“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

facebookに書き込まれていた“○○○大先生的バシャールの文言解釈”をこのブログで述べるにあたって

  ○○○大先生は、時々○○○療院でmini読者会もどきを行っている。 
 そして、そこで説明が足りなかったことなどをfacebookに書き込んでいる。 それは読者会のメンバーがほとんどfacebookのお友達ってことがあるからってことでもある。
 
 それで読者会もどきのメンバーの一人の方が、○○○療院の待合室にあるバシャールの本をみて興味を持たれ、バシャールのメッセージを紹介している本を購入され、お読みになり、さまざまな疑問を持たれた。 
 そういった経緯で○○○大先生は、バシャールの文言の解釈をfacebookで行うようになった。 これをしていくうちに、一般の人達の霊的なことに対する既成概念がとても低い、高い存在が述べたことに対しての認識が甘すぎる…これは○○○大先生が○○○大先生の著書を読んだ幾人かの読者と直接メールのやり取りや電話、あるいは来訪された方と会話を交わしてみて感じたことでもあった。

 それでバシャールの文言解釈をしていくうちに、一般の人達の霊的な認識の低さ、自分と神との関係、こういったことなどの認識の甘さみたいなことを指摘することが多いと思った。 
 それは得手勝手な解釈であったり、“役員づら”の手法にはまっていたり、ただスピリチュアルな言葉や雰囲気に酔っぱらっているだけであったり…要は甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ってことでしかない。 
 そして、そうやって思う人は自我が肥大している(“石屋の仕組み”にはまっている)ということも強く感じてはる。

 そやけど、こういった指摘は時としていやみな感じであったり、誤解を招いたりもするやろ。
 だけど、○○○大先生は上記の指摘を含めた文章をfacebookで公開しているだけではいけないと思ったので、このブログで“○○○大先生的バシャールの文言解釈”を書き込むことに決めはった。

 現時点、“○○○大先生的バシャールの文言解釈”は“その四”まで書き込まれてるけど、今後は、このブログでこれを行っていくこととする…って○○○大先生はいうてるから、このブログで新しいカテゴリーを設けて行っていきまんねん。 
 ほんでからmini読者会に出席されてた方は、今後はバシャールの文言解釈については、こちらをご覧くださいでんねん。
 
 さしあたって次のこのカテゴリーの記事からは、facebookに書き込まれた文章、
“バシャールのメッセージに、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いを抱く人”
そして
“その一”~“その四”までを転載しておきまんねん。



バシャールのメッセージに、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いを抱く人


 さて、前回の記事でKellyさんも述べておられる通り(笑)、読者の一人の方がうちの待合室においてあるバシャールの本を見て、興味を持たれ、バシャールのメッセージを紹介している本を購入された。 
そこに書かれていること、述べられていることには、ローム太霊講話集の“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん”とは違うのではないか、あるいは、アタシの著書に書かれている苦痛や苦悩が人間を育てるということとが述べられていない感があるという印象を持ったのだが…と、おっしゃられた。
 
 このことについてだが、まず、バシャールというのはいうまでもなく地球人ではない。 ある程度地球人より高い存在であり、チャネラーを通じてメッセージを送ってきている。  
だがチャネラーのメッセージというのは、チャネラー自身が高い霊的成長度ではない、それは(自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である)霊媒体質であるから、バシャール自身のメッセージをそのまま伝える場合もあるが、チャネラーが脚色して伝えようとする傾向もままあるもの。 
その脚色は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の思い、ディスプレイ(動物の発情行動)であったりもするし、それが由来で、人を引き付け、自分に着目させために、エモーショナル(emotional 感情に動かされやすいさま。感情的)な雰囲気な言葉や言い回しになることが多いのだと説明させてもらった。

 また、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を自分の人生にあまり感じていない、今まで大した苦痛や苦悩を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から試練として与えられ、それを自分自身の“粘りとやせ我慢”(ローム太霊の言葉)で解決してこなかった、エネルギーを贖う(あがなう)ことをしなかった、そしてそこから認識(悟り、幸取=さとり)を得ていない=試練から逃げた人は、こういったエモーショナルな言い回しに心惹かれる傾向があるし、またそういう人は霊的成長度が低いからこそ、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いを持たせるような言い回しでなければ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)や霊的なこと、いうなれば自分と神の関係を見出そうともしないのでは無いのでしょうかね…という話もさせてもらった。

 要は霊的成長度の低い人を霊的成長に導くにあたって、“上”は、甘い言い回し、幼稚な導き、というものを容認するものであり、それは進化=霊的成長と神格化のステップは、幼稚園、小学校、中学校etc.みたいな段階があるからでもある。

 そして読者が感じたこと、「苦痛や苦悩が人を育てるということが述べられていない」については、バシャールが地球人ではないので、地球人に過剰な干渉をしてはいけないという(すべての生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を実践している)宇宙連合の大原則があるからでもあり、だから“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を獲得するにあたっては、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップには、苦痛や苦悩があることをあまり述べると霊的成長度の低い人は、その(“上”からの)メッセージ自体から遠ざかるであろうし、その苦しさを具体的に述べれば、多くの人は先に述べた「幼稚な導き」からすら、逃げようとするからであると思える…という説明をさせてもらった。

 またこのことは、個々の生命が、自分たちの経験から認識(悟り、幸取=さとり)を得る(右往左往と左往右往)ということに由来するから、自分たちが失敗の“道”(時間の進行)を歩んだらそれが失敗であることを自覚せねばならないからであるし、その失敗があってこそ自分の心(靈)の動き、行動の根拠ということが自分たちの心(靈)(ヒ)の動きであることを自覚できるものである。
そしてそのことを自覚したならば、自分の在り方を観る(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”)ことが出来るからで、これが自分たちの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である自我の確立=固定化、自我の肥大を諌めるのに必須だからでもある。

 だが平均的な地球人の霊的成長度では、常々述べているように自分たちの存在の意義や、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)や神や霊に対する認識は低く、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))の手法にはまり、それが既成概念になっている人が大多数で、それは甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)思いなのだという自覚もないので、先に述べた「幼稚な導き」=低いチャネラーのエモーショナルな言い回しも“上”から容認されているものであると思う…というようなお話もさせてもらった。

それでバシャールのメッセージ自体は、

● 現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、個々の心(靈)(ヒ)が“観察と認識”することによって行われていること

● 自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)について

● どう息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)するのが良いか(“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信)

● 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)

● 愛(炁)は“創造”の“主(ヌシ)”であること

● 愛(炁)が発振、発信であること

などが述べられていると思う。

 それで先のアタシの私見を読まれたなら、バシャールが伝えたメッセージに対する印象も悪くなってるかもしれない。 
 またバシャールは、先に述べたように宇宙連合の大原則、地球人の失敗の体験に対してそれを左右するような過剰な干渉をしてはいけないということを尊守していると思うからこそ、具体的な言い回しや、低い霊的成長度の地球人に対して、述べてはいけないことを言わないでいると思う。
 このことを証明しなければ、アタシはただバシャールのメッセージについて批判しただけになってしまい、それはとても無責任なことと思うし、アタシは地球人だから、バシャールのメッセージに込められているものを解説するのは“上”から容認されると思うので今後バシャールの文言の解釈を行うこととさせてもらいます。




○○○大先生的バシャールの文言解釈“その一”


 今回からバシャールの文言の解釈に入ります。 まず、以下の文言から。

周りの現実に起きていることはすべて、皆さんの中で起きていることです。
ですから、まわりの現実が自分の望むものでなければ、そこから学ぶべきものを学び、いかに自分の望むものに変えていけるかを学んでください。

 “周りの現実”とは、現津(あきつ)、観察され得る事象、自らが現実だと認識しているのは、すべて自分の心(靈)の中を自分が観ているから現実だと思っているのだと述べており、それが“現実に起きていることはすべて、皆さんの中で起きていること”の意味。
 “まわりの現実が自分の望むものでなければ、そこから学ぶべきものを学び”は、自分の思惑、自分は何を欲しているか、何を達成したいのか、それは行動の根拠としての自分の思惑ということだが、それが理に適っているか、その理は、“創造”の“主(ヌシ)”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なのか、いうまでもなく“創造”の“主(ヌシ)”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ならば“学ぶべきものを学び”ということは無くなり、神の思惑を顕現すべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した“日止、霊止”ということになるが、今はそういった進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)ではないから、“自分の望むものでなければ、そこから学ぶべきものを学び”が必須であり、自分がその“学ぶべきものを学び”を達成したならば“自分の望むものに変えていけるか”=自分の思惑が神と同等になっているか、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と事象の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を獲得したか、ということになり、それを獲得せよという意味合いで、最後に“学ぶべきものを学び、いかに自分の望むものに変えていけるかを学んでください”と結ばれているものと思える。

○○○大先生的バシャールの文言解釈“その二”


 バシャールの文言の解釈の二回目です。 原文は以下の通り。

もし、自分が創り出している世界が望んでいるものでないとしたら、それは皆さんが無意識のうちに「その選択をしていた」ということです。
自分で実現したい観念を実現する代わりに、自分が実現化したくない観念を無意識のうちに実現していたということです。
創り出した世界が、自分で望んでいるものでないとしても、それ自分の責任だからといって、自分に対する非難や後悔、そして罪悪感の理由として使う必要はないことを知っていてください。

 自分が観ている現津(あきつ)、観察され得る事象が、自分の思惑通りではなかったならば…という言い回しだが、“無意識”という表記があいまいで説明不足、またこの言葉を使うこと自体が不適切だという感がある。 
 そして、この文で述べようとしていることを(敢えて、意図的に)あいまいにしているのは、やはり前に述べた“地球人への過剰な干渉”を避け、この言葉を観た人間がよく考え、“上”と感応する、そして自分の確固たる認識(悟り、幸取=さとり)にする、そのために簡潔で幼稚、ある意味表現が不適切な言い回しをしていると思う。

(余談だが、地球人の概念に“上位自我”“超自我”という、高い心の部分を示すのにまったく不適切な言葉があることを、今述べたことを考えながら思い出した)

それで、ここでバシャールが使っている表記の無意識は、自分の本質、神性、あるいは神性に到達しようとする心(靈)(ヒ)、“上”に向かう心(靈)(ヒ)、あるいはローム太霊講話集の表記の“本霊”(本は、胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+それを“下”に止める小さい━)、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)、自分の心(靈)の高い部分、“日月神示”表記なら“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をある程度認識している自分の高い部分、ということであると思える。

それに対し、自分が生きていると感じている事象、現界では、自分の心(靈)の低い部分は、本能、情動、功名心、自我、という心の動きが台頭しており、よって平均的地球人の心(靈)(ヒ)の動きは自我中心であるし、自我の肥大が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象を“創造”していることを散々述べてきているが、この文は、自分の自我中心の心(靈)の動きが生み出すことを“創造”させない自分の高い部分があることを示唆し、またそれは自分の、現界における自分の意識である自我中心の心の動きでは、満足のいくものでない結果であることが多い。 それは低い欲望が台頭している心だからでもある。

今述べたことを示している文が以下の文。
“自分が創り出している世界が望んでいるものでないとしたら、それは皆さんが無意識のうちに「その選択をしていた」ということ”

そしてこの後の言い回し。
“自分が実現化したくない観念を無意識のうちに実現していた”
これは無意識が、自分の心(靈)の自我中心の部分ではない高い部分が、“自分が実現化したくない観念”=現界における自我中心の心の動き、とすれば、意味が解りやすい。

要は、現界における自我中心の心、その思惑は、“上”の思惑ではない自分勝手な欲望中心の望みであったり、それ由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であったりするが、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った“創造”を自分が学ぶための行為であり、それが学習だからこそ“自分で望んでいるものでない”のだということをこの文は示しているし、だから“無意識”と称された自分の高い部分は、現界における自我中心の思惑とは違う“創造”をさせようとしているのだと述べている。
そしてやや重複するが、自分の心(靈)の“上”と“下”、その違いがあるから現界における自分は自分の思惑通りの事象を“創造”していないが、それはそれでよいのだ、学習の過程なのだという言い回しが、
“創り出した世界が、自分で望んでいるものでないとしても、それ自分の責任だからといって、自分に対する非難や後悔、そして罪悪感の理由として使う必要はないことを知っていてください”
ということであると思う。

 さらにこの文の“自分に対する非難や後悔、そして罪悪感の理由として使う必要はないことを知っていてください”というのは、自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対する戒め、“神の咎め”による自戒ということを示唆していると思うし、これはローム太霊の右往左往と左往右往(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)の概念でもあるが、このバシャールの言い回しも表現が簡潔で幼稚で不適切だと思う。
それで、今までの人生で、自分の行動を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から戒められ、自分の自我を諌めている人ならば…換言すれば、“神の咎め”は自分を育てているってことをきちんと認識している人ならば、この文でバシャールが述べていることの意味を、きちんと理解できるものと思うし、自戒出来ている、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしている人にしか、この文の示唆していることは理解できない、出来っこないと思うものである。


○○○大先生的バシャールの文言解釈“その三”


 バシャールの文言の解釈の三回目です。 原文は以下の通り。

「毎瞬毎瞬、自分はまったく違う人間なのだ」ということがわかり始めると、毎瞬毎瞬、自分の望むものをなんでも、より自由に創造することができるようになります。
毎瞬毎瞬を、常にゼロから出発することができます。
すると、自分でかたくなに信じようとしない限り、過去に起きたことによって、いまの自分を左右される必要がなくなります。
基本的には「すべきだ」とか「すべきでない」というものは本当は存在しません。
心配や疑いは、もう古い観念で、自分のまわりに創りたい現実とは、 まったく関係ありません。
自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください。
喜びより、心配の方が力をもっていると思って行動を起こさないでください。

 一読すると、とても間違えやすい言い回しであるな…との印象を受ける。 その間違えやすい言い回しは
“自分の望むものをなんでも、より自由に創造することができるようになります”
そして
“毎瞬毎瞬を、常にゼロから出発することができます”
“過去に起きたことによって、いまの自分を左右される必要がなくなります”
“自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください”
という、甘い誤解を招きかねない文言であると思う。

冒頭の“「毎瞬毎瞬、自分はまったく違う人間なのだ」”というのは、常に自分の心(靈)は動いており活動しており息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しており、“道”(時間の進行)に伴い、変化するものだということを述べている。 
それは心の発振、発信でもあり、思想を構築していく過程でもあり、そうやって時間を認識しながら心(靈)(ヒ)は育っていくものである。
 また“毎瞬毎瞬”の心(靈)(ヒ)の動きにおける霊的干渉、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)ということも述べている。
 それを強調した言い回しが“毎瞬毎瞬を、常にゼロから出発することができます”であると思う。

 さらにそれは自分の心(靈)の動きによるもの、自由であるから、
“基本的には「すべきだ」とか「すべきでない」というものは本当は存在しません”
という言い回しがされており、誰もが、あるいは、どんな存在だろうが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に向かう道筋の歩み方は、自由なのだ、何を思いどんな行動をしてもよい、という言い回しであると思うが、この文言も誤解を招きやすい文言であると思えるし、この文では、自分の思想や行動に自己責任が伴うということをしっかり述べていないし、そこまで述べるべきであるが、この辺がチャネラーによる通信の欠点、憑依現象は不安定で、すべてを述べない、大事なことが欠落している、それは、チャネラー自身のエモーショナルな部分が反映している言い回しであると思える。
 それはおいといて、これは、あなたたちは縛られているのだ、だからこういう言い回しをしているのだ、ということを感じ得るものである。

 また、自分たちの低い心(靈)、目下(めした)の心が、低い情動、恨み、妬み、羨望etc.という心の動きになるのだが、そういった心の動きでは、今の事象と同じ世界しか創り得ない、ということを述べていると思う。
 それが本文の
“心配や疑いは、もう古い観念で、自分のまわりに創りたい現実とは、 まったく関係ありません。 自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください。喜びより、心配の方が力をもっていると思って行動を起こさないでください”
という言い回しの裏にあることと思う。

 それは、今後=アセンション後というのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きが台頭している人は移行することが出来ないことを幾度となく述べているが、この言い回しの“心配や疑いは、もう古い観念”というのは、先に指摘した低い情動、恨み、妬み、羨望etc.ということだと思うし、その心(靈)由来の認識が、もっと金が欲しい、物が欲しい、幸せになりたい(この場合の幸せは低い幸福の概念)、自分を目立たせたい(ディスプレイ(動物の発情行動))、などという目下(めした)の心(靈)由来のことすべてが“古い観念”であるといえるからであり、“ほんとう”の喜びを知らず、見出せず、見出そうともしていないから、“心配の方が力をもっていると思って”=スワディスターナチャクラの発達過程による認識、不安、いらだち、焦燥、という心の動きが台頭して、それに立ち向かい、アドレナリンを出させたりしているものと思う。
 だがそれは、今後=アセンション後における“自分の現実の中に欲しくないもの”であり、それが、低い情動、恨み、妬み、羨望etc.という、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、の進化過程、ことにスワディスターナチャクラの発達過程での心(靈)(ヒ)の動きである。
 そしてそれは、今後=アセンション後における“自分のまわりに創りたい現実”ではないから、そう在ってはならないから
“まったく関係ありません。 自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください”
ということであると思う。
 また、今述べたことを強調する言い回しが
“自分でかたくなに信じようとしない限り、過去に起きたことによって、いまの自分を左右される必要がなくなります”
であると思う。

 要は、(平均的地球人の)今までと、違う価値観を持て、もっと高い幸福の概念を知れ、ということであり、これが出来なければ、今と同じでしかなく、それは自我の確立=固定化という進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から脱却できない、今より“上”の振動を取り込むことが出来ないのだが、それを自分で決めているという言い回しが“過去に起きたことによって、いまの自分を左右”であり、その観念に縛られていることが“自分でかたくなに信じよう”=自分で自分を“古い観念”で縛っているという言い回しであると思う。

 この目下(めした)の心(靈)(ヒ)による“古い観念”、それは、一般常識、既成概念、固定観念(固着観念)、思い込み、先入観、あるいは石頭、融通が利かない、因習、決めつけ、偏見、色眼鏡、あるいはこだわり、マニュアル馬鹿……etc.ともいいうるが、これらすべて、著書で述べた“事象を観察する視野が狭い”ということの意味合いのひとつでもある。 
そして認識(悟り、幸取=さとり)が狭いということでもある。 
またこういった思考パターンは、自我由来のことでもあると思う。 
具体的には、これが正しい、これは間違いではない、自分は間違っていない、これでいいのだ(バカボンのパパのセリフではありません)……etc. これは“日月神示”表記の“われよし”の意味合いのひとつということでもある。

そしてこの思考パターンは、ものの見方、見て考えること、いわゆる現津(あきつ)、観察され得る事象の観察に影響を与えているものであり、だから自分達の霊的成長にとって、貴いものに気付かないとか、“ほんとう”の価値を見いだせないとか、わざわざ低いものを選択するとか…ということになりかねない…というよりも、大半の地球人がこういった状況であると思える。 それは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)誤解を招く手法にはまっている人の方が、圧倒的に多いからでもある。

 また、薄っぺらい幸福の概念由来のものの見方で、人生の目的を間違えている人が大半。
それは、人生は霊的成長のためにあるという自覚も無く、(通貨としての)金の奴隷であったり、目先の快楽の追及にいそしんだり(八戒(低い欲望に対する八つの戒め)の生業(なりわい)の“行”)、そしてそれらの価値観が経済優先ということの裏にあったりもして、結果として恨みの連鎖の霊的干渉を生み出して増大させていることは著書で述べたが、これらは、同じ価値観、その価値観由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であり、これは霊的成長度が同程度の人間は同じようなことをするということで、それが当たり前、それが常識、と思い込んでいる人が多く、よって自分たちが低い心(靈)(目下(めした)(動物の心(靈)の段階))の動きで行動していることなど考えもしないし、当然そういった気付きも無い人がほとんど。
これはローム太霊の霊団の概念に一致するものであり、ただ肉体(月(ツキ))を持っている霊が人間であるからこの概念に当てはめて人間を見ることが出来にくいと思うし、先に述べた金の奴隷、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)の生業(なりわい)をすること、それには低い霊的存在の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるし、それは肉体を持った霊=人と、それに感応している存在は、同程度、そしてその両方があって霊団というものを構成しているが、太霊はそこまでのことをローム太霊講話集で述べていると思う。

今指摘した“事象を観察する視野が狭い”による「狭い認識」、そして目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)(ヒ)の動きによる価値観と幸福感、これにとらわれているのが平均的地球人のほとんどであり、これから、今後=アセンション後は、それと違う認識と価値観と幸福の概念が台頭するものであるから、まず自分が持っている“古い観念”を古いと認識しうることが大事、これも自己観察で、自分の心(靈)を見張ることになっていくものであるし、これが出来なければ“古い観念”を今後=アセンション後は必要ないと認識しえないだろうし、今までと違う“自分のまわりに創りたい現実”を“創造”しえない、今後=アセンション後の事象を自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”し感得することが出来ませんよ、ということであると思う。

○○○大先生的バシャールの文言解釈“その四”


 バシャールの文言の解釈の四回目です。 原文は以下の通り。

忍耐強くなければと思うと、逆に耐えられなくなります。
いまに生きて、起きていることのすべてを楽しんでいるときは、なにかもっといいのが来てくれるのを待っているわけではありませんね。
そして、そういうときには忍耐も必要ありません。

 この文言も甘い解釈をされがちな印象を受ける。

冒頭の“忍耐強くなければと思うと、逆に耐えられなくなります”の、“忍耐強くなければ”というのは、先に解釈した(その三)“古い観念”であることを読み取るべき。  “その三”で述べたように、以下コピペ。

“心配や疑いは、もう古い観念で、自分のまわりに創りたい現実とは、 まったく関係ありません。 自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください。喜びより、心配の方が力をもっていると思って行動を起こさないでください”
自分たちの低い心(靈)、目下(めした)の心が、低い情動、恨み、妬み、羨望etc.という心の動きになるのだが、そういった心の動きでは、今の事象と同じ世界しか創り得ない、ということを述べていると思う。

この“古い観念”、これは自分を縛る既成概念で、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、の強化の段階における心(靈)の動き、不安、焦燥、が台頭している心だと、それは、
● 自分の人生に対する認識が足りませんよ、
● 自分の人生が霊的成長のためにあるのだということを認識できませんよ、
ということであると思うが、これも幼稚な霊的成長度の人を対象にした、一見、優しく簡潔にまとめた言い回しであるな…大人が幼稚園児に対して説明するような言い回しであるな…という印象と、チャネラーのエモーショナルな心(靈)の動きが介入した表現であるとも思う。

それで、
“いまに生きて、起きていることのすべてを楽しんでいる”
というのは、高い認識を持った時点での人生の“観察と認識”があってゆえのことであること。 それはこの後に続く“なにかもっといいのが来てくれるのを待っているわけではありません”という言い回しの意味をよく理解しなければならない。 
その意味は、自分を育ててくれているともいいうる、自分の霊的成長度における現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇=“いまに生きて、起きていることのすべて”は、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えゆえの“楽しんで”ではなく、すべての事象が自分を育ててくれている、すべては“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配である、換言すれば神の采配ともいえるが、自分の成長にとって必要なことが起きるものであるということをよく認識しているならば、ということを前提に述べられていることを読み取るべきである。
そしてその認識がしっかりできているならば、すべての事象が自分にとって必要なことであるという認識(悟り、幸取=さとり)があるならば、それはもう“忍耐”ではなく、現津(あきつ)、観察され得る事象との遭遇を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に任せればよいのであるから、
“そういうときには(人生が霊的成長のための事象の遭遇の場であることを認識したならば)忍耐(という自分を縛る概念など)も必要ありません”
ということであると思う。

 だがこれは、ローム太霊がいう所の“粘りとやせ我”の概念とは全く違うことを蛇足ながら述べておく。 
粘り”は、根張りで、それは、“日月神示”の日月の巻 第三十帖で述べた、“根”、これは “天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)”“天一根(あめひとつね)”の根と同義、進化すればたんぱく質が寄り集まり自凝(おのころ)して島になり、それは人の肉体が持つ様々な器官の発現のことでもあるし、様々な器官がチャクラ(荷電粒子の回転を示す)を構成するということ、そしてその“根”は、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子を止める、それは進化過程、霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階、このことを示すのも“根”の意味。 今述べたことを前提に人を観るなら、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低ければ、程度の低い心(靈)しか発現しない、高い“根”を持っているならば高い心が発現する、というのが“天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)”の“根別(ねわけ)”の意味合いである。

話しを戻し、言葉に対する認識ということも述べておく。
霊的成長度の低い人ほど、言葉の表面しか分からない、その言葉の意味合い、“どういうつもり”でその言葉が使われているか、ということが分かり得ないものであるから、自分にとって都合の良い甘い解釈をしがちであるが、アタシ的にこの文言を観るならば、先に述べたように人生に対する深い認識を持っていなければこの文言のいわんとする所は理解できないのではないのかな…という印象を持つ。
 それは、霊的成長度の低い者の、言葉の使い方、言葉から感じる意味合いや言い回しは、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではないということも知るべきであるし、ありていに言えば、その言葉は誠実でもなく、意味合いも深くない、ただ言葉をもてあそんでいるに等しい、ということであるが、それがまた平均的地球人の霊的成長度における行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の特徴であるともいいうるし、バシャールは人生における深い認識を持って自分を観よ、と述べていると思うが、程度の低い人は“いまに生きて、起きていることのすべてを楽しんでいる”そして“忍耐も必要ありません”という文言しか印象に残らないで、その言葉に甘い解釈をしているのではないのかな…という憶測をしてしまうものでもある。

○○○大先生的バシャールの文言解釈 “その五” (N先生のリクエスト)

 今回のこのカテゴリーでは、読者会に参加されていらっしゃる歯科医のN先生のリクエストで、以下の文言を解釈します。

自分がいまいるところで100%生きるとき、皆さんの波動が加速します。
そして自分自身の波動が上がっていくと過去世などの他の人生を含めた、本当の自分のいろいろな面が思い出されてきます。
ですから、一番パワフルで一番役に立つ方法というのは、ほかの人生ではなく、いまのこの人生をできる限り知るということです。
そして、もし自分の想像の中で、自分の過去世を思い出すテクニックが出てきたとしたら、それがあなたに一番役に立つ方法でしょう。
なぜなら、あなたがそれを考えたからです。
皆さんの想像、イマジネーションというものは、他の次元への扉となります。
どんどん使ってください。
そして、歴史の中で特に自分の興味が引かれるような時代がある場合、その時代に自分が深いつながりをもっていることがよくあります。
あなたが、そのような時代に過去世を持っていた可能性はよくあります。
ただ、いまの人生では、あるひとつの時代に興味をもち、他の人生では、よその時代に興味をもつ、ということもあります。
いまの人生が、他の時代のどの人生と一番結びついているかは、いまの人生によってわかります。
意識的に自分の他の人生を知っているのも、道具としては役に立つのですが、私たちから皆さんをみていると、この人生をよりよく生きるためには、自分の過去世を知っていなくてはいけない、と思い込んでいる人がたくさんいるようです。
本当は全く反対です。
いま自分がいるところを充実して生きることによって、他の自分の人生をより簡単に知ることができます。

 この文も一読すると、何か誤解を招くような言い回しが多いなという感がある。 
そして一つ一つの言葉が説明不足で不適切というか、やはり大人が幼稚園児に何かを諭すかのような幼稚な言い回しをしているな、という印象があるし、霊的成長度の低い人はその言い回しに甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)誤解を持つのではないのかな…と思うものである。
だがこの文章でもとても重要なことを述べていると思うし、一度にそれを全部述べると長文になるので、今回は“自分がいまいるところで100%…中略…あなたがそれを考えたからです”までを解釈することとする。
 そしてあえて述べておくならば、心(靈)というのは永遠不滅なのだが、平均的地球人の認識ではこのことすらしっかり認識されていないし、これを前提にバシャールは様々な言い回しをしているものである。 

 まず、冒頭の文。
“自分がいまいるところで100%生きるとき、皆さんの波動が加速します。
そして自分自身の波動が上がっていくと過去世などの他の人生を含めた、本当の自分のいろいろな面が思い出されてきます”

この文の“いまいるところ”というのは、現津(あきつ)、観察され得る事象の意、今現在、今この瞬間といってもいいが、自分がそこにいる、自分が存在していると認識している場(フィールド)ということ、そして“100%生きるとき”は、その事象、その場(フィールド)において自分がエネルギーを贖う(あがなう)ということで、それは、どんな心(靈)の動きであろうが、心の動きの顕現である生業(なりわい)であろうが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”であろうが、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ことをしなければならないということ。 それを強調する意味合いで“100%生きる”と述べられ、そうなったならば、それをしたならば、という意味で“とき”と述べられている。
そしてそれは“皆さんの波動が加速”といわれているが、この言い方もあいまいである。 
これは、今の事象に存在する個々の生命、生きていると認識されている存在は、肉体(月(ツキ))を伴った心(靈)(ヒ)であり、心(靈)(ヒ)は荷電粒子の回転であり、肉体(月(ツキ))は円形粒子加速機(サイクロトロン、シンクロトロン)の構造を持ち、ことにシンクロトロンの構造の強化=水平磁場の強化がおこなわれるならば、荷電粒子の回転は加速してそこから派生するエネルギーの輻射(電磁波または粒子線の形でエネルギーを放出すること)といい得る発振、発信は、強化され、さらにそれ事態が高振動となり(シンクロトロン放射はクンダリーニの白光、白い光となる)、高振動になるからこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の、高い部分と感応して、心(靈)の構造と認識しうる今までの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である本能、情動、功名心、自我、から、“上”の振動で構成されうる、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の発現とその確立をしていく。 
これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の概要である。 
そして前後するが、円形粒子加速機の輻射、発振、発信は、個々の存在のオーラでもあり、またその構成(“一二三”のオーラ)と大きさというのは、個々の霊的成長度を示す指標となるものである。

 それと、和訳されている“波動”というのが意味があいまいだと思える。 これが仮に、振動、vibration、ならば適切な表記だと思うが、wave motion(波、動き)、あるいはundulation(波動、うねり、の意)と解釈されるならば、意味が通じにくいし、これは翻訳の問題があるのかもしれない。 それは、wave motion、undulation、という言葉ならば、高い振動という要素を感じにくいと思うからである。

 その高い振動ということについては、常々述べている通り、心(靈)(ヒ)の構成要素としての振動の取り込み、それは肉体を伴った心(靈)(ヒ)の進化=人生というものを鑑みるならば、肉体を持っているからこそその磁束により“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込むものであり、その取り込む振動の高低により心(靈)の発現の段階というのは違うもので、平均的地球人の進化は大体ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、“日月神示”表記なら“江戸と尾張”、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンまででしかないことを幾度となく述べてきているし、ローム太霊がS会=紫光会で伝えた真言、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)も、その意味合いをもつものである。
 それで“自分自身の波動が上がっていくと”=自分の心(靈)の構成要素が高い振動になっていき、自我より“上”の心(靈)の発現があったならば、“過去世などの他の人生を含めた、本当の自分のいろいろな面が思い出されてきます”と述べられており、この言い回しで大事なのは、今の自分に対して相対的な言い回しである“本当の自分”であり、それは先の“いまいるところ”“自分”は“本当の自分”ではないのだ、また、“本当の自分”は内在している“神性”が顕現した生き方であると思うが、大概の地球人は自我中心の生き方、その思惑で行動している。
だがそれは“100%生きる”=人間が持っている心の構成要素である本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、のバランスが悪く、自我中心、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きなのだということと、先に述べたように、しっかりエネルギーを贖って(あがなって)生きていないのだ、ということを知るべきである。
 そしてそれを前提にこの文を読めば“本当の自分のいろいろな面”の一部として“過去世などの他の人生”を“思い出され”と述べられていることが分かる。
それは今の一生は、過去世を知らないで生きているが、それにはちゃんとした理由があり、なぜ地球人が八百回転生しているのか、なぜ何度も人生を繰り返さないと成長していかないのか、ということになっていくが、まだまだそんな段階では未熟であり、それはケダモノより少し“上”でしかないから、過去世に執着することなく“いまいるところで100%生きる”ことが大事であると述べられ、だからこそ転生したら“過去世”を忘れるという人生を送るのである。
そして重複するが“いまいるところで100%生きる”、そうやって自分の心(靈)の構成要素に高い振動を取り込んでいくならば=“自分自身の波動が上がっていくと”、これも、そうなるならばという仮定の言い回しであるが、そうなったならば、“過去世などの他の人生を含めた、本当の自分のいろいろな面が思い出されてきます”=今より相対的に自分の本質ともいいうる“神性”が顕現するから“本当の自分のいろいろな面”が“思い出され”るものであると述べられ、それはもう“過去世”に執着するような自我の特性みたいなことは諌められるということである…その意味のことを述べていると思える。

次の文。
“ですから、一番パワフルで一番役に立つ方法というのは、ほかの人生ではなく、いまのこの人生をできる限り知るということです。
そして、もし自分の想像の中で、自分の過去世を思い出すテクニックが出てきたとしたら、それがあなたに一番役に立つ方法でしょう。
なぜなら、あなたがそれを考えたからです”

 この“一番パワフルで一番役に立つ方法”というのも、不適切な言い回しであると思えるが、これは先の“いまいるところで100%生きる”と同義のことを述べており、それは“いまのこの人生をできる限り知る”ということでもある。
 これに続く“自分の想像の中で、自分の過去世を思い出すテクニックが出てきたとしたら”、これも“テクニック”という言い回しが不適切であると思う。
それは、いずれ人間が到達することとして、心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、肉体(月(ツキ))の死を超越するほどの“観察と認識”が出来るようになったなら、“過去世を思い出す”などということは当たり前のことになり、それは先に述べたように自我由来の執着(目下(めした)の心の動き)を自らが諌めることが出来るようになるからで、そうなったならそれは今よりも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したということである。

 それで“自分の想像の中で、自分の過去世を思い出す”=自分の心(靈)、その“観察と認識”の中においての“想像”という言い回しをされていると思うが、それが出来るくらいの進化を果たしたならば、という仮定の言い回しで、それが“あなたに一番役に立つ”と述べられているが、これは進化、霊的成長、神格化に向かうこと、のことであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が大事だと述べられているにすぎない。
そして蛇足だが“方法”という言い回しも先の“テクニック”同様、不適切な言い回しの感がある。
 そしてこれに続く“なぜなら、あなたがそれを考えたから”というのは、“考えた”=自らの思想由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、この前の文の“自分の過去世を思い出す”にかかっていると思うから、この文で述べられている“自分がいまいるところで100%生きる”そして“自分自身の波動が上がっていく”、それくらいの進化を果たす、あるいはそれくらいのレベルの進化を目指しなさい、ということであると思う。

 次回のこのカテゴリーでは、今回取り上げた文の後半を解釈することとする。

○○○大先生的バシャールの文言解釈“その六” (N先生のリクエスト その二)

 
 N先生のリクエスト、今回は、前回取り上げた文の続き、以下の文を解釈し、さらに前回と今回取り上げた文言の総括とさせてもらいます。

皆さんの想像、イマジネーションというものは、他の次元への扉となります。
どんどん使ってください。
そして、歴史の中で特に自分の興味が引かれるような時代がある場合、その時代に自分が深いつながりをもっていることがよくあります。
あなたが、そのような時代に過去世を持っていた可能性はよくあります。
ただ、いまの人生では、あるひとつの時代に興味をもち、他の人生では、よその時代に興味をもつ、ということもあります。
いまの人生が、他の時代のどの人生と一番結びついているかは、いまの人生によってわかります。
意識的に自分の他の人生を知っているのも、道具としては役に立つのですが、私たちから皆さんをみていると、この人生をよりよく生きるためには、自分の過去世を知っていなくてはいけない、と思い込んでいる人がたくさんいるようです。
本当は全く反対です。
いま自分がいるところを充実して生きることによって、他の自分の人生をより簡単に知ることができます。

 いつもバシャールの文言を読むと思うことだが、質問に対する回答というカタチでメッセージが伝えられているので、述べていることが場当たり的な説明になっており、きちんと“上”が伝えなけければならないことをあいまいなカタチで説明しているという感がある。 
それでこの文も、読む人の霊的成長度が低ければ、認識が低ければ、間違った甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をしそうな文章であると思える。
 
 冒頭の“想像、イマジネーションというものは、他の次元への扉”それを“使って”というのは、“上”であろうが“下”であろうが、人間だろうが神であろうが下等生物であろうが、すべての生命(生きる使命=存在理由)が行っている観察行為とそこから得られる認識、そして現津(あきつ)、観察され得る事象ということの理解が深まっていなければ、この言い回しをしっかり理解できないと思う。
 いわゆる“観察と認識”、それは振動の受信によることで、その受信があるからこそ観察行為が成り立つのであり、取り込んだ振動が認識(悟り、幸取=さとり)となるものであるから、前のブログ以降、感じ(感じる磁性)るという表記を使っているが、振動の受信、そして自分自身においてその受信によって起きることは、換言すれば電磁波と自らその者である荷電粒子の回転である靈、心、による電磁誘導が、感じる、感じ(感じる磁性)ている、それは観察している、ということの理解が出来ていなければ、この文をしっかり読み解いたことにならないと思う。
 また自分自身、心(靈)(ヒ)が構成されている振動の高低により、換言すれば霊的成長度の高低により、現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇というものは、違ってくることを幾度となく述べてきている。 
そしてこの文言の中の“次元”という言い回しは、自らが遭遇する事象、その場(フィールド)の高低を示唆しているものであるし、物理でいうところの三次元とか四次元とかの概念とは少々違う。 
それで、今述べた霊的成長度における現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇、現津(あきつ)、観察され得る事象は、振動の受信により“観察と認識”されうるのであり、自分の心(靈)を構成する振動が高くなっていったなら=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高い部分を、(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して)より止めるようなことが出来たならば、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)があるならば、遭遇する事象というのは違ってくるし、それがまた霊的成長度におけるアセンションという場(フィールド)の区分けとして、感じ(感じる磁性)られて来るものであるのだが、このことが理解できているならば冒頭の“皆さんの想像、イマジネーションというものは、他の次元への扉となります”という文言の示唆していることはすぐ理解できる思う。
また、自分の霊的成長ということが無ければ、遭遇する事象の違いというのは有り得ないのだということも解るものだが、“イマジネーション”を“どんどん使って”程度のことであるなら、それは、“その三”で述べた“古い観念”から違う発想をして欲しいということでしかない。 それは“その三”で次のように解釈した。

“心配や疑いは、もう古い観念で、自分のまわりに創りたい現実とは、 まったく関係ありません。 自分の現実の中に欲しくないものは、わざわざ信じないでください。喜びより、心配の方が力をもっていると思って行動を起こさないでください”
自分たちの低い心(靈)、目下(めした)の心が、低い情動、恨み、妬み、羨望etc.という心の動きになるのだが、そういった心の動きでは、今の事象と同じ世界しか創り得ない、ということを述べているし、この“古い観念”、これは自分を縛る既成概念で、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、の強化の段階における心(靈)の動き、不安、焦燥、が台頭している心だと、それは、
● 自分の人生に対する認識が足りませんよ、
● 自分の人生が霊的成長のためにあるのだということを認識できませんよ、
ということである。
 
こういった“古い観念”由来の思想、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“他の次元への扉”なんてことには成り得ないもので、それは今の地球と同じ程度の事象しか感得しえないものであるし、いうまでもなくそれはアセンション落第組である。

それで、今取り上げた文の続きである以下の文言の“歴史の中で特に自分の興味が引かれるような時代がある場合、その時代に自分が深いつながりをもっていること”、“そのような時代に過去世を持っていた可能性”というのは、転生を示唆しているかのように思う人が多いだろうが、人間はそんなに簡単に生まれ変わってこないので、これは先の“古い観念”由来の憑き物の通信を受けていることを示唆した文章であると思う。
ただこの後の文の“いまの人生が、他の時代のどの人生と一番結びついているか”という言い回しは、平均的地球人が体験している八百回の転生において、どんな振動で自分の心(靈)を構成してきているのかを述べているので、そこもよく見抜かなければならない。
いずれにせよ、現時点の心(靈)は、先の“古い観念”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と“古い観念”由来の憑き物の通信を受けながら心は育っている。 それが“自分の興味が引かれるような時代がある”ということになり、それに対する“自分が深いつながりをもっていること”というのは、自分の息吹とそれに感応する憑き物、これは“支配霊”の領域ともいいうるが、その両方を含め“そのような時代に過去世を持っていた可能性”があるのだと言っているにすぎないし、時間の進行とともに自分の心(靈)は育ち、変化し、その息吹による憑き物の感応は違ってくるから“ただ、いまの人生では、あるひとつの時代に興味をもち、他の人生では、よその時代に興味をもつ、ということもあります”と述べられている。
そして“いま自分がいるところを充実して生きることによって、他の自分の人生をより簡単に知ることができます”というのは、今の事象において“上”が課し、その中で自分が自分の人生をどう全うするかを鑑みる=“自分がいるところを充実して生きること”が出来たなら、自分の心(靈)を構成してきた振動というものの理解が進む、そうなったなら、前回取り上げた“皆さんの波動が加速…中略…自分自身の波動が上がっていくと過去世などの他の人生を含めた、本当の自分のいろいろな面が思い出され…中略…一番パワフルで一番役に立つ方法というのは、ほかの人生ではなく、いまのこの人生をできる限り知るということ”ということになる。

まとめれば“波動が加速”=自分が霊的成長して高い振動を取り込み発振、発信しているならば、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である“皆さんの想像、イマジネーションというものは、他の次元への扉”=今までとは違う事象の遭遇となり、それは個々の霊的成長度の高低において違うものである。
そして霊的成長するならば、自分の過去、そして過去の自分の息吹による憑依、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を自らが分析できる

“自分の想像の中で、自分の過去世を思い出すテクニックが出てきたとしたら、それがあなたに一番役に立つ方法”
“いまの人生が、他の時代のどの人生と一番結びついているかは、いまの人生によってわかります”
ということになり、それは“この人生をよりよく生きるためには、自分の過去世を知っていなくてはいけない、と思い込んでいる人がたくさんいるようです。本当は全く反対です”=過去、あるいは過去における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で取り込んだ振動、それ由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)というのは、“古い観念”由来のことであるからそれに執着せず、“自分がいまいるところで100%生きる”そして“いま自分がいるところを充実して生きる”=換言すれば今までとは違う振動の取り込みをしてそれを止める(“日止、霊止”の表記の意味)ならば、“波動が加速”して“本当の自分のいろいろな面が思い出され”てきて“他の自分の人生をより簡単に知ること”、過去の自分の心(靈)の動きや息吹を、自分で分析できるようになる、これは“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”、自分の自我(“古い観念”)に捉われていない自分に対する見方、自分に対する“観察と認識”が高まっていく、そういう意味合いの文章であると思う。

 次回のこのカテゴリーは、N先生のリクエスト その三 になります。



○○○大先生的バシャールの文言解釈“その七” (N先生のリクエスト その三)


 N先生のリクエスト、前回&前々回とは違う文言を解釈します。 原文は以下の通り。

天使たちも成長します。 ただ、ペースが違うだけです。
こういう考え方をするといいでしょう。
宇宙はすべての可能性を含んでいます。
創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。
「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません。
ですから、時間という概念がなくなるのですが、片方がもう一方より以前に存在したわけではないのです。

 このバシャールの言い回しは、当然のことながらチャネリングにおける質問の回答として述べられていることで、この言い回しをした理由と根拠、質問とそれに対する回答であることをよく理解していないと、この文言の意味は理解できないと思う。 それはこの言い回しの内容に、自己と他者の分類をしている“観察と認識”ということと、そして事象の観察というのは、自分たちの心(靈)(ヒ)の内面とか内側(心の中と感じている事)で起きていることであるという理解が不可欠であると思うからである。

 それで、今回N先生が疑問を感じられたこの言い回しが述べられる前の会話として、

質問者「バシャールさんは違う天体から来ていて、魂そのものは私たちと同じだということを、先ほどうかがいましたが…」
バシャール「すべての魂は同じです」
質問者「そうですね、私もそう思います。 そして私たちも自分の魂そのものの進化を求めるために、この世に生まれてきたり、あなたの天体のようなところに生まれます。 そして魂の浄化、進化を目的に再び生まれてくるわけですが…」
バシャール「そういうふうにみることもできます」
質問者「ただ私が読んだ本の中に、魂の中にもいろいろなレベルがある、というのがありまして…」
バシャール「でも、だからといって、最初から別々のものとして創られた、ということではありません。
“その魂がなにでできているか”ということと“その魂がどこまで自分に気づいているか”ということとは、だいぶ話が違います」
質問者「そうですね。 例えばキリスト教や神、モーゼスなどの魂の段階のレベルと、私たちのように普通に生まれてきた人たちの魂、そしてキリストや神は天使だと思うんですけれど、その天使以外のもっと最初からハイレベルな魂があると聞いています。 それらの魂の違いについてお聞きしたいのです」
バシャール「波動が違うだけです。 より高い波動なだけです。 “魂は完全である”ということに対しての気づきの程度の違いだけです。 わかりますか?」
質問者「はい、波動はわかるのですが、魂には終わりがなく、始まりがないというふうに聞いています。 永遠のものですね?」
バシャール「その通りです。 “成長”を時間の流れの中で考えるのは、皆さんのこの次元の見方です」
質問者「はい。 私たちのこの次元の考え方と、魂の世界では全然違うのは、なんとなく想像はつくんですけれど…」
バシャール「かなり違います」
質問者「でもどうして始まりがなくて終わりがないのに、最初の波動の違いがあるのか、ちょっと私にはわからないのです。 その波動の違いだけで、たとえばキリストと私たち一般市民がいるのか、そして全然魂の浄化を必要としない魂たちが霊界のなかにいるのか、聞きたいのです」

 このやり取りがあって、今回取り上げるバシャールの言い回しにつながっているが、この質問のやり取りを見て、アタシ的にとても引っかかることとして翻訳の問題があると思う。 
まず“魂”という言葉だが、これは霊と訳すのが妥当であると思える。 それは“続”の記事で時々述べているように、霊と魂という言葉は、意味合いが違う場合があるからである。
 魂は、その字の構成をみれば、偏(へん)が、肉体を示す“二”と厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)で構成され、旁(つくり)は鬼、これはこの世に在らざる者という意味合いのことである。 よって、死んで間もない霊や、あるいは肉体(月(ツキ))を持っている霊、いわゆるアタシたちのような人間が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を区別するときに使う言葉が魂であり、それに対し霊は、今述べた魂の意味合いも含むし、あらゆる霊的存在、荷電粒子の回転で存在している生命(生きる使命=存在理由)、これは悪魔であろうが神であろうが“創造”の“主(ヌシ)”だろうが靈、霊、であることは同じで、それを総称したのが霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であると思うからである。
 ちなみに英語の場合、魂も霊もa soul  a spirit あるいは the soul  the spirit であるが、それぞれの言葉に対して意味の相違は、たいしてなく、この英語を、霊と訳すも魂と訳すのも、翻訳する人間が決めることである。
 これは平均的地球人の既成概念における認識の中で、魂、霊、あるいは幽霊など浮遊霊や地縛霊などの悪霊、霊的存在の“上”と“下”、などの分析と分類がしっかりできていないからであると思える。
 そしてもう一つ、前々回で問題視して述べた“波動”という和訳、これは振動とした方が意味が通じやすいと思う。

 このことを踏まえ、この質問者とバシャールのやり取りと、今回n先生が疑問を感じた文言の解釈を述べることとする。

まず、バシャールが言ったように“すべての魂は同じ”これは先に述べたように、すべての霊は同じ、という訳が妥当である。 
そしてバシャールが言った“その魂がなにでできているか”→その霊がなにでできているか、というのは、霊が荷電粒子の回転であるということを述べるべき、またその荷電粒子は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、いわゆる天意であり、またそれは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と情報を含んでいるのが“上”からの荷電粒子である。 そしてその振動の取り込みの高低で心(靈)の発現は違っている、その違いが進化の違いでもある。
それで思うこととしては、バシャールが述べていることは言葉足らずであり、これは質問と回答というやり取りであるからしょうがないのかもしれないが、本当はこのことを念頭に置いて述べなければならないことだと思うし、バシャールの回答を聞いている方もこのことの理解が無ければならないと思える。
そして、質問者の“魂の中にもいろいろなレベルがある”の回答として“最初から別々のものとして創られた、ということではありません”というのは、すべての霊が荷電粒子の回転であるという意味合いのことである。 
そして、“その魂がどこまで自分に気づいているか”→その心(靈)(ヒ)がどこまで自分に気づいているか、は、どこまで認識(悟り、幸取=さとり)を得ているか、高い心を発現して事象を観察しているのか、ということであり、これは、心(靈)(ヒ)(霊)の発現の程度により、事象の遭遇は違うのだということが理解できていないといけない。 このことはこのブログの他のカテゴリーで幾度となく述べているが、高い心が発現していない霊は、人でいうところのケダモノとか動物とか下等生物とか、神の概念を間違ったり幸福を見誤ったり自分たちの存在の意義を追及するほどの心の成長度=霊的成長度を持っていないということで、バシャールが述べた“魂がどこまで自分に気づいている”は、その霊がどこまで自分の存在の意義と、霊的成長して高い心(智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”)を持っているのかということに換言できるものである。
今述べた心(靈)の発現の高低、これがあるから“霊(魂の表記の意味合い)の中にもいろいろなレベルがある”ということになる。
そして、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは、今、地球人であるアタシたちが事象を観て感じていることとして、時間の進行を認識しながら成し遂げられており、そいういった認識をもつものであるが、それについて、バシャールは““成長”を時間の流れの中で考えるのは、皆さんのこの次元の見方”と述べている。
これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たしたなら、時間の進行の感じ方が変わる、時間への認識も変わる、このことは未刊行の<7>の最後で述べた“時空の結晶化”に由来することであるが、“時空の結晶化”も、自分自身が自分と自分以外と現津(あきつ)、観察され得る事象を観察して得られる認識であり、時間の進行だろうが、現実とか自分の心(靈)の動き=すべての事象だろうが、自己と他者の区別であろうが、それらすべて自分の心(靈)の内面とか内側(心の中と感じている事)で認識することである。 
その意味合いを含んだバシャールの言い回しが、今回N先生が疑問を感じた文言の、

“宇宙はすべての可能性を含んでいます。
創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。
「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません。
ですから、時間という概念がなくなるのですが、片方がもう一方より以前に存在したわけではないのです”

であり、先に述べた“霊が荷電粒子の回転であるということを述べるべき、またその荷電粒子は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、いわゆる天意であり、またそれは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と情報を含んでいるのが“上”からの荷電粒子である”ということが理解できているならば、“創造”の“主(ヌシ)”の創造とその被造物である人間とすべての事象ということが“宇宙はすべての可能性を含んでいます”という文言から感じ取られ、そして“創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”も霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、心(靈)(ヒ)であり、“創造”の“主(ヌシ)”実塚らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が宇宙と生命の“創造”であることを示唆した言い回しである。 そして“創造”は、“創造”の“主(ヌシ)”の心とそうではない心、“創造”の“主(ヌシ)”=自己、と、被造物=他者、あるいはすべての事象、の区別がある。
そしてその区別があることによって、N先生が疑問を感じた文言に、()で注釈をいれ、以下に解釈を述べることとする。

“(“創造”の“主(ヌシ)”自身の)創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分(“創造”の“主(ヌシ)”自身)を創造(自己組織化)していきます。
「全体」(“創造”の“主(ヌシ)”は全体である)は、その全体の「部分々々」(“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”した個々の生命、個々の心(靈)(ヒ))が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます(個々の心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するということ)。
そして「部分」(個々の心(靈)(ヒ))は「全体」(“創造”の“主(ヌシ)”自体、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです(自己と他者、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物)。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません”

それで、今回述べたことは、著書の<1>で述べた以下の文章と共通するところがある。 

「神の智慧と力は普遍的に実在する。例えば、スポーツでも仕事でも、上達したい気があって、そこで頑張れば、自分の希望した何かは必ず獲得でき得るんだよ」
「……ビックリ……」
「いいかな……話を続けて」
「はい」
「じゃ、愛の解釈を言う。実は、Kellyが、さっき一人で感じたことは、以前からアタシも何度か感じていた。ずっと一人で暮らしてるからだろうけど……それで思ったことなんだが……唯一の存在、たった一つのもの、たった一つの意識、一番最初の状態を【亜】と呼んで、それが出る(いづる)こと、泉のようにわき出ることを、あ、い、【愛】とよぶ。愛の、一つの言い方だと思うよ。意識も、心も、感情も、感覚も、愛の顕れだと思う。感覚も感情も、人と神の共通のものとするならば、人の神性は感覚、感情、それそのものではないかい? だから、神は、創造は、愛なんだよ。
そして、受信した文は……
意識が最初にありました。意識は、自分一人だということに気づきました。意識は想像しました。対話できる相手を。そして自分を、二つに分けました。二つの意識は、お互いに違う性質を持ちました。対話が、お互いの意識を振動させるのを知りました。意識の振動が新しい振動を呼び起こし、別の意識が出来ました。意識は、自分が振動そのものだと気づきました。それぞれの意識の振動を互いに受けることに、喜びを見つけました。振動の高低がそれぞれの次元を創りました。振動の高低がさまざまな思いを派生させました。それぞれの次元で振動することで空間を創りました。空間で振動することを、生命と名付けました。意識は生命に入り込み、共振しました。生命に入り込んだ意識は心になりました。生命は、さまざまな感情を持ちました。より多くの喜びを見つけるために。振動の低い次元の生命は、喜びを多く求め、そのために欲という振動を持ちました。欲が自分のことだけ、思わせるのを知りました。欲が、他者から奪うことを知りました。欲が他者を傷つけるのを知りました。意識は、欲に制限が必要だと感じました。
無限の意識に対して、有限の法則を創りました。有限の法則は欲の制限のため、時間と物質を伴っていました。不自由という振動ができました。喜びが満たされないために出来た振動が、喜び以外の感情を手に入れました。それは一つ一つの心が完成を目指すための方法でもありました。そこに、愛と悪の振動が出来ました。
……ここから少し忘れちゃった。
有限の次元から無限の次元を見ようとしました。
……ここも忘れちゃった。
そして、それらの要素すべてを携えて、神の子が動物の肉体に宿り人間と、なりました。

以上、併せて読んでいただいて理解を深めていただければ、幸いです。

次回のこのカテゴリーは、N先生のリクエスト その四 になります。



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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (443)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (14)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (3)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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