“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“術”(“力”の顕現)と霊的成長度について、場当たり的な話をする。




 この間、先生から連絡があって“また、Kellyと話をしたいって人が現れたんだけど…良かったらその人と待ち合わせて話をしてくれないかな”ってことやったから、その人と連絡を取り合って話をしましてんな。
その人は、毎週先生が治療する人で、K地M美はんって方でんねん。先生とほぼ同年代の人でんねん。
ほんでからK地はんは、建設会社の社長婦人なんやけど、趣味で農業をしていらっしゃって、先生はたくさんの野菜をK地はんからいただいてる。ビンボーな先生にとっては、大助かりでんねん。
ほんでからにK地はんは、先生のブログの読者で、先生は前のブログを印刷したものをその人に渡してはって、それを全部読んだ人でもあり、このブログも“改”も時々見てはるようでんねん。ほんでからにこのブログにも、コメントしてくれはったこともありまんねん。
そやからそんなふうで、K地はんとしては、ブログを読んで先生の思想に触れ、さらに先生の考えを直接聴いてたりする…そやからそれは、毎週先生と治療中に話し、先生の屁理屈を治療のたびごとに聞かされてるってことなんやろけど、そやけど多分、治療中に先生が話す先生の屁理屈は、ただ話をするだけやから、話が長くなって途中で飛躍していろんなことを説明してるうちに逸脱してしもたり、結果として説明が足らんかったり、さらに難しい言葉が多すぎたり…先生のながぁぁぁ~~い話のアカンところが多々あったりもして、そやからK地はんは、いろんな疑問を持ってはるのかもしれへんから、Kellyさんと話したいって思うたんかもしれへんな。
…前置きが長くなってしもてるけど、そのときに話したことを、今回は、紹介しまんねん。

 

 


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「初めましてKellyさん。K地M美です」
「こちらこそ初めましてでんねん。いつもビンボーな先生がたくさんお野菜をもらってお世話になってまんねん。あの人は結構大喰らいやから、K地はんのような奇特な人が居てはらへんかったなら、先生は飢え死にしまんねん」
「ホホホ~~、そうかもしれませんけど、ちょっと大げさですね。
それで、今回、Kellyさんと話したいって思ったのは、娘のことなんですけど…」
「何ぞお母さんが困ってらっしゃる問題でもあるんでっか?」
「いいえ、そんなたいしたことではなくって、問題にするほどのことではないと思うんですけど……」
「お話をうかがう前に、K地はんには、お子さんは何人居てらっしゃるんでっか?」
「三人です。娘が二人と息子一人です。
それでうちの娘なんですが、この二人は全然タイプが違うんですよ」
「それは、性格とかってことなんやろか」
「それもありますけど、興味の対象っていうのか…やることが全然違うんですね。
特に下の娘、まだ二十代前半なんですけど、ちょっと変わった子で…」
「そうでっか。それはどんな感じ(感じる磁性)なんでっか?」
「興味を持つ何かとか、やることがちょっと奇抜(きばつ)って感じで、ちょっと前まではストリートダンスに夢中で、毎晩遅くまで練習したり、他にも、友達と外食して初めて食べたものを真似して自分で作ってみたり…たとえば、何日もうちの食卓にタコライスが並んでちょっと困ったことがあったりもしたんですよ」
「タコライスってなんでんねん」
「タコライスは、Wikipediaから引用すれば、タコスの具である挽肉・チーズ・レタス・トマトを米飯の上に載せた沖縄料理で、辛みをつけたサルサ(スペイン語で「ソース」の意)を乗せて食べる。それがタコライス (Taco-Rice)なんですよ」
「蛸(たこ)が入ってる炊き込みご飯かと思いましたがな」
「それは、たこ飯ですね」
「そうでっか。勉強になりましてんな。
今の話、下の娘はんは、お料理好きなんでっか?」
「そうですね…作ることに興味を持ち始めたのは最近だと思うんですけど、最初は、うどんを作ったりすることから始まり、そのうち、出来合いの麺つゆでは満足できないようになったりもして、自分で鰹節や昆布や椎茸からだしをとった麺つゆを作ったり…下の娘が作ったうどんに椎茸が浮かんでいて、ちょっとびっくりもしたんですけどね」
「それは創意工夫があってなかなかよろしいんやおまへんか。ほんでから中々ほほえましい話やおまへんか。
そうやって自分で興味を持ったことを実現する。自分が興味を持った何かを実現しようとした。それも、娘はんの心(靈)の成長の過程でんな。
そやから、ストリートダンスでもタコライスでも麺つゆでも、それ自体に興味を持ち、実現しようと求めたから、言い換えればよいカタチの“創造”をしようと思ったからこそ、行動に移したってことでんな。
そやからそれは、先生の言い方なら“思惑の顕現”=現象化でんな。
ほんでからそのために努力する=エネルギーを贖う(あがなう)のが、“行”みたいなもんやし、その結果が“術”(“力”の顕現)ってことになる。
その“行”と、“術”(“力”の顕現)…“力”の顕現が、霊的成長の過程でもありまんねん。
このことを、分かりやすい言い方をしたならば、何かをやってみたいと思う。興味を持ったことを実現したいと思い、そのために頑張る(元の気を張る)。
そしてそれは、その心(靈)の動きは、すべての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の動機で、それがまた、愛(炁)で、“亜”が出ずる、泉、で、“一”でんな。
それが、前のブログで先生とよく話をした、すべての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の動機は、愛(炁)ってことでんねん」
「それは、“創造”の“主(ヌシ)”を示す“一”って言う字に現れているって前のブログに書かれてましたね」
「そうでんねん。 
補足としてちょっと説明させてもろたならば、“創造”の“主(ヌシ)”を表す“一”って言うのんは、こちら側=人から見たなら、向かって左=日足(ひたり)から、右=砌(みぎり)に筆を動かして書きまっしゃろ。そやからこそ、向かって左=日足(ひたり)は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である(究極微粒子と認識されうる)“亜”が、右=砌(みぎり)に移行して、それを“亜”が出ずる、泉、って先生は認識してて、そやから“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”は、愛、アイって称されてる。
そやから、日足(ひたり)は思惑とも言えるし、砌(みぎり)は(心が観察し得る事象に対しての)顕現で、そやからそれは“思惑の顕現”=現象化でもありまんねん。
ほんでからに先生の一冊目の本(ローム太霊との出会い 199ページ)に、こう書いてありまっしゃろ。

“三次元、物質世界の成り立ちは、思いのエネルギーは左回転、伊耶那岐之命に象徴され、現象化のエネルギーは右回転、伊耶那美之命に象徴される。思いの現象化でできた世界、次元と、いえると思う。…ということは、アタシたちの肉体と心が、位置している世界のことだよ。言うまでもないことだけどね。”

そやからそれは、人の観察する事象、簡単な言い方をすれば、自分がいてる世界と自分が感じている現実って言うのんは、何かを思い、行動して時間の進行とともに事象を観察し、そこには心(靈)の極性、それは神さんの極性でもあるんやけど、思惑と顕現、日足と砌(ひたりとみぎり)でんな。
その二つがあり、ほんでからにそこに自分の何かを求める気持ち…それは愛(炁)の一部分でもあり、その心(靈)の霊的成長度の置ける愛(炁)の顕現でもあるからこそ、“力”を求め、実現するって言うことでもありまんねん。
そやから“思惑の顕現”=現象化って言うのんは、人は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、そのために個々の心(靈)は、エネルギーを贖い(あがない)ながら、(霊的に)成長していく。
今のK地はんの話、下の娘さんが、ストリートダンスに夢中な期間って言うのんは、やはり肉体の発達のためで、これも肉体の意味を持つ“土”って表記は、人が完成された表記の“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記って何回も前のブログやこのブログで言うて来たんやけど、子供から大人になっていく過程は、最初から“一”=智性=1番目のオーラの拡大にはなっていかへん。
そやから、土=2~3番目のオーラの拡大の期間、それはストリートダンスに興味を持ち、ぶっ倒れるくらい頑張る(元の気を張る)。
その時に、肉体の強化のために動物霊の憑依もあり、感応共振=霊的干渉もあり、そやからそれは、ダンスで体を使い、下三つのチャクラの強化がある。
それは、腹から下でんな。
その部分の成長のための“行”が、下の娘はんの場合はストリートダンスってことになったと思いまんねん。
ほんでから多分、その期間は、肉を食べたりもする。それは動物の心(靈)は、土=2~3番目のオーラしか持っていないに等しいからでもある。そやけど土=2~3番目のオーラの発達のために、肉を食べたり、体を使うことに夢中になる期間があるってことで、誤解を招くとアカンからあえて細かく言うとけば、ダンスに夢中な期間は智性(神性)を獲得するための準備の期間みたいなもんでんねん。
補足として、前に紹介した画像を貼っておきまんねん。

 

“一二三”のオーラと心(靈)の発現 


水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官 

 

 


このオーラの大きさの構成が平均的地球人の霊的成長度でんねん。
そやから下三つのチャクラの強化のために“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するのは、食事としては動物の肉なんかは必要やったりもする」
「それはなんとなく分かります。
大体、下の娘は食べ物にあまり好き嫌いは無いようなんですけど、最近になって豆腐の味に目覚めたのか、“豆腐って美味しいね”なんて言うようになりましたし、この頃は、好んで肉を食べないようになってきたように思うんですよ」
「そやからそれも、体を使う期間からある程度、卒業し、そやからこそ興味の対象も変わってきたと思うし、心(靈)の動きも肉体を発達させる期間とは違ってきて、知識としての知恵を獲得し始めてるんやと思いまんねん。
あえて言うとけば、心(靈)の構造って言うのんは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を観ても、最初は本能って心(靈)の発現から始まり、人(日止、霊止)になってはじめて智性(神性)を持ち始め、そやから人(日止、霊止)は“一”=智性=1番目のオーラを発現しだした。
そやから娘はんは、成長の段階として=心(靈)の発現の段階として、まず肉体を使い、それから、だんだん知識としての知恵を獲得する。知識はそれは言うまでも無く、脳の機能でっしゃろ。
ほんでからそれは、動物と人間の違いでもありまんねんな。
ほんでからに、自分が獲得した知恵を、自分がどう扱い、どう行使するのか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていくのかは、智性(神性)やおまへんか。
そやから地球上で一番進化している人(日止、霊止)って言う生物は、智性(神性)を持ち始めたことで、神さんの認識も持ち、そして自分たちの幸福を願うこともするようになった。それも動物と人間の違いでんな」
「目上(めうえ)と目下(めした)のちがいでもありますね」
「そうでんねん。
ほんでからに自分が獲得した知恵、知識としての知恵を良いカタチの“創造”に活かしていく。その過程が(霊的)成長の一端でもありまんねん」
「言われてみればそうですね。今Kellyさんがおっしゃったことは、良い世界の“創造”に結びつく過程なんですよね。
だから、人が霊的成長して智性(神性)を行使した行動をすれば、当然、この世界は良くなっていく。当たり前ですよね。
ですけど、相対的にまだ動物に近い心(靈)の動きの人が多い。
だからこの星は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、その活躍が連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”…地球をそんな星にしてしまった。
だから今後、霊的成長度に於いて分けることが必要で、それがアセンション…先生のこの世界の観方と考えは、今私が言った先生のアセンションの概念に結びついている。
話がそれましたけど…ですから人は、子供から大人になる過程で最初は肉体の発達が大事、そして知識としての知恵を得る。そして知恵を使い、良い使い方をするからこそ知恵は智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)になっていく。そうやって智性(神性)を発揮していくんですね。
ですから…うちの娘の場合、まだとても若い。
だから肉体の発達期間も重要、そして知恵も獲得し始め…そしてそのうち、その知恵を智慧に変えていく。そうやってだんだん大人になっていき、やることも考えることも変わってくる」
「そうでんねん。
そやから今の話、K地はんが娘はんを観て思ったように、霊的成長の段階でだんだんやることも変わるし、興味の対象も違ってくるし、ほんでから、豆腐の味が分かるようになるみたいに、だんだん感覚も変わってくる。自分が食べたいと思う何かも変化してくる。それは誰にでもありまんねん。
そやから分かりやすい例を挙げれば、今、屁理屈ばかり垂れて、頭をすごく使ってはるあの先生かて、若いときは、登山とサイクリングに夢中、ちょっと出かけてくるわ!って言うと、知多半島を自転車で一周してきたりしたそうでんねん。
ほんでからこれも下のチャクラの強化としてやろけど、飲み屋の若いネーチャンのケツを追っかけまわしてたときもある。前のブログに書いてありましたやおまへんか。
そのときはたくさん酒も飲んでて、肉もたくさん食べてたそうで、ほんでから酒は、マニピューラチャクラを構成する臓器の刺激になる。
それと、先生のスケベ心の行使で、飲み屋のネーチャンを追っかけてたときは、ムラダーラチャクラの刺激になる。
K地はんは知ってはると思うけど、今の先生は、アルコールとは無縁やし、肉売り場の前を通ると動物の恨みの念を感じ(感じる磁性)てしまう。そやから肉を食べへんねん」
「今Kellyさんがおっしゃった、霊的成長度の違いで感覚も違ってくるってことですね」
「そうでんな。
ほんでから先生は、若いときでもその時々、いろいろ考えながら、また太陽凝視もしながらすごしてきた。
そやから今の先生のスケベ心は、智性(神性)に支配されてる。
そやからそれは、通常、智性(神性)をあまり持っていないスケベオヤジやスケベジジイは、性を貴いと思わないし、やることは本能主体でケダモノみたいになる。言うたならスケベ丸出しでんな。
そやからアホみたいな言い方すれば、本能と自我の肥大をしてるスケベオヤジとスケベジジイは、智性(神性)を行使したスケベ心(靈)の行使をしてないから霊的成長してへんと言えまんねん」
「ホホホ~~、分かりやすいですね。
ですから今のKellyさんの話、それも、先生の若いときの、土=2~3番目のオーラの“行”なんですね。その過程が無ければ今の先生は無かったとも言い得ることですね」
「そうでんねん。そやからそれは、土=2~3番目のオーラが大きくなければ、肉体の構造として、“一”=智性=1番目のオーラは、大きく成りえないってことでもありまんねん」
「それは、この間うち先生とKellyさんが話していた、すべての生命に存在する縦の磁性と、三つのコンデンサーの構造に由来することなんですね」
「そうですねん。
“下”から“上”へのコンデンサー、コンデンサーが直列に縦に並べば、だんだん高い振動しか“上”に行かん構造になってまんねん。
このことはちょっと電気に詳しければ理解できることでんねん。
そやから“一”=智性=1番目のオーラを大きくするには土=2~3番目のオーラが立派でなければならない。
そやから若いときは、肉体の発達が中心でもあるし、“一”=智性=1番目のオーラ由来の行動や考えって言うのんは、比較的少ないとも言える。
そやから通常の地球人の進化過程においては、土=2~3番目のオーラの発達の期間って言うのんは、いつまでも続けへん。
例えばスポーツ選手なんか解りやすいけど、体を激しく使い、土=2~3番目のオーラの“行”を一生続けるなんてことは出来へんねん。それは、どんなすごい活躍したスポーツ選手でも必ず引退しまっしゃろ。そやからそれも、ある程度の期間限定、それは、若いときでんな。
そやからそのときは、肉体の発達がとても重要でもあるし、土=2~3番目のオーラの拡大をしているときは、心(靈)の動きとしては自我中心でもある」
「自我中心、だから功名心とか名誉欲とか、金のためのスポーツ、プロスポーツなんかを選択するんですよね」
「その通りでんねん。そやからプロスポーツ選手は、引退してから自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る。
若いときにたくさんの名誉や(通貨としての)金を得れば得るほど、自分のやってきたことをたくさん振り返らんならんやん」
「そうですね。でも一般の見方って言うのは、その選手が活躍しているところしか見ていない」
「そうでんな。人のやること、人の一生、人の霊的成長、そこに右往左往と左往右往があることをほとんどの人が見てないって言うのんか知らへんって言うのんか」
「そうですね。目先のことしか見ていない…先生の言葉を引用すれば、“事象を観察する視野が狭い”ってことになりますね。ただ見てるだけですね」
「そうでんな。
そやからこれまでの話、人間の心(靈)の成長って言うのんは、若いときと年取ったときでは違う。若いときどんなことをしてても、必ずいつか、智性(神性)、“一”=智性=1番目のオーラの発達に結びついて行く。
そやからちょっと話を戻させてもらって、プロスポーツで活躍している選手でも、右往左往と左往右往、絶好調のとき=右往のときと、スランプのとき=左往と、スランプを克服してまた活躍しだしたとき…それが右往左往と左往右往…そんな説明が分かりやすいやろけど、その左往のときに悩んだり落ち込んだりするのは、日足(ひたり)の極性、脾=“思う、憂う”の強化でもある。
それを画像で、以下に示しまんねん。

 

下のエネルギーが日足(ひたり)の極性により上昇する様子 




そうやってスポーツで活躍しているときにでも、多少なり“一”=智性=1番目のオーラの拡大に結びつく心(靈)の動きって言うのがあるんやけど、そのうち年をとって体が言うことをきかんようになり、引退を決意するのは、本格的に日足(ひたり)の“行”に入って、自省(胸の磁性“十”)する人生の期間とも言いうることでんねん。
またそのときは、活躍してたときと違い、体をあまり使わんから、土=2~3番目のオーラの行にはならへん。そやから引退後は、活躍してたときのことを振り返ったり、自分の人生を振り返る心(靈)の動きをするし、またその期間がないとその人の人生は霊的成長をした期間とは言えないし、そやからそれは、誰もが自省(胸の磁性“十”)ってことをせんと、“一”=智性=1番目のオーラの拡大にはつながって行かへん。
そやから今のK地はんの話、お母さんとして下の娘はんを見てはってなんとなく違和感を感じるって言うのんは、それはただ娘はんが若く、そやからこそいろんなことを試してみたいってことやと思いまんねん。
そやからそれは、ストリートダンスに夢中のとき=肉体の発達から、知恵の獲得の段階、そしてだんだん智性(神性)の発現の段階に向かってまんねん。
それは、心(靈)の構造として、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、くらいでんな。
そやからそれは、まだまだ智性(神性)や知恵を智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)に変えていくって成長の段階ではないだけで、ただそれは若いってことで、ストリートダンスに夢中だろうが、タコライスばっかり作るとか、椎茸の浮かんだ麺つゆを作るのかて、成長の過程ってだけで、なかなかほほえましいことやと思いまんがな」
「そうですかね…そうなんでしょうけどね…私が娘を観るのはやはり、母親の立場としてみるから、そんなふうな見方ができないのかもしれませんね」
「そやからお母さん的には、娘はんのやることとか価値観とかを観はって、ちょっと違和感を感じてはるのは、子供と大人の違いでもある。
それは、すでにお母さんが通り越した過程を見るからこそ幼く見えるし、そしてそれはさっきの話、土=2~3番目のオーラの“行”の期間と、“一”=智性=1番目のオーラの“行”の期間の違いでもあると思いまんねん。
お母さんとしてのK地はんは、今、K地はんが言わはったとおり“私が娘を観るのはやはり母親の立場としてみるから、そんなふうな見方ができないのかもしれません”…そうやと思いまんねん。
そやから今言わはったお母さんの立場としての言葉、もうK地はんには分かってらっしゃると思うけど、単に、娘さんを一人の人としてみていない。
言い方を変えれば、娘さんの(霊的)成長を、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程として観てないって感じ(感じる磁性)ましてん」
「そうかもしれませんね。娘のやることに対して、親は、どうしても自分の子供としてしか見ない。それが現れているんですね」
「そうやと思いまんねんな。
そやから人が育っていく過程、それは霊的成長の過程でもあり、神格化=独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程とも言えまんねん」
「はあ、それは、先生の話や、ブログの文章でなんとなく理解しているつもりなんですけど、理解が足らないから、母親として娘の行動を見る…その視点しか持っていない…そういうことなんでしょうね」
「そこまでの言葉がK地はん自身から出るんやったなら、今Kellyさんが言ったことはもう理解していると思えるんやけど…もう少し、さっき言うてはったK地はんの娘さんに対する見方からKellyさんが感じたことを言うてもエエですやろか?」
「どうぞおっしゃってください。参考になると思いますから」
「人はいずれ神格化しまんねん。しかし今の地球人の段階は、神格化ってことからはとても程遠く、まだまだ動物に近いようにしか見えへん。欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか…そんな低い心(靈)の動きで大半の人は行動をしてる。
そやからそれは低級な欲の振動で出来た世界でんねん。その低い振動の世界でも、人はいずれ自省(胸の磁性“十”)し、日足(ひたり)の極性が顕れた心(靈)の動き、脾=“思う、憂う”中心の心(靈)の動きの期間に入り、肝=“いきり立つ心(奴と心)”は脾=“思う、憂う”になり、そして“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の動きになる。
それが今後、地球人の大半が体験せんならん心(靈)の動きでんねん。
それは生命の神格化のステップで、自分の心(靈)の動きが“上”に向かうってことをせんと、神さんに近づいて行かん。心(靈)が“上”に向かうとき、日足(ひたり)の極性が増し、そして“上”から観たらそれは荷電粒子の左回転になる。
そやから“日月神示”の表記の左回転は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転って書いてありまんねん。

 

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転 日足(ひたり)回り 





その中で個々の心(靈)は霊的成長度の差がある。比較的、神さんの“上”の要素とも言いうる智性(神性)を発揮している人も居れば、人殺しして自分の欲望を満たす程度の低い霊的成長度の人も居るし、その低い霊的成長度の人が大半なのが、この星でんな」
「それは、ほとんどの人が形骸の価値観で行動している。目先の幸福感…ファッション、ダイエット、美容、サプリメント、安易な金儲け、投機、アフィリエイトなんかもそうですね。自分のエネルギーを使わないで目先の幸福感を達成しようとする心(靈)の動き…ただそれは自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)心(靈)の動きですよね。
けっかそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の増大と、自分たちが智性(神性)を獲得することにつながらない」
「言うたらなんやけど、甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いが支配して、それが実現したとしても、必ず自省(胸の磁性“十”)の期間に入るもんでんねん。
そやから今K地はんが言わはった“自分たちが智性(神性)を獲得することにつながらない”ってことでは決してなく、そこにはただ、時間のギャップがあるってことでんねん」
「そうですね。ついつい誰もが同じ霊的成長度だと思うからいけないのですね。さっきのうちの下の娘の話のように、土=2~3番目のオーラの拡大の期間と“一”=智性=1番目のオーラの拡大の期間は違い、智性(神性)の獲得に至る前にまず、土=2~3番目のオーラの拡大の期間があるから目先の価値観や形骸のことを求めたりもする。
その視点が大事ですね」
「そうでんな。
そやからそれは、人が育っていく過程って言うのんはそれぞれ違う。それがまた霊的成長度の違いでもあり、個人個人が獲得して発揮している振動の違いでもありまんねん。
そやけど今のは一般の地球人の話で、そういう事例ならK地はんとしても理解しやすいと思うし、もう分かっていらっしゃるとは思うけど、お母さんが子供を見る視点は、親特有のものがありまんねん。 
そこには第三者を見るような視点はあんまり無いから、お母さんは自分の価値観で娘はんを観て、そしてお母さんの価値観由来のものの見方としての感想を持つ。
今回のK地はんの話はそういうことやと思いまんねん。
言うたならば、娘さんも息子さんも、ほんでからお母さんも、赤の他人も、それぞれ違う心(靈)とか魂とか、そうやって思うたならば理解できることやと思うんやけど。
そやからそれは、子供から大人になっていく過程でだんだん年を取り、いろんな局面に遭遇したりする。その時点時点で、自分は何をしたいのか?何を求めているのか? それは心(靈)の動きでっしゃろ。
そしてそれは価値観の差になったり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に顕れたり、そうやって人は時間の進行とともに育っていく。
それを、お母さんとしての立場で娘はんを観たならってことを、K地はんは言うたんやな」
「…はぁ~~そうですね。
ですけど、Kellyさんの今の言葉の使いまわしは、中々複雑ですね。
行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、時間の進行とともに育っていく…それは肉体が育つだけではなく、心(靈)が育つ。そして心は霊だから、死んでからでも育つ。産まれてくる前にも心(靈)が育ってきている過程はある。人間として産まれてくるのも、心(靈)が育つ過程で、何回も転生して、人の心(靈)は認識(悟り、幸取=さとり)を得てきている。
そして今の地球人の進化過程になった。
それは先生のブログと、先生の話を直接聴いてなんとなく理解しているつもりなんですけど、私が娘を見るのは、やはり、母親の立場として見るから、そんなふうな観方ができないのかもしれませんね」
「そやから今回のK地はんの話、下の娘はんを観てK地はんが思ったことは、母親としての見方もあるけれど、人(日止、霊止)の霊的成長の過程も感じ取ってると思いまんねん。
 そやけど通常、人が人を見るときは、生きてる期間のこととかしか認識があらへんねん。そやから人間を一つの霊としてみることが出来なかったり、そのときの一生が霊的成長の一端で、神格化の過程ってことを考えたりしまへんねん。
そもそも人(日止、霊止)が神の子で、いずれ時間の進行とともに神格化して、その間には、何回も生まれ変わったり、今の地球人の認識ではとても理解できないくらい長い時間の進行を体験する。
そうやって個々の心(靈)はたくさんの事象を観察して、その事象々々に遭遇して自分がどう在るべきなのか考える。
その時々に、個々の心(靈)は肉体を持ったり、幽界、霊界、とても霊的に成長したなら、神界にも出入りできるようになるってローム太霊講話集でもローム太霊さんが説明してはるけど、死んでいようが生きていようが、親子の関係であろうが、すべてそれは事象の“観察と認識”ってことが言えまんねん。
“観察と認識”…これは先生の言い回しでもある。そやけど霊的成長度においての観察行為しかしてないってこと、それはその個々の心(靈)の視点って言うのんは、神さんの視点ではないからこそ、目先のことしか分からないし、目先の観察で得られた認識で判断をしてしまう。
そやから、お母さんが娘はんを観るときは、娘はんが生まれてきて、今に至ってる過程しか知らへんからこそ、人の神格化って概念を当てはめてみることが出来へん。
そやけどそれは、言うたらちょっと失礼やけど、観方が浅い…事象を観察する視野が狭い。そやけどそのことを母さん自身が自覚したなら、それは、お母さん自身の勉強になるからエエと思いまんねん」
「そうですね。なんとなく解った様な気がします。
今日の話、私は娘を育てながら認識を拡大していく。娘も多分、私を観察しながら成長していく。
それは個々の心(靈)であり、私と娘は霊縁があったからこそ、親子として存在しているって言い方も出来ますね」
「そうでんねん。そう思えたこと自体が今までと違う観察の視点を獲得したことやと思いまんねん。
そやからあえて例を挙げませんけど、親子の関係って言うのんは、何かと自我の肥大が表れやすい。
そやから自分の娘だからとか、お母さんなんだからとか、そんな見方をしたり、そんなことを思ったりもする。
そこには個々の心(靈)に対する尊厳って言うのんがちょっと足らんように思いまんねん」
「そうですね。中々勉強になりました。
娘を観る自分の視点に、母親としての自我の肥大があること…それをよく考えるようにしますね。
それと…またKellyさんとお話させてもらってもいいですか」
「もちろんでんねん」
「それではまた疑問がわいたら、連絡させてもらいますね。今日はこれくらいで失礼しますね。」
「承知しましてんな。また、お話できるときを楽しみにしてまんねん。
ほな、さいなら」



Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“上”から伝えられたメッセージには、高低があり、それは人の霊的成長度に差があることによるって話をする。 


「Kellyさん、こんにちは。
このあいだは、母親としての娘の見方について、いろいろご指摘いただいてありがとうございました」
「そんなふうに言うてもろたらチョ~恐縮でんねん。大体、Kellyさんは、子供を育てたことがないのにもかかわらず、人生の大先輩のK地はんにいろいろ言うて、なんやしらん失礼かもしれへんかったし…」
「Kellyさんは子供を育てたことがないから、私とは違う視点で、母親、対、子供って関係を見出せるのではないのですか」
「そうかもしれまへんけど…」
「それはそれで、私にとってはこの間Kellyさんと話したことは、とても役に立ったのですから…それで、今日もちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「なんでっか?何でもお答えしまんがな」
「Kellyさんは先生から聞いてご存知なんでしょうが、先生がブログを始められて少したってから、ブログを印刷したものを先生から手渡されて読んでいたんですね。また、あの文章が本になってからも読んでいるのですよ。
 それで、先生に、“この本もお読みになられるとK地さんの参考になるかもしれない”って、何冊も本をお借りしたんですよ。
私として感じるのは、お借りした本の内容って言うのは、先生の文章と何か違う。そういう印象があるんですよね」
「それは多分、○○○療院の待合室にある本でんな。どんなものをお読みになったんでっか」
「アミの本(アミ 小さな宇宙人 もどってきたアミ―小さな宇宙人 アミ 3度めの約束―愛はすべてをこえて)、まほう色の瞳、それと村田正雄(白光真宏会元副理事 故人)の空飛ぶ円盤と超科学 宇宙人と地球の未来―空飛ぶ円盤金星にとぶ。
それと、セムヤーゼとマイヤーのコンタクト記録の本の、宇宙人との遭遇、これは前のブログでも引用されてましたよね。
それと日月神示の解釈の本、カタカムナの本など…他にもあったような…それとこれは全然話は違いますが、私がカメラを買ったとき、写真に関する本もたくさんお借りしましたよ」
「そうでっか。たくさんお読みになられたんやな。そやけどそれも先生のおせっかいでんな」
「ホホホ~~そうですね」
「そやから、K地はんとしては、それらの本と先生の文章とは何か違うって感じはった。そやけど、先生の文章もK地はんが読みはった本も、霊的成長や、心(靈)の在り方や、アセンション後のことを言うてるもんが多い。
特に宇宙人が伝えてはることって言うのんは、地球人よりも霊的に少し先輩やから、アセンション後の地球はこうなって行ったらよいカタチになるとか、そのためには、今、何を考えるべきなのかってことを言うてる本が多い」
「そうですね」
「そやからそれは、言うたらなんやけど一般向けでもありまんねん」
「一般向け…そんな感じはしないんですが…先生の文章も、先生からお借りした本もマニアックな感じですけど…」
「すんまへん、言葉が足りまへんでした。
一般向けって言うのんは、一般の人に、今後=アセンション後のことを知らせるためって言う意味でんねん。
そやからそれは、まず、アセンションってことがあることを知らせんならん。ほんでからアセンション後に位置できる人はどう在るべきかってことを言わんならん。ほんでからアセンション後の社会って言うのんは、現状の地球とこんな相違点があるだろう。
大体、宇宙人からのメッセージはそういう内容の本が多い」
「それはそうですね」
「ほんでから宇宙人からのメッセージ本は、“行”について書かれてない。それは何でやと思いまっか」
「ちょっと分からないですね」
「自分たちがアセンション後に位置できる資格は、自分で獲得するもんでんねん。
言い換えたならそれは、自分で霊的成長してアセンション後の“創造”を担えるべく人になるってことやけど、それを誰かがすべて教えるって言うのんは、その人のためにならへん。 このことは先生の文章にも書いてあったから理解できまっしゃろ」
「はあ、それはなんとなく分かります。自分でエネルギーを贖う(あがなう)ことをしなければ霊的成長しない。
当たり前ですよね。自分が頑張らなければオーラが大きくならないのだから」
「その通りでんな。
 そやから今Kellyさんは、今、何を言いたいのかというと、宇宙連合とかユニオンとか、地球人の霊的成長を見守っている存在の集団って言うのんは実在するし、そやから肉体を持ったまま地球人にコンタクトした宇宙人もたくさん居てる。
 ほんでから肉体を持ってコンタクトした宇宙人たちは、今後=アセンション後の“創造”を担える人たちを、自分たちの宇宙船に乗せて、アセンションに伴う醜い事象、地球上の混乱に巻き込まれないで生き残るために、具体的な方法として、例えばプレアデス人は、14万人以上乗せられる宇宙船を地球の近くに用意している。
そしてそれはユニオンの計画のひとつでもある。そのことも書いてありましたやんか」
「そうでしたね」
「ほんでから今言うたんは、肉体を持って地球人にコンタクトした例やけど、チャネラーのように、憑依現象でメッセージを伝えた宇宙的な霊的存在(この表現は、稚拙で不正確やけど)も居てるし、今、そういう出版物も多いでんな。
そやけど今言うた二つの例、そこには、自分の欲望の在り方くらいのことしか言うてない場合が多く、何をしたら霊的に成長をしていくのか、霊的成長の過程として自分の心(靈)にはどんな変化があるのか。それについてはたいして言うてない。
それは、自分たち=地球人同士で見つけろってことでんねん」
「そうなんですか…そうかもしれませんね。
さっきも言いましたけど、自分でエネルギーを贖う(あがなう)ことをしないと霊的成長にはならない。その点で、教えられたとおりに実行していたならそれは、学校と同じですね。
ですからそれは、知識しか得られない…いつだったか先生はそんな言い方をなさったことがある。
そしてそれは、先生とKellyさんとの会話によく引用されてた、知恵と知識、それは智性(神性)ではなく、知恵と知識を智性(神性)でつかっていくならそれは、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)になるってことですよね。
 そして今の地球人は、智性(神性)由来の知恵の使い方をしていないから、自己奉仕者になっている。自分の欲望にしか知恵と知識を使わない。そこに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度の差がある。Kellyさんは今、その意味のことをおっしゃった」
「そうでんねん。さすが先生のブログを読破した人の言うことは、一味違いまんな」
「ホホホ~~恐縮です」
「そやからそれは、その一例として、今、地球上で起きている不幸なこと、災害、戦争、そして恨みの連鎖の霊的干渉、これらについては地球人自身がそれを見て、自分たちが解決の方向性を見出していかなければならない。
このこと自体、プレアデス人やアミの本なんかでも言うてることでんねん。
自分たちが経験し、学習し、それを自分たちの認識にしていかなければならない。そしてそこに自分たちがやってきたことの結果を知り、今後の自分たちはどう在るべきなのか自分たちで考える。
その過程が無いと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は通信を送られへん。
それがまた“日月神示”表記の“天詞様”やし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして自分の思想にすること。それについて書かれてたのが、富士の巻 やと思いまんねん」
「そうかもしれませんね。でもKellyさん的“日月神示”解釈は、とても難解ですね」
「それは仕方がないことでんねん。
“日月神示”って言うのんは“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことも書かれてあるし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を目的とした太陽凝視による肉体の変化と霊的干渉についても書かれてある。
そやけど“日月神示”の文を見て、それを見抜くには、長年の太陽凝視による認識が無いと“日月神示”の解釈は出来んと思いまんねん。
楽屋落ち的言い方やけど、先生は自分で、太陽凝視を教えてくれたKさんに教えられた太陽凝視や電気行をやってみて、そこに自分の心と体の変容を見出して、さらに深く考え、その考えが発振、発信になり、先生自身に高い存在が憑依して通信を送っている。 
それで書かれてるのがKellyさん的“日月神示”解釈なんやから。
そやから先生が書いている文章は、“行”やってみて、得られた認識そのものでんねん。
ほんでからK地はんが読みはった本っていうのんは、先生ほど“行”やった人が書いた本ではない。その視点の違いってもんがある」
「そうですね。そう思いますね。だから先生の文章は一見すると会話調で面白そうに見えるけど、その言葉の使い回しや意味を後からすごく考える。深い文章ですよね」
「その“後から考える”っていうのんが、とても大事で、それは先生の文章を読みはったK地はんがその文章の内容について深く考えることによって、K地はんの“上”の存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。そのときにまたK地はんの“上”は、通信を送り、K地はんがあの文章に疑問を感じたり、意味を見出そうとしていたりする考えが、K地はんのオーラの発振、発信になり、そやからK地はん自身にK地はんの“上”の存在の憑依がある。 そうやってK地はんは…」
「私自身の思想の構築になっていくのですね」
「そうでんねん。
そやからそれは、“上”は教えようとして通信を送っているのだけれど、K地はん自身が考えるって言うのんは、K地はんがエネルギーを贖う(あがなう)。簡単に言えば頭を使うってことでんねん」
「それは、“一”=智性=1番目のオーラの質に関わることですよね」
「その通りやな。
ほんでからそれは、先生はかなり変わった地球人やけど、地球人には違いない。さっきも言うたとおり、宇宙人は地球人の霊的成長に過剰な干渉をすることは出来ないけど、先生の思想をK地はんが読んで考えること、それは、地球人同士の認識やから、地球人が地球人に伝えてるんやから、“上”は許可してまんねん。
そやからも一度言うけど、宇宙人の立場としては、地球人にたくさん干渉して、地球人自身が、自分たちの道を見出すのを邪魔してはアカン。そのことも宇宙人たちは言っている」
「そうでしたね。そのことについても書いてありましたね」
「自分たちの道、それは、自分たちの進化を見出す。それは学者さんの解釈の生物学的な進化ではなく、生命(生きる使命=存在理由)が、神格化していくのが、進化の本当の意味やから、その道理=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出していくのが、また、“一”=智性=1番目のオーラの発達にもなり、そして地球上の動物の違いとしての“目上(めうえ)と目下(めした)”、それは、大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と大脳旧皮質と古皮質の心(靈)の動きの違いでもありまんねん」
「…そうですね。でも難しい話ですね」
「すんまへんな。どうしても物事を正確に伝えようとすると、たくさんの事柄を述べんとアカン。先生やKellyさんの話が回りくどい理由でんな」
「ホホホ~~そうかもしれませんね」
「話を戻しまんねん。
 さっきの話、宇宙人は、地球人が“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す邪魔は出来んから、過剰な干渉は出来ない。
そやけど地球人が進化して、地球人に自分の認識を述べるのは“上”から許可されてると思いまんねん。
その点でも、先生が、18歳のときから太陽凝視をして“一”=智性=1番目のオーラを大きくして、その過程で先生なりの事象の観察をして認識を拡大して、いまだにいろんなことを一日中考えてる。その考えが先生の文章になってる。
K地はんがさっき言うてはった“お借りした本の内容って言うのは、先生の文章と何か違う。そういう印象があるんですよね”って感じ(感じる磁性)はる理由は、そこにあると思いまんねん」
「そうかもしれませんね。地球人の中で霊的に高い存在を輩出する。そのために一部の地球人が長時間の太陽凝視を“行”として行った。そしてその認識を広める。そのために先生はブログを公開した。そういう事情ですね」
「それもあるんやけど、先生の文章の目的は、長時間太陽凝視をした人に対し、先生自身の認識を述べる…それは具体的に言えば、太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たちに対する文章でもありまんねん。そやから先生の文章はKさんの子供たちでなければ理解できない部分もありまんねん。
 そやからそれは、地球人同士でも霊的成長度の差が出来てるから、太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たちでなければ理解できない文章もあるけれど、その文章について考えるって言うのんは、太陽凝視して霊的成長した人の思想に触れることでもあるやん」
「そうですね。さっき私が言ったことは、そういう意味もありますね」
「そやからそれは、地球人同士、肉体を持った心(靈)、対、肉体を持った心(靈)、その霊的干渉でもある。
先生の文章を読むって言うのんはそういう一側面もあり、また、宇宙人のメッセージなんかを読んでいてもそれは、宇宙人の思想や概念に触れるのだから、それも霊的干渉でもある。
 そやけどK地はんが読まれた宇宙人関係の本は、さっきも言うた様にアセンション後の人の心(靈)の在り方とか、アセンション後の状況とか…例えば(通貨としての)金なんかなくなるってことも言われてる。
 そやけどそれは、霊的進化したならこうなっていくだろうって情報でしかないってことでんねん」
「そうですね。だからそれは情報中心の文章でもある。
ですけど先生の文章は、長く太陽凝視をやってきた人を対象にして書いている部分もあり、また、飛躍的な霊的成長を果たそうと思っている人(日止、霊止)に、太陽凝視の秘密を説いている部分もある。
 これからアセンションに向かうにあたって、先生自身がそういう人の出現を望んでいるから、先生はあの文章を書いたともいえますね」
「その通りでんな。
そやけどK地はんは、先生が“どういうつもり”であの文章を書いたのか、“どういうつもり”で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)してるのか…よく理解してまんな」
「それは、治療のたびに毎回聞かされますから…ちょっとくどいですけどね。ホホホ~~」
「キャッハハハ~~そうでんな。
先生の頭の中は99パーセント、おせっかいと、もうひとつ、スケベ心って要素が占めてまんな」
「ホホホ~~、残りの1パーセントが智性ですね」
「キャハハハハ~~そうやな。まあ、ちょっと一般の人と比べ、変わった心(靈)の構成をしている先生の話はおいといて。
 そやから今日は、先生の思想と、宇宙人の情報について比較している話をしてる。
それは、Kellyさんがこの間、“日月神示” 天つ巻 第二帖の解釈をしたとき、こんなことを言いましてんな。
        
       

次の文は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在としての宇宙的存在、チャネラーからのメッセージでも、それは、程度の高低があることを指摘していると思える。

“星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、
星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。”

 チャネラー自身が霊的に成長していなければ霊的に高い宇宙的な存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)はない。それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)って法則があるからでもある。
そやから今、チャネラーが伝えた今後=アセンション後のこととか、人の在り方とかを謳ってる情報は多いけれど、それをこの文では“今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐる”って称され、それは低すぎるものが多いから“星ではダメ”って言われてる。
 本当に霊的に成長し、“上”が認める人(日止、霊止)は、この文ではあいまいな表現である“神の御力でないと何も出来はせん”って言われてるけど、それはこのあとの、天つ巻で説明されて行くんやろな。 答えは分かってるけど。

…引用終わりでんねん」
「これは、私が感じた疑問の答えみたいなことを示しているみたいですね。
ですけど“えらい気張り様で、世界構うやうに申してゐる”…これも地球人の霊的成長と認識の変容を望むことが動機=“どういうつもり”の表れですよね。
 でもさっきのKellyさんの話みたいに、地球人が地球人に何かを説くのは“上”から許可されている。 
だから、太陽凝視を長く行って認識が変わった=“上”から通信を受けて自分の思想にした人を輩出した。その人たちが自分たちの思想の影響を受ける人を期待している。
それは、太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たちと、先生なんでしょうね。他にもいらっしゃるのかもしれないけど…」
「そうでんな。
 ほんでからに地球人の中でも、いろんな霊的存在、“上”の存在から通信を受け、そして認識を述べていった人も多数居てる。
 そやけど“上”からのメッセージというても、受け取った人の“一”=智性=1番目のオーラが大きくないと、“一”=智性=1番目のオーラの大きい霊的存在からの受信が出来ない。このことも理解できまっしゃろ」
「そうですね。それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)ですね」
「その通りでんねん。
 そのことを示しているのが“日月神示” 天つ巻 第三帖 で、このときにKellyさんはこんな解釈をしましてんな。

          
 
“神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、
ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、
同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、
この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、
同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。”

 今、程度の低いチャネラーの情報や、偽のアセンションの情報は蔓延してる。
ほんでから、大概の人は、その情報やメッセージそのものに対し、分析する視点を持ってへん。
ただありがたがるだけとか、すごいって思うだけとか…そんなものの見方では、アセンションの真実は見出せん。
ほんでからアセンションって言葉や、情報を利用して商売しているとても霊的に低い連中もいるし、大体地球って星は、自己奉仕者が活躍している星なんやから、薄っぺらい解釈や、何かの引用を自分の低い功名心や自尊心を満たすためにネット上で公開したり、情報を利用してゴーストライターに本を書かせて印税を儲けたり、そんな人がたくさんいる。
ほんでからにそのことにすら、そういう情報が大多数であることすら、ほとんどの人は気付かない。
 そやから何を言いたいのかといえば、ほとんどの人は、アセンションや霊的成長に対し、それが貴い事象だと思っていない。
いろんなことを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は人に教えてるけど、人の霊的成長のために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が伝えた情報だということを真剣に考えず、ただありがたがるとか、すごいとか思い、それはまったく現世利益の宗教とおんなじでしかないけど、甘い夢しか見てない人が多すぎる。 
また、それらは、人(日止、霊止)の霊的成長を謳っていたりもするけど、たいして価値のないものが多すぎる。今までもこのブログで指摘してきているけど、いろんなサイトや、出版物。また単なる商売として、ワークやセミナー、てんでひどい例として、アセンショングッズ、これなんかは高い印鑑とおんなじ手法でしかない。
 そやから、本当に自分にとって=自分の霊的成長にとって、重要なことを見出して欲しいから“この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。”って言われてる。自分にとって貴いものは何なのか、自分の霊的成長にとって価値のあるものはなんなのか、それを見出す視点を持て!ってことでんねん。 そやからそれは、霊や神や、オーラや、人の在り方や、霊的成長のためにいろんな宗教や、ヨガや、チャネラーの情報を引用したものはたくさんあるけれど、何が本当のことで、何が商売に利用されているだけのものなのか、それすら大概の人は見出すことが出来ん。 所詮、この世界は、霊的成長度の低い人が大半やから、価値のない形骸のものの方が持て囃される(もてはやされる)もんや。 その意味で“神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、”って言われてる。この言い回しそのものが、ニセモノに気をつけろって言い回しや。
 そやから、程度の低いなにか、ただ商売に利用されてる何か、そしてそんなものばかり着目している人は、当然、アセンション落第組でしかない。そんな人は、何が真実=真固止で、何が形骸のものなのか…見出そうとしないんやから。
 そやからこの天つ巻 第三帖の最後に“身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。”って言われてるのは、自分が自分に甘かったなら、アセンション後は幸福な世界がやってきますとか、苦痛や苦難の無い世界がやってきますとか、まったく形骸の宗教と同じ現世利益みたいなそんな情報ばかりを信じたがる。
 それはどんなふうに自分の心が動いているのか、それを自分で判断せよって言う意味で、“改心第一”って言われてて、いうまでもなくそれは、自分が自己観察して、自分の心の“上”と“下”を知り、どっちが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか、考えろってことでしかなく、それがまた“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

…引用終わりでんねん」
「なるほど…霊的成長度の差ってことを如実に示していますよね。神や霊、オーラ、アセンション、霊的成長、言葉は一緒でも認識は違うってことを示しているのですね。
 そして認識って言うのは霊的成長度によって違う。さらに観察する視点の違いにもなることを感じさせますね」
「その通りでんな。ほんでからたいして霊的成長を果たしていない人ほど、言葉に酔う傾向がある。その分かりやすい例が、感謝って言葉を多用して低い功名心と自尊心を煽る(あおる)。ほんでからに低い憑依現象に良く見られる例、あなたは選ばれた人ですとか、あなたに内在している存在ですとか、あなたは何とかの生まれ変わりで、これからの地球に必要な人ですとか…これも憑依された人の低い功名心と自尊心を刺激して、言葉に酔っぱらわせるだけにしか見えへんのやけど、酔っぱらってる本人は高度な自己観察ができていないから=自我が肥大してるから、自分の都合の良い考えしか持ってない」
「そうですね。だから何か、貴いものを見ても、低い解釈しか出来ない。このことも先生がとても憂いていることですよね。
だから先生は、前のブログの“事象の形骸化”を書いた。あのシリーズは、先生自身が、屁理屈シリーズって揶揄(やゆ)してますけど、霊的成長度の高低で、人の考えや認識ってことを指摘してますよね。
だからそれは、価値観、幸福感、心霊や宇宙人に対しての観察の視点、アセンションに対する考えなど、いろんなことが書かれてますね」
「そうでんな。そやから先生があの屁理屈シリーズを書いたのは、先生自身が長年の太陽凝視により“一”=智性=1番目のオーラが平均的地球人より大きいから、物事の見方が違うし、認識も違う。言い換えればそれは、平均的地球人よりも“上”の観察が出来、そして視点も違う」
「そうですね」
「その視点の違い、認識の違い、そのことを示す分かりやすい例として…最近、モノホンKellyさんが、先生に、こんなメールを送りましてん。

“ばあちゃんのものと思われる本が出てきた…パラパラめくった程度だけどご存じですか??”

 このメール本文で触れられてる本は、高○○○の本で、この人は般若心経の解説本とかを出していた人でもありまんねん。
ほんでからこのメールには、モノホンKellyさん自身が疑問を感じたのか知らんけど、本の中の図を、画像にして、添付してありましてんな。
そのメールの返事として先生が返信した内容を、以下に紹介しまんねん。
      ↓

高○○○と、その娘(アタシと同い年くらい)のことは、少し知っている。本も読んだことがある。
高○○○より娘の方がほんの少し霊的に高く、娘の本のほうがほんのちょっと内容が濃い感じだった。(娘の名前と本のタイトルは失念した)
…が、本を読んだのは20年以上前。
そのとき高○○○と娘の頭のオーラの観測をした。高○○○は2.6センチくらい。娘は、2.8センチくらい。それと娘に通信を送った霊的存在のオーラは16メートルくらい。
そして、それぞれの頭のオーラに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は、そのオーラに似合う存在になる。 
それは、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)って法則性があるからでもあるし、この二人はまだ“上”の通信を自分の思想にする段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程ではない。
それは、霊媒体質でもあるし、今、地球人の進化過程における憑依現象は、自分の心を乗っ取られるか、自分の意に反した憑依現象が多く、“上”の思惑を、即、自分の思想にできない。
だからこの二人は、二人に憑いている存在の通信を受けるのだが、通信そのものの受け売りに過ぎず、受け取った通信そのものに対する分析もしっかりできていない感があり、受け取った通信に対し、勘違いをすることもある。

その点で以下の画像に対し、アタシが意見を述べるならば。

 

モノホンKellyメール添付画像1 



この画像は、説明が足らなさ過ぎる。大体、(今、多用されてる)波動って言葉が曖昧。
そして心がなんなのかって分析がなされていない。

心(靈)は、アタシが解説している通り、心=靈で、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でもあるし、荷電粒子の回転は、縦の磁束により発生し、縦の磁束の強化により、荷電粒子の回転は強化され多様化して、人(日止、霊止)の心(靈)の発現になった。
その点でこの画像を観れば、五体と五官は共通であり、わざわざ分ける必要はなく、そして、発信受信による波動の矢印の位置が大間違い。 発信受信による波動は、この図ならば、五体、五官、大脳、心、に、矢印をつけるべきで、意は、発信であるって分析がなされていない。

モノホンKellyメール添付画像2 

 
この画像も、心の“上”と“下”について、たいして何も感じさせない。
心の発現と心(靈)の動きに対して、“上”と“下”について認識が足らないから、ただ般若心経の言葉(受想行色)を引用し、それぞれの文字を並べ立てただけの画像にしか見えない。
この画像の下の部分の、大脳、小脳、五官、五体、(色)、そして意識、これをひとつのグループにしてしまうこと事態が、大間違い。

アタシ的には、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)って分類をして、それがまた脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、脊椎動物の進化の最終段階が“日止、霊止”なんだって説明をしてきている。
生物の最初の心の発現は、本能であり、その後、情動と自我が発現し、さらに進化して心臓が発達し、手が出来て、胸の磁性“十”(シンクロトロン)の構造になり、そして“慈悲”と“慈愛”って心を発現し、同時に智性(神性)を発現していく。
進化の過程は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、って段階があることを何回もブログで説明してきた。
だからこそそれは、想という言葉で表現すべきことではない。
この図の想って言葉自体が稚拙な引用であり、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程による“上”の思惑の受信と、自分の心による認識=“畐”って分析がない。
そしてアタシの概念としての、認識=“畐”ってのは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になる。それがこの図の、意志(行)に相当し、これは、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は心によってなされるって言う意味を述べていると思うが、智性、想念(想)、感情、本能、理性、これらを(受)としたことが間違い。
(受)は、事象の観察をして=自分の外側(外国と幽界)の事象から電磁波を受けて、認識し、“畐”となり、認識(悟り、幸取=さとり)となり、心(靈)の動きとして、発振、発信する。
だから事象を観察し、認識し、思うことは、“畐”だが、この画像の 感情は、感覚、五官と表記すべき。

モノホンKellyメール添付画像3 



この画像の、魂 心各部の意識層 この表記事態も、とても曖昧。
そして光子体って表記も、肉体以外って意味合いのことを指摘してると思うが、表現が不適切。
肉体を持った生命の、(肉体以外と認識している)心(靈)って言うのは、振動であり、その振動は、人(日止、霊止)が認識しうる知識や知恵=科学として、電磁波であることを<3>で説明した。
そして電磁波の受信が、感じ(感じる磁性)ることなんだって説明もした。(同時にこのことそのものが、事象の観察でもある)
その点で、この画像の光子体って表記は、物質って振動よりも“上”って表記が適切。
それと細胞意識って表現が間違い。 細胞はコアメモリーの複合体。コアメモリーは記憶に要するものだ。それはさっきの画像で言えば、受に相当する。しかしそれは意識の識ではない。
意識は、受信と“畐”と発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)だからだ。

コアメモリーに関しては、“改”の

“天人相関”編 “その二十三” 心(靈)の発現が“上”に向かう根拠は、物質が電荷を持ち、一個体内の電気特性の変容は、筋肉と内臓、神経と骨の発生につながるからであり、心(靈)の存在の理由は、コアメモリーの原理にあると思われる。

を参照のこと。

モノホンKellyメール添付画像4 


 
この画像も、高○○○自身がオーラの観測が出来たのかどうか知らないが、憶測の混じった我田引水の解釈か、あるいは仮にオーラが見えたとしても、その人自身のオーラと、憑き物のオーラの区別が出来ていないと思う。
多分、外郭のオーラを部分的に見て、勝手に解釈しただけなんだろう。
そして光の大指導霊、如来、菩薩、天使、これらの言葉を引用する理由が不明。
それは、ただありがたい言葉を引用して人を惹きつける手法としか思えない。アセンションして大天使に会いましょうみたいなもんだ。目立ちたい、ただありがたいと感じたい、自分の知識をひけらかす…など、霊媒体質にありがちな自我の肥大って心が見え隠れしているね。

以上、悪口みたいなことをたくさん指摘したが、高○○○とその娘の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程の認識ってのは、多分以下のようなものなんだろう。

人間は肉体だけではない。心がある。
心(靈)は不滅である。
オーラがある。
自分の心の動きの善と悪を知れ。

それらを伝えた段階に過ぎない。

それと、文面を見ると、自我の肥大について書かれており、“慈悲”と“慈愛”の心を持つことを指摘している(文面内の許す)が、それが神格化への道筋ってことをしっかり指摘していないと思う。
しかし、1番最初の画像に「神はそれを望み、」「地上界の人類が調和」なんて書かれてるから、その意味のことも言ってるのかもしれないが、それにしても表現が不適切で稚拙。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のゴールは神格化であり、現時点の地球人は、自我の確立=固定化であり、
(“日月神示”内の表記の“江戸と尾張”、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ。腹の段階のサイクロトロン=“石”(帯電するミネラル)が固まっていない段階)(第三密度)

今後=アセンション後は、“慈悲”と“慈愛”の心の発現で、
(“日月神示”内の表記の○ 九 十(まこと) の“十”、シンクロトロン放射の構造、アナハタチャクラ、)(第四密度)による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、
事象は創造されていくことを言うべきだ。

高○○○と娘、そして“上”の通信を受けている人ほとんどに言えることとしては、以下の点を指摘したい。

“上”の通信を受けたならそれは、ただのヒントでしかなく、その意味を追求しなければ、通信を受けた人の“一”=智性=1番目のオーラの拡大と、高振動化にはならない。
ただただ低い功名心と自尊心で、ありがたがる傾向が強すぎる。
そしてそれは低い情報を蔓延させる結果にしかなりえない。
さらにその情報を金儲けに利用する輩が出てくる。
それは“日月神示”の表記の、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)になる。
まあ、○○○(モノホンKellyさんの本名)自身がいろんなものを観て、アタシの思想と比較して、認識=“一”=智性=1番目のオーラにしてくれれば良いだけのことだ。

…以上でんねん」
「なるほど…先生のメールの本文の“人間は肉体だけではない。心がある。心(靈)は不滅である。オーラがある。自分の心の動きの善と悪を知れ。 それらを伝えた段階に過ぎない。”って言うのは、もっとそれ以上の認識を持って欲しいってことですよね。
その点でもこの本は、さっきKellyさんが言った“一般向け”ですね。
そして先生がモノホンKellyさんに返信した内容は、“一般向け”と、それより“上”、それは、霊的成長度に於ける“上”からのメッセージの段階=“上”と“下”を見極める。それをモノホンKellyさんに伝えたかった。そして先生は、こうも言っている。

“○○○(モノホンKellyさんの本名)自身がいろんなものを観て、アタシの思想と比較して、認識=“一”=智性=1番目のオーラにしてくれれば良いだけのことだ”

ですからそれは、本当の意味での“行”、“一”=智性=1番目のオーラの拡大を目指している人(日止、霊止)とか、あるいは、長年太陽凝視して霊的成長した人に対するメッセージとは、“一般向け”とは違うのだってことを、モノホンKellyさんに説明したみたいなものですね」
「そうでんな。
そやから今のK地はんの言葉そのものが、今回、K地はんが疑問に思いはったこと。
“私として感じるのは、お借りした本の内容って言うのは、先生の文章と何か違う。そういう印象があるんですよね”…の、答えみたいなもんでんな」
「そうか。よく解りました。
ですからそれは、地球人の霊的成長を望んでいる存在は宇宙にも地球にもたくさんいる。
そして、そのメッセージを伝えている存在は、メッセージを伝えられている=憑依されている人の霊的成長度に於いて、メッセージの内容そのものに“上”と“下”がある。高度なものもあればそれほど高くないものもある。 また、そのメッセージの解釈には、解釈した人の霊的成長度の高低が反映している。今回の話を纏めると…そんな感じですね」
「そうでんな。そやから今K地はんが言ったこと、それもK地はんにとって、事象に“上”と“下”を見出す大事な視点でもあると思いまんねん」
「そうですね。その視点を忘れないようにしますね。とっても長い話でしたけど参考になりました。
また、私が何か疑問を持ったなら、先生のようなチョ~まわりくどいチョ~長い話をしてくださいね。ホホホ~~」


Kellyあっちょんぶりけ 文章用 

(あっちょんぶりけ!! “チョ~まわりくどいチョ~長い話”やて…褒められたのか皮肉なのか…)

Kelly ドン引き中  …


「……承知しましてんな。またK地はんの連絡、お待ちしてまんねん」
「それじゃ、失礼しますね」
「ほな、さいならでんねん」



Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、形骸になった地鎮祭は、地鎮祭そのものに霊的な意義や神を見出していないっていう話を、場当たり的にする。

「Kellyさん、こんにちは。
このあいだは、人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在からのメッセージには、そのメッセージそのものに“上”“下”=高低があり、また、それを受け取る人の霊的成長度にも高低があるっていう、チョ~難しい話を、私にも分かりやすく説明していただいてありがとうございました」
「そんなふうに言うてもろたならチョ~恐縮でんねん」
「それで、今日もお訊ねしたいことがあるんですよ」
「なんでっか?」
「Kellyさんはご存知でしょが、私は、建設会社の社長婦人で、その立場だから、新たに工事を始めるところで地鎮祭に出席することが多いのですが、最近、地鎮祭を省略してしまう同業者が多くなってきているのですよ。
 これは問題なのではないのかなって思うんですが…」
「そうなんでっか。 それはいろんな問題を感じまんな。
ほんでから、K地はんが地鎮祭を省略してしまうことに対して問題を感じるのは、K地はんが信心深いやろからそう思うんやな」
「そうかもしれませんね。 
地鎮祭を省略してしまうこと事態が、地鎮祭に重要性を感じていないからだって私が感じている。 土地の神を蔑ろ(ないがしろ)にしている行為だって思うんですけどね。 
ですけど、今、Kellyさんは、私の心(靈)の動きを分析したんですね。 
やはり只者じゃないですね」(笑)
「またまたKellyさんを持ち上げてもろてチョ~恐縮でんねん。
そやから地鎮祭っていうのんは、土地の神さんに対する挨拶やし、その意味をK地はんは考えてはるし、そやから省略することに問題を感じてはる。
 まず、地鎮祭っていうのんは、どんな霊的存在に対するものなのか考えたらエエンやろけど、それをちょっと整理しようやおまへんか」
「そうですね。
 まず私が知っている範囲の地鎮祭は、Wikipediaで述べられていることくらいしか知らないんですけど、ちょっと説明させてもらいますね。

地鎮祭は、神を祀って工事の無事を祈る儀式と認識されており、安全祈願祭と呼ばれることもありますね。 それと、地鎮祭の呼び方もさまざまで、鎮地祭、土祭り、地祭り、地祝いって言う言い方もありますね。
でも、言い方は違っても、その意義は、地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る。
そして地鎮祭に相当することは、仏教にもあって、その場合は、地鎮法(じちんほう)、鎮宅法(ちんたくほう)、安鎮法(あんちんほう、安鎮国家不動法の略)、地天供(じてんく)、あるいは、地祭り、地堅めの法などとも言われるんですね。
それと、密教の場合は、不動明王を本尊として行う鎮宅不動法という儀式があり、堂宇(どうう、堂の軒、堂の建物のこと)や仏塔、墓碑を建立する前に、その土地を結界して、地天を本尊として、それを中心にして諸天の天神や、その土地で横死した霊魂なども含めて、それらを供養し鎮霊して、永久に障難が及ばないように修するとされている…なんて解説されてますね。

だから、その土地の場(フィールド)に存在すると思われる霊的存在に対することが、地鎮祭ですよね」
「さすが、お仕事柄っていうのんか、よくご存知でんな。 
今、K地はんが教えてくれはった地鎮祭の知識は、Kellyさんの知らんこともあったので、とても勉強になりましてんな。
 そやけど、今K地はんが言うたみたいに“土地の場(フィールド)に存在すると思われる霊的存在に対すること”、これも重要やけど、もっと“上”の存在も、人間のやることを見ている。 
それは、工事に限らず、人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をすべて観ている。
このことは、今のWikipediaの解説を言うていただいたK地はんの説明には、無いことでんな」
「なるほど…地鎮祭ってことだけを考えると、やはり近視眼的な見方しかしないものですね。 だからそれは、私が思っていた地鎮祭、それは土地の場(フィールド)にいる霊的存在のことしか考えていない。
 でも、神の頂点とも言いうる“創造”の“主(ヌシ)”は、すべてを観察している。 
人間のやっていることすべてを観察している。 
その意味のことを今Kellyさんは私に言ったんですね」
「そうでんねん。
そやからほんまは、今回の話題の地鎮祭に限らず、いつも“創造”の“主(ヌシ)”の思惑があってこその、事象の“創造”ってことを考えるのが、神の子としての人の在り方やと思いまんねん。
それは…ちょっと解りやすい話をすれば、K地はんは農業がお好きやおまへんか。 
そやからK地はんが野菜作ってはる畑でも、今年はこれがたくさん取れた。これは駄目だったってことがありまっしゃろ」
「そうですね。 たまねぎやキャベツや白菜が取れすぎて困ったりもした時があったし、ほうれん草がたくさん取れたりとか、今年のほうれん草は出来が悪いとか…いろいろですね。
それと余談ですが、カリフラワーが豊作のときは、毎日食卓にたくさんのカリフラワーが登場して、その時、うちの娘たちは飽き飽きしていたらしいですし、それでうちの娘たちは、たくさん出来るからカリフラワーは安物だって思っていたらしいんですよ。
それで娘たちが料理を作り始めて、自分たちでカリフラワーを買いにいった時、カリフラワーってこんなに高いものだったの!って私に言ったことがありましたよ」
「キャッハハハ~~、それは微笑ましい話でんな」
「それ以外にも…冬瓜(とうがん)が大豊作の時、先生に何十個も持っていってもらったことがあったり、先生はその冬瓜をたくさんの人に分けたり、チョ~極上ラブラブ中高年夫婦 
-| ̄◇ ̄|-   ≁ξ*ο*ξ≁ 
にも、差し上げたりしたって聞いてますよ。

 そういえばその時に先生は、“冬瓜の神さんがK地さんの畑にやってきた”って言い方をしたことがある…思い出しました。
 ですからこの先生の言い方でも、畑の土地の神様、氏神を意識して作物を作らなければならないのでしょうし、もっと“上”の存在のことも考えねばならないのですね」
「そうでんな。
そやから今の話、農業に関していえば、畑で栽培する野菜は人間だけの力だけで出来ているのでは無いやおまへんやんか。
それを一つ一つ分析していけば、土地、肥料、日照、種を蒔いたり苗を植えたりの人間の作業、それを言い方を変えれば、土地の神さん、土地の土壌、そして、物質としての肥料、電磁誘導としての肥料、錯体としての肥料、肥料分っていうのんは水と反応してイオン化する。
それは“上”からの荷電粒子とも反応する。 人間の腹みたいなもんでんな。 “日月神示”の腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンみたいな作用もありまんな。
ほんでから言うまでもなく、日照は太陽やし、それは“上”からの荷電粒子でんな。
そして“上”からの荷電粒子そのものが、神さんの思惑でんな。
ほんでから人間が種を巻いたり苗を植えたりしながら思う、たくさん実って欲しいって願うこと=思惑は、野菜に対する人間の思惑と念になり、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。
そやから農業でも、地鎮祭でも、人の思惑と、その場(フィールド)にいてる霊的存在と氏神さんの思惑と、もっと“上”の存在の思惑が加味してるとも言い得るやんか。
…そやけど、ちょっと話がそれてまんな」
「そうですね。 土地の場(フィールド)にいるだろう霊的存在よりも、“上”の話をしていたんでしたよね。
 ですから地鎮祭にも、もっと“上”の存在のことを工事を行う人が意識するべきですね」
「そうでんな。 そやからこそ宗教で地鎮祭をするようになったともいえることでんな。
 そやからそれは“上”の存在、ものすごく“上”を考えれば、“創造”の“主(ヌシ)”。
“創造”の“主(ヌシ)”は、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の過程で、人(日止、霊止)に宗教をたれて、霊的成長の指針として欲しい。 
そやから宗教で地鎮祭をする。 そういうことでもありまんな」
「そうですね。 
人は最初から霊的なことは解らない。神のことも解らない。 言い換えれば“創造”の“主(ヌシ)”の思惑をいきなり理解できない。
だから“変圧”の過程があり、“変圧”そのものが、人の霊的成長度って要因がある。
だから人の霊的成長=進化するに当たって、段々、神の思惑を理解するために、宗教が出来たとも言いうることですね。
そして宗教が出来た具体的なこととしては、“変圧”による損時点よりほんの少し“上”の憑依現象で、通信を送られたとか、特定の人が選ばれて、苦難を与えられてそれを乗り越えて貴い認識を獲得し、その苦難を乗り越える過程でその人のほんの少し“上”は、さまざまな通信を送ったりしているし、またそれは、もっと“上”から観られているから、教えられている=通信を受けているってことでもある。
大体、どの宗教の開祖でも同じようなパターンですよね。
ですからそれは、段々人間が神のことを認識したり、霊的な進化を認識したりする。 
地鎮祭だって、そういう視点で捉えなければいけない。 
そういうものの見方をするべきですよね」
「そうでんな。 
そやけど今一般に、地鎮祭を通じて霊的な意味を感じ(感じる磁性)るってことになって無い。
そやから、今回のK地はんの言葉、“地鎮祭を省略してしまうこと自体が、地鎮祭に重要性を感じていないからだって私が感じている。 土地の神を蔑ろ(ないがしろ)にしている行為だって思う”を聴いて、Kellyさん的にはまずそれを感じまんねん。
そやから地鎮祭を蔑ろ(ないがしろ)にしたその理由は、地鎮祭に霊的な意義を感じていない人が多い。 単なる儀式に成り下がってるし、言い換えればそれは、神主さんと坊さんの商売にしかなっていないってことやと思いまんねん。
ほんでからそれは、言うたらなんやけど、今、建設業界かて不景気で、経費の削減をせんならん。 
そやから、たいして重要やと思ってないことは経費節減で省くんやろな。
ほんでからそれは、今の地鎮祭そのものが、神主さんや坊さんの商売になってしもてるから、一般の人たちは地鎮祭そのものに重要な意義を見出せんようになってきているってこともあるし、そやからそれは、なんでどうでもエエ儀式に高い金を払わんならんのか。 そんな程度の認識しか持ってへんのやろな。
Kellyさん的にはそういう一般の認識の低さ、それも感じまんねん」
「そうですね」
「そやからそれは、地鎮祭に何かの効用を求めるとか、ご利益を求める気持ちがあるからでんねん。
神さんや仏さん、霊的に高い存在に対し、御利益を求める心(靈)の動きは、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)人が思うことでんねん。
ほんでから霊的成長度の程度の低い、ただ学校行っただけの神主さんや坊さんは、ご利益を強調して、人を釣り、報酬を得ようとする。
ほんでからネットで検索すると、土地の浄化をしましょうとか、それにはなんとか水晶をご購入くださいとか、なんとかパワーストーンをご利用くださいとか、なんとか水をお使いくださいとか、御利益を強調するような商売ばかり目に付きまんな。
そやからそんなことで、地鎮祭の意味と意義、土地の神さん、氏神さんに対する礼儀を、蔑ろ(ないがしろ)にしているし、地鎮祭を通じて土地の場(フィールド)にいてる霊的存在と、工事を行うことを生業(なりわい)にしている人たちの霊的成長に対し、“上”が観ていることなど意識していないし、地鎮祭がただの儀式になり、商売に利用され、霊的な意味を見出せんようになってしもてるやんか。 
これは平均的な地球人に観られる一般的な傾向として問題にせんならんことやと思うけど、この問題点を理解できる人はとても少数やろな」
「そうですね。 
今Kellyさんがおっしゃった“学校行っただけの神主さんや坊さん”、こういう人たちに高度な霊的な認識っていうのはありませんよね。 宗教の知識を吹聴して利用しているだけですよね。 
 それと同じような事柄として、今、スピリチュアルを題材にした本はとても多いですけど、幸せになれますとか、スピリチュアルな癒しとか、心が楽になるとか、あなたをうるおすとか、ツキや幸運や福を引き寄せるとか、パワースポットとか、こんなふうに、御利益を強調して、御利益そのものを売りにして人を釣る傾向のタイトルのものが多いですよね。 
 だから、今Kellyさんが言ったみたいに、甘い(亜、魔、出ずる、泉)人が何を思い、甘い人を引き付け、そして商売をする。 
それと、一般に、甘い人が多いから、大多数だから、こういう商売は成り立っているってことでもありますよね。
 だからこの両者、地鎮祭にご利益を求める、スピリチュアルに甘い夢を求める、でも結果それは、ご利益も甘い夢もかなうわけが無い。 当たり前ですよね。
 だから地鎮祭は、効果の無いものと思われ、スピリチュアルも所詮、その場限りの甘い夢を見させ、雰囲気を楽しむものに成り下がっている。 
 そして地鎮祭を神主さんやお坊さんに頼んだ業者も、スピリチュアルに甘い夢やご利益を求める人も、所詮そんなものなんだって認識を持っている。 
だからこそ一般の人たちは、神や霊に対しても、スピリチュアルに対する認識も低すぎるし、今後も低くなっていくでしょうね。 
これも商売の道具に成り下がっている傾向が強いから、そうなっていくんですよね」
「まったくその通りでんな」
「霊的な認識、霊的成長、これらは本当は厳しいもので、そして貴いものですよね。 
ですからそれは、自分がエネルギーを贖い(あがない)、苦難を体験したり、人生においてたくさんの試練を乗り越えたりしないと獲得できない。 
そして苦難や試練は、苦痛であるからこそ生体内電流の強化になるし、オーラの大きさに反映するものでもあるし、またそれは自分の心の中の認識(悟り、幸取=さとり)そのものでもあり、そしてそれは、“一”=智性=1番目になり、1番目のオーラの大きさは、どれくらい神に近づいたのかの指標にもなる。 
先生はいつもそう言いますよね。
でも、今の話のように、御利益を求め甘い夢を見たい人は、ただ甘い。 
なんでも簡単に考え、良い結果を求めるのにも自分がエネルギーを使わない=贖う(あがなう)ことをしたくない。 
また今現在、さっきの話のようにそんな人ばかりになっている。
先生とKellyさんが憂いているのはそのことですよね。 
そんな考え方をする人が、良い世界を創ることはできない。 
だから、そういう甘い(亜、魔、出ずる、泉)考え、甘い認識を持っている人は、今後=アセンション後の“創造”を担うことは出来ない。 
これも当たり前ですよね」
「その通りでんな。
 そやけどK地はんは、地鎮祭にも問題点を感じ、今の薄っぺらい内容のスピリチュアル本にも問題点を感じてはる。
そやから、さっきKellyさんが言うた“この問題点を理解できる人はとても少数”の内の一人でんな」
「それはもう、毎週先生の治療を受けるたびにいろんな話を聴かされてますからね。 そんなことが何年も続けば、○○○大先生の思想に洗脳されますよ。 
ホホホ~~」
「キャッハハハ~、そうかもしれへんな」
「今日のKellyさんの話も、私が考えていた問題点を具体的にしっかり指摘していただいて、とても参考になりました。
また、お話させてくださいね」
「オッ○―牧場でんがな。 K地はんの連絡待ってまっせ~。
ほなさいなら」

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その一”


「Kellyさん、こんにちはです。 いきなりですけど、今日もいろいろお話したいことがあるんですよ」
「なんでっか」
「ここ数年の不景気はKellyさんもご存知でしょうが、ここ数年、とくに今年に入ってからうちの会社もどんどん仕事が少なくなっていってるんですよ。 
そして、うちの取引先や関連会社も倒産してるところが多い…そのうちのいくつかは、ちょっと姑息な計画倒産だったりもするんですけど、建築業界全般を見渡すととにかく仕事は少なくなった。 
それでうちとしても、仕事が少なくって、ちょっと危機感を覚えたりもするんですけど、その割にはうちの会社は大丈夫で、倒産の連鎖のあおりを受けたりしないんですよね」
「それはK地はんの会社が、右往左往ではなく、左往右往の“行”をしている傾向があるからやないんでっか。
 それはつぶれるところはどんなことをしてもつぶれる。 そやけどつぶれへんところはどんなに危機的状況におちいったとしても、つぶれへんと思いまんねん。
 そやからそれは、極論に聞こえるかもしれんけど、今後のよいカタチの“創造”にかかわってる仕事は、どんなに危機になったとしても、それは神さんが必要と認めてるんやからつぶれへん。
 そやからそれは、今K地はんに、右往左往と左往右往っていうたけど、人の仕事に対する考え方っていうのんは、やはり霊的成長度の“上”“下”においていろいろあるやおまへんか。
 そやから左往右往っていうのんは、右往左往=失敗を体験してから、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考えてから事象の“創造”をするってことやけど、人の霊的成長度、価値観とかそれぞれの考えが、“上”から見て、正しいのか間違っているのか、それが分からん人は大きな失敗を体験してっていうよりも体験させられてる。 
ほんでからそのこと事態が、“上”がその人を導いていかんならんからでもあるけれど…」
「ですからそれは、右往左往から左往右往、自分たちの在り方を考えさせられる“行”みたいなものですね」
「そうでんな。 
そやから霊的成長度の低い一般の人たちっていうのんは、ただ儲かればエエとか、自分たちだけ幸せであればエエとか、そういう考えの元に価値観ってものを構築している。
それはただ低い、低すぎるから、低い霊的成長度の人が作ってきた文明だからこそ文明は壊滅するっていうのが先生の考えでもあるけれど、文明の壊滅そのものが自省(胸の磁性“十”)の“行”であることなんて、大概の人が実感を伴って思わへんもんでんねん。
そやからほとんどの地球人は、目先の幸福を追い求め、(通貨としての)金に執着し、形骸の名誉に執着し、そんなものがすばらしいって褒めそやすもんばっかりでんな。
その褒めそやすとか、(通貨としての)金に執着するとかけ以外の名誉に執着するとか目先の幸福を追い求めるっていうのんが、自我の肥大でもあり、それは“日月神示”表記の“石屋の仕組み”でもあるし、それがまた“われよし”でもあるやん」
「そうかもしれませんね…。 それは腹までの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ってことでもあるし、腹から“上”の心(靈)、言い換えれば胸のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化になっていない」
「そう思いまんがな。
そやから今、ダメになっているものっていうのんは、建設業だけではなくって他にもたくさんある。 
ほんでからダメにさせられていること事態が、それにかかわった人たちの自省(胸の磁性“十”)を促すことでもある。 
特に最近話題になったのは、あるプロスポーツのことなんか分かりやすいけど、それは神さんの目から見て価値のあるもんやったのか? スポーツでたくさんの収入を得ることが価値のあることやったのか? いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか? 
ほんでから大して価値の無いことで金を沢山得るっていうのが正当な報酬やったのか? 金もらいすぎでっしゃろ。
そやからそれは、名古屋弁で言えば、とろくっさいことに金を使うんやないんでっか」
「そうですね。 プロスポーツは(通貨としての)金が動きすぎですよね」
「K地はんはそう言わはるけど、一般にそんなふうな認識は無いやん。 勝ったら褒めそやしたり、負けたらがっかりしたり、そして(通貨としての)金が沢山はいりそうだからあこがれたり目指したりするだけでんがな。 
そやけどスポーツっていうのんは、ほとんど肉体の“行”でしかない。 そやからそれは土=2~3番目のオーラの行でもある。
そやからプロスポーツ選手っていうのんは、活躍して賞金をもらっている間が右往左往であって、引退してからが左往右往になり、たとえば体を壊したりして自分のやってきたことを振り返り自省(胸の磁性“十”)の“行”にはいるけど、もっと若いうちから自省するべきでんな。 そやからそれはただ霊的成長度が低いって言い方も出来るし…」
「そうかもしれませんね。 活躍していたときは褒めそやされて、自我が肥大して…そして自分の低い功名心と自尊心のためにがんばるっていうのがスポーツの世界ですよね」
「そうなんやけど、そんなものの見方ができる人っていうのは、ごく少数でしか無いやん。
 ほんでから話が前後するけど、そやからそれは神さんから見て、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、ほんまに多くの人の霊的成長に結ぶつくことならば、今後=アセンション後も存続していくやろけど、そうでないものは今、どんどんダメになり、それは馬脚を現すっていうのんか、それにかかわってきた人たちの低い心(靈)の動きがバレてるだけやおまへんか」
「まったくそうですね」
「そやから今の話は比較的分かりやすい例やけど、“上”から見てどうでもエエことっていうのんは、霊的成長に結びつかないことを大げさに取り上げて、そして付加価値をつけたくさんの(通貨としての)金を取る。
 それは“上”から見たら正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか?
 そやから、人間の認識を獲得する作業としての、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするって過程があるんやけど、右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへんってことでもある」
「ですから最初私が話したこと、今、倒産しているところとかは、右往左往から自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る過程でもある。
 そして私のところの会社は、左往右往の行をしているってKellyさんはおっしゃったけど、自分たちにはそんな認識はあまり無い…。
 自分たちの仕事に対する理念…それが“上”から認められているから、今後=アセンション後の“創造”に参加できる資格がある程度あるからうちの会社はつぶれない…そういうことなんですかね…そうかもしれませんが…。 ですからうちとしては、不誠実な仕事をしているつもりはありませんし…」
「そうやろな。 
そやから今K地はんがいうた“不誠実な仕事”、これはK地はんの人間性の表れた言葉でもあるし、そやからその言い回しは、仕事を通じて事象に対する奉仕をするって言う意味合いを感じさせる言葉でんな。
ほんでからに今K地はんが言うたみたいに、仕事が少なくなるとか倒産が多くなっているとかは、いろんなことが結果として表れているからでもあるんやないんでっか」
「それは先生の本に書いてあったこと、これまでやってきたことの結果が表れてくる。 
そしてそれは、アセンションに伴うことでもある」
「そうでんな。 
ほんでからこういう言い回しはちょっと説明を要することでもあるけれど、人の霊的成長に必要ではない仕事っていうのは、必要ではないからこそ、今後=アセンションに向かうためには、その仕事そのものが消失していくことも考えられる。
そして、自己奉仕者の行為、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れ、その“思惑の顕現”=現象化。 
そういう仕事をしてきた人は、今後=アセンション後の“創造”を担うことが出来ない。 要はその霊的資格がない。 
言い換えれば霊的成長度が低すぎる。
そやからそれは、“上”が、今後=アセンション後の“創造”に参加させるべきではないとの基準を設けたともいえるし、ちょっと意味合いが違うけど…神さんが今後=アセンション後の世界はそんなことを許さないとも言いうるし、そやからそれは正確に言い表せば、自分に内在する神性が顕現した人たちの世界になるからこそ、自我の肥大した心(靈)の動きによる仕事、それは利益を得る事が目的の仕事っていうのんは、今ダメになりつつあるし、またそれは多くの人に示されるべきものでもあるやんか」
「…とても難しい問題をKellyさんは感じていらっしゃるんですね。 そんなことまでしっかり考えなかったですよ。
 そしてうちの会社が左往右往の“行”をしている…そんな自覚は無いんですけど…そうなんですかね」
「さっきも言うたけど、K地はんの言葉を聴くとK地はん自身が左往右往の“行”をしてはる…その傾向はあると思えるし、そやから左往右往についてはK地はんにあえて説明することでもないけれど、自分の在り方を考え、それを理念として、そして仕事ならその自分の考えや認識を盛り込んだ生業(なりわい)とする。 そういう仕事をしていらっしゃるんやないんでっか」
「…そうかもしれません。 ですからそれは、その反対を考えれば分かりやすいですね。 
左往右往の生業(なりわい)、自分の在り方や仕事に対する理念、そんなことをたいして考えずにただ儲けてきた。 ですからそれは失敗を体験している過程でもあるし、その失敗っていうのは進化の法則性、○○○大先生の言い回しならば神格化の方向性ではなく、ですからそれは、自我の肥大って心(靈)の動きがあり、そして生業(なりわい)の裏には(通貨としての)金に対する執着と物欲ともっと程度の低い欲望があって、それを達成したいから仕事を頑張る(元の気を張る)ってことですよね。
そして今Kellyさんがおっしゃったこと。

“自己奉仕者の行為、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れ、その“思惑の顕現”=現象化。 そういう仕事をしてきた人は、今後=アセンション後の“創造”を担うことが出来ない。 要はその霊的資格がない。
言い換えれば霊的成長度が低すぎる”

だからそれは、自我の確立=固定化の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程は、マニピューラチャクラの強化であって、また自我が無ければ自己と他者を認識できないからこそそれは、独り神(ひとりがみ、日取り神)になっていく過程でもあるけれど、今の世界は“玉石混交(淆)”で程度の低いものとある程度霊的成長した心(靈)が混在している。
だからアセンションは、神が、“創造”の“主(ヌシ)”が、霊的成長度により人をより分けるっていう言い回しよりも、その霊的成長度が混在した人たちの世界は、やはり程度の低い人は程度の低いものを選択するし、それと反対に程度の高い人は程度の高い考えで行動する…“思惑の顕現”=現象化ですよね。 
だからこそ現津(あきつ)、観察され得る事象は、それぞれの場(フィールド)を構築するってことなんでしょうね。
だから事象、“思惑の顕現”=現象化が事象の“創造”であるからこそ、自分の考え、価値観、理念は、高いもので無ければならないし、そういう人が事象の“創造”をしなければ、進化した世界とは言いがたい。
そして今の世界は、お世辞にも進化した世界とは言いがたいですね。
たとえば甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を追い求めさせることとか、何も生み出さない娯楽とか、真剣に物事を考えさせない見せ掛けの癒しとか…今、テレビ番組にはそういう傾向の番組作りが多いですね。
こんなことはいちいち例を挙げていたらきりがないけど、そんなものが多すぎるし、そしてそれらは人の霊的成長に役に立っているとはとても思えない」
「そうでんな。 
そやから人(日止、霊止)は何を考え、何をするべきなのか、このこと自体が“思惑の顕現”=現象化でもあるけど、当然それは生業(なりわい)に表れるべきやってことを今K地はんは言いはったと思いまんねん。
 そやから今どうでもエエことに付加価値をつけたりして商売している人とか、自分の欲望のために貴い何かを利用して仕事をしている人とかは多いし、それが成功者って褒めそやされているやおまへんか。
 ほんまに自分の仕事が貴いならば、そこには自分の考えが反映するものであるし、当然それは理念になるべきやし、そしてその理念は“上”から見て、言い方を変えれば神さんに評価されるべきものなのか…常にそれを思うものやろ」
「それは時々先生が引用するS会=紫光会の経文の、“世為人為”ってことですね」
「そうでんな。 そやからローム太霊さんがS会=紫光会の会員に教えたいのはこの“世為人為”って言葉に表れてて、それはまた人の在り方を示す意味もあるやん。
ほんでからローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 って項目にも、同様の意味のことが述べられているけど、大概の人はそこまで深読みできへんもんでんねん」
「それは私も読ませていただきましたが、どの言葉のことを言ってるんですか」
「それはやな…。

その全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである。
 しかし神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである。


ほんでから189ページにも、

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。
 
それと…」

「Kellyさん、ちょっと待ってください。
 う~~ん…すでに読んだことのある内容ではあるんですが、このローム太霊の言葉は、ひとことひとことよく意味を考えないと理解しにくい感じですし、今のKellyさんとの会話を振り返って考えると、この文章にはいろんなことを思わされますね。
…ですから、もしKellyさんのご都合がよろしければ、私がローム太霊講話集のこの項目をよく読んでから、再度、お話ししたいですね」
「オッ○―牧場でんがな。 
そのほうが今の話の続きをしやすいやろし、そうやったなら今回の話はここまでにして、改めて連絡してくれまへんやろか」
「承知しました。 それでは少しお時間をください。 それでは今日はこれで失礼しますね」
「さいならでんねん」
Joしノ~~ マタネー♪ 
❤ ❤ ❤

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その二”

……農業好きの社長婦人、K地M美さん、ぼやき中……

 この間、Kellyさんと話したとき、Kellyさんが指摘してくれたローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 の中の文。
 その文の前には、こんなふうに書かれているのだった。

人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言えるのである。

 この文の“人間が全力を尽くすということは、死を意味する”…これはすごいことを言っている…死ぬまで頑張れってことでもある。 
改めて読まなければ、なかなか気づかないことだわ。
それと…“自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも
伸ばしてゆくように最も望んでいる”…この文の“自分の力を卑下(ひげ)している”についてだけど…いろんなことを感じさせる。
それは、この文では“自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味する”ってことをローム太霊は言っているのだから、自分が持っている“力”をそれくらい行使しろってことでもあるし、だから“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”って、言われてて、それは換言すれば、“どこまでも伸ばしてゆく”人間ならば、そういう行動をとる人ならば、神が認める人間ってことになるし、またそれは、神が認める人間はあまりいないってことでもあるんだわ。
それは、強固な信念ってことも考えてしまうわね。 だからこの 第五十七話 行業一致の一途の努力 っていう表題は、一途な努力って言い回しがされているのだろう。
またこの言葉自体が“自分の力を卑下(ひげ)している”にかかっている言葉と思えるわ。 大概の人間は、ちょっと困難なことがあったりするとあきらめたり投げ出したりする。 投げ出す理由は、こんなことは出来ないって思い込むから、だからそれは、自分はたいした人間ではないって思い込んでいるとか…努力できないとか…それは神が認める人間ではないって事でもあるし、信念を持っていないとか、信念を行動に活かしてないってことなんだわ。 
そういう意味のこともいっているのだわ…多分。
 そして、○○○大先生から聞いた、S会=紫光会の交霊会でよく使われた言い回しの“神は乗り越えられない困難は与えない”…この認識がないから、あきらめたり投げ出したりもするし、自分は困難を与えられて、だから自分は育ち、霊的成長をして神に認められる人間になって神格化するって概念が無い。 
それは、“行”ってことにもなるのだろう。
 その意味でもローム太霊は“行”=生体内電流による肉体組織の結晶化と、“業”=生業(なりわい)、事象の“創造”っていう意味で、“行業一致”って言い回しをしているのかもしれない。
それともうひとつ思うのは、“自分の力を卑下(ひげ)している”ってことは、自分のやっていることが貴いのか貴くないのかってことも思わされるわ。
仮にそれが貴いって自分で思うなら、信念を持つことも出来る。
それと違うのがKellyさんと○○○大先生が話していた前のブログと、“続”でも何回も指摘されている自己奉仕者の行い。 ことに前のブログでは、うまい嘘つきとうまい泥棒なんて言い回しがある。 
だから自己奉仕者の心の動きは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが主体。 嘘をついて騙し、欺き、錯覚をさせたりしている…たとえば効果ばかりを強調したりするテレビの通販番組みたいなものね。 そして有名なタレントを使って視聴者に錯覚を起こさせて買わせる=泥棒と思わせないように奪うってことをする=自分たちの利益にする。  
それは、見せ掛けのことや、甘い(亜、魔、出ずる、泉)ことを言ったりもするのだけれど、それは、結果として自分のエネルギーをたいして贖って(あがなって)いないのだろうから、“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”ってこと、さっきから思う信念を持つってことになっていないと思う。
○○○大先生の治療を受けているとき、そのとき話していて私が思うのは、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は、貴い事象の“創造”のために使うもの。
だから何かを利用したりとか、何かを引用したりとか、盗用したりとか、何かにあやかるとか…そして人にそんなふうに思わせないで、あたかも自分たちの物のように見せかけて、結果として他人のふんどしで相撲を取るとか、それ以外にも投機とか…今、そんなことでなりあがっている人は多いけど、このローム太霊の言いたいことを深く考えるなら、そんなことは貴いことではない。 
それは自分自身のエネルギーを大して贖ったことになっていないし、そういう意味でも、自分が自分の“力”を見るに当たって、貴い行いをしていないからこそ“自分の力を卑下(ひげ)している”って言われているってことも思ってしまう。
それはローム太霊が言う言い回しだからこそ、神が認めていない人の行動っていう意味があるのだろうから、ローム太霊から見て、神に認められていない普通の人は“自分の力を卑下(ひげ)している”って言われているようにも思えるし、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を貴い事象の“創造”のために使っていないってことを指摘しているようにも聞こえる。
だから自己奉仕者の認識は、自分がやっていることが神に認められる行為とかなんて概念は無く、あるいは多くの宗教関係者のように見失っているだけで、ただ自分の利益だけを追求する。 
そして自分の利益を沢山得た人が成功者だと思いたいのだろうし、一般にそう思われているのがこの世界だわ。 
まさに低級な心(靈)の振動によって出来上がった世界ね。
自己奉仕者…それは決して神が認める人間ではなく、ただただ低い欲望のために自分のエネルギーを贖い(あがない)、低い欲望のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使っている。 だけれどもそんな思い方は一般的ではないから、○○○大先生は“事象の形骸化”って文章を書いた(太陽凝視を行っている鍼灸師の話<4><5>智性無き心シリーズのこと)。
今、私が思ったこと、それは、この間Kellyさんが指摘した文章にかかっていると思われるわ。

その全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである。
 しかし神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである。


 この文の“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはある”って言い回しは、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる”って言葉にかかってて、それを強調するように“人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ている”って言われているのだわ。
 またそれはうまいことやって自分の希望通りになったって言う意味で“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているもの”って言う、ちょっと皮肉交じりの言い方でもある。 
 それは正しくない…神が認める所業ではないって言い回しに感じられるし、だからこの文の中の“善”それは“一般の道徳で言う善悪ではなく”って言われてて、自分の心の中の基準があることを前提に言われてて、だけれども今、自分の心(靈)の中の基準で善悪を考えている人は少ないと思うわ。
 だから(通貨としての)金さえ得られればよいとか、形骸の名誉を得たいとか思うのだろうけど、決して神はそんな人間を望んでいるのではないし、人(日止、霊止)にそんな生き方を望んでいるのではない。 
そのことをローム太霊は言っているのだわ。
今、この世界で褒めそやされている人の大半は、金持ちと形骸の名誉をもっているとか、自分の一生で頑張ってそれを獲得したってされている人だけれども、結果それは、自己奉仕者でしかない。
また自己奉仕者は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)で、その心の動きで“創造”した世界は壊滅するって言うのが○○○大先生の考えでもあるのだけれど、そのことは、この文の“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”ってことを、深く認識している人で無ければ、理解できない。
 特にこの文では“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば”って言われてて、“善悪に従って努力すれば”っていうローム太霊の言い回しは、大概の人は自分の心の中の善悪を知っていてもそれに従って努力をしていないからこそ“すれば”って言われているのだわ。
またこのことが解っていない人が大多数だから、人は(通貨としての)金を求め、形骸の名誉を求め、低い功名心と自尊心を満たすようなことばかりしている。 それはKellyさんと○○○大先生の、人の心の動きの見方でもある自我の肥大…それに相当するものなのだわ。
だから、このことが理解できていないことそのものが、霊的成長度が低いともいえるし、
神が何を人に託したのか、どんな世界を神は人に“創造”させたいのか、そんなことまで“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”って言葉は感じさせるものではあるわね…。
 
 だけれども……フ~~……ちょっと読んだだけですごくいろんなことを考えるわね。 
今回、改めて読んだローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 の冒頭の文、これに限らずローム太霊講話集の中の文は、ちょっと読んだくらいでは理解できないことが多い感じだし、時間をかけながらゆっくり読み解いて、それからKellyさんを呼び出して話をすることにして…今日はこれくらいにしておくわ。

(“その三”へ続く)

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その三”


……農業好きの社長婦人、K地M美さん、また、ぼやき中……

 さてと…この間読んだ続きの文章は…。

ところが人間は、自分はあんな所まで手が届かないとか、そんな大きな仕事は柄ではないとか、とかく自分を小さく身がちであるが、いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間である。 例えばここにABCの三人の人間がいて、Aは一億円持っており、Bは百万円持っており、Cは一万円しか持っていないとする。 そういう場合に、Cは自分には到底一億の金は出来ないと思う。 それが自分を小さく見すぎているのであって、物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれるのである。 それがロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものであるから、このことは常に心の中に縫い付けて置いてもらいたい。

 これは、前回考えた文の中の言葉の“人間が常に自分の力を卑下(ひげ)している”にかかっていることだわ。 
だからこそローム太霊は、“自分を小さく見すぎている”って言っている。 
そして“神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれる”って言っている。 これは神が認める努力を成し遂げた人間ならば、実際にそうなるってことでもあるんだわ。 
だから自分は神を信じ、頑張り…“ねばりとやせがまん”で頑張って(元の気を張って)行かなければならないし、だから私たちは、この文で言われているとおり“いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆく”…そう在るべきなのね。
そしてそこまで頑張る(元の気を張る)のが、“神が欲する人間”。 
だからこの章の最初の言葉のように“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない”…そこまで頑張れってことでもある。
だからちょっとまとめれば、この文の“いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間である。”…これは、この章の冒頭の文の“人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも押してゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言えるのである。
この文にかかっている言い回しだろうし、だからこの文で、神はこんな人間を望んでいるって言っているのね。
神はそれをどこまでも押してゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない
またこのこと自体が“物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれるのである”にかかっている言い回しでもあるのね。 
…だから、いったん思い立ったらやりぬいてくれよってことでもあるし、さらにこの間思ったように、“自分の力を卑下(ひげ)”するような人間ではいけない。
それは、自分を小さく見てもいけない…仮に自分を小さく見ていたなら、頑張れないってことでもある。 
それだからこそ私たちはこの言葉を忘れてはいけない…“ロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものである”。
そしてローム太霊は“常に心の中に縫い付けて置いてもらいたい”とも言っている。
また自分がやっていることが神に認められていることなのか…それは自分がやっていることが貴いことなのか、下賎なことなのか、それを自分で判断してエネルギーを贖う(あがなう)ことをする…人はそう在らねばならないってことを感じさせる文章でもある。
それは前回考えた以下の文。

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”のうちの“各の個人が良心によって定める善悪”でもあるのね。

そしてこの文は、この間Kellyさんと会ったときにKellyさんが指摘した文に続いている…。

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。

 この文の中の“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。
今まで考えてきた文章は、この文にかかっている文でもあるのだわ。
 この文の“真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者”…こんな人は今たくさんいるわね。 
それはKellyさんと○○○大先生の考え、目下(めした)の心(靈)中心の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。 
またそれについて○○○大先生は、自分の著書の<5>智性無き心はアセンションを見誤る で、“日月神示”内の言葉“石屋の仕組み”は、自我の肥大した人が作った仕組み…だからそれは進化程度の低い心(靈)の“創造”であるし、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているものであるって指摘している。(252ページ以降)
 それは、ただ進化程度が低く、自我の確立=固定化の段階の心(靈)だから、そうなるのだとも指摘している。
 自我の肥大した人には“真心(まごころ)”なんて無いのね。 当たり前ね。 自分のことしか考えないのだから。
 それとローム太霊は、この文の中で“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”って言い回しもしているし、それらが重なり加わってこそ“初めて自分の最大の力を発揮することが出来る”って言っている。
 この文の“真心(まごころ)”は、さっき考えた“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”…当然、そういう人を対象に言っている言葉。 
だからそれはこの間考えた(前回の記事 “その二”)“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”…この認識がない人、またそれは“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”ってことをしていないって言い回しでもあるのね。
 だから自分が自分を見て“各の個人が良心によって定める善悪”ってことを分かっていなければならない。 
それが分からないから、自己奉仕者の行いをする。 欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか…それをそうと分からないようにして、自分の利益を増やし、自分の低い欲望を達成する。 
低い欲望なんていうのは、(通貨としての)金、食うこと、性的なこと…etc.
八戒(低い欲望に対する八つの戒め)ね。
だから本能由来の欲望、そんな欲望に心がとらわれているっていうよりも、その心(靈)の発現しかしていないのが、進化程度の低いことを示しているって○○○大先生の本に書いてある。
 心(靈)の発現、心(靈)の進化の順番は、神格化で、それは心(靈)の発現の順番を考えればよく分かる。
 それは、○○○大先生の定義付けた心(靈)の動き、そしてその構造と発現、それは、下から=進化過程の低いほうから、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性。
 ○○○大先生は、先生の本の文章中で、低い本能しか発現していない、ミミズ、ヒル、ゴカイ君をよく引き合いに出していたけど、人間の場合、自我の確立=固定化の心(靈)の人は、自分のことしか分からない。 
それは言い換えれば自分の欲望がすべて。 
その認識の元において、自分の価値観や幸福感を構築しているからこそ、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”の“個人が良心によって定める善悪”も、低いって思えるわ。
 だからローム太霊は絶対の善みたいな言い方はしていない。 たぶんそういう理由。  だから、自分たちの認識の程度に応じての善悪の基準は、個人個人の霊的成長度の度合いにより違うのね。 
だから、私から見れば自己奉仕者の善悪の基準は低すぎるっていえるけど、自己奉仕者の人たちは、自分たちの行いが悪だなんて思わず、あるいは少し良心の呵責を感じたとしても無視する。 
自分が自分の良心を無視する理由は、欲望の達成のため。 欲望の達成は自我の確立=固定化のため。 自分が大事…自分だけが大事。
 だからそれは○○○大先生がいうところの、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”を持っていないし、その視点で自分の行動や心(靈)の動きを観察しない。
 そしてその心(靈)の動きには低い霊的干渉もあるのだわ。 
自分の心(靈)の動きが低かったなら、低い心(靈)の動きの霊的存在の通信を受けるし、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で、自分自身の低い心(靈)の動きと憑依してくる低い霊的存在の心(靈)の動きが一体になるみたいなものね。
 だから自分の欲望を第一に思い、自分が病気で体の調子が悪くても酒が飲みたいとか、酒をたくさん飲んで体の調子が悪くなった人でもそんなふうに思ったりする。
それとか、博打ばかりする…借金してでも博打するとか…全く幼稚ね。 子供の浮遊霊の心の動きと、(通貨としての)金に執着する動物霊の心(靈)の動きね。
それとか、誰かを欺いても性的欲望を満たしたいとか、それは女を金で買うとかもそうね。 人に対する尊厳なんて無い。 
それと、今年になって出版された本で、たくさんの異性と交わると自分は進化するなんて内容のものもあったけど、まさに低い心(靈)の動きで、自分のやってきたことを正当化しているみたいなものね。
 だからそれらは程度の低い善悪の認識でしかない。 
自分だけが正しいっていう自我の肥大による考えでしかない。 でもそれも“右往左往”なのね。 失敗の人生ね。 そして失敗を失敗と認識したなら、少し高い善の認識を持つ。 
だから心(靈)が進化していく過程では、失敗の体験も必要で、低い人は本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)に執着して、そのために自分のエネルギーを贖う(あがなう)。 またそれが人生においての成功だって思う。
 でもそれは“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではない”っていうローム太霊の言葉をよく考えれば、自分の中に確固たる“善(神格化の方向性と智性の受信)”の基準が出来たなら、それは、自我の肥大による自分にとって都合のよい考えを自分に許さなくなる。 
それが○○○大先生の概念の“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ね。
 それを持たなければそれは、この章でローム太霊が言っている“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて”ってことには成り得ないのね。
 だからこの文の中でも“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”…それと、さっき思ったように“初めて自分の最大の力を発揮することが出来る”…そうなっていく。 
そしてそれが、“そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”にかかっている言葉で、特にこの文の“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力”って言うのは、○○○大先生とKellyさんがよく使う、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”ってことで、“創造”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=心(靈)の動きによって成されるってことでもあるのね。
 そしてローム太霊がこの章でS会=紫光会の会員に伝えたかったって思えるのは、“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”…これも深い言い回しだけれども、やはりそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”であり、それは自分の心(靈)の中の善の概念の確立でもあり、その概念を自分の基準とするのが“凡ての人間に課せられた義務”…そうなってくれって言うのがローム太霊の伝えたいことなのね。

 …ふう~~、今回もそんなに長い文章ではないのだけれど、とてもたくさんのことを考えるわね…この続きはまた考えるとして、今日はこれくらいにしておくわ。

(“その四”へ続く)

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その四”


 この間考えたこと。 
それは、ローム太霊の言い回しの“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”。
それと、“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”。 だからこの言葉は、自分の心(靈)の中の善の概念、言い換えれば自分の認識として確立するみたいなことだと思うのが正しいと思う。
今回考える文章は、まさにこの続きみたいなものね。

人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。 それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来るのである。 その行為の一つ一つは陰徳となって現れ、倹約となって現れ、奉仕となって現れ、また感謝となって現れるのであって、人間各自が全生命をその中に注ぎこみ、病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ、真の幸福がそこに現われてくるのである。 汝等は人間の心の偉大さをよく知り、神の道一筋に進んで行けば、必ず行業の目的の一端が達成されるものと思う。

この文の“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。 それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来るのである”これは、人間の存在の意味と意義を示した言い方だわ。 
私たちが住んでいるところ、○○○大先生やKellyさんの言い方なら位置している事象、その事象を良いカタチにすることが、この間考えた“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”であり、またこの文の“自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来る”っていうことになる。
そしてこの文の“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところ”、神は人に何を望んでいるのか? 私たちはそのことを意識しなければならないのね。 
そしてそれは、どうして人間が神を認識するのかって事でもあるけれど、神を認識すること自体が自分の中に善を確立するみたいなことね。 
そして自分の善が顕れたならそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”になり、さらに自分以外の人の善の認識に触れたなら“ほかの人のよいところの真(まこと)”って感じ(感じる磁性)られるのね。
それはこの文の“その行為の一つ一つは陰徳となって現れ、倹約となって現れ、奉仕となって現れ、また感謝となって現れる”…これは、○○○療院のホームページのメールフォームにも使ってある言葉の“世為人為”で、○○○大先生はこの言葉に対し、この事象に対する奉仕って解釈をしている。 
でも、“この事象に対する奉仕”っていうのは、ちょっと間違えやすくって、本当の意味は、多くの人の霊的成長を望むことね。
だからそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”を行使する人が行う生業(なりわい)は、神を意識し、神を認識し、神、対、自分、それは自分の霊的成長を認識するって事にもなる。
それが“行業一致”って言葉の意味の一環かもしれない。 
だから、自分が持っている能力を生かすのが仕事だけれども、そしてそれは“行業一致”の生業(なりわい)でもあるのだけれど、ローム太霊がローム太霊講話集のこの項目で述べているのは“尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない
この文の中の“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”これを考えなければならないのが人間の使命といえるわね。 そしてそのことを理解して業行を頑張れば“尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれる”って言われてるし、これはオーラでもあるだろうし、高い存在の憑依、“力”を加えてくれるってことでもあるのね。
 だから自分の“尚一段の行業一致のひたむきな努力”は、自分の心の在り方も大事だし、エネルギーを贖う(あがなう)ことも大事。 そうやって努力すれば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がある。
 でもその反対みたいなことが“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”ってことで、それはただ儲けたいとか、自分の欲望の達成のためにしかエネルギーを贖わない人、それは間違いなく霊的成長度が低い。 先生やKellyさんの言い回しなら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ね。 当然そんな人たちには“自分の真(まこと)”なんて無く、だからローム太霊は“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて”って言っていて、それは解っていないからあえてこういう言い方をしているとも思えるわね。
 だから人間は、“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”、このことを良く知っておかねばならない。 
 それがまた、“神の望まれるところ”だろうし、何回も思い出すけど“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”  この文の中の“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”でもある。
 人はそう在るべきであるって言うことをローム太霊は言っている。

 …この間Kellyさんと話したことの要点は…。
(Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その一” のこと)

“K地はんの会社が、右往左往ではなく、左往右往の“行”をしている傾向があるからやないんでっか。
 それはつぶれるところはどんなことをしてもつぶれる。 そやけどつぶれへんところはどんなに危機的状況におちいったとしても、つぶれへんと思いまんねん”

それと、“今後のよいカタチの“創造”にかかわってる仕事は、どんなに危機になったとしても、それは神さんが必要と認めてる”。

それと、“人の仕事に対する考え方っていうのんは、やはり霊的成長度の“上”“下”においていろいろある”。

それと、“霊的成長度の低い一般の人たちっていうのんは、ただ儲かればエエとか、自分たちだけ幸せであればエエとか、そういう考えの元に価値観ってものを構築している。
それはただ低い、低すぎるから、低い霊的成長度の人が作ってきた文明だからこそ文明は壊滅するっていうのが先生の考えでもあるけれど、文明の壊滅そのものが自省(胸の磁性“十”)の“行”であることなんて、大概の人が実感を伴って思わへんもんでんねん”…これはローム太霊の言い回しなら、自分の認識の中に“真心(まごころ)”を持ってない人のことでもあるわね。

それと、あるプロスポーツについてこんなこともKellyさんは言っていた。
“神さんの目から見て価値のあるもんやったのか? スポーツでたくさんの収入を得ることが価値のあることやったのか? いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか? ほんでから大して価値の無いことで金を沢山得るっていうのが正当な報酬やったのか?”
 …これは事象に対する奉仕ではないわね。 単なる目先の喜びを供給しているだけなのだから。

 だからKellyさんはこんな言い方もした。
““上”から見てどうでもエエことっていうのんは、霊的成長に結びつかないことを大げさに取り上げて、そして付加価値をつけたくさんの(通貨としての)金を取る。 それは“上”から見たら正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか? そやから、人間の認識を獲得する作業としての、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするって過程があるんやけど、右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへんってことでもある”…まったくその通りね。

 だから“行業一致”は、自分の心に“真心(まごころ)”を持ち、それを顕したならば、“国家を立派にし世界を立派にすることが出来る”ってことになるけれど、今、そんな人は少ないし、一般の価値観って言うものが低すぎるから先生もKellyさんも憂いているし、 それはこの間のKellyさんの言葉を借りれば、こういう言い方になる。

“右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへん”。
 
 だから、Kellyさんの言い方の天の御目(あめのおめ)、それとこの間私がちょっとだけ考えた絶対の善、それとこの項目の“真心(まごころ)”…それぞれ言葉が違うけど、それは自分の行動の指標にするべき自分の認識って事でもある。
 だからこそKellyさんは今後=アセンション後にも必要な仕事とか必要な“力”とかの概念を持っているのね。 
それを私に話そうとしたから、ローム太霊講話集188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 の文章を引用した…。  
 でも、ローム太霊講話集のこの項について、私自身がこれくらい考えれば、今後Kellyさんと会ったときには、たくさんの話が出来ると思う。

 それではKellyさんにメールして、待ち合わせをすることにするわ。
(“その五”へ続く)
 

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その五”


「こんにちはKellyさん」
「こんにちはでんねん」
「この間Kellyさんとお会いしたとき、Kellyさんが指摘してくださったローム太霊講話集の、第五十七話 行業一致の一途の努力 この文を読んで、たくさん考えて、私なりにいろんなことを思ったのです。 まずそれを聞いていただけますか」
「オッ○―牧場でんねん」
「まず思ったのは、“自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味する”、この言葉について考えたのは、自分たちが持っている“力”を全力を尽くしてっていうよりも、○○○大先生やKellyさんがよく使う表現なら、自分が持っている持っているエネルギーを、可能な限り、贖う(あがなう)ってことですよね。 それを言い換えるなら、死ぬほどの努力ってことで、いったん思い立ったならそれくらい頑張れってことですね。
そしてローム太霊は“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”とも言っていて、だからその一途な努力をする人間なら、神が望む人間であり、またそれは、神が認めうる人間ってことになる」
「そうでんな。 そう思いまんがな。
 そやからそれは、神さんが認めない人間っていうのんを考えれば、分かりやすいでんがな。
大体、人間っていうのは、すぐ楽しようとかって考えるし、ほんでから最小限のエネルギーの贖い(あがない)でたくさん儲けようとかする。 大体こんな発想をする人間は、自分の“力”を人に役立てようなんて考えは持っていないって思いまんがな」
「そうですね。 
自分が頑張る事、自分がエネルギーを贖う事、これを忘れて、最小限の労力で金を儲けて自分の低い欲望を達成しようとする。 
そしてその欲望っていうのは八戒(低い欲望に対する八つの戒め)でしかない。 そんな感じですね」
「そうでんな。
たとえばそれが、投機とか、アフィリエイトとか、大して効果を期待できないどうでもエエ物をほんのちょっと変化があったことを大げさに効果を吹聴して、高い値段をつけるサプリメントとかダイエット関連商品とか健康食品とか美容とか美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)の関連商品とか、ほんでからお酢とか雑穀米のコマーシャルなんかも目に余るもんがあると思うけど…」
「そうかもしれませんね。 コマーシャルに限らず最近のテレビはひどいですね」
「まったくそうでんな。 どうでもエエお笑い番組とか、小さなことを針小棒大に扱って人目を引くような事ばかり放送しているバラエティとか、そんなものばかり見ていては、地球の現状が恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちているなんてことには気がつかんし、たとえ少し知っていても、自分たちがその事について真剣に考える時間を与えないと思いまんがな。
 そやからテレビばっかり見ているとアホになりまんな。
ほんでからK地はんがコマーシャルのことを言うたけど、もっとひどいのはどうでもエエ娯楽。 射幸心を煽って金をふんだくって、さらにどうでもエエ時間をすごさせるとか…いったいこんな事をさせている霊的存在の思惑っていうのんは、なんやろって思いまんがな」
「そうですね。 
ですから今のテレビの話でもそうですけど、楽しようとする人間、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ことをしない人間、うまい事やって儲けて、自分の低い欲望を達成しようとする人間。
それがローム太霊の言葉の“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである。”と、もうひとつ、“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”に相当することでもあるのですよね。
それはKellyさんと、今回の件で話をし始めたときにも、自己奉仕者の心(靈)については少し話しましたよね。 
でもKellyさん、こんな事は今の話の例だけではなく、いちいち例を挙げていたらキリが無い。 今そんなものが多すぎる。 
そしてそれらは、神から見たなら、卑しく醜いってことまで思わせる。 自分が大して頑張って(元の気を張って)いないのだから」
「そうやな」
「だからローム太霊は、人間にもっと育って欲しいからっていう気持ちで述べていることもある。
ですからそれは“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる”…この文の中の“自分が考える善において得ればよい”、これは大事ですよね。 
ですから、大概の人は今、儲かりさえすれば多少の悪には目を瞑ったり(つむったり)もする。 
そしてそれらで得られた報酬で、目先の欲望が満たされていれば、幸福だって思っている。 またそれが幸福だと思い込んでいる傾向もある。 
でもそれは自己奉仕者が思う低い幸福の概念でしかない。 
それは○○○大先生の本の<4><5>で、Kellyさんと先生がたくさん論じている事でもあるのですよね。 
要は、どんな心(靈)の動きをしているのか、どんな程度の心(靈)の発現の人が、今、活躍しているのか。
ですからそれは、霊的成長度の高低ってこともあるけれど、低すぎる人が多いからですね」
「そうやな。 この世界のほとんどの人は、自分の目先の欲望しか思っていないに等しい。 その霊的成長度の心(靈)が“創造”する世界だから、この世界は、今、ダメな方向性に向かっているけど、それがなんとなく判っていても無視している人のほうが多いでんな」
「そうかもしれませんね。 
この世界がダメな方向に向かっている事をしっかり理解するには、どんな心(靈)の動きの人が活躍しているのか、その心(靈)の動きの分析が大事で、実際の事柄を観察しているだけでは、ただ、あれは良かったとかあれは悪かったとかって思い方しかしない。 
でも、自分がそうやって思うのは、自分の心(靈)の中の基準で、自分ならこんな事はしないとか、こんなことは悪だから、自分には出来ないとかって思う事が大事でしょうね。 それが“各の個人が良心によって定める善悪に従って”ってことでしょうし…」
「そうでんな」
「…それと、それ以外にも思ったのは、“自分を小さく見すぎているのであって、物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれるのである。 それがロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものである”、
それと、“汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれる”とも言ってくれている。 
特にこの言葉から感じるのは、“上”の憑依ってことで、自分の一途な努力をいつも“上”は見ていて、その努力は自分の心(靈)の動きだからこそ、オーラに表れ、それは貴いオーラでもある。
また一途な努力と、ローム太霊の言葉の“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”ってことが、“必ずその身に光を現してくれる”ってことでもあると思う」
「そうやろな」
「そして“光を現してくれる”、これがまた、○○○大先生やKellyさんが使う言い回しの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもあるし、その、自分の中の善の基準を守った息吹に応じて“上”は憑依して“力”を加えたりもする。
 そしてその双方の“力”の顕現は、○○○大先生の言い回しでもある、“力”=力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含むってことでもある。
 だから、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 の最後に述べてあること、“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。 それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にして”って言われてて、これは人間の在り方ってことですよね」
「そうやな。
そやからもうK地はんには分かってると思うけど、大事なのは、自分たちの“思惑の顕現”=現象化ってことで、それも、ローム太霊さんの以下の言葉に述べられているやん。
神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことや。
そやからちょっと繰り返しになるけど、“思惑の顕現”=現象化は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”でもあり、自分たちの心(靈)の動きに応じて創られるって言ってもエエことでんねん」
「そうですね。 
そしてその言葉にかかっているのは“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。”って事でもある。
 だから“真心(まごころ)”と“真(まこと)”って言い回しをしている」
「そのとおりやと思いまんがな。 
ほんでから現状の人間の大多数はこの“真心(まごころ)”と“真(まこと)”なんてのを言葉でしか知らん。 
 そやからこそ、ローム太霊さんがわざわざこういう言い回しをしたと思えまんがな」
「そうですね。 
ですからそれは、○○○大先生やKellyさんが憂いているとおり、今の世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人たちが大多数。 
そして自分たちの成長とか、大体霊的成長って認識が無いですよね。 
ですから、人間が神に近くなっていくのには、多大な苦難を体験したり、試練を通じて認識を拡大したり、それがまたある意味“行業一致”の“”の一側面でもある。 
“行”が進んでいけば、霊的成長するならばって言い換えてもいいんですけど、それは自分の行動の基準っていうものがしっかりしていくっていうのか、神が望んでいるのは、さっき引用したローム太霊の言葉の、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことですよね。
でも今の人間の大多数は、こんな認識を持っていない。 目先の欲望の達成しか考えていない。
だから私的には、こんな事も考えたのです(“その三”より引用)。 


“それは、○○○大先生の定義付けた心(靈)の動き、そしてその構造と発現、それは、下から=進化過程の低いほうから、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性。
 ○○○大先生は、先生の本の文章中で、低い本能しか発現していない、ミミズ、ヒル、ゴカイ君をよく引き合いに出していたけど、人間の場合、自我の確立=固定化の心(靈)の人は、自分のことしか分からない。 
 それは言い換えれば自分の欲望がすべて。 
 その認識の元において、自分の価値観や幸福感を構築しているからこそ、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”の“個人が良心によって定める善悪”も、低いって思えるわ。
 だからローム太霊は絶対の善みたいな言い方はしていない。 たぶんそういう理由。  だから、自分たちの認識の程度に応じての善悪の基準は、個人個人の霊的成長度の度合いにより違うのね。 だから、私から見れば自己奉仕者の善悪の基準は低すぎるっていえるけど、自己奉仕者の人たちは、自分たちの行いが悪だなんて思わず、あるいは少し良心の呵責を感じたとしても無視する”……って」
「そうやな。 
K地はんが考えた“絶対の善”、今の地球人にはこんな言葉や概念には到底縁が無いみたいなもんでんな。 
そやから自分の心(靈)が霊的成長していくならば、愛(炁)の顕現の仕方も思う。 それは“力”の使い方を思う事にもなる。 
さらにそれは、自分がなにを思い、どう行動するのか、言い換えれば自分の在り方を観るってことにもなるけど、言葉でこれを説いても伝わりにくいでんな。 
だからその点でも、自己観察って言うのはとても大事で、その自分が観察している心の中に、自分なりの“個人が良心によって定める善悪”を見出していく。 
 そうなれば、自分に、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さないもんやけど、大半の人はそんな事まで深く考えていないから、自己奉仕者の行いをなんとなく許しているみたいなもんで、それは、金持ちが幸福、金持ちになるためには多少の悪に目を瞑るとか、だから大義名分を振りかざすって事もするやろし…そやけど話がそれてまんな」
「いえ、その話も大事だと思いますけど、今はもう少し私が思った事を聞いてください」
「承知しましてんな」
「それと、大多数の人間に、神に認められるべき行いとかそんな概念は無い。 こんな事は宗教で説かれていることなんでしょうけど、宗教関係者が自己奉仕者だから、口先だけで金儲けしかしていないから、きちんと伝わっていないですよね。
だから私的に思ったのは、神に認められる人間は“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”する人間でもあるだろうし、“それをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”人間でもある。
 しかし、今はこんな人間はいない。 
だからローム太霊は“その行為の一つ一つは陰徳となって現れ、倹約となって現れ、奉仕となって現れ、また感謝となって現れるのであって”って言っているけど、これは、これが出来ている人間がいないって事でもあるのですよね。
それは言い換えれば、“陰徳”を積んでいる人間はいない。
贅沢ばかりして自分の欲望を満たす事ばかり思っている人間が大多数だから、“倹約”ってことを考えない。 
またそれは、S会=紫光会の経文の中の言葉、“世為人為”を考えない。 恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているような“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方しかしていない人が大半だから、世の為人の為ではないことは、一目瞭然ですよね。 
 だからこそ、自分の“力”を自分の欲望のためにしか使っていない人間が多いからこそ、この文の“奉仕”ではなく、だからこの世界には、本当の意味での“感謝”もない。 
ひどいのは、感謝って言葉を売り物にして、人に甘い夢を見させたり、低い功名心と自尊心をあおっている人もいるし、そんな本やDVDはよく売れていたりもする」
「まったくそうでんな」
「ですから、先生がいつも言うことですけど、ほんのちょっとの金を、飢餓貧困の救済に充てたなら、恨みの連鎖の霊的干渉は減るし、その事自体が地球人の考えるべき事でもある。
 ですから、その事を真剣に考える事のできる智性を持っている人は、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた場(フィールド)を“創造”しない。 
そしてその事が、自分たちの住む世界を良くしていくことである。
でも、今、それが出来ていないから、恨みの連鎖の霊的干渉で自分たちの首を閉めているに等しいって言い方をしますよね。 でもこれは事実ですよね。
そしてアセンションは、地球って生命体の霊的成長にかかわることだし、ですからそれは宇宙的なことだから、一人ひとりの霊的成長を待っているわけにはいかない。 
だからこそアセンションっていう事象は、自己奉仕者と奉仕者を分ける。 
またそれは、霊的成長度において分けなければならないことでもあるし、霊的成長度は行動を見て、その行動の理由、根拠、それが心(靈)の動きなんだってことを知らなければならないし、だから自分の欲望とか自分が持っている“力”とかってことを、自分自身が良く考えなければならない。 
それは、自分の欲望は、愛(炁)の顕現でもあるけれど、霊的成長度の低い人は、自分に対しての愛(炁)しか考えないから、自分が楽しみたいとか楽をしたいとか思うし、また自分の欲望は、S会=紫光会で引用された八戒って段階の心(靈)の動き由来の事しか思わない。 それはよく一般にいう、飲む(飲食に対する自戒の無い欲望)、打つ(ばくち)、買う(性的なこと、性を貴いと思わないで欲望だけ満たす)でもあり、大概の金持ちや、形骸の名誉を獲得した人っていうのは、これが動機の行動をして仕事をしてきている人が多い。 
だから、今、成功者って誉めそやされている人は、ほとんど自己奉仕者でしかないんだって先生は力説しますけど、先生がそう語る理由は、このことをよく理解したなら、アセンション後に移行できる人が多くなる。 
先生はそれを期待したからこそ、ブログを始め、そしてそれを本という形にもした。 でも、このことを読み取っている人はごく少数でしかいないっていつも嘆いています。 手遅れだって言ってますね」
「それはKellyさんも同感でんねん。
 ほんでからローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 を、K地はんが読みはって、“絶対の善”なんてことを思うのは、K地はん自身が左往右往の段階に入ってるからやって思いまんがな」
「そうかもしれませんね…その事はKellyさんにこの間、指摘されましたね。 あまり自覚は無いんですけど…」
「そやからK地はん、もう少し具体的な事柄を話してみて、人の心(靈)の動きや、心の動きに応じての霊的干渉、そして恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、それは悪霊の“思惑の顕現”=現象化でもあるけれど、それをもくろんでいる“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑とか計画とかを、二人で考えてみたらどないでっしゃろか?」
「そうですね。 その事をKellyさんと話せば、もっとお互いの認識は深まっていくかもしれませんね。
 でもKellyさん、その前にちょっと一服して、大盛りシ○○○ールはいかがですか? ご馳走しますよ」
「それはありがたいでんな。 Kelly ヨダレ垂らし中
ご馳走になりまんねん。
そやったならコ○ダにいってから、話の続きをしようやおまへんか」
「承知しました。 それでは行きましょう」

(“その六”へ続く)

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その六”


……KellyさんとK地さん、大盛りシ○○○ール食べながら会話中……

「Kellyさん、Kellyさんが指摘してくださった事があって(“その一” 参照)、それで私が改めてローム太霊講話集の、第五十七話 行業一致の一途の努力 を読んで思ったのは、コ○ダに来る前にも言いましたけど、やはり“絶対の善”ってことなんですね」
「そうやな。 その認識にいたることが大事やと思いまんがな。 
そやから、ローム太霊さんがローム太霊講話集のこの項目でいうてることは、K地はんが思いはった“絶対の善”、このことを自分たちの理念にしろって事やとも思えるでっしゃろ」
「そうですね、そのとおりですよね。 
ですから、ローム太霊がローム太霊講話集のこの項目で始めに述べている事として、“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる”、まずこのことをよく理解してくれってことでもあると思うのですけど、これは、仮に、人間が善を行使しているとするならば、善を理念として生きているとするならば、こんな言い方はしないと思うのですよ」
「それはKellyさんもそう思いまんねん。 
そやからK地はんが思ったとおり、今の世界の人間の善の認識は、低すぎまんねん。 言葉だけしか知らんに等しいってことでんねん。
そして善の認識が低すぎるからこそ、自分たちに都合のよい解釈をしている事も多いやん。 それがたとえば、前のブログで先生と話した事やけど、どっかの大国の正義だったりもして、正義って言葉を振りかざして戦争を仕掛けて兵器産業で儲けてたりもする。 
ひどいもんでっしゃろ」
「そうですね。 許せない事ですけど、地球人はこのことを大々的に問題にしていない。 善の認識なんて、まったく無いに等しいですよね。 
ですから自分たちに都合のよい正義、自分にとって都合のよい解釈ってことが、すでに、“絶対の善”ではない。 
 当たり前ですよね。 
 またそれは、まさに“日月神示”表記の“われよし”ですよね。 
そしてそれは自我の肥大でもあるし、先生とKellyさんの解釈の“石屋の仕組み”で、この言葉そのものが、地球人の霊的成長度を指し示している。

(注 “石屋の仕組み”は、帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”を指し、マニピューラチャクラの覚醒段階の心の発現でもある。 その心(靈)の発現の段階=その霊的成長度では、智性(神性)や“慈悲”と“慈愛”が、あまり無いからこそ、自我の肥大におちいる)

だから、今の地球人は認識が低い、それは言い換えれば霊的成長度が低い。 
そして低いままではいけない。 
だからこそ、ローム太霊は、この項目で、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。” って、言っていると考えられますよね」
「そうやと思いまっせ」
「ですからそれは、善の認識が低いっていうのは、前のブログで先生とKellyさんが話していた低級な欲の振動で出来た世界ってことになっている。
だからこそ、この世界は失敗の世界で、文明の崩壊っていう失敗を体験するからこそ、今後の自分たちの在り方ってことを思う事ができる。 
それがアセンションに伴う事象でもあり、自分たちの心(靈)の動きの結果でもあるし、またそれは、ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往ですよね。
だから右往左往と左往右往して、低い認識の心(靈)は、だんだん高い認識を得ていく。それはまた、“善”を深く認識していくっていってもいい。 …っていうか、認識していかなければならないのですよね。
 それでローム太霊は、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”とか“個人が良心によって定める善悪”って言い回しをしていると思えますね。 
ですからそれは、自分でしっかり考えろってことですよね。 
だから、自分が善を考えれば、それは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になる。 またそれ自体がオーラの発振、発信でもある。
そしてその心(靈)の動きに応じて、霊的存在の憑依や通信がある。 
ですからそれは、自分の心(靈)の動きに応じての霊的干渉ってことで、先生やKellyさんのブログで何回も説明されている事ですけど、常に自分が善を意識していけば、善の心を持った高い霊的存在がかかる…感応共振するってことですし、それが“上”でもありますよね。
そしてそれは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在との感応共振だからこそ、自分の心の中の善の認識は、通信を受けたりもして高まっていくものでもある。
でも今は、その逆みたいなことが当たり前。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が多すぎるってことを思いますよね。 
それと、地球人の大半は、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になっているっていうのが先生とKellyさんの意見でもあるけど、まったくそのとおりだと思いますよね。
それで悪魔の思惑っていうのは、私として思うのは、霊的成長のために神が人に教えたもの、それは先生やKellyさん的な言い方としては、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から“下”である人(日止、霊止)に教えた事、その価値のあるものを価値の無いものにして、結果として人の霊的成長を妨げる。 
その事も先生とKellyさんは前のブログで問題視した。 
ヨガの言葉のクンダリーニとか、チャクラとか、その言葉だけ利用している人、現世利益で人を釣る形骸の宗教、同じ動機の低級な事象霊能力者、また問題なのは、唯一、ローム太霊が伝えた“主護霊”のことを守護霊と言い換えて、“主護霊”の認識を低いものにしたこと、大体“主護霊”の概念も、みんな自分たちの都合のよいものになっている。 
このことも例を挙げていくとキリがないですね。 
そしてこれも、“日月神示”表記の“われよし”って心(靈)の動きですよね。
そして言うまでも無くその裏には、(通貨としての)金に対する執着がある。 金儲けの道具にしてしまっている。 
悪魔のささやきですよね。 
だから、悪魔っていうのは、人の低い欲望を煽り(あおり)、人の低い功名心と自尊心を煽る。 そんな甘いささやきに乗っている人が多いし、それは悪魔の思惑に同調している悪霊の通信を受けているって事なんでしょうけど、ほとんどの人がそれに気づかない。
話がそれてますけど…だからそれは、貴いものを自分の都合よく利用して金儲けに利用したり、低い功名心と自尊心を満たすものにしている。 
そこに善なんてまったく無いですよね。
そしてこれらの事を、ほとんどの人が問題視していないし、何が正しいのか何が間違っているのかすら考えていない。 …考えようともしないですよね。 
だから私が、今、例に挙げたヨガ、宗教、“主護霊”のこと、すべては人の霊的成長のために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が教えた事を、間違ったものになっていても、たいして誰も問題視しないのは、善の認識が無いし、考える智性(神性)が無いっていうのか、なんとなくそんなもんなのだって思っている人が多い。
それは、霊的成長度が低い、善の認識が低いっていうよりもほとんど無い、ですから、幼稚っていうのが妥当なのかな…」
「そのとおりやと思いまっせ。 
そやから今K地はんが言うた“幼稚”っていうのは、先生的な言い回しならば、智性無き心でもあるけれど、子供の浮遊霊や家畜の浮遊霊の憑依による感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)やと思いまんねん」
「恨みの連鎖の霊的干渉の結果ですよね」
「そうやな。 
そやからこそ一般の人の善の認識も低いし、何が正しいのか何が間違っているのかすら考えんし、それ以前に自分たちは何のために生きているのかすら考えてない。
そやから今回話題にしている、ローム太霊講話集の、第五十七話 行業一致の一途の努力 には、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”の、“凡ての人間に課せられた義務”と、この言葉にかかる言葉として“考えの現われを現界に残してゆく”で、これにかかる言葉が“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し”ってことになると思いまんねん。 
またこのローム太霊さんの言葉は、人はそう在らねばならないっていうことや。
  大事な事やと思うからもう一度繰り返すけど、この言葉の中の“凡ての人間に課せられた義務”は、“考えの現われを現界に残してゆく”って言葉にかかってて、それはこの文自体の、はじめの“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来る”ってことでもあり、またこのこと自体を自分が“よく見通して”ってことは、よく認識しておかねばならないってことでもある。
だからこれは人間の使命みたいな事でもあり、その事を指し示している言葉が、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力”でもあると思いまんがな」
「この“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力”は、自分の思想や考えをこの世界に活かしていく、それは、先生やKellyさんの言葉なら“思惑の顕現”=現象化でもあるし、事象の“創造”は自分の心(靈)の動きの反映でもあるってことですよね。 そしてそれは、霊的成長度の低い心(靈)の“創造”は、ダメな世界を創った。 今の世界ですよね」
「そうでんな。 
そやからローム太霊さんは“考えの現われを現界に残してゆく”の、言葉の中で“現界”って言い回しをしてるけど、それはこの世界における事象のことやし、言い換えれば自分たちが見ている現実そのものや。
ほんでからに事象の“創造”っていうのんは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じてなされていく。 この事はK地はんはもう理解していらっしゃると思うけど、霊的進化程度の低い人は心が低い=霊的成長度が低いし、そやから、低い人は低い事象を“創造”するってことも前のブログやこのブログでも何回も言うてきている。
だから、自分たちの心(靈)が霊的成長すれば、この世界は良い世界になるっていう簡単な事なんやけど、幼稚な心(靈)の人は自分の欲望しか思わへんから、この世界そのものを腐らせている。
その幼稚さの原因、恨みの連鎖の霊的干渉による子供の浮遊霊と家畜の浮遊霊の霊的干渉、その実態、私たちはそれを知らんならんやん。 
それを知ったなら自分の心(靈)の動きに活かす事が出来るやん。
自分たちはどう生きるべきなのか、今、この、瞬間、瞬間に、何を思い、どんな行動を起こすべきなのか、考える事が出来るやんか。
そやけど大概の人は目先の欲望しか思っていない。 
また、そう仕向けることが悪魔の思惑でもあり、その具体的な仕組みが、幼稚な心(靈)との霊的干渉=恨みの連鎖の霊的干渉でもあるやん」
「そうですね、そう思いますね。 

今日は有意義な話が出来ました。 今日話した事を思い返していろいろ考える事にしますね。 
それでは失礼します。 ありがとう、Kellyさん」
「(…Kellyさん的には、まだ言いたい事があったんやけどやけど…)ほな、さいならでんねん。 大盛りシ○○○ールごちそうさんでした」

(きっとK地はんは、何か一人で考えたい事を思いついたんやな。 
まあエエわ。 
K地はんの善の認識は結構高いやろから、いろんなことを見てK地はん自身が思う事は、K地はんの善の認識がたかまることになるやろから)

(“その七”へ続く)

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その七”

……農業好きの社長婦人、K地M美さん、コ○ダから帰宅してぼやき中……


 この間からKellyさんと話しているテーマとしての“行業一致”、そしてKellyさんはS会=紫光会の経文、四空経録から、“世為人為”って言葉を引用して話をしている。
 Kellyさんとこの話をし始めたとき、Kellyさんは私に何を伝えようとしたのか、なぜローム太霊の言葉、“行業一致”と、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”って言葉を引用したのかってことを思うけど、それは私がローム太霊講話集の188ページからの、第五十七話 行業一致の一途の努力 を読んで、いろいろ自分なりに考えて思ったこともある。
 人が仕事をする事、業務の“業”は、生活に必要な事でもある。
またそれは、今の社会通念として、既成概念として、生活のため金を得る事でもある。 でも、(通貨としての)金を得る事しか考えていない人が、自己奉仕者の心(靈)の動き=欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしている。 
これは明らかに“世為人為”ではないし、この言葉に対して○○○大先生は、○○○療院のホームページのメールフォームのあるページで“この事象に対する奉仕”って言っている。
だから、業務の“業”、人は何のために仕事をするのか? その事を思い起こさせる文章が、ローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 でもあったわ。
 だから(“その一”で)Kellyさんにこの項目の文章の一部を指摘され、それを踏まえて私がもう一度この話を読んだ。 
それで私は、“絶対の善”なんてことも考えたけど、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が通信を送ってきているからこそ発想したのかもしれない。
 それは人の進化過程、○○○大先生やKellyさんの言い回しなら、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、チャネラーが使う表現としての第三密度から第四密度、アミシリーズの愛(炁)の度数。
 そして○○○大先生やKellyさんは、人が進化したならば、自己奉仕者ではなくなるって言う。 またこの事自体が、進化の順番でもあるって言う。
そして今、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が低いから、自我の確立=固定化の段階の心(靈)が自我の肥大をして自己奉仕者になり、内在する悪に囚われるから、“善悪”の基準を無視して自分の利益や低い欲望を追求する。
これも重要な進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だって前のブログであの二人は言っているし、今の世界は低すぎる人が多いから“玉石混交(淆)”だとも言っていた。
 だからそれは“善”が、行動の根拠になっていないともいい得ることなのだし、(“その二”で)私は“それは正しくない…神が認める所業ではない”なんて発想もした。
そしてそれは、自己奉仕者の心(靈)は進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が低いから、“善”と“悪”の基準を事象に活かしていない。 言い換えれば“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識が無いって言いうるのね。
そして今は、(通貨としての)金を得る事を中心にしか考えていない自己奉仕者が活躍しているし、その結果として経済は発展した。
また、経済が発展した国は、どうでもいいことばかり追い求めている感がある。 
ファッションとかグルメとか、○○○大先生の口の悪い言い回しを借りれば“何をたいして美しくもないものを守っとるんだ”っていう美容や美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)関連の通販の商品とか…通販で思い出すのはやはりどうでもいい化粧品とかサプリメントとか、通販ってことで思うのは、テレビが自己奉仕者のものに成り下がっている感がとても強いわね。 だからテレビには、その場限りだけ楽しい気分にさせるとか、どうでもいいことをエモーショナルに訴え、視聴者がその場限りの感傷に浸るとか、(“その一”)でKellyさんが指摘した(通貨としての)金が動きすぎるプロスポーツとか、特にプロスポーツなんていうのは報酬が大きすぎる感があるし、またスポーツを生業(なりわい)にしているのは、土=2~3番目のオーラの進化過程でもあるのね。 
他にも、どうでもいいバラエティとか、芸人がどうでもいいものを見せて笑わせるお笑い番組とか、さっきも思ったけどファッションとかグルメとか、ほかにもペットとか、数字を取るための番組っていうのはパターンが決まっているし、そのための番組作りしか行われていないし、番組を作らせるのに影響の大きいテレビのスポンサーは、どうでもいいサプリメントとか美容や美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)関連の通販のコマーシャルばかり流すし、そしてどうでもいい娯楽を追い求めさせるスポンサーもあるわ。 
だから、数字を取るためのどうでもいいテレビ番組は、人に真剣に生きる事を考えさせないし、視聴者にどうでもいい事ばかり追い求めさせている。 
これは決して“世為人為”ではないわね。 当たり前なんだけど。 
そして、テレビばかり見ている人にそんな認識はない。 認識が無いから業務の“業”に自分の生き方を追い求めるなんて考えはないわね。 これも当たり前ね。 
今、私が思ったのはテレビの事だったけど、今の地球人はほとんどの人が進化程度が低いから、心の発現が低いから、心(靈)の動きが低いから、どうでもいいことを求め、それがすばらしい事だって思い込む…思い込むっていうよりもそれ以上のことを考えていないってことね。 自分たちが楽しみ、自分たちの低い欲望しか認識が無いっていうのが妥当ね。 
 だからそれは、進化程度の低い心(靈)で、低い心(靈)は低いものを求めるけど、自分たちが低いっていう認識も視点も観察眼も無いのね。
前のブログで、○○○大先生とKellyさんが“事象の形骸化”ってことをかなり長く話していたけど、薄っぺらい幸福の概念、(通貨としての)金と物欲中心の価値観、これは霊的成長度が低いから物事も見方が低いってことをあの二人は何度も言っている。
それは今の地球人がもう少し進化したなら、今と違うものを追い求めて行くってことも示唆しているのだろうし、私たちが自我の確立=固定化から、右往左往して、それから自分の在り方を観る意味での左往右往をしたなら、自分の生業(なりわい)に対しても考え方は変わる。
それは、Kellyさんが指摘してくれたローム太霊講話集の第五十七話で述べられているように、“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”の“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”ってことが大事で、この“個人”の“善悪”は、霊的成長度によって違うし、違いすぎる感があるわね。 
だから今、大半の地球人が自我の肥大をしているから“善”と“悪”の認識が低すぎるのだろうし、低い認識の自己奉仕者の人がエネルギーを贖った=努力したから、経済は発展し、人は低い価値観と薄っぺらい幸福感を持つようになったのね。
そして今の地球人が、今よりも進化したならば=自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現したなら、多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を持ち、自分の心(靈)や行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を観るとするなら、ローム太霊が言うように“必ず善において物が得られる”ってことになる。
そしてこのローム太霊の言い回しは、お前たちには“善悪”の認識が無さ過ぎるのだって指摘しているようにも(間違いなく)取れるし、仮に私たちが“善悪”を自分の認識として自分の心(靈)を観察したり、その基準で行動しているならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であるローム太霊は、こんな言い回しをする必要性は無いわ。
そしてローム太霊は、“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。”と述べて、自己奉仕者のことを指摘した。
それと、“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”って言葉を使って、自己奉仕者と“世為人為”を理念とする人の違いを強調しているし、それはこのローム太霊講話集を読んだ人に対し、そうなってくれってことでもあるのね。
だからローム太霊は、ただ単に仕事の事、生業(なりわい)の事だけ述べず、“行業一致”って言葉を使い、業務の“業”と、“行”を一致せよって言っている。 
当然の事ながら“行”は、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の作業でもある。 
でも今考えていたように、大半の地球人は心(靈)の進化程度=霊的進化の段階がマニピューラチャクラの段階だからこそ、自我の確立=固定化から自我の肥大に陥っている人が多い。 
そして一般の地球人には、“行”を実践して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するなんてことを考えている人は少ない。 
ことに“行”を説かねばならない宗教が、金儲けに利用されているからこそ、一般の人たちの“行”に対する認識も低くなっているともいえるし、ただ感謝を述べ、それを繰り返している事が“行”になるっていう感謝行なんて薄っぺらい言葉をもてあそんでいる人もいるし、それに同調している人も多数いる。 なんて認識が低いのかって思うし、こんな薄っぺらい言葉に酔っている人は、真剣に何かを追い求めたとか、真剣に考えるその状況を体験させられたとか=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から試練を与えられたとかの体験の無い人なのだろうし、当然この類の人たちは、今の事象を見て、今の地球を見て、恨みの連鎖の霊的干渉って大きな問題を見出せない。 
それは“事象を観察する視野が狭い”っていう○○○大先生の言い回しを思い起こさせる。
だから、霊的成長度の低い人は、何かを真剣に考えた事のない人っていえるし、何も真剣に追い求めてないからこそ、ありがとうとか、感謝って言葉に酔う。
さっき思ったテレビ番組のことと、そのスポンサーの事も同様の心ね。 ただ雰囲気に酔って無駄な時間をすごしているのだけれど、そういう自覚は無いのね。 またそれが、自我の肥大した低い功名心と自尊心しか持ち得ない心の特徴でもあるっていい得るわね。 結果それは、それ以上のことに気がつかないし、それは、毎日を薄っぺらい感謝って言葉に酔い、この世界全体を見回すこともしないから、安易なスピリチュアルっぽい言葉に酔い、感謝やありがとうって言葉に酔う。
 そしてローム太霊講話集で検索すると、ネット上には、ローム太霊講話集の事を引用しているサイトは結構あるけど、仙人の話を読むとそこにある霊的干渉の在り方を見出せず、ただ仙人になる方とか、金の精の話を読むと金持ちになる方とかって錯覚している人も多いけど、これは自分が“どういうつもり”(自分の心(靈)の動き)でエネルギーを贖い(あがない)、それによる霊的干渉のことをローム太霊は述べているのに、ほんと、薄っぺらい人は薄っぺらい解釈しかしないのね。
だから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としてのローム太霊は、私たちがどうやって生きていくのか、それをローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 で説明しているともいえるわ。 
それは、ローム太霊が言うように、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮す ることが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡 ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”の、“凡ての人間に課せられた義務”と、この言葉にかかる言葉として“考えの現われを現界に残してゆく”べきでもあるし、それが神の望む人間の在り方っていえる。
そしてそれは、“世為人為”でなければならない。 
だから“世為人為”を理念としない人、自己奉仕者は、進化していないから、今後=アセンション後の地球には位置できないっていうあの二人の言い回しはよく理解できる。
そして自己奉仕者が生み出して増大させている恨みの連鎖の霊的干渉、これは私たちが“世為人為”(この事象に対する奉仕)を理念とし、さらに“各の個人が良心によって定める善悪”の認識がたかまり、自分の心(靈)の中に“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”を確立するなら、この世界=私たちが観察する事象は、こんな腐った世界にはならない。 
この世界は腐っているっていうのは、○○○大先生の口癖みたいなものでもあるし、私は何回も治療中にその言葉を聞かされている。 ちょっとくどくてウザイけど…。
それはともかく、今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象は多いと思う。 
 
 いつだったか、風俗嬢が自分の子供を餓死させて、腐乱させてしまったっていう事件があったけど、これは明らかに子供の浮遊霊の霊的干渉によるものだわ。 ホスト遊びに夢中になり、母親としての責任を放棄した…いや、ちがうわ。 母親の責任なんて自覚、認識が無かったのね。 
それは子供の浮遊霊と心(靈)の動きが一緒だったから=感応共振して、心(靈)を乗っ取られていたからなのね。 だから遊ぶ事が第一、とても幼稚な心(靈)に成り果てたっていえる。
その事件から考えさせられるのは、恨みの連鎖を増大させている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑は、人間を幼稚にしてしまっている。 それを目論んでいるともいえる。
そしてそれはさっき思った薄っぺらい感謝や、ありがとうって言葉に酔う人も、とても幼稚だといえるし、件の風俗嬢のことと同じようなケースっていうのか、私の会社にも親が自分の子供に対して責任を放棄したっていうのか、子供のことを大事に思わなかったっていうのか、そんな事があったわ。
それは、中学を卒業してうちに入社した子がいたのだけれど、自分の給料を親に取られていたって愚痴っていた。 その話を聞くと、子供を金づるにしていたような印象だったし、どうも立派な親とは思えない。 
それで、○○○大先生にその話をしたら“親っていうのは子供の犠牲になるくらいの覚悟があってしかるべきでしょう、K地さん!!”って力説していたけど、何を言いたかったのかはよく分かる。 
子供から甘い汁を吸っていた人間は、明らかに自己奉仕者の心だし、自己奉仕者としてもとてもレベルの低い心だと思う。
それは、進化程度の低い動物だって自分の子供を食い物にはしない。
これも今、三秒に一人死んでいる子供の浮遊霊の霊的干渉の結果だと思うし、そして親が子供を食い物にするのは、ものすごく低い心(靈)だっていえる。 動物以下ね。
またこんな人間ばかりを増やし、“世為人為”(この事象に対する奉仕)を考えさせもしないで、ただ自分の欲望を幼稚に追い求める。 
それがまた、自分だけが金持ちになり、自分だけが幸福になるっていう低い考えを持たせる事になっているのだろうし、人間として許せないようなこと、子供を放棄したり、子供を食い物にして甘い汁を吸うなんて人が増える。 
これは明らかに悪魔の思惑だと思うし、それはローム太霊がいうところの、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮す ることが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡 ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”の、“凡ての人間に課せられた義務”と、この言葉にかかる言葉として“考えの現われを現界に残してゆく”べきってことから、とんでもなく外れているし、だからこそローム太霊は、人間の行き先を懸念して“真(まこと)というものを良く知り抜いて”って言っているのだわ。
さっきKellyさんが、コ○ダで言っていたこと。

“事象 の“創造”っていうのんは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じてなされていく。 この事はK地はんはもう理解していらっしゃると思う けど、霊的進化程度の低い人は心が低い=霊的成長度が低いし、そやから、低い人は低い事象を“創造”するってことも前のブログやこのブログでも何回も言う てきている。
 だから、自分たちの心(靈)が霊的成長すれば、この世界は良い世界になるっていう簡単な事なんやけど、幼稚な心(靈)の人は自分の欲望しか思わへんから、この世界そのものを腐らせている。
その幼稚さの原因、恨みの連鎖の霊的干渉による子供の浮遊霊と家畜の浮遊霊の霊的干渉、その実態、私たちはそれを知らんならんやん。 
 それを知ったなら自分の心(靈)の動きに活かす事が出来るやん。
 自分たちはどう生きるべきなのか、今、この、瞬間、瞬間に、何を思い、どんな行動を起こすべきなのか、考える事が出来るやんか”

 …この言葉を聞いて、私はいろんなことを思ったから席を立ったのだけれど、話の途中で席を立ってしまった感があるわ。 
だからもう一度Kellyさんを呼び出して、コ○ダから帰って思ったことも話してみたいわ。 
 …このところちょっと寒くなってきたから、今度は大盛りシ○○○ールではなく、ス○○ヤラーメン叉焼抜きか、味噌煮込みうどん卵抜きにでも誘ったらいいわね。
Kellyさんにメールして、待ち合わせる事にするわ。

(“その八”へ続く)

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その八”

「こんにちはKellyさん。 メールで提案した事ですが、ス○○ラーメンと味噌煮込みうどん、どちらを食べましょうか」
「Kellyさん的にはス○○ヤラーメンをごちそうになりたいなんやけど、それでよろしいやろか」
「オッ○―牧場です。 それでは行きましょう」

K地 Kelly ス○○キヤラーメンすすり中



「ごちそうさまでんねん。 J^人^し 
K地はんが考えはった事、聞かせてもろてもエエやろか」
「はい、あの日コ○ダから帰って一人でいろいろ考えたのですよ……っていうよりも、私一人で考えたかったから、何か話の途中で席を立ってしまったようで、Kellyさんにはちょっと失礼でしたね。 ごめんなさい」
「ぜんぜんかまわへんねん。 一人で考えるのもすごく大事やと思いまんねん」 

(それは、一人で考えるっていうのんは瞑想に近い。 自分の心(靈)の動きを自分で観察しやすいし、またその方が“上”の通信を感じやすい。 そやから“上”も通信を送りやすいし、K地はんの心(靈)が受信しやすいってこともあるから) 

「それで私が思ったのは、この間Kellyさんがコメダで言ってらしたこと。

“事象 の“創造”っていうのんは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じてなされていく。 霊的進化程度の低い人は心が低い=霊的成長度が低いし、そやから、低い人は低い事象を“創造”する”。
それと“自分たちの心(靈)が霊的成長すれば、この世界は良い世界になるっていう簡単な事なんやけど、幼稚な心(靈)の人は自分の欲望しか思わへんから、この世界そのものを腐らせている”。

このKellyさんが言ったことは、この世界は低すぎる人が創っている世界ってことなんでしょうけど、私たちはそのことをよく分かっていないし、その実感も無いっていうのか、低い人が創っている世界って一般には思われていない。 
当たり前ですよね。 大半の地球人が低すぎるからですよね。
それだからローム太霊は、このローム太霊講話集の第五十七話で自己奉仕者の行動や心(靈)の動きを“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”って指摘しているし、このことを知っている人、分かっている人が多いならば、わざわざローム太霊は自己奉仕者の心(靈)の動きと行動を指摘する必要性が無いですよね」
「そうでんな。 
そやからそれは、低い人が低い事象を見てもそれが当たり前って思うし、低い事象そのものに問題意識を持たへんってことでんな。 
ほんでからそれが、個々の霊的成長度における“善悪”に対する認識の違いってことも言えまんな」
「そうですね。 “善”と“悪”の認識の相違っていうのは大きいですよね。 
だから、大半の人が自己奉仕者であり、自己奉仕者は自己奉仕者の活躍を褒めそやしている。 
そして大半の人が自己奉仕者の心(靈)の動きに“悪”を見出さず、活躍したとか、儲けたとか、名声を得たとか、それが成功者であるとか、そんな評価しかしていない。
しかしそれは今回話題にしているローム太霊講話集の第五十七話の“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである”ってことではないですね。 
だから“真心(まごころ)”と“真(まこと)”、これを考えていないですよね。 
大体、この“真心(まごころ)”と“真(まこと)”って言葉に対しても、これを貫き通して仕事をしている人がいるのかどうか、とても疑問ですよね。 
それは、大概の人は自分の利益優先、または、仕事における地位や名誉が優先、これは自分の欲望に対する思いと功名心と自尊心って言い換えてもいいですよね。 
またそこには、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”なんてことを、感じさせない。
だから、自分にとっての目先の利益と地位と名誉、これが第一みたいなもので、それさえ得られれば成功者って思ったり、あるいは自己奉仕者の人はそれが一番の価値なのだから、さっきも言いましたけど自己奉仕者が自己奉仕者を評価して褒めそやして…それは憧れるってことなんでしょうね」
「そうでんな。 
そやからそれは霊的成長度の低い視点っていえまんがな。 ただ結果さえよければエエってことでもあるし、その結果を得た心(靈)の動きなんてものを、誰も対して読み取っていないし、さっきも言うたけど問題意識を持たへん」
「心(靈)の動き、それは、○○○大先生やKellyさんがよく使う言い回しの“どういうつもり”であったのかってことですね」
「そうでんな。 
そやから“どういうつもり”っていうのは、どういう心(靈)の動きを実現しようとしたのかってことでもあるし、それは“思惑の顕現”=現象化ってことにもなる。 それがローム太霊講話集の第五十七話の…」
「それは“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことですよね。 
そして、この文章の前に“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、”ってローム太霊は言っている。 
さらに前後しますけど“凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”っていうのは、神が人間に“創造”を託しているからこそ、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”を自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の指標にしなければならないって思いますね」
「そうでんな。 それが神の子である人間の在るべき姿ともいえまんな」
「そうですね。 
でも、この世界は大半の人が自己奉仕者の霊的成長度だし、その霊的に低い人が活躍して創っている世界だからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉は生み出され、どんどん増大している。 それは、Kellyさんが今、“続”で解釈している“日月神示”から引用すれば“江戸と尾張”の霊的進化過程だからでもある。 そしてその霊的成長度の人の行為が“石屋の仕組み”で、どうでもいいことに付加価値をつけて、そのこと自体が自己奉仕者の心(靈)の欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れでもあるし、うまい嘘つきとうまい泥棒って前のブログでKellyさんと○○○大先生が指摘していた事になりますし、そんな事で自分たちだけの利益を追求している。
そして、その“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の無い人たちが頑張った結果は、恨みの連鎖の霊的干渉が盛んになり…一部の人は薄っぺらい幸福に酔い、多くの人は不幸を背負うとか、因縁を背負うのも同様の事ですよね。
だからそれは、○○○大先生の言い回しを引用すれば、どんどんこの世界は腐って行く。
それと、恨みの連鎖の霊的干渉、特に子供の浮遊霊の憑依と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることも具体的に思ったのですよ。 幼稚な人がどんどん増えて行くこと、ほとんどの人が幼稚な発想しかしなくなっている。
その幼稚になった人たちは、自分たちの不幸の原因を、目先の事しか分からないから、その裏にある恨みの連鎖の霊的干渉を見出せない。 
だから、苦難から逃れたいとか避けたいとか、自分だけ薄っぺらい幸福に酔いたいとか思うから、インチキお祓いやインチキ除霊や高い印鑑や高額なスピリチュアルカウンセリングや相手の機嫌をとるだけの占いなどに甘い夢を抱いたり心惹かれたりするのだろうけど、それらが自己奉仕者の心(靈)の、欺く、騙す、嘘をつく、奪うとかに、相当するなんて考えていないし、大体そのことに気がついていない人が多い」
「そうでんな。 
そやから(霊的成長度の)低い人は、低いものを求める。 そしてそこには“真心(まごころ)”と“真(まこと)”なんてものが無いってことに気が付かへん。 そんな人が大半、それがこの世界の、この事象の現状でもありまんな」
「だからこのままでは人間は進化の方向性を見失う。 甘い夢ばかり追い求め、自分の低い欲望を追い求め、薄っぺらい癒しを追い求め、形骸の“美”を追い求め、いったい今の地球人は何を追い求めてるんだっ!!…って、○○○大先生が私の治療中に言ったことがありましたけど、だからそれは、○○○大先生は今の地球を憂いている。 多くの人間の行き先を憂慮している。 
そしてその言葉の裏側、それは、多くの人が早くよいカタチになって欲しいっていう先生のおせっかいな気持ちがあらわれたことでもある」
「まったくそうでんな」
(先生は治療中にいったい何を話してるんやら…K地はんにとっては、けっこう迷惑なことかもしれへんな)

「だから神の計画としてのアセンションは、霊的成長度の低い人と、今後=アセンション後の世界を創造し得る心(靈)の成長度の人を分ける。
分けなければ”人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことには、到底なりえないし、このローム太霊の言い回しから引用すれば、“考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”で、このことはKellyさんがさっき言ってた“神の子である人間の在るべき姿”ってことでもあるでしょうし、そのためには“真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて”ってことを、私たちは実践しなければならないし、実践するためにはこのことを自分の理念としなければならない。
ですから、今よりも霊的進化を果たした人が“創造”していく世界は、今、私が言ったことを理念として実践する人が創っていく…そうやって創造していくのが、恨みの連鎖の霊的干渉の無い事象にもなるって考えられますよね。
またそれは、自己奉仕者の心の動きである、欺く、騙す、嘘をつく、奪う、こんな事が無い世界、また自分にも他者にもそんな心(靈)の動きを許さない霊的成長度だからこそ、そんなものにおびえる事のない世界、それがアセンンション後の事象とも思えますね」
「そうでんな。 
 そやからローム太霊さんが示した“行業一致”っていう言葉。 業務の業と、修行の“行”を一致する。 あるいは一致せよ、一致しなければならない、そういう意味も感じ取れるけど、今の人間っていうのんは業務の業に囚われているし、それしか考えていない。 
 だから金を儲ける事、それだけを自分の仕事に求めている。 その業務の業が低い幸福の概念に直結しているともいえるやん。 
ほんでから、物がたくさんあることが豊かであるとかの錯覚もするやん。 
ほんでから、低い欲望が満たされれば、幸福感を感じるとかの実に情けない事になっているやんか。
 ほんまの幸福と豊かさっていうのはそんなもんやないなんて、あえてK地はんに言うことでもないけれど、今よりも霊的進化して、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の意味をよく理解し、自分に厳しく、他者には誠実にってことを理念とした人が仕事をするならば、それは、自分の低い欲望を満たすこと中心の仕事ではなくなる」
「そうでしょうね。 
だからローム太霊はローム太霊講話集の第五十七話 行業一致と一途の努力 で“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”とも述べているけど、この言い回しの中の“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っている”って事をよく考えるべきですよね。 
そしてこの言い回しそのものが、人(日止、霊止)は永遠の存在でなければいけないし、人は神に“創造”を託され、だから神の子として、永遠に“創造”し続けるってことまでも示唆していると思える。 
そしてこれは、当然のことながら、今、私たちが直面しているアセンションを含めって事でもあるし、アセンション後に移行するためには、Kellyさんが今言った“今よりも霊的進化して、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の意味をよく理解し、自分に厳しく、他者には誠実にってことを理念とした人”…こう在らねばならないって思いますよね。 
またローム太霊は自己奉仕者の心(靈)の動きを“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”とまで、指摘しているのだから、それではいけない。 
そんな心(靈)の動きでは、“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っている”って事につながらない。 
それは、自己奉仕者の世界は必ず崩壊する。 ○○○大先生の一冊目の本にこんなふうに記してあった事ですよね(ローム太霊との出会い 個人個人の振動の違い 34ページ)。


「自我の肥大はよく分かりますよ。自分のことしか分からなくなって、自分の欲望、満たすためには、他人の迷惑なんて無視してしまうことでしょ」
「そうだね、それがどういうことになるか考えてみて。 他人の迷惑無視することを主眼においてね」
「自分の欲望を満たすことのみにしか、関心がないってことは、盗んでも、奪っても、だましても、そのために誰かが不幸になっても……知らん顔ってことですよね。自分のことだけ思えばいいから」
「そうだね、もう少し想像を膨らませてみて」
「??? よく分からないけど……泥棒や犯罪者だけの世界になってしまうんじゃないですか」
「泥棒や犯罪者は、共存できる?」
「泥棒が泥棒から盗む……でしょうから、最後は殺し合いになる……そしたらその世界では一人しか生きられない。そうなれば盗む事もできない。あるいは共倒れで誰もいなくなる……」


 …改めて思い出したんですけど、これって分かりやすいですよね。 
そしてこの会話の続きには、自己奉仕者と奉仕者の違いを述べてますよね。
 

「この世界はそういう世界?」
「ウ~~ン……犯罪者は多い……多すぎると思うけど、犯罪が成立してるのは、犯罪を犯さない人がいるからですよね」
「犯罪者は何? 普通なんて言う?」
「そりゃ~、悪人でしょ」
「今、なんて言った?」
「悪、人、そうか、破壊に向かう人ってことですか!」
「そうだね。じゃあ今度は他人の迷惑というよりも、他者を思いやる人だけの世界を想像してみて」
「想像しにくいですよ、そんな天国みたいな世界……」
「想像できたんじゃないの? 天国って……」
「ウ~~~ン……、ようわからん……」
「まあ現実からかけ離れているからね。でも必ずそうなるよ。ただそこに住むには、資格が必要なだけだよ」


 この会話の中で○○○大先生が言った“他者を思いやる人だけの世界”と、Kellyさんの言った“天国みたいな世界……”、これは実現できる事ですよね。 
だから、自己奉仕者ではない霊的成長度の人が大半になった世界ならば、○○○大先生のセリフのように“必ずそうなるよ”ってことになる」
「そうでんな。 
ほんでから今K地はんは、霊的成長度における“善”と“悪”の認識の違いのことを言うた。 ほんでから低い霊的成長度の人は、“悪”を容認して、自分の利益を追求している事も言うたやん。
 そやからそれは自分たちの認識の中の“善悪”の概念の違いともいえるし、霊的成長度の低い人の“善悪”の概念はとても浅く低いともいえるからこそ、自己奉仕者を容認している人が多いし、容認している人が自己奉仕者の霊的成長度ってことでもあるやん。 自己奉仕者の行いに問題意識を持たず、なんとなく許してるんやから。 
そやからその人たちの認識では、この世界が腐っているなんて考えず、ただただ自分の欲望の達成のために仕事、業務の業をする。
 それではアカンからローム太霊さんは“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”って述べてるやん」
「そうですね。 
だからそれは、ただ低い、低すぎる、だから“善悪”が分からない、“善悪”に対する認識が低い…でもこれは、私とKellyさんと、そして○○○大先生が思うことでしかなく、平均的な地球人は“善悪”の基準が低い。  
 言い換えれば、自分に内在する目下(めした)の心(靈)、本能、情動、功名心、自我の肥大を容認する。 
そしてそれを容認しているようではいけないからこそ、ローム太霊は“自分が考える善において”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”って言っているけど、この言い回し自体が人の霊的成長度における“善悪”の認識の違いを示唆している。 
仮に“善悪”の認識がすべての地球人において、同様のレベルであるならば、みんながしっかり“善”を認識しているならば、こんな言い回しをする必要性も無く、大体、このことを述べる必要性も無いですよね」
「まったくそうでんな。 
そやからこの間からK地はんと話している事は、霊的成長度の低い人の認識は低いってことを詳細に話してるみたいな事でもあるんや。 またそんなふうではアカンから、ローム太霊さんはローム太霊講話集の第五十七話 行業一致と一途の努力 で“業行”(生業(なりわい)と“行”)のことを述べた。
そやからそれは、自分たちの行い、それは“業行”(生業(なりわい)と“行”)であろうが普通の生活であろうが、それ以外のどんな行為であろうが、自分が“どういうつもり”=心(靈)の動き=思惑で、行動するのか=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する“創造”をするのか。
そしてそれは神さんが認めるものなのか。 神さんに認められるものなのか。 
それを考えるならば、自分の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の基準っていうのは確立されていくし、この基準そのものが、“行”して智性(“一”、1番目のオーラ)が大きくなり、智性(神性)は高まり、神さんと同等になるっていう意味で、○○○大先生は“天の御目(あめのおめ)”って言い回しをしている。 
ほんでから、今言うたこと、その基準、“天の御目(あめのおめ)”、これを思い起こさせる概念が、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”で、○○○大先生はこの言葉に対して“この事象に対する奉仕”って注釈を入れているやん。
そやから今回話題にしているローム太霊講話集の五十七話にも、“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”って、さっきK地はんが引用した文章なんやけど、この意味を深く考えるならば、私たちは神の子としての在り方ってことを深く思うもんや。
またこの文を読んで、そのことが読み取れるくらいの認識を持ってないとアカンやん」
「それは、ローム太霊が日本に来て、妙高山で、玉造霊神や重明霊人(T霊媒=竹内満朋の祖父)に会い、そのままそこに留り、その後S会=紫光会を発足させたした理由に由来する事でもあるのですね(ローム太霊講話集 13ページから引用)。
そこには、“人間は何のために生まれどうしたら神の意に適い福寿円満な一生が送れるのか、”って、ローム太霊講話集を編纂した寺見文夫氏の注釈がありますけど、それは、今の人間は、平均的に霊的成長度が低い。 
ここまで私とKellyさんが話してきたこと、人間は、自分たちのやっている事の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す基準すら確立していない。 
また、儲ける事主体の心(靈)の動きだから、儲ける事が業務の業だと思い込んでいる低い認識だから、自己奉仕者の心(靈)=自分自身に内在する悪を容認している人が多いし、そのことすら分かっていない人が大半。 
そして、人の認識が低いからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としてのローム太霊は、必要な事を述べた。 
述べなければならなかったのですね。 
述べなければ、今後=アセンション後に移行するべき認識の人を輩出できないってことですね」
「そうでんな。 
そやからK地はん、大半の地球人の認識が低いってことは、もうお互いによく分かっているから、認識が高まっていったならば、自分たちはどうなっていくのかって話に話題を変えたらどないでっしゃろか?」
「そうですね。 
低い人の認識と、低い人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を話題にしていても、それは私たちの今後(アセンション後)の在り方の指標にはならないのかもしれませんね。
分かりました。 オッ○―牧場です」
「そやったなら、ここまでちょっと長い話をして小腹がすいたから、(ス○○ヤラーメン定番メニューの)クリームぜんざいはいかがでっか? 今度はKellyさんが奢り(おごり)まんがな」
「それはうれしいですね。 農業好きの社長婦人、K地M美 美味しそう    ごちそうになりますね。 それではクリームぜんざいを食べてから、またたくさん話をしましょう」
(“その九”へ続く)
 

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その九”


「クリームぜんざいごちそうさまでした。 ^人^
それで、今までのKellyさんとの話、それは、人には霊的成長度の違いがあり、低い人は、低い心(靈)の発現で理想を追い求め、業務の業、仕事をする。 
またそれは(通貨としての)金を得る事しか考えていないから、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって心の動きと、それが根拠の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自分に容認する。 でもそれは、神の思惑ではない。 神が人に望む人の在り方ではない」
「そやけどそれも、心(靈)の動きであり、人が霊的成長する過程、心(靈)が育っていく過程でもあるやん」
「そうですね。 ですから、現段階の地球人の進化過程は、自我の確立=固定化、そして自我の肥大を起こし自己奉仕者になっている人が大半。 そしてこの大半の人には、自分たちの霊的成長度の程度なんて認識は無いですね。 だから、自分が自我の肥大をしているとか、自分たちが(自我の肥大した価値観において)追い求めているものが、神の思惑に沿ったものなのかって認識が無い。 そして、大半の人が“善悪”も真剣に考えてないって思えますね」
「そうやな。 大体、自我の肥大している人は、自分が正しい、間違ってない、そして、自分の欲望を達成する事が幸福の意味だと思うし、その幸福の概念は低い欲望に由来するものである事が多い。 そやから大半の人は幸福の概念が低いし、幸福の真の意味(“夭と屰”(ようとげき)、示すへん(神の意味)、“畐”)の追求も無いし、低い幸福の概念由来の価値観しかもってへんやん。 あえてK地はんに言うまでも無いことやな」
幸福 (“夭と屰”(ようとげき)、示す偏(へん)と“畐”) の解字

「そうですね。 
だからその霊的成長度の人は自己奉仕者になる。 そして自己奉仕者は、失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)の“行”をする。 ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往ですね。
そして左往右往、その失敗の体験が無ければ、自分を振り返る事もないし、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方も思わないで、ただ、自分の欲望を満たすだけに終わる。
 それで、今私が言った自省(胸の磁性“十”)の基準になる心の動き、ちょっと複雑な言い回しをしましたが、自分の心(靈)の動きを見出す基準は、やはり“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ってことでしかないし、自分自身で自分が悪かったとかって思うことでもあり、それは自分の心(靈)に内在する“悪”を、自分自身がはっきり見出す事でもありますね」
「そうやな」
「さらにその“善悪”の概念は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱っていくのか? そのことを見出す基準にもなるのですね。
 だからローム太霊は、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 で、“善”について述べ、さらに人の“善”の認識には高低があるってことを示唆する言い方をした。
それが“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”っていう文章だった」
「そうでんな。
ほんでからK地はんは、“絶対の善”なんてことも考えた。 
それをK地はんが思ってしまうのは、この世界が“善”を感じさせる世界ではないってことや」
「そうですね。 
ですから、これまでKellyさんと話してきたことは、今の地球人はただ低い。 
そして今の霊的成長度から霊的進化して、認識が高まれば、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識が違ってくる。
それがこの文の“一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”ってことでもあり、今の地球人の業務の業は、“善悪”の認識が低い行動だから、高い認識を得て欲しいっていう意味でローム太霊は“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”してくれってことと、もうひとつ、それを実践すれば“必ず善において物が得られる”って示唆している。
ですから私たち地球人は、そうならねばならないって話になってますよね」
「まったくそうでんな。
ほんでから霊的成長度の低い人が追い求める理想、価値観、幸福感、これもその低い霊的成長度の人が認識(悟り、幸取=さとり)を獲得するためには、必要で、それを通り越さんと次の進化過程に行かへん」
「次の進化過程っていうのは、当然、アセンション後の世界ってことでもあるのですね」
「そうでんな。
 そやからアセンション後の事象に移行する人っていうのんは、自分の自我の肥大もよく分かり、分かるからこそ自我の肥大を自分で戒める事が出来る。 そやからそれは、自分の心の動きっていうのも自分でよく判るってことでんねん」
「自分の心(靈)を自分で見るに当たって○○○大先生が定義付けた、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を、自分の中に見出す。
 それが出来るようになれば、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分の心(靈)の動きに許さないようになる」
「そうでんな。 
そやけど今のK地はんの話、これは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観たときの“観察と認識”でんな。
 ほんでから自分の外側(外国と幽界)の事象に対することとしては、自分が“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)をよく知り、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”をよく知る。
そやからアセンション後に移行している人たちは、それを表に出さないっていう進化過程やし、その心(靈)の動きを理念とする行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとるようになるやん。
 そやからそれを簡単にいえば、そこに居てる人たちは、自己奉仕者ではない業務の業=生業(なりわい)をするようになる。
 ほんでから自己奉仕者が追い求めている何かっていうのんは、低い欲望、低い幸福の概念、物欲、(通貨としての)金に対する執着、そやからそれは、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)みたいなもんでんな。
そやから大半の地球人が求めている対象は薄っぺらいもので、そんなものばかりを追い求めているのがこの世界でもあるやん」
「まさに、低い欲望、低い欲っていう心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、創りあげられた世界が今の世界。
ですから、事象の“創造”っていうのは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって創造される。 
事象の“創造”は自分たちの心(靈)の動きによって出来ている。 
そのことを略した言い方が、先生の一冊目の本の目次、 欲の振動で出来た世界 って項目のタイトルでもあるのですね。
それで、人(日止、霊止)の心(靈)が欲を持つのは、愛(炁)が動機の事でもあるけど、今の地球人の愛(炁)の顕現の程度は低いってことですよね」
「まったくそうでんな。
 ほんでから、アセンション後に移行する人は、自己奉仕者の心(靈)ではないから、幸福の真の意味を知っているともいえる。 それは一度、薄っぺらい幸福の概念を持ち、それ由来の価値観を持ち、そして事象の創造をした。
そして失敗したからこそ、その低い心(靈)を低いと認識して捨て去っているのやから。 
そやから目先の欲望の達成や、自分に内在する低い欲望、これは目下(めした)の心(靈)っていってもエエけど、それを自分の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)で、制御できうる人(日止、霊止)ってことになっている」
「そうですね。 そうならねばならないのでしょうね。 
またそれが、自我の確立=固定化の進化過程から“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を自分の心(靈)の動きとする。 それは霊的進化したってことなのですね」
「そのとおりやな。
 そやからアセンション後の地球っていうのんは、自分の欲望のためだけに仕事をしない。 
ほんでからこのことは、何も仕事に限らず、すべての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、自分の欲望のためだけのものではなくなるけど、K地はんと今話しているのは、仕事、業務の業が話題になっているから、今回はそのことには触れまへん」
「あら、ちょっと残念ですね。 
今、Kellyさんが言った“すべての行動は自分の欲望の達成のためだけではなくなる”に関しては、Kellyさんがそのうち誰かと話をするってことを感じさせる言い方ですね」
「そうでんねん。 楽屋落ち的言い方をすれば、この文章を作っている○○○大先生は、そういう文章も考えてるし、それは多分、最近現れた先生の本の読者で手ごたえのあった人、ある意味先生と認識を共有している人がモデルになると思いまんねん。
話を戻しまんねん。
そして人が獲得してきた“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方も、自己奉仕者の心(靈)の使い方ではなくなり、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”を理念とするようになる。
 そうなると、今の世界みたいに仕事仕事仕事って追い回されんでもよくなると思えまへんか」
「…そうかもしれませんね」
「K地はんは前に話したとき、先生にいくつか本を借りた事があるって言うてましたやおまへんか」
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“上”から伝えられたメッセージには、高低があり、それは人の霊的成長度に差があることによるって話をする。参照)


「Kellyさんの言いたいことは分かります。
それは、地球人は今より相対的に進化したなら、追い求めるものが当然変化してきて、だからこそ仕事に従事する時間が短くなり、自分たちがどう育っていくのか考える時間を作るようになる。 そしてそれは霊的成長ってことをするのが当たり前になる世界になる。
そしてそこでは、生活様式が農園のようになるって○○○大先生に何回か聞かされていますし、それは○○○大先生にお借りした本、アミの本(アミ 小さな宇宙人 もどってきたアミ―小さな宇宙人 アミ 3度めの約束―愛はすべてをこえて)、まほう色の瞳、それと村田正雄(白光真宏会元副理事 故人)の空飛ぶ円盤と超科学 宇宙人と地球の未来―空飛ぶ円盤金星にとぶ、セムヤーゼとマイヤーのコンタクト記録の本の、宇宙人との遭遇、これらの中には、それに近い表記がいくつかあったですね」
「そうですねん。 
そやから今の地球人の進化過程は、自己奉仕者で、自己奉仕者が低い欲望の達成のために努力し、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使い、物と金を集めている。
 そやけどそれは物と金しか集めてないともいえるやん。 ほんでからその人たちは、自我の確立=固定化から自我の肥大をして、自分だけ自分だけ自分だけって言う考えに囚われているから自省(胸の磁性“十”)してないし、そやからその人たちは、いうならば物欲に支配された(通貨としての)金の奴隷ってことなんやけど、大概の人はこのことに気がついていないし、物や金はいくら集めてもキリがないってことを頭で知ってるだけでんねん。 そしてそれは、業務の業だけを追い求めている姿勢で、決して“行業一致”ってことにはなっていない。 
…そやけど、アホでも分かるような事でんな。
 ほんでから自分の欲望の達成のために業務の業をする。 それが今、既成概念になっているし、(通貨としての)金のために仕事をして何が悪いのかっていう、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する心(靈)の動きにもなっていると思えまへんか」
「そうですね。 
だから今の世界は、無駄なものばかり追い求めるし、そのために自分のエネルギーを費やし、時間を無駄にしているのですね。
そしてその無駄なものっていうのは、自分たちの霊的進化につながらない事。
形骸の美、ファッション、宝石など装飾品、化粧品、エステ、ダイエット。
そして形骸の健康の概念、サプリメント、医者が処置しか考えていない事、薬屋になっている医者が多い事、それから先生がかなり怒っている無資格のマッサージとか、これらは自分たちの仕事に尊厳を見出していないし、儲ける事が主体の仕事でしかない。
また、自分がうまいことやって儲けるっていう発想の投機、自分のエネルギーを贖わない発想ですね。
そして何も生み出さない娯楽や、テレビのお笑い番組とか、とても正当な報酬だと思えないプロスポーツ、そしてそれを見て喜んでいる人たち、これらは自分たちがどう生きるのかを真剣に考える時間を失っていくだけでしょうし、またそれらは決して“世為人為”ではない。
こんな事を例を挙げるとキリが無いですし、まったくどうでもいいものばかりがこの世界にはあふれている」
「そうでんな。
 今K地はんが言うたのはほんの一部なんやけど、いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか?  ほんでから大して価値の無いことで、あるいは自分でエネルギーを贖わない事で金を沢山得るっていうのが、正当な報酬やったのか? 
 そやからバチが当たる。 バチが当たって自省する。 
ほんでからそのバチが当たる理由が、自分で分かる霊的成長度にならんとアカン」
「そうですね。 左往右往ですね。 
またそれは自分の在り方を見出す事なのですね。
そして人間としての在り方は、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 の“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”の、“善において物が得られる”にならなければならないし、このことをよく意識する事が必要ってことですね。 
そして業務の業、それは、やはり、人は神の子だから、“世為人為”であるべきであるってことですね」
「そうでんな。 
ほんでからそれが理念になっている人が“創造”する事象は、自分の時間を霊的成長に費やす。 そやからその世界では目先の欲望のためにたくさんの仕事をするってことをしない世界になり、またそこでは、自己奉仕者の奪い合いの世界ではないから、人が人に奉仕する世界だからこそ、K地はんが先生から借りた本の中に書いてあるように、必要なものは必ず手に入るって世界にもなる。 
このことは今の地球人の既成概念では到底理解できない事でもあることなんやけど、必ずそうなっていくと○○○大先生とKellyさんは思いまんねん」
「そうですか……。

今回も有意義な話が出来ました。 Kellyさんとこれまで話した事を、自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念としたいと思います。
 何回もお呼び出ししてお手間をかけました。 ありがとうございました」
「おそれいりまんねん。 
またなんかありましたら、お気軽に呼び出してくださいでんねん。 ほなさいなら」

☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀

…農業好きの社長婦人、K地M美さん、帰宅してからぼやき中…

ちょっと前に、娘の事でKellyさんと話したとき、Kellyさんは霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度のことを言っていた。
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“術”(“力”の顕現)と霊的成長度について、場当たり的な話をする 参照)

それは、こんな内容だった。

「体を使う期間からある程度、卒業し、そやからこそ興味の対象も変わってきたと思うし、心(靈)の動きも肉体を発達させる期間とは違ってきて、知識としての知恵を獲得し始めてるんやと思いまんねん。
あえて言うとけば、心(靈)の構造って言うのんは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を観ても、最初は本能って心(靈)の発現から始まり、人(日止、霊止)になってはじめて智性(神性)を持ち始め、そやから人(日止、霊止)は“一”=智性=1番目のオーラを発現しだした。
そやから娘はんは、成長の段階として=心(靈)の発現の段階として、まず肉体を使い、それから、だんだん知識としての知恵を獲得する。知識はそれは言うまでも無く、脳の機能でっしゃろ。
ほんでからそれは、動物と人間の違いでもありまんねんな。
ほんでからに、自分が獲得した知恵を、自分がどう扱い、どう行使するのか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていくのかは、智性(神性)やおまへんか。
そやから地球上で一番進化している人(日止、霊止)って言う生物は、智性(神性)を持ち始めたことで、神さんの認識も持ち、そして自分たちの幸福を願うこともするようになった。それも動物と人間の違いでんな」
「目上(めうえ)と目下(めした)のちがいでもありますね」
「そうでんねん。
ほんでからに自分が獲得した知恵、知識としての知恵を良いカタチの“創造”に活かしていく。その過程が(霊的)成長の一端でもありまんねん」
「言われてみればそうですね。今Kellyさんがおっしゃったことは、良い世界の“創造”に結びつく過程なんですよね。
だから、人が霊的成長して智性(神性)を行使した行動をすれば、当然、この世界は良くなっていく。当たり前ですよね。
ですけど、相対的にまだ動物に近い心(靈)の動きの人が多い。
だからこの星は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、その活躍が連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”…地球をそんな星にしてしまった。
だから今後、霊的成長度に於いて分けることが必要で、それがアセンション…先生のこの世界の観方と考えは、今私が言った先生のアセンションの概念に結びついている」


この会話を今思い出すと、霊的成長の順番とその段階ってことを感じさせる。
 今の私たちは自己奉仕者の心(靈)であり、それは霊的成長度が低く、だからKellyさんはこのときに“自分が獲得した知恵を、自分がどう扱い、どう行使するのか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていくのかは、智性(神性)やおまへんか。
そやから地球上で一番進化している人(日止、霊止)って言う生物は、智性(神性)を持ち始めたことで、神さんの認識も持ち、そして自分たちの幸福を願うこともするようになった。それも動物と人間の違いでんな
”って言い回しをした。
またそれは“相対的にまだ動物に近い心(靈)の動きの人が多い”ってことでもある。
そしてそれは、子供の心=幼稚な心(靈)でもあるし、だから“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、子供がたくさん死ぬ(夭折)世界を創り、人(日止、霊止)の目下(めした)の心(靈)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)させた。
だからそれは、この会話の中の“自分が獲得した知恵、知識としての知恵を良いカタチの“創造”に活かしていく。その過程が(霊的)成長の一端”とか、“人が霊的成長して智性(神性)を行使した行動をすれば、当然、この世界は良くなっていく”ってことになっていないし、だから恨みの連鎖の霊的干渉は、ますますこの世界を幼稚にしているし、それが悪魔の意図ね。
その悪魔の意図を見出し、自分の業務の業を“善悪”の基準を当てはめ、それで仕事をして“世為人為”を理念とする。
それが今後=アセンション後の地球人の在り方であるべきで、だからローム太霊は“行業一致”を説いた…というよりも、説く必要性があったのね。
そしてそれは、今後=アセンション後の人の在り方を説く事でもあったのね。 
それで、私たちは、これからも進化する。 それは、神の子としての自分は、どう存在するべきなのか、どう在るべきなのかってことだけれど、それを深く考えさせられる文章が、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 でもあった。
そしてローム太霊が、このことをS会=紫光会の交霊会の霊訓講話で伝えた意図は、ローム太霊が今の地球人の霊的成長度を憂いているし、一人でも多く次の段階=アセンション後に移行させたいから、“善”を説き、そして人の存在の理由を示唆させることも伝えた。
それは、“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”って言い回しをしている。
 だから今回Kellyさんと話した“行業一致”と“世為人為”、これは今後=アセンション後の人(日止、霊止)の指標となるべきことで、それは間違いの無い事なのね。

 そして、ローム太霊講話集の内容はとても深い、そのことも思わせられたわね。 それで、ス○○ヤラーメンからの帰り際、Kellyさんはまた気軽に呼び出してくれって言ってくれてた。 これからも、ローム太霊講話集を読んで、私が何か疑問を感じたら、今度はKellyさんを味噌煮込みうどんにでも誘って、話をする事にさせてもらうことにするわ。

☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀

 …という事で、
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。

このシリーズは今回で終了です。

 このシリーズを詳細に読むと分かると思いますが、ローム太霊講話集の内容は、高い霊的存在からのメッセージであり、自分の霊的成長度が高くないと読み解けない文章が多く、流し読みをしたり、目先の興味を引くところだけ読んでも、自分の認識には成りえないものです。
 ですから、ほんの少しでもローム太霊講話集と縁のあった方は、何度も何度も読み返し、“どういうつもり”で“上”はこの文章を伝えたのかってことに注意深く留意して読んで欲しい…それが18歳の時からローム太霊講話集を読んでいるアタシのおせっかいである事を、今回、お伝えしておきます。

by ○○○大先生
 

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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お近くの書店にない場合は
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (472)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (20)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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