“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 夜明けの巻 第一帖 Kellyさん的解釈 


 今回から、夜明けの巻(曰アけの○キ)の解釈に入るのだが、松の巻第二十七帖で述べた“曰アけ”を念頭に置いて解釈しないと夜明けの巻は読み解けないと思うので、以下にコピペしておく。

“曰”=口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、またそれは、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)
“け”は、ひらがな表記なのでこちら側視点(“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の視点)であるが、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、いわゆる人間をはじめとした進化しうるすべての生命のこと
であるので、“曰アけ”を要約するならば、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現と解することが出来る


 まず、第一帖の原文は以下の通り。

イシはイにかへるぞ。 一(ヒ)であるぞ。
 (ム)であるぞ。 井であるぞ。 イーであるぞ。  
夜明け第一 霊=○&井 であるぞ。  夜明け第一 霊=○&イ であるぞ。 キと働くのざぞ。 わかりたか。
今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。 己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。 他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。 神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。 神人ともにと申してあろが。 神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。 まことの神のおん心わかりたか。 今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな。 
天地和合して
夜明け 第一 灯台表記   となった姿が神の姿ざぞ。 御心(みこころ)ざぞ。 天(あめ)と地(つち)ではないぞ。 あめつちざぞ。 あめつちの時と知らしてあろうが、みな取違ひ申して済むまいが。 神示よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろが。
七月の二十一日、あめのひつぐのかみ。

 冒頭の文。
“イシはイにかへるぞ。 一(ヒ)であるぞ。
  (ム)であるぞ。 井であるぞ。 イーであるぞ。 
夜明け第一 霊=○&井  であるぞ。  夜明け第一 霊=○&イ であるぞ。 キと働くのざぞ。 わかりたか”

 カタカナ表記の意味をまず述べる。

“イ”は、生気生命の発生力
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし

 よって“イシはイにかへるぞ。 一(ヒ)であるぞ”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”がその“思惑の顕現”=現象化として生命(生きる使命=存在理由)を創造した。 
それは“イ”(生命発生の力)であり、その思惑は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、であるから“シ”(弱き光と観察される。“慈(しげる)”のシ)である。

(また、カタカナの“イ”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が“下”=地、生命(生きる使命=存在理由)、人(日止、霊止)に下降するという意味合いもある)

 そしてこのことを、被造物であり生命(生きる使命=存在理由)である人(“日止、霊止”)から観て認識するならば、“一”、これは“創造”の“主(ヌシ)”の表記であり、

(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、“一”はまた向かって(被造物である人間視点)日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を動かすので“思惑の顕現”=現象化の意味もある)

すべての物の根、心(靈)である“ヒ”と称されているものであると思える。
 それで、カタカナ表記の“イシ”で、“創造”の“主(ヌシ)”の創造の過程と結果(思惑と顕現)を示し、それが“イにかえるぞ”は、被造物である個々の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していったならばそれは“創造”の“主(ヌシ)”と成りうる、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるという意味合いを示唆している。
 これに続く次の文。
“  (ム)であるぞ。 井であるぞ。 イーであるぞ”
この文の“  (ム)”は、“日月神示”では実際に空欄になっていて何も書かれていない、その後に“(ム)”と示されているが、これは先の“シ”、弱き光、を強調した意味合いで、肉眼で見えない(物質の振動の範囲ではない)、中々感知されない、だからこそ高振動は、“無”と認識され得るという意味合いでもある。
 だがそれは実在であるから“ム”(生命が多岐に…以下略…)であると思う。
 そして“井”は、井戸の井、水を汲みとるそれ、であるが、これは錯体である体液の意味、“創造”の“主(ヌシ)”、“上”からの荷電粒子を止めておく働きのこと。 錯体である体液があるから“上”からの振動をとめる、それが“日止、霊止”であり生命(生きる使命=存在理由)であるという意味合い。
次の“イー”は、原文では縦書きなので“イ”と“|”であり、これは“イ”が、“下”に下降する、降り注ぐ、要は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、そのものを指す表記である。
 これに続く次の文。
“ 
夜明け第一 霊=○&井 であるぞ。  夜明け第一 霊=○&イ であるぞ。 キと働くのざぞ。 わかりたか”
この〇の表記は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、生命(生きる使命=存在理由)であり、それは○+井、肉体内の錯体により心(靈)(ヒ)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくの意があり、〇+イは、取り込んだ荷電粒子を発振、発信する、息吹く、事をするのが生命(生きる使命=存在理由)であり、それが“キと働く”、“キ”は天地の精気 モノの現れを示す音根、自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)を“観察と認識”していく、それが“創造”の“主(ヌシ)”と生命(生きる使命=存在理由)の共通の行為である観察行為なのだという意味合いである。

 これに続く以下の文。
“今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。 己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。 他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。 神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。 神人ともにと申してあろが。 神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。 まことの神のおん心わかりたか。 今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな”

 この文の、
“己殺して他人助ける…中略…悪の天の教であるぞ”
これは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が流布している思想そのものである(思想と呼ぶには能わないが…)。
 それで、“己殺して”に相当することとしては、御利益をもらいたいがため莫大なお布施を収めたりする“ブタのけつを見ているアホ”の信者、また神や仏を利用して形骸の権威を示す、それはまた、
“神無きものにして人民生きるも悪ぞ。 神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ”この文言からも、“ほんとう”の神の認識がない“役員づら”のことを指摘しているのだということを感じ取る、また形骸の信仰を流布して自分たちの利益の追求をしている人間のことを“神ばかり大切にして人民放っておく”と揶揄されている言い回しをされている。
 “ほんとう”の神と人間の関係、“ほんとう”の“上”と“下”を認識し始めている人は、この文言の内容に気付くべきでもある。
 だが、こうやって神や仏の認識を低くしてただ利用するだけの宗教団体など、こういったものは今、多すぎるし、さらにたった今の事象は低すぎるからこそこういったものが悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)として活躍しているのだが、それは、一般の人達の霊的成長度が低すぎるからこんなものをなんとなく容認していたりもするという情けない現状なのだということを、考えざるおえない…。
 また霊的成長度の低さを判りやすい表記としての“他人殺して己助かるも悪ぞ”、これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の考えであることはあえて言うまでもなく、さらに、たった今問題になりつつあることでもあるが、戦争をしてまで自国の権利や利益を守る、これは結論から言えば守ることにならないものであり、傷つけられたら傷つける、殺されたら殺す、こういった恨みの連鎖は拡大するだけであるし、それをする人間、その当事者たちには恨みの連鎖の霊的干渉があり、ますます戦争は拡大するだけである。

(この辺の実際の事柄はローム太霊がローム霊訓講話で述べているので、
死の前後 天災、戦争による集団死の場合 Kellyさん的解釈“その三”
をよく読んでいただきたい)

 今の事象の大半の人間は霊的成長度が低く、自分たちのことしか考えていない、だからその思惑で生きてきた結果というのを味合うことをして自省(胸の磁性“十”)しなければ成長しないので、これはどう反対運動が起きたとしても必ず起きるものだと思われるが、それに巻き込まれるだけではいけないので、艮(うしとら)の金神は、
“己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ”
そして、
“神人ともにと申してあろが。 神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。 まことの神のおん心わかりたか”
と述べておられるのであり、これはローム太霊がローム霊訓講話で述べた(ローム太霊講話集第二話)
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
に相当することであるし、さらにローム太霊は人間の在り方として以下のよう述べていらっしゃる。
この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである
この太霊の文言の“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”、これは自分と神の関係というものをしっかり認識していなければならない、それは“役員づら”に刷り込まれた宗教観でもなく、御利益を求める心でもなく(ぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)の表記)、“創造”の“主(ヌシ)”は被造物である生命を育てている、だから辛い目にも合わせる、頑張ることをさせる、という認識ぐらいは持っていなければならない。
 それを、
“神人ともにと申してあろが。 神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。 まことの神のおん心わかりたか”
の文言から感じ取れるし、さらに平均的地球人が持っている既成概念、一般常識としての神と人間の概念、そして腐り果てている宗教、えせスピリチュアルなど、低い認識すべてに対して、
“悪の天の教”
“今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな”
と述べているものでもある。

 これに続く次の文。

“天地和合して 
夜明け 第一 灯台表記 となった姿が神の姿ざぞ。 御心(みこころ)ざぞ。 天(あめ)と地(つち)ではないぞ。 あめつちざぞ。 あめつちの時と知らしてあろうが、みな取違ひ申して済むまいが。 神示よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろが”
この 
夜明け 第一 灯台表記 の表記は地図記号の灯台である。 
 よって“天地和合して”“上”と“下”が感応しあって事象を照らす、それが灯台の意味合いであることが解る。 それはまた今の地球人より高い心(靈)だからこそ“御心(みこころ)”である。
 それで“天(あめ)と地(つち)ではないぞ。 あめつちざぞ”というのは、ただ単に天地ということではない、“上”と“下”でもない、それは“あめつち”がひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記であるが、“ア”“メ”“ツ”“チ”は、

“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)

なので、人が認識しうる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした立派な生命(生きる使命=存在理由)、天意を取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をしている生命の意であることが理解できる。
 それが“あめつちの時”これはまた、夜明け=次の事象、アセンション後、の生命(生きる使命=存在理由)と、その生命が“創造”していく事象を指すものであることも理解できる。

 これに続く、
“みな取違ひ申して済むまいが。 神示よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろが”、
殆どの人間の神と人間に対する認識は“取り違ひ”であるし、“日月神示”ですら“役員づら”の金儲けに利用されているが、それではダメ、“神示よく読めと、裏の裏まで読め”、“日月神示”で述べている神と人間の関係、霊的成長の事柄、人間の在り方などを、しっかり認識せよ、という言い回しである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 夜明けの巻 第二帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、夜明けの巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国は神の肉体ぞと申してあるが、いざとなれば、お土も、草も、木も、何でも人民の食物となる様に出来てゐるのざぞ。 何でも肉体となるのざぞ。 なるようにせんからならんのざぞ。 それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。 神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中(まなか)の国であるからぞ、何も彼も、神の国に向って集まる様になってゐるのざぞ。 神の昔の世は、そうなってゐたのざぞ。 磁石も神の国に向く様になるぞ。 北よくなるぞ。 神の国おろがむ様になるのざぞ。 どこからでもおろがめるのざぞ。 おのづから頭さがるのざぞ。 
海の水がシメであるぞ。 鳥居であるぞと申してあろうが、シメて神を押し込めてゐたのであるぞ。 
人民 知らず知らずに罪犯してゐたのざぞ。 毎日、日日(ひにち)お詫(わび)せよと申してあらうが、シメて島国日本としてゐたのざぞ、よき世となったら、身体(からだ)も大きくなるぞ。 命も長くなるぞ。 今しばらくざから、辛抱してくれよ。食物心配するでないぞ。 油断するでないぞ。皆の者喜ばせよ。 その喜びは、喜事(よろこびごと)となって天地のキとなって、そなたに万倍となって返って来るのざぞ。 よろこびいくらでも生まれるぞ。
七月二十一日、あめのひつくのかみ。

 この第二帖で登場する“神の国”、この表記の意味合いを深く鑑みるならば、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である生命である人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、あるいは“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)、被造物である生命(生きる使命=存在理由)は、心(靈)(ヒ)であり、心だからこそ、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”をしていくのだが、その観察行為の対象は、“神の国”=すべての事象であるという意味合いであると思える。
 また、すべての事象は、外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、それらすべて生命(生きる使命=存在理由)が行っている観察行為の対象である。
 さらに、すべての事象は振動で構成されており、振動との感応、振動の取り込み、それによって観察行為が成り立つものであるとの意味合いを含む(またそれは感じ(感じる磁性)る、電磁誘導でもある)ものであると思うし、“神”という字は、示す偏(へん)と呂であり、荷電粒子の回転を示しており(円形粒子加速機、発振、発信のための仕組み)、そして“国”は、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものでもあり、国の旧字は“國”であるが、これは、囗(かこい、場(フィールド))、或(ワク)、(或は、弋(くい)(積み重なったなにか)と、囗(かこい、場(フィールド)と横棒―(水平磁場、日足と砌(ひたりとみぎり))で領域を区切ることを意味するので、やはり進化した心(靈)を意味する表記である。
 もうひとつ、観察行為を行っている被造物である人(日止、霊止)と、観察されている対象の“神の国”は、ともに生命であり、心(靈)(ヒ)なのだという意味合いを持つと思う。
 ここまでの解釈は、先回の第一帖、
“イシはイにかへるぞ。 一(ヒ)であるぞ”
この意味合いである以下の要綱、

● “創造”の“主(ヌシ)”がその“思惑の顕現”=現象化として生命(生きる使命=存在理由)を創造した、あるいは創造している

● これを、被造物であり生命(生きる使命=存在理由)である人(“日止、霊止”)から観て認識するならば、“一”、これは“創造”の“主(ヌシ)”の表記であり、すべての物の根、心(靈)である“ヒ”と称されているものでもある

● カタカナ表記の“イシ”で、“創造”の“主(ヌシ)”の創造の過程と結果(思惑と顕現)を示し、それが“イにかえるぞ”は、被造物である個々の生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していったならばそれは“創造”の“主(ヌシ)”と成りうる、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるという意味合いを示唆している

このことを踏まえ、もうひとつ、第一帖の“あめつち”、人が認識しうる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした立派な生命(生きる使命=存在理由)、天意を取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をしている生命の意、これらのことを考えた結果でもあるし、第二帖の以下の文は、第一帖の上記の意味合いを強調し補足を加えた文であると思える。 

“神の国は神の肉体ぞと申してあるが、いざとなれば、お土も、草も、木も、何でも人民の食物となる様に出来てゐるのざぞ。 何でも肉体となるのざぞ。 なるようにせんからならんのざぞ。 それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。 神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中(まなか)の国であるからぞ、何も彼も、神の国に向って集まる様になってゐるのざぞ。 神の昔の世は、そうなってゐたのざぞ。 磁石も神の国に向く様になるぞ。 北よくなるぞ。 神の国おろがむ様になるのざぞ。 どこからでもおろがめるのざぞ。 おのづから頭さがるのざぞ”

 この文の冒頭“神の国は神の肉体ぞと申してある…中略…何でも肉体となるのざぞ。 なるようにせんからならんのざぞ”、ここで述べられている“神の肉体”の表記の意味は、観察しうる事象、被造物である人(日止、霊止)が観察の対象としている事象の意味合いであると思うし、先に述べた“神の国”の表記は日足(ひたり)の極性であり、その顕現である観察行為の対象、すべての事象が、“神の肉体”、これは砌(みぎり)の極性といい得る。
 すべての心(靈)が行っている観察行為の対象であるすべての事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を(その霊的成長度の高低において)取り込んでいる生命、心(靈)(ヒ)である人(日止、霊止)が“観察と認識”をしている、それは振動の取り込み(“日止、霊止”の表記の意味合い)であるから“何でも人民の食物となる様に出来てゐる”と述べられ、その振動の取り込み=“人民の食物”、食うことは単なる食事だけではなく“上”から“下”の一切の振動の取り込みを指すのであり、それそのものがすべての事象となっているからこそ“何でも肉体となるのざぞ”、この“肉体”は先に述べた観察しうる事象、被造物である人(日止、霊止)が観察の対象としている事象であり、さらにそこには、神の“思惑の顕現”=現象化としての“誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中(まなか)の国である”といわれていると思え、この表記の意味を一つ一つ解釈するならば、
“誠の元の国”は、時間の進行を感得しながら(儿部(じんぶ、にんにょう))肉体(月(ツキ))(二)を持った心(靈)は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を成す、それは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であり、それが“ほんとう”の生命の“ほんとう”に目指す何か、達成する何かであるという意味
“根の国”は、“誠の元”が根本であるという意味
“物のなる国”は、心(靈)(ヒ)が事象を“創造”するの意味
“元の気の元の国”は、神の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これがすべての事象の“元”であり、“元の気”であるの意味
“力の元の国”は、“力”は事象を“創造”するためのもの、またそれはすべて“創造”の“主(ヌシ)”の“力”でもあり、自分の贖い(あがない)によりすべての“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現は許可され得るものであるとの意味
“光の国”は、今より相対的に高振動で構成されるから光り輝くと観察され得るの意味
“真中(まなか)の国”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほど、事象の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識し、体得して、今のように間違えた存在の在り方などしなくなるの意味合い

であるし、これらは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き、心(靈)(ヒ)が育ったなら観察しうるすべての事象(外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが)というのは変容する、換言するなら霊的成長度の高低における事象の観察には程度があり、霊的成長度が高ければ高いほど“神の国”と“神の肉体”を高く高く感得しうるという意味合いがあり、今の地球人よりも相対的に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしたならば、観察しうる事象は違ってくる(夜明け、今後=アセンション後のこと)、それがこの文の“誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中(まなか)の国”の表記が記された意味であると確信する。
 それで、
“それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。 神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは”
というのは、少々揶揄(やゆ)した言い回しであるが、大事なのは自分たちは“創造”の“主(ヌシ)”の被造物である生命(生きる使命=存在理由)であり、まっとうな“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を歩むべきであるが、“外国の悪神”=自分の心(靈)以外、外側(外国と幽界)の事象の心(靈)、憑依霊や悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)といえば分かりやすいが、それは単に自分の外側(外国と幽界)の事象であるということを知れ、乗っ取られるな、操られるな、それはまた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをするな、それをしていたならば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)に操られ乗っ取られるのだ、を感じさせる言い回しである。
 そして、
“何も彼も、神の国に向って集まる様になってゐるのざぞ。 神の昔の世は、そうなってゐたのざぞ。 磁石も神の国に向く様になるぞ。 北よくなるぞ。 神の国おろがむ様になるのざぞ。 どこからでもおろがめるのざぞ。 おのづから頭さがるのざぞ”
これは北=大極=N極を指している、またそれは宇宙の中心と認識されうる場(フィールド)であり、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の源、“元”を指す表記であるし、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現を認識していけばいくほど自分は神に近くなり、だからこそ“神の国おろがむ様になるのざぞ。 どこからでもおろがめるのざぞ。 おのづから頭さがるのざぞ”と述べられているものである。
 それは大概の地球人が神に対する認識がてんで低く、言葉でしか神を知らず、神と自分の関係すら知らず、ただただご利益を求めるだけの“ブタのけつを見ているアホ”が多いからでもある。
 
 これに続く次の文。
“海の水がシメであるぞ。 鳥居であるぞと申してあろうが、シメて神を押し込めてゐたのであるぞ”
この文の“海の水”は、錯体の意であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める要素でもある。
 それが“シ”“メ”と記されている。
“シ”は、弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
であり、
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
であるので、生命(生きる使命=存在理由)が、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、取り込んで事象の“創造”をしているが、天意を顕現するほどの霊的成長度ではなく、何度も述べるが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるからこそ“シメて神を押し込めてゐたのであるぞ”、お前たちの神の概念は低すぎるし、神の思惑通りに生きていないのだ、自分たちの在り方が間違っているのだ、という言い回しをされ、これは次の文に続いている。

“人民 知らず知らずに罪犯してゐたのざぞ。 毎日、日日(ひにち)お詫(わび)せよと申してあらうが、シメて島国日本としてゐたのざぞ”
要は自省(胸の磁性“十”)ということ。

 そしてこれに続く以下の文。
“よき世となったら、身体(からだ)も大きくなるぞ。 命も長くなるぞ。 今しばらくざから、辛抱してくれよ。食物心配するでないぞ。 油断するでないぞ。皆の者喜ばせよ。 その喜びは、喜事(よろこびごと)となって天地のキとなって、そなたに万倍となって返って来るのざぞ。 よろこびいくらでも生まれるぞ”
これは、夜明け、今後=アセンション後のこと、恨みの連鎖の霊的干渉の影響で地球人は短命になり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心で奪い合うから衣食住に不安を持ち、そんなものは生命の基本的な権利であるから必要以上に求めなければ与えられるのにきまっているという認識もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の贅沢で恨みの連鎖の霊的干渉の増大をしていることを○○○大先生は著書で述べたが、これすら理解できる人は少なく、大概の人間は“ブタのけつを見ているアホ”であるから、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の手法に乗せられて無駄な金を使い、金を使うこと、そのために働き、それ自体が飢餓貧困を産みだしたくさんの浮遊霊を増やしていることすら解っていない。
たった今の事象は今述べたこと自体を反映しているのだが、今後=アセンション後は人の在り方自体が変わるので、“よき世となったら…以下略…”と述べられており、さらに夜明け、今後=アセンション後の人は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”では無いので、
“皆の者喜ばせよ。 その喜びは、喜事(よろこびごと)となって天地のキとなって、そなたに万倍となって返って来るのざぞ。 よろこびいくらでも生まれるぞ”
と称され、これはまっとうな行い(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現))をする、またそれはローム太霊が説いた“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ならば、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”により、自分の進化にとって善いことだけが返ってくるの意味合いであるし、それが今より一歩、神の思惑に近付いた現津(あきつ)、観察され得る事象であるとの意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第三帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明けの巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天の異変 気付けと申してあろが、冬の次が春とは限らんと申してあろが。 夏 雪降ることもあるのざぞ。
神が降らすのでないぞ、人民 降らすのざぞ。 人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。 訳の判らん病ひどくなって来るのざから、書かしてある御神名 分けて取らせよ。
旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。 心引かれる事 残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。 もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな。
七月二十四日の神示、あめのひつぐの神。

 冒頭の
“天の異変 気付けと申してあろが、冬の次が春とは限らんと申して…以下略…”
に関しては、年々、天候に限らず、今後=アセンション後に向かうための変化変容というものは起きており、これに気付いていない人はもういないと思うが、その意味、なぜそれが起きているのかについては、平均的地球人の認識の程度では解りえるはずがない。

 それは、
“神が降らすのでないぞ、人民 降らすのざぞ。 人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。 訳の判らん病ひどくなって来る”
と示されている通り、今の人間の行動、その行動の根拠たる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、いい換えれば心(靈)の動きにより行動して事象を“創造”している、これが“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物である人間の使命といい得るのだが、程度の低い人間は程度の低い事象、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象を“創造”する、そしてその“創造”された事象は神の思惑に沿っていないから“神の咎め”があり、程度の低い心(靈)は生きていようが死んでからであろうが自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識していく、これ自体が“神の采配”であり、これが無ければ人間自身が誰もかもみな幸せ(“夭と屰”(ようとげき))な事象の“創造”をしていくことが出来ないからである。

 そして、その低い事象、これらの具体的な事柄を一つ一つ取り上げても何の解決にもならず、こういった事象を引き起こす要因は、人間の心(靈)の低さ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行い、その思想、自分さえよければよい、自分たちだけ裕福で薄っぺらい幸福感によってさえすればよい、人生に対してそんな認識しか持っていないからでもあり、こういった低い心(靈)の持ち主が大半だからこそ金さえ儲かればよいという生業(なりわい)が主流をなしており、価値のある何かは“ブタのけつを見ているアホ”に成り下がっているがそれに気付く人も少なく、ただそれを漫然と容認しているだけの人は多すぎる。
 またこういった程度の低い人間の価値観や程度の低い幸福感に付け込んだ思想や商売が台頭しているが、その理由は大半の人間が自我の肥大をしており、自分たちは正しいと思い込んでいるし、そう思うからこそ金儲け中心の生業(なりわい)をしていても自分は間違っていないと思い込む、その結果がたいして価値のないものをこの事象に流布し、それが普通、それが当たり前になっているが、これらすべてを含めて艮(うしとら)の金神は“石屋の仕組み”と称している。
 だがこの“石屋の仕組み”という文言に、人間の心(靈)の動きを見出している人はほとんどいない=そういった霊的成長度の人はごくわずか、としか言いようがない。

 実に情けないことである。

 よって、霊的成長度の低い人を対象に
“書かしてある御神名 分けて取らせよ”
という言い回しまでされ、理解できていなくても“日月神示”やそれに書かれている神名などを読むならば、多少、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が起きる、ということまで述べられてはいるが、本当はそんな程度のことではダメで、“御神名 分けて取らせよ”の意味合いを鑑みるならば、霊的成長度の高い人、“一”=智性=1番目のオーラが発現している人、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”ととらえている人、真摯に実践している人、そういった人ならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応しているし、その人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“一二三”のオーラを、多くの程度の低い人に対して影響させよ、という意味合いも、この文から感じ得る。

 これに続く次の文。

“旧九月八日までに何もかも始末しておけよ。 心引かれる事 残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。 もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな”

 この“旧九月八日”に関しては、ここまでの“日月神示”で幾たびか登場しており、そのたびごとに、同じ解釈を述べてきている。
 このことが解りやすい解釈として、
松の巻 第三帖から以下にコピペしておく。


“旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。 残る心 獣ぞ”
 この“旧九月八日”も日付のことではなく、“九”は“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、現地球人より“一”=智性=1番目のオーラがたかまった状態を指すものである。 そして月は肉体(月(ツキ))のこと。 そして“八”文字の構成が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そしてこれは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同じ意味を持つ。 そして“日”は、太陽のことであり、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性がたかまった“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と感応するというのが“八日”の意味であり、さらに“旧”の表記は、「古い」の意味ではなく、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と太陽を示す“日”、あるいは、太陽の振動が下降する、それを|(たてぼう、こん、縦の磁性))で示していると思える。
 よって“旧九月八日”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“日止、霊止”を指す表記である。
 この進化をある程度果たした心(靈)(ヒ)ならば、自分の心の“上”と“下”を見出すことが出来るし(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”)、それが出来ないのはただ低い、それは今後=アセンション後に移行しえないので“残る心 獣ぞ”=目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心は、次の“創造”を担えない、その資質なし、と称されている。


 それで、
“何もかも始末しておけよ。 心引かれる事 残しておくと、詰らん事で詰らん事になるぞ。 もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな”
に関しては、程度の低い人が思う“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心由来の全く程度の低い(目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階))執着、本能由来のそれ、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)のそれ、形骸の権威、自己中心の薄っぺらい幸福を求める心、それ由来の“心引かれる事”、それを“残しておく”=執着していること自体を“詰らん事”と称され、その心(靈)のままでは“詰らん事になる”=恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に巻き込まれ死に、程度の低い死後の世界をさまようことになるぞ、といわれているに過ぎず、“日月神示”はそういった心(靈)を増やさないために書かれているのだということを示しており、もう時期が迫っている、程度の低い人は次の段階へ移行しえないから“もう待たれんことにギリギリになってゐる事 判るであろがな”とのべられているのだが、“日月神示”自体が人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導く文言であり、書かせたこと事態が“神の采配”であるし多くの人間に対する“神の“慈悲”と“慈愛””ではある。
だが、これを“神の恩恵、神の祝福”にしていくには、その人の資質、心(靈)(ヒ)の在り方が大事なのだということを少々蛇足ながら付け加えて、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、夜明けの巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この方 カの神と現はれるぞ、サの神と現はれるぞ、タの神と現はれるぞ、ナの神と現はれるぞ、ハマの神と現はれるぞ。 
ヤラワの神と現われたら、人間 眼明けて居れん事になるぞ、さあ今の内に神徳積んでおかんと八分通りは獣の人民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞するぞ、キリキリ二股多いぞ。 獣となれば、同胞(はらから)食ふ事あるぞ。 気付けておくぞ。
七月二十九日、あめのひつくのかみ。

 第四帖のカタカナ表記、“カ”“サ”“タ”“ナ”そして“ハマ”“ヤラワ”、まずこれらの意味を“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。

“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、
“ハ”は、生命発現成長の音義
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義

 冒頭の“この方”そして“神と現はれるぞ”、これは神の“思惑の顕現”として、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をする生命(生きる使命=存在理由)、今後=アセンション後に台頭する人間、いわゆる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”)、今とは違う進化をしているからこそその高い霊的成長度における事象の“創造”をしていく、それが“神と現はれる”=神の思惑を顕現する役目を持つ、それを担う生命(生きる使命=存在理由)であるということ。
また、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物である生命(生きる使命=存在理由)にそれをさせようとするのが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、それを成していくのがまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていく“この方”である。 

 こういう意味合いの表記は、今までの“日月神示”に幾たびか登場してきているものでもあるし、“カ”“サ”“タ”“ナ”“ハマ”のそれぞれの言霊には、神の思惑は生命を発現させ進化させ得る力であり(“カ”)、それは繁栄する、繁栄せねばならぬものであるし(“サ”“ナ”)、さらにそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をなしていき(“タ”“ナ”)、きちんとした形になっていく、まっとうな形になっていくものであること(“ハマ”)を示している。
 そしてまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくべき資質を備えた、あるいは備えるべく存在している生命、心(靈)(ヒ)について“ヤラワ”という表記で示されている。

 それで、なぜこういう言われ方をされているのかについては、たった今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が台頭している=“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の“思惑の顕現”が盛んであるからといえ、この世界がおかしくなっている、人間がおかしくなっていることに気付いている人は多くなっているとは思うが、自分たちがどうしたらまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていく、それは神の思惑通りの進化をする、また、天の御目(あめのおめ)に適う人間になるのかについて考えている人間はとても少ないからであるといい得る。
今述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、それが当たり前の世界、それは悪魔の“思惑の顕現”=現象化といいうるが、そんなふうに思っている人間がとても少ないのは、低いからであり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んであるからである。

ほんとうに自分が進化を目指すなら、神と人間の関係を真摯に考えるなら、今述べたことを踏まえて、以下の文をよく読むべきである。

“ヤラワの神と現われたら、人間 眼明けて居れん事になるぞ、さあ今の内に神徳積んでおかんと八分通りは獣の人民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞するぞ、キリキリ二股多いぞ。 獣となれば、同胞(はらから)食ふ事あるぞ。 気付けておくぞ”

 いうまでもなくこの文は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間に対して言われており、お前たちは“獣の人民”“獣となれば、同胞(はらから)食ふ”とまで言われても、気が付かない、だからこそ“気付けておくぞ”、いい加減に自分の霊的成長度を判れ、自分の存在の意義を解れ、という意味合いにとれる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第五帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明けの巻 第五帖 を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

何もかも神示読めば判る様になってゐる事 忘れるでないぞ、此の仕組 云ふてならず、云はねば判らんであろうなれど、神示読めば因縁だけに判るのざぞ。
石物云ふ時来たぞ。 山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型結構ぞ。 何もかも神人共にするのざぞ。 
夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、夜明け来たぞ。 十理(トリ)立てよ。 
七月二十八日、あめのひつくのかみ神示書。

 冒頭の文の、
“神示読めば因縁だけに判る”
これは、霊的成長度は個々に違う、そして、霊的成長度が高ければ、次の事象の“創造”を担うべく資質を備えている、換言するならその使命を持つ、というよりも資質と使命を獲得している、それがこの文の“因縁”の意であり、そういった程度の高い認識を持った心(靈)ならば、
“何もかも神示読めば判る様になってゐる”

“上”と感応して、その上で“日月神示”に書かれてあることが理解でき自分の認識(悟り、幸取=さとり)とすることが出来得るの意、である。
それだからこそ、
“此の仕組 云ふてならず、云はねば判らんであろうなれど”
言葉で教えることではない、自分の認識(悟り、幸取=さとり)で判断せよ、そして解れ、それは“日月神示”から次の事象のこと、そこに移行すべき資質と使命、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”(これらすべて自省(胸の磁性“十”)の“行”)と“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、さらに艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教で教えたこと、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行っていけということであるが、これら霊的成長の具体的な事柄を読み取れ、それが、
“神示読めば因縁だけに判る”

その霊的成長度に応じてしか読み取れないということを示し、判ったなら自分の認識(悟り、幸取=さとり)として実践せよ、ということでしかない。

 これに続く、
“石物云ふ時来たぞ。 山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ”
この“石物云ふ時来たぞ”という表記はここまでの“日月神示”で幾たびか登場しており、これはたった今の平均的地球人の霊的成長度を示す言い回しであり、それは、“石”(帯電するミネラル)が固まっていない、“玉(ぎょく)”ではない、自省(胸の磁性“十”)できていない、自我が肥大している、その心(靈)(ヒ)が“創造”している事象は“石屋の仕組み”であり、その心(靈)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である。
 これについては過去の記事、
日の出の巻 第一帖の 

“石もの云ふ時来たぞ、此の道 早く知らして呉れよ、岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ”
この解釈を合わせて読んでいただきたいものである。

 これに続く次の文。
“山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型結構ぞ。 何もかも神人共にするのざぞ”
この文の“山”は脳、“野”は、画像で意味を示す、

        
野の解字 (富士の巻 十七帖) 



“川”は、肉体内の水の流れ、錯体の移動による電磁誘導の意でそれは生命活動の一環でもあるが、これらに、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応をせよ、ということが、
“神まつれと申してあること、忘れるでないぞ”
そして、
“何もかも神人共にする”
であり、それは次の事象の“創造”を担うべき資質と使命の“型”であるという言い回しである。
 それに対し、たった今の平均的地球人の霊的成長度、自我の確立=固定化の段階では、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が主体であるからこそ、多くの人間が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いしかしていないし、それ由来の価値観と幸福感しか持ちえないのであり、何が自分にとって大切かすら考える素地まで失っているかのようにしか見えないものである。
 だが多くの人は子のことを知ったとしても自分には関係ない、自分はまっとうであると思うだろうから、以下のように言われている。
“夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、夜明け来たぞ”
いうまでもなく“夜明け”(曰アけ)の表記は、松の巻 第二十七帖&第一帖解釈で述べたように、

“曰”=口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、またそれは、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)
“け”は、ひらがな表記なのでこちら側視点(“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の視点)であるが、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、いわゆる人間をはじめとした進化しうるすべての生命のこと
であるので、“曰アけ”を要約するならば、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現と解することが出来る


なので、先ほど解釈した“型”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、そういった人たちの“創造”による事象では、
“何もかもはっきりする”

“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であり、進化程度が低い、ということが“はっきりする”ということでしかないし、これに続く、
“十理(トリ)立てよ”
の、“十理”(トリ)は、胸の磁性“十”と法則性を示す“理”、これについては、
磐戸の巻(一八十の○キ) 第一帖 Kellyさん的解釈から以下にコピペして、今回はこれくらいにしときまんねん。

“十理(とり)”は“一八十”の“十”、胸の磁性“十”、“日止、霊止”の“止”の意、そして“理”はことわり、(事象の“創造”の)法則性の意であるし、法則性がある根拠は、人は「神の思惑を顕現するための生命だから、進化程度の低い人間が勝手にふるまうことなどできない、それは今の世界、たった今の現実は続くわけがないし、それは“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ神の思惑を自分の思想に出来ないということでもあるし、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ“創造”の法則=“理(ミチ)”は理解できない…ということを思うものである。 
また“暁(あけ)”は前回までの日の出の巻の日の出(アセンション)ということと同義であると思う。 よって“暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下され”は、次の事象の“創造”を担える霊的成長度、“一”=智性=1番目のオーラを獲得せよ、ということであり、“一”=智性=1番目のオーラの獲得の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことである。
また“暁(あけ)”は前回までの日の出の巻の日の出(アセンション)ということと同義であると思う。 よって“暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下され”は、次の事象の“創造”を担える霊的成長度、“一”=智性=1番目のオーラを獲得せよ、ということであり、“一”=智性=1番目のオーラの獲得の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことである。
それでこれに続く“カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな”は、天意の受信、“日月神示”表記の“天詞様”、進化して“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば天意と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)(ヒ)となり、それだから神の思惑を顕現する、“上”からの高い振動を止めることができる肉体(月(ツキ))を“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化で創り、高い振動を止めた心(靈)(ヒ)である“日止、霊止”となることは今まで述べてきたとおりであるし、そのことが書かれているに過ぎない。




“日月神示” 夜明けの巻 第六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、夜明けの巻 第六帖 を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今迄の様な大便小便 無くなるぞ。 不潔と云ふもの無き世となるのざぞ。 不潔物 無くなるのぞ。 新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ。
七月三十一日、あめのひつくのかみ。

 この第六帖は、ここまでの、夜明けの巻で述べられている次の事象のことが示されているのであり、文面の“大便小便”“不潔と云ふもの”“不潔物”を、言葉通りに捉えるのは認識(悟り、幸取=さとり)の低い心(靈)であり、先の第五帖を読んだならこれらの表記は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がその低い心(靈)で“創造”した何か、あるいはその事象そのものであることがすぐに理解できる。 
 そしてそれは“今迄の様な”と称されているものでもある。、
 だからこそ次の事象は“新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となる”といわれているが、こういった事象を“創造”する資質と使命を、第五帖の“型”でもよいから、獲得しておけ、獲得できなければ判っておけ、という意味合いを感じるものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 夜明けの巻 第七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明けの巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の臣民に楽な事になるぞ。 
理屈無い世にするぞ。 理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。 理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。 
人に知れん様によいことつとめと申してあろが。 人に知れん様にする好い事 神こころぞ。 神のした事になるのざぞ。 
行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ。 
早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。 神世の型 出して呉れよ。 時、取違へん様に、時、来たぞ。
八月一日、あめのひつく神。

 冒頭の“神の臣民に楽な事になる”、これは次の事象(夜明け、今後=アセンション後)のことである。
 その事象において、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応している心(靈)(ヒ)(“天詞様”)ならば=“神の臣民”ならば、今までの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の場(フィールド)では“上”と感応している心(靈)を持った人は活躍できなったが、そうではなくなるのだという意味。 
 いうなれば、今活躍して認められているのは、程度の低い霊的成長度の人の活躍を程度の低い霊的成長度の人が評価して褒めそやす、換言するならば、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が悪魔の傀儡を認めて評価している、さらに換言すれば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を褒めそやす、もうひとつ、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人が自我の肥大した人の行為を認めている、という場(フィールド)がたった今の事象であるということ。
 そしてそれは、第七帖の後半の言い回しである“誠の臣民”ではなく、不誠実であり、行動も心の動きも“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)でもなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)とそれ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”ばかりであるが、それがさも正当であるかのように押し通すのが“理屈は悪と申してあろが”と揶揄されているものである。

 この“理屈は悪”に関しては、
下つ巻 第十六帖の、

“知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ”

それと、日月の巻 
第十一帖の

“学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ”

この解釈を読んでいただくと解りやすいと思う。

 ちなみに文中の“理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ”の“きほひ”は、張り合う、競争する、 強い勢い、気勢、の意であり、先に述べた不誠実な人がさも正当かのように理屈で押し通して競い合っていることを指しているし、これこそが平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である自我の確立=固定化の段階で起きているつっぱりあい、自我対自我のぶつかり合いで自我の強化をしていることを指すが、そんなものは低い進化過程であるという意味合いで、
“理屈無い世にするぞ。 理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。 理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ”
と称されているものである。

 これに続く次の言い回しは、平均的地球人よりもある程度進化した人を指した言い回しである。

“人に知れん様によいことつとめと申してあろが。 人に知れん様にする好い事 神こころぞ。 神のした事になるのざぞ”

この言葉に、自分の損得抜きの行動、陰徳、そして“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)、そしてローム太霊が語ったこと、
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
を感じ取るべきである。
 またそれが出来得るのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応しているからであり、それを“神こころ”“神のした事になる”と称されている。
 
 これに続く、
“行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ”
これは、今のままならば=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する事象ならば、何もかもがダメになる、ということ。

 だが、時間の進行(“道”)は、神の計画、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性(“理(ミチ)”)に則って(のっとって)いるので、次のように言われている。

“早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。 神世の型 出して呉れよ。 時、取違へん様に、時、来たぞ”

 この文の“誠の臣民”は、“上”と感応しているから自分に不正を許さないし、心(靈)(ヒ)も行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)も“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であるし、進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っている=神の思惑通りの生命(生きる使命=存在理由)になっていく、の意である。
 そしてそれは“神世の型”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する心(靈)と、その心(靈)が“創造”する事象の意、これは、夜明けの巻 第五帖の、
“型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型結構ぞ。 何もかも神人共にするのざぞ”
とほぼ同義。

 それで最後に述べられている“時、取違へん様に、時、来たぞ”は、たった今が霊的成長度の高低における区分けの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムである。
それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)である、いうなれば夜明けであるが、それに留意せよ、たった今がチャンスである、の意で、“時、取違へん様に、時、来たぞ”ともいわれているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。





“日月神示” 夜明けの巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、夜明けの巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

直会(なをらひ)も祭典(まつり)の中ぞ。 朝の、夕の、日々の人民の食事 皆 直会ぞ。日々の仕事 皆まつりぞ。 息すること此の世の初めのまつりぞ。 まつれまつれと申してあろが。
おはりの御用は はじめの御用ぞ。 まつりの御用ぞ。 オワリノ十ノヤマにまつり呉れよ。世につげて呉れよ。 
役員 皆 宮つくれよ。 宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ。 一の宮、二の宮、三の宮と次々につくり呉れよ。 道場も幾らつくってもよいぞ。 神の申した事、なさば成るのざぞ。 宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ。 奥山にはオホカムツミの神様もまつり呉れよ。 守りは供へてから皆に下げて取らせよ。 五柱、七柱、八柱、十柱、十六柱、二十五柱、三十三柱、三十六柱、四十七柱、四十八柱、四十九柱、五十柱、五十八柱、五十九柱、世の元ぞ。
八月の二日、アメのひつくの神。

 まず冒頭の文。

“直会(なをらひ)も祭典(まつり)の中ぞ。 朝の、夕の、日々の人民の食事 皆 直会ぞ。 日々の仕事 皆まつりぞ。 息すること此の世の初めのまつりぞ。 まつれまつれと申してあろが”

この文の“直会(なをらひ)”(神社に於ける神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼))そして“日々の仕事”、それと“息すること”これが“祭典(まつり)の中”“皆まつりぞ”“此の世の初めのまつりぞ”と称されているのは、自分の霊的成長度にとっての“上”と感応せよ(まつり)、の意味合いであり、そう解釈するのが妥当である。
(また、自分の霊的成長度より極端に“上”とは感応できないという法則性がある。 “変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない))
 それで“直会(なをらひ)”に関して“朝の、夕の、日々の人民の食事 皆 直会ぞ”と書かれているから、これは行事、儀礼としての“直会”ではなく、“上”の振動を取り込めよ、(“役員づら”が行っている)神道の行事や儀礼などに関係なく、常に“上”との感応を意識する、“上”と感応する自分の心(靈)のまっとうな自分の在り方を強く思いつつ、これそのものが“上”との同調と成りうることであるが、そうやって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の振動を取り込めよ(吸収、食うこと)、そして“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して霊的成長していけ、それが“まつれまつれ”の意であると思う。
 それで前後するが“息すること此の世の初めのまつりぞ”は、“息”=自分の心(靈)、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことであり、“此の世の初めのまつり”というのは、この事象を“観察と認識”して、心(靈)が動き、息吹いていく、それがすべての生命(神であろうが悪魔であろうが人間であろうが下等生物であろうが)である、それは生命の使命、存在意義、であるの意を感じさせる文言である。


 次の文。

“おはりの御用は はじめの御用ぞ。 まつりの御用ぞ。 オワリノ十ノヤマにまつり呉れよ。 世につげて呉れよ”

 冒頭のひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“おはり”は、“江戸と尾張”のことであり、本能、情動、功名心、自我、までの心(靈)の発現を指す、そしてそれは“はじめの御用”、心(靈)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していずれは独り神(ひとりがみ、日取り神)になるが、まず自我がしっかり発現し強化されなければ、自分は自分であるという認識もない、そして自分の幸せを求めるという心の動きもはっきり発現しないからこそ、“はじめ”と称されているし、自我が発現しているからこそ自分以外の心(靈)と感応しうる、その感応が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対する“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応であったとしても(文中の“はじめの御用ぞ。 まつりの御用ぞ”)、それを通り越し、ローム太霊の言葉、右往左往して、自省(胸の磁性“十”)する、その過程において認識(悟り、幸取=さとり)を得るのが必須なのだ、の意味合いを感じさせる。
 次の“オワリノ十ノヤマ”は、
“オ”は生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“リ”は、生命根源の、張り、広がり
“ノ”は、延びる 広いところ の意
“十”は、胸の磁性“十”
“ノ”は、延びる 広いところ の意
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“マ”は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
となるので、第一帖で述べたように、夜明け、曰アけ、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現(肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ))、その台頭、と解することが出来得るし、このことが今全く理解されていない、その状況を見越して“上”である艮(うしとら)の金神は“世につげて呉れよ”と述べたと思う。

 これに続く次の文。

“役員 皆 宮つくれよ。 宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ。 一の宮、二の宮、三の宮と次々につくり呉れよ。 道場も幾らつくってもよいぞ”

 この文も、進化した生命(生きる使命=存在理由)である人(日止、霊止)が、“一二三”のオーラを発振、発信する、息吹くことを
“一の宮、二の宮、三の宮と次々につくり呉れ”
と称され、現時点の平均的地球人の“一”=智性=1番目のオーラは矮小であるが、これが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことにより大きくなるならばそれは、“役員”=次の事象の“創造”を担っていく人(日止、霊止)、ということになるので“役員 皆 宮つくれよ。 宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ”と言われているし、ことに“宮とは人民の申す宮でなくてもよい”というのは、神社など、本来“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を祀るべくものが、もうすでに“上”と感応する場(フィールド)ではなくなっている、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に利用され金儲けの道具に成り下がっているからでもある。 
(たった今ほとんどの神社仏閣には、高い存在は降りてきていない。 その理由は、参拝する人間、神職や僧侶が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、安易に御利益を求める心でしか息吹いていないからである)
それで“ほんとう”の意味合いでの“宮”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(“上”と“下”の回転を示す)であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止め、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とする、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、それそのものを指すし、そこに“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化という秘訣があるものである。
(だが、これを真摯に行っている人間はとても少ない)
 それで、自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“一二三”のオーラを発振、発信するならば、その霊的成長度における事象の“創造”&遭遇があるものであるから
“道場も幾らつくってもよい”
と言われており、この“道場”は、時間の進行、“道”、そして、場(フィールド)、現津(あきつ)、観察され得る事象、の意味合い、重複するが進化した生命(生きる使命=存在理由)はその霊的成長度における事象を“観察と認識”していく、それを指した文言である。


 次の文。

“神の申した事、なさば成るのざぞ。 宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ。 奥山にはオホカムツミの神様もまつり呉れよ。 守りは供へてから皆に下げて取らせよ”

 冒頭の“神の申した事、なさば成る”、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑通りになっていくの意で、今は程度の低い心(靈)の持ち主がその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により事象を“創造”しているが、そのままではダメ、それは神の思惑通りではないので、だからこそ霊的成長度の高低による区分けとしてのアセンションがあり、次の事象の“創造”を担うのは先に述べた“一二三”のオーラを発振、発信する“役員”であり、自らが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したなら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)とどんどん感応するという意味合いが“宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ”でもある。
 これに続く“奥山にはオホカムツミの神様もまつり呉れよ”の“奥山”は、これまで解釈してきたように目下(めした)の脳(大脳旧皮質と古皮質)で、そこに“オホカムツミの神様もまつり呉れ”、このカタカナ表記は、
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ホ”は、深き 高き 広き の意、それが備わったさま(穂=禾(のぎへん)と恵)
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“ツ”は、つづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“ミ”は、生命の幹 その現実
なので、“役員”は、これまでとは違う生命(生きる使命=存在理由)、“上”からの振動を止める(“ツ”)、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)(“ミ”)、その繁栄と台頭をしていく(“オ”“ホ”“カ”“ム”)のだと読み取ることが出来得る。
 これに続く“守りは供へてから皆に下げて取らせよ”は、“上”と感応して=“供へて”息吹け=“皆に下げて取らせよ”、の意、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意図して援護する=“守り”の意であり、“役員づら”の商売のためのお札やお守りのことではない。


 これに続く次の文。

“五柱、七柱、八柱、十柱、十六柱、二十五柱、三十三柱、三十六柱、四十七柱、四十八柱、四十九柱、五十柱、五十八柱、五十九柱、世の元ぞ”

 この文の解釈は“世の元ぞ”が肝要、これは現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”の“元”と解釈するのが妥当。 
 柱は画像で意味を示すが、その意味合いはやはり進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)ということでしかない。

柱の解字


 そして漢数字と“柱”のそれぞれの意味は、
“五柱”、五は糸巻の象形文字、進化した生命(生きる使命=存在理由)の神経は密になっているの意、
“七柱”、七は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、
“八柱”、これは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、
“十柱”、胸の磁性“十”、平均的地球人より進化した心(靈)(ヒ)、“慈悲”と“慈愛”の発現と強化、
“十六柱”、胸の磁性“十”と“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、
“二十五柱”、二は肉体(月(ツキ))、そして胸の磁性“十”、神経が密になった様の五、
“三十三柱”、“一二三”のオーラと“十”、“三”が二つ示されているのは、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の意、
“三十六柱”、“一二三”のオーラと胸の磁性“十”、“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、
“四十七柱”、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、胸の磁性“十”、七は“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、
“四十八柱”、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、胸の磁性“十”、八は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、
“四十九柱”、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、胸の磁性“十”、“九”は、○ 九 十の“九”、生命(生きる使命=存在理由)としての最終段階、人間のこと、
“五十柱”、五は神経が密になった様、胸の磁性“十”、
“五十八柱”、五は神経が密になった様、胸の磁性“十”、八は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、
“五十九柱”、五は神経が密になった様、胸の磁性“十”、“九”は、○ 九 十の“九”、生命(生きる使命=存在理由)としての最終段階、人間のこと、
と解することが出来、すべて今とは違う新しい事象の“創造”の“元”となる生命の意を示す表記である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 夜明けの巻 第九帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明けの巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天詞様まつれと申してあろが。 天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)とまつり奉れ。 奥山には御社(みやしろ)造りて、いつき奉(まつ)れ。 皆のうちにも祀れ。 天津日嗣皇尊 弥栄ましませ、弥栄ましませとおろがめよ。 おろがみ奉れ、天照皇大神様、天照大神様、月の大神様、すさなるの大神様、大国主の大神様もあつくまつりたたえよ。 奥山の前の富士に産土の大神様 祀れよ、宮いるぞ。 清めて祭れよ、タマの宮はその前横に移せよ。 奥の富士に国常立大神、豊雲野大神 祀る日 近うなりたぞ。 宮の扉あけておけよ。 臣民の住居(すまい)も同様ぞ。 大難小難にまつりかへて下されとお願ひするのざぞ。 取違ひ、お詫び申せよ、楽にしてやるぞ。 天の異変 気付けよ。
八月の五日、アメのひつ九の神。

 第九帖の要は“天津日嗣皇尊”(あまつひつぎすめらみこと)である。 その意味は画像で示すこととする。

天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)の解字


 これが何を指すのか、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、自らの磁性によって、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)に止める、止めるためには厳しい“行”(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化)をする、それは古神道の表記の“日止、霊止”の意であるとたびたび述べているが、この表記の“日嗣”(ひつぎ、ひつぐ)というのは、神、“創造”の“主(ヌシ)”、に対して“下”である人間、自分たちが観察しうる事象に天意を顕現する、そのための太陽凝視、厳しい太陽凝視を行って神の“思惑の顕現”=現象化をする、そのことでしかない。 
そしてそれは、ネット上に今も増えつつある不食等のご利益を強調してディスプレイ(動物の発情行動)中心の書き込みを行い、コピペ編集などでサイトを運営し、厳しい太陽凝視など思いもよらない霊的成長度のてんで低い人間が思っているそれではないことを、あえて述べておく。

 これを踏まえて本文の解釈に入る。

 冒頭の文。
“天詞様まつれと申してあろが。 天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)とまつり奉れ”

 “天詞様”は“上”と感応する人間、その資質を持つ“日止、霊止”のこと、それ自体が今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創った事象においては“ほんとう”に尊い、また、先に述べたように厳しい太陽凝視をして“上”の思惑を顕現する、それ事態が、霊的成長度の高い事象を人間に作らせる“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるからこそ、神として“まつり奉れ”ということ。

 次の文。
“奥山には御社(みやしろ)造りて、いつき奉(まつ)れ。 皆のうちにも祀れ”

“奥山”は大脳古皮質、本能や情動など低い心(靈)の中枢。
そこで発現するその心(靈)の動きは低い存在と感応しやすいが、ここに“上”の思惑を入れよ、の意が“奥山には御社(みやしろ)造りて”であり、自分が持っている本能や情動よりも高い心(靈)でその低い心(靈)を諌めよ、の意であることが感じ取れ、それは“上”との感応がとても価値があり尊いからこそ“いつき奉(まつ)れ”であり、この表記の“いつき”とは、“斎”、意味は、心身を清めて神に仕えること、あるいはそれをする人、または神を祭る所(斎場)、であるので、“上”と感応して低い心(靈)を諌めるのが霊的成長した“日止、霊止”であるとの意。 

 次の文。
“天津日嗣皇尊 弥栄ましませ、弥栄ましませとおろがめよ。 おろがみ奉れ、天照皇大神様、天照大神様、月の大神様、すさなるの大神様、大国主の大神様もあつくまつりたたえよ。 奥山の前の富士に産土の大神様 祀れよ、宮いるぞ”

冒頭の“天津日嗣皇尊 弥栄ましませ、弥栄ましませとおろがめよ”は、“上”の思惑を顕現すべく太陽凝視は、弥栄(いやさか)であるとの意だが、弥栄(いやさか)の“弥”この旧字“彌”については、以前画像を作ったのでそれで意味を示す。

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


 
要は、“日止、霊止”の進化の仕組みである、弓、背骨、その磁性によるローレンツ力 ローレンツ力 で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、それが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できた“玉(ぎょく)”であり、それ自体が神の“思惑の顕現”と人の“思惑の顕現”であるとの意、それが栄えるのが、進化そのものであり、たった今の腐った事象とは異なるからこそ“弥栄ましませ、弥栄ましませ”の“ましませ”、必ずそう成してくれ、の意であり、それ自体が貴いからこそ“おろがめよ”である。
 またそれには“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みが必須であるので“天照皇大神様、天照大神様、月の大神様”、これは太陽と月のことであるが、それを取り込む具体的な方法をあえて述べるまでも無い。 
なお、“天照皇大神様、天照大神様”の“皇”のあるなしは、振動の高低を示しており、太陽が送って来る振動にも、本能、情動、功名心、自我、を構成する振動もあるし、それより“上”の、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、そして自省(胸の磁性“十”)を促す振動、その違いを指したものであると思われる。
 これに続く“すさなるの大神様、大国主の大神様”というのは、“すさなる”が、“上”の振動を取り込む仕組みそのもの、これについても以前画像を作ったのでそれで意味を示す。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字



 そして“大国主の大神様もあつくまつりたたえよ”の“大国主”は、神名というよりも、人間が手足を広げた様を指す“大”そして“国”、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“主(ヌシ)”は“主護霊”のそれでもあるが、“一二三”のオーラと縦の磁性(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))とローレンツ力 ローレンツ力 を示し、それは個々の生命が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる仕組みを指すものでもある。

主(ヌシ)の解字

 よって“すさなるの大神様、大国主の大神様”とは、“上”からの振動を指す“天照皇大神様、天照大神様、月の大神様”を顕現する資質を指すものであると結論付けることが出来得るし、それは次の“奥山の前の富士に産土の大神様 祀れよ、宮いるぞ”に続いており、“奥山の前の富士”とは、大脳古皮質の前であり、その“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道であるので、肉体の正面の“富士(二二)”であるといい得るし、これに続く“産土の大神様 祀れよ、宮いるぞ”は、“産土”(氏神)が生まれてから死ぬまでの肉体の管理をしているものであるし、“宮”の表記は、宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで=感応した上での、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現を示しており、智性(神性)が発現すべく肉体(月(ツキ))になってくれの意が“宮いるぞ”である。

 次の文。
“清めて祭れよ、タマの宮はその前横に移せよ”

 この文の“タマ”は、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をする生命(生きる使命=存在理由)であり、“その前横に”は、先の“奥山の前の富士”であるので、“奥山の前の富士”が進化の秘訣であるならば“その前横”とは、そこに台頭せよ、顕現せよ、そういった生命(生きる使命=存在理由)になれよ、さらに前述した“宮”の意であると思える。

 次の文。
“奥の富士に国常立大神、豊雲野大神 祀る日 近うなりたぞ。 宮の扉あけておけよ。 臣民の住居(すまい)も同様ぞ”

 この文の“奥の富士”に関しては前述した通り、そして“国常立大神、豊雲野大神”の“国常立”と“豊雲野”は、以前、“日月神示
”日月の巻 第十帖で詳細に解釈したので簡単に述べるが、“国”が“常”に“立”は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が常であるの意だし、“豊”“雲”“野”は、“雲”が“上”からの振動を指す“雨”と肉体を指す“二”、それを取り込む厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)で構成され、“野”は、画像で意味を示すこととする。

野の解字 (富士の巻 十七帖)

 よって“奥の富士に国常立大神、豊雲野大神 祀る日 近うなりたぞ”は、やはり進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命(生きる使命=存在理由)は…という説明であり、これに続く“宮の扉あけておけよ。 臣民の住居(すまい)も同様ぞ”は、“上”からの振動を取り込むための用意をせよ、心構えをせよ、その心構えは“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるのだ、の意をくみ取れるし、“上”からの振動を取り込める肉体の意が“宮”と“臣民の住居(すまい)”であると思える。

 最後の文。
“大難小難にまつりかへて下されとお願ひするのざぞ。 取違ひ、お詫び申せよ、楽にしてやるぞ。 天の異変 気付けよ”
 
 これまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”してきたたった今の事象は“大難”だらけであるが、人が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“上”と感応するならば“小難”になる、そして自我の肥大(“石屋の仕組み”)をしている人間は“取違ひ、お詫び申せよ”=“改心”せよ、であるし、これに続く“天の異変 気付けよ”は、“上”の思惑に気付け、“上”からの振動の降り注ぎに気付け、それはこれから“神烈しく(はげしく)”となる、それがあって“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はどんどん馬脚を露呈し、さらに程度の低い人間の行動による結果としての恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は進み、それを見た個々の心(靈)(ヒ)は何を思うべきなのか、今後の自分はどう在るべきか鑑みよ、の意であると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 夜明けの巻 第十帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明けの巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

元津大神、心の中で唱へ奉り、スメラミコト唱へ、次に声高く天津日嗣皇ミコト大神唱へ、天のひつくの大神と唱へ奉れ。
タマの宮は、かむながら祝詞でよいぞ。 一二三(ひふみ)のりともよいぞ、シメは当分造りめぐらしてもよいぞ。
今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ。
七五三は逆ざぞ。 三五七ざぞ。 天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ。
八月の六日、アメのひつ九の神。

 この第十帖は、文面を見ると第九帖の続きであるかのように見えるが、少々意味合いが違う。
 第九帖で解釈した“天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)”、この“天津日嗣皇尊”を尊く厳しい太陽凝視、不食等ご利益を求める太陽凝視ごっこではないことを述べたし、この厳しい“行”をしていくならば、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化(ことに目上(めうえ)の脳)となり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止め(“日止、霊止”の表記の意味)て、神の“思惑の顕現”、現津(あきつ)、観察され得る事象に対する現象化をしていくものであると述べたが、今回の文言は最初に、

“元津大神、心の中で唱へ奉り、スメラミコト唱へ、次に声高く天津日嗣皇ミコト大神唱へ、天のひつくの大神と唱へ奉れ”

と述べられており、まず“元津大神”が何の意味を示しているか、であるが、“元”は、肉体(月(ツキ))を示す“二”そして時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)、“津”は中心の意味合い、“大神”の大は人が手足を広げた様、であるので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく生命(生きる使命=存在理由)、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を歩むべき“日止、霊止”、これを思い描け=“心の中で唱へ奉り”、それはまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、と冒頭で述べられており、これに続く、

“スメラミコト唱へ”

の“スメラ”は、

“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意

であり、“ラ”は意味通り、“メ”も生命が行っていることと解釈するが、ことに“ス”の意味に着目すれば、何が御統、統一(ミスマル)なのか、何を御統、統一(ミスマル)するか、は、“上”からの荷電粒子の高低、低い振動しか止められないのが人以下のけものや魚、爬虫類、両生類、あるいは無脊椎(|(たてぼう、こん、縦の磁性))の発現が弱い)の下等生物などであり、人間においても“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、ことに目上(めうえ)の脳がしっかりしていなければ、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意は、素通りしているものである。
だからこそ、低い振動と感応している生命は人間であっても低く“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、またそれは腹までの進化、“江戸と尾張”、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)なので、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度になる。
よって、“上”から贈り送られて来る振動、それは高低があり“上”から“下”までの振動があるが、これをすべて自らの心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に止め、御統、統一(ミスマル)するならば、それは、神の思惑を顕現すべき生命(生きる使命=存在理由)であると、読み取るべきである。
そして、これに続く“ミコト”は、

“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心

であるので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて生命(生きる使命=存在理由)と成していること、その振動は一切の事象に関与している、すべてが神の振動によってなされているの意が“コ”から読み取れるものでもある。
それで“スメラミコト唱え”であるから、上記の事柄を意識して心(靈)の中におき、その上で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“唱え”とせよ、の意味合いである。

 これに続く、

“次に声高く天津日嗣皇ミコト大神唱へ、天のひつくの大神と唱へ奉れ”

この“天津日嗣皇”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、ことに太陽凝視で獲得する振動を“嗣”(うけつぐの意)として、それを顕現せよ、の意味合いであり、これに続く“ミコト”は前述した通り、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの振動を止めて生命(生きる使命=存在理由)としてこの事象で神の思惑を顕現せよ、であり、これに続く“天のひつく”も、高い振動を取り込む厳しい太陽凝視(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)であり、これらのことも十分意識して“唱え”=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、と称されている。

 これに続く次の文。

“タマの宮は、かむながら祝詞でよいぞ。 一二三(ひふみ)のりともよいぞ、シメは当分造りめぐらしてもよいぞ”

 この文の“タマの宮”は、第九帖でも登場しており、その意味は、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
そして“宮”であるから、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、宀(うかんむり、頭の意味)と呂(回転の意)で示される智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現であり、それが“タマ”の意、それを“かむながら祝詞”、“一二三(ひふみ)のりと”、これを“よいぞ”といわれているのは、“かむながら”は神と共にありの意、“一二三”はいうまでもなく1番目、2番目、3番目のオーラであるので、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をともなった息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“祝詞”“のりと”せよ、の意、それが“よいぞ”の意味合いである。

 これに続く、

“シメは当分造りめぐらしてもよいぞ。
今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ”

この文中の“シメ”は、
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
であるので、生命活動といい得る事象の“観察と認識”であり、その点で、“当分造りめぐらし”は、これからも進化して、自らの霊的成長度が高まっていったなら観察しうる事象は変容するの意であり、“今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから”は、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を歩んでいる“此の方等”は、今大多数の人間(生命としての人間)が、低い振動としか感応していないのでこの事象は腐っており、その結果、“今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから”となっていることを言い表しており、それではダメだの意で“シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ”、これは先の“元津”そして“誠”、すべての生命、すべての事象に対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であれ、いうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の不誠実さを否定した言い回しでもある。

 次の文。

“七五三は逆ざぞ。 三五七ざぞ。 天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ”

ここで示されている“三五七”の“三”は、“一二三”のオーラ。
“五”は、糸巻の象形文字、神経が密になった(羅)生命(生きる使命=存在理由)のこと。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間の思想と行動といえるので、“七五三は逆ざぞ”は、神の思惑を顕現する“七”から述べるのは間違いで、人が“日止、霊止”になるには、先の“天津日嗣皇”、これを“ミコト”とする、“天のひつく”を行じて、“一”=智性=1番目のオーラを発現し、その過程で神経は密になり“羅(般若心経の“波羅密”の羅)”、その上で天意と感応してそれを事象に顕現するの意が“三五七ざぞ”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した“日止、霊止”と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は、神の思惑を息吹くの意が、これに続く“(これから、今後=アセンション後の)天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ”である。

 それで第十帖を要約するならば、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の思惑を顕現すべく“日止、霊止”というものを思い浮かべ、それを息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)として“天津日嗣皇”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“タマの宮”を自らに構築して“上”と感応してまっとうな生命(生きる使命=存在理由)というものを顕現(“シメ”)せよ

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。 今度はみづ逆さにもどるのざから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。 時待てと申してあろが。
人民 大変な取違ひしてゐるぞ。 次の世の型 急ぐ急ぐ。
八月六日、アメのひつぐのかみ。
神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘で、終局(りんどまり)ぞ。 我(われ)が我(われ)ががとれたら判って来るぞ。 慢心おそろしいぞ。

 冒頭の、

“岩戸開きのはじめの幕 開いたばかり”

これは、たった今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、これが中心の心(靈)であるが、岩戸開きは、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我より“上”の心(靈)の発現、胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”、チャネラーが使う言葉としては第三密度(腹までの心(靈)の発現)から第四密度(胸までの心(靈)の発現)への移行、こう変容していくのがまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)だが、それが“はじめの幕 開いたばかり”、始まったばかりなのだ、と称されている。

 これに続く、

“今度はみづ逆さにもどるのざから、人民の力ばかりでは成就せんぞ”

この文の“みづ”、これは古語で、水、瑞(若々しくて生き生きと美しい、めでたいしるし、瑞兆)の意があるが、すでに解釈した水の巻の表記の、“三 (みず)”をあてるのが妥当だと思う。 その意味は、“三”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組みをも表す、よって“三 (みず)”は生命(生きる使命=存在理由)と、その進化の仕組みすらも表している表記。
 これを踏まえ“今度はみづ逆さにもどる”を観ると、次の事象は、“みづ逆さにもどる”、これはたった今の地球人の進化は“一”=智性=1番目のオーラが小さく、2~3番目のオーラ中心の進化であるが、“今度”=今後=アセンション後は、1番目のオーラ中心の進化になっていくことを示唆した言い回しであり、今の地球人は、2~3番目のオーラ中心の進化、その心(靈)での低い思惑でこの事象を“創造”しているが、これが“逆さにもどる”とは、今後=アセンション後は、神の思惑“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、をしっかり止める(“日止、霊止”)“一”=智性=1番目のオーラが大きい心(靈)が、事象を“創造”していくのだということを示し、それは今の事象の“創造”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)中心だったが、これからはまっとうな事象、神の思惑が顕現する事象になる、そういった意味の文言である。 この文だけではオーラのことが解りにくいだろうから、以前作った平均的地球人のオーラの構成と、“一”=智性=1番目のオーラ中心の進化のオーラの画像を貼っておく。


“一二三”のオーラと心(靈)の発現

 
アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成


 これに続く、

“奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。 時待てと申してあろが”

これは“奥の神界”=神の思惑としては、先の“みづ逆さにもどる”、天意を顕現すべく霊的成長度の人が“創造”する事象、これをもくろんでいる、神の計画としているが、それは“道”(時間の進行)と共に、“理(ミチ)”(法則性)は顕現していく、要はまだ顕現していないので“中の神界では今最中ざ”、“上”から“下”へ顕現する過程を示しているので、このことを理解した人間は(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しながら)“時待て”、と言われている。

 これに続く次の文、

“人民 大変な取違ひしてゐるぞ。 次の世の型 急ぐ急ぐ。
八月六日、アメのひつぐのかみ。
神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘で、終局(りんどまり)ぞ。 我(われ)が我(われ)ががとれたら判って来るぞ。 慢心おそろしいぞ”

これは平均的地球人の進化の段階における認識では、“大変な取違ひ”をするものであり、“役員づら”の台頭、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍、ということが起きていることは幾度となく述べてきたが、それを諌める言い方と取るのが妥当であり、先の画像で示した通り今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“一”=智性=1番目のオーラ中心の進化になっていくので、“次の世の型 急ぐ急ぐ”、“一”=智性=1番目のオーラを立派にする具体的な方法は艮(うしとら)の金神はすでに伝えている(朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け))のだから“急ぐ急ぐ”と言われている。
 そしてたった今の地球人の認識、“上”と感応していない、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応している“下”(低い心(靈))における“智や学でやろう”では“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する世界のままで、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が許さない。
だから、“上”と感応せよ、“神示”を自らの認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、の意で“神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘で、終局(りんどまり)ぞ”と称され、“我(われ)が我(われ)ががとれたら判って来る”、いうまでもなく自分の自我を低いと認識していくならば、それがまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、自分の利益中心に考える、自分のことだけ考える、これが習慣になっている地球人は次の段階に移行する資格なし、それは“九分九厘で、終局(りんどまり)”なので、自分が“慢心”していることに気付いてそれを諌めることをする、これが“判って来るぞ”の意味であり、もう一つそれは“日月神示”の表記でよく使われる“秋立つ”の意でもあり、その意味で“慢心おそろしいぞ”、自らの自我を諌めよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、の意である。

“秋立つ”の解釈と解字

今回はこれくらいにしときまんねん。





“日月神示” 夜明けの巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。
申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。
一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。 覚悟よいか。 待ちに待ちにし秋来たぞ。
八月の七日、アメのひつくのかみ。
ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ、八月八日、秋立つ日、アメの一二のおほかみ。

 冒頭の、

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり”

これは、“元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり”から読んで行けば理解しやすく、たった今の事象は“元津御神の御光の、輝く御代”ではない、だがそれが近づいてくるならば“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”となっていくの意である。
 それで“元津御神”は、第十帖の“元津大神”の“元津”と同義、その“御光”であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、と同義。
 それを取り込み、心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に止めた“日止、霊止”が創造する事象、それが“輝く御代”となる。
 “あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。
 もうひとつ、古事記表記の「あな手伸し」は、胸の磁性“十”の水平磁場、岩戸をひらいた天手力男神(アメノタヂカラオ)の手も、肉体(月(ツキ))内の水平磁場(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射)に必須のこと)を示したものであると思う。

 これに続く次の文も霊的成長を示唆したものであると思う。

“岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ”

 岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことであり、自我から“上”の心(靈)の発現をしていくことは幾度となく述べてきた。
 そしてそれは、心(靈)の在り方でもあるのだが、自分が自省(胸の磁性“十”)しようと思っていても、情動と感応する“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在は多いし、その“下”の存在を増して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻んでいるのが悪魔の思惑の一つでもある。 
その“下”との感応、悪魔の思惑に嵌らないためにも、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化ということがあり、ことに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の部位である目上(めうえ)の脳が進化する様を示す表記、“野”、これは以下に画像で意味を示す。

“秋立つ”の解釈と解字


 
 そして“山”は、(高分子化したタンパク質、自凝(おのころ)の仕組みの極致といいうる)脳そのものを示す。
 それで“岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ”の意味は、自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くならば、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳に“草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ”、“草の片葉(かきは)”は、統一されていないさま、そよぐさま、“言(こと)止(や)めて”は、統一されてないから程度の低いものと感応し、統一に背く、それを示していると思われ、それが“大御光に寄り集ふ”は、統一され結晶化されていくさまを示していると思われ、それは肉体(月(ツキ))の電気特性の変容でもあり、その変容により=“身魂磨き”により、“上”と感応して自分の低い心(靈)、本能、情動、功名心、自我、を、諌めて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くのだ、それを示しているのだと思える。
 そういった人、そういった心(靈)ならば“誠の御代ぞ楽しけれ”という事象になり、それは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を体現し、理念としており、またそれは、不誠実でもなく“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”もいない、幾度となく述べてきている霊的成長度の高低における区分けが成された事象を示しているものである。

 これに続く次の文。

“今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。
申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ”

 この文の“目出度けれ”、これは「めでたい」に、已然形(いぜんけい)または仮定形(かていけい)の“けれ”なので、こうなっていく、目出度くなる、の意だが、これも相対的な言い回しで、たった今が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)あるいはある程度霊的成長を果たした心(靈)から観るならば“目出度けれ”ではないからであり、“目出度けれ”になっていく過程として“今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど”と称され、それは先に述べた“誠の御代ぞ楽しけれ”という事象になっていくのだからこそ“楽しき苦労ぞ”であり、“申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年”は、時の移り変わり、“道”(時間の進行)であり、最後の“子の年”は、干支の始まりが“子の年”なので、これまでとは違う時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)の移り変わりであるということである。

 次の文。

“一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。 覚悟よいか。 待ちに待ちにし秋来たぞ”

 いうまでもなく“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラであり、霊的成長そのものをさすが、その“裏の御用”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”ではなく、業務の業、いわゆる生業(なりわい)であり、これは先の“誠の御代ぞ楽しけれ”を強調した言い回しであると思え、なぜならばそれは、たった今が不誠実な事象、不誠実な業務の業、不誠実な生業(なりわい)を行っている者がほとんどだからである。 (通貨としての)金と形骸の権威や名誉、程度の低い人間ほど家柄とか自分たちの(程度の低いものが程度の低いものを褒めそやした)功績とかを示威し、示威する心(靈)の動きが自我の肥大(“石屋の仕組み”)なのだということも知り得ない、ただただ自分たちは偉いのだと思い込んでいる大ばか者は多すぎる感があり、そんなものは“上”から観たらゴミに等しいし、“上”の評価の対象には成り得ない、なるはずもない。
 このことを“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す者ならば、よく知っておかねばならない。
 その意味合いで“待ちに待ちにし秋”、自省(胸の磁性“十”)した人間が台頭する事象“誠の御代”になっていくのだと示され、“その覚悟せよ。 覚悟よいか”は、自我の肥大した人間に対し、これまで通りにはいかないのだ、“上”は自我の肥大を許さないのだ、の言い回しである。

 最後に述べられている以下の文。

“ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ、八月八日、秋立つ日”

 これは太祝詞(ふとのりと)であるが、これを唱え“上”と感応せよ、そうすれば“秋立つ”=自省(胸の磁性“十”)の“行”に入っていくものであるし、“八月八日”の“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、であり、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあるので、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”である人間が合致した“誠の御代”になっていく、それを強調したものであると思えるし、たった今の事象は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と人間の“下”(低い心(靈))との感応による“思惑の顕現”=現象化が台頭しているからこそ“元津御神の御光の、輝く御代”そして“誠の御代”には到底程およばない腐った事象であることを蛇足ながら述べておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


 

“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その一”

  今回は、第十三帖に描かれている以下の画像の解釈をさせてもらう。  
 次回、本文の解釈をさせてもらうこととする 

夜明の巻第十三帖

“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、夜明の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。 あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。
取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。 祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。 天明まつりの真似するでないぞ。 役員まつりせい。 何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。 仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。 天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ。 口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか。
今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。
イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。 今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 
神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ。 悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ。 
神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。 愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ。 実身掃除せよ。 ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ。 ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ。 
まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。 神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ。 信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。 みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ。 
「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」
 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。 
此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。
 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす。

 冒頭の文。
“あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。 あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが”

 これは、さきに解釈した第十二帖の
“あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり…中略…大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ”
これを強調した言い回し、そして今の世、たった今の事象が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている低い事象、それが変わってくる、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人よりも、“上”である岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことをある程度成した人=“”をした霊的成長度の高い人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”される事象=“世”になるからこそ“すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり”であり、その事象そのものが“世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり”である。 そして“此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてある”は、“此の神示の臣民”=次の事象の“創造”に携わる心(靈)の資質と霊的成長度を持つ人と、その人に感応する霊的存在を指すが、これも相対的な言い回しで、これまでは自我の確立=固定化の進化過程における“上”の感応、これが平均的地球人の霊的成長といえるけれども、今後=アセンション後は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことをした人に対する“上”の感応ということになる。
 要は、これまでの“上”の感応よりは、レベルアップした“上”が感応するの意であると思える。

 次の文。
“取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。 祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。 天明まつりの真似するでないぞ。 役員まつりせい。 何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。 仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。 天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ。 口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか。
今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”

 たった今の事象は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の台頭で、“上”との感応である“まつり”の意味や意義を理解できないし、形骸の儀式でしかない“祭典(まつり)”が当たり前であるという認識でしかない。 当然のことながらこの低い認識の持ち主では次の事象の“創造”に参加する資質は無い。
 幾度となく述べてきたように、人の霊的成長には“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が必須、そして“上”と感応する息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は自分の在り方によるものであり、何を思い何を考え何を追求しなければならないか、また自らと遭遇する事象に対し何を感じ(感じる磁性)何を考えるべきか、常にこれに留意しなければならないものである。
 冒頭で述べられているように“取違ひ慢心一等恐い”、これは自我の肥大(“石屋の仕組み”)による心(靈)の動きで“取り違ひ”=“上”の思惑を書き換え、“慢心”=“取り違ひ”を受け入れそれを褒めそやし、低い功名心で“取り違ひ”の教義みたいなものを尊び喜んで雰囲気だけに酔っぱらっている“ブタのけつを見ているアホ”これが大多数を占めているのがたった今の腐った事象、“われよし”“自己奉
仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、その低い振動で“創造”された事象である。
 そのことに気付けの意味合いで“祭典(まつり)、国民服もんぺでもよい”、形骸の儀式などに対して意義がないから、当たり前の服装で臨んでもよい、ということでもあり、“天明まつりの真似するでない”は、“上”との感応は“真似”ではなく、“行”を重ね“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を自らの意志で進め、自らの肉体(月(ツキ))の磁性が強化されてそのローレンツ力 ローレンツ力 のたかまりにおいて“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込むことをする、そして荷電粒子自体が情報を含む=神の思惑であるので、それと感応するべく資質を持たなければならないのだ、の意である。 その意味合いで“役員まつりせい”、次の事象の“創造”に関わる、その資質を持つ、その霊的成長度、“上”が認める“役員”は、“上”と感応せよ、である。
 これに続く“何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか”これは今取り上げている文言の“口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか”にかかる言い回し。
 “役員づら”は、“日月神示”に対し(当然のことながら“日月神示”だけではないが)、勝手な解釈をして吹聴し、利用して金儲けをしており、間違った程度の低い解釈を流布してそれを世に広めること自体が悪魔の思惑であることに気付いていないし、“役員づら”の解釈を受け入れている程度の低い人間自体も、自分たちが悪魔の思惑通りになっていることに気付きもしないという現状があるから、“口先ばかりでは悪となる”と称されている。
 要は、低い解釈をする人間は先の“取違ひ慢心”であり、それは不誠実である、“上”に対する冒涜である、これに気付けの意味合いで“口先ばかりでなく、誠祈れ”、真摯に追い求め、自分と神の関係を深く鑑みよ、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”を流布するな、勝手な解釈や憶測を述べるな、“ほんとう”の解釈をする霊的成長度の高い人間=“役員”に委ねよ、の意味合いである。
 それで前後するが“仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ”、この“仕へる者無き宮”とは、“役員づら”が祀り上げている賽銭を徴取する目的の神社仏閣のことではなく、人が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“上”と感応して“宮”(宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(荷電粒子の回転の意))となれ、の意であり、“産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ”、“産土”は、人の誕生から死に至るまでを管轄する土地の神、氏神であり、その“横下にいくら祀ってもよい”は、“上”と感応する人間をたくさんにするのだ、の意であると思える。
 もうひとつ“天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ”、これは岡本天命自身が“上”と感応せよ、の意味合いと、その時々の情勢という者をよく鑑みて息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)せよの意味合いで“引潮”“満潮”と称されており、“大難小難にと役員も祈れ”は、アセンションに移行する際におきる醜い事象に対してのことであり、霊的成長度が進んだ人間が増えるならば“大難”は“小難”に成り得るのだ、という意味合い。

 次の文。
“今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”

 この“借銭”については今まで幾度か出てきた表記であり、これについては、
地つ巻 第八帖が解りやすいので以下にコピペしておく。  


“祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。”

 この文の表記の“借銭”っていうのんは、(通貨としての)金のことを言っているのではない。 それはこの文自体の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”に示されている。
 そやからこの文の言い回しを考えれば、銭を借りるっていうのんは、助けてもらうとか力を加えてもらうって考えれば分かりやすいし、またこの言い回しには別の意味も感じられ、それは、恨みの連鎖の霊的干渉のことも言っていると思われるし、それがこの文の“祓ひせよ”に示されていると思える。 
 まず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が助けるとか力を加えるとかのことから解釈を述べるけど、それは地球人が進化程度が低く、力不足だから、“上”は力を加えてきた。 
それは表現を変えれば、地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかったともいえるし、“上”の介入はいうまでもなく憑依現象であり、“上”は地球人の進化のため、憑依現象でいろんなことを教えたり指導してきたりもしてきた。 
そうやって政治や宗教や科学や学問や、文明を構築してきたりもしたし、もっと低いことではスポーツなんかの現象もある。
余談になるけれど、重要なことだから補足しておくけど、すべての事象には霊的干渉の無いものは無いってことでもある。 常に人は、自分にどんな霊的干渉が起きているのか意識しなければならず、その霊的干渉は自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって起きていることも深く考えるべきである。
本題に戻り、宗教はちょっと別の意味合いもあるけれど、政治、科学、学問、スポーツなんか、あらゆることに自分が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示したいって思うのは、愛(炁)が動機のこと。 簡単に言えば自分の理想を実現したいとか幸せになりたいとか思うことが、愛(炁)が動機のこと。
だから人(日止、霊止)は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、力を示し、“術”(“力”の顕現)を獲得してきたけど、科学や政治や学問やスポーツが“術”(“力”の顕現)って認識は一般に無い。 
それは“術”って言葉に、甘い(亜、魔、出ずる、泉)幻想を抱いているからや。 
また“術”が、憑依現象による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現で、それは一般の認識、甘い幻想の、仙人の術とか天狗とか導士とか、魔法とか魔術とかだけではない。
そやからそれは、ローム太霊さんはローム太霊講話集でも、S会=紫光会の交霊会でも、“術”(“力”の顕現)については霊的干渉であり、自分の思い(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による霊的存在の憑依や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による現象化であることを述べている。 
またそこには、自分がエネルギーを贖わないと、高い存在は力を貸してくれないっていうとても大事なことが述べられている。 
これはきわめて重要な法則性でもあるし、また、“力”を獲得した人が、どう在るべきなのかを感じさせるものでもあるし、ローム太霊さんはそのことまでローム太霊講話集で述べており、それはまたS会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”(この事象に対する奉仕)にも顕れているものである。 
そして、ローム太霊講話集を読んだ人やS会=紫光会の交霊会に出席した人でも、そのことに気づいている人はあまりいないっていうのが、自分以外のS会=紫光会の会員に会い、話をした、○○○大先生の感想でもある。
そやからそれは、そこに自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきなのか深く思わされるものであるけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)は、その“力”って物を自分のためにしか使わないし、その心(靈)の動きの裏には(通貨としての)金があり、物欲があり、目先の欲望があり、それにとらわれている人は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることを何度もいうてきた。 それが自我の肥大、“石屋の仕組み”でもある。
だから自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わないことを、この文では“借銭”と称されていて、本来“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人(日止、霊止)に加えた“力”は、よい世界の創造のために行使するもんや。 決して自分だけの利益に使うものではないって当たり前のこと何やけど、進化程度の低い地球人はそのことすら真剣に考えたことが無い。
そやからそれは、こういう言い回しも今まで何回もしてきたけど、大半の地球人の霊的進化程度は低いし、だからものの見方が低いし、それは○○○大先生の言葉を引用すれば、“事象を観察する視野が狭い”ってことになるし、そしてそれはただ認識が低い=霊的に低いってことになる。 
だから、ただただ霊的なことや、術って言葉にも、甘い夢を見る現世利益みたいなことしか求めてない人が多い。 
そやからそれは前後するけど、S会=紫光会の会員でもそうやったってことでもあるし、○○○大先生が一冊目の本(ローム太霊との出会い)を出版して、ローム太霊講話集を読んだ人からも連絡やメールをもらったりして100人以上の人と話をしたんやけど、“術”(“力”の顕現)は憑依現象による“思惑の顕現”=現象化であり、それには自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が大事であるなんて認識を持っていた人は、ほとんどいなかったし、自分が頑張って(元の気を張って)発振、発信しなければ“上”は力を加えてくれないってことすら感じていない人が多かった。
ほんでから憑依現象っていうのんは、地球人の進化過程は現時点、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンなのだから、霊媒体質の人が多く、何かの霊現象や“上”から通信を受けて発明や発見をしたとしても、スポーツなんかで力や技を示したとしても、それは低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現でもあった。
そして霊媒体質の憑依現象は自分の心をのっとられることも多いし、さらに低い功名心や自尊心=自我の拡大、それは偏ったマニピューラチャクラの機能ともいいうるけど、自分の低い心(靈)に自分自身がとらわれることもとても多いものや。
そやから“力”の使い方を間違えて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になり、失敗の人生を送る(右往左往)。
そやけど今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化してマニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒段階に至り、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”できるようになれば、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方と、“術”(“力”の顕現)をどう行使したらよいのか考える智性(“一”、1番目のオーラ)を持つようになる。
この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程があれば、もう間違った“創造”はしないし、それは先ほど述べた自己奉仕者の力の使い方である“借銭”ではなく、そこには当然“上”が“創造”の法則性を示す意味での“神の咎め”はなくなるってことになる。  
それがこの文の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”であり、そして今、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉は盛んになっている。 
それは心(靈)に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としてまず、砌(みぎり)の極性が強くなるからこそ現時点の地球人は自我の肥大って霊的成長度でもある。
しかし自我の肥大って心(靈)の動きによる事象の“創造”は、他者の幸福を考えず、自分が位置する全体としての場(フィールド)のよいカタチを思わないから、“日月神示”では“われよし”と言われているし、それは“創造”の“主(ヌシ)”が人に託した“創造”のよいカタチではないからこそ、“神の咎め”として法則性を“上”は教える。
そしてそれがアセンションに伴う醜い事象そのものであり、それを体験した自我の肥大って進化程度の人は、自省(胸の磁性“十”)をするって今まで何度もいうてきた。
そして自省(胸の磁性“十”)って心を持ったならば、もう醜い事象を体験する理由がなくなる。 だからこの文で“世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ”と言われ、もう“上”が霊媒体質の人に憑依しなくても、自分たちが高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、その上で獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)で、自己奉仕者の力の使い方ではなく、S会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”を理念として、今後=アセンション後はよいカタチの“創造”をしていくことが出来るし、それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は望んでいるってことが言われている文章だと思われる。


 引用終わり。 
 よって“今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”というのは、今までは“地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかった”のだが、今後=アセンション後は、誰もがしっかりとした思想を持ち、誰にとってもどんな人にとっても良い条件の事象を“創造”する、そのための“力”の使い方をする、当然霊的成長しているから先に述べたレベルアップした“上”との感応があり、またそれは憑依ではなく自らの思想となるものであり、
その思想の顕現ゆえの事象となる、だが、そうなるためには“苦し行せなならん”であるし、その資質を持たなければ“お土の上には住めん事”と述べられている。

 次の文。
“イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。 今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 
神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ。 悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ”

 この文の“イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できる”。
まず“イシの人”については、“イ”が、生気生命の発生力、“シ”は、弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ、であるので、高い振動=弱き光と感得しうる振動、高振動での生命(生きる使命=存在理由)となるの意。
 “キの人”は、“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、であるので、“上”から“下”=天地の振動を取り込み顕現する生命(生きる使命=存在理由)の意。
 “ヒの人”は、“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。なので、現津(あきつ)、観察され得る事象の根源=すべての物の根、これを発振、発信する、息吹く、これまでとは違う事象を“創造”する生命(生きる使命=存在理由)の意。
 “ミヅの人”は、水の巻、三ローレンツ力と ○ (みず)の○キ、の“三ローレンツ力と ○ ”。
 “三ローレンツ力と ○ ”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組みをも表すので、今の地球人よりも“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)ある人間の意。
 これに続く“今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ”、この“チリチリバラバラに一時はなる”は、たった今の事象においては低いものが寄り集まり、それはこの後に出て来る“まどゐ”=人々が輪になって座ること、車座(くるまざ)団欒(だんらん)、この場合は“役員づら”とそれに迎合する集団のこと、でもあるが、次の事象の“創造”を担う資質のある人は、たった今は“チリチリバラバラ”これに“一時はなる”、これは孤立無援で四面楚歌に追い込まれるが、それも神の思惑としての試練であるし、それに耐え、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)を待て、“上”に委ねよ=“その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるな”であり、それまでに自分の認識を高めておけ=“神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下され”である。

 次の文。
“悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ”

 この第十三帖そのものが、霊的成長度の低い“役員づら”とそれに迎合する信者みたいな人間に対するメッセージの部分が多い、“役員づら”の解釈が“取り違ひ”“慢心”であることに気付け、でもあるし、“日月神示”を“ほんとう”に理解しうる人間ならば、その霊的成長度ならば“悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ”である。  
これに続く“神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが”は解釈の要なし。
これに続く“天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ”は、“上”の思惑を自動書記で記すのが岡本天命の使命なので、それ以上のことを思うな、程度の低い人間は褒めそやすだろうが、それは“役員づら”の手法だからおだてに乗るな、の意。
これに続く“役員 気付けて呉れ”は、“役員づら”の手法に乗るな、気を付けろ、の意と、“上”と感応して高い振動を取り込め=“気”“付けて呉れよ”である。

次の文。
“神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。 愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ。 実身掃除せよ。 ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ。 ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ”

 この文の“ミ身”そして“実身”この表記の意味が肝要で、カタカナの“ミ”は生命の幹 その現実、の意があり、漢字の“身”は、現界に居る肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意であり、“実”は、実った様、あるいは偽物ではないもの、真に意味と意義のあるものの意であると思える。
 よって文中の“神示の代りにミ身に知らす”は、“日月神示”の文言そのものではなく、“上”の思惑を、生命(生きる使命=存在理由)である(“ミ”)と肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)に荷電粒子で送る、その時期が近づいたので“愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ”であり、その荷電粒子、高い振動と感応すべく資質を作っておけよの意で“実身掃除せよ”、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してしっかり“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止められる肉体(月(ツキ))を作り、当然心(靈)の発現も自我から“上”の強化が成されているから、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ていなければならず、そうならば、そこまでの資質が整っているならば、“ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を伝えるぞ、であり、それは今後=アセンション後の事象に位置する心(靈)には必須のことであるからこそ“聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ”であるし、たった今、自我の確立=固定化を促す振動に満ち満ちているこの事象では、“取違ひ”“慢心”しやすいからこそ“ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか”である。
 これに続く“百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ”は、それぞれの使命、氏名は天命、“上”から告げられ、それを成していくことが、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)となる次の事象になるのだ、ただそれは人が人を観るならば、やることの違いはあるのだ、だが、それはすべて神の思惑であり、全体への奉仕であり、奉仕するからこそ奉仕を受ける権利が派生するという今の事象とは違う仕組みになっていくのだ、の意である。

 次の文。
“まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。 神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ。 信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。 みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”

 “まどゐ”は先に述べたとおり、“役員づら”の集団、例えば規制の宗教、インチキスピリチュアルを信じ込む御利益を求める低い心(靈)の集まりとその霊団も含んでいる。 話にならない低い人間と、それに感応する低い霊的存在の集まりを指すものである。
 そしてそれらは低いからこそ物欲と金に対する執着があり、それが台頭しているならばそれらは低いのだ、という判断をするのが確かなものの見方でもあるが、これが出来ていない人が圧倒的多数なのがたった今の事象。
 これに続く“神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ”、これは先に述べた、全体に奉仕するものは奉仕を受ける権利が派生する、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のように“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の利益のためだけにしか使わないのは、霊的成長度が低いし、当然、次の事象の“創造”には参加する資格なしであることを含んだ言い回しである。
 ちなみに、これまでの“日月神示”で幾たびか登場した表記の“此の方”は、次の事象へ移行する霊的成長度の高い心(靈)の持ち主を指す。
 これに続く“信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”は、“役員づら”を当たり前のように扱っているこの事象、そしてそれが既成概念になっていることに対する言い回しも含め、それは、“取違へ”と“慢心”だから、そうならん様にしろ、の意味合い、低い功名心と自尊心、自我の肥大のない心(靈)=“生れ赤児の心で神示読め”であり、“神示いただけよ”は、“上”と感応して高い振動を取り込み認識(悟り、幸取=さとり)を拡大せよ、心(靈)を育てよ、である。
 これに続く“日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ”は、右翼傾向の強い霊的成長度の低い人間が間違える文言であろうが、太陽と本、それが“日本”の表記であり、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める資質を持つ、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを長年行って、次の事象の“創造”を担う使命、“役員”たる人間のことを指すし、そういう人が台頭する事象になったなら“ 世界の人民 皆よろこぶ世が来る”のであり、そのために“祈りて呉れよ”×2、であり、これに続く“てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めた“役員”=“てんし様”“みこと”に“服(まつ)ろへ”=倣う、従属する、恭順に受け入れる、そうなるならば、“このこと出来れば他に何も判らんでも、峠(アセンションに伴う事象)越せる”のであり、それに真摯に向き合う、死にもの狂いに向き合う、“御民いのち捨てて”ならば次の事象において“生命に生きよ”、“上”から使命、天命を付与されるものであるの意。

 これに続く次の文
“「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」
 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ”

 この文の“「鳥鳴く声す 夢さませ…以下略…」”は、これまでとは違った夜明(アセンション後のこと)が来ますよ、の意味合いである。
 これに続く“「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」”、これは艮(うしとら)の金神が大本教を通じて教えたいろは歌である。 これを唱えて、“上”と感応せよの意味であると思う。
 これに続く“「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ”は、深い意味合いを感じるので、次回、“その三”で解釈することとする。
 
 次の文。
“此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。
 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす”

この文の“この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ”は、ここまでの“日月神示”、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、日月の巻、日の出の巻、磐戸の巻、キの巻、水の巻、松の巻、夜明けの巻、であり、ここまでのことをしっかり読み取り自分の認識として実践するならば“何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ”ではあるのだが、“判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ”=それぞれの霊的成長度でしか認識にはならないのだ、と言われているものでもある。 これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則でもあり、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)ということが分っていないといけないし、高い存在と感応するには、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして、さらに“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしなければならないのだということを述べておく。
 このことを強調する言い回しが“天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ”であり、
“天津日嗣皇尊”は、先回の画像の意味合いである、“創造”の“主(ヌシ)”の振動が下降して生命(生きる使命=存在理由)が発現し、それは“一二三”のオーラであり、その思想により息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をして事象を“創造”するのだということを理解しなければならない。
 さらに“天津日嗣皇尊”の表記そのものに“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を嗣ぐという意味合いがあることを以前作った画像で示す。

天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)の解字


 これに続く“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)”
これは、
日月の巻 第三十一帖で述べたので以下にコピペしておく。

百 千 万 の解字と解釈


“創造”の“主(ヌシ)”の振動(“一”(亜から出ずる、アイ))を止め(“日止、霊止”の表記の意味)シンクロトロン放射の構造を持ち(“十”脳と背骨の縦の磁束と手と胸の水平磁場、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現)そして“百千卍(もちよろず)”するのは画像で示した通り、“上”の振動を止める表記が百と千であり、卍は左回転であるからこそそれは自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現であり、それは大日如来の条帛(じょうはく)で示されている左回りで“上”にエネルギーが上昇するさまであり、それそのものが神格化のプロセスである。
また“百”の画像で示した通り“上”の振動を取り込み自らの心(靈)の構成要素としての高い振動を取り込む具体的な手段は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化となっていくものであるからこそ、より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく。


 最後の“秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす”の、“秋満つ日”は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が満ちた日、その時、という意味合いである。

“秋立つ”の解釈と解字
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その三”


 先回告知したように、今回から第十三帖の以下の文言の解釈に入っていくこととする。

「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。

 今回は、この文言中の“アオウエイ”と“アイウエオ”についての解釈を述べることとする。

 少々先走るが、春の巻 第十七帖には、以下の表記がある。
希望は愛の現れの一つ。 どんな時、どんな人にも与へられているのぢゃ。 希望にもえつつ、現在を足場として生きよ。 呼吸せよ。 同じことしていても、希望もつ人は栄え、希望なき人は亡びる。 希望は神ぞ。
アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。 アオウエイの世が天国ぢゃ。 用意はよいか。 今の世は道具ばかりぢゃ。 使ふ人民、早うつくれよ。

 この文言中の
“アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。アオウエイの世が天国ぢゃ”
これは今後=アセンション後のことを述べていると思える。
 それは、今の事象に相対した言い回し、“アオウエイの世が天国”と言われているのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている今の事象に対してであると確信する。
 また“希望”という表記、これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に相対する表記であり、低い心(靈)の動き、その息吹で何かを達成しようとするのは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望の達成、“ケダモノ”あるいは“獣”と“日月神示”内で示された進化過程の心(靈)が思うことであるが、それは“希望”ではない、“上”から観て“希望”と認識するに値しない、という言い回しであると思える。
 よって、“希望は神ぞ”という文言に、自分たちは何を思うべきなのか、自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き、進化を果たした心(靈)で、何を思い、何を達成するのか、どういった心(靈)の動きをしていくべきなのか、を、示しているのだと思われるし、それは当然のことながら低い欲望の達成ではない。 
 やはりそれは、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人はいない、よって恨みの連鎖の霊的干渉が無い、またそれを産みださない、誰もが“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念として行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)している事象であり、ローム太霊がローム太霊講話集「第二話 四方の祈り 東」で説いた
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
これが実現した事象である、進化した高い心(靈)の持ち主ならばそれを実現するものである、それが“アオウエイの世が天国ぢゃ”の意であると思う。

 たった今の事象、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の目的、欲望の達成、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それそのものが腐った事象を創り、それが春の巻 第十七帖の“希望なき人は亡びる”、それは恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ち、多くの人を死に至らしめ、次の事象に移行できないアセンション落第組を増やし、築き上げてきた形骸のもの、“上”から観て、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって“ほんとう”の価値が無いものは崩れ落ちる、その結末を迎える“世”になっている、このことを示唆し、それは“希望”という息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”された事象ではない。
 よって、今後=アセンション後における事象、そこに移行すべく資質を持った人、“上”と感応した心(靈)(ヒ)が何を息吹くか、どういった世界を“創造”するか、を、示している文言である。

 それでは冒頭で述べたように、今回は“アオウエイ”と“アイウエオ”の解釈を述べる。

 たった今を示す“アイウエオ”というのは
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“イ”は、生気生命の発生力
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、地に降り(“ア”)、生命(生きる使命=存在理由)が発生(“イ”)、そして生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化である、と解することが出来る。
よって“アイウエオ”、これは生命が発生した理由、そしてその状況、生命(生きる使命=存在理由)の存在意義を示していると思える。

 それに対し“アオウエイ”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“イ”は、生気生命の発生力
なので、地に降りた生命(生きる使命=存在理由)(“ア”)が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し(“オ”)、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それが生命の発生力(“イ”)、これの顕現、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を創造した意図、意義、であると解することが出来る。
よって“アオウエイ”は、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の意図であり、今後=アセンション後は、これが台頭する事象になるのだ、と、読み取ることが出来る。

 次回は“カコクケキ”と、それに相対する“カキクケコ”の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その四”


 今回は、先回告知した通り“カコクケキ”と、それに相対する“カキクケコ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“カキクケコ”から。

“カ”の行は、形而上の潜在生命及びエネルギーの意
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
よって、生命の形(形而上の生命(生きる使命=存在理由))、その力、生命力(“カ”)、その根源たる何かは天地の精気の顕れ(“キ”)、またそれは“亜”の約まりと結合の顕れ(“ク”)、そしてそれは“上”の意志の事象への顕現であり(“ケ” 下り魂)、心(靈)(ヒ)も“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、その凝り集まりであり、心(靈)が凝り集まったからこそ、自凝(おのころ)の仕組み、タンパク質の繋がり、凝り集まりにより、肉体(月(ツキ))が構成されるの意。
 
 次はこれに相対する“カコクケキ”、先回説明した通り、今後=アセンション後のこと。
“カ”の行は、形而上の潜在生命及びエネルギーの意
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
よって、今後=アセンション後の形而上の生命、それは、生命とその力(“カ”)が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命として凝り集まり(自凝(おのころ))(“コ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これが集約され結合し(“ク”)、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現し(“ケ”)、自らの心(靈)が観察する事象の“上”“下”=天地、そこで獲得する振動の取り込み、それは認識(悟り、幸取=さとり)のたかまり(素幸霊(スサノオ)、“夭と屰”(ようとげき)、その素、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)(ヒ))が、事象の“創造”をする(“キ”)、と解することが出来る。

 次回は、“サソスセシ”とこれに相対する“サシスセソ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回は、先回告知した通り“サソスセシ”と、これに相対する“サシスセソ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“サシスセソ”から。

“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“サ”は、幸ひらき強く現れる生命力 物の始めの意 開(さ)き 咲き
“シ”は、弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“セ”は、セキ セク(堰、堰く、急く) 狭り(セマリ) 競り(セリ) それマスミ咲かせて次々にマスミ真澄とセキソバラ(真座に立つ)しむるこれ セ ぞかし
“ソ”は、個性の本意 また原質物 その真澄(マスミ) 元 素 マスミ 真凝止(マコト)(自凝(おのころ)して止める) 此れ悉く其のチカラ
よって、生命の繁栄(“サ”)、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、により育まれ(“シ”)、それは生命発現の基、素、これを真澄と称し、それを(自凝(おのころ)により)統一(“ス”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める意味での堰、それは振動の狭まり(自凝(おのころ)により凝縮)、競い合い、それそのものが真澄(マスミ)(善でも悪でもない、“上”でも下でもない、そう認識しうる振動)の顕現、これは、生命の発現とその意義である進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真座に立つ(“セ”)、生命の個々の相違、個性、性質の違い、これを発現していく(“ソ”)、ということになる。

 これに相対する“サソスセシ”、今後=アセンション後のことは。
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“サ”は、幸ひらき強く現れる生命力 物の始めの意 開(さ)き 咲き
“ソ”は、個性の本意 また原質物 その真澄(マスミ) 元 素 マスミ 真凝止(マコト)(自凝(おのころ)して止める) 此れ悉く其のチカラ
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“セ”は、セキ セク(堰、堰く、急く) 狭り(セマリ) 競り(セリ) それマスミ咲かせて次々にマスミ真澄とセキソバラ(真座に立つ)しむるこれ セ ぞかし
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
よって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して繁栄するべき生命は(“サ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を真に凝り(自凝(おのころ)、自凝(おのころ)するのでタンパク質の高分子化によるローレンツ力
ローレンツ力 の発現がある)止め(マコト、)、個々の性質を発現(“ソ”)、それそのものが生命発現の基である真澄の統一であり(“ス”)、真澄の(自凝(おのころ)と自凝(おのころ)によるローレンツ力ローレンツ力 の強化により集約され)狭まり、“上”からの振動を止める意味での堰であり(“セ”)、これらそのものが、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、人に感知しにくい高振動(弱き光)、その顕現、事象における現象化、生命の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのもの(“シ”)、であると解することが出来る。

次回は、“タトツテチ”とこれに相対する“タチツテト” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その六”


 今回は、先回告知した通り“タトツテチ”とこれに相対する“タチツテト”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“タチツテト”から。

“タ”の行は、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“チ”は、チカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“テ”は、其の道々に必ず踏むべき段々を現す(進化過程、代々、振動の段階)
“ト”は、止まると云う心
よって、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の“思惑の顕現”=現象化として現れ立つ生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を顕現すべき使命を持つ(“タ”)、その生命は獲得したチカラ(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))で、事象を“創造”する(“チ”)、またそれは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を集約して(“ツ”)、“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)に従い、段々に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き、これらそのものが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めた結果、その結果は進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に相当するものである、と解することが出来る。

 これに相対する“タトツテチ”、今後=アセンション後のことは。

“タ”の行は、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“ト”は、止まると云う心
“テ”は、其の道々に必ず踏むべき段々を現す(進化過程、代々、振動の段階)
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、チカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意
よって、神の“思惑の顕現”=現象化として現れ立つ生命は(“タ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“ト”)、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を歩み、獲得する振動も霊的成長の段階の上昇により高振動化していき、さらに認識(悟り、幸取=さとり)も高じていく=すべての事象(自分に対しても、自分以外に対しても、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も含め)の法則性を理解していく(“テ”)、成長すればするほどさらなる“上”との感応により高い振動を集約して顕現するものであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の段階が進めば進むほど高い振動を顕現した生命と成り(“ツ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んだ=高い振動を獲得した、その上でのチカラ(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))の顕現をして、事象の“創造”を成していく、今より高い事象の“創造”をする、と解することが出来る。

 ちなみに“日月神示”の表記ではないが、カタカナ表記のチカラは以下の意味がある。

“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意
よって、神の“思惑の顕現”=現象化たる生命は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を取り込み、(霊的成長度の段階において、その高低において)“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現し、それそのものが、生命発生の始まりであり、意義でもあり、事象の“創造”の根である、と解することが出来る。

 次回は、“ナノヌネニ”とこれに相対する“ナニヌネノ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その七”


 今回は、先回告知した通り“ナノヌネニ”とこれに相対する“ナニヌネノ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“ナニヌネノ”から。

“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ナ”は、自ら奇しき(顕現の意)種々のナ、種の生物 生命をこもれりある意含めりぞ(生命の名、命名、種類)
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)
“ヌ”は、まもり強き神の心 零霊(ヌヒ) 零雷(ヌチ)と現れ出し御空 それ明津の理(コトハリ)り幸取れば 自ら吾がチカラ ヌ ぞかし(御空=“上”からの振動が零(こぼれるの意)、それそのものが明津(日と月、太陽と月、そして津は中心の意)の法則性)
“ネ”は、根 元基(もとき) チカラ自と漲りはびこらす 根魂
“ノ”は、延びる 広いところ の意
よって、生命は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意により“創造”され、種類、分類、そして使命(命名の意味)をもち(“ナ”)、進化に伴い変化変容し(“ニ”)、
生命そのものが“上”からの振動、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子の顕れであり、そのチカラ(“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意)も生命の存在そのものも、“理(ミチ)”(法則性)を示し(“ヌ”)、またそれは生命の根、元基であり(“ネ”)、延び広がる(“ノ”)ものである、と解することが出来る。

 これに相対する“ナノヌネニ”、今後=アセンション後のことは。

“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ナ”は、自ら奇しき(顕現の意)種々のナ、種の生物 生命をこもれりある意含めりぞ(生命の名、命名、種類)
“ノ”は、延びる 広いところ の意
“ヌ”は、まもり強き神の心 零霊(ヌヒ) 零雷(ヌチ)と現れ出し御空 それ明津の理(コトハリ)り幸取れば 自ら吾がチカラ ヌ ぞかし(御空=“上”からの振動が零(こぼれるの意)、それそのものが明津(日と月、太陽と月、そして津は中心の意)の法則性)
“ネ”は、根 元基(もとき) チカラ自と漲りはびこらす 根魂
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)
よって、神から命名され使命を持つ生命は(“ナ”)、延び広がり(“ノ”)、“上”からの振動をチカラと“理(ミチ)”(法則性)として顕現し(“ヌ”)、それを根、元基とし(“ネ”)、変化変容して益々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くものである、と、解することが出来る。

 次回は、“ハホフヘヒ”とこれに相対する“ハヒフヘホ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その八”


 今回は、先回告知した通り“ハホフヘヒ”とこれに相対する“ハヒフヘホ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“ハヒフヘホ”から。

“ハ”の行は、生命発現成長の音義
“ハ”は、それ自ら育み成り出ず身 其実の芽生 生幸速(いさはや)の清身(スガミ)ハレチ心に育みそだてる 其心自から吾れ等のはえ真愛目(エメ)ぞかし 初め、生い、物を初め現す(“創造”の意志の顕現)
(ちなみに“ハレチ”は、“ハ”は生命発現成長の意、“レ”は元座道座(もとくらみちくら)、生命のあるべき姿形、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した形、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意))
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、フを生む基(モト)にして ヒの中の様々のそれ チカラの音霊(オトタマ) ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のフ
“ヘ”は、生命を継ぐ 死して霊界入りを現世(ヘツ)さかる(~へ、何処へ、の意)
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま(穂=禾(のぎへん)と恵)
よって、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現として発現した生命は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべきそれであり(“ハ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、日、を止めるのが霊であり、火(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と回転を示す点が二つ)で変容し(“ヒ”)、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”しながら育ち(“フ”)、死んで成長する場(フィールド)を変えて、さらに生まれ変わりながら生命を継ぎ(“ヘ”)、深く高く広がった生命と成していくものである、と解することが出来る。

 これに相対する“ハホフヘヒ”、今後=アセンション後のことは。

“ハ”の行は、生命発現成長の音義
“ハ”は、それ自ら育み成り出ず身 其実の芽生 生幸速(いさはや)の清身(スガミ)ハレチ心に育みそだてる 其心自から吾れ等のはえ真愛目(エメ)ぞかし 初め、生い、物を初め現す(“創造”の意志の顕現)
(ちなみに“ハレチ”は、“ハ”は生命発現成長の意、“レ”は元座道座(もとくらみちくら)、生命のあるべき姿形、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した形、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意))
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま(穂=禾(のぎへん)と恵)
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のフ
“ヘ”は、生命を継ぐ 死して霊界入りを現世(ヘツ)さかる(~へ、何処へ、の意)
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、フを生む基(モト)にして ヒの中の様々のそれ チカラの音霊(オトタマ) ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火
よって、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現である生命は(“ハ”)、進化して深く高く広がり(“ホ”)、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”しながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して(“フ”)、そして死んで生まれ変わり(“ヘ”)、ますます成長した心(靈)(ヒ)となっていくものである、と解することが出来る。

 次回は、“マモムメミ”とこれに相対する“マミムメモ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その九”



 今回は、先回告知した通り“マモムメミ”とこれに相対する“マミムメモ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“マミムメモ”から。

“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“マ”は、まことの神の意 それ含む また裏問ひすれば 禍根(マガネ) 故に正しきと醜げきとの意を含む その音根の綴りにて ヨシ アシ を表すこそ アが降り集(アツマ)(自凝(おのころ)の仕組)つて(真凝止 真固止) マ となる
“ミ”は生命の幹 その現実
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)
よって、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意(“ア”、“亜”)を止めて育つ生命は、正しきものと認識され得るべく進化すべきものではあるのだが、善悪を体験し認識してこそより進化するものであり(“マ”)、それが現時点での生命の現実(“ミ”)、そうやって生命は多岐に分れて、個々の性質を発現させ(“ム”)、生命は現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”を行い(“メ”)、これらのことが生命の基、本、元座(もとくら)といいうるものである、と解することが出来る。

 これに相対する“マモムメミ”、今後=アセンション後のことは。

“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“マ”は、まことの神の意 それ含む また裏問ひすれば 禍根(マガネ) 故に正しきと醜げきとの意を含む その音根の綴りにて ヨシ アシ を表すこそ アが降り集(アツマ)(自凝(おのころ)の仕組)つて(真凝止 真固止) マ となる
“モ”は、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現)
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ミ”は生命の幹 その現実
よって、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意(“ア”、“亜”)を止めて育つ生命は(“マ”)、生命の元、元基(もとき)元座(もとくら)、本、であり、それ自体が神の“思惑の顕現”=現象化、明津、であり(“モ”)、チカラこもれる生命はますます多岐に分れ(“ム”)、これまでとは違う事象を“創造”して観察して認識することをして(今後=アセンション後の事象)(“メ”)、それが(今後=アセンション後における)新たな生命(生きる使命=存在理由)の現実である、と解することが出来る。

次回は、“ヤヨユエイ”とこれに相対する“ヤイユエヨ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その十”


 今回は、先回告知した通り“ヤヨユエイ”とこれに相対する“ヤイユエヨ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“ヤイユエヨ”から。

“ヤ”の行は、強く生命発展の音義
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“イ”は、勢い 威 出生力
“ユ”は、進む力
“エ”は、生命力を強める元
“ヨ”は、生命進展の階 世 代 継目
よって、生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して発展すべきものであり(“ヤ”)、だからこそ勢いがあり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して威を示すべきであり、それそのものが出生の力であり(“イ”)、進むべくものであり(“ユ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく力が生命力を強め(“エ”)、生命は進展し、代々続き、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を受け継いでいくものである、と解することが出来る。

 これに相対する“ヤヨユエイ”、今後=アセンション後のことは。

“ヤ”の行は、強く生命発展の音義
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“ヨ”は、生命進展の階 世 代 継目
“ユ”は、進む力
“エ”は、生命力を強める元
“イ”は、勢い 威 出生力
よって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)発展し高き段に進み(“ヤ”)、進化しつつ継続する生命(生きる使命=存在理由)は(“ヨ”)、ますます進み(“ユ”)、生命力を強め(“エ”)、生命の出生力、勢い、威(稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊))が増す、と解することが出来る。

 次回は、“ラロルレリ”とこれに相対する“ラリルレロ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その十一”


 今回は、先回告知した通り“ラロルレリ”とこれに相対する“ラリルレロ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す“ラリルレロ”から。

“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ) 
“ラ”は、クの言霊に似て 奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)の音根 物の根の意 張り 配り 広がり 延び むすぶ の意
(注 “ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意)
“リ”は、生命根源の 張り 広がり
“ル”は、チカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“レ”は、稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る)
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意 咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
よって、生命の発生、奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)、神の“思惑の顕現”=現象化である生命(生きる使命=存在理由)、“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)は(“ラ”)、“創造”の“主(ヌシ)”の根源の振動、“亜”を張り広がり(“リ”)、生命は“亜”を止め、止めることによりチカラ(“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) を顕現し(“ル”)、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出し(“レ”)、これらそのものが神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)である(“ロ”)、と解することが出来る。

 これに相対する“ラロルレリ”、今後=アセンション後のことは。

“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ) 
“ラ”は、クの言霊に似て 奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)の音根 物の根の意 張り 配り 広がり 延び むすぶ の意
(注 “ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意)
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意 咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
“ル”は、チカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“レ”は、稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る)
“リ”は、生命根源の 張り 広がり
よって、生命の発生、奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)、神の“思惑の顕現”=現象化である生命(生きる使命=存在理由)、“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)は(“ラ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を成してチカラを詰め固め顕現(奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意))し(“ロ”)、同様にチカラの顕現そのものが、神の“思惑の顕現”=現象化であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め凝りかためるということでもあり=霊流凝(ヒルコ)、それそのものが進化の最終段階(○ 九 十 の“九”と“十”の意味、卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり(ル)、さらにそれは、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す)(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)であり(“レ”)、これらが、生命根源(“創造”の“主(ヌシ)”の振動、“亜”、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)の、張り、広がり(“リ”)である、と解することが出来る。

次回は、“ワヲウヱヰ”とこれに相対する“ワヰヱヲ”“ワヰウヱヲ” の解釈を述べることとする。
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その十二”


 今回は、先回告知した通り“ワヲウヱヰ”とこれに相対する“ワヰヱヲ”“ワヰウヱヲ”の解釈を述べることとする。
 まず、たった今を示す “ワヰウヱヲ” “ワヰヱヲ”から。

“ワ”は、物を生む 生まれしものを和合する意 生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“ヰ”は、その音根に軽くものをそらす音根そ含む ヰ しあれどもその ヰ は縁りを求むる心ぞ また含めり 縁り以て其の生命を咲きさかす理りあり 場所一定の地に草木の如く生存の意 ヰの意の意 それ汝の住居 ヰぞかし ヰ それそのところ その明津気吹 それそのままに ヰぞかし ヰなりて 事それ自ら整ふ そのヰ そのかれし霊 それその気吹 それ神避りぞかし
“ウ”は、動きと移す力
“ヱ”は、満ち足りたる生命 笑
“ヲ”は、完成と終わり
よって、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、は、低振動化して生命(生きる使命=存在理由)となったのだ、それが生命であるのだが、生命自らが、自分たちの進化のために、自らが“創造”した事象において、思索し、行動し、経験を重ねながら、進化している=生命(生きる使命=存在理由)の調整の義(“ワ”)、それは、生命が、神の“思惑の顕現”=現象化ではあるが、神そのものではない=“神避りぞかし”であり、天津(中心、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))の縁どりとしての生命であり(これは、
夜明の巻 第十三帖“その一”で解釈した画像の意味が当てはまる)(“ヰ”)
また、神そのものではない、神が“創造”した生命は、神の振動が動いたもの、移ったものであり(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い、神の振動が満ちていき、認識の拡大のために右往左往と左往右往するものではあるが、進化が進めば、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、そうなるのがある意味、生命の完成といい得る(“ヲ”)、と解することが出来る。

 もうひとつ、“ウ”の表記のない“ワヰヱヲ”について。
“ワ”は、物を生む 生まれしものを和合する意 生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“ヰ”は、その音根に軽くものをそらす音根そ含む ヰ しあれどもその ヰ は縁りを求むる心ぞ また含めり 縁り以て其の生命を咲きさかす理りあり 場所一定の地に草木の如く生存の意 ヰの意の意 それ汝の住居 ヰぞかし ヰ それそのところ その明津気吹 それそのままに ヰぞかし ヰなりて 事それ自ら整ふ そのヰ そのかれし霊 それその気吹 それ神避りぞかし
“ヱ”は、満ち足りたる生命 笑
“ヲ”は、完成と終わり
これは、“ワヰウヱヲ”の“ウ”が、神の振動が動いた(“下”へ下降した)、神の振動が移った、であるが、それが無いのは、生命(生きる使命=存在理由)自身が自分たちの“創造”した事象の中で、思索し、行動し、経験して、認識を高め、成長するの意があるのだ、神の思惑を受けるだけで生命は育っているのではない、自らが進化している(“ワ”)、そして神と人間の区別があり(ヰ)、進化していくならば、“上”の振動を取り込んで生命の調整の義を成して、“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、完成と終わり、という局面を迎えるのだ(“ヲ”)、と解することが出来る。

 これに相対する“ワヲウヱヰ”、今後=アセンション後のことは。

“ワ”は、物を生む 生まれしものを和合する意 生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“ヲ”は、完成と終わり
“ウ”は、動きと移す力
“ヱ”は、満ち足りたる生命 笑
“ヰ”は、その音根に軽くものをそらす音根そ含む ヰ しあれどもその ヰ は縁りを求むる心ぞ また含めり 縁り以て其の生命を咲きさかす理りあり 場所一定の地に草木の如く生存の意 ヰの意の意 それ汝の住居 ヰぞかし ヰ それそのところ その明津気吹 それそのままに ヰぞかし ヰなりて 事それ自ら整ふ そのヰ そのかれし霊 それその気吹 それ神避りぞかし
よって、生命の調整の義を成していった進化した生命(生きる使命=存在理由)は(“ワ”)、完成と終わりという局面を迎え(“ヲ”)、たった今のこの事象、宇宙全体、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の差があるが、高い進化を成した生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、低い進化の段階の生命(生きる使命=存在理由)に影響を与える、それは“創造”の“主(ヌシ)”の振動ではなく、進化した生命(生きる使命=存在理由)の振動を、“下”に影響し、“下”が育つことにつながる(“ウ”)、そして“下”も、いずれは“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、神の縁どりという進化した生命(生きる使命=存在理由)となる(“ヰ”)、と解することが出来る。

 次回は、
 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。 
この総括を述べることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その十三”


今回は、先回告知した通り
「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。 
この総括を述べる。

“その三” で述べたように、春の巻 第十七帖の
“アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。アオウエイの世が天国ぢゃ”
これは今後=アセンション後のことを述べていると思え、「」で区切られた文言は、以下のように解釈した。

“アオウエイ”
地に降りた生命(生きる使命=存在理由)(“ア”)が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し(“オ”)、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それが生命の発生力(“イ”)、これの顕現、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を創造した意図、意義、であると解することが出来る。
よって“アオウエイ”は、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の意図であり、今後=アセンション後は、これが台頭する事象になるのだ、と、読み取ることが出来る。

“カコクケキ”
今後=アセンション後の形而上の生命、それは、生命とその力(“カ”)が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命として凝り集まり(自凝(おのころ))(“コ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これが集約され結合し(“ク”)、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現し(“ケ”)、自らの心(靈)が観察する事象の“上”“下”=天地、そこで獲得する振動の取り込み、それは認識(悟り、幸取=さとり)のたかまり(素幸霊(スサノオ)、“夭と屰”(ようとげき)、その素、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)(ヒ))が、事象の“創造”をする(“キ”)、と解することが出来る。

“サソスセシ”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して繁栄するべき生命は(“サ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を真に凝り(自凝(おのころ)、自凝(おのころ)するのでタンパク質の高分子化によるローレンツ力
ローレンツ力   の発現がある)止め(マコト、)、個々の性質を発現(“ソ”)、それそのものが生命発現の基である真澄の統一であり(“ス”)、真澄の(自凝(おのころ)と自凝(おのころ)によるローレンツ力 ローレンツ力 の強化により集約され)狭まり、“上”からの振動を止める意味での堰であり(“セ”)、これらそのものが、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、人に感知しにくい高振動(弱き光)、その顕現、事象における現象化、生命の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのもの(“シ”)、であると解することが出来る。

“タトツテチ”
神の“思惑の顕現”=現象化として現れ立つ生命は(“タ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“ト”)、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を歩み、獲得する振動も霊的成長の段階の上昇により高振動化していき、さらに認識(悟り、幸取=さとり)も高じていく=すべての事象(自分に対しても、自分以外に対しても、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も含め)の法則性を理解していく(“テ”)、成長すればするほどさらなる“上”との感応により高い振動を集約して顕現するものであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の段階が進めば進むほど高い振動を顕現した生命と成り(“ツ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んだ=高い振動を獲得した、その上でのチカラ(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))の顕現をして、事象の“創造”を成していく、今より高い事象の“創造”をする、と解することが出来る。

“ナノヌネニ”
神から命名され使命を持つ生命は(“ナ”)、延び広がり(“ノ”)、“上”からの振動をチカラと“理(ミチ)”(法則性)として顕現し(“ヌ”)、それを根、元基とし(“ネ”)、変化変容して益々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くものである、と、解することが出来る。

“ハホフヘヒ”
“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現である生命は(“ハ”)、進化して深く高く広がり(“ホ”)、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”しながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して(“フ”)、そして死んで生まれ変わり(“ヘ”)、ますます成長した心(靈)(ヒ)となっていくものである、と解することが出来る。

“マモムメミ”
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意(“ア”、“亜”)を止めて育つ生命は(“マ”)、生命の元、元基(もとき)元座(もとくら)、本、であり、それ自体が神の“思惑の顕現”=現象化、明津、であり(“モ”)、チカラこもれる生命はますます多岐に分れ(“ム”)、これまでとは違う事象を“創造”して観察して認識することをして(今後=アセンション後の事象)(“メ”)、それが(今後=アセンション後における)新たな生命(生きる使命=存在理由)の現実である、と解することが出来る。

“ヤヨユエイ”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)発展し高き段に進み(“ヤ”)、進化しつつ継続する生命(生きる使命=存在理由)は(“ヨ”)、ますます進み(“ユ”)、生命力を強め(“エ”)、生命の出生力、勢い、威(稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊))が増す、と解することが出来る。

“ラロルレリ”
生命の発生、奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)、神の“思惑の顕現”=現象化である生命(生きる使命=存在理由)、“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)は(“ラ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を成してチカラを詰め固め顕現(奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意))し(“ロ”)、同様にチカラの顕現そのものが、神の“思惑の顕現”=現象化であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め凝りかためるということでもあり=霊流凝(ヒルコ)、それそのものが進化の最終段階(○ 九 十 の“九”と“十”の意味、卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり(ル)、さらにそれは、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す)(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)であり(“レ”)、これらが、生命根源(“創造”の“主(ヌシ)”の振動、“亜”、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)の、張り、広がり(“リ”)である、と解することが出来る。

“ワヲウヱヰ”
生命の調整の義を成していった進化した生命(生きる使命=存在理由)は(“ワ”)、完成と終わりという局面を迎え(“ヲ”)、たった今のこの事象、宇宙全体、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の差があるが、高い進化を成した生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、低い進化の段階の生命(生きる使命=存在理由)に影響を与える、それは“創造”の“主(ヌシ)”の振動ではなく、進化した生命(生きる使命=存在理由)の振動を、“下”に影響し、“下”が育つことにつながる(“ウ”)、そして“下”も、いずれは“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、神の縁どりという進化した生命(生きる使命=存在理由)となる(“ヰ”)、と解することが出来る。

 

 これに相対する、たった今までの進化過程を示す以下の文言、これに対しては以下のように解釈した。

“アイウエオ”
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、地に降り(“ア”)、生命(生きる使命=存在理由)が発生(“イ”)、そして生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化である、と解することが出来る。
よって“アイウエオ”、これは生命が発生した理由、そしてその状況、生命(生きる使命=存在理由)の存在意義を示していると思える。

“ヤイユエヨ”
生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して発展すべきものであり(“ヤ”)、だからこそ勢いがあり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して威を示すべきであり、それそのものが出生の力であり(“イ”)、進むべくものであり(“ユ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく力が生命力を強め(“エ”)、生命は進展し、代々続き、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を受け継いでいくものである、と解することが出来る。

“ワヰヱヲ”
これは、“ワヰウヱヲ”の“ウ”が、神の振動が動いた(“下”へ下降した)、神の振動が移った、であるが、それが無いのは、生命(生きる使命=存在理由)自身が自分たちの“創造”した事象の中で、思索し、行動し、経験して、認識を高め、成長するの意があるのだ、神の思惑を受けるだけで生命は育っているのではない、自らが進化している(“ワ”)、そして神と人間の区別があり(ヰ)、進化していくならば、“上”の振動を取り込んで生命の調整の義を成して、“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、完成と終わり、という局面を迎えるのだ(“ヲ”)、と解することが出来る。

“カキクケコ”
生命の形(形而上の生命(生きる使命=存在理由))、その力、生命力(“カ”)、その根源たる何かは天地の精気の顕れ(“キ”)、またそれは“亜”の約まりと結合の顕れ(“ク”)、そしてそれは“上”の意志の事象への顕現であり(“ケ” 下り魂)、心(靈)(ヒ)も“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、その凝り集まりであり、心(靈)が凝り集まったからこそ、自凝(おのころ)の仕組み、タンパク質の繋がり、凝り集まりにより、肉体(月(ツキ))が構成されるの意。
 
“サシスセソ”
生命の繁栄(“サ”)、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、により育まれ(“シ”)、それは生命発現の基、素、これを真澄と称し、それを(自凝(おのころ)により)統一(“ス”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める意味での堰、それは振動の狭まり(自凝(おのころ)により凝縮)、競い合い、それそのものが真澄(マスミ)(善でも悪でもない、“上”でも下でもない、そう認識しうる振動)の顕現、これは、生命の発現とその意義である進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の真座に立つ(“セ”)、生命の個々の相違、個性、性質の違い、これを発現していく(“ソ”)、ということになる。

“タチツテト”
生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の“思惑の顕現”=現象化として現れ立つ生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を顕現すべき使命を持つ(“タ”)、その生命は獲得したチカラ(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))で、事象を“創造”する(“チ”)、またそれは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を集約して(“ツ”)、“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)に従い、段々に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き、これらそのものが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めた結果、その結果は進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に相当するものである、と解することが出来る。

“ナニヌネノ”
生命は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意により“創造”され、種類、分類、そして使命(命名の意味)をもち(“ナ”)、進化に伴い変化変容し(“ニ”)、
生命そのものが“上”からの振動、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子の顕れであり、そのチカラ(“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意)も生命の存在そのものも、“理(ミチ)”(法則性)を示し(“ヌ”)、またそれは生命の根、元基であり(“ネ”)、延び広がる(“ノ”)ものである、と解することが出来る。

“ハヒフヘホ”
“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現として発現した生命は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべきそれであり(“ハ”)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、日、を止めるのが霊であり、火(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と回転を示す点が二つ)で変容し(“ヒ”)、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”しながら育ち(“フ”)、死んで成長する場(フィールド)を変えて、さらに生まれ変わりながら生命を継ぎ(“ヘ”)、深く高く広がった生命と成していくものである、と解することが出来る。

“マミムメモ”
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意(“ア”、“亜”)を止めて育つ生命は、正しきものと認識され得るべく進化すべきものではあるのだが、善悪を体験し認識してこそより進化するものであり(“マ”)、それが現時点での生命の現実(“ミ”)、そうやって生命は多岐に分れて、個々の性質を発現させ(“ム”)、生命は現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”を行い(“メ”)、これらのことが生命の基、本、元座(もとくら)といいうるものである、と解することが出来る。

“ヤイユエヨ”
生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して発展すべきものであり(“ヤ”)、だからこそ勢いがあり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して威を示すべきであり、それそのものが出生の力であり(“イ”)、進むべくものであり(“ユ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく力が生命力を強め(“エ”)、生命は進展し、代々続き、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を受け継いでいくものである、と解することが出来る。

“ラリルレロ”
生命の発生、奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)、神の“思惑の顕現”=現象化である生命(生きる使命=存在理由)、“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)は(“ラ”)、“創造”の“主(ヌシ)”の根源の振動、“亜”を張り広がり(“リ”)、生命は“亜”を止め、止めることによりチカラ(“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)、“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) を顕現し(“ル”)、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出し(“レ”)、これらそのものが神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)である(“ロ”)、と解することが出来る。

“ワヰウヱヲ”
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、は、低振動化して生命(生きる使命=存在理由)となったのだ、それが生命であるのだが、生命自らが、自分たちの進化のために、自らが“創造”した事象において、思索し、行動し、経験を重ねながら、進化している=生命(生きる使命=存在理由)の調整の義(“ワ”)、それは、生命が、神の“思惑の顕現”=現象化ではあるが、神そのものではない=“神避りぞかし”であり、天津(中心、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))の縁どりとしての生命であり(これは、夜明の巻 第十三帖“その一”で解釈した画像の意味が当てはまる)(“ヰ”)
また、神そのものではない、神が“創造”した生命は、神の振動が動いたもの、移ったものであり(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い、神の振動が満ちていき、認識の拡大のために右往左往と左往右往するものではあるが、進化が進めば、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”となり(“ヱ”)、そうなるのがある意味、生命の完成といい得る(“ヲ”)、と解することが出来る。

 この「」で区切られた文言と、そうではない表記を読むと、神が、“創造”の“主(ヌシ)”が、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意によって、生命を創造したことが理解でき、“上”との感応、“上”からの振動の取り込み、“日止、霊止”の表記の意味合い、それにより、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくのだということが理解できる。
またその両者を比較するならば、ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)は、自分たちの思想、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)により、認識を拡大しつつ、さらなる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくのだ、そして自分たちは神の“創造”によって存在しているものだが、神とは違う生命となるものであり、それが“ワヲウヱヰ”と“ワヰヱヲ”“ワヰウヱヲ”の“ヰ”の意味に含まれる“神避りぞかし”であり、“その一”で解釈した
第十三帖の画像の意味合いと合致するものでもある。

 それと、
アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。
これは通常のカタカナの並びではないし、カタカナに“ワヰヱヲ”の表記は無い、さらに“ヤイユエヨ”は二回書かれている。
 それで先に記したそれぞれの文言の意味合いを加味してこの並びを鑑みるならば、

“アイウエオ”は、生命が発生した理由、その状況、生命(生きる使命=存在理由)の存在意義

“ヤイユエヨ”は、生命は進化して発展し、それは代々続く

“ワヰヱヲ”は、生命は、自分たちの“創造”した事象の中で、思索し、行動し、経験して、認識を高め、成長する、それは、神の思惑を受けるだけで生命は育っているのではない、そして進化の最終局面は、神と人間の区別を構成し(ヰ)、自分たちの進化は“うれしうれし”“大歓喜”となる

“カキクケコ”は、生命の形(形而上の生命(生きる使命=存在理由))、その力、生命力、それは“上”の意志の事象への顕現、生命そのものが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、その凝り集まりである 

“サシスセソ”は、生命の繁栄、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、により育まれ、それ自体が生命発現の基、素、であり、進化して行くならば、生命の個々の相違、個性、性質の違い、これを発現していく

“タチツテト”は、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の“思惑の顕現”=現象化として現れ立つ生命は、獲得したチカラ(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))で、事象を“創造”し、それは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を集約して“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)に従い、段々に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き、これらそのものが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めた結果である

“ナニヌネノ”は、生命は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意により“創造”され、種類、分類、そして使命(命名の意味)をもち、進化に伴い変化変容し、生命の存在そのものも、“理(ミチ)”(法則性)を示し、ますます延び広がる

“ハヒフヘホ”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現として発現した生命は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべきもの、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、日、を止めるのが霊であり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”しながら育ち、死んで成長する場(フィールド)を変えて、さらに生まれ変わりながら生命を継ぎ、深く高く広がった生命と成していくものである

“マミムメモ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意(“ア”、“亜”)を止めて育つ生命は、正しきものと認識され得るべく進化すべきものではあるが、善悪を体験し、それを認識してこそより進化するもの、それをして、それを成し、生命は多岐に分れて、個々の性質を発現させ、これらのことが生命の基、本、元座(もとくら)といいうる

もう一度登場する“ヤイユエヨ”は、先の“マミムメモ”にかかり、元座(もとくら)の確立、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の確立と換言出来得るが、それが、
生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、発展であり、それが代々続くものである

“ラリルレロ”は、生命の発生と発現(奇霊(くしみたま)であり、そのことそのものが、生命が神の“思惑の顕現”=現象化であり、生命が、元座道座(もとくらみちくら)=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出していくものであり、これらそのものが神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)である

“ワヰウヱヲ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、は、低振動化して生命(生きる使命=存在理由)となったのだ、それが生命であるのだが、生命自らが、自分たちの進化のために、自らが“創造”した事象において、思索し、行動し、経験を重ねながら、進化しそれは、生命が、神の“思惑の顕現”=現象化ではあるが、神そのものではない=“神避りぞかし”であり、天津(中心、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))の縁どりとしての生命であり、“創造”された生命は、神そのものではない、神が“創造”した生命は、神の振動が動いたもの、移ったものであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い、神の振動が満ちていき、認識の拡大のために右往左往と左往右往するものではあるが、進化が進めば、“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”となり、そうなるのがある意味、生命の完成といい得る

以上のように解することが出来るし、これらすべてが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指し示す重要な表記であると思える。

 また、
アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。
これは五十九文字のカタカナで示されており、これが“五十九柱”というのは、神の“思惑の顕現”=現象化である生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのもの、それを五十九で示した、の意味合いと、やはり、“五”(糸巻の象形文字)は進化した生命が持つ密なる神経、神経が密になればなるほどローレンツ力がたかまり“上”からの振動の取り込みが増し、進化した生命(生きる使命=存在理由)は胸の磁性“十”を発現させ、その心(靈)が台頭し、それが“九”=“一”、智性、1番目のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、であり、○ 九 十 の、“九”と“十”に相当する意味合いであると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



Kellyさんが“日月神示”夜明けの巻の解釈を終えてから…感じた事。


 第一帖で述べたように、夜明の巻、曰アけの○キ、の“曰アけ”は、以下の意味合いがあるものである。

“曰”=口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)

“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、またそれは、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)

“け”は、ひらがな表記なのでこちら側視点(“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の視点)であるが、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、いわゆる人間をはじめとした進化しうるすべての生命のことである。
それで簡単に“曰アけ”を要約するならば、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現、そしてその生命が行う事象の“創造”、また現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、生命(生きる使命=存在理由)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)、霊的成長度の高低の違い、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されているのだ、と解することが出来る。
 さらにこれを換言するならば、“曰”は、生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、1番目、2番目、3番目のオーラ、生命そのものの“思惑の顕現”=現象化、それは事象の“創造”である。
 また生命は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動である“ア”の変化したものであるし、生命は下り魂(ニニゲ)であり、“創造”の“主(ヌシ)”そのものとは違い、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物の関係がある。 
さらに、生命(生きる使命=存在理由)は、すべて、神が関与しているものである、“創造”の“主(ヌシ)”の被造物である、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くものである、そして、進化しながら息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をして、事象の“創造”をする、事象の“創造”をしながら更に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出していく、さらに、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止めるのが生命(生きる使命=存在理由)であるし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行ったならそれに応じて高い振動を止めて高い心(靈)になっていくのだ。
これらの理解が無いと夜明けの巻は読み取れなかったと思える。

 よって、“曰アけの○キ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、その霊的成長度におけるローレンツ力 ローレンツ力 で止め、その心(靈)(ヒ)=○は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、“キ”(“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし)とするのだと換言することも出来る。
 これを如実に表しているのが第十三帖の以下の画像である。
夜明の巻第十三帖

 それで、こちらとしては上記の事柄に留意して夜明けの巻を読み解いてきたが、夜明の巻全十三帖は、すべてこの解釈が当てはまる文言であった感がある。 
 真に自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人、そして神と人間(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるのが生命(生きる使命=存在理由))の関係を真摯に鑑みて、自らの認識(悟り、幸取=さとり)として、自分の在り方を思う人ならば(特に○○○大先生の著書の読者会のメンバーは)、夜明の巻の解釈の文言はとても参考に成りうるものであると思う。
 いくつか以下に列挙する。

第一帖
イシはイにかへるぞ。 一(ヒ)であるぞ。
 (ム)であるぞ。 井であるぞ。 イーであるぞ。  であるぞ。  であるぞ。 キと働くのざぞ。

第二帖
神の国は神の肉体ぞと申してある
(“神の国”、この表記の意味合いを深く鑑みるならば、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である生命である人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、あるいは“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)、被造物である生命(生きる使命=存在理由)は、心(靈)(ヒ)であり、心だからこそ、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”をしていくのだが、その観察行為の対象は、“神の国”=すべての事象であるという意味合いであると思える。
 また、すべての事象は、外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、それらすべて生命(生きる使命=存在理由)が行っている観察行為の対象である。
 さらに、すべての事象は振動で構成されており、振動との感応、振動の取り込み、それによって観察行為が成り立つものであるとの意味合いを含む(またそれは感じ(感じる磁性)る、電磁誘導でもある)ものであると思うし、“神”という字は、示す偏(へん)と呂であり、荷電粒子の回転を示しており(円形粒子加速機、発振、発信のための仕組み)、そして“国”は、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものでもあり、国の旧字は“國”であるが、これは、囗(かこい、場(フィールド))、或(ワク)、(或は、弋(くい)(積み重なったなにか)と、囗(かこい、場(フィールド)と横棒―(水平磁場、日足と砌(ひたりとみぎり))で領域を区切ることを意味するので、やはり進化した心(靈)を意味する表記である。
 もうひとつ、観察行為を行っている被造物である人(日止、霊止)と、観察されている対象の“神の国”は、ともに生命であり、心(靈)(ヒ)なのだという意味合いを持つと思う)

第四帖
この方 カの神と現はれるぞ、サの神と現はれるぞ、タの神と現はれるぞ、ナの神と現はれるぞ、ハマの神と現はれるぞ。 
ヤラワの神と現われたら…以下略…

第五帖
夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、夜明け来たぞ。 十理(トリ)立てよ。
(“十理”は“一八十”(岩戸)の“十”、胸の磁性“十”、“日止、霊止”の“止”の意、そして“理”はことわり、(事象の“創造”の)法則性の意)

第七帖
理屈無い世にするぞ。 理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。 理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。 
人に知れん様によいことつとめと申してあろが。 人に知れん様にする好い事 神こころぞ。 神のした事になるのざぞ。
(これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応した様を言い表している)

第八帖
役員 皆 宮つくれよ。 宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ。 一の宮、二の宮、三の宮(“一二三”のオーラの発振、発信の仕組み)と次々につくり呉れよ。 道場も幾らつくってもよいぞ。 神の申した事、なさば成るのざぞ。 宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ。

第九帖
天詞様まつれと申してあろが。 天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)とまつり奉れ。
天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)の解字


第十帖
元津大神、心の中で唱へ奉り、スメラミコト唱へ、次に声高く天津日嗣皇ミコト大神唱へ、天のひつくの大神と唱へ奉れ。

第十三帖
「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。 
(この表記はたった今の地球人のこと、その霊的成長度、その霊的成長度における事象の“創造”、それに相対して、今後=アセンション後はこうなっていくのだ、進化した人間の事象の“創造”と、其の生命の営みは違ってくるのだ、ということをしっかり読み解いてもらいたい)

 さらに、ここまでの“日月神示”でたびたび述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間、その心(靈)の低さ、認識(悟り、幸取=さとり)の低さ、そしてその行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の低さを指摘した言い回しもいくつかあった。
 これはどんな霊的成長度の人にも解り、さらに、平均的地球人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人、この人たちが読むならば、自らの低さが判ることであると思えるので、以下の文言の解釈を参考にしてもらいたい…よって以下に列挙する。

第一帖
今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。 己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。 他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。 神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。 神人ともにと申してあろが。 神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。 まことの神のおん心わかりたか。 今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな。 

第二帖
海の水(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンと同義)がシメであるぞ。 鳥居であるぞと申してあろうが、シメて神を押し込めてゐたのであるぞ。 
人民 知らず知らずに罪犯してゐたのざぞ。

第三帖
天の異変 気付けと申してあろが、冬の次が春とは限らんと申してあろが。 夏 雪降ることもあるのざぞ。
神が降らすのでないぞ、人民 降らすのざぞ。 人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。 訳の判らん病ひどくなって来るのざから…以下略…

第四帖
今の内に神徳積んでおかんと八分通りは獣の人民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞するぞ、キリキリ二股多いぞ。 獣となれば、同胞(はらから)食ふ事あるぞ。 気付けておくぞ。

第十帖
今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ。

第十一帖
岩戸開きのはじめの幕 開いたばかりぞ。 今度はみづ逆さにもどるのざから、人民の力ばかりでは成就せんぞ。
奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。 時待てと申してあろが。
人民 大変な取違ひしてゐるぞ。 次の世の型 急ぐ急ぐ。
八月六日、アメのひつぐのかみ。
神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘で、終局(りんどまり)ぞ。 我(われ)が我(われ)ががとれたら判って来るぞ。 慢心おそろしいぞ。

第十三帖
口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか。
今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。

 以上、たった今、厳しい“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行っている人も、人生において右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることをして自省(胸の磁性“十”)した人も、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で慢心している人も、この文言の解釈を読んで自らの認識(悟り、幸取=さとり)としてもらいたいものである。

次回からの“日月神示”解釈は、雨の巻 ( アメの〇キ) に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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