“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集”第一話 物と心の満足を得る法 Kellyさん的解釈 “その一”

まず、なぜこのカテゴリーの“ローム太霊講話集 Kellyさん的解釈”を立ち上げようと思ったのか、それについて少し述べまんねん。

前のブログ、「太陽凝視を行っている鍼灸師の話 Kellyさんとの会話」が始まったのが2005年10月、それ以来、そのブログを読んでメールくれはった人も居てた。
ほんでから前のブログが出版され、○○○大先生の著書を読んでメールくれはったり手紙くれはったり電話いただいたり直接○○○療院においでいただいた方、その両方を合わせると結構な人数になってるけど、その人たちの中にはローム太霊講話集を読んでいる人も居てはったし、さらにその中の幾人かは、何年も何十年もローム太霊講話集を読んではる人も居てた。
 
そやけど、その人たちの解釈や認識、要はローム太霊講話集を読んで感じ(感じる磁性)たことが、その人たちの霊的成長度における解釈と認識(悟り、幸取=さとり)でしかないってそれは当たり前のことなんやけど、それを具体的に指摘していえば、何か履き違えていたり、甘い解釈をしていたりする人も多かった(ことにそれは、ネット上でローム太霊講話集を取り上げてる人に多い)…というか、ほとんどがそんな人ばかり。
 
そやからローム太霊さんがT霊媒=竹内満朋先生のエクトプラズムで実体化して述べた言葉、その意味や言い回しの意図、どういう立場でこういう言い方をしているのか、ローム太霊は人に何を伝えたいのかなんてことに気がつかない人が多い感があった。
(それ以前にローム太霊講話集が交霊会の記録(ローム霊訓講話)であることにすら気が付いていない人もかなり居てた。 このことはローム太霊講話集に記載されているのに、いったいどういう読み方をしたのかチョ~疑問でっせ) 

それは、その人の霊的成長度における霊的干渉、ローム太霊講話集をよんだその人との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が低いから、ローム太霊の意図(“どういうつもり”)、そこまで考えが及ばない。 
ほんでからにそれは、その人たちが大して“行”やってなくて、“一”=智性=1番目のオーラが小さいから、うんと“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受けられへんってことでもありまんねん。 
ほんでからに大体、“行”の概念も一般には低すぎるけど、“行”をはき違えてる人も多すぎるけど…これを述べると話がそれるから別の機会にして…。

それで今Kellyさんは“日月神示”の解釈もしているけど、“日月神示”でも、今述べたことと同じことがいえる。 

要は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が、人(日止、霊止)の霊的成長のため伝えた事は、それを見た、あるいは読んだ人の霊的成長度において、その解釈や認識(悟り、幸取=さとり)、それは捉え方ってことだが、認識(悟り、幸取=さとり)の低い人は、低い解釈しかしない、あるいは低い解釈しかできないものであるし、認識の低い人ほどそのこと事態に気付かないものでもある。
また(地球人の)人の歴史において、なぜこの時期に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、人に霊的成長のことを教えようとしているのか、その“上”の意図に気付いている人もとても少ない。
それはいうまでもなく、霊的成長度の高低における存在の場(フィールド)の区分け、アセンションという事象が、“創造”の“主(ヌシ)”の計画だからであるのだけれど、このことに気付いている人もごく少数でしかない。

ほんでからその低い解釈しかできない人の中で、自我の肥大した程度の低い人は、ローム太霊講話集や“日月神示”の文章を引用したりして商売してるし、それはすごそうなものを見るとなんでも自分のために利用して、さも自分の手柄みたいにしてしまう人が多く、そして自らの低い功名心や自尊心を満たす道具にしてしまったり、ひどいのは自分の商売に利用して、程度の低い解釈を世に広めるという、“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り果てている。 
その“役員づら”…今はそんな人ばかりで、貴いすごそうなものを利用したり引用して人をひきつけ、金儲けすること、信者集めみたいなことをする。 それは、ただすごそうな何かに肖る(あやかる)ことでしかない=自らがエネルギーを費やし、苦労して獲得したこととはいえない。

今述べた“肖る(あやかる)”こと、一般にはそれが当たり前のように思われているし、その手法に乗せられている人も認識がとても低い=霊的成長度が低すぎる。
それは人生において大して苦労もしていないし(そんな人に限って自分はつらい思いをしたとか苦しんだとかという傾向があるが、それは自分が目立ちたい、自分に着目して欲しいという目下(めした)の思い=ディスプレイ(動物の発情行動)でもある)、生きる上での苦痛や苦悩、困難を、自らが育つための試練であるという認識がないから、何かを利用しているだけの“役員づら”の人の言葉に乗っかったり、その言葉に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見たり、神とか霊とかオーラとか愛とか、感謝とか…程度の低い人が使う言葉の思惑は、低いのだということに気付くことが出来ないで、そういう言葉に酔い、なんとなくスピリチュアルな雰囲気だけを楽しんで一生を終えててしまうものでもある。

そやからほんま、人(日止、霊止)の霊的成長のために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が下した貴い何かは、貴い価値を見出されていないし、(ことに自我の肥大した)霊的成長度の低い人は、何を見ても甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ことしか思わないもので、このことは○○○大先生の著書の事象の形骸化(<4><5> 智性(神性)無きシリーズ)で一部、具体的に説明している。

それで、先生のブログと縁があった人、先生の著書と縁があった人、先生と交流のあった人の中には、今述べたことに気が付いてる人も居てる。
 
ほんでから、○○○大先生の著書を読んだことをきっかけにローム太霊講話集を購入して読んではる人も居てはる。 その方たちの中から、ローム太霊講話集の内容を解説して欲しいって要望もありまんねん。

そやから今述べたことが、このカテゴリーを立ち上げようと思ったきっかけでもありまんねん。

ただ、これから行うことは、ローム太霊講話集をしっかり読んではる人を対象にしているし、ほんでからローム太霊講話集のそれぞれの文章全部を公開すると、著作権に触れる可能性があるから、本文は省いたり、部分々々を取り上げ、それをポイントにしてカタチで解釈を述べたい、そのことをあらかじめご了承いただいて、これを読んでくれる人には、ローム太霊講話集を片手に持ち、この解釈を参考にしてローム太霊講話集を読んでいただき、読まれた方がローム太霊講話集の内容についてよくお考えいただき、そして認識を高めて欲しいというのも、このカテゴリーを立ち上げた理由でんねん。
(要は、○○○大先生のおせっかいでもありまんねん)

前置きはさておき、まずローム太霊講話集の「第一話 物と心の満足を得る法」の解釈から入りまんねん。

この第一話をよく読むと、本文の最後の部分“以上は人間が現界に生きていく上に絶対に必要な、物質と精神との両面の欲望を満足させる二つの原則であるから、これらのことをよく日々の行動に移すと共に、自分の定めた目的に向って意志の集中を計ることが、そのものを完全に導く最大の原動力になると思う。”が大事なことで、この文の前の“肉体を強化し精神力の充実を計ることが出来るのであるから、その結果として当然精神的な希望が達成されることになる”の、“当然”“精神的な希望が達成されることになる”が、第一話のタイトルの物と心の満足を得る法の要旨でもある。
それは、第一話の本文には“方法”とか“手段”いう言い回しがあっても、このタイトルには、方法と書かれず、としか述べられていないことが大事であり、これは事象の“創造”の法則性の法のことである。
それは“物質と精神との両面の欲望を満足させる”というところだけ見てしまうと、法則性のということに理解が及ばない。 
それで、この“法”という表記に、何を感じ(感じる磁性)、何を思うのか、このことが大事であり、以前このブログで
農業好きの社長婦人、K地M美はんとKellyさんとの会話 で取り上げたことのあるS会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉、“世為人為”、それは自らが持つ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう使い、どう顕現していくのか、“力”を獲得した人間はどう在るべきなのかということである。
その“力”の顕現、“力”の行使の仕方、それはこのブログでも前のブログでも何度も述べたことではあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、“力”の使い方=“どういうつもり”で“力”を使うのか、その違いは心(靈)の動きであり、平均的地球人の進化過程の自我の肥大という心の動きでは、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、そのことに何の問題意識も持たないものである。
だから今後、神の思惑に沿った事象の“創造”をするには、低い心(靈)の動きをしている人と“世為人為”を自分の理念とする心(靈)の動きを持った人は区別されるものであり、それがアセンションの真実であるし、そして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現は“術”となりうるものである。
よって今述べたこと、そこに自らの在り方、ありていにいえば、生き方の指標というものが感じ取れなくてはいけない。
また、自らの在り方、生き方の指標を見出したなら、それは“上”の思惑に沿った神の子としてのまっとうな生き方といえるし、またそれを自覚したなら、自らが神の子であることをよく認識できるものである。 
そして自らがそうなれば、霊的成長のための試練として与えられていること、たとえば、(恨みの連鎖の霊的干渉による因縁を贖う(あがなう)為の)苦しい境遇であろうが、程度の低い人の誹謗中傷のような批判を受けようが、誰はばかることなく“自分の定めた目的に向って意志の集中を計ること”が出来るし、それは自分の中においての、まっとうなこと、正しいこと、であることを知るものであるし、それが本当の“善”であるという認識に至る。 
また本当の“善”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性により、神格化の方向性の指標と、もうひとつ、“上”からの荷電粒子(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)を自らの心(靈)に止める、それは古神道の“日止、霊止”の表記の意味であるし、それそのものが智性(神性)の受信であることも理解できる。
そしてそこには“その結果として当然精神的な希望が達成されることになる”と述べられている通り、本当の心(靈)の中の満足が、“その結果として当然”得られるものである。
ローム太霊はこのことを多くの人に知って欲しいからこそ、この言い回しをしたのだと思う。

次回は第一話の前半で述べられていること、そして現界、幽界、霊界、神界、における事象、その“観察と認識”についても触れられているので、そのことを中心に解釈しまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第一話 物と心の満足を得る法 Kellyさん的解釈“その二”


 前回解釈した通り、ローム太霊講話集の第一話は、物と心の満足を得る方法論や手段を述べているのではない。 そしてちょっと蛇足になるけど、物をたくさん得ても本当の心(靈)の満足は得られるはずがない。   
それで仮に、沢山の物を得て満足したとするのならばそれは、自我までの心(靈)、低い功名心と自尊心、言い換えればてんで低い自己満足でしかない。 
だが、こういう人は結構いる。 
少し低級な例を挙げれば、一生着ることが出来ないほどのたくさんの服を買い集めたり、履ききれないほどの靴を集めたり、(霊的成長という意味で)何の価値もない宝石を集めて自分が美しくなったかのような錯覚を起こしたり、たいして美しくもならないのに美容やエステに手間暇かけ金を費やしたり、美食に狂い肉体の“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)に必要のないほどの食べ物を食べたり、体を壊してまで酒を飲んだり、こんなことは枚挙にいとまがないくらい多いものである。 
そしてそこに、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持つ子供の浮遊霊や動物霊、そして低い心(靈)の発現のまま死んだ、欲望に執着している大人の霊などの、程度の低い憑依現象があることすら、ほとんどの人が解っていない。 
話を戻し、程度の低い心(靈)というのは低い価値観、低い幸福の概念を持つ根拠でもあるし、その心の動きが中心だからこそ先に述べた三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持つ霊的存在を、自らが自らの持つ低い心(靈)の動きで呼び込むことになっている。
(ちなみに三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)は、貪は、むさぼる。本能由来の行動、瞋は、目をむいて感情をあらわにするさま、痴は、白痴の意味、認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らないの意味)
 それでまた余談になるようなことを述べるが、人の行動であろうが、憑依現象であろうが、すべて心(靈)の高低を見出さなければ何が本物で何が偽物、だますとか欺いているとかの区別がつかないものである。

また話を戻し、今述べた多くの人、平均的地球人が持っている低い価値観と低い幸福の概念、ほとんどの人は、物欲由来の満足を得るためにエネルギーを購っていたり、自らの欲望を満たすことを中心に仕事をしたりしており、そのための“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をしているし、それはありていにいえば、自分の“力”を使い、それを“業行”(生業(なりわい)と“行”)の業として、仕事をして(通貨としての)金を得ようとしている。
そして、大半の地球人は心(靈)の発現が低いから、(“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ではなく)金を得ることが中心の仕事をするものだから、経済大国の発展の裏に恨みの連鎖の霊的干渉が生み出されるという状況になっているし、それは結果として地球人全体の首を絞めているのに等しいのだが、このことをきちんと理解している人はごく少数でしかない。
それは、物を対象に心(靈)の満足を得ようとする=物欲を満たそうというのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い心(靈)の持ち主の発想でもあるし、その心の動きが中心の人は、今後=アセンション後の“創造”に参加する資格がない=“創造”の“主(ヌシ)”の計画に沿った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度ではないと断言できる。

その意味において、ローム太霊講話集の第一話は、自らの心(靈)が観察する事象、そこに於ける本当の満足を得るということが大事なことで、それは前回取り上げた事象の“創造”における法則性の“法”が大事なのであり、その“法”を認識し、それを顕現して自らがその権限を“観察と認識”することが、本当の価値と本当の幸福(自らが霊的成長して神格化するという意味での幸福)でもあることを、ローム太霊はこの文で示している。
また先に述べた(進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の)低い価値観や低い幸福の概念、それは自らが観察する事象における満足にはつながらないものであり、恨みの連鎖の霊的干渉を増すことになり、その霊的干渉は自らに返ってくるものであるし(因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”の意味)、死んでからでも自分がやってきたことは自分が背負い、そのために贖う(あがなう)ことをしなければならない(閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)の意義)。
また、事象の“創造”の法則性の“法”それは“日月神示”表記ならば“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))ということになるし、ローム太霊、S会=紫光会の霊的存在、“日月神示”を書かせた存在の霊団だけでなく様々な宗教の開祖に通信を送った高い心霊は、(神の子としての)人が行うの“創造”(人の役割)の法則性を教えようとしているものである。 
そしてその“法”には、自らの存在の意義、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のその在り方を感じ取れるものであるが、当然のことながらこの第一話を流し読みするとか、ただただ自分たちの低い心(靈)所以の満足を得ることを念頭に置いて読んでいるだけでは、このことは理解できないと思う。

 それで、物と心、それは、自分の心(靈)が観察して認識している外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)と言い換えてもいいが、どちらも自分の心(靈)の観察対象であり、その外側と内面に満足を得る=満足を感じるという視点で、第一話を読み解いていくことにする。

第一話の冒頭の文には“人間は自分が求めているものを実際に手に入れることは中々面倒であるが、それはその波動が身近に来ていてもその受入れが出来ないからである。”と述べられている。
この“波動…その受入れ”に対する文として、この後の“それまでに積み重ねた努力の結果”と“予期しない奇跡が起こる”と“他からそうなるようにしてもらう”、そして“猶この外にいろいろな神や霊に祈ってその力を借りるという手段もある”は、“これとて”と前置きされ、それは指摘された要素すべてが“容易なことではない”と述べられている。 
当たり前である。 
自分自身が仮に低い心(靈)所以の物欲を満たすのであろうが、智性(神性)由来の神格化を認識して努力して得られる結果に対し“行”しようが、なかなか満足なんて結果にはならないものである。
要は、自分が価値を感じる何かを得ようとするのは“容易なことではない”ってことでしかないのだが、だからこそローム太霊は“普通の人間として一番望むのは第二の場合であろうが”と、霊的成長度が平均的な人間の心(靈)の動きを揶揄(やゆ)して述べているし、またそれはこの文に続く“奇跡というものは密かに積まれた陰徳の助けがないと起こらないのであるから、自分の思うようにはならない”のであり、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)発想をする低い心(靈)の動き(目下(めした)の心(靈))をする人間を戒めているのだと感じる。

それでこれに続く“所がそれらとは別に、もっと直接に物を得る方法として、精神統一によるものがある。”であるが、この“精神統一によるものがある”をしっかり読み解かなけれいけない。 
それは、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ほど、うすっぺらい精神統一ごっこすれば物や金が入るって発想をすると思うだろうが、それはおお間違い。
それで、ローム太霊が述べている“精神統一”はこの後の文の“肉体と幽体と霊体と神体との四つから成り立っているのであるが、この四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである。”と述べておられる。 この“四つの体が統一されて”と“その統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”をよく考えなければならない。
それで大体、肉体、幽体、霊体、神体、に対する認識が、現界、幽界、霊界、神界、における自分自身の体という発想をすること事態がちょっと誤りで、自分の体を自分の心(靈)が観察して認識するのは、現界、幽界、霊界、神界、におけるそれぞれの場(フィールド)の振動を感じ、それで体が構成されていると自らが感じるからである。
その振動の段階、それで構成されいる心(靈)を名づけることを人間はしたのだが、それは○○○大先生が心(靈)の“上”“下”を分類した通り本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。
そしていうまでもなく肉体、幽体、霊体、神体、と現界、幽界、霊界、神界、の肉と現は、一番低く荒い振動であるし、ローム太霊講話集を読んでいるのは、肉体を持っていて肉体そのものが自分自身ではないかという認識が中心の現界にいる人間で、だからこそそれは、自分がこの四つの要素の一番低く荒い振動である物質以外の何かでできているという認識をしっかり持っていない。
(“日月神示”にも自らの外側(外国と幽界)の事象とか“神界”=智性(神性)とかの意味を感じさせる表記はあった)
 よって自らの心(靈)、それがどんな心(靈)の動きをしているのか、どんな心(靈)で自分の心(靈)は構成されているのかを知らなければ、肉体、幽体、霊体、神体、現界、幽界、霊界、神界、の意味は理解できない。
今の平均的進化過程の地球人が感じ(感じる磁性)ている現津(あきつ)、観察され得る事象というのは、外側(外国と幽界)の事象中心であり、それは腹までの心(靈)、目下(めした)の心(靈)、自我の確立=固定化の進化過程で感じ(感じる磁性)る事象でもある(“日月神示”表記の“江戸と尾張”でもあるし、ヨガでいうところのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)でいえばムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラである)。 
そして肉体、幽体、霊体、神体、というのは、現界の“創造”をするのが肉体であり、それは砌(みぎり)の極性ともいいうるものでもあるし、“日月神示”ならば心(靈)(ヒ)に対する月(ツキ)肉体である。 
それで肉体を持った心(靈)である人間が、この事象の“創造”をするということ、それは、要は人の“創造”も“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”も、“思惑の顕現”=現象化ということでしかないのだが、その思惑、“どういうつもり”、心(靈)の動き、それが大事であり、低い心(靈)である自我の確立=固定化の進化過程では、これまで幾度となく述べている通り必ずその世界は(法則性の“法”に則って(のっとって)いないから)崩壊の局面に立たされる。
そしてそれは、ローム太霊が最後のローム霊訓講話で述べたことの右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという過程でもあるし、この最後のローム霊訓講話でローム太霊が述べたことは、アセンション後の“創造”を担う資格を示唆するものである。
それで今の世界、自我の確立=固定化の段階の心(靈)の動きの人が“創造”している世界、失敗の世界、それはあえて言うまでもなく自我の肥大(“日月神示”表記の“われよし”)という心で、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)しているから、この世界は腐りきっている。

(だが経済大国の人間ほど、このことに気付いていないか無視している)

それで、この第一話でいうところの“精神統一”に対し、ローム太霊は“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”と述べられておられるから、肉体、現界、そして幽体と幽界を感じうる自らの心(靈)が持つ低い振動だけでなく、霊体、霊界、そして神体、神界を感じうるのは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された自らの心(靈)の、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された部分で、要は自らの心(靈)が持つ一番上の振動は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)なのだが、智性の発現の少ない平均的地球人を対象に述べられていることとして、その智性(神性)を中心に自らの心(靈)とするならば“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”ということになると思うし、そう思う根拠は、先に述べた通りこの世界が、(あまり智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の無い)自我の肥大した人の活躍で“創造”されており、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、もうすぐこの世界そのものが崩壊の局面に至るからである。
よってローム太霊が第一話で使った“精神統一”という言葉の示唆することは、本能から智性(神性)まですべて統一せよということである。

それで次回は、今回取り上げた文の続きを解釈することと、自分たちの感じている事象は振動の受け入れであり、それは第一話の冒頭の文の“波動…その受入れ”、要は心(靈)の高低による“観察と認識”ということであるが、そのことを述べることとして、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第一話 物と心の満足を得る法 Kellyさん的解釈“その三”


 前回、最後に述べたことの“自分たちの感じている事象は振動の受け入れであり、それは第一話の冒頭の文の“波動…その受入れ”、要は心(靈)高低による“観察と認識”ということ”。
これについて少し説明してから、本題に入りまんねん。

まず、“観察と認識”について。 
自分たちは肉体を持った心(靈)というのが一般の認識でもあるが(その認識すら持っていない肉体だけが自分だというてんで低い認識の人の方が多いが)、この言い回しも少し言葉足らず。
それは、肉体を感じている心(靈)、肉体を観察して認識している自分が、心(靈)であって、それが本当の自分あるということをよく解ってなければ、第一話の“波動…その受入れ”のことは、理解できないと思う。 

前回説明したように、自分(の心(靈))が感じうる場(フィールド)である現界、幽界、霊界、神界、そして自分自身の構成要素である肉体、幽体、霊体、神体、これらはすべて振動の高低による違いである。 
 それらはすべて、自らの心(靈)が、振動の受信による認識によって、自らの心(靈)が識別することである。 
それで心、靈、というのは、荷電粒子の回転であり、荷電粒子の場(フィールド)を構成しているものであり、さらに感覚というのは、感じ=感じる磁性であり、それは振動の受信でもあるし(このことは前のブログで説明した)、すべての事象の観察というのは、心=霊(“日月神示”表記の○)、荷電粒子の場(フィールド)と、その心(靈)が持つ以外の振動による電磁誘導であるからこそ、新たな電流が派生して、感じ(感じる磁性)る=“観察と認識”ということが起きるのである。
これらのことは、前のブログから少しずつ述べてきたことであるが、○○○大先生の著書を読んで連絡くれはったり直接お話した人の中でも、しっかり理解できている人はごく少数でしかなかった。 
だからあえて述べておくが“創造”の“主(ヌシ)”もあらゆる生命も、すべて霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であるし、荷電粒子の回転で、そして“創造”の“主(ヌシ)”から一番下等と認識されうる細菌に至るまで、その心(靈)の構成の違いは、振動の高低、そして肉体が持つ磁束の多様化の違いで、下等な生命から人(日止、霊止)までの肉体の磁束の多様化、電気特性の変容が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣だし、だからこそ肉体組織は、タンパク質が高分子化して(自凝(おのころ)の仕組み)、“上”からの荷電粒子=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)していかねばならない(それで単細胞の微生物から進化程度の低い多細胞の生物の磁束の発現については、“改”で説明している)。 
またこれが“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の、この言葉に感じられることでもある。
 このことを踏まえ、前回解釈した第一話の本文の続きを読み解くこととする。

 まず“その完全な状態になれば、肉体が動いて現界や次現界から欲しいものを持って来ることも出来るし、背後の霊がその幽体や霊体を使って現界、次現界ばかりでなく幽界霊界から運んで来ることも出来る”であるが、こうなるには前回解釈した文の“この四つの体が統一されてその統合した力を発揮…真の精神統一”が大前提として述べられていることに気付かねばならない。
そして前回解釈した通り“精神統一”という言葉の示唆することは、本能から智性(神性)まですべて統一せよということで、これが出来てなければ“肉体が動いて現界や次現界から欲しいものを持って来ることも出来るし、背後の霊がその幽体や霊体を使って現界、次現界ばかりでなく幽界霊界から運んで来ることも出来るのであるから、それでよいわけである”と、この後に述べられていることの“要は精神統一と合体統一とが同時に行われれば、望みのものは何でも得られるとういうのである。”いうことには成り得ないのであることを読み取らなければならないと思う。 
よってこれは中々簡単にはいかず、高い智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を有した心(靈)でなければ成し遂げられないことを知らなければならないと思うし、それについて○○○大先生は未刊行の<7>のエピローグで、以下のように述べている。

観察による認識=それは神性の一部でもあり、それが高まっていけば、言い換えれば“上”に向かえば、事象の観察による、認識による、自分の心(靈)の動きによる、発振、発信が高まっていくのだから、観察は神性であり、想像と創造が同義になること。それは、思ったことが一瞬のうちに自分の認識し得る事象になる。アタシたちはそういう次元…空間…場(フィールド)…を、創るために、存在していると思える” 

 この文の“観察は神性であり、想像と創造が同義になる”と“思ったことが一瞬のうちに自分の認識し得る事象になる”、こうなることが神格化した心(靈)と言いうるし、ローム太霊が第一話で使った言葉の“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”は、本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)まですべて統一できたならば、そして高い智性(神性)を有したならば、上記のようになっていくことを述べていると思う。

 それで“実際にはこの外にもう一つの条件が備わらないと…そうすればそこに同じ波動が生じるから、そのものが引き寄せられてたやすく手に入いる”と述べられている“合体統一”に関しては特に細かく解釈する必要性はないと思うが、これとて高い智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)ゆえの自らの心(靈)の発振、発信が無ければ“そこに同じ波動が生じるから、そのものが引き寄せられてたやすく手に入いる”そして“精神統一と合体統一とが同時に行われれば、望みのものは何でも得られる”ということには成り得ないことを読み取るべきである。 
 またこのことは、物を得るというニュアンスだけのことではなく、自分が感じ(感じる磁性)うる現津(あきつ)、観察され得る事象、物質世界における自分の生活とか生業(なりわい)とか“行”とかにも通じることであることも読み取らなければならない。 
ありていにいえば、自分が欲しいもの、自分の生活条件、自分の仕事、自分が霊的成長のために行って試練としている“行”、それらにおいてすべて自分が満足する結果を得られるようにならなければならないし、これとて“そのものが引き寄せられてたやすく手に入いる”“望みのものは何でも得られる”ことと同義であるのだが、その条件として“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一”と“精神統一に入いる前に目的を定めておいて、その求めているものに合体する”と述べられており、これは本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)まで統合して、(心(靈)が)発振、発信するとこうなる=思惑が顕現するということである。

それで大事なのは“それとは関係なくても、この精神統一は人間の霊力を増す上に非常に役立つ”であり、要は本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)まですべて統合せよであり、そうなれば“人間の霊力を増す上に非常に役立つ”ということになるが、この“霊力”という言い回しは、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や認識(悟り、幸取=さとり)の拡大、自らの霊的成長においての様々な要素があるし、安易な魔法みたいなことではないことを(簡単ながら)あえて述べておく。

それで平均的な地球人は、自我の確立=固定化の段階の進化過程だから、自らを諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”をあまり持ちえない。 
だからこそローム太霊は、“肉体が他の三体と完全な合体をせずにその中の一つだけと片輪な結合をすると、動物霊などがその間に割り込んできていたずらをする危険がある”と指摘していると思える。
これについては、大概の地球人は自分の心(靈)と動物霊の憑依による心(靈)の動きを区別できていないものであることを述べておかねばならないし、いい加減な精神統一ごっこをしていると、その低い心(靈)の動き(例えば低い欲など)に感応する動物霊や浮遊霊などが多いもので、そして多くの低い動物霊の進化過程は、自我の確立=固定化の段階であるし、だから本能由来の欲、物欲、金銭に執着するものであるし、またディスプレイ(動物の発情行動)=ただ目立ちたいとか褒めそやされたいとかの心(靈)の動きにもなっているし、こういう人間はとても多い…というよりも、ほとんどの地球人がこの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程でしかない。
これらすべて、人間の低い心(靈)(目下(めした)の心(靈))のそれと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するものであるし、そしてそれは、一般に憑依現象と思われていない日常でのことでもよくあるものである。
(本当はこういう分析がとても大事)

だからこそ人は、自分の心(靈)の動き、目上(めうえ)の心か、目下(めした)のそれかを、自ら持つ智性(神性)により自己分析しなければならない。
それで動物霊など悪霊の憑依は、心霊に知識のある人ならすぐ分かることでもあるが、他者の心(靈)の動きを見て動物霊の憑依は見抜けても、自分の心(靈)の動きに動物霊の憑依とか、それが自分の目下(めした)の心(靈)の動きとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であるとかの分析が出来る人はほとんどいないと言いうる。
しかし人間が進化していくならば、自分の中の低い心(靈)の動きを自分に諌めるということは必須であり、それが出来ていない人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。

それでちょっと蛇足になるが、人の進化(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”)を知るうえで大事なことなので、ローム太霊が最後のローム霊訓講話で述べた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということ。
このことにおいても、自分の心の中の自我の肥大ゆえの“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出すという作業(それ以外の意味もあるが)。 
よって自分が自分の在り方を見出して行こうとするならば、間違えて失敗したら、自省(胸の磁性“十”)することが肝要。

それだからこそこの文で“初心者は必ず経験者の指導の下に行うことが必要”と述べられ、それは本能から智性まで統合したつもりでもなかなか統合できていないし、そして統合するには高い智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を持つことが必須であり、さらに“経験者”とは、本能から智性(神性)まで統合した体験のある人ということでもあるし、高い智性を有して、自らに内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出し、ほんとの“善(神格化の方向性と智性の受信)”を認識している人。
平均的地球人の自我中心の心(靈)では、当然のことながら本能から智性まで簡単に統合できっこないことを指摘しておく。

次回は、今回取り上げた文の続きの解釈と、第一話の総括をすることとして、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第一話 物と心の満足を得る法 Kellyさん的解釈“その四”&第一話の総括


 前回と前々回で解釈したことの“四つの体が統一されてその統合した力……真の精神統一”(肉体、幽体、霊体、神体、の統一は本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の統合、その心(靈)の動き)と“精神統一に入いる前に目的……合体する”(発振、発信の意と、自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)ていることは振動の受け入れと電磁誘導)、この意味をよく踏まえて、まだ解釈していない文の“この精神統一による物の引き寄せは、幽体、霊体、神体の力を借りてその綜合された力を利用するのであるから、これを肉体以外のものに対する他力本願とするならば、それとは反対に、精神的なものの外郭である肉体に対する他力本願とも言うべきものがある。”を観るならば、すぐ分かることがある。

 それは“これを肉体以外のものに対する他力本願とするならば、それとは反対に、”という言い回しがされており、それはこれまで述べてきたことと別のことを述べるという言い回し。

 それでローム太霊は“それは人間が眠っている間に幽界、霊界、神界から必要な栄養や材料の補給を受け、肉体を十分に休養させると同時に不完全な個所を修復するのであって、これが真によき睡眠であり、これによって肉体を強化し精神力の充実を計ることが出来るのであるから、その結果として当然精神的な希望が達成されることになるのである。”と、睡眠の秘密、それは“眠っている間に幽界、霊界、神界から必要な栄養や材料の補給を受け、肉体を十分に休養させると同時に不完全な個所を修復する”と“真によき睡眠”と“これによって肉体を強化し精神力の充実を計ることが出来る”と述べられている。

 それで睡眠中の幽体離脱などについては、ローム太霊講話集でたびたび述べられているが、まずアウトラインとしての睡眠のことをローム太霊はここで要点だけ述べていらっしゃる。
ちなみにあまり知られてないこととして、眠っている間の幽体離脱というのは大体どんな人にでも起きているものだが(それは夢を見るということ。 霊的成長していけば、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば“上”からの通信を直接夢などを通じて知ることが出来る)、進化過程の低い人間の幽体離脱は、幽界とほんのちょっとだけその“上”の霊界くらいまでしか行けないし、これも自らの心(靈)を構成する幽体が、“その三”で説明した自らの心(靈)の“観察と認識”であり、このことを知らなければならない。 
そして今述べた“幽界とほんのちょっとだけその“上”の霊界くらいまでしか行けない”のは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低く、自我中心の心(靈)であるからであるということも(後々このことは重要な意味合いを持つので)指摘しておく。
それと“幽界、霊界、神界から必要な栄養や材料の補給を受け、肉体を十分に休養させると同時に不完全な個所を修復する”というのは、霊的干渉によることであり、それは“上”が為していることであることにも気付いて欲しいものである。

 それとこの文でローム太霊が使われた“他力本願”、この言葉自体が一般に間違われて使われていたり(人任せ、他人の力で自分が得をする、肖る(あやかる)こと、虎の威を借る狐みたいなこと(その一例が自称だれだれの弟子とかを名乗ること))、その間違った解釈によりローム太霊講話集の第一話を読んでいる人も居るだろうから、他力本願についてWikipediaから以下に引用しておく。

“「他力本願」のうち、「他力」とは一般には、仏・菩薩・聖者が、自らが持つ優れた能力をもって他の菩薩や衆生に加え施す、その力(加被力)をさす。また「力」(りき)は、「力用」(りきゆう)のことであり、はたらきのことを指す。その意味で他力とは自ら以外の他者のはたらきのことをさす。浄土真宗で「他力」とは、「他」とは阿弥陀仏を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。「他力本願」の場合、「他力」の語意はこの意味である。
また「本願」とは、『無量寿経』に説かれている仏自身が法蔵菩薩という名で修行をする際に、師である世自在王仏の前で立てた誓いが「願」であって、その願が成って衆生はその願力により、浄土へ往生する。よって「他力本願」という。「他力」とはそのまま「阿弥陀仏の本願のはたらき」であり、さらに自らのはからい、もしくは行では、浄土往生は成就しないという意をももつ。この意味で「他力」の対語は、「自力」であるが、浄土教ことに浄土真宗では「自力」の対語は「他力本願」であり「他力」ではない。
親鸞は、「他力本願」とは『教行信証』で「他力というは如来の本願力なり」と述べているように、阿弥陀仏の本願のはたらきであり、そのはたらきは、浄土への往生のためだけでなく、今この時にもはたらき続けていると解釈した。そして浄土への往生を喜ぶだけでなく、将来は往生して浄土で仏となることが確約されている現在を現生正定聚とし、現実に生きていることが、阿弥陀仏の智慧と慈悲(本願)のはたらきに目覚めさせられることにより、救済されるとする。”

Wikipediaでは“他力”について“仏・菩薩・聖者が、自らが持つ優れた能力をもって他の菩薩や衆生に加え施す、その力(加被力)をさす”と述べられ、その“加被力”、加える、被る(こうむる)、力用(りきゆう)、ことにこの力用(りきよう)は、“はたらき”と述べられ、それは“力”の顕現であるし、自らが観察しうる事象における現象化といい得る。 そして“誓いが「願」であって、その願が成って衆生はその願力により、浄土へ往生する。”と述べられており、いうまでもなく“願”は心(靈)の発振、発信である。
それで本当の意味での“他力本願”は、いうまでもなく“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)=“他力”であることと、その“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をこの事象に活かすことなのだ=“本願”ということを理解できるし、“その願が成って衆生はその願力により、浄土へ往生する”と、親鸞の解釈の“阿弥陀仏の智慧と慈悲(本願)のはたらきに目覚めさせられることにより、救済されるとする”ということ、それはS会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”に通じるものでもあるし、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、“力”を持った自らの在り方と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の指標を示しており、さらに“阿弥陀仏の本願のはたらき”は、すべての存在の良いカタチをねがうことであるからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化である。
それで蛇足ながら、自らが持つ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を誤っているのが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、あるいは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)で、その誤りは“力”を“世為人為”ではなく、低い功名心と自尊心を満足させることにしか使わない、本能由来の欲望や物欲を満たすとか形骸の名誉を欲するとか、これまで幾度となく指摘してきたことである。
もう一つ“他力というは如来の本願力なり”についてだが、如来は来るが如くであり、それはあらゆる振動の受信であり、感じ(感じる磁性)であることを前のブログで説明した。 
その振動が“上”であろうが“下”であろうが、いい換えれば“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、自らの心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は、受信して取り込んで自らの心(靈)は育っているものであることを知るべきである。
これらのことをよく考えよという意味合いで、ローム太霊は第一話で“他力本願”という言葉を使用されたと思う。

それで、ここまでで第一話の解釈は終わったのだが、その要旨を総括として簡単にまとめることとする。

まず“人間は自分が求めているものを実際に手に入れることは中々面倒である…人間が一つの希望を達するのは…猶この外にいろいろな神や霊に祈ってその力を借りるという手段もあるが、これとて不断の努力が必要で、容易なことではないのである。”は、何かを成し遂げようとか、理想を持って行動するとか、それが“上”の思惑、神の“創造”の法則性に則って(のっとって)自らのエネルギーを贖う(あがなう)べきであることを述べている。
 次に“精神統一”=本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)まで完全に統合せよと述べられ、そうなれば、“合体統一”により(“上”が許可するから)“望みのものは何でも得られる”と述べられている。 
 重複するがこうなるには、“精神統一”=本能から智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)まで完全に統合できていなければならず、それがまた“その完全な状態になれば”といわれていることであり、高い心霊ほど言葉に対して責任を感じているから“その完全な状態”という言い回しについてよく考え、理解しておかねばならないし、それは安易に“肉体が動いて現界や次現界から欲しいものを持って来ることも出来るし、背後の霊がその幽体や霊体を使って現界、次現界ばかりでなく幽界霊界から運んで来ることも出来る”ということではない。 
 そしてこのことでも自らの心(靈)が行っている、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”であることを知っておいて欲しいものである。
 そして今回述べた“他力本願”の意味の示唆するところ。 
 これらのことを鑑みても、最初に述べたように“第一話の本文には“方法”とか“手段”いう言い回しがあっても、このタイトルには、方法と書かれず、としか述べられていないことが大事であり、これは事象の“創造”の法則性ののことである。
それは“物質と精神との両面の欲望を満足させる”というところだけ見てしまうと、法則性のということに理解が及ばない
”。
 このことについてローム太霊講話集を読んだ人には、よくお考えいただきたいものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その一”


 表題の通り、今回からローム太霊講話集の「四方の祈り」の解釈に入っていきまんねん。

それでまず「第一話 物と心の満足を得る法」の解釈でも述べたことと重複するけど、程度の低い人間、霊的成長度が低い人間、“上”が望んでいない人間、アセンションによって“下”に振り分けられる人間、その低い心(靈)の持ち主の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在、それは悪霊のたぐいでしかないが、この第二話と第三話の中にはそのことに対する指摘も述べられており、なぜローム太霊がそのことを指摘しているのか、どういう表記を使って自分たちの心(靈)の動きの低さを指摘しているのか、それについて今回は述べることとしまんねん。
まず、これまでも散々述べてはいるが、霊的成長度が低い人間、それを具体的に列挙すれば…

 天の僥倖しか求めない人間(ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁の表記))。
 自分のエネルギーを贖う(あがなう)ことを最小限に済ませ、良い結果、それは自分にとって都合の良い結果だけを願う甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間。
 現世利益しか求めない人間、自分の低い欲望を充たすことが幸福だと思っている低い認識の人間。
 価値のありそうなことに肖る(あやかる)だけの人間。(例えば自称だれだれの弟子とか)
結果としてそれは価値のある何かを利用して商売をして、その価値のある何かを低いものとする、あるいは、我田引水な解釈で間違ったものにしてそれを流布する(“日月神示”表記の“役員づら”)。

こういった心(靈)しか持ちえない人間が「第二~三話 四方の祈り 東」を読んだとしたなら、多分、東の方角を拝めば自分の欲望は満たされるという安易な考えしか持たないだろう。 
だがローム太霊講話集には、一貫して自分たちの心(靈)の在り方、霊的成長の方向性などが説かれている。 それに気付かない、そのことを読み取れないのは、ただ単に低いとしか言いようがないし、その霊的成長度は自我中心、我欲中心であるし、このたぐいの人間が大多数なのがこの世界でもあるし、だからこそ霊的成長度の高低によって振り分ける=時間の進行によって“道”が違う事象のアセンションという神の計画があるのだが、その低い心(靈)のまま、そのままではローム太霊が愛着を持っているS会=紫光会の会員の大多数がその霊的成長度だからこそ、間に合う霊的成長度ではないし、そしてS会=紫光会の会員だけでなくローム霊訓講話を一般の人にも読める本という形にしろとS会=紫光会の高い霊的存在はローム太霊講話集を編纂した人に通信を送ったのは、平均的地球人が、霊のこと=自分たちの心のことを含め、心(靈)(ヒ)のことをあまりにも知らなさすぎる…自分たちの心(靈)の高低なんて認識すらないだろうからこそである。 

それは、第三話の最後に述べられている以下の文を読むと、今述べたことがよく分かると思う。

どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い”。
そしてこの文に続く
この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである…中略…よくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”。

この文で述べられている“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”こういうことが自分の欲望という発振、発信によっておこり、だからこそ“背後を見極め”これそのものが自分の心(靈)の動きによって感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する存在の高低と“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の方向性を見極めることと同義。
それで先に述べたことと重複するが、その感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を招いているのは、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることを知らなければならない。 
それに先に列挙した自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間のことをローム太霊は“自分が正当に与えられたり貯えたりしたもの以外に奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている者もある。しかしこれは一つの物質に非ざる力で、各宗教で多少ともその力を与えられている信仰者が常に願っているのがこれであるが、こういう力が増せば増すほど動かない人間が殖えることになるから中々そうはいかないのである”と述べられている。 
ローム太霊講話集のこの文を読めば分かることだが、これは「第一話 物と心の満足を得る法」で“人間が物を得るには”と前置きされて述べられたことが第二話の冒頭で“自分の努力の積み重ねによるもの”そして“偶然の奇跡によるもの”それと“他の力の助けによるもの”、この三つの要素があると前置きされているが、これらすべて自分が努力するなり頑張るなりして、そのエネルギーの贖い(あがない)を“上”が観ているからこそ、“上”が許可するからこそ、結果として物は得られるという(その事象を自らの心(靈)が感得する)ことになる。 それで、このことを実感できないとか、あるいは似非スピリチュアルのように甘い夢だけ見させるものだけ信じ込んでいるような人間は、ただただ自分にとっての都合の良い結果だけを望むから、自分のエネルギーの贖い(あがない)なんてことを真剣に考えず、目先の苦難が自らの霊的成長のための試練とは思わず…話がそれているが、その類の人間は、ただただ東聖大権現太神を拝めば自分にとって都合の良い結果、(通貨としての)金が入るとか物が入るとか欲望が満たされるとか、そんなことしか思わないだろう。
だがそれは、“天の神、地の神と言われる正統な神の操作”ということではなく、それが実現したならば“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”ということになっている。 
そしてそのこと事態=悪霊と自分の低い心(靈)の動きとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“思惑の顕現”=現象化、これは自分自身の霊的成長のための失敗を体験することが必須という意味合いで右往左往であり、それがあってこそ自分の在り方、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、これを考え行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念とする人間が出来上がるのだし、この人間を“上”が望むからこそ我欲中心の人間はアセンション後の地球より“下”に位置させられ、だからこそローム太霊は先に指摘したように“どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い”、そして第二話に“自分が正当に与えられたり貯えたりしたもの以外に奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている者も…中略…これは一つの物質に非ざる力で、各宗教で多少ともその力を与えられている信仰者が常に願っている…中略…こういう力が増せば増すほど動かない人間が殖えることになる”と低い心(靈)を揶揄しておられる。
そして神の計画であるアセンションについて、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆した文が、第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であり、これに続く“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”は、今後=アセンション後に移行すべき心(靈)の在り方を述べているのであるが、第二話を読み、低い甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をする人間が多いだろうから“下手な神心や仏心は返って相手に害を及ぼす”と述べられておられるのだと思うし、これを思う人間こそが人生で大した苦難を体験していない、試練を乗り越えていない甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間であると感じるものでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その二”


 さて、前回は霊的成長度の低い人間=大半の地球人の認識で「四方の祈り 東」を読むと、多分、自分にとって都合の良い甘い考えしか持たないだろうことを指摘した。 
だがこれは、大半の地球人の平均的霊的成長度=心(靈)の発現と動き、それは自我の確立=固定化という進化過程における心(靈)の動き(自分の利益しか願わない、自分たちの幸福しか願わない、要するに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)において必ずあることだから仕方がないともいえる。

 それでこのカテゴリーの目的としては、最初に述べたように“ローム太霊講話集を読んで感じ(感じる磁性)たことが、その人たちの霊的成長度における解釈と認識(悟り、幸取=さとり)でしかないってそれは当たり前のことなんやけど、それを具体的に指摘していえば、何か履き違えていたり、甘い解釈をしていたりする人も多かった(ことにそれは、ネット上でローム太霊講話集を取り上げてる人に多い)…というか、ほとんどがそんな人ばかり”…このことを感じ、このままではいけないと思ったからでもある。 
 要は低い人は低い解釈しかできないということだが、それでは今後=アセンション後の場(フィールド)に移行出来ない(間に合う霊的成長度ではない)。

それで本カテゴリーとは違う話になるが、“日月神示”で述べられている霊的成長のこととアセンションのこと、それは“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、それは自省(胸の磁性“十”)(右往左往から左往右往)を促し、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)を育てること、そして“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の秘訣である“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化(自凝(おのころ)の仕組みによるタンパク質の高分子化)を述べ、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが“日月神示”表記の“神界”=智性(神性)の獲得になっていくこと。 
そして次の事象の“創造”を担う資格を持った心(靈)(ヒ)の持ち主を“天詞様”あるいは“役員”と称されている。
そしていわゆる進化=霊的成長、神格化に向かうこと、それは自我の確立=固定化であり、そして自我が肥大した(“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)心(靈)が、この事象で失敗を体験し、あるいは死んでから自省して、悲哀(日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)と肺=“悲しみ”)を感じ、自らの心(靈)に“慈悲”と“慈愛”という心の動きを持つようになり、その視点で自らを観察し、この事象を観察し、自分がどうあるべきか思うようになっていく。
これらが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番であり、それは、自我から“上”の心(靈)の発現と行使となっていくことであり、この霊的成長と神格化の順番、脊椎動物の進化の果て(“日月神示”表記の、 ○ 九 十。 ○=心(靈)(ヒ)、九=“一”(亜から出ずる、アイ、“創造”の“主(ヌシ)”の表記、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)あるいは“一”、智性、1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、十=胸の磁性“十”、シンクロトロン放射の構造)、それは人間であり、神の子として最後のカタチ、型、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”をなすべく生命(生きる使命=存在理由)であることが記されている。

そして心(靈)の発現とその動きによること、心(靈)(ヒ)の行使というのは、思惑=日足(ひたり)=心(靈)(ヒ)の動き、そしてその顕現=現象化ということ。
だからこそそれは、物を得たり、心の満足を得るなどの自分の思惑の達成というのは、自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)、観察しうる事象である(“観察と認識”)。
 
それで人(日止、霊止)としての心(靈)(ヒ)は、当然のことながら動物とは違う。 
人(日止、霊止)は神の概念を持ち始め(そんなものはないと思っているものすごく程度の低い地球人もいるが)、より神を認識しようとして神と自分の関係を考えていくものであるし、また動物より目上(めうえ)の脳が発達しているからこそ、幸福の概念や(自らの霊的成長度における)価値観を持ち、それだからこそ自分が感じ(感じる磁性)うる事象を何とか自分の良いカタチにしていこうと思うものであり、それが前回の“どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている”でもあり、これはどんな人でも思うことであろうが、これがこの事象に対する自らの心(靈)の発振、発信であり、祈りに結びつくことであるし、また、このことそのものが事象の“創造”、それは“思惑の顕現”の根拠となりうるし、要は“現在の生活が幸福になるか…これを実現するために人間はあらゆる努力”というのは、自らの心(靈)の動きの現象化のための努力(肝、いきり立つ心(奴と心)で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示すこと)である。
そしてその発振、発信には必ず霊的干渉がある。 それは前回、下記のように指摘した。

天の神、地の神と言われる正統な神の操作”ということではなく、それが実現したならば“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”ということになる。

これはいうまでもなく低い霊的干渉とその感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であり、この低い霊的干渉の結果をもてはやすのが現在の地球上では当たり前になっている。 
それでこのことは、自分たちの事象の“創造”、“思惑の顕現”が、低い心(靈)の動きによってなされているからであり、その低い心(靈)は低い価値観と低い幸福感という心の動きを持ち、いうまでもなくその程度の低い心(靈)の動きは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動としての自我までであり、さらに前回指摘した通り大半の地球人は正当な報酬の意味を考えず、天の僥倖ばかり求めたがる傾向にある。
だからこそ地球における現津(あきつ)、観察され得る事象は、我欲中心の“創造”になっており、その心(靈)の動きの根拠となりうる価値観や幸福感というのは目先の欲望に由来することばかりでもある。
 よってローム太霊は、自分の心(靈)の動きの高低、そして、どんな霊的存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するべきなのかを“よくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”とおっしゃられており、ことに“しなければならない”=(人の在り方として必ず)そうすべきであるという言い回しをされている。 

それでは、なぜそうしなければならないのか。
それについても前回の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”という文にその答えは示されており、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大半を占めているこの世界は、(通貨としての)金に対する執着で恨みの連鎖の霊的干渉が起きているし、このこと事態を理解できる人間はとても少なく、理解できない人間は“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土”を創っているのではなく、ただただ自分、あるいは自分たちだけという我欲で、この世界を恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)を持った浮遊霊を増やし、その浮遊霊は平均的地球人の“下”(低い心(靈))の心(靈)(ヒ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し=憑依して、さらにこの世界を腐った事象にしている。
それだから霊的成長度の高低におき、分けられる事象、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションがあるし、当然のことながらS会=紫光会の発足、ローム太霊がT霊媒=竹内満朋先生の物理霊媒の能力を使って述べた事柄は、形骸の宗教で説いているようなことではなく、本当の意味での進化=霊的成長、神格化に向かうことであり、ことにS会=紫光会の交霊会では、今後、アセンション後に位置するべく人のことを“これからの人”“明日の人”という言い回しをされていたが、これに気付いているS会=紫光会の会員も、とても少なかった感がある。 
蛇足だったがローム太霊講話集はこのことを前提に読み解くべきである。

それで、「四方の祈り 東」には、“何故東方の神を拝むと商売が繁盛し金や物がどんどん入いってくるようになるか、この東の神に願うということ”について述べられているが、これは第三話の最後の部分“人間には物が必要である…中略…それは分らない神から借りていると思えばよいのであって、問題はどの位神から借金が出来るかということである”に続いており、当然のことながら東に向かい祈る(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))ことをすれば、東現の神は、その人のエネルギーの贖い(あがない)に応じて力を貸そうとする。 
だが自分の祈りには、自分の心(靈)の高低によるものがあるからこそ“真東は勿論一点であるが、…中略…人間の欲望は大別すると四つよりないが、それを細かく分けると三十二になるというように考えてもよいのであろう”と説明されており、これは自分の欲望、その欲望の根拠たり得る心(靈)の動きには種類があることが示されており、そしてそれは第三話の以下の文を読むとよく分かる。

ただ同じ現世利益にしても、これを分担されている四主神の役割には多少の違いがあって
 東東神は人間の現実の欲望を充たしてもらう商売の繁盛を祈る所であり、
 東南神は同じ商売にしても投機的なこととか行き詰った事業の転換とか幾分感情や運命に関連したことを祈る所である。
 東西神は金や物の蓄積というような理性に傾いたことを祈る所である。
 東北神は前の東、南、西、の三神を統率されると共にやはり物の関係であるが叡智の対象となること、例えば自分が心から希望している仕事に現在のものから漸次変わらしてもらいたいというようなことを祈る所である。


 大事なのは“思惑の顕現”、自らの欲望や希望の実現、これには東→南→西→北という段階があり、それを示しているのが、まず低い欲望の達成として“東東神は人間の現実の欲望”そして“東南神…中略…幾分感情や運命に関連したこと”そして“東西神…中略…理性に傾いたこと”そして“東北神…中略…叡智の対象となること”、この祈りの変容が、自分の心(靈)の在り方を示すものであることに気付くべきであるし、それはまた自分の心(靈)が求める事象の変化、どういう事象を“創造”していくのかという変容であるし、自らが創造する事象における本当の価値(真実=真固止)を求める順序ともいい得る。
 要は低い人間はまず“人間の現実の欲望を充たしてもらう商売の繁盛を祈る”ことを願い、そして次の段階は“幾分感情や運命に関連したこと”を願い、次に“理性に傾いたこと”を願い、最後には物を得るという事象において“叡智の対象となること”=智性(神性)由来の事象の“創造”ということになっていき、神に近づく人間、霊的成長を目指す人間は、物を得るということにでも、そうなる、そうなっていく、あるいはそう在るべきということを示唆していると思う。

なお、方角、東西南北、それに今少し述べた東→南→西→北という段階、それは自分の心(靈)(ヒ)が感じ(感じる磁性)認識しうるからその区別があり、そしてローム太霊が述べたこと、それぞれの方角にはそれぞれの神が存在しそれに自らが願う=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)するならば、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があることを述べているのだが、これについては「四方の祈り」の解釈がすべて終わってから私見を述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その三”

 さて、“その一”“その二”でも述べたことではあるが、「四方の祈り 東」では自らの心(靈)がこの事象において感じ(感じる磁性)うる“思惑の顕現”=現象化を示唆したことが多い。 
 そして「四方の祈り 東」そのものが、第一話の「物と心の満足を得る法」の続きであること、それは“この前は、人間が物を得るには自分の努力の積み重ねによるものと、偶然の奇跡によるものと、他の力の助けによるものと、この三つの方法があるという話をした…中略…今日はそれに関連したこと”…こう述べられている。
 そして第一話には“人間は自分が求めているものを実際に手に入れることは中々面倒であるが、それはその波動が身近に来ていてもその受入れが出来ないからである”と述べられていらっしゃる。
 その“波動…その受入れ”は、自分が願う、祈る(共に息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))、この心(靈)の動きによる“思惑の顕現”=現象化といい得るし、それは第三話で“前にも言った通り、物は合体しなければ入いらないのであるから、若し自分が知らないでも物が入って来たら、それは合体したものと思ってよい”の“合体”=自らの心(靈)の動きと、その対象物との同調や感応ということであるが、そういう言い回しもされている。
それで“思惑の顕現”=現象化というのは、自らの心(靈)が感じ(感じる磁性)るからこそ、現実とかこの世界のこととかと認識するものであり、またそれは現界、幽界、霊界、神界、のうちの現界でもあるし、現界=この世界、この事象、それを自らの心(靈)が認識するのは感覚によってなされているが、感覚というのはすべて電磁波の受信で、その振動の違いで物、光、空、無、という言葉でいい換えることが出来る(このことはすでに○○○大先生が著書で述べたことでもあるし、S会=紫光会の真言の炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味合いの一つでもある)。

それでは、神としてはどんな世界どんな現津(あきつ)、観察され得る事象を人間に創らせたいのか? 
それは“その一”で述べたとおり、ローム太霊の以下の言葉に表れていると思う。
この地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
人(日止、霊止)としては、このローム太霊がおっしゃられたこと“凡ての人間…”を常に思うべきであり、またローム太霊としてはS会=紫光会の会員とローム太霊講話集を読んだ人にはそう在って欲しいからこそ、そういう風に成長して欲しいからこそ“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”と述べられたと思う。
よってローム太霊がたいして霊的成長度が高くない人を対象に述べた言い回し、具体例を挙げれば
人間が物を得る”“商売が繁盛し金や物がどんどん入いってくる”“奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている
この言い回しの裏には、こういうことを述べなければたいして自分のエネルギーを購わない人間が多いからであり、また自分の欲望の達成のために祈ることもしないからでもあり、それは自分がたいして何もすることなく天の僥倖しか求めないぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)でもあるだろうし、このことそのものが霊的に低いといい得るが、こういった言葉しか印象に残らない人は、その人の価値観や幸福感というのは低い=平均的地球人の霊的成長度であり、あるいは低い欲望の達成しか願わないのでもあるし、その心(靈)の持ち主=その霊的成長度では今と同じ世界しか創りえないからこそそれは、アセンション落第組でもある。

それで「四方の祈り 」では、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ことにより、“上”が力を加え、援護し、その祈りが「第一話 物と心の満足を得る法」の“”に則って(のっとって)いることが大事なのを、第三話では“東現に向って一心に祈ることが分ったら、次に人間は土の上に存在しているものであることを、確りと頭に入れておく必要がある。それはこの地の神に対する波動も物を得ることに深い関係があって、自分の住んでいる土地の氏神の信仰を持って東現の神に願うと、そのものは更に正しい道筋を通って入いってくるからである。従って、この氏神を中心とした地の神三十六神に対する信仰を強めるならば、東現の神の力と相俟ってその可能性は倍加されると思う。その次に重要なのは支配霊の力を借りることで、ある目的の物を得ようとする場合に、この支配霊を元として祈るということも頗る有効な手段の一つに挙げられる。その他、何ものも考えずただそのものを得ようとする方法も出てこようし、百の陰徳を積んで奇跡的に授かろうとする仕方もあろうが、これらは凡て自分は手を下さずに他から持って来る、即ち他力を中心とした欲望の達成である”と述べられており、この文の“更に正しい道筋”をよく意識して祈るべきでもある。
また先に述べた“上”が力を加えること援護することによる“物を得ること”=“思惑の顕現”、現象化をここでは“土地の氏神の信仰を持って東現の神に願う”と述べられており、それは“正しい道筋”であるし、また“思惑の顕現”=現象化をなすうえで大事な“支配霊の力を借りること”“支配霊を元として祈るということも頗る(すこぶる)有効な手段の一つ”そして、“自分は手を下さずに他から持って来る、即ち他力を中心とした欲望の達成”、これは霊的干渉そのものであり、ことに大事なのは“他力”=自分以外の力、これが自分の心(靈)(ヒ)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によって起きる霊的干渉の結果であることを理解して読み取るべきであるし、それはまた“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのであるから、どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”ということに留意し、自分の心(靈)がどんな存在と感応しているのか=“背後を見極め”、このことはすでに述べたことではあるが、常に自分の心(靈)は見張っていなければならないということでもあるし、程度の低い人間ほどこういった低い霊的干渉ばかりを期待するが、それは悪魔のささやきに乗りやすいということでもあるし、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ともいい得るが、そんな人間になってはいけないということを第二~三話でローム太霊は述べられているものでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その四”&第二~三話の総括

 前回も述べたとおり、「四方の祈り 東」は第一話の「物と心の満足を得る法」の続きであるし、第一話の解釈で述べたとおり、第一話ではローム太霊は“”という表記を使われ、それは霊的成長度の低い人が勝手に思うであろうただ満足を得て欲望を充たす方法ということではないと指摘した。 
それで、物を得る、心(靈)の満足を得る、それは自分の“思惑の顕現”=現象化であり、願いの達成であり、祈りといい得るし、祈るということ事態が心(靈)(ヒ)の発振、発信でもあるし、それは電磁波でもあり、この事象をこの世界と心が認識しうるのは電磁波の受信でもあることを前回述べた。 
だからここまでのローム太霊講話集では“波動”“受信”という言い回しもされているし、物を得る(と、心(靈)(ヒ)が認識する)ことは“合体”=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の結果であることを述べられている。

そしてその“思惑の顕現”=現象化には霊的成長度の高低における程度の差ということがあり、それゆえ低い霊的成長度の人が願う思惑=“どういうつもり”は、本能由来の欲、物欲、金銭欲など目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きでもあるが、こんなことばかり顕現しているのが今の地球人の平均的霊的成長度でもあり、それではいけない、そのままの霊的成長度から“上”に移行して欲しいからこそローム太霊は“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい…中略…神自身の本当の気持ち…中略…この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”と今の人間のことを述べられており、それはもっとこのことを考えよということであるし、平均的地球人の心(靈)の動きである我欲中心、自我の肥大(“日月神示”表記の“石屋の仕組み”)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、そこから脱却せよ、自我から“上”の心(靈)(ヒ)である“慈悲”と“慈愛”ということを思え、そうするならば、その思いに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は今までの欲望由来の霊的干渉とは違ってくるものであることを伝えようとしたのがローム太霊の真意であると思う。

 更にこのことを強調した言い回しが“太陽でも人間でも夜死んで朝また生まれ変わると、同じ太陽であり同じ人間であっても、その見る時の心によって、自ずとこの宇宙を照らす太陽が無限の愛と慈悲との象徴であることが分かってくるであろう”でもある。 ○○○大先生は著書で少し触れたことの“その見る時の心によって”ということが大事で、この世界を“どういうつもり”で観ているか、自分はこの世界でどう存在していくべきか、どういう心の在り方が神の思惑通りなのか、このことを考えよということであるし、またこの文のストレートな意味通り、“どういうつもり”で太陽を見ると“太陽が無限の愛と慈悲との象徴”であることが理解できるのか、そう認識(悟り、幸取=さとり)出来得るのか、これも大事なことである。 
またそれは、自らの霊的成長度における認識でしかこの事象を観察しえない、程度の低い人は低い視点しか持ちえないし、ある程度進化したなら、智性=神性を持ち始めたならば、智性(神性)由来の観察と認識をするし、だからこそローム太霊講話集でも“日月神示”でもその解釈には程度の差が生じるものである。
それだからこそ“その二”で“東東神 東南神 東西神 東北神”について述べられたことに対し以下のように解釈を述べた。 ちなみにそれは“ただ同じ現世利益にしても、これを分担されている四主神の役割には多少の違いがあって……”のくだりである。

 大事なのは“思惑の顕現”、自らの欲望や希望の実現、これには東→南→西→北という段階があり、それを示しているのが、まず低い欲望の達成として“東東神は人間の現実の欲望”そして“東南神…中略…幾分感情や運命に関連したこと”そして“東西神…中略…理性に傾いたこと”そして“東北神…中略…叡智の対象となること”、この祈りの変容が、自分の心(靈)の在り方を示すものであることに気付くべきであるし、それはまた自分の心(靈)が求める事象の変化、どういう事象を“創造”していくのかという変容であるし、自らが創造する事象における本当の価値(真実=真固止)を求める順序ともいい得る。
 要は低い人間はまず“人間の現実の欲望を充たしてもらう商売の繁盛を祈る”ことを願い、そして次の段階は“幾分感情や運命に関連したこと”を願い、次に“理性に傾いたこと”を願い、最後には物を得るという事象において“叡智の対象となること”=智性(神性)由来の事象の“創造”ということになっていき、神に近づく人間、霊的成長を目指す人間は、物を得るということにでも、そうなる、そうなっていく、あるいはそう在るべきということを示唆していると思う。

 引用終わり。

 またここでローム太霊が使われた“現世利益”、この言葉に対して、やはり霊的成長度の差により解釈はまちまちであろうが、神が人に託した本当の人にとっての“現世利益”は“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、これをこの事象=“現世”に顕現していくべきであろうし、それが本当に人にとっての“利益”であるし、単なる商売繁盛とか物欲を充たすとか、そう思うのは本能由来の心(靈)の動きがあるだろうからであり、それと低い人が思う目先の欲望の達成とか低い認識の幸福ではない。 そんなこと由来で東に願うような人間は自らの低さを露呈しているようなものであるし、そのことも“その見る時の心によって”=その人の進化程度と心の動き、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在、その高低、要はその人の心(靈)(ヒ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在の“上”“下”を示しているものである。

それでちょっと蛇足になるが“太陽を拝むとすれば、やはり生まれたばかりの純なのがよいのであって、それは肉眼の対象にもなるが遅くなるとまぶしくて見えない”というのは、この霊訓が垂れられた時にまだ太陽凝視を教えてくれたKさんも○○○大先生もS会=紫光会には入っていなかったので、とても太陽凝視が出来そうもないその当時の紫光会の会員には“遅くなるとまぶしくて見えない”こういう言い回しがされているのだと思うし、“毎朝太陽の上がるときに祈るのが一番良いのであって”と“太陽を拝むとすれば、やはり生まれたばかりの純なのがよい”というのは、その当時の紫光会の会員に“肉眼の対象にもなる”=朝日くらい見よ、それくらいの“行”をしてみよ、これは“日月神示”を垂れた霊団(ローム太霊が述べた概念)と同じように黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのと同義だと思う。 

話を戻し、何回も指摘した程度の低い人間が思う自分勝手な低い“思惑の顕現”=現象化、これを諌める言い回しが“働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者”そしてその思惑の顕現を“この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”とはっきり述べられており、これは今の人間がこのことを知らなさすぎるし、この霊的干渉に対して危機感をあまり持っていない=甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢ばかり追いかけているからでもあるし、これが悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であることすら一般にはあまり思われていない=平均的地球人の霊的干渉の認識は低すぎるし、しっかり考えるべきであるからこそ“どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”と述べられていると思うものである。 
 
そして“物を得る第一の方法は、前に述べた自力門の自分の努力”、これが大事であり、これに続く文の“人間は凡てその能力に応じた仕事をして世のために働き、それに対して世間が認める代価が支払われている”この言い回しに自分の仕事の在り方を考え得るべきであるし、そして“人間には物が必要であるから、生きている間はそれを受入れ肉を捨てる時に処分することになるのであるが、それは分らない神から借りていると思えばよいのであって、問題はどの位神から借金が出来るかということである”の“神から借りている”“借金”、これも自分がどれくらい頑張ったのか、その頑張りが“正統な神”=事象の“創造”の法則性、“理(ミチ)”に適ったものなのかということ、これも大事である。


要は自分の心(靈)の動き、願い、祈り、それは発振、発信であり息吹(自分の心(靈)が吹く)であり、またそれはオーラでもあるが、それに感応する霊的存在はその心(靈)の動きの高い低いによるものであり“自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用”というのは悪魔のささやきであることをしっかり認識すべきであらねばならない。 

だが、今、この世界の成功者とか(形骸の)地位を得た人たちはほとんどこういう霊的干渉の結果であり、それを証明するのが、物欲、金銭欲、本能由来の欲、その達成であり、そしてそれを誇示するディスプレイ(動物の発情行動)、またそれを褒めそやすのがこの世界では当たり前。
そしてそれは、その欲=願い、祈り、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)を持った浮遊霊、あるいは(通貨としての)金に執着している動物霊、その他もろもろ人間を堕落させる霊的存在であるからこそ“その背後を見極め”と指摘されている。
(そんな者が成功者と褒めそやされるこの世界そのものがもう腐り果てているものである)
 
それで第二~三話の解釈では、程度の低い人、程度の低い解釈ということを述べてきたが、要は人(日止、霊止)の使命、人の存在の意義でもあるこの事象=現界の“創造”、それは“思惑の顕現”=現象化であるが、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)により程度の差があるし、低い心(靈)は低い事象しか“創造”し得ないものである。
 それで“創造”には“道”(時間の進行と心(靈)(ヒ)が感じること)と“創造”の法則性=“理(ミチ)”があるし、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命であればあるほど“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)というものを(智性(神性)由来の)思想で認識するし、さらに“善(神格化の方向性と智性の受信)”をより強く認識してそれを顕現し、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすものであるからこそ、ローム太霊は“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”ということを述べられたのだと確信するし、これこそが霊的成長をめざし神格化を意識した生き方をする人が当然実現しなければならないことなのであり、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、それは紫光会の経文、四空経録の中の文言である“世為人為”でもあるし、これを深く思い行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念として実現できる人と、実現する資質を持ちえない(そんな発想すらない)自我の肥大(“日月神示”表記の“石屋の仕組み”)した程度の低い心(靈)、その両者を分ける事象がアセンションという神の計画であることを(再三述べていることであるが)付記して、第二~三話の解釈を終わり、次回からこのカテゴリーは「四方の祈り 南」に入ることとする。
 
今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第四話 四方の祈り 南 Kellyさん的解釈“その一”


 今回からローム太霊講話集の「四方の祈り 南」の解釈に入っていきまんねん。

 第一話の「物と心の満足を得る法」そして第二~三話の「四方の祈り 東」、そして今回から解釈していく「四方の祈り 南」、大体ここまでは自らが観察しうる外側(外国と幽界)の事象における“思惑の顕現”=現象化のことが説かれている。 
ちなみに先走るが「四方の祈り 西」と「四方の祈り 北」は、観察しうる事象の外側(外国と幽界)と、それに内面とか内側(心の中と感じている事)、いわゆる精神性、心の在り方、これらが加味されて説かれていると思う。
 それで重複するが、第一話~第四話までは、自らの心(靈)が観察しうる事象、物質の振動の事象である現界、そこに本当の心の満足を得るためのこと、それはエネルギーの贖い(あがない)、たとえば商売で頑張る(元の気を張る)こととか、また頑張ったことによる自らの心の発振、発信に感応する存在が力を貸すこと、それで報酬を得るとか物を得るとかのことが説かれ、いうならばそれは自分の心(靈)の欲望の達成でもあるが、それらは神の思惑に沿ったものでなければならないことをローム太霊は述べていた。 
だが、霊的成長度の低い人はこの部分を読み飛ばしているし、それは低い心(靈)、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の進化程度の心では、こういう“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が書かれていることとは自分の心(靈)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無いものでもある。 
(このことは、人間にとってこの一番大切なことにほとんどの人が気が付かない理由でもある)

この神の思惑に沿った事象の“創造”、“思惑の顕現”=現象化、これを伝えること、このことがローム太霊講話集の元になっていたS会=紫光会の交霊会であるローム霊訓講話の重要な意義であると確信するものでもある。 

それで、前のブログやこのブログで何回も述べていることではあるが、人(日止、霊止)の進化の意味と意義は、霊的成長、神格化に向かうことであり、このことを念頭に置いてローム太霊講話集を読み解くべきであるし、この点において「四方の祈り 南」の最後には、自らの“行”について述べられている。
それは、形骸の宗教で述べられている行ごっこ、あるいはてんで甘い人が選択するような感謝することとかただ先祖参りをすることとかが行とかでもなく、自らが人生、そこにその人の霊的成長度において“上”が課す試練を体験し、苦しみ挫折して落胆(胆が落ちるという表記の意味は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”が弱まるから)し心(靈)が折れ苦悩し、低い幸福の概念=物欲とか本能を満たすことが本当の幸せではなく、その低い幸福の概念所以の低い価値観を自らが否定し、そして自分の存在の意義、生きる意味を探し求め(これは右往左往と左往右往でもある)、そしてその結論は、自分と神とは一体何なのか、それを考えるようになるものであるが、それが本当の“行”と“修行”に至る変遷でもある。

それで、神格化を目指し、それを意識しながら=自分が神の思惑に沿った“行”をするならば“生きている間に奇跡をもたらす力を授けてくれる”そして“古来の聖人にも勝る力が生まれてきて、そこの初めて南幽としての真の意義を顕わすことが出来る”と述べられているものである。
だが、それぞれの文の前には“間断なき修行だけが”と“不断の行を積むならば”(“ならば”というのは仮にそうしたらという意味)と前置きされている。

(このことも幾度となく述べてはいるが)“行”の意義、目的は、“日月神示”の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と同義であり、肉体組織の結晶化が本当の意味での宝であり、それは體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であるし、宝という字は宀(うかんむり、頭の意味)と“玉(ぎょく)”であり…これらのことはこれまで幾度なく述べてきたし、肉体組織の結晶化は自凝(おのころ)の仕組みでもあるし、それはタンパク質の高分子化、“石”(帯電するミネラル)の取り込み、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊、これらの要素があり、またそれらは、肉体(月(ツキ))の縦の磁束のローレンツ力の強化と、左右相称動物として人間は地球上で一番進化しているのだから左右対称の器官が構成する水平磁場を構成し、この縦の磁束と水平磁場により“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、それは宇宙の中心から発振、発信されている超高振動の粒子という言い方が分かりやすいが、それを止めるという表記が古神道の“日止、霊止”でもあるし、その“上”からの荷電粒子をローレンツ力で回転(チャクラ(荷電粒子の回転を示す))させて霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は構成され、それは肉体(月(ツキ))を持っていればサイクロトロン、シンクロトロンの構造により“上”からの荷電粒子を増幅して発振、発信する。
それがまた幸福の福の旁(つくり)である“畐”、これは“一”、亜から出ずる、アイ、“創造”の“主(ヌシ)”の表記、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、これを取り込み(口)、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)=思想として思惑を顕現せよ、この事象を自らの心が“創造”せよいうことでもある。

話を戻し、当たり前のことであるが一人一人が頑張る(元の気を張る)、頑張らなければ“上”は力を貸さないし力を加えない。
また、霊的成長度の低い人間が願うこととその頑張りが、神の思惑に沿っていない=目下(めした)中心の心の発振、発信のものであっても、頑張った、エネルギーを購ったことには違いないから、またそれは低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるから、低い霊的干渉があり、それが第三話「四方の祈り 東」の後半で述べられている“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである”である。 
これに対し、すでに述べたことではあるが“どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”と太霊はおっしゃられている。
この“背後を見極め”は、自分の心(靈)の動きをもよく知ることが出来る(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)のであり、自分がどんな心(靈)の動きをしているのか、それは神の思惑に沿ったものか、悪魔のささやきに乗っているのか、低い幸福の概念なのか、幸せの本当の意味である“夭と屰”(ようとげき)であるのか(“夭と屰”(ようとげき)についてはローム太霊との出会いで述べた)、それをよく見極めよということであるが、このことをよく考えて自分が自分の目的のため、自分の願いのために祈る、そしてその祈りが同じく第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う。この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”に沿ったものでなければならない。
また祈ることは自らの心(靈)(ヒ)の発振、発信であり、先に説明した通り心(靈)(ヒ)は霊であるから荷電粒子の回転であり、荷電粒子の回転はさらなるエネルギーを生み出し、それが前のブログで説明したサイクロトロンやシンクロトロンの構造を肉体(月(ツキ))が持つものでもあり、これが肉体(月(ツキ))を持って生きていることの意義でもあるし、それゆえ心(靈)(ヒ)は肉体(月(ツキ))を持って現界に位置して“日止、霊止”(“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、これを止めるの意)として存在しているのであり、またそれは生命(生きる使命=存在理由)であり、さらにその発信された電磁波はオーラそのものであり、発振、発信されたそのオーラは自分の心(靈)の思惑によるものであるから、他の生命、自分以外の心(靈)(ヒ)に影響を与えたりして(オーラの相互干渉)この事象の“創造”となるものであるし、さらに自分の心(靈)の発振、発信であるからこそ、どんな存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するのか、いい換えれば自分の思惑にどんな存在が反応しているのかが大事でもある。 それを思いながら事象の“創造”=“思惑の顕現”=現象化、祈りの達成ということをしていかなければならないものでもある。
言い換えれば、神の思惑に沿った、“創造”の法則性に乗っ取った“思惑の顕現”=現象化、そこにしか本当の心の満足とか幸福感とかいうものはないということに気付くべきであるし、これが分からない人はてんで霊的成長度が低い人でもある。

それで今述べた生命、生きる使命、神対人間の関係、これにおいて第四話の冒頭の“人間はどうしたら真の幸福に恵まれ、同時に天寿を全うすることが出来るかということ”の、“真の幸福”“天寿を全うする”の解釈を間違えてはいけない。
それで今回は“真の幸福”について述べたのであるが、これは霊的成長度の低い人が思う幸福の概念ではないことを指摘したまでである。
次回のこのカテゴリーでは“真の幸福”と、人の使命、存在意義という意味合いで“天寿を全うする”、この点において第四話を読み解くこととする。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第四話 四方の祈り 南 Kellyさん的解釈“その二”


 さて、ローム太霊はとても霊的成長度の高い心霊である。 余談になるが、その霊的成長度、ローム太霊の“一”=智性=1番目のオーラの具体的な大きさ、数値は、太陽凝視を教えてくれたKさんと○○○大先生が“上”と交信して確認したことがあるが非公開とする。 非公開とする理由は、心(靈)(ヒ)の発現と動きの最上級である智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)ということに、まったくといっていいほど認識(悟り、幸取=さとり)を持ちえない一般の人たちにネット上で知らしめてもほとんど意味のないことだからでもある。

話を戻し、ローム太霊はT霊媒=竹内満朋のエクトプラズムを使い(竹内先生が死ぬほど苦しいと太陽凝視を教えてくれたKさんと○○○大先生に小声で密かに漏らしていたほどの苦痛を伴いながら)実体化していたこと、交霊会を中心としたS会=紫光会を発足したこと、その交霊会での言葉の使い方、これらには当然責任というものを感じておられるし、それはローム太霊の文言をよく読み解けば(霊的成長度のある程度高い人には)解っていくことでもある。  
それとは逆に、霊的成長度の低い心(靈)ほど、言葉に対して無責任、要は言葉をもてあそんで人を引き付けたり商売に利用したりするものであるし、そのこと自体が“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではないということでもあるし、ありていにいえば、心(靈)(ヒ)の動きも行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)も、不誠実ということである。
またその人間を“上”、神さんは認めたりはしないものであることは、少し考えれば誰にでも解ること。 
それで現状は、程度の低い人が程度の低い人を褒めそやすということになっており、またほとんどがそういう人ばかりであるから数の論理でそれが形骸の名声とか権威とかにもなるが、それは自我の肥大が生み出している価値観で評価されていることでしかなく、現状はそれが多いものであるし、今は腐った事象だからそんな程度の人間が活躍しているものでもある。 
そしてそれに引き付けられる人間もまた霊的成長度が低いから甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を持ち、薄っぺらい形骸の言葉、無責任な言葉の使い方を分かりやすいとかと思い、結果として低い人は低い人に引き付けられるということになるし、本当のことを見出させない思惑=人の霊的成長を望まない存在の計画に乗せられているということになる。
また言葉をもてあそんだり無責任に使うこと、それは“日月神示”表記の“役員づら”でもあるし、その霊的成長度の低さ=自我の肥大ゆえ、宗教を御利益中心にして結果として形骸にしたり、アセンションや霊的成長に対し甘い夢を見させ偽の情報を流し、(例えばゴーストライターを使って)大げさな文言を使い、自らの利益にしてしまうという情けないことをしている人間が多いし、それは結果として人の霊的成長の足を引っ張っているから悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもあるが、低い人間ほどそのことを指摘しても、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人生における左往右往左往(失敗を体験させ自省(胸の磁性“十”)させること)を体験させたとしてそのことを諌めても、中々認めようとはしないものでもある。
(実際に「ローム太霊との出会い」を読んで直接コンタクトをとってきたとある本の著者に、このことを話してみたことがある…実にくだらない本を書いているから…だが現時点ではその本人は全く解っていないようでもあり、今はこちらと縁が無い、縁が切れているようでもある)

またまた話を戻し、第四話では“真の幸福に恵まれ、同時に天寿を全うすることが出来る”と述べられている。 
それで前回指摘した“真の幸福”、これは“真の”という言い回しがされており、それは一般の=霊的成長度の低い人が思う薄っぺらい幸福の概念ではないからこそ“真の”と太霊はおっしゃられていると思う。 
それで、その低い人たちが求める幸福、その幸福を求めようとする動機、“どういうつもり”(思惑)が、たとえ善であろうが悪であろうが、そのこと事態が自らの努力につながることとなるし、このことは太霊が第三話「四方の祈り 東」で“どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている”と述べられたとおり。 こういう低い段階から始めていき、必ずその先には教訓を得て自分の在り方を考えるという事象に遭遇するものである。
それで第三話では“真の”という言い回しはされていないから先に述べたこと、太霊が言葉に責任を持ちながら、一言々々に深い意味を込めながらローム霊訓講話を行っていたことを、ローム太霊講話集の読者は読み解くべきである。
(これが読み解けない、あるいはこのこと自体に気が付かない&理解できないのは、低いからである)

それで前回、“真の幸福”ということを述べたのであるが、今回は“天寿を全うすること”について述べることとする。

いうまでもなく一般の通念としての天寿は、天から授かった寿命、自然死までの寿命とかの意味がある。 
だが太霊は“天寿を全うすることが出来る”そして“人間の生命と運命とに関連した凡てのことを受持たれている所…中略…運が悪い方向に進んでいる時に、それを好転させるにはここの神に祈るのが一番よい”と、述べられている。 
この文言の中の“人間の生命と運命とに関連した凡てのこと”=生きている間に自分の人生を自分の心(靈)が観察する、それはいいかえれば、現津(あきつ)、観察され得る事象でもあるが、ほとんどの人間は人生を全うできず不幸な死を迎えることが多く、また生きている間に不運に遭遇することが多い。 
だが、その不幸な死と不運は自分の在り方を示すため、認識(悟り、幸取=さとり)の拡大を促すための“上”が課す試練であったりもする。 
また不幸な死と不運を体験して認識を拡大せねばならない理由は、自らの心(靈)(ヒ)が育っていないからであるといい得る。 人生は楽しむためにあるとか快楽を充たすことが幸福とかと思っている人間は相当霊的成長度の低い人間であるが、そんなことが人生ではない、生きる目的ではない、生きているということはなんなのか? 自分の存在とはなんなのか? これを悟らせるために“上”はいろんなことを教えようとする。 そしてその教訓を体験させるためには自らの低い心(靈)が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉を体験させることをするものでもある。
その恨みの連鎖の霊的干渉は、人の霊的成長を望まない存在、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)といっていいが、その思惑があり、だからこそ地球では三秒に一人子供を殺して三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)(ヒ)の動きの浮遊霊を増し、経済大国の人間に憑依させ、どんどん人の心を幼稚にさせていることは何度も述べたが、もうどうしようもないほどほとんどの人間が智性(神性)無き心に成り果てているし、さらに恨みの連鎖の霊的干渉による事故、事件などは増大しつつある。 
そして先に述べた不幸な死と不運、自省(胸の磁性“十”)のために教訓を得るこれらの事象にも恨みの連鎖の霊的干渉の影響があり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)は出来るだけ教訓を得させないでその人間を早く殺して“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団に引き込んだり、あるいは智性(神性)無き心のまま一生を過ごさせ、教訓を得るための不運に対しても自分は悪くないとか人をねたんだり羨んだりして自分の在り方を見出そうとしない…そうやって一生を過ごさせ、たいして霊的成長しないまま死を迎えたりさせるものでもある。

当然のことながらこれらは“天寿を全うすること”ではない。

そして“真の幸福に恵まれ、同時に天寿を全うすること”は、自分が生きている使命、何のために自分は生きているのか、この事象に対し自分は何をすべきなのか、それは第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”を実現するべく生きるのが自分たちの在り方であるし、この第二話の太霊の言葉に自分たちの使命や“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を見出すのが生き方と生きている間の使命としての“天寿を全うすること”であり、それを妨害するのが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)であり、その悪魔の具体的な手段が程度の低い浮遊霊を増やすこと=恨みの連鎖の霊的干渉を増すことである。
その恨みの連鎖の霊的干渉の影響による自らの霊的成長の妨害を防ぐために“生命が無ければ何にもならないので、その完全を祈ることになる”と太霊はおっしゃられたと思うし、 重複するが大概の人間は寿命の点でも心(靈)の在り方でも“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”という神の思惑を顕現することが出来ない低い霊的成長度であるし、“真の幸福に恵まれ、同時に天寿を全うすること”という言葉に対し、自分にとって都合の良い甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈=不幸や不運を避けられるという御利益しか思わない人間ならばそれは、死んでから三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った浮遊霊になり、人の霊的成長を阻む“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一員になる霊的成長度であることを指摘しておく。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第四話 四方の祈り 南 Kellyさん的解釈“その三”


 “その一”“その二”では、“真の幸福に恵まれ、同時に天寿を全うすること”について解釈してきた。 それは、大概の人間の認識(悟り、幸取=さとり)が低すぎるし、この言葉を間違えている人が多すぎるだろうからでもあった。

 それでこの文に続く“南のこと…中略…人間の生命と運命とに関連した凡てのことを受持たれている所で、例えば、自分の運が悪い方向に進んでいる時に、それを好転させるにはここの神に祈るのが一番よい”と太霊が述べられていらっしゃることは“天寿を全うすること”が前提であり、これが人間の存在の意義、前回述べたように、自分が生きている使命、何のために自分は生きているのか、この事象に対し自分は何をすべきなのか、それは第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”を実現するべく生きるのが自分たちの在り方であることを常に思いながら一生を終える、それが人(日止、霊止)として、神の子として、本当だと思うからである。 

今述べた一生を終えること、その点で人間の生きている間=心(靈)が育っている間に、その心の動きに応じた様々な霊的干渉が起きているし、因縁を背負っていない肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)というものはありえないのが地球人でもあるが、ここでは“例えば、自分の運が悪い方向に進んでいる時”と簡略に述べられていること、それはその霊的干渉は因縁と恨みの連鎖の霊的干渉であることに気付かなければならないし、それがこの文の後に述べられている“南東神は自分の商売が段々悪くなってくるとか会社に勤めていても面白くないとか、そういう場合にこの神をよく念ずると…中略…また子供の入学試験のことなどを願う所…中略…南南神は現在凡てが一応順調に進んでいるが、もっとよくしてもらいたいというような時に祈っていると…中略…また結婚に関したことを願う所…中略…南西神は病気の親から腺病質の弱い子供が生まれるような場合に、どうか親に似ない丈夫な子を授けて下さいと祈る所であり、また死にかかっている病人を、どうかもう少し生かしておいて下さいと命乞いをする所”と具体的なことが述べられている。
これらすべて因縁と恨みの連鎖の霊的干渉が関与していることを知るべきである。 
ただしここで述べられている因縁と恨みの連鎖の霊的干渉はきわめて個人的なことであり、人間が因縁と恨みの連鎖の霊的干渉を知るのはまず、自分の身の回りのことから始まるものでもある。 
またそこに神が与えた自らの霊的成長のための試練があることを知り、前回述べたように“上”が課した試練を体験している中で、自らの心が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”にならないように、その方向に行かないように、自分の心(靈)の動きを観察しなければならない(“観自在”)。

 それで“南北神は前の南東、南南、南西の三主神の上に立って南幽全部を統率されると共に、その庁は北神に通ずる拠点であるから、この天寿の全うと運命の開けとに対する大本がここに在ると言って差支えないのである”であるが、これは先に述べた“生命が無ければ何にもならないので、その完全を祈ることになるのである”にかかる意味合いのことで、先に述べた“生命…中略…完全を祈る”こと、この言葉の意味を深く思わなければならず、霊的成長度の低い人間は多分この文の前の“いくら金が儲かっても”が印象に残り、それゆえ間違えた解釈をしているだろうし、それはこの言い回しが揶揄(やゆ)した言い方であり、よってこの文をよく読めば“いくら金が儲かっても”は生きている間に自分が活躍したという意味合いに取るべきであるし、間違ってもその金を自分だけのために使いきるとか金を使って低い欲望を充たすとかという目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の解釈をしてはならない。 
(もしそんなふうにしか思えないならばその心(靈)はとても霊的成長度が低いといい得る)

 それは“天寿の全うと運命の開けとに対する大本”と述べられておられる通り、“生命…中略…完全を祈る”神の子としての人間の生命を全うする、神の子としての使命を全うする、その意味合いのことでもある。 
またそれは、先に述べた個人的な因縁や恨みの連鎖の霊的干渉を知ること、それを体験したなら自分はどう在るべきか、どういう心の動きを持つべきなのか、そこまで考えるのが霊的成長度の高い人間であるが、それについては次回詳細に述べることとする。
(これまでも述べてきていることではあるのだが…)

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第四話 四方の祈り 南 Kellyさん的解釈“その四”&第四話の総括

 前回は、自分たちの“例えば、自分の運が悪い方向に進んでいる時”について、それは恨みの連鎖の霊的干渉と因縁、その霊的干渉をできるだけ避けることをする、そのために南に祈り、その霊的干渉の悪影響を軽減する力を借りることについて解釈した。 
しかしこれは、決して御利益だけを求めるような心(靈)の動きではいけない。  
それは、自分たちは恨みの連鎖の霊的干渉や因縁の裏の事情について知り、そして自分たちの在り方を考えるべきであること…このことを前回、ほんの少し述べた。
 
それで太霊は“南北神は…中略…南幽全部を統率されると共に、その庁は北神に通ずる拠点であるから、この天寿の全うと運命の開けとに対する大本がここに在ると言って差支えない…中略…従って、自分の運が下り坂にあることに気が付かず、…中略…その裏でこの南幽の神を祈りながら表で東現の神に願ってこそ真の効果が得られる”と述べられ、これはこの後の“これは一国にしても一個人にしても同じこと”に、掛かることである。 
この言い回しは、霊的成長度の低い人はまず自分の身の回りのことしか思わないからこそ太霊はこういうおっしゃり方をされたと思えるし、さらに霊的成長度の低い人は南に祈れば運がよくなる程度のことしか思わないだろうからでもあり、さらにそれはぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁参照)であり、自分が頑張らなくてもただ祈りさえすれば何でも良い結果になるだろうという甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えを持つことが多いからでもあるが…そんなふうにしか思えない人は(救いようがないくらい低いから)置いといて、いうまでもなくそれは第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であり、人はこれを顕現する思想と“力”を持ち、その力の使い方を考えるべきである。 
(要は、一個人ではなく地球全体のことを思えということ)
そのことがこれに続く“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”という言い回しの裏にあることだと確信する。

それと、因縁や恨みの連鎖の霊的干渉というのは“神の咎め”の要素もある。 
それは“その二”で“不幸な死と不運を体験して認識を拡大せねばならない理由は、自らの心(靈)(ヒ)が育っていないからであるといい得る。 人生は楽しむためにあるとか快楽を充たすことが幸福とかと思っている人間は相当霊的成長度の低い人間であるが、そんなことが人生ではない、生きる目的ではない、生きているということはなんなのか? 自分の存在とはなんなのか? これを悟らせるために“上”はいろんなことを教えようとする。 そしてその教訓を体験させるためには自らの低い心(靈)が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉を体験させることをするものでもある”と述べた通りでもあるが、その悪影響と感じ得ることを体験し、苦しみ悩んでこそいろいろな認識が開け、それは自分の在り方、人生の過ごし方に反映するものであるし、“神の咎め”そのものがそれはS会=紫光会の交霊会でよく言われた“神は乗り越えられない試練は与えない”の文言の裏にあることでもあるし、ここに神が望む人間の在り方ということを知るべきでもある。
 
それで今まで著書とブログで散々述べてきている恨みの連鎖の霊的干渉、そしてその増大、動物を殺して食うこと、大国の経済の繁栄の結果、飢餓貧困で子供を間接的に殺すことなど、それらの憑依現象で起きている事件や事故など、これらの現象化はどんどん増大しつつあるが、これを見てすら何も感じない人が多すぎるし、大概の人間は霊的干渉についてしっかりした観察眼を持っていない、分析が出来ないからこそ、インチキ霊能力者やインチキお祓いなどの商売が成り立ち、似非スピリチュアルが台頭するのであるが…話を戻し、それは大半の地球人が自我の確立=固定化の段階の進化であるからこそ、自分あるいは自分の周囲のことしか分からない。 要は自分たちの目先のことだけがよければいいという考えだが、それもまたその人たちの認識が低い=霊的成長度が低いとしか言いようがない。

それで太霊は“南北神”のところで以下のように述べていらっしゃる。
天寿の全うと運命の開けとに対する大本がここに在ると言って差支えない…中略…自分の運が下り坂にあることに気が付かず、如何に東現だけを拝んでも転換はむずかしいのであって、その裏でこの南幽の神を祈りながら表で東現の神に願ってこそ真の効果が得られる…中略…これは一国にしても一個人にしても同じことで、この表の東現と裏の南幽とを一つにして拝んでゆけば、これまでの予言者が行なった奇跡の一端位は出来るであろう。そして仮に不思議なことが起こったとしても、それにこだわることなく、修行の関する限りは来る日も来る日も凡々と暮らしてゆけばよいのであって、自分の行に何の変化が現われないでもそんなことに少しも心配はいらない。ただ時計の針が一秒一秒と時を刻んでゆくように、間断なき修行だけが、生きている間に奇跡をもたらす力を授けてくれるのである
 この“生きている間に奇跡をもたらす力”は“間断なき修行”を行っていればということで、言うまでもなくこれは霊的成長のための=智性(神性)の“行”を具体的にやることでしかないが、これを述べられた当時のS会=紫光会にはそこまでの段階に至っている人がいないようだったからこういう言い回しをされるしかなかったと思える。 
それで自分が“修行の関する限りは来る日も来る日も凡々と暮らしてゆけばよい…中略…行に何の変化が現われないでもそんなことに少しも心配はいらない…中略…時計の針が一秒一秒と時を刻んでゆくように、間断なき修行”を行い、霊的成長し、認識(悟り、幸取=さとり)を拡大し、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっていくならば、神の思想を理解し、それを自分の理念とし(天の御目(あめのおめ))、それが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠になりうるものになる。
 
またこのことが霊的成長度における区別、アセンションの真実であると思う根拠であり、仮にアセンション後の世界が今の平均的地球人の心の成長度の人の多い世界ならば、今と同じ世界になり、その低い価値観と幸福感は物欲、本能由来の欲など、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)由来の行動しかしないからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉は増大し、“その二”で“不幸な死と不運、自省(胸の磁性“十”)のために教訓を得るこれらの事象にも恨みの連鎖の霊的干渉の影響があり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)は出来るだけ教訓を得させないでその人間を早く殺して“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団に引き込んだり、あるいは智性(神性)無き心のまま一生を過ごさせ、教訓を得るための不運に対しても自分は悪くないとか人をねたんだり羨んだりして自分の在り方を見出そうとしない…そうやって一生を過ごさせ、たいして霊的成長しないまま死を迎えたりさせるものでもある”と述べたとおり、さらに悪霊を増やすことにしかなり得ない。 
またその憑依現象と低い人の低い心(靈)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの人を増やすのが、悪魔の思惑である。

そんな世界を創ってはいけないからこそ太霊は“天寿の全うと運命の開け”を自分たちが成していくには、“間断なき修行”を行い、そうするならば“生きている間に奇跡をもたらす力を授けてくれる”ということになると述べられたと思う。 
それでこの“奇跡”の認識は、大概、恨みの連鎖の霊的干渉の結果を免れたとか、因縁の霊的干渉を免れたとかだと思うが、これは“上”の憑依、“上”が力を貸すことであり、そうなるべく“間断なき修行”を行い、“上”が力を貸す資格を獲得せよということでもあり、それは“祈らずとも思いがけないことが次々とその生命の中に起こってくる”ということになる。

そうやって、自分たちがすでに背負っている因縁や、恨みの連鎖の霊的干渉に巻き込まれることなく生きていけという意味合いのことを感じるが、因縁や恨みの連鎖の霊的干渉に巻き込まれてひどい結果になるのは、自分の心(靈)の動きが低いからであり、要は魔がさすとかであるが、そこにも“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”が必須で、自分がどんな心(靈)の動きをしているのか、自分の心(靈)の動きの高低は何か、自分の心(靈)の動きの中の何を貴いと思うのか、あるいは卑下し蔑視していくべきなのか、これが自分に対する“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)であることを著書で述べたが、○○○大先生は著書を読んで直接連絡をくれた人と話したりメールのやり取りをして、このことが出来ている人、あるいは解っている人はほとんどいないって思った。
余談だったが、「第二話 四方の祈り 東」の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”、これを顕現するべく人間は生きるべきであり、そしてそれを達成するには「第四話」の“天寿の全うと運命の開け”のことを知って、どうやって自分は生きるべきかを知ることが大事であると思う。

それで今、大半の人間は低いことをやっており、それは○○○大先生の著書とこのブログで指摘している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と自我の肥大(“石屋の仕組み”)、この心(靈)の動きが根拠の行動を低いと認識し、低さを指摘し、さらに自分の心(靈)の中の“上”と“下”、高低をよく自分で見極めることが必須。 
これが出来なければ“祈らずとも思いがけないことが次々とその生命の中に起こってくる”なんてことには成り得ない。 要は“上”が力を貸さないってことにしかならない。
それだからこそ“間断なき修行”を行い、自らの智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を増して“上”の思惑を知り、それを顕現すべく人間は生きるべきなのだが、因縁や恨みの連鎖の霊的干渉による悪魔の妨害は多いから“天寿の全うと運命の開け”ということが必須であり、そのための力が南幽にあることを太霊は述べられたのだし、このこと事態を神の思惑を顕現すべく人間は、必ず知っておかねばならないからでもあると思える。

それでちょっと余談になるが、○○○大先生の著書の読者の幾人から“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”あるいは“役員づら”の人たちを信じる人、自我の肥大した人、これらの心(靈)の動きを低いと何回も指摘し、それは蔑んでいるのではないのかという意見をもらっているが、これは蔑視ではなく、この人たちにも良いカタチになって欲しいからこそいろいろ低さを指摘するのであり、本当の蔑視というのはこの低い心(靈)の動きを容認するか、あるいは擁護する、こんなものだと思い、ただ眺め傍観しているだけ、これが本当にその人のこと(誰もが神の子)を蔑むことであると思う。 

話を戻し、「第四話 四方の祈り 南」は、人間の生き方、在り方、神の子としての使命をも感じさせる文章であり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉をたくさん背負っている地球人が本当に良いカタチになるには=“真の幸福”“天寿を全うする”ということになるには、因縁や恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させている自分たちの低い心(靈)を指摘し、それではいけない、その心(靈)の動きでは“上”は力を貸せないということまで読み取るべきであるし、低い心(靈)の動きを知ったなら、必然として高い心(靈)の動きも理解する方向に行くものであることを、あえて述べさせてもらい、「第四話」の解釈を終わることとして、次回のこのカテゴリーは「第五話 四方の祈り 西」に入ることとする。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第五話 四方の祈り 西 Kellyさん的解釈“その一”


今回からローム太霊講話集の「四方の祈り 西」の解釈に入っていきまんねん。

先に解釈した「四方の祈り 南」の“その一”で述べたとおり、第一話~第四話までは、自らが観察しうる外側(外国と幽界)の事象における“思惑の顕現”=現象化のことが説かれ、第五話、第六話は、観察しうる事象の外側(外国と幽界)と、それに内面とか内側(心の中と感じている事)、いわゆる精神性、心の在り方、霊的成長度(“一”=智性=1番目のオーラの大きさ、智性(神性)の発現)、これらが加味されて説かれている感がある。

それで第五話では“昔から健全なる精神は健全なる身体に宿ると言われているが、肉体に故障が起こると、その考えまで自ずと拗けてくる”そして“人間は健康な間は体のことなど忘れて外の事に取り紛れているが、一旦病気になると心の平静を失うものである。これは精神の完成如何による”と述べられ、如何に外見が健康であり肉体が強健であり、ここで述べられている通り“健全なる精神は健全なる身体に宿ると言われている”、一見そう見えようとも、平均的地球人の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程は、自我の確立=固定化であり、自我の肥大が起こりやすく、自我の肥大=“石屋の仕組み”が恨みの連鎖の霊的干渉を生み出しており、このこと自体が“健全なる精神”とは思えないし、よってこの進化過程はまだ神にほど遠く、動物に近い=目下(めした)中心の心(靈)である。
ありていに言えば平均的地球人の心(靈)は“精神の完成如何”、神から、霊的成長度と心の在り方を問われ、その低さを知らなければならないからこそ“完成如何”という表記を太霊は使われたのだと思う。

よって、肉体(月(ツキ))がいかに立派でも、そのこと自体が“精神の完成”という要素では無く、それは“肉体に故障が起こると、その考えまで自ずと拗けてくる”と“一旦病気になると心の平静を失う”、これは“精神の完成如何による”ことであると太霊はおっしゃられている。
さらにこれを強調する意味合いで“健全なる精神は健全なる身体に宿る”のだが、“考えまで自ずと拗け”“心の平静を失う”、そんな心は“精神の完成”には程遠く、このことを“今仮に足が片方しかなく両眼が潰れていながら尚且つ正しい考え方の出来る人間がいるとしたら、その者の精神は完全に近いものと認めてよい”と述べられ、この言葉の“精神の完成如何による”、これが完成に近ければ“心の平静を失う”ことはなく、また“尚且つ正しい考え方の出来る人間”、どんな状況に陥っても常にこう在るべきということを述べられ、もしそうならばその考え方=“正しい考え方の出来る人間”ならば、“その者の精神は完全に近い”とおっしゃられている。

それで先に述べたとおり、平均的地球人、大概の人、この進化過程は自我の確立=固定化、自我中心の心(靈)であり、その認識は“上”から観たら低い。 
だからこそ太霊は第五話で“精神の完成如何”ということを述べられたと思うし、この言葉を賜った平均的地球人は、何を思い、どう行動するのかを思わなくてはいけないと思う。

また、これまで述べてきているように、人には当然、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)の要素があり、その要素には男と女の性の違い、精神性と肉体、思惑と顕現、様々な顕れ方があることを説明してきた。
それで第五話で説かれているのは、日足(ひたり)=“健全なる精神”“精神の完成”と、砌(みぎり)=“健全なる身体”であることに着目すべきである。
これは神の被造物、“創造”の“主(ヌシ)”に対して、神の子である人というのは、神の“思惑の顕現”=現象化によることであり、人の心(靈)(ヒ)の動きは人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、願い、希望、祈り、いろいろな表現があるが、それぞれの霊的成長度における心(靈)(ヒ)の発振、発信があり、それは先に述べたとおり心(靈)(ヒ)の動きそのものであり、その心(靈)の動きが理由、根拠で、人は行動=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現ということをするが、そのこと自体が事象の“創造”となる。
だからこそ神が人に託したのは、この事象の“創造”であり、この事象を神の思惑通りにする、その過程として進化(霊的成長、神格化に向かうこと)があり、程度の低い人は程度の低い世界を創り、ある程度程度の高い人は程度の低い人が作った世界の低さを判別し、これではいけないと思い、次の世界は程度の低い世界を創らない。 これが“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションでもある。
そこには当然“精神の完成”が問われ、完成を目指す人ならば、日足と砌(ひたりとみぎり)の顕現、その両方が神の目に適う者でなければならず、そうなるべく具体的な方法論が“行”であり、さらに“行”には低い段階の“行”と高い“行”があり、いきなり智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”には入れないこともこれまで述べてきた。

それと、人間が存在している理由、根拠というのは、神格化であり、神格化した人間は神の思惑を自分の思想としていく要素を持ち、それは“一”=智性=1番目のオーラの大きさに現れ、それが進化の真の意味であることを述べてきているが、人間の“行”はまず肉体(月(ツキ))の“行”から始まり、土=2~3番目のオーラが大きくなり、それが太霊が述べている“健全なる精神は健全なる身体に宿る”でもあろうが、健全なる身体だけでは健全なる精神には成り得ないことを、先に指摘させてもらった文で太霊は示されている。

それで人の進化、これはすべての人間が一様に同じ道を歩いているのではなく、そこに霊的成長度の差があるし、肉体の“行”を行ってから精神性の“行”に入るのが“一二三”のオーラの仕組みの秘密であることも既に幾度となく述べているが、まず人間は生業(なりわい)において肉体(月(ツキ))と低い精神性、自我までの心(靈)を発達させ、それから“上”が課す試練なり“行”なりにおいて“一”=智性=1番目のオーラの拡大の“行”に入っていくが、それがまたS会=紫光会最後のローム霊訓講話で太霊が述べられた人生という生きている間の進化のプログラム内での右往左往と左往右往でもある。
右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)

 次回も、神が人に望むであろう“精神の完成”という点で、第五話を読み解くこととする。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第五話 四方の祈り 西 Kellyさん的解釈“その二”


 さて、太霊は第五話で“慈愛”について、次のように述べていらっしゃる。

人間は自分のことばかりでなく、他の人々の精神と肉体との完成をも併せ祈るべきで、これが慈愛というものである。

この西方のことを一番多く説いているのが仏教であるが、これを要素として一つの宗教が成り立っている以上、この西霊は一つの道の中にあるもので、この道から分れたいろいろの教えが宗教となるのである。

 著書になった前のブログ、そしてこのブログで、真の進化は、霊的成長、神格化に向かうことであることを幾度となく述べてきた。 
そしてそれについては、現時点の平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)で、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を起こしやすく、自我の肥大した人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、願い、祈り、が、恨みの連鎖の霊的干渉の元になっていることを述べてきた。

だが、如何に○○○大先生の著書を読もうがこのブログをみようが、このこと気付く人はごく少数であり、そのごく少数しか気づかない理由は、気づかない人の進化過程が自我の確立=固定化だからである。
要は自我中心の心(靈)は、自我より“上”の振動を心(靈)(ヒ)の構成要素としてあまり持っていないし、まだそれは動物に近い進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもある。 いい換えればそれは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、本能から自我までが心(靈)(ヒ)の構成要素になっているからである。

それゆえ、先に指摘した平均的地球人は、自我より“上”の振動による思想、それ由来のことで書かれた文章とは感応しない、ありていに言えばただ文章を読んで何も思わないに等しい、またそれは、低い人は低い人が書いた文章と感応する、そういうことにもなる。
(だから○○○大先生は<6><7>の出版を見合わせている)

それで、心(靈)の進化は真の進化なのだが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みにより、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動、この人間が分類した心(靈)(ヒ)の動きのどの部分が発現するのかが大事、しかしこのことを説明しても大概の人は先に述べたように理解しがたいものでもある。
 だからこそ“上”は、太霊がおっしゃったように“これを要素として…中略…この西霊は一つの道の中にあるもので、この道から分れたいろいろの教えが宗教となる”のであり、“これが慈愛というもの”そして“自分のことばかりでなく、他の人々の精神と肉体との完成をも併せ祈るべき”…人間はこう在らねばならないと述べられている。
 それで、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”ということは、先に述べたように何度も述べており、それが地球人が意識しなければならない本当の進化であり、“慈悲”と“慈愛”という心が発現したならば、ローム太霊講話集 第二話の“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”の“神の気持”と“神の心”に相当することであることに気付かねばならないし、そう思う根拠はこの文の前の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であり、これを顕現したのが今後=アセンション後の事象である。
それで当然のことながら、平均的地球人の進化の程度、自我の確立=固定化、自我の肥大した心では、見せかけの言葉だけこのことを述べる人もあるだろうが、それは以前、
Kellyさんと農業好きの社長婦人、K地M美はんとの会話で取り上げたことがある第五十七話 行業一致の一途の努力の“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”に相当するものである。 
またこの低い事例の具体的なことが、
この記事で述べたことであり、自称だれだれの弟子を名乗り高い霊言が書いてある本を綴じ糸がとれるまで読んだとしても、霊的成長度が低ければ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いしかしないし、またその低い心(靈)の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、自分の欲望を充たすこと、低い自尊心と功名心を充たすこと、(通貨としての)金と快楽に執着する、これらが中心になるものである。
(ちなみにこの人と○○○大先生は30年ほど前に某所で会ったことがあり、二回目にあった時に先輩先輩と祭り上げられ、これはただ肖る(あやかる)とか利用しようとしているのではないかと思ったので、○○○大先生はこの人を避け遠ざかった覚えがある)

 話を戻し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)というのは誰でも持っている。 それは低い進化過程であるし、誰もがそれを通り越していくものである。 また自我より“上”の心である“慈悲”と“慈愛”を発現するのには、自省(胸の磁性“十”)の“行”、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることをしていくし、そして智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”という心の動きをこの事象に顕現していくものである。

 このことをよく理解して今回取り上げた文章を読み、またそれが第五話に述べられている“人間の精神の完成”に近づいていくことであり、それが進化の筋道=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、今回述べた霊的成長度の高い低いは“精神の完成如何による”のであることを、今後=アセンション後の“創造”を託されるべき人はよく知っておかねばならない。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第五話 四方の祈り 西 Kellyさん的解釈“その三”&第五話の総括


 この第五話で太霊が述べていらっしゃる最も重要なことは、今の地球人に、(“役員づら”の手法により言葉だけが先行している感がある)霊的成長ということをよく解れ、ということであり、それがまず、冒頭の“西霊の根本は、人間の精神の完成と肉体の完全な発達とを願う”であるし、この“精神の完成と肉体の完全な発達”という言い回しは、平均的地球人が未だ精神の完成など程遠く=霊的成長度が低く、肉体の完全な発達にも程遠い=霊的成長のための器すらしっかりしていないのだということを、よく知らなければならない。
 ちなみに霊的成長のための器である肉体をしっかりさせることにおいても、平均的地球人は美食に酔い肉食も平気、血糖値が高いとか高血圧を解決するのに自分が努力して解決することなど考えずサプリメントを多用したりもする、そして酒を飲みタバコを吸う、あるいは美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が素晴らしいと思ったり…etc.相当ダメな器=肉体(月(ツキ))であることを指摘しておくし、それらを求める心は、てんで低い霊的成長度なのは言うまでもない。

 それで今述べた“未だ精神の完成など程遠く”に関して、太霊は“人間は健康な間は体のことなど忘れて外の事に取り紛れている…中略…心の平静を失う…中略…精神の完成如何による…中略…今仮に足が片方しかなく両眼が潰れていながら尚且つ正しい考え方の出来る人間がいるとしたら、その者の精神は完全に近いものと認めてよい”と述べられ、本当の人間の完成は心(靈)(ヒ)にあるのだということを示されている。 
またこのことを強調する意味で“本当を言うと、肉体の足のない所には幽体の足が生えてくるし、その幽体の足には肉を付けることも出来るのであるから、人間の真に迫った祈りというものは、そこまでゆかないといけないのである”という文言で“人間の真に迫った祈り”は、自分の肉体=自分の心(靈)ではない物(物質と感じ(感じうる振動)、いわゆる外側(外国と幽界)の事象の事象を自らの心の動きで“創造”する(思惑の顕現)、そのことまで述べていらっしゃる。 そしてそれには“どんな病気に罹ろうと、決して治らないことはないのであって、ただそれには常に言う間断なき祈りが必要”の“間断なき祈り”、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と成し遂げる意志、要は心(靈)(ヒ)の動きということが必須でもあるし、またそれは“精神の完成”ということにつながっていくものと思う。

 また“精神だけは人間の力でどうにもならないが、神と名付ける人間以上の細かい波動の存在は、それが出来るのである”とおっしゃられており、この“神と名付ける人間以上の細かい波動の存在”の“人間以上の細かい波動”を自分に獲得すること、それが進化=霊的成長、神格化に向かうことであるが、それが“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、肉体組織の結晶化(“玉(ぎょく)”)は肉体(月(ツキ))の磁極性の強化と変容となり、これが“上”から注がれる荷電粒子の取り込みとなり、さらにこのことが“肉体の完全な発達”の意味であると(これを書いている○○○大先生が今まで“行”やってきたことを顧みて)確信するし、また“上”からの荷電粒子の取り込み、それが“日止、霊止”の表記の意味であり、これは人間が“行”をする根拠、理由でもある。
(だが、形骸に成り果てた宗教のトップ、あるいは宗教の開祖などは、このこと、根拠、理由に気が付いていないし、当然のことながら説いてもいない)

それと“神と名付ける人間以上の細かい波動の存在”である“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、究極微粒子の発振、発信が、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)であり、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(向かって左から右に筆を移行する、日足(ひたり)から砌(みぎり)、“思惑の顕現”=現象化)の意味でもあり、さらにそれは“創造”の“主(ヌシ)”から被造物に対しての“慈愛”でもあるし、また愛の元字である炁、S会=紫光会の真言の炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“”は、低振動化して、人間が認識しうる、空、無、光、という振動となり、それが(まこと、真固止)の在の表れ〈〉ということでもある。

(ちょっと蛇足になるが、これら高い振動の具体的な取り込みの“行”が太陽凝視である)

 さらに“人間の精神の完成と肉体の完全な発達”において、先に述べた肉体組織の結晶化、“上”からの荷電粒子の取り込み、自らの心と肉体に“創造”の“主(ヌシ)”の愛(炁)を取り込んだならば、当然“人間は自分のことばかりでなく、他の人々の精神と肉体との完成をも併せ祈るべきで、これが慈愛というものである”ということになっていくし、ほとんどの地球人がこの心(靈)を持っていない、あるいは足りないからこそ太霊も“これを要素として一つの宗教が成り立っている以上、この西霊は一つの道の中にあるもので、この道から分れたいろいろの教えが宗教となるのである”述べられたとおり。 
何回も述べていることであるが、平均的地球人の進化過程は自我の確立=固定化の進化、そこから“上”、“慈悲”と“慈愛”という心の動きを発現し、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせ、それが第二話の“神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”の“神の気持”と“神の心”であることを先回述べたし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間ならば、このことを常に思うべきである。 

また第五話では“西霊の祈りの目標とする所は、第一に自分の肉体と精神の完成であり、第二に自分に関係のある神霊達の霊(みたま)の向上であり、第三に自分の一家眷属の肉体と精神の健全な発達であり、第四に財物の蓄積で、東で芽生えた仕事が南で伸びこの西で実って豊かな収穫(とりいれ)となることである”と述べられ、“西霊の祈りの目標とする所は、第一に”と前置きされて“自分の肉体と精神の完成”=霊的成長のための器である肉体を先に述べた“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化とせよ、そして“創造”の“主(ヌシ)”の振動、愛(炁)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“”、これが低振動化して空、無、光、これを取り込み(“日止、霊止”の意味)、=真固止のをこの事象に表わせ、顕現せよ()、これが“第一に”であり、神の子としての人間が神の思惑を顕現する事象の“創造”をするなら、まずこのことがしっかり理解できていなければならないし、ローム太霊講話集の前書きに述べられているように太霊が日本に来て紫光会を発足させたのは、今後=アセンション後に間に合う心の在り方&霊的成長度の人間を増やすことが目的であったと思うし、それが“精神の完成と肉体の完全な発達”の言葉の裏にあるということだと思う。

そして第五話の解釈で取り上げなかった以下の文言は、しっかり読めば意味が通じるので解釈の要は無いと思う。
ただ瞬間的に物事を完成させることは神以外には為し得ない
西霊の各主神に対する祈りについて簡単に説明する…中略…前の三神を統率されると共に、ここは自分のことではなく、自分に関係の深い神霊達の霊(みたま)の向上と、家族や近親の肉体、精神の完成とを願う所である
神の子である人間に出来ないことはないという信念を持って、神に通ずる一瞬を得るよう不断の祈りを捧げるならば…中略…四分間を一心に神に祈っていると、その間に一瞬の合致が得られる…中略…その願いは曲りなりにも必ず聞き届けられることになるであろう

 次回のこのカテゴリーは、「第六話 四方の祈り 北」に入ることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 Kellyさん的解釈“その一”


今回からローム太霊講話集の「四方の祈り 北」の解釈に入っていきまんねん。

 まず、この第六話を読んで思うのは、思わなければならないのは、太霊がこの第六話の文末で使っておられる“完全なる人間の運営”という表現であり、その“完全なる人間の運営”という表現を見て“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である太霊は人間に何を示そうとしているのかを、太霊より“下”(低い心(靈))である自分たちは、よく考えなければならない。

 それは、自分たちは、どうするべきか、何を願うか、その願いは理(天の理(ことわり)、法則性)に適っているか、そして自分たちはどう行動すべきか=どういった思惑を持ちそれを実行に移すのか、それは要約すれば、「自分はどう在るべきか」ということでもある。

 また今述べた“その願いは理(天の理(ことわり)、法則性)に適っているか”を自分が分かるには、“創造”の法則性としての“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”をよく解って自らの認識(悟り、幸取=さとり)としていなければならないし、それが人間と動物の違い、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の違いでもある。 
そしてその違いは霊的成長度の違いであり、霊的成長度の低い目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で、この世界は“創造”されているが、それではこの世界は崩壊することを○○○大先生は著書やブログで幾度となく述べてきた。

 その低い進化程度の心(靈)(ヒ)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、その心(靈)の動きと行動は、神の思惑に沿わないのであるからこそ、太霊は“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる”と、とても解りやすく説いておられるし、これを要約したのが“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)でもある。
 
 それで今取り上げた文の“人間のために”…“尽さして下さい”と、神に願うとか、祈るとかの人は、ここまでのローム太霊講話集解釈で何回も指摘してきたとおり、とても少ないのが現状であると思えるし、またそこに平均的地球人の霊的成長度をうかがい知ることができる。 

 敢えて述べればその低さは、天の僥倖、現世利益しか求めない、太霊の言葉を引用すればぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)、自分にとって都合の良いことしか願わないとかというまったく勝手なものであり、“下”である自分たちが、自分より“上”である神さんに物事を頼む、祈る、のであるならば、それは、
この世界そのものが良くなっていくことにつながらねばならず、
多くの人が霊的成長することにつながっていかねばならず、
願って祈る自分は自分の霊的成長という要素もその願いと祈り(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))でなければならず、
それがあって願いというものは達成されるべきであるということなのだが、一般の人にその認識はあまりないと思えるし、自分の目先の利益や自分にとって都合の良い願いしか祈らないその低い心の動きは低いのだということを多くの人、平均的地球人の進化過程の心(靈)の人は認識しなければならないと思うものでもある。

さらに自分たちの低さ、神の高さということを示唆した表記が“神が人間のために尽されるように……”であるし、この言葉に自分たちと神の関係をうかがい知ることができるものであるし、感じ取れるものであると思うのだが、仮に第六話を読んでこの言葉に何も感じないならば(読み飛ばしたならば)、自分たちの心の動きが低い、自分の進化程度は低いということを、よく知らねばならないものであると思う。 

 次回もこの“神が人間のために尽されるように”と、“人間としては自分の使命を完成さしてもらう元”について述べることとする。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 Kellyさん的解釈“その二”


 さて、前回指摘した霊的成長度の低い人が多分読み飛ばすであろうこと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である太霊の言葉に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないであろう文言、
神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる”の“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”これについて述べることとする。
 
 このブログでも前のブログでも一貫して述べている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心、それは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としては、腹の段階、“日月神示”の“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、ヨガでいう所のムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、ここまでの心(靈)の発現と動き、それが(自己を対象にしようが他者であろうが)観察して認識されうる自我という心である。
 
この自我の発現という進化過程は、人が神格化して独り神(ひとりがみ、日取り神)になるために必須の要綱でもあるのだが、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)のままでは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンション後の事象の“創造”に参加する資格はない。
 それで大概の地球人は低い進化過程でしかなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低いからこそ自分のことしか考えていない傾向が観られ、心(靈)(ヒ)が育っていない=たいして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していないからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあり、そこには、自我の肥大(“石屋の仕組み”)が見られるものである。
 
 この進化過程の心は、これまで何度も指摘しているように、神に対し現世利益しか求めないという低い認識があり、それは自分のエネルギーをたいして贖う(あがなう)ことなく自分に都合のよい結果ばかり求める(ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁の表記))でもあるし、また現世利益で得られそうな幸福感、それは低い欲望の達成だと思い込んでいるものであり、具体的には物欲と本能由来の欲望中心の心の動きが台頭しているものでもある。 そして進化程度の低い心であるほどそれ由来の薄っぺらい価値観しか持っていないものでもある。  

 また、現世利益しか求めない低い心の持ち主というのは、エネルギーを購わない、頑張らないで自分に都合の良い結果しか求めないという傾向が強い。
例えば、投機に手を出すとかそれで儲けることが成功者や勝利者などと思う、これは“上”が認める正当な報酬とは言い難いものであるが、それを行っている程度の低い人間にその認識はないであろう。 
 あるいは人間の霊的成長にとって必要でないか、霊的成長の足を引っ張るものを利用して商売をする、たとえば現世利益で人を釣る形骸の宗教、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が書いたスピリチュアル本、本来の意義を見失い形骸の美と形骸の健康を求めさせるヨガ、たいして効果のないサプリメント、例えば自分が改善しなければならない生活習慣を省みないで血圧を下げるとか血糖値を下げるとか、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢をみさせる、それはその人が努力しなければならないのだということを忘れさせてしまっていたりもするのだが、そんなもので商売をする輩、そしてそんなもので自分の体のことを改善しようとする輩、あるいは、低い功名心を満足させるためにブランド品で商売をして、そんなものに価値があると思い込む低い人を対象にそれを買わせるとか、形骸の美を求めさせようとする美容、あるいはインチキダイエットを推奨するとか…例を挙げればきりがないくらい多いが、そこには甘い考えと低い功名心と低い自尊心という進化程度の低い心の動きがみられるものである。 
 
 話が前後するが、今指摘した“役員づら”によく観られることとして、自分を誇示するために権威や力のありそうなものに肖る(あやかる)ことをして“虎の威を借る狐”のようなことをする、これは頑張っていないとか、たいして“行”していないとか、自分の人生における苦痛や苦悩が自らを育てるための試練であるというある程度深い認識を持っていない人ほどこの傾向は強いものであると思うし、こういったことが低いことなんだという認識すら、(自我が肥大して自分だけが大事とか自分は素晴らしいとか思いたいからこそ)たいして持ちえないものである。 
 さらに情けないことに今の平均的地球人は心が低いからこの“役員づら”の手法に嵌りやすい、それは自分たちの人生に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)認識しか持っていない、先に指摘したように人生における苦痛や苦悩が自らを育てる試練だと認めたくないから逃げる、そして神頼みをしたり形骸の宗教やえせスピリチュアルの甘い言葉に酔ったり雰囲気だけを楽しんだりもする。

 それで今指摘した事柄は、“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”ということになっていないし、少し先走るがそれは“完全なる人間の運営”には到底程遠いものである。

 重複するが“完全なる人間の運営”というのは、太霊が述べておられるように“人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元”ということが理解できていなければならず、この文言の“これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元”の“”が、“北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたい”と、太霊が述べておられるのだが、その意味をよく理解しなければならない。 
 また、人としての存在の意味を示唆した“人間としては自分の使命を完成さしてもらう元”ということをよく考えなければならない。
 なら人はどう在るべきか、それは第二話の、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆した文、“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であり、これに続く“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”の、“神の心を出せばよい”をよく知らなければならず、解らねばならず、そうしなければならず、それがまた第六話の“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”という文言の要である。

 それで、このことが理解できない、この太霊の言葉に自分の心が感応しない、この言葉の意味が分からないのは、自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い心、低い進化過程の心であることは、容易に判るものである。

 その低い心(靈)の発現の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)とその心の動き、その低さを知ったうえで、自分の生業(なりわい)の在り方を考えるものであり、そして本当に神と人間の関係を理解したいならば“行”に入っていくのだが、その生業(なりわい)と“行”の在り方、要は、自分たちは何をめざし何を実行に移すべきかを、自らが考えることができるものである。
 また、考えなければいけないことでもある。
 そしてそのこと自体が“自分の使命を完成”につながることであり、さらに“完全なる人間の運営”という太霊の言葉の意味を鑑みて悟るべきことであると思うし、悟らなければならないことであると思う。

 さらに、この“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”に関して、太霊は“人間以外の者の働きをその中に呼び出し”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による霊的干渉)、そして “現に見える運びと見せられるその力とを綜合”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により自らが観察しうる事象)と述べておられるので、次回はこれについて解釈を述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。 


“ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 Kellyさん的解釈“その三”


今回は、前回の文末で述べたこと、“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”、これを前提に“人間以外の者の働きをその中に呼び出し”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による霊的干渉)、そして “現に見える運びと見せられるその力とを綜合”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により自らが観察しうる事象)、これについて述べることとする。

まず最初に“完全なる人間の運営”という文言を見て、自分たちは何を思うか、何を意識すべきなのか、が大事である。 
この言い回しは言われた対象が仮に“完全なる人間”ならば、こんな言い回しをする必要性はなく、お前たちは不完全なのだからこういう説明をしているのだという太霊の思惑を読み取るべきであり、同様に“自分の使命を完成”という言い回しも、当然のことながらこの言い回しをされているローム霊訓講話に出席した人、S会=紫光会の会員、あるいはローム太霊講話集を読んでいる人を対象に“自分の使命”が“完成”していない、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から観て未熟、あるいは、完成の方向性に向かっていない、だからこそあえてこう述べているのだということを読み取らなければならない。

それでは“完全なる人間の運営”“自分の使命を完成”とはどういうことなのか?

その指標となるべき太霊の言葉は、前回と重複するが“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”この人間に尽くす自分というのが“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であり、このことも前回と重複するが、第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”につながっていくことであるし、さらに太霊は“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”と述べられている。
 よって自分が“完全なる人間の運営”“自分の使命を完成”を目指すとするなら(誰もが目指さなければならないのだが)“神自身の本当の気持ち”を考え深く認識し、それを理念として“神の心を出せばよい”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)とせよ、ということであるし、その具体的なこととして第六話で“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”と述べられ、こう思え、それを意識せよ、と説かれていると思う。
 その点において、“自分の使命を完成”を考えるならば、当然のことながら“自分の使命”を自分の生業(なりわい)や“行”に見出すことができなければならない。 
 またその“自分の使命”は、神の思惑、先に述べた“世為人為”とならなければならない、そうでなければ“上”は認めない、神に認められる人ではない、“完全なる人間の運営”には程遠いということでもある。

 それで世の中=今現在の事象では、あなたのためにとか、人の為にとか、こういった耳心地の良いことを述べながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心を行使して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして自分の私腹を肥やしたり、低い功名心や自尊心を満足させている霊的成長度の低い人間が大多数であり、それを太霊は、以前このブログで取り上げたことのある 第五十七話 行業一致の一途の努力 で“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”と指摘されており、そして“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである”と述べられていらっしゃるが、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ほどこの文の“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げている”に心惹かれるであろうし、自分の願い、祈り、これらがこんなふうに簡単に実現すれば嬉しいからこそ現世利益の形骸の宗教を容認したりインチキ占いや悪魔のささやき中心の低い憑依現象などによる似非(えせ)スピリチュアルに嵌ったりもするだろうし、こんな事例はたくさんあり、それらは“役員づら”の手法であることを幾度となく指摘している。
 しかしそんなことではダメで、そういった人間は“上”は認めないからこそ“普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ている”(正当な報酬)、常にこう在らねばならないものであり、そういった人間ほど俗にいう誠実さや律義さを感じるものであるが、その誠実さや律義さは当然のことながら“世為人為”につながっていくものである。

(第五十七話については
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話の記事を参照のこと)


またこのことは、第三話の最後に述べられている以下の文を読むと、今述べたことがよく分かると思う。
どうしたら現在の生活が幸福になるかということであって、これを実現するために人間はあらゆる努力をしている…中略…それとは反対に、働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者が中々多い
そしてこの文に続く
この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである…中略…よくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”。
 
この文の“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”というのは、いうまでもなく低い霊的干渉であり、その霊的干渉を呼び込んでいるのは、自分の低い心(靈)の動き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心の動き、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることをよく認識せねばならない。
その低さ、自分の心の“下”、これを認識すること、これが出来なければ“上”が認める“自分の使命を完成”には成り得ないだろうし、またそれは“完全なる人間の運営”には程遠い…当たり前である。

 また、自分の心の動きの“上”“下”を見出すには自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)(“自分を観察する自分の確立“)が必須であり、それにより自らの心の“上”と“下”を見出し、それが判ったならば“下”(低い心(靈))の心の動きを自分に許してはいけないと思わなければならないものであるがこれができ得る人間はおそらくごく少数でしかなく、またこれが出来る人間は、次の“創造”を担う資格を有している=今後の事象であるアセンション後に移行出来得るものであると、今まで幾度となく述べてきている。

 話を戻し、この文で述べられている“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”こういうことが、自分の欲望という発振、発信によっておこり、だからこそ“背後を見極め”これそのものが自分の心(靈)の動きによって感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する存在の高低と“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の方向性を見極めることと同義。 
 このことが先に述べた自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)(“自分を観察する自分の確立“)でもある。 
 そして今説明したように、自分が“自分の使命を完成”“完全なる人間の運営”、そしてそれに必須の要綱である“神自身の本当の気持ち”を考え、それを理念として“神の心を出せばよい”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすならば、“人間以外の者の働きをその中に呼び出し”=自らの“上”の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的干渉があり、当然のことながらそれは“上”が認めることであり、そして “現に見える運びと見せられるその力とを綜合”、この文言は一読しただけでは意味が分かりづらいと思うが、これは、自らの“上”の心の息吹、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、自らが観察しうる事象も、自分の“上”の心、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)) 
の心の動きと、それに感応する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的干渉により“綜合”された事象の顕現ということに成り得る、いわゆる“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の無い事象を“創造”する結果となり、それを顕現するのが人(日止、霊止)の使命であると思うし、その根拠たることを太霊は、第二話で“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”と述べられておられるのであり、よって人はそれを目指さなければならないからこそ太霊は、T霊媒=竹内満朋先生の物理霊媒としての力でこの世界に霊訓を垂れ、その太霊の思惑は人の霊的成長であり、さらにそれは人が真の幸福を知り、それを顕現させるには自分の心の動きが大事であるということを教えている。 
 このことは、S会=紫光会の会員は当然のことながら、ローム太霊講話集を読んだ人も含め、今述べたことを念頭において、太霊の説いた人の在り方、今回取り上げている第六話では“世為人為”ということをよく鑑みるべきである(でなければ、太霊がS会=紫光会を設立しローム霊訓講話を行った意義、それとT霊媒=竹内満朋が太陽凝視を教えてくれたKさんと○○○大先生に小声で(交霊会の度に)「毎回死ぬほど苦しい」と述べられたその思い、この二つは報われない)。

 それで今回はかなり複雑な言い回しになったので、その要旨を簡単に述べるなら、自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は必ず現津(あきつ)、観察され得る事象に様々な霊的干渉と共に顕現するということだが、そこに太霊の述べられた“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”を考え“世為人為”を理念とした事象の“創造”をせよ、ということである。

 次回は、第六話、および第一話から第六話までの総括とすることとして、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 Kellyさん的解釈“その四”&第一話~第六話までの総括


 第六話の冒頭で太霊は“北神は、…中略…最高の府と思えばよい”の中で“東現、南幽、西霊を統括される、言わば総本部”そして“神界の外郭に在って霊界、幽界、現界のあらゆることを司(つかさど)られる”と述べられ、また第六話の中ほどで“北の根本は、東現、南幽、西霊、北神の各神々が活躍されるその力の源泉”と述べておられている。 
 そして前後するが“ここの主宰神は北神太極紫微太神と称え、この北神ばかりでなく東、南、西の各太神をも統率されている”と述べておられるし、第六話の終わりの方で“その力の大本は勿論北神太極紫微太神に存する”とも述べられている。 
 これは、太霊が述べられている北というのは“創造”の“主(ヌシ)”(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉))であり、宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)でもあり、そこから送られると(人が)認識している(超高振動が低振動化して)電磁波であったりもする。
(宇宙の中心と認識されうる=星々は北極星を中心に反時計回りに日周運動をする) 
そしてその電磁波を、肉体(月(ツキ))の磁性で)止め、心(靈)(ヒ)を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしているのが人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))であり、“上”からの荷電粒子を真に固く止めることを指す表記が、これまで幾度となく述べている古神道の“日止、霊止”でもある。 そのことを簡単に示した画像を以下に貼っておく(既出だが)。


宇宙の中心と、生物一個体の縦の磁束を大局的に観る



(また、天意を仲介して増幅して送っているのが太陽でもあるし、それを取り込み、生体内電流に変換して“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、ことに目上(めうえ)の脳の進化を促進する“行”が、太陽凝視でもある)

 また、次のようにも述べられている。
ここの主宰神は北神太極紫微太神と称え、この北神ばかりでなく東、南、西の各太神をも統率されているのであるから、一般に天の神と言われる、例えば、キリスト教の父なる神、仏教の大日如来、回教のアラーなどは凡てこの神を指しているわけで、支那で天帝の座を北極紫微宮と名付けたのも謂れのないことではない
 この“北神太極紫微太神”の“北神太極紫微”と“支那で天帝の座を北極紫微宮と名付けた”の“北極紫微”の表記の意味は、“”(ローム太霊の“太”でもある)は、豊かに大きい(太陰・太鼓・太山・太陽)、 はなはだしい(太古・太平) 第一、はじめ(太極・太子・太初・太祖)尊い者に添える語(太公・太后・太閤)、“北神太極”は先に述べた日周運動の中心、北極星の在る方向、“”は(物質を物質として観察するための)可視光線の一番細かい波長、同様の意味で微細の“”が当てられているのだと思う。 
 それで“天の神”“父なる神”については、インドやヨーロッパ語族時代の宗教に“父なる神”という概念があり、父なる神di̯é̄us ph̥até̄r(あるいは*di̯ēus-patēr、*t'yeu(s)-phH̥ther-)は、正確には、父なる天空の意味であり、父性というのは男だから日足(ひたり)の極性、伊邪那岐(いざなぎ)と同義であると思われる。  
 “大日如来”は 金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の中心に位置して描かれている。 ちなみに曼荼羅は(サンスクリットのマンダラmaṇḍalaの音訳)、心髄、本質を意味し、接尾語のlaは、得るの意があるので、曼荼羅は本質を得るという意でもある。 
 “回教のアラー”は、イスラムにおける唯一なる神の呼称である。 
要はこれらの表記そのものが“上”の高い振動を取り込み、そして本質を顕現せよ(真実=真固止の事象を顕現せよ)ということでしかないし、それは豊かで大きく貴いし、生命(生きる使命=存在理由)の極まりといえ、さらにそれは日足(ひたり)=思惑であり、それを顕現するには高い思惑、高い振動、“紫微”であるということ。
 その意味で“北神ばかりでなく東、南、西の各太神をも統率されている”と述べられ、さらに“北北神”については“北神太極紫微太神の直属として、北東、北南、北西の各主神を統率されると共に、宇宙全体の運営を掌握されている”とまで述べられているものである。
 
 その“北神太極”と“紫微”、そして“北の根本は、東現、南幽、西霊、北神の各神々が活躍されるその力の源泉”、それと“前に話した東現の商売の繁盛と裕福な生活、南幽の天寿の全うと運命の転換、西霊の肉体精神の完成と自分に関係ある神霊の霊(みたま)の向上と近親の幸福、これらの願いを満たしてもらう原動力もここから出ている”それと“その管轄の方向に祈るのが早道なのである。その力の大本は勿論北神太極紫微太神に存する”、これらのことを鑑みれば先に述べた“創造”の“主(ヌシ)”(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)ということも理解でき得るものである。 
 それで、この“上”からの荷電粒子を受けて育っているのは、磁束を発現している(磁束を発現しているからとも言い得るが)すべての生命(生きる使命=存在理由)である。  

(※ 補足として 物質(と認識されている振動)で構成されている肉体(月(ツキ))、物質はすべて電荷を持っているから磁束は発現するし、肉体(月(ツキ))を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であっても、霊的存在はその霊が占める空間に電気容量を持つから、磁束を発現するものである)

 話を戻し、肉体(月(ツキ))を持った生命として地球で一番進化している人間の存在の意義と使命は、神の“思惑の顕現”であり、その存在の意義を考えるならば、このことは何度も述べているが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心が台頭している平均的地球人が思わなければならないのは、第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”と、これに続く“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”であり、またそれを第六話で“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”と具体的に太霊は述べていらっしゃるものである。 (“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉))
 またこの“神が人間のために尽される”は、“創造”の“主(ヌシ)”が休みなく振動を送り続け人の成長を願うという無償の愛(炁)であることに気付くべき。 それは第二話の“同じ太陽であり同じ人間であっても、その見る時の心によって、自ずとこの宇宙を照らす太陽が無限の愛と慈悲との象徴であることが分かってくる”の意味合いも、今述べたことを鑑みれば、意味が理解できると思う。
 それで、北の意義、今述べた天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、“上”からの振動を止め、人が霊的成長することをよく認識することが大事。
 そしてこのことを真に理解できたならば、ここまでの第六話の解釈で述べてきた“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”、そして“世為人為”を理念とした事象の“創造”、自分の存在の在り方ということだが、これについて解ってくるものと思う。
 だが、このことが理解できない低い霊的成長度の心(靈)(ヒ)、それは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心の動きが恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し、それを目下(めした)中心の心の動きゆえ=自我の肥大(“石屋の仕組み”)で増大させて、自分たちの首を絞めていることに気付かない人間が多い、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きでは真の幸福を認識できない、天の理に沿った生業(なりわい)と“行”を行っている人間が少なすぎる、平均的地球人の霊的成長度は低く、その低い心(靈)の動き=祈り、願い、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が“創造”している事象は“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現ではない…などと様々な言い方をして平均的地球人の低さを指摘してきたのだが、だからこそ太霊は“完全なる人間の運営”という言い回しで、(神が認めうる)霊的成長度の高い人間のことを示唆し、そして“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”という、自分たちの在り方の指標を具体的に示しておられるのだとも思う。 
 また“人間のために尽さして下さいと願う”というその祈り、願い、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の達成、いわゆる“思惑の顕現”=現象化は、“精神統一をしてそれら身近な神々と交渉することになる”と述べられている。 
 この“精神統一”ということ自体は「第一話 物と心の満足を得る法」の解釈“その二” で述べたが“肉体と幽体と霊体と神体との四つから成り立っているのであるが、この四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一”であり、それは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、これらをすべて統合せよ、そうでなければ神の代行者としての“思惑の顕現”などできないに決まっているし、大半の地球人は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の認識とそれに由来する願いと祈り(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))を自分の心の動きとしているからこそ、この“四つの体が統一されてその統合した力……真の精神統一”=本能から智性(神性)まで統合しろ、そしてそれによる“身近な神々と交渉”ということを考え、第一話のタイトルで述べられている“”=法則性ということを深く考えるべきである。
 それでこれに続く“初めのうちは雑念が次々起こって容易のことではない…中略…その浮ぶが儘に任しておくと次第に考えるのが嫌になって、いつか統一に落ち込んでゆく”は、“雑念というものは同時に二つとは考えられない”が肝要で、自分が定めた目的に集中せよ、しかもその集中は“真の精神統一”にだんだん近づき、そうなればその(大一話のタイトルの“”に適った)願いの達成、“思惑の顕現”=現象化となるという秘訣であるし、それが出来れば“人間以外の者の働きをその中に呼び出し”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による霊的干渉)、そして “現に見える運びと見せられるその力とを綜合”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により自らが観察しうる事象)を自らの心が“観察と認識”でき得るものであるということ。

 それで第六話の最後で“東、南、西北の話は一応終わりとする”と述べられているが、これは“東、南、”と、“西北”(句読点を使っていない表記)という言い回しが、“東現、南幽”の振動と“西霊、北神”の振動の違いを示しておられると思う。 それは東と南は“東現の商売の繁盛と裕福な生活、南幽の天寿の全うと運命の転換”で、これは外側(外国と幽界)の事象のこと、砌(みぎり)の極性といえ、またそれは現界、幽界、霊界、神界、の“現、幽”と分類されうるものでもある。
 それに対し“西霊の肉体精神の完成と自分に関係ある神霊の霊(みたま)の向上と近親の幸福”と“北の根本は、東現、南幽、西霊、北神の各神々が活躍されるその力の源泉”であり、それは高い愛(炁)とも言い得るが、この二つは日足(ひたり)の極性であることに気付かねばならない。
 それは人の心(靈)(ヒ)が思うこと、幸福を願うこと、これには霊的成長度における段階があることと、どんなに霊的成長した人間でも低い心(靈)の動きによる満足というものはあることを示しているのだが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すのが人間の使命であり、進化した心(靈)が創造しうる事象は、第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、これを顕現するのが第六話の“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う”であることを多くの人間が考えるべきである。 
 またそれをしなければこの恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたこの世界は変わりようがない。
 だがこの世界は霊的成長度の低い人が多数、いわゆる“玉石混交(淆)”と(未刊行の)<6><7>で説明した“玉(ぎょく)”(結晶化、真に価値のあるもの、自省(胸の磁性“十”)した心(靈)=翡翠(ヒスイ)の“翠”は“翆”(羽と九と十)、構造色の意味合い)と呼称するに値する人間はごく少数で、低い人間が願うことから高い人間が願うことの違いが当然あり、それに対応したのが東→南→西→北であることを知り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間が願うこと、進化した人間が行うこと、その事象の“創造”、“思惑の顕現”=現象化は、先回までの第六話の解釈で述べた“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”でなければならない。 
 またこれを考え、自らがそれを実現するにあたって、第二~三話で述べておられる“天の神、地の神と言われる正統な神の操作”をよく知り、第四話の“間断なき修行”と“不断の行を積む”を実行し、第五話で述べておられる“精神の完成如何”と“慈愛”という心の動きを知る。 
 これが“完全なる人間の運営”=神が認める生業(なりわい)と、神が認めうる霊的成長度を獲得する“行”を行う指標であり、人間と神の関係を示し、自分が何のために存在し生きている間に何をなすべきかを指し示していることであることを述べ、第一話から第六話までの簡単な総括とする。

 次回からのこのカテゴリーは、第七話~第十六話で述べらている「死の前後」と「死後の種々相」(生きている間と死後のこと、それと人の心(靈)(ヒ)の動き)について解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第七話~第十六話「死の前後」と「死後の種々相」の解釈に入る前に述べておきたいこと


 まず述べておかねばならないこととして、平均的地球人の死に対する認識は低すぎる。 
その低さゆえの発想、死んだら無になる、死んだら(自分の現界における行いの善し悪しに関わらず)天国に行ける(甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えでもある)、死んだら楽になれる、などというまったく低級な認識しか持っていない人も多い。 

それと(霊的成長度の低い)一般の人の既成概念では、あまり受け入れられないことだろうが、死ぬことは霊的成長の一環の側面がある。 
さらに、それぞれの死に方には、その人が背負ってきた因縁、恨みの連鎖の霊的干渉の影響、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の入り混じった生き方によるし、生き方は“思惑の顕現”であり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。

また、現時点での平均定期地球人の霊的成長度では、人は死ななければこの世界から卒業できない。 換言すれば平均的地球人の霊的成長度では、死ななけれ、違う振動の事象、幽界、霊界、神界、を、認識できないからである。 

それで、 今述べた言い回しの裏には、この事象、肉体(月(ツキ))を伴って観察している現津(あきつ)、観察され得る事象そのもの、現界のことだが、ここは、低い心(靈)(ヒ)の成長を行っている世界であるということを前提にしている。 

さらに、平均的地球人の認識では、霊など無いと思っている人も結構大多数である。 たびたび述べてきたことではあるが、霊とは何かについてごく簡単に少しだけ以下にまとめることとする。

 なぜ霊というものが発現するのかについては、○○○大先生が“改”で説明した通り、霊は荷電粒子の回転であり、単細胞生物から多細胞生物、そして左右相称動物、心臓、目、脊椎、その他の骨、神経の発達など、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは肉体(月(ツキ))の磁束の強化と変容(日月の巻で解釈した自凝(おのころ)の仕組み、タンパク質の高分子化)であり、その磁束由来のローレンツ力で“上”から=宇宙の中心から&宇宙背景放射&あまたの天体&地球の太陽などから送られ贈られる振動の取り込みの変容があり、それがあって心(靈)(ヒ)は育ち進化している。

(また、心(靈)(ヒ)が取り込んでいる振動の高低により、“観察と認識”しうる事象の違いがある)

 またその送られ贈られて来る振動というのは、いうならば、高い振動であればあるほど神の思惑を含んでおり、だから荷電粒子を取り込んで心(靈)(ヒ)を発現させ進化している生物というものは、神の子であるといい得るものでもある。
そして送られ贈られて来る振動の取り込みがだんだん高い振動になる=進化したならば、生物は神の思惑を自分の思想とするものとなる。 

 それが生命の神格化である。 

またそれは、神が人間に何をさせようとしているのか、それは第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であると思うし、そうなるためには第六話の“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”が必須である。

  そして進化の段階というのは、今までの程度の低い平均的地球人の学問では肉体(月(ツキ))の変容中心の見方しかされていないが、“ほんとう”の進化の意義は霊的成長の過程であり、先に述べた肉体(月(ツキ))の変容、自凝(おのころ)の仕組みは、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階でもある。
その感応共振の段階で人は心の動き、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、を分類するようになったし、高い心の動きは動物にはなく人間にしかないことを知っている…が、そのことを真剣に考えている人間はごく少数であると思える。

 これからこのカテゴリーで、ローム太霊講話集の「死の前後」と「死後の種々相」の解釈をしていくのだが、これを読んでいる人には、今述べたことを念頭におかれて読んで欲しいものである。
 今述べたこと、これは太霊が、何を今の人間に教えようとしたか、今の人間は何を考えるべきなのか、それを知ったらどう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すべきなのか、これらのことを太霊はローム太霊講話集(ローム霊訓講話)を通じて、伝えようとしている、そう思うからである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集” 第七話 死の前後 自然死の場合 Kellyさん的解釈“その一”

 第七話の「死の前後 自然死の場合」冒頭で、太霊が、

人間が肉体を捨てて幽体となり現界から幽界に移る前後の状態や、次いで幽体を脱ぎ霊体となって霊界に入いる模様などについて、解りやすい話を続けてゆきたい

と述べておられる通り、今の人間が死についての知識をあまり持っていないし、死に対する認識が低すぎるから説明する、ということが前置きされている。

 そして人間は、肉体だけで存在しているのではなく、肉体、幽体、霊体、神体、という構成要素があることを太霊は説いている。 

その四つの構成要素、それは心の発現と動きに関わっているものでもあるし、さらに、事象の“観察と認識”におけることとして、外側(外国と幽界)の事象の事象しか見ていないか、あるいは、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”して、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を見ることが出来るのか、しっかり見据えることが出来得るか、それが、幽体と霊体の成長に関わっており、その幽体と霊体の成長という要素があってこそ神体が出来上がるものであり、そうなっていくならば(“日月神示”の表記にもある)“神界”=智性(神性)の場(フィールド)に、入れる(自分の心(靈)で、神界を認識することが出来得るようになる)のだというのが、○○○大先生の解釈でもある。

そして“観察と認識”ということに関して少し説明しておくなら、すべての事象は外側(外国と幽界)の事象だろうが内面とか内側(心の中と感じている事)だろうが、すべて自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)ていることにより認識する、要は心(靈)(ヒ)の中のことでしかない。 
これは少しだけ量子論の概念に近いが、現実と思おうが現実では無い空想だろうが、すべて自分が“観察と認識”を行っている何か、あるいはその対象は、自分の心(靈)の認識の中のことでしかないということを知るべきであると思う。
(この意味のことは未刊行の<7>の、

エピローグ 神の思惑と顕現…神聖な事象 でも述べたことである)

 よって、自分の霊的成長度によって、死んだあとに、幽界、あるいは霊界にまで行けるのか、が決定され得るし、換言すれば、認識しうる事象は自分の霊的成長度によるということになる。 
これは、現、幽、霊、神、どの場(フィールド)に移行しようが共通の法則性であると思える。

そして肉、幽、霊、神、これらは振動の高低の違いで認識されうるものである。 そして霊的成長というのは高い振動の取り込みと増幅、高い振動で心(靈)(ヒ)を構成する、そうすれば神に近くなるということでもある。

 余談になったが、今説明したいことは霊的成長度の高低ということであり、またそれは先に述べた心(靈)の発現の段階、進化過程に関わることであり、死んでからも幽体→霊体→神体と自分の心(靈)が認識しうる自分自身そのものが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくことを、太霊の言葉から読み取るべきであるし、きわめてありていな言い方をすれば、死んでからも霊的成長する、生まれる前からも霊的成長している。 だから、肉体(月(ツキ))を持って生きている間だけが成長の期間などという考えは、とても狭い視野のものの見方でしかないということであり、先に取り上げた太霊の言葉からそこまでのことを読み取るべきでもある。

 また、今述べたことを証明することとして、低い心、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)、そこまでの霊的成長度のまま死んだなら、それは、この世界を彷徨う浮遊霊、あるいは地縛霊、あるいは因縁霊など、この現界の何かに執着を持つ霊的存在となるし、その大半の低い霊的成長度の霊的存在は悪霊となり、その心(靈)(ヒ)の動きは、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)という仏教の言葉がとても分かりやすいが、これを簡単に説明すれば、

● 貪は、むさぼる、本能由来の行動、
● 瞋は、目をむいて感情をあらわにする、
● 痴は、白痴の意味、認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らないの意味、

であり、いうまでもなくその心=霊は霊的成長度が低く、換言すればとても幼い。 
 またその心の幼い状態の人間が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるともいい得るし、大半の地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるからこそ、悪霊予備軍ともいい得るものである。

 それで仮に、心(靈)が成長していて=ある程度霊的成長しているなら自省(胸の磁性“十”)し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知る、あるいは自省(胸の磁性“十”)した心=霊はこのことを知ろうとするものであるが、霊的成長度の低い心=霊は“理(ミチ)”を知らないか、あるいは無視して(自省(胸の磁性“十”)しない、“自分を観察する自分の確立”が出来ていない)いるから、欲望や恨みや妬みなど低い心の動きに囚われている。 またそれを自分に容認しているからこそ(智性(神性)無き心だからこそ)、悪霊になっているものである。

 また、悪霊が自省(胸の磁性“十”)すれば悪霊ではなくなる。
(悪霊が自省(胸の磁性“十”)する意味のことが古神道の“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、でもある)
 このことは第七話で述べられていないことだが、とても重要な事柄なのでこのことも念頭において第七話から第十六話を読み解くと良いと思う。

それと以下の太霊の言い回し、

人間は完全な寿命が終らないでも、一つの時が来ると自分の肉体を抜け出していかなければならない、ということは幽体がもうその不完全な肉体の中に存在出来なくなるからである。ただし今は自然死の場合について話しているので、不慮の死は例外として後に取り上げる

この、
一つの時が来ると自分の肉体を抜け出していかなければならない、ということは幽体がもうその不完全な肉体の中に存在出来なくなる
というのは
完全な寿命が終らないでも”と前置きされていて、それは“その不完全な肉体の中に存在出来なくなる”、これが“完全な寿命”を過ごすことが出来ない、この事象、この現界は、これが出来うる条件とは言い難いし、それが“不慮の死”であり、災害、犯罪、病気などのそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果であり悪霊が絡んでいることを読み取るべきであり、要は先に述べた悪霊予備軍が多いことと、それに感応する目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)しか持ちえない三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持った霊的存在が多いからであるが、○○○大先生の著書を読んだ人にはそこまで考えていただきたいものであるし、このままの世界では進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失いかねないから、霊的成長度の高低における区分け=アセンションがあるものでもある。

それで太霊は、当然のことながら人間が死んで悪霊になることを望んではいない、多くの人間が霊的成長していくことを望んでおられるからこそ、神格化への道を歩んでほしいからこそ、以下のように述べていらっしゃるものである。

幽体の離脱を楽にするために、人間が常に努力しているのが精神統一であり又信仰であるが、しかし 凡ての宗教が説くように、肉体を離れたからと言って直ぐにそのよい所へ行けるわけではない。大切なことは、人間が生まれてから死ぬまでの間に積み重ねたプラス (善行)とマイナス(悪行)との総計であって、それが少しでもプラスになっていれば善い人間と認めるべきであるが、誰しも聖人としての幽界入りは望ましいにしても、普通の人間は零(ぜろ)でもよいからマイナスにならないように心掛けて修行すればよいのである。その力は永遠に付き纏うものである

これは、だれもが心(靈)(ヒ)に刻んでおかなければならないことである(当たり前である)。 

今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第七話 死の前後 自然死の場合 Kellyさん的解釈“その二”


 前回“その一”で“人間は完全な寿命が終らないでも、一つの時が来ると自分の肉体を抜け出して…中略…不慮の死は例外として後に取り上げる”について、以下のように記述した。

一つの時が来ると自分の肉体を抜け出していかなければならない、ということは幽体がもうその不完全な肉体の中に存在出来なくなる
というのは
完全な寿命が終らないでもと前置きされていて、それはその不完全な肉体の中に存在出来なくなる”、これが“完全な寿命を過ごすことが出来ない、この事象、この現界は、これが出来うる条件とは言い難いし、それが“不慮の死”であり、災害、犯罪、病気などのそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果であり悪霊が絡んでいることを読み取るべきであり、要は先に述べた悪霊予備軍が多いことと、それに感応する目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)しか持ちえない三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持った霊的存在が多いからであるが、○○○大先生の著書を読んだ人にはそこまで考えていただきたいものであるし、このままの世界では進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失いかねないから、霊的成長度の高低における区分け=アセンションがあるものでもある。

 これは“完全な寿命”をまっとうに過ごすことが出来ないという、この世界の事情を説明したのであり、それは恨みの連鎖の霊的干渉によることを述べたのであるが、太霊の言い回しにおける“完全な寿命が終らないでも”というのは、もう一つ違う意味合いがある。
それは第七話の最後で太霊が述べておられる“その幽人がどこまで慌(あわ)てるかを見極めた上で、その者を俗にいう八道、これは八本の道路ではなく人間を修行させる道のことであるが、そのどれに遣ったらよいかが決められる”の、“八道”と“人間を修行させる道”の意味合いが肝要。
この“八道”と“人間を修行させる道”に“幽人”を“そのどれに遣ったらよいか”、これはその心(靈)(ヒ)が“完全な寿命”を終えていない、そして本来人間の死は、“完全な寿命”を終えた上で死ぬべき、ということである。

 それで太霊が述べておられる“八道”と“人間を修行させる道”は、仏教の八正道の概念が解りやすい。
ただ、八正道の意味を検索して調べても、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)による、自我の肥大した誇張された解釈、そして言葉を複雑にしてさも自分は難しいことを語っているのだという、形骸の権威を示すような表記も多々見られるので、その解釈を鵜呑みにするよりも、八正道の言葉を見て、自分たちが何を考えるのか(自分はどう在るべきか)が大事だと思う。 
 八正道の言葉は以下の通り。

● 正見(しょうけん)
● 正思惟(しょうしゆい)
● 正語(しょうご)
● 正業(しょうごう)
● 正命(しょうみょう)
● 正精進(しょうしょうじん)
● 正念(しょうねん)
● 正定(しょうじょう)

 言葉を列挙しただけでは理解しにくい人もおられるだろうから、参考のため 
Wikipediaの八正道 にリンクをはっておく。


 それで太霊は八正道ではなく“八道”いう表記を使っておられる。 
これは、平均的地球人の死が“完全な寿命”を終えていないからこそ、“正しい”のでもなく、心(靈)(ヒ)が育っていない、だからこそ“人間を修行させる道のことであるが、そのどれに遣ったらよいか”ということが必須になるのだということを読み取るべきである。 
 このことを換言すれば、人間は生きている間、自らの一生、人生において、何を成すべきか、ということでもあるのだが、そこまでのことをしっかりローム太霊の言葉から読み取るべき。
 それは心(靈)(ヒ)が育ち、霊的成長を果たし、神格化に近づくこと、そして健全な肉体(月(ツキ))を持ち、神の思惑をこの事象に顕現すべく行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をすること、それが“完全な寿命”という表記の裏にあることでもあり、さらに先に解釈した第四話 四方の祈り 南 の“天寿を全うすること”と、ある意味同義である。
 また、心(靈)(ヒ)が育ち=“完全な寿命”を終えたならばそれは、(現津(あきつ)、観察され得る事象の観察の認識としての)“正しい”、ということに成りうる。 
 ちなみに“正しい”という字そのものが“上”と“下”が重なった表記で、“上”の思惑を“下”に顕現せよの意であることを以前に述べたことがあるが、そうなるべく育つ、そうなるべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するということが大事。

 それで今の平均的地球人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)が台頭している人間がしんだならば、いうまでもなく“完全な寿命”を終えていないといい得るし、いくかいか述べたように平均的地球人の霊的成長度は悪霊予備軍でしかなく、だからこそその心(靈)は、“正しい”どころか、霊的に幼稚=心(靈)(ヒ)が幼稚、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きが中心、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)があまり無い、霊的成長度がてんで低い。
 それだから第七話で述べられているように、心(靈)(ヒ)を育てるため、死んでからでも=“人間を修行させる道のことであるが、そのどれに遣ったらよいか”という点で、
見、思惟、語、業、命、精進、念、定、

をさせる=“どれに遣ったらよいかが決められる”ということが必須であるから、太霊はこのことを述べておられるものであると思う。
 そして“正しい”、見、思惟、語、業、命、精進、念、定、が出来るなら、そういった心ならば、外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)に関わらず、正しい事象の“観察と認識”=、が出来、正しい自分を思惟(神の思惑を顕現すべく自分の在り方)することが出来、正しいり、これは発振、発信、またそれは不誠実ではない、“日月神示”表記の“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が“正しい”、さらにそれは“日月神示”表記の“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信が出来、それは“上”の思惑を顕現する事象の“創造”になり、それ自体が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)=であり、さらにそれは人間の使命であり、それが人の存在の理由と根拠であるからこそであり、そうなるために霊的成長し神格化を目指すのが精進であり、その精進は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”にとらわれず、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)をよく認識して自戒せねばならず、そのために自分の外側(外国と幽界)の事象と内面とか内側(心の中と感じている事)をよく見張り=、自分の思想と行動をめる、そういった私見を持つものであることを述べ、さらにそれは、“ほんとう”を知り“ほんとう”を求め“ほんとう”の自分の在り方を認識し“ほんとう”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を鑑みて“正しい”、“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象を“創造”することになるが、そうなるために自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠である思想を構築し行動する、それがまほう色の瞳の表記の“ほんとうの自分”の意味合いの一部であり、“ほんとう”しかない世界を“創造”するのが、自分たちの使命であるということを強く思うが、このこと付け加え、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第七話 死の前後 自然死の場合 Kellyさん的解釈 第七話の総括


 さて、第七話の解釈“その一”“その二”で述べてきたように、平均的地球人は“自然死の場合”であっても
一つの時が来ると自分の肉体を抜け出していかなければならない、ということは幽体がもうその不完全な肉体の中に存在出来なくなる
のであり、それは
人間は完全な寿命が終らないでも”と前置きされていて、要は、平均的な地球人の人生では“完全な寿命”を過ごすことが出来ない、それは霊的に未熟だから“その二”で取り上げたように死んでからも“八道”という霊的成長の“道”(時間の進行と認識しうること)を体験し、自分の在り方やどういった心の動きをしなければならないかなどの指標となる“理(ミチ)”(法則性)を体得しなければならない。
 
 それは、進化=霊的成長と神格化への道のりというのは、とても長いし、平均的地球人はまだまだ未熟であり、心(靈)(ヒ)が育っていない自我が肥大しやすい全く幼稚な心(靈)であることを、ローム太霊講話集のこの文章を読んだならば、よく考え、自分たちの未熟さを自分で指摘すること(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”)も必須であり、そして“その二”で太霊が述べておられる“八道”を正しく自分に課すということが大事、そしてそれは自分の智性(神性)という心で自分の心(靈)を観ることでもあり、さらにそれは太霊が述べておられる
幽体の離脱を楽にするために、人間が常に努力しているのが精神統一であり又信仰である
の“精神統一(肉体、幽体、霊体、神体、の統一)であり又信仰である”という文言の裏にある意味合いであることを感じ取り、それは太霊の思惑として、生きている間にそれくらいのことをしておけよ、ということであると思う。
またこの“精神統一”については、第一話の解釈で以下のように解釈したから、コピペしておく。

「第一話でいうところの“精神統一”に対し、ローム太霊は“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”と述べられておられるから、肉体、現界、そして幽体と幽界を感じうる自らの心(靈)が持つ低い振動だけでなく、霊体、霊界、そして神体、神界を感じうるのは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された自らの心(靈)の、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された部分で、要は自らの心(靈)が持つ一番上の振動は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)なのだが、智性の発現の少ない平均的地球人を対象に述べられていることとして、その智性(神性)を中心に自らの心(靈)とするならば“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”ということになると思うし、そう思う根拠は、この世界が、(あまり智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の無い)自我の肥大した人の活躍で“創造”されており、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、もうすぐこの世界そのものが崩壊の局面に至るからである。
よってローム太霊が第一話で使った“精神統一”という言葉の示唆することは、本能から智性(神性)まですべて統一せよということ」

そして第七話の要としては、先に取り上げた
幽体の離脱を楽にするため…中略…精神統一であり又信仰である
であり、人間が生きている間、現界という事象に存在しそこにおける“観察と認識”において、自分の在り方を鑑みて自分の心=霊を育てる、そして死んでからも心=霊は育つこと、その指標が正しい “八道”であることをよく思わねばならない。

(ちなみに“正しい”というのは“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象である)

 そして、心=霊が育つ、このこと事態を今の未熟で幼稚な地球人は知らなさすぎるから、それを教えるためにもローム霊訓講話は行われていたのだということを、ローム太霊講話集に縁があった人はよく思うべきであると思う。

 それで第七話で少しだけ触れられている “不慮の死”というケースもこの事象=現界には台頭しているが、それは恨みの連鎖の霊的干渉の結果であり、これ自体を生み出しているのは自分たちの低い心(靈)の動きであり、これにより死んだ霊的存在のほとんどは、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する悪霊ということになり、その心(靈)の動きは仏教でいう所の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)であり、幾度か述べたことだがその意味は

● 貪は、むさぼる、本能由来の行動。
● 瞋は、怒って目をかっと見はり、相手をにらみつける様子。例えば、瞋恚(しんい)は、自分の心に反するものを憎み怒り恨む憎悪の心の動き。
● 痴は、知恵が足りない、おろか、理性を失ったさま、夢中になることの意(痴の異体字は、癡(おろか)、仏教が教える煩悩のひとつ、無明ともいう、万の事物の理(法則性)にくらき心をさす)。

であるが、こういった心の動きが台頭する心=霊は、智性(神性)無き心であり、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”“自分を観察する自分の確立”が出来ていないのであり、自らの心(靈)(ヒ)の動きに智性(神性)が足らない、智性を行使していない目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)が台頭している霊的存在といいうるものである。

 だからこそ太霊は、太霊と霊縁あった人にそんな存在になって欲しくないと思われたからこそ
大切なことは、人間が生まれてから死ぬまでの間に積み重ねたプラス (善行)とマイナス(悪行)との総計であって、それが少しでもプラスになっていれば善い人間と認めるべきであるが、誰しも聖人としての幽界入りは望ましいにしても、普通の人間は零(ぜろ)でもよいからマイナスにならないように心掛けて修行すればよい
と述べておられるのであり、これがまた太霊自身の“慈悲”と“慈愛”に満ちた文言であることを読み取るべき。

 また、今の平均的地球人の心(靈)(ヒ)の動き、今生きている人間が、自我の肥大をしていて傲慢でわがままで稚拙で幼稚で…悪口ばかりだが、それは如何に霊的成長していないのかということであるが、それを示す文言が
幽体が完全に目覚めた時に先ず何を見ようとするかというと…中略…目に映るのは塵埃のない鮮明な景色ばかり…中略…所がそのうちに、段々自分の心の中にさまざまなものが見え出してきて…中略…その時にどうも変だな、自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊であるが、これが次に来る非常な寂しさの第一歩となるのである。それは人間がよく言う野原の中に裸(はだか)で立たされたと同じで、どこを向いても心に映るのは荒れ野ばかり、それが生まれたての赤子のような幽体にしみじみと感じられる。初めのうちは誰に縋(すが)るという気持も起こらないが、次第に寂しさが増すにつれて必ずこれまで信仰していたイエスとか釈迦とか観音とか不動とかを心の中で念ずるようになり、それが高(こう)じてくると最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す
であり、如何に今の人間が、“ほんとう”の信仰を持っていないのか、それは、自分が霊的に幼稚であるかを知らない、またそういった自覚が無い、これは自分の存在の意義が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)だということも知らず、だからこそ、神と人間、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(低い心(靈))である人、“創造”の“主(ヌシ)”が贈り送ってって来る振動を、(肉体(月(ツキ))の磁束で)止める“日止、霊止”という関係を“ほんとう”に認識していないのか、このことを示唆する文言でもあるし、先に述べたように平均的地球人の信仰や、“精神統一”の未熟さということをよく知り、自分の在り方を自分が深く鑑みることをしなければ、霊的成長のステップを上ることが出来ず、それが現状出来ていないから恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“不慮の死”が今の事象=現界で台頭しているということを知るべきでもある。

 それで
完全な人間は年を重ねて死期が近付くと、いわゆる老衰の状態に入いる…中略…その期間中は本人が眠っている間に背後の霊が肉体から離脱する幽体の仕上げに努力されている…中略…最後の時が来ると、普通の場合は額と臍(へそ)との二ケ所で肉体と幽体とを繋いでいる二本の線が断ち切られるのであるが、これが切られると、幽体は大体手足の方から抜け始める。それをこちら (霊の側) で見ていると、一時間ほどで頭部が真白な状態で浮かび上がり、四、五時間たつと幽体が全部出来上がって暫(しばら)く死体の上に留(とど)まってから、多くはその左側に横たわるのである”の“幽体は大体手足の方から抜け始める
の理由は、生物の進化が縦の磁束の発現から始まり、脊索が脊椎(骨に進化)になり、縦の電磁石となり、そして足が発達して、手が発達してきたという“改”で述べた経緯があるからで、それは手足が水平磁場の構成に関わり、縦の磁束だけではサイクロトロンという不安定な荷電粒子の回転にしかならないが、進化した肉体(月(ツキ))が持つ手足はそれ自体が電磁石の構造を持ち、それでサイクロトロンがシンクロトロンになるということを未刊行の<6>で述べたが、このことを考えれば太霊が説明されたことが納得のいくことでもある。

 それと、自分と“主護霊”との関係を示唆した文言が、今取り上げた文の続きである以下の文。

それをある程度その儘にしておいた後、先祖と背後の霊がその者に当てられた城郭の一定の場所に運んで行って、背後霊の保護の下に自覚させる時間が来るまで寝かしておく。そこ期間はまちまち…中略…幽体自身にすればほんのゆうべ寝てけさ起きたのと変りない…中略…幽体が目覚めると、それまで付いていた背後霊は凡て去り主護霊も自分の分霊だけを案内役に残して行ってしまうが、ただ主護霊にはその者を永遠に指導する使命があるから、その後(あと)後(あと)も呼べば必ず出て来る

 この“主護霊にはその者を永遠に指導する使命がある”という“主護霊”に関する大事な情報、これは人間が、いい方を変えればそれぞれの心(靈)(ヒ)が、“主(ヌシ)”になる、成りうる、ということであり、それ自体が生命の存在の意味と意義であり、それは独り神(ひとりがみ、日取り神)になるということであるが、以前述べたように、“主護霊”を、自分たちを守護する霊とか、ただ守っているとかの幼稚な解釈が台頭しているのが現状で、その低い解釈を広めたのは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であり、そんな甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈を信じているのは自分が甘いのであり、御利益しか求めない稚拙な心(靈)であり、ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁の表記)でもあり、先に述べた神と人間の関係を深く認識しているとはとても言い難い稚拙な認識である。
それで“主(ヌシ)”という字が示す意味はそんなものではなく、この字を構成しているのは丶部(ちゅぶ)と王であるが、丶部(ちゅぶ)はローレンツ力であり、それに|(たてぼう、こん、縦の磁性))と“一二三”のオーラの意味を示す字が“主(ヌシ)”であること、

主(ヌシ)の解字
 
それは“創造”の“主(ヌシ)”=独り神(ひとりがみ、日取り神)になるということであるし、それを護る存在が、あるいはそうなっていくために“理(ミチ)”(法則性)を示しながら、共に進む(“道”(時間の進行))存在が、“主護霊”であるということを付け加えて、第七話の総括を終え、次回のこのカテゴリーでは「第八話 病死と事故死の場合」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 Kellyさん的解釈“その一”


 今回から取り上げるローム太霊講話集の第八話は、第七話で太霊が“不慮の死は例外として後に…”と述べられておられるように、第八話の冒頭の“今度は正常でない方のこと”として、タイトルの“病死と事故死の場合”を説明されておられる。

 これは、大概の人間、平均的地球人の狭い認識、霊的成長度の低い“観察と認識”では、自分が死んだらどうなるか、また、死んだあと、自分の心(靈)は何を観察し何を認識していくのか、を、知らなさすぎるからであり、それを教えて、さらにそのことについて考えさせる、そういった意図のあることであると思えるし、そのために先ず、死に対して無知な人間に対し、情報を与えようとしていらっしゃる。

今回から解釈する第八話、そこにおけるその情報について、情報そのもののピックアップと、なぜ太霊がその情報を伝えようとしているのかに対しての解釈を述べることとする。

それで太霊は第八話で、最初に“脳溢血で死ぬ場合”について述べられている。 
太霊が、たくさんある病死について“脳溢血で死ぬ場合”を取り上げた理由は、平均的地球人が、自我の確立=固定化の進化過程、それは換言するならば、自我中心の心は幽体の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、またそれはその段階の心(靈)(ヒ)が外側(外国と幽界)の事象しか見ていないということまでを示唆しているのだと思え、そのことを示す文言として、
脳溢血の場合は通枢の方の線は早くに切られている
そしてその前に、
幽体の形作りは大体五時間で終り、出来上がった幽体は臍の方の繋がりが断たれて肉体から離れる
と述べられているからである。

 この言い回しの中の“臍の方の繋がり”これが“断たれて肉体から離れる”が肝要であり、それ以前に“通枢の方の線は早くに切られ”ということを見逃してはならないと思う。 
これは、いわゆる平均的地球人の霊、それは心(靈)(ヒ)であるが、“臍の方の繋がり”が中心、これは“日月神示”ならば“江戸と尾張”、それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、その部分の荷電粒子の回転=霊(心)が、幽体の構成であるという私見を持つ。  
重複するがこれが平均的地球人の進化の段階である。

 そしてもう一つ大事なこととして、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は人の成長を望んでいるから、突然の“脳溢血で死ぬ場合”に対して、

主護霊と支配霊とは凡そ一と月前からそのことを知っていた筈…中略…それならどうしてその者に教えてやらなかったのかというと、霊の肩を持つわけではないが、実際にはあらゆる方法でそれを知らせようと努力していたことは、ロームが証明する
と述べていらっしゃる。

 これは、“上”としては、自分の死についてよく知っておけ、だからこそ死の時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)を教えようとしているのであるし、仮にこのことを知っていたならば、第七話に述べられているように“自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊である”の、“自分は死んだのではないかと気が付く”ということになる。
 この言い回しの裏を返せば“死んだのではないか”という自覚を持つ霊が少ないということでもあるし、大概の平均的地球人は自分が死んだことに対してしっかり自覚を持ちえない、死んでいる自分ということに対する認識が足りない、だから地縛霊なり浮遊霊になったりもして恨みの連鎖の霊的干渉を成す霊団の一員になったりもする、いわゆる悪霊の類に成り果てるからであり、そうならないために、多くの人間に悪霊になって欲しくないからこそ、太霊は、死について説いておられるのであるということを感じ取るべき。

  また、“脳溢血で死ぬ場合”の死の時期を決定するべくこととして“軽いものは半身不随になるだけで死は避けられるが、それも早ければ三年位、長くても二十年とは生きられないであろう。この場合は霊妙なエクトプラズムによってその血管を修理しておくのであるが、それにはその人間を生かしておかなければならない条件が必要
と述べられている。 

 この“生かしておかなければならない条件”について、これは“上”が認めなければこうはならないのであるし、さらに個人個人の死に関しては“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が関与し、ここで述べられている“生かしておかなければならない条件”のその反対ともいえる、もう生かしておくわけにはいかない、その場合は“上”は“神の咎め”としてその人の死を容認するということがあるということを読み取るべきである。

 また““神の咎め”としてその人の死を容認するということがある”については、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が悪霊の憑依を容認する、悪霊のやっていることを“上”は認めざるおえない、その悪霊を呼び込んだのは自分の心(靈)の動きであり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、自己責任であるということを、第九話以降で示されているが、先走りすぎるので後述させてもらうこととする。

それと、第七話の解釈でも述べたことではあるが、太霊が死について説いておられる理由として挙げられる重要なことは、平均的地球人が霊的成長度が低いから、悪霊予備軍であるからである。
これについては第七話の解釈“その一”で以下のように述べたので、コピペしておく。

「“一つの時が来ると自分の肉体を抜け出していかなければならない、ということは幽体がもうその不完全な肉体の中に存在出来なくなる
というのは
完全な寿命が終らないでも”と前置きされていて、それは“その不完全な肉体の中に存在出来なくなる”、これが“完全な寿命”を過ごすことが出来ない、この事象、この現界は、これが出来うる条件とは言い難いし、それが“不慮の死”であり、災害、犯罪、病気などのそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の結果であり悪霊が絡んでいることを読み取るべきであり、要は先に述べた悪霊予備軍が多いことと、それに感応する目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)しか持ちえない三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持った霊的存在が多いからであるが、○○○大先生の著書を読んだ人にはそこまで考えていただきたいものであるし、このままの世界では進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失いかねないから、霊的成長度の高低における区分け=アセンションがあるものでもある」

 この「恨みの連鎖の霊的干渉」、太霊はこういう言葉を使っておられないが、このことに気付くらいの認識を持たねば、ローム太霊講話集を読み解いたとはいえないと思う。

次回のこのカテゴリーでは、第八話で太霊が述べておられる“電車や汽車に轢かれたり撥ねられたりする場合”について解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 Kellyさん的解釈“その二”


 前回告知した通り、今回は“電車や汽車に轢かれたり撥ねられたり…”について。
まず、死に対して無知な平均的地球人が知らねばならない情報のピックアップとして、一部、以下に列挙する。
 
恐らく半年前から予告されている筈であるが、本人がそれを知らないのはその背後の霊が強力でない
そして
これら戦死でも不慮の死でも、凡そ一と月から半年前には必ず何等かの形で知らされている筈である
それと
仮令(たとい)首や手足が無くなっても臍を中心とした幽体はその儘そこに残っていて、五時間程でまた元の形になる
一遍に肉体が無くなると、幽体は直ぐには人間の形にならず、ただ円いものに変るのであるが、それから段々に首や手足が出来てきて、五時間後には全部が揃った幽体になる

この情報について、なぜ太霊がその情報を伝えようとしているのか、に対しての解釈を、述べることとする。

 前回の、第八話解釈“その一”を読まれた方はすぐ理解できると思うが、“恐らく半年前から予告…”“凡そ一と月から半年前には必ず何等かの形で…”という“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信、なぜそれが行われるのか、なぜそれを“上”は行っているのかは、前回述べた通り、

“上”としては、自分の死についてよく知っておけ、だからこそ死の時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)を教えようとしているのであるし、仮にこのことを知っていたならば、第七話に述べられているように“自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊である”の、“自分は死んだのではないかと気が付く”ということになる。
 この言い回しの裏を返せば“死んだのではないか”という自覚を持つ霊が少ないということでもあるし、大概の平均的地球人は自分が死んだことに対してしっかり自覚を持ちえない、死んでいる自分ということに対する認識が足りない、だから地縛霊なり浮遊霊になったりもして恨みの連鎖の霊的干渉を成す霊団の一員になったりもする、いわゆる悪霊の類に成り果てるからであり、そうならないために、多くの人間に悪霊になって欲しくないからこそ、太霊は、死について説いておられるのである


ということである。

 そして“半年前から予告されている筈であるが、本人がそれを知らないのはその背後の霊が強力でない”というのは、“背後の霊”と“本人”が、密に連絡が取れていない、これは双方の霊的成長度の低さ=“その背後の霊が強力でない”という要因と、もうひとつ、その“本人”にたくさんの憑依霊が憑いていて、通信が送りにくい、届かない、ということを示していると思う。 
 それら“上”の通信を妨害している憑依霊は、いうまでもなく悪霊であり、それら悪霊とその悪霊の霊団の親分的存在は、その“本人”が死んだとき“死んだのではないか”という自覚を持たせない=悪霊のたぐいにしたいからであり、そういった思惑を持った存在であるということを、太霊の言葉から類推して考えるべきであるし、ここまでのことを鑑みるべきであるとも思う。
 
 それで、この“上”からの通信を妨害している憑依霊に対し、古神道では、祓えたまえ清めたまえ、禊をしろ、ということが説かれているが、これも今はほとんどが儀式にしかなっていないし、その儀式は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑、いわゆる“役員づら”による金儲けにしかなっていない。 
 またそれをまねたインチキスピリチュアルまがいの何かも、今の事象に台頭しているものである。

 よって、実際には悪霊は祓われていない=“本津宮”(もとつみや)に帰っていない=悪霊自身の心(靈)が自省(胸の磁性“十”)をしていない、それどころか大概の悪霊は自分自身の死すら自覚していないだろう。 
 これは、神主がいくら祓いを行っても、神主自身がたいして“行”やっていないので、祓いの祝詞を唱えても“上”は力を貸すわけにいかない、“行”やっていない人間に“上”は力を顕現させるということをしないという当たり前の事情もある。

(これは多くの既成宗教に携わっている人、ほとんどが“ほんとう”の“行”をやっていないので、神社での祓いや僧侶の供養は、今、全く人間の霊的成長にとって役に立っていない、そして、死んだ霊的存在にとっても、役に立っていないということでもある。 ちなみにこれらのことは○○○大先生が著書で述べたこと)

 それで仮に、祓いがうまくいっていたなら=地球上に無数に存在する恨みの連鎖の霊的干渉の結果増え続けている悪霊のたぐいの影響を受けなかったとしたら、“上”の通信は“本人”に届き、自分が死んだときに死を自覚するものである。
 またこれは先に述べた「双方の霊的成長度の低さ」という条件であっても、通信が届きやすい環境を作りうるものであるし、このことが本来の宗教の目的、宗教の存在の意義の大事な要件であると思うが、その大事な要件は見失われ、見誤られているものである。

 次に“仮令(たとい)首や手足が無くなっても…”“一遍に肉体が無くなると、幽体は直ぐには人間の形にならず…”について。

 この太霊の言葉にある“臍を中心とした幽体はその儘そこに残っていて、五時間程でまた元の形になる

ただ円いものに変るのであるが、それから段々に首や手足が出来てきて、五時間後には全部が揃った幽体になる
というのは、まず“臍を中心とした幽体”という言い回しに、“幽体”というのは、第八話解釈の“その一”で述べたように

いわゆる平均的地球人の霊、それは心(靈)(ヒ)であるが、“臍の方の繋がり”が中心、これは“日月神示”ならば“江戸と尾張”、それは、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、その部分の荷電粒子の回転=霊(心)が、幽体の構成であるという私見を持つ。 これが平均的地球人の進化の段階である

この“平均的地球人の進化の段階”ということ、“幽体”というのは、自我中心の心(靈)(ヒ)、“臍を中心”=腹(“江戸と尾張”)で取り込んでいる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、で構成された心(靈)(ヒ)であることを、知るべきである。

 そして、人間の霊が“人間の形”をしていることについては、第七話の解釈の総括で、以下のように述べた。

「“完全な人間は年を重ねて死期が近付くと、いわゆる老衰の状態に入いる…中略…その期間中は本人が眠っている間に背後の霊が肉体から離脱する幽体の仕上げに努力されている…中略…最後の時が来ると、普通の場合は額と臍(へそ)との二ケ所で肉体と幽体とを繋いでいる二本の線が断ち切られるのであるが、これが切られると、幽体は大体手足の方から抜け始める。それをこちら (霊の側) で見ていると、一時間ほどで頭部が真白な状態で浮かび上がり、四、五時間たつと幽体が全部出来上がって暫(しばら)く死体の上に留(とど)まってから、多くはその左側に横たわるのである
の“幽体は大体手足の方から抜け始める”の理由は、生物の進化が縦の磁束の発現から始まり、脊索が脊椎(骨に進化)になり、縦の電磁石となり、そして足が発達して、手が発達してきたという“改”で述べた経緯があるからで、それは手足が水平磁場の構成に関わり、縦の磁束だけではサイクロトロンという不安定な荷電粒子の回転にしかならないが、進化した肉体(月(ツキ))が持つ手足はそれ自体が電磁石の構造を持ち、それでサイクロトロンがシンクロトロンになるということを未刊行の<6>で述べたが、このことを考えれば太霊が説明されたことが納得のいくことでもある

これは、人間の心(靈)(ヒ)が、手足と頭無くしては、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という心を発現できないことを示唆した○○○大先生の見解があってこその解釈であるし、動物、生物としての人間の進化は、頭と手足の磁束の発現による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みがあることをも、示している。
 そしてその振動の取り込みによって、心=霊、荷電粒子の回転である、幽体、霊体、神体、が構成されるものであるし、今の地球人は先に述べたように腹での荷電粒子の取り込みが主体で心(靈)(ヒ)を構成しているから、自我中心ということでもある。

 それで太霊は、第八話で以下のようにも述べていらっしゃる。

一遍に体の無くなった人間は、それがどんな正当な理由があるにせよ自覚は遅い

これは当然のことながら“不慮の死”であり、その場合は“自覚は遅い”のであり、この“自覚は遅い”霊を増やしたいのが悪魔の思惑であり、その“思惑の顕現”=現象化、その結果としては、恨みの連鎖の霊的干渉の増大ということになっている。

 それで、そのままでは、その霊は“自覚”しにくい、いうなれば悪霊のまま長い時間を過ごすということになるので、“ただ円いものに変るのであるが、それから段々に首や手足が出来てきて、五時間後には全部が揃った幽体になる”=幽体でも、“首や手足”による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みが必須である。
 それはまた“臍を中心とした幽体”=自我中心から、自我より“上”の心(靈)の発現をして、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”していく、それが古神道の“本津宮”(もとつみや)の意味合いでもあるのだが、それは“慈悲”と“慈愛”という心の発現が、自我より“上”の進化であるということでもあり、だからこそ“臍を中心とした幽体”であっても“首や手足”が、自身の霊の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必要ということを、太霊は述べておられる。

 次回は第八話で太霊が述べられている“地縛(じばく)になっている霊”について解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 Kellyさん的解釈“その三”

 前回告知した通り、今回は、第八話で述べられている“地縛(じばく)”ということについて、なぜローム太霊がこのことを述べられたのか、そして、このことを太霊に教えられたなら、自分たちは何を考えるべきなのか、について述べることとする。

 まず、
地縛の霊は、他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない
の“地縛(じばく)”、地に縛り付けられている、あるいは自縛=自分を自分の観念で縛り付けている、といういい方もできると思うが、なぜそうなるか、については、自分の死を受け入れていない、いわゆる
一遍に体の無くなった人間…中略…自覚は遅い”のであり、
そして第七話の
自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば”ではない、ということと、生きていた時のことに執着があるからであり=ほとんど執着という心の動きしかしていないからであり、同義反復のことを言うが、それは未練でもあるし、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもある。 
 
 そういった心の動き、執着と未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心だから、自分を縛り付けているのであるし、またそれは、現世のことしか考えていない、死が霊的成長の一環であるという考えも無いし、その認識すら、平均的地球人にはないものであり、以前に述べたように平均的地球人の霊的成長度では、死のことを知らなさすぎるということ。

 また執着があり未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心というのは、現世、現界しか観察していない、いわゆる○○○大先生が著書で述べた“事象を観察する視野が狭い”ということであり、狭い事象しか観ていない、狭い事象しか見ることが出来ない心(靈)(ヒ)の動きをしているからこそ、そこ(その場所=“”)に縛り付けられる、自分で自分を縛っている=現界における低振動しか受信していないという言い回しも出来るが、低振動しか受信していない自分の心(靈)が、低振動により構成されているからという説明も出来るし、さらにそれは自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)であるし、執着や未練という心(靈)(ヒ)の動きは自我の肥大(“石屋の仕組み”=帯電するミネラルが固まっていない、“玉(ぎょく)”ではない)ということでもある。

 その自我の確立=固定化の心(靈)は、自分の死を納得しない、受け入れない、なぜ自分がこんな死に方をしなければならないのか、自分は“かわいそう”ではないか、という低い想念に捉われるからこそ、
他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない
という“地縛の霊”、自分だけが“かわいそう”な死に方をしたから、他の人間も同じように死なせて自分の苦しみを解って欲しいという心(靈)(ヒ)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になる。

 これは古神道でいうところの“本津宮”(もとつみや)に帰っていない=自省(胸の磁性“十”)していない、きちんとした自己観察が出来ていない、いわゆる霊的成長度が低いということでもある。
だからこそ、自分の死に対しても、神の采配があるなどという発想がない、それは“その一”で述べた“脳溢血で死ぬ場合”での死の時期を決定するべくこととして
軽いものは半身不随になるだけで死は避けられるが、それも早ければ三年位、長くても二十年とは生きられないであろう。この場合は霊妙なエクトプラズムによってその血管を修理しておくのであるが、それにはその人間を生かしておかなければならない条件が必要
の、
その人間を生かしておかなければならない条件
に、自分が該当しないということを認めないし、そのことを自分自身で判らなければならないということでもある。

 こういった“地縛の霊”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、結果として、
その場所に近付くとそこで地縛(じばく)になっている霊がその者に憑依
ということになり、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもあるが、この場合“その者”は、“地縛の霊”と同じような心(靈)の動きをしているということも読み解かねばならない。
 
 それは自分がどんな行いをしてきたか、先祖がどんな行いをしてきたか、恨みをどれくらい買ったのか=因縁であり、仮にそこで死ぬならば、それは“神の采配”であるということもいい得る。
 これが“魔の淵、魔の踏切など”に近付いた人間が、誰しも“不慮の死”ということには成り得ないということの根拠と理由でもある。

 それで太霊は“これは知らされていない”と述べられているが、これは、ただ単にその場所を“上”は教えない、という意味合いと、“上”はそこで“その者”が死ぬことを知っていても、それは“その者”のやってきたことと先祖の因縁など、恨みの連鎖の霊的干渉の結果であるから教えない、教えることを許可されていないという意味合いがあると思う。
 それはそこで死ぬこと事態が、“その者”に対する試し、試練、いわゆる霊的成長の一環として“地縛の霊”という体験をさせなければならないということであるが、それはただ単に霊的成長度が低いからであり、自分にどんな不幸なことが起こったとしても、それ自体が“神の采配”の要素があり、自分にとって必須の体験、必然なのだ、という認識があるならば、それは、早く“自覚”するものであるからこそ、太霊はこのことを述べられたのだと確信する。

 またそれは、自分に何が起こっても誰も恨まない、自分の運命を呪わない、という深い信心(自分の心(靈)を信じる)ということでもある(○○○大先生が著書で述べた“すべての事象は自分の霊的成長のためにある”ということ)。

 こういった心の動きをしているならば、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する悪霊になりにくいということも、悪霊予備軍の霊的成長度である平均的地球人は、しっかり鑑みるべきである。
 重複するが、自我より“上”の心(靈)の発現、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”があるならば、自省(胸の磁性“十”)し、死んでからも自分の在り方を鑑みる、それは悪霊が悪霊でなくなるということであり、それがまた古神道の“本津宮”(もとつみや)の意味でもあるということを、死に対して無知な平均的地球人は知らなければならないものである。

それと、
他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない…中略…自分は好きな所へ行かれて楽しいことのようであるが、その行く先はやはり人間でいうと地獄の方なのである
に関して、“地獄の方”というのは、“自覚”が遅く、自我の肥大ゆえの執着と未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心だから、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する悪霊になるということであり、先に述べてきたことと重複することであり、これを読んでいらっしゃる方にはここまでの文章を読んだなら、このことは理解できると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 Kellyさん的解釈“その四” &第八話の総括


 今回は、ローム太霊講話集の第八話の後半、
以上のように、一遍に体の無くなった人間…中略…神の教えに従う汝等は、常にそういう心掛けで進んでいってもらいたい
という文言の裏にある意味、心(靈)が未熟な場合の死、心(靈)が育つ過程での死、恨みの連鎖の霊的干渉のこと、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化=悪因縁、を、避け、まっとうな人生を過ごすこと、その意味合いのことが述べられているので、それ等について述べ、そして第八話を読んだなら、自分たちは何を考えるべきか、それについても述べて、第八話の総括とする。

 まず第八話の後半の文言の冒頭。

一遍に体の無くなった人間は、それがどんな正当な理由があるにせよ自覚は遅い

 これは文面通りであるが、こういった事象で死を迎えさせること事態が、人の霊的成長を阻む存在の思惑が顕現しているのであり、そういった分析が必須。
 その分析が出来ない人間は、心霊現象を知っていてもその裏にある事情を理解していない、そして死に対して認識が低い、ともいい得るものであり、先に指摘した“こういった事象で死を迎えさせること”が、あえていうまでも無く“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)、いわゆる悪魔の思惑であるし、それが第七話の表記である“不慮の死”ということをさせて、“自覚は遅い”という霊を増やし、恨みの連鎖の霊的干渉に加担させる悪霊の霊団の構成員をどんどん増やすということになっている。

 そして今、地球は悪霊だらけであるからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が介入しにくいからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉による理不尽な死が横行しているし、近年どんどんその現象が増しているものである。
(このことは○○○大先生が著書で述べた)

 よって恨みの連鎖の霊的干渉を増大させない、生み出さない、そういった霊的成長度の人間を、前のブログやこのブログでは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と位置付けている。
 そういった人間だけを次の段階の地球に位置させるのがアセンションの意義でもあるし、恨みの連鎖の霊的干渉の減少や消失ということが行われなければ、まっとうな進化=霊的成長と神格化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は顕現しないものであり、だから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である心霊はそのことを述べているのだから、心霊現象に興味をもつ者は、このこと気付くべきである。


 それで、平均的地球人は死に対して認識が低い、死が霊的成長の一環であることに気付いていないし、そんなことを考えたことも無い愚かな霊的成長度の段階を示唆しているのが、次の文言。

祖国のために命を捧げれば直ぐにも神になれると思っているが、当人は死んだことすら知らない…中略…。それが慰霊祭とか近親の人達の祈りとか、この生きた人間の声の叩きによって徐々に目覚めてくるのであって…中略…

 これも、ただ単に“自覚は遅い”のであり、死んだときの事象に自分の心(靈)が捉われている、それは“その三”で述べた“地縛”という、死ぬ直前の事象に捉われた状態の心(靈)であるから“戦争で死んだ人間は霊界に行っても戦争をしていると現界のある本に書いてあったが、その通りである”と、太霊は述べておられるのである。
 それと“祖国のために命を捧げれば直ぐにも神になれると思っている”なんて考え方自体が、生きることに対しての認識が足らない、自分の在り方を知らない、自分がどういう存在かなんて認識が無い(人間は神の子である)=自分と神の関係を知らない、だから人間の存在の意義を知らない、そういった人は進化して神格化することを説いても受け入れる素地が無いものであるし、そういった人間の神の概念は自分たちにとって御都合のよろしいものであったりもする。
 そしてこれは戦争のことを述べているのだが、戦争事態が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きの顕現であり、自国の利益や権利などという発想が、自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)であり、また、そんなものを支持する、あるいは容認する人間、自国が戦争することを受け入れる人間は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認しているので、神の思惑、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の台頭した事象など全く理解できないだろうし、その理解の足りなさが悪を容認するのだから、恨みの連鎖の霊的干渉の増大に手を貸しているものである。
 いろんな言い回しが出来るが、それは単に心(靈)(ヒ)が幼稚であり、まったく低い霊的成長度であるといい得る。


 それで太霊は、次の文言で“自覚”について述べておられる。

こうして一瞬に生命を失った人間は、直ぐ目覚めることはむずかしいが、その反対に、肺病などのために長年病床にあって常に強い意志により生きよう生きようと努力している者は、次第に病菌に蝕まれて終に老衰と同じような状態になると、それに伴(とも)い観念というか悟りというか、そういうものが生まれてくる…中略…本人にとっては有難いこと…中略…。
…中略…時がたつにつれて自分の肉がくずれてゆき、一年で小指が無くなったり二年で手が円くなったりするのは、これほど寂しい痛ましいことはない


 この文の中の“終に老衰と同じような状態になる”そして“伴(とも)い観念というか悟りというか、そういうものが生まれてくる”は、自分の存在の意義を見出そうとする、死を意識するからこのことを考えようとするものであり、そしてその心の動きを言葉で表現するなら自己観察であり“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”である。

 いつも述べているように平均的地球人は自我の確立=固定化の進化過程であり、それより少し“上”の心(靈)の発現が“慈悲”=慈しみ悲しみであり、それを発現させる事象を例にとって太霊が述べられておられるのが、先に指摘した“終に老衰と同じような状態になると、それに伴(とも)い観念というか悟りというか、そういうものが生まれてくる
であり、そして、
時がたつにつれて自分の肉がくずれてゆき、一年で小指が無くなったり二年で手が円くなったりするのは、これほど寂しい痛ましいことはない
である。 

 こうやって“伴(とも)い観念というか悟りというか”と“寂しい痛ましいこと”という心(靈)(ヒ)の動きを自らが体験するならば、自らの死を意識する、自分の存在の意義や存在の意味を考えようとする(自分の人生を顧みて、省みる)、神と人間の関係ってなんだろうと真摯に考えようとするものである。

(だが、こう述べても、自分の死を意識していない=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からたいした試練を与えられていない人間は多いので、なかなか伝わらない…というのが、○○○大先生が幾人かの霊的成長度の低い読者と意見交換をして得た感想でもある)


 これに続く次の文。

ただ原爆は人間の造ったもので、これで死ぬのは天災の場合と同じであるが、癩は業病であって、例えば、先祖の一人が人を殺して自分は見付からずにすんだが、相手の怨念の固まりが残っていてそれが子孫に祟るのであるから、これは凡て因縁によるものである

 この文の“原爆は人間の造ったもので、これで死ぬのは天災の場合と同じ”というのは、何のために“原爆”を造ったのか、を鑑みるべきであり、“天災の場合と同じ”という太霊の言い回しは、自分たちの低い心(靈)の動きで原爆を造った、その結果を被る(こうむる)のは自分たちである、このことを読み取るべきでこれは、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもあるし、そこに自分たちの在り方、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、これをしっかり考えよ、という太霊のメッセージが込められているが、おそらくほとんどの人はこの言い回しにそれを感じないだろう。
 そして“癩は業病……”というのは、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の具体的な説明である。

 それで第八話の最後で、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)の意味合いのひとつについて太霊は以下のように述べておられる。

そこで北神の祈りにあったように、人間は生命のある限り世のため人のために尽すという気持を忘れないでいれば、どんな病気、原爆にも決して冒されることはないのであって、これはロームがはっきり言えるのであるから、この神の教えに従う汝等は、常にそういう心掛けで進んでいってもらいたい

 この“人間は生命のある限り世のため人のために尽すという気持を忘れない…中略…どんな病気、原爆にも決して冒されることはない”、これが“その人間を生かしておかなければならない条件”であり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人間をこの事象で活躍させる理由となるのであることを、この文言から読み取るべきであり、これが“神の教え”であるのだ、と、太霊は“ロームがはっきり言えるのである”とおっしゃっておられる。

 このことを、ローム太霊講話集を読んだ人は理解するべきであるが、大概の人間は心霊に対し甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢しか抱いてないか、ただ心霊の知識がある、あるいはS会=紫光会の会員でも、会員であったことを吹聴して低い自尊心と功名心を満たしたり、結果としては金儲けに利用したりもする。
 それらはいつも述べている通り“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)である。
またこの“役員づら”の手法にはまって心霊が伝えたことの意味を見出さないでただ雰囲気を楽しんでいる人間が多い。
 重複するが、太霊をはじめとする心霊は、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、の、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、示唆している。
 だから、自分が心霊と縁があった、ローム太霊講話集と縁があった、もしそうならば、自分は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を感じ取らなければならないものであるし、このことをよく鑑みるべきで、それが心霊に対峙した人間のまっとうな在り方であるが、多くの“役員づら”は、なんでも商売にする“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、そんな者は、“世為人為”ではないからこそ、人に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見させる“役員づら”は地獄行きといい得るし、またそれは“自覚は遅い”という段階の霊的成長度であることを蛇足ながら述べておく。

(ここまで述べたこれらのことが理解できなければ、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を説かれている、“ほんとう”の人間の在り方を述べられているローム太霊講話集と縁を付けてもらった“上”の思惑を解ったとはいえないと思う)

 それで第八話で太霊が述べておられるのは、第七話で使われた表記の“不慮の死”について、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である心霊は、人にまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を体得させたい、それには“自覚が遅い”ということであってはならないし、これは生きていようが死んでからであろうが、“自覚”が自分の心(靈)の成長に必須であるということを知らなければならない。
 また、“自覚が遅い”心(靈)は、悪霊になるのだ、ということも知らなければならない。
 そして先に述べたばかりだが、第八話の最後で太霊が述べた“神の教え”というのは、“世為人為”なのだ、だから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きでは、“自覚が遅い”という霊的成長度の段階であるのだ、という認識が必須である、ということを最後に述べ、第八話の解釈の総括とする。

 次回のこのカテゴリーでは「第九話 死の前後 殺人の場合」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第九話 死の前後 殺人の場合 Kellyさん的解釈“その一”

 今回から第九話の解釈に入るのだが、交霊会であるローム霊訓講話の記録のローム太霊講話集を編纂した寺見文夫氏のこの「死の前後 殺人の場合」という副題のつけ方に、やや疑問を覚える。

 それは、太霊は第九話の冒頭で“今日初めに取り上げるのは人間が殺されて死ぬ、殺人の場合であるが”とは、述べておられる。

 だが第九話の要は、
人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神に…中略…誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造ることが大切…中略…仮令拷問(ごうもん)にかけられ…中略…堪え得るだけの精神の修養はロームが常に教えている筈…中略…絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っている
であり、
またそれを、
一つの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ”=このことを決して忘れるな、と述べておられる。
 そして第九話の最後で、
大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪ではなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり
とも述べておられる。

 これらが第九話の要であり、今の人間、平均的地球人が進化していくにあたって大事な認識を太霊は述べておられるのであり、よって副題の「死の前後 殺人の場合」だけを述べておられるのではないのだ、ということを、最初に述べておく。

 さて、“人間が殺されて死ぬ、殺人の場合”なんてことをする、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にうつす心(靈)の動きは、以下に大義名分があろうが、自分は正しいと思おうが、自分の都合しか考えていないからである。
 それは、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きであり、自分の都合しか考えないのは、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)で、自我が肥大(“石屋の仕組み”)しているからである。
 
 よって今の平均的地球人の進化の程度が、多少進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば、殺人なんてことは起きないものである。
 それは、人を含め、すべての生命(生きる使命=存在理由)が、神の“思惑の顕現”=現象化であるという認識(悟り、幸取=さとり)を持つからであり、だからこそ、他人の霊的成長の足を引っ張るようなことはしない=人殺しなどしないようになるものである。

 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う自分にとって都合の悪い事象に対し、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練だという認識(悟り、幸取=さとり)を持つから、そこで自分の在り方を鑑みることをする、また、自分に対し“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“由来の自己観察をする、それが今の地球人より、多少、進化した人であるといい得る。

 それとだいたい、殺人を犯すのは、恨みの連鎖の霊的干渉の増大にしかならないのであり、だからこそ太霊は、
執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる
そして、
相手の霊は、必ず自分が前に殺した者の霊と一団となってそこに再び二つの魂の争いが続けられる…中略…それらの魂は凡て同じ系統を引いた類魂(るいこん)によって、憎悪の霊団に入いりその一員となる仕組みになっている
と述べておられる。

 この相手に対する“憎悪”、そして“類魂(るいこん)によって、憎悪の霊団に入いり”は、心(靈)の動きが同じ、進化程度(心(靈)の発現の程度と心(靈)の動き)が同じ、そして感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)という法則により構成されるものであり、それだからこそ“憎悪の霊団”を構成するのだということを、読み取らなければならない。

 そのことを知ったならば、誰かを殺したいほど憎み、忌み嫌い存在を許さないほど嫌悪していたりしても、すべての事象には理由と根拠があり(偶然なんて認識は、程度の低い認識であるということ)、背負っている因縁、そして恨みの連鎖の霊的干渉そのものは、自分に対しての責任であることをよく自覚するものであるし、それがまた“上”が課した試練であることを知る。

 要は、すべての事象は、自分にとっての必然であり、すべての事象は神の“思惑の顕現”=現象化であり、その事象と遭遇するのは自分の霊的成長度と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の段階によること、そして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”している、よって出合った何かはすべて霊縁であり、そしてその事象には“神の采配”があるのだということを知る。

 これらの事柄が自分の認識(悟り、幸取=さとり)になっていたならば、自分を諌めることが出来るものであるし、仮に殺人を考えている人間が自分を諌め(出来ないから殺すのであるが)、冒頭で述べたように、ある程度進化した人間ならば、人殺しはしないし、そういった人間でこの世界が構成されたならば、人殺しなど無くなるものである。

 この点で第九話は、自分を諌める、自我を諌める、自分の在り方を鑑みる、それが、
絶えず向上を計りまた向上する人間
の一側面であることを読み取り、そしてそれが出来得るならば、
大きな御光(みひかり)の中の霊団…中略…燃える太陽のような愛の霊団”の“一員
に成りうるということを読み取らなければならないし、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップであることを、重ねて述べておく。

 次回は、第九話で述べられている“憎悪”と“憎念”、そして“幽体そのものが憎悪の固まりとなって”について解釈を述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集” 第九話 死の前後 殺人の場合 Kellyさん的解釈“その二”


 先回の終わりで述べた第九話本文の表記、“幽体そのものが憎悪の固まりとなって”そして“憎悪”と“憎念”、これは霊的成長度を示す表記である。

 まず、“幽体”での心(靈)の発現というのは、○○○大先生が著書の<3>を中心に述べた心(靈)の構造である、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、の、自我までであり、よって、先回述べた殺人を犯そうとする心の動き、
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う自分にとって都合の悪い事象
を、自分がどう思うのか、そこに個々の心(靈)(ヒ)の霊的成長度、

● どれくらい自分の心(靈)が神に近付いているのか
● どれくらい自分の心(靈)が悪魔に近いのか、換言すれば“日月神示”表記の“獣”“ケダモノ”なのか

の程度が、自分が自分の心(靈)の動きを観て(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)、判るものである。 

 またこれが自ら判らないならば、それは、智性(神性)無き心、自我より“上”の心(靈)の発現が無いといい得るものである。 
 よって先回述べたように、目前の事象、自分が殺されたとしても、そこで自分は何を思うべきか、それは、

“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練だという認識(悟り、幸取=さとり)を持つから、そこで自分の在り方を鑑みることをする、また、自分に対し“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“由来の自己観察をする、それが今の地球人より、多少、進化した人であるといい得る

ということになる。

 大概の地球人の進化過程は、現時点、自我中心の心(靈)なので、自分の都合しか考えない。
 だからこそ太霊は、第九話で、低い心(靈)の動きが殺人を犯すのだということと、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させる“憎悪の霊団”を構成するのも、低い心(靈)の動き、自我由来のそれである“憎悪”と“憎念”であることを、以下のように述べておられる。
 
その憎念が肉体を離れて自然に固(かた)まる幽体と一緒に固まってゆき、終(つい)には幽体そのものが憎悪の固まりとなって相手の体にこびりつく

相手に喰らいついてこれを倒そうとするのは当然と思われないでもないが、この執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる

その者の手にかかるか 公(おおやけ)の裁(さば)きによるかして殺される相手の霊は、必ず自分が前に殺した者の霊と一団となってそこに再び二つの魂の争いが続けられる…中略…それらの魂は凡て同じ系統を引いた類魂(るいこん)によって、憎悪の霊団に入いりその一員となる仕組みになっている

毒殺の場合…中略…相手がはっきり分っていれば、その者に対する憎念は前と同じ…中略…いずれにしても憎悪の一念はその波動に乗ってその目的を達する

合意の心中のような場合…中略…片方が生き残ると、死んだ方の霊は必ず相手に取り付いて直ぐにも連れて行こうとする。 この憎悪の念は、人間で言えば憎悪ではないかも知れないが、相手をそのように思い込むことは、自分が死んだのだから相手を死なしても相子(あいこ)であるということにはならないで、やはり悪の波動を引き受けて人を殺した者と同じ波動の中に導かれて行く

心中をして一緒に死んだとしても、その霊は直ぐには幽界に行けず、ある期間無意識のまま浮遊霊となって混沌とした現幽の間を 漂(ただよ)いながら、同じように死のうとする人間に憑依して同じ状態を再現させるのであるが、これらの魂もやはり憎悪の中に入いって行く

 ことに、死んだあと“幽体”が出来上がっていく際、
憎念が肉体を離れて自然に固(かた)まる幽体と一緒に固まってゆき、終(つい)には幽体そのものが憎悪の固まりとなって相手の体にこびりつく
の、
幽体そのものが憎悪の固まり
という言い回しが、“幽体”が自我中心の心(靈)であることを示唆している。
(“幽体”が出来上がっていく過程は、第七~八話で説かれている)

 それで、ローム太霊講話集のこの項目を読んだ人は、第九話の「死の前後 殺人の場合」、この副題だけにとらわれず、殺人を犯すのは霊的成長度の低い心(靈)、自我の肥大であり、殺人が起きるのは自我の肥大という進化過程のまま死んだ霊が霊団(ローム太霊が述べた概念)を構成して恨みの連鎖の霊的干渉を増大させている、その恨みの連鎖の霊的干渉の結果、どんどん理不尽な死は増えていく、その具体的な原因の一つが“憎悪の霊団”であるということ、このことを読み取り、自分はどんな死に方をしても、太霊が述べておられるように、

若しその者が死というものを覚悟し、死後のことをも知っていたなら、その相手に取り付く代りに自分の霊の向上を神に祈ったであろう

こういった心(靈)でなければならないものである。

 そして、こういった心(靈)の人達のみで構成された世界になるならば=霊的成長度による区分け、今後(アセンション後)の世界ならば、先回述べたように、

人を含め、すべての生命(生きる使命=存在理由)が、神の“思惑の顕現”=現象化であるという認識(悟り、幸取=さとり)を持つ…中略…他人の霊的成長の足を引っ張るようなことはしない=人殺しなどしないようになる

これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の一側面であること、そしてこういった世界を構成し得る心(靈)になるには、自分がいかなる事象に遭遇しようが、先に述べたように、

“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練だという認識(悟り、幸取=さとり)を持つから、そこで自分の在り方を鑑みることをする、また、自分に対し“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“由来の自己観察をする

という心(靈)の動きを行使する。
 それは自分に“憎悪”と“憎念”を許さない、自我を諌める、ということであり、そういう人ならば、どんな死に方をしても“憎悪の霊団に入いりその一員となる”にはならない。

 だからこそ、そういった人たちばかりの世界では、恨みの連鎖の霊的干渉の消失につながっていくものであり、自分たちは「殺人」のない世界を構成していく、“他人の霊的成長の足を引っ張るようなことはしない”という心(靈)にならなければならない、ということを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集” 第九話 死の前後 殺人の場合 Kellyさん的解釈 第九話の総括

 ○○○大先生が著書で述べたように、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化(戦争、災害、病気、犯罪、ことに最近多い理不尽な殺人、etc.)は、今、どんどん増え、悲惨なものになりつつある。

  その現象化に関わっているのが、第九話で太霊が述べられた“憎悪の霊団”である。

 そして、大概の地球人は、自我の確立=固定化の進化過程であるから、霊媒体質なので、同じように進化程度の低い霊的存在である“憎悪の霊団”の憑依があり、心を乗っ取られやすい。

 また、この醜い憑依現象の結果そのものが、霊的成長度の低い人間の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものである。

 換言すれば、程度の低い人と、程度の低い霊的存在の憑依現象による“思惑の顕現”であるが、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化そのものが、低い心(靈)(目下(めした))の祈りが実った結果に付随するものでもあることを、○○○大先生は著書で述べている。

 そしてその低い祈りは、いうまでも無く、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち)

● 貪は、むさぼる、本能由来の行動。

● 瞋は、怒って目をかっと見はり、相手をにらみつける様子。例えば、瞋恚(しんい)は、自分の心に反するものを憎み怒り恨む憎悪の心の動き。

● 痴は、知恵が足りない、おろか、理性を失ったさま、夢中になることの意(痴の異体字は、癡(おろか)、仏教が教える煩悩のひとつ、無明ともいう、万の事物の理(法則性)にくらき心をさす。

この心の動きであり、その祈り、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応するのが、低い霊的存在であることをこれまで幾度となく述べてきている。

 それで、今後=アセンション後では、低い祈りをする人間がいなくなるものであることも、○○○大先生は著書で述べているが、次の世界の“創造”を担いたいならば、自分は何を思い、どういう心の動きをするべきか=どういった息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をするべきか、これを個々の人達が鑑みる、そのために太霊はローム霊訓講話(ローム太霊講話集)で、人間の在り方についてたびたび述べておられる。

(さらに、S会=紫光会の交霊会では、今後=アセンション後に移行すべき人のことを“これからの人、明日の人”という言い回しをされたものである)

 これについて第九話解釈の“その一”で、以下の文言についてピックアップさせてもらった。

人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神に…中略…誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造ることが大切…中略…仮令拷問(ごうもん)にかけられ…中略…堪え得るだけの精神の修養はロームが常に教えている筈…中略…絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っている
そしてこれを、
一つの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ”=このことを決して忘れるな、と述べておられる。
 さらに、
大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪ではなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり
とも述べておられる。

 この文言だけではなく、例えばローム太霊講話集第二話の以下の文、
宇宙を照らす太陽が無限の愛と慈悲との象徴であることが分かってくるであろう。これが何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う。この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい
の、
神自身の本当の気持ち”、これを“自分のできる範囲でこの神の心を出せ”ともおっしゃられている。

 そして第五話では、
人間は自分のことばかりでなく、他の人々の精神と肉体との完成をも併せ祈るべきで、これが慈愛というものである
とおっしゃられている。

 さらに第六話で、
神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる
この、
人間にも人間のために尽さして下さい”、
これが、
自分の使命を完成さしてもらう元”と述べられ、神に課せられている“使命”がどういったものなのか、自分たちは何を思って生きていくか=生業(なりわい)と“行”を行っていくのか、をも、示しておられる。

 また第八話で、今の人間の低さが恨みの連鎖の霊的干渉を作り出し増大させている具体例を述べておられ、それを知ったなら自分は何を思うべきか、についても以下の文言で示しておられる。
先祖の一人が人を殺して自分は見付からずにすんだが、相手の怨念の固まりが残っていてそれが子孫に祟るのであるから、これは凡て因縁によるものである。そこで北神の祈りにあったように、人間は生命のある限り世のため人のために尽すという気持を忘れないでいれば、どんな病気、原爆にも決して冒されることはないのであって、これはロームがはっきり言えるのであるから、この神の教えに従う汝等は、常にそういう心掛けで進んでいってもらいたい
これを要約したのが“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)である。

 それで、第九話の表題である「死の前後 殺人の場合」、これは今の地球人の進化程度が低いから、自我の肥大をしているから起きることであり、それぞれの心(靈)の在り方が大事であることを示されておられる。
 そしてもうひとつ大事なのは、殺人には“憎悪の霊団”の霊的干渉があり、この“憎悪の霊団”を作らない心(靈)の在り方、そして“憎悪の霊団”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない心(靈)の在り方、それが以下の文言、
悟らなければならないことは、汝等は常に心の鍛錬をしているが、人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神になる…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造る…中略…そんなもの恨んだところで何になる。絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っている
の、
本心は真の神を祈っている”、
この文言に何を思うべきか、自分たちはどう在るべきか、ということをしっかり鑑みる、また鑑みる人間でなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はしない、ということを、太霊は示しておられるのだということを述べ、第九話の解釈の総括とする。
 
 次回のこのカテゴリーでは「第十話 死の前後 天災、戦争による集団死の場合」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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