“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 水の巻 第一帖 Kellyさん的解釈

 今回から水の巻の解釈に入りまんねん。 先ず第一帖の原文は以下の通り。

ローレンツ力と ○ (みず)の巻 書き知らすぞ。
見渡す限り雲もなく富士は晴れたり、日本晴れ、海は晴れたり、日本晴れ、港々に日の丸の旗 翻(ひるがえ)る神の国。 
それ迄に云ふに云はれんことあるなれど、頑張りて下されよ。 道も無くなるぞ。 てん詞様おろがみてくれよ。 
てん詞様は神と申して知らしてあろがな、まだ分らんか、地(くに)の神 大切せよと聞かしてあろが、神様にお燈明(あかし)ばかり備へてはまだ足らぬのぞ。 お燈明と共に水捧げなならんのざぞ。 火と水ぞと申してあろ、神示よく裏の裏まで読みて下されよ、守護神殿 祭りて呉れよ。 まつはらねば力現はれぬぞ、守護神殿は拍手四つ打ちておろがめよ、元の生神様には水がどうしてもいるのざぞ、火ばかりでは力出ぬのざぞ、わかりたか、曇りなく空は晴れたり。
旧三月十日、三のひつ九ローレンツ力と ○

 冒頭の表記、“三 ローレンツ力と ○ (みず)”の意味は、“三”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組みをも表すものと思う。

 これに続く、
“見渡す限り雲もなく富士(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)は晴れたり、日本晴れ、海は晴れたり、日本晴れ、港々に日の丸の旗 翻(ひるがえ)る神の国”の、“見渡す限り雲もなく”

というのは、今現在、ほとんどの人間が何も真実=真固止を知らない、また“日月神示”表記の、○ 九 十 に、霊的成長と神と人間との関係を感得できない、そして追い求めているものが間違っている、その間違いは霊的成長度の低さにあり、その霊的成長度は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きであり、だからほとんどの人=平均的地球人は、“ほんとう”を知らず、“ほんとう”を見いだせず、“ほんとう”を理念に思想を構築したり行動したりということをしていない=“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない、不誠実である、それらを揶揄した言い回しであると思える。 
 また、その霊的成長度の低さによる認識では、自分たちの存在の意味と意義、自分たちは何のために生きているのか、生きている間に何をしていくべきか、なにを成し遂げていくのか、などという、自分に対する考察というものも持ちえず、ただ、目先の快楽や自分たちの低い功名心と自尊心を満たすものばかりを追いかけたりもするし、それは自我の肥大(“石屋の仕組み”)でもあるし、自我の確立=固定化の霊的成長の段階でもあるし、○○○大先生的な言い回しならば目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きでしかないのであるが、それではいけないから目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)を顕現せよ、目上(めうえ)由来の思想を構築し、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の行動をせよ、という意味合いの言い回しが“港々に日の丸の旗 翻(ひるがえ)る神の国”であり、この文の“神の国”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の心(靈)、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)であり、“港々に”と“海は晴れたり”の“海”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、と、同義であると思え、それは腹における錯体でもあり、自我でもあり、マニピューラチャクラでもあるが、この腹の水がこの世界、今の事象の“創造”のエネルギーでもあり、それを“神の国”=智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で御す、あるいは自我を諌めるのは智性(神性)であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が自我を御していくならば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に成りうるという、今まで幾度となく述べてきたことをこの文で言い表されていると思えるし、“晴れたり”と“日本晴れ”と“日の丸の旗 翻(ひるがえ)る”という太陽を連想させる言い回しは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを暗に示しているのだと思えるし、太陽凝視を“行”として行わなければ智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得に至らず、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”のまま、その心(靈)(ヒ)の成長度のままであるから、それではいけないからこそ、こういった言い回しがされているのだと思う。

 これに続く、
“それ迄に云ふに云はれんことあるなれど、頑張りて下されよ。 道も無くなるぞ。 てん詞様おろがみてくれよ”

これは、“それ迄”=(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に成りうるまで、その霊的成長度に至るまでには、人生で苦痛や苦悩を味わい(ローム太霊の言葉、右往左往と左往右往、自分の在り方を深く鑑みる過程)、霊的成長度の低い人が段々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識し、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の発現、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得であるということを知り、そのための行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする、これは個々の人生や生業(なりわい)、背負っている因縁など、すべて自分がやってきたこと、体験してきたことを自分自身が深く鑑みて自分が何者であり自分が何のために存在しているのかを知る過程であるが、それを“それ迄に云ふに云はれんことあるなれど、頑張りて下されよ”と、簡潔に称されていると思える。
 そしてその“道”は、平均的地球人の既成概念の人生(時間の進行としての“道”)とは違うから“道も無くなる”といわれ、これに続く“てん詞様おろがみてくれ”は、“一”=智性=1番目のオーラが大きく、自分の生き方に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理念としている人、自省(胸の磁性“十”)の出来ている人を、自らの人生の指標にせよ、という意味合いであると思える。

 これに続く、
“てん詞様は神と申して知らしてあろがな、まだ分らんか、地(くに)の神 大切せよと聞かしてあろが、神様にお燈明(あかし)ばかり備へてはまだ足らぬのぞ。 お燈明と共に水捧げなならんのざぞ”

この、“てん詞様は神と申して知らしてあろがな”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った“日止、霊止”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高い振動を自らの肉体(月(ツキ))の磁性と感応する思想を持った心(靈)(ヒ)で止める、いわゆる神の思惑を顕現すべく生きている人の意である。 そして神の思惑は天より“下”である地に顕現する、それをするのは人間である、という意味合いのことが“地(くに)の神 大切せよ”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に向かう人、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理念として生きている人、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”をやっている人、が、今の事象、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った状態=生きているという状態で観察しうる事象、それは現界といってもいいが、これを変えていかねばならないし、その意味合いのことが“神様にお燈明(あかし)ばかり備へてはまだ足らぬ”=神に頼んでばかりいてもダメ、神頼みでご利益を求める心の動きはダメ、自分にとって都合の良いことばかり祈っていてもダメ、先に述べたように、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得する、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得のための生き方を自分の理念とする、そして自らを諌める、自分をよく観察する(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)、これをするのが今後=アセンション後に移行すべき人の資格でもあり、霊的成長を果たしていくならばそれに応じた事象の遭遇というものがある、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、という意味合いのことをこういう揶揄した言い回しをされていると思えるが、これに続く“お燈明と共に水捧げなならん”は、ガラッと意味合いが変わり、この文の“お燈明”は、神仏に供える灯火であるが、これは仏教においては、闇(無明)を照らす智慧の光とされている。 ちなみにこの解説はWikipediaから引用した。
だがこんな説明をただ引用しただけでは、先に述べた
智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得する、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得のための生き方を自分の理念とする、そして自らを諌める、自分をよく観察する(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)、これをする
ということを感得しえない。
そして、今の事象が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=腹の水、“江戸と尾張”の進化過程、自我中心の心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている腐った事象が“闇”である、という視点を持ちえない。
その“闇”を何とかするのが、“お燈明”=智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であるということを読み取るべき。

そしてこれに続く、
“火と水ぞと申してあろ、神示よく裏の裏まで読みて下されよ、守護神殿 祭りて呉れよ。 まつはらねば力現はれぬぞ、守護神殿は拍手四つ打ちておろがめよ、元の生神様には水がどうしてもいるのざぞ、火ばかりでは力出ぬのざぞ、わかりたか、曇りなく空は晴れたり”

この、“火と水”、これは以前、下つ巻 第十帖で解釈したことがあり(“十は火と水ぞ、縦横結びて力出るぞ”下つ巻 第十帖”)、“火”は、灬(よつてん、れっか、れんが)、“上”に向かう腹のエネルギー、ちなみに幽界(“日月神示”表記では自我中心の心(靈)(ヒ)が観察しうる事象の意味合い、外側(外国と幽界)の事象)の“幽”も、幽か(かすか)の左右の糸を外した山みたいな字と、火=灬(よつてん、れっか、れんが)は同じ意味である。 
(このことも以前、上つ巻 第八帖で解釈を述べた)
 そして何度も述べるが、腹は水、錯体としての水、水で止める“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意というのは水で止める低い振動であるから自我という心になる。
 しかし自我中心で、それより“上”の心(靈)の発現の無い人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、この事象を“闇”にしており、それはまた言い方を変えるなら“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、○○○大先生的な言い回しなら目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)(ヒ)である。
 だからこそその自我のエネルギーは大日如来の条帛(じょうはく)のように日足(ひたり)回転で上昇しなければならず、その上昇の秘密は胸の磁性“十”であるし、少し前に解釈したキの巻第十七帖の

“富士は晴れたり キの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたり キの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ”

これを、強く思い起こさせられるものでもあるし、要は自省(胸の磁性“十”)できた心(靈)(ヒ)でなければならないというのが、今取り上げている文の要であると思える。
 それを踏まえ今取り上げている文言を見るなら“火と水ぞと申してあろ、神示よく裏の裏まで読みて下され”は、腹と胸の磁性“十”のことはすでに述べているから、よくその意味を読み取れ、ということであり、“守護神殿 祭りて呉れよ。 まつはらねば力現はれぬぞ、守護神殿は拍手四つ打ちておろがめよ”は、今の個々の人達の霊的成長度における“上”=“守護神”と感応(“祭”、月偏(へん)と四肢を表す又の意味を感得して欲しい)しろ、ということであり、“拍手四つ”は、手の磁性と“四”=発振、発信であり、“元の生神様には水がどうしてもいるのざぞ、火ばかりでは力出ぬのざぞ、わかりたか”は、“元の生神様”は、以前解釈した“世の元からの生神”(磐戸の巻によく出てきた表記)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことであり、それを顕現する、この世界を変えていく、観察しうる事象自体を神の“思惑の顕現”とするには、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を体得し理念としていなければならないのであり、“水がどうしてもいるのざぞ、火ばかりでは力出ぬのざぞ”は、自我、腹の水、“江戸と尾張”、これが現界、あるいは“顕界”(この表記はこの後の水の巻に登場する)、生きている間の個々の霊的成長度における現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇というのは、外側(外国と幽界)の事象であり、自我が創っているものであるのであるという意味合いのことであり、自我より“上”の心だけでは、事象の“創造”には成り得ず=思想だけではこの世界を変えていけないということであり、思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が伴う、高い心の動きを顕現した生き方をするのが神の子としての役割、使命であり、それを実感したならば自らの高い功名心と自尊心は満たされるのであるから“うれしうれし”“大歓喜”ということになり、またそれを顕現するのは今取り上げている第一帖の冒頭の表記の“三ローレンツ力と ○ (みず)”=“一二三”のオーラの完成であり、そうなったならば第一帖の最後の文、“曇りなく空は晴れたり”=今の事象が“闇”でなくなり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”している腐った事象ではなくなるという意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、水の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)であるぞ。
たかあまはらに、かむつまります、かむろぎ、かむろみのみこともちて、すめみおや かむいざなぎのみこと、つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはらに、みそぎはらひたまふときに、なりませる、はらえとのおほかみたち、もろもろのまがことつみけがれを、はらえたまへ きよめたまへと まおすことのよしを、あまつかみ、くにつかみ、やほよろづのかみたちともに、あめのふちこまの、みみふりたてて きこしめせと、かしこみかしこみもまおす。
あめのひつくのかみ、まもりたまへ さちはへたまへ、あめのひつくのかみ、やさかましませ、いやさかましませ、一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリ)。
旧三月十日、三のひつ九か三。

 まず“ひふみ、よいむなや、こと…中略…ほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)であるぞ”は、○○○大先生が著書でも取り上げた太祝詞(ふとのりと)であり、“たかあまはらに、かむつまります、かむろぎ、かむろみのみこともちて…中略…かしこみかしこみもまおす”も、○○○大先生がS会=紫光会の主護霊会で自身の“主護霊”にこれを唱えよといわれた禊の祓いである。(このことも○○○大先生は著書に書いた)

 これを何のために唱えるのか、それはひとことでいえば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応のためである。
 太祝詞(ふとのりと)は高い存在との感応を意図したものであるし、禊の祓いは、自分に憑いた悪霊の祓いを“上”に頼む文言であるし、またその悪霊たちを、“本津宮”(もとつみや)=自省(胸の磁性“十”)させるための文言でもある。 

 それで祓いについてであるが、地球人の進化過程は自我の確立=固定化であるし、自我が肥大しているから恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた状態の星になっているのが地球であり、幾多の悪霊だらけの星になっている。 その霊的干渉に浸っているだけの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のために何もしていない人間に対して、せめて、“上”と感応しろ、そして身に憑いた穢れ、悪霊が満ち満ちている場所で生業(なりわい)を行っている人間が多いから、これを唱えよということでもあるだろう。
そもそも平均的地球人の生業(なりわい)は、金の奴隷であることが多いし、また自我の確立=固定化の進化に必須な、低い自尊心と功名心を満たそうとする行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が多いものである。
それが“石屋の仕組み”=自我の肥大、を生み出し、結果として“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心になり、物欲と金に対する執着は恨みの連鎖の霊的干渉を増大させている大きな原因であることはたびたび述べてきているので詳細は割愛するが、その生業(なりわい)で成功しようとか生業(なりわい)を完成させようとかと思うその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は呼び込みにくい、感応しにくい、そして生業(なりわい)を成功させようという心の動きは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)が憑依する、魔がさしたりしやすいから、これを唱えよということである。

 それで“あめのひつくのかみ、まもりたまへ さちはへたまへ、あめのひつくのかみ、やさかましませ、いやさかましませ、一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリ)”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆しているとしか思えず、またそれは“一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリ)”、これを短くすれば“ヒト”であり、“日止、霊止”であり、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、完成に至る(○ 九 十 の、“九”と“十”)という意味合いを含んでいると思われる。

 そしてこの第二帖は、第三帖に続き、第三帖の“神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つ”にかかっているものと思われる。

今回はこれくらいにしときまんねん

 

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その一”

 今回も、水の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通りではあるが、今回は“神の子は神としての自分養ふことも…中略…神急ぐぞ”までを解釈することとする。

神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ。 取違ひすると大層な事になるから、気つけておくぞ。 書かしてある御神名は御神体として祭りてもよく、お肌守としてもよいぞ、皆に多く分けてやれよ。 御神名いくらでも書かすぞ、その用意しておいてくれよ、神急ぐぞ。 祓え祝詞書き知らすぞ。
 かけまくもかしこき、いざなぎのおほかみ、つくしのひむかの、たちばなのおとのあはぎはらに、みそぎはらえたまふときになりませる、つきたつふなどのかみ、みちのなかちはのかみ、ときおかしのかみ、わつらひのうしのかみ、ちまたのかみ、あきくひのうしのかみ、おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ、やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ、いづのめのかみ、そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと、はらえと四はしらのかみたちともに、もろもろのまがこと、つみけがれをはらえたまへ、きよめたまへとまおすことを、きこしめせと、かしこみかしこみもまおす。
 次に「うけひ」の言葉しらすぞ。
 ご三たいのおほかみさま、ご三たいのおほかみさま、ひつきのおほかみさま、くにとこたちのおほかみさま、とよくもぬのおほかみさま、つきのおほかみさま、すさなるのおほかみさま、あめのかみさま、かぜのかみさま、いわのかみさま、キのかみさま、かねのかみさま、ひのかみさま、ひのでのかみさま、りゅうぐうのおとひめさま、やほよろづのいきかみさま、ことにいすずにます、てんしょうこうだいじんぐうさま、とようけのおほかみさまをはじめたてまつり、よのなかのいきかみさま、うぶすなのおほかみさまのおんまへに、ひろきあつきごしゅごのほど、ありがたく、とうとく、おんれいもうしあげます。このたびのいわとひらきには、千万いやさかのおはたらき、ねがひあげます。あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ、せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ。
 次に御先祖様の拝詞しらすぞ。
 此の祖霊宮に(コレのミタマヤに)
神鎮まり坐す(カミシヅまりマす)。
遠津祖神(トオツミオヤノカミ)、
代々の祖霊神達の御前(ヨヨのオヤのミマエ)、
また親族家族の(またウカラヤカラの)
霊祖神の御前に(ミタマのオンマエに)
謹み敬ひも白す(ツツシみイヤマひマオす)。
此の家内には(コレのウチには)
諸々の曲事(モロモロのマガコト)、
罪穢あらしめず(ツミケガレあらしめず)、
夜の護り(ヨのマモり)、
日の守りに(ヒのマモりに)
守り幸はひ給ひ(マモりサキはひタマひ)、
まこと神国のみ民としての(まことカミクニのみタミとしての)
義務を全うせしめ給へ(ツトメをマットうせしめタマへ)、
夜の護り(ヨのマモり)
日の守りに守り(ヒのマモりにマモり)、
捧ぐるものの絶間無く(ササぐるもののタママナく)、
子孫の(ウミノコの)
弥栄継ぎに(イヤサカツぎに)
栄えしめ給へと(サカえしめタマへと)
畏み畏みも白す(カシコみカシコみマオす)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)。
 一本の草でも干して貯へておけよと申してあろがな。
四月二十三日、三の一二のか三。

 第二帖の最後で述べたように、第二帖の祝詞、“上”との感応と悪霊の祓い、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い、“ヒト”“日止、霊止”の完成に至れ、という祝詞は、第三帖の冒頭の言葉“神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ”にかかっており、この文言の“神の子は神としての自分”これを“養ふことも、つとめの一つ”、これは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のことである。  

 これまで幾度となく述べてきているように、平均的地球人の霊的成長度、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の段階というのは、智性(神性)無き心であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のうちの、目上(めうえ)の脳で受け止めるべき高い振動は素通りしている。
 それは“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”でしかないし、よって、目上(めうえ)の脳の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、太陽凝視によって行われるそれは、結果として“一”=智性=1番目のオーラになるのだが、平均的地球人の肉体(月(ツキ))はこれが無されていないし、目上(めうえ)の脳をダメにするもの(酒、たばこ、薬物(医療で使われるものも含む)など)が蔓延しており、目上(めうえ)の脳で発現すべき心(靈)の発現はとても弱いものになっているから、自分中心のものの見方、本能由来の欲望に振り回され(通貨としての)金の奴隷になり、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心になり、低い功名心と自尊心中心の自我の肥大(“石屋の仕組み”)した心であるから形骸の権威をひけらかし、それにより政治や経済や宗教は人の霊的成長の足を引っ張るものになっているという現状になっているものでもある。

 ここまでのことをしっかり理解していれば、あるいはここまでの解釈を読んでピンときたならば、
“神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ”
この文言は、すぐ理解できると思うし、これに続く
“取違ひすると大層な事になるから、気つけておくぞ”
は、智性(神性)無き心が認識を構築する観方というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きで観るから、その心(靈)(ヒ)以上の心(靈)の発現があまりないから、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)になり、多くの神職や僧侶、スピリチュアルを説いている人などが、金儲けに勤しみ(いそしみ)、大した“行”もやっていないで形骸の権威をひけらかしているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人ならば、これらは“ほんとう”では無いという視点を持つべきである。
 その意味で“取違ひすると大層な事になる”=自我の肥大した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心でこの文言を観るな、自分たちにとって都合の良い勝手な解釈を述べるな、それを世に広めるな、ということではあるが、すでに手遅れであり、勝手な解釈の方が広まっているものでもある。

 それで、これに続く“書かしてある御神名は御神体として祭りてもよく、お肌守としてもよいぞ、皆に多く分けてやれよ。 御神名いくらでも書かすぞ、その用意しておいてくれよ、神急ぐぞ”の、“皆に多く分けてやれ”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)ある行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を示せ、智性(神性)由来の理念を持って生きよ、そして智性(神性)無き心である平均的地球人に影響を与えよ、という意味合いのことである。 そして“お肌守としてもよい”(お肌守とはお守りのこと)とは述べられているが、程度の低い人間はお守りさえ持っていればよいという勝手な解釈をしがちだろう。
 そういった意味合いでも“ほんとう”の、お守り、自分の心身を守りまっとうな成長を果たすために役立つもの、というのは、自分の霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す自分自身の心(靈)であり、その心(靈)(ヒ)であるならば、当然“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応があるものであるし、またその心(靈)(ヒ)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していなければならず、進化しているからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出しているものであるし、見出している=自分の在り方を深く鑑みているからこそ、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応を避けるものになっているということを知っておかねばならない。

 このことをよく理解して“御神名いくらでも書かすぞ、その用意しておいてくれよ、神急ぐぞ”という文言、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して智性(神性)を獲得していない心(靈)は、次の段階(アセンション後)に移行できないので“用意しておいてくれよ、神急ぐぞ”であり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応を意図しているからこそ、艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は“御神名いくらでも書かす”、その“神名”、それを見て考える、深く鑑みる、あるいは唱える、そうするなら、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する条件を自らが作るのだ、という意味のことを述べている。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その二”


 今回も、水の巻 第三帖の、
“祓え祝詞書き知らすぞ。 かけまくもかしこき、いざなぎのおほかみ…中略…あはぎはらに”
までを解釈しまんねん。

 まず、“かけまくもかしこき、いざなぎのおほかみ”は、伊邪那岐(いざなぎ)なので日足(ひたり)の極性である。
 そして、“つくしのひむか”は、古事記や日本書紀の表記では“筑紫の日向”で、これは一般に地名と解釈されているが、そうは思えず、“紫”の振動を“築く”=これは人間が観察しうる事象を通じ、心を高い波長で構築するの意であると思え、よって、“いざなぎのおほかみ、つくしのひむか”は、高い思想を持った、神の教えを認識した、自分がどう考えどう行動するかが神の思惑に適った人間なのかが解っている心、そういった思想を構築した心(靈)であると解釈する。
 そしてそれが解る過程に必須なのがローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもある。
 それで“日向”は、太陽に向かうことであり、これは今回取り上げている文の後の、“うけひ”=“受け、心(靈)(ヒ)”にかかり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、“日止、霊止”、“上”から“下”のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)が完成され、“上”からの振動の振動数と波長、その高低はすべて止め、自分の心(靈)の構成とするとの意が込められた文言であると思うし、その可視光線の波長の高低を積極的に自分に止める“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるのは言うまでもないこと。

(これについては○○○大先生の著書<2>ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり)の、ウエサク祭を通じてローム太霊が伝えたかったこと その二 の、
それは行に行を重ねて、汝らが得るところの、赤から紫への、あの波動を自分自身のものになしていくなれば、必ず力というものは、その中にわいてくるものであるということを、悟ればよいのである
あたりを読んでいただければ、理解が深まるものであると思う)

(また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らの肉体(月(ツキ))の磁束で止め、心(靈)(ヒ)を構築することそのものが、「天孫降臨」の“ほんとう”の意味合いであるとの私見を持つし、そうならなければ、そういった人間が増えた世界でなければ、神の思惑の顕現された世界とはいえない)

 そして“たちばなのおとのあはぎはらに”、これを漢字にすれば“橘の小門(日本書紀では小戸)の阿波岐原に”ということになり、“橘”はかんきつ類の植物をさすが、不老不死、永遠の意があり、“小門、小戸”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、の、“戸”と同義であり、“阿波岐原”の“波”は、振動、先に解釈した“筑紫”のことを鑑みれば、細かい波長という解釈が妥当であり、“岐”は、伊邪那岐(いざなぎ)のそれであり、思想の分岐、個々の思想の構築、という意味合いであり(これは日足(ひたり)の極性が顕れている性としての男の役割、使命)、“原”は、それが広がった様ということであり、冒頭の“阿”は、この漢字の意味そのものが、山や川の入り組んだところ、高い丘、棟、ひさし、おもねる、寄りかかる、などの意味があり、よって“橘の小戸の阿波岐原”は、永遠の生命(生きる使命=存在理由)が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための、関門、戸を開く、そうするならば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、である高く細かい波長(紫)で思想を構築し、“阿”の意味の“おもねる”(阿る)ということになり、神に追随する、神の教えに恭順な心(靈)になり、それは心(靈)(ヒ)の神格化ともいい得ることであり、そしてそれは広がって(原)いく、という解釈が成り立つ。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その三”


 今回も、水の巻 第三帖の
“みそぎはらえたまふときに…中略…つきたつふなどのかみ、みちのなかちはのかみ、ときおかしのかみ”について解釈しまんねん。

 さて、“みそぎはらえたまふとき”というのは、今、自分が穢れているから、祓いを行うのだという意味合いのこと。
  それは“その二”で解釈した通り、生命(生きる使命=存在理由)の神格化のために、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の、高く細かい振動を取り込み(“日向”)、心(靈)(ヒ)を構築していく=“筑紫”(紫の波長、築く、“日止、霊止”の完成に近づく思想を構築すること)となる、あるいはそうならなければならないから、“みそぎはらえたまふ”をするという意味合いであり、その時に“なりませる”=自分の心(靈)が何かを感じ(感じる磁性)る、それが神名によって示されているものと思う。

 それで、この文言に続く神名、まず“つきたつふなどのかみ”、これは古事記の表記にある黄泉津平坂(よもつひらさか)
(これについては、日月の巻 第四十帖を参照のこと)
で、伊邪那美(いざなみ)(日月の巻 第四十帖で、肉体を持った進化過程が未熟な心(靈)の意、と解釈した)から逃げる伊邪那岐(いざなぎ)(日月の巻 第四十帖で、上を目指す心(靈)の意、自らの完成や進化=霊的成長、神格化に向かうことを求める心の動き、と解釈した)が、伊邪那美(いざなみ)に投げつけた杖から化生したのが“衝立船戸神”とされており、この表記の意味は、“船”が、川や海を進むものであるから、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、いわゆる自我の強化、そして自我の強化は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるため、必須の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、それは自分の思惑の右往左往と左往右往、これは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、の、日足(ひたり)に傾いたり砌(みぎり)に傾いたり、それがまたローム太霊の言葉、右往左往と左往右往の意味合いでもあるが、“日月神示”表記の“カイの御用”も、“櫂(かい)”という意味を含んでいるのであるから、肉体(月(ツキ))の磁性の日足(ひたり)の傾き、砌(みぎり)の傾き、という意味合いを感じさせるものであり、“櫂(かい)”の御用と右往左往と左往右往を人生で体験し、それを自分がどう受け止めるのか、それはまた現津(あきつ)、観察され得る事象における衝突の“衝”であり、また自我の強化の過程で必ず自省(胸の磁性“十”)をする、それが岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く)の“戸”であり、そこで自分は自我の強化をする=“立”、そして自我の心(靈)の揺れ動き、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすること、さらに“櫂(かい)”の御用をして、自分の思想=“いざなぎのおほかみ”、日足(ひたり)の極性は強化され完成に近づく、という、意であると思う。
 それで日本書紀では黄泉津平坂(よもつひらさか)のこの場面で、“岐神(ふなどのかみ)”“来名戸祖神(くなとのさえのかみ)”が化生したとされており、この“岐神(ふなどのかみ)”の“岐阜”は思想の分岐、支え、であるから、日足(ひたり)の極性の強化と完成=“筑紫”であり、“来名戸祖神(くなとのさえのかみ)”は、“名”=“命”、氏名=使命、であり、生命(生きる使命=存在理由)の“命”であり、神の子としての存在の意義と存在の理由と根拠を示すものであり、それが“来”、来る、それは“祖”、これは“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)という、“日月神示”の表記を当て、“戸”は、進化の関門、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、智性(神性)の発現と強化、という意味合いであると思う。

 次の“みちのなかちはのかみ”は、古事記では 道之長乳齒神で、これは“道”“之”は、時間の進行である“道”、そして“乳”は、胸の磁性“十”をさし、“歯”は、噛みしめることによる圧電(歯を食いしばると生体内電流の増幅になることは地球人の科学や医学で証明されている)、ローム太霊の言葉なら“粘りとやせ我慢”であり、それが“長”=長じる、立派になる、という意味合いであると思え、また日本書紀の表記では“長道磐神”とされており、この表記の“磐”は岩戸開きの“磐”であり、それが長じる、そしてそれが時間の進行、“道”とともに行われるの意であると思う。

 次の“ときおかしのかみ”、これは古事記にしか表記が無く、“時置師神”とされており、“時”は自らの心(靈)が感じ(感じる磁性)る時間の進行、“道”であり、“置”の字の意味は、一定の場所に据える、置換、安置、位置、拘置、装置、対置、配置、あるいは、物事に決まりをつけるいみでの、処置、措置、の意味合いがあり、“師”は、この字の構成が、“?(タイ)”、積み重ねるの意、そして“メグリ”(帀)、現津(あきつ)、観察され得る事象におけるブーメランの法則(小さな宇宙人 アミ、シリーズの表記)、“曲霊(まがつひ)”(ローレンツ力由来のこと)、やってきたことの結果は必ず自分に帰る、あるいはあまねく行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すること、の意があるので、時間の進行とともに自らの心(靈)(ヒ)の“思惑の顕現”=現象化は、事象に位置し、顕現し、それは自分の日足(ひたり)の極性のたかまりに応じて結果(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))、現象化となるの意を示すものと思われる。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その四”


 今回も、水の巻 第三帖の
“わつらひのうしのかみ、ちまたのかみ、あきくひのうしのかみ”について解釈するんやけど、これも前回同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。

  それで今回取り上げる神名、“わつらひのうしのかみ”、この神名は、古事記では、和豆良比能宇斯能神、日本書紀では、煩神(わづらひのかみ) 。
“ちまたのかみ”は古事記にしか登場せず、道俣神 (ちまたのかみ)。
“あきくひのうしのかみ”は、古事記では飽咋之宇斯能神、日本書紀では開囓神(あきくひのかみ)。

(参考のため、日本書紀の一部をコピペ。 又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開囓神。)

  まず、古事記の表記の、和豆良比能宇斯能神、飽咋之宇斯能神、の、“うしのかみ”=宇斯能神の“宇”“斯”“能”の、それぞれの字の意味を考えると、“宇”は、宇宙の宇、字の意味として空、軒下、家、屋根、大きい家、境、大きい、空、覆い蔽す、四方上下、宇宙などの意味がある。 よってこれは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を指すものと思う。
“斯”は、これ、この、かく(斯く)、かかる(斯かる)の意があり、“能”は、能力の能、何かを成し遂げることが出来得る働きや力、わざ、効果があること、などの意味があるので、これは先の“宇”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意に掛かる表記であると思える。

 それで今述べたことを前提に、和豆良比能宇斯能神を観るなら、“豆”はタンパク質の高分子化、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、に関わる表記であり、“和”は、なごむ(和む)であり、“良”は良いであり、“比”は、比較の比であるから、“和豆良比”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくべき肉体(月(ツキ))は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意=“宇”を取り込み、“自凝(おのころ)”して、良いカタチになり和む、それがまた生命としての“能”=能力の能、何かを成し遂げることが出来得る働きや力、わざ、効果があること、という解釈が成り立つ。 
 よってこれは人(日止、霊止)の神格化を意味しているし、人が“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)になる、あるいはそうならねばならない、そのためにみそぎをする、ということでもある。
それで日本書紀の表記の煩神(わづらひのかみ)の“煩”は、進化のために与えられる困難や試練、苦痛や苦悩、それらのことを指すと思える。

 飽咋之宇斯能神(あきくひのうしのかみ)の“飽”“咋”“之”という表記は、“飽”は、飽くほど、十分に満たされるの意があり、“咋”は、くう、 くらう、 かむ、の意があり、“之”はこれであるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、十分に満たされるほど吸収=“咋”、これは(“之”)、“うしのかみ”=宇斯能神であるという解釈が成り立つし、日本書紀の表記の開囓神(あきくひのかみ)も、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、十分に取り込む=開けて、囓(かじる、かむ)という意味合いであると思う。

 そして、道俣神 (ちまたのかみ)の“俣”は、また、分岐、の意味があるので、伊邪那岐(いざなぎ)の“岐”、思想の分れ、分岐、の意であると思えるし、それは具体的には、自らが遭遇する事象に対し、真摯に思い悩むこと、考え込むこと、鑑みること、そうやって日足(ひたり)の極性は強化されていくものである。

 最後に、日月の巻 第三十帖で述べた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”=法則性、理(ことわり)である、自凝(おのころ)についての解釈を、以下にコピペしておき、今回はこれくらいにしときまんねん。

“自凝(おのころ)”=自ら凝る、固まる、“島”の生成の仕組みは、“茲に”って言う表記に示され、それは、肉体の進化、神経の発達を示唆し、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示しているし、さらにそれは、左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達であり、それこそが日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の現われであり、さらにそれは伊邪那岐(いざなぎ)(思惑)と伊邪那美(いざなみ)(事象への顕現)でもあるからこそ、“国”=“上”に向かう心(靈)を生んだとされていると思う。
それは、“島”=たんぱく質が“自凝(おのころ)”で固まり、だからこそ固まった“島”には、電気特性の変容があり、変容があるからこそ、“上”からの荷電粒子との反応は変容し、その変容=“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))にかなった進化は、霊的成長、神格化に向かうこととなり、だからこそ地球上で一番進化した生物である人間は、智性(“一”、1番目のオーラ)(神性)(日を知る性質)って心(靈)の発現をしており、それがまた“日月神示”の ○ 九 十 の表記の意味に感じ取れる、神の最終段階の“創造”した心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))っていうことでもある。 それが“おのころの国成り”であり、これに続く文の“この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。 茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき。”は、この文の“あめとの御柱(みはしら)”=脊椎動物が持つ縦の磁束を中心に(“見立て給いき”)、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が発現した“島”(たんぱく質が“自凝(おのころ)”したもの)を、生んだ=日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を持ちうるからこそ進化をし始めることを示唆した表記であると思う




“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回も、水の巻 第三帖の
“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”について解釈するんやけど、これも“その三~四”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。

 さて、“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”は、古事記にしか出てこない表記のようで、古事記での表記は“奥疎神 (おきさかるのかみ)、奥津那芸佐毘古神 (おきつなぎさびこののかみ)、奥津甲斐弁羅神 (おきつかひへらのかみ)、辺疎神 (へさかるのかみ)、
辺津那芸佐毘古神 (へつなぎさひこのかみ)、辺津甲斐弁羅神 (へつかひへらのかみ)”ということになっている。
 それで、“奥”“奥津”は海の沖の意があるようで、古事記では沖の字は使わないで、その意を示す際、奥を用い、“辺”“辺津”は、“奥”“奥津”に対し、海岸に近い、海辺、という意味合いのことである。
 この、海を示す“奥”“奥津”“辺”“辺津”は、人間の肉体(月(ツキ))の構成の、錯体としての水、いわゆる“江戸と尾張”の“江”(“日月神示”の場合は、腹の水を指すことが多い)も同様の意味であるが、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示すものと思うし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のうちの、水で止める振動、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、自我の強化、そしてその前段階としての自我の確立=固定化、これは生命が独り神(ひとりがみ、日取り神)になるための必須の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、自我が発現するから、個の意識となり、それは植物や下等な動物以下の進化過程の生命ではないということであり、さらに自我が無ければ、自己と他者、その心(靈)(ヒ)の区別、そして自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、さらに自分と神、自分にとっての“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、そして神に対しての悪魔(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅))という区別、その認識(悟り、幸取=さとり)も出来ない、そういった“観察と認識”が出来ないし、これらのことが出来るからこそ、自我があるからこそ、自分の在り方を鑑みる、その心の動きの要因が(進化した、進化を果たした)自我であると、換言でき得る。

 そしてこの神名は、“奥”“辺”をはずすと、同じ表記、“疎神”“津那芸佐毘古神”“津甲斐弁羅神”であり、疎神の疎は、うとい、うとむ、まばら、おろそか、という意味があり、これは密ではない、いわゆる結晶化していないという解釈が妥当であると思うので、奥疎神 (おきさかるのかみ)、辺疎神 (へさかるのかみ)、は、腹の水、あるいは、人間の肉体(月(ツキ))を構成している錯体としての水で止める“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、は、自我の確立=固定化、あるいは自我の強化、あるいは自我の肥大、ということを指し示す表記であると思う。

 奥津那芸佐毘古神 (おきつなぎさびこののかみ)、辺津那芸佐毘古神 (へつなぎさひこのかみ)、は、津が中心の意味があり、那は、多い、豊か、美しい、の意があり、芸は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現した、“力”を示すの意であるだろうし、佐は、亻(にんべん)と左であり、亻(にんべん)は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が下降した様を|(たてぼう、こん)で示していると思われるし、毘古は、日月の巻で解釈したように男の極性=日足(ひたり)の極性を指すと思われるので、津那芸佐毘古という表記は、疎神の疎に対し、ある程度進化した自我の意であると思える。

 奥津甲斐弁羅神、辺津甲斐弁羅神、の、津は前述のとおり、甲斐は、意志を持って行動した結果、“どういうつもり”で“力”を顕現させたか、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、そして“日月神示”表記の“カイの御用”もこの意味を含むと思うし、またそれは舟をこぐ“櫂(かい)”でもあり、肉体(月(ツキ))の磁性の左右の偏りを指すもので、よって右往左往と左往右往の意味もあるから、甲斐は、時間の進行=“道”を感じ(感じる磁性)ながら、進化の法則性と自分の在り方を認識していく=“理(ミチ)”、これを感得し、体得し、自らの認識(悟り、幸取=さとり)とするの意があると思う。
 それで弁と羅は、弁が、かんむり、かぶりもの、の、意があり、羅は○○○大先生が著書で説明した通り、目の下に錐体上に広がる神経(糸)のいみであるから、事象を観察し=目、そして自らの肉体(月(ツキ))が進化し=羅、という意味合いであると思う。

 また古事記では、伊邪那岐(いざなぎ)の、左の手纏(たまき、手に巻く飾り、または武具の意)より化生した神は、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神、右の手纏より化生した神は、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神、と示されており、これは手を持った生命は、腹のサイクロトロンの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から胸のシンクロトロンの進化に移行する、その意味合いも感じさせる(これは○○○大先生の未刊行の著書の現行で述べられている)。
 そして、手纏(たまき、手に巻く飾り、または武具の意)というのは、手の磁性、水平磁場の強化を示し、それはまた臂釧、腕釧、と、同義のことであると思え、要は腕の骨の結晶化を示すものであり、腕の骨が緻密(ちみつ)になれば、結晶化すれば、胸の磁性“十”の横棒━(よこぼう、水平磁場)の強化にもなりうるものである。

 …ということで今回取り上げた“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”は、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程として必須な自我の確立=固定化と自我の強化、そして自我が在る所以の事象の観察と、同じく自我が在る所以で自分の在り方を鑑みることが出来、そしてそれは日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性の強化でもあり、これらのことは人が神格化していくのに必須であるから、冒頭で述べたように“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、その意味を深く感じさせるものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その六”


 今回も、水の巻 第三帖の
“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ、いづのめのかみ”について解釈するんやけど、これも“その三~五”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。
 
今回取り上げる神名の、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ、いづのめのかみ”は、古事記では、伊邪那岐(いざなぎ)が禊を行った際に出現したのが、八十禍津日神、大禍津日神、神直毘神、大直毘神、伊豆能賣とされている。 そして伊豆能賣に関しては、神、命、という表記を付けられていない。
日本書紀では少々違い、伊弉諾(いざなぎ)の禊の際、八十枉津日神、神直日神、大直日神が出現したとされ、伊豆能賣の表記は無い(日本書紀 第五段第六の一書)。 
そして大禍津日神に関しては、大直日神の出現の後、伊弉諾が、大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を吹き出したとされている。

それで、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ”の表記、古事記の禍津日(まがつひ)と、日本書紀の枉津日(まがつひ)の表記は、禍は、わざわい、(示す偏(へん)に咼(カ、カイ、よこしま、ゆがむ、の、意)であり、枉は、まげる、まがる、の意があり、これが、津日、という表記にかかると読み取れる。
津は中心であり、祓いの言葉の“本津宮”(もとつみや)に帰れ、の、津でもあり、日は、太陽であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と解釈するのが妥当であると思う。
よってこれは、伊邪那岐(いざなぎ)=日足(ひたり)の極性が、まがる、まげられている、そしてそれは、進化程度の低い日足(ひたり)の極性は、津日、神(日)に近付く(津)ではない、と解釈する。

“かむなほひのかみ、おほなほひのかみ”は、古事記では、神直毘神、大直毘神、日本書紀では、神直日神、大直日神、であり、日と毘の表記の違いがあるが、日はやはり太陽、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の意であるだろうし、毘は、たすける、力を合わせる、つらなる、の意がある。

そして“いづのめのかみ”、伊豆能賣の、伊は、亻(にんべん)(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん、縦の磁性)))そして、尹は、手で神杖を持った様を表わす象形文字、よって伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表し、豆は、タンパク質の高分子化、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、アミノ酸の積み重なりによる電気特性の変容と強化、“行”やった人間の肉体(月(ツキ))、といい得るし、能は、能力のそれであり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現であり、賣(売)は、日月の巻の“比売”と“媛”と同義であると思えるので、砌(みぎり)の極性を指す。

ここまでの事柄を鑑みて、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ”というのは、八十(やそ)は、八が肉体(月(ツキ))の二つの磁性、“日月神示”表記の“富士(二二)”、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、のことであり、十は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)であるから、シンクロトロン放射を指し、胸の磁性“十”であるだろう。 
要は、肉体(月(ツキ))の進化の要のことである。
そして、大(おお)は、人が手足を広げた様の意があるので、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である人間がまっとうな活躍をする、“上”から認められた“思惑の顕現”=現象化を成す、という意味合いのことであろう。
それが、まがる、まげられている=禍、枉、というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思想、進化していない幼稚な日足(ひたり)の極性といい得るし、そしてそれは、人(日止、霊止)に対しての禍は、恨みの連鎖の霊的干渉であると断言でき得るし、幼稚な進化過程の心(靈)の“思惑の顕現”=現象化が、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
また、この恨みの連鎖の霊的干渉が人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の足を引っ張っているのであり、悪魔の“思惑の顕現”=現象化でもあるが、それを直す、直日、これは古神道では自省(胸の磁性“十”)の意味があることを何度も述べているが、地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の心(靈)の発現に至るものであり、これを換言すれば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=“石屋の仕組み”=自我の肥大した人、が、自省(胸の磁性“十”)し、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する、これが地球人にとって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するためには必須の過程であるし、その具体的な意味合いがローム太霊の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということである。
またそれは、古事記の表記の、神直毘、大直毘、いわゆる神に近付く=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のため、毘(たすける、力を合わせる、つらなる=アミノ酸が連なる、タンパク質の高分子化)であるだろうし、それはまた大(人が手足を広げた様、まっとうな活躍)に直す、ということであるだろう。

これらのことを経て、先に述べた“いづのめのかみ”、伊豆能賣は、神の思惑を顕現するべく“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人間といえ、神の“思惑の顕現”=現象化その者であるからこそ人間は神の砌(みぎり)の極性である=神の子であるといい得る、ということであると思うし、これをひらがな(こちら側視点、神に対して人間の視点)で、岡本天明に書き記しるさせた艮(うしとら)の金神の意図は、古事記の表記と日本書紀の表記をよく鑑みろ、そこから人間の進化とは何かということを読み取れ、ということであると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その七”

今回も、水の巻 第三帖の
“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと、はらえと四はしらのかみたちともに、もろもろのまがこと、つみけがれをはらえたまへ、きよめたまへとまおすことを、きこしめせと、かしこみかしこみもまおす”
について解釈するんやけど、これも“その三~六”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。
 
 今回取り上げる神名の“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと”は、古事記では、底津綿上津見神、底筒之男命、中津綿上津見神、中筒之男命、上津綿上津見神、上筒之男命、と記されている。 
 それで古事記でのこの表記に相当する場面において日本書紀では、底津少童命(そこつわたつみのみこと)、底筒男命(そこつつのをのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)、表筒男命(うわつつのをのみこと)、という表記になっており、艮(うしとら)の金神が岡本天明に書かせたひらがな表記とは違っており、よって、古事記の表記と同じ、底、中、上、そして津、筒、男、についてのみ取り上げることとする。
 また“はらえと四はしらのかみたち”とは、気吹戸主之神、速佐須良比賣之神、瀬織津比賣之神、速開都比賣之神、であるが、神名の表記が無いので、これについての解釈は見送ることとする。

 本題に戻り、“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと”の、古事記の表記は、底、中、上、そして、津綿上津見神、筒之男命、の組み合わせである。 そしてこれは、伊邪那岐(いざなぎ)が禊をした際、水底で滌(あらう、すすぐ、の意)、そして水の中=中滌、水面、空気に触れる場所=上滌、と記されている。
 ちなみに古事記の原文は以下のようになっている。

於水底滌時、所成神名、底津綿上津見神。次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿上津見神。次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿上津見神。訓上云宇閇。次上筒之男命。

 これはこの水の解釈が大事であり、やはりこの水の表記は、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における“江戸と尾張”、腹の水、“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロン、のことであると思える。
そして綿の表記は、糸=神経に対するものであり、それは糸状のものの叢(むらがり)、腹腔と胸腔の内臓に分布している神経線維と、神経叢であると解釈する。
 ちなみに、神経叢とは、生物学では神経集網とも呼び、末梢神経系において、ニューロンの軸索(または神経繊維)がネットワークを形成しているところをいう。 ニューロンの軸索は豊富に分枝して他のニューロンの軸索の分枝と交錯するが、それぞれのニューロンに属する軸索の分枝はあくまでもそれぞれ個々のニューロンの一部である。

 それで、底、中、上、そして、津綿上津見神の表記は、下腹神経叢、太陽神経叢、心臓神経叢、であると思える。
 この三つの神経叢についてはWikipediaの自律神経の項目から以下に引用。

交感神経と脊髄神経は灰白及び白交通枝を通して連絡している。 灰白交通枝は交感線維を脊髄神経へ運び、白交通枝は脊髄線維を交感神経へ伝える。それぞれの脊髄神経は交感神経幹から灰白交通枝を受け取っているが、白交通枝は全ての脊髄神経から出てはいない。白交通枝は第一頚から第一腰神経までから分岐する一方、第二、第三、第四仙髄神経から直接骨盤神経叢へ向かう臓側枝がこの部類に入る。白交通枝を通して交感神経に届く繊維は有髄で、交感神経節の細胞から起こるこれらは殆ど完全に無髄である。 交感神経は遠心性と求心性の線維から構成される。3つの大きな結節した神経叢(側副神経叢)が胸部、腹部、骨盤部の脊柱の前に位置していて、それぞれ心臓神経叢、太陽神経叢、下腹神経叢と名付けられた。それらは神経と神経叢の集合体を構成、それらは交感神経幹と脳脊髄神経から分岐した神経に属する。それらは内臓に分枝を伸ばしている。

 それで、下腹神経叢、太陽神経叢、心臓神経叢を、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)で換言すれば、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラが、底津綿、マニピューラチャクラが、中津綿、そしてアナハタチャクラが、上津綿に相当するものであるとの私見を持つ。
 また、この場合の津という表記の意味は、津の漢字自体の意味として、液が滲み出る、滲みでた液、という意味合いがあり、このことを指す、いわゆる錯体の意味合いであると思う。
 そして、底、中、上、筒之男命の筒の表記は、神経叢=綿、に対する、腹腔と胸腔であると思えるし、胸腔は先に述べた、水面、空気に触れる場所=上滌、呼吸器で空気を取り込む“臓腑”の電磁誘導という解釈が成り立つし、男命は、日足(ひたり)の極性を示す男=思想や考え、そして生きている間、現界に肉体を持って位置している間の使命、以下に自分が自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象を“創造”するのかということ=使命の命(みこと)という解釈をする。

 また、古事記原文の、

於水底滌時、所成神名、底津綿上津見神。次底筒之男命。
於中滌時、所成神名、中津綿上津見神。次中筒之男命。
於水上滌時、所成神名、上津綿上津見神。次上筒之男命。

の、滌(あらう、すすぐ、の意)は、血液、リンパ液、その他の体液の還流のことであり、それは先に述べたことと重複するが“江戸と尾張”の腹の水、そして胸腔内、心臓と肺に還流する血液などを指すと思える。
 また、腹腔、胸腔、を指す表記が、筒であると思える。
 そしてその錯体(電荷を持っている)としての水の還流が、コンデンサーの構造を持つ内臓を還流し、神経や神経叢に電流が発現したり流れたりするのは、肉体(月(ツキ))の生命活動でもあり、またそれは心(靈)(ヒ)の動きに関わっているものであるが、こういった視点は医学に無く、医学が如何に生命活動に関して疎いかは、生体内電流という視点の無さにあるとの○○○大先生の私見をあえて述べておく。

 それで、底津綿、中津綿、上津綿、に続く上津見、という表記は、底津綿、中津綿、上津綿で発現する心(靈)(ヒ)、その心(靈)(ヒ)の動き=本能、情動、功名心、自我、愛(炁)を、その心(靈)(ヒ)より“上”、智性(神性)で観察する=見、と、津(中心の意)、ということであると思う。

 よって、上津見、ということがなされる、それをしなければ本能も情動も自我も程度の低い愛(炁)が根拠の思いや行動も、自らが自らを諌めることが出来ない。
 そして本能や情動や自我の肥大や自分にしか発現していない愛(炁)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠と理由であり、それはまた、恨みの連鎖の霊的干渉(その結果が、“もろもろのまがこと、つみけがれ”と、個々の心(靈)(ヒ)が観察し、認識しうる事象となる)の根源であるといえるから、これを諌める、この低い心(靈)の動きを諌める、自分に憑依した悪霊たちの低い心(靈)の動きも諌める、その意味合いで、

“もろもろのまがこと、つみけがれをはらえたまへ、きよめたまへとまおすことを、きこしめせと、かしこみかしこみもまおす”

=自分たちの低い心(靈)の動きを諌め、自分たちの低い心(靈)に感応する悪霊の心(靈)の諌める、それが“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、の意味合いでもあり、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあり、“観自在”“直日”でもあるし、これが祓うということの根本かつ“ほんとう”の意味、であることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その八”

 今回は、水の巻 第三帖の

“次に「うけひ」の言葉しらすぞ。
 ご三たいのおほかみさま、ご三たいのおほかみさま、ひつきのおほかみさま、くにとこたちのおほかみさま、とよくもぬのおほかみさま、つきのおほかみさま、すさなるのおほかみさま、あめのかみさま、かぜのかみさま、いわのかみさま、キのかみさま、かねのかみさま、ひのかみさま、ひのでのかみさま、りゅうぐうのおとひめさま、やほよろづのいきかみさま、ことにいすずにます、てんしょうこうだいじんぐうさま、とようけのおほかみさまをはじめたてまつり、よのなかのいきかみさま、うぶすなのおほかみさまのおんまへに、ひろきあつきごしゅごのほど、ありがたく、とうとく、おんれいもうしあげます。このたびのいわとひらきには、千万いやさかのおはたらき、ねがひあげます。あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ、せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”

について解釈しまんねん。



 冒頭の“うけひ”という表記は、誓ひ、祈ひ、宇気比、これは、神に誓うことによって吉や凶を占う、物事の成否を占う、そして誓約、固く誓い約束する、という意味合いを当てることが出来得る。
 だがこれは、第三帖 “その二”の解釈で述べたように「“うけひ”=“受け、心(靈)(ヒ)”」という解釈が妥当で解りやすいと思うし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のうちの高い振動を取り込んだ=受けた心(靈)だからこそ、神の“理(ミチ)”(法則性)に沿い、霊的成長を自らに祈り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を誓う、そしてそれは宇宙の宇の気(振動)を取り込んで事象の“観察と認識”をして比(比較の比)をする、それは相対的なものの観方となり、外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、そこに、目上(めうえ)の能で発現する心(靈)(ヒ)である智性(神性)由来の“観察と認識”において、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(・心の動きの本能化と低振動化)”を見出し、見出すからこそ自分の在り方を思い、理念の確立となり、その理念を持って“道”(時間の進行)を歩む、重複する言い方ではあるが、それが進化=霊的成長、神格化に向かうこと、それを自らに課す=約束する、その理念を真に固く止める(真固止)という解釈が大事であると思う。
 そしてこのことは、振動の高低、それを止める、いわゆる“日止、霊止”という表記において、比較をすると、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということがよく解るが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の低い振動しか止められない、低い振動としか感応しない、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していないということであり、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我を構成する振動、それ中心で感応しているからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるし、それも“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の止め具合、どういういった振動と感応しているのか(“日止、霊止”という表記の意味合い)が、心(靈)の発現と心(靈)の動き、いわゆるどれくらい進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したのかを示唆するものでもあるし、今後=アセンション後に移行すべき指標ともなりうるものである。

 それと、この“うけひ”が神話に登場するのは、須佐之男が伊邪那美(いざなみ)のいる根の国に行きたいといい、そのときに天地に甚大な被害を与え、それに怒った伊邪那岐(いざなぎ)が須佐之男を追放した、そして須佐之男が根の国に行く前に天照大神に会ってから根の国へ行こうと思い、天照大神が治める高天原へ行くが、そうすると山川が響動し国土が皆震動したので、天照大神は須佐之男が高天原を奪いに来たと思った。 それで須佐之男は天照大神の疑いを解くために、宇気比、誓約をしようといった…という表記があるが、これは砌(みぎり)の極性への傾き=伊邪那美(いざなみ)に会いに行こうとする、そして、砌(みぎり)の極性、事象への顕現、いわゆる事象の“創造”において、その思惑=日足(ひたり)の極性は、まっとうか、天意に沿っているのか、ということを示す話であると思う。
 以下に、
日の出の巻 第一帖で使った画像を貼って、須佐之男の表記の意味を示す。

須佐之男神の解字 


 そして日の出の巻第一帖からコピペ。

須佐之男は日足(ひたり)の極性=神の思惑を“力”として顕現せよの意であるから、それをさせないのが自我の肥大=岩戸閉めであり、そのことを“罪着せし時”と称されていると思う。
それで、その低い砌(みぎり)の極性が高まった時に起きるのがローム太霊の言葉である右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという心(靈)の進化の“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法側性)であり、これが起きること、左往右往するには自省(胸の磁性“十”)するという心(靈)が必須であり、よってアセンションはその場(フィールド)その次元に存在する心(靈)が日足(ひたり)の極性に向かうことであり、それが出来ない心(靈)が今の地球と同程度の進化程度の場(フィールド)に移行させられるものであり、だからこそこの第一帖では“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ”といわれ、神の“思惑の顕現”=現象化の妨げになる自我の肥大が高まった時が“岩戸閉め”と称され、その自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持つことと“上”からの荷電粒子を受け入れ止めることが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くという肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の変容であり、今度の岩戸開きは、これまでで一番大変であると示され、この次のアセンションは地球自体が進化するのだからもうアセンションに伴う醜い事象は起こらないし、そこに位置する人は自我の肥大を諌める心を十分に持った心(靈)(ヒ)であり、そういう心の持ち主でなければ次の段階の地球に移行できないということである


 それで、幾度となく述べてきている地球人の進化における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と行使、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得、そのために艮(うしとら)の金神は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、を、黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯があり、太陽凝視をしていかねば、自我を構成する振動より高い振動を、自らに止め、自我より高い心(靈)の発現と行使をする、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということを知らなければならない。

 ここまでのことを踏まえ、“次に「うけひ」の言葉しらすぞ”以降の本文の解釈に入る

 まず、
“ご三たいのおほかみさま、ご三たいのおほかみさま”
これは伊邪那岐(いざなぎ)が禊をして左目から天照大神、右目から月読太神、鼻から須佐之男が現れたことになっているが、これは先に画像で示した通り、須佐之男=日足(ひたり)の極性で“力”を顕現して行くべき生命(生きる使命=存在理由)なる、そうなるべく生きる、という意味合いで、天照大神は太陽であるから日足(ひたり)の極性であり月読太神は砌(みぎり)の極性であると、神話を読んだ人間なら思うべきであるということ。 そして以前にも紹介したが、S会=紫光会の経文、四空経録には、“日心月物”=太陽は心(靈)(ヒ)を育て月は物質に関与する振動であると示され、そして“日月光華”と記してあり、太陽と月の光が華(実のなる花の意、盛ん、美しい、誉れの意)であると示されている。

 次の、
“ひつきのおほかみさま、くにとこたちのおほかみさま、とよくもぬのおほかみさま、つきのおほかみさま、すさなるのおほかみさま”
は、漢字にすれば、日月、国常立、豊雲野、月、素盞鳴、ということになるが、これは自分たちのことであり、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)が、“日止、霊止”であるから日月、そしてそれは心(靈)(ヒ)=“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)が、常に立つ、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、先に述べたように平均的地球人は自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現せねばならないから、その心(靈)の発現を常に立つと示され、これは“秋立つ”という“日月神示”独特の表記と同義でもあるし、豊雲野は、雲と野については以下に画像で意味を示し、それが豊かになるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということでもある。

雲の解字 


野の解字 (富士の巻 十七帖) 
そして月は、いうまでも無く肉体(月(ツキ))を示し、素盞鳴についてはまた画像で意味を示す。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字


 この素盞鳴の表記が示す通り、人間、“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を受け止め、それを発振、発信する、それが神の“思惑の顕現”=現象化となり、そうなったなら、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の発振、発信で創られた恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた世界ではなくなる、それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”であり、今の醜い事象に対しての相対的な比較としての言い回しであり、そうなること事態がアセンションの意義でもある。

 これに続く以下の文言、
“あめのかみさま、かぜのかみさま、いわのかみさま、キのかみさま、かねのかみさま、ひのかみさま、ひのでのかみさま、りゅうぐうのおとひめさま”
この、雨、風、岩、金、火、日の出、竜宮の乙姫、これについては富士の巻あたりから、“十柱”(とはしら)の神として、この表記自体が登場するが、これについての解釈は日の出の巻 第十八帖から以下にコピペしておく。

“雨の神”は“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。
“火の神”の火は荷電粒子の回転を示す点が二つの表記と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導。
“日の出の神”の日の出は、次の段階に移行すること、アセンション後。
“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍。


 そしてカタカナ表記のキの神のキは、キの巻(キノ〇キ)のそれと同義であり、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、また、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を止めた生命、その生命活動、いわゆる心(靈)、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。
要は、自分の心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が、自分に対し自分以外から受ける振動による電磁誘導のことを指した文言であり、電磁誘導自体が振動の受信、感応による結果であり、またそれは換言すれば感じ(感じる磁性)るということでもあり、すべての生命、高等な生物であろうが微生物であろうが、神であろうが悪魔であろうが、すべての生命と認識されうる存在が行っている事象の“観察と認識”というのは、これによるものである。
 ちなみに電磁誘導とは、磁束が変動する環境下に存在する導体に電位差(電圧)が生じる現象である。また、このとき発生した電流を誘導電流というが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みといい得るものである。

 これに続く以下の文言、
“やほよろづのいきかみさま、ことにいすずにます、てんしょうこうだいじんぐうさま、とようけのおほかみさまをはじめたてまつり、よのなかのいきかみさま、うぶすなのおほかみさまのおんまへに、ひろきあつきごしゅごのほど、ありがたく、とうとく、おんれいもうしあげます”
これは八百萬の生神、五十鈴にます(坐す)天照皇大神、豊受の太神、世の中の生き神、産土の太神という字をあてられるが、これも個々の心(靈)(ヒ)に対する進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、それは“日月神示”表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と、電磁誘導を示唆するものであり、このことを鑑みれば、八百萬の生神は、すべての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であり、五十鈴にます(坐す)天照皇大神、豊受の太神は、日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)のことであり、単なる観光地に成り下がっている内宮と外宮のことではなく、進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)としての“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ということをよく認識せねばならない。 そして産土というのは、氏神でもあるが、生きている間にその場所で霊的成長をする、それに関与するものである。

 これに続く以下の文言、
“このたびのいわとひらきには、千万いやさかのおはたらき、ねがひあげます。あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ、せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”
これも神話で述べられている岩戸開きの話をそのまま鵜呑みにしていてはダメで、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことであり、それは自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と行使に至ることを示し、そこに手力男、手の力と日足(ひたり)の極性で、岩戸を開く、ということを読み取ることが出来得る(胸の磁性“十”)。
 そうなれば“あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ”=天地の與(むた)(あたえる、の意)、彌栄(いやさか)に…となり、彌栄(いやさか)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組み、荷電粒子の受け止めの仕組みであることを述べてきたが、これも彌の旧字の画像で意味を以下に示す。



弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


 これに続く、
“せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”
は、誰もが神の“思惑の顕現”=現象化をすべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する、そのためには改心、いわゆる“身魂掃除”“身魂洗濯”、をして、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を自らに諌め=自省(胸の磁性“十”)して、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する、そうなれば“おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに”=神の思惑を理解しうるものであり、それはまた、天意を自分の認識(悟り、幸取=さとり)とするから“かみくに”と称され、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)の意味が大事であり、それを“じょうじゅ”するのが生命(生きる使命=存在理由)の使命といえ、そうなったならば“このたま(靈、魂)、このみ(肉体(月(ツキ)))は、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”=神の“思惑の顕現”=現象化をするべく、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を自分の認識(悟り、幸取=さとり)として、この事象において“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示し、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する、そのための進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それは厳しいから“まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごください”でもあり、そして神の思惑を自分に取り込んでいるからこそ“かむながら”=随神、惟神、神代のままに、神のおぼしめしのままに、神格化を目指す人間として、という意味合いであり、これが彌栄(いやさか)の“ほんとう”の意味である、ということを示唆した文言である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その九”


 今回からは、水の巻 第三帖の、

“次に御先祖様の拝詞しらすぞ。
 此の祖霊宮に(コレのミタマヤに)
神鎮まり坐す(カミシヅまりマす)。
遠津祖神(トオツミオヤノカミ)、
代々の祖霊神達の御前(ヨヨのオヤのミマエ)、
また親族家族の(またウカラヤカラの)
霊祖神の御前に(ミタマのオンマエに)
謹み敬ひも白す(ツツシみイヤマひマオす)。
此の家内には(コレのウチには)
諸々の曲事(モロモロのマガコト)、
罪穢あらしめず(ツミケガレあらしめず)、
夜の護り(ヨのマモり)、
日の守りに(ヒのマモりに)
守り幸はひ給ひ(マモりサキはひタマひ)、
まこと神国のみ民としての(まことカミクニのみタミとしての)
義務を全うせしめ給へ(ツトメをマットうせしめタマへ)、
夜の護り(ヨのマモり)
日の守りに守り(ヒのマモりにマモり)、
捧ぐるものの絶間無く(ササぐるもののタママナく)、
子孫の(ウミノコの)
弥栄継ぎに(イヤサカツぎに)
栄えしめ給へと(サカえしめタマへと)
畏み畏みも白す(カシコみカシコみマオす)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)。
 一本の草でも干して貯へておけよと申してあろがな”

について解釈しまんねん。

 まず述べておきたいこととして、“日月神示”の解釈ということをし始めてから気が付いた重要なこと、カタカナ表記は、“上”から視点、“創造”の“主(ヌシ)”からの視点、ひらがなや漢字の表記は、“下”である人間、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物であり、神の子としての人(日止、霊止)=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”の表記の意)、心(靈)(ヒ)を発現させている生命(生きる使命=存在理由)からの視点、という表記の違いがある。
 それで今回から取り上げる文言は、漢字とひらがな表記の後に()で、ひらがなとカタカナ表記が混じった書き方がしてある。
 これは、今の“役員づら”((形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が行っている、形骸の権威を誇示し、現世利益で人に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見させるという商売中心だが商売と見せかけないように賽銭集めの儀式を行っている今の神道、そしてそれに従事している神職の人達、あるいは現在の神道研究家などの解釈では、この漢字とひらがな表記について“ほんとう”の意味合いを知り得ない、あるいはその“役員づら”たちの解釈などの流布が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が教えた概念の消失になってしまっているので、()内で、“ほんとう”の意味を述べようとしている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の意図があるのだと解釈する。

 それで今回は、まず“次に御先祖様の拝詞しらすぞ。 此の祖霊宮に(コレのミタマヤに)神鎮まり坐す(カミシヅまりマす)”について解釈をする。
 この()内のカタカナ表記、コ、レ、ミ、タ、マ、ヤ、カ、ミ、シ、ヅ、マ、これは、例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”を引用することとする。

“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“レ”は元座道座(もとくらみちくら)、これは、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
と述べられていて、これは右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る、それが“元座道座(もとくらみちくら)”と称されていると解釈でき得ると、キの巻 第十一帖で解釈を述べた。
“ミ”は生命の幹 その現実。
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
そしてもう一度“ミ”の表記がある。
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。 濁点が付いているのは意味を強化、強調している。
そしてもう一度“マ”の表記がある。

 これを鑑みて本文の解釈をすることとする。

 まず“次に御先祖様の拝詞しらすぞ”の“先祖”、そして“此の祖霊宮に(コレのミタマヤに)”の“祖霊”、これは意味が同じであるが、大概の人間が持っている先祖に対する認識として、数世代、あるいはそれより少し以前の血縁の者、という認識しかないだろう。
 しかしその認識では、これに続く“神鎮まり坐す(カミシヅまりマす)”の意味が通じない。
だから程度の低い認識においての先祖、祖霊では、“祖霊宮に(コレのミタマヤに)神鎮まり坐す(カミシヅまりマす)”の意味合いを読み取ることが出来ず、程度の低い認識だからこそ、死んだ人間はすべて神だと思う、あるいはそう思いたい、ということになるが、“ほんとう”の意味合いにおいて人間の神格化というのはそんなに簡単なものではないし、この、程度の低い認識が戦没者を祀る神社などを作ったりもするが、きわめて馬鹿げており、それは、戦争で死んだ人間は恨みに囚われ自分の運命を呪いながら他者を呪っている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団に参加し、その低い心(靈)の動きを増幅して発振、発信することに加担しているものである(このことはローム太霊講話集でローム太霊が説明している)。

 少々蛇足だったが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としての先祖、祖霊、を意識せよ、その意識すること事態が、智性(神性)を持った霊的成長した先祖、祖霊、との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になるものである。
 このことを指し示した文言であるから、祖霊の宮に“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)があり、そこに位置しているから、“坐”(すわる、いながら、います、おわす、まします、の意)していると述べられている。
 そしてその意味合いを示すのが、カタカナ表記である。
 まず、“コレ”というのは、“元座道座(もとくらみちくら)”、その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に凝り集まりに固まる、いわゆる神格化への方向性を示し、そうなれよ、という意味合いの表記である。
 そして“ミタマヤ”=生命の幹 その現実、そして、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、そしてそれは、有形生命、または正しき生命であり、その心は高台(たかと)高き段に進む、ということになる。
 そして“カミシヅ”=幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、それは生命の幹 その現実、であり、それは可視光、いわゆる光と認識され得るものより相対的に弱い光、電磁波であり、換言すればオーラの発振、発信であり息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるが、それが、弱き光と認識され、それは次々に出る生命を育み、さらにそれは“慈(しげる)”のシ、自我より“上”の心である“慈悲”と“慈愛”という心の発現でもあり、それが、つづまる(約まる)集う(つどう)、物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かす、ということになる。
 そしてこの文の最後のカタカナ表記、“マ”は、有形生命、または正しき生命、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生命(生きる使命=存在理由)ということになる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その十”

 今回も、水の巻 第三帖の、前回に続く以下の文を解釈しまんねん。

“遠津祖神(トオツミオヤノカミ)、
代々の祖霊神達の御前(ヨヨのオヤのミマエ)、
また親族家族の(またウカラヤカラの)
霊祖神の御前に(ミタマのオンマエに)
謹み敬ひも白す(ツツシみイヤマひマオす)”

 今回取り上げる文の()内のカタカナ表記、まず、“トオツミオヤノカミ”。
“ト”は、止まると云う心、“日止、霊止”の“止”。
“オ”は生命発生の元根、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。
“ミ”は生命の幹 その現実。
もう一度“オ”。
“ヤ”その心は高台(たかと)高き段に進む。
“ノ”は延びる 広いところ の意。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
もう一度“ミ”。

 そして“ヨヨのオヤのミマエ”のカタカナ表記。
“ヨ”は、生命(生きる使命=存在理由)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目の意。
もう一度“ヨ”。
そして“オ”。
そして“ヤ”。
そして“ミ”。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命 “上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)。

 そして“またウカラヤカラの”のカタカナ表記。
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの。
そして“カ”。
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意。
そして“ヤ”。
そして“カ”。
もう一度“ラ”。

そして“ミタマのオンマエに”のカタカナ表記。
“ミ”は前述した通り。
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと。
“マ”は前述した。
“オ”も前述した。
“ン”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”にその解説は無い、この音は撥音(はつおん、はねるおん)と呼称され、“ン”あるいは“ん”が付くと1モーラ(一定の時間的長さをもった音の分節単位)を形成するが、通常は子音であり、かつ、直前に母音を伴うため、単独では音節を構成せず、直前の母音と共に音節(連続する言語音を区切る分節単位)を構成する役割を持つ。 そもそも日本の過去の書物、古事記、日本書紀、万葉集には「ん」音を表記する文字(万葉仮名)は見当たらないので、古代日本語には「ん」音はなかったと推定される。
そして“マ”。
そして“エ”。

 そして、“ツツシみイヤマひマオす”のカタカナ表記。
“ツ”は前述した通り。
もう一度“ツ”。
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“イ”は、生気生命の発生力。
“ヤ”は前述のとおり。
“マ”も前述のとおり。
もう一度“マ”。
“オ”も前述した。

 さて、このカタカナ表記を鑑みて本文を観るならば“遠津祖神(トオツミオヤノカミ)”は、物質を伴って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)している生命(生きる使命=存在理由)=“オ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め=“ト”、それを集め、集約し=“ツ”、またそれは幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)=“カ”であり、次なる新たなる生命となり=“ノ”、それが生命の現実であり=“ミ”、進化は高き段に進む、神格化の階段を上ることであり=“カ”であるといえ、ことに“カ”と“ミ”の表記が二つある、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、それは、生命の幹 その現実、ということをよく知っておけ、という意味合いにとれる。

  次の“代々の祖霊神達の御前(ヨヨのオヤのミマエ)”は、“ヨヨ”が二つ並び、生命(生きる使命=存在理由)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目の意 の意味を強調しており、次の“オヤ”は、生命発生の元根、物質を伴った進化=肉体を持った進化、それが、高台(たかと)高き段に進む、いわゆる肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、生きている間に観察しうる事象、現界における進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を指し、“ミマエ”は、生命の幹 その現実、それは、有形生命、または正しき生命であり、さらにそれは人間代々、子孫繁栄をしながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する=生命を産み出す源(みなもと)、そして子孫繁栄は、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたるものでなければならないし、人間代々、子孫繁栄そのものが、人間が“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)を体得するのが、この文の冒頭の“代々(ヨヨ)”であると解釈する。

 次の“また親族家族の(またウカラヤカラの)”は、人間代々、子孫繁栄、が、“ウ”の、生物を生み出す力 といえ、それは“カ”=幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)であり、またそれは、“ラ”=生命発生の初音(ウネ) 物の根、ということであるし、“ヤカラ”の“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを指し“カ”と“ラ”は、先の“ウカラ”と同義である。

 次の“霊祖神の御前に(ミタマのオンマエに)”は、“ミタマヤ”=生命の幹 その現実、そして、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、そしてそれは、有形生命、または正しき生命であり、その心は高台(たかと)高き段に進むこと、それは“オ”=生命発生の元根、物質を伴った進化=肉体を持った進化、であり、“マ”=有形生命、または正しき生命、であり、“エ”=生命を産み出す源(みなもと)、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)の体得、このこと事態が神の思惑を自分の認識(悟り、幸取=さとり)にすることであり、天意を止めることが出来た進化過程ともいい得るし、これが“ほんとう”の意味の“天詞様”、“ほんとう”の天皇、それは、天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)の、白い(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射))、“王”(“一二三”のオーラの完成)ということである。

 次の“謹み敬ひも白す(ツツシみイヤマひマオす)”は、“ツツシ”が、“上”からの荷電粒子、物質を認識しうる可視光線、荒い振動に対し、弱き光と認識され得る高い振動を、つづまる(約まる)集う(つどう)、いわゆる自分に止める(“日止、霊止”の表記の意味)するならば、“慈(しげる)”のシ、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と強化になるという意味合い、そして“イヤマ”は、生気生命の発生力が、高台(たかと)高き段に進み、、有形生命、または正しき生命となるの意であり、“マオ”は、有形生命、または正しき生命が、物質を伴った進化=肉体を持った進化のことであり、それがまた、神の“思惑の顕現”=現象化である人(日止、霊止)の“創造”そのもの、それを換言すれば、生命発生の元根、ということになる。

 上記の事柄、すべて神と“日止、霊止”の関係、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すものであり、これらのことを“遠津祖神、代々の祖霊神達の御前、また親族家族の霊祖神の御前に謹み敬ひも白す”の漢字表記では意味が伝わらないから、カタカナ表記を当てた、それが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である艮(うしとら)の金神を名乗る霊団の意図、そう思えることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その十一”


 今回も、水の巻 第三帖の、前回に続く以下の文を解釈しまんねん。
 
“此の家内には(コレのウチには)
諸々の曲事(モロモロのマガコト)、
罪穢あらしめず(ツミケガレあらしめず)”

 今回取り上げる文の()内のカタカナ表記、まず“コレのウチには”について。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“レ”は元座道座(もとくらみちくら) 稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
と述べられていて、これは右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る、それが“元座道座(もとくらみちくら)”と称されていると解釈でき得る。
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの。
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)。

 そして“モロモロのマガコト”のカタカナ表記。
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)の意。
“ロ”は、根を纏め(まとめ) チカラを詰め固める意。
もう一度“モ”。
もう一度“ロ”。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、これに濁点を付けその意味を強調している。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“ト”は、止まると云う心。

 そして“ツミケガレあらしめず”のカタカナ表記。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)。
“カ”の濁点の付いた“ガ”、これは前述した“カ”を強調する意味合い。
“レ”は、前述した通り、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す生命(生きる使命=存在理由)。

 これらのことを鑑みて“コレのウチには モロモロのマガコト ツミケガレあらしめず”のカタカナ表記を観るならば、“コレウチ”は、“コレ”というのは、“元座道座(もとくらみちくら)”、その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に凝り集まりに固まる、いわゆる神格化への方向性を示し、そうなれよ、という意味合いであり、“ウチ”は、生命が生み出され、その生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだという意味合いのことであるし、このカタカナ表記のある漢字とひらがな表記は“此の家内には”であり、この“家”の表記は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ)(家畜の意味)であり、進化した動物=人間の意味であるし、人は“日止、霊止”になる、それは進化=霊的成長、神格化に向かうことをする肉体(月(ツキ))を持った生命(心(靈)(ヒ))なのだ、ということを指し示すのだと思う。
 そして“モロモロのマガコト”の“モロモロ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命の“思惑の顕現”と解釈でき、そのことそのものと、そのためのチカラを纏め(まとめ)詰め固める、いわゆる進化した生命を真固止(真に固く止める)とし、神の思惑を止める生命をはっきり発現させこの世界に顕現させ活躍させるという意味合いであると思うし、それが神の思惑の顕現といえることである。 
 その意味合いで“マガコト”の“マガ”は、正しき有形生命と、それを創るのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これは今の人間にはよく分からないので、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)という意味合いが当てられ、“コト”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が、停滞し凝り集まり固まり、さらにそれは“日止、霊止”という表記の意味合いであるその振動や天意を止めるというのが、先に述べた“神の思惑を止める生命”ということであると思うし、通常“マガ”“コト”は、禍事、という字をあてるだろうが、“曲事”と書かれており、これは肉体が持つ磁束由来のローレンツ力を示すと思える。
 
 そして“ツミケガレ”も、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、止めるのが“日止、霊止”であるということを前提に鑑みるならば、天意、振動を指すのが“ケ”(零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ))であり、それを集めて新たなる生命を咲かすのが、神の思惑であり、天意と“上”からの振動は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)といえ、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが、生命の幹と現実であるし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す、ということであるのを指し示していると思う。
 それでこの部分の漢字とひらがな表記は“罪穢あらしめず”であり、前述したカタカナ表記の意味合いを環椎した生命ならば、“罪”=恨みの連鎖の霊的干渉を生み出す、“穢れ”=恨みの連鎖の霊的干渉を被る、ということが無くなる=“あらしめず”(あらしめる、ならば肯定形、あらしめず、は、否定形)ということを示していると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その十二”

 今回も、水の巻 第三帖の、前回に続く以下の文を解釈しまんねん。

“夜の護り(ヨのマモり)、
日の守りに(ヒのマモりに)
守り幸はひ給ひ(マモりサキはひタマひ)、
まこと神国のみ民としての(まことカミクニのみタミとしての)
義務を全うせしめ給へ(ツトメをマットうせしめタマへ)”

  今回取り上げる文の()内のカタカナ表記、まず“ヨのマモり”。
“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)。

 そして“ヒのマモりに”。
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“マ”は、前述のとおり。
“モ”は、前述のとおり。

 そして“マモりサキはひタマひ”。
“マ” は、前述のとおり。
“モ” は、前述のとおり。
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根。
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし。
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと。
“マ” は、前述のとおり。

 そして“まことカミクニのみタミとしての”。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意。
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)。
“タ” は、前述のとおり。
“ミ” は、前述のとおり。

 そして“ツトメをマットうせしめタマへ”。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“ト”は、止まると云う心。
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)。
“マ” は、前述のとおり。
“ト” は、前述のとおり。
“タ” は、前述のとおり。
“マ” は、前述のとおり。

 これらのことを鑑みて“ヨのマモり、ヒのマモりにマモりサキはひタマひ、まことカミクニのみタミとしてのツトメをマットうせしめタマへ”を観ると、“マモ”という表記が三回、“タマ”という表記が二回、出て来る。
 上記の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の意味で考えれば、“マモ”は、“マ”は、有形生命、または正しき生命、“モ”は、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すこと、ということになるので、進化した生命が神の思惑を顕現していくという意味合いを感じる。
 そして“タマ”は、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、であり、“マ”は、有形生命、または正しき生命、ということであるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する生命(生きる使命=存在理由)ということである。 
よって今回取り上げている文は、この“マモ”“タマ”の意味合いを強調したものであるとの印象を持つ。
 そして“サキ”は、事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、それは、栄え発展する生命であるとの解釈ができ得る。
そして“カミクニ”は、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、“ミ”は生命の幹 その現実、“ク”が、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”の“亜”のくぐもり(つづまり、結合)それは現津(あきつ)、観察され得る事象に現れた(奇霊(くしみたま))生命であり、“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)、であるから、“亜”が変容して成長するの意味合いであるだろうし、それが、“ミ”の意味合いの、生命の幹 その現実、であるから、その意味を強調し、さらにそれは神の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込むこと、それは“カ”=幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、ということになるので、やはり、神の思惑を顕現すべく生命(生きる使命=存在理由)という解釈が成り立つ。
そして“ツトメ”は、“メ”が生命の芽、そして心(靈)(ヒ)の目、いわゆる生命が観察しうる事象、それは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、つづまる(約まる)集う(つどう)した、次なる新たななる生命と、その生命が観察しうる事象の意という解釈をするものであるし、それは“全う マットう”しなければならない=“せしめ給へ せしめタマへ”ということである。
そして前後するが、“夜 ヨ”は、“日 ヒ”に対しての言い回しであるし、これは砌(みぎり)=“夜 ヨ(“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目)”であり、日足(ひたり)が“日 ヒ(すべての物(観察しうる外側(外国と幽界)の事象)の根、そして心(靈)(ヒ)、日(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意))”ということになる。

 よって今回取り上げている以下の文。

“夜の護り(ヨのマモり)、日の守りに(ヒのマモりに)守り幸はひ給ひ(マモりサキはひタマひ)、まこと神国のみ民としての(まことカミクニのみタミとしての)義務を全うせしめ給へ(ツトメをマットうせしめタマへ)”

 自分たちが“観察と認識”している事象は、砌(みぎり)の極性(“夜 ヨ”)であり、それを“護り”(とりまいてまもる、かばう、の意)、そして句読点で句切られているので、これ=事象を“守りに守り幸はひ給ひ”ているのは、“日 ヒ”=日足(ひたり)の極性であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命、栄え発展する生命=“サキ”であり、またそれは“幸”の“ほんとう”の意味合い(“夭と屰”(ようとげき))であり、さらにそれは生命(生きる使命=存在理由)を“守り”するものである。
そして“まこと神国のみ民としての義務を全うせしめ給へ”は、先に述べたとおり、神の思惑を顕現すべく生命、それは“サキ”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“全うせしめ給へ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しなければならず(神に課せられた“義務”)、それが“まこと神国のみ民”であり、ことに“ツトメ”(“義務”)の“メ”=心(靈)(ヒ)の目、事象の“観察と認識”をするということ、すべての生命、神であろうが悪魔であろうが人間だろうが下等生物であろうが、自分が感得する振動(電磁波など)を感じ(感じる磁性)て、観察行為を行う、これが生命であるということを強く思させるし、自分の心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば、それ相応の事象の遭遇となるという、常々述べていることを思わせる表記であると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その十三”


 今回も、水の巻 第三帖の、前回に続く以下の文を解釈しまんねん。

“夜の護り(ヨのマモり)
日の守りに守り(ヒのマモりにマモり)、
捧ぐるものの絶間無く(ササぐるもののタママナく)、
子孫の(ウミノコの)
弥栄継ぎに(イヤサカツぎに)
栄えしめ給へと(サカえしめタマへと)
畏み畏みも白す(カシコみカシコみマオす)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)、
惟神霊神幸はへませ(カムナガラタマチはへませ)。
 一本の草でも干して貯へておけよと申してあろがな”

 今回取り上げる文の()内のカタカナ表記、まず“ヨのマモり”。 ちなみにこの表記は前回でも解釈した。
“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)。

 そして“ヒのマモりにマモり”。
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“マ”は、前述のとおり。
“モ”は、前述のとおり。
そしてもう一度“マモ”、これは意味を強調していると思われる。

 そして“ササぐるもののタママナく”。
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根。
もう一度“サ”。
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと。
“マ” は、前述のとおり。
もう一度“マ”。
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む。

 そして“ウミノコの”。
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの。
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ノ”は延びる 広いところ の意。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。

 そして“イヤサカツぎに”
“イ”は、生気生命の発生力。
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む。
“サ” は、前述のとおり。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。

 そして“サカえしめタマへと”。
“サ”は、前述のとおり。
“カ”は、前述のとおり。
“タ”は、前述のとおり。
“マ”は、前述のとおり。

 そして“カシコみカシコみマオす”
“カ”は、前述のとおり。
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
そしてもう一度“カシコ”。
“マ”は、前述のとおり。
“オ”は生命発生の元根、また、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと。

 そして“カムナガラタマチはへませ”。
“カ” は、前述のとおり。
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(法則性)。
“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意含む。
“カ” は、前述のとおり。
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意。
“タ”は、前述のとおり。
“マ” は、前述のとおり。
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)。

 そしてもう一度“カムナガラタマチはへませ”。

 これらのことを鑑みて、

“ヨのマモりヒのマモりにマモり、ササぐるもののタママナく、ウミノコのイヤサカツぎにサカえしめタマへとカシコみカシコみマオす、カムナガラタマチはへませ、カムナガラタマチはへませ”

の意味として、まず、“夜 ヨ”は、“日 ヒ”に対しての言い回しであるし、これは砌(みぎり)=“夜 ヨ(“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目)”であり、日足(ひたり)が“日 ヒ(すべての物(観察しうる外側(外国と幽界)の事象)の根、そして心(靈)(ヒ)、日(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意))”ということになり、“マモ”は、“マ”は、有形生命、または正しき生命、“モ”は、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すこと、ということになるので、進化した生命が神の思惑を顕現していくという意味合いを感じる…と前回解釈した通り。

 次の“ササぐるもののタママナく”の“サ”、そして前回解釈した“タマ”そして“マ”と“ナ”この意味を統括すれば、栄え発展する生命、そしてそれは、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識しうる、さらにもう一度“マ”の表記があるので、この事象における有形生命、正しき生命の意味を強調し、それは、生命の殖え栄ひ進展、という意味合いが当てられている。
次の“ウミノコの”は、“ウ”、生物を生み出す力、これは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の計画、ということが感じられ、それは、“ミ”、生命の幹 その現実、であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画は、“ノ”、延びていくのであり、“創造”の“主(ヌシ)”の振動=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、“コ”、停滞させ、生命(生きる使命=存在理由)として働く、それは個々の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を細分して顕現していき、事象の“創造”をするという意味のこと。

 次の、“イヤサカツぎに”は、“イ”、生気生命の発生力、これは生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのエネルギー、活力(肝=“いきり立つ心(奴と心)”)という意味合いが感じられ、だからこそその生命は、“ヤ”、その心は高台(たかと)高き段に進む=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すのであり、“サ”、栄え発展する生命であり、そのエネルギーや活力そのものが、“カ”、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)であり、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが、“ツ”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、つづまる(約まる)集う(つどう)ということをさせるという意味合い(“日止、霊止”の表記の意味)。

 次の、“サカえしめタマへと”は“サ”、栄え発展する生命、“カ”、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)への活力は、前述の“タマ”、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識しうるものであるという意味。

 次の、“カシコみカシコみマオす”の二回続いて表記がある“カシコ”は、“カ”、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、それは今の霊的成長度の人間が観測しうる低振動、物質を認識しうる振動よりも高く細かいので、“シ”、弱き光と認識されるが、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意であり、平均的地球人の心(靈)(ヒ)を構成している振動、自我中心の神道よりも高い振動であるから、“慈(しげる)”のシということ。 それを、“コ”、停滞させる、それが今の地球人より高い心を持つ、高い霊的成長度に成りうる、天意を止める生命(生きる使命=存在理由)、“日止、霊止”ということになり、よってそれは、“マ”、有形生命、正しき生命であり、“オ”、生命発生の元根(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、計画)であり、また、物質を伴った進化=肉体を持った進化そのものののことといい得る。

 次、二回繰り返される“カムナガラタマチはへませ”は、“カ”、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)は、“ム”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める生命は、その“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の度合いにより、自ら多岐に分かれるし、それが異なれる生命生まれ出る理(法則性)でもあるということ。 そしてその生命は、“ナ”、生命の殖え栄ひ進展、であり、“カラ”、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、それは、生命発生の初音(ウネ)、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画の顕現と解釈できるし、それは生命(生きる使命=存在理由)の神格化ということでもあるからこそ前述の“タマ”=神の“思惑の顕現”、現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識しうるものであり、さらにそれは、“チ”、チカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)ということになり、神の思惑、計画を顕現する、という生命(生きる使命=存在理由)になるの意味合い。

 上記のことを踏まえ、漢字とひらがな表記の、
“夜の護り日の守りに守り、捧ぐるものの絶間無く、子孫の弥栄継ぎに栄えしめ給へと畏み畏みも白す、惟神霊神幸はへませ、惟神霊神幸はへませ”
を見るならば、神の思惑と計画である、有形生命、正しき生命である人間は、砌(みぎり)の極性を顕現する、それは“護り”(とりまいてまもる、かばう、の意)と称され、それは個々の生命の“思惑の顕現”=現象化であるから、思惑、思想、である日足(ひたり)の極性で、守り、そしてそれを守るという意味合いで二つめの表記があるのだと思うし、だから二つ目の表記は事象の“創造”の法則性、有形生命、正しき生命が行うべき使命、という意味合いがあり、それは“捧ぐるものの絶間無く、子孫の弥栄継ぎに栄えしめ給へと畏み畏みも白す”、栄え発展する生命、そしてそれは、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識されうるし、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画に沿っているからこそ、この事象における有形生命、正しき生命であり、それそのものが、生命の殖え栄ひ進展であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画が、生物を生み出す力、であり、顕現された思惑と計画は、生命の幹 その現実、であり、それは、延びていくのであり、“創造”の“主(ヌシ)”の振動=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、停滞させ、生命(生きる使命=存在理由)として働く、それは個々の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を細分して顕現していき、事象の“創造”をする、これが神の“思惑の顕現”=現象化そのものであり、ことに“弥栄継ぎ”は、生気生命の発生力、これは生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのエネルギー、活力(肝=“いきり立つ心(奴と心)”)という意味合いが感じられ、だからこそその生命は、その心(靈)(ヒ)は高台(たかと)高き段に進む=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すのであり、それはまた、栄え発展する生命であり、そのエネルギーや活力そのものが、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)であり、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、つづまる(約まる)集う(つどう)ということをさせ、天意を止めることのできる肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を創るのが生命、生きている者の使命であるし、それは、栄え発展する生命であり、それには“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の活力とする、そうなれば、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識しうるものである。
これが“子孫の弥栄継ぎに栄えしめ給へ”という漢字表記から感じられ、それには次の表記の“惟神霊神幸はへませ、惟神霊神幸はへませ”は、“惟神”が、神であるままに、神として、あるいは、 神代のままに。神のおぼしめしのままに、神の御心のままで人為の加わらないまことの道、という意味合いがあるので、これは“惟神”そのものが神の思惑を共有した心(靈)(ヒ)であるということ、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命ということであり、それはまた、神、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)とともに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するということであるから、“惟神”、“霊”(“上”のこと)、もうひとつ“神”という表記が当てられ、それは“ほんとう”の意味での“幸”、“夭と屰”(ようとげき)、神と認識を共有するまで死なないで育つ、という意味合いのことであると思う。

 最後の“一本の草でも干して貯へておけよと申してあろがな”は、
“一”=智性=1番目のオーラ、
“本”=“本津宮”(もとつみや)のそれ、自省(胸の磁性“十”)のこと、
“草”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと太陽を示す日と胸の磁性“十”のことだと思うので、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、胸の磁性“十”を芽生えさせる(艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ)であると思う。

 次回は、十三回に分けた水の巻 第三帖の解釈の総括と、第四帖の解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖の解釈の総括 & 第四帖 Kellyさん的解釈

 まず、第三帖の総括として。
 
 冒頭で“神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ”と述べられては、いるが、なぜこういう言い回しをしているのか、を、考えるならば、今の人間、そして今の神道が、“神の子は神としての自分養ふこと”をしていないからである。
  その“神としての自分養ふ”、本来なら、人の霊的成長と神格化の手助け、指標になるべきはずの宗教、僧侶や神職などが宗教を金儲けにしているから、既成の宗教は腐り果てている。
そして、仏教や神道など既成の宗教は、学校を卒業しただけで僧侶、神主、神職など、になることが出来るというシステムが既におかしいのだが、これについて論じている人間はあまりいない。
そしてこういった人間と、僧侶、神主、神職などは、普通の人生を歩んでいるだけであり、よって、たいして霊的成長をしていない、当然のことながら霊的成長のための“行”をしていない、霊的成長のための“行”に入るまでの苦痛や苦悩に満ちた人生を送っていない(“ほんとう”に神を求めるという段階に入っていない)。

 大体、霊的成長という概念も“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)である僧侶、神主や神職などには無いし、よって自分の霊的成長と神格化のための“行”という概念も無い。 

 それ以前に、既成概念、一般常識において、御利益で金を集め、権威をひけらかして形骸の地位を保っているだけの僧侶や神主や神職たちが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人の霊的成長の指標として作らせた宗教をダメにしているという、そういったものの見方が無さすぎるし、大概の人間はこのことに気づくことすらない。 
 そして、神道の権威の代表である天皇制、体外受精しなければお世継ぎが生まれない今の皇室、この天皇制そのものが、にせものであるという見方が無いし、こういった行為そのものが、
“捧ぐるものの絶間無く(ササぐるもののタママナく)、子孫の(ウミノコの)弥栄継ぎに(イヤサカツぎに)栄えしめ給へと(サカえしめタマへと)”



栄え発展する生命、そしてそれは、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識されうるし、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画に沿っているからこそ、この事象における有形生命、正しき生命であり、それそのものが、生命の殖え栄ひ進展であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と計画が、生物を生み出す力、であり、顕現された思惑と計画は、生命の幹 その現実、であり、それは、延びていくのであり、“創造”の“主(ヌシ)”の振動=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、停滞させ、生命(生きる使命=存在理由)として働く、それは個々の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を細分して顕現していき、事象の“創造”をする、これが神の“思惑の顕現”=現象化そのものであり、ことに“弥栄継ぎ”は、生気生命の発生力、これは生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのエネルギー、活力(肝=“いきり立つ心(奴と心)”)という意味合いが感じられ、だからこそその生命は、その心(靈)(ヒ)は高台(たかと)高き段に進む=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すのであり、それはまた、栄え発展する生命であり、そのエネルギーや活力そのものが、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)であり、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、つづまる(約まる)集う(つどう)ということをさせ、天意を止めることのできる肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を創るのが生命、生きている者の使命であるし、それは、栄え発展する生命であり、それには“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の活力とする、そうなれば、神の“思惑の顕現”=現象化として生命が現れ立ち、建く(たけく)高く成長、進化=霊的成長、神格化に向かうことをするし、それが、有形生命、または正しき生命、と認識しうるものである
ということではない。

 それは、まっとうな形で子供を作れない、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が子供を与えない、許可されていない、それは低いから子供を与えられない、ということをあえて指摘しておくが、こんな形骸になった天皇制をありがたがり、その腐った権威に肖り(あやかり)、蠅のようにたかる神主や神職は、どういった人間なのかということをよく認識すべきであるとは思う。
 それでこのことを指摘した文言が、
“取違ひすると大層な事になるから、気つけておくぞ”
であるだろうし、既成の宗教は人の役に立っておらず、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の金儲けの道具に成り下がっているのだということを指し示す文言である。

 こういったダメな実態を知っている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)、“日月神示”を書かせた艮(うしとら)の金神の霊団は、今の“役員づら”の僧侶や神主や神職たちの思想や行動そのものが間違っている、それを知れ、そして“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を知れ、という意味合いで、
“祓え祝詞書き知らすぞ”、
“「うけひ」の言葉しらすぞ”、
“御先祖様の拝詞しらすぞ”、
に続く文言で、霊的成長、神格化、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である生命、生命の存在の意義と使命(神の“思惑の顕現”)、を説いているのであるし、形骸に成り果て腐り果てている今の既成宗教では、神の思惑は何も伝わっていない、ただありがたそうな言葉をもてあそんで甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見る人間を増やしている結果に成り下がっているから、“ほんとう”のことを示す、その文言が第三帖の要であったと思える。

 上記のことを踏まえ、水の巻 第四帖の本文。
お宮も土足にされる時が来る、おかげ落さん様に気付けよ。
勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々。
二十四日、三の一二のか三。

 これを見るならば、その意味はすぐ解る。 
 ()内に注釈を入れる形で解釈を述べることとする。

“お宮も土足にされる時が来る、おかげ落さん様に気付けよ”
(霊的成長のための指標となるべき宗教、“宮”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の金儲けに利用されているので、“上”から観れば“土足にされる”ということであり、霊的成長の指標になっていないので“おかげ落さん様に気付け”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人に示した宗教の意義をきちんと見出す人間を期待した言い回しである)

“勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々”
(形骸の地位、程度の低い人間同士が褒めそやすこと、それを“勲章”と称し、そんなものは“何んにもならん”のであり、“時が来る”というのは、“役員づら”がその霊的成長度の低さを示す、馬脚を現す時が来るという言い回し。 そして“役員づら”が運用している宗教は“まこと”ではないから、“まこと一つに頼れ人々”といわれている)

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、水の巻 第五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

外国のコトは無くなるぞ。 江戸の仕組 旧五月五日迄に終りて呉れよ。 後はいよいよとなるぞ。
神が申した時にすぐ何事も致して呉れよ、時過ぎると成就せん事あるのざぞ。
桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫(まんごう)変らぬ松の世と成るぞ。 松の国 松の世 結構であるぞ。 
この神示 声出して読みあげてくれよ。 くどう申してあろがな。 言霊(ことだま)高く読みてさえおれば結構が来るのざぞ。 人間心出してはならんぞ。
五月一日、三(みづ)のひつ九のかみ。

 冒頭の“外国”は、外側(外国と幽界)の事象のことであり、カタカナ表記の“コト”は、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、
そして、
“ト”は、止まると云う心、
であるので、それは、(霊的成長度の高低を問わず)それぞれの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による外側(外国と幽界)の事象の遭遇のこと。
 換言すれば、心(靈)の動き=息吹の結果、“思惑の顕現”=現象化、“どういうつもり”で自分が何かをなそうとしたということ=“道”(時間の進行に伴う)外側(外国と幽界)の事象の遭遇、そのもののことで、それを“上”から観たならば、事象の遭遇は心(靈)(ヒ)の動きの結果であるという意味合いで“コト”である。
(“日月神示”のカタカナ表記は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から視点の言い回しであるという決まりがある)

 それで、ここまで解釈してきた“日月神示”の文言の中に登場してきた表記の、“コト”そして“言”、“言波”、“詞(ことば)”、“言霊”、これらは心(靈)(ヒ)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)することの意がある。
 またそれは、心(靈)の発振、発信が事象の“創造”となり、それはまた霊的成長度の高低(進化程度)における心(靈)の動きで、どんな事象に遭遇するのか、ということになる。

 このことを踏まえて、冒頭の文言を()内に注釈を入れて解釈する。

“外国(今までの平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による外側(外国と幽界)の事象)のコトは無くなるぞ。
(要約すれば、今までの価値観や幸福感で創られた今の腐った事象は無くなっていくの意) 
江戸の仕組(自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は)
旧五月五日(五は糸巻の象形文字、神経のこと、神経の発達がローレンツ力であり、天意と感応するもの、そして月は肉体(月(ツキ))、日は心(靈)(ヒ)、よって今までの進化で創られた肉体(月(ツキ))のローレンツ力で感応している今の天意(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子)は、古い=旧であり、その神経の発達も旧であるということ)迄に終りて呉れよ。 
後はいよいよとなるぞ(旧の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)ではなくなるということ=今後=アセンション後に移行すべき進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をせよということ)
 
 これに続く以下の文も()内に注釈を入れる形で解釈する。
“神が申した時(“上”の発振、発信)にすぐ何事も致して呉れよ、時(アセンションの時期)過ぎると成就せん事あるのざぞ。
(“上”の発振、発信に感応できない霊的成長度では“すぐ”に“上”の思想を自分の認識(悟り、幸取=さとり)に出来ないし、“上”の思惑に沿った“創造”が出来ない=“成就せん”、いわゆるアセンション後に移行出来ない平均的地球人の霊的成長度(“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)では、次の“創造”は担えないということ)

 次の文。
“桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫(まんごう)変らぬ松の世と成るぞ。 松の国 松の世 結構であるぞ”

 この文の表記の“松の世”そして“松の国 松の世結構”の“松”の解釈が重要であると思う。
それは、今解釈している水の巻の次が、松の巻であり、水の巻の水が、三 ローレンツ力と ○ (みず)、これは“一二三”のオーラと霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、そしてローレンツ力ローレンツ力 、の意味があるが、
松の巻は、 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) つであり、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の、“つ”である。
 例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意、があるので、 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) つは、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことであるとの解釈をする。

 ちなみにこのことが解りやすいのが、松の巻の第三帖の以下の文であるが、先走りすぎるので解釈は見送る。
 だが、ここまで、ここでの“日月神示”解釈を読まれた方はなんとなく意味が解ると思う。

神烈しく、人民静かにせよ。云ふた事 必ず行はねばならんぞ。 天から声あるぞ、地から声あるぞ。 身魂磨けばよくわかるのざぞ。 旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心 獣ぞ。 神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。 日本晴れとはその事ざぞ。

 話を戻し、先にピックアップした“松の世”そして“松の国 松の世結構”は、これまでとは違う進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の心(靈)(ヒ)が“創造”しうる事象が“世”であり、またそれは“万劫(まんごう)変らぬ”のである。
そして“国”は、自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)(ヒ)なので、“結構”=“上”の思惑通りであるということ。
 先に述べた、“これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)”のことである。
 そして、こういった今までとは違う進化過程における個々の心(靈)(ヒ)が持つ価値観や幸福感の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が台頭して、次の事象の“創造”をするから、これまでのもの、繁栄したものは、“桜花一時に散る事あるぞ”、崩れるということ。

 これに続く以下の文は、()内に注釈を入れる形で解釈を述べる。

“この神示(“上”の思惑) 声出して読みあげてくれよ(天意を自らの認識(悟り、幸取=さとり)とする“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして、自らの“一二三”のオーラとして発振、発信せよ)。 
くどう申してあろがな。 
(“上”の思惑と感応した心(靈)(ヒ)が息吹く=“言”という意味での)言霊(ことだま)高く読みてさえおれば結構が来るのざぞ。 
人間心(これは今、あるいは今までの進化過程における発振、発信のこと)出してはならんぞ”

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 水の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、水の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

キが元ぞと申してあろがな。
神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ。
キ大きく持ちて下されよ。 島国日本にとらはれて呉れるなよ。 小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ。
一たべよ、二たべよ、食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ、神にそなへてからかむのざぞ、かめばかむほど神となるぞ、神国ぞ、神ながらの国ぞ。 かみながら仕事してもよいぞ。 
青山も泣き枯る時あると申してあろが。 日に千人食い殺されたら千五百の産屋(うぶや)建てよ。 かむいざなぎの神のおん教ぞ。 神きらふ身魂は臣民も厭ふぞ。
五月二日、三のひつくのか三。

 冒頭の文の、“キが元ぞと申してあろがな”。

この“キ”、そして“元”の表記、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指し示し、そこにおいて自らが“観察と認識”しうる事象(外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)、その両方のこと)を指す表記である。 
ちなみに“キ”については、磐戸の巻 第二十一帖で以下のように解釈した。

“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている

 そして“元”という表記は、肉体(月(ツキ))を表す“二”と、時間の進行の意味がある儿部(じんぶ、にんにょう)、で構成されているので肉体(月(ツキ))をともなった心(靈)(ヒ)が時間の進行(“道”)とともに、神の思惑に沿った(“理(ミチ)”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくのだという意味合いがある。

 次の文。
“神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ。
キ大きく持ちて下されよ。 島国日本にとらはれて呉れるなよ。 小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ”

 この文の“神国”“本土”“島国日本”“神ながらの国”の解釈、右翼傾向の強い人たちが間違えるであろうこの表記の解釈が大事であり、これらはすべて、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指さなければならない自分たち(“日止、霊止”という生命(生きる使命=存在理由))のことである。
 少々蛇足になるが、これまで述べている通り“国”というのは、平均的地球人の霊的成長度における認識(自我中心の認識)が生み出している縄張りのことではなく、“国”という字を構成している(囗)くにがまえ、は、場(フィールド)であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、それは自我より“上”の心(智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”)を発現しうる霊的成長度の人が、“玉(ぎょく)”と呼ばれるに値する、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がそう評価する人間であり、また“玉(ぎょく)”は結晶化を指し、“ほんとう”の“行”やっていけば、苦痛や苦悩は、神経(“日月神示”でよく使われる表記としては“五”
(五は糸巻(神経で構成されるコイルのこと)の象形文字)、あるいは“五月”=神経と肉体(月(ツキ)))
を流れる生体内電流の強化と変容であるからこそ、タンパク質の高分子化、肉体組織の結晶化が起きていき、その結果として、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、との感応をして、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)は、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して変わりうる、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な説明となるが、それを“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と称されている。
 要は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たすべき心(靈)(ヒ)は、“行”やって結晶化した肉体組織にならねばならず、“行”の意義はそこにあるが、このことも“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が流布した既成概念によって大概の地球人には理解不能なことに成り果てている。 それは霊的成長、神格化に向かうこと、を阻む存在、悪魔の思惑であるが、その思惑自体も発振、発信であり、“キ”であるので、
“神国(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)(ヒ))負けると云ふ心、言葉(発振、発信)は悪魔ぞ、
本土(本は“本津宮”(もとつみや)の“本”、自省(胸の磁性“十”)の心、土は肉体(月(ツキ))のこと)
上陸(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする心(靈)(ヒ)を阻むこと)と云ふキは悪魔ざぞ”
と称されている。

 これに続く以下の文も()内に注釈を入れる形で解釈を述べる。

“キ大きく持ちて下されよ(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の自我の肥大した心は矮小で脆弱で、憑依現象で心を乗っ取られることが多いので、自分の思惑、“どういうつもり”、心(靈)の動きの発振、発信=“キ”の在り方を鑑みよの意)。 
島国日本にとらはれて呉れるなよ(タンパク質がより集まり組織を構成していくことを“島”という表記で表すと日月の巻 第三十帖で解釈したが、それは進化の最初の段階でしかなく、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化には程遠い、現状の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、先に述べたように矮小で脆弱で憑依現象で心を乗っ取られやすいので、“島国日本”と揶揄されている)。 
小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ(自我の確立=固定化、結晶化していない=“行”やってない肉体(月(ツキ))で発現している心(靈)は“小さい事思ふてゐる”のであり、人間の存在の意義、生命の存在理由を考えること出来ないので“見当取れん”ということ)

 これに続く“一たべよ、二たべよ、食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ、神にそなへてからかむのざぞ、かめばかむほど神となるぞ、神国ぞ、神ながらの国ぞ。 かみながら仕事してもよいぞ”の、“一たべよ、二たべよ”は、“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラと、手の磁束で構成される二番目のオーラ、これはシンクロトロンの基本構造といえ、脊椎動物が進化して手が発達したからこそ自省(胸の磁性“十”)の心を持つことを今まで述べてきているが、その意味合いのことであると思う。 
 そして“食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ”は、噛むことによる圧電、これはローム太霊の言葉である“粘りとやせ我慢”の意味のひとつであり、自分に課せられた人生における因縁、生業(なりわい)の“行”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”には、“粘りとやせ我慢”が必須であり、その際には歯を食いしばり…という言い回しがよく解るだろうが、我慢することは“間断なき行”であり、進化に必須なので“かめばかむほど神となる”こういう言い回しがされ、それは自分が頑張る(元の気を張る)、我慢する、すべて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑に自らが自らを照らし合わせて、自分自身が頑張らなければならないから“神にそなへてからかむ”といわれている。 
 そうやって“粘りとやせ我慢”“間断なき行”、頑張る(元の気を張る)ことをしていくならばそれは、進化を目指す心(靈)(ヒ)=“神国ぞ、神ながらの国ぞ”といえ、ことに“神ながら”という表記は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をさすものである。
 これに続く“かみながら仕事してもよいぞ”は、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しながら生業(なりわい)をなせよ、という意味合い。

 次の
“青山も泣き枯る時あると申してあろが”
は、いうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“キ”の結果、その事象は崩れるの意味合いであり、これに続く
“日に千人食い殺されたら千五百の産屋(うぶや)建てよ。 かむいざなぎの神のおん教ぞ”
は、恨みの連鎖の霊的干渉による人間の死は悪魔の思惑であるのだが、神の思惑として存在している生命(生きる使命=存在理由)は恨みの連鎖の霊的干渉を受けるのは自己責任であり多くの死者が出るのは当然だが、必ずそれ以上の生命を生み出すものであるという言い回し。
 そしてこれは古事記の引用であり、黄泉の国に落ち、腐り果てた伊邪那美(いざなみ)=腐り果てた砌(みぎり)の極性(事象への顕現)と、それを知った伊邪那岐(いざなぎ)の思惑(日足(ひたり)の極性)を指すものである。

 要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする生命(生きる使命=存在理由)は、滅びない、廃れない、のであり、その理由と根拠は生命(生きる使命=存在理由)が神の“思惑の顕現”であるからであるし、それが“かむいざなぎの神のおん教”と称されている。

 これに続く“神きらふ身魂は臣民も厭ふぞ”は、第六帖の文頭の“神国負けると云ふ心、言葉は悪魔”にかかる言い回しであり、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、自我の肥大、自分の心(靈)を憑依現象によって見失っている多くの地球人、形骸の価値や薄っぺらい幸福感に酔いしれている多くの人は神の思惑通りの生命ではないから“神きらふ身魂”であり、それは今後=アセンション後における“臣民”が“厭ふ”ものなのだということを、述べている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、水の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

皆病気になりてゐること分らぬか。 一二三のりとで直してやれよ。 神示読みて直してやれよ。 自分でも分らぬ病になってゐるぞ、早ふ直さぬとどうにもならんことになって来るぞ。
この宮、仮であるぞ。真中に富士の山つくり、そのまわりに七つの山つくりて呉れよ。 拝殿つくり呉れよ。 神示書かす所作りてくれよ。 天明弥澄む所作りて呉れよ。 いづれも仮でよいぞ。 早ようなされよ。 
松の心にさへなりておれば、何事もすくすく行くぞ。
五月四日、みづのひつ九のか三。

 第七帖の“病気”“病”という表記の意味は、実際の病気も含め、恨みの連鎖の霊的干渉、そしてその現象化のことである。 
 その現象化の具体例は、戦争であったり事故や犯罪であったり、あるいは悪の回転、荷電粒子の右回転が、左回転で構成されて進化してきた(タンパク質の高分子化)遺伝子の崩壊をまねいたりして、癌になったり新種のウィルスになったりするとの私見を持つ。
 そして恨みの連鎖の霊的干渉の影響を受けるのは、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)であるから、自分の心(靈)の動きそのものが、影響を受ける理由と根拠に成りうるものである。
 また自分の心(靈)の動きと憑依してくる霊的存在の心(靈)の動きは、幾度となく述べてきているように、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)である。

 今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は自我の確立=固定化の段階であり、自我の肥大(“石屋の仕組み”)に陥っているものである。
 それは、自分が間違っていても、そのことを自覚していても、突っ張ったりすることが自我の強化であったりもする、自分の非を認めないとか、自分は悪くないとか思いたい、こういった心(靈)の動きそのものが自省(胸の磁性“十”)が出来ていない、ということであり、霊的成長度が低いといい得るものであり、その心(靈)の動きの発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く)が、自分の心(靈)の動きと同程度の心(靈)の動きを持った霊的存在の憑依をまねいているのだが、このことに気づく人はほとんどいない。 
 また自我の確立=固定化の進化過程は、霊媒体質であるから、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った低い霊的存在に自分の心(靈)を乗っ取られやすい、それは自分の心(靈)の中に入り込まれ、自分の心(靈)の動きか悪霊の心(靈)の動きか自分でそれが判断できない人が多いということ。

 またこのことは、前回の第六帖の、
“神国(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)(ヒ))負けると云ふ心、言葉(発振、発信)は悪魔ぞ、
本土(本は“本津宮”(もとつみや)の“本”、自省(胸の磁性“十”)の心、土は肉体(月(ツキ))のこと)上陸(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする心(靈)(ヒ)を阻むこと)と云ふキは悪魔ざぞ”
という文言で示されている。

 それで第七帖では、

“皆病気になりてゐること分らぬか”
“自分でも分らぬ病になってゐるぞ、早ふ直さぬとどうにもならんことになって来るぞ”

と述べられており、
そうならないようにするには、

“一二三のりとで直してやれよ。 神示読みて直してやれよ”

と、自らの心(靈)(ヒ)の発振、発信=“のりと”、それは“一二三”のオーラをしっかりさせよ、霊的成長せよ、“一”=智性=1番目のオーラを立派にする“行”を艮(うしとら)の金神は朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を、黒住教で教えており、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで“一”=智性=1番目のオーラが立派になったなら、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意と感応し、天意を自らの思想とする=“神示”を自分の思想とする、そうなれば当然、自省(胸の磁性“十”)の出来た心になり、先に述べた程度の低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きにくくなるものであるからこそ、“病気”“病”と称された恨みの連鎖の霊的干渉の影響を受けにくくなるし、今の地球人の進化は、土=2~3番目のオーラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であることが多いから、“一二三”、“一”=智性=1番目のオーラをしっかりさせよ、という表記が“日月神示”にたびたび登場するし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である艮(うしとら)の金神と名乗る霊団は、今の地球人のオーラの構成が“二三”であるから、そこから“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を太陽凝視で行い、“一”=智性=1番目のオーラを立派にせよ、このことを教えているのである。

 これに続く、

“この宮、仮であるぞ。 真中に富士の山つくり、そのまわりに七つの山つくりて呉れよ。 拝殿つくり呉れよ。 神示書かす所作りてくれよ。 天明弥澄む所作りて呉れよ。 いづれも仮でよいぞ。 早ようなされよ”


“この宮”“拝殿”“神示書かすところ”
というのは、
先に述べた天意と感応するべく“行”やって“一”=智性=1番目のオーラを立派にしようとする自分自身のことである。

 そして
“天明弥澄む所”
は、“日月神示”を自動書記で書いた岡本天明のことではなく、“天”は天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子であり、“明”は、太陽と月であり、“弥”は弥栄(いやさか)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すことそのものであり、“澄”は、恨みの連鎖の霊的干渉の影響を受けないようにすることの意であり、“所”は“行”やっていく自分のことであり、“真中に富士の山つくり、そのまわりに七つの山つくりて呉れ”は、“行”やって“富士(二二)”、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、これをしっかりさせて、“山”=高分子化したタンパク質で肉体を構成せよ、あるいは目上(めうえ)の脳(高い心霊は“山”という表記で脳のことを指し示す)をりっぱにせよ、またそれは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化せよ、そしてそれは七つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)をしっかりすることであるから“七つの山”と称されているものである。
 そしてそれは、今の地球人に、“仮でよい”といわれ、いきなり天意と感応せよ、すぐに“一”=智性=1番目のオーラを立派にせよ、ではなく、それを目指せ、そうならば次の段階に移行する資格となるのだと、いわれているし、霊的成長度における区分け、その時期は近いから“早ようなされよ”である。


 これに続く、

“松の心にさへなりておれば、何事もすくすく行くぞ”

の“松”は、第五帖で解釈を述べた“〇つ”“であり、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) と、ひらがな表記の“つ”である。
 この表記の意味は、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)=○であるから、今の地球人の恨みの連鎖の霊的干渉にまみれた現状とは違い、“何事もすくすく行く”といわれている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、水の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

鎮座は六月の十日であるぞ。 神示書かしてまる一年ぞ。 
神示で知らしてあろが、それからがいよいよの正念場ざぞ。 びっくり箱あくぞ。
五月四日、みづのひつ九のか三。

 冒頭の“六月の十日”は、いつも解釈している通り日付のことではなく、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、神の思惑と“日止、霊止”の思惑が交わるの意味、天意を顕現する、いわゆる“天詞様”になれよということ、そして月は肉体(月(ツキ))のこと。

(ちなみに“天詞様”は今の何の価値も見出せない天皇制のことなどではない)

 “十”は、胸の磁性“十”、シンクロトロンの構造、その強化、いわゆるアナハタチャクラ(チャクラは荷電粒子の回転)、そこにおける心(靈)の発現は、自省(胸の磁性“十”)と“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と、“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”、さらにその心(靈)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)で観察しうる事象は、第四密度と称されるものであり、第三密度である自我の確立=固定化の進化過程の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”しうる事象とは違ってくるものである。
 そして“日”は太陽のことであり、心(靈)(ヒ)の進化が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、その取り込み(“日止、霊止”の表記の意味)であることを示す。 
その心(靈)の発現をして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくなれば、自分が“観察と認識”しうるすべての事象を慈しみ、すべての事象を大切に感じ(感じる磁性)、さらにすべての事象が“神の采配”によることを認識するから神聖さを感得しうるようになる、そして自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、神聖な事象の“創造”をしようとする、そういった霊的成長度のことを指すもの。
 よって“鎮座は六月の十日である”というのは、今の地球人より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“鎮座”するものであるということ。

 これに続く
“神示書かしてまる一年ぞ”
は、自動書記で“日月神示”を書いている岡本天明に対するねぎらいの言葉、それはこういった憑依現象は大変疲れるものであるからである。

 これに続く
“神示で知らしてあろが、それからがいよいよの正念場ざぞ。 びっくり箱あくぞ”
の“正念場”は、アセンションの時期のことと、アセンションに間に合う霊的成長度になれよ、自我を諌める霊的成長度くらいにはなっておけよ、という意味合いであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のままでは次の事象に移行できないから“正念場”といわれ、時期が近いから“いよいよ”であり、“神示で知らしてあろが”は、その時期に間に合うための心の在り方と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”のこと。
 この心(靈)の在り方のことを“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”“秋立つ”と述べられ、“行”に関しては、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が一般の人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)した形骸の行ごっこのことなどではなく、“身魂磨き”と称しており、それは、生体内電流による肉体組織の結晶化(“玉(ぎょく)”、タンパク質の高分子化)であり、今後=アセンション後に移行すべき智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得するには、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを、黒住教の時から艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は教えているものである。

 その霊的成長度の人達の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創られた事象は、今までの進化過程、今の平均的地球人が創ってきた事象、それと、平均的地球人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観、幸福感とはまったく違うので、“びっくり箱あくぞ”と称されているし、今後=アセンション後の人達は、ローム太霊が教えた“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念として、価値観と幸福感を鑑み、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠とするものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、水の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。 お山開きまこと結構。 松の国 松の御代となるぞ。
旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。 忘れずにのれよ。 
その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ。 
めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなるぞ。 心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。
日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ。 肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ。
金に難渋して負けぬ様にして下されよ。金 馬鹿にしてはならんぞ。 あせるでないぞ。あせると心配事出来るぞ。 神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ。 
不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。 喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。 神はうれしいぞ。 
旧九月八日とどめぞ。
六月二日、みづのひつ九のか三。

 第九帖には“富士”と“日本晴れ”“晴れ”の表記がいくつか登場する。 
 また“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、それを“行”として行う“日津久の臣民”の表記もある。

 これまで解釈してきている通り“日月神示”表記の“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のこと。 人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくと、日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性がたかまる。
それは個々の思想が“日津久”=太陽凝視で“上”と感応していく、これが、進化していくべき人間の日足(ひたり)の極性のたかまりであり、それを現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する、顕現すること事態が砌(みぎり)の極性であるし、本来、このこと事態が人間の存在の意義であり、進化した生命である人間、“一”=智性=1番目のオーラがたかまった、あるいはたかまっていくべき人間のことを、古神道の表記の“日止、霊止”と呼称すべきである。 

 それと、“お山開き”“お山へ移してよい”の“お山”は、“一”=智性=1番目のオーラのたかまりによって進化していく目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳のことである。

 説明が前後するが“日止、霊止”の表記、これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”これも“上”からの振動の意であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子を、肉体(月(ツキ))の磁束、ローレンツ力で止める、それが“日止、霊止”の表記の意味であり、肉体(月(ツキ))が持つ円形加速粒子機の構造(サイクロトロン、サイクロトロンに水平磁場が加わるとシンクロトロン)で、“一二三”のオーラとして発振、発信することが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、息吹はまた、“日月神示”表記の“言”“コト”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)でもある。

 それで、“日本晴れ”“晴れ”に関しては、過去に幾度か使った画像で意味を示すこととする。

“晴れたり日本晴れ”の解字

 これも太陽の意味と自省(胸の磁性“十”)の意味、そして心(靈)(ヒ)が育つ過程の右往左往と左往右往、そして育った心(靈)(ヒ)、進化した心(靈)(ヒ)の“思惑の顕現”=現象化の意味合いがあることを今まで述べてきている。

 そしてまた、第五帖と第七帖で登場した“松”(〇つ)の表記があり、この表記の意味は、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)=○である。

 これらのことを踏まえ、第九帖の本文の解釈に入る。

まず、
“富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ”
というのは、進化した生命、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が高まった人は、自省(胸の磁性“十”)の心を持つ、それは自我より“上”の心(靈)の発現なので、岩戸開きをする、この岩戸を開くの意味は、岩を構成する字、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、それはヨガでいうところのアナハタチャクラ、その心(靈)の発現は、“慈悲”と“慈愛”、そして重複するが、自省(胸の磁性“十”)の心である。

 これに続く、
“お山開きまこと結構。 松の国 松の御代となるぞ”
は、山=目上(めうえ)の脳が開く、これは“一”=智性=1番目のオーラのたかまりであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んでいる“上”としての立場の言葉として“結構”であり、そうなれば先に説明した“松”〇つ、という生命、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意と感応する“日止、霊止”になる、そういった心(靈)(ヒ)の持ち主(“国”)と、その人たちが“創造”する時代になるという言い回しが“松の国 松の御代となる”ということで、いうまでもなく霊的成長度における区分け、アセンション後のことである。

 次の、
“旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。 忘れずにのれよ”
の“九月八日”も日付のことではなく、“九”は“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、現地球人より“一”=智性=1番目のオーラがたかまった状態を指すものである。 そして月は肉体(月(ツキ))のこと。 
そして“八”文字の構成が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そしてこれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同じ意味を持つ。 そして“日”は、太陽のことであり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性がたかまった“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応するというのが“八日”の意味であり、さらに“旧”の表記は、「古い」の意味ではなく、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と太陽を示す“日”、あるいは、太陽の振動が下降する、それを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で示していると思える。
 よって“旧九月八日”も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記であり、これに続く“大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれ”は、元々、
大祓祝詞、(中臣祝詞、中臣祓ともいう)の「天つ祝詞の太祝詞を宣れ 此く宣らば」で、太祝詞(ふとのりと)を唱えるべきものであり、一昔前は“役員づら”の神職などに多額の(通貨としての)金を払わなければ教えてもらえなかった「ヒフミヨイムナヤコト モチロラネ シキル ユイツ ワヌソ オタハクメカ ウオエニ サリエテ ノマス アセエ ホレケ ウイエ」、これは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応のための文言であり、これを唱えること事態が“上”との感応になる。 それで第九帖の文言は、そのことを指す意味合いもあるが、“一二三(ひふみ)のりとコト”と述べられているので、“一二三”のオーラを“のる”=発振、発信せよ、それは、“コト”、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、
と、
“ト”は、止まると云う心、
要は“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止め、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、という意味合いであり“忘れずにのれよ”は、その発振、発信が出来得る進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たせ、そして“上”との感応を忘れるな、という意味合いである。

 これに続く、
“その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。 江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ”
は、“その日”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし“一二三”のオーラをきちんと発信しうる、“一”=智性=1番目のオーラがしっかりした進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人が現れることにより、その人たちは、“上”と感応し、神の思惑を顕現しようとするから“神は神”と称され、そうではない今までの地球人は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の進化過程であるから“けものはけもの”と分類される、それが霊的成長度の高低において区分けされるアセンションの意義であるが、現時点、この認識が一般になさすぎることを示唆しているのであえて“その日からいよいよ”と述べられている。 
 そして“江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ”の“江戸”は、“江戸と尾張”腹の水、(“江戸と尾張”の“江”)、それは自我の進化、自我の発達、腹の位相のサイクロトロン、三番めのオーラの強化のことで、それを“道場”と称されており、その三番めのオーラを“上”に引き上げる、本文の“山へ移してよいぞ”は、“山”=目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の“行”をする、それをするなれば、三番めのオーラは胸のシンクロトロンの構造で“上”に引き上がり“一”=智性=1番目のオーラに変換されていくことを○○○大先生は著書で述べた(条帛(じょうはく)のこと)が、これが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの秘密でもあるし、“ほんとう”の意味での進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、これが必須であることをあえて述べておく。
 これに続く“役員一度やめてよいぞ。 またつとめてよいぞ”は、“ほんとう”の意味合いの“役員”は、程度の低い人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くものであるが、今は“役員づら”が台頭しているので、活躍する条件に無いことを述べられているが、先の“その日からいよいよ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした人が台頭する時代になれば、進化程度の低い人を導く役割を行使することが出来得る、という意味合いにとれる。
 だが、そういった時代になれば現地球人の大半である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人達はいない、ある程度自省(胸の磁性“十”)をした人でなければ、次の段階に移行しえないことを述べておく。

次の、
“めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなるぞ。 心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ”
の“めぐり”は、恨みの連鎖の霊的干渉、平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きが生み出している因縁のことであるが、それが無くなるのが次の段階、アセンション後の事象であることを今まで幾度となく述べているが、そのことを指しているに過ぎず、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とした人たちは恨みの連鎖の霊的干渉を生み出さず、当然のことながらローム太霊がローム太霊講話集の第九話で述べられた“憎悪の霊団”とも感応しないものである。
 それを示す文言、ある程度進化して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となった人たちは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、がしっかりしており、先に画像で示した“晴れたり”になっており、“めぐり”を生みださない、創らない、増大させない、今の状況とは変わって来ることを“めぐりあるから心配あるのぞ。 めぐり無くなれば心配なくなる”と述べられ、自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば、恨みの連鎖の霊的干渉は減少し、いつか消失するので“心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ”と述べられている。
 またこういった世界を人間に創らせるのが神の思惑であり、それをローム太霊は、ローム太霊講話集の第二話で、
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
という言い回しで、神の思惑について述べておられる。

 これに続く、
“日津久の御民 何時も富士晴れ心でおりて下されよ。 肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ”は、太陽凝視を“行”として行って自省(胸の磁性“十”)の心を発現させている人、現状を憂いている人たちに対するメッセージである。
 それは以前解釈した、
下つ巻 第三十七帖で、以下のように述べられているからである。
“あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ”
これは“上”との感応、神の“思惑の顕現”をすべく生命(生きる使命=存在理由)が、“あめのひつくの民”=太陽凝視を“行”として捉え真剣に行っている人を指す表記である。 
そして、
“ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ”
これは今後=アセンション後の事象を創造するという意味合いであり、今後=アセンション後の事象が神の“思惑の顕現”となっていくからこそ、“末代名を残して、神からお礼申す”と述べられている。
 さらに“ひつくの臣民”は今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”による事象では、たいして活躍できないことを示す文言が以下の文、
“何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ”
この文の“神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひない”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は絶対のものであり、それに沿っていない人間と、沿っている“ひつくの臣民”は、それぞれ、それなりの、“上”からの評価があり、やってきたことが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っているかいないかで、この文の“今に上、下になる”=程度の低い人は活躍できない時代になるし、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしてきた人が、今後=アセンション後の事象の“創造”の要になることを示すものである。
 また“何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ”
と、第九帖本文の、
“肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ”
は、同じ意味のことを述べている。

 それで次の、
“金に難渋して負けぬ様にして下されよ。 金 馬鹿にしてはならんぞ。 あせるでないぞ。 あせると心配事出来るぞ。 神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ”
これは、下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐる”にかかる言葉でもあり、先に述べたように“ひつくの臣民”は、今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に比べれば“金に難渋”しているものであるが、○○○大先生が著書で述べたように“必要なもの以外は必要ではない”という悟りを持つ、そうすれば自分は落ちぶれているとも思わないし、自分の外側(外国と幽界)の事象ばかり見るから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を羨んだりすることもあろうが、それは“あせるでないぞ。 あせると心配事出来るぞ”といわれている通りであるし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が集めている(通貨としての)金は、汚い金であるからこそ“金 馬鹿にしてはならん”のであり、“世為人為”を理念として仕事をするならきれいな金しか集まらないが、きれいな金は汚い金より少ないという現状を指し示す文言でもあり、この文を読んだなら自分はきれいな金を集める生業(なりわい)をすべきであると悟らなければならない。
 そしてこれに続く“神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。 細工はりうりう滅多に間違ひないのざ”
は、今後=アセンション後の事象の“創造”、そしてそれを担う(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、“世為人為”を理念とする人、こういった人達の世になるが、たった今の現状は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する時代であり、それは“神が仕組みてあること”=神の思惑ではないのだということであり、今はどうであれ、必ず“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人達は“めぐり”により活躍できなくなり、自分で自分の首を絞めるという結果になり、その時に“世為人為”を理念とした(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が、台頭するようになるものであることを示す文言で、そのことを最後に強調した形で“細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。 見物して御座れ、見事して見せるぞ”と述べられている。

 次の“不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。 喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。 神はうれしいぞ”
これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”した何かを“不和の家、不調和(ふわ)の国(“国”は心の意味)のささげもの”と称されているに過ぎない。
 それに対し“上”が観て“ほんとう”に価値を認めるものを“喜びの捧げもの米一粒でもよい”と称され、何度も言うが“世為人為”を理念とした人の行動は、“上”が評価するものであるという意味合いの文言である。

 最後の、
“旧九月八日とどめぞ”
は、先に述べたとおり、
“よって“旧九月八日”も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記”
のことであり、この文の“とどめ”は、同義語として、佳境を迎える、クライマックスを迎える、ピークに達する、 絶頂に達する、 最大の見せ場、山場を迎える、天王山、極めつけ、などの意味合いであり、これが次の事象、今後=アセンション後に入るための“とどめ”であることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 今回から、水の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

五大洲 引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ。今の臣民に判る様に申すならば御三体の大神様とは、
天之御中主神様、
高皇産霊神様、
神皇産霊神様、
伊邪那岐神様、
伊邪那美神様、
つきさかきむかつひめの神様
で御座るぞ。
雨の神とは
あめのみくまりの神、
くにのみくまりの神、
風の神とは
しなどひこの神、
しなどひめの神、
岩の神とは
いわなかひめの神、
いわとわけの神、
荒の神とは
大雷のをの神、
わきいかづちおの神、
地震の神とは
武甕槌(たけみかづち)神、
経津主(ふつぬし)神々様の御事で御座るぞ。
木の神とは
木花開耶姫(このはなさくやひめ)神、
金の神(かねのかみ)とは
金かつかねの神、
火の神とは
わかひめきみの神、
ひのでの神とは
彦火々出見(ひこほほでみ)神、
竜宮の乙姫殿とは
玉依姫(たまよりひめ)の神様
のおん事で御座るぞ。此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ。知らす時節近づいたぞ。
六月十一日、みづの一二 ローレンツ力と ○

 それで、第十帖は人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の、とても重要なことを述べているので、数回に分けて解釈することとして、今回は、
“五大洲 引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ”
を取り上げる。

 今述べたことと関連して、ここまで水の巻を解釈してきて思うのは、第一帖の“三ローレンツ力と ○ (みず)”の表記の意味、それは、“三”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力 ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組み、よって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に則った“行”をする=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして、肉体(月(ツキ))のローレンツ力ローレンツ力 を増し、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、自らに止め(“日止、霊止”の表記の意味)、それを息吹け=“一二三”のオーラで発振、発信せよ、換言すれば霊的成長した心(靈)で“思惑の顕現”=現象化をせよ、そのためのことを、水の巻で、“日月神示”を岡本天明に書かせた艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は述べている、という感がある。

 それで、第十帖はすべて漢字とひらがなの表記であり、これは、こちら側、“上”に対して“下”である人間の認識、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点、を、述べている言い回しであるし、“下”である人間がなすべきこと、それが“ほんとう”の意味での、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、である。

 これを踏まえ、
“五大洲 引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ”
を見ると、この“五大洲”の表記、(氵)さんずいと州、ことに水の意味を含む(氵)さんずい、これは右翼傾向の強い人が思うであろう世界を地理学的に分けた5つの州の総称ではなく、“洲”の意味が、
「河川、湖、海の底に土砂がたまって高くなり水面上に現れたものを指し、河口付近などの比較的浅い場所にできる、中洲などを指す」
であり、これは“河川、湖、海”が、肉体を構成する水、錯体としての液体成分(血液、リンパ液など)のことを表し、その水の中で固まる“土砂”は、肉体を構成する灰分(かいぶん)、Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)であり、これが“水面上に現れたもの”というのは、積み上がったタンパク質、タンパク質の高分子化のことである。

  それはまた、肉体(月(ツキ))のローレンツ力ローレンツ力 の強化と変容、いわゆる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指すのであり、これが生物の肉体の変容、いわゆるダーウィンの進化論の裏側にある、心(靈)(ヒ)の進化の要であり、よってこの“洲”の表記そのものが、水と土で構成された肉体(月(ツキ))の秘密、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘密を指した文であると思える。

 そして数字の表記、“五”“七”“八”には、それぞれ霊的成長の秘密がある。

 まず、冒頭の“五大洲”の“五”は糸巻の象形文字、これは神経、骨の周りを巻いているコイル状の神経(電磁石の構造)であり、“大”は、人間が手足を広げた様、の意味があり、“洲”は、前述した通りの意味。

 それで“五大洲 引繰り返って居る”は、人間が神経を発達させ、智性(神性)を発現させ得る“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の組織、大脳新皮質、目上(めうえ)の脳を、人間が進化させてきた=神の思惑を顕現すべく進化させた動物が人間であるのにもかかわらず、腹の心(靈)、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、自我主体の心(靈)、いわゆる自我が肥大して本能中心の欲望で心(靈)(ヒ)を動かしている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のことを指す言い回しと思え、言うまでも無くこういった人たちは“上”の思惑に沿っていないので=(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者ではないので、神の思惑に沿っていないから、“引繰り返って居る”と指摘され、まずそれを自覚せよ、自分たちは自我中心であり本能主体の価値観や幸福感を持っており、それが理由と根拠で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしている、事象の“創造”をしている、そういう息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をしている、これは低いのである、ということを知れ=“引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ”ということである。

 そしてこれに続く“七大洲となるぞ。八大洲となるぞ”は、“七”が、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを行い、“一”=智性=1番目のオーラを大きくさせて“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して息吹く、の意がある。
“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義である。

 よって“七大洲”“八大洲”そういった人間=“大”になれ、先に述べたように肉体の水、錯体(イオン化した液体)の中で、タンパク質の高分子化、“洲”をして、“上”と感応し、思想(伊邪那岐(いざなぎ)の岐の意味)を構築して、その思惑を顕現せよ=事象を“創造”せよ、ということである。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その二”


 今回は、水の巻 第十帖の以下の文を解釈しまんねん。 

今の臣民に判る様に申すならば御三体の大神様とは、
天之御中主神様、
高皇産霊神様、
神皇産霊神様、
伊邪那岐神様、
伊邪那美神様、
つきさかきむかつひめの神様
で御座るぞ。

 さて、この文は冒頭で“今の臣民に判る様に申すならば”と述べられている。 
 これは、今の地球人の霊的成長度で判る説明をしてやる、という言い回しである。
 そして“判る様に申す”は、解る、あるいは分る、ではなく、理解できないだろうが判断はできるであろう、という意味合いのことである。
 さらに“御三体の大神様とは”と述べられているが、ここで列挙されている神名は六つである。 
 今回は、これらについて解釈を述べる。
 
 古事記では“天之御中主神”が、天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に最初に出現した神であるとされ、その後“高皇産霊神”“神皇産霊神”が現れ、すぐに姿を隠したとされており、この三柱の神を造化三神と呼称し、またそれぞれが“独神”(ひとりがみ)であるとされ、別天津神(ことあまつかみ)であるとされている。 
(このあたりのことは、○○○大先生の著書の<1>の後半で述べられている)

 それで前回述べたように第十帖は、こちら側、“上”に対して“下”である人間の認識、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点、を、述べている言い回しである。

 よって“天地開闢の際に高天原に最初に出現した神”である“天之御中主神”は、事象の“創造”をする、“創造”を行っていく思惑(日足(ひたり)の極性)であると解釈できる。
またそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の“主(ヌシ)”の字、これは、“一二三”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))、そして丶部(ちゅぶ)、いわゆる“日月神示”表記の であり、ローレンツ力ローレンツ力 をも示す。
 これは生命(生きる使命=存在理由)、そして靈、それは心(靈)(ヒ)、そのものといい得るのであるが、この進化、ダーウィンの進化論のようにただ生物を分類したのではない“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)として、心(靈)(ヒ)が育つことを説明しているとても重要な意味を持つ。

主(ヌシ)の解字

 この画像は、ローム太霊が伝えた“主護霊”という表記を意味も考えずに、守る護る霊、守護霊と書き換えて商売している霊的成長度の低い人間、いわゆる“役員づら”、そしてその程度の低い解釈を信じ込んでいる程度の低い人間に、“ほんとう”のことを教えるために以前作った画像であるのだが、まったくこの意味が一般には伝わっていないし、御利益しか求めない自分に甘い人間は、守護霊、自分を守ってくれる存在などという勝手な解釈を信じたがるが、これは“ブタのけつを見ているアホ”である。

 話を戻し、人が“日止、霊止”になるというのは、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるためのステップであるし、だからこそ心(靈)(ヒ)は肉体(月(ツキ))を持って生きる体験をして、その肉体の磁性、ローレンツ力で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、自らに止める、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、古神道の“日止、霊止”の表記の意味合いである。

 そしてこれに続く“高皇産霊神”と“神皇産霊神”、この“産霊”という表記の意味が、神道研究家の解釈では、生産、生成、いわゆる“創造”の意味合いのことであるが、これも狭い視点での解釈であるとの思いを禁じ得ない、いわゆる神の“創造”が生命とこの事象、人をはじめとするすべての生命である心(靈)(ヒ)が観察しうる事象、その両方の“創造”に関与しているのが“産霊”である。
 その“産霊”、それは物質が持ちうる電荷による磁性で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、天意が“上”から注がれるからこそ現津(あきつ)、観察され得る事象、そして生命があるのだ、という解釈を、さきの「生産、生成、」という言葉では感じ取れない。
悪口みたいなことを述べたが、この「生産、生成、」を前提に、“高皇産霊神”と“神皇産霊神”の神名を見たら“ほんとう”の意味は通じないと思うからである。
 
 それで“高皇産霊神”は、高い=“上”、皇=白はシンクロトロン放射、王は、“一二三”のオーラの完成形と|(たてぼう、こん、縦の磁性))、これで“産霊”=霊を産む、というよりも新たな要素を取り込んで心(靈)(ヒ)を構成するのが“産霊”であり、それは示す偏(へん)と呂、神であり、呂は荷電粒子の回転の意である。
 同様に“神皇産霊神”の冒頭の表記の神は、“上”としての神、以下の意味は同じであると思う。
要は、“産霊”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑である“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくならば、産みだすが如く心(靈)は成長するという意味合いであると思うし、この三体は、性別の無い独り神とされているが“神皇産霊神”は女神とされているので、“思惑の顕現”=現象化、砌(みぎり)の極性のことである。

 ここまでのことを鑑みて“伊邪那岐神”を解釈すればこれは“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である生命(生きる使命=存在理由)の日足(ひたり)の極性であり、“伊邪那美神”は、その被造物としての生命が事象の“創造”をするの意、いわゆる砌(みぎり)の極性である。
 それで“つきさかきむかつひめの神”であるが、これに近い神名は、撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)であり、天照皇大神の荒魂(あらみたま)とされている。
荒魂は、神の荒々しい側面、荒ぶる魂とか、天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きであるとか、神の祟りは荒魂の表れ、と解釈されているようであるが、この解釈も重要な認識が足らず、これらすべて“神の采配”と人を諌める“神の咎め”であるという認識(悟り、幸取=さとり)を感じさせない。
 よってこれは霊的成長度の低い人が解釈した荒魂の説明である。

 それで先に述べたように、天照皇大神の荒魂というのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、低い事象である今の地球に注がれ、顕現する、それは高い振動に比べれば荒いのであり、低い振動であるから、荒魂と表現されているとの解釈を以前から持っており、それは、神の“思惑の顕現”=現象化であり、ただそれは今の地球では、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍しているからこそ、“神の咎め”の事例が多いのである。

 それで第十帖では、“つきさかきむかつひめの神”と述べられている。
 これを先の、撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)の漢字をあてると、“撞榊向津姫神”となり、“撞”は、つく、つきあたる、さしさわる(差し障る)の意があり、“榊”は、神棚に供える植物であるが、神と人間との境界、境木(さかき)という意味があり、“向津”は、津が中心の意を持ちそれに向かうの意であり、“姫”は、女を指すから砌(みぎり)の極性である。
これらのことを鑑みると、神と人間の境界をつく、つきあたる、打が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは中心と認識され得る“創造”の“主(ヌシ)”に向かうことであり、それに向かいつつあるのが、神の“思惑の顕現”=現象化である、“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)としての、生命(生きる使命=存在理由)としての人間であるとの解釈が成り立つ。
それで第十帖の表記の“つきさかきむかつひめの神”、先の撞榊厳魂天疎向津姫に対し、この抜けている部分の“厳魂天疎”(いつみたまあまさかる)は、“天”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が、“疎”=まばらになる、低振動化、先の荒魂と同義だが、これが進化したならば、自分に“厳”心(靈)=“魂”となるとの意を感じさせるが、現時点、自分に厳しい、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持つ人間は少なすぎるので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、ケダモノの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人が多いので、この漢字に当たるひらがなの表記を抜いて、地球人の進化程度を示唆している言い回しであるとの私見を持つものである。

 今回取り上げた文を要約すれば、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑は、生命(生きる使命=存在理由)の“創造”、そして事象の“創造”であり、それが“産霊”と呼称される。
そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化であるから、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、被造物である生命も日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を持つ。

 そして、現時点の地球人は低いのだ、ということを、地球人自らがよく判断しろ、判ったならもっと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対する理解を深めろ、ということに成り得る。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その三”


 今回も、水の巻 第十帖の以下の文を解釈しまんねん。

雨の神とは
あめのみくまりの神、
くにのみくまりの神、
風の神とは
しなどひこの神、
しなどひめの神、
岩の神とは
いわなかひめの神、
いわとわけの神、
荒の神とは
大雷のをの神、
わきいかづちおの神、
地震の神とは
武甕槌(たけみかづち)神、
経津主(ふつぬし)神々様の御事で御座るぞ。
木の神とは
木花開耶姫(このはなさくやひめ)神、
金の神(かねのかみ)とは
金かつかねの神、
火の神とは
わかひめきみの神、
ひのでの神とは
彦火々出見(ひこほほでみ)神、
竜宮の乙姫殿とは
玉依姫(たまよりひめ)の神様
のおん事で御座るぞ。此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ。知らす時節近づいたぞ。

 今回は上記本文の“岩の神とはいわなかひめの神、いわとわけの神”までの解釈を述べることとする。

 ここで述べられている神名、
“雨の神”“風の神”“岩の神”“荒の神”“地震の神”“木の神”“金の神”“火の神”“ひのでの神”“竜宮の乙姫”
これに似た表記は、以前解釈した、
日の出の巻 第十八帖にある。

“十柱とは火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神であるぞ”
これについて、以下のように解釈した。

“十柱”は胸の磁性“十”、やはり先に述べたこと(“奥山に祀り呉れ”の“奥山”は目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)、心(靈)(ヒ)の発現と動きでいえば本能、情動、功名心、自我であり、それを“祀り呉れよ”であるから、これは“下”(低い心(靈))のエネルギーの引き上がり、またクンダリーニの上昇の意味もあり、自我以下の心を諌めよ(自省(胸の磁性“十”)、“十”は肉体(月(ツキ)の腕(水平磁場)と脊椎と脳などにより構成される縦の磁束とによるシンクロトロン放射(“十”の表記の意味合いの一つ)ということであるし、“日月神示”で一貫して述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への進化のことを述べている)と同義。
そして“火の神”の火は荷電粒子の回転を示す点が二つの表記と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導。
“木の神”の木は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。
“日の出の神”の日の出は、次の段階に移行すること、アセンション後。
“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍。
“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
よって“火の神、木の神、金の神、日の出の神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神”で、これらすべて“十柱”=胸の磁性“十”が立つ(柱)の表記にかかることであるし、“辛酉の日に祀りて呉れよ”の“辛酉”も、下つ巻 第三十帖で解釈した事をそのまま以下にコピペして示す事とする。 ↓

“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。 そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。 ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。 それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。 そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。 そうやって自省(胸の磁性 “十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。 その意味のことを言うてると思えるな。 (引用終わり)

従って“辛酉の日”は自省(胸の磁性“十”)して自分の人生を恥じ入りそれから“慈悲”と“慈愛”という心の動きに移行することを指すものである。

 日の出の巻第十八帖からの引用終わり

 この“十柱”そして“辛酉”は、いうまでもなく自我から“慈悲”と“慈愛”への霊的成長のことを指す。
そして今回取り上げている文も、艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は神名を引用しながら、平均的地球人が知らない霊的成長のことを説くことをしていると思う。
また、この“霊的成長のことを説く”、そのために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、“下”(低い心(靈))である人間に、神名の表記で霊的成長の秘密を示唆していると思う。 
それはまた、“役員づら”の神職や神道研究家などがこのことに気づいていない、ただ神名に肖る、自分たちの権威を示そうとする程度の低いディスプレイ(動物の発情行動)くらいにしか神名を使っていない、それを一般の人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している、そしてご利益を強調する低い心(靈)、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心(靈)の動きを助長するようなことをしているから、艮(うしとら)の金神を名乗る霊団はこのことを説いていると思える。

 上記のことを踏まえ本文の“岩の神とはいわなかひめの神、いわとわけの神”までの解釈を述べることとする。

 まず、“雨の神とはあめのみくまりの神、くにのみくまりの神”の、“みくまり”の表記は、水分り、の字が当てられ、稲作などの水の神とされているが、そうではなく、人間の肉体(月(ツキ))の液体成分、錯体(帯電するミネラルを含んだイオン化した液体)、のことであり、分り、これは分配の意、この表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、錯体に、分け、配る、の意であり、この錯体が肉体を循環することそのものが、新たな電磁誘導、生体内電流の励起となり、生きているという状態を保持するものであるし、常に人間はその肉体の錯体で、“上”からの荷電粒子、天意、を、自らの霊的成長度により止めている、ということを示唆する表記であると思う。

 次の“風の神とはしなどひこの神、しなどひめの神”、この“しなど”の表記は、志那戸、が当てられ、これは神話に登場する風の神、古事記の表記の志那都比古神(しなつひこのかみ)、日本書紀の級長津彦命(しなつひこのみこと)と同義と思える。
 この神名の“しな”は、息が長い、の意があり、よって風の神とされているが、やはりこれは空気の取り込みによる“臓腑”の電磁誘導による生体内電流の励起であると思う。
 そして“しなど”の“ど”は、戸であるから、岩戸、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、のそれである。
 “ひこ”“ひめ”は、男と女の意を示すから、日足と砌(ひたりとみぎり)、それは空気の取り込みが主に肺でなされ、肺は左右に二つあり、肉体を構成する“臓腑”の臓(左右の大脳半球を含むのでこの表記は今一つの感があるが…)は、人間が左右相称動物であるから、日足と砌(ひたりとみぎり)、左右に配置され、それはまたコンデンサーでもあり、これらそのものが“上”からの荷電粒子や天意、そして自らの心(靈)(ヒ)が対峙した時に思うことにより励起された生体内電流を保持し、これがまた肉体(月(ツキ))の磁性を構成するものである。
 
 次の“岩の神とはいわなかひめの神、いわとわけの神”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、ということを何回も述べているが、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の次の段階は、第四密度、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、自我の確立=固定化、自我の肥大(“石屋の仕組み”)から“慈悲”と“慈愛”、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”そして“秋立つ”、この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを述べている。

それで“いわなかひめ”は、帯電するミネラル=“いわ”の中の、“ひめ”=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、これは“創造”の“主(ヌシ)”が現津(あきつ)、観察され得る事象を創造しようとする思惑、その振動のことであり、それを止めるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
 “いわとわけ”は、帯電するミネラルで止まる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、分ける、分けることが事象の“創造”そのものであるの意であると思える。
 
 これまで何回も述べてきたことであるが、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、肉体(月(ツキ))の磁性の変容をして、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、それが“日止、霊止”の表記であり、今腹中心=“江戸と尾張”の進化過程だから、自我の肥大をしやすく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になるが、それではダメで、これより“上”の進化が先に述べた、
第四密度、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、自我の確立=固定化、自我の肥大(“石屋の仕組み”)から“慈悲”と“慈愛”、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”そして“秋立つ”
である。


 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その四”


 今回は、前回の続き、以下の文を解釈しまんねん。

荒の神とは
大雷のをの神、
わきいかづちおの神、
地震の神とは
武甕槌(たけみかづち)神、
経津主(ふつぬし)神々様の御事で御座るぞ。

 先回引用した通り、日の出の巻第十八帖で、
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
と解釈した。
 これは、“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“上”に対し“下”である人間が“観察と認識”する事象、そして事象の“観察と認識”を行っている低い心(靈)、自我中心(“下”三つのチャクラ中心の心(靈))の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、“創造”の“主(ヌシ)”に対してうんと低い心(靈)である人間の心(靈)のことを指している。

 また、自我中心の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と、その“思惑の顕現”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が、“上”から観て低い、未熟である、だからこの世界は壊れる、壊れるべく世界を創造していることに今の人間は気付いていないし、これもローム太霊の言葉、右往左往である。  そして壊れた後、自省(胸の磁性“十”)して、左往右往する。  
 これが今の地球人に課せられた進化の過程といい得るが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”によること、その“正当な報酬”としてのことを述べるのは、少々余談だった。

 それで、日月の巻第四十帖で“大雷のをの神”に近い表記、
御頭(みかしら)に大雷(おおいかつち)、オホイカツチ、
に対し、以下のように解釈した。

“御頭(みかしら)に大雷(おおいかつち)、オホイカツチ”は、“大雷(おおいかつち)”の“大”が、人が手足を広げた様の意があり、手足を持った生物の進化というのは左右相称動物であり脊椎動物でもある。 そして左右相称動物として進化した生物である人は、発達した神経(生体内電流の導線、コイル)とあらゆる生物が持つ縦の磁束の発達した脊椎(コイル状の神経と骨髄中の鉄分子(“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊)による電磁石の構造)によるローレンツ力 ローレンツ力 の強化、そして“大”が示す手足の骨と神経(水平磁場を構成する)、胸腹部の内臓(コンデンサー)、これらが肉体(月(ツキ))内における円形加速粒子機(サイクロトロン、シンクロトロン)の構造を持つものであり、“雷”(いかつち)(電磁誘導)(電磁誘導とは磁束が変動する環境下に存在する導体に電位差(電圧)が生じる現象で、このとき発生した電流を誘導電流という)により励起された電磁誘導による生体内電流は神経を介して脳に送られるものであり、また感じ(感じる磁性)ること、これは肉体(月(ツキ))や心(靈)(ヒ)が感じうる外側(外国と幽界)の事象の振動や自らの心(靈)の動き、そして心(靈)の動きを現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現することが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であり、それらすべてが生体内電流の増幅(“畐”)と変容となり、その生体内電流の変容そのものが“上”からの荷電粒子との反応を高めていく(古神道表記の“日止、霊止”の意義)からこそ左右の大脳半球(目上(めうえ)の脳)による水平磁場は“一”=智性=1番目のオーラを構成することとなっていくし、今後=アセンション後の人間はこの部分の進化が必須でもあるし、進化していないかあるいは進化の素地(自省(胸の磁性“十”))を持ちえない低い心(靈)は、アセンション後の場(フィールド)に位置する心(靈)からは“日月神示”にも出てくる表記のケダモノの進化過程にしか見えない。 いうまでもなくケダモノとは相対的な観察であり“上”から“下”を観て認識することでもあるが、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番でもある

 また、日月の巻第四十帖で、今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、その低さを示すこととして、以下のように述べた。

冒頭に述べられている“ここに伊邪那美の命 語らひつらく、あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど、時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”だが、これは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の意味を持つ伊邪那美(いざなみ)、これをどう解釈するかがポイントであり、この四十帖における伊邪那美(いざなみ)は、Kellyさん的には肉体を持った心(靈)、要は物質を持った心(靈)、生きている人間、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間、こういう解釈が妥当であると思う。 
そう思うその根拠は、四十帖に出てくる“雷”(いかつち)という表記が、肉体における電磁誘導であると思うからである。 
その“雷”(いかつち)=電磁誘導そのものは、自らの心(靈)の動き、事象における行動や動作、肉体(月(ツキ))内の活動、たとえば筋肉とか内臓とかが機能して動くことなど、これらによる生体内電流の派生に関わることであり、そしてもう一つ大事なのは、古神道表記の“日止、霊止”、それは太陽からの荷電粒子を止める意である“日止”、宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)から発振、発信されている荷電粒子を止める意である“霊止”、この両者はいずれも“上”からの荷電粒子である。
これを止めることによっても派生するものである。 そしてそれは、こちら側(被造物である人間)から見れば日足(ひたり)回転となり、さらに“下”からの荷電粒子(砌(みぎり)回転)もあり、これらによって肉体(月(ツキ))内の電磁誘導が励起され、生体内電流を構成することになり、それはオーラの発振、発信となるものであるが、“一二三”のオーラのバランスは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示すものであり、“一”=智性=1番目のオーラの大きさは(これまでも述べている通り)神格化に如何に近づいたのかを示すものでもある。
これらのことも鑑みて(かんがみて)、この四十帖の冒頭の伊邪那美(いざなみ)は肉体を持った進化過程が未熟な心(靈)の意であり、伊邪那岐(いざなぎ)は日足(ひたり)の極性であるから上を目指す心(靈)の意、言いかえれば自らの完成や進化=霊的成長、神格化に向かうことを求める心の動きといい得るし、それはまた、思惑=日足(ひたり)、事象に思惑を顕現すること=砌(みぎり)ということでもある。
そして“あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど”というのは、“あれみまし”=この事象に存在する肉体(月(ツキ))を持った心(靈)、自分自身、“みまし”とは汝の意、二人称で目下を対象にした言い回し、“上”に対する“下”、“創造”の“主(ヌシ)”に対する人(日止、霊止)の意、そしてそれは“未だつくりおえねど”=未完成の心(靈)、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)で示され、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程にある心(靈)の意味が“つくれる国、末だつくりおへねど”であり、いい換えれば肉体(月(ツキ))も心(靈)も神格化には程遠く未完成であるということ、そしてこれに続く文の“時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”は、事象の“創造”に伴う法則性としての時間の進行=“時まちてつくるへに”であり、“よいよ待ちてよと宣り給ひき。”は、時間を掛けながら完成を目指さなければならないという意味の表記であると思うし、これに続く“ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。”は、日足(ひたり)の極性の象徴である伊耶那岐(いざなぎ)、この要素が無ければ肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は完成に至らないということで、それを示す表記が“みましつくらはねば吾とつくらめ、”で、“みまし”は現津(あきつ)、観察され得る事象の観察のことであると思うし、日足(ひたり)の極性とともに育ち完成に至る表記が“つくらはねば吾とつくらめ”であると思う


 要は、今現在の地球人は、心(靈)の進化をしてはいるのだが、それは、
日足(ひたり)の極性の象徴である伊耶那岐(いざなぎ)、この要素が無ければ肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は完成に至らないということで、それを示す表記が“みましつくらはねば吾とつくらめ、”で、“みまし”は現津(あきつ)、観察され得る事象の観察のことであると思うし、日足(ひたり)の極性とともに育ち完成に至る表記が“つくらはねば吾とつくらめ”である
であり、“上”から観て未熟で低いということ。
 
 そして今回取り上げている表記の“大雷のをの神”は、大=人間が手足を広げたさま、と、“雷”(いかつち)(電磁誘導)に対し、“の”と“を”の表記がある。 
 “の”は助詞だが、ひらがな表記=被造物視点、人間の観察による認識であるひらがな表記の“を”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、ヲは、完成、終わり、それ奇霊の心、すべてを整えそれなりの何かとするの意、であり、よって“大雷のをの神”は、人間の“雷”(いかつち)(電磁誘導)がそれなりに完成した、最後のカタチになった、完成に至るための雛形になった、という解釈が妥当であると思えるし、生命の完成、それは、水の巻の表記、“三ローレンツ力と ○ (みず)”の意味は、“三”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力 ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組みをも表すもの、である。

 そして“わきいかづちおの神”、これに近い表記は同じく日月の巻第四十帖“左の御手に
若雷(わきいかつち)、ワキ井カツチ、”があり、これに対して
“左の御手に若雷(わきいかつち)、ワキ井カツチ、”は、“若”(わき、ワキ)は、湧く気、“創造”をなすべく砌(みぎり)のエネルギーであり、それは左脳から反対の右に顕現するのでこの表記そのものが“思惑の顕現”=現象化の意があり
と、解釈した。
 よって、“荒の神とは大雷のをの神、わきいかづちおの神”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を止めた生命である“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を止めるの意)は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を低振動化してこの事象に顕現する、現実のものとする、それが、神の思惑を顕現するということである、ということを述べている。

 次の“地震の神とは武甕槌(たけみかづち)神、経津主(ふつぬし)神々様の御事で御座るぞ”は、“地震の神”に対し、日の出の巻第十八帖で、
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意
と解釈した。
 そして“武甕槌(たけみかづち)神”は、雷神、かつ剣の神、とされており、雷神は先の“雷”(いかつち)(電磁誘導)の意であり、剣は鉄、それは“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊、に相当することであり、骨髄中の鉄分子の配列が肉体の磁性に関わる、これは“行”の意義、“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、ということであるし、だからこそ肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である生命は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、自らに止めることが出来るのである。
 “経津主(ふつぬし)神々様”というのは、日本書紀の神産みの第六の一書で、伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち、古事記では加具土)を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとされており、この“十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群”となったというのが重要で、“岩群”の“岩”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、の“岩”であり、それは肉体(月(ツキ))を構成し、肉体(月(ツキ))の電気特性に直接かかわる鉄と、Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム)微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物、これらのことである。
 そしてこれら金属元素、“カネ”は、タンパク質の高分子化に関わるし、タンパク質の高分子化そのものが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることは、日月の巻で述べたとおりである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回も、前回の続き、以下の文を解釈しまんねん。

木の神とは
木花開耶姫(このはなさくやひめ)神、

 この“木の神”に関して、日の出の巻 第十八帖を解釈した時に以下のように述べた。

“木の神”の木は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。

 常々述べている通り、平均的地球人の次の段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、“十”である。
 これは胸の磁性“十”であり、ヨガでいうところのアナハタチャクラであり、腹の段階の進化(“江戸と尾張”)、第三密度より“上”なので、第四密度であり、心(靈)の発現としては“慈悲”と“慈愛”、“観自在”=自分の在り方を観る、そして神道の言葉の“直日”も自省の意味合いがある。
 そしてそれは“日月神示”表記なら、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、“秋立つ”でもあるし、○ 九 十 という表記の“十”は、胸の磁性“十”を指していると解釈している。

 さらに○○○大先生は、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“ということを前のブログで述べた。
 これは、今の地球人が自分に厳しくない、自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、自分さえよければそれでいいのであるが、次の段階に進化したならば、自分の心の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)をよく見出す、自分で見出す(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”)、そして“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を顕現しない、自分に悪を許さない、それがまた“創造”の法則性(“理(ミチ)”)を示す大日如来の条帛(じょうはく)の条であることをも、述べている。

 この“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”というのが今の人間には足らなさすぎるから、自分にとって都合の良い物を選ぶ、都合の良い生き方を選ぶのであるが、それは甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)のであることも今まで散々述べてきているし、自分たちに都合の良い考えをすること事態が、自我の肥大(“石屋の仕組み”)でもある。

 また、“理(ミチ)”=事象の“創造”の法則性、これに関してだが、“日月神示”表記の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これは神の思惑に沿った事象の“創造”の意でもあるのだが、このことを真剣に考えている人間はほとんどいないだろうし、この表記にその意味を見出す人もいないだろう。

 それで“木”が、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)を示すなら、今の地球人を指す“人”の表記は、神の被造物の意である丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、その被造物の心を指す乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)ということになるし、この段階が、現時点の平均的地球人の進化過程を指すものである。

 それで先に述べたように、現時点の平均的地球人の進化過程は自我の確立=固定化の進化過程であるのだが、次の段階が、これに“十”を足した表記となる、“木”はそれを意図した言い回しであると思うし、胸の磁性“十”ゆえの理念は、“絶対の善”を顕現しようとする、そして自分に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さない心(靈)(ヒ)と成りうるのである。

 そして“木花開耶姫”、これは日本書紀の表記で、この一文字ずつを見るならば、

“木”は、先に述べたとおり次の段階、今後=アセンション後の人間の心を指す。

“花”は、今花開いていない=“慈悲”と“慈愛”を行使していない心(靈)に対しての言い回し、今後=アセンション後に移行すべく心(靈)の資格は、“慈悲”と“慈愛”、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”がしっかりできる人間だが、その素地を持っていてもそれを行使していないのが現状の平均的地球人。

“開”は、この後の“耶”にかかる。
“耶”は、疑問の意をあらわす助詞。…か。あるいは反問の意をあわらす助詞。…や。感嘆の意をあわらす助詞。…か。などの意味がある。
 よって、この“花開耶”は、開くのか? 開いたのか? “慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”を行使している心なのか?という意味を感じさせるものである。

“姫”は、砌(みぎり)の極性、現象化であるので、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物を指し、これは人間そのものの意であると解釈できる。

 上記の事柄を鑑みて、艮(うしとら)の金神が使った日本書記の表記の“木花開耶姫”は、次の段階に移行すべく素地を持った心(靈)のことを指すと思われ、ただそれは素地を持っているという意味合いのことであり、これを仮に古事記の表記の“木花之佐久夜毘売”という神名を引用したならば、“木花”=次の段階の心、これが=“之”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が下降した様子である|(たてぼう、こん、縦の磁性))で亻(にんべん)で示し、それは日足(ひたり)の極性であるので左の表記があり、さらにそれは進化したならば悠久となり=“久”、そして“夜”と“毘売”は、砌(みぎり)の極性、現象化した様を示す表記であるので、すでに“木花”を獲得した心(靈)(ヒ)の意味合いになるので、敢えて艮(うしとら)の金神は、日本書紀の表記を岡本天明に選択させたと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その六”


 今回も、前回の続き、以下の文を解釈しまんねん。

金の神(かねのかみ)とは
金かつかねの神、

 この“金の神”に関して、日の出の巻 第十八帖を解釈した時に以下のように述べた。

“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。

 肉体内の鉄分子に関して主なものを述べれば、赤血球には鉄が含まれ、よって血液は錯体であり、血液が移動すると肉体内に電流が生じるし、骨髄中の鉄分子は磁性を帯び、それが連なったなら磁石と同じであり、これらのこと事態が、ローレンツ力ローレンツ力 の強化と変容に直接関与するものである。 
 それで今述べた、骨髄中の鉄分子の連なりなどによるローレンツ力ローレンツ力 の強化と変容、これを“日月神示”では“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化という。
この肉体組織の結晶化(“玉(ぎょく)”)、これが人生においての苦痛や苦悩、そして“行”で生体内電流の強化を行っていくことの意義そのものである。

 それで“金かつかねの神”、これは古事記や日本書紀には出てこない表記であり、大本教の「霊界物語」(出口王仁三郎)に、以下のような表記がある。

天津御神(あまつみかみ)の造(つく)らしし
豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほくに)
泥(どろ)の世界(せかい)と鳴戸灘(なるとだな)
天(あめ)の瓊矛(ぬほこ)の一滴(ひとしづく)
言霊姫(ことたまひめ)の鳴(な)り鳴(な)りて
鳴(な)りも合(あ)はざる海原(うなばら)の
穢(けがれ)もここに真澄姫(ますみひめ)
竜世(たつよ)の浪(なみ)も収(をさ)まりて
天地(あめつち)四方(よも)の神人(かみびと)は
心(こころ)平(たひら)に安(やすらか)に
この浮島(うきしま)に純世姫(すみよひめ)
御稜威(みいづ)も高(たか)き高照姫(たかてるひめ)の
神(かみ)の命(みこと)と諸共(もろとも)に
神界(かみよ)、現界(うつしよ)事(こと)完(を)へて
根底(ねそこ)の国を治(をさ)めむと
地教(ちけう)の山を出(い)でたまひ
野立(のだち)の姫(ひめ)の後(あと)を追(お)ひ
救(すくひ)の神(かみ)と鳴戸灘(なるとなだ)
同(おな)じ心(こころ)の姫神(ひめがみ)は
根底(ねそこ)の国(くに)へ五柱(いつはしら)
千尋(ちひろ)の深(ふか)き海(うみ)よりも
業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)を
清(きよ)むるための塩(しほ)をふみ
浪路(なみぢ)を開(ひら)きて出(い)でましぬ
無限無量(むげんむりやう)の御恵(みめぐみ)は
現界(うつつ)、幽界(かくりよ)、神(かみ)の世(よ)の
救(すくひ)の神(かみ)の御柱(みはしら)ぞ。
 茲(ここ)に五柱(いつはしら)の女神(めがみ)は、地球(ちきう)の中軸(ちうぢく)なる火球(くわきう)の世界(せかい)に到(いたり)給(たま)ひ、野立彦神(のだちひこのかみ)、野立姫神(のだちひめのかみ)の命(めい)を奉(ほう)じ、洽(あまね)く地中(ちちう)の地汐(ちげき)、地星(ちせい)の世界(せかい)を遍歴(へんれき)し、再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に登(のぼ)り来(きた)つて、大海原(おほうなばら)の守(まも)り神(がみ)とならせ給(たま)ひける。
 ここに天(あめ)の御柱(みはしら)の神(かみ)、国(くに)の御柱(みはしら)の神(かみ)は、伊予(いよ)の二名(ふたな)の島(しま)を生(う)み、真澄姫神(ますみひめのかみ)をして、これが国魂(くにたま)の神(かみ)たらしめたまふ。これを愛媛(えひめ)といふ。一名(いちめい)竜宮島(りうぐうじま)ともいひ、現今(げんこん)の濠洲(がうしう)大陸(たいりく)なり。而(しか)して我わが四国(しこく)は、その胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに純世姫神(すみよひめのかみ)をして、筑紫(つくし)の守(まも)り神(がみ)となさしめ給たまひぬ。これを多計依姫(たけよりひめ)といふ。筑紫(つくし)の島(しま)とは現代(げんだい)の亜弗利加(あふりか)大陸(たいりく)なり。わが九州(きうしう)はこの大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに言霊姫神(ことたまひめのかみ)をして、蝦夷(えぞ)の島(しま)の守(まも)り神(がみ)たらしめ給(たま)ひぬ。これ現代(げんだい)の北米(ほくべい)なり。而しかして我わが北海道(ほつかいだう)は、その大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに竜世姫神(たつよひめのかみ)をして、高砂(たかさご)の島(しま)を守(まも)らしめ給(たま)ひぬ。ゆゑにまたの名(な)を高砂姫神(たかさごひめのかみ)といふ。高砂(たかさご)の島(しま)は南米(なんべい)大陸(たいりく)にして、台湾島(たいわんたう)はその胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに高照姫神(たかてるひめのかみ)をして、葦原(あしはら)の瑞穂国(みづほのくに)を守(まも)らしめ給たまひぬ。これ欧亜(おうあ)の大陸(たいりく)にして、大和(やまと)の国(くに)は、その胞衣(えな)にぞありける。
 かくして五柱(いつはしら)の女神(めがみ)は、その地(ち)の国魂(くにたま)として永遠(ゑいゑん)に国土(こくど)を守護(しゆご)さるる事こととなれり。但(ただ)しこれは霊界(れいかい)における御守護(ごしゆご)にして、現界(げんかい)の守護(しゆご)ならざる事(こと)は勿論もちろんなり。これらの女神(めがみ)は、おのおのその国(くに)の神人(しんじん)の霊魂(れいこん)を主宰(しゆさい)し、或(あるひ)は天国(てんごく)へ、或(あるひ)は地上(ちじやう)へ、或(あるひ)は幽界(いうかい)に到(いた)るべき身魂(みたま)の救済(きうさい)を各自(かくじ)分掌(ぶんしやう)し給(たま)ふ事(こと)となりける。故(ゆゑ)にその国々(くにぐに)島々(しまじま)の身魂(みたま)は、総すべてこの五柱(いつはしら)の指揮(しき)に従(したが)ひ、現(げん)、幽(いう)、神(しん)の三界(さんかい)に出現(しゆつげん)するものなり。
 しかしこの五柱(いつはしら)の神(かみ)の一旦(いつたん)幽界(いうかい)に入いりて、再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に現(あら)はれ、国魂神(くにたまがみ)とならせ給(たま)ふまでの時日(じじつ)は、数万年(すうまんねん)の長年月(ちやうねんげつ)を要(えう)したまひける。その五柱(いつはしら)を総称(そうしよう)して、金勝要神(きんかつかねのかみ)といふ。
 天(てん)は男系(だんけい)、地(ち)は女系(ぢよけい)と云(い)ふは、霊界(れいかい)のこの消息(せうそく)を洩(も)らせしものなり。神諭(しんゆ)に、
『大地(だいち)の金神(こんじん)、金勝要神(きんかつかねのかみ)』
とあるは、これの表示(へうじ)なり。また、
『この大神(おほかみ)は、雪隠(せついん)の中(なか)に落(おと)された神(かみ)』
とあるは、総(すべて)の地上(ちじやう)の罪悪(ざいあく)を持(も)ち佐須良比(さすらひ)失(うしなふ)所(ところ)の鳴戸(なると)の意味(いみ)なり。
 天教山(てんけうざん)は口(くち)に当(あた)り、鳴戸(なると)は地球(ちきう)の肛門(こうもん)に当(あた)るが故(ゆゑ)なり。神(かみ)の出口(でぐち)、入口(いりぐち)といふは、この富士(ふじ)と鳴戸(なると)の御経綸(ごけいりん)の意(い)なり。大地(だいち)の金神(こんじん)を金勝要神(きんかつかねのかみ)と称(しよう)するは、大地(だいち)の金気(きんき)の大徳(だいとく)によりて固成(こせい)され、この神(かみ)の身魂(みたま)によりて凝縮(ぎようしゆく)保維(ほゐ)されてゐるが故(ゆゑ)なり。

 この文を読むと、
日月の巻の解釈、ことに第三十帖を思い出し、第三十帖には、生命の成り立ち、靈の発現が、タンパク質の寄せ集まりから段々高分子化して“修理固成”(しゅうりこせい)する、そうすると“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、止め、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくことが、第三十帖には述べられていた。

 
 それで今回取り上げた霊界物語の解釈を簡単に述べるが、これは日月の巻 第三十帖、そして日月の巻全文の解釈と照らし合わせて読んでもらいたい。

 まず、

“天津御神(あまつみかみ)の造(つく)らしし
豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほくに)
泥(どろ)の世界(せかい)と鳴戸灘(なるとだな)
天(あめ)の瓊矛(ぬほこ)の一滴(ひとしづく)”

であるが、ここまでは、天意、神の“思惑の顕現”=“天津御神(あまつみかみ)の造(つく)らしし”というのが、生命の“創造”であり、その“創造”の意志は“鳴戸灘(なるとだな)”と称され、“灘”の表記は“鳴”が発振、発信、“創造”の意志であり、その振動が水に止まり、そこでさらに“鳴”、発振、発信する、これは生命の自我の形成といえ、戸は、岩戸の戸であり、自我があるから“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の意志が発振、発信出来得るのであり、被造物である生命も自我の形成を経て、さらに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したら独り神(ひとりがみ、日取り神)になる。
そして、その生命の発現の過程を“泥(どろ)の世界(せかい)と鳴戸灘(なるとだな) 天(あめ)の瓊矛(ぬほこ)の一滴(ひとしづく)”、これは日月の巻第三十帖解釈で述べたアミノ酸の寄せ集まりから、タンパク質の集まり(島)、このことを称している。


 次の文。

“言霊姫(ことたまひめ)の鳴(な)り鳴(な)りて
鳴(な)りも合(あ)はざる海原(うなばら)の
穢(けがれ)もここに真澄姫(ますみひめ)
竜世(たつよ)の浪(なみ)も収(をさ)まりて
天地(あめつち)四方(よも)の神人(かみびと)は
心(こころ)平(たひら)に安(やすらか)に
この浮島(うきしま)に純世姫(すみよひめ)
御稜威(みいづ)も高(たか)き高照姫(たかてるひめ)の
神(かみ)の命(みこと)と諸共(もろとも)に
神界(かみよ)、現界(うつしよ)事(こと)完(を)へて
根底(ねそこ)の国を治(をさ)めむと
地教(ちけう)の山を出(い)でたまひ
野立(のだち)の姫(ひめ)の後(あと)を追(お)ひ
救(すくひ)の神(かみ)と鳴戸灘(なるとなだ)
同(おな)じ心(こころ)の姫神(ひめがみ)は
根底(ねそこ)の国(くに)へ五柱(いつはしら)
千尋(ちひろ)の深(ふか)き海(うみ)よりも
業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)を
清(きよ)むるための塩(しほ)をふみ
浪路(なみぢ)を開(ひら)きて出(い)でましぬ
無限無量(むげんむりやう)の御恵(みめぐみ)は
現界(うつつ)、幽界(かくりよ)、神(かみ)の世(よ)の
救(すくひ)の神(かみ)の御柱(みはしら)ぞ”

 これは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのものと、それを受け取って神の思惑を顕現していくる生命の発振、発信を“言霊姫(ことたまひめ)”と称され、その詳細の意は、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)、そしてこの場合の霊は旧字の霊の解字を以下に示して意味を示す。

靈の解字
 

 それと“姫”の表記は、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を示し、それそのものが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるから“言霊姫(ことたまひめ)の鳴(な)り鳴(な)りて”と称されており、それを受け取る生命は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において“穢(けがれ)もここに真澄姫(ますみひめ)…中略…救(すくひ)の神(かみ)と鳴戸灘(なるとなだ) 同(おな)じ心(こころ)の姫神(ひめがみ)は 根底(ねそこ)の国(くに)へ五柱(いつはしら) …中略…業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)を 清(きよ)むるための塩(しほ)をふみ 浪路(なみぢ)を開(ひら)きて出(い)でましぬ”と述べられ、これは進化が、“上”から観て程度の低い過程から段々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくならば“穢(けがれ)もここに真澄姫(ますみひめ) 竜世(たつよ)の浪(なみ)も収(をさ)まりて 天地(あめつち)四方(よも)の神人(かみびと)は 心(こころ)平(たひら)に安(やすらか)に この浮島(うきしま)に純世姫(すみよひめ)”、低い進化過程は“穢(けがれ)”もあり“業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)”という過程もあるが、“上”の思惑を顕現していくなれば、“姫”=事象の顕現、それは相対的な比較として“真澄”であり“純世”となり、そうなっていくならば、“竜世(たつよ)の浪(なみ)も収(をさ)まりて 天地(あめつち)四方(よも)の神人(かみびと)は 心(こころ)平(たひら)に安(やすらか)”そしてそれは、高いオーラの発振、発信であるから“御稜威(みいづ)も高(たか)き高照姫(たかてるひめ)”であり、“稜威”は進化した心(靈)(ヒ)が発振、発信する“一二三”のオーラであり、稜威の意味は、“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊、であり、これはたびたび解釈を述べてきたが、解りやすいのは、上つ巻 第二帖の、

神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ

という表記がとても解りやすい。

その“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、で、その思惑で“創造”された事象は“神(かみ)の命(みこと)と諸共(もろとも)に 神界(かみよ)、現界(うつしよ)事(こと)完(を)へて”、これは“神(かみ)の命(みこと)”=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が“現界(うつしよ)”に示される=“事(こと)完(を)へて”であるが、そうなるならば、“下”である目下(めした)の心=“根底の国”をも、“救(すくひ)の神(かみ)と鳴戸灘(なるとなだ)”と述べられており、この“地教(ちけう)の山”は、目下(めした)=“地”であり、“山”は脳であり、そこから“出(い)でたまひ”=“上”に進化したならばそれは“野立(のだち)の姫(ひめ)”=“立”は進化を指し、“姫”は現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現を指し、“野”については以前使った画像で意味を示す。

野の解字 (富士の巻 十七帖)

 また“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ノ”は延びる 広いところ の意、であるから、“上”の思惑が延“美”の概念広がるのだという解釈も成り立つし、重複するが、そうなったならば“野立(のだち)の姫(ひめ)の後(あと)を追(お)ひ 救(すくひ)の神(かみ)と鳴戸灘(なるとなだ) 同(おな)じ心(こころ)の姫神(ひめがみ)は 根底(ねそこ)の国(くに)へ五柱(いつはしら) 千尋(ちひろ)の深(ふか)き海(うみ)よりも 業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)を
清(きよ)むるための塩(しほ)をふみ 浪路(なみぢ)を開(ひら)きて出(い)でましぬ 無限無量(むげんむりやう)の御恵(みめぐみ)は 現界(うつつ)、幽界(かくりよ)、神(かみ)の世(よ)の 救(すくひ)の神(かみ)の御柱(みはしら)ぞ”の、“無限無量(むげんむりやう)の御恵(みめぐみ)”そしてそれは“神(かみ)の世(よ)の 救(すくひ)の神(かみ)の御柱(みはしら)”=“上”の思惑を取り込んだならば“業(めぐり)の深(ふか)き罪咎(つみとが)を 清(きよ)むるための塩(しほ)をふみ 浪路(なみぢ)を開(ひら)きて出(い)でましぬ”、そんな低い事象は“創造”されないと称されているし、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間の“創造”=“天地(あめつち)四方(よも)の神人(かみびと)は 心(こころ)平(たひら)に安(やすらか)に この浮島(うきしま)に純世姫(すみよひめ) 御稜威(みいづ)も高(たか)き高照姫(たかてるひめ)の 神(かみ)の命(みこと)と諸共(もろとも)に 神界(かみよ)、現界(うつしよ)事(こと)完(を)へて”である。
 ことに“御稜威(みいづ)も高(たか)き高照姫(たかてるひめ)”、これは“高”の振動を“照”、それが“御稜威(みいづ)も高(たか)き”、高い霊的成長度のオーラによる事象の“創造”=“姫”(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))であることを強調しておく。

 これに続く以下の文。

“茲(ここ)に五柱(いつはしら)の女神(めがみ)は、地球(ちきう)の中軸(ちうぢく)なる火球(くわきう)の世界(せかい)に到(いたり)給(たま)ひ、野立彦神(のだちひこのかみ)、野立姫神(のだちひめのかみ)の命(めい)を奉(ほう)じ、洽(あまね)く地中(ちちう)の地汐(ちげき)、地星(ちせい)の世界(せかい)を遍歴(へんれき)し、再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に登(のぼ)り来(きた)つて、大海原(おほうなばら)の守(まも)り神(がみ)とならせ給(たま)ひける。
 ここに天(あめ)の御柱(みはしら)の神(かみ)、国(くに)の御柱(みはしら)の神(かみ)は、伊予(いよ)の二名(ふたな)の島(しま)を生(う)み、真澄姫神(ますみひめのかみ)をして、これが国魂(くにたま)の神(かみ)たらしめたまふ。これを愛媛(えひめ)といふ。一名(いちめい)竜宮島(りうぐうじま)ともいひ、現今(げんこん)の濠洲(がうしう)大陸(たいりく)なり。而(しか)して我わが四国(しこく)は、その胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに純世姫神(すみよひめのかみ)をして、筑紫(つくし)の守(まも)り神(がみ)となさしめ給たまひぬ。これを多計依姫(たけよりひめ)といふ。筑紫(つくし)の島(しま)とは現代(げんだい)の亜弗利加(あふりか)大陸(たいりく)なり。わが九州(きうしう)はこの大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに言霊姫神(ことたまひめのかみ)をして、蝦夷(えぞ)の島(しま)の守(まも)り神(がみ)たらしめ給(たま)ひぬ。これ現代(げんだい)の北米(ほくべい)なり。而しかして我わが北海道(ほつかいだう)は、その大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに竜世姫神(たつよひめのかみ)をして、高砂(たかさご)の島(しま)を守(まも)らしめ給(たま)ひぬ。ゆゑにまたの名(な)を高砂姫神(たかさごひめのかみ)といふ。高砂(たかさご)の島(しま)は南米(なんべい)大陸(たいりく)にして、台湾島(たいわんたう)はその胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに高照姫神(たかてるひめのかみ)をして、葦原(あしはら)の瑞穂国(みづほのくに)を守(まも)らしめ給たまひぬ。これ欧亜(おうあ)の大陸(たいりく)にして、大和(やまと)の国(くに)は、その胞衣(えな)にぞありける”

 冒頭の“茲(ここ)に五柱(いつはしら)の女神(めがみ)”というのは、“女神”なので砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、“創造”の思惑を顕現するの意、そして“茲に”の“茲”(やしないそだてる、いつくしみ)は、
日月の巻 第三十帖の冒頭の“おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。茲(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給ひき”と、おおよそ同義である。
 そして“地球(ちきう)の中軸(ちうぢく)なる火球(くわきう)の世界(せかい)に到(いたり)給(たま)ひ”、これは地球の中心が金属で構成されたコア(核)であり、その外側にマントルがあり、マントルは“石”(帯電するミネラル)で構成されているし、さらにその外側に、コアやマントルに対し薄い地殻があるが、それが水の巻 第十帖の冒頭の“五大洲”でもある。
 以下、第十帖解釈“その一”からコピペ。

“五大洲 引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ”
を見ると、この“五大洲”の表記、(氵)さんずいと州、ことに水の意味を含む(氵)さんずい、これは右翼傾向の強い人が思うであろう世界を地理学的に分けた5つの州の総称ではなく、“洲”の意味が、
「河川、湖、海の底に土砂がたまって高くなり水面上に現れたものを指し、河口付近などの比較的浅い場所にできる、中洲などを指す」
であり、これは“河川、湖、海”が、肉体を構成する水、錯体としての液体成分(血液、リンパ液など)のことを表し、その水の中で固まる“土砂”は、肉体を構成する灰分(かいぶん)、Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)であり、これが“水面上に現れたもの”というのは、積み上がったタンパク質、タンパク質の高分子化のことである。
それはまた、肉体(月(ツキ))のローレンツ力
ローレンツ力 の強化と変容、いわゆる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指すのであり、これが生物の肉体の変容、いわゆるダーウィンの進化論の裏側にある、心(靈)(ヒ)の進化の要であり、よってこの“洲”の表記そのものが、水と土で構成された肉体(月(ツキ))の秘密、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘密を指した文であると思える。

 またこれが、

“ここに天(あめ)の御柱(みはしら)の神(かみ)、国(くに)の御柱(みはしら)の神(かみ)は、伊予(いよ)の二名(ふたな)の島(しま)を生(う)み、真澄姫神(ますみひめのかみ)をして、これが国魂(くにたま)の神(かみ)たらしめたまふ。これを愛媛(えひめ)といふ。一名(いちめい)竜宮島(りうぐうじま)ともいひ、現今(げんこん)の濠洲(がうしう)大陸(たいりく)なり。而(しか)して我わが四国(しこく)は、その胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに純世姫神(すみよひめのかみ)をして、筑紫(つくし)の守(まも)り神(がみ)となさしめ給たまひぬ。これを多計依姫(たけよりひめ)といふ。筑紫(つくし)の島(しま)とは現代(げんだい)の亜弗利加(あふりか)大陸(たいりく)なり。わが九州(きうしう)はこの大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに言霊姫神(ことたまひめのかみ)をして、蝦夷(えぞ)の島(しま)の守(まも)り神(がみ)たらしめ給(たま)ひぬ。これ現代(げんだい)の北米(ほくべい)なり。而しかして我わが北海道(ほつかいだう)は、その大陸(たいりく)の胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに竜世姫神(たつよひめのかみ)をして、高砂(たかさご)の島(しま)を守(まも)らしめ給(たま)ひぬ。ゆゑにまたの名(な)を高砂姫神(たかさごひめのかみ)といふ。高砂(たかさご)の島(しま)は南米(なんべい)大陸(たいりく)にして、台湾島(たいわんたう)はその胞衣(えな)にぞありける。
 つぎに高照姫神(たかてるひめのかみ)をして、葦原(あしはら)の瑞穂国(みづほのくに)を守(まも)らしめ給たまひぬ。これ欧亜(おうあ)の大陸(たいりく)にして、大和(やまと)の国(くに)は、その胞衣(えな)にぞありける”

の、“胞衣(えな)にぞありける”という表記の要であり、これは人間ならば“五臓”(心・肺・脾・肝・腎)の発現と進化に相当すると思えるし、“五臓”が、心=“喜び”、肺=“悲しみ”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”、腎=“恐れ”(本能)、であることを述べてきているが、地球そのものも生命であり、肉体と霊であるから、事象の“創造”の法則性である相似象で、“五大洲”が構成されるものであるとの私見を持つ。
 そしてその“五大洲”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現であるから“天(あめ)の御柱(みはしら)の神(かみ)、国(くに)の御柱(みはしら)の神(かみ)”、これは、“御柱”が縦の磁束であり、“国”が自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)であるし、よってこの二つの表記そのものが、進化した心(靈)(ヒ)といえる。
 それと“伊予(いよ)の二名(ふたな)”は、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)における日足と砌(ひたりとみぎり)の極性のことであるし、それは“島”=タンパク質の寄せ集まり、に、発現するの意である。
 前後するが、進化した心(靈)(ヒ)、その役割、その在り方として、以下の神名、“真澄姫神(ますみひめのかみ)”、“純世姫神(すみよひめのかみ)”、“言霊姫神(ことたまひめのかみ)”、“竜世姫神(たつよひめのかみ)”、“高砂姫神(たかさごひめのかみ)”、“高照姫神(たかてるひめのかみ)”、の表記があり。“真澄”“純世”“言霊”は前述した通りであり、“竜世”“高砂”“高照”は、“竜”がムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、のエネルギーの上昇を指し、それを目上(めうえ)の脳の(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)で発振、発信する、“一”=智性=1番目のオーラと成す、の意が、“高砂”“高照”であり、その役割、その在り方、を、しっかり認識し、“高砂”“高照”の“高”、そういった事象を“創造”せよ、顕現せよ、それが“思惑の顕現”=現象化の意で“姫”が当てられ、事象の“創造”については“世”が当てられているものである。

 次の、

“かくして五柱(いつはしら)の女神(めがみ)は、その地(ち)の国魂(くにたま)として永遠(ゑいゑん)に国土(こくど)を守護(しゆご)さるる事こととなれり。但(ただ)しこれは霊界(れいかい)における御守護(ごしゆご)にして、現界(げんかい)の守護(しゆご)ならざる事(こと)は勿論もちろんなり。これらの女神(めがみ)は、おのおのその国(くに)の神人(しんじん)の霊魂(れいこん)を主宰(しゆさい)し、或(あるひ)は天国(てんごく)へ、或(あるひ)は地上(ちじやう)へ、或(あるひ)は幽界(いうかい)に到(いた)るべき身魂(みたま)の救済(きうさい)を各自(かくじ)分掌(ぶんしやう)し給(たま)ふ事(こと)となりける。故(ゆゑ)にその国々(くにぐに)島々(しまじま)の身魂(みたま)は、総(すべ)てこの五柱(いつはしら)の指揮(しき)に従(したが)ひ、現(げん)、幽(いう)、神(しん)の三界(さんかい)に出現(しゆつげん)するものなり。
 しかしこの五柱(いつはしら)の神(かみ)の一旦(いつたん)幽界(いうかい)に入いりて、再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に現(あら)はれ、国魂神(くにたまがみ)とならせ給(たま)ふまでの時日(じじつ)は、数万年(すうまんねん)の長年月(ちやうねんげつ)を要(えう)したまひける。その五柱(いつはしら)を総称(そうしよう)して、金勝要神(きんかつかねのかみ)といふ”

 ここでようやく、“金勝要神(きんかつかねのかみ)”の表記があり、ここまでこの解釈を読まれたならば、“金勝”そして“要”の意味合いは理解できると思うが、これは肉体(月(ツキ))の金属成分で構成される磁束とローレンツ力ローレンツ力 のことである。
 そしてその磁束とローレンツ力の存在の理由と根拠は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、自らの肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)に止め、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たす、その意味のことが“かくして五柱(いつはしら)の女神(めがみ)は、その地(ち)の国魂(くにたま)として永遠(ゑいゑん)に国土(こくど)を守護(しゆご)さるる事こととなれり”であり、この文の“国土”は、心(靈)と肉体、土、帯電するミネラルで構成された体のことであり、またそれは土=2~3番目のオーラの意もある。

 さらにそれは、天意の介入であることを以下の文で強調されている。

“但(ただ)しこれは霊界(れいかい)における御守護(ごしゆご)にして、現界(げんかい)の守護(しゆご)ならざる事(こと)は勿論もちろんなり。これらの女神(めがみ)は、おのおのその国(くに)の神人(しんじん)の霊魂(れいこん)を主宰(しゆさい)し、或(あるひ)は天国(てんごく)へ、或(あるひ)は地上(ちじやう)へ、或(あるひ)は幽界(いうかい)に到(いた)るべき身魂(みたま)の救済(きうさい)を各自(かくじ)分掌(ぶんしやう)し給(たま)ふ事(こと)となりける”
 そして次の文も同義である。
“この五柱(いつはしら)の神(かみ)の一旦(いつたん)幽界(いうかい)に入いりて、再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に現(あら)はれ、国魂神(くにたまがみ)とならせ給(たま)ふまでの時日(じじつ)は、数万年(すうまんねん)の長年月(ちやうねんげつ)を要(えう)したまひける”
 この文の中の“天教山(てんけうざん)”は、“上”の思惑を止めた脳と解釈でき、いうまでも無くそれは、“一”=智性=1番目のオーラを構成する目上(めうえ)の脳と、その心(靈)のことである。
それでその進化に至るまでは“再(ふたた)び天教山(てんけうざん)に現(あら)はれ、国魂神(くにたまがみ)とならせ給(たま)ふまでの時日(じじつ)は、数万年(すうまんねん)の長年月(ちやうねんげつ)を要(えう)したまひける”とまで、述べられているものでもある。

 次の文。

“天(てん)は男系(だんけい)、地(ち)は女系(ぢよけい)と云(い)ふは、霊界(れいかい)のこの消息(せうそく)を洩(も)らせしものなり。神諭(しんゆ)に、
『大地(だいち)の金神(こんじん)、金勝要神(きんかつかねのかみ)』
とあるは、これの表示(へうじ)なり”

これは伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)に顕わされる日足と砌(ひたりとみぎり)の極性のことであり、“上”=“霊界”から“下”に降りるので“洩(も)らせしもの”の表記があり、その“洩(も)らせしもの”を止めるのが、人間であるし、このことを要約したのが“大地の金神”、大は人間が手足を広げた様、地は“石”(帯電するミネラル)であるし、その“石”を積み重ねる、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、を、意図とする“行”をして、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化をせよ、これが“金勝要神”の表記の意味合いであると確信する。

 次の文。

“また、『この大神(おほかみ)は、雪隠(せついん)の中(なか)に落(おと)された神(かみ)』
とあるは、総(すべて)の地上(ちじやう)の罪悪(ざいあく)を持(も)ち佐須良比(さすらひ)失(うしなふ)所(ところ)の鳴戸(なると)の意味(いみ)なり。
 天教山(てんけうざん)は口(くち)に当(あた)り、鳴戸(なると)は地球(ちきう)の肛門(こうもん)に当(あた)るが故(ゆゑ)なり。神(かみ)の出口(でぐち)、入口(いりぐち)といふは、この富士(ふじ)と鳴戸(なると)の御経綸(ごけいりん)の意(い)なり。大地(だいち)の金神(こんじん)を金勝要神(きんかつかねのかみ)と称(しよう)するは、大地(だいち)の金気(きんき)の大徳(だいとく)によりて固成(こせい)され、この神(かみ)の身魂(みたま)によりて凝縮(ぎようしゆく)保維(ほゐ)されてゐるが故(ゆゑ)なり”

この“天教山”は、先に述べたとおり、“上”の思惑を止めた脳、“一”=智性=1番目のオーラを構成する目上(めうえ)の脳と、その心(靈)のことであるが、それは天意が下降したものでもあるので、“天教山(てんけうざん)は口(くち)に当(あた)り”と称され、さらにそれは“神(かみ)の出口(でぐち)、入口(いりぐち)”でもある。
 しかしそれは進化の過程が低ければ、低い振動としか感応しない=低い心(靈)しか発現しないのであるからこそ“総(すべて)の地上(ちじやう)の罪悪(ざいあく)を持(も)ち佐須良比(さすらひ)失(うしなふ)所(ところ)の鳴戸(なると)の意味(いみ)なり”と述べられ、“上”の振動を止めたのではあるが、低いと低い“鳴戸(なると)”=発振、発信する自我中心の心(靈)、“戸”であるということを読み取れる。
 さらに“上”から“下”へ降りる、これは人間ならば“腑”(口から肛門まで)の電磁誘導に相当するからこそ“この大神(おほかみ)は、雪隠(せついん)の中(なか)に落(おと)された神(かみ)”と称されていると思える。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の理(法則性)として“富士(ふじ)と鳴戸(なると)の御経綸(ごけいりん)の意(い)”と述べられ、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて変容した形であるといえ、それを発振、発信する、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)する、それが“鳴戸(なると)の御経綸(ごけいりん)”である。
 それでここまでこの解釈を詳細に読んでいただければ、
“大地(だいち)の金神(こんじん)を金勝要神(きんかつかねのかみ)と称(しよう)するは、大地(だいち)の金気(きんき)の大徳(だいとく)によりて固成(こせい)され、この神(かみ)の身魂(みたま)によりて凝縮(ぎようしゆく)保維(ほゐ)されてゐるが故(ゆゑ)なり”
の意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)は、
“金気(きんき)の大徳(だいとく)によりて固成(こせい)され、この神(かみ)の身魂(みたま)によりて凝縮(ぎようしゆく)保維(ほゐ)されてゐる”
の、“金気(きんき)の大徳(だいとく)”、天意を止めるのが“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“石”(帯電するミネラル)であることが解ると思うし、
“神(かみ)の身魂(みたま)によりて凝縮(ぎようしゆく)保維(ほゐ)され”
というのが、“日止、霊止”(天意を止めるの意)の表記の意味であることが理解できると思う。

 それで、蛇足ながら付け加えておくが、“雪隠(せついん)”の表記だけ見て、“金勝要神”をトイレの神様と解釈する人がいるようだが、これは愚直で安易、何も読み取れていない解釈である。

今回はこれくらいにしときまんねん。


 

“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その七”


 今回も、前回の続き、以下の文を解釈しまんねん。

火の神とは
わかひめきみの神、

 この“火の神”に関して、日の出の巻 第十八帖を解釈した時に以下のように述べた。

“火の神”の火は荷電粒子の回転を示す点が二つの表記と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導。

 “火”の表記の意味合いは、上記のような二つの意味の解釈が出来る。
 それを事細かに述べるなら、まず、“荷電粒子の回転を示す点が二つ”これを示すのは心(靈)(ヒ)であり、その、心(靈)(ヒ)そのものの要素が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)は、進化過程=霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階、により、心(靈)の構造、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動、それぞれの心(靈)の動きの度合いが違うものであるし、このこと事態が霊的成長度ということで、そしてこの事象に自分の心を顕わす、それが乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。
 それと、“異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導”これは、肉体(月(ツキ))の機能そのものであるし、自分が何を食するのか、何を取り込み、エネルギーに変えていくのかも、霊的成長度により違うものである(その一例として、肉食を好むものは恨みの連鎖の霊的干渉を増大させる心(靈)であることについてはすでに述べた通り)

 それで、心(靈)の構成要素ともいい得る丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それを発振、発信する(荷電粒子の回転)、それと“腑”の電磁誘導と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、この二つの解釈そのものが、肉体を持った心(靈)である生命としての人間、その日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕れといい得る。

 それと“わかひめきみの神”であるが、これは大本教の表記で“稚姫岐美”というのがある。
 ちなみに日本書記 第七段一書には“稚日女尊”という表記がある。 原文は以下の通り。

一書曰、是後、稚日女尊、坐于齋服殿而織神之御服也。素戔鳴尊見之、則逆剥斑駒、投入之於殿內。稚日女尊、乃驚而墮機、以所持梭傷體而神退矣。故、天照大神謂素戔鳴尊曰「汝猶有黑心。不欲與汝相見。」乃入于天石窟而閉著磐戸焉。於是、天下恆闇、無復晝夜之殊。故、會八十萬神於天高市而問之、時有高皇産靈之息思兼神云者、有思慮之智、乃思而白曰「宜圖造彼神之象、而奉招禱也。」故卽、以石凝姥爲冶工、採天香山之金、以作日矛。又、全剥眞名鹿之皮、以作天羽韛。用此奉造之神、是卽紀伊國所坐日前神也。

 だが、この“稚日女尊”は、読みが“わかひるめのみこと”なので今回の文とは直接関係が無いと思われる。

 それでひらがなで書かれている今回の表記“わかひめきみ”そして大本教の表記の漢字表記を観て、その文字一つ一つを解釈するならば、

“ワ”(物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義)

“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意

“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火

“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし

“ミ”は生命の幹 その現実

となり、これを要約すれば、生命(生きる使命=存在理由)が“力”を顕現する、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使する、事象を顕現する=“思惑の顕現”=現象化、そしてその事象を観察して認識する、それには天地の精気、自分以外の振動の取り込みがあり、振動の取り込みが心と肉体の“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)であり、それが生命であると換言出来得るものである。

 それで大本教の漢字表記の“稚姫岐美”の解釈としては、

“稚”は、若い、未成熟、つたない、等の意味

“姫”は、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)

“岐”は、伊邪那岐(いざなぎ)、日足(ひたり)の極性

“美”は、伊邪那美(いざなみ)、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)

ということになる。

これは人間の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、今の段階では稚拙であり幼いし、またそれは未成熟であるとの“上”からの観方である。
またその幼い生命(生きる使命=存在理由)の“思惑の顕現”=現象化は、つたない、未成熟ではあるが、生命そのものが神の“思惑の顕現”であるから、そこには日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があるのだということを指した表記であると思う。

 そして、今回取り上げたこの表記自体の意味が、これに続く文、

ひのでの神とは
彦火々出見(ひこほほでみ)神、
竜宮の乙姫殿とは
玉依姫(たまよりひめ)の神様
のおん事で御座るぞ。此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ。知らす時節近づいたぞ。

これに続くものであると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 水の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 “その八”



 今回も、前回の続き、以下の文を解釈しまんねん。

ひのでの神とは
彦火々出見(ひこほほでみ)神、
竜宮の乙姫殿とは
玉依姫(たまよりひめ)の神様
のおん事で御座るぞ。此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ。知らす時節近づいたぞ。

 この“ひのでの神”と“竜宮の乙姫殿”に関して、日の出の巻 第十八帖を解釈した時に以下のように述べた。

“日の出の神”の日の出は、次の段階に移行すること、アセンション後。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍。


 さて、水の巻そのものは、霊的成長の秘密を述べている。 
それは第一帖の冒頭の表記“三ローレンツ力と ○ (みず)の巻”に示される、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、と、ローレンツ力ローレンツ力 、そして“一二三”のオーラを示す“三”、これをよく解っていないと“日月神示”そのものの解釈は出来ないものであると断言する。

 それで、現地球人の霊的成長度は低い、その心(靈)の動きは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、自分たちの目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きにより、今まで創りあげてきた様々なものやシステムを崩壊させるし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心は、恨みの連鎖の霊的干渉を産みだし増大させており、近年その現象化は目に余るほど増えてきているが、ほとんどの人がこのこと事態に気づく様子も無いようである。
 まったく嘆かわしいことであると思う。

 話を戻し、こういった世界、こういった事象を創るのは、すべて自分たちの心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“正当な報酬”であり、それを体験し、そこで自分たちの在り方というものを考えない人間は、次の段階、アセンション後の“創造”に参加し得る資格がないことは幾度となく述べてきている。
 そして、ある程度成長した心(靈)、自省(胸の磁性“十”)と平均的地球人よりも“一”=智性=1番目のオーラが大きく、自分の思想や行動に理念を持ち、“絶対の善”を顕現しようと志す人間、それが今回取り上げている“ひので”、アセンション後の意味合いと、ほんの少し“一”=智性=1番目のオーラを大きくすること、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを少しはじめる、そしてこれからだんだん太陽凝視そのものを極めるのだが、その前段階としての“ひので”の意味合いがあると思える。

 それで“彦火々出見(ひこほほでみ)神”は、彦が日足(ひたり)の極性を示し、火々は、先回の“火”、荷電粒子の回転と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、この意味合いを強調する言い回しであり、それが出るように見える、“上”から観たならば、出始めている、これを要約して同時に換言するならば、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、黒住教で教え、“ひので”に入る、あるいはその資質を持つ人間を増やそうとした、そして現地球人の大半である智性(神性)無き心は、多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をもつようになり、考えが変わり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が変わる…そこまでいかなくてもよいが、今の世界=観察しうる事象に疑問を持つ、なぜこんな世界になったのか、ということそのものを考え、それは自分たちの低い心(靈)の発振、発信に理由があることを見出す、みいだしたならばそれは、平均的地球人より少しだけ“一”=智性=1番目のオーラを獲得し、平均的地球人よりも多少高い存在と感応しているといい得る。
 ここまでが“ひのでの神とは彦火々出見(ひこほほでみ)神”の要旨である。

 これに続く“竜宮の乙姫”は、先に、日の出の巻 第十八帖から引用した通り、“下”のエネルギー、腹の水、“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、これを大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇させる、それがまた胸の磁性“十”であることはこれまで幾度となく述べてきている。
またその際の心(靈)の変容は自我中心の心(靈)の動きから“慈悲”と“慈愛”に移行するのであり、それには自省(胸の磁性“十”)が必須、それを“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”と述べているものである。

 それで、ここまで述べてきたのは自我の確立=固定化から自我の肥大をして失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)する、といういい方も出来、これはローム太霊の詞(ことば)右往左往と左往右往でもあるが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須のことである。
 そして、それくらいのことを人生において体験するならば“ほんとう”の幸福を認識しようとする、今までの目下(めした)中心の価値観を捨て去る、自分は何を求め、何を考え、どういった思想を顕現すべきなのか考えるようになるものである。
 それが“玉(ぎょく)”と呼び得る人であることを○○○大先生は未刊行の著書の原稿<6><7>で述べており、さらに“玉(ぎょく)”は、結晶化の意味を持ち、それは“日月神示”表記なら“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、ということになるし、肉体組織の結晶化が無ければ“上”と感応しない、神の思惑を理解しえないということである。
 これが“玉依姫(たまよりひめ)の神様”という表記の意味合い、それは“玉(ぎょく)”に依る(手段、方法、事象の原因たる何か、何々に依る結果、何々に依る解決、など)、そして“姫”事象への顕現、砌(みぎり)という解釈が成り立つ。

 要は、今より進化した世界は、今より霊的成長した人間でなければ“創造”しえない、それを水の巻 第十帖で述べられており、またそれは“洲”、肉体(月(ツキ))の“創造”、そして、“天之御中主神様、高皇産霊神様、神皇産霊神様、伊邪那岐神様、伊邪那美神様、つきさかきむかつひめの神”という神名の表記で、“上”との感応を示し、“雨の神とはあめのみくまりの神、くにのみくまりの神、風の神とはしなどひこの神、しなどひめの神、岩の神とはいわなかひめの神、いわとわけの神、荒の神とは大雷のをの神、わきいかづちおの神、”の表記で、生命活動である“腑”の電磁誘導、生体内電流の励起を中心に述べ、現地球人は自我を諌めることをしなければならない、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くをしなければならないことを述べており、さらに“地震の神とは武甕槌(たけみかづち)神、経津主(ふつぬし)神々様の御事で御座るぞ”で、金属元素、“カネ”は、タンパク質の高分子化に関わるということ(剣の神)と、を述べ、“十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群”、帯電するミネラル、“石”の固まり、タンパク質の高分子化そのものが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることをのべ、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく心(靈)は自省(胸の磁性“十”)であることを“木の神とは木花開耶姫(このはなさくやひめ)神”で示し、さらなる進化は“金の神(かねのかみ)とは金かつかねの神、火の神とはわかひめきみの神”で述べ”、今回取り上げた文につながっているものであるし、それを示すのが
“のおん事で御座るぞ”
の言い回しの意味である。

 それで第十帖の最後に述べられている“此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ。知らす時節近づいたぞ”の、“此の方”は、霊的成長を果たすべく“行”をやっている人、ストレートに言ってしまえば“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行う、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指し、今後=アセンション後の指導者(ただし“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の概念の、独裁者、支配者などでは決してない)たる資質を持ちうる人(日止、霊止)のことであり、その霊的成長の秘密と秘訣を要約したのが、第十帖の要旨であるといい得ることを、あえて述べておく。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、水の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ。
キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。何と云ふ結構なことであったかと、始めは苦しいなれど、皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。先楽しみに苦しめよ。ぎゅうぎゅうと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。
タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ。
いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな。
まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ。神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。ますかけひいて、世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。勇む事 此の方 嬉しきぞ。富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ。
六月十一日、みづのひつ九か三。

 先回までの第十帖の要旨が、アセンション後の指導者たる資質(“此の方の事 何れ判りて来るぞ。今はまだ知らしてならん事ぞ”)を持ちうる人(日止、霊止)、その霊的成長の秘密と秘訣を要約されたものであった。
 それで今回の第十一帖は、一読すると、その心構え、心(靈)の在り方、ということを感じさせる言い回しの感がある。

 まず冒頭の文。

“神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。 何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ”

 これは感応の法則性、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信をすれば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応し、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の発振、発信をすれば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するということを述べており、今現在は“神第一結構”ではなく、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)となっている人が大多数=“悪魔第一”であり、だからこそ恨みの連鎖の霊的干渉の現象は増しており、その現象の原因も解らず、自分たちの死の理由もよく理解しないまま死んでいき、そして浮遊霊となるという死に方をする人がどんどん増えているが、これが悪魔の思惑であり、またその思惑を現象化させるにあたって自我の肥大(“石屋の仕組み”)をさせると、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しやすいのであることを、○○○大先生の著書を読んだ人にはよく理解してもらいたい…のであるが、平均的地球人の霊的成長度ではこのこと事態をほとんど理解しえない…それくらい低い…(○○○大先生が出版に関わってから得られた感想)。

 そして、
“カイの言霊(かへし)キざぞ”
というのは、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)と、心(靈)、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“キ”(気、愛(炁)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁であることを、キの巻で述べた)であり、その息吹に応じて、現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇があるということを“(かへし)”と称され、それは、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”と同義であるし、この場合の“カイ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の引用が分かりやすいので以下に述べる。

“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力

 生命(生きる使命=存在理由)というのは、思惑を顕現するものである。 心(靈)というのは、“創造”の“主(ヌシ)”から悪魔、人間であろうがどんな下等生物であろうがどんな悪霊であろうが、そういうものである。
 その意で“カ”=生命と力、といえ、生命=その心(靈)がなそうとすること事態を“イ”と称していると思う。


 それでこれに続く次の文は、よく意味を深読みしないといけないと思う。

“キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ”

 冒頭の“キが元”は、先に述べたとおり自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象となって顕現するの意であるが、“カイの御用にかかりてくれよ”は、これをやってくれ、という意味合いではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性である“善(神格化の方向性と智性の受信)”の“カイ”をしていくなれば、高い存在が感応する、その“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)があるので“かかりてくれよ”=“上”の憑依をする心(靈)となれ、と、述べられていると確信する。
 それが“神第一とすれば神となり”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくという言い回しに掛かる言い方である。

 そしてこれに続く文は、アセンション後、霊的成長度の高低において行われる区分けがすんだならば、という言い回しである。

“何と云ふ結構なことであったかと、始めは苦しいなれど、皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。先楽しみに苦しめよ。ぎゅうぎゅうと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ”
 
 これは“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”しろ、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めよ、ということと、もうひとつ、“上”が感応する心(靈)(ヒ)ならば、“神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ”であり、この“国”の表記は、これまで述べてきたとおり自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)であり、右翼傾向の強い人が解釈する神国では決してないのだということを付け加えておく。


 次の文。

“タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ”

 これは“行”やって“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“玉(ぎょく)”となった“日止、霊止”(太陽を止める、“上”からの振動を止める=靈)ならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する、そして“力”を顕現させる、それはまた、“上”の思惑の顕現の代行者と成りうる者であり、“ほんとう”の生命の使命は、そこにあるのだということを指し示す、よって“磨けば磨いただけ先が見えすく”“先見える神徳与へる”と述べられているものである。
 さらに“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、“タマ”は、正しく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命を指す表記であることが解り、これに漢字を当てるならば“玉(ぎょく)”である。


 次の文。

“いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな。まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ”

 特に解釈の要を感じないが、これは今現在の事、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍して、大概の人が低い幸福感と価値観しか持っていないから言われているし、この文の“役人”は、政治家そのものを指すのではなく、人を霊的成長に導く役をする人を指している。
(政治家なんてものは今現在人(日止、霊止)の霊的成長の足を引っ張るだけのものに成り下がっている)
 その霊的成長のために“上”が感応して宗教などが派生したのであるが、宗教は腐り果てており、更に程度の低い感応しかないから程度の低い霊能力者やインチキ霊能力者が台頭したり、霊や神やオーラなどの言葉を使い商売をしている“役員づら”がほとんどであるからいわれており、今後=アセンション後は相対的に高い存在が地球に存在する、高振動、高波長だからこそ“光の世となる”といわれている。
 また今現在の多くの人は“まこと心になりたならば”、“まこと心”では無いといわれており、平均的地球人の霊的成長度では、真実、真固止、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、幾度となく画像で意味を示した ○ 九 十、そしてじゅんいち君の記事で述べた“ほんとう”、“ほんとうの自分に近付く”これらの意味をしっかり理解できていないし、この言葉を使うこと事態が形骸になっていることを自分たちで判っていないものである。
 それでその意味が解り、それを理念として存在する=生きていくならば、
“自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ”
といわれ、今現在の地球人のことを指して、
“いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ”
と述べられ、自我の肥大を諌めよということを強調している。


 次の文。

“神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。ますかけひいて、世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。勇む事 此の方 嬉しきぞ”

 冒頭の“神一厘”というのは、荷電粒子の大きさを指すものであるとキの巻で解釈をした。
 その“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、それを止めるための“行”が太陽凝視といえ(“ひつく”“日津久”)、その“しぐみ”というのは、霊的成長の具体的な方法と、そこにおける進化の法則性(条帛(じょうはく)の条)を指す言い回し、そしてこれは先の“タマ”=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“玉(ぎょく)”、にかかる言い回しであり、それが理解できたならば=“しぐみわかりたら”、今のような“玉石混交(淆)”の事象、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の事象はきわめて少なく“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象が台頭する世界ではなくなるので“世界一列一平になる”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”が台頭する事象になり、“ますかけひいて”の“ますかけ”というのは、枡(ます)で穀類などを量るとき、盛り上がった部分を平らにならすのに使う短い棒、ますかき、のことであり、アセンションが霊的成長度の高低により区分けされる事象であるからこそ、枡からこぼれ落ちるな、そのために“神一厘のしぐみ”を解り、実践せよ、このことを“勇みに勇むぞ。勇む事 此の方(アセンション後の指導者たる資質をもつ者) 嬉しきぞ”ということである。


 次の文。
 
“富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。 何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。 悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ”

 やや揶揄(やゆ)した言い回しの“富士は何時爆発するのざ”であるが、自分たちが先の“神一厘のしぐみ”を解り実践して、今後=アセンション後に備えるならば、アセンションに伴う天変地異や恨みの連鎖の霊的干渉の現象に大した影響を受けない、その意味で、
“何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが”
であり、カテゴリーが違うがローム太霊講話集解釈の第十話の、
生かされる者は生かされ滅びる者は滅びる”これは、“ 採点は必ず神によって為される”のだということを理解しておけ、ということと同義であり、最後にまた感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことを以下の言い回しで強調している。
 
“悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ”

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
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心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


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〈3〉

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目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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