“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 風の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 



 今回から、風の巻 (カ千の○キ) に入ることとする。 
 ちなみに“カ千”は、

“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”(シンクロトロン放射)

なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした生命は神の思惑を顕現するがその際の発振、発信は胸の磁性“十”と頭のシンクロトロン、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、その“○キ”は、
その心(靈)、霊○と、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、進化した生命の事象の“創造”、“上”と感応しながら現津(あきつ)、観察され得る事象を顕現していくの意である。 まず、第一帖の原文は以下の通り。

用意なされよ。 いよいよざぞ、愈々九 
渦巻き 左回転 三(くるぞ)。 神のみこと知らすぞ。 知らすぞ、眼覚めたら起き上がるのざぞ。 起きたらその日の命頂いたのざぞ。 感謝せよ、大親に感謝、親に感謝せよ、感謝すればその日の仕事与へられるぞ。 仕事とは嘉事(よこと)であるぞ、持ち切れぬ程の仕事与へられるぞ。 仕事は命ざぞ。 仕事喜んで仕へ奉れ。 我出すと曇り出るぞ。 曇ると仕事わからなくなるぞ。 
腹へったらおせよ。 二分は大親に臣民腹八分でよいぞ。 人民食べるだけは与へてあるぞ。 貪(むさぶ)るから足らなくなるのざぞ。 減らんのに食べるでないぞ。 食(おせ)よ。 おせよ。 
一日一度からやり直せよ。 ほんのしばらくでよいぞ。 神の道 無理ないと申してあろが。水流れる様に楽し楽しで暮せるのざぞ、どんな時どんな所でも楽に暮せるのざぞ。 
穴埋めるでないぞ、穴要るのざぞ。 苦しいという声 此の方嫌ひざ。 苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ。 生れ赤児みよ。 子見よ、神は親であるから人民守ってゐるのざぞ。 大きなれば旅にも出すぞ、旅の苦 楽しめよ、楽しいものざぞ。 
眠くなったら眠れよ、それが神の道ぞ。 神のこときく道ざぞ。 無理することは曲ることざぞ。 無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。 無理することは曲ることざ、曲っては神のミコト聞こへんぞ。 
素直になれ。 火降るぞ。 相手七と出たら三と受けよ、四と出たら六とつぐなへよ、九と出たら一とうけよ、二と出たら八と足して、それぞれに十となる様に和せよ。 まつりの一つの道ざぞ。 
風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ、今は 風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ、風 第一 (をう、わう)   (わう)の世風 第一 (おう) の世となりて、 風 第一 (おう) (おう)の世にローレンツ力   入れて 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世となるのざぞ。 タマなくなってゐると申してあろがな、タマの中に仮の奥山移せよ、急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ、当分 宮なくてもよいぞ。 やがては二二(ふじ)に九(コ)の花咲くのざぞ、見事二二(ふじ)に九(こ)の火(ほ)が鎮まって、世界治めるのざぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ。 花咲く御代近づいたぞ。 用意なされよ、用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ。 風 第一 (王の世ローレンツ力)   の世輝くと 夜明け 第一 灯台表記 となるのざぞ、 夜明け 第一 灯台表記 と申して知らしてあろがな。 役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか。 
我軽しめる事は神軽くすることざ、わかりたか。 おのもおのも頭領であるぞ、釈迦ざぞ。 キリストざぞ。 その上に神ますのざぞ、その上 神又ひとたばにするのざぞ、その上に又
ローレンツ力   でくくるぞ、その上にも ローレンツ力 あるのざぞ、上も下も限りないのざぞ。 奥山 何処に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行ってもこの方の国ぞ、肉体ぞ、心配せずに、グングンとやれよ、動くところ、神力 加はるのざぞ、人民のまどひは神無きまどひぞ、神無きまどひつくるでないぞ、神上に真中(まなか)に集まれよ。 
騒動待つ心 悪と申してあること忘れるなよ、神の申した事ちっとも間違ひないこと、少しは判りたであろがな。 同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ。 千引(ちびき)の岩戸開けるぞ。
十二月二十五日、ひつぐのかミ。
 

冒頭の文。
“用意なされよ。 いよいよざぞ、愈々九
渦巻き 左回転 三(くるぞ)。 神のみこと知らすぞ。 知らすぞ、眼覚めたら起き上がるのざぞ。 起きたらその日の命頂いたのざぞ。 感謝せよ、大親に感謝、親に感謝せよ、感謝すればその日の仕事与へられるぞ。 仕事とは嘉事(よこと)であるぞ、持ち切れぬ程の仕事与へられるぞ。 仕事は命ざぞ。 仕事喜んで仕へ奉れ。 我出すと曇り出るぞ。 曇ると仕事わからなくなるぞ”

 文中の“九
渦巻き 左回転 三(くるぞ)”は、○ 九 十の“九”は、生命(生きる使命=存在理由)の最終形態、神のひな型の意、“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)になるべく心(靈)(ヒ)を持った肉体(月(ツキ))、それと“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転日足(ひたり)回転と“一二三”のオーラを指しているので、心(靈)が育ったさまを表わしている。 
これが理解できれば“用意なされよ。 いよいよざぞ”の解釈の要はないし“神のみこと知らすぞ。 知らすぞ”は、育った心(靈)においての感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、天意を自らの認識にすることなのだということがすぐ解る。
これに続く“眼覚めたら起き上がるのざぞ。 起きたらその日の命頂いたのざぞ。 
感謝せよ、大親に感謝、親に感謝せよ、感謝すればその日の仕事与へられるぞ”、これは今までとは認識を改めよ、この文では“仕事”という表記が使われているが、生命の使命、これは“世為人為”を理念とした)生業(なりわい)でもあり、霊的成長のための“行”でもある、これを為す、そのために自分は存在しているのだと認識せよの意。
そしてそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う自分の損得のための仕事ではないのだ、心構えを新たにせよ、の意味合いであるし、これに続く分の“嘉事(よこと)である”の“嘉”は、ほめる、めでたい、の意なので、“上”がこういった評価をする生き方をせよ、の意味合いである。
この後の“持ち切れぬ程の仕事与へられるぞ。 仕事は命ざぞ。 仕事喜んで仕へ奉れ。 我出すと曇り出るぞ。 曇ると仕事わからなくなるぞ”は、先に解釈したことと意味合いが重複するので省くが、程度の低い人間に対し“我出すと曇り出る”と諫められていることを付け加えておく。

次の文。
“腹へったらおせよ。 二分は大親に臣民腹八分でよいぞ。 人民食べるだけは与へてあるぞ。 貪(むさぶ)るから足らなくなるのざぞ。 減らんのに食べるでないぞ。 食(おせ)よ。 おせよ”
 これも、生き方の認識を改めよ、の意味合いであり、自分が求める何か、求めたいもの、に対して“腹へったら”と称されており、それを“おせよ”、これは古語で、任す、委ねる、の意があるので、要は“上”に任せよ、自分は自分の生き方において頑張る(元の気を張る)が、結果は“神の采配”に任せ委ねよ、の意味合いである。
 これが理解できればこれに続く“二分は大親に臣民腹八分でよい”、これは自分の思惑の顕現のために生きて頑張る(元の気を張る)が、結果として自分だけではなく事象の“創造”にも関わることになるから、氏名を与えられた神に対し“二分は大親”と称されている。
 そして大概の地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度だからこそ“人民食べるだけは与へてあるぞ。 貪(むさぶ)るから足らなくなるのざぞ。 減らんのに食べるでないぞ”、我欲を出さず“上”に任せよの意であり“食(おせ)よ”は、“上”の思惑と“上”の振動を取り込んで成長せよ、そして“おせよ”は先に解釈した通り“上”に任せて委ねよ、である。

 次の文。
“一日一度からやり直せよ。 ほんのしばらくでよいぞ。 神の道 無理ないと申してあろが。 水流れる様に楽し楽しで暮せるのざぞ、どんな時どんな所でも楽に暮せるのざぞ。 
穴埋めるでないぞ、穴要るのざぞ。 苦しいという声 此の方嫌ひざ。 苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ。 生れ赤児みよ。 子見よ、神は親であるから人民守ってゐるのざぞ。 大きなれば旅にも出すぞ、旅の苦 楽しめよ、楽しいものざぞ”

 この文も生き方の認識を改めよ、それは何を“一日一度からやり直せ”なのかについては、先に解釈した“仕事”、“世為人為”を理念とした)生業(なりわい)と霊的成長のための“行”、これを為していくための心構えを作り実際に行動してみよ、であるが、これが出来ないのが平均的地球人の霊的成長度の自我の確立=固定化の段階であり、自我が肥大しているから自分が苦しんで成長するのがいや、自分の都合よく生きたい、などと思いがちだが、その考えは間違っているのだ、そんな思いでは自分の心(靈)は育たないのだ、という諫言の意味合いで“穴埋めるでないぞ、穴要るのざぞ。 苦しいという声 此の方嫌ひざ。 苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ”、この“穴”は、“神の采配”としての試練を指すものであり、これを乗りこなせ、がこの文の意意味合い。 また“穴”=試練を与えるのは育って欲しいから、という意味合いの文が、“苦しいという声 此の方嫌ひざ。 苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ。 生れ赤児みよ。 子見よ、神は親であるから人民守ってゐるのざぞ。 大きなれば旅にも出すぞ、旅の苦 楽しめよ、楽しいものざぞ”であり、前後するが、自分の心(靈)が育つことを自分が認識したならば“神の道 無理ないと申してあろが。 水流れる様に楽し楽しで暮せるのざぞ、どんな時どんな所でも楽に暮せるのざぞ”、自分と神の関係を知った時、すべてを任せ委ねる、という心(靈)構えが出来、その中で自分が育っていくこと事態が “楽し楽しで暮せる”ということになり得るの意。
 
 次の文。
“眠くなったら眠れよ、それが神の道ぞ。 神のこときく道ざぞ。 無理することは曲ることざぞ。 無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。 無理することは曲ることざ、曲っては神のミコト聞こへんぞ。 
素直になれ。 火降るぞ。 相手七と出たら三と受けよ、四と出たら六とつぐなへよ、九と出たら一とうけよ、二と出たら八と足して、それぞれに十となる様に和せよ。 まつりの一つの道ざぞ”
 冒頭の“眠くなったら眠れ”、解釈を間違えそうな文章だが、人間は眠っている間に幽界や霊界の下層まで行っている、そして“上”に教えを請うたりもしているが、寝て目が覚めるとほとんど覚えていない、夢を見たな…程度の認識しかないが、厳しい“行”、“理(ミチ)”(進化の法則性)に順じた“行”をして霊的成長をある程度果たしているならば、眠っている間の活動は盛んになり、あちらでのことを全部ではないが覚えているようになる(現に○○○大先生は、こちら=現界の時間より、夢を見ている時間の方が数倍長く感じている)。
 またこの文は眠っている間に“上”との感応をなしているのだ、の意味合いでもある。 だからこそ“それが神の道ぞ”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、“神のこときく道ざぞ”は言葉通りである。
 これに続く“無理することは曲ることざぞ。 無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。 無理することは曲ることざ、曲っては神のミコト聞こへんぞ”、これも、自分が生きている間には先の“穴”=“上”が課した試練、これがあるものだが、それを恭順に受け止め頑張れ、反目するな、自分にとって都合の良い考えで行動するな、の意味合いで“曲ることざぞ。 無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。 無理することは曲ることざ”と述べられているのであるし、これに続く文の“神のミコト”は、
“ミ”は、生命の幹 その現実
“コ”は、停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、“上”からの振動を止め自分の生き方、生命(生きる使命=存在理由)に反映せよ、反映しなければならんのだ、の意味合いである。 このカタカナ表記をひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記にしたならば、命、生きている間の使命、あるいは尊厳の尊、あるいは発振、発信した振動が現象化するの意味合いである“日月神示”表記の“実言(みこと)”、これらを当てることが出来る。
 これに続く“素直になれ。 火降るぞ”は、先に述べた反目や自分にとって都合の良い考えを押し通すな、それをするならば、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)=“火降るぞ”である。
 これに続く“相手七と出たら三と受けよ、四と出たら六とつぐなへよ、九と出たら一とうけよ、二と出たら八と足して、それぞれに十となる様に和せよ。 まつりの一つの道ざぞ”、これは“穴”=“上”が課した試練に自分はどう対処するのか、我を出して対抗するならば結果は必ず“神の咎め”がある、自分は自分を諌め、引くところは引く、これはローム太霊講話集の第九話
汝等は常に心の鍛錬をしているが、人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神になることである。誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行であって…以下略…”を思い起こさせるものでもあるし、こうやって“上”の試練に対処する人間には“上”が影響を与える、感応するので“まつりの一つの道ざ”と教えられているものでもある。

 次の文。
“ 
風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ、今は風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ、風 第一 (をう、わう) (わう)の世 風 第一 (おう) の世となりて、風 第一 (おう)   (おう)の世に ローレンツ力 入れて風 第一 (王の世ローレンツ力)   (おう)の世となるのざぞ”

 この文中の表記については画像で意味を示す。
風の巻 第一(おう、をう、わう、ローレンツ力) 


 この“ 風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ、今は 風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ”、画像で示した通り“ 風 第一 (おう)(おう)”は、高い存在、“上”の思惑が“下”に下降している様子を示しているが、次の事象は太陽の象形文字から“下”に振動が下降しているので、より太陽の振動を取り込むのが“次の世”(“日月神示”表記の今後=アセンション後の事象のこと)であるの意であるし、“今は 風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ”は、“下”の霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、いわゆる人間たち、あるいは人間以下の生命を含めて、“上”からの振動を取り込んでいるさまを示している。
 これに続く“ 風 第一 (をう、わう) (わう)の世 風 第一 (おう) の世となりて、風 第一 (おう) (おう)の世に ローレンツ力 入れて風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世となるのざぞ”
この“風 第一 (をう、わう)わう”はひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記、意味合いは、
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの
なので、生命の発生、発生した生命の進化の調整、の意味合いであるし、(おう)は、
“オ”は、生命発生の元根、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの
なので、肉体を持った心(靈)を“創造”したのだ、の意味合いであるし、前後するが先に取り上げた“今は (をう)の世ざぞ”の“
風 第一 (をう、わう)(をう) ”は、
“ヲ”は、完成、終わり、それ奇霊の心、すべてを整えそれなりの何かとするの意
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの
生命を発生させたことに対する目的については終わり、神のひな型となる人間の“創造”をした、それはまた○ 九 十の“九”でもあるし、“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現、であるので、天意を取り込み“一”=智性=1番目のオーラを発振、発信させて現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をしていく生命、これが生物の“創造”の最終段階、の意味合いであるが、その意を持つものである。
 そして“ 
風 第一 (おう) (おう)の世にローレンツ力入れて 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世となるのざぞ”、これは“上”から“下”へ振動が下降する、これは霊的存在だけではなく人間にも霊的成長の格差があり、人間としての“上”が“下”の人間に影響を及ぼす意を示し、さらに“上”の人間は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化をして進化して、高い振動、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、“下”の人間に影響を与えるが、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によるローレンツ力の強化が必須、それで“ローレンツ力 入れて”と示されているものであり、太陽からの高い振動を止めた人間が影響を及ぼす事象のことを“  風 第一 (王の世ローレンツ力)(おう)の世となる”、太陽の振動を取り込んだ霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を太陽の象形文字に模し、その振動が下降するのだ、と述べられている。


日、太陽の象形文字

 これに続く次の文。
“タマなくなってゐると申してあろがな、タマの中に仮の奥山移せよ、急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ、当分 宮なくてもよいぞ。 やがては二二(ふじ)に九(コ)の花咲くのざぞ、見事二二(ふじ)に九(こ)の火(ほ)が鎮まって、世界治めるのざぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ。 花咲く御代近づいたぞ。 用意なされよ、用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ。  
風 第一 (王の世ローレンツ力)の世輝くと 夜明け 第一 灯台表記 となるのざぞ、 夜明け 第一 灯台表記 と申して知らしてあろがな。 役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか”

 文中の“タマなくなってゐると申してあろがな、タマの中に仮の奥山移せよ”の“タマ”は、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を指す表記だが、たった今はこれを見失っている、代替の人間はまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)など考えたこともないのが当たり前、そういった人間は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが、自分の心の大半を占めているから、本能、情動、低い功名心、自我、が根拠の思想と行動しかしない、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なのだが、この目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)の脳にまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が必要という言い回しが“タマの中に仮の奥山移せ”であり、以前にも述べたが高い心霊が使う“山”の表記は脳の意味なので、“奥山”=目下(めした)の脳(大脳旧皮質と古皮質)である。
 これを為していってまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくならば“急がいでもよいぞ、臣民の肉体 神の宮となる時ざぞ”、それは“奥山”=目下(めした)の脳(大脳旧皮質と古皮質)から、だんだん目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の進化になっていく=“臣民の肉体 神の宮となる時”であるし、結果として、智性(神性)の獲得と行使、になっていくものであるが、今はほとんどの人間がその段階ではない、“奥山”の心から変えていかねばならないから“当分 宮なくてもよい”と言われている。
 これに続く“やがては二二(ふじ)に九(コ)の花咲くのざぞ、見事二二(ふじ)に九(こ)の火(ほ)が鎮まって、世界治めるのざぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ”、文中の“二二(ふじ)”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、のこと、“九(コ)の花咲く”の“九”は先に説明した通り、今後=アセンション後の事象では、今より進化した心(靈)がその二つの極性、日足と砌(ひたりとみぎり)、これは思惑と顕現と換言しうるが、今よりも進化した事象の“創造”をする、それは生命の完成形と言いうる“九”で、“花咲くのざぞ、見事二二(ふじ)に九(こ)の火(ほ)が鎮まって、世界治めるのざぞ”であるし、すぐにそうならない、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には時間もかかるので“それまでは仮でよい”、しかし先の“奥山”はまっとうな心(靈)の動きにしておけよ、の意味合いを覚えておかねばならない。
 これに続く“臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ”、これは“上”の思惑、天意は、“臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組み”、これまでとは違うのだ、と称され、“天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ”に関しては解釈の要はないと思うが、“日月神示”に度々登場する“グレン”と同義であるし、“天地でんぐり返し”と認識しうるのは、進化程度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識であることは言うまでもない。
 これに続く“花咲く御代近づいたぞ。 用意なされよ、用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ。  
風 第一 (王の世ローレンツ力) の世輝くと夜明け 第一 灯台表記 となるのざぞ、夜明け 第一 灯台表記 と申して知らしてあろがな。 役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか”

 冒頭の“花咲く御代近づいたぞ。 用意なされよ、用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ”は、次の事象に移行すべく心(靈)の資質を“用意なされよ”であるし、猶予期間があるうちに解っておけ=“用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ”である。 そして次の事象は“ 
風 第一 (王の世ローレンツ力) の世輝くと夜明け 第一 灯台表記 となるのざぞ、夜明け 第一 灯台表記 と申して知らしてあろがな”、先に解釈した“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして進化を果たした高い心(靈)が、“下”である人間に振動を下降させ影響を与え、そのオーラの発振、発信事態を灯台の地図記号 夜明け 第一 灯台表記で示されている、ちなみにこの表記は、夜明けの巻 第一帖 “天地和合して 夜明け 第一 灯台表記 となった姿が神の姿ざぞ”で初めて登場する。
 これに続く“役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか”の“まとひ”は、纏(まとい)で、これは江戸時代に町火消が用いた、自分たちの組であることを示すもの、なので、自分の思想、理念、これを“まとひ”のように示して行け、の意味合いである。

 次の文。
“我軽しめる事は神軽くすることざ、わかりたか。 おのもおのも頭領であるぞ、釈迦ざぞ。 キリストざぞ。 その上に神ますのざぞ、その上 神又ひとたばにするのざぞ、その上に又 
ローレンツ力 でくくるぞ、その上にもローレンツ力 あるのざぞ、上も下も限りないのざぞ。 奥山 何処に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行ってもこの方の国ぞ、肉体ぞ、心配せずに、グングンとやれよ、動くところ、神力 加はるのざぞ、人民のまどひは神無きまどひぞ、神無きまどひつくるでないぞ、神上に真中(まなか)に集まれよ”

 心(靈)は下等な生物から進化して心(靈)の動きが多様化し、それはだんだん神に近づくのだ、と○○○大先生は進化論を解釈しているが、この理屈ならばすべての心(靈)、それは下等生物だろうが人間だろうがすべて神格化する、その使命を持っている、ということになり、その意味において“我軽しめる事は神軽くすることざ、わかりたか”であるし、これに続く“おのもおのも頭領であるぞ、釈迦ざぞ。 キリストざぞ。 その上に神ますのざぞ、その上 神又ひとたばにするのざぞ、その上に又 
ローレンツ力 でくくるぞ、その上にも ローレンツ力 あるのざぞ、上も下も限りないのざぞ”、これは、釈迦やキリストが高いのではないの意味と、その“上”の存在が釈迦やキリストを導いたのでこういわれているし、これは釈迦やキリストに限らず、誰しもが“上”の指導を受けている、“上”の采配で進化を果たしていくべきである、そしてその“上”には“上”があることを“その上 神又ひとたばにするのざぞ、その上に又 ローレンツ力 でくくるぞ、その上にもローレンツ力 あるのざぞ、上も下も限りないのざぞ”と称され、進化の仕組み、進化の秘訣は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によるローレンツ力ローレンツ力 の強化であることをよく解っておけの意味合いの言い回しである。
 これに続く“奥山 何処に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行ってもこの方の国ぞ、肉体ぞ、心配せずに、グングンとやれよ、動くところ、神力 加はるのざぞ、人民のまどひは神無きまどひぞ、神無きまどひつくるでないぞ、神上に真中(まなか)に集まれよ”、この文の“奥山 何処に変っても宜い”は、先の解釈のとおりであり、今の平均的地球人の認識では、自分たちの目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の行使がまっとうだと思っているがそれは間違いであるの意を暗に示した言い回し、進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)としてまっとうな存在の在り方を認識していくには、“上”との感応により自分が理解していなくても“上”の采配と導きによりまっとうな方向性に向いていくもの、それを“当分 肉体へおさまるから何処へ行ってもこの方の国ぞ、肉体ぞ、心配せずに、グングンとやれよ、動くところ、神力 加はるのざぞ”と称され、この文の“当分 肉体へおさまる”と“動くところ、神力 加はるのざぞ”は、自分の意図した通りでなくても“上”に任せて委ねよ、の意味合いであり、今はそうなっていないから“人民のまどひは神無きまどひぞ、神無きまどひつくるでないぞ”と言われており、もっと“上”を意識せよ、意識すること事態が“上”との感応に結び付くし、そこから初めて先の“まとひ”を構築しうるが、たった今の人間は、“役員づら”に刷り込まれたいい加減な神の概念しかないので、惑う、それをこの文では“まどひ”と揶揄されているが、きちんと“上”と感応していくならば“神上に真中(まなか)に集まれよ”となるので、意識を改めよ、の意図を感じる文である。

 次の文。
“騒動待つ心 悪と申してあること忘れるなよ、神の申した事ちっとも間違ひないこと、少しは判りたであろがな。 同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ。 千引(ちびき)の岩戸開けるぞ”

 この文は、雨の巻で説かれた要素が多い。 それは“騒動待つ心 悪と申してあること忘れるな”=自分にとって都合の良い考え、自分が今損をしていると思っているならこの世界なんかなくなってしまえ…とか、低い心(靈)の動きの人間は自分勝手なことを思いがちであるし、そんなことを思ってもこの事象には“神の采配”があるので“神の申した事ちっとも間違ひない”、神の思惑通りに事象の“創造”は行われる、ただし実際に事象の“創造”に携わるのは進化を果たした人間であることを、風の巻 第一帖では説かれているものである。
 前後するが自分にとって都合の良い考えしかもたない、自分勝手な事しか思わない人間にとっての善と悪は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではないし、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”という認識もない、こういった低い心(靈)しかない人間は目先のことしか分らないからこそ“同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな”と述べられており、“ほんとう”の善悪を見抜く要素としては、自分と神の関係、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、“神の采配”は進化のためにある、“神の咎め”も進化のためにある、このことを理解していれば自分勝手な都合の良い考えは諌められるものではあるが、これに気付かない人間が多すぎるので“くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ”であるし、文中の岩戸開きは、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、いわゆる“慈悲”と“慈愛”、胸の磁性“十”、ヨガならばアナハタチャクラ、チャネラーの言葉なら第四密度、これらを指すものであるし、最後の“千引(ちびき)の岩戸開ける”の“岩戸”は先に述べたとおり、大事なのは“千”で“引”、これは、風の巻 (カ千の○キ) の“千”と同義で、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”、シンクロトロン放射、の意味合い、これで進化の方向性に“千引(ちびき)”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 風の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、風の巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、かみの国の旗印と、
ローレンツ力と ○ (もとつかみ)の国の旗印と同様であるぞ、● であるぞと知らしてあろがな、● にも二通りあるのざぞ、スメラ● の旗印と縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖風の巻 第二帖 発振、発信のさま1 風の巻 第二帖 発振、発信のさま2 ● と申して知らしてあろがな、今は逆ざぞと申してあろがな、このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ、岩戸開けんぞ。 
よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。 ひとりまもられているのざぞ。 さむさ狂ふぞ。
一月の一日、ひつ九の 
ローレンツ力と ○ 


 冒頭の文。
“二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、かみの国の旗印と、 
ローレンツ力と ○ (もとつかみ)の国の旗印と同様であるぞ、● であるぞと知らしてあろがな”

 文中の“二柱”については先回の、風の巻 第一帖から以下にコピペしておく。

“同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ。 千引(ちびき)の岩戸開けるぞ”

自分にとって都合の良い考えしかもたない、自分勝手な事しか思わない人間にとっての善と悪は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではないし、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”という認識もない、こういった低い心(靈)しかない人間は目先のことしか分らないからこそ“同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな”と述べられており、“ほんとう”の善悪を見抜く要素としては、自分と神の関係、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、“神の采配”は進化のためにある、“神の咎め”も進化のためにある、このことを理解していれば自分勝手な都合の良い考えは諌められるものではあるが、これに気付かない人間が多すぎるので“くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ”であるし、文中の岩戸開きは、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、いわゆる“慈悲”と“慈愛”、胸の磁性“十”、ヨガならばアナハタチャクラ、チャネラーの言葉なら第四密度、これらを指すものであるし、最後の“千引(ちびき)の岩戸開ける”の“岩戸”は先に述べたとおり、大事なのは“千”で“引”、これは、風の巻 (カ千の○キ) の“千”と同義で、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”、シンクロトロン放射、の意味合い、これで進化の方向性に“千引(ちびき)”である。

 
 この““ほんとう”の善悪を見抜く要素”、これを身に付けよ、自分の認識とせよ、すべての事象は、自分にとって都合の良いことも悪いことも、自分の成長のためにあるということをしっかり理解せよ、ということを“二柱の神ある”という文言から感じ取れる。
 そして文中に三回登場する“旗印”という表記であるが、これも第一帖の“役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか”の“まとひ”(纏(まとい)、江戸時代に町火消が用いた自分たちの組であることを示すもの、自分の思想、理念、これを“まとひ”のように示して行け、の意味合いと解釈した)と同義。
 よって“旗印も同様ぞ”は、先の“二柱”の意味合いを認識せよであり、“かみの国の旗印と、
ローレンツ力と ○ (もとつかみ)の国の旗印と同様であるぞ”の“かみの国(“国”は自省(胸の磁性“十”)をした心(靈)の意味合い)の旗印”は、神格化のための指標、そして“ ローレンツ力と ○ (もとつかみ)の国の旗印”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む意味合いの、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力ローレンツ力 、この表記自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組みを意味しているし、“(もとつかみ)”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指し示す表記である。

 これに続く次の文。
“● であるぞと知らしてあろがな、● にも二通りあるのざぞ、スメラ● の旗印と
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖風の巻 第二帖 発振、発信のさま1 風の巻 第二帖 発振、発信のさま2 ● と申して知らしてあろがな、今は逆ざぞと申してあろがな、このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ、岩戸開けんぞ”

 文中の“●”そして“
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖 風の巻 第二帖 発振、発信のさま1風の巻 第二帖 発振、発信のさま2 ●”については、画像で意味を示す。





風の巻 第二帖 




 これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、いわゆるア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”でもあり、これが心(靈)に充満し、その心(靈)が息吹くさまを示す表記であると思え、これも先回の第一帖の

“ 
風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ、今は風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ、 風 第一 (をう、わう) (わう)の世風 第一 (おう) の世となりて、 風 第一 (おう) (おう)の世に ローレンツ力 入れて風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世となるのざぞ”、

この“  風 第一 (王の世ローレンツ力)(おう)”、これは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、心(靈)に“創造”の“主(ヌシ)”の高い振動を取り込んで、自分より霊的成長度の“下”の人間に自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を下降させ、影響を与える、またそれは多くの人間の進化の指標=“旗印”“まとひ”たるものになり得るのだ、の意味合いであるし、“スメラ● の旗印”の“スメラ”は、

“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意

なので、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化として発生した生命(“ラ”と“ス”)は、その心(靈)の進化において現津(あきつ)、観察され得る事象の観察をして(“メ”)、統一され、真澄となる、これは“創造”の“主(ヌシ)”と同様の振動を獲得した心(靈)の意であると思え、“上”から観て、神から観て、真澄でないのは分かりやすく言えば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をする心(靈)であると言いうるし、この“スメラの旗印”に沿っていくならば、自分の心は“創造”の“主(ヌシ)”のように●となっていくのだ、の意味合いであるし、“● にも二通りあるのざぞ、スメラ● の旗印と
縦の磁性と水平磁場 雨 第二帖 風の巻 第二帖 発振、発信のさま1 風の巻 第二帖 発振、発信のさま2● と申して知らしてあろがな”の“二通り”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)が充満している“創造”の“主(ヌシ)”と、それを享受して心(靈)を育てている“下”である生命(生きる使命=存在理由)、いわゆる“日止、霊止”(“上”からの振動を止める意の表記)、この二つがあるのだの意であるし、“下”である生命(生きる使命=存在理由)は、自省(胸の磁性“十”)の“行”から始まってア(“亜”)から、イ(出る(いずる)を心(靈)に充満してそれを息吹くので、“上”である“創造”の“主(ヌシ)”は変容はないが、“下”である“日止、霊止”は人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“日止、霊止”となっていくのだ、これが“二通り”なのだ、の意味であるし、たった今“下”である人間が観察している事象は、“創造”の“主(ヌシ)”とは違うので、それは“下”から“上”に進化していく心(靈)が現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をしているので“今は逆ざぞと申してあろがな”であり、この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程、そして“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が解らねば“このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、神示分らんぞ”であり、結果として自我の確立=固定化の段階から“上”に向かわないの意が“岩戸開けんぞ”(岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く)である。
 また文中の“ 
風の巻 第二帖 発振、発信のさま2”は、夜明けの巻 第一帖の夜明け 第一 灯台表記 
“天地和合して 夜明け 第一 灯台表記 となった姿が神の姿ざぞ。 御心(みこころ)ざぞ”
と意味合いが近いし、さらに、夜明けの巻 第十三帖の表記に近いものがあることを付け加えておく。



夜明の巻第十三帖



 これに続く次の文。
“よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。 ひとりまもられているのざぞ。 さむさ狂ふぞ”

 最初の“よく旗印…以下略…”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標たる“旗印”を自分の認識として、その思想で“思惑の顕現”=現象化をせよ、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせ、それは霊的成長のための“行”をせよ、また自分の在り方を観よ、観て自省(胸の磁性“十”)せよ、の意味合いを述べている。
 これに続く“お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ”の、“赤い”と“みどり”は、振動の波長の高低(赤の波長は620-750 nm、周波数は(4.0-4.8)x10^14 Hz、エネルギーは1.65-1.99 eV 緑の波長は495-570 nm、周波数は(5.3-6.1)x10^14 Hz、エネルギーは2.175-2.50 eV
)であり、平均的地球人の肉体と心(靈)では、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の低い部分としか感応していない、それはまだ動物に近い心(靈)であるから“日月神示”では“ケダモノ”“獣”の表記が使われているし、太陽を見てその波長の赤としか感応していないのは、まだまだ腹の段階の“行”で、そういった人間が不食云々としか太陽凝視を捉えていない、そういったとらえ方しかしていないものであることは過去に述べた。
 それでは次の段階に移行しえないので、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしてローレンツ力を強化して、さらに目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化をして高い振動を自らに止め、肉体と心(靈)を“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するの意を含めて“まともにお日様みよ、みどりであるぞ”と述べられているものであると確信するし、先に述べた赤の振動としか感応していない心(靈)が太陽凝視をしてもそれは“まともにお日様みよ”ということになっていないと言いうるし、さらに、アナハタチャクラの内奥の色が緑であるとヨガの古典で述べられているのは、やはり“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の振動であると思える。
 ちなみにS会=紫光会の経文、四空経録には、緑緑光取(りょくりょくこうしゅ)と書かれていることも付け加えておく。
それで“お日様も一つでないぞ”というのは、先に述べた振動の違いを述べているものである。 
蛇足になるが、太陽凝視を行なっている人は“上”からの振動の違い、それと感応する自分の心の高低、というものをしっかり見極めてもらいたいものである。
これに続く“ひとりまもられているのざぞ”は、太陽自体が生命であり霊であり、他の太陽系の生命も含め地球人にも太陽の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をして成長をさせているの意であり、“さむさ狂ふぞ”は、単に今後=アセンション後に移行する際の異常気象を述べているものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 風の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、風の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

愈々の大建替は国常立の大神様、豊雲野の大神様、金の神様、竜宮の乙姫様、先づ御活動ぞ。 キリギリとなりて岩の神、雨の神、風の神、荒の神様なり、次に地震の神様となるのざぞ。
今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ、猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿、もとのやり方では世は持ちて行けんぞ。 今一度 悪栄えることあるぞ、心して取違ひない様にいたされよ。口と心と行ひとで神示とけよ、堂々説けよ。
一月四日、一二のかみ。

 冒頭の文。
“愈々の大建替は国常立の大神様、豊雲野の大神様、金の神様、竜宮の乙姫様、先づ御活動ぞ。 キリギリとなりて岩の神、雨の神、風の神、荒の神様なり、次に地震の神様となるのざぞ。

 文中の“愈々の大建替”は、今後=アセンション後に移行すること。
 これに続く“神”(示す偏(へん)と“呂”、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)が付いた表記としては、

“国常立の大神”は、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))が“常”に“立”、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が常であるの意。

“豊雲野の大神”は、“雲”が“上”からの振動を指す“雨”と肉体を指す“二”、それを取り込む厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)で構成され、“野”は、画像で意味を示すこととする。



野の解字 (富士の巻 十七帖) 


“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊、肉体内の鉄分子そのものがローレンツ力ローレンツ力 の存在する理由と根拠たること、ちなみにローレンツ力(Lorentz force)とは、電磁場中で運動する荷電粒子が受ける力のことで、これが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、自らに取り込み、発振、発信していくのが生命(生きる使命=存在理由)である。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は、竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍、そして“乙姫”の乙は乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、“姫”は砌(みぎり)の極性を指すので、霊的成長した心(靈)が“下”のエネルギーを引き上げ智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)として現津(あきつ)、観察され得る事象を顕現、いわゆる自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”を果たしていくのだの意味合い。

 よってここまでの表記そのものが、“上”からの荷電粒子を止めてある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、次の事象に移行すべく資質(自省(胸の磁性“十”)の“行”による“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質))を獲得した人間を説明している。
 そして“キリギリとなりて”に続く表記は、

“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。

“雨の神”は “メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。

“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。

“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動、これは腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことでもある。

“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。

 よってこれもある程度進化を果たし、自我の確立=固定化の段階から“上”に移行した心(靈)と肉体が、次の事象の“創造”を果たす(“地震の神”)の意である。
 ちなみに“キリギリとなりて”の“キ”と“リ”は、

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“リ”は、生命根源の、張り、広がり

なので、生命(生きる使命=存在理由)自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、広がり張って、と称される事象を“創造”するの意であり、濁点の付いた“ギ”は“キ”の意を強調したものであり“リ”が二つ示されているのは、これまでとは違う張りと広がりの意である。

 次の文。
“今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ、中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ、猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿、もとのやり方では世は持ちて行けんぞ。 今一度 悪栄えることあるぞ、心して取違ひない様にいたされよ。口と心と行ひとで神示とけよ、堂々説けよ”

 冒頭の“今度の仕組は元のキの生き神でないとわからんぞ”の“今度の仕組み”は、自我の確立=固定化から“上”に向かう進化(霊的成長、神格化に向かうこと)それ事態を指し、“元のキの生き神”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を指す“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)そのものであり、“キ”は、磐戸の巻 第二帖の解釈が解りやすいので以下にコピペ。

“キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは 
ローレンツ力と ○ (よろこび)ざぞ、臣民みなにそれぞれのキうへつけてあるのざぞ、うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。 この道理わかるであろがな”
この“キ”は、気、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁(愛の元字)と表れの意である奇、そして、“道”(時間の進行)によって遭遇する事象、それは来るの意としての“来”でもある。

 これに続く“中津代からの神々様では出来ない、わからん深い仕組ざぞ”の“中津代”は、先の“元のキの生き神”に相対した言い回しで、そう思う根拠としては、これに続く“猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿、もとのやり方では世は持ちて行けんぞ”の“猿田彦”は天狗であり、これは自我の肥大を指し、“天鈿女”の“鈿”の“田”は、心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質のことであり、“金”は先の“金の神”、肉体中に存在する金属原子であるのだが、これはたった今、これまでの人間の進化を示す表記であり、“日月神示”中によく登場する“知と学”、これを大脳を使って獲得したが、それを自分のためにしか使わないのが今の人間であり、これは“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていない、踏み外している、ただしこれも進化の過程、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭も人間全体の進化の道程であるからこそ、始めでもなく終わりでもないの意の“中津代”の表記が使われているのだと思える。
 よって“猿田彦殿、天鈿女命(あめのうずめのみこと)殿”の段階においては“もとのやり方では世は持ちて行けんぞ”、この“世は持ちて行けん”は、たった今の事象は存続できないの意であり、それだからこそ“もとのやり方では世は持ちて行けん”は、第三帖の冒頭の“愈々の大建替”で事象は変容するのだ、の意であるし、それに至るには“今一度 悪栄えることあるぞ”、たった今が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象そのものであると思えるが、もっともっとひどい状況になっていくものではあるが、次の事象に移行すべく人は“心して取違ひない様にいたされよ”、これは見誤るな、“役員づら”の手法に乗るな、と称され、“口と心と行ひとで神示とけよ、堂々説けよ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の手法の、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をするな、“ほんとう”、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、“絶対の善”の顕現、この心(靈)の動き、その顕現、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で、“上”の思惑を示せ、というのが“口と心と行ひとで神示(神が示すこと)とけよ、(神の思惑に沿っている、まっとうな事だから)堂々説けよ”の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 風の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、風の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

岩戸開けたり野も山も、草のかき葉もことやめて、大御光により集ふ、楽しき御代とあけにけり、都も鄙(ひな)もおしなべて、枯れし草木に花咲きぬ、今日まで咲きし草や木は、一時にどっと枯れはてて、つちにかへるよすがしさよ、ただ御光の輝きて、生きの生命(いのち)の尊さよ、やがては人のくにつちに、うつらん時の楽しさよ、岩戸開けたり御光の、二二(ふじ)に九(こ)の花どっと咲く、御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越し呉れよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし。ウタのまどひつくれよ。 目出度(めでたき)夜明けぞ。
旧一月一日、一二
ローレンツ力と ○ 。

 冒頭の文。
“岩戸開けたり野も山も、草のかき葉もことやめて、大御光により集ふ、楽しき御代とあけにけり”

 “岩戸開けたり”は、たった今の平均的地球人の霊的成長度から“上”に多少進化したさまを指す(岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く)ものであり、“野も山も”の“野”は画像で意味を示し、



野の解字 (富士の巻 十七帖) 
“山”は、高い心霊が使う表記としての目上(めうえ)の脳のことであり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によるタンパク質の高分子化の意もあり、“草のかき葉もことやめて”は、言葉通りに解釈するなら下草や枯葉をかき集めることをやめるの意だが、“草”が艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、太陽を示す日と、胸の磁性“十”で構成されている字なので、“上”の振動(日)で自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が芽生える、いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”に入った初期の段階を指し、その心(靈)が次の表記の“大御光により集ふ”、この“大御光”は今より相対的に高い存在の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、あるいは成長した心(靈)が感応する高い振動、それはたった今の地球人の進化過程では感応しえない振動、自らに止めることが出来ないで素通りしている“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を指す表記であり、それを止めるならば=今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしたならば、“楽しき御代とあけにけり”=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない、よって欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかのない事象になり、さらに恨みの連鎖の霊的干渉がない世界になることを示している。

 次の文。
“都も鄙(ひな)もおしなべて、枯れし草木に花咲きぬ、今日まで咲きし草や木は、一時にどっと枯れはてて、つちにかへるよすがしさよ、ただ御光の輝きて、生きの生命(いのち)の尊さよ、やがては人のくにつちに、うつらん時の楽しさよ、岩戸開けたり御光の、二二(ふじ)に九(こ)の花どっと咲く”

 “都も鄙(ひな)もおしなべて”は、たった今“都”のように華やかであろうが、“鄙(ひな)”(都市部から離れた場所、いなかの意)のようにさびれて落ちぶれていようが、それらすべて“おしなべて”(全体にわたり、一様に、ことごとく、の意)、“枯れし草木に花咲きぬ”=“上”から観て価値のないもの、霊的成長を妨げている“花”(程度の低いものが花と認識しているに過ぎない)、これが“今日まで咲きし草や木は、一時にどっと枯れはてて、つちにかへるよすがしさよ”、今後=アセンション後はこれまでの価値観などは通用しないので、今栄えている“花”はすべてダメになり、程度の低いものがいかにほめそやそうがそれらすべて失敗の“創造”であり、先の“都も鄙(ひな)もおしなべて”のように、“都も鄙(ひな)”とか区別しているような価値観は消失し、すべてが一様に自省(胸の磁性“十”)(“枯れし草木”の“草”と“木”=胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の糧となるしかない=“つちにかへるよすがしさよ”である。

 次の文。
“ただ御光の輝きて、生きの生命(いのち)の尊さよ、やがては人のくにつちに、うつらん時の楽しさよ、岩戸開けたり御光の、二二(ふじ)に九(こ)の花どっと咲く”

 先の“大御光により集ふ”=今まで素通りしていた高い振動と感応していくならば“生きの生命(いのち)の尊さよ”=生命(生きる使命=存在理由)の本来の意義を見出し、高い振動が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)と肉体に泊まるからこそ“やがては人のくに(“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))つち(肉体の意)に、うつらん時(“上”の振動が反映するの意)の楽しさよ”と称され、これに続く“岩戸開けたり御光の、二二(ふじ)に九(こ)の花どっと咲く”の“岩戸開けたり”は前述のとおり、その進化した心(靈)と肉体に“創造”の“主(ヌシ)”の高い振動が“御光”となり、これはオーラでもあるし息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と称するのが妥当であり、“二二(ふじ)に九(こ)の花”とは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、これに ○ 九 十の“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、これは生命としての究極の形、最終段階(卆(そつ、卒業の卒の異体字))の“九”でもあり、進化した生命が新しい価値を見出して“上”に認められるべく“花”を“どっと咲く”、咲かせるようになるものであると称されている。

 次の文。
“御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越し呉れよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし”

 “御代近づきぬ御民等”=次の事象の“創造”に参加すべく資質を持つ生命(生きる使命=存在理由)の意。
 “最後の苦労 勇ましく、打ち越し呉れよ共々に、手引きあひて進めかし”=その資質がありたった今の事象に苦痛と違和感を覚え間違いを見出して、苦悩するが、それこそが資質を持つが所以のことなので“上”と“共々に、手引きあひて進め”、それは“勇ましく、打ち越し呉れ”、資質を持つが所以の試練と認識して“勇ましく”、“最後の苦労”を体験せよ、味わえ、の意である。
 “光の道を進めかし”は、先の“大御光により集ふ”“ただ御光の輝きて、生きの生命(いのち)の尊さよ”と同義。

 これに続く次の文。
“ウタのまどひつくれよ。 目出度(めでたき)夜明けぞ”

 文中の“ウタ”は、

“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと

なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命を生み出して行け、それを“まどひ”(纏、火消しのまとい、旗印、理念の意)、これを“つくれよ”、それは“目出度(めでたき)夜明け”、“夜明け”は今後=アセンション後のこと、それはたった今の腐った事象なんか比べ物にならないほど“上”から観て“目出度(めでたき)”であり、すべての事象、外側(外国と幽界)の事象だろうが内面とか内側(心の中と感じている事)だろうが、“上”と感応したものの見方、天の御目(あめのおめ)の台頭になるから、お目(“上”と感応した心(靈)が“観察と認識”を行なうさま)が傑出する、その段階=“度”の意を含んでいると思われる。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 風の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、風の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云ふこときいてやるぞ、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、と申してお願ひすれば、万里先に居ても、この世の荒れ、地震のがらせてやるぞ、神々様に届く行で申せよ。
こんなよき世は今迄になかりたのぢゃ、膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが。 
時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ、ここまで開けたのも神が致したのぢゃ、今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ、取違ひ慢心致すなよ。
日本の国いくら大切と申しても、世界中の臣民とはかへられんから、くにひっくりかへること、まだまだあるかも知れんぞ、くにの軸 動くと知らしてあろがな。
此の神示キの儘であるから心なき人民には見せるでないぞ、あまりきつくて毒になるから、役員 薄めて見せてやれよ、一日も早く一人でも多く助けてやりたいのぢゃ、神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか、改心足らんぞ。
二月十六日、一二
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云ふこときいてやるぞ、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、と申してお願ひすれば、万里先に居ても、この世の荒れ、地震のがらせてやるぞ、神々様に届く行で申せよ”

 この文のとても重要な要旨は、文末の“神々様に届く行”である。 
 これに相対し、たった今の人間には、“役員づら”が刷り込んだ薄っぺらい行の概念しかないものであるし、人生自体が自らの霊的成長のための“行”と“修行”という認識もない、また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対して“我が名呼びておすがりすれば”=真摯に“上”に自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をするということをしていないからこそ、こういう言われ方をされているものである。
それは神と人間ということ自体を深く真摯に考えたことがない、考えたことがないことそのものがその人の人生において“上”の試しがない、それは“上”に試されるほどの霊的成長度ではない=成長を望まれていない、その段階ではない、ということもあるだろうが、“上”が課した試練から逃げている、その試練、艱難辛苦の意味を考えないで自分にとって都合の良いことばかり思いたがる傾向、要は自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ということだが、こういった人間はとても多い。 
例えば、ここまでS会=紫光会の交霊会で述べられた文言を引用してきた。 それは、
神は乗り越えられない試練は与えない”、
そしてローム太霊の言葉“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん”、
さらに“粘りとやせ我慢”。
こういった文言に自分の人生における苦痛や苦難をあてはめて考えることが出来ない程度の低い人間は多すぎるものである。
それでこの文言自体は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めうる生き方をせよ、自分がどう在るべきか鑑みよ、という意味合いの文言であり、それをするならば、“万里先に居ても云ふこときいてやるぞ、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、と申してお願ひすれば、万里先に居ても、この世の荒れ、地震のがらせてやるぞ”と述べられ、それは今後=アセンション後に移行する際の“この世の荒れ”から“地震のがらせてやる”、次の段階に移行すべく資質を持っているならば“のがらせてやる”であり、それは距離ではない=“万里先に居ても云ふこときいてやる”、自分が持っている心(靈)の資質と霊的成長度、そして自分の人生を真摯に観ているか、人生における艱難辛苦をどう捉えているか、あるいは霊的成長のための“ほんとう”の“行”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしているか(不食などのご利益を求める太陽凝視ごっこではない)ということであり、“雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神”に関してはこれまで解釈してきたとおりであるので、第三帖からいかにコピペ。

“雨の神”は “メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動、これは腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことでもある。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。
 よってこれもある程度進化を果たし、自我の確立=固定化の段階から“上”に移行した心(靈)と肉体が、次の事象の“創造”を果たす(“地震の神”)の意である。

 次の文。
“こんなよき世は今迄になかりたのぢゃ、膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが”

 これまでの事象とは違う、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のいない世界は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、がない、こういったことをする人間がいないので、“こんなよき世は今迄になかりた”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”には届かないの意が“膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ”であり、これは先の“万里先に居ても云ふこときいてやる”に相対した言い回しとして“膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ”と称されており、これに続く“口と心と行と三つ揃った行い、マコト”、“上”が認めうる心(靈)の動き、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、そして人生の艱難辛苦を真摯に捉え逃げず試練を乗りこなして、さらに“ほんとう”の“行”をする、これらが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現れるべきである=“三つ揃った行い”、これを“マコト”と称され、このカタカナ表記の意味は、

“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心

なので、“上”からの振動を止めて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、であるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対してはまず、誠実さを考えよ、の、“誠”であろうし、生物の究極の進化の形としての ○ 九 十

霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、と、胸の磁性“十”、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、を、充てることが出来得るものでもある。




○ 九 十(まこと)の解字 

 次の文。
“時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ、ここまで開けたのも神が致したのぢゃ、今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ、取違ひ慢心致すなよ”

 冒頭の“時節来てゐるなれど、わからん人民多い故”というのは、今後=アセンション後に移行すべく心(靈)の資質と霊的成長度など解っていないのだ、の言い回し、これは神の計画としてのアセンションからすれば“物事遅くなりて気の毒なるぞ”であり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としては“神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ”=今、今後=アセンション後に移行すべく資質が解っていなくてもそれを獲得せよ、真摯に鑑みよ、これ自体が第五帖のここまでの文言の意味合いである。
 これに続く“ここまで開けたのも神が致したのぢゃ、今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ、取違ひ慢心致すなよ”は、“上”との感応があって、“上”の助力があって“ここまで開けた”のであるが、平均的地球人の心(靈)では、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)というものを自分の利益のためにしか使わない、それが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるが、それではダメ、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は万人の幸福のために使うべきものであるし、カテゴリーが違うが、ローム太霊講話集の第二話の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
でもあり、これに続く
この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない
この太霊の言葉をしっかり認識せねばならないものである。
 それで文末の“文明残してカスだけ無(のう)にいたす”は、ここまで創られた“上”との感応による所作、これは科学や経済が作り上げた文明社会のことではなく、“上”との感応により人間の心(靈)が作られてきたのだ、という意味合いであると思うが、その“カスだけ無(のう)にいたす”は、心(靈)の動きの低い部分、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きを表に出さない、そういった人間となれ、であり、その意味合いで“取違ひ慢心致すな”であると思えるが、先に述べた科学や経済による創り上げられた外側(外国と幽界)の事象の文明も、“上”との感応による所作なのだ、これをよく認識しておけ、の意味合いとしても“取違ひ慢心致すな”、この二つの意味合いを感じるものである。

 次の文。
“日本の国いくら大切と申しても、世界中の臣民とはかへられんから、くにひっくりかへること、まだまだあるかも知れんぞ、くにの軸 動くと知らしてあろがな”

 これは“日月神示”が書かれた時期、第二次世界大戦における軍国主義と形骸の天皇崇拝を揶揄した言い回しであり、そんなものには価値がない、いうまでもなく軍国主義と形骸の天皇性を維持している人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、そんな心の動きでは“くにひっくりかへる”のであり、それを捨てよ、先に示された“口と心と行と三つ揃った行い、マコト”ということをしっかり認識せねば“まだまだあるかも知れん”=“神の咎め”によって自省(胸の磁性“十”)させられるものであり、“くにの軸 動く”も、たった今の社会機構が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”によるものであるからこれも変わらねばならないの意。

 次の文。
“此の神示キの儘であるから心なき人民には見せるでないぞ、あまりきつくて毒になるから、役員 薄めて見せてやれよ、一日も早く一人でも多く助けてやりたいのぢゃ、神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか、改心足らんぞ”

 冒頭の“神示キの儘である”は、“上”の思惑通りの意であるが、程度の低い人間には伝わらない、理解できない、自分にとって都合の良い解釈だけをする、これをして金儲けをした人間も多いが、それらすべて“心なき人民”=“日月神示”を理解して認識とする霊的成長度ではないから勝手な解釈をして金儲けをしたり形骸の権威を示したりする=“あまりきつくて毒になる”、これは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)ということが解らないと理解できない文言でもあるし、“上”の思惑が書かれた文章は程度の低い人間が程度の低い解釈を流布しているだけにすぎず、これ自体が救いようのない事態であるからこそ、霊的成長度が高い(“一”=智性=1番目のオーラが大きい)人間、多くの人間を次の事象に導こうとしている“役員”ならば、その使命として、解る人間は解らない人間に対し解るように説かねばならない=“薄めて見せてやれ”であるが、その意のことを述べている(だからこそ“日月神示”解釈やローム太霊講話集解釈を行なっている)。
 これに続く“一日も早く一人でも多く助けてやりたいのぢゃ”は、あえて解釈の要はない。
 これに続く“神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか、改心足らんぞ”、これは“上”と感応していなければ、生き方であろうが在り方であろうが“行”だろうが何も理解できないし、認識(悟り、幸取=さとり)とすることが出来得ないの意、その資質がないのだ、だから“上”と感応することを意図とせよ、それをするのは先の“口と心と行と三つ揃った行い、マコト”であり、こういった人間には“上”は援護する、助力する、通信を送ったりする、それが“神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらん”の意であり、これに続く“肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか”(注、“肚”は、腹の意、この場合“江戸と尾張”、自我そのものを指す )、これは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に対しての言い回し、お前たちの“知や学”を行使した勝手な解釈の流布は結果としてお前たち自身が多くの人間に“悪の道”を歩ませている、よってこの第五帖で述べられている進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すべく人間の在り方を示唆した文言、

“我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云ふこときいてやる…中略…神々様に届く行で申せよ”

“膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが”

“時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ…中略…神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ…中略…取違ひ慢心致すなよ”

“神まつり結構ぞ、神まつらいでいくら道説いても肚にはいらんぞ、肚に入らん道は悪の道となるのぢゃ、頭ばかりで道歩めん道理わからんか”

これらの文言の意味合いをしっかり鑑みて、“改心足らんぞ”=自分の在り方を鑑みよ、これを多くの人間に望んでいるのだの意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 風の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、風の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

江戸の仕組 江戸で結ばんぞ。 この道開くに急いではならんぞ、無理して下さるなよ、無理急ぐと仕組壊れるぞ。 まだまだ敵出て来るなれど、神心になれば敵、敵でなくなるぞ、敵憎んではならんぞ、敵も神の働きぞ。
神は六ヶ敷いこと云はんぞ、神に心皆任せてしまうて、肉体慾 捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ。 
神が限りなき光り、よろこび与へるのざぞ。 いやならいやでそなたのすきにしてやりてござれ、一旦天地へ引上げと申してある通りになるぞ。 一度の改心六ヶ敷いからくどう申してあるのざぞ。 今までほかで出て居たのは皆 神示先(ふでさき)ぢゃ、ここは神示(ふで)ぢゃ、何時もの如く思って居ると大変が足元から飛び立つのざぞ、取返しつかんから気付けてゐるのぢゃ。
何れは作物(つくりもの)取らしておくから、沢山取れたら更に更に愈々ざと心得よ。 神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ、人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ。 タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申すのぢゃ。   
霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ローレンツ力   をまつりたものぢゃ、物無くてならんぞ、タマなくてならんぞ、マコト一つの道ざと申してあろがな、わかりたか。 ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行出来ればその通り行くのぢゃ、神に気に入らん事スコタンばかりぢゃから、引込み思案せずに堂々とやりて下されよ。 
こんな楽な世になってゐるのぢゃ、屁(へ)も放(ひ)れよ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投首この方嫌ひぢゃ。 光る仕組、中行く経綸(しくみ)となるぞ。
二月十六日、一二の 
ローレンツ力と ○ 

 冒頭の文。
“江戸の仕組 江戸で結ばんぞ。 この道開くに急いではならんぞ、無理して下さるなよ、無理急ぐと仕組壊れるぞ。 まだまだ敵出て来るなれど、神心になれば敵、敵でなくなるぞ、敵憎んではならんぞ、敵も神の働きぞ”

 文中の“江戸”は幾度となく述べてきたように地名のことではなく、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、腹の位相のサイクロトロン、のことであり、“江戸の仕組”=自我の強化と確率という霊的成長度の段階は、腹の水、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)でいえば、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、この三つの荷電粒子の回転だけでは成り立たず、その上、アナハタチャクラの“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“と、ヴィシュダチャクラの事象の“創造”の意志、そして事象を見渡し意味と意義を見出すアジナーチャクラ、更に智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)に最も関わるサハスララチャクラ、これらが未熟ながら備わっているのが現地球人であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の強化の“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるが、このチャクラで示された進化の法則=文中の“この道開く”であり、心(靈)の発現というものそのものが神格化への道であり、これを理解しているならば“江戸で結ばんぞ”は、腹までの心(靈)では自我の固定化にならないと解することが出来得る。
先に述べたように“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“、“創造”の意志、事象を観察する高い視野、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現、これが弱く、更に自我自体がまだ虚弱な段階は、自我が野放図であり、具体的に言えば“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、また最近(昨年末)Yahooニュースで取り上げられていた「自分大好き人間」の増加と台頭も同様の進化過程といえるが、自分勝手、自分さえよければよい、自分の都合しか考えない、利用出来そうなものは自分の利益のために使う、他者を思いやるなんてことはなく、人が不幸になっても死んでも金儲けしか考えない、そんな風でも自分の考えと行動は正しいのだと思い込んでいる、こういった人間は自我が弱いからこそ自我の肥大が進化には必須ではあるし、これを示しているのが文中の“無理して下さるなよ、無理急ぐと仕組壊れるぞ”で、自我の肥大の台頭は自らを滅ぼし、この事象における今まで“創造”されたものすべてを破壊することになるという意味合い。
その心(靈)の発現の段階、その進化過程では、次の段階に移行しうる霊的成長度ではないからこそ“結ばんぞ”である。
これに続く“まだまだ敵出て来るなれど”は、自我が虚弱で肥大した人間は、自分に起きた不都合がすべて“敵”と思え、こういった人間にS会=紫光会でよく言われた“神は乗り越えられない試練は与えない”などという文言の意味合いは理解できないものであり、これに続く“神心になれば敵、敵でなくなるぞ、敵憎んではならんぞ、敵も神の働きぞ”は、自分の心(靈)を育てるための“上”の采配を“敵”と思うようならばそれは、霊的成長度も低いし当然認識も低い。 それが進化し、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が強化されたならば=“神心になれば”、試練、“敵”を自らの霊的成長のための“上”の采配と理解しうるの意味合いである。

 次の文。
“神は六ヶ敷いこと云はんぞ、神に心皆任せてしまうて、肉体慾 捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ”

 これは“神に心皆任せてしまうて”、自我の肥大ゆえの考えを捨て去れ、それが自らを進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導き、“ほんとう”の心(靈)の満足を得るのだの意で、自我の肥大ゆえの“肉体慾”、これは本能由来の、食いたい、やりたい(性的な事)、それと低い功名心と自尊心由来の形骸の権威を求めたりそれを誇示したりする、そして(通貨としての)金への執着、そんなものは低い幸福の概念であるの意味合い。

 次の文。
“神が限りなき光り、よろこび与へるのざぞ。 いやならいやでそなたのすきにしてやりてござれ、一旦天地へ引上げと申してある通りになるぞ。 一度の改心六ヶ敷いからくどう申してあるのざぞ。 今までほかで出て居たのは皆 神示先(ふでさき)ぢゃ、ここは神示(ふで)ぢゃ、何時もの如く思って居ると大変が足元から飛び立つのざぞ、取返しつかんから気付けてゐるのぢゃ”

 冒頭の“神が限りなき光り”、これは“創造”の“主(ヌシ)”そのものが高い振動であるの意、その思惑を増幅して贈り送ってきているのが生命体としての太陽で、その振動を積極的に取り込むのが“ひつく”“日津久”、そして光を取り込む器官は眼球であり、またこれが五つの振動を心(靈)(忄(りっしんべん))に取り込むの意の悟る(忄(りっしんべん)と五つの振動を取り込む口)、でもあり、地球で最も高い振動を取り込む“行”、それが太陽凝視の“ほんとう”の意味と意義であるし、“日月神示”を岡本天明に書かせた艮(うしとら)の金神は朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を黒住教で教えた経緯がある。 
 しかしながらそれを承服しない、もっと違う効率の良い“行”があるのではないか、あるいは“行”などしなくても幸福は得られるという程度の低い進化過程の人間の方が圧倒的多数なのがたった今の地球の現状だが、そういった人間はその進化過程で得られる認識というものがあり、いきなり高い“行”は出来ないのだから“いやならいやでそなたのすきにしてやりてござれ”である。
 しかし神の計画としての霊的成長度の高低における区分けであるアセンション=“一旦天地へ引上げと申してある通りになる”、この文中の“天地”これ自体が“上”と“下”の意であり、“引き上げ”は“上”の視点による区分けという意味合いで、これは必ず起きるものである。 
だからこそ“一度の改心六ヶ敷いからくどう申してある”、自分の思想と行動、そのすべてにおいて自省(胸の磁性“十”)せよ、それが次の“創造”に参加しうる最低の条件であり、先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の自分にとって都合の良い考えなどは通用しないことをしっかり認識としておけよ、の意味合い。
 これに続く“今までほかで出て居たのは皆 神示先(ふでさき)ぢゃ、ここは神示(ふで)ぢゃ、何時もの如く思って居ると大変が足元から飛び立つのざぞ、取返しつかんから気付けてゐるのぢゃ”、これは仏や神道、キリスト教など既成宗教のことだと思え、“上”が感応して教祖に教えられた教義は価値のあるものではあるが“役員づら”が腐らせているし、その教義そのものは智性(神性)の獲得に至る教えではないし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”は、智性(神性)の獲得が目的でなければならない、この意味合いが“今までほかで出て居たのは皆 神示先(ふでさき)ぢゃ、ここは神示(ふで)ぢゃ”、この“神示先(ふでさき)”、神が示した本の先っぽと、“神示(ふで)”神が示すことそのもの、その表記の差である。
 だから既成宗教が進化のためのものであるという認識、“何時もの如く思って居ると”であるならば“大変が足元から飛び立つのざぞ、取返しつかんから気付けてゐる”と称されている。

 次の文。
“何れは作物(つくりもの)取らしておくから、沢山取れたら更に更に愈々ざと心得よ。 神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ、人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ。 タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申すのぢゃ。  
霊=○、荷電粒子の場(フィールド)   と ローレンツ力 をまつりたものぢゃ、物無くてならんぞ、タマなくてならんぞ、マコト一つの道ざと申してあろがな、わかりたか”

冒頭の“何れ”(いずれ)、これは、はっきりとは定めずまたはわからないままに物事を言い表すのに使う語であり、“作物(つくりもの)取らしておく”は、現段階の霊的成長度で得られる認識を“作物(つくりもの)”と称し、それはは高いものではないが、少しづつ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくならば、“更に更に愈々ざ”、少しづつしか“上”に進まないの意であるし、現段階の認識が低いからこそこれに続く“神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ”と称されており、これはたった今の“創造”による事象がてんで低いの意でもあるし、その“創造”に携わっている心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)も低いのだの意味合いで、こんな連中にすら、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”を教えてはいるが、それは先の“六ヶ敷い”(むつかしい)、これに相当するのだと言いうる。
それで教えねばならぬからこそ“まことざぞ”、これはひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記であるし、これに続く“人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ”、これはカタカナ表記で“上”が言い顕わす表記になっており、それでは“マコト”の意味は何か、それは
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
神の思惑に沿った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、その思惑、思惑そのものが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、であるが、それを固め止める、それがカタカナ表記の“マコト”であり、更にそれは“日月神示”表記の、“○ 九 十”



○ 九 十(まこと)の解字 



生命の最終形態でもあり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、いわゆる不誠実ではない、でもあり、ローム太霊が伝えた“真の人間”(まことのにんげん)でもあり、冥王星のオコットの情報を受け取った半田広宣氏の著書で述べられている“真実の人間”の意味合いでもあるが、これらすべて“真固止の人間”、“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止)、これを言い顕わしたものであり〈半田広宣氏はこの言葉の意味に言及していないようである〉、天意を止めを自分の認識として(“天詞様”)次の事象の“創造”をするのが、今述べた表記の人間であり、その意味合いで“タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申すのぢゃ。   霊=○、荷電粒子の場(フィールド) と ローレンツ力 をまつりたものぢゃ”と称され、文中の“タマ”は、
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、神の思惑にそった進化した生命そのものであり、“コト”は、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、“タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申す”、これは神の思惑に沿った生命(生きる使命=存在理由)は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を固く止めているのだ、またそれは、心(靈)=
霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  に、ローレンツ力ローレンツ力  、これで止めよ、“上”と感応せよ=“まつりたものぢゃ”という意味合いであるし、その生命(生きる使命=存在理由)の“創造”は、“物無くてならんぞ、タマなくてならんぞ、マコト一つの道ざと申してあろがな、わかりたか”、文中の“物”はこの事象、現界であり、そこには進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みである“タマ”がなければならない、天意を止めよ、であり、今後=アセンション後の事象は“マコト一つの道ざ”ということになるものである。
 
 次の文。
“ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行出来ればその通り行くのぢゃ、神に気に入らん事スコタンばかりぢゃから、引込み思案せずに堂々とやりて下されよ”

 たった今の地球は“上”から観て霊的成長度の低い人間が大多数、“玉石混交(淆)”であるが、低い者はその低い認識からやってみるしかしょうがない、それが“ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ”ではあるが、これに続く“行出来ればその通り行くのぢゃ”、この“行”はすでに教えてある、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=心(靈)の在り方、自省(胸の磁性“十”)の“行”であるが、それが“出来ればその通り行くのぢゃ”と称され、これに続く“神に気に入らん事スコタンばかり”、これはたった今の地球の現状と地球人の霊的成長度のことであり、それに相対し“行出来れば”の人間は臆することなくやれよ、周囲からどんな目で見られようがそんなものは意に介さずに“引込み思案せずに堂々とやりて下され”である。

 次の文。
“こんな楽な世になってゐるのぢゃ、屁(へ)も放(ひ)れよ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投首この方嫌ひぢゃ。 光る仕組、中行く経綸(しくみ)となるぞ”

 文中の“中行く経綸(しくみ)”を間違える人間は多いと思うが、これは中庸と意味合いがほぼ同じ、それは“中”が偏らないの意であり、人間は様々な事象に遭遇するが、その事象の意味合いを鑑みるにあたって、自分にとって都合の良い考え方をしたりせず、正鵠(せいこく)な判断をすることであり、“庸”は、平常也(朱子の解釈)、あるいは常也(鄭玄の解釈)である。 決して真ん中とか平均とかの意味合いではないし、自分が自分の成長にとって正鵠な判断するをする、その視点を持て、であり、その視点を持とうとする息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には“上”が感応するものである。
 また文中の“光る仕組”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで自らの“一二三”のオーラにそれを生かす、それはオーラの拡大になるの意でもあるし、それ自体が“光る仕組、中行く経綸(しくみ)となる”=智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まれば、中庸を認識(悟り、幸取=さとり)としていくということである。
 前後するが“こんな楽な世になってゐるのぢゃ、屁(へ)も放(ひ)れよ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投首この方嫌ひぢゃ”、これは先の“引込み思案せずに堂々とやりて下され”にかかる文言で、自分が“行”を知り、それが自分の霊的成長にとって“ほんとう”に価値のあることだと認識して“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”していくならば、神の思惑に沿っているのだから誰の意に介さず、だれの批判も気にせずに“屁(へ)も放(ひ)れよ、沈香もたけよ”であり〈沈香は、ジンチョウゲ科の樹木から作られたもの〉、たった今“マコト”を目指す行を行っている人間はたびたび“日月神示”に登場する表記の“落ちぶれていなさる”ではあるが、それこそが神意に適っているのだ、ということをよく知っておけよ、堂々としろよ、の意味合いの文言である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” 風の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。 まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。 神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ。
慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、神示はじめからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ、天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな。
愈々のまことの先祖の、世の元からの生神、生き通しの神々様、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ、スクリと現れなさりて、生き通しの荒神様 引連れて御活動に移ったのであるから、もうちともまたれん事になったぞ、神示に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどい様なれどあまり見せるでないぞ。
二月十六日、ひつぐの
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。 まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。 神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ”

 この文は、今後=アセンション後の事象においてはこれまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されている事象とは違ってくる、神の“思惑の顕現”=現象化となっていくので、神の思惑を認識(悟り、幸取=さとり)とした高い心になっておけよ、の意味合いであり、それが“神にすがり居りたればこそ”であり、時期を示す表記が“云ふとき、眼の前に来てゐる”である。 
そして今後=アセンション後に間に合わない霊的成長度の人間に対しては“まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ない”、これは自分の霊的成長度が低い、霊的成長度を高めようとする“上”の采配から逃げた、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ので苦痛や苦悩の意味をしっかりとらえて考えなかった、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思想から脱却すべき“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持とうとしなかった、など、これらすべて自己責任であるからこそ“我恨むより方法ない”、自分のやってきたことと自分の思想、これのどこがいけなかったか鑑みよの意味合いが“我”を“恨む”、これも“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”の意味合いが含まれた言葉であり、そこで自分の心(靈)の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を恨んでこそ、自省(胸の磁性“十”)に入るのだ、の意味合いである。 ただしほとんどの人間はアセンションに伴う醜い事象に巻き込まれて、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするのは死んでから閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を身ながらということになる。
 これに続く“神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと”、これは自分が思っている“神の致すこと”の認識が低い、その低い認識においては、神の思惑というものと間違えて考えているのだの意味合いであると思える。 単に神が何かをする、という言い回しはこれまでの“日月神示”では思い当たらないし、それに相対し、神が何を思惑としているのかを自分で悟れ、という表記はあったので、この言い回しは低い霊的成長度における神の認識、その自分たちにとって都合の良い神さんと、その認識で行動する人間について“神人ともに致す”と称されていると思え、これが“それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ”と言われているのは、お前自身が低い、お前の思っている神さんの認識も低くそれは神と称するに値しないくらいダメなのだという言い回しであると思えるし、これは次に続く文に繋がっている。

“慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、神示はじめからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ、天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな”

 冒頭の“慢心鼻ポキン”は言うまでもなく自我の肥大した心(靈)、自分がやってきたことが自分の都合しか考えていないうえで自分は正しい、それで頑張った自分は偉いのだ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いの欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで形骸の地位と名誉と金を獲得したが、それを自分で自分をおだて上げ誉めそやしている、そんな人間が活躍しているのがたった今の事象だが、幾度となく述べたようにそれは欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”であるし、今後=アセンション後はそうはいかないので“神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、神示はじめからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ”と言われ、自分たちの都合の良い神の概念に対し“天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな”と称されており、これまで述べた“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)と、それを受け入れ都合よく考える、自分を甘やかすために“役員づら”の神の概念を利用している、これも程度の低い心(靈)同士の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)ではある。
それでこれを諌めるために先に取り上げた“神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ”と言われており、意味合いは先に述べたとおりである。
 
 次の文。
“愈々のまことの先祖の、世の元からの生神、生き通しの神々様、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ、スクリと現れなさりて、生き通しの荒神様 引連れて御活動に移ったのであるから、もうちともまたれん事になったぞ、神示に出したら直ぐに出て来るぞ、終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどい様なれどあまり見せるでないぞ”

 冒頭の“愈々のまことの先祖の、世の元からの生神、生き通しの神々様”、これはこれまで解釈してきた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを表わした文言であり、なぜここでそれを述べるかに当たっては、お前たちの神の概念は間違っている、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“ほんとう”の意味合いを全く理解していない、だから今後=アセンション後に移行すべく人間の心(靈)の資質(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)と“上”と感応する具体的な方法としての朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を黒住教で教えており、それが“雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴うことで意味合い以下に示す。

 “雨の神”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。 要は“上”との感応ということ。


雨の象形文字 解字 
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。 自我の確立=固定化から次の段階に移行すること。
“荒の神”は低振動、“下”三つのチャクラの振動。
“地震の神”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意。 肉体の構成要素としての灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)を含んだタンパク質の高分子化をしていかなければ“上”からの振動の高い部分と感応しないので述べられていること。

 これらは実際に“行”、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして初めて理解できることでもあるが、これが“スクリと現れなさりて、生き通しの荒神様 引連れて御活動に移った”、これはこれまでに早退した言い回しで、これまではまともな“行”をやっている人間がいなかった、既成宗教における“行”の概念も地に落ちており、形骸の権威を示すものにしかなっていない、そんなことを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はいつまでも許すことはしないし、“行”における“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、これが出来ない人間は次の事象に移行しえない、だからこそそれを“スクリと現れなさりて”、その上で現象化する、この低振動の事象、現界に表わす、それが“生き通しの荒神様 引連れて御活動”の意味合いであるし、“もうちともまたれん事になったぞ、神示に出したら直ぐに出て来るぞ”は、この自動書記が書かれているころからもう始まっているのだぞ、の意味合いで、これに続く“終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでないぞ”の“終り”は、生命(生きる使命=存在理由)の最終形態、それは ○ 九 十 の、“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+胸の磁性“十”+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、この事であり、今後=アセンション後はこういった心(靈)が事象を“創造”するので“始”であり、それはまた“ほんとう”の神が示すこと、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”や“役員づら”が思っている自分たちにとって都合の良い神(実はそれが悪魔)ではないので“終りの始の神示ざぞ、夢々おろそかするでない”と称されている。
 これに続く“キの神示ぢゃ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、すべての事象(天地)の気(愛(炁)ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)、その現われが、自分と自分が観察している事象であり、素幸霊(スサノオ)は幸の解字である“夭と屰”(ようとげき)、自分の生きている間にたくさんの認識を獲得する、そのため、夭折(早死に)しないこと、その沢山の認識を獲得するその素の心(靈)、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)、その意があり、いうまでもなくこれ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識してそれを目指す心(靈)であるし、それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示す=“キの神示”という意味合い。
 最後の“くどい様なれどあまり見せるでないぞ”は、いくら“上”としての艮(うしとら)の金神が人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のため貴いことを述べても、程度の低い人間は程度の低い解釈しかしないし、都合よく利用して金儲けをして間違った解釈をこの事象に流布する、流布されてしまっているが、それを戒めよ、という意味と、“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする者に対しては、流布されたものが間違っているか間違っていないかよく見極めよ、という意味も含んでこう言われているものと思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 風の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 



今回も、風の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界中自在に別け取りしてゐた神々様、早う改心第一ぞ。 一(ひとつ)の王で治めるぞ。てん詞様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、天二(てんぷ)様のことざぞ。
行なしではまことのことわからんぞ、出来はせんぞ、神の道 無理ないなれど、行は誰によらずせなならんぞ。 この方さへ三千年の行したぞ、人民にはひと日も、ようせん行の三千年、相当のものざぞ。
海にはどんな宝でも竜宮の音秘(オトヒメ)殿 持ちなされてゐるのざぞ、この世の宝 皆この方つくりたのざぞ、神の道 無理ないと申して楽な道でないぞ、もうこれでよいと云ふことない道ざぞ。
日本の人民もわたりて来た人民も、世持ちあらした神々様も人民も、世界の人民 皆思ひ違ふぞ、九分九分九厘と一厘とで、物事成就するのざぞよ。 世をもたれん天地の大泥棒をこの世の大将と思ってゐて、それでまだ眼覚めんのか、よく曇りなされたなあ、建替は今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ、それでカタ出せ出せと申してゐるのぢゃぞ。 
あれこれとあまり穢れてゐる腸(はらわた)ばかりぢゃから、一度に引出して、日に干してからでないと、洗濯出来ん様になりて御座るぞ。 ひぼしこばれん人民あるから、今のうちから気付けてゐるのぢゃぞ。 けんびき痛いぞ、あまりにも狂ふて御座るぞ。 元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ。
二月十六日、ひつ九の
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“世界中自在に別け取りしてゐた神々様、早う改心第一ぞ。 一(ひとつ)の王で治めるぞ。 てん詞様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、天二(てんぷ)様のことざぞ”

 文中の“別け取りしてゐた神々”、これを“世界中自在に”というのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、この感応が、低い霊的成長度の心(靈)は低い振動としか感応しない、“行”やって“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、高い振動と感応する素地を持った心(靈)は高い振動を止められる、の意である。
それは“神々”=“上”からの振動、これを“世界中自在に別け取りしてゐた”=個々の霊的成長度の高低において感応していたの意であり、そして“自在に”は、自由自在の意味合いではなく、自分の存在の意において=個々の霊的成長度の高低において、あるいは霊的成長度の高低における自分の在り方によって、“上”からの振動と感応するその度合いが違うのだ、の意味合いである。 
そう思う根拠としては“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、だれもが均一に止めていない、だからこそ霊的成長度の高低があり、低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低い事象しか想像しえない、それがたった今の事象であることは幾度となく述べてきているが、 それを“早う改心第一”と述べられているからであり、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への移行のステップで、これが出来ないのは次の事象に移行する資質がないからこそ霊的成長度の高低における区分け、いわゆるアセンションという事象がやってくるのだが、アセンション後は、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が混在した事象、世界ではなく、ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)だけの場(フィールド)になるからこそ、“一(ひとつ)の王で治めるぞ”であり、この“一(ひとつ)の王”は、今後=アセンション後における指導者的立場の心(靈)と解することもできるが、やはり“一”=智性=1番目のオーラ、これを備えた心(靈)、たった今の人間は“一”=智性=1番目のオーラが小さく、智性(神性)の顕現が大したことがないので、今後=アセンション後は智性(神性)で統括された事象になるの意であると思え、これに続く“てん詞様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、天二(てんぷ)様のことざぞ”の、“てん詞様”=“上”と感応して高い振動を止める心(靈)を備えた人間の意、これをまた“天千様”、“天”=“上”と感応して丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”で構成された“千”が当てられており、“天二(てんぷ)様”は、“上”と感応するべく肉体、それを“二”で示していると思う。 そして“この方シチニの神と現はれる”のカタカナ表記は、

“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)

なので、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をはぐくむ高い振動は弱い光かのように感じる、たった今は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の低い部分としか感応していない心(靈)が台頭して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それによってこの事象は成り立っているのだが今後=アセンション後はそうではなく、今に比べ弱い光化のように感じられる高い振動、これを止めた心(靈)が事象の“創造”を、“ニ”の、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ こうやってちょうど良い調整を行いながら事象の“創造”を果たしていくの意であると思う。

次の文。
“行なしではまことのことわからんぞ、出来はせんぞ、神の道 無理ないなれど、行は誰によらずせなならんぞ。 この方さへ三千年の行したぞ、人民にはひと日も、ようせん行の三千年、相当のものざぞ”

 冒頭の“行なしでは”、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であるが、これが出来ないで“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止められない者は“日月神示”表記の“ケダモノ”“ケモノ”、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるから“まことのことわからんぞ、出来はせんぞ”であり、“まこと”に関してはひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記であるから、自分たちが思う真、真実=真固止、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、不誠実ではない、そして“日月神示”表記の○ 九 十、これらすべてあてはまるものであるし、自我の確立=固定化から進化していくならば、これを為そうとする、この概念で自分を律する、そうなっていくものであるからこそ、“神の道 無理ないなれど、行は誰によらずせなならん”といわれており、それが“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、でもあり、その意でこれに続く“この方さへ三千年の行したぞ、人民にはひと日も、ようせん行の三千年、相当のものざぞ”、文中の“この方”は特定の人物のことではなく、“世の元からの生神”、これに沿って存在する心(靈)の意であると思え、今の人間の文明が始まってからおよそ三千年だから“この方さへ三千年の行した”“人民にはひと日も、ようせん行の三千年”と称されているものと思う。

 次の文。
“海にはどんな宝でも竜宮の音秘(オトヒメ)殿 持ちなされてゐるのざぞ、この世の宝 皆この方つくりたのざぞ、神の道 無理ないと申して楽な道でないぞ、もうこれでよいと云ふことない道ざぞ”

 文中の“竜宮の音秘(オトヒメ)殿”これは
雨の巻 第十五帖
で解釈したので以下にコピペしておく。

“外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさる”、これは外側(外国と幽界)の事象、これは高い振動の低振動化、いわゆる現津(あきつ)、観察され得る事象のことだが、これを先の“四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ”この“音”のことを“竜宮の音秘(オトヒメ)様”と称され、それが“ぐれんと引繰り返し”になるの意。 

“四八音”は、“四”は発振、発信の意、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、“音”は、可視光線よりも低い振動なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、この事象に顕現するの意。
 同様に“五十音”の“五”は糸巻の象形文字なので進化した生物の神経線維が密になりコイル状になるさま、“十”は縦の磁束と水平磁場、これも手足が発現した状態を指し示すものであり、さらに四足獣から人間への進化は、目上(めうえ)の脳の水平磁場をも構成するが、それを指し示す表記。 “音”は前述のとおり。
 さらに“六十音”の“六”は、爻部(こうぶ)、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。 “十”と“音”は前述のとおり。
 また、カタカナ表記の“ヨハネ”は、
“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目
“ハ”は、生命発現成長の音義
“ネ”は、根 元基(もとき) チカラ自と漲りはびこらす 根魂
同様に“イソネ”は
生気生命の発生力
“ソ”は、個性の本意 また原質物 その真澄(マスミ) 元 素 マスミ 真凝止(マコト)(自凝(おのころ)して止める) 此れ悉く其のチカラ
“ネ”は前述のとおり
同様に“ムソネ”は
“ム”(生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(法則性)
“ソ”は前述のとおり
“ネ”は前述のとおり
 なので、
“四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれる”
これは、進化した生命(生きる使命=存在理由)(“ヨ”“ハ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み発振、発信して事象(“四”“ヨ”)に顕現(“音”“ネ”)するのであり、それには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化により、肉体を作り変えて、神経を密にしてローレンツ力 
ローレンツ力の強化となり、“富士(二二)”も強化され胸の磁性“十”も強化されていく、そうなっていくと“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、この高い部分を取り込んで霊的成長を果たしていくし、それが“六”“ム”の意味合いであり、そうしていくならば“天も変るぞ地も変るぞ”であり、その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)に間に合えよの意味合いで“用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ”である。

 要は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高いものがこの低い事象に顕現するの意、これが“竜宮の音秘(オトヒメ)殿”であり、低い事象に顕現する高い振動をこの文言では“海にはどんな宝でも”と称され、先の“この方さへ三千年の行した”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性にのっとった心(靈)であるならば“この世の宝 皆この方つくりた”と称されるものであることを示していると思えるし、これに続く“神の道 無理ないと申して楽な道でない”に関しては解釈の要はないと思うが、“行”とはそういうものであり、また“行”に終わりはないの意が“もうこれでよいと云ふことない道ざぞ”である。

 次の文。
“日本の人民もわたりて来た人民も、世持ちあらした神々様も人民も、世界の人民 皆思ひ違ふぞ、九分九分九厘と一厘とで、物事成就するのざぞよ。 世をもたれん天地の大泥棒をこの世の大将と思ってゐて、それでまだ眼覚めんのか、よく曇りなされたなあ、建替は今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ、それでカタ出せ出せと申してゐるのぢゃぞ”
 冒頭の“日本の人民もわたりて来た人民も、世持ちあらした神々様も人民も、世界の人民 皆思ひ違ふぞ”、これは先の“世界中自在に別け取りしてゐた神々様”と同義、個々の霊的成長度の高低において心(靈)は違うし、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)も違ってくるのだ、あえて言うなら価値観も幸福感も違うのだ、の意であり、これに続く“九分九分九厘と一厘とで、物事成就する”、これも先の“一(ひとつ)の王で治める”と同義。
 これに続く“世をもたれん天地の大泥棒をこの世の大将と思ってゐて、それでまだ眼覚めんのか、よく曇りなされたなあ”、これは程度の低い人間が程度の低い人間を誉めそやし“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観で形骸の地位や名誉や(通貨としての)金を求めることが素晴らしいと思っている人間に対して言われていることであり、これに続く“建替は今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ、それでカタ出せ出せと申してゐるのぢゃぞ”、この文中の“建替”はこれまでの低い人間の台頭を許さない、低い人間の価値観や幸福感を許さない、“上”の思惑は個々の幸福ではなく、ローム太霊講話集の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
この“神自身の本当の気持ち”を代行してこの事象に顕現する人間だけにして、今後=アセンション後の事象を創らせるのが神の思惑であるの意で、“今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ”、これに関しては文言どおりなので解釈の要はない、これに続く“それでカタ出せ出せと申してゐるのぢゃ”の“カタ”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
なので、進化すべく心(靈)を“幽れたる”ではなく“生命が現れ立つ”ようにしろ、の意である。

次の文。
“あれこれとあまり穢れてゐる腸(はらわた)ばかりぢゃから、一度に引出して、日に干してからでないと、洗濯出来ん様になりて御座るぞ。 ひぼしこばれん人民あるから、今のうちから気付けてゐるのぢゃぞ。 けんびき痛いぞ、あまりにも狂ふて御座るぞ。 元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ”

 文中の“穢れてゐる腸(はらわた)ばかり”は、低い自我を構成している心(靈)をさしている、低い功名心と自尊心、あるいは情動中心の心(靈)、自分の感情を自生することが出来ない自我の肥大した心(靈)、更に本能中心の心(靈)、仏教の概念の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)、貪は、むさぼる。本能由来の行動、瞋は、目をむいて感情をあらわにする、痴は、白痴の意味。認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らないの意味、これらすべてが当てはまる醜い心(靈)だが、たった今の現状はこれが当たり前、それでは今後=アセンション後に移行する資質などないので、“一度に引出して、日に干してからでないと、洗濯出来ん様になりて御座る”、この“洗濯出来ん様になりて御座る”は“改心”もままならん、のいであるし、それくらい腐っていることを自覚せよ、の意でもあり、さらに“日に干してからでないと”と、この文に続く“ひぼしこばれん人民ある”=太陽にさらされることすら耐えられない、これが何を意味しているのかは何をか況やであるが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高い振動を止める“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであることを暗に示していると思う。 
 これに続く“けんびき痛いぞ、あまりにも狂ふて御座るぞ”の“けんびき”は、首から肩にかけて筋肉がひきつって痛むこと、ではあるが、単に現状を揶揄した言い回し。
 これに続く“元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ”、これも“日月神示”表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを強調した言い回しで、生命(生きる使命=存在理由)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのが必須、それが生命の存在の目的、それを“元の根”と称され、“元の根元の世より、も一つキの世にせなならん”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を踏まえたうえで、もっと高い事象にする、これまでアセンションのような事象は地球では七回あったが、今度の変容が最終段階であり、それはこれまでのアセンションとは内容が違いもっと高い霊的成長度の心(靈)が台頭する事象なので“元の根元の世より、も一つキの世にせなならん”と称されていると思え、文中の“キ”は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、すべての事象(天地)の気(愛(炁)ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)、その現われが、自分と自分が観察している事象であり、素幸霊(スサノオ)は幸の解字である“夭と屰”(ようとげき)、自分の生きている間にたくさんの認識を獲得する、そのため、夭折(早死に)しないこと、その沢山の認識を獲得するその素の心(靈)、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)、その意があり、いうまでもなくこれ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識してそれを目指す心(靈)であり、よって高い振動をこの事象に顕現するのだ、の意。
そして、これまでのアセンションとは違う段階に移行すること事態を“神々様にも見当取れんのぢゃ”と言われており、これに続く“元の生神でないと、今度の御用出来ん”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないと次の事象に移行して活躍できないぞ、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 風の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。 大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。 
宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ。 天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。 泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。 神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。 タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ。 
人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。 神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ。
神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。 程々にせよと申してあらうが。皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。 肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ。
二月の十六日、ひつ九の
ローレンツ力と ○   。

 冒頭の文。
“土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。 大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ”

 これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識をたしなめた言い回し。 こういった霊的成長度の低い人間は利用できるものは何でも利用して自分の利益とする、それを“土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐる”と称され、“土地分け盗り”というのは縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)でもあり、具体的には不動産などこれに相当するし、ことにこの文の“天まで分け盗って”というのは、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の行いを指摘しており、人間の在り方と霊的成長を説かねばならぬはずの宗教、宗教の開祖に“上”、文中の“天”、これが感応して教えを垂れた、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配であり、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが神の思惑であるがゆえのことだが、程度の低い人間はその文言を自分たちの都合に合わせ利用して、形骸の権威を示し金を儲け、教えそのものを捻じ曲げているものである。
 だが、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のために一切の事象は存在している。
それはこの文の“土地”“天”、これは人間の認識の“下”の物(物質)であろうが天の教えであろうが、すべて自分たちの進化のためにあることを認識し、自分たち、すべての生命の進化のために使うべきでもあるし、進化した人間はすべての存在の幸福を願うものであるが、“自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもない”、霊的成長度の低い人間が利用して自分の利益にする“土地”“天”ではなく、すべての存在のためにあることを認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、自分が観察している事象すべてが自分たちの進化のためにあることを理解せよ、で、あるし、それに相対し、自分たちの利益のために何でも利用するのは、てんで低い心(靈)であることが判るものである。 
よって“大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構”、文中の“大引上げ”は、霊的に“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より高い者だけより分ける、いわゆるアセンションのことで、“捧げた”は、先に述べた“土地”“天”、これが自分たちの進化のためにあることを認識したならば、一切の執着を捨て去ることが出来、執着そのものが自我の肥大によることなのだ、それは自分の中の低い心(靈)の動きであり、醜い心(靈)なのだ、ということを自分で判るので、言われていることである。

 次の文。
“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ。 天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。 泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。 神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。 タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ”

 冒頭の“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ”、この“S”の表記は“日月神示”内で、雨の巻 第九帖とこの風の巻 第九帖にしか登場しない。 この“S”を考えると、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、なので、やはり人間が進化した様であり、その“跡”が“S”“ナルト”に“なるぞ”、たった今はそうではないのだ、の意味合いであり、“ナルト”の言霊は、
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“ト”は、止まると云う心
なので、進化した生命(“ナ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて(“ト”)、自らの心(靈)となして(“霊流凝”)、その上で事象を“創造”する(“ル”)の意であり、“S”にその意があることを鑑みて思いついたのは、これは“乙”を反対から観た表記であると思える。
 ちなみに“乙”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で、
乚部(いんぶ)は“乙”で草木が屈曲しながら芽を出すことの象形、それが文字の旁(つくり)の位置に置かれたとき“乙”は乚部(いんぶ)になる。
この“乙”は、向かって左から右に筆を動かし、右から左下に動いて、再び左から右に動いて最後は上にはねる。
左→右、そして右から左下、そして左から右…そしてはねる。これは左往右往して現象化して左往右往する形で、はねるのは“上”に向かう意。
それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つということであり、これ自体が人の思惑の顕現であり、良い形の事象の“創造”を示す。
と意味を述べた。
 乚部(いんぶ)は人の思惑の顕現であり、この乚部自体は人間目線の表記、それに対し“創造”の“主(ヌシ)”は人間の対面に位置しているから左右が逆になる、よって“S”の表記は、“創造”の“主(ヌシ)”が人間に、人間自体の思惑を顕現させようとする、それ自体が被造物である人間にとっての“神宝(かんだから)”の意味合いであると解釈する。
 それでよい機会であったので、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、人という字を構成するその部首の意味を画像にしたので以下に貼っておく。


人(丿部と乚部)の解字 


 これに続く“天の言答(一八十)は開いてあるぞ。 地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ”の“言答(一八十)”、この“言”は事象への発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“答”は自らの息吹による事象の“創造”、現実と自分が観察していることは、すべて自分の心(靈)の動きによることであるの意。 それで“(一八十)”は、“一”=智性=1番目のオーラ、“八”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、それと“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、いわゆる極性、“十”は胸の磁性“十”、自我より“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)、これも先の“ナルト”と同様、進化した心(靈)を指し示す表記であり、よって“天”=“上”に相対して、お前たちもそうなれよ、の意味合いで“地の言答(一八十)、人民 開かなならん”それは自分の心(靈)の在り方によること、自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出す作業が自省(胸の磁性“十”)の一つでもあるが、それによることなので“人民の心次第で何時でも開ける”と称されている。
 これに続く“泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか”の“泥の海”は、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による腐った事象のことでもあろうが、“泥”は“石”(帯電するミネラル)が固まっていないさまであり、“石”(帯電するミネラル)が固まって“上”からの振動と感応して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得していくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることからすれば、今の人間は“泥の海”状態であり、その霊的成長度の息吹による事象の“創造”は“人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃ”、落ちるところまで落ちるの意味合いであり、これに続く“神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ”の“神国”は智性(神性)を獲得した“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)であり、先の“ナルト”“一八十”と同義であると思え、その智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)ならば、“神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならん”、この文中の“元”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、この“元”でもあるし、“元”の字そのものが肉体を示す“二”と時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)で構成されているものであるので、今後=アセンション後の時期が到来するまでに“元の所へ納めなならん”=ある程度の進化を果たしておけ、それは“神国の臣民の手で”、進化した心(靈)によって、という意味合いである。
 これに続く“タマなくなってゐると申してあらうがな。 何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ”の“タマ”は
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
なので、“タマなくなってゐると申してあらう”は、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出していない、進化に沿って時間の進行を歩んでいない、これは“タ”ではないし、神の思惑の顕現が生命(生きる使命=存在理由)であり、それがこの世界(現界)における、肉体と心(靈)を持って顕現している人間(有形生命)であり、生命(生きる使命=存在理由)だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って生きるべき、それが“マ”なのだが、この二つの意味合いから外れているのだ、だが霊的成長度の高低における区分け=“何事も時節到来致してゐる”ので、程度の低い人間、“タマ”から外れている人間は次の段階に移行しない、だから“タマ”の意味をよく認識して“真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃ”に間に合うようにしろよ、と言われているし、これはたった今が“真理(ふじ)晴れる”ではない、真、真実=真固止、“ほんとう”のこと、に対する認識は低く、人対人でも誠がない、不誠実、であるから言われていることである。

 次の文。
“人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。 神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ”

 この文自体は“上”との感応を述べている、それは“神に仕へて下さらんと神のまことの力出ない”、“上”と感応していないからたった今の事象は“神のまことの力”で“創造”されていないので、“上”との感応と人間が人間に対し誠実にふるまう、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の感応ではなく、常に“上”と感応せよ、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応する自分の心(靈)の“下”を自戒せよ、であり、ここまでの意味合いが“持ちつ持たれつと申してあらうがな”=人間たい人間の誠実さ、“神まつらずに何事も出来んぞ”=“上”と感応していない事象の“創造”はではダメ、“まつらいでするのが我よしぞ”=“上”と感応していないのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であると称され、その程度の低い心(靈)の慢心、低い功名心と自尊心傲慢な心(靈)になるので“天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ”と称されているものである。 
これに続く“神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ”、これに 関しては、上つ巻 第二帖 “神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ”、それと、地つ巻 第九帖 “神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな”を合わせて読むと理解しやすい、高い振動、高波長の振動を受ける、感じるならばそれは、光として認識しうるものであり、“上”からの振動の高い部分と感応するのが“てん詞(し)様”であり、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを述べている地つ巻 第九帖の“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ”でもあるが、たった今の現状、霊的成長度の低い人間が大半のこの世界では、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んであり、“下”の思惑が顕現して醜い事象になっている、それは先の“泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃ”でもあるし、大半の人間が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と幸福感しか持っていないので、その基準で“よくなったと見えたら”、これは“それは悪の守護となった”と称されてるものである。

 次の文。
“神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが。 皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。 肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ”

 この文の前半“神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが”は、現地球人のほとんどが自我の確立=固定化で、智性(神性)無き心であり、進化の過程が腹中心、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、なので、霊媒体質に近いことを示している。
例えば、インチキ霊能力者や低級な霊能力者、あるいはチャネラーなどは、低い存在に憑依され、低い存在は人をだますので“神”を名のったりするし、こういった存在に心を乗っ取られることが多い。
また上記以外の人間でも自分にとって都合の良い考え方しかしないから悪魔のささやき=“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応をしているものである。 それを“迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよ”と称され、これに対する比喩として、“皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかる”=自らが自らの低い心(靈)を諌める(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)、それは自分で自分をよく観察する=“鏡”、要は“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”“自分を観察する自分の確立”であるが、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性であるから“上”が感応する、それが“心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかる”の意味合い。
 これに続く“肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ”の“肉体心”は、現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示し、それは自我以下の心(靈)が中心、本能、情動、功名心、自我、しか心が動いていないに等しい、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)でもあるが、それは“皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかり”、いい加減進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出せよ、が“この道理判りたであらうがな、くどう申さすでない”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




日月神示” 風の巻 第十帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ。
もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ。
肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山あるから、改心六ヶ敷いなれど、我慢してやりて下されよ。 時節には時節の事もいたさすぞ。 時節結構ぞ。
二月十六日、ひつぐの 
ローレンツ力と ○ 

 冒頭の文。
“これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ”

 文中に二回登場する“これからは”、これは今後、アセンション後のことを示しており、“人民磨けたら”は、たった今の人間が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できていないから“上”との感応が出来ず、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応をして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して事象の“創造”をしていることまで伝えようとしていると思える。 
そのことに相対し“これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さす”=今後、アセンション後は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応して自らの思想や価値観など、これまでとは違ってくるのだということを読み取るべきであり、文中の“経綸”の意味は、国家の秩序をととのえ治めること、またはその方策、の意であるので、“上”と感応して事象、現実(現界)の秩序を整えるの意味合いであり、たった今は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が国家やこの事象を治めているかのように見えているだけで、それは悪魔の思惑であり、この世界自体が崩壊に向かっている…これはもうどうしようもないことで今そんなことを論じても何もならないが、文頭の“人民磨けたら”、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“上”と感応して思想を変え価値観を変えていくならば、“神が人民と同じ列にならんで”となり、次の事象を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応しながら治める、それを“これからは恐ろしい結構な世となる”と称されているものである。

 次の文。
“もう待たれんから、わからねばどいてみて御座れと申してあろが、わからんうちに、わかりて下されよ”

 これは霊的成長度の高低において区分けの時期、いわゆるアセンションの時期に対して言われていることであり、その区分けに間に合わない程度の低い心(靈)に対して“もう待たれん”と言われ、そして“わからねばどいてみて御座れ”、これは次の事象に移行するべく資質について観よ、考えよ、思え、ということで、大概の人間がアセンションは霊的成長度の高低においての区分けであるという認識を持ちえず、自分たちは何の“行”もせず自分たちの考えも変えないで次の段階に移行すると勝手に思っているが、それではダメであり、先に述べたように霊的成長度の高低においての区分け、自分はその資質があるのか、次の段階に移行すべき心(靈)の動きというのは何か、これを解らねばダメ、分ったならばそれを自分の思想に活かす、行動に活かす、そうしていくものであるが、それを“わからんうちに、わかりて下され”、この言い回しの“わからんうち”とは、先の思想に活かす、行動に活かす、という段階でなくてもよいから、霊的成長度の高低と、次の事象に移行する資質というものを、まず知っておけ、知ってからそれを自分の認識として行けよ、の意味合いであると思える。

 次の文。
“肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山あるから、改心六ヶ敷いなれど、我慢してやりて下されよ。 時節には時節の事もいたさすぞ。 時節結構ぞ”

 文中に三回登場する“時節”、時と節、これはアセンションの時期と、霊的成長度の高低においての区分けを節目、と称されていると思える。 
これを踏まえ“肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山ある”というのは、“上”が霊的成長度の低い人間、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が死ぬのを容認するしかないし、これは、自分たちの事象の“創造”においての自己責任、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、自分の利益のために“力”を使い奪い合っている、その結果として新で自省(胸の磁性“十”)するしかないということ。 それで死んだ人間は地獄で自省(胸の磁性“十”)をする、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を観て自分の在り方の間違いを見出す、それを行わねば“改心”が出来ないし、“六ヶ敷い”(むつかしい)のだと言われているが、こういった人間の方が大多数なのでこの事も述べねばならないし、この地獄での過程も自身の霊的成長には必須、だからこそ“我慢してやりて下され”である。

今回はこれくらいにしときまんねん。




日月神示” 風の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日本の国に食物なくなってしまふぞ。 世界中に食べ物なくなってしまふぞ。 何も人民の心からぞ。
食物無くなっても食物あるぞ、神の臣民、人民 心配ないぞ、とも食ひならんのざぞ。心得よ。
二月十六日、ひつ九のか三。

 すでに解釈した、風の巻 第一帖にこんな文言があった。
“人民食べるだけは与へてあるぞ。 貪(むさぶ)るから足らなくなるのざぞ”
 あえて述べるまでなくこれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が自分の損得しか考えないで奪い合いをすることを指し示したいいようであるが、第十一帖の文言“日本の国に食物なくなってしまふぞ。 世界中に食べ物なくなってしまふぞ”、こうなってしまうのはお前たちの心の在りようなのだという意味合いで“何も人民の心からぞ”と述べられている。 要は自分たちだけ利益を得て自分たちだけ見せかけの幸せになりたいという心(靈)を自分で何とかせよ、諫めよ、それが次の段階に移行する資質の最低条件みたいなものであるからである。
 よって次の段階に移行する資質の在る人間は、アセンションに伴う醜い事象に巻き込まれて死ぬことはない、そういった人間を“上”は殺さない、殺させない、その意味合いで“食物無くなっても食物あるぞ、神の臣民、人民 心配ないぞ”と言われており、最後に“とも食ひならんのざぞ”というのは先に述べた奪い合いのことで、奪い合う世界は必ず崩壊するものである。 これをよく認識としておけ=“心得よ”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

日月神示” 風の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 



今回も、風の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。 よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。
神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。 改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。 この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。 実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。 五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ。 慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ。
二月十六日、ひつ九のか三。

 冒頭の文。
“日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。 よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ”

そのまま読んでも意味は通じる。 だが、風の巻 (カ千の○キ) の“カ千”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”(シンクロトロン放射)
なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした生命は神の思惑を顕現するがその際の発振、発信は胸の磁性“十”と頭のシンクロトロン、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、その“○キ”は、その心(靈)、霊○と、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、進化した生命の事象の“創造”、“上”と感応しながら現津(あきつ)、観察され得る事象を顕現していくの意がある。

これを考えるから次のような解釈をする。
まず“日本の人民”は日本人だけという意味合いではなく、日は太陽、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで霊的成長を目指す人間、あるいはそれをさせようとしている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在を含む、本は“本津宮”(もとつみや)のそれ、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)とそれを強調する下の横棒━(よこぼう、水平磁場)、艮(うしとら)の金神を名のる霊団は、最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯がある。
それで“日”“本”を観るならばこの二つの要素、太陽凝視=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みと、自省(胸の磁性“十”)の“行”、これを教えるために艮(うしとら)の金神は“日月神示”を書かせ、多くの人間の霊的成長をもくろんだと言いうる。
だが、太陽凝視に関しては長時間の太陽凝視をさせたくない存在が不食云々などのご利益を強調してそれを求めさせている。 確かに食事をしないで“行”をするという方法や段階はあり得る。
だが、長時間の太陽凝視、例えば○○○大先生は真夏に十時間以上太陽凝視をすることが多々あるが、食わないで長時間の太陽凝視をしたならば、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)の妨げになることを以前このブログで述べたし、この意のことをS会=紫光会の交霊会でも聞き及んでいる。 真摯に太陽凝視を行い、その意味を追求しようとしている人はこれを参考にされたらよいし、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)のような存在は、人に飛躍的な霊的成長をさせたくないので、不食やダイエット、はては超人になるなどという間違った情報を流布させているものであるが、それを“餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか”から感じ取れるものである。
これに続く“よほどしっかりと腹帯締めおいて下され”は、腹の心(靈)、自我、自我が肥大した人間ほどご利益に引っかかりやすい、だから自我の肥大を諌めよの意であり、また、腹のエネルギーは左回転して大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)、“慈悲”と“慈愛”、こういった心(靈)になっていくことを示している(これは○○○大先生の未刊行の著書、<7>で述べられている)、その意味合いで腹のエネルギーを“締めおいて”と称されている。

次の文。
“神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。 改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。 この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ”

 最初の“神には何もかも仕組てある”は、霊的成長度の高低における区分け、アセンションそのものが神の計画であることを指している。 
これに続く“改心出来ねば気の毒にするより方法ない”は、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、これらすべて“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、これが出来なければたった今の平均的地球人の霊的成長度(自我の確立=固定化、自我の肥大)より上に行けないからであるし、“待てるだけ待ってゐる”は、艮(うしとら)の金神が先に述べた“日”“本”、これを教え多くの“人民”が次の段階に移行しうる資質を獲得する、これをもくろんでいるからこういう言い方をされるものである。
これに続く“月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護”これは“月”が砌(みぎり)、“日”が日足(ひたり)であり、砌(みぎり)の極性、自分の思惑を事象へ顕現、それは自我という心(靈)がなければならないが、これを)に関して“月の大神様が水の御守護”と称し、“日の大神様が火の御守護” これと同じ表記が
雨の巻 第三帖にあるので解釈とともに以下にコピペしておく。

“天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
これは“上”=“天から”“ミロク”、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を顕現した生命、の意、を示した言葉であるが、それが“みづの御守護遊ばすなり”、この“みづ”は、稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)のことであると思える。 
 そして“日の大神様は火の御守護なさるなり”=太陽からの振動は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と点二つ(回転を示す)で構成された“火”は、自らのローレンツ力
ローレンツ力 で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め肉体が持つ円形加速粒子機の構造で“一二三”のオーラを発振、発信して事象の“創造”をする、それが“火の御守護なさるなり”であるし、ここまでの、進化の仕組み、進化の理由と根拠、生命の存在の意義と意味、生命と“創造”の“主(ヌシ)”の関係、これらを“日月神示”で幾度となく述べられ、それをみずからのにんしきとせよ、という意味合いで“此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らん”と称され、この“判らん”に当たるのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)である。

 なお、日足と砌(ひたりとみぎり)については、
天つ巻 第三十帖を読んでいただき参考にされたい。

“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ…中略…火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ”
この“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ”って言われているとおり、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、これは、肉体の腹と胸であり、心(靈)の動きとしては、自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”を発現していく様子を言い表しているって解釈をした。
そしてそれは、愛(炁)の顕現の順番でもあるし、地球人の心(靈)の変容は、今後=アセンション後にむけて、こうあるべきだからこそいろんな宗教で、たとえば汝の隣人を愛せよとか“慈悲”と“慈愛”を説いたと思われ、それぞれ言葉が違うだけで、それは結局、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度、“日月神示”なら腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、その“上”が、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”ってことになる。
そして自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の発現にいたるには、どんな霊的存在が憑依して通信を送るのかが大事であるし、それは言うまでもなく“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がかからねばならないからこそ“いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐる”って言われている。
 ほんでから“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)がかかれば、それは自我の肥大になり、心(靈)の動きは脾=“思う、憂う”から肝=“いきり立つ心(奴と心)”になり、それは“上”から見たならば右回りの回転になる。

 
 それでこれに続く“お土つくり固めたのは、大国常立の大神様”、この“お土”は肉体のこと、“大国常立”は、大が人間が手足を広げた様、“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す、それが常に立つ、これは平均的地球人より上の霊的成長度を指す意味合いである。
 よって“この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ”、肉体を持った心(靈)、そして日足と砌(ひたりとみぎり)、ことにここで述べられている日足と砌(ひたりとみぎり)は霊的成長の法則性、カテゴリーが違うがローム太霊講話集解釈で述べた“法(のり)”進化に伴う絶対の法則性、これが現地球人の場合、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の“行”、こういった心(靈)になっていくことを示し、これをしなければ“此の世、くにゃくにゃ”、これは先に解釈した“餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか”と併せて考えていただきたいものである。

 次の文。
“実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。 五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。 出来ねばお出直しぞ。 慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ”

 “実地”は、“創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションに伴う事象、その後、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のいない世界、これを示すためたった今の事象はやってきたことの結果、ことに程度の低い人間が行ってきたこと、それは「馬脚を現す」、これは言うまでもなく、本性をあらわす、ボロを出すの意であるが、これまでうまく人をごまかして漁夫の利を得てきた人間が神の思惑通りではないからこそ“神の咎め”を受けるものであり、こういった事例は年年歳歳、馬鹿らしいと思えるほど増えているものである。 こういったことを観て何を思うべきか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いは欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかであり、それは神の思惑通りではないからこそ“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)するが、そんなレベルでは次の事象に移行する資質などないのであり、低い心の動きの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を観たならばそれを反面教師として自分を諌めるべき、その意味合いで“実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さす”、これは程度の低い人間の批判ではなく、自分たちも自我を持っているから自分の在り方を間違えるとこうなってしまうのだ、ということを知れ、自我の肥大を諌めよ、の意味合いである。
 これに続く“五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさす”、これは年齢のことも言っている、ある程度の年齢になったら分別を持て、自分の低い心(靈)くらい諌められるようになれ、でもあるが、“五”は糸巻の象形文字、進化した生物は神経が密になりそれ由来のローレンツ力の強化があるからこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を下等な生物よりも取り込むことが出来得るのであり、“十”は人間が持っている胸の磁性“十”であり、“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)であるし、“六”は爻部(こうぶ)、交わるの意味であり、これは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成された文字であるので、生物として進化してきた人間、“日止、霊止”(“上”からの振動を止める意)のことを指した表記であり、これに続く“いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさす”の“いろは”と“一二三(ひふみ)”は、ここまでの“日月神示”に幾たびか登場しているが、“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、これも含めて“いろは”に関しては、
キの巻 第十一帖が解りやすいので以下にコピペしておく。


“皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか”

“唱えさせよ”は、受発信のこと、“五柱”の五は糸巻の象形文字、神経が密になった様、コイル線の巻数が多い様子、磁場の強化で、
(“慈(しげる)”の意味でもあり、心(靈)(ヒ)が“慈(しげる)”ならば、“慈悲”と“慈愛”、すべての事象を慈しみ悲しみ慈しみ愛しむ(いつくしみかなしみいつくしみいつくしむ)ということになる)
磁場の強化があってこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めて加速して発信するの意。
(それがまた“畐”の意味でもある)
(“畐”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記“一”を吸収する、取り込む意の口、そしてそれは頭で高い振動を止めるから、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の表記がされている)

 そして“八柱”は、人が持つ“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことを指し、“十柱”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)のこと、シンクロトロンの構造を指す。
 そして“五十連(いつら)ぞ”の、“五”と“十”は先に述べたことを強調するものであり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”という意味合いのことでもある。
 そして進化した生命が成すこと、それが“意露波(いろは)”で、“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、

雨の象形文字 解字 

そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されているものである。


 また、
松の巻 第十帖でも“今度はいろはの世に戻す”の表記があり、その際に以下のように解釈した
 
この“いろは”は、ひらがな表記なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の目線による“観察と認識”であり、“イ”“ロ”“ハ”それぞれの意味は、
“イ”は、生気生命の発生力
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)
“ハ”は、生命発現成長の音義
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命(生きる使命=存在理由)を“創造”し、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であるが、たった今はそうではなく=人間と神の関係性などを感じうる事象ではないので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍する事象なので、“今度はいろはの世に戻す”、今後=アセンション後は違ってくるのだという意味合いである。


 これに続く“出来ねばお出直しぞ”は、次の事象に抗する資質を持ちえないならば、今の奪い合いの地球のような星で出直せよ、であり、“慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ”、これは、自我の肥大による勘違い、アセンションにご利益しか求めない、時期が来ればアセンション出来て皆幸せになれる、など、こんなバカげた勘違いをしている人間は多すぎるので“慢心、早合点 大怪我のもと”であり、これに続く“今の人民、血が走り過ぎてゐる”、これは、血の気が多い、詳細を観ずに物事に入れ込んでいる、そして興奮しやすい、あるいはすぐ激昂する、いわゆる低い情動中心の心(靈)のダメな点の指摘であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間は“ほんとう”を求めることに対して慎重に鑑み、その上で事象の“観察と認識”をして自分の在り方を見出すべき、その意のことを“気付けおくぞ”と称されていると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



日月神示” 風の巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、風の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。 人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。 肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。
今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。 このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ。
和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。 一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。 神いらん世にいたして呉れよ。
二月の十六日、ひつくか三。

 この第十三帖は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観や幸福感、既成概念、それが低すぎる、よって認識を改めよ、そうしなければ次の段階に移行しえないのだというのが要旨である。

 これを踏まえて冒頭の文。
“楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。 人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。 肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ”

 文頭の“楽してよい御用しよう”、こんなことを思うこと事態がどうかしているとは思うが、これが一般の人間の当り前なので、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を観させる手法は横行しているものであるし、ご利益を強調して金をとる“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))も台頭しているのがこの事象。 また“役員づら”に限らず、今、金をたくさん集めて持っている人間、政治家だろうが商売人だろうがこれらは無知な人間をだましている、それはローム太霊講話集第五十七話の“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”でもあるし、それはまた程度の低い存在との感応、自分と感応する存在が同じような心(靈)しか持っていない=“悪の守護神に使はれてゐる”である。
 だがそんなことはいつまでも“上”は許しておかないものであり、先回も述べたようにたった今「馬脚を現す」人間は多い。
 それで、今後=アセンション後の事象は、自分が誠実に何かを為そうとしたことに対してその結果が出る、まっとうな事をすればまっとうな事象に遭遇する。
 これに相対し不誠実な人間は(通貨としての)金と形骸の名誉、本能由来の欲望の満足くらいしか得られず、結果としてその人の一生は霊的成長度が低いまま死に至る。 死に至ってから自省(胸の磁性“十”)しても次の段階に移行しえない、移行出来得る資質というものがないといいうる。
 上記の二つの結果、人間がやることはこの二つしかないが、これは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対する“正当な報酬”である。
 これに続く“人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ”、これは自我の肥大した人間の縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)による国家間の戦争も含め、自分さえよければよいという思いがあるからこそ他者を殺そうと思う、これ事態が点で霊的成長度が低い、奪い合い、保身、これらは霊的成長度の低い心(靈)の発想であり必ず殺し合いになるもので、殺し合いをもくろんでいる“悪の守護神”は、恨みの連鎖の霊的干渉の増大で人間を滅ぼそうとしているものであることを幾度となく述べてきたし、この文に続く“肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ。いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ”とは、先の“人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふ”この恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を示している。
 これに関して、平成二十七年10月12日の○○○大先生の読者会で行ったディスカッション、そのまとめが解りやすいので以下にコピペしておく

 テーマ 
 アメリカで多発する銃乱射には、どういった霊的干渉があるのか

 これは、アメリカが戦争でたくさんの人間を殺してきたからであるといえます。 
 正確な数字はわかりませんが、戦後、アメリカが関与した数多くの戦争、朝鮮戦争、パナマ侵略、ベトナム戦争、ドミニカ共和国侵攻、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、レバノン空爆、リビア空爆、ニカラグア侵攻、パナマ侵攻、イラク湾岸戦争、ソマリア侵攻、ハイチ侵攻、スーダン空爆、アフガニスタン空爆、侵攻、コソボ侵攻、リベリア侵攻、イラク侵攻、ハイチ侵攻、これらでアメリカが殺戮した人数の合計は1000万人以上で、その内の九割が民間人だそうです。
 当然のことながら殺された人間は殺した人間を恨む、これはローム太霊講話集の第十話が解りやすいです。
何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである。
 それで、銃乱射の実行犯が、自我の肥大をしていて、自我の確立=固定化の進化過程であるから憑依現象が起きやすい、という要因があり、当然のことながら自分に起きている憑依による殺意を自分で諌める心(靈)の発現が弱いからであるといえます。
 余談ですがもうひとつ、ローム太霊が述べた“その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う”こととして、戦争から帰還した人の自殺が増えていることもアメリカでは報道されており、これはアメリカだけではなく日本の自衛隊でも同じことが起きています。
 どんどん悪の霊団に加担する霊を増やしているということになります。

 次の文。
“今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。 このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ”

 “今迄のやり方”は先に述べたとおり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観や幸福感や既成概念、低い思想と低い行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のことで、今後=アセンション後はこれも先に述べたとおりまっとうな事をすればまっとうな結果としてまっとうな事象に遭遇し、これは自分のまっとうさに対する“正当な報酬”である。 これを為すため岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の発現と強化をする、これ自体が現地球人の霊的成長度より“上”であるし、この例的成長度の心(靈)は奪い合う心(靈)を諌め、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者だけになっていく。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い心(靈)、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、こういったことをする人間がいなくなるのが文中の“善一筋”の第一歩であるが、“善”はいずれ“絶対の善”という認識になり、それが顕現した事象になっていくのが高い事象と言いうる。
 文末の“与へる政治で見事建替”は、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の台頭を指し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で構成されているたった今の政治を揶揄した言い回しである。

 次の文。
“和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。 一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。 神いらん世にいたして呉れよ”

 ここまでの解釈をお読みになり理解できたならあえて解釈の必要の無い文であるが、“和合”は、奪い合いや保身、殺し合いに相対した言い回し、“一家揃ふたら”“一国そろたら”も同義、そうなったならば“上”が認め“上”が援護する、それを“どんなおかげでもやる”“どんな神徳でもやる”、先に述べたように自分の心(靈)が育ち、自我を諌めて(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となり、まっとうな心(靈)と行動でまっとうな結果を“正当な報酬”として得ることを“おのづから頂ける”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していったなら当然の事象であり、これに相対してたった今の事象は腐った心(靈)が腐った息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で腐った事象を創造している、だから“上”の介入があるものだが、こんな風でなくなったならば“上”は介入しなくてもよい、という意味合いで“神いらん世にいたして呉れ”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



日月神示” 風の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、風の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり。 世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ。 
この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。 世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ。 金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ。 この巻かチの巻。
ひつくのか三、二月十六日。

 冒頭の文。
“新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり。 世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ”

 先回も述べたが、神と人間、“上”と“下”、“上”の介入、これが何を“下”である人間に指し示すのか、それはたった今の事象は“下”(低い心(靈))である人間の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”で腐った事象になっており、その息吹している人間の自己責任、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉を受けているが、それに気づかない人間が圧倒的多数、これはもうどうしようもない事態である。 
言うまでもなくほとんどの人間の神に対する認識は低く、神を意識していくならば自分はどう生き、どう在るべきか、など考えたことのない人間、これは霊的成長度の低さを示し、事象の観察に対しても大して意味を見出さない、○○○大先生は著書で「すべての事象は自分の在り方を示す」と述べたが、この文言の意味合いを理解できる人間はほとんどいないだろう…というのが現状。
 だが今後=アセンション後は、今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人間だけになり、そこにおける常識とか既成概念は神と人間ということを鑑みた人間だけであるから、だからこそ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方や、自分の生き方、在り方、自我を諌め(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となり“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とする人間だけになっていくならば、これ自体が神の思惑の顕現であり、そこには“神の咎め”はもう必要でなくなるので、それを“新しき世とは神なき世なりけり”と称され、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人間は“人(が)神となる世にてありけり”であり、これが生命(生きる使命=存在理由)としての人間のまっとうな姿、それは神格化の方向性でしかないので、“世界中 人に任せて神々は楽隠居なり”であり、先回の第十三帖の、“神いらん世にいたして呉れ”、これと同義でもあり、同じく第十三帖の“善一筋”、いずれは“絶対の善”の顕現ということになっていくが、そうなったならば重複するが“上”の介入は不要、人間自体が神の思惑の顕現を果たすからそれを“人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ”と称されている。

 次の文。
“この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。 世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ。 金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ”

 文頭の“この世の頭(かしら)いたして居る者”、これはたった今の腐った事象において形骸の権威を示している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のトップに相当する人間に対する言い回し、こういった人間は“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”に至るには、相当“神の咎め”を受けなければならないとは思うが、艮(うしとら)の金神は多くの人間を次の事象に移行させたい思いがあるからこそ、こういった言い回しをしていると思うし、この文言を読んで理解したならば、このトップに相当する人間の低さを解り、反面教師として自分の在り方を考えるべきであり、たった今の事象はこういった人間が権力をふるっているからこそ“下の苦労いたすが長うなる”と称されていることに気付くべき。 またこういった人間に対し“神の咎め”を与え、これは先に述べた上の介入であり、人間に人間の在り方を示唆するためのことであるが、これに関して“此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか”とまで言われている。
 これに続く“世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下されよ”の“この方”は、
第一帖の“ 風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ”の“風 第一 (王の世ローレンツ力)   (おう)”に相当し、

風の巻 第一(おう、をう、わう、ローレンツ力) 

これは、太陽の象形文字と|(たてぼう、こん)で構成された表記だが、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしてその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で事象の“創造”をしていく、そういった人間を指すものであり、今後=アセンション後の事象の人間の指標たるものとなれ、の意味合いで“世界中のことざから、この方 世界構ふお役ざから、ちと大き心の器持ちて来て下され”と言われている。
 これに続く“金も銀も銅も鉄も鉛も皆出てござれ。 それぞれにうれしうれしの御用いくらでも与へてとらすぞ”、これはたった今の人間の価値基準を揶揄した言い回し、金だろうが銀だろうが銅だろうが鉄だろうが鉛だろうが、たった今の人間はその価値を金額で判断するが、それぞれ種類が違うだけであり、それぞれに価値があるので、その低い認識由来の価値基準は間違っているのだと示唆した言い回しであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思う価値基準は(通貨としての)金と権力由来のことが多いが、今後=アセンション後は(通貨としての)金の無い事象になるし、そうなったならば自分の利益のために“力”を示す程度の低い人間はいない、形骸の権力を示す馬鹿者もいないものであり、それだからそこには(通貨としての)金という報酬はなく、一切の事象において、まっとうな“力”を示す、行使する、そうしていくならばまっとうなものが返って来る、ということを示しており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値基準、既成概念や常識はてんで低い認識なのだ、と言われていることに気付くべき。
 
 最後の文。
“この巻かチの巻”

このひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“か”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
の意があるが、これを人間側から観たなら、という意味合い。 そして、
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
であるので、“かチ”とは、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)の“力”を事象に顕現していく、事象の“創造”をしていく、ただしそれは今後=アセンション後において、まっとうなものであるし、たった今がまっとうではない、だから“かチ”(勝ち、価値)ではないのだ、ということを暗に示しているものと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



Kellyさんが“日月神示”風の巻の解釈を終えてから…感じた事。



 風の巻、カ千の○キ、この“カ千”の表記の意味は以下のとおりである。 
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”(シンクロトロン放射)
これは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした生命は神の思惑を顕現するが、その際の発振、発信は胸の磁性“十”と頭のシンクロトロン、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、これ自体が平均的地球人の霊的成長度より“上”を示すものである。
そして“○キ”は、その心(靈)、霊○と、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
である。
 よって“カ千の○キ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命、“慈悲”と“慈愛”と自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持った存在が“力”を示し、事象の“創造”、“上”と感応しながら現津(あきつ)、観察され得る事象を顕現していくの意である。
 このことそのものを示す表記が先回の第十四帖、“新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり”、今後=アセンション後は、今までのような“上”の介入が必要な事象ではない、例えば“神の咎め”を受けて自分の在り方を問うということもなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)が事象の“創造”をするにあたっては“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使は“善(神格化の方向性と智性の受信)”でしかないし、そこにおいても“上”があえて“力”を加える必要もない、いうなれば人間自身が神の思惑を顕現していく、だからこそこの文言中の“神なき世”であり、“人(自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして)神となる世にてありけり”である。

 今述べた風の巻の要旨、この点で印象に残っている文言を以下にピックアップする、解釈の詳細についてはそれぞれの帖をご覧いただきたい。

 まず、人間が神の思惑を顕現していく、霊的成長を果たす、そういった表記が、第一帖、
“ 
風 第一 (おう) (おう)の世 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世にせなならんのざぞ、今は 風 第一 (をう、わう) (をう)の世ざぞ、 風 第一 (をう、わう) (わう)の世  風 第一 (おう) の世となりて、 風 第一 (おう)  (おう)の世に ローレンツ力 入れて 風 第一 (王の世ローレンツ力) (おう)の世となるのざぞ…中略…  風 第一 (王の世ローレンツ力) の世輝くと夜明け 第一 灯台表記   となるのざぞ、夜明け 第一 灯台表記   と申して知らしてあろがな。 役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか”

風の巻 第一(おう、をう、わう、ローレンツ力) 

これは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして人間自身が太陽の振動をこの事象に顕現せよであり、同じく第二帖の以下の表記、

風の巻 第二帖 

これは自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”自省(胸の磁性“十”)、という心(靈)になって“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信が大きく盛んになるさまを示している。

 そして第三帖においては、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで心(靈)と肉体が変容するさまを“愈々の大建替は国常立の大神様、豊雲野の大神様、金の神様、竜宮の乙姫様、先づ御活動ぞ。 キリギリとなりて岩の神、雨の神、風の神、荒の神様なり、次に地震の神様となる”と称し、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則であるから“今度の仕組は元のキの生き神”(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))なのだ、そして進化した生命が次の事象を“創造”するのだ、と言われている。

 次の第四帖では
“岩戸開けたり(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”自省(胸の磁性“十”)の心(靈)となり)御光の、二二(ふじ)(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)に九(こ)(○ 九 十 の“九”)の花どっと咲く、…中略… 光の道を進めかし。ウタ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命を生み出しさらに進化して池)のまどひつくれ”
と言われている。

 第五帖では、たった今の人間と今後=アセンション後の生命との対比を示した文言があり、それは
“神々様に届く行で申せよ。こんなよき世は今迄になかりたのぢゃ、膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ(程度の低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は)聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが”、
この文言中の“マコト”
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
“コ”は、停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるならば、それは真固止であり、他者から進化した生命を観るならば“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であり、これは不誠実ではないという意味合いも含み、さらに“日月神示”表記の○ 九 十 これは画像で意味を示す。

○ 九 十(まこと)の解字 

 それで第六帖ではこの“マコト”をひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記にしてその意を強調した表記があり、たった今の人間の認識の低さ、それを自覚せよ、と示されているものである。
“神の国治めるのは物でないぞ、まことざぞ、世界治めるのもやがては同様であるぞ、人民マコトと申すと何も形ないものぢゃと思ってゐるが、マコトが元ざぞ。 タマとコト合はしてまつり合はして真実(マコト)と申すのぢゃ”

 次の第七帖では、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識の低さを以下のように指摘している。
“神にすがり居りたればこそぢゃと云ふとき、眼の前に来てゐるぞ。 まだ疑うてゐる臣民人民 気の毒ぢゃ、我恨むより方法ないぞ。 神の致すこと、人民の致すこと、神人共に致すこと、それぞれに間違ひない様に心配(くば)りなされよ。慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んで居らんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れん事になるのざぞ、…中略… 天の神も地の神もなきものにいたして、好き勝手な世に致して、偽者の天の神、地の神つくりてわれがよけらよいと申して、我よしの世にしてしまふてゐた事 少しは判って来たであらうがな”

 第八帖では、
“世界中自在に別け取りしてゐた神々様、早う改心第一ぞ。 一(ひとつ)の王で治めるぞ。 てん詞様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、天二(てんぷ)様のことざぞ”
と言われており、“別け取りしてゐた神々”、これを“世界中自在に”というのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、この感応が、低い霊的成長度の心(靈)は低い振動としか感応しない、“行”やって“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、高い振動と感応する素地を持った心(靈)は高い振動を止められる、の意である。
それは“神々”=“上”からの振動、これを“世界中自在に別け取りしてゐた”=個々の霊的成長度の高低において感応していたの意であり、そして“自在に”は、自由自在の意味合いではなく、自分の存在の意において=個々の霊的成長度の高低において、あるいは霊的成長度の高低における自分の在り方によって、“上”からの振動と感応するその度合いが違うのだ、の意味合いである。 
そう思う根拠としては“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を、だれもが均一に止めていない、だからこそ霊的成長度の高低があり、低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低い事象しか想像しえない、それがたった今の事象であることは幾度となく述べてきているが、 それを“早う改心第一”と述べられているからであり、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への移行のステップで、これが出来ないのは次の事象に移行する資質がないからこそ霊的成長度の高低における区分け、いわゆるアセンションという事象がやってくるのだが、アセンション後は、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者が混在した事象、世界ではなく、ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)だけの場(フィールド)になるからこそ、“一(ひとつ)の王で治めるぞ”であり、この“一(ひとつ)の王”は、今後=アセンション後における指導者的立場の心(靈)と解することもできるが、やはり“一”=智性=1番目のオーラ、これを備えた心(靈)、たった今の人間は“一”=智性=1番目のオーラが小さく、智性(神性)の顕現が大したことがないので、今後=アセンション後は智性(神性)で統括された事象になるの意であると思え、これに続く“てん詞様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、天二(てんぷ)様のことざぞ”の、“てん詞様”=“上”と感応して高い振動を止める心(靈)を備えた人間の意、これをまた“天千様”、“天”=“上”と感応して丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”で構成された“千”が当てられており、“天二(てんぷ)様”は、“上”と感応するべく肉体、それを“二”で示していると思う。 そして“この方シチニの神と現はれる”のカタカナ表記は、

“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)

なので、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をはぐくむ高い振動は弱い光かのように感じる、たった今は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の低い部分としか感応していない心(靈)が台頭して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それによってこの事象は成り立っているのだが今後=アセンション後はそうではなく、今に比べ弱い光化のように感じられる高い振動、これを止めた心(靈)が事象の“創造”を、“ニ”の、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ こうやってちょうど良い調整を行いながら事象の“創造”を果たしていくの意である。

 第九帖では“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の愚かさを指摘する文言があった。
“土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。 大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ”
“人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。 まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。 神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。 てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ”

 第十帖では、今後=アセンション後のことが示されている。
“これからは、人民磨けたら、神が人民と同じ列にならんで経綸(しごと)致さすから、これからは恐ろしい結構な世となるぞ”
そこに移行しうる資質を獲得せよの意で、
“肉体あるうちには、中々改心は出来んものぢゃから、身魂にして改心するより外ない者 沢山あるから、改心六ヶ敷いなれど、我慢してやりて下されよ”

 第十二帖では、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む存在のことを述べている。
“日本(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、自省(胸の磁性“十”)(“本津宮”(もとつみや))すること)の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか”

 第十三帖では、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が生み出した恨みの連鎖の霊的干渉について述べている。
“人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。 肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。 魂は鉄砲では殺せんのざぞ。 魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ”
 同じく第十三帖では、風の巻のここまでの文言を観たならば自分はどう在るべきか、どう生きていくべきか、何を自分の思想の指標とするべきか、について、
“善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ。和合せんとまことのおかげやらんぞ”
この“善一筋”、この意味が何を示すのか、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間がいない世界が次の事象だが、そこには自分の損得のために欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをする人間はいないし、恨みの連鎖の霊的干渉の消失していくから事件や事故や災害や病気などもなくなる、こういったことがたった今の事象と比較して“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”であることは幾度となく述べてきた。
 それでたった今の人間の善と悪の認識は低すぎる…というか自分たちにとって都合の良いものに成り果てているものであり、そんな認識では次の事象に移行しえないから、第一帖では
“同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな”
と述べられているものであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていけばいくほど“善一筋”になっていくものであることを知るべき。

 それで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命が“創造”する事象、これは重複するが、冒頭で述べた第十四帖の以下の文言、
“新しき世とは神なき世なりけり人神となる世にてありけり”
これ自体を目指すべく、このブログに霊縁あった方は真摯に自分の心(靈)を観てその高さと低さを判別し、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、さらにできるようならば“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、ことに○○○大先生の読者会のメンバーの方々には、厳しい“ひつく”“日津久”=太陽凝視を頑張っていただきたいものである。

 次回からは、岩の巻 (一八の○キ)の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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