“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” キの巻 第一帖 Kellyさん的解釈

 今回からキの巻の解釈に入りまんねん。 先ず第一帖の原文は以下の通り。

節分からは手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、拍手は元の大神様の全き御働きぞ、タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ。
節分境に何も彼も変りて来るぞ、何事も掃除一番ぞ。
一月二十九日、ローレンツ力と ○ のひつくの神しるす。

冒頭の“節分から”とこの文の後半以降の“節分境に何も彼も変りて来る”というのは、今後=アセンション後に移行した時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、からそれは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)からということ。 カレンダーに書いてある形骸の年中行事に成り下がった節分のことなどでは決してない。

それで次の文には、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)のことが述べられている、
“手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、拍手は元の大神様の全き御働きぞ、タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”
 この文の“手打ち乍ら”は、左手と右手を合わせること、日足と砌(ひたりとみぎり)を合わせること、“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”ともいい得るもので、それは“拍手(日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性を合わせ事象を“創造”すること)は元の大神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))様の全き御働き”と述べられている通りでもある。 
 そして“ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れ”は“一二三”のオーラを発振、発信せよ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、の意。 平均的地球人は“一”=智性=1番目のオーラが全然足らないからでもある。
 前後するが“手打ち乍ら”“拍手”の意、それは“タカミムスビ と カミムスビの御働き”であり“タカミムスビ”は古事記では高御産巣日、日本書紀では高皇産霊、“カミムスビ”は古事記では神産巣日神、日本書紀では神皇産霊尊であり、この漢字の中に“日止、霊止”、“上”からの荷電粒子を止める意の“日”“靈”の字があることに着目しなければならず、それは“高”“御”であり“ムズビ、産巣日”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり、法則性、
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、心(靈)(ヒ)、日、火、
であるから、“日”“靈”=“上”からの荷電粒子、降り注がれるア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)を、“ス”と成して、心(靈)(ヒ)と成すという解釈をするものでもあるし、それは“皇”人の進化した様といい得るものである。
 それでその“御働き”は“御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”と記され、それは“上”からの荷電粒子を止めた心(靈)(ヒ)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象で、“御音(おんおと)”は振動のこと、“和”“大和(だいわ)”は、“ワ”、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、であるから、神の思惑を顕現する事象の“創造”で、またそれは“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が顕現するからこそ“言霊ぞ”と述べられている。
そしてそれは相対的に今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により創られている今の腐った事象とは雲泥の差があるからこそ“喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”と述べられているものである。

ここまでのことを踏まえ第一帖の最後の文を読むと意味はよく解ると思う。

“節分(霊的成長度における区分け、アセンション)境に何も彼も変りて来るぞ(今より神の思惑が顕現する事象になる)、何事も掃除一番(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めよ)ぞ”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示読めば何も彼も判る様になりてゐること分らぬか、おはりの御用 御苦労であったぞ、奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでないぞ、一の宮は桜咲く所へつくれよ、わかりたか、天之日津久神奉賛会でよいぞ、オホカムツミの神と申しても祀り呉れよ、祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよいぞ。
道場は一の宮と一つ所でよいぞ、イイヨリの御用 タニハの御用 御苦労であったぞ。
皆の者 愈々ざぞ、今から弱音では何も出来んぞ、春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが、愈々ざぞ、褌しめよ、グレンざぞ。
二月二十六日、ひつぐの神。

(文中の国民服とは、戦時中に着用した成人男子の洋服)

 第二帖には“おはりの御用”“一の宮”“天之日津久神奉賛会”“オホカムツミ”“イイヨリ”“タニハ”“ハルマゲドン”という、肉体(月(ツキ))の秘密と、進化の“理(ミチ)”=法則性を示唆する表記が出てくる。

 それぞれの表記を以下に列挙する。

“おはりの御用”=腹の水、“江戸と尾張”の尾張り、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラで構成される磁束、心(靈)の発現と動きでいえば自我の確立=固定化の段階、そしてそれは腹の位相のサイクロトロンの強化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。

“一の宮”=“一”、智性、1番目のオーラ発現の部位、それが宮(宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている))

“天之日津久神奉賛会”は、“天之”=“上”から注がれ太陽を介して送られてくる神の思惑としての荷電粒子を取り込むことが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことだが、それを奉賛(神社、寺などの仕事につつしんで賛助すること)せよの意。

“オホカムツミ”は以前作った画像で意味を示す。

意富加牟豆美(オホカムツミ)の解字


“イイヨリ”=飯依は、日月の巻 第三十帖での解釈を引用する。
“飯依比古(ひひよりひこ)”は、“飯”と“依”=頼りにする、寄りかかる、 よりどころとする、の、意味がある。 これは“臓腑”の“腑”=消化器官と排泄器官による電磁誘導を示唆していると思う。 それは“飯”は捕食であり、進化過程の低い生命においては異物の取り込みであり、微生物から高等な生物に共通する異物の取り込み=捕食、それがあったからこそ高次の組織が作りあがるものである(“腑”の電磁誘導)。

“タニハ”は、旧国名の丹波、読みはタンバ、タニハであり、今の京都府と兵庫県の一部と思われがちだが、そんな解釈では第二帖の意味が通じず、タンバ、タニハ、の語源となった“田庭”(タニワ)の意味を示すのが妥当で、それは“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と場(フィールド)を示す“庭”ということ、要は“一”=智性=1番目のオーラの発現の部位、“一の宮”と同義。

“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドン”
まず“マケ”の解釈として、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、よって“マケ”は、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
そして
“ハ”は、生命発現成長の音義、“ル”は、霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め、凝す(こらす)、と記されているから、これはタンパク質の高分子化による磁極性の強化ということだと確信する。 
“マ”は前述した通りの意味、“ゲ”は“ケ”に濁点が付いており、濁点が付いているのはその意味合いが強調されていることである。
“ド”は“ト”に濁点であるが、“ト”は、止まると云う心と“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に述べられているし、これは“日止、霊止”の止める、“上”からの荷電粒子を止める、太陽の振動を止める、の“ト”であり、濁点が付いているから強調されている。 
“ン”は、○ 九 十の“九”“十”と同義、卆(そつ、卒業の卒の異体字)、完成の意、あるいは人の完成に至る神の雛形の意味である。

 今述べたことを踏まえ本文を解釈することとする。

“神示読めば何も彼も判る様になりてゐること分らぬか、おはりの御用 御苦労であったぞ、奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでないぞ”
アセンションに向かうこれまでの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は自我の確立=固定化、そして自我の肥大であり、またその心(靈)所以のものの見方、価値観、幸福感などが台頭しているが、仮にそのままでよいのなら霊的成長度の高低で区分けされるアセンションという事象は必要なく、今のままの価値観、幸福感、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)ではダメだから“日月神示”は書かれ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人間はどう生きるべきか、どういう心(靈)の動きをするべきか=“何も彼も判る様になりてゐる”、ということを説いているのにもかかわらず、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の持ち主はそのことが分からず、生き方も変えず価値観や幸福感も変えないし、ひどい人間は“日月神示”を金儲けの道具にする(“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)。 だからこそ“分からぬか”といわれている。 そしてそれが解らない理由として、進化程度が低い=自我の肥大という心で“日月神示”を見ているから、ちょっと揶揄(やゆ)した表現で“おはりの御用 御苦労であったぞ”といわれており、それに続く“奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでない”は、今も起きつつあるアセンションに伴う醜い事象、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌める事象、左往右往、これらのことはすべて“上”の“思惑の顕現”=現象化であり、生きていようが死んでいようが人の心(靈)(ヒ)を良いカタチにする、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させるためのことだから“奥の奥のこと仕組通り…中略…心配するでない”ということ。

“一の宮は桜咲く所へつくれよ、わかりたか、天之日津久神奉賛会でよいぞ、オホカムツミの神と申しても祀り呉れよ、祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよいぞ”
 この文も先に解釈した“一の宮”の意味が分からないとなんのことか読み解けないと思うし、そもそも艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教を立ち上げさせた理由は、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)をさせたかったからである。 だから先に解釈した“天之日津久神奉賛会でよい”そして“オホカムツミの神と申しても祀り呉れ”である。 ちなみに“桜咲く所へつくれよ、わかりたか”は揶揄した表現で、今の事象もその事象の“創造”をしている人の心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)も桜など咲いているなんてものではないし、深読みすれば桜が咲くのは春だから、日の出の巻 第一帖の“春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ”で解釈した通り、“春”は“一二三”のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と“日”太陽で構成された字である、そこまで考えたことを述べておく。 それで“祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよい”の“祭典(まつり)”は、“上”と感応して事象を“創造”するの意、“国民服の左の胸”というのは、“日月神示”が書かれていた時に「国民服令」が法制化され、季節の区別なく着ることも出来たし、改まった席では国民服儀礼章を着用して礼装とすることができた、などの意味合いもあるが、大事なのは“左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕”であり、この“シデ“は、紙垂(しで)(四手)で、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙、御幣に近いものである。 以前御幣というのは、縦の磁束、あるいは背骨から展開する神経や他の組織という解釈をしたが、これは体全体に適用されることで、この文では“左の胸に八(や)たれのシデ”と述べられているから、胸の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”、あるいは“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“、自省(胸の磁性“十”)由来の“思惑の顕現”=現象化という意味合いで八(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは八という字そのものが丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるという解釈も成り立つ)のように“下”に垂れ、そしてそれは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性で垂れよ=現象化せよという意味合いだと思う。 またそれは今よりも相対的に(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となるのであるから“当分の間奉仕”ということになる。

“道場は一の宮と一つ所でよいぞ、イイヨリの御用 タニハの御用 御苦労であったぞ”
 この文は先に少し述べたように今までの人間の肉体(月(ツキ))の進化と心(靈)(ヒ)の進化のことを述べている。 今後、アセンション後の“道場”=時間の進行と場(フィールド)は“一”=智性=1番目のオーラを獲得するのが主体の事象になるの意、そして“イイヨリ”は“腑”の電磁誘導だから腹の“行”、“タニハ”は田庭だから頭の“行”ということになる。

“皆の者 愈々ざぞ、今から弱音では何も出来んぞ、春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが、愈々ざぞ、褌しめよ、グレンざぞ”
 “愈々”はアセンションの時期が近い、“褌しめよ”は腹の縦の磁束と水平磁場であり、それは気張れよということ、“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが”については先に述べたので割愛する。 要は時期が近いから神の思惑を顕現すべき生命(生きる使命=存在理由)としての進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の雛形としての人間、“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”である自分たちのことを意識してしっかりせよという意味合いのこと。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第三帖 Kellyさん的解釈

今回も、キの巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神様にお祈りすれば、この世の地震、荒れ、逃(のが)らせて下さるぞ、皆の者に知らしてやりて下されよ、この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリ井の神と現はれるぞ、五柱の神様 厚くおろがめよ、十柱の神 厚くおろがめよ。
三月八日、ひつぐの神しらすぞ。

 冒頭の“雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神様”は、日の出の巻 第十八帖 の解釈からコピペ。

“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。


 これは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化の秘密を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示しているものである。 
 また霊的成長、神格化、“ほんとう”の進化というのは、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の変容であり、心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))が高振動を獲得するようになるのが、現津(あきつ)、観察され得る事象の変化ということになり、今の低振動で構成された醜い低い事象からの脱却ということになる。 

 それで、今一般に流布している御利益を説いた形骸になった宗教やインチキスピリチュアル、インチキ霊能力者などが述べるただ拝めとか感謝するとかただお布施を払えとかはすべて“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いであり、そんなものに“ほんとう”は無く、ただの騙しであることを見抜かなければならないし、、見抜けないならそれは、同類、同じ霊的成長度であり、ただ低いとしか言いようがないものでもある。
 その意味で、今取り上げた文に続く“お祈りすれば、この世の地震、荒れ、逃(のが)らせて下さるぞ、皆の者に知らしてやりて下されよ”は、この肉体(月(ツキ))の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘密を知り意識して“上”に霊的成長することを誓うならば=“お祈りすれば”、自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と進化した心が“創造”する事象ということに成りうるからこそ恨みの連鎖の霊的干渉の現象が消失するものであり=“この世の地震、荒れ、逃(のが)らせて下さる”、それを知らなければ自分たちが“観察と認識”しうるこの事象は、相対的に今より良くなる=神の思惑を顕現していく事象になっていくということで、それを知ること、それを実践することが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、進化した人間、“日止、霊止”が果たすべきは神の“思惑の顕現”であり、それはローム太霊がローム太霊講話集の第二話で述べられた

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う。この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである

という文言に説かれているものであるから、よくこの文言の意味を理解せねばならない。

(“皆の者に知らしてやりて下され”と述べられているから、ちょっとお節介な述べ方をさせてもらった)
 
 これに続く“この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリ井の神と現はれるぞ”については、カタカナ表記、“上”から視点の表記の意味が大事なのでそれをまじえながら解釈を述べる。

 まず“イの神と現われるぞ”、
“イ”は、生気生命の発生力、アイ、愛(炁)の“イ”でもある。

“キの神と現われるぞ”、
“キ”の意味については、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし と述べられているから、心(靈)(ヒ)が観察しうる現津(あきつ)、事象は、自らの心の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるという意味合いであり、これはとても重要なことで、自らの心が感じる外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、すべて自分たちの“創造”によることであるという意味合いでもあるし、自らの心は、天地の精気=振動、波動、の取り込みにより事象の“創造”をするという意味合いのことでもある。

“シチニの神と現はれるぞ”、
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)。
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)。

“ミの神と現はれるぞ”、
“ミ”は生命の幹 その現実。

“ヒの神と現はれるぞ”、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。

“イリ井の神と現はれるぞ”、
“イ”は前述した通り。
“リ”は、生命根源の、張り、広がり。
それで“井”は漢字表記、被造物である人間の視点での表記で、“井”の意味としては、象形文字で、四角い枠型を象り、元は、「形・刑・型」の一部である「ケイ」の音とされている。 要は枠、形作られた何か、という意味合いであると思える。

 それで“この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリ井の神と現はれるぞ”の解釈の総括としては、“この方”=進化した生命、“現われるぞ、現はれるぞ”=この事象に顕現する、という意味合いで、それは“イ”であり“キ”であり“シチニ”であり“ヒ”であり“ミ”であり“イリ井”であり、要は進化した生命が事象に顕現し、この事象を自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”していくのであるということが説かれている。

 それでこれに続く“五柱の神様 厚くおろがめよ、十柱の神 厚くおろがめよ”の、“柱”は“木”と“主(ヌシ)”で構成された字で、“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、“主(ヌシ)”はローレンツ力と|(たてぼう、こん、縦の磁性))と“一二三”のオーラで構成された“王”であり、“五”は糸巻の象形文字だから、進化した肉体(月(ツキ))が持つ神経線維が密になった様、それはコイルでもあるし、“十”はシンクロトロン放射の構造を示すもの、“慈悲”と“慈愛”という心の発現、生命(生きる使命=存在理由)としての最終段階である“日止、霊止”の意味を持つ ○ 九 十 、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成された“九”、そして胸の磁性“十”を指した表記であると思えるし、(“上”からの荷電粒子を止める意である表記の)“日止、霊止”の進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が“五柱”と“十柱”であるから、“厚くおろがめよ”と述べられているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” キの巻 第四帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要(かんじんかなめ)の所 元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならんぞ、元の先祖の神でないと、此処と云ふ所 出来んぞ、神の国の元の因(もと)のキのミタマを入れて練り直さな出来んのざぞ、肝腎がひっくり返りてゐるぞ、早う気付かんと、間に合はんぞ、もちと大き心持ちなされよ、世界の事ざから、世界の御用ざから、大き心でないと御用出来んぞ。
これからは神が化けに化けて心引くことあるから其のつもりでゐて呉れよ、三、四月気付けて呉れよ。
三月九日、ひつ九の神ふで。

 第四帖を一読すれば、大半の地球人は“肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要(かんじんかなめ)の所 元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならん”=間違っている、見失っている、ということに気付くものであり、その“肝腎”は“元の先祖の神”“神の国の元の因(もと)のキのミタマ”であることが書かれているのがすぐ分かるが、カタカナ表記、“上”から視点のいわれ方の“カミ”“キ”“ミタマ”の意味が理解できていなければこの文の意味は通じない。
 それで、“カミ”の“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“ミ”は生命の幹 その現実、であるから、神の思惑を顕現すべく生命(生きる使命=存在理由)、人間のことである。

 “ミタマ”の“ミ”は、生命の幹 その現実、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、であるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくべき生命(生きる使命=存在理由)であることが理解できる。

 “キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、である。
だからそれは、こちら側、人(日止、霊止)から視点、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物である人間からの見方で言い表すならば、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“き”であり、愛(炁)の炁、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を受け取って育つ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく)人間の心(靈)(ヒ)の“元”であるといい得る。
(振動の高低を示す意味合いとしての炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁)

 それで先に指摘した第四帖の“肝腎”は、磐戸の巻を中心に解釈してきた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)ということであり、その意味合いのことが“元の先祖の神”“神の国の元の因(もと)のキのミタマ”ということである。
要は、今の大半の人間は、“元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならん”=神格化のための“行”をやっていない、理屈だけこねて自分たちの低い功名心と自尊心を満たし、その意味のことが“学や智でやりても”ってことだが、それでは“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、霊的成長度における区分けに“肝腎がひっくり返りてゐるぞ、早う気付かんと、間に合はん”といわれているに過ぎない。
 
 これに続く“世界の事ざから、世界の御用ざから、大き心でないと御用出来んぞ。
これからは神が化けに化けて心引くことあるから其のつもりでゐて呉れよ、三、四月気付けて呉れよ”の“世界”の表記の意味は、自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”している現津(あきつ)、観察され得る事象、自分達の霊的成長度における事象の“創造”しかできない、程度の低い人間は程度の低い世界を創り、ある程度進化した心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、相対的に今より“善(神格化の方向性と智性の受信)”が台頭した事象を創る、それが読み解けねばならない。
 先に指摘したように今の大半の人間は、
“肝腎の所が違ふた事になりてゐる”
“肝腎要(かんじんかなめ)の所 元に戻さな何程人間”
“神の国の元の因(もと)のキのミタマを入れて練り直さな出来んのざぞ、肝腎がひっくり返りてゐる”
であるから、“上”は様々な形をとって“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示してきたという表記が“神が化けに化けて心引くことある”である。
 
 また“上”が示した貴い文言がこのブログで取り上げている“日月神示”であったりローム太霊の言葉であったりもする。
 だが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示していると見せかける悪魔の思惑の現象、形骸になった宗教、インチキ霊能力者やチャネラーなど低い憑依現象、せっかく“上”が示した貴い文言を自分たちの金儲けや低い功名心と自尊心を満足させるために利用する“役員づら”、そんなものが台頭しているのが現状である。
だから何が“ほんとう”なのか、それがキの巻の前の磐戸の巻で説かれた“マコト”であることを忘れてはならない。

 それで第四帖の最後に示された“三月”“四月”は、カレンダーの表記のことなどではなく、“三”は“一二三”のオーラであり、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体であり、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ、ことに最後に述べたことの意味合いは、天意を受けてそれを自分の思想にした人間ということでもある。
“四”は、これまで述べてきたとおり発振、発信の意である。
そして“月”は、この事象に顕現している肉体(月(ツキ))のことである。
要は自分たちの心の動き、それは“一二三”のオーラであり、その心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、肉体(月(ツキ))を介して事象の“創造”をするという意味のことが“三、四月気付けて呉れ”ということである。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第五帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り

この神示は心通りにうつるのざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ、この方クヤム事嫌いぞ。
次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ。
この神は従ふ者にはおだやかざが、さからふ者には鬼となるのざぞ。
三月十日、一二の神。

 冒頭の“この神示は心通りにうつる”そして“思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになる”というのは、霊的成長度における認識の違いということ。 
 程度の低い心(靈)(ヒ)、霊的成長度の低い心は、どんなに貴い何かを観ても、自分の認識できる範囲内でしか解釈できない、あるいは自分の利益のために利用しかしない(“役員づら”)ことは、これまで散々述べてきたことであり、またこのこと自体が振動の法則性であり、個々の心を構成している振動には高低があり、自分の心(靈)を構成している振動より極端に高い振動とは感応しない=貴い何かを“ほんとう”に理解できないということでもある。
 そして自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心の動きが台頭している“江戸と尾張”(腹の水(“江戸と尾張”の“江”)ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、の覚醒段階、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)の霊的成長度の人間は、自分自身の認識が低いということをあまり思わない、指摘しても認めない、自分が一番偉いなどと錯覚する、あるいはまったく気づかない=気づくほど霊的成長していないということがいえ、そういった類の人間が“日月神示”だろうがローム太霊講話集だろうが、あるいはこれまでに取り上げてきた小さな宇宙人アミシリーズやまほう色の瞳など、他にも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が宗教の開祖に示した貴い情報、平均的地球人の認識を広げようとする貴い何かを見ても、我田引水な解釈をしてそれを世に広め、自分は多くの人の役に立っているのだと低い功名心と自尊心で思い込んで、ただ金儲けをしただけの人間はとても多い。 
 そしてご利益しか求めない霊的成長度の低い人間はそんなものばかりに心惹かれる、これもその双方の心が同じような低い振動で構成されているという振動の法則性、同調と感応ということでもあるし、こういった人間は、自分に与えられている人生が霊的成長の期間であることすら対して認識がなく、その認識の低さは例えば、自分が“上”から試され鍛えられ、それが人生における苦痛や苦難、試練であることをしっかり思わないものであり、そういう類の人間が多いのが今の地球でもある。
 それが“心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ”という文言から感じられ思わされることである。

 さらに、これに続く“この方クヤム事嫌いぞ”というのは、程度の低い人間は自我の肥大ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をして、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”=法則性に沿っていないことを思い知らされる(“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”所以の)試練を“上”から与えられる(ローム太霊の言い回しである右往左往と左往右往)、これもその人間を育てようという“上”の思惑由来のことであるが、出来るならば“上”としてはそんなことはさせたくない、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく知りそれに沿った人間にしたいのだという思いを感じられる文言である。

 これに続く“次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ”の“次の世”は、今後=アセンション後のことであり、“これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となる”という文言に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いを抱く人間は多いと思うが、“これ迄”というのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する世界の仕組みであり、それは経済のために欺き、騙し、嘘をついてまで奪うということを自我の肥大で正当化している形骸の権力者とか形骸の実力者が台頭する世界ではなくなるという意味合いであり、それが“臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか”という文言で“上”が今の低い人間に伝えようとしていることで、ことに“人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐる”と“自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来た”という所を平均的地球人はよく理解して、自分たちは他者を踏みにじって自分の利益や幸福を追い求めている、それが“其処にまだ気付かんか”といういわれ方までしていることに気付かねばならず、気付いたならば、自分の在り方を“ほんとう”に思うべきであるし、思わなければならない…当たり前である。
 そして“この神は(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に)従ふ者にはおだやかざが、さからふ者(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自分の低さを認めない自我の肥大した人)には鬼となるのざぞ”という言い回しで、平均的地球人の行動の根拠となっている自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動を諌めているし、前後するが先に取り上げた“其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ”の“早う気付かんと間に合はんぞ”ということであり、それは“キが元ざ”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、(自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)認識しうる)すべての、現津(あきつ)、観察され得る事象の根拠となることをよく知っておけ、ということだと思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第六帖 Kellyさん的解釈

 今回も、キの巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

道場開き結構でありたぞ、皆の者 御苦労ぞ、知らしてある様に道開いて下されよ、天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならんぞ。
桜咲く所、桜と共に花咲くぞ、夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならんぞ、戦すんでからが愈々のイクサぞ、褌しめよ、役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ。
神示よく読めよ、肝腎のこと判りては居らんぞ、一のことぞ。
ローレンツ力
ローレンツ力ローレンツ力三(ひふみざぞ)。
三月十一日、ひつぐの神。

冒頭の“道場”を、何とか道場と解釈するとまったく意味が通じず、これは“道”=時間の進行、“場”=自らの心が観察して認識しうる現津(あきつ)、観察され得る事象、場(フィールド)ということである。 
このことを前提に“道場開き結構でありたぞ、皆の者 御苦労ぞ、知らしてある様に道開いて下され”という文言を観れば、“天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならん”=天意、“上”との感応をして自らが感じ(感じる磁性)観察しうる事象の“創造”をせよ、人間だけでは良い事象の“創造”=“結構”な“道場開き”は出来ないのだ、という、この文言の意味がすぐ分かるものである。
そして“結構でありた”“道場開き”は“天と地と合せ鏡”、“上”との感応で“創造”され得るその事象が“桜咲く所、桜と共に花咲く”という揶揄(やゆ)した言い回しをされているが、いうまでもなくそれは、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きが台頭する醜い恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象とは大違いであり、“上”と感応=“天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならん”という事象は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”が顕現し、この“善(神格化の方向性と智性の受信)”ということ事態が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であり、“上”と感応したならば自らの心の動き、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さない、そういった人だけの世界ならば、恨みの連鎖の霊的干渉は生み出されず、当然のことながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きの、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということは無くなるものである。
それが“ほんとう”の(“日月神示”表記の)“うれしうれし”“大歓喜”ということだと思えるし、そこに霊的成長度の高低においての区分け、アセンションの意味があるものである。

この文言に続く“夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならんぞ”の“マケ”に関しては、磐戸の巻 第三帖の解釈から以下にコピペしておく。

“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ”の“マケ”の表記の意味であるが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と記されているので、やはり、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
要は霊的成長ということの一端として“上”からの荷電粒子を取り込み自らの心(靈)(ヒ)と成していく、それには時間の進行(“道”)が必須であり、それには完成に至る周期というものがあり、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは、宇宙の“創造”と生命の完成という点で大きな周期といえ、それが“ハルマゲドンの大峠”と示されていると思う。


 それで“夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならん”というのは、四季=天体の運行による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みの変化を指し、そうやって人(日止、霊止)の心(靈)(ヒ)は育つのだという意味であり、それは磐戸の巻 第三帖の“ハルマゲドンの大峠”=霊的成長度の高低における区分けであるアセンションを乗越せ、その資質を得よ、ということであり、それは次の文言の“戦すんでからが愈々のイクサぞ、褌しめよ、役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ”の“戦”=自らの心の中の葛藤、自省(胸の磁性“十”)をして、それは“日月神示”表記ならば“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”これがどんどん進む、自分の在り方を考え鑑みることが、“愈々のイクサ”ということである。 そして“褌しめよ”は、自我という心の動きを構成している腹の縦の磁束と横の磁束の表記で、“しめよ”は自我を諌めよという意味合いのこと。 その自我を諌めることの辛さ、またどんなに進化した心であろうが(独り神(ひとりがみ、日取り神)になるため)自我という心の構成は必須、よって自我を諌めること自体が苦痛や苦悩であるから、そしてそれは霊的成長度の高低に関わらず必ず体験しなければならないことであるからこそ“役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざ”ということ。
これに続く“九、十、気付けて呉れ”は、○ 九 十 の、“九”と“十”、これは、“九”が“一”(亜から出ずる、アイ)あるいは“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)であり、“十”胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”の心のことである。

これに続く以下の分は非常に重要、そしてごく短い文で霊的成長の仕組みを示しているものであるが、“一二三”のオーラのことが理解できていないとまったく意味が通じないものでもある。
()内に注釈を入れておく。
“神示(“上”が示した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
よく読めよ(よく理解し実践せよ)、
肝腎のこと判りては居らんぞ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことが全く理解されていない。 また、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して独り神(ひとりがみ、日取り神)になることが人間としての、生命=生きる使命=存在理由である)、
一(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、そして、智性(“一”、1番目のオーラ))のことぞ”

 さらに次の文で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みで、人は霊的成長し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだということが示唆されているし、事象の“創造”は自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“一二三”のオーラによるものであることが簡潔に示されている。
“一
ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力 三(ひふみざぞ)”
1番目、2番目、3番目のオーラの構成は、“一”=智性=1番目のオーラを構成するローレンツ力
ローレンツ力、二番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、三番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、であり、ローレンツ力ローレンツ力 そのものが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みにより心(靈)が構成されているものであるし、先に述べたことと重複するが、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”というのは、自らの心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)“一二三”のオーラの発振、発信により、なされるものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか。
行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ。
神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。
天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。
後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。
元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ。 
キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。
三月十一日、ひつ九の神。

 第七帖は、第五帖、第六帖で述べられていることと共通している。
それは第五帖で解釈した
“キが元ざ”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、(自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)認識しうる)すべての、現津(あきつ)、観察され得る事象の根拠となることをよく知っておけ、ということ。
そして第六帖の“神示よく読めよ、肝腎のこと判りては居らんぞ、一のことぞ。 一
ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力 三(ひふみざぞ)”、この文を以下のように解釈した。
“神示(“上”が示した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))
よく読めよ(よく理解し実践せよ)、
肝腎のこと判りては居らんぞ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことが全く理解されていない。 また、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して独り神(ひとりがみ、日取り神)になることが人間としての、生命=生きる使命=存在理由である)、
一(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、そして、智性(“一”、1番目のオーラ))のことぞ”
 さらに次の文で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みで、人は霊的成長し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだということが示唆されているし、事象の“創造”は自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“一二三”のオーラによるものであることが簡潔に示されている。
“一ローレンツ力
ローレンツ力ローレンツ力三(ひふみざぞ)”
1番目、2番目、3番目のオーラの構成は、“一”=智性=1番目のオーラを構成するローレンツ力
ローレンツ力 、二番目のオーラを構成するローレンツ力ローレンツ力 、三番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、であり、ローレンツ力 ローレンツ力そのものが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みにより心(靈)が構成されているものであるし、先に述べたことと重複するが、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”というのは、自らの心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)“一二三”のオーラの発振、発信により、なされる。

 今引用した第五~第六帖の要、それは、生命(生きる使命=存在理由)は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、“上”からの荷電粒子をローレンツ力
ローレンツ力 で取り込んで止め(“日止、霊止”の表記の意味)、その“上”から注がれる(愛(炁)、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)荷電粒子の振動、それの、より高いものを(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によることで)獲得することが心(靈)(ヒ)が育つことであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、心(靈)(ヒ)の発振、発信は現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”となるものであり、それがすべての生命に共通の“観察と認識”という行為であることをこれまで述べてきているし、進化した心と進化してない心は観察しうる事象の相違が生じる、換言すれば霊的成長度により自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創りあげる事象の差が生じるものである。 
これは自分たちの心を構成している振動の高低により観察しうる事象は違うのだといういい方が出来るし、それがアセンションという、“創造”の“主(ヌシ)”の計画、今より“善(神格化の方向性と智性の受信)”が顕現する事象を創る、進化した生命に創らせる、ということでもあるし、今この事象に生きている人間においても、それぞれの霊的成長度、これまでの行動、その行動の根拠である心(靈)の動き、そして自分の霊的成長度における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)=霊的干渉により、たとえ今の事象を共有して感じていたとしても、観察しうる事象は違うものであることを指摘できる。
(ちょっと解りにくい言い回しになったので、例を挙げれば、どんな災難に遭おうが生きるものは生き死ぬものは死ぬ、それは自分たちがやってきたことの結果ということ、これを考えれば解りやすいと思う)
だからこそ“日月神示”を書かせた存在、艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、今の地球人が一人でも今後=アセンション後の事象に移行しうる霊的資格を得させるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えたい、その表れが黒住教で教えた朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)であったことはこれまで幾度となく述べてきている。

これらのことを踏まえ、第七帖の本文の解釈を述べることとする

まず最初の文。
“物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか”

冒頭の“物”という表記、これは物質(という振動)の世界の事象の意である。 それで、霊的成長度の低い心である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自我の肥大で、何もかもが自分の物のように思い、他者の物でも騙して奪い取るの意があるから“天”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑に対する“賊でもある。 また、どんな事象でも自分の都合の良いような思い方しかしない、“上”が課した試練とか霊的成長のための苦難とかの認識が無いのが“賊”(人を傷つけ金品を奪い秩序を乱す者)、そう思う根拠は“皆てんし様の物ざ”という表記の裏にある意味、それはすべての事象は霊的成長のためにしかない、すべての事象に自分の心(靈)を育てる要素がある、それは認識(悟り、幸取=さとり)であるということが分かっていないという意味合いのことで、これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の認識における神、霊、オーラ、など、すべて霊的成長に関与する概念が全く理解できていないからこそ“天の賊”でもある。
言うまでもないが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、それはすべての心が“天詞様”“てんし様”=“上”と感応して神の思惑を顕現するべく生命(生きる使命=存在理由)になる、それが人の存在目的でもあるから、だからこそこの事象にあるもの感じ得るものを、自分の認識(悟り、幸取=さとり)にして霊的成長することを指したのが“てんし様の物ざと、クドウ申してある”である。

 次の文。
“行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ”

 “われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭している今の事象は、言葉で人を引き付け、そして、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをするが、それはいうまでもなく真実=真固止ではなく“ほんとう”でもなく、程度の低い“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり程度の低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、だから“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない、不誠実ということ。 
また“役員づら”によく見られる口先だけの人間は(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化としての)“行”をせず、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“もなく(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ておらず)、ただただ形骸の名誉や“汚い金”を求め、目先の快楽を求めたりもする。 それが低い霊的成長度の心における認識の成功者とか勝利者でもあるが、そういった類の人間が“行(おこない)出来て口静かにして貰ふ”ではないから、“行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ”であり、それは“上”の思惑に適っていないからであり、この文言の後半“何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむ”は“上”の思惑を理解させるための試練、それは“神の咎め”であり右往左往と左往右往をさせて霊的成長させるの意。 
 要は良い事象、“善(神格化の方向性と智性の受信)”が台頭した事象なら“何事もスラリとゆく”のであるが、この世界は(この事象は)霊的成長度のある程度高い人と点で低い人が混在している。 それが<6><7>で述べた“玉石混交(淆)”の意味だが、この世界は“石”(帯電するミネラル)が固まっていない、“玉(ぎょく)”ではない肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の存在が多いから、このままではダメだから“行”をしろ、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しろ、結晶化した肉体(月(ツキ))を伴う心(靈)(ヒ)は“上”の高い振動を取り込んで止め(“日止、霊止”の意)“一”=智性=1番目のオーラとせよ、そうなれば先の“てんし様”でもある。

 次の文。
“神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ”

 この“神の国”という表記はどこどこの場所の意ではなく“国”は((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、神格化を目指す、霊的成長しつつある心(靈)(ヒ)と解釈するのが妥当。 そして“神の国の半分の所にはイヤな事ある”というのは、霊的成長に伴う自省(胸の磁性“十”)の“行”、右往左往に対する左往右往、それをしなければ“洗濯出来た臣民”には成り得ず、“上”もかかれない=高い振動は素通りしてしまう。 それではいけないので、“上”と感応でき得る=“洗濯出来た臣民に元の神がうつり”であり、“元の神”の表記は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことである。
 それで霊的成長して“上”と感応していくならば“サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ”と述べられ、これはアセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)のことだから“サア今ぢゃ”であり、今までの事象とは大違い、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない事象だから“悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あく”ということになるものである。

 次の文。
“天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。
後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ”

 これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人を対象に述べていることで、解りやすい表記をピックアップすれば“いくら悪神じたばたしたとて手も出せん”そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑で“この世 三角にしようと四角にしよう”としているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は決まっている、それは“元のこの方などの心のまま”と示され、先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と同義の文言である。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないからこそ“今に恥づかしい事になる”=自省(胸の磁性“十”)の“行”にはいるぞ、と述べられている
 これに続く“後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてある”は、霊的成長度の低い“上”、あるいは“役員づら”が説いている神や仏や守護霊などの概念は低く、あるいはまったくのにせものに成り下がっており、今の人間を霊的成長に導くどころか御利益優先、天の僥倖ばかり求めるダメな人間を増やしていることを示唆し、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格を得た霊的成長度の心=“役員”には“さうならん様に神示で知らしてある”と述べられ、その“神示”をしっかり自分の腹、自我に入れ、自我を諌めよという表記が“よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れ”ではあるのだが、その“役員”と認めうる霊的成長度の人間はとても少数であると、あえて述べておく。
 ちなみにすでに述べたことであるが、この文のカタカナ表記の“ミコト”は以下の意味がある。
“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心、“日止、霊止”の止
要は“上”からの荷電粒子を止め、事象を“創造”する生命(生きる使命=存在理由)ということ。

 次の文。
“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ”

 あえて説明の要はないと思うが“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を尊守して霊的成長した心を“元の大和魂”と呼称し、“元の大和魂”という表記については
磐戸の巻 第二十一帖  を参照のこと。
 そして、地球人の進化として必須のマニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我から“慈悲”と“慈愛”、“江戸と尾張”から“秋立つ”、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、をこなし、今後=アセンション後に移行出来得る霊的成長度の人間はごく少数であることを示唆した文が“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就する”であり、それは“創造”の“主(ヌシ)”の計画だから“末代動かぬ世の元の礎”でもあることをあえて述べておく。

 次の文。
“キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ”

 自分たちが取り込んでいる振動の高低=“キが元と申してあろ”は、自分達の霊的成長度を示唆するものであり、今は霊的成長度の低い人間がこの事象を創っている。
だが、今後=アセンション後はそうではなくなることを示す文言が“上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざ”であり、“上は(今より)上の行”(これは修行の行のこと、進化した心は生業(なりわい)より“行”を優先する)をするものであり、霊的成長度の低い心は生業(なりわい)の行、仕事などをして、形骸の名誉を求めたり“汚い金”を集めたり目先の快楽を求めたり…要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをするから“下は下の行ひ”をすると述べられ、これを一緒にしない=“マゼコゼにしてはならん”のがアセンションであり、だから霊的成長度の高低、進化程度の“上”と“下”は分ける、それが“上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ”の文言の意味、要は今後=アセンション後に移行出来得る資格は、霊的成長度が“上”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は“下”(低い心(靈))であることを述べているにすぎないし、“上”の心は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応するし、段々神の思惑を顕現するものであるが、それに対し“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“下”の心は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するということを述べているものである。
そしてこのこと事態が、(すべての事象を構成している=“キが元”)振動の法則性ということでもある。
だからこそ今後=アセンション後は“マゼコゼ”(先に述べた“玉石混交(淆)”)から“キチリキチリと”分けられる、それは観察しうる事象の相違、住んでいる世界が違う、ということになるものである。
それでこの文言は、形骸の見せかけの地球人の既成概念や一般常識における礼儀、形骸の名誉、“汚い金”を集めた金持ちなどに形骸の敬意を示したり称賛するなどという礼儀、あるいは対人関係における礼儀を述べているのではないことを、蛇足ながら付け加え、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第八帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。
タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。 
建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ。
三月十一日、ひつぐの神。

 第八帖を一読すればすぐ分かることだが、第五~第七帖で述べられている霊的成長度の高低における現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”は、その心(靈)(ヒ)の高低が根拠により=自分たちの心(靈)(ヒ)の発振、発信による事象の“創造”により、違うのだ、ということを感じさせる文章である。
 このことを踏まえ、まず冒頭の文。

“今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまう”

 これは、低い霊的成長度、自我の肥大(“石屋の仕組み”)、あるいはこれまでの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの段階から、自省(胸の磁性“十”)するならば、“この先末代身魂をかまう”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)出来たならば、観察しうる事象は違ってくる=アセンション後の事象に移行出来得るものであることを述べている。 それは“今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐる”=自らの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)事態を、“天地の神の心にそむいてゐる”ことを知り、自分の低さを知り、自分を諌めて、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して=“心から分りて、心からお詫びして改心すれば”ということである。

 次の文。
“借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ”

 この文の“借銭負うてゐる身魂”は、先の“天地の神の心にそむいてゐる”と同義であり、その“借銭”は、形骸の名誉や地位、低い幸福の概念由来の行動、そしてその結果としての今の事象、それはいうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により創られた事象のことだが、それが今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間は“この世にはおいて貰へん事に規則定まったのざ”と述べられているに過ぎない。

 次の文。
“タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。 
建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ”

 この文の要は“建直しとは元の世に、神の世に返す事ざ”であり、これは今の事象、今の世が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きの発振、発信により創られているからこそ先の“天地の神の心にそむいてゐる”のであり、この文の“元の世”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に則った事象の“創造”にするということで、だから霊的成長度の低い心(靈)が息吹いて創った今の事象は“タテコワシ”といわれ、そして“建直しとは元の世に、神の世に返す事”は、神の思惑を顕現させた事象になっていく、そしてそれは“天詞様”、智性(“一”、1番目のオーラ)を獲得した心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されるものであるから“中々に大層な事である”のであり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によることであるから固まっていない“泥の海ではない”のであり、“石”(帯電するミネラル)は生体内電流により結晶化して“玉(ぎょく)”になるということを○○○大先生の著書の未刊行の<6><7>で述べられているが、それと同義のことである。
 そして今形骸の権威を行使していい気になっている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対しては“上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ”=自分たちの心(靈)(ヒ)の動きが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていない、それは神の思惑に沿っていないのだということを知れ、それで自我を諌めよ=“肚(はら、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)に入れて呉れ”と述べられており、またこの文言は、自分たちにとって“ほんとう”に価値のあること、“ほんとう”の自分の在り方を見出せよということを示唆した文言であると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第九帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ。
岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ。
天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。 
臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。
守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ。 
せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ。
三月十一日、ひつぐの神。

 第九帖、そして第十帖は“日月神示”のそれぞれの巻に時々見られる、やや揶揄(やゆ)した言い回しの文章という感がある。

 冒頭の文。
“悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ”

これは、キの巻で一貫して述べられている自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象になっていく(“思惑の顕現”=現象化)こと、自らの霊的成長度の高低により観察しうる現津(あきつ)、観察され得る事象は違ってくるのだということを分かりやすく述べているし、それがあるからこそ、“悪いこと(思いながら)待つは悪魔”といわれている。
 この“悪いこと”に対する認識も霊的成長度において様々であろうが、この文の言い回しでは“何時 建替、大峠が来るかと待つ心”の“待つ心”というのが、程度の低いアセンションの解釈、“役員づら”が商売に使っている程度の低い認識であると思うし、その手法にはまっている認識の低い人たちは、その“役員づら”と霊的成長度が同程度だから感応する、結果、自分たちに都合の良いものを信じる、それが大半の地球人のアセンションの認識で、そんな認識を持つ人、いわゆる“建替、大峠が来る”のを“待つ心”で待っているだけならば、それは、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格のある人間ということではないのであり、そしてそれは、自分たちが観察しうる事象は、自分たちの心(靈)(ヒ)の動きによるのであるということに理解が及んでいない。
またこのこと=自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、自分達の霊的成長度により自分が“観察と認識”する事象は違ってくる、そこに“ほんとう”のアセンションの意義があることを分かっていない人間は、ただ“待つ”、待っているだけであるということを述べていると思える。 
またアセンションを待っているだけの人、時が来たらこの世界が良くなるという甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えを持っている人間には、今述べたとおり事象の“創造”が自らの心(靈)(ヒ)の動きによるものであり、それは自己責任を伴うものであることを理解できていないものでもある。
だからただ待っているだけでこの世界が良くなるとか不幸の無い世界になるとかと錯覚するし、それは悪魔、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と“魔”=マーラ(魔羅)、いわゆる悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)=“悪魔に使はれてゐる”、これに成り下がっている、アセンションに対する認識も甘く低いし、それまで“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化や“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”ということが出来ないか、その解釈を間違えている程度の低い自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人間であると言いうる。

これに続く次の文。
“この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ”

 今後=アセンション後は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示される、その通りになる、だから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいなくなるのだが、それを“今迄は大目に見てゐた”と指摘され、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画で“道”(時間の進行)に沿ったものであるから、“待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来る”ということ。
 そしてこれに続く“世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊である”は、霊的成長と同義である古事記の言葉“修理固成”(しゅうりこせい)のことを述べ、それはタンパク質の高分子化であり、“日月神示”表記なら“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもあり、低分子のたんぱく質が固まり、高く山のように塔のように高分子化したタンパク質は低分子のたんぱく質と電気特性が違うから“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して、自らの思想と成して心(靈)の動きとなり、それが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠となり、いわゆる思想が顕現する、それが今後=アセンション後の事象であるし、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)が、常に、立つ、ということになるから“国常立尊”という表記が使われていると思うし、低分子のたんぱく質を“泥”と称しているが、それが固まれば、“行”によって固まるならば“天におのぼりなされた”=霊的に成長したということが揶揄(やゆ)して述べられていると思う。
(ちなみに○○○大先生はS会=紫光会の主護霊会で、どんな泥でも固め方によってはダイヤモンドになる。 といういわれ方をされているから、このことはよく理解できるし、この文言そのものが○○○大先生の著書に書いてある)

 次の文。
“岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ”

冒頭の“岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿”、これは、日の出の巻 第十八帖 に同様の表記がある(“雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神様”)ので、その解釈からコピペ。

“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。

 それでキの巻 第九帖では、“地震の神”ではなく“地震の神殿”と述べられているが、この文の前で“修理固成”(しゅうりこせい)のことが述べられている、ある程度完成された肉体(月(ツキ))と月のことが述べられているから、荷電粒子の回転=神、という表記ではなく、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める“神殿”、いわゆる霊的成長をしていくべき肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)という意味合いの表記であると思えるし、それは“下”(低い心(靈))から成長し、自省(胸の磁性“十”)して、智性(神性)を獲得するという進化の“理(ミチ)”(法則性)があるからこそ、“下”を“元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来ん”、その“荒神”と、その下の振動が上昇する意味合いの“竜神”、この“竜”の表記は、太陽に昇る竜であり、難しい字の“龍”は、月に立つ龍であることを○○○大先生は著書で述べたが、このことを理解してこの文を読み解くなら、自らが持つ“下”の振動が“上”に上がること(これはチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の概念が解りやすい)が、さらにそれは太陽に昇ること、太陽に近づくこと、太陽の振動を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)すること(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)が“竜神”の表記であるということが理解できる。
 そして人は自らの肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を“神殿”にしていかねばならないし、それが人間の存在の根拠、理由、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、独り神(ひとりがみ、日取り神)になっていく過程であることを知らねばならない。
 これに続く“世界つくり固めてから臣民つくりたのである”は、地球が出来てから生命(生きる使命=存在理由)が発生し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が始まったという意味合いのこと。
これに続く“何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ”は、形骸の権威、形骸の名誉、神や仏を形骸にした“役員づら”のことを述べているに過ぎない。

 次の文も“役員づら”の程度の低い認識のことを指摘している。
“天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。 
臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。
守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ”

 この文の“守護神”は、天つ巻 第十一帖で“守護神どのの改心まだまだであるぞ”という文言が出てきたときに自分たちよりほんの少し“上”の存在であることを指摘した。
 同じくに天つ巻 “上の守護神どの、下の守護神どの、中の守護神どの、みなの守護神どの改心して呉れよ。いよいよとなりては苦しくて間に合はんことになるから、くどう気つけておくのざぞ”の解釈で、“上”“下”“中”は、“一二三(ひふみ)”のオーラのことであり、守護神っていうのは、それぞれのオーラ=それぞれの心(靈)の動きに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在のことであると解釈した。
 そして地つ巻 十八帖で“守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ”の文言に対し、形骸の宗教、そして似非スピリチュアルや、薄っぺらい感謝を売り物にするとか、それに騙されて雰囲気に酔っ払っているだけの人、そしてその人たちに感応しているその人たちよりほんの少し“上”=その人たちの“守護神”が多いこと、それと、尊い偉業をなしえた霊能力者を利用して、ただ引用しただけの人とか、それらすべて自己奉仕者であり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかないことを理解して欲しい旨の解釈をした。
 同じく地つ巻 第三十五帖で“日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな”っていわれているけれど、それぞれ縄張り意識としての国の事情や、民族の事情ってもんがあるから、こういういわれ方をされており、それは外人だろうが日本人だろうが人(日止、霊止)には違いない。 またこの文を見ても、自分たちよりほんの少しだけ“上”と感応する、それは大概、既成宗教を介して行われている感応であることが理解できるが、それぞれの国の宗教が“ほんとう”の霊的成長を説いているのであれば、こんな指摘をすることも無い。
また、日の出の巻 第二十帖の“日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ”と述べられているが、これは今の人とそのほんの少し“上”である存在が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をなにも分かっていないことを示唆した言い回しである。
 そして、磐戸の巻 第十五帖の“守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ”の“闇の世”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“役員づら”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が創っている今の事象のことであり、それら程度の低い心(靈)の動きに感応する存在は先に述べたとおり三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮遊霊などであり、それらと感応して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示しているのが今現在の成功者と称されている人間でもあるが、それではダメであり、“上”は認めないのであるから、今後=アセンション後の“創造”を担う人としては“上”と感応し、自分の思想を作り理念とし、結果それは神の“思惑の顕現”となるが、それを示唆した言い回しが“守護神よくなれば肉体よくなる”であると解釈した。
 同じく磐戸の巻 第十六帖の“守護神殿にたのむぞよ”について、人を守っている個人個人の進化に相応した“上”、それはあまり高くないから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるアセンションのことをしっかり理解していない“上”だからこそ“たのむぞよ”といわれていると解釈した。
 そしてキの巻 第七帖の“後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ”は、霊的成長度の低い“上”、あるいは“役員づら”が説いている神や仏や守護霊などの概念は低く、あるいはまったくのにせものに成り下がっており、今の人間を霊的成長に導くどころか御利益優先、天の僥倖ばかり求めるダメな人間を増やしていることを示唆し、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格を得た霊的成長度の心=“役員”には“さうならん様に神示で知らしてある”と述べられ、その“神示”をしっかり自分の腹、自我に入れ、自我を諌めよという表記が“よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れ”ではあるのだが、その“役員”と認めうる霊的成長度の人間はとても少数である、と解釈した。
このことを理解していれば今取り上げている文はすぐ意味が解るもので、それは平均的地球人の霊的成長度に感応する“上”は低い、また平均的地球人の“上”に対する認識も低い、だから“天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ”と述べられ、この文が示唆しているのは“ほんとう”の神と人間の関係、“天と地の御恩”が判ってないと述べられそれは“難儀なこと”だから“愈々どうにもならん事になる”と述べれれているに過ぎない。
これに続く“臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな”は、“御水はお土から頂く”、これは肉体の水分、錯体のことであり、肉体が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める構造を持っていることを示唆し、それを止めながら生命(生きる使命=存在理由)が存続して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するからこそ“其の御恩と云ふ事”でもある。
 前後するが“たき火ともしは皆 日の大神様から頂く”は、“上”からの振動の太陽からの荷電粒子を示し、“御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐる”の“御土”は肉体のことをいっている。 これが生命の構成要素であり、そしてそれは大概の人間が気が付かない、そういう認識を持っていないから小さいの意味合いの“一厘”といういいまわしをされ、さらにそれは荷電粒子は小さいことを示している言い回しであるかもしれない。

次の文。
“守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ”

 この“守護神”も先に指摘した平均的地球人よりほんの少し“上”の霊的存在のことで、それを神だと思い込んでいる程度の低い認識ではダメなのだが、そういった霊的成長度の存在、人も含め、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が説かれている“日月神示”、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”これを換言すれば“観自在”(自分の在り方を観る)“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”そして“自分を観察する自分の確立”が必須であり、これが出来始めたなら“世間話に花咲かす”、これはこの世界は間違っている、間違ったことばかり行われているなどという批判のことであると思えるし、批判は批判でしかないことを○○○大先生は著書で述べたが、批判して他者の低いことを指摘しても何もならず、“ほんとう”に変えていかねばならないのは自分、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)であるのであり、だからこういった批判ばかりする人間に対し“世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれん”といわれ、ことにそれは“誠”、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する、では無いのだと指摘されている。 これに続く“桜に花咲かせよ”は、自我の肥大した人が、世間話=この世界や人を批判するだけではダメですよという、やや皮肉っぽい揶揄した表記であると思う。

 次の文。
“せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ”

これは、仕事が忙しい、家事が忙しい、などという生業(なりわい)のことも含めてはいると思うが、そんなことではなく、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は間断なき“行”であることを示唆している言い回しであるし、それが“神の恵みざぞ”であることを知れということ。
また、“せわしく”“せわしい”“気血栄衛(營)”、それが無かったなら肉体(月(ツキ))は朽ち果てるという言い回しが“今の世(アセンションに向かい“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が激しく降り注ぎ始める今の事象)にせわしくなかったら(その振動を止めることが出来なかったなら)臣民くさって了ふ”といわれていると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第十帖 Kellyさん的解釈

 今回もキの巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

山の谷まで曇りてゐるぞ、曇りた所へ火の雨降るぞ、曇りた所には神は住めんぞ、神なき所 愈々ざぞ。 ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ。
一日一日のばして改心さすやうに致したなれど、一日延ばせば千日練り直さなならんから、神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あけるぞ、もう待たれんぞ、何処から何が出て来るか知れんぞと申してあろがな。
花火に火つけよ、日本の国の乱れて来たのは来られんものを来らしたからぞ。 三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならんかも知れんぞ。 家内和合出来ん様では、この道の取次とは申されんぞ、和が元ざと申してあろが、和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ、昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ。
三月十三日、一二 ローレンツ力と ○

 一見、第十帖は“日月神示”によく見られる揶揄(やゆ)したような文章に見えるが、それだけでない部分もある。

 冒頭の“山の谷”は、○○○大先生の著書の読者なら理解できると思うが、山=大脳であり(<3>にこのことは述べてある)、よって谷は大脳のしわのことであるし、それが“曇りてゐる”のは、目上(めうえ)の心が台頭しておらず、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)の動きが中心、そしてその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する低い霊的存在と自分の心(靈)が同じような心(靈)の動きをしていることを指す表記が“曇りてゐる”であると思える。
 そしてこういう心(靈)の動きをしているなら、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意は、自らの心(靈)(ヒ)と感応しない、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化も出来ていないから素通りするし、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”という心の動きもあまりない=自我から“上”の心(靈)の発現があまりないので、自我の肥大(“石屋の仕組み”)がみられ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ということになるものである。
 それだからこそ、これに続く文では、“神の咎め”=“曇りた所へ火の雨降る”といわれ、さらに“曇りた所には神は住めん”は、先に述べたとおり、せっかく智性(神性)を発現させる大脳新皮質を持っているのにもかかわらず、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)が台頭した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が余りにも多いから、こう述べられているものである。
違ういい方をすれば、“曇りてゐる”のは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)中心の思想と行動をする人であるし、それは“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、以前解釈した下つ巻 第三十四帖の、
“臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民幾人もないぞ、みな曇りてゐるこれでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦すむと思うてゐるのか、自分の心よく見てござれ、よく分るであろがな”
という文言を思い起こさせるものでもある。
 またこの文の“悪の世”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、その人たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されていることも、今まで幾度となく述べてきた。
その意味のことを、今取り上げている文の続きで述べられているので()内に注釈を入れ以下に解釈を示す。
“曇りた所(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)が台頭した脳)には神は住めんぞ(“上”の思惑は、程度の低い霊的成長度の心とは感応しない)、神なき所 愈々ざぞ(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)が台頭していれば、智性(神性)由来の思想や行動が出来ないから、神の思惑を顕現することが出来ないのだという意味合い)。 
ひどい事(その思想や行動が“上”の思惑に沿っていない、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)というものを無視しているから“神の咎め”がある)あるぞ、
神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ(すべての事象は自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”であるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないからそのことを示す、教えるために“神の咎め”があるという意味合い)”

 次の文。
“一日一日のばして改心さすやうに致したなれど、一日延ばせば千日練り直さなならんから、神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あけるぞ、もう待たれんぞ、何処から何が出て来るか知れんぞと申してあろがな”

 “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は人の霊的成長を待っている、自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きを自分にとって“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であるという認識を持つ人を待っている、しかしアセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、は決まっているのでそれは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)は、決まっているので、“待たれん”と述べられている。
 そして“神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あける”“何処から何が出て来るか知れんぞ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の肥大した人を諌める“神の咎め”で“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すの意。
 いうまでもなく“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”というのは今後=アセンション後の“創造”を担う最低の条件、自分の在り方を自分に問うということであり、それが出来ないと次の転生を待たねばならないから“一日延ばせば千日練り直さなならん”と述べられている。

次の文。
“花火に火つけよ、日本の国の乱れて来たのは来られんものを来らしたからぞ。 三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならんかも知れんぞ”
 
 冒頭の“花火に火つけよ”は揶揄した言い回しの感があるが、それは先の“曇りてゐる”を何とかしろ、くもり空に花火を打ち上げろ、という意味合いであると思う。 
それだから“日本の国の乱れて来た”と述べられ、この“国”の表記は今まで解釈してきたとおり(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”であるから自省(胸の磁性“十”)して霊的成長を目指す心(靈)のことであり、それが“乱れて来た”と述べられているのは、自我の肥大が低い霊的存在と感応して“曇りてゐる”心になっている、日(太陽)の本(縦の磁束と横の磁束+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+下の横棒(強調の意))ではない、そういった人間が多いからである。
これに続く“三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならん”だが、“三千年の昔”は、おそらく、天皇が天意を受信して、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑としての詔(みことのり)を述べていた時代で、天皇制が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に利用されるようになったのは、聖徳太子が現れたくらいの時期であり、そのままの天皇と政治の仕組みが台頭している今は政治(まつりごと)も天皇も形骸になっており、これは“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないので、まだまだ昔の方が良かったのだという揶揄した表記であると思うし、“三十万年の昔”というのは旧石器時代を指していると思うが、これはダメな文明は壊すしかないという言い回しであると思うし、それくらい現状はダメになっているのだということを読み取らなければならないものである。

次の文。
“家内和合出来ん様では、この道の取次とは申されんぞ、和が元ざと申してあろが、和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ、昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ”

 “家内和合”というのは、個々の家族のことではなく、地球全体と読み取るべきで、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させている経済の繁栄など、自我の肥大した心の“創造”の結果は子供の浮遊霊をどんどん増やし、それに感応する三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持った人たちはどんどん増えているが、これは地球人全体が幼稚である証拠であり、進化した宇宙人から観れば地球は、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”、そういった場(フィールド)に成り下がっているから“和が元ざ”といわれ、この“和”をカタカナ表記(“上”から視点)で解釈するならば、“ワ”、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、ということであるから、地球そのものが生命が霊的成長する場(フィールド)ではなくなっているのだということを述べていると思える。 またこの意味のことを強調する言い回しが“この道の取次とは申されん”であり、“この道”とは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)のこと。
 そして“和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ”の“トラとシシ”は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の頂点ともいえる肉食動物の頂点である“虎”と“獅子”のことで、これも揶揄した表記だが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の頂点、形骸の地位と名誉を得た人間という意味合いのことでもあると思うし、そしてそれには恨みの連鎖の霊的干渉による因縁や憑依の現象化があるから“メグリある”と称されている。
幾度となく述べてきたことだが、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出して増大させているのは自分たちの低い心(靈)、目下(めした)の心の動きである。
さらにこれに続く“昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ”は、第十帖で述べてきている“曇りてゐる”と称されている心の動きをよく自己観察し、諌めよ、それが“一日一日のばして改心さすやうに致したなれど”の“改心”であり、最後の“坊主 坊主くさくてはならんぞ”は、今の仏教が形骸になっている、坊主は生臭坊主ばかりで、その生臭さは、は仏教で説いている三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心が台頭しており、それに感応する霊的存在は極めて幼稚な存在であるという、まったく笑止な現状を“上”が諌めた言い方であると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。 

“日月神示” キの巻 第十一帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。
一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。
一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ。
皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか。
三月十四日、ひつ九ノか三。

 この原文に何回も出て来る“一二三”、これの解釈がしっかりできていなければ、この文を読み解くことも出来ず、“日月神示”を書かせた霊団の思惑、何を伝えようとしているのかも解り得ないはずである。
 ここまで述べてきたように“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、動物から人間への進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は1番目、2番目、3番目のオーラの強化と変容といい得る。
また、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば神に近くなるのであるし、神の思惑、神の認識、天の御目(あめのおめ)を、自分の心(靈)に獲得していくものである。
そのための“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、目上(めうえ)の脳のたんぱく質の高分子化による水平磁場の強化が、頭のシンクロトロン放射の強化になり、それは水平磁場の強化がシンクロトロンの荷電粒子の回転は加速につながるからである。
また荷電粒子の回転が加速すればするほど、高速回転すればするほど、高い振動と感応し、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、それが“日止、霊止”の表記の意味であることを今まで述べてきた。
そして、この高い振動を止めることが出来ない肉体(月(ツキ))の持ち主の心(靈)は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心だから“日月神示”では“ケダモノ”“獣”などといわれているのである。
話しを戻し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したなら人間は“一”=智性=1番目のオーラが大きくなる。 そして天意を止め、神の思惑を顕現する人となっていくのであるが、それが弥栄の意味であり、弥栄の旧字は、彌、であるが、さらにこれの旧字が、弓偏(へん)と璽(しるし)という字であり、これには、深い意味があることを過去に画像で述べてきた。

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字

 また画像で示した通り、弓偏(へん)と璽(しるし)という字そのものが、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)の意味を示すことも、○○○大先生は未刊行の著書の<7>で述べている。
 そして“日月神示”には回転の表記がよく出て来るが、荷電粒子の回転、それが心(靈)(ヒ)であること、そして“日月神示”の回転の表記の意味合いを今後=アセンション後に移行すべき人は良く知っておかねばならないと思う。

 以上のことを踏まえ本文の解釈に入ることとする。 まず冒頭の文。
“一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”
 これは“一二三(ひふみ)”のオーラが、“神の弥栄(いやさか)”といわれているので、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が神の“思惑の顕現”=現象化であることを示しており、それは“限りなき”=無限、事象に限りはないのであり(事象に限りがあると思っているのは程度の低い霊的成長度の心の持ち主)、無限に続く(“道”時間の進行)ということである。 そしてこれに続く“一(ひ)は始めなき始”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)が、“創造”の始まりであるといわれ、この“一”の表記の意味はこちら側、人から見て日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を動かして書かれるので“思惑の顕現”=現象化であり,それはア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、であり、ひらがな表記の“(ひ)”は、人から視点の太陽、日、であり、また、すべての存在が心(靈)(ヒ)であるという意味合いのことであると思え、これは観察する側と観察される側の違いにより、カタカナ表記とひらがな表記の違いが生じ、個々の心が自分以外の心(靈)(ヒ)を観察してい認識したなら、ひらがな表記の“(ひ)”ということになり、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”も、心(靈)(ヒ)であるという意味合いを示していると思う。
 これに続く“ケは終りなき終りであるぞ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から“ケ”を引用すれば、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と称されており、これも思惑=零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より、顕現=現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、よってこの文は、いわゆる神の“思惑の顕現”=現象化の意味を指すことである。
 これに続く“神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”は、そのまま読めば意味が通じそうなものだが、この文の“神の能(はたらき)”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、それを止める、高い振動も低い振動も止める、それが“日止、霊止”の表記の意味合いであり、高い振動が素通りしている人間が霊的成長度の低い人間で、またそれは“一”=智性=1番目のオーラが小さいということも幾度となく述べてきた。 
その意味のことをよく理解していれば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“下”から始まり、だんだん“上”になる。 換言すれば3番目のオーラ、2番目のオーラは“上”に昇華し(大日如来の条帛(じょうはく)が意味するところ)、そして1番目のオーラになっていくという、今まで述べてきたことを納得してもらうことが出来ると思う。 
それを意味する表記が“神の能(はたらき)が一二三である”ということ。 そして神の代理とか神の“思惑の顕現”=現象化をするのが“日止、霊止”であるという意味合いのことでもある。
ここまでの文は、事象の“創造”をしていくのは自分たち人間であり、このこと自体が神の“思惑の顕現”=現象化であるという意味合いの表記である。
これに続く“始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”は、“中今(なかいま)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と“創造”の真っ最中という意味合いのことであるし、それは人間が思う時間の概念を超えているから“始なく終なく”ということでもある。

 次の文。
“一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”
 この文の“神の息吹”とは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて1番目、2番目、3番目のオーラを発振、発信しているのが人間であるという意味。
“唱えよ”は、発振、発信の意。 
“神人共に一二三唱へて岩戸開ける”の“岩戸”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我中心の心から“慈悲”と“慈愛”の発現、第三密度から第四密度への意向ということ、“神人共に一二三唱へて”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるのは“日止、霊止”であり、今半分ケダモノの平均的地球人が“日止、霊止”になるには、先に述べた、高い振動を止める“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をする、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、ということであるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の止め具合が、自分の心(靈)の霊的成長度であり、それは“一二三”のオーラに具現化するという意味。
“とけよ”は、同化、同調せよ、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよ、の意。
“息せよ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、発振、発信せよ、の意。
“着よ”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できた肉体(月(ツキ))なら“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めることができるが、そうなれよ、の意。
“食(お)せよ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を吸収出来得るようになれよ、それには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌める“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が必須、そして、胸の磁性“十”、胸、アナハタチャクラ、の、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)を強化せよ、そうすれば事象の見方も変わる、“慈悲”と“慈愛”という心の動きで自分の心(靈)を含めた事象の観察をするようになるということでもある。

(内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象の観察ということ、だがこれは、すべて自分の心(靈)の中で感じているということでもある)

 これに続く“始め一二三あり”は、事象の“創造”の根拠たることが“一二三”のオーラであり、個々の心(靈)(ヒ)の発振、発信するオーラの相互干渉により事象を感じ(感じる磁性)、この世界とか自分とか自分の心(靈)の中とかという思い方をするが、すべての事象は振動の受発信により“創造”されているから、感じ(感じる磁性)るのであり、そこに“観察と認識”というものがなりたつもので、これはすべての存在が霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であるからということでもある。
 そして神であろうが人であろうが悪魔であろうが、個々の心(靈)(ヒ)は、霊的成長度の“上”と“下”の違いがあり、その霊的成長度の違いにより、観察しうる事象は違う、“創造”しうる事象も違う、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する振動の違いということである。
 そして今述べた個々の心(靈)(ヒ)の“上”“下”により、自分たち人間が神と名付けたり悪魔と名付けたりしているが、これも“上”と“下”の違い、そして“思惑の顕現”=現象化の違い、を分類しているにすぎないが、すべての事象の“元”たる“一二三”のオーラの受発信は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みによるから、それをどう止め、どう発振、発信するか、どういった事象の“創造”をするか、ありていに言えばどう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するか、ということで、このこと自体が、事象の“創造”、そしてその“創造”の根拠は、個々の心(靈)(ヒ)の思惑、日足(ひたり)の極性、“どういうつもり”、により、成されているもので、その意味のことが“一二三は神ぞ、一二三は道ぞ”、この場合の“神”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意のことと、自分の心(靈)が思う“上”、これは“上”の振動そのものといえ、高い振動のことであるし、その振動を取り込んだ自分の心(靈)、あるいは他者の心(靈)(ヒ)、“上”と認識する、神と認識する、そう認識しうる“一二三”のオーラといういみあいのことで、それはまた時間の進行を創り得るものであるから(時間の進行は個々の心(靈)(ヒ)の中の認識であるから)“道”と称されているものである。
 これに続く“一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”は、個々の心(靈)(ヒ)、その“上”“下”のことを述べているのと、“一二三”のオーラが高くなればなるほど、“創造”の“理(ミチ)”、法則性を尊守した事象の“創造”をする、それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ではなく、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるから、“一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ”と称され、ことに“祓ひ清めとは弥栄ぞ”に、人が神の“思惑の顕現”=現象化を託されていることに気付かねばならず、それは“上”からの振動の止め方、同“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化するか、同“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”するかにかかっているからこそ、“上”を示す表記の“神の息”“てんし様の息”と称され、この場合の“息”は自らの心(靈)(ヒ)という意味合いでもあるが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることを指摘しておく。
 その自らの心(靈)(ヒ)ということ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ということを強調した言い回しがこれに続く“臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”ということで、“上”であろうが“下”であろうが、心の成り立ちや構造が違おうが(草木は動物と心(靈)(ヒ)の成り立ち方が違う)、すべては“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みとその発振、発信で事象の“創造”をしているという意味合いの文である。
 
 次の文。
“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ”
 この文で示されている日足(ひたり)回転、“日月神示”を最初から読み解いてきて初めて出てきた表記の日足(ひたり)回転があるが、その違いを以下に拡大画像で示す。

日足(ひたり)回り “日月神示”表記 これまでとキの巻第十一帖の表記

 この渦が密になっている表記の意味は、荷電粒子の回転が水平磁場により加速され強化されている様子を示すものと確信する。 その加速と強化については先に述べたので割愛するが、これは霊的成長を果たした様であり、“一二三”のオーラの大きさの変容でもあるし、発振、発信するオーラの高振動化ということでもある。
 それで本文に述べられている“ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ”のそれぞれのカタカナ表記については、靈によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して解釈を述べる。
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、これは“上”の思惑を現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する、神の“思惑の顕現”=現象化の意味合いということ。

“レ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
と述べられていて、これは右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る、それが“元座道座(もとくらみちくら)”と称されていると解釈でき得る。

“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)、神の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ“日止、霊止”が、事象の“創造”を“深き 高き 広き”とするという意味合い。
 
 また、この“ケ”“レ”“ホ”は、太祝詞(ふとのりと)の最後の方の“ホレケ”と意味が同じであると思うし、順番が反対なのは、“上”から視点の言い回しか、“下”である人間の観方なのか、の違いであると思う。
 そしてすべての事象の成り立ち先に述べた“一二三”のオーラの受発信であるから“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ”と称され、それは今解釈した“ケ”“レ”“ホ”であり、さらに神の“思惑の顕現”=現象化をするならば、自らの心(靈)(ヒ)の荷電粒子の回転は加速され強化され得るというのが、うずの多い、うずの密度が高い表記の 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるということ。

 これに続く“皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか”は、“唱えさせよ”は、受発信のこと、“五柱”の五は糸巻の象形文字、神経が密になった様、コイル線の巻数が多い様子、磁場の強化で、
(“慈(しげる)”の意味でもあり、心(靈)(ヒ)が“慈(しげる)”ならば、“慈悲”と“慈愛”、すべての事象を慈しみ悲しみ慈しみ愛しむ(いつくしみかなしみいつくしみいつくしむ)ということになる)
磁場の強化があってこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めて加速して発信するの意。
(それがまた“畐”の意味でもある)
(“畐”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記“一”を吸収する、取り込む意の口、そしてそれは頭で高い振動を止めるから、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の表記がされている)

 そして“八柱”は、人が持つ“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことを指し、“十柱”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)のこと、シンクロトロンの構造を指す。
 そして“五十連(いつら)ぞ”の、“五”と“十”は先に述べたことを強調するものであり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”という意味合いのことでもある。
 そして進化した生命が成すこと、それが“意露波(いろは)”で、“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、
雨の象形文字 解字


そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写るぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいたのぞ。
神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れよ、それが天地への孝行であるぞ、てんし様への忠義であるぞ、鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、それで判らぬ様なれば お出直しで御座る。
三月十五日、ひつぐの神。

 冒頭の表記“みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写る”、これは霊的成長度における現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇ということ。
これについては、すべての事象の観察は、振動の受信によるということ、そして自分の心(靈)に相応した振動で構成された事象しか遭遇しえないことをことあるごとに述べているが、このことは、振動の絶対の法則性であり、程度の低い人間はその人間に分不相応な程度の高い事象に遭遇しえないということである。
  換言すると“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心しか持っていないならば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”した事象にしか位置できないし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”以上の振動で自分の心(靈)が構成されているならば、その低い事象より少し“上”の事象に遭遇するものであるが、これがアセンションの真実でもある。
 それで“それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいた”そして“神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れ”と述べられているし、この文の“所々にみせしめしてある”も、近年、特に多くみられる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が馬脚を現す事例のことを述べている。 
その馬脚を現すような程度の低い人間のことが“それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ”という、いわゆる“神の咎め”があるぞ、と述べられているに過ぎない。
だが“神の咎め”は自省(胸の磁性“十”)させるためにある、自我の肥大を戒めるためにある、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長のために“上”が与えるのであり、これは先の第十一帖の“レ”で解釈した時の、間違った道に進んでいても必ず“元座道座(もとくらみちくら)”、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻るための“神の咎め”を説いているものである。

 そして“早う改心して呉れよ、それが天地への孝行であるぞ、てんし様への忠義であるぞ”の“天地への孝行”“てんし様への忠義”は、自分の心(靈)が低ければ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ならば、自我が肥大(“石屋の仕組み”)していて自分の欲望と利益しか考えないならば“天地への孝行”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を“ほんとう”に示すことが出来得る“てんし様”とは逆のことをしているからであり、それは恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているし、恨みの連鎖で増え続けている浮遊霊は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持ち、その憑依は、人の智性(神性)をどんどん麻痺させているからであり、多くの人がこのことを真摯に考えなければならないのだが、何も考えていない人の方が圧倒的多数であるから、それはもうどうしようもないほど三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の浮遊霊に心を乗っ取られている人が多いからでもあるのだが、だからこそ、こういわれているにすぎない。

 これに続く“鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、それで判らぬ様なれば お出直しで御座る”の“三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回”は、回数のことを述べているのではなく、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、の意であり、“五”は糸巻の象形文字、神経が“慈(しげる)”の意であり、進化した動物である人のことを指すのであり、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の合わさった表記であるから“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の顕現という意味、そして“回”は、荷電粒子の回転の表記であり、“十”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と水平磁場━を指す表記であると思える。
 よってこの“神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ”は、“神示”(神が示す“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を、“読み”=自分の認識として獲得する、“聞かせよ”=発振、発信せよ、そうやって事象の“創造”をせよといういみあいのことであるし、“三回、五回、七回”“三十回、五十回、七十回”の“十”の入った表記の違いは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)の強化による荷電粒子の回転が高まっていくならば、“上”と感応する、今まで素通りだった“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるものであるからこういった表記になっていると思えるし、それが自我を諌める、自分の低い情動を戒める、“鎮魂(ミタマシズメ)”となり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出すものであることを述べている。
そして“それで判らぬ様なれば お出直しで御座る”というのは、もうすぐ起きるアセンション、霊的成長度における区分けに間に合わない=“判らぬ様なれば”、何万年~何億年先になるか分からない次のアセンションに向かって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ=“お出直しで御座る”ということ。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ、御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ。
自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。 偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。 おかみも一時は無くなるのざ、一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ。
一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ。
三月十六日、ひつぐの神。
 
 冒頭の
“世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)”
というのは、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のこと、あるいはそれを顕現すべき人=“御方(おんかた)御一方(おんひとかた)”、顕現すべき人ということならば、それは、平均的地球人よりはるかに霊的成長度の高い人ということである。 
そして“世に落ちておいでなさる”という言い回しがされているのは、平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている低い次元、低い事象、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きによって創られているこの事象では、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、そしてそれを実践する人はたいして活躍していない、活躍できていない、活躍させてもらえる場(フィールド)ではない、ということで、言い回しを変えるならば、今の事象で神の思惑というものは顕現していないのだという意味合いのこと。
 これに続く
“竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ”
の“竜宮”については以前解釈した日の出の巻 第十八帖から以下にコピペ。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍
 それで日の出の巻 第十八帖とは違い、キの巻 第十三帖では“音姫”の表記になっており、“音”というのは日に立つであると思うし、“姫”は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を指す女を意味した表記である。 
よってこれは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして霊的成長を果たし、その認識(悟り、幸取=さとり)、思想、これは平均的地球人より高いから、今後=アセンション後の事象に必要であるから顕現させねばならず、それには今までとはレベルの違う“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の援護があるという意味合いのことを述べた表記であると思うし、顕現させるからこそ、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すからこそ、“この方、天晴れ表に表れる”そして“これから(今後=アセンション後)は神徳貰はんと一寸先へも行けんことになった”といわれ、いよいよ神の思惑を顕現させる、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では作れない事象を“創造”するという意味合いの表記である。
 そしてそれを強調するのが“神徳(智性(神性))貰はんと一寸先へも行けん”であるし、さらに自己奉仕者の“創造”を諌める言い回しとして“御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ”といわれており、この“メグリある金(かね)”と“メグリになる”は、恨みの連鎖の台頭している“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現が、その代価が(通貨としての)金であり、じゅんいち君の登場する記事で述べているように“恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をする”という現状であるし、それは神の“思惑の顕現”=現象化ではなく、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑であるから、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の現象だから、“御用”では無いということ。
 今述べた恨みの連鎖=“メグリ”を引き起こしている形骸の地位や名誉を得た人を戒める言い回しが、
“自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。 偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。 おかみも一時は無くなるのざ”
であり、これまでも述べている通り“これまで世に出ておいでになる守護じん”というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度における程度の低い“上”ということ。 そしてそんな段階の人とその“上”では、“愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされる”=“改心”のための事象として“神の咎め”があるぞといわれ、早く“改心”白という意味合いで“今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い”と述べられ、形骸の地位や名誉は全く霊的成長にとって意味が無い、あるいは人の霊的成長ということの足を引っ張るからこそ“これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊”“おかみも一時は無くなる”といわれているに過ぎない。

 これに続く
“一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ”
の“一人々々…”というのは、今後=アセンション後の事象ではそこに存在しうる霊的成長度の人ならば、いい方を変えればこれからの世では、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をだれもが認識としているから、そこにおける事象の“創造”に関して“一人々々何でも出来る様になりて”ということになり、今の世のように、政治や経済などあり得ないし、誰もが良いカタチの事象の“創造”に携わっているという意味合いのことであるし、その時期は近いのだということも述べており、それは“ひ(火=荷電粒子の回転を指す点二つと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の太神”を、“気付けて呉れ”というのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込め、そういった心(靈)(ヒ)になれという意味合い。
 さらに今述べたことをしました言い回しが
“一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ”
であり、この文の表記の“一厘”というのは荷電粒子の大きさを指した表記のこと。
それは以前、キの巻 第九帖で以下のように解釈した。

“たき火ともしは皆 日の大神様から頂く”は、“上”からの振動の太陽からの荷電粒子を示し、“御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐる”の“御土”は肉体のことをいっている。 これが生命の構成要素であり、そしてそれは大概の人間が気が付かない、そういう認識を持っていないから小さいの意味合いの“一厘”といういいまわしをされ、さらにそれは荷電粒子は小さいことを示している言い回しである
引用終わり。
 また、“ほんとう”に価値のあること、神の思惑が顕現した事象は真実=真固止であるが、今の世にはそれは目立たないしはっきり分かっていないから小さいと認識され得るという言い回し、それが“一厘”でもあると思うが、この文の“心と心で知らしたい”“心でとりて下され”の“心”の表記を、心(靈)(ヒ)にすれば解りやすい。 
それは、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、オーラの相互干渉であり、感じ(感じる磁性)ることであり、それは心(靈)(ヒ)、対、心(靈)(ヒ)で行われることであり、その個々の心(靈)(ヒ)に“上”と“下”の違いがある、霊的成長度の違いがある、神と認識され得る、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と認識され得る、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)と認識され得る、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と認識され得る、の、違いが生じるものでもあるが、それは、個々の心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をどう感じ(感じる磁性)るかによることである。
 要は物ではなく、振動である、また振動が事象の“創造”の根源であるということでもある。
 そして
“よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ”
の“神示”は、神の思惑を顕現するの意であるから、それを“さとりて呉れ”=悟、五つの口が心(靈)(ヒ)にはあり、それは五感であることを○○○大先生は著書で述べたが、感じ(感じる磁性)ること自体が電磁誘導による新たな電流の発現であり、そこに“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の秘密があり、“上”からの振動の取り込みが、個々の心(靈)(ヒ)には神と認識され得るのであるから“神示(神が贈り送る荷電粒子の振動を自分の認識とする)読んで(荷電粒子の振動に含まれた情報を認識とする)さとり(幸取、さとり、)て呉れ”であり、そういった人が増えて欲しい、それが神の計画としてのアセンション、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない事象を“創造”するから、それが神の思惑であるからこそ“神たのむのざ”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十四帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ、心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組 近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争(いくさ)つきはつ大道ぞ。
一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組 愈々世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ。
三月十七日、ひつぐの神。

 ここまで行ってきた“日月神示”解釈で、日付のような表記をいくつも読み解いてきたが、それは、単なる日付そのものではないと解釈してきた。
それでやはり今回の“三月三日”“五月五日”“九月八日”も、日付のことではなく、“三”は“一二三”のオーラ、あるいは“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つということ、“五”は、糸巻の象形文字で、肉体が下等生物から進化して神経が密になりコイル状になった様、“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の表記、それは○ 九 十 の“九”でもあり、動物の肉体(月(ツキ))の進化を示す意味合い、神経が密になる様を示すものであり、神経が密になるからこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みが動物とは違ってくるのであるがそれを示している表記であり、“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、である。
そして〇月と〇日の表記は、肉体=月(ツキ)と、太陽の意味合いの日で、日は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意であるし、天意を糸巻上の神経が由来のローレンツ力 ローレンツ力 で止める(“日止、霊止”の表記の意味)、止めながら心(靈)(ヒ)が進化するという意味合いのことを述べている。
そして、平均的地球人の進化の段階は、土=2~3番目のオーラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、それが“三”になっていくその具体的な方法論が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるということを今まで述べてきている。
このことを踏まえて本文を解釈することとする。

“三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ”

 これは、土=2~3番目のオーラの段階の進化から、“三”に進んでいくならば、そして“一”=智性=1番目のオーラがより発現し強化されていくならば神経が密になり、そのローレンツ力ローレンツ力 で天意を取り込むから“更に厳しくなる”“更に更に厳しくなる”=遭遇する事象はその進化した心に対しより成長して欲しいから“上”は試練を課す、そしてそれは今後=アセンション後に移行する際、霊的成長度がある程度高い心、今後=アセンション後に移行し得る資格を持ち得る心(靈)(ヒ)には、より大きな試練、自省(胸の磁性“十”)の“行”をさせる、あるいは“三”、“五”になっていく過程でつらい目に合わせる、試練を与える、という意味合いのことであるし、それが無ければ霊的成長は無いから“何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれ”=試練を体験し自省(胸の磁性“十”)して自分の認識を高めて、神と人間の“ほんとう”の関係、自分の在り方を鑑みろ、と、述べられていると思える。


“心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組 近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争(いくさ)つきはつ大道ぞ”

 冒頭の“心違ふてゐる”は、土=2~3番目のオーラの段階の進化過程の人間が思う甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いのことを指し、“逆さ許りが出てくる”は、その甘い思いを諌める、神に対して御利益しか求めないとか自分のエネルギーを購わないでよい結果を求め、そのよい結果だけを神頼みするとかの人間が多すぎるし、そんな人間は“役員づら”の手法にはまり進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見失っているから、それとは違う、平均的地球人が思うことを改めさせるために“上”は試練を与えるのだという意味合いのこと。
 そして“九月八日の仕組み”は、冒頭で述べたように“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))と“八”=“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、の、発現と強化といういみあいであるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くことを指すものである。 だからこそ○ 九 十の“九”になる“仕組”が、“八”と述べられているものである。
 そして自らの心(靈)(ヒ)が“九”と“上”が認めうるくらいに育ったならば“この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄”と称され、“むすび、ひふみとひらき、みなむすび”の“ひふみとひらき”は、“一二三”のオーラが発現したならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した=“ひらき”であるということであり、“むすび”“みなむすび”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”である人間が通じ合う、天意を受信する、神の思惑を顕現するに値する進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に移行するといういみあいのこと。 だから“神々地に成り悉く弥栄”=神々が地に降りる、天意を顕現する人間が増えるならばそれは“悉く弥栄”ということで、弥栄(いやさか)というのは、ただ繁栄するとかの意味合いではなく、弥栄(いやさか)の弥の旧字が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みを示すものである。
それは偏(へん)の弓が背骨のこと、旁(つくり)には“メグリ”(帀)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と爻部(こうぶ)、交わるの意味と、“玉(ぎょく)”=自省(胸の磁性“十”)した心と肉体(月(ツキ))の結晶化の意味合い、これらが合わさった表記である。 弥栄(いやさか)の弥の旧字の画像を以下に貼っておく。
弥の旧字

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字

 これに続く“戦争(いくさ)つきはつ大道ぞ”の“戦争(いくさ)”の表記の意味は、外側(外国と幽界)の事象の戦争のことではなく、自省(胸の磁性“十”)に至るための内面とか内側(心の中と感じている事)の葛藤、自我と自省(胸の磁性“十”)の心の対立であり、またこれは砌(みぎり)の極性と日足(ひたり)の極性の対立ということでもある。  
そして“つきはつ”というのは、尽き果てる、まったく尽きる、の意、その自我と自省(胸の磁性“十”)の葛藤が尽き果てたなら=右往左往と左往右往したならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”、“大道ぞ”といわれており、それは人間本来の姿であるから、大きい、手足を広げた様、の意と、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記が“大”であることをこれまでも述べてきている。


“一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組 愈々世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ”

 先に解釈した自我と自省(胸の磁性“十”)の葛藤は“一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくる”ということであり、ことに“淋しくなってくる”ということを感じるものである。 これは“上”の試練と真剣に向き合った人間でなければ理解できないことであるとも思う。
 これに続く“その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組 愈々世に出るぞ”は、先に解釈した“この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ”と同義、解釈の要は無いが、自我と自省(胸の磁性“十”)の葛藤、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くでもあるが、こういったことが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組み、神格化へ至る仕組みだからこそ“神の仕組”と称され、これまで顕現していなかったからこそ“愈々世に出る”といわれ、今、以下に宗教の大家であろうが心霊に詳しかろうが、神や霊のことを説きたくさんの本を出して人を靡かす(なびかす)ことをしていようが、そんなものは“上”は認めていないのであり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であるのだということまで感じさせるものであるし、そこには“ほんとう”の“おかげ”は無いから、自省(胸の磁性“十”)によって得た真の認識である“おかげ”ということを鑑みろという意味合いのことを述べていると思える。
 そして“三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ”の“三千年”は、先に解釈した“三”、“一二三”のオーラと、“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”の合わさった表記で、“三千年”は、それくらい昔から仕組まれていたのだという意味合いもあり、“三千年の仕組み”=昔から仕組まれた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みが顕現したならば、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人間が台頭したならば、“富士は晴れたり日本晴れ”となり、これもこれまで画像で意味を示してきたのでいかに貼っておく。
富士の解字

“晴れたり日本晴れ”の解字

 そして“桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ”は、やや揶揄(やゆ)した言い回しで、春になれば咲く桜、それは春の表記が“三”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と太陽を示す日であることに気付くべきであるし、だからこそ“一二三(ひふみ)と咲く”=土、2~3番目のオーラの平均的地球人の進化過程ではなく“一”=智性=1番目のオーラを獲得して“三”になれ、またそれは○○○大先生が著書で述べた“王”の意味合いでもあるが、そうなるべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして“一”を獲得せよ、そうならねば“上”が認める“桜花一二三(ひふみ)と咲く”では無いのだということを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

誠申すと耳に逆らうであろが、其の耳 取り替へて了ふぞ、我れに判らんメグリあるぞ、今度は親子でも夫婦でも同じ様に裁く訳(わけ)には行かんのざ、子が天国で親地獄と云ふ様にならん様にして呉れよ、一家揃ふて天国身魂となって呉れよ、国皆揃ふて神国となる様つとめて呉れよ、メグリは一家分け合って、国中分け合って借金なしにして下されよ、天明代りに詫(わび)してくれよ、役員代りて詫びして呉れよ、この神示 肚に入れておれば何んな事が出て来ても胴(どう)すわるから心配ないぞ、あななひ、元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道。
三月十九日、ひつ九の神。

 冒頭の、
“誠申すと耳に逆らうであろ”
の“誠”は、この事象に対してまっとうに生きること、まっとうにいきるための思想を持つ、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に顕わすこと、という解釈が妥当であり、よって“誠申すと耳に逆らう”は、まっとうではない心の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしている自我の肥大(“石屋の仕組み”)をしている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のことである。 
 しかし、大半の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は自分たちがまっとうではない、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なんてことをあまり認識していない=そのことを認識する、自覚する、という霊的成長度ではないし、自分たちの利益や欲望のために“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認するという心の動きと行動をしているのみであり、いわゆる智性(神性)無き心=“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラが小さいのである。 
そんな霊的成長度の人間は今後=アセンション後に移行できないし、当然のことながら“上”は移行を許さないから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間を殺したりもするものである。
その霊的成長度の人間に対して、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をせよ、という意味合いで“其の耳 取り替へて了ふぞ”=認識を改めよ、と、いわれている。

 これに続く、
“我れに判らんメグリあるぞ、今度は親子でも夫婦でも同じ様に裁く訳(わけ)には行かんのざ、子が天国で親地獄と云ふ様にならん様にして呉れよ、一家揃ふて天国身魂となって呉れよ、国皆揃ふて神国となる様つとめて呉れよ、メグリは一家分け合って、国中分け合って借金なしにして下されよ、天明代りに詫(わび)してくれよ、役員代りて詫びして呉れよ、この神示 肚に入れておれば何んな事が出て来ても胴(どう)すわるから心配ないぞ”
の“我れに判らんメグリある”は、“我れ”=自我の肥大した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の認識では、因縁のことも恨みの連鎖の霊的干渉のことも理解不能であるということ、だから“判らん”=判断できない、自分たちの低い心(靈)が悪因縁を作っていたり恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させているということ事態を、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は全く解っていないという意味合いのこと。 
  だが、その“メグリ”、悪因縁や恨みの連鎖の霊的干渉は、地球上のすべての人間がその影響を受けているものであるから“メグリは一家分け合って、国中分け合って”と述べられているのであり、地球上で起きていることは地球自体が平均的地球人が霊的成長する場(フィールド)であるから無関係ではなく、地球上にいる人間は誰もが悪因縁をなくそうとしなければならず、恨みの連鎖の霊的干渉を減少させなくていはいけない、その意味合いのことが“借金なしにして下されよ、天明代りに詫(わび)してくれよ、役員代りて詫びして呉れよ”であり、悪因縁を贖う(あがなう)、恨みの連鎖の霊的干渉を減少させいつかは消失させるということをしてくれ、ということ。
またそれができ得るのが今後=アセンション後の事象の“創造”を“上”から託されたという意味合いの“役員”である。

 今述べた、悪因縁と恨みの連鎖を、自分たちはどうとらえて、なにに自分のエネルギーを贖う(あがなう)か、それを考え実行する、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を持つべきであり、それはすべての存在の良いカタチを願う願いとなり祈りとなるものであるし、これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)の意味のひとつでもあるといい得る。
またすべての地球人が悪因縁と恨みの連鎖の霊的干渉を現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現させているのは自分たちの低い心(靈)の動きであることを知らねばならず、それを知ったなら自分の低さを知るものであるが、それがまた“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、自省(胸の磁性“十”)をする心(靈)(ヒ)であるから、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度から“上”の心の動きを持つようになり、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となりうる。
そしてそれは自我を諌めることとなり、その意味合いの表記が“この神示 肚(腹)に入れておれば何んな事が出て来ても胴(どう)すわる(自我の在り方を自分でしっかり決めている)から心配ない”
である。

 この“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への変化が“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、その意味合いのことで、
“今度は親子でも夫婦でも同じ様に裁く訳(わけ)には行かんのざ、”
と、いわれており、この文中の“親子”“夫婦”“子”“親”は、既成概念の親子や夫婦のことではなく、霊的成長度の“上”と“下”、そして夫婦=男と女、日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性のことであり、それは思想と行動と言い換えたら解りやすい。 
 そしてこれに続く、
“子が天国で親地獄と云ふ様にならん様にして呉れよ、一家揃ふて天国身魂となって呉れよ、国皆揃ふて神国となる様つとめて呉れよ”
というのは、地球上の人間すべてが、次の段階、今後=アセンション後に移行して欲しいという“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“慈悲”と“慈愛”のこもった言い回しであるが、現実はなかなか難しいとしか思えない。

 そしてこれに続く
“あななひ、元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道”
この“あなない”は、贖い(あがない)であり、何を贖うか、自分たちは何を対象に祈り何に対してエネルギーを贖う(あがなう)のかを考えよという意味合いのことだとしか思えず、それは“元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道、勇み出で”と述べられている通り、今が“元津神々人の世ひらき和し”ではないからこういわれ、この“元津神々”と“人”が共に“世ひらき”=この事象を“創造”し“和”となっていない、現実は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑が台頭し、恨みの連鎖の霊的干渉の影響で三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った浮遊霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が盛んにしか見えないし、それはほとんどの地球人が目先のことしか分かり得ず、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)中心になっていると見て取れるからであるが、先に述べたように自分たちが低いと認識しこの事象を腐らせているのは自分たちであることを自覚したならば、“元津神々”と“人”が“和”していく事象を創り得るステップとなるということであるし、“元津神々”は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を言い換えた言葉であると思う。
 そしてそれが出来たなら、そうなったならば、という言い回しが“悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道”と成りうるのであるが、そうなれよ、という言い回し。
 そしてこの文の“ひふみひふみとなり”は、ひらがなで書かれているから人から目線の表記であり、人が、“元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道”=先に解釈した「“元津神々”と“人”が共に“世ひらき”=この事象を“創造”し」ということになったならそれは、神の“一二三”のオーラと、人の“一二三”のオーラの感応共振であるという言い回しであることを人が実感するという意味合いのことであるし、現時点の人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、神の、“創造”の“主(ヌシ)”の荒い振動との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でしかないから、土=2~3番目のオーラの進化でしかないし、先に述べたようにそれは、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)無き心である。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第十六帖 Kellyさん的解釈


  今回も、キの巻 第十六帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

元津神代の道は満つ、一時は闇の道、ひらき極み、富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄。
ひふみ道出で睦び、月の神 足り足りて成り、新しき大道みつ。
神々みち、ゑらぎ百千万のよきこと極む。 いよいよとなり、何も彼も百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。 元の光の神々ゑらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる。
世に光る神々の大道、神々ことごとにゑらぎて大道いよいよ展き進みて、大真理世界の三つは一と和し、鳴り成りて始めて、まことの愛の代 極み来る、弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、道は更に極みの極みに進み動き、ありとあることごとくの成り結び、更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々。
三月二十日、ひつ九の神。

 まず、冒頭の、
“元津神代の道は満つ、一時は闇の道、ひらき極み、富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄”
の、“元津神代”という文言にどういう解釈をするのかが大事。

 これは、先に解釈した第十五帖の以下の文言、
あななひ、元津神々人の世ひらき和し、悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道
この意味が理解できていなければならないと思う。

 この第十五帖の“元津神々人の世ひらき和し”これについては、
“元津神々”と“人”が共に“世ひらき”=この事象を“創造”し“和”となっていない、現実は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑が台頭し、恨みの連鎖の霊的干渉の影響で三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った浮遊霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が盛んにしか見えないし、それはほとんどの地球人が目先のことしか分かり得ず、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)中心になっていると見て取れるからであるが、先に述べたように自分たちが低いと認識しこの事象を腐らせているのは自分たちであることを自覚したならば、“元津神々”と“人”が“和”していく事象を創り得るステップとなるということであるし、“元津神々”は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を言い換えた言葉であると思う
と解釈した通りであり、今の事象が““元津神々”と“人”が共に“世ひらき”=この事象を“創造”し“和”となっていない”=霊的成長していない人間が、(当然のごとく)神の思惑を顕現していない、それが出来ないからであり、換言すれば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し、その低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象は“創造”されているからこそ“一時は闇の道”と称され、だから、まっとうではない、正しくない、それは今現在が第十六帖の“元津神代の道は満つ”ではない、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)ということが尊守されてもいず、このことをしっかり認識した心(靈)(ヒ)を持つ人間(霊的成長した“日止、霊止”と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めうる、そう呼ぶに値する人間)もごく少数でしかないことを示している。

 これに続く“ひらき極み、富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄”というのは、“元津神代の道”=神の思惑を理解し認識した人間が、事象の“創造”をするならば、“道は満つ”そして“ひらき極み”とということであり、“弥栄”となるものであり、“弥栄”については第十五帖で画像で意味を示したので省略することとして、“富士の代々、鳴り成る”の“富士”は、やはり“富士(二二)”であり、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことであり、人間が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)していく過程、それは右往左往と左往右往、日足(ひたり)の極性の強化の期間と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の強化の期間(“道”、時間の進行)が交互に行われるの意であるし、これをしていかなければ“ほんとう”の自覚(自分と神との関係、自分の存在の意義など)や“ほんとう”の認識(何を思い、何を顕現するべきか)というものを得ることが出来ない、いわゆる霊的成長ということをしていくには日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の項後の強化が必須であるからこそ“ひらき極み、富士の代々、鳴り成る”と述べられているのだと思う。

 次の文。
“ひふみ道出で睦び、月の神 足り足りて成り、新しき大道みつ”
 これも第十五帖で解釈した“ひふみひふみとなり”=神の“一二三”のオーラと人の“一二三”のオーラの感応という要素がなければ、神の“思惑の顕現”=“新しき大道みつ”ということに成り得ないと読み取るべき。 それは第十五帖解釈で“現時点の人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、神の、“創造”の“主(ヌシ)”の荒い振動との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でしかないから、土=2~3番目のオーラの進化でしかないし、先に述べたようにそれは、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)無き心である
と述べたとおりである。

 そして“月の神 足り足りて成り”というのは、先の“弥栄に変わり和すの道、道は弥栄”にかかる言い回しであると思え、それは“月の神”が、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、日足(ひたり)の極性である心(靈)(ヒ)に対しての肉体(月(ツキ))であるからであるし、この事象に自分の思惑を示すのは肉体であるからである。

 これに続く以下の文言、
“神々みち、ゑらぎ百千万のよきこと極む。 いよいよとなり、何も彼も百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。 元の光の神々ゑらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる。
世に光る神々の大道、神々ことごとにゑらぎて大道いよいよ展き進みて、大真理世界の三つは一と和し、鳴り成りて始めて、まことの愛の代 極み来る、弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、道は更に極みの極みに進み動き、ありとあることごとくの成り結び、更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々”
に対しては()内に注釈を入れて解釈を示すこととする。
“神々みち(神の思惑の顕現、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が顕現していくこと)
ゑらぎ(歓喜、楽しく笑う、などの意)
百千万のよきこと極む(“絶対の善”の顕現)。 
いよいよ(霊的成長度の高低において行われる区分け、アセンション)となり、
何も彼も百千とひらき、(神の“思惑の顕現”としての時間の進行である)道栄え道極み進み、
道極み真理の真理極む(神の“思惑の顕現”としての“理(ミチ)”法則性がきちんと示されるし、それを示す人間しかいなくなるの意)。 
元の光の神々(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を贈り送る存在も)ゑらぎ(歓喜、楽しく笑う、などの意)
更に進む(進化(霊的成長、神格化に向かうこと))(現津(あきつ)、観察され得る事象)
(神と“日止、霊止”の)和合まずなりて百(もも)(百=“一”(亜から出ずる、アイ)“創造”の“主(ヌシ)”の表記+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+日(太陽))の世(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が盛んに降り注ぎそれを止めた心(靈)(ヒ)が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するから)極みなる。
世に光る神々の大道(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))
神々ことごとにゑらぎて大道いよいよ展き進みて(神の“思惑の顕現”が“日止、霊止”によって進んでいったなら)
大真理世界の三つ(“一二三”のオーラ、心(靈)の発現と同義)
一と和し(智性(神性)由来の心(靈)(ヒ)や肉体(月(ツキ))の顕現、あるいは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が智性(神性)由来になる)
鳴り成りて始めて、
まことの愛の代 極み来る(智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が無ければ、すべての事象は“まこと”ではないし、今現在の人の愛(炁)の認識は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の愛(炁)であるから“まこと”ではなく、ケダモノの愛(炁)であるからこういわれている)
弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく(人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば=弥栄ならば)
光り輝き(神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、神の“一二三”のオーラも、人(日止、霊止)の“一二三”のオーラも今より盛ん(弥栄)となる)
道は更に極みの極み(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現=人の神格化)に進み動き、
ありとあることごとくの成り結び(天意を受信して人が行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するからの意)
更に新しく更に極むるの大道(神の“思惑の顕現”は永遠に続くの意、換言すれば心(靈)(ヒ)の進化は永遠であるの意)
神代歓喜の代々(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は愛(炁)の顕現であり、愛はア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”である。そしてそれは“ゑらぎ”(歓喜、楽しく笑う、などの意)であるの意)”

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十七帖 Kellyさん的解釈

  今回も、キの巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ、今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからすのざから、この世の悪も善も皆御用と申してあろが。
身魂相当の御用致してゐるのざぞ、仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変るのざぞ、神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ、その上で人に此の道伝へてやれよ、無理するでないぞ。
我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ、愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ。
神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ。
富士は晴れたり キの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ。
三月二十日、ひつ九の神。


 まず冒頭の文。

“すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ、今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからすのざから、この世の悪も善も皆御用と申してあろが”

 これは、“日月神示”が今後=アセンション後に移行すべく人に対して述べられている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からのメッセージであることを鑑みれば、意味はすぐ解ることで、地球上の誰もが霊的成長度の高低において区分けされるアセンションから逃れられないから、
“すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来ん”
のであり、それは自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心(靈)(ヒ)の動きを変えねばならず=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)しなければならないのであるが、これを避ける、今のままでよいと錯覚している、改心して自省(胸の磁性“十”)したくない、その心(靈)(ヒ)の動きを指摘しているのが、
“逃れようとするのは我れよしざぞ”
であり、今までの形骸の価値や薄っぺらい幸福感に酔いしれ、(通貨としての)金と物と本能由来の低い欲望の達成や低い自尊人や功名心を満足させることしかしていない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間ではいかん、ということが述べられている。
だが、それも個々の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、霊的成長度には段階があることを示されているのが、
“この世の悪も善も皆御用”
であり、人間のやっている“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)も含め、自分たちが観察しうる事象におけるすべての存在が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくから“この世の”であり、個々の霊的成長度により行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は違う、“上”と“下”があるから“悪も善も皆御用”ということである。

 それで前後するが、
“今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからす”
の“五人分も十人分”は、“五”が糸巻の象形文字、神経が密になる、“慈(しげる)”であり、“十”は胸の磁性“十”のことで、よってこの文を額面通り読んでは意味が通じず、今生きていること、今の事象で“観察と認識”をしていることを証して“今の仕事”、そして“御用”といわれ、それは生業(なりわい)の“行”と霊的成長のための“行”の意味があると思うが、それにより肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、神経が“慈(しげる)”なら、肉体(月(ツキ))の秘密である円形粒子加速器の構造が強化されローレンツ力ローレンツ力 も強化され“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”の表記の意義)、自我より“上”の心である“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現と強化になり、それを示すのが“十”(シンクロトロンの構造)であり、そうなってくれという意味合いで“精出せともうしてあろがな”である。 
 それで“精出せと申してあろがな”は、文面を額面通り受け取れば今やっている生業(なりわい)としての仕事に精出せという意味合いにしか(霊的成長度の低い人は)取れないだろうが、そうではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識し、その意義を知り、認識(悟り、幸取=さとり)として、生業(なりわい)の“行”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得のための“行”をして、霊的成長せよ、それが生命の存在の意義であり、自分たちは何のために生きているのかという疑問に対しての答えでもあるし、そのために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えているのだ、という、艮(うしとら)の金神を名乗る“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を感じ取れると思う。


 次の文。

“身魂相当の御用致してゐるのざぞ、仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変るのざぞ、神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ、その上で人に此の道伝へてやれよ、無理するでないぞ”

 この文も霊的成長の段階のことを“身魂相当の御用致してゐる”と示しているし、これに続く“仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変る”というのは、先に述べたように自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくなら生業(なりわい)の“行”も霊的成長のための“行”も進むのであるということが示され、たびたび“日月神示”に出て来る“肚”(はら)の表記は、自我という心(靈)(ヒ)であるし、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)と同義である。
 そして“神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるな”も、この言い回しを額面通り受け取るようでは霊的成長度が低く、“声立てて読むのざ”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるということを読み取らなければならないし、自分が霊的成長を真に果たしたなら、自分より“下”の霊的成長度の人間に自分の認識を伝えよ、という意味合いのことが“その上で人に此の道伝へてやれ”ということ。


次の文。

“我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ、愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ。 
神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ”
 
 この文の冒頭の“我捨てて”は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を自らが諌めよ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きを“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と見做し、自分にそれを許してはならないという自覚を持てということであり、これに続く“大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ”は、自分より“上”の振動=“大き息吹き”“神の息吹き”“「御みいづ」”と、感応せよ=“とけるのざ”“とけ入るのざ”“とけ入るのざ”ということである。
 そして“「御みいづ」”は、
上つ巻 第二帖の、
“神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ”
の“稜威”(いつ)のことであり、その意味は、古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊、ということで、要は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいはそれを取り込んだ心(靈)(ヒ)(“天詞様”、真の意味の天皇)、それは霊的成長して“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっている人間の認識(悟り、幸取=さとり)を、自分に取り込めよ=“とけ入るのざ”である。
 これに続く、
“愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ”
の、“愈々神示一二三(ひふみ)となる”は、先の“我捨てて”にかかる言葉であり、“上”と感応すれば自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である“一二三”のオーラは変容し、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、天意を取り込んだ進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)ということを示唆しているし、先に解釈した“身魂相当の御用致してゐる”“神示肚に入れて行けば仕事段々変る”“神示声立てて読むのざ”“大き息吹きにとける”“神の息吹きにとけ入る”“「御みいづ」にとけ入る”は、すべて自分の霊的成長の段階とその段階における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことであるから、それが自らの“一二三”のオーラに現れるのは当然のことであり、自らの進化の段階により=霊的成長するならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は自分の霊的成長度において段々高い振動の取り込みになるという意味合いのことが、
“云はねばならぬ(“上”が人に進化の法則性を通信として送り贈る=発振、発信している)から(それと感応するならば自らの)一二三(のオーラ)として、息吹きとして知らす”と称されている。
 これに続く、
“神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ”
も、文面を額面通り解釈していてはダメで“よく読め”は、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよ、であり、その資質を作るのが“行”であり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であることを今までの“日月神示”解釈で述べてきている。

 それで第十七帖の文を要約するならば、平均的地球人の進化過程である自我の確立=固定化は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、またそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象しか生み出していないから恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象になっているが、それではダメであり、今後=アセンション後に移行し得る資格は当然のことながら持ちえないということ。
それで、“一二三”と述べられている通り、生命(生きる使命=存在理由)としての使命、神の思惑の顕現、というのは、霊的成長して“一”=智性=1番目のオーラを高めていかねばならず、そのために艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのであり、また、キの巻 第十一帖
の“一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄”ということであり、そして“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ”ということでもある。 この詳細はリンク先を参照のこと。

キの巻 第十一帖 

また、この日足(ひたり)回転うず多い 小画像 の表記の意味が解らないようでは、人間の霊的成長の仕組みが理解できたとはいえない。

 それで原文の最後の、
“富士は晴れたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ”
の 、これも第十一帖の
日足(ひたり)回転うず多い 小画像  同様、ここまでの“日月神示”で初めて登場した表記であり、これについては画像で意味を示すこととする。

キの巻 第十七帖 霊 〇 と、シンクロトロンの構造
 要は、“岩戸あけたり”=岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く=自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)ということであり、こういった心を持った存在ならば“(せかい)ばれ”=観察しうる事象は晴れるという意味合いであり、この文の冒頭の“富士(二二)”と“日本晴れ”については、今まで幾度となく述べて来たので割愛するが、この文とこの画像の意味を、このブログに霊縁あった方には、よくお考えいただきたいものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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智性無き心は
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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