“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 天つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈



 今回から 天つ巻の解釈に入りまんねん。まず第一帖の原文は、以下の通りでんねん。

二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。
五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。
一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、
天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、
天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、
天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。
ローレンツ力と ○ の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。
八月の三十一日、一二のか三。

 冒頭の文、

“二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。
五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。”

この“二二”は、富士の巻でも言うたけど、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことやと思われる。
“晴れたり日本晴れ”については、以前作った画像を以下に貼っておきまんねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字 



ほんでから“二二に御社(みやしろ)”って言うのんは、“社”って言う字が、示す偏(へん)と土で構成された字やから、肉体のことを言うてる。
このことは前のブログで先生と話したことや。
ほんでから“御社(みやしろ)してこの世治めるぞ”って言う言い回しは、やはり、富士の巻の続きみたいなもんで、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があって、神さんの思惑を取り込んだ人が事象の“創造”をしていくってことを指した言い回しでもあると思える。
ほんでからこの文の“五大州”…通常、五大州って言う用語は、アジア大陸、アフリカ大陸、ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸.を指す言い方やけど、その意味もあるかもしれへんけど、ちょっと違うかもしれへん。
五は、糸巻きの象形文字。進化した生命が持つ複雑な神経。それはコイル状になる。
大は、“一”=智性=1番目のオーラと、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
ほんでから州は、中州(なかす)、川に囲まれた陸地って言う意味がある。
そやから富士の巻でよく出てきた表記の、海、川、河、江戸、エドなど、それらはすべて腹の水を指し、そやから体液中にある臓器として、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)を構成するコンデンサーとしての役割を持つ臓器としての、“五臓”(心・肺・脾・肝・腎)なのかもしれへんな。ほんでからチャクラは、心(靈)の動きそのものに関わるものでもある。
そやからこの“五大州”が、臓器を示す表記やったとしたならば、“五大州ひっくり返りてゐる”の意味がとても通じやすい。
人(日止、霊止)の心(靈)の動きって言うのんは、心と肺、アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが支配すべきで、腹の臓器、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ由来の心(靈)の動き中心の行動って言うのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になるから、それは神さんが望んでいる人(日止、霊止)の良いカタチではないからこそ、“ひっくり返りてゐる”ってことなのかもしれへん。
要は、今の事象は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してて、それは、“上”の思惑とは違うって言う意味のこと…Kellyさん的にはこの解釈の方が妥当やと思う。

ほんでから、次の文。

“一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、”

 これは言うまでもなく、“一二三”のオーラのことで、それぞれ1番目、2番目、3番目のオーラに、“上”の思惑を足した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしろっていうことやから“まつれ”って言われてる。

ほんでから次の文。


“天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、”

 “天”は、“上”からの荷電粒子。
“地”は、地磁気、“下”からの荷電粒子。
人(日止、霊止)の肉体は、頭から尾骨まで、一個の電磁石と考えればいいし、その磁束によるローレンツ力で、“上”と“下”からの荷電粒子は回転をする。
それは円形粒子加速器の構造を持っているってこと。そしてその荷電粒子の回転は、霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、荷電粒子の場(フィールド)を構成する。それそのものが心(靈)でもある。
そして肉体には、頭、胸、腹、それぞれ内容の違うコンデンサーの構造が観られる。そやからこそ1番目、2番目、3番目のオーラのオーラは、振動の高低がある。
そしてそれは、“下”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程の低い段階の心(靈)から言えば、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。
そやからそれは、“上”からの荷電粒子に対する感応共振は、智性(神性)になるけど、“下”からの荷電粒子に対する感応共振は、生きるために必要な、肉体の存続のために必要な、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの強化になることを指し示した文章やと思われる。
要は、“上”も大事、“下”も大事、“上”と“下”が調和した漢字が、“正しい”ってことでもあると思える。

ほんでから次の文も今言うたことと同様の意味やと思われる。

“天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、”

 “上”からの思惑は、人(日止、霊止)の智性(神性)になり、“下”からの地磁気は、肉体の存続と強化になり、“下”のエネルギーがなければ、三つのコンデンサーの構造を持つ肉体はコンデンサーが直列につながっているからこそ、3番目のオーラ、荷電粒子の回転は“上”に昇り、それは日足(ひたり)回転して昇るからこそ、大日如来の条帛(じょうはく)のように昇る。
また回転して昇る理由は、肉体に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があるからでもある。
そやからそれは“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
 そしてそのエネルギーの上昇は、心(靈)の動きとして、自我から、“慈悲”と“慈愛”の発現になっていく。今まで言うてきた心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程そのもののことを言うてる文やと思われるな。

 そして次の文も今言うたことと同様のことを言うてると思える。

“天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。
ローレンツ力と ○ の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。”

 “天の御神、地の御神、手をとりて”って言うのは、“上”からの荷電粒子と“下”からの地磁気の影響を受け、自分が持っている“下”のエネルギーは昇華して、自我から“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)の発現に至ればそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではなくなる。
 “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、それを人に望んでいて、そやから今の事象より、相対的比較として“うれしうれしの御歌うたはれるぞ。”っていわれてると思えるな。
 ほんでから“ローレンツ力と ○  の国は神の国、神の肉体ぞ”って言うのんは、富士の巻 第一帖でも言われてたことと同様で、肉体の磁性が持つローレンツ力と、ローレンツ力由来の荷電粒子の回転が、霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、荷電粒子の場(フィールド)を構成している。
この文の“国”って表記は、((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す。これも前のブログで先生と話したことであり、人が“玉(ぎょく)”になるって言うのんは、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をしていくことでもある。それが真に価値のある宝=體(骨が豊か、宝のアナグラム)でもある。
 そやからそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込む仕組みそのものが、ローレンツ力と ○  、霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力でもある。
そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んで今後=アセンション後の“創造”をしなければならないからこそ、神の“思惑の顕現”=現象化をしていく使命を“日止、霊止”が持っているからこそ“神の肉体ぞ、”って言われ照ると思える。
 ほんでから“汚(けが)してはならんとこぞ。”って言うのんは、霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組みでもあり、肉体が持つ霊的成長の秘密でもある。

そやけど現時点の地球は、自己奉仕者の心(靈)の動きで、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになっていて、だからこそ大半の人がたいして認識を得られずに死んでいく=幸(“夭と屰”(ようとげき))の反対になっている。そしてその恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こす霊的存在は、右回りの荷電粒子の回転でもある。それを心(靈)の動きで言い表せば、脾=“思う、憂う”→肝=“いきり立つ心(奴と心)”→腎=“恐れ”(本能)ってことになり、そしてそれは、自我って心(靈)から“下”に向かう心(靈)でもある。さらにそれは、仏教で言えば、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)って心(靈)の動きになる。
そやからその霊的干渉と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない自分を確立せよって言う意味で、“ ローレンツ力と ○ の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。”って、強調して言われてると思えるな。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。
今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、
臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、
この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、
九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、
富や金(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、
戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、
つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、
神々様にも分りては居らんのざぞ、
星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、
星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。
八月三十一日、一二ローレンツ力と ○  。

 この、天つ巻 第二帖を読んだ印象としてKellyさん的にまず思うのは、形骸の宗教、低いチャネラー、それに通信を伝えたたいして高くない霊的存在、そしてテレビに出たりして貴い概念(“主護霊”、双子の魂など)を利用して金儲けしただけの低い(自称)霊能力者、さらに、“日月神示”の文面だけ引用して本を書いた人や、アセンションの情報を利用して金儲けした“役員づら”など、それらは、ただただ薄っぺらいことしか伝えてなくって、人が霊的進化するのには何の役にも立っていないものが、今、多すぎる。(これらも“石屋の仕組み”(自我の肥大による事象の“創造”)の一側面でもある)
 そしてそれらは、如何に神を語ろうが、仏を語ろうが、霊的成長を語ろうが、アセンションに移行する心(靈)の在り方を語ろうが、人の霊的成長には何の役にも立っていない。
 だからこそ、“日月神示”を上から“下”に垂れた存在は、本当のことを見出す視点を持って欲しいと思い、本当に霊的成長っていうのんはなんなのか、アセンション(霊的成長度に於いて分けられる事象)についても考えて欲しいからこそ、“日月神示”を岡本天明はんに書かせたんやろけど、さっきも指摘したとおり、今、薄っぺらい物しか着目されていない。

 今言うたことを踏まえて、まず、冒頭の文。

“これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。”
 
 “これまでの改造”って言うのんは、例えば形骸の宗教などで謳われている人の在り方、心(靈)の在り方、“慈悲”と“慈愛”とか“汝の隣人を愛せよ”とか、いろんなことを言われてても、所詮、この世界は自己奉仕者が活躍する世界に成り下がってる。
最近多い、薄っぺらい感謝を多用するものなんかもその代表やけど、三秒に一人子供が死んで単純計算で毎日28800体の子供の浮遊霊が増えている現状を知って、生かされていることに感謝しましょうとか安穏なことが言っていられるのか…ただただ低い功名心と自尊心で“感謝”って言葉に酔い、そんな人たちは、この世界がどんな状況なのか、恨みの連鎖の霊的干渉のことすら考えたことが無いんやないかって思えてしまうやんけ。
 そやから話がそれてるけど、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人たちの活躍で、もう、どうしようもないほど腐ってる。
腐ったものに貴い理念や霊的成長のための情報を“上”がおろしても、何にも成らんって言う意味で“すぐ元にかへる”って言われてて、ほんでから“膏薬張りざから”って言うのんは、さっき指摘した、尊い教えや貴い情報をただただ蔓延させたって言う意味で、“張り”って言われてると思う。
通常、膏薬をはるって言う意味で使うのは、貼るやから、この場合は面積を広くした=形骸の理念や情報を蔓延させたって言う意味での“張り”って表記やと思う。

ほんでから次の文。 

“今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、
臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、
この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、”

 この文の“改造”、これは結論から言えば、フォトンベルトによる影響のことやと思える。
フォトンベルトは、強力な日足(ひたり)回転の電磁波やから、人の自省(胸の磁性“十”)を促す。
それがこの文の“今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造”“臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造する”に使われている“改造”であると思える。
 フォトンベルトについて補足として言うとけば、これは先生の解釈やけど、宇宙の中心をN極として、自分たちの足元をS極としたなら、それは自分の肉体を貫くひとつの磁束になり、その磁束の周りを回る荷電粒子の回転が、N極=“上”から観て、左回転=日足(ひたり)回転ならばそれは、霊的成長の方向性である。
それを助長するのが、宇宙の中心から観て同様に日足(ひたり)回転の荷電粒子であるフォトンベルトでもあるし、それは、エマニエル・スウェーデンボルグが言うた様に、宇宙を巨大人の構造に見立てたならば、腹から胸(宇宙そのものの、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ)にいたるエネルギーの回転で、それを示しているのが大日如来の条帛(じょうはく)やって前のブログで先生と話をした。
(宇宙が巨大人の構造を持つって概念は、○○○大先生と共通の認識でもある) 
 

 これがフォトンベルトの真実やと思う。
そやから今、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る人は多い。やってきたことがバレるとか、薄っぺらいことを言うて商売したり地位を守ったりしてきた人は、自分がやってきたことが薄っぺらいってことを思い知らされてから、恥を知り、自省する。
しかし、自分がやってきたことを自省の材料としない、自分の心(靈)の在り方の指標としない=恥やと思わん人は、“上”が、もう生かしておくことを許さない。(その一例が、AV女優あがりの芸能人とかでもある。 性を売り物にして恥に恥を重ね、さらにテレビに出て、そのギャラで贅沢をしたりの薄っぺらい価値観で生きることを“上”は許さなかったから若いうちに次の世界に移行して、地獄で閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を見るっていう人生の結末でもある。
 これは分かりやすい例やから引用したんやけど、こんなことは例を挙げてたらキリが無い)

ほんでからこの文の“この方ら”。 これは、天つ巻 第四帖にも“この方”って表記が出てくるけど、相当高い霊的成長を果たした人か、あるいは、霊的存在を指す表記でもあると思う。
高い霊的成長って言うのんは、ここまでこのブログを読んできてはる人にあえて説明するまでもないけれど、“一”=智性=1番目のオーラの拡大と高振動化であり、“一”=智性=1番目のオーラが大きければ、“一”=智性=1番目のオーラの大きい存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が起き、それは“上”の思惑を自分の思想に出来る人であり、それは“日月神示”表記を引用すれば、“天詞様”でもある。
そやけど大体、今一般に、霊的存在に“上”と“下”があるって基準がない。人を観ても、霊的成長における“上”と“下”って見方がない。
そやからそれは、ただただ霊的な現象をすごいと思ったり、低い霊能力でもインチキな霊能力者でもありがたがったりするだけでしかない。
それは冒頭の文の“膏薬張り”であり、貴い理念や霊的成長の概念やアセンションの情報など、“上”が人(日止、霊止)の霊的成長を願って“下”にたれたものは、ただただ薄っぺらいものに成り果ててるから、そんなことではダメだって言う意味で、次の文。

“九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、”

 あんたら(“役員づら”)のやり方では、“上”が認めへんで~~って言われてまんねん。

ほんでから次の文も、今言うてきたことと同様の意味。

“富や金(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、
戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、”

 冒頭で言うた“膏薬張り”では、そのウラで金が動き、自我の肥大による物欲で、尊い教えや貴い理念は形骸になっているから、こんな言われ方をされてまんねん。所詮そんなもんは、“今度は役に立たん”でんねん。
 そやから形骸の理念の“上”と“下”、形骸の地位、形骸の名誉、その象徴が金持ちとか社会的地位とか形骸の天皇制とか、そんなもんに価値があると思ってる人やろけど、そんなもんは、“上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、”って言われてまんねん。

 ほんでから次の文。

“つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、
神々様にも分りては居らんのざぞ、”  

 “つぶす役”は、言うまでもなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”。霊的成長のための尊い教えや理念や情報などを形骸にした人。

 そやからここまで言うてきたように、“膏薬張り”の考えでは、“つくりかため”にはならないし、この表記そのものが古事記の“修理固成”(しゅうりこせい)でもある。
 霊的成長は“修理”=右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることを体験し、認識を改めることと、もうひとつ、“固成”は、言うまでもなく、自分のエネルギーを贖って(あがなって)生体内電流の強化をして、肉体組織の結晶化をする。それが“身魂磨き”でもあるってことでんねん。

 ほんでから次の文は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在としての宇宙的存在、チャネラーからのメッセージでも、それは、程度の高低があることを指摘していると思える。

“星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、
星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。”

 チャネラー自身が霊的に成長していなければ霊的に高い宇宙的な存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)はない。それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)って法則があるからでもある。
そやから今、チャネラーが伝えた今後=アセンション後のこととか、人の在り方とかを謳ってる情報は多いけれど、それをこの文では“今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐる”って称され、それは低すぎるものが多いから“星ではダメ”って言われてる。
 本当に霊的に成長し、“上”が認める人(日止、霊止)は、この文ではあいまいな表現である“神の御力でないと何も出来はせん”って言われてるけど、それはこのあとの、天つ巻で説明されて行くんやろな。 答えは分かってるけど。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 天つ巻 第三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第三帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、
九、十に気附けと、くどう申してあろがな、
神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、
ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、
同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、
この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、
同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。
八月三十一日、一二 ローレンツ力と ○

 冒頭の文。

“一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、”

 これはあえて詳しく解釈の必要もない。今までの生活、今までの価値観、今までの人の在り方、今までの社会の仕組み、etc. そんなものは、今までの人の霊的成長度による(心(靈)が観察している)“創造”であったってことで、今後=アセンション後は今までとは違うって言うてるだけやねん。

 ほんでから次の文。

“九、十に気附けと、くどう申してあろがな、”
 
 これも今まで言うてきた通り“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。そして、“九、十”、それは、“日月神示”表記の ○ 九 十 。これについては前に紹介した画像をはっておきまんねん。

○ 九 十(まこと)の解字 


 そやからこの文では“気附けと、くどう申してあろがな”って言うてるから、“九”で示された智性(神性)、“一”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして胸の磁性“十”、それが合わさった霊=○、荷電粒子の場(フィールド)。今後=アセンション後はそういう心(靈)、それは肉体を持っていようがいまいが、そういう心(靈)でなければ、次の段階、アセンション後の“創造”には参加出来ないっていわれてる。

 ほんでから次の文。

“神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、
ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、
同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、
この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、
同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。”

 今、程度の低いチャネラーの情報や、偽のアセンションの情報は蔓延してる。
ほんでから、大概の人は、その情報やメッセージそのものに対し、分析する視点を持ってへん。
ただありがたがるだけとか、すごいって思うだけとか…そんなものの見方では、アセンションの真実は見出せん。
ほんでからアセンションって言葉や、情報を利用して商売しているとても霊的に低い連中もいるし、大体地球って星は、自己奉仕者が活躍している星なんやから、薄っぺらい解釈や、何かの引用を自分の低い功名心や自尊心を満たすためにネット上で公開したり、情報を利用してゴーストライターに本を書かせて印税を儲けたり、そんな人がたくさんいる。
ほんでからにそのことにすら、そういう情報が大多数であることすら、ほとんどの人は気付かない。
 そやから何を言いたいのかといえば、ほとんどの人は、アセンションや霊的成長に対し、それが貴い事象だと思っていない。
いろんなことを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は人に教えてるけど、人の霊的成長のために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が伝えた情報だということを真剣に考えず、ただありがたがるとか、すごいとか思い、それはまったく現世利益の宗教とおんなじでしかないけど、甘い夢しか見てない人が多すぎる。 
また、それらは、人(日止、霊止)の霊的成長を謳っていたりもするけど、たいして価値のないものが多すぎる。今までもこのブログで指摘してきているけど、いろんなサイトや、出版物。また単なる商売として、ワークやセミナー、てんでひどい例として、アセンショングッズ、これなんかは高い印鑑とおんなじ手法でしかない。
 そやから、本当に自分にとって=自分の霊的成長にとって、重要なことを見出して欲しいから“この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。”って言われてる。自分にとって貴いものは何なのか、自分の霊的成長にとって価値のあるものはなんなのか、それを見出す視点を持て!ってことでんねん。 そやからそれは、霊や神や、オーラや、人の在り方や、霊的成長のためにいろんな宗教や、ヨガや、チャネラーの情報を引用したものはたくさんあるけれど、何が本当のことで、何が商売に利用されているだけのものなのか、それすら大概の人は見出すことが出来ん。 所詮、この世界は、霊的成長度の低い人が大半やから、価値のない形骸のものの方が持て囃される(もてはやされる)もんや。 その意味で“神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、”って言われてる。この言い回しそのものが、ニセモノに気をつけろって言い回しや。
 そやから、程度の低いなにか、ただ商売に利用されてる何か、そしてそんなものばかり着目している人は、当然、アセンション落第組でしかない。そんな人は、何が真実=真固止で、何が形骸のものなのか…見出そうとしないんやから。
 そやからこの天つ巻 第三帖の最後に“身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。”って言われてるのは、自分が自分に甘かったなら、アセンション後は幸福な世界がやってきますとか、苦痛や苦難の無い世界がやってきますとか、まったく形骸の宗教と同じ現世利益みたいなそんな情報ばかりを信じたがる。
 それはどんなふうに自分の心が動いているのか、それを自分で判断せよって言う意味で、“改心第一”って言われてて、いうまでもなくそれは、自分が自己観察して、自分の心の“上”と“下”を知り、どっちが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか、考えろってことでしかなく、それがまた“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈


 
今回も、天つ巻 第四帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

この方は元の肉体のままに生き通しであるから、天明にも見せなんだのざぞ、
あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、
九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、
この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。
砂糖にたかる蟻となるなよ。
百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、
今度は世界中、神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、
そんなチョロコイ事ではないのざぞ。
ぶち壊し出来ても建直し分かるまいがな。
火と水で岩戸開くぞ、
知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、
さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。
悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ。
天の神様 地に御降りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、
国々の神々様、うぶすな様、力ある神々様にも御苦労になっているのざぞ。
天照皇太神宮様初め神々様、あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、
神も仏もキリストも元は一つぞよ。
八月三十一日、ひつ九の ローレンツ力と ○

まず、冒頭の文。

“この方は元の肉体のままに生き通しであるから、天明にも見せなんだのざぞ、
あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、
九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、
この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。”

 この文の“この方”って言うのんは、やはりとても霊的に高い存在を指すと思える。その存在は人(日止、霊止)の霊的成長を見守っている。そういう存在は実在するし、そしてその霊的に高い存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が、“一”=智性=1番目のオーラの拡大と高振動化でもあるし、そうやって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想にするのが、“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
それに対し、今、低い霊的干渉の現象が多すぎる。
そやからそれはちょっと先走るけど、春の巻 第三帖の、“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”と同様のことが、この第四帖の、“あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らん”って言われてると思える。
前のブログでもこのブログ“続”でも、何回も言うてきたし、さっきも言うたばかりやけど、今、低い憑依現象はとても多い。
ハイヤーセルフを名乗ったり、なんとか霊とかなんとか神とか名乗り、あなたの役に立つようにとか、あなたの霊的成長のためにとか、アセンションを迎えるにあたってお伝えしたことがあるからにやってきましたとか、そして、あなたは何とかの生まれ変わりとか、そんな言葉に誑かされてる人は、自分の低い功名心と自尊心を煽られる(あおられてる)だけ。そんな人は、高度な自己観察が出来てないから、動物霊が良く使うこの手法に騙され、誑かされてるってことに気が付かない。
あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信をほんの少し受け、ほんの少しだけ、自分はだまされてるのではないのかとか、誑かされてるのではないのか、とか思っても、自分にとって都合のよい解釈をしたりする。
今、そんな人が多すぎる。そしてそれは自己観察により、自分自身の心(靈)の動きの高低を見出していない。それは、自分の心(靈)の動きが、下三つのチャクラ由来の心(靈)の動き=自我の肥大、低い功名心と自尊心なのか、アナハタチャクラ=“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持った心(靈)の動きなのか、そんなことすら自分で判断できていない。そやから“日月神示”では“改心”って表記も多く、また、霊的成長するために自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見極めることそのものを、“身魂掃除”“身魂洗濯”って言われてる。よく自分の心(靈)を観察せんとアカンってことでんねん。
ほんでからもっと悪質なのは、憑依現象を気取って人を騙している輩も多い。インチキ霊感商法とかインチキお祓いとかそんなものが多すぎる。またそんなものに引っかかったり、甘い夢だけ見たり、薄っぺらい言葉に酔ったりの人が多すぎるけど…まあエエわ。このブログはそんな程度の低い人を対象にしているつもりはないから。
話を戻し、低い憑依現象の具体例として、例えば天つ巻 第二帖の“星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、”そして“膏薬張り”
そんなことでは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きない。
ほんでから、第三帖の“同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。”…これも、ただ、霊や神を語ったり、オーラや“主護霊”って言葉を使ったりしてても、何にも本質を見出していないものが多いってことを指摘している。
それは多分、霊的なことに本当のこと=真実=真固止を見出そうとしないのは、霊的なことが真実なんだって認識が無く、アセンションでも対岸の火事くらいにしか思っていない。ただ雰囲気だけ楽しんでるって言う自分に気が付いていない人が多いからや。
その意味で次の文。

“砂糖にたかる蟻となるなよ。
百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、
今度は世界中、神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、
そんなチョロコイ事ではないのざぞ。”

 この文の“砂糖にたかる蟻となるなよ。”は言うまでもなく、人は甘い夢を見たがる。
甘いは、亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指すって何回も言うてきてる。
そして、薄っぺらい教義で薄っぺらい改心をしても意味がない。それが“百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、”ってことなんやけど、そんなもんはさっきも言うたとおり、誑かされてるだけに等しい。
誑かす(たぶらかす)については、画像を作ったので以下に貼っておきまんねん。

誑かす(たぶらかす)の解字 

 そやけど、誑かされたい人は誑かされたらエエねん。それも自分が、どんな“道”を選択したのかってことでしかないからでんねん。
何を信じ、何を実行するのか、それは自己責任でしかない。甘い夢を追いたいならば、追ってみて、それは真実=真固止ではないってことを自覚せんならんし、そやけどそれではアセンションの時期に間に合わんけど、所詮そんな人たちは、そんな程度の霊的成長度でしかないってことでんねん。
 そやから今、薄っぺらいものが多く、人の在り方、道、心(靈)の在り方、霊的成長を取り扱った何か、アセンションの情報を利用しただけの何か、何が真実=真固止なのか、大概の人は見出していないからこそ、“そんなチョロコイ事ではない”って言われてまんねん。 ほんでからそれは、前にも言うた“修理固成”(しゅうりこせい)ではないし、霊的に低い人は、低いものを信じ、自分にとって都合のよいものだけを思うし、そやけどそれは、アセンション後に移行できる霊的資格を持っているとは言えないし、ほんでからそれは、さっきも言うたとおり、自分が何を信じ、何を実行するのかは、自由やけど、それには責任が伴い、薄っぺらいものを自分に取り込めば、それはアセンション後に移行できる資格がないから自滅でしかないって言う意味で、次の文にそれは示されてる。

“ぶち壊し出来ても建直し分かるまいがな。”

 言うまでもなく“建直し”は、自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするの、左往右往でもある。そしてそれは、“修理固成”(しゅうりこせい)でもあり、固め成すは、言うまでもなく、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。
 それに対し、“ぶち壊し”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。

 ほんでから次の文。

“火と水で岩戸開くぞ、
知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、
さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。
悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ。”
 
 この文の、“火と水”は何回も言うてきてるけど、腹の水とマニピューラチャクラを構成する肝臓と脾臓、肝=“いきり立つ心(奴と心)”と脾=“思う、憂う”でもある。
 そして“岩戸”は、山=脳、石=帯電するミネラル、固まっていない状態、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
“戸”は、腹から“上”=胸にいたる境界、今までも言うてきた通り。横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)のことやろ。
 そやから“岩戸”が開いてない心(靈)は、自我の肥大やろから、“知恵や学でやると、グレンと引繰り返る”って言われてて、たいして“行”もせんと、ありがたそうな言葉だけ引用して吹聴している輩は“グレンと引繰り返る”って言われてて、そやから霊的成長って言うのんは、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”を見出さんと何が霊的成長なのかすら理解できんと思える。そやけど、神格化のための“行”を見出すために、やはり知識や知恵は必要。そやから“知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ”って言われてる。
 物事の分析のために人は、進化過程において“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)としての知恵と知識を獲得し、学問を構築してきた。それは事象の観察を見極めるために必要な“力”や。そやから先生は、振動って概念を電磁波で説明してきたりもしている。(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) 参照)
 知恵と知識って認識が無ければ、何が本当で何が間違いなのか見出すことは出来ないし、それが出来るようになった生命が人(日止、霊止)であり、人以下の動物と違う点でもある。当たり前や。
 ほんでから余談やけど、ネット上で太陽黒点は悪の想念の象徴なんて言うてる人もいるけれど、なんて我田引水な勝手な思い込みかと思う。
 黒いから悪なんて解釈は、とても幼稚。
なぜ黒く見えるのかは、可視光線以上の振動を放出しているからで、可視光線主体の観測をすれば、黒く見えるだけや。
そんなことすら知らんのやから困ったもんでっせ。
 話が太陽の話になったからではないけど、次の文は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑と太陽のことにも触れている。

“天の神様 地に御降りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、
国々の神々様、うぶすな様、力ある神々様にも御苦労になっているのざぞ。
天照皇太神宮様初め神々様、あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、
神も仏もキリストも元は一つぞよ。”

 “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=“天の神様”。
 “上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)=“地に御降りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされる”。
 そして“上”との感応共振で、人(日止、霊止)の心(靈)は神格化の方向性を見出す。そのために霊的に高い存在=“国々の神々様、うぶすな様、力ある神々様”は、“御苦労になっている”、尽力しているってことでんねん。
ほんでから“創造”の“主(ヌシ)”の思想=“上”の思惑を伝えている天体は、言うまでもなく太陽で、だからこそ、“天照皇太神宮様初め神々様、あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、”っていわれ、この文の“あつくまつりて呉れ”って言うのんは、富士の巻でよく出てきた表記の“まつらう”でもあり、その言葉自体が、“上”との感応共振でもある。
そして“天照皇太神宮様初め神々様、あつくまつりて呉れ”、それは、“一”=智性=1番目のオーラの拡大のための“行”としての、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもあると思える。
ほんでから“神も仏もキリストも元は一つ”って言うのんは、人(日止、霊止)の進化にとって“上”は“上”でしかない。
いろんな宗教が出来たのは、地域差や、民族特有の思想に合わせたり、それぞれの事情に合わせて“上”が通信を送ったか、あるいは“上”の代弁者として、“上”の存在を憑依させて教祖を任命したってことに過ぎない。
そして今、宗教が別々になってしまったのは、宗教を利用して権力を保ったり、保身のために利用したり、それらすべて自我の肥大って心(靈)によるもので、それは“役員づら”でしかない。またそれも“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”、そして自我の肥大)の一側面でもあることを指摘しときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、富士の巻 第五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。
臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、
いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、
獣と神とが分れると申してあろがな、
縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、
さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、
何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、
神に献げきらぬと獣になるのぞ、
神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、
くどう申すぞ、
八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。
八月の三十一日、ひつくのか三。


この天つ巻 第五帖は、最後の文の、“悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。”が、第五帖で伝えたいことの総結やろ。
そやからこれは、文末から解釈していくと分かりやすいと思うので、次に解釈する文として。

“八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、”

この“八”は、今までも言うてきた通り、肉体の左右=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を指す表記。
ほんでからそれは“富士(二二)”と同義。
そやからそれは、進化した左右相称動物としての人間が持つ肉体の二つの磁性、これは神経がたくさんになった、そしてもうひとつ、左右対称の器官が出来上がってきた。それは左右のコイルとコンデンサーの構造でもあり、だからこそ左右=日足と砌(ひたりとみぎり)に出来上がった磁性でもある。そしてそれは、般若心経の“波羅密”の意味のひとつでもある。
さらに重複するけど、肉体が持つ左右の極性は、古神道表記の日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
ほんでから“九”と“十”は、これも今まで言うてきた通り、“日月神示”表記の ○ 九 十 (まこと)の“九”と“十”でもある。
その意味は、これも何回も使った画像やけど以下に貼っておきまんねん。

○ 九 十(まこと)の解字 




ほんでから“百”“千”“万”についても画像を作ったので以下に貼っておきまんねん。

百 千 万 の解字と解釈 


要は、“八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから”って言うのんは、人が動物から進化して、自我の確立=固定化、腹の磁性、マニピューラチャクラの成長の段階から“上”に向かい、智性(神性)を発現し、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)=アナハタチャクラの心(靈)の動きを持ち、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”で、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)をすると、万=卍(まんじ)(日足(ひたり)回転)の発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をするようになる。


そやからそれは、神さんに近づいていく道程でもあるし、神さんの思惑を自分の心(靈)に取り込んで思想として(“日月神示”表記の“天詞様”)、事象の“創造”をすることでもある。
今の文は、そのことを指し示した表記やけど、“何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、”って言うのんは、今説明した、神さんに近づいていく道程に於いて、人は間違えたこともするって言う意味やと思える。
 このことも何回も説明したけど、ローム太霊さんが最後のローム霊訓講話で述べた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすること。 これは、認識を獲得することと、“一”=智性=1番目のオーラを獲得することでもある。
その、智性(神性)の獲得が、この文では“神に献げな生きて行けん様になる”と称されており、それは自分の心(靈)の動きは、智性(神性)で判断しなければならないし、自分の心(靈)の動きによる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、自分が持っている“一”=智性=1番目のオーラ由来のものでなくてはいけないようになる。
それは今後=アセンション後はそうなるってことでもあり、また、今、自己奉仕者は“神の咎め”としてやってきたことの結果を出しているけど、そのことを示す文でもあると思える。
 また右往左往と左往右往は、心(靈)の極性のバランスの傾きでもあり、それが“日月神示”表記ならば、今まで解釈してきたとおり“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
 そやからこの天つ巻 第五帖の最後の文の、“悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。”って言うのんは、右往左往=やってみてから失敗を体験している人を指す表記でもある。 
言うまでもなくそれは、自己奉仕者。 
それは“日月神示”表記なら“われよし”と“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。
そやからそれは、自己奉仕者の心(靈)の動きの人=“悪魔にみいられてゐる人間”
は、今後、“いよいよ気の毒出来るのざぞ。”ということになり、それは、自分以外の他者の霊的成長の足を引っ張ることと、自分自身が“神の咎め”を受け、自省(胸の磁性“十”)に入ることでもある。

 それを踏まえ、順序が逆になったけど、まず、冒頭の文。

“牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。
臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、
いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、”

この文の“牛”“虎”、これは鬼の表記やと思える。その理由は、日本の鬼は、牛の角(つの)が頭にあり、虎の皮を腰に巻く。それは、方角の鬼門が、うしとら(丑寅、艮)十二支の丑と寅であるためらしい。
ほんでからこの文の“猿”。これは、庚申(かのえさる、こうしん)のこととしか思えない。庚申は、陰陽五行説で、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)でもある。この年や日は、人の心が(鬼のように)冷酷になりやすいとされている。
そやから“猿”=庚申。
こんなことを思った根拠として、以前解釈した、下つ巻 第三十帖に、“辛酉”って表記がでてきているし、富士の巻 十八帖でも使われている。
そのときの“辛酉”に対するKellyさん的な解釈を以下にコピペしておきまんねん。
    ↓

 
 “辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。
そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。そうやって自省(胸の磁性“十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。その意味のことを言うてると思えるな。


 引用終わり。 


そやから、庚申に続く辛酉も金性が重なり、ほんでから“辛酉”の辛は陰の気なので、庚申より冷酷さがより増すとされているけど、冷酷さって言うのんは、人の心(靈)の動きを外側(外国と幽界)の事象から観た感じ(感じる磁性)やろ。
そやからやはり自省(胸の磁性“十”)の心が増すことやと思われるし、それをKellyさんに思わせたもうひとつの根拠として、庚申信仰って言うのがある。
それは、十干と十二支との組み合わせで巡ってくる60日毎の庚申の日、その日に眠ると
三尸(さんし)が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずにすごすようになった。
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫(さんちゅう)とも呼ばれ、上尸、中尸、下尸、の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。その大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。(この部分の記事は、Wikipediaから引用して編集してありまんねん)
そやから庚申信仰は、自分に罪があることを自覚し、そして“神の咎め”として自分の寿命が短くなることを示している。
そやけどそれは、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。
実際のところ、この第五帖の冒頭の文を読んで、いろいろ解釈したんやけど、どうもこの解釈が正しいような感じがする。

ほんでから次の文。

“獣と神とが分れると申してあろがな、
縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、
さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、
何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、
神に献げきらぬと獣になるのぞ、
神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、
くどう申すぞ、”

 これはもうたいして解釈はいらんと思うけれど、“獣と神とが分れる”って言うのんは、人の霊的成長度に於ける心(靈)の動き、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者。
 簡単に言えばアセンション落第組とアセンションできる霊的資格を持った人。
 それを“縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、”って言われてる。
 ほんでから“獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ、”って言うのんは、言うまでもなく食べるもの=食べる物質ではなく、“獣の喰ひ物くふ時には”って言うのんは、自分が持っている獣の心(靈)で感応共振する事象と、その心(靈)の動き、それは、金が得たいとか物欲を満たしたいとか形骸の名誉が欲しいとか…本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)、八戒の行い)を満たしたいとか、ひと言で言えば目下(めした)の心(靈)。
 要はこの文の“獣の喰ひ物”って言うのはそのことだと思われる。そしてそれを、自分の智性(神性)で考え判断すれば、自己奉仕者にはなりえない。
そのことを“一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ、”って言われてると思える。
 そやから自分が“獣と神とが分れる”そのどっちになるのかは、“神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ、”って言われてて、そやからそれは、自己奉仕者=アセンション落第組になるのか=“悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。”って人間になるのか、あるいは、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になるのかは、自分の心(靈)の動きによるものであり、決して神さんが選択するってことではないから“神がするのではないぞ、”って言われてる。
 そやから要は、自分の心をよく見極め、智性(神性)由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしてくれってことでんねん。ほんでから何度も言うけど、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

天(あめ)は天の神、国は国の神が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。
秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、
地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、
逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、
いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。
九月の一日、ひつくのか三。

冒頭の文。

“天(あめ)は天の神、国は国の神が治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。”

“天(あめ)”は、“上”。“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑。
“神”は、示す偏(へん)と“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)。自分自身の発振、発信。
そして“国”は、自分自身そのものを指す。それは(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すって何回も言うてきた。
そやからこの文は“治(し)らすのであるぞ、お手伝ひはあるなれど。”って言われてるから、“上”の思惑を取り込み=“上”の“お手伝い”、それで自分の思想を構築する人(日止、霊止)(“日月神示”表記の“天詞様”)は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを持ち、その上で“治(し)らす”。
それは、今後=アセンション後の世界を統括する人(日止、霊止)のことでもある。

ほんでから次の文。

“秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、
地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、”

 いきなりやけど、もう“グレン”と変わってる。この世界は腐ってる。
本来、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしてきた人の“創造”する世界ならば、醜い事象はあり得ないはず。
 ほんでからこの文の“秋の空”は、“秋”は、自省(胸の磁性“十”)の心を指すって今までKellyさん的解釈で言うてきてる。
ほんでから“空”は、宀(うかんむり、頭の意味)+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。そして肉体の意味を持つ“二”を、縦の磁性、|(たてぼう、こん、縦の磁性))でつないでる。それは“江戸と尾張”の“江”から、(氵)さんずいをはずした表記。それは、2~3番目のオーラの間の縦の磁性でもある。そやからそれは“秋の空”って表記そのものが、天つ巻 第六帖の冒頭の文の“天(あめ)”“国”と、同義でもある。
ほんでから“地獄に住むもの地獄がよいのぞ、”って言うのんは、自己奉仕者は自己奉仕者の世界が心地よいってことでしかない。
それは、今の世界に満足してる人、薄っぺらい幸福感によって自分は幸せだと思い込んでいる人、そんな人に限って、一日に28800人の子供が死んでいることなど関知せず、それは自分たちの自己奉仕者の心が生み出している浮遊霊だとも知らず、仮に知ったとしても意に介さず、ほんま、自己奉仕者って言うのんは、自分たちのことしか考えんってことでもあるんやけど、金儲けが幸せにつながるとか、どうでもエエ娯楽とか、テレビ見て一喜一憂してるだけとか、薄っぺらいアセンション情報を信じ込んで甘い夢を見るとか、薄っぺらい感謝って言葉に酔ってるとか…きりがないけど、そんな人たちは、さっきも言うたとおりこの世界の問題点に気が付かず、あるいは無視をして、毎日、薄っぺらい価値観由来の幸福感に酔っぱらってる。
自己奉仕者は、自我の肥大で、経済を発展させ、そしてその裏で恨みの連鎖の霊的干渉を増やしている。それが“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)による心(靈)の発現と心(靈)の動きでもある。そして浮遊霊がます仕組みは、地球全体を不幸な星にする。もうなっているけど、ほとんどの人がそのことに気付いてない。あるいは無視してる。だからこそそれは“地獄”でもある。
そして恨みの連鎖の霊的干渉を生み出さない心(靈)って言うのんは、冒頭の文の“天(あめ)”“国”、その心(靈)の動きを獲得した人の“創造”は“天国ざぞ”って言われてると思える。

ほんでから次の文。

“逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、
いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。”

 この文の“逆様”は、智性と本能って心(靈)の動きが逆転してることを指した表記。この意味のことは上つ巻 第三帖の“なにも上下、下ひっくり返ってゐるから”と、同義やと思う。
そしてそれは、天つ巻 第六帖の冒頭の“天(あめ)”“国”の心(靈)ではなく、本能由来の低い幸福感や、その低い幸福感由来の価値観が今の世界を支配しているから、経済優先、物優先、物欲優先、楽しいことは八戒(低い欲望に対する八つの戒め)由来の、飲む(酒)、うつ(賭博)、買う(性的なこと)、そんな欲望を持った人が大活躍してる世界でもある。
そやからそこには、智性(神性)ってもんが無い。あるいは、智性(神性)由来の考えは無視されてるってことでしかない。
そんな人たちが今後も活躍したならば、今と同様の世界になるからこそ、霊的成長度に於いて分けられるのがアセンションでもある。
だからこそこの文の“逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、”って称されてて、今まで上手いことやってきて儲けてきた自己奉仕者は、今、いろいろ暴かれてる。毎日ニュース見てればすぐ分かることや。
ほんでから“いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。”って言うのんは、この文の表記の“活神(いきがみ)様”にポイントがあり、今の神仏や宗教は、その意味を失ってて自己奉仕者の形骸の地位を守るとか、金儲けの道具に成り下がっているから“活神(いきがみ)様”では無いって言う意味やと思えるな。
そしてそれは“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。
そやけどそれも、もう長く続かず、本当の意味での“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)っていう存在を示す。
そやからそれは、示されるってことやと思うし、それが示されなかったら、大半の人は本当の意味での霊的成長を見出すことが出来ない。
だからこのことも何回も言ったけど、今、宗教は腐り、宗教が腐った理由は、宗教を利用した人=自己奉仕者が神仏を金儲けの道具にして、貴い教えを言葉だけのものにしてしまっているし、その腐った宗教を信じる人は、神仏を信じているのではなく、神仏に教えを請うのではなく、現世利益しか求めてない。
その心(靈)の動きは、アセンションに対しても、太陽凝視に対してでも、ただ幸福になるとか、時が来てアセンションの時期になれば不幸はなくなるとか、少しだけ太陽凝視をしたら自分は霊性に目覚めたとか、不食を低い功名心と自尊心で取り上げたりとか、そんな人ばっかりなんやけど、そんなのは霊的成長ではなく(当たり前やけど)、次の“創造”を担うことは出来ないってあえて言うときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん

“日月神示” 天つ巻 第七帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、
二本のお足であんよせよ、二本のお手手で働けよ、
日本の神の御仕組、いつも二本となりてるぞ、
一本足の案山子(かかし)さん、今更 何うにもなるまいが、
一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、
一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、
神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ、
二本のお手手 打ち打ちて、神おろがめよ あめつちに、
響くまことの拍手に、日本の国は晴れるぞよ、
二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、二二(ふじ)は晴れたり、岩戸あけたり。
九月一日、ひつ九のか三。

 天つ巻 第六帖、この文章は、今までのKellyさん的解釈に照らし合わせれば、とても解りやすい。
まず、冒頭の文。

“二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、”

 “二二(ふじ)”は、今まで言うてきた通り、肉体の二つの磁性、肉体に備わっている左右の極性=日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
 そして“晴れたり日本晴れ”については、以前にも使った画像を以下に貼っておきまんねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字 

ほんでから次の文も、左右の極性=日足と砌(ひたりとみぎり)について述べられている。

“二本のお足であんよせよ、二本のお手手で働けよ、
日本の神の御仕組、いつも二本となりてるぞ、”

 この文の“二本は”さっきの“二二”と同義。
脊椎動物としての、進化した左右相称動物としての人(日止、霊止)は、肉体の左右の極性がはっきりしてくる。
これは、先生が地球上の生命を観て思う、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味と意義でもある。
そやから進化していない生命(生きる使命=存在理由)は、手足の発現が無い。
そして手足の発現は、手足の骨と神経がコイルの構造を持ち、手足の磁性が左右に発現する。
そして四足獣から猿、そして人(日止、霊止)への進化は、手の磁性の強化=手を使い出して、手の神経が密になることにより、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンが、手の磁性によりシンクロトロンの構造を示すようにもなる。
またそれは、第三密度から第四密度、マニピューラチャクラの進化過程から、アナハタチャクラの覚醒に移行することと同義でもある。だからこそこれまで何回も、胸の磁性“十”って言い回しをしてきた。
さらにサイクロトロンからシンクロトロンへの移行は、発振、発信されるオーラの質に変容がある。 当たり前でんねん。心(靈)の動きが変容するんやから。マニピューラチャクラ、自我の確立=固定化、そして、自我の肥大=サイクロトロンから、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動き=シンクロトロンになるんやから。
それがまた、ローム太霊さんが伝えた言い回しの意味の一つとしての、“右往左往と左往右往”って心(靈)の動きによってなされる自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。
ほんでからこの文の“日本の神の御仕組、いつも二本となりてるぞ、”の”日本”は、日本の国そのものってことではなく、今紹介したばかりの画像の中の説明文のように、“日”=“創造”の“主(ヌシ)”の振動、愛(炁)、アイ、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根源の何か、究極微粒子)が出ずる、泉。
だからそれは、すべての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の動機でもあり、また、すべての事象の根拠であり、“創造”の根拠たるものでもある。
同様に、今紹介したばかりの画像で説明してあるとおり、“本”も、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わった根源って意味がある。
そやからこの文の“神の御仕組”って言うのんは、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示し、その極性の強化により、進化した動物としての人は、“日止、霊止”になっていくことを示している。
そして“日止、霊止”が創造しうる事象は、今後=アセンション後の事象でもある。 それは心(靈)の動きが事象を“創造”するのだから。
言い換えれば、自分の心(靈)が事象を認識する。 それは、自分の外側(外国と幽界)の電磁波(振動)を受け、自分の心(靈)が、自分以外の電磁波(振動)を受け、自分の心(靈)内に発現するのが認識でもあり、心(靈)は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、だから外側(外国と幽界)と反応するから、観察(感じ(感じる磁性)るってことでもある。
 ちょっと話がそれたけど、“神の御仕組”は、進化した“日止、霊止”が創造しうる事象を指し、さらに“御仕組”は、“創造”の法則性まで示唆される言葉でもある。 そやからそれは、“日月神示”内の言葉を引用すれば、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。

 ほんでから次の文は、極性のバランスが崩れている=進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)ではない、今の事象を指摘して説明している。

“一本足の案山子(かかし)さん、今更 何うにもなるまいが、
一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、
一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、
神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ、”

 言うまでも無く、この文が指摘しているのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)。
 それは、砌(みぎり)の極性の強化。だからこそ周囲のバランスを考えず、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し、そんなことは意に介さない。
 そやからその砌(みぎり)の極性の強化の進化過程は、その心(靈)の動きは、(通貨としての)金を求め、低い欲望の達成を願い、それ由来の価値観や幸福の概念で行動する。もっと解りやすい言い方をすれば、経済中心のこの世界そのものをさすっていってもエエな。
 またその低い心(靈)の動きは、自我の肥大をして、自分だけの都合のために、宗教を形骸にして、政治を金儲けの道具にして…きりが無いけれど、これまで言うてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いって言うのんは、その行動の根拠として、(通貨としての)金への執着、物欲、本能由来の欲望があり、それをS会=紫光会の交霊会では、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)と言い表した。
 そやからそれを、自分が霊的成長するための“戒め”と思わず、貴い何か、宗教の教えとか、政治の仕組みとか、霊能力とか、そんなものはほとんど金儲けの道具に成り下がり、低い功名心と自尊心を満たすものになっており、そうなってしまった理由は、人の心(靈)の極性のバランスの崩れでもあり、だからそれは、自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
そしてその人たちは、貴い“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分のためにしか使わない。
そして本当に貴い“力”の使い方を求めず、ただ力を利用して自分の低い欲望を満たすだけの道具にする。それは以前にも指摘したことがあるけれど、ローム太霊やT霊媒=竹内満朋を利用しただけの人とか、薄っぺらい感謝って言葉を多用して人を引き付けるだけの人とかは、その代表みたいなものであり、そやけどこのことに気が付く人が少ないのは、大半の人が自己奉仕者の心(靈)の動きしか持っていないからでもある。
…まあエエわ。

ほんでから次の文。

“二本のお手手 打ち打ちて、神おろがめよ
あめつちに、響くまことの拍手に、日本の国は晴れるぞよ、”

 この文の“二本のお手手 打ち打ちて”は、手の磁性の強化を示し、それは胸の磁性“十”の強化になり、自我の肥大って心(靈)から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)への変容を示し、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になるからこそ“神おろがめよ”と、称されている。
 ほんでから“あめつちに、響くまことの拍手に、日本の国は晴れるぞよ、”。
これは、“あめつち”は、自分の心(靈)が観察する現津(あきつ)、観察され得る事象。
ほんでから“響くまことの拍手に、”って言うのんは、手の磁性の強化、胸の磁性“十”の強化、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを指し、“日本の国は晴れるぞよ”は、“日本”は、ここまで説明したとおり。“国”は“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)でもある。
“晴れるぞよ”については、さっき示した画像を観たら解ると思うから、説明を省きまんねん。

ほんでから、天つ巻 第七帖は、次の文で締めくくられている。

“二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、二二(ふじ)は晴れたり、岩戸あけたり。”

 この文の“岩戸あけたり”の“岩戸”は、これまで何回も言うてきた通り、“岩”は、山=脳 + “石”(帯電するミネラル)。  そして“戸”は、“江戸と尾張”の“戸”、それはマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門でもあり、肉体の構造としては横隔膜でもある。
 さらに、腹から“上”にエネルギーが上昇する様子は、大日如来の条帛(じょうはく)に示されていて、それはまた“玉(ぎょく)”って言う字にも示されている。
 こんなふうに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、さまざまなカタチで人(日止、霊止)の霊的成長を示している。
だけれどもそれらはすべて、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我の確立=固定化と自我の肥大から、“慈悲”と“慈愛”。さらに“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”。それは“一”=智性(神性)の発現と、智性(神性)って言う心(靈)の動きを示す。 
 その意味で“日月神示”と、古事記では、“岩戸”って言い回しをされている。
それと、現時点の平均的地球人の心(靈)の発現と心(靈)の動きは、第三密度、マニピューラチャクラ、自我の確立=固定化と自我の肥大の段階だからこそ、“岩戸あけたり”になってくれってことでもありまんねん。
そやから、古事記の、天照大神の岩戸隠れの話の中の、天照大神を天手力男神(あめのたぢからおのみこと)が、天の岩屋戸から引きずり出した…それは、手の力=胸の磁性“十”でもあるって前のブログで説明した。
(そやけどこの記事(エピローグ 神の思惑と顕現…神聖な事象)は、部分的に削除してありまんねん)
そやからこの神話も、人の進化、それは神格化、胸の磁性“十”、智性(神性)の発現、そして太陽凝視は、智性(神性)の強化のための=神格化のための“行”であることを示している。
このことをあえて付け加え、今回は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第八帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

あらしの中の捨小船と申してあるが、今その通りとなりて居ろうがな、
何うすることも出来まいがな、
船頭どの、苦しい時の神頼みでもよいぞ、
神まつりて呉れよ、神にまつはりて呉れよ、神はそれを待ってゐるのざぞ、
それでもせぬよりはましぞ、そこに光あらはれるぞ。
光現はれると道はハッキリと判りて来るのぞ、
この方にだまされたと思うて、言ふ通りにして見なされ、
自分でもビックリする様に結構が出来てるのにビックリするぞ。
富士の御山に腰かけて、この方 世界中まもるぞ。
かのととり、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ。
てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ。
九月の二日、ひつく ローレンツ力と ○

 冒頭の文。

“あらしの中の捨小船と申してあるが、今その通りとなりて居ろうがな、
何うすることも出来まいがな、”

今、まさにこの文のようになっている。
人は生き方の指針(霊的成長)を見失い=“あらしの中の捨小船”になり、その人たちは、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を追いかけたり、(通貨としての)金に振り回されたりして、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いを、自分にも、他者にも、容認している。
これまで何回も言うてきてることでんねん。

 そやから次の文は、今、失敗の世界で、自分たちがやってきていることが失敗で、それはこの文では“苦しい時の神頼み”と示されてて、それはまた、ローム太霊さんの言葉の、右往左往の右往であり、今後、失敗を失敗と認識するときがあり、そのときに自分たちがやってきたことを恥じ、自省(胸の磁性“十”)して、その心(靈)の動きがないと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きないことも、何回も言うてきたけど、まさにそのときのことを言うている。

“船頭どの、苦しい時の神頼みでもよいぞ、
神まつりて呉れよ、神にまつはりて呉れよ、神はそれを待ってゐるのざぞ、
それでもせぬよりはましぞ、そこに光あらはれるぞ。”

 言うまでもなく“苦しい時の神頼みでもよいぞ、神まつりて呉れよ、神にまつはりて呉れよ”は、失敗して自省(胸の磁性“十”)して、だからこそ“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の心(靈)の動きを“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する。
それはまた、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
そしてこの文の最後の“光あらはれるぞ”は、相対的に自分より高い振動は、光と認識されうることを、<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした)の最後の方に述べてある。
 また、“上”の思惑は、低い振動=低い電磁波などではなく、可視光線以上の振動でなければ伝わってこない。
だからこそそれは、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことが、霊的成長のための、智性(神性)の発現のための“行”であることの根拠でもある。

 ほんでから次の文。

“光現はれると道はハッキリと判りて来るのぞ、
この方にだまされたと思うて、言ふ通りにして見なされ、
自分でもビックリする様に結構が出来てるのにビックリするぞ。”

 “上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の思想となしていかなければこの世界の“創造”は良い方向に向かわない。
当たり前でんねん。
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを、自他共に容認していては、良い方向に行くわけがない。そやけど、こんな分かりきったことすら理解出来ん人の方が多い。 それくらいこの世界の人たちは腐ってまんねん。
話を戻し、この文の“光現はれると道はハッキリと判りて来る”は、“上”との感応共振を示す文でもある。 
そして以前に解釈した富士の巻では、“上”との感応共振をして、自分の思想となしていく人に対し、その人=霊的成長を果たした人を、“天詞様”と呼称している。それは、この文の“この方”ってことやろ。
そやから霊的成長を果たし、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり、“上”との感応共振が出来る人が今後=アセンション後、指導者となる。それは今現在の形骸の価値観によって認められている指導者とは大違いでもあるし、だからこそ今後=アセンション後は、人が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すからこそ、自己奉仕者が生み出す恨みの連鎖の霊的干渉もなくなる方向性になるから、“ビックリする様に結構が出来てるのにビックリするぞ”となるに決まっている。

 ほんでから次の文も、今言うたことと同様のことを強調して言うてる。

“富士の御山に腰かけて、この方 世界中まもるぞ。”

 この文の“富士”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であり、“御山”は、何回も言うて来ているとおり、霊的に高い存在が使う言い回しとしての、山=脳でもある。
 そやからこの文の“富士の御山に腰かけて”は、心(靈)が持つ二つの極性である、日足(ひたり)と砌(みぎり)、このバランスは、日足(ひたり)主体でないと、良い世界の“創造”が出来ない。それは古事記にも書いてあるし、それについては<1>ローム太霊との出会い の、ウエサク祭 月の祭り で引用した。
 だからそれは、今現在は、低い、砌(みぎり)中心の心(靈)の動きで作られている世界でもある。そして低い砌(みぎり)中心の心(靈)の動きの“創造”は、右往左往=やってみてから失敗を体験する。
そして今後=アセンション後は、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする。何回も言うてきたことでんねん。
そやからこの文の“この方 世界中まもるぞ。”は、さっき言うた“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をして、自分の思想を構築して、その思想を根拠に行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をして“創造”をする人。
今後=アセンション後は、そういう人が指導者になることを指し示す文でもあると思える。

 ほんでから次の文。

“かのととり、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ。”

 この文の“かのととり”は、やはり辛酉で、これについては、
“日月神示” 天つ巻 第五帖 Kellyさん的解釈を見てくださいでんねん。
 ほんでからこの文の“天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなる”は、形骸の地位に甘んじてる人は、地に落ちる。それはやってきたことが暴露され、なにが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか、なにが間違っているのか、“神の咎め”として“上”が示すってことでもあると思えるし、
それ以外にも、
“日月神示” 天つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈 で解釈した“星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐる”のことを言うているのかも知れへんな。

 ほんでから次の文。

“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ。”
 この文の、“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来た”って言うのんは、さっきも言うたとおり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、“上”の思惑をこの世界に顕現していく人が指導者にならねば、この世界は良くなっていかん。
当たり前でんねん。
この世界は“石屋の仕組み”で腐ってる。“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)は、自我の肥大になり、自我の肥大は、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
何回も言うてきたことでんねん。
そやからそんなこと自体を“上”はいつまでも許しておかんからこそ“奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ”って言われてて、この文の“奥山”は、山=脳って解釈から言えば、奥の脳=大脳旧皮質と古皮質で、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きで、だからこそそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指し示していて、さらに“紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ない”って言い回しは、いつまでも自我が肥大した自己奉仕者たちが、良い目を見るってことは“上”から許されないことを、揶揄(やゆ)した言い方でもあると思える。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第九帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

ひふみの秘密 出でひらき鳴る、早く道展き成る、
世ことごとにひらき、世、なる大道で、神ひらき、
世に神々満ちひらく、
この鳴り成る神、ひふみ出づ大道、人神出づはじめ。
九月二日、ひつぐのかみ。


 まず、冒頭の文。

“ひふみの秘密 出でひらき鳴る、早く道展き成る、”

 この“ひふみ”は、ひらがな表記やから、いろんな意味合いを感じ(感じる磁性)ろってことやろ。
 そやからそれは今まで言うてきた通り、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもあるやろ。
それと“一”=智性=1番目のオーラ、または、“創造”の“主(ヌシ)”そのものの表記である“一”でもあるし、“一”の書き順は、向かって左から右に筆が移行して書かれる。
そやからそれは日足(ひたり)から砌(みぎり)、“思惑の顕現”=現象化って意味があり、さらにそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の日足(ひたり)は、“亜”であり、“亜”が出ずる、泉、って言う意味でアイであり、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の1番最初の文字は炁で、それは愛の元字でもある。
ほんでから“二”は、肉体の意味がある。
そして“二”に|(たてぼう、こん、縦の磁性))を足した表記が“土”でもあるし、それは人が完成された表記としての“王”から、“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記でもあるし、肉体の意味でもある。 また、土=2~3番目のオーラでもある。
また、富士の巻で何回も取り上げたこととして、“二”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
そして“三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体でもあり、また、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ。
これらすべて、霊的成長の秘密でもあるから“ひふみの秘密 出でひらき鳴る、早く道展き成る、”と称されてると思える。
そしてこの文の“道”は、これも“日月神示”表記の“道理”の、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の“道”でもあるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程を示す。
そしてこの文では、“ひふみの秘密”が、“出でひらき鳴る”。
それは公(おおやけ)になる。公(おおやけ)にならんとアカン。言い方を変えれば、社会通念にならんと、一般常識にならんとアカン。
いうまでもなくそれは、霊的成長を果たした、今後=アセンション後の地球上に於いての社会通念や一般常識ってことでんねん。
それに対し、現時点での社会通念や一般常識は、自己奉仕者の価値観で支配されてて、そやから低い幸福の概念、自分たちだけ幸福であれば良い、毎日楽しく過ごせれば良い、本能由来の欲望が満たされれば良い。ほんでから自己奉仕者の価値観は、物欲と、(通貨としての)金への執着を生み出し、その裏の心理としては、低い功名心と自尊心、自我の肥大=“江戸と尾張”。
そやからそれは、マニピューラチャクラの覚醒段階の心(靈)の発現と心(靈)の動きでもある。 
それは霊的成長度の低い人の考えやって何回も指摘してきたとおりで、そんな自己奉仕者の社会通念や常識は通用しなくなるのが当たり前。
さらに“道展き成る”の“展き”…この漢字自体、訓読みがないけど、意味は、展開とか展望とかを考えれば大体通じる。
そやから“展”については、画像を作ったから以下に貼っておきまんねん。

展の解字 


そやから“展”は、“ひふみの秘密”が、展開して、展望されていくみたいなことでんねん。 そやから“ひふみの秘密”は、肉体=尸にあるってことを指し示し、それが“おしのばす”ってのは、顕現していくってことやと思えるな。

ほんでから次の文も今言うたことと同様のことを言うてる。

“世ことごとにひらき、世、なる大道で、神ひらき、
世に神々満ちひらく、”

 “世”=現津(あきつ)、観察され得る事象でもあり、自分たちの心(靈)が“観察と認識”している対象ってことでもある。
 そして天つ巻 第九帖の冒頭の言葉、“ひふみの秘密”は、霊的成長の秘密、神格化のプロセスの秘密でもある。それがこの文では“世、なる大道で、神ひらき”と称されている。
この文の“大道”は、大の解字として“一”と、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んだ様子をも示し、そして“道”(時間の進行)の加わった表記でもある。
そやからそれは、霊的成長を果たした人間、時間の進行とともに“上”の思惑を取り込んで自分の思想にしていく人のみで、地球上に存在する人々を構成するなれば、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を理解して行動する人だけになるからこそ“世に神々満ちひらく”ってことになるやろ。

ほんでから次の文。

“この鳴り成る神、ひふみ出づ大道、人神出づはじめ。”

 この文の“鳴り成る”は、自分の思想を発振、発信する意味でもあり、それはまた言い方を変えれば息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもあり、天つ巻 第九帖のご冒頭の文の“出でひらき鳴る”も、同じ意味やと思われるな。
 ほんでから“ひふみ出づ大道”も、“ひふみ”と“大道”は、さっき説明したとおり。
 ほんでから“人神出づはじめ”は、人間が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受信するようになっていく。それは霊的成長であり、“一”=智性=1番目のオーラの拡大であり、認識の拡大と同義であり、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった人は、“日止、霊止”であり、神格化でもある。
 何回も言うてきたことでんねん。
 そやから、アセンションは、霊的成長度に於いて分けられる。
目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の進化過程の人は、現時点の地球と同様の場(フィールド)でやり直す。
目上(めうえ)(智性(神性)の獲得と行使)の進化過程の人(日止、霊止)は、だんだん“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを獲得し、顕現し、その心(靈)の動きを行使して、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする。
そうやって今後=アセンション後の地球での人の世界を創っていく。
 その世界が“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”でもあり、そう感じ(感じる磁性)る事象を、“創造”するのは、他ならぬ私たちである。
そやから“うれしうれし”“大歓喜”の事象の“創造”の始まりが、この文では、“人神出づはじめ”と、称されており、“人神”って言うのんは、神格化に向かう人(日止、霊止)ってことで、それが“出づはじめ”ってことそのものが、アセンションで、霊的に低い自己奉仕者たちは“下”の場(フィールド)に移行し、今後=アセンション後の地球には居なくなる。
そして、(生命としての)地球自体が、霊的成長して“上”の場(フィールド)になるからこそ、今、説明した“人神”になっていくべき心を持った人しか、今後=アセンション後の地球には、存在できないようになるってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第十帖 Kellyさん的解釈



今回も天つ巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一二三の裏に ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 一二、
三四五の裏に二三四、
五六七の裏に四五六の御用あるぞ。
五六七すんだら七八九ぞ、
七八九の裏には六七八あるぞ、
八九十の御用もあるぞ。
だんだんに知らすから、これまでの神示(ふで)よく心に入れて、
ジッとして置いて呉れよ。
九月の三日、ひつ九のか三。

 冒頭の文。

“一二三の裏に ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 一二、”

 この文の“一二三”は、1番目、2番目、3番目のオーラのこと。 
人が、三つのオーラの基底を持っている根拠は、頭、胸、腹、それぞれが、コンデンサーを構成し、その内容物が違うから、それぞれのコンデンサーを通り抜ける振動の高低が生じる=電気特性が違う。  
そしてその三つのコンデンサーを貫いている縦の磁性は、頭と背骨で構成されている。 その縦の磁性により、ローレンツ力が生じ、荷電粒子の場(フィールド)である心=霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  を構成している。
 そやから“日月神示”では、ローレンツ力=ローレンツ力  と、心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  を組み合わせた表記の ローレンツ力と ○ が何回も出てくる。
 この“日月神示”独特の ローレンツ力と ○ って表記は、進化=霊的成長、神格化の秘密も持っており、神格化の仕組みそのものを指し示す表記でもある。


霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 大画像

もうひとつ、最近更新が滞っている○○○大先生のブログ、“改”で紹介した画像を貼っておきまんねん。

 

 

“日月神示”表記 ローレンツ力と鎖交磁束による電流の発生

 



 それは、 “上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主(“一”(亜から出ずる、アイ))のオーラ(宇宙背景放射)や、天体のオーラ、太陽の思惑からの電磁波など、これらはすべて、人より相対的に“上”の生命(生きる使命=存在理由)であり、振動=電磁波そのものは、それぞれの生命の思惑の発振、発信そのものでもあり、肉体にローレンツ力 が無ければ、“上”の思惑=高い振動の電磁波を、自分の心=霊= に取り込むことが出来ない。
 また“上”の思惑=振動を取り込み、自分自身に止めるって表記が、“日止、霊止”でもある。
 さらに頭、胸、腹、それぞれのコンデンサーは、取り込んだ荷電粒子を増幅=“畐”する。それがある意味、オーラの発振、発信でもあり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意味でもある。
 そしてそれは、脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートでもある。
これまでも何回も言うてきたことやけど、それを踏まえて“
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 一二”を解釈すれば、心=霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  と、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、あるいは、肉体が持つ二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、それは“富士(二二)”でもある。
そやからこの“
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 一二”は、“一”=智性=1番目のオーラを肉体に取り込み、心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  が、育っていく=霊的成長する様子を示したものであると思われる。

ほんでから次の文。

“三四五の裏に二三四、”

 この“三四五”は、以前に、
下つ巻 第九帖で解釈したとおり、“三”=三つのオーラ、肉体を持った霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が持つ、上中下のローレンツ力によるオーラの発振、発信 。
“四”=、“四”は、象形文字で、開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子。それは“息をつく”って言う意味を持つ。 さらに“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)そのものでもある。
“五”=糸巻きの象形文字。肉体の磁性を構成する神経線維のこと。
 そやからこの文の“三四五の裏に二三四”の、“二三四”は、“二”=肉体、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と、“三”は1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)。
その意味のことを述べており、心(靈)の発振、発信が、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をしていることを指し示していると思われる。

 ほんでから次の文。

“五六七の裏に四五六の御用あるぞ。”

 この文の“五六七”は、“五”はさっきも言うたとおり、糸巻きの象形文字で、進化した生物が神経が密になることを示し、神経が密になるから肉体の|(たてぼう、こん、縦の磁性))を構成する、頭と背骨の電磁石の構造によるところのローレンツ力は、強化される。
 “六”は、爻部(こうぶ)、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味がある。
 “七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)、それに乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わった表記。
 そやからそれは、アセンション後の事象の“創造”を示す“日月神示”表記の“五六七(みろく)”でもある。 そして“その裏に裏に四五六の御用”っていうのは、“四”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“五”は、神経が発達した動物としての人、“六”は、今言うたとおり、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”=神と、人の思惑が交わり、人自身が、神の思惑を取り込み自分の思想として今後=アセンション後の“創造”をして行く。そやからそれは富士の巻でよく出てきた“天詞様”でもある。

 ほんでから次の文。

“五六七すんだら七八九ぞ、
七八九の裏には六七八あるぞ、
八九十の御用もあるぞ。”

 これは“五六七”(みろく)、進化した動物=人(日止、霊止)が、“六”、神の思惑を取り込み=爻部(こうぶ)、自分の心(靈)と神の思惑が交わり、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)“一”=智性=1番目のオーラと、自分の思惑=乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))が、“すんだら”=終わったなら、ある程度達成されたなら、それは“七八九”となる。
 その“七八九”は、“七”は今言うたとおり、“一”=智性=1番目のオーラと、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
 “八”は、肉体が持つ左右=日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
 “九”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
 それは“創造”の“主(ヌシ)”が最後の“創造”と認識している神の依り代としての人。
神=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を顕現するから、古神道では、“上”の振動を止める意味の表記の“日止、霊止”って言い方をする。
 そしてそれは“日月神示”表記の○ 九 十 の“九”でもある。
ほんでから“七八九の裏には六七八あるぞ”の“六七八”は、“六”は今言うたとおり、
“六”、神の思惑を取り込み=爻部(こうぶ)、自分の心(靈)と神の思惑が交わり、“一”=智性=1番目のオーラを発現し、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と重なった表記が“七”でもあり、“八”は今言うたとおり、肉体が持つ左右=日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
 そやから“六七八”は、神の思惑と自分が交わり(爻部(こうぶ))、乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現に、“一”=智性=1番目のオーラが加わり、その仕組みは、“八”=肉体が持つ日足と砌(ひたりとみぎり)の極性により、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往で霊的成長をするっていう意味やと思われる。
 ほんでから“八九十の御用もあるぞ”の、“八九十”は、“八”と“九”は今言うたとおりで、それに胸の磁性“十”が加わった表記。
 “十”は、シンクロトロン放射って何回も言うてきた。 それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸と両腕の磁束により、荷電粒子の回転の位相が一定になり、その構造そのものはサイクロトロンからシンクロトロン(円形粒子加速器)の構造になる。 そうなるからこそ、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)は発現し、それはヨガの、アナハタチャクラの覚醒そのものである。
 そしてそれは多くのチャネラーが使う言い回しの第三密度から第四密度に移行するって事でもある。
 話を戻し“八九十”は、左右の極性=日足と砌(ひたりとみぎり)で、“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))と成し、それはシンクロトロン放射の構造=胸の磁性“十”であり、そやからそれは、上の思惑を顕現出来うる“日止、霊止”であるってことを言うてると思える。

 ほんでから次の文は、このあとの“日月神示”でもこのこと=良い世界の“創造”は、“上”の思惑を取り込んだ“日止、霊止”がするということと、その仕組みと根拠である、“五”=神経が発達した様子。
“六”=爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。
“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)。  それに、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わった表記。“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を取り込んで、顕現する=事象の“創造”をする意味。
“八”=肉体が持つ左右の極性、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。そして“八”そのものは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
“九”は、○ 九 十 の“九”。“創造”の“主(ヌシ)”が最後に創造した=霊的成長した生物としての人(日止、霊止)。
それに“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現である胸の磁性“十”。
 これらのことをこれからも伝えていくって言う言い回しでんねん。

“だんだんに知らすから、これまでの神示(ふで)よく心に入れて、
ジッとして置いて呉れよ。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

 

 

 

“日月神示” 天つ巻 第十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第十一帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

この神示 言波としてよみて呉れよ、
神々様にもきかせて呉れよ、守護神どのにも聞かして呉れよ、
守護神どのの改心まだまだであるぞ、
一日が一年になり百年になると目が廻りて真底からの改心でないとお役に立たんことになりて来るぞ。
九月四日、一二(ひつぐ)か三。


まず、冒頭の文。

“この神示 言波としてよみて呉れよ、
神々様にもきかせて呉れよ、守護神どのにも聞かして呉れよ、”

 この文の“言波”は、ただ、しゃべるとか、話を聞くとかの意味ではなく、発振、発信される振動であるからこそ、“言波”って言い方がされていると思え、いうまでもなくそれは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)。
それは、自分の心(靈)の中の認識や思想が顕現した自分自身のオーラでもあるし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)のオーラでもあるやろし、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)でもあるやろ。
ほんでからにまた、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の発振、発信は、自分にとっての“神示(ふで)”でもあり、だからこそ“神示 言波としてよみて呉れよ”っていうのんは、“上”の思惑、“上”の思想、“上”の基準=天の御目(あめのおめ)。
それを自分の心(靈)に取り込んで欲しいから=認識として欲しいから、“言波としてよみて呉れよ”って言われてると思える。
また“神々様にもきかせて呉れよ、守護神どのにも聞かして呉れよ”っていわれてるのは、自分の心(靈)の発振、発信=息吹、この文の表記なら“きかせて呉れよ”と“聞かして呉れよ”は、この文の最初の“神示 言波としてよみて”の意味、“上”の思惑を自分の心(靈)に取り込み、その思想をオーラとして発振、発信することそのものが、自分の霊的成長度を“上”に示すことになり、自分の“上”に対し、“聞かす、きかす、”ってことになるからこそ、こういう言い方をされていると思える。
また、今まで言うてきた通り、自分のオーラの発振、発信は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”そのものでもある。 
それはオーラの相互干渉でもあり、自己と他者の区別があるからこそ、オーラの相互干渉があるとも言いうる。
そやから、すべて自分が感じ(感じる磁性)得る事象は、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)での“創造”である。
そやからこそそれは、心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、自分以外の振動を感じ(感じる磁性)、自分の心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の中で、電磁誘導が起き、それを心(靈)は、感じたと認識する。
このことそのものが、すべての生命(すべての霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に共通する行為である“観察と認識”の説明でもある。

ほんでから次の文。

“守護神どのの改心まだまだであるぞ、
一日が一年になり百年になると目が廻りて真底からの改心でないとお役に立たんことになりて来るぞ。”

 これは自分たち(平均的地球人)の霊的成長度がとても低く、自分たちよりほんの少し“上”の存在に対し、“守護神”って言い方がされていると思える。 
現状の地球人の霊的進化程度は、自我の確立=固定化の段階で、自我の肥大=“石屋の仕組み”でもあり、それを正すのが、その段階の心(靈)よりほんの少し“上”の存在。 それをこの文では、“守護神”って称されていると思える。
 そやけどその“守護神”と称されている存在は、自我から“慈悲”と“慈愛”の方向性に向かわせるためにバチを当てたりとか(“神の咎め”)努力はしてるけど、それではまだ足りぬって言い方で、自省(胸の磁性“十”)してるだけではダメで、もっと“上”を目指さなければならないって言い方でんねん。
 (もっと“上”を目指す具体的なことは、あえてここでは説明しませんねん)
 また、自我の確立=固定化(“江戸と尾張”、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの心(靈)の発現)の段階の心(靈)の動きと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している存在は、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の過程があるからこそ、それほど高い存在ではない。
だからこそそれは、霊的成長度が足らん=“改心まだまだ”って言われてると思える。
 そやから、今後=アセンション後は、自分たちの“上”の存在も、現状より高い存在になっていく。 
また、そうならなければ、進化=霊的成長、神格化に向かうことになっていかない。
そやから、地球が今と違う段階の霊的成長の場(フィールド)になっていくために起きることがアセンションなのだからこそ、今よりもっと“上”の存在の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せねばならず、現状の地球人に対しての“上”は、まだ低いってことを言うてると思える。
 そやけど今言うたこと以外にも、この“守護神どのの改心まだまだ”は、今とても多い低い憑依現象のことなのかもしれへんな。
それは、今までも指摘してきた、ハイヤーセルフとか○○神とか○○霊とか名乗って、甘い夢を見させてる自称霊能力者や自称チャネラーのことなのかもしれへん。 
その自称霊能力者たちやチャネラーたちが、低い功名心と自尊心に囚われ、形骸の名誉と(通貨としての)金を求めているのならそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でしかない。
多分、その意味もあるやろ。
ほんでから“一日が一年になり百年になると目が廻りて真底からの改心でないとお役に立たんことになりて来るぞ。”っていうのんは、地球人の“観察と認識”は、目先のことしか理解できていない。 
そやからこそインチキ臭い自称霊能力者の甘い言葉に誑かされ、そそのかされてる人が多い。 
誑かす(たぶらかす)については、以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。

誑かす(たぶらかす)の解字 
そやからこの文の“心底からの改心”は、今まで“身魂掃除”“身魂洗濯”は、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出し、それは智性(神性)由来の高度な自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)で見極めるものやって言うてきた。
ほんまに霊的成長の方向性を知るには、高度な自己観察は必須条件。
ほんでから今とても多い薄っぺらい情報、情報を寄せつめたりしてゴーストライターが書いた内容の無い出版物、またその出版物の内容をパクッた出版物、また、霊や超能力を扱って雰囲気だけ楽しんでるテレビ番組とか、それらはすべて、内在する悪に囚われ=自己奉仕者の心(靈)の動きで、スピリチュアルとか、フォトンベルトとか、アセンションとか、なんとかの道とか、なんとか神とか、何とかの秘密とか…の、ただ雰囲気を楽しみたいだけの霊的成長度の低い人を大げさな言葉で引き付ける手法を使い、結果として金儲けしかしていない。
それは、霊的な言葉を使って雰囲気に酔わせたり、薄っぺらい感謝って言葉に酔ったり、そうやってタイムスケジュールのあるアセンションの意味をはぐらかす。 
大体、そんなものを喜んで選択している人は、アセンション落第組でもある。
そやからそれは、一人でも多く、アセンションに間に合わん人を増やしたい“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑であり、それは“日月神示”表記なら“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であることを、余談ながら補足させてもらいまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 天つ巻 第十二帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第十二帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

遠くて近きは男女だけではないぞ、
神と人、天と地、親と子、喰べる物も遠くて近いがよいのざぞ、
カミそまつにすればカミに泣くぞ、
土尊べば土が救って呉れるのぞ、
尊ぶこと今の臣民忘れてゐるぞ、
神ばかり尊んでも何にもならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、
敵とうとべば敵が敵でなくなるのぞ、この道理分りたか。
臣民には神と同じ分霊(わけみたま)さづけてあるのざから、
みがけば神になるのぞ。
神示は謄写(とうしゃ)よいぞ、
初めは五十八、次は三百四十三ぞ、よいな。
八月の五日、ひつくのか三。

冒頭の文。

“遠くて近きは男女だけではないぞ、
神と人、天と地、親と子、喰べる物も遠くて近いがよいのざぞ、”

これは、性質の違い、それは極性の違い(日足と砌(ひたりとみぎり))、それが“男女”と表現されていたり、また“上”と“下”を示していたり=“神と人、天と地、親と子”って表現されている文章やと思える。
そやからそれは、事象に観られるそれぞれの違い、性質の違いがあっても、それは、同じ方向性っていうのんか、進化の方向性っていうのんか、それは同一であることを揶揄(やゆ)した言い方でもあると思える。 
そやからそれは、進化の方向性を獲得するには、性質の違いと認識されうる観察=“遠くて”と、進化の方向性=“近き”でなければならないって、いわれてると思えるな。
ほんでから“喰べる物も遠くて近いがよい”は、一見、普通の食事のことしか思わんやろ。
そやけど、この文は、そんな程度のことを言うてるとはとても思えへん。
そやから、物質の食事って言い回しは理解しがたい表現かもしれへんけど、認識の低い人=霊的成長度の低い人の食事っていう認識は、食べ物を食べて消化して肉体の存続をしてるってことしか分かってへんけど、人(日止、霊止)は五つの口を持っているっていうのんは、先生が前に説明した(ローム太霊との出会い 先生の般若心経の解釈 46ページ 参照)。
いいかえればそれは、心(靈)が肉体を介し、感じている振動は、五つであり、それは、悟るっていう字に示されていて、そやから、忄(りっしんべん)と、五感の意味がある五つの口って表記でもある。
ほんでから忄(りっしんべん)=心(靈)は、霊的成長をしたなら、だんだん高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。
そして、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのんは、取り込んだ振動が相対的に高くなり、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して、下等生物から人(日止、霊止)になってきた。
ほんでから五つの口が感じ(感じる磁性)得る振動っていうのんは、低いものからいえば、物質→空気→音→光…そしてそれ以上の振動は、光=可視光線以上の振動と、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するには、かなり霊的成長をしていないと、ただ通りぬけてしまう。
そやから“上”から注がれる荷電粒子の高い振動、宇宙線などに含まれている高い振動(創造“主(ヌシ)”の思惑)と、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するために、生物は進化して骨を持つようになったっていうのんが、先生独自の進化論でもある。
(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) 参照)
そしてそれは、體(骨が豊か、宝のアナグラム)に表されていて、“日月神示”表記の“身魂磨き”は、(生体内電流による肉体組織の結晶化で、生体内電流の強化と変容が、“行”と“修行”の意味と意義を示すってこともある。
そして創造“主(ヌシ)”の思惑の仲介者としての太陽の振動を、両眼(日足(ひたり)目と砌(みぎり)目)から、取り込む=食うのが、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

ほんでから次の文。

“カミそまつにすればカミに泣くぞ、
土尊べば土が救って呉れるのぞ、”

 このカタカナ表記の“カミ”については、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用することとして、まず、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命の“力”(ちから)とされている。 
そやからこれは、先生の解釈の“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊でもあるやろ。
 そやから“力”っていうのんは、自称の“創造”のために自分たちが獲得し、顕現しようとする。 そして“力”が顕現されたのを観察すると、“術”と認識することが出来る。
 ほんでから“ミ”は、生命の幹、それは一二三、ヒフミの、ミでもあり、身、実、でもある。
太祝詞(ふとのりと)のヒフミヨイムナヤコトの意味は、先生が、霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じる可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)の調子が良かったとき、亜流連無(アルレーム)という存在から、意味を教えられている(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした)40ページ 参照)。
 そこから引用すれば、“ヒは、日の光、星の光、 フは、風、光を受けること、当たること、 ミは、身、体、”って、先生は亜流連無(アルレーム)から教えられている。
 そやからこのことも含めて考えれば、“ミ”は肉体、體(骨が豊か、宝のアナグラム)、そして肉体を持った心(靈)は、“一二三”のオーラをもつ。“一二三”のオーラは、1番目、2番目、3番目のオーラでもある。
そやからそれは、この世界、ローム太霊さんの言い回しの現界、人(日止、霊止)の心(靈)が観察して認識している現津(あきつ)、観察され得る事象に、感じ(感じる磁性)られる生命は、“一二三”のオーラを持ち、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなることが霊的成長であり、神格化のプロセスでもある。
そやからこの文は、すごく単純な解釈を言えば、“カミ”は、生命が行うべき霊的成長そのを示す表記やと思える。
そして補足として“土尊べば土が救って呉れるのぞ、”っていわれてて、いうまでもなく土は、肉体のことでもあり、2~3番目のオーラを|(たてぼう、こん、縦の磁性))でつないだ表記でもあり、“土尊べば”=肉体を持っているうちに霊的成長をしろって言い回しやと思えるな。

 ほんでから次の文。これは霊的成長度が低く、貴い何かに貴さを感じないとか、人に尊厳を感じない人(自己奉仕者)に対する言い回しやと思える。

“尊ぶこと今の臣民忘れてゐるぞ、
神ばかり尊んでも何にもならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、
敵とうとべば敵が敵でなくなるのぞ、この道理分りたか。”

 ことに、この文の“神ばかり尊んでも何にもならんぞ”っていうのんは、ただ助けてくれとか、現世利益しか求めないとか、そういう甘い(亜、魔、出ずる、泉)心(靈)の動きをしている人に対する言い回しであると思えるな。
 そやから人(日止、霊止)は、霊的成長したならば、貴い何かに対し、自分の利益を上げることに利用したり、人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかして、経済の繁栄=金儲けしたりはしなくなる。 またその極端な一例は、戦争であったりもする。
そやから“敵とうとべば敵が敵でなくなる”っていわれてたりもするんやろ。
 そやからそれは、霊的成長した人、愛(炁)の顕現の程度が高くなった人、それは、すべての事象が貴いと感じられ、どんな人にでも尊厳を持つようになる。
ほんでからこういうものの見方っていうのんは、神格化していく人(日止、霊止)の必須条件でもあると思え、そのものの見方は、霊的成長とともに高いものになり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の視点と同一になっていくだろうから、天の御目(あめのおめ)って先生は表現した。 
そやから、今後=アセンション後の人(日止、霊止)は、そうなるべく生きて欲しい。 それを言っている文章やと思える。

ほんでから次の文。

“臣民には神と同じ分霊(わけみたま)さづけてあるのざから、
みがけば神になるのぞ。”

 この“神と同じ分霊(わけみたま)”っていうのんは、今まで先生とKellyさんは、霊は、○、荷電粒子の場(フィールド)であるって説明をしてきているけど、生命の進化の始まりは、縦の磁性の発生により、ローレンツ力が生じ、“上”からの荷電粒子を取り込み、回転させ、それが心(靈)そのものであり、そしてそれは、どんなに進化した生命であろうが、下等な微生物であろうが、共通の法則性であることを、○○○大先生のブログ“改”で説明してきている。
 そして脊椎動物の進化のテンプレートは、三つの水平磁場と縦の磁束を表した、“王”っていう字に示されている。
この“王”っていう字は、“一二三”のオーラを縦の磁性でつないだ表記であり、人(日止、霊止)として完成されたっていう意味がある表記でもある。
 その意味で解釈すれば、“神と同じ分霊(わけみたま)”っていうのんは、縦の磁束の周りを回転する荷電粒子が心(靈)を構成し、そして心(靈)は、荷電粒子の回転だからこそ、自分以外の荷電粒子と反応し=感じ(感じる磁性)る。
 その意味で、“創造”の“主(ヌシ)”と、生命の縦の磁束と荷電粒子の回転は、共通の法則性がある。

 

主(ヌシ)の解字 

 そやからそれは、宇宙の構造も、縦の磁束に貫かれてるからこそ、宇宙は回転している。 
そして宇宙の縦の磁束そのものを、古事記では、“天之御柱(あめのみはしら)”と表現されていて、そしてそれは、“上”と“下”の次元=現津(あきつ)、観察され得る事象を貫く磁性でもある。
 ほんでからこの文の“みがけば神になる”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を言うてる。  そやから骨の結晶化=體(骨が豊か、宝のアナグラム)は、肉体を持ったままの神格化のプロセスでもあり、それは現人神(あらひとがみ)でもある。
 それを“日月神示”では、“天詞様”と言い表され、その意味は、“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)っていうことでもあり、神さんと同じ視点や価値観を持つことでもある。  そやから神格化の一側面として、事象を観察する基準は、天の御目(あめのおめ)になっていく。
 話を戻し、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化のために“行”と“修行”があり、高い振動の取り込みをして神さんに近くなる=智性(神性)を発現する“行”が、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

 ほんでから次の文。

“神示は謄写(とうしゃ)よいぞ、
初めは五十八、次は三百四十三ぞ、よいな。”

この文の冒頭の“謄写(とうしゃ)よいぞ”は、たくさんの人に示せってことやろ。 そやからそれは、アセンションに間に合わん霊的成長度の人が多いからやな。
ほんでから“五十八”は、“五”は、進化した動物に観られる神経が密になった様、“五”は、糸巻きの象形文字、そして胸の磁性“十”、“八”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が分かれた表記、そしてそれは、“日月神示”表記の“富士(二二)”と同義であり、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道やと思える。
ほんでから“三百四十三”は、“三”は“一二三(ひふみ)”の“三”、そして読みは、さっきの“カミ”の“ミ”でもあり、それは“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体でもあり、さらに“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つでもあると思える。 “百”は、以前紹介した画像が解りやすいから、以下に貼っておきまんねん。

百の解字 

 そして“四十三”は、“四”は、“日月神示”表記の“善言(よごと)”、それは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信を示すと思わる。 “四”の象形文字の意味は何回も言うたけど、画像だけ貼っておきまんねん。

四の象形文字

 

ほんでから“十”は、胸の磁性“十”。 それは“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動き。
そして胸の磁性“十”は、腹から“上”の円形粒子加速器(チャクラ(荷電粒子の回転を示す)のこと)の構造が、“江戸と尾張”=サイクロトロンから、シンクロトロンに移行することを指し示す表記。 そしてそれはアナハタチャクラの覚醒と同義。
ほんでから最後の“三”は、“五”=神経が密になり、“十”、心(靈)が“慈(しげる)”=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現し、“八”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の意味と、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道で、育ち=霊的成長し、“三”=“一二三”のオーラを持つ人(日止、霊止)は、百の解字の通り“上”からの振動を自分に取り込み、発振、発信し、さらに、“四”は発振、発信の意味があり、“日月神示”表記ならそれは“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信でもあり、それは“十”=“慈悲”と“慈愛”。
そやからそれは、自我の確立=固定化の進化、それは“日月神示”表記の“江戸と尾張”=サイクロトロンから、シンクロトロンへの移行でもある。
ほんでから“三百四十三”の最後の“三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体の意味があると思え、そうなるべく肉体を持った心(靈)である人(日止、霊止)は、進化して行けってことやと思う。
 そやからこの、天つ巻 第十二帖は、人(日止、霊止)が、独り神(ひとりがみ、日取り神)になり、“創造”の“主(ヌシ)”に近づくためのことを言い表してると思えるな。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、
いよいよとなりて来てゐるのざぞ。
神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、
一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、
もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。
玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、
衣とは神の衣のことぞ、
神の衣とは人の肉体のことぞ。
臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。
人に仕へるときも同じことぞ、
人を神として仕へねばならんぞ、
神として仕へると神となるのざから、
もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、
喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、
神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、
てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。
九月六日、一二のか三。

 冒頭の文は、もう、くどく解釈する必要のないことやな。

“空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、
いよいよとなりて来てゐるのざぞ。”

 いうまでもなくこれは、アセンションの時期のことを言うてる。
そして時期は、荷電粒子の集合体、場(フィールド)である心(靈)が感じ(感じる磁性)るのであるから、時間の進行と認識する(ちょっと言い方を変えれば、心=靈は、縦に貫かれた磁束由来のローレンツ力で回転する荷電粒子でもある)。
だからこそ私たちは、時間の進行って概念を持っているといいうるし、また、認識することは、自分の外側(外国と幽界)の事象から、振動(電磁波)を受信するからこそ認識する。
またアセンションの時期=タイムスケジュールは、宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ=心(靈)が外側(外国と幽界)の事象の電磁波と反応するからこそ、時期=磁気でもある。
よって、この文の、“空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ”は、私たち心(靈)が“観察と認識”をして、“上”に変化があれば、“下”に変化がある。 
“上”と“下”は、この文の“空”と“地”でもある。 
そやから“上”の思惑は、霊的成長度に於いてより分ける作業がアセンションでもあり、何回も言うて来ているとおり、自我の確立=固定化の進化過程、そして自我の肥大、その心(靈)の動きは“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)であり、低い欲望、低い功名心、低い自尊心、薄っぺらい幸福感、(通貨としての)金に対する執着etc.
そんなものに囚われている心(靈)は、次の段階に移行できないし、その心(靈)の動きの人が次の段階に移行したならば、今と同じ世界になる。
そやからこそ、“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションは“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現している人(日止、霊止)しか、次の段階に移行させない。
そのことをよく知ってほしい…“創造”の“主(ヌシ)”の計画(神の思惑の顕現)が、アセンションであることをよく理解して知っておかねばならない意味で“心得よ”といわれてる。
そやから今、アセンションに付いての一般の認識はとても甘い。ひどい例を挙げれば、ファンタジーのように思うとか、SFの様にしか思われていない。 だから商売に利用されたりもする。 
そのアセンションに対する甘い認識には、自分たちのやってきたことの結果が反映するとか、誰も逃れられないとか、自分たちの生死に関わることなどの認識は無い。
しかしさっきも述べたとおり、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画で、生命の神格化のプロセスでもあり、だからこそ霊的成長度に於いて分けられるというよりも、この事象の法則性(“日月神示”表記の“道理”の“理(ミチ)”(法則性))に於いて、下三つのチャクラの覚醒段階の霊的成長度で、心(靈)の在り方が間違った方向性=自我の肥大に陥っている人は、自滅する仕組みになっている。
そのことを指し示したこととして、“日月神示”表記の“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)は、自我の肥大した人が活躍して、この世界を恨みの連鎖の霊的干渉で満たし、壊滅の方向性に向かわせる意味の表記であると確信する。 だから、決して、フリーメーソンだけが“石屋の仕組み”ではない。 
人は(地球人は)、誰もが自我の肥大に陥りやすく、それは地球人の平均的進化過程でもあるし、智性で自我を制御できなければ、言い換えれば内在する悪を自分で容認すれば、自己奉仕者になる。
そやから“創造”っていうのは、要は、私たち心(靈)、心=靈(縦に貫かれた磁束由来のローレンツ力で回転する荷電粒子)が感じうる現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心(靈)の動きによるものであり、それが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による私たち自身の“創造”ってことになる。
だからこそ進化程度の低い心(靈)は、低い世界を作るってことでもあるけど、そんなことをいつまでも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は許しておかないから、アセンションに伴う醜い事象を体験し、多くの人が自省(胸の磁性“十”)の“行”をする。
それがアセンションの意義でもある。

次の文。

“神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、
一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、
もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。”

 一人でも多く、次の段階に移行させたい思いはあっても、時期は時期やから、間に合わん進化程度の人は、間に合わんって言うてる。

 ほんでから次の文。

“玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、
衣とは神の衣のことぞ、
神の衣とは人の肉体のことぞ。”

 神道での玉串は、神や高い霊的存在の依り代とされている。 そしてこの文では“神の衣とは人の肉体のこと”って言われてる。
 このこともここまでKellyさん的“日月神示”解釈を読んでもらってる人には、解説はいらんやろけど、要は“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“天意”を自分の思想にすることでもあるし、それがまた、“日月神示”表記の“天詞様”であり、またそれは、天皇の本当の意味でもある。
 そして私たちの肉体を“神の衣”とする具体的な方法が、“行”と“修行”であり、それは生体内電流の強化によるたんぱく質の高分子化でもある。 
それがまた“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。
…補足として、生物の進化を観て、なぜ、下等生物は、人よりも低分子のたんぱく質しか持ち得ないか?その答えでもあるけど、これは○○○大先生が“改”で後々述べるやろ。

ほんでから次の文は、“身魂掃除”“身魂洗濯”、心(靈)の在り方について述べられている。

“臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。
人に仕へるときも同じことぞ、
人を神として仕へねばならんぞ、
神として仕へると神となるのざから、
もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、
喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、
神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、
てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。”

 冒頭の“臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。”は、自己奉仕者、“日月神示”表記なら“われよし”、要は自我の肥大した心(靈)の動きでは、次の段階に移行できないことを言っているし、それが神格化のプロセスである“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なのだから、分かっておけってことでんねん。
 そやから自己奉仕者の心(靈)っていうのんは、他者に対する尊厳は無く、ただ他者を利用して自分の利益にしたりもするし、尊い教えなどをただ引用して自分たちの商売にしてしまう。形骸になった宗教や最近多いアセンション関係の出版物…etc.あえて指摘するようなことでもない。 
貴い何かを利用したり他者に対する尊厳が無いその心(靈)の動きには、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが観られるけど、自己奉仕者の心の進化過程の人にはその認識は無い。 
そやからそれは、欺く方と欺かれる方、騙す方と騙される方など、その両者は立場が違うけど、両方とも“慈悲”と“慈愛”の心があまり無く、自分たちに対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”も無い。 
……まあエエわ。
そやから自分たちが神に近づく心(靈)の在り方として“ささげること”と言われ、それは奉仕であり、S会=紫光会の経文、四空経録の表記を借りれば“世為人為 陰徳普及”でもあり、それは言い方を変えれば、この事象に対する奉仕ってことになる。
それを行うときには、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が必要でもあり、自己奉仕者の心(靈)では、当然こんなことは出来っこないし、そんな考えすら持たんやろ。
また、奉仕っていうのは、この文で“人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ”って言われてるとおり、すべての事象が神聖であり、貴いと感じられるべきでもあり、その認識を持たねばならないってことでもある。
それを踏まえて、自己奉仕者の創造する事象を考えればそれは、壊滅の方向性であり、アセンションに伴う醜い事象は、自己奉仕者の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が創造した結果でもある。 
またこの文の“喰べ物 今の半分で足りると申してある”は、食べ物だけに限らないけど、自己奉仕者が世界の経済を牛耳っていて、金持ちは裕福に暮らし、その裏で三秒に一人、子供が死ぬ状況を創造している。
いうまでも無くそれは自己奉仕者の活躍であり、だからこそ“石屋の仕組み”は、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出しているし、それは、この世界を霊的成長の方向性に向かわせない結果になっている。 
だからこそ重複するけど、霊的成長度に於いて分ける作業がアセンションであり、それは神の“思惑の顕現”=現象化でもあるから、“てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ”って言われてる。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第十四帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

海一つ越えて寒い国に、まことの宝 隠してあるのざぞ、
これからいよいよとなりたら、神が許してまことの臣民に手柄いたさすぞ、
外国人がいくら逆立ちしても、神が隠してゐるのざから手は着けられんぞ、
世の元からのことであれど、いよいよが近くなりたら、
この方の力で出して見せるぞ、びっくり箱が開けて来るぞ。
八月の七日、ひつくのか三。

 この天つ巻 第十四帖は、文中の表記“まこと”と“宝”の解釈が出来ないと何のことか理解できへんやろ。
 まず、今までも言うてきた様に、“まこと”は、“日月神示”表記の ○ 九 十 。

○ 九 十(まこと)の解字 

 この○ 九 十 は、人(日止、霊止)って生命が、神さんの最後生命の創造でもあるという意味の卆(そつ、卒業の卒の異体字、終わるの意味も持つ)という意味も持ち、胸の磁性“十”の表記もあるから、動物よりも進化した心、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)という意味もある。
ほんでから自分の心の中の基準、霊的成長度に於いての基準、その心の中の基準に於ける真実(まこと)という認識でもあるやろ。 
ちょっとややこしい言い方をしたけど、人は(すべての生命は)、観察という行為をして、真実=真固止を認識していく。 
その真実=真固止を見出す場(フィールド)は、自分の外側(外国と幽界)の事象であろうが、内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、その双方に見出していくものやろ。 また、その双方に、真実=真固止を創造していくのが自分の良い在り方やろ。
そやからそれは、人によって真実って認識は違う。 
霊的成長度の低い人の真実って認識は、結構、自分たちにとって都合のよいものにしてしまうもんでんねん。 解りやすい例を挙げれば、自己奉仕者が勝手に真実=真固止って思い込む薄っぺらい価値観や幸福の概念は、自分たちだけの良いカタチでしかなく、他者の不幸など考えない。 
また、自分が立ち向かうべき(試練という意味での)苦難を、霊的成長度の低い人ほど真実とは思わんやろ。
それは例えば、今までも言うてきたけど、(通貨としての)金と目先の欲望、本能由来の欲望を満たす低い霊的進化過程の、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)、生きることは目先の快楽のためやと思ったり、ほんでから今とても多い薄っぺらい癒し、薄っぺらい感謝、薄っぺらいスピリチュアル…そんなもんが真実やと思うやろし、霊的進化程度の低い人はそれ以上の真実を見出せんやろ。 
そやからそんなもんが真実って思い込むのは、生きている間だけが自分のすべてやっていう前提で自分の人生を見ているからや。 
それは“事象を観察する視野が狭い”ってことでもあるし、今、そういう程度の低い認識での真実が横行し、その価値観で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)して、言い換えれば事象の“創造”をして、そしてこの世界は腐ってきた。
そやから薄っぺらい真実の概念を持つ人=自己奉仕者、そんな人は次の段階の地球には移行できない。 
それがアセンションの真実でもあるやろ。
ほんでからに、もうひとつの意味としての“まこと”。それをさらに補足として言うとけば、今いうた様に、自分の心の発振、発信=息吹は、事象の“創造”になるけど、その意味での“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)でもあるから、自分たちが感じ(感じる磁性)ている現実=事象は、自分たちの心によるものであり、自分たちの心(靈)が低ければ=神の思惑から遠ければ、低い事象を観察することになるってことでしかない。
そして、自分たちの心(靈)が、自省(胸の磁性“十”)して、自分に厳しくなり、それは、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”であり、アナハタチャクラの覚醒に至ることでもあり、その意味で、天つ巻 第十四帖のもうひとつの言葉、“宝”。
宝は、體、体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラムって、今まで何回も言うてきた。
そして宝っていう字は、宀(うかんむり、頭の意味)と“玉(ぎょく)”が合わさった表記でもあるし、“玉(ぎょく)”は、“一二三”のオーラを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で繋ぎ、向かって右、“玉(ぎょく)”を人と見立てたならその人の左=日足(ひたり)に、ローレンツ力 ローレンツ力 の表記が書かれてる。
それは右往左往から左往右往の心(靈)の動きを示すって何回も説明してきたから、ここではあえて詳しく述べないけど、宝っていう字そのものが、宀(うかんむり、頭の意味)で派生する智性=神性を示し、“玉(ぎょく)”は“慈悲”と“慈愛”=マニピューラチャクラ(自我の確立=固定化、“江戸と尾張”)から、アナハタチャクラへの覚醒にいたる順番を示し、同時に心(靈)の動きの変化も示す(自我の肥大で失敗して自省(胸の磁性“十”)すること)。
繰り返すけど“玉(ぎょく)”は、自我の確立=固定化の段階(マニピューラチャクラ以下の覚醒段階、第三密度)から“上”に移行する心、“慈悲”と“慈愛”(アナハタチャクラ、第四密度)を示していると思われる。それは脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番でもあるからこそ、ローム太霊は、右往左往と左往右往という心(靈)の動きのことも述べた(それ以外の意味もあるけど)。
自我の確立=固定化から自我の肥大、そして自分が良いカタチを求め(幸福の概念を持ち)やってきたこと(事象の創造、自分の思惑を顕現するためにエネルギーを使うこと)の間違いを知り、自省(胸の磁性“十”)して、心が“慈(しげる)”=“慈悲”と“慈愛”の“慈(しげる)”。
その心(靈)の動きを持つことが、脊椎動物から人(日止、霊止)、さらに“日止、霊止”への進化(霊的成長、神格化に向かうこと)で必須なのだから、そしてそれは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による智性=神性の発現にかかわる心(靈)の動きなのだからこそ、ヨガではチャクラの概念でアナハタチャクラのことを説き、振動では“直日”という表現を使い、仏教では“慈悲”と“慈愛”という表現を使われているけど、これらすべて自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、また自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ゆえの視点、“観自在”でもある。
これらのことを踏まえ、まず、冒頭の文。

“海一つ越えて寒い国に、まことの宝 隠してあるのざぞ、”

この“海”って表記は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの事を指し、“一つ超えて”は、横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)を超え、“寒い国”は、腹より冷たい外気を吸い込む胸のことやろ。
さらに細くしておけば、“国”は、(囗)くにがまえ、心(靈)の場(フィールド)と、“玉(ぎょく)”であり、だからこそ、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すと思われる。
その部分に霊的成長の秘密が隠してあるからこそ“まことの宝 隠してあるのざぞ”って言われてるんやろな。

ほんでから次の文。

“これからいよいよとなりたら、神が許してまことの臣民に手柄いたさすぞ、
外国人がいくら逆立ちしても、神が隠してゐるのざから手は着けられんぞ、”

 “これからいよいよ”は今後=アセンション後に向かい、“神が許してまことの臣民に手柄いたさす”は、“慈悲”と“慈愛”と智性=神性の発現をした人に“手柄いたさす”ってことでんねん。
 ほんでから“外国人がいくら逆立ちしても”っていうのんは、外側(外国と幽界)の事象の観察しかしていない人。 またそれは、程度の低い真実って認識しか持っていない人でもあるな。
そやからそれは、自分の心(靈)の動きで事象は創造されていて、すべて、自分が不幸と感じる事象に遭遇したときに、自分は悪くないとか、自分のせいではないとか思い込む自我の確立=固定化から自我の肥大をした心(靈)の動きでは、自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ないということをいわれ、“逆立ち”は、良い形の“創造”は日足(ひたり)主体の心(靈)の動きでなくてはならないのに対し、物質偏重、経済優先、自分の外側(外国と幽界)の事象に幸福を求める心(靈)の動き、智性(神性)と本能(物質を伴った心=生物の、一番初めの心(靈)の発現)が逆転した行動、いろんなことを感じるけど、自分たちの世界を良くしたいのならば、自分自身が“うれしうれし”“大歓喜”の世界に位置したいなら、どういう心(靈)の在り方をするべきなのかを感じさせる文でもある。
 
そして次の文。

“世の元からのことであれど、いよいよが近くなりたら、
この方の力で出して見せるぞ、びっくり箱が開けて来るぞ。”

 生命が、下等なものから進化して神に近くなるっていうのは“世の元からのこと”であり、それが生命の存在の目的と意義でもある。 またその目的と意義に、神と人って認識を見出せるものでもあるし、それは“上”と“下”でもある。
 そしてそれは“日月神示”の表記を借りたなら“道理”、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
またそれは、生命の存在と同時にあるべきものであり、その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)にそっていない=今、人がやっていることが間違っているから、右往左往の自己奉仕者が活躍する失敗の世界だからこそ、“いよいよが近くなりたら”=アセンションの時期に向かっていったなら、“この方の力で出して見せる”=“慈悲”と“慈愛”と智性=神性の発現した人が、今までとは違う価値観を示すようになる。
 そしてそれは、今一般的な薄っぺらい価値観や幸福の概念とは違うから、“びっくり箱が開けて来るぞ”っていわれてまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”天つ巻 第十五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国には神の国のやり方あるぞ、
支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、
教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、
元は一つであるなれど、
神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ、
このことよく心にたたんでおいて、
上に立つ役員どの気つけて呉れよ、
猫に小判何にもならんぞ、神の一度申したことは一分もちがはんぞ。
八月七日、一二ローレンツ力と ○  。

 まず、冒頭の文。

“神の国には神の国のやり方あるぞ、”

 この文の“神の国”は、今現在の、地球人の“思惑の顕現”=現象化、言い換えれば事象の“創造”は、神の国では無い。
そやからそれは、現時点の地球は、神の思惑から程遠い恨みの連鎖の霊的干渉で満ち満ちた星になっている。 
このことは、今まで何回も言うて来ているとおり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的進化過程で創られている世界ってことやから、あえてこんな言い方がされていると思える。 
そして、今後=アセンション後は、自己奉仕者の心(靈)の動きによる創造ではなくなる。
それは、“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する“天詞様”と呼称されうる“日止、霊止”、それはまた、神の思惑が顕現した“国”としなければならないからこそ、それが進化した人の“創造”だからこそ、こう言われてるだけやねん。

ほんでから次の文。

“支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、
教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、
元は一つであるなれど、
神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ、
このことよく心にたたんでおいて、
上に立つ役員どの気つけて呉れよ、”

 この文中の“元”って表記は、“二”=肉体 + 丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わって“元”っていう字を使われていると思える。
 そやから肉体と神の思惑と人の思惑、それがあいまって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていく。
 そしてそれは、“日月神示”表記の“道理”であり、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 そやからそれは、脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、頭と背骨の時局性によるローレンツ力ローレンツ力 で、“上”から注がれる(神の思惑を含んだ)荷電粒子を自分に取り込み、サイクロトロンやシンクロトロン、円形粒子加速器に似た構造を肉体は持っていて、そして増幅して発振、発信されているのがオーラでもあり、オーラそのものが、人の思惑でもある。
 さらに人の一個体の心(靈)、それぞれは、他者の心(靈)の発振、発信を感じ(感じる磁性)、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)したり反発したりして、自分の肉体と心(靈)に、電気的変化を起こすものや(電磁誘導ってことでんねん)。

 

人(日止、霊止)の縦と横の電気特性 “一二三”のオーラ

 


 

そうやって事象を観察したりすることが、また、すべての生命に共通の行為である“観察と認識”の一側面でもある。
それを踏まえて、この文を見れば、“支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、”は、揶揄(やゆ)した言い方でしかなく、この文自体が“元は一つである”にかかっている言い方やから、支那、オロシヤには、たいした意味は無いと思われる。
ほんでから“神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ”は、普通に言う外国のことではなく、外側(外国と幽界)の事象のことやろ。
要は、自分が神格化していく過程には、自省(胸の磁性“十”)の“行”が必要で、自省することは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観察して自分の心(靈)の“上”と“下”を見出すことが大事でもあり、その自省(胸の磁性“十”)の過程において発現する心(靈)は、“慈悲”と“慈愛”であり、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”であり、その心(靈)の動きが板についた人は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではなくなり、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に成って行くってことでんねん。
また、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”=善と悪を見出すのは智性=神性であり、そのことを“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”って称されている。
何回も言うてきたことでんねん。
ほんでから平均的霊的成長度の地球人は、外側(外国と幽界)の事象の観察しかしてへん。 そやから間違える。 間違えた宗教の解釈をしているから、宗教で人を釣ったり、戦争をしたりしてるけど、それはその宗教に携わっている人の自我の肥大によるものであり、自我の肥大そのものが“石屋の仕組み”の一側面でもある。
そのことを承知しておいてくれっていう意味で“上に立つ役員どの気つけて呉れよ”っていわれてて、それは何回も思い出すけど、下つ巻によく出てきた表記の“役員づら”、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であるし、そうならんようにしてくれってことでんねん。

ほんでから次の文も、尊い“上”からの教えを利用している“役員づら”と、“役員づら”に騙されてる人を対象に言われてるだけでんねん。

“猫に小判何にもならんぞ、神の一度申したことは一分もちがはんぞ。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示”天つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。
一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、
神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、
ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。
神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、
神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、
今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。
神の国が勝つばかりではないのざぞ、
世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、
臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、
素直に神の申すこときくが一等ざぞ。
人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、
あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、
てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。
人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、
目に見せてあらうがな、これでも分らんか。
八月七日、一二 ローレンツ力と ○

 
第十六帖の冒頭の文は、アセンションに伴う醜い事象のことを“ゴタゴタ”と称されてる。
それと、自己奉仕者の認識での“王”、霊的成長度の低い認識でのいわゆる王様。 
権力を振りかざし、自分だけよい目を見たい意味で、自己奉仕者が求める意味での王様が説かれている。

“今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。
一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、
神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、
ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。”

 現時点での地球では、自己奉仕者が活躍している。そやからそれは、(通貨としての)金と権力を振りかざす自己奉仕者の概念での王様で、何のために自分は(程度の低い概念での)王様になりたいのか、それはあえて説明することでもないけど、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)なんだってことだけ言うておきまんねん。
 ほんでから(通貨としての)金と権力を得た自己奉仕者=今の地球人の低い認識での王様。 それは、完成された人という意味での“王”でないことは、一目瞭然なんやけど、大概の人の“王”って概念は、自分だけが王様になり、自分だけ良い目を見たいってことしか思わへんやろ。
 そやからこの文で、なぜ、“てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなる”って言われてるのかが重要で、いうまでもなく“てんし様”は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の思想に“上”の思惑を取り込み、高い霊的存在と認識を共有して事象の“創造”をする人のことでもある。
 そしてそれは“一”=智性=1番目のオーラのオーラが大きくないと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きえない。
 そやから“王”って表現は、“一二三”のオーラがバランスよく整った霊的成長を示す表記であり、現時点での地球人の頭のオーラは(霊的成長度が低いから)小さすぎる。
 今後=アセンション後の“創造”を担うべく人は、以下の画像のような霊的成長度で無ければならず、その人の“一二三”のオーラを見れば、“王”って字が示すカタチになる。

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成 
 
ほんでから“外国には王はなくなる”っていうのんは、今、活躍している、自我の肥大による認識での王様なんてのは、いなくなる。
それは、自分がどんなにすごい“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を持っていようが、霊的成長したほど、“力”を金儲けに利用したり、“力”で権力を振りかざしたり自分を誇示したり、そんなことは自我の肥大って心(靈)の動きやからこそそれは、霊的成長した人(日止、霊止)がすることではないし、その自我の肥大ゆえの行為は、外側(外国と幽界)の事象にしか示すことが出来ない。
ちょっと分かりにくい説明かもしれへんけど、ほんまに自分が頑張って(元の気を張って)、(霊的干渉により)“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得したのであれば、その“力”そのものを貴いと感じ(感じる磁性)、思い、その認識ゆえの使い方をする。 そやからそれは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)に、“力”の使い方の基準を持ち、どう使うべきか考える。 そして智性由来の力の使い方をするようになるものでもある。
その点でも、今後=アセンション後の地球は、よいカタチの“創造”が反映した世界になり、そやから自己奉仕者の存在は許されないし、それはまた、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が許さないってことでもある。
ほんでからこの文の“一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。”っていうのんは、“日月神示”が自動書記により、書かれていたときが戦争中でもあるから、“一旦戦おさまりても”っていわれてるやろけど、決してそれだけのことではなく、その当時の戦争かて自我の肥大って心(靈)の動きの結果なんやから、ほんでから今起き始めているアセンションに伴う醜い事象かて、自己奉仕者が活躍してきた結果なんやから、そやから、人間が人間を観る視点に重要性を感じる人は、その心(靈)の動きが生み出している事象ってものを、よく知らなければならないと思う。
 そやからこれも今まで幾度となくいうてきたけど、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心(靈)の動きで“創造”され、それを感覚器官で感じ(感じる磁性)るから、言い換えれば心(靈)が観察するからこそ、現実と認識する。
だからこそ、霊的成長度の低い自己奉仕者の“創造”は、醜い事象しか創造できないし、それ以前に自己奉仕者は、自分たちの“創造”が理に適っているとかの認識が無い。
 ほんでから今Kellyさんが引用した“理に適う(かなう)”って言い方すら、“日月神示”表記の“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)って表記で言い表されてると思える。
 そやからそれは、“この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてある”って言うことでもあると思えるやんか。

 ほんでから次の文。

“神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、
神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、
今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。”

 これも、人の“創造”は、“上”の思惑と自分たちの思惑が一致していかなければ、よいカタチの事象には成りえないって言われてる。 そしてこの文の“神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが”っていうのは、いうまでもなく“一”=智性=1番目のオーラが大きい人のことを指し、智性をしっかり発現しているならば、自分の心(靈)の動きって言うのをよく見極めることが出来、そしてそれは、自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にはならない。 
言い換えれば、自己奉仕者の心(靈)の動きを自分に許さない人になる。 
そしてそれをまた言い換えれば、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を自分の心(靈)にしっかり持ち、自分の心(靈)の動きをよく自分で監視できる人でもあるからこそ、“観自在”“直日”と、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。
 そして今も、“日月神示”が書かれた当時も、自己奉仕者が活躍していて、自己奉仕者の概念の幸福感とか価値観で満ち溢れていたからこそ、“今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もない”っていわれてる。
 そやから大事なのは、“神の手柄”で、それが一体何なのか? これを考えるにあたり、今まで述べてきたように、自己奉仕者の活躍は、醜い事象しか生み出さん。 
そやけど、智性を発現し、“慈悲”と“慈愛”をもち、自分に厳しい人は自分の心(靈)の動きに“上”と“下”=善と悪を見出し、それを基準に行動するからこそ、理に適う(かなう)人でもある。
 それが“日月神示”表記の“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるやろ。
 またあえて言うとけば、“一”=智性=1番目のオーラの強化の“行”は、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

 ほんでから次の文。

“神の国が勝つばかりではないのざぞ、
世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、
臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、
素直に神の申すこときくが一等ざぞ。”

 この文の“神の国が勝つばかりではない”っていうのんは、“上”の思惑が反映したからといってもそれは、事象の“創造”は、神さんと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し=神さんと認識を共有し、その霊的成長度の高い人の行動によって創られ、それは“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”の事象になっていくから、“世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから”っていわれてる。
ほんでから“永遠(とことは)につづく神世に致す”ってのは、霊的成長の順番として、下等な生命でも持っている本能の発現から、情動、自我の確立=固定化があり、そして自我の確立=固定化は、自我の肥大に陥りやすい=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になりやすい。 
そしてその心(靈)の動き(“思惑の顕現”=現象化)は、失敗の事象を創造するし、それはローム太霊さんの言い回しの右往左往になる。 
さらにそれは、砌(みぎり)の極性の強化の段階でもあるからこそ、霊的進化の過程、霊的成長の順番として必要な過程ともいいうるけど、自我の肥大っていう心(靈)の動きがどんな世界を創ってきたのか、これはおかしいのではないのかって思う人は、左往右往に入って自省(胸の磁性“十”)を始めた人でもある。 
そやからそれは、自省(胸の磁性“十”)は、自我より“上”の心(靈)の発現でもある。 そしてそれは、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”になっていくものである。 
だからこそ“上”の思惑に従うべきであり、“上”の振動を獲得するべきであり、その意味で“素直に神の申すこときくが一等”といわれてると思える。
 
 ほんでから次の文。

“人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、
あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、
てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。
人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、
目に見せてあらうがな、これでも分らんか。”

 この文も、自己奉仕者の行いは間違っていて、“上”の思惑に沿っていないから、“人間の知恵でやれるなら、やって見よれ”と言われてて、“上”の思惑を取り込んでいない自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ”って言われてる。
 ほんでから“覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ”っていうのんは、縄張りを守り、保身を考え、自分の形骸の地位を守ろうとしている自己奉仕者の心(靈)の動きを指摘していると思われる。 
そやからそれは、三文小説みたいに、自分の地位を守ろうとする根性無しの王様は、家来を犠牲にしてでも自分を守ろうとするし、低い欲望に執着するもんや。 
ほんでからその低い心(靈)の動きは、今の経済のトップとか、政治家とかを見るとよく判る。 またそれは、“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもそうでんねん。
 そやから、自分たちが“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、神さんの思惑と自分の思惑が近くなったなら=“てんし様”になったらば、またそれは、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなったならば、真実=真固止を認識し、そういう人は自分の思惑を発信する意味での“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)の人になり、そしてそれは、“日月神示”表記の、○ 九 十 なんやろ。
 そやけど今指摘したみたいに、今活躍している人は“腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭”やろし、そんな人たちは、自分たちの人生に真実=真固止を見出せんやろ。
 まあエエわ。
 そやから、真実を見出す。  ○ 九 十になる。
その意味で“人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな”は、今後=アセンション後は、真実=真固止の“創造”になり、それは“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する“一”=智性=1番目のオーラを持った人でなければ、その時点の“創造”を“上”から託されないし、それが霊的資格でもあり、真固止の人と呼称される人なんやろ。
さらに、真固止、真に固く止める、これは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意味を持っていることも付け加えておきまんねん。

 ほんでから、アセンションを通り越しても、すぐよいカタチの“創造”にはならないという意味で、十六帖の冒頭の文の“一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ”といわれてると思えるし、今、ちまたで2012年12月某日がアセンションやと思われてるけど、そんな薄っぺらいものではなく、もう始まっているし、その日付以降も“ゴタゴタ”は続く。
 そやけどその“ゴタゴタ”は、自分たちの心(靈)の在り方を示す事象であり、その事象を観察して、自分の心(靈)の中の“上”と“下”=善悪を見出すのが、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であることをあえて言うときまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”天つ巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

昔から生き通しの活神様のすることぞ、
泥の海にする位 朝飯前のことざが、
それでは臣民が可哀そうなから天の大神様にこの方が詑びして一日(ひとひ)一日と延ばしてゐるのざぞ、
その苦労も分らずに臣民勝手なことばかりしてゐると、
神の堪忍袋切れたら何んなことあるか分らんぞ、
米があると申して油断するでないぞ、一旦は天地へ引き上げぞ。
八月七日、一二 ローレンツ力と ○

 まず、冒頭の文。

“昔から生き通しの活神様のすることぞ、”

 この文の、“活神様”って表記は、今、神さんや仏さんの認識がとても低いものになってしまっているからこういう言われ方をされてると思える。
 そやからそれは、今の人たちの神さんの認識っていうのんは、この文の表記の“活神様”ではなく、その意味と意義を見失っている。 
神さんの意味と意義を見失っているからこそ、神さんの意味と意義を見出して欲しいからこそ、“活きる”“活かす”の“活”を使った表記やと思える。
 そのことを説明すれば、それは例えば、自己奉仕者が宗教を形骸にして、金儲けの道具にした。 今の宗教の大半は、言葉だけもてあそび、現世利益で商売をしている。 そして宗教に従事している人たちは、自分たちのやっっていることが宗教の概念や言葉だけ利用して、自分たちの利益のために、人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、そんな結果になっているっていう認識を持っていない。 また、一般の人たちも、現世利益しか求めない傾向があり、勝手な願い事だけして、それがかなおうが、かなうまいが、そのこと自体に意味を見出していない。
 人が神さんに何かを願う理由、それについて少し述べれば、すべて、人(日止、霊止)が観察する事象っていうのは、人という字が示すように、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、その両方があいまって事象の“創造”をしていくし、自分たちの願いとか、自分たちの幸福の概念は、自分たち自身が観察する事象をよいカタチにするために心(靈)が動いているから、願い、幸福の概念を持ち、それを(事象に)実現しようとする。
 しかし、自分たちの願いなんてのは簡単にかなわない。 また、霊的成長度の低い人ほど、そこに、自分たちの霊的成長のための試練を見出していない。
 願いをかなえること、幸福を実現し、さまざまな価値観を持ち、そのために行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)することは、“日月神示”表記の、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、それが進化=霊的成長、神格化に向かうことであることを忘れている。
 本来、宗教っていうのんは、そのことを示すために、宗教の開祖に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在が憑依して、通信を送ったり、それは例えば、霊耳(れいじ、憑依現象により霊的存在の声が聞こえると感じ(感じる磁性)ること)やったり、霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)やったり、開祖自身の人生に苦難を与え、自分の人生について考えさせたり、さまざまなことをして、“上”の思惑を伝えてきているけど、霊的成長度の低い人は、ただありがたそうな概念や言葉を利用して自分の利益にしている=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをしている。
 そして今、一般の人たち=平均的地球人の、神や仏に対する認識は、自分にとって都合のよいものに成り果てている。
 だからそれは、“活神様”に対して、ほんまの神さんや、自分たちの霊的成長を忘れているってことでんねん。 
また同様に、“上”との通信を行うためにあるべき霊能力や、霊的成長の指標になるためのオーラや“主護霊”の概念も、自己奉仕者の活躍によりとても低くなってしまった。
 神さんであろうが霊能力であろうがオーラであろうが“主護霊”の存在の意味と意義であろうが、すべて自分がどう生きるのか、どう存在するべきなのか(“観自在”)。
 その指標にすべき何かなのにも関わらず、自己奉仕者はそれらを利用して金儲けして、または信者集めをして、自分の低い功名心と自尊心を満足させ、またそんなものの信者になる人も自己奉仕者の霊的成長度でしかなく、おかげ話とか、薄っぺらい感謝とか、霊能力や霊的存在に対し甘い夢を見て、ただただ喜んでいるだけに終始する。
 そやからそんな人たちはアセンション落第組だって、もうすぐ発売の<4><5>(事象の形骸化シリーズ)で指摘した。
 そやから今まで何回も使った言い回しやけど、自分の心(靈)の動きに対し、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持っているならば、霊的成長の方向性を見失うことはないけれど、大概の人は自分に甘く、自己奉仕者の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の人たちの手法にはまり、インチキ霊能力者に金を払ったり、情報を寄せ集めゴーストライターが書いたアセンションの本を読んで甘い夢を見たり、さらにゴーストライターは、たくさん売れた情報を寄せ集めただけのアセンションの本をさらにパクって文章を書き、さらに、一般の人たちに甘い夢を見させ…パクリの連鎖みたいなことが起きているというひどい状況になっていると思えるけど、こんなことは、ほとんどの人が気付かないやろな。
 まあエエわ。

 ほんでから次の文。 

“泥の海にする位 朝飯前のことざが、
それでは臣民が可哀そうなから天の大神様にこの方が詑びして一日(ひとひ)一日と延ばしてゐるのざぞ、
その苦労も分らずに臣民勝手なことばかりしてゐると、
神の堪忍袋切れたら何んなことあるか分らんぞ、”

 一人でもアセンションに間に合う心(靈)の在り方と、霊的成長度に達してくれっていう、“上”の“慈悲”と“慈愛”が表れた言い方でんねん。

 ほんでから次の文。

“米があると申して油断するでないぞ、一旦は天地へ引き上げぞ。”

 これは食べ物としての“米”のことを言うているのではなく、それはまず、以前紹介した、
上つ巻 第五帖から以下にコピペしときまんねん。


                                          ↓
 
“そして“神の米”、この事は前のブログには書いてない事やけど、米っていうのは固めの芽でもあるって先生は言うてはった。  そう先生が思う根拠は、“コ”=凝り固まる、凝集する。 それは真固止の固でもある。 “メ”=蒸し出された生命の芽。 そしてそれは目、心の目…それは、観察と認識って事やって先生は思った。
(現津(あきつ)=観察され得る事象)
…中略…

 人(日止、霊止)に限らず、生命の(霊的)成長…進化っていうのんは、段々“上”の振動を感得し、獲得して行く事でもある。  そやからそれは米の象形文字を見ると解るやん。



米の象形文字に見られる振動の三つの性質

 


プラス、マイナス、中性の粒子、砌(みぎり)と日足(ひたり)、そして背骨。
その極性の事を言うてる字でんねん。
 ほんでから、この字そのものが、地球人の心(靈)の発現の段階を示している事でもあるし、それは“下”の極性と“上”の極性を持っている事でもある。
 ほんでから今地球人の心(靈)の発現は、米の象形文字の下半分の段階って事でもあるし、そやからこそ固めの芽=コメ、それは真固止に通じ、米を食わんと骨の結晶化には繋がり難い事も示してると思うけど、ほんまはそんな事だけではなく、すべての現津(あきつ)=観察され得る事象の良いカタチの在り方を望み、そして段々心(靈)の発現の段階が変容することそのものが、“上”の振動を真に固く止める=真固止って事でもあり、それが段々神さんに近付いて行くって事になる。”

                                            ↑
                                              引用終わり。

そやから“米”、これはなにを意味するのかというと、“日月神示”表記の“戸”、“江戸と尾張”の“戸”それは、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、心(靈)の動きで言い換えれば、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”。
 これは進化、霊的成長、神格化に向かうことの順番(“道”、時間の進行)であり、生命の進化の法則性=“理(ミチ)”でもあるけど、この文で言われてる言い方の“米があると申して油断するでないぞ、一旦は天地へ引き上げぞ”は、進化の法則性=“理(ミチ)”があるから、安心していてはいかんという意味と、さっきの文の“一日(ひとひ)一日と延ばしてゐる”ってことを知っておいて、もう時期が迫っているから、アセンションの時期に間に合うような心(靈)の在り方と、霊的成長度を獲得せよって言う意味やとおもいまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第十八帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、
今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、
何うか言ふこときくから、
夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、
それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、
くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ、
神は急ぐのざぞ。
八月七日、一二のローレンツ力と ○  。

 まず、冒頭の文。

“何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、”

この言い回し、“何時も”“気つけてあること”、これまでも“日月神示”で言われてきている事は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と、もうひとつ、“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出していくこと、言い換えればそれは、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”。
この二つがなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無い。 そやからそれは、霊的成長が無いってことになるし、さらにこの二つは、人の神格化に必ず必要なことでもある。またそれは、“日月神示”表記の“道理”、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)って意味であると、確信する。
ほんでからこの文の“神が人を使うてゐる”。 これは“上”との感応があってこそ、良いカタチの事象の“創造”が出来るのだって言われてる。 
そのことは“日月神示”の言い回しなら、“天詞様”ってことになる。
そして人(日止、霊止)の心(靈)が感じ(感じる磁性)、観察して認識している世界=現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分の心(靈)の動きによるものであり、自分の心(靈)の動きには霊的干渉がある。
また、“人”っていう字が示している通り、丿部(へつぶ)は、神の思惑の顕現であり、乚部(いんぶ)は、人の思惑の顕現でもある。 だからこの字が示すのは、人と神、その両方の思惑があいまってこそ、自分たちの世界が良くなるってことでもある。
そやからそれは、自分の心(靈)の動きが“上”に向かう心(靈)なら=“善(神格化の方向性と智性の受信)”ならば、その心(靈)の動きの反映した世界=事象を感じ(感じる磁性)て、観察する。
そやけど、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ならば、悪が蔓延る(はびこる)事象しか観察できない。
善と悪、“上”と“下”、どちらの通信を受けるのか、それは、どんな霊的存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するのか、それを決定付けるのは、自分の心(靈)の動きであり、自分の心(靈)の動きを判断するのは、智性=神性であり、智性(神性)は、完成された人の表記の“王”、その一番上の“一”であり、それは1番目のオーラでもある。
今言うたことを踏まえて、十八帖の残りの文を読めば、よく解る。

“今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、
何うか言ふこときくから、
夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、”

 この文の“今度の戦い”は、自分の心(靈)の中のうごきを見出すためのこと、そしていうまでも無くこの言葉自体が、アセンションに移行できる資格を獲得するための、自分の心(靈)の中の戦いでもある。
 そして“外国人にもよく分って”っていうのんは、日本に対しての外国ではなく、外側(外国と幽界)の事象しか見ないで、自省(胸の磁性“十”)をしない=自己観察をしない人っていう意味としか思えない。
 これまでも言うてきた通り、外側(外国と幽界)の事象の観察をして、自分の外側に価値を見出そうとしたり、幸福を見出そうとしてきた心(靈)の動きが、薄っぺらい価値観を構築し、形骸の“美”の概念、ファッション、ブランド、宝石などの装飾品、化粧品、エステ…ほんでからグルメ、そんなどうでもエエ物に付加価値をつけて、商売をして、その商売地球全体を見て経済が反映している国にだけある商売で、それは三文時代劇なんかの悪代官の集まりみたいなもんでんねん。
そやからそれは、貧民の苦難を見て見ん振りして、自分たちだけどうでもエエ贅沢を楽しんで、それがステータスみたいに思い込んでいる情けない人間の集まりが、経済大国の人間でんねん。 そしてその人たちは、自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が、悪だって認識が無いから“何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ”…これは、改心してくれってことでんねん。
そやから今指摘した人、その人たちの霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度は、“江戸と尾張”腹の水、マニピューラチャクラの段階=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンで、その心(靈)の動きは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
こんな人たちは、智性(神性)を少し持っていても、智性(神性)由来の観察で自分の心(靈)の動きを観ていない。
言い換えればそれは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)に囚われ、その心(靈)の動きは、内在する悪と呼ぶにふさわしい。
そやから先生の本の、“<4> 智性無き心は 悪を容認する”の表オビ文。



目上(智性)の心を発揮しないものは、

内在する悪に囚われ、

地球を、恨みの連鎖の霊的干渉で満たした。

その結果は、

神の咎めとして、文明の崩壊を招く。

 




これがアセンションに伴う醜い事象でもある。
その意味で次の文。

“それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、
くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ、
神は急ぐのざぞ。”

 この文の“神の臣民の身魂掃除”。 “神の臣民”は、アセンション後に移行できる次の“創造”を担える資格を持つ人。
だからそれはさっきも述べたとおり、自分の心の観察が大事。 そして“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”=心の“上”“下”、自分の心の善と悪を見出すこと。 
そして今の地球では、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が多いからこそ、“くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ、神は急ぐのざぞ”と言われ、ことに“神は急ぐのざぞ”は、間に合わん人が多いことと、現状、たくさんの人間がアセンション後に移行できないことを示唆している言い方でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第十九帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらんのざぞ、
世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、
少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気つけてゐるのざぞ、
ここまで世が迫りて来てゐるのぞ、まだ目醒めぬか、
神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来るぞ、
その時になりては間に合はんぞ。
八月七日、一二 ローレンツ力と ○

 この第十九帖自体が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対するメッセージである。
 自己奉仕者、自我の肥大した人、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、マニピューラチャクラの覚醒段階)、そして“石屋の仕組み”(“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”))、これらに観られるのは、程度の低い価値観、程度の低い幸福感、(通貨としての)金、物欲、そして“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)etc.
 こういう人たちに対し、本当のこと、真実=真固止、○ 九 十 、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、これはどういうことなのか示さんと、その人たちが霊的成長の指針を見出せん。
 それがこの文の“神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらん”でもあり、それは言い換えれば、自己奉仕者の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程を送っている人は、自分たちが間違ったことをしているという認識を持っていない。 
 あるいは、なんとなく自分がやっていることが間違っているとおもっていても、目先の欲望のためにその考えを無視している。
そのことを“神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来る”と称されてる。
 またこの文の“気の毒出来る”は、自己奉仕者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、事象を腐らせ“毒”が“出来る”と言われてる。
 だからこそそれは、智性(神性)で自分の心(靈)の動きを見ていないから、“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”と何回も言われ、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)しろって言われてる。
 そうせんとアセンションというタイムスケジュールに対し“早く気つかぬと気の毒出来るぞ、その時になりては間に合はんぞ”って言われてる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


 
今回も、天つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、
金(きん)は要らぬのざぞ、
お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、
衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。
草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。
お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。
悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。
雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、
神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。
八月の七日、ひつ九のか三ふで。

 この第二十帖も、前回の十九帖同様に、自己奉仕者の心(靈)の動きをしている人に対するメッセージやと思えるな。 そやからそれは、冒頭の文で、自己奉仕者の価値観を指摘して、神さんの思惑って言うのんは自己奉仕者の価値観で“創造”されるべきものではないことを言うてる。

“神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、
金(きん)は要らぬのざぞ、”

 いうまでも無くこの文の“今の臣民”は、大半の地球人、自己奉仕者の霊的成長度の人の認識のことを言うてまんねん。 
そやからそれは(通貨としての)金にたいする執着、金と物があれば幸せだと思う程度の低い価値観や人生観、そんなものでは“神の世”=神と人が創造する世界にはならへんって言うてるだけでんねん。
 
 ほんでから次の文は、智性(神性)の発現、智性(神性)と“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことを述べていると思え、それは“天詞様”って呼ばれる人であり、今後=アセンション後の“創造”を担う人であり、そうなれば、自分たちの世界は変わる=今より相対的に高い価値観や人生観で創造すれば、現津(あきつ)、観察され得る事象は変化してくるって言われてる。

“お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、
衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。”

 この文の“お土”は、完成された人としての表記の“王”から、“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記であり、肉体の意味であると思える。  
肉体を持った心(靈)=人(日止、霊止)、現時点での地球人は、今、アセンションを迎えるにあたって、3番目のオーラは2番目のオーラに変換され、それは自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現になり、同時に“一”=智性=1番目のオーラを高めていく。
何回も説明したことやけど、人の肉体の構造は、縦の磁束に貫かれている。 そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子と反応して、心(靈)は育ってきた=進化の本当の意味でもある。
そして1番目、2番目、3番目のオーラは、腹、胸、頭、それぞれが内容の違うコンデンサーの構造を持っているからこそ、オーラの基底は三つになる。
そして下から上へ直列につながっているコンデンサーは、高い振動しか昇り得ない。
だからこそ、本能より智性が“上”の心(靈)の発現でもあるし、“一”=智性=1番目のオーラは、神の高い部分との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によるものでもある。

“一二三”のオーラと心(靈)の発現 
“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 
人(日止、霊止)の縦と横の電気特性 “一二三”のオーラ

 
それが進化=霊的成長、神格化に向かうことの順序であり、それをヨガではチャクラの概念で説明している。
 そやから3番目のオーラ→2番目のオーラ→“一”=智性=1番目のオーラになっていくことを、“お土からあがりたものが光りて来るのざぞ”と称されていると思える。
 ほんでからこの文の“衣類”は、心(靈)の入れ物としての肉体、“たべ物”は、吸収する振動、“家倉”は、“家”が、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意味があり、倉は、溜め込むの意味やろから、智性(神性)という振動を溜め込んだ“日止、霊止”であり、“日止、霊止”は、太陽の振動を止める、霊を止めるは、“上”からの振動を止める(“メグリ”(帀))の意味でもある。
 そしてそれは真に固く止める=真固止、○ 九 十、でなければならない。

 ほんでから次の文。

“草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。
お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。”

 この文の“草木”は、今までも言うてきてるけど、植物という意味ではなく、クサカンムリは芽生えるの意味があり、クサカンムリの下に、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”が書かれている。 そして“木”は、胸の磁性“十”に丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
 そしてこの文の“政治”は、政治の政、“政(まつりごと)”っていう意味やろ。 そやからそれは、現津(あきつ)、観察され得る事象を“創造”するための、政治の政、“政(まつりごと)”であり、“うれしうれし”“大歓喜”の世を創造するための秩序みたいに考えたら解りやすいけど、多分、智性(神性)を行使して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)している人たちが“創造”する世界は、秩序なんて言葉も死語になってるやろ。
 ほんでからその秩序が死語になっている世界、智性(神性)を顕現した人が行動して世界を創造しているならば、神の思惑の受信をしているから、不幸な事象など無くなり、当然今の地球みたいな恨みの連鎖による霊的干渉など無くなる意味も含め、“誰でもそれぞれに先の分る様になる”といわれてると思う。
 ほんでから“お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になる”っていうのは、アセンション後は、“創造”の“主(ヌシ)”に地球が霊的に近づく。
 分かりにくい言い回しをしたけど、太陽が仲介してくる“創造”の“主(ヌシ)”の振動も、現時点より相対的に高いものになり、だからこそ霊的に低い自己奉仕者はアセンションで分けられ、今の地球のような“痛みと悲しみの星”に移行しなければならない。
 それが進化程度相応のことでもある。

 その意味で次の文。

“悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。”

 アセンション後の地球は、相対的に“善(神格化の方向性と智性の受信)”の振動に満ちるから、自己奉仕者は存在できない。 今、述べたことでんねん。
 だからこそ“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と感じられる事象は、すべて暴かれる。
そして今、毎日のように“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象は暴かれている。
 ほんでから“ばくち、しょうぎは無く致す”は、競争心、奪い争う行為、経済の繁栄、他者が不幸になっても自分たちだけよい目が見れれば良いという低い価値観、それは自我の肥大によるものであるからこそ、そんなことは、価値観の違う世界、今後=アセンション後の世界には無くなる。 そのことを揶揄(やゆ)した言い方でんねん。

 ほんでから次の文。

“雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、
神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。”

 恨みの連鎖の霊的干渉による災害などは無くなる意味で“雨も要るだけ”“風もよきやうに吹かしてやる”って言われてる。
 ほんでから“神をたたえる声”って言い方は、今現在、大半の地球人が神をたたえていない、神を利用して権力を保ったり、商売したり、要は、自己奉仕者の自分たちにとって都合のよい神の概念は消失する。 当たり前でんねん。 それを揶揄(やゆ)した言い方でんねん。
 ほんでから今後=アセンション後の地球は、本当の意味での神、“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の概念を真実=真固止と捉え、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分たちの思惑と成し、その思想で“思惑の顕現”=現象化をしていきながら、事象の創造をするからこそ、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は無くなり、“うれしうれしの世となる”って言われてまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

みろく出づるには、はじめ半(なか)ばは焼くぞ、
人、二分は死、みな人、神の宮となる。
西に戦争(いくさ)しつくし、神世とひらき、
国毎に、一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)たりて百千万(ももちよろず)、
神急ぐぞよ。
八月七日、ひつくのかみふみぞ。

 この文の、“みろく出づる”は、“五六七(みろく)”やろし、“出づる”は、はっきり分かるようになるとか、顕現するっていういみやろ。
そやから、前に説明したとおり、“五”は、神経が密になる様子、糸巻きの象形文字、そして“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、ほんでから“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)に、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わった表記。
 そやから“五六七(みろく)”は、神経が密になって霊的成長した心(靈)を示すし、それは“慈悲”と“慈愛”の“慈(しげる)”でもあるし、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“思惑の顕現”=現象化が、“六”であり、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラによる乚部=人の思惑の顕現なんやから、アセンション後の“創造”、神の思惑を受信して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人たちが創造することを示す。
 そやけどそうなる前に、やってきたことの結果、アセンションに伴う醜い事象により、
“はじめ半(なか)ばは焼く”っていわれてる。 そしてその醜い事象は自分たちのやってきたことの結果という認識を持つ人(日止、霊止)が“みな人、神の宮となる”であり、
それは前にも説明したとおり、神の“宮”っていうのんは宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている。
 そやから“神の宮”って表記は、言い換えれば“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している人、“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そうなっていく、高い認識を得ていき、“上”と感応共振するに至るまでに“半(なか)ばは焼く”“人、二分は死”って経過があって、残った人は、自省(胸の磁性“十”)をするって言い回しやと思える。
 ほんでから“西に戦争(いくさ)しつくし”っていうのんは、ヨーロッパ、アメリカ、日本、中国とういう順番、だんだんにしに移項する順番で回ってて、それは“上”、北=大極から見たら右回りにいろんな現象が起きることを指していると思える。
 その現象っていうのんは、戦争の体験、経済の繁栄、程度の低い価値観で反映した経済は破綻する、これらは皆、程度の低い砌(みぎり)の“行”であり、失敗であり、それを経験せんと、左往右往になって行かん事を示していると思える。
 そやから“戦争(いくさ)しつくし、神世とひらき”っていうのんは、程度の低い価値観を行使して、失敗し、経済は破綻し、今後戦争も起きるやろけど、それを済まさんと、高い認識は得られへん。
 そやからそれは、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることでもある。
 ほんでから“国毎に、一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)たりて百千万(ももちよろず)”の、“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラであり、“一二三(ひふみ)”って表記は、完成された人の表記の“王”を示すものであり、現時点の地球人は、“一”=智性=1番目のオーラが小さいから、土=2~3番目のオーラの“行”をやっている。 そやからそれは、前回の第二十帖の“お土からあがりたものが光りて来るのざぞ”って言われるように土=2~3番目のオーラは、“一”=智性=1番目のオーラに変容しなければならない。
ほんでから何回も言うてきたことやけど、土=2~3番目のオーラの進化過程の行いは、その心(靈)の動きの根底にあるのが、自我の確立=固定化、そして、自我の肥大であり、“日月神示”表記の“江戸と尾張”。 それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…この表記が自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンによる心(靈)の発現と動きでもある。
そやからアセンションに伴う醜い事象を見て自省(胸の磁性“十”)して、“一”=智性=1番目のオーラを自分に獲得し、その表記が“一二三(ひふみ)”であり、“三四五(みよいづ)”は、“王”から|(たてぼう、こん、縦の磁性))をはずした表記であり、“四”は、発振、発信の意味、そやからそれは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“五”はさっきも言うたとおり、神経が密になった=進化した肉体を指す表記でもある。
そやから“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”は、霊的な進化、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”への進化。同時に“一”=智性=1番目のオーラも獲得する表記でもあるし、右往左往=失敗を体験し、左往右往して、自省(胸の磁性“十”)して、自分の在り方を自分が獲得した智性(“一”、1番目のオーラ)により判断して、それが自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出す意味の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
そうやって“一”=智性=1番目のオーラと“慈悲”と“慈愛”を持った人の“創造”は、言いかえればアセンション後の“創造”は、“百千万(ももちよろず)”になる。
“百千万(ももちよろず)”は以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。

百 千 万 の解字と解釈 

 そやから、万=卍(まんじ)(日足(ひたり)回転)は、神の思惑を取り込んでいくことを示し、重複するけどそれは、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして自分の思想にする意味での“天詞様”になり、アセンション後はそういう人が事象の“創造”する。
 そしてまた、これも何回も言うてきたことやけど、アセンションにはタイムスケジュールがあるからこそ、早く“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”して欲しいからこそ“神急ぐぞよ”って言われてる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈

 今回も、天つ巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

十柱の世の元からの活神様 御活動になりてゐること分りたであろうがな、
けものの入れものには分るまいなれど、神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。
まだだんだんに烈しくなりて外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ。
その時になりて分りたのではおそいおそい、早う洗濯いたして呉れよ。
八月の九日、ひつ九のか三。

 この文の“十柱”は、胸の磁性“十”を指し、“柱”については、以前解釈して作った画像を貼っておきまんねん。

柱の解字


 この“十”と“柱”は、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”への心(靈)の進化過程を指し、その心(靈)の発現は、神格化へのプロセスでもあり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋でもある。 
そやから“十柱の世の元からの活神様”の、“世の元”は、進化の法則性、それは“道理”“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、生命の存在の意義を示す表記でもある。 そして生命の存在の意義は、神格化であり、神格化に向かう過程が進化と認識されうることでもある。
また、“元”っていう字そのものが、“ニ”+儿部(じんぶ、にんにょう)で、儿部(じんぶ、にんにょう)は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあり、だから“元”は、肉体を持った心(靈)が、神の思惑を受け、自分の思惑として肉体を持って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく様子を示す字でもある。
ほんでから“世の元からの活神様”って言い回しは、
天つ巻 第十七帖の“活神様”と同様の解釈で良いと思える。 
そやから一般の地球人の神さんに対する認識はとても低く、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的存在としての神さんって認識が、足らなさ過ぎるし、自分たちは“上”に向かい、そのことが神に近づいていくのだという認識も失っている。
神って認識が進化過程で芽生えたなら、なにを自分たちは意識していくべきなのか?
それは、私たち人は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)から、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の進化をしている最中であり、だからこそ失敗を繰り返し、失敗を通じて自分の在り方を思い(ローム太霊の言葉の右往左往から左往右往)、その思いは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、その息吹そのものが、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になり、“上”の思惑を自分の思想に取り込み、それが“日月神示”の表記の“天詞様”であると確信するし、だからこそ神を認識したなら、自分の(霊的)成長を考えるべきでもある。
それを、天つ巻では“活神様”と称されていると思えるし、それは霊的成長をある程度果たした人が持つ神さんへの認識でもある。
その“活神様”の反対は、今、とても多い、甘い(亜、魔、出ずる、泉)神さんの解釈、それは“主護霊”に対しても同様であり、現世利益や苦難を救ってくれるのが神さんだとか守護霊とか、自分の欲望を達成するのに力を貸してくれるものとか、同様に霊能力に対してもそんな認識しか持っていない人が多い。 
そやから、生きていることは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それは、認識(悟り、幸取=さとり)の拡大なのだから苦難があって当然。 そしてその苦難について真剣に考えるならば、おかげ話とか、生きていることに感謝しましょうとかのありがたそうな薄っぺらい感謝を強調するような言葉に酔っている暇など無い。
神は、“創造”の“主(ヌシ)”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、人に智性を獲得させたいから、苦難や試練を与える。 
それがS会=紫光会の交霊会でよく使われた言葉の、“神は乗り越えられない試練は与えない”の意味でもある。
この言葉、ある程度霊的成長している人は、自分の心(靈)の動きに対し、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ゆえの視点を持つから理解できるやろ。 
だから、霊的成長度の低い自我の肥大をした人ほど、甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉に酔い、現世利益を求め、薄っぺらい感謝を吹聴したりして、(霊的成長度の低い)人を引き付け、自分の低い功名心と自尊心を満足させて、結果、多くの人を自省させず、そのことそのものが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になっていることに自分が気が付いていない。
甘いささやきに乗ることと、自分に対する厳しい視点、どっちが神さんに認められることなのか、考えればすぐ判りそうなことなんやけど…。
本題に戻り、事象を感じ(感じる磁性)=“世”という言葉で認識して、自分自身を知る。
それは、自我の確立=固定化の進化過程の期間を送り、そのことが肉体を持った心(靈)の神格化の一側面であり、自我がなければ自己と他者の認識も無く、自分と神、“上”と“下”の認識も無い。
それがまた、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程でもある。
 そして今の地球人は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化の過程でもある。 何回も言うて来ているように、自我の確立=固定化の段階は、自我の肥大に陥りやすい。
 だからこの天つ巻 第二十二帖の“けものの入れものには分るまいなれど、神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。まだだんだんに烈しくなりて外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ”の、“けものの入れもの”は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の段階の成長過程を示し、“神の臣民”は、“慈悲”と“慈愛”をもち、智性(神性)“一”、1番目のオーラ)をある程度発現し、智性(“一”、1番目のオーラ)由来の自分の心(靈)の観測ができる人を“神の臣民”と称し、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして自分の思想を構築する“天詞様”であると思える。
 そして“外国の臣民”は、外側(外国と幽界)の事象しか見ていない認識の段階、その霊的成長度は、自己と他者を認識する自我の確立=固定化の成長の段階でしかないから、“神の臣民”と区別されていると思える。
 そして“その時になりて分りたのではおそいおそい、早う洗濯いたして呉れよ”は、言うまでも無く“身魂掃除”“身魂洗濯”のことを強調しており、自分の心(靈)の“上”と“下”を自分の智性(神性)で判断し、自分の思惑が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)となり、それが事象の“創造”となることを知るならば、自分の在り方を考え(“観自在”)、何を思い、どう生きるべきか考えることが出来る。  それが智性(神性)の顕現でもあるけど、アセンションには時期があり、間に合って欲しいからこそ、こういう言い方をされていると思える。
 そして補足として、時期は、磁気であり、時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))、それを人の心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が認識したなら、時期になり、それは普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)やフォトンベルトなどの、電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある。  また、余談になるけど、今述べたとおり、心(靈)は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、電磁波と反応して外側(外国と幽界)の事象と、内面とか内側(心の中と感じている事)を認識する。
そうやって心(靈)は育っていき、だんだん“上”の心(靈)を発現する。
そして智性(神性)の強化の“行”である“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことは、両眼で太陽からの電磁波=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を取り込むことでもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。
悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、
雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。
八月の九日、一二 ローレンツ力と ○

まず、冒頭の文。

“我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。”

 生命は、進化過程において、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、って認識されうる心(靈)の発現と動きを持つようになる。
 その段階は、個の意識の発現ともいい得るし、生命の完成形の独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程でもある。 
それがこの文の“我がなくてはならん”の意味だと思われる。
 進化過程においての自我っていう心(靈)の発現は、自己と自分以外=他者や他の存在(霊的存在も含む)、自分と神、“上”と“下”、善と悪、自分の外側と自分の内面とか内側、これらを見出していく心(靈)の動きでもある。 
ことにそれは、すべての生命が行うといいうる“観察と認識”という行為で、自分の外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)を観察して認識することでもある
そやからそれは、独り神(ひとりがみ、日取り神)の完成形は、“主(ヌシ)”っていう字に示されると思われる。
 そして“主(ヌシ)”っていう字は、脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートをも示している。

主(ヌシ)の解字


だから霊的成長、神格化へのプロセスを守る霊的存在は、“主(ヌシ)”を護る霊、それだからこそローム太霊は、S会=紫光会の交霊会で、“主護霊”と記述せよ!と述べたと思われる。
そして“我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ”っていうのんは、自我の肥大を指した言い方である。 何回も述べてきたように、自我の肥大は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)で、自分たちだけの利益を追求する心(靈)の動きになる。
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあるからこそ、次の文に続いている。

“悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。”
 この文は、現時点の地球人の認識に於ける善悪は相対的なものでしかないって言い回しに思える。 
それは、個人個人の善悪の認識は、霊的成長度に於いて違う。 
しかし絶対の“善(神格化の方向性と智性の受信)”というのも、なんとなく認識できるものである。どんな悪人でも絶対の“善(神格化の方向性と智性の受信)”は認識しているものであると思える。 そやからこそ、“良心の呵責”なんて形容もあるけど、自分の心(靈)の動きの善悪っていうのは、どんな人でも判っているものだと思えるし、それはさっき言うた、自我の発現の段階で認識するものだと思う。 その証明として、自我が強化されていない霊的成長度の低い四足獣には、たいして善悪の認識は無い。 
また、人間として善悪を理解していない人を“ケダモノ”と呼称するし、“日月神示”内でもこの表現は幾度と無く出てくる。
自分の欲望に負けたり、理性で欲望を押さえ込めなかったり、他者を犠牲にしてまで自分の利益や快楽を追求する人を、“ケダモノ”と呼称され、言い換えればそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
その意味で次の文。

“千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、”

 この文の“千人の力”の“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”であると思える。 それは霊的進化の過程を示す表記だって解釈した、“百千万(ももちよろず)”の“千”の意味だと思えるので、天つ巻に入ってから作った画像を以下に貼っておきまんねん。

百 千 万 の解字と解釈

 そやから“千”は、“上”の思惑と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が合わさった表記。
今後=アセンション後の“創造”を託されるべき霊的資格を持った人(日止、霊止)のことでもある。 
そして、その霊的資格を持った人以外は、この文で“神の臣民ではないぞ”って称されている。 
だから自己奉仕者の霊的成長度の人と、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、分けなければ、神の思惑が顕現した世界の“創造”にはなっていかない。
さらに自我は、腹の心(靈)であり、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロンであり、そしてその“上”は、胸の臓器である、肺。
肺は空気で満たされ、空気の取り込みと排出に於ける肉体内の電磁誘導があり、それは腹よりも高振動の荷電粒子の回転になるから、腹から胸へのコンデンサーの構造としては、高い振動しか胸に移行しない。
その仕組みは、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)でもあり、腹はムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、下三つのチャクラであり、胸は、アナハタチャクラであり、腹は“上”から注がれた荷電粒子を腹の水に錯体として取り込み、胸は空気を呼吸して荷電粒子を取り込む。
それを言い表したのがこの第二十三帖の最後の文だと思える。

“雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。”

今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”天つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今の臣民めくら聾ばかりと申してあるが、その通りでないか、
この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ、
それでこの世をもちて行く積りか、分らんと申しても余りでないか。
神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来るぞ、
神は大難を小難にまつりかへてゐるのに分らんか、
えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること分らんか、
ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたまぞ、
そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。
臣民は、神に、わるい事は小さくして呉れと毎日お願ひするのが務めぞ、
臣民 近慾(ちかよく)なから分らんのぞ、
慾もなくてはならんのざぞ、取違ひと鼻高とが一番恐いのぞ。
神は生れ赤子のこころを喜ぶぞ、みがけば赤子となるのぞ、いよいよが来たぞ。
九月十日、ひつ九のかみ。

 まず、冒頭の文なんやけど、これも霊的成長度の低い=認識の低い人に対する言い回しやな。
 
“今の臣民めくら聾ばかりと申してあるが、その通りでないか、
この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ、
それでこの世をもちて行く積りか、分らんと申しても余りでないか。”

 そやからこの文は、人が生きている意味と意義、心(靈)の動きをよく観て思う自分の在り方(“身魂掃除”“身魂洗濯”)、心(靈)の動きの“上”と“下”を自分の智性(神性)で見出そうとしないから、自己奉仕者になる。 
それを“今の臣民めくら聾ばかり”って称されている。 
そして大半の地球人は“日月神示”表記の“われよし”ってことで、そやから“めくら聾ばかり”って言われてる。
 ほんでから自分たちの存在の意義、それを見出していないからこそ、(生きている間に持っている)自分たちの体の仕組みを知らん。 
 前のブログでも言うてきた通り、体は、體(骨が豊か、宝のアナグラム)であり、人(日止、霊止)は霊的に進化していくなら“宝玉”になる。
 “宝玉の仕組み”は、宀(うかんむり、頭の意味)と、“玉(ぎょく)”。 それは腹のエネルギーが大日如来の条帛(じょうはく)のように引きあがっていく様子を“玉(ぎょく)”の中の点に示されている。 
そして、そのときの心(靈)の変容は、自我から“慈悲”と“慈愛”の発現になる。 
ほんでから“慈悲”と“慈愛”、これは自分たちの心の在り方を示す言葉でもある
 そしてもうひとつの意義、それは“日月神示”表記ならば、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。
 肉体組織の結晶化の具体的な方法が、“行”と“修行”であり、“行”と“修行”で強化された生体内電流は、アミノ酸の結晶化を誘起して、肉体の電気特性を変えていく。
 そしてそれは、磁性の強化であり、縦の磁束=頭から尾骨、横の磁束=大脳半球の左右、手足の左右、それは水平磁場になり、水平磁場の強化が、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化と同義でもあり、七つのチャクラの胸から上のチャクラの強化は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になる。 

“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 
水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成 
 

 人(日止、霊止)の存在の意義は、心(靈)が肉体を持って人と呼称されているけど、それは、“人”っていう字が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているし、だからこそ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んで事象の“創造”をする。
 だから“上”の思惑を取り込み、自分の思想にするには、“行”と“修行”が必要。 そやけど、今の宗教での“行”の概念は形骸になっているし、大半の人はそれを見出していない。 
そやから“この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らん”って言われてると思える。
 ほんでから、この文の“この世はおろか”っていうのんは、自分たちが観察して認識する事象、現実と思っていることは、自分たちの心(靈)の動きで創られている。 そやから観察されうる事象っていうのんは、自分たちの心の中にある。 それが外側(外国と幽界)の事象からの振動の受信で、“観察と認識”の一側面ってことでもある。

 ほんでから次の文。

“神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来るぞ、
神は大難を小難にまつりかへてゐるのに分らんか、
えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること分らんか、
ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたまぞ、
そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。”

 この文の冒頭の“神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来る”っていうのは、神や仏など、霊的に高い存在を形骸にしてしまった人の低い心(靈)ゆえの認識、現世利益とか、何回も指摘してきている霊的成長度の低い人が持つ神さんに対する概念。
 甘いことばかり考えているから、自分たちの思惑と違うって言い分を申し立てるのは、自分たちがやってきたことに対してバチが当たるって概念が無いからでんねん。 そやからそれは、因果応報、ブーメランの法則を知らんからでんねん。
 自分たちが今やっていること=事象の“創造”が、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)にかなっていなかったら、それは失敗であるし、ことに“日月神示”では、“われよし”と称されて、自我の肥大した人の“創造”はバチが当たることを何回も指摘されている。
 しかしバチが当たること事態が、霊的成長の法則性であり、ローム太霊さんの言葉の右往左往でもある。 
 低い功名心と自尊心、薄っぺらい幸福の概念、物欲、(通貨としての)金に対する執着、そんな心(靈)の動きをしている人は、今後=アセンション後の“創造”に参加できないからこそ、今、失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)しなければならない。
 それは、ローム太霊さんの言葉の左往右往でもある。
 補足として述べておけば、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでんねん。
 そして今、アセンションを目の前にしてたくさんの醜い事象が起きているけど、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、極力、人に対する災厄とかを小さくしている。(だからまだ大きな戦争は起きていない)
 それは一人でも多く次の段階に移行させたいからでもあり、ぎりぎりまで猶予期間をつくっているってことを述べていると思われる。
 ほんでから“ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたまぞ”っていうのんは、霊的成長度の低い人ほど自暴自棄になる。 だから目先の不幸に遭遇したなら、すぐこの世界なんて壊れてしまえとか、どうでもエエわって考えたりもするやろ。
 そんな考えを持つ人は、霊的成長した人(日止、霊止)ではない。 目先の不幸は、左往右往の結果であり、自分の在り方を示すものであり、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするためのことでもある。 そやからそういう発想が出来ない人はこの文の“邪(じゃ)のみたま”であり、“神の臣民とは申されん”ってことでんねん。

 そやから、今、指摘した、程度の低い発想をする人に対して次の文。

“臣民は、神に、わるい事は小さくして呉れと毎日お願ひするのが務めぞ、
臣民 近慾(ちかよく)なから分らんのぞ、
慾もなくてはならんのざぞ、取違ひと鼻高とが一番恐いのぞ。
神は生れ赤子のこころを喜ぶぞ、みがけば赤子となるのぞ、いよいよが来たぞ。”

 この文の“近慾(ちかよく)なから分らん”。 目先のことしか理解できない霊的成長度の人は、生きている期間がすべてみたいな認識しか持ってない。 
だから人を騙したり欺いたりしてでも金儲けする。 そやからそれは、何回も言うてきた通り、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、形骸の価値を求め、そのためにエネルギーを贖い(あがない)、そしてそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)にそっていないから、失敗をする。(右往左往と左往右往)
その“われよし”の心(靈)は、“取違ひと鼻高とが一番恐い”って指摘されている通り、貴い何かを形骸にして(“役員づら”)、低い功名心と自尊心を満たして、結果として金儲けしかしない=“取違ひと鼻高”。
これがこの文の“近慾(ちかよく)”って言葉に示されている。
 しかし、人は自分たちの住む世界を良くしようと思う。 それは幸福の概念でもあるし、その概念があるからこそ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、“力”を行使して、この世界を時間の進行と共に変えていこうとする。
 それが進化であり、そのときに心(靈)は育ち、霊的成長し、ゴールは神格化でもある。
自分が早く霊的成長したいのならば、“近慾(ちかよく)”の心(靈)の動きを自分の中に見出して、それを自分の中の悪と認識する。 
それが“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあるけど、そうなるために“神は生れ赤子のこころを喜ぶ”って称されてると思える。
そして、自分が霊的成長すれば、“みがけば赤子となるのぞ”って称されている通り、自分に内在する悪を見出して、それを良しとしない心(靈)になる。 そうならねば、よいカタチの事象の“創造”は出来ないし、それを“上”は望んでいるからこそ、アセンションにタイムスケジュールがあるからこそ“いよいよが来たぞ”って言われてると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”天つ巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈

 今回も、天つ巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
 
今に臣民 何も言へなくなるのざぞ、神烈しくなるのざぞ、
目あけて居れんことになるのざぞ。
四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになるのざぞ、のたうち廻らなならんのざぞ、
土にもぐらなならんのざぞ、水くぐらなならんのざぞ。
臣民可哀さうなれど、かうせねば鍛へられんのざぞ、
この世始まってから二度とない苦労ざが、我慢してやり通して呉れよ。
九月十日、ひつくのか三。

この二十五帖は、二十四帖の続きみたいな印象で、二十四帖で指摘されていたこと。
“今の臣民めくら聾ばかり”
“この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らん”
“ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたま”
この言い回しは、霊的成長度の低い心(靈)のことであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番の、マニピューラチャクラからアナハタチャクラに至る過程、自我の確立=固定化から自我の肥大、そして失敗して(右往左往)、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持つ(左往右往)。
進化過程の低い人、アセンションに間に合わない霊的成長度、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”。
そして今後=アセンション後に移行する際のことを、二十五帖の冒頭の言い回しで表現されていると思える。

“今に臣民 何も言へなくなるのざぞ、神烈しくなるのざぞ、
目あけて居れんことになるのざぞ。”

 そして次の文は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きと、その霊的成長度の肉体のことを指し示す表記やと思える。

“四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになるのざぞ、のたうち廻らなならんのざぞ、土にもぐらなならんのざぞ、水くぐらなならんのざぞ。”

 この文の“四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになる”は、智性(神性)を持った脊椎動物としての人(日止、霊止)が、智性(神性)を無くし、ケダモノ化している様子を言い表していると思え、そして“のたうち廻らなならん”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
 その一例を挙げておけば、一般の霊的成長度の人の常識と称する認識では、理解不能な猟奇的な事件や、衝動的な殺人とかがたくさん起きており、それは、家畜の恨みや本能化したまま死んだ人間の浮遊霊、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持った浮遊霊、これらの憑依現象によるものであり、これら悪霊(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的存在)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しやすい。
そしてこんな事件は、これからも増えるやろうって先生は先生の本の中で書いたけど、今後も人間がやってきたことの結果として、もっと増えていくやろう。
ほんでからこの文の“土にもぐらなならん”の“土”は、完成された人の表記である“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記であると思え、だからそれは、智性無き心の動きであり、その心(靈)は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであるからこそ、“水くぐらなならん”と称されていると思える。
 要は、進化程度が低く、その進化程度は、重複するけど、“江戸と尾張”であり、その心(靈)の動きが作り出す事象の“創造”は、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)でもある。

しかしそれは、さっきも述べたとおり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番であるからこそ、“四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになるのざぞ、のたうち廻らなならんのざぞ、土にもぐらなならんのざぞ、水くぐらなならんのざぞ。”を、体験しなければならない。
だから“臣民可哀さうなれど、かうせねば鍛へられん”って言われており、今後=アセンション後に位置できる霊的成長度の人は、第四密度(マニピューラチャクラは第三密度)、アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”、この要素を持った人(日止、霊止)でなければならず、そうなれば今より“一”=智性=1番目のオーラは大きくなる。
その段階に至るには、人間がやってきたことの結果を見せられたり、体験させられたりして、自省(胸の磁性“十”)する。
またこのことを指し示す表記として、第二十五帖の冒頭の“神烈しくなるのざぞ”は、今現在、“上”の思惑通りの“うれしうれし”“大歓喜”の“創造”になっていないので、地球人が良いカタチの事象の“創造”をするには、人が“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識していかねばなら無いからこそ、自己奉仕者ほど、失敗を体験しなければならない。
言い換えればそれは、“上”の思惑を顕現せねばならないからこそ、“上”の思惑を思い知らされる意味での“神烈しくなるのざぞ”を見せられる。
それはいうまでもなく、“神の咎め”であり、自己奉仕者の心(靈)の動きが招いた因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもある。
だからそれは、今、地球人は、地球人の低い心(靈)の動きを知らねばならず、それはまた、“上”の思惑に沿っていないことを知らねばならず、だからこそ、失敗を失敗と認識しなければならない。
そしてそれは、地球人全体の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする…でもある。
だから“この世始まってから二度とない苦労ざが、我慢してやり通して呉れよ。”って、第二十五帖の最後に言われてると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のやうなものと心得よ、
一柱でもあるのざぞ。
この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、
時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、
青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。
天明は神示(ふで)書かす御役であるぞ。
九月十一日、ひつ九ローレンツ力と ○  。

 冒頭の文。

“天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のやうなものと心得よ、
一柱でもあるのざぞ。”

 この“天の日津久”の“天”と“日津久”は、画像で解釈を紹介しまんねん。

天の解字 
日津久の解字


 これまで何回と言うてきているように、“日津久”“ひつく”っていうのは、太陽凝視を“行”として行うことであり、そやから艮(うしとら)の金神が、一番最初に人に教示を垂れたのは、黒住教であり、その教義の中で、朝日の日拝(にっぱい)、太陽凝視の入門、初心者向けの太陽凝視を教えた経緯がある。
 人が、霊的成長を示した表記としての“日止、霊止”になるっていうのんは、日(太陽からの電磁波)を止める、霊を止めるっていう意味でもある。 
 ほんでから“霊止”の、霊=靈の解字については、前のブログで紹介したこともあるけど、ちょっと解りにくいかもしれへん。 そやから画像を作り直したので以下に貼っておきまんねん。

靈の解字


そやから“日止、霊止”っていう表記は、“上”からの荷電粒子、電磁波、それは“創造”の“主(ヌシ)”の振動である“一”(亜から出ずる、アイ)を、肉体と心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に止め(とどめ)、その影響を受けて“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)することが、“日月神示”で謳われている“ひつく”“日津久”。 
だからこそ、神に近くなる“日止、霊止”、または“日月神示”表記の“天詞様”、これらは“上”の思惑を自分の思想にする=神と認識を共有する=天意を受信すること。
それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであると確信する。
それを踏まえて、冒頭の文を解釈すれば“天の日津久の神と申しても一柱ではない”っていうのんは、一人ではないってことやろ。 
そして“ひつく”“日津久”が、霊的成長、神格化のためのものであるからこそ、今後=アセンション後は、天意を受けた“天詞様”が、事象の“創造”の要になる。 
そやから“臣民のお役所のやうなものと心得よ”っていわれており、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことは、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)にかなっているからこそ、唯一の方法であるからこそ“一柱でもあるのざぞ”は、たった一つの方法であるってことやろな。

ほんでから次の文。 

“この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、
時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、”

 この文の“オホカムツミノカミ”は意富加牟豆美神のことやろ。 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)は、伊邪那岐命が黄泉の国から脱出するときに、追って来る黄泉の穢れた軍勢を追い払うのに、桃の実を投げつけ、その桃の実に対して命名したのが意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)でもある。
 少し古事記から引用すれば、伊耶那岐(いざなぎ)は、伊耶那美(いざなみ)を追って黄泉国(よみのくに)を訪れ、伊耶那美をつれて帰ろうとした。 そやけど伊耶那美は、黄泉戸喫(よもつへぐい)(へは、竈(かまど)の意)をしてしまったから帰れないと言った。
 要は穢れたから帰れないってことやろし、古事記を読んだ人は知ってはるやろけど、そのときの伊耶那美の体には、蛆がわき、八種の雷神(いかづちがみ)が成り出でていた。
 伊耶那岐がその姿を見て恐れ、逃げ帰ろうとすると、伊耶那美は、黄泉醜女(よもつしこめ)に夫を追わせた。 そのとき伊耶那岐は、髪飾りの黒い鬘(かずら)を取って投げ捨てると、葡萄(ぶどう)の実がなり、黄泉醜女がこれを拾って食べているあいだに伊耶那岐は逃げたんやけど、また追いかけてくるから、今度は右の角髪(みずら)の櫛(くし)をとって投げ捨てると筍(たけのこ)が生え、黄泉醜女がこれを抜いて食べているあいだに、ふたたび逃げた。
 そやけど伊耶那美は、八雷神に黄泉国の軍勢をつけてまた追いかけさせた。 伊耶那岐は十拳剣(とつかのつるぎ)で後ろを振り払いながら逃げ進み、ようやく黄泉比良坂(よもつひらさか)の下に着くと、坂の下になっていた桃の実を取って投げつけた。
 この桃の実が、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)って命名を賜った(たまわった)。すると、追っ手は逃げ帰っていったとされてる。
 ほんでから、最後に伊耶那美が追いかけてきて、“あなたの国の人々を、一日に千人殺しましょう”って言った。
 それを聞いた伊耶那岐は、“私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう”と言った。
 この詳細は、古事記を読んでもらうこととして、要は、黄泉の穢れた軍勢は人間の世界にたくさんの災難や悪をもたらそうとした。
 それを防いだってことで、そやから霊的成長した“日止、霊止”は、今の自己奉仕者が創造しているこの世界の悪を、改めたり、自己奉仕者とは違う価値観を示したりもする。
 その意味のことを、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)を引用して言うてるのやろ。

 ほんでから次の文。

“青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。
天明は神示(ふで)書かす御役であるぞ。”

 さっき引用した古事記の中の話にも“青人草の苦瀬(うきせ)”って表記はでてくる。 
そやけど“青人草”の解釈が重要やとKellyさん的には思う。 
ほんでから“青人草”(あおひとくさ)、それは
下つ巻 第十一帖でも出てきている言葉やから、そこからKellyさんの解釈をコピペしときまんねん。 

                                    ↓

“草木さへ神の心に従ってゐるではないか、
神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、
あの姿に早う返りて呉れよ、
青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。”

この表現も “上”からの振動、特に草木って言うてるからこそ、太陽のことを指すと思える。 そやから“神の心”=太陽ってことでしかない。
ほんでから“青人草”…これは日本書紀に出てくる、“顕見蒼生、此をば宇都志枳阿烏比等久佐(うつしきあをひとくさ)と云ふ。”…のことらしく、ほんでから蒼生(そうせい)を青人草(あおひとくさ)と称され、それは国民、人民、民草ってことでんねん。
そやけどKellyさん的にはそんな意味だけではなく、そやからそれは…“青人草”“青”“人”“草”に分けて考えれば、青の上半分は生きるって言う字から、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した表現、ほんでからこれは前のブログ、思惑と顕現 その十 “上”の思惑と顕現…“天の御目” に使った画像やけど、重要やと思うから貼っておきまんねん。

生きるの解字 丿部(へつぶ)三つのオーラ(たて棒、コン)

生きるの解字 丿部(へつぶ)三つのオーラ(たて棒、コン)ほんでから“青”の下半分は“丹”やって事で、これは上つ巻の解釈で何回も言うたことやから詳細に述べるのはやめときまんねん。
ほんでから“人”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。ほんでから “草”は、胸の磁性“十”と“日=太陽”と、クサカンムリ…そんなふうにしか見えへんな。
そやから“青人草”は、“上”の思惑を取り込み“一二三”のオーラにして縦の磁性(たて棒、コン)で繋ぎ、それは帯電するミネラルに“上”の思惑を取り込み蓄え肉体組織の結晶化をするのが“青”。 ほんでからそれは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、“人”。 進化して行く様子は “草”に現れてる。
“青人草と申すのは草木の心”
“草木”草と胸の磁性“十”と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)で、“木”。
何を取り込んだら人は進化=神格化して行くのか…それを問うてるように思える言葉やな。” 

                                     ↑ 
                                      引用終わり。

 そやから“青人草”(あおひとくさ)って表記は、やはり太陽を取り込んで胸の磁性“十”を高めていくことを指し、それは、第二十六帖の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを指した表記やと思える。
ほんでから“青人草”(あおひとくさ)の真ん中に“人”が書かれてるのは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、その両方が相俟ってこそ、人は神格化する=独り神(ひとりがみ、日取り神)になる。
 ほんでから“青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやる”の、“苦瀬(うきせ)”は、第二十六帖が、“ひつく”“日津久”を謳っている事を考慮すれば、地球人が霊的成長に向かうのに障害になっている何かを指し示していると思われる。
それは、甘い夢とか、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が語ってることとかを指していると思える。
 そやけど甘い考えの人は“苦瀬(うきせ)”に対し、苦痛がなくなるって解釈をするやろけど、そんなものではなく、霊的成長は厳しいもんや。 
目下(めした)(動物の心(靈)の段階)から、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)、この心(靈)の発現は“慈悲”と“慈愛”でもあるし、だから神格化のプロセスには、自省(胸の磁性“十”)の“行”はつきもんや。 
そやから試練いっぱいの苦しい人生を送らんならん。
 ほんでからに、ほんまの“行”と“修行”は厳しいもんや。 
それは、甘い夢を見て苦難から逃れようとか、薄っぺらい感謝って言葉に酔ったりとか、今、“感謝行”なんて、ただありがとさんって言ってるだけでエエみたいなことを言うてる人もいてる。
そんなもんや無い。
ほんでから、“行”と“修行”は、形骸の宗教で謳ってる行ごっこなんかでは決して無い。
ほんでから、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行う。
それは、たかだか数分や数十分の太陽凝視では、貴い認識(悟り、幸取=さとり)の獲得や“上”の思惑を自分の思想にする入り口みたいなもんで、そやから朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)くらいからはじめればエエのやろけど、長時間の太陽凝視は大変な苦痛を味わうことになる=たくさんのエネルギーを贖う(あがなう)。
 そやから厳しいし、厳しいからこそ、苦痛と苦悩があるからこそ、貴い認識は得られるもんや。
 そやからローム太霊さんは、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”って言うた。 ほんでから“粘りとやせ我慢”とも言うた。
 そやから今後=アセンション後に向かって、自分が霊的成長し、認識を改め、自分の在り方を真剣に思う人は、今、ニセ物の薄っぺらい情報が多い中、なにが自分にとって真実=真固止なのか、それは例えば、先生が、<5> 智性無き心はアセンションを見誤る の中で述べたように(213ページ)、なにが悪魔の計画でなにが神の計画なのか、それを見極める視点=天の御目(あめのおめ)を持って欲しいって切望しながら…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

石物いふ時来るぞ、草物いふ時来るぞ。
北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、夕方よくなるぞ、暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ。
慌てずに急いで呉れよ。
神々様みなの産土(うぶすな)様 総活動でござるぞ、神々様まつりて呉れよ、人々様まつりて呉れよ、御礼申して呉れよ。
九月十二日、一二か三。

 冒頭の文。

“石物いふ時来るぞ、草物いふ時来るぞ。”

この文の“石”は、今までも言うて来ているとおり“石”(帯電するミネラル)の意味やろし、“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”。
 そやから“石物いふ”は、今まで人が意識していなかった“石”(帯電するミネラル)と“草”を、今後はよく理解するようになる。 
それはいうまでもなく、“石”(帯電するミネラル)は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化に関わること。
そして自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現のためにと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のために、胸の磁性“十”が太陽によって芽生える意味の“草”って表記が使われていると思える。 
その両方の意味を持っていると思われるし、そしてそれは次の文に続いている。

“北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、夕方よくなるぞ、暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ。”

 北は、大極=N極で、N極とS極の二つの磁性は、生物にもあり、人にもあり、宇宙にもある。
 そしてすべての事象は、その磁性によるローレンツ力で荷電粒子が回転して出来上がっていると思われる。
 先生は最近、“改”に、こんな画像をアップした。

 
宇宙の中心と、生物一個体の縦の磁束を大局的に観る


 この画像は、生命(生きる使命=存在理由)の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動の干渉によって行われていることを指し示している。 そして縦の磁束は、すべてを貫くものであることも説明したつもりやろ。
 そして霊的成長は“一”=智性=1番目のオーラの大きさが大きくなるものであり、だからこそ人(日止、霊止)の肉体の“上”と“下”、頭と尾骨、N極とS極の二つが強化されるものである。
 そして余談になるけど、頭部の内部の磁束っていうのはとても複雑で、複雑だからこそ高振動の“上”から注がれる荷電粒子と反応して、目上(めうえ)の心(靈)を発現し、それは智性(神性)であり、日を知る性質でもある。
 話を戻し、大局的に観れば人の肉体と心(靈)は、N極とS極を持ち、だからこそ“上”からの電磁波、荷電粒子をローレンツ力で引き込み、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)している。
 それが進化であり、進化は“上”に近づく、天意を受ける“天詞様”でもあるし、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程でもある。
 そうなるための関門として、数億年に一度の事象、アセンションを迎える。
だから今後=アセンション後は“北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、夕方よくなるぞ、暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ。”って言われており、この文の“五六七(みろく)の世”は、アセンション後の事象でもあり、“五六七(みろく)”については何回も解釈を述べたけど、“五”は神経が密になるさま。
“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。

七の解字 “一”=智性=1番目のオーラと処イ部(いんぶ)(人の思惑の顕現)



そして次の文。

“神々様みなの産土(うぶすな)様 総活動でござるぞ、神々様まつりて呉れよ、人々様まつりて呉れよ、御礼申して呉れよ。”

 これは、祀る、祭る、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指す言い回しでもある。  
それに対し現状の地球人は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)を祭っているみたいなもんでんねん。 
それは、程度の低い霊的干渉、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持った霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が中心だから、そやから自我が肥大し、目先の欲望しか分からない自己奉仕者になる。  
自分たちがよい方向性を見出すためにはどんな存在との感応共振をするのか。 それが大事。 
そしてそれは自分自身の心(靈)の動き、言い換えれば息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものである。
祀りと祭りについては、何回も紹介した画像を以下に貼っておき、今回はこれくらいにしときまんねん。


“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い

“日月神示”天つ巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第二十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

おそし早しはあるなれど、一度申したこと必ず出て来るのざぞ。
臣民は近慾で疑ひ深いから、何も分らんから疑ふ者もあるなれど、
この神示一分一厘ちがはんのざぞ。
世界ならすのざぞ、神の世にするのざぞ、善一すじにするのざぞ、
誰れ彼れの分けへだてないのざぞ。
土から草木生れるぞ、草木から動物、虫けら生れるぞ。
上下ひっくり返るのざぞ。
九月の十三日、ひつ九のか三。

 この文章は、今までの“日月神示”の文面の総括みたいなことが謳われている。 
これまで、上つ巻 下つ巻 富士の巻 天つ巻 と解釈をしてきた中で、今後=アセンション後に移行する際の事象とか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が失敗を体験するとかの表記だと思われること、それから天変地異など。
それと、重要なのは、天意を受ける人が(“天詞様”)今後の世界を創造していくべきなのだということ。
これらのことは必ず現象化する=現津(あきつ)、観察され得る事象になる。
だから “おそし早しはあるなれど、一度申したこと必ず出て来る”と言われ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は低い欲望にとらわれた視点でしか事象の観察をしていないから“臣民は近慾で疑ひ深いから、何も分らんから疑ふ者もあるなれど、この神示一分一厘ちがはんのざぞ”と言われている。
 そして自己奉仕者は、今後=アセンション後の世界に移行できない霊的成長度なのだから“世界ならすのざぞ、神の世にするのざぞ、善一すじにするのざぞ、誰れ彼れの分けへだてないのざぞ”と言われてる。
 ここで言われてる“善一すじ”は、今まで前のブログでもこのブログでも述べてきた“善(神格化の方向性と智性の受信)”の概念やろな。 
そやからそれは、現状の地球人は善悪すらしっかりした基準を持ってないから、こんなふうに言われてる=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大半だからでもある。
 そして“土から草木生れるぞ、草木から動物、虫けら生れるぞ”の、“土”は、肉体の意味。
またそれは、完成された人、あるいは、完成された生命としての表記の“王”から、“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記。
それは、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、物質を伴い=肉体を伴い進化してきた(自然霊のような例外もある)。 だからこの文の表記の“土”は、肉体の意味そのものだと思える。 
そして“草木”の“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”。 
そして“木”は、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それは神の思惑と人の思惑がプラスされている形。
良い形の現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、“日月神示”では“うれしうれし”“大歓喜”と称されているけど、そのためには、人に、胸の磁性“十”が発現し=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)、アナハタチャクラの覚醒に至り、その心(靈)の動きで天意を受信し(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現))、この世界で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)して(乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、そして“思惑の顕現”=現象化をする。 
それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然でもあるな。
ほんでから“草木”は、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を表した表記やから“草木から動物、虫けら生れる”は、この文では人(日止、霊止)が生まれるとは言い表しておらず、まだ現時点での人間(地球人)は、ケダモノ=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度だから、やや、揶揄(やゆ)した言い方で“動物、虫けら”と言われてると思える。 それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程が低く、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が判っていないって言い方に聞こえるってことでんねん。
そして今後=アセンション後は、現時点での価値観は、“日月神示”表記の“グレン”とひっくり返る。 
当然、形骸の価値観(薄っぺらい地位や名誉、拝金主義など、そして薄っぺらい幸福感)での“上”と“下”は、今後=アセンション後は通用しなくなるからこそ、“上下ひっくり返る”と言われてるのやろ。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第二十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。
病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ、自分の身体中どこでも手届くのざぞ、手届かぬところありたら病のところ直ぐ分るであろうが。
臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ、
心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、
国の病も同様ぞ、頭は届いても手届かぬと病になるのぞ、
手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが、今の国々のみ姿見よ、
み手届いて居るまいがな、手なし足なしぞ。
手は手の思ふ様に、足は足ぞ、これでは病直らんぞ、
臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。
足 地に着けよ、草木はもとより、犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。
三尺上は神界ぞ、お土に足入れよ、青人草と申してあろうがな、
草の心に生きねばならぬのざぞ。
尻に帆かけてとぶようでは神の御用つとまらんぞ、お土踏まして頂けよ、
足を綺麗に掃除しておけよ、足よごれてゐると病になるぞ、
足からお土の息がはいるのざぞ、臍(へそ)の緒の様なものざぞよ、
一人前になりたら臍の緒切り、
社(やしろ)に座りて居りて三尺上で神につかへてよいのざぞ、
臍の緒切れぬうちは、いつもお土の上を踏まして頂けよ、
それほど大切なお土の上 堅めているが、今にみな除きて了ふぞ、一度はいやでも応でも裸足(はだし)でお土踏まなならんことになるのぞ、
神の深い仕組ざから あり難い仕組ざから 喜んでお土拝めよ、
土にまつろへと申してあろうがな、何事も一時に出て来るぞ、お土ほど結構なものないぞ、足のうら殊に綺麗にせなならんぞ。
神の申すやう素直に致されよ、この方 病直してやるぞ、この神示よめば病直る様になってゐるのざぞ、読んで神の申す通りに致して下されよ、臣民も動物も草木も病なくなれば、世界一度に光るのぞ、岩戸開けるのぞ。
戦も病の一つであるぞ、国の足のうら掃除すれば国の病直るのぞ、国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ。
上の守護神どの、下の守護神どの、中の守護神どの、みなの守護神どの改心して呉れよ。いよいよとなりては苦しくて間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ。
病ほど苦しいものないであらうがな、それぞれの御役忘れるでないぞ。
天地唸るぞ、でんぐり返るのざぞ、世界一どにゆするのざぞ。
神はおどすのではないぞ、迫りて居るぞ。
九月十三日、一二ローレンツ力と ○  。


まず、冒頭の文。

“この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。”

これは、天つ巻 第二十六帖の解釈で、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)のことを説明したからコピペしときまんねん。

                       ↓

“この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、
時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、”

 この文の“オホカムツミノカミ”は意富加牟豆美神のことやろ。 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)は、伊邪那岐命が黄泉の国から脱出するときに、追って来る黄泉の穢れた軍勢を追い払うのに、桃の実を投げつけ、その桃の実に対して命名したのが意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)でもある。
 少し古事記から引用すれば、伊耶那岐(いざなぎ)は、伊耶那美(いざなみ)を追って黄泉国(よみのくに)を訪れ、伊耶那美をつれて帰ろうとした。 そやけど伊耶那美は、黄泉戸喫(よもつへぐい)(へは、竈(かまど)の意)をしてしまったから帰れないと言った。
 要は穢れたから帰れないってことやろし、古事記を読んだ人は知ってはるやろけど、そのときの伊耶那美の体には、蛆がわき、八種の雷神(いかづちがみ)が成り出でていた。
 伊耶那岐がその姿を見て恐れ、逃げ帰ろうとすると、伊耶那美は、黄泉醜女(よもつしこめ)に夫を追わせた。 そのとき伊耶那岐は、髪飾りの黒い鬘(かずら)を取って投げ捨てると、葡萄(ぶどう)の実がなり、黄泉醜女がこれを拾って食べているあいだに伊耶那岐は逃げたんやけど、また追いかけてくるから、今度は右の角髪(みずら)の櫛(くし)をとって投げ捨てると筍(たけのこ)が生え、黄泉醜女がこれを抜いて食べているあいだに、ふたたび逃げた。
 そやけど伊耶那美は、八雷神に黄泉国の軍勢をつけてまた追いかけさせた。 伊耶那岐は十拳剣(とつかのつるぎ)で後ろを振り払いながら逃げ進み、ようやく黄泉比良坂(よもつひらさか)の下に着くと、坂の下になっていた桃の実を取って投げつけた。
 この桃の実が、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)って命名を賜った(たまわった)。すると、追っ手は逃げ帰っていったとされてる。
 ほんでから、最後に伊耶那美が追いかけてきて、“あなたの国の人々を、一日に千人殺しましょう”って言った。
 それを聞いた伊耶那岐は、“私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう”と言った。
 この詳細は、古事記を読んでもらうこととして、要は、黄泉の穢れた軍勢は人間の世界にたくさんの災難や悪をもたらそうとした。
 それを防いだってことで、そやから霊的成長した“日止、霊止”は、今の自己奉仕者が創造しているこの世界の悪を、改めたり、自己奉仕者とは違う価値観を示したりもする。
 その意味のことを、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)を引用して言うてるのやろ。 

                     ↑ 
                   引用終わり。

 そやからこの第二十八帖の冒頭の文の言い回しは、今、どうしようもなく腐っている世界、それは、自己奉仕者が活躍し、自我が肥大した心が“力”を示し、薄っぺらい価値観と幸福感の人が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちているこの世界。
だからこそ、古神道の概念の右は、伊耶那美(いざなみ)であり、それは、低い砌(みぎり)(現象化の意味)の象徴である伊耶那美が、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)に自分の放った軍勢を追い返されて、そのときに言った言葉が“あなたの国の人々を、一日に千人殺しましょう”…これは、低い心(靈)の動きが創造する=低い霊的進化程度の人が砌(みぎり)の“行”(現象化)している結果、恨みの連鎖の霊的干渉が現象化していることを示していると思われる。
低い霊的進化程度の人、今まで何回となく言うて来ているけど、それは、“日月神示”表記の“石屋の仕組み”で、自我の肥大、マニピューラチャクラの覚醒段階、またそれは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の動きでもある。
だからこそその段階の霊的成長度の人は、横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)から“上”の心(靈)の動きがあまり無い。
横隔膜=腹から“上”の心(靈)の動きは、いうまでもなく自我から“上”の“慈悲”と“慈愛”であり、“慈悲”と“慈愛”を発現するには、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開かんならん。
そやから日足(ひたり)の象徴である伊耶那岐が、意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)と命名した桃の実を投げつけ、“一日に千五百の産屋(うぶや)を建てる”って言った。
だからそれは、千人死んで千五百人生まれる。 
そうしなければ滅亡やし、また、生き残る人がいなければ、恨みの連鎖の霊的干渉による戦争、災害、病気、事件etc. すべてカルマっていっていいけど、それを贖って(あがなって)行くことが出来ない。
また、誰かが贖う(あがなう)=誰かが犠牲になるからこそ、程度の低い霊的存在はそれを見て自生することができるし、その身近なこととしては、先祖の因縁を背負い、苦難を試練とすることでもある。
そしてカルマ、因縁を背負い、それを贖う(あがなう)その過程は、背負った人にとって、苦難と試練の道程でもあり、そやけどその過程で、自分たちが恨みの連鎖を生み出さない心(靈)を持つようになるのが、現時点での地球人が、一段“上”に向かうためのことでもある。
そしてそれは自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
そやからこの文は、その意味のことを言うてると思えるし、それは次の文から出てくる“病”って表記に表れていると思われる。

“病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ、自分の身体中どこでも手届くのざぞ、手届かぬところありたら病のところ直ぐ分るであろうが。
臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ、
心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、
国の病も同様ぞ、頭は届いても手届かぬと病になるのぞ、
手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが、今の国々のみ姿見よ、
み手届いて居るまいがな、手なし足なしぞ。”

 この文の初めの“病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ”これはずいぶん揶揄(やゆ)した言い方でもある。 お前たちの進化程度では、何も分かっていないんだって言い方でもある。
 そやから何を“病”って解釈するのかにかかっているけど、大概の人は恨みの連鎖の霊的干渉って概念すら知らんし、気が付かへんもんや。
 何回も言うて来ていることやからあえて説明はせんけど、低い霊的成長度の霊的存在は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持ち、そして低い霊的成長度の人と同じような心(靈)の動きをするから感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。
 そしてその霊的干渉と自分自身の心(靈)の動きで事象の創造をする=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする。
 だからこの世界は腐っている。 それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋からはずれているからこそ“病”と称されていると思える。
 そして腐った世界を創っているのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、だからこそ“臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ、心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、国の病も同様ぞ、頭は届いても手届かぬと病になるのぞ、手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが、今の国々のみ姿見よ、み手届いて居るまいがな、”って言われており、特に最近毎日のようにニュースで報道されている事業仕分けなんか見てると、自我の肥大した同士のやり取りであり、まったく醜い。
 余談やったけど、自我の肥大した人が自己奉仕者になり、事象の“創造”をするから、“心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、国の病も同様ぞ”と、もうひとつ“今の国々のみ姿見よ、み手届いて居るまいがな”と言われ、お前たちの心(靈)の動きはそんなものなのだって言われてまんねん。
 ほんでから今の文にも次の文に出てくる“手”と“足”。
 “手”は、“足”より、高度な事象の“創造”を示すものであるからこそ、さっきの文の“病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かる”って言われてるのであり、間違った事象はじぶんたちが正さなければ良い世界になるわけが無い。
 また“手”と“足”、それは、肉体が持つ2~3番目のオーラのことでもあるやろ。 人の心(靈)の発現が“上”に向かうことと同義のこととして、3番目のオーラは、“上”に引き上げられ、2番目のオーラになる。 
それは肉体が三つのコンデンサーの構造を持つからでもあり、さらに2番目のオーラは、“一”=智性=1番目のオーラになっていく。 その過程のことも“手”と言う言い回しで示されていると思え、だから、腹から“下”=3番目のオーラ、言い換えればそれは自我から“下”、その心(靈)の動きの創造は、腹から“上”の心(靈)の動きでただされなければならない。 いうまでもなくそれは、“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)である。
そして“手“と“足”は、直立した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をした人(日止、霊止)は、“上”と“下”の磁束の強化を果たしている。
 それは、天地を貫く=“創造”の“主(ヌシ)”と地球を貫く縦の磁束の中に人は存在し得るものでもある。
 そしてその縦の磁束の強化は、磁束によるローレンツ力 ローレンツ力  で、アミノ酸の結晶化を促し=たんぱく質の高分子化を果たし、進化した肉体を構築してきた。
 それは心(靈)の動きとしては“上”から見たら左=日足(ひたり)回転でなければならない。
 その日足(ひたり)回転は“玉(ぎょく)”という字に示され、自我から“慈悲”と“慈愛”にいたる心(靈)の動きを示すものであることも何回も説明したから、あえて言わんけど、自我の確立=固定化から自我の肥大にいたる心(靈)の動きは、右回転であり、それをこの文では“足”と称されていると思える。
 参考のために、何回も紹介した“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、自我が発現した進化程度で起きている日足(ひたり)回りと砌(みぎり)回りの画像を以下に貼っておきまんねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転


 今言うたことを踏まえ、次の文を読むと良く分かる。

“手は手の思ふ様に、足は足ぞ、これでは病直らんぞ、
臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。
足 地に着けよ、草木はもとより、犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。
三尺上は神界ぞ、お土に足入れよ、青人草と申してあろうがな、
草の心に生きねばならぬのざぞ。”

 さっき説明したように“手”は、腹から“上”の心(靈)の動きを示し、“足”は、腹から“下”の心(靈)の動きを示す。
 本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性って心(靈)の動きを人間は持っているけど、本能、情動、功名心、自我は、“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)により、制御されなければならないし、いま、自我から“下”の心(靈)の動きが制御できない人が、知識としての知恵、そして“力”を示しているからこそ、この世界は恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたって結果になっている。 
 それは、天つ巻 第十六帖の表記の“神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、 神の臣民に手柄立てさす 様にしてある”ってことになっていない。
 だからこそ天つ巻 第十六帖では、“今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。”とも言われている。
 そしてさっき説明したように、“上”から“下”の磁束は、肉体を貫き、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則を示すものでもあるけれど、この文では“臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。 足 地に着けよ、草木はもとより、犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。”って言われており、“足 地に着けよ”は、大概の人は心が浮ついているって言う意味でもあるし、“上”から“下”への縦の磁束が、“上”に向かっていないからこそ、“神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、 神の臣民に手柄立てさす 様にしてある”(天つ巻 第十六帖の表記)ってことになっていない。
 だからこの文では“足、地に着いておらぬ”と揶揄(やゆ)されていると思える。
 ほんでから“三尺上は神界ぞ、お土に足入れよ、青人草と申してあろうがな”は、この文の“三尺上”は、“一”=智性=1番目のオーラのことやろ。 そやから“神界”って言う表記を使ってて、そやからそれは目上(めうえ)、“一”=智性=1番目のオーラの心(靈)でもある。
 そして“お土に足入れよ”は、“上”から“下”への磁束のことを指し示した表記であり、“青人草”は、天つ巻 第二十六帖で説明したとおり、太陽を取り込んで胸の磁性“十”を高めていくことを指し、それは、第二十六帖の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを指した表記やと思える。
 画像を作ったから貼っておきまんねん。

“青人草”(あおひとくさ)の解字


 そやから、この画像を見れば“草の心に生きねばならぬ”の意味もすぐ分かる。

 ほんでから次の文。

“尻に帆かけてとぶようでは神の御用つとまらんぞ、お土踏まして頂けよ、
足を綺麗に掃除しておけよ、足よごれてゐると病になるぞ、
足からお土の息がはいるのざぞ、臍(へそ)の緒の様なものざぞよ、
一人前になりたら臍の緒切り、
社(やしろ)に座りて居りて三尺上で神につかへてよいのざぞ、
臍の緒切れぬうちは、いつもお土の上を踏まして頂けよ、
それほど大切なお土の上 堅めているが、今にみな除きて了ふぞ、一度はいやでも応でも裸足(はだし)でお土踏まなならんことになるのぞ、
神の深い仕組ざから あり難い仕組ざから 喜んでお土拝めよ、
土にまつろへと申してあろうがな、何事も一時に出て来るぞ、お土ほど結構なものないぞ、足のうら殊に綺麗にせなならんぞ。”

 この文の最後の“足のうら殊に綺麗にせなならん”は、やはり“上”から“下”の磁束を指し示していると思える。
 さっきも言うた様に、現時点での地球人の大半は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を意識しておらず、自我の肥大って心(靈)の動きが目先のものばかり追い求めており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍しやすい場(フィールド)に成り下がっている。
 だから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”を知れって言う意味で、“お土踏まして頂け”と“足よごれてゐると病になるぞ、足からお土の息がはいるのざぞ”と“いやでも応でも裸足(はだし)でお土踏まなならん”って称されており、それは神格化へのプロセスであるからこそ、“神の深い仕組ざから あり難い仕組ざから 喜んでお土拝めよ”って言われてると思える。
 そして“一人前になりたら臍の緒切り、社(やしろ)に座りて居りて三尺上で神につかへてよい”って表記は、“一”=智性=1番目のオーラが多く発現した人のことを指し、だからこそそれは、“一人前になりたら”“三尺上で神につかへてよい”って言われており、これは今後=アセンション後の事象の創造は、“神につかへてよい”ってことでもあり、それに相対して“足からお土の息がはいるのざぞ、臍(へそ)の緒の様なもの”って言うのは、現時点での振動の荒い肉体を持った地球人であり、当然振動の荒い肉体を持った人は、心(靈)も低い。
そやからこの文の表記は、智性(日を知る性質)の発現した人(日止、霊止)が今後=アセンション後の事象の“創造”をするって言う意味でもある。

ほんでから次の文。

“神の申すやう素直に致されよ、この方 病直してやるぞ、この神示よめば病直る様になってゐるのざぞ、読んで神の申す通りに致して下されよ、臣民も動物も草木も病なくなれば、世界一度に光るのぞ、岩戸開けるのぞ。
戦も病の一つであるぞ、国の足のうら掃除すれば国の病直るのぞ、国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ。”
 
 もうこれは長々と解釈する必要は無い。 自己奉仕者の心(靈)の動きが創造したのは、恨みの連鎖の霊的干渉であり、“病”でもある。
 そして現時点のち求人から“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くって称されていて、いうまでもなくそれは、“慈悲”と“慈愛”と“一”=智性=1番目のオーラの進化でもある。
 そして今、大半の地球人は自己奉仕者であり、心(靈)が右回転で“下”に向かっている。
だからこの文では、“国”って表記が使われており、“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであり、心(靈)が自我から“上”に向かう表記でもあるけれど、それが現時点、“国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ”って言い表されており、自己奉仕者が自省(胸の磁性“十”)して、自分の心の“上”と“下”を見出すことを“掃除して呉れよ”って言われ、それは言うまでもなく、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

 ほんでから次の文。

“上の守護神どの、下の守護神どの、中の守護神どの、みなの守護神どの改心して呉れよ。いよいよとなりては苦しくて間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ。
病ほど苦しいものないであらうがな、それぞれの御役忘れるでないぞ。
天地唸るぞ、でんぐり返るのざぞ、世界一どにゆするのざぞ。
神はおどすのではないぞ、迫りて居るぞ。”

 この文の“上”“下”“中”は、“一二三(ひふみ)”のオーラのことであり、守護神っていうのは、それぞれのオーラ=それぞれの心(靈)の動きに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在のことでもある。
 そして今、地球は、恨みの連鎖の霊的干渉の影響で、心(靈)が“下”(低い心(靈))に向かう霊的存在が圧倒的多数。
 だから先生の“主護霊”はんは、S会=紫光会の交霊会で、たくさんの浮遊霊が取り憑いたならば、“主護霊”の立場からして“動きが取れない”って言い回しをした(ローム太霊との出会い 良い発振のために 参照)。
 本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性に対し、それぞれ霊的干渉があるけれど、こんなに悪霊ばかりの星では、人の霊的成長など望むべくも無い。
 霊的成長を示しているはずの宗教は、腐り、同様に人(日止、霊止)の霊的成長を望むからチャネラーを通じて伝えられたアセンションの情報は、商売に利用されている。
 また、大半の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度は、霊媒体質でもあり、すぐ心(靈)を乗っ取られる現象が多い。
 それは、春の巻 第二帖の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”でもある。
 こんなことは例を挙げたらキリが無いけれど、貴い教えを腐らせたのは、自己奉仕者。
 自己奉仕者の心(靈)の発現は、マニピューラチャクラが中心であり、自我の肥大であり、だから目先の欲望に執着をもつ霊的存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。
 今活躍している人の大半は、そんな霊的成長度の人ばっかりでもあるし、それを見極めんと、何が本当のこと=真実=真固止なのか、判断できへん。
 またそれは人の霊的進化を望まない存在、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
 それに惑わされていると、結局間に合わないし、それがこの文の“苦しくて間に合はんことになる”と、“くどう気つけておく”は、そのことも強く感じさせる。 
 ほんでからこの文の“病”は、恨みの連鎖の霊的干渉の結果=カルマであり、因縁でもあり、言い換えれば人間がこれまでやってきたことの右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするの、過程でもある。
 それを贖い(あがない)、よく自分の心の在り方を観ろって事でもあるのが“それぞれの御役忘れるでないぞ”でもある。
 そのあとの文は、アセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が迫っている。 それを言い表している。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”天つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈



今回も、天つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ。
神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけぞ。
まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。
これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるのぞ、
分ければ分けるほど分からなくなって手におへぬことになるぞ。
手足は沢山は要らぬのざぞ。
火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ。
ヤとワと申してあろうがな、その下に七七ゝゝゝゝと申してあろうがな。
今の臣民 自分で自分の首くくるやうにしてゐるのぞ、手は頭の一部ぞ、手の頭ぞ。
頭、手の一部でないぞ、この道理よく心得ておけよ。
神示は印刷することならんぞ、この神示説いて臣民の文字で臣民に読める様にしたものは一二三(ひふみ)と申せよ。
一二三は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。
この神示のまま臣民に見せてはならんぞ、役員よくこの神示見て、その時によりその国によりて それぞれに説いて聞かせよ。
日本ばかりでないぞ、国々ところところに仕組して神柱つくりてあるから、今にびっくりすること出来るのざぞ、世界の臣民にみな喜ばれるとき来るのざぞ。
五六七(みろく)の世近づいて来たぞ。
富士は晴れたり日本晴れ、富士は晴れたり日本晴れ。
善一すぢとは神一すぢのことぞ。
この巻を「天つ巻」と申す、すっかり写して呉れよ、すっかり伝へて呉れよ。
九月十四日、ひつ九のか三。

 この第三十帖は、天つ巻の最後の章になる。 そやから今までの纏め(まとめ)みたいなことが書かれてると思われる。(上つ巻から天つ巻まで)
 まず冒頭の文。

“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ。”

 “富士”は、ここまでの“日月神示”(上つ巻 下つ巻 富士の巻)では、“富士(二二)”って表記でも書かれており、Kellyさん的には“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道って解釈をしてきた。 そしてこんな画像も作った。

富士の解字

 そやから“富士(二二)”っていうのんは、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)も示し、それで自分の思想となし、そのことを、ここまでの“日月神示”では“天詞様”って言われてるって解釈をしてきている。 
 要は、霊的成長を示す“一”=智性=1番目のオーラ、それは智性(神性)の獲得。
そして“智性”は、漢字そのものを見れば日を知る性質ってことにもなる。 そやから“ひつく”は太陽凝視でもあるって言い方もしてきた。 
そやから、艮(うしとら)の金神と名乗る霊団が、最初に人にかかり、教義を述べたとき(黒住教のこと)、朝日の日拝(にっぱい)=太陽凝視の入門みたいなことを述べたのだと思われる。
これらのことを踏まえて、この文の“富士とは火の仕組ぞ、”の“火”は、エネルギーの昇華を示す表記であると思える。
そしてそのエネルギーの昇華は、前のブログでもこのブログでも幾度となく説明してきた、腹から“上”の心(靈)の発現と心(靈)の動き、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度(宇宙的な存在がよく使う言い回し)、“日月神示”なら腹は“江戸と尾張”、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
進化した脊椎動物、進化した左右相称動物である人間の肉体は、三つのコンデンサーが縦に連なっている。
だから下のコンデンサーから上のコンデンサーへは、高い振動しか上がらない。
その意味で次の言葉。

“渦うみとは水の仕組ぞ”

 “渦うみ”とは、荷電粒子の回転を指し、“水の仕組み”は、マニピューラチャクラの事を指し、それは上に引きあがっていない荷電粒子の回転と、“上”から注がれてる荷電粒子の取り込みと増幅(“畐”、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))を指していると思われる。 そしてこのことは今までの地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程でもあるし、それは、本能から自我の確立=固定化までの進化過程を指す。
 “上”から注がれる荷電粒子は、神の思惑、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)であることを前のブログで説明した。 
そしてその取り込みの仕組みは、肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力。
 それを“日月神示”では、 ローレンツ力 で示しているという解釈をしてきている。
 だから腹の位相の荷電粒子の回転と増幅(マニピューラチャクラ)は、サイクロトロンに似ている。
 そしてその段階の霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、言い換えれば心(靈)の発現は、自我である。
 そして自我の肥大が“石屋の仕組み”でもあるし、“日月神示”の“石”って表記は、帯電するミネラルが、固まっていない状態を指し、それは真に固く止めるという意味での、真固止(まこと)ではない。
 そのことを“今に分りて来るのぞ。”と言われてて、今の地求人は、心(靈)の発現の段階も、仕組みも、全然わかっていないって言われてるようにも聞こえる。
 それは進化の意味、進化とは、霊的成長、神格化に向かうことであるって認識が無い。
 このことが解っていないと、自分が自分の心(靈)の動きを判断する際、何が“上”なのか何が“下”なのか、言い換えれば自分の心の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出すことができない。
 また自分の心の“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出そうとするのが、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、般若心経の“観自在”でもあるし、神道の“直日”(なおひ)の意味でもある。
 それと、自省しないで自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出さない心(靈)に、恨みの連鎖で増えているたくさんの浮遊霊は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)で感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。 
平均的地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程=自我の確立=固定化の段階の心(靈)は、低い霊的存在しか感応共振と同調しない。 
それを“日月神示”の表記で言い換えれば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振しないのだから、“天詞様”では無いってことになる。
 だから大半の地球人が追い求めているのは、甘い夢、目先の欲望の達成、本能に由来する欲望や物欲、金に対する執着…etc.
 それが“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)だって説明してきたし、またそれは、自我の肥大であり、“慈悲”と“慈愛”を発現して無いから、他者を思いやれず、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持っていない。
 そやからそれを知らんならん。 思い知らんならん。 アセンションに伴う醜い事象は、今までの地球人がやってきたことの結果であり、戦争だろうが災害だろうが、今ニュースでやっている政治家の自我の肥大した様子だろうが、すべて自分たちの自省(胸の磁性“十”)のためである。
 その意味でも“今に分りて来るのぞ。”って言われてて、それは分かっていないと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しないって言い回しにも聞こえる。

 その意味で次の文。 

“神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけぞ。
まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。
これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるのぞ、
分ければ分けるほど分からなくなって手におへぬことになるぞ。”

 この文の“まつり”“まつらう”は、ひらがなで書かれてる。 祭り、祀り、いろんな意味に解釈できる。これについては“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)だって何回も説明した。 以前に紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。
“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い

 要は、“まつり”“まつらう”は、“上”の思惑を取り込んで(“天詞様”)自分の思想にすること。 
そして“上”の高い振動を取り込む肉体を作るのは、“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))にかなった“行”と“修行”であり、それが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それを“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と言い表されている。
そしてこの文でも言われてる政治の政、“政(まつりごと)”、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなくてはならないけど、今の政治は自我の肥大した人が政治家になっている。 金と薄っぺらい名誉と物欲が中心の政治家ばかりでもある。 そしてその政治家を利用している大企業は…こんなことを説明するのはこのブログの趣旨では無いから、これくらいにして、そやからそれはいかに人の心が醜いのか、言い換えればそれは、この世界=この事象は、程度の低い心(靈)の動きの人が中心になって活躍してきた世界なのかを、今、私たちは見せられている。
 話を戻し、“身魂掃除”“身魂洗濯”して自分の心(靈)の動きを分かり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化していけば、“まつらふことによって何もかもうれしうれしになる”って言われてると思えるし、それはくどい説明はいらんけど、今の事象は恨みの連鎖の霊的干渉に満ち溢れてて、訳の分からん事件や病気や災害や、いずれ戦争も起きるかもしれん。 そんなことは今まで地球人がやってきたことの結果だから、今後、見せられるし、もっと多くなるやろ。
 そしてこの文の“これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になる”っていうのは、その前の文の“うれしうれし”にかかる言い回しで、今が“うれしうれし”でないのは、目先の価値観で動いているから=自我の肥大で物事の価値を判断したり、薄っぺらい幸福を求めているから、本当の幸福=神格化を知らんし、真実=真固止を見出せない。 またそんな程度の認識だから目先の政治や経済しか知らんって言い回しやし、それを“「鰻つかみ」”って言い表されてると思える。

 そして次の文。

“手足は沢山は要らぬのざぞ。
火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ。
ヤとワと申してあろうがな、その下に七七ゝゝゝゝと申してあろうがな。”

 この文の“手足”は、思惑を顕現する意味のことやろ。 そやからそれは、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。
 そして人の行動は、“思惑の顕現”=現象化であり、それを古神道の言葉で言い換えれば、日足(ひたり)=思惑、砌(みぎり)=行動や顕現や現象化でもある。
 さらにこの文では“火垂(ひだり)”“水極(みぎり)”って表現されている。
 さっきも説明したとおり“火”は、エネルギーの昇華であり、肉体においては、腹から“上”にエネルギーが移行することでもある。 そしてこの文の表記の“水極(みぎり)”の水は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンやろ。
 自我の確立=固定化は、生命が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程で絶対に必要。 それはまた、自己と他者、神と自分、“上”と“下”を認識するためにも必要である。
 そして自我がなければ、自分たちの幸福を願わない。 
そして自分だけの幸福を願うのが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なんやけど、“火垂(ひだり)”って表記のように、自分の心(靈)が自我より“上”の心(靈)を持ち=“火垂(ひだり)”の“乗”。 そうなれば=“慈悲”と“慈愛”の心を持てば、腹から“下”の心(靈)、“水極(みぎり)”の“極”(きわまり)を理解する。
要は、自己観察できる=“身魂掃除”“身魂洗濯”できるってことやと思う。
そして“ヤとワ”は、“日月神示”
上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈で以下のように解釈した。 コピペしておきまんねん。
 
“「ヤ」”は、“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、書いてあった。 これは先生の概念の、アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)、その心(靈)の動きって言うのんは、自分の良い形を求める。 ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、すべての良いカタチを求める。 そして、霊的成長そのものを指す。
 そやから、高台(たかと)高き段…そう認識され得る何かを、求める。 時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。 日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
 人は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、その心(靈)の動きそのもののような気がするし、それは、右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。 多分そうやろ。
 ほんでから、“「ワ」”は、同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、“物を生む、生まれしものを和合する意”とか、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、そう言う表現がしてあり、ほんでから、Kellyさん的に思う“生まれしもの”、それは、現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。 そやから、自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、呼吸、息吹、気吹、生吹、でもある。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、和合で、それは左往右往でもある。 良いカタチの創造でもある。
 それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。

引用終わり。

そやから“ヤ”は、日足(ひたり)であり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をした思惑であり、それは“火乗(ひだり)”であり、その心(靈)の動きで、事象の“創造”=顕現をするのが“水極(みぎり)”であると思える。
さらに今言うたことを強調することとして“七七ゝゝゝゝ”って書かれてる。 “七”については、以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。
七の解字 “一”=智性=1番目のオーラと処イ部(いんぶ)(人の思惑の顕現)


 そして次の文は低い“思惑の顕現”=現象化である意味での“手足”について言われてる。

“今の臣民 自分で自分の首くくるやうにしてゐるのぞ、手は頭の一部ぞ、手の頭ぞ。
頭、手の一部でないぞ、この道理よく心得ておけよ。”
 
この文の“頭、手の一部でないぞ”、これは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する肉体の器官は、言うまでもなく頭であり、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))でもある。
 そしてその発振、発信は、“一”=智性=1番目のオーラになる。 そやからこの文自体が、智性(“一”、1番目のオーラ)なき行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、自我の肥大であり、“石屋の仕組み”であり、恨みの連鎖の霊的干渉の結果として“自分で自分の首くくるやうにしてゐる”って言われてるだけでんねん。

 ほんでから次の文。

“神示は印刷することならんぞ、この神示説いて臣民の文字で臣民に読める様にしたものは一二三(ひふみ)と申せよ。
一二三は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。
この神示のまま臣民に見せてはならんぞ、役員よくこの神示見て、その時によりその国によりて それぞれに説いて聞かせよ。”
 
 これは“日月神示”をそのまま印刷して流布してはいかんって言ってると思える。 “日月神示”そのものは、とても高い霊的存在の思惑で書かれてて、その文字の意味や解釈がとても重要。 それはここまでKellyさん的“日月神示”解釈をよんではる人に、あえて説明するようなことではない。
 ここまで“日月神示”を読み解いてきても、言葉には一貫した法則性があり、“日月神示”自体が心の在り方と神格化と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスと肉体の秘密を説いている。
 それをこの文の“一二三(ひふみ)”って言い表していて、通常の“日月神示”の解釈や引用は、“一”=智性=1番目のオーラの小さい人の解釈だから、言葉や文の引用しか出来ていない。
 その意味で“この神示のまま臣民に見せてはならんぞ、役員よくこの神示見て、その時によりその国によりて それぞれに説いて聞かせよ”って言われてて、この“役員”は、言うまでもなく霊的成長を果たした、認識(悟り、幸取=さとり)が拡大した人のことを指す。
 
 ほんでから次の文。

“日本ばかりでないぞ、国々ところところに仕組して神柱つくりてあるから、今にびっくりすること出来るのざぞ、世界の臣民にみな喜ばれるとき来るのざぞ。
五六七(みろく)の世近づいて来たぞ。”

 “神柱”は、“上”と“下”をつなぐものやろ。 そやからそれは天意を受ける人=“天詞様”、そういう存在は世界中にいるってことを言うてるのやろ。
 アホな日本人は、日本だけが神国って解釈をするけど、その解釈そのものが自我の肥大であり、“慈悲”と“慈愛”が無いから許容ってことも無い先入観で人を見下す。
 余談やった。
 そして“五六七(みろく)の世近づいて来た”は、アセンション後の事を指し、“五六七(みろく)”は、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程なんだって説明をしてきた。
 それは“五”は糸巻きの象形文字、神経が密になる様子。 “六”は爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。“七”は、さっき画像で示したとおり。
 要は、神経が密になるからこそ=肉体の磁束がきょうかされるからこそ、ローレンツ力は強力になり、“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を取り込んで、自分の思想=思惑とすることが出来るようになる。
 その具体的な方法が“行”と“修行”による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、さらに“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込む方法が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

 ほんでから次の文。

“富士は晴れたり日本晴れ、富士は晴れたり日本晴れ。
善一すぢとは神一すぢのことぞ。
この巻を「天つ巻」と申す、すっかり写して呉れよ、すっかり伝へて呉れよ。”

 この文の“善一すぢとは神一すぢのことぞ”は、今、“善一すぢ”ではなく、また、“神一すぢ”では無いってことで、それは人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が、道を見誤ってるっていう言い方でしかない。
 いうまでもなく自分たちが事象を観察して感じ(感じる磁性)る善は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であり、それは自分たちの“道”と“理(ミチ)”(霊的成長の法則性)を見出すものである。
 そして“富士は晴れたり日本晴れ”については、“富士”はこの章の冒頭で画像を紹介した。 “晴れたり日本晴れ”は以前紹介した画像を貼っておいて、今回はこれくらいにしときまんねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
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心(靈)の二面性であり、
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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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