“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 雨の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 



 今回から、雨の巻(アメの〇キ)の解釈に入りまんねん。 まず、第一帖の原文は以下の通り。

天の日津久の大神(あめの一二の
ローレンツ力と ○)のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ。 十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。 今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。
世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。 
此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。 所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。
命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。
神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。 手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。 神の仕組 愈々となったぞ。
十月十三日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文。
“天の日津久の大神(あめの一二の
ローレンツ力と ○ )のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ”

この文の表記、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、艮(うしとら)の金神の意図するところとして、最初に黒住教を立ち上げさせ、そこで朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を説き、実践させていたことは幾度となく述べたし、今後=アセンション後の地球人が成していくべき霊的成長の段階は、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)としての進化過程、智性(神性)の獲得と行使)であり、その部分では、左右の大脳半球、左右の眼球、この大きなコンデンサーの構造を持つ組織と、眼球から脳に至る神経、あるいは脳そのものであるニューロン(神経細胞)とシナプス(神経細胞間あるいは筋繊維(筋線維)、神経細胞と他種細胞間に形成される、シグナル伝達などの神経活動に関わる接合部位とその構造)の構成 (他にもあるが)これらが中心になり、“一”=智性=1番目のオーラを構成するものであるし、それは頭部の水平磁場によるシンクロトロン放射でもあり、重複するが、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の動きの分類における最も高いものであるといい得る。
 よって“天の日津久の大神(あめの一二の
ローレンツ力と ○ )”、その“お神示(ふで)である”=神が示す何か、それは(後述するが)これまでにないことなのだ、これからの進化は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが必須、そしてそれは“天”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、この取り込み、これを止め(“日止、霊止”の表記の意味)、“一二三”のオーラとなし、その心(靈)で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)していくのだ、だからこそ“特にお許しもろて…以下略…”と述べられているものである。
 それと“あめの一二の ”の意味は、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“あめ”は“上”、天津の天であり、“一”=智性=1番目のオーラと、両腕の水平磁場(アナハタチャクラの構成、胸の磁性“十”の強化、心(靈)の発現としては“慈悲”と“慈愛”)の意味合いで“二”が示され、それにローレンツ力
ローレンツ力  と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が示されている。

 これに続く次の文。
“十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。 今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ”

 最初に述べられている“十二の巻”、これはここまでの“日月神示”、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、日月の巻、日の出の巻、磐戸の巻、キの巻、水の巻、松の巻、夜明けの巻の意味合いと、脳から出る末梢神経を脳神経と呼び、嗅神経、視神経、動眼神経、滑車神経、三叉神経、外転神経、顔面神経、内耳神経、舌咽神経、迷走神経、副神経、舌下神経、と分類されているが、この神経が構成しているコイル=“巻”も、“一”=智性=1番目のオーラの発現に関わるものであるし、手足の指さきで始まったり終わったりする十二経絡(ツボの流れ)、○○○大先生の私見によればそれは、電磁誘導のラインであり、“十”に経絡が指先で始まったり終わったりするのにはちゃんとした理由があり、それは、指の骨は小さいが指にはたくさんの神経が巻いていて、電磁石としての構造を考えれば、体幹から手足を介して指先に至る磁束の発現があり、またこの経絡(ツボの流れ)そのものが心(靈)の動きに関わるものであるからであり、これが肉体(月(ツキ))の進化と心(靈)(ヒ)の進化の秘密そのものを示す、そしてそれは左右対称であり、これは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、これに相当するものでもある。
 それで“此の巻アメの巻と申せよ”の“アメ”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
であるから、“創造”の“主(ヌシ)”の振動が、“上”から“下”に下降して生命が発現し、生命(生きる使命=存在理由)は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に従い、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、下等な生物から人間になり“一”=智性=1番目のオーラを発現していきながら事象の“観察と認識”を行う、その意味合いにおいて“アメの巻と申せよ”と述べられているものであると思える。
 これに続く“此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ”これは冒頭の“特にお許しもろて…以下略…”で示されている通り、これまでの人間の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において無かった“行”をさせてやるのだ、今後=アセンション後に移行すべき心(靈)は“一”=智性=1番目のオーラの強化が必須、両腕で構成される胸の磁性“十”も必須であるのだ、よってすでに黒住教で教えた初心者向けの“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことくらいは恭順に行え、の意味合いである。
次の“惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。 今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ”、これは“惟神(かんながら)(神の御心のまま、神意に沿って生きる)の道とか神道とか日本の道とか”の概念が“役員づら”により腐ったものになっており、これに続く“惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応している心(靈)ではないのだ、という指摘でしかなく、それを強調して述べているのが“今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ”であり、今のお前たちの“惟神(かんながら)”に対する認識は、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”であり、“役員づら”に利用されている偽物の概念であることを知れ、“ほんとう”の“惟神(かんながら)”は、“上”と感応する心(靈)の資質と、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、が必須であり、それをまず知れ、そして認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、の意味合いで“心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ”と述べられ、ことに“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことに関しては、上つ巻 第二帖の“神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ”や、地つ巻 第九帖の“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうが”と述べられていることなどをしっかり認識とせよ、の意味合いである。

 次の文。
“世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。 足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。 此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。 所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。 命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ”

 この文の大半は、これまでに出てきた表記と共通、自分達の霊的成長度における行いを恥じよ、自省(胸の磁性“十”)せよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、の意味合いがあり、その詳細については解釈を省くが、大事な要点として“「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ”の表記があると思えるので、まず、“イスラ”については、
“イ”は、生気生命の発生力
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ) 
“ラ”は、クの言霊に似て 奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)の音根 物の根の意 張り 配り 広がり 延び むすぶ の意
(注 “ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意)
であるので、進化して行くべき生命の意味合いと、進化しながら完成と統一、そして延び広がるべく発現したのが生命(生きる使命=存在理由)であるとの意味合いがあり、その“十二の流れ”は先に述べた“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道としての十二経絡(ツボの流れ)であると思え、左右対称に存在する電磁誘導のラインである“富士(二二)”は、進化した生命(生きる使命=存在理由)、手足と頭部が無ければ存在しえないものであるし、これがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣に結びつく(だから○○○大先生は電気行を行っている)、その意味合いが“「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来た”である。

 次の文。
“神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。 手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。 神の仕組 愈々となったぞ”

 最初に述べられている“神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ”は、“よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ”の意味合いを強調する文言であり、“日月神示”に書かれている文言を確り深読みせよ、言葉や文言を額面通り受け取るのは何も読み取っていないという指摘でもあるし、“日月神示”を利用して儲けている“役員づら”も多いからそれを信用するな、という意味も示唆していると思える。
 これに続く“手のひら返すぞ返さすぞ”は、ここまでの“日月神示”に出てきた“グレン”と同等の意味合いである。
 これに続く“此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。 神の仕組 愈々となったぞ”は、“岩戸開き”は“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、いわゆる胸の磁性“十”の強化、ヨガでいうところのアナハタチャクラ、チャネラー用語なら第四密度、心(靈)の発現なら“慈悲”と“慈愛”、の意味合いであり、現地球人の自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)より“上”であり、現地球人の進化の段階では悪霊の憑依が中心であるからこそ“役員づら”の台頭があり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、恨みの連鎖の霊的干渉の増大になっているが、今後=アセンション後は違ってくる、“上”と感応する心(靈)の資質と、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した肉体(月(ツキ))を持った人間だけになるから、その意味合いで“人民使ふて人民助けるなり”=この事象を変えていくのは進化した人間であり、またその人間は“人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する資質を持っているのであり、それが神の“思惑の顕現”、“創造”の“主(ヌシ)”の意図する進化であるからこそ“神の仕組 愈々となったぞ”と述べられているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ。
七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ、 
霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とは外国の事ぞ、 ローレンツ力と ○ が神国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ。 
大き心持てよ、かがみ掃除せよ、上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、びっくり箱あくぞ、八九
の次は 縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖 であるぞよ。
何事もウラハラと申してあろが、ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。 
餓鬼までも救はなならんのであるが、餓鬼は食物やれば救はれるが、悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。
我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程 悪ふとりてゐるから、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれん事になったぞ。
十月の十四日、ひつ九のかみしるす。

 冒頭の文。
“天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ”

 この文で伝えたい事柄は“神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのである”であり、これはたった今の地球人の神に対する概念、固定観念とか一般常識とか既成概念とかと換言出来得るが、これが低すぎるし、その概念が間違っている旨の指摘である。

 そしてそれはこれに続く以下の文に繋がっている。
“七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ”

 この“神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判る”“釘付けの形”“釘付けしたのは、そなた達”、これが先に述べた固定観念や一般常識、既成概念、いわゆる程度の低い自分たちにとって都合の良い神の概念、“役員づら”が流布してそれを受け入れ容認して、“ほんとう”に神と人間の関係を考えない人間のことを指摘した言い回しであるし、それを改めよ、それはあらゆる宗教にいえ、ここで示されているのは神道、“鳥居”、そして“基督(キリスト)”ではあるが、すべての人間に対し“改心致されよ”“懺悔せよ”と述べられているものである。
 前後するが“七五三(しめ)”は、夜明の巻でカタカナ表記の“シメ”があったが、今回はひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記である。 それで、夜明けの巻 第二帖で以下の表記があったのでコピペ。

“海の水がシメであるぞ。 鳥居であるぞと申してあろうが、シメて神を押し込めてゐたのであるぞ”
この文の“海の水”は、錯体の意であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める要素でもある。 それが“シ”“メ”と記されている。
“シ”は、弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
であり、
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
であるので、生命(生きる使命=存在理由)が、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、取り込んで事象の“創造”をしているが、天意を顕現するほどの霊的成長度ではなく、何度も述べるが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるからこそ“シメて神を押し込めてゐたのであるぞ”、お前たちの神の概念は低すぎるし、神の思惑通りに生きていないのだ、自分たちの在り方が間違っているのだ、という言い回しをされ、これは次の文に続いている。
“人民 知らず知らずに罪犯してゐたのざぞ。 毎日、日日(ひにち)お詫(わび)せよと申してあらうが、シメて島国日本としてゐたのざぞ”
要は自省(胸の磁性“十”)ということ。

 もうひとつ、夜明の巻第十帖からコピペ。

“シメは当分造りめぐらしてもよいぞ。
今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ”
この文中の“シメ”は、…中略…であるので、生命活動といい得る事象の“観察と認識”であり、その点で、“当分造りめぐらし”は、これからも進化して、自らの霊的成長度が高まっていったなら観察しうる事象は変容するの意であり、“今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから”は、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を歩んでいる“此の方等”は、今大多数の人間(生命としての人間)が、低い振動としか感応していないのでこの事象は腐っており、その結果、“今までのシメは此の方等しめて、悪の自由にする逆のシメざから”となっていることを言い表しており、それではダメだの意で“シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ”、これは先の“元津”そして“誠”、すべての生命、すべての事象に対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であれ、いうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の不誠実さを否定した言い回しでもある。

 次の文。
“七五三は逆ざぞ。 三五七ざぞ。 天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ”
ここで示されている“三五七”の“三”は、“一二三”のオーラ。
“五”は、糸巻の象形文字、神経が密になった(羅)生命(生きる使命=存在理由)のこと。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間の思想と行動といえるので、“七五三は逆ざぞ”は、神の思惑を顕現する“七”から述べるのは間違いで、人が“日止、霊止”になるには、先の“天津日嗣皇”、これを“ミコト”とする、“天のひつく”を行じて、“一”=智性=1番目のオーラを発現し、その過程で神経は密になり“羅(般若心経の“波羅密”の羅)”、その上で天意と感応してそれを事象に顕現するの意が“三五七ざぞ”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した“日止、霊止”と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は、神の思惑を息吹くの意が、これに続く“(これから、今後=アセンション後の)天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ”である。
 それで第十帖を要約するならば、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の思惑を顕現すべく“日止、霊止”というものを思い浮かべ、それを息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)として“天津日嗣皇”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“タマの宮”を自らに構築して“上”と感応してまっとうな生命(生きる使命=存在理由)というものを顕現(“シメ”)せよ。


 上記の事柄を鑑みて、今回の表記の“七五三(しめ)”は、平均的地球人の神の概念、それは自我の確立=固定化の進化過程における神の捉え方、その認識の仕方の低さ(“海の水”による認識)であり、それに相対し、生命(生きる使命=存在理由)である人間が神を認識していく、霊的成長を果たして“ほんとう”の神の概念を認識(悟り、幸取=さとり)としていく過程が第十帖の
人が“日止、霊止”になるには、先の“天津日嗣皇”、これを“ミコト”とする、“天のひつく”を行じて、“一”=智性=1番目のオーラを発現し、その過程で神経は密になり“羅(般若心経の“波羅密”の羅)”、その上で天意と感応してそれを事象に顕現するの意が“三五七ざぞ”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した“日止、霊止”と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は、神の思惑を息吹くの意が、これに続く“(これから、今後=アセンション後の)天地のいぶきぞ。 波の律ぞ。 風の律ぞ。 神々様のおんいぶきの律(なみ)ざぞ”である
ということ。

 これに次く以下の文。
“ 
霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とは外国の事ぞ、 ローレンツ力と ○ が神国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ”

 この“  
霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とは外国の事”、 ローレンツ力と ○ から“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む仕組みであるローレンツ力 ローレンツ力  を差し引いたこの表記は、やはり自我中心の心(靈)が自我の肥大をして、自分と神の“ほんとう”の関係を考えない、自分にとって都合の良い神の概念しか持ちえない霊的成長度のことを示唆しているものであると思え、また自我という心(靈)の発現は、自分以外、外側(外国と幽界)の事象を認識していくものであるのでこの表記になっているものである。
 それに相対し“
ローレンツ力と ○ が神国の旗印ぞ”というのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組み、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である生命)が“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)になっていく仕組みは、肉体(月(ツキ))の磁束で発現するローレンツ力 ローレンツ力 であるし、それはまた“神国”、右翼傾向の強い程度の低い人が間違える表記であるが、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す、のであり、自省(胸の磁性“十”)が進んだ人間でなければ、“ほんとう”の神の認識は得られないのだという言い回しであるし、これに続く“神国と外国との分けへだて誤ってゐる”は、自我が肥大した自分にとって都合の良いことしか考えない人間、“役員づら”の手法が“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”であることが判り得ない、あるいは少し判っていても自分の利益優先に捉えるからそれを容認する程度の低い人間、こういった程度の低い心(靈)が地球人の大半を占めているからこそ、先に述べた程度の低い神の概念である固定観念や一般常識、既成概念、いわゆる程度の低い自分たちにとって都合の良い神の概念が、自分たちの成長の妨げになっていることに気付け、の意味合いと、それを改めよ、気付いたなら先の“懺悔せよ”≒自分を恥じ自省(胸の磁性“十”)せよ、の意味合いであり、それはまた次の文に続いている。

“大き心持てよ、かがみ掃除せよ、上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次は 
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖 であるぞよ”

 この文の“かがみ”は、自らが自らを観察せよ、それは厳しく(“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“)観よ、自分の在り方を鑑みよ、その上で神と自分の関係を鑑みよ、それを“大きな心”と称し、またそれは先に述べた自分たちにとって都合の良い神の概念ではないのだ=“かがみ掃除せよ”、ということを強調した言い回しであり、これに続く“上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現す”、これはたった今の人間の霊的成長度が土=2~3番目のオーラ中心、自我中心であり、肉体(月(ツキ))=“血統(ちすじ、肉体を受け継ぐの意、それに相対して霊統(れいとう)、霊的成長度を受け継ぐという概念もある)”としての“上”の部位からのオーラ、“一”=智性=1番目のオーラが足りないので、それを“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション後では、“一”=智性=1番目のオーラがしっかり発現した人間を“段々に現す”のであり、そうなったなら今とは“グレン”だからその意で“びっくり箱あくぞ”であり、“八九の次は 
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖 である”の意味合いは、
“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、そしてこの場合は右往左往と左往右往して進化していくの意味合いも感じ得る
“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして○ 九 十の“九”、卆(そつ、卒業の卒の異体字)の意味合いを持つので生命(生きる使命=存在理由)としての最終段階
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖  ”は、原本を見ても漢数字の“十”が書かれていない、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)の組み合わせであるからシンクロトロン放射の意味合いであるし、“慈悲”と“慈愛”の発現と強化、第四密度、アナハタチャクラ、そしてクンダリーニの白光、これまで述べてきたこれらの概念全てが当てはまるものである。
 
 これに続く次の文。
“何事もウラハラと申してあろが、ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。
餓鬼までも救はなならんのであるが、餓鬼は食物やれば救はれるが、悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。
我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程 悪ふとりてゐるから、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれん事になったぞ”

 一読すれば意味は通じるが、この文言自体が、自分たちの自我の肥大を自分でよく認識せよ、自分を観察する自分の確立をせよ、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”せよ、自分を諌めよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、の意味合いだからこそ、
“ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな”
“日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな”
と述べられ、それは自分たちの認識からしたら“何事もウラハラ”なのだということを知れ、これが判らない、この文言を理解しえない人間は“悪と善と取違へてゐる人民”“悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ”であり、それに感応しているその“人民”より少し“上”の存在は“悪と善と取違へてゐる…中略…守護神、神々様 救ふのはなかなかである”と称されている。
 それで霊的成長度の高低における区分けの時期は決まっている、それに間に合わない霊的成長度ならば、“我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来る”であり、それはその心(靈)が、その認識が“我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程 悪ふとりてゐる”からで、そのままでは“こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれん事になったぞ”と称されている。

 ちなみに文言中の “六ヶ敷い”は、むつかしいと読ませることは幾度となく説明してきたが、久々の登場なので意味を述べる。
“六”は陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を個々の霊的成長度で取り込み、敷=場(フィールド)の構築をして、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識(悟り、幸取=さとり)としていく意。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、雨の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。 種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ。
悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか。
改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな。
十月の十五日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文。
“草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。 種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”

 この文言中の、
“草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのである”“草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな”
ここまでは、すべての生命が行うべき贖い(あがない)を示した文である。 
それは、いかなる生命、進化程度が低かろうが高かろうが(下等な単細胞生物であろうが人間だろうが)、自らのエネルギーを贖いながら“上”に向かうのが生命であるし、植物は神格化はしないが、動物は(植物の集合意識という形態ではなく、自我を発達させて独り神(ひとりがみ、日取り神)になる)いずれ神格化するものであり(猿から進化したのが地球人であり)、人間は生業(なりわい)であろうが“行”であろうが、自らのエネルギーを贖いながら自らの欲するものを求め、実現させようとする。
それは“思惑の顕現”、自分が欲したもの、思ったこと、それらを現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現を果たそうとする、あるいは果たしていくものであり、このこと事態が生命、生きる使命、生命の存在理由、であるの意。 
 それで、ことに人間の場合は、
“人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな”
それは、人間の一生における生業(なりわい)や“行”、いわゆるエネルギーの贖い(あがない)は、すべて神格化へのステップであるの意であり、また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていけばいくほど、“身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)(ひらがなの“みみ”は、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)となること嬉しい”、これは自分が観察している事象への奉仕であり、奉仕そのものが進化した生命の成すべきことでもあるし、それは事象への神の思惑の顕現、自分自身を介して神の思惑を実現する=“神の御身(みみ)”ということになる。
 またそれは、
“惟神のミミとはその事”
と称され、“惟神”=“上”との感応、“上”の思惑を自分の認識にした進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)は、“ミミ”(カタカナ表記は“上”からの観方)、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
これが二つ並んでいるので、日足と砌(ひたりとみぎり)、思惑にも、思惑を顕現した事象においても、すべて“惟神”=“上”の思惑を取り込んでいくものであるの意。
 この意を、
“此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ”
と称され、たった今の人間は“役員づら”の台頭により“誠の惟神の道”を知らないから、間違えるなの意味合いもあり、“上”と感応していくならば、
“神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ”
あらゆる事象の意味合い、その事象の成り立ち、成因などの理由と根拠が解る、判る、ようになっていくものである。 このことを換言するならばやはり“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んで自らの心(靈)の認識(悟り、幸取=さとり)とした心(靈)になっていくのだといい得るものである。
 これに続く
“いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
この“いろは”は、
松の巻 第十帖でも“今度はいろはの世に戻す”の表記があり、その際に以下のように解釈した
 
この“いろは”は、ひらがな表記なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の目線による“観察と認識”であり、“イ”“ロ”“ハ”それぞれの意味は、
“イ”は、生気生命の発生力
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)
“ハ”は、生命発現成長の音義
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命(生きる使命=存在理由)を“創造”し、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であるが、たった今はそうではなく=人間と神の関係性などを感じうる事象ではないので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍する事象なので、“今度はいろはの世に戻す”、今後=アセンション後は違ってくるのだという意味合いである。

 また、
キの巻 第十一帖に“意露波(いろは)”の表記があり、それは以下のように解釈した。 

“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、


雨の象形文字 解字 


そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されている。

 これに続く
“一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”の“一二三”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、たった今の事象には“一”=智性=1番目のオーラが反映していない、“上”と感応している人が創っている事象ではない、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が中心になって事象を“創造”しているからこそ、その意味において“一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”と称されている。
 これに続く、
“天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
これは“上”=“天から”“ミロク”、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を顕現した生命、の意、を示した言葉であるが、それが“みづの御守護遊ばすなり”、この“みづ”は、稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)のことであると思える。 
 そして“日の大神様は火の御守護なさるなり”=太陽からの振動は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と点二つ(回転を示す)で構成された“火”は、自らのローレンツ力
ローレンツ力で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め肉体が持つ円形加速粒子機の構造で“一二三”のオーラを発振、発信して事象の“創造”をする、それが“火の御守護なさるなり”であるし、ここまでの、進化の仕組み、進化の理由と根拠、生命の存在の意義と意味、生命と“創造”の“主(ヌシ)”の関係、これらを“日月神示”で幾度となく述べられ、それをみずからのにんしきとせよ、という意味合いで“此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らん”と称され、この“判らん”に当たるのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)である。


 次の文。
“悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。 善も悪もないのざぞと申してあろがな、 
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか。
改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、地球人における進化の段階は、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と強化、同時に智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)も高まっていかねばならないが、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至るには自省(胸の磁性“十”)の“行”を行う=“悪も善に立ち返りて”、それはローム太霊の言葉なら左往右往、“日月神示”表記なら“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”だが、これをせねば、自分がどう在るべきか考え得るべく素地が心(靈)に無い、その素地が無いからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は自分のことしか分かりえない、よって自分さえよければよい、というものであり、これら事態が進化過程の高低でもあるが、程度の低い心(靈)は程度の低い“思惑の顕現”=事象の“創造”をする、進化した心(靈)は進化したなりの“思惑の顕現”=事象の“創造”をする、どちらもこの第三帖の冒頭の“神の御身(みみ)となること”、神の思惑を顕現するべくエネルギーの贖い(あがない)には違いないので“善も悪もないのざぞと申してあろがな”と称されており、これに続く“ 
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな”、これは心(靈)=○がローレンツ力 ローレンツ力 により“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、心(靈)が神格化していく意を“真中に神国になる”、真ん中は天之御柱(あめのみはしら)、肉体における“上”と“下”を貫く磁性、頭と尾骨までと言ってもよい、そして“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、それがあってこそ神に近付く=“神国になると申してあろがな”ということ。
 これに続く“日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか”は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが、“日本”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め自省(胸の磁性“十”)しながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して内面とか内側(心の中と感じている事)を高めていくのであろうが、心(靈)が感じ得る外側(外国と幽界)の事象であろうが、一切が神、すべての事象が神、すべて神の手の内、の意味合いで“神の国あるのみ”と言われている。


 次の文。
“改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 先に述べたことと重複するが、たった今の地球人の進化過程は自我の確立=固定化で自我の肥大をして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ばかりの事象であるからこそ“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して心(靈)(ヒ)の在り方を自らに問わねばならず=自省(胸の磁性“十”)の“行”をしていくのだが、それをしたならば、“上”からの振動も取り込む振動が違ってくる=“其の場からよき方に廻してやる”、この意味合いで“(天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性によるローレンツ力) 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して”と称されている。
 そして、
“何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ”
これは“上”と感応している心(靈)ならば神の思惑に沿っている、それは自分が思い実現しようとしたことが実際に事象に顕現する、これも神の思惑の顕現=“我がしてゐるなら自由になる”ということだといえ、それに対し、神は低い人間の思惑を無視して(当然のこと)、良いカタチの事象を“創造”しようとする、それを“我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ”、これは神が生命に対し、生命自身の幸福(“夭と屰”(ようとげき)、と、示す偏(へん)(神の意)と“畐”、“一”(“創造”の“主(ヌシ)”の振動)と口(吸収)と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質))を実現させるという思惑があるからであるの意、この進化の程度の高低におけるケースバイケース、これくらいのことは分っておけ=“此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ”である。
 これに続く“国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ”、この“国々所々”は、やはり自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)(ヒ)のことであり、そこに“宮柱”=天之御柱の強化をして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み顕現せよ=“太敷キ立て”、カタカナの“キ”は、
天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を顕現せよの意味合いを強めているし、“たかしれよ”は、“たかしれ”(高知れ、立派に造る、立派に建てる、立派に治める)の意である。


 これに続く次の文。
“此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 敢えて解釈の要は無い文ではある、ここまでの“日月神示”で述べてきたこと、進化の仕組み、神と人間の関係、これらの事柄を考えないとこの先(今後=アセンション後)は、何事も解らず、何も通用しない、その意味合いで、たった今の進化過程、平均的地球人の心(靈)の段階では“我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ”といわれ、これからは“神烈しく(はげしく)”なる、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、に、沿って生きねばならないので“従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ”と称され、これがまっとうな事象の“創造”には必須の要綱、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるために“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化する、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、そして自分の在り方を鑑みる=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する素地を強化する、すべて“上”から注がれる振動、神の思惑を取り込むこと、なので、“高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”と括られている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。 洗濯足らんのであるぞ。 今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ。
信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ。
実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ。
十月十六日、ひつ九のか三。

 冒頭の文。
“世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。 洗濯足らんのであるぞ。 今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ”

 この文言の要旨は“洗濯足らんのであるぞ”、それは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、要は自省(胸の磁性“十”)が足らないのだ、であり、ほとんどの地球人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の段階であるからこそ言われているに過ぎない。
 
 それで、このことをはっきり認識せよ、という意味合いで、
“頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふ”
“人民 自分で首くくる様なことになる”
“今度はめんめにめんめの心改めて下されよ”
(“今度”=今後、アセンション後)(“めんめ”は、面面、おのおの、一人一人、各自、めいめい、の意)
 そして今後=アセンション後のこととして以下の言い回しがされている。
“世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが”
しかし“上”から観たならば
“頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふ”
“天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな”
(“天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑通りでなければいけないのだが、それを知っていても行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移せない、それは自我中心の心(靈)だからであり、“上”と感応すべく心(靈)の素地が足りないからであるし、だからこそ自省(胸の磁性“十”)せよ、である)
と言われている。
 これが出来たならば、
“改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ”
特に解釈の要は無いが、“岩戸開いたら”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、の意であり、自我より“上”の心(靈)の発現と強化の意味合いがあり、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”していくならば“おかげある”そしてそれは“末代の事”という言い方がされていることに気付くべき。


 次の文。
“信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ”

 “役員づら”が(通貨としての)金と形骸の名誉のため(程度の低い人間が程度の低い人間を褒めそやすこと)、“信者引張り”を行っているのだが、互いの霊的成長のための価値のある霊縁ならば“神が引き寄せる”、そして“役員の所へも引き寄せる”と称されている。
 これに続く、
“訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ”
自分に縁あったすべての何か、すべての事象に対し、真摯に向き合う、ことに人間に対しては“役員づら”のように“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”をしない、それを理念にしていくならば、価値のある霊縁は出来上がっていく、それは人間だけでなく、霊的干渉も高いものになっていくが、それそのものが“上”の采配で、先の“神が引き寄せる”に相当することが実現する、そうなっていくものである。
(ことにこれは、○○○大先生の著書の読者会のメンバーに伝えたいことである)
 これを実現させるために、
“今迄の心 大河に流してしまへば”
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来の幸福感や価値観を改めることをしなければ、
“何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざ”
とはならないのだといわれている。
 これに続く
“まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ”
今後=アセンション後に移行する際の天変地異、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、これらは地球人がやってきたことに対する“正当な報酬”であるが、そのことが理解できない、そもそも因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”という事象の法則性も理解しえない程度の低い認識の人が多いし、自分たちは悪くないという自我の肥大した程度の低い人間も多すぎる、悪い出来事は自分達の霊的成長度における事象の遭遇であるという認識を持つのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間の在り方であり、だからこそすべてに真摯に向き合おうとする、その姿勢を“上”は観ている、その意味合いのことを感じさせる文章だが、大概の人はアセンションに伴う醜い事象の一側面だけ見て大騒ぎするだけ、それでは、その醜い事象が起きる理由と根拠が解らず、低い心(靈)が低い事象を“創造”しているということにも理解が及ばないので、“表面(うわつら)許り見てゐると判らん”、何かが起きた、その理由と根拠は何か、それについて思え、そしてそれを引き起こしているのは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)なのだと思い知れ、の意味合いの文章である。
 これに続く、
“元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ”
この文の“元のキの神の子”の“キ”は、
天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
元々地球に有った、あるいは地球の生物由来の振動の現象化と解することが出来、
“渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子”
これは今後介入してくる霊的成長度の高い人間(宇宙人など)と、それに由来する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在の意であると思える。
 これに続く“アとヤとワと…以下略…”これは、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
なので、先の“元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならん”にかかる言い回しであり、“ア”=生之雷(イノチ)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する=“ヤ”、そして生命と生命が“創造”する事象を調整し和合させていくものである=“ワ”ということ。


 次の文。
“実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ”

 この文の“実地”は、現津(あきつ)、観察され得る事象のこと、その事象を観察する心(靈)が生命(生きる使命=存在理由)だが、個々の心(靈)だけでは事象の“創造”に成り得ず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があってこそこれまでの事象が“創造”されてきたのだし、今後=アセンション後は“上”中心の感応(神の思惑の顕現)になっていく=“臣民はお手伝ひ”ということでもあるし、“上”と感応する心(靈)の素地を持った人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象は“創造”される、それを“実地の誠の生神でないと出来はせん”と称されており、たった今の地球人はそのことに理解が及ばない、自分たちが自分たちの世界を創っていると錯覚しているものであるからこそ、
“雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ”
と言われており、これに続く、
“今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ”
これに関してはあえて解釈の要は無いと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示に書かしたら日月の神(一二 
ローレンツ力と ○ )が天明に書かすのであるから其の通りになるのであるぞ、皆仲よう相談して悪き事は気付け合ってやりて下され、それがまつりであるぞ、王(おー)の世がさかさまのおー雨の巻第五帖  (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのであるから、その事 早う判っておらんと一寸の地の上にもおれん事になるぞ、今度の戦(いくさ)すみたら世界一平一列一体になると知らしてあるが、一列一平 其の上に神が居ますのざぞ、神なき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ、ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ、誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせんぞ。
十月十七日、ひつ九のかミ。

 第五帖の重要な要旨は、文末の以下の文である。
“誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせん”
 この文の“人民”は、たった今の大半の地球人、自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を指しているが、これは“誠の生神”ではないの意(当たり前である)。
 それで“誠の生神”の表記の意味として、天意を止める人、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する人(日止、霊止)が、神の思惑を顕現することの意である。 それでたった今の地球人はこれに相当しないので“誠の神の道に返さす”と言われている。

 このことを解りやすく説く言い方として
“王(おー)の世が
さかさまのおー雨の巻第五帖  (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻す”
この“王(おー)”については○○○大先生の一冊目の著書でも述べられている通り、“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラと、|(たてぼう、こん、縦の磁性))のことで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んで行くならば“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっていくのだが、これに相対して“ (さかさまのおー)の世”という表記は、3番目のオーラ主体の心(靈)のことを指しており、それは目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であり、本能と情動と低い功名心と低い自尊心、いわゆる自我の肥大という息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象が“創造”されているから、それは神の思惑ではないので“今度は元に戻す”=今後、アセンション後は、“上”と感応する“一”=智性=1番目のオーラが大きい人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって事象の“創造”をなし、それ自体が神の“思惑の顕現”であるの意。
 
 上記のことを念頭に置いて第五帖を読むと意味がよく解る。
 
冒頭の文。
“神示に書かしたら日月の神(一二 
ローレンツ力と ○ )が天明に書かすのであるから其の通りになるのであるぞ”

あえて解釈の要は無いと思うが、“上”の思惑を伝える手段として自動書記を行っているのだ、これは岡本天明の思想ではないのだ、このことが判別できない人に対する言い回しである。

 次の文はやや複雑な言い回し。
“皆仲よう相談して悪き事は気付け合ってやりて下され、それがまつりであるぞ”

 この文の“皆仲よう相談して”これは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に対する言い回し。 お前たちは自分たちの欲望のために“集団(つどい)”(上つ巻 第十五帖表記、“今度は末代動かぬ世にするのざから、今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ”)
を作り、権威を示したりするものだが、それをやってみて初めて自分たちが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いをしているのだと気付くならばそれは“上”の通信を受け感応をしている=“悪き事は気付け合ってやりて下され”“それがまつり(“上”と感応すること)”と、やや揶揄(やゆ)した言い回しをされている。
 これに続く “王(おー)の世が 
さかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのであるから、その事 早う判っておらんと一寸の地の上にもおれん事になるぞ”に関しては先に解釈したので割愛する。

 これに続く、
“今度の戦(いくさ)すみたら世界一平一列一体になると知らしてあるが、一列一平 其の上に神が居ますのざぞ、神なき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ”
これもたった今が、形骸の名誉で“上”から観て何の価値も無い位(くらい)を自己奉仕者たちが勝手に作っているから、“一列一平 其の上に神が居ますのざぞ”、神が“上”、人間が“下”、と述べているに過ぎない。 
 そして“神なき一平一列は秋の空”というのは、“秋”は自省(胸の磁性“十”)の意があることを幾度となく述べてきたが、神、“上”と感応しなければ、ただただ自省(胸の磁性“十”)が続くだけだぞ、“うれしうれし”“大歓喜”には成り得ないぞ、という言い回し。
 これに続く“魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む思惑、そういった存在、そして進化を望む存在、要は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を理解して、どちらと感応するのか、自分の心(靈)の在り方を決めよ、それが“旗印”の意であると思えるし、霊的成長をある程度果たした人が身近にいたならば、それを見よの意が“早う旗印見て悟りて下され”であると思える。

 次の文。
“神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ”

 これは人間が“観察と認識”をしている事象は人間のものである、そして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるには、厳しい“行”が必須、それがあって神の“思惑の顕現”を成していくが、それを“神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らす”といわれ、そうなったならば“これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ”、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創りあげた価値観や幸福感などは一切通用しなくなるの意であり、それを実現せよの意で“論より実地見て”と称され、それには“早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ”と、“改心”下から今日から変わるということではなく、時間はかかるが、それは“上”が認めるものであるからこそ“苦労なしに誠ない”と称されている。

 次の文。
“ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ”

 この“ひふみ”“イロハ”に関しては、
第三帖の“いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”、この文の解釈を参照のこと。

 “アイウエオ早ようたため”は、
夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その三”で以下のように述べた。

たった今を示す“アイウエオ”というのは
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“イ”は、生気生命の発生力
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、地に降り(“ア”)、生命(生きる使命=存在理由)が発生(“イ”)、そして生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化である、と解することが出来る。
よって“アイウエオ”、これは生命が発生した理由、そしてその状況、生命(生きる使命=存在理由)の存在意義を示していると思える。
 それに対し“アオウエイ”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“イ”は、生気生命の発生力
なので、地に降りた生命(生きる使命=存在理由)(“ア”)が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し(“オ”)、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それが生命の発生力(“イ”)、これの顕現、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を創造した意図、意義、であると解することが出来る。
よって“アオウエイ”は、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の意図であり、今後=アセンション後は、これが台頭する事象になるのだ、と、読み取ることが出来る。

よってこの言い回しは“アオウエイ”になっていくのだと解することが出来る。

 これに続く“皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ”、これはたった今の“宮”が、“役員づら”の台頭によるものであるから“草ボウボウ”であり、“役員づら”が創りあげた形骸の宮は“えらい取違ひ”、“役員づら”が述べていることも“えらい取違ひ”の意である。

 これに続く次の文。
“祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ”

 “祭典(まつり)”は本来、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の意だが、これが間違っているので“スクリと変へさす”と言われ、“スクリ”の意は、

“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
“リ”は、生命根源の、張り、広がり

なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現、それが広がる、の意であるが、たった今がそうではないから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と真逆になっているからこう述べられているものだと思う。

 次の、“誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせんぞ”、これについては先に解釈を述べたので割愛する。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、雨の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。
一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。 我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。
待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。 身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。 
あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。 淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。
十一月二十三日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ”

 文中の“神示よく読め”“肚に入れ”(肚、腹の意)、これは“日月神示”で述べられていることの読み取り方もさることながら、理解して(しっかり意味を鑑みて実際の事象と照らし合わせた上で自分の思想を構築して)、その上で確たる認識(悟り、幸取=さとり)としてその心(靈)になったならば、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“上”と感応する。
ことに“肚”の表記は“江戸と尾張”と同義であり、自我を指すものである。
それで、自分の心(靈)に自我がある、自我主体の心(靈)である、自我主体で心(靈)の動きがいびつである、などを(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”で)解り、判っていくならば、文末の“素直になれば(自我の肥大をして“上”に逆らうな、の意)其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやる”、ということになっていく。
 ()で注釈を入れたが、“上”に対し、そして“上”の思惑に対し、また“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に対し、“素直になれば”、これは進化に沿っているからこそ“上”は感応していくものである。
文頭と文末の解釈をしたが、中ほどで述べられている“神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ”は、“上”と感応しているならば、ますます自分の存在の意義を知る、これを知る心(靈)は自我である、仮に自我が無かったならば、自分の存在そのものを認識できない、そしてたった今の地球人の進化過程は、自我の確立=固定化の段階だが、これも霊的成長にとっては必須であり、自我が強化され、自我を諌めることをする自我より“上”の心(靈)が発現し強化されていく(“神示胴に入れて頭下げて”)のが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番、段階、であるが、その意味合いを含めて“肚に入れると胴すわる”=自我が強化されていくし、“神示胴に入れて頭下げて”=自我を諌めることも出来得る。
 そして“世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ”、これは、今の世で“偉い人”というのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の頂点、または“役員づら”の頂点、であるので、霊的成長度はてんで低いし、自分の在り方や人の存在意義、“行”についてなど、“上”と感応しているならば、“上”から教えられそれを自らの認識(悟り、幸取=さとり)として“ほんとう”に霊的成長にとって必要なことを教えるのはたやすいのだ、の意味合い、だからこそ“まつりて下され”と括られているものである。

 次の文。
“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。 我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ”

 冒頭の“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)”は幾たびか登場した文言であるので、
日月の巻 第三十一帖から以下にコピペしておく。

“一”=智性(神性)、“創造”の“主(ヌシ)”の表記。1番目のオーラ。
“二”=肉体。
“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
“四”は、発振、発信。“日月神示”表記の善言(よごと)。“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。
“五”は、糸巻き。神経が密になり、コイル状に巻いた様。
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数。ほんでから爻部(こうぶ)は、交わるの意味。そしてその象形文字のカタチを観ると、屋根=頭の下に、左右の極性があるように感じ取れる。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
ほんでから前に、“日月神示”表記の“七七七七”は、目上(めうえ)の脳、大脳新皮質の四つの機能、そしてそれは、“一霊四魂”であると解釈した。
“八”は、左右、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕れ。それは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。○ 九 十の“九”。
“十”は、胸の磁性“十”。腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸と手の磁性で、シンクロトロン放射に移行する様。
よってヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十は、“一”(亜から出ずる、アイ)“創造”の“主(ヌシ)”の振動、それを止める(“日止、霊止”の表記の意味)、そして縦の磁束と横の磁束の意味を表している“十”、これこそが脊椎動物の進化の究極の形であり、それはシンクロトロン放射の構造をも示すものである。
 そしてこの文に続く“百千卍”、卍の意味は、左回転であることも以前解釈したし、この三つの表記については以前画像を作ったので以下に貼っておく。

百 千 万 の解字と解釈 

“創造”の“主(ヌシ)”の振動(“一”(亜から出ずる、アイ))を止め(“日止、霊止”の表記の意味)シンクロトロン放射の構造を持ち(“十”脳と背骨の縦の磁束と手と胸の水平磁場、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現)そして“百千卍(もちよろず)”するのは画像で示した通り、“上”の振動を止める表記が百と千であり、卍は左回転であるからこそそれは自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現であり、それは大日如来の条帛(じょうはく)で示されている左回りで“上”にエネルギーが上昇するさまであり、それそのものが神格化のプロセスである。
また“百”の画像で示した通り“上”の振動を取り込み自らの心(靈)の構成要素としての高い振動を取り込む具体的な手段は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化となっていくものであるからこそ、より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく。


 この引用の文末“より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく”だからこそ“授け申して神人となる”=よりいっそうの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)になるという意味合い。
 これに続く“我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ”この文の“まだ思って御座る臣民まだで御座る”を読み飛ばしてはならず、自分の認識、心(靈)の動きが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来のものであり、またその価値観や幸福感があるならばそれは“まだ”であると気付かねばならないし、“上”と自分の関係があってこそ、事象の“観察と認識”をすることが出来得る≒自分の存在を感得するものであると知らなければならない。

 これに続く“神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ”、これは、たった今の地球人は進化程度が低すぎて、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知らなさすぎる、の意味合いであり、先に述べられている“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ”、この仕組み、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め進化を果たしていくのが生命であり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な説明であり、“上”の振動を止めるならば進化するのだという進化の根拠まで述べているのだから、その根拠を知れ、という意味合いで、“爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ”であり、神があるから人間の進化がある、の意味合いと、“役員づら”の信心や神頼みを揶揄した言い回しとして、“神許りでも生きてゆけん”と称されていると思える。
 これに続く“まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ”、これは、自らが観察しうる一切の事象、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も、自分自身も含め、一切の事象が神である、という認識の上で、すべての事象に“上”を認識(悟り、幸取=さとり)したならば、今まで自分に止めることが出来なかった“上”の振動と感応しうる=“まつりせよ”“まつろへよ”、それがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣でもあるの意味合いと感じられ、おりしも、先の
ローム太霊講話集解釈の 第十七話 仙道 尸解仙とその実例 Kellyさん的解釈“その四” で述べた、

すべてに神が関与していることを意識していないからこそ、すべての事象に在るといい得る“上”からの振動である神の思惑を受け取れない、感応しない、神の思惑を理解しえない、よって程度の低い心(靈)であるからこそ、すべての事象に都合の良いことを思い、すべてが神であるという認識に至ることが出来ない(事象を観察する視野が狭い)のだが“人間が分らない自然━━ここではそれそのもの即ち神と考えてよい”、この認識がはっきりしていくならば、今までほとんど無視し続けたといい得る“周囲のものから受ける非常な神の霊気”と感応していく、その影響を受けて認識が高まる、ということが述べられている

この意味合いと合致しているものでもある。 
 それで文末に述べられている“神拝む許りがまつりでないぞ”、これは先の““役員づら”の信心や神頼みを揶揄した言い回しとして、“神許りでも生きてゆけん”と称されている”と同義。

 次の文。
“待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。 身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ”

 文中の“日の出”は、日の出の巻の解釈の時、今後=アセンション後の事象を指すと解釈したが、そのことを“待ちに待ちし”=“創造”の“主(ヌシ)”の計画としての“日の出の御代となりにけり”=霊的成長度の高低における区分けが起きていく、と説明され、“一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり”、今までは土=2~3番目のオーラの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程、それは“いろは”では無い、の意味合い。 “いろは”“イロハ”“意露波(いろは)”に関しては、“その三”“その五”で述べたので割愛するが、それが“たちにけり”=事象に顕現する、これはたった今の事象がそうではないのだ、という意味合いでもある。
 そして“たちにけり”、たった今は事象に顕現していないことの説明として“身慾信心してゐる臣民人民”、この進化過程の人間ばかりだからだ、といわれ、その低い心(靈)ならば“今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来る”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を含んだ振動を自分の心(靈)で認識できない=高い振動は素通りする進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるという意味合いであり、それをまた“毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たん”と称されている。
 これに続く“悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されん”、この“悪気”は、“役員づら”にとって理由や根拠を追求するならそれは形骸の権威を害するものであり、その連中にとっては悪かのように見られるものであるが、理由と根拠、人間の存在の本来の意味と意義、神と人間の“ほんとう”の関係、これらは深く鑑みることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須だが、“役員づら”にとって都合の良い人間は、自分たちの言うことに素直に従う、御利益を強調することを述べたらそれを恭順に受け入れ、神と人間の関係など考えもしない、これも進化程度の低い心(靈)であるからこそ、それではダメなんだ、という意味合いで、“一二(ひつき)”は、“一”、智性、1番目のオーラと“二”、肉体(月(ツキ))の意味合い、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人間の意味合いが“一二(ひつき)の御民”である。

 次の文。
“あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。 淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん”
 
 文中の“黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し”、これはアセンションに伴う醜い事象、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の極み、これは無くなる、無くなっていくの意。
 それに遭遇し、迷ったならば、自分の存在の意味合いを考えたならば、“淋しくなりたら神示尋ねて御座れ”そしてたった今の醜い事象、これからひどくなる醜い事象の意味合いを知りたかったら“上”と感応せよ=“神示読まねば益々判らん事になったであろう”、醜い事象は際限ないぞの意味合いが“天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ”、醜い事象が起きる成因は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で高慢であり傲慢であり、事象の意味合いなどを考える心(靈)の素地を持っていないから右往左往と左往右往(やってみてから失敗を体験し、その失敗を教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)せよ、そして自我を諌めよ=“鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん”と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。
三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ。
アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用  ローレンツ力と ○   (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ。
国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな。
十一月二十三日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”

 まず述べておきたいこととして“神の心の判りた臣民”という言われ方に何を感じ(感じる磁性)るのか、である。
 これはいわゆる相対的な言い回しであり、たった今ほとんどの人間が“神の心”に対して何も判っていない、人間と神の関係について理解が足らないから、自らがその霊的成長度における事象の観察=“天地よく見て悟りて呉れ”をしても、自分はどう在るべきか、どう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すべきか、が、判らない、その“判りた臣民”ではない心(靈)は低いのであり、またそれは大概の人間が“役員づら”に刷り込まれた薄っぺらく甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)神の概念しか持ちえないからこそ、あえてこういう言われ方をされているのだと気付くべき。

 これに続く
“助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ”
この“助ける”に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈や、賽銭と引き換えに御利益や天の僥倖をもらうなどの思いを持つ人が多いだろうが、そうではなく、神と人間の関係をしっかり理解した人(自省(胸の磁性“十”)して霊的成長をした人)ならば、今後=アセンション後に移行する際の資質を人に伝えることが出来得る、霊的成長とは何か、を伝えることが出来得る、それは結果としてアセンションに伴う醜い事象に巻き込まれない人を増やす結果になるから“助ける御用”であり、またそれは恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたたった今の事象、その悪しき状態からの逸脱という結果に成りうるので“清めの御用で御座る”と称されていると思え、それが“神の心の判りた臣民”の“御用”であるといい得る。

 これに続く
“三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
この“三四五(みよいづ)”は幾たびか登場している表記で“三”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“五”は糸巻の象形文字で、進化した生命の神経が密になっている様を指す、要は進化を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”が“三四五(みよいづ)の御用”であるし、そこには“一”=智性=1番目のオーラ、これによる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応があってこそ“三”の表記が当てはまるものである。
 そしてそれは“出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らん”、これは“一”=智性=1番目のオーラがしっかり発現し強化されたうえで、“上”と感応してその上でさまざまな事象を観る、事象の成り立ちを観る、事象の成り立ちは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであることを悟る、そして育った自分の心(靈)を観る、自分の心(靈)の動きを観る、これをして初めて判るものであるの意であるし、“つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”の“つかわれてゐる”は“上”の憑依と感応により行動をする、行動は、現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現だが、その思惑は、“上”の通信を受けながら、であるので、自分の思惑だけではなく、常に“上”と感応する人間は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を成していく。
 その状態において、自分は“上”ではない、神そのものではない、通信を受けて事象に“上”の思惑を顕現しているからこそ“つかわれてゐる”のであり、自分が“上”と同等の霊的成長度に至ったならば

“出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
これは“上”の思惑の周到さ、“上”が“下”(低い心(靈))を育てる心(靈)を育てるための心の動き、そして実際の感応、その感応により遭遇させる現津(あきつ)、観察され得る事象、そこにおいて、その“下”である人間を慮る(おもんぱかる)気持ち、“慈悲”と“慈愛”、などを実感する、の意味合いであると思える。

 次の文。
“アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちのローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”

 文中の“アメのひつ九のか三”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ひつ九”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、○ 九 十の“九”、生命の最終段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これは目上(めうえ)の脳の進化、“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信部位、この二つの意味合いを含んだ言い回し、そして丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているのが“九”でもある。
“か三”は、神、神格化、そして“一二三”のオーラを含んだ言いまわし。
次の“アメの一二の神”は、
“アメ”は先に述べたので割愛、
“一二の神”は、“一”=智性=1番目のオーラが発現した肉体(月(ツキ))(“二”)、これは神格化である、あるいは神格化のステップであるの意。
次の“アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、
が肉体(月(ツキ))、〇とローレンツ力
ローレンツ力 は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組み、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をローレンツ力ローレンツ力 で止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)、肉体(左右のコンデンサー、人間は進化した左右相称動物)に溜め、それを回転させて心(靈)を構成するの意、これに前述した“アメ”の意が加味されるので、天意を受け、止め(“日止、霊止”の意)、結果として天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)と解することが出来得る。
 これに続く“元神で御座るぞ”の“元”は、“二”は肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)は時間の進行(人があるく様を象る)、これは肉体(月(ツキ))を伴った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるの意。
 次の“ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
なので、生命の多様性と、生命が進化したならさらに新たな次の生命が生まれるの意、そして“元のままの肉体持ちて御座る御神様”“つちのひつ九のおん神様ぞ”は、肉体を持ち進化を果たすべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしていく人間のことを指し、文中の“つちのひつ九”の“つち”に関しては、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記で人間目線の表記だが、その意は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止めて集約し(“ツ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして事象の“創造”をする(“チ”)、これそのものが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、そして“ひつ九”、太陽凝視を行い生命の最終段階になる、それは前述した“○ 九 十”の“九”=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるとの解釈が成り立つ。
 これに続く
“つちの
ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”
“つち”に関しては前述したので割愛、“
ローレンツ力と ○ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様”は、先の“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 ローレンツ力と ○ (つきひ)の神”と、表記が違うが、その意は先に述べたことと重複するが“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)、これに対し“つちのローレンツ力と ○  ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様”は、天意を集約させ(“つち”)、それを肉体(月(ツキ))のローレンツ力ローレンツ力 で止めさせ、肉体(月(ツキ))に顕現させ得る意志を持つ“上”と解することが出来、その“上”と一体になる、しっかり感応して通信を受け自らの認識(悟り、幸取=さとり)とすること事態を“今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”、これが“今度の仕組”=今後、アセンション後の事象、あるいはそれに移行する際のおける霊的成長の仕組みであると解することが出来る。

 ここまでのことを承知した上で(“今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”)、次のように述べられている。
“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”

 文中の“九二つちの神”“九二の御先祖”“九二つちつくること”の“九二”は、前述したが“九”は“○ 九 十”の“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、の意、そして“二”は肉体(月(ツキ))の意、“つち”は、天意を集約して止め進化して事象の“創造”をする意。
 これを踏まえていれば“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを全く理解していない、解っていない、進化した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=“九二の御先祖の神”のことも解っていない、換言すれば生命の存在意義が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを全く理解していない、の意を述べていることが判るものである。
 これに続く“神は千に返るぞ”、これは神格化の必須要綱、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”、これが合わさった表記が“千”であり、生命の神格化=“神は”“返るぞ”、生命の存在の意義を果たすこと、それが“千”で表されている。
 これに続く
“九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”
この“九二つちつくる”は肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)の進化そのものであり、大概の人間にはそれが解っていないから“何んなに難儀な事か人民には判るまい”であり、これに続く“今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ”の“さらつ”は、“さら”が、 全く新しいこと、まだ全然使っていないこと、あるいはその様子、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“つ”は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
なので、進化した生命が新しい事象を創るの意であることが出来るのだが、それを“人民もその型の型の型位の難儀せなならん”、“日月神示”では“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、心(靈)の在り方として“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”、これを“その型の型の型位”と称され、いわゆる次の事象に移行する際の最低の条件、最低の必須要綱として、という言い回しである。
 ちなみに“さらつ”の言霊は、
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
である。
 これに続く“それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ”、これは先の“その型の型の型位の難儀せなならん”にかかる言い回し。
これに続く“今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”、進化した生命は、次の事象を“創造”する、天意を“つち”とし、“九二”とするのでそれは現人神ともいえ、“天詞様”でもあり、要は“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり、天意と感応する、これが生命の最終の段階、“○ 九 十”の“九”である。

 次の文。
“国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 冒頭の“国の洗濯はまだまだ楽”、これは国土のことと思え、それに相対し“ミタマの洗濯 中々に難しい”、人間はなかなか変わらない、低い人間ほど変わらない、“上”が何を伝え進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んだとしても、伝わりにくい、程度の低い人間ほど認識(悟り、幸取=さとり)が変わらない、程度の低い価値観や既成概念で“日月神示”を読む、あるいは利用する、などの意味合いを“幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ”と称されているが、“上”は認識(悟り、幸取=さとり)の変容を待ち望んでいる=“人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座る”とも言われ、しかし、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、が迫っているからこそ
“言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ”
とも言われている。
 ちなみに文中の“ミタマ”の言霊は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
本来、生命(生きる使命=存在理由)=肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は、この“ミタマ”の意の通りでなければならないが、それを“洗濯”と称するまでに穢れきっており、生きることの意味、生命の意義、など、考えたことも無い人間ばかりになっているので、“ミタマの洗濯 中々に難しい”と称されているのだと気付くべき。
 これに続く、
“役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”
この“大のつく阿呆になれ”そして“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”、さかさまの大である“ さかさまの大 雨の巻第七帖 ”、これと同様の表記は第五帖の“王(おー)の世がさかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのである”があり、このさかさまの“さかさまの大 雨の巻第七帖  ”も、“大”の本来の意味合い、人間が手足を伸ばした様、あるいはこれを書いている○○○大先生的な解釈なら、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記と解することが出来るが、その真逆の意であり、これを踏まえて“大のつく阿呆になれ”を観るならば、この言い方では意味が伝わりにくいが人間本来の姿、それは前述した生命の本来の在り方、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく存在が生命、よって生命の存在の意義を全うせよ、それが真の使命、であるの意と解することが出来、それに対し“  さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失っている、あるいは進化に対して認識がない程度の低い存在&人間に対し、“あやまって呉れるな”であり、文中の“阿呆”は、恭順になれ、の意であると解し、その意において“阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”、これを読むならば、何に対し恭順であるべきか、“上”か“下”か、の意味合いであることが理解できる。

 これに続く次の文。
“命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 生命の本来の在り方、その存在の意義を全うすることは先の“難儀”であり、命がけであるからこそ“命捨てて”と称され、その時がもう近いので“命に生きる時”、生命の意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識してまっとうせよ、それが次の事象であるの意だが、たった今、“利巧”に生きている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、“非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか”と言われている。
 ちなみに“アフン”の言霊は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
なので、“ア”“フ”がこれ以上先に進まない、と解することが出来る。
 これに続く“何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”
この“何時も変らぬ松心”の“松”は松の巻の〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))の意、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指せの意であり、“建替へ致したら世界は一たん寂しくなる”、これはたった今の地球の人口からすればごく少数、そしてこれまでの価値観や幸福感や一般常識や既成概念は通用しなくなるの意であるし、“神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”“上”が人間の進化のため、こういった形で文言を残す、これは“日月神示”に限らず様々なものがあるが、これに留意し、意味を読み取り、真摯に受け止め、自分の在り方を観て自省(胸の磁性“十”)し、自らの認識(悟り、幸取=さとり)の糧として、たった今の自分をよく観よ、“自分を観察する自分の確立”をせよ、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。
今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ。
世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。 
甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか。 神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十と 
ローレンツ力 とであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ。
十一月二十七日、ひつくのか三。

 この第八帖は、先回の第七帖の続きのような意味合いが多い、まず冒頭の文。
“大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ”

 この文の“大難小難にと祈れ”、これも“役員づら”がご利益を求める信者に期待させ賽銭を求めようとしてよく使う手法の意味合いではなく、すべての事象に対し、常にこういう心構えでいろ、これからアセンション後に移行する際に伴う醜い事象に対し、少しでも軽く、また多くの人間が次の段階に移行するように祈れ、祈りは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)だから息吹け、であるし、これを息吹くからこそ“上”と感応するのだ、でもあるし、さらにこれは先の第七帖の“神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ”と同義のことである。

 それで“上”としては“如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心”、たった今どんな状況であろうが、次の段階に移行すべく心(靈)の資質を最低限持っているならば“如何様にでも受け入れてよき様にしてやる”と述べられているし、これについて“判らんか”、“上”の思惑を判れ、と称している。

 これに続く“天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ”、この雨の巻が自動書記で書かれたときはおりしも終戦直後(昭和二十年十一月二十七日)であり、人の心(靈)は荒廃し投げやりになっていた時であろうが、その時の人間の心理は自分たちがダメになったのだからすべてダメになってしまえ、などと思いがち、それを諌めるために“天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山ある”と述べられており、これに続く“そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来る”、これは人の霊的成長を望む“守護神”ではなく、神国だから戦争しても勝てるのだという勝手な思い込みをさせた程度の低い存在のことを揶揄している言い回しである。

 これに続く次の文。
“今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ”

 この“守護神”も前述した通り程度の低い存在なので“悪の血筋眷属である”と称され、そして戦争に負ける、これはローム太霊の言葉右往左往であるし、これを体験しなければ自分たちが今後どう生きるべきか、何を思うべきか、これを見出すことが出来なかったので“悪も御役ながら”と称され、しかしそれは“奥表に出ては誠おさまらん”、戦争を起こした心(靈)の動きは自我由来の縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)であるから、そんな心が台頭していては“誠おさまらん”のであり、この戦争の体験が澄んだならば=右往左往したならば、自分たちにとって“ほんとう”の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を見出そうとするし、自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と心(靈)の動き、何が“善(神格化の方向性と智性の受信)”で何が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、それが解るという意味合いで“悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ”と称され、人間が区別している既成の宗教(“卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構”)は形骸の権威を示すだけだが、そこには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑があるからこそ“結構”と述べられ、既成の宗教に捉われるな、何が自分たちにとって“上”か、そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、“悪”の理解がなければ“善”の理解も無い、また既成宗教の中のどんな教えが自分たちを進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くか=“善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組”、それを見出せ、の意味合いの文であると思える。

 次の文。
“世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々”

 文中の“世の元からの仕組”は、たびたび登場した“世の元からの生神”と意味合いが同義、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性、のことであり、その“中行く仕組、天晴(アッパレ)”その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って進化せよであり、“三千世界結構である”の“三千世界”は以前、
地つ巻 第四帖で述べたとおり“すべての現津(あきつ)、観察され得る事象をさす表記”であり、今後=アセンション後の事象に位置しうる資質を持つ心(靈)は“心の不二も晴れ晴れとなる”、この“不二”は、二つとないこと、無二、二つに見えるが、実際は一つであること、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ、の意味合いであり、先の“善結構、悪結構”、この両方を解った心(靈)だからこそ、進化を見出すのだ、の意味合いであると思える。 よって“結構々々”である。

 これに続く次の文。 
“甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか”

 この文の要旨は“喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか”であり、それを“甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ”と称され、辛い(からい)は、辛い(つらい)であり、文中の“苦しみである”の意、それに相対して、甘いは、文中の“喜びである”の意である。
 心(靈)が育っていくには、苦痛や苦悩は必須、そしてそれから逃げてはいけない、真摯に向き合わねばならない、そして苦痛や苦悩の意味や意義を考え認識(悟り、幸取=さとり)を獲得する、それをして心(靈)の在り方を学んでいき、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくものであるが、その意味合いを感じさせるのは“辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな”、苦痛や苦悩を体験したならば、そこには霊的成長があるからこそ、その霊的成長は“ほんとう”の喜び(“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”)になっていくからこそ、こういった言い回しがされてると思われる。
 それと順不同になっているが“天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか”は、“役員づら”の手法により、てんで低い神の概念、御利益しか求めない、こんな既成概念を多くの人が持っているが、それではダメだ、の意であり、苦痛や苦悩を体験して育っていくなら喜びに到達するのだ、それを知れ、を強調した言い回しであるし“心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ”は、自分たちが持っている天で低い神の概念を捨て去れ、そして“上”と感応せよ=“神示読んで下され”であり、“何時迄も神待たれん”は、認識を改めないと次の段階には移行できないぞ、の意味合いである。
 それと“水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ”、この“水”と“火”の意味合いは、
日月の巻 第三十二帖の解釈から以下に引用する。

“火あって水動くぞ。水あって火燃ゆるぞ。 火と水と申しておいたが、その他に隠れた火と水あるぞ。”
 この文の“火”は、(これまでも同様の解釈をしてきたように)肉体(月(ツキ))の“腑”で取り込んだものを酸素とともにエネルギーに変える肝臓のこと、そしてそれは肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のエネルギーとなるもの。
 そして“水”は体液、錯体のこと。
 それで“その他に隠れた火と水あるぞ”の文が示唆することは、自我を構成する肝臓と腹の水のことだけではなく、腹から“上”にも(思惑という情報を伝えるための)錯体である体液はあるしそれは循環しているのであり、そして自らの思想(思惑)を構築する目上(めうえ)の脳にも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)は“いきり立つ心(奴と心)”であるということで、それは“思惑の顕現”=現象化をするということでもある。


 よって“水の味”は、錯体が運ぶ“いきり立つ心(奴と心)”、事象に対し行動を起こす心(靈)の動き、“火の味”は、“いきり立つ心(奴と心)”そのものといえ、自分が育っていくために実際に行動する、その時々の霊的成長度において“思惑の顕現”=現象化をする、それは右往左往であるし、失敗を体験して認識を変えていく、それを“恐い味ない様な結構な恐さ”、やってみなければわからない=体験をしなければ認識は変わらない、失敗を恐れ都合の良いことばかり考える人間は成長の素地が足らない、こういったことを示唆する言い回しであると思える。

 次の文。
“神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十と  
ローレンツ力 とであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ”

 文中の“御心とは三つの御心ぞ、一と十と
ローレンツ力   とであるぞ”、これは“三つの御心”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“一”は智性、1番目のオーラ、“十”は胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”、そして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるローレンツ力ローレンツ力  、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)であるの意であるし、それは“世の元の神の仕組の現はれ”=生命(生きる使命=存在理由)が進化を果たす“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その顕現であると称され、そうなったならばすべての事象=“三千世界”は、“あなさやけ”(あな清明)、これは、夜明の巻 第十二帖から引用する。

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 

 
 今回も、雨の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。 
何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。 
軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。 
人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。 五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。 
一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。
十一月二十七日、ひつくのか三。

 冒頭の文。
“神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、
ローレンツ力と ○ の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

この文は、ほとんどの地球人の既成概念や価値観と幸福感、それが“上”から観て間違っていることの指摘が中心である。
まず、
“神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となる”

これは“神の智”が生命の進化のためにある、すべての生命の進化、これはすべての生命の幸せ(“夭と屰”(ようとげき))と換言出来得るが、それに対し、現時点での人間の霊的成長度における“学の智”は、自分たちの薄っぺらい幸福感のためにしかないからであるし、それ由来の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の獲得と使い方しかしていないことを“先に行く程ンプ出来て来て天地の差”と称されている。
ちなみに“ンプ”は、
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
この“フ”に半濁音(「゜」が付いている)をつけその意味の“ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり)”を強め、それが“ン”、これ以上先には進まない、という意味合いを示しているものと思われるので、“学の智”では進化しえないのだと示した言い回しである。

 これに続く、
“ 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

文中の“薬”と“毒”、解りやすい表記であるがこれに気付かない人間は圧倒的に多いと思われる。 この文の最初に述べられている“ 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方”、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力ローレンツ力、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める仕組み、いうまでもなくこれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みであるが、それに相対して“悪の神の毒のやり方”という言われ方をされていて、それは
“神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐる”
この“人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐる”の言い回しにおいて“今の臣民 神の御用するのと人の御用する”の“人の御用”は先の“学の智”によるものであり、“毒”であり、現時点での人間の霊的成長度における“学の智”は、自分たちの薄っぺらい幸福感のためにしかないもので、そのために息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、そのために行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人間ばかりであるが、それはあくまで“今の臣民”の“人の御用”であり、霊的成長度が低い段階の“御用”であるという言い回し、それは“人の御用が神の御用であるなれど”という言い回しを観て、程度の低い段階においては先の“学の智”を行使した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”としての生き方しかできないが、それも低い段階においての生業(なりわい)中心の生き方であるので、その段階をこなしていくのは霊的成長においては必須、という意味合い。
 それに相対し“神の御用する”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識して生業(なりわい)と“行”を行っている、あるいは行っていく、という言い回しであり、それは“薬”と称され、たった今の事象、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心に対しての“薬”と言いうるものでもある。

 この意を強調する言い方として
“見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

この“見苦しき者”はいうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の段階、それは“上”から観たら“見苦しき者”なのだ、これまではその生き方、その存在を許容してきたが、今後=アセンション後はそれは許されないのだ、という言い回し、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への変容が進化の筋道“何事も順正しくやりて下され”であり、“神は順である”は、進化は神に近付くのだから、という意味合いであり、たった今の地球人、“今の臣民”の“人の御用”をしている、そして“見苦しき者”は“順乱れた所”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った場(フィールド)を創りえないので“順乱れた所には神の能(はたらき)現はれん”、“上”は力を貸さない、低い心(靈)には“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は感応しえないからである、という言い回し、そして第七帖の“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆”、第五帖の“ さかさまのおー雨の巻第五帖(さかさまのおー)の世”というのも“順乱れた”に相当するものであることを付け加えておく。

 次の文。
“何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ”

 これは○○○大先生の著書の<4><5> 智性(神性)無き心シリーズを読んだ人ならすぐ判る文言である。
 それは、アセンションに対し大概の人間は時期が来たら自分たちは幸せになれるという自分たちにとって都合の良い解釈をする、その都合の良い解釈を広めるために“役員づら”はそれを吹聴し“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”を振りかざし商売をする、結果としてそれは、霊的成長できないので間に合わない、またこれを受け入れこれに騙される人間はご利益しか求めない実に情けない人間である、これらを総括した言い回しが“何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになる”である。
 また、上記に該当する人間は“一(ハジメ)の火 消へてゐる”と称され、“一(ハジメ)”は、“一”=智性=1番目のオーラの意味合いと、“火”は、回転を示す点二つと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“ハジメ”の言霊は
“ハ”は、生命発現成長の音義
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
濁点の付いた“ジ”は意味を強調している
なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく生命(生きる使命=存在理由)は高い振動(“シ”)により育ち、育ったうえで事象の観察を成していく、の意味合いであるが、これが“一(ハジメ)の火 消へてゐる”=智性(神性)無き心、であるの意味合いである。

これに続く
“都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど”

これも、“役員づら”が行っている所業や、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の持ち主が価値のあると思っている対象、様々なことを○○○大先生は著書で述べたが、そんなものは形骸であり、程度の低い心(靈)が程度の低い心(靈)の持ち主を褒めそやしているだけであり“上”から観たら何の価値も無いものであるから“まだ判らんか”と強く述べられているのであり、それに相対し、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度の高低による区分けであるから“誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ”である。

 次の文。
“目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。 
軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ”

 これは霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の成れの果てを“目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな”と称されており、またそこには“今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがる”、これに気付くようになれ、という意味合いと、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の中でも特に形骸の地位を獲得したものはその“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象で活躍するの意であるが、
“上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ”
たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する現状、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)と感応している人間が活躍する今の事象、それは“上”の思惑ではないから許されない、の意味合いを述べられている。
ことに文中の“ぐれん”、これはひらがな表記、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点であり、これを人間自身が観るという意味合い。
ちなみにここまでの“日月神示”で幾たびか登場した“グレン”は、
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意 
“レ”は、元座道座(もとくらみちくら)稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし(右往左往と左往右往と同義、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る これは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す意)
と述べられていて、これはのことだと思え、よって、“レ”=元座道座(もとくらみちくら)の顕現が、“グレ”であり、“ク”に濁点をつけて意味合いを強調しており、“ン”は、その最終段階、終点、の意、であるが、それが顕現する世になり、文中の
“軽い者程 上に上に上がって来る”
“今度 神の帳面から除かれた”
=霊的成長度の低い人、“近慾に目くれて”こういった心(靈)の動きしかしない人は次の段階に移行しえないのだ=“折角のお恵みはづすでないぞ”ということを述べている。 
ちなみに文末の“神 キつけておく”の“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を“創造”し生命自身に事象を“創造”させるという意味合いと解することが出来る。

 次の文。
“人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ”

 冒頭の“守護神に使はれてゐると気の毒出来る”、これは第八帖の
“くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ”
これと同義であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)が勝手に思っている“守護神”といえ、それらの人は霊的成長度が低いからそれらの心(靈)よりほんの少しだけ“上”の“守護神”かもしれないが、結果としてそれは“上”から観て、同じく第八帖の表記の“悪も御役ながら”、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を示す役割でしかないということであるし、程度の低い人に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いをさせた存在ともいい得る。
 これに続く
“世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ”、
これは先の“見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”の意味合いを強調している言い回しであり、たった今は“順乱れた所”なので、神の思惑通り=“順正しく”ではなく、そこにおいては、(程度の低い心(靈)が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉により)どんな災厄が起きるのか、どんな霊的成長を阻む事態が起きるのか、これらは“先の判る世”では無く、これら一切消失させる事象を霊的成長度の高い人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創らせるのが、神の計画である、の意なので、“先の判る世”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを“先”と称され、これらを認識し理解する心(靈)だけになるのが今後=アセンション後の事象、“世”である。

 これに続く
“三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ”
この文中の“三エスの神宝(かんだから)”は、“一二三”のオーラと、
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ことわり)
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
要は進化と進化した生命の“一二三”のオーラの統一、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)により目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を制御して事象を“創造”すると換言してもよいし、補足として“一”=智性=1番目のオーラがしっかりしていない心(靈)は、人間であっても“ケダモノ”である。
 もう一つ“3S(スリーエス)の神宝”というのは、この“S”の表記は“日月神示”内に、この帖と風の巻 第九帖、“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ”にしか登場しない。 この風の巻 第九帖の“S”を考えると、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、なので、やはり人間が進化した様であり、その“跡”が“S”“ナルト”に“なるぞ”、たった今はそうではないのだ、の意味合いであり、“ナルト”の言霊は、
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“ト”は、止まると云う心
なので、進化した生命(“ナ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて(“ト”)、自らの心(靈)となして(“霊流凝”)、その上で事象を“創造”する(“ル”)の意であり、“S”にその意があることを鑑みて思いついたのは、これは“乙”を反対から観た表記であると思える。
 ちなみに“乙”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で、
乚部(いんぶ)は“乙”で草木が屈曲しながら芽を出すことの象形、それが文字の旁(つくり)の位置に置かれたとき“乙”は乚部(いんぶ)になる。
この“乙”は、向かって左から右に筆を動かし、右から左下に動いて、再び左から右に動いて最後は上にはねる。
左→右、そして右から左下、そして左から右…そしてはねる。これは左往右往して現象化して左往右往する形で、はねるのは“上”に向かう意。
それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つということであり、これ自体が人の思惑の顕現であり、良い形の事象の“創造”を示す

と意味を述べた。
 乚部(いんぶ)は人の思惑の顕現であり、この乚部自体は人間目線の表記、それに対し“創造”の“主(ヌシ)”は人間の対面に位置しているから左右が逆になる、よって“S”の表記は、“創造”の“主(ヌシ)”が人間に、人間自体の思惑を顕現させようとする、それ自体が被造物である人間にとっての“神宝(かんだから)”の意味合いであると解釈する。
 それでよい機会であったので、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、人という字を構成するその部首の意味を画像にしたので以下に貼っておく。


人(丿部と乚部)の解字 
 
 それで“3S”で検索すると、3S政策(さんエスせいさく)、これは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策、という説明も登場するが、これが形骸の権威を守ろうとする“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑が現れたことなので、その意もあるであろうが、それだけでは人間の霊的成長に結びついた表記とはいえないので、やはり前述した“乙”を対面から観た表記が正解であると思えるし“3”についても“一二三”のオーラ、それぞれの心(靈)の動き、腹から下、胸、頭、で発現されている息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことと思う。

 次の文。
“五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。 一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ”

 文中の“一方の3Sより判らん”、“創造”の“主(ヌシ)”は人間に事象を“創造”させ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をさせているが、人間の“行(オコナイ)”は、“絶対の善”でもなく100%の悪でもない、“上”(進化の方向性)に向かうだけでもなく“下”(低い心(靈))に向かうだけでもない、これは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の表れともいえるし、この“行(オコナイ)”自体がローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもある。
 その意味合いにおいて“五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れん”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は体験しなければ自らの認識(悟り、幸取=さとり)とならない、それは先の“神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方”と換言しうるものでもあるし、この漢数字の表記そのものが右往左往と左往右往を表しており、日足(ひたり)と砌(みぎり)、どちらの極性に傾くか、また傾かねば“ほんとう”の認識は得られない、の意味合いであり、人間が認識しうる失敗や“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いを“カス出来るのざから”と称されており、それを良い方向に導く、“上”の采配、“神の咎め”、これ自体が“神の恩恵”“神の祝福”なのだが、それを“カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事”と言われ、進化した人間ならば“人民もカスの掃除する事 大切な御役である”と述べられている。
 これに続く
“毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか”、これは前述した右往左往と左往右往のこと。
 これに続く
“一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ”
この“一方の3S”も、前述した通り程度の低き人間の“行(オコナイ)”のこと、失敗の事象を体験して認識を得る過程のことであるから“人民 何時も悪に落ち込む”と称され、しかし“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を理解したなら自分の在り方を見出す、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標を見出す、それを“此の道は中行く道と申して知らしてあろがな”と言われており、これは程度の低い人間が考える中道とか中庸ではなく、自分の心(靈)をよく観よ、自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)と“上”と“下”を見よ、自己批判せよ、その上で自分の在り方を鑑みよ、の意である。
 これに続く
“誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ”
敢えて解釈の要は無いが、獲得した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための認識は顕現せよ、思想に活かせ、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせ、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象の“創造”そのものになり、事象の“創造”は自分の霊的成長度の高低によるものである=“此の世の事は人民の心次第ぞ”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、雨の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。 霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。
ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。 五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。
臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。
ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。此の地(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。 理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。
オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。 神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。 
雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様 拝(おろ)がみなされよ。 日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。
でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。 世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ。
十一月二十七日、一二
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。 霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ”

 “天の岩戸開いて”と“地の岩戸開き”というのは、“上”から“下”に顕現する、神の思惑である靈的成長度の高低における区分けは“上”の計画である=“かかりてゐるのざ”、よって“下”である人間は、それに沿わねばならないものである。 
これに続く“我一(いち)力”は、“我”が自我のそれであり、それだけではダメの意であると解することが出来、“手引き合ってやりて下され”は、大勢で協力するの意味合いではなく、胸の磁性“十”を構成する手の水平磁場のことと解する(岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く)、これは神話の岩戸開きで登場する手力男命(たじからおのみこと)も手の水平磁場を構成していることを○○○大先生は未刊行の著書の<7>の最後で述べたし、このことを理解してこの文を見るならば、自我の確立=固定化の進化過程、その霊的成長度の段階では次の事象に移行しえないと読み取ることが出来得る。
 これに続く“霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々”、この“霊肉”は、当然のことながら心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))であり、心(靈)も“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意と感応して高い振動を受け止める素地を持ち、肉体(月(ツキ))も“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して高い振動を止めるようになっていなければならないの意であり、“実地の大峠の愈々”は先の“天の岩戸開いて”と“地の岩戸開き”、神の“思惑の顕現”=現象化としてのアセンション(“大峠”)のこと、これが事象に顕現するの意、そしてその時期=“愈々”をさすものであり、その際に移行できない霊的成長度の者は“もう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ”と称され、一人でも多く間に合えよ、この意を含む文言でもある。

 次の文。
“ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。 五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ”

 この文の“借銭”は幾度か解釈したように恨みの連鎖の霊的干渉とその現象化のことであり、これは進化の段階が自我の確立=固定化の段階において必ず起き、それを見て自分たちの在り方を考えることをするのが必須の要綱であることを幾度となく述べてきており、その意味合いで“ひどい所程 身魂に借銭ある”“身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致す”、ことに後者に関しては、○○○大先生の著書の読者会において、「アメリカで多発する銃乱射には、どういった霊的干渉があるのか」について読者の皆様に考えていただいたことがあったが、これは“悪き事してゐる国程”に相当することが非常に解りやすい一例でもある。
 ちなみにその時、○○○大先生は以下のような説明をした。

これは、アメリカが戦争でたくさんの人間を殺してきたからであるといえます。 
 正確な数字はわかりませんが、戦後、アメリカが関与した数多くの戦争、朝鮮戦争、パナマ侵略、ベトナム戦争、ドミニカ共和国侵攻、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、レバノン空爆、リビア空爆、ニカラグア侵攻、パナマ侵攻、イラク湾岸戦争、ソマリア侵攻、ハイチ侵攻、スーダン空爆、アフガニスタン空爆、侵攻、コソボ侵攻、リベリア侵攻、イラク侵攻、ハイチ侵攻、これらでアメリカが殺戮した人数の合計は1000万人以上で、その内の九割が民間人だそうです。
 当然のことながら殺された人間は殺した人間を恨む、これはローム太霊講話集の第十話が解りやすいです。
 何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである。
 それで、銃乱射の実行犯が、自我の肥大をしていて、自我の確立=固定化の進化過程であるから憑依現象が起きやすい、という要因があり、当然のことながら自分に起きている憑依による殺意を自分で諌める心(靈)の発現が弱いからであるといえます。
 余談ですがもうひとつ、ローム太霊が述べた“その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う”こととして、戦争から帰還した人の自殺が増えていることもアメリカでは報道されており、これはアメリカだけではなく日本の自衛隊でも同じことが起きています。
 どんどん悪の霊団に加担する霊を増やしているということになります。


 本題に戻り、これに続く“五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ”これは先回の第九帖にも同じ表記があったので、以下にコピペしておく。

人間の“行(オコナイ)”は、“絶対の善”でもなく100%の悪でもない、“上”(進化の方向性)に向かうだけでもなく“下”(低い心(靈))に向かうだけでもない、これは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の表れともいえるし、この“行(オコナイ)”自体がローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもある

 それで“カス”というのは、霊的成長にとって価値のない者、霊的成長を阻むもの、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化で沢山の人間を早く殺す“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑そのものを指すが、これが起きる事、悪魔の思惑をある程度現象化させることも、人間が人間の在り方を考えるにあたって必須、しかしそればかりではたくさんの人間が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しえないので“神は掃除許りしてゐる”、これは人間に霊的成長の指標を与える作業、“日月神示”のような文言を書かせることもS会=紫光会の発足も同様のことであるし、それを知り、考えて、“行”を実践し、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念として人を指導する、認識を共有する、結果、多くの人間が自分の在り方を鑑みるようになる、それが“神の臣民それで神洲清潔する民である”の意である。
 これに続く
“キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ”
この“キ”は、
天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて事象の“創造”をする意であり、これをしなければ“キが餓死(うえじに)すると肉体餓死する”これをしていくならば“キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ”、神の思惑に沿った事象の“創造”をするならば、“幾らでも大きく結構に自由になる”とまで称されている。

 次の文。
“臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ”

 これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対して“利巧(りこう)”と称され、目先の損得しか考えない、生きている意味など考えていない、当然のことながら神に対する認識も低いので、神を利用して金儲けや権威を示したりする(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)も含め、そんな認識、そんな霊的成長度の者は、それをかなぐり捨てよ=“利巧(りこう)なくなれ”であり、“神のキ”は先に述べたように、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意のことと、その振動の受信により事象を“創造”することであるし、その感応を“神の息通ふ”と称されているし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の既成概念や低い幸福感と価値観、これを変えるのは難しいのだ、の意味合いで“凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざ”と言われているし、なぜ自分は既成概念を持っているのか、それが高いか低いか、観方を変えよ、価値観を変えよ、低い幸福感が間違っていることを考えろ、の意味合いで“馬鹿正直ならんと申してあろがな”と言われており、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は自らの利益のためにインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)を行い、それを“馬鹿正直”に受け入れ喜んでいるのが“ブタのけつを見ているアホ”であるが、それではダメ、そして“上”の思惑を“馬鹿正直”に受け入れるだけでもダメ、考え考え考え抜いて、それが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その過程で“上”と感応して認識を構築していくのが霊的成長の在り方である、この二つの意味合いを感じうる文言である。
 これに続く
“三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ”
すべての事象=“三千世界”は、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、それは結果を出さねばならない、必ず現象化する、そして因縁は贖う(あがなう)ことをしなければならない、解脱とか解消などは出来ないものであり、これは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、そのことをまず理解せよ、それがこの文言の前半“三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのである”であり、“今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから”、これは“上”と感応して認識を改めよ=“此の神示読まいでは”であり、それをしないと今後=アセンション後の事象には移行しえない=“今度の御用” を担えないのだの意。
 これに続く
“何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ”
これは自分たちが低い心(靈)のままでは当然のことながら“上”と感応しえないし、既成概念も価値観も幸福感も変わりえない、それを“人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らん”と称され、“上”と感応せよ、感応するには自省(胸の磁性“十”)が必須、それを“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”と述べられており、そうするならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する素地が出来得るが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の考え=“人民の力では見当取れん”“人民の頭で”、これでは“見当取れん”“判らんのぢゃ”と言われているに過ぎない。

 次の文。
“ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。 此の地(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ”

 これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の考え方と認識では次の“仕組”をなかなか理解しえない=“こんなに苦労致さん”と称され、自分を変えるには、次の事象に移行しうる資質と素地を持つには“何より改心第一ぞと気付けてあろ”、そして“上”と感応せよ=“神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざ”(肚は「はら」であり、“江戸と尾張”の心(靈)の発現の意、本能から自我までの心(靈))
の意味合いである。
 これに続く
“此の地(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。 理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ”
これは、個々の霊的成長度における事象の遭遇ということが含まれ、自分が“観察と認識”をしている事象そのものは自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるということを知れ、だから自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されうる事象=“此の地(つち)”、これが“人民の心 其の儘に写る”“心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ”と説かれている。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の末路として“悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ”と述べられ、その低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”していく事は“上”は許さないし、許す以前の問題として奪い合いの世界は存続しえないのだと説かれているが、大概の人間は自我が肥大して自分のことしか考えないから“判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来る”といわれ、自分の利益を追求することに一生懸命頑張ったとしてもそれは裏目に出る、失敗を重ね自分の在り方を考える、それを“逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか”とまで言われているに過ぎない。

 次の文。
“オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。 神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ”
 
 冒頭の“オロシヤ”については以前、下家(おろしや)、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)を、“下”(低い心(靈))にさせる働き、と解釈した。 以下のリンクを参照の事。
磐戸の巻 第八帖 
日の出の巻 第七帖 
日の出の巻 第二十帖 
この“悪神の仕組 人民には一人も判ってゐない”、これは平均的地球人の認識の低さを指摘した言い回しであり、これくらいのことは理解せよ、たった今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により創られその低い心(靈)の持ち主が形骸の権威を示して“上”であると錯覚しているのだし、そこには“オロシヤの悪神の仕組み”、下家の仕組みがあり、それは悪魔の思惑なのだと知れ、だがそんなことはいつまでも許されない、進化を果たした心(靈)=“此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ”、それは前後するが“今度の仕組であるから仕上げ見て下され”ということに成りうるものである。

 次の文。
“雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様 拝(おろ)がみなされよ。 日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ”

 冒頭の“雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神”、これについては、“雨の神”は“上”からの荷電粒子を止めることそのものの意味と、肉体(月(ツキ))内の錯体(金属イオンに配位子(ligand)と呼ばれる分子やイオンが結合し、イオンまたは原子団が方向性をもって立体的に結合し、一つの原子集団をつくっているもの)、その両方の意である。
 “風の神”は、空気の取り込みによる“臓腑”の電磁誘導。
 “地震の神”は、地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
 これらすべて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みに関与することであり、進化を目指す者はこれをよく理解しなければいけない。
 これに続く“世の元からの生き通しの生神様”は、これまで解釈してきたように、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)イキガミ、これそのものであるし、これこそが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものである。
 これに続く
“日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ”
この“日月の民”は、“ひつくの民”=太陽凝視を“行”として行い、智性(神性)ゆえの認識を獲得した人、であり、それを“練りに練り大和魂の種にする”、この“大和魂”は右翼の解釈するそれではなく、“上”と感応したまっとうな心(靈)、“上”が認めうる“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める心(靈)と解釈してきた。
 またそれは、“上”と感応する、それをしていくのが当然の資質を持つので“大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ”と称され、重複するが右翼傾向の強い人の解釈がてんで間違っていることを“取違ひせん様に気付けおくぞ”と言われている。

 次の文。
“でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。 世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ”

 この文の“でかけのみなと”、“出発点ぞ”、これは今後=アセンション後の事象の始まりを指し、“九九(ココ)ぢゃ”の“九”は○ 九 十のそれ、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、生命の最終段階(卆(そつ、卒業の卒の異体字))を示す。
これに続く“幾ら道進んでゐても後戻り”というのは、霊的成長の仕組みである右往左往と左往右往、これはローム太霊の言い回しであるが、先の“五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし”、この意を含めた文言が“幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ”“出直して神示から出て下され”、自省(胸の磁性“十”)してやり直せの意であるし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は天狗になっているから霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が解らず、必ず“我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ”、失敗の人生を歩むものであるし、それを強調した言い回しが“泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ”である。
 これに続く“足あげて顔の色変へる時近付いたぞ”は、たった今“上”だと形骸の地位を示している人間は、そんな者には価値がないことを気付かされる、それは“ほんとう”に位(くらい)が高いとは何か、これを示唆した言い回しである。
 これに続く
“世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ”
今後=アセンション後の事象は、たった今の事象から観れば光り輝く事象であり、それは低振動から高い振動を観ると光と感じ(感じる磁性)得るものであるが、高い振動で構成された事象はそれが当たり前だから“光の世とは光なき世である”と感得するものである。
 これに続く“此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってある”、この文の“此の方”は進化を目指す者、あるいはある程度進化を果たした先達的存在の人、今後=アセンション後に移行すべく資質を持つ人、あるいは持とうとする人は“此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってある”、この“楽な道と辛い道”は、進化に至るには辛い道を通るものであるが、その道を進んでいるならばまっとうであるから辛くとも、“上”が課す試練を乗り越える過程においても不安もないし、高い存在は援護するものである、その意を“楽な道”と称されていると思える。 そしてこれは“神の采配”であり、霊的成長を目指す者には“神の祝福”と“神の恩恵”があるものである。 この意をはき違えずしっかり自身の認識(悟り、幸取=さとり)とせよの意味合いで“気付けてゐて下され”と言われ、第十帖の締めくくりとして、これを読んだら“上”に行くのか“下”に行くのか、それを“何(ど)ちら行くつもりぢゃ”、選択するのは自分である、それをしっかり知っておけ、ということであると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、雨の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか。
めんめめんめに心改めよと申してあろがな、人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。 判らんと申して余りでないか、何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ。
二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ、長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。
此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、難し説くと判らん様になるのぞ。 平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ。 霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、それは四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな。 
悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな、日月の集団作り、境界作ってもならんが 
“亜” 一番最初の状態 愛(炁) 入れた集団作らなならんぞ、 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) も作らず“亜” 一番最初の状態 愛(炁)  も入らずに力出ない位 判りておろがな、馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、集団のつくり方知らしてあろが、盲(めくら)には困る困る。
人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ。
十二月七日、ひつくのか三。

 冒頭の文。
“日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか”

 この文言中の“日の出”は、今後=アセンション後のこと、そして“日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ”の“イ”と“キ”の意は、
“イ”は、生気生命の発生力
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるから、個々の生命が観察しうる事象、その事象の変容、現在に対して相対的な変化、それはここまでの“日月神示”でたびたび登場している表記の“神烈しく(はげしく)”でもあり、たった今は悪霊との感応が盛んだから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が台頭しているが、こういったことがなくなる、それは霊的成長度が高くなった心(靈)が創造する事象、霊的成長度が高くなった心(靈)が感じ(感じる磁性)得る事象でもあるが、それを示した文言である。

 次の文。
“めんめめんめに心改めよと申してあろがな、人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。 判らんと申して余りでないか、何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ”

この文言は自我の肥大を諌めた言い回し、それを具体的に述べているから“人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、腹立つと邪気起る”、これは、誰かに自分の欠点を諌められたならば…であり、それはその誰かに腹を立てるが諌められたことに対して、自身が恭順ではないからであるし、諌められたこと自体が“上”の采配であるという認識がない、それを述べている。
そして、“智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り”も、自我由来の心(靈)の動きである保身のために“智や学”を利用する、だがそれでは霊的成長した心(靈)(ヒ)とはいえず、よって“めんめめんめに心改めよ” (“めんめ”は、面面、おのおの、一人一人、各自、めいめい、の意、雨の巻 第四帖でもこの表記は使われている)と述べられ、自分の心(靈)をよく観察して目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を諌め得る人間ならば“何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけ”、要は我を出さないという意味合いでもあるし、そういった人間は今後=アセンション後のことも理解が進んでいる、今後=アセンション後に移行すべく資質は自省(胸の磁性“十”)の出来た人間であるということを知っているものであり、だから時期が来るまで“肚に鎮めておけよ”ではあるが、時期が来たならば“言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ない”、これも“神烈しく(はげしく)”の事象、それを文中の“未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。 判らんと申して余りでないか”と称され、今後=アセンション後は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が盛んになる、神の思惑が顕現していく事象になることを示し、またそこでは“上”と感応しうる“一”=智性=1番目のオーラの霊的成長度の高い人間だけになる事象なのだということを示してもいる。
そしてそれを承知したならば、理解したならば、という意味合いで、
“何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ”
その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が来るまで、ひたすら内省して自分の在り方を観てそれを行動に移す、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるが、これに努めよ、自我(“肚”)の肥大で他者を批判してもたった今の現状に文句を言ってもそんなことは自身の霊的成長にはつながらないのだ、
“神烈しく(はげしく)”の時期が到来したならば、内省して得た認識(悟り、幸取=さとり)、また自省(胸の磁性“十”)した心(靈)を持った人は、活躍するのだ、それを“言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ない”と称されている。

 次の文。
“二十二日の夜に実地が見せてあろうがな、一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ、長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ”

 冒頭の“二十二日”も日付のことではなく、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、これに胸の磁性“十”が加わった表記で、霊的成長した心(靈)(ヒ)を指し、それはやはり自省(胸の磁性“十”)であるから“一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく”、これは“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”した心(靈)でなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応しえない=“清いけがれん所残しておかな足場なく”であるし、これに続く“こうなってはならん”は、先の“人民と云ふ者は人に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、…中略…智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。 判らんと申して余りでないか”の自我の肥大ゆえのことを指し、これに続く“カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ”
文中の“カタ”は
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
これも今後=アセンション後に移行すべく進化した心(靈)を指しているし、“神国、神の子は元の神の生神が守ってゐる”は、たった今の現状が悪霊との感応により想像されているからこそ今後=アセンション後は“神国”という相対的な言い回しをされており、その現津(あきつ)、観察され得る事象を想像する心(靈)は、“世の元からの生神”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を顕現すべく心(靈)、それを“神の子は元の神の生神が守ってゐる”と称されているものである。
 これに続く“愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ”の“愈々”はあえて述べるまでもないが“神烈しく(はげしく)”の事象が到来する時期、“一寸の火水”の“一寸”は、先の“一所だけ清いけがれん所”と同義、“火水”は、下つ巻 第十帖の“縦横揃うて十となるぞ、十は火と水ぞ、縦横結びて力出るぞ”が理解しやすく、解釈は、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)腹から“上”に向かうエネルギー
水=腹=“江戸と尾張”の“江”
よって、“縦横結びて力出るぞ” 、これは動物=四足獣から直立して手を使い出した人間への進化を示すもので、手と胸の磁性でシンクロトロンの構造になって行く事、それをまた“うでくり返してやる仕組”とも称されているものである。
 これに続く“末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ”はあえて解釈の要はない。 単に時期が迫り、霊的成長度の工程による区分けが行われるの意である。
 これに続く“長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ”、時期が迫っているから間に合うように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、あるいは進化を意識して自省(胸の磁性“十”)して“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から脱却せよ、それを“長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃ”、お前たちにとって重要なことを述べているのだ=“一もとらず二もとらさず”であり、せっかく述べているのだから解れと称されている=“国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐる”。
だが、“上”と感応している人間はあまりにも少なすぎる=“神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ”である。

 次の文。
“此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、難し説くと判らん様になるのぞ。 平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ。 霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、それは四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな”

 文中の“此の道”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それは現状の地球人の霊的成長度に当てはめたなら、自我の確立=固定化の段階から“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して自省(胸の磁性“十”)の心を育て、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“自分を観察する自分の確立”をしていくことであるし、たった今は悪霊との感応が盛んだが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の条件は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、であるし、これそのものが“行”の意味と意義である。 これをまず理解せよ=“難しい道でない”“その儘に説いて聞かしてやれ”と称され、これに続く“難し説くと判らん様になるのぞ。 平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しい事も臣民にはあるなれど理屈となるなよ、理屈悪ざぞ”は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)、いわゆる“日月神示”を金儲けの道具にしている程度の低い心(靈)の所業を指していると思われ、それは先の“未だ智や学でやる積り”の人間、自省(胸の磁性“十”)や“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしない人間のことを指していると思え、それだからこそ“(“役員づら”の)理屈悪ざぞ”と言われていると思える。
 これに続く“霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ”、これは先の“此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれ”にかかる言い回しで、まず、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の意を知れ、そして実践せよ、さらに“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を実践して“上”と感応せよ、それから“霊術も言霊(ことだま)も”理解していけばよい、という言い回し。
 これに続く“銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐる”、これは先の“役員づら”の所業であり、“日月神示”の文言を利用して金儲けして間違った情報を流して雰囲気に酔わせることをする、それによって多くの人間の霊的成長の足を引っ張る、それ自体が“四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな”、これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きなのだ、それくらい判れ、の意味合いである。

 次の文。
“悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな、日月の集団作り、境界作ってもならんが 
“亜” 一番最初の状態 愛(炁) 入れた集団作らなならんぞ、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)   も作らず“亜” 一番最初の状態 愛(炁)  も入らずに力出ない位 判りておろがな、馬鹿正直ならんと申してあること忘れたのか、集団のつくり方知らしてあろが、盲(めくら)には困る困る”

 この文は逆から読むと理解しやすい。 まず“盲(めくら)には困る困る”だが、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解しえない、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をしないし当然のことながら“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化もしない、そして先に取り上げた“役員づら”の手法に酔っぱらっている程度の低い人間を指し、“集団のつくり方知らしてあろ”は、霊的成長度の違う人間は、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という法則性があるので、違和感を感じるものであり、当然のことながら低い認識(悟り、幸取=さとり)しか持ちえない人間は高い認識を理解できないし共有もできない。 よって“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が求める“集団”は、今後=アセンション後に移行しうる資質を持つ霊的成長度がある程度高い人間の集まりと言え、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“集団”は先の“盲(めくら)”である。
 そして“日月の集団作り、境界作ってもならんが 
“亜” 一番最初の状態 愛(炁) 入れた集団作らなならんぞ、 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) も作らず “亜” 一番最初の状態 愛(炁) も入らずに力出ない位 判りておろがな”、この文中の“亜” 一番最初の状態 愛(炁) の意味はずいぶん前に作った画像で意味を示す。

太陽の象形文字の中の“亜”と“一”=智性 “日月神示”表記 


この画像の意味を踏まえてこの文を観ると、“日月の集団”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、その“集団”=霊団(ローム太霊が述べた概念)、太陽凝視で心(靈)が進化した集まりといえ、“境界作ってもならんが “亜” 一番最初の状態 愛(炁) 入れた集団作らなならんぞ、 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) も作らず “亜” 一番最初の状態 愛(炁) も入らずに力出ない位 判りておろがな”、これは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に“亜” の入った集団を作れと述べているから、“創造”の“主(ヌシ)”を意識せよ、感応せよ、そして太陽凝視せよ、さらにそういった太陽凝視をする人間は霊縁により集う(つどう)のだ、と、読み取れ、“ 霊=○、荷電粒子の場(フィールド) も作らず “亜” 一番最初の状態 愛(炁) も入らず”、この二つを合わせると太陽の象形文字になるので、意味合いを強調している。


日、太陽の象形文字 

 それと“境界作ってもならん”は、自分たちが意図して霊的成長度の高い低いにより区別や差別をしてはいけないが、それは自然に別れていく、先の“変圧”の過程があるからこそ程度の低いものは低いもので寄り集まり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すものは霊縁により、それはまた“上”の采配により、集まるものである、その意を述べている。
 それで冒頭の“悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな”
これは、“上”と感応しえない心(靈)ばかりなので述べられているのであり、“上”と感応せよ=“まつりまつりとくどう申してあること”、そうでなければ外側(外国と幽界)の事象しか見ない=“今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ”、いずれは自分自身が外側(外国と幽界)の事象にも存在できない、またそういった心(靈)は“外国とは我よしの国の事”、この場合の“国”はやはり心(靈)を指すものであるし、“外国”はまだ他者の批判ばかりしている自我の肥大中心の心(靈)といえ、“神国”は自省(胸の磁性“十”)して“上”と感応する心(靈)の意であり、よって“外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ”は、自省(胸の磁性“十”)の“行”のため死んで地獄に行き閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を見させられる、の意味合いであると思えるし、それが冒頭の“悪”であり、自分たちと同程度の振動としか感応しない、よって“上”と感応共振しえないから“悪とは他を退ける事”と称され、これは○○○大先生が著書で取り上げたローム太霊の言葉、
自分自身に合ったるものだけを、完う(まっとう)すべく、合わせているだけである。そんなものでは、眞(真固止 まこと)なる自分という者を悟れないのである
これを思い起こさせるものでもある。

 次の文。
“人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ”

 自分が自省(胸の磁性“十”)もせず、頑張りもせず、漁夫の利、天の僥倖、棚からぼたもち、こればかりを求める、いわゆるローム太霊の言葉のぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)、“役員づら”が使う手法のご利益を求めさせ雰囲気に酔わせ霊的成長の足を引っ張ること、これらすべてが“人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民”であり、そんなものは“上”は認めないから“神の気感(きかん)に適はん”、当たり前である。
 今後=アセンション後に移行すべく資質は“今度は苦労のかたまりの花咲く”“苦の花咲くのざ”、この文言に該当する努力を怠らなかったもの、“上”との感応のため厳しい“行”をする、自分の人生を振り返り自分の在り方を観る、そういった人間が次の事象の“創造”を託されるものであり、“二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道に、○ 九 十 の“九”、それは、“一”=智性=1番目のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして生命(生きる使命=存在理由)の究極の形(卆(そつ、卒業の卒の異体字))の意味合いを示し、“永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ”、これまでの事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による不誠実な事象、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが台頭しているからこそ、人の霊的成長と“上”との感応=“神烈しく(はげしく)”により、そんなものは消失し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”もいなくなる、存在を許されなくなる、だからこそ“永遠にしぼまん誠”、という言われ方をされているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 雨の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。 
食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。 出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。
悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。 未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。
まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。
天の様子も変りて来るぞ。 何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。
これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。 
人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。
十二月七日、七つ九のか三神示。


 冒頭の文。
“上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ”

 これは“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、あるいは“自分を観察する自分の確立”をして、自分の自我を諫めよ=“肚の掃除なかなか出来ん”。
それは、自分にとって都合の良いことばかり考える傾向があるならば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)であり、自我を諌めることができない人間は“上”に認められない=“道広める者から早う掃除まだまだ”であり、今後=アセンション後にはそんな人間は不要だから“今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ない”と言われている。

次の文。
“食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。 出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ”

 文中の“食い物”は一般に言う食事(物質の段階の振動の取り込み)だけのことではなく、“上”から“下”までのあらゆる振動の取り込み、その吸収と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)を指し、“家の中”は、“家”が、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)なので、智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意である。
要約すれば“上”と“下”の振動を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しているのが生命であり、単細胞生物から人間に至る進化において生命すべてに当てはまるので“カイの御用ざぞ、初めの行ざぞ”と称されており、カタカナ表記の“カイ”の意味は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”生気生命の発生力
なので、進化に伴う変容、あるいは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の工程による変容の意味合いもあるが、その変容には“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)が必須、そして、進化に伴い“力”を顕現するの意味合いである。
 これに続く“出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ”の“出て来ねば”は、先に述べた進化に伴う変容と“力”の顕現のことであり、人間が人間を観る、あらゆる生命を観る、そこに“神性”を感じ(感じる磁性)うるのか、あるいはそうではないのか、それは“日月神示”表記には“ケダモノ”“獣”先の第十一帖には“四つ足の四つの悪の守護”という表記もあったが、進化は、霊的成長であり、神格化に向かうことであり、人としての進化は“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の獲得と顕現であるし、たった今の事象は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化が台頭しているからこそこういわれており、だからこそ先の“カイ”の顕現、それが無いのは“神力無い”“軽き輩(やから)ぢゃ”と称されているし、“軽き”の表記に、低分子のタンパク質で構成された肉体(月(ツキ))、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の高い部分と感応しえない肉体、それに伴う心(靈)であるという意味すら感じうる。
 これに続く“神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ”、これは自分が自我の肥大をしていたならば進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に対して恭順ではない=“神の申す事 誠ざと思ひながら出来ん”、またその段階の心(靈)に感応する“上”はまだまだ低い=“守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ”である。
これに続く“息とは初のキであるぞ、気であるぞ”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の説明、これが理解できないと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことがわからないから述べられているものである。


次の文。
“悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。 未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ”

 これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる存在の思惑と感応するな、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の行いは狡猾であり巧妙であり、悪魔のささやきは人の低い功名心を煽る(あおる)、それに注意せよ=“悪神は如何様にでも変化(へんげ)る”、これをよく解り判れ、の意味合い。
そして“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応を避ける、進化を目指す生命は“上”と感応すべきだ、の意味合いで“此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ”であるし、カタカナ表記の“キ”、これは、

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察さあきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし

なので、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応による自分の心(靈)の動き、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)はたった今の低い事象の“創造”をしていることに気づけ、低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低い事象しか創り得ないのだ、自分の高い心(靈)、目上(めうえ)の心(靈)で“上”と感応して高い事象を創造せよ=“神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下され”である。
そしてこの二点をしっかり“肚に入れて”、たった今の現状が“悪に玩具にされてゐる臣民人民”ばかりである、“悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来る”これは、悪魔のささやきと“役員づら”の手法に乗せられてている、また醜い事象ばかりにとらわれて大騒ぎするだけの人間、これらは、自分がどう在るべきか考えることをしない、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”ができないので“未だ未だ忙しくなって神示読む間もない”=悪魔のささやきばかりと感応し、“役員づら”の手法を受けいてる自分にとって都合の良い思い方をする、またこの事象はそんなものばかりが台頭しているから、多すぎるからこそ“忙しくなって”と称されて、結果それは“上”と感応する心(靈)の資質を失うことになる。
重複するがそんな人間は“悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる”=“上”と感応しない人間になってしまうの意味合い。

次の文。
“まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ”

 これも平均的地球人から見た相対的な言い回しを説いている。
今後=アセンション後に移行すべく資質を持った人間、心(靈)がある程度育った人間は、“人民には見当取れん妙な事”、これまでの一般常識や既成概念とは違う思い方や行動をする、平均的地球人の低い認識から観ればそれは“妙な事”に観えるだろうが、それこそが“妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ない”、それと自分たちの認識を変えていくには“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”から始まるもの、これは“上”との感応によることであるから“掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ”とまで言われている。
しかし、価値観や既成概念を変えただけ、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていないならば“さうなった神の臣民 未だ未だであろがな”とは称されている。 

 次の文。
“天の様子も変りて来るぞ。 何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ”

これも“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”のことを強調して述べている。 平均的地球人の低い心(靈)を変えようとする“上”の思惑は、これからどんどん“神烈しく(はげしく)”になり“上”からの振動も自省(胸の磁性“十”)させるための振動に変わっていくものである=“天の様子も変りて来る”。 
そして自分の心(靈)を変えるには、“上”と感応していく資質を獲得するには、“人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ”であるし、自我の肥大を戒めよの意味合いで“我でやって鼻ポキンポキン”といわれているが、自分が得心するまで自我の肥大で心(靈)を動かし行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)することは自分の認識の変容となる(右往左往と左往右往)なので“やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ”といわれ、これが必須であるからこそ“今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さす”と言われている。
ちなみにカタカナ表記の“キリ”は、

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“リ”は、生命根源の、張り、広がり

なので、生命がその生命たる存在の意義として現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”を行うものであるが、それ事態=“キリ”が“神烈しく(はげしく)”に伴う時間の進行(“道”)により変わる意味合いで“何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリある”“キリキリ気付けて下され”と言われている。

 次の文。
“これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ”

 これも今後=アセンション後に移行すること、その“神烈しく(はげしく)”に伴う変容について述べられている=“これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかん”。
 今後=アセンション後の事象に移行すべき資質を持つ人ならば、“上”と感応せよ=“まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され”、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示されていることを理解せよ=“神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな”、分かりにくいから注釈を入れるが、“神国の誠の因縁”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)そのもののことである。
 これに続く“天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ”は、“上”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“天四”(“四”は発振、発信の意味合い)、これを人間が観察している現津(あきつ)、観察され得る事象に広げる=“天下平げて”、これ自体が今後=アセンション後の変容であり、神の“思惑の顕現”=現象化と、その神の思惑と感応する人が“創造”する事象を“誠の神国に、世界神国に致す”のであり、何度も述べるがたった今の事象は程度の低い心(靈)が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応して“創造”されている事象なのでこういう言い回しがされているものであるし、これに続く“世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ”は、たった今の事象と、それを創っている心(靈)が“下”になっているから、自分たちは“上”と“下”、そして自分という認識を持て=“真中の”であり、すべての事象における“観察と認識”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、霊的成長度の高低であろうが、すべては神である、神の“創造”のうちであるが、その中で自分の心(靈)=“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))を見いだせ、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と進化に伴う事象の“創造”なのだ、の意味合いで“真中の国(“上”と“下”を認識した心(靈))は十万や二十万年の昔からでない”、これは生命の“創造”が始まった時からの“理(ミチ)”、法則であるから“十万や二十万年の昔からでない”と述べられ、この“理(ミチ)”が理解できない、認識できないならば“世の元からの(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))誠一つの神の事(これも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))判らな益人((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者)とは申されん”と言われている。

 次の文は十二帖の締めくくりとして、低い心(靈)は低い何かしか認識できない、間違った解釈をするのだと述べられている。
“人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな”

 この文の“人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐる”=“上”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)示しているのだが、それ事態を低い認識で勝手な解釈をする=“其の心通りに写る”“小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなる”、これをすること事態が自分の低さであり=“我出すから苦しんでゐる”“我出すから苦しんでゐる”のである。
よって“上”の思惑に恭順になれ、自分が観察する事象において、それが自分にとって都合がよいものは少ない、都合の悪いことは“上”の試練、自分が解決すべき課題である、とかの思い方をして、真摯に自分の在り方を自分に問う、それは、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”でもあり、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”)でもあり、それをして“上”と感応せよ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを戒め、自分を諌めよ、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するな、その低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をするな、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 


今回も、雨の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。 恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。 因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。
心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。 落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。
地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。 是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。 コト、コト、コト、ざぞ。 
始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。 此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。
食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。 不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。
世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか。
十二月十八日、ひつくのかみ神示。

 冒頭の文。
“世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。 恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。 因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ”

 この文言の要旨も、幾度も“日月神示”の文言の要旨として述べられていること、自我の肥大を諌めよ、これを強調している。 
それは、たった今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、ヨガでいうところのマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの開き、心(靈)の動きでいえば自我の強化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と強化、“日月神示”表記なら“江戸と尾張”から“秋立つ”、あるいは“身魂掃除”“身魂洗濯”、そしてこの文で述べられている“改心”、これらすべて自省(胸の磁性“十”)を指しており、自省(胸の磁性“十”)していく過程で“自分を観察する自分の確立”という要素が必須、それをまた般若心経では“観自在”、自分の在り方を観る、同様の意味合いで神道では“直日”という文言があり、これらは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が霊的成長の指針として、各々の宗教や“日月神示”で教えたものである。
 こうやって自分の心(靈)を観る、自分の心(靈)の動きと、その顕現である行動を鑑みる、これこそがたった今の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には必須、なので、たった今も今後ももっと“神烈しく(はげしく)”の事象に移行する、その際の変容、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の形骸の権威や薄っぺらい価値観由来の行動や“力”は、どんどん馬脚を現し、さらに恨みの連鎖の霊的干渉はどんどん現象化しているが、それにただ戸惑うとかではダメであり、だからこそ、
“世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ない”
“恐しなっての改心では御役六ヶ敷い”
(“御役”=次の事象の“創造”、“六ヶ敷い”は、むつかしい)
こう述べられているが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動き、それは恨みの連鎖の霊的干渉の原因、理由と根拠たるものだが、これをよく知り、その理由たる自らの低い心(靈)を諌めうる人間ならば次の事象の“創造”を担うことができるし、要は自省(胸の磁性“十”)の“行”ができていない人間は次の段階に移行する資質がない、と断言されているに過ぎない。 
さらに
“因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな”
この“因縁あるミタマ”は、次の事象の“創造”に多少でもかかわる心(靈)の意味合いであるが、それでも慢心するな、自我の肥大を諌めよ、それを“曇りひどいと、御用六ヶ敷い事ある”と述べられ、“上”からの“神示”を(自動書記や物理霊媒などの現象で)伝えた、それを世に流布した、ある程度理解できた、ほんの少し“上”と感応した、であったとしても、常に自分の心(靈)を見張り自我を諌めよ、いい気になるなよ、ということが
“神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキン”
と述られているものである。
 これに続く“五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ”、この“五十九柱”は、“五”が糸巻の象形文字、これは進化した生物の神経線維が密になる様子を示し神経線維が密になればなるほど肉体(月(ツキ))の磁性は強化と変容する(肉体(月(ツキ))のローレンツ力 
ローレンツ力 の強化と変容になる)、そして自我の確立=固定化からの進化は胸の磁性“十”、その時の心(靈)の発現が先の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、その意味合いで“十”、そして“九”は“日月神示”表記の ○ 九 十 (まこと)の“九”、これは“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあり、生命の最終の段階を示す卆(そつ、卒業の卒の異体字)に霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が付いた表記でもあるが、これは自省(胸の磁性“十”)の素地を持つ人間が多いのだ、という意味合いで“五十九柱いくらでもある”と述べられ、先の“因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ”の意味合いを強調した言い回しでもあり、先に述べたことと重複するが、“上”の示した事柄を理解した、“上”と感応した、としても慢心するな、常に自分を諌めよ、これを“務めた上にも務めなならんぞ”と称されており、そうでなければ“かへミタマあると申してあろがな”と述べられ、こういった事柄に関して最近○○○大先生は昭和のころの物理霊媒が活躍した時の様子を述べてある記事をネット上で発見し、それに対しfacebookで、
心霊現象に対する認識の低さ、自分たちが心霊現象にかかわっているから、低い功名心で満足している…雰囲気に酔っぱらっているだけ…そんな心の動きを感じてしまいました
と批判的なことを述べたが、“上”が何のために心霊現象を起こしたか、その意図、それを解析もしないで、ただただ自分たちは心霊現象を見る機会があったのだ、そんなことばかり吹聴しているのは、全く持って“役員づら”でしかないとしか言いようがないものである。
結果それは“因縁あるミタマ”には違いないだろうが、大した“御役”ではなく、そんな程度では“かへミタマ”にとってかわられるぞ、と、この文言で示されているものと思うし、こういった“低い功名心で満足している…雰囲気に酔っぱらっているだけ”という人間はあまりにも多すぎる感がある。

(ちなみにカタカナ表記の“ミタマ”は、
“ミ”は、生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するまっとうな生命(生きる使命=存在理由)と解することができうる)

本題に戻り、これに続く“因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ”
この文の“罪も借銭も深い”は、一生のうちにどれくらい霊的認識(悟り、幸取=さとり)を獲得し成長させるか、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練、いわゆるすべての因縁、その因縁には“善(神格化の方向性と智性の受信)”もあるが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の因縁もあり、それを“岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ”と称され、自我の確立=固定化までの進化過程においても“よき身魂ある”、それは低い進化においても“善(神格化の方向性と智性の受信)”の過程はあり、それに相対し、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の発現に至る際、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象を乗りこなす、それを“岩戸開きにも悪きある”と称されている。
その“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象、悪因縁と認識されうるそれは、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であることは○○○大先生が著書で証明したが、その課された試練をいかに乗りこなし自分が成長するか、が、S会=紫光会の交霊会で語られた“神は乗り越えられない試練は与えない”でもあり、ローム太霊の“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん”でもある。
 こうやって生きてこそ先の“務めた上にも務めなならん”でもあり、たくさんの認識を獲得して自分の在り方をしっかり理解したならば“気付け合って(認識(悟り、幸取=さとり)の獲得)よき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ”でもある。

 次の文。
“心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。 木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。 落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ”

 冒頭の“心から勇む仕事”は人間の生業(なりわい)のことを述べているのではなく、先の“因縁深い程 罪も借銭も深い”これを“気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ”のことであり、それをしっかりなすこと事態を“此の方の好く事”=“上”が認めうるのだ、の意味合い。
 これに続く“木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな”は、たびたびここまでの“日月神示”の文言に登場した“秋立つ”、いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”のこと、次の事象の“創造”に間に合うように自省(胸の磁性“十”)しておけよ、の意味合いが“紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが”であり、間に合わないことを暗に“紅葉の山も落ちたであろ”と述べられている。
 これに続く“他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや”、これは自らが観察しうる一切の事象=“三千世界のこと一切の事”、この仕組み、それは事象の“創造”の法則性、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によること、自らの心(靈)の動きが現津(あきつ)、観察され得る事象を創り上げているし、それぞれの霊的成長度の高低により観察しうる事象そのものは違うのだ、またそれがアセンションの真実ともいえ、霊的成長度が低いと“上”が判断しうる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、次の事象の“創造”に参加する資格がない、それを“説いて聞かして得心させて上げますぞや”と述べられ、事象の“創造”の仕組み、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それは自分の在り方によることであるということを“他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示”という文言で感じ取らせようとしている。
ちなみに“キ”は
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、神の思惑を自らの霊的成長度により止めて、それそのものが霊的成長度の高低を示すものであるが、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、事象を想像するのだ、が、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の“キ”の意味合いである。

 次の文。
“地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。 是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。 コト、コト、コト、ざぞ”

 …まったく“上”の嘆きみたいな文言であるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ばかりのこの世界=“地の世界”は、その低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により動いており、その低さそのものを“五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ”と述べられ、霊的成長度の低い人間はやはりダメなのだ、みたいなことを述べられている。
 これに続く“是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ”の“高し低しの戦”とは、形骸の権力や地位を示威することが力を示すことだと思っている程度の低い人間の行い、それを“是までは”と称され、今後=アセンション後は“是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ”は、人間の誠実さみたいなことから考えればわかりやすい、程度の低い心(靈)は対外的に、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をして自分の利益を得ようとするが、これこそが他者に対しても自分自身に対しても不誠実であるということを今述べれば、一笑に付されるのが今の世界である。
 またその意味を強調した言い回しが“口でないぞ、筆でないぞ”であり、これはローム太霊講話集の189p、
世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない
と全く同じ意味合いである。
 それで“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、こんなことはいつまでも許されない、それが“神烈しく(はげしく)”の事象に移行するということでもあるし、誠実さ、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、その程度の深さそのものが、どれくらい神に近づいたか、の証明になるのだ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはそういったことなのだ、ということを述べられている。
 ちなみにカタカナ表記の“コト”は、
“コ”は、停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、どれくらい自分が成長したか、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できたか、これらによるところの“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意との感応、それによって自分の心(靈)は構成されうるのだ、という意味合いを示した表記である。

 次の文。
“始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。 此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。
食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。 不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ”

 文中の“ウタ”は、
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
なので生命(生きる使命=存在理由)の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示しており、これを踏まえて“始めウタあったぞ、終もウタぞ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しうる生命(生きる使命=存在理由)を“創造”の“主(ヌシ)”は“創造”したし、その存在目的は神格化=“終もウタ”の意で、“今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ”、これはあらゆる生命が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだの意、“終の御用の始はウタぞ”は、進化の最終段階は神格化をめざし意識して“行”する、それを“終の御用”と称し、その“御用の始はウタ”とは、やはり生命(生きる使命=存在理由)は進化すべきものなのだ、を、強調した言い回しである。
 これに続く“ウタの集団(つどひ)とせよ。 此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ”、これは進化を意識して存在する“集団(つどひ)”となれ、の意味合い、それが生命、生きる使命、その存在理由なのだの意味合いで“ウタの集団 始ざ”と称され、たった今の平均的地球人の低い認識から観ればそれは“表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ”、しっかりその意味合い、生命とはなにか、自分たちはどういった存在なのか、それをしっかり鑑みよ、鑑みることが“上”との感応になるからこそこういった言われ方をされていると思う。
 これに続く“江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ”は、自我の確立=固定化の進化過程である“江戸の御用”の段階は終わり、次の段階は縦の磁性の強化による“上”との感応であるし、“上”の思惑を“下”に顕現するには“下”の磁束の強化が必須の意味合いで“尾張の御用”、これは頭蓋骨から尾骨までの磁束を示しているし、そこにはまた“カイの御用”があり、先の第十二帖でも述べたが、“カイ”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
なので、進化に伴う変容、あるいは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の高低による変容の意味合いもあるが、その変容には“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)が必須、そして、進化に伴い“力”を顕現するの意味合いである。

 次の文。
“食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ”
 
 この文の“食物(おしもの)の集団も作らなならん”は、先の“カイの御用”における“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)のことであり、このことは先の第十二帖でも述べられているし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みをして“行”をする“集団”を創らせるのが“上”の思惑であると暗に示されていると思えるし、それは“上”が認めうるからこそ“此の集団も表に出してよいのざ”と称されていると思う。
 これに続く“時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団”、これは第十三帖の冒頭の文、
“世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。 恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ”
いつまでも我を張っている、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である、それは“神烈しく(はげしく)”の事象に遭遇しても自分を変えない、自分の在り方を考えない、自省(胸の磁性“十”)しない、だが“まことの神の集団”、進化しうる素地を持つ人間の集まりは、“時に応じてどうにでも変化(へんげ)られる”、“神烈しく(はげしく)”の事象の意味、その理由と根拠を知っているからこそ臨機応変に対応して、その中から自らの認識を高め、霊的成長の糧となしていくのだ、の意味合いである。

 次の文。
“不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。 世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか”

 これは“役員づら”により、“上”が“上”ではなくなっている、見せかけの“上”になっている、そして、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の認識や概念も形骸になっているが、そのことを“不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してある”と称されてはいる。
だが、これも人間自体に“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を教えるための神の計画であり、“役員づら”の台頭があるからこそ“ほんとう”の“上”とその思惑を知ることができるのだ、の意味合いを“世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下され”という文言で示しているし、これに続く“二人でしてくれと申してあろがな、判りたか”の“二人”(二つ、二種類と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))は、高い低い、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、そして日足と砌(ひたりとみぎり)、これら相対的な比較をしないと“ほんとう”を理解しない、認識しえないからこそ、こういった言われ方をされているのだと思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 


今回も、雨の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ。 
此の道 難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。 今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。 まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。 表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ。
我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ。
此の神示 無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。 天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。 次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ。
人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。 
善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。 松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。
十二月十八日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文。
“一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ”

 これまでの“日月神示”で、“落ちぶれて”あるいは“落ちぶれた”という表記がいくつかあったが、この文言の“一番尊い所 一番落してある”そして“此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)る”、これは“上”が認めうる霊的成長度の心(靈)、たとえば下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろ”、この表記は、霊的成長のために太陽凝視を行っている人間ほど世に認められないの意で、これに反し、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)である“役員づら”ばかりがこの事象では一般に認められ受け入れられるものである。
それは、たった今の事象が霊的成長度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されている腐った事象であり、霊的成長度の低い大多数の人間が“上”から観て価値のない腐ったものを評価して誉めそやすので、霊的成長度の高い心(靈)の人の活躍や台頭が妨害されるものであり、よって“一番尊い所 一番落して”こうなってしまうものだ、という意味合いのこと。
 だが、そんな状況はいつまでも続かない、“上”は“上”の“思惑の顕現”をする、“上”と感応する人(“天詞様”)の活躍をさせうる、それが“神烈しく(はげしく)”の意味合いの一つでもあるし、だからこそたった今の腐った事象、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭している状況は、“上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ”ということになるものである。
 それで先に述べた“上”が認めうる霊的成長度の心(靈)というのは、ここまでの“日月神示”に登場した“落ちぶれて”あるいは“落ちぶれた”の表記のある文言を観ると理解できるので、いくつか以下に列挙する。

上つ巻 第二十帖 
“神の臣民 言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。 足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。 上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ”

下つ巻 第三十七帖 
“ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。
何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ”

日月の巻 第二帖 
“三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、 此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、 みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。
今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ”

日月の巻 第六帖 
“一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。 それで神がくどう申してゐるのぞ。 種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。 上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ”

 次の文。
“此の道難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。 今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。 まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。 神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。 表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ”

 この文の冒頭の“此の道”は、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指しているし、これまでの“日月神示”表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と同義。
だが、この文で述べられている要旨は、霊的成長度の低いお前たちは進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)など解っていない

“未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ”であり、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理を解る以前に、何が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)か判りえない、その理由は“役員づら”の手法に乗せられている人間ばかりでご利益主義を刷り込まれている、よって神に対する認識(悟り、幸取=さとり)も、進化に対する認識もほとんどない、そんな人間は先の第十三帖の“まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ”でもある。
それでこれからの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程、自我の確立=固定化の段階から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)、自省(胸の磁性“十”)の“行”、これをして行け、それが文言中の“今が神国の初め”(“国”は“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))であるし、その際に気をつけろの意味合いで
“今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ”
それと
“まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山ある”
これは“役員づら”の手法に乗せられているご利益しか求めない“ブタのけつを見ているアホ”のこと。
 それで、自分たちが神に対する認識も深め、進化に対する認識も深めていかねばならない、そのために、“欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下され”=我欲、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を自分で諌めよ、あるいは執着を捨てよ、と述べられているものである。
 今述べたことが出来ないならばそれは、先にも述べたとおり“上”から観たなら“盲聾(めくらつんぼ)”であるし、“人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな”=ほとんどの人間が…でもある。
それで、お前たちは自らの進化のため“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を求め、実践するべきであるが、その過程として、
“何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ”、
この“元”の表記は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、たった今の霊的成長度に差があって低いものも高いものも同一の事象に存在(位置している)が、“何れ元に帰って来る”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理を見出し手それを実践するようになる、その過程において間違った認識で“役員づら”の手法に乗せられたりもするが、載せられなければ“ほんとう”のことが解らない=“元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返す”の“繰り返す”は、右往左往と左往右往の繰り返しをするのだ、の意であるし、これに続く“次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ”、これは冒頭の“一番尊い所 一番落してある”、真摯に霊的成長を求め“行”を実践する人間に対しこの腐った事象で満足している人間の妨害を指した文言でもある。
また、
“神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまう”
この“神の国は…中略…二度と立ち上がられん”くらい“一番尊い所 一番落してある”(第十四帖冒頭の文)ということになる、それはこの文中の“人民 皆外国につく”、この“外国”は外側(外国と幽界)の事象のことで、自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をせず、外側ばかりに捉われたものの見方をしているの意、であり、前後するが、
“事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ”
これも外側(外国と幽界)の事象ばかりに捉われた人間の行いを“事務所作るのは表の仕組”で、形ではない、体裁でもない、大事なのは内面とか内側(心の中と感じている事)の変化、それを“裏の御用 事務所禁物”という言い回しで指摘しているし、このことが理解できていないから“人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな”であり、これに続く“それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ”、これも形や体裁ではない、“役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所”の“役員殿の住むとこ”は、心(靈)の入れ物である肉体(月(ツキ))を指しているものであるし、問題は心(靈)の在り方であるの意を“よく相談してやりて下され”と言われ、そうなると進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理が判る=“段々判りて来る”と称されているし、その過程には自らのエネルギーの贖い(あがない)が必須であるから、
“表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ”と言われており、それに相対し、“役員づら”の手法に乗せられている人間は、頑張らない、“神の采配”である試練から逃げ、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ことを考えたい、ローム太霊の言葉である“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん”の逆、“粘りとやせ我慢”の逆、こればかり求めさせられるように“役員づら”のご利益主義を、インプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)させられているものである。
それと、今取り上げた文言の前に言われている、
“神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざ”
これも“役員づら”の手法に乗せられた人間がこの事象の主流になる、しかし、“世が落ちてしまうてから始めて神力現れる”、これは、必ず“上”の思惑は顕現し、程度の低い人間も程度の低い事象も必ず変化しうるのだ、の意であり、それを強調した言い回しが、
“今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ”
この“磨けば皆結構な身魂”、これは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしなければならないの意であり、
“人民の肚さへたら”
この“肚”は自我のことをさし、自我の確立=固定化を強化させたならば、自分に対する見方も変わり、より自我を諌めうる、当然のことながらその段階に至ったならば、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”、というものを自らの心(靈)が獲得しているものであるからこそ“人民の肚さへたら天もさへる”、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意も、“神烈しく(はげしく)”によりもっともっと注がれるし、それと感応するからこそ“さへたら”、“さへる”ということになり、その意味合いで“心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ” と述べられている。
 少々長い解釈になったが、結果、霊的成長は内面とか内側(心の中と感じている事)の観察、自己観察、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、であり、自我の肥大を認めそれを諌めることをする、また自我の肥大をした人間は外側(外国と幽界)の事象に捉われていて、このこと自体が認識(悟り、幸取=さとり)が低いのだ、ということだが、それを要約したのが次の文言である。
“我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ”
この文末の“毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふ”の“草木”、これは“草”が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、太陽を示す“日”、それと胸の磁性“十”の合わさった表記、“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。 実際に“草木”になるわけではない。

 次の文。
“此の神示 無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。 天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。 次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ”

 冒頭の“此の神示 無闇(むやみ)に見せるでない”そして“神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ”これは勝手な解釈をする人間が多すぎることを暗に戒めたもののいいようであり、“役員づら”とご利益しか求めない程度の低い人間には見せたくないのだ、ということでもある。
 これに続く“天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ”の“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”、この二つの意味合いが重なった表記で、神の思惑を顕現すべく心(靈)は自省(胸の磁性“十”)ができていなければならないの意であるし、“今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ”は、自省(胸の磁性“十”)ができない、自我の肥大を認めない、そんな心(靈)では“上”と感応しえないので“暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になる”と言われている。
 これに続く“次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ”
文中の“世に出る番頭殿”は、“日月神示”が書かれた時の時代背景、軍国主義の終わりとその後、その時の形骸の権力を示す者たち、これらは当然のことながら“上”と感応する資質などないに等しいので“神なきものにして御座るから一寸先も判らん”、また得に解釈の要はないと思うが“先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ”、要は、程度の低い人間が世を治めようとしても失敗する、それは“上”の思惑など判らない、解らないからだ、と言われているし、これに続く“此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ”も、程度の低い心(靈)が世を治めようとするが、それは現状通り“すればする程 悪うなる”であるし、“上”と感応している人間が政治をする…おそらくアセンション後は政治など消滅するだろうが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がたった今政治をしているから失敗の事象の“創造”、右往左往の右往ばかりをするの意であるし、所詮、政治などでは人間の進化の指針にはならない、それが“神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ”の文言から感じられる。
 これに続く“神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど”、これは失敗を繰り返して自省(胸の磁性“十”)して成長する、それを“こうなる事判って呑んでゐる”、“上”は承知して見守っている、の意であり、これに続く
“それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ”
この文言の要旨は、解らんでも見ろよ、見てもわからんだろうが見ろよ、そして“此の神示ウタにして”の“ウタ”は、
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
なので、生命(生きる使命=存在理由)の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示す表記だが、これが書かれているのだ、それを“印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ”、これは、程度の低い心(靈)の持ち主にも、解らなくてもよいから見せろ、これが解らない程度の低い心(靈)は失敗の事象を体験してだんだん理解していくから見せろ、の意である。
 これに続く 
“神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ”
文中の“九十(コト)”、“九十”は、“九”が“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と胸の磁性“十”を持った心(靈)そのものが生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、それは卆(そつ、卒業の卒の異体字)でもあり、“日月神示”表記の ○ 九 十 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と“九”と“十”でもあり、カタカナ表記の“コト”は第十三帖でも述べたが、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止め進化する、進化して神の思惑を顕現する、その意を“神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐる”と称されて入いるが、たった今は“上”と感応する心(靈)が少なすぎるので“九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど”
と言われているが、感応すべく資質はやはり自省(胸の磁性“十”)なので“早う洗濯掃除せよと申してゐる”と言われている。

 次の文。
“人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ”

 冒頭の“人の十倍も今の仕事して”は、自分のエネルギーを購え、これができない自分にとって都合の良い考え方をする人間、天の僥倖、ご利益主義、漁夫の利、頑張らないでよい結果を得たい、そんな考え方をする心(靈)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、そんなものを“上”は認めないという当たり前の事柄の意でもあり、たった今やっていること事態が“上”から観て価値のあることなのかを知るにあたっては、やはり右往左往と左往右往ではあるが、それを解るには“人の十倍も今の仕事”という家庭も必須なのだ、の、二つの意味合いを感じ取れる。
 結果それは右往左往の左往であり、自省(胸の磁性“十”)に至る、自分がどうあるべきか知り、それを生き方に活かす、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるからこそ“洗濯ぞ、掃除ぞ”である。
 そのために自分は惑わず、悪魔のささやきに乗らず、天の僥倖、ご利益主義、漁夫の利、頑張らないでよい結果を得たい、そんなことを考えてはいけないの意で“地に足つけよと申した事判らんのか”と言われ、これに続く“百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか”は、実直になれ、堅実になれ、働いた分だけが報酬になる職業を示しており、それに反し現状は投機などで儲けたい人間、あるいは形骸の権威で儲けたい、“役員づら”になって儲けたい、そんな人間ばかりなのでこういわれているし、これに続く“ 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざ”、この“ (てん)雨の巻第十四帖 (てん)”は、中国の漢字で、天、天国、天界、あるいは青い空(これは“秋立つ”を示していると思われる)、新緑を取り巻く空気、そういった意味合いがあるが、やはり高い振動そのものを指す表記であると思え、実直な生業(なりわい)や“行”をするならば…の意味合いが“ (てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざ”、高い振動が“下”である人間に顕現するのだの意味だと思える。

 これに続く次の文。
“善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。 松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”

 人間の認識はとても低い、善と悪に対しても自分たちの立場を主張して相対的なものの言いようしかしないケースが多々あるが、これ自体が自我の肥大ゆえの思い方である。
 次の事象、今後=アセンション後は、“絶対の善”が顕現していくべき事象であるので、今持っている狭い認識の“善悪”ではいけない、自我の肥大ゆえの自分の立場の主張ゆえの善悪を説くのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)であり、だからこそ人間は奪い合い殺し合いまでしているものであるが、それを判れ、解ったなら自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよの意味合い。
これに続く“松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”
この“松”は、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))を指し、“松食(お)せよ”は、“〇つ”となるべく、天意と感応せよ、高い振動を取り込め、それを“食(お)せよ”と称され、そうなったならば“松おせば判らん病直る”、この“判らん病”は、“借銭”でもあり、悪因縁でもあり、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことでしかないが、進化した生命(生きる使命=存在理由)の“創造”する事象は、恨みの連鎖の霊的干渉そのものが発生することがないからこういう言われ方をされているし、そうなれ、必ず自分自身を成長させて“〇つ”となれ、その意を、
“松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”
という文言で括られているものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、雨の巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ。
此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。 地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ。
此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。 鼻高ぢゃからざぞ。
神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ。
ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。 知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。 今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。 最後の十十
メ(目)雨の巻十五帖表記   (トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。
信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。
役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。 
身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ。
十二月十九日、一二 
ローレンツ力と ○ 

 冒頭の文。
“四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ”

 文中の“四八音”は、“四”は発振、発信の意、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、“音”は、可視光線よりも低い振動なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、この事象に顕現するの意。
 同様に“五十音”の“五”は糸巻の象形文字なので進化した生物の神経線維が密になりコイル状になるさま、“十”は縦の磁束と水平磁場、これも手足が発現した状態を指し示すものであり、さらに四足獣から人間への進化は、目上(めうえ)の脳の水平磁場をも構成するが、それを指し示す表記。 “音”は前述のとおり。
 さらに“六十音”の“六”は、爻部(こうぶ)、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。 “十”と“音”は前述のとおり。
 また、カタカナ表記の“ヨハネ”は、
“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目
“ハ”は、生命発現成長の音義
“ネ”は、根 元基(もとき) チカラ自と漲りはびこらす 根魂
同様に“イソネ”は
生気生命の発生力
“ソ”は、個性の本意 また原質物 その真澄(マスミ) 元 素 マスミ 真凝止(マコト)(自凝(おのころ)して止める) 此れ悉く其のチカラ
“ネ”は前述のとおり
同様に“ムソネ”は
“ム”(生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(法則性)
“ソ”は前述のとおり
“ネ”は前述のとおり
 なので、
“四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれる”
これは、進化した生命(生きる使命=存在理由)(“ヨ”“ハ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み発振、発信して事象(“四”“ヨ”)に顕現(“音”“ネ”)するのであり、それには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、肉体を作り変えて、神経を密にしてローレンツ力
ローレンツ力の強化となり、“富士(二二)”も強化され胸の磁性“十”も強化されていく、そうなっていくと“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、この高い部分を取り込んで霊的成長を果たしていくし、それが“六”“ム”の意味合いであり、そうしていくならば“天も変るぞ地も変るぞ”であり、その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)に間に合えよの意味合いで“用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ”である。

 次の文。
“此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。 地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ”

 文中の“此の方等”は、先の第十四帖の“一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ”
で示されている進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)を理解し体得した人、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしている今現在の事象では“落ちぶれて”“落ちぶれた”と称されている人間のことであり、次の事象においてはそういった人たちが指導者になる=“世建直す”のだが、指導者は独裁者ではない、権威を振りかざしたりしない、それは“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持って“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をしているからこそ霊的に高いのであり、そういった心(靈)の人は“此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ”と称されている通りである。
 そしてその指導者たちの心情を示した文言が“地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ”である。

 次の文。
“此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。 鼻高ぢゃからざぞ”

 “日月神示”では今後=アセンション後に移行すべき資質を獲得する具体的な事柄が述べられている。
それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるが、一般の人間、平均的地球人の霊的成長度、そして“役員づら”の台頭、これらすべて自我の確立=固定化の進化過程であり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、こういった人間は“此の神示”=“上”が示した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を読み取ることもできず理解もできていない、これを“大事な仕組 早う申せば邪魔はいる”、これは“役員づら”の台頭を示しており、そして“申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ”と称され、さらにそれでは“彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ”ではあるが、もうギリギリの土壇場、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭により事象は腐りはて、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化で一般には理解不能の人死にが多数にならなければ、自分たちの低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”の結果を自分たちが贖って(あがなって)いるのだと気付かない、それくらいにならないと、自分の自我を諌める、自分が自我の肥大をしていることを自分に対する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であると認め、そうならないと真剣に“日月神示”に書かれていることを読み取ろうとしないという言い回しが“素直になれんのは小才があるからざぞ。 鼻高ぢゃからざぞ”である。

次の文。
“神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ”

 冒頭の“神の国は神の国のやり方ある”は、たった今の事象に相対した言い回し、その意は現状が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛ん、これは恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていくばかりであることを幾度となく述べてきているが、これを変えていかねばならない、変えなければ崩壊にしか向かわないので“よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って”こうしていかねばならないし、“神の国”の表記は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)、要は智性(神性)ある心(靈)の“やり方”でもあり、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”を示したのが“よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃ”である。
 これに続く“金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ”は、物事、事象、自分の心(靈)の動きなど、すべてに価値を見いだせ、なにか“上”なのか“下”なのかを判断せよ、の意味合いでたった今の人間は“盲”であることを示した言い方でもある。
 これに続く“カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ”、文中の“カイ”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
なので、この表記そのものが生命(生きる使命=存在理由)の発現とその存在の意義である進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、進化して事象に“力”を顕現する、これは事象の“創造”そのものと言え、その“御用”であるし、“オワリ”は、
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“リ”は、生命根源の、張り、広がり
なので、物質を伴った現界における人間が事象の“創造”をすること事態が、生命の存在意義であることを示し、それがまた生命の使命である、それを“仕組”、これは現津(あきつ)、観察され得る事象、これを“観察と認識”していくことそのものを指す表記であると言いうる。
 この二つには“何も彼も裏表ある”さらに“裏と表の外(ほか)に裏表ある”と述べられ、それは“ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ”と言われている。
 それで“ウオヱ”は、
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“オ”は生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ヱ”は、満ち足りたる生命 笑
なので、肉体を持った生命が発現し、進化していくならば“うれしうれし”“大歓喜”の事象になることを示され、“アヤワ”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“ワ”は、物を生む 生まれしものを和合する意 生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
なので、生命の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、自身の進化と現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”の進化を伴って(調整)行くのだという意味合いだが、○○○大先生の読者で<1>のおわりと<2>の前半をしっかり読んだ人なら、自分の進化と進化をしていく過程においての事象の“創造”には、右往左往と左往右往の要素があることに思い当たるはずである。 それは自分の思惑通りに行動すると“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)があったりもするが、それ自体が“神の采配”であり、自分自身を進化の方向性に導くものであるが、それを“何も彼も裏表ある”さらに“裏と表の外(ほか)に裏表ある”、この“裏と表”は、砌(みぎり)の極性である行動をして“神の采配”である“神の咎め”を受けたならそれは心(靈)が育つのであり、それにより“外(ほか)に裏表”、これは自分の外側(外国と幽界)の事象の意であり、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)が進化したら外側(外国と幽界)の事象も変容するのだ、霊的成長度の高低により事象の遭遇は違ってくるのだ、の意であると思える。
 これに続く“三つあるから道ざぞ”は、先の“ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ”、生命の進化とその進化に伴う事象の変容には、こういった要素があるのだの意。
これに続く“神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ”、この文の“キ”と“ミ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“ミ”は生命の幹 その現実
であるので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、この取り込み=“神のキ頂くのざ”、いわゆる感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしてそれを息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)せよ、の意味合いであり、進化していく、現状の地球人がたとえ数分の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により肉体は変容し、“上”からの高い振動を止める(“日止、霊止”の表記の意味合い)となり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は事象の変容となるのだが、それを示した文言でもあり、またそれは“キとミとのあいの霊気頂くのざ”の“あいの霊気”、これは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記でもあるが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴う高い振動との感応のことを示している表記である。
 ちなみに今取り上げた文言の前の“神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ”は、呼吸法のことも示してはいると思うが、それだけではなく“八度”の“八”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているので、“上”からの振動を取り込んでいくならばそれは“下”に顕現することを“キを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せ”と称され、“上”からの振動の取り込み自体、それが、神に対して“下”である人がなしていく神の“思惑の顕現”=現象化であるから“八”と称されていると思える。

 次の文。
“ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。 知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。 今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。 最後の十十 
メ(目)雨の巻十五帖表記 (トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ”

 冒頭の“ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ”の“ひふみ”はひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記なので、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火
この“日”=太陽のこと、
これを
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
“ミ”は生命の幹 その現実
なので、太陽の振動(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を仲介して送る役割が太陽)、これを取り込んで(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たす生命のことを称している。
“ヨハネ”は先にも言霊を示したがもう一度、
“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目
“ハ”は、生命発現成長の音義
“ネ”は、根 元基(もとき) チカラ自と漲りはびこらす 根魂
もう一度述べるが。進化した生命(生きる使命=存在理由)(“ヨ”“ハ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み発振、発信して事象(“ヨ”)に顕現(“ネ”)する、これも先の文で述べた生命(生きる使命=存在理由)を介しての神の“思惑の顕現”=現象化であり、“五十連(イツラ)”の“五”は糸巻の象形文字なので進化した生物の神経線維が密になりコイル状になるさま、“十”は縦の磁束と水平磁場、これも手足が発現した状態を指し示すものであり、さらに四足獣から人間への進化は、目上(めうえ)の脳の水平磁場をも構成するが、それを指し示す表記であり、“連”は神経の連なりを示しており、“十二の流れ”は、雨の巻 第一帖で解釈した通り、十二経絡(ツボの流れ)、手足が発現したことによる電磁誘導のラインのことである。
 参考のため、雨の巻 第一帖の本文とその解釈の一部を以下にコピペ

“世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。 足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。 此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。 所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。 命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ”

 この文の大半は、これまでに出てきた表記と共通、自分達の霊的成長度における行いを恥じよ、自省(胸の磁性“十”)せよ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、の意味合いがあり、その詳細については解釈を省くが、大事な要点として“「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ”の表記があると思えるので、まず、“イスラ”については、
“イ”は、生気生命の発生力
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ) 
“ラ”は、クの言霊に似て 奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)の音根 物の根の意 張り 配り 広がり 延び むすぶ の意
(注 “ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意)
であるので、進化して行くべき生命の意味合いと、進化しながら完成と統一、そして延び広がるべく発現したのが生命(生きる使命=存在理由)であるとの意味合いがあり、その“十二の流れ”は先に述べた“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道としての十二経絡(ツボの流れ)であると思え、左右対称に存在する電磁誘導のラインである“富士(二二)”は、進化した生命(生きる使命=存在理由)、手足と頭部が無ければ存在しえないものであるし、これがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣に結びつく(だから○○○大先生は電気行を行っている)、その意味合いが“「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来た”である。

 それで文中の“イツラ”は、
“イ”は、生気生命の発生力
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ) 
“ラ”は、クの言霊に似て 奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)の音根 物の根の意 張り 配り 広がり 延び むすぶ の意
(注 “ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意)
なので、先の“イスラ”とは違い、生命の発生力が、集約され田様を示す、それは進化を果たしたさまということである。
 これに続く“ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ”
文中の“ム”“ウ”“ン”“ヤ”“ワ”は、

“ム”は、命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(法則性)
これが
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
となると称され、それは、
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
生命の完成の意。
 そして、
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む)“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
なので、先の十二経絡(ツボの流れ)手足と頭と胴体の電磁誘導のラインが、“結構ざ”ということになる。
 これに続く“是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ”、この“是迄の考へ方やり方致すなら”は、たった今の平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とそれによる事象の“創造”、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”、そんなものは“建替”せねばならないの意であり、“何も彼も上中下すっかりと建替へるのざ”に関しては解釈の要なし。
これに続く“外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさる”、これは外側(外国と幽界)の事象、これは高い振動の低振動化、いわゆる現津(あきつ)、観察され得る事象のことだが、これを先の“四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ”この“音”のことを“竜宮の音秘(オトヒメ)様”と称され、それが“ぐれんと引繰り返し”になるの意。 
これに続く“竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ”の“雨の神”の“雨”は画像で意味を示す。



雨の象形文字 解字 

 これに続く“今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。 最後の十十メ(目)雨の巻十五帖表記   (トドメ)(透答命)ざぞ”、文中の“今度”“次の大層”は、今後=アセンション後に移行する際の醜い事象、もうたった今が醜い事象ばかりの感があるが、おそらくもっと激しくなる、それが“最後の十十 メ(目)雨の巻十五帖表記 (トドメ)(透答命)”、この“十十 (トドメ)”は、胸の磁性“十”が二つなのは、思想や考え=日足(ひたり)の極性、外側(外国と幽界)の事象=砌(みぎり)の極性、これを“観察と認識”する=“メ(目)雨の巻十五帖表記  ”であり、“透答命”は、自分たちの心(靈)の動きと外側(外国と幽界)の事象を見透かして、答を見つけるのが生命の使命であるの意、であると思える。
 これに続く“今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ”、あえて解釈の要はないような文言ではあるが、文中の“キリキリ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“リ”は、生命根源の、張り、広がり
なので、これも生命(生きる使命=存在理由)がなす神の“思惑の顕現”=現象化を示しているが、それが次の段階に入るから“今度こそ猶予ならん”のであり、“三四月気付けよ”の“三”は1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“月”は肉体のこと、そして“気付けよ、キきれるぞ”これに先の“神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざ”を合わせて考えるとわかりやすい。 要は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意=“キ”、これを付けよ、そしてそれは溢れ出すほどになる=“キきれる”の意。

 次の文。
“信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな”

 一読すれば解る文言ではあるが、たった今の信心は“役員づら”に踊らされているそれであるから“誠一つ”の信心ではないので“信心なき者ドシドシ取り替へる”のであり、そんなものは“神の仕組 成就せん”どころか“世の元の型まだまだ”=たった今の事象は神の“思惑の顕現”=現象化から程遠いのだと称されているし、その現状をしっかり鑑みよ、自省(胸の磁性“十”)せよの意味合いで“神厳しきぞ”であり、それでも“上”は猶予を与え“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をさせようとしているの意が“ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ”である。

 次の文。
“役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ”

 次の事象の“創造”に参加しうる存在、いわゆる“役員”は霊的成長を果たしていなくてはいけないから“多くなく”ではある、しかしそれは神の思惑を受け止め得る心(靈)なので“心揃へて”=共通の認識や価値観を持ち、“胴(十)すへて居りて下され”=肉体を示す月+同じ、これは先の共通の認識や価値観を示していると思われ、これも肉体(月(ツキ))のローレンツ力
ローレンツ力 由来の“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みに由来することであるし、“(十)”は、胸の磁性“十”のこと、これがなければ、“此の世に足場作りて居りて下され”=“上”からの振動を止めることを“足場”と称されており、“神がするのであるから”は、神の思惑の顕現を示す、このことを承知して“神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ”である。

 次の文。
“身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ”
 
 これは“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”のこと、冒頭の“身魂相当に皆させてあろがな”は、それぞれの心(靈)の事情や条件に応じ“上”は試練を与えて自省(胸の磁性“十”)させているのだの意であり、“己の戦”は自我を諌めること、“此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ”、これは“日月神示”に書かれている進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をしっかり認識せよ、それでなければ自分の心(靈)が行っている“観察と認識”は“鏡曇ってゐるから曲って写る”、この“鏡”は自分と自分以外の事象の意であり、これも先の“透答命”になり得ないのだ、答を見いだせないのだの意であるし、“一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ”は、先の“心揃へて胴(十)すへて居りて下され”と同義、そして“外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ”、これは外側(外国と幽界)の事象ばかり見ているだけではダメ、また右翼みたいな思想でもダメ、自分が自省(胸の磁性“十”)するには“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”が必須であるから“外国々々(外側(外国と幽界)の事象)と隔て心悪ぢゃぞ”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ、勇んでやって下されよ、 勇む所 此の方 力添え致すぞ。
心配顔 此の方 嫌ひぞ、歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ。 今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座るぞ。 つ千に返ると申してあろがな、早う気付いた臣民人民 楽になるぞ。
神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。
此の世の物 一切 神の物と云ふ事まだ判らんのか、一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそいから嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか、此の方 人民の中に居るのざぞ、別辞(ことわけ)て申してゐるのざぞ。ま
だまだ大き戦激しきぞ、是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなるのざぞ、是からが褌(ふんどし)ざぞ、よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ。
誠が神であるぞ、コトが神であるぞ、元であるぞ、道であるぞ、日であるぞ月であるぞ。始めコトありと申してあろがな、キであるぞ、まつりであるぞ。
十二月十九日、一二 
ローレンツ力と ○ 

 冒頭の文。
“此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ、勇んでやって下されよ、 勇む所 此の方 力添え致すぞ”

 次の事象は、霊的成長度の高低において区分けされるものであることを幾度となく述べてきているが、それは人間だけではなく、高い霊的存在も、という意味合いが“此の世と申しても臣民の世ばかりでないぞ、神の世界も引くるめて申してゐるのぢゃぞ”であり、自分の“力”を全うに使い次の事象の“創造”のために“力”を使うことに対し“勇んでやって”と“上”が認めたならば“勇む所 此の方 力添え致す”である。

 次の文。
“心配顔 此の方 嫌ひぞ、歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ。 今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座るぞ。 つ千に返ると申してあろがな、早う気付いた臣民人民 楽になるぞ”

 この文の“心配顔”は、“神の采配”を信じない、“神の咎め”は、自分を自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す、という認識がない、要は自分の存在や生き方を神にゆだねていないしそれはまた“ほんとう”の信心とは言えない、それを含んだ言い回しであり、“上”に委ね自分の成長のための“神の采配”や“神の咎め”に対し恭順であれの言い回しが“歌唄ひ下されよ、笑ひて下されよ、笑へば岩戸開けるぞ”であり、自分のことしか分らない、自分の目先の損得勘定しかできないのは自我の肥大であるから“上”に恭順であれば“笑へば岩戸開ける”であるし、自我が肥大していて損得勘定しかできないので“今の人民キリキリ舞しながら まだキリキリ舞する様もがいて御座る”であり、“つ千に返ると申してあろがな”の“つ千”(つち)は、ひらがな表記と漢字なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点。
 それで“つち”の言霊としては
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
なので、進化した生命がその進化程度、霊的成長度において事象を“創造”するの意であるし、漢字の“千”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”であるから、これも“上”と感応する自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持った生命であるので、いかに自分の自我が肥大していようとも、損得勘定中心で心(靈)が動いていようとも、“上”に対し反目していようとも、進化の本質に“返ると申してあろがな”ということになり得るのだの意。

 次の文も“上”に恭順であれの意。
“神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ”

 “ほんとう”の“神の守護”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのことでしかない、心(靈)が育つためには“神の咎め”がありそれ自体が“神の采配”であるという認識を持っている地球人は少なすぎるので、“人民からはちっとも判らん”“判る様な守護は低い神の守護”“悪神の守護”、神は守ってくれているなどという甘い認識は、悪魔のささやきに乗っていると気付け、の意味合いである。
 これに続く“何んな事あっても不足申すでない”、これも“神の采配”と“神の咎め”の意味合いを理解していない人間に対しての言い回し、自分にどんなことが起きようとも自分がどんな目に遭おうとも、すべて自分の心(靈)を育てるための事象であるという認識を持て、であり、またそれは自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”=“人民キから起って来た”(“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、“上”からの振動を自らに止め心(靈)となしその心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”する)であるので“皆 人民の気からぞと くどう申してあろがな”そして“我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ”といわれているが、“人民の心さへ定まったら”=すべては“神の采配”であるという認識を獲得したならば“此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ”、神の思惑通り、さらに自分にとっては自分が育った心(靈)による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”することになるので、そこに“ほんとう”の満足と喜びを見出す、これを“手柄”と称されている。
 ほそくとして○○○大先生の著書の<1>より、“神の采配”についてコピペ。

アタシ的には、批判すべきは自分自身だけでいいと思っているから……前回、般若心経の観自在で説明したように、自分の在り方を考えればいい。他者を批判するのは敵を作るだけにしかならない」
「でも、批判されないと自分のいけないところに気がつかないでしょ」
「気がつくのは、その批判をどう自分が受け止めるか、ではないかい?」
「あっ、そうか」
「自分の在り方を考える事象として、受け止めるか? 否か? でしょう。そうなれば、批判だろうが、悪口だろうが、別の話のように思うかもしれないが、病気だろうが、事故だろうが、殺されようが……すべて自分の在り方を示す忠告となる。意識は永遠の実在なのだから生きていようが死んでいようが様々な事象に遭遇し、そこで自分の在り方を思いながら成長する…分かりにくいかな?」


 次の文。
“此の世の物 一切 神の物と云ふ事まだ判らんのか、一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそいから嫌がられても、くどう同じ様な事申してゐるのざぞ、人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか、此の方 人民の中に居るのざぞ、別辞(ことわけ)て申してゐるのざぞ”

 冒頭の“此の世の物 一切 神の物と云ふ事……一切取り上げられてから成程なァと判ったのではおそい”これは自我の肥大した損得勘定しか分らない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対しての諫言である。
 カテゴリーは違うがローム太霊講話集で“上”である太霊は以下のように述べていらっしゃる。
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい…中略…神自身の本当の気持ち…中略…この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない” 
この“神自身の本当の気持ち”など“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”には解るはずもない、それどころか“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)は、自分たちの損得のために神を利用して間違った情報を流布している。
本題に戻り、神は人の成長を見守っているので“人民の苦しみ此の方の苦しみざぞ、人民も此の方も同じものざぞ、此の道理判りたか”であり、いかに自我の肥大した損得勘定しか心の動きにないかのように見える人間であっても、多少の智性(神性)は発現しているので自分をよく見れば善か悪か、それは判断できるが、その判断をどう活かすか?が自分の在り方であるが、判断できること事態を“此の方 人民の中に居る”のでそれをよく判り解れ、であり、今後=アセンション後にはそういった人間は移行できないので“別辞(ことわけ)て申してゐる”、この“別辞”は、別れの言葉、送別のあいさつ、の意である。

 次の文。
“まだまだ大き戦激しきぞ、是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなるのざぞ、是からが褌(ふんどし)ざぞ、よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ”

 これは大戦中に書かれたので“まだまだ大き戦激しき”と述べられて入いるが、外側(外国と幽界)の事象の“戦”ではなく、内面とか内側(心の中と感じている事)の“戦”、それは自我を諌めること、自分の在り方を鑑みること、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を顕現しようとすること、である。
 それを“是で世よくなると思ってゐると大間違ひとなる”、事象の遭遇=“世”は、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるから、自分の心(靈)が変わらなければ程度の高い事象には遭遇しえないのだの意であり、“褌”は、へそから“下”の縦の磁束と、腹の水平磁場を顕わした表記で、要は自我から“下”の心(靈)、本能、情動、功名心、自我、を、自らが厳しく諫めよであるし、今後=アセンション後=“よき世”では、野放図ではないが、だれもが“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を持っているから、今より“何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞ”と称されており、“フラリフラリと風に吹かれるヘチマ…以下略…”に関しては、揶揄した言い回しで“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象より…という意味合いであると思う。

 次の文。
“誠が神であるぞ、コトが神であるぞ、元であるぞ、道であるぞ、日であるぞ月であるぞ。始めコトありと申してあろがな、キであるぞ、まつりであるぞ”

 文中の、
“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
進化すればするほど不誠実というものはない、だいたい誠実という概念も目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動物には無い、それは進化事態が神に近くなることであるからでもあり、神に近くなるには“上”からの振動の高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して心(靈)が構成されていく、その意が“コト”であるし、それは“元”=肉体を示す“二”+時間の進行と進化を示す儿部(じんぶ、にんにょう)、そして“道”、これも時間の進行の意であり、“上”からの振動の意で“日であるぞ月であるぞ”、あるいは精神性=心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))の意、である。
 そして“始めコトありと申してあろ”は、肉体を持った生命(生きる使命=存在理由)は、自凝(おのころ)の仕組み、タンパク質の高分子化により“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め進化を果たす、その意が“コト”であり、“キ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるので、進化した生命は“上”からの振動を止め心(靈)と肉体(月(ツキ))を進化させ、そして自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”する、これは進化した生命である“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める意)の使命である神の“思惑の顕現”=現象化であるし、それ自体が“まつり”=“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、その意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。
礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。 
世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。 新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ。
神の心となれば誠判るぞ。 誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ。
雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ、自分のものとまだ思ってゐるのか。御恩とは五つの音の事ざぞ、御音(恩)返さなならんのざぞ、此の事よく考へて間違はん様にして下されよ。
此の巻は雨の巻ぞ、次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ。
役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ。
石もの云ふぞ、十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。 神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や、五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄。
十二月十九日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ”

“元の神”の表記は“元”が肉体(月(ツキ))を示す“二”と、(現界において必須の要素である)時間の進行、これに伴う進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味合いである儿部(じんぶ、にんにょう)なので、生命の進化、これ事態が法則性(“理(ミチ)”)であることを示した表記であるし、それは“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”を始めた時から決まっていることなので“天地の先祖、元の神”という言い顕わし方になっていると思われる。
 これに続く“天詞(てんし)様が王の王と現はれなさる”、“天詞様”は“上”と感応してこの事象に神の思惑を顕現すべく資質を持つ“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子を止める表記)であり、それは“王”、“一二三”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))が合わさった表記、これは進化した生命のある程度の完成を示すもので、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使しうる生命でもあるが、それだけではなく“王の王と現はれなさる”とは、今後=アセンション後における人間はすべて智性を行使しうる資質を持つがその中において指導者たる存在のことを指した表記である。
これに続く“王の王はタマで御現はれなされるのざぞ”の“タマ”は、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、“王の王”はまっとうな進化を果たした今後=アセンション後の事象における高い存在、それも肉体(月(ツキ))を伴った高い存在、それは“天詞様”という意味合いである。

 次の文。
“礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ”

 この文中の“節分から始めて下され”の“節分”についてだが、そもそも節分の意味合いは春夏秋冬の季節を分ける意味合いであるから、これは言うまでもなく今の事象から次の事象への移行のこと、これに続く“先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて”の“キ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
そして
“一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)”は、
“一”は智性、1番目のオーラ、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”の表記
“二”は肉体(月(ツキ))
“三”は“一”、智性、1番目のオーラと、“二”=肉体、あるいは“一二三”のオーラ
“四”は発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のこと、あるいは“日月神示”表記の善言(よごと)、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信
“五”は糸巻の象形文字なので、神経が密になった進化した生命のこと
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数であり、爻部(こうぶ)は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現、これが重なった表記で、これが交わるの意、その象形文字のカタチを観ると、屋根=頭の下に、左右の極性があるように感じ取れる
“七”は“一”と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、“日月神示”表記の“七七七七”は、目上(めうえ)の脳、大脳新皮質の四つの機能、そしてそれは、“一霊四魂”であると解釈した
“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義
“九”は“一”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、○ 九 十の“九”
“十”は胸の磁性“十”、縦の磁性と水平磁場による水平磁場を示す
これらの意味を統合するならば、進化した生命は神の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が進めば高い振動を止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)“下”である生命そのものが進化を果たすならば“上”である神の思惑を自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で顕現していくし、その心(靈)は胸の磁性“十”、いわゆる“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”“自分を観察する自分の確立”、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、こういった心(靈)の動きを備えている、の意味合いであり、それを“言(こと)高くのれよ”=息吹け、と言われている。
 そして“又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ”の“ひふみ”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラであり、これも進化を為し得た生命でないと発振、発信できない要素であるし、“一”=智性=1番目のオーラを大きくする具体的な“行”が太陽凝視であることは幾度となく述べてきた。
 要は進化した生命は“一”=智性=1番目のオーラを兼ね備え、それは神の思惑を顕現すべく資質であり、神の思惑が顕現していく事象は今と違って“これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌である”と称されている通り、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は消失していく、恨みの連鎖の霊的干渉も消失する、その原因たる自我の肥大もそれを諌める人だけになる、そういった意味合い、これを“のれよ”=意図して発振、発信せよ、ということであると思える。

 これに続く次の文。
“世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。 新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ”

 冒頭の“世界の臣民皆のれよ”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)せよ、当然のことながら先の文の内容、これを自らの認識として息吹け、発振、発信して事象の“創造”をせよ、の意味合いであるし、これに続く“身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざ”も、同様の意味合い。
 これに続く“終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ”は、先に解釈した分と共通の意味合いと、これに足されている“百千卍(ももちよろず)”については画像で意味を示す。


百 千 万 の解字と解釈 


 この文も、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味合いを自分がしっかり認識としてそれを“言(こと)高くのれ”、さらに“神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ”、この“祈れ”は、“思惑の顕現”、自分たちが進化したならばその時点においての理想を顕現せよ、それは“上”との感応が必須であるあるからこそ“天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れ”“九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れ”と言われており、この文中の“天(アメ)の日月の大神”(あめのひつくのおおかみさま)は、厳しい太陽凝視を行なっている人間に対して関与している霊団のトップであると思え、“九二(くに)のひつくの神”は、“九二(くに)”が先に解釈した通り“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が“九”であり、“二”は肉体(月(ツキ))であるので、ある程度進化した人間の意であるし、それは太陽凝視によって進化した、という意味合いの言い回しが“九二(くに)のひつく”であり、やはり厳しい太陽凝視を行なっている人間に関与している霊団のトップを指す表記。 要はこれと感応せよ、感応して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象を“創造”せよ、が、“弥栄ましませ弥栄ましませと祈れ”であり、文中の“弥栄”の“弥”については画像で意味を示す。


弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 


 これに続く“次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな”は、
“雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み


雨の象形文字 解字 
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動
“百々(もも)の神”は先の画像通り一+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“日”太陽、これが二つ続いているのは、人間の要素である精神と肉体、この両方に太陽を介して送られてくる“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込むの意
これらすべて肉体の維持と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にかかわることである。
次の“世の元からの生神”、これはたびたび“日月神示”に登場する表記でこの文言自体が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示し、またそれは、生命の存在理由、存在の根拠たることを思わせることであり、何よりもこれは“創造”の“主(ヌシ)”が定めたことでもあるので、“世の元からの生神”という表記が使われているものである
“産土(うぶすな)の神”は生きている間、その間に関与している神、いわゆる氏神のこと
これらに“御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな”と称されているが、これら“上”の存在に対し、自分にとっての“上”とは何か、どういった存在か、について鑑みよ、そしてその“上”の振動と感応せよ、これが“御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ”の意味合いであるし、これに続く“何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ”に関してはあまり解釈の要を感じないが、たった今の事象は文中の“病”だらけ、これは病気も含め、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化をしめしており、これを消失させるには自分たちが自省(胸の磁性“十”)しなければならないし、たくさんの悪霊も自省(胸の磁性“十”)して悪霊ではない存在にならなければならないが、まだまだ“上”の加護が必須、悪魔の思惑に嵌り夭折する人間も多いので、“上”を意識して、“上”と感応して、自分たちは進化せよ、の意味合いが“暫くこのやうに拝め”に要約されているものであるし、これに続く“神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ”は、いずれ“病”は、人の進化とそれに伴う事象の進化によりなくなるが、“それまでは”“上”を意識して感応せよ、の意味合いである。
 そうすれば“此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。 新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ”、この“新しき元の生命(いのち)と成る”、次の事象においての生命(生きる使命=存在理由)、これに値する人となれ、であるし、文中の“王統消(わうとうけ)す”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った人(“王”)が、統べる事象は、“病”が消えるの意味合いである。

 次の文。
“神の心となれば誠判るぞ。 誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ”

 自らが進化をある程度果たしたならば、“誠判る”、これはたった今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ばかりなので不誠実な事ばかり、またそれが当たり前、自分の損得を優先する心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で作られている事象、それを判れ、解れ、の意味合いもあるし、“マとコトざぞ”のカタカナ表記は、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、先の文と併せて考えれば、“上”との感応、“上”の振動、思惑を自らに固く止めよ、であるし、“上”と思惑が一致したならば“神と人民 同じになれば神代ざぞ”であり、この事象の“創造”は人間の使命であるから、“神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まる”と称されている。

 次の文。
“雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ、自分のものとまだ思ってゐるのか。御恩とは五つの音の事ざぞ、御音(恩)返さなならんのざぞ、此の事よく考へて間違はん様にして下されよ”

 この文は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対する諫言であり、文中の“御恩とは五つの音の事ざ”は、五感で感じ得るのが現津(あきつ)、観察され得る事象なのだ、の意であるし、そこには因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、すべて自分の思ったことやったことが、自分に帰って来る、これは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なのだ、それをよく解れ、の意味合いである。

 次の文。
“此の巻は雨の巻ぞ、次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ”

 先に“雨の神”で“雨”の解釈を述べたとおり、“上”からの荷電粒子を止めることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるが、それは進化程度、霊的成長度、この工程において違うから“ミタマ相当により分けて”ではあるが、自分が“上”の思惑に気付いたなら、認識(悟り、幸取=さとり)としたなら他者に述べてみよ、の意味合いが“次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれ”であるし、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“一二三”のオーラにより他の存在に影響を与えることについては“事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよい”と称されている。

 次の文。
“役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ”

 文中の“役員”は次の事象の“創造”にかかわる人間、その資質を持ち、さらに今後=アセンション後に移行すべく資質に関して及第点ぎりぎりの人間を導く人間、という解釈もできるが、手柄手柄と思う発想は自我の肥大であり、“役員”の思想と行動はすべて“上”の思惑通りであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う損得とは無縁であるので“皆に手柄立てさしたい”“皆にそれぞれに手柄立てさしたい”“一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ”と述べられていると思えるし、“待たれるだけ待ってゐる”は、今後=アセンション後に移行する時期、その時に資質を持った人間を少しでも増やしたい、それを待っているの意である。

 次の文。
“石もの云ふぞ、十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。 神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や、五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄”

冒頭の“石もの云ふ”は、肉体(月(ツキ))を構成する帯電するミネラルが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって大事であり、灰分(かいぶん)Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物が、アミノ酸の高分子化、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化)にかかわるのでこういわれている。
これに続く“十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ” 、これは漢数字が半分ずつになる表記であり、最後には“一”になる、それは“一”=智性=1番目のオーラでもあり、“創造”の“主(ヌシ)”の表記のそれであり、日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行する、それは“思惑の顕現”でもあり、生命の進化とそれに伴う事象の進化を顕わしていると思え、さらに“十六”は胸の磁性“十”と“六”(爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味、であり、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、そして“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。であり、それを兼ね備えた“二”=肉体は、“一”=智性=1番目のオーラをきちんと発現させており、“上”と感応している、の意味合いでもあると思うし、これは生命の進化の極みである神格化であるので“目出度や目出度やなあ。 神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や”でもあり、この文中の“あなさやけ、あな面白や”は、夜明の巻 第十二帖で以下のように解釈した。

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。

 これに続く“五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄”の“五つの色”は、五感、事象を観察する感覚、これは外側(外国と幽界)の事象からの振動の受信と同義、そして“色”は、物質の事象、現界のことだが、これが“七変はり”とは、“七”が“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、“八変はり”は“八”が、“富士(二二)”と同義でもあり、字の構成が丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあり、そして“九(ここ)”は、○ 九 十 のそれであり、


○ 九 十(まこと)の解字 
“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあり、“十々(たりたり)”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と水平磁場、胸の磁性“十”と頭のシンクロトロン、この二つを指すから“十”が二つであり、“百千万(ももちよろず)”は先の画像の意味通り、この表記そのものがやはり人間の神格化を示すいみあいのものであるし、人間の神格化事態が神の思惑の顕現であり、進化した人間は“上”の思惑通りの事象を“創造”するので“神の世”が“弥栄”であると称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


Kellyさんが“日月神示”雨の巻の解釈を終えてから…感じた事。


 雨の巻(アメの〇キ)は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして進化を果たした人間のことが述べられていた。 そう思う根拠として、第一帖の解釈を以下にコピペしておく。

“天の日津久の大神(あめの一二の
ローレンツ力と ○ )のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ”

 この文の表記、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、艮(うしとら)の金神の意図するところとして、最初に黒住教を立ち上げさせ、そこで朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を説き、実践させていたことは幾度となく述べたし、今後=アセンション後の地球人が成していくべき霊的成長の段階は、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)としての進化過程、智性(神性)の獲得と行使)であり、その部分では、左右の大脳半球、左右の眼球、この大きなコンデンサーの構造を持つ組織と、眼球から脳に至る神経、あるいは脳そのものであるニューロン(神経細胞)とシナプス(神経細胞間あるいは筋繊維(筋線維)、神経細胞と他種細胞間に形成される、シグナル伝達などの神経活動に関わる接合部位とその構造)の構成 (他にもあるが)これらが中心になり、“一”=智性=1番目のオーラを構成するものであるし、それは頭部の水平磁場によるシンクロトロン放射でもあり、重複するが、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の動きの分類における最も高いものであるといい得る。
 よって“天の日津久の大神(あめの一二の
ローレンツ力と ○ )”、その“お神示(ふで)である”=神が示す何か、それは(後述するが)これまでにないことなのだ、これからの進化は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが必須、そしてそれは“天”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、この取り込み、これを止め(“日止、霊止”の表記の意味)、“一二三”のオーラとなし、その心(靈)で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)していくのだ、だからこそ“特にお許しもろて…以下略…”と述べられているものである。
 それと“あめの一二の ”の意味は、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“あめ”は“上”、天津の天であり、“一”=智性=1番目のオーラと、両腕の水平磁場(アナハタチャクラの構成、胸の磁性“十”の強化、心(靈)の発現としては“慈悲”と“慈愛”)の意味合いで“二”が示され、それにローレンツ力 
ローレンツ力 と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が示されている。

 そして霊的成長とその仕組みのこと、“上”との感応のこと、これらが雨の巻では説かれており、また例によって平均的地球人の心(靈)の低さを諌め、認識を改めよ、という意味合いの文言、これらが中心であった。


 まず霊的成長とその仕組みについてのことを示した文言、これをいくつかピックアップする。

第二帖 
“八九の次は
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖   であるぞよ”
この文言の意味合いは、
“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、そしてこの場合は右往左往と左往右往して進化していくの意味合いも感じ得る
“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして○ 九 十の“九”、卆(そつ、卒業の卒の異体字)の意味合いを持つので生命(生きる使命=存在理由)としての最終段階
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖   ”は、原本を見ても漢数字の“十”が書かれていない、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)の組み合わせであるからシンクロトロン放射の意味合いであるし、“慈悲”と“慈愛”の発現と強化、第四密度、アナハタチャクラ、そしてクンダリーニの白光である。

第七帖
“三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らん…以下略…”
“三四五(みよいづ)”は“三”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“五”は糸巻の象形文字で、進化した生命の神経が密になっている様を指す、要は進化を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”が“三四五(みよいづ)の御用”であるし、そこには“一”=智性=1番目のオーラ、これによる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応があってこそ“三”の表記が当てはまるものである。”

 次に“上”との感応を示した文言として、いくつかピックアップする。

第一帖 
“惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ”
“此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。 神の仕組 愈々となったぞ”

第六帖
“まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ”

第七帖
“神の心の判りた臣民(“上”と同調して感応するの意)から助ける御用にかかりて呉れよ”

第八帖
“御心とは三つの御心ぞ、一と十と
ローレンツ力   とであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて”
これは“三つの御心”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“一”は智性、1番目のオーラ、“十”は胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”、そして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるローレンツ力
ローレンツ力   、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)であるの意であるし、それは“世の元の神の仕組の現はれ”=生命(生きる使命=存在理由)が進化を果たす“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その顕現であるの意。

第九帖
“神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

第十二帖
“悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて(“上”と感応して)悪のキ絶ちて下されよ”

第十四帖
“神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ”
“九十”は、“九”が“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と胸の磁性“十”を持った心(靈)そのものが生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、それは卆(そつ、卒業の卒の異体字)でもあり、“日月神示”表記の ○ 九 十 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と“九”と“十”でもあり、カタカナ表記の“コト”は
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止め進化する、進化して神の思惑を顕現するの意。

第十七帖
“神の心となれば誠判るぞ。 誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ”
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
“コト”は前述した
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、神が評価する真固止の人間となるの意。

 次に、平均的地球人の心(靈)の低さを諌め、認識を改めよ、という意味合いの文言としてこれをいくつかピックアップする。

第一帖
“惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが…中略…今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ”
これはたった今の宗教が腐っており、それが分らねば“惟神”=“上”と感応しえない指摘である。

第二帖
“何事もウラハラと申してあろが、ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな…中略…日本が日本がと思って居た事 外国でありた事もあるであろがな…中略…餓鬼は食物やれば救はれるが、悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。
我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程 悪ふとりてゐるから、こんな身魂は今度は灰ざぞ”

第三帖
“悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、
ローレンツ力と ○   の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか”
“改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、…中略…此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ”

第四帖
“頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ…中略…判りても中々判らんであろがな。 洗濯足らんのであるぞ。 今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ”

第五帖
“王(おー)の世が 
さかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻す”
この“王(おー)”については○○○大先生の一冊目の著書でも述べられている通り、“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラと、|(たてぼう、こん、縦の磁性))のことで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んで行くならば“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっていくのだが、これに相対して“ 
さかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世”という表記は、3番目のオーラ主体の心(靈)のことを指しており、それは目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であり、本能と情動と低い功名心と低い自尊心、いわゆる自我の肥大という息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象が“創造”されているから、それは神の思惑ではないので“今度は元に戻す”=今後、アセンション後は、“上”と感応する“一”=智性=1番目のオーラが大きい人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって事象の“創造”をなし、それ自体が神の“思惑の顕現”であるの意。

“誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせん”

第六帖
“我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけん…中略…判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ…中略…神拝む許りがまつりでないぞ。(拝むだけ=ご利益を求め勝手な願いを述べるだけ、ではダメ、“上”と感応せよ=まつり)…中略…身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ…中略…毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは…中略…天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん”

第八帖
“今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ”

第九帖
“今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ…中略…何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ”
“人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ”

第十帖
“ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ”
これは恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことを指している文言である。

第十一帖
“銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民まだ思ってゐるが、それは四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな”
“人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ”

第十二帖
“上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ”
“人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな”
これは自分が持っている認識以上のことは理解しえない=“其の心通りに写る”、その意味合いである。

第十三帖
“世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。 恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。 因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな”
“是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ”

第十四帖
“一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ”

第十五帖
“己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ”

第十六帖
“神の守護と申すものは人民からはちっとも判らんのであるぞ、判る様な守護は低い神の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪神の守護でも大将の守護ともなれば人民には判らんのざぞ、心せよ”
“人民の気からぞと くどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ”

第十七帖
“雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ”


 最後に“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして進化を果たした人間のこと、あるいはそう言った人間に対して述べている文言、これをいくつかピックアップする。

第四帖
“信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから”
 これは“上”が組んである霊縁を信じよ、の意味合い。 互いの霊的成長のための価値のある霊縁ならば“神が引き寄せる”、そして“役員の所へも引き寄せる”と称されている。

第五帖
“王(おー)の世が
さかさまのおー雨の巻第五帖   (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻す”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んで行くならば“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっていくことを示している。 そして“今度は元に戻す”=今後、アセンション後は、“上”と感応する“一”=智性=1番目のオーラが大きい人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって事象の“創造”をなし、それ自体が神の“思惑の顕現”であるの意。

“魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ”

第七帖
“役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、
さかさまの大 雨の巻第七帖   のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”
この“大のつく阿呆になれ”そして“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”、さかさまの大である“さかさまの大 雨の巻第七帖   ”、これと同様の表記は第五帖の“王(おー)の世が さかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのである”があり、このさかさまの“さかさまの大 雨の巻第七帖   ”も、“大”の本来の意味合い、人間が手足を伸ばした様、あるいはこれを書いている○○○大先生的な解釈なら、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記と解することが出来るが、その真逆の意であり、これを踏まえて“大のつく阿呆になれ”を観るならば、この言い方では意味が伝わりにくいが人間本来の姿、それは前述した生命の本来の在り方、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく存在が生命、よって生命の存在の意義を全うせよ、それが真の使命、であるの意と解することが出来、それに対し“さかさまの大 雨の巻第七帖   のつく阿呆にあやまって呉れるな”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失っている、あるいは進化に対して認識がない程度の低い存在&人間に対し、“あやまって呉れるな”であり、文中の“阿呆”は、恭順になれ、の意であると解し、その意において“阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”、これを読むならば、何に対し恭順であるべきか、“上”か“下”か、の意味合いであることが理解できる。

第十三帖
“誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。 コト、コト、コト、ざぞ”
“コト”は、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを止めるの意である。

第十七帖
“元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ”
 この“天詞(てんし)様が王の王と現はれなさる”=“一”、智性、1番目のオーラの大きい人間は“上”と感応し次の事象を統べるの意であるし、この文言自体が“此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。 新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ”に続いている。


 以上、比較的わかりやすい文言をピックアップしたが、“ほんとう”の進化(“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止)))について認識を高めたい方ならば、これらの詳細について各々の帖の解釈を参照されたいものである。

 次回からの“日月神示”解釈は、風の巻 (カ千の○キ) に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
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 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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