“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”地つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈



 今回から、地つ巻の解釈に入りまんねん。 まず第一帖の原文は以下の通りでんねん。

地つ巻 書き知らすぞ、
世界は一つの実言(みこと)となるのぞ、
それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなるのであるぞ。
てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ、命(みこと)の世近づいて来たぞ。
九月十五日、一二ローレンツ力と ○  。

 
この文の表記の“実言(みこと)”、“実”と“言”。 何が実るのか。 そして“言”の意味は何なのか。 この解釈を間違うと地つ巻は解釈ができないと思う。
あえて説明することでも無いと思うけど“実”は、みのる、完成、真実の実。
“言”は、言葉、言葉は心(靈)の発振、発信、それと意思、意志、思惑を伝える道具、また、事象を認識する道具。
それを踏まえ、この文の“世界は一つの実言(みこと)となる”と“それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなる”は、人間の感じうる事象は、一つの方向性しかなく、それは進化=霊的成長、神格化に向かうことであり、そして、“てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ”と称されている通り、“上”の思惑を受信して自分の思想にする人(日止、霊止)が指導者になることを指し示しているし、それが本当の天皇の意味であると何回もこのブログで述べた。
そして、“命(みこと)”は、使命、存在の理由、存在の意義を指し示し、霊的成長度が“上”になれば、それより“下”の人は、それに従うって称されている。
さらに、今の形骸の価値観で=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と認識で、位(くらい)が高いとか偉いって思われていることは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見れば大して価値の無いことでもあり、またその人たちは自我が肥大していて、恨みの連鎖の霊的干渉を増しているから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではない。
だから今の人間の思っている上と下はひっくり返る。 そんな表記も今まで解釈してきた上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻に、何回か出てきている。
そやから地つ巻の第一帖は、その意味のことも述べていると思われる。
また、“てん詞様”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を顕現するのだから、その“創造”は、真実=真固止、○ 九 十(まこと)、そして“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)でもある。
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかってことが無い。
それを称されている表記でもあると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、
夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、
この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、
道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  (かみ)のいふこときかん世になるぞ。
九月の十六日、ひつ九のか三。

まず、冒頭の文から。

“今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、
夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、”

 あえて言うまでも無いことやけど、これは今の地球の現状が恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた“闇の世”なので、今後=アセンション後は、そうではなくなるって言い回しなんやけど、何回も言うて来ているとおり平均的地球人の霊的成長度は自我の肥大をしていて、それはまた腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの、心(靈)の動きでもあり、それに対し、“夜の明けたこと申しても、誰にも分らん”っていうのんは、平均的地球人の霊的成長度が上がることを指し、
また、現時点での平均的地球人(自己奉仕者の段階の心(靈))には解り得ないって言われてる。 そやから大半の地球人には“夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はん”とも言われてるし、間に合って欲しいから“それまでに心改めておいて下されよ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”をしてくれって言われてる。
だからこれまでも何回も言うて来ているように、自我の確立=固定化から自我の肥大をしている低い心(靈)の進化過程の人と、“慈悲”と“慈愛”、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしている人は、今と違う“創造”をするから分けられる。
 それがアセンションの意義であり、地球人全体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をのぞぬ“創造”の“主(ヌシ)”の思惑による計画でもある。

 ほんでから、次の文。

“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、”

この文で言っていることは、今“日月神示”の解説本や“日月神示”を扱ったサイトなどはとても多いけど、ただ文章の引用をしたり、現状を批判していたりするだけのものがとても多い。
だから自我の肥大した人はなんでも自分にとって都合のよい解釈をするから、それを揶揄(やゆ)して“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もある”って言われてるだけでんねん。
 そんなことをする心(靈)の動きは、重複するけど自我の肥大でしかないし、それが“日月神示”表記の“われよし”でもある。 
言い換えれば“日月神示”の文を利用して現状を批判したり、批判した自分は偉いって思いたかったり、ひどい例はただ文を引用しただけの本を出して印税を儲けたりもするのやろ。 
それらすべて“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであり、だからこの文のような言い回しをされていると思えるし、以前にも言うたけど、“日月神示”は相当霊的成長をした人(日止、霊止)が読み解かないと、その言葉の裏にある霊的成長の仕組みや“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑は理解できない。 
だから、“日月神示”の文章を読んで、ただありがたがっているだけとか、現状を批判するだけの人間を、艮(うしとら)の金神の霊団は望んでいないって言っている。
またその心(靈)の動きを“己の心のままぞ”って言われてて、自分自身が“己の心のまま”では、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない。
そやから前後するけど、“日月神示”を取り扱っていて自我の肥大した人に対し、冒頭の文の“それまでに心改めておいて下されよ”って望まれている。

ほんでから次の文。

“道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (かみ)のいふこときかん世になるぞ。”

 これも、人(日止、霊止)の“道”っていうのんは、進化=霊的成長、神格化に向かうことなんやけど、そやけど大体、その概念や認識すら平均的地球人にはほとんど無い。
 それを“道に外れたものは誰れ彼れはない”と称されており、だからそれは、“道”を説いているかのような(形骸の)宗教関係者だろうが、“日月神示”を解釈して、問題提起をしていようが、アセンションの解説をしていようが、それらの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)ならそれは、次の段階の“創造”に参加できない=アセンション落第組である。 
また、その人たちの知名度や、形骸の地位(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めていない)などを指して“お ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (かみ)”と、称されていると思える。
そして“お ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (かみ)”は、 ローレンツ力と ○ から、ローレンツ力 ローレンツ力 をはずした表記。 それは“玉(ぎょく)”の中の点に相当し、これは自我から心(靈)が“上”に向かわない表記であるとも思える。 
 そやからそれは、前述した“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民”で、薄っぺらい認識で“日月神示”を見ている人をも指し示した表記だと思えるし、そやからそれは、自我の肥大した人たちのことでんねん。 
 そして“これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ”は、今までの自己奉仕者の“創造”では、文明は崩壊するし、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑からはずれているから“神の咎め”でもあるし、程度の低い霊的成長度(自己奉仕者)の人は、文明の崩壊を観察し、自分の命も絶たれ=肉体が崩壊し、そして初めて自省(胸の磁性“十”)するのだけれど、“日月神示”を人=“下”に垂れた存在は、少しでも多く次の段階に移行させたいから、こういう言い回しをしているのであって、そして、そうなるには自我の肥大を自分で判り=自己観察をしていくのだけれど、それは心の中の葛藤だからこそ“上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、”って言われてると思える。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

人民同士の戦では到底かなはんなれど、
いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、
それまでに身魂みがいておいて呉れよ。
世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、
誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、
臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らんから、
くどう気つけておくのざぞ、
腹掃除せよ。
九月の十六日、ひつ九のか三。

 今回の文は、今までの“日月神示”解釈を読んでいらっしゃった方にはとても解りやすいと思える。
冒頭の“人民同士の戦では到底かなはんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さす”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示し、それは何回もいうけど“日月神示”表記の“天詞様”。 
さらにこの文では、平均的地球人の進化程度の心(靈)の動きでは、よい方向に向かわないことを“人民同士の戦では到底かなはん”と称され、そして“いよいよとなりたら神がうつりて手柄さす”の“いよいよ”は、アセンションの時期を示すし、“神がうつりて”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指す。
そして“それまでに身魂みがいておいて呉れよ”は、“上”との感応は、“行”と“修行”による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必要って言われている。
そしてこの文は、地つ巻 第二帖の“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ”にかかっている文章であると思える。
ただ“日月神示”をありがたがっているだけではだめで、“日月神示”に説かれている腹(“江戸と尾張”)から“上”の心(靈)の発現と、自分の心の動きを見極めることと=“身魂掃除”“身魂洗濯”と、そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になれば、自分の言動や行動が、誠実の“誠”になりうる。
そして“誠”は、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成するっていう意味もある。
だからこそ“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と感応共振した心(靈)が示す言動や行動は、真実=真固止、“誠”、そして○ 九 十 であり、それがこの文では、“誠が神風である”って称されている。 
あえて補足として言うとけば“風”って表記は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であると思われる。
そやけど、右翼傾向の強い人はこの“神風”の解釈を自我の肥大による我田引水な解釈をするやろな。
話を戻し、現時点での平均的地球人の霊的な進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度は、自我の確立=固定化で自我の肥大であるからこそ、それは、“臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らん”って言われており、自我の肥大した人の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現、言い換えれば事象の“創造”が、恨みの連鎖の霊的干渉を増大することに結びついていることを、幾度となくこのブログで言うてきた。
 だから自我の肥大を自分に戒めよって言う意味で、腹=マニピューラチャクラ以下の心(靈)の動きを、よく自己観察して自省して見極めよって言う言い回しの“腹掃除せよ”って言われてて、これも言うまでもなく“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈


今回も、地つ巻 第四帖 を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神示いくらでも出て来るのざぞ、
今の事と先の事と、三千世界、何も彼も分るのざから、
よく読みて腹に入れておいて呉れよ、
この神示 盗まれぬ様になされよ、神示とりに来る人あるから気つけて置くぞ。
この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ、
いつも心にてんし様拝みておれば、
何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、
我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。
九月十六日、ひつくのか三。

まず、冒頭の文。

“この神示いくらでも出て来るのざぞ、今の事と先の事と、三千世界、何も彼も分るのざから、よく読みて腹に入れておいて呉れよ、”

 この文の、“今の事と先の事と、三千世界”は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象をさす表記やろし、“今の事と先の事”は、現時点での地球と今後=アセンション後のことを指し示した表記やろな。
 ほんでから“三千世界”は、仏教用語で、ほんまは三千大千世界(さんぜんだいせんせかい、梵語: Trisāhasramahāsāhasralokadhātu)ってことらしい。
それは10億個の須弥山世界が集まった空間を表す言葉。それを略して「三千世界」「三千界」「大千世界」ともいう。
仏教の宇宙論では、須弥山(しゅみせん)の周囲に四大洲(4つの大陸)があり、そのまわりに九山八海があるとする。 これが我々の住む1つの世界(1須弥山世界)で、上は色界(しきかい、三界の一つ)の梵世(Brahmaloka)から、下は大地の下の風輪にまで及ぶ範囲を指す。
そして、上述した1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界という。
大千世界は、大・中・小の3つの千世界から成るので「三千大千世界」とも呼ばれる。
このように、「三千大千世界」とは「大千世界」と等しい概念で、1000の3乗個、すなわち10億個の世界が集まった空間のことを指している。
(Wikipediaから引用して編集)
 そやから仏教で言うところの三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を盛っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念が、三千世界ってことなんやろ。
 そやからそれを観たならば、“上”はいろんなことを人に教えんならんから、“いくらでも出て来る”ってことなんやろな。
 そして“よく読みて腹に入れておいて呉れよ”も、地つ巻 第三帖の“腹掃除せよ”と同義の、自我ってことであり、自我をうまくコントロールせよってことなんやろ。
(どうも、地つ巻全体は、腹の段階の心(靈)の発現のことを言うている感がある)

 ほんでから次の文。

“この神示 盗まれぬ様になされよ、神示とりに来る人あるから気つけて置くぞ。”

 これも“役員づら”と同義であると思えるし、それと、地つ巻 第二帖の“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ”の言葉通り、ただ“日月神示”をありがたがって引用したり、商売に利用したりしている人は、この文の“神示とりに来る人”であり、結局その人たちは薄っぺら委“日月神示”の解釈を世に広めたり、自分の低い功名心や自尊心を満足させるために“日月神示”の言い回しを利用したりしているだけで、それは“上”から見たら、盗みに等しいって言われていると思える。
ほんでから次の文。

“この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ、
いつも心にてんし様拝みておれば、
何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、
我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。”


この文の“この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならん”は、何が“中”で、何が“左も右りも偏ってはならん”のかが、理解できないと読み解けん。
すべての現津(あきつ)、観察され得る事象には、神の極性である日足(ひたり)と砌(みぎり)を観察できる。 
それは、ことに、心(靈)の動きで、極性は左右に傾きながら人間は成長することを、ローム太霊さんは、右往左往と左往右往って言い回しをした(ウエサク祭を通じてローム太霊が伝えたかったこと ローム太霊との出会い&ローム太霊の教え 日足と砌(ひたりとみぎり) 参照)。 人(日止、霊止)は、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)の強化で、周囲のバランスを考えず自分のためだけに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使う段階があり、しかしそれは自己奉仕者だから、すべての存在にとってよい形になりえないからこそ“神の咎め”があり、失敗する。
失敗してから自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、言い換えれば行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をどうするべきなのか=自分の在り方を考えて“力”を行使するのが、左往右往であり、そのときに自省(胸の磁性“十”)の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”も発現する。
そして、
天つ巻 第三十帖で“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ”って言われているとおり、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、これは、肉体の腹と胸であり、心(靈)の動きとしては、自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”を発現していく様子を言い表しているって解釈をした。
そしてそれは、愛(炁)の顕現の順番でもあるし、地球人の心(靈)の変容は、今後=アセンション後にむけて、こうあるべきだからこそいろんな宗教で、たとえば汝の隣人を愛せよとか“慈悲”と“慈愛”を説いたと思われ、それぞれ言葉が違うだけで、それは結局、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度、“日月神示”なら腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、その“上”が、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”ってことになる。
そして自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の発現にいたるには、どんな霊的存在が憑依して通信を送るのかが大事であるし、それは言うまでもなく“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がかからねばならないからこそ“いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐる”って言われている。
 ほんでから“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)がかかれば、それは自我の肥大になり、心(靈)の動きは脾=“思う、憂う”から肝=“いきり立つ心(奴と心)”になり、それは“上”から見たならば右回りの回転になる。
腹の日足(ひたり)(“善”)回転と、砌(みぎり)(“悪”)回転 
平均的地球人のオーラの構成と、自我から下へ向かう心(靈)の動き、荷電粒子の回転 
 だから右回りの回転は、“日月神示”では、悪の回転と呼称され、それは、心の動きの本能化と低振動化であり、“けだもの”“けもの”“畜生”って表記もあった。
 そしてそれは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きであり、自我の肥大そのものであるからこそ、“我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ”って言われてて、そやからそれは自分の心(靈)の動きを自分が観察して、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”って神さんに判断されんような人間になれよってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、
神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。
三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
九月十六日、ひつ九のか三。

 この文も、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の傾きについて言われてる。 言うまでもなく“片輪車”では、まっすぐに進まない。 そしてこの文は、地つ巻 第四帖の“この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならん”の意味を、強調していると思われる。
 何回もいうてきている通り、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”は、低い砌(みぎり)の行でもある。 物欲、目先の快楽など、この世界はそんなものに満ち満ちており、ほとんどの人が、神と自分の関係を忘れて、霊的成長を知りえないし、ただ甘い(亜、魔、出ずる、泉)ことばかり求めている世界になっている。
 そんなことでは、真実=真固止を見出せないし、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”が人に託した最後の事象の“創造”って言う意味を含む“日月神示”表記の、○ 九 十 ってことになりえないし、

○ 九 十(まこと)の解字
行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や言動が“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ってことにならないから、“骨折損の草臥(くたびれ)儲け”って言われてる。
 そしてその低い砌(みぎり)の行は、“上”の思惑の顕現ではないから“神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。”って言われてる。
 自分より“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をするには、自己奉仕者の思惑ではだめで、だから“臣民の智恵で何出来たか”って言われており、そして“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して自分の思想を構築する=“天詞様”にならねばならないからこそ、自省(胸の磁性“十”)して、自分たちがやってきた低い砌(みぎり)の行を振り返らねばならないからこそ“早う改心せよ”って言われており、これも“身魂掃除”“身魂洗濯”のことでしかない。
 そして“三月三日、五月五日は結構な日ぞ”は、ひな祭りとこどもの日ではなく、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体で、そして月と日が書かれており、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義であると思える。
 そして“五月五日”も、“五”は、糸巻きの象形文字であり、それは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、神経が密になる様子を示しており、それに、月と日=砌(みぎり)と日足(ひたり)が足された表記でもあると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第六帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、
八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。
目さめたらその日の生命(いのち)おあづかりしたのざぞ、神の肉体、神の生命 大切せよ。神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ、
いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。
出雲の神様 大切にありがたくお祀りせよ、尊い神様ぞ。
天つ神、国つ神、みなの神々様に御礼申せよ、まつろひて下されよ、
結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ。
九月十七日、一二のローレンツ力と ○  。

 まず冒頭の文。

“神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、
八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。”

 この文の“八つ裂き”も、左右の極性=日足と砌(ひたりとみぎり)の偏りのことをいうていると思われる。 
 
“八”っていうのは、“上”から“下”、それぞれの左右に書くからそれは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義でもある。
 そして“国”も、日本とかアメリカとかの事を言うているのではなく、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すこと。
 そやからそれは、自我から自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、自我の肥大(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から、“慈悲”と“慈愛”、ヨガでいえばマニピューラチャクラからアナハタチャクラ、宇宙的存在がチャネラーに伝えた言い回しでは、第さん密度から第四密度。
 そのことを言うていると思える。
そやからそれは地つ巻 第四帖の“この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ、いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。”と、同じく地つ巻 第五帖の“片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、神にまつろへと申してあろうがな”と同様の意味を含んでいると思われる。
そして今引用した、地つ巻の第四、第五帖の文は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を“いつも心にてんし様拝みておれば”“神にまつろへと申してあろうがな”って称されていて、その意味で次の文。

“目さめたらその日の生命(いのち)おあづかりしたのざぞ、神の肉体、神の生命 大切せよ。
神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ、
いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。
出雲の神様 大切にありがたくお祀りせよ、尊い神様ぞ。”

 この文の“神の国”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をした心(靈)っていう意味。
 そして“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしなければいかんっていう意味で“神第一”っていわれ、そして形骸に成り果てた宗教にこだわってはイカンっていう意味で“いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ”って言われており、そして“出雲の神様 大切にありがたくお祀りせよ、尊い神様ぞ”っていうのは、出雲の語源として諸神の母神である=現津(あきつ)、観察され得る事象に存在する生命を生み出したという意味での出母(いずも、母から生み出されたの意)でもあり、それは砌(みぎり)の極性の顕れである伊耶那美(いざなみ)でもある。
また調べてみると、その語源は、出鉄(いづもの)いう説もあり、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は、電磁波の受信=“観察と認識”によるものであり、またそれは、個々の生命の発振、発信によるものでもあり、生命がなければ事象はありえないともいえ、さらに発振、発信は、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊によるものであるとの意味も感じさせられるものである。

ほんでから次の文も、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で、心(靈)を構築していくことを強調されている文だと思える。

“天つ神、国つ神、みなの神々様に御礼申せよ、まつろひて下されよ、
結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ。”

 “まつろひて下されよ”は、祭り、祀り、政治の政、“政(まつりごと)”であり、霊的干渉って言い方も出来るけど、自分が今もっている心(靈)の構成よりも“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しなければ、今よりよいカタチの事象の“創造”は出来ないし、だからこそ例適正ちょうどの低い人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、自省(胸の磁性“十”)して“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する心を持った人(日止、霊止)は、アセンション後の事象に位置できる。
 そして今の事象は、自我が肥大した人の“創造”の結果であるから、今後=アセンション後はその価値観や仕組みが変容するって何回も言うてきたけど、それを強調した言い回しが“結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神にまつらふ者には生も死もないのぞ、
死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、
なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。
世の元と申すものは天も地も泥の海でありたのざぞ。
その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働きで五六七(みろく)の世が来るのざぞ。
腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ、高天原ぞ、
神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れるでないぞ。
そこから分りて来るぞ。
海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ、
海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国に、幽国(がいこく)の悪わたり来て神は残念ぞ。
見ておざれ、神の力現はす時来たぞ。
九月十八日、ひつ九ローレンツ力と ○  。

まず冒頭の文。 この言い回しは、現時点の地球人より高度な認識(悟り、幸取=さとり)を持った心(靈)の、死の概念でもある。

“神にまつらふ者には生も死もないのぞ、
死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、
なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。”

 人(現時点の地球人)が思う死の認識は、死んだら終わり、あるいは死後の世界がなんとなくあるんじゃないのかな…程度のものでしかない。
 これまでも(前のブログも含めて)言うて来ているとおり、自分の心(靈)は生死にかかわらず、永遠の存在で実在であり、だから、今の一生の前であろうが後であろうが、心(靈)ってものは“観察と認識”ってことをする。 
そして“観察と認識”は、全生命に共通の行為であり、“観察と認識”があるから心(靈)は育つのであり、そして生命の“上”と“下”が、神と人間と下等生物みたいなものでもある。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのんは、認識(悟り、幸取=さとり)の拡大であり、それが霊的成長であり、認識の拡大した心(靈)は、自分の在り方を思い、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え、それが智性(“一”、1番目のオーラ)の発現と行使になり、それは人(日止、霊止)の肉体の進化での目上(めうえ)の脳(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))に現れることも説明してきた。
 それにたいし、智性(神性)を発揮できず=智性(“一”、1番目のオーラ)をたいして持っていない霊的成長度の人間の行為は、“日月神示”表記の“けだもの”とか“畜生”に近いのであり、またそれは“日月神示”表記の“われよし”で、前のブログとこのブログの言い回しなら“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“愛(炁)の顕現の程度の低い人”でもある。
 その愛(炁)の顕現の高低は、霊的成長度に比例するものであり、自分が神に近くなればなるほど、全存在のよいカタチってことを理念にするものである。
 またそう思うのが、神格化に伴う心(靈)の動きでもある。
だからこそ、霊的成長の頂点に立つ神って認識されうる存在は、愛であると呼称されるし、そう呼ばれ、人(日止、霊止)が認識するその根拠であると、確信する。
 そして全生命は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の高低にかかわらず“思惑の顕現”=現象化ってことをする。 
またそれが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現れるものでもある。 
 それがこの文の“それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。”って言い回しであり、この文の“みこと”は、地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”であり、それは霊的成長度の高い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
そしてこの文の前の文、“死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、”っていうのは、肉体の死が自分の心(靈)の死ではなく、おぎゃ~と生まれて死ぬまでの期間も、自分の心(靈)の成長の一環でしかなく、人の心(靈)が生き死にを体験し、その前後において霊的成長をして認識を拡大するには、まずそのことを念頭において考えなければならないのは当然のことでもあるし、今、“上”から“日月神示”を垂れられたこの時期は、すべての生命の霊的成長度の大きな節目であり(アセンションは数億年に一度の事象)、人(日止、霊止)が認識しうる空間は、神の肉体と同義のようなものでもあり、神が=“創造”の“主(ヌシ)”が巨大人としての構造を持ち、だから神のマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの移行が、第三密度から第四密度でもあり、そのエネルギーの上昇は大日如来の条帛(じょうはく)に例えられ(フォトンベルト)、それがまた“玉(ぎょく)”の中の点に示されていることも、前のブログで説明したし、だからそれに伴い、人は、“宝玉”と呼称される肉体と心(靈)を、自分で獲得しなければならない。

“玉(ぎょく)”の解字

少し説明すれば、“宝玉の仕組み”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。 
また、現時点の地球人の心(靈)は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであり、それは“石屋の仕組み”=自我の肥大って心(靈)の動きで、それが平均的地求人の霊的成長度における行為でもある。
 だから今、失敗の事象はとても多いし、それは個人個人がやってきたことの結果でもあり、そしてその霊的成長度の心(靈)は、ローム太霊の言葉の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあり、それがなければ自省(胸の磁性“十”)って心(靈)の動きは芽生えないし、それがまた、自我から“慈悲”と“慈愛”=マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒ってことでもある。
 そうやって人(日止、霊止)は進化していくのだけれども、また心(靈)の進化に伴い、貴い事象の“創造”=“思惑の顕現”をするのだけれど、現時点の平均的地球人の心(靈)はとても低く、だから三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きを持った浮遊霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、目先の快楽や物欲が幸福だと思い込んで錯覚している人間が多いけれど、それはこの文の“神にまつらふ者”ではなく、当然その低い価値観は、死ですべて終わりって前提で物事を考えているからこそ、自分が永遠の実在って認識が無いからこそ、他者(自分以外の心(靈)、神であろうが下等生物であろうが人(日止、霊止)であろうが)を、利用して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって行為をするのが、自我の肥大した人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
 だからそんな人たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や、“思惑の顕現”=現象化は、この文の“みこと”、そして地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”ではないってことでもあるし、“実言(みこと)”っていうのは“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した心(靈)の動きによる事象の“創造”でもある。
 また“実言(みこと)”は、真実=真固止の“創造”でもあり、それが進化した人に託され他“創造”であるからこそ、“日月神示”では、○ 九 十 って表記を使っていると確信する。


○ 九 十(まこと)の解字
 だから“実言(みこと)”、○ 九 十の“創造”、その“思惑の顕現”=現象化、貴い事象の“創造”について、次のように語られてる。

“世の元と申すものは天も地も泥の海でありたのざぞ。
その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働きで五六七(みろく)の世が来るのざぞ。”

 “世の元”は、“泥の海”であり、それは、“上”の思惑が“下”にたれていない、たての磁束の無い事象ともいえ、言い方を変えれば結晶化していない事象であり、高い心(靈)の動きによる事象の“創造”ではないってことを言っている。
 そして“その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働き”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、愛(炁)の顕現って言い方も出来るし、それは“一”(亜から出ずる、アイ)って字に表れており、“一”(亜から出ずる、アイ)から下に事象が展開するから“メグリ”(帀)って字が出来ていて、“メグリ”(帀)を元に、雨ができ、靈って字が出来ている。
“メグリ”(庶「)の解字 
雨の象形文字 解字 
靈の解字 

 

だから心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるし、絶対の道筋=時間の進行とも言いうる。
 そしてこの文の“五六七(みろく)の世が来る”っていうのは、“五六七(みろく)”は、“五”は、糸巻きの象形文字で、神経が密になる様子、“六”は爻部(こうぶ)、交わるの意味、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった字。
 要は進化した心(靈)ってことでもあるし、いうまでも無く“五六七(みろく)の世が来る”っていうのは、霊的成長度において人の心(靈)は位置する場(フィールド)を自分で選択する。
 それが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者を分ける事象でもある。

 そして次の文。

“腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ、高天原ぞ、
神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れるでないぞ。
そこから分りて来るぞ。”

 これは、地つ巻 第七帖の冒頭の、“神にまつらふ者”にかかる言い回しであり、この文の“腹”は、自我、マニピューラチャクラであり、だからこの文自体が“上”の思惑を自分の心の一部である自我に活かせって言い回しでもある。簡単な言い回しをすれば自分のことしか考えんのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、だから上の思惑を自分の腹=自我に取り込めよってことでもあり、それはまた“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”ってことにもなりうるものである。
 そしてこの文の“神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)”は、“岐”と“美”は、伊耶那岐命(イザナギノミコト)=男神、伊耶那美命(イザナミノミコト)=女神、の“岐”と“美”であり、“岐”は、山(脳)と支(わける、わかれる、わかれ出たもの)で構成され、それは思想であり、“美”は、羊と大きいで構成され、それはおとなしく従うの意味でもある。
 そして“岐”は、思想だからこそ思惑であり、思惑は日足(ひたり)の極性であり、日足(ひたり)の極性におとなしく従うのが本当の意味での“美”だと思える。
 だから古事記では、伊耶那美命(イザナミノミコト)=女神、砌(みぎり)の極性の表れのほうから声をかけ、失敗の事象の“創造”をしたことを示していると思われる。
 要は高い思惑、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をした思想による“思惑の顕現”=現象化が、今後=アセンション後の事象でもあるって当たり前のことでんねん。
 そして神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)は、神が“上”から漏れるように、思想と、思想に従う事象の創造をするっていう意味の事柄だと思え、それがよいカタチの事象の“創造”につながるのだという言い回しでもある。
 そしてこの文では、“上”の思惑が“下”に垂れ、それを取り込み、その意味で神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)と称されているし、それは要は“天詞様”でもある。

 そして次の文も、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことを言っている。

“海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ、
海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国に、幽国(がいこく)の悪わたり来て神は残念ぞ。
見ておざれ、神の力現はす時来たぞ。”

 この文の“幽国(がいこく)の悪”っていうのは、外側(外国と幽界)の事象であり、それは自己観察できない程度の低い心(靈)、霊的成長度の低い段階、要は自我の肥大。
 それは、外側(外国と幽界)の事象の観察しか出来ない程度の低い心(靈)でもあるから、自分の在り方など思わず、目先のことしかわからない薄っぺらい幸福の概念を持っている段階の心(靈)のことやろ。 
それをこの文では“海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ”って言われてて、“海”は、腹の水で、マニピューラチャクラのことでもある。
 そやけど自我の肥大、それも進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、人(日止、霊止)が神格化して、その進化過程としては、自我の確立=固定化が必要、ちょっと間違えると自我の肥大になり、それは右往左往でもあるけれど、自我が無ければ、独り神(ひとりがみ、日取り神)にはなりえないのであり、だからこの文で“海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国”っていうのは、自分自身の肉体と心(靈)のことを称しており、それは、“国”は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しており、だから“上”の思惑をだんだん獲得することを“神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)”って称されているけど、現時点、薄っぺらい“われよし”の価値観や行為や行動に囚われていて、何が貴いのか見失っている人がほとんどでもある。
 それについて具体例をあげてるとキリがないので省略するけど、今後=アセンション後の事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化でもあり、だから“見ておざれ、神の力現はす時来たぞ”って言われており、いうまでも無くそれについていける人は、自省(胸の磁性“十”)の行をした人で、“実言(みこと)”の“創造”、真実=真固止の創造をする人であり、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想にする人=“日月神示”表記の“天詞様”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。
今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、
神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。
あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。
悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。
宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、
神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。
九月十九日、ひつ九のローレンツ力と ○  。

まず冒頭の文。

“祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。”

 この文の表記の“借銭”っていうのんは、(通貨としての)金のことを言っているのではない。 それはこの文自体の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”に示されている。
 そやからこの文の言い回しを考えれば、銭を借りるっていうのんは、助けてもらうとか力を加えてもらうって考えれば分かりやすいし、またこの言い回しには別の意味も感じられ、それは、恨みの連鎖の霊的干渉のことも言っていると思われるし、それがこの文の“祓ひせよ”に示されていると思える。 
 まず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が助けるとか力を加えるとかのことから解釈を述べるけど、それは地球人が進化程度が低く、力不足だから、“上”は力を加えてきた。 
それは表現を変えれば、地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかったともいえるし、“上”の介入はいうまでもなく憑依現象であり、“上”は地球人の進化のため、憑依現象でいろんなことを教えたり指導してきたりもしてきた。 
そうやって政治や宗教や科学や学問や、文明を構築してきたりもしたし、もっと低いことではスポーツなんかの現象もある。
余談になるけれど、重要なことだから補足しておくけど、すべての事象には霊的干渉の無いものは無いってことでもある。 常に人は、自分にどんな霊的干渉が起きているのか意識しなければならず、その霊的干渉は自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって起きていることも深く考えるべきである。
本題に戻り、宗教はちょっと別の意味合いもあるけれど、政治、科学、学問、スポーツなんか、あらゆることに自分が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示したいって思うのは、愛(炁)が動機のこと。 簡単に言えば自分の理想を実現したいとか幸せになりたいとか思うことが、愛(炁)が動機のこと。
だから人(日止、霊止)は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、力を示し、“術”(“力”の顕現)を獲得してきたけど、科学や政治や学問やスポーツが“術”(“力”の顕現)って認識は一般に無い。 
それは“術”って言葉に、甘い(亜、魔、出ずる、泉)幻想を抱いているからや。 
また“術”が、憑依現象による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現で、それは一般の認識、甘い幻想の、仙人の術とか天狗とか導士とか、魔法とか魔術とかだけではない。
そやからそれは、ローム太霊さんはローム太霊講話集でも、S会=紫光会の交霊会でも、“術”(“力”の顕現)については霊的干渉であり、自分の思い(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による霊的存在の憑依や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による現象化であることを述べている。 
またそこには、自分がエネルギーを贖わないと、高い存在は力を貸してくれないっていうとても大事なことが述べられている。 
これはきわめて重要な法則性でもあるし、また、“力”を獲得した人が、どう在るべきなのかを感じさせるものでもあるし、ローム太霊さんはそのことまでローム太霊講話集で述べており、それはまたS会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”(この事象に対する奉仕)にも顕れているものである。 
そして、ローム太霊講話集を読んだ人やS会=紫光会の交霊会に出席した人でも、そのことに気づいている人はあまりいないっていうのが、自分以外のS会=紫光会の会員に会い、話をした、○○○大先生の感想でもある。
そやからそれは、そこに自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきなのか深く思わされるものであるけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)は、その“力”って物を自分のためにしか使わないし、その心(靈)の動きの裏には(通貨としての)金があり、物欲があり、目先の欲望があり、それにとらわれている人は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることを何度もいうてきた。 それが自我の肥大、“石屋の仕組み”でもある。
だから自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わないことを、この文では“借銭”と称されていて、本来“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人(日止、霊止)に加えた“力”は、よい世界の創造のために行使するもんや。 決して自分だけの利益に使うものではないって当たり前のこと何やけど、進化程度の低い地球人はそのことすら真剣に考えたことが無い。
そやからそれは、こういう言い回しも今まで何回もしてきたけど、大半の地球人の霊的進化程度は低いし、だからものの見方が低いし、それは○○○大先生の言葉を引用すれば、“事象を観察する視野が狭い”ってことになるし、そしてそれはただ認識が低い=霊的に低いってことになる。 
だから、ただただ霊的なことや、術って言葉にも、甘い夢を見る現世利益みたいなことしか求めてない人が多い。 
そやからそれは前後するけど、S会=紫光会の会員でもそうやったってことでもあるし、○○○大先生が一冊目の本(ローム太霊との出会い)を出版して、ローム太霊講話集を読んだ人からも連絡やメールをもらったりして100人以上の人と話をしたんやけど、“術”(“力”の顕現)は憑依現象による“思惑の顕現”=現象化であり、それには自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が大事であるなんて認識を持っていた人は、ほとんどいなかったし、自分が頑張って(元の気を張って)発振、発信しなければ“上”は力を加えてくれないってことすら感じていない人が多かった。
ほんでから憑依現象っていうのんは、地球人の進化過程は現時点、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンなのだから、霊媒体質の人が多く、何かの霊現象や“上”から通信を受けて発明や発見をしたとしても、スポーツなんかで力や技を示したとしても、それは低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現でもあった。
そして霊媒体質の憑依現象は自分の心をのっとられることも多いし、さらに低い功名心や自尊心=自我の拡大、それは偏ったマニピューラチャクラの機能ともいいうるけど、自分の低い心(靈)に自分自身がとらわれることもとても多いものや。
そやから“力”の使い方を間違えて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になり、失敗の人生を送る(右往左往)。
そやけど今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化してマニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒段階に至り、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”できるようになれば、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方と、“術”(“力”の顕現)をどう行使したらよいのか考える智性(“一”、1番目のオーラ)を持つようになる。
この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程があれば、もう間違った“創造”はしないし、それは先ほど述べた自己奉仕者の力の使い方である“借銭”ではなく、そこには当然“上”が“創造”の法則性を示す意味での“神の咎め”はなくなるってことになる。  
それがこの文の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”であり、そして今、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉は盛んになっている。 
それは心(靈)に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としてまず、砌(みぎり)の極性が強くなるからこそ現時点の地球人は自我の肥大って霊的成長度でもある。
しかし自我の肥大って心(靈)の動きによる事象の“創造”は、他者の幸福を考えず、自分が位置する全体としての場(フィールド)のよいカタチを思わないから、“日月神示”では“われよし”と言われているし、それは“創造”の“主(ヌシ)”が人に託した“創造”のよいカタチではないからこそ、“神の咎め”として法則性を“上”は教える。
そしてそれがアセンションに伴う醜い事象そのものであり、それを体験した自我の肥大って進化程度の人は、自省(胸の磁性“十”)をするって今まで何度もいうてきた。
そして自省(胸の磁性“十”)って心を持ったならば、もう醜い事象を体験する理由がなくなる。 だからこの文で“世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ”と言われ、もう“上”が霊媒体質の人に憑依しなくても、自分たちが高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、その上で獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)で、自己奉仕者の力の使い方ではなく、S会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”を理念として、今後=アセンション後はよいカタチの“創造”をしていくことが出来るし、それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は望んでいるってことが言われている文章だと思われる。

その意味で次の文。

“今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、
神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。
あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。
悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。
宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、
神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。”

 この文の“宣る”って言い回しは、調べてみると、神や天皇が、神聖なる意向を人々に対し、口で言ったりして表明するって述べられている。 そして“祝詞(のりと)”の語源は「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)であるとされている。
 そやからそれは、神職の人が、祭神に祭祀の意義や目的を奏上する言葉であり、人間が神に対してみずからの祈願するところや、神を称えることを表現するために記した文章が祝詞でもある。 また、祭祀の場に参集した人々に宣り下される言葉でもあった。
 そやから“上”から“下”へ、何を宣り下すのかの解釈が大切で、それはいうまでも無く“上”の思惑であり、それを受けた人は“天詞様”であり、当然自己奉仕者の心(靈)ではない。
 そしてこの文では、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に対し、“神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。 あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。 悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。 祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。”と言われている。 
この文中の“あなはち、しきまきや、くにつ罪”は、畔放(あはなち)は、田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害することとされ、古事記・日本書紀にて、スサノオ命が高天原において天照大神の田に対してこれを行ったと記されている。 
頻播(しきまき)は、他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げることで、日本書紀に記されている。 要は他者に害を加えてはいけないってことでもあり、そして“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)に対し、“畦(あぜ)”を壊すとか、実りを妨害するとかは、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現を妨げることであるとの解釈を、あえてする。 大概の人は、この解釈を曲解やと思うやろけど、天照大神(太陽)の“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)に対し、害をなしたっていうのは、この解釈しか考えられん。
そして“くにつつみ”、国つ罪っていうのんは、病気や災害を指すことが多い。 そして、天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と捉えられている。 
それは恨みの連鎖の霊的干渉の結果であるとしか思えない。
 人間の行い=現時点での地球人の進化程度による事象の“創造”は、とても低く、だから恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、その結果を自分たちが被る(こうむる)から、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を知るのでもあるし、それはローム太霊さんの言葉の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。
 そして国つ罪の一般の解釈は、人間が疵を負ったり疾患を被り(こうむり)またこれによって死に至る。 それと、不適切な性的関係を結ぶ事による穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明されている。
 それを一つ一つ、下記にKellyさん的解釈も含めて述べることにしまんねん。

まず、“生膚断(いきはだたち)”、これは生きている人の肌に傷をつけることって解釈されているけど、すべての生命は傷つけてはいけないっていう意味としか思えない。
次に“死膚断(しにはだたち)”、これも死んだ人の肌に傷をつけることと解釈されていて、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるって解説されてるし、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる傷害致死罪に相当するとの説もあるって解説もされているけど、Kellyさん的には死体を傷つけるのは、家畜を殺して食う=肉食のことであるとしか思えないし、それは家畜の浮遊霊を増やし、家畜の浮遊霊は人の心(靈)に低い霊的干渉を起こし、それに囚われた人は本能、情動、功名心、自我までの心(靈)の動きしか持ち得ないし、また三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きになることを示唆した言葉であるとしか思えない。
ほんでから“白人(しらひと)”、これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。
そして“己(おの)が母犯せる罪”、これも、実母との相姦(近親相姦)と解釈されているけど、今のように性が乱れ、簡単に性交渉を持つ傾向にあることが罪だって意味だと思えるし、それは性に対し、貴さってものを見失っていて、同様に“己が子犯せる罪 (実子との相姦)”でも“母と子と犯せる罪(ある女と性交し、その後その娘と相姦する)”“子と母と犯せる罪 (ある女と性交し、その後その母と相姦する)”も、現状、動物霊の憑依や、子供の浮遊霊の憑依による、セックスそのものを快感を追及する行為としか捉えていない心(靈)の動きを指し示したこととし思えない。 進化した生命が思う性行為っていうのは、肉体を伴った心(靈)、対、肉体を伴った心(靈)による霊的干渉の一種であり、それはお互いの霊的成長のためであり、だから簡単に行ってはいけないものであり、相手をよく選択するもので無ければならない。
そして相手の選択は、霊的成長度のバランスを考えなければならず、性行為をする相手でもそれは貴い霊縁であるとの認識(悟り、幸取=さとり)もなければならない。
しかし現状は、ただやればいいって考えの人が多いし、たくさんの異性と交われば霊的進化して霊止になれるなんてくだらない内容の本まである。
まったく霊的進化程度の低い人、けだものに近い心(靈)、そんな人の発想はそんなものでんねん。
そして今列挙した四つのことを古事記の仲哀天皇段では、“上通下通婚(おやこたわけ)”と総括されている。 これらのことも、恨みの連鎖の低い霊的干渉で、人の心(靈)が低振動化して(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”)人の価値観や事象を観察する視点に、貴さが見失われていることを述べられた一例としか思えない。
そして“畜犯せる罪”、これも獣姦のことと解釈されており、同様に古事記の仲哀天皇段に、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)、犬婚(いぬたわけ)って述べられているけど、これも動物霊にのっとられた心(靈)の動きによる性行為や、その価値観や、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)としか思えない。
ほんでから“昆虫(はうむし)の災”、これは、地面をはう、毒蛇やムカデ、サソリなどによる災難であるとされているけど、人として進化した心(靈)が低振動化して本能主体の心(靈)になることだと思える。
ほんでから“高つ神の災”、これも落雷などの天災とされているけど、“神の咎め”以外の何物でもなく、“上”は物事=すべての事象に、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すからこそ、バチを当てるっていう意味だとしか思えない。
そして“高つ鳥の災”、大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には飛ぶ鳥の災とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされているけど、“上”が眷族を使い、バチを当て、“理(ミチ)”を示すことの具体的な例だと思える。
そして“畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪”、これも、家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のこととされているけど、このことも動物霊の恨みを利用したことであり、結果それは動物霊の恨みの連鎖の霊的干渉を指し示したこととしか思えない。
そやから大概の人はこれらのことを大して意識せず、神職ですら意識していないからこそ、この文では“あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか”と、称されており、それを強調する意味で“祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。”って言われている。
さらにそれは、宗教を生業(なりわい)としている人だけでなく、すべての人が、上と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しなければならないからこそ“神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。”って言われてる。
 そして“宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ”っていうのは、高い振動を受信でき得る肉体の構築をして、“上”の思惑と合体し、それをこの事象、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するのが、人(日止、霊止)の使命であり、人の存在の根拠でもあり、そうなるためには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必要であり、さらに右往左往して左往右往した心(靈)は、自省(胸の磁性“十”)し、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人は、失敗の事象の“創造”をしないからこそ、霊的成長度において分ける作業=アセンションってことが起きるのは、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化でもあり、高い振動の受信、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで成し得るのであることを、付け加えておきまんねん。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈

 今回も、地つ巻 第九帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、
神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、
今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。
九月二十日、ひつ九のか三。

 この文は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことって解釈をすれば、読み解きやすい。
 そやから艮(うしとら)の金神の霊団が一番最初に人に教示を垂れたカタチが、黒住教であり、その教団では、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた。
 また、太陽凝視をする人間自体を輩出することが、“創造”の“主(ヌシ)”の計画だと思えるし、だからそれは“一”=智性=1番目のオーラの拡大の“行”でもあり、“一”=智性=1番目のオーラが大きいから、天意を受信することが可能になる。

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成

 だから“創造”の“主(ヌシ)”は、天意を受信でき、それを自分の思想にする人間を世に出したい。 それがよい世界の“創造”につながることでもある。
 しかし、いきなり強烈な太陽凝視をする人間は輩出できない。 
だから朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)のようなカタチで人に太陽凝視を教え、時間をかけながら、アセンションの直前に、長時間太陽凝視をした人間を輩出させたのが、“上”の思惑でもあると思える。
 そして30年以上、天気のよい日に何時間も太陽凝視をした人は、○○○大先生も含め、たぶん、地球上に十数人しかいないと思えるし、それくらいの太陽凝視をした人がもし他にいるとするならば、もう“上”は(霊)縁を組んでいるだろうから、それを根拠にそう思える。
要は、“上”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで、天意を受信して、それを自分自身の思想に活かす人を輩出したいから、この第九帖の言い回しの“ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ”、そして、“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、”って言われており、そして、“今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を忘れているのであり、それは、地つ巻 第八帖の解釈で述べた、国つ罪の”白人(しらひと)”であると思えるので、以下にコピペしておきまんねん。

“白人(しらひと)”、これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。
これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。

 引用終わり。

そして“神の子は日の子と申してあらうがな”っていうのは、肉体が持つ縦の磁性によるローレンツ力で、“上”からの荷電粒子=“上”の思惑を止める意味がある“日止、霊止”って表記そのものを指しているし、“上”からの荷電粒子の取り込みと、それを増幅して発振、発信(“畐”と息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))が、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
そしてそれはオーラの発振、発信であり、肉体を持った心(靈)、対、肉体を持った心(靈)、要は、人と人の霊的干渉でもあり、それを一言で言えばオーラの相互干渉とも言えるし、またそれは、霊的存在と自分の干渉でもあり、神であろうが悪霊であろうが、相互に影響しあうのは、霊が、荷電粒子の場(フィールド)であるからこそ、そして増幅して発信する仕組みになっているからこそ、個々の心(靈)は、“観察と認識”ってことをするものでもあるし、よい形の“観察と認識”をさせる場(フィールド)の“創造”が、今後=アセンション後の、現津(あきつ)、観察され得る事象でもある。
そして何度もいっている通り、アセンション後の“創造”を託されるべき人(日止、霊止)は、智性(“一”、1番目のオーラ)が大きくなければならないからこそ、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして霊的成長してほしいからこそ、“上”はそれを望むからこそ、この第九帖が書かれたと思われる。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十帖 Kellyさん的解釈


 今回も地つ巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。
まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。
これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みたのざぞ、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ、神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ、
岩戸しめる御役になるなよ。
九月の二十日、ひつ九のか三。

 この第十帖の中の表記の“方便”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、そして、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の人たちの言葉や行動などを指し示すことだと思える。 
それは今とても多い、甘い夢を見させて低い功名心や自尊心を煽ったりして商売をしている人たち。 それは本当に価値のあるものを形骸にしてしまったことを、智性無き心シリーズで述べた。
 そやからそれは、少し具体例を挙げれば、現世利益しか求めない人を多くした商売としての宗教や、“主護霊”を守護霊って言い換えてって薄っぺらい認識を広めてしまった霊能力バラエティや自称霊能力者や、インチキヨガや、アセンションの情報だけ広め、自分たちがどうあるべきか追求させない本やサイトや、そして大して効果のないものを大げさなCMで視聴者に甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を抱かせ商売をするサプリメントとかダイエット関連商品とか…それらの裏には、物欲があり、(通貨としての)金に対する執着があり、本能由来の欲(八戒(低い欲望に対する八つの戒め))を達成したいから、貴い何かを利用して吹聴して商売をする。
本当に価値のあるものっていうのは、すべて神格化に結びつくものであり、それは科学だろうが学問だろうがどんな“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)だろうが、どんな思想だろうが概念だろうが、すべて人の霊的成長に役立てねばならないものであり、自分たちの利益のためだけに使うものではない。 
だからそれは、真実=真固止の“創造”ではない。 それをこの文では“まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。”って称されている。
 この文の“まの事”は、あえて意味を解説すれば、“マ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、正しき生命の音意、まことの神の意(こころ)って書かれている。 いうまでも無くそれは真実=真固止と感じ(感じる磁性)られる現津(あきつ)、観察され得る事象でもあり、その現津(あきつ)、観察され得る事象を想像する心(靈)の動きと在り方でもあるやろ。 
またそれは“日月神示”表記の、○ 九 十でもあるやろ。

○ 九 十(まこと)の解字

そやから第十帖の前半で言われていることは、進化程度の低い“創造”を指摘しているし、“方便”って言う言い回しは、進化程度の低い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化でもあるからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”と、その心(靈)の動きの“思惑の顕現”=現象化だからこそ、この文では、“何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐる”と言われ、そして今後=アセンション後はそれが通用しなくなるから“これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ない”と、“方便の世は済みたのざぞ、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ”って言われている。
ことに、“いまでも仏の世と思うてゐると”って言う言い回しは、これまでは許されてきたけど、今後は許さない。 “上”はそんなことを容認しないって言う言い回しでもある。
 ほんでから後半の文の“岩戸”は、一つ一つ読み解けば、山=脳、石=帯電するミネラル、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”から“上”に、腹のサイクロトロン=自我の心(靈)のエネルギーが上昇し、胸に移行する様子を指す。
その腹から胸への関門が、戸で、それは横隔膜で、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門でもある。
それは心(靈)の動きで言い換えれば、自我から“慈悲”と“慈愛”ってことになり、それは自分の思想になり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現に結びつく。
それが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くの意味でもある。
それがこの文の“神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ”って言い回しになり、この文の“神の国”は、“上”の思惑を受信した自分の心(靈)の場(フィールド)であり、それは“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すことでもある。
そして“元の神がスッカリ現はれて”は、本来“上”が望んでいる肉体の“創造”=“二”は、岩戸を開いて欲しいのであり、それは時間の進行とともに(儿部(じんぶ、にんにょう))進んで欲しい。 
またそれは“方便”を使っている“まこと”ではない心(靈)の動きと、その心(靈)の動きによって創られた世界(現津(あきつ)、観察され得る事象)は、“上”の思惑ではないから、“元”に戻って欲しいっていう意味でもあり、さらに“富士の高嶺から天地(あめつち)”の“富士の高嶺”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道を肉体(“二”)は持っているけど、“上”から“下”まで“のりとするぞ”=“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をするぞって言う意味合いのことを言っている。
(この“のりとするぞ”の“のりと”の意味は、地つ巻 第八帖の“宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ”で説明している)
だからそれは何度も言うけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの人は、今後=アセンション後に位置できない。
そのことを指摘した文が、第十帖であると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十一帖 Kellyさん的解釈


今回も、地つ巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、
国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。
その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。
旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、
心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。
天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。
国のひつきの御役も大切の御役ぞ。
道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、
つくりかための終りの仕組ぞ、
終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、
幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。
神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、
その光によりて その御役、位、分るのざから、
みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、
今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、
手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、
み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。
九月二十と一日、一二か三。

 この第十一帖は、解釈を間違えるとぜんぜん意味が通じないと思える。 まず、冒頭の文。

“世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、
国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。
その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。
旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、
心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。
天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。
国のひつきの御役も大切の御役ぞ。”

 これは、“国”の解釈を日本とかアメリカとかイギリスとかロシアとかって思ってしまうと、意味が通じない。
これまでも何回も言うてきているけど、“国”は(囗)(くにがまえ)と“玉(ぎょく)”で構成された字であり“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す。
だから“国”は、自我の確立=固定化の表記でもある、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンより、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)の段階を指し示す表記でもある。
そしてこの文の“国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らす”って言うのんは、人種の違いのことではなく、心(靈)の動きのことをいっている。 それは下のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)から上のチャクラに至るオーラの発振、発信は、赤 橙 黄 緑 青 藍 紫 そして、銀 金 またそれらを縦に貫くクンダリーニの白光(シンクロトロン放射)であり、それぞれが本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を指し示すものであり、また、オーラの色と、今いうた心(靈)の動きの分類は、肉体内のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)に相当するものでもある。
だからこの文の“国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らす”っていうのんは、ひとつの心は、“それぞれ色の違う臣民の(心(靈)の動きに)よりて一つ一つの国(一個体の心(靈))作らす”って事だと思える。
よってこの文は、ちょっと複雑な意味を持つと思える。
それは、人の心(靈)は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)におき、“下”(低い心(靈))から“上”への心(靈)の発現があった。
それは人(日止、霊止)の神格化のプロセスであり、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程でもある。
そして今の人間を見れば脳の目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質)と、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)であることを、前のブログで説明した。 
そして人間は動物と違い、事象を認識する道具としての言葉を使い、人(日止、霊止)の心(靈)の動きについては、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という表現を使うようになった。
また進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い段階の心の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、平均的地求人は、自我の確立=固定化の段階の心(靈)の進化をしているからこそ、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)
で、“われよし”って心(靈)の動きになる。
 そしてその心(靈)の動きは、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させている。 そして恨みの連鎖の霊的干渉はもうかなりひどい現象化が起きているけど、ほとんどの人がそれに気がつかん。
 それは子供の浮遊霊の憑依が多く、憑依されている人が心(靈)を乗っ取られ、幼稚になり、駄々っ子のようになり、目先の快楽を追い求め、自分のあり方を思うって心の動きもないし(智性(神性))、他者と自分たちのよい形のための思い(“慈悲”と“慈愛”)を見失っている。
 ちょっと話がそれているけど、要は、自我までのオーラの色は、赤 橙 黄 緑 青 藍 紫 銀 金 クンダリーニの白光(シンクロトロン放射)のうちの、橙くらいまででもある。 それをこの文では“国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らす”と称されており、そして“その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ”は、その心(靈)の段階、進化程度に応じての認識があり、進化程度に応じての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)がある。 
 そして平均的地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、だからこの世界は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”中心の世界でもあったけど、今後=アセンション後は、そんなことは許されない。 自己奉仕者の世界は必ず壊滅し、それは自分たちの心(靈)の在り方なんだって何回も言うてきているけど、それすら理解できないのは理解できない人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低く、“一”=智性=1番目のオーラを大して持っていないからでもある。
 だからこそアセンションは、人の進化を次の段階に進めるために“創造”の“主(ヌシ)”が計画したことであり、アセンション語の場(フィールド)に移行できうる資格は、智性(“一”、1番目のオーラ)と、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現である。
 また“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、両眼から得た太陽の思惑を含んだ電磁波は、目上(めうえ)の脳内で、電磁誘導を起こし、その電磁誘導は、脳内のたんぱく質の結晶化を起こすものでもある。 それがまた、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意味のひとつでもある。
 その意味で“天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。”って言われていると思える。
 また“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行ッた心(靈)の価値観や思想が、今後=アセンション後の“創造”の要になるっていう意味も持つからこそ“天つ日嗣の実子様が世界中照らす”であり、それは個々の心(靈)が進化しなければならないからこそ“国のひつきの御役も大切の御役”といわれている。
 そうなればこの文の冒頭の“世界丸めて一つの国にする”ってことでもある。
 さらにまた前後するけど“旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。”っていうのは、“旧きものまかりて、また新しくなる”は、今後=アセンション後の事象の変化をさし、“その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国である”っていうのは、“下”(低い心(靈))から“上”の、赤 橙 黄 緑 青 藍 紫 銀 金 クンダリーニの白光(シンクロトロン放射)、それぞれのオーラの発振、発信をさし、だからこそ、“心々(こころこころ)”って称されており、今述べたすべての色をうまくまとめた人の心(靈)は、当然のことながら自己奉仕者ではない。 
それをこの文の“王”で示され、“王”は何回も言うけれど、人の完成された姿であり、“一二三(ひふみ)”のオーラを|(たてぼう、こん、縦の磁性))でつないだ表記であり、“一”=智性=1番目のオーラと、3番目のオーラの間に胸の磁性“十”が示された表記でもあるし、胸の磁性“十”そのものがシンクロトロン放射でもある。
 よって次の文は、人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを、“一二三(ひふみ)”のオーラの概念をまじえて説明されている。 

“道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、
つくりかための終りの仕組ぞ、
終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、
幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。”

 この文の冒頭の“道”は、時間の進行を指し、さらに“三つの道が一つになること”で、“三”=3番目のオーラ、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、“一”=智性=1番目までのことを述べており、それが先ほどの文の“王”に相当する。 そして現時点、“一”=智性=1番目のオーラが小さいのが地球人であるから“みちみつこと”と称されており、“もとの昔に返すのざぞ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が作った事象のことを対象にいわれており、いうまでも無くそれは、今の事象は腐っており、髪の思惑が顕現した世界ではないって言い回しでもある。
 そして神の思惑が顕現するためには、個々の心、この第十一帖の表記なら“国”だけれども、それぞれの心(靈)が天意を受信し、自分の思想と成るのが神格化であり、神格化のプロセスが目上(めうえ)の心(靈)の発現であり、そのために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを、艮(うしとら)の金神の霊団は最初の段階で、黒住教を介して人に教えている(朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)のこと)。
 そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、古事記の表記の“修理固成”(しゅうりこせい)でもあるからこそ“つくりかための終りの仕組”といわれ、それは人(日止、霊止)の“一二三(ひふみ)”のオーラの構成が“王”になり、そうなれば次の段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に移行するからこそ“終りの仕組ぞ、
終は始ぞ”って称され、そして“始は霊(ひ)ぞ、富士、都となる”の、“霊(ひ)”は、“靈”の解字が理解できていないと分からない。

靈の解字


 要は、“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を取り込んで自分の心(靈)と成すことを“始は霊(ひ)ぞ、富士、都となる”といわれており、さらに心(靈)には二つの極性があるから“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ともいわれ、それは自分の心(靈)の中の“都”、自分の心(靈)の中が栄え、繁栄し、豊かになるって言う意味合いのことを言っていると思える。
 
そしてこの文の“幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。”は、外側(外国と幽界)の事象の事象しか観察し得ない自我の確立=固定化の進化過程(マニピューラチャクラまでの覚醒段階)では、次の段階=アセンション後の場(フィールド)に移行できないことを言っている。 だからそれは、自分の外側(外国と幽界)の事象を見て自分を振り返る=自省する、自分の心(靈)の動きを観察することが、腹から“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それがまた“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”と称されているし、それをしなければ自分の心=“国”は、外側(外国と幽界)の事象の事象の観察しか出来ない上での低い価値観しか持ち得ないことを言っていると思われる。
 それでここまでのことを踏まえて、次の文を読むとよく分かる。

“神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、
その光によりて その御役、位、分るのざから、
みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、”

 現時点より高い振動を取り込んだ心(靈)が創造する世界=事象が、今後=アセンション後の事象でもあるからこそ、“神の国光りて目あけて見れんことになる”であり、“神の国”は言い換えれば“上”からの荷電粒子を取り込んだ個々の心(靈)=“国”であり、そして人も霊的成長を果たしているからこそ“臣民の身体からも光が出る”のであり、また今後=アセンション後に移行できる進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の心(靈)が行う“観察と認識”は、現時点の地球人が見ている振動とは違い、物質以上の振動をなんなく観察するからこそ“その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となる”って言われており、オーラっていうのは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもあるから、何も語らなくても、何かを証明することも要らず、他者の心(靈)の動きや進化の段階は分かってしまう世界になり、当然そこには“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きである、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事が無くなる。 
当たり前でんねん。

 ほんでから次の文は、第十一帖の纏め(まとめ)みたいなものでもある。

“今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、
手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、
み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。”

 文明は良いカタチにならんとアカンけど、そこには“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観や思想ではだめで、だから“上”からの振動を揶揄して言っている感があるけど“たま入れていよいよ光りて来る”ってことにならんとアカン。 そうなれば自分たちが観察しうる事象は、すべて“手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなる”となるのであり、さらに“上”からの荷電粒子をこの文では“み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光である”と称されていると思える。
 そやからそれは今後=アセンション後の場(フィールド)に位置でき得る人は、“日月神示”表記の“天詞様”にならんとアカンし、それがまた“王”であり、そのための具体的な方法が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、そして自分たちが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から脱却するのは、自分の心(靈)の“上”と“下”(低い心(靈))を見出す自己観察の意味の、“身魂掃除”“身魂洗濯”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十二帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この道は道なき道ざぞ。
天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、
日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れて呉れよ、
この道は ローレンツ力ぞ、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の中に ローレンツ力 入れて呉れと申してあろうが。
臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、
入れて呉れよ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を掃除して居らぬとローレンツ力 はいらんぞ、
今度の戦はローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の掃除ぞと申してあらうがな、
まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、
この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、
人集めて呉れるなと申してあらうがな。
世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。
この道でみな生き返るのざぞ。
天明 阿房になりて呉れよ、我(が)すてて呉れよ、神かかるのに苦しいぞ。
九月二十三日、一二 ○ ローレンツ力


 この地つ巻 第十二帖は、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)という解釈と、ローレンツ力 =肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力って言う解釈ができないと正確に読み取れないと思える。
 そして冒頭の文の“この道”っていうのは、地つ巻 第十一帖の“道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ”と同義のことと思われるので、そこで解釈したことを、以下にコピペしときまんねん。 
                            ↓

“道”は、時間の進行を指し、さらに“三つの道が一つになること”で、“三”=3番目のオーラ、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、“一”=智性=1番目までのことを述べており、それが先ほどの文の“王”に相当する。 そして現時点、“一”=智性=1番目のオーラが小さいのが地球人であるから“みちみつこと”と称されており……。

                         ↑ 引用終わり。

今、引用した、地つ巻 第十一帖の“みちみつ”について、補足説明をすれば、人(日止、霊止)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、現時点、腹=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン=3番目のオーラから、そのエネルギーが(大日如来の条帛(じょうはく)のように)上昇し、同時に心の動きも自我の確立=固定化、自我の肥大から、“慈悲”と“慈愛”、胸の磁性“十”に移行するのが霊的成長の順番であり、そして目上(めうえ)の脳、大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)で、智性(“一”、1番目のオーラ)を発現するのが、神格化のプロセスでもある。
 そして“日月神示”で謳われている“身魂磨き”は、“行”と“修行”による生体内電流の強化であり、その結果が肉体組織の結晶化であり(たんぱく質の高分子化でもあり)、またそれは、“石”(帯電するミネラル)の結晶化でもあり、とくにそれは頭と背骨と尾骨で構成された縦の磁束の強化になりえるから、ローレンツ力の強化になる。
そうなれば、“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との反応は、違ってくるし、同時に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在も、肉体の結晶化に応じてだんだん違ってくる。
またそうならねば、自分の思想は“上”の思惑を取り込んだものになりえない。
そして人(日止、霊止)が肉体を持って進化する意義は、3番目のオーラの拡大から2番目のオーラに変換され、また2番目のオーラが“一”=智性=1番目のオーラに高振動化する。 それは肉体の“下”のエネルギーを“上”に変換する作業でもあり、なぜそうなるのかは、肉体が縦に三つ並んだ内容物の違うコンデンサーの構造を持っているからでもある。 
そのコンデンサーは、腹→胸→頭であり、それぞれの肉体の部分々々の強化が、縦の磁束の強化につながり、だから肉体のどの部分の強化=どんな種類の“行”をするのかによって、肉体各部分にあるチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化にもなるし、それが“行”の意義である。
また多くの宗教が伝えている“行”は、いろいろあるけれど、それぞれの“行”が肉体のどの部分の強化になるのかを考えれば、それによる“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が理解できる。
たとえば断食は、腹中心の“行”であり、滝行は、全身の筋肉の強化中心であり、当然断食や滝行を行う場(フィールド)に存在する比較的高い霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)もあるけれど、肉体の強化としては、大体、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの強化になる。
また下三つのチャクラと、その心(靈)の発現のことを“日月神示”では“江戸と尾張”、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、あるいは“ふんどししめて”って表記になっていると思われる。
(“日月神示”にたびたび出てくる表記の“ふんどし”は、腹に巻く部分が荷電粒子の回転を示し、帯の部分がへそから下の縦の磁束を示すから、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラのことだと思える)
しかし“上”のチャクラを強化するためには、“下”のチャクラの強化がなければ、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなるためには必要。 
だから、進化の順番を考え、“上”の存在はいきなり太陽凝視を人に教えなかったのだと確信する。
それは地球人の霊的進化程度に応じて、さまざまな“行”が示されてきたとも言いうるし、今、アセンションに向けて少しでも次の段階に移行させるべき“上”の思惑が、黒住教を通じて朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、そしてその後、人(日止、霊止)に垂れられた“日月神示”では、“ひつく”“日津久”、太陽凝視を“行”として行うことを教えたと思われる。
よって肉体組織の結晶化は、ひとことで言えば“身魂磨き”ではあるけれど、どの部分の強化=結晶化なのかを知るべきであり、それは分かりやすいから今までヨガのチャクラを引用してきたし、チャクラそのものが車輪とか回転とかの意味を持つことが、肉体の持つ縦の磁束、頭から背骨、尾骨にいたる電磁石によるローレンツ力で、“上”との荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の心(靈)は発現するものである。
今説明したことを踏まえ、本文の解釈に入りまんねん。

 まず、冒頭の文。

“この道は道なき道ざぞ。
天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、
日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れて呉れよ、”

 最初の言葉の“道なき道ざぞ”は、自分が真摯に求めないと“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は進化の道筋、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を教えないってことを言うている。
 そして“上”が、人(日止、霊止)の霊的成長のために一部の教祖に憑依して出来上がったはずの宗教は、“天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど”と、“日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻”ってことになっていて、それは“役員づら”の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人たちが、宗教を利用しているからでもあるけれど、話がそれるので今回はこのことに触れず、ただ大事なのは“この道入れて生きかへる”と、“この道でたま入れて呉れ”って言葉であって、いうまでもなくそれは、本当の霊的成長を見出してくれってことでんねん。

ほんでから次の文。

“この道は ローレンツ力ぞ、
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の中に ローレンツ力入れて呉れと申してあろうが。
臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、
入れて呉れよ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を掃除して居らぬと ローレンツ力はいらんぞ、
今度の戦は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の掃除ぞと申してあらうがな、”

 この文の ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力 は、先ほど説明したとおり。
 そしてこの文では“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を掃除して居らぬと ローレンツ力はいらん”っていわれていて、それは自分の心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の在り方を指摘しているのであって、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあり、自分の心(靈)の“上”と“下”、言い換えれば“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の動きを自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)しなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は通信を送れないって事でもある。
 
 その意味で次の文。

“まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、
この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、
人集めて呉れるなと申してあらうがな。”
 
 この文の表記の“調和(まつり)”は、“上”の思惑を取り込んで事象の創造をしたならばっていう意味合いのことであり、“上”は、“創造”の“主(ヌシ)”は、人(日止、霊止)に良いカタチの事象の“創造”を望んでいるからこそ、“日月神示”では“うれしうれし”“大歓喜”と感じ(感じる磁性)られる事象になるっていわれている。  “まつり”については、画像を貼っておきまんねん。
“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い 

 そして“調和(まつり)”は、“上”の憑依と、“上”の通信を受け自分の思想にすることありきの表記であり、それは逆を考えると分かりやすいけど、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の通信を受けている人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の心(靈)の動きは三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもあるからこそ、目先の欲望と金銭欲と形骸の名誉と…etc. そんなものばかりに自分の心(靈)は支配され、それさえ自分で気がつかないのが“身魂掃除”“身魂洗濯”できていない心(靈)でもある。
 だからそんな人が“上”からの通信を受け作られた価値のある何かを知れば、ただ自分の利益のためにしか利用しない。
 それが“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))でもある。
 だからこそこの文で“この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めて呉れるなと申してあらうがな。”って言われており、この内容のことはこれまでの“日月神示”解釈の中でも何回も言われている。
 またこれは、霊的成長はきわめて個人的な作業であることも示唆している。

 ほんでから次の文。

“世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。
この道でみな生き返るのざぞ。
天明 阿房になりて呉れよ、我(が)すてて呉れよ、神かかるのに苦しいぞ。”

 すべての事象には、“上”と“下”しかなく、生命の存在の意義は霊的成長でしかなく、その意味で“世界の臣民みな信者”って言われており、さらに“この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ”っていうのは、自分たちが観測しうる=反応しうる電磁波、たとえば可視光線は、高振動(振動数と波長)になれば、明るい(日と月)光と観測しうる=光と感じるものであることを、神格化のプロセス目上(めうえ)と目下(めした)で説明した。
 要は、自分の心(靈)を構成している荷電粒子よりも高いものであるならば、それは、光と観測しうるものである。
 それを自分に取り込まなければ“この道でみな生き返る”ってことになりえない。
 何を指し示しているのか説明はいらん。
 そしてこの文の最後の“天明 阿房になりて呉れよ、我(が)すてて呉れよ、神かかるのに苦しいぞ”は、岡本天明が霊媒体質であるからこそ、自我を捨てきらないと“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はかかりにくいって言い回しでもある。
 ことに霊媒体質は自我の肥大に陥りやすく、自分は特別な人間だと思いたいとか神から選ばれた人間だとかの錯覚を起こすものでもあるし、そう発想することそのものが“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の憑依でもあり、通信を受けていることでもある。
 そしてそれは、“日月神示”春の巻にでてくる“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”でもあるけれど、ちょっと先走るのでこれについての引用はここまでにしときまんねん。

 ほんでから、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)という解釈と、 ローレンツ力=肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力って言う解釈で、今まで、
上つ巻 第三十二帖 
下つ巻 第九帖
下つ巻 第二十一帖
を、読み解いてきたから、そこも参考にしてくださいでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ、
青いものは紫にうつるぞ。
今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ、
眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。
上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。
上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、
けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。
九月二十三日、一二 ローレンツ力と ○

 この第十三帖を一読して思うのは、ものの見方、社会観、自然観、人間観、自分の在り方、そして価値観、幸福の概念の“上”と“下”…言葉にすると沢山の言い回しがあるけれど、要は、現津(あきつ)、観察され得る事象の認識には、霊的成長度の程度により認識の違いがあるってことでもあり、そしてよいカタチの事象の“創造”のためには、きちんとした自分なりの基準を持たねばならないってことを強調して言っていると思えるし、その基準そのものは、霊的成長度により高低があり、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけば、だんだんその基準は高いものになり、“上”に認められるものになる。
そしてそれは○○○大先生流の言い回しならば、天の御目(あめのおめ)でもあり、またその基準を心(靈)に持つには、霊的成長し=右往左往と左往右往を体験して自省(胸の磁性“十”の“行”)をして、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をして、智性(神性)(一、1番目のオーラ)を獲得する意味での、“日月神示”表記の“天詞様”にならねばならず、さらにそれは、天意を受ける=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなければならないって事でもある。
 その意味で冒頭の文。

“赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ、
青いものは紫にうつるぞ。
今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ、
眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。”

 この文の“赤い”や“青い”、そして“紫にうつる”は、先に述べたようにものの見方や価値判断などを指している。
 さらに“相手が白いときばかり”っていう言い回しは、白い相手などいないってことを揶揄(やゆ)した言い方に感じられるし、ことにこの文の言い回しの“白い”は、全くの善とか、穢れていないとかの意味だと思われるし、そんな存在は居てへんってことやろ。
 そやからまず、“赤”にかんして、それは、人の心(靈)が育っていく過程では、七つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)が、“下”(低い心(靈))から強化され、そのエネルギーは上昇するものであるし、ムラダーラチャクラの発振、発信は、赤が主体でもある。 
また、ムラダーラチャクラは、本能って心(靈)の発現でもある。 だから人間が可視光線として観察しうる“色”っていうのは、波長が長ければ赤く見え、波長が短ければ紫に見えるし、このことは、太陽凝視を行っている鍼灸師の話<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした)の最後の項目で説明した。 
さらにその項目では、赤方偏移と青方偏移についても少し説明した。
 だからこそ“赤い眼鏡かければ赤く見える”、これは人間の心(靈)が本能化するのか、あるいは、霊的成長して、相対的に今、自分が持っている心(靈)の動きより“上”の心(靈)を発現するのかの意味を指し示すものでもある。 
よってこの言葉の意味は、観察しうる対象に対し、赤く感じるっていうのは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であると述べていると思われるし、自分のものの見方が低ければ=霊的成長度の低い心(靈)には、貴いものでも赤くうつるって言い回しにも聞こえる。 
そやからそれは、今活躍している“役員づら”の人たちのことを考えてしまう。
何回も言うたことでもあるけれど、アセンションのために“上”から“下”に垂れられた情報など、それは宗教や霊的成長や“日月神示”やS会=紫光会の交霊会でもそうなのだけれど、それらをただ甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉に変えてしまい、人を引き付ける言葉だけ引用したりして、それで商売をして自分たちの欲望を満たしている人、そして自分の低い功名心と自尊心を満たしている=自我の肥大の心(靈)の動きが現れている人がいる。 
そういう類の人が、本当の貴さを見出していないのは、ただ自分の欲望のために利用するという低い心(靈)の動きがあり、それは智性(神性)が足らんとも言いうるし、またそれは、自分の心(靈)の本能化でもあり、結果、多くの人に本当の認識を与えない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあり、だから今、言葉だけもてあそんでいる人たちは多すぎるし、それはどんなに言葉で霊的成長を説いたかのように見えても、どんなにアセンションの情報を説いたとしても、どんなに宗教の言葉で感謝を説いたりしても、それは単なる騙しにしかならないのだからこそ“上”に認められず、そんな人はアセンション落第組でもあるけれど、大半の人は(霊的成長度が低いから)そのことに気がついていない。
 アセンション後の場(フィールド)に移行出来うる(霊的な)資格は、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)できる人であり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をよく思う人であり、だから“われよし”って表記のように自分の欲望のために使うのは、ただ自我の肥大の段階であり、それは霊的成長度が低すぎるから、次の段階の“創造”に参加できない。
 だからこそこの文では、“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味と同義である言い回しの“眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ”って言われており、そして認識の程度=霊的成長度の程度、自分の心(靈)の発現と動きの程度により、なんでも、ものの見方は違うって言い回しのことを“今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ”って言われている。
 要は、貴いものを利用してはいかんし、貴いものの中に貴さを見出すってこと、それは、自分の在り方を見出す指標にするべきでもあるけれど、そんなものの見方ができる人は、人生でかなり失敗したりして=左往右往して、自省(胸の磁性“十”)出来ている人しか思えないことでもあるのだけれど、相対的にそんな人は少ない。 
こんなことを指摘していくと、また“事象の形骸化”のようなことを述べていかんならんから、これくらいにして、次の文。

“上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。
上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、
けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。”

 これも少し揶揄(やゆ)した言い方であり、この文の“上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならん”っていうのは、自分の心(靈)の発現には“上”と“下”があり、それは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性であり、ヨガならムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、そしてアナハタチャクラ、さらに、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、それぞれの心(靈)の発現と心(靈)の動きでもあるし、“下”から“上”のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)は、“上”から注がれる荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指し示すものでもある。
水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官

 要は、自分の心(靈)には“上”と“下”があるってことでもあるし、“下”の心(靈)ばかりだとケダモノのような人であり、だからといって智性って心(靈)の動きだけでは、事象の“創造”が出来ない。
 だから高い智性(“一”、1番目のオーラ)を持った“創造”の“主(ヌシ)”は、人に物質の段階の振動を持つ肉体を、与え、物質の世界=三次元の“創造”を託していると思われるし、物質の神道の世界をよい形に変えていくのが人(日止、霊止)の氏名でもあると思われる。
 だからこそ自分の心(靈)には“上”と“下”があり、それをよく自分で見極め=“身魂掃除”“身魂洗濯”して、それは第十三帖の言い回しなら“眼鏡はづすに限る”でもあり、
自分自身が、観察の基準、認識の基準をしっかり持ち=天の御目(あめのおめ)を獲得し=“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるならば、“上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致す”ってことになり、ことにこの文の“けもの”は、本当の獣(けもの)のことではなく、自分の心(靈)の中の“下”の部分、本能、情動、功名心、自我までのことを指していると思われる。 
それは、人が、動物から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)してきた。 その低い心(靈)の動きも、人(日止、霊止)が肉体を持ったまま、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるのには必要でもあり、だからこそさっきも言うたけど、人(日止、霊止)は心(靈)と肉体を持っており、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるからこそ、日を止める、靈を止める意味で“日止、霊止”でもある。 そやから霊を止めるっていう意味を知ってもらうため、靈の解字の画像を貼っておきまんねん。
 
靈の解字

 さらに日(太陽)を止める意味の“日止”について述べれば、“日月神示”表記の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことは、目で太陽の思惑=太陽光線と可視光線以上の電磁波を受け止め、目上(めうえ)の脳で電磁誘導を起こし、その電磁誘導は、BDNF(脳由来神経栄養因子(のうゆらいしんけいえいよういんし))の新生になりうると考えられ=脳内の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、結果として“一”=智性=1番目のオーラの大きさになっていくものである。 そして自分が持っている“一”=智性=1番目のオーラの小さい人、あるいは自分の持っている智性(神性)を自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせない人は、アセンション落第組でもある。 さらにこの文の“新(あら)の世に致す”は、いうまでもなくアセンション後のことでもあるし、今、ニセの情報が多いからこそ=“役員づら”が活躍しているからこそ、“取り違へするなよ”と、あえて言われていると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十四帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。
どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。
神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。
この道はきびしき行(みち)ざから楽な道なのぞ。
上にも下(しも)にも花さく世になるのざぞ、後悔は要らぬのざぞ。
カミは見通しでないとカミでないぞ、今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。
赤児になれよ、ごもく捨てよ、その日その時から顔まで変るのざぞ、
神烈しく結構な世となりたぞ。
九月二十三日、ひつくのか三。

この第十四帖は、“カミ”の解釈がきちんと出来てないと読み解けんと思う。 それは前に、上つ巻の第一帖で“カミ”って表記が出てきたから、以下のように解釈した。
上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈から抜粋して引用しまんねん。


“カミ”の“カ”は、“力”(ちから)みたいに、丿部(へつぶ)と“一”、ほんでから“一”の右端から“下”に降り、そして左上にはねる。
“ミ”は、向かって左から右斜め下に降りて止める書き方。 これは前にKellyさんが気が付いた事やねん。 それも前に先生と話をしたやん。 それは以下の通りでんねん。
(“上”の思惑と顕現…“天の御目” 参照)
“ミチ”って言うのんは、三つのオーラが向かって左から右下に降りてるのが“ミ”。 それは又、思惑の顕現みたいな感じでんな。 ほんでからに“チ”って言うのんは、丿部(へつぶ)+“一”+丿部(へつぶ)。 神さんの思惑と顕現が二つ重なって、それに“一”=智性=1番目のオーラが加わってる。そう言う風にも見えまんな。  
前のブログからの引用終わり。
そやからカタカナで書かれてる“カミ”は、“上”の振動を取り込んだ人で、それは三つのオーラが左上から右下に下降する。 日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)“下”に現象化して、事象の創造をして行く。 それは神の思惑を取り込んだ様子って事でんねん。

                                               ↑
上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈からの引用終わり。 
そやから“日月神示”表記の“カミ”は、神さんから見て、“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)っていう意味の表記やと、今回の地つ巻 第十四帖を読んで改めて思う。
それを踏まえて冒頭の文。

“この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。
どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。”

この文の表記の“神の御用”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化であり、それが人(日止、霊止)の使命であり、生命の存在の意義でもある。
 また“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記が、古神道の“日止、霊止”、それは、日を止める=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、もうひとつ、“上”からの振動、“一”(亜から出ずる、アイ)が“下”(低い心(靈))に垂れた表記が“メグリ”(帀)であり、その部首を使った漢字の靈、それを止めるっていう表記でもある。 今まで何回も説明してきたことでんねん。
 そやから神さんは人に何を託しているのか。 どんな事象を“創造”して欲しいのか。 その思惑があるからこそ、今、間違った方向に向かっている大多数の人に宗教を通じて人の在り方を説き、チャネラーを使ったり、肉体を伴った比較的地球人に近い宇宙人とコンタクトさせたりもした。
しかそそれらは、地球人の平均的霊的成長度がマニピューラチャクラまでやから、霊媒の憑依現象、それはT霊媒=竹内満朋の物理霊媒の現象や岡本天明の自動書記でもそうやけど、人の肉体を乗っ取ったカタチでのメッセージの伝え方しか出来なかった。
また霊媒の憑依現象は、低い霊的存在が入り込むことがとても多い。 それはその霊媒体質の人の心(靈)の動きによるものでもある。 低い功名心と自尊心で自分の現象を見ていると、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないで、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振するものでもある。
 そしてそのメッセージの“上”と“下”を見出せないで、ただ利用している自己奉仕者の人間がとても多い。 何回も言うけどそれは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかない。
 そやからほとんどの人が分かっていないから“この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ”ってあえて言われてて、それは裏を返せば、ほとんどの人が生命の“道理”、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を分かっていないってことでもある。

 その意味を強調した言い回しが次の文。

“神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。”

 いうまでも無くこの文の“稲荷(いなり)下げや狐つき”は、低級な動物霊の憑依により、操られたり利用されたりする現象で、それは今とても多くなったと思う。 例えばハイヤーセルフとか、内在何々とか、テレビに出ていた自称霊能力者とか、それらの特徴は、自分も自分以外も、低い功名心と自尊心で、ただ言葉に酔うだけでしかない。
それは、低級な霊的存在が人を操るときによく使う手はパターンがあり、ただありがたそうな言葉で人を酔わせ、煽てあげて低い功名心と自尊心を高揚させ、それは結果として自我の肥大にしかならないし、何回も言うてきているように自我の肥大は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)の霊的成長段階の人が、右往左往の段階の“行”をして、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているのでもあり、またそんな人に限って自分は特別な存在だとか、神のメッセージを受けているのだとか、神の御用をしているのだとか、勝手に錯覚して、何の“行”もしていないケースが多く、それは言い換えれば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていない人が多いし、それ以前に自我の肥大は自分の心(靈)の観察がぜんぜん足らず、“身魂掃除”“身魂洗濯”になっていない。
そしてその類の人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、単なる金儲け(動物霊の人間に対する憧れ)と、形骸の名誉(動物霊の縄張り意識)を獲得しようとする心(靈)の動きでしかないことに、多くの人は気づいていない。 それは、大半の人は、ただありがたそうなもの、現世利益とか、何にも頑張らんと不思議な現象がおきるファンタジーのような甘い(亜、魔、出ずる、泉)ものしか求めていないからでもある。
話を戻し、“身魂掃除”“身魂洗濯”は、自分が自分を見るときには、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が必要であるってことを次の文で言っている。

“この道はきびしき行(みち)ざから楽な道なのぞ。
上にも下(しも)にも花さく世になるのざぞ、後悔は要らぬのざぞ。”

 この文の“きびしき行(みち)”、これをよく考えなければ、この文の表記の“上にも下(しも)にも花さく世になる”っていう今後=アセンション後の事象を観察する資格を得られないって言い回しでもある。 資格はいうまでも無く、智性(“一”、1番目のオーラ)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現。

 ほんでから次の文は、冒頭で説明した“カミ”(“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、“上”の思惑を取り込んだ人)のことを言っている。

“カミは見通しでないとカミでないぞ、今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。
赤児になれよ、ごもく捨てよ、その日その時から顔まで変るのざぞ、
神烈しく結構な世となりたぞ。”

 そやからこの文では“カミ”=“上”の思惑を取り込もうとしている人が、“身魂掃除”“身魂洗濯”や“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化や、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが、何も分かっていないからこそ、“見通しでないとカミでない”って言われ、さらに、“見通しどころか目ふさいでゐる”とすら言われている。
 そやから人(日止、霊止)が“上”との感応共振をして“天詞様”になっていかねばならないのだけれど、低い霊的成長度の段階では、霊媒の憑依現象でメッセージを伝えるしか方法が無かったとも言いうる。
 しかしそれは間違えることが多い。 
だから“稲荷(いなり)下げや狐つき”ってことが多く、また、これまで数回引用してきた春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”っていう文と、同様の意味合いのことでもある。
そしてこの文の“蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。”は、そんなことでは次の段階に進めないっていう事を揶揄(やゆ)した“日月神示”によく出てくる表記であり、次の文の“赤児になれよ、ごもく捨てよ”って言い回しも、自分が自我の肥大をしているってことを分かるには、心(靈)が裸にならねばならないってことを揶揄(やゆ)した言い回しでもあると思える。
 ほんでから最後の“神烈しく結構な世となりた”は、今、自己奉仕者の行いや心の動きはどんどんバレている。 これは“神の咎め”であり、ローム太霊の言葉を引用すれば、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。
 そしてそれは霊的成長の道筋であり、それを“日月神示”では“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。
臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。
七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てん詞様が世界みそなはすのざぞ。
世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。
九月の二十三日、ひつ九のか三。

まず、冒頭の文。

“神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。”

 この文は、地つ巻 第十四帖と、上つ巻 第一帖などの表記の“カミ”(“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、“上”の思惑を取り込んだ人)が出てくる文章でもあり、そしてこの文の言い回しは、“神の国の役員”には、判っていないって言い回しがされていて、“役員”って表記は、今後=アセンション後の事象の“創造”を託されている人であることは間違いない。
 だからそれは、“役員”=今後=アセンション後の“創造”を託されている人、あるいは今後=アセンション後の指導者的立場の人、その人たちが真に霊的成長=神格化と、今後のよいカタチの想像のための心の在り方を判ったならば“バタバタに埒(らち)つく”っていわれてて、この文の“埒(らち)つくなれど”は、埒が明かないって言い回しに対しての表記っていえば分かりやすかもしれへん。
 この“埒(らち)”は、いろいろ調べると、馬場の周囲に巡らした柵とか、 物の周囲、仕切りとして設けた柵、物事の区切りっていう意味がある。
 そしてこの文の“埒(らち)つくなれど”は、埒が明かないって言い回しに対しての表記だから、霊的成長度における場(フィールド)の違い、それはアセンション後の霊的に高い地球と、今の自己奉仕者(平均的地球人の心(靈))が活躍する地球、その違いのようなものだと思われる。
 そして“学や智恵が邪魔してなかなかに判らん”って言い回しは、愛(炁)の顕現の程度っていうのんは、言い換えれば(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、知識や知恵を沢山得れば奉仕者になるとか、そういう心になるっていうものではない。 自我の肥大した人は、自分のためにしか知恵と知識を使わないものや。
(注 この地つ巻 十五帖の文には、知恵ではなく、智恵って表記がなされているけれど、前後の文を見る限り、○○○大先生が使う智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)っていう意味だとは思えない)
 だからこそ“学や智恵が邪魔してなかなかに判らん”は、たとえば“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の、アセンションの情報を引用しただけの本を書き、印税を儲けている人とかが多すぎる。 
 …まあエエわ。
そやから話を戻し、神さんに認められる人の行いは、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”(この事象に対する奉仕)であり、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が取れる霊的成長度は、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持った人でもあるし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするを繰り返して、自省(胸の磁性“十”)した人でもある。 人は成長したならば、そうなるもんでんねん。

ほんでから次の文は、“日月神示”に多いちょっと揶揄(やゆ)した言い回し。

“臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。”

 この文の“臣民物言はなくなる”は、“役員づら”が如何に自分たちの知恵と知識を行使して程度の低い情報を流布したとしても、そんなものは何の役にも多端って言うことをいっていると思える。 そしてそうなったときが“この世の終り近づいた時ぞ”であり、いうまでも無く“この世”は、今の自己奉仕者が活躍している事象。 それは終わらんならんってことでしかない。 
 それを強調している文が“神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。”で、程度の低い地球人がいろんな国を作り、自分たちの利益や権利を主張するから=自我の肥大した自己奉仕者だから、経済が発展したり飢餓貧困が起きたり戦争が起きたりする。
 しかしそれは地球全体が霊的に低いからでもあり、またそれ自体が低い砌(みぎり)の行でもあり、それはローム太霊の言い回しなら右往左往の右往の段階でもある。
 そやからそれは自我の肥大による縄張り意識でもあるし、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きの顕現でもある。 そやから、自国とか他国とかって認識を持っているような人間は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者にはなりえない。
 それを意味した言い回しが“みなが神の国ぞ”で、縄張り意識を誇示するような人間、そしてさっき指摘した“役員づら”、ただ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を誤っているから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
 さらに今言うたことを強調したのが次の文。

“七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てん詞様が世界みそなはすのざぞ。”

 今後=アセンション後は、今よりも霊的成長を求める人が構成するから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をする“天詞様”が“世界みそなはす”ってことになり、そこには今のような権力者とか支配者とかの概念は無い。 ただ霊的に“上”と“下”があり、それは身分でも階級でもないし、みなが神の子であり、みなが神格化を目指すっていう意味でもあるからこそ、今の地球のように権力を示す縄張り意識を持った支配者が沢山いる事象ではないからこそ“七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさす”って言われている。

 ほんでから次の文。

“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。”

 この“罪負ひておはします素盞雄の大神様”は、素盞雄(すさのお)は、古事記では
伊耶那岐命が黄泉の国から帰り、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行い、要は神産みの話なんやけど、その際最後に産まれたのが、左の目を洗うと天照大御神(太陽、日足(ひたり))が生まれた。右の目を洗うと月読命(月、砌(みぎり))が生まれた。
そして鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が生まれたとされている。
さらに日本書紀では、伊耶那岐命(男、日足(ひたり)の極性)と、伊耶那美命(女、砌(みぎり)の極性)の間に産まれたとされている。
そやからこの文の“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神”は、一人の神を指し示す表記ではなく、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性をもったものであり、そしてその極性の傾きが罪を作ったりもする。 それは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあると思える。
さらに日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の傾きは、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
そうやって心は“上”に向かい、現時点の平均的地球人の心(靈)の発現の自我より“上”の心(靈)、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”を発現する。
それが霊的成長の順番でもあるし、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の傾きが(肉体における)霊的成長の仕組みでもあるし、現時点、地球人が低い進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だからこそ、低い砌(みぎり)の行をしており、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることそのものが、この文の“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神”って言葉に示されていると思える。 そしてそのことに気がつかない人が大多数=地球人の霊的成長度は低すぎるからこそ“盲つんばばかりと申してもあまりでないか”って言われている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。
それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、
こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。
うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。
世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。
この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。
九月二十三日、ひつ九のか三。

 まず、冒頭の文。

“神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。
それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、”

 この文の“臣民の心の中に宝いけておいた”は、前のブログとこのブログを読んでいる人には説明はいらんと思うけど、念のために、宝の意味は、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であり、宀(うかんむり、頭の意味)と“玉(ぎょく)”の合わさった字であり、“玉(ぎょく)”は、自省(胸の磁性“十”)して腹のエネルギーが“上”に上がる様子を示した表記であり、だから霊的成長を果した人を天(“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止))の白い(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射))王(“一二三(ひふみ)”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))と古来から日本では呼称してきたと思われる。
 それで霊的成長、言い換えれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは、(脊椎動物として)心(靈)の発現に順番がある。 
現時点の平均的地求人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化であり、“日月神示”表記ならそれは、“江戸と尾張”で、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンと述べてきた。
 その段階の進化過程は自我の肥大に陥りやすく、しかし自我が肥大した人ほど自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や心(靈)の動きが、悪だと思わないし、多少思ったとしても認めようとしない。 この文で述べられている“悪にまけて汚して仕まう”は、その意味のことを言っているし、それは内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動きでもあり、いうなれば目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)でもある。 だから“上”は“神の咎め”としてバチを当てて自省(胸の磁性“十”)させたりもする。
 そしてこの文では、自己奉仕者特有の欲望は、なんでも自分の欲望の達成のために利用するし、その欲望の象徴が(通貨としての)金でもあるからこそ、“一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか”って言われている。
 でもそれは、右往左往から左往右往、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)として仕方が無いって言い方もされていて、それが“それはまだよいのぞ”であり、いずれバチが当たって自省するけど、それまでは右往左往の右往=低い砌(みぎり)の“行”をせんならんものであり、自分がやってきたことが低いことであり、自己奉仕者の行いであることを自覚するためには、低いことでもやらんならん。 しかし今後=アセンション後の地球はそんなことは許されん。 
その理由は、言うまでも無く恨みの連鎖の霊的干渉を無くするためでもある。
 …と、それはおいといて、この文の“神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、”は、今、形骸の宗教でのし上がった人とか、アセンションの情報を引用して金儲けした人とか、薄っぺらい感謝を多用して人をひきつけて本やDVDを出したりした人とか、例を挙げるときりがないけど、これらすべて自我の肥大って心(靈)の動きによることであり、これまで何回も言うてきたとおりそれは、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。
 またほとんどの地球人の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が、自我の確立=固定化の段階だからこそ、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢やニセの情報を信じ込む人が多い。 だからこそ今後=アセンション後に移行でき得る心(靈)の人は、少ないって事でもある。
 また、自我の肥大した人は、自分がやっていることがなんとなくおかしいとか、悪の行為だとか、自己奉仕者の行いだとかって少し思ったとしても、さっき述べたとおり自分で認めようとしないからこそ、この文では“犬猫は正直でよい”とすら言われている。

 ほんでから次の文も、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、“役員づら”の人に対して言われている。

“こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。”

 あえて解釈する必要は無い。

ほんでから次の文。

“うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。
世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。”

 やってきたことの結果は自分が被るもの、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”って何回もいうてきたけど、そのとおりになるものでもあるし、それはアセンションという事象が、キリスト教でいうところの“最後の審判”でもある。
 要はローム太霊の言葉の左往右往であり、自省(胸の磁性“十”)しなければ自分たちは霊的成長の順番である自我から“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現にならんから言われている。 そしてこの文の“時節”は、あえていうまでも無く、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、人(日止、霊止)によい世界を作って欲しいからこそ、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、分けられるって事でもある。 
さらにこの文の後半は因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”の事象が“世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ”って述べられている。

 そして次の文。

“この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。”

 “腹に入れて”は、自分自身の自我を自我と認識して、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す。 さらに自分の心(靈)は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)していてはいけない。
 言うまでも無く“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)すれば、自分の心(靈)の動きは、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きになる。 だから低い霊的存在を増やす恨みの連鎖の霊的干渉は、食い止めなければならないのだけれど、もう手遅れやな…悲しいことやけど。
話を戻し、自分の心(靈)の“上”と“下”、それを見出すのが智性(“一”、1番目のオーラ)由来の自己観察、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味であり、自我の肥大した人が増大させているのが、恨みの連鎖の霊的干渉であるから、それはこの文で“病”と称されていて、それは対外的には低い悪霊の憑依もあるけれど、その悪霊の憑依で現象化する理由は、自分の心(靈)の動きにも原因がある。 
要は“どういうつもり”でこの事象において存在していくのかが大事である。
 そして今、大半の人が自省(胸の磁性“十”)していないし、“身魂掃除”“身魂洗濯”出来ていないともいいうる。 
だから人は甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を追いかけ、神に現世利益しか求めないし、似非(えせ)スピリチュアルが横行し、アセンションに甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を抱いたり、ひどいのは金儲けの材料にしかしていない。
 全く悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であるけれど、それに気づいている人はほとんどいない。 
 だからそんな心(靈)の人は、この文では“フニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになる”と、そして“神の入れものわやにしてゐる”って言われている。
 そやからこの第十六帖は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)を自分に見出して、“身魂掃除”“身魂洗濯”して=自分の心(靈)の“上”と“下”を見出して、霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出せよってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ、
悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。
日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけて居りて呉れよ、
一時は敵となるのざから、ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ。
今は日本の国となりて居りても、神の元の国でないところもあるのざから、雛型見てよく腹に入れておいて下されよ、後悔間に合はんぞ。
九月二十三日、ひつ九のか三。


まず、冒頭の文。

“まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ、
悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。”

 これは相対的な善悪を言っているに過ぎない。 今の地球人は、霊的成長度による善悪の概念が違いすぎる。 
それは、霊的成長度の低い自己奉仕者は、自我の肥大をしているから、自分たちの行いを“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認めないってことでもある。
だからそれは、今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”などいない世界になるし、人(日止、霊止)は霊的成長すれば、自己奉仕者の心を自分に許さないものでもある。
その視点を持たなければならないからこそ、この文では“まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ”と言われており、さらに今現在は、低い砌(みぎり)の“行”中心の自己奉仕者が活躍する世界だからこそ“悪の大将は光り輝いてゐる”と言われ、一見すると常識を守っている人のように思われているからこそ“悪人はおとなしく見えるもの”と称されている。
しかし、今後=アセンション後に向かいつつある今現在、今までの価値基準やこれまでの経済繁栄の仕組みは崩壊していく。 
それは、地球全体が“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かいつつあるための現象であり、それを自己奉仕者の人が感じることとしては、ローム太霊の言葉の意味のひとつ、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということでもある。
だからこそ、経済大国の人が体験している現状の甘い生活は崩れ、自分たちは失敗を体験し、その失敗そのものが自分たちの心(靈)の“創造”によるものであることを知るからこそ、この文の冒頭の“まことの善は悪に似てゐる”のでもあり、そして今、形骸の価値観や幸福感に酔いしれている人間には“まことの悪は善に似てゐる”と言われているだけや。

ほんでから次の文は、今説明した、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、自省(胸の磁性“十”)していくことを述べた文だと思える。


“日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけて居りて呉れよ、
一時は敵となるのざから、ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ。”

 自分が人生において失敗を体験する理由は、自分の心(靈)の動きが低いからでもあり、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いからこそ教訓を得るためでもある。 またそれをしていかないと、よい事象の“創造”は出来ないものでもある。
それが左往右往の左往=自省(胸の磁性“十”)して憂い、右往=教訓を得て失敗の体験をかてとしてよいカタチの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとる。
そうしていかなければ、この世界=現津(あきつ)、観察され得る事象は、よくならない。
その意味のことを言っていると思え、だから今、日本は失敗を繰り返している=左往右往をしている。 それは霊的成長の“理(ミチ)”(法則性)であり、また“道”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番)でもある。
またこの文の中の“日本の国は世界の雛形”は、“雛形”の解釈が重要であり、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は自分たちの心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されるものでもある。
そして右翼傾向の人がよく間違える“日本の国”っていうのんは、日=太陽、本=自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、人(日止、霊止)の在るべき心(靈)のカタチ、それは神道の言葉の本津宮でもある。
これだけでは説明が足らんから、以前紹介した画像、そのうちの“日本”のところをよく見て欲しいねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやからこの文の“日本の国は世界の雛形”は、自分たちの心(靈)の成長において現津(あきつ)、観察され得る事象が出来上がっていくという意味があり、そしてこの文の“一時は敵となる”は、自我の肥大した人が自我より“上”の心の動きを自分を害するものだと思い込んだりするっていう意味としかとれない。
だからこそ“雛形でないところは真の神の国でない”=自省(胸の磁性“十”)の心(靈)((囗)くにがまえに“玉(ぎょく)”)を持っている人の現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”でなければ、“神の国”ではない。
それを“よほど気つけて居りて呉れよ”“ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ”って言われている。

ほんでから次の文。

“今は日本の国となりて居りても、神の元の国でないところもあるのざから、雛型見てよく腹に入れておいて下されよ、後悔間に合はんぞ。”

 これも、いまこの国が“日本”と呼ばれていても、“神の元の国でない”って言われていて、言うまでもなくそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”が活躍する国だからでもある。
 だからこそさっき解釈した“日本の国は世界の雛形”を忘れず、“雛型見てよく腹に入れておいて下され”って言われており、それは、自省(胸の磁性“十”)し、“身魂掃除”“身魂洗濯”して、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しておけってことでもあるし、アセンションは(宇宙の進化による)タイムスケジュールがあるから、“後悔間に合はんぞ”ってことでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十八帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。
臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、
与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、
神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。
政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。
腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、
ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。
神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。
神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。
飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、
自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、
神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。
しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。
神の申すこと取り違ひせぬ様にして呉れよ。
よくこの神示(ふで)よんで呉れよ、元の二八基(じゃき)光理(こり)てわいて出た現空(あく)の種は二八基(じゃき)と大老智(おろち)と世通足(よつあし)となって、二八基には仁本の角、大老智は八ツ頭、八ツ尾、四通足(よつあし)は金母であるから気つけておくぞ。
世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐるから、守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。
九月二十三日、あのひつ九のか三。


 冒頭の文にあえて解釈はいらへん。

“われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。”

 これはいうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘しており、次の文も自己奉仕者=自我の肥大では、ダメな“創造”なのだって言っているし、ダメな“創造”に対し、神の思惑の顕現した事象は、天意を受信できる“日止、霊止”でなければならないことを言っているのが次の文でもある。

“臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、
与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、
神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。”

 この文の“神のやり方は日の光”、それは“上”の思惑=“上”からの荷電粒子を、自らの肉体の磁性により止め、そして溜めて(肉体が持つコンデンサーの性質)自分の心として発振、発信する。
それが“畐”でもあり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもあり、発信された自分の心(靈)の動きそのものがオーラでもある。
そして今まで解釈してきた天意を受信して自分の思想にする人、それは“日月神示”では“天詞様”って表現がなされている。
それを指し示す言葉が“臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のこと”で、言うまでもなく今後=アセンション後の事象は“上下まつろひ合はす”=“上”の思惑を自分の思想にして(“日止、霊止”)、そして事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする。 そうなっていくのが現時点の地球人よりも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人(日止、霊止)であると言いうる。
 だからこの文の“臣民のソロバンで政治や経済してはならん”は、金の亡者、金の奴隷、金さえ得られれば幸せであるとかの価値観、そんな心(靈)の動きを持っている(霊的進化程度の低い)自己奉仕者に言われていることでしかない。
 そしてそれはちゃんと“上”は観ているという意味で“日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ”って言われている。
そして、冒頭の文の“神のやり方は日の光”、これに対し“いくらあかりつけても夜は夜ぞ”は、自己奉仕者の人がいくら巧みな言葉で目先の幸福感を強調したとしても、あるいは、経済の繁栄が幸福だって強調しても、これらのことをこの文では“いくらあかりつけても”って称されており、そやからそんなものは神さんの思惑ではないって言い方でもある。
 そして何回もくどいほど言うてきているけど、物欲と(通貨としての)金、目先の快楽、そんなものがすばらしいと思っている人間、それは、S会=紫光会で引用された霊的成長の段階を示す、三蔵法師、孫悟空、砂(沙)悟浄、そして一番程度が低い心(靈)の段階を、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)。
 そやから、今、活躍している人の大多数は、八戒の心(靈)の動きにほんの少し知恵が加わって(知恵や知識、学問を追求し始める段階が砂(沙)悟浄、このことについては、ローム太霊との出会い に書いてあります)、その知恵を利用して人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかに使い、結果として自分だけの利益とする。
 そんな人はいくら口で巧い(うまい、たくみ)こと言うたとしても、“与へる政治がまことの政治”なんてことにはなっていない。(ほんでから与えると返ってくるって言うのんは、前のブログから何回も言うてきたことなんやけど、最近、まるでそれをパクったような本も発売されている。 そやけどそれは、本当の意味での正当な報酬=因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”を知らんようで、ただ人を引き付ける甘いことだけ書いてある。 恨みの連鎖の霊的干渉も、自分に降りかかる因縁も、すべての不幸や災厄、これらは自分たちの心(靈)の動きによるものであることを知らへん) 
そしてそれは、この間からアップしている農業好きの社長婦人、K地M美はんとKellyさんとが話しているローム太霊講話集の中の言葉“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”に相当するものでもある。

そして次の文も、自己奉仕者の心(靈)の動きを指摘している。

“政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。
腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、
ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。”

 自分たちにとって良いことだろうが不幸なことだろうが、それらすべて自分たちの霊的成長のための事象であり、だからこそこの文では“政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではない”って言われており、さっき述べたとおりすべての事象は自分たちの進化のためであるという意味の言い回しが“まつりごと”であり、この意味は“上”との感応共振でしかない。
そやから進化程度の低い心(靈)は今、自己奉仕者で、それは物欲と(通貨としての)金に対する執着と、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)=本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)、それが中心の心(靈)でもあるし、またそれはチャクラの発達の段階でいえば、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラまでである。 またその段階では、自我の肥大って事が起きる。 そして自我の肥大した人の事象の“創造”は、低い砌(みぎり)の“行”であり、ローム太霊の言葉の右往左往でもある。
 だからそれは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無く、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)由来の低い霊的存在と感応共振する。
だから人(日止、霊止)が今より相対的に“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)すると、すべての事象の“観察と認識”は、自分たちの霊的成長のためであることが理解できるからこそ、“神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。”と、そして“腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、”ってことにもなるやろけど、現時点、平均的地球人の進化程度はこれが簡単に理解できる段階ではない。
そやからこの文の“いくら頭がえらい”っていうのんは、知恵をうまく使っていない=自己奉仕者の利益の追求のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使していないってこと。 そして、大体、この文で指摘されているとおり“神の臣民、魂と肉体の別ない”すら解らず、自分たちは生きている間だけが=肉体を持っている機関だけがすべてだっていう認識の人は圧倒的多数。 
そやから程度の低い心(靈)の人は、生きている間だけがすべてって前提で物事を考えるから、今、自分が楽しんで得をしなければ損だって発想をする。
だから“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分の利益のためにしか使わないものでもある。 
またこの文では、今、自己奉仕者の“創造”の極みであるけれど、それをよく観察しておくことは今後の自分たちの認識の拡大になる。 その意味でこの文では“ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならん”っていわれていると思える。
そやから自己奉仕者としての“力”、知識と知恵、程度の低い心(靈)が政治と経済とを自分たちの都合よく使い分けていることであったとしても、それは、自分たちの心が観察しうる事象の一端でしかない。
もう一度いうけど、すべての事象は自分たちの認識の拡大のために“観察と認識”をする。 そして自分たちの霊的成長度が高ければ、物欲や(通貨としての)金、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)に執着はしないものだけれども、低い霊的成長度の人はそれらがすべてみたいなものでもある。

そして次の文。

“神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。
神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。
飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、
自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、
神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。
しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。”

 冒頭の“神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。”
これは、“上”の思惑を取り込むことを言っている。 だけれどもそれは、自分たちの心(靈)の在り方と、霊的成長を目指す“行”=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必要でもあるからこそ“六ヶしい”=むつかしいってことでもある。
 そして今、“役員づら”の人たちが活躍しているからこそ、本当のことが見出されないって言う意味で“神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ”って言われており、自分たちが何の苦労もしないで楽に生き、たとえばただ感謝だけ念じていれば自分たちは救われるとか幸福であるとかって謳っているのは、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であり、そんなことでは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にならん。
 “行”=“身魂磨き”は、自分が苦痛を感じなければ生体内電流の強化にはならん。 そして自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無ければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は無い。
 そやから自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人は、目先の困難を試練と思わず、こんな風に思うのやろな=“悪の顔した神ある”。
 ほんでから、人は連綿と続き、いつか神格化するものであり、その進化過程が低いから今いろんなことが起きているし、それは霊的成長度において分ける作業としてのアセンションに伴う事象でもある。
そやからその意味で“自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。”って言われているけれど、低いものは低いし、そやからそれは間に合わんけど、いつか神格化するっていう意味のことでもある。
 ほんでから次の文。

“神の申すこと取り違ひせぬ様にして呉れよ。
よくこの神示(ふで)よんで呉れよ、元の二八基(じゃき)光理(こり)てわいて出た現空(あく)の種は二八基(じゃき)と大老智(おろち)と世通足(よつあし)となって、二八基には仁本の角、大老智は八ツ頭、八ツ尾、四通足(よつあし)は金母であるから気つけておくぞ。
世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐるから、守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。”

 この文の“元の二八基(じゃき)”、これは、“元”は、肉体=“二”と、時間の進行と進化を指し示す儿部(じんぶ、にんにょう)。
“八”は、“富士(二二)”と同義、それは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
“基”は、そのままの意味。
“光理(こり)”は、“光”は“上”からの荷電粒子の可視光線の範囲。 “日止、霊止”って言う表記の日の光のこと。 
“理”は、“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性。
“現空(あく)”は、現津(あきつ)、観察され得る事象、事象を“空”と称されている。
“大老智(おろち)”の“大”は、自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)、儿部(じんぶ、にんにょう)(時間の進行と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味)。
“老”は、土(肉体)と左が重なった表記、肉体を持った人(日止、霊止)が老いて“上”の思惑を理解できるようになった様。
“智”は、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の智。
“世通足(よつあし)”の“世”は、現津(あきつ)、観察され得る事象。 “通”と“足”は、時間の進行のことやろから、自分の心が顕現することってことやろ。
そやからこの文は、肉体を持った人(日止、霊止)が進化していくのは、ウエの思惑を取り込んで成長していく意味での“元の二八基(じゃき)光理(こり)”って事なんやけど、そこには程度の低い“創造”から始まるからこそ“空(あく)の種”って事に無り、それは最初は失敗であり、だから自省(胸の磁性“十”)して左往右往して“大老智(おろち)”になり、それは智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を知ったって事でもある。
ほんでから“二八基には仁本の角”の“仁”と“本”は、生き方としての“仁”であり、“本”は、本津宮の本、自分の在るべき姿、神の子として在るべき姿。
“大老智は八ツ頭、八ツ尾”って言うのは、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)にかかることとしてとしか考えられん。 そやから八戒を戒める心(靈)は、“八ツ頭”であり、祖やけど欲望がないとこの世界の“創造”はできないから“八ツ尾”であり、この“尾”は、腹の磁性を示す表記の“江戸と尾張”と同義だと思える。
 “四通足(よつあし)は金母である”は、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信の意味、“通”“足“葉さっき解釈したとおり。
そやからこの言葉の“金母”は、(通貨としての)金のことではなく、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊であると思える。
 そやからそれは、人間は四足獣から直立して、手を使うようになってきた。 それに伴い目上(めうえ)の脳が進化してきた。 それは人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使でもあるし、手を使うことそのものがアナハタチャクラの覚醒の初期でもある。 だから人間は自省(胸の磁性“十”)の心を持つようにもなった。
 それは進化の道筋=“日月神示”表記なら“道理”であり、その意味は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 そしてこの文の最後の“世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐる”は、“世”は現津(あきつ)、観察され得る事象をさすってさっき解釈したとおり。
 そやから今説明した霊的成長を示す表記の“四通足(よつあし)は金母である”とは違うっていうことでもある。
 そやからそれは、地つ巻 第一帖の表記の“実言(みこと)”の“実”を使っての言い回しが“世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐる”って事でもあり、人(日止、霊止)の存在意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、今、騙されて雰囲気に酔っ払っているだけの人が多いから、本当のことを見出せよっていう意味で“守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。”って言われている。
 そやからそれは形骸の宗教、そして似非スピリチュアルや、薄っぺらい感謝を売り物にするとか、尊い偉業をなしえた霊能力者を利用して、ただ引用しただけの人とか、それらすべて自己奉仕者であり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかないってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十九帖 Kellyさん的解釈

 今回も、地つ巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、
神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、
月光、総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、
神、仏、耶ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠(とわ)、
富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。
九月二十四日、一二 ローレンツ力と ○ ふみ。

第十九帖は短いけど、一つ一つが意味深い。 述べられているそれぞれの意味に於いて、分けて解釈しまんねん。

“世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、
神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、
月光、総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、”

この“世成り”は当然の事ながら“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”にかかる言葉。そして、“日止、霊止”って言う古神道の表記の内の、日の光を止める。 それは“一”=智性=1番目のオーラの強化であることを何回も述べてきているけど、そうなったならば、“皆みち足り”ている“世成り”ってことになり、“一”=智性=1番目のオーラの大きい人は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想とする。
アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成


 またそれが“日月神示”表記の“天詞様”でもある。 
よってアセンションは、霊的成長度において心(靈)の行き先が違い、それぞれの霊的成長度において観察しうる事象の相違となる。 
そして霊的成長度において分けられると感じうるのが、恨みの連鎖の霊的観照の結果としての、さまざまな災厄、戦争とか天災とか、わけの分からん犯罪とかいろいろでもあるけれど、みなそれぞれの心(靈)の成長度と心(靈)の在り方においておきると感じる=事象として観察するものであることを何回も言うてきている。
そやけど、自我の確立=固定化の段階、自我の肥大、“石屋の仕組み”、“江戸と尾張”、これらはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの発達の段階であり、それは霊的に低いから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きになり、そして恨みの連鎖の霊的干渉を増大させてきた。 しかしそんな世界は、この文の“神国”とは言われへんし、当然アセンション後の事象はそんなものではない。
それはこの文に、“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”が、日足(ひたり)のことを述べられ、そして“神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、月光、総てはみち、結び出づ”これは砌(みぎり)のことを述べているからでもある。
 神の極性は、日足(ひたり)と砌(みぎり)、それは太陽と月に象徴され、実際に太陽と月から送られてくるエネルギーが、S会=紫光会の経文、四空経録に書かれてあるとおり“日心月物”。
 だからそれは古事記の表記のように伊耶那美(いざなみ)(女)が伊耶那岐(いざなぎ)(男)よりも先に声をかけた=砌(みぎり)の極性のほうが強まったから、失敗をしたってことでもあり、よいカタチの事象の“創造”は日足(ひたり)の極性(思惑)が先に立ち、それから砌(みぎり)(事象への顕現)の極性の顕現をするのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるし、それを示した表記が“結び出づ”だと思われる。

 次の文。

“一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、”

 “一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、霊的成長を指し示した表記が“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。 
そして左右の磁性は“富士(二二)”でもあることを述べてきた。
 次に“三四五(みよいづ)”。 これは、よいカタチの事象の“創造”は、1番目、2番目、3番目のオーラを指し示した表記の“三”によるものでもある。
また“三”、これは“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体であり、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”、天地人っていう意味を持つものでもある。 そやからそれは神さんと自分と地球でもある。
 そして“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”でもある。 “五”は、糸巻きの象形文字、それは神経が密になったさまであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した肉体でもある。
 そして“五六七(みろく)”は、“五”は今解説したとおり。 “六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。 “上”と“下”の関係である神と人(日止、霊止)、その両者のことでもある。 そして“七”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記でもある“一”(亜から出ずる、アイ)に、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。 そやから神の思惑を顕現する様子でもあるし、それは“天詞様”であり、本当の意味での天皇、天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)の白い(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射))“王”(人の完成、三つのオーラに|(たてぼう、こん、縦の磁性))でもある。
 そしてそれは弥栄(いやさか)に示され、弥栄(いやさか)=彌栄(いやさか)は、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)であるって解釈をしてきた。
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


“日止、霊止”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、縦の磁性=背骨によるローレンツ力、それは荷電粒子の回転で、“上”から注がれる普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を自分に止める。
 だから日の光を止め=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、靈を止めるって表記が、古神道で使われているのだと確信する。
靈の解字

 次の文。

“神、仏、耶ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠(とわ)、
富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。

“神、仏、耶”それぞれの宗教はあるけれど(“耶”は、耶蘇、キリスト教のこと)、霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は一本道であり、それぞれに分けているのは“役員づら”の人間の都合でしかない。
 だから今後=アセンション後は、一本道になるからこそ“太道ひらく永遠(とわ)”って称されている。
 そして“富士は晴れたり”については、以前紹介した画像で以下に示すこととする。
“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやからこの第十九帖は、太陽と月、心(靈)と物質を伴った事象、思惑と顕現、日足と砌(ひたりとみぎり)、また言い方を変えれば“創造”の“主(ヌシ)”と人(日止、霊止)、それは“上”と“下”。 これらのことを指し示した文であり、また人(日止、霊止)にとっての太陽と月は、どういうものなのかすら示している。
 今後=アセンション後、人がこのことを理解したならば“太神は光り出づ、神国のはじめ”ってことになり、それは“神国のはじめ”=アセンション後の現津(あきつ)、観察され得る事象は、“うれしうれし”“大歓喜”の事象になるからでもあり、それは神の“思惑の顕現”=現象化であり、それを担っているのが、霊的成長をある程度果たした、人(日止、霊止)って事でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界に変りたこと出来たら、それは神々様の渡られる橋ぞ。
本清めねば末は清まらんぞ、根絶ちて葉しげらんぞ、
元の田根(たね)が大切ざぞ、種はもとから択(よ)り分けてあるのざぞ、
ぜんぶり苦(にが)いぞ。
九月の二十四日、ひつ九のか三。

 とても短い文なんやけど、人の心の在り方、姿勢って言うたら分かりやすいかな。 それと“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことも言うている。
 冒頭の“世界に変りたこと出来たら、それは神々様の渡られる橋ぞ”は、ここ数年いろんなことがおきだしているけど、それらはすべてアセンションに伴うことであり、分かりやすいから引用するけど、それは、キリスト教でいうところの“最後の審判”でもあるし、また、それには不幸な事象が多いけど、多くの人が自省(胸の磁性“十”)するためのものでもある。
 そやからそれはローム太霊の言葉の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもあり、それをせんと、よいカタチの事象の“創造”ができない。
 そして当然のことながら、よいカタチの事象の“創造”をするには、今より相対的に“上”の霊的存在と感応共振する。 
それが“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そやからこの文で“神々様の渡られる橋”って言い方がされていて、“上”は“下”にわたってくるのが当然、それは“日月神示”の中の文でも“神烈しく(はげしく)”なんて言い回しがされている。
 そやから今現在の自己奉仕者が活躍する世界は、“神烈しく(はげしく)”でもないってことで、ほとんどの人が低い霊的存在と感応共振している=同じような心(靈)の動きをしている。
 その心(靈)の動きは言うまでもないことやけど、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)であり、貪は、むさぼる。本能由来の行動、瞋は、目をむいて感情をあらわにする、痴は、白痴の意味。認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らない、今そんな人ばかりになっている感があるけれど、全体がそんなふうだからほとんどの人たちが自分たちの心(靈)の動きが低いなんて自覚がない。
 だから自分の心(靈)の動きを観察し、自覚せよっていう意味で、“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”=心(靈)の動きの“上”と“下”を見出せよって事が何回も言われている。
 そして心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))は、事象の“創造”にかかわること=“思惑の顕現”=現象化だからこそ、この文では“本清めねば末は清まらんぞ、根絶ちて葉しげらんぞ、”って言われている。 
そしてこの文の“本清めねば”は、本津宮の“本”でもあるやろ。 それは自分の在り方を見出せっていう意味で、今までたびたび説明してきたけど、自分がどう存在していくべきなのかを見出せよっていう意味の神道の言葉でもあるし、“富士は晴れたり日本晴れ”の“本”でもあるやろ。
ほんでから“元の田根(たね)が大切ざぞ、種はもとから択(よ)り分けてあるのざぞ”の“元”は、“二”=肉体と儿部(じんぶ、にんにょう)、そやから人間が時間の進行を認識していく=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくさまを言っている。
ほんでからこの文の“田根(たね)”は、意味深で、“田”は、目上(めうえ)の脳、それは、大脳新皮質、“田”心、靈、の四つの場(フィールド)の意味だと思う。
そやからそれは、<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) で述べている通り、目上(めうえ)の心(靈)は目下(めした)の心(靈)の動きを制御するものである。
そやから自己奉仕者の心(靈)の動きは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)主体の動きであり、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性っていう心(靈)の動きの、自我以下でもあり、そして字が中心の心(靈)は自我の肥大を招き、他者を利用したり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の欲望の達成のためにしか使わないって何回も言うてきている。
それは今後=アセンション後の事象に位置できる人の在り方では無い=アセンション落第組でもある。
そやから目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)、その意味で“田根(たね)”って言う表記が使われ、さらにそれは、今後=アセンション後に移行する人は(霊的成長度により)もう決まっているから“種はもとから択(よ)り分けてある”っていわれていると思える。
そして最後の文の“ぜんぶり苦(にが)いぞ”は、薬草のセンブリ(千振、学名Swertia japonica  リンドウ科センブリ属の二年草)に引っ掛けた揶揄(やゆ)した言い方で、今後=アセンション後は、今現在が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の横行している世界=事象なんやけど、それに対し、“善”が当たり前の世界になり、そやから当然、自己奉仕者の悪の行い=欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかは、無くなっていく。 
そやから自己奉仕者にとっては、“苦(にが)いぞ”ってことになり、今現在かて自己奉仕者にとっていろんなことが暴かれたり発覚したりして苦い思いをして、自省(胸の磁性“十”)している人は多い…当たり前や。 それが進化の道筋=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なんやから。
話を戻し、今言うたことを含めて、この文では“ぜんぶり”って言われ、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”を振る、“善”が猛威を振るう=“神激しく”、そして悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無い=三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の存在は肉体を持った人(日止、霊止)だろうが霊的存在であろうが、今後=アセンション後は、いなくなるっていう意味だと確信する。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。
一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。
今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、
あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。
海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。
九月二十五日、ひつ九のか三。

 まず、冒頭の文。 

“神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。”

これは、神の思惑が顕現していない世界が、この第二十一帖の表記なら、“顕界”であり、それは、ローム太霊の言い回し、それは心の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度による事象の観察ということならば、現界、幽界、霊界、神界、のうちの、現界って事であり、だから“顕界”と現界、それは、肉体を持った人(日止、霊止)が観察しうる事象であることを述べている。
 しかし大半の人は“顕界”=現界のことしかわからない。 だからこそ、神さんの思惑を理解していないし、神さんの思惑を学習し自分の認識にするため生きているのだからこそ“顕界”、現界に、心(靈)が位置して、物質世界の事象の“観察と認識”をする。
 そのことがまた、時間の進行に伴う自分の心の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=愛の顕現の程度が増していくようになる過程、それがローム太霊の言葉なら右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることでもある。 
 そうやって自分の心(靈)は霊的成長し、認識を拡大し、自分の思惑をこの世界に顕現する。 
そして、今後=アセンション後は、“上”の思惑を取り込み、自分の思想とした人でなければ事象の“創造”をすることが出来ない。 
これは何回も述べてきたことであり、だから現時点の地球人に対して、あんたらの認識は低いんでっせ~~~って言う言い回しがこの文の“神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分る”ってことであり、そのことが述べられている文であると思う。

 次の文、これは、霊的干渉、憑依現象、ローム太霊講話集にたびたび書かれている背後が力を加えるっていう意味のこと、それはローム太霊講話集の仙人や道士の項目でも触れられているけど、自分がエネルギーを贖い(あがない)、努力すれば、その道に堪能な存在が力を加えてくれるって事でもある。
余談になるけど、○○○大先生がS会=紫光会の交霊会である主護霊会に、二回目に出席したとき、“普通の人間は、一に一足す。 さすれば二である。 霊力を持った人間は、一、二、一、足す。 さすれば四となる。”って言われたことがある。
この先生の“主護霊”はんの言い回しの中の“霊力を持った人間は、一、二、一、足す”の、“”は、自分が努力し、エネルギーを贖い(あがない)、それが“善(神格化の方向性と智性の受信)”の法則性に乗ったものならば、“上”はより力を加え、自分の力以上の結果を、事象に顕すという意味合いのことであり、だから“行”して“霊力”を得よって言われ、そのことを自分の人生の指針とせよって事でもあるんやけど、この意味に近いことが、以下の文に述べられている。

“一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。
今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、
あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。”

 この文の冒頭の“一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れん”と、“神が蔭から守ってゐること分るであらう”は、先生の“主護霊”はんが、先生自身に言うた事と同様の意味。
 そしてこの文で大事なのは“あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのである”で、この文中の“臣民”は、霊的成長度の低い自己奉仕者が自分の価値判断で“あんな者”とか“阿房”とか思ったとしても、それは“上”、神さんに認められているのは、“素直”であって、その素直の意味は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の、自分の得しか考えない心の動きではない。
それを言い換えれば、うまいことやって、人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで儲け、自分の特しか考えないって事ではなく、この事象に対する奉仕って概念をきちんと持っている人は、一見、アホに見えるって事でもある。
 しかしそれが本来の人(日止、霊止)の在り方であり、自分の得しか考えん人間は、今、成功者とかって評価されているけど、そんな者は“上”は認めへんからこそ、アセンションっていう事象で、自己奉仕者の心(靈)の存在と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になるべき資質を持つ心(靈)とは分けられる…と、いうよりも、自分の心(靈)の動きが行き先を決定することでもある。

 ほんでから次の文は、“海”=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、だから自我の肥大した人に、“つなみ”のような災厄が訪れ、自省(胸の磁性“十”)を促すっていう意味かと思うたけど、ちょっと深読みしすぎかも知れんので、アセンションに伴う事象については予告しておくっていう意味だと思うって事にしときまんねん。

“海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。
身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、
ローレンツ力と ○のうつりた人と
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、
ローレンツ力と ○
となるのざぞ、 と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。
どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、
今やめたらまだまだわるくなるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ。
今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、
早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ
お洗濯第一ざぞ。
九月の二十六日、ひつ九のか三。

 ここまで地つ巻を読み解いて思うのは、地つ巻は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している文が多い。 冒頭の文も、同様でんねん。

“われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。”
 
 いうまでもなく、今後=アセンション後の醜い事象に際し、自分だけ命が助かりたいとかの発想をする人は多い。 それは、たとえば某国の核シェルターとか、日本でも、とあるカルト教団が日本が水没すると思い、標高の高い土地ばかり買いあさっていた時期があった。
そしてこれは○○○大先生の本の読者から教えてもらったことやけど、某教団の教祖とその教団の地位の高い人だけ助かるための施設を作るから、教団員からいろんな名目で金を集めているって話も聞いた。 アホでんねん。
そやからこれらは、アセンションは霊的成長度において分けられるっていう認識がなく、ただ物理的に戦争や災厄から逃れれば次の段階に移行できるっていう安易な発想でしかない。
何回も言うてきているけど、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画で、今後の事象を良いカタチにするためのものであり、その事象の“創造”に参加でき得る資格は、霊的成長度、“一”=智性=1番目のオーラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来た人=左往右往した人でなければならない。 
仮に“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が次の世界の創造に参加したなら、今と同様の世界になるし、今の世界が腐っているからこそ、アセンションという事象で人を分けるって事が起きる。
そやから自分たちだけエエ目を見たいなんて人は、今活躍してて、この世界を腐らせたの焼けど、それが神の思惑なのかって事でもあるけれど、霊的成長度の低い人にはそのことが理解できない。
…まあエエわ。

 次の文。

“身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、
ローレンツ力と ○のうつりた人と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、 ローレンツ力と ○となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”

 この文も、

上つ巻 第三十二帖 

下つ巻 第九帖

下つ巻 第二十一帖

地つ巻 第十二帖 


と同様に、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) =霊=○、荷電粒子の場(フィールド)という解釈と、 ローレンツ力=肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力っていう解釈が出来ないと読み解けない。
 脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))、背骨の発現、そして背骨と神経が電磁石の構造を持ち、“上”から注がれる荷電粒子をローレンツ力で取り込み、下等生物から人に進化していく過程で、たんぱく質の高分子化、それと灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) Al(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム))を取り込み、一個体の電気特性は変容し、さらにさまざまな臓器の発現と発達や、手を使い出したことや、目上(めうえ)と目下(めした)の脳の違いが見られるようになり、さらに大脳は右脳と左脳に別れ、これらすべて心の発現にかかわるものでもある。
 そして本能から発現した心(靈)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程において智性と、自省(胸の磁性“十”)の心を持つようになった。
 要は“下”から“上”の心(靈)の発現が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるし、先に述べたとおり進化には、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、 ローレンツ力=肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力がかかわっている。
 ほんでからこの文を読み解くには、地つ巻 第十二帖で解釈したことが分かりやすいと思うから、以下にコピペしときまんねん。

“そしてこの文では“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を掃除して居らぬと ローレンツ力はいらん”っていわれていて、それは自分の心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の在り方を指摘しているのであって、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあり、自分の心(靈)の“上”と“下”、言い換えれば“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の動きを自己観察(“観自在” “直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)しなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は通信を送れないって事でもある。

その意味で次の文。

“まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、
この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、
人集めて呉れるなと申してあらうがな。”
 
 この文の表記の“調和(まつり)”は、“上”の思惑を取り込んで事象の創造をしたならばっていう意味合いのことであり、“上”は、“創造”の“主(ヌシ)”は、人(日止、霊止)に良いカタチの事象の“創造”を望んでいるからこそ、“日月神示”では“うれしうれし”“大歓喜”と感じ(感じる磁性)られる事象になるっていわれている。“まつり”については、画像を貼っておきまんねん。
“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い

 そして“調和(まつり)”は、“上”の憑依と、“上”の通信を受け自分の思想にすることありきの表記であり、それは逆を考えると分かりやすいけど、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の通信を受けている人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の心(靈)の動きは三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもあるからこそ、目先の欲望と金銭欲と形骸の名誉と…etc. そんなものばかりに自分の心(靈)は支配され、それさえ自分で気がつかないのが“身魂掃除”“身魂洗濯”できていない心(靈)でもある。
 だからそんな人が“上”からの通信を受け作られた価値のある何かを知れば、ただ自分の利益のためにしか利用しない。
 それが“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))でもある。
 だからこそこの文で“この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めて呉れるなと申してあらうがな。”って言われており、この内容のことはこれまでの“日月神示”解釈の中でも何回も言われている。
 またこれは、霊的成長はきわめて個人的な作業であることも示唆している。”

  引用終わり。
そやから今述べたことを念頭に置き、この文を解釈すれば、まず“身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、”の“身魂みがけた人”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ている人には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が憑依できる=“神うつる”。 
そやから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、これが無いと高い存在は通信を送れない。 
だからそれは、なぜ“行”するのかの根拠でもある。 ほんでからこのことは、決して今の形骸の宗教の“行”ごっこではない。 
そして“行”に対し、自分の肉体のどの部分の組織が結晶化すると、“上”がかかれるのか、この分析もとても重要であり、それについても地つ巻 第十二帖で述べたから、以下にコピペしときまんねん。

““日月神示”で謳われている“身魂磨き”は、“行”と“修行”による生体内電流の強化であり、その結果が肉体組織の結晶化であり(たんぱく質の高分子化でもあり)、またそれは、“石”(帯電するミネラル)の結晶化でもあり、とくにそれは頭と背骨と尾骨で構成された縦の磁束の強化になりえるから、ローレンツ力の強化になる。
そうなれば、“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との反応は、違ってくるし、同時に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在も、肉体の結晶化に応じてだんだん違ってくる。
またそうならねば、自分の思想は“上”の思惑を取り込んだものになりえない。
そして人(日止、霊止)が肉体を持って進化する意義は、3番目のオーラの拡大から2番目のオーラに変換され、また2番目のオーラが“一”=智性=1番目のオーラに高振動化する。 それは肉体の“下”のエネルギーを“上”に変換する作業でもあり、なぜそうなるのかは、肉体が縦に三つ並んだ内容物の違うコンデンサーの構造を持っているからでもある。 
そのコンデンサーは、腹→胸→頭であり、それぞれの肉体の部分々々の強化が、縦の磁束の強化につながり、だから肉体のどの部分の強化=どんな種類の“行”をするのかによって、肉体各部分にあるチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化にもなるし、それが“行”の意義である。
また多くの宗教が伝えている“行”は、いろいろあるけれど、それぞれの“行”が肉体のどの部分の強化になるのかを考えれば、それによる“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が理解できる。
たとえば断食は、腹中心の“行”であり、滝行は、全身の筋肉の強化中心であり、当然断食や滝行を行う場(フィールド)に存在する比較的高い霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)もあるけれど、肉体の強化としては、大体、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの強化になる。
また下三つのチャクラと、その心(靈)の発現のことを“日月神示”では“江戸と尾張”、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、あるいは“ふんどししめて”って表記になっていると思われる。
(“日月神示”にたびたび出てくる表記の“ふんどし”は、腹に巻く部分が荷電粒子の回転を示し、帯の部分がへそから下の縦の磁束を示すから、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラのことだと思える)
しかし“上”のチャクラを強化するためには、“下”のチャクラの強化がなければ、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなるためには必要。 
だから、進化の順番を考え、“上”の存在はいきなり太陽凝視を人に教えなかったのだと確信する。
それは地球人の霊的進化程度に応じて、さまざまな“行”が示されてきたとも言いうるし、今、アセンションに向けて少しでも次の段階に移行させるべき“上”の思惑が、黒住教を通じて朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、そしてその後、人(日止、霊止)に垂れられた“日月神示”では、“ひつく”“日津久”、太陽凝視を“行”として行うことを教えたと思われる。
よって肉体組織の結晶化は、ひとことで言えば“身魂磨き”ではあるけれど、どの部分の強化=結晶化なのかを知るべきであり、それは分かりやすいから今までヨガのチャクラを引用してきたし、チャクラそのものが車輪とか回転とかの意味を持つことが、肉体の持つ縦の磁束、頭から背骨、尾骨にいたる電磁石によるローレンツ力で、“上”との荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の心(靈)は発現するものである。”

 引用終わり。
そやから“行”して“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してないと、“上”は憑依できないし、“上”がかかることが、祀り、祭り、政(まつりごと)でもある。
さらに“上”がかかり、“上”と思想を共有する人が“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
その意味で次の文。

ローレンツ力と ○のうつりた人とローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがてはローレンツ力 を中にしてローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、 ローレンツ力と ○となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”

この文の“ ローレンツ力と ○のうつりた人と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人との大戦”は、“ ローレンツ力と ○のうつりた人”は、“上”の思惑を取り込める肉体と心(靈)を“行”によって獲得できた人=“天詞様”であり、“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人”は、今とても多い低い憑依現象でいろんなことをのたまわっている“役員づら”の人っていう意味もあるやろけど、もうひとつ深読みして思うのは、やはり自分の心の動きそのものであって、そやからそれは人の心には“上”と“下”があり、“上”がかかれる心の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“ローレンツ力と ○ のうつりた人”で、それは自省(胸の磁性“十”)の心を持ち智性(“一”、1番目のオーラ)が発現できている人、あるいは自分の心を智性(神性)で制御でき得る人、それに対し“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人”は、自分の心の“下”の部分、それは本能、情動、功名心、自我間での心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に、感応共振する霊的存在は今とても多く、大半の人が自己奉仕者である原因でもあるけれど、それはまたなんかいも引用するけれど、春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”でもあるやろ。
そやから今いうた事を要約すれば、人の心の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、当然、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動があり、そやからそれは心(靈)の動きに“上”と“下”があり、“上”の心(靈)の発振、発信には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振があり、“下”(低い心(靈))の心(靈)の発振、発信には、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振がある。 また自分の心の“上”と“下”、それを自分で見極めることが“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるけれど、それを示唆したと思えるのがこの文の中の“
ローレンツ力  と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力 を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。”であると思え、“ ローレンツ力
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とが戦して”っていうのは、自分が“上”に向かう心の動きをしているのか“下”に向かう心(靈)の動きをしているのかってことだと思える。 そやから先ほど述べたように自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に相応する霊的存在は感応共振する。
 自分が霊的成長して良いカタチになり、自分の心の高い部分で思惑を顕現するのが神の望むところだろうから、それには自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“上”と“下”を見出していかねばならないって事を述べていると思える。
 それで今述べたことの意味がこの文の中の“その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、ローレンツ力と ○ となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”で、それは“上”に向かう心の元である ローレンツ力と、自分の心そのものの表記の ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、一体になったのが、 ローレンツ力と ○って表記であり、それは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であるからこそ“ ローレンツ力と のローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)まつり”っていわれてると思う。

 ほんでから次の文、これも“国”の解釈を間違えると読み解けないと思う。

“どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、
今やめたらまだまだわるくなるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ。”

 この文の“国”は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、そやからこの文の“どちらの国も潰れるところまでになる”は、自分の内面、心の中の“上”と“下”、その葛藤をさしていると思え、そやからそれは“身魂掃除”“身魂洗濯”と同義でもある。
 そして自己観察により、自分の内在する悪を見出し、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあるけれど、それは“上”との感応共振に必須の条件でもあるからこそ、“臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまだまだわるくなる”って言われてて、そやから今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人が多すぎるから、こう言われていると思える。
 そしてこの文の最後の“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ”は、今後=アセンション後の事象は、自分の心の動きが顕現する世になるっていう意味。 その意味で“日月神示”では“半霊半物質”と言われ、それは、今の事象よりも思惑が早く顕現するってことでもあり、心の動きが現津(あきつ)、観察され得る事象に表面化するって事でもあるし、それが先生の概念の時空の結晶化でもある。
 その意味で次の文。

“今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、
早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ
お洗濯第一ざぞ。”

 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのは、心(靈)が育つことであり、“上”の心(靈)の発現でもあるし、そうなっていけば神の思惑を顕現して行くべき人(日止、霊止)になるけど、“今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、早う戦すませて呉れと申してゐるが”っていうのは、まだ神の思惑を顕現するほどに成長はしていないってことであり、
そして“身魂掃除”“身魂洗濯”が出来ていないってことでもあり、だからこそ“今 夜明けたら、臣民九分通りなくなる”は、今後=アセンション後に移行できる人は少ないっていう意味であり、“夜明けたら”は、古事記の岩戸開きでもあり、その意味は“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くってことでもあり、それが出来ていないし、その資質を持って欲しいからこそ“身魂掃除”“身魂洗濯”=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”の意味で“お洗濯第一ざぞ”って、あえて言われてると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。
この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。
心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、
世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。
神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。
一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、
一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。 のくれのことを申すのざぞ。
九月の二十八日、ひつ九のか三。


 まず、冒頭の文。

“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。
この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。”

この文の中の“九エたして読みて呉れ”、これは“日月神示”表記の ○ 九 十 の解釈が出来ていないと理解できんと思う。 
○ 九 十(まこと)の解字 

 ほんでからこの“九エ”は、九重(ここのえ、きゅうちょう)を揶揄(やゆ)した言い回しだと思える。 九重っていうのんは、いくえにも重なった様子とか、宮中っていう意味がある。 
 さらに、古神道の太祝詞(ふとのりと)のヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十、この一から十までもそれぞれ意味があり(略してヒトっていう意味でもあり)、それは“日月神示”解釈を始める前に漢数字の解釈をした。
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。参照)
 ほんでから ○ 九 十の“九”は、画像で示したとおり、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)という解釈をしてきているし、この文の“九エ”の“エ”は、1番目、2番目、3番目のオーラの、2番目と3番目のオーラを縦の磁性(|(たてぼう、こん、))でつないだ様子に見えるし、それは、靈っていう字の下の部分に相当する。
靈の解字

 そやから“九エ”は、“創造”の“主(ヌシ)”の最後の生命の“創造”としての“九”、それと、人が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる必須条件としての自我の確立と固定化(自分と自分以外の認識をするため)、そのことを指し示す表記であり、また、“九エ”ここのえは、一から九までが積み重なったという意味もあると思う。
 一から九までの意味は、さっき紹介した、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。を、参照のこと。
 今述べたことを踏まえこの文を解釈すれば“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、”の、“心で読みてくれ”は、読みながら“上”と感応共振して、自分の思想にしてくれって事。
そして“九エたして”は、今述べたとおり、“創造”の“主(ヌシ)”の最後の生命の“創造”である“九”を自分が良く知り、認識し、それを自分の自我に取り込み、自分の思想と行動に活かす=“思惑の顕現”=現象化をしてくれってことでんねん。
 そしてそうなれば“病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。”って言われ、ちょっと揶揄(やゆ)した言い方にも聞こえるけど、“草木”が、“草”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”、それと“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、この二つの字が使ってあるからこそ、太陽で自省(胸の磁性“十”)の心を増していく=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで、自我より“上”の心(靈)の発現=霊的成長する事を示しているとも思われる。
 そやからそれは“青人草”(あおひとくさ)って事を前に解釈して、そのときに草の意味を説明したから、その画像を以下に示しておきまんねん。
“青人草”(あおひとくさ)の解字


 ほんでから“この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。”っていうのは、あえて解釈はいらへんと思うけど、霊的成長は個人的な作業であり、“行”も一人で苦に耐えることであり、認識を獲得するのも自分にしかえられないものであり、何とか教団とか何とか宗教みたいに集団を作れば自我の肥大した自己奉仕者が権力を示して、金儲けの団体にしてしまったりするし、それは霊的成長と反対の方向性であるからこそ“日月神示”では“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)って言い表されていると思うし、この文の“まとゐを作りて呉れるなよ”は、自分が目立って、権力を誇示したり自分だけ認めてくれっていう心(靈)の動きを持つなよって事だと思える。
 参考のために“まとゐ”、まとい、纏のことをWikipediaから以下に引用しまんねん。

纏(まとい)とは、江戸時代に町火消が用いた、自分たちの組であることを示すもの。纏は各組により様々な意匠が凝らしてある。 概ね、上部に組を表す頭があり、馬簾と呼ばれる房飾りがついている。 下部は木の棒になっていて手に持って使う。

そやから“教会のようなものつとめてくれるな”“まとゐを作りて呉れるな”こんなもんで自分たちのことを目立たせようとしている心(靈)の動きは、“役員づら”にもなるし、またそれは、低い功名心と低い自尊心由来の行動でもあるし、言い換えれば目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)=ディスプレイ(動物の発情行動)をしててはアカンってことでんねん。

ほんでから次の文。

“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、
世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。
神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。”
 
 心、声、身体、それぞれ振動の程度は違うけど、善なら“善(神格化の方向性と智性の受信)”、悪なら“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、それぞれの思惑は伝わるもんや。
 そやからそれはどんな息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をせんならんのかって事を思い起こさせる文章でもあるけれど、神の思惑の顕現が生命(生きる使命=存在理由)であり、生命の最後の段階が人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、それは古神道の表記ならば、“上”からの荷電粒子を止めるという意味での“日止、霊止”ってことになるし、それがまた、“日月神示”表記の ○ 九 十 でもある。 そやから、“世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れ”って言うのんは、“日月神示”に書かれている“善(神格化の方向性と智性の受信)”をよく認識して、自分たちの思惑にして、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するのが、神の望む事象であり、自分たちにとっては“うれしうれし”“大歓喜”の事象って事にもなるけれど、自己奉仕者が自分たちの利益のために低い認識の情報を流したり、“日月神示”そのものを引用しただけの本を売ったりして貴いものを腐らせている。 それは何回も言うけれど“役員づら”であるし、役員と故障されるべき霊的資格を持っていない。当たり前や。大して“行”してへんのやから“上”から通信を受けるわけがない。 
そやから今、低すぎる認識が多く、そんなもんに惑わされるからそれは“考へてゐては何も出来ないぞ”“考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか”って言われてて、ただ“上”を信じ、“上”に任せ、自分は自分の心の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出し=天の御目(あめのおめ)の構築をして、ますます“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、“上”の思惑を取り込み、“天詞様”と認められるべき存在となるのが、“日止、霊止”の使命やろ。
 その意味で“神も人も一つであるぞ”って言われてると思えるな。

 ほんでから次の文。

“一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、
一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。ローレンツ力と ○  のくれのことを申すのざぞ。”

 この文の“一”と“九”を使った言い回しの“一九(ひく)れ”は、やはり生命の最後の段階、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現の事でもあるし、そして“九”は、さっきも述べたけど、“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))でもある。
 そして、また重複するけど、○ 九 十 の、“九”でもある。 
 要は、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の最後の段階って事であって、だから“日の暮れ”って言い回しがされてて、古神道の表記である“日止、霊止”のうちの、日を止める、の、完成形が“一九(ひく)れ”でもあるし、“日暮れ”でもあるやろ。 
そやから単なる夕方と間違えたらアカンっていう意味で“一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ”って言われてて、そして“日止、霊止”の完成に至る“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力、その両者が満ち満ちてこそ発振、発信されるオーラは大きくなり、神の思惑を取り込めば高振動化して、そのオーラの相互干渉で事象の創造をしていく=荷電粒子の集合体である心(靈)ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が感じ(感じる磁性)る、言い換えればそれは、すべての生命が行うことの“観察と認識”であり、だからこそそれは、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”ってことにもなる。
そやからそれはさっきの文と前後するけど“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れ”って言われてるし、だからこそ  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、ローレンツ力 ローレンツ力 =“上”に向かう心の動きって思ったらいいし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))によるローレンツ力ローレンツ力 で、“上”からの荷電粒子を一個体の肉体に止めてきたからこそ、生命は神格化の道を歩んでいる。
その意味のことが述べられている文であると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この方 明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであ るぞ。
衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、
神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。
衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。
今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。
悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。
の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。
十月とは十(かみ)の月ぞ、水平磁場 “日月神示”表記の横棒  と 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒 との組みた月ぞ。
九月の二十八日、ひつ九のか三。

冒頭の文。

“この方明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであるぞ。”

 この文の表記、“明神(みょうじん)”は、明るい=日、太陽と月の意味であり、そしてそれは日足(ひたり)と砌(みぎり)でもあると思える。 さらに“神”って表記は、示す偏(へん)に回転を示す“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)でもある。
そして日足と砌(ひたりとみぎり)は“思惑の顕現”=現象化でもあり、“思惑の顕現”は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”でもある。
自分たちの心(靈)が観察し認識し、そしてこの世界に生きていると思っていること事態が、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、自分の荷電粒子の場以外の、電磁波を感じ(感じる磁性)ているから“観察と認識”をするのであって、それは神であろうが下等生物であろうが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在だろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在だろうが、すべての存在に共通する行為でもある。
そやからこの表記の“明神”それは、日と月でもあり、S会=紫光会の経文、四空経録の“日心月物”でもある。
分かりやすい言い方なら日=精神、月=肉体。 そやけどこの言い方はちょっと表現が幼稚に感じるけど、そう思ってもらってもエエやろし、ほんでから“思惑の顕現”=現象化には、自分たちの良いカタチを願うもんや。 そう思うこと、その心の動きが、幸福になりたいとか、喜びたいとか、“日月神示”の表記なら“うれしうれし”“大歓喜”なんやけど、それを実現するには、神さんに近い霊的成長度、言い換えるなら神さんの思惑を自分の思想に出来る心(靈)にならなければならないからこそ、“行”っていう具体的な方法論もある。 さらに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのんは、“日月神示”表記ならば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化になっていかねばならない。 そうならないと“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無い。
その意味で次の文。

“衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、
神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。
衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。”

 この文の“衣(ころも)はくるむもの”、これは肉体=月の事を指し、肉体が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化出来ているなら、“くるむとは、まつらふもの”ってことになる。 あえて言うとけば“まつらふ”は、祀り、祭り、政治の政、“政(まつりごと)”、すべて“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の意味があり、それをこの現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する意味でもある。
そやから“神の衣は人である”は、神の思惑を顕現するのは人の使命であることを指し示し、“汚(けが)れ破れた衣では神はいや”は、心(靈)の動きが“身魂掃除”“身魂洗濯”できていない=自分の心(靈)の動きを智性(“一”、1番目のオーラ)で観察できない人、それはまた、言い方を変えれば、悪霊が憑依する心の動き=三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)、さらに言い換えれば、低い欲望中心の人。
そんな心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“上”は、かかれないし、当然、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)出来ないから、“汚(けが)れ破れた衣”、“衣は何でもよいと申すやうなものではない”って言われている。
そして、次の文も、大体、今述べたことと同様の意味。

“今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。
悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。”
 
 この文は言うまでも無く、今の地球人の大半(“九分九厘の臣民”)、それは、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)と肉体を指し示した言い方である。
 ほんでから次の文は、“思惑の顕現”=現象化ってことを説明している。

ローレンツ力と ○ の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。”

 “ ローレンツ力と ○ の国、霊の国”は、言うまでも無く“上”に向かう心=霊のことで、霊は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) で、“上”との感応共振をするべく縦の磁性の強化は、ローレンツ力 ローレンツ力 の強化になるから ローレンツ力と ○と示してあると思える。
そして、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)であることを何回も言うてきた。 
だから“上”が人に望むのは、“うれしうれし”“大歓喜”の事象の“創造”なんやけど、それをするために、今、地球人の大半は失敗の事象を“創造”している=(ローム太霊の言葉の)右往左往している。
 そして自省(胸の磁性“十”)したなら=“臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらう”、それは自分たちが感じる“うれしうれし”“大歓喜”の事象になり、それが神の“思惑の顕現”=現象化を実現する“日止、霊止”でもある。
 そしてそれは、進化した事象を創造するという生命の使命でもあり、法則性であるからこそ“この道理よく分りたか”と言われ、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 ほんでから次の文は、胸の磁性“十”、それは、縦の磁性と横の磁束=水平磁場のことを言っている。

“十月とは十(かみ)の月ぞ、 水平磁場 “日月神示”表記の横棒縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒との組みた月ぞ。”

 この文の“十(かみ)の月”、これは、“十”と“月”=肉体。
そやから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は、自我の確立=固定化から胸の磁性“十”の発現と強化になり、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心の発現をしていくことでもある。 こんなことは、ほんま、くどいくらい何回も言うてきたことやけど、楽屋落ち方言い方をすればこのブログの管理者の○○○大先生は、“日月神示”にこの表記があることを最近まで知らなかった。 そやから自分の考えと一致する大きな発見やったから【<◎><◎>】こんな顔をしてたようでんねん。
 余談やったけど、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、○○○大先生が“改”で説明している通り、縦の磁性 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒から始まり=脊索が出来、脊椎が出来、さらに、足が出来、手が出来た。 そして手足は指が出来、指は、骨の周りにたくさんのコイルが巻かれ=神経が密になり、電磁石の構造としては、体幹よりも末梢のほうが優れたものになっている。
また、手足と脳が出来ているのは、それぞれが水平磁場を持ち、水平磁場を構成するのは、腹、胸、頭、それぞれが違う性質のコンデンサーだからでもある。
 そしてその水平磁場は、“上”から注がれる荷電粒子を取り込み、自分のもの=自分の心(靈)の動きや思想とする。 
 さらに人間と四足獣の違いは、手の機能の進化でもある。 それはアナハタチャクラの発達であり、胸の磁性“十”であることを何回も言うてきた。
 以下の画像の緑色の楕円の部分にそれが示されている。

“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 

さらに補足として、心の発現の画像も貼っておきまんねん。
人(日止、霊止)の縦と横の電気特性 “一二三”のオーラ

そやからこのことをよく踏まえ“ 水平磁場 “日月神示”表記の横棒縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒との組みた月”。 そして“十(かみ)の月”=霊的成長した心と肉体。 
私たちがアセンション後の事象を“創造”する資格を獲得しようとするならば、この文の意味くらいのことは、すぐ分かるようにならんとアカン。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

新しくその日その日の生まれ来るのぞ、
三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、
時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。
今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。
何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、
この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。
何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。旧の八月の十一日、ひつ九のか三。

冒頭の文。

“新しくその日その日の生まれ来るのぞ、
三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、
時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。”

 あえて指摘することも無いけれど、私たちが現実と認識している事象は、時間の進行に支配されている。 それがこの文の“新しくその日その日の生まれ来る”であり、それは時間の進行を認識しているのは、自分たちの心(靈)なんやけど、その認識があるからこそ、進化ってことを、判り、解り、分かるものでもある。
 そして、先生が思う進化は、霊的成長と神格化への道程でもある。 
ほんでからこの文の“三日”“十日”は、太陽=日と、“三”と“十”が書かれてる。
今まで説明してきたとおり“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体やろし、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つでもある。 そして“十”は、胸の磁性“十”、それはシンクロトロン放射の構造でもある。
そやから、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を分かり、認識し始めたなら、今いうた“三”と、“十”と、太陽=日をよく理解して、時間の進行とともに“上”の荷電粒子を止める意味での“日止、霊止”になる。 そのために艮(うしとら)の金神は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えようとしたし、その意味のことを述べていると思われる。
そして“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、それをこの文では“時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことある”って称されていると思える。
ほんでから次の文。

“今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。
何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、
この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。
何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。”

 この文の“八月十一どの”は、肉体が持つ左右(日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“富士(二二)”)が“八”、そして肉体を意味する“月”、さらに、胸の磁性“十”を示す“十”と、“一”=智性=1番目のオーラ。 これを忘れるな=“拝みて呉れ”ってことやろし、ほんでから“二十八日どの”は、肉体=“二”、“十”は胸の磁性“十”(“慈悲”と“慈愛”の心(靈))とシンクロトロン放射と、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義。 それに太陽を示す“日”をつけてあり、“どの”って称されている表記。
 ほんでからこの文の“何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。 何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、”って言うのんは、やはり時間の進行のことであり、アセンションの時期であり、時期を深く解釈すれば、今までも以下のように言うてきた。
“時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある”って。
そやから“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、その重要性を認識させようという言い回しであると思える。 そして“炒豆(いりまめ)にも花咲く”って言い回しは、ちょっと揶揄(やゆ)した言い方でもあるけれど、一見、花が咲きそうにない=今活躍していないなにかが、本当の何かであるって言い回し。
そしてこの文の最後の“草物いふぞ”の“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”であり、それはアセンション語の事象の“創造”を担える霊的成長の秘密でもあるし、“青人草”(あおひとくさ)の“草”であることを言うておきまんねん。 以下に、“青人草”(あおひとくさ)の解字の画像を貼っておきまんねん。
“青人草”(あおひとくさ)の解字


今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、
今 御用ある臣民と、明日 御用ある臣民とあるのざぞ、
二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。
十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。
旧八月の十二日、ひつ九のか三。


この、第二十六帖は、第二十五帖と同様に、第二十四帖の“衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。”にかかる文章だと思える。 
それは第二十四帖の解釈で述べたとおり、“衣(ころも)”=肉体であり、心(靈)が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の発振、発信ならば=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ならば、“上”はかかれない。 それは当たり前のことやし、今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行かんならんのは、時間の進行に伴う“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、だから“日月神示”では“上”との感応共振をする人(日止、霊止)という意味の、“天詞様”と述べられているし、そうなるためには、自分の心(靈)を自分の智性(神性)で観る=自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する。 その意味の表記が“身魂掃除”“身魂洗濯”。 そして肉体組織の結晶化は、困難に立ち向かい、困難を試練として、生体内電流の増幅をして、それが“行”の意味と意義であり、それを“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と称している。 
そして事象の“創造”っていうのは、自分たちの“思惑の顕現”=現象化であり、心(靈)の動きが大事であり、かかってくる霊的存在=通信を受けたりすること、思想を共有する事が大事でもある。 
また、自分の思惑が、今より早く顕現する事象になることが時空の結晶化でもある。 さらに“日月神示”では、今の事象よりも相対的な表記として、“半霊半物質”(今の事象よりも思惑が早く顕現する)という言い回しもしている。
ちょっと余談になったけど、まず冒頭の文。

“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、”
 
 これは揶揄(やゆ)した言い回しであると思える。 この文の“雨の日”は、人(日止、霊止)が背負っている因縁とか、それ以外にも(霊的なものの見方が出来ないから理由の分からない)災厄とか、不幸と感じる事象とか、それらはすべて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であるけれど、それを“雨の日”と称されていると思える。 
前のブログで述べた事やけど、恨みの連鎖の霊的干渉を背負ったなら、それに立ち向かい、逃げず、恨みの連鎖の霊的干渉にかかわっている霊的存在の自省(胸の磁性“十”)を促すのが、一番根本的な解決であり、それは恨みの連鎖の霊的干渉を背負っている人間と、背負わせている霊的存在、その両者の霊的成長になる。 しかし、今の人間は、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心(靈)の動きをするものが多いから、すぐ逃げるとか忘れようとするとかする。 
また苦難や試練を、忘れられたり逃げられた事を、癒されたなんて解釈をする人が大半でもある。 
 そんな人間を騙す形骸の宗教や、自称霊能力者、あなたの不幸を救いましょう、除霊、浄化しましょう、お祓いしましょうみたいな詐欺は、とても多いし、騙すほうも騙されているほうも、霊的な事柄に対する認識はとても低いとしか言いようが無い。
 またまた余談やったけど、この文の“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬ”は、恨みの連鎖の霊的干渉がなくなる事象を“晴れたら要らぬ”と称され、いうまでも無くそれは、自省(胸の磁性“十”)を果たした人が“創造”する、今後=アセンション後の事象。
 そして“その時その時の御用ある”は、恨みの連鎖の霊的干渉で背負った因縁とかを自分たちが解決する。 
このことも、今、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”となっている地球を何とかすることでもあるけれど、アセンションにはタイムスケジュールがあるから、もうその方法だけでは、良い方向になりえない。 間に合わんってことでんねん。
 だから自省(胸の磁性“十”)の出来た人と、自我の肥大した自己奉仕者は、分けなければ、今と同じような恨みの連鎖の霊的干渉が増大していく事象はずっと連続して、最後には人間は完全に滅亡するやろ。
 当然のことながら“創造”の“主(ヌシ)”はそんな事を許さないし、だから“上”からの教えとして、さまざまな宗教も出来た。
また、S会=紫光会でローム太霊さんが述べた事、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”は、自分が試練と立ち向かい、自分に背負った因縁の原因のひとつでもある、恨みの連鎖の霊的干渉由来の霊的存在に、自分が立ち向かっているところを観察させ、自省(胸の磁性“十”)を促すようにする…その意味のことも言っている。
(しかし、このローム太霊さんの言い回しでもっとも大事な事は、自分がやっている“行”に対し、その姿勢を忘れるな、もっともっと“行”を極め、もっともっと“上”からの通信を受けろ、感応共振しろっていう意味だと解釈する。 by ○○○大先生)

さらに“日月神示”でも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信で、人(日止、霊止)の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の事を、さまざまな表現で述べているけれど、そこまで読み取れる人間はとても少なく、ただ、ありがたそうなところだけ引用し、自分たちの金儲けにする=“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り下がっている。
またまた余談やったけど、この文の“御用”は、恨みの連鎖の霊的干渉を解決するのが今の地球の現状を何とかする事であり、その心(靈)の動きを持ったものは、もう恨みの連鎖の霊的干渉を増大させないものでもある。
しかし、その心(靈)の動きを忘れるなっていう意味で“晴れた日とて傘いらぬのでないぞ”と称されていて、いつも自分の心(靈)の動きを見張る事をしろって言われてて、それは、人の心(靈)は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、本能から発現し、今は、ほんの少し智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)、目上(めうえ)の心(靈)を発現した。 何回も説明している通り、自分の“上”の心(靈)が“下”に向かうのが“日月神示”表記の右回転でもある。
そしてそれは自我の肥大であるし、自我は独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程としての必須要素でもあるし、だから自分の自我をよく観察する事が重要。
その意味で、○○○大先生が解釈した“日月神示”の右回転の画像を以下に貼っておきまんねん。
 
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り


 またまた余談になったけど、次の文。

“今 御用ある臣民と、明日御用ある臣民とあるのざぞ、”

この“今”と“明日”は、たった今の事象と今後=アセンション後の事をいっている。 あえて言うまでも無いし、S会=紫光会の交霊会でも、“これからの人、明日の人”って言い回しをしていた。 
先ほど述べたように、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”、その原因と現象の根拠である恨みの連鎖の霊的干渉を解消すること、因縁に立ち向かい逃げない事、困難を避けない心(靈)、それがこの文の“今 御用ある臣民”だろうし、そして今、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、“上”との感応共振をして、“上”の思惑を顕現しようとする人が“明日御用ある臣民”だと思う。
そして次の文は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴う肉体の変容をさした表記。

“二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。”
 
 この文の“歳”は、時間の進行と、霊的成長度における“上”と“下”、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を指していると思われ、“二歳(ふたつ)”は、“富士(二二)”の“二”と同義、それは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道だと思われる。 
そして“五歳(いつつ)”は、“五”は、糸巻きの象形文字、それは神経が密になるさま。 生物の進化は神経が密になる事でもあり、それは一個体の肉体の磁性の強化と変容でもあり、“行”の意義=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意義でもあり、さらにそれは、心(靈)が“慈(しげる)”っていう意味で、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の“慈(しげる)”でもある。
 そして“十歳(とう)”は、胸の磁性“十”をさす表記。 
そして“着物”は、第二十四帖の“衣(ころも)”と同義で、肉体の事。 だからこの文は、霊的成長の秘密を解き明かした表記でもある。
 そして次の文。

“十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。”

 この文の“役変わる”は、今の恨みの連鎖の渦巻いた事象と、今後=アセンション後の事象では、当然その事象を酔い形に変えていくには違う事をする。
そやから、今後=アセンション後は、ただただ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”して、自分の神性の顕現のために、考え、思い、追求して行動をする。 
それは、今の物欲中心の世ではなく、言い換えれば、土=2~3番目のオーラの“行”ではなく、さらに言い換えれば、低い砌(みぎり)の“行”=右往左往ではない世界になり、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)それが中心の世になるやろ。
 そしてその心(靈)は、胸の磁性“十”中心であり、“十柱”っていうのは、要はこの表記が人の完成に至るっていう意味やけど、以前紹介した“柱”の解字の画像を以下に貼っておきまんねん。
柱の解字

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十七帖 を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天地には天地の、国には国の、びっくり箱あくのざぞ、
びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐること分るのぞ、
早う洗濯した人から分るのぞ、
びっくり箱あくと、神の規則通りに何もかもせねばならんのぞ、
目あけて居れん人出来るぞ、
神の規則は日本も支那も印度もメリカもキリスもオロシヤもないのざぞ、
一つにして規則通りが出来るのざから、今に敵か味方か分らんことになりて来るのざぞ。学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。
ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。
神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。
旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、
初めの役員それまでに引き寄せるぞ、
八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。
おそし早しはあるなれど、神の申したこと一厘もちがはんぞ、
富士は晴れたり日本晴れ、おけ。
十月の四日、ひつ九のか三ふみ。

冒頭の文、これも今まで何回も言うてきたとおり、今後=アセンション後は、現状と事象が違ってくる事をいっているし、“日月神示”の表記としては“ぐれん”とか“びっくり箱”とか言われている言い回しが多い。 
それは、如何に今の世界が自己奉仕者の心(靈)の動きの顕現、“われよし”の人の活躍で、その低い心(靈)の“創造”になっているのかってことでもあり、そんなものは今後=アセンション後は通用しなくなるからこそ指摘されている。
また自分の低い心(靈)を低い心(靈)の動きとして認識して、自分に自戒(“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”)しなければならないこそ=“身魂掃除”“身魂洗濯”して欲しいって“上”は思うからこそ、以下のような言い回しになると思える。

“天地には天地の、国には国の、びっくり箱あくのざぞ、
びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐること分るのぞ、”

 この文の“天地”は、私たちの心(靈)が観察する外側(外国と幽界)の事象。 そして“国”は、自分の心(靈)そのもの、だから外側と認識する事と自分の内面、心(靈)の動きって理解したらエエと思う。 ほんでから“国”の意味は、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”の心(靈)の動きのこと。 そやから地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、現状、自我の確立=固定化の段階で、自我の肥大に陥りやすいからこそ、そこに“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)が入り込み、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)で、恨みの連鎖の霊的干渉を増やす“創造”を行わせている。 
そやからそれは失敗の事象であり、だから文明は壊滅するやろし、失敗は神の創造の法則に則って(のっとって)いないからこそ、バチが当たり=“神の咎め”があり、それがあってはじめて自分の在り方を振り返るし、これも何回も言うてきているけど、失敗を体験し自分の在り方を考え、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をよい事象の“創造”のために使うこと、それがローム太霊の言葉の、右往左往と左往右往の意味のひとつでもある。
 そして“びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐる”は、霊的成長度による“思惑の顕現”=現象化は、違うって言う意味である。 
低い心は低い事象しか“創造”できないし、“上”に向かう心は、全体が進化する事象の“創造”をなしうるし、それが神の思惑でもあるし、今後=アセンション後の事象はそうなすべきだからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、存在する場(フィールド)を分けるっていうよりも、自分たちの心(靈)の動きにより、(時間の進行に伴い)行き先を自分で決定する。
 その意味で次の文。

“早う洗濯した人から分るのぞ、
びっくり箱あくと、神の規則通りに何もかもせねばならんのぞ、
目あけて居れん人出来るぞ、
神の規則は日本も支那も印度もメリカもキリスもオロシヤもないのざぞ、
一つにして規則通りが出来るのざから、今に敵か味方か分らんことになりて来るのざぞ”

 今後=アセンション後の事象の“創造”の理由、その根拠、それは神の“思惑の顕現”=現象化でもあり、それが、生命の進化=霊的成長、神格化に向かうことの過程でもある。 
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、認識の変容でもあるし、だんだん神と思惑を共有する事でもある。 
それが“日月神示”表記の“天詞様”でもあるし、生命の進化の最終段階と思わせる表記が“日月神示”の、○ 九 十でもある。
○ 九 十(まこと)の解字

だから古神道で、人は“上”の振動を止める意味での“日止、霊止”って表記がなされているものであり、それはまた、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の、“ヒ”=日、太陽と、“ト”=止める、胸の磁性“十”でもある。
だから、自分の心(靈)に発現し始めた智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で、自分の心(靈)の観察をする、それは自分の在り方を観る、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であり、それをなした人から“分かる”って言われている。
そやから、どんなことが“分かる”のかっていうのんは、この文の“神の規則”であり、それは“日月神示”表記から引用すれば“道理”であり、それは、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
そしてそれは、たった一つの法則性だから“一つにして規則通りが出来る”っていわれてて、さらにこの言い回しは“規則通りが出来る”=“上”の思惑が顕現するっていう意味のことまで述べている。
そして進化の法則性は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現であり、それは自分たちが観察しうる事象の“創造”でもあるからこそ、次の文。

“学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。
ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。
神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。”

 この文の“学”は、理屈だけ捏ね回して他者を利用して自分の利益にする人が多いとか、誰かの功績にあやかるとか、自分がエネルギーを贖わないでたくさんの利益を得ようとするとかの自己奉仕者の心(靈)の事をいっていると思える。 
そやけど今Kellyさんが使った言い回しでは具体的ではないから、ちょっと具体例を挙げておけば、地球人は動物に比べ学問や知識を得たけど、自分たちにとって都合のよい使い方をする。 
それがたとえばサプリメントやダイエットなど、通販番組のコマーシャルに見られる効果だけを強調して視聴者に、さも効果がありまっせ~~みたいな事を思わせる。 これは体裁のエエ騙しでもある。 それとか投機とか、アフィリエイトとか、自分がエネルギーを使わんと金儲けしようとするとか、これも“学”だけで自分の利益を得ようとする卑しい心(靈)の動きだと思う。
 そして誰かの功績にあやかり、それを吹聴して、あたかも自分がかくとくしたかのように見せかけて商売をする。 だからそんな人は、自分が何にも知らんのに“主護霊”の概念だけ利用して守護霊って言い換えてテレビに出たり、一時間なん十万のスピリチュアルカウンセリングをしたり、ほかにも自称だれだれの弟子とかを吹聴して本を出版したり、また、宗教の概念を講話で話したり、引用しただけの本やDVDなどを販売して商売をする。
 …こんな事はいちいち例を挙げていくときりが無いくらい多いけど、今の世界はそんなものであふれかえっているし、そんなものをありがたがっている程度の低い人は多すぎる。 
そやけどそれらは、S会=紫光会の経文の“世為人為”ではない。 さらにそんなものは、人を堕落させるものでしかない。
分かりやすい一例としてたとえばサプリメントやダイエットは、人間の心(靈)と肉体を虚弱にしているものでもあるし、そんなどうでもエエこと(人(日止、霊止)の進化の足を引っ張る事)に金を使わせる事自体が、“石屋の仕組み”で、それは霊的成長度の低い人、その低い功名心と自尊心=自我の肥大=マニピューラチャクラの心を、煽り(あおり)、またそれは、経済大国にしかない低い心(靈)の動きでもあり、そんなものに引っかかる人間は地球全体を見ないから、飢餓貧困で死ぬ子供の事など知らん存ぜぬやし、肉食はするし、それらの結果である恨みの連鎖の霊的干渉などまったく意に介さないものでもある。  
そやけど、こんなふうにアセンション落第組のことを詳しく指摘してても、何のらちも開かん。 
そやからアセンション落第組でもそうやし、自己奉仕者の“創造”でもそうやけど、それらは、どんな心(靈)の動きをしているのか、その心(靈)の動きの分析が重要で、一般の人のものの見方は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は、それぞれの存在の“思惑の顕現”=現象化であるって認識が無いから、事象の“上”と“下”も理解できていないし、自分の心の“上”と“下”も分らんし、だから神さんや仏さんに現世利益を求めたりしていたりもする。
まったく甘いっていうのは、ただ、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ってことでしかない。
…まあエエわ。
ほんでから次の文。

“旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、
初めの役員それまでに引き寄せるぞ、
八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。
おそし早しはあるなれど、神の申したこと一厘もちがはんぞ、
富士は晴れたり日本晴れ、おけ。”

 これは、この第二十七帖を書かせている存在よりも、一段“上”の存在が、岡本天明はんにかかることの予告。 
そしてそれは、地つ巻の後に書かれた日月の巻のことやろ。
 ほんでから“初めの役員それまでに引き寄せるぞ、八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。”っていうのんは、本当に今後=アセンション後の“創造”を担える霊的資格を持つものを“初めの役員それまでに引き寄せる”と称されていると思えるし、それは地つ巻のあとの、日月の巻で述べる事がとても重要であるからこそ“それまでに引き寄せるぞ”って言われていると思える。
 ほんでから“神の申したこと一厘もちがはん”は、さっきも言ったとおり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、一つでしかない。 それは何回も言ったけど“日止、霊止”って表記に示されている。
 それとこの文でも“富士は晴れたり日本晴れ”って言われてて、これが何をさすのかは以前解釈した。 
そやからそれは、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
そして“晴れたり日本晴れ”については画像を以下に貼っておきまんねん。
“晴れたり日本晴れ”の解字

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第二十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国には神の国のやり方、外国には外国のやり方あると申してあらうがな、
戦もその通りぞ、
神の国は神の国のやり方せねばならんのざぞ、外国のやり方真似ては外国強いのざぞ、
戦するにも身魂みがき第一ぞ。
一度に始末することは易いなれど、それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならんから、待てるだけ待ってゐるのざぞ、
仲裁する国はなく、出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来るぞ、
神気つけるぞ。
十月六日、ひつくのか三。

 まず、冒頭の文。 これも自分の心(靈)の内面とか内側(心の中と感じている事)と、外側(外国と幽界)の事象のことを言うていると思える。

“神の国には神の国のやり方、外国には外国のやり方あると申してあらうがな、
戦もその通りぞ、
神の国は神の国のやり方せねばならんのざぞ、外国のやり方真似ては外国強いのざぞ、
戦するにも身魂みがき第一ぞ。”

 この文の“神の国”は、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであって、やはり自分自身が神性に目覚めていく=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく事を指していると思える。
そして“神の国のやり方”は、進化の法則性、心(靈)の発現の順番、これまで何回も言うてきたとおり、今の平均的地求人の霊的成長度は“江戸と尾張”、それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの段階、そして自我の肥大に陥りやすい=“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない)から、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。 だから本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性って順番で、心(靈)は発現し、心(靈)自体が“上”に向かっているから、自我の次は愛(炁)の顕現の在り方を考えるようになる=自己奉仕者ではなくなる=マニピューラチャクラの覚醒段階からアナハタチャクラの覚醒にいたる=第三密度から第四密度に移行する。 それは“慈悲”と“慈愛”の心の発現になる。 さまざまな言い回しがあるけれど、すべて同じことを指しているだけ。 
 そして自己奉仕者の事象の“創造”が、今の世界であり、それは地つ巻のところどころで指摘されているとおり、この世界は善の世界ではない。
だから“神の国のやり方”は、自分に内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心の動きを、自分自身の智性(神性)で見出す事が、この文の“戦”と称されていると思えるし、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であり、言い換えれば自分の智性(神性)で自分の心(靈)の動きを観て、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、それが心(靈)の進化=神格化の一過程に必要だからこそ“神の国のやり方”と言われ、外側(外国と幽界)の事象ばかり見ていては自省(胸の磁性“十”)なんて出来ないから“外国のやり方真似ては外国強い”と指摘されており、それは、自己観察できていない人が何か困難に遭遇すると、自分のせいではないとか自分には責任が無いとか思いがち。 そんな人はただ自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)だけで、すべての事象は良い事だろうが悪い事だろうが、自分の在り方を示すものであり、このことを自分の心(靈)の指標にするならば、さまざまな因縁=霊的干渉も見抜けるものであり、因縁を贖う(あがなう)ことが、恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こしている霊的存在の自省(胸の磁性“十”)を促す事になる。 
それが本当の意味で、悪霊が祓われる=“本津宮”(もとつみや)に帰る事になる。
だから因縁とか、恨みの連鎖の霊的干渉によるさまざまな事象は、自分自身に原因があったり、あるいは先祖代々自分が背負っているけれど、悪霊に自省(胸の磁性“十”)を促すのは、悪霊自身が閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を観ることに相当し、だからこそ悪霊自身も心を入れ替える。
このことを理解している人(日止、霊止)は、恨みの連鎖の霊的干渉による事象と逃げずに立ち向かう=戦う事も理解できるし、戦う過程で自分の認識が高まっていく事も理解できると思う。
 また戦う過程では、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振が必要であり、だからこそローム太霊は、“主護霊”のことを教えたと思える。 要は自分の霊的成長を望む存在からの通信を受け、それを自分の思想とするべき。
 だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、“上”がかかりやすい、“上”の通信を受けやすい肉体の条件を、自分で作らねばならない。 
また、それが“行”の意味と意義でもあるし、その事を指し示した表記がこの文の“戦するにも身魂みがき第一”でもある。

ほんでから次の文。

“一度に始末することは易いなれど、それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならんから、待てるだけ待ってゐるのざぞ、
仲裁する国はなく、出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来るぞ、
神気つけるぞ。”

 アセンションは霊的成長度において分ける事象であり、心の在り方が出来ておらず=自我が肥大した自己奉仕者、それは霊的成長度の低い人であり、そういう人を対象に“一度に始末することは易い”と言われている。 
そしてこの文の“それでは神の国を一度は丸つぶしにせねばならん”は、“神の国”=自省(胸の磁性“十”)して智性(神性)が芽生える心(靈)が育つ場(フィールド)って言う意味での“国”って言う言い回しで、この場合の“国”は、現津(あきつ)、観察され得る事象だと思われるし、そして外側(外国と幽界)の事象の事象でもあると思える。 要は、自分たちが感じている現実ってことでもある。
 しかし“上”は、“待てるだけ待ってゐる”と言っており、私たちはその“上”の思惑を理解して、自己奉仕者は自省するべきであり、それは最近のニュースでも、今までやってきた事に対する“神の咎め”みたいな事が多いけれど、それを良く観て、自分であろうが他者であろうがその心(靈)の動き=“どういうつもり”だったのか、それを良く見極める事が大事であり、それはまた、“身魂掃除”“身魂洗濯”の指標になる事でもある。
 そしてこの文の“仲裁する国はなく、出かけた船はどちらも後へ引けん苦しいことになりて来る”って言うのは、自我の肥大した人が、自分の心(靈)の動きを見出したとしても、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出したとしても、自我が肥大しているから認めようとしない、自省しない、自分は悪くないと思いたい=自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ってことになり、その事を揶揄(やゆ)した言い回しとしか思えない。 
だから“上”は、自分の心(靈)の動きの自我の肥大に気をつけてくれって言う意味で“神気つけるぞ”って言っていると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天明は神示書かす御役ぞ、蔭の役ぞ、
この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。
旧九月までにはその御方お揃ひぞ、
カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり、
うらおもてあると申してあらうがな、
コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ、
文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ。
天の異変は人の異変ぞ、一時は神示も出んことあるぞ、神示よんで呉れよ、
神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな、
神にくどう申さすことは神国の臣民の恥ぞ。
神示は要らぬのがまことの臣民ぞ、神それぞれに宿りたら神示要らぬのざぞ、それが神世の姿ぞ。
上に立つ人にこの神示分るやうにして呉れよ、国は国の、団体(まとひ)は団体(まとひ)の上の人に早う知らして呉れよ。
アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。
アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、
サとナとハとマとまつはりて呉れよ、
ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。
この神示 上つ巻と下つ巻 先づ読みて呉れよ、腹に入れてから神集(かむつど)ふのぞ、神は急けるぞ。山の津波に気つけよ。
十月の七日、七つ九のか三。


 まず、冒頭の文。

“天明は神示書かす御役ぞ、蔭の役ぞ、”

 この言い回しは、岡本天明はん自身に対し、自動書記を行わせている存在が、憑依現象により書かされている事を自覚せよって事を述べていると思える。
 こういう霊媒体質の現象っていうのは、よく知っておかねばならないことがある。 それは、岡本天明はん自身がそれほど霊的に高いわけでもないし、同様の事が、S会=紫光会のT霊媒=竹内満朋はんにもいえる。
 この言い方は誤解を招くように聞こえるが、少し説明しておくと、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、チャクラの覚醒を考えると分かりやすいけど、霊媒体質は、マニピューラチャクラの能力、そしてマニピューラチャクラまでの進化は“日月神示”なら腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもある。
 そして、高度な霊媒体質の憑依現象っていうのは、身体も心ものっとられる事が多いし、高いメッセージを伝えたとしても、憑依減少を行っている本人の意思や思惑は、現象に反映し得ないし、憑依していろんなことを述べている高い存在と思惑を共有しているのではない。
また、それとは逆に、高い存在の思惑を伝えるために段階的に低い存在が憑依して、その低い存在が高い存在のメッセージのみを伝えるのであればよいけど、そうではないケースが多いし、言葉だけをもてあそんでいるインチキ霊媒も多いし、低い霊媒の憑依現象は、霊媒本人とその周りの人間を誑かしているだけのことも多い。 その誑かす(たぶらかす)って事について“日月神示”内での分かりやすい指摘としては、地つ巻 第十四帖の“神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせん”ってことでもある。
神を名乗ったり、高い存在だと自称する存在ほど、自分を認めて欲しいだけの低い霊的存在がほとんどであり、それに感応共振する人、憑依されている人も、ただ目立ちたいだけとか自分を認めて欲しいとか、そういう自我の肥大による心(靈)の動きというのが観られるものでもある。
また、高い存在の憑依現象によるメッセージを伝えたとしても、霊媒体質の人の低い心(靈)の動きと高い存在のメッセージを仲介している低い存在の低い心(靈)の動きと感応共振することが多いから、自我の肥大をするということもある。
そやから要は、霊媒体質の人っていうのは“上”の思惑そのものが、自分の思想にはなっていないものでもある。 
これは、今までの地球人の進化過程で、“上”が人にいろんなことを伝えようとする際、霊媒としての能力に優れた人を選りすぐり、その人の使命として“上”の思惑を伝える役を担わせたってことでもある。 
(しかし、一般には悪魔のささやきによる低い憑依現象のほうが圧倒的に多いし、今とても多い大半のチャネラーみたいな現象は、その傾向が強い。 
そしてそれは“日月神示”表記の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”でもあるけど、このことも何回も指摘してきたので、あえてここでは多くを述べない。
その点でも、この文の“神示書かす御役ぞ、蔭の役ぞ”は、今、説明した事を述べている。 
要は、岡本天明はん自身の、自我の肥大、自分には神がかかっているのだと思い込んだりする事があったと思うけれど、それを戒めた言葉でもある。
要は、T霊媒=竹内満朋はんでも岡本天明はんでも、憑依現象そのものが肉体の苦痛であり、それは“行”になり、そして“上”からのメッセージを自分が知る事で、認識を高めていったってことでもある。
ほんでから、今、霊媒体質の事を述べたけど、“日月神示”では、“上”の思惑を自分で共有せよっていう意味での“天詞様”って言い回しがされている。 
これまでも説明してきたとおりそれは、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなって、だからこそ“上”の存在の智性(“一”、1番目のオーラ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、“上”の思惑と自分の思惑を近いものにして、自分の認識と成す。 
このことが、今後=アセンション後の人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもある。
 そして、人が、憑依現象をみてよく間違えることとして、現象を起こしている人がすごいとか貴いと思いがちだけれども、それは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を“下”である人に伝えるための事でしかない。 
そやからそれは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑=送信であり、霊媒体質は受信機としての役割。
この分析はとても重要でもあることを、あえて付け加えておく。

ほんでから次の文。

“この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。”

 この文の“アとヤとワ”は、以前解釈した、上つ巻の第二十四帖の“「ア」と「ヤ」と「ワ」は本(もと)の御用ぞ”と、同様の意味。
少し説明しておくと、この文の“ア”は、愛(炁)、“亜”であり、それは、愛(炁)の“ア”でもある。 そして“亜”“ア”は、すべての事象の根元の材料と認識され得る何かでもある。
人(を含めすべての生命)が、事象を観察して認識することとしての、すべての原因とか結果とかが、“亜”“ア”が、出ずる、泉、で、愛(炁)、アイ、と言葉で認識していると思える。 原因と結果、思惑(ア)と、顕現=現象化(イ)っていう言い方も出来るし、すべての事象の“創造”は、愛(炁)が動機の事であり、愛(炁)の顕現の程度が低いから自分しか大事に思えないって心(靈)の動きになり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低いから、自己奉仕者、“日月神示”表記なら“われよし”でもある。
そして“ヤ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、その心は高台(たかと)高き段に進むってことであり、それは、日足(ひたり)の極性、“上”に向かうこととも言いうる。
そして“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義ってことだから、これはよいカタチの“思惑の顕現”=現象化であり、左往右往の結果でもあり、霊的成長した心(靈)が“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象の事を指すと思う。
 それで重複するけれど“ヤとワ”は、
“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、以下にコピペしておきまんねん。 ↓


“「ヤ」”は、“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、書いてあった。 これは先生の概念の、アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)、その心(靈)の動きって言うのんは、自分の良い形を求める。 ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、すべての良いカタチを求める。 そして、霊的成長そのものを指す。
 そやから、高台(たかと)高き段…そう認識され得る何かを、求める。 時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。 日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
 人は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、その心(靈)の動きそのもののような気がするし、それは、右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。 多分そうやろ。
 ほんでから、“「ワ」”は、同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、“物を生む、生まれしものを和合する意”とか、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、そう言う表現がしてあり、ほんでから、Kellyさん的に思う“生まれしもの”、それは、現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。 そやから、自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、呼吸、息吹、気吹、生吹、でもある。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、和合で、それは左往右往でもある。 良いカタチの創造でもある。
 それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。
 
↑ 引用終わり。
そやからこの文の“アとヤとワのつく役員”は、このことを認識として行動している心(靈)、霊的成長を果たした心(靈)という意味やと思う。
そして“アとヤとワのつく役員”は、当然の事ながらよいカタチの事象を“創造”する心(靈)だから、今後=アセンション後に位置する、位置する資格がある心(靈)とも言いうるし、そやから“日月神示”表記の“役員”は、“創造”の法則性をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す表記でもある。
そしてこの文の“おもてぞ”は、顕在化、表面化、現象として現れるとかの意味であり、実際に“創造”に携わる役を示す表記で、これは次の文にもかかっている表記であるから次の文。

“旧九月までにはその御方お揃ひぞ、
カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり、
うらおもてあると申してあらうがな、
コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ、
文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ。”

 この文の冒頭の“旧九月”は、地つ巻 第二十七帖の“旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ”と同様の意味だと思う。
 そやからそれは、“その御方お揃い”っていうのは、“天(アメ)の日つくの神の御神示”を指し示す存在で、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、これを岡本天明はんに書かせている存在よりも“上”の存在ってことを示す言い方であり、またその存在が書かせる文章は、日月の巻で、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行う事の説明になっていくのだと思われる。
 そして“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”の“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)
の音意と説明されている。 
 だから先ほど述べた、“日月神示”表記の“役員”(“創造”の法則性(日足(ひたり)と砌(みぎり))をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す)が、今後=アセンション後、事象の“創造”をする。
 そして事象の“創造”は、“思惑の顕現”=現象化であるし、自分たちが観察する現実=現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心の反映であるけれど、その“創造”に関わる“カ”、心の中に幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意って事だと思える。
 そして“タ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義って説明されている。
 これは進化=霊的成長、神格化に向かうことって事でしかないと思う。
 だから“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”っていうのは、今述べた、“カ”=“思惑の顕現”=現象化をする力(ちから)と、“タ”のつく役員は、霊的成長、神格化に向かうことであり、それが実際の事象に見られる、観察できるようになる事が、この文の“うらなり”と“おもてなり”ってことだと思うし、もう一度“うらおもてあると申してあらうがな”と、繰り返して強調されている。
 だからこそ“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”、それには、思惑を顕現する力(ちから)と、その結果である霊的成長、この分の表記なら“タ”、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長って事だと思う。
 そして“コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”の“コ”は、同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、停滞して働く意と細分の音義って説明されている。 さらに、物の凝り集まりに固まる意、とも、称されている。
 だから心(靈)っていうのは、何が凝り集まり、そして固まらなければならないのかってことを示す意味もあり、それが地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”でもあると思う。 この“実言(みこと)”の詳細については
第一帖をよく読んで欲しいねん。

 そして“ト”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、トの言霊の心は、止めると云う心、人のトって称されている。 そやからそれは“日止、霊止”の止めるって言う表記と同じであるし、“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのものである太陽からの光と荷電粒子を止めるのが、“日止、霊止”でもある。
 今説明した意味を含む表記がこの文の“コト”であり、それは“コトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”って言われているとおり、“上”の思惑を心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に止める“行”が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもあるからこそ、それは霊的成長の具体的な“行”だし、神格化にいたる“行”だからこそ、“神はうれしきぞ”と言われており、だから、艮(うしとら)の金神は、黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのだと思う。
 そして“文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ”っていうのは、“日月神示”表記の特殊な文字は“基”に“通る”って言う言葉の使い方をしているのだぞって言う意味のことを強調していると思う。 だから基本の“基”、これは“創造”の“元”って言ってもいいと思う。 その意味を読み取ってくれってことでんねん。

 ほんでから次の文。

“天の異変は人の異変ぞ、一時は神示も出んことあるぞ、神示よんで呉れよ、
神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな、
神にくどう申さすことは神国の臣民の恥ぞ。”

 これはそんなに難しい内容ではない。 “上”の“思惑の顕現”=現象化が、たとえば神の咎めでもあり、それはアセンションに伴う醜い事象だったりもするけど、大概の人はそんな認識を持っていない。 なぜ神の咎めがあるのか、なぜ自分たちには罰が当たるのか、それを考えんのは自我の肥大をしている霊的成長度の人でもある。
 その霊的成長度の低い人たちに教えようとするという意味でも“日月神示”は書かれており、だから“神示よんで呉れよ、神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな”と言われており、教えなくても自分でわかるくらいの霊的成長度になってくれっていう意味で“神にくどう申さすことは神国の臣民の恥”って言われている。
 次の文も、今述べた事と同様の意味。

“神示は要らぬのがまことの臣民ぞ、神それぞれに宿りたら神示要らぬのざぞ、それが神世の姿ぞ。”
 
 霊的成長度が高まれば=智性(“一”、1番目のオーラ)が発揮されるならば、当然通信を送ってくる存在も“上”の存在になるから、“神示は要らぬのがまことの臣民”ってことになるし、“上”の存在との感応共振、“天詞様”、それを“神それぞれに宿りたら神示要らぬ”って称されているだけでんねん。

 ほんでから次の文。

“上に立つ人にこの神示分るやうにして呉れよ、国は国の、団体(まとひ)は団体(まとひ)の上の人に早う知らして呉れよ。”

 この文の“上に立つ人”は、“日月神示”表記の“役員”(“創造”の法則性(日足(ひたり)と砌(みぎり))をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す)のこと。
 だから“日月神示”表記の“天詞様”、今後=アセンション後の事象の“創造”の要になる人、それは“上”と感応共振しているから、“日月神示”も本当に読み解けるものであり、その霊的成長度の人は、同じくらいの霊的成長度の人、それはこの文の表記の“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と指し示されるその心を獲得した人と“団体(まとひ)”を創っていくものであり、“団体(まとい)”は、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)って法則性があるから、霊的成長度が極端に違う人同士では縁がないものであり、それは霊的存在でも同様であり、だからローム太霊さんはローム太霊講話集で、霊団って概念を説いた。
余談だったけど、霊的成長度の高い人は高い人と縁があり、低い人=自己奉仕者は、自己奉仕者と徒党を組むものでもある。
それは高い低いにかかわらず、人と人の霊縁でもあるし、霊的存在と霊的存在の縁でもあるし、霊的存在と人との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則性をも示しているし、その意味のことを述べている文だと思う。

 そして次の文。

“アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。
アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、
サとナとハとマとまつはりて呉れよ、
ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”

 この文の“アとヤとワから表に出す”は、先ほど述べたとおり、事象の“創造”の法則性を自分のものにした存在が、“思惑の顕現”=現象化をすることであり、だからこそそれは神に認められており、認めうる霊的成長度の世であり、その意味の言い回しが“(霊的成長度の高い)上の人も耳傾ける”って事だと思う。
 そして“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ”の、“ア”は、先ほど説明したとおり。
“イ”は、やはり“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、生気生命力の発生力って説明されているし、Kellyさんとしては息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“イ”であり、それはアイ、愛(炁)の“出(いづる)、泉”の意味だと思う。
 “ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するものでもある
 “エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命って説明されているから、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを指し示していると思う。
 “オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のことだと思う。 そう思う根拠は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、大山津見神淤穂(おおやまつみほ)(地気にて成る生物)が、強い身をツクリ作るの意って説明されているからでもある。 そして“オ”は、日足(ひたり)の極性が現れた男の“オ”であり、砌(みぎり)の極性が現れた女の“オ”でもあると思う。 要は生物として進化した最後のカタチ、それは“日月神示”表記の ○ 九 十 (まこと)と同義の意味だと思う。 それで次の文、“ヤもワも同様ぞ”は、“ア”と同様に、“ヤ”(日足(ひたり))も“ワ”(砌(みぎり)も)、“イウエオ”という変化や、意味合いを持つっていう意味だと思われるし、これはこの後の“日月神示”の文で説明されていると思う。
 
 そして“カはうらぞ、タはおもて”、これは先ほど説明したとおり。
 そして“サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”の、“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、“ハ”の行は、生命発現成長の音義、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ)に関する音義、
以上のように説明されている。 そやから “ア”“ヤ”“ワ”“カ”“タ”“サ”“ナ”“ハ”
“マ”、それぞれア行の“イウエオ”に相当する意味合いを持つって説明だと思う。 だからこそそれは“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ”って言われており、生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“思惑の顕現”=現象化をして、事象の“創造”をするが、それは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿ったものであるからこそ、生命は、栄え発展、発現成長、(進化をある程度果たした)有形生命、正しき生命、それらの意味でもあり、それは“日月神示”表記の彌栄(いやさか)って言葉に相当するものでもあると思う。 
そして、彌栄(いやさか)の“彌”は、背骨(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))と、チャクラを指し示しており、それは、生命の発生が、縦の磁束から始まり、“上”からの荷電粒子と反応し、微生物から人(日止、霊止)になり、その進化過程において心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が発現していくっていうのが○○○大先生の進化の概念でもあるけど、この事も感じさせる表記でもある。
彌栄(いやさか)の“彌”の解字の画像を貼っておきまんねん。
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字

 ほんでから“ラ”は、先ほど述べたとおり、生命発生の初音(ウネ)。 だからこそ“別の御役”って言われているけど、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にかかわっている表記は何が“上”とか“下”とかではなく、だからそれはすべて貴いから“御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役”って称されている。

 ほんでから次の文。
“この神示 上つ巻と下つ巻 先づ読みて呉れよ、腹に入れてから神集(かむつど)ふのぞ、神は急けるぞ。山の津波に気つけよ。”

 これは、この文の言い回しそのものであり、上つ巻と下つ巻、すでにこの二つで霊的成長の秘密は説かれているってことを言っていると思う。 
それは“身魂掃除”“身魂洗濯”と“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、晴れたりの意味など、これらのことを“、腹に入れて”っていうのは、マニピューラチャクラの心(靈)の発現、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン=自分の自我そのものに、この概念を満たしてくれって事だと思うし、それをして始めて“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるからこそ、“腹に入れてから神集(かむつど)ふ”と言われている。
 ほんでから“神は急けるぞ。山の津波に気つけよ。”は、もう霊的成長度において分ける作業=アセンションの時期がせまっており、そのときに“山の津波に気つけよ”っていうのは、前にも少し解釈したことがあるけれど、山=目上(めうえ)の脳、大脳新皮質で発現する智性(神性)に、津波=腹の心、それは低い進化過程の“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”による自我の肥大、それに影響されないよう、それに影響されれば自分は自己奉仕者になってしまうからこそ、“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の視点、事象の観察の視点、自分の心の動きを見極める視点、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す視点、天の御目(あめのおめ)、これを忘れないでくれっていうことだと思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、
目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。
国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、
同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、
けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、
この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。
一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。
生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、
神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、
何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、
智や学越えて神の力にまつはれよ、
お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、
神のない世とだんだんなりておろがな。
真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。
神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、
何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。
十月七日、一二ローレンツ力と ○

 冒頭の文。 いうまでも無く、霊的成長度において分ける作業としてのアセンションのことを指摘している。

“一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、
目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。”

 “上”は、一人でも次の段階へ進ませたいという、“慈悲”と“慈愛”の現れた言い回しで、“目覚めぬと末代の気の毒できる”は、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”などという、“日月神示”内の言い回しで、自己奉仕者から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に成ってくれよって事でもある。

 次の文。

“国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、
同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、
けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、
この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。”

 この文の“国取られた臣民”の“国”を、“われよし”の心の通念、縄張りとしての“国”と解釈すると、この文は読み解けない。 
 “国”はやはり場(フィールド)として、心(靈)の場としての(囗)くにがまえ、と、“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す。
 そやから“国取られた臣民”っていうのは、自己観察をしていない心(靈)の動き、自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している事がすぐ分かるし、こう解釈すれば、“われよし”=自己奉仕者の事を指す以下の文、“どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐる”っていう文章につながりやすい。
 そして“神示腹に入れると神力出る”っていうのは、腹は自我、マニピューラチャクラの心(靈)の発現、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
そやから、この文で言っている事は、脊椎動物の進化のテンプレートは、自我から“慈悲”と“慈愛”の発現になる事を何回もいうてきたし、それが独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程でもある。 
だから脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成された表記)、日止(日を止める)、霊止(“上”からの荷電粒子を止める)っていう表記がなされていると確信する。
そやから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い、心(靈)の発現の順番は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性でもあり、その過程において自我の確立=固定化は必要であり、その点でも、自分自身が一個体であり、自分が進化したならゴールは神格化であり、だからこそ自分自身=自我が認識する“神力”、“上”との感応共振、“上”の思惑を、腹=自我、自分の心(靈)に取り込んでくれよって事でしかない。

次の文。

“一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。”

 この文も、ただ自動書記により書かれた文章を読むって事ではなく、仮にそうだとするならば“この神示一二三(ひふみ)として読む”なんて言い回しはしない。
 この“一二三(ひふみ)”は、脊椎動物の進化のきわまりである“日止、霊止”は、“一二三(ひふみ)”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラを発現させている。
 今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“一”=智性=1番目のオーラの拡大であり、それは目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の進化であり、今後=アセンション後の人(日止、霊止)の進化過程は、智性(神性)の獲得と行使でもある。 またそうならなければ、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は無い。
 そして今の地球人の進化は、土=2~3番目のオーラの発現が中心だからこそ、自我から(胸のチャクラの覚醒である)“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きになっていく。 そやから“この神示一二三(ひふみ)として読む”っていうのは、智性(“一”、1番目のオーラ)で解釈し、智性(神性)で読み取り、それを“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”で、自分の在り方に活かすって解釈をする。
 それは今、ネット上に多い、ただ“日月神示”の文章を引用したり、自分は声を上げて読んでおりますなんて、薄っぺらいものではないし、こういう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)そのものが、自我の肥大であることをあえて指摘しておく。
 そして“いやがる臣民”って表記は、自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をいやがる自我の肥大した人間の事を指す。

 次の文。 

“生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、”

 この文の冒頭の“神の国”も、先ほど述べた“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)のこと。 そやからそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から、“慈悲”と“慈愛”が発現下(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の心(靈)の事を指し、それを知らなければ、“死んでから神の国に行くことは出来ん”っていわれており、それは死んでからも、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)に囚われた悪霊になる事を指摘しているし、それは死んでからも自省(胸の磁性“十”)しないのだって言い方でもある。
 余談になるけど分かりやすいからのべておくけど、仏教でいうところの、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)は、自分のやってきた事を振り返らせ、省みさせ、自省(胸の磁性“十”)を促すためのものでもある。

 ほんでから次の文。

“神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、
何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、
智や学越えて神の力にまつはれよ、
お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、
神のない世とだんだんなりておろがな。”

 “上”と“下”、それは、神と人(日止、霊止)、その両者の思惑が一致していない事象が、この今の世界。 それを指摘しているのが“神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐる”って言い回しで、今は、自我の肥大した人、“われよし”が活躍しているけど、それは当然低い進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、今後=アセンション後に位置できる霊的資格ではない。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自分がエネルギーを贖って(あがなって)正当な報酬を得るって発想があまり無い。 だから他者を利用し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをする。 しかしそれを自分が獲得した知恵、立場、権力、名声などでごまかす。 要は人を利用するのにも、騙されている人に騙されていないかのように思わせるのが、うまいやり方で、卓越した自己奉仕者といえるし、今そういう人が活躍している世界がこのせかいでもあるし、たとえば、“麗しき誤解の中で、人のふんどしで相撲をとる”なんて公言している人もいるけど、実に自分のエネルギーを贖わないで、のし上がってきたのかって事を吹聴しているだけ。
 要は、自分の欲望のためにいろんなものを利用して、最小限のエネルギーの贖い(あがない)を思い、(通貨としての)金や名声や権力を得て、自分の低い欲望を満たす。 それがこの文の“智や学にすがりてゐる”に示されている。
 だからそれは先ほども述べたけど、卓越した自己奉仕者といいうる。
 それに対し、自分がエネルギーを贖った分しか実らないのが“お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民”っていわれており、これが神が認めるエネルギーの贖い方でもある=正当な報酬を得る事でもある。
 その事を読み取るには、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出すための“身魂掃除”“身魂洗濯”、そして自己奉仕者は“改心”して、自省(胸の磁性“十”)しなければならないし、そのことも“日月神示”には幾度と無く謳ってあるからこそ“神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな”って言われている。

 次の文。

“真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。
神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、
何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。”

 この文の“真通(まつ)る”は、真(真固止、○ 九 十)通るであり、霊的成長したカタチを示しており、その段階での感応共振=まつり、まつわり、祭り、祀り、政治の政、“政(まつりごと)”は、“上”の思惑を、この世界に顕現していくことだからこそ“生かす事”なのだって言われているし“生かす事は能(はたら)かす事”とも言われている。
 そして“神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ”の“神の国”の“国”を、ただの場(フィールド)だと思うと解釈できず、この“神の国”って表記は、霊的成長して神の思惑を取り込んだ心(靈)で、何回も述べるけど、“国”は、心(靈)の場(フィールド)である(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すってことでもある。
 人(日止、霊止)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、今と違う現津(あきつ)、観察され得る事象の創造をする。 そうなれば、“上”と“下”である神と人(日止、霊止)は通じ合い、“上”が認めることならば、なんでも現実になる。 その意味で“神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ”って言われており、今の事象は、“われよし”の人が創造した事象だから、地球上すべてが満たされておらず、恨みの連鎖の霊的干渉が盛んになる要因しかない。 
 そして今の世界は、神の咎めとしての文明の崩壊を体験しなければ、多くの人が自省(胸の磁性“十”)の“行”に入らない。 その事を感じさせる言い回しが“何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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智性無き心は
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発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

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目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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