“日月神示” 磐戸の巻 第一帖 Kellyさん的解釈
イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。
ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。
ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。
十二月三十日、


まず“イワト”についてだが、“イ八ト”あるいは“一八十”という表記が自動書記で書かれた文にはあったようである。
それで“イ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、生気生命の発生力と述べられている。 また、“創造”の“主(ヌシ)”の表記が“一”でもあるし、同じく“創造”の“主(ヌシ)”を指す、“アイ”、それは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)でもあるが、その“イ”でもあると思う。
そして“八”は、Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。で述べたとおり、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、そして“日月神示”表記の“富士(二二)”と同義。 またカタカナ表記の“ワ”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によれば、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、の意味がある。
そして“ト”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によれば、止まると云う心、と述べられ、またこれはヒトの“ト”でもあり、“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”の“止”でもある。 そして“十”はいうまでもなく縦の磁束“|”と水平磁場“━”、これはシンクロトロン放射でもあり、胸の磁性“十”でもある。
これらのことを踏まえ“イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ”を解釈すれば “イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふ”の“イワト”は先に述べたように、人の神格化のプロセスであり“カミカカリ”は“上”との感応である。 次の“ウズメノミコトいるのざぞ”の“ウズメ”、これは漢字なら、鈿女、金(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊)と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の意味の表記である女、これが合わさって“ウズメ”鈿女(うずめ)であると思う。
よってこれも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)の“ミコト”=使命ということ、いわゆる人の存在理由と称してもよいと思うし、進化して“上”と感応したならば(“天詞様”)、“神人共にゑらぎにぎはふのざぞ”=神も人も喜び(ゑらぎ)盛んになる(にぎはふ)ということ。
次の“ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)が“ウズメ”と称されていると解釈した。
それで古事記や日本書紀ではアメノウズメノミコト(天宇受売命、天鈿女命)は女性とされていて、それが一般の人たちの既成概念になっているから、日足(ひたり)の極性の表れ(思想、思惑、伊邪那岐(いざなぎ)の岐(山=脳、支=ささえ、わかれ))である男(“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と“力”の顕現)でも、先に述べた“ウズメ”鈿女、金(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊)と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)をするということ。 それが神の思惑を顕現する人という生命(生きる使命=存在理由)の使命である。
また、下つ巻 第三十三帖のKellyさん的解釈で“肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ”を解釈したが、それは“思惑の顕現”=現象化、日足(ひたり)の極性を現津(あきつ)、観察され得る事象に顕わす、表わす、現す、ということである。
次の“ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな”は、“ヤミ”が、今の恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象が“ヤミ”=闇の世かもしれないし、だから前回までの日の出の巻でアセンションに移行することを述べられていたのだと思う。
また少々違う意味で、“ヤ”と“ミ”、それぞれの表記の意味は“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む、“ミ”は生命の幹 その現実、と、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”で述べられている。 要は“ヤミ”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今より高い事象を“創造”するさまの意であると確信する。
これを踏まえ“ヤミ”に続く“の中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ”を見れば、特に解釈の要は感じないし、先に述べた“ウズメ”鈿女、金と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、この解釈が妥当であることが分かる。
これに続く“暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ”の“十理(とり)”は“一八十”の“十”、胸の磁性“十”、“日止、霊止”の“止”の意、そして“理”はことわり、(事象の“創造”の)法則性の意であるし、法則性がある根拠は、人は「神の思惑を顕現するための生命だから、進化程度の低い人間が勝手にふるまうことなどできない、それは今の世界、たった今の現実は続くわけがないし、それは“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ神の思惑を自分の思想に出来ないということでもあるし、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ“創造”の法則=“理(ミチ)”は理解できない…ということを思うものである。
また“暁(あけ)”は前回までの日の出の巻の日の出(アセンション)ということと同義であると思う。 よって“暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下され”は、次の事象の“創造”を担える霊的成長度、“一”=智性=1番目のオーラを獲得せよ、ということであり、“一”=智性=1番目のオーラの獲得の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことである。
それでこれに続く“カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな”は、天意の受信、“日月神示”表記の“天詞様”、進化して“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば天意と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)(ヒ)となり、それだから神の思惑を顕現する、“上”からの高い振動を止めることができる肉体(月(ツキ))を“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化で創り、高い振動を止めた心(靈)(ヒ)である“日止、霊止”となることは今まで述べてきたとおりであるし、そのことが書かれているに過ぎない。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第二帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは

ムのキ動けばムくるぞ、ウのキうごけばウ来るぞ、どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ、勇んで神の御用つとめて下されよ。
十二月三十一日、


第二帖に頻繁に述べられているカタカナ表記(“上”から視点の言い回しである)“キ”は、例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”を引用すれば、天地の精気、と称されている。
それでこの“精気”という言葉の意味合いは、万物を生成するもと、万物の根源の気、あるいは、人の生命を活動させるもとになる力、生命の源である気、などの解説があるが、これは振動の高低、“上”“下”、その違いって視点が無いまぜこぜな解説が列記されているだけであると思う。 要は平均的地球人の“キ”の認識や分析が足らなさすぎるという感があるということ。
やはり根源のそれ、“創造”の“主(ヌシ)”の“キ”と称するに妥当な表記は、S会=紫光会の真言炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”であり、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)という真言そのものは○○○大先生が著書の<3>の帯文に記したように、振動の違いを表した表記の意味合いを持つ真言であり、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である愛(炁)が低振動化して、現津(あきつ)、観察され得る事象になり、また生命になり、心(靈)(ヒ)になるものである。
簡潔にこのことを述べれば“日止、霊止”の心(靈)(ヒ)は下等な生物、単細胞生物から発達し(“改”出述べたこと)、その発達の根拠と理由たるものは生物が持つ肉体(月(ツキ))の磁束の発現と多様化、そして日足と砌(ひたりとみぎり)に分かれたコンデンサーの発達=左右相称動物としての肉体の進化、そして手足の神経の発達(“五六七(みろく)”の“五”(糸巻)に相当する)による磁束の発現(東洋医学の十二経絡(ツボの流れ)、いつか“改”で詳細に述べること)、これが心(靈)(ヒ)の動きと、その多様性に関わっているものであるし、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真髄であるとの私見を持つ。
また、今述べた肉体の進化がローレンツ力

その取り込まれた荷電粒子は自分の心=靈=荷電粒子の回転を構成し、高い振動を取り込む“行”をすれば、“一”=智性=1番目のオーラのオーラは大きくなるが、低い動機(“どういうつもり”)の行い、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、高い振動は素通りするものであるし、その振動の高低、“上”“下”で心(靈)が発達するものである。 この神道の高低、“上”と“下”、さらに先に述べた高い振動は低い心(靈)では受け止めることができない=感応しない、これらが平均的地球人にたらない認識であるし、その違い、高い振動を取り込んで感応する心(靈)(ヒ)と高い振動が素通りする心(靈)(ヒ)、それはいい換えれば霊的成長度である。
それで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に向かう意味合いのことが“キは

“キつけてくれよ”=“上”からの荷電粒子を取り込めよ。
“キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが”=生命の成り立ちは“上”からの荷電粒子を止める(“日止、霊止”の表記の意味)ことであり、それに気付き、意識せよ、また意識したなら自分はどんな“行”を行うべきか、どんな“行”が高い振動を取り込む“行”なのか、それが分かるものである。(解らないのはまだその段階ではないということ、まだまだ低い“行”が必要であるということ)
“心のもとはキざぞ”=生命(生きる使命=存在理由)の成り立ちは“上”からの荷電粒子。
“総てのもとはキであるぞ”=すべての現津(あきつ)、観察され得る事象の構成足る根拠も“上”からの荷電粒子であり、自らの心(靈)(ヒ)が荷電粒子の回転であるから電磁波の受信や電磁誘導でこの世界を感じ(感じる磁性)たり、自分の存在を感じ(感じる磁性)、要はすべての事象の“観察と認識”という行為が行われるものである。
次の文。
“うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。 この道理わかるであろがな。 爆弾でもあたると思へばあたるのざぞ、おそれるとおそろしことになるのざぞ、ものはキから生れるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ”
これは自らの心(靈)(ヒ)の動きが時間の進行(“道”)とともに現津(あきつ)、観察され得る事象の成り立ちとなることが述べられている。 このことを踏まえて“うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。 この道理わかるであろがな。 爆弾でもあたると思へばあたるのざぞ、おそれるとおそろしことになるのざぞ”を詳細に読めば、意味は通じると思う。 だがすべての事象は自分たちの心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されていることが理解できていなければ、この文の意味を読み解くことはできないだろう。
次の文。
“ムのキ動けばムくるぞ、ウのキうごけばウ来るぞ、どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ、勇んで神の御用つとめて下されよ。”
この文のカタカナ表記の“ム”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、その生命は自ら多岐に分かれるを、ムシ出すチカラこもれるヒのチカラを甚く(いたく)こもれる意(こころ)あればムシ出しつつ次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)、その音根、と称されている。 同じくカタカナ表記の“ウ”は、生物を生み出す力と説明され産土の太神の“ウ”に相当するものである。
この二つはこの表記の後に続く“どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ”にかかっているから、“創造”の“主(ヌシ)”の仕事であるだろう“ム”と“ウ”を、自分たちまだまだ下等で低振動で構成された心(靈)しか持ちえない地球人が、いずれは神格化して“どんな九十(コト)”でも可能になるという言い回しであると思うし、“九”は何度も述べてきたように“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得した人間が行う事象の“創造”の意味合いを感じさせる表記であるし、“十”は胸の磁性“十”、あるいはシンクロトロン放射であり、これらですべての事象は構成されているという言い回しが“どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれる”であると思うし、これは次の“創造”、アセンション後の“創造”を担う人間へのメッセージ、いずれ人(日止、霊止)は神の代理として事象の“創造”を行うという意味合いのことだと思うし、そうなってくれが“勇んで神の御用つとめて下され”ということだと思う。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第三帖 Kellyさん的解釈
二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。 春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。 大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。
逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。一月一日、

冒頭の“二二”はこれまで解釈してきたとおり、人の神格化のプロセスにおける“富士(二二)”でそれは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であり、それが“晴れたり、日本晴れ”となるのは、いうまでもなく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を指示した表記であるし、“日本晴れ”については以前画像で解釈を述べたので以下に貼っておく。
これに続く“びっくりばこ いよいよとなりたぞ”はいうまでもなく“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、霊的成長度の高低において分けられること、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)(ヒ)の動きが“創造”した恨みの連鎖の霊的干渉の結果を出すとか、事象に示すとかして、天変地異や災害、戦争、経済の破たん、犯罪(特に猟奇的犯罪の増加は理由と根拠が分かっているだけに辟易する)etc.…これらすべて自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の結果であり、低い霊的成長度の人間が創ってきた事象の結果でしかないが、大概の人間は霊的な事柄に対して認識が低すぎるから、恨みの連鎖の霊的干渉の結果などとは思わず、ただ驚いてこれらの醜い事象に巻き込まれ、死んでから自省(胸の磁性“十”)するということにしかなり得ないものである(だからこのことを今知らせようとしている)。
次の“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ”の“マケ”の表記の意味であるが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と記されているので、やはり、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。
要は霊的成長ということの一端として“上”からの荷電粒子を取り込み自らの心(靈)(ヒ)と成していく、それには時間の進行(“道”)が必須であり、それには完成に至る周期というものがあり、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは、宇宙の“創造”と生命の完成という点で大きな周期といえ、それが“ハルマゲドンの大峠”と示されていると思う。
それで“ハルマゲドン”の“ハ”は同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ハ”は、生命発現成長の音義、“ル”は、霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め、凝す(こらす)、と記されているから、これはタンパク質の高分子化による磁極性の強化ということだと確信する。
“マ”は前述した通りの意味、“ゲ”は“ケ”に濁点が付いており、濁点が付いているのはその意味合いが強調されていることである。
“ド”は“ト”に濁点であるが、“ト”は、止まると云う心と“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に述べられているし、これは“日止、霊止”の止める、“上”からの荷電粒子を止める、太陽の振動を止める、の“ト”であり、濁点が付いているから強調されている。 “ン”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に何も記されていないが、これは○ 九 十の“九”と同義、完成、あるいは完成に至る雛形の意味であると思う。
よって“ハルマゲドン”という表記は最終戦争とか、最後の審判とかの意味もあるだろうが、生命が発現(ハ)して単細胞から多細胞になって磁極性の強化があり(ル)、生命として形を成し(マ)、神の思惑を顕現する生命(生きる使命=存在理由)と成していく(ケ)、“上”からの荷電粒子を止め(ト)、完成に至る(ン)、という意味のことだと思えるし、この意味合いのことを艮(うしとら)の金神は岡本天命に書かせたのであると確信する。
それは平均的地球人が余りにも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対して認識が低すぎるからである。
今述べたことが分かっていれば次の文は簡単に読み解ける。
“大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ”
この文の“どんな臣民もアフンとして もの云へんことになる”“なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はん”、これは平均的地球人のこと、その進化過程は、自我の確立=固定化の段階、“江戸と尾張”の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、その心における認識では、アセンションの意味も解らず、アセンションが起きる根拠や理由も解らない、これについては今まで散々述べてきたことなので詳細は割愛することとして、このことを指した表記が“アフンとして もの云へん”“取違ひ”“じだんだふんでも、其の時では間に合はん”ということ。
それで“十人なみのことしてゐては今度の御用は出来ん”については、この帖で詳細に述べられていないが、平均的地球人と同じことをしていては次の段階の“創造”を担うには間に合わず、やはり智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を増すための“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、肉体(月(ツキ))の磁極性を高め、それにより天意を受信して、神の思惑をこの事象に顕現するのが完成に至る(ハルマゲドンの“ン”)“日止、霊止”であり、この意味のことが先の“ハルマゲドン”というカタカナ表記(“上”から視点)の一文字々々に込められているのだと確信する。
そしてこれに続く“逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ”は、“逆様にかへる”が今台頭している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が地に落ち、これは“上”が、神が、いったい人の何を評価するのかを示すことであり、形骸の権威、地位や名誉、その裏にある(通貨としての)金、これらは今後=アセンション後、まったく意味をなさないものになるし、これに執着している人間は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)(ヒ)であることがはっきり分かるようになるから述べられているのであり、それではダメだから“大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ”と述べられ、自省(胸の磁性“十”)せよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、低い価値観と幸福感を捨てよ、形骸の名誉や権威、(通貨としての)金など、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が努力してつかんだものは地に落ちることが示されているだけであり、“二二に花咲くぞ”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が強まり、今の低い砌(みぎり)の“行”をやっている人間が地に落ちることを先に述べたが、今後=アセンション後はそんなことはなく、日足(ひたり)と砌(みぎり)がバランスよく事象の“創造”をする、神の思惑を理解した思惑(日足(ひたり))は事象の“創造”(砌(みぎり))をするということで、“花咲く”は今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したことを指す比喩である。
今回はこれくらいにしときまんねん。“日月神示” 磐戸の巻 第四帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ、早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。
悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ。
一月二日、

冒頭の“この方”という表記については“上”と感応した心(靈)(ヒ)、あるいは天意が顕れた行動や思想であると今まで解釈してきた。
それが今の事象では“この世のあく神とも現はれる”=今までの平均的地球人の価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意であるし、それを強調する意味で“審判(さばき)”をする役目の“閻魔とも現はれる”であり、また“アクと申しても臣民の申す悪ではない”ということになるし、さらに、“審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ”と述べられ、これはどんな時も何をしていても“上”は必ず人間を観察して認識している(天の御目(あめのおめ))という意味合いのことも感じるものである。
今述べたことを思う根拠として、これまで述べてきたとおり平均的地球人の霊的成長度は自我の確立=固定化であり、その心の動きは自我の肥大中心であり、それが“石屋の仕組み”であり、その価値観や幸福感由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出したり増大させたりしているし、それが普通、それが当たり前、そういった既成概念を大半の人が持っているものであり、自分たちがいかに神の“創造”から外れた心(靈)の動きをしているのかについて考えていないし気づきもしないか、あるいは神の思惑に沿っていないことを知っていても多少の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)は無視するっていうのが一般的、だからそれはぶち壊されるものであるし、低い価値観で作り上げられた物は今崩壊しかかっているものでもある。
またこのことを体験しなければ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人間は自省(胸の磁性“十”)しない。 だから“神の咎め”として今の文明は崩壊するということである。
ちなみに“この方”という表記で印象に残っているのは、天つ巻 第二十六帖で、それは以下の文である。
“この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ”
この文の意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)と“青人草”(あおひとくさ)についてはすでに説明済みだが、平均的地球人の進化から“上”に向かう表記の意味を示されておりとても重要なのでその意味を示した画像を以下に貼る。
この二つの言葉に、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の思惑の顕現、天意の受信の秘密、その仕組み、などを読み取って欲しいものである。
それで次は“早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ”であるが、この文の“善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ”の“御代”(御世)(みよ)の言葉の意味は、天皇の治世、また、その在位期間の意味がある。
いうまでもなくこの表記の意味は今の形骸の天皇制のことなどではなく、天意を受信してそれをこの世界に顕現する“天詞様”の意であり、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であったりもするだろうが、それが平均的地球人には先に述べたように悪にもうつり善にもうつるものであるの意である。 それは物事の“観察と認識”はその心の霊的成長度により相対的なものである。
だから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化は程度の低い人には悪に見えたり善に見えたりするっていうことだが、それは“創造”の“主(ヌシ)”の計画だから絶対に顕現されるべきことであり、その意味で次の文の“悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ”の“どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ”に示されている通り、“上”と感応すれば程度の低い人間が“神の咎め”を受け、そのことを悪だと都合の良い解釈をしようがそれはその程度の低い人間が自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するには必須のことであるし、程度の低い人間には“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)する過程は成長のための試練であり、どうやっても避けられないことであることを、蛇足になるが強調しておくし、このことが理解できていれば“神のイキに合す”と“イキに合へば悪は悪でない”の意味は天意、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信であると理解できると思う。
そしてその“イキ”に“合す”“合へば”になるには、“神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ”の文に示されている通り、今までの価値観や幸福感を低いものと認識し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きを“下”(低い心(靈))と認識する“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が必須。
またそうなっていけば“磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ”といわれている通り、今までの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創りあげた恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた闇の世界が、日の出の巻の日の出の表記の意味であるアセンションにより、神の思惑が顕現されうる事象に移っていくの意であるが、それには重複するが“早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ”の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が必須である。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第五帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。 金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。
地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。
一月三日、

冒頭の“天(あま)さかり地(くに)さかります御代となる”の“御代”(みよ)という表記は、第四帖にも使われていた。 ちなみに第四帖のその文は“早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ”で、それを以下のように解釈した。
“この文の“善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ”の“御代”(御世)(みよ)の言葉の意味は、天皇の治世、また、その在位期間の意味がある。 いうまでもなくこの表記の意味は今の形骸の天皇制のことなどではなく、天意を受信してそれをこの世界に顕現する“天詞様”の意であり、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であったりもするだろうが、それが平均的地球人には先に述べたように悪にもうつり善にもうつるものであるの意である。 それは物事の“観察と認識”はその心の霊的成長度により相対的なものである”
それで、この第五帖の文を見ても、“天(あま)さかり地(くに)さかります”との今後=アセンション後の様子を表す表記があるから、“御代”は第四帖と同義のことを示している。
そして今後=アセンション後の人の様子を示唆したと思える次の文“臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。 金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ”であるが、この文の“ミタマ”のカタカナ表記(“上”から視線のいい方)の一文字々々を“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“ミ”は、生命の幹 その現実 ヒフミのミ
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った心(靈)(ヒ)、生命が、観察する現実(“ミ”)(現津(あきつ)、観察され得る事象)という解釈が成り立つ。
それでこの文の“花火”そしてそれぞれの色の表記、これは、花火の色を決定づけるのは炎色反応(アルカリ金属やアルカリ土類金属、銅などの塩を炎の中に入れると各金属元素特有の色を示す反応)。 よってでこの文では“臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききた”と記されており、“愈々ひらくとききた”は時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)を指した表記なので、今後=アセンション後は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が今とは(相対的に)変化して、それが次元上昇(アセンション)の意味合いでもあるが、その振動の違いを個々の心が感じ得るならば、感応するならば、今と違う事象を“創造”するものであるが、感じない、“上”の振動が素通りする低い肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、要は感応しないならば、まったく今と同じ醜い事象を“創造”するもので、そこに霊的成長度の違いというものがある。
話を戻し、炎色反応、その色の違いを指した文“赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ”は、個々の肉体(月(ツキ))に含まれている“石”(帯電するミネラル)の違いであり、また“石”(帯電するミネラル)を取り込んだタンパク質の高分子化の違いであり、自分がどう育ったか、どう進化したか、そのタンパク質の高分子化の違いは、自分の持てるエネルギーをどう使ったか、どう贖ったか、どうやって肉体(月(ツキ))を進化させてきたか、それは生業(なりわい)と“行”といえば分かりやすいが、生業(なりわい)と“行”、そして“腑”の電磁誘導=食事により取り込んだ“石”(帯電するミネラル)、その取り込み方、吸収の仕方、肉体組織の作り上げ方(タンパク質の高分子化)、これらの要素が肉体を変化させ“上”からの荷電粒子の取り込みも変化させるもので、また心(靈)(ヒ)の動きが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応か、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応か、という要素もあるが、そうやって心(靈)(ヒ)は“道”(時間の進行)とともに育っていくものであり、当然そこには同一個体、同一の心(靈)(ヒ)というものは存在しないし、それがこの文の“それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ”ということであるが、それがまた個々の生命(生きる使命=存在理由)の多様化という“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の表れでもある。
(このことは<1>で、「増えることを見るのは喜びである」と、稚拙な表現で示した覚えがある)
(更に、“腑”の電磁誘導という要素が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を作り変え、“上”からの荷電粒子との感応の違い、取り込みの違いになるということを鑑みれば、太陽凝視=不食という認識が、とても霊的成長度の低いものであることが分かり、またこの低い認識そのものがその人の霊的成長の妨げにもなる。
またその認識、不食という甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢、そう思わせること自体が、その人の低い功名心と自尊心に感応する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑であり、それはその人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低く=自我の肥大であるからこそ、感応するものである)
要はこの文の“花火”という表記が、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子の取り込み、そしてアセンションの時期という変化により“上”から送られる振動は今とは変わり、育つということであるが、この言葉そのものがチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の意味合いも示す表記でもあると思う。
そしてこれに続く“金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ”も、個々の霊的成長度、個々の生命としての使命、役割、その違いがあるのだということを示唆した言い回しであると思える。
次の“地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ”の“フニャフニャ腰”“コンニャク腰”“コンニャクのお化け”は固くない物、真固止では無い何か、いい換えれば真実=真固止ではない事象、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)では無い人=不誠実な人の心(靈)(ヒ)の動きを感じ取れ、いい換えれば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きとその進化過程における肉体(月(ツキ))は肉体組織が高分子化していない=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていないから、この文の冒頭の“地つちの軸 動くぞ”であると思われ、この文の“地つちの軸”は地球の地軸という解釈も成り立つが、やはり肉体(月(ツキ))の意味を持つ土だと思え、それが“軸 動くぞ”であるから、迷うとかそそのかされるとかの心(靈)の動きのことだと思えるし、それを前提に“フニャフニャ腰”“コンニャク腰”“コンニャクのお化け”の表記を見れば意味が分かりやすいと思うし、同様に今後=アセンション後に移行できる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人の意味を感じさせる“この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ”の文の意味もよく理解できるものであると思う。
(ちなみに“心棒に入れてくれ”は、肉体(月(ツキ))の磁束の強化により“上”の振動を自分の心(靈)(ヒ)により取り込むことであり、“この神示”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子そのもののことである)
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第六帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
北、南、たから出す時近づいたぞ、世の元からの仕組であるからめったに間違ひないぞ、これから愈々臣民にはわからなくなれど仕上げ見て下されよ、何事も神の申すこと聞いて すなほになるのが一等ざぞ、神示(ふで)出ぬ時近ふなりたぞ、神示出なくなりたら口で知らすぞ、神示早う腹に入れぬと間に合はんことになりてくるぞ、西も東もみな宝あるぞ、北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ、東西の宝も今にわかりてくるぞ、此の宝あっぱれ、この世の大洗濯の宝であるぞ。
一月四日、

冒頭の“北、南、”の表記は、北、大極、N極と、それに相対する南、S極、よってこれは縦の磁束であり“上”と“下”とも言い得る。
そして“たから出す時近づいた”の“たから”は当然“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のとても低い認識由来の発想の金銀財宝のことではなく、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)の意味と、“玉(ぎょく)”=結晶化した肉体組織のことである。 これがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、それを裏付ける表記が“世の元からの仕組である”=“創造”の“主(ヌシ)”が決めた進化の理(ことわり、法則)であり、それは“めったに間違ひない”ということである。
それで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番として、まず、自分たちが生業(なりわい)の“行”を中心に、土=2~3番目のオーラを大きくし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、その過程で、自分たちの存在の意義、生き方の追及、人間と神の存在の真理を探り、自分たちの本当の価値を求め…そして最終的には智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”である太陽凝視に入るのが神格化のプロセスでもあるのだが、それを“愈々臣民にはわからなくなれど”と称され、人間の完成は、肉体(月(ツキ))の健全な発達と精神、心(靈)(ヒ)の完成であるからこそ“仕上げ見て下され”といわれているし、またそれは“何事も神の申すこと聞いて すなほになるのが一等ざぞ”ということでもある。
今述べた人間の完成、それに必須なのが、今の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至る“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、“行”そのものは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、智性(神性)の“行”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、最初に艮(うしとら)の金神が示したのは黒住教における朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)ということでもある。
(だが大半の“日月神示”の解説本やサイトなどにはこのことの指摘が無い。 智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”が神格化へのプロセスであるという認識が無いからである)
それで次に続く“神示(ふで)出ぬ時近ふなりたぞ、神示出なくなりたら口で知らすぞ、神示早う腹に入れぬと間に合はんことになりてくるぞ”は、“早う腹に入れぬと間に合はんことになりてくる”が要で、腹は“江戸と尾張”、自我の発現、自我の強化、自我の肥大=“石屋の仕組み”の意、要は腹における心(靈)の発現と動きであるが、それに“早う腹に入れぬと”は、先の“何事も神の申すこと聞いて すなほになるのが一等ざぞ”である神格化のプロセスを思え、認識せよ、そして体得せよ、ということ。
そして“日月神示”が自動書記で書かれていた段階が終わる、霊媒体質による低い憑依現象の自動書記で“上”が霊的成長を語る、神格化のプロセスを示す手段は“神示(ふで)出ぬ時近ふなりた”であり、これからは高い智性(神性)を持った人、“上”と感応する人、いわゆる霊的成長度が高まった表記の“天詞様”が“上”の思惑を語るようになる、その意味のことを述べているのであり、またこれが低い霊の入り込みやすい霊媒体質を利用したメッセージの伝え方よりも良いカタチであるから“神示出なくなりたら口で知らす”ということになる。
次の“西も東もみな宝あるぞ、北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ、東西の宝も今にわかりてくるぞ”の“西”“東”の表記は、先の“北”“南”=“上”“下”に対する日足(ひたり)と砌(みぎり)という神の極性のことである。 そしてその極性の顕現も“宝”と称されているし、それはまた、日足(ひたり)=思惑、砌(みぎり)=事象への顕現、要は事象の“創造”ということであるし、人が神の代理として成さなければならないのはこの世界を神の思惑通りにする、それはローム太霊が述べた“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”という文言に顕れているものでもある。
話を戻し、この文の“北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ”であるが、これも“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”からそれぞれを引用すれば以下のようになる。
先ず“シホミツ”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。
よって“シホミツ”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動“シ”が生命(生きる使命=存在理由)と現津(あきつ)、観察され得る事象に止まるように降りるの意であると思う。
次に“シホヒル”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、ヒト(“日止、霊止”のヒ)。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め凝らすの義。
よって“シホヒル”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動が生命に降りて凝る(自凝(おのころ))している様、またそれは神格化のプロセスの重要な要素のたんぱく質の高分子化による肉体(月(ツキ))の磁極性の強化と変容の結果である“上”との感応といい得る。
それで第六帖で述べられている“宝”は先に述べたとおりであるし、それが人間にとって真に価値のある何かであるし、要は生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということだが、それがまた“シホミツ”“シホヒル”というカタカナ表記(“上”から視点の表記)でもあるからこそ“此の宝あっぱれ”であり、それが次の事象であり、次の事象を“創造”する生命(生きる使命=存在理由)としての“日止、霊止”、日(太陽の振動)を止める、“上”からの荷電粒子を止める(靈)、でもあり、人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあるからこそ“この世の大洗濯の宝であるぞ”とも称されているものである。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第七帖 Kellyさん的解釈
人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や禍は見当とれまいがな、真通理(まつり)第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。
神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ。
右行く人、左行く人とがむるでないぞ。 世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。
この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。 今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ。
一月七日、

冒頭の文の“今度の岩戸”(岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く)は、いうまでもなく平均的地球人の進化過程の自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に至る“上”の心の発現のことを指し、それはアセンションに伴う醜い外側(外国と幽界)の事象=“人民のイクサや天災ばかり”によって変わるのではなく=“岩戸ひらく”のではなく、自らが進化しなければならないことを指す。
それを換言すれば“江戸と尾張”=腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから“上”である胸の磁性“十”、シンクロトロンの強化になっていかねばアセンション落第組であるからこそ、次のように述べられているものである。
“早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれ”
“肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ”
それで第五帖でのべたように“ミタマ”のカタカナ表記(“上”から視線のいい方)の一文字々々を“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“ミ”は、生命の幹 その現実 ヒフミのミ
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
であり、だから“ミタマ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った心(靈)(ヒ)、生命が、観察する現実(“ミ”)(現津(あきつ)、観察され得る事象)という解釈が成り立ち、“タマ”は、進化した生命が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑に沿った正しき生命(生きる使命=存在理由)ということが強調された表記であると思うし、それは真実=真固止であり誠(誠実さ)であり、またそれは生命の完成のひな型といい得る ○ 九 十=霊、○、荷電粒子の場(フィールド)と、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と胸の磁性“十”ということでもある。
それで、霊的成長した心(靈)(ヒ)が、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠とするとか、あるいはその行動を見て“ミタマ”“タマ”の“マ”、誠実さや真実=真固止を感じ得ることが(天の御目(あめのおめ)に適っているから)大事であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)は、当然不誠実ではないし、また事象に真実=真固止を求めるものであり、それらが自らの持つ理念の根拠たりうるものでもあるが、その真逆として、進化程度が低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心、自我の肥大した心、その行いは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかを、知恵を使って行い、自分の利益としているし、またそれは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))にも当然見られるが、その意味合いを示しているのが“タマの戦や禍は見当とれまいがな”であり、これに重要な要素が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示す“真通理(まつり)第一と申すのざ”と“神のミコトにきけ”と“どうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならん”=“上”の通信を受け止める肉体(月(ツキ))、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“上”の思想を自分の思惑とすることができ得る智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ちえた心(靈)(ヒ)となれよ、という意味合いのことである。
ちなみにカタカナ表記の“ミコト”の意味は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
であるから、“神のミコトにきけ”は、天意を受信した智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で“観察と認識”して思い判断せよという意味合いのこと。 そしてカタカナ表記は“上”から視点のいい方だが、こちら側、“創造”の“主(ヌシ)”の被造物である人間の感じ方は“実言(みこと)”で、これについては、地つ巻 第一帖で述べたが、それを要約すれば、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が実る、そして実るという漢字は宀(うかんむり、頭の意味)と“一二三”のオーラ(三)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているものである。
それで第七帖の後半は、今述べたことを強調する意味合いのことが多く、まず低い霊的干渉、霊媒体質によること、それを“神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ”と称し、この文の“まことの神かかり”は、天意(超高振動の“上”からの荷電粒子)を受信でき得る“一”=智性=1番目のオーラを持った“日止、霊止”のこと、神の思惑が自分の思想になっている心(靈)(ヒ)、いわゆる“天詞様”をさすものであり、超高振動の天意は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる頭の水平磁場の強化が無ければ、感応しない、素通りするし、今、神を名乗ったり何々霊を名乗ったりしているのはほとんどが霊媒体質による低い憑依現象であり、霊媒(チャネラーも程度の低い霊媒体質)を利用して“上”が通信を送る時期はすでに終わっていることは幾度となく述べたが、このことは心霊現象に目がきく人でなければ理解できない、判断できないからこそこの言い方が“日月神示”内で幾度となく述べられているものである。
これに続く“右行く人、左行く人とがむるでないぞ”は、人の心(靈)(ヒ)の成長度と行動が、砌(みぎり)の“行”なのか日足(ひたり)の“行”なのかの違いがあるということを指しており、人の一生の霊的進化のプログラムとしては生業(なりわい)の“行”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”に大別できるが、大概の平均的地球人は生業(なりわい)の“行”で一生を終え、智性(神性)の獲得には程遠い、そして生業(なりわい)の“行”を通じて、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということを体験し、胸の磁性“十”を強化し、少し“慈悲”と“慈愛”の心を獲得するのだが、その右往左往と左往右往を体験する過程では、極端な解りやすい例を挙げれば自分の生業(なりわい)、例えば仕事が成功し有頂天になり砌(みぎり)の極性(事象への顕現)が高まった場合と、それが失敗して悲嘆にくれ心(靈)が折れる、それが日足(ひたり)の極性の高まりである。
こういった砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性の高まりの変化は人の一生において幾度となく体験して、そして霊的進化をして、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、さらに智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得ということになり、その過程であるそれぞれの極性の高まりだけを見てその人のことを決めつけるな、それは霊的成長の過程である、その意味のことを示唆した言い方である。
そしてこれに続く“世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ”は、先の“右行く人、左行く人…”という、自らの心の動きと霊的成長度による事象の“観察と認識”のことを述べているのだと気付かされるものである。 わかりやすく解けば“世界のこと”=自分の心が観察している事象、“皆、己の心にうつりて”=自分の霊的成長度における事象の認識、この認識に程度の高低があること、それによる事象の“創造”を“心だけのことより出来ん”と称され、それは重複するが、自らの霊的成長度における息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”しかできないこと、具体的には、程度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は低い世界を創り、それより程度の高い人は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の心により事象の“創造”をするということ。
このことは今まで散々述べてきたことではある。
また、この文に続く“この道理わかりたか”は、これが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現であるからこそ、“道”=時間の進行、“理(ミチ)”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性ということ。
そしてこれに続く“この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心、“役員づら”、利益を求める心、奉仕を忘れている自我の肥大した心の“創造”した事象はすべて“つぶれて了ふぞ”ということになるが、ことに形骸の宗教、権利と権威と物欲で宗教を腐らせたことを“今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ”と称されているのであり、この一文に程度の低い人は、自戒しなければならないということ、これを感じて欲しい、これが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑だからこう述べられているものでもある。
また“役員づら”が自分たちの宗教や信条だけが素晴らしいと思い込む、これは自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人にありがちな傾向だが、それを戒めるのが“俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ”であり、自分たちだけが素晴らしい、自分の関わっている宗教だけが素晴らしいなどという幼稚な縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)みたいな思いは捨てて、この世界には“上”と“下”しかないということを悟れということでもある。
ちなみに“この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ”の“マナカ”は
“マ”は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、
“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
であるから、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と繁栄、そして生命(生きる使命=存在理由)が創造するその力とそれで創られた現津(あきつ)、観察され得る事象の正しさ、それは先に““ミタマ”“タマ”の“マ”、誠実さや真実=真固止を感じ得ることが大事”と述べたとおり、“上”から観て、あるいは進化した人(日止、霊止)の心から観て、正しき事象でなければならないし、そうなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。
これに続く“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ”のカタカナ表記(“上”から視線のいい方)“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。 それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分け、“役員づら”が述べている意味合いのことではなく真実のアセンションのことだが、それを通り越しても(時間の進行としての“道”)、“今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではない”=自分たちが今までとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をするのであるからすぐに良いカタチにはならない、そのことが述べられている。
そして天意の受信=“この神の申すこと”を、自らの心の認識(悟り、幸取=さとり)とするには、次のように述べられていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
“肚の底(自我)から改心(自省(胸の磁性“十”))して、すなほに、神の申す通り(天意の受信を自らの心の認識(悟り、幸取=さとり)とする)にするのが何より結構なこと”
“日月神示” 磐戸の巻 第八帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ。 外国の悪の三大将よ、いざ出て参れよ、マトモからでも、上からでも、下からでも、横からでも、いざ出てまゐれよ。
この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してあるから、いざ出て参りて得心ゆくまでかかりて御座れ。 敗けてもクヤシクない迄に攻めて御座れよ、堂々と出て御座れ、どの手でもかかりて御座れ。 その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ。
学、勝ちたら従ってやるぞ、神の力にカナワンこと心からわかりたら末代どんなことあっても従はして元の神のまことの世にして、改心さして、万劫末代 口説(くぜつ)ない世に致すぞよ。
一月九日、

この第八帖は、現行の常識や既成概念、いわゆる平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)におけるそれが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていないことを示した文言であると思う。
それでまず、常識や既成概念が道理にかなっていないと感じ得る表記が“神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ”であり、この文の“神の国の昔からの生神の声”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信であり、またそれは“創造”の法則性(“理(ミチ)”)であるからこそ“昔からの”と述べており、それがこの事象に顕現すること自体が“生神の”という表記で示されていると思う。
それで、その“上”からの通信と感応しない、受け取ることができない、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの高い振動が素通りする心(靈)(ヒ)、それを示す表記が“九分九厘迄 外国魂”であり、これもまた“日月神示”内表記の“外国”というのは、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)の国の認識である日本に対しての他国ということではなく、外側(外国と幽界)の事象ということで、いうなれば“九分九厘迄 外国魂”は、自己観察が足らない、外側(外国と幽界)の事象ばかり見ている低い心(靈)の動きをしている“魂”、この魂という表記も以前に解釈したことがあるが、旁(つくり)の鬼はこの世に在らざる者、偏(へん)は肉体(月(ツキ))を表す“二”と厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)であり、よって自己が認識している肉体(月(ツキ))に対しての心(靈)(ヒ)、それはまた、ことに現界に関わっている心(靈)という解釈が妥当であると思う。
そして“世に出てゐる守護人”という表記は、今の世界、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きで創りあげられたこの恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ち三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の浮遊霊の霊的干渉がとても多いこの世界、これを保とうとするとか、あるいは恨みの連鎖を生み出している経済の発展、真の意味での政治の政、“政(まつりごと)”ではない腐った政治、人の霊的成長に対してどうでもいいもの、足を引っ張るもの(低い功名心と自尊心を煽る(あおる)ブランド、形骸の宗教、えせスピリチュアル、まやかしの癒し、インチキヨガ、どうでもよい娯楽、エンターテイメント化したマスコミ…具体例を挙げるときりがない)で商売をしている人間、これ自体が“石屋の仕組み”、自我の肥大という心の動きが生み出したものであるのだが、この進化の段階の人間が考える形骸の権威や権力、名誉名声、これらを守り護る人という意味合いが、“世に出てゐる”=形骸の名誉や名声、権力、権威etc.要は自我の確立=固定化の進化過程と自我の肥大で獲得したもの、進化程度の低い心(靈)が、低いが故に(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとっては価値のないことを、もう卒業しなければならないことを)価値のあるものであると錯覚している何かであると思う。
これに続く“外国の悪の三大将よ、いざ出て参れよ、マトモからでも、上からでも、下からでも、横からでも、いざ出てまゐれよ”の“外国の悪の三大将”は、外側(外国と幽界)の事象しか見ていない心(靈)の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の要素という解釈が妥当で、ここまで読み解いてきた“日月神示”には“メリカ”“キリス”そして“オロシヤ”という表記があったが、“メリカ”“キリス”はアメリカイギリスに対して“ア”と“イ”がかけた表記であるし、“オロシヤ”は、下家(おろしや)、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)を、“下”(低い心(靈))にさせる働きと解釈したが、その意味のことを述べていると思うし、仮にアメリカイギリスロシアのことならば、“いざ出てまゐれ”という言い回しが不自然に感じられる。
そしてこの文の表記の“マトモ”は、例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、
“ト”は、止まると云う心
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命(生きる使命=存在理由)の元(二=肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)=時間の進行)の意
ということになり、“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の振動を止めた生命が顕現した様ということを感じるから、先の“神の国の昔からの生神”の意味と一致するものである。
次の“この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してあるから、いざ出て参りて得心ゆくまでかかりて御座れ。 敗けてもクヤシクない迄に攻めて御座れよ、堂々と出て御座れ、どの手でもかかりて御座れ。 その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ”は、“外国の悪の三大将”=人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させない心(靈)の動きに対してと、その心(靈)が台頭している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と認識に対する言い回しであり、自分たちが自我の肥大ゆえ自分たちの行いが悪いとか間違っているとか思わないのであれば“得心ゆくまでかかりて御座れ…中略…どの手でもかかりて御座れ”と述べられ、本当に改心(“身魂掃除”“身魂洗濯”) するにあたっては、“その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ”というところまでいかねばならず、その時初めて“この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してある”=“創造”の法則性(“理(ミチ)”)を認識しうる、自分たちの思想になることの意である。
またそれは現時点において、自我の確立=固定化、自我の肥大(“石屋の仕組み”)から、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得であることを思い知る、思い知らねばならないという表記でもある。
次の“学、勝ちたら従ってやるぞ、神の力にカナワンこと心からわかりたら末代どんなことあっても従はして元の神のまことの世にして、改心さして、万劫末代 口説(くぜつ)ない世に致すぞよ”であるが、この文の要は“神の力にカナワンこと心からわかりたら末代どんなことあっても従はして元の神のまことの世にして、改心さして”であり、先に述べたように平均的地球人の進化過程における常識や既成概念、価値観、これらは今後=アセンション後の事象に沿ったものではないからこそ“改心”せねばならないし、今後=アセンション後の事象に位置できる心(靈)は“元の神のまことの世”=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑通りの事象に“末代どんなことあっても従はして”と“万劫末代 口説(くぜつ)ない世に致す”、要は理屈=“口説(くぜつ)”ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“行”に入っていく、理屈を説く自我の肥大は通用しない、それは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑通り=“元の神のまことの世にして”になっていくという意味合いのこと。
そして今取り上げた文の中の“口説(くぜつ)”、これは“学”由来のことであると思うし、その“学”に関しては、地つ巻 第三十帖の解釈が分かりやすいと思うので、以下にコピペしておく。
“神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、
何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、
智や学越えて神の力にまつはれよ、
お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、
神のない世とだんだんなりておろがな。”
“上”と“下”、それは、神と人(日止、霊止)、その両者の思惑が一致していない事象が、この今の世界。 それを指摘しているのが“神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐる”って言い回しで、今は、自我の肥大した人、“われよし”が活躍しているけど、それは当然低い進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、今後=アセンション後に位置できる霊的資格ではない。
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自分がエネルギーを贖って(あがなって)正当な報酬を得るって発想があまり無い。 だから他者を利用し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをする。 しかしそれを自分が獲得した知恵、立場、権力、名声などでごまかす。 要は人を利用するのにも、騙されている人に騙されていないかのように思わせるのが、うまいやり方で、卓越した自己奉仕者といえるし、今そういう人が活躍している世界がこのせかいでもあるし、たとえば、“麗しき誤解の中で、人のふんどしで相撲をとる”なんて公言している人もいるけど、実に自分のエネルギーを贖わないで、のし上がってきたのかって事を吹聴しているだけ。
要は、自分の欲望のためにいろんなものを利用して、最小限のエネルギーの贖い(あがない)を思い、(通貨としての)金や名声や権力を得て、自分の低い欲望を満たす。 それがこの文の“智や学にすがりてゐる”に示されている。 だからそれは卓越した自己奉仕者といいうる。
もう一つ、地つ巻 第二十七帖の表記と解釈も貼っておく。
“学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。
ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。
神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。”
この文の“学”は、理屈だけ捏ね回して他者を利用して自分の利益にする人が多いとか、誰かの功績にあやかるとか、自分がエネルギーを贖わないでたくさんの利益を得ようとするとかの自己奉仕者の心(靈)の事をいっていると思える。
そやけど今Kellyさんが使った言い回しでは具体的ではないから、ちょっと具体例を挙げておけば、地球人は動物に比べ学問や知識を得たけど、自分たちにとって都合のよい使い方をする。
ほかにもここまでの“日月神示”内の表記では、
富士の巻 第三帖 “学と神力との戦”
地つ巻 第八帖 “悪や学にだまされて”
と、“学”と“悪”と“神力”の意味が本当に分かっていればすぐ理解できる表記もあり、そして、日月の巻 第十一帖の
“学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ”
これも、ただ理屈だけこねて、たいして(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化としての)行をしない、そして認識が低すぎる=霊的成長度が低い人間を、揶揄(やゆ)した言い方であると思える
…と読み解いたことを補足して、今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第九帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
富士と鳴門の仕組わかりかけたら、いかな外国人でも改心するぞ、それ迄に神の国の臣民 改心して居らぬと気の毒出来るぞ。
天狗や狐は誰にでもかかりてモノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからんぞ、よき代になりたら神はモノ云はんぞ。 人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふから気つけておくぞ。 かみがかりに凝るとロクなことないからホドホドにして呉れよ。この道は中行く道と申してあろがな。
戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ。
長引く程、国はヂリヂリになくなるぞ。 米あると申して油断するでないぞ、タマあると申して油断するでないぞ。 命(いのち)あると申して油断するでないぞ。 この神示よく読めば楽になって人々から光り出るざぞ、辰の年はよき年となりてゐるのざぞ、早う洗濯してくれよ。
一月十一日、


冒頭の表記の“富士”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であり、“鳴門”は振動(鳴る)の門(振動の“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の段階)と今まで解釈してきた。
よってこの表記が使われているこの文、これは“外国人=外側(外国と幽界)の事象しか観察していない低い霊的成長度の心が、霊的成長の仕組みである日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化と、自分が霊的成長すればだんだん“上”の高い振動と感応して自らの心の発現と動きが変容してくる(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”)、そのことを述べているのが“富士と鳴門の仕組わかりかけたら、いかな外国人でも改心する”ということであり、さらに今後=アセンション後に移行するにあたって“上”から注がれ、“下”(低い心(靈))である人が受け止める(“日止、霊止”の止)振動は、高振動になるからこそ、今までの地球の自我という心の動きの強化(進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階))とは違った振動により心(靈)は影響を受けるものであり、その影響を受けるにあたって胸の磁性“十”がしっかり出来上がっていなければならず、だからこそ“それ迄に神の国の臣民 改心して居らぬと気の毒出来るぞ”という言い回しがされているものであり、この文の“神の国”は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)という意味合いのことである(自省(胸の磁性“十”)をした心(靈)=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”)。
尚、“富士と鳴門の仕組”については、日の出の巻 第十八帖も参照のこと。
それでこれに続く“天狗や狐は誰にでもかかりてモノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからんぞ、よき代になりたら神はモノ云はんぞ。人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふから気つけておくぞ”は、自我の確立=固定化の進化過程における霊媒体質の憑依=“天狗や狐は誰にでもかかりて……”と、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らの思想にする(“天詞様”)肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)=依り代(よりしろ)とは違うということを“モノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからん”という表記で示し、それは低い憑依現象にありがちな憑き物自体がその人の体と心を乗っ取って何かを伝えるという形ではなく、天意を自らの思想とするからこそ“よき代(感応でき得る肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、依り代(よりしろ))になりたら神はモノ云はんぞ。人が神となる(天意を顕現する)のざぞ”と述べられているに過ぎない。
要は(このことも幾度となく述べてきたが)霊媒のエクトプラズムを使って霊が実体化して話すとか、自動書記で何かを伝えるとか、チャネラーとか、こういったことは不安定な現象であり、霊媒体質は腹の段階までの進化が中心(“江戸と尾張”)であり、今後=アセンション後はそれより“上”に進化するから、霊媒体質を利用した“上”の思惑の伝え方は消失するし、消失せねばならないものである。
またそれは、形骸になった宗教関係者などではあり得ないという表記が“巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからん”(弥宜(ねぎ)は神職のこと)でもあり、この言い回しそのものが、自我の肥大(“石屋の仕組み”)により宗教を霊的成長のためのものとせず、程度の低い商売にしてしまった“役員づら”を揶揄した言い方でもある。
そんな低い事象はともかく、天意を自らの思想とする、今後注がれてくる“上”からの高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するには、人生において右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験後、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をして、その過程で自省(胸の磁性“十”)している人(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”できた人)、あるいは進化の法則性(“理(ミチ)”)に則った“行”(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、艮(うしとら)の金神が黒住教で示した朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)から始めること)しているならば“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意と感応していくのであるからこそ“人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ(感応しない)、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふから(感応する肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)でなければいけないから)気つけておくぞ”と述べれれているものである。
また今述べたことを強調する言い回しが“かみがかりに凝るとロクなことないからホドホドにして呉れよ。この道は中行く道と申してあろがな。”であり、霊媒体質による低い憑依現象で“上”の思惑を伝えるという段階は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としては低いから“かみがかりに凝るとロクなことないからホドホドにして呉れ”と、霊媒体質の憑依現象によるメッセージの伝えは、その人の思想になっているわけではなく単なる受信機みたいなものであるから進化としてはバランスが悪いことを“中行く道”と示されている。
次の“戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、”の“戦”は外側(外国と幽界)の事象における戦争のことではなく、自らの心の中の葛藤であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して)変わっていくには、何が大切、何が価値があるのか、自分はどう生きるべきか、どう在るべきか、本当のことは一体何なのか(真実=真固止、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、○ 九 十)、これらのことを深く思うようになるし、またそれには今までの価値観や幸福感や自尊心や功名心を自分で低いと認識するようになるのだが、そこまでに至る心(靈)の葛藤を“戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになる”と述べられており、ことにこの文の“人民の智や学や算盤”は先回の第八帖の“学”の表記と同義である。
そしてこれに続く“早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ”は、早く“上”と感応すること=“神の申す通り素直に云ふこときけ”であり、そうでなければ、それに抗うならば“長引く程、国はヂリヂリになくなる”と揶揄され、いうまでもなくこの文の“国”は自分の心であり、“国”の表記は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すからである。
そして“米あると申して油断するでないぞ、タマあると申して油断するでないぞ。 命(いのち)あると申して油断するでないぞ”は、食料があろうとも命があっても“タマ”(“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、よって進化していくべき生命(生きる使命=存在理由)の意)であろうとも、自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を志す、そのために改心(“身魂掃除”“身魂洗濯”)をして胸の磁性“十”を強化する、それをしていかねば次の段階に移行できないからこそ“油断するでないぞ”といわれており、やや重複するがこれに続く“この神示よく読めば楽になって人々から光り出るざぞ、辰の年はよき年となりてゐるのざぞ、早う洗濯してくれよ”は、自省(胸の磁性“十”)(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)=“早う洗濯してくれよ”、そして“上”と感応して自らの思想を構築せよ=“この神示よく読めば楽になって人々から光り出る”、この“光出る”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり“一二三”のオーラのことであり、今の土=2~3番目のオーラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人が活躍する事象ではない次の段階の事象の“創造”につながっていくからこそ“辰の年はよき年となりてゐるのざぞ”となり、この“辰の年”には“漢書の律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされる”(Wikipediaから引用)の意があり、要は、自らの心が観察しうる現津(あきつ)、観察され得る事象のすべてが“上”の思惑が顕現した形になり、「ととのう」のであるということ。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十帖 Kellyさん的解釈
悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。 日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか、上からやり方かへて貰はねば、下ばかりでは何うにもならんぞ。
上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ。 メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひであるぞ。 早う神の申すことききて下されよ。世界の何処さがしても、今では九九(ここ)より他に、神のマコトの道知らす所ないのざぞ。 此の道の役員、上から見られん所によきことないと今度の御用、なかなかにつとまらんぞ、洗濯急げよ、掃除急げよ、家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ、このことよく気付けておくぞ、村も国々も同様ぞ。 女のメグリはコワイのざぞ。節分からは八回拍手うちて下されよ。神はげしくなるぞ。
一月十二日、


冒頭の文の“悪の仕組”の“悪”は、平均的地球人の進化過程における認識、いわゆる一般常識や既成概念の悪という意味合いではなく、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる思惑、悪魔=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)、そして生命(生きる使命=存在理由)を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させない仕組みと解釈するのが妥当。
そのことを示す根拠としては、“日本魂をネコソギ抜いて了ふ”それと“日本を外国同様にして”の“日本”の解釈が肝要であり、これは日本と諸外国という縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ではない。
画像で意味を示すこととする。
この“日本”という表記が、これまで幾度となく述べている進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みでもあるし、“日”=(囗)くにがまえと“一”(亜から出ずる、アイ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記、日足(ひたり)から砌(みぎり)=“思惑の顕現”)であることを知らないものは、自我の肥大(“石屋の仕組み”)による認識しか持ちえないからこそ、日本は神国だとか外国は悪だとしか解釈しえないものであるが、その解釈自体が低すぎることをあえて指摘しておく。
また“外国同様”というのは、外側(外国と幽界)の事象しか観察しえない低い霊的成長度の心と同様という意味、いわゆる自省(胸の磁性“十”)してない、自分の在り方を観ないし考えない、自我が肥大(“石屋の仕組み”)した価値観と幸福感しか持ちえないし、その心(靈)由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるし、そういった類の人間は“自分を観察する自分の確立”という心の動きがあまりない=智性(神性)無き心だということ。
それで霊的成長の仕組みとしては、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による肉体(月(ツキ))の電気特性と磁束の強化で“上”からの荷電粒子=神の思惑を止める、それが古神道の“日止、霊止”、太陽を止める(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)、靈を止める、の意味である。
だからこそ、“日本”は霊的成長の意であり、“日本魂”は霊的成長を目指す心(靈)と解釈するのが妥当。 霊の旧字の解字をしばらくアップしていなかったので以下に示す。
今述べたことを念頭において冒頭の文を読めば“悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。 日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか”というのは、人間の存在意義、人が考えねばならない自分の使命(“完全なる人間の運営”“自分の使命を完成” “ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 Kellyさん的解釈 “その三”を参照のこと)、そして霊的成長の仕組み=“日本”、それを目指す心(靈)=“日本魂”“日本の臣民”、これらは自我の肥大(“石屋の仕組み”)由来の価値観や思想で、“ほんとうの自分というものに近づく”(「まほう色の瞳」の表記、前回のじゅんいち君の登場する記事を参照のこと)を見失わせる“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑どおりになっている様を“外国同様にしておいて、一呑みにする計画”“悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかん”と称されているに過ぎない。
そしてこれに続く“上からやり方かへて貰はねば、下ばかりでは何うにもならんぞ。上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ”は、形骸の権威、形骸の位(くらい)、そういう立場の人はもうアセンションに間に合う霊的成長度には変わりようがないとは思うが、それをこの文で“上からやり方かへて貰はねば”といわれており、先に述べたようにもう変わりようがないので“上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐる”と称されている。
そしてこれに続く“メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひであるぞ”の“メグリ”の意は、因縁、恨みの連鎖の霊的干渉の意と解釈するのが妥当、それで少し先走るがこの文の後の“家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ”の“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)、智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)のことで、それが“治まらん”は、ととのって無い、間違っている、霊的成長の方向性(“理(ミチ)”)に向いていないの意であるし、それは外側(外国と幽界)の事象しか見ていない(自省(胸の磁性“十”)していない)霊的成長度の人間の価値観であるのが“メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふ”=(通貨としての)金があれば幸福、物欲が満たされれば幸福という薄っぺらい価値観のことを指し、それは“女”=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる、霊的に高い理念なき行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、因縁を作り、恨みの連鎖の霊的干渉を増大するの意であるし、そんなものに“上”は価値を認めないのは当然だからこそ“早う神の申すことききて下されよ。世界の何処さがしても、今では九九(ここ)より他に、神のマコトの道知らす所ないのざぞ”といわれ、この文の“九九(ここ)”は、二つ並んだ表記が日足と砌(ひたりとみぎり)を示し、それは“富士(二二)”と共通する表記でもあるし、“九”は○ 九 十の“九”であるから“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、いわゆる神の思惑を顕現する最終の生命(“日止、霊止”)の意でもある。
このことを踏まえこれに続く文“此の道の役員、上から見られん所によきことないと今度の御用、なかなかにつとまらんぞ、洗濯急げよ、掃除急げよ、家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ、このことよく気付けておくぞ、村も国々も同様ぞ。 女のメグリはコワイのざぞ。節分からは八回拍手うちて下されよ。神はげしくなるぞ”を読めば、“此の道の役員”は今後=アセンション後の“創造”を担う人の意であり、それは形骸の価値や権威を目指すのではないから“(形骸の)上から見られん所によきことないと”と称され、もしそうなるならば、今の形骸の価値観由来の見方ではなく自分の内面とか内側(心の中と感じている事)に神の思惑を理解して自省(胸の磁性“十”)して、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と胸の磁性“十”を兼ね備えるならば“今度の御用”は“つとまらん”といわれ、そして意味が重複するが“洗濯急げよ、掃除急げよ”は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”“自分を観察する自分の確立”であり、それが出来れば先に述べた“家”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した動物、智性(神性)を持った動物である人は現時点の平均的地球人の心(靈)(ヒ)よりは治まるものである。 そして“村も国々も”のくだりは、一個人に対して集団という意味合いのこと。 霊的成長した人の集まりは、今の事象とは違い、治まるの意。
最後の“節分からは八回拍手うちて下されよ。神はげしくなるぞ”の“節分”は年が改まる=アセンション後の事象を指し、“八回拍手うちて下され”は伊勢の内宮、天照大神(現界の太陽)特有の作法であり、太陽を意識せよという意味であるし、今後=アセンション後の事象は目下(めした)の心を行使したケダモノが活躍する場(フィールド)ではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応した心(靈)(ヒ)の持ち主が台頭して神の思惑を顕現する時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)となるから“神はげしく”である。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ。 ゴモク吐き出せよ、其の儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんことになりて、しまいには灰にするより、手なくなるぞ、石流れて、木の葉沈むと申してあろが、今がその世ざぞ。
改心してキレイに掃除出来たら、千里先にゐても、ひつきの神とたのめば何んなことでもさしてやるぞ、この神は世界中何処へでも届く鼻もってゐるのざぞ、この世つくりたこの神ざ、この世にわからんこと一つもないのざぞ、神の御用さへつとめて下されたら、心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ、日本臣民ばかりでないぞ、何処の国の民でも同様に助けてやるぞ、神にはエコがないのぞ。
一月十三日、

第十一帖は、前回の第十帖の
“悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画”
そして
“メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひである”
そして
“洗濯急げよ、掃除急げよ、家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ”
これが理解できていなければ読み解けない。 前回の記事から以下にコピペしておく。
““家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)、智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)のことで、それが“治まらん”は、ととのって無い、間違っている、霊的成長の方向性(“理(ミチ)”)に向いていないの意であるし、それは外側(外国と幽界)の事象しか見ていない(自省(胸の磁性“十”)していない)霊的成長度の人間の価値観であるのが“メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふ”=(通貨としての)金があれば幸福、物欲が満たされれば幸福という薄っぺらい価値観のことを指し、それは“女”=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる、霊的に高い理念なき行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、因縁を作り、恨みの連鎖の霊的干渉を増大するの意である”
それで先ず“心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ”は、これまで幾度となく述べてきた目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心の動きによる低い霊的存在の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指摘している。 またそれは動物霊に限ったことではなく、自省(胸の磁性“十”)せずに死んだ人間もいわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)の動きしか持ちえないからこそ悪霊になるものである。
それでその低い霊と感応して目下(めした)の心の動き中心なのが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、その心の動きは仏教でいう所の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもあり、さらに“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもあるが、これらは自我の確立=固定化の進化過程で、さらに自我が肥大しているから、自分が悪いとか間違っているとかの認識はあまりない。
だからこそ“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”ということが何度も述べられているものであり、それ出来ない人に対し“ゴモク吐き出せよ、其の儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんこと”といわれているものである。
それは“上”が認めるものではないし、今後=アセンション後に移行できる霊的成長度ではないからこそ“神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ”と称され、先に指摘した霊的成長度の低い心(靈)はまったく救いようがないからこそアセンションに伴う醜い事象に巻き込まれ…というよりは、醜い事象を創ったのはその低い心(靈)の持ち主だからこそ(正当な報酬として)“上”は殺すしかしょうがない、死んでから自省(胸の磁性“十”)の“行”をするということで、その意味のことが“しまいには灰にするより、手なくなるぞ、石流れて、木の葉沈むと申してあろが、今がその世ざぞ”と称されており、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であることを“今がその世ざ”と強調して述べている。
要は、今後=アセンション後に移行できる霊的資格というのは、自省(胸の磁性“十”)が出来た心(靈)(ヒ)であり、それが出来る心でなければ“神のイレモノ”(“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)(ヒ)、智性(神性)の行使が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠になっている人、“天詞様”)には成り得ないということだが、それは次の文に続いているし、その文に注釈を入れ、今回はこれくらいにしときまんねん。
“改心してキレイに掃除出来たら、千里先にゐても、ひつきの神(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)とたのめば(祈り、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))何んなことでもさしてやるぞ、
この神は世界中何処へでも届く鼻もってゐるのざぞ、この世つくりたこの神ざ、この世にわからんこと一つもないのざぞ(“創造”の“主(ヌシ)”だから)、
神の御用さへつとめて下されたら(先に述べた“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)(ヒ)ならば)、
心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ、
日本臣民ばかりでないぞ、何処の国の民でも同様に助けてやるぞ、神にはエコがないのぞ(縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)による国の概念ではなく、霊的成長度において個々の心が、現津(あきつ)、観察され得る事象を“創造”するのだから、その霊的成長度における事象しか観察しえず、自省(胸の磁性“十”)出来て“上”と感応する人は今後=アセンション後に移行するが、そうでない目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)(ヒ)の持ち主は死んで自省(胸の磁性“十”)するか、今の地球と同じような、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが横行する場(フィールド)に移行する。 それはそれぞれの霊的成長度における正当な場(フィールド)が与えられるということ)”。
“日月神示” 磐戸の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。
人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。
一月十三日、

冒頭の“マコトの者は千人に一人”は、敢えて述べるまでなく今後=アセンション後に移行出来得る人は少ないの意。 そして“向ふの国”というのは、霊的成長した心(靈)(ヒ)(“国”)が“創造”した場(フィールド)の意。
それで“マコトの者”という表記の意味が大事で、自らの心が真実=真固止の事象を“創造”しているのか、あるいはじゅんいち君の記事で述べたように“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい…”と感じさせる事象を“創造”しているのか、これは相対的に霊的成長度が高いか低いか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”か(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者か、このことをとても解りやすいローム太霊の言葉を引用すれば“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念と出来るのかによる。
当然のことながら自我が肥大した(“石屋の仕組み”)“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の場合、自分たちの低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が腐った世界を“創造”していたことに気付くまで、第十帖表記の“女(砌(みぎり)の極性、外側(外国と幽界)の事象への顕現)のメグリ”(因縁、恨みの連鎖の霊的干渉)により、ひどい目にあわされるものである。 それが第十二帖では“人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざ”と称されているものである。
だがこれらのことに実感を得ない、恨みの連鎖の霊的干渉の増大を真摯に考えている人はとても少ない(○○○大先生の著書に触れ、直接連絡をくれた読者相対して得た実感)。
それで“マコト”の表記の意味は、例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
ということであるから、有形生命(マ)としての肉体を持った心(靈)(ヒ)である人間は、“上”からの荷電粒子、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)を、“日止、霊止”の止め(ト)、それが凝集(コ)した心(靈)(ヒ)ならば、その人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は誠実さや律義さ、真実=真固止を感じ得るということになっていくものであり、それは“絶対の善”の“創造”ということになっていくのだということを思うべき。
それを第十二帖では“今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへる”と称されており、またそれは“ドエライ仕組してゐる”=今の平均的地球人には到底理解できない“絶対の善”が顕現した場(フィールド)であり、これは当然のことながら“マコトの者”を対象にいわれていることであるし、誠実さ、律義さ、真実を求めそれを実現する心ならば“上”は認めるからこそ“何時迄もかわらんマコトの神徳あたへる”=与えられる資格を有するからだということ。
そしてあえて述べるまでもないようなことだが、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の肥大した人、その人たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)の動きだから、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが台頭し、“力”と(智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)ではない)知恵を使いそんなふうに感じさせないで自分たちの利益を増すということをするものであるし、また目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心は体裁の良いディスプレイ(動物の発情行動)が習性だから形骸の権威を示したりもする。 それらが今の腐った事象における実力者とか成功者とかであるが、このことに気付く人もあまりいないし当の本人たちは自我が肥大しているから自分たちが間違っているなんて認めようとしない=自省(胸の磁性“十”)しない…実に低い心(靈)の動きというものはくだらないものでもあるが、これも当の本人達の霊的成長度ではしっかり理解しえないものであるし、だからこそ“マコトの者は千人に一人”といわれている。(おそらく実際はもっと少ないと思うのだが…)
それで第十二帖の要は、自分たちが“マコトの者”にならなければならない、それは“今の内に神の申すこと聞いて”
(“聞いて”=神の思惑の受信、その具体的なことが自省(胸の磁性“十”)の“行”、“上”から注がれる振動が腹より“上”で感応するようになること(岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くの意)、
それと“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)
“神国は神国のやりかたにして呉れ”
(神国の“神”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質))、
“国”の表記は((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、
“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)の表記は智性(神性)を持った心(靈)(ヒ))”
この()内の注釈を理解し、実践して霊的成長したならば“万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ”ということになる。
だが、自分たちがそうなるには簡単なことではないし、自分の自我の肥大を諌めるのはとても難しいことでもある。 だからこそ“臣民 石にかじりついてもやらねばならん”といわれ、“ほんとう”という意味での“まけかち”は、アセンション後に移行できるかできないか、そのどちらかでしかないということが“マコトの神徳”=“上”に認められる霊的成長度か、あるいはそうではない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”か、ということである。
それで、その霊的成長度の“上”“下”を示そうとする“上”の“思惑の顕現”=現象化は、今も盛んに起きているが、これからもっと激しくなる=“トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ”でもあり、またそれは“日月神示”の文言=言葉だけでなく、今起きている醜い事象で人の心(靈)(ヒ)の低さを示すことをするから“云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ”と称されているが、ただ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が行動して創られた醜い事象を批判するだけとか、自分たちに直接関係が無いと思い見過ごすならば、それは“マコトの者”に到底程遠いのだということをあえて述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。 日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。 何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。
上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。 今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。
この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。
神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。 大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、



この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。
仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。
この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。
逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。
神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。
神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。 判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。 このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。
一月十三日、

この第十三帖は、ここまでの磐戸の巻でたびたび述べられているカタカナ表記(“上”からの言い回し)の“マコト”の意味合いを強調している。
それは第十帖の“悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて”“神のマコトの道”
そして第十一帖“心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか”
さらに第十二帖“マコトの者は千人に一人ざぞ”“今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ”
の解釈を詳細に見ていただければその意味は解ると思うが、要は、霊的成長度の“上”“下”は、真実=真固止の世界を創るのか、真実を感じさせない形骸の世界を創るのかの違いであり、その霊的成長度の上下(上下が重なった表記が“正”、正しいの意)は、今後=アセンション後に移行出来得る(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者か、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なのかであるが、霊的成長度の“上”“下”の違いはそこにしかないものでもある。
今述べたことを念頭において、まず冒頭の文。
“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。 日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。 何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。
上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。 今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。”
この“コト”という表記は“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、と、“ト”は、止まると云う心、の意味合いがあり、何が停滞して働くのか、何が止まるのかはこれまで述べてきているように“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“上”からの荷電粒子(天意)であり、それを真に固く止めるのが真固止であり、天意を自らの思想とする神の雛形として進化した生物(人、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の要素を示した“日月神示”表記の ○ 九 十 でもあり、天意=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるという表記が“日止、霊止”でもある。 そして天意を自分の思想としている人を他者が“観察と認識”したらその行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、を感じ得るものとなっていくのが、進化=霊的成長、神格化に向かうことの必然でもあるが、“上”からの荷電粒子の止め方の違い、止まり方の違い、いうならばそれは心の発現と心の動きの違い、それはこの文の“精神ちがふ”でもあるが、それが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の違い、要は霊的成長度の違い、自我より“上”の心がきちんと発現しているのかであるが、それを述べているのが“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになる”であるし、心の“上”と“下”(正しい)が纏まっているならば(ローム太霊がローム太霊講話集の第一話で使った表記の“精神統一”と同義、肉体、幽体、霊体、神体、の統一、本能から智性(神性)までの統一)=“コト正しくすれば”、そうなるならばという意味合いの表記だが、そうすると“正しきこととなるのざぞ”であるし、人が事象を観て正しいと感じ得るということに他ならない事象を創り得るものである(今の事象に正しいもの、“ほんとう”のもの、誠実さを感じさせる何かは少なすぎる)。
それでこれに続く“日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ”も、“日本の国”の解釈を縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ゆえの国家と考えると意味は通じず、日本については既出の画像で意味を示すこととする。
この“日本の国”の“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”は当然のことながら “玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、だからこそ“日本の国”の表記の意味は、太陽の振動を取り込み止め、自省(胸の磁性“十”)する心(靈)(ヒ)という解釈が妥当で、そういう心が今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示すもの。
そしてそれは“元の神の血筋”=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“元”、元々という意味合いで示され、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の人たちが大多数のこの世界は“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿っていないということを思わせるものである。
これに続く“末代 世治めるのざ”は、今後=アセンション後は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない、存在しえないので、もう文明の崩壊も無いし恨みの連鎖の霊的干渉も無いから、“日本の国”=太陽を取り込み(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)自省(胸の磁性“十”)している心は、“元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治める”=神の思惑通りの肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)“ミタマ”であるからこそ、今後=アセンション後の事象の“創造”に携わるものであるの意。
そして今述べたことを強調した言い回しが“何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、(神と人の)大望であるぞ”であると思える。
ちなみに“ミタマ”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)という意味合い。
それでここまでの言い回しで“上”の“思惑の顕現”=現象化であり、正しい心(靈)が創り得る正しい事象、“マコト”を説き、そしてこれに続く以下の文で“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創ってきた“ほんとう”の無い、正しくない事象やその心について以下のように述べられている。
“(形骸の権威を示す)上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ”
さらに進化の“理(ミチ)”(法則性)に則った心(靈)(ヒ)でなければならない、それには真の意味の“行”が必須だから“今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが”でもあり、それは“行”ごっこでもある。
それでこれに続く“今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ”の意味は、“今度は規則きまりたら”、今後=アセンション後(“今度は”)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)が顕現したら、“神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めん”=天意を自分の思想とした人(“神魂(カミタマシ)の臣民”)でなければ神の思惑通りの世界(“神の国”)には住めないといわれ、それはまた“昔より六ヶ敷くなる(むすかしくなる)”と示されているが、この“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、と、“敷”=広げる、下におく、設置する、配置する、隅々まで行き渡らせる、力を及ぼし治める、の意があることを知っておくべきであるし、“規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”法則性が顕現した事象では、“今度は”に対する言い回しの“昔より六ヶ敷く”と述べられているからそれは今の事象のことであり、今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し台頭する世界であるから、そういう人にとっては次の段階に移行=“今度は”“六ヶ敷くなる”といわれている。
次の文。
“この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ”
冒頭の“この世”は今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍する今のこの世界が変わること=“治める”ことを指し、それには“生神の光出さねば”、この“生神”とは、この事象に人の神格化を顕現させる“理(ミチ)”(法則性)のことだと思うし、それは先の表記の“コト正しくすれば、正しきこととなる”そして“日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治める”と同じ意味であるが、その“理(ミチ)”(ことわり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則)自体がこの世に生きること、それが“地の先祖の生神の光出さねば”であると思う。 それで“地の先祖”という表記は、天の神に対しての相対的な意味合いで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は天にも地にも存在するし、それはまた高い先祖の霊的存在であったりもする、その意味のことだと思う。
重複するが“生神の光ださねば”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が生きる、活きることで、そしてこの言い回しは相対的なこと、今の世界が“理(ミチ)”通りになっていないからこう述べられているのであり、だからこそ“今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ”と、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”が大事で、自分たちの心の“上”“下”をよく観察せよ、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人は自省(胸の磁性“十”)せよということを述べているものである。
そしてあえて述べることでもないと思うが“少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなる”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”に対してそれを崩す自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いがあってはならないということ。
次の文。
“神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。 大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、



この文の“神は一時は菩薩とも現はれてゐた”“もう菩薩では治まらん”というのは、“菩薩”の表記の意味が成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者の意味合いがあり、人々と共に歩み、教えに導く修行者ということ。 それに対し“愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつける”といわれており、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”をはっきり示し=“生神の性来現はしてバタバタにらちつける(結果として示す)” といわれ、多くの人々、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大半(平均的地球人の霊的成長度)の多くの人々に対し、教えに導くという段階のことではなく、アセンションというのは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区分けするのであるから、平均的地球人の霊的成長度の人々と共に歩み教えに導くという段階のことではなく、前後するがこの後の文の“何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ”という言い回しに示されている。
それで“今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐる”は、先の“(形骸の権威を示す)上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ”と同義。
そして“大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして”というのは、“大国常立尊大神”は大本教では艮(うしとら)の金神のことで、いうまでもなく艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は黒住教、天理教、大本教に関わっていて、ことに大本教では祟り神として説かれている。 その祟りというのは“神の咎め”であり、霊的成長度の低い人が自省(胸の磁性“十”)するための祟りという認識は、ローム太霊の言い回しなら右往左往と左往右往でもあり、要は“神の咎め”、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すこと、それが自省(胸の磁性“十”)につながり、自省(胸の磁性“十”)の心の動きを持った人間でなければ“ほんとう”、真実=真固止、“マコト”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や事象の“創造”が出来ないからである。
そして“一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、















そしてこれに続く以下の文は、今述べたことを簡潔にまとめているもの。
“この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ”
いうまでもなく“この道の役員”は、今後=アセンション後に移行するべく“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知りそれを顕現する“日止、霊止”、“吾は苦労して人助ける”はローム太霊が教えている“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を鑑みればすぐ理解できるし、これに続く“その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ”は解釈の要はない。
次の文。
“仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。
この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。
逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”
冒頭の文は先に少し引用したが、“仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならん”は、程度の低い人間が自分たちの自我の肥大で自分たちだけの宗教が一番と勝手に思っているが、霊的成長度、神と人間の関係というのは“上”と“下”でしかないし、霊的成長度の高低によって分けられるのがアセンションであるから、こういういわれ方をして自分たちの自我の肥大した心は如何に縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が強いのか、そのことをよく知っておかねばならず、そして“殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ”の“殺して救ふ”は、死んでから自省(胸の磁性“十”)せよ、それを仏教で説いているのがよく引用する閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)でもあるが、霊的成長するには自省(胸の磁性“十”)が必須、その意味のことを述べられ、“生かして御用に使ふ”は、自省(胸の磁性“十”)出来ている人間は“マコト”の事象を“創造”するから(“役員”)であるし、“今度はハッキリ区別する”は、今後=アセンション後は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいない、存在しえない霊的成長度の高い場(フィールド)になるという意味。 そして“昔からの因縁ざぞ”は、先の“元の神の血筋”“今度は規則きまりたら”“生神の光出さねば”と同義、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)が“ハッキリ”(カタカナ表記なので“上”からの言い回し)示されるから、“今度はハッキリ区別する”=霊的成長度の高低で別けるという意味合い。
これに続く“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ”の“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら”は、“理(ミチ)”(法則性)を示す智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)の持ち主=“この方”の思惑に参加し、“昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、“肚の底から改心して”=自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをやめ、“マコトの御用結構につとめあげてくれ”=真実、真固止の事象の“創造”に携わり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を感じさせる“日止、霊止”と成れということ。
それを強調した言い回しが以下の文“逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四(かたっぱし)浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”は特に解釈の要はないと思うが、霊的成長度の低い人間ほど“逃げ道”や“二つ三つ道”という“ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが”ということが出来ず、自分に都合の良い言い訳や勝手な理屈を振り回し、それは自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)のであるが、それでは“マコトのことは出来ん”のであるし、アセンションの時期が近いからこそ“世界の片八四(かたっぱし)浜辺からいよいよ(時期が迫っている)が始まると知らしてあること近うなりた…中略…彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ”といわれ、ことに“くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれ”“神の国は神のやり方でないと治まらん”=今後、アセンション後は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が台頭するから“今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ”と述べられているし、“何も彼も神にささげよ、てんし様(上と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し“上”の思惑を顕現する“日止、霊止”)にささげよと申してあろがな”は“上”の“理(ミチ)”通りにしなければならないのだと述べられ“神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来る”と、低い霊的成長度の人を諌める言い回しで括っている(くくっている)。
次の文。
“神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ”
今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が運営している“政治経済”は、奪い合い、騙しあい、欺きあい、上手なウソが台頭しており、それを霊的成長度の低い人は自分たちの保身のために容認する。 それが○○○大先生の著書の<4><5>の智性(神性)無き心の意味合いでもあるが、それではダメと言われているにすぎないし、今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が示されそれが台頭する事象は“臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな”と、“上”が認めうる(“神様にささげる”)正当な報酬のやり取りをすれば“御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。 神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ”ということになり、これに続く“宝”は先に述べた““上”が認めうる正当な報酬”の意味と、前のブログで述べた真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)でもあるし、骨が豊か、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した体と心ならば“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するし、それが“行”の意味と意義でもあるし、そうした人が創りうる事象は高い振動を取り込んだ事象であるからこそ“御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ”といわれている。
次の文。
“神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。 判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。 このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”の“神の世はマツリ”は“上”との感応が今より盛ん、今の事象は恨みの連鎖の霊的干渉により“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が盛んだからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”&自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心が台頭し、その心の動きには三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)という低い霊的干渉由来のことが見受けられるし、実に情けないことに僧侶はこの言葉を知っているがこれが人の心(靈)(ヒ)の動きをみる材料になっていないし当然僧侶自身の“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”にも活きていない…悪口はほどほどにして、“それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ”は、先に述べた“上”が認めうる正当な報酬、奪い合い、騙しあい、欺きあい、上手なウソのないやり取りと、“行”して結晶化した肉体(月(ツキ))が発現する自我より“上”の心のことを指すが、やはり今生きている人間は今の政治経済という既成概念ゆえの認識でしか事象を観れないから“判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来る”といわれているし、またそれは金の無い世でもあり、(通貨としての)金に対する執着がこの世界を腐らせ、真実=真固止の無い事象を創っていることを○○○大先生が著書で散々述べているので、ここでは述べないこととする。
これに続く“嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が台頭した現津(あきつ)、観察され得る事象、それは“上”との感応であるからこそ“マコトのマツリ”であり、それがあってこそ“一(ハジメ)”、始められないのであり、当然そこには欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかがないからこそ、“上”が認めうる正当な報酬しかないからこそ“嬉し嬉しとなるのざど”である。
次の“このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”は、今の既成概念は自分たちの自我の肥大ゆえのことが多いからこそ“このことよく肚(はら、“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)に入れ”、そして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“一二三(ひふみ)として説いて”=1番目、2番目、3番目のオーラとして発振、発信して、“上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らし”=形骸の権威を位(くらい)が高いとか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創ってきた地位と名誉に価値があると思っている霊的成長度の低い人間に対して、先の“一二三”のオーラで人の完成に至る形を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示し=“説いて”、そうなれば霊的成長度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であっても“安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。 それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇む”ということになり、自我の肥大ゆえの既成概念を捨てねばならぬからこそ、自省(胸の磁性“十”)しなければならないからこそ“さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな”=“上”の思惑を鑑み、それが“上”との感応になり、さらに自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知ろということである。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ。
可哀さうなは兵隊さんざぞ、神に祈りてやりて呉れよ。 幽界人(がいこくじん)よ、日本の国にゐる幽界魂(がいこくたま)の守護人よ、愈々となりて生神の総活動になりたら、死ぬことも生きることも出来ん苦しみに一時はなるのざから、神から見ればそなた達も子ざから早う神の下にかえりてくれよ、いよいよとなりて来たのざぞ、くどうきづけるぞ。
一月十三日、

第十四帖は一読して明らかに第十三帖の続きのような文。
冒頭の“生き通しの神”が“生味を見せてやらねばならん”というのは、前回の第十三帖で述べたように、(自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”された)今の世界が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていないからこういわれている。
要は、第十三帖の“元の神の血筋のまじりけのないミタマ”“規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなる”“生神の光出さねば、この世治まらん”と同義でもある。
そしてこれに続く“何れ(いずれ)はなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、やはり今の腐った事象を創っている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心が低すぎるから“生神の生味ははげしい”といわれ、またそれは第十三帖で解釈した“大国常立尊大神と現はれ”=祟り神、艮(うしとら)の金神、“神の咎め”を体験させて“理(ミチ)”を示すこと自体が“生味ははげしい”と述べられており、またそれはアセンションの時期が“創造”の“主(ヌシ)”の計画として決まっているから時間が無い、今のうちに今後=アセンション後に移行できる心(靈)の獲得=“今の内に綺麗に洗濯しておけ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“自分を観察する自分の確立”をして、自分の心の“上”“下”を見出すようにしなければならないということ。 そしてこれに続く“皆にまつろひておけと申すのざ”は、いうまでもなく“まつろひ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により自分の思想を構築しておけということ。
そして前後するが“何れ(いずれ)はなる”というのは、生命の存在の意義が神格化であるということ。
次の“可哀さうなは兵隊さんざぞ、神に祈りてやりて呉れよ”は戦争における“兵隊さん”ではなく、これに続く文の“幽界人(がいこくじん)よ、日本の国にゐる幽界魂(がいこくたま)の守護人よ”の“幽界人(がいこくじん)”“守護人”、それは形骸の権威、名誉、地位をもつ、この腐った世界だけに通用する“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が成り上がった人の“兵隊さん”で、それは形骸の位(くらい)が上であろうがなかろうが、同じ霊的成長度であり、同じ霊的成長度だから形骸の権威や名誉や地位を持っていない人はそれにあこがれ努力するもので、それは進化の“理(ミチ)”に外れているから“可哀さうなは兵隊さんざぞ、神に祈りてやりて呉れ”ということ、“理(ミチ)”を知り、正しい“道”(時間の進行)を歩むように神に祈れということ。
そしてもう一つの意味として、“日本の国”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す自省(胸の磁性“十”)した心(靈)の中にある外側(外国と幽界)の事象ばかりを見る心、自我より下、本能、情動、功名心、自我、という心のことまで刺した表記が“幽界人(がいこくじん)よ、日本の国にゐる幽界魂(がいこくたま)”で、今までの地球人の進化はここまでが中心で、その心(靈)で頑張ってきた人間が第十三帖の“上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして”であるが、その“知らして”知らせることは、“上”との感応である“マコトのマツリ”で、これが行われたとしたなら今の事象はもう少し“ほんとう”が台頭するもの。
何度も指摘していることだが、今の事象は、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を上手に使って行われている奪い合い、騙しあい、欺きあい、が台頭している。
それで“上”との感応=“マコトのマツリ”が“一(ハジメ)”られたら(一は日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行する、それは“思惑の顕現”=現象化でもある)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”特有の、“知や学”をうまく使った奪い合い、騙しあい、欺きあい、などの事象は無くなっていくもの。 当然のことながらこんなことは“上”が許さないから“神の咎め”があるもので、“神の咎め”があるからこそ低い霊的成長度の人間は自分の在り方を考えるようになるものである。
その“神の咎め”の期間、自省(胸の磁性“十”)の心を創らせ強化させる期間が“愈々となりて生神の総活動になりたら、死ぬことも生きることも出来ん苦しみに一時はなる”であり、懺悔、後悔、自責の念、いろんな表現があるが、すべてそれは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることでもあるし、その体験が無ければ神の“思惑の顕現”=現象化などできないに決まっている。
そしてただ苦しませるためだけに“神の咎め”があるのではなく、自分が“創造”の法則性=“理(ミチ)”に沿っていない(“上”から観たら)理不尽な存在だからこそ、自分にとって理不尽であると感じることが起きるものである=“神の咎め”を受け、そして自省(胸の磁性“十”)するということがあるのを示唆した言い回しが、先の文に続く“神から見ればそなた達も子ざから早う神の下にかえりてくれ”であり、これに続く“いよいよとなりて来たのざぞ、くどうきづけるぞ”に関しては、霊的成長度における区分け、アセンションの時期が迫っているから、早く“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”してくれということ。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。 何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ。
皆和合して呉れよ。 わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。 めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ。 病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。
腹立つのは慢心からぞ、守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ。 天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ。
一月十四日、旧十一月三十日、


この第十五帖を一読して思うことは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”&“役員づら”、これら“石屋の仕組み”にはまっている自我の肥大した人に対して、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、である。
それは冒頭の“この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。 何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ”に示されており、なにが霊的成長なのか、なにが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)なのか、何が正しい(正しいは“上”と“下”が合わさった表記、“上”=“創造”の“主(ヌシ)”と、“下”である人間との関係を示唆した表記)のか、神の思惑に適った心の在り方と行動をしているのか=“思惑の顕現”をしているのか、自省(胸の磁性“十”)して考えよ、そうしなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信と感応しない、そのことを示唆した言い回しが、“この方の道”であり、それに相反するから“悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやる”といわれており、それは先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“石屋の仕組み”にはまっている自我の肥大した人であり、さらにこの文の最後で“役員 気つけて呉れ”と述べられ、これまで解釈してきているように“この方”&“役員”は、今後=アセンション後の事象で神の思惑を顕現していく今現在とと違う事象の“創造”を担う霊的成長度の高い人のことであり、その霊低成長との高い人の価値観や認識に対し、霊的成長度の低い今現在の平均的地球人の大多数の人が思うことは“この方の道、悪きと思ふ”である。
次の文。
“皆和合して呉れよ。 わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。 めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ。 病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ”の冒頭の“皆和合”は、平均的地球人の霊的成長度の人に対し、今後=アセンション後の価値観、今後=アセンション後の人の在り方、これらをよく理解してくれの意、それは先の“この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやる”にかかっている言い回しであるし、これに続く“わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になる”は、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)と、○○○大先生が著書で述べた息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意味合いと同義。 程度の低い霊的成長度の心の動きは説明する要はないと思うが、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)、その心の動きに感応する霊的存在は三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きの浮遊霊などであったりするし、それが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠、低い欲望の達成、低い功名心と自尊心などの心(靈)(ヒ)の動きとなっているものである。
(余談だが、実は○○○大先生は“日月神示”に息吹という表記があることを最近まで知らなかった)
そして“苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。 めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ”は、霊的成長度の低い人間には“マコト”“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、真実=真固止、○ 九 十 ということを概念でしか知らず、だから誠実でもない、自分の心にも行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にも真実は無いし、人が神の思惑を顕現する雛形であることを示す○ 九 十 ということも理解できていないから言われており、それを知るには自省(胸の磁性“十”)の“行”=“苦労なしにはマコト判らん”であり、当然のことながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の我欲中心の心の動きを諌めた言い回しが“慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ”であり、それはまた“めくらになる”でもあるし、平均的地球人の霊的成長度の人間が自分たちが神の思惑を何も解っていない“めくら”であることを示唆しており、それを解るには“苦労なしにはマコト判らん”“おわびすればゆるしてやる”という自省(胸の磁性“十”)の“行”が必要であることを述べているし、“天地に御無礼ない臣民一人もない”は、地球人全員が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知らず、その道理の実践もたいしてしていないからこそ霊的成長度が低いのだという言い回し。 要は自分たちの低さを解れ、そして“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を求めよ=“マコト”をよく解れということ。
これに続く“病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ”の“病”は悪い“メグリ”=恨みの連鎖の霊的干渉のことであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を実践するならば“病治してやる”=“上”との感応があり、まっとうな“道”(時間の進行)を歩むの意味合いで、“神息吹つくりてやれ”は、“上”との感応による心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のこと。 そして“神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ”の“一二三”は霊的成長度の高い“一”=智性=1番目のオーラをしっかり発現した心(靈)(ヒ)であり、それは本当の意味での“王”であることを○○○大先生は著書で述べたのだが、要は霊的成長度の高い心(靈)のことを示唆しており、それを“書いた紙、神前に供へてから分けてやる”というのは、今の紙にかかれたもの、祝詞でも経文などでも、(“役員づら”が書いた)本でも、“上”が示した祝詞や経文などを霊的成長度の低い人間が書きなおしたり程度の低い解釈を流布したり、自分たちの都合の良い所だけ抽出して自分たちの権威を示すことに使ったり…それらを霊的成長度の低い人間が読んで程度の低い認識を構築したりして、結果、間違った認識を持ち、低い価値観、低い幸福感が台頭しているから、それをただす意味合いで“神前に供へ”=自分たちと神との関係をよく認識し(すべての事象の判断基準となる天の御目(あめのおめ)の獲得)、認識したなら自分たちは神の子であることを前提に考え行動すべきであり、そうしなければ“うれしうれし”“大歓喜”の事象を“創造”できないのであることをよく解る。 それが“神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ”の文言に感じられるものである。
次の文。
“腹立つのは慢心からぞ、守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ。 天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ”
“慢心”というのはいうまでもなく自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、自省(胸の磁性“十”)出来ていない心(靈)であり、平均的地球人の霊的成長度であり、それは“江戸と尾張”腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンまでの進化の段階でしかないし、そういった進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の心の人間が“この方の道”を見たなら自分たちの立場が危うい、受け入れられない、と思うだろうからこそ“腹立つのは慢心からぞ”といわれ、これに続く“守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ”の“闇の世”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が創っている今の事象のことであり、それら程度の低い心(靈)の動きに感応する存在は先に述べたとおり三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮遊霊などであり、それらと感応して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示しているのが今現在の成功者と称されている人間でもあるが、それではダメであり、“上”は認めないのであるから、今後=アセンション後の“創造”を担う人としては“上”と感応し、自分の思想を作り理念とし、結果それは神の“思惑の顕現”となるが、それを示唆した言い回しが“守護神よくなれば肉体よくなる”である。 だがこの“肉体”そして先の“病”というのは個人々々のことではなく、砌(みぎり)の顕現、事象の“創造”、思惑により“創造”されたものすべての意味合いであると思う。
これに続く“天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ”の“間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから”は、自省(胸の磁性“十”)という要素が無いからこういわれており、“岩戸開き”というのは“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、と、これまで解釈してきている通り自省(胸の磁性“十”)という心の動きが無ければ開かない、それはいい方を変えれば、マニピューラチャクラから“上”、第四密度、でもある。
そして知っておかねばならないのは“だました、間違ひの岩戸開き”では“開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ”であり、この“メグリ”はこれまで述べている通り恨みの連鎖の霊的干渉であり、程度の低い心(靈)が創った事象での因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもあるし、それを“メグリだけのことはせなならん”=自分たちが贖う(あがなう)ことをしていかねば、本当の自省(胸の磁性“十”)にはならないし、それがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあることを述べている。
今述べたことを強調する言い回しが“(今後=アセンション後に移行する際の)今度の岩戸開き(自我の確立、固定化の進化から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現)はちっとも間違ひない、まぢりけのない(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の心の動きではない)、マコトの神の息吹でひらくのざぞ”であり、“マコトの神の息吹”は自分たちが“上”と感応して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をするのであり、それは何度も述べるが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の程度の低い心(靈)の動きではない。
最後にこれまでも述べてきたが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をめざし顕現する生命(生きる使命=存在理由)である“マコト”のカタカナ表記の意味合いを述べて、今回はこれくらいにしときまんねん。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心、“日止、霊止”のト
“日月神示” 磐戸の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。
今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。
洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。
学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。 学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。
小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。
叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。 ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。 出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
一月十四日、

冒頭の文。
“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。
またそれはこれに続く“神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ”で述べられている“神徳”というのは、“上”との感応する心、そしてその心の動きによって形作られる事象ということ、それは“上”と感応した“日止、霊止”の思想が顕現し、真実=真固止の事象を“創造”するということでもあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、いわゆる霊的成長度がこの言葉に対して思うであろう現世利益、神さんが徳をくれるとか、あるいは自分たちが頑張らなくても祈ってさえいれば感謝さえしていればそれが徳とか、そんなことで自分たちが幸福になるなどというてんで低い発想由来のことではないことを、あえて述べておく。
それで“神徳”と“世の元からの生神が揃うて現はれた”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現した世界では“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”はなくなり、この概念や言葉そのものが消失するものでもある。 その低い心の動きの根拠になるのは(通貨としての)金に対する執着、形骸の権威を示すとか、すべて自我の肥大=“石屋の仕組み”という心の動きに由来することで、幾度となくこのことは述べてきたが、この今の世界そのものがそういった心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=願いと祈り、それを達成するための思想、そのためのエネルギーの贖い(あがない)をしてきたものであり、それはこの文の“神徳”でもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の低い人間は“大き器”でもなく自我が肥大しているから“掃除(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)した大きいれもの”でもないことを読み取るべき。
そして今述べたことを強調する言い回しが“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”であり、“上”の思惑が人(日止、霊止)の行動に活きること、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現する事象を創ることを示す文が“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐる”であり、“御用”はいうまでもなく自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格を持つことである。
さらに今述べたことを強調しているのが次の文。
“今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ”
“日月神示”表記の“マコト”“○ 九 十”、○○○大先生の概念の“上”の思惑を真に固く止める、そうすればその人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)になり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の行動に観られる不誠実ということではなくなるものでもあるが、“マコト”というカタカナ表記は“上”から視点の言い回しであるから、真実、真固止、誠、ということを“下”である人間が顕現していかなければならないことを読み取るべき。 そしてそれは“神のマコトの元の国”という表記に秘密が隠されており、この言い回しの“元”は肉体(月(ツキ))=二と時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)、“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであるから、自我の肥大を諌める心の動きでもあるし、それが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くということでもあるし、よって“神のマコト”を顕現する心であるという解釈が妥当である。 そしてそこには“日本の国は小さいが天と地との神力強い”という言い回しがされており、この場合の“天と地との神力”は、縦の磁束、“上”と“下”の磁束の強化、これが無されていなければ“上”からの荷電粒子を止めて発振、発信(自らのオーラと成す)ことが出来ないものであり、“日本の国は小さい”の“日本”は当然のことながら縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が根拠の日本と外国ということではなく、日の本の国、太陽(日)を取り込んで自省(胸の磁性“十”)して時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう))を歩む心(靈)(ヒ)=“国”である。 いわゆる“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるが、これが“一”=智性=1番目のオーラを大きくして天意を受信でき得る肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)にする秘訣であるということは今まで述べてきたとおり。 そしてそれは先に述べた進化の法則性が顕現して“マコト”、真実、真固止、誠、が台頭する今の世界とは雲泥の差がある事象になるということが、この文の冒頭の“今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが”の意味合い。
次の文。
“洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ”
冒頭の“洗濯”は言うまでもなく“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、今の平均的地球人の心のことを“人間心”と称し、それを“すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ”と述べられているのは、自省(胸の磁性“十”)して自分たちの行為を恥じて今後=アセンション後は“マコト”を顕現する事象の“創造”をするということであり、この文の“智恵や学”は今の平均的地球人の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)のことで、“力”の使い方が自分たちのためだけであるから恨みの連鎖の霊的干渉の増大になっていることを○○○大先生は著書で述べたが、それではダメということで、だから“洗濯”そして自我の肥大を諌め“上”に恭順になった心(靈)(ヒ)という意味合いで“神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ること”、このことをよく理解して理念として行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するようになれという意味合い。
そして“ミタマ”という表記については例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、そして“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすること”の“肉体心すてて了ふて”は先の“人間心すてて仕舞て”と同様の意味であり、自我の肥大を諌めて、天意を受信する仕組みである“ミタマ磨き”=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化(自凝(おのころ))をよく理解して実行し、“上”と感応することが“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふ”“神の申す通りそむかん様にすること”の表記の意味合いで、それは“日月神示”表記の“天詞様”のこと。
そしてこれに続く“学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。 学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ”の“学や智を力と頼むうち”というのは、今の平均的地球人の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を指し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“力”の使い方では“ミタマは磨けん”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程を歩めないということ。 そして先に述べた天意の受信を指した表記が“学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか”。 さらにこれに続く“今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ”は、自我の確立=固定化&自我の肥大(“石屋の仕組み”)、要は“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、“慈悲”と“慈愛”、胸の磁性“十”という進化に移行することが、ただ単に“神の咎め”(“上”が方向性を示すこと)を与えて自省(胸の磁性“十”)させるということではなく=“天災や戦ばかりでは中々らちあかん”、自分たちの心が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して変容していかなければ“ミタマから、根本からかへてゆく”“根本の改め”ということには成っていかないということ。
これに続く以下の文は、本文に注釈を入れて解釈を述べる。
“(平均的地球人の霊的成長度の認識において“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”を対象に)小さいこと思ふてゐると判らんことになる(自分たちの進化の指標を見失う)と申してあろがな、この道理(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))よく肚(はら、“江戸と尾張”、自我という心)に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁(“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、それぞれは“上”と胸の磁性“十”と“下”の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、その発振、発信で自分たちが事象の“創造”をしているから因縁という表記を使っている)によって、それぞれに目鼻つけて(その1番目、2番目、3番目のオーラ、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”か(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者化という結果になる)、悪も改心さして、善も改心さして(今の平均的地球人の既成概念における程度の低い認識での善悪ではなく)の岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我から“上”の心の発現)ざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ(たくさんのエネルギーを贖う(あがなう)つもりでいろよ)”。
次の文。
“叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ”
これは、先に述べた“神の咎め”のことも述べ、そして人間を霊的成長させる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、飴と鞭を使い分けるということ、“叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすこと”を述べている。
そして相対的に悪と見えるものであっても“上”の思惑に恭順であれば“聞き分けよい悪の神、早く改心する”、一見善に見えても自分が正しいということを自我の肥大で思っているものは“聞き分け悪き善の守護神ある”と述べられ、やはり自分たちの既成概念とそれに感応しているあまり高くない“上”、低い霊的成長度の人間には低い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)しか感応しないという“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の法則があるが、今後=アセンション後は低い人とそれに感応している低い“上”ではダメであり、一定以上の霊的成長度を獲得していなければ、今後=アセンション後の事象の“創造”には参加できないので、こういういわれ方がされていると思える。
次の文。
“この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ”
冒頭の“この道の役員”は、次の事象の“創造”をする、あるいは今後=アセンション後における指導者的存在、それは“一”=智性=1番目のオーラが大きい“天詞様”といい得るが、そういった人は“昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてある”=神の計画でこの低い星に降ろされた霊的成長度の高い心(靈)のこと。 それはアセンションが神の計画であるから“神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来る”=必ず生きている間に霊的成長度を高めて、今後=アセンション後に移行出来得る資格(“御用”)を獲得せよ、ということで、霊的成長度の高低により区分けされる作業がアセンションであることを知っておくべき(幾度となく述べたことではあるが)。
次の文。
“ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。 出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。 ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”
冒頭の“ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出す”は“上”と感応して自らの思想が神の思惑に沿ったものになるならば、当然自分の低い心(靈)の動きを諌めるから、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)というのもなくなるから、恨みの連鎖の霊的干渉の無い世界を実現できる、それがこの文の意味。
これに続く“出雲(いずも)の神様 大切申せ”は、“雲”の意味するところが大事。 以前作った画像を貼っておく。
これに続く“子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。 ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”は、具体的な時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が“子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場”であるだろうし、そして“世の立替へは水と火”というのは、日の出の巻 第二十二帖で、“左は火ぞ、右は水ざぞ、


そして“ひつじの三月三日、五月五日”は、“ひつじ”は伊邪那美(いざなみ)の美の意味、羊が大きい、それは先に述べた“上”の思惑に恭順という意味合いであり、“三月三日”は、日付のことではなく、進化した生命が持つ“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラを持つ月=肉体と日=精神性、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)ということ、同様に“五月五日”の“五”も、五そのものが糸巻の象形文字が由来の漢字なので、神経が密になること、コイル状になり磁束の発現と磁束の多様化、ローレンツ力

要は“上”の思惑を取り込む仕組が“五”であり、それはある程度完成された生命、“一二三”のオーラのを持つ人ということである。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ、世はクルクルと廻るのざぞ、仕合せ悪くとも悔やむでないぞ、それぞれのミタマの曇りとりてゐるのざから、勇んで苦しいこともして下されよ、上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ。
神が化かして使うてゐるのざから、出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことかと皆がびっくりするのざぞ、びっくり箱にも悪いびっくり箱と、嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、何も知らん臣民に、知らんこと知らすのざから、疑ふは無理ないなれど、曇りとれば、すぐうつる、もとの種もってゐるのざから、早うこの神示読んで洗濯して呉れよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ、神の道は無理ない道ざと知らしてあろが。 ミタマの因縁おそろしいぞ。 上下わき上がるが近うなりたぞ。
一月十四日、

この第十七帖を一読して思うのは、
霊的成長度において区分けされるのがアセンションだという認識が無い人、
人生における苦痛や苦悩、自省(胸の磁性“十”)の“行”、右往左往して失敗を体験し左往右往において自分たちが霊的成長するということをあまり知らない人、
さらに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の既成概念にはまっている人、
いわゆる“ほんとう”のことを見失っている人に対する文であると思う。
その視点において、本文に注釈を入れる形で解釈を述べることとする。
“この神(“役員づら”の神の概念ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“上”の存在としての神)はよき臣民(霊的成長を目指し自分たちが苦痛や苦悩で自省(胸の磁性“十”)して自我の肥大を諌めるということを知っている人)にはよく見え、
悪き臣民(自我の肥大、“石屋の仕組み”にはまっている人)には(調子よく思惑通りに事が進んでいた人がこれまで通りにいかなくなり=左往右往、それは霊的成長度の低い人には進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は自分たちにとって都合の悪いものになるから)悪く見へるのざぞ、
鬼門の金神(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとってはそれくらい厳しい)とも見へるのざぞ、
世はクルクルと廻る(今後=アセンション後に移行する際、これまでの既成概念、低い価値観、低い幸福感は打破され、これまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍していた現津(あきつ)、観察され得る事象とは違ってくるの意)のざぞ、
仕合せ悪くとも(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては都合の悪い事象になり不幸だと悔やみ、霊的成長を目指す人にとっては苦痛や苦悩が自分たちを成長させる“上”からの試練であることをよく認識(悟り、幸取=さとり)しておけという意味で)悔やむでないぞ、
それぞれのミタマの曇りとりてゐる(自我の確立=固定化から自我の肥大(“石屋の仕組み”)由来の思想、価値観、幸福感などを、諌めること)のざから、
勇んで苦しいこと(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人の霊的成長のために下す試練、自省(胸の磁性“十”)の“行”、左往右往のためのこと)もして下されよ、
上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する右往左往の事象であるが、今後=アセンション後に移行する際は真に霊的成長を目指す人、霊的成長が何か知っている人、そして“ほんとう”の価値を知り、それを顕現する人が指導者となるから、現時点での形骸の名誉や地位を持っている上だと思われている人が馬脚を現すということになり立場が逆転する)。
神が化かして使うてゐる(今は平均的地球人の霊的成長度の人を育てているから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が台頭しているが、今後=アセンション後には“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人は移行しないし、そこにおいての平均的な霊的成長度というのは“慈悲”と“慈愛”、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”が中心になる)のざから、
出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことか(今の事象のように恨みの連鎖の霊的干渉の影響もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動の根拠である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの心の動きを顕現する人は居なくなる)と皆がびっくりするのざぞ、
びっくり箱にも(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては)悪いびっくり箱と、
((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして左往右往して“慈悲”と“慈愛”の心を十分に発現した人(日止、霊止)にとっては)嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、
何も知らん(霊的成長の順番が自我から“慈悲”と“慈愛”という“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解していない)臣民に、
知らんこと知らす(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をさせ、“ほんとう”に良い事象の“創造”を自分たちが神から託されているということ)のざから、疑ふは無理ないなれど、
曇り(自我の肥大=“石屋の仕組み”)とれば、
すぐうつる(“上”と感応するから次の事象の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が理解できる)、
もとの種(人は神の子であるから、神の子としての使命を)もってゐるのざから、
早うこの神示読んで(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すことを知り天意と感応して自らの思想を“上”の思惑に沿ったものにする)
洗濯して呉れよ(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して自省(胸の磁性“十”)して“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する)、
どんな大峠(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に移行するアセンションそのもの、そして外側(外国と幽界)の事象におけるアセンションに伴うこと)でも楽に越せるのざぞ、
神の道は無理ない道(今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍して恨みの連鎖に満ち満ち、それがどんどん増大していく事象がこの文の“無理”=“理(ミチ)”、法則性に事象ということで、それは“上”から観たらとても理不尽である)ざと知らしてあろが。
ミタマの因縁(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことの意味と、低い心(靈)=進化程度の低いミタマの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創りあげられる恨みの連鎖に満ち満ちた事象で、“メグリ”(帀)により自分たちが霊的成長を阻まれること)おそろしいぞ。
上下(今、台頭している形骸の上下の概念を打破し、霊的成長度の“上”“下”を見極めさせる事象をはっきりさせること、そして今あまり認識されていない心の“上”“下”、“ほんとう”の“上”“下”を、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すこと)
わき上がるが近うなりたぞ(“創造”の“主(ヌシ)”の計画としての時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が近づいたの意)。”
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。
この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。
悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。
一月十四日、

この第十八帖も、前回の第十七帖同様“ほんとう”のことを見失っている人に対する文であると思う。
まず、冒頭の文。
“今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ”
最初に述べられている“今度(今後=アセンション後に移行すること)の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらん”は、“苦労に苦労した”=右往左往して左往右往するという霊的成長の概念が解っていないと読み解けないし理解も出来ない。 人生における苦痛や苦悩、何かを成し遂げよう、自分の希望を達成しよう、自分が幸福でありたい、満たされたい、いろんな思いがあるが、それらすべて心(靈)の動きであることは当たり前(この後の文に出てくる“コト”“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き))であり、この事象は“思惑の顕現”=現象化であり、現津(あきつ)、観察され得る事象そのものが自分の心の動きの反映でもあるのだが、それが“上”の思惑に沿っていなければ(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていなければ)“神の咎め”として失敗し挫折し苦痛を感じ苦悩して、そして自省(胸の磁性“十”)して自分の在り方を思うようになるものである。
またその過程におき、自分の思惑通りに事が進まないこと、あるいは“神の咎め”があることを思う、これらのことを通じて神と自分、自分を見ている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在を意識するものでもある。 それが出来ない人間、霊的成長度の低い人間のことをこの文では“外国好きの臣民”と称され、幾度となく述べていることだが“日月神示”表記の“外国”は外側(外国と幽界)の事象のこと、よってこの言い回し“外国好きの臣民”自分の外側(外国と幽界)の事象しか見ていない霊的成長度の低い心(靈)、自我の肥大した心のことを指した表記である。
さらに“神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐた”は、“日月神示”表記の“世の元からの生神”の“神”の意であり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が、今現在、見失われておちぶれていることを指し、そうさせたのは具体的には“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であり、その根拠となる“役員づら”の心の動き=“どういうつもり”は自分たちの利益、形骸の権威など“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が求める何かの結果でしかなく、それは自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、さらにそれは“岩戸閉め”(日の出の巻 第一帖の表記)で、自我の肥大を維持しようとする心の動きといい得る。
いうまでもなく自我の肥大を維持しようという自分にとって都合の良い考えは、自省(胸の磁性“十”)に至らず“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現を妨げ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”になっていかないものである。
やや余談になったが、今後=アセンション後に移行する際、自我の肥大したままの人間は今の腐った現実と同じ事象を“創造”しようとするからこそ、外側(外国と幽界)の事象しか見ないで自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観ない人は今後=アセンション後に移行できないから“外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになる”と述べられ、重複するが今後=アセンション後は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が顕現するのが当たり前の世になるからこそ“神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ”であり、これに続く“因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな”の“因縁”は、霊的成長して今後=アセンション後の“創造”を託されるべき人生を過ごしている心(靈)(ヒ)、そういった真に神格化を目指す人のことでもある。
次の文。
“改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ”
これも一読すればすぐ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”であり、それが“神国のやり方”=“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)を持った“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)の意であり、右翼が主張する神国というてんで低い概念ではない。 さらに見せかけの“改心”“懺悔”は、“人の前で懺悔するのは神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))きづつけることになると心得よ” それを念頭にこの文を読めば“改心と申して、人間の前で懺悔する”ということが単なる見せ掛けのことを示唆しているのがすぐ分かるもの。
そして“ほんとう”の“改心”=自我の肥大を諌める心のこと、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”することを“神の御前にこそ懺悔せよ”と述べられており、その心の動きのことをこれに続く文の“コト”と称され、それは“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)のことでもあり、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
であり、
なにが停滞して集まって凝り固まり止まるのかは、“日止、霊止”の表記が意味するところの“上”からの荷電粒子=天意である。
このことを踏まえ以下の文を見ると意味合いが理解できる。 ()内に注釈を入れておく。
“懺悔の悪きコト(今までの自我の肥大ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自省(胸の磁性“十”)した心(靈))に倍した(今までの行いよりたくさんのエネルギーを贖って(あがなって))、
よきコト(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))タマ(“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、よって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由)のこと)
のれ(宣れ、告れ、“上”の存在が神聖なる意向を人々に対し、口で言ったりして表明する、たとえば「中臣祓」「大祓詞」の「天津祝詞の太祝詞事を宣れ)よ、
コト高くあげよ(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を低振動から高振動にせよ)、
富士(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)晴れる迄コト高くあげてくれよ、
そのコト(心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))に
神うつり(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅))て、
何んな手柄でも立てさせて、
(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認める)
万劫末代名の残る様にしてやる(またそれは今の自我の肥大、“石屋の仕組み”ゆえの形骸の名誉とかではないの意)”
これに続く次の文は、自我の肥大した自己奉仕者に対する文言、特に詳しい解釈をしないが()内に注釈を入れておく。
“この仕組(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))
判りたら
(今の腐った事象における形骸の名誉や地位を持った=今の一般常識で上と思われている神から見て価値のない人間)上の臣民、
逆立ちしておわびに来る(自省(胸の磁性“十”)する)なれど、
其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。
臣民、かわいから(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であろうが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者であろうが、すべての人は神の子であるからこそ)嫌がられても、此の方申すのざ”
次の文は、今までの事象における常識や既成概念にとらわれるな、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)による新しい認識を獲得せよという意味合い。
“(自我の肥大した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の既成概念における)悪と思ふことに
善(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の利益にならないという意味合い&“善(神格化の方向性と智性の受信)”)あり、
(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う自分たちにとって都合の良い)善と思ふ事も悪(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”)多いと知らしてあろがな、
このことよく心得ておけよ、
(今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されている)悪の世になってゐるのざから、
マコト(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、天意を止め“修理固成”(しゅうりこせい)して(コ)“上”が認める=正しき進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由))の神さへ悪に巻込まれて御座る程、
知らず知らずに(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌めることとなり、それは自我の肥大した人にとっては、損だと思われ)悪になりてゐるのざから、
今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめ(自我の肥大を保つ心(靈)の動き)ざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、
それ判りて貰はんと(先に述べた自我の肥大ゆえの認識が低く、進化の“理(ミチ)”に沿っていないことを知る)結構な御用つとまらんのざぞ、
時が来たら(自我の肥大を諌める時、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くのとき、自省(胸の磁性“十”)した時、“慈悲”と“慈愛”という心の発現の時)、
われがわれの口でわれが白状する様になりて来る(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来得る心になる、“自分を観察する自分の確立”がなされる)ぞ、
神の臣民はづかしない様にして呉れよ、
(神の子としての)臣民はづかしことは、
神はづかし(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を辱めるという意)のざぞ”
次の文でこれまで述べてきたことを総括している。
“愈々善と悪のかわりめ(これまでの“善悪”の既成概念は低すぎることを認識し、“悪”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の反対、心の動きの本能化と低振動化であることを知り、“善”=神格化の方向性と智性の受信、天意との感応は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを知る)であるから、
悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌(腹における縦の磁束と横の磁束の強化)しめて、
この神示よんで、神の心くみとって(“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない)に流されず、“役員づら”の手法にも乗らないで)
御用(神格化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))大切になされよ”
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈
向ふの国いくら物ありても、人ありても、生神が表に出て働くのざから、神なき国は、いづれは往生ざぞ。
この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、腹帯しっかり締めてくれよ。
重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、守護神殿にたのむぞよ。
一月十四日、

この第十九帖も、“ほんとう”を見失しなっている人に“ほんとう”を教える、あるいは“ほんとう”を意識している人に対してはそれを理念とせよ、という言い回しであると思う。
第十七~十八帖の様に()内に注釈を入れる形で解釈を述べることとする。
“向ふの国(“国”は心の意、自分の心が観察している外側(外国と幽界)の事象)
いくら(形骸の価値の)物ありても、
(“石屋の仕組み”による形骸の権威、名誉、地位、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い功名心と自尊心由来の価値においての)人ありても、
生神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
表に出て働く(顕現するということ。 これは相対的な言い回しで今はたいして顕現していないからいわれている)のざから、
神なき国(智性(神性)無き心)は、
いづれは往生(今後=アセンション後の事象には移行できないの意)ざぞ”
“この神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))の
申すこと(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が示すこと)
よく肚(はら、自我、“江戸と尾張”腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)に入れて、
もうかなはんと申す所(今までの価値観が通用しない)こらへて(自分の低い心(靈)、目下(めした)の心を諌めて)、
またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならん(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”は決まっているから、どうしてもその“理(ミチ)”に恭順に従うしかないし、それに耐えられないのは今までの進化の段階の心ゆえの認識による既成概念が台頭しているからであるので、今後=アセンション後はそのままではいけない。 また“理(ミチ)”に恭順ということ、それは第十六帖の“ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”の“ひつじ”=伊邪那美(いざなみ)の美と同義(“美”は、羊(恭順の意)+大(人が手足を広げた様)))といふ所こらへて、頑張りて下されよ、”
“神には(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は天の御目(あめのおめ)を持っていつも人を観察しているから)
何も彼もよくわかりて(個々の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は承知していて)帳面に書きとめてあるから、
何処までも、死んでも(死んでからも成長するの意、生きている間に自省(胸の磁性“十”)出来なかったならそのことを悔やみ、“ほんとう”の成長を知れ)頑張りて下されよ、
其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ(役目=個々の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと))、
(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い概念が台頭しているこの世界では)可哀さうなれど
神の臣民殿、こらえこらえてマコト(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性=“理(ミチ)”、そしてこの形骸の事象において“ほんとう”を求め、顕現することを)何処迄も貫きて下されよ、
マコトの生神(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すこの世界に顕現した生命が知らなければならない“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
その時こそ(アセンションの時期が来たら)
表に出て(顕現して)、
日本(日=太陽、本=胸の磁性“十”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))に
手柄さして(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意)、
神の臣民に手柄たてさして(手柄=“上”の思惑を顕現させる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとらせて)、
神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、
腹帯(腹の水平磁場、あるいは腹までの心=自我)しっかり締めてくれよ(自我を戒めてがんばれ)。
重ねて神が臣民殿にたのむ(“マコト”“修理固成”(しゅうりこせい)、真実=真固止、“ほんとう”“完全なる人間の運営”(ローム太霊の言葉)を求めよ)ぞよ、
守護神殿(人を守っている個人個人の進化に相応した“上”、それはあまり高くないから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるアセンションのことをしっかり理解していない“上”だからこそ)にたのむぞよ。”
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈
いくさ何時も勝と許りはかぎらんぞ、春まけとなるぞ、いざとなれば昔からの生神様総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ、も少し戦すすむと、これはどうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになると知らしてあろが、さうなってからでは遅いからそれ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ、役員の大切の役目ざぞ、われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神強く頼むぞよ。
旧十一月三十日、


冒頭の文“いくさ何時も勝と許りはかぎらん”は、今まで読み解いてきている通り外側(外国と幽界)の事象における戦争のことではなく、内面とか内側(心の中と感じている事)での葛藤のこと、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に至る霊的成長は、自省(胸の磁性“十”)、自分の自我を諌めること、このことを“いくさ”と称されており、この文の“何時も勝と許り”というのは、何でも自分の思い通りになるという心の中における砌(みぎり)の極性ことを示唆しており、それではダメ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していかないからこそ“神の咎め”で自分たちの成長の方向性を示されるものであり、それがまた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということでもある。
そして今述べた意味を引き継いでいるのが次の文“春まけとなるぞ”であり、すでに日の出の巻 第一帖で解釈している通り“春”という漢字表記は“一二三”のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と太陽を示す“日”で構成されていて、それは今までの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の土=2~3番目のオーラの“業行”(生業(なりわい)と“行”)とは違う段階に入ることを示した表記、あるいは今後=アセンション後の事象に移行することを意味するものである。
そしてひらがな表記((“創造”の“主(ヌシ)”に対する)こちら側視点)の“まけ”は、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)
であるから、“上”の思惑、“上”からの荷電粒子を止めた生命が神の思惑を顕現するの意である。
これに続く“いざとなれば昔からの生神様総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫である”は、今述べたことを前提に観ればすぐ意味を理解できるが、磐戸の巻でよく登場した“世の元からの生神”、これは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であると解釈してきたが、これがこの事象に顕現して台頭する=“いざとなれば昔からの生神様総出で御働きなさる”ということになり、智性(神性)を獲得しようとしている心(靈)ならばそれは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っているということを示唆した言い回しが“神の国(心(靈)(ヒ))の神の道は大丈夫”ということ。
だがこの文には“なれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ”と記され、それは“なれど”=その進化、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)にそっているならば、それでよいのであるが、という言い回しであり、たとえ“日本臣民”太陽を取り込み自省(胸の磁性“十”)して神の思惑(丿部(へつぶ))を顕現しようとする人の思惑(乚部(いんぶ))を持っていても、現時点の心の在り方、今の平均的な進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)ではダメであるということをいわれ、だからこそ“上”との感応をしっかりせよ、“行”の意味と意義を知れ、それが“早うミタマ磨いてくれ”=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をよく知れ、実践せよ、であり、“その心の通りになること忘れるな”は、先の“生神様総出で御働きなさる”=“世の元からの生神”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適う、智性(神性)を獲得する心になるようにしろという意味合いのこと。
それでこれに続く“も少し戦すすむと、これはどうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになると知らしてあろが、さうなってからでは遅いからそれ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ”は、冒頭に述べた“いくさ”の意味、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“神の咎め”、それを観察した人間は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“仕組み”を知らない=“どうするかと云ふこと判りて居らん”からであり、知らないから“成就せん”のはあたりまえだが、だからこそ大概の人間は当惑し“どうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになる”ということになる。 またそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識していないからであり、認識させない役割が“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもあるが、“役員づら”の金儲けのためのてんで低い解釈を受け入れている霊的成長度の低い人間が大半なのが現状、だからこそ“ほんとう”ということを鑑みることが(あたりまえだが)必須であり、その意味で“それ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ、役員の大切の役目ざぞ、われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれ”を読めばその意味はすぐ分かるものであると思うが、せめて“役員づら”と今後=アセンション後のために“ほんとう”のことを示す人間=“役員”、その違いくらい判別できるようになるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということを知る最低の条件でもある。
また“日月神示”を読んだとしてもそういった解釈は出来ない人が大半であり、“役員づら”の“日月神示”解釈本などを読んで、“上”が何を示しているのかを考えている人間が少なすぎるからこそ“穴のあく程うらの裏まで肚(はら、“江戸と尾張”、自我)に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神強く頼むぞよ”といわれているに過ぎない。
今回はこれくらいにしときまんねん。
“日月神示” 磐戸の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈
今回も、磐戸の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。
元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな、無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ。
仕組こわれるぞ、今に神示に書けないことも知らさなならんから、みみから知らすから、肚から肚へと伝へて呉れよ。
節分からははげしくなりて、はげしき神示はかかせんぞ。天明 神示の御用はこれでしばらく御用すみぞ、その代りみみ掃除しておいてくれよ。
旧十一月三十日、


冒頭の“大和魂”は、如何にも右翼傾向の強い自我の肥大した人が我田引水な勝手な解釈をしそうな言葉だが、この文では“元の大和魂”そして“かへれと申すのは、今の臣民には無理”と述べられている。
それで、この“元の大和魂”という表記は、磐戸の巻を中心によく登場した表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の、“元”であると解釈するのが妥当。
また、本来“大和魂”という言葉は、初出が源氏物語の少女(おとめ)の帖とされ、その概念は、漢才、中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮させる、そのために漢才に対し、和魂、という概念が出来たとされており、そのうちに大和魂という言葉は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力を表す、というような意味につかわれ、さらに江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み、大和魂は、本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見、付与されていった、と、されており、江戸後期になると国学者によって、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われるようになり、明治時代に入ってからは、西洋の知識・学問・文化が一気に流入したので、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになり、その後、日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的、拡張的な姿勢を含んだ語として用いられ、大和魂という言葉も専ら日本精神の独自性、優位性を表現するものと解されるようになったが、ここまで来るとかなり本来の意味を見失っており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の勝手な都合で使われた概念に成り下がっている感がある。
(この大和魂の意味は、Wikipediaから引用&編集した)
要は、本来の“大和魂”の意味するところ、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力、が大事であると思うし、第二十一帖の表記では“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃ”と述べられているから、“今の臣民”=平均的な霊的成長度の地球人は、神が示す進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力、で、観て分析することが出来ていない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が書き換えた概念を既成のものと認識しているから、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、勝手な解釈をしているという言い回しにしか取れないし、こういう解釈が妥当であると思う。
よって“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな”は今の平均的地球人の認識が低すぎ、いい換えれば霊的成長度が低すぎであるからいわれている言い回しであるということ。
それで“元の大和魂にかへれ”“今の臣民には無理ぢゃな”に続く“無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ”は、常々述べている天意の受信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振で自らの心を構成し、智性(神性)由来の心の動きを持ち、事象も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で観察していくならば、“出来るのざぞ”といわれている。 何度も述べたことだが、智性(神性)の獲得は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでしかないから艮(うしとら)の金神は最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたという経緯がある。 その太陽凝視による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が、“一”=智性=1番目のオーラの大きさの変容になり、“上”から注がれる高い振動と感応し、自分の思惑と神の思惑が段々一致していくようになるが、そこまでいくには最初“下”のチャクラの強化から始まるので、やはり何十年と太陽凝視を頑張って(元の気を張って)行わなければならないものでもある(これは○○○大先生が自分の“行”中心の人生を振り返って思うこと)。
これに続く“どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならん”の“元のキ”の表記は、“元”は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことであるし、“キ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている。
それで今の平均的地球人は、自分たちが神の思惑を顕現する生命(生きる使命=存在理由)であるなんて自覚も持っていない。 神や仏や宗教を知識で知っていても、“上”と人間の関係を見出していないものでもある。 要は認識が低すぎ。
いうまでもなく、神や仏など“上”のことを知るための既成の宗教は腐り果てており、平均的な霊的成長度の地球人の心における神や仏など、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する認識は、低すぎるものでしかないことを今まで幾度となく述べてきているが、それだからこそ“どうしても今度(アセンション後)は元のキの儘の魂にかへらんとならん”といわれており、“元のキの儘の魂”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく知り、それを理念とした生命になる、そうなれよ、といわれており、そのために“日月神示”は書かれたが、大概の人間は神に対する認識が低いから“日月神示”を見ても勝手な解釈をしたり“役員づら”になり商売に利用したり形骸の権威を誇示したり…要は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、自我の肥大であるが、そういった人間が大半だからこそ、“かんじんの神示むやみに見せるではない”といわれ、“日月神示”に真実=真固止、“ほんとう”、磐戸の巻によく出てきた“マコト”、これを見出す人間が少なすぎることをいわれているのだという感がある。
次の文の“仕組こわれるぞ、今に神示に書けないことも知らさなならんから、みみから知らすから、肚から肚へと伝へて呉れよ”は、今の仕組みは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きによる“創造”で、経済中心、自分たちの薄っぺらい幸福を求めることが主体、要は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)で“創造”された事象だから今の仕組みはこわれるのは当たり前であることが述べられ、この文の“みみから知らす”は、霊媒体質の霊耳(れいじ、憑依現象により霊的存在の声が聞こえると感じ(感じる磁性)ること)のことではなく、天意を受信して自分の思想にせよの意である。
そしてそれを“肚から肚へと伝へて呉れ”、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程として、個の意識として進化した生命である人間は、自我主体の心をもっているが、“肚(はら、自我)から肚(はら、自我)”というのは、個の意識が個の意識に伝えよ、という意味合い。
(個の意識は集合意識に対しての表記、集合意識は自我の確立=固定化固定化が出来ていない進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、人間以外の動物はまだその段階)
そしてそれは“今に神示に書けないことも知らさなならん”のであり、実際に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目的として生業(なりわい)なり“行”なりをするにあたっては、個の意識であるそれぞれの人の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が必須であるということを述べていると思う。
次の文。
“節分からははげしくなりて、はげしき神示はかかせんぞ。 天明 神示の御用はこれでしばらく御用すみぞ、その代りみみ掃除しておいてくれよ”
この文の“節分”は、年中行事の節分のことではなく、今後=アセンション後のこと、それは進化過程の切り替わり、地球も人も今までの進化の段階を卒業する、それがアセンションの意義であり、だからこそ人は霊的成長度により区分けされるものでもある。
それで“節分からははげしくなりて、はげしき神示はかかせん”は、時期が変わったなら=アセンション後の事象に移行したなら、もうそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の人間を諌める必要はなくなる、それは今後=アセンション後に移行できない進化程度の低い人間は居なくなるからこそ“はげしき神示はかかせん”ということであり、さらに“天明 神示の御用はこれでしばらく御用すみ”は、ここまでの“日月神示”が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌める内容が多かったということであると思える。
だからこそ磐戸の巻では、“マコト”という表記が多用されていたのだとも思える。
そして“その代りみみ掃除しておいてくれ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌めるような文章を書かせていたのだが、それはもう“御用すみ”で、もっと“上”と感応して自分の認識をたかくせよ、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知り、“行”をして、“上”と感応しろよ、という意味合いで“みみ掃除しておいてくれ”といわれているのだと思える。
今回はこれくらいにしときまんねん。