“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 日の出の巻 第一帖 Kellyさん的解釈

 
 今回から、日の出の巻の解釈に入りまんねん。 まず第一帖の原文は以下の通り。

春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ、此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、少しは会得(わか)りたか。
石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場ざぞ、否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ。
十二月一日、一二
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の“春”と“萌(もえ)出づる”は、それぞれの漢字の解字がポイントであると思う。 春は、“三”=“一二三(ひふみ)”、1番目、2番目、3番目のオーラと、その“三”を貫く形の丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それと太陽を表す“日”。 そして“萌”は艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、と、太陽を表す日と、月は肉体の表記であり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示していることでもある。 
よって“春とならば萌(もえ)出づる”という表記は“ならば”=今までの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の土=2~3番目のオーラの“業行”(生業(なりわい)と“行”)とは違う段階に入ることを示唆した表記であり、それは“一”=智性=1番目のオーラ、智性(神性)が増した表記が“三”であり、さらにこれに続く“草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ”の“草木”は“日月神示”の言葉の使い方のルールとして、芽生えるの意の艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、太陽=日と、胸の磁性“十”で“草”、そして胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で“木”であるが、これは太陽の振動(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介して送る役割が太陽でありそれを積極的に受け入れるのが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)を取り入れ自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)のことであり、よって“春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づる”は、次の段階(今後=アセンション後)の進化過程に地球と地球人が入ったならば、すべての事象、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も変わってくるという意味合いで“草木許りでないぞ、何もかも もえ出づる”ということであると思う。
 それでこれに続く文の“此の方の申す事 譬(たとへ)でないと申してあろが、少しは会得(わか)りたか。”は、このことは必ず顕現(“創造”の“主(ヌシ)”の計画として実現する)するのだという言い回し。 
 次の“石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。”の“石もの云ふ時来たぞ”は自我の肥大、“石屋の仕組み”が盛んになることを示した表記で、それはまたその場(フィールド)、次元が、低い砌(みぎり)の心(靈)の動きで出来上がっているからでもあり、具体的にいえば利益優先とか心無い行いをしても儲けるとか多少の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は容認するとかであるが、こういう心(靈)の動きをする人間はただ低いのであって、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”に今後=アセンション後の“創造”を託されるなんてことはありえない。 そして“此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、”は、当然のことながら“日月神示”に書かれている“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示唆した表記で、“道”は“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションの時期と“理(ミチ)”は今後=アセンション後の“創造”の法則性を示し、それは岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くであり、第四密度に移行するというチャネラーの表記でもありマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの覚醒=自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現とその心の行使、それは自省(胸の磁性“十”)そのものであるし、自我の肥大というのは心(靈)(ヒ)の中における砌(みぎり)の極性の強化で、これが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きにもなるが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、自我より“上”の心(靈)が発現しなければ“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿った事象の“創造”は出来ないからこそ、霊的成長度の高低において分けられる事象であるアセンションという事象を体験しなければならない。 そしてそれは“那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時”という表記が示されている砌(みぎり)の極性の高まりと、その心の動きの高まりが“岩戸閉め”であり、これは自我の肥大を示していると思うし、岩戸が占められているからこそ“上”の振動を自らの心(靈)に取り入れることが出来ない(“上”からの通信を受け入れない、自分が悪い方向に向かっていることを認めたくない=自省(胸の磁性“十”)しない)、それを示した表記であると思われる。 
 それで“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時”であるが、これについては画像で意味を示すこととする。

須佐之男神の解字 


 この画像で示した通り須佐之男は日足(ひたり)の極性=神の思惑を“力”として顕現せよの意であるから、それをさせないのが自我の肥大=岩戸閉めであり、そのことを“罪着せし時”と称されていると思う。
それで、その低い砌(みぎり)の極性が高まった時に起きるのがローム太霊の言葉である右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという心(靈)の進化の“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法側性)であり、これが起きること、左往右往するには自省(胸の磁性“十”)するという心(靈)が必須であり、よってアセンションはその場(フィールド)その次元に存在する心(靈)が日足(ひたり)の極性に向かうことであり、それが出来ない心(靈)が今の地球と同程度の進化程度の場(フィールド)に移行させられるものであり、だからこそこの第一帖では“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ”といわれ、神の“思惑の顕現”=現象化の妨げになる自我の肥大が高まった時が“岩戸閉め”と称され、その自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持つことと“上”からの荷電粒子を受け入れ止めることが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くという肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の変容であり、今度の岩戸開きは、これまでで一番大変であると示され、この次のアセンションは地球自体が進化するのだからもうアセンションに伴う醜い事象は起こらないし、そこに位置する人は自我の肥大を諌める心を十分に持った心(靈)(ヒ)であり、そういう心の持ち主でなければ次の段階の地球に移行できないということである。
その心の持ち主となるには、“愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場”と、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”には、自分が自我の肥大をして失敗するからこそ、厳しくなることが必然であるし、その状況に陥ってこそ自省(胸の磁性“十”)する=“正念場”といわれ、自らの自我の肥大を諌めよ、自省(胸の磁性“十”)せよという意味合いで次の言葉で“裸”という表記が使われていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ”

“日月神示” 日の出の巻 第二帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ。
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ。
月日の巻 十人と十人の役員に見せてやりて呉れよ、時節到来したのであるぞ。桜咲き神の御国は明けそめにけり。
十二月二日、ひつ九のか三しらす。

 第二帖は“九”“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”“五六七(みろく)”“五”“十”の表記で意味が示されている。 それぞれの数字の表記の意味はこれまでも述べてきたが(“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”“五六七(みろく)”に関しては
“日月神示” 富士の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 が分かりやすい)、それを交えて解釈することとする。  
まず“九”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そしてそれは“日月神示”表記の ○ 九 十 の“九”でもあるし、この“九”と“十”は卆(そつ、卒業の卒の異体字)であり、これまでの進化(自我の確立=固定化)を卒業するの意でもある。 その今までの平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)をもう終えるからこそ“神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ”と述べられていると思え、ちなみに“紀(もと)”の表記の意味は、筋道をきちんと立てること、紀律、風紀など、あるいは筋道や順序を辿って整理して記録する意(紀行、紀伝)順序を辿り記録した文章の意や年代(紀元、世紀)、あるいは黄道十二宮の周期である十二年を一紀とするの意(歳星(木星)が天空を1周する期間)であるから、今述べたそれぞれの意が込められている表記であると思う。 
それとこの文の“神界”は(心(靈)としての)智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のことであるとこれまでも解釈してきた。 
それだからこそ、今の地球人の平均的進化過程である自我の確立=固定化より“上”、“慈悲”と“慈愛”や智性(神性)の心(靈)の発現を示唆した“神始めの年”という表記が使われているし、今後=アセンション後の場(フィールド)では(これまで散々述べたように)ケダモノよりほんの少し上の進化過程(“日月神示”表記の“われよし”、“江戸と尾張”、自我の肥大、“石屋の仕組み”)の心(靈)の持ち主はいなくなるものでもある。

 そして“一二三(ひふみ)”“三四五(みよいづ)”については、今まで解釈してきたとおり“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体が加わった“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を真に固く止める(真固止)表記)を“三”と示され、また“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラでもあり、その三つのオーラに関わる心(靈)の動きが砌(みぎり)に傾いたり日足(ひたり)に傾いたりすることを“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラがそれぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往することと以前解釈した。 
その右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするのは、それを体験した心(靈)(ヒ)がこの事象の“創造”を高めるのに必然であり、事象の“創造”を神の思惑に沿ったものにするのは自らの霊的成長が必須だということでもあるし、だからこそ右往左往と左往右往して認識が高まった心(靈)(ヒ)は天意を受信して自らの心(靈)の動きとして行動する。
その心(靈)(ヒ)の持ち主を“日月神示”では“天詞様”と称されているものであり、その意味で三つのオーラがバランスよくなった心(靈)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)することを“四”(“日月神示”表記の“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信)と示され、“五”は神経がコイル状に密になった意味合いで糸巻の象形文字である。
 
そして“五六七(みろく)”は、神経が発達し、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)としての生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の究極(“九”)が“五”で示され次の“六”が爻部(こうぶ)、交わるの意味を持ち、何と交わるのかは、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。
 要はこの文の“五六七(みろく)”は、次の事象、アセンション後の事象の“創造”の元をする存在のことを指した表記である(ちょっと違う意味合いの表記のこともある)。 
それが次の文の“五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ”に示され、この文の“歳”という字は戉(エツ、刃物の意)と歩からなる字とされ、歩には時間の進行の意味があり、刃物で稲穂を刈りとるまで、それは収穫に要する時間を示しているのが“歳”であるから、“五の歳”は神経が密になって一応の完成を見た肉体(月(ツキ))、“子の歳”は十二支の始まりが子であるから、今後=アセンション後の“創造”の始まりを示している表記。

 それでこれに続く文“月日の巻 十人と十人の役員に見せてやりて呉れよ”の“月日の巻”は、先に解釈した日月の巻と太陽=日と肉体(月(ツキ))の順序が違うが、日月は日(日足(ひたり)の日、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である人間としては心(靈)(ヒ)のこと)が先に書かれ、月日は月(肉体(月(ツキ)))が先に書かれているからこそ、自我の確立=固定化をしている現地球人の平均的進化過程を指し示すものだと思う。
(このことはS会=紫光会の経文、四空経録の中の“日心月物”の日と月の表記の順序にも感じ取れる)
 それで今取り上げた文をよく読めば、今までの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を“十人と十人の役員に見せてやりて呉れ”と書かれ、それはよく分かれ、よく認識(悟り、幸取=さとり)せよという意味であり、“十人”は数としての“十”ではなく胸の磁性“十”であり、だから胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、それは今後=アセンション後の事象の“創造”をなす心(靈)(ヒ)を持った人であるといい得るし、それが二回書かれている“十人と”であり、“十人と”というのは、今述べた次の事象の“創造”の資質を持つ心(靈)のことであり、これに続く“十人の役員”は、この資質を持つのが役員であることを強調した表記であると思う。

 それで次の表記“時節到来したのであるぞ。桜咲き神の御国は明けそめにけり。”の“神の御国”の“国”は囗くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しているから、智性(神性)を獲得した心(靈)(ヒ)のこと、それは“明けそめにけり”であり、太陽=日と、月の振動で“そめにけり”=その荷電粒子を浴びている様であると解釈し、いうまでもなく“時節到来した”は霊的成長度の高低で分けられるアセンションの事象のことで、“桜咲き”はよい時期になることを揶揄した表記である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日出の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ、 ローレンツ力と ○ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 の月の世ぞ、取違ひせん様に致して呉れよ。
智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ、月の神様 祀りて呉れよ、素盞鳴(すさなる)の神様 祀りて呉れよ、今に会得(わか)る事ぞ、日暮よくなるぞ、日暮(一九れ)に祀り呉れよ、十柱揃ふたら祀り呉れいと申してあらうがな、神せけるのざぞ。
十二月二日、ひつくのかみふで。

 いうまでもなく冒頭の“次の世”は今後=アセンション後のことであり、それは今後=アセンション後に移行できる霊的成長度の心(靈)から観れば、相対的な比較として低い霊的成長度である自我の確立=固定化の進化過程(平均的地球人)の心(靈)が創造する事象ではない。 だがこのことが理解できる心(靈)(ヒ)の持ち主は少ない=アセンション後に移行できる資格を持つ心(靈)(ヒ)の持ち主は少ないといい得る。
それでこの文の“通基(月)の世”“一二(ひつき)の通基(二)の世”は基と通じる、そして“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラと肉体(月(ツキ))の意味合いでの“二”が書かれている。 要は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を顕現する肉体(月(ツキ))が“一二(ひつき)の通基(二)”という表記の意味であると確信するし、それが今後=アセンション後に移行出来得る資格(霊的成長度)を示唆しているものでもある。
そしてこの冒頭の文、それは以前、
日月の巻 第二十五帖で解釈したことがあるので、以下に抜粋してコピペしておく。

この画像
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 は、“月”“通基(二)”であり、“月”は砌(みぎり)の極性であり、さらに先に述べたように は、新月から満月に移行する様子を示す。  それは、日足(ひたり)の極性が強まった後の肉体そのものであり、そして“月”“通基(二)”は肉体のオーラ(土)2~3番目のオーラを発振、発信するものでもあるし、さらに“通基(二)”、それは基を通す=神の理(ことわり)を通す(顕現する)肉体の意味であると思う。 

…中略…

ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用“月”“通基(二)”は、先に述べたとおり、天意を顕現する肉体、それは古神道の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子、太陽=日を止める、“上”からの荷電粒子を三つの口で止める意味の靈、それを止める表記)であるとするのが、妥当だと思う。
 引用終わり。

それでこの文と日月の巻 第二十五帖の表記ので使われた以下の表記、この解釈を“取違ひせん様に致して呉れ”と称されているが、この解釈が出来る霊的成長度(“一”=智性=1番目のオーラが大きい)の人間はそうたくさんいないとも思うし、程度の低い人は程度の低い解釈しかできないということも示唆しており、ただ書いてあることをありがたがるだけの人間が多いし、そのただありがたがるという心理はよい結果だけが欲しいだけの心(靈)しか持っていないのだし、そういう人間に限って“上”から垂れた“日月神示”やローム太霊講話集、様々な経文、真言など、人の霊的成長の指標となるものの意味を読み解くことが出来ずに引用したり肖ったり(あやかったり)するが、それはただ利用しようとする心理が中心であるし、あるいはその心理の裏には御利益しか求めないとか、努力(肝=“怒り、いきり立つ心(奴と心)”で“力”を示さないで天の僥倖を求めるとか、あるいはローム太霊が揶揄(やゆ)した言い方である“ぼたもち坊ちゃん”(ローム太霊講話集316頁)であり、そんな低い心(靈)の人間を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は求めているのではないことを指摘しておく。
蛇足のようなことだったが、次の文、“智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ、”の表記は、今述べた低い霊的成長度の心(靈)の持ち主は、ただ引用するとかに終わり、あるいは点で的外れな解釈をしたりするが、それを示しているのが“智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ”であり、この“六ヶ敷い”については以前(
上つ巻 第十五帖)解釈したことがあり、それは、六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現、それを敷く=法則性に従って展開するということで、先に述べたように“次の世”に移行出来得る心(靈)(ヒ)の持ち主はごく少ないが、“上”はそういう霊的成長度の人間を求めているといえる…だからこそ“六ヶ敷い”のでもある。 それで“智や学がありては邪魔になる”は、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”をやっておらず=自らの霊的成長のためにエネルギーを贖う(あがなう)ことをあまりせず、よってそれは目先の事象に対しても認識(悟り、幸取=さとり)が低く、ただ理屈だけをこねている人間であり、それは先に述べた、引用しかできないとか肖ることしかしないとかの人間のことを指摘しているいい方であり、本当に“上”の真意を理解できてそれを顕現出来得る人間はごく少ないからこそ“六ヶ敷い”(六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現、それを敷く=法則性に従って展開する)といわれているのだと思う。

次の文、“月の神様 祀りて呉れよ、素盞鳴(すさなる)の神様 祀りて呉れよ、今に会得(わか)る事ぞ、”。 これはいうまでもなく肉体(月(ツキ))の意と“素盞鳴(スサナル)”に示された“上”からの荷電粒子を止める仕組み、これを知れということであるし、“素盞鳴(スサナル)”は以前示した画像をいかに貼っておく。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字



これに続く“日暮よくなるぞ、日暮(一九れ)に祀り呉れよ、十柱揃ふたら祀り呉れいと申してあらうがな、神せけるのざぞ。”の“日暮(一九れ)”も、それは“一九れ”の“一”は智性=1番目のオーラであり、“九”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そしてそれは“日月神示”表記の ○ 九 十 の“九”でもあるし、この“九”と“十”は卆(そつ、卒業の卒の異体字)であり、これまでの進化(自我の確立=固定化)を卒業するの意でもあるし、その意味において前回の日の出の巻 第二帖の“九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ”と共通の意味を示す表記である。 
そして“十柱揃ふたら祀り呉れ”は、自らの心(靈)の動きに胸の磁性“十”=自省の心(靈)(ヒ)、これが芽生え(柱のように)確立されなければ(“青人草”(あおひとくさ)の“草”、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと太陽(日)と胸の磁性“十”にも示されている)、“日暮(一九れ)”という霊的成長の段階に至らないということだと思う。 ちなみにこれは、決して十体の神さんが揃ったらなんてことではない。
最後の“神せけるのざぞ”についてはアセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が迫っているからそれに間に合う霊的成長度を自らの心(靈)に確立せよということでしかない。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 日の出の巻 第四帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。
其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。
桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。
十二月二日、ひつくのかみ。

 冒頭の日付の表記がある文は、これまでも解釈してきたとおり“十”は胸の磁性“十”(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に至る心(靈)の発現)、“八”は左右、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽(日)の気道と月の気道、それは日足と砌(ひたりとみぎり)という神の極性の顕現、“五”は糸巻の象形文字=脊椎動物としてコイル状(磁束の発現と強化、多様化)に発達した神経、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、あるいは“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、そして“日”は日足(ひたり)の極性、それは人(日止、霊止)においては心(靈)(ヒ)=精神性であり、人においての砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“月”は肉体、これらの意味を足さなければ“日月神示”の日付のある文の意味は通じないと思う。 重複するがこのことを前提に冒頭の文を見れば“十月八日、十八日”は胸の磁性“十”、“五”はコイル状に発達した神経(磁束の発現と強化と多様化)、“三”は肉体(月(ツキ))と日足の極性(心(靈)(ヒ))、要は肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)は、神の極性の顕現であるし、人(日止、霊止)は神の子だからその両方の極性を持つ(この事象に顕現している)。
 要はこの日付の表記のある文は、人(日止、霊止)の進化、霊的成長、神格化に向かうことを指し示し、進化が神格化に向かうことであるからこそ“此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが”と称され、またこの文は霊的に低い=心(靈)の発現が低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては、“臣民には恐い日”とされており、この場合の表記はもうすぐ進化程度の高低において分けられるアセンションの事象のことを指し、これに続く“神には結構な日ざぞ”は、アセンションの時期も示唆しているが、神の計画に沿った日足(ひたり)の極性=心(靈)(ヒ)という意味合いも感じ取れるものである。 
そしてその進化の“種”となる心(靈)(ヒ)というのは“神心になれば神とまつはれば”=“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し(“天詞様”)、神とともにこの事象を“創造”すれば=“神とまつはれば神とあななへば”、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”=“神とあななへば臣民にも結構な日となる”であり、そこにはもう自我の肥大という心(靈)が創造する事象(“石屋の仕組み”)は無いから、“上”の思惑に沿った“結構な日となる”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉の現象もなくなるものであるし、その事象を“創造”する心(靈)が“五六七(みろく)”であり、それは神経が発達し(“五”)、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)としての生命(生きる使命=存在理由)の進化、(霊的成長、神格化に向かうこと)の究極(“九”)が“五”で示され、次の“六”が爻部(こうぶ)、交わるの意味を持ち、何と交わるのかは、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。

 そしてこれに続く“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、”は、霊的成長度の高低において分けられたならば、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は盛んになり=“神激しく”、そして今までの低い進化程度の地球では自分たちだけの思惑でこの世界を作ってきたみたいなものだから…自我が肥大しているからこそそう認識しているのだろうけども、そこには低い存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があり、恨みの連鎖の霊的干渉が中心であり、だから平均的地球人の行動というのは、ディスプレイ(動物の発情行動)と欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで自分の利益を追求するという心(靈)の動きが中心でもあるのだが、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が出来得る心(靈)、それは自省(胸の磁性“十”)を十分に体験した“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を持ち、さらに“一”=智性=1番目のオーラを高める方向性に心が動いていなければ=目上(めうえ)の脳を使わなければ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではなく、それが出来ない進化程度の人間は、当然のことながら“次の世”(“日月神示”表記の今後=アセンション後の事象のこと)に存在する(位置する)資格がないし、その“次の世”になったならば、恨みの連鎖の霊的干渉による事象(戦争、天災、低い存在の憑依による事件や事故、因縁、右回転の荷電粒子が引き起こす遺伝子崩壊が原因の病気など)というものはなくなるから“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となる”とやや揶揄(やゆ)した言い方をされている。

それでこれに続く“日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、”は、時間の進行の意味を持つ表記の“日日(ひにち)毎日”、それは今後=アセンション後の事象であり、そこでは“富士晴れる”=“富士(二二)”は肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道が、晴れるという意味合いのことと、これに続く“臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ”、この表記の“臣民の心の富士”は心(靈)(ヒ)の動きの極性の意味合いでの“富士(二二)”であり、それは心(靈)(ヒ)の極性としての砌(みぎり)は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、自我の確立=固定化という進化過程における日足(ひたり)の極性は脾=“思う、憂う”であり、それは“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”という心(靈)の動きになっていくのであるし、その心の持ち主が“創造”する場(フィールド)=アセンション後の事象は、これに続く文の“富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ”であり、当然のことながら今の事象とは違う=恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象を観察するということが段々無くなっていくのだから“心晴れたり”でもあるし、そうなるには“富士は晴れたり日本晴れ”が重要であり、これについては以前作った画像で意味を示すこととして、今回はこれくらいにしときまんねん。


富士の解字


“晴れたり日本晴れ”の解字

“日月神示” 日の出の巻 第五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

右(みぎり)に行かんとする者と左りに行かんとするものと結ぶのが
渦巻き 左回転 の神様ぞ、 渦巻き 左回転 の神様とは素盞鳴の大神様ざぞ、この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、 渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ。男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろがな。
十二月三日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文の“行かんとする者”“行かんとするもの”これは時間の進行(“道”)が前提にあっての表記である。 
そして第五帖の表記“右(みぎり)”は、“思惑の顕現”=現象化であり、“左に行かんとするもの”は、“者”という漢字が当てられていないからこそ、心(靈)(ヒ)の動きである思惑、日足(ひたり)を指した表記であると解釈する。
 そして“思惑の顕現”=現象化、砌(みぎり)、これは現津(あきつ)、観察され得る事象の観察という心(靈)(ヒ)が行う行為によって成り立つのであるが、この文では“右(みぎり)に行かんとする者”=事象の“創造”を行うこと、あるいは事象の“創造”を行う者(個々の肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ))と、“左りに行かんとするもの”=事象の“創造”を思惑とする心(靈)(ヒ)の動き、その二つの神の極性を“結ぶのが
渦巻き 左回転 の神様ぞ、渦巻き 左回転 の神様とは素盞鳴の大神様ざぞ、この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、 渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り 渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ”と書かれているが、これは日月の巻 第二十八帖渦巻き 左回転 の表記と意味が同じであると思う。 第二十八帖で示した画像をいかに貼っておく。

日月の巻 第二十八帖 砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転

 それで、日月の巻 第二十八帖では“
渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりた”の表記を、被造物である人(日止、霊止)(あるい人間以外の肉体を持つ生命体っていってもよいと思うが)が、心(靈)を発現させ=持ち、それを時間の進行(“道”)に沿って進化させ、ある程度進化したからこそ“創造”の“主(ヌシ)”=神を認識し、それは“上”からの荷電粒子を肉体の磁性=“日月神示”表記のローレンツ力 で、取り込んでいき、そして肉体を持ったまま神格化するためのこととしていわれている…それと、“ 渦巻き 左回転 (うご)いて”っていう表記は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が顕現(動く、動いて)した(“創造”の意)っていう意味であり、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈)という、心(靈)を持った被造物は出来上がってきたのだということを示唆していると解釈した。 
 要は生命の“創造”は“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であり、そしてそれは今の地球人の大半が進化とはこうだと思っている外側(外国と幽界)の事象の観察による認識である肉体(月(ツキ))の進化ばかりではなく、心(靈)(ヒ)の進化が真の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現が進化の究極(○ 九 十 の意味)であり、そしてそれは“上”からの荷電粒子の取り込み、それを自我(腹の水)に貯めること(“素盞鳴(スサナル)”の“盞”(杯、さかずき))により心(靈)は育ってきたのであり、その裏にあるのが肉体(月(ツキ))の電気特性の変容と強化である自凝(おのころ)の仕組みであり、そこには“石”(帯電するミネラル)が必須でもあるという“日月神示”の表記の意味がある。
要は、心(靈)(ヒ)の動きとその発現により肉体(月(ツキ))は下等な生物から人(日止、霊止)にまで進化してきたのであるが、それを示しているのが“この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ、力生れるのぞ、”であり、先に述べた“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化である生命の“創造”は重複するが“この御用(おんはたらき)によりて生命あれるのぞ”に示されていると思う。 
 そして“
渦巻き 左回転 がまつりであるぞ、神国の祀り 渦巻き 左回転 であるぞ、神はその全き姿ぞ、神の姿ぞ”というのは、“まつり”が先に示しが画像の注釈にあるように“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示し、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の目的、根拠、生命が存在する理由、これらはすべて個々の生命の神格化であるから“神国の祀り渦巻き 左回転 である”と“神はその全き姿ぞ”という言い回しがされているのだと思うし、この場合の“神国”は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を有した心(靈)(ヒ)で“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであり、それが“上”と“祀り”=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して自らの思想を構築していくのが進化した人(日止、霊止)であり、その心の持ち主、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を今の平均的地球人(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程)よりも多く持ち、その思想を顕現する人は、その思想で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人は、今後=アセンション後に位置できる資格を有しているといい得る。 
要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”では無いってことになる。
 そして“男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろがな”というのは、日足(ひたり)の極性=男、その魂というのは、魂という表記自体が心(靈)(ヒ)とは少しニュアンスが違い、それは肉体(月(ツキ))を示す二と厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)、そしてこの世に顕在していない、この世にあらざる者としての鬼、要は心(靈)(ヒ)の一部でこの事象に関わっている低い部分というのがこの表記の意味だと思うが、その日足(ひたり)の極性の顕現が砌(みぎり)=事象に表わすということであり、それに対し“女の魂”は砌(みぎり)ばかりを思うから、それは失敗であり、失敗だからこそ教訓を得て日足(ひたり)の極性は強まるのだということだと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第六帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせんのざぞ、学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ、
しもの神々様には現界の事は会得りはせんのざぞ、会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐるのざぞ。
三、四月に気つけて呉れよ、どえらい事出来るから何うしても磨いておいて下されよ、それまでに型しておいて呉れよ。
十二月五日、ひつ九のかみ。

 “日月神示”内の言葉の表記や言い回しには定まったルールがある(これは“日月神示”の解釈に入ってすでに四年目になり、それぞれの表記や言い回しに対し、深く考えたすえに確信を深めていることでもある)。
 それで冒頭の“神界”という表記は以前にも解釈した通り、智性(神性)という心(靈)(ヒ)の発現と動き、そして智性を行使した心が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)して“創造”する場(フィールド)=事象であり、それを(今までの進化過程、平均的地球人の進化程度の心(靈)では)“人間には見当取れん“と言われていると思う。 
それは奪い合い騙し合いごまかし合い…結果として欺き嘘をつくとかが台頭しているこの世界、その心の動きが“創造”しているこの事象、そしてその手法にはまり、低い功名心と自尊心を高揚させるだけの人間が多いこの世界とは大違いということであるのだし、そしてこの表記の意味は、自我の確立=固定化の場(フィールド)である今の次元より“上”で、それはアセンション後のこと。

 それで、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現と強化は、人生において右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し(失敗を自我の肥大という心の動きであることを認識し)、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするするという一生の中に組み込まれている進化のプログラムを体験して、さらにそのことを振り返り、そして自省(胸の磁性“十”)の“行”に入って(すべての事象に対しての)“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を強化し、自らに対しては“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持って観察し自分の在り方を常に深く思うようになり、それから深く人生の意義を思い、神と人間の関係から思うこと、それは、その関係とは何か、そして自分の存在とは何かを追及し、自分と神を深く意識し始めたならば必ず自分の霊的成長を意図とした“行”に入るものであり、より神と人間、“上”と“下”、そして自己観察における自分の心(靈)の動きの“上”と“下”もよく理解するようになっていく。
だが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人に教えた霊的成長のための指標や教訓は、自我の肥大した人間が利用しているから今の形骸の宗教に成り果てており=腐りきっており、“行”は行ごっこに成り果てており、ただ知識をひけらかすとかありがたそうな言葉だけ述べるとかにしかなっていない。 
こんなことでは人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しない。
そのことを含めてこの第六帖では“学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせんのざぞ、学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ”と言われているし、そしてさらに、自我の肥大した心の持ち主がよく行う理屈をこねまわすだけ、言葉をもてあそぶだけ、そして現状を批判するだけ、そんな心の動きでは、所詮、霊的成長のための“行”に入ることはなく=まだその霊的成長度ではないということでもあり、そして、ことに宗教を商売にしてしまったのは自分の知識を“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きで利用しており(“役員づら”)、また利用されている程度の低い人間=現世利益を求める甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間は、利用する人間と同じ進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、同様に似非スピリチュアルや商売目的の自称霊能力者のいうことを信じ、見せかけの癒しを求め、さらに見せかけの感謝とか信頼とか薄っぺらい幸福や愛とか、あるいは癒しいう言葉に酔っぱらっている類の人間も智性(神性)が足らないまだ動物(ケダモノ)に近い段階の心(靈)であるのだが、智性が無い自己観察しかしないからこそ自らがその霊的成長度であることに気付かず、あるいは気づいても自我の肥大によって、認めようとはしないし、自らの低い心(靈)も諌めようとはしないものである=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ない。

次の表記の“しもの神々様には現界の事は会得りはせんのざぞ、会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐるのざぞ”の“しもの神々様”は“しも”と“神々様”の解釈を間違えると、これに続く表記の意味が通じないと思う。 
それは、神=荷電粒子の回転、しも=下、それは心(靈)(ヒ)を構成する“下”の心の動き、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、本能から自我までの心(靈)の動きであり、要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであり、それはこの表記に続く“現界の事は会得りはせんのざぞ、会得らぬ神々に使はれてゐる肉体”の“現界”=この事象の“創造”は、その良いカタチは“会得りはせん”のであり、会得できない低い進化過程の心(靈)であり、現にこの事象は腐り果てもう崩れる寸前であると思うが、このことに気付いている人間はごく少数でしかないし、この事象を腐らせたのは自分たちである自覚を持っている人間もほとんどいない。 
それは何度も述べるが平均的地球人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でありその心(靈)(ヒ)は“しもの神々”=下三つのチャクラによる構成が中心=本能、情動、功名心、自我まででしか構成されていないからである。
それだからこそ“会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから”=“下”(低い心(靈))の心(靈)でしか動いていない人間ばかりではこの世界は崩壊するから、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のための“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化=“行”して、自省(胸の磁性“十”)して、心(靈)(ヒ)の構成要素である愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を自らの心(靈)に発現せよいう意味合いで“身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐるのざぞ”といわれている。

それで次の表記の“三、四月に気つけて呉れよ、どえらい事出来るから何うしても磨いておいて下されよ、それまでに型しておいて呉れよ。”の“三、四月に気つけて呉れよ”は、時期としての表記ではなく、“三”は人(日止、霊止)の“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのことであり、“四”は発振、発信の意、“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信のこと、月は肉体(月(ツキ))のこと、日月の月、また日月は心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))ということでもあり、日足(ひたり)と砌(みぎり)という神の極性の顕現でもある。
それに“気つけて呉れよ”というのは、心(靈)(ヒ)の構成要素としてのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)、平均的地球人は下から三つのチャクラの覚醒が中心であり、アナハタチャクラはまだ覚醒し始めた段階だからこそ、自我の肥大=“石屋の仕組み”の心(靈)の動き、その発振、発信でこの世界を創っているものであり、それではいけない、先に述べたとおり崩壊するからこそ“気つけて呉れよ、どえらい事出来るから何うしても磨いておいて下されよ”といわれており、そして“それまでに型しておいて呉れ”は先に解釈した“身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐる”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして自我から“上”の心、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を構成要素とした心(靈)の発現とその動きである“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を、“どえらい事出来る”=アセンションの時期までに、平均的地球人より“上”の心の発現と動きを獲得せよということであり、それが出来なければアセンション後の地球より“下”の場(フィールド)に移行させられるからである。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第七帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

おろしやにあがりておりた極悪の悪神、愈々神の国に攻め寄せて来るぞ。 北に気つけと、北が愈々のキリギリざと申して執念(くどう)気つけてありた事近ふなりたぞ。
神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。 国々もその通りざぞ、神には依怙(えこ)無いのざぞ。 ろしあの悪神の御活動と申すものは神々様にもこれは到底かなはんと思ふ様に激しき御力ぞ。 臣民と云ふものは神の言葉(こと)は会得らんから悪神の事に御とつけるのは会得らんと申すであろが、御とは力一杯の事、精一杯の事を申すのであるぞ。
何処から攻めて来ても神の国には悪神には分らん仕組致してあるから、心配ないのざぞ、愈々と成りた時には神が誠の神力出して、天地ゆすぶってトコトン降参ざと申す処までギュウギュウと締めつけて、万劫末代いふ事聞きますと改心する処までゆすぶるから、神の国、神の臣民 心配致すでないぞ、心大きく御用して呉れよ、何処に居ても御用してゐる臣民助けてやるぞ。
十二月六日、ひつ九か三。

 第七帖の表記の“おろしや”“おろしやにあがりておりた極悪の悪神”、これは国名のことではないと思う。 
それで“おろしや”というのは下家(おろしやと読ませる、人名の表記)であり、これは“下”(低い心(靈))と“家”=宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)であると思う。
そう思った根拠は、第七帖の表記の“神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。 国々もその通りざぞ、神には依怙(えこ)無いのざぞ。”を読んで思う“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)=“見せしめ”のことであるし、それは霊的成長度が高ければ高いほど“上”はその心(靈)が起こす行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さないものである=“神に縁深い者には、深いだけに見せしめある”ということである。 
だが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(ことわり、法則性)は、“神には依怙(えこ)無いのざぞ”でもあるからこそ、アセンションに間に合わない人間は死を体験してから自省(胸の磁性“十”)するものでもある。
その程度の低い進化程度の心(靈)(ヒ)はさておき、“神の咎め”を受けなければいけない理由、それはいうまでもなくそれは今後=アセンション後の事象が“絶対の善”を顕現するものであるし、それを実現する心(靈)は“国”が意味する(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す、要は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”を散々体験した心=第七帖の表記の“国”“国々”であり、そして“神の国”“神の臣民”は、“神の咎め”の意味合いを知り、今後自分はどういう考えを持つのか、どういう行動をとるのか、このことを深く考える智性(神性)を持った心(靈)(ヒ)あるいは人(日止、霊止)のことである。 
だが現時点、進化程度の低い心(靈)である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、今“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為が許されており、それを見てなんとも思わないかあるいはある程度のことは無視している人は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)中心であり、第七帖の表記なら“おろしや”=“下”(低い心(靈))と“家”である。
しかし先に述べたとおり、どんな進化程度であろうが必ず“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことわり、法則性)は示されるものである。
話を戻し“おろしやにあがりておりた極悪の悪神、愈々神の国に攻め寄せて来るぞ”の表記の意味は、“おろしや”=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)、それをつかさどる目下(めした)の脳、大脳旧皮質と古皮質、動物と共通の脳、そこに“あがりて”=思想を支配し、“おりた”=思想を顕現した“極悪の悪神”は、智性=神性を宿す目上(めうえ)の脳と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を顕現させないように働きかけるから“愈々神の国に攻め寄せて来る”ということ。 
そしてこの文に続く表記内の“北”は、大極のことであり、肉体における縦の磁性N極であり、“上”からの荷電粒子を取り込む仕組み(ローレンツ力  ローレンツ力 )を示唆した表記でもあるし、この文の言い回しの“北に気つけ”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に気付けであり、今の腐った事象においては“北が愈々のキリギリざと申して執念(くどう)気つけてありた事近ふなりた”であり、それは先に解釈した“神の咎め”であり、具体的にはアセンションに伴う醜い事象、そしてこの世界を腐らせた目下(めした)中心の“思惑の顕現”は“神の咎め”を受けて、そうやって(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)心(靈)(ヒ)は育っていくものであることを示した文である。
それで、進化程度の低い心(靈)=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でも精いっぱい頑張っているということを示す表記が“ろしあの悪神の御活動と申すものは神々様にもこれは到底かなはんと思ふ様に激しき御力ぞ。 臣民と云ふものは神の言葉(こと)は会得らんから悪神の事に御とつけるのは会得らんと申すであろが、御とは力一杯の事、精一杯の事を申すのであるぞ。”であり、第七帖の冒頭では“おろしや”であったがこの文では“ろしあ”と示され“あ”という表記が使われているが、これはすべての“創造”の根拠、みなもと、といい得る、愛(炁)、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行して書く、それは“思惑の顕現”の意)に示されている“あ”であり、ひらがな表記だからこちら側(人(日止、霊止)、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物)視点の言い回しであると思う。 
しかしどんなに頑張ってもエネルギーを贖って(あがなって)も“創造”の法則性に則って(のっとって)いない行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、第七帖の表記の“愈々と成りた時には神が誠の神力出して、天地ゆすぶってトコトン降参ざと申す処までギュウギュウと締めつけて、万劫末代いふ事聞きますと改心する処までゆすぶる”ということになる。 
それである程度進化した人(日止、霊止)、ある程度智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っている人に対して、“神の国、神の臣民 心配致すでないぞ、心大きく御用して呉れよ、何処に居ても御用してゐる臣民助けてやるぞ”といわれており、この文の“御用”は智性(神性)の獲得と智性(神性)由来の“創造”を目指す心(靈)を育てている人のことであり、そしてこの文もアセンションが霊的成長度における区別であることを示唆した言い回しであることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第八帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。
神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。
心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治るのざぞ、心も身も分け隔て無いのであるが会得る様に申して聞かしてゐるのざぞ、取り違い致すでないぞ。
日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ。
集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ。
十二月七日、ひつくのかみふで。

 冒頭の表記の“一二三(ひふみ)”、この解釈を取り違えるとこの第八帖は読み取ることが出来ない。 
これまでも読み解いてきたように“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、そのことから鑑みれば(かんがみれば)、“食物(たべもの)”は自分の心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に取り込む振動、荷電粒子という解釈が成り立つ。
(“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる))

 そして平均的地球人の認識の“食物(たべもの)”というのは、通常(平均的地球人の霊的成長度における認識、いわゆる一般常識)では、物質としてしか見ていないが、そこにはいろんな(荷電粒子による)振動があるものであり、肉や魚なら自分たちの命を奪った人間に対する恨みの念があり、植物なら食べられることによって増殖をするからこそ植物の集合意識は人間に感謝の念を抱くものであり、人間が(物質を取り込む器官としての)口から食するものは大体このどちらかしかないけれど、どちらを食べて自分の心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を“創造”すべきかはもう説明したこと。
 ちなみに物質を取り込んで起きる肉体(月(ツキ))内の電磁誘導は、“臓腑”の“腑”の電磁誘導であり、それを貯めこむ(コンデンサー)のが“臓”であることを“改”で説明した。
 ちょっと蛇足だったが、それで“一二三の食べ方”という表記は、自分の“一二三”のオーラのどの部分の進化を考えるべきか、このことを意識せよということだと思うし、これまでの地球人の進化は土=2~3番目のオーラが中心であったが、今後=アセンション後は神の思惑をより顕現する世界を“創造”するのだから“一”=智性=1番目のオーラを大きくするべく心(靈)の在り方と行をすべきであり、だから“日月神示”は書かれたのであると確信するし、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもあるし、あるいはまた自らの過去の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をよく自分で考え=自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、今後どういう考えを持ちどう行動するか、“どういうつもり”(思惑)で生きていくのかを考える(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)、それが智性(神性)由来の思想でもある。
 その意味合いで“一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ”の“唱(十七)へ”について。 この表記、“唱える”の意味は、主張する、大声で言う、叫ぶ、念仏を唱える、先んじて言う、これらの意味があり、そして“唱(十七)へながら”の“十七”は、胸の磁性“十”と“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。 よってそれは自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)が自分たちの思惑を顕現するということ。 
 そして“噛むのざぞ”については、あごを使い噛むことは、左右=日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道に、圧電による電磁誘導を励起することである。 単なる健康法という意味合いのことでないし、仙道でもこれに似た行法はある(著書でほんの少し触れた加持祈祷秘密大全に書いてある)。 また噛みしめることにより筋力が増すなどの実験はテレビでも紹介されている。
 それで“四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ”というのは、バカ正直な解釈ならば四十七回噛んでから食べ物を飲み込めば、そのことが“これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ”と、それと冒頭の“一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無い”に対して勝手な思い込みをしてしまうだろうけど、このこともあごが弱っている現在の平均的地球人にはとても重要だけれども、“四十七”の“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信であり、善をしっかり理念とした心(靈)でなければならないということでもあり、それがまた神の思惑を顕現するための法則性であるからこそ“神に供へてから此の一二三の食べ方すれば”ということでもあるだろうし、その“四”に先に述べた“十七”が加わった表記であるし、自分の心(靈)が持つ振動に自分以外の振動を加味することそのものが“一二三の食べ方頂き方”であり、肉体(月(ツキ))の振動は土=2~3番目のオーラであり、“一”=智性=1番目のオーラは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが大事だからこそ、何度も述べたことではあるが“日月神示”を書かせた存在はまず最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた。
 そして“病無い”“何んな病でも治る”の“病”の表記は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことで、それは肉食でもあり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自らの欲望の達成のために使った結果であり、またそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、右回転であり、右回転の荷電粒子の回転は日足(ひたり)の回転で出来上がってきた=ある程度進化してきた遺伝子の崩壊を招き、その崩壊の現象、遺伝子を構成するたんぱく質の低分子化(アク=“亜”に戻すこと、ある程度できたものが朽ちる意味)は今医者が取り扱っている病気として認識されている。
(だが医学にはこの認識はほとんどない。 様々な病気に遺伝子の異常があることを発見し始めた段階でしかない)

 当然のことながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性(“理(ミチ)”)に則った振動の取り込み=“一二三(ひふみ)の食物(たべもの)”“一二三の食べ方頂き方”をすれば“何んな病でも治る”=恨みの連鎖の霊的干渉と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することはないということだと思うし、これは現地球人が自ら解決するべくその心の動きを持つべきでもあるし、それを強調した表記が“心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治る”であり、心(靈)(ヒ)は“一二三(ひふみ)”=1番目、2番目、3番目のオーラで構成されるべきであり、先に述べたあごの電磁誘導、噛むことにより肉体(月(ツキ))内の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道は、噛むこと、こめかみに力が入ることにより盛んになるから“肉体の病は四十七回噛む事に依りて治る”という言い回しがされていると思う。 
そしてそれは“心の病は一二三唱へる…肉体の病は四十七回噛む…”このどちらも、“上”が通信を送りそれを受信するべくするための心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を持てよということ。 また“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するためには“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければならず、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ていなければならず、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動き=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、ローム太霊の言葉の左往右往が出来ていなければならない。

 それでこれに続く“日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ”は、“此の方”=“上”、“創造”の“主(ヌシ)”、“日本の国”=“日(太陽)”と“本”と“国”、これは太陽の振動を取り込み(日)自省(胸の磁性“十”)の心(靈)(ヒ)を持つ(“本津宮”(もとつみや)の本)心(靈)(ヒ)、それは(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すので、これから進化するべく人のこと。 要は神の思惑を顕現していくに値する心(靈)の持ち主の意、そして“何んな宝もかくしてある”の“宝”は、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)、そして“神の御用なら”=進化の法則性に則り事象を“創造”するならば“何んなものでも与へる”ということ=“上”は援護する、力を加えるということ。

 最後の“集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ”は、霊的成長度の程度の低い人ほど“上”の教えを実践せず、また何の“行”もせず、そこに書かれてあることや概念を利用している=“役員づら”だが、その心(靈)の動きには自我の肥大があり、だから権力のために宗教を利用したり、自らを目立たせたいがために貴いものに肖る(あやかる)ことをしたりする。 当然のことながら、そんな人間を“上”は望んでいないし、これはいくら霊や神を語ったとしても、何の“行”も出来ていないし、“行”をやっていないし、また当然のことながら低い心(靈)の動きしか持っていないから、低い存在としか感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない。 それは“集団(まどい)作る”=○○教や○○党などを見ればよく分かること。 要は程度の低い人は程度の低い団体を作りその心(靈)の動きは低い霊団(ローム太霊が述べた概念)を構成するからである。 
大事なのは“集団(まどい)”を作った心(靈)の動き、それは権力を行使するとか低い欲望、そして(通貨としての)金に対する執着、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心によるディスプレイ(動物の発情行動)であること、アセンション後に位置しようとするならばこんなことくらい見抜けなければいけない。 それで自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に則って(のっとって)いるならばそれは、段々“道”(時間の進行)を共にして場(フィールド)を構成するので、少しづつ縁はついていくし、それは今の段階では“ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろ”ということであることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第九帖 Kellyさん的解釈

  今回も、日の出の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

 人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ、ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と申してあろが、戦も ローレンツ力と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。 それにはローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。
二四(にし)は剣(つるぎ)ざぞ。 
神まつりは神主ばかりするのではないぞ、剣と鏡とまつらなならんぞ、まつはれば霊(たま)となるのざぞ。 霊なくなってゐると申して知らせてあろがな、政治も教育も経済の大将も神祀らねばならんのぞ。
天の天照皇大神様は更なり、天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様、月の神様、特に篤く祀り呉れよ、月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となるのざぞ。
素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れよ、此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ、地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ、遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。
十二月八日、ひつ九のか三。

 

 冒頭の“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ”は何回も述べてきたとおり“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の結果といい得る。 またそれが“天詞様”でもある。
 そして今現在は、程度の低い人が多い世界だが、今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいなくなる。

(今現在が“真実(まこと)の神の世”ではないということまで、この文を読んで読み取れなくてはいけないと思う)

それでこのことも何回も述べているが、今後=アセンション後は自我の肥大(“石屋の仕組み”)から“上”の心(靈)(ヒ)の動き(“慈悲”と“慈愛”)を発現し、さらに天意を受信し自らの思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす人だけになる。 それが“それが真実(まこと)の神の世ぞ”であり、“身魂磨き”がある程度できていれば“上”は通信を送れるし、それを感得でき得るので“神は人にまつはる”ということになるし、人間を通じて神の思惑を顕現出来るから“まつはれば人でなく神となる”ということでもある。

 

そしてこれに続く “ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) と申してあろが、戦も ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。 それにはローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。”は、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は心(靈)(ヒ)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、|(たてぼう、こん、縦の磁性))によるローレンツ力、それでローレンツ力の強化と取り込む振動の高振動化が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの意義であるし、“上”からの荷電粒子を止める表記が古神道の“日止、霊止”でもある。

 だが太陽凝視を自らの“行”として行える地球人はごく少数(余談だが、仏陀、ゴータマ・シッダルタは短期間の太陽凝視をしたが、挫折してスジャータに介抱されたという記録がある)でしかないし、またそれは不食などを求める太陽凝視ごっこでもない。

大体、それ以前のこと=智性(神性)を増す“行”をする前に、自我の肥大を自らが諌める心の動きを持たなければならず、それが“日月神示”では“戦”と称されているものであると今までも解釈してきた。 

だからこそ自我の肥大した心による価値観や幸福感、それが由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自らが否定することになり、心の中の激しい葛藤があるからこそ“戦もローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ”と述べられていると思うし、この文の“壊し合ふのでは無い”は“上”からの荷電粒子を取り込めば取り込むほど、今現在の自分を観察して自省(胸の磁性“十”)して否定することになるから、そんなことは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛()しか発現していない人”の心()は認めたくない。

それだからこそ“壊し合ふのでは無い”といわれているもので、それは、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度といういろんな言い方があるが、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋の岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことになるので“岩戸開く一つの鍵”と称され“神国真中に和す”は、神の思惑を受信して認識(悟り、幸取=さとり)した心が“神国(“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))”であり、“真中に和す”は、縦の磁束が肉体(月(ツキ))の真ん中にあるからである。 これを強調する意味で“それには ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。”と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が“戦”であることを再度述べられている。

 そしてこれに続く“二四(にし)は剣(つるぎ)ざぞ。”、これは“二”=肉体、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、それは結晶化して磁性を帯びた鉄、それはカネの言霊、“力(ちから)の根()”=肉体内の鉄分子のことである。

次の“神まつりは神主ばかりするのではないぞ、剣と鏡とまつらなならんぞ、まつはれば霊(たま)となるのざぞ。”は、前半の“神まつりは神主ばかりするのではない”は、先に述べたことと重複するので説明の要は無い。
大事なのは“剣と鏡とまつらなならん”であり、“剣”は先に述べたとおり“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。

“鏡”はアジナーチャクラ、眉間のチャクラ、目上(めうえ)((日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳のチャクラのこと、ここで“上”からの荷電粒子を受信できないからこそ=目上(めうえ)の脳をあまり使っていないからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=ケダモノの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人は多いものである。 

だからそれは進化した心=靈ではない。 それが“霊なくなってゐる”の意味であり、靈については何度も使った解字の画像をいかに貼っておく。

靈の解字


 それで“上”の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の創造の法則性、それが分からないからこそ、受信できる資質がない人が今現在活躍しているからこそ“霊なくなってゐると申して知らせてあろがな、政治も教育も経済の大将も神祀らねばならん”といわれており、“政治も教育も経済”も、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛()しか発現していない人”の金儲け、権力を示す心()の動き(自我の肥大=“石屋の仕組み”)、それが如実に表れているものであるし、これらは霊的成長という点でたいして必要のないものに成り果てているし、その中身は腐り果てているものである=“真実(まこと)の神の世”ではないということである。

 

 そして第九帖の後半の“天の天照皇大神様は更なり、天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様、月の神様、特に篤く祀り呉れよ、月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となるのざぞ。

素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れよ、此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ、地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ、遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。”は、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“天の天照皇大神様”であり、それを受信した様、降りた様が“天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様”であり、それは肉体(月(ツキ))に降りなければならず、そういう肉体(月(ツキ))にするのが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であるが、それが“月の神様、特に篤く祀り呉れ”=天意を認識とせよ、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよということ。 そして今の世、今の事象を“闇の夜”と称され、それが肉体(月(ツキ))の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のオーラにより、“月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となる”といわれていると思う。

 これに続く“素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れ”も、天意を受け止める“盞”(杯、さかずき)の意、“素盞鳴(スサナル)”については以前紹介した画像を貼っておく。


“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字

 だが今の“素盞鳴(スサナル)”=自分たちの肉体(月(ツキ))の構造は自我の肥大中心=岩戸が開いておらず、だからこそその心(靈)(ヒ)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとるものであるし、この行動がこの事象を腐らせ“真実(まこと)の神の世”ではない世界を“創造”しているし、また個々の肉体(月(ツキ))は恨みの連鎖の霊的干渉による弊害をどうしようもないほど背負っているからこそ“此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ”といわれ、この文の後半の“罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る”は、恨みの連鎖の霊的干渉を背負い、その中で自分たちの在り方を見出す、たとえば因縁を購うことにより霊的干渉の仕組みを知ったり、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出す目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心の動きを知ったりするが、それを知らなければ自らの在り方や霊的成長の方向性、人の存在意義の神格化を知り得ないからこういう言われ方がされていると思うし、これに続く“地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ”も、“上”に対する“下”=この事象の意味合いの“地の御神”そして肉体(月(ツキ))の意味の“土の神”そして自省(胸の磁性“十”)の意味、“本津宮”(もとつみや)へ帰れの意味合いの“祓ひ清めの御神”そして“上”からの荷電粒子を受け止め反映する“地の神”である産土の太神は、個々の人間の肉体(月(ツキ))を管理しており、それは心(靈)(ヒ)=“国々”を見守るから“国々の産土の神様 祀り呉れ”と称されていると思う。

 最後の“遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。”は、早く今の価値観を見直せ、自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠を見直せ、自省(胸の磁性“十”)せよ=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、そうしなければアセンションの時期に間に合わず、それは個々の心の問題だけではなく、先の“政治も教育も経済の大将も神祀らねばならん”=このままでは政治も教育も経済も崩壊するということではあるが、どう見ても今のままでは崩壊するしかないし、崩壊してから自省(胸の磁性“十”)するしかないと私的に思うことを付け加えて…今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示” 日の出の巻 第十帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

桜咲き神の御国は明けそめにけり。 十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。
あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。
聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。
十二月十日、ひつくのか三。

 冒頭の“桜咲き神の御国は明けそめにけり。 十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。”は、毎回解釈している通り時節のことではなく“桜咲き神の御国”は日の出の巻の第一帖の“春とならば萌(もえ)出づる”の“春”=“一二三”のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+日(太陽)であり、“神の御国”は智性(神性)の発現した心(靈)(ヒ)=“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)である。 
そして“十月”は胸の磁性“十”、自省の心(靈)の動きとその心の動きあってこその“慈悲”と“慈愛”という心の発現のことを指し、それを獲得した肉体=月(ツキ)のことである。 
要は霊的成長した“御国”=心(靈)(ヒ)、そして霊的成長した肉体(月(ツキ))を指した表記。この両方が備わっていなければ、神の思惑、アセンションという“創造”の“主(ヌシ)”の計画、その意義、そこにおいて自分はどう在るべきか、それが“ぼつぼつ会得る”ということであり、地球の次の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては何度も述べている通り、自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が必須であり、それが今の平均的地球人の進化過程から“上”であり、だからこそこの心(靈)と肉体(月(ツキ))を持っていなければ、今後=アセンション後に移行する資格はないということ。

そしてこれに続く“叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。”は、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、ローム太霊の言葉の右往左往から左往右往、これらはみな心の中の葛藤で“日月神示”ではよく“戦”という表記が使われていること。 
それは自我の肥大した人、自我の肥大という心の動き中心の人においては、この葛藤をよく体験して今までの低い価値観や薄っぺらい幸福感を捨て去らなければならず、それはまた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となるべく心(靈)の動きを獲得することでもあるし、ローム太霊の言葉なら“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ということでもある。
またこの表記の中の“めぐり”“借銭無しにする”は、どんな動機で、“どういうつもり”で頑張ってきたのかによることであり、それは、低い心(靈)ならば恨みの連鎖の霊的干渉の増大に加担しているものであり、またその心の動きはこの世界を腐らせていることを今まで説明してきたが、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人ほどこのことは理解できない=“上”の通信を受けていないか、多少分かっていても無視するものであり、それはただその時だけ良ければよい、目先のことしか考えていない。
結果それは、自分の低い心(靈)由来の欲を達成することが恨みの連鎖の霊的干渉を増してこの世界を腐らせていることを低い欲望由来の保身のため無視しているが、そういう低い心(靈)の持ち主は今後=アセンション後に移行する資格がないからこそ“神の咎め”として自省させるためにひどい目にあわす、あるいはそれで自省しないようなら“上”に殺され、死後の世界で自省するものであるが(閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)のこと)、それが“めぐり”=“どういうつもり”(思惑)でやってきたことの結果、“借銭無しにする”=その時だけいい目を見た“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、苦しんで自省(胸の磁性“十”)する、そのことを指した表記である。 
またこのことを強調した表記が“花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”で、これは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は今後=アセンション後で“花咲く”のであり、それは“上”に認められる“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適った思想と行動をとるからであり、“花散る”はいうまでもなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いで今出来上がっている形骸の物、それを代表するものとして日の出の巻 第九帖では“政治も教育も経済の大将”と述べられ、それは“上”の思惑に適ったものではないからこそ“神祀らねばならん”のであり、これは重複するが、神の思惑とは全然違うのだということを示唆しているのだと気付くべきであるし、これらが崩壊するのは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それをこちら側、人間が認識するならば人(日止、霊止)の進化、霊的成長、神格化に向かうことであるし、重複するが、これに適っていなければアセンションに伴う醜い事象=“神の咎め”を受けるということでしかない。

そしてこれに続く“あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。”は、“あめのひつ九”に関しては“上”=“あめ”、そして“ひつ九”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるだろうし、この場合“九”が書かれているのは、“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるからで、この“ひつ九”の表記そのものが“上”からの荷電粒子を止める意味合いのことを強調しているし、またそれは“御神名”で、名(めい)は命、使命、役割(“日月神示”表記の役員)であるだろうし、“かミ”のミだけカタカナなのは、“上”から目線の言い回しで、ミは向かって左上から右下に書かれ、三つ斜めの棒が書かれているのは“一二三”のオーラをしめすものでもある。 それでこれは日足(ひたり)の極性、この場合は“上”の思想が神から見て“下”、事象の顕現=砌(みぎり)に顕現する…というよりも先に述べたとおり“上”から目線なので、必ず(人が“創造”している)この事象に顕現させるということだと思う。
 よってそれは神の計画、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、それを“書かす”=事象に示すということで、“それを皆の者に分けてやれよ”は、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、オーラの発振、発信、これがあるから霊縁とかは成り立つものであるが、今後=アセンション後の事象と縁ある人は“御神名書かす”=神の思惑を顕現するべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、その人たちのオーラ、思想は、程度の低い人を影響していく、例えば智性(神性)由来の思想で導いて行ったりするなどの意である。

 これに続く“聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。”は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人は、先に述べた事柄に対して大概反目するもので、それは、認めたくない、自分は正しい、自分が自分の利益を追求して何が悪い、これらの開き直りがあるから自らの心(靈)の動きを“サニワ”=審神者、“上”“下”を自分で判断せよ、しっかり自己観察して“聞けよ、何んなことでも聞かしてやる”ということで、これは“すべての事象は自分の在り方を示す”と○○○大先生は著書に書いたが、その意味合いのことでもある。 それと“火吹くぞ。火降るぞ。”は先に述べた“神の咎め”を強調した言い回しである。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

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“日月神示” 日の出の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

江戸に道場作れよ、先づ一二三(ひふみ)唱へさせよ、神示読みて聞かせよ、鎮魂(みたましずめ)せよ、鎮神(かみしずめ)せよ、十回で一通り会得る様にせよ、神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ。
誠の益人作るのぞ、此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ、神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ、身魂せんだくするぞ、神かかりと申しても狐憑きや天狗憑きや行者の様な神憑りでないぞ、誠の神憑りであるぞ、役員 早う取りかかり呉れよ。
十二月十一日、一二ローレンツ力と ○

 冒頭の“江戸”の表記は、これまで解釈してきたとおり腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン(荷電粒子の回転が上下に不安定)、そして“戸”は横隔膜、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、心の動きでいえば自我の確立=固定化、そしてそれが増せば自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心の動きになり、その“上”の心(靈)の発現になっていないから岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くということが“日月神示”で述べられている。
 それは、自我由来の心、低い功名心と自尊心、縄張り意識、物欲、本能由来の欲など、これらは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであるが、それを自らが諌めるには、自我の肥大で失敗してから自省(胸の磁性“十”)する(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)ことが必須でもあり、アセンションに伴う醜い事象はまさに失敗の事象でもあるのだが、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ほど偽のアセンション情報を信じ込む(誰もがアセンション出来るとか、不幸のない世界がやってくるとか、誰もが幸福になれるとか、こういった低い憑依現象(ほとんどが人間に恨みを持っている動物霊のいたずら)=ハイヤーセルフとかチャネラーとかによる根拠のないメッセージ)。
 それで自我の肥大を諌める心の動きには智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が必須であるからこそ“先づ一二三(ひふみ)唱へさせよ”といわれ、それは今の地球人が土=2~3番目のオーラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だからである。 
要は智性(神性)無き心ではいけないということでもあるし、ほとんどの人間は目上(めうえ)の脳があるからこそある程度の智性(神性)を有しているが、智性を行使して物を考えるとか行動するとかが足りなさすぎるゆえに、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きと行動をとっているものでもあるし、そういう人を対象に“江戸に道場作れ”=腹の心である自我を、道(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における時間の進行)場(場(フィールド)、自らが感じ(感じる磁性)うる事象)を作れという言い回しで、諌めている。 
そしてこれに続く“神示読みて聞かせよ、鎮魂(みたましずめ)せよ、鎮神(かみしずめ)せよ、十回で一通り会得る様にせよ、神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ”というのは、自我の肥大した人間ほど自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めないとか正当化するものであり、だから“鎮魂(みたましずめ)せよ”であり、“鎮神(かみしずめ)せよ”でもあるが、この場合の“鎮神(かみしずめ)”の神の表記は、自分の心よりほんの少し“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的成長度の存在を指すと思うし、その自分よりほんの少し“上”の通信を無視するのが先に述べた“自我の肥大した人間ほど自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めないとか正当化するもの”ということになっていく。 
要は自分の心(靈)が低い心(靈)の動きしていれば、低い存在、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しかないからであるし、だから自らの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出せよということで“サニワで聞けよ”といわれてすらいる。 
そして“十回で一通り会得る様にせよ”は、自我の肥大した人間ほど強情であり自らを諌めようとしないから、ほどほどにしておけよという意味合いのことを揶揄した言い方であり、“神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で自らの自我を諌め=“神祀りて其の前でせよ”であり、そうなれば自分は“上”を知り行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性になり、それは“絶対の善”を顕現しようとしなければ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない世界は実現できないし、それが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるし、さらにそれは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適うから“神がさすのであるからどしどしと運ぶ”ということになると教えられているのだが、何回も述べるが自我の肥大した人間は自分の悪を“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認めず、ただ突っ張るものでしかないからこそ進化の道筋(アセンションという時間の進行における“創造”の“主(ヌシ)”の計画)から遠ざかるものであることを示唆している。

そしてここまでのことを踏まえて次の文を読めば意味はよく通じるものである。
“誠の益人作るのぞ、此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ、神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ”
 自我の肥大した薄っぺらい人間の言葉は薄っぺらく、ただ耳心地の良い言葉を使って人を引き付けたりもしているし、今多いアセンションのことが歌ってあると見受けられる本や、スピリチュアル系の本なども“役員づら”が情報だけ引用して本を売るために言葉を使い、ひどいものはゴーストライターが書いていたりもするが、それが“誠の益人”でないことは一目瞭然であるし、それは言葉成るではない=“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が成るのではない。 よって“誠”という表記が使われているし、それは絶対にその条件を兼ね備えていなければならないからこそ“此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ”という言い回しで強調されている。
 これに続く“神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな”は、“上”の思惑が理解できていない“役員づら”や“役員づら”の情報を信じ込むダメな人間に対する言い回し、そしてこれに続く“神かかれる人 早う作る”は、時期に間に合わせるために“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する人、自我の肥大を自らが諌める人を作るのが神の計画であるということで、それには“身魂せんだくするぞ”が必須である。
 そして“神かかりと申しても狐憑きや天狗憑きや行者の様な神憑りでないぞ、誠の神憑りであるぞ、役員 早う取りかかり呉れよ。”は、平均的地球人の霊的成長度は土=2~3番目のオーラの進化過程だからこそ霊媒体質が多く、低い功名心と自尊心を煽る(あおる)低い存在の憑依現象がとても多いし、その憑依現象は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在が多いのだが、天使を名乗ったり何とかの神を名乗ったりハイヤーセルフとか思わせたりもするが、大事なのはそのメッセージの内容であり、またそれをどう見極めるのかも大事であり、先に述べたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示していない根拠のないアセンション情報を信じ込むのはただ甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)のであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心だから自分にとって都合の良いことしか信じないものでもあるが、そのことをしっかり分れ、本当に自分がアセンション後の“創造”を担う“役員”ならば、上記の文の意味合いをよく理解して低い憑依現象など意に介さないで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく理解して進んでいけということが“誠の神憑りであるぞ、”=言葉成る、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した心(靈)で行動し、事象の“創造”をせよ=“役員 早う取りかかり呉れ”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ、まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ。
それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ、早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。
神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ。
十二月十二日、ひつ九のか三。

 冒頭の“日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ”は、自我の確立=固定化の進化過程から自我の肥大という心の動きで“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、そして“力”を示して低い功名心と自尊心を満足させてきたということから、次の段階に入るのであるから、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“という自らの心(靈)を諌める事象、それを体験することを述べている。
それはこれまで何度も述べている通り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は、腹から胸、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒、第三密度から第四密度への移行であるからこそ、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で創られてきた現津(あきつ)、観察され得る事象は壊れ、それを“創造”してきた人は自省(胸の磁性“十”)して落胆(胆が落ちるという表記の意味は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”が弱まるから)して、悲嘆、悲哀(日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)と肺=“悲しみ”)という心の動きに暮れる時が必要、それは左往右往の左往であり、日足(ひたり)の極性の強化ということになるものである。
だから平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の自我の肥大は諌められることが必須、それがアセンションに伴う醜い事象ということでもある。 そして以下の文は今述べたことを強調しているものであるし、これはほとんどの人が体験しなければならないことだとも思う。

“まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ”

 そしてこれに続く“それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ”も、先に述べた自省(胸の磁性“十”)をも含め、恨みの連鎖の霊的干渉の結果をそれぞれが贖う(あがなう)、これを“せなならん”といわれている。 
 それは何度も述べていることだが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの人が自分たち、あるいは自分たちの周囲だけの都合しか考えない=薄っぺらい幸福感しか持っていない、それが動機の行動の結果が今の事象であり、三秒に一人子供は死んで浮遊霊になり、さらにたくさんの家畜を殺しているから人間に復習したい動物霊を増やしている。 
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持つ子供の浮遊霊や動物霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、自らの心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということを考えもしないで、目先の快楽を追ったり、地球全体の状況を見て自分たちがどうあるべきなのかなど考えもしなくなるものである。
 しかしそんなことではいけないからこそ次のように述べられている。

“早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。”

 この文の“早い改心”と“洗濯次第で何んな神徳でもやる”、これは“日月神示”に一貫して述べられている自我の肥大を自らが諌めよということであるし、自我の肥大を諌めれば先に述べた悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きにくいものである。
さらにこの文の“神徳”という言葉は、程度の低い人は程度の低い解釈をするであろうが、それとは違い、神の“思惑の顕現”=現象化をなすべく人、その心の動きを持った人、それが今後=アセンション後の事象の“創造”でありまたそれは“喜悦(うれ)し喜悦(うれ)し”=恨みの連鎖の霊的干渉のない世界の実現、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程にある人が全くいない世界ということである。 それはその場(フィールド)にいる人たちは何の不安などないという言い方もできるが、その世界を“創造”するには資格がいる。 
その資格と、今取り上げた文中の“早い改心”と“洗濯次第で何んな神徳でもやる”このことは先に解釈した日の出の巻 第十帖の以下の文を見るとよく分かる。

“十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”

 “十月”は自省(胸の磁性“十”)の心を持った肉体(月(ツキ))。 自省(胸の磁性“十”)という心を持った自我の肥大より“上”の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人は、“ぼつぼつ会得る”ということでもある。 そしてアセンションに伴う醜い事象は、地球人の霊的進化に必須であるからこそ“掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな”でもあり、恨みの連鎖の霊的干渉の事象を贖う(あがなう)ことが“めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ”でもあり、霊的成長度において“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はこれからひどい目にあい、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の素地を持つ人、この両方において“花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”といわれているものである。
 また今取り上げている文の“神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ”は、これも先に解釈した日の出の巻 第九帖の以下の文を読むと分かりやすい。

“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ”
これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の結果といい得る。 またそれが“天詞様”でもあると今まで何度も解釈した通りのことでもある。

そして“神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ”については、“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の発現、そして“石屋の仕組み”=自我の肥大した心に、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の方向性がプラスされたときにその心(靈)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になるものであるが、それを見極めよ=“神と獣”、これは○○○大先生流に“目上(めうえ)と目下(めした)”=大脳新皮質における心(靈)の発現と大脳旧皮質、古皮質における心(靈)の動きといってもいいが、その心(靈)の発現と動きの程度、いい換えれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程の“上”“下”を分けること、それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画のアセンションであることを強調した言い方が“神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れ”であり、“上”からのメッセージを読み違えないで一人でも多くの人が次の“創造”に参加して欲しいのが“早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く”であり、またこれが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であることも述べており、そのためには先に解釈した“早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやる……洗濯次第で何んな神徳でもやる”ということでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。 今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ。 
日向(ひむか)と申してあろがな。 
真上(まうへ)に真すぐに神を戴いて呉れよ、斜めに神戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真すぐに、神は真上に戴くのが神国のまことの御道であるぞ。
方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ。 
神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民 愈々苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ。
斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。 真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。 此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか。
天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ、天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ。
天からい吹(ぶ)けば地からもい吹くのざぞ、天に悪神あれば地にも悪神あるのざぞ。 足元気つけと申してあろがな。
今の臣民 上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地 拝(おろが)めと、地にまつろへと申してあろが、地の神様 忘れてゐるぞ。下と申しても位の低い神様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示克く読んで下されよ、国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ。
神々祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝へと申してあろがな、吾れ善しはちょんぞ。
十二月十四日、ひつくのかみ。

この第十三帖も、低い進化程度の心(靈)(ヒ)に気付け、そのままではいけない=低い心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))の“創造”では神の思惑に沿わないからアセンションに間に合わない、このことを伝えている。
それは最後に述べられている“吾れ善しはちょんぞ”に示され、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、あるいは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))の行いを諌める言い回しが冒頭の“此れまでの仕組や信仰は方便のもの”であり、これを強調する言い回しが“方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが”である。 
要は何を見ても自分の欲望を充たすものに都合よく利用してしまう霊的成長度の低い人が行っていること、それが“方便”であり、その“方便”による“理屈”が“悪”と指摘されているわけであるし、その“仕組”はとても大きなものになっており、それは日の出の巻 第九帖の“政治も教育も経済の大将も”であり、これは“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)していない心(靈)だからこそこの文の前に“まつはれば霊(たま)となるのざぞ。 霊なくなってゐると申して知らせてあろがな”、そしてこの文の続きとして“神祀らねばならんのぞ”ともいわれている。
そしてこれは日の出の巻 第一帖の“否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来る”、そして同じく第三帖の“智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ六ヶ敷い仕組ぞ”、そして第六帖の“学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせんのざぞ、学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ”とくに第六帖ではこの表記の後に“しもの神々様には現界の事は会得りはせんのざぞ、会得らぬ神々に使はれてゐる肉体気の毒なから身魂磨け磨けと執念(くどう)申してゐる”と述べられ、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、あるいは自我の肥大(“石屋の仕組み”)、それに反応する低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は“学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせん”ということになると思うし、今は権威ばかり主張したり人が知らない知識を吹聴するだけの人間が多いのだが、そのことをはっきりと指摘されており、この文にあるように“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、いわゆる行ごっこではなく本当の“行”をしなければ“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないし、それは“天詞様”ではないからダメだということが示されている。 
また目下(めした)中心、自我の肥大、“石屋の仕組み”、その心(靈)(ヒ)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、これについてとても分かりやすい言い回しは下つ巻 第二十三帖の“神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ”でもあり、進化程度の高低=“臣民の性来(しょうらい)によって”目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心を行使する人間と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の人間、あるいは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を分ける、それは時間の進行による(“道”)“上”からの荷電粒子の降り注ぎ=“神いよいよ烈しく”によって、はっきりさせられるものでもある。
それで“学で幾ら極め様とて会得(わか)りはせん”これは、今の宗教、宗教団体や新興宗教も含め、これらに関わっている人間や、アセンションやスピリチュアル本の著者などがほとんど(全くといっていいほど)“身魂磨き”を行っていない、口先だけで理屈を説き自分たちの低い功名心や自尊心を満足させただ権威を示し(“石屋の仕組み”=自我の肥大)そしてその裏で(通貨としての)金を儲けているだけだからであるし、こういう霊的成長度の人間は甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)言葉、例えば幸福とか癒しとか感謝とか奇跡とか神秘とか無限のパワーとか…なにが本当の幸福、癒し、感謝、奇跡、神秘、無限のパワーなのか全然分かっていない人間に限ってこういう言葉を“方便”(程度の低い人が欲望を充たすために貴いものを利用すること)を多用するし、それは“日月神示”でいうところの“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)では無いし、誰にでも分かりそうな表現としては“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではないということでもある。
またこのことを示している分かりやすい表記が日月の巻 第三十六帖の“今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。 之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。 今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。 番頭殿を悪く申すでないぞ。 よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。 よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ”でもあるが、この文に続く“まつりごとせなならんぞ。 わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ”という言い回しで“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を説いている。 これと同様のこととして日の出の巻 第九帖の“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ”、これは今現在が“真実(まこと)の神の世”でも無く、“まつはれば人でなく神となる”=高い霊的存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している人間はほとんどいないことを示唆しているものでもあるし、先に引用した日月の巻 第三十六帖の“善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐる”、これは政治家だけのことではなく今の地球人の大半がこんなふうでしかないから、本当のことなど全く解っていないし、自らの思想や心(靈)が感じ(感じる磁性)うる事象=人生において、真実=真固止を求めていないか、真実の認識や概念がてんで低すぎるからである。
それで具体的に“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の方法を説いているのが“日向(ひむか)と申してあろがな”であり、これはいうまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの意味である。 何度も述べたが“日月神示”を書かせた霊団は黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯があり、それがこの“日向(ひむか)”を太陽凝視と解釈する根拠でもあり、人の霊的成長度は“一”=智性=1番目のオーラに顕れ、1番目のオーラが大きくないと“上”から注がれる高い振動を自らの心に止めることが出来ない。 
 それについては以前紹介した画像で意味を示す。

平均的地球人と“上”との感応共振



アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成

人の存在の意義は霊的成長して神格化する、このことが言葉だけにしかなっていない、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化のことなど全く忘れられいるのが今の形骸の宗教でもあり、大体今の宗教は“人の存在の意義は霊的成長して神格化する”この大事なことすら形骸になっているものでもある。
そして“今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ”の“神に真直(ますぐ)”は、今現在の宗教や先に指摘したスピリチュアル本などが、自我の肥大(“石屋の仕組み”)により、方向性を間違えたものになっていることを指摘している表記でもあるが、本当の“行”、本当の幸福(“夭と屰”(ようとげき)、示す偏(へん)と“畐”)、あるいは本当の価値、これらはすべて智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)に由来するものであり、今の地球人の進化程度では間違った方向性ばかりが当たり前になっているものでもあることだからこそ“今度は正味(せうまつ)の信仰である”とも述べられている。 
重複するが今の宗教やスピリチュアルを説く人間は“役員づら”であり、それは“正味(せうまつ)の信仰”、本当の意味での信仰ではないということ。
さらにそれを強調する言い回しが“真上(まうへ)に真すぐに神を戴いて呉れよ、斜めに神戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真すぐに、神は真上に戴くのが神国のまことの御道であるぞ。 方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ”と“斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。 真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。 此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか”でもあるし、何回も述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)、自我の肥大を諌める言葉“それで洗濯せよ掃除せよと申してゐる”、これが無ければ“神の真道(まみち)”は解りようがないことが述べられている。 そして今後=アセンション後は“正味(せうまつ)の信仰”が台頭すべきだから、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性(“理(ミチ)”)だから“方便の世は済みた”のであり、そして“今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来ん”は、もうアセンションに伴う醜い事象、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”した事象のことだが、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないから崩壊するのであり、今度の事象は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が“創造”する事象だから当然崩壊はありえないのだが、その貴い事象を“創造”せよという言い回しがこの文でもある。
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”した事象が崩壊する様が“神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民 愈々苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ”であり、この文の冒頭の“神の経綸(しぐみ)”は進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、それが“狂ひ無いなれど”=狂いがないからこそ、絶対だからこそ、“泥海のたうちは臣民には堪(こば)られん”であり、この“泥海のたうち”は“海”の表記が腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであり、それが高じると自我の肥大=“石屋の仕組み”となるから“泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ”である。 そしてそれを観ている(“観察と認識”)している“上”は“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持っているからこそ“神も泥海にのたうつ”のであるが、人間としては“早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れ”であり、いうまでもなく自我の肥大を自らが諌めること=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が大事、それを自らの自我=“神の申す事真すぐに肚に入れて呉れ”、自我という心を構成している部分、マニピューラチャクラ=“肚に入れて呉れ”であり、要は自我を自らが諌めよということである。
そしてアセンションに伴う醜い事象が崩壊すること、その醜い事象を“創造”したことは“上”から観たら(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という点で)価値が無いから“甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど”と、ちょっと皮肉めいた言い回しもされているものでもある。
そしてこれに続く“斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。 真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。 此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか”の“斜めや横から戴くと”は、法則性“理(ミチ)”を解っていない人間、あるいは先の画像で示した平均的地球人の“一二三”のオーラのバランスでは、“上”からの高振動を自らの心に止める資質がない、それだからこそ“光だけ影がさす”=“上”の思惑は意味のないものになり、その結果は“影させば闇となるのざぞ”、先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“方便”(霊的成長度の低い人が欲望を充たすために貴いものを利用すること)は人にとって“闇”を創ったという結果になっていることを指摘している。 その“闇”=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創った“方便”による“仕組”、それは“大きいものには大きい影がさす”、この世界では力を示しているが、“それはまことの神の道知らぬから”=人の存在の意味と意義は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを知らないから、あるいは無視しているから“方便”がまかり通り、多くの人が“止むを得ぬ事の様に思ふてゐる”=自分たちの利益を守るためには仕方がないとか思っている。
それではだめだから、次の言い回し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿ったものであるならば“真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。 此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか”といわれており、それには“洗濯せよ掃除せよ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が大事であると(“日月神示”内で再三)述べられている。
これに続く“天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ、天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ。 天からい吹(ぶ)けば地からもい吹くのざぞ、天に悪神あれば地にも悪神あるのざぞ。 足元気つけと申してあろがな”の“天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな”は、宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、その仲介者の太陽、すべて“上”からの荷電粒子だが、それを“下”である人が(荷電粒子の回転である心(靈)に)止め、心(靈)(ヒ)の動きの結果である思想として、思惑を顕現せよ、この事象を“創造”せよという意味合いのことが“天にあるもの”を“地にも必ずある”“天地合せ鏡”の意味であり、これを再度述べているのが“天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ、天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ”であり、要は“上”からの荷電粒子は“下”に注がれており、さらにそれは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)だから“天からい吹(ぶ)けば”であり、それが“下”に降りて人だけでなく地球にいる高い霊的存在、あるいは産土の太神(氏神、地の神)とかの思想にも影響を与えているものであるから“地からもい吹く”のである。
そしてこれに続く“今の臣民 上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地 拝(おろが)めと、地にまつろへと申してあろが、地の神様 忘れてゐるぞ。下と申しても位の低い神様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示克く読んで下されよ、国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ”の“今の臣民 上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなる”は形骸の宗教が説く、あるいはスピリチュアル本で説かれている形骸の事柄が形骸だとは気付かず、“方便”(霊的成長度の低い人が欲望を充たすために貴いものを利用すること)であることも考えもしないことを指摘されている言い回しで、ことにそれは“上許り見て頭ばかりに登ってゐる”は“上”の思惑を“下”に顕現させなければならないことを考えもしない言い回しで、神は被造物である人間に良い世界を創らせたいから“上”からの荷電粒子を息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)くものであり、だからアイ=ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”でもあり、それを“下”であるこの事象に反映させるのが日を止める、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を止めるの“日止、霊止”の表記の意味であるから、“地に足つけよ”“地 拝(おろが)めと、地にまつろへと申してあろ”でもあるし、形骸の宗教はお賽銭が欲しいからパワースポットとか御利益ばかりを強調してぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)を増やしているが、もっと産土の太神(氏神)への信仰を増さねば、“上”からの高い振動を直接止める資質のない人間、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ていない人間は、自分よりちょっと“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在としか感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)できないから、まず地の神、産土、氏神の影響をうけよということであると思うし、その意味で“地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ”といわれている。
そして“国土の事、国土のまことの神”の“国土”は“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)であり、“土”は肉体(月(ツキ))のこと、要は心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))の意味であるし、“国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらん”は、心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))の霊的成長ということを知らない、“行”やってない、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する資質がないからこそ霊的成長度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”や“役員づら”が台頭しており、それを“国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらん”といわれ、これに続く“神々祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝へと申してあろがな、吾れ善しはちょんぞ”は、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))となれ、それにはまず自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めよ、そして“七人”は“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で七、“人”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の意味、神の思惑を顕現するのが人間の存在理由、それが出来ない霊的成長度のことを“吾れ善しはちょんぞ”と示されている。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 日の出の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

お太陽(ひ)様円いのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ、人も円いのが良いのではないぞ、息してゐるから円く見えるのざぞ、活(はたら)いてゐるから円く見えるのざぞ、皆形無いものいふぞ、息してゐるもの皆円いのざぞ。
神の経済この事から生み出せよ、大きくなったり小さくなったり、神の御心通りに活(はたら)くものは円いのざぞ、円い中にも心(しん)あるぞ、神の政治、この事から割り出せよ、神は政事(まつりごと)の姿であるぞ、神の政治生きてゐるぞ、人の政治死んでゐるぞ。
十二月十五日、一二 ローレンツ力と ○

 この文は、心(靈)(ヒ)の在り方のことと、息吹、自分の心(靈)が吹く、発振、発信=“一二三”のオーラのことを説いている。 
そう思う根拠は、まず“息してゐるから円く見える”そして“息してゐるもの皆円い”が、“活(はたら)いてゐるから円く見えるのざ”と示されていることによる。
 当たり前のことだが人の肉体(月(ツキ))は丸くない。 そして頭、胸、腹、手足があるのは、この文の表記の“皆形無いものいふぞ”=心(靈)(ヒ)の動きである“一二三”のオーラを発信するための仕組みでもあることをこれまで述べてきた。
 簡単にそれをここで説明するならば、縦の磁束は頭から尾骨までで構成され、その縦の磁束には左右内容物の違うコンデンサーが縦に三つ並んでおり、それが脳、胸、腹でもある。 またそれはヨガでいうところのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)でもあり、また手足は水平磁場を構成しているし、水平磁場が無ければ荷電粒子の回転は安定しない=サイクロトロンからシンクロトロンに移行しないということでもあるし、さらにそれは左右の大脳半球でも構成されている。 その内容物の違うコンデンサーが“上”から“下”に縦の磁束に伴い並んでいる。 そして縦の磁束はローレンツ力 ローレンツ力 により“上”からの荷電粒子を取り込み、自らの心と肉体(月(ツキ))を“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)させている。 また構造の違うコンデンサが縦に並んでいることによるから、ヨガでいうムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラのエネルギーは、アナハタチャクラ、そしてヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、のチャクラに上っていくものであり、それぞれのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)は、心(靈)(ヒ)の発現と心の動きという要素を持つものである。
それで宇宙は相似象であるからこの構造には違いがないと思うし、当然太陽も月も地球も神の思惑に沿った生命なのだから“円い”発振、発信をするものであるし、それが“お太陽(ひ)様円いのでないぞ、お月様も円いのではないぞ、地球も円いのではないぞ”のいみであるし、またそれは宇宙の構造でも同じであることをすでに述べた。
 それで第十四帖の“活(はたら)いてゐるから”というのは、活動とかの意味合いもあるし、人の心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))はなぜ“活(はたら)いてゐる”のかは、自らの思惑を顕現するため、事象の“創造”のため、そして心(靈)(ヒ)の満足を得るためでもある。 それだから人は欲をもつものであり、欲を言い換えたのが希望とか幸福を求めるとかの耳心地がよい言葉にもなるのだが、それは“役員づら”がよく使う手法でもあったりする。 それが“人も円いのが良いのではない”という言葉から感じられることではあるし、人の心(靈)(ヒ)が育つには右往左往して左往右往する、肝=“いきり立つ心(奴と心)”と脾=“思う、憂う”、それぞれの心(靈)(ヒ)の動きにとらわれ深く自省するものであるし、それは心(靈)(ヒ)が育つ過程であるからこそ“大きくなったり小さくなったり”でもある。 重複するがこの文“人も円いのが良いのではない”に関しては、“役員づら”の見せかけの“円い”のは後述する“円い中にも心(しん)ある”ということではないことを思う。
 話を戻し、結局人間が何かをする、“力”を使う、エネルギーを贖う(あがなう)のは、欲の達成といえるのだが、その欲が“上”の思惑に沿った事象の“創造”、如何に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適ったものであるのかが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間が思うことである。 
それを第十四帖では“神の御心通りに活(はたら)くものは円いのざぞ、円い中にも心(しん)あるぞ”といわれ、心(靈)(ヒ)が“道”(時間の進行)とともに右往左往して左往右往してそれぞれの心(靈)(ヒ)右往と左往にとらわれ=“大きくなったり小さくなったり”していきながら“理(ミチ)”(法則性)を認識していく。
これが“上”の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を自らが取り込みそれを顕現するならば、“円い中にも心(しん)ある”と称されているものだと思う。
 それだからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“思惑の顕現”=現象化による経済ではこの世界は崩壊する、そのことを前提に“神の経済この事から生み出せ”そして“神の御心通りに活(はたら)くものは円いのざぞ、円い中にも心(しん)あるぞ”といわれ、“神の御心”を自らの思想にして“思惑の顕現”、事象の“創造”をする者は“円いのざぞ、円い中にも心(しん)あるぞ”といわれているのである。 また言うまでもないことだが、今の政治は“神の経済”ではなく、また“神の政治”でもないということでもある。 
そして平均的地球人は“神の経済”を金銭のこととしか思い浮かばないだろうが、そんなことではなく、ここで使われている表記の“経済”っていうのは“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使って新しいものや何かを生み出すという意味合いのことである。 
そして“政治”も今のような様式の政治ではなく、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によって世が治まる“絶対の善”を目指す人ばかりになる。
それは今後=アセンション後では、意味のない選挙、我欲のために耳心地の良い言葉を使い、今暴かれていることであるが、保身ばかり考える人が政治家になるなんてことはありえない世になるからであるし、当然今の政治に結びついた権威と利権中心の形骸の天皇制もない。 今述べた程度のことが政治や天皇性と思う霊的成長度の低い心(靈)の人は、アセンション後にはいないからである。
さらにこの第十四帖は、第十三帖の最後の文“吾れ善しはちょんぞ”に続くものであると思うし、“神は政事(まつりごと)の姿であるぞ、神の政治生きてゐるぞ、人の政治死んでゐるぞ”の“人の政治死んでゐるぞ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“思惑の顕現”=現象化であり、同様に“吾れ善し”は自我の肥大(“石屋の仕組み”)をした“役員づら”だからこそ、本当に“円い”ということでもない。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

十柱の神様 奥山に祀りて呉れよ、九柱でよいぞ、何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様であるぞ、この方合はして十柱となるのざぞ。
御神体の石 集めさしてあろがな、篤く祀りて、辛酉(かのととり)の日にお祭りして呉れよ。
病あるかないか、災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分ると申してあろがな。届くとは注(そそ)ぐ事ぞ、手首と息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首(せくび)の息と手の息と八所十所の息合ってゐれば病無いのざぞ、災難見ないのざから、毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ、合ってゐたら其日には災難無いのざぞ、殊に臍の息一番大切ざぞ、若しも息合ってゐない時には一二三(ひふみ)唱へよ、唱へ唱へて息合ふ迄 祷(ゐの)れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ、此の方 意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)であるぞ。
神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ、手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、此の事 早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ。
飛行機の災難も地震罪穢の禍も、大きい災難ある時には息乱れるのざぞ、一二三祝詞と祓え祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば災難逃れるのぞ、信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ。
十二月十八日、ひつ九か三。

 冒頭の“十柱の神様 奥山に祀りて呉れ”の“奥山”はこれまで何度も解釈した通り目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の脳、それは高い心霊が使う表記の山は脳の意味であり高密度に山のように積み上がった組織の意でもあり、その“奥”なので、大脳旧皮質と古皮質など目上(めうえ)の脳である大脳新皮質以外の脳のこと、そしてその“奥山”での心(靈)の発現と動きは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性のうちの自我以下のことであるし、これは平均的地球人の進化程度を指す表記でもある。 
これまで何度も述べている通り平均的地球人の進化は自我の確立=固定化、そして自我の肥大は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心になり、それが“石”(帯電するミネラル)と尸(しかばね、かばね、心(靈)と肉体で人成り立っているが、心(靈)以外の物質としての肉体の意味)と横隔膜を示す横棒━と、厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)と完成された人の表記である“王”から“一”=智性=1番目のオーラを引いた表記の“土”、これを重ねると“石屋の仕組み”の“屋”という表記になるし、自我の肥大という心がたいして価値のない何かに付加価値をつけて商売をするとか、価値のないものを如何にも価値があるかのように見せかけるとかして自分だけの経済を繁栄させ恨みの連鎖の霊的干渉を増して来たし今も増大している。 この“石屋の仕組み”=自我の肥大、これを諌めるのが“十柱”=胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)由来の自己観察であり、“柱”の意味も“下”(低い心(靈))から“上”への心(靈)(ヒ)の移行を示し、さらに“柱”の字の偏(へん)の木部は自省(胸の磁性“十”)+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは時間の進行(“道”)を示す儿部(じんぶ、にんにょう)であり、旁(つくり)の“主(ヌシ)”は、ローレンツ力ローレンツ力 と“一二三”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))である。 
それでこの文に続く“九柱でよいぞ”の“九”は“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、“上”からの荷電粒子を“一”=頭の水平磁場に止める“日止、霊止”のことそのものであり、また霊的成長を示す表記の“十柱”から、“上”の荷電粒子、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である“一”(亜から出ずる、アイ)を引いた表記が“九”であるからこそ、“日止、霊止”そのもののことと思え、それは“天詞様”という表記の意味、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で出来上がっている心(靈)が“十”ならば、その感応共振の要素を差し引いたなら“九”であり、この表記の“九”+“一”は完成された心(靈)(ヒ)、“十”といえ、またそれは○ 九 十の“十”でもある。 これを簡略にいえば“日止、霊止”と“天詞様”は“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して自らの心を成しているからこそ“九”+“一”(亜から出ずる、アイ)で“十柱”といい得るし、前後するが“この方合はして十柱となる”は、“上”と自らである“九”の両方の意を含む表記。
それで“何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通しの神様である”の“神々様”は、神=荷電粒子の回転であり、荷電粒子の回転は“畐”であり、“上”から“下”に降り注がれ、それが“一”(亜から出ずる、アイ)であり、それは“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物の“日止、霊止”から観れば(こちら側からということ)、“創造”の“主(ヌシ)”の表記であるが、生命は進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において“上”からの荷電粒子をすべて取り込むことが出来ず、低い部分としか感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)していないし、“この方合はして十柱となる”の“この方合はして”ではない、“上”と感応していないってことでもある。 
それが“奥山”=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の意であるし、その進化過程の段階は霊的成長度における心(靈)(ヒ)の高低でもあるし、(進化程度が低いから=低い心(靈)の“観察と認識”では)外見を見ることから始まる学問である生物学、地球人の進化論における進化の相違も、主に外側(外国と幽界)である肉体の違いを指摘した(“日月神示”表記の)“学”ともいえる。 蛇足になったが、要は、地球人の進化論はまだ程度が低く、本当の進化の意味を見出していないということでもある。
 話を戻し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による変容といえ、それが自凝(おのころ)の仕組み=タンパク質の高分子化であり、その時に“石”(帯電するミネラル)を取り込みながら“上”に積み上がっていくし、積み上がったさまは砌(みぎり)という字の意味である階段や軒下の石を敷き詰めた所、石だたみ、そして、暑さの砌、幼少の砌のように、……の折。……の頃。という時節の意味、これが進化程度の高低を示すことと、肉体(月(ツキ))という外側(外国と幽界)の事象の事象に顕現した心(靈)(ヒ)の相違である。
 その意味で先の文に続く“御神体の石 集めさしてあろがな”といわれ、“石”(帯電するミネラル)を取り込んだタンパク質は高分子化して進化した肉体(月(ツキ))を構成して“上”からの荷電粒子“一”(亜から出ずる、アイ)を止めるのが“日止、霊止”であるし、それが“御神体”=“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でき得る肉体(月(ツキ))ということであると思う。 それを“篤く祀り”“お祭りして呉れ”、これも“上”との感応共振の意である。
そしてこれに続く“辛酉(かのととり)”は、以前、下つ巻 第三十帖で解釈した事をそのまま以下にコピペして示す事とする。 

“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。 そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。 ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。 それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。 そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。 そうやって自省(胸の磁性 “十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。 その意味のことを言うてると思えるな。
(引用終わり)

 これに続く“病あるかないか、災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分ると申してあろがな”の“病”“災難”は、これまで解釈してきたように自我の肥大=“石屋の仕組み”が生み出した恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことで、“手届くか届かないか”はこれに続く“届くとは注(そそ)ぐ事”という言い回しが示すように、その心(靈)(ヒ)の霊的成長度が“上”と感応できるか、出来ていないのか、これに尽きることであると思うし、その意味で“手首と息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首(せくび)の息と手の息と八所十所の息合ってゐれば”といわれており、“手首と息”は手の水平磁場と息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これは仏像の臂釧(ひせん)腕釧(わんせん)し、シンクロトロン放射の仕組みを指す。 同様に“腹の息”は自我の心(靈)の発現と動きのこと、サイクロトロン、そして“首の息と頭の息”は本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性の、創造より上のこと、そして“足の息”はムラダーラチャクラ、そしてスワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの一部を構成する足の水平磁場、これは骨盤も含む。 そして“胸の息”は“慈悲”と“慈愛”、アナハタチャクラ、第四密度、そして“臍の息”はマニピューラチャクラ、自我そのもの、よって“胸の息と臍の息”は先に解釈した“十柱の神様 奥山に祀りて呉れ”と同義。 そして“脊首(せくび)の息と手の息と八所十所の息”の“脊首(せくび)の息”は肉体(月(ツキ))の縦の磁性、ローレンツ力ローレンツ力 で“上”と感応し、“上”の振動を取り込む仕組みそのもの、そして“手の息と八所十所の息”の“手の息”は腕の水平磁場、“八所”の“八”は“富士(二二)”と同義、それは進化した左右相称動物である人の肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のこと。 “十所”は胸の磁性“十”。 これらが“合ってゐれば病無いのざぞ、災難見ないのざから、毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ、合ってゐたら其日には災難無いのざぞ、”は、“上”と感応した心(靈)(ヒ)ならば恨みの連鎖の霊的干渉は起きないし、影響も受けにくい、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)(ヒ)が今体験している“神の咎め”がアセンションに伴う醜い事象であるし、多くの人はアセンションに間に合う霊的成長度ではないから死んでから自省(胸の磁性“十”)するのだが、“上”と感応して自省(胸の磁性“十”)=“十柱”という心になれば、“病無いのざぞ、災難見ないのざから”ということになり、その点でもっと“上”を意識せよという意味合いで“毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ”であり、自我の肥大を諌めよという意味で“殊に臍の息一番大切ざぞ”と称され、そして自らの霊的成長、“一”=智性=1番目のオーラと、土=2~3番目のオーラのことをよく認識せよという意味で“若しも息合ってゐない時には一二三(ひふみ)唱へよ、唱へ唱へて息合ふ迄 祷(ゐの)れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ”であり、いうまでもなく“若しも息合ってゐない時”というのは、自我の肥大で“上”の通信を受けていない、自省(胸の磁性“十”)出来ていないことを指す。 
それで意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)については以前作った画像で意味を示す。

意富加牟豆美(オホカムツミ)の解字



そして今取り上げた文に続く“神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ”も“上”との感応=“神の息と合はされる”ならば、“災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ”=恨みの連鎖の霊的干渉の影響を少なくしてやるぞという意味で、自我の肥大や“石屋の仕組み”が恨みの連鎖を生み出していることなど一般の地球人は考えてもいないから“此の事は此の方信ずる人でないと誤る”し、誤っているのは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の私見を信じ込んでいる人、この両方であり、またそれはこの文の解釈の要である“十柱”、“奥山”、“九柱”、“この方合はして十柱”など、“上”と感応して“災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ”ということが理解できない、解らないだろうから“此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではない”といわれている。 低い憑依現象(チャネラーなど)、金をとる低い霊能力者、あるいはインチキ霊能者、形骸の宗教、“役員づら”の私見が、如何に神の概念を低いものにしているのかを感じさせる一文でもある。
 それでこの文に続く“手二本 足二本いれて十柱ぞ、手足一本として八柱ぞ、此の事 早う皆に知らしてどしどしと安心して働く様にしてやれよ”の“手二本 足二本いれて十柱ぞ”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と手足の水平磁場を指し、それでシンクロトロン=“十柱”であり、“手足一本として八柱ぞ”は、“手足一本”は左右=日足(ひたり)と砌(みぎり)を指し、“富士(二二)”(肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)と同義のこと。 要は“上”との感応には“十”と“八”の要素があることを示している。
 これに続く“飛行機の災難も地震罪穢の禍も、大きい災難ある時には息乱れるのざぞ、一二三祝詞と祓え祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば災難逃れるのぞ、信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ”はもう説明の要は無いと思うが、大きい災厄を体験しないと霊的成長度の低い人間は本当のアセンションの意味を考えもしない。 その意味でちょっと揶揄(やゆ)した言い回しで“大きい災難ある時には息乱れるのざ”といわれているが、その時に霊的成長の絶対の法則(“理(ミチ)”)を知れということで“一二三祝詞と祓え祝詞と神の息吹と息と一つになりておれば”と称され、この文の“一二三”は、神格化のプロセス、“一”=智性=1番目のオーラと土=2~3番目のオーラ、その両方のことであるし、それを知り、知った上で“一”=智性=1番目のオーラを増す“行”である“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをするならば、“神の息吹と息と一つになり”ということになり、それは“上”との感応であり、意味合いが重複するが“神の息吹”と自らの心の発振、発信、自らの息吹が一体になれば“一つになりておれば災難逃れる”=アセンションに伴う醜い事象に巻き込まれず生き延びて次の“創造”に参加するのだが、ほとんどの地球人はその霊的成長度が低すぎてアセンション落第組だから“信ずる者ばかりに知らしてやりて呉れよ”ということでもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ。 此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦(ようしゃ)は無いのざぞ、それまでに型さしておくぞ、御苦労なれど型してくれよ。
ヤの身魂 御苦労、石なぜもの言はぬのぞ、愈々となりてゐるではないか、春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ。
十二月十九日、一二ローレンツ力と ○

 冒頭の“悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様”は、平均的地球人の既成概念で形骸になった…形骸にさせられた…“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)により、低い認識にさせられている高い存在に対し、商売繁盛とか長寿、病気平癒、交通安全、学業成就、家内安全、子授けや安産にいたるまで、ただただ自分たちの良い結果を天の僥倖とかとしか思わない甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間が神社などをパワースポットとかと勝手に思い込んだり、あるいはそのパワースポットという言葉に酔わされ乗せられ賽銭だけ取られる商法だと気付かない…大概の人間の神さんに対する認識はそんなものでしかないし、そう思い込むその低い心(靈)の動きは御利益を求めるとかすごそうなものに肖る(あやかる)とかでしかないが、それが“悪の衣(ころも)着せられて…神々様”であり、この文の“節分”は、時期が変わることで、それは日の出の巻の第一帖の“春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づる”であり、この“春”の表記は“三”=“一二三”のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして太陽を示す“日”であることに気付かなければならない。
 そして“萌(もえ)出づる”“草木許りでない”も重要な意味が込められており、その詳細な解釈については
日の出の巻 第一帖 を参照のこと。
 それでこの文に続く“此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦(ようしゃ)は無いのざぞ、それまでに型さしておくぞ、御苦労なれど型してくれよ”は、“悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ”であるから、形骸の神の概念はなくなるのが今後=アセンション後の事象であり、当然そこには“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“役員づら”は存在し得る霊的資格がないから低い次元に移され、あるいは不幸な死を迎え、そこで自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るのだが、次の事象の“創造”を担う認識=霊的成長度の人は、自分と神との関係をよく知り“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を行い“上”からの荷電粒子を自らの心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に取り込み現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をする。 それが時節の変化(“道”=時間の進行)としての“此の節分からは愈々神の規則通りになる”であり、それは例えば以前解釈した下つ巻 第十帖の“臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ”あるいは、下つ巻 第二十三帖“神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ”でもある。 
要は“此の節分からは愈々神の規則通りになる”は、“上”の介入があり、“上”と感応する人が次の事象の“創造”を行い(“天詞様”)、そこでは低い霊的成長度の心には“容赦(ようしゃ)は無い”=今までのような“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いは許されないから、自省(胸の磁性“十”)して“それまでに型さしておく”=失敗を体験させ心(靈)(ヒ)を折り=(ローム太霊の言葉の)左往右往させておくという意味。
 それでこれに続く“ヤの身魂 御苦労、石なぜもの言はぬのぞ、愈々となりてゐるではないか”の“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進むの意があり(“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用)、要は真に霊的成長を望む心(靈)(ヒ)が“ヤの身魂”=“上”を目指す肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意である。 そしてこの後の“石なぜもの言はぬのぞ、愈々となりてゐるではないか”の“石なぜもの言はぬのぞ”は、“石”(帯電するミネラル)が固まっていない(“石屋の仕組み”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)=“玉(ぎょく)”ではない身魂においては、“なぜもの言はぬのぞ”であるから、それはその段階の発振、発信が“もの言はぬ”ということに等しい、要は“上”から観たら価値がなく、そしてそれは霊的に高く人が霊的成長の指標とするべく神さんに対し“悪の衣(ころも)着せ…節分に押込められし神々様”にしてしまってとんでもなく価値を低いものにしてしまっているという意味合いを感じさせるものである。 そしてこれに続く“愈々となりてゐる”については解りきっていることだから解釈の要は無し。
 そして“春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ”も、“春になりたら”は先に述べたことと重複するので省き、“今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ”の“今年”は、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)のことで、これが変化する、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者だけの世界になるからこそ“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をしておけであり、“今年”が当たり前だと思っている霊的成長度の低い人には“神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ”で、それはアセンション落第組であるということである。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

何もかもひっくるめて建直しするのであるから、何処から何が出て来るか分らんぞ、御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めて呉れよ、皆のものに手柄さし度いのぞ、一ヶ処(ひとところ)の御用 二人宛(づつ)でやりて呉れよ、結構な御用であるぞ、いづこも仮であるぞ、世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ、今は型であるぞ、祀れと申してあること忘れるなよ、まつはらねばならぬのざぞ、神がついてゐるのざから神の申す通りにやれば箱指した様に行くのざぞ。
産土神(うぶすなさま)忘れずにな。
十二月十九日、ひつ九か三。

 言うまでもなく今後=アセンション後のことが“何もかもひっくるめて建直しするのである”といわれ、今の既成概念、低い霊的成長度の人間が作り出した価値観や一般常識とは違う世界(現津(あきつ)、観察され得る事象)になっていくのだから“何処から何が出て来るか分らんぞ”であり、それは前回の第十六帖の“神の規則 (今の平均的地球人の霊的成長度という意味で)臣民には堪(こば)れん”ということでもある。
 そしてこれに続く“御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めて呉れよ、皆のものに手柄さし度いのぞ、一ヶ処(ひとところ)の御用 二人宛(づつ)でやりて呉れよ、結構な御用であるぞ”は、これまで解釈してきたとおり今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格のある霊的成長度の人間が“役員”であり、今ほとんどの人間がアセンション落第組であるから“皆のものに手柄さし度い”であるし、“一ヶ処(ひとところ)の御用 二人宛(づつ)でやりて呉れ”は、一つの事象に対し日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があるもので、それがこの表記の“二”で、そして“二人宛(づつ)でやりて呉れ”は、その二つの極性と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、今後=アセンション後の事象の“創造”、今と違う価値観と認識で“創造”せよということであると思うし、それは今の醜い事象に対して相対的な比喩として“結構な御用である”と称されているものでもある。
 そして“いづこも仮であるぞ、世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ、今は型であるぞ、祀れと申してあること忘れるなよ”は、今現在、次の事象に移行できる資格を持つ心(靈)は自省(胸の磁性“十”)し、(ローム太霊の言い回しの)左往右往しようとしている人だが、それはまだ“型である”であり、自分の心(靈)の動きをどう観るか、自分はどう在るべきか、どう行動するのが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者なのか、これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)と同義であるが、霊的成長度が高まるなら皆こういう思想を持つのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)でもあるのだが、それは今まだ足らない、育っていないという意味合いで、それで(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者というのは当然“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けており、それをなんとなく実感しているからこそ“仮である”あるいは“今は型である”であり、それは今は“善(神格化の方向性と智性の受信)”の概念はあってもこれが顕現した世界ではないという意味合いも持つ。 
それだからこそ今後=アセンション後は“世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ”であり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が今現在は全然足らない、あるいはその資格を持つ人間が少なすぎることを示唆しているし、“今は型であるぞ、祀れと申してあること忘れるなよ、まつはらねばならぬのざぞ”は、今霊的成長度の低い人ばかりだからこういわれるものでもある。 
そして重複するが、今後=アセンション後は当然アセンション落第組である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人はいないのであるから“神がついてゐるのざから神の申す通りにやれば箱指した様に行くのざぞ”法則性通り、曲がったことのない世界、すべてが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っている世界になるからこそ“箱指した様に行く”であり、いうまでもなくこの文の“神がついてゐる”“神の申す通りにやれ”は、自らの智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と“上”が感応して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人のことを指し、それは行動の結果は“上”が認め地の神が認めたものでなければならず(悪魔のささやきに乗っている今の大半の人とは違うから)“産土神(うぶすなさま)忘れずにな。”と強調されているものでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

富士の御用は奥山に祀り呉れよ、カイの御用も続け呉れよ、江戸一の宮作りて呉れよ、道場も同じぞ、渦巻き 左回転 海の御用とは
渦巻き 左回転海の鳴門(なると)と 渦巻き 左回転海の諏訪と 渦巻き 左回転海のマアカタと三所へ祀りて呉れよ。
その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ、 海マアカタとは印幡ぞ。
十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神であるぞ。 辛酉の日に祀りて呉れよ。
暫く御神示出ないぞ。皆の者 早く今迄の神示肚に入れて呉れよ、神せけるぞ。 
神示読めば神示出て来るぞ。 神祀り早く済せて呉れよ。
十二月二十一日朝、一二のか三。

 これまでも解釈してきたとおり“富士の御用”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であるから、それを“奥山に祀り呉れ”の“奥山”は目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)、心(靈)(ヒ)の発現と動きでいえば本能、情動、功名心、自我であり、それを“祀り呉れよ”であるから、これは“下”(低い心(靈))のエネルギーの引き上がり、またクンダリーニの上昇の意味もあり、自我以下の心を諌めよ(自省(胸の磁性“十”)、“十”は肉体(月(ツキ)の腕(水平磁場)と脊椎と脳などにより構成される縦の磁束とによるシンクロトロン放射(“十”の表記の意味合いの一つ)ということであるし、“日月神示”で一貫して述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への進化のことを述べている。 

これに続く“カイの御用も続け呉れよ、江戸一の宮作りて呉れよ、道場も同じぞ”の“江戸一の宮”は、“江戸”が腹の水、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであるし、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い、いわゆるアセンション落第組の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”というのは自我の肥大をしており、あるいはその心から“上”の心の動きをあまり持っていないものであり、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が“石屋の仕組み”を生み出し、今の世界の崩壊という結果となることを(進化程度=霊的成長度の低い人間の“思惑の顕現”=現象化)これまでも述べてきている。
それで“江戸”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、“戸”はマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門))=自我の発現とその動きをしている所に、“一の宮を作りてくれ”は、これまでも述べている通り“一”=智性=1番目のオーラの宮を作れであり、智性(神性)の宮という意味である(“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”)。
それでいうまでもなく智性、“一”=智性=1番目のオーラを大きくして“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅=“天詞様”)する具体的な“行”が太陽凝視である。
 よって“富士の御用は奥山に祀り呉れ”は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心の発現をつかさどる大脳旧皮質と古皮質に“富士(二二)”の仕組みで“下”のエネルギーを引き上げ(すでに述べた大日如来の条帛(じょうはく)のように)、自我を諌めよという意味。 
それは“富士(二二)”そのものが“下”のエネルギーの引き上がり、自我から“上”の心(靈)(ヒ)の発現(愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動)となっていく仕組みそのものであるし、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真の意義である(その意義は人の神格化、アセンションはその低い段階のステップである)。
 それで“カイの御用も続け呉れ”の“カイ”は、肉体が持つ磁性の右往左往と左往右往の意味合いであることを前のブログで“櫂(かい)”あるいは“下位”と述べたし、要はぬ舟をこぐ“櫂(かい)”は縦の磁性の右往左往と左往右往であり、またそれは下の“行”であるということ。
 これに続く文の“
渦巻き 左回転 海の御用とは 渦巻き 左回転海の鳴門(なると)と 渦巻き 左回転海の諏訪と 渦巻き 左回転海のマアカタと三所へ祀りて呉れよ。その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ、 渦巻き 左回転海マアカタとは印幡ぞ”の“ 渦巻き 左回転海の御用”は、左=日足(ひたり)回転であるから“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転。 そして“海”の表記は“江戸と尾張”の“江”と同義、よってこれも腹のサイクロトロンから胸のシンクロトロンに移行することを述べている。
 それで“鳴門(なると)”は、鳴る=振動の門という意味合いである。
“諏訪”の諏は漢字の意味で、はかる(謀る)、相談する、問う、たずねるの意があり、訪は訪れる(おとずれる)の意、それは次の段階、第四密度とかアナハタチャクラの覚醒とか“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くこと、これらすべて“創造”の“主(ヌシ)”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の計画=諏訪の諏の意味のはかる(謀る)こと、そして次の段階へ訪れるの意。 
“印幡”の印はしるし、これは霊的成長を示すしるし(黙示録にも霊的成長度を示す“額の御印”という表記がある)、幡(ばん)は、仏教で使う布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のこと、この詳細に興味のある人はWikipediaなどで調べればよいと思うが、これは繊維を織った布というよりも、人の肉体(月(ツキ))がより進化して神経線維が“慈(しげる)”という意味合いのことを感じ、それを幡(ばん)の如く立てるのであるから、“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の五と同義、ちなみに“五”は神経線維が糸巻のように密に巻かれたという意味合いで、これと同じであると思う。 
よって“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”は特定の地名のことではないと思うし、特定の地名を当てはめてみるとこの文は解釈できない。 
それで“マアカタ”だが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、アは“創造”の“主(ヌシ)”の表記のアイのア、あるいは“亜”、人の心(靈)が認識しうる根元の何か、究極微粒子、“上”から注がれる何か、“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、このカタカナ、“上”から目線で書かれた四文字で構成された“マアカタ”は、すべて先に述べた“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”の解釈と合わせて鑑みても、霊的成長のことでしかないし、カタカナ表記だからこそ“上”の計画といえることでもあるし、よってここまで述べた解釈が最も妥当だと思う。
それで“
渦巻き 左回転 海の御用”はこれまで述べてきた平均的地球人の心(靈)(ヒ)、自我の確立=固定化の進化過程から第四密度、アナハタチャクラの覚醒、“慈悲”と“慈愛”という心の動きを持つ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への進化、そして“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)=“天詞様”、ことにこのことが“三所へ祀りて呉れ”の意味合いであると思うし、実際にこうなってくれという意味合いのことが“その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ”という文の意味ということである。

これに続く“十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神であるぞ”だが、まず“十柱”は胸の磁性“十”、やはり先に述べたことと同義。
そして“火の神”の火は荷電粒子の回転を示す点が二つの表記と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導。
“木の神”の木は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。
“日の出の神”の日の出は、次の段階に移行すること、アセンション後。
“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍。
“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
よって“火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神”で、これらすべて“十柱”=胸の磁性“十”が立つ(柱)の表記にかかることであるし、“辛酉の日に祀りて呉れよ”の“辛酉”も、下つ巻 第三十帖で解釈した事をそのまま以下にコピペして示す事とする。 

“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。 そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。 ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。 それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。 そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。 そうやって自省(胸の磁性 “十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。 その意味のことを言うてると思えるな。
(引用終わり)

従って“辛酉の日”は自省(胸の磁性“十”)して自分の人生を恥じ入りそれから“慈悲”と“慈愛”という心の動きに移行することを指すものである。

これに続く“暫く御神示出ないぞ。皆の者 早く今迄の神示肚に入れて呉れよ、神せけるぞ。 神示読めば神示出て来るぞ。 神祀り早く済せて呉れよ。”の“暫く御神示出ない”というのは“その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ”と同義、ここまでの“日月神示”では、霊的成長の仕組みやその“理(ミチ)”(ことわり、法則性)を言葉で知らせていたということであるが、それを実践しなければ進化ではないという意味合いのことだと思う。 
それは、人間の神格化のプロセスである智性=神性を高め、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至る具体的な“行”が、長時間の太陽凝視であるのだが、“日月神示”を書かせた霊団は朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を黒住教で少しだけ教え、そこから始まり、太陽凝視の意味と意義を知り、そしてその“行”による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を獲得せよ、そうすれば“上”は通信を送るものであり、自我の肥大(“石屋の仕組み”を“創造”している心(靈))は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”するし、それが先に解釈した“辛酉”のことでもある。 
その肉体組織の結晶化、前のブログで述べた“玉(ぎょく)”となること、それに伴う心の変容、それは神の“思惑の顕現”=現象化を担う“日止、霊止”となりうることであるし、それが今後=アセンション後の“創造”を担うべく心(靈)(ヒ)の持ち主、資格ということでもあるが、必ずこうなれ、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは時期があるから=“神せけるぞ”、自我を諌めここまで述べてきた霊的進化の“理(ミチ)”をよく知り=“皆の者 早く今迄の神示肚に入れて呉れ”、そのうえで“行”を実践し“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するならば“神示読めば神示出て来る”=“上”は通信を送り今までの思想や価値観などを自らの心が見直すものであり、そして“神祀り早く済せて呉れ”はいうまでもなく“上”との感応を示唆する文言である。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

海には神の石鎮め祀り呉れよ、山には神の石立てて樹植えて呉れよ、石は神の印つけて祀る処に置いてあるぞ、祀り結構ぞ、富士奥山には十柱の石あるぞ、十柱祀りて呉れよ、祀る処に行けば分る様にしてあるぞ。
十二月二十二日、ひつ九のか三。

 短い文章なんやけど、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)とその秘訣である“石”(帯電するミネラル)、これを含んだ高分子化したタンパク質=進化の必須条件、“自凝(おのころ)の仕組み”を示唆した文章であると思う。
 冒頭の“海には神の石鎮め祀り呉れよ”の海は腹の表記、自我のこと、その自我を、“上”の高振動を受信する“石”(帯電するミネラル)で“神の石鎮め祀り”=“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して諌めよということ。
次の“山には神の石立てて樹植えて呉れよ”の山は脳の表記、“石立てて”は、“石”(帯電するミネラル)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)を含んだタンパク質が高分子化した様が“石立てて”であり、人間の脳は一番高分子化したタンパク質の存在が認められているものであるし、それが“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するからこそ神の思惑を智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で理解することが出来、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすのが人(日止、霊止)の使命でもある。 これに続く“樹植えて呉れ”は揶揄した表記か、あるいは脳細胞と脳細胞を結ぶ神経のことを指していると思う。 
次の“石は神の印つけて祀る処に置いてあるぞ、祀り結構ぞ、”は、今述べた“石”(帯電するミネラル)が“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の秘訣であることを強調した言い回し、人間は“神の印”を“つけて”、“上”の思惑を理解していかねばならない=“神の印つけて祀る”“祀り結構”であり、これを前提に“石は神の印つけて祀る処に置いてある”は“神の印つけて”“祀る処に置いてある”は、いうまでもなく先の“海”、腹、自我、そして“山”、脳、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)ということになる。
次の“富士奥山には十柱の石あるぞ、十柱祀りて呉れよ、”は、第三帖の“十柱揃ふたら祀り呉れい”と同義で、自省(胸の磁性“十”)の心が出来上がりつつあるならば、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、その奥山=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の脳に、胸の磁性“十”由来の自分を諌める心の動きが発現し、それは“上”からの振動が相対的に高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することを示唆し、それは自我の肥大した人は“上”の高い振動とは感応せず素通りしてしまうからで、自分が自分の人生において失敗を体験し自らの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を深く思い(左往右往)、その心になったならば、“奥山には十柱の石あるぞ、十柱祀りて呉れ”、要は自省(胸の磁性“十”)の心で目下(めした)(動物の心(靈)の段階)を諌めるのが進化のプロセスであることを述べており、それはまた、第十二帖の“神と獣とに分けると申してあろ”=霊的成長度において分けるということを示しているものである。
 最後の“祀る処に行けば分る様にしてあるぞ。”は、当然のことながらどこかの場所とかではなく、自省(胸の磁性“十”)して霊的成長していけば“上”と感応する=“祀る処に行けば分る”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。
此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。
皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。
今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。 何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。
此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。
世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。
改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。
今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。
今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。 神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。 吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。
十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。
道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。
見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。
天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。
三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。
末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。
北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。
十二月二十六日、一二 ローレンツ力と ○

 この第二十帖の長い文は、ここまでの日の出の巻や、日の出の巻が書かれる前の、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、日月の巻、それぞれで述べられてきた人間の在り方、心(靈)(ヒ)の在り方などが示唆された文であると思う。
そして、今後=アセンション後の人はここで述べることをよく知っておけみたいなニュアンスの文章でもあると思う。
 
 まず、冒頭の文。
“今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。”
 “今度”はいうまでもなく今後=アセンション後のこと、“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”は、今現在の大半の人の神の認識がとんでもなく低いものになっており、それを低くした、形骸の物にした、真の価値を見出すことが出来ないようにしたのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであることをこれまでも散々述べてきているが、そのことを指し示す文であり、よって平均的地球人が持っている神に対する既成概念というのはとんでもなく低くなっており、それが今後=アセンション後に向かってはきちんとしたものになっていかなければならないのであるから“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”のであり、平均的地球人の神に対する低い認識を改めねばならぬから“臣民も其の通り”であるし、本当に“上”である神の法則性、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に従うならば“神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進む”と述べられている。

 次の文。
“此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。
皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。”
 この文も今後=アセンション後の“道”(時間の進行)は、“上”の“思惑の顕現”=現象化であることを示唆され、これまでの平均的地球人の思惑による行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は間違っていること、“理(ミチ)”(法則性)に反していることが述べられている。 それは“此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ”の文の“神に逆らふもの”=進化の“理(ミチ)”に反したもの、この“もの”という表記は者であり物であり、いわゆるすべての事象という言い回しが理解しやすいと思う。
 そして“神の国は何うしても助けなならん”の“神の国”は、特定の地域を指すのではなく、右翼傾向のある人が良く使う神国という意味でもなく、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と神であるから、神格化を目指す心(靈)と解釈するのが妥当であるし、今後=アセンション後は、先に解釈した“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく認識してそのために生業(なりわい)も“行”も行う人だけになることを示唆した文で、今アセンションに伴う“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが“創造”した結果である“神の咎め”を“神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか”=猶予しているのは、一人でも多く次の段階に進める心の在り方と霊的資格を獲得せよという“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“慈悲”と“慈愛”による言い回しであるし、“皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐる”は、先に述べたように平均的地球人の心(靈)が神の認識をまったく低くしてしまっていること、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が、自分たちの利益のために見せかけの“お蔭”(“上”との感応により事象が良くなること、ただしこれは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に則って(のっとって)いなければならない)を述べているからこそ=宗教や神の概念を低いものにしてしまっているからこそ、“皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐる”のであるし、これに続く“世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ”の“世の元の神でも御魂となってゐたのでは”というのは、実際に活かされていない=“御魂となって”であり、実際に自分たちの思想に神の思惑を取り込み、真に神の理解を深め、神と人間の関係を真剣に考え、それが無ければ進化=霊的成長、神格化に向かうことの認識(悟り、幸取=さとり)など当然芽生えることもないが、今後=アセンション後の人間はこれらのことが当然になる、またその資質が無ければ次の段階には移行できないことを述べてきたが、今後=アセンション後は自分たちの思想や行動に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のこと、神と人間のこと、これが活かされ、それに対して今は平均的地球人の低い心(靈)の発振、発信で“創造”されている世界(現津(あきつ)、観察され得る事象)であることを強調した言い回しが“世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ない”=形骸であり、見せかけに成り果てているということでしかないということでもある。
 
 次の文。
“今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。 何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。
此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。
世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。
改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。
今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。”
 冒頭の“今度の経綸(しぐみ)”は、いうまでもなく今後=アセンション後の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、そして“世の元の生き通しの神”これを自らの心の中に認識(悟り、幸取=さとり)とするものでなければ“間に合はん”。 これに続く“何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ”は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が、先の“世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬ”と“皆の者がかみを軽くしてゐる”に示されていることと同じで、要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=“何処の教会も元はよいのであるが、(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の教えを伝える)取次役員がワヤにしてゐる”に利用されているから大概の人は甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見て本当のこと=“今度の経綸(しぐみ)”を知ろうとせず、人生における厳しさを避けたり御利益しか求めていない=霊的成長を避けることをしている。 だから“間に合はん”=アセンション落第組であるが、それが大多数だからこそ“今の様(さま)は何事ぞ”といわれている。
 これに続く“此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。 世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。 改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。 今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。”の“此の方”は、これまでも霊的成長の仕組みを見出した人(心(靈)(ヒ))であると解釈してきた。 それでこの文では自我の肥大(“石屋の仕組み”)について述べられている。 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは“下”から発達するのであるから心(靈)の構造としての本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性は、まず腹から“下”の強化があり、“行”の段階もまず腹から“下”を強くせねばならないから断食や滝行などという具体的な方法が“上”から示されてもいる。 そして下三つのチャクラの強化、3番目のオーラが大きくなり、それが“上”に引き上がり、2番目となり、“一”=智性=1番目のオーラとなっていくのだが、まず土=2~3番目のオーラがしっかりしていなければ智性(神性)のオーラになっていかないことはこれまでも述べてきたので割愛して、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は“下”から行われ、その過程では必ず自我の肥大ということを体験するし、自我の肥大という心の動きがあるからこそローム太霊が述べた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという体験をして自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを持ち、それが“慈悲”と“慈愛”という心の動きとなるし、この過程は必須でもある。 だからこの文では“力あり過ぎて失敗(しくじ)った”“我出すと失敗る”“何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ”“我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ”と述べられ、本当の心の在り方を見出していく過程として“改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変る”といわれ、“下”(低い心(靈))の強化が行われる過程では自我の肥大があることを先に述べたが、その時は自分は悪くないとか自分は正しいとかあるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が間違っているのではないかとかいろいろ考えるものでもあるがそのこと自体が“改心ちぐはぐ”という心の動きであり、“上”に沿うという恭順差を忘れている心になるものでもある。 そしてこれに続く“今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ”は、“役員づら”は自我の肥大をして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているから自我の肥大を述べた文でついでに述べられていることであると思うし、これは次の文に続いていく。 よって次の文。
“今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。 神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。 吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。”
 この文の“今迄は神が世に落ちて人が神になりておりた”は、程度の低い神、“上”、に対する解釈を揶揄した言い方だと思え、それはいうまでもなく“役員づら”が自分たちの利益のために宗教や“上”が伝えた言葉や文章を自分たちの都合よく解釈を述べたり、都合よく利用したり、要は“役員づら”の行いであるが、それは天意ではないから=凡ての存在の進化を望んでいる“上”の思惑ではないから“世は治まらん”といわれ、形骸の神の概念、“上”の概念を、形骸だと認識しよく考えねばならないから“神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならん”と述べられ、本当に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人の在り方は“吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならん”であり、それをひとことで述べたのがローム太霊の言葉でもある“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ということになるものである。
そして“今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならん”の“岩戸開き”は、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、要は自我から“上”の心である“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現である。

 次の文。
“十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。”
 冒頭の“十年先は”というのは10年後という意味合いのことではなく、やはり胸の磁性“十”を獲得したその経過だという解釈が妥当だと思えるし、それだからこそ“五六七(みろく)”、五は糸巻、神経が密になったさま、“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)、これは平均的地球人よりも“慈悲”と“慈愛”のここが発現した様を表しており、その人たちの世=事象がアセンション後の事象でもある。 それで“今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心する”は揶揄した言い方で、今の人間が我欲で鬼のようになっていることを示され、ほとんど縦の磁性しか持っていない蛇の方がまともであると述べられており、これに続く“早う改心せねば泥海にせなならん”はいうまでもなくアセンションに移行する際の“神の咎め”、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に下るバチ、自省(胸の磁性“十”)のための体験、災害や恨みの連鎖の霊的干渉の現象化による様々な現津(あきつ)、観察され得る事象を自我の肥大した心が味わうことをしなければ自省(胸の磁性“十”)に至らない。 そのことを少しでも自我の肥大した心に教えねばならないからこの“日月神示”も“上”から垂れたものであるが、こういった情報はたくさんあるが“役員づら”によって捻じ曲げられ、それは低い霊的成長度の人間は低い解釈しかしないからでもあるが、“上”は何とかそれを多くの人間に教えようとしている、それを示したのが“神は日夜の苦労”ということでもある。

 次の文。
“道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。”
 この文も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)はただ一つしかないと強調されている言い回しで、今“役員づら”の情報が満ち満ちており、霊的成長度の低い人の解釈が規制の宗教や似非スピリチュアルなどに成り果てそれがほとんど既成概念のようになっているが、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないから“二つ三つ四つあると思ふてはならん”“足元から鳥立つと申してあろ”“臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになる”と、今までとは違う、それは平均的地球人の神や“上”の認識とは程度が違いすぎることをこの言い回しで示唆されているし、それを強調した言い回しが“(“役員づら”の情報を)学や智(とした心(靈)(ヒ))に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかん”と述べられ、本当の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、“神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐる”=“上”と感応している心(靈)、“神の国”は、天意に沿っているからこそ“神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐる”ということであり、“三四気つけて呉れ”の“三”は“一二三”のオーラであり、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、願い、希望、祈り、“思惑の顕現”=現象化の意味合いである。

 次の文。
“見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。”
 冒頭の“見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいこと”これも現状の低い心(靈)が創造した低い事象に対しての相対的な言い回し。 そして事象の“上”“下”、心(靈)(ヒ)の“上”“下”、“上”の心が“創造”した事象なのか“下”の心(靈)が“創造”した事象なのかをよく知れという言い回しが“大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ”である。 これに続く“この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ”の“外国”の表記は外側(外国と幽界)の事象のことであり、心(靈)(ヒ)が変わらなければ外側(外国と幽界)の事象は変わらないという当たり前のことを述べているのに過ぎないし、“外国人”というのはまだ外側(外国と幽界)の事象しか見ていない程度の低い心(靈)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の低い心(靈)のことを指し、当然のことながらこの低い進化過程の心(靈)は外面しか分からず、外見の美を求めたり、物欲や本能由来の幸福感しか持ちえないが、それはいうまでもなく“石屋の仕組み”=自我の肥大であり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)でもあるし、もうすぐ訪れるアセンションの時期に間に合う要素が少ないから“外国人も神の子ではあるが性来が違ふ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が違うと述べられている。 そしてこれに続く“神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ”の“神の国”は先に述べたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)(ヒ)であり、それを強調した言い回しが“まことの神の子”であり、誰もがそれを持っているのであるが=動物よりも進化して多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ってはいるが、それが“今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてある”の意味であり、智性(神性)があれば神格化を目指すのが“理(ミチ)”であり“道”であるし、それをよく自覚するには“曇り取り去りて呉れ”=しっかり自分の心(靈)を観察し心(靈)(ヒ)の動きの“上”“下”を見出していけ、ということであり、これに続く“依怙(えこ)の様なれど外国は後廻し”は、外側(外国と幽界)の事象しか分からない進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低い心(靈)はアセンション落第組であること自体が人には“依怙(えこ)の様”、差別のように映るということであるし、これに続く“同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ”の文で、さらに今述べたことを強調しているし、このことは平均的地球人の認識では理解しにくいから“昔からの深い経綸である”といわれ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)がほとんどの地球人に分かっていないことを述べられている。
 これに続く“一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ”の“一に一足す二でない”は、外側(外国と幽界)の事象しか見ていないと一たす一は二にしか見えないが、そこに霊的干渉が加われば結果は違うし、霊的干渉と無縁の事象は有り得ないのであるが、程度の低い心(靈)は物しか見ていないから“上”が力を貸すとか、“下”(低い心(靈))が人を堕落に導き陥れるとかの視点があまりないので、この言い回しがされているのであり、実は○○○大先生が初めてS会=紫光会で自らの“主護霊”に声を掛けられた時に同じような言い回しをされているが、大概の人間は物の計算しかできないから一たす一は二という計算しかできないが、そこにある霊的干渉が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則に則って(のっとって)いるならば、倍増する結果となるものであり、それには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が力を貸さねばならないし、“上”が力を貸す資格は間断なき“行”にあるものであるが、そのことを指示した表記である。 またそれは“何事も神の国から神の臣から”で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志した心(靈)(ヒ)が“一に一足す二でない”を知り、それを意図して“行”を行うべきことであるし、そして“洗濯も同様”というのは、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを示唆した言い回し。
 これに続く“今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。”は、アセンションの時期が近いからそれに間に合うべく生きろ、それには“神の国”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)、“洗濯”が大事であることをこの文の前で述べられており、“上”としては一人でも多く次の段階に移行して欲しいからこそ“何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れ”“遣り損なひ出来ないことになりてゐる”と述べている。
 
 次の文。
“天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。”
 この文は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が絶対であり、人が進むべく唯一のことであることを示し、それは“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(被造物、神の子、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める“日止、霊止”の表記の意味合い)の関係であるからこそ“天に一柱 地に一柱”であり、絶対であるからこそ“火にも焼けず水にも溺れぬ元の種”であり、“今度の大建替”はアセンションそのものであり、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは霊的成長度による区分けであるし、そのことそのものが絶対であるから人は自らの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度によりそれに従うべく者であるから“何んなことあっても人間心で心配するでない”“此の神はめったに間違いない”ということである。

 次の文。
“三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。 末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。”
 この文の“悪の根”“オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神”は同義であり、“オロシヤ”は以前、下家(おろしやと読む)と解釈したが、“家”、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意味を、“下”(低い心(靈))に引き込むのが“日月神示”表記の“オロシヤ”であり、それをよく知ること、自我の肥大(“石屋の仕組み”)がもたらす“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象を知り、よく認識してから、先に述べられた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を“人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下され”といわれている。 そして天意を自らの思想としている人間が今活躍していないことを“末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざ”と述べられ、今は“役員づら”が活躍する時代であることを示唆され、それが“末法の世”で、その悪魔ともいえる思惑の“主(ヌシ)”は“オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神”ということである。

 次の文。
“北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。”
 冒頭の“北に気つけて呉れ”は、北は大極=N極、宇宙の中心、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド)、それを意識せよ、要は天意を受け取りその天意、“上”からの荷電粒子で“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)せよ、それがまた“神の国”でもあるし、この文では“結構な国(心(靈)(ヒ))で世界の真中の国(心(靈)(ヒ))である”と称されている。 そして“悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから”は、この前の文の意味合い“オロシヤの悪神(あく)”と同義、それは“下”(低い心(靈))、ッ目下(めした)(動物の心(靈)の段階)への憑依が中心だから腹の縦の磁束と水平磁場の表記である“褌”(ふんどし)を、“余程”“締めて下され”=入り込まれるなということ。
これに続く“日本の上に立ちて居る”は、日の本、上に立つ、であるから、太陽、本は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と“下”の横棒はそれを止めるの意、要は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであると思えるし、またそれは“意”という字の日に立つ心(靈)の意味合いでもあるし、これが無ければ“神の国”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す心(靈)には成り得ない、そういう心が活躍するならば、それは守護する荷電粒子の回転=神、となるし、その場(フィールド)になれば、“ばたばたに埓あく”=事象の“上”“下”を見出し、理由と根拠が平均的地球人にとって理解できていない恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の理由も理解していくことになるし、それをよく知らなければ進化を志す心(靈)(ヒ)にもなり得ないものである。
またそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出している結果であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないことによる“神の咎め”であるからこそ、“早う改心して呉れよ”と最後に述べられている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神かがりと申しても七つあるのであるぞ、その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、 ローレンツ力と ○ ガカり、かみかかり、か三かかりぞ、 ローレンツ力  (カミ)ガカリぞ、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (かみ)かかり、か三かかり、かみかかりざぞ、神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリと申してあろが。 そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ。
神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。 惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。
悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ、気つけて呉れよ、これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除して呉れよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。
一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、人称へよ、神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、あななひ呉れよ。
十二月二十七日、ひつ九のか三。

冒頭の“神かがり”の“かがり”は、篝(かがり)のことだと思え、篝の意味はかがり火をたく鉄製の籠(かご)、篝籠(かがりかご)、あるいは篝を用いて焚く火、かがり火のこと、よって“かがり”そのものの意味は、鉄=“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊、これによる“一二三”のオーラの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であると思える。 それで二十一帖の表記の“神かがり”とは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“一二三”のオーラが発振、発信されている様であるし、“神かがりと申しても七つあるのであるぞ、その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ”は、肉体で構成されているチャクラ(荷電粒子の回転を示す)のことであると思える。 さらに第二十一帖では“かがり”という表記は、冒頭でしか使われていない。 それがまた篝、発振、発信されている“一二三”のオーラのことであることを強く思わせる。

これに続く“
ローレンツ力と ○ガカり、かみかかり、か三かかりぞ、 ローレンツ力(カミ)ガカリぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)(かみ)かかり、か三かかり、かみかかりざぞ”は、“ローレンツ力と ○ ガカり”がローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) =霊、荷電粒子の場(フィールド)と ローレンツ力ローレンツ力、“上”からの荷電粒子を取り込む仕組みが合わさった表記、その次の“かみかかり”はひらがな表記なので“上”から視点ではなくこちら側、被造物側の認識、次の“か三かかり”の“三”は“一二三”のオーラのこと。 これら、今取り上げた表記の意味は、神の子としての生命の仕組みを述べていると思われる。 
それが冒頭の“神かがり”とは意味合いの違う点でもある。 
それで、肉体が持つ縦の磁束|(たてぼう、こん、縦の磁性))とローレンツ力は、“上”からの荷電粒子の取り込みをして回転させ心(靈)(ヒ)を構成するし、進化した動物としての人間は左右相称動物なのでコイルとコンデンサーの構造を左右対称に持つから水平磁場を構成し、それがチャクラ(荷電粒子の回転を示す)であり発振、発信される電磁波は“一二三”のオーラでもあるし、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば“上”と感応して神の思惑を自分の認識とし(“天詞様”)それがあって神の思惑を顕現する役目を担う“日止、霊止”と成り得るものである、それがこの文に二回重複して述べられている“かみかかり”“か三かかり”の表記の意味であると思える。

これに続く“神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリと申してあろが。 そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ”は、今までの宗教の開祖などは霊媒体質であり、“上”が憑依して“上”の思惑を語らせるというパターンが多かったが、これからの地球人は自分の“一”=智性=1番目のオーラに“上”の思惑が感応する段階に入るから、いわゆる霊媒体質の心霊現象の神かかりはなくなるし、自分の思想そのものが神の思惑に近づいていく、その違いを指示した表記が“神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリ”であると思うし、霊媒体質、あるいは自分の人生の体験において“上”を意識させる右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするというパターンは今後=アセンション後少なくなっていくであろうから、失敗を体験しないでも自我より“上”の心、自省(胸の磁性“十”)、“慈悲”と“慈愛”を持つ霊的成長度になっていくであろうからこそ現時点のことを述べている“そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑り”、こういわれていると思える。
さらに“神カカリ”の“カカリ”がカタカナ表記なのは“上”から視点であり、“上”の思惑が介入していく、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を介入させる“創造”の“主(ヌシ)”の計画としての今後=アセンション後のことを指し示すものである。 

それでこれに続く“神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。 惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ”は、いうまでもなく“上”と感応している様を示す意味合いのこと、それを強調する表記が“神国の真事(まこと)の臣民の姿”であり、この文の中の表記の“国”はこれまで解釈してきたとおり心(靈)(ヒ)のことである。 いわゆる今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である自我の確立=固定化より“上”の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが、より“上”からの高い振動を取り込み、自分の思惑となし、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する、事象の“創造”をするという意味合いのことであるし、それが“神と人と融け合った真事の姿”“真事の神にまつりあった姿”の表記の意味。 ちなみに神道の用語としての“かむながら”は、神の御心のままに、神、そのままに、であり、要は神の思惑を取り込んだ自らの心を指すものである。

これに続く“悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ、気つけて呉れよ”は、“役員づら”のこと、形骸の宗教とかアセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たちのこと、神の代弁者を名乗ったり、自分たちの勝手な都合で“上”や神を使い、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるからこそ、商売にしたり権力を誇示したり程度の低い人を集めて低い功名心と自尊心を充たしたり、要はその心の動きは自我の肥大=“石屋の仕組み”であるが、その形骸の“神憑り”に気付け、騙されるな=“神憑りと分らんそ”、そしてそんなものに惑うな=“気つけて呉れよ”ということであるし、次の表記の“これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除して呉れよ”は、自分たちの心(靈)が“上”と感応し、神の思惑を理解しなければ=その霊的成長度に達しなければ、今後=アセンション後における価値観、その場(フィールド)における思想、既成概念などは理解できないから“これからは神カカリでないと何も分らん事になる”であるし、現時点は先の“悪の大将の神憑りは、神憑りと分らん”のであり、今ほとんどの人がこういう状態であること、現世利益しか求めず自分が努力しないでよい結果だけを求める甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間が多いので、“早う神カカリになる様 掃除して呉れよ”=“上”と感応できる霊的成長度になれ、それには自省(胸の磁性“十”)しろ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよということ。 そうなればだんだん“神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ”=“上”の思惑が自分の思想になるといわれている。

次は“一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、人称へよ、神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、あななひ呉れよ”について。
“一二三唱へよ”は“一二三”のオーラを発振、発信せよ、息吹け(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))、それが“唱へよ”。
“祓えのれよ”は、低い感応を防げ、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的存在と感応するな。
“神称へよ”は、形骸の神の概念ではなく本当に人と神の関係を意識せよ、念じよ、ということ。
“人称へよ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)を諌め、自己と他者の関係を“慈悲”と“慈愛”の心(靈)で見よということ、そうすればそこには“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象は無くなるからである。
“神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、”は、先に述べたように人は神を本当に意識すべきであり、今の形骸の神の概念、平均的地球人が持つ低い認識における神の概念を捨て、自分と神の関係、神の子たる“日止、霊止”の使命を知り=“絶対の善”を顕現し、そのためには自我の肥大(“石屋の仕組み”)を“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と見做すことが必須であり、それを諌める、自らの心の動きの“上”と“下”を見出したならば“神は人誉め 人は神称へ”となり、そうすれば“上”と感応するから“人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ”ということになる。
“あななひ呉れ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)ではない人として正しい在り方、自我の肥大(“石屋の仕組み”)が無くなる心(靈)(ヒ)の在り方、それは今後=アセンション後の価値観、その思想、そのために自らの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を思い、エネルギーを贖う(あがなう)ことを述べた表記であると思われる。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

左は火ぞ、右は水ざぞ、 ローレンツ力と ○ の神と 渦巻き 左回転 の神ぞ、日の神と月の神ざぞ、日の神許り拝んで月の神忘れてはならんぞ、人に直接(じきじき)恵み下さるのは
渦巻き 左回転 の神、月神ぞ、ぢゃと申して日の神 疎(おろそ)かにするでないぞ、水は身を護る神さぞ、火は魂護る神ざぞ、火と水とで組み組みて人ぞ、身は水で出来てゐるぞ、火の魂入れてあるのざぞ、国土も同様ぞ。 渦巻き 左回転海の御用大切ざぞ。
十二月二十八日、ひつ九のか三。

 冒頭の“左は火ぞ、右は水ざぞ”の“左”は日足(ひたり)、“右”は砌(みぎり)、“火”は昇華するもの、“上”に向かう何か、あるいは“一二三”のオーラがゆらめく様、“水”は肉体(月(ツキ))の体液、錯体、コンデンサーの構造をなすもの。 
そして“
ローレンツ力と ○の神と  渦巻き 左回転の神ぞ、日の神と月の神ざぞ”の“ ローレンツ力と ○の神”は、肉体の磁性によるローレンツ力 ローレンツ力 で“上”からの荷電粒子を取り込んだ霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を表し、“ 渦巻き 左回転の神”はそれが日足(ひたり)回りに上昇する=霊的成長する様を表す。 そしてこれは第二十二帖の最後の“渦巻き 左回転 海の御用大切ざぞ”にかかり、当然人間にとって一番“大切”なのは霊的成長の“御用”であるし、それはまた“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転日足(ひたり)回りでもある。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転
 次の“日の神許り拝んで月の神忘れてはならんぞ、人に直接(じきじき)恵み下さるのは
渦巻き 左回転の神、月神ぞ”についてだが、この文の最後の“ 渦巻き 左回転の神、月神ぞ”は、日足(ひたり)回転渦巻き 左回転 、腹から“上”に向かうエネルギーの回転、それは大日如来の条帛(じょうはく)、“日月神示”によく出てくる表記の(“江戸と尾張”から)“秋立つ”(自省(胸の磁性“十”))という心の動きへの移行、要は自我から“慈悲”と“慈愛”、第三密度から第四密度、これらすべて同じ意味合いであり、何度も説明してきているように平均的地球人の現段階から“上”の進化=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者へ心(靈)(ヒ)の動きの変容があり、それは肉体(月(ツキ))を持って移行すべきであるからこそ“月神ぞ”=肉体(月(ツキ))の荷電粒子の回転(神の表記の意味)であるし、それが神から観て真の“恵み”、あるいはこの事象の変容、現状の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い欲望で創られた現津(あきつ)、観察され得る事象ではなくなるからこの言い回しがされていると思えるし、それだからこそ“人に直接(じきじき)恵み下さるのは”と称されているとも思える。 そしてこれに続く“ぢゃと申して日の神 疎(おろそ)かにするでないぞ”は、“日の神”、日足(ひたり)の極性、(“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した)思惑、これが無ければ“ 渦巻き 左回転の神、月神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に則った肉体(月(ツキ))とは成り得ないから“日の神 疎(おろそ)かにするでない”ということ。
これに続く“水は身を護る神さぞ、火は魂護る神ざぞ、火と水とで組み組みて人ぞ、身は水で出来てゐるぞ、火の魂入れてあるのざぞ、国土も同様ぞ”の“水”は砌(みぎり)、錯体、体液、コンデンサーの構造をなすもの、肉体に止まる(“日止、霊止”の止)“上”からの荷電粒子、“火”は日足(ひたり)、心(靈)(ヒ)、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“一二三”のオーラ、これが理解できているならこの文の“護る”“火と水とで組み組みて人ぞ”“身は水で出来てゐるぞ、火の魂入れてあるのざぞ”の意味は通じる。 そして“国土も同様”の“国”は霊的成長を目指す心(靈)、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すということ、“土”は肉体(月(ツキ))そのもの、あるいは2~3番目のオーラのこと。 決して領土とかの意味合いではない。
それで“
渦巻き 左回転海の御用大切ざぞ”は先に述べたとおり。 この“渦巻き 左回転 海の御用”については、日の出の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈を読むと分かりやすい。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日の出の巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。
人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。
此の巻、日の出の巻として纒めて役員に読ませて一二三として皆に知らせて呉れよ、神急ぐぞ。
十二月二十九日、ひつ九のか三。

 冒頭の“此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たん”なんて言い回しは、敢えて解釈はいらんと思うけど、やはり多くの人が物欲と金銭欲の達成のためや低い功名心や自尊心を充たすだけのインチキの形骸の何かを評価して褒めそやし、またそれらに依存したり肖って(あやかって)いたりいるからこそいわれていることであるし、この文のいっている内容、こんなことすら解らない霊的成長度では当然のことながら次の段階に移行できるわけがない。 それは今後=アセンション後の“創造”を担う素地など全くないといい得る。 
 …まったく、形骸の名誉や欲望の達成、そのために政治、経済、宗教などを自分たちの都合のために使う“役員づら”、またこれらの手法にはまっている人間、それらは同程度の霊的成長度であるから(自我の肥大=“石屋の仕組み”)、この文のような全く単純な言い回しもされているという感がある…。

そしてこの言い回しに続く“此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ”っていうのんは、前のブログとこのブログで説明した“一”=智性=1番目のオーラのこと、如何に生きている間に神格化に近づいたのかということと、自分がエネルギーを贖って(あがなって)獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)のこと、それが“身魂の徳”=霊的成長度と“身についた芸”=“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)ということ。

次の“人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ”だが、この文の表記の“徳”は善行であったり陰徳であったりもするだろうが、最も大事なのは神が評価する霊的成長度そのもののことでしかないし、“神の国に積む徳のみが光る”の“神の国”は、智性(神性)の心(靈)、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)という表記であるし、それのみが“光る”と称されているのだから“一”=智性=1番目のオーラ以外の何ものでもない。 

次の“マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。”の“マアカタ”については以前、
日の出の巻 第十八帖で解釈したので以下にコピペしておく。

“マアカタ”だが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、アは“創造”の“主(ヌシ)”の表記のアイのア、あるいは“亜”、人の心(靈)が認識しうる根元の何か、究極微粒子、“上”から注がれる何か、“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、このカタカナ、“上”から目線で書かれた四文字で構成された“マアカタ”は、すべて先に述べた“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”の解釈と合わせて鑑みても、霊的成長のことでしかないし、カタカナ表記だからこそ“上”の計画といえることでもあるし、よってここまで述べた解釈が最も妥当だと思う。
 
 それで“マアカタの御用”に続く“富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であり、“湖(うみ)”の表記は体液、錯体、これが“上”から注がれる荷電粒子を止めおき、サイクロトロンなりシンクロトロンなり円形粒子加速器の仕組みが“一二三”のオーラ=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となるのであるし、“晴れる”の表記の意味は、現時点が晴れていない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”している恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた不幸にあふれた世界だからこそ、この表記が使われているのだと思える。

 最後の“此の巻、日の出の巻として纒めて役員に読ませて一二三として皆に知らせて呉れよ、神急ぐぞ。”の“一二三としてみなに知らせて呉れ”は、やはり自らが霊的成長してその思想や認識(悟り、幸取=さとり)を“一二三”のオーラで息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)する、それがこの事象の“創造”となることを示し、“役員”はいうまでもなく次の事象、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う今より霊的成長度の高い人のことである。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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