“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第一帖 Kellyさん的解釈


  今回から、日月の巻の解釈に入りまんねん(ちなみに日月の巻は、 (ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある)。 
まず、第一帖の原文は以下の通り。

富士は晴れたり日本晴れ。 ローレンツ力と ○ の巻 書き知らすぞ。
此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。
今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。
神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。
此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。
今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。
我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。
毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。
日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。
日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。
小さくしたいなれど。
旧九月一日、ひつくのか三。

まず、冒頭の文。

“富士は晴れたり日本晴れ。 ローレンツ力と ○ の巻 書き知らすぞ。”

 これまで“日月神示”に幾度となく出てきている霊的成長を示す言葉の“富士”と“日本晴れ”、これについては画像で意味を示しておく。

富士の解字

“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやから画像の文で示したとおり“富士”と“日本晴れ”、これは、現状の地球人の進化過程=自我の確立=固定化、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、そして腹の位相のサイクロトロンから、“慈悲”と“慈愛”、“一”=智性=1番目のオーラの発現と行使、この発現と行使ってことそのものが、“思惑の顕現”=現象化ってことでもあるし、地つ巻で述べられた“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)でもあると思う。
 だからわかりやすくいえば、思惑は心(靈)の動きであり、顕現は、(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する)現象化でもあり、心(靈)が行動に現れる事でもある。
 そしてそれは、思惑=精神性=日足(ひたり)であり、顕現=砌(みぎり)の意味でもある。 さらに日足と砌(ひたりとみぎり)は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”の意味でもあり、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の、“一”でもあるし、これをまた“ヒ”とよませるものであり、さらに“ヒ”は、太陽を示す“日”であり、“日本晴れ”の“日”でもあるし、霊の旧字の“靈”(ヒと読ます)でもある。
 そして冒頭の文の後半“ の巻 書き知らすぞ”は、 っていう表記は、霊=、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力 を示す表記でもある。
 これまでもたびたび述べているとおり、縦の磁束由来のローレンツ力ローレンツ力 は、生命(生きる使命=存在理由)の進化過程において、背骨の発現に由来し、背骨が電磁石の仕組みを有するからこそローレンツ力は発生し、“上”からの荷電粒子(普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射))を自分の肉体と心(靈)に取り込むものである。 また、今述べた意味を持ち、そのことを指し示す字が、霊の旧字“靈”(ヒ)でもある。
靈の解字


 だからこそ古神道では、日を止める、霊を止めるっていう意味の“日止、霊止”っていう表記が使われ、また“止”(ト)はヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の“十”(縦の磁束、 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒 (たてぼう、こん、縦の磁性))と水平磁場 水平磁場 “日月神示”表記の横棒 が重なった表記、シンクロトロン放射の仕組み、地つ巻 第二十四帖の表記)でもある。
そして“日止、霊止”っていう表記の意味、これは“上”からの荷電粒子、神の思惑、神の思惑の仲介者である太陽、その振動、電磁波、これを止めるのが心(靈)の発現が生物の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において“上”に向かう事と同義でもあるし“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の発現と同義でもある。
よって今後解釈する日月の巻以降は、これらの事もだんだん詳細に説かれていると思う。

 次の文。

“此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。”

 これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している文章で、自分たち(の心(靈))が観察して認識しているその対象、物であろうが他者の心(靈)であろうが、宇宙だろうが次元だろうが、人が感じうる神の概念と認識(悟り、幸取=さとり)だろうが悪魔のそれであろうが、動物であろうが人であろうが霊的存在であろうが、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であろうが、それらは、すべて、神の思惑の顕現と人(日止、霊止)の思惑の顕現の結果でしかないといいうるけど、ちょっとむずかしいかな。
 まあエエわ。 これが難しいと思う人は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い人ってことでしかない。
 話を戻し、それら観察の対象、そして認識そのものが、神と人の“創造”(の結果)っていえるし、だからそれそのものは、すべてがすべての存在のためのなにかっていえるけど、それらを全部自分たちの欲望の達成のためにしか思わないのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、その心(靈)の発振、発信=息吹は、低い欲で出来た世界を創った。 その結果が恨みの連鎖の霊的干渉でもあることは何回も述べてきた。
 だからその認識を持てってことで、自分のもの、自分の所有物、なんて物はないっていう意味で“此の世に自分の物と云ふ物は何一つない”と言われ、そして“早う自分からお返しした者から楽になる”っていうのは、今述べた認識が必要でもあり、それがまたローム太霊の言葉の“行業一致”と、S会=紫光会の経文、四空経録の中の“世為人為”っていう悟りにもなるものでもあるし、自己奉仕者は自己奉仕者特有の来る氏を背負うから=(通貨としての)金しかわからない心(靈)、金の奴隷、物欲の奴隷になっているからこそ“楽になるのざぞ”と言われていると思う。

 次の文。

“今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。
神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。
此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。
今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。
我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。”

 この文の“三つの大洗濯が一度になって居る”と“神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐる”は、じぶんの心(靈)が観察する対象のことを言っており、“神の国”は、神性(智性(日を知る性質)、または“一”=智性=1番目のオーラ)が発現し始めた自分の心(靈)、これも地つ巻で何回も述べた“神国”(“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と同義であり、“外国”は、自分が観察する外側(外国と幽界)の事象であり、“世界ひっくるめた”の“世界”は、内も外も、自分も自分以外も、すべてを“ひっくるめた”事象である事を示唆している。
 そして“そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。”は、“神の御用”は、今後=アセンション後の“創造”に携わる事を指し、今後=アセンション後に移行する今は“此れからがいよいよの正念場”であるッて言われている。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、“我(が)出したら判らなくなる”って言われており…わざわざ解釈するような事でもなかったけど、そして、“てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ”は、何かにあやかる事ではなく、自分が“上”との感応共振をせよ、だから霊的成長した心(靈)って何なのかを追い求めよ、追い究めよってことを言っていると思うし、それが神格化への道筋であり、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 そして地球と地球人は、その段階に入った=アセンションっていうタイムスケジュールがあるからこそ“神はいよいよの仕組にかかった”と言われている。

 次の文は解釈するまでも無い。 “創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションに向かえば、今より霊的成長度の高い人(日止、霊止)=愛(炁)の顕現の程度の高い人(日止、霊止)が建て直すとか、お立替とかっていう事になることを示唆している。

“毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。”
 
要は、今まで(自己奉仕者の心)と進化過程の違う心(靈)が“創造”の中心になるっていう意味でしかない。

 次の文。

“日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。
日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。
小さくしたいなれど。”

 この“日本”を、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての国って解釈をしていると読み解けない。
 要は、自分の心、冒頭で解字を示した“日本晴れ”の“日”=太陽と“本”=自省(胸の磁性“十”)して成長する心(靈)と同義であるし、それは自分の心の中の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもあるから“神の臣民 気つけて呉れ”って言われている。 そしてそれはこの後に続く文を読むとよくわかる。 
それは“日本も神と獣に分れている”っていうのは、自分が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を顕現していく過程において、“日本晴れ”の画像の“本”で示したとおり、自分の心(靈)は右往左往と左往右往するし、それは“日月神示”表記の“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
 そして自我から“上”に向かうのが日足(ひたり)回転であり、自我から“下”に向かうのが砌(みぎり)回転でもあるし、そのことが神格化を目指す心とケダモノ化した心の違いでもあるし、さらにそれは、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)でもある。
 そやから“日月神示”表記の左回転と右回転の画像を以下に示して、今回はこれくらいにしときまんねん。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転



“日月神示”日月の巻 第二帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、
此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、
みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、
身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、
まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、
今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし、
天地(あめつち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。
今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、
堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂、
いやさかつきに栄えなむ。
みたまさちはへましまさむ。
旧九月二日、ひつ九のか三。

まず冒頭の、“三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、”についてやけど、“三千世界”は、地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念が、三千世界」って解釈をした。 そやからこの文は、人がたくさんの恨みの連鎖の霊的干渉を創り出し、“乱れたる”世界にしてしまったことを指摘している。

 次、“此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する”
この文は“岩戸開き”が解釈できないと読み解けない。 そやから“岩戸開き”は、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くって今までも解釈をしてきているけど、要は、目上(めうえ)の脳の心(靈)の発現と行使である智性(神性)(日を知る性質)(“一”、1番目のオーラ)で、今までの地球人の進化過程である自我(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現にいたるのが、心(靈)が“上”に向かう事=第三密度から第四密度(宇宙的存在がよく使う表記)で、そしてそれは、腹のエネルギーが横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)から“上”に上がることで、またそれを示したのが大日如来の条帛(じょうはく)でもある。
そしてこの文の“此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、みこと畏み此の度の”っていうのんは、今の腐りきった“三千世界”においても、“太神の、みこと”=人の使命である神格化、“創造”の“主(ヌシ)”の計画、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味と意義でもあるし、貴いからこそ“畏み”と称され、“上”はちゃんと(アセンションとして)意図しているってことを指し示しているからこそ“此の世構ひし大神”と称され、そして腐った世界の中でもちゃんと進行しているっていう意味合いで“此の世の裏に隠(か)れしまま”って言われていて、そしてそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の計画であるからこそ、(霊的成長度において心(靈)を分ける=神格化に向かうレベルの程度において分けるための)アセンションの意義だからこそ、“みこと畏み此の度の”って言われている。

 そして次、“身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、”。
 この文の“神国”は、地つ巻に何度も出てきた表記であり、神性を発現した心(靈)っていう解釈を何回もしてきたし、それは神格化に向かう心(靈)であるし、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から少し“上”である(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の心の発現をするって何回もいうてきているけど、そうやって人は、“日止、霊止”になっていく=“上”からの荷電粒子の高い部分と感応共振をする=“天詞様”に成りうる者である。 またそれが、人の完成であり、完成って概念そのものが、“完”は宀(うかんむり、頭の意味)と“二”=肉体、そして時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)の重なった表記であり、それを“成す”ことは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を成すこと=“日月神示”表記の ○ 九 十 の、“九 十”(卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり、今の段階からの卒業とか、完成に至る次の段階の意味でもある。 
それを踏まえてこの文を読めば“身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし”の意味はあえて解説はいらんと思うけど、何度も何度もこの世界に肉体を持って死んで、平均的地球陣は八百回転生をしているけど、いまだ自我の確立=固定化の進化過程であるし、とても神格化なんて段階からは程遠い。 だから艮(うしとら)の金神は黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのだとも言いうる。 また、それを教えなければ=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えなければ、“鍛へに鍛へし神国”=神格化を実践する心(靈)には成りえない。
そして、“まことの身魂”=人が完成された肉体と心(靈)になることは、神の計画であるからこそ“元の種、昔の元のおん種”であり、また、完成された様を“天駈けり、国駈けります”と称されていると思う。

 次、“今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。 今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ。 みたまさちはへましまさむ。”
 この文で述べられていることは、今、粛々と神格化へのプロセスを歩んでいる人は、物からも(通貨としての)金からも(形骸の)名誉からも見放されている=“落ちぶれてゐる”ものでもある。 それは、自分の追い求める何かは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のそれとは、違うからであり、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の違いって言い方をしてもエエと思う。
 そやから“今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし”は、先ほどの“岩戸開きの御用”する人は、この腐った世界では活躍できず、たいして着目もされていないものであり、それに反し、(この世界は腐っているからこそ)金持ちは(通貨としての)金の執着と低い欲望の達成っていう息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で活躍し、また霊的なことやアセンションのことを利用して金を儲け自分の低い功名心と自尊心を満たしている“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)は、活躍して、大半の人に偽の情報を提供しているものでもあるし、このことを皮肉っぽくいえば、甘いうそを述べたほうが、この世界では活躍できるってことでもある。
 しかし本当の事を見出し、自分の霊的成長、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ってことをきちんと認識した人間は“今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂”っていわれており、この文の“神身魂”は、智性(神性)の発現した肉体と魂=心(靈)ってことでもあるし、“まこと神代の礎と、磨きて呉れ”は、真実=真固止、何を真に固く止めるなんてことはこれまでも何回も延べたからあえて言わんけど、そうなるためには“磨きてくれ”、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してくれってことでしかない。
 そして“いやさかつきに栄えなむ。 みたまさちはへましまさむ。”は、大半がひらがな表記で、ひらがな表記は人の視点での事象の観察であろうから、これを漢字に変換すれば
弥栄(いやさか)月(肉体の意味)に栄えなむ。 身魂 幸(“夭と屰”(ようとげき)、肉体を持っている間にたくさんの認識(悟り、幸取=さとり)を獲得する意味) はへ(栄えあるの“はへ”) ましまさむ(増して進む)ってことになるのやろ。
 ほんでから弥栄(いやさか)の“弥”については、画像で意味を示し、今回はこれくらいにしときまんねん。

弥の旧字 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字

“日月神示”日月の巻 第三帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

此の神示 声立てて読みて下されと申してあろがな。臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かすのぞ、声出して読みてさへおればよくなるのざぞよ。
じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行であるから務め務めた上にも精出して呉れよ。それがまことの行であるぞ。
滝に打たれ断食する様な行は幽界(がいこく)の行ぞ。
神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生れる食物(たべもの)頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。
此の事よく心得よ。
十月十九日、一二 ローレンツ力と ○

冒頭の文。

“此の神示 声立てて読みて下されと申してあろがな。臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かすのぞ、声出して読みてさへおればよくなるのざぞよ。”

 この文の言い回しも、地つ巻で何回も指摘したとおり、ただ、声を出して“日月神示”の文を読むなんてことではなく“神示 声立てて読みて下され”は、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)を、よく観て、そして自分が思うよいカタチのことを思い、自分が霊的に高ければ、高い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、低ければ=自己奉仕者ならば低い欲望で出来た今の世界のような創造をする事を指し示しているし、その心の動き=息吹は、“声”もその一部であるし、それを“臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かす”なんて称されているが、すべての存在が観ている=“観察と認識”をしている事をよく自覚せよって事だと思う。
 だからこの文の冒頭と末尾の言葉をつなげばすぐその意味はわかるものでもある。 
それは“此の神示”=神が示した意味、それを認識(悟り、幸取=さとり)して“声出して読みてさへおればよくなる”=自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)として、事象に顕現せよってことでもある。

 次の文。

“じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行であるから務め務めた上にも精出して呉れよ。それがまことの行であるぞ。”
  
 これはローム太霊の指し示した“行業一致”と、世為人為これと同様の意味を感じさせる。
すべての事象に自分の心(靈)の動きを顕現すること(事象の“創造”)、それは、業務の業であろうが“行”であろうが、その区別をしているのは人の立場でしかなく、すべてエネルギーを贖う(あがなう)事であるから、生体内電流の増幅と発振、発信になるし、どの部分のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)=どの心(靈)(本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動)を使っているのかによるものである。
しかし霊的成長は ○ 九 十、真実=真固止、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であるし、そう感じられるものでなければならないからこそ、心(靈)の動きには“上”と“下”があり=“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)があり、それを基準にして自分が自分の心(靈)の動きを見極める=“身魂掃除”“身魂洗濯”して、どんな業務だろうが“行”だろうが人は頑張らなければならず=“仕事は行であるから務め務め”と言われ、さらに“精出して呉れよ。それがまことの行である”と言われていると思う。
その意味で次の文。

“滝に打たれ断食する様な行は幽界(がいこく)の行ぞ。”
 
 この文の“幽界(がいこく)”は、腹の段階の心(靈)、マニピューラチャクラ、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを指す。 
 脊椎動物は、脊椎を持たない段階の生命から進化して、自我を持ち、自我を持つことそのものが自己と他者を認識することであり、それは独り神(ひとりがみ、日取り神)になるためにどうしても必要な進化過程でもある。 
 そして自分の内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象の区別も、自我が無ければ認識しうるものではないと思う。
 そして、滝行も断食も、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、腹から下のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の刺激が中心の“行”であるし、今後=アセンション後は、それだけではダメで、本当に、これからの人間が行わなければならない“行”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは天意の受信、天意を=“上”からの荷電粒子、電磁波、神の思惑を自分の心(靈)と肉体(身魂)に、真に固く止める=真固止の人(日止、霊止)にならなければならないし、“日月神示”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを説いているのだから、それを意識せよって事だと思う。

 次の文。

“神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生れる食物(たべもの)頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。
此の事よく心得よ。”

 この文の冒頭“神の国のお土踏み”は、“神の国”は神性が発現した心(靈)、そして“お土踏み”は、肉体=土を下にする意。
だからそれは“一二三”のオーラに縦の磁束、(たてぼう、こん、縦の磁性))を足した表記が“王”であり、それは人(日止、霊止)の完成を示す表記であり、“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずすと、土って表記になる。
 そして今までの地球人の進化過程は、土=2~3番目のオーラの進化であり、土=2~3番目のオーラを“一”=智性=1番目のオーラに“行”で昇華させることが、目上(めうえ)の脳内で電磁誘導を起こし、脳内に高分子化したたんぱく質を増やす太陽凝視でもある。
(しかし、太陽凝視の初心者は、いきなりこの段階には入れない。 太陽凝視をやり始めた当初は、下のチャクラから刺激されるから=太陽の低い振動としか、感応共振しないから、腹の“行”=不食のような状態になるが、これは過渡期であるし、太陽凝視は智性(神性)の“行”であるからこそ、このこと(不食)事態にたいした意義は無いと思っている)
 そして“神国の光いきして”は、神性を発現した心(靈)(“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))は、“光いきして”=光を吸収して、“神国から生れる食物(たべもの)頂き”=これは少し揶揄(やゆ)した表記で、この文の“食物(たべもの)”を、普通の食事と解釈するとこの文の意味は通らないし、要は、“神国”=智性(神性)が発現した心(靈)から発信される息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それは振動であり(普通の食事でも物質という低い振動ってことでもあるが)、その振動を食え=吸収せよって事だと思うし、それがまた、天意の受信という事と同義。
 そして“神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬ”は、“行業一致”の業務の業でも、すべて生体内電流に変換されそれをまた発振、発信することであることを先ほど述べたが、それは低い“思惑の顕現”=現象化、低い事象の“創造”でしかない。
 またその低い思惑しか持っていない心(靈)の“思惑の顕現”=事象の“創造”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出し、増大させている恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた今の事象であり、そこに居る大半の人は、仏教でいうところの、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の動きになっている。

(貪は、むさぼる。本能由来の行動。 瞋は、目をむいて感情をあらわにする。 そして智性(神性)を無視する意味で白痴の痴)

 だからこの文は、もういい加減その段階を卒業せよ、自分が行う“業行”(生業(なりわい)と“行”)は、どんな意味があるのか、その“業行”(生業(なりわい)と“行”)で得た“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)はどう扱うべきなのか、それを考えるべき、そのことを示唆しており、そうなれば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になりうるし、そのこと、奉仕者になることが霊的進化の一側面でもある。
 その意味で低い行、先ほどの文の“じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行である”という段階から、だんだん進化すれば“神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬ”の、“仕事”における生体内電流の獲得という“行”は、必要ではなくなるってことを述べていると思うし、今の地球人は、自我の確立=固定化から自我の肥大という腹の“行”をしているから、物欲の奴隷、(通貨としての)金の奴隷、自分の低い心(靈)の動きの顕現(低い功名心と自尊心、縄張り意識、ディスプレイ(動物の発情行動)(自分を認めてもらいたい心(靈)の動き)が中心の心(靈)の動きになっている。
今述べた心(靈)の動きは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、マニピューラチャクラの心(靈)の動き)しか、していないものだけれど、今後、(アセンション後に移行できるごく少数の)人は、“日止、霊止”になる過程を歩むのだから、“神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬ”=智性(神性)を発現し、それを行使し、事象の顕現に活かし=“おん仕事してゐる臣民”は、“(低い段階の)行は要らぬ”ってことを述べているのだと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第四帖 Kellyさん的解釈



 今回も、日月の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

戦済みても後の紛糾なかなかに済まんぞ。人民いよいよ苦しくなるぞ。
三四五(みよいづ)の仕組出来ないで、一二三(ひふみ)の御用はやめられんぞ。
此の神示読んで三四五の世の仕組よく腹の中に入れておいて上(かみ)の人に知らしてやりて下されよ。
三四五とはてんし様の稜威(みいづ)出づことぞ。
十月二十日、ひつ九のか三。

まず、冒頭の文。

“戦済みても後の紛糾なかなかに済まんぞ。人民いよいよ苦しくなるぞ。”

この文も、“日月神示”が書かれた当時のこと、単なる戦争のことを言うているのではなく、自分の心(靈)の中の葛藤、自省にいたるため、自我の肥大と、自分に内在する悪を自分で認めるその辛さ、その戦いを述べていると思う。 
だからそれは、自分が思っていること、やっていることが正しい、そう思いたい、そういう思いは誰にでもある。 
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自分の行為における悪を認めないし、保身の気持ちが強いからただつっぱるだけ、しかし、それでは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番である自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至らない。 
だから“上”は神の咎め=バチを当て、間違っている事を間違っていると示し、自省させるし、それがローム太霊が伝えた右往左往から左往右往の意味の一部でもある。
そして自分の心(靈)の動きを自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出していく。 そうすれば、みずから霊的進化の法則性、道理(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を見出していき、自分にとっての“善(神格化の方向性と智性の受信)”は、なんなのかってことを自分で認識していくようになる。
そしてその過程が“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”という表記から感じ取れる事でもある。

次の文。 

“三四五(みよいづ)の仕組出来ないで、一二三(ひふみ)の御用はやめられんぞ。
此の神示読んで三四五の世の仕組よく腹の中に入れておいて上(かみ)の人に知らしてやりて下されよ。
三四五とはてんし様の稜威(みいづ)出づことぞ。”

 この文の“三四五(みよいづ)”は、今まで何回も解釈したとおり、まず“三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
“四”は発振、発信。
“五”は糸巻きの象形文字で神経が密になる様子。 
そしてそれは、生物の進化を見ても神経の発達があり、神経が密になれば、だんだん心の発現が多様になる。 それは、ミミズ、ヒル、ゴカイ君は、下等な本能って心(靈)の発現しか持っていないことを、“目上(めうえ)と目下(めした)”を説明したときに何回も引用した。
また、生物の進化は、心(靈)の発現そのものでもあるし、心(靈)の発現のために肉体の電気特性の変容(神経や骨で電磁石の構造を持ったり、高分子化したたんぱく質は、低分子のたんぱく質より複雑な磁束を発生させる)があり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程で、神経は多く“慈(しげる)”ものである。(“慈悲”と“慈愛”の“慈(しげる)”)
そして、“慈(しげる)”という字の下半分に、心(靈)が書かれているところに着目して欲しい。
画像で“慈(しげる)”の意味を示す事とする。
“慈(しげる)”の解字


要は“三四五(みよいづ)の仕組み”は、肉体の進化、神経が密になること、そしてそれは高い振動との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で神経が密になる意味で、般若心経の“波羅密”を思い起こさせるものでもある。 
また、すべての生命は、“上”からの荷電粒子=神の思惑、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と、それを仲介する太陽、そこからの電磁波の影響で進化し続けているものであるし、その秘訣が、肉体に発現する磁束によるローレンツ力  ローレンツ力  でもある。
そしてローレンツ力の強化が、“行”の意味と意義であり、“日月神示”表記ならば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。
このことを理解していれば“三四五(みよいづ)の仕組出来ないで、一二三(ひふみ)の御用はやめられんぞ。”の意味はすぐわかる。 
いうまでも無く“一二三(ひふみ)”は、頭、胸、腹、三つのオーラの事で、それを言い換えれば、智性(神性)、“慈悲”と“慈愛”、そして事象の“創造”のエネルギーは、腹にあり、それは“江戸と尾張”でもある。
 要は高い思惑=“上”との感応共振をして、“上”の思惑を取り込んだ思想、それは“慈悲”と“慈愛”に満ちた心(靈)の動きになり、そうなれば自己奉仕者の腹の段階だけの心(靈)の動きによる事象の“創造”ではなくなるから“御用”=人としての使命(神の“思惑の顕現”)と称されている。
 だからそれは、次の文のように、腹に入れておけとも言われているし、腹の心(靈)の発現=自我は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と、“慈悲”と“慈愛”によって支配されるのが、進化=霊的成長、神格化に向かうことの順番でもある。

“此の神示読んで三四五の世の仕組よく腹の中に入れておいて上(かみ)の人に知らしてやりて下されよ。”

そして次の文。

“三四五とはてんし様の稜威(みいづ)出づことぞ。”

 あえていうまでもなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“三四五(みよいづ)”だから、そして神経が密になればなるほど、ローレンツ力の強化により“上”からの荷電粒子=神の思惑と感応共振する。
 そしてそれはより高いオーラの発振、発信になるものでもある。
 そして今述べたことは、上つ巻 第二帖の表記“日の光は神のこころ、稜威ぞ”の意味でもある。 そやから“稜威(みいづ)”については、上つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈からコピペして、以下に貼って示す事として、今回はこれくらいにしときまんねん。

大事な事は、“神のやり方は日の光”と、“稜威ぞ”で、この言葉は、“イツ”古代日本語で、“イチ”が変化した言い方で、それは、激しい雷光のような威力って事らしいやん。 ほんでからに、“稜威”を辞書で見ると、威稜とも言われ、その意味は、神霊の威力。みいつ。天子の威光。 類義語として、威霊って表現もある。
 そやから、Kellyさん的に思うんは、天子の威光、これは天意を受けた人のオーラの事やと思いまんねん。 それを言い表した言葉が“稜威”やと思うし、ほんでからにそう言う高くなった霊的存在を“威霊”…そう呼ぶと思いまんねん。
 そやからそれは、この言葉は大体、神さんや天皇の権威を示す言葉として使われてるんやけど、ほんまの天皇っていうのんは、天=“一” + 胸の磁性“十” + 人、ほんでからに“白”と“王”。 この言葉そのものが霊的進化したオーラを示す事でんねん。 この場合の“白”っていうのんは、クンダリーニの白光で、白い光は、波長の短い高い振動を相対的に観察した時の色でもあるし、それは、身体内のシンクロトロンの構造に由来するっていうのんが、先生の説で、先生が太陽凝視を教えてくれたKさんのオーラを観測し30年以上考えて得られた結論のひとつでもありまんねん。
ほんでから、肉体がシンクロトロン様の構造を持つには、胸の磁性“十”の強化と、手足の神経(電磁石として)の発達と、頭の磁性の強化が必要で、“行と修行”による生体内電流の質の変化と、量を獲得せんならん。 そやからそれは、心(靈)の動きとしての自省(胸の磁性“十”)の行と、電気行と、太陽凝視による高い振動=神さんの思惑の取り込みっていうのんが必要でんねん。

(引用終わり)

“日月神示”日月の巻 第五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、日月の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国には神も人も無いのざぞ。忠も孝もないのざぞ。
神は人であるぞ。山であるぞ。川であるぞ。
めである。野である。草である。木である。動物であるぞ。
為すこと皆忠となり孝とながれるのぞ。死も無く生も無いのぞ。神心あるのみぞ。
やがては降らん雨霰(あめあられ)、役員 気つけて呉れよ。神の用意は出来てゐるのざぞ。何事からでも早よう始めて呉れよ。神の心に叶ふものは どしどしとらち明くぞ。
十月二十一日、一二 ローレンツ力と ○

 冒頭に出てくる言葉の“神の国”は、やはり智性(神性)が発現した心(靈)。 決して右翼傾向の強い人が使う薄っぺらい言葉の“神国”ってことではない。 大体、今の日本人は、形骸の価値観(“石屋の仕組み”)に酔いしれてる人ばかりなので、とても“神国”の人間とはいえず、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)でしかない。
ほんでから前にも述べたけど、領土に縄張りを主張するような心(靈)の進化過程、それは自国の利益しか考えない発想であるからこそ、それは、地球全体や、現津(あきつ)、観察され得る事象全体のよいカタチを考える発想ではない。 だからそれは、自我の肥大であり、その霊的成長度の認識が、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)を持つものである…って、いきなり余談やった。
そしてこの第五帖に出てくる“忠”と”考”、それは忠義の忠と親孝行の考っていえば分かりやすい。 またこの二つは、儒教では、徳目とされている。 
まあ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)には、形骸の忠義と形骸の孝行しかないけれど、この二つは人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にとってはどちらも重要な事であり、それはまた、自分の心(靈)に(“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)っていう字が含まれている)誠実さってことがないと、実践できない事でもある。
そやけど忠と考、それは他者に対することや外側(外国と幽界)の事象に対する事が多い。 
しかしこの文は“神の国には神も人も無いのざぞ。忠も孝もないのざぞ。”って言われているから、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)におけることって思うし、それは、智性(神性)を得ようとする心(靈)の中、自分の心を自分で観るときには、自分自身を自分が観るのであるからこそ、神も人も無く、忠も考も関係がないってことだと思うし、ひたすら霊的成長を求める心の動きには、ただただ自分との戦いであるからこそ、外側(外国と幽界)の事象に対する忠と考などということは、考えないものでもあるし、これは形骸の“行”ごっこではなく、もうこのまま死ぬのではないかと思うくらいのぶっ倒れるほどの“行”をやった人間でないと理解できない事だと思う。
そして、その後の文で、“為すこと皆忠となり孝とながれるのぞ”って言われているのは、霊的成長して智性(神性)の発現した心(靈)=“神の国”が、天意を受信して(“天詞様”)その思想はまたこの文で“神心”っていわれていると思うし、そうなればそれは、誠実さを、外側(外国と幽界)の事象に顕すことが自然になるって言い回しだと思える。 そやからそれは、霊的成長した人は忠と考が本当に(まことに)行動に現れるっていう、至極当たり前のことやな。
ほんでからこの第五帖の“神は人であるぞ。”は、神の思惑を顕現する役目は人であり、人っていう字は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるって解釈をしてきているし、そして天意(“上”からの荷電粒子)を受け、自分の身魂=肉体と心に止める意味の表記が“日止、霊止”でもある。
そして“山であるぞ。”は、山=目上(めうえ)の脳、“川であるぞ。”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのこと。
“めである。”は、目が“神国”(智性(神性)が発現した心(靈))を高める器官である事を示すし、現津(あきつ)、観察され得る事象に対するもっとも高度な観察は、視覚によってなされるものでもあるという意味。 それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことは、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を持つ両眼で、“上”の思惑=太陽からの電磁波を食い、吸収して、そして両眼から視神経を流れる生体内電流は、脳内で電磁誘導を起こし、左右の大脳半球で水平磁場を構成して、その水平磁場と縦の磁束で、たんぱく質の高分子化を起こし、だからこそ長年の太陽凝視は、(腹のエネルギーの一部でもある)精液の減少ってことが診られ、それは脳内の高分子化したたんぱく質に変換されているものである(ヨガでいうところのオージャス)との私見を(○○○大先生自身が、自分の体験に基づいて)持っている。
だからこの文では、“山”“川”“め”って順番で述べられ、次に述べられている“野である。”については、以前画像を作ったから画像で意味を示す事とする。
野の解字 (富士の巻 十七帖)


そして次の“草である。”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ(芽生えるの意)と、太陽である“日”そして“十”(胸の磁性“十”、シンクロトロン放射)を示した表記である。このことも何回も述べてきたのであえて詳しく述べないことにする。  
ほんでから次の“木である。”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記である。 
その次の“動物であるぞ。”は、人の肉体は、動物と共通であることを示すし、だから自我から“下”の心(靈)ばかりになると人は“ケダモノ”のような行動をとるものでもある。 
そしてそれは以前、下つ巻で何回か解釈した“家”の意味、それは宀(うかんむり、頭の意味)と豕(しぶ、ぶた、家畜の意味)智性(目上(めうえ)の脳の働き)を発現する人の(動物と共通する)肉体っていう意味だと思う。 しかし人間でも、所詮先祖は猿ってことで、自我の肥大した人に限りこのことを忘れているからこそ“動物”って表記が使われ、少し揶揄(やゆ)されている感があるな。
そして“為すこと皆忠となり孝とながれるのぞ。”は、先ほど解釈したとおり。 
次の“死も無く生も無いのぞ。神心あるのみぞ。”は、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)のこと、意識は永遠の実在であり、それを観察している自分も永遠であるからこそ、生きる死ぬなんてことは(自分の内面とか内側(心の中と感じている事)において)、状態の変化でしかないってことを言っている。
ほんでから“やがては降らん雨霰(あめあられ)、役員 気つけて呉れよ。神の用意は出来てゐるのざぞ。”は、アセンションのことを言っている。 
あえて解釈する事でもないけれど、アセンション後に移行出来うる、次の段階の“創造”を担うことが神から認められる霊的成長度の人=“役員”に対して“気つけて呉れよ。神の用意は出来てゐる”って言われ、だからこそ“神の用意”以外のことは、人間の霊的成長の問題でしかない事を言っている。 
その意味でも今の人間は“何事からでも早よう始めて呉れよ。神の心に叶ふものは どしどしとらち明くぞ。”っていうこの文の意味をよくかみ締め、自分が外側(外国と幽界)の事象に対し、忠と考を実践するくらいになり、それはまた“神の心に叶ふもの”でもあるだろうし、またそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))に沿った生命は“どしどしとらち明く”ものであり、その反対は、今いろんなことが暴かれている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”や、これから自滅の方向に向かう自我の肥大した人であることを(今更ながら)あえて指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第六帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマシキ、タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。
今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。 神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。
配給は配給、統制は統制ぞ。 一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。 それで神がくどう申してゐるのぞ。
種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。
上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ。
種は百姓に与へてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ。
十月の二十二日、ひつ九かみ。

まず、カタカナ表記の冒頭の文。 

“アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマシキ、タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。”

このことは以前も述べたけど、“日月神示”におけるカタカナ表記っていうのは“上”からの視点での言い回しであり、そして、ひらがなと漢字の表記は、こちら側、人から神に対しての視点だと思う。 だからそれは、神(“創造”の“主(ヌシ)”)と人って関係があり、それは大局的に見れば、“上”と“下”ってことになる。
さらにこのことを言い換えれば“上”=神の視点、神の観察、神の認識。 “下”=人、言い換えれば人(が進化して天意を受けることが出来る“日止、霊止”)の視点、観察と認識ってことになる。
このことを踏まえ、今回の日月の巻 第六帖から始まる古事記の文のようなカタカナ表記のそれは“上”の思惑を述べていると思うし、これにひらがなや漢字を当てはめると、(“下”である人に)意味が通じるものだと思うので、その手法で読み解いていく事とする。
まず“アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト”、これは、天地の時、天之御中主(あめのみなかぬし)の命(みこと)。
あるいはこの命(みこと)に関しては、地つ巻 第一帖の表記の“実言(みこと)”を当てはめるのが妥当だと思う。 “実言(みこと)”については地つ巻 第一帖を見てもらうこととして、まず、天地(アメツチ)は、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である人、あるいは“創造”の思惑と、顕現した事象。 また、“思惑の顕現”=現象化を、(心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が=すべての生命が)観察行為により認識し始めた時といいうるし、重複する説明になるけれど“アメツチノトキ”の“ノ”(の)と“トキ”(時)は、観察をして認識をし始めた時、またこのこと自体が“創造”の始まりっていう意味を示すのだと思う。
それで、“アメノミナカヌシ”天之御中主(あめのみなかぬし)は、この“中”っていう表記が大事、それは場(フィールド)を示す、囗、に、|(たてぼう、こん、縦の磁性))が、“上”から“下”へ貫いている表記でもあり、それは天=“上”=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である事を示唆している。 そして“主(ヌシ)”っていう表記、これは以前作った画像で意味を示す事とする。
主(ヌシ)の解字
事象の“創造”、そして場(フィールド)の成り立ちは、この画像の縦の磁性と三つの水平磁場で構成されていると思うが、この解釈の詳細についてはとても長くなるので、別の機会に簡単に説明する事とする。
(また、S会=紫光会の経文、四空経録にも、このことを指し示す表記があるが、直接アタシに連絡をくれた方で、太陽凝視を真剣に行う姿勢のある人にしか述べないこととする。 by ○○○大先生)
また、“主(ヌシ)”という表記は、生命(生きる使命=存在理由)が霊的成長して独り神(ひとりがみ、日取り神)になり、この次元の宇宙とは違う事象を“創造”する心(靈)になるって言い換えてもいい。 
よって人は“主(ヌシ)”に成り得るし、その仕組みを育てて見守り、護る存在が“主護霊”=“主(ヌシ)”の仕組み(霊的成長と神格化)を護る“上”の霊という意味であるからこそ、ローム太霊は“主護霊”という表記を使え、こう書き記せ、と、述べた。 
…が、その言葉だけ利用して金儲けをした愚かな霊的成長度の人間(“役員づら”)は、“主護”って言う日本語がないから守護霊と書き換え、偽の情報を流布している。 また大半の人がこの事を知りえないのは、ありがたそうなことをただありがたるだけ、雰囲気を楽しんでいるだけの低すぎる人間ばかりの世界だからでもある。
話を戻し、次の“アノアニナリマシキ”は、“亜”の“あ”(愛(炁)の“あ”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)に成り増しき と、ひらがなと漢字を当てることとする。 
それはまず、“ア”=“亜”“あ”から解釈を述べると、“一”って表記が“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化っていう意味があることを今までも述べてきた。 
また“一”は、“メグリ”(帀)や靈の雨の部分の上の表記でもあるし、第六帖の最後の“百姓”の“百”など、いろんな漢字に含まれているものでもある。
それで、“一”についてだが、これは、こちら側=人から視点での向かって日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行させて書くのが“一”でもあるし、先にも述べたけどそれは、“亜”が出ずる、泉、であり、アイ=愛(炁)でもある。 だからこれは“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であり、“創造”そのものでもある。 またそれは“ナリマシキ”=成り(実現(実現は事象の“観察と認識”でもある)し、完成を目指すこと)増し(増える、弥栄(いやさか)と同義)気(電磁波、荷電粒子)で、それは、生命(生きる使命=存在理由)が発振、発信するオーラ=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))って事だと思う。
 次の“タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。”は、高天原に、命(あるいは“実言(みこと)”)と、成りたまひき。
高天原は、“上”の場(フィールド)、よって“上”の場(フィールド)で、“上”の思惑が命(“実言(みこと)”)と成りたまひきってことは、実行せよ、顕現せよ、それを命とせよって事だと思う。
よってこの第六帖のカタカナ表記は、ひとことでいえば、事象の“創造”の始まりを指し示し、それは神(“創造”の“主(ヌシ)”)の思惑で、その顕現=現象化を、“上”も“下”も=神もあらゆる生命も、“観察と認識”をしている事と、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始まりと根拠=“どういうつもり”を述べている文であると確信する。

次の文。

“今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。 神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。
配給は配給、統制は統制ぞ。 一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。 それで神がくどう申してゐるのぞ。
種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。
上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ。
種は百姓に与へてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ。”

 この文の大半は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いを指摘しているものであり、それが“今の経済は悪の経済”“もの殺す”“今の政治はもの毀(こわ)す政治”ってことでもある。 しかし今後=アセンション後に位置する(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、“神の国の経済はもの生む経済”“神の政治は与へる政治”をするものであり、それは霊的成長して自我から“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現しなら、必ずそうなっていくものであり、だから自我の肥大した人が“創造”している“石屋の仕組み”由来の事は、必ず壊れるものである。
 そして“次の四(よ)の種”=“四”は発振、発信の意味がある。 またそれは、上つ巻の表記の“よごと”=“善言(よごと)”これは、原文では“よごと=四五十”ではないかって思ったが、今はそのことについて確信を持っており、その意味は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、は、糸巻きの象形文字である“五”になる。 
それは肉体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い、神経が密になることを示す。 そして“十”は、胸の磁性“十”でシンクロトロン放射の構造でもある。
だから、その意味での“次の四(よ)の種”と解釈をするし、それは今が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍するダメな世界だからこそ、次のように述べられている。 

“次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。それで神がくどう申してゐるのぞ。種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐる”

これは、本当に真実=真固止を求め、この世界の良いカタチを追い求め顕現しようとする霊的成長度の人(日止、霊止)は、今、着目されていないからこそ“種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐる”のであって、今の世界はダメな物、神格化って視点で価値のないものばかりが流行る(インチキスピリチュアルやパワースポットなど、甘い夢を見させるなにか)し、霊的成長を示す何かは形骸に成り果てているってことを何度も指摘しているが、ほとんどの人はアセンションの真実を知りえず、霊的成長の厳しさを思わず、大体、大半の人は自分たちの存在の意義すら考えた事がない。 そんな人間が多数だからこそ、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が活躍し、甘い情報、偽の情報が氾濫し、それは本当の事を悟られたくない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑である。
しかしそれは時期が来ると“上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ”ってことに、必ずなるものであり、それが、ひそかに真実=真固止を追い求め、自分の心(靈)の動きの在り方を見出そうとする人生を送り、霊的成長を目指す“行”を行ってきた人は、必ず“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が見出し、世に出そうとするし、それが次の(アセンション後の)創造の要になる人(日止、霊止)でもあるし、これもアセンションに伴う神の計画であると確信する。
その意味で次の文の“種は百姓に与へてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ”は、この“百姓”は、農業に従事する人ってことではなく、“百”は、“一”(アイ、“亜”が出ずる、泉、愛(炁)、“創造”の“主(ヌシ)”の表記)の下に丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が書かれ、その下に太陽=日が書かれていることが重要。 
そして“百姓”の姓っていう字の偏(へん)の女は、砌(みぎり)の極性、事象の顕現を指し示し、旁(つくり)の生きるは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“青人草”(あおひとくさ)の“青”の上半分で、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と同様の意味を持つ。
それで以前紹介した、“百千万(ももちよろず)”の画像、この中で“百”の意味を述べてあるし、それと“女”と“青人草”(あおひとくさ)の解字を以下に貼って、今回はこれくらいにしときまんねん。

百 千 万 の解字と解釈
女の解字、丿部(へつぶ)乚部(いんぶ)“一”=智性=1番目のオーラ
“青人草”(あおひとくさ)の解字

“日月神示”日月の巻 第七帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ツギ、タカミムスビ、ツギ、カミムスビノミコトトナリタマイキ、コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ。
岩戸ひらく道、神々苦むなり、弥ひらき苦む道ぞ、苦しみてなりなり、なりゑむ道ぞ、
神諸々なり、世は勇むなり、新しき道、ことごとなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道、ことごとくの道、みいづぞ。
十月二十四日、一二 ローレンツ力と ○

 まず、冒頭のカタカナ表記。

“ツギ、タカミムスビ、ツギ、カミムスビノミコトトナリタマイキ、コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ。”

この第七帖の冒頭も、前回の第六帖と同様にカタカナ表記で始まっているので、古事記を参考に漢字とひらがなをあててから解釈する事とする。 そうすると以下のようになる。

次、高御産巣日神(たかみむすび)、次、神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)と成りたまいき、この三柱 素(す)に成りまして 巣(す)見切りたまいき。

まず、“高御産巣日神(たかみむすび)”、これは、高=“上”、そして御を使うのは、相手や第三者に対する敬意とともに、相手のもの、相手に関するものであることを表すし、また和らげた命令表現のときにも使う(御黙り、御入り(おはいり)など)、よってこれは、第六帖で解釈したこと、それは、事象の“創造”を“上”が思い(想い)、そのことを使命とした(命、“実言(みこと)”)、言い換えれば“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を、顕現=現象化として、生命(生きる使命=存在理由)が感じうる(“観察と認識”)、事象の“創造”を、命としたことを指し示すことだと思う。 
そして、産む=“創造”そのもののこと。 
巣については後述する。 
日=太陽、これは大極の天意(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を送る)として個々の生命(生きる使命=存在理由)は、認識し、太陽は“上”の思惑を荷電粒子として送信しているし、地球の場合は地球と人と地球上の生命すべてに送信する存在。
神=示す偏(へん)と呂、その意味は、荷電粒子の回転(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) “その六”(129ページ)で、簡単に述べたことでもある)。
そして、神産巣日神(かみむすび)之命(“実言(みこと)”)は、神=荷電粒子の回転、産む=“創造”。
巣については後述する。
日=太陽、神=荷電粒子の回転。
“之”は、これ(此れ、是、維、惟など)、そして、行く(時間の進行)の意、また“これすなわち”の意もあり、だから“之”は、“命(“実言(みこと)”)と成りたまいき”にかかるから使われている。
よってここまでのカタカナ表記は、独り神(ひとりがみ、日取り神)である“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)は、天地初発の時、唯一神であるからこそ一つの意識でしかなく(独り神(ひとりがみ))、だから自分以外、自分と他の存在、自分と他の場(フィールド)を想像し(思惑)“創造”することを、命(“実言(みこと)”)とした。 
このことは、ローム太霊との出会い おめでとう 天の御目(あめのおめ)の太神 の72ページ以降ですこし述べた内容でもある。
またそれは、すべての事象の成り立ちは、第六帖の“アノアニナリマシキ”=“亜”の“あ”(愛(炁)の“あ”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)に成り増しき という表記のように、アイ、愛(炁)、“亜”が出(いずる、泉)で成されていることでもある。
そして生命(生きる使命=存在理由)が感じ(感じる磁性)るのは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑(天意)で、それは普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)でもあり、その大極からの思惑を受け止め増幅して送るのが、日=太陽である。
さらに、“カミムスビノミコトトナリタマイキ”= 神産巣日神之命(“実言(みこと)”)と成たまいき は、大極の荷電粒子の回転(“上”)(神)は、巣を創造(産)し、太陽(日)を介して“上”の思惑を送り、そして神産巣日神之命の後半三文字の神之命は、個々の生命(生きる使命=存在理由)を神(荷電粒子の回転)とすることを、命(“実言(みこと)”)としたと読み取れる。
そして“コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ”=“この三柱 素(す)に成りまして 巣(す)見切りたまいき。”
まず、この文の“コノミハシラ”“この三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)のこと。
そして“スニナリマシテ スミキリタマイキ”の“ス”には、素(す、もと、原材料の意)と巣(すみかの意、何々の巣、愛の巣など、場(フィールド)を示す意味とも解釈も出来る)を、あてることとした。
そう思ったその根拠は、前回の第六帖のカタカナ表記の部分の纏め(まとめ)として、次のように述べたことによる。 
以下に第六帖から引用する事とする。

“事象の“創造”の始まりを指し示し、それは神(“創造”の“主(ヌシ)”)の思惑で、その顕現=現象化を、“上”も“下”も=神もあらゆる生命も、“観察と認識”をしている事と、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始まりと根拠=“どういうつもり”を述べている文である”。(引用終わり)

それで第七帖では、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物としての人(日止、霊止)が見る視点、見方が述べられているのだと思うし、それゆえ、第七帖では事象の始まりの原因、根拠、そして材料というこちら側としての認識を示す事が述べられているのであると思える。 
それを思った根拠としては、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ス”の音根は生命発現の基(もと)、すなわち真澄(ますみ)の素(もと) 巣の意の音根 こう称されているからでもある。 
よってこの文の“ス”に素(す)と巣(す)をあてるのが妥当だと思う。
またこの“ス”は統一(みすまる)の“ス”でもあると“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には書かれてある。 
また、統一(みすまる)は、“男(日足(ひたり)の極性の現れ)が知るべきみずから統一すべ治(し)らすの言霊”、こう記載されている。
それだからこそ伊耶那岐(いざなぎ)(男)の“岐”は、思想=山(脳の意)と支(ささえ、えだ、わけるの意)で構成されていて、思想のわかれ、支えっていう意味で伊耶那岐(いざなぎ)の“岐”があてられているものでもある。
よってすべての事象の成り立ちは、伊耶那岐(いざなぎ)の“岐”、それは日足(ひたり)=思惑、その顕現(事象として観察され認識されうること)は、砌(みぎり)(女の極性)であることが、事象の“創造”そのものでもあるのだけれど、古事記に書かれているように伊耶那美(いざなみ)のほうから伊耶那岐(いざなぎ)に声をかけた(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き))ことが、この事象の“創造”の失敗。 
そしてそれはローム太霊が伝えた、右往左往と左往右往でもあると思う。
(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)
だから“素(す)に成りまして 巣(す)見切りたまいき”は、“創造”の材料、“亜”=素(す、もと)は、場(フィールド)としての巣(す)を“創造”するが、それはよいカタチの“創造”は“見切りたまいき”でなければならないことを述べており、当然のことながらその事象の“創造”は“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”の場(フィールド)でなければならないし、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもあるし、また、このことそのものが神(“創造”の“主(ヌシ)”)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
これが、第七帖のカタカナ表記の纏め(まとめ)であると思う。

そして次の文。

“岩戸ひらく道、神々苦むなり、弥ひらき苦む道ぞ、苦しみてなりなり、なりゑむ道ぞ、
神諸々なり、世は勇むなり、新しき道、ことごとなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道、ことごとくの道、みいづぞ。”

これは、“うれしうれし”“大歓喜”の場(フィールド)の“創造”に関する事が書かれてあると思う。
“岩戸”は、古事記の岩戸開き、それは“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く。 これはチャクラでいえば、マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒にいたること、心(靈)の動きでいえば、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の発現。 これは脊椎動物の進化の順番でもあり、心(靈)の発現が“上”に向かうことでもある。
またその過程が、右往左往(自我の肥大による行動で失敗をする)から左往右往(失敗を教訓として今後の創造をする)ことを示唆している。 
そしてそれは“道”(時間の進行、生命の進化)であるといわれ、だから個々の生命(生きる使命=存在理由)、それは神の素(す、もと)であり、それが進化するには“苦しむなり、弥ひらき苦む道ぞ、苦しみてなりなり、なりゑむ道ぞ、”であるし、この文で使われている弥栄(いやさか)の“弥”は、画像で意味を示す事とする。
彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字



そして“神諸々なり、世は勇むなり、新しき道、ことごとなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道、ことごとくの道、みいづぞ”は、この文の“神諸々”は、荷電粒子の回転、もろもろの生命=独り神(ひとりがみ、日取り神)の素(す、もと)は進化して創造をする。 
それが“世は勇むなり、新しき道、ことごとなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道”っていう文で示され、それは先ほどのカタカナ表記の“神産巣日神之命(“実言(みこと)”)”の“神之命(“実言(みこと)”)”と同義で、それは個々の生命の進化の目的が独り神(ひとりがみ、日取り神)である事を示唆する。 だから個々の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“世は勇むなり、新しき道、ことごとなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく”と成りうるものであり“神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道”は、個々の生命の発振、発信(四、“四五十”“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信の“四”)は、“上”と“下”、日足(ひたり)と砌(みぎり)の四方に開くものである事を示す。 
だからそれは、個々の生命が進化して行けば(“道”=時間の進行)、それは、“なる世の道”で、生命の完成=独り神(ひとりがみ、日取り神)になることであるって言われている。
それでこの文の最後の“みいづ”は、上つ巻 第二帖の“神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。”の“稜威”で、この言葉そのものの意味としては、神霊の威力、天子の威光、類義語として、威霊って表現もあるが、天子の威光、これは天意を受けた人のオーラの事で進化して神格化した生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“四”であることを(今まで何回もいうたことでもあるけれど)今さらながらあえて指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第八帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ツギ、ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ アレイデタマイキ。
瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。
野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。
すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。
間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急(せ)けるぞ。役員も気配れよ。
旧九月八日、ひつ九のか三。

 まず冒頭のカタカナ表記、これも、第六、七帖にならい、漢字とひらがなをあてて解釈する事とする。 そうすると以下のようになる。

“次、宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、命(“実言(みこと)”)と成り成りて 出生給いき”

順序が逆になるが、この文の後半は“命(“実言(みこと)”)と成り成りて 出生給いき”と記されている。 これは“命”“実言(みこと)”、発振、発信された思惑が使命として“成り成りて 出生給いき”=完成を目指し発現した(出生給いき)であると思う。 
また、ここで述べられている文が“創造”そのものの意でもある。
それはなにを示すかというならば、第六帖で天之御中主(あめのみなかぬし)、第七帖で高御産巣日神(たかみむすび)、神産巣日神(かみむすび)之命のことが記されていた。
そのときに述べたが、天之御中主(あめのみなかぬし)の“中”は場(フィールド)を示す、囗、に、|(たてぼう、こん、縦の磁性))が、“上”から“下”へ貫いている表記であると解釈した。 
そして高御産巣日神(たかみむすび)神産巣日神(かみむすび)之命については以下のように解釈した。

“大極の荷電粒子の回転(“上”)(神)は、巣を創造(産)し、太陽(日)を介して“上”の思惑を送り、そして神産巣日神之命の後半三文字の神之命は、個々の生命(生きる使命=存在理由)を神(荷電粒子の回転)とすることを、命(“実言(みこと)”)としたと読み取れる。
そして“コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ”=“この三柱 素(す)に成りまして 巣(す)見切りたまいき。”
まず、この文の“コノミハシラ”“この三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)のこと。
そして“スニナリマシテ スミキリタマイキ”の“ス”には、素(す、もと、原材料の意)と巣(すみかの意、何々の巣、愛の巣など、場(フィールド)を示す意味とも解釈も出来る)を、あてることとした”(引用終わり)

だからこそ次のようにも解釈した。

“第七帖では、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物としての人(日止、霊止)が見る視点、見方が述べられているのだと思うし、それゆえ、第七帖では事象の始まりの原因、根拠、そして材料というこちら側としての認識を示す事が述べられているのであると思える”(引用終わり)

それは、すべての生命が観察しうる事象の成り立ち、あるいは天地初発、違う宗教の言葉なら天地創造っていってもいいけど、これらはすべて、縦の磁束(天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性)そして水平磁場によって構成され、水平磁場があるがゆえに、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が発現するものである。
また、大極の“上”“下”(天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性)に対しての日足(ひたり)=左、砌(みぎり)=右、その両端には、“亜”の低振動化した何か(たとえば物質とか)が、出来上がるものでもある。 
また、その、日足と砌(ひたりとみぎり)両端の低振動化した部分は、中心とは違う電気特性を持ちうるものでもある。 そして人が観察しうる日足(ひたり)と砌(みぎり)は、ほんの少し例を挙げれば、(平面を観察するときの)左右でもあり、あるいはすべての事象の陰陽でもあり、生物においては、進化した生物ほど左右相称動物であり、また性別の違いが発現し、それはオスメス、人(日止、霊止)においては男と女の違いにもなる。
ちなみに、とても重要な概念なので補足として簡単に述べるが、事象の成り立ちというのは、生命が、心(靈)が、荷電粒子の回転で構成されているからこそ、感じ(感じる磁性)、感じる対象は、自分以外(一個体の心(靈)、それは一個体の霊=○、荷電粒子の場(フィールド)以外という意味)の電磁波の影響を受けるからこそ、“観察と認識”である。
それは、観察=電磁波の受信と、認識=受け取った電磁波の増幅(“畐”の意、そして“畐”は吹く=発振、発信になり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、他の存在に影響を与える)(また“畐”は、心(靈)の中の=認識内の思想と言い換えてもいい)が成立するし、“観察と認識”が無ければ事象は成り立たないし、“観察と認識”というすべての生命における心(靈)の行為が無いとするならば、すべての事象は実在ではないとも言いうる。
また前後するが、縦の磁束と横の磁束で、縦の磁束をローレンツ力で回転する荷電粒子は、シンクロトロンの構造になるし、水平磁場の中に電荷を持つ何かが存在すれば、回転する磁界が発現する。 
これらの詳細については、違う項目で私見を述べることとして、話を戻し、その大極を中心としたシンクロトロン放射が、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)であるという認識を(○○○大先生は)持っている。 
そしてこのことは、第六帖の“アノアニナリマシキ”=“亜”の“あ”(愛(炁)の“あ”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)に成り増しき、であり、これが“亜”が出ずる、泉、アイ、愛(炁)そのものであると思う。
そして、大極(天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性)と水平磁場によるシンクロトロン放射、これは(生物として完成されつつある人(日止、霊止)という意味での)人間の肉体と相似象であるし、すべての事象が共通の法則性(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を持っているからでもある。
そしてこのことは、宇宙が巨大人の構造を持つというエマヌエルスウェーデンボルグと○○○大先生自身共通の認識でもある(だが、エマヌエルスウェーデンボルグは、大極や磁極性などについての分析を述べていない)。 
また、地球と地球人がいる位相は、現時点、巨大人の腹の中であり、それが“上”に向かうのがアセンションであると前のブログで説明した。
だからこそ人は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”(自己観察)をして、自我中心、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸の心(靈)の動きである“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現し、さらに、天意を受信できる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した肉体を持とうとする人間(“上”からの荷電粒子を止める意味での“日止、霊止”)でなければ、巨大人の腹から、(大日如来で示されている)条帛(じょうはく)(フォトンベルト)を介して、“上”に向かう資格は無いってことでもある。
さらに話を戻し、縦の磁束と横の磁束、それぞれのローレンツ力、そして電荷を持った何かの圧電、誘電、電磁誘導で、すべての事象は構成され、(“上”の思惑、天意の受信、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との相互干渉により)創造されている。
そしてそれは、すべての生命、唯一神である“創造”の“主(ヌシ)”であろうが、地球上にいる一番下等な生物、古細菌であろうが(このことは“改”で少しだけ述べている)、すべてに共通の法則性を有しているし、そして神の子である人(日止、霊止)は、縦の磁束と横の磁束が進化して出来た肉体と心(靈)を有している=顕現している。
それで今回の“宇摩志阿斯詞備比古遲神”という言葉には、その意味を感じるので以下に一字一字解釈を述べる事とする。
まず宇摩志阿斯詞備比古遲神の“宇”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“千”、宀(うかんむり、頭の意味)は天意、“創造”の“主(ヌシ)”の意思、“創造”の思惑。 そして“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)とシンクロトロン放射の構造を示す“十”。
“摩”は广(まだれ)(頭蓋骨の意、あるいは灰分(かいぶん)の結晶化した部分)と林=胸の磁性“十”左右と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして手。 これは進化した生命(手が発現し始めた段階以上の生命っていう意味がもつ、肉体のシンクロトロンの構造。 また天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性に対しての、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を指し示す事であると思う。
“志”は、“一二三”のオーラの“一”と“二”の上に突き出ている|(たてぼう、こん、縦の磁性))と、心(靈)。 それでこの|(たてぼう、こん、縦の磁性))は、“上”から“下”に書く=天意が下降したものでもあるし、“亜”の低振動化を指し示すものでもある。 もう一度述べれば、この場合の“一”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのもので、天意そのもの=“亜”そのものであるが、それが泉のように出なければ、“アイ”愛(炁)ではないし、それは“上”から“下”に降りなければ、事象の“創造”にはなりえないってことでもある。
“阿”は、この字の意味そのものが、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、おもねること、こういう意味があるが、それは“亜”が“上”から“下”に下降し、変容している状態を指し示すものであると思う。
“斯”は、この字の意味として、これ、この、ここ、ここに、すなわち、かく、かように、このように、の意味がある。 これは天意が下降して=愛(炁)による“創造”で、創造されうる場(フィールド)の位相を特定する表記であると思う。
“詞”は、詞(ことば)、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)の動き=“亜”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を指し示す表記。
次の“備”“比”は、これ(比)備わるの意。
“古”は、場(フィールド)の意味を示す表記と、振動の受信の意味を持つ“口”。 これにシンクロトロンの仕組みである“十”をくわえた表記。
“遲”は遅の旧字、おくれる、おくらす、おそいってい意味があり、当然のことながらこれは時間の進行っていう意味での後、後発ってことの意味で、天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)よりも、後発であるという意味。
そして“神”はいうまでも無く荷電粒子の回転を示す表記。
また、“比古遲”の“ヒコ”は、日足(ひたり)(ヒメに対してのヒコ(彦)で、男の極性)を表している。 これは“創造”は日足(ひたり)の極性で成されるのが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)ことを示している。
よって第六、七、八帖は、“創造”そのものの仕組みを述べていると思える。
 
それで次は、第八帖の残りの文。

“瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。
野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。
すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。
間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急(せ)けるぞ。役員も気配れよ。”

 これはここまで“日月神示”Kellyさん的解釈を読んだ人には、あえて解釈はいらんと思うけれど、簡単に述べれば、“創造”の法則性は“善(神格化の方向性と智性の受信)”であり、今、間違った“創造”に加担している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し“瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでない”“味噌も糞も一つにするでない”と指摘され、自己奉仕者の“創造”、“思惑の顕現”=現象化は、天意を受けて自分の認識(悟り、幸取=さとり)にしていないからこそ“すべてにまつろう事と申してあろがな”“神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れ”と言われ、この分の“まつろう”“政治の政、“政(まつりごと)””は、“上”との感応共振で、“上”の思惑を自分に取り込み、その上で“創造”をしろって事でもある。
 そして今述べたことが“日月神示”表記の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 また“野見よ森見よ”は、“野”は何回も画像で解釈を述べたから省略。 “森”は、“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が上にひとつ、その下に二つ、これは天意による“創造”と、天意を受けた生物である人が発現する左右の極性(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)を指し示すものであるし、この文そのものが、天意(智性(神性))と人(日止、霊止)の心(靈)の発現、人の思惑の違いを述べているものであると解釈する。
 そして今、ほとんどの地球人が、神の計画としてのアセンションを知らず、アセンションの情報に本当のことを見出していないからこそ“上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。 間に合はん事出来ても神は知らんぞ。 神急(せ)けるぞ。 役員も気配れよ。”と言われている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第九帖 Kellyさん的解釈


 
今回も、日月の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが、善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。
悪(ア九)でない悪とあなないてゐるのざぞ。 此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ。
まつりとはまつはる事で、まつり合はす事ざぞ。
まつり合はすとは草は草として、木は木として、それぞれのまつり合はせぞ。
草も木も同じまつり合せでないのざぞ。
十月の二十六日。ひつ九か三。

 冒頭の文。

“何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが、善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。”

前のブログから“善”は、神格化の方向性と智性の受信って定義づけをしている。 その点においてこの文は、“善”の概念が、霊的成長度における高低で違うのだということを指摘していると思う。 
それは、すべてが進化=神格化に向かうために遭遇する事象は、それぞれの霊的成長度に応じての苦難や試練があり、どんな人であろうが(当然のことながら)、苦難や試練に対し、イヤな思いを持つものでもある。
また、自分の霊的成長における事象として遭遇する“善悪”の程度も、違うものである。だから人によっては耐えられる苦難や試練もあるが、ある人にとっては、絶対にそんな事はイヤだっていうその違いが派生するものでもある。
それだからこそS会=紫光会の交霊会では“神は乗り越えられない試練は与えない”と何度も述べられ、この言い回しの意味は、その人の霊的成長度における試練や困難を“上”は調節して遭遇させているという意味でもある。 
またこの言い回しは、その人の霊的成長度において耐えられない試練、乗り越えられない課題は、“上”は与えないってことでもある。
それで、人生における苦難を試練と思わず、自分が育つために“上”が課した試練を“悪”と見做す程度の低い考えの人は多い。 
それは、自分(の心(靈))を育てるために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は様々な事をするが、自我の肥大(平均的地球人の霊的成長度によく観られる心(靈)の動き)は、(霊的成長度の低い人ほど)自分が大事だと思い、自分に甘くなり、苦難を試練と思わず、薄っぺらい考えの正義感や道徳の観念で、目の前の事象をただ悪と見做す心(靈)の動きもある。 
それは例えば、人を欺き奪って自分が裕福になった人(自己奉仕者に多い)は、騙され奪われるものであり、それは因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもあるけれど、程度の低い人は自分が欺かれ騙され奪われたことしか考えないで、それ事態が自分の贖う(あがなう)べき因縁であり、その苦難は試練であるとは思わないものでもある。
それをこの文では“何事も持ちつ持たれつである”と揶揄(やゆ)され、人が“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出すには、騙された人は騙されるし、奪ったものは奪われるし、欺いたことのある人は欺かれるに決まっているし、その事象において自分たちにも責任があったのだという認識を得なければ、本当の“善(神格化の方向性と智性の受信)”は理解し得ないだろう。
(…が、こんな程度の低いことを説明しなければならないのかとも思う)

また自分が間違った方向性に向かっている事を“上”が指摘している一例として、○○○大先生はS会=紫光会の交霊会、主護霊会で、昭和55年8月3日、こんなことを言われた。

辛いが人間は苦労しろ。その苦労こそ、全う(まっとう)する所の人間となるのである。
あるところにおいては、殴られ蹴飛ばされておるけれども、それがあって、必ず人間というものは強いものである。
そこである。
自分はただ、人から煽て挙げられては相成らんぞ。俺は必ず、どんな苦労に於いても、立つべき所の人間となればよいのである。
さすれば、人間というものはそんな小さなことではビクビクしないのである。
神に任せるのである。
これこそ、自分自身の神から得た所の、真=真固止と思わなければならないのである。
常に、人間に全部任せる。その力こそ強いものはないのである。 そこに自分は、真=真固止なる心を定めて、神の力に於いて真を定めるなれば、どんなところに於いても力がその中に芽生えてくるのであるを、悟ればよいのである。 左様頑張っていってくれ。
 ”

この“主護霊”の言い回しについて、○○○大先生はこう述べている。

“それは…ただ、耐えろ。自分にも心の甘さがある…そういうことも言っている。それを指摘する言葉が次の言葉…“自分はただ、人から煽て挙げられては相成らんぞ。”…それがイカンって言っている。自分で自分を煽てている…それゆえの試練だ。
だから“常に、人間に全部任せる。その力こそ強いものはないのである。”…それはアタシ自身が、試練を与えてる存在の思惑をもっと知るべきだ。今その状況なんだ。お前はそのことをよく判っていないから、腹が立つんだ…ってことだよ”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る 199ページから引用。 
ちなみにこれが書かれてある 
事象の形骸化“その十”アセンションの甘い(亜、魔、出ずる、泉)認識…先生とKellyさん…また…憂う… では、霊的成長度の低い=自分に甘い人が思う、自分たちにとって都合のよい愛(例えば優しいだけが愛だと思いたい)についても指摘している)

 これは若いときの○○○大先生(当時24歳)が、自我の肥大をしているとき、ちょっといい気になっている時に与えれた試練であり、この試練において○○○大先生自身が自我の肥大をしている自分自身を見出したってことでもあるし、その自分の中の低い心(靈)を見出させるには、“あるところにおいては、殴られ蹴飛ばされておる”ってことが無い限り、分かりえないものでもあるし、これが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が先生に課した“上”の心(靈)由来の“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”による試練でもある。

 また、同様のこととして“日月神示”地つ巻 第八帖の“悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。”や、第三十帖の“何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、”の“悪や学にだまされ”“まだ智や学にすがりてゐる”という言葉にも、自分たちにとって都合の良い正義や道徳や、低い愛の概念に囚われている人の心(靈)の動きを感じうるものでもある。
それで、ここまでの話は分かりにくいところもあるから、補足として“善悪”の概念が、霊的成長度において違うことの分かりやすい例として、以前に極端に低い正義の概念を持っている国の住民のことを指摘したことがあるが、兵器産業で自国の利益を潤巣ために戦争を正当化するなんてのも、その国の住民とっては“善”の概念由来の正義であるけれど、やっている事は人殺しでしかないから子供でも分かりそうな“悪(心の動きの本能化と低振動化)”である。
だからこの冒頭の文は、“上”が顕現しようとしている“善一筋の世”に対し、程度の低い“善悪”の認識は“今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではない”って、ちょっとだけ揶揄(やゆ)されて言われている感がある。

次の文。

“悪(ア九)でない悪とあなないてゐるのざぞ。 此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ。”

 この文の表記の“悪(ア九)でない悪”の“悪(ア九)”は、“ア”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、の“ア”であり、“九”は、“日月神示”表記の ○ 九 十 の“九”だろうから、何回も使った ○ 九 十 の解字を以下に貼って示すこととする。

○ 九 十(まこと)の解字


よって“悪(ア九)”は、試練のための、霊的成長のための、自省(胸の磁性“十”)のための“悪(ア九)”ってことだと思える。
それでこの文の表記の“あなない”は、助けること、支えること、高い所に登るための足場、あぐら、という意味がある。 
これは、その人を霊的成長させるための試練としての“悪(ア九)”“あなない”であると思うし、それに対し低い悪の事象もあるからこそ“悪(ア九)でない悪とあなないてゐる”“あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもない”と称され、すべて(霊的成長度における)“上”の心(靈)を持った人も“下”の人も、苦難や試練において成長をする事を示唆する文であると思うし、それが“此のお道は、あなないの道ぞ”=霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるって事だと思う。

次の文。

“まつりとはまつはる事で、まつり合はす事ざぞ。
まつり合はすとは草は草として、木は木として、それぞれのまつり合はせぞ。
草も木も同じまつり合せでないのざぞ。”

 いうまでも無く“まつりとはまつはる事で、まつり合はす事”は、自分の霊的成長度における“上”、自分の霊的成長度に見合った存在との感応共振(祀り、祭り、政治の政、“政(まつりごと)”)で、いきなり高い存在とは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)出来ないことを、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)で何回も説明してきたが、それがS会=紫光会でよく述べられた“神は乗り越えられない試練は与えない”って言葉からも感じ取れるものである。
 だからこの言い回しが第九帖の冒頭の“何事も持ちつ持たれつである”にかかる言い回しでもある。
 その人の霊的成長度における悪の事象、苦難、試練。 霊的成長度がある程度高い人は程度の高い“悪(ア九)”に耐えうるし、低い霊的成長度の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、欺かれ騙され嘘をつかれ奪われて、自分を振り返り、自分に内在する悪を見出していくものであるし、また恨みの連鎖の霊的干渉(この場合は背負った因縁において)を、実感するものでもあると思う。
 その霊的成長度の高低を“草”“木”と、そして霊的成長度における試練の違いを“草も木も同じまつり合せでない”と、揶揄(やゆ)されていると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。
辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。
何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。
この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。
今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。
猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。
神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。
ローレンツ力と ○ と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。
これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。
十月二十五日、ひつ九のか三。

 この第十帖の冒頭のカタカナ表記も、第六、七、八帖にならい、漢字とひらがなをあてて解釈する事とする。 そうすると次のようになる。

“次、天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)、次、国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)、次、豊雲野(とよくもぬ)之命(“実言(みこと)”)と成り成りて、出生給い、命(“実言(みこと)”)澄み切り給いき”

まずこの文の“天之常立(あめのとこたち)”“国之常立(くにのとこたち)”について。
“天之常立(あめのとこたち)”の“天”は、“天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)”。 これは“天”そのものが(天之御柱(あめのみはしら)の)大極としての“上”の意味もあり、またこの“天”という表記は、進化した“上”の存在って意味もあり、さらに進化を目指すべき人のことを指し示した表記でもある。
(例えば、天皇とかの表記もそうだが、だがこれは現時点の形骸になった天皇制のことではない。 天皇は、天、白い、“王”(完成されつつある人、あるいは“一二三”のオーラの“一”が大きくなり、完成されたと見做される人)で、クンダリーニの白光(シンクロトロン放射)の白光を指し示す表記でもある)
そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す。 
上記の説明における“天”と“国”、この二つが、“之”(これ)、“常立(とこたち)”で、常に立つことを示し、これ(之)常に立つの意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかない。 そしてそれは“命(“実言(みこと)”)”でなければならない。
また“立”っていう字が、ローレンツ力の変化した点と“一”(智性=1番目のオーラ、人の心(靈)における“上”、天地の天。 あるいは“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ)、そして左右の極性、そして下線の“一”は、自分たち、あるいは自分たちの“下”の部分(天地人の人)、位相を指し示す表記、これらを表したものだと思う。
要はすべての存在は立たねばならない=進化しなければならない=神格化の道を進むものであるし、ちょっと余談になるが重要な事なので補足しておくが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)があることを知らねばならない。 
その“道理”が、天の解字としての、“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)にも、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)にも、心(靈)の動きとしての自省(胸の磁性“十”)として、示されているものであると思う。
もう少し補足すれば、現時点の地球人は今まで何回も述べてきたとおり、自我の確立=固定化(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)であり、自我が肥大した心(靈)の動きが作り出した事象が“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)であり、この心(靈)の動きが恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させている。 
そしてこのままの心(靈)の動きでは、この世界はダメになる。 だからそれを憂う存在は様々なカタチ(宗教、心霊現象など)で、言葉としてメッセージを伝えたのだが、悪魔の思惑はなかなか巧みで、(通貨としての)金や形骸の名誉に執着する“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))を使い、メッセージの内容をはぐらかし、そのはぐらかされたメッセージを信じ込む甘い人間がこの世界には多いからこそ、第九帖で少し指摘した、優しいだけの愛を望むとか、何の苦難も困難も無い世界を望むとかの、てんで幼稚な発想をする人間を増やした。 せめてこのブログに霊縁ある人は、その辺のところをよく見出して欲しいものでもある(このことを見出せる人はごく少数だろうが…)。

 話を戻し、“豊雲野(とよくもぬ)之命(“実言(みこと)”)”は、“雲”と“野”の意味が読み解けないと、意味が分からないと思う。
 まず“雲”についてだが、この字の上半分は“雨”で構成されている。 雨については以前画像を作ったので以下に示す事とする。

雨の象形文字 解字

よって、この雨という表記は、“上”からの荷電粒子が留まる、止まるものであり、だからそれは古神道の表記の“日止、霊止”の意味を指し示すものでもある。
 そして“雲”の下半分は“二”と厶部(しぶ)で構成されている。 これは“二”は、“王”から“一”と|(たてぼう、こん、縦の磁性))をはずした表記で、“二”=肉体。 そして厶部(しぶ)は、物を囲い込んで自分のものとする様子に象る、手を伸ばす、伸びる、の意がある。 だから何を自分の肉体に取り込み、自分のものとするのかという表記が“雲”に示されているものであり、それが“豊か”でなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ではないし、進化した生命は“野”となるものである。
 “野”については、以前作った画像で意味を示す事とする。
野の解字 (富士の巻 十七帖)

以上、第十帖のカタカナ表記は、進化した生命は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを持ち、上からの荷電粒子を止め(とどめ、“日止、霊止”の止める)豊かにすることを命(“実言(みこと)”)とする。 
そしてそれは“成り成りて、出生給い、命(“実言(みこと)”)澄み切り給いき”とならなければならないと指し示されているし、“命(“実言(みこと)”)と成り成りて 出生給いき”と記されている意味は、“命”“実言(みこと)”、発振、発信された思惑が、使命として“成り成りて 出生給い”=完成を目指し発現した(出生給い)であると思うし、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命の“創造”そのものの意でもある。
そして“澄み切り給いき”という表記の意味は、この世界が腐っていて真実=真固止を見出せず、偽者ばかりが横行し、似非(えせ)の何かに甘い夢を持つ人間が多いからこそいわれている(相対的な)言い回しで、だからこそそれは、第九帖の表記の“善一筋”の事象ではないということでもある。
それは先ほども述べたが、第九帖で指摘したとおり、優しいだけが愛だと思いたいとか、(“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)としての)苦難や試練を、ただの悪と見做したい、自分にとって都合のよい薄っぺらい考えを持つ自我の肥大した人が多い。 
だからその類の人は、甘い言葉、優しい言葉に酔ったり、見せ掛けの感謝って言葉に弱かったり、感謝行などという自分に都合の良い考えを持ったりもするし、結果、その低い認識は薄っぺらい悪の概念や道徳の概念で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の本質を見出すことが出来ない人が多いからこそ、真実=真固止は厳しいと感じるだろう。 
だがそのこと事態が、S会=紫光会の交霊会の言葉“神は乗り越えられない困難は与えない”の意味をよく知りえず、耐える事が認識の拡大につながる事を知らないのであると思う。 
そしてそれは、目の前の事象は(現時点での霊的成長度における認識の上での)自分が、善と感じようが悪と見做そうが、喜びだろうがイヤな事だろうが、すべて、自分を育てるものである事を知らなければならないものである。 
またその発想を持つ人は、人生における苦難や試練に対し恭順になるものであり、また、外側(外国と幽界)の事象における試練や苦難に自分が追い求める答えは無いことを知り、本当の答え=認識(悟り、幸取=さとり)は、自分の中にしかない事を知り、今後=アセンション後は、自分の中の答え=認識を、顕現=“創造”していこうとするものでもある。
そしてこのことも含めて、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真実というものは、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化と、“日止、霊止”の思惑の顕現=事象の“創造”であることを知れという意味で、進化して=“豊雲野”になり、高い認識を持ち、自分に真実=真固止の基準(天の御目(あめのおめ))を持ち、見出せよっていう意味で“命(“実言(みこと)”)澄み切り給いき”と述べられていると思う。

それでは、カタカナ表記以外の文の解釈に入る。

“辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。
何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。
この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。”

 この文の“辛酉(かのととり)”は、以前、下つ巻 第三十帖で解釈した事をそのまま以下にコピペして示す事とする。 


“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。 そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。 ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。 それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。 そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。 そうやって自省(胸の磁性 “十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。 その意味のことを言うてると思えるな。
(引用終わり)

上記のコピペ文にも述べてあるとおり、現時点の地球人は、自我の肥大をして自省を忘れ、悲しい事やつらい事はイヤだと思い、目先の薄っぺらい喜びに酔いたいとか、先ほども述べたとおり自分に都合よく優しさだけが愛だと思うとか、目先の事象が自分の在り方を指し示すのだと思わず=思いたくなく、そこにあるのは薄っぺらい悪の概念や、道徳の概念で、自分だけが正しいと思い、自分を傷つけるものはすべて悪であると見做したい…こんなふうに思う人はとても多い。

(余談ながら、こんな心(靈)の動きは、自分が育つ事につながらず、それは自分に課せられた(“上”が課した)試練として、例えば誹謗中傷とか、悪口を言われたりいじめられたりすると、自らの命を絶つようなことにつながっているとも思えるし、これも恨みの連鎖の霊的干渉を増大させるための“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑であると思う)

 これまでも述べてきたとおり、人の(心(靈)の)進化=霊的成長は、順番があり、それはチャクラの概念と同じであり、“下”から“上”への心(靈)の発現でもあり、それを言い換えれば、目下(めした)から目上(めうえ)の心の発現になっていく。 
それには自分のやってきた事を恥じ、自分を悲しみ、自省することが起きうるものでもあるし、それ自体が自分を育てるものでもある。
(これがローム太霊の示した言葉、右往左往と左往右往の意味のひとつでもある)
 “上”が課した試練、苦難を通じ、自省させること、自我の肥大から、悲しみ、自分を恥じ、自分の心(靈)と自分の今までの行動を省みること。
そうやって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、“上”が見守っている人間にその人自体の心(靈)の動きの低さを指し示すものでもあるし、それまで自分が持っていた自我の肥大ゆえの薄っぺらい価値観や幸福感、そして薄っぺらい道徳の概念などを、放棄させるものでもある。
 だからそれは自分が霊的成長の“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)を判る事でもあるからこそ、辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな”と述べられている。
そして“九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。”といわれていると思うし、この文の“戦”は、自分の心(靈)の中の自我の肥大との戦いを指し示すのだと思われ、だからこそ“こわい日ざ”“神示通りになりて、せんぐりに出て来る”(神示=“上”が示す)といわれている。
そしてこれは“日月神示”が書かれた当時の戦争の事ではないからこそ“日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ”と言われていて、本当の戦いは自分の心(靈)の中にあり、それは自我の肥大との戦いでもある。
そしてそれは、今まで自分が持っていた自我の肥大ゆえの既成概念、薄っぺらい悪の認識、薄っぺらい道徳の観念、それが正しいものとするならば…そして、自分に都合の良い考えとしての神の愛は優しいだけのものと仮定するならば、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)はありえないものである。
 それとこの文の“九月八日”“九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。”“三月三日”“五月五日”の表記だが、これも日付のことをさしているのではなく、“九”は、何回も画像で示した○ 九 十 の九、そして“十”も同じ、八は肉体が持つ左右の極性“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義。 “三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。“五”は糸巻きの象形文字で、下等生物より進化した肉体が神経が密になる(“慈(しげる)”)様子を指し示していると思うし、これらの事は、これまで何回も説明してきているので解釈は省略する。

次の文も、自我の肥大を見出すこと、自分自身の心(靈)の動きの“上”と“下”を見出すこと、それは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”=心(靈)の在り方を指し示した表記だと思う。

“今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。
猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。
神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。”

 まだまだ地球人の自省(胸の磁性“十”)の心は程度が低いから“今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなる”と述べられている。
そして“猫に気付けよ、犬来るぞ。”は、心(靈)の動きを指し示す大事な表記だと思う。  それは身近な動物としての猫と犬、これらが憑いている人間はとても多いし、それは自分自身の心の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による感応共振であるからこそ憑いているのだし、その動物霊と自分の心(靈)の動きは、共通のものがあるあるからでもある。
 いうまでも無く猫は犬ほど人のいうことをきかないし、人間に従属する性質としては犬のほうが忠実でもある。 よくいわれる犬と猫の違いは、犬は人間とコミュニケーションをとる能力が優れているし、従順だが、猫は人間になつくのではなく、家につくって言い方がされ、だからこそ猫は犬ほど人間とのコミュニケーションをとる心(靈)の発達をあまりしていない。 
これは犬よりも猫のほうが自我の肥大した性質が強いし、身勝手な動物であるからでもある。  ちなみに○○○大先生は、自分の著書 太陽凝視を行っている鍼灸師の話<4>智性無き心は悪を容認する 事象の形骸化“その四”“ダイヤモンドは永遠の愛の証”…なんて、嘘っぱちやんけ!! ゛(`ヘ´#) ムキー!!…と、Kellyさん…ぼやきたおす!! で、Kellyさんにこんな事をぼやかせた。(172ページ)

“餌もらったときだけ喜ぶ、犬猫みたいなもんや……大体、犬は別にして、猫なんてもんは自分勝手で、遊んでもらうときとか、餌もらったときぐらいしか飼い主にエエ顔せんようやし……”

この文は、自我の肥大している進化程度の人間は、相手を餌当番くらいにしか認識しない。 そして今の人間は、そんな程度の心(靈)の発現しかしていない人が多すぎることを揶揄したものでもあるが、この文にあるとおり猫の性質は、犬ほど人間に恩を感じないし、人間に従属しない。 
また犬は、無条件に飼い主に喜びを感じるが、猫はそれほどでもない。 それは、猫は、下から2番目のチャクラ、スワディスターナチャクラの発達が犬ほどでもないから、無条件に喜ぶという事をしないし、飼い主に従属しないし恩も感じないものでもある。
これは犬猫の話であるが、人としては“上”の課した試練や苦難に対し、その事象を乗り越えて自分の在り方を見出すには、“上”(の課した試練)に従属する=恭順でなければならない。
そして猫が憑いて自我の肥大した人は、猫の悪い性質が現れているものでもある。 
目先の(自分に課せられた“上”からの)試練や苦難に対し、薄っぺらい価値観や幸福感、薄っぺらい道徳の観念を、苦難を試練としないための道具として使って自分を守り逃げ出そうとしたりするものである。 
だから苦難を試練として、そのこと自体に従属して、自分の在り方を見出すのは、猫の悪い性質である自我の肥大という心(靈)の動きでは、到底見出せないものでもある。
よって“猫に気付けよ、犬来るぞ。”は、自分の自我の肥大、“上”が課した試練に対して恩知らずだったり、同様に試練に対し恭順で無い心、それらに“気付けよ”であると思う。
そして今後“上”が課した自省(胸の磁性“十”)のための試練に、自分の自我の肥大を見出そうとする人が多くなるからこそ“犬来るぞ”で、要は心(靈)の動きの在り方、自分が自分の自我の肥大と戦う事、そのことを指摘した文であると思うし、この言い回しの前後“改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなる”“臣民の掃除遅れると段々大きくなる”は、自分自身の心の動きの中の葛藤を指し、そして“改心”“臣民の掃除”は、“上”の課した試練や苦難で自分の在り方を示されるからこそ“神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな”といわれていると思う。

次の文。

ローレンツ力と ○ と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。
これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。”

 この文の冒頭の“ ローレンツ力と ○ と神との戦”は、“ ローレンツ力と ○ ”は上つ巻 第三十二帖で、““ヒツグ”=ローレンツ力と ○   ローレンツ力 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) は、靈の系統=靈統…それは、神の思惑を受け継ぐ系譜。 それは心(靈)の進化=霊的成長そのもの”と解釈した。 
だからこの文の言わんとするところは、自分が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈) ローレンツ力と ○ と、“上”との戦いという事になり、これもここまで第九、十帖の解釈で指摘してきた自分に課せられた苦難や試練を自分の糧=認識とすることであると思う。  
…が、まだそれは今の地球人では本当の神格化を知りえないので“戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ”と言われていると思うし、それは先ほどの“今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ”と、重複して強調した言い回しで示されてあると思う。
 そして“日月神示”によく出てくる表記の“褌締めて呉れよ”は、腹の水平磁場と縦の磁束を“フンドシ、褌”と称され、それは“下”三つのチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラで、頑張り(“元”を張るの意)、気張れってこと。
それで、“下”のエネルギーの弱い人間は=3番目のオーラの小さい人間は、試練から逃げ、苦難を避け、薄っぺらい価値観や幸福感、薄っぺらい道徳の観念由来の理屈で自分を守り、自分を正当化する傾向がある。 
そしてそれは、先ほど少し述べた“例えば誹謗中傷とか、悪口を言われたりいじめられたりすると、自らの命を絶つようなことにつながっているとも思える”という人であったりもする事を指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。
肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。
神国の政治は魂のまつりことぞ。苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかけるぞ。何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。
臣民の頭では見当取れん無茶な四(よ)になる時来たのざぞ。それを闇の世と申すのぞ。神は ローレンツ力 、臣民はローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、外国は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、神の国は ローレンツ力と申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国真中。人の真中には神あらうがな。
悪神の仕組は此の方には判りてゐるから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺して終(しま)ふのではなく、悪改心さして、五六七(みろく)のうれしうれしの世にするのが神の願ひざから、この道理忘れるでないぞ。
今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。
力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ。
十月の二十七日、ひつ九のか三。

冒頭の文。

“学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。”

これも、ただ理屈だけこねて、たいして(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化としての)行をしない、そして認識が低すぎる=霊的成長度が低い人間を、揶揄(やゆ)した言い方であると思える。
 第九、十帖で述べてきたとおり、大半の人間は薄っぺらい価値観と幸福感、薄っぺらい道徳の観念ですべての事象を見て=観察して認識している。 
さらに多くの人の“行”に対する認識は、自分たちが苦痛を感じるのがイヤだから、ただ“日月神示”を声を上げて読むとか、太陽凝視でも朝日と夕日しかしないとか、あるいは太陽凝視を日光浴と勘違いしているとか、生きている事に感謝しましょうをお題目にしている感謝行とか、なにが霊的成長なのか(自我の肥大による低い功名心と自尊心で)履き違えている人間が多すぎる。
そして自分にとって都合の良い苦痛や苦悩の無い世界を望み、優しいだけが愛だと思い込んでいる低い人が多すぎる。
しかしそんな認識では、今後=アセンション後の“善一筋”の事象の“創造”にはつながらないものである。
自分が育つ=霊的成長して神格化していくには、目の前の困難な事象に立ち向かい、それを乗り越えて認識を得る。 
そして、苦痛や苦悩、試練、目先の困難も、その人の肉体内の生体内電流に変換されるもので、だからこそそれを味わっている人の肉体は、たんぱく質の高分子化が行われ=結晶化され、肉体の電気特性の変容があるからこそ“上”からの荷電粒子との反応は違ってくる。
そうなるためには、日常における試練と、自分が“行”を貫徹する強い意志(日に立つ心(靈)と、志(こころざし))を持ち続けなければならない。 
そうしていけば、霊的成長した人(日止、霊止)は“日止、霊止”になり、“上”からの荷電粒子の高い部分を自分の思惑とする。 
それが“日月神示”表記の“天詞様”の意味と意義である。
そして、目先の困難、苦難=試練と認識されうること、それが第九帖の表記の“悪(ア九)”の意味であることを、そこで述べた。 だからこそ人が尊守しなければならないこと、その大事なのは“絶対の善”であり、それ由来の“観察と認識”でもある。
そしてその“観察と認識”は、自分の思想となり“絶対の善”“善一筋”を、自分の理念として、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する。 またそうしなければ“うれしうれし”“大歓喜”の世になるわけが無い。
 ちょっと本文と違う意味のことを述べたが、薄っぺらい認識の人間は学=知恵と知識、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の一部を、自分のものだけだと思い、自分のためにしか利用しない。 それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であることを何回も述べてきた。
 しかし、この文で言われている“学”であろうが、それ以外の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であろうが、すべて神の“思惑の顕現”=現象化であり、“上”からの荷電粒子を自分が取り込んで、この事象に活かしているものである。
だからこそ、今述べたこと、すべての“力”は“上”からの荷電粒子の取り込みにより、そして自分の肉体の結晶化の度合いにより、言い換えればこれは、霊的成長度により(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の程度により)、“力”の顕現も、心(靈)の動きも、違うのだということなのだが、この意味のことをこの文で述べているのだと思う。

次の文。

“肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。”

 これも“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方とか、先ほどの“学”でのべたことのように、知恵と知識を“絶対の善”“善一筋”で使わない人間、その理念を持とうとしない人を揶揄した言い方だと思う。 
だから、すべての事象の観察の基準、自分の理念、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠たるものは、天意を受け自分の認識とする人間(“天詞様”)でなければ、正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)ってことになりえないものである。

今述べたことを踏まえ、次の文。

“神国の政治は魂のまつりことぞ。苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかけるぞ。何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。”

 この文の“神国の政治は魂のまつりことぞ”、これは今までも解釈してきたとおり“神国”は、自分の心(靈)のことであり、自分の心(靈)に“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなければならないからこそ、“魂のまつりこと”と称されている。
 そして、第九帖の人を霊的成長させるための試練としての“悪(ア九)”“あなない”、これが“苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかける”であり、この文の“神の仕組み”は、自分の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による“上”からの荷電粒子の取り込みの違いを示唆している。 
 だからこの文は、目の前の困難、苦難、試練、これに立ち向かい、今まで自己奉仕者だった人は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、“上”の思惑を知れという意味で“苦しき御用が喜んで出来る様になりたら…中略…何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。”と、結ばれていると思う。

 次の文、これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出し、増大させている恨みの連鎖の霊的干渉が、結果を出す時期=アセンションの時期にどんどんまして来ることを示唆している。

“臣民の頭では見当取れん無茶な四(よ)になる時来たのざぞ。それを闇の世と申すのぞ。”

この文の“無茶な四(よ)”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”、その低い心(靈)の発振、発信=“四(よ)”、そして“四”は、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により事象は創造されるの意。



 次の文。

“神は ローレンツ力、臣民は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、外国は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、神の国は ローレンツ力と申してあろが、神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国真中。人の真中には神あらうがな。”

 これも今まで解釈してきたとおり、ローレンツ力 ローレンツ力と、自分の心=霊=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、荷電粒子の場(フィールド)、それを当てはめて読めば理解できるものである。 以下にその解釈を述べることとする。

“神は ローレンツ力、臣民はローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ”これは、自分の心(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が、認識する神(“上”からの荷電粒子)は、自分の肉体の磁性によるローレンツ力で取り込み、(自分の心(靈)の動き=“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により)感応共振して、自分の心(靈)の中に認識(悟り、幸取=さとり)とすること。
次、“外国は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、神の国は ローレンツ力と申してあろ”これも、自分の心( ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が観察する事象は、外側(外国と幽界)で、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)ではなく、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の観察の基準は、自分の霊的成長度における“上”からの荷電粒子との反応(感応共振)により、作り上げられるものであり、それが“上”と“下”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識であり、それが○○○大先生流の言い方ならば、(天意の受信が出来た認識(悟り、幸取=さとり)による)天の御目(あめのおめ)でもある。
そして“神国から見れば、まわりみな外国、外国から見れば神国真中。人の真中には神あらうがな。”は、“神国”=自分の心が観察する事象は、外側(外国と幽界)の事象で、外側(外国と幽界)の事象を観察して認識する基準は、自分の霊的成長した心、あるいは“善一筋”“絶対の善”の理念。 
これがこの文の“人の真中には神あらう”と指し示されていると思う。
 
 次の文、これは“善一筋”“絶対の善”、そして“善”は神格化の方向性と智性の受信であることが解っていれば、よく読み解けるものである。

“悪神の仕組は此の方には判りてゐるから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺して終(しま)ふのではなく、悪改心さして、五六七(みろく)のうれしうれしの世にするのが神の願ひざから、この道理忘れるでないぞ。”

 今、低い者であろうが、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為をしている者であろうが、それもすべて生命(生きる使命=存在理由)であり、霊的成長の過程であるからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から、“慈悲”と“慈愛”の心の発現をするものでもあるし、それは何度も述べたことだが、ヨガのチャクラでいえば分かりやすいので引用するが、今までの地球人の進化過程は自我の確立=固定化、マニピューラチャクラまでの発達、それが今後=アセンション後は、アナハタチャクラの発達になっていくし、そのアナハタチャクラの発達は、肉体のシンクロトロンの構造の強化でもあり、だからこそ“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との反応は、今と違うものになり、だからこそ人は“日止、霊止”になり、神の思惑を自分の心(靈)に取り込み、その基準、この第十一帖の表記なら“神国真中”で、自分の心(靈)も自分の外側(外国と幽界)の事象も観るものであり、その内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象の観察により得られてた認識で、自分たちは時間の進行とともに=“道”、法則性=“理(ミチ)”を理念とした“創造”をするものである。
 そして生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、神経が“慈(しげる)”、その意味で“五六七(みろく)”は、以前にも解釈したが、“五”は神経が密になる様子、糸巻き(コイル状)の象形文字、“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)である。
 そして“五六七(みろく)”にならなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはいえないってことでもある。

 次の文は、第十一帖の纏め(まとめ)。

“今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ。黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。
力は神から流れ来るのぞ。磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ。”

 あえて解釈はいらんと思うけが、“今の臣民 幾ら立派な口きいても、文字ならべても、誠がないから力ないぞ”は、第十一帖の冒頭で述べた薄っぺらい人間の事であり、それに対し“黙ってゐても力ある人いよいよ世に出る時近づいたぞ。力は神から流れ来るのぞ”は、苦難や苦痛、困難を試練とした人、神格化の“行”やっている人、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化している人、それは上つ巻 第二帖の表記“日の光は神のこころ、稜威ぞ”の意味に相当する事。 よって上つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈から以下にコピペして示す事とする。 

大事な事は、“神のやり方は日の光”と、“稜威ぞ”で、この言葉は、“イツ”古代日本語で、“イチ”が変化した言い方で、それは、激しい雷光のような威力って事らしいやん。 ほんでからに、“稜威”を辞書で見ると、威稜とも言われ、その意味は、神霊の威力。みいつ。天子の威光。 類義語として、威霊って表現もある。
 そやから、Kellyさん的に思うんは、天子の威光、これは天意を受けた人のオーラの事やと思いまんねん。 それを言い表した言葉が“稜威”やと思うし、ほんでからにそう言う高くなった霊的存在を“威霊”…そう呼ぶと思いまんねん。
 そやからそれは、この言葉は大体、神さんや天皇の権威を示す言葉として使われてるんやけど、ほんまの天皇っていうのんは、天=“一” + 胸の磁性“十”  + 人、ほんでからに“白”と“王”。 この言葉そのものが霊的進化したオーラを示す事でんねん。 この場合の“白”っていうのんは、クンダリーニの白光で、白い光は、波長の短い高い振動を相対的に観察した時の色でもあるし、それは、身体内のシンクロトロンの構造に由来するっていうのんが、先生の説で、先生が太陽凝視を教えてくれたKさんのオーラを観測し30年以上考えて得られた結論のひとつでもありまんねん。
ほんでから、肉体がシンクロトロン様の構造を持つには、胸の磁性“十”の強化と、手足の神経(電磁石として)の発達と、頭の磁性の強化が必要で、“行と修行”による生体内電流の質の変化と、量を獲得せんならん。 そやからそれは、心(靈)の動きとしての自省(胸の磁性“十”)の行と、電気行と、太陽凝視による高い振動=神さんの思惑の取り込みっていうのんが必要でんねん。
(引用終わり)

そして、この文の残りの“磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きが何より大切ぞ。”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の程度により、“上”との感応共振があり、“行”が進めば進むほどそれは“一二三”のオーラの変容となり、同時に肉体の電気特性の変化も起きる。
その意義は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は神の思惑を自分の認識とすることと同義であり、神の思惑を進化=神格化した人、あるいは神格化に向かっている人が“創造”するのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。
よって今取り上げた文は、このことを示唆した文章である事を指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

三ハシラ、五ハシラ、七ハシラ、コトアマツカミ、ツギ、ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。
足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。
入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。
百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。
てんし様拝めよ。てんし様拝めば御光出るぞ、何もかもそこから生れるのざぞ。
お土拝めよ。お土から何もかも生れるのぞ。
人拝めよ、上に立つ人拝めよ、草木も神と申してあろがな。
江戸に攻め寄せると申してあろがな。
富士目指して攻め来ると知らしてあること近付いたぞ。
今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。
型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。
雨降るぞ。
十月二十八日、ひつ九のかみ。

 この第十二帖の冒頭のカタカナ表記中心の文も、第六、七、八、十帖と同様に、漢字とひらがなをあてる事とする。 そうすると以下のようになる。

三柱、五柱、七柱、別天津神、次、宇比地邇(うひぢに)、次、妹須比智邇(いもすひぢに)、次、角杙(つぬぐひ)、次、妹活杙(いもいくぐひ)、次、意富斗能地(おほとのぢ)、次、妹大斗乃辨(いもおほとのべ)、次、於母蛇流(おもだる)、次、妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)、命(“実言(みこと)”)と、出れ成り(あれなり)、生き活き(あるいは、往き、行き、これは時間の進行を指す意)て、活き(現象化の意)給いき、次、伊邪那岐神、伊邪那美神 出生で(あれいで)ましまし(増し、益し)き(気、あるいは、炁=愛の元字、またアイは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”そのものでもある)。

このカタカナ表記、それは第六、七、八、十帖で述べられてきたことの続きであり、そしてそれは古事記の文章とほとんど共通でもある。
しかし、ここまでの日月の巻、そして今後も“日月神示”内で述べられている古事記の記述に似ている文があるが、その文だけを見れば、一般の古事記の研究者の解説や解釈として、それ、天地初発のこととされていたりもする。
だが、その解釈や解説そのものが、言葉の解説とかの単なる同義反復でしかなく、それは古事記の文章を見て、ただそうであったとか、そういう記述であったとか、そんな読み取り方しかしていないと思う。 

(古事記の原文には“天地初發之時”って記されているが、だいたい天地初発っていう解釈そのものが、ただ、そうであったであろう…という、憶測による解釈の言葉の使い方でしかない。 “之”“時”が、なぜ当てられているのかを考えなければならないと思う)

よってKellyさん的には、ここまでの日月の巻のそれぞれの帖で、カタカナ表記の解釈をしたうえで述べたこと。 
それは“創造”の“主(ヌシ)”の天意。 
そして天意って認識そのものは、“創造”の“主(ヌシ)”の被造物である“日止、霊止”から視点の認識でもあるからこそそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の思惑で、いうならばそれは、神の思惑と要約してもよい。 
またそれは、人=“下”であり“創造”の“主(ヌシ)”=“上”であるという、このことも(被造物の)人としての認識。
そして天意の顕現=神の“思惑の顕現”、それは事象の“創造”そのものであること。 
さらに言い換えれば、このこと事態が、事象の“創造”の根拠そのものであること。
そしてその“創造”を担う生命(生きる使命=存在理由)は、“上”からの荷電粒子を止める意味を表している古神道の表記としての“日止、霊止”であること。
そしてその天意の顕現である“創造”の具体的な仕組みが、天之御中主(あめのみなかぬし)で示されていること。 それは“上”と“下”、またそれは、天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性=空間と認識される場(フィールド)を貫く縦の磁束によるものであり、そしてすべての事象(顕現)は、荷電粒子によるものであること。 
またそこには、物理学でいうところの電気的な変化があること。
そして、(“創造”の“主(ヌシ)”であろうが下等な細菌であろうが人であろうが)個々の心=霊は、縦の磁束由来のローレンツ力による荷電粒子の回転である事。 
また、個々の心(靈)が、(生命たる所以のこととして、例えばある程度進化した生命が感覚器官を使ったりして、感じ(感じる磁性)ることとしての)観察と、その観察行為により、(進化した目上(めうえ)の脳により)認識をすることが、電磁波の受信と発振、発信である事。
また、心(靈)は、その性質として、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)があり、“畐”=自分の外側(外国と幽界)の事象の荷電粒子を受け、それを取り込み、自分の心(靈)の一部として、言い換えれば自分の心の動きとして=思想(心(靈)の動き)と成して、それをまた、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とする。 
それがオーラでもある。
そして、すべての(個々の心(靈)が“観察と認識”をする対象である)事象は、個々の心(靈)の電磁波の発振、発信=オーラの相互干渉で成り立っているという言い方も出来る。
そしてそれは、オーラというものは、すべての生命、“創造”の“主(ヌシ)”であろうが一番下等な細菌のような生命であろうが、すべて、電気的な法則性を持つからこそ、オーラを発振、発信するものであるし、その基本原理は縦の磁束に由来するものであり、進化論における肉体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、磁束の多様な変化といいうる。

(だが、平均的地球人が持っている進化の認識に、この概念は無いと思う)

そして“上”から“下”までの生命(生きる使命=存在理由)のオーラの相互干渉、これらによる事象の“創造”、その仕組み、そしてその根拠は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であることだと思えるから、その観点で今後も読み解いていくつもりである事をお断りしておきまんねん。
(そやからこのことは今までもたびたび説明してきているけど、解りにくいやろし、仮に○○○大先生の文章を全部読破しても、多分、ほとんどの人がこんな認識を持つことが出来ない…実感できないやろからこそ、今回、あえて延べさせて貰いましてんな)

前置きが長くなったけど、まず、この文の“ミハシラ”“三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)のこと。 その意味は、それぞれの帖の解釈を読んでくださいでんねん。
そして“五ハシラ”“五柱”は、先の“三柱”に第八帖で解釈した“宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)”さらに第十帖の“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”を加え、“五柱”とされている。
そしてここまでの“五柱”、その後に述べられている“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”、これはちょっと意味合いが違う。 
それは第十帖の解釈で“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”と“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”については、“天之常立(あめのとこたち)”=進化した“上”の存在と解釈し、そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)で、これは“上”と“下”を認識しうる自分の心(靈)の中の事象であると解釈した。 だからこそ次のように述べた(日月の巻 第十帖 Kellyさん的解釈からコピペ)。 

““天”と“国”、この二つが、“之”(これ)、“常立(とこたち)”で、常に立つことを示し、これ(之)常に立つの意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかない。 そしてそれは“命(“実言(みこと)”)”でなければならない。”(引用終わり)

だがこれは、自分自身の心(靈)=“国”と、“上”=“天”という認識でもあるし、よって“国”という表記を使われている事により、またこの段階で、初めて独り神(ひとりがみ)以外の=他の生命(生きる使命=存在理由)の存在の誕生を示唆するものであると思う。
そして次は“七柱”だが、それは第十帖の“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”と豊雲野(とよくもぬ)之命(“実言(みこと)”)、これに第十二帖で述べられている以下の神名の表記を足したものである。
それは“宇比地邇(うひぢに)”“妹須比智邇(いもすひぢに)”、この二柱で一対。
そして“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”で一対。
“意富斗能地(おほとのぢ)”“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”で一対。
“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”で一対。 
そしてこの文の最後には“伊邪那岐神”“伊邪那美神”が示され、これも一対で、ここまでで“七柱”とされており、これは一般の古事記の解釈と共通でよいと思う。
また、ここから始まる二柱一対の表記は、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の発現の始まりでもあると確信する。 
だから一般の古事記の解説や解釈は“宇比地邇(うひぢに)”“妹須比智邇(いもすひぢに)”から、男神と女神になったと説明されてもいるが、男神と女神という解釈が違うと思う。 それは、まだここまでの段階では、(生命としての)人としての、男と女の意味合いではなく、事象の極性としての日足と砌(ひたりとみぎり)が発現し始め、それは、第八帖で、“宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、命(“実言(みこと)”)”は、巨大人の構造を持つ宇宙自体のシンクロトロン放射の仕組みを表すのだと解釈したが、それは縦の磁束=天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性に対し、水平磁場の発現でもあり、だからこそ(個々の心(靈)が観察して認識するという意味での)縦=“上”“下”に対し、左右=日足(ひたり)と砌(みぎり)が発現するものでもある。
そして、事象の形成は時間の進行(“道”)により進み、法則性(“理(ミチ)”)により形作られ、多様化し、複雑になって行く。 その前段階としての縦の磁束=天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性と、水平磁場の発現=日足(ひたり)と砌(みぎり)と認識されうる区別、そして縦の磁束と横の磁束は、事象の形成に必須の条件であるとのことを指し示した文章であると思う。
よってこれらの神名の意味、この表記の意味を、きちんと読み取り、そしてこの文で示されているとおり、それらは“命(“実言(みこと)”)と、出れ成り(あれなり)、生き活き(あるいは、往き、行き、これは時間の進行を指す意)て、活き(現象化の意)給いき”という文で示されている通り、それを成す、あるいは成さねばならない、成すべきである。   
だからそれは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、さらにそれは“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)”を感じさせる=認識させられるものである。 また、神の思惑を顕現すべき(霊的成長を果たすべく)“日止、霊止”としては、こういう認識を持つのが妥当でもあると思う。

ここまで述べたことを念頭に置き、第十二帖で示されている神名の解釈を、以下に述べる。

まず、“宇比地邇(うひぢに)”は、(宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)と共通の意味での)“宇”は、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑。
“比地”は、此れ、と、地は“下”。
“邇”は、ちかい、近い、近くにあるもの、身近なものから対処するという意味合いの表記。 これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には、順序、順番があることを示唆していると解釈する。 そして“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“妹”は、砌(みぎり)の極性としての“女”という表記と、時間の進行を示す未来の“末”、そして“須”は、もとめる(求)、も(持)ちいる、ま(待)つ、すべし(全うするべく)、すべからく(完成を目指すために)、もとむ(求)、以上の意味がある。 
そして“比”は、これ。 “智”は、太陽=日を知る、それは第七帖の“高御産巣日神(たかみむすび)”と“神産巣日神(かみむすび)”の表記の“日”のこと。 
“邇”は先に説明したとおり。
 よって“宇比地邇(うひぢに)”“妹須比智邇(いもすひぢに)は、“上”=天意と“下”である地、天地っていってもいいが、この天地って言葉そのものが低い既成概念に囚われている感があり、だからそれは、“上”と“下”、神と人(日止、霊止)、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑とその顕現であるすべての事象、そういう解釈が妥当であると思う。 そしてそれは“上”からの荷電粒子を仲介する太陽=“日”で、天意=神の思惑を知り、それが“此”“智”で、現象化した砌(みぎり)の極性である、現津(あきつ)、観察され得る事象は“妹”で示され、よって“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“上”からの荷電粒子=“日”を知り(認識(悟り、幸取=さとり)として取り込み)、それを求め、完成を目指し=“須”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番を“下”から“上”に向かう=“邇”。 そう読み取るのが妥当だと思う。

 次は、“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示すと思う。 
ちなみに○○○大先生は“改”で、進化に伴う生物の一個体内の電気特性の変化と、“上”からの荷電粒子の影響、その両方が進むことにより、電気特性を持つアミノ酸がつみ重なり、それはたんぱく質の高分子化になり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを説明しているが、それは巨大人の構造を持つ宇宙(場(フィールド))であっても同様で、宇宙は星間物質が凝り固まり(コ、(凝集の)凝、真固止の固)、星雲や星が出来ているし、密度の高い星(真に固い星)(白色矮星、ブラックホールなど)は、高いエネルギー(電磁波、高振動の星のオーラ)を放出している。 
そしてそれは、宇宙であろうが人であろうが下等な細菌であろうが、すべての事象は磁束と電気特性という性質において相似象であるとの解釈に基づいて思うことでもある。
だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人のオーラが大きくなるのが必然でもある。
少し余談だったけど、その意味合いで“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をする。 
なぜその解釈が成り立つのかといえば、今後解釈する日月の巻の第十七、十八帖に“ヌホコ”“ヌホト”って表記が出てくるのと、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思うからであり、この詳細についてはそれぞれの帖で述べることとするが、その発電の仕組みを構成し始めること、成り立ちの初めの段階が、高分子化、分子の積み重なりであり、それが“角”“杙(杭)”である。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであるとの解釈をする。
だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をする。

 次は“意富斗能地(おほとのぢ)”“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”。 まず、“意”は、日に立つ心(靈)、それは日を目指す(“日止、霊止”を目指す)って言い換えても良いと思う。 “富”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(“亜”から出ずる、泉、アイ、向かって日足(ひたり)から砌(みぎり))と、自分に取り込む意味(吸収、止めるの意)の“口”と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、そして“富”は、生命(生きる使命=存在理由)が神格化するためのテンプレートとしての表記でもあり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現と強化にかかわる意味を持つし、またそれは“日月神示”の表記の“富士(二二)”でもあると確信しているし、だから“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味があるのだと思う。 
そして“斗”は、たたかう(戦う)、にわかに(俄かに)、はるか(遥か)、わずか(僅か)の意味もあるし、柄杓(ひしゃく)の意味もあり、北斗(七星)とか南斗という星の命名の由来であったりもするが、今列記したそれぞれの意味も感じさせるものではあるが、水をすくう意味での柄杓がもっとも妥当な意味合いだと思う。 その理由は後述する。
そして“能”は、何かをなしとげる(成し遂げる)そのはたらき、(能力)、そして、ききめ(効能、効果)の意味がある。 そして“地”は、天地の地、“上”と“下”としての“地”。 
よって、“意富斗能地(おほとのぢ)”は“上”からの荷電粒子=日に立つ心(靈)の“日”で、智性(神性)を発現する、またそれは脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートである富士の“富”を、“下”である“地”に成し遂げ、それは、器である柄杓、水を入れる柄杓の意である“斗”とする。 またその水は、荷電粒子として最大の大きさを持つ錯体に取り入れる。 その水は、人(日止、霊止)において腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもあり、進化過程として、自我は、智性(神性)により支配されなければならないことも示唆していると思うし、自我の発現は独り神(ひとりがみ)になる過程、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、自我が無ければ、自己と他者の認識も無く、他者を思いやる(“慈悲”と“慈愛”)事もあり得ないものである。 …という意味を感じさせるものでもある。
 “妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“妹”は前述したとおり時間の進行と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を感じさせる表記。 “大”は“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“大”そのものの意味は、人が手足を広げた様の意味がある。 “斗”は、前述したとおり自我にかかわる水。 “乃”は、なんじ、それがし、(はっきりさせるのではなく、間をおいてつなぐ意味として)すなわち、の意味がある。 “辨”は、(正しいか正しくないかを)分ける、わきまえる、その意味がある。 よって“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“理(ミチ)”(進化の法則性)を“辨”=わきまえた人、それは“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))が大きくなった存在、天意と感応共振する事が可能な存在(真の意味での天皇)、またそれは古神道の表記の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を止める表記)、それが“大”の意味で、だからまとめれば、顕現した生命(“妹”)は、自分の独り神(ひとりがみ)になるべく心(靈)(この場合は自我)に、“上”からの荷電粒子を止める表記の意味を持つ“大”となるべく生命を(すなわち“乃”)わきまえる(“辨”)べきであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを示唆していると感じる。

 次は“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”。 “於母蛇流(おもだる)”の“母”は、産み出す、そして水(子宮の羊水)の意味を感じさせ、“蛇流”は、下降する様と螺旋(とぐろを巻く)(ローレンツ力による荷電粒子の回転)を示唆しており、“上”からの荷電粒子が渦巻いておりて来る様を示し、それは新たな生命を産み出す(“母”)の意味があると思う。
“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、“妹”は先に述べたとおり砌(みぎり)の極性(事象への顕現)で、“阿夜”の“阿”は、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、の意味があり、“夜”は、昼間の太陽が出ている間に対し、反対の意味を持ち、陽に対しての陰でもあり、“日月”の月の意味でもある。 そして“詞”は“日月神示”表記の詞(ことば)であり、“言(こと)”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。 “志”は、こころざし、意志の“志”、これは願望の達成、言い換えれば“思惑の顕現”=現象化、そして進むことの意もある。 そして“古”は、縦の磁束と横の磁束の表記である“十”と、場(フィールド)を示す“口”、“泥”は、(水の中の)帯電するミネラルが固まっていない(真固止ではない)状態を指し示す。
よって“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、日足(ひたり)=神の思惑が、砌(みぎり)=事象に顕現していくのだが、その過程を表した表記だと感じる。
少し余談になるが、“角”“杙(杭)”“泥”って表記が今回出てきたが、これらはすべて何かが積み重なり出来上がっていくさまを示すと思うし、ことに“泥”は、帯電するミネラル“石”が固まっていない表記であり、それは“海”“川”でも同様の意味を持ち、要は水の中には錯体があるという事を言い表していると思う。
また“石”(帯電するミネラル)が積み重なり、何かが出来上がる。 その意味で“土”“岩”“山”(脳)“塔”(角より高いもの)“玉(ぎょく)”(きちんと結晶化されたもので、“上”が評価するべきもの)って表記も、高い心霊は使うが、すべて何かを積み上げる=高分子化する、あるいは密度が高くなる意味を持つと思う。
そしてこの文の最後には“伊邪那岐神”“伊邪那美神”と記され、この二柱は、神=荷電粒子の回転という表記が使われている。 このことを念頭において、まず“伊”は、これ、この、かれ、かの、なんじ、の意があり、それは“邪”にかかるものであり、“邪”の意味は、正しくないこと、道にはずれていること、あるいは、横の方向であること、その意味がある。 
よって“伊邪”、これは縦の磁束(正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象))どおりではなく、横の方向=水平磁場による顕現を指し示す表記であると思うし、また、ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往を思い起こさせるものであり、すべての事象は縦の磁束が初発であり、それに対し水平磁場が発現し、その相互の影響で事象は形成されている(と、心(靈)は感じ(感じる磁性)て、認識する)。
そしてすべての事象は、“上”と“下”=縦の磁束、日足と砌(ひたりとみぎり)=水平磁場、そして時間の進行=“道”、法則性=“理(ミチ)”によって形づ繰られるものであることを深く感じさせる表記が、“伊”“邪”、そして次の“那”でもある。 それで“那”は、美しい、安らか、多い、ふくよか、豊か、の意味がある。
“岐”は、幾度となく説明したことでもあるが、思想の分かれ、それは山(脳)と支(ささえ、わかれ)、思惑そのもの、日足(ひたり)の極性。 “美”は、羊が大きいの意味があり、従順に、恭順に従っていく様。 
そしてここで初めて日足(ひたり)の極性=男と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=女をあてるべきだと思う。
そして先に述べた、日月の巻の第十七、十八帖の“ヌホコ”“ヌホト”の表記につながっていくものであるので、今回のカタカナ表記の解釈は、ここまでとする。

 次は、第十二帖の残りの文。

“足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。
入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。
百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。
てんし様拝めよ。てんし様拝めば御光出るぞ、何もかもそこから生れるのざぞ。
お土拝めよ。お土から何もかも生れるのぞ。
人拝めよ、上に立つ人拝めよ、草木も神と申してあろがな。
江戸に攻め寄せると申してあろがな。
富士目指して攻め来ると知らしてあること近付いたぞ。
今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。
型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。
雨降るぞ。”

 まず“足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。 入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。 百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。”は、特に説明するようなことではないが、今の世界は腐っており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが当たり前で、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが横行し、欺かれているとか、騙されているとか、嘘をつかれているとか、巧みな泥棒に奪われているとかの認識が無いからこう言われている。 
そしてその低い心(靈)の動きに支配されているからこそ、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”にも気がつかない人が多いので“神の国(自身の心(靈))をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ”と指摘されている。 
それで、本当の(真固止の、○ 九 十の、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)の)こと(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真実)に気がついている人は、ごく少数でしかないから、“役員づら”の言葉によっている人ばかりだから“百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。”とも指摘されている。
 そして“てんし様拝めよ。てんし様拝めば御光出るぞ、何もかもそこから生れるのざぞ。
お土拝めよ。お土から何もかも生れるのぞ。 人拝めよ、上に立つ人拝めよ、草木も神と申してあろがな。”は、“てんし様”は、“上”との感応共振を示し、“御光出るぞ”は稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)であり、“一”=智性=1番目のオーラでもある。 そしてこの文の表記の“土”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の材料としての帯電するミネラルを示し、だから肉体を尊べという意味でもあるが、肉体を尊ぶのは、いかに鍛える(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊と、段階の段が合わさった表記)のかが大事。 
だからこそ貴い事象は、貴い“行”をして、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人が“創造”するからこそ“お土から何もかも生れる”と称されている。 それは“人拝めよ、上に立つ人拝め”も同様の意味で、特に“上に立つ人”は、霊的成長を果たすべく生きている人、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった人、あるいはそれを目指す人、それを目指せっていう意味。 そして“草木も神と申してあろがな”は、“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”。 “木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。 
 そして“江戸に攻め寄せると申してあろがな。富士目指して攻め来ると知らしてあること近付いたぞ。”というのは、この文の“江戸”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、そして“富士”の“富”は、智性(“一”、1番目のオーラ)そのものの表記であることを先ほど説明したが、自分の心(靈)の自我と智性に、入り込んでくる“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を“足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。 入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。 百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ”といわれていることを先に説明したが、それを強調した言い回しである。

 そして次の文。
“今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。 型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。”
 
 この文の“型”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートを指し、それはこの文の“江戸の仕組”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであり、“お山”は大脳新皮質(目上(めうえ)の脳)であり、“甲斐の仕組み”は、ローレンツ力であり、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもあり、自分が贖った事は結果として帰ってくる事を示唆した言い回しが“甲斐”である。(だが、“日月神示”には違う意味合いの“カイ”って表記がある)
 そして“鳴門とうづうみの仕組”は、肉体が持つ縦の磁束のローレンツ力による荷電粒子の回転を指し、“尾張の仕組み”は、尾骨と腹までの磁性、それは“日月神示”で使われる“褌(ふんどし)”に相当するもので、腹の段階の縦の磁束と原の水平磁場を指し、それはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、であり、頑張って(元の気を張って)気張る事、ローム太霊の言葉を引用すれば“粘りとやせ我慢”であることを指すものである。
 だが、現段階の地球人の進化は、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートとしての“型”を持っているだけの段階でしかなく、その意味も、その価値も、その真実も知りえない。 だから“今迄の事は皆型でありたぞ”と言われ、そして今後=アセンション後は、今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するに決まっているのだから“型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ”と言われ、“まことの世直しの御用”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きも無く、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)も活躍できない事象を“創造”することを示唆するものである。
 そして最後の文の“雨降るぞ。”は、以前紹介した雨の解字の画像を以下に貼って、今回はこれくらいにしときまんねん。

雨の象形文字 解字

“日月神示”日月の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

人間心で急ぐでないぞ。
我が出てくると失策(しくじ)るから我とわからん我あるから、今度は失策(しくじ)ること出来んから、ここと云ふ時には神が力つけるから急ぐでないぞ。
身魂磨き第一ぞ。
蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ。
今に分りて来るから慌てるでないぞ。今迄の神示よく読んでくれたらわかるのざぞ。
それで腹で読め読めとくどう申してゐるのざぞ。食物(くいもの)気つけよ。
十月二十八日、ひつ九のかみ。

 この文は、“我が出てくると失策(しくじ)るから我とわからん我あるから”が大事で、それは“人間心で急ぐでない”と冒頭で述べられているとおり、人だけの思惑ではこの事象は良いカタチにならない事を言われており、必ず自分にとっての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無ければならない事を示唆している。 
何度も述べてきたことではあるが、この事象は人の思惑だけで形成されているのではなく=“創造”されているのではなく、自分の心(靈)には常に霊的干渉があり、人の思想(思惑)や行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、その霊的干渉と自分の心(靈)が一体になってこそ、成り立つものでもある。
また、自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応共振する霊的存在が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)でなければならず、“上”との感応共振は、必ず自分を振り返る事になり、それは自省(胸の磁性“十”)であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番の、腹から上のチャクラの覚醒に至るものである。 
またそのことが、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”の世界を創造するための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
その反対である“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振は、“日月神示”表記の右回転(自我から下の心(靈)の動きに向かう事)であり、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きになり、自我の肥大(“石屋の仕組み”)でもあり、それは言い換えれば、○○○大先生の概念でもある“悪”=心の動きの本能化と低振動化ということになるし、その本能化に向かっている心(靈)の動きの人が、自分の欲望の達成のために活躍しているからこそ、この世界は腐りきっている。 
 
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転

また同時に、大半の人がこの進化過程だからこそ失敗を体験(右往左往の右往)する世界でもある。 また失敗の体験が無いと、よいカタチの“創造”、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を学習しないものでもあるしそれはローム太霊の言葉の左往右往の意味の一部でもある。
そして自分の心(靈)における霊的干渉は、自分の肉体の結晶化の度合い=どれくらい法則性にのっとった“行”が行われているのかによるからこそ、“上”との感応共振を示す言い回しの“ここと云ふ時には神が力つけるから急ぐでないぞ。身魂磨き第一ぞ。”と、言われている。
そして事象の“創造”には、霊的成長度における程度や段階というものがあるからこそ“蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ”と言われており、この文は世に出るとか目立つとか、あるいは陰徳とかってことでもあるけれど、自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)がまっとうであれば=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いでなければ、それはそれで、良いカタチの事象の“創造”に加担しているものでもあることを示唆しているし、今後=アセンション後はそういう人ばかりになっていくものである。 
だから自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、分けられ、その分けられる基準は、自分に内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出し、それを悪と認識できる人=自省(胸の磁性“十”)を果たした人でなければ、良い世界の“創造”には参加できないっていう実に簡単な事でしかない。 
だからこそ“日月神示”では“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の大事な要素である、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)の“行”を幾度と無く述べており、それが“今迄の神示よく読んでくれたらわかるのざぞ”という言い回しで示され、“腹で読め読めとくどう申してゐる”は、自分の腹の心(靈)(マニピューラチャクラ)の自我という心(靈)の動きに気をつけ、自我の肥大は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”につながる事を知らなければならない事、それを示しており、そして、自分の自我を制御するのは、自我より“上”の心(靈)、それは、自省(胸の磁性“十”)と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)であることを感じさせる。
それで、最後の文の“食物(くいもの)気つけよ”は、自我の肥大=心(靈)がケダモノ化する食事は、恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こしている肉食であり、また肉を食えば、人間を恨み、ねたんでいる、低い動物例と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しやすくなるから、そう言われている。 このことは前のブログから説明してきている事で、いまさらながらの感があるが、あえてそのことを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈



 今回も、日月の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世の元からの仕組であるから臣民に手柄立てさして上下揃った光の世にするのざから、臣民見当取れんから早よ掃除してくれと申してゐるのぞ。
国中到る所 花火仕掛けしてあるのぞ。人間の心の中にも花火が仕掛けてあるぞ。
何時その花火が破裂するか、わからんであろがな。
掃除すれば何もかも見通しざぞ。
花火破裂する時近づいて来たぞ。動くこと出来ん様になるのぞ。
蝋燭(ろうそく)の火、明るいと思ふてゐるが、五六七(みろく)の世の明るさはわからんであろが。
十月の三十一日。ひつ九のかみ。

この文の“世の元からの仕組”は、すべての生命が観察しうる事象=“世”、そして“元”は、“二”(土=二と|(たてぼう、こん、縦の磁性)と同義)=肉体を持った生命が、時間の進行とともに=儿部(じんぶ、にんにょう)、進化することのその“仕組み”という意味。 
それは、日月の巻で述べられているカタカナ中心の表記、天地初発(現津(あきつ)、観察され得る事象の顕現の始まり)とされていることと、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のこと。 
またそれは“道”(時間の進行)に沿って神格化した生命が“日止、霊止”になり、神の思惑を取り込み(“富士(二二)”の“富”、“日止、霊止”の“止”)、進化に伴い、だんだん高振動の“上”の思惑(電磁波)を受信して、自らの心(靈=○、荷電粒子の場(フィールド))と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、思想となし(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠と為し)、その思想は天意を認識(悟り、幸取=さとり)したものであるからこそ、その心(靈)は“日月神示”表記の“天詞様”であり、そうなるには“上”からの荷電粒子と“一”=智性=1番目のオーラの反応が必須でもあり、その具体的な方法論が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、だから黒住教で艮(うしとら)の金神は朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯があるが、要は、進化した“日止、霊止”、独り神(ひとりがみ、日取り神)になりうる生命が、現津(あきつ)、観察され得る事象に自分の(天意を受け認識となした)思想を、顕現すること。 
またこのこと事態が、進化した生命である人が、独り神(ひとりがみ)になる意義でもある。
そして、(すべての)生命(“創造”の“主(ヌシ)”からもっとも下等な生命まで)が認識しうる空間そのもの、それは“創造”そのものの結果と言い換えてもいいけれど、要はすべてが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)することと同義でもある。
それが“世の元の仕組み”と完結に言い表されていると思う。
そしてこの文の“臣民に手柄立てさして”は、“創造”の“主(ヌシ)”の計画である(すべての生命と生命が認識しうる場(フィールド)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としての)アセンションには、時期があるから、それに間に合う霊的成長度を獲得する事自体を“手柄”と称されている。 何回も説明してきたことでんねん。
そして今が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”による恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいの闇の夜であるからこそ、相対的な言い回しとして“上下揃った光の世にする”と言われ、“上下揃った”は、“上”=天意と“地”=自分自身のことで、それが一致しなければ(相対的な言い回しとして)“光の世”にはならないって言われているだけ。 
それは、何度も述べてきたことではあるが、現時点の地球は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が恨みの連鎖の霊的干渉をどんどん増大し、自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠は、自我の肥大であり、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの江戸であり、マニピューラチャクラまでの進化過程でしかなく、自己奉仕者の進化過程の心(靈)は、今と同じ世界を創造するからこそ、分けられ、それがアセンションにおけるひとつの事象でもあるからこそ“臣民見当取れんから早よ掃除してくれと申してゐるのぞ”と言われ、この言い回し自体が“上”の“慈悲”と“慈愛”の表れであるし、それは程度の低い進化過程の心(靈)の持ち主に、自分が自我の肥大をしている事に気付けということでもある。
そしてこの文の“花火”という表記は、“上”からの荷電粒子の自分の心(靈)との反応=電磁誘導のことと確信する。 それは今後=アセンション後の地球は、巨大人としての宇宙空間の腹の部分から胸の部に移行するし、だからこそフォトンベルトは大日如来の条帛(じょうはく)に相当するのだと前のブログで述べた。 
そして、フォトンベルト内は、今より高振動でもあるし、低振動の程度の低い進化過程の生命(自己奉仕者)は、“上”からの荷電粒子による電磁誘導に耐えられないであろうし、またそれは、平均的地球人の愛(炁)の顕現の程度の事象とは違うともいえ、当然のことながらその高振動は、自己奉仕者の自我の肥大という心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による振動)とは違うので、その進化過程の人はそれに似合う(身魂相当の)星に転生させられる…というよりも、自らの進化過程で行き先を決める。 
それがアセンションでもある。 
(そして余談になるが、進化過程に於けるの愛(炁)の顕現の程度については、アミの本のシリーズに恐竜がなぜ滅んだのかって記述があったが、それは分かりやすい言い回しでもあったし、次の地球の進化は、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が“創造”するのであり、当然のことながら愛(炁)の顕現の程度の低い心(靈)である自己奉仕者は、位置できないものである)
 今述べたことを念頭において、第十四帖に述べられている次の文を読むと意味がよく理解できると思う。 ちなみに()内は、Kellyさんが補足したことでんねん。

“国中(自分の心(靈)=“国”)到る所(個々の心(靈)という意味) 花火仕掛けしてある(奉仕者となりうるべき心の動き=アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”)のぞ。人間の心の中にも花火が仕掛けてあるぞ(これは先ほどの文を強調して再度同じ事を言っている)。
何時その花火が破裂するか、わからんであろがな(地球人の思惑ではなく“創造”の“主(ヌシ)”の計画だからという事)。
掃除すれば何もかも見通しざぞ(言うまでもなく“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”で、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、自分の心(靈)の“上”“下”を見出すこと)。
花火破裂する時近づいて来たぞ(アセンションの時期がせまっている)。(自己奉仕者の進化過程の人は)動くこと出来ん様になるのぞ。”
 そして現時点の平均的地球人が持っている思想や認識、あるいは、価値観、幸福感、それらはとても低いものであり、(自己奉仕者の心(靈)由来の)低いものであるからこそ、今後=アセンション後は相対的に高いものになるからこそ、次のように言われている。
“蝋燭(ろうそく)の火、明るいと思ふてゐるが、五六七(みろく)の世の明るさはわからんであろが。”

 そして何回も読み解いてきた事ではあるけれど、“五六七(みろく)”の“五”は、糸巻きの象形文字で、神経が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)により“慈(しげる)”こと、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”は、 “一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の重なった表記。
五の象形文字 
七の解字 “一”=智性=1番目のオーラと処イ部(いんぶ)(人の思惑の顕現) 

だから“五六七(みろく)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命が“上”との荷電粒子(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、天意と自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で、自分の思想を顕現して事象の“創造”をする生命(生きる使命=存在理由)なのだという意味の表記であることを、あえて指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第十五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。
神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。
明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。
何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。
何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。
取違ひ致して呉れるなよ。
幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。
いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。
神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。
あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。
神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。
迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。
コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。
十一月の一日、ひつ九か三。

まず、冒頭の文。

“目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。
神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。
明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。
何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。
何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。
取違ひ致して呉れるなよ。”

何度も述べてきているように、人っていう字は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成され、人の使命=存在目的は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”でもある。 またそれは、日月の巻 第十三帖で“蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ。”と述べられているが、それぞれの役割、使命、あるいは“日月神示”表記の“御用”は、その立場立場、霊的成長度に於いて、誰もが同じことをするのではない。 
だがそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)(法則性)に沿ったものでなければならない。 
そして進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解できない、あるいは間違えているものが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあるし、その心(靈)の動き(自我の肥大=“石屋の仕組み”)で創造されている事象は、恨みの連鎖の霊的干渉でもある。 
だからこそ自己奉仕者が創造した世界は壊滅するのが法則性(“理(ミチ)”)でもある
 このことを念頭において、この文を読み解けば、“目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ”は、“道”(時間の進行)において“其の日の生命”=役割、“其の生命を神の御心(みこころ)のままに”=“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、“使えまつる事に祈れよ”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を尊守せよということでしかなく、そして弥栄(いやさか)は、一言でいえば縦の磁束と横の磁束による荷電粒子の回転(チャクラ)でもあるが、それは弥栄(いやさか)の弥の旧字に示されているので、以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。
彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


そしてその、弥→彌=(背骨の)縦の磁束と(進化した左右相称動物である人間が持つ)水平磁場による荷電粒子の回転は、肉体が“上”“下”に並んだ三つのコンデンサーの構造を持つからこそ、“一二三”のオーラになり、その“一二三”のオーラは、“上”からの荷電粒子と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して心が構成されているからこそ、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ、“天詞様”と呼ばれる心(靈)には成りえないものである。 それを説明するために、“上”からの荷電粒子と平均的地球人の“一二三”のオーラのバランスを以下に示す。
平均的地球人と“上”との感応共振 


 だが、この平均的地球人の段階の霊的成長度の心(靈)は自我(腹、“日月神示”表記の“江戸”)中心でしかなく、それはいずれ進化していけば“慈悲”と“慈愛”中心の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と、高い智性(神性)を発現していくのだが、まだその部分のチャクラの発達の程度が低い。 そのことを日月の巻 第十二帖では“今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。”の、“型”(脊椎動物の進化のテンプレート)と称されており、だからそれは今の地球人の霊的成長度では“型”は整っただけでしかないということを指摘している。 
よって人は、今後、アナハタチャクラより“上”の進化に入る(第四密度)。 それは自己奉仕者の心(靈)ではなくなり、それを簡単に述べれば、自己と他者の良いカタチ、すべてのよいカタチを念頭におき、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え、自分の欲望を満たすだけの使い方をしなくなるものであるし、その思想を持った人間が事象の“創造”をしなければ、良い世界になるわけが無い。 
さらに、目上(めうえ)の脳を刺激する“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをなしたものは、“一”=智性=1番目のオーラの拡大になり、そして以下の画像の“一二三”のオーラのバランスとなり、頭の水平磁場の強化が理由で大きくなった“一”=智性=1番目のオーラは、“上”から注がれる荷電粒子の高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、高い智性(日を知る性質)を発現し、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすものでもある。

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成


 そして人の使命、“御用”は、“身霊相当”(霊的成長度において事象の“創造”の役割(“御用”)は、違うという意味、日月の巻 第十三帖の表記)でもあるが、今述べたように平均的地球人=自我の確立=固定化と、自我の肥大をした人間とは違う方向性を持つならばそれは、アセンション後の“創造”を担う“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をある程度認識しているのであるからこそ、日月の巻 第十四帖の表記の、(アセンション後の)“上下揃った光の世”の“創造”に参加出来うるものでもある。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それを教えるために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の計画として“日月神示”は書かれた。
(だが、その事を低い功名心と自尊心=自我の肥大による“役員づら”の心(靈)の動きでで履き違え、間違えている人が多すぎる)
 今述べた進化の“道理”、それを少しでも意識して自分の認識とするなれば、(個々の霊的成長度において程度の相違があるけれど)目の前の問題を、自分の課題として、あるいは困難を試練として、自らの成長に活かす思想を持つ。 
だから次のように述べられている。 
“明日の事に心使ふなよ。 心は配れよ。 取越苦労するなよ。 心配りはせなならんぞ。”
 ことにこの文の“明日の事に心使ふなよ”は、目前にある困難を試練と認識しない心(靈)の動きを指摘しているものであり、それは、自らの霊的成長のために“上”は困難を試練として与え(それは恨みの連鎖の霊的干渉由来の因縁である事が多いが)、それを乗り越える(贖う(あがなう))のが、ある意味“御用”でもあるし、だからこそS会=紫光会の交霊会では、“神は乗り越えられない困難を与えない”と何度も述べている。 
そして、目先の試練を自分が乗り越えるべき課題と意識すれば、“上”は通信を送ってくるものであるからこそ“心は配れよ。 取越苦労するなよ。 心配りはせなならんぞ。”と言われ、“明日の事に心使ふ”という、ただ問題を避けようとか、逃げようとか(それは、この文の前後を考えれば、安易な癒しとか、現世利益とか、苦難を避け目先の薄っぺらい幸福に酔いたい心(靈)であると確信する)の心(靈)の動きでは、課題を乗り越えることは出来ず、自分がその課題に真摯に向き合えば=“心は配れよ”“心配りはせなならん”とするなれば、自らと“上”の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があり、だからこそそれは、自分は頑張るけど、結果は“上”に任せる=“取越苦労するなよ”となり、その課題は外側(外国と幽界)の事象では解決しなくても、自分の心(靈)の中に認識が出来ていくし(右往左往と左往右往)、結果、自分の外側(外国と幽界)の事象に答えは無いのだが、認識を得たこと事態が、自分の霊的成長のための試練を乗り越えたのと同義であり、それは今後=アセンション後の“創造”に活かされるものである。 
それでまたちょっと前後するが、認識を獲得し乗り越えられたならば、それは、自分の霊的成長度の低さを知り=自我の肥大を知り、自分に“慈悲”と“慈愛”の厳しさが発現し、同時に智性(神性)も発現するものである。 
その意味のことを次の文、“何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。 取違ひ致して呉れるなよ。”と述べられ、“何もかも神に任せよ”は先ほど述べたとおり、自分は頑張る(元の気を張る)が結果は“上”に任せ、そして、“上”との感応共振を示唆した言い回しが“神の生命、神の肉体となりきれ”であり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化がなければならず、そのことを意図して“行”するならば、“上”は見過ごさないものでもある。 そして苦難や困難を試練と思わない自我の肥大した心は、自分に制限を加えないでサプリメントに頼ったり(例えば血糖値を下げるものや、食べてもダイエットできますとかの類のもの)、現世利益に(通貨としての)金を使ったり、インチキスピリチュアルカウンセリングやインチキ占いに金を使ったり、“役員づら”の宗教の本やスピリチュアルの本を買って満足したり、薄っぺらい感謝に酔ったり、こんな事は例を挙げればきりがないが、すべてそれは自我の肥大が招く事でもあるけれど、そんな低い心(靈)の動きを自分自身が見出し、その心(靈)の動きに囚われていてはいけないからこそ“何もかも捨てきらねばならん”と言われ、そして今の地球上の事象は、霊的に高いものでも低いものでも共通の事象を観察して認識しているから、“天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ”と言われ、要はこの言い回しそのものは、観察して認識する事象そのものはすべて自分の心(靈)の内側にあることを示唆しているし、自分の霊的成長度に於いて、今後=アセンション後には、自分の心(靈)が観察する事象は、今の地球のように“玉石混交(淆)”ではなく、自らの霊的成長度の高低における事象を体験するものでもあるし、それが神の計画としてのアセンションの意義で、だからこそそれは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と自己奉仕者は区別されねばならない。 そして大半の人がこの文章から、今述べたこのことを読み取れないからこそ“取違ひ致して呉れるな”と述べられている。
 そして次の文の、“幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。 いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。”も、目前にある試練を乗り越せという意味のことを言っており、何回も指摘してきているが、“日月神示”表記の“神国”の“国”は、自らの心(靈)のことであり、だから自分が試練と戦う=“幾ら戦してゐても”、それは自分の霊的成長の過程だからこそ=“上”に向かう事だからこそ“天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ”ということになる。 
そしてこの文に続く“いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。”は、“いきの生命”は、息の生命(生きる使命=存在理由)が妥当だろうし、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する自分の心(靈)=“いきの生命”は“いつも光り輝いてゐる”=高い振動のオーラを息吹いているということで、それは“上”との感応共振を言い表した“神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな”であり、いうまでも無く“あめつち”は、“上”と“下”を示す天と地である。 
そして次の文の“神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。 あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。”も“上”との感応共振を述べている。 そしてこの文の表記“辞(コト)”は、敬意をもってへりくだって述べるの意味があり、それは“下”である自分が“上”に対する態度であり、述べること事態が自分の心(靈)の発振、発信であるからこそ息吹でもあるし、それに対し“上”からの荷電粒子が降り注ぐ様が“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味)と称されていると確信する。 そして“あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ”も、先に解釈を述べた天地=“上”“下”を知り、しっかり認識せねばならぬからこそ“あめつち称へ”と述べられ、それはまた“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であるからこそ“言(コト)が光透(コト)ぞ”であり、“草木の心になれ”は、“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”、そして“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
それで残りの文は、自分に対する事象が神の思惑のものもあれば=霊的成長を果たす事象もあれば、また、その反対の、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑(この場合の思惑は自分以外の心(靈)の発振、発信のこと)のものもあるからこそ “神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。” と言われ、だからこそ“迷ふでないぞ”と言われ、先ほど述べた例を挙げるときりが無い事、“苦難や困難を試練と思わない自我の肥大した心は、自分に制限を加えないでサプリメントに頼ったり(例えば血糖値を下げるものや、食べてもダイエットできますとかの類のもの)、現世利益に(通貨としての)金を使ったり、インチキスピリチュアルカウンセリングやインチキ占いに金を使ったり、“役員づら”の宗教の本やスピリチュアルの本を買って満足したり、薄っぺらい感謝に酔ったり”ってことが無いようになって欲しいから“神の申すコトはコトであるぞ”=“上”の思惑は“コト”(“上”からの荷電粒子の意味を持つ)“光透(コト)”であり、その光と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)してくれという意味で次のように述べられていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。”

“日月神示”日月の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。
神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。
やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。
昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。
どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。
十一月三日、一二 ローレンツ力と ○

 この第十六帖の文も、今までの“日月神示”にたびたび述べられていたアセンションに伴うこの世界の変容を指摘している。 そしてその変容は、自己奉仕者が創造した腐った世界に対し、大半の人がそのことに気がついていないからこそ変容は起きることを述べている。 また、そのときに、自分たちはどう在るべきなのかを説いている。
 まず、冒頭の文。

“慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。”

 この文は、自分たちがやってきた事(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の結果は、必ず現象化=“何もかも返報(へんぽう)返しする”することを述べている。
(このことは、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”と同義でもある) 
例えば、人が何かをする(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現))それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いは良い結果になり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いは、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けるという、どの宗教でも解いている実に明快な事でしかないが、内在する悪を容認している智性無き心(靈)の進化過程は、最近のニュースなど見ていても、(自己奉仕者の行いは)どんどん暴かれており、自己奉仕者の進化過程の人は自省(胸の磁性“十”)させられるし、それは“日月神示”表記の“道理”の意味である“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)である。 
また、アセンションそのものが“道”(時間の進行)に沿っておきる事であり、さらにアセンションに伴うその変容は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)であることを“時節が何もかも返報(へんぽう)返しする”という言い回しで示唆している。 それは幾度と無く述べてきていることではあるが、平均的地球人の進化過程は自我中心(“江戸と尾張”)、そしてこれから=アセンション後の進化は、“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(日を知る性質)(“一”、1番目のオーラ)の進化をしていくものである。 
そしてこの文の“時節”“時の神様”は、アセンションに時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)があり、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の計画である事を示唆している。 
そして今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は存在し得ない地球になる。 だから分けるし、分けられねば“うれしうれし”“大歓喜”の事象にはならない。 
そして、自分の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によって、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)により、行き先が違うのがアセンションでもあるが、アセンションって言葉は形骸に成り果てているし、形骸に成り果てている理由は、自己奉仕者が“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り果てて、ダメな情報をダメな人に流布しているからでもあるし、ダメな人が多すぎるのが現時点での地球でもあるし、そして、ダメな人と“役員づら”は、程度の低い進化過程なのだから、アセンション後の地球に移行できる訳が無いが、ほとんどの人がこのことに気がついていないことを(このことも幾度となく述べたことではあるが)あえて指摘しておく。

そして次の文は、自己奉仕者の程度の低い認識について指摘している。

“神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。”

 “われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分の低い欲望の達成のために使い、だからその心(靈)の動きは(自我の肥大ゆえの)低い功名心と低い自尊心にもなり、その心(靈)の動きで巧みに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使い(“力”を利用して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをするし、そして、そのことに対して罪悪感を持たない=内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する心の動き)、たくさん儲けて、(通貨としての)金を得る事が幸福だと思い込んでいる(霊的成長度が低くて、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を発現していない)ダメな人間が大多数なのが、今の地球でもある。
そしてそのことは、“上”の思惑を受信した心(靈)=“神国”の政治の政、“政(まつりごと)”では無いのだという分かりやすい事も、この文で述べられている。
 また、このことも何度も述べてはいるが、今後=アセンション後は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の世界になるし、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋だからこそ、それをあえて指摘している言い回しが“神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。”であり、“上”はこういう心(靈)の人間を評価するという当たり前のことをこの文から感じ取れない人は、(間違いなく)アセンション落第組。
 そして自己奉仕者の行いは、“今の(平均的地球人の心(靈)の動きとして)遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ”であり、自己奉仕者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“気”では、ダメになるからこそ“早よう気付かぬと(自らの心(靈)が招く“返報(へんぽう)返し”として)気の毒”が“出来て来るぞ”であり、それは自己奉仕者が(通貨としての)金に執着して大事な事を形骸にしてきたからこそ“金いらぬと申してあろが”でもある。

 次の文。

“やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。
よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。”

 当然のことながら、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、学校のように誰かに教えられる事ではなく、自分が生きている間に様々な事に遭遇し、それは喜びであろうが死ぬほど苦しい事であろうが、それぞれの事象について自分が考え、そして行動し、失敗もして教訓を得て(右往左往と左往右往)認識を獲得し、その認識が自分の在り方を見出し、そして自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきか考えるものでもある。 
それが出来ていない程度の低い心(靈)は、目先の利益しか分からないとか物欲と(通貨としての)金由来の幸福感しか持ち得ないとか、毎日楽しく暮らしたいとか薄っぺらい癒しを求めるとか、…今までいろんなことを指摘してきたが、そんな考えを持っている人間も間違いなくアセンション落第組である。
今述べた、人生においての苦難を試練として認識を高めていく事、それと、“日月神示”では太陽凝視って言葉を使っていないようだが、それを示す表記はたくさんあり、だからこそ“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことという解釈をしているが、このことに気付けということと、そしてそこには自分の心(靈)の在り方を示す“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”があり、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの意義は“一二三”のオーラのオーラの拡大であり、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば天意を受信して“天詞様”と“上”が評価する“日止、霊止”になりうる。
これらの事を“やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてある”という言葉に感じ取れるものである。
そしてこの文の後半の“よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。”は、第十六帖の冒頭の“時節が何もかも返報(へんぽう)返しする”にかかる言い方であり、今の時点での自分が、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認して自己奉仕者に成り下がっていても、必ずそれは暴かれ、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けて、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)では、自省(胸の磁性“十”)ってことをするし、それが腹から胸への進化でもあるし、そうなった人は“人に知れぬ様によき事はするのざ”ってことを考えるものであるし、そういう心(靈)の動きと行動をとるようになるならば=自我の肥大した自己奉仕者が失敗して“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けて自省(胸の磁性“十”)して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になれば、“よき事も現れると帳消しとなる”って事だと思う。

そして次の文も“返報(へんぽう)返し”を強調して述べている。

“昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。
どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。”

 ことにこの文では、自己奉仕者の“メグリ”=“返報(へんぽう)返し”=恨みの連鎖の霊的干渉の結果(現象化)=“何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならん”について、深く思わされるし、自己奉仕者から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した、あるいは、その方向性を見出した人(日止、霊止)に対しては“どこにゐても救ふ臣民は救うてやる”って述べられ、自分が自分の心(靈)の動きを自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出して、それを自分に許さない心=“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”をもつ。 それは重複するが、自分の心(靈)の動きを見定める基準であり、それは天意の受信につながり=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になり、自分の心の中の基準になるという意味で“真中動くでないぞ”=基準を見失うな!と言われており、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は自己奉仕者の行いが“返報(へんぽう)返し”により、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けても、それはその人の成長に必須の事であるからこそ“知らぬ顔しておる事も起る”と言われ、そのときに自己奉仕者の心(靈)の人は「神も仏もあるものか」と、自分を擁護する勝手な都合のよい言い方をするだろうけど、神や仏は(“返報(へんぽう)返し”による)災厄、苦難(試練)を自己奉仕者に体験させ、それがその進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度において必要だからこそ=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は“知らぬ顔しておる事も起る”って事も体験させなければならないのだということを言っている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、日月の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。
神の国にも善と悪とあると申してあろがな。
この神示見せてよい人と悪い人とあるのざぞ。神示見せて呉れるなよ。
まことの神の臣民とわかりたら此の神示写してやりてくれよ。神示は出ませぬと申せよ。時節見るのざぞ。型してくれたのざからもう一(はじめ)の仕組よいぞ。
此の神示 表に出すでないぞ。天明は蔭の御用と申してあろが。
神示仕舞っておいてくれよ、一二三として聞かしてやって呉れよ。
此の方の仕組 日に日に変るのざから、臣民わからなくなると申してあろが。日に日に烈しく変りて来るのざぞ。神の子には神示伝へてくれよ。神せけるぞ。
渦海(うづうみ)の御用結構。
十一月四日、一二ローレンツ力と ○  。

 冒頭のカタカナ表記も、今までの日月の巻の例に倣い、漢字とひらがなを当てることとする。 そうすると以下のようになる。

“此処に(茲に)天津神、諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)(日足(ひたり)の極性)伊邪那美(いざなみ)の“実言(みこと)”(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))に、是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”

 この文の冒頭の“此処に”、これにはあえて“茲に”を当てたが、この“茲”という字は、日月の巻 第三十帖に出てくるとても重要な意味を持つ表記で、その表記の意味は、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示していると思うし、またそれは、左右=日足(ひたり)と砌(みぎり)に展開している進化した左右相称動物の特徴である神経の表記でもある。 
要は、神経=この字の左右の“幺”(いとがしら)に表れ、それは、これまで“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の解釈として、“五”は糸巻きの象形文字で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神経が密になり、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、その両方の思惑が交わるの意味があり、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)があると述べてきたが、その“五”を示すのが、また、“茲”=左右のコイル状の神経の芽生えと発達を示す表記であると思う。 
そして“茲に”のあとに“天津神”=(“創造”の“主(ヌシ)”に近い)“上”の思惑が、事象の“創造”と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命を育てる意図=“諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて”であるだろう。 そしてこの文自体は、日足(ひたり)=(“創造”、愛(炁)の顕現、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の)思惑=伊邪那岐(いざなぎ)。 それと、砌(みぎり)、現象化(“創造”の“主(ヌシ)”が意図する事象の顕現)、伊邪那美(いざなみ)。 この両者(事象の“創造”には神の極性としての二つの性質がある)に対して=“イザナギノミコト イザナミノミコトニ”って言われており、それは“是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))”を“宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)”=それをせよ、実現(意図して創造して現象化)せよ、そう述べられている。
そして“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”、これは“多い”、“陀”“用”“幣”“流れる”“国(國)”に分けて解釈するならば、この表記の“陀”は、ななめ、平らではないという意味があり、“幣”は、御幣の幣で、それは以前(上つ巻 第三十四帖の解釈)、こんな画像を作ったことがある。

御幣 日足と砌(ひたりとみぎり)の発振、発信

 御幣そのものは、神の依り代と一般に解釈されているが、それは、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化を示したものであると思うし、だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、心(靈)の発現が“上”に向かう事であり、人間になって初めて智性(神性、“一”、1番目のオーラ)が観察できるようになった。
(…というのが、○○○大先生が霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)で、様々な人や動物などのオーラを観測して得た結論でもある)
そして御幣の構造の意味するところとして、○○○大先生的解釈は、御幣を支える棒が、背骨に相当し、そして背骨で発生する縦の磁束、それは、金(カネ)の意味でもある“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、それがまた“カネ”の言霊であり、背骨の周りの神経がコイル状で、生体内電流により電磁石の構造を持ち、 ローレンツ力  =ローレンツ力が発生することが、“上”との思惑(電磁波)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。 
分かりにくいやろから、今述べたことを言い方を変えるならば、事脊椎動物の進化の究極(○ 九 十 の“九”、これは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”(“創造”の“主(ヌシ)”の表記と、“一”=智性=1番目のオーラの意味+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の意味がある)は、人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そして“上”からの荷電粒子を止める意味“霊止”と、太陽凝視(“ひつく”“日津久”)の意味を持つ“日止”=太陽の思惑である荷電粒子を、自分の心(靈)に止めるって表記。 それは、脊椎動物の進化は背骨=縦の磁束(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))、そして左右対称の神経や臓器や骨格など、要は人間は進化した左右相称動物であり、それだからこそ一個体の肉体が持つ磁束は多様化して、人間より下等な生物に無い高分子化したたんぱく質が出来上がり、それだからこそ“上”からの荷電粒子との反応や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、進化すればするほど心(靈)の多様性って結果にもなりうるものでもある。 そしてその意味も含め、日月の巻 第十二帖でこう解釈した。

“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示す。

 すべての(心(靈)が観察しうる)事象、それは空間であろうが生命であろうが、何かが積み重なり、積み重なった何かで電気特性の変容がおき、またそれは場(フィールド)の構築になり、場(フィールド)は電磁波の発振、発信をするから、すべての事象はそれぞれの場(フィールド)(心(靈)をも含む)のオーラ(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による相互干渉で影響し合い、さらに高度で複雑な現津(あきつ)、観察され得る事象を(自分の心(靈)が電磁波を感じ(感じる磁性)ることにより)“観察と認識”するものでもある。
 それで、今述べたことが、この文の“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”に感じ取られ、それは“多い”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の多様性や、空間の広がり、“陀”は磁束の変化、ローム太霊が伝えた右往左往と左往右往の(個々の心の動き以外の)もうひとつの意味でもあり、そして“用”は“上”の思惑による生命がなさねばならぬ使命であり、“幣”は“上”の思惑を顕現する肉体の構造、“流れる”は、発振、発信。 そして“国(國)”は、心(靈)そのもの、ちなみに国の旧字、“國”、これは、囗(かこい、場(フィールド))、或(ワク)、(或は、弋(くい)(積み重なったなにか)と、囗(かこい、場(フィールド)と横棒―(水平磁場、日足と砌(ひたりとみぎり))で領域を区切ることを意味するので、やはり進化した心(靈)を意味する表記であると解釈する。 よってこれは、場(フィールド)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と、心(靈)の進化を指し示す表記であり、これに続く文の“作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”は、このまま()内の表記を読めば分かると思う。
ただこの文の、“アメノヌホコ=天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)”については、第十八帖で、“ヌホト”って表記が出てくるが、それは、差し込む何かと差し込まれる何かによる電磁誘導ってことなんだけれども、そのときに詳しく解釈を述べることとする。
 ちなみにこの意味のことは、上つ巻 第三十四帖で“やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、”と、すでにほとんど同じ意味の事が述べられている。ただ日月の巻 第十七帖では、“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”で、上つ巻 第三十四帖では“多陀用幣流天地(たたよへるくに)”であり、“国(國)”と“天地”の違いがあるが、これは個々の心=“国(國)”と、“上”と“下”の場(フィールド)=“天地”であり、どちらも(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)“上”と(進化した生命=“日止、霊止”の思惑)“下”によることでもあるし、だから上つ巻 第三十四帖では、事象の“創造”を示す表記として“修理固成(かため)の終りの四あけである“と、すでに書かれていると思う。 

 次は、第十七帖の残りの文。 
まず“神の国にも善と悪とあると申してあろがな。”は、“神の国”は今まで出てきた表記の“神国”と同義で、自分の心(靈)そのものであり、それには“上”と“下”があるからこそ“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)があるという意味だし、だからこそ霊的成長は“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”=自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観察して、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”する事につながっていくし、それは智性(日を知る性質)(神性)(“一”、1番目のオーラ)によってなされ、だからこそ動物としての最終形態の人間の肉体の変化は、目上(めうえ)の脳の進化であり、その部位での心(靈)の発現=“上”からの荷電粒子との反応(彌栄(いやさか))が、智性に相当する。 
そして“この神示見せてよい人と悪い人とあるのざぞ。神示見せて呉れるなよ。まことの神の臣民とわかりたら此の神示写してやりてくれよ。神示は出ませぬと申せよ。”は、自己奉仕者の進化過程での心(靈)では“日月神示”の文を見ても“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)にしかなりえない事を強調しているし、“役員づら”と“役員づら”の解釈の文を見てもっともだと思うような人は、当然のことながらアセンション落第組でもある。 
そして“時節見るのざぞ。型してくれたのざからもう一(はじめ)の仕組よいぞ。”の“時節”は、時間の進行=神の計画によるアセンションの時期と、個人個人の霊的成長度により=“型してくれたのざから”から感じ取れる事であり、“型”は、心(靈)の進化のための肉体の構造、サイクロトロンやシンクロトロン、荷電粒子の回転=彌栄(いやさか))でもある。 だから霊的成長度の低い人間=“まことの神の臣民”では無い人には“神示見せてよい人と悪い人とある”“神示見せて呉れるな”と言われ、そして“神示は出ませぬと申せよ”=程度の低い人間は程度の低い解釈をして甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見るからこそ“此の神示 表に出すでないぞ”“神示仕舞っておいてくれ”でもある。
そして“天明は蔭の御用と申してあろが”は、岡本天明は、“上”の思惑を伝えるだけの使命であり、“日月神示”を自動書記で書かされているからって別に霊的に高いわけではない=霊媒体質(マニピューラチャクラ中心の進化)であるからってことを言われ、岡本天明自身に慢心するなってことでもある。 
そして“一二三として聞かしてやって呉れよ”は、自らの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“一二三”のオーラになり、だからそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人のオーラならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人との霊縁があり、“役員づら”の心(靈)の発振、発信に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する人は、やはり同程度の霊縁による人でもあることを示唆するものであることを読み取るべきである。 
そして霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度により、やること=“行”も、言葉(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き))も、違うから“此の方の仕組 日に日に変るのざから、臣民わからなくなると申してあろが。”と述べられ、アセンションに向かう時期が近いからこそ、程度の低い人は霊的成長のための“行”=“此の方の(霊的成長の)仕組”を見出せないから“臣民わからなくなると申してあろが”であり、時期、この第十七帖の表記なら“時節”が近くなればなるほど“日に日に烈しく変りて来るのざぞ”となる。 
さらにアセンション後の創造を担える資格=その霊的成長度の人に対し“神の子には神示伝へてくれよ”と言われ、そして時期=“時節”が近いから“神せけるぞ”と言われ、さらに“型”としての“渦海(うづうみ)の御用”=荷電粒子の回転の意味を持つ“渦(うづ)”と、自我の発現である原の水の表記の“海”、これは心(靈)が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる重要な過程を示すことでもあり、だから進化過程としての自我の発現は大事だが、霊的成長度の低い人=智性(神性)を行使していない人がちょっと間違えると自我の肥大になり、それは“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)になり、恨みの連鎖の霊的干渉で地球と地球上の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻んでいるし、それ事態が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもある。
だから“渦海(うづうみ)の御用結構”は、自分の心(靈)が自我中心である事を知り、その進化過程だからこそ自己観察=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すことを自覚する=“御用結構”って言葉の意味であることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ツギニ、イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。
日に日に烈しくなると申してあろがな。
水いただきにあげなならんぞ。お土掘らねばならんぞ。言波とくに磨きてくれよ。
コトに気つけて呉れとくどう申してあろが。
してはならず。せねばならず、神事(かみごと)に生きて下されよ。
十一月六日、ひつ九のか三しらすぞ。

 例によって冒頭のカタカナ表記は、漢字とひらがなを充てることとする。 そうすると以下のようになると思う。

次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて、共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))

 この文の要点は、アメノヌホトヲタマイテであり、それは先の第十七帖のアメノヌホコ、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)が先に出来、それを“次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて”と記されているところにある。
それで“ヌ蕃登(女陰=ほと)”の“ヌ”には会えて漢字を充てなかったが、第十七帖の“沼矛”の“沼”あるいは日本書紀の表記の“瓊矛”の“瓊”も、妥当な意味だと思うので、あえてカタカナのままとした。 
それで“沼”は、水の滞った状態、あるいは水が溜まった状態を指し、この水の意味は、肉体でいえば、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、またこれは生命の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に於ける自我の確立=固定化の段階と共通の意味であると思うし、それは錯体を含んだ水ってことでもある。 それでこの“ヌ”が日本書紀表記の“瓊”ならば、何かが積み重なり=高分子化して電気特性が優れたもの(増幅の作用だろう)に変化した状態を指すと思う。 
さらに“ヌ”を、たびたび引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から紹介すれば“まもり強き神の心…中略…汝身それなし得ずば…”と記されており、これは神の理(ことわり)=法則性、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と共通の意味であると思う。
それで第十七帖と第十八帖で、“ヌホコ”と“ヌホト”という表記が示され、これは差し込むものと差し込まれるものと第十七帖で解釈した。 
それで、差し込むもの=“ヌホコ”は、差し込む意志があって差し込むものであり、差し込まれるもの=“ヌホト”は、受け止めるものであり、これは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性でもあり、思惑や意図したこと=日足(ひたり)であり、またそれは男として記されている伊邪那岐(いざなぎ)でもあるし、同様に現象化、(思惑を受け止めて)顕現するのは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それは女として記されている伊邪那美(いざなみ)である。 このことを要約すれば、“思惑の顕現”=現象化ってことになる。
さらに第十八帖の“蕃登(女陰=ほと)”であるが、“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい=男と女=日足と砌(ひたりとみぎり))との表記が古事記でなされているものでもある。 そして“登”は、“上”に向かうとか進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味でもあろう。 また、“女陰=ほと”は、差し込まれるものの象徴でもあるが、一般の古事記の解釈は、性的なことしか取沙汰されていない感があり、事象の“創造”における日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の現れであるとの解釈にお目にかかったことが無いので、今回(○○○大先生の)解釈を述べておく。
それでこの文が示唆するところの差し込むものと差し込まれるものについて、“改”で使った画像が分かりやすいと思うので、以下に示して解釈を述べることとする。
宇宙の中心と、生物一個体の縦の磁束を大局的に観る
 
 
(おのおのの生命=個々の心(靈)が)宇宙の中心と認識している場(フィールド)は、ひとつであるって当たり前のことでもあるが、地球上に存在する肉体を持った生命は、縦の磁束が発現する。 また、古神道表記の天之御柱(あめのみはしら)、“上”と“下”を貫く磁性は、宇宙の中心と自分の“上”と“下”を貫く磁束でもある。
生命である自分が持つ縦の磁束の強化は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもあり、その過程で神経が密になること、それは“慈(しげる)”、そして“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)、この神経の発達が一個体の肉体の電気特性を、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)により、変容させているし、だからこそ“五六七(みろく)”は、神経が密になり=“五”、そして“六”は爻部(こうぶ)で、それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味があり、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記であるとの解釈が成り立つものであるし、それは、(神経の発達、たんぱく質の高分子化の程度という意味で)段階を経て、天意=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、宇宙線や太陽からの電磁波と認識されているものとの反応が変わってくる(その意味で“日止、霊止”って表記が成り立つ)ことを何度も説明してきたし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、天意(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の受信)であり、微生物から脊椎動物、そして人への進化は、多細胞化であり、“石”(帯電するミネラル)の結晶化=骨の進化(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味の一つ)でもあり、肉体を構成するたんぱく質の高分子化であり、神経が密になること=“慈(しげる)”、“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)でもある。 そして目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の発現を見るようになって初めて“一”=1番目のオーラが発現し、智性(神性)を行使できる資格を持ったといいうる。
これはすべて、“上”からの荷電粒子との反応、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることであり、だから肉体は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しなければならず、それがまた、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味のひとつでもあり、“日月神示”表記の ○ 九 十 にも、その意味を感じ取れるものである。
またすべての事象は、何かの積み重なりでもある。 そしてその積み重なりが、積み重なったものの電気特性の変容や磁束の多様性を構成していく。 このことが空間であろうがすべての生命であろうが、すべての事象に共通する意味で、相似象であると思う。
さらに、日月の巻 第十二帖で、以下のように解釈した。
“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示すと思う。 
ちなみに○○○大先生は“改”で、進化に伴う生物の一個体内の電気特性の変化と、“上”からの荷電粒子の影響、その両方が進むことにより、電気特性を持つアミノ酸がつみ重なり、それはたんぱく質の高分子化になり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを説明しているが、それは巨大人の構造を持つ宇宙(場(フィールド))であっても同様で、宇宙は星間物質が凝り固まり(コ、(凝集の)凝、真固止の固)、星雲や星が出来ているし、密度の高い星(真に固い星)(白色矮星、ブラックホールなど)は、高いエネルギー(電磁波、高振動の星のオーラ)を放出している。 
そしてそれは、宇宙であろうが人であろうが下等な細菌であろうが、すべての事象は磁束と電気特性という性質において相似象であるとの解釈に基づいて思うことでもある。
だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人のオーラが大きくなるのが必然でもある。
少し余談だったけど、その意味合いで“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をする。 
なぜその解釈が成り立つのかといえば、今後解釈する日月の巻の第十七、十八帖に“ヌホコ”“”ヌホト”って表記が出てくるのと、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思うからであり、この詳細についてはそれぞれの帖で述べることとするが、その発電の仕組みを構成し始めること、成り立ちの初めの段階が、高分子化、分子の積み重なりであり、それが“角”“杙(杭)”である。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであるとの解釈をする。
だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をする。(引用終わり)

これらを踏まえこの引用文の“この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思う”について、以下に画像で示すこととする。

ヌホコとヌホトによる電磁誘導


あるいは以下の画像のような説明の仕方もある。

角杙(つぬぐひ)と妹活杙(いもいくぐひ) 電磁誘導


 この二つの画像は、電気の知識に明るい人が見れば一目瞭然で理解できると思うので、あえて詳しく説明はしないし、実際はもっと多様になっているものでもある。
それで、先に述べた“蕃登(ほと)”の“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい)=日足と砌(ひたりとみぎり))の発現であるとの解釈をした。
またこれが、増幅の“畐”であり、“畐”が進化すれば息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になるということでもある。
そして“上”からの荷電粒子の影響を示唆した文が“トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。”“共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”で、
この文の“コトクニ”“光透(コト)国(國)”には、“上”からの荷電粒子の影響で“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)、いわゆる心(靈)が進化することを指し示す表記であると思う。

 次は、第十八帖の残りの文。
“日に日に烈しくなると申してあろがな。”は、“上”からの荷電粒子=太陽、日により、進化=“烈しくなる”っていう意味、そしてアセンションの時期が近いから、“上”の思惑は顕現して右往左往してきた人は左往右往して自省(胸の磁性“十”)の行をするという意味。
 そして“水いただきにあげなならんぞ。お土掘らねばならんぞ。言波とくに磨きてくれよ。コトに気つけて呉れとくどう申してあろが。”の“水いただきにあげなならん”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンが、胸の磁性“十”によりシンクロトロンに移行して、そのエネルギーが上昇する様は大日如来の条帛(じょうはく)に相当すると幾度と無く述べたが、その意味を示唆し、この文の“いただきにあがなならん”の“いただき”は、山=目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳である。 要は自我から“慈悲”と“慈愛”にいたり、智性(神性)を行使せよっていう意味。 またそれは肉体を持っているうちに成し遂げろっていう意味で“お土掘らねばならん”っていわれ、このことも何度も述べたが土=2~3番目のオーラ=肉体である。 そして自らの心の発振、発信=息吹は、事象の“創造”をしているのだという意味で“言波とくに磨きてくれよ”っていわれているし、以前解釈したように“言波”の“言”は、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動きであると思う。
 また自らの心(靈)の息吹は、“上”からの荷電粒子を取り込まねばならず、その意味で“コトに気つけて呉れとくどう申してあろが”であり、このカタカナ表記の“コト”は”“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)であると思う。
 そして“してはならず。せねばならず、神事(かみごと)に生きて下されよ。”は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の事象を自分の心の基準で見出すということが“してはならず。せねばならず”であり、“神事(かみごと)に生きて下され”は、上の思惑を顕現する資格を持つ人間になってくれっていう意味で、それは心(靈)の在り方である“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、“上”からの荷電粒子との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にあることをあえて指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈

 
 今回も、日月の巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。一度マカリタと思へ。
掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。ゴモク捨てよと申してあろがな。人の心ほど怖いものないのざぞ。
奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。北に気付けよ。
神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。 今度のさらつの世の元となるのざぞ。
十一月七日、ひつ九のか三。

 この第十九帖の文も、今までたびたび“日月神示”の文章に出てきているように“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”や、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の心(靈)の動き=自我の肥大に対しての、重要な指摘である。
大半の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化であり、そこにちょっと自分の在り方に対する認識の誤りがあれば、自我の肥大=“石屋の仕組み”になる。 
そしてその心(靈)の動きが産み出しているのが恨みの連鎖の霊的干渉で、最近のニュースを見ても動機の理解できない犯罪は多いが、これは恨みの連鎖の霊的干渉の憑依現象であることを前のブログでもこのブログでも指摘した。 そしてこのことは、今の地球人の大半が自分の自我の肥大に気付かず、恨みの連鎖の霊的干渉の増大にも気付かないから、これからもひどくなるに決まっているし、これもすべて、自分たちがやってきた事の結果、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもある。
 仮にそれらが直接自分に降りかかっていなくても、それらを見て自分に何を見出すのかが重要であり、また、自分の心の動きの中に、自分中心の考えがあり、それがひとつ間違えば自我の肥大になることを知り、自我の肥大が恨みの連鎖の霊的干渉の原因である事を知る。 それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の意義であり、それはまた自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。 
だが、進化程度の低い人=“一”=智性=1番目のオーラの小さい人は、それが分からない=自省できない。 それただ、保身しか考えないとか、今が楽しければよいとの薄っぺらい幸福の概念を持つとか、因縁を試練と考えないとか、苦難を避ける事を癒しと勝手に解釈するとか、こういう人が大半でもある。
そして今、恨みの連鎖の霊的干渉による子供の浮遊霊の憑依は多く、ほとんどの人の心(靈)の中に幼稚な思いがあり、それは仏教の概念の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもある。 前にも説明したが、三毒の意味を以下に述べることとする。
貪は、むさぼる。本能由来の行動。 
瞋は、目をむいて感情をあらわにする。
痴は、白痴の意味。認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らないの意味。 
だから大半の人は(通貨としての)金があれば幸せ、物があれば幸せ、快楽を追求すれば幸せ、苦難を避ければ幸せなどの心(靈)の動きがあり、今成功している商売はこういう甘い(亜、魔、出ずる、泉)心(靈)の動きをついたものが多い。 そしてこれはスピリチュアルやアセンションや宗教の概念などを説いた出版物にさえ見られることでもあるし、今の大半の出版物はこんなものでしかない。 実に情けないことでもあるが、本当の事、自分の在り方、これらを真摯に考える人っていうのはごく少数でしかない。
だからこそ、この第十九帖の冒頭の文のように“今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。一度マカリタと思へ。”と述べられており、“身魂掃除”“身魂洗濯”ができれば=自分の心(靈)の動きの“上”と“下”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出せば、自分の在り方を見出せるし、自分の在り方を見出したなら、その心(靈)の動きによる霊的干渉があって当然であるし、如何にこの星が恨みの連鎖の霊的干渉で悪霊でいっぱいであったとしても、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)により自分の在り方を見出した人なら、その心(靈)には悪霊の影響を排除する基準(天の御目(あめのおめ))がしっかり確立されるものであり、それは自分以外には“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きにもなり、自分に対しては“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”にもなり、またそれは第四密度でもあり、アナハタチャクラでもあり、胸の磁性“十”(シンクロトロン)でもあり、それが本当の意味での魔よけであると思う。 

そしてこれが今後=アセンション後に移行するべき最低限での資格であると思う。

 この心(靈)の動きのない人、特に先に述べた“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の人たち、神や高い心霊、主護霊の概念を利用して商売したりアセンションの情報を利用して甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉で人をひきつけたり、薄っぺらい感謝や癒し、幸福などという言葉を、キャッチコピーのように使い、セミナーや自分の商売に利用したり、それらを吹聴する本を出版したりする人間は、神や心霊やアセンションなどの神聖さを知らず=その認識(悟り、幸取=さとり)も無く、感謝や癒し幸福をキャッチコピーにして本を出版して印税を儲けている人間と、それに同調する人間は、本当の苦難を知らないと思うし=まだその本当の苦難を与えられる霊的成長度ではなく、だから苦難を試練と思わず=霊的成長のチャンスと感じず、目先の苦難に遭遇しても(薄っぺらい保身の考え=自我の肥大で)逃げるし、苦難から教訓を得る姿勢も無く、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から教訓を与えられている事に気づかず、それに恩も感じない。
それはただただ低いとしか言いようが無いし、だからこそ貴い神や心霊の事やアセンションのことを利用して、自分の欲望の達成のために欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、それを恥じない。 とても不遜な行為でもある。

 余談になったが、内在する悪を見出した人なら、そういう人の心(靈)の動きには“上”からの通信があり、だからこそ次の文のようにいわれていると思う。
“掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。ゴモク捨てよと申してあろがな。人の心ほど怖いものないのざぞ。”
 それでこの文に続く“奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。”の“奥山に紅葉(もみじ)”って言い回しは、天つ巻 第八帖にもでてきているので、そのKellyさん的解釈から以下にコピペ。 ↓

“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ。”
 この文の、“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来た”って言うのんは、さっきも言うたとおり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、“上”の思惑をこの世界に顕現していく人が指導者にならねば、この世界は良くなっていかん。
当たり前でんねん。
この世界は“石屋の仕組み”で腐ってる。“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)は、自我の肥大になり、自我の肥大は、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
何回も言うてきたことでんねん。
そやからそんなこと自体を“上”はいつまでも許しておかんからこそ“奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ”って言われてて、この文の“奥山”は、山=脳って解釈から言えば、奥の脳=大脳旧皮質と古皮質で、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きで、だからこそそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指し示していて、さらに“紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ない”って言い回しは、いつまでも自我が肥大した自己奉仕者たちが、良い目を見るってことは“上”から許されないことを、揶揄(やゆ)した言い方でもあると思える。(引用終わり)

そして“北に気付けよ。”は、地球における北ではなく、宇宙の大極=N極、で“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化、言い換えれば生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるし、またそれは“日月神示”表記の“道理”で、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
それで次の文は、今後=アセンション後の人はこう在るべきであると述べられている。
“神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。”
 この文の“神の詞(よ)”は、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信=息吹、その意味で“四”を充ててもいいし、“日月神示”表記の“詞(ことば)”でもいいと思うし、先に述べた自分の心の基準を獲得した人は“天詞様”になりうる資質を持ったということでもある。 その“神の詞(よ)”で、自我(マニピューラチャクラ、腹の心(靈))を制御せよっていう意味で“神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下され”であると思う。
 そして次の“今度のさらつの世の元となるのざぞ。”の、“さらつ”は、まっさらの“さら”で、それは新しいこと、まだ使用されていないとか触れられていないとかの様子を指し、“つ”は、“津”で、人が寄り集まる場所、港など船が停泊する場所の意味を示しているし、だから“さらつの世”は、今までの平均的地球人=自我の確立=固定化の段階とは違う霊的成長度の人が寄り集まる場(フィールド)でもあり、その“世の元”になりうるのは、先に述べた自省(胸の磁性“十”)の“行”をして天の御目(あめのおめ)を自分の心の基準とする、あるいはしようとしている人であり、それができない人はアセンション落第組であることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”日月の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の用意は何もかも済んでゐると申してあろが。 臣民の洗濯 早よ致してくれよ。
さらつの世の用意 早よしてくれよ。
今度の世には四十九の御役、御仕事あるのざぞ。四十九の身魂と申してあろがな。
神の申したこと次々と出て来ておろうがな。 早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は暫く此の神示出ぬぞ。 大切の時には知らすなれど、そのつもりでおりて呉れよ、ヌの種 大切にして下されよ。毒吐き出せよ。
十一月の八日、ひつくのか三。

 何度も述べているように、アセンションは、霊的成長度において(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区別するための事象であるし、それは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、それは、言い換えれば、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための計画であり、その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が近いから“日月神示”は書かれたという事情(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“下”である人間に知らせた)があるし、アセンション後に移行できる最低限の資格は心(靈)の在り方を見出す=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”できて、自省(胸の磁性“十”)の“行”を果たした人でもある。 
だが、大半の地球人は自我の確立=固定化から自我の肥大をしている人が多いからこそ、冒頭の文のように“神の用意は何もかも済んでゐると申してあろが。 臣民の洗濯 早よ致してくれよ。”と言われている。 
それで、先に述べた今後=アセンション後に移行できる最低限の資格を持ちえた人は、第十九帖で初めて出てきた表記の“さらつの世の元”であり、その詳細は第十九帖を見てもらうことにしてここでは詳細に説明しないが、ちなみに第十九帖では以下のように言われている。
“今度のさらつの世の元となるのざぞ”
 そして第二十帖では“さらつの世の用意 早よしてくれ”と述べられているが、個々の心(靈)が行わなければならない“用意”は、先に述べたように心(靈)の在り方=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”である。
 それでこの文に出てくる“四十九”は上つ巻 第十三帖に出てきた表記でもある。
 そのときはうまく解釈できなかったが、今なら以下のように解釈できる。
“四”は、発振、発信、“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。 “十”は、胸の磁性“十”(シンクロトロン)、“慈悲”と“慈愛”。 “九”は、○ 九 十 の“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”(亜から出ずる、アイ)(智性=1番目のオーラ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)。
 要は“四十九”は、天意を受信(感応共振)して、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった人が胸の磁性“十”(シンクロトロン)で発振、発信して、そのオーラの相互干渉で事象の“創造”をするってことだと思う。 
そしてそれは先に述べた第十九帖の“さらつの世の元”になりうる人ってこと。 だから次のように述べられている。
“今度の世には四十九の御役、御仕事あるのざぞ。四十九の身魂と申してあろがな。”
 そやからそれは、改めて、上つ巻 第十三帖を読むとよく分かる。

“元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。”(上つ巻 第十三帖の原文の一部)

 この文でも、“仕組は成就する”“世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れ”(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化)“これが世の元の神の数”“これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となる”って部分では、今後=アセンション後の“創造”を担う人のことがよく分かるはずである。

それで以下の文は、アセンションに伴う事象の変化、やってきた事の結果はすべて出ること。 またそれは、キリスト教でいうところの最後の審判に相当する。 
“神の申したこと次々と出て来ておろうがな。”
だからこそ今、自己奉仕者の行いは暴かれ、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入らされている。 
それで次の文は、心(靈)の在り方を言っている。
“早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は暫く此の神示出ぬぞ。 大切の時には知らすなれど、そのつもりでおりて呉れよ、ヌの種 大切にして下されよ。毒吐き出せよ。”
 ことにこの文の“早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は”が大事で、自分の自我は、自我より“上”の心(靈)で制御されなければならない。 それは、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”の心(靈)でもあるし、それが分かっている、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”ができ、そういう人ならばこの文の“ヌの種 大切にして下され”ってことになり、“ヌ”は、第十八帖と十七帖の表記の、“ヌホコ”と“ヌホト”の“ヌ”に相当し、そしてそれは第十八帖で以下のように解釈した。

“ヌ”を、たびたび引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から紹介すれば“まもり強き神の心…中略…汝身それなし得ずば…”と記されており、これは神の理(ことわり)=法則性、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と共通の意味であると思う。(引用終わり)
 
 それで、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るには、自我の肥大を自分で見極め、自分がやってきた事の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、自分の心(靈)の中に巣くっている内在する悪を見出さなければならないからこそ、この文では“毒吐き出せよ”と言われていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”日月の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈

今回も、日月の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ。神示よんで聞かして呉れよ。
声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。
火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。
引くり返るぞ。世が唸るぞ。神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか。
仕組通りにすすめるぞ。神待たれんぞ。
十一月十日、ひつ九か三。

 この文も、前回の第二十帖同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化程度の人に向けたメッセージであると思う。 
そしてこの文においては、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動き=自我の肥大=“石屋の仕組み”を、改めるために、冒頭で“人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ”と言われており、これまで何回も述べているとおり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の心(靈)は、人にも、自分の仕事(生業(なりわい)=自分に課された使命)にも、尊厳や貴さを見出さず(見せ掛けの言葉を使ったり行動はするが…)、ただ自分の利益を追求し、自分の利益を追求する心(靈)の動きは低い欲望の達成って動機があり(目下(めした)の心(靈))、それが動機で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する。
当然のことながらそれは“人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ”ではない。
その具体的な心(靈)の動きが現れた事が、他者を、欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、奪うとかでもあるけれど、体裁の良いものを利用するとか、耳心地の良い言葉を引用するとか、功績のあった人に肖る(あやかる)とかをするので、何が本当で何が偽者なのかを見出す基準を持たない(進化程度の低い)人は、このことが分からないし気付きもしない。
また、何かに肖る(あやかる)っていうのんは、たいして自分のエネルギーを贖う(あがなう)ことなく、利用するし、だからそれは、このブログで幾度と無く指摘している“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)には気をつけて欲しいのだけれど、これに気付く人はほとんどいないっていうのが、本を出版して全国から142人の読者から連絡を貰い電話やメールのやり取りや、○○○療院に直接おいでになった方々に話をした○○○大先生の感想でもある。
(連絡をいただいたほとんどの人は、ただ言葉に酔うとか、雰囲気を楽しんでいるだけの人が多かったってことで、自分の生き方を真剣に考えている人はごく少数であったってこと)
また程度の低い進化程度の人は、程度の低いものを好むっていう“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の法則もあるので、この世界は程度の低い腐ったものでいっぱいというのが、Kellyさんと○○○大先生が感じていることでもある。
しかし“上”の存在は、そのままではいけない、何とかしてアセンションの時期に間に合う人間を増やしたいからこそ、(教祖に対する憑依現象が中心であるが)宗教を興し、チャネラーを通して情報を伝えたり、ローム太霊がS会=紫光会を発足させ人(日止、霊止)の道=神格化を説いたり、“日月神示”でも同様の理由で岡本天明に“上”がかかり、書かされていたものであるが、意味を履き違えている人も多いし、“役員づら”に成り果てて、(自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度によるところの)自分に解釈できる文章だけ引用して本を出版したりサイトを運営していたりする人も多いが、これは自我の肥大=低い功名心と自尊心、ディスプレイ(その人に取り憑いている動物霊の発情行動)があることを指摘しておく。
少し余談になった。

そしてこの文に続く“声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みっていうのは、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”であり、富士の富は、宀(うかんむり、頭の意味)と“畐”、また“渦うみ、水極(みぎり)”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを指す。
だからこそ“声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。
火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。”って言われており、“声出して天地に響く”は、“日月神示”表記の“言波”(地つ巻 三十四帖の表記)の“言(こと)”と同義で、またそれは、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動きであり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、オーラでもあるし、オーラの相互干渉が=個々の心(靈)が発振、発信する電磁波が、事象の存在を感じ(感じる磁性)させている。
(ただ単にそこには、“上”と“下”があるって事でもある)
それでこの文の重要なところは“声出して”=自分が発振、発信して、“火(ひ)と水(み)、ひふみとなる”=頭と腹は、“ひふみとなる”=“一二三”のオーラになるって事でもある。
そして今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人たちの心は“厭(いや)でも応でもはしらなならん”って言われているとおり、早く“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねばならんって言われている。

 次は、第二十一帖の最後の文。

“引くり返るぞ。世が唸るぞ。神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか。
仕組通りにすすめるぞ。神待たれんぞ。”

この文は、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画だからこそ“仕組み通りにすすめる”“神待たれんぞ”と言われ、また低い霊的成長度の者は、低い霊的成長度の何かにすがり、ただありがたそうな言葉や雰囲気に酔っ払ったりしているものが多いが、本当に自分の生き方を考え、真実=真固止を見出そうとする心の持ち主=心(靈)が“上”に向かいつつあり、自分に対しても“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持つ者は、今のような“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する事象を創造しない(“石屋の仕組み”)からこそ、“上”に認められた者は“上”が組んだ霊縁により、集まってくる=“神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか”ってことを示唆した文章であるのを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

お宮も壊されるぞ。臣民も無くなるぞ。上の人臭い飯食ふ時来るぞ。
味方同士が殺し合ふ時、一度はあるのざぞ。大き声で物言へん時来ると申してあろがな。之からがいよいよざから、その覚悟してゐて下されよ。
一二三が正念揚ぞ。臣民の思ふてゐる様な事でないぞ。
この神示よく腹に入れておけと申すのぞ。ちりちりばらばらになるのざぞ。
一人々々で何でも出来る様にしておけよ。
十一月十一日、ひつ九か三。

 この第二十二帖、この文も、前回の第二十一帖同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化程度の人に向けたメッセージであると思う。 
 それは今、既成の宗教っていうのは商売に成り果て、一般の人の宗教に対する認識も、「宗教なんてこんなものだ」って認識しかない。 それが如実に現れているのが、例えば、パワースポットをありがたがるとかでもあるが、それはただご利益を求めるだけでしかなく、そしてただパワースポットに来たって、雰囲気を楽しむだけでしかなく、先に述べたように如何に現世利益で商売をしている既成の宗教が一般の人の宗教の概念を腐らせたのかってことを感じるものであり、仮にパワースポットに高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在が居たとしても、自分がエネルギーを贖わずパワースポットに来ただけで何か良いことがおきるなんてとても甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いを持っている心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の持ち主に“力”を加えるわけがない=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がおきるわけがない。 
そして甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いには、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの霊的存在が感応共振するっていう当たり前のことすら分かっていない人のほうが大多数でもある。 
それで、このことを考えてみても、如何に大半の人の神や霊やスピリチュアルに対する認識が腐っているのかって事がよく分かるものでもあるし、これは既成の宗教に限らず、“役員づら”=形骸の宗教、アセンションや霊的成長、心霊、スピリチュアルなどに対し甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たちすべてにいえることだし、またそれを容認している人すべてが、ただ低いってことでもある。
そして、その意味のことを述べているのがこの文の冒頭の“お宮も壊されるぞ。臣民も無くなるぞ。上の人臭い飯食ふ時来るぞ。”ってことであり、先に述べた形骸に成り果てたなにかには、そんなものに価値がないってことが示されるであろうし、そして“臣民”って概念も今の指導者たる者が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)で自分たちの権威を示しているだけの事に気がついてないからこそ“臣民も無くなるぞ”と言われている。 ちなみに臣民は、君主国において、君主の支配の対象となる人々。 明治憲法下において、天皇、皇公族以外の国民っていう意味でもある。
 そしてその形骸の権威を示す者たち(“役員づら”の一部)の行いは、そんなものに価値などない、神が認めたものではないってことを、多分これから示されるだろう。 
またそれは最近ニュースで示されたプロスポーツのように、(通貨としての)金と権威=自我の肥大=“石屋の仕組み”で構築されたものであり、その心(靈)の動きを持つもの、それは今後=アセンション後には存在を許されないからこそ“(形骸の権威や地位の)上の人臭い飯食ふ時来るぞ”って言われていると思う。
 
そして次の文は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きで出来上がっている今の事象を指摘していると思う。

“味方同士が殺し合ふ時、一度はあるのざぞ。大き声で物言へん時来ると申してあろがな。”

 前回の第二十一帖でも指摘したとおり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをする人は、目先の低い欲望の達成のためにエネルギーを贖い(あがない)、それに応じた霊的干渉があり、それは他者に対して貴さとか尊厳とかって認識などまったくないかのように見えるが、これに気付いている人はほとんどいない。 
そして今、他者に対して尊厳を見出していない人ほど、商売で成功したり、薄っぺらい価値のものを多く集めたりもしているものである。 
また、このことにもほとんどの人が気付いていないものでもある。 
そしてそれは、この文の“味方(だと思っていた人)同士が殺し合ふ時、一度はある”とか“(見せ掛けの形骸の付き合いや人間関係なので)大き声で物言へん”とか言われていると思う。

 そして次の文。

“之からがいよいよざから、その覚悟してゐて下されよ。
一二三が正念揚ぞ。臣民の思ふてゐる様な事でないぞ。
この神示よく腹に入れておけと申すのぞ。ちりちりばらばらになるのざぞ。
一人々々で何でも出来る様にしておけよ。”

 “之から”=今後=アセンション後であり、それは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が間違っていたなら=“一二三が正念揚”(注 “一二三”のオーラ)であり、それは、自己奉仕者の心(靈)の動きを自分に容認していたならば、アセンション後の事象に移行できる資格は無く、だからこそ“いよいよざから、その覚悟してゐて下され”と言われている。 そして今の成功者とか、形骸の権威を持つもの=この文の中の表記の上とかは、今位(くらい)が高いとか褒めそやされたりしているが、先に述べたようにそんな者には価値は無く、だからこそ“臣民の思ふてゐる様な事でない”って称されている。
 そしてこれに続く文は、何回も“日月神示”内の表記で言い表されている事、腹の心(靈)=自我、それを制御できる思想、それは“上”の思惑を自分に取り込んだ思想、それを獲得せよっていう意味で“この神示よく腹に入れておけと申す”って言われている。
 そしてそれに続く文の“ちりちりばらばらになるのざぞ。 一人々々で何でも出来る様にしておけよ。”は、自分が自分の在り方を見出し、“役員づら”の情報や間違った認識に踊らされず、また形骸の権威や価値観に踊らされない心を持たなければならないが、そうなると自分は一般の人からかけ離れた思想や価値観を持ち、低い霊的成長度の人とはどんどん縁遠くなるものでもある(これは○○○大先生が経験していることでもある)。
それがこの文の“ちりちりばらばらになる”ってことであり、信じる何かは、自分の中の貴い基準、それは天意を受信して得られた天の御目(あめのおめ)でしかなく、それを獲得したならばもう方向性を見失う事はないから“一人々々で何でも出来る様”になるってことでもあり、そうなれば“上”はその人が(アセンションに移行する際におきる醜い事象において)どんな目に遭おうとも、“上”は見放したりはしないってことを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。 その上に水ならばまだはいるのざぞ。
神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。
江戸の仕組 世の終わりぞ。 天おろがめよ。 つちおろがめよ。 まつはれよ。
秋の空グレンと申してあろがな。 冬も春も夏も気つけてくれよ。
十一月十三日、ひつ九か三。

 この第二十三帖の前半の文は、間違いなくたんぱく質の高分子化、肉体組織の結晶化、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の事を示唆した文章であると思う。 
 人の肉体は、視点を変えてみれば一個の大きなコンデンサーであり、コンデンサーだからこそ霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、憑依することができる。
だがその憑依には、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則性である同調ってことが大事。 
だから低い心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))には、低い霊的存在=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑の霊的存在が感応共振するものである。
また自分の心(靈)も、荷電粒子の回転で構成されていることが理解できていて、これまでたびたび述べてきた“一二三”のオーラのこと、そして肉体の構造によるサイクロトロン(“江戸と尾張”)やシンクロトロン(“慈悲”と“慈愛”、自省(胸の磁性“十”)の“行”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)。
そして“上”からの荷電粒子と反応(“日止、霊止”っていう古神道の表記の意味するところ)。
さらに、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく過程で構築されてきたともいい得る心(靈)の動きの“上”から“下”である、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、これが理解できていたならこの文の意味はよく理解できると思う。
 今述べたことを踏まえ、冒頭の“一升枡”は、電気容量のことを述べられており、“豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来る”と“その上に水ならばまだはいる”は、“豆”だけなら空洞だらけで低密度、それに“粟”を加えれば高密度(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)が意味するところ)になることを示唆していると思う。
さらに錯体の入れ物としての“水”って表記まで成されているからこそ、冒頭の“一升枡”、これは人(日止、霊止)の肉体のことである。
そしてこれに続く“神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。”は、これまで幾度となく述べてきているように“上”の思惑=天意を受信できる肉体は、“行”による生体内電流で肉体組織が結晶化しなければならないし、それが本当の意味での“宝玉の仕組み”であると、○○○大先生は自分の“行”(太陽凝視、月の凝視、電気行)を通じて認識している。
また、人(日止、霊止)の存在理由は、神の“思惑の顕現”=現象化でもあるからこそ、霊的成長、進化があるし、生命が進化する根拠はそこにある。
(だがこの概念は、平均的地球人の低い認識ゆえの進化論では、説明ができないことでもある)
 それでこの文の“神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。”は、現時点での“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)が大半の場(フィールド)での、この事象とは違ってくるっていう相対的な比較の上での言い回しであり、今の世界はケダモノに近い心(靈)の人が活躍しているからこそ、神の思惑は顕現されていない。 当たり前の事だけれど、神の思惑を顕現できる肉体と心(靈)の条件を持ちえた“日止、霊止”=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”できた人ばかりになったなら(アセンション後のこと)ば、“人が思はぬ事出来る”“千人力与へる”(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の憑依による事)ってことになり、それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”が当てはまる事象になるってことだと思う。
 そして次の文の“江戸の仕組 世の終わりぞ。”は、現時点での平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)=“江戸と尾張”(腹の水、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)の事を言われ、その進化過程の段階のままでは自我の肥大(“石屋の仕組み”)を招き、先に進まない=自己奉仕者が創造した文明は壊滅するっていう意味で“江戸の仕組 世の終わり”って言われている。
そして、それに続く文の“天おろがめよ。 つちおろがめよ。 まつはれよ。”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことで、それは“天おろがめ”=天意を意識しろ=その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になれ。
“つちおろがめ”=“つち”は肉体(土=2~3番目のオーラ)のこと、肉体の作り変わり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を意識せよ)。
“まつはれ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)そのものの意を述べられていると思う。
そして“秋の空グレンと申してあろがな。 冬も春も夏も気つけてくれよ。”は、“秋”は“日月神示”表記ではこれまでも述べているとおり、やはり自省(胸の磁性“十”)のことをさしていると思うし、また人の心(靈)が認識する事象としての春夏秋冬=季節は、“上”からの荷電粒子に種類があることを示し、秋以外の季節は、例えば今、春だが、春は動物の発情期でもあり、それはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの刺激であり、太陽光線も赤外線の波長が多いときでもある。 
要は、四季による“上”からの荷電粒子との反応っていうのは、人の肉体と心(靈)が“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するってことなんやけど、今大切なのは“秋”の振動、それは心(靈)の動きとしての、自省(胸の磁性“十”)=東洋医学の概念の脾(“思う、憂う”)である事を指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。
コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな。
太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。 それがまことの臣民ぞ。 
生活心配するでないぞ。 ことわけて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが。 初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。
これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。
十一月二十日、ひつ九 。

例によって冒頭のほとんどカタカナで書かれている表記は、漢字とひらがなを充てることとする。 そうすると以下のようになると思う。

茲に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)は、沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて、国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を充てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。

 この文を要約すれば、“茲に”は、肉体の進化、神経の発達を示唆し(“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示している)、そして、日足(ひたり)の極性(思惑)=伊邪那岐(いざなぎ)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=伊邪那美(いざなみ)、その両極性は、使命を持ち=命(“実言(みこと)”)、それはこの文の“国生みせなと宣り(のり)賜息”と“宣らせ賜ひて”に表れており、何度も述べてきたとおり“国”は、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての領土ってことではなく、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、それは心(靈)そのものと、心(靈)の進化を示す表記であり、進化は、生命の存在理由は霊的成長、神格化に向かうことで、進化の仕組みは“ヌホコ、ヌホト、クミクミテ”=“沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて”に示されており、この文の“酌み”は、器に注ぎ込むの意味を持つからあえて充てた=“ヌホコ”の意味を持ち、“汲み”は、すくい上げる、受け継ぐ、の意味を持つから=“ヌホト”の意味を持ち、また第二十四帖は、第二十三帖の続きであるから、二十三帖で述べられている“その上に水ならばまだはいる”と“神ならばその上にまだ幾らでもはいる”っていう要素を持ちうるものであることを指摘して、そして、原文のカタカナ表記の“アウ”とひらがな表記の“あう”は、“日月神示”のカタカナ表記は“上”から視点の言い回しだから、日足(ひたり)回りで“アウ”(会う)であり、ひらがな表記の“あう”(会う)は、(“創造”の“主(ヌシ)”の)被造物である人から目線の表記であり、砌(みぎり)回りであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))であり、その“アウ”“あう”は、古事記の表記においての表記、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が天之御柱(あめのみはしら)(“上”と“下”を貫く磁性)を回ってめぐり会ったことを示唆しており、今の世界は伊邪那美(いざなみ)が先に声をかけた=砌(みぎり)の極性が先行しているから失敗の世界であり、それはこの文の“息合はし賜ひて”ではないってことでもあり、だからこそこの文では、伊邪那岐(いざなぎ)が咲きに書かれ、そのあとに伊耶那美(いざなみ)が書かれ、日足(ひたり)の極性が先に立つ事象の“創造”、それは神の“思惑の顕現”って言い換えてもいいけれど、それをせねばならないってことを示した言い回しだと思う。
 ちなみに“ヌホコ”“ヌホト”の解釈については、日月の巻 第十八帖と十七帖を参照の事。

それで、第二十四帖の残りの文は、地球人が現時点から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する事を望む“上”からのメッセージである。

“コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな。
太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。 それがまことの臣民ぞ。”
 この文の“コト”、これは“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)であり、また“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)を示唆するものであると思う。
 そしてそれは、思惑と顕現、日足(ひたり)と砌(みぎり)の両極性、さらに“ヌホコ”の“コ”と“ヌホト”の“ト”、その意味を持つと思う。
 だから“コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな”は、事象の“創造”の始まりを示すものであり、“創造”の法則性に気をつけろ、意識せよってことでもあると思う。
 そして“太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ”は、“コト”が“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)の意味を持つからこそ、太陽凝視と月の凝視にほかならない。 また艮(うしとら)の金神が黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた根拠はそこにあると確信する。
 そして現時点での地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人が大半であり、自分の欲望中心の心(靈)であり、それが根拠の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするものであり、それではイカンっていう意味で“初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。”って言われており、この文の“国”を心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と置き換え、“自分”を自我の特性、あるいは自我の肥大って置き換えると、意味が通じやすいし、そう読み取ってくれってことだと思う。 
またこれに続く“これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。”は、心(靈)の進化には、順番があり、段階があり、だからこそ今は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で失敗し、その失敗を見て自省(胸の磁性“十”)(ローム太霊の言葉の左往右往)して、だんだん“慈悲”と“慈愛”、言い換えれば第四密度、それはマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの覚醒にいたる道筋でもあるけれど、それはまだ神の思惑=天意をしっかり受信したってことではなく、だからこの文は“天詞様”にいたる最初の段階なんだってことを示唆していると思う。
そうなれば前後するが“生活心配するでないぞ”ってことになり、今延べたことがしっかり理解できない人が多いからこそ“ことわけて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが”って述べられている。

ちょっと余談になるが、今回の地震で、ヤフーニュースなどで取り上げられた“日本人はなぜ略奪行為を行わないのだろうか”は、“慈悲”と“慈愛”が多少発現しているからであり、またそれに反し、義援金詐欺とか、買占めとか、デマを流す輩とかは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いのであることを指摘しておき、これは、○○○大先生は○○○大先生の著書の読者数人からメールをいただいたことに対する答えでもあるけれど、あえてこのことを指摘して(これくらいのことはすぐ理解して欲しいってことでもあるけれど)、今回はこれくらいにしときまんねん。 

“日月神示”日月の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ハジメ ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ヒツキ)ノクニウミタマヒキ、 ローレンツ力と ○ (ヒ)ノクニウミタマヒキ、 ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 のクニウミタマヒキ、ツギニ クニウミタマヒキ。
神に厄介掛けぬ様にせねばならんぞ。
神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならんぞ、力の限り尽くさなならんぞ。
ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ヒツキ)と ローレンツ力と ○とは違ふのざぞ。 
臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。
十一月二十一日、一二 ローレンツ力と ○


 例によって第二十五帖のカタカナ中心の表記、これを漢字とひらがなを充てると以下のようになると思う。

“初め ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(日月)の国生み賜ひき、 ローレンツ力と ○(日)の国生み賜ひき、ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 の国生み賜ひき、次に国生み賜ひき。”

 それでこの文には、“国生み賜ひき”って文言が四回も使われている。 
 今まで解釈してきたとおり“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すので、霊的進化しようとする心(靈)って解釈をする。 
 そしてこの文の要は、以下の画像にあると思う。


ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)


この画像、これは、 ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○(ヒ)が重なった表記であると思う。 
それで ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、満月から新月にかけていくときの月。 それは砌(みぎり)の極性が満ち満ちたときが満月であり、それが欠けていくさまを表すと思う。 
さらに以下の画像は、新月から満月に移行するときの月でもある。


ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)


この第二十五帖の文では、この画像に注釈が当てられていないが、日月の巻の後に書かれた 日の出の巻 第三帖に、次のような表記がある。
“次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ、ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用の月の世ぞ”

よってこの画像 ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、“月”“通基(二)”であり、“月”は砌(みぎり)の極性であり、さらに先に述べたように ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、新月から満月に移行する様子を示す。

それは、日足(ひたり)の極性が強まった後の肉体そのものであり、そして“月”“通基(二)”は肉体のオーラ(土)2~3番目のオーラを発振、発信するものでもあるし、さらに“通基(二)”、それは基を通す=神の理(ことわり)を通す(顕現する)肉体の意味であると思う。 

それで第二十五帖のカタカナ表記中心の文は、 ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○(ヒ)→ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用って書かれている。

先に述べたことと重複するが、Kellyさん的に思う ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用の解釈は、新月から満月に移行する月であり、それは、先に述べたこと、 ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、満月から新月にかけていくときの月、これは、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)から日足(ひたり)の極性に移行し、砌(みぎり)の極性が弱まる意味であり、それに ローレンツ力と ○(ヒ)が重なっており、 ローレンツ力と ○(ヒ)は、日足(ひたり)の極性そのものであり、“上”からの荷電粒子との反応を示す ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (霊=○、荷電粒子の場(フィールド))とローレンツ力 ローレンツ力 でもあり、“上”の思惑を受け止めて=天意を受けて、日足(ひたり)の極性が強まった=現時点の平均的地球人よりも日足(ひたり)の極性が強まった心(靈)であると解釈するのが、妥当だと思う。
そしてその次に書かれている ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用“月”“通基(二)”は、先に述べたとおり、天意を顕現する肉体、それは古神道の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子、太陽=日を止める、“上”からの荷電粒子を三つの口で止める意味の靈、それを止める表記)であるとするのが、妥当だと思う。
そして“国”=霊的進化を目指す、果たそうとする心(靈)、それが生まれていくのだとこの文は示唆していると思う。

次は、第二十五帖の残りの文の解釈。

“神に厄介掛けぬ様にせねばならんぞ。
神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならんぞ、力の限り尽くさなならんぞ。”
 これは、自分たちが何を意識して何を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)とするべきなのか、考えろってことで、この考える過程が“一”=智性=1番目のオーラの拡大になっていくものであることを示唆している。 
今、ちまたでは、地震により、程度の低い進化過程の人とある程度“慈悲”と“慈愛”が発現した人の心(靈)の顕れ=行動の違いがよく分かる。 
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の違いでもあるし、それを観て自分たちはどう在るべきなのかってことを考えさせる機会が今回の地震でもある。   
そしてこの地震は、人に自省(胸の磁性“十”)を促す神のプログラムでもある。 
 その意味で、自分たちは何を考えどんな行動をとるのか、それが別に今回の地震に限らず、様々な事象に相対して、自分は常にどう在るべきか深く考える、それが“神に厄介掛けぬ様にせねばならん”のであり、そして“神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならん”ってことでもあり、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)人間ほど“力の限り尽くさなならん”ってことが出来ないって言われている。

 次の文。
ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ヒツキ)と ローレンツ力と ○とは違ふのざぞ。”
 これは先に解釈したので省略。

 次の文。
“臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。”
 この文の“臣民一日に二度食べる”は、日足(ひたり)の極性の強化=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、月の凝視や月の影響=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の強化、その二種類の振動があることを示唆しており、またそれは、“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)でもあるし、その日足と砌(ひたりとみぎり)の極性のバランスが取れた心(靈)となってくれってことが、第二十五帖のカタカナ中心の表記でもあり、そしてそれは、この文の“まことの益人”であり、それは今まで何回も述べている通り、今の地球人は、低い砌(みぎり)の行ばかりしており、だから経済優先、自国の利益優先、自分たちだけの幸せを願う、目先の欲望の達成が幸せでありそれ由来の価値観を持つなど、これらはみな低いって事でしかないし、それは今後=アセンション後に移行するっていう意味での“まことの益人”ではないって指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”日月の巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈

今回も、日月の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウざぞ。 昔の世の元ぞ。
ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。
サタナハマからあるぞ。
一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。
五十九の神、七十五柱これで判りたか。
ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。
ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。
冬の先 春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。
十一月二十二日、ひつ九 ローレンツ力と ○

 この第二十六帖の文の要は“ ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力ざぞ。”にあると思う。
 常々引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によると、“ム”の意味としては、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)。 産霊(むすひ)、結び、息子(むすこ)、息女(むすめ)、群れ、の、む、と、示されている。 
これは“ム”の言霊として、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の多様性、形(進化により、物質としての肉体っていう意味)の変化、(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)による心(靈)の発現と行使っていう)心の変化、いろんな要素を示しているのが“ム”であると思う。 
そしてこれまでも解釈してきたとおり、カタカナ表記は“上”から視点の言い回しなので、“創造”の“主(ヌシ)”の視点からの意味合いでもある。
 よってこの文の“ ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力ざぞ”を解釈すれば、
ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は、“ム”と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (霊=○、荷電粒子の場(フィールド))の重なった表記でもあり、心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の要は、ローレンツ力 ローレンツ力であり、それは“ア”“亜”、宇宙の中心から発振、発信(“イ”、出ずる、泉、アイ、愛(炁)の、“イ”“い”)される究極微粒子の低振動化したものの受信と、増幅(“畐”、(オーラとして)吹く(息吹く=自らの心(靈)が吹く))であり、肉体が持つ磁束によるローレンツ力 ローレンツ力で、神の思惑=“ア”“亜”を、自分の心(靈)= ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に、取り込んでいると述べているのと、同義でもあると思う。
 これを踏まえ、この第二十六帖の文を読み解くこととする。
 まず、“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウざぞ。 昔の世の元ぞ。”だが、これは、この文の前半は、“昔の世の元ぞ”にかかっている言い回しなのはすぐ分かる。 
それで“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウ”の意味だが、 ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は、今述べたとおり、次に、“ ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、ウ、うに”と記されており、 ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=“ウ”と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))の重なった表記が二つ並んでいるし、“ウ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するものでもあると示されている。
そして“ウ、う”と、カタカナ表記とひらがな表記が示されているのは、“上”からの“ア”“亜”が、“下”に低振動化して、“ウ、う”となり、カタカナ表記は、日足(ひたり)の極性、(“上”の)思惑であり、ひらがな表記は、取り込んだ心(靈)、心(靈)= ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に、心(靈)が持つ(人(日止、霊止)の心(靈)の動きとしての)日足(ひたり)の極性があることを示唆していると思う。 
 それで次の“アエオイウざぞ”は、“ア”が、“エ”“オ”“イ”“ウ”なんだって断定的な言い回しになっている。(“ざぞ”って記述)
 これは、“ア”から“エ”であり、“エ”は以前、地つ巻 第二十九帖の解釈で出てきた表記でもあり、そのときに、“エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命(“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用)って述べた。 その意味は“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを指し示していると思うって述べた。
 そして同様に“オ”は生命発生の元根と(“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”で)説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと。
 “イ”は、先に述べたとおり。
 “ウ”も、先に述べたとおり。
 よって、“アエオイウ”は、“ア”が、“エ”(生命を産み出す源(みなもと))となり、“オ”(生命発生の元根)となり、“アイ”(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)の“イ”となり、“ウ”(生物を生み出す力)となるってことだと思う。 そしてそれは、“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”を志した(思惑という意味)ってことだから、“創造”の根源、時間の進行としては“昔”であるからこそ、“昔の世の元ぞ”って示されていると思う。
 それで次に“ ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。”って記されている。 この文の前半の“ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、”、これも“ア”“ヤ”“ワ”が、心(靈)=
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に重なった表記である。 それは、心(靈)= に、“ア”“ヤ”“ワ”があるって表記。 そしてそれは、“ア”は、先に述べたとおり人(日止、霊止)が認識しうる究極微粒子や最も高振動な何か、“アイ”の“ア”であり、“ヤ”と“ワ”は、上つ巻 第二十四帖の解釈で述べたとおり、“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の心(靈)日足(ひたり)(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の思惑)であり、“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の顕現、砌(みぎり)であると思う。
 そして“ ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、”のあとに“ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ”ってあるのは、生命のそれぞれの心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  には、日足(ひたり)を示す“ヤ”と砌(みぎり)を示す“ワ”があるぞってことだと思うし、それは観察しうる事象の“元”だからこそ、“世の元ぞ”って示唆されていると思う。
 そして次の“サタナハマからあるぞ。”の“サ”“タ”“ナ”“ハ”“マ”は、同じく、地つ巻 第二十九帖で、“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、“ハ”の行は、生命発現成長の音義、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、って述べた。
 要は生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、それはまた、心(靈)= の進化であり、進化は“サ”“タ”“ナ”“ハ”“マ”それぞれに示されているとおり、栄え発展、建く(たけく)高く成長、殖え栄ひ進展、生命発現成長、有形生命、または正しき生命、こうなっていくのが、重複するが(“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化としての)生命(心(靈))ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の進化であるってことだと思う。
 そして次の“一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。”は、“柱”は、生命の心(靈)(日足(ひたり))と肉体(砌(みぎり))を示すと思うし、“柱”については以前画像を作ったので以下に貼っておく。
柱の解字

 それで“柱”と一緒に示されている数字は、今までもたびたび述べてきているが、以下に意味を示すこととする。
 “一”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記(アからイ、日足(ひたり)から砌(みぎり))、そして、智性=1番目のオーラ。
 “二”は、肉体、あるいは、人の完成された表記としての“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記の、土でもあり、それはまた2~3番目のオーラの意味でもある。
 “三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
 “四”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)。
 “五”は、進化した肉体の特徴でもある、神経が糸巻きのように密になること。
 “七”は、“一”(亜から出ずる、アイ、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)に、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
 “八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味。
 “九”は、○ 九 十 の、九、それは“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。 生命(心(靈))の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の最終段階を示す。
 “十”は、胸の磁性“十”、自省の心(靈)の動き(“慈悲”と“慈愛”)、そしてシンクロトロン放射。
 その要素が生命(心(靈))の肉体=“柱”にはあるっていう意味。
 そして次の“五十九の神、七十五柱これで判りたか。”は、“五”と“十”と“九”の神って記されており、それは進化した肉体は神経が密になり(五)、手が発達してアナハタチャクラの覚醒にいたり(“十”)、それそのものが進化した心(靈)の最終段階(“九”)であり、それは神の要素、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるための要素であるってことだと思う。
そして“七”と“十”と“五”の“柱”って表記は、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化(七)は、シンクロトロン放射、第四密度、アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”によるものであり、それは神経が密になる=糸巻きのようになることに秘密がある(五)ってことで、それは肉体の進化の秘密であることを示唆していると思う。
そしてこの文自体の最後には“判りたか”って書かれており、これは、分かるとか、解るって書かれていないので、理解しろってことではなく、進化の仕組みを判断しろってことである。
(大概の地球人は、進化を神格化として理解していないからこそ、“判れ”と記されたのであると思う)
 そして次は“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。”だが、“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。”は、先に述べたとおり。 そして“ ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。”は、個々の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)多様性としての“裏表”があり、それは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においての“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”でもあったりもすることを示唆していると思うし、ローレンツ力 ローレンツ力による進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“上”と“下”があるのだって断定されている。(“ざぞ”って表記)
 そして次の表記の“冬の先 春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。”は、今、アセンションに向かう時期でもあり、個々の心の進化のため、自省(胸の磁性“十”)を促す醜い事象がおきている=“冬”でもあるが、程度の低い進化過程の心(靈)(自我の肥大、自己奉仕者)は、その心(靈)が改まらない限り(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”))をしないと、“冬の先 春とばかりは限らん”っていわれているのであり、ある程度進化した心(靈)、自省の心の動きを持つ人は、アセンションに伴う醜い事象に遭遇しても、自分の在り方を見出し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋を見出すからこそ“冬に桜咲く”って示されていると思う。

 それで、今回多用したカタカナ表記の解釈は、“日月神示”地つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈によるものが多かったので、参考のためそこから一部コピペしたものを以下に貼っておき、今回はこれくらいにしときまんねん。


“この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。”

 この文の“アとヤとワ”は、以前解釈した、上つ巻の第二十四帖の“「ア」と「ヤ」と「ワ」は本(もと)の御用ぞ”と、同様の意味。
少し説明しておくと、この文の“ア”は、愛(炁)、“亜”であり、それは、愛(炁)の“ア”でもある。 そして“亜”“ア”は、すべての事象の根元の材料と認識され得る何かでもある。
人(を含めすべての生命)が、事象を観察して認識することとしての、すべての原因とか結果とかが、“亜”“ア”が、出ずる、泉、で、愛(炁)、アイ、と言葉で認識していると思える。 原因と結果、思惑(ア)と、顕現=現象化(イ)っていう言い方も出来るし、すべての事象の“創造”は、愛(炁)が動機の事であり、愛(炁)の顕現の程度が低いから自分しか大事に思えないって心(靈)の動きになり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低いから、自己奉仕者、“日月神示”表記なら“われよし”でもある。
そして“ヤ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、その心は高台(たかと)高き段に進むってことであり、それは、日足(ひたり)の極性、“上”に向かうこととも言いうる。
そして“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義ってことだから、これはよいカタチの“思惑の顕現”=現象化であり、左往右往の結果でもあり、霊的成長した心(靈)が“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象の事を指すと思う。
 それで重複するけれど“ヤとワ”は、“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、以下にコピペしておきまんねん。 ↓


“「ヤ」” は、“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、書いてあった。 これは先生の概念の、アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)、その心(靈)の動きって言うのんは、自分の良い形を求める。 ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、すべての良いカタチを求める。 そして、霊的成長そのものを指す。
 そやから、高台(たかと)高き段…そう認識され得る何かを、求める。 時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。 日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
 人は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、その心(靈)の動きそのもののような気がするし、それは、右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。 多分そうやろ。
 ほんでから、“「ワ」”は、同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、“物を生む、生まれしものを和合する意”とか、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、そう言う表現がしてあり、ほんでから、Kellyさん的に思う“生まれしもの”、それは、現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。 そやから、自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、呼吸、息吹、気吹、生吹、でもある。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、和合で、それは左往右往でもある。 良いカタチの創造でもある。
 それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。
 
↑ 引用終わり。
そやからこの文の“アとヤとワのつく役員”は、このことを認識として行動している心(靈)、霊的成長を果たした心(靈)という意味やと思う。
そして“アとヤとワのつく役員”は、当然の事ながらよいカタチの事象を“創造”する心(靈)だから、今後=アセンション後に位置する、位置する資格がある心(靈)とも言いうるし、そやから“日月神示”表記の“役員”は、“創造”の法則性をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す表記でもある。
そしてこの文の“おもてぞ”は、顕在化、表面化、現象として現れるとかの意味であり、実際に“創造”に携わる役を示す表記で、これは次の文にもかかっている表記であるから次の文。

“旧九月までにはその御方お揃ひぞ、
カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり、
うらおもてあると申してあらうがな、
コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ、
文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ。”

 この文の冒頭の“旧九月”は、地つ巻 第二十七帖の“旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ”と同様の意味だと思う。
 そやからそれは、“その御方お揃い”っていうのは、“天(アメ)の日つくの神の御神示”を指し示す存在で、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、これを岡本天明はんに書かせている存在よりも“上”の存在ってことを示す言い方であり、またその存在が書かせる文章は、日月の巻で、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行う事の説明になっていくのだと思われる。
 そして“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”の“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)
の音意と説明されている。 
 だから先ほど述べた、“日月神示”表記の“役員”(“創造”の法則性(日足(ひたり)と砌(みぎり))をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す)が、今後=アセンション後、事象の“創造”をする。
 そして事象の“創造”は、“思惑の顕現”=現象化であるし、自分たちが観察する現実=現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心の反映であるけれど、その“創造”に関わる“カ”、心の中に幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意って事だと思える。
 そして“タ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義って説明されている。
 これは進化=霊的成長、神格化に向かうことって事でしかないと思う。
 だから“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”っていうのは、今述べた、“カ”=“思惑の顕現”=現象化をする力(ちから)と、“タ”のつく役員は、霊的成長、神格化に向かうことであり、それが実際の事象に見られる、観察できるようになる事が、この文の“うらなり”と“おもてなり”ってことだと思うし、もう一度“うらおもてあると申してあらうがな”と、繰り返して強調されている。
 だからこそ“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”、それには、思惑を顕現する力(ちから)と、その結果である霊的成長、この分の表記なら“タ”、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長って事だと思う。
 そして“コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”の“コ”は、同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、停滞して働く意と細分の音義って説明されている。 さらに、物の凝り集まりに固まる意、とも、称されている。
 だから心(靈)っていうのは、何が凝り集まり、そして固まらなければならないのかってことを示す意味もあり、それが地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”でもあると思う。 この“実言(みこと)”の詳細については第一帖をよく読んで欲しいねん。

 そして“ト”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、トの言霊の心は、止めると云う心、人のトって称されている。 そやからそれは“日止、霊止”の止めるって言う表記と同じであるし、“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのものである太陽からの光と荷電粒子を止めるのが、“日止、霊止”でもある。
 今説明した意味を含む表記がこの文の“コト”であり、それは“コトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”って言われているとおり、“上”の思惑を心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に止める“行”が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもあるからこそ、それは霊的成長の具体的な“行”だし、神格化にいたる“行”だからこそ、“神はうれしきぞ”と言われており、だから、艮(うしとら)の金神は、黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのだと思う。
 そして“文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ”っていうのは、“日月神示”表記の特殊な文字は“基”に“通る”って言う言葉の使い方をしているのだぞって言う意味のことを強調していると思う。 だから基本の“基”、これは“創造”の“元”って言ってもいいと思う。 その意味を読み取ってくれってことでんねん。

…中略…
“アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。
アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、
サとナとハとマとまつはりて呉れよ、
ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”

 この文の“アとヤとワから表に出す”は、先ほど述べたとおり、事象の“創造”の法則性を自分のものにした存在が、“思惑の顕現”=現象化をすることであり、だからこそそれは神に認められており、認めうる霊的成長度の世であり、その意味の言い回しが“(霊的成長度の高い)上の人も耳傾ける”って事だと思う。
 そして“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ”の、“ア”は、先ほど説明したとおり。
“イ”は、やはり“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、生気生命力の発生力って説明されているし、Kellyさんとしては息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“イ”であり、それはアイ、愛(炁)の“出(いづる)、泉”の意味だと思う。
 “ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するものでもある
  “エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命って説明されているから、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを指し示していると思う。
 “オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のことだと思う。 そう思う根拠は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、大山津見神淤穂(おおやまつみほ)(地気にて成る生物)が、強い身をツクリ作るの意って説明されているからでもある。 そして“オ”は、日足(ひたり)の極性が現れた男の“オ”であり、砌(みぎり)の極性が現れた女の“オ”でもあると思う。 要は生物として進化した最後のカタチ、それは“日月神示”表記の ○ 九 十 (まこと)と同義の意味だと思う。 それで次の文、“ヤもワも同様ぞ”は、“ア”と同様に、“ヤ”(日足(ひたり))も“ワ”(砌(みぎり)も)、“イウエオ”という変化や、意味合いを持つっていう意味だと思われるし、これはこの後の“日月神示”の文で説明されていると思う。
 
 そして“カはうらぞ、タはおもて”、これは先ほど説明したとおり。
 そして“サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”の、“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、“ハ”の行は、生命発現成長の音義、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ)に関する音義、
以上のように説明されている。 そやから “ア”“ヤ”“ワ”“カ”“タ”“サ”“ナ”“ハ”
“マ”、それぞれア行の“イウエオ”に相当する意味合いを持つって説明だと思う。 だからこそそれは“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ”って言われており、生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“思惑の顕現”=現象化をして、事象の“創造”をするが、それは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿ったものであるからこそ、生命は、栄え発展、発現成長、(進化をある程度果たした)有形生命、正しき生命、それらの意味でもあり、それは“日月神示”表記の彌栄(いやさか)って言葉に相当するものでもあると思う。 
そして、彌栄(いやさか)の“彌” は、背骨(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))と、チャクラを指し示しており、それは、生命の発生が、縦の磁束から始まり、“上”からの荷電粒子と反応し、微生物から人(日止、霊止)になり、その進化過程において心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が発現していくっていうのが○○○大先生の進化の概念でもあるけど、この事も感じさせる表記でもある。

引用終わり。

“日月神示”日月の巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。
道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。
世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。
臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。
天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。
日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。
今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。
十一月二十三日、一二 ローレンツ力と ○

 まず、冒頭の文。
“神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。”

 この文も、“国”“土”を、そのまま解釈してては意味が通じない。 これまでも述べているとおり“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、完成(“王”=“一二三”のオーラの大きくなった形容)を目指す心(靈)って述べるのが妥当。
 そして心(靈)の入れ物、心(靈)が育つために必要なのが、“土”=肉体であり、肉体があるからこそ、(動物と共通の)2~3番目のオーラがあり、それは“一”=智性=1番目のオーラに昇華しうるし、そうなるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことって方法論がある。
 今述べた“一”=智性=1番目のオーラの獲得、それを強調しているのがこの文の後半の“神の肉体ぞ。神のたまぞ。”であり、この文の“神”を、“日止、霊止”が獲得しうる“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)って当てはめて読めば、理解しやすいと思う。
 
その意味で次の文。
“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。”

 これも、地球人が未熟であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程であるからこそ述べられているからであり、当然未熟な地球人(の心(靈))は、神が持ちうる基準や思想を理解できていない。
 しかしそれを求めるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
 だから人間は、(ローム太霊の言葉の)右往左往と左往右往するものでもある。
(補足として述べるが、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもある)
 今、大半の地球人は、“江戸と尾張”(腹の水、“江”は、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンをしめす)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、“上”から見たら未熟でもある。 しかし、未熟ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするからこそ、自分の認識は高まる=右往左往と左往右往でもある。 
それが霊的成長の一端でもあるし、それが無ければ、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識(悟り、幸取=さとり)がきちんとできない。 
そして“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を理解し始めれば、だんだん“創造”の“主(ヌシ)”の視点や観点に近づく=天の御目(あめのおめ)の獲得になっていくものである。
 それを踏まえ、この文を読めば、“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、”は、今述べた、右往左往と左往右往により、だんだん進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基準の獲得をする=天の御目(あめのおめ)の獲得をするって解釈が妥当だと思うし、それを理解できていない進化過程、自我の確立=固定化の段階の心(靈)は、自我が肥大しやすく、自分は間違っていないとか自分は正しいとかの考えに陥りやすく、それをこの文では“人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど”って示され、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を戒めて諌めている文だと思う。
 そしてこの文に続く“曲ってゐるのが神の道ぞ。曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ”は、今述べた自分が未熟って自覚が無い=自我の肥大をしている人に対しての言い回しであり、“曲ってゐる”=右往左往から左往右往するのが心(靈)の進化=霊的成長の過程であることを示唆しているし、それがまた進化の道筋だから“人の道も同じ”と述べられ、そしてそれは、現状の地球人の進化過程の、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行するって事。
またそれは、大局的な見方としての進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としては、“曲って真直ぐいのざぞ”ってことでもある。
そして“江戸と尾張”の心(靈)の動きで出来た事象は、今後=アセンション後、“日月神示”表記の“グレン”と変わるから“足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ”って言われ、それは重複するが“愈々”って事でもある。

 次の文。
“世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。”

 これも先に述べたことと重複しているが、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現))と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が、“創造”している現津(あきつ)、観察され得る事象は、人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)=“世の元”であり、“世”は、現津(あきつ)、観察され得る事象であり、“元”は、人の肉体=“二”と、時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)(人が歩くさまに象る)でもある。
 そしてそれは、“泥の海”って称されており、高い心霊が使う“泥”→“石”→“玉(ぎょく)”、あるいは同様の意味として、“土”→“塔”=“山(脳)”って言い回しもあり、“土”“塔”“山”は、たんぱく質の高分子化を感じさせるものでもあるが、それが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の段階を示すものであり、同時にそれは、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における心(靈)の発現を示すものでもある。 
そのことを示しているのが“その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ”であり、この文の“神が色々のもの一二三で、いぶきで生みた”は、宇宙の中心と認識される大極からの発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それで“上”からの荷電粒子(アイ)を、生命は受け(受信と感応)て進化してきた。 
これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
またこの文の“色々のもの一二三で”って称されているのは、こちら側(“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物)からみた、振動の違いであり、それはまた、人の発信しうる“一二三”のオーラになりうる要素ってことだと思う。
それで今の地球人の進化の概念には、当然こんな概念は無いので、それを揶揄された言い方が“人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ”って言い回しであり、低い進化過程の既成概念で判断するなってことを言われている。
そして“一度はどろどろにこね廻さなならん”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するには、今起きている醜い事象や、心(靈)の中の葛藤を体験せねば=右往左往と左往右往しなければ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”にならず、自省(胸の磁性“十”)も発現しないことを示唆していると思える。

次の文。
“臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。”

 あえて解釈が必要ないようなことでもあるが、“近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐる”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の心(靈)が行っていること。 それは低い認識と低い既成概念、目先の欲望の達成が幸福だと思うとか、金儲けのために“善悪”を無視するとか、今までいろんな指摘や言い回しをしてきたが、神は人を生かし、進化させたいからこそ“神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。”って述べており、それは、このことを理解しろって言い回しであり、このことを理解させるためにアセンションに伴う醜い事象=自己奉仕者の行いの結果を示すってことを、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑として顕現し、それがこの文の“まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。”ってことでもあり、しかし神は猶予を与え、考える時間をくれており、それは自省(胸の磁性“十”)の時間でもある。それを感じさせるのが“神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか”でもあると思う。

 次の文。
“天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。”

 言うまでも無く“天地でんぐり返る”は、今の価値観や既成概念は崩壊し、先に述べたように地球人のごく一部は、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行する。
 それがまた、“日月神示”で多用されている“富士は晴れたり日本晴れ”の意味であり、これについては何回も示した画像を以下に貼っておく。

富士の解字 
“晴れたり日本晴れ”の解字



 画像を詳細に見ればわかることだが、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“日止、霊止”であり、それは“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の発現であり、それが最終段階での進化過程=霊的成長の過程、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階であり、それはまた“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”“十”に示されており、卆(そつ、卒業の卒の異体字)から感じられる意味でもある。
 そしてそれはこの文の“元の神の世にかへるぞ”って文章からも感じられ、“元の神の世”は、進化した人間=“元”が、智性(神性)由来の事象の“創造”をすることを示唆しており、それは神の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑だからこそ“かへるぞ”って言われていると思う。

 次の文。
“日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。”

 これまでの地球人の進化過程は“上”からの荷電粒子との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、主に2~3番目のオーラ=“土”の段階であり、今後=アセンション後はそれが変わってくるからこそ“愈々一二三が多くなる”って言われており、“上”からの思惑、人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させたい思惑は、だんだん高振動になり、それを受ける人(日止、霊止)は、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするものであり、そうならなければまた、進化=霊的成長、神格化に向かうことでは無いといいうる。
 そのことを今までの“日月神示”の文で、自己奉仕者の進化過程の心(靈)を見極めろ=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよとか、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化せよとか、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆した文章もあったが、このことを現状の地球人の心(靈)=自我の確立、固定化の段階、それはマニピューラチャクラの進化過程だからこそ“今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれ”って言われている。 だからこれは、本当の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を自覚せよって事でもあり、そのためにはまず、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねばならないからこそ“臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれ”って言われ、“鏡に映る”は、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)せよってことであるし、それはまた、地獄で自省(胸の磁性“十”)を促す、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)の“鏡”でもあるだろう。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、自分の人生における体験から認識されうるものであるからこそ、先に述べた右往左往と左往右往が必要でもあり、それをせねば天の御目(あめのおめ)、基準って言ってもいいけど、それを獲得しないし、それを獲得しなければ進化は見出せないからこそ“知らせねばならず、知らしては仕組成就せず”って言われていると思う。

 次の文。
“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。”

 あえていうまでも無く、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの顕現中心で、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちているからからこそ“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな”って称され、それを解決するには“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である“神まつれと申すのぞ”ってことであるし、それは“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そしてこの文の“外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならん”の“外国”を言葉通りに解釈しては意味が通じないと思うし、それは自分の心が観察しうる外側(外国と幽界)の事象であり、“国”は心(靈)そのものでもあるし、それで結局、人が行う事象の“創造”は、外側(外国と幽界)の事象にあり、それは自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の顕現であり、だからこそ、“上”の思惑を取り込んだ思想や認識で、外側(外国と幽界)の事象の“創造”を行い、それは結果として神の思惑を顕現する役目としての“日止、霊止”になりうるのであるけれど、この文の“み戦さすすめて外国に行った時”っていうのは、自分の内面の葛藤、心(靈)の動き、神の基準を獲得する過程って言えば分かりやすいが、それが“み戦さすすめて”であり、それゆえの事象の“創造”が“外国に行った時”であり、その事象の“創造”=“外国に行った時”には、“先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが”って言われており、これは“上”との感応共振を示す意味での“まつる”“まつろふ”でもある。
 そしてそれは“鉄砲や智では悪くするばかりぞ。”と言われており、反目する心(靈)を“鉄砲”と揶揄され、自我の肥大ゆえの既成概念を“智”と揶揄(やゆ)されていると思う。
 そしてそんなことでは、神の思惑の反映した事象の“創造”はできないから“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ”って言われ、自分の心(靈)が観察しうるすべての事象=“三千世界”(“三千世界”は、地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念と解釈した)に、“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではない”でもあり、この場合の“日本”も、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ゆえの国の認識の“日本”ではなく、その意味は先に示した“晴れたり日本晴れ”の“日本”を参照のこと。

 次の文。
“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。”

 あえて解釈することでもないが、“創造”の“主(ヌシ)”は、すべての存在の幸福=霊的成長、神格化、を、願っている。
 それがこの文の“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ”であり、“日月神示”に示されている霊的成長の秘密は、今後=アセンション後に移行するのに当たって必須のことでもあるからこそ“この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。”でもあり、事にこの文の“あかるくなるぞ”が、ひらがなで書かれていることに着目し、本当は、日+月=明るい、それはまた、日足と砌(ひたりとみぎり)の要素が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須であることを感じさせる。 いうまでも無くそれは日月の巻でたびたび使われている意味での“御用”で、太陽凝視=“ひつく”“日津久”中心の“行”であり、そして月の凝視も行うべきことを感じさせるし、それは日月の巻 第二十五帖の“臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ”に示された意味でもある。 そして“益人”、そうなれば、神、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑は、人(日止、霊止)が感じうる=“創造”し得る、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現されるからこそ“神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ(アセンション後の事象)”って示唆されていると思えることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。 この巻 役員読むものぞ。
世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。
くもでて くにとなったぞ。 
出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。
スサナルの神はこの世の大神様ぞ。
はじめは 渦巻き 右 回転 であるなり、 渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転   (ヒツキクニ)の神様なり、 ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。
この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ。
アメの ローレンツ力と ○ つ九のローレンツ力と ○

 さて、第一帖で“ちなみに日月の巻は、 ローレンツ力と ○(ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある”と述べたとおり、日月の巻 第二十八帖からは、文章の内容やニュアンスが違ってきている感がある。 それについては(とても長くなるので)日月の巻の解釈がすべて終わってから述べることとする。

まず、第二十八帖の冒頭の文。
“岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。 この巻 役員読むものぞ。”

 この文の大事なところは、“役員読むものぞ”であり、それは、“日月神示”でいうところの(真の)“役員”は、今後=アセンション後の“創造”を担うべき霊的成長度の人という解釈をしてきており、よってこの巻の文は、その霊的成長度の人を対象に述べているのだって最初に示されているものであると思う。 
その“役員”について、分かりやすいので述べておくが、今後=アセンション後の“創造”を担う人=“役員”に対して、“日月神示”では、“役員づら”って表記もあることを述べてきた。 その“役員づら”の霊的成長度は、自我の確立=固定化の段階の霊的成長から自我の肥大をしており、だからこそ貴い言葉や概念など、何かを自分の欲望の達成のために利用するとか、肖る(あやかる)とか、そして自分が目立ちたい(ディスプレイ(動物の発情行動))とか褒めそやされたいって心(靈)の動きしかしていない人が多い。 
その具体的な例を挙げれば、宗教の概念、高い心霊からのメッセージ、チャネラーの情報など、それらを引用して勝手な解釈をして金儲けに利用(例えば“主護霊”を守護霊と言い換え足りして言葉だけ利用してスピリチュアルカウンセリングを行うとか、祓う意義(自省させること=“本津宮”(もとつみや)に帰れ)も知らず、除霊や浄霊などとインチキお祓いをするとか、ゴーストライターを使って本を出すとか、マルチのように信者を集め集団を作り例えば政党を作るとか)するというようなことをして、結果それは、一般の人の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する通念を、とんでもなく低いものにしてしまっている。 だからこそ“役員づら”は、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であると述べてきた。 またこの霊的成長度の人は、貴い何かを利用したりするだけであり、それは自分でエネルギーを贖うことをせず=“行”をせず、“行”の意味と意味も見出せないから“行”ごっこをしたりしてもいるが、結果として何の認識(悟り、幸取=さとり)も獲得していないのが、また、“役員づら”でもある。
あえていうまでも無い事であるが、その辺のところをこのブログと縁のあった人には、今述べたことを見極める視点と観点、それを持って欲しいものである。
 話を戻し、冒頭の文の“岩戸あけたり”これは、これまでも述べてきているように、“岩”は、“山(脳)”と、“石”(帯電するミネラル)が縦に重なった表記。 そして“日月神示”表記の“戸”は、横隔膜。 それはマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門で、現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)として、自我の確立=固定化(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から、胸の磁性“十”(シンクロトロン)にいたる過程である。 そしてこの心の動きと認識されうること、それが進化の道筋である事も今まで述べてきたし、ローム太霊の言葉の右往左往から左往右往、この言葉の裏にある人の心(靈)の動き、そこからもこのことを感じ取れるものである
 よって“岩戸あけたり”は、今後=アセンション後に移行するべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、そうなるには“日本晴れ”の意味が示す事が大事であり、そして、“富士ひかるぞ”っていう表記も、霊的成長を示すとても大事な意味を持っており、ちなみに今までも“日月神示”の表記の“富士”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道って解釈をしたし、また単に“富士”って表記だけならば、頭、あるいは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現=目上(めうえ)の脳とその進化という表記だと思う。 その点で“富士ひかるぞ”は、今の時点の地球人は、“一”=智性=1番目のオーラが足りず=智性無き心であるってことを示す言い回しでもある。
“日本晴れ”と“富士”についてはこれまで何回も示した画像を以下に貼っておく。

“晴れたり日本晴れ”の解字 


富士の解字 


 次の文。
“世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。”

 この文の“世の元”は、自分たちの心(靈)が“観察と認識”しうる事象=“世”っていう意味で、“元”は、肉体=“二”と、時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)であり、それは肉体を持った自分たちの心(靈)の動きが創り得るのが、現津(あきつ)、観察され得る事象って言い方が妥当だと思う。
そして、低い霊的成長度の心(靈)は低い世界=“世”(事象の“創造”)をするものであり、それは恨みの連鎖に満ち満ちた今の事象であり、このままでは何もかもが崩壊するからこそ(もう大分、この間の地震のように警告として示されているけど)、霊的成長度における区別が必要になり=アセンションが起き、そしてその霊的成長度の区別は、自我の肥大=“石屋の仕組み”、“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の段階の人と、“慈悲”と“慈愛”の発現をした=胸の磁性“十”(シンクロトロン)の心(靈)の発現をした人との区別でもある。
 よってこの文は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”って意味を充てることが出来る。 
この“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”については、天つ巻 第三十帖で “富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ”って述べられ、それは、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、これは、肉体の腹と胸であり、心(靈)の動きとしては、自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”を発現していく様子を言い表しているって解釈をしたし、それは、愛(炁)の顕現の順番=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋の“上”と“下”でもある。
 だからこの文の言わんとするところは、霊的成長度における“上”と“下”、それによって観察しうる事象は違ってくるし、今述べた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度による観察しうる事象の違い、それがアセンションの真実であることすら示唆していると思う。

 次の文。
“くもでて くにとなったぞ。 
出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。
スサナルの神はこの世の大神様ぞ。”

 この文の冒頭のひらがな表記は、漢字を充てると“雲出て 国となったぞ”だと思うが、“国”は今まで述べてきたとおり霊的成長を目指す心(靈)っていう意味であり、“雲出て”は、“雲”の解字を今回作ったから、それを見て感じ取ってもらうこととする。

雲の解字


 要は、“雲”は、“上”からの荷電粒子を止め=神の思惑を肉体の磁性で止め、心(靈)が発現して=自分のものとするっていう意味を示唆していると思う。
 そして“出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。 スサナルの神はこの世の大神様ぞ。”っていうのは、自分たちの心(靈)が創る事象っていう意味で“出雲”と“地(くに)”って表記をされていると思うし、“地”は“土”であり、完成された人の表記である“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記であると思うし、またそれは、肉体を持った心(靈)=人、“日止、霊止”ってことを示唆した表記でもある。
 そして“スサナル”、これについては漢字の表記が出てきたときに詳しく述べることとするが、先に簡単に述べておけば、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物である自分たちと、自分たちが感じ(感じる磁性)得る(“観察と認識”をしている)事象、その両方の意であると思う。

 次の文。
“はじめは 渦巻き 右 回転 であるなり、 渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転   (ヒツキクニ)の神様なり、 ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。”

 この文は、今までの“日月神示”の表記の“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転と、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、砌(みぎり)回転とは意味合いが違い、“上”から“下”、“創造”の“主(ヌシ)”から被造物を見る視点での表記だと思う。 よって被造物側、こちら側、人から目線、それと、“上”から“下”、神から人、その回転の方向は真逆になると解釈する。 
それは、日月の巻をここまで解釈してきて、事象の“創造”の秘密が述べられてきたことが多かった。 
それは冒頭に述べたように、日月の巻の第一帖から二十七帖までは、 ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻であり、第二十八帖からは、月(ツキ)の巻、この違いは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を述べ、その事象の“創造”の仕組みを述べているのが、第二十七帖までであり、第二十八帖からは、こちら側、被造物としての人(日止、霊止)視点でのことが述べられていると思うからでもある。 
ちょっと今述べたことは解りにくい言い回しになったから、簡単に要約すれば、第二十七帖までは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑においての事象の“創造”=顕現、そして第二十八帖からは、人(日止、霊止)が自分たちの心(靈)において思い、感じ(感じる磁性)、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すること、これらの事が述べられていると思うし、それは人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化ってことでもあるし、これまでたびたび述べているように、事象の“創造”の思惑と顕現(日足(ひたり)と砌(みぎり))は、自分が“どういうつもり”で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするかにかかっている。 またこのことが、自分たちにとって良いと感じる事象の“創造”ってことになり、それは今後=アセンション後において、“創造”の“主(ヌシ)”が人に託したことであると思う。
それで、今、取り上げている文の最初に“はじめは 渦巻き 右 回転であるなり、 渦巻き 左回転(うご)いて月となり地となりたのざぞ”の日足(ひたり)回転と砌(みぎり)回転の意味は、以下の画像のようになると思う。
 
日月の巻 第二十八帖 砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転


 そしてこの文の“ 渦巻き 左回転(うご)いて月となり地となりた”は、被造物である人(日止、霊止)(あるい人間以外の肉体を持つ生命体っていってもよいと思うが)が、心(靈)を持ち進化させ、“創造”の“主(ヌシ)”=神を認識し、それは“上”からの荷電粒子を肉体の磁性=“日月神示”表記のローレンツ力 で、取り込んでいき、そして肉体を持ったまま神格化するためのこととしていわれていると思う。 
ちなみにいうまでも無く“地”と“月”は、心(靈)の入れ物の肉体とか、事象の観察における物質とか、“思惑の顕現”の顕現の方の意味である。
 また“ 渦巻き 左回転(うご)いて”っていう表記は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が顕現(動く、動いて)したっていう意味であり、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈)という、心(靈)を持った被造物は出来上がってきたのだということを示唆していると思う。
 それで次の文“アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転 (ヒツキクニ)の神様なり”、この“ア”は、被造物である人(日止、霊止)から視点なら“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)であり、今まで述べてきている“創造”の“主(ヌシ)”の表記、“アイ”“愛(炁)”、これは
ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”が示す、日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行して書く様子に示されている=“思惑の顕現”は、事象の“創造”=現象化ってことであると思う。 
 またこの文の表記の“ヒツキクニ”は、“ヒ”=太陽、日、“上”からの荷電粒子、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆し、“ツキ”は肉体、砌(みぎり)、現津(あきつ)、観察され得る事象に物質を伴った心(靈)として存在する人(日止、霊止)、それは神の“思惑の顕現”=現象化としての生命の“創造”としての人っていう意味、そして“クニ”は、“上”を目指す、神格化を目指し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する事を目指す心(靈)の意味、それは“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すってことであると思う。
 さらにこの“ アはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転(ヒツキクニ)”を、事細かに解釈すれば以下の画像のようになると思う。
ヒツキクニの解釈 その一 

 またこの文の表記の“ アはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転(ヒツキクニ)”には、以下のようなことも感じ取れた。

ヒツキクニの解釈 その二

 この日足(ひたり)回転が、“ア”“亜”から始まり、人(日止、霊止)から視点で、向かって左=日足(ひたり)に終わっているのは、“上”の思惑は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人の心(靈)自身の思惑になりうるっていう意味だと思う。 
そしてそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”と、進化したした生命としての人(日止、霊止)(○ 九 十 が指し示す意味)が持ちうる“一”=智性=1番目のオーラの意味であると思う。
よって人は“ヒツキクニ”=“日”(神の思惑の仲介者としての太陽)と“月”(肉体を持った心(靈))と、“国”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)とならなければならないし、それが人の完成であり、“日月神示”表記の“天詞様”であり、真実=真固止の天皇(天の白い王、シンクロトロン放射(クンダリーニの白光))となるべきであることを感じさせる。
 
そして“ ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現 (ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ”の“ ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)”は、“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、と、“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む、この両者とも“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して解釈してきたし、それぞれ日足と砌(ひたりとみぎり)の意味を感じさせるものであるし、だからこそ“ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現ヨ”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を持ち、また、“思惑の顕現”=現象化でもあるし、その顕現=現象化は、人の
肉体(月)を持った心(靈)ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) =“クニ”(“国”)が観察しうる事象になるっていう意味だと思う。

 


それで、第二十八帖は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と“創造”の“主(ヌシ)”のかかわり=“雲”と“アイ”“ヒツキクニ”が述べられ、その前に“火”“水”が述べられ、平均的地球人の進化の順番、(進化の法則に則った)道筋(道理)を述べていた。
特に冒頭に述べられていた進化の順番と道筋、そのことを理解していれば、以下のような言い回しになると思う。
“この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ。”
 
 いうまでも無くこの文は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を知れ、そして現地球、今の現津(あきつ)、観察され得る事象は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“道理”をよく知らず
“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ておらず、間違った“創造”をしているからこそ“グレンとは上下かへる事”と述べられており、しかしこのことは自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を教訓として、自省(胸の磁性“十”)して、自分の認識にせねばならず、それは学校のように誰かに教えれても、自分の認識にならず、また、当然のことながら“役員づら”の人の言葉にも教訓を得られるものではないからこそ“云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ”って言われているとKellyさん的には感じてるってことを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第二十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。
神の事いふよりみことないぞ。
物云ふなよ。みこと云ふのぞ。
みこと神ざぞ。道ぞ。アぞ。
世変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。
光食へよ。息ざぞ。
素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。急ぐぞ。
うなばらとはこのくにぞ。
十一月二十五日、一二 ローレンツ力と ○

 第二十九帖の“みこと”って表記は、以前、地つ巻で解釈した“実言(みこと)”と共通の意味を持つと思う。 よって地つ巻 第一帖の解釈から、以下にコピペ。

“実”は、みのる、完成、真実の実。 
“言”は、言葉、言葉は心(靈)の発振、発信、それと意思、意志、思惑を伝える道具、また、事象を認識する道具。 
それを踏まえ、この文の“世界は一つの実言(みこと)となる”と“それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなる”は、人間の感じうる事象は、一つの方向性しかなく、それは進化=霊的成長、神格化に向かうことであり、そして、“てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ”と称されている通り、“上”の思惑を受信して自分の思想にする人(日止、霊止)が指導者になることを指し示しているし、それが本当の天皇の意味であると何回もこのブログで述べた。 そして、“命(みこと)”は、使命、存在の理由、存在の意義を指し示し、霊的成長度が“上”になれば、それより“下”の人は、それに従うって称されている。
さらに、今の形骸の価値観で=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と認識で、位(くらい)が高いとか偉いって思われていることは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見れば大して価値の無いことでもあり、またその人たちは自我が肥大していて、恨みの連鎖の霊的干渉を増しているから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではない。
だから今の人間の思っている上と下はひっくり返る。 そんな表記も今まで解釈してきた上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻に、何回か出てきている。
そやから地つ巻の第一帖は、その意味のことも述べていると思われる。
また、“てん詞様”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を顕現するのだから、その“創造”は、真実=真固止、○ 九 十(まこと)、そして“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)でもある。
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかってことが無い。

 引用終わり。

 今まで述べてきたように、人の存在の意義は、人っていう字に示されるとおりでもある。 神の思惑の顕現の意味を持つ丿部(へつぶ)と、人の思惑の顕現の意味を持つ乚部(いんぶ)で成り立つ。
また、神の思惑の顕現をするために“上”からの荷電粒子を止めるっていう表記が古神道の表記の“日止、霊止”である。 
そして“上”からの荷電粒子は、神の思惑っていう情報を持っており、それは、太陽から、あるいは宇宙の大極、中心と認識されうる場(フィールド)から注がれる“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、だからこそ“日止、霊止”は、それを止める意味ってことでもある。
そして生命(生きる使命=存在理由)である“日止、霊止”は、何を顕現するのか、何を、どんな“創造”を“上”から託されているのか。 それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”であり、それを達成するために、今、心(靈)は(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)によって)成長させられており=“苦”と感じることを体験させられて、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、“上”との感応共振ができるようにされているともいい得る。
(ちなみに“苦”という字は、芽生えるの意である艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、胸の磁性“十”(自省の心、“慈悲”と“慈愛”)と、場(フィールド)(肉体の場合は腹)を示す“口”で構成されている)
これらのことは幾度となく述べてきたことであるが、今回、(日月の巻 第二十八帖の)スサナルの漢字表記、“素盞鳴尊(スサナルノミコト)”を見て、その解釈をして、このことを思わされるものである。 以下に“素盞鳴(スサナル)”の解字の画像を示す事とする。
“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字

画像にも少し書いたが、“素”は原材料の意味があり、事象の“創造”と生命(生きる使命=存在理由)の素は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”の、“ア”“亜”である。 ちなみに混同されがちな“元”の意味は、元に戻るとか、元からやり直すとか、それは時間の進行とある程度カタチになったものに対し、その過去のカタチの意味を持ち、例えば元教師とか元議員とか元暴力団員とか…って表記が分かりやすい。
少し余談になったが、今述べたことを踏まえて、第二十九帖の解釈に入る。

まず冒頭の文。
“一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。 神の事いふよりみことないぞ。 物云ふなよ。 みこと云ふのぞ。 みこと神ざぞ。 道ぞ。 アぞ。”

この文の“一日一日(ひとひひとひ)”は、時間の進行であり、よって“日月神示”表記の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))のように時間が進めば、神の思惑は顕在化して、進化した生命(生きる使命=存在理由)である人は、より“日止、霊止”になり、“上”の思惑を受けて“実言(みこと)”を顕現し、そのために“創造”し、それを自分たちの心(靈)が“観察と認識”するものである事を示唆した文であると思う。 そのことが表れた表記が“神の事いふよりみことない”であり、“神の事”を“いふ”(発振、発信)こと以外に“実言(みこと)”は無いっていう言い回しであり、自分たちが外側(外国と幽界)の事象に感じている“物”を“云ふなよ”は、外側(外国と幽界)の事象に真実=真固止は無く、自分たちの認識(悟り、幸取=さとり)が真実=真固止であり、事象の“創造”は“思惑の顕現”=現象化であり、真実=真固止の認識を持った人、霊的成長した人(日止、霊止)でなければ、神の“思惑の顕現”=現象化、“実言(みこと)”は成し得ないことをいっていると思う。 それが“みこと云ふのぞ”の意味だと思う。
 そして“みこと神ざぞ。 道ぞ。 アぞ。”は、“実言(みこと)”=神の“思惑の顕現”=現象化であり、だからそれは“神ざぞ”であり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)だからこそ“道ぞ”であり、“素盞鳴(スサナル)”の“素”だから“アぞ”であり、それはまた、第二十八帖の“アは (ヒツキクニ)の神様なり”の“ア”と同義でもある。 以下に第二十八帖で紹介した“ヒツキクニ”の解釈の画像を貼っておく。
ヒツキクニの解釈 その一
ヒツキクニの解釈 その二


 次の文。
“世変るのぞ。 何もはげしく引上げぞ。 戦も引上げぞ。 役に不足申すでないぞ。”

 この文はいうまでも無くアセンションのことを示唆しており、またアセンションが霊的成長度において分けられる作業であることを示し、それはこの文の“何もはげしく引上げ”と“戦も引上げ”に示されており、“引き上げ”られない霊的成長度の人間は、自我の肥大をして困難や試練を避けたり、困難や試練に遭遇した自分に対しての自分の在り方を見出さず、ただ甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見たり、困難や試練を真剣に考えず逃げるから快楽におぼれたりもする。
 しかし困難や試練は、自分が育つためのことであり、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするために“上”から与えられるものであり、それを乗り越えて自省したならばそれは認識の拡大=霊的成長になるものであり、それがまた“役に不足申すでない”の“役”である。

 次の文。
“光食へよ。 息ざぞ。 素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。 急ぐぞ。 うなばらとはこのくにぞ。”

 “光食へよ”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、そしてそれは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)(“一二三”のオーラ)であり、“素盞鳴尊(スサナルノミコト)”は、“上”からの荷電粒子を自分が受けることが尊いってことであり、第二十八帖の解釈で述べたとおり、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物である自分たちと、自分たちが感じ(感じる磁性)得る(“観察と認識”をしている)事象、その両方の意でもある。
そして“急ぐぞ”は説明は要はない。
そして“うなばら”は海原であり、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもあるし、その意味は、自我で認識する事象=物質の世界(外側(外国と幽界)の事象)である。 そして自分の外側(外国と幽界)の事象を感じ(感じる磁性)るのは、“このくに”で、“くに”は、“国”は、自分の心(靈)、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  であり、その自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)得る現津(あきつ)、観察され得る事象を、“うれしうれし”“大歓喜”にするには、先に述べたことと重複するが、補足説明としてこの文の冒頭の“光食へよ”であり、それはまた、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”、“日月神示”表記の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第三十帖 Kellyさん的解釈  “自凝(おのころ)”と“茲に(ここに)”の意義


今回も、日月の巻 第三十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通りなんやけど、今回の第三十帖はとても長いし、進化=霊的成長、神格化に向かうことの、重要な秘密を含んでいると思うので、今回はタイトルどおり、“自凝(おのころ)”と“茲に(ここに)”って表記が出てくる文までを解釈しまんねん。

おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。初めに
水蛭子(ひるこ)、
淡島(あわしま)、
生み給ひき。この御子、国のうちにかくれ給ひければ、次にのりごちてのち生み給へる御子、
淡道之穂之三別島(あわじのほのさわけしま)、
伊予の二名島(いよのふたなしま)、
この島、
愛媛(えひめ)、
飯依比古(ひひよりひこ)、
大宜都比売(おおけつひめ)、
建依別(たてよりわけ)
と云ふ。次、
隠岐の三子島(おきのみつこしま)、
天之忍許呂別(あまのおしころわけ)。
次、
筑紫島(つくししま)、
この島、
白日別(しらひわけ)、
豊日別(とよひわけ)、
建日向日豊久土比泥別(たけひむかひとよくづひぬわけ)、
建日別(たてひわけ)。
次、
伊伎島(いきしま)、
天比登都柱(あめのひとつはしら)。
次、
津島(つしま)、
天狭手依比売(あめのさてよりひめ)。
次、
佐渡島(さとしま)。
次、
大倭秋津島(おおやまとあきつしま)、
天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)、
次、
吉備之児島建日方別(きびのこしまたてひかたわけ)。
次、
小豆島(あづきしま)、
大野手比売(おおぬてひめ)。
次、
大島大多麻流別(おおしまおほたまるわけ)。
次、
女島(ひめしま)、
天一根(あめひとつね)。
次、
知詞島(ちかのしま)、
天忍男(あめのおしを)。
次、
両児島(ふたこしま)、
天両屋(あめふたや)、
二島(にしま)、八島(やしま)、六島(むしま)、合せて十六島生み給ひき。次にまたのり給ひて、大島、小島、生み給ひき。
淡路島(あわじしま)、
二名島(ふたなしま)、
おきの島、
筑紫の島(つくしのしま)、
壱岐の島(いきのしま)、
津島(つしま)、
佐渡の島(さどのしま)、
大倭島(おおやまとしま)、
児島(こじま)、
小豆島(あづきしま)、
大島(おおしま)、
女島(ひめしま)、
なかの島、
二子島(ふたこしま)
の十四島、島生みましき。次に、いぶきいぶきて、御子神 生み給ひき。
大事忍男神(おほことおしをのかみ)、
大事忍男神(オホコトオシヲノカミ)、
石土毘古神(いしつちひこのかみ)、
石土毘古神(イシツチヒコノカミ)、
石巣比売神(いしすひめのかみ)、
石巣比売神(イシスヒメノカミ)、
大戸日別神(おほとひわけのかみ)、
大戸日別神(オホトヒワケノカミ)、
天之吹男神(あめのふきをのかみ)、
天之吹男神(アマノフキヲノカミ)、
大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
大屋毘古神(オオヤヒコノカミ)、
風木津別之忍男神(かさけつわけのおしをのかみ)、
風木津別之忍男神(カサケツワケノオシヲノカミ)、
海神(わたのかみ)、
海神(ワタノカミ)、
大綿津見神(おほわたつみのかみ)、
水戸之神(みなとのかみ)、
水戸の神(ミナトノカミ)、
速秋津比神(はやあきつひのかみ)、
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)、
風神(かぜのかみ)、
風神(カゼノカミ)、
志那都比古神(しなつひこのかみ)、
木神(きのかみ)、
木神(キノカミ)、
久久能智神(くくのちのかみ)、
山神(やまのかみ)、
山神(ヤマノカミ)、
大山津見神(おほやまつみのかみ)、
野神(ぬのかみ)、
野神(ヌノカミ)、
鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)、
野椎神(ぬつちのかみ)、
鳥之石楠船神(とりのいわくすつねのかみ)、
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、
大宜都比売神(おほけつひめのかみ)、
大宜都比売神(オホケツヒメノカミ)、
火之夜芸速男神(ひのやきはやをのかみ)、
火之比古神(ひのかがひこのかみ)
生みましき。速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)、二柱の神 川海(かわうみ)に因(よ)りもちわけ、ことわけて、生ませる神、
沫那芸神(あわなぎのかみ)、
沫那美神(あわなみのかみ)、
頬那芸神(つらなぎのかみ)、
頬那美神(つらなみのかみ)、
天之水分神(あめのみくまりのかみ)、
国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
天之久比奢母智神(あめのくひさもちのかみ)、
国之久比奢母智神(くにのくひさもちのかみ)、
次に、大山津見神(おほやまつみのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)の二柱神、山野(やまぬ)に依りもちわけて、ことあげて生みませる神、
天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
国之狭土神(くにのさつちのかみ)、
天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、
国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)、
天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、
国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、
大戸惑子神(おほとまどひこのかみ)、
大戸惑女神(おほとまどひめのかみ)、
大戸惑子神(オホトマドヒコノカミ)、
大戸惑女神(オホトマドヒメノカミ)
生みましき、伊邪那美神(いざなみのかみ)やみ臥(こや)しまして、たぐりになりませる神、
金山比古神(かなやまひこのかみ)、
金山比売神(かなやまひめのかみ)、
屎(くそ)になりませる神、
波仁夜須比古神(はにやすひこのかみ)、
波仁夜須比売神(はにやすひめのかみ)、
尿(ゆまり)に成りませる神、
弥都波能売神(みつはのめのかみ)、
和久産巣日神(わくむすびのかみ)、
この神の御子、
豊宇気比売神(とようけひめのかみ)
と申す。ここに伊邪那美神(いざなみのかみ)、火の神 生み給ひて、ひつちとなり成り給ひて、根の神の中の国に神去り給ひき。ここに伊邪那岐神(いざなぎのかみ)泣き給ひければ、その涙になりませる神、
泣沢女神(なきさわめのかみ)、
ここに迦具土神(かぐつちのかみ)斬り給へば、その血 石にこびりて、
石析神(いわさくのかみ)、
根析神(ねさくのかみ)、
石筒之男神(いわつつのおのかみ)、
雍瓦速日神(みかはやひのかみ)、
樋速日神(ひはやひのかみ)、
建御雷男神(たけみかつちおのかみ)、
建布都神(たけふつのかみ)、
豊布都神(とよふつのかみ)、
御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血、
闇於加美神(くらをかみのかみ)、
闇御津羽神(くらみつはのかみ)、
ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)に成りませる神、
正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)、
御胸に
於藤山津見神(おとやまつみのかみ)、
腹(みはら)に
奥山津見神(おくやまつみのかみ)、
陰(みほと)に
闇山津見神(くらやまつみのかみ)、
左の御手に
志芸山津見神(しきやまつみのかみ)、
右の御手に
羽山津見神(はやまつみのかみ)、
左の御足に
原山津見神(はらやまつみのかみ)、
右の御足に
戸山津美神(とやまつみのかみ)、
成りましき。ここに斬り給へる御刀(みはかし)、
天之尾羽張(あめのおはばり)、
伊都之尾羽張(いづのおはばり)、
と云ふ。ここに妹(いも)恋しまし給ひて根の国に追い往(い)で給ひき。
十一月二十五日夜、一二ローレンツ力と ○

今回の、日月の巻 第三十帖は、日月の巻の第一帖で“日月の巻は、ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある”と述べたように、月(ツキ)の巻でもある。 
そして、月(ツキ)は日(ヒ)に対して相対するものである。
それは言うまでも無く太陽と月、これは日足と砌(ひたりとみぎり)っていう神の極性の現われでもあるし、その極性って分類でいえば、心(靈)と肉体、またそれは、心(靈)の反映が肉体でもある。
また、すべて生命の行動は、思惑と顕現ってことでもあり、思惑は言葉を変えれば精神とか心(靈)の動きであり、それは日足(ひたり)の極性でもあり、そして事象への顕現は、思惑の結果であり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、行動でもある。
そして当然のことながら、神であろうが人であろうが悪魔であろうが、思惑の顕現は=それぞれの心(靈)の動きは、事象の“創造”ってことでもある。 
よって日足(ひたり)と砌(みぎり)の神の極性は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象に感じ取れるものであるし、すべての事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現と、“創造”の“主(ヌシ)”以外の生命(“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈))の思惑の顕現でもある。
そして、自分の心(靈)が観察しうる対象、それが、事象の“創造”、顕現=現象化っていう言い方もでき得るものでもあるし、さらにそれは、自己=観察する自身から見たならば、すべての観察対象は、外側(外国と幽界)の事象って言い方もできる。

(だから、人の心(靈)は、自己と他者、あるいは自分の内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象を、区別するし、区別できうるものでもある。 そしてそれが、独り神(ひとりがみ、日取り神)に成り得る絶対の要素であり、だからこそ、生命(生きる使命=存在理由)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、自我(“江戸と尾張”)の心の発現は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるために必須でもある。 
そして自我があるからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“創造”の“主(ヌシ)”と成り得るものであり、だからこそすべての生命は“創造”の“主(ヌシ)”を目指し霊的成長する。 それを言い換えれば、“一”=智性=1番目のオーラの拡大のために“行”をして成長し、新たな“創造”の“主(ヌシ)”となり、それが神格化のゴールでもある)

要は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象には、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性(と、霊的成長度の“上”と“下”、そして時間の進行)しかないのだが、この第三十帖では自分たちが観察しうる砌(みぎり)の極性の現れ、その事象、そして肉体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)(霊的成長、神格化に向かうこと)、これらの事を述べていると思われ、それはまた、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の思惑の現われでもある。 
その“創造”の思惑と、生命の発現、それは心(靈)の発現、そしてそれが古事記の“国生み”の本当の意味だと思う。

(“国”は、自我の肥大した縄張り意識の進化程度の低い認識による国土とか自国や他国ってことではなく、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、だからこそそれは霊的進化を目指す心(靈)=荷電粒子の場(フィールド)でもある)

そして“創造”の“主(ヌシ)”の最初の事象の観察(“創造”)と、生命の発現=“国生み”ついて書かれていたのが、 ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻の以下の部分であったと思うので、それぞれの帖の原文を列挙して、Kellyさん的解釈の要旨を述べてから第三十帖の解釈に入ることとする。

まず、日月の巻 第六帖から。
アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマシキ、タカアマハラニ ミコトトナリタマヒキ。
天地(アメツチ)は、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である人、あるいは“創造”の思惑と、顕現した事象。 また、“思惑の顕現”=現象化を、(心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が=すべての生命が)観察行為により認識し始めた時といいうるし、重複する説明になるけれど“アメツチノトキ”の“ノ”(の)と“トキ”(時)は、観察をして認識をし始めた時、またこのこと自体が“創造”の始まりっていう意味を示し、心(靈)が観察して認識する事象の“創造”の始まりを指し示し、その“創造”=事象の観察、それは神(“創造”の“主(ヌシ)”)の思惑で、その顕現=現象化を、“上”も“下”も=神もあらゆる生命も、“観察と認識”をしている事と、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始まりと根拠=“どういうつもり”を述べている文。
そしてすべての“創造”は、この文の“アノアニナリマシキ”に示され、それは“亜”の“あ”(愛(炁)の“あ”=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)に成り増しき でもあるし、“亜”が出ずる、泉、であり、アイ=愛(炁)でもある。 だからこれは“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であり、“創造”そのものでもある。 またそれは“ナリマシキ”=成り(実現(実現は事象の“観察と認識”でもある)し、完成を目指すこと)増し(増える、弥栄(いやさか)と同義)気(電磁波、荷電粒子)で、それは、生命(生きる使命=存在理由)が発振、発信するオーラ=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))。

日月の巻 第七帖から。
ツギ、タカミムスビ、ツギ、カミムスビノミコトトナリタマイキ、コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ。
“高御産巣日神(たかみむすび)”、これは、高=“上”であり、そして御を使うのは、相手や第三者に対する敬意とともに、相手のもの、相手に関するものであることを表し、また和らげた命令表現のときにも使う(御黙り、御入り(おはいり)など)、よってこれは、第六帖で解釈したこと、それは、事象の“創造”を“上” が思い(想い)、そのことを使命とした(命、“実言(みこと)”)、言い換えれば“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を、顕現=現象化として、生命(生きる使命=存在理由)が感じうる(“観察と認識”)、事象の“創造”を、命としたことを指し示すこと。
そしてこの文の“コノミハシラ”“この三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)のこと。 また“スニナリマシテ スミキリタマイキ”の“ス”には、素(す、もと、原材料の意)と巣(すみかの意、何々の巣、愛の巣など、場(フィールド)を示す意味とも解釈も出来る)を、当てることとした。

日月の巻 第八帖から。
ツギ、ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ アレイデタマイキ。
この“宇摩志阿斯詞備比古遲神”の一文字々々が示す意味は、“宇”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“千”、宀(うかんむり、頭の意味)は天意、“創造”の“主(ヌシ)”の意思、“創造”の思惑。 
そして“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)とシンクロトロン放射の構造を示す“十”。
“摩” は广(まだれ)(頭蓋骨の意、あるいは灰分(かいぶん)の結晶化した部分)と林=胸の磁性“十”左右と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして手。 これは進化した生命(手が発現し始めた段階以上の生命っていう意味がもつ、肉体のシンクロトロンの構造。 また天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性に対しての、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を指し示す事であると思う。
“志”は、“一二三” のオーラの“一”と“二”の上に突き出ている|(たてぼう、こん、縦の磁性))と、心(靈)。 それでこの|(たてぼう、こん、縦の磁性))は、“上”から“下”に書く=天意が下降したものでもあるし、“亜”の低振動化を指し示すものでもある。 もう一度述べれば、この場合の“一”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのもので、天意そのもの=“亜”そのものであるが、それが泉のように出なければ、“アイ”愛(炁)ではないし、それは“上”から“下”に降りなければ、事象の“創造”にはなりえないってことでもある。
“阿”は、この字の意味そのものが、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、おもねること、こういう意味があるが、それは“亜”が“上”から“下”に下降し、変容している状態を指し示すものであると思う。
“斯”は、この字の意味として、これ、この、ここ、ここに、すなわち、かく、かように、このように、の意味がある。 これは天意が下降して=愛(炁)による“創造”で、創造されうる場(フィールド)の位相を特定する表記であると思う。
“詞”は、詞(ことば)、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)の動き=“亜”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を指し示す表記。
次の“備”“比”は、これ(比)備わるの意。
“古”は、場(フィールド)の意味を示す表記と、振動の受信の意味を持つ“口”。 これにシンクロトロンの仕組みである“十”をくわえた表記。
“遲” は遅の旧字、おくれる、おくらす、おそいってい意味があり、当然のことながらこれは時間の進行っていう意味での後、後発ってことの意味で、天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)よりも、後発であるという意味。
そして“神”はいうまでも無く荷電粒子の回転を示す表記。
また、“比古遲”の“ヒコ”は、日足(ひたり)(ヒメに対してのヒコ(彦)で、男の極性)を表している。 これは“創造”は日足(ひたり)の極性で成されるのが正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)ことを示している。

 ことに、次の、日月の巻 第十帖からは、生命(生きる使命=存在理由)の発現=個々の生命の心(靈)の発現を述べていると思われる。
 
 まず、日月の巻 第十帖から。
ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。
 この文の、この文の“天之常立(あめのとこたち)”“国之常立(くにのとこたち)”について、“天之常立(あめのとこたち)”の“天”は、“天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)”。 これは“天”そのものが(天之御柱(あめのみはしら)の)大極としての“上”の意味もあり、またこの“天”という表記は、進化した“上”の存在って意味もあり、さらに進化を目指すべき人のことを指し示した表記と解釈し、そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すとした。 
上記の説明における“天”と“国”、この二つが、“之”(これ)、“常立(とこたち)”で、常に立つことを示し、これ(之)常に立つの意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかない。 そしてそれは“命(“実言(みこと)”)”でなければならない。
また“立”っていう字が、ローレンツ力の変化した点と“一”(智性=1番目のオーラ、人の心(靈)における“上”、天地の天。 あるいは“一”を三つ重ね “天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ)、そして左右の極性、そして下線の“一”は、自分たち、あるいは自分たちの“下”の部分(天地人の人)、位相を指し示す表記、これらを表したものだと思う。
要はすべての存在は立たねばならない=進化しなければならない=神格化の道を進むものであるし、それが生命の存在の根拠と目的でもある。

日月の巻 第十二帖から。
三ハシラ、五ハシラ、七ハシラ、コトアマツカミ、ツギ、ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。

 この文の“ミハシラ”“三柱”は、第六帖の天之御中主(あめのみなかぬし)と第七帖の高御産巣日神(たかみむすび)と神産巣日神(かみむすび)之命(の“実言(みこと)”)、
そして“五ハシラ”“五柱”は、先の“三柱”に第八帖で解釈した“宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)”さらに第十帖の“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”を加え、“五柱”とされ、そしてここまでの“五柱”、その後に述べられている“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”、これはちょっと意味合いが変わり、それは第十帖の解釈で“天之常立(あめのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”と“国之常立(くにのとこたち)之命(“実言(みこと)”)”については、“天之常立(あめのとこたち)”=進化した“上”の存在と解釈し、そして“国之常立(くにのとこたち)”の“国”は、“国”((囗)くにがまえ)と“玉 (ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)で、これは“上”と“下”を認識しうる自分の心(靈)の中の事象である と解釈した。
そして“宇比地邇(うひぢに)”は、(宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)と共通の意味での)“宇”は、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑。
“比地”は、此れ、と、地は“下”。
“邇”は、ちかい、近い、近くにあるもの、身近なものから対処するという意味合いの表記。 これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には、順序、順番があることを示唆していると解釈する。 そして“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“妹”は、砌(みぎり)の極性としての“女”という表記と、時間の進行を示す未来の“末”、そして“須”は、もとめる(求)、も(持)ちいる、ま(待)つ、すべし(全うするべく)、すべからく(完成を目指すために)、もとむ(求)、以上の意味がある。 
そして“比”は、これ。 “智”は、太陽=日を知る、それは第七帖の“高御産巣日神(たかみむすび)”と“神産巣日神(かみむすび)”の表記の“日”のこと。 
“邇”は先に説明したとおり。
 よって“宇比地邇(うひぢに)”“妹須比智邇(いもすひぢに)は、“上”=天意と“下”である地、天地っていってもいいが、この天地って言葉そのものが低い既成概念に囚われている感があり、だからそれは、“上”と“下”、神と人(日止、霊止)、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑とその顕現であるすべての事象、そういう解釈が妥当であると思う。 そしてそれは“上”からの荷電粒子を仲介する太陽=“日”で、天意=神の思惑を知り、それが“此”“智”で、現象化した砌(みぎり)の極性である、現津(あきつ)、観察され得る事象は“妹”で示され、よって“妹須比智邇(いもすひぢに)”は、“上”からの荷電粒子=“日”を知り(認識(悟り、幸取=さとり)として取り込み)、それを求め、完成を目指し=“須”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番を“下”から“上”に向かう=“邇”。 。
そして“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示すと思う。 
ちなみに○○○大先生は“改”で、進化に伴う生物の一個体内の電気特性の変化と、“上”からの荷電粒子の影響、その両方が進むことにより、電気特性を持つアミノ酸がつみ重なり、それはたんぱく質の高分子化になり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを説明しているが、それは巨大人の構造を持つ宇宙(場(フィールド))であっても同様で、宇宙は星間物質が凝り固まり(コ、(凝集の)凝、真固止の固)、星雲や星が出来ているし、密度の高い星(真に固い星)(白色矮星、ブラックホールなど)は、高いエネルギー(電磁波、高振動の星のオーラ)を放出している。 
そしてそれは、宇宙であろうが人であろうが下等な細菌であろうが、すべての事象は磁束と電気特性という性質において相似象であるとの解釈に基づいて思うことでもある。
だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人のオーラが大きくなるのが必然でもある。
少し余談だったけど、その意味合いで“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をする。 
なぜその解釈が成り立つのかといえば、今後解釈する日月の巻の第十七、十八帖に“ヌホコ”“”ヌホト”って表記が出てくるのと、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思うからであり、この詳細についてはそれぞれの帖で述べることとするが、その発電の仕組みを構成し始めること、成り立ちの初めの段階が、高分子化、分子の積み重なりであり、それが“角”“杙(杭)”である。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであるとの解釈をする。
だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をする。
 次は“意富斗能地(おほとのぢ)”“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”。 まず、“意”は、日に立つ心(靈)、それは日を目指す(“日止、霊止”を目指す)って言い換えても良いと思う。 “富”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(“亜”から出ずる、泉、アイ、向かって日足(ひたり)から砌(みぎり))と、自分に取り込む意味(吸収、止めるの意)の“口”と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、そして“富”は、生命(生きる使命=存在理由)が神格化するためのテンプレートとしての表記でもあり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現と強化にかかわる意味を持つし、またそれは“日月神示”の表記の“富士(二二)”でもあると確信しているし、だから“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味があるのだと思う。 
そして“斗”は、たたかう(戦う)、にわかに(俄かに)、はるか(遥か)、わずか(僅か)の意味もあるし、柄杓(ひしゃく)の意味もあり、北斗(七星)とか南斗という星の命名の由来であったりもするが、今列記したそれぞれの意味も感じさせるものではあるが、水をすくう意味での柄杓がもっとも妥当な意味合いだと思う。 その理由は後述する。
そして“能”は、何かをなしとげる(成し遂げる)そのはたらき、(能力)、そして、ききめ(効能、効果)の意味がある。 そして“地”は、天地の地、“上”と“下”としての“地”。 
よって、“意富斗能地(おほとのぢ)”は“上”からの荷電粒子=日に立つ心(靈)の“日”で、智性(神性)を発現する、またそれは脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートである富士の“富”を、“下”である“地”に成し遂げ、それは、器である柄杓、水を入れる柄杓の意である“斗”とする。 またその水は、荷電粒子として最大の大きさを持つ錯体に取り入れる。 その水は、人(日止、霊止)において腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもあり、進化過程として、自我は、智性(神性)により支配されなければならないことも示唆していると思うし、自我の発現は独り神(ひとりがみ)になる過程、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、自我が無ければ、自己と他者の認識も無く、他者を思いやる(“慈悲”と“慈愛”)事もあり得ないものである。 …という意味を感じさせるものでもある。
 “妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“妹”は前述したとおり時間の進行と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を感じさせる表記。 “大”は“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“大”そのものの意味は、人が手足を広げた様の意味がある。 “斗”は、前述したとおり自我にかかわる水。 “乃”は、なんじ、それがし、(はっきりさせるのではなく、間をおいてつなぐ意味として)すなわち、の意味がある。 “辨”は、(正しいか正しくないかを)分ける、わきまえる、その意味がある。 よって“妹大斗乃辨(いもおほとのべ)”は、“理(ミチ)”(進化の法則性)を“辨”=わきまえた人、それは“一”(智性(“一”、1番目のオーラ))が大きくなった存在、天意と感応共振する事が可能な存在(真の意味での天皇)、またそれは古神道の表記の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を止める表記)、それが“大”の意味で、だからまとめれば、顕現した生命(“妹”)は、自分の独り神(ひとりがみ)になるべく心(靈)(この場合は自我)に、“上”からの荷電粒子を止める表記の意味を持つ“大”となるべく生命を(すなわち“乃”)わきまえる(“辨”)べきであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを示唆していると感じる。
 次は“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”。 “於母蛇流(おもだる)”の“母”は、産み出す、そして水(子宮の羊水)の意味を感じさせ、“蛇流”は、下降する様と螺旋(とぐろを巻く)(ローレンツ力による荷電粒子の回転)を示唆しており、“上”からの荷電粒子が渦巻いておりて来る様を示し、それは新たな生命を産み出す(“母”)の意味があると思う。
“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、“妹”は先に述べたとおり砌(みぎり)の極性(事象への顕現)で、“阿夜”の“阿”は、曲がって入り組んだ所、曲がり角、隈、の意味があり、“夜”は、昼間の太陽が出ている間に対し、反対の意味を持ち、陽に対しての陰でもあり、“日月”の月の意味でもある。 そして“詞”は“日月神示”表記の詞(ことば)であり、“言(こと)”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもある。 “志”は、こころざし、意志の“志”、これは願望の達成、言い換えれば“思惑の顕現”=現象化、そして進むことの意もある。 そして“古”は、縦の磁束と横の磁束の表記である“十”と、場(フィールド)を示す“口”、“泥”は、(水の中の)帯電するミネラルが固まっていない(真固止ではない)状態を指し示す。
よって“於母蛇流(おもだる)”“妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)”は、日足(ひたり)=神の思惑が、砌(みぎり)=事象に顕現していくのだが、その過程を表した表記だと感じる。
少し余談になるが、“角”“杙(杭)”“泥”って表記が今回出てきたが、これらはすべて何かが積み重なり出来上がっていくさまを示すと思うし、ことに“泥”は、帯電するミネラル“石”が固まっていない表記であり、それは“海”“川”でも同様の意味を持ち、要は水の中には錯体があるという事を言い表していると思う。
また“石”(帯電するミネラル)が積み重なり、何かが出来上がる。 その意味で“土”“岩”“山”(脳)“塔”(角より高いもの)“玉(ぎょく)”(きちんと結晶化されたもので、“上”が評価するべきもの)って表記も、高い心霊は使うが、すべて何かを積み上げる=高分子化する、あるいは密度が高くなる意味を持つと思う。
そしてこの文の最後には“伊邪那岐神”“伊邪那美神”と記され、この二柱は、神=荷電粒子の回転という表記が使われている。 このことを念頭において、まず“伊”は、これ、この、かれ、かの、なんじ、の意があり、それは“邪”にかかるものであり、“邪”の意味は、正しくないこと、道にはずれていること、あるいは、横の方向であること、その意味がある。 
よって“伊邪”、これは縦の磁束(正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象))どおりではなく、横の方向=水平磁場による顕現を指し示す表記であると思うし、また、ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往を思い起こさせるものであり、すべての事象は縦の磁束が初発であり、それに対し水平磁場が発現し、その相互の影響で事象は形成されている(と、心(靈)は感じ(感じる磁性)て、認識する)。
そしてすべての事象は、“上”と“下”=縦の磁束、日足と砌(ひたりとみぎり)=水平磁場、そして時間の進行=“道”、法則性=“理(ミチ)”によって形づ繰られるものであることを深く感じさせる表記が、“伊”“邪”、そして次の“那”でもある。 それで“那”は、美しい、安らか、多い、ふくよか、豊か、の意味がある。
“岐”は、幾度となく説明したことでもあるが、思想の分かれ、それは山(脳)と支(ささえ、わかれ)、思惑そのもの、日足(ひたり)の極性。 “美”は、羊が大きいの意味があり、従順に、恭順に従っていく様。 
そしてここで初めて日足(ひたり)の極性=男と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=女をあてるべきだと思う。
 ことに個々の肉体を持った生命(生きる使命=存在理由)の進化には、この文の“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子、この概念がとても大事。 
また“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をしたし、それは、日月の巻の第十七、十八帖の“ヌホコ”“ヌホト”であり、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもある。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであり、だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をした。

それで、日月の巻 第十七帖からは、(第十二帖の“イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。”の続きとして)伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が、“国生み”をする意味の事が述べられている。
ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。
 このカタカナ表記に漢字とひらがなを当てると“此処に(茲に)天津神、諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)(日足(ひたり)の極性)伊邪那美(いざな み)の“実言(みこと)”(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))に、是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成” (しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った 矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”となり、この文の冒頭の“此処に”、これにはあえて“茲に”を当てたが、この“茲”という字は、日月の巻 第三十帖に出てくるとても重要な意味を持つ表記で、その表記の意味は、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示していると思うし、またそれは、左右=日足(ひたり) と砌(みぎり)に展開している進化した左右相称動物の特徴である神経の表記でもある。 
 要は、神経=この字の左右の“幺”(いとがしら)に表 れ、それは、これまで“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の解釈として、“五”は糸巻きの象形文字で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神 経が密になり、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、その両方の思惑が交わ るの意味があり、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)があると述べてき たが、その“五”を示すのが、また、“茲”=左右のコイル状の神経の芽生えと発達を示す表記であると思う。 
 そして“茲に”のあとに“天津神”=(“創造”の“主(ヌシ)”に近い)“上”の思惑が、事象の“創造”と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命を育てる意図=“諸々の 命(“実言(みこと)”)持ちて”であるだろう。 そしてこの文自体は、日足(ひたり)=(“創造”、愛(炁)の顕現、進化(霊的成長、神格化に向かうこ と)の)思惑=伊邪那岐(いざなぎ)。 それと、砌(みぎり)、現象化(“創造”の“主(ヌシ)”が意図する事象の顕現)、伊邪那美(いざなみ)。 この 両者(事象の“創造”には神の極性としての二つの性質がある)に対して=“イザナギノミコト イザナミノミコトニ”って言われており、それは“是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))” を“宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)”=それをせよ、実現(意図して創造して現象化)せよ、そう述べられている。
そして“多陀用幣流国(國) (ただよえるくに)”、これは“多い”、“陀”“用”“幣”“流れる”“国(國)”に分けて解釈するならば、この表記の“陀”は、ななめ、平らではないと いう意味があり、“幣”は、御幣の幣で、幣は、神の依り代と一般に解釈されているが、それは、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化を示したものであると思うし、だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、心(靈)の発現が“上”に向かう事であり、人間になって初めて智性(神性、“一”、1番目のオーラ)が観察できるようになったものでもあり、御幣の構造の意味するところとして、○○○大先生的解釈は、御幣を支える棒が、背骨に相当し、そして背骨で発生する縦の磁束、それは、金(カネ)の意 味でもある“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、それがまた“カネ”の言霊であり、背骨の周りの神経がコイル状で、生体内電流により電磁石の構造 を持ち、ローレンツ力 =ローレンツ力が発生することが、“上”との思惑(電磁波)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。

そして、日月の巻 第十八帖から。
ツギニ、イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。
次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて、共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、 相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))

  この文の要点は、アメノヌホトヲタマイテであり、それは先の第十七帖のアメノヌホコ、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)が先に出来、それを“次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて”と記されているところにある。
それで“ヌ蕃登(女陰=ほと)”の“ヌ”には会えて漢字を充てなかったが、第十七帖の“沼矛”の“沼”あるいは日本書紀の表記の“瓊矛”の“瓊”も、妥当な意味だと思うので、あえてカタカナのままとした。 
 それで“沼”は、水の滞った状態、あるいは水が溜まった状態を指し、この水の意味は、肉体でいえば、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、またこれは生命の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に於ける自我の確立=固定化の段階と共通の意味であると思うし、それは錯体を 含んだ水ってことでもある。 それでこの“ヌ”が日本書紀表記の“瓊”ならば、何かが積み重なり=高分子化して電気特性が優れたもの(増幅の作用だろう) に変化した状態を指すと思う。 
 それで第十七帖と第十八帖で、“ヌホコ”と“ヌホト”という表記が示され、これは差し込むものと差し込まれるものと第十七帖で解釈した。 
 それで、差し込むもの=“ヌホコ”は、差し込む意志があって差し込むものであり、差し込まれるもの=“ヌホト”は、受け止めるものであり、これは日足(ひた り)と砌(みぎり)の極性でもあり、思惑や意図したこと=日足(ひたり)であり、またそれは男として記されている伊邪那岐(いざなぎ)でもあるし、同様に 現象化、(思惑を受け止めて)顕現するのは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それは女として記されている伊邪那美(いざなみ)である。 このこ とを要約すれば、“思惑の顕現”=現象化ってことになる。
さらに第十八帖の“蕃登(女陰=ほと)”であるが、“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサ カンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい=男と女=日足と砌(ひたりとみぎり))との表記が古事記でなされているものでもある。 そして“登”は、 “上”に向かうとか進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味でもあろう。 また、“女陰=ほと”は、差し込まれるものの象徴でもあるが、一般の古事記 の解釈は、性的なことしか取沙汰されていない感があり、事象の“創造”における日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の現れであるとの解釈にお目にかかったことが無い。 それは(おのおのの生命=個々の心(靈)が)宇宙の中心と認識している場(フィールド)は、ひとつであるって当たり前のことでもあるが、地球上に存在する肉体を持っ た生命は、縦の磁束が発現する。 また、古神道表記の天之御柱(あめのみはしら)、“上”と“下”を貫く磁性は、宇宙の中心と自分の“上”と“下”を貫く磁束でもある。
 生命である自分が持つ縦の磁束の強化は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもあり、その過程で神経が密になること、それは“慈(しげる)”、そして“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)、 この神経の発達が一個体の肉体の電気特性を、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)により、変容させているし、だからこそ“五六七(みろく)”は、神経が 密になり=“五”、そして“六”は爻部(こうぶ)で、それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味があり、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記であるとの解釈が成り立つものであるし、それは、(神経の発達、たんぱく質の高分子化の程度という意味で)段階を経て、天意=普遍的に実在する創造主のオーラ (宇宙背景放射)、宇宙線や太陽からの電磁波と認識されているものとの反応が変わってくる(その意味で“日止、霊止”って表記が成り立つ)ことを何度も説明してきたし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、天意(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の受信)であり、微生物から脊椎動物、そして人への進化 は、多細胞化であり、“石”(帯電するミネラル)の結晶化=骨の進化(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味の一つ)でもあり、肉体を構成するた んぱく質の高分子化であり、神経が密になること=“慈(しげる)”、“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)で もある。 そして目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の 脳の発現を見るようになって初めて“一”=1番目のオーラが発現し、智性(神性)を行使できる資格を持ったといいうる。

日月の巻 第二十四帖から。
ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。
茲に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)は、沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉 (ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて、国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言 (みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である 人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を充てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。

 この文を要約すれば、“茲に”は、 肉体の進化、神経の発達を示唆し(“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示している)、そして、日足(ひたり)の極性(思惑)=伊邪那岐(いざなぎ)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=伊邪那美 (いざなみ)、その両極性は、使命を持ち=命(“実言(みこと)”)、それはこの文の“国生みせなと宣り(のり)賜息”と“宣らせ賜ひて”に表れており、 何度も述べてきたとおり“国”は、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての領土ってことではな く、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、それは心(靈)そのものと、 心(靈)の進化を示す表記であり、進化は、生命の存在理由は霊的成長、神格化に向かうことで、進化の仕組みは“ヌホコ、ヌホト、クミクミテ”=“沼矛(日 本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて”に示されており、この文の“酌 み”は、器に注ぎ込むの意味を持つからあえて充てた=“ヌホコ”の意味を持ち、“汲み”は、すくい上げる、受け継ぐ、の意味を持つから=“ヌホト”の意味 を持ち、また第二十四帖は、第二十三帖の続きであるから、二十三帖で述べられている“その上に水ならばまだはいる”と“神ならばその上にまだ幾らでもはい る”っていう要素を持ちうるものであることを指摘して、そして、原文のカタカナ表記の“アウ”とひらがな表記の“あう”は、“日月神示”のカタカナ表記は “上”から視点の言い回しだから、日足(ひたり)回りで“アウ”(会う)であり、ひらがな表記の“あう”(会う)は、(“創造”の“主(ヌシ)”の)被造 物である人から目線の表記であり、砌(みぎり)回りであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)” (法則性))であり、その“アウ”“あう”は、古事記の表記においての表記、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が天之御柱(あめのみはしら) (“上”と“下”を貫く磁性)を回ってめぐり会ったことを示唆しており、今の世界は伊邪那美(いざなみ)が先に声をかけた=砌(みぎり)の極性が先行して いるから失敗の世界であり、それはこの文の“息合はし賜ひて”ではないってことでもあり、だからこそこの文では、伊邪那岐(いざなぎ)が咲きに書かれ、そ のあとに伊耶那美(いざなみ)が書かれ、日足(ひたり)の極性が先に立つ事象の“創造”、それは神の“思惑の顕現”って言い換えてもいいけれど、それをせねばならないってことを示した言い回しだと思う。

 …と、過去の記事からとても長い引用になった。 
それで、以下のカタカナ表記。

第六帖の“アノアニナリマシキ”。

第七帖の“コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ”。

第八帖の“ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテ”。

第十帖の“アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ”。

第十二帖の“ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ”。

第十七帖の“ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ”。

第十八帖の“イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ”。
これらの事と、次に述べる第二十四帖、これは第三十帖を読み解くに当たって必要なので列挙した。
それで大事なのは、第二十四帖のカタカナ表記の最後の“クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。”=“国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言 (みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である 人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を当てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。”であり、これは一般の古事記の解釈としては、伊邪那岐(いざなぎ)が左から、伊耶那美(いざなみ)が右から天之御柱(あめのみはしら)の周りを回り、めぐり合ったときに伊邪那美(いざなみ)から声をかけて媾合(こうごう)して出来た子が“水蛭子”“淡島”であり、これは女(伊邪那美(いざなみ))から声をかけて交わったからいけないって天津神に教えられ、その後やり直して改めて“国生み”をした。 よって“水蛭子”“淡島”は、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)の子=“国”として数えないとされている。 
このことは、よく知られていることでもあるが、これ以上の解釈や解説はなされていない(それは、誰も古事記や“日月神示”のそれらの文から、何かを見出そうとしないし、本当の事を知ろうとしない=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いとしか言いようが無い)。
それで、やや結論を先走るが、第三十帖の表記の“水蛭子”“淡島”は、生物の進化過程の始まりを示す表記だと思う。 このことから先に私見を述べることとする。

前のブログでもこのブログでも述べてきていることではあるが、心(靈)が観察する事象の“観察と認識”。 すべての生命が行っている“観察と認識”は、心(靈)が荷電粒子の回転によって構成されている場(フィールド)だからであり、そして心(靈)は、生物の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における肉体の発達に伴いながら、進化しているものである。
だからこそ人間以下の進化過程の生命は、“観察と認識”が人間以下、言い換えれば心(靈)も、心(靈)の動きも人間以下、これは当たり前のことでもあり、“観察と認識”が高度になる理由は=進化を果たし心(靈)が“上”になる理由と根拠は、肉体の磁束によるものであることをたびたび述べてきた。 
それは肉体の構成が、前のブログでよく引用したミミズ、ヒル、ゴカイ君、これら下等な生物は、骨が無い、神経が密ではない(“五六七(みろく)”の“五”(糸巻きの象形文字)ではない)、目が発達していない、心臓も血管系も発達していない、内臓器官も発達していない…etc. こんな事はあえて説明するような事でもない(地球人の進化過程における)一般常識であるが、これらすべて人間との比較であり、人間と動物や下等な生物における相対的な比較の進化論は、そうやって出来上がっている。 しかし、その進化論と称する学問は進化の分類をし始めたというのが妥当だと思うし、その学問は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味を追求したのではない。

○○○大先生的進化論は、生命が、天意(“上”からの荷電粒子)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をすることであり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において心(靈)は発現し、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動をもつようになり、そして進化における肉体の発達は、その過程でどれくらい天意を取り込み、その天意=“上”からの荷電粒子を自分の心(靈)とするのか、そしてその心(靈)はどういう“観察と認識”をして、そして“観察と認識”はその心(靈)の思想となり、思想は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠となりうるってこのことも当たり前のことでもあるが、その点で下等生物には思想も無ければ、天意の受信も程度が低い。 
だからこそ下等生物は下等=“下”の心(靈)しか発現していない。 
それで進化を果たしたと思える“日月神示”表記の“五六七(みろく)”。
これは、神経が密になる=糸巻きを示す意味の“五”、そして“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記、これが進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示し、神の思惑を顕現する生物としての“日止、霊止”でもあり、“日止、霊止”は“上”からの荷電粒子を止める意味の表記であり、いうまでも無く地球上で1番進化している生物は人間である。
そして“五六七(みろく)”の“七”の意味である、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)というのは、智性=1番目のオーラが、頭の水平磁場の強化で大きくなることであり、そのために“日月神示”を岡本天明に書かせた艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、1番最初に黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、そして“日月神示”では“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えているものであり、それは“一”=智性=1番目のオーラを大きくする“行”であり、頭の水平磁場の強化は、脳のたんぱく質の高分子化による事である。
その脳におけるたんぱく質の高分子化を示した文章が、日月の巻 第二十三帖で、それは以下の文を解釈したときに述べた。

“一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。 その上に水ならばまだはいるのざぞ。 神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが”  

 この文は、たんぱく質の高分子化、結晶化、そして分子密度が高くなること=“石”(帯電するミネラル)を取り込むことを示唆している。
 地球上の生物、微生物から軟体動物から脊椎動物、そして神の最後の“創造”の意味を持つ“九”、“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))である人(日止、霊止)は、さらに進化して“日止、霊止”になり、この文に示されている通り、“神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ”になるのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、それは天意の受信が現時点(平均的地球人の進化程度)よりも高度=“上”になることでもあり(“日月神示”表記の“天詞様”)、それは高度にならなければならない=アセンション後に移行出来うる人間になることを“上”は望むからこそ、それだからこそ、“日月神示”で幾度と無く出てくる表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を、述べているものであるし、本来、人が“行”をする理由と根拠、様々な宗教=“上”からの通信における人(日止、霊止)の霊的成長を示唆した事は、そこにあるのだが、平均的地球人の心(靈)は自我の肥大(“石屋の仕組み”)で宗教を形骸にして“行”を単なる儀式にして“行ごっこ”にしてしまっている。
 話を戻し、そして、結晶化した=高分子化して“石”(帯電するミネラル)をたくさん取り込んだたんぱく質を持った目上(めうえ)の脳は、天意と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)(同調と、取り込んだ振動の増幅)するし、天意を自らの(心(靈)の=“国”の)智性(神性、“一”、1番目のオーラ)とするための“行”が、いうまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、それが“一二三”のオーラの、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする事でもある。

それで話が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という事に傾いているが、事象の観察と認識という心(靈)が行う行為についていえば、たんぱく質が高分子化していない単細胞生物だろうが微生物であろうがミミズ、ヒル、ゴカイ君であろうが、たんぱく質がある程度高分子化して目上(めうえ)の脳を発現した人間であろうが、個々の心(靈)が行っている行為が、事象の観察であり、心(靈)が行っている事象の観察は、個々の心(靈)が、電磁波の受信をすることによるものである。
またその観察行為は、高度な生命においては認識になり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の指針となり、天意を自分の認識としたならそれは天の御目(あめのおめ)と呼称し、そう認識しうることが出来るものである。

そして“観察と認識”は電磁誘導により感じ(感じる磁性)、心(靈)=荷電粒子の場(フィールド)に止まり(とどまり)また(心(靈)によるところの)思想にもなり、そして思想は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)につながるし、それがまた“畐”の意味でもあるし、その結果たるものが事象の“創造”ってことでもある。

それで、先に引用した日月の巻の古事記の天地初発とされている文章に似ているカタカナ表記の文、これは、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、“島生み”から始まり、島から“国生み”をおこなった。
だが“国”って言う表記は何回も述べているとおり、進化を目指す心(靈)であり、生命(生きる使命=存在理由)であり、(だから“創造”の“主(ヌシ)”以外のすべての心(靈)は)神の子である。
そして“島”を“修理固成”(しゅうりこせい)して作ったとされている。
それで“島”っていう表記は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を示していると思われる。
またそれは“上”からの荷電粒子によるものであるからこそ、これもやや先走るが、第三十帖の後半で使われている“神”っていう表記は、示す偏(へん)と“呂”(エネルギーの回転を示す表記)と称されていると解釈する。
これを踏まえ、第三十帖の冒頭の文を解釈する。

“おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。
茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。
初めに水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)、生み給ひき。”

“おのころ”に漢字を当てると、古事記の表記の“自凝(おのころ)”。
この“自凝(おのころ)”が理解できないと、この文は読み解けないと思う。 漢字を当てた表記を見ると分かるように、自ら、そして、凝る、凝集する、凝り固まるの凝があてられている。 
地球上の(肉体を持った)生命は、たんぱく質を持ち、そのたんぱく質は20種類のアミノ酸により構成され、それぞれのアミノ酸は電気特性の違いがあることを、○○○大先生は“改”で説明した。
“天人相関”編 “その四” アミノ酸から蛋白質になる過程
その記事で○○○大先生は以下のように説明している。

個体内に電界や磁界が出来、その事でアミノ酸が繋がって蛋白質が出来上がり、それは、結晶化に至る最初の段階でもあり、そしてより進化した生物になって行く事が同時に起きていくという私見を持っています

生物の一個体々々の進化は、まず、単細胞生物が動く事により、生体内電流を発生させ、単細胞生物が持ち始める縦の磁束と、生体内電流による磁界と電界が関わり、縦の磁束や生体内電流を強化させたりして、たんぱく質の高分子化=結晶化がおき、そして単細胞生物から多細胞生物に進化して、単細胞生物よりも進化した生物が持ちうる、内臓(東洋医学でいうところの“臓腑”)、神経、血管系と心臓の発達、そして骨の発生と進化があり、骨と神経の発達は脊椎(電磁石の構造)を作り上げ、縦の磁束の強化になり、さらに脊椎動物に観られる手足の発現は、骨と神経の発達と、指(小さい骨と密になった神経により、強い磁束を発生させる)水平磁場の強化になり、左右対称の大脳半球や内臓や口以外の感覚器官も、水平磁場の強化になりうる(人は進化した左右相称動物=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の強化)。
そして神経と脳の発達による感覚、ことに五感を感じる器官の進化、目(可視光線の振動を中心に感受する)、耳(音の振動を感受する)、鼻(嗅覚)、口(味覚)、皮膚(触覚)触覚、(外側(外国と幽界)の事象の振動を感受する器官=電磁波の受信)の発達をする。
こういう肉体の発達には、(重複するが)アミノ酸の結びつき、そして低分子のたんぱく質がつながり、“石”(帯電するミネラル)を取り込み、高分子化したたんぱく質になり、一個体の電気特性は変容し、(進化した生き物としての)人になって初めて“一二三”のオーラの発現を見るようになる。
そして心(靈)の発現は、下等な生物は本能中心の心(靈)でしかないが、人間の心(靈)は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と、分類ができ、そしてその分類をしたのは人間でもある。
(これも一個体としての人が他の人を見る=外側(外国と幽界)の事象の観察をして認識することでもある)
 そうやって、“上”からの荷電粒子=神の思惑を感受し、自分と自分以外を区別し=現津(あきつ)、観察され得る事象の観察をするために生物は進化して、神の思惑を顕現する使命を持ちうるっていうのが、○○○大先生の進化に対する見識でもあり、単細胞生物から多細胞、そして脊椎動物から人(日止、霊止)になるには、たんぱく質が固まっていく=結晶化して高分子化していかなければならないし、それが、縦の磁束を持ち、生体内電流の発生や増幅を行っている=すべての肉体を持った生命に共通する事でもある。
 そしてそれが自ら凝る(固まる)の表記である、“自凝(おのころ)”の意味であると確信するし、それがまた古神道でいうところの“修理固成”(しゅうりこせい)の意味でもあるし、さらに古事記では淤能碁呂島(おのごろじま)、日本書紀では磤馭慮島(おのころじま)という表記もあるが、今述べたこと違う意味の文字も使われてはいるが、これも、たんぱく質の高分子化を示した表記であると思う。 
ちなみに淤能碁呂島(おのごろじま)の淤は、泥などで詰まる、ふさがる、能については説明の要はない、碁は、碁石の碁、規則正しく並んだもので小さいものの意味、呂は、荷電粒子の回転(神っていう字は、示すへんに呂)、磤馭慮島(おのころじま)の磤は、“石”(帯電するミネラル)と殷(盛ん、大きい、多い、豊か、などの意味)、馭は、馬を使いこなしあつかう、あやつる、統べる(すべる、統御)、おさめる(収める、納める、治める、修める、の意)、慮は、考える、思う、おもんぱかる(慮る)、思慮をめぐらす、などの意、これら一つ一つの字の意味を見ても、たんぱく質の高分子化と進化の法則性(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を感じさせるものである。
 だが、この第三十帖の冒頭の文では“島”っていう表記が無い。 
その“島”の表記が無い意味は、“自凝(おのころ)”が、“島”を“創造”する仕組みであると解釈する。
 それで“島”についてだが、高い心霊が使う言い回しや表記には、決まりや約束事があり、それはS会=紫光会の、主護霊会を中心とした交霊会に何回も出席し、ローム太霊やS会=紫光会を構成した高い霊的存在や、会員の主護霊の肉声などをカセットテープに録音し、それをノートに書き写し、何回も読んで自分の認識にした太陽凝視を教えてくれたKさんと○○○大先生が見つけたことでもある。
 これは高い心霊ほど、言葉を無責任に使わない、根拠のないことは言わない、意味を深く感じさせる言葉を使用する、ってことでもあるが、高い心霊が人間に直接分かりやすい言葉で伝えると、人間がその言葉を鵜呑みにしてしまっていては、智性の発現する目上(めうえ)の脳を使わなくなるので、その言葉の意味や、なにを伝えようとしているのかを深く考えるような言い回しをする。
 話を戻し、それで、“自凝(おのころ)”って表記を見て思うのは、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における肉体の構築、そして心(靈)の発現の段階を、進化の初めから、泥、あるいは砂(沙)→“石”(帯電するミネラル)→塔(たんぱく質の高分子化により完成を目指す表記)、あるいは岩(“石”(帯電するミネラル)と山(脳)、天の岩戸、岩戸開きの岩)、ことに山っていう表記、それは○○○大先生が若い頃、S会=紫光会で正月にローム太霊の御天筆(ごてんぴつ)で示された、山二つの表記(神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) 126ページを参照のこと)は、左右(日足と砌(ひたりとみぎり))の大脳半球を示した表記でもある。
 余談になったが、この文の“おのころの国成り”は、肉体を持った生命の心(靈)の発現と進化を示す言い回しであり“この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。”の“この国におりまして”は、古事記では、天津神の命により伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が天の浮橋に立ち、多陀用幣流国(ただよえるくに)を“修理固成”(しゅうりこせい)せよ=“理(ミチ)”、法則性により、修め、固め(密度)、成せ(完成に至れ)ってことだが、この“天の浮橋”は振動の段階、“上”と“下”を示す表記であり(天の橋立も同じ意味だと思う)、それは伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)は“上”から=“天の浮橋”に立って(日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性だから“竝”っていう表記が妥当だと思うが)、“ヌホコ(沼矛)”(差し込むもの)を賜いて(賜は、たまわる、祝福や恩恵としてもらったもの=たまわったもの)、“許袁呂許袁呂(こおろこおろ)”とかき鳴らし(畫鳴)、沼矛からしたたり落ちた(末垂落)塩(鹽)が、累積して“島”となったとされ、それが淤能碁呂嶋であると書かれているが、この塩って表記は、すべての(植物を含め)肉体を持った心(靈)=生命が持ちうる錯体のことを感じさせるものでもあるし、その錯体は、動物においては血液中のヘモグロビンが心臓の機能により血管系を移動して起きる肉体内の電磁誘導を起こさせるものである。 
(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊) 
そしてそれが日月の巻 第十七帖のカタカナ表記“ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。”に示されている事でもあり、その解釈の詳細は先の引用文で述べた。
ここまで述べたことが冒頭で述べたことの“結論を先走るが、第三十帖の表記の“水蛭子”“淡島”は、生物の進化過程の始まりを示す表記だと思う”の、根拠でもある。
それで“自凝(おのころ)”説明が長くなったが、“自凝(おのころ)”=自ら凝る、固まる、“島”の生成の仕組みは、先に引用した文の中でもたびたび解釈しているが、“茲に”って言う表記に示され、それは、肉体の進化、神経の発達を示唆し、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示しているし、さらにそれは、左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達であり、それこそが日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の現われであり、さらにそれは伊邪那岐(いざなぎ)(思惑)と伊邪那美(いざなみ)(事象への顕現)でもあるからこそ、“国”=“上”に向かう心(靈)を生んだとされていると思う。
それは、“島”=たんぱく質が“自凝(おのころ)”で固まり、だからこそ固まった“島”には、電気特性の変容があり、変容があるからこそ、“上”からの荷電粒子との反応は変容し、その変容=“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))にかなった進化は、霊的成長、神格化に向かうこととなり、だからこそ地球上で一番進化した生物である人間は、智性(“一”、1番目のオーラ)(神性)(日を知る性質)って心(靈)の発現をしており、それがまた“日月神示”の ○ 九 十 の表記の意味に感じ取れる、神の最終段階の“創造”した心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))っていうことでもある。 それが“おのころの国成り”であり、これに続く文の“この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。 茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。”は、この文の“あめとの御柱(みはしら)”=脊椎動物が持つ縦の磁束を中心に(“見立て給いき”)、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が発現した“島”(たんぱく質が“自凝(おのころ)”したもの)を、生んだ=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を持ちうるからこそ進化をし始めることを示唆した表記であると思う。

 …ちゅうことで、今回はここまでにして、残りの第三十帖の文に示されている“島”=たんぱく質が“修理固成”(しゅうりこせい)で固まり=凝り(自凝(おのころ))、それと“国”(“上”に向かう心(靈))の発現し、それは“神”=荷電粒子の回転、示す偏(へん)と呂、いわゆる一般通念の古事記の解釈における“国生み”と“神生み”について解釈する事としまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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目上(めうえ)と目下(めした)


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ローム太霊の教え
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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