神を使って権力を示してきた政治とか、信者集め=金集め=低い功名心と自尊心を満足させてきたインチキ宗教は放棄しなければならないからこそ“臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ”って言われてると思える。 そやからそれは “役員づら”って表記を思い起こさせる文章やな。
そしてこの言葉は、自己奉仕者のほんの少し“上”に居る霊的存在を指す表記でもあり、それはまた人の進化過程においての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)って言うのんは、程度のあることを指摘している文章でもあると思える。そやから平均的地球人の霊的成長度より少し“上”の霊的存在も、次の事象の“創造”を担うことが出来ない=霊的資格を持ち得ない。そやから平均的地球人の持っている神さんに対する認識はとても低く、そんな霊的存在は“創造”の“主(ヌシ)”から比べればとても低い。
今後=アセンション後に位置する心(靈)が持ちうる神への認識は、今までの自己奉仕者が持つ神さんの認識では無く、また、自分たちよりほんの少し“上”の霊的存在のことでも無い。
そやからそれは唯一の“創造”の“主(ヌシ)”と自分の関係をよく把握し、自分たちも独り神(ひとりがみ、日取り神)の意味を持つ“主(ヌシ)”になる肉体と心(靈)の発振、発信の構造を持っていることを自覚する。
そしてその構造を示す表記が、ローム太霊さんがS会=紫光会で示した、“主(ヌシ)”を護る霊的存在としての“主護霊”って表記であると、確信を持って伝えておきまんねん。

 

主(ヌシ)の解字 



話を戻し、次の文。

“臣民と云ふものは目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、
いざとなりての改心は間に合はんから、くどう気つけてあるのぞ。
日本ばかりでないぞ、世界中はおろか三千世界の大洗濯と申してあろうがな、
神にすがりて神の申す通りにするより他には道ないぞ、
それで神々様を祀りて上の御方からも下々からも朝に夕に言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はすのぞ。”

 この文も、さっき解釈した“神は気もない時から知らして置くから、この神示よく読んで居れよ。”と同様のことを言うてる。
大事なのは、“神にすがりて神の申す通りにするより他には道ないぞ、”で、それは今まで解釈してきたように、“上”の思惑を自分の心(靈)に取り込み(“天詞様”)、自分の思想にすることを“神にすがりて神の申す通りにする”って、この文でも言われてて、それは“一”=智性=1番目のオーラの拡大でしかない。
そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの振動=思惑の取り込みのことを、“この神示よく読んで居れよ。”と、もう一つ、その意味を強調する文として“神々様を祀りて上の御方からも下々からも朝に夕に言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はすのぞ。”と言われ、“上”の思惑を取り込んだ人の“創造”を指した表記が、この文では、“言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はす”っていわれてると思う。言霊って表記は、“上”の思惑=振動を言い表した表記でしかない。
そやからそれは、富士の巻に入ってからよく出てくる表記の“まつらう”、そしてそれと同義の“祀り”、それはいうまでもなく“上”の思惑を自分に取り込むことである。
要は、自分の心(靈)の上の要素である智性(神性)と、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振ってことでんねん。
それについては、以前に紹介した画像を、貼っておきまんねん。 
この画像を見ると、霊的成長って何なのか、神格化ってなんなのか、インチキヨガで言葉だけもてあそばれてるチャクラって何なのか、理解できると思うし、理解できたならば、ヨガの概念であるアートマン=真我の意味も認識できると思いまんねん。

 

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成 



 ほんでから次の文は、“まつらう”“祀り”“神にすがりて神の申す通りにする”“言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はす”…それは、自分自身を認識する心(靈)の発現である自我に取り込めってことで、何回も言うて来てるけど自我の肥大は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、その“創造”は崩壊って結果になる。そして以下の文の“江戸”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、マニピューラチャクラの進化過程を言うてるに過ぎない。 それを踏まえて、以下の文を読み解けば、“上”との感応共振を示している文章やってすぐに判ると思う。

“江戸に先ず神まつれと、くどう申してあることよく分かるであろがな。”

自我=江戸に、神まつれ=“上”と感応共振して、自我を“慈悲”と“慈愛”の心(靈)でコントロールせよ。自分が持つ智性(神性)により、自分の心(靈)の動きを観察し、認識して、自分の心(靈)の“上”と“下”=智性(神性)と本能、それを認識することが“身魂掃除”“身魂洗濯”で、そうしろってことでんねん。

 …今回は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。
配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、
臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、
何もかも神に供へてからと申してあろがな、
山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、
ここの道理よく分らんか。
神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、
臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、
何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、
この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。
印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、
よく考へて見よ、
今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、
理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、
上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、
てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、
益人のます心ぞ、
ますとは弥栄のことぞ、
神の御心ぞ、
臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、
世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。
八月の二十八日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のかみふで。


 まず、冒頭の文。

“神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。
配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、
臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、
何もかも神に供へてからと申してあろがな、
山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、
ここの道理よく分らんか。”

この言い回しは、今、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化になっていないから言われてる。 
例えば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から教えられ、霊的成長の指針となるべき宗教は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に利用され、金儲けや権力を行使するものになっていたりもする。
そして、そうなってしもてる理由は、尊いなにかを尊いと感じない。尊い概念を尊いと扱わない。尊い教えを自分の利益のために利用する“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動き=自我の肥大。 
それは、自我の確立=固定化の段階(“江戸と尾張”)から、砌(みぎり)のエネルギーが強いときに起きる=右往左往のときに起きやすい。このことは、このブログや前のブログで何回も言うてきたことでんねん
そやからこの世界は失敗の世界でもあるし、ほんでから今の社会の仕組みが壊れて、大半の人たちが自省(胸の磁性“十”)するために、アセンションに伴う醜い事象が起きる。
そやから、“神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやる”っていうのんは、今の形骸の宗教に対する認識、現世利益とか、自分だけ良いカタチになるって概念の、浄霊とか、儀式だけのインチキお祓いとか、そんなもんに騙されず、ほんとの霊的成長ってなんなのか、災厄がなぜ自分に降りかかるのか、因縁ってなぜあるのか、その意味を自分に問い、霊的干渉の仕組みは自分の心(靈)の動きであることを知り、自分の在り方を考えなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振は、ありえへん。  
“上”としては、“上”との感応共振=“祀り”“まつらう”、それは“上”の思惑を自分の思想にする。そしてそれを目上(めうえ)の脳で理解し、認識(悟り、幸取=さとり)としていく。
それがまた“一”=智性=1番目のオーラの拡大でもある。
そうなって欲しいから、現状を良く見据えて、何が正しくて何が間違っているのか=形骸の宗教や、薄っぺらい幸福の概念や、低い霊能力者の甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉…そんなもんに惑わされず、今後=アセンション後の“創造”を担う人に対し、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をして欲しいってことでしかない。
ほんでから今、大半の人が低い霊的干渉の影響を受けている。そやからそれは、これまでも…そしてこれからも、○○○大先生やKellyさんが、訴え続けてきている恨みの連鎖の霊的干渉。 それを生み出す人間の低い心(靈)の動き、それは低い功名心と自尊心。そして本能由来の低い欲望。その心(靈)の動きとその認識(その霊的成長度)で、出来上がってきた形骸の価値観、それが“日月神示”表記の、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)でもある。
そやから何度も言うて来たけど、決してフリーメーソンやイルミナティやユダヤだけが“石屋の仕組み”ではない。
その醜い行い…それを自分が見たならば、自分はこう在ってはならないと感じ(感じる磁性)、自分の心(靈)の在り方を深く思う。
霊的成長度の高い人ならば、そう思うもんでんねん。
それが前のブログで先生が言うた“すべての事象は自分の在り方を示す”って認識になりまんねん。
ほんでからさっき言うた形骸の宗教などの事柄と繰り返しになるけど、“石屋の仕組み”の霊的成長度は、自我の確立=固定化の段階で起きている自我の肥大を起こしている人が、なんでも自分の欲望のために貴いものを利用して、商売にしてしまい、その商売で成功することが自分にとってよいことであると思い込み=低い功名心と自尊心を満足させ、その結果が経済の繁栄であったり、薄っぺらい幸福の概念であったり、今、成功者って思われているのはそんな概念でしかない。
そして平均的地球人の大概の人が、今指摘してきたそんな程度の霊的成長度で、自分たちに価値がある何かって言うのんは、薄っぺらい幸福の概念と物欲と形骸の名誉…そんな程度のことでしかない。
だからこそ、薄っぺらい幸福の概念を持ち、それ以上の幸福(霊的成長して神格化するという意味。“夭と屰”(ようとげき))の意味を考えないし、知りえない。
そして薄っぺらい幸福の概念は、低い霊的干渉を起こしている。
そやから大半の人の心(靈)の動きは、ただ楽しみたい。目先の快楽を求める気持ちは、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きでもあるし、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った浮遊霊は、子供の浮遊霊と家畜の浮遊霊が大半。  
そして、そのときだけ楽しければよいって認識の人は、自分が持っている智性(神性)を見失い、それは智性(神性)を発揮していないことが幼稚なんやけど、そうなっている人はもう、子供の浮遊霊に心(靈)を乗っ取られている。
また、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きは、人間が霊的に進化していく仕組みを説いたものでさえ商売に利用してしまう。
実に情けないって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は思うてるんやろな。
 ほんでからこの文の後半の、“山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、”って言うのんは、
富士の巻 第八帖のKellyさん的解釈から引用して、以下にコピペしときまんねん。







““山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、
草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、
神々まつり合はすことぞ、”

これは、私たち人(日止、霊止)が、観察し得る事象…それは、すべて、神の“思惑の顕現”=現象化であることを言うてると思える。
そして、この後の文章は、私たち人の思惑が、事象=現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”に加担していることを言うてる文章やと思える。
そやけど、それだけではなく、“山”=脳。
“川”“海”=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
“雨”=“上”から降り注がれる家電粒子を指し示す。
参考のために、前のブログで使った画像を修正したものを、以下に貼っておきまんねん。

雨の象形文字 解字 


そして、“風”=気体による電磁誘導。言うまでも無く“日止、霊止”は、空気を吸って、肉体のオーラのうちの2番目の発振、発信に関わる器官は、肺で、肺は、肺=“悲しみ”でもある。
“悲しみ”って心(靈)の動きを体験すると、心(靈)が“慈(しげる)”から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを、事象に、顕現できる。
また、“悲しみ”は心(靈)が“非(いたむの意)”でもある。
それがまた、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)で、自省(胸の磁性“十”)の“行”をすることでもあり、さらに、ローム太霊さんの言葉、左往右往の一側面でもある。
そして“天地”、これは、人のオーラの構成を示す“三”って言う字そのものが、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”って言う意味を持つ。
要は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動“一”は、“日止、霊止”、肉体を持った心(靈)ってカタチで顕現したみたいなもんでんねん。
そやから“一”は智性(神性)で、“二”=肉体で、それを足したなら“三”になる。
さらに補足で言うておけば、“三”に|(たてぼう、こん、縦の磁性))を足したら、“王”=人(日止、霊止)の完成された様子にもなるし、“王”の向かって右下、その人の左下に を足したなら、“玉(ぎょく)”になり、“玉(ぎょく)”は心(靈)の動きを示した表記でもある。そやから“玉(ぎょく)”…そうなっていくのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあることを前にも説明したから、ここでは敢えて詳しくは述べないことにしまんねん。
…そやから、“山”“川”“海”“雨”“風”“天地”は、上記の意味までも示す文章やと思えるな。 ”

ほんでから、もう一つ、富士の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈 から引用。

 

 

““神の国の山々には皆神祀れ、
川々にみな神まつれ、
野にもまつれ、
臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、
まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”

 この文の“山々”は、大脳新皮質、左右の大脳半球を指す。
これについては前のブログ、目上(めうえ)と目下(めした)をしっかり読んで理解して欲しい。
(ほんでから先生の三冊目の著書にしっかり書いてありまんねん)
そやからそれは、天意を受けた上での思想を構築する=智性(神性)の発現であり、それによって出来上がる=“創造”され得る現津(あきつ)、観察され得る事象は、その場(フィールド)は、“神の国”って称されてて、神は、示す偏(へん)に“呂”=エネルギーの回転。国は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”。
これも何回も説明したから省略しまんねん。
 ほんでから“川々”は、“山々”と同様の表記やから、これも左右の極性を示し、それは川やから、水の極性で、錯体のことを言うてると思える。
そやからそれは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ってことでんねん。
あえて補足しとけば、肉体内の電磁誘導のラインとしての、左右=日足と砌(ひたりとみぎり)でんねん。
ほんでから“野”については、画像で示しまんねん。

 

野の解字 (富士の巻 十七帖) 



 ほんでから“臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、”の“家”は宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ)(家畜の意味)、そやから“家”って表記は、頭=“一”=智性=1番目のオーラを持った動物って言う表記でんねん。前にも同じ解釈をしましてんな。
そやからこの文は、天意、“上”の思惑、神の思惑、それを受信して自分の思想にすることを言うてて、それは“五六七(みろく)”、“五”=糸巻き、神経が発達した様子と、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。
それと“七”=“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
それをこの文では“まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。”と、称されている。 ”



 


…以上でんねん。 何回も読み直して認識にして欲しいもんでんねんな。

 ほんでから次の文も、今指摘してきたこと。 “上”との感応共振をしていなくて、自我の肥大を起こし、自己奉仕者になって、その人たちが活躍して、自己奉仕者の低い概念の成功者とか勝ち組とか、そんなことを思っている人たちに対して言われてる言い回しでんねん。

“神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、
臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、
何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、
この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。”

 要は、“日月神示”を人に垂れた霊団の思惑は、何が尊い、貴いか、それを知って欲しい。知って自分の認識(悟り、幸取=さとり)にして欲しい。
そやからそれは、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を自分で判断できる人でなければならない。
そして自分以外の事象=外側(外国と幽界)の事象に対しても、すべての事象は心(靈)の動きによって出来ている=“思惑の顕現”=現象化であることを知らなければならない。
 “上”と“下”を、見極めて、自分の在り方の指標とするのは、智性(神性)であり、それは、目上(めうえ)の脳の機能でもある。目上(めうえ)の脳(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))は、動物と違うところでもある。
 
そして次の文章も、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きで=自己奉仕者の心(靈)の動きで、本来の人の在り方である“理(ミチ)”が屈した意味での“理屈”、形骸の宗教、形骸の価値観、形骸の地位、自己奉仕者が認める自己奉仕者としての成功者、そして形骸の幸福感、いろんな言い方が出来るけど、すべてそれらは自我の肥大によるものである。
そして自我の肥大は、自我の確立=固定化の段階の霊的成長度の霊的存在との感応共振を起こし、その中でも程度の低い現象は、ただ食う、ただやる(性的なこと)、ただ人を騙して金を儲ける…甘い言葉、見せ掛けの愛、物欲由来の幸福感を訴えること、それは、自己奉仕者にありがちな心(靈)の動き三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)に、子供の浮遊霊や家畜の浮遊霊が感応共振する。
そやからそれは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしないで、“早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、”に示されていて、今言うた三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の人の心(靈)の動きと、それによる霊的干渉、そんなことまで感じさせる文章でもある。
 それを踏まえて読めばこの文は、何を伝えたいのか解ると思う。

“印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、
よく考へて見よ、
今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、
理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、
上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、”

 ほんでからこの文の“印刷せいでも知らすこと出来る”って言うのんは、文章だけ伝えただけでは人の認識(悟り、幸取=さとり)にはならないことを指している。どんなに価値のある概念を文章にしたためたとしても、それを解釈する人の認識が低ければ低い解釈しか出来ないもんでんねん。なんでも自分の認識って言うのんは自分の霊的成長度に於ける認識でしかなく、簡単に言い表せば、神さんの認識(天の御目(あめのおめ)、“創造”の“主(ヌシ)”の視点)を持っていないから、人は間違ったものの見方をするもんでんねん。それをこの文の表記では“今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、”って証されてる思う。
 そやから自分の心(靈)の“上”と“下”、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、は、智性という振動=“一”=智性=1番目のオーラで支配し、知識としての知恵や、すべての“力”さえも、使い方を考え=制御し、統御しなければ、それは、今より霊的成長してある程度完成された神に近い人=“王”ではない。
 そのことを“上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、”と言われてて、ほんでから“まつりて呉れよ”は、とても大事なことで、自分の心(靈)の動きの“下”(低い心(靈))は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振を招き、自分の心(靈)の“上”=“一”=智性=1番目のオーラは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を招くってことでんねん。

 ほんでから次の文も“上”との感応共振で、智性=神性を増すことを言い表していると思える。

“てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、
益人のます心ぞ、
ますとは弥栄のことぞ、
神の御心ぞ、
臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、”

“てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振により、“一”=智性=1番目のオーラを増すこと。
“その心が大和魂”は、大=胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。それが和する。魂は、二+ム部(自分自身の意)+鬼(この世にあらざる存在、肉体を与えられその段階で霊的成長した霊という意味)。
さらにそれを深読みすれば=大和=日本人で、それは、日(“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うこと)+本+人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現))と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。…深読みしすぎでんねん。
ほんでから“益人のます心”は、何が“益”なのか、自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)による事象の“創造”なんやって先生は前のブログで指摘した。それに対し、相対的な言い方で“益人”ってことで、“ます人”は、何が“ます”のか、それは弥栄(いやさか)って称されてるんやから、Kellyさん的解釈としては、すべての生命が持つ縦の磁束で荷電粒子を回転させること=チャクラ、サイクロトロン、そしてシンクロトロンの構造。
それを指し示すことやと思える。
ほんでから何が“益”“ます”なのかは、いうまでも無く“一”=智性=1番目のオーラである。そやからそれは目上(めうえ)のチャクラ、アジナーチャクラとサハスララチャクラでもある。
補足として、以前紹介した弥栄(いやさか)の、彌の旧字の解字を、以下に貼っておきまんねん。

 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字





この彌の旧字そのものが、脊椎動物としての人の霊的成長=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示し、チャクラの概念と一致するものでもある。

ほんでから次の文は、今までの自己奉仕者の価値観が崩れ去ることを指摘してる。あえて説明することでもないな。

“世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。”

…今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示” 富士の巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


今回も、富士の巻 第二十二帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。


まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、
まつり合はしさへすれば、
何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、
まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、
祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。
そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、
早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。
われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、
鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、
この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、
慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。
ここまでわけて申さばよく分かるであろう、
何事も真通理(まつり)が第一ぞ。
八月の二十九日、 ローレンツ力と ○ の一二ローレンツ力と ○  。


まず冒頭の文、これも、富士の巻に共通の言い回しの、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を言い表している。

“まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、
まつり合はしさへすれば、
何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、”

 この文の、“まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ”。 これは、智性(神性)を持つ心は、智性(神性)を行使する心(靈)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をして、事象を観察し、善と悪を区別し、認識する。
そうすれば自分たちは、善を選択するのか、悪を選択するのか、当たり前のことを難しく言い表しているみたいなことをKellyさんは言っているけれど、善悪を言葉しか知らないで生きている人間はたくさんいる。
ほんまそんな人は、頭が悪いとしか思えへんけど、自分で、自分の持っている智性(神性)を行使していない人は意外に多い。
話を戻し、そやから善と悪、それは、人の行動の指標になるもんやけど、すべての事象は“思惑の顕現”=現象化であり、思惑を顕現するのは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)である。そやから自分たちが喜ぶ世界を創るならば、“善”の世界にするのが当然。(先生が言うた善の定義は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもある)
またまた当たり前のことを小難しく言うてるけど、そやからそれは、行動が思惑の顕現ってことを考えれば、またまたまた当然のことを言うけど、自分の心(靈)の動きをよく自己観察して(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)、自分の心(靈)の“上”と“下”を自分で見出す。
それが“日月神示”表記の、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
そして心(靈)の動きの善と悪の違い、思惑の違い、行動の違い、そこには心(靈)の“上”と“下”としての目上(めうえ)と目下(めした)がある。
心(靈)の発現と動きは、霊的成長度によるし、脳の発達の過程からでも判断できるから、こんな分類を先生はした。
そやからそれは、動物と人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の違いでもある。
少し説明すれば、目上(めうえ)は大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)で、智性(神性)の発現と行使をする。 目下(めした)は大脳旧皮質と古皮質で、その心(靈)の動きは、動物の心(靈)の段階、進化過程として動物と共通の心(靈)の発現と動きでもある。
そやから、人が人(日止、霊止)として在るべきならば、智性(神性)を活かした行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするべきや。
そやけど、智性(神性)をもってても使わへん人は、そのときだけよければいい。そのときだけ楽しければいい。(通貨としての)金や物欲に由来した幸福感を持つ。エネルギーを贖わないで良いカタチを求める。なんでも自分の都合のよい解釈をする。
そやからさっきの話、いかに言葉巧みに善と悪を語っている人が居ても、あなたの役に立ちますって言われても、その心(靈)の裏に自分の利益を追求する心(靈)の動きがあり、低い欲望があり、低い欲望由来の自我の働きでもある低い功名心と低い自尊心。それを満足させるために行動している人はとても多い。
…こんなことを具体的に指摘するとキリがないけど、今、そんな人ばっかりや。
 そやから、智性(神性)を持ち得ない、あるいは、智性を行使しない、動物に近い心(靈)の動きをしている人、それは自分に対する観察の視点も低く、それは言い換えれば自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)視点しか持っていない。 だからこそ、人を利用し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで、(通貨としての)金を集めたり、形骸の名誉のために頑張ったり、尊い価値のある何かを商売に利用したりもする。宗教やヨガや“日月神示”やアセンションの情報や…人(日止、霊止)の霊的成長のための情報や、行法を、勝手に解釈して低いものにしてしまい、そして金儲けに利用したり、薄っぺらい功名心や自尊心を満足させる道具にする。太陽凝視=不食ってことでも大半がそうや。
それだから“日月神示”表記の“われよし”。
テオドールから地球へから引用した“自己奉仕者”。
先生の言い回しの“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)になる。

ほんでから次の文章も、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振による善の認識(悟り、幸取=さとり)を指摘してる。

“まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、
祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。”

この文の“まつれば悪も善ぞ、”。これは一見すると理解不能やろけど、悪の事象がある理由を考えればよく解る。それは、悪が在るのは、悪の事象の存在理由は、善を見出すためでもあり、善を見出す過程は霊的成長の過程でしかない。
そやから、正しい認識を獲得するには、悪を体験する=間違えることは必要でもある。
間違え間違え道を踏み外し、そして自分に悪を許さない心(靈)って言うもんを作っていく。
それを心(靈)の動きで言い表せば、自我の肥大による目下(めした)の欲望が悪を生み出し、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が、善を見出して行き、結果それは“一”=智性=1番目のオーラの拡大になる。また“一”=智性=1番目のオーラが目上(めうえ)のオーラでもある。
ほんでから悪を見出し、善を見出すのは、“創造”の法則性を見出す。それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を指す表記の“祀り”でもあり、解りやすいのは政治の政、“政(まつりごと)”でもある。
そやからそれは、自我の発現=マニピューラチャクラ=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
そこから心(靈)の発現と動きが、胸の磁性“十”になり、アナハタチャクラの覚醒になっていく。
それがまた、大日如来の衣をまとっている姿、その衣を条帛(じょうはく)と呼び、特に条帛(じょうはく)は、腹から“上”=マニピューラチャクラからアナハタチャクラに向かうエネルギーラインでもあり、大日如来がなぜ向かって右の腹から左肩にかかってる衣を着ているのかは、それを示しているって先生は見抜いた。
また条帛(じょうはく)の条は、その言葉そのものが法則性を指すものでもあり、さらにそれは、ローム太霊さんが伝えた“條”と、条は、同義でもある。
そやから法則性は事象の“創造”の良いカタチの指標になるものである。
その法則性を見出す過程をある意味ローム太霊さんは、右往左往と左往右往って言い回しをした。砌(みぎり)と日足(ひたり)は、真実=真固止の認識を獲得するために存在する事象の極性やからやな。
話を戻し、ほんでからこの文の表記の“道理”、それは今までの“日月神示”の文章にも“道”、“理(ミチ)”って表記や言い回しがあり、すべてそれは“創造”の法則性を示すものである。
そして自分が法則性に則った“創造”をする。それは自分の自我を支配する、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”でもある。
そやからこの文は、それを言っている文章でもあり、“祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。”って言うて、形骸の宗教関係者を揶揄(やゆ)している。

そして次の文章も同様のことを言っている。

“そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、
早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。”

この文の“我れよしでは神の臣民とは申せん”…あえて説明すれば、宗教を自分の欲望を満たすものとして利用する。神さんを利用して商売する。アセンションの情報を曲げて(“道”“理(ミチ)”を屈する=“理屈”)利用する。その類…それを指摘しているだけや。
そやからそれは、下つ巻に良く出てきた表記の“役員づら”形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)にもなっているし、聖書の言葉を引用すれば、偽預言者ってことにもなる。
そして偽預言者の言うことを信じる人のほうが圧倒的多数、それは霊的に成長していない人のほうが多数。
地球は霊的成長度の低い人が圧倒的多数の“玉石混交(淆)”だからや。実に情けない世界でもある。
そんな人たちを対象に、以下の文。

“われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、
鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、
この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、
慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。
ここまでわけて申さばよく分かるであろう、
何事も真通理(まつり)が第一ぞ。”

“われがわれがと思ふてゐる”=自我の肥大。
“調和(まつり)てゐぬ証拠”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をしていない。智性(神性)を行使していない。
“鼻高となればポキンと折れると申してある道理”=自我の肥大が生み出す悪の行為は、“神の咎め”がある。それがアセンションに伴う醜い事象でもある。
“この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になる”=自我の肥大で“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をする人は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)、そして偽の情報を流し、人の霊的成長の足を引っ張り、さらに甘い夢を見させる。それらすべて偽預言者っていってもエエな。

そやから最後の言葉“何事も真通理(まつり)が第一”=真に、“理(ミチ)”(法則性と自分の在り方の指標)を通し(時間の進行を認識して(儿部(じんぶ、にんにょう)人(日止、霊止)が歩く様に象る))、すべての事象に=“何事も”。
 それを強調して言うてるし、言うまでも無くそれは、アセンション後の“創造”に参加出来るギリギリの霊的成長度の人に言うてる言葉やねんな。

…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第二十三帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

世界は一つになったぞ、
一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。
臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、
くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。
覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、
学と神の力との大戦ぞ、
神国(かみぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ。
今あらはすと、助かる臣民 殆んどないから、神は待てるだけ待ちてゐるのぞ、
臣民もかあいいが、元をつぶすことならんから、
いよいよとなりたら、何んなことありても、ここまでしらしてあるのざから、
神に手落ちあるまいがな。
いよいよとなれば、分っていることなれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、
今では何馬鹿なと申して取り上げぬことよく分ってゐるぞ。
因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、
神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、
おそし早しはあるなれど、
いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。
北に気つけよ、東も西も南も何うする積りか、
神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、
神と人との和のはたらきこそ神喜ぶのぞ、
早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。
八月三十日、ローレンツ力と ○  の一二か三。

 まず、冒頭の文。

“世界は一つになったぞ、
一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。
臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、
くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。”

冒頭の“世界は一つになった”、それと“一つになって神の国に攻め寄せて来る”って言う言い回しは、進化程度においての認識が一定の基準になったということを指していると思われる。ほんでから“神の国”って表記は、今より“上”の場(フィールド)ってことやろ。それは今が、低すぎるし、醜いから、使われた表記やと思えるな。
そやから“世界は一つになった”=一定の認識を持つようになる。それは、今後=アセンション後は、今までとは違う基準を持つようになる。
今の社会通念とか、常識とか呼ばれてる認識の中には、正義、善悪、人を殺してはいけない、人から奪うのは悪…こんなことは常識。
それに比べ、キリストや釈迦が現れた時代は、今より、盗む、奪う、傷つける、殺す…って言うのんが横行してた。
もっと極端な例を挙げれば、進化程度の低い生命の行動は、人間以下の動物を見ると解りやすいけど、肉食獣が草食獣を食らい、その両者は、ムラダーラチャクラとスワディスターナチャクラの刺激をしている。
要は、弱肉強食の世界は下三つのチャクラの刺激、その進化程度の“行”でもある。
それは、人(日止、霊止)が知識としての知恵を獲得して、自分の心(靈)を観察し、言葉として認識している、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、そのうちの、本能=ムラダーラチャクラ、情動=スワディスターナチャクラ、そして自分の身を守る行動は(保身)、自我の確立=固定化の進化過程に移行する段階でもある。
動物から人間への霊的成長、進化程度のことから話を戻し、そやからキリストや釈迦が現れた時代は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化として、キリストや釈迦を選び、使命を与え、キリストや釈迦に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在の憑依があり、通信を受け、汝の隣人を愛せよ…とか、天国と地獄の概念を説いたりとか、“慈悲”と“慈愛”を説いたりして、良くないことを良くないと指摘し、その時代の人たちの平均的な認識を“上”に、引き上げてきた。
人の行動=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現に、低い幸福の概念があるから…ちょっと複雑な言い回しになったから言い換えると、低い幸福の概念で行動するから、程度の低い霊的進化程度の人は、盗む、奪う、傷つける、殺す…そうやって自分の欲望を満たすことがうれしかったり喜びだったり、それが達成されれば幸福だと思う。
それはさっき説明したチャクラの覚醒の概念を当てはめて考えても、よく理解出来る。盗む、奪う、傷つける、殺すは、下三つのチャクラ、特に、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラの強化になる。
それを心(靈)の動きで言い換えれば、本能と情動、そして、自分の利益のためにその行動を起こすのだから、マニピューラチャクラの覚醒の段階=自我の確立=固定化の段階でもある。
しかし、キリストや釈迦が現れてから二千年たっても、現状、地球人がやってることは、そんなに変わらへん。
そやからそれは、その時代に比べれば知識としての知恵を獲得したんやけど、やることが大々的になったり(経済で奪う、戦争で奪う)、大義名分を振りかざしてまで自分は正しいと思い込む。そして地球は、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいの星になった。恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”になった。
言うまでも無く、そうしたのは、自我の肥大した自己奉仕者の行いやし、その行いを起こす心(靈)の動きは、マニピューラチャクラの覚醒段階でもあるし、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)…その段階の心(靈)の動きでもある。
それが現状の地球…日本人やアメリカ人など、経済大国の人たちは、目先の幸福感に酔っぱらってるから真剣にこんなことを考えん。
また、話を戻し、このことも何回も言うて来てることなんやけど、進化程度の違いすぎる人同士が混在していては、霊的成長をする場(フィールド)として、良いカタチではない。
そやから今言うた、目先の幸福感によっている人たちの認識=霊的成長度では、アセンション後の“創造”を担うことは出来ない。そんな人たちがアセンション後に移行したなら、今の世界とたいして変わらへん。
そして今、甘い解釈をしている人が広めてるアセンションの情報は、ただ甘い(亜、魔、出ずる、泉)し、誰にでも受け入れられる…だからそれは霊的成長度に於いてアセンション後の“創造”を担える人って概念は無く=霊的成長度に於いて分けられると言う認識は無く、広めてる人が低い功名心や自尊心を満足させ、あるいは商売に利用されているだけでしかない(自己奉仕者の行い)。
このブログでは、アセンション後の“創造”を担える人については何回も言うてきた。その大事な要素としてひとつは、自分の心(靈)の中を自分で見極めること。
それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”。
それだからこそ、アセンションと言う事象を体験して、言い換えれば人の醜い行いを観察して認識する。それは外側(外国と幽界)の事象の観察でもあるけれど、そこで自分自身の心(靈)の動きが“上”なのか“下”(低い心(靈))なのかを、重ねて言うけど、自分自身で認識する。
そしてアセンション事態が、神の“思惑の顕現”=現象化でもあり、霊的成長度に於いて分けられる。…と、言うより、自分の霊的成長度と心(靈)の在り方で、行き先が“上”か“下”か。 言い換えれば自分の(肉体を伴った)心(靈)が、観察し得る事象は、自分の心(靈)が選択するってことでもある。
簡単に言えば、行き先(観察出来得る事象)は、自分で決めるってことで、それがまた、(霊的成長に向かう=神格化に向かう)生命すべてが認識する法則性でもあり、その法則性を“日月神示”の言い回しでは、“道”“理(ミチ)”と表現されていると思える。
そして今現在、アセンションに向かっているのにタイムスケジュールがある。
しかし、たくさんの人が“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の区別が出来ないから、この星、地球は、霊的成長度の低い人とアセンション後に以降出来得る資格を持った“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)を行使する人(日止、霊止)が混在しているからこそ、“玉(ぎょく)”と“石”の進化程度の人が同一の場(フィールド)に居て、霊的成長度に於ける行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の違いについて勉強させられてるみたいなもんでんねん。
その意味で次の文。

“覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、
学と神の力との大戦ぞ、
神国(かみぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ。”

 この文の最初はさっき説明したように、だんだん地球人の認識が“上”に向かい、それが当たり前になることが“臣民一人一人の心も同じになりて”と称されている。
そして“学”って表記は、富士の巻にたびたび表れる、“理(ミチ)”をまげると言う言い回しの“理屈”やと思える。さっきも指摘したとおり、大義名分を振りかざして戦争したり、甘い(亜、魔、出ずる、泉)アセンションの情報を流して多くの人を目先の幸福感に酔わせて商売をしたり、Kellyさん的にはそれが“理(ミチ)”をまげる、屈する、ことやと思われる。
そして“神国(かみぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ。”って言うのんは、今より“上”の基準が、当たり前の世界になることを強調していると思える。
言うまでもなくその世界は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかなどの行動や、概念は、消失し、その場(フィールド)に位置する心(靈)は、肉体を持っていようがいまいが、ただただ自分と他者の霊的成長を望み、それはまた富士の巻 第二十一帖に登場した表記の“益人のます心ぞ”やろ。

 ほんでから次の文。

“今あらはすと、助かる臣民 殆んどないから、神は待てるだけ待ちてゐるのぞ、
臣民もかあいいが、元をつぶすことならんから、
いよいよとなりたら、何んなことありても、ここまでしらしてあるのざから、
神に手落ちあるまいがな。”

 これは、現状、地球人の認識が低すぎることを指摘している。そやから“助かる臣民 殆んど(ほとんど)ない”って称されてる。
ほんでから“元をつぶすことならん”って言うのんは、“二”=肉体と儿部(じんぶ、にんにょう)これは、人の歩く様子を象るって何回も説明してきた。
用は肉体を持った心(靈)=人(日止、霊止)が、時間の進行を認識して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)してきてるし、現状、低いから、神さんの目に適う(かなう)霊的成長度ではないから、“神は待てるだけ待ちてゐる”“今あらはすと、助かる臣民 殆んどない”ってことでんねん。
 ほんでから“上”は、アセンションが霊的成長度で分けられることを情報として知らしているって言う意味で“いよいよとなりたら、何んなことありても、ここまでしらしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。”って言われてる。
そやけどそれに気がつく人はごく少数、アセンション後の事象の“創造”を託される人は、その霊的成長度の人は、少ないって言う意味合いのことを、次の文章で指摘されてる。

“いよいよとなれば、分っていることなれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、
今では何馬鹿なと申して取り上げぬことよく分ってゐるぞ。
因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、
神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、
おそし早しはあるなれど、
いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。”
  
 さっき指摘した、甘い(亜、魔、出ずる、泉)アセンションの解釈を信じ、目先の幸福感に酔っぱらっている人たちは、その時期がきたならば、“分っていることなれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬことよく分ってゐるぞ”ってことになるんやろな。
 そして、霊的成長をしてきている人は、ある意味、次の世界の“創造”を託されているからこそ“因縁のみたま”って称されてる。そして“因縁のみたま”にしか、“日月神示”の本当の意味は理解できん。それを“この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居る”って言われてる。
それは“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことが理解できてないと、“一”=智性=1番目のオーラが大きくないと、本当のアセンションは理解できん。

ほんでから次の文。


“北に気つけよ、東も西も南も何うする積りか、
神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、
神と人との和のはたらきこそ神喜ぶのぞ、
早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。”
 
 “北に気つけよ”、これは、北=大極=N極、これは後々先生が“改”で説明することでもあるけれど、磁極の周りを回転する荷電粒子の回転を、心(靈)=霊、○、荷電粒子の場(フィールド)が感じ(感じる磁性)るから、事象が在ると(心(靈)が)認識する。
 それは、心(靈)が、北=大極=N極に対し、正面を向くと、右=砌(みぎり)は、東になり、西は、左=日足(ひたり)になる。それは事象の極性でもある。そして南は、自分自身、自分の心(靈)そのもの、事象を観察している自分そのものでもある。
事象を観察し認識するから事象と自分は存在を確認出来得る。
そやからこの文は、富士の巻で共通のテーマでもある“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、それを証した言い方でもあると思える。
そやから事象の“創造”は、神=“創造”の“主(ヌシ)”、“上”の思惑、それを人が取り込み、“上”を認識し、“上”の思惑と自分の思惑による思想をもち=霊的成長し=“一”=智性=1番目のオーラを大きくした人が、今後=アセンション後の“創造”をする。
そのことを言い方を変えて述べられているのが“神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、
神と人との和のはたらきこそ神喜ぶのぞ、”って言われてる。
ほんでから“臣民に気の毒出来る”って言う言い回しは、現時点、低すぎることを指摘されてて、今、“上”の思惑通りのことが起きたなら=たった今、霊的成長度に於いて分ける作業を行ったなら、大半の人は霊的成長できないまま死を迎える。
そしてそれは、自分の霊的成長度が低いから起きることなので“臣民に気の毒出来る”って言い表されてる。
繰り返すけど、アセンションは自分の霊的成長度に於いて行き先を自分で決めるってことを、この文でも言われてる。
そして最後に、“早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう”…、これは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を指摘して、さらに心(靈)の在り方として、“身魂掃除”“身魂洗濯”を指摘している。
タイムスケジュールのあるアセンションという事象に間に合う霊的成長度になって欲しいという、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“慈悲”と“慈愛”が現れた文章でもあると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈



今回も富士の巻 第二十四帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

富士(二二)を目ざして攻め寄する、大船小船あめの船、
赤鬼青鬼黒鬼や、おろち悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空蔽(おお)ひ、
海を埋めて忽(たちま)ちに、天日(てんぢつ)暗くなりにけり、
折しもあれや日の国に、一つの光 現はれぬ、
これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、
目にうつれるは何事ぞ、
攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨ふらす、
火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、
これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、
兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ、
折しもあれや時ならぬ、大風起こり雨来たり、
大海原には竜巻や、やがて火の雨 地(つち)震ひ、
山は火を吹きどよめきて、さしもの敵も悉く、この世の外にと失せにけり、
風やみ雨も収まりて、山川静まり国土の、
ところところに白衣(しろきぬ)の、神のいぶきに甦る、
御民の顔の白き色、岩戸ひらけぬしみじみと、大空仰ぎ神を拝み、
地に跪(ひざまづ)き御民らの、目にすがすがし富士の山、
富士は晴れたり日本晴れ、普字は晴れたり岩戸(一八十)あけたり。
八月の三十日、 ローレンツ力と ○ の一二のローレンツ力と ○  。

 今回の二十四帖は、全体を見回しても今までの富士の巻の文体とはちょっと違う。
冒頭の言葉の“富士(二二)”は、今までのKellyさんの解釈どおり、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であることは間違いないやろけど、その肉体の二つの磁性に対するさまざまな影響を揶揄(やゆ)して述べている言い方やと思える。
同時にこの二十四帖は、アセンションに向かう際、今とても多い甘い(亜、魔、出ずる、泉)解釈のアセンション、ただ夢を見るだけ、自分が努力して頑張って(元の気を張って)=自分のエネルギーを贖って(あがなって)霊的成長する人ではないケースまで指摘していると思える。
それを踏まえ、まず冒頭の文。

“富士(二二)を目ざして攻め寄する、大船小船あめの船、
赤鬼青鬼黒鬼や、おろち悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空蔽(おお)ひ、
海を埋めて忽(たちま)ちに、天日(てんぢつ)暗くなりにけり、”

 この文の“大船小船あめの船”は、“日月神示”表記の“カイの御用”、これは前のブログで、肉体が持つ縦の磁束の右往左往と左往右往であり、カイは舟を漕ぐ意味の“櫂(かい)”、だからこそそれは、縦の磁束、肉体が持つ中心の磁束に対し、左=日足(ひたり)、右=砌(みぎり)の極性の影響を受ける。そういう解釈をした。
 人(日止、霊止)の肉体の左右の極性=日足と砌(ひたりとみぎり)は、現時点、自我中心の進化過程=霊的成長の過程だからこそ、脾=“思う、憂う”と肝=“いきり立つ心(奴と心)”が、一個体の中心の磁束に影響を与える。それは電磁誘導でもあり、その電磁誘導で発生する生体内電流は、“日月神示”表記の“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
 そしてこの文は、自分の心(靈)に対して、霊的存在の憑依を指摘している。それが“赤鬼青鬼黒鬼や、おろち悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空蔽(おお)ひ、”と、称されていると思える。 それは恨みの連鎖で起きている貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った浮遊霊、そして動物霊、心(靈)が右回転している悪霊のたぐい。 それが人(日止、霊止)の肉体を構成する水の意味、自我の発現の部位、腹。“日月神示”表記の“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。その部分に影響を与える憑依現象を述べていると思える。 さらにそれが、この文の表記の“海を埋めて忽(たちま)ちに、天日(てんぢつ)暗くなりにけり”であると思える。
念のために補足しておけば、“海”=腹の水ってことでんねん。
そして“日月神示”表記の“江戸と尾張”、これは下三つのチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、でもある。
また、補足として“一二三”のオーラを構成する人(日止、霊止)の肉体の三つのコンデンサーの構造は、、3番目のオーラは、腹が水に満たされているから2番目と“一”=智性=1番目のオーラとは、振動の種類が違う。
だからこそそれは、心(靈)の構造、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。
話を戻し、今、薄っぺらい幸福感や、形骸の価値観がすばらしいと思っている人はとても多い。それはアセンション落第組みなんやけど、その人たちの心(靈)は、自我の肥大が起きている自己奉仕者であり、心(靈)が“日月神示”表記の右回転渦巻き 右 回転  している。
そして自己奉仕者が活躍する世界そのものが、それは、ローム太霊さんの言葉を引用すれば、右往左往=やってみてから失敗を体験する過程でもある。
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する悪霊のたぐいも、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)だからこそ、右回転 渦巻き 右 回転 であり、自己奉仕者と同調し、(通貨としての)金に執着したり物欲由来の幸福感を持ったり、低級な娯楽を楽しんだりもする。
低級な娯楽…これは子供の浮遊霊の影響でもあり、実際、そんなもんでのし上がった企業が、テレビのCMのスポンサーだったりもする。 
(この問題点については、いずれ、∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちと論じることとする…)
ほんでから今指摘したものよりもっと程度の低い者は、本能由来の行動をとる。それはあえて言うまでも無いことなんやけど、性の乱れ、異常なグルメ嗜好、自分の低い欲望を制御できない人。例えば血糖値を下げるサプリメントなんか利用する人間は、いかに本能主体の心(靈)しか持ってへんのかってことでんねん。
そやから人の心(靈)の本能化。
人(日止、霊止)として、ほんの少しだけ発現した智性(神性)を発揮しない心(靈)、それを前のブログで“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と定義付けた。
そやからそれは自我から下への心(靈)の動き、本能、情動、功名心、自我の肥大…そんな心(靈)の発現しかしていない(霊的)進化過程の人が、悪霊に憑依されて起きていることでもある。そして今の世界は、薄っぺらい幸福感と形骸の価値観で満たされ、ほとんどの人が真実=真固止の認識を持たず、人(日止、霊止)の在り方、人の存在の意義=霊的成長=神格化、現時点、地球人がやるべきことは、智性由来の行動をすること、それが出来ていない=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振が出来ていないって言う意味で“天日(てんぢつ)暗くなりにけり”と称されている。

ほんでから次の文も、今指摘した、心(靈)が右回転して、自我の肥大している大半の人が信じ込んでいる何か。
それは、下つ巻によく出てきた表記の、“役員づら”、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)やと思えるけど、それを信じている人はとても多い。
その人たちのことを指摘した文章やと思える。

“折しもあれや日の国に、一つの光 現はれぬ、
これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、
目にうつれるは何事ぞ、
攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨ふらす、
火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、
これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、
兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ、”

 この文の冒頭の、“日の国”は、この国である日本って言う意味もあるやろ。そやけどそれは、霊的成長を託された国って言う意味ではなく、経済大国である日本って意味やろ。
そやからこの文そのものが、霊的成長を託された日本って命名であるにもかかわらず、形骸の価値や薄っぺらい幸福感で満たされた人が多いことを指摘して揶揄(やゆ)した言い方やな。
そやからその薄っぺらい幸福感と形骸の価値観ゆえの解釈は“一つの光 現はれぬ、これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、目にうつれるは何事ぞ、”…信じ込んでいる何かが間違ってるって言われてるだけやねんな。
 ほんでからその薄っぺらいもんを信じ込んで、アセンション後は不幸の無い世界になるとか、何もしないでアセンションを迎えれば自分たちは成長するとか、そんなことを思っている大半の人たちに対し、“攻め来る敵の大将”は、悪霊の大将って言う意味やな。
そしてその影響を受けることを=感応共振することを次の言い回し“大き光と呼応して、”って称されてると思えるし、その後の文の“一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、”って言うのんは、醜い事象を観察して思うことでもあるやろ。
そやから今“役員づら”…その人たちの情報を信じている人たち。それは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑であり、それはまた人(日止、霊止)が認識した言葉として、悪魔であり、悪魔は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)でもある。そやからその思惑にはまりこんでいる人たちは、アセンションに伴う“神の咎め”としての醜い事象を体験するからこそ、“一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか、これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ”ってことになり、この文の“まことの神はなきものか”って心底思わされる。
そして、“これはたまらぬ兎も角も、生命あっての物種と、兜を脱がんとするものの、次から次にあらわれぬ、”…この“兜を脱がんとするものの、”って言うのんは、思想、頭の機能、そして自己奉仕者の思想は形骸の価値観だからこそ、外側(外国と幽界)の事象のみを大切に思う。
その外側(外国と幽界)の事象を対象にした言い回しやから、頭の中身って言う意味ではなく“兜”と称されていると思える。
そしてその形骸の価値観を捨てても、もうこの世界は形骸の価値観に染まってて、何もかもが腐ってるから、“次から次にあらわれぬ、”って称されてると思える。
(この文の表記の“兎も角も”が読めん人のために、これは“ともかく”って読みまんねん。余談やけど、ローム太霊講話集にもよく出てくる表記でんねん)

 ほんでから次の文も、アセンションに伴う醜い事象を言い表していると思えるし、それ以外にも、人(日止、霊止)の心(靈)の構築に関わる肉体内の電磁誘導を指摘していると思える。

“折しもあれや時ならぬ、大風起こり雨来たり、
大海原には竜巻や、やがて火の雨 地(つち)震ひ、
山は火を吹きどよめきて、さしもの敵も悉く、この世の外にと失せにけり、”

 この文の“大風”は、空気による電磁誘導。(空気を吸ったりはいたりする意味で)呼吸器官による電磁誘導。
“雨来たり”は、腹の水。
“大海原には竜巻や、やがて火の雨 地(つち)震ひ、”は、腹の荷電粒子の回転を“竜巻”と称し、腹の段階の心(靈)の発現を示す外側(外国と幽界)の事象の観察、そやからそれは幽界の幽、それは、火の意味を持つ灬(よつてん、れっか、れんが)と糸二つ、糸二つは何回も言うてきたけど、左右の神経、神経を構成するたんぱく質には灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)が含まれているから、“地(つち)”と称されていると思える。
そやから人(日止、霊止)の進化は、腹から“上”、自我から“上”の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”、それは神経が“慈(しげる)”って言う意味もある。そやからこの言い回しは神経の発達を示した言い回しでもあると思える。
そしてそれは、結果として脳=山に移行するものであり、そうなれば思想は自己奉仕者特有のものではなくなるからこそ、“さしもの敵も悉く、この世の外にと失せにけり、”となる。
そやけど“この世の外にと失せにけり”は、自己観察、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の心(靈)の動きをよく認識するって言う意味にも取れるな。

 ほんでから次の文。

“風やみ雨も収まりて、山川静まり国土の、
ところところに白衣(しろきぬ)の、神のいぶきに甦る、”

 この文の冒頭の“風やみ雨も収まりて、山川静まり国土の、”は、“風やみ”は胸の電磁誘導、自省(胸の磁性“十”)の“行”、“雨も収まりて”は、腹の水。そして“山川静まり国土”は、“山”は、脳、思想、“川”は、“江戸と尾張”の“江”と同義、“国土”は、“国”はm(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“土”は、さっきの表記の“地(つち)”=灰分(かいぶん)と同義。
そして“白衣(しろきぬ)” は、大日如来の条帛(じょうはく)と同義、左往右往して、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、腹のエネルギーが日足(ひたり)回転して上昇する様子。
そしてそれは、腹の段階の右往左往から左往右往=サイクロトロンから、シンクロトロン放射に移行する様子でもあると思える。そしてそれは天意を受ける意味での天の白い王を縮めた表記の天皇ってことになる。(今の天皇の事を指しているのではない)

ほんでから次の文。

“御民の顔の白き色、岩戸ひらけぬしみじみと、大空仰ぎ神を拝み、
地に跪(ひざまづ)き御民らの、目にすがすがし富士の山、
富士は晴れたり日本晴れ、普字は晴れたり岩戸(一八十)あけたり。”

 散々アセンションに伴う事象を体験し、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしている様が、“御民の顔の白き色、岩戸ひらけぬしみじみと、大空仰ぎ神を拝み、地に跪(ひざまづ)き御民ら”と称されてると思える。
そやからそれは、さっき指摘した“役員づら”の情報を信じてる人、自分に甘ければ、霊的成長は見出せず、ただただ呆然とするだろうから、“大空仰ぎ神を拝み、地に跪(ひざまづ)き御民”と言われ、それに対し、アセンションの時期に間に合う霊的成長を果たした“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動き、それは自己奉仕者の思想では無いからこそ、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道が、しっかりした“山”=脳=思想と称されていると思える。
 そしてこの文の最後には“富士は晴れたり日本晴れ”と、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)について強調されている。
“晴れたり日本晴れ”については、以前画像を作ったから以下に貼っておきまんねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字 


 そしてこの文の続きの“普字は晴れたり岩戸(一八十)あけたり”の、“普”は、“あまねく”、そやからそれは、普遍って意味がある。そして“字”は、宀(うかんむり、頭の意味)と子。神に認められる思想の持ち主って表記やけど、まだまだ神さんから見たら幼稚やから“子”なんやろ。
 そやから、次の事象、今後=アセンション後の事象の“創造”を託されるには、智性(神性)由来の思想が大事。
そして日足と砌(ひたりとみぎり)のバランスが大事。
そのバランスを体得するのは、ローム太霊の説明した、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするのが大事。
今後=アセンション後の事象は、失敗を体験した人(日止、霊止)が創造し、二度と失敗の無い世界になるってことでんねん。
その失敗を豆居ている人の心(靈)の動きは、自我の肥大であり、右の極性の強化の段階でもあり、だからこそ“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体内の左右の極性であり、左右の極性は、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)であり、日足と砌(ひたりとみぎり)は、“思惑の顕現”=現象化でもある。
日足と砌(ひたりとみぎり)、左から右、思惑を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移す。
そしてそれは、向かって左から右に筆を動かして書く“一”でもあり、この世界の根源の“創造”の“主(ヌシ)”の作業は、(すべての事象の根源の材料としての)“亜”が出ずる、泉、でもあり、だからこそ、アイ、愛(炁)でもある。
このことを認識しておかんと、次の事象=アセンション後の世界には移行できないと思われる。
そしてそれを強調する意味で“岩戸(一八十)”って表記が使われている。 
“岩戸”は、“山”=脳、特に目上(めうえ)の脳、“戸”は“江戸と尾張”の戸でもあり、腹から“上”に移行する関門としての戸でもある。
そして、“一八十”は、“一”=智性=1番目のオーラと“八”は、左右の極性、“十”は、胸の磁性“十”って表記だと思える。
要は、自我から“上”、“慈悲”と“慈愛”=アナハタチャクラの覚醒、それを宇宙的な存在は第四密度って表現を使ったりもする。そやからそれは“慈悲”と“慈愛”が発現した人の心(靈)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)って言うのんは、その事象を“創造”していくようになる。それがまた、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、“日月神示”表記の“天意”であり、“天意”を受信し、感応共振する人を、“天詞様”と呼ぶ。
それに対し、今の自己奉仕者の“創造”は、その行動の根拠として、自我の肥大による心(靈)の動きがあるから、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが横行する世界でもあり、それに卓越した人が、経済を発展させ、見せ掛けの価値、形骸の価値、薄っぺらい幸福、その概念を行使するから、恨みの連鎖の霊的干渉が盛んな星になった。そやから今後=アセンション後は、それを卒業する。
そして次の段階に移行するために、大半の人が自省(胸の磁性“十”)しなければならないからこそ、醜い事象を体験する。
冒頭でも言うたけど、この第二十四帖は、そのことを揶揄(やゆ)した文章の感があるな。

…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈



今回も、富士の巻 第二十五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、
殊に可愛い子には旅させねばならぬから、
どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、
神疑ふと気の毒出来るぞ。
いよいよとなりたら、どこの国の臣民といふことないぞ、
大神様の掟通りにせねばならんから、可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、
気つけてゐるのざぞ、
大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、
何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。
外国から早く分りて、外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。
それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、
山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、
この方 世界の神ぞと申してあろがな。
裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、
裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、
いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。
凡てをてんし様に献げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、
世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。
八月の三十日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のか三。


 まず、冒頭の文。

“世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、
殊に可愛い子には旅させねばならぬから、
どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、
神疑ふと気の毒出来るぞ。”

これはあえて解釈をせんでも理解できると思うけど、今後=アセンション後に移行する人に対し、その人たちの霊的成長を望み、これから起きていくこと…今もいろいろ現象化しているけど、アセンションに伴う醜い事象を体験し、そのつど、その時々に、自分たちの認識を高めてくれって言う“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が述べられている。
とくに“この方の臣民”って言う言い回しについて、生命(生きる使命=存在理由)は、すべて=“世界中の臣民”は、神の子であり、神の子は神格化って目標があり、そのために私たちは肉体を持って生きている。 なぜ生きているのか、なぜ物質世界に心(靈)が位置しているのかは、生きている間=肉体の物質としての磁性を持っているうちに、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、自分の心(靈)が育ち=認識の拡大をする。それが、物質をまとった心(靈)=人が、肉体を持って生きている理由でもある。
そして、肉体を持って生きている間の認識の拡大、それが幸せの解字、“夭と屰”(ようとげき)の意味でもある。
認識の拡大のために人(日止、霊止)は、さまざまな事象に遭遇し、喜んだり苦しんだり悲しんだり…そのつどいろんな心(靈)の動きをするけど、それは結果としては“一”=智性=1番目のオーラの拡大になっていく。
また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が見込んだ人には、たくさんの試練があるものでもある。
その逆として、生きているうちに認識の拡大が見込まれない霊的成長度の人は、ただ生きているだけとか、たいして苦難の無い人生とか…そんな人生を送るもんでんねん。
そやからそれはS会=紫光会の交霊会でよく出てきた言葉の、“神は乗り越えられない試練は与えない”…これは、その人(日止、霊止)の霊的成長度に応じて苦難や試練を与えるって言う意味で、この言葉自体にその意味が読み取れん人は、認識が薄っぺらいとも言いうる。
この星、地球は、現時点、人の霊的成長度の高低がある。相対的に霊的成長した人と、たいして霊的成長を見込まれない人もいる。
そして後者の方が大部分でもある。
だから前のブログで“玉石混交(淆)”って言い方もした。
自分が“玉(ぎょく)”の霊的成長度なのか、“石”の霊的成長度=自我の確立=固定化の段階なのか、また、自分の心(靈)の“上”“下”は、“玉(ぎょく)”に至る心(靈)の動き=“慈悲”と“慈愛”ゆえのものか、“石”=自我の肥大ゆえのものか、よく自己観察して見極めなければならない。
そのことを“日月神示”では、“身魂掃除”“身魂洗濯”と称されていると思う。
話を戻し、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば、富士の巻での共通のテーマである“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、だんだん神の思惑が自分の思想の一部になり、それは“天詞様”と呼ばれるべき、“上”から認められた霊的成長度の存在になり、今後=アセンション後は、その人たちが事象の創造をする。
それがこの文では“殊に可愛い子には旅させねばならぬから、どんなことあっても神の子ざから、”って、称されている。
その点でも“日月神示”によく出てくる表記の“因縁の身魂”、それは、今の事象で霊的成長を果たし、今後=アセンション後の創造を託されるべき霊的成長をする(肉体を持った)心(靈)を指しているだろうし、だからこそ、苦しい人生を送る。
それがまた、ローム太霊さんの言葉を借りるなら、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする。
そうやって次の段階の事象の“創造”に参加する霊的資格=自省(胸の磁性“十”)の“行”をした心(靈)になるってことでんねん。
 そのことに対し、今、とても多い、甘い夢を見させる何か、見せ掛けの幸福、見せ掛けの癒し、見せ掛けのご利益。 なんとかするとあなたは幸せになります、何とかに癒されて幸せになりましょう、アセンション後はだれもが幸せになりますとか、そんな類の何かって言うのんは今とても多いけど、それは、今、遭遇している苦難から逃げたい、自分の苦難が霊的成長のための試練とか、そんな認識を持ち得ない霊的成長度の低い人が選択するものでもある。
 そして人に甘い夢を見させ、甘い夢を見させる何かで商売をする人間を、“日月神示”の下つ巻では、“役員づら”と称されており、“役員づら”の情報や教えと称するもの、そんなもんに利用され金を払ってる人間に共通の心(靈)の動きは、自我の肥大であり、自我の肥大そのものが“石”(帯電するミネラル)の固まっていない心(靈)の発現で、それは、“江戸と尾張”で、補足しとけば、それは、腹の水の中のミネラルが構成する磁場、それによる荷電粒子の回転はマニピューラチャクラ、そして腹の水の意味が“江戸と尾張”の“江”、その段階の心(靈)の発現と心(靈)の動きは、自我の確立=固定化の段階でもある。
 その“役員づら”の情報に惑わされてる人に対し“神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。”って言われている。
そやから、自分の苦難に意味を見出そうせず、苦難を神が自分に与えた試練と思わず、甘い夢を見たいとか、自分が自己奉仕者の行いをしているのにもかかわらず自分は悪くないとか思う。こういう心(靈)の動きは、政治家とか、建設業者とか、低級な娯楽で金儲けしている人とか、インチキ霊能力者とかインチキ占い師とか、高い印鑑業者とか、開運グッズで商売してる人とか…それと、人の低い本能を煽る(あおる)風俗関係とか…例を挙げるときりが無いけど、非常に分かりやすい自我の肥大の一例なので、あえて例を挙げておきまんねん。
 また自我の肥大は、自分の心(靈)の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を言葉でしか理解できず=認識になっておらず、自分の内在する悪に心(靈)が囚われ…って言うよりも、その人の心(靈)の成長度が自我中心で、自我より“上”の心(靈)の発現、胸の磁性“十”があまり無いからでもある。
言うまでも無くそれは第四密度の振動でもありアナハタチャクラでもあり、“慈悲”と“慈愛”でもある。
そういう点でも、霊的成長、神格化の道程は、一本道だからこそ法則性があり、成長の法則性があるからこそ、“日月神示”では“道理”とか、“道”とか“理(ミチ)”とかって称されてる。
 その法則性にしたがって生きていないならば、やってきたことの結果は全部自分に返り、それが因縁とか、因果応報とかでもあるけど、それは霊的成長=認識の拡大のための方法論でもある。
そやから今、自我の肥大で甘い夢を見るとか、物欲由来の薄っぺらい幸福感で行動するとかもそうやし、また、自己奉仕者が自分の悪の行いを認めないのもまた、この文の“神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。”って言葉を、よく噛みしめて欲しいもんやな。

 ほんでから次の文。これも、今、延べたことと同様のことを言うてる。

“いよいよとなりたら、どこの国の臣民といふことないぞ、
大神様の掟通りにせねばならんから、可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、
気つけてゐるのざぞ、
大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、
何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。”

 とくにこの文の後半、“大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様”って言い回し、アセンションに伴う醜い事象、自己奉仕者に対する“神の咎め”、それをできるだけ小さく済ませ、たくさんの人に次の段階に移行して欲しいって“上”は思うけれども、そう思うから“日月神示”を上から“下”に垂れたりもしたんやろ。
 それとこの文の表記の“まつりかへたいと思へども”って言うのんは、今、大半の人が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしている。そして自我の肥大=自己奉仕者に成り下がっている。ほんでからに“役員づら”の情報を信じ込んでいる人が大半でもある。
そやから“まつり”って表記そのものが、自分の心(靈)の動きと反応し、通信を送ってくる霊的存在の憑依そのものを指した言い回しでもある。
ほんでから霊的成長の仕組みまで説いてると思われる“日月神示”、その“日月神示”すら“役員づら”の人は金儲けに利用したり、自分の自我の肥大による低い功名心と自尊心を満足させるための道具にしている。
  それは“日月神示”以外にも、霊的成長度の低い人は貴い何かを利用して、自分の薄っぺらい利益にする。今そんなもんばっかりやな。
 そやからこのブログに霊縁があった人は、もしこのブログに霊縁を感じ(感じる磁性)、自分の認識の糧に成ると思った人は、“何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。”っていうようなことにならんようにして欲しいもんでんねん。

 ほんでから次の文。

“外国から早く分りて、外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。
それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、
山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、
この方 世界の神ぞと申してあろがな。
裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、
裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、
いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。”

 これも外側(外国と幽界)の事象の観察をして、自己の内面とか内側(心の中と感じている事)を振り返らない人のことを指摘している文やと思える。
そやからそれは、この文の“外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来る”…そとづらとか、体裁とか、それは見せ掛けの幸福とか、見せ掛けの価値とか、そんなもんに“この方祀ると申す”。
それは結果としてインチキの神さんとかってことで、自分たちの認識の中にある神さんの認識が薄っぺらいから、自分にとって都合のよい神さんのイメージを思ったりする。
現世利益、ご利益、家内安全商売繁盛、自分の生活を振り返らずにただ健康と長寿を願ったりもする程度の低い神さんの認識、それは自分を振り返らず、ただ多々そとづらの良いことばかり思い、それを願うことを指摘していると思える。ほんでからそれは間違いって言うてるだけでんねん。
そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在を利用して、金儲けしているとか低い功名心と自尊心を満足させてるとかの人たちは、“この方祀る”って言う意味を理解できていない。
さっきも言うたけど、貴い何か、自分たちの霊的成長の指針となる何か、それをただ利用しただけでんねん。
そやからこの文では、その“役員づら”の人たちに対し、“神の国の臣民 申し訳ないであろがな”って言われてて、少しは恥を知りなさいってことでんねん。
ほんでからこの文の“山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、この方 世界の神ぞと申してあろがな。”これは“山”=脳、思想、“川”“海”は、肉体の液体成分、そこにあり、固まっていない(真固止ではない)帯電するミネラルで発現している心(靈)、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンってことでんねん。
そやからその心(靈)の動きって言うのんは、これもさっき言うたばかりやけど、自我の肥大した人が求める何か…見せ掛け…見せ掛け…見せ掛け…そんなものばかりで人を誑かし(たぶらかし、)、そんなものばかり追い求める。
それは、今後=アセンション後の“創造”を担う人が求めるものではないのは一目瞭然でもあるし、そんなものを求める人、そんな霊的成長度の人を、“創造”の“主(ヌシ)”=神さんは欲しているのではない。
その見せ掛けの何かを求める自分の心(靈)の動きを捨てること、それは“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあるけれど、それについてこの文では、次の言い回しをされてると思えるな。“裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。”
 そやからそれは、見せ掛けの何かは見せ掛けであることを証明するってことでもあるし、
それを“裸”って称されてると思える。
そやからやってきたことは暴かれ、本当の意味を人に示すってことは、“上”の“思惑の顕現”でもあるけれど……その一例として、一昨年やったか、テレビに出てる霊能力者が死者からのメッセージを伝えた番組があったけど、あとからその死者が実は生きていたなんて滑稽なことがあった。 そやけどマスコミって言うのんは、経済優先の価値観しか持ってないから=自己奉仕者の集まりやから、そんなことはたいして問題にしなかった。物事の本質とか、本当のこととか、そんな認識は視聴率って言う見せ掛けの価値に流されているからでんねん。
ほんでから一般の人もそのことに対して問題意識ってもんを大して持ってへん。霊能力なんてそんなもんやとか、上手いこといって金儲けすればええんや…それくらいの認識しかもってへんからや。
 そやけどこの件は、このブログをしっかり読んでる人にあえて説明することでもないからまあエエわ。

 ほんでから次の文。

“凡てをてんし様に献げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、
世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。”

 この文の“てんし様に献げよと申すこと”、これは、何を贖い(あがない)、どう生きるのか、それはアセンション後の“創造”を“上”から託されるべき霊的成長をする。
それが自分の霊的成長度の指標としての表記“てんし様”でもある。
またそれは冒頭で言うた様に、すべての人(日止、霊止)=“世界中の臣民みな てんし様に捧げなならん”、霊的成長は神格化への道程で一本道であるからこう言われてる。
そやから、今、地球がアセンションに向かい、その時間の進行の中=神のプログラムの中で、今後=アセンション後の“創造”を託されるべき人は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をする心になれってことでんねん。
ほんでからそれは、一部の地球人が行った長時間の“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うこと、それをこの文では“日本の臣民”と称されてると思える。 ほんでからあえて言うとけば、太陽凝視=不食なんて、ご利益を求める太陽凝視の概念の薄っぺらいことでは決して無い
それと、長時間の太陽凝視のできない霊的成長度の人は、せめて、自分の人生を振り返り=左往右往して、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をする。
以上の二点が、先生の概念の“宝玉の仕組み”でもある。
あえて言うとけば、宝は、體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)の意味でもあり、“玉(ぎょく)”は、腹の段階の心(靈)から“慈悲”と“慈愛”に成長する過程を示した表記であり、“玉石混交(淆)”の“玉(ぎょく)”でもあり、霊的成長を示した表記でもあり…このことは前のブログ、“思惑と顕現”の中で先生と話したことでもある。
そして“玉(ぎょく)”そのものがまた、“日月神示”表記の、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を指し示すものでもある。
そやから、何が“身魂磨き”なのか…このブログを真剣に読んではる人には、よく考え、よく認識して欲しいもんでんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 富士の巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も富士の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、
向ふの悪神は今度は ローレンツ力と ○ の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、
その積りでフンドシ締めて呉れよ、
誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、
臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ。
八月の三十日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のローレンツ力と ○  。

冒頭の文。

“戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、”

これは、“日月神示”が戦争中に自動書記で書かれてるから言われてるのでもあるやろけど、そんなことだけではなく、今の比較的穏やかな状況、それは、嵐の前の静けさみたいなもんで、今後=アセンション後に移行する際に、天変地異や戦争や訳の分からへんことがいろいろ起きる。大事の前の小事として、恨みの連鎖の霊的干渉によるわけの分からへん事件はたくさん起きだしてるけど、それは世界的な規模ではないし、まだまだ一日に何千人も何万人も死んでいるわけではない。
そやけど、飢餓貧困で死んでる子どもたちは単純に計算して一日平均28800人になるけれど、本当はこのことも問題にすべきなんやけど…。
 要は、何事も起きてないかのように大半の人が錯覚してるから、こんな言い方で言われてるだけやねんな。

 ほんでから次の文。

“向ふの悪神は今度は ローレンツ力と ○ の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、
その積りでフンドシ締めて呉れよ、”

 この文の“ ローレンツ力と ○ の元の神”○は、縦の磁性で構成されてる荷電粒子の集合体。そしてそれは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)。 は、縦の磁性によるローレンツ力ローレンツ力 、そして、“元”は、肉体を示す“二”。
それに時間の進行の意味を持つ儿部(じんぶ、にんにょう)。
要は、“ ローレンツ力と ○ の元”って言うのんは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みを言っているし、それは神の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑でもある。
神さんは人(日止、霊止)に何を望んでいるのか、それは言うまでも無く神格化。
ほんでから神さんの思惑そのものが“亜”が出ずる、泉、であり、それがアイであり、愛(炁)であり、“一”の書き方、左から右に筆を動かして書くのは、そのことを示しているって何回も言うて来た。
そやけど甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)って言うのんは、すべての生命の行動の動機である愛(炁)アイ、“亜”が出ずる、泉、の間に、“魔”=マーラ(魔羅)が入り込む。
その思想になってしまうことが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻むことになる。
ほんでから“魔”=マーラ(魔羅)が入り込みやすい場(フィールド)、それがこの文の“向ふの悪神は今度は”“根こそぎに無きものにして仕まふ計画”と称されていると思え、それは具体的には、たくさんの浮遊霊を増やす。
たくさんの浮遊霊を増やす仕組みは“石屋の仕組み”でもある。
“石屋の仕組み”は、帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、その段階の心(靈)の発現と動き、簡単に言えば自我の肥大で、どうでもエエこと(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋とは関係の無い形骸の美、形骸の地位や名誉など)に付加価値を付け、経済を動かし、地球上の一部の人間だけが低い功名心と自尊心を満たし、その裏で、三秒に一人子供が死に、家畜は殺され、それらすべてが貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った浮遊霊になる。
ほんでからこの世界に執着を持ってる浮遊霊は、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持っているから、それは心(靈)が“下”に向かう=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”やから、“日月神示”表記の右回転になる。
以下に、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、日足(ひたり)回りと砌(みぎり)回りの解釈の画像を貼っておきまんねん。

腹の日足(ひたり)(“善”)回転と、砌(みぎり)(“悪”)回転 


ほんでからこの文の“その積りでフンドシ締めて呉れよ、”って言うのんは、フンドシは、腹の縦の磁性と横の磁性を示すと思われる。
要は、臍(へそ)から下のチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラだと思われ、それは平均的地球人の進化過程である自我の確立=固定化、マニピューラチャクラのエネルギーに昇華されるものである。さらにマニピューラチャクラ、腹の段階の同位相のサイクロトロン、それは胸の磁性“十”で、シンクロトロンに移行していく。
そのこと自体が、自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きになっていくものでもあるし、それが神格化の“道”“理(ミチ)”でもある。
 要は、“フンドシ”って言うのんは、腹のエネルギーであり、その意味のことだと思われ、それは古事記の天照大神が天の岩屋戸から出てくる時の表記にも表れてるって言うのが先生の説。それは前のブログのエピローグから引用しまんねん。

“天照大神が天の岩屋戸から出てくる時の天の宇受売の命(あめのうずめのみこと)…その時の様子は古事記では、“胸乳(むなち)を掛き出で、裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。爾に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲(わら)ひき。” …って書かれてる。それは、天の宇受売の命(あめのうずめのみこと)が、陰部をさらけ出して踊ったっていうのとは違う…って、先生は思うてる。それは、“胸乳(むなち)”は、胸の磁性“十”で、“裳緒(もひも)”は、腰と腹の横の磁性(水平磁場)、それは、腹の段階のサイクロトロンの荷電粒子の回転も示してるし、ほんでからにそれは、3番目のオーラでんねん。
ほんでからに、“裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。”…っていうのんは、下三つのチャクラで構成される縦の磁性…それを表現してるっていうのんが、先生の説でんねん”

引用終わり。ほんでから次の文。

“誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、
臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ。”

 これも、誰かに教えられることなく、自分たちの“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為の源とか原因って言うのんは、自我の確立=固定化のときに起きやすい自我の肥大って心(靈)の動きが、この世界を腐らせているってことに気づけってことを言うてる。
 それに気づくために、自分の心(靈)の動きって言うのんを自分の智性(神性)で判断する。
要は、自分自身の心(靈)の動きが“上”か“下”か、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”かってことを自分で知る。自我の肥大が起きていたなら自分の都合の良い考え方をするってことでもある。それは言い換えれば、今まで何回も言うてきたように“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ってへんって事でもある。自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無ければ、内在する悪に囚われるってことでもあるし、繰り返すけど、自分の心(靈)を自己観察して“上”と“下”、“善”と“悪”を見出すのが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
 そして智性(神性)を顕現するために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしなければならないのだけれども、“上”の振動を自分に取り込むためには、これも“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしなければならない。
(そのために高い振動を取り込む苦しい“行”としての“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことがある)
そやから、この文の“臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐる”って言うのんは、自分たちの認識の高まりが、自分たちの神格化につながるからこそ、神はあえて何も言わんって言い回しでんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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“日月神示” 風の巻 (15)
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☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
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その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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