“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 松の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 


 今回から、松の巻の解釈に入りまんねん。 まず第一帖の原文は以下の通り。

富士は晴れたり世界晴れ。 三千世界一度に晴れるのざぞ。 世の元の一粒種の世となったぞ。 松の御代となったぞ。 世界ぢうに揺すりて眼覚ますぞ。 三千年の昔に返すぞ。煎り豆 花咲くぞ。 上下ひっくり返るぞ。 水も洩らさん仕組ぞ。
六月十七日、あめのひつ九のか三。

 冒頭の“富士は晴れたり世界晴れ”は、キの巻 第十七帖の、
“富士は晴れたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ”
のことであると思える。 
 この キの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)に関しては以下のように解釈した。


キの巻 第十七帖 霊 〇 と、シンクロトロンの構造

 そしてこれは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)がきちんと発現している、いわゆる多くのチャネラーが使った表記の第四密度、仏教の“慈悲”と“慈愛”、アナハタチャクラの覚醒といってもよいだろうし“日月神示”表記ならば“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から“上”の心(靈)の発現、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への変容といい得ることであり、その心(靈)が観察しうる事象は、“晴れ”なのだという解釈をした。 

 これに続く、
“三千世界一度に晴れるのざぞ”
この“三千世界”は、地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念が、三千世界」って解釈をしたが、これは先の“晴れ”という事象になっていく、そうならねば神の“思惑の顕現”はないの意、であると思う。

 次の、
“世の元の一粒種の世となったぞ”
この“世の元”に関しては、磐戸の巻 第八帖の解釈からコピペ。

“この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してあるから、いざ出て参りて得心ゆくまでかかりて御座れ。 敗けてもクヤシクない迄に攻めて御座れよ、堂々と出て御座れ、どの手でもかかりて御座れ。 その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ”は、“外国の悪の三大将”=人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させない心(靈)の動きに対してと、その心(靈)が台頭している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と認識に対する言い回しであり、自分たちが自我の肥大ゆえ自分たちの行いが悪いとか間違っているとか思わないのであれば“得心ゆくまでかかりて御座れ…中略…どの手でもかかりて御座れ”と述べられ、本当に改心(“身魂掃除”“身魂洗濯”) するにあたっては、“その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ”というところまでいかねばならず、その時初めて“この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してある”=“創造”の法則性(“理(ミチ)”)を認識しうる、自分たちの思想になることの意である。
またそれは現時点において、自我の確立=固定化、自我の肥大(“石屋の仕組み”)から、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得であることを思い知る、思い知らねばならないという表記でもある。

そして、磐戸の巻 第十六帖からコピペ。

“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。

次の、
“松の御代となったぞ”
この“松の御代”、そして今解釈しているのは、〇つの〇キ、松の巻、であり、この“〇つ”に関しては、水の巻 第五帖で以下のように解釈した。

“桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫(まんごう)変らぬ松の世と成るぞ。 松の国 松の世 結構であるぞ”
 この文の表記の“松の世”そして“松の国 松の世結構”の“松”の解釈が重要であると思う。 それは、今解釈している水の巻の次が、松の巻であり、水の巻の水が、三 ローレンツ力と ○ (みず)、これは“一二三”のオーラと霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、そしてローレンツ力 ローレンツ力 、の意味があるが、松の巻は、 〇つであり、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の、“つ”である。
 例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意、があるので、 〇つは、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことであるとの解釈をする。


この下線を引いた分をよく理解していただければよいと思う。

 これに続く、
“世界ぢうに揺すりて眼覚ますぞ。 三千年の昔に返すぞ。 煎り豆 花咲くぞ。 上下ひっくり返るぞ。 水も洩らさん仕組ぞ”
これは今の事象、そして今の事象を“創造”している息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ではダメなのだ、それは今までの進化過程、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から“石屋の仕組み”(自我の肥大)で、多くの人が息吹しているので、それを変える、変わらなくてはいけない、の意で、“世界ぢうに揺すりて眼覚ますぞ”の“眼覚ます”は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の意であり、“三千年の昔に返す”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭してきた時代を“三千年”と称していると思え、“煎り豆 花咲くぞ。 上下ひっくり返るぞ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の既成概念、価値観、幸福感などが間違っていることを、少々揶揄(やゆ)した言い方ではあるが、それを“上”は示すのだ、の意であり、それは神の計画、神の“思惑の顕現”だからこそ“水も洩らさん仕組”と称されているし、それは先に引用した磐戸の巻 第八帖の、
“世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してある”
でもあり、この“世の元からの生神”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)イキガミ、これ自体が神の思惑であり、これがあってこそ人間の存在の意味と意義を認識しうるものであるが、このことをよく知れ、というのが第一帖の要旨である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。





“日月神示” 松の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国を、足の踏むところない迄にけがして仕舞ふてゐるが、それで神力は出ぬぞ。 
臣民無くなるぞ。 残る臣民 三分むつかしいぞ。 三分と思へども、二分であるぞ。 邪魔せん様に、分らん臣民 見物して御座れ。 ここまで知らして眼覚めん臣民なら手引いて見てゐて御座れ。 見事仕上げて見せるぞ。 雀ちうちう烏かうかう。
六月十八日、あめのひつ九か三。

 冒頭の、
“神の国を、足の踏むところない迄にけがして仕舞ふてゐるが、それで神力は出ぬぞ”
この“神の国”を右翼傾向の強い人が勝手に思う縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)の国と解釈してはならず、この“国”の表記の意味は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動き、これを示しているし、それに神=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が加わってこそ=“上”と感応してこそ、“神の国”といい得る、神の思惑を顕現し得る心(靈)(ヒ)であるのだが、現状は、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における心(靈)の動きと息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”から観たら間違っているしこの事象をどんどん腐らせているからこそ“足の踏むところない迄にけがして仕舞ふてゐる”と称され、そんな心では“上”と感応しえない、“上”が“力”を貸せない、の意が“それで神力は出ぬ”である。
 これに続く、
“臣民無くなるぞ。 残る臣民 三分むつかしいぞ。 三分と思へども、二分であるぞ。 邪魔せん様に、分らん臣民 見物して御座れ。 ここまで知らして眼覚めん臣民なら手引いて見てゐて御座れ”
これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対して言われていることであり、その進化過程ならば次の事象には移行しえない、資格が無いから“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をせよ、というメッセージと、次の事象に移行する具体的な人数は、
“残る臣民 三分むつかしいぞ。 三分と思へども、二分であるぞ”
といわれているに過ぎないし、次の事象に移行すべき人、その資質を得ようとしている人、例えば“日月神示”で最も大切な具体的な“行”として述べられている“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことに目覚めた人に対し、太陽凝視を不食のものだという情報を流布する程度の低い人などが解りやすいが、いわゆる“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)も含め、人のまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる人間は多数いるので、
“邪魔せん様に、分らん臣民 見物して御座れ”
と言われているし、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識しよう、それを実践しようとしている人の邪魔をするな、解らぬ、理解できない、“日月神示”を見ても“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化や、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことに気付かないなら、これからまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をする人の心と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、それを観て自分の認識とせよ、という意味合いで、
“ここまで知らして眼覚めん臣民なら手引いて見てゐて御座れ”
と言われている。
 
 それで、この第二帖も第一帖同様、今後=アセンション後に移行する際の事象の変化、そして今後=アセンション後は、いわゆる、松の巻の〇つ=これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)が台頭するのだということを述べているし、それは神の思惑の顕現、神の計画であるからこそ、
“見事仕上げて見せるぞ”
と称されている。

 それで、最後に述べられている、
“雀ちうちう烏かうかう”
これは、雀は雀のまっとうな鳴き方、烏は烏のまっとうな鳴き方、それぞれまっとうな生き方をしている、だが神の子である人間の大半はまっとうな生き方をしていないから、こう揶揄されていると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第三帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

神烈しく、人民静かにせよ。 云ふた事 必ず行はねばならんぞ。 天から声あるぞ、地から声あるぞ。 身魂磨けばよくわかるのざぞ。 旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。 残る心 獣ぞ。 神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。 日本晴れとはその事ざぞ。
六月十九日、あめのひつ九のかみ。

 冒頭の、
“神烈しく、人民静かにせよ。 云ふた事 必ず行はねばならんぞ”
これは、今までが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって、換言すれば悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)の活躍によって、この事象が“創造”されてきたのだが、そうではなくなる、すでにそうではなくなりつつある、それは神の“思惑の顕現”=現象化であり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するのではなく、“上”と感応する(“天詞様”)が台頭する、そういった事象になり、その時には“上”と感応する人(日止、霊止)が事象の“創造”をする、それが“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)イキガミ、であるし、必ずそうなるので、これまでの“日月神示”で述べられてきた=“云ふた事 必ず行はねばならん”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)をしておけよ、の意味合い。
 そしてあえて言うまでもないことだが“人民静かにせよ”は、“上”の思惑、天意に対し、恭順な姿勢をとるべきの意。 “われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑をさしはさむなよ、の意である。

 それで、これと同義の表記とその解釈を、以下にいくつか列挙しておく。

下つ巻 第十四帖 

“元の神代に返すと申すのは喩へでないぞ。 七から八から九から十から神烈しくなるぞ、
臣民の思う通りにはなるまいがな、それは逆立してゐるからぞ”

“元の神代” “元” 二+儿部(じんぶ、にんにょう)肉体を持った生命、人が歩く様子(儿部(じんぶ、にんにょう))時間の進行と共に霊的進化をして行くこと。
七=“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
八=左右の極性 “富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
九と十=神の最後の“思惑の顕現”=現象化の形、人を指す、 ○ 九 十(まこと)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) + “一”=智性=1番目のオーラ +  丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現) +  胸の磁性“十”。


地つ巻 第十四帖 

“神烈しく結構な世となりた”

今、自己奉仕者の行いや心の動きはどんどんバレている。 これは“神の咎め”であり、ローム太霊の言葉を引用すれば、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。

日の出の巻 第四帖 

“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ”

霊的成長度の高低において分けられたならば、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は盛んになり=“神激しく”、そして今までの低い進化程度の地球では自分たちだけの思惑でこの世界を作ってきたみたいなものだから…自我が肥大しているからこそそう認識しているのだろうけども、そこには低い存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があり、恨みの連鎖の霊的干渉が中心であり、だから平均的地球人の行動というのは、ディスプレイ(動物の発情行動)と欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで自分の利益を追求するという心(靈)の動きが中心でもあるのだが、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が出来得る心(靈)、それは自省(胸の磁性“十”)を十分に体験した“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を持ち、さらに“一”=智性=1番目のオーラを高める方向性に心が動いていなければ=目上(めうえ)の脳を使わなければ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではなく、それが出来ない進化程度の人間は、当然のことながら“次の世”(“日月神示”表記の今後=アセンション後の事象のこと)に存在する(位置する)資格がないし、その“次の世”になったならば、恨みの連鎖の霊的干渉による事象(戦争、天災、低い存在の憑依による事件や事故、因縁、右回転の荷電粒子が引き起こす遺伝子崩壊が原因の病気など)というものはなくなるから“桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となる”とやや揶揄(やゆ)した言い方をされている。



 これに続く以下の文は、上記の事柄が理解できているなら意味はすぐ解ると思う。

“天から声あるぞ、地から声あるぞ。 身魂磨けばよくわかるのざぞ”

 “天”と“地”は、地球より位置的に上、あるいは地球上の意であり、その双方に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は存在しており、その感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を“声あるぞ”と称され、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化していなければ感応共振しえないが、その意味合いで“身魂磨けばよくわかる”といわれている。


“旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。 残る心 獣ぞ”

 この“旧九月八日”も日付のことではなく、“九”は“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、現地球人より“一”=智性=1番目のオーラがたかまった状態を指すものである。 そして月は肉体(月(ツキ))のこと。 そして“八”文字の構成が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そしてこれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同じ意味を持つ。 そして“日”は、太陽のことであり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性がたかまった“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応するというのが“八日”の意味であり、さらに“旧”の表記は、「古い」の意味ではなく、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と太陽を示す“日”、あるいは、太陽の振動が下降する、それを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で示していると思える。
 よって“旧九月八日”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記である。
 この進化をある程度果たした心(靈)(ヒ)ならば、自分の心の“上”と“下”を見出すことが出来るし(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”)、それが出来ないのはただ低い、それは今後=アセンション後に移行しえないので“残る心 獣ぞ”=目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心は、次の“創造”を担えない、その資質なし、と称されている。


“神とならば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。 日本晴れとはその事ざぞ”

 この文の“神とならば”は、天意を受信できうる人、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化がある程度できている人、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がしっかり発現している人、いろんな言い回しが出来るが、それを“日月神示”では“天詞様”“てん子様”などと述べている。
 またそれは、稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を強化獲得した心(靈)(ヒ)、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを果たした人間、あるいは行っていて、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)を歩んでいる人といい得る。
 その、まっとうな進化を成そうとしている人たちが“創造”する事象、それが今後=アセンション後であり、その事象では経済=奪い合いの仕組みもなく、(通貨としての)金もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”もいないし、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)もいない(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者だけの世界になるので、今のこの低い事象に対し相対的な言い回しとして“食ふ事も着る事も住む家も心配なくなる”といわれているが、これがなされるまでには、苦痛や苦悩を体験し自らのエネルギーを贖った人、人間の資質の向上、霊的成長しなければならないということを、しっかりと認識するべきであり、時がたてば楽な世界がやって来るという甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をしてはならない。

(このことは○○○大先生が著書で述べたことでもある)

 最後の“日本晴れとはその事ざぞ”は、進化した人が“創造”する事象、また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを指す言い回しで、これに関しては以前から使っている画像を貼って意味を示す。

“晴れたり日本晴れ”の解字
 今回はこれくらいにしときまんねん。





“日月神示” 松の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬから、誠の所へは人民なかなか集まらんなれど、今度の御用は臣民 沢山は要らんぞ。 何もかも神が仕組みてゐるのざから、人民仕様とて何も出来はせんぞ、神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ。 神示わからねば一度捨てて見るとわかるのざぞ。
六月二十日、アメのひつ九のかミ。

 一読すれば解ることだが、一~三帖同様、この第四帖も“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人に対する言い回しである。

 冒頭の、

“幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬ”

これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)では、自分にとって都合の良いことしか思わない、あるいはそんなふうにしか思えない、自省(胸の磁性“十”)の心が無いので自分にとって不都合な真実、“ほんとう”を認めたがらない、の意であるし、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”をする、自分の心の中にある智性(神性)さえ無視する。
 それは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない、他者である人、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)、神にとって不誠実であり、そんな人間は、“日月神示”表記の ○ 九 十からほど遠い、そういった自分の低さをよく思い知れという言い回しでもある。
 ○ 九 十に関しては画像で意味を示す。

○ 九 十(まこと)の解字

 要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくべき心(靈)、あるいはある程度進化した心(靈)を指す表記だが、この“九”と“十”の意味を知り得ない、認識しえない、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解できないことと同義である。
 
 そしてこの意味合いを理解できないならそれは、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で“創造”されている今の事象と心中する、そのことが次の言い回し、

“誠の所へは人民なかなか集まらんなれど、今度の御用は臣民 沢山は要らんぞ”

でもあり、ここで“臣民”と“人民”という区別されたいい方をされているが、“臣”は、主君に使える人、しもべ、家来、あるいは神に仕える人、聖職者、の意があり、その意味で“日月神示”で述べられている“臣民”を理解すべきであり、それは神の“思惑の顕現”=現象化を担う、今後=アセンション後の事象を“創造”する資質を持ち合わせる人(日止、霊止)ということであり、それに相対する今回の表記の“人民”は、平均的地球人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人といい得る。
 また“誠の所へは人民なかなか集まらんなれど”という言い回しを観て何を思うのかが大事であり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の所へはたくさん人が集まる、それは甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見させる手法に乗る“ブタのけつを見ているアホ”が多いということを述べている、そしてその集まりは(汚い)金の繋がりであり、形骸の権威にあやかる人間が集まる、雰囲気に酔う人間が集まる…いわゆる霊的成長度の低い人は霊的成長度の低い人と一緒にいる、ということにすぎない。
それに反し“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に向かっている人=“臣民”は、その手法に乗らず、何が自分にとって“ほんとう”か判断出来得るのだが、そういった人はとても少ない。 また神の“思惑の顕現”を担う資質を持つ人の所には、たくさんの人が集まる訳がない、それは先に解釈した第二帖の、
“残る臣民 三分むつかしいぞ。 三分と思へども、二分であるぞ”
という言い回しで示されているものでもある。

 これに続く、

“何もかも神が仕組みてゐるのざから、人民仕様とて何も出来はせんぞ、神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ”

これも、これからの事象は神の“思惑の顕現”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=“人民”の思惑通りにはならない、ということが述べられているに過ぎない。
 そしてこの文の“神の気概に叶はん”、この意味をよく理解することが大事。
(叶、かなう、合う、一致する、和合する、の意)
 要は“上”=“神の気概”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子と、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する、これが当たり前の世界になる、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然であり、先に示した ○ 九 十 の、“九”と“十”の意味合いである。
 その資質を持ちえない、その心(靈)の在り方が出来ないならばそれは“地の下になるのざぞ”とやや揶揄(やゆ)した言い回しをされている。

 最後の、

“神示わからねば一度捨てて見るとわかるのざぞ”

これは“神示”を捨てるの意ではなく、今までの価値観や既成概念や常識を捨ててみよ、の意であり、それが低いから今の世界は腐っている、低い幸福感、低い価値観、(通貨としての)金と者に対する執着、目下(めした)由来の本能中心の欲望(食欲、性欲など、これに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するのが三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持っている程度の低い悪霊)、これが台頭している人間が今回の表記の“人民”であり、それが低い、自分をダメにするものであることを解っている、それはローム太霊の言い回しの、右往左往から左往右往に移行しえた人でもあるが、そういった人を指して ○ 九 十 神の思惑を顕現すべき資質を持ちえた人、それが第四帖の冒頭の“幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬ”、このひらがな表記の“まこと”に相当すると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この先どうしたらよいかと云ふ事は、世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他 分からんのざから、改心して訪ねて御座れ。 手取りてよき方に廻してやるぞ。
神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。
六月二十一日の朝、アメのひつ九のかみ神示。

 この第五帖も、第一~第四帖までと同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人=平均的地球人に対し、観方を変えよ、認識を改めよ、それをしなければ間に合わんぞ、という言い回しである。

 冒頭の、
“この先どうしたらよいかと云ふ事”
これは、今後=アセンション後に移行する際に、自分たちは何を思い何を考え何を自分たちの価値とするのか、それを鑑みよ、今までの価値観や幸福感が低いのだということを知れ、そしてその価値観と幸福感は神の思惑に沿っていないのだということを知れ、ということであり、だからこそ“世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても”=(通貨としての)金主体、経済優先の今の価値観で追い求めても何も解らないのだといわれているに過ぎない。

 そして、
“九九(ここ)より他 分からん”
の、“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、であり、○ 九 十 の“九”でもある。 これについては第四帖を参照のこと。
要は“上”との感応をしろ、その“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ほんとう”の意味合いでの“行”が出来ていない人間、“上”と感応する資質を持ちえない人間、それが地球では圧倒的多数だが、その心積りくらいしておけ、という意味合いで“分からんのざから、改心して訪ねて御座れ”、心(靈)の在り方を変え、今までの価値観や幸福感にとらわれずに、“ほんとう”の自分、自分の存在の意義と意味、それを求めよ、求めるならそれは自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、
“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”
とは違い
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する資質を作り始める

“(“上”が)手取りてよき方(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性)に廻してやるぞ”、そうなるのだと称されている。

 これに続く、
“神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ”
この“神の国”は、何時も述べている通り縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)での認識の国ではなく、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)であり、よって“神の国”という表記は、“上”と感応した自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)ということ、そういった人たちが創りあげる事象、その現実は、経済に支配されない、(通貨としての)金の無い世界になる、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)とするから、(通貨としての)金というケチな報酬を求めない、そして経済のための政治、今の政治のことだが、そんなものは無くなるのだということ。 

 これに続く、
“金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ”
これも、(通貨としての)金に対する執着、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創られている今の事象は崩れる、社会にシステムそのものが変わってくる、また変わらなければならない、それは自分の持っている“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、どう扱い、この現津(あきつ)、観察され得る事象にたいし、どんな行使をするのか、自分の“力”の使い方は、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)になっているか、換言すれば、自分は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者か、あるいは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”か、ということである。
 それが先の“もの活かす政治と申してあろ”そして“金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ”、(通貨としての)金主体の価値観ではダメ、物=現津(あきつ)、観察され得る事象に価値があり「すべての事象は自分の在り方を示す」(○○○大先生が著書で述べたこと)という認識になっていく、その意味合いでもある。

 そしてこれに続く、
“誠もの云う時来るぞ”
は、今、不誠実な“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍しているが、そうではなくなる、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、誰に対しても誠実、それは“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の無い人ばかりになる、そういった人が今後=アセンション後の事象を“創造”するの意。

 これに続く、
“石もの云ふ時来るぞ”
これは肉体(月(ツキ))内の“石”(帯電するミネラル)、これを“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化(肉体(月(ツキ))の磁性の変容)して、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”した肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)は、“上”との感応により高い振動と感応し(“日止、霊止”の表記の意)、その具体的な発振、発信は“一二三”のオーラ、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもあるが、今の地球人は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)無き心だから、発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)も低い、しかし、今後=アセンション後に移行すべき人ならば、その資質を持ちうる人(日止、霊止)ならば、肉体(月(ツキ))内の“石”(帯電するミネラル)は、高い振動と感応する、そして自分の心(靈)(ヒ)の発振、発信とする、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となるということであるからこそ、“石もの云ふ時来る”=高い振動を発振、発信するの意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今の世に出てゐる守護神、悪神を天の神と思ってゐるから なかなか改心むつかしいぞ。 今迄の心すくりとすてて生れ赤子となりて下されと申してあろが。 早よ改心せねば間に合はん、残念が出来るぞ。 
この神示わからんうちから、わかりておらんと、分りてから、分りたのでは、人並ざぞ。 
地の規則 天の規則となる事もあるのざぞよ。
六月二十二日、アメのひつ九のかみふで。

 この第六帖も、これまでの松の巻同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識を改めよ、という言い回しである。

 冒頭の、

“今の世に出てゐる守護神、悪神を天の神と思ってゐるから なかなか改心むつかしいぞ”

この“今の世に出てゐる守護神”というのは、今現在の事象で自分たちを守っていてくれる神、という、平均的地球人が持っている神に対する認識を指摘している言い回しである。
 そしてこの認識そのものが、(“上”から観て)極めて低いということを、この文言から読み取るべきである。
 このことを示唆する言い回しが“悪神を天の神と思ってゐる”、これは言うまでも無く人間が神に対して思っていることなのだ、ということ。
 さらにそれは“悪神を天の神と思ってゐる”、低い人間がその低い認識由来の価値観や幸福感で思い込んでいる神に対する認識は、自分たちにとって都合の良いものであったり、自分勝手な解釈による概念であったりもする。
 その都合の良い認識や概念は、宗教戦争の理由になり、聖戦という名目で人殺しをしたり、あるいはインチキなご利益を流布して金を集めたり、“日月神示”表記の“集団(まどい)”を作り権力を誇示したり…例を挙げればきりがない。
 こういった事柄は“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が、霊的成長度の低い人間に対して、インプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している場合も多々あり、その刷り込んでいる方も刷り込まれている方も、自分たちの心(靈)が低い、霊的成長度が低いから、自分たちにとって都合の良い神、という認識を持つものであるし、それが正しいかのように錯覚しているものでもあるが、錯覚に気付くほど、心(靈)が育っていない。
 それは“悪神を天の神と思ってゐる”ということそのものであり、その低い認識は悪魔を神と思っているのだと断言できる。
 このことが解らないのは、ただ単に、神に対する認識が低いからであるし、低い認識=低い霊的成長度の人間に神のことを説いても理解できるわけがない。

 だからこそこの言い回しは、次の文に続いている。

“今迄の心すくりとすてて生れ赤子となりて下されと申してあろが。 早よ改心せねば間に合はん、残念が出来るぞ。 この神示わからんうちから、わかりておらんと、分りてから、分りたのでは、人並ざぞ”

 この文の
“今迄の心すくりとすてて生れ赤子となりて下されと申してあろが”
は、平均的地球人が持っている先に指摘した低い認識と概念を捨てよ、それは間違っているからこそ“早よ改心”と称され、そのまま低い認識と概念を持ち続けているならば“間に合はん、残念が出来るぞ”とは、今後=アセンション後の事象を創造すべく資質を持った心(靈)(ヒ)に成り得ないのだということ。
 
そして、やや解釈の難しい言い回し、
“この神示わからんうちから、わかりておらんと”
これは、頭で解らずとも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を善いものと認識する、それは“上”と感応しているから、自分が理屈でわからなくても進化の“道理”に沿った心(靈)の動きと行動をするのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべき人間である。
 またそういった人ならば、この事象に疑問を持つ、自分の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の要素を許さない、換言すれば“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認しない、さらにそれは多くの地球人とは違い、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しにくい心(靈)といい得る。
 そして既成の宗教やインチキ霊能力者などに疑問を感じる、これら“下”と感応している人や集団を観て、これは何かおかしいのではないかと思う。
それはその人が“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を理屈でわかるとか言葉で分類するとかではなく、“神示わからんうちから、わかりておらんと”=“上”と感応するならば、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使している心(靈)ならば、その思いと行動は理屈ではなく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を向くものである。
 それで“分りてから、分りたのでは、人並ざぞ”というのは、先の“早よ改心せねば間に合はん”=平均的地球人の霊的成長度、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、これは“日月神示”表記の“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)でもある。
 
 そして今取り上げている文言そのものが、自我の肥大した自分勝手な都合の良い神の認識と概念を持っている人間を対象に述べられており、お前たちのような低い認識と概念を持ち合わせている人間に納得の行くように説明してわからせたとしても、それは先に挙げた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべき人間よりも低いのだ、そしてそれが今現在の地球人の霊的成長度なのだ=“人並ざぞ”ということ。

 ちなみに私的に思うこととして、神格化のための“行”である太陽凝視、“日月神示”で“ひつく”“日津久”と述べられている価値のある太陽凝視を、不食とか健康になれるとか超人になれるとかの甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)御利益を求める動機で行う人間は、とても認識が低く、先の“間に合はん、残念が出来る”ということになるだろうと懸念するものでもあるが、少々蛇足だった。

 それで最後に述べられている、

“地の規則 天の規則となる事もあるのざぞよ”

これは、人間が右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、自分の在り方を鑑みる、ということをして、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心を発現させていく、そうなるならば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”では無く(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になるということは幾度となく述べてきているが、その過程において進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を人間が見出す、そして自分たちが見出すこと事態がとても大事、それは人間が獲得した認識であるからこそ“地の規則”と称されていると思え、それは“上”の思惑と一致するからこそ“天の規則となる事もあるのざぞよ”、そうやって人間の認識は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とともに変わっていく。
 それで、“なる事もあるのざぞよ”の言い回しに、“上”としては、“下”である人間に気付いて欲しい、そこまで育って欲しい、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”、法則性を体得し、その上で“道”(時間の進行)を歩んでほしい、という思いを感じるものでもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

偉い人 皆 俘虜(とりこ)となるぞ。
夜明け近くなったぞ。 夜明けたら何もかもはっきりするぞ。 夜明け前は闇より暗いぞ、慌てるでないぞ。
神の国一度負けた様になって、終ひには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ。 腹の中のゴモク一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わんし、いよいよ荒事にかかるから そのつもりで覚悟よいか。 わからん人民 退いて邪魔せずに見物してござれよ。
六月二十三日、アメのひつ九の
ローレンツ力と ○   。

 この第七帖も、これまでの松の巻同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識を改めよ、という言い回しである。

 冒頭の、
“偉い人 皆 俘虜(とりこ)となるぞ”
この“俘虜(とりこ)”の意は、言葉の意味として捕虜と同義、敵軍にいけどりにされた者、第二次世界大戦以前では、公式には俘虜(ふりょ)と呼んだそうである。
 だがこれも戦争における捕虜のことではなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識、形骸の価値観、薄っぺらい幸福感、経済主体の考え方、そして自国や他国という縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)など、いわゆる目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の認識と思想、進化の妨げとなるそれ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の敵軍)の“俘虜(とりこ)”ということで、今現在はこういった霊的成長度の低い人が、(形骸の)地位を得て世に出ているものである。
 そして形骸の価値観、薄っぺらい幸福感、経済主体の考え方…ことに経済主体の考え方と縄張り意識に沿った行動は、今現在大きな戦争の火種になっており大変なことになっていく感があるが、大概の人は目先の事象にしか目がいかず(批判しかしていないということ)、自分たちの低い心(靈)と高い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化が今の事象であることに気付いていない感がある。
だからこそその低い心(靈)に気付け、低い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化を自分が見たなら他者の批判ではなく自己観察をして自分を諌めよ、という意味をこの文言に感じ得る。
 それに大きな戦争になっていくのは恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であるので、今これを何とかしようとしても、この現象化には原因と結果があることなので避けることは出来ず、戦争を通じて死んで悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)に入り悪霊として活躍しそれから自省(胸の磁性“十”)するという過程の心(靈)も多いということがあり、これも霊的成長の一環であるから必要な事象は必要ではある…情けないことではあるが…。

 これに続く、
“夜明け近くなったぞ。 夜明けたら何もかもはっきりするぞ。 夜明け前は闇より暗いぞ、慌てるでないぞ”
これは霊的成長度の高低における区分け(アセンションと認識しうる事象)を“夜明け”と称しており、それに至るまで、その前段階として“夜明け前は闇より暗い”、醜い思惑と醜い事象が展開するの意、その心積りをしておけの意で“慌てるでない”といわれ、醜い思惑とその結果である醜い事象は、霊的成長度の低い人間の“思惑の顕現”=現象化であるが、今後=アセンション後はそれが無くなる、その無くなった時にそこに残った人たちには、神の計画としてのアセンション、霊的成長度の高低における区分けがあったからこそ、心(靈)の高低、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と進化を妨げる自分たちの目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)を“はっきり”と自覚するの意で“夜明けたら何もかもはっきりする”といわれている。

 これに続く、
“神の国一度負けた様になって、終ひには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ”
この“神の国”という表記もこれまで述べてきているように右翼傾向の強い人が思う神国の概念(これこそが縄張り意識)ではなく、進化=“神”に向かう心(靈)、それと“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”の心(靈)の動きを示す)で示している。
 だがたった今は先の表記の“偉い人 皆 俘虜(とりこ)となる”、こういった程度の低い人が今の醜い事象を“創造”しており、自省(胸の磁性“十”)の心を持ち始めた人は活躍できない、その思惑を顕現できないの意が“神の国一度負けた様になって”であるが、時期が来て“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がもう結果を出してよいと判断したなら、霊的成長度の高低における区分けは必ず起きるものであるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指している心(靈)=“神の国”は、“終ひには勝ち、また負けた様になって勝つ”であり、この言葉の“負けた様になって勝つ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観では“負けた様”に見える、それは形骸の価値や薄っぺらい幸福感などではその価値は解らない、理解しえないからであるという意である。
 
 次の、
“腹の中のゴモク一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わんし、いよいよ荒事にかかるから そのつもりで覚悟よいか”
この“腹の中のゴモク”は、表に出さず考え思っていることの意であるが、これは霊的成長度の高低に関わらず、高い心(靈)の思惑であろうが低い心(靈)の思惑であろうがそれは両方とも結果として現象化する=“一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わん”、それは、自分たちの思惑は必ず“創造”となり=現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現となり、自分たちが“観察と認識”するものであるの意であるし、これから霊的成長度の高低における区分けが進んで行くにあたっては、醜い事象の台頭、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化がどんどん進んで行くので“荒事にかかる”と称され、“そのつもりで覚悟よいか”とは、これからの事象が自分たちの低い心(靈)と高い心(靈)、その双方の“思惑の顕現”=現象化であるのだぞ、という意味合いであり、よく観ておけ、の意である。
 
 最後の、
“わからん人民 退いて邪魔せずに見物してござれよ”
これは、たった今の醜い事象の台頭、これからの醜い事象の台頭、来れの理由と根拠が理解できない人間は進化、霊的成長、神格化に向かうこと、も解り得ない、それは自分たちの高い心(靈)と低い心(靈)の区別もつかない=目上(めうえ)と目下(めした)の区別を、自分の心(靈)を観て判断できない、それは自分を諌めることが出来ない=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”出来ないに等しい。
 そういった進化程度の低い人間は、先に述べた霊的成長度の高低における区分けなど理解できるわけもないが、それを観て、観させられて、自省(胸の磁性“十”)の糧とせよ、自分たちの心(靈)は死んでからも進化することをローム太霊はローム太霊講話集で述べていらっしゃるが、誰もが死んでから様々なことを考えることが出来得るし、今アセンションに間に合わない人間が多いのだが、進化は永遠のものであるので、それを観よ、そして自身の心(靈)の認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、の意で“退いて邪魔せずに見物してござれ”と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 松の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。 一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。 日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。
戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。 それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。 今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。 ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。 
世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。 それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。
臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。 戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。 
悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。 悪も改心すれば助けてやるぞ。 
海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。 海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。 まつわり呉れよ。 竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。 朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。 宝 愈々世に出るぞ。 人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ。
六月二十三日、アメのひつ九のかみ。

 この第八帖も、これまでの松の巻同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識を改めよ、という言い回しであり、その低い霊的成長度の人が自らが諌めるため、その指標として、今後=アセンション後に移行すべき資質そのものを少し述べている感がある。

 まず、冒頭の文。

“神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。 一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。 日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”

 この一文はすべて感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を述べている。 いわゆる霊的成長度の高低における霊的干渉、それは、自らの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=思惑、“どういうつもり”に対し、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が憑依して影響を成すか、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)のそれか、を、鑑みよ、そして鑑みることにより自分は自分の在り方を見出すものであるのだというメッセージを読み取ることが出来る。
 このことを踏まえて“神の国には昔から神の民より住めん”を観るならば、“上”と感応している智性(神性)がたかまった心(靈)が場(フィールド)を構築するならそれは、“神の国”といい得るだろうし、そこに居るのは“神の民”であるという言い回しであるということ、それと、“神国”という表記が登場するたびに述べていることではあるが、右翼傾向の強い人間が勝手に思い込んでいるそれではないということを付け加えておく。
 そして“幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き”、自我中心の心(靈)、幽界は幽体が発達する場(フィールド)であることをローム太霊講話集解釈で述べているが、今のこの世界そのものが自我の確立=固定化を成すべき低い進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の場(フィールド)であり、今後=アセンション後は自分たちが観察しうる事象=現実と認識するそれは、その進化過程ではなくなり、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とする奉仕者の場(フィールド)になっていくのだから、その場(フィールド)に位置できない霊的成長度の心(靈)は“幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き”=アセンション後の事象より低い事象、それは今の地球のような世界であるが、そこへ行くのだ、という言い回し。 これを強調する言い回しが、
“一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ”
であり、この文の表記の“一寸”(ちょっと)は、わずか、程度が低い、あるいは軽い気持ち、の意味を感じさせ、具体的に述べるなら、神や霊、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し、しっかりした認識を持ちえない、御利益しか求めない人間やスピリチュアルな雰囲気に酔っぱらっている人間、そういったことが台頭している“土”=肉体は、進化した人が位置する場(フィールド)には住めないし、そんな心(靈)は次の事象にはいないのだ、の意であり、たった今の事象が“渡れん者が渡りて”=次の事象に位置でき得る資質を持ちえないものが今の事象で台頭して今の事象を“穢して仕舞ふてゐる”のであり、そして大事な神の計画としてのアセンション、霊的成長度の高低における区分けの概念も“穢して仕舞ふてゐる”、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が、偽の概念を流布=“渡れん者が渡りて”=資質のない程度の低い霊的成長度の心(靈)が活躍しているの意である。
 そして“日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”は、今の人間を揶揄した言い回しであり、“大和魂”を勝手に解釈して程度の低いものにしてしまった軍国主義、右翼、それは暴走族の特攻服に付いているそれと同様の自我の肥大によるものであるが、そんな程度の認識ではダメで、それはこの一文のように“大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”ということを知れよ、の意でしかない。



 
 次の文。

“戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。 それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。 今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ”

 この“戦いよいよ烈しくなると”については、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が台頭した戦争のことを含め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍とその右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、の意、を含む。
 要は自省(胸の磁性“十”)の“行”のことである。
それでこれに続く“日本の兵隊さん”という表記、これと同義の表記は、
水の巻 第十四帖 にあるので、以下にコピペしておく。

冒頭の“神の子でないと神の国には住めん”は、先に述べた今後=アセンション後のことであり、今の世が“闇の世”、“ケダモノ”“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている現津(あきつ)、観察され得る事象であり、重複するがそんなものを“上”はいつまでも許可しないということを述べているに過ぎない。 
 そしてこれに続く、
“幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ”
の“幽界(がいこく)”という言い回しは、自我主体の心(靈)を指し、生きている間と死んでからの、現界、幽界、霊界、神界、のことそのものではなく、自我中心の心(靈)、自我の肥大した心が生み出している低い事象、そこへ“逃げて行かなならんぞ。二度と帰れん”、これが霊的成長度の高低における区分け、低い心(靈)は低い事象に移行する、低い事象とは今の地球のことであるという言い回しである。
 それではいけない、“上”はそんなことを多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現した人間に許さないから“根本から心入れかへて呉れよ”と述べている。
 そして先に指摘した形骸の名誉でトップになっている人間、“何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ”、これに従属している人間、何が“ほんとう”の価値なのか、自分たちがどう生きるべきか、などを鑑みたことが無い人間、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使していない人間に対し“日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ”といわれており、それはこの文の冒頭の“日本の国”=太陽、“本津宮”(もとつみや)の“本”、自省(胸の磁性“十”)の意、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)ということをしっかり鑑みよ、という言い回しである。


 水の巻 第十四帖そのものが、今回の表記に似ているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識しそれを真摯にとらえている心(靈)=“日本の兵隊さん”ですら、霊的成長度の高低における区分けが執行される際、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も醜いことが台頭する、それを“戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来る”と称されており、このままでは何もかもが無に帰するのではないか=“それでどうにもこうにもならん事になる”と思うほどそれは醜いことが起きる、そういった意味合いの表記であると思う。
 そしてその際には自分自身に何が起きようとも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を思い、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“上”と感応せよ、の意が、“それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ”であると思えるし、この“誠ですがれ”は、先の“一寸の住むお土”に相対した言い回しであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を知っているならば真摯に求めよ=“誠ですがれ”、それをしなければ、“上”と感応しないので“誠ですがれば、その日からよくなる”といわれている。
 これに続く“今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ”、“建替”は、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する事象を崩して今までとは違う事象を“創造”するの意であるが、そこに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が無ければ次の事象は成り立たないの意が“戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来る”の“生き神が改める”であり、この“生き神”は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の意であるし、それが顕現する事象になって、次の事象に位置する資質を得るの意である。
 よってこれも、“生き神が改める”=自省(胸の磁性“十”)を指すのであり、そして“どの家もどの家も、身魂も身魂も”の表記の“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)、智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意味であるし、“身魂”は肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意であるから、そういった人間になれよの意である。
 これに続く“ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせん”、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が頑張っても人間が“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねば、事象は変わらないの意である。
 ちなみにこのカタカナ表記の“ミタマ”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、“ミタマの神”という表記は人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をもくろんでいる存在といい得る。
 しかしその存在は貴いが、人間が“誠ですがれ”ということをしなければ、真摯に進化を求めなければ、“何も出来はせん”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が顕現しないということである。

 
 次の文。

“世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。 それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。 臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。 戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ”

 先に述べたように“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これは進化の理であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するにはそれしかないのであり、それを体得して顕現するには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受け入れよ=“素直に言ふ事聞けとくどう申す”であり、今後=アセンション後ではこれまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が持っている程度の低い認識の神の概念も当然のことながら変化するの意と、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の発現という今の地球人の進化過程から一段上に移行するから“今度は神の道もさっぱりとつくりかへる”そして程度の低い人間を対象にした言い回しの“臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ”といわれている。
 これに続く“戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ”、これは“戦の手伝い”“御用はなかなかにむつかしい”の表記の意味をよく考えなければならず、アセンションの情報を流す、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を解っていないのに神や霊のことを述べる、などという程度の低いことを“手伝い位 誰でも出来る”と称されているが、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“御用”であり、それは“なかなかにむつかしい”といわれている。
 それで程度の低い人間のやっている情報の流布、いわゆる“役員づら”の活躍による既成概念を改めよの意図して“赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふ”、程度の低い認識では程度の高い認識に到達しないの意である。 蛇足だが右翼傾向の強い人が思う共産主義=赤、の意などでは決してない。
 またこの意を強調する言い回しが次の文。
“悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ”
であり、これに続く“悪も改心すれば助けてやるぞ”は、どんな悪の存在であろうが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はするのだし、それには自省(胸の磁性“十”)が必須であるということを述べているに過ぎない。


 次の文。

“海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。 海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。 まつわり呉れよ。 竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。 朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。 宝 愈々世に出るぞ。 人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ”

 この文の“海”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、のことを指し、これまで解釈してきたように“竜宮のおとひめ様”は、腹のエネルギーが日足(ひたり)回転で上昇する(大日如来の条帛(じょうはく))ことを指す。
 よって“竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかん”の意は、自我を諌めて、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現させないと“けりつかん”=進化したとはいえない、の意である。
 これに続く“朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてある”、これは艮(うしとら)の金神が最初に教えた黒住教、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)をさすものであり、それが“ほんとう”の“宝”であり、それは前のブログで述べた、體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であり、換言すれば“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、のことである。
 そして太陽凝視を行ってきて智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めた人間が今後=アセンション後台頭するの意が“宝 愈々世に出る”である。
 これに続く“人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ”については、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をして、“上”と感応せよのいであり、かいしゃくのむづかしいもんごんではないが、大変重要なことだし、ことに“日月神示”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対する言い回しが多いが、それに相当するほとんどの地球人が忘れてはならない一文である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ。 この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。 云ふ事聞かねば、きく様にしてきかすぞ。 因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。 ここの役員は皆因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ。 
六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。

 この第九帖は、第八帖で述べられている感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)ことと、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を中心に述べている。
 
 まず、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の感応する対象として、自分が霊的成長度が高く、そして進化の法則に則った息吹をしているなら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応し、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“善(神格化の方向性と智性の受信)”の事象を“創造”する。
 それに相対し、自分が霊的成長度が低く、進化の法則性に則って(のっとって)いない息吹をするならば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し、その行動は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象を“創造”するものである。
 それで、今後=アセンション後の事象は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が台頭するような事象ではないし、段々“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象とそれを呼び込む低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は無くなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の一側面でもある。

 上記のことを踏まえ冒頭の文。

“悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ”

 幾度となく述べてきていることだが、今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し、その人たちの霊的成長度は自我の確立=固定化で、自我の肥大(“石屋の仕組み”)が起きており、自我が肥大しているからこそ自分の心(靈)の動きと行動を、自分にとって都合の良いような観方しかしていない。
 このこと事態を先に解釈した第八帖では、以下のように指摘されている。
“悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ”
 程度の低い心(靈)は程度の低い“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在と感応し、それを自分にとって善しとするという意味合いだが、程度の低い霊的成長度の人間は自分の心(靈)の“上”と“下”を見いだせないか、判っていても無視をして、都合の良い考え方をする。
 それはローム太霊が述べた右往左往でもあり、その人の心(靈)の砌(みぎり)の極性)のたかまりともいえるのだが、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し“下”の思惑を顕現することになるので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)から外れており、自分にとって都合の良い考え方と行動しかしない人間は“神の咎め”によりまっとうな進化の方向性に引き戻される。
 それを“悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ”と称されている。 
 またこのこと事態が、左往右往でもある。

 重複するが、今の事象に位置する大半の人は低い霊的成長度であるからこそ、“悪”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と“悪”の“創造”が台頭しており、それを善しとする傾向がある。
 だがそれは必ず“グレンぞ”=“神の咎め”によりまっとうな進化の方向性に引き戻されるものである。
 そこに“神の咎め”と認めうる事象がある理由と根拠を感じ取れなければ、感じ取れない心(靈)そのものが低いとしか言いようがないものでもある。


 次の文。

“この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。 云ふ事聞かねば、きく様にしてきかすぞ”

 “日月神示”表記の“世の元からの生き神”“此の方”“役員”、これに類する表記はすべて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)か“上”と感応する霊的成長度の高い人、あるいは進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指している。
(このことはここまで“日月神示”を読み解いてきて確信を持って指摘でき得ることでもある)
 これを踏まえ“この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ”を観ると、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を顕現する、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”そのものが、“この世に何一つ出来んと云ふことない此の方”であることが解る。
 そして今後=アセンション後の事象は、それに従う、追随する、また、従わなければならない、追随しなければならない、そうしなければまっとうな進化に進めないという意味合いで“云ふ事聞かねば、きく様にしてきかす”といわれ、この一文には先の“神の咎め”の要素も感じ得るものである。

 これに続く以下の文。 

“因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。 ここの役員は皆因縁ミタマばかり、苦労しただけお蔭あるぞ”

 自分たちが成してきたこと、それは行動でもあり行動の根拠は自分の思想、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、それが低いならば“神の咎め”を甘んじて受けなければならない、それから次の事象=“今度の峠” に移行するが、この文の表記の“因縁”はその意味合いがある。
 だが、この文の“ここの役員は皆因縁ミタマ”の“因縁”は意味合いが全く違い、それは“役員”=人の自省(胸の磁性“十”)を促し霊的成長の指針を示す、あるいは自分自身が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことして霊的成長度を高め、次の事象の“創造”を担う資質を獲得する、その人たちはこれまでとこれから何を思い何をするか、それを“因縁ミタマ”と称され、それは必ず次の事象で実るものであることを“苦労しただけお蔭ある”といわれている。
 第八帖でも述べたが、カタカナ表記の“ミタマ”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
なので、まっとうな進化を歩む、神の“思惑の顕現”=現象化としての生命(生きる使命=存在理由)、いわゆる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止める意味での“日止、霊止”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度 役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。 善も末代ぞ、悪も末代ぞ。 此の世は一(ひとつ)であるぞ。 
われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。 神に縋(すが)るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ。 
今度はいろはの世に戻すぞ。 ひふみの世に戻すぞ。 素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。 よろこびの身といたしてやるぞ。
六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。

 この第十帖も第八~九帖の続きのような意味合いである。

 冒頭の、

“今度 役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。 善も末代ぞ、悪も末代ぞ。 此の世は一(ひとつ)であるぞ”

この“役目”は、霊的成長度における“役目”である。
 そしてその“役目”は、自分たちが現実だと感じ得る対象、いわゆる現津(あきつ)、観察され得る事象、生きているならこの世界におけるそれであり、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”の意である。

(ちなみに死んでから、霊的成長度の高低により幽界のどの階層に行くかは、本人の生きていた間の結果によるものであるが、その階層の違いも自らの霊的成長度によるものであるから観察しうる事象である)

 その“役目”は“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、“末代続く”と称され、これは生きている間のことを述べていると思え、生きているうちに今後=アセンション後の事象に移行すべき資質を獲得せよ、の意味合いであると思う。
 それで“神示に出た通りの規則”そして“此の世は一(ひとつ)である”というのは、この事象の“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、それによって“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”も認識しうるし、神の“思惑の顕現”=現象化としての生命(生きる使命=存在理由)は、当然のことながら“善(神格化の方向性と智性の受信)”でなければならず、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が行っている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認識しうる行動とその思惑は否定されるべきであるが、今はそちらの方が優勢である、このことをしっかり認識し自分の心(靈)の悪の要素(目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈))を諌めることをしなければ、次の事象に移行し得る資質を獲得したとはいえない。

(これは死んでからも同じ、未熟な幽体は自省(胸の磁性“十”)の“行”をさせられるものである。 ローム太霊講話集解釈を参照のこと)

 
これに続く以下の文。

“われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。 神に縋(すが)るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ”

 “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては“われの身体われに自由にならぬ”=自分の思惑通りにならない、といわれており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がその儘の霊的成長度による思惑を自分にゆるしているなら、いわゆる智性(神性)無き心が自らの目下(めした)の心(靈)を自分に容認する自分に甘い心(靈)のままならば、それ事態を“上”は許さず、“神の咎め”を与えたりして、左往右往させるものであり、まっとうな進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に引き戻すことをさせるが、その意味合いを感じうる文言である。

 
次の文。

“今度はいろはの世に戻すぞ。 ひふみの世に戻すぞ。 素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。 よろこびの身といたしてやるぞ”

 この文の“今度はいろはの世に戻す”の“いろは”は、ひらがな表記なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の目線による“観察と認識”であり、“イ”“ロ”“ハ”それぞれの意味は、

“イ”は、生気生命の発生力
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)
“ハ”は、生命発現成長の音義

なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命(生きる使命=存在理由)を“創造”し、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であるが、たった今はそうではなく=人間と神の関係性などを感じうる事象ではないので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍する事象なので、“今度はいろはの世に戻す”、今後=アセンション後は違ってくるのだという意味合いである。
 
これに続く“ひふみの世に戻す”の“ひふみ”もひらがな表記(被造物視線)であり、

“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化)
 “ミ”は生命の幹 その現実

なので、神の“思惑の顕現”=現象化としての、生命(生きる使命=存在理由)の、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であり、これも先の“いろは”同様“戻すぞ”である。
 
 これに続く“素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。 よろこびの身といたしてやるぞ”は、“素直”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応に恭順たれ、そうならば“タマ入れかえて”と称され、この“タマ”の意は、 

“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根

いわゆるまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を歩む生命の意といえるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を歩んでいないのだということを悟らせる言い回しであるし、その目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)由来の価値観や幸福感は、“ほんとう”の喜びにつながっていない(“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”)、またその価値観と幸福感の台頭は恨みの連鎖の霊的干渉の増大に加担しているだけなので“素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。 よろこびの身といたしてやるぞ”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今の法律 此の方嫌ひぢゃ、嫌ひのもの無くするぞ。
凝り固まると害(そこな)ふぞ。 此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。
神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ。 虫けらまで、てんし様の御光に集まるよろこびの世であるぞ。 見事 此の方についてご座れ。 手引ぱって峠越さしてやるぞ。
六月二十五日、あめのひつぐのかみ。

 この第十一帖も第八~十帖の続きのような意味合いである。

 冒頭の“今の法律 此の方嫌ひ”、これは政治家が関わっている法律だけではなく、今の事象の法と認識しうる何か、それは秩序、慣習、道徳の概念、社会規範などを含むそのすべてを指すものと解釈する。 
 そして“此の方”という表記は、第九帖で述べたように“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)か“上”と感応する霊的成長度の高い人、あるいは進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指している。
要は今の事象は“上”から観たら間違っている、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないという指摘であり、今後=アセンション後それは消失しうる、あるいは変化するのだという言い回しが“嫌ひのもの無くする”である。

 これに続く、

“凝り固まると害(そこな)ふぞ。 此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ”

この“中行く道”は、人として過不足がなく調和がとれていることをさしたり、儒教の中庸の概念、過不足なく偏りのない徳、を指したりもするだろうが、“此の道”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に至る道は、“中行く道”、過不足のない実生活、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が求める(通貨としての)金や名誉、それに類する何かを求めるのではなく、あるいは目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)由来の本能やその他程度の低い欲望を諌める、そういったこともあるが、それだけではなく、今後=アセンション後における今とは違う(先に解釈した)法に類するものを創り上げていく、それを指し示した言い回しである。
 それは“日津久の民”と、その事象で評価されうる人=“世間で云ふ様な行ひせねばならん”、ということであり、この“日津久の民”という言い回しは“上”との感応を行うべく、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現と強化をする。
そしてそれは、“一”=智性=1番目のオーラの“行”である、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、これを行う者が、今後=アセンション後の事象の秩序、慣習、道徳の概念、社会規範、あるいは価値観や幸福感、今よりまっとうな社会を構築するための概念を創っていくのだ、あるいは指導者、模範を示すものとなる、という言い回しである。


 これに続く、

“神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ。 虫けらまで、てんし様の御光に集まるよろこびの世であるぞ。 見事 此の方についてご座れ。 手引ぱって峠越さしてやるぞ”

これは先の“日津久の民”に掛かる言い回しである。 

 この“神の国と申すものは光の世、よろこびの世である”に対し、霊的成長度の低い似非スピリチュアリストなどは天で勝手な甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈するだろうが、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自らの思想とする、それは日月の巻で使われた表記、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子を自らに取り込み、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する、それは高い“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であることを今まで述べてきているが、何のための太陽凝視なのか、程度の低い人達の注目を浴びたいがための不食ごっこなどというディスプレイ(動物の発情行動)のための太陽凝視ではないということを、少しでも太陽凝視を行っている人には鑑みて欲しいものである。
 これに続く“虫けらまで、てんし様の御光に集まるよろこびの世であるぞ。 見事 此の方についてご座れ。 手引ぱって峠越さしてやるぞ”に関しては、“上”と感応してその思想を流布する“てんし様”、これは“ほんとう”に霊的成長度が高い人を指す表記であり、当然のことながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の典型である現皇室の人間のことなどではなく、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がたかまった心(靈)(ヒ)を持つ人のこと、それを“此の方”と称しているにすぎず、その人の思想を受け入れるならば、その思想を自分たちの認識の糧とするならば、“手引ぱって峠越さしてやる”=次の事象の“創造”に参加する、その意味のことである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。 
それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。 早よう改心なされよ。 建替の事 学や智では判らんぞ。 
六月二十八日、あめのひつくのかみ。

 この第十二帖も、ここまで解釈してきた松の巻で一貫して述べられていること、それは第十二帖の表記ならば“建替”であり、この表記自体がアセンション後のことを述べており、その上で霊的成長度の低い人、移行できない心(靈)のことを指摘している。

 まず冒頭の文。

“前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ”

 これまでも霊的成長度における区分けは有った。 それがこの文の“前にも建替はあった”であり、その一部がアトランティスやムーの崩壊であったりもする。 
 それで、地球における霊的成長度の区分けはすでに七回起きていることを○○○大先生は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に教えられて知っている。
 そしてその崩壊のパターンは、自分たちが獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うのか、それを悟らせるための試験のようなものであり、地球人に限らず人間型の生物は“力”の獲得が進むと、必ず核のことを知り、

(学者の努力に応じて“上”が感応して教えるということ、発明発見というのはそういうものである)

核分裂を利用するようになるが、そこで必ず“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭して自分たちの利害や損得のために戦争を起こし文明は崩壊する。 

 これはワンパターンと言い得ることでもあるし、たった今、そういった局面に向かいつつあり、これは今の地球人の心(靈)(ヒ)の動きを観た上で鑑みるならば絶対に回避できないことだといい得るし、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、やってきたことの結果は必ず実るという事例でもある。
 
 大事なのはその試験、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うのか、自分、あるいは自分たちだけのために使うのか、その“力”を“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)としていくのか、そこに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の違いがある。
 またそれは霊的成長度の高低によるものであり、ほとんどの地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、それはまた腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロンであり、その“上”の心(靈)の進化が、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、“日月神示”表記なら“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であることを、今まで幾度となく述べてきている。

 だが、今の事象を観る限りでは、自省(胸の磁性“十”)できている人間というのはごく少数でしかない、だから今後=アセンション後に移行しうる心(靈)の資質を持つ人間はとても少ないとしか言いようがない。

 それで自省(胸の磁性“十”)、“観自在”“直日”、そして犬たちの記事で述べてきた“自分を観察する自分の確立”というのも同じことだが、それが出来ているならば、自分の低い心(靈)(目下(めした)の心(靈))を諌め、低い心(靈)が生み出している低い事象の“創造”を許さないものである。
それを指示した文言が“悪は走れば苦労に甘い”であり、これは自分たちが少し頑張ったくらいで自分たちにとって都合の良い結果を望むてんで甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)発想のことを指し示しているものである。
 そして自省(胸の磁性“十”)できていない心(靈)を“少しでも曇りあったら”と称されている。
 さらに、自分たちが神と思っている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)ですら、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により努力した人間には力を加えるということがあるが、それすら“悪(心の動きの本能化と低振動化)”になるのだという言い回しが“神々様でも、悪に知らず知らずなって来る”であるし、平均的地球人に感応している“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在自身が、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ならば、それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”になるものであるが、これも自分の霊的成長度の高低における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則、それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という法則性があるからである。

 だからこそ自分が高くなり、高い存在と感応する。 
 そうなるべく艮(うしとら)の金神は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えているのであり、不食ごっこなどという程度の低いことではなく、“一”=智性=1番目のオーラを獲得せよ、もっと高い存在と感応し自分の思想と認識(悟り、幸取=さとり)を高めよ、高い存在と感応する、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子を取り込む、それを“天詞様”と“日月神示”では称されているが、そうなれよ、ということを暗に示している。

 そして地球における霊的成長度の区分けというのは次の機会が最後であるということも○○○大先生は知っているが、それを指示した文言が“前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかった”である。
 ちなみに“三千世界”は、 地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念が、三千世界」って解釈をしたことを付け加えておく。


 これに続く次の文も今述べたことを強調している。

“それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。 早よう改心なされよ。 建替の事 学や智では判らんぞ”

 “世の元からの生神”という“日月神示”独特の表記の意味は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。
 それが今後=アセンション後は台頭するから、今までの“建替”の後容認されてきた自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)はそこに位置できない、その意味合いのことが“今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯する”であり、先に述べた程度の低い霊的成長度に感応する程度の低い“上”もいなくなるというのが“神々様、守護神様、今度は悪は影も残さん”であり、これに続く“早よう改心なされよ”に関しては先に述べたことと意味合いが重複するので解釈を述べないこととする。
それで、今の平均的地球人の認識、その、程度の低い霊的成長度における既成概念や常識などでは、このこと事態は到底理解できない、という言い回しが“建替の事 学や智では判らん”である。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この世界は浮島であるから、人民の心通り、悪くもなりよくもなるのざぞ。
食ふ物ないと申して歩き廻ってゐるが、餓鬼に喰はすものは、もういくら捜してもないのぞ。 人は神の子ざから食ふだけのものは与へてあるぞ。 神の子に餓死(うえじに)はないぞ。 いやさかのみぞ。
此処は先づ世界の人民の精神よくするところであるから、改心せねばする様いたすぞ、分らんのは我かまうひと慢心してゐるからぞ。
旧五月十六日、あめのひつ九の 
ローレンツ力と ○ 

 まず冒頭の文。

“この世界は浮島であるから、人民の心通り、悪くもなりよくもなるのざぞ”

 “日月神示”における“島”の表記、日月の巻 第三十帖においては、タンパク質が自凝(おのころ)して寄り集まり、磁束が発現して生命(生きる使命=存在理由)となる、このことが説かれていたが、今回は現津(あきつ)、観察され得る事象=“この世界”、これが“浮島”と称されている。
 これは、この事象もこの事象に存在する一切の生命(生きる使命=存在理由)(霊的存在も含む)も、“修理固成”(しゅうりこせい)されていない、“真固止”=“上”からの振動(神の思惑)を眞に固く止めていない、ことに生命(生きる使命=存在理由)と認識しうる一切の生物は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていないという意味合いである。
 その固まっていない=結晶化されていない事象と生命は、今の人間の霊的成長度の通り、“絶対の善”を顕現しえない(顕現する資質と資格が無い)、“善(神格化の方向性と智性の受信)”や神を言葉でしか知らないから、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に流されるし、自分たちが“悪”の方向性に向かっていることすら自分で判断できない、その意味合いの言い回しであると思う。


 これに続く次の文は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心の動きことと、その目下(めした)の心(靈)中心の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人を対象に述べている。

“食ふ物ないと申して歩き廻ってゐるが、餓鬼に喰はすものは、もういくら捜してもないのぞ。 人は神の子ざから食ふだけのものは与へてあるぞ。 神の子に餓死(うえじに)はないぞ。 いやさかのみぞ”
 
 目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(靈)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)は本能や情動中心、よって欲望を充たすことを自分たちの幸福と考える程度の低い心(靈)であるし、その欲求は際限がないから“食ふ物ないと申して歩き廻ってゐる”“餓鬼に喰はすものは、もういくら捜してもない”とのべられている。
これについてはS会=紫光会の交霊会で八戒(低い欲望に対する八つの戒め)(やっかいなもの)という言い回しがよく使われたが、ほとんどの地球人はこういった心(靈)中心であるということに自ら気付けよ、という意味合いで、“人は神の子ざから食ふだけのものは与へてある”“神の子に餓死(うえじに)はない”、もういい加減物欲や本能由来の欲を諌めよ、そして自分たちの本来の存在意義を見出せ、それは霊的成長である、という言い回しが文末の“いやさかのみ”である。
“いやさか”弥栄、彌栄、については、栄える、を別にして画像で意味を示す。


彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 


弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 


  次の文。

“此処は先づ世界の人民の精神よくするところであるから、改心せねばする様いたすぞ、分らんのは我かまうひと慢心してゐるからぞ”

 この世界は人々の認識(悟り、幸取=さとり)を改める世界であるという言い回しが“此処は先づ世界の人民の精神よくするところである”であり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑としては、物質の繁栄(右往左往の右往)より精神性(左往右往の左往)を重視している、よって霊的成長を望んでいるという言い回しでもある。
このことに気付かせる、そのために、人間がやってきたことが間違っている、やってきたこと、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないことを“上”は示すから“神の咎め”を与え、自省(胸の磁性“十”)させるものであるが、その意味合いで“改心せねばする様いたす”と称され、自省(胸の磁性“十”)できていない心(靈)は必ず自省(胸の磁性“十”)させるという言い回しである。
 そしてこのこと事態が理解できないのは、進化程度が低い、まだまだ腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程であるから“我かまうひと慢心してゐるからぞ”=自分のことしか分からない自我の肥大した程度の低い人(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)であると言われているし、程度の低い人はこのことをよく自覚せよ、という言い回しである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

裏切る者 沢山出てくるぞ、富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組。 ハルナ、カイの御用なされよ。
悪の総大将よ、早よ改心なされ、悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。 いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。 
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になるのぞ。 日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが。 まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ。
六月二十九日、あめのひつぐのかみ神示。

 この第十四帖では、“仕組”と“御用”、この解釈が大事である。 先にこの二つの表記の解釈を述べてしまえば、
“仕組”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、
そして、
“御用”=生業(なりわい)の“行”と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行” ということである。


 これを念頭に置いて、冒頭の文。

“裏切る者 沢山出てくるぞ、富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組。 ハルナ、カイの御用なされよ”

 この“裏切る”は、“仕組”に沿わない生き方、と、“御用”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていない生き方、という解釈が出来る。
 そして“富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組”の表記については、“富士(二二)”は、進化した左右相称動物である人間が持つ日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、これは肉体(月(ツキ))にも心(靈)(ヒ)にも表れており、進化したからこそ発現する極性のことであり、“鳴門”“諏訪(スワ)マアカタ”については、以前解釈した、
日の出の巻 第十八帖から以下にコピペしておく。

 
 
渦巻き 左回転 海の御用とは 渦巻き 左回転 海の鳴門(なると)と 渦巻き 左回転 海の諏訪と  渦巻き 左回転 海のマアカタと三所へ祀りて呉れよ。その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ、 渦巻き 左回転 海マアカタとは印幡ぞ”の“ 渦巻き 左回転 海の御用”は、左=日足(ひたり)回転であるから“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転。 そして“海”の表記は“江戸と尾張”の“江”と同義、よってこれも腹のサイクロトロンから胸のシンクロトロンに移行することを述べている。
 それで“鳴門(なると)”は、鳴る=振動の門という意味合いである。
“諏訪”の諏は漢字の意味で、はかる(謀る)、相談する、問う、たずねるの意があり、訪は訪れる(おとずれる)の意、それは次の段階、第四密度とかアナハタチャクラの覚醒とか“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くこと、これらすべて“創造”の“主(ヌシ)”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の計画=諏訪の諏の意味のはかる(謀る)こと、そして次の段階へ訪れるの意。 
“印幡”の印はしるし、これは霊的成長を示すしるし(黙示録にも霊的成長度を示す“額の御印”という表記がある)、幡(ばん)は、仏教で使う布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のこと、この詳細に興味のある人はWikipediaなどで調べればよいと思うが、これは繊維を織った布というよりも、人の肉体(月(ツキ))がより進化して神経線維が“慈(しげる)”という意味合いのことを感じ、それを幡(ばん)の如く立てるのであるから、“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の五と同義、ちなみに“五”は神経線維が糸巻のように密に巻かれたという意味合いで、これと同じであると思う。 
よって“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”は特定の地名のことではないと思うし、特定の地名を当てはめてみるとこの文は解釈できない。 
それで“マアカタ”だが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、アは“創造”の“主(ヌシ)”の表記のアイのア、あるいは“亜”、人の心(靈)が認識しうる根元の何か、究極微粒子、“上”から注がれる何か、“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、このカタカナ、“上”から目線で書かれた四文字で構成された“マアカタ”は、すべて先に述べた“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”の解釈と合わせて鑑みても、霊的成長のことでしかないし、カタカナ表記だからこそ“上”の計画といえることでもある

 要は、今の平均的地球人の霊的成長度から“上”の進化のことを示唆した表記である。

 それで“ハルナ、カイの御用”については、カタカナ表記なので“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用することとする。

“ハ”は、生命発現成長の音義
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”生気生命の発生力

よって“ハルナ、カイの御用”は、自分自身がどんな振動と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して=“ハ”“ナ”“カ”“イ”、
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくのか、

“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
これらを示した表記であるが、このこと事態が生命(生きる使命=存在理由)そのものであるし、振動の取り込みをしていきながら変容し(彌栄(いやさか))、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのが生命といえ、それはまた“創造”の“主(ヌシ)”、神の、“思惑の顕現”としての生命であり、よって生命(生きる使命=存在理由)は神の子であるという言い回しも出来るし、 “ル”の、霊流凝(ヒルコ)の如き生命素を集め凝らす の意味をよく鑑みるなら、今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たすために、より高い振動を取り込む“行”を艮(うしとら)の金神は教えたのだということに得心がいく。
(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)


 これに続く以下の文は、単に今の世界で“力”を示し、権力を振りかざし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは違うことを多くの人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している“役員づら”や、形骸の権威をもっている人、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対しての言い回しである。

“悪の総大将よ、早よ改心なされ、悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。 いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。 
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になるのぞ。 日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが。 まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ”

 ことに“いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせん”に関しては、“神国”=神に近付く自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)、これに至るための進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、いわゆる“仕組”が解り得ない、人間にとって何が価値のあることなのか見出す智性(神性)(1番目のオーラ)を持ちえない、そういった程度の低い心(靈)のことを指していると思え、こういう人間は現状をただ憂うだけ、たった今アセンションに伴う醜い事象に満ち満ち、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化も加速的に増しているが、ただそれを騒ぐだけ、それを見て自分がどういう在り方をすべきなのか、などについて考えることをしない、それだからこそ“いくら焦りてあがいても”といわれていると思うし、平均的地球人の霊的成長度は自我の確立=固定化の段階であり、自我の肥大を起こしていることは幾度となく述べてきているが、それを改める、改めなければ自分の在り方を見出すことなどできっこない、だからこそ“悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になる”=形骸の地位を得て行使している権力者と、“役員づら”、自分たちの慢心に気付け、ということであり、自省(胸の磁性“十”)するならば=“改心すれば”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解する入口に入るからこそ“何時迄も結構になる”と述べられている。
 
 そして先に指摘した、
今の世界で“力”を示し、権力を振りかざし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは違うことを多くの人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している“役員づら”や、形骸の権威をもっている人、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”
こういった人間が台頭しているからこそ多くの人間は、“ほんとう”の人間の存在の意義、“ほんとう”の幸福や価値を見出していないことを“日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが”と称されており、“まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ”とは、自我の確立=固定化の進化の段階は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロンに由来することであるから、それを諌めるために“水でも掃除する”という言い回しがされている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神示うぶのままであるから、そのつもりで、とりて呉れよ。 嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ、心得て次の世の御用にかかりて呉れよ。
世界の事ざから、少し位の遅し早しはあるぞ。 間違ひない事ざぞ。 大将が動く様では、治まらんぞ。 
真中動くでないと申してあろが、此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらんぞ。
此の方頼めばミコトでおかげやるぞ。 竜宮のおとひめ殿 烈しき御活動ぞ。
六月三十日、あめのひつぐのかみしるす。


 冒頭の文。

“この神示うぶのままであるから、そのつもりで、とりて呉れよ。 嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ、心得て次の世の御用にかかりて呉れよ”

 この“うぶ”の表記は、初めて、初心、世間ずれしていない、などの意味が当てられるが、なぜこういう言い回しをするのかは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としての艮(うしとら)の金神が、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)により、“日月神示”そのものを金儲けの道具にされ、勝手な解釈をして歪曲させて間違った個人の見解(文中の表記の“嘘”)が流布されること、またその、程度の低い解釈を受け入れたがる人間が多い、それは多くの人間が霊的成長度がてんで低い=甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)からである。 
こういった状況を予見していたからであると思うし、だからこそ艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、“役員づら”という表記も使っている。
 
 だが、“日月神示”は今指摘した程度の低い人間を対象に述べられたことではなく、自らを厳しく律することが出来得る人間、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をして、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出し、自分が常にどう在るべきか鑑みることが出来る霊的成長度の人間を対象に述べられ、そして更なる霊的成長を望むからこそ“ほんとう”の太陽凝視、不食ごっこなどではない“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を自らに止める、これを例えば、地つ巻 第九帖では、

“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな”

と、解りやすく説かれていたりもする。

 要は“上”は多くの人の霊的成長を望んでいるから“日月神示”を書かせたのではあるが、程度の低い人間は程度の低い解釈をしてそれを流布し、程度の低い人間はそれを信じ込む…というよりも甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈の方を好む、これも程度の低い心(靈)同士の感応ということではある。
 
 このブログを読んだ人ならば、こういった現状に気付く位の視点を持ってもらいたいものである。
 
 これに続く“嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ”というのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すことに“嘘”はない、それは“下”である人間を育てようとしているのであるからこそ、受け入れがたいことを述べてもそれは“ほんとう”であるという言い回しであるし、“心得て次の世の御用にかかりて呉れ”は、今後=アセンション後は段々人間の世界も“嘘”が無くなる事象になる、それに相反してたった今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍により“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”に満ち満ちているということに気付くべきでもある。

 これに続く
“世界の事ざから、少し位の遅し早しはあるぞ。 間違ひない事ざぞ。 大将が動く様では、治まらんぞ”
は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化には時間差がある、それは例えば“神の咎め”を与えるにあたってもそのタイミングが大事であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”その者が、その低い心(靈)ゆえの悪い行いを十分に味わってからでないと、“神の咎め”を与えても自省(胸の磁性“十”)しえないから、という意味合いでもあるし、“役員づら”が述べている、時期が来たらみな幸せになるとか、災厄を避けるとか、程度の低い人間を引き付ける甘い手法通りには成り得ないという意味合いもあるだろうし、だからこそ“大将が動く様では、治まらん”と述べられているが、この“大将”は、先の第十四帖の“悪の総大将”のことを示していると思う。

 これに続く
“真中動くでないと申してあろが、此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらんぞ”
の“真中”の表記は、下つ巻 第二十六帖 “神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ”のそれと同義であり、これは何を示しているのかといえば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でしかなく、それは絶対の法則性を示唆するものであるからこそ“真中動くでないと申してあろ”と称され、それに相反してたった今は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、先に述べた“役員づら”“悪の総大将”などの活躍により腐りきっているからこそ“此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらん”と述べられ、“頭”の表記は先に述べたことと重複するが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が褒めそやされ形骸の地位や名誉を得て“頭”になっているの意味合いである。

 これに続く、
“此の方頼めばミコトでおかげやるぞ”
の“ミコト”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止め(“日止、霊止”の表記の意味)、それを顕現せよ、であり、“此の方”は、“上”を示唆する表記である。
 そしてその霊的成長の過程として“竜宮のおとひめ殿 烈しき御活動ぞ”と称され、これについては、日の出の巻 第十八帖の解釈から以下にコピペして意味を示す。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍


 要は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から、自省(胸の磁性“十”)して腹のエネルギーが大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇する様を示す。
(最近一部の読者と少し話した“オイカイワタチ”、へその緒=“オ”、腹の“ワ”=サイクロトロン、それが“上”に向かい“タチ”=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、これと同義である)

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ。 
マツはもとのキざぞ、松植へよ、松供へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ、何時も変らん松心となりて下されよ。
松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが。
七月一日、あめのひつ九のかみ。

 今回解釈する十六帖は、これまでの松の巻で述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”の功罪、その“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為の指摘、そして霊的成長度における区分け、今後=アセンション後のこととは少々内容が違い、生命(生きる使命=存在理由)のこと、生命であり神の子としての人間の構造、そして人間の心(靈)が“創造”する事象、ということを述べている。

 人間の構造(心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ)))を述べている文が冒頭の、

“火と水と組み組みて地が出来たのである”

この“火と水”という表記はここまでの“日月神示”に何回か出てきており、“水”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、錯体としての水、水で止める“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意というのは水で止める低い振動であるから自我という心になり、換言すればその進化過程は自我の確立=固定化の段階、それはまた腹の位相のサイクロトロンであると解釈してきており、“火”は、肉体(月(ツキ))の“腑”で取り込んだものを酸素とともにエネルギーに変える肝臓のこと(“腑”の電磁誘導)、そしてそれは肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり(“臓”の電磁誘導)、事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のエネルギーとなる、そしてもうひとつの意味として、エネルギーの上昇、腹のエネルギーが日足(ひたり)回転によって上昇する様(大日如来の条帛(じょうはく)はこれを示す)、また、そのエネルギーの上昇のゆらめきは“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性(“富士(二二)”)の右往左往と左往右往でもある。
 こういった要素をもつものが“地”、これは“天”、“上”、に対する“地”、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物としての神の子である人間(“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”)であり、または、“地”=“土”、“石”(帯電するミネラル)が固まった(自凝(おのころ)の仕組み)肉体そのもののことである。


 これに続く

“地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ”

この“マツ”は、カタカナ表記なので“上”から視点の言い回しであり、カタカナを解釈するならば、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めながら弥栄(いやさか)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく生命(生きる使命=存在理由)そのものを示唆している。

 また松の巻は、〇つの○キである。 
 これに関しては、今述べたことと内容が重複するが、以前、水の巻 第五帖で以下のように解釈した。

“桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫(まんごう)変らぬ松の世と成るぞ。 松の国 松の世 結構であるぞ”
 この文の表記の“松の世”そして“松の国 松の世結構”の“松”の解釈が重要であると思う。 それは、今解釈している水の巻の次が、松の巻であり、水の巻の水が、三
ローレンツ力と ○   (みず)、これは“一二三”のオーラと霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、そしてローレンツ力ローレンツ力   、の意味があるが、松の巻は、 〇 つであり、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の、“つ”である。
 例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意、があるので、 〇 つは、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことである


 よって今取り上げている“地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ”というのは、“石”(帯電するミネラル)が自凝(おのころ)(タンパク質の高分子化)して生命(生きる使命=存在理由)が進化していくさまを要約した言い回しである。


 これに続く

“マツはもとのキざぞ”

は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるから、生命が“創造”する事象、それを観察する自分自身の心(靈)、その元、の意味、単に“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の意味ではなく、その振動を止め自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と成して事象の“創造”をしていく、という意味合いが、この場合の“マツはもとのキ”=神の子としての生命は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めつつ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を成して事象を“創造”していくものなのだ、という言い回しにとれる。

 これに続く

“松植へよ、松供へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ”

は、〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))を意識せよ、その意味を知り得て貴く扱え、そして進化、弥栄(いやさか)を推進せよ、という意味合いであるし、“何時も変らん松心となりて下され”は、進化、弥栄(いやさか)をいつも忘れず意識して自分の在り方を見出せよ、という言い回しであると思える。


 最後の

“松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが”

は、事象の“創造”そのものは“〇つ”、“松”、生命である人間が“創造”してきたのだ、という意味合いと、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”そのものがそれは心(靈)の動き由来のことだ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されるのだ、という言い回しが“松の国”の“国”、これは心(靈)(ヒ)であり、その意味は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すもの、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする生命(生きる使命=存在理由)であると解釈され得る。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

釈迦祀れ。 キリスト祀れ。 マホメット祀れ。 カイの奥山は五千の山に祀り呉れよ。 七月の十と二日に天晴れ祀りて呉れよ。 愈々富士晴れるぞ。 今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな。
二の山 三の山 四の山に祀り呉れよ。 まだまだ祀る神様あるぞ。
七月二日、あめのひつぐのかみ。

 既成の宗教は、すべて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が宗教の開祖に憑依、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)させ、開祖そのものに思想を構築させたり、あるいは“上”からの通信を伝えたものであり、なぜこういうことをさせたのかは、“上”が“下”(低い心(靈))である人間を育てたい、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くことを意図としているからである。

 だが、既成の宗教は“役員づら”により腐り果てており、ただ(程度の低い心(靈)同士で褒めそやすだけの)形骸の権威を示すものになり、金儲けの道具に成り果て、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した“役員づら”が形骸の権威を示そうとするからこそ宗教戦争も起きているものであり、こういう現状は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の本意でないことは言うまでもないこと。

 また、既成の宗教が腐っており、その教えや理念は歪曲されており、今やそれが当たり前になっている。
これも程度の低い心(靈)が低い認識をするからこそ起きている、そして多くの人は低い認識しか持ちえないからこそ“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している。

 その現状をもさす言い回しが
“今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな”
であるが、上記のこと以外でも平均的地球人の霊的成長度における一般常識や既成概念や価値観や幸福感は“上”から観たら間違っている、“下”と感応してダメな思想を構築し、何を観ても、自分が観察しうる一切の現津(あきつ)、観察され得る事象に対しても、程度の低い認識しか持っていないという言い回しでもある。
 要は自分たちの心(靈)の在り方で“上”と感応しえない、そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を行っていないから“上”と感応しえない、ということであるが、第十七帖の要旨は“上”と感応せよ、そして思想と認識を改めよ、ということ。
 
 このことを踏まえ本文の解釈に入る。


“釈迦祀れ。 キリスト祀れ。 マホメット祀れ。 カイの奥山は五千の山に祀り呉れよ”

 冒頭の宗教の開祖の羅列は先に説明した通りであり“祀れ”は感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指す。
 “カイの奥山”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
であり、“奥山”は、以前、下つ巻 第二十七帖で以下のように解釈した。

“奥山”“中山”…この二つの表記に共通する“山”は、高い心霊がよく使う脳の意味でもあり、そやからこそ、“奥山”=大脳の古皮質、“中山”=大脳の旧皮質やと思えるし、ほんでから“一の宮”は、“一”=智性=1番目のオーラの“宮”としか思えへん。そやからこの“一の宮”は大脳の新皮質、目上(めうえ)の脳で、それは1番目のオーラ、智性のオーラ、そして自分が持っている“力”を自分自身がどう扱って事象の創造をして行くのかに関る部分でもあるし、目上(めうえ)の脳そのものが動物と人間の進化の違いでもあるし、智性を持った動物としての言い回しが、下つ巻の後半に入って出て来てくる表記の“ひつくの家”でもあると思える。
 
そして“五千の山”の“五”は、糸巻の象形文字由来の表記であるから神経線維、動物として進化した人間は、般若心経の“波羅密”の“羅”、これは目の下の錐体状の神経を刺した表記だが、これが発達している。 “千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+胸の磁性“十”であるので、神の思惑を取り込む自省(胸の磁性“十”)した(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)心(靈)(ヒ)の意味であるし、その心(靈)で“上”と感応して“山”=脳で思想を構築せよ=“五千の山に祀り呉れ”という意味。


“七月の十と二日に天晴れ祀りて呉れよ。 愈々富士晴れるぞ”

 神の“思惑の顕現”、生命(生きる使命=存在理由)としての人、これは“七”の表記の意味、“一”(智性、1番目のオーラ)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。  
その意味合いは“一”、智性、1番目のオーラを発現した動物である人間は、“上”と感応して思想を構築し、その思想由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現、“どういうつもり”で事を成すのか、をして、人の思惑の顕現=事象の“創造”をする、その意味合いである。 そしてそれはたった今の現実、これは現界ともいい得るが、自分たちが生きている場(フィールド)、そこで思想を顕現するのだから“七月”の“月”は、肉体(月(ツキ))を持って思想を顕現せよ、の意味合いである。
“十”は、自省(胸の磁性“十”)であり、自省(胸の磁性“十”)が無ければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すという発想は出来にくいし、“ニ”は、“富士(二二)”人が持つ二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、である。 この後の“日に天晴れ祀りて呉れ”、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、太陽を介して送られてくる“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込め、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として“上”と感応する、それが“日に天晴れ祀り”である。


“今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな”
 
 これに関しては先に述べたので解釈の要はない。


“二の山 三の山 四の山に祀り呉れよ。 まだまだ祀る神様あるぞ”

 この“二”は、日足と砌(ひたりとみぎり)、精神性と行動(事象への“思惑の顕現”)、そして“三”は、“一二三”のオーラ、あるいは“一”、智性、1番目のオーラと、“二”=肉体、または2~3番目のオーラ、そして“四”は、発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意(“四”は象形文字で開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子、“息をつく”って言う意味を持つ)、これらすべて人間の要素、であり、また“二”、日足と砌(ひたりとみぎり)、“三”、“一二三”のオーラ、“四”、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これらの要因、要素、を決定づけるために“上”と感応せよ=“祀り呉れ”であり、冒頭で述べられた宗教の開祖以外にも“上”には“上”があるからこそ、“まだまだ祀る神様あるぞ”と称されているものである。
  
また、“二”“三”“四”、精神性と行動、“一二三”のオーラ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これらすべてが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほど、“上”に近くなる、神に近付く、ということになり、ことに、下つ巻 第十六帖の表記の“てん四様”という表記の意味通り、“上”と感応して認識を改め思想を構築し、またそれは“一二三”のオーラに顕れて、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は今とは違う新たな事象を“創造”する、それが“てん四様”の意味であると改めて思うことを付け加えておく。


 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。 神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ。
悪神よ。日本の国を此処までよくも穢したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。 学問と神力の、とどめの戦ざぞ。
七月三日、あめのひつ九のかみ。

 まず、冒頭の“人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな”についてだが、先回の第十七帖では、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のために“上”と感応しなければならない、それが人間の存在理由でもあること、換言すればそれは神の“思惑の顕現”であり、その役割を背負っているのが人、
(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))あるいは“日止、霊止”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める生命(生きる使命=存在理由)
であることを示唆されているものであった。

 よってこの文言の“人民同士”がいくら自分の心(靈)の中を見て(観察して)、自分のいけない所、低い心(靈)の動き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)を見出そうとしても程度の低い人間は程度の低い観方しかしないので、自分の低さを認識しえない。
 だからこそ、“上”と感応した宗教の開祖は“上”の教えを伝え得るべき人生を送り、そこで得た認識(悟り、幸取=さとり)を述べ、人間は“上”と感応しなければ自分の心(靈)を自分で観察してその“上”と“下”を見出すことなどできないし、多くの人間が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)としか感応していないので、宗教の開祖を通じて“上”は、人間は“上”と感応すべきである、そのための教え、心(靈)の在り方、“行”を示す文言、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の概念、これらを伝えているものである。

 だがこれらの事柄を“役員づら”は自分たちの浅知恵で形骸の権威を示すものにしてしまい、既成の宗教は金儲けの道具に成り果て、程度の低い人間の程度の低い心(靈)の動き、低い功名心と自尊心を満足させるための道具にしてしまっているのが現状である。

 よって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、そのステップが自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”=“上”と感応するための心の資質)であることを“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”という表記で示している。

 また“上”と感応する肉体(月(ツキ))の条件を“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化という言葉で示している。
それで“上”の教えを腐らせ、既成の宗教にしてしまった者たち、低い心(靈)が台頭している“役員づら”、それらが腐らせた“上”の教えであるはずの宗教は、たった今、人を進化させるものではなくなっている。

 だからこそ“人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな”=人間が低い心(靈)で低い認識を示しても進化には結びつかない、だから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応せよ=“神と臣民融け合った大和魂でないと勝てん”とのべられているし、この“大和魂”は右翼の解釈するそれではなく、“上”と感応したまっとうな心(靈)、“上”が認めうる“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める心(靈)を示唆している。


 それでこの後に続く、

“悪神よ。日本の国を此処までよくも穢したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ”
ここまで述べたことが理解できているならば特に解釈の要は無いとは思うが、“悪神”は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)であり、“日本の国”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み“上”と感応して進化する心、それを、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と示され、“下”と感応している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”、そして“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)そのものに対し、
“此処までよくも穢したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ”
とややきつい言い回しをされ、“下”は“下”でしかなく、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応する心(靈)(ヒ)は“下”(低い心(靈))であるということを誰にでも判るように示す、という意味合いである。

 
 最後の、

“学問と神力の、とどめの戦ざぞ”
これは先に示した人間の浅知恵、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”が“上”の教えを腐らせたその心(靈)の動きは、“上”の教えを自分たちの都合よく書き換えて、それを形骸の権威を示すものとし金儲けの道具にしているその“力”、これを冒頭の“人民同士”の“学問”と称され、そのままの現状がこれからも続くならば人は進化しえないので“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は示す=“神力”、それによって“下”は“下”であることを示す、それが“とどめの戦”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

改心次第で善の霊(れい)と入れ換へて、その日からよき方に廻してやるぞ。 宵(よい)の明星(みょうじょう)が東へ廻ってゐたら、愈々だぞ。 天の異変 気付けと、くどう申してあろがな。
道はまっすぐに行けよ。寄り道するではないぞ。 わき目ふると悪魔魅入るぞ。 それも我れの心からざぞ。
七月四日、あめのひつくのかみ。

 先回と先々回の第十七&十八帖で“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が述べられていた。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には“上”との感応が必須であることも述べられていた。
 それで、今回取り上げている第十九帖では、“上”との感応の結果としての心(靈)の在り方、そして“上”と感応するのは進化にとって必須なのだということを述べている感がある。

 冒頭の、
“改心次第で善の霊(れい)と入れ換へて”
これは、自分の心(靈)の在り方により、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在と感応するか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在と感応するか、それを教えており、この文言自体に自分の心(靈)の在り方と自分の心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ということを感じ取らなければならないし、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則性を示した文言でもある。

 これに続く、
“宵(よい)の明星(みょうじょう)が東へ廻ってゐたら、愈々だぞ”
これは金星のことだが、天体の動きを指している表記のことではなく、自分自身のものの観方、いわゆる現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”の視点が違ってきたなら、という意味合いであると思える。
ちなみに“宵(よい)の明星(みょうじょう)が東へ廻って”宵の明星は西に見え、明けの明星は東に見える、この状況は太陽と地球と金星の位置関係で繰り返されるものであるが、そのことを述べているというよりも先に解釈した自分自身の事象の観察の視点、それを揶揄してこういう言い回しをされている感がある。

 そしてこれに続く、
“天の異変 気付けと、くどう申してあろがな”
これも自分の心(靈)の在り方により“上”との感応は変化する、取り込む荷電粒子は変わり、自分の心(靈)も変わる、だから心境が変わる前とは相対的に“異変”であり、さらに自分に取り込め、が、“気付け”=気を付けよ=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込めよ、という意味合いであると思う。

 これに続く、
“道はまっすぐに行けよ。寄り道するではないぞ。 わき目ふると悪魔魅入るぞ。 それも我れの心からざぞ”
この場合の“道”の表記は、“道”(時間の進行)であるが、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)があり、それを阻む存在と、その存在と感応する自分自身の条件=心の在り方に着目せよ、という言い回しが、“わき目ふると悪魔魅入る”そして“それも我れの心”、ことに“我れの心”という表記に自我の肥大ということを感じ取らなければならず、自我を諌めることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須である、という言い回しであることに気付かなければならない。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

此処まで来れば大丈夫ざぞ。 心大きく持ちて焦らずに御用せよ、饌(け)にひもじくない様、身も魂も磨いておけよ。
もう何事も申さんでも、天と地にして見せてあるから、それよく見て、改心第一ぞ。 悪は霊力が利かん様になったから最後のあがきしてゐるのざぞ。
人助けておけば、その人は神助けるぞ。
神界と現界の事この神示よく分けて読みて下されよ。 これから愈々の御用あるぞ。 皆の者も同様ぞ。
七月五日、あめのひつくのかみ。


 冒頭の、

“此処まで来れば大丈夫ざぞ”
これは、第十七&十八帖で“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応のことが述べられ、第十九帖では、“上”との感応の結果としての心(靈)の在り方、そして“上”と感応するのは進化にとって必須なのだということを述べられていたが、そうなるならば、第十九帖の“改心次第で善の霊(れい)と入れ換へ”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在との感応があり、“よき方に廻してやる”=まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って生きるのだ、といわれていたが、その第十七~十九帖までのことを踏まえて“此処まで来れば”といわれている。
 

 これに続く、

“心大きく持ちて焦らずに御用せよ、饌(け)にひもじくない様、身も魂も磨いておけよ”
この“御用”の解釈が大事で、これを間違えはき違えている人はとても多いと思うが、これは単に個々の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に励め、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を鑑みよ、その上での生き方を鑑みよ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための生き方を鑑みよ、そこには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応しかなく、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化による磁束の変容、ローレンツ力の強化と変容で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに取り込むことが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)なのだが、こういった生き方はたった今の現状にそぐわない、今の事象は“役員づら”と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍しているので、自分が“ほんとう”に進化をめざし、それに励んでいると孤独になる、それは低い世界では高いことを目指しにくい、程度の低い人間で構成された世界においては、“上”との感応をして様々な事柄に目の効く人間(天の御目(あめのおめ)の獲得)は、程度の低い人間と考えが違い価値観も違うので疎外されるものであるが、その孤独感や疎外されることに負けることなく、という意味合いが“心大きく持ちて焦らずに御用せよ”である。
 それで“饌(け)にひもじくない様”は、程度の低い人間が求める何かは低い、それに相対して“饌(け)”=お供え、高貴な人のために調えられた食事、の意味合いであるが、自分自身が神格化への道を歩むのであれば、“饌(け)”を供えられるくらいになる、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意であり、決して今の形骸になった神道や神社、天皇制に関わることではないことをあえて述べておく。


これに続く、

“もう何事も申さんでも、天と地にして見せてあるから、それよく見て、改心第一ぞ。 悪は霊力が利かん様になったから最後のあがきしてゐるのざぞ”
これは“ほんとう”の善悪を示す、判るように示す、認識(悟り、幸取=さとり)の低い人にも解るように示す、これはこれからの事象がたびたびここまでに出てきた表記の“神烈しく(はげしく)”、あるいはそれに類する表記で示されている文言の意味通り、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“天と地にして見せ”=“上”と“下”を示す、これは進化の方向性を示す、ということと同義であるが、その意味を含んだ文言であり、その示された事象を観るならば、人は“改心”しなければならない、自分の在り方を考えなければならない、の意味合いであり、“下”は“神烈しく(はげしく)”であるならば活躍できないから“最後のあがきしてゐる”であり、たった今の腐りきった“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行い、“役員づら”の行い、それによって形作られ形骸の権威を誇示しながら存続してきたものは崩され、そのくだらなさを示す、の意である。


 これに続く、

“人助けておけば、その人は神助けるぞ”
これについては今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”の台頭により、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”に満ちており、結果としてそれは人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導かないが、これにすら気付かない“ブタのけつを見ているアホ”は多すぎる感がある。
 人が人の世界を進化させ存続させるためには、いわゆる神の思惑に沿った事象の“創造”をしていくにあたっては、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)であるということでしかない。


最後の、

“神界と現界の事この神示よく分けて読みて下されよ。 これから愈々の御用あるぞ。 皆の者も同様ぞ”
これもたった今が“上”の采配通りになっていないから“神界と現界の事”といわれ、たった今の現実=現界は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって形作られているのだけれど、様々なことに目が効くようになった人ならば、そこに、神の思惑か、程度の低い人間の我欲の思惑か、を、見抜け=“この神示よく分けて読みて下され”と述べられている。
 そしてそれが出来得るならば“上”は次の事象の“創造”、今後=アセンション後の事象の“創造”をその人に託す=“これから愈々の御用ある”、そしてそれは“ほんとう”の意味での“役員”=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のいない世界を創造する資質を持った人、だけではなく、すべての人が“上”と“下”を分ける事象に遭遇し、資質のあるものは次の段階に移行するの意が、“皆の者も同様”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りに百千卍(ももちよろず)宣(の)れよ。
お神山(やま)作る時は、何方(どちら)からでも拝める様にしておけよ。 一方から拝むだけの宮は我れよしの宮ぞ。 
何もかも変へて仕舞ふと申してあろうが。 神徳貰へば何事も判りて来るのざぞ。 要らんもの灰にするのざぞ。 息乱れん様にせよ。
七月七日、アメのひつくのかみ。


 冒頭の文。

“旧九月八日からの祝詞は初めに、ひとふたみ唱え、終りに百千卍(ももちよろず)宣(の)れよ”
この“旧九月八日”、そして“ひとふたみ唱え、終りに百千卍(ももちよろず)宣(の)れよ”という表記、これに似た言い回しは、
水の巻 第九帖にもあった。
“旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれよ。 忘れずにのれよ”

これについては以下のように解釈した。

“九”は“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、現地球人より“一”=智性=1番目のオーラがたかまった状態を指すものである。 そして月は肉体(月(ツキ))のこと。 
そして“八”文字の構成が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そしてこれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同じ意味を持つ。 そして“日”は、太陽のことであり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性がたかまった“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応するというのが“八日”の意味であり、さらに“旧”の表記は、「古い」の意味ではなく、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と太陽を示す“日”、あるいは、太陽の振動が下降する、それを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で示していると思える。
 よって“旧九月八日”も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記であり、これに続く“大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三(ひふみ)のりとコト」入れてのれ”は、元々、大祓祝詞、(中臣祝詞、中臣祓ともいう)の「天つ祝詞の太祝詞を宣れ 此く宣らば」で、太祝詞(ふとのりと)を唱えるべきものであり、一昔前は“役員づら”の神職などに多額の(通貨としての)金を払わなければ教えてもらえなかった「ヒフミヨイムナヤコト モチロラネ シキル ユイツ ワヌソ オタハクメカ ウオエニ サリエテ ノマス アセエ ホレケ ウイエ」、これは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応のための文言であり、これを唱えること事態が“上”との感応になる。 それで第九帖の文言は、そのことを指す意味合いもあるが、“一二三(ひふみ)のりとコト”と述べられているので、“一二三”のオーラを“のる”=発振、発信せよ、それは、“コト”、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、
と、
“ト”は、止まると云う心、
要は“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止め、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、という意味合いであり“忘れずにのれよ”は、その発振、発信が出来得る進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たせ、そして“上”との感応を忘れるな、という意味合いである


 それで、松の巻 第二十一帖のこの文では、“百千卍(ももちよろず)宣(の)れよ”といわれており、この表記も今までの“日月神示”で幾たびか登場しており、これについては以前作った画像で意味を示す。 


百 千 万 の解字と解釈 
 そして“百千卍(ももちよろず)”は、“上”の振動を止める表記が百と千であり、卍は左回転であるからこそそれは自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現であり、それは大日如来の条帛(じょうはく)で示されている左回りで“上”にエネルギーが上昇するさまであり、それそのものが神格化のプロセスである。


 これに続く、

“お神山(やま)作る時は、何方(どちら)からでも拝める様にしておけよ。 一方から拝むだけの宮は我れよしの宮ぞ”
この言い回しは“一方から拝むだけの宮は我れよしの宮”の表記を鑑みないと意味が通じない。
 それは“お神山(やま)”というのは、“上”(“お神”)と感応して思想を構築する肉体(月(ツキ))の部位、脳(“山”)を指すものであるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思想は、自分にとって都合の良いことしか思わないし、“上”と感応して発現する“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)、これは発明発見なども含むが、これを自分、あるいは自分たち(“日月神示”表記の“集団(まどい)”)にとっての利益しか考えないものである。
これがこの文の“一方から拝むだけの宮(“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(荷電粒子の回転))”が、“上”としてはなぜ人間に“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を許可し、“上”として“力”を加えようとするかは、神の“思惑の顕現”としての“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)でなければならないからである。


 これに続く、

“何もかも変へて仕舞ふと申してあろうが。 神徳貰へば何事も判りて来るのざぞ。 要らんもの灰にするのざぞ。 息乱れん様にせよ”
この“何もかも変へて仕舞ふ”は、いうまでもなく今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する事象ではなく、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者だけの今後=アセンション後の事象のことを指し、“上”と感応する資質と資格を持った(智性(神性)と“慈悲”と“慈愛”)ひとは、今の低い事象もこれからの高い事象もその意味合いが理解できる、それは心(靈)の動きの高低により現実は“創造”され得るのだ、ということが解り、自分の在り方、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、感応する存在が違い、感応する存在は力を加え、その上で事象の“創造”をするのだ、ということも理解を深めていく、これが“神徳貰へば何事も判りて来る”である。
 そして“要らんもの灰にする”は、“上”の思惑、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”とそれが創りだしたものは、今後=アセンション後にはいらないということを示している。
 これに続く“息乱れん様にせよ”の“息”は、“上”との感応、“上”との調和をさし(神の“思惑の顕現”=現象化をするのは“日止、霊止”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)、“乱れん様に”は、“上”の思惑を顕現せよ、自分が“上”と感応するべくその資質と資格を“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで獲得せよ、この意味を含んでいるものと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。






“日月神示” 松の巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世変りたら生命長くなるぞ。 
今迄 上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。 肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。
悪も御苦労の御役。 此の方について御座れ。 手引いて助けてやると申してあろが。 悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ。
七月八日、アメのひつくのかみ。

 “日月神示”を読み解くにあたっては、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の腐っている事象という認識、その観点がとても大事、その腐った事象、今の現実は、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちておりその現象化は加速的に増している。
 “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としてはいつまでもこの状況を容認しない、それは人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の妨げにしかならないからであるが、大概の人間はその現象だけを見て騒いでいるだけでしかなく、その現象そのものは人の低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるということに気付くことも無い。
 このことは○○○大先生が著書で説いたが、これに気付くことが出来得るある程度進化している人間はとても少ない感がある。

 それで“日月神示”においては、大概の地球人は自我の確立=固定化の進化過程であることを示しているし、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり“役員づら”であるとの指摘は幾度となく登場する。
 その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示す表記が“江戸と尾張”それは腹の水、“江戸と尾張”の“江”、いい方を変えれば腹のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)までの進化、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、これは腹の位相のサイクロトロンであり、その心(靈)の動きは自我の肥大となり、自我の肥大は“石屋の仕組み”を創り、何もかもが金儲け、自分たちの利益の追求、低い功名心と自尊心を満たすために何かを利用するということが当たり前になっている。
 また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が教えた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のため本来価値のあった事柄(主に宗教上の教え)を形骸にして金儲けの道具にしてしまっている。
 これらを“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と見做すことが出来る、そういった視点を持っている人も、とても少ない感がある。

 結果としてこれらは、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げ、さらなる恨みの連鎖の霊的干渉を創り、あるいは増大させているものであるし、これが悪魔の思惑、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる存在の思惑の現象化である。

 その、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちは今の事象は、人間本来の寿命をまっとうできない、本来地球人は800年くらいは生きられるのだが、病気や事故や災難により夭折(若死に)させ、そうやって死んだ人間は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一因となり恨みの連鎖の霊的干渉を増大させる。
また、まっとうに生きて老衰で死ぬ場合においても、恨みの連鎖の霊的干渉の結果、人間本来の寿命を縮めているものである。

 それで“上”としてはこの現状を継続させるわけにはいかない、人の存在の意味と意義は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかないので、進化の妨げになる心(靈)の動き中心=自我の肥大をしている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のいない世界を創らねばならないからこそ、霊的成長度の高低における区分け、いわゆるアセンションということを計画しているが、これが行使されなければならない必要性として、今の人間の自省(胸の磁性“十”)が足らなさすぎる、また、霊的成長度の低い人、いわゆる平均的地球人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を容認しているからであるといい得る。

 上記の事柄を理解できた人ならば、第二十二帖の解釈はたやすいと思う。



 まず、

“世変りたら生命長くなるぞ”
これは先に述べたとおり、今後=アセンション後の事象は恨みの連鎖の霊的干渉がない世界になっていくからである。


 次の、

“今迄 上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。 肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ”
この文の“上にあがりて楽してゐた守護神”というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“役員づら”などに力を貸してきた存在、程度の低い人の“上”は程度が低い、それを示唆した言い回しであるし、今後=アセンション後はそういった存在は活躍を許されない、“力”を示すことが出来ないから“大峠越せん”、当たり前である。
 これに続く“肉体あるうちに……”というのは、自省(胸の磁性“十”)しないまま、自分の心(靈)の低い部分を低いと認めないまましんだならば、死後の事象で苦しむ、これはローム太霊講話集解釈で述べている通りである。


 次の、

“悪も御苦労の御役。 此の方について御座れ。 手引いて助けてやると申してあろが。 悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ”
この、“悪も御苦労の御役”は、たった今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭しその“創造”には悪が台頭しているからこそある程度進化を果たした人は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見抜いて認識し、それを自らに許さない心(靈)を構築するものであるのだが、それを踏まえた言い回しである。
 これに続く“此の方について御座れ”の“此の方”は、ある程度進化を果たし、内面とか内側(心の中と感じている事)だろうが外側(外国と幽界)の事象だろうが悪を容認しない、また自分の低い心(靈)を諌めることが出来得る人、あるいはもっと進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得した人)を示唆した言い回しであり、今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標となる心(靈)の動きを示すからこそ“手引いて助けてやると申してあろが”と称されている。
 そしてこれに続く“悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ”
この文中の“悪の改心”はともかく(当たり前のこと)、“善の改心”というのは、今の事象における既成概念、一般常識における善の概念は低すぎる、善は神格化の方向性と智性の受信であるということを今後、人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したなら知っていくだろうが、それを踏まえた言い回しであり、今の人間の視点である“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)というのは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標に成りうるものではあるが、今後もっと人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして“善(神格化の方向性と智性の受信)”が台頭し、今より高い“善”の認識を獲得していくならば、そこには(その事象では)“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の区別はない。
 当然のことながらそこには“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が存在しえないからでもある。
 そしてその事象は今の事象よりうんと高い振動に満ちている、低い振動で構成されたものが高い振動のなにかを観察すると光輝いて見える(太陽凝視でも同じである)、それを示した文言が“善悪ない世を光の世と申す”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。正しくひらけ弥栄へて更につきづ、鳴る道に成り、交わる。 永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。 展きてつきず、極まり成る神の道。 
苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉く歓喜弥栄ゆ。
七月十日、あめのひつくのかみ。

 これまで述べてきたように松の巻の〇つは、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)を指すものである。
 このことをよく解ってないと、第二十三~二十四帖は読み解けないと思う。

 まず、冒頭の文。

“国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ”

 この文の“神人”は、たった今の平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に相対する言い回しであることはすぐ分かる。
 これまで幾度となく述べてきたように平均的地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、第三密度であり、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)であり、“石屋の仕組み”にはまって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という点でほとんど価値のないものを追い求め続ける、それが幸福だと喜んでいる“ブタのけつを見ているアホ”ばかりであり、智性(神性)無き心であり、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるから、“日月神示”では“ケダモノ”などという表記を使われている。
 当然のことながらそれは“神人”ではないし、神の思惑を顕現する資格も資質も無い、だが、これから(今後=アセンション後)は、そうではなくなる、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間(松の巻の〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)))は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、自らに止め(“日止、霊止”の表記の意味)、思想を構築し(日足(ひたり)の極性)、行動に顕わす(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))ものである。
 このことを解っているならば、
“国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む”
これからの“世”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その“道”によって“ひらき極む”、だから、これからの(場(フィールド)としての)“国”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人、“神人”が、天意を取り込んで感応する=“鳴り”、そしてその思惑を顕現する=“動く”、と述べられいることが解るものである。


 次の文。

“日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ”

 天、“上”、その振動、を“日月”と称し、“地”は、自分たち人間のこと、これまでは天意と人間は“交わり結び”とは言い難かったが、これからは違うのだ、という言い回し。
 先に述べたように“神人”は天意を顕現するのであるから、神の思惑は、“更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え”であり、その資格と資質、天意を自らに止めるには“大地固成”、“大”は人間が手足を広げた様、“地”は天意=“上”に相対した言い方としての“下”(低い心(靈))でもあり、あるいは“石”(帯電するミネラル)の意味を持つ。
 そして“行”の意義は、“固成”それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、“石”(帯電するミネラル)が結晶化するからこそ、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のより高いそれと感応していくのだが、このことすら大概の地球人は全く理解に及ばない程度の低い進化過程である。


 次の文。

“正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ”

  この“正し、三神”は、これまでの“日月神示”によく使われた“御三体の…”という解釈でもいいが、ただ“上”と解釈するのが妥当であると思うし、“正し”は、但しではなく、まっとう、正当、という意味合いであり、これまでの人間の認識による“御三体…”“上”の認識はてんで低く、“役員づら”によって歪曲されてしまってそれが既成概念や一般常識になっているからこそ“正し”という表記が使われているのだと思う。
 そしてこれまでの間違った神の概念ではなく、まっとうな神の認識、“上”から観て正しい神の認識、というものが広まるし、それを体得しているのが“神人”ということでもあるから“正し、三神は世に出づ”であり、その“神人”の“ひふみと鳴り成る”は“一二三”のオーラの発振、発信がたかまっていくことを指す。


 次の文。

“正しくひらけ弥栄へて更につきづ、鳴る道に成り、交わる。 永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。 展きてつきず、極まり成る神の道” 

 これまでの世は神の思惑も顕現されていない、間違った世であったが、先に述べたようにこれからは“上”と感応しうる“神人”だけの世界になる、それは“上”から観て正しいカタチである、それを指す言い回しが“正しくひらけ弥栄へて”であり、更に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくからこそ“更につきづ、鳴る道に成り、交わる”である。
 そしてそれは“永遠の世光る”、ことに“光る”の表記の意味は、自ら持っている振動より相対的に高い振動は光と感じ得るからこういい現わしている、そしてそれは“永遠の大道”であり、“上”と“下”、神と人間が感応してその“一二三”のオーラが事象を“創造”するから“息吹き大地に充ち満つ道”であり、より神の思惑は高く広く展開する=“展きてつきず、極まり成る神の道”である。


 次の文。

“苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉く歓喜弥栄ゆ”

 これは、これからのこと、“神人”が台頭する世になること、それまでは、“苦しむ道”だが、それをする=“道をひらき”、天意と感応するその“行”の苦しみ、苦痛、苦悩、これらすべて神の試練であるが、それが人間にとっての“ほんとう”の価値であるからこそ“日月地に苦しむ喜び出で”であり、より神と感応していくからこそ“神の国むつび”であり、幾度となく述べてきたが今後=アセンション後は、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の元もないし、恨みの連鎖そのものが無くなっていくからこそ、“悉く歓喜弥栄ゆ”=今と比べて相対的に“うれしうれし”“大歓喜”の世になっていくものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我(われ)死なねば、大我(われ)もなき道ぞ、元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ、成りむつび、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ。
元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む。
元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ、富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地また大地動き、うづまくぞ、真理なりて極まり、鏡の如くなり、極まりて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ。
七月十日、あめのひつくのかみ。


 この第二十四帖も、先回の二十三帖同様、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことを述べている。


 まず、冒頭の文。

“早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我(われ)死なねば、大我(われ)もなき道ぞ”

 この言い回しは単に、自我の肥大を戒めよ、自らが自分の自我を諌めよ、それは“われよし”などという“ケダモノ”の段階のことなどを指すのではなく(そんな段階は問題外)、霊的成長度が低い自我中心の心(靈)では進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は望めないぞ、である。 
それで“早く早くと申せども”というのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の希望、“下”である人間に望んでいることで、“立体の真道”というのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識とし、体得し、実践せよ、それは理論や理屈でもなく、進化ということ自体に対し効果効能を説くことでもなく(ご利益を求める心ではないということ)、ただ、真摯に、謙虚に、実践せよ、ということである。
 この価値のある文言、その意味、そして解釈を述べたが、今述べたことを理解できる資質のある人間というのは、とても少ないと思う。
 その理由は、大概の人間が神や霊に対する認識が低すぎ、また自分の存在の意味や意義を求める心の動きになっていない、それだから神と自分ということを深く考えたことも無い、換言すれば自分が生きていることをしっかり考えたことも無い、まあ薄っぺらくは考えているであろうが…それはただ単に低いし、低い人間ほど“役員づら”の手法に嵌っており、自分を見る視点も低い、神を認識する視点も低いものである。
本題に戻り、この文で述べられている上記の要旨は次の文章に続いている。

“元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ”
 
 この文の“元”、この字自体が肉体を示す二、そしてそれに、儿部(じんぶ、にんにょう)であり、時間の進行(“道”)をともなった進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示す表記であることは幾度となく述べてきた。
そして、“世の元からの生神”という磐戸の巻の表記、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すのだが、その表記の中の“元”とこの文言のそれは、同義である。

よって、
“元栄えひらき鳴る神、”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は次の時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)になったなら、より多くの人間に認識され=“ひらき”、それはこの事象にひろまるから、“鳴る”ということ。

“元にひらき成る神、”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った存在が、神そのものであるというのが、“元に”“ひらき”そして“成る神”、“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)を獲得した生命が神であるということ。

“元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と、その振動を受け増幅して発振、発信する太陽=“日の神”は、この事象とそこにいる生命が進化したならば、今など比較にならないほど真に深く、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と神と、神の振動を送ってくる太陽(その振動を止める“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)、というのを、認識するからこそ“極みきわまりて足り”であり、神の“思惑の顕現”である人間、“日止、霊止”は、神に対し砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であるから“月”であり、“上”と“下”の交流を“はらみ”とのべられ、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をきちんと受け止める生命を称して“月の神はらみ交わりさかゆ”といわれている。
 そして天意を止めて自らの心(靈)と成した存在が、二十三帖の“神人”という表記の意味である。

(私的には、太陽凝視に不食などという効果効能を求める低い心(靈)の人は、この文を読んで太陽凝視の意味と意義をよく考えて欲しいものであると思う…だが、検索してネット上の書き込みを見ると期待薄ではあるし、見れば見るほど幻滅を感じるものでもある)


 これに続く次の文は、上記の意味を引き継ぎ、そうなったならば、という意味合いである。

“成りむつび、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ”

 この文の“成りむつび”は、“上”と“下”の結び(むつび)で、生命は完成に至ることを示し、そうなったなら先の“元”の表記があった分の意味合い通りになるものであり、それはまた“ひふみ”=“一二三”のオーラの完成であり、“よろづ、ち、もも”は、万、千、百、であるが、これについては以前作った画像で意味を示す。

百 千 万 の解字と解釈 

 それで“ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく”をまとめれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を止める、自身のローレンツ力 ローレンツ力で取り込み“一二三”のオーラとして発振、発信する、それが先に述べたように生命の完成といえ、そうなったならば、“歓喜の大道”、これは今の腐った事象、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたたった今の現実に対する相対的な意味合いもあるが、進化した生命が創る事象は喜びしかないものであることを付け加えておくし、それ自体が神の思惑、神が人に望むことであり、そうなったならば、ますます、“神々更に動きひらき栄ゆ”、“上”の思惑は活発になり顕現され得る、それこそが神の弥栄(いやさか)という言い方も出来得るものである。


 次の文。

“元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む” 

 この文の“ナルト”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、いわゆる自省(胸の磁性“十”)のことをもさすが、それよりも、

“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
“ト”は、止まると云う心

であるから、生命の完成、程度の低い進化過程の地球人が“上”からの荷電粒子を真に固く止める(真固止)生命となるのが、“日止、霊止”の表記の意味であり、それ自体が先に述べたように神の“思惑の顕現”であるからこそ、
“元”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
“津”=中心の意味合い、あるいは船着場の意味があるが、それは“上”が“下”に着く場という意味合いでもあり、よって“元”その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の中心に近付き体得し、心身(日月)に止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)(“一二三”のオーラ)となす
 これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものであり(二十三帖表記の“神人”)、それ自体が“永遠に進み”、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”=“いき”は、進化が進めば進むほど、という意味合いで“ひらき極む”であり、その認識を持って“元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む”という文言を観るべきである。


 次の文。

“元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ”

 この文の“かくりみ”は、隠身、検索すれば「神は人間の肉眼では見えないこと、またその神の身。現人神の対」という意味を知ることが出来るが、これは平均的地球人の認識ゆえの解釈である。
私見を述べるならば、物質しか認識しえない程度の低い人間の視点では神を見ることが出来ない、また程度の低い人間は神を認識していない、換言すれば言葉で神を知っていてもそれはただ単に言葉でしかないということであり、自分の人生に神が関わっている、自分の人生は霊的成長のためのものであると認識していない、よって神と人間の関係を自分の一生に見出すことが出来ていない、それは神が見えていないに等しい。
 その低い段階は善悪の概念も形骸、そして価値観も低い、幸福の概念も低い。
 さらに“役員づら”のこと、程度の低い人間ほど神と言う言葉を利用して金儲けをしていることはいやになるほど述べてきているが、それすら見抜けないのが今の大半の地球人であるが、そういった程度の低い進化過程の心(靈)は次の段階に移行しえない。
 それがこの文の“元津大神かくりみ”、たった今は神の思惑は顕現していないといえ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)も認識されていないが、それは厳に実在し、資質の備わった人間が顕わしていくものであるという言い回しであると思える。
 それで、“次になる神”、今後=アセンション後は資質の備わった人間、完成を目指す生命(生きる使命=存在理由)である“日止、霊止”が、“元”を示す、世に、現津(あきつ)、観察され得る事象に示す、それは天意を受信して顕現する人(“神人”)だからこそ、“ほんとう”の意味合いで“現人神”(あらひとがみ)といい得るが、そういった人間が台頭するのが次の事象であるし、それは先に解釈した“ナルト”=“上”からの振動を止めて“一二三”のオーラとして息吹くのであるが、この進化の仕組みと“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が認識されていないからこそ“次になる神かくりみ”、大半の人間には解らないという言い回しである。
 これに続く“富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地また大地動き、うづまくぞ”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、であり、“火”は、エネルギーの昇華、あるいは肝=“いきり立つ心(奴と心)”、事象を“創造”する意欲、“うづまき”は、心(靈)が荷電粒子の回転であることを示し、それは円形加速粒子機の構造を持つからこそ“鳴り”であり、進化すればするほど今述べた“富士”“火”“うづまき鳴り”が、“極みに極みて”となり、そうなっていくならば、この事象は今とは違う事象になることを“地また大地動き、うづまくぞ”と称され、重複するが今の腐った事象が“上”の振動を取り込んだ生命(“地”)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により変容することを“地また大地動き”“うづまくぞ”である。
 
 このことを踏まえて次の文。

“真理なりて極まり、鏡の如くなり、極まりて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ”

 たった今の事象は“真理”などと表現するには能わない(あたわない)、“上”から観たら不条理で幼稚な世界なのだということをこの文から読み取るべきであるし、進化したならば神の思惑が台頭するからこそそれは“真理なり”といえ、それがさらに“極まり”であり、“上”と“下”、神と人間が、“鏡の如くなり”、“上”の思惑を映す、“上”の思惑が反映するの意味合いが述べられ、それが“極まりて、動きひらき”、ますます盛んになり(神の弥栄(いやさか))、そしてそれが神の思惑の顕現、人を創造した理由、それが成る、その意味合いが“極まりて大道、遂に成るぞ”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ムからウ生れ、ウからム生れると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。 ムがウざぞ。 世の元に返すのぞと申してあろが。 ムに返れば見えすくのざぞ。 風の日もあるぞ。
七月十一日、アメのひつくのかみ。

“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によれば、
“ム” は、その生命は自ら多岐に分かれるを、ムシ出すチカラこもれるヒのチカラを甚く(いたく)こもれる意(こころ)あればムシ出しつつ次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)、その音根
であり、
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの
である。

 これを踏まえ、“ムからウ生れ、ウからム生れると申してある”を見るならば、生物を生み出す力、そして生命(生きる使命=存在理由)は自ら多岐に分れる、また、ヒのチカラ、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、であると解釈しうるから、それを止めた心(靈)(ヒ)、が、生命であるし、生命は心(靈)(ヒ)であるからこそ、事象を観察しうるのだ、そしてその事象を良いカタチにしようとするのだ、という意味合いが、“ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ”であることが解る。
 ちなみに、“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火 である。 これは霊、霊が観察しうる事象、それら一切が“ヒ”であるという言い回しでもあるし、心(靈)(ヒ)が観察しうるから生命(生きる使命=存在理由)も現津(あきつ)、観察され得る事象も認識されていて、実在であるという言い回しも出来得る。

 これに続く、
“今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。 ムがウざぞ。 世の元に返すのぞと申してあろが。 ムに返れば見えすくのざぞ”
いうまでもなく次の事象は霊的成長度の高低により区分けされた今よりも高い心(靈)(ヒ)が“創造”するし、またそれは今と違い、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これが台頭した事象になるから“世の元に返す”であり、“ムがウ”は、次の事象に移行すべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)(ヒ)が生み出す新たな生命(生きる使命=存在理由)という解釈が成り立ち、“ムに返れば見えすく”は、“ヒ”=“上”からの荷電粒子を止めた心(靈)(ヒ)は、“ム”、自ら多岐に分れる生命(生きる使命=存在理由)となり、その次の事象、さらにその次の事象、霊的成長度の更に高い事象を“創造”していくのだ、という言い回しであることが解る。

 最後の、
“風の日もあるぞ”
これは、今、松の巻を解釈しているが、その次が、夜明けの巻、雨の巻、次が、風の巻、であり、風の巻は、カ千の〇キ、であり、その“カ千”の意であると思える。
それで“カ千”の意味は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”
よって“カ千”は、たった今の平均的地球人より自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)、それは“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生命(生きる使命=存在理由)であり、人(日止、霊止)ならばその“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って進化するのが妥当であり、その“道理”は本来、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)ではあるが、それが台頭する、顕現する、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が当てられている、その意であると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

カイ奥山開き結構々々。 奥山 元ぞ。 中山は介添(かいぞへ)ぞ。 国々おつる隈(くま)なく つくり呉れよ。
一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ。
何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ。
七月十三日、あめのひつくのかみふで。

 この第二十六帖も、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことを顕わしている表記であると思う。

 まずカタカナ表記の“カイ”について、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)” から引用すれば、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
である。 
 それでこれが“奥山”にかかった言い回しであり、これまでも述べてきたとおり“山”は、脳を指す、あるいは高分子化したタンパク質を示す表記であるので、“奥”の“山”は、(人間として発達した、他の動物とは違うという意味合い)脳下垂体や視床下部など、体を作り変えるホルモンなどを生成する部位であると思う。
またその“奥山”は、自分がどういった振動を受け取るか、低い振動であろうが高い振動であろうがそれを自らが感応=受け止めて、そして“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するための器官であるということも出来得る。
 またこれは、“行”が進めば進むほど、その部位が大きくなることを○○○大先生は太陽凝視を教えてくれたKさんの脳のCT画像を見て知っている。
(過去にそういった機会に恵まれたことが一度だけあった)
 だからこそそれは“奥山 元ぞ”=脳下垂体と視床下部に肉体(月(ツキ))の進化の秘密(二は肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)は時間の進行)があるのだという言い回し。
 そして“中山は介添(かいぞへ)ぞ”の“中山”は、大脳新皮質(目上(めうえ)の脳)に対する言い回し、よって大脳旧皮質、古皮質(目下(めした)の脳)であり、本能、情動を司る部位である。
 それで“介添(かいぞへ)”の意味合いは、本能と情動という心の発現を踏まえた上でなければ(これは動物の進化過程でもある)、その“上”の心である、智性(神性)は発現しないのだという言い回しである。 また、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を諌める、自戒する、ということをしなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したといえず、この心(靈)のままならばそれは“日月神示”表記の“ケダモノ”ということになる。
 これについては○○○大先生の著書の<3>で説明されているが、大概の地球人には心(靈)の発現の順番という概念もなく、“上”の心の発現と行使が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の要綱であるという概念も無いのが実情である。
 これに続く“国々おつる隈(くま)なく つくり呉れよ”の“国々”は、常に解釈している自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)の意味合いと、もうひとつ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きによって形作られている今の事象、いわゆる日本人ならば日本ということであると思え、それが“おつる”=落ちる、ダメになる、それを見て自分たちの在り方を思え、というのが“国々おつる”であり、場(フィールド)としての国が滅び、文明は崩壊して、自分たちの心(靈)も折れることを“国々おつる”と称されており、それがあって事次の段階に移行しうる心(靈)を創れ、の意味合いが“隈(くま)なく つくり呉れよ”であると思う。

 次の“一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ”は、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(荷電粒子の上下のめぐり)であるし、“一”~“七”の“宮”というのは、“上”と感応するから“宮”と称され、これはヨガでいうところのチャクラであり、肉体内のチャクラは七つであり、そしてチャクラそのものが肉体の器官そのものではなく、左右相称動物である人間の肉体の器官が、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)を持つので円形加速粒子機の構造を構成する。だからこそチャクラという言葉に回転の意味があり、それは荷電粒子の回転であり、靈そのものを示すものであり、心(靈)(ヒ)そのものでもあるということ。
 また、“一”~“七”の“宮”、ヨガの表記ならサハスララチャクラ、アジナーチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アナハタチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、それぞれに、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応をせよ、感応したならばそれは“宮”であり、それぞれの部位で発現する心(靈)は自分自身の“上”の心=“一の宮”で諌めることが出来、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間であるという意味を“二”から“七”の“宮”という表記で示していると思える。


水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官 

“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 
 それで次の文は、“上”との感応、“まつり、祭り、祀り”を指し示す言い回しである。
“何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ”
 この最後の“まつればよろこぶこと出来るぞ”は、今の地球人が思っている“よろこび”は薄っぺらく、“ほんとう”では無いのだぞ、という意味合いも示していると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ。 
先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。 
されど日本は神の国。 最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。 夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし。
七月十四日、あめのひつくのかみ。

 今回取り上げる第二十七帖は、先回の二十六帖をよく理解してからでないと読み解けないと思う。
 その二十六帖では、
“一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ”
と、肉体内のチャクラのことが述べられ、そして“上”との感応を、
“何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ”
と述べられていた。
 これが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための必須要綱であり、第二十七帖の、
“されど日本は神の国。 最後の仕組神力”
の意味合いであると思える。

 それで冒頭の文は、これから起きる今後=アセンション後に移行する際の事柄が述べられている。

“天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ”
 
この文の“天地”、それは“上”と“下”の意であり、人間が創りだした今の事象は、“下”(低い心(靈))の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるし、平均的地球人の霊的成長度では“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んであり、それは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の低い振動しか取り込んでいないという現状がある。
だが今後=アセンション後は、そうではなくなる。 
それが、“天も地も一つにまぜし大嵐”であり、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の台頭、物欲や低い功名心と自尊心を満たすものばかりが台頭する低い砌(みぎり)の行を行ってきたが、これからは、高い思惑、日足(ひたり)の行をするものが活躍し台頭する、それは先に指摘した“下”(低い心(靈))の心(靈)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応でもなく、相対的に霊的成長した人ならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応し、また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の、高い振動を止める(“日止、霊止”の表記の意味)ものである。
そのことを述べているのが
“富士を境に真二つ”
であり、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、のことであり、先に述べたようにこれまでは低い砌(みぎり)の行を行ってきたから、物や(通貨としての)金、形骸の名誉などに執着する程度の低い人が台頭する事象であったが、そうではなくなってくるというのを示しているのが“境に真二つ”である。


 そしてこれに続く、

“先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり”

これは先に述べた“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の高い部分との感応をする肉体(月(ツキ))内の七つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)を指示した表記である。
 そしてこれまでとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)とは違うの意味合いで、“先づ切り取りて残る”と称され、これまでは平均的地球人の霊的成長度=“江戸と尾張”、それは腹の水、“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、腹の位相のサイクロトロン、マニピューラチャクラまでの荷電粒子の取り込みであったので、高い振動は素通りだったが、今後は高い振動との感応をしていく、それが“切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組”であり、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、アナハタチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、いわゆる肉体(月(ツキ))内すべてのチャクラで“上”と感応し、高い振動を取り込んで心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を構成して今と違う事象の“創造”をしていくのだ、の意である。


 これに続く以下の文。

“されど日本は神の国。 最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。 夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし”

先に指摘した“されど日本は神の国。 最後の仕組神力”は“日本”の表記は日の本、太陽、“本津宮”(もとつみや)、いわゆる“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことにより高い振動を取り込み自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)=“神の国”であり、それは“神力”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の高い振動の意であり、これまでの霊的成長度の人間にとってそれは“寄せ来る敵”である。
 それは、これまでとは違う思想、価値観や幸福感の違い、物や(通貨としての)金由来の形骸の名誉に執着する心(靈)はこれからダメになる=“魂まで、一人残らずのうにする”、この“のうにする”の表記は、無くなるの意である。
 今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、最近その低さを露呈することばかり報道で報じられているが、程度の低い人間がやってきたその愚かさを自己奉仕者は愚かと思わないし、程度の低い人間は低いからこそ自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、自分たちに非が無いと勝手に思い込んでいるものでもあるが、その低さ、愚かさ、を、多くの人が知り、それを見て自省(胸の磁性“十”)する人を増やす、これまでの価値観は通用しないのだということを知る、それをさせているのが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑であり、それは下つ巻 第三帖の、

“神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ” 

同じく下つ巻 第十帖、 

“臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ”

同じく下つ巻 第二十三帖、

“神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ” 

の意味合いと同義である。

 これに続く“夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし”の“夜明け”は、今の松の巻、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)がこれから行う“御用”、それは松の巻の次が夜明けの巻であり、それは、曰アけの 〇キ であるが、この表記の意味は、

“曰”=口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)

“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、またそれは、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)

“け”は、ひらがな表記なのでこちら側視点(“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の視点)であるが、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、いわゆる人間をはじめとした進化しうるすべての生命のこと

であるので、“曰アけ”を要約するならば、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現と解することが出来る。
 それが、“夜明けの御用つとめかし”であり、これに続く“晴れたる富士のすがすがし”は、先に指摘した低い砌(みぎり)の行、それによる醜い事象、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の台頭する事象ではなくなるのだ、高い日足(ひたり)の行を行っていくのだぞ、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。







“日月神示” 松の巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第二十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ないぞ。 煎(ゐ)り豆 花咲く目出度い時となってゐるのに何して御座るのぞ。 いくら人民の尻叩いて野山切り拓いても食物三分むつかしいぞ。 
神々まつれと申してあろが、野拓く時は野の神まつれ。 物作る時は保食の神まつれ。 産土の神様にもお願ひしてお取次願はな何事も成就せんぞ。 
人民の学や智ばかりで何が出来たか。 早よ改心第一ぞ。 山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかも此の方の徳であるぞ。 それぞれの御役あるのざぞ。 学や智捨てて天にむかへ。 地にむかへ、草にむかへ、生物にむかへ、木にむかへ、石もの云ふぞ。 草もの云ふぞ。
七月十八日、あめのひつくのかみ。

 第二十八帖で最も大事な意味合いを持つ表記として“野山拓いた”が挙げられる。 
そしてこれを文字通り、野と山、それを“拓いた”(ひらいた、開拓の意)と解釈してはならないと思う。
 それで“野”に関しては以前、
富士の巻 第十七帖の解釈で、以下の画像を作成した。



野の解字 (富士の巻 十七帖) 



 画像を見れば意味は解ると思うが、“野”は目上(めうえ)の脳と土=2~3番目のオーラを偏(へん)で指し示し、旁(つくり)はそれが伸び広がる、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を指す表記である。
さらに“山”は、高い心霊が使う脳、そして自凝(おのころ)を果たしていったタンパク質の高分子化を指すものであるから、“野山”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべき生命(生きる使命=存在理由)と解するのが妥当である。
 また、今読み解いている松の巻の、〇つ、この表記そのものが、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)である。

 このことを理解した上でないと、当然のことながらこの第二十八帖も読み解くことが出来ないものであると思う。


 まず以下の文から解釈する。

“保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ないぞ。 煎(ゐ)り豆 花咲く目出度い時となってゐるのに何して御座るのぞ。 いくら人民の尻叩いて野山切り拓いても食物三分むつかしいぞ”
 この文の“保食(うけもち)の神”は、ここまでの“日月神示”で初めて登場する表記であり、またこの表記そのものは日本書紀の神産みの段の第十一の一書に記され、古事記にはこの神名の表記が無い。
 その日本書記では、以下のように記されている。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした」(Wikipediaから引用)


 これに近い表記として古事記では、大宜都比売(おおけつひめ)がある。
 これについては以前、
“日月神示”日月の巻 第三十帖 Kellyさん的解釈 “鳥之石楠船神(とりのいわくすつねのかみ)、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、大宜都比売神(おほけつひめのかみ)、大宜都比売神(オホケツヒメノカミ)、”の意義
において、以下のように解釈した。

“大”は人が手足を広げた様、これも脊椎動物の進化の果て、生命の完成に至る過程の最終段階の表記である“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”と同義でもある。 そして“宜”は、ほどよくかなっている様、よろしい、道理、の、意味がある。 “都”は栄えるとか繁栄の意味と、宮(みや)処(こ)に在るという意味もあり、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、“呂”はエネルギーの“上”と“下”の回転を示すってことでもあり、よってこの場合の“都”の意味を深読みすれば、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現すら感じさせる。 
そして“比売”は、先の“媛”と同義で、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を示している=心(靈)に対しての肉体(月(ツキ))の意味。 
ちなみに古事記で“大宜都比売(おおけつひめ)”は、高天原を追放された須佐之男(“素盞鳴尊(スサナルノミコト)”(日月の巻 第二十九帖の表記))が大宜都比売(おおけつひめ)を訪れたさい、大宜都比売(おおけつひめ)は、みずからの鼻と口と尻からさまざまな美味なものを出しそれを料理した。 それを須佐之男が見て、汚物と思い、怒って大宜都比売を殺し、そうすると大宜都比売の死体の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が発生した。 そして神産巣日神(神皇産霊尊)がそれらを取って種にしたのが農業と養蚕の起源とされているが、この話も“臓腑”の“腑”の電磁誘導が進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において異物の取り込みから捕食、そして“臓腑”の進化において捕食も変化していくことを感じ、また大宜都比売(おおけつひめ)が、保食神 (ウケモチノカミ)とされているのが、“腑”の電磁誘導であるという私見を持つものである。


 要は生物が行っている行為、捕食、物を食うこと、そしてそれによる“腑”の電磁誘導、この事柄による肉体(月(ツキ))の作り変わり、それは肉体の成長といってもよい。
 だが着目しなければならない重要なこととして、ことに“行”においての作り変わり、またそれは高い振動の取り込みによる“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)、これを示唆した意味合いで“保食(うけもち)の神”という表記が使われていると思える。
 それは、厳しい“行”を行うこと、長時間の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、捕食して“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み進化=霊的成長、神格化に向かうこと、を、果たしていくのが進化していくべき生命、それは“日止、霊止”であるという意味合いで、
“保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ないぞ。 煎(ゐ)り豆 花咲く目出度い時となってゐるのに何して御座るのぞ”
といわれており、この文の“保食(うけもち)の神祀らづに”は、食うことは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって大事なのだ、食わねば厳しい“行”は出来ないのだ、という意味合いである。

 ちなみに○○○大先生がS会=紫光会の交霊会において、本人に直接言われたのではないが以下のような言葉を聴いている。

人間が霊力を得る“行”を行じるにおいて、羅漢(らかん)のようにやせ細ってしまっていては、大した“行”は出来ないものである

 厳しい“行”は、先も述べたが肉体(月(ツキ))も心(靈)(ヒ)も“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するし、大変なエネルギーを贖う(あがなう)ものである。

 よって自分が自分の完成を目指すための“行”をするならば、食うことの大切さをよく認識し、それに反する太陽凝視=不食、というのは、低い功名心と自尊心に感応する悪魔の思惑で人間を進化させない、“行”させないのだということを見ぬくべきでもある。

 話を戻し、これに続く
“いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ない”
は、ちゃんと食って“行”せよ、でもあるし、先に述べた“野山”、心(靈)(ヒ)の進化だけでは、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、事象の“創造”が難しい=“物作ることは出来ない”という意味合いであるし、これに続く、
“煎(ゐ)り豆 花咲く目出度い時となってゐるのに何して御座るのぞ”
は、ちゃんと“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化のために、“上”からは高い振動を送り、肉体の作り変えのために食物は与えてあるのだ、という意味合いであるし、これに続く、
“いくら人民の尻叩いて野山切り拓いても食物三分むつかしいぞ”
頑張って“野山切り拓いても”=心(靈)(ヒ)を進化させようとしても“食物三分むつかしい”=ちゃんと食って“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)せよ、ということである。


 これに続く次の文。

“神々まつれと申してあろが、野拓く時は野の神まつれ。 物作る時は保食の神まつれ。 産土の神様にもお願ひしてお取次願はな何事も成就せんぞ”
 これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応せよ、“神々まつれ”であり、心(靈)(ヒ)を進化させるには、そういった高い振動の神、“野拓く時は野の神まつれ”、要は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応せよ、であり、自分の肉体(月(ツキ))と自分自身が観察しうる事象を感得するにあたっては先の“保食(うけもち)の神”が大事、そして、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)がこの事象に産みだされるにあたっては“産土の神”であり、“産土の神”を通じて“上”と感応するのだということをよく知っておけ、と、述べられている。


 これに続く以下の文は、これまでの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)での事象の“創造”は、程度が低いし、それは“上”が認めないから存続できない、という意味合いである。

“人民の学や智ばかりで何が出来たか。 早よ改心第一ぞ”
要は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は自分の低さに気付き、自省(胸の磁性“十”)せよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”しろよ、ということである。


 次の文は、自分が観察しうる事象というのは、すべて“神の采配”であり、すべてに意味合いがあるのだ、それを悟れ、ということである。

“山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかも此の方の徳であるぞ。 それぞれの御役あるのざぞ”


 次の文は、進化していくならば物事の見方は変わる、また変わらなければならないことを示唆した言い回しである。

“学や智捨てて天にむかへ。 地にむかへ、草にむかへ、生物にむかへ、木にむかへ、石もの云ふぞ。 草もの云ふぞ”
この文の文末、“石もの云ふ”は、肉体(月(ツキ))を構成する帯電するミネラルが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって大事、“草もの云ふ”は、“草”という字が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ)、芽吹くの意、それは“日”、太陽の振動の意と、胸の磁性“十”の意味合い、そして“もの云ふ”は、“石”(帯電するミネラル)が結晶化(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化)して、自省(胸の磁性“十”)の心で発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)という意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”松の巻 第二十八帖の表記の解釈

  今回は表題の通り、第二十八帖の冒頭で示されている表記について解釈を述べる。
 (ひふみ神字 太陽出版 267ページの表記)



松の巻 第二十八帖 



 画像を見ると意味は通じると思うが、まず、ア・メ・の・ひ・つ・九・か・み・ 

“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす

“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)

“の”は、ひらがな表記なのでこちら側から見た視点(被造物視点)
延びる 広いところ の意、先回の“野”の意味と同義

野の解字 (富士の巻 十七帖) 



“ひつく”は“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと

“九”は、○ 九 十のそれ、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、生命の最終的なカタチが“九”

“か”は、ひらがな表記なのでこちら側から見た視点(被造物視点)
幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意

“み”はひらがな表記なのでこちら側から見た視点(被造物視点)
生命の幹 その現実



これが右回りに書かれているのは、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化、神の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、でなされているから真ん中に太陽の象形文字が書かれている。

 そして進化した生命(生きる使命=存在理由)である人は、“上”からの荷電粒子を止めるからこそ古神道では“日止、霊止”と表記されていることは幾度となく述べて来たし、その荷電粒子の取り込みを自らの肉体が持つ円形加速粒子機の構造で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)するのが、三つのオーラ、“一二三”、であることを示す表記であると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 松の巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第二十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

豊受の大神様お山の富士に祀り、箸供へてお下げした箸、皆に分けやれよ。 饌(け)に難儀せん様 守り下さるぞ。 仕組 少し早よなったから、かねてみしてあった事 八月八日から始め呉れよ。
火(ひ)と水(み)に気付けよ。 おろがめよ。 
キの御用大切ぞ。 ケの御用大切ぞ。 クの御用大切ぞ。 神は気引いた上にも気引くから、とことんためすから、そのつもりで、お蔭落さん様にせよ。 
二十五柱 役員ぞ。 慢心すればかへ身魂使ふぞ。 この巻 松の巻。
七月十九日、あめのひつぐのかみ。

 この第二十九帖も、二十八帖同様、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”をする、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化すること、その結晶化した肉体(月(ツキ))でその“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める(“日止、霊止”の表記の意味)、その上においてのことが述べられている。


 冒頭の文。

“豊受の大神様お山の富士に祀り、箸供へてお下げした箸、皆に分けやれよ。 饌(け)に難儀せん様 守り下さるぞ。 仕組 少し早よなったから、かねてみしてあった事 八月八日から始め呉れよ”
 この文は、二十八帖の“保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて…以下略…”に続いており、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、それは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化、であるが、その秘訣として“お山”=脳、高分子化して自凝(おのころ)したタンパク質、そして“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、それを“八月八日”と称され、この“八”の表記は日足と砌(ひたりとみぎり)、また、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“日”は、日足(ひたり)の極性、あるいは太陽、または心(靈)(ヒ)、“月”は砌(みぎり)の極性、肉体(月(ツキ))があるのだ、こういった要素が大切。
 そしてこの文ではさらに“饌(け)”と述べている。 “饌(け)”は、お供え、高貴な人のために調えられた食事、の意味合いであり、二十八帖の“保食(うけもち)の神”、そして二十九帖の“豊受の大神”、これらを合わせて鑑みるならば、二十八帖解釈で述べた食うことの大切さ、食わねば厳しい“行”が出来ない、厳しい“行”をしなければ人の神格化などには成り得ない、それに反し不食を意とした太陽凝視ごっこは、人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)との感応であり、それは低い功名心と自尊心をあおるというきわめて分かりやすい手法でもあり、よって“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の太陽凝視の在り方、これに気付く人はとても少ない、それにそれは大半の人間が自我の確立=固定化の進化過程であるからでもある。
 これを知った上でもう一度この文を見るならば、
“豊受の大神様お山の富士に祀り”
きちんと食って“腑”の電磁誘導もして、さらに“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、目上(めうえ)の脳を進化させ、
“箸供へてお下げした箸、皆に分けやれよ。 饌(け)に難儀せん様 守り下さるぞ”
この“箸供へて…”は言葉通りのことではなく、食って“行”してその発振、発信を事象に顕現せよ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)せよ、それを“皆に分けやれ”と称され、“行”やっている人間は一見貧乏におちいる(これまでの砌(みぎり)の“行”からの脱皮という言い方も出来る)が、それでも肉体(月(ツキ))に必要な食は保証されており、さらに価値ある食事を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は教えるものであるということまで示唆していると思う。

 また“豊受の大神”に関しては、
“日月神示”日月の巻 第三十帖 Kellyさん的解釈 “たぐりになりませる神~豊宇気比売神(とようけひめのかみ)”の意義
で述べた、以下の解釈も含まれていると思うので以下にコピペしておく。

“この神の御子、豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と申す。”の、“豊宇気比売神(とようけひめのかみ)”は、一般に豊受大神宮、伊勢神宮の外宮に奉られる豊受大神として知られているが、何を豊かに受け(宇の気=宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)、大極からの荷電粒子=気)、そしてそれを現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するのか=比売(ひめ)。
 そして事象の顕現=外側(外国と幽界)の事象と認識される場(フィールド)では、自分たちは仁と和の情動を持ち、そうでなければ共存はできないということでもある。
そしてこのことも、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)の在り方を示唆している。
それで、個々の心(靈)が感じうる外側(外国と幽界)の事象と、自身の肉体(月(ツキ))のことを今少し述べた。 重複するが、人の構成要素としての肉体(月(ツキ))は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それに対し、心(靈)(ヒ)は、伊勢神宮の内宮、太陽を示す天照皇大神であり、それはまたS会=紫光会の経文、四空経録の中に書かれている“日心月物”と同義であり、また“日月神示”の日月の巻は、その心(靈)(ヒ)と、肉体(月(ツキ))のことを述べているし、その日足と砌(ひたりとみぎり)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを詳細に述べているものである。


 これに続く次の文。

“火(ひ)と水(み)に気付けよ。 おろがめよ”
 これについては、
日月の巻 第三十二帖の解釈から以下に引用する。

“火あって水動くぞ。水あって火燃ゆるぞ。 火と水と申しておいたが、その他に隠れた火と水あるぞ。”
 この文の“火”は、(これまでも同様の解釈をしてきたように)肉体(月(ツキ))の“腑”で取り込んだものを酸素とともにエネルギーに変える肝臓のこと、そしてそれは肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のエネルギーとなるもの。
 そして“水”は体液、錯体のこと。
 それで“その他に隠れた火と水あるぞ”の文が示唆することは、自我を構成する肝臓と腹の水のことだけではなく、腹から“上”にも(思惑という情報を伝えるための)錯体である体液はあるしそれは循環しているのであり、そして自らの思想(思惑)を構築する目上(めうえ)の脳にも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)は“いきり立つ心(奴と心)”であるということで、それは“思惑の顕現”=現象化をするということでもある。


 これに続く次の文。

“キの御用大切ぞ。 ケの御用大切ぞ。 クの御用大切ぞ。 神は気引いた上にも気引くから、とことんためすから、そのつもりで、お蔭落さん様にせよ。 
二十五柱 役員ぞ。 慢心すればかへ身魂使ふぞ。 この巻 松の巻”

この文の“キ”“ケ”“ク”については、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし

“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)

“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意

 上記の意味を鑑みれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めた生命、その顕現、という解釈が成り立ち、それは先回解釈した画像の意味合いそのものであるといい得る。
 そして文中の“二十五柱役員”は、“二”は肉体(月(ツキ))、“十”は胸の磁性“十”、シンクロトロン、“五”は糸巻の象形文字なので神経が密になった様。
“柱”については画像で意味を示す。



柱の解字 




 よって“二十五柱”は平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、“江戸と尾張”(腹の水、=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から“上”の進化を指す表記、それは自省(胸の磁性“十”)の心を持った肉体(月(ツキ))であり、神経が“慈(しげる)”、ということでもあり、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)ならば平均的地球人よりも高い振動を止め得る、ということでもある。
 そしてそれは“役員”、次の事象の“創造”に関わる生命であり、これが、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)、ということ。
 また特に解釈の要は無いと思うが、“神は気引いた上にも気引くから、とことんためすから、そのつもりで、お蔭落さん様にせよ”
常に人間は悪魔の誘惑と感応しつつ試されており、その試しは自分が何を求めていくべきなのかを悟るためのことであるという意味合いをこの文で示唆し、それに失敗したならば
“慢心すればかへ身魂使ふぞ” 
それはアセンション落第組でしかない、次の事象に移行する資格、資質がない、その霊的成長度ではない、という言い回しである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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