“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その一”



 今回から荒の巻 第一帖の解釈を行うが、荒の巻は一帖のみであり、かなりの長文である。 よって数回に分けて解釈を行うこととする。
 それで荒の巻は、ア
渦巻き 左回転 の○木であり、荒(アレ)、ア渦巻き 左回転   の意味合いは、先の岩の巻の第十一帖の表記である“いよいよア渦巻き 左回転 九(あらく)なって来るのざぞ。 因縁みたま結構となるのざぞ”この “ア渦巻き 左回転 九(あらく)”の意味と同義であり、それは
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす の意、 
“ 
渦巻き 左回転 ”は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、
“九”は ○ 九 十の“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、神のひな型と言いうる生命(生きる使命=存在理由)の最終段階(卆(そつ、卒業の卒の異体字))としての人(日止、霊止)の意、もう一つ付け加えれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、地球上の生物においてこの“上”からの振動の一番高いものを獲得しうる目上(めうえ)の脳の発達があるのが人間であり、これにより智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を発現してその心(靈)を事象の“創造”に行使する、これが次の事象の“創造”を担うべき資質、その獲得とその所有、これ自体が古神道の“日止、霊止”の意味合いである。 
それで今の地球人の平均的な霊的成長度、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より高い心(靈)を発現したならば、これからは風の巻と岩の巻で登場した表記の“善一筋”、いずれは“絶対の善”の顕現をする心(靈)、その心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を間違えない(これに相対し今の人間の大半は間違えておりそれゆえにこの事象は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が蔓延して腐りきっている)、神の思惑を顕現していく資質のある心(靈)、その意で“因縁みたま”と称され、今後=アセンションにおいてはその“因縁みたま”を対象に“結構となる”と言われておりそれは“上”の思惑に適うものであるということ。 
要約すれば、今後=アセンション後に移行すべく資質を持った進化した生命が、自らが“観察と認識”をする現津(あきつ)、観察され得る事象を創造する、そこに進化した心(靈)ゆえの思惑を顕現していく、また事象の“創造”は肉体を持った心(靈)が観察している現実=現界、これが荒い振動で構成されているゆえに“荒”と示され、これまでの“日月神示”にも“荒の神”という表記があったが、高い思惑を顕現していくのは、高い振動の低振動化の意味合いがあり、それゆえの“荒”の表記であると思えるし、ここまで述べてきた意味合いをこれから解釈する荒の巻では、詳細に述べている感がある。 
そして○木の○は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、木は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)なので、進化した心(靈)そのものを○木と称されていると思える。
荒の巻 第一帖の原文は以下の通り

言答開き成り成るぞ(イワトビラきナりナるぞ)。 誠言答は永遠ぞ(マコトイワトはトハぞ)。 瞳ぞ(ヒトミぞ)。 御位継ぐ理の始ぞ(ミクライツぐミチのハジメぞ)。
 字絶対の世始出づぞ(ジゼッタイのヨハジメイづぞ)。 二一開き(ツキヒヒラき)、結ぶ玉に祝うぞ(ムスぶタマにイワうぞ)。 読む開き(ヨむメヒラき)、字出づ理に成り(ジイづミチにナり)、結ぶ玉に弥栄開く(ムスぶタマにイヤサカヒラく)大和心の道ぞ(ヤマトゴコロのミチぞ)。 道開く理の極みぞ(ミチヒラくリのキワみぞ)。 本能秀(生命)月日の極み成る(ホンノホツキヒのキワみナる)読む言の極み(ヨむコトのキワみ)。 弥栄に真問ひ極む世(イヤサカにマトひキワむヨ)。 那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)。字の絶対継ぐ意味(ジのゼッタイツぐイミ)弥勒弥勒となるぞ(ミロクミロクとなるぞ)。 根っこ理ぞ(ネっこミチぞ)。 誠ざぞ(マコトざぞ)。 弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)。 玉秘出づ理ぞ(タマヒイづミチぞ)。 玉基理ぞ(タマキミチぞ)。 通基秘理(ツキヒミチ)、極み成る識道(キワみナるシキドー)、本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)。 不見の実主ざぞ(ミズのミズざぞ)。
 
ローレンツ力と ○ ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力    ローレンツ力と ○ローレンツ力 ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力    玆の理(ココのリ)、字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)   渦巻き 左回転 渦巻き 左回転 (大スサナルのハタラキぞ)。 南無(名務)荷い開く弥勒(ナムニナいヒラくミロク)。 日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)。  字の絶対開き(ジのゼッタイヒラき)、那美(名美)開くぞ(ナミヒラくぞ)。 字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)。 富士(普字)に花咲く時ざぞ(フジにハナサくトキざぞ)。 開く結びの命(ヒラ くムスびのイノチ)、字開きに字(ジヒラきにジ)、開き(ヒラき) 実るぞ(ミノるぞ)。 山にも地にも(ヤマにもチにも)万劫光の花開くの理ぞ(マンゴーコのハナヒラくのミチぞ)。 光の経綸(コのシグミ) 四八音となるぞ(ヨハネとなるぞ)。意露波理ぞ(イロハミチぞ)。
 人佛の極みは(ヒトホトケのキワみは)、 命の光普き(イノチのヒカリアマネき)、智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)、理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)百霊継ぐ文字の道(ヒヤクレイツぐモジのミチ)。生(基)の極みたり(セイのキワみたり)。
 面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)、文道とどめたり(フミミチとどめたり)。数の始の絶対の理ざぞ(カズのハジメのゼッタイのミチざぞ)。 字(ジ)、絶対の理(ゼッタイのリ)。 誠母(親の古字)の秘文(マコトモモのヒフミ)。 霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)、 国々晴れ渡るぞ(クニグニハれワタるぞ)。 日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)、網母成る極みなり(モモナるキワみなり)。 言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ) 人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)。 読みこれぞ(ヨミこれぞ)。
 答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)、伊勢世の始め(イセヨのハジめ)、普字鳴戸(成答)の経綸動ぞ(フジナルトのシグミイゴクぞ)。 字に成り成りませる光の神には(ジにナりナりませるヒカリのカミには)、何事も弥栄弥栄ざぞ(ナニゴトもイヤサカイヤサカざぞ)。
 このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)、御しるしのヨ八音ざぞ(みしるしのヨハネざぞ)。諏訪 麻賀多 榛名 甲斐(スワ マガタ ハルナ カヒ)玉和す理ざぞ(タマワすミチざぞ)。
 字の言座(ジのコトクラ)、名(言波)の極ぞ(ナのキワミぞ)。 意志の極み成るぞ(イシのキワみナるぞ)。 道は道理であるぞ(ミチはドウリであるぞ)。 字開き(ジヒラき)、務に結び(ムにムスび)、咲く花の結び秘文ぞ(サくハナのムスびヒフミぞ)。 普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)。宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)。 祝詞の心(ノリトのココロ)、はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)。 真心響く誠ぞ(マゴコロヒビくマコトぞ)。 言ざぞ(コトざぞ)。 細工隆隆(サイクリュウリュウ)読の極み立つ世ぞ(ヨミのキワみタつヨぞ)。
 数の極み神ぞ(カズのキワみカミぞ)。 数の極み大素佐成(大数叉名立)(カズのキワみオースサナル)五十の極み(「五十」のキワみ)継ぐ印し給ひて(ツぐシルしタマひて)、幹(実基)字(ミキジ) 完し(マットウし)、完し(マットウし)、山(屋間)の文読み(ヤマのフミヨみ)、皆喜び(ミナヨロコび)、荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ) 普字軸の世(フジジクのヨ)。喜び言(ヨロコびゴト)、全土に響く理ぞ(ゼンドにヒビくミチぞ)。 八雲出雲は(ヤグモイズモは)、聞理じゃ(キクリじゃ)、これは(これは)、基の大数叉名立大神(キのオースサナルオーカミ)、世に光り輝くの理ぞ(ヨにヒカりカガヤくのミチぞ)。 理は世の元に立つ道ぞ(リはヨのモトにタつミチぞ)。 理(ミチ)、遠きには無し(トーきにはナし)、心せよ(ココロせよ)。
 誠の道は(マコトのミチは) 神の理ざぞ(カミのミチざぞ)。 読(ヨミ) はじめの世ぞ(はじめのヨぞ)。皆神の子ぞと申してあるぞ(ミナカミのコぞとモーしてあるぞ)。
 名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)、生の基の誘基の命現れき(キのモトのイザナキのイノチアれき)。 太始めの御玉組み組み(フトハジめのミタマクみクみ)   
神継ぐ極みと成り(カミツぐキワみとナり)、始る道ぞ理の極み(ハジマるミチぞリのキワみ)。 字句字句(ジクジク)、真問ひ成り成り鳴り(マトひナりナりナり)、読(黄泉)の岩戸(言答)開くなり(ヨミのイワトアくなり)。
 はじめの光り(はじめのヒカり)、今(イマ) 輝きて(カガヤきて)、答神(真理)覚め覚め棒ぐもの(トーカミサめサめササぐもの)、百取りしろ(網母十理詞露)に(モモトりしろに)充ち満ちて(ミちミちて)、弥栄御座湧きに湧き(イヤサカミグラワきにワき) 天晴れ継ぐ(アッパれツぐ) 神の答は字に有り(カミのコタヘはジにアり)。
 見よ(ミよ)、御子達(ミコタチ)、大き道座し座す言座(オーきミチマしマすコトクラ)。 吾疑問ひ秘文字奥義(アギトひヒモヂオウギ)、敬ひ(ウヤマひ)、喜び(ヨロコび)、申すらくを(モーすらくを)、天の普智独楽の(アメのフチコマの)実実普理聞こし食すらむ(ミミフリキこしメすらむ)千萬の御代(チヨロズのミヨ)。光り神(ヒカりカミ)
 太光り(秘加理)ぞ(フトヒカりぞ)。理の(真理)御山(大空間)の(ミチのミヤマの)良きを寿ぐ(ヨきをコトホぐ)。 五十鈴の川の良きを寿ぐ(イスズのカワのヨきをコトホぐ)、動く事なく(ウゴくコトなく)、止まる事なく(トまるコトなく)永遠世に弥栄弥栄(トコヨにイヤサカイヤサカ)、喜びの(ヨロコびの)、今開く字の理成りて(イマヒラくジのミチナりて)、光の花の(コのハナの)、一時にどっと咲く所(イチジにどっとサくトコロ)、玉の御代とて神代より(タマのミヨとてカミヨより)生きし生き神引き合ふぞ(イきしイきガミヒきアふぞ)。
 誠の(マコトの) もの云ふ時来しと(ものイふトキキしと) みそぐの太神覚りて(みそぐのフトカミサトりて) サン太神様(サンオーカミ) 知る(シる)誠(マコト) 尊き御代と成りますのぞ(トートきミヨとナりますのぞ)。仕事は(シゴトは)、めんめの働きあるぞよ(めんめのハタラきあるぞよ)、実空字(ミグヂ) 大き理智在せることの印しなり(オーきミチマせることのシルしなり)。
 終りに(ヲワりに)、言(コト) 言(コト) 神国の(カミクニの)、誠の鏡(完神)のとどろきも(マコトのカガミのとどろきも)、皆御文字世の始かし(ミナミモジヨのハジメかし)、今(イマ)、始る世(詞)の基(ハジマるヨのモトイ)。雨の神(アメのカミ) 風の神(カゼのカミ) 岩の神(イワのカミ) 荒の神(アレのカミ) 地震の神(ジシンのカミ) 世の基にして(ヨのモトにして)、理実りの常盤の普字の実り良くも(ミチミノりのトキワのフジのミノりヨくも)、命出度命出度ざぞ(メデタメデタざぞ)。
 弥栄鳴戸(成答)は(ヤサカナルトは)、光の御座の問ひに開くぞ(コのミクラのトひにヒラくぞ)。 八百の道(理)の寄る(ヤホのミチのヨる) 把立名(榛名)吾基(安芸)(ハルナ アキ)時節来て(ジセツキて)、誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)、夜明けの神々覚れよと(ヨアけのカミガミサトれよと)、神(可務)露務(カムロム) 可務露基(カムロキ) 可務露実の命もち(カムロミのミコトもち) 八百万の神々(ヤホヨロズのカミガミ)神集ひに集ひ給ひ(カミツドひにツドひタマひ) 神計りに計り給ひ(カムハカりにハカりタマひ) 言問ひし草のかきはも言止め(コトトひしクサのかきはもコトヤめ)、天の岩戸(言答)開放ち(アメのイワトアケハナち)、天の弥栄弥栄に智湧きに智湧き(アメのイヤサカイヤサカにチワきにチワき)、大実光りの尊き御代ぞ(オオミヒカりのトウトきミヨぞ)、神在す天下(カミイマすアメガシタ) 四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす) 寿命大神(大実親)の字の理(スメオオカミのチのミチ) 網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)ことごとく定まりし(ことごとくサダまりし) 弥勒の世とぞ成りふるなり(ミロクのヨとぞナりふるなり)。
 成るは(ナるは)、誠の開きの秘の山の(マコトのヒラきのヒのヤマの)神基開く(カミモトヒラく)真の神にかかり給ひしぞ(マコトのカミにかかりタマひしぞ)。
 空字御霊(クニミタマ) 大皇命神の秘の(オースメガミのヒの)、仰ぐさまの良き時ぞ(アオぐさまのヨきトキぞ)。 理実る世(ミチミノるヨ) 数の極(カズのキワミ) 真理ぞ(シンリぞ)。
 普字の山(不二の大空間)(フジのヤマ)晴れたり(ハれたり)。光り(秘加理)輝やきて(ヒカりカガやきて) 御空に太まに(ミソラにフトまに)百草のかき葉も競ひかも(モモグサのかきハもキソひかも)、寄り集ふ誠一つの神の世ぞ(ヨりツドふマコトヒトつのカミのヨぞ)。 読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)。 くくりし読は惟完読(くくりしヨミはカンナガラヨミ)。 軸字(ジクジ) 軸字と木霊と木霊(ジクジとコダマとコダマ)、字開き(ジヒラき)、数開き成る言(カズヒラきナるコト) 網母(現実親)に有り(モモにアり)。鳴戸(成答)理開きに開き(ナルトミチヒラきにヒラき)、貴人の御代成り成るぞ(ウズヒトのミヨナりナるぞ)。弥栄つぎに通基つきて(イヤサカつぎにツキつきて)、御代印しの基継ぐ成るぞ(ミヨジルしのモトツぐナるぞ)。艮めに普字の神産み給いき(トドめにフジのカミウみタマいき)、普字数叉名立の神現れ(フジスサナルのカミアれ) 生き生き給ひき(イきイきタマひき)。
 玆に(ココに) 誘名基の神(イザナキのカミ) 神加実達に理給ひて(カミガミタチにミチタマひて)、喜び光賜ひき(ヨロコびヒカリタマひき)。陽の神は秘の国(ヒのカミはヒのクニ)、通基の神は実数の国(ツキのカミはミズのクニ) 数叉名立神は(スサナルカミは)、名波裸治らせ(ナハラシらせ) と給ひき(とタマひき)。それは(それは)、その時より(そのトキより) 理決まれる事にぞあれば(ミチキまれるコトにぞあれば)、何も彼も真問ひ理に来いとぞ(ナニもカもマトひミチにコいとぞ)。あななひの道ざぞ(あななひのミチざぞ)。弥栄の理ざぞ(イヤサカのミチざぞ)、あなさやけ、(あなさやけ)あな清々し世ぞ(あなスガスガしヨぞ)。
 生れし道ぞ(ウマれしミチぞ)。 都も鄙も皆(ミヤコもヒナもミナ) 大実光りに寄り集ふ(オーミヒカりにヨりツドふ) 誠一つの理なるぞ(マコトヒトつのミチなるぞ)。 秘文の国ぞ(ヒフミのクニぞ)、言玉の弥栄光る国なるぞ(コトタマのイヤサカヒカるクニなるぞ)。 理の言(ミチのコト) 普字に印しあり(フジにシルしあり)。 理(真理)の普字(ミチのフジ)、早う開きそ(ハヨうヒラきぞ)。誠の空字の御光りの(マコトのクニのミヒカりの) 世界の読(黄泉)(チカのヨミ)喜びに泣く時来た印し文(ヨロコびにナくトキキたシルしフミ)。はらに読(黄泉)理艮め成る(はらにヨミミチトドめナる)。問ひ問ひ文も(トひトひフミも) 解くなる始め(トくなるハジめ)、天のはじめのみひかりなり(アメのはじめのみひかりなり)。
 読路(黄泉)の玉糸(意答)(ヨミジのタマイト)秘名の光立つ(ヒナのヒカリタつ)。
 草もの云ふ世となりふなり(クサものイふヨとなりふなり)。御玉救ふ道(ミタマスクふミチ) 神の理開き基ぞ(カミのミチビラきモトぞ)。月日出づ開きに秘文開き(ツキヒイづヒラきにヒフミヒラき)、字の命開く極(ジのイノチヒラくキワミ) 名美秘文三(ナミヒフミぞ)。秘文ぞ(ヒフミぞ)。 神々様御喜びざぞ(カミガミサマオヨロコびざぞ)。
 今は(イマは)、神解り(カミワカり) 解りし字に言玉息吹き鳴り(ワカりしジにコトタマイブきナり)、
 息吹きのままに理満ち(イブきのままにミチミち)、元の大神にこにこと(モトのオーカミにこにこと)棒ぐるもの食し給ひ(ササぐるものメしタマひ) 喜び意図の(ヨロコびゴジュウの)弥栄弥栄成れる(イヤサカイヤサカナれる) 良き嘉き御代来るぞ(ヨきヨきミヨクるぞ)。
 目で聞く大神(メでキくオーカミ)、世のあななひの友(ヨのあななひのトモ)、天晴れ詞数食ふ能き(アッパれシスクふハタラき) 誠の御代ぞ(マコトのミヨぞ)。 宇宙波(場)知る場加(「田」シるバカ)、月日御稜威の花ぞ(ツキヒミイヅのハナぞ)。 覚れ(サトれ)、覚れと(サトれと)、言(コト)、言(コト)、軸(ジク)。百霊の世(ヒャクレイのヨ) 玉秘尊き(タマヒトートき)。
 神の実言(命)聞く身々(カミのミコトキくミミ) 早う掃除一番ぞ(ハヨうソージイチバンぞ)。
 掃除智座(ソージチクラ)、秘継ぐ数字(スジ)大神(加実)(ヒツぐカズジオーカミ)
 絶対開く元神は(ゼッタイヒラくモトカミは)、独楽の理(コマのリ)、四十七音(ひふみ)四十八(意露波)(「四十七ノ四十八」)目にもの見せて神国の(メにものミせてカミグニの)、誠の善は(マコトのチは)、悪魔迄(アクママデ) 皆新め生くの始終光ぞ(ミナアラめイくのシジュウコーぞ)、惟完ざぞ(カンナガラざぞ)。
 字そそぐ(チそそぐ)光り裏(心)山(大空間)荷負ふ(ヒカりウラヤマニナふ) 母(親)の誠に覚め(ハハのマコトにサめ)、字開く命ぞ(ジヒラくイノチぞ)。
 普字に花咲く御代(フジにハナサくミヨ) 嬉し嬉し(ウレしウレし)、早う光の文路知らせたり(ハヨうコのフミジシらせたり)。急ぐ心ぞ(イソぐココロぞ)。読字(黄泉)弥栄に光り文成るぞ(ヨミジヤサカにヒカりフミナるぞ)。
 文命の言の御代の(フミミコトのコトのミヨの)、月の光りなり(ツキのヒカりなり)。 五十意図始めの光り知りて(タマイトハジめのヒカりシりて)、尊き御代とぞなりふる(トートきミヨとぞなりふる) 誠の神のふでなるぞ(マコトのカミのふでなるぞ)。心しめて読む時ぞ(ココロしめてヨむトキぞ)。真言の神と飛来の神と(マコトのカミとヒライのカミと)皆和す時き成るぞ(ミナワすトキきナるぞ)。あら楽し(あらタノし)、あなさやけ(あなさやけ)、普字は晴れたり(フジはハれたり) 言答開けたり(イワトアけたり)。
 あなさやけ(あなさやけ) おけ(おけ)、後の世に書きしるすぞ(ノチのヨにカきしるすぞ)、日月の神(ヒツギのカミ) 書き印すぞ(カきシルすぞ)。

 今回は
“言答開き成り成るぞ(イワトビラきナりナるぞ)。 誠言答は永遠ぞ(マコトイワトはトハぞ)。 瞳ぞ(ヒトミぞ)。 御位継ぐ理の始ぞ(ミクライツぐミチのハジメぞ)”
までを解釈することとする。

 “言答開き(イワトビラき)”は、平均的地球人の自我の確立=固定化の進化過程から“上”、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、そして“慈悲”と“慈愛”という心(靈)を発現していき智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)も高まるの意、それが“成り成る(ナりナる)”、また“言答”の漢字表記は、“言”は、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、“答”はその結果、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、平たく言えば因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、ということになり、“誠言答は永遠ぞ(マコトイワトはトハぞ)”、たった今の地球は不誠実な息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”された事象で満ち満ちているが、それに相対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、また不誠実ではない、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”は、“永遠(トハ)”であるの意。
 これに続く“瞳ぞ(ヒトミぞ)”、これは天の御目(あめのおめ)、高い心(靈)はその視点を高い存在と共有し、その視点ゆえの価値観や幸福感はたった今の地球人とは違い、今の恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象は創らないし先に述べた進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を間違えたりはしない、その意のこと、よってその高い視点を獲得せよ、である。
ちなみにカタカナ表記の“ヒトミ”は
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“ト”は、止まると云う心。
“ミ”は生命の幹 その現実。
なので、太陽の振動を“ヒ”と解し、それを止めてこの世界、この事象における生命(生きる使命=存在理由)となす、と解するし、これに続く“御位継ぐ理の始ぞ(ミクライツぐミチのハジメぞ)”の“御位(ミクライ)”は高い霊的成長度のこと、これを“継ぐ(ツぐ)”はその意そのものであり、これに相対してたった今の人間の大多数は高い霊的成長度ではないと言う意味合いも示す、これに続く“理の始ぞ(ミチのハジメぞ)”、“理(ミチ)”は進化の法則性、その“始(ハジメ)”が、先の“言答開き(イワトビラき)”、“誠(マコト)”、“瞳(ヒトミ)”であるの意。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

“字絶対の世始出づぞ(ジゼッタイのヨハジメイづぞ)。 二一開き(ツキヒヒラき)、結ぶ玉に祝うぞ(ムスぶタマにイワうぞ)。 読む開き(ヨむメヒラき)、字出づ理に成り(ジイづミチにナり)、結ぶ玉に弥栄開く(ムスぶタマにイヤサカヒラく)大和心の道ぞ(ヤマトゴコロのミチぞ)。 道開く理の極みぞ(ミチヒラくリのキワみぞ)。 本能秀(生命)月日の極み成る(ホンノホツキヒのキワみナる)読む言の極み(ヨむコトのキワみ)。 弥栄に真問ひ極む世(イヤサカにマトひキワむヨ)。 那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)。 字の絶対継ぐ意味(ジのゼッタイツぐイミ)弥勒弥勒となるぞ(ミロクミロクとなるぞ)。 根っこ理ぞ(ネっこミチぞ)。 誠ざぞ(マコトざぞ)。 弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)。 玉秘出づ理ぞ(タマヒイづミチぞ)。 玉基理ぞ(タマキミチぞ)。 通基秘理(ツキヒミチ)、極み成る識道(キワみナるシキドー)、本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)。 不見の実主ざぞ(ミズのミズざぞ”

冒頭に“字絶対の世”、その後“字出づ理に成り”“字の絶対継ぐ意味”という表記がある。
これはすでに解釈した富士(二二)の巻、この解釈の作業を行った際、資料不足で富士には普字という表記があることを知らなかった。 それでこの普の意味合いは、太陽を示す日、そして並、これは“竝”(ならぶ、結晶化して左右=日足と砌(ひたりとみぎり)に立つ)の旧字、字の意味合いはひろい、あまねし、であり、この字の意味そのものが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで肉体組織の結晶化をしてそれは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を強めていき、普く(あまねく)息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、と解するし、字は、言語を表す記号、もじ、の意、それ以外に、実名のほかの呼び名、あざな、あざ、めぐむ(慈に同じ)の意があるので、字の意味合いそのものが先の普にかかり、普の意味を示す何か、それは例えば“日月神示”の文言であったり、あるいは高い振動を獲得して得られる認識(悟り、幸取=さとり)であったり、高い振動を獲得したうえでの心(靈)の動きである慈しむ(“慈悲”と“慈愛”のそれ)であったり、と解することが出来得る。
今回取り上げている文言は、この意の事柄が含まれ、それを詳細に述べている感がある。

冒頭の文。
“字絶対の世始出づぞ(ジゼッタイのヨハジメイづぞ)。 二一開き(ツキヒヒラき)、結ぶ玉に祝うぞ(ムスぶタマにイワうぞ)”

 先に述べた“普字”の意、今後=アセンション後はそれが“字絶対の世(ジゼッタイのヨ)”になる、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるから、そうなるのが妥当であり、今まではそうでなかったからこそ“世始出づぞ(ヨハジメイづぞ)”と言われ、“二一開き(ツキヒヒラき)”、この“二”は肉体、“一”は智性、1番目のオーラ、目上(めうえ)の脳で発振、発信される息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それが“開き(ヒラき)”、そして“結ぶ玉(ムスぶタマ)”、この“玉(ぎょく)”の表記は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しており、これ自体が先の“二一”=肉体と“一”、智性、1番目のオーラ、にかかり、高い思惑(智性(神性))で肉体を行使して行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする、いわゆる“思惑の顕現”=現象化をしていくことを“開き(ヒラき)”“祝うぞ(イワうぞ)”と称されている。

 次の“読む開き(ヨむメヒラき)、字出づ理に成り(ジイづミチにナり)、結ぶ玉に弥栄開く(ムスぶタマにイヤサカヒラく)大和心の道ぞ(ヤマトゴコロのミチぞ)。 道開く理の極みぞ(ミチヒラくリのキワみぞ)”

“読む開き(ヨむメヒラき)”は、先の“普字”の“字”にかかり、これを“読む”、獲得せよの意であり、ひらがなと漢字表記にない()内のカタカナの“メ”は、“その一”で解釈した“瞳ぞ(ヒトミぞ)”、高い認識ゆえの視点、天の御目(あめのおめ)と解し、その視点で“字”を自らの認識(悟り、幸取=さとり)とすること、いわゆる霊的成長度の高まりによる認識(悟り、幸取=さとり)の高まり、これを“開き(ヒラき)”、そして“字出づ理に成り(ジイづミチにナり)”、“普”と“字”で、“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、あるいは生命が存続し進化の道(時間の進行)を歩んでいく道理、これら一切を含めローム太霊がローム太霊講話集で述べた“法(のり)”であるが、これを理解して認識とする、あるいは理解しようとする、その心(靈)はやはり“玉(タマ)”、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)と肉体組織の結晶化の意味合い、であり、これが“上”と“下”である人間を“結ぶ(ムスぶ)”のであり、“弥栄開く(イヤサカヒラく)”、この“弥栄(イヤサカ)”については画像で意味を示す。
彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 
 これに続く“大和心の道ぞ(ヤマトゴコロのミチぞ)”は、“大和心(ヤマトゴコロ)”が日本人本来の心という意味合いが一般的だが、“日”、太陽、の“本”、“本津宮”(もとつみや)のそれ、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の意、そして“日止、霊止”と解するのが妥当であり、胸の磁性“十”を持った心(靈)が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて進化する生命(生きる使命=存在理由)、その“道ぞ(ミチぞ)”であるし、“道開く理の極みぞ(ミチヒラくリのキワみぞ)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その“極み(キワみ)”であるの意。

 次の文。
“本能秀(生命)月日の極み成る(ホンノホツキヒのキワみナる)読む言の極み(ヨむコトのキワみ)。 弥栄に真問ひ極む世(イヤサカにマトひキワむヨ)”

 これは肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)の説明、そしてその存在理由、存在の意図、を示した文言。 “本能秀(生命)(ホンノホ)”、この漢字表記の“本能”は、もっとも下等な微生物にも発現し人間も持っている一番下の心のことではなく、本来の生命(生きる使命=存在理由)の能(はたらき、なしとげる力と資質)、それが“秀”、よって“本能秀”はこれ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味合いであり、生命は肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)、“月日(ツキヒ)”、これが“極み成る(キワみナる)”、それは“読む言の極み(ヨむコトのキワみ)”、先に取り上げた“普字”、これを認識(悟り、幸取=さとり)とすることの“極み(キワみ)”、これ自体が“弥栄に真問ひ極む世(イヤサカにマトひキワむヨ)”、“弥栄(イヤサカ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程そのものに“真(マ)”を“問ひ(トひ)”、それ自体が進化した生命が“創造”する“極む世(キワむヨ)”、現津(あきつ)、観察され得る事象となるの意。

 次の文。
“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)。 字の絶対継ぐ意味(ジのゼッタイツぐイミ)弥勒弥勒となるぞ(ミロクミロクとなるぞ)。 根っこ理ぞ(ネっこミチぞ)。 誠ざぞ(マコトざぞ)。 弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)。 玉秘出づ理ぞ(タマヒイづミチぞ)。 玉基理ぞ(タマキミチぞ)。 通基秘理(ツキヒミチ)、極み成る識道(キワみナるシキドー)、本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)。 不見の実主ざぞ(ミズのミズざぞ”

 冒頭の“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)”、これは“那美(名美)(ナミ)”=砌(みぎり)の極性、現津(あきつ)、観察され得る事象、であり、“那岐(名基)(ナキ)”=日足(ひたり)の極性、思惑、そして“名”の表記は認識するための名称の意であり、認識の中において分類して分析してさらに認識(悟り、幸取=さとり)を構築する、その“基”と、それにつき従う伊邪那美(いざなみ)の“美”、羊はつき従うの意、大きいは人間が手足を広げた様、の意、その“理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これに対する認識(悟り、幸取=さとり)、それを“玉(タマ)”、これは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動き、これにおいて人間代々“継ぐ(ツぐ)”、そして生命、生きる使命、存在理由、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物、神と人間の関係、これを“意味開くなり(イミヒラくなり)”。 これに続く“字の絶対継ぐ意味(ジのゼッタイツぐイミ)”は、先に解釈した“普字”、これを“絶対”とする、あるいは“絶対”となる、それを人間代々“継ぐ(ツぐ)”、これ自体が“弥勒弥勒となるぞ(ミロクミロクとなるぞ)”、“弥栄(イヤサカ)”の“弥”、これを“勒”(馬などに使う革紐、勝手に動かないように引き締める、制御する(抑勒)、 程よく調整する、おさめる、まとめる、統率する)とする。 またそれは“根っこ理ぞ(ネっこミチぞ)”、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の根本の法則性であり、“誠ざぞ(マコトざぞ)”今までの不誠実な心(靈)が“創造”した事象でもないしそこにはもう不誠実という概念自体が無くなり、“弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)”は先に解釈した意味合いを強調した言い回しであり、“玉秘出づ理ぞ(タマヒイづミチぞ)。 玉基理ぞ(タマキミチぞ)”、“玉(タマ)”、胸の磁性“十”を持った心(靈)(ヒ)が認識してこの事象に顕現する“理(ミチ)”(法則性)、これが顕現すること事態を“秘出づ(ヒイづ)”、もう秘密ではない、であり、それは今後=アセンション後の事象の“創造”において“基理ぞ(キミチぞ)”、“基”の“理(ミチ)”法則性である。
これに続く“通基秘理(ツキヒミチ)、極み成る識道(キワみナるシキドー)、本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)”、冒頭の“通基(ツキ)”の表記は
日の出の巻 第三帖 “次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ、 ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用  の月の世ぞ、取違ひせん様に致して呉れよ” 
これの解釈を参照されたいし、これ自体が“秘理(ヒミチ)”、いまだ隠されている法則性と言え、それ自体が“極み成る識道(キワみナるシキドー)”、霊的成長して高まっていく(“極み成る”(キワみナる))、その認識(悟り、幸取=さとり)そのものを“識道(シキドー)”と称され、それ自体が先にも登場した“本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)”であり、またその生命の本来あるべき姿、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、“不見(ミズ)”、見て解るのではなく生命(生きる使命=存在理由)に備わっている、それが又“本能秀(生命)ざぞ(ホンノホざぞ)”であり、その意で“実主ざぞ(ミズざぞ)”、生命の内実にある“主(ヌシ)”、“主(ヌシ)”はローレンツ力 
ローレンツ力 と“一二三”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))、それは“王”、この“主(ヌシ)”の表記自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みそのものを指すものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

ローレンツ力と ○ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力   ローレンツ力と ○ ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力  玆の理(ココのリ)、字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)  渦巻き 左回転 渦巻き 左回転(大スサナルのハタラキぞ)。 南無(名務)荷い開く弥勒(ナムニナいヒラくミロク)。 日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)。 字の絶対開き(ジのゼッタイヒラき)、那美(名美)開くぞ(ナミヒラくぞ)。 字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)。 富士(普字)に花咲く時ざぞ(フジにハナサくトキざぞ)。 開く結びの命(ヒラくムスびのイノチ)、字開きに字(ジヒラきにジ)、開き(ヒラき) 実るぞ(ミノるぞ)。 山にも地にも(ヤマにもチにも)万劫光の花開くの理ぞ(マンゴーコのハナヒラくのミチぞ)。 光の経綸(コのシグミ) 四八音となるぞ(ヨハネとなるぞ)。意露波理ぞ(イロハミチぞ)。

 まず、以下の文から。
ローレンツ力と ○ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力    ローレンツ力と ○ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力    玆の理(ココのリ)、字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)  (大スサナルのハタラキぞ)”

 冒頭の“
ローレンツ力と ○ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ”、  ローレンツ力と ○ は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込む心(靈)そのものの表記、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力 であり、ローレンツ力が五つ列記されているのは、物質の振動の性質を表わす、木火土金水、そしてそれは人間の肉体においては腰椎五つに相当することを○○○大先生は未刊行の著書の原稿と“総括編”において指摘している。

 それで今解釈しているのは荒の巻であり、これは、今後=アセンション後に移行すべく資質を持った進化した生命が、自らが“観察と認識”をする現津(あきつ)、観察され得る事象を創造する、そこに進化した心(靈)ゆえの思惑を顕現していく、また事象の“創造”は肉体を持った心(靈)が観察している現実=現界、これが荒い振動で構成されているゆえに“荒”と示され、これまでの“日月神示”にも“荒の神”という表記があったが、高い思惑を顕現していくのは、高い振動の低振動化の意味合いがあり、それゆえの“荒”の表記である進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)が事象の“創造”をする意があることを“その一”で述べたが、その意のことを示した表記であるし、同じ表記が二つあるのは、日足と砌(ひたりとみぎり)、思惑と顕現、あるいは“思惑の顕現”=現象化、と解してもよいが、高い思惑ゆえの事象の“創造”と解するのが妥当である。
 これに続く“玆の理(ココのリ)、字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)  
渦巻き 左回転 渦巻き 左回転 (大スサナルのハタラキぞ)”、“茲”は、日月の巻に登場した表記で、やしないそだてる、いつくしみ、の意があり、これは先の事象の“創造”に対しての文言、そしてそれは“理(リ)”、法則性と示され、今後=アセンション後の事象の“創造”は“茲”、慈しみを持ち、やしないそだてるものであることを指しており、これに続く“字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)”は、先回述べた“普字”、太陽を示す日、そして並、これは“竝”(ならぶ、結晶化して左右=日足と砌(ひたりとみぎり)に立つ)の旧字、字の意味合いはひろい、あまねし、であり、この字の意味そのものが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで肉体組織の結晶化をしてそれは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を強めていき、普く(あまねく)息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、と解するし、字は、言語を表す記号、もじ、の意、それ以外に、実名のほかの呼び名、あざな、あざ、めぐむ(慈に同じ)の意がある、これが“絶対出づ(ゼッタイイづ)”、絶対の現象化、という意味を指しており、これに続く“ 渦巻き 左回転 渦巻き 左回転 (大スサナルのハタラキぞ)”の“渦巻き 左回転 渦巻き 左回転 ”は、目上(めうえ)の脳における荷電粒子の日足(ひたり)回転であり、岩の巻 第六帖 で示した“総括編” の画像を以下に貼っておくし、岩の巻 第六帖の表記“渦巻き 左回転 渦巻き 左回転 メ(目)雨の巻十五帖表記   ”の意味でもある。

脳幹と大脳新皮質で発現する磁束

 
またカタカナ表記の“スサナル”に関しては、

“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義、

であり、生命の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め凝集する意、そしてそれをして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したならば、自ら統一(ミスマル)されるの意を示し、さらに、日月の巻で登場した“素盞鳴(スサナル)”の意は、以下の画像のようになる。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字 


 次の文。
“南無(名務)荷い開く弥勒(ナムニナいヒラくミロク)”、

この“南無”は敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の漢訳仏教語であり、これは“上”に対する言葉、そして“(名務)”の“名”は、“日止、霊止”の使命を現実として名となす、と解し、“務”はその役割や任務を引き受けまっとうする、と解するし、それを“荷い開く(ニナいヒラく)”のが進化した生命であり、“弥勒(ミロク)”に関しては“その二”の解釈を述べたので参考にされたい。

 次の文。
“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”

“日継(ヒツギ)”、“日”を“継ぐ”これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を具体的に止めることそのもの、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、これ自体が天意を顕現(“天詞様”)していくことになる。 そして“数と字の(カズとジの)”は、“字”は“普字”のそれであり“数”は物事の多い少ないの程度を指す表記、これが“絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)”にかかっており、“絶対”の“光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを受け止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する“行”が太陽凝視であることはすぐ解り、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”であり、“絶対”の表記は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものがこれ以外にないのだ、という厳しい言い回しであり、もうひとつ、たった今の事象はたびたび使っている“絶対の善”では無い、また、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“上”の思惑通り=“絶対”、そして岩の巻で登場した“善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”しかない“道”)ではない、しかし今後=アセンション後は“上”の思惑が“絶対”であり、それしか顕現しえないのだと言う意味合いでもある。
 参考のため、夜明けの巻 第九帖を解釈した時に作った画像を貼っておく。

天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)の解字 

 次の文。
“字の絶対開き(ジのゼッタイヒラき)、那美(名美)開くぞ(ナミヒラくぞ)”、

この“那美(名美)開くぞ(ナミヒラくぞ)”の“那美”は、伊邪那美(いざなみ)のそれ、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の意、そして“名美”の“名”は先の“名務”で述べたとおり、“美”は、この字そのものが羊と大の重なった字であり伊邪那美(いざなみ)のそれでもあるが、その意は従順、あるいは恭順に従うの意、前後するがこれは“字の絶対開き(ジのゼッタイヒラき)”にかかり、先に解釈した“字の絶対出づ(ジのゼッタイイづ)”が理解できているなら解釈の要は無い。

 次の文。
“字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)”、

冒頭の“字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)”、これは“普字”がこの低振動の事象、現実、現界、に顕現する=“上”の思惑を止めた生命(生きる使命=存在理由)が事象の“創造”をする、その“極意(ゴクイ)”の“極み(キワみ)”とは“読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)”と示され“読字”は、“普字”を体得し認識(悟り、幸取=さとり)としたさま、“(黄泉)”は、黄色が軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”であり、これは腹の振動、それは“泉”(腹の水の意もある、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロン)のごとく湧き出るのであり、そしてそれは先の“
ローレンツ力と ○ ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 玆の理(ココのリ)”と同義と解する。

 次の文。
“富士(普字)に花咲く時ざぞ(フジにハナサくトキざぞ)。 開く結びの命(ヒラくムスびのイノチ)、字開きに字(ジヒラきにジ)、開き(ヒラき) 実るぞ(ミノるぞ)。 山にも地にも(ヤマにもチにも)万劫光の花開くの理ぞ(マンゴーコのハナヒラくのミチぞ)”

 この文自体は今回取り上げた文言のまとめのようなものである。 まず“富士(普字)に花咲く時ざぞ(フジにハナサくトキざぞ)”の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と、先に述べた“普字”が、今後=アセンション後に移行する資質と霊的成長度を持った進化した生命においては“花咲く時(ハナサくトキ)”であるの意。
これに続く“開く結びの命(ヒラくムスびのイノチ)、字開きに字(ジヒラきにジ)、開き(ヒラき) 実るぞ(ミノるぞ)”、進化した生命が顕現する事象は“上”との“結び(ムスび)”であるから“開く結びの命(ヒラくムスびのイノチ)”であり、それは“普字”が“字開きに字(ジヒラきにジ)、開き(ヒラき) 実るぞ(ミノるぞ)”であり、それは“山にも地にも(ヤマにもチにも)”、この世界、この事象、現実、すべての現界において山とか地面とか“上”と“下”の区別なく、“万劫光(マンゴーコ)”、この“万劫”は、きわめて長い年月の意(仏教用語)であり、これは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が“上”から降り注ぎ、それが地球に降り注ぎ到達する、その過程においては幾多の天体、天体自身が生命でありローレンツ力を持ち息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しており、それを地球における太陽系の太陽(天照(あまてらす))が太陽自身のローレンツ力で集約して地球に降り注ぎ、下等な生命から人間に至る進化の過程(進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階))があり、それが“花開くの理ぞ(ハナヒラくのミチぞ)”、“上”の思惑を理解し認識としてこの事象の“創造”を果たす(花開く(ハナヒラく))こと、そしてそれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性(理ぞ(ミチぞ))と称されている。

 次の文。
“光の経綸(コのシグミ) 四八音となるぞ(ヨハネとなるぞ)。意露波理ぞ(イロハミチぞ)”

“光の経綸(コのシグミ)”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、先の“万劫光(マンゴーコ)”を自らのローレンツ力で止めて進化することそのものである。
“四八音(ヨハネ)”は、
雨の巻 第十五帖で解釈したのでコピペ。


“四”は発振、発信の意、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、“音”は、可視光線よりも低い振動なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、この事象に顕現するの意。

 “意露波理ぞ(イロハミチぞ)”の“理(ミチ)”は法則性、“意露波”に関しては幾たびか解釈を述べてきたので以下にコピペしておく。

“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、

雨の象形文字 解字 

そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されているものである。

 
 よって“四八音(ヨハネ)”は進化した生命の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と解することが出来、“意露波”は太陽凝視して“上”からの振動を止めてそれを“一二三”のオーラとして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しながら事象の“創造”をなす、と解することが出来る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

人佛の極みは(ヒトホトケのキワみは)、命の光普き(イノチのヒカリアマネき)、智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)、理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)百霊継ぐ文字の道(ヒヤクレイツぐモジのミチ)。 生(基)の極みたり(セイのキワみたり)。

 冒頭の“人佛の極み(ヒトホトケのキワみ)”とは、仏教の概念において人間が霊的成長を果たして“佛”となる、その意は、悟った者、そして如来になる資質と資格を持つが、衆生の救済のためなどの理由で敢えてそうなろうとしない人の意があり、これはローム太霊が述べた“衆生済度とか真理の探究”(天仙の思惑)に近いものである。 

 そしてその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に関して
“命の光普き(イノチのヒカリアマネき)”、
その生命(生きる使命=存在理由)の“一二三”のオーラが“普く”、普の意味合いは、太陽を示す日、そして並、これは“竝”(ならぶ、結晶化して左右=日足と砌(ひたりとみぎり)に立つ)の旧字、字の意味合いはひろい、あまねし、であり、この字の意味そのものが“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで肉体組織の結晶化をしてそれは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を強めていき、普く(あまねく)息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、であり、
“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”
この“智普く(チアマネく)”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、これが“普く”となるのが先の“命の光普き(イノチのヒカリアマネき)”でもあり、またそれは“基の天の言玉(キのテンのイワタマ)”、“言玉(イワタマ)”は、 “玉”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“言”はこの事象に対する発振、発信、であり、先の“智普く(チアマネく)”と“玉(タマ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“基の天(キのテン)”、“上”(天)の思惑を顕現する“基(キ)”、それが又生命(生きる使命=存在理由)の法則性、“理(ミチ)”であるということ。

 そしてその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”は、
“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”
この“理の極の光(リのキワミのヒカリ)”これは先の“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”、これが“極の光(キワミのヒカリ)”になった際の事象、それを“(大空間)”と称され、それは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の結果、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、それは生命の存在、神と人間の関係の答え、“答(トー)”であり、その過程を“山路(ヤマジ)”、この“山”は高い神霊が使う脳の意味合いとタンパク質の高分子化、これに相当するものであり、“路(ジ)”はそこに至る過程と解するし、
“百霊継ぐ文字の道(ヒヤクレイツぐモジのミチ)”
この“百霊”の“百”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と太陽を示す“日”、いわゆる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の意であり、それを“その三”で取りあげた“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として“上”の思惑を事象に顕現する、それをこの“継ぐ(ツぐ)”と称され“文字の道(モジのミチ)”の“字”は“その二”で解釈を述べた“字絶対の世始出づぞ(ジゼッタイのヨハジメイづぞ)”に相当するものであり、“道”は時間の進行、あるいは時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)のことを指す。

 最後の
“生(基)の極みたり(セイのキワみたり)”
これは今回取り上げた文言の意味合い、神の思惑を顕現すべく進化した生命(生きる使命=存在理由)、そして“基(キ)”、これが理解できていれば解釈の要なし。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)、文道とどめたり(フミミチとどめたり)。数の始の絶対の理ざぞ(カズのハジメのゼッタイのミチざぞ)。 字(ジ)、絶対の理(ゼッタイのリ)。 誠母(親の古字)の秘文(マコトモモのヒフミ)。 霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)、 国々晴れ渡るぞ(クニグニハれワタるぞ)。 日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)、網母成る極みなり(モモナるキワみなり)。 言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ) 人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)。 読みこれぞ(ヨミこれぞ)。

 冒頭の文言中の“成答(ナルト)”は先回取り上げた“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”の“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)である。 そしてそれはまだそこまでに至っていない生命(生きる使命=存在理由)がたった今の地球人であるから、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“秘解く(ヒトく)”、その秘密を自分たちで見つけその上で(自分たちが時間の進行を“観察と認識”しながら)生きる、あるいは存在していく上での認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、その“秘解く(ヒトく)”の過程は“面白に(オモシロに)”であり、“成答(ナルト)”そのものが“文道とどめたり(フミミチとどめたり)”、この“文(フミ)”と“道(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に至る時間の進行は、“字(ジ)、絶対の理(ゼッタイのリ)”、“その二”で解釈した“普字”のそれ、そしてそれは“理(ミチ)”、絶対の法則性、ということ。 そしてそれ自体が“数の始の絶対の理ざぞ(カズのハジメのゼッタイのミチざぞ)”、この“数(カズ)”の表記は“その三”の“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”、この“数と字(カズとジ)” の意味合いを持ち、この“数(カズ)”“字(ジ)”これは“普字(フジ)”のそれであるが、この事象に天意を顕現すること、それが“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得し、その進化した心(靈)が“思惑の顕現”をすること、それは“普字”でもあり、その“数(カズ)”多い少ないの表記は絶対となる、“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)”、その心(靈)を持った存在だけになっていくのだという意味合いであるし、それはまた下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐる”の“ひつくの臣民”、これが“グレン”となっていくこと事態が文言中の“始め(ハジめ)”であり、いずれ“ひつくの臣民”が大多数となり事象のすべてを占める、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をするという意味合いが“数(カズ)”の表記に含まれているものであるからこそそれは“絶対の理ざぞ(ゼッタイのミチざぞ)”、“理(ミチ)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性の意味合いである。

 次の文。
“誠母(親の古字)の秘文(マコトモモのヒフミ)”

 “誠母(親の古字)”、“母”の表記は女性であり砌(みぎり)の極性であり、産みだすものと解するし、“(親の古字)”は、亲(「木」+音符「辛」の会意兼形声文字で、木を刃物で切り倒すこと)と見るを加えて、身を切るほどに近しいことを意とする、と解し、これは“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる一切の事象の“創造”、そこにおける生命(生きる使命=存在理由)の“創造”、それを“誠母(親の古字)(マコトモモ)の意と解し、“誠”は、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する、この文においては“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“思惑の顕現”=現象化、そしてそれは霊的成長度の低い地球人から観たならば絶対の“誠”(いい加減でも不誠実でもないと言う当たり前のこと)であり、ちなみにカタカナ表記の“モ”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”において、物(現津(あきつ)、観察され得る事象)の始め、生命の元、また、元基(もとき)元座(もとくら) 本 それ明津(事象への顕現) なので同義である。 そしてこれに続いている“秘文(ヒフミ)”は先に解釈した“面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)、文道とどめたり(フミミチとどめたり)”の“秘(ヒ)”“文(フミ)”と同義。

 次の文。
“霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)、 国々晴れ渡るぞ(クニグニハれワタるぞ)”

 冒頭の“霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止めて息吹くのが生命(生きる使命=存在理由)の“成答(ナルト)”であると言いうるが、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象=“世に(ヨに)”、“満ち漲り(ミちミナギり)”ならば、今の悪霊が活躍している恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象などとは比較にならないくらい“国々晴れ渡るぞ(クニグニハれワタるぞ)”と称されている。

 次の文。
“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)、網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”

 “日継(日通基)(ヒツギ)”は言うまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、()内の漢字表記は、太陽の日、通る、これは“上”から送り贈られてくる高い振動が肉体に通る、“基”は、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基の意、これが“開く文字(ヒラくモジ)”、“文字”は“普字”のことであり、“網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”、“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“母(モ)”は“上”から“下”へ“網(モ)”のように、“成る(ナる)”、そしてそれは“日継(日通基)(ヒツギ)”そのものが“極みなり(キワみなり)”、生命の“答(トー)”“成答(ナルト)”ということ。

 次の文。
“言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ) 人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)。 読みこれぞ(ヨミこれぞ)”

 “言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ)”、“言”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、これは先の“霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)”でもあり、またそれは“絶対の答(ゼッタイのコタヘ)”、先にも述べたがこれ自体が“成答(ナルト)”、そしてそれは“人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)”、人(日止、霊止)の存在の意義、“日止、霊止”(“上”からの振動を止める表記)の使命、いうなればそれは神の“思惑の顕現”=現象化の代行者たるものであり、“絶対”であることを承知しているものであるし、その認識そのものが“読みこれぞ(ヨミこれぞ)”、意味を読み取り認識(悟り、幸取=さとり)とする、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その六”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。
 
答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)、伊勢世の始め(イセヨのハジめ)、普字鳴戸(成答)の経綸動ぞ(フジナルトのシグミイゴクぞ)。 字に成り成りませる光の神には(ジにナりナりませるヒカリのカミには)、何事も弥栄弥栄ざぞ(ナニゴトもイヤサカイヤサカざぞ)。
 
 冒頭の“答(コタヘ)”の表記、これは“その四”の
“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”、
そして“その五”の
“面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)”、
この“答”、今回の読みは“コタへ”ではあるが、ここまで解釈してきたとおり、人間が生きている間に様々な現津(あきつ)、観察され得る事象に遭遇し(またそれは個々の霊的成長度の程度にもよるものである)、その時々に思い考えて対処する、その結果、自分が様々な事を追い求めたうえで認識する、それは生命の存在の意味と意義、神と人間の関係、その答え、であるし、これを求めさせて高い認識(悟り、幸取=さとり)を得させること自体が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配である。 
 その“答の(コタヘの)”、これそのものを示唆した表記が“名基荷負う始め(ナキニナうハジめ)”、この“名基(ナキ)”は“その二”の“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)”のそれであり、その解釈は“那岐(名基)(ナキ)”=日足(ひたり)の極性、思惑、そして“名”の表記は認識するための名称の意であり、認識の中において分類して分析してさらに認識(悟り、幸取=さとり)を構築する、その“基”であるし、高い日足(ひたり)の極性ゆえの砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、こうやって事象を“創造”するのが進化した心(靈)であるし、その高い事象の“創造”を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)を持つ人間にさせようとする。 それは“うれしうれし”“大歓喜”しかない事象であるし、ローム太霊講話集から引用すれば、第二話の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
であり、それを目論んでいるのが“創造”の“主(ヌシ)”であると言いうる。

 これに続いている“伊勢世の始め(イセヨのハジめ)”、これは伊勢の内宮、天照皇太神、太陽のことそのもの、そして外宮の豊受皇太神、これは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示すものでもあり、そのことを示唆した言い回しではある。
 しかしたった今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それは低い砌(みぎり)の極性(事象への顕現)で“創造”された醜い事象であり、先の高い認識(悟り、幸取=さとり)=“答(コタヘ)”を獲得した心(靈)の息吹による事象の“創造”ではないし、重複するが低い砌(みぎり)の極性(事象への顕現)で“創造”されている腐った事象である。それだからこそ“上”が目論んでいる“伊勢世(イセヨ)”、これを“始め(ハジめ)”とせよ、たった今の腐った事象をお前たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で変えていけ、その“始め(ハジめ)”とせよ、である。
 その事象の“創造”、“伊勢世(イセヨ)”の“世(ヨ)”、これには“普字鳴戸(成答)の経綸動ぞ(フジナルトのシグミイゴクぞ)”、この“普字(フジ)”はこれからも頻繁に登場するので画像を作成した、それで意味を示す。

普字の解字

 
そして“成答(ナルト)”は先回取り上げた“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”の“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)であり、これが“成(ナル)”であるし、“鳴戸”の“戸”は横隔膜、これは“日月神示”表記の“戸”すべて共通であり、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、自我の強化から自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至ることを指し示すものであるし、同義のこととして岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、ということでもあり、その“経綸動ぞ(シグミイゴクぞ)”、これまでは“経綸動ぞ(シグミイゴクぞ)”ではなく先に述べたように低い砌(みぎり)の極性(事象への顕現)による事象の“創造”であったからこそ、その“経綸(シグミ)”は“動く(イゴく)”、それは今後=アセンション後の事象、先の“伊勢世の始め(イセヨのハジめ)”である。

 これに続く“字に成り成りませる光の神には(ジにナりナりませるヒカリのカミには)、何事も弥栄弥栄ざぞ(ナニゴトもイヤサカイヤサカざぞ)”、
“字(ジ)”は先に画像で意味を示した“普字”であり、それが“成り成りませる(ナりナりませる)”、それに加担する“上”、それは“光の神(ヒカリのカミ)”、この振動を獲得することそのものが“弥栄弥栄ざぞ(イヤサカイヤサカざぞ)”であり、これについては太陽凝視が“一”=智性=1番目のオーラの獲得のための“行”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”とはっきり認識を持っている人には解釈の要は無いと思う。 
また“弥栄(いやさか)”については画像で意味を示すし、これ自体が肉体のローレンツ力による“上”からの振動の取り込みと増幅と発振、発信を示すものである。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その七”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)、御しるしのヨ八音ざぞ(みしるしのヨハネざぞ)。諏訪 麻賀多 榛名 甲斐(スワ マガタ ハルナ カヒ)玉和す理ざぞ(タマワすミチざぞ)。

 冒頭の“軸(時間空間)”、この“(時間空間)”は時間空間は時間の進行に伴う事象の観察の意、それはまた“その四”の
“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”
この“(大空間)”の意味合いと同義、それは時間の進行そのものが現界の法則性、荒の巻の表記を引用するならば“理(リ)(ミチ)”ということであり、“このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)”の意味は時間の進行に伴い進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていきながら“読(ヨミ)”、それは“その二”の
“読む開き(ヨむメヒラき)、字出づ理に成り(ジイづミチにナり)、結ぶ玉に弥栄開く(ムスぶタマにイヤサカヒラく)”
同じく
“読む言の極み(ヨむコトのキワみ)。 弥栄に真問ひ極む世(イヤサカにマトひキワむヨ)”、“その三”の
“読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)”、
“その五”の“人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)。 読みこれぞ(ヨミこれぞ)”、
これらすべて進化に伴う認識(悟り、幸取=さとり)の高まりを指すものであるし、認識の高まりがあってこその霊的成長という意味合いもあり、霊的成長した息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で時間の進行に伴う現津(あきつ)、観察され得る事象、これを自らの心(靈)の動きで“創造”せよ、その“理(リ)(ミチ)”法則性、そして“玉(タマ)”は今の地球人より進化した心(靈)、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、そして“弥栄(イヤサカ)”については画像で意味を示すが、これらを獲得して自分のものとせよ、である。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 

 これに続く“御しるしのヨ八音ざぞ(みしるしのヨハネざぞ)”、ここまでの“日月神示”に“四八音(ヨハネ)”という表記があり、その意は、“四”は発振、発信の意、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、“音”は、可視光線よりも低い振動なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、この事象に顕現するの意、と解釈してきた、それで“四”とカタカナ表記の“ヨ”、これは“ヨ”は、生命進化の階 世=現津(あきつ)、観察され得る事象 代 継目、の意味合いがあるので、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意を示す“四”とは異なり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して高い段階に至り神の思惑を受け継いで顕現する、その意があると解するし、それは“上”が認めた“御しるし”であるということ。

 これに続く“諏訪 麻賀多 榛名 甲斐(スワ マガタ ハルナ カヒ)玉和す理ざぞ(タマワすミチざぞ)”、“諏訪(スワ)”は日の出の巻 第十八帖の解釈を引用して、“諏訪”の諏は漢字の意味で、はかる(謀る)、相談する、問う、たずねるの意があり、訪は訪れる(おとずれる)の意、それは次の段階、第四密度とかアナハタチャクラの覚醒とか“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くこと、これらすべて“創造”の“主(ヌシ)”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の計画=諏訪の諏の意味のはかる(謀る)こと、そして次の段階へ訪れるの意、“麻賀多(マガタ)”は、麻賀多神社、これは千葉県成田市台方にあり、印旛郡市に18社ある「麻賀多十八社」の総本社で、1944年(昭和19年)6月10日に日月神示が降ろされた場所なので、これは“上”の思惑を文字にしてそれを認識(悟り、幸取=さとり)とするの意と解し、“榛名(ハルナ)”は下つ巻 第二十七帖に登場した表記、“榛”は、植物のハシバミを指し、又、榛色(はしばみいろ)って色があり、それはくすんだ赤みの黄、黄色がかった薄茶色、軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”に相当すると思え、それ自体が腹の水=“江戸と尾張”の“江、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、腹の段階の心(靈)の発現とオーラの色彩を指し、“榛名(はるな)”の“名”は、氏名=使命って言う意味。命名の意、よって腹の段階、マニピューラチャクラ以下からの発振、発信の息吹により現界の事象の“創造”をするの意であり、さらにそれは“その三”で解釈した“
ローレンツ力と ○ ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力 ローレンツ力   ” ローレンツ力ローレンツ力  が五つ列記されているのは、物質の振動の性質を表わす、木火土金水、そしてそれは人間の肉体においては腰椎五つに相当する、この意味合いを連想させるものである。 そして“甲斐(カヒ)”は、意志を持って行動した結果、“どういうつもり”で“力”を顕現させたか、いわゆる“思惑の顕現”=現象化の意であり、さらにそれはやってきたことの結果、すべての思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の結果、その一切は自己責任である、という意味合いも感じ取れなければ霊的成長度の高い人間とは言い難いものである。
 そして“玉和す理ざぞ(タマワすミチざぞ)”、これは霊的成長して“玉(タマ)”(自省(胸の磁性“十”)の心(靈))となる、それに至るには先の“諏訪 麻賀多 榛名 甲斐(スワ マガタ ハルナ カヒ)”の要素があり、それを“和す”、そうしなければ心(靈)は育たないと言う意を感じ取り、その法則性に則った(“理(ミチ)”)時間の進行、過程を経て“玉和す(タマワす)”となるの意。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その八”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

字の言座(ジのコトクラ)、名(言波)の極ぞ(ナのキワミぞ)。 意志の極み成るぞ(イシのキワみナるぞ)。 道は道理であるぞ(ミチはドウリであるぞ)。 字開き(ジヒラき)、務に結び(ムにムスび)、咲く花の結び秘文ぞ(サくハナのムスびヒフミぞ)。 普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)。 宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)。 祝詞の心(ノリトのココロ)、はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)。 真心響く誠ぞ(マゴコロヒビくマコトぞ)。 言ざぞ(コトざぞ)。 細工隆隆(サイクリュウリュウ)読の極み立つ世ぞ(ヨミのキワみタつヨぞ)。

 今回取り上げている文言、“字の言座(ジのコトクラ)”そして“字開き(ジヒラき)”、“はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)”、これに登場する“字(ジ)”は、“普字(フジ)”のそれである。


普字の解字

 さらに文言中の、“普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)”の“軸(ジク)”は、先回(“その七”)の“このふで軸(時間空間)”のそれである。 上記の二点の意味合い、これを踏まえて解釈に入る。

 まず冒頭の文。
“字の言座(ジのコトクラ)、名(言波)の極ぞ(ナのキワミぞ)。 意志の極み成るぞ(イシのキワみナるぞ)。 道は道理であるぞ(ミチはドウリであるぞ)”

 “字の言座(ジのコトクラ)”、この“言(コト)”は、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、いわゆる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”そのものを指すが、“普字”は画像で意味を示したように、太陽の振動の取り込み、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、これにより日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を強め=霊的成長して、そのうえで息吹して普く(あまねく)事象の“創造”をするの意であり、“座(クラ)”は“字(ジ)”、“普字(フジ)”、霊的成長を果たした高い位(くらい)の意味合いであり、それが“名(言波)”、“言”の振動という意味合いの“波”、波動のそれ、であり、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして(“普字(フジ)”)事象の“創造”をすること事態を“極ぞ(ナのキワミぞ)”と称され、さらにそれは“意志の極み成るぞ(イシのキワみナるぞ)”、この“意志(イシ)”は、日に立つ心(靈)とその志(こころざし)の意であり、そうやって時間の進行に伴い現津(あきつ)、観察され得る事象を“観察と認識”しながら存在していくことを“道は道理であるぞ(ミチはドウリであるぞ)”と称され、この“道理(ドウリ)”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の意である。

 次の文。
“字開き(ジヒラき)、務に結び(ムにムスび)、咲く花の結び秘文ぞ(サくハナのムスびヒフミぞ)”

 “字開き(ジヒラき)”、自らの心(靈)と肉体が“普字(フジ)”となるならば、“務に結び(ムにムスび)”、“務(ム)”はつとめ、任務のそれ、いわゆる生命、生きる使命、存在の理由、という意味合い、これが“結び(ムスび)”というのは“上”の思惑に適うということ、それを“咲く花の結び(サくハナのムスび)”という表記で称えており、それ自体が“秘文ぞ(ヒフミぞ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣の意の“秘(ヒ)”、そして“普字(フジ)”を指した“文(フミ)”、あるいは“(ヒフミ)”の表記そのものが、“一二三(ひふみ)”1番目、2番目、3番目のオーラ、という意味合いでもある。

 次の文。
“普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)。 宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)。 祝詞の心(ノリトのココロ)、はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)”

 “普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)”は冒頭で述べたとおり先回(“その七”)の“このふで軸(時間空間)”、この“(時間空間)”は時間の進行に伴いながら“観察と認識”をする対象である現津(あきつ)、観察され得る事象、の意であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)、“普字(フジ)”が行うのはそれであり、それ事態が“理(ミチ)”、生命(生きる使命=存在理由)の法則性の意味合い、それは神の思惑の顕現であるからこそ“宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)”と称され、たった今が“宮柱太しき(ミヤバシラフトしき)”というに該当しない、悪魔の傀儡が活躍して崩壊を迎えるだけの事象になっているからこそこういう表記を使われ、さらに“祝詞の心(ノリトのココロ)、はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)”、これもたった今が“祝詞の心(ノリトのココロ)” 神に対し祈るとき、“上”に自分の思惑を申し述べるそれ、これがたった今“役員づら”の行いによりそうなっておらず、たとえ祝詞を奏上してもそこには神と人間の関係をしっかり認識した息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ということになっていない、換言するならば神に対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない、不誠実であるし、このこと事態が自分の存在、生きていることに対して認識が足らない、生きている意味などあまり考えてもいない、それは霊的成長度が低くまだまだ“ケダモノ”“獣”であり、心(靈)は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心であるからこそ、お前たちは“はじめの開き字に現はるぞ(はじめのヒラきジにアラはるぞ)”、生命を創造した“主(ヌシ)”は一切の生命に対し“普字(フジ)”となるように“道”(時間の進行)を歩み、そして“理(ミチ)”(法則性)を認識してもらいたい、この意味合いが生命の始め、あるいは創(はじめ)、の意味合いを示す“はじめの開き(はじめのヒラき)”、この文言にはそれを感じとれるものである。

 次の文。
“真心響く誠ぞ(マゴコロヒビくマコトぞ)。 言ざぞ(コトざぞ)。 細工隆隆(サイクリュウリュウ)読の極み立つ世ぞ(ヨミのキワみタつヨぞ)”

 先に述べたように多くの人間が自分の存在の意味を認識していない、神と人間の関係などしっかり考えていない、またそこまでの霊的成長度ではない、程度の低い人間の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”は崩壊という結果にしかなり得ない、それに相対し“真心響く誠ぞ(マゴコロヒビくマコトぞ)”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして認識(悟り、幸取=さとり)が変容して、神に対しても自分の存在の意義に対しても不誠実ではなくなったならば、という意味合いであり、“言ざぞ(コトざぞ)”は、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命(生きる使命=存在理由)が行う事象の“創造”であるから“細工隆隆(サイクリュウリュウ)”と称され、“読の極み(ヨミのキワみ)”の“読(ヨミ)”はここまでの荒の巻で解釈した通り認識(悟り、幸取=さとり)の高まりであり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)の事象の“創造”と同義であるからこそ“読の極み立つ世ぞ(ヨミのキワみタつヨぞ)”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その九”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

数の極み神ぞ(カズのキワみカミぞ)。 数の極み大素佐成(大数叉名立)(カズのキワみオースサナル)五十の極み(「五十」のキワみ)継ぐ印し給ひて(ツぐシルしタマひて)、幹(実基)字(ミキジ) 完し(マットウし)、完し(マットウし)、山(屋間)の文読み(ヤマのフミヨみ)、皆喜び(ミナヨロコび)、荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ) 普字軸の世(フジジクのヨ)。 喜び言(ヨロコびゴト)、全土に響く理ぞ(ゼンドにヒビくミチぞ)。 八雲出雲は(ヤグモイズモは)、聞理じゃ(キクリじゃ)、これは(これは)、基の大数叉名立大神(キのオースサナルオーカミ)、世に光り輝くの理ぞ(ヨにヒカりカガヤくのミチぞ)。 理は世の元に立つ道ぞ(リはヨのモトにタつミチぞ)。 理(ミチ)、遠きには無し(トーきにはナし)、心せよ(ココロせよ)。

 文中に二回登場する“数の極み(カズのキワみ)”、この“数(カズ)”の意味合いは“その三”で解釈した“数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”、そして“その五”の“数の始の絶対の理ざぞ(カズのハジメのゼッタイのミチざぞ)”のそれである。
 コピペしておく。

“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”

“日継(ヒツギ)”、“日”を“継ぐ”これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を具体的に止めることそのもの、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、これ自体が天意を顕現(“天詞様”)していくことになる。 そして“数と字の(カズとジの)”は、“字”は“普字”のそれであり“数”は物事の多い少ないの程度を指す表記、これが“絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)”にかかっており、“絶対”の“光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを受け止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する“行”が太陽凝視であることはすぐ解り、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”であり、“絶対”の表記は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものがこれ以外にないのだ、という厳しい言い回しであり、もうひとつ、たった今の事象はたびたび使っている“絶対の善”では無い、また、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“上”の思惑通り=“絶対”、そして岩の巻で登場した“善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”しかない“道”)ではない、しかし今後=アセンション後は“上”の思惑が“絶対”であり、それしか顕現しえないのだと言う意味合いでもある。

“数の始の絶対の理ざぞ(カズのハジメのゼッタイのミチざぞ)”、

この“数(カズ)”の表記は“その三”の“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”、この“数と字(カズとジ)” の意味合いを持ち、この“数(カズ)”“字(ジ)”これは“普字(フジ)”のそれであるが、この事象に天意を顕現すること、それが“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)”、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得し、その進化した心(靈)が“思惑の顕現”をすること、それは“普字”でもあり、その“数(カズ)”多い少ないの表記は絶対となる、“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)”、その心(靈)を持った存在だけになっていくのだという意味合いであるし、それはまた下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐる”の“ひつくの臣民”、これが“グレン”となっていくこと事態が文言中の“始め(ハジめ)”であり、いずれ“ひつくの臣民”が大多数となり事象のすべてを占める、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をするという意味合いが“数(カズ)”の表記に含まれているものであるからこそそれは“絶対の理ざぞ(ゼッタイのミチざぞ)”、“理(ミチ)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性の意味合いである。


 上記“その三”と“その五”の表記とその解釈を要約すると、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高め、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を受け止め自らの心(靈)としたその霊的成長した心(靈)、その存在はこの事象、現界においてその数は多くなる、このこと事態が人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”、ことわり、進化の法則性、であり、その進化した心(靈)が登場して増え始める、という意味合いをもつものである。
 この事が理解できていると冒頭の“数の極み神ぞ(カズのキワみカミぞ)”の意味合いはすぐ解り、先の“数(カズ)”の意味合いを持つその存在、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの“極み(キワみ)”、太陽凝視を極めた心(靈)、その存在の登場、そしてこれ事態が神格化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、生命の存在の意味と意義、独り神(ひとりがみ、日取り神)、この意味合いを持つ表記である。
 これに続く“数の極み大素佐成(大数叉名立)(カズのキワみオースサナル)”、この“大素佐成”は、“大(オー)”は人間のが手足を広げた様、“素(ス)”は“素盞鳴(スサナル)”のそれ、画像で意味を示す。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字 

 “佐成(サナル)”の“佐(サ)”は亻(にんべん)と左、亻(にんべん)は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん)なので、“上”である神の思惑が“下”である人間に下降した様子、左は日足(ひたり)の極性、これが成る、の意味合いであるし、“(大数叉名立)”は、“大”は前述した通り、“数”も前述した通り、“叉”は二股になった様、これは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性でもあるし、思惑(日足(ひたり))と顕現、現象化(砌(みぎり))と解してもよい、“名”と“立”は、形なすもの(名)となりそれが立つ、しっかりはっきり表れるものという意味合い。
 これに続く“五十の極み(「五十」のキワみ)”、“五”は糸巻の象形文字であり、進化した生物の持つ密になった神経の構造をさし、“十”は胸の磁性“十”、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、その“極み(キワみ)”が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした生命(生きる使命=存在理由)という意味合いであり、これに続く“継ぐ印し給ひて(ツぐシルしタマひて)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)が天意を“継ぐ(ツぐ)”、その“印し(シルし)”が、先の“数の極み大素佐成(大数叉名立)(カズのキワみオースサナル)五十の極み(「五十」のキワみ)”であるし、それが又冒頭で取りあげた“数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”、これそのものの意味合いを持たせているものである。
 これに続く“幹(実基)字(ミキジ) 完し(マットウし)、完し(マットウし)、山(屋間)の文読み(ヤマのフミヨみ)、皆喜び(ミナヨロコび)、荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ) 普字軸の世(フジジクのヨ)”、冒頭の“幹(実基)字(ミキジ)”、この“幹(ミキ)”は“その八”で解釈した“宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)”、神の思惑を“宮”として、それが太く立つ、神の思惑の顕現となっていくこと、それと同義であり、“(実基)”の“基(キ)”は、ここまでの荒の巻では以下の表記が挙げられる。 それぞれの解釈を読んで意味を理解してもらいたい。

“その二”
“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)”
“玉基理ぞ(タマキミチぞ)”
“通基秘理(ツキヒミチ)”
“その四”
“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”
“生(基)の極みたり(セイのキワみたり)”
“その五”
“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)”
“その六”
“答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)”、これに関しては解釈を以下にコピペしておく。

冒頭の“答(コタヘ)”の表記、これは“その四”の
“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”、
そして“その五”の
“面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)”、
この“答”、今回の読みは“コタへ”ではあるが、ここまで解釈してきたとおり、人間が生きている間に様々な現津(あきつ)、観察され得る事象に遭遇し(またそれは個々の霊的成長度の程度にもよるものである)、その時々に思い考えて対処する、その結果、自分が様々な事を追い求めたうえで認識する、それは生命の存在の意味と意義、神と人間の関係、その答え、であるし、これを求めさせて高い認識(悟り、幸取=さとり)を得させること自体が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配である。 
 その“答の(コタヘの)”、これそのものを示唆した表記が“名基荷負う始め(ナキニナうハジめ)”、この“名基(ナキ)”は“その二”の“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)”のそれであり、その解釈は“那岐(名基)(ナキ)”=日足(ひたり)の極性、思惑、そして“名”の表記は認識するための名称の意であり、認識の中において分類して分析してさらに認識(悟り、幸取=さとり)を構築する、その“基”であるし、高い日足(ひたり)の極性ゆえの砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、こうやって事象を“創造”するのが進化した心(靈)であるし、その高い事象の“創造”を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)を持つ人間にさせようとする。 それは“うれしうれし”“大歓喜”しかない事象であるし、ローム太霊講話集から引用すれば、第二話の
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち
であり、それを目論んでいるのが“創造”の“主(ヌシ)”であると言いうる。


 それでこの“基(キ)、これはやはり“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
これが非常に理解しやすく、先に挙げた文言における“基”の表記は、一切の事象、生命だろうが外側(外国と幽界)の事象の現実だろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であろうが進化を阻む存在の思惑を受けて停滞している者であろうが、あるいは日足(ひたり)の極性であろうが砌(みぎり)、現象化であろうが、それら一切の基、もと、と解することが出来るし、またそれは究極微粒子、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、あるいは炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁、という解釈も成り立ち、その振動そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、あるいは思惑を含んでいる、生命の“創造”をもくろみ現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をさせている“創造”の“主(ヌシ)”の意図、と解することもできうるものである。
 それで“幹(実基)字(ミキジ) 完し(マットウし)、完し(マットウし)”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が太く幹のように実りそれが“完し(マットウし)”が二回述べられているのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性のことであり、これに続く“山(屋間)の文読み(ヤマのフミヨみ)”の“山(ヤマ)”は目上(めうえ)の脳のことであり“屋間”の“屋”は、肉体を示している尸(しかばね、かばね、心(靈)と肉体で人成り立っているが、心(靈)以外の物質としての肉体の意味)と、横隔膜を表わす横棒━(よこぼう、水平磁場)、そして厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)と土=2~3番目のオーラで構成されており、肉体に“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を取り込む、の意であり、“間”は、土=2~3番目のオーラの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、それを取り込んで“一”=智性=1番目のオーラとして、土=2~3番目のオーラに反映させよ、のいみあいであり、“文読み(フミヨみ)”は、“その二”で解釈した“読む開き(ヨむメヒラき)、字出づ理に成り(ジイづミチにナり)、結ぶ玉に弥栄開く(ムスぶタマにイヤサカヒラく)大和心の道ぞ(ヤマトゴコロのミチぞ)。 道開く理の極みぞ(ミチヒラくリのキワみぞ)。 本能秀(生命)月日の極み成る(ホンノホツキヒのキワみナる)読む言の極み(ヨむコトのキワみ)”のそれであり、霊的成長して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が解る、自らの認識(悟り、幸取=さとり)とする、また認識(悟り、幸取=さとり)としなければ神に近付いたとは言えない、という意味合いの文言であり、そうなったならば、“皆喜び(ミナヨロコび)”、風の巻と岩の巻に登場した“善一筋”、一切が“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるならば、“うれしうれし”“大歓喜”の事象でしかない、それしかない、という意味合いであり、“荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ)”、神の思惑を“宮(ミヤ)”としてこれを“継ぐ(ツぐ)”、それは“理(ミチ)”を“荷ふ(ニナふ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を自らの認識(悟り、幸取=さとり)とする、それが“宮継ぐ(ミヤツぐ)”と“荷ふ(ニナふ)”の意味合いであり、“普字軸の世(フジジクのヨ)”の“普字”に関しては何回も画像で意味を示したので今回は省き、“軸の世(ジクのヨ)”は“その七”で解釈した“このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)”のそれと同義、いわゆる一切の事象の意味合いである。 

 次の文。
“喜び言(ヨロコびゴト)、全土に響く理ぞ(ゼンドにヒビくミチぞ)”
 これは先の“皆喜び(ミナヨロコび)、荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ) 普字軸の世(フジジクのヨ)”、一切の事象が“善(神格化の方向性と智性の受信)”となるの意。

 次の文。
“八雲出雲は(ヤグモイズモは)、聞理じゃ(キクリじゃ)、これは(これは)、基の大数叉名立大神(キのオースサナルオーカミ)、世に光り輝くの理ぞ(ヨにヒカりカガヤくのミチぞ)”

 冒頭の“八雲出雲は(ヤグモイズモは)”の“雲”は画像で意味を示す。

雲の解字 


 それで“八雲(ヤグモ)”の“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、そして“普字(フジ)”と同義、“出雲(イズモ)”は取り込んだ振動、自分の認識(悟り、幸取=さとり)を息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)として出す、の意味合い、またそれは認識(悟り、幸取=さとり)を獲得したうえでのことでもあるので、認識の獲得=“聞(キク)”、認識そのもの、“理(リ)”と称されているし、これに続く“これは(これは)、基の大数叉名立大神(キのオースサナルオーカミ)”、認識を獲得した進化した心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)自体が=“これは(これは)”、“基(キ)”それの“大数叉名立大神(オースサナルオーカミ)”これに関しては前述した通りであり、そうなったならば、というよりも“上”の思惑の時期、その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が来ればそうなるのだが、それを言い表わしたのが“世に光り輝くの理ぞ(ヨにヒカりカガヤくのミチぞ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は“世に光り輝く(ヨにヒカりカガヤく)”、これがまた、“理(ミチ)”生命(生きる使命=存在理由)の法則性であるということ。

 次の文。
“理は世の元に立つ道ぞ(リはヨのモトにタつミチぞ)。 理(ミチ)、遠きには無し(トーきにはナし)、心せよ(ココロせよ)”

 これも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを述べており、特に解釈の要は無いと思うが、“理は(リは)”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、“世の元に立つ(ヨのモトにタつ)”=一切の事象の根元たるものであり、それはこれから“立つ(タつ)”、それが又“理(ミチ)”=法則性であるの意。
 これに続く“理(ミチ)、遠きには無し(トーきにはナし)、心せよ(ココロせよ)”、これは艮(うしとら)の金神がなぜ人間に“日月神示”を通して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をといているのか、お前たちなら理解できるのだ、絵空事ではないのだ、もっと真摯に考え“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して実感せよ、自らの認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、お前たちの問題なのだぞ、の意味合いで“遠きには無し(トーきにはナし)、心せよ(ココロせよ)”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

誠の道は(マコトのミチは) 神の理ざぞ(カミのミチざぞ)。 読(ヨミ) はじめの世ぞ(はじめのヨぞ)。 皆神の子ぞと申してあるぞ(ミナカミのコぞとモーしてあるぞ)。 名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)、生の基の誘基の命現れき(キのモトのイザナキのイノチアれき)。 太始めの御玉組み組み(フトハジめのミタマクみクみ)   

 冒頭の文。
“誠の道は(マコトのミチは) 神の理ざぞ(カミのミチざぞ)”

この“誠(マコト)”、これは荒の巻に17回登場するが、なぜこの表記を使っているのかは、たった今の人間の心(靈)とこの事象そのものが不誠実である、この不誠実な心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象と、その心(靈)の動きは“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)して自分の在り方や生き方を見出していくものであるし、いずれ人間が“絶対の善”の事象を創るとするならば不誠実なんて概念や言葉はなくなるものであるが、それに至るまでをこの文では“道”、人生における時間の進行、あるいは地球人すべての進化の過程一切、これをこの文言で称されており、これ事態がたった今の地球人に必須の心(靈)の発現に関わる、それは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)と“慈悲”と“慈愛”であることは幾度となく述べて来たし、この心(靈)の発現と強化そのものが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の理(ことわり)、法則性、であるからこそ“神の理ざぞ(カミのミチざぞ)”である。

 次の文。
“読(ヨミ) はじめの世ぞ(はじめのヨぞ)”

 この文言中の“読(ヨミ)”は、霊的成長を果たした心(靈)が持つ認識(悟り、幸取=さとり)そのものと解してきた。 ことに“その三”で取りあげた“字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)”、この“字の極意の極みは(ジのゴクイのキワみは)”、これは“普字”がこの低振動の事象、現実、現界、に顕現する=“上”の思惑を止めた生命(生きる使命=存在理由)が事象の“創造”をする、その“極意(ゴクイ)”の“極み(キワみ)”とは“読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)”と示され“読字”は、“普字”を体得し認識(悟り、幸取=さとり)としたさま、“(黄泉)”は、黄色が軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”であり、これは腹の振動、自我その者の意、自分の自我に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の概念と認識(悟り、幸取=さとり)を獲得したならば、それは独り神(ひとりがみ、日取り神)になる重要な要素なのだということも感じさせられる表記であるし、自我があるからこそこの事象、現界、たった今の現実、これを創造しているものであることを今後=アセンション後の“はじめの世ぞ(はじめのヨぞ)”と称されているものである。

次の文
“皆神の子ぞと申してあるぞ(ミナカミのコぞとモーしてあるぞ)”

これに関してはそのままの意味であり解釈の要なし。

 次の文
“名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)、生の基の誘基の命現れき(キのモトのイザナキのイノチアれき)”

 冒頭の“名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)”の“名基(ナキ)”は“その二”で取りあげたがその解釈は“那岐(名基)(ナキ)”=日足(ひたり)の極性、思惑、そして“名”の表記は認識するための名称の意であり、認識の中において分類して分析してさらに認識(悟り、幸取=さとり)を構築する、その“基(キ)”基本の基、もと、であり、それが今後=アセンション後“しかと開き(しかとヒラき)”、“生の基の誘基の命現れき(キのモトのイザナキのイノチアれき)”の“生の基(キのモト)”は生命(生きる使命=存在理由)の“基(キ)”であり、これに関しては先回列挙した以下の文言の意味合いを持つものである。

“その二”
“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)”
“玉基理ぞ(タマキミチぞ)”
“通基秘理(ツキヒミチ)”
“その四”
“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”
“生(基)の極みたり(セイのキワみたり)”
“その五”
“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)”
“その六”
“答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)”

次の文
“太始めの御玉組み組み(フトハジめのミタマクみクみ)”

 この“太始め(フトハジめ)”は先の“読(ヨミ) はじめの世ぞ(はじめのヨぞ)”と“名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)”、今後=アセンション後の事象のことを述べているが、何が“太始め(フトハジめ)”なのか、それは“その八”で取りあげた“宮柱太しき立つぞ(ミヤバシラフトしきタつぞ)”が解り易いが、“御玉(ミタマ)”と称されているのは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、自省(胸の磁性“十”)あってこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)である自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌め“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現となり自らに対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”、それは自我を諌める心、これが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となる資質であり、たった今の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から“上”に至るには、これが必須である、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である、それは生命(生きる使命=存在理由)の進化に組み込んであるのだ、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十一”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

神継ぐ極みと成り(カミツぐキワみとナり)、始る道ぞ理の極み(ハジマるミチぞリのキワみ)。 字句字句(ジクジク)、真問ひ成り成り鳴り(マトひナりナりナり)、読(黄泉)の岩戸(言答)開くなり(ヨミのイワトアくなり)。

 冒頭の“神継ぐ極みと成り(カミツぐキワみとナり)”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の極み¬=“神継ぐ(カミツぐ)”、それが成る、換言すれば智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と行使、“一”=智性=1番目のオーラが貧弱な平均的地球人の霊的成長度では“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応がそれなりでしかないので、たった今の現津(あきつ)、観察され得る事象は腐っているものであるが、今後=アセンション後はその霊的成長度の人間はいなくなる。 それはたった今の奪い合いや騙しあいの無い世界であり(善一筋、“絶対の善”の顕現)、恨みの連鎖の霊的干渉も消失し、物や(通貨としての)金に縛られることなくただただ自らの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を追い求め生活するという段階に入るので、それを示した文言が“始る道ぞ(ハジマるミチぞ)”、“道(ミチ)”は時間の進行であり、“理の極み(リのキワみ)”の“理(ミチ)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性そのものを指す。
 これに続く“字句字句(ジクジク)、真問ひ成り成り鳴り(マトひナりナりナり)”、この“字句(ジク)”の“字(ジ)”は“普字(フジ)”のことであり、二つ列記されているのは日足(ひたり)と砌(みぎり)のそれぞれの極性を示し(思惑と現象化)、この“字句(ジク)”の表記そのものが、ここまで解釈してきた以下の文言、

“このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)”
時間空間は時間の進行に伴う事象の観察の意、“読(ヨミ)”進化に伴う認識(悟り、幸取=さとり)の高まり。

“普字軸の理ぞ(フジジクのリぞ)”
“軸(時間空間)”、これ事態が時間の進行に伴いながら“観察と認識”をする対象である現津(あきつ)、観察され得る事象、の意であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)、“普字(フジ)”が行うのはそれであり、それが“理(ミチ)”、生命(生きる使命=存在理由)の法則性の意味合い。

“皆喜び(ミナヨロコび)、荷ふ理の宮継ぐ(ニナふミチのミヤツぐ) 普字軸の世(フジジクのヨ)”
一切の事象が“善(神格化の方向性と智性の受信)”となるの意。


これらの意味を含んでいる表記であるし、それは“真問ひ(マトひ)”。この“問ひ(トひ)”に対するのはここまでの表記の“答(ト)(トー)(コタへ)”のそれ、ここまで解釈してきた以下の文言、

“言答開き成り成るぞ(イワトビラきナりナるぞ)。 誠言答は永遠ぞ(マコトイワトはトハぞ)”
平均的地球人の自我の確立=固定化の進化過程から“上”、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、そして“慈悲”と“慈愛”という心(靈)を発現していき智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)も高まるの意、それが“成り成る(ナりナる)”、また“言答”の漢字表記は、“言”は、自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、“答”はその結果、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、平たく言えば因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、ということになり、“誠言答は永遠ぞ(マコトイワトはトハぞ)”、たった今の地球は不誠実な息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”された事象で満ち満ちているが、それに相対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、また不誠実ではない、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”は、“永遠(トハ)”であるの意。

“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”
この“理の極の光(リのキワミのヒカリ)”これは先の“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”、これが“極の光(キワミのヒカリ)”になった際の事象、それを“(大空間)”と称され、それは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の結果、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、それは生命の存在、神と人間の関係の答え、“答(トー)”であり、その過程を“山路(ヤマジ)”、この“山”は高い神霊が使う脳の意味合いとタンパク質の高分子化、これに相当するものであり、“路(ジ)”はそこに至る過程と解する。

“面白に秘解く成答(オモシロにヒトくナルト)、文道とどめたり(フミミチとどめたり)”
“成答(ナルト)”は先の“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”の“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)である。 そしてそれはまだそこまでに至っていない生命(生きる使命=存在理由)がたった今の地球人であるから、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“秘解く(ヒトく)”、その秘密を自分たちで見つけその上で(自分たちが時間の進行を“観察と認識”しながら)生きる、あるいは存在していく上での認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、その“秘解く(ヒトく)”の過程は“面白に(オモシロに)”であり、“成答(ナルト)”そのものが“文道とどめたり(フミミチとどめたり)”、この“文(フミ)”と“道(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に至る時間の進行は、“字(ジ)、絶対の理(ゼッタイのリ)”、 “普字”のそれ、そしてそれは“理(ミチ)”、絶対の法則性、ということ。

“言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ) 人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)。 読みこれぞ(ヨミこれぞ)”
 “言の絶対の答(コトのゼッタイのコタヘ)”、“言”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、これは先の“霊気世に満ち漲り(レイキヨにミちミナギり)”でもあり、またそれは“絶対の答(ゼッタイのコタヘ)”、先にも述べたがこれ自体が“成答(ナルト)”、そしてそれは“人の意の極みなる意味ぞ(ヒトのイのキワみなるイミぞ)”、人(日止、霊止)の存在の意義、“日止、霊止”(“上”からの振動を止める表記)の使命、いうなればそれは神の“思惑の顕現”=現象化の代行者たるものであり、“絶対”であることを承知しているものであるし、その認識そのものが“読みこれぞ(ヨミこれぞ)”、意味を読み取り認識(悟り、幸取=さとり)とする、の意味合い。

“答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)”
 “答(コタヘ)”は、人間が生きている間に様々な現津(あきつ)、観察され得る事象に遭遇し(またそれは個々の霊的成長度の程度にもよるものである)、その時々に思い考えて対処する、その結果、自分が様々な事を追い求めたうえで認識する、それは生命の存在の意味と意義、神と人間の関係、その答え、であるし、これを求めさせて高い認識(悟り、幸取=さとり)を得させること自体が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配である。 その“答の(コタヘの)”、これそのものを示唆した表記が“名基荷負う始め(ナキニナうハジめ)”、この“名基(ナキ)”は“その二”の“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)意味開くなり(イミヒラくなり)”のそれであり、その解釈は“那岐(名基)(ナキ)”=日足(ひたり)の極性、思惑、そして“名”の表記は認識するための名称の意であり、認識の中において分類して分析してさらに認識(悟り、幸取=さとり)を構築する、その“基”であるし、高い日足(ひたり)の極性ゆえの砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、こうやって事象を“創造”するのが進化した心(靈)であるし、その高い事象の“創造”を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)を持つ人間にさせようとするの意。

“普字鳴戸(成答)の経綸動ぞ(フジナルトのシグミイゴクぞ)”
 “普字(フジ)”については何回も解釈を述べたので省き、“成答(ナルト)”は先の“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”の“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)であり、これが“成(ナル)”であるし、“鳴戸”の“戸”は横隔膜、これは“日月神示”表記の“戸”すべて共通であり、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、自我の強化から自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至ることを指し示すものであるし、同義のこととして岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、ということでもあり、その“経綸動ぞ(シグミイゴクぞ)”、これまでは“経綸動ぞ(シグミイゴクぞ)”ではなく先に述べたように低い砌(みぎり)の極性(事象への顕現)による事象の“創造”であったからこそ、その“経綸(シグミ)”は“動く(イゴく)”、それは今後=アセンション後の事象の意。


これらの意味を含み、それが“成り成り鳴り(ナりナりナり)”、“成り(ナり)”が二つなのは日足と砌(ひたりとみぎり)のそれぞれの極性の完成を指し、“鳴り(ナり)”は発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意である。
これに続く“読(黄泉)の岩戸(言答)開くなり(ヨミのイワトアくなり)”、この“読(黄泉)(ヨミ)”はここまで解釈してきたとおり自我(黄泉)における認識(悟り、幸取=さとり)=“読(ヨミ)”の高まり、“岩戸(言答)開くなり”は上記コピペ文の“言答開き成り成るぞ(イワトビラきナりナるぞ)”を参照されたい。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十二”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

はじめの光り(はじめのヒカり)、今(イマ) 輝きて(カガヤきて)、答神(真理)覚め覚め棒ぐもの(トーカミサめサめササぐもの)、百取りしろ(網母十理詞露)に(モモトりしろに)充ち満ちて(ミちミちて)、弥栄御座湧きに湧き(イヤサカミグラワきにワき) 天晴れ継ぐ(アッパれツぐ) 神の答は字に有り(カミのコタヘはジにアり)。

 冒頭の“はじめの光り(はじめのヒカり)、今(イマ) 輝きて(カガヤきて)”、この文言中の“はじめの光り(はじめのヒカり)”は“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、生命を創造する意図を持った振動、それは観測者(この場合は被造物である人間)の持つ振動が低ければ光輝いて見えるもの、換言すれば“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、あるいは宇宙の中心から注がれた“創造”の“主(ヌシ)”の振動を自らのローレンツ力で取り込んでいる太陽、その太陽からの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これは天意そのもの、これを取り込み、止めた心(靈)(“日止、霊止”の表記の意味合い)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした存在と言いうるのだが、これは先回取り上げた以下の文言、

“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”
この“理の極の光(リのキワミのヒカリ)”これは先の“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”、これが“極の光(キワミのヒカリ)”になった際の事象、それを“(大空間)”と称され、それは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の結果、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、それは生命の存在、神と人間の関係の答え、“答(トー)”であり、その過程を“山路(ヤマジ)”、この“山”は高い神霊が使う脳の意味合いとタンパク質の高分子化、これに相当するものであり、“路(ジ)”はそこに至る過程と解する。

 この
人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の結果、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、それは生命の存在、神と人間の関係の答え、“答(トー)”
これと全く同義であり、それを指し示した文言が“答神(真理)(トーカミ)”である。
 そして“覚め覚め棒ぐもの(サめサめササぐもの)”の“覚め覚め(サめサめ)”の同じ言葉が二回使ってあるのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化、この場合は“力”の発現などの意味合いを持つ覚醒のそれ、あるいは認識(悟り、幸取=さとり)の高まり、それを“覚め(サめ)”と称しており、自分自身、そして自分のエネルギーの贖い(あがない)によって得られた“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)、これを一切の存在に奉仕する、とても“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)では理解できないことを指した文言が“覚め覚め棒ぐもの(サめサめササぐもの)”であるし、これがまた、人間が何を成して生きていくべきなのか、を示唆した文言であり、解り易いので引用するがローム太霊講話集の第二話の文言、
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
この“神自身の本当の気持ち”これを代行し実現する心(靈)になるという意味合いを持った文言である。

 これに続く“百取りしろ(網母十理詞露)に(モモトりしろに)充ち満ちて(ミちミちて)”、この“百取り(モモトり)”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と太陽を示す日で構成されている“百”これを“取り(トり)”そして命令形である“しろ”、言うまでもなくこれは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“(網母十理詞露)”の“網母”は、“その五”に同じ表記があったので以下にコピペする。

“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)、網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”
“日継(日通基)(ヒツギ)”は言うまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、()内の漢字表記は、太陽の日、通る、これは“上”から送り贈られてくる高い振動が肉体に通る、“基”は、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基の意、これが“開く文字(ヒラくモジ)”、“文字”は“普字”のことであり、“網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”、“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“母(モ)”は“上”から“下”へ“網(モ)”のように、“成る(ナる)”、そしてそれは“日継(日通基)(ヒツギ)”そのものが“極みなり(キワみなり)”、生命の“答(トー)”“成答(ナルト)”ということ。


上記コピペ文でも述べている通り
網母(モモ)”は““創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“母(モ)”は“上”から“下”へ“網(モ)”のように
であり、“十理”は胸の磁性“十”と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“理(ミチ)”、“詞露”は詞(ことば)と露(つゆ)、その意は“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)、いわゆる思惑とそれを顕現したさまを“詞(シ)”、そしてと、水蒸気の結露のように高い振動を固めて自凝(おのころ)せよ、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めてこの事象に活かすことを示唆しており、これを“露(ロ)”と称されている。

 これに続く“弥栄御座湧きに湧き(イヤサカミグラワきにワき)”、“弥栄(イヤサカ)”は画像で意味を示す。

彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 



“御座湧きに湧き(ミグラワきにワき)”は、受け止めた振動により日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化が行われるから、“湧きに湧き(ワきにワき)”であり、“御座(ミグラ)”は“上”からの振動を止めて回転させ(チャクラ(荷電粒子の回転を示す)と同義)増幅して息吹くことを示し、先の画像、「弓と璽(しるし)」の意味合いそのものである。
 これに続く“天晴れ継ぐ(アッパれツぐ) 神の答は字に有り(カミのコタヘはジにアり)”、“天晴れ継ぐ(アッパれツぐ)”は、天意を顕現する、神の思惑をこの事象に活かす、その意味合いの“継ぐ(ツぐ)”であり、“神の答は字に有り(カミのコタヘはジにアり)”、この“字(ジ)”は荒の巻で幾度か登場する“普字(フジ)”のそれである。

普字の解字



 今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十三”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

見よ(ミよ)、御子達(ミコタチ)、大き道座し座す言座(オーきミチマしマすコトクラ)。 吾疑問ひ秘文字奥義(アギトひヒモヂオウギ)、敬ひ(ウヤマひ)、喜び(ヨロコび)、申すらくを(モーすらくを)、天の普智独楽の(アメのフチコマの)実実普理聞こし食すらむ(ミミフリキこしメすらむ)千萬の御代(チヨロズのミヨ)。 

 冒頭の“見よ(ミよ)、御子達(ミコタチ)”は、“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物である一切の生命(生きる使命=存在理由)への言い回し、“大き道座し座す言座(オーきミチマしマすコトクラ)”の“大き道(オーきミチ)”、大は人間が手足を広げた様、“道”は時間の進行、“言座(コトクラ)”は先回の“御座湧きに湧き(ミグラワきにワき)”の“座(クラ)”と同義、それは「弓と璽(しるし)」(先回の画像を参照のこと)、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて円形粒子加速器の構造で増幅して発信する、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を“言(コト)”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)と称されているし、“座し座す(マしマす)”の同義の文言が二回述べられているのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示す。
 これに続く“吾疑問ひ秘文字奥義(アギトひヒモヂオウギ)”、自分=“吾(ア)”が、何を“疑問ひ(ギトひ)”するか、それは“秘文字奥義(ヒモヂオウギ)”、これは“普字(フジ)”であり、

普字の解字

その秘密と秘訣、奥義、自分の存在の意義と意味、生命の使命、これを自分に問う、自分の存在が何のためなのか深く鑑みて得られる認識(悟り、幸取=さとり)、それを“吾疑問ひ秘文字奥義(アギトひヒモヂオウギ)”と称されており、それ事態を“敬ひ(ウヤマひ)、喜び(ヨロコび)”とする、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)はその認識(悟り、幸取=さとり)を自らの心(靈)の最も貴いものとし、認識(悟り、幸取=さとり)の獲得自体が生命の存在の意義の答え、荒の巻の表記なら“答(ト)(トー)(コタへ)”である。
 これに続く“申すらくを(モーすらくを)、天の普智独楽の(アメのフチコマの)実実普理聞こし食すらむ(ミミフリキこしメすらむ)千萬の御代(チヨロズのミヨ)”
この“天の普智独楽(アメのフチコマ)”は、天は“上”、普は“普字”のそれ、智は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、独楽(コマ)は高速の回転(円形粒子加速器)を示し、“実実普理(ミミフリ)”は、“普字”と“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、それが“実実(ミミ)”の二つの表記は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性が実るの意、そして“聞こし食すらむ(キこしメすらむ)”は、振動の取り込みを表わす表記、“千萬の御代(チヨロズのミヨ)”の“千萬(チヨロズ)”は千と万であり、“日月神示”に幾たびか登場する“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)”のそれであり、以下の画像で意味を示す。
百 千 万 の解字と解釈 

そして“御代(ミヨ)”、これは天皇が治める世の意味だが、形骸の権威に酔っぱらっているたった今の程度の低い人間が程度の低い人間を天皇と称しているそれではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する“一”=智性=1番目のオーラ、智性(神性)を持った人間が治め、神の思惑を顕現していく事象、世のことである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十四”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

光り神(ヒカりカミ) 太光り(秘加理)ぞ(フトヒカりぞ)。 理の(真理)御山(大空間)の(ミチのミヤマの)良きを寿ぐ(ヨきをコトホぐ)。 五十鈴の川の良きを寿ぐ(イスズのカワのヨきをコトホぐ)、動く事なく(ウゴくコトなく)、止まる事なく(トまるコトなく)永遠世に弥栄弥栄(トコヨにイヤサカイヤサカ)、喜びの(ヨロコびの)、今開く字の理成りて(イマヒラくジのミチナりて)、光の花の(コのハナの)、一時にどっと咲く所(イチジにどっとサくトコロ)、玉の御代とて神代より(タマのミヨとてカミヨより)生きし生き神引き合ふぞ(イきしイきガミヒきアふぞ)。

 冒頭の文。
“光り神(ヒカりカミ) 太光り(秘加理)ぞ(フトヒカりぞ)”
“上”からの振動は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を太陽が自らのローレンツ力 
ローレンツ力 により取り込んで太陽が生命でもあるからこそ、太陽の思惑とともに地球に天意を送っており、それを取り込んで生命(生きる使命=存在理由)は下等な本能を発現させたものから発現して(大体、原核生物から下等な軟体動物までの進化過程)、ある程度進化した生命である人間は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の“下”からある程度“上”まで取り込んできたからこそ、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という心(靈)の発現をしているものである。 
この“上”からの振動の取り込みが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”、法則性であり、また“道”、時間の進行によってなされてきたことでもあり、“光り神(ヒカりカミ)”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、自らのローレンツ力 
ローレンツ力 で取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、今後=アセンション後に移行するにはこれが大事、ということでもあり、先に述べた進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を表わした文言でもあるし、“太光り(フトヒカり)”の“太”は、人間が手足を広げた様の“大”にローレンツ力ローレンツ力  を足した表記であり、“(秘加理)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣と“理(ミチ)”、法則性、これを“加”加える、それが又“太光り(フトヒカり)”の先の意味合いを加味したものである。

 これに続く“理の(真理)御山(大空間)の(ミチのミヤマの)良きを寿ぐ(ヨきをコトホぐ)”、“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は“(真理)”、生命の存在の意義と意味の真理であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性によってこの事象そのものも進化を果たしていく、それは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)が“観察と認識”をする現津(あきつ)、観察され得る事象であり、よって進化した目上(めうえ)の脳の意味合いを持つ“御山(ミヤマ)”における心(靈)の発現と行使によって“創造”され得る“うれしうれし”“大歓喜”の事象を“理の(真理)御山(大空間)”と称し、それは“良きを寿ぐ(ヨきをコトホぐ)”、たった今は“良き(ヨき)”ではないからこそこういう表記が当てられているものである。

 次の文。
“五十鈴の川の良きを寿ぐ(イスズのカワのヨきをコトホぐ)、動く事なく(ウゴくコトなく)、止まる事なく(トまるコトなく)永遠世に弥栄弥栄(トコヨにイヤサカイヤサカ)、喜びの(ヨロコびの)、今開く字の理成りて(イマヒラくジのミチナりて)、光の花の(コのハナの)、一時にどっと咲く所(イチジにどっとサくトコロ)、玉の御代とて神代より(タマのミヨとてカミヨより)生きし生き神引き合ふぞ(イきしイきガミヒきアふぞ)”
 冒頭の“五十鈴の川(イスズのカワ)”、これは伊勢の内宮の五十鈴川のことなどではなく、“五”は糸巻の象形文字であり、進化した生物における密になった神経、それによる強化されたローレンツ力
ローレンツ力  、“十”は胸の磁性“十”、自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)のこと、“鈴”は振動を発振、発信する様子、“川”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ体液、それは錯体、肉体中の体液すべては錯体を含んでおりその循環は肉体内での電磁誘導を励起する、これら“五十鈴の川(イスズのカワ)”の表記の意味は“行”をして進化すればするほど盛んになり、それを“良きを寿ぐ(ヨきをコトホぐ)”と称され、“動く事なく(ウゴくコトなく)”とは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)がすべての生命にとって永遠不変のものであり、“止まる事なく(トまるコトなく)”は、“道”(時間の進行)における進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が“理(ミチ)”(法則性)であるの意であり、“永遠世に弥栄弥栄(トコヨにイヤサカイヤサカ)”の“永遠世(トコヨ)”は一切の生命(生きる使命=存在理由)が“観察と認識”する現津(あきつ)、観察され得る事象、そこにおける進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それは“弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)”、何回も使っている画像で意味を示す。
彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字 


そして同じ文言が二回使われているのは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性をさし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくならばその極性は、肉体においても心(靈)においても強化されていくもの、その意を“弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)”と称され、“喜びの(ヨロコびの)、今開く字の理成りて(イマヒラくジのミチナりて)”は、今回取り上げている文言中の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における事柄を“喜びの(ヨロコびの)”と称され、“今開く字(イマヒラくジ)”の“字(ジ)”は、“普字(フジ)”のことであり、画像で意味を示す。

普字の解字

 また“今開く字(イマヒラくジ)”と言われているのは、これから(今後=アセンション後に移行する際)開こうとしているのだ、の意味合いであり、これに続く“理成りて(ミチナりて)”は、進化の法則性、“理(ミチ)”が、成されようとする、その意であり、それは“光の花の(コのハナの)、一時にどっと咲く所(イチジにどっとサくトコロ)”、“光の花の(コのハナの)”は冒頭で解釈した“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、これが開花する、それはたった今は開花していない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象である、それが変容する=“一時にどっと咲く所(イチジにどっとサくトコロ)”となるのだ、の意であり、“玉の御代とて神代より(タマのミヨとてカミヨより)”、“玉(タマ)”は自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを示し、これ自体が自我の確立=固定化の段階の現地球人より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)であり、それは“御代(ミヨ)”、“ほんとう”の意味での“天詞様”天皇と称されるべき心(靈)、“上”と感応する智性(神性)をしっかり発現した存在であり、それはまた神の思惑を顕現するからこそ“神代(カミヨ)”であり、“生きし生き神(イきしイきガミ)”、これはここまでの“日月神示”に登場した“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを実現した、獲得した、認識(悟り、幸取=さとり)とした、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をしっかり発現させた生命が顕現する、実際に世に現れる、それを“生きし生き神(イきしイきガミ)”と称され、“引き合ふぞ(ヒきアふぞ)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と生命の存在そのものの引き合い、神の“思惑の顕現”と、つり合い、均衡、割りにあう、努力(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”)が実る、その意味合いの文言である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十五”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

誠の(マコトの) もの云ふ時来しと(ものイふトキキしと) みそぐの太神覚りて(みそぐのフトカミサトりて) サン太神様(サンオーカミ) 知る(シる)誠(マコト) 尊き御代と成りますのぞ(トートきミヨとナりますのぞ)。 仕事は(シゴトは)、めんめの働きあるぞよ(めんめのハタラきあるぞよ)、実空字(ミグヂ) 大き理智在せることの印しなり(オーきミチマせることのシルしなり)。

 冒頭の文。
“誠の(マコトの) もの云ふ時来しと(ものイふトキキしと)”

この“誠(マコト)”の表記は荒の巻に17回登場することを“その十”で述べており、これはたった今の地球は霊的成長度の低い心(靈)の動き、不誠実な息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”された事象で満ち満ちているが、それに相対して“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、また不誠実ではない、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これが今後=アセンション後に向けて成されていく、あるいは今後=アセンション後は不誠実なんて概念や言葉はなくなるほど“善一筋”(風の巻 第十三帖 岩の巻 第三帖に登場した表記)となるものであるし、それはいずれ“絶対の善”の顕現ということになるのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であると言いうる、それでこの文言の意味合いは、先に述べたようにたった今は“誠(マコト)”の事象ではないが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほどそれは顕現する=“もの云ふ時来しと(ものイふトキキしと)”ということである。

 これに続く“みそぐの太神覚りて(みそぐのフトカミサトりて)”、これは“みそぐの太”と“神覚りて”に分けて解釈すると解りやすく、まず“みそぐ”の意味合いは禊(みそぎ)、祓い、程度の低い霊の影響を受けるな、それは“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、これは自省(胸の磁性“十”)の“行”、神と人間の関係を鑑みたうえで本来在るべき自分の姿に戻れ、の意味合いがあるが、それを指し、“太(フト)”は先回解釈したように、人間が手足を広げた様、大とローレンツ力 
ローレンツ力 、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込めよ、であり、これ自体が“上”との感応であるから“神覚りて(カミサトりて)”、神に対する認識(悟り、幸取=さとり)の高まりと獲得、またこれ自体が“上”との感応の結果と言いうることであるが、その意の文言である。

 これに続く“サン太神様(サンオーカミ)”、これは太陽を示すsunのことであり、これに続く“知る(シる)誠(マコト)”、何をか言わんやであるが、これは真摯な“行”としての“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでしかない。 
 これに続く“尊き御代と成りますのぞ(トートきミヨとナりますのぞ)”、“御代”は天皇が治める世の意味だが、すでに述べたとおり、形骸の権威に酔っぱらっているたった今の程度の低い人間が程度の低い人間を天皇と称しているそれではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する“一”=智性=1番目のオーラ、智性(神性)を持った人間が治め、神の思惑を顕現していく事象、世のこと。 なので“サン太神様(サンオーカミ) 知る(シる)誠(マコト) 尊き御代と成りますのぞ(トートきミヨとナりますのぞ)”は、太陽凝視を“行”として行い“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“一”=智性=1番目のオーラを高めた心(靈)がその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により事象の“創造”をする、そしてそれはたった今の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に満ちた事象ではないので“尊き御代と成りますのぞ(トートきミヨとナりますのぞ)”である。

 次の文。
“仕事は(シゴトは)、めんめの働きあるぞよ(めんめのハタラきあるぞよ)、実空字(ミグヂ) 大き理智在せることの印しなり(オーきミチマせることのシルしなり)”

 文中の“実空字(ミグヂ)”から意味を追求するのが妥当な解釈だと思え、“字(ヂ)”は“普字(フジ)”のこと、それが“実(ミ)”、それは“空(グ)”これはここまでの荒の巻の表記の
“理の極の光の答の山路(大空間)”
“このふで軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)”
“理の(真理)御山(大空間)の(ミチのミヤマの)”
のそれであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”法則性に沿って霊的成長した心(靈)が“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象、と読み取ることが出来、よって“実空字(ミグヂ)”は、太陽の振動を取り込んで日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を高めた(普字)心(靈)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った事象の“創造”をする、それが実る、と解するものである。
 これに続く“大き理智在せることの印しなり(オーきミチマせることのシルしなり)”、これは先の“実空字(ミグヂ)”が理解できれば解釈の要は無いと思うが、たった今が“大き理智在せる(オーきミチマせる)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)など顕現していない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象であるが、今後=アセンション後はそうではなくなるから“理智在せる”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”法則性、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、それが顕在する、これを“印しなり(シルしなり)”と言われているのは先の“実空字(ミグヂ)”に対しての言い回しであることが読み取れるし、この“実空字(ミグヂ)”に相対してたった今は“誠(マコト)”の無い事象、不誠実に満ち満ちた世界、それぞれが自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による結果であり、それを“仕事は(シゴトは)、めんめの働きあるぞよ(めんめのハタラきあるぞよ)”、この“仕事(シゴト)”は職業という意味合いではなく、自分たちの心(靈)の動きによる結果、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”、それは因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、それぞれの(めんめの)(意味は各々の)心(靈)の動きの結果(働き(ハタラき))であることを指摘している言い回しである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十六”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

終りに(ヲワりに)、言(コト) 言(コト) 神国の(カミクニの)、誠の鏡(完神)のとどろきも(マコトのカガミのとどろきも)、皆御文字世の始かし(ミナミモジヨのハジメかし)、今(イマ)、始る世(詞)の基(ハジマるヨのモトイ)。 雨の神(アメのカミ) 風の神(カゼのカミ) 岩の神(イワのカミ) 荒の神(アレのカミ) 地震の神(ジシンのカミ) 世の基にして(ヨのモトにして)、理実りの常盤の普字の実り良くも(ミチミノりのトキワのフジのミノりヨくも)、命出度命出度ざぞ(メデタメデタざぞ)。

 冒頭の“終りに(ヲワりに)”の表記の意味は、ここまで解釈してきた荒の巻の文言の意味合いを鑑みれば、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による“創造”の事象、これが終わる、今後=アセンション後に移行する際“上”に認められない腐った事象だからこそ終わるのだ、であり、これに続く“言(コト) 言(コト) 神国の(カミクニの)”は、神の思惑を顕現する、それは“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)の意であり、これが二回述べられているのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、人間における心(靈)の動き=日足(ひたり)と、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)=砌(みぎり)ということであり、“神国(カミクニ)”は“上”と感応している心(靈)、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す、その自省(胸の磁性“十”)が出来ている心(靈)で“上”と感応し神の思惑を顕現し得る“一”=智性=1番目のオーラを持った人間の意であり、これに続く“誠の鏡(完神)のとどろきも(マコトのカガミのとどろきも)、皆御文字世の始かし(ミナミモジヨのハジメかし)”、この“文字世の始かし(モジヨのハジメかし)”は“普字(フジ)”の意と、その意味が示す“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを行って“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、ことに目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化をして高い智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を発現し、その上で天意と感応する心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”の始まりであり、
普字の解字



この天意と感応して思想と行動に表わすのが人(日止、霊止)の“誠の鏡(完神)(マコトのカガミの)”と称され、たった今の腐った事象は不誠実な息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によりつくられていることは幾度となく述べてきたがそれに相対し“上”が認めうる“誠(マコト)”の心(靈)、絶対の誠という言い回しもよいかもしれないが、それならばその人間の智性(神性)は“完神”、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の完成、と称され、そして文中の“鏡(カガミ)”は天意を受け反射して世を照らす、の意味合いと、ヨガで言うところの眉間のチャクラ、アジナーチャクラ、そして神道の神棚における御鏡もそれを示しているが、その意であり、これに続く“とどろきも(とどろきも)”は、その高い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象に轟く、響き渡るの意味であり、これこそが“今(イマ)、始る世(詞)の基(ハジマるヨのモトイ)”、今後=アセンション後における現津(あきつ)、観察され得る事象の始まり、その“基(モトイ)”であり、文中の“(詞)”は詞(ことば)、これも息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意である。
 これに続く“雨の神(アメのカミ) 風の神(カゼのカミ) 岩の神(イワのカミ) 荒の神(アレのカミ) 地震の神(ジシンのカミ) 世の基にして(ヨのモトにして)”の
“雨の神(アメのカミ)”はこれまで解釈してきたとおり“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み、天意の取り込みその者を指し、
“風の神(カゼのカミ)”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸、
“岩の神(イワのカミ)”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩であり、
“荒の神(アレのカミ)”は低振動、“下”三つのチャクラの振動、それは荒の巻は、ア
渦巻き 左回転   の○木であり、荒(アレ)、ア 渦巻き 左回転 の意味合いは、岩の巻の第十一帖の表記である
“いよいよア
渦巻き 左回転   九(あらく)なって来るのざぞ。 因縁みたま結構となるのざぞ”
この “ア 
渦巻き 左回転 九(あらく)”の意味と同義であり、それは
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす の意、 
渦巻き 左回転  ”は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、
“九”は ○ 九 十の“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))、神のひな型と言いうる生命(生きる使命=存在理由)の最終段階(卆(そつ、卒業の卒の異体字))としての人(日止、霊止)の意、もう一つ付け加えれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、地球上の生物においてこの“上”からの振動の一番高いものを獲得しうる目上(めうえ)の脳の発達があるのが人間であり、これにより智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を発現してその心(靈)を事象の“創造”に行使する、これが次の事象の“創造”を担うべき資質、その獲得とその所有、これ自体が古神道の“日止、霊止”の意味合い、
“地震の神(ジシンのカミ)”は地が震える、地は“石”(帯電するミネラル)と土=肉体(月(ツキ))の意味合いで、震えるは振動を発するの意、であり、これらが次の事象の“世の基にして(ヨのモトにして)”、と称され、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後に移行しうる肉体と心(靈)、それを示し、ことに“荒の神(アレのカミ)”は次の事象の“創造”、高い“思惑の顕現”=現象化、ということを指し示す表記となっている。
 これに続く“理実りの常盤の普字の実り良くも(ミチミノりのトキワのフジのミノりヨくも)、命出度命出度ざぞ(メデタメデタざぞ)”、“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、これが“実り(ミノり)”、これは先の“完神”の表記が理解しやすい、そして“常盤の普字の実り良くも(トキワのフジのミノりヨくも)”、“常盤(トキワ)”は永久不変の意、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”と、“普字(フジ)”を指した表記であり、いうなれば生命(生きる使命=存在理由)の進化は絶対であり永久不変の法則性があるのだ、であり、それが“実り良くも(実り良くも)”となったならば、“命出度命出度ざぞ(メデタメデタざぞ)”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命が成し得る使命の“命(メ)”、これが“出度(デタ)”、それは完成された智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の顕現、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の段階=“度(タ)”の意味合いであり、二回続いて書かれているのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示している。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十七”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

弥栄鳴戸(成答)は(ヤサカナルトは)、光の御座の問ひに開くぞ(コのミクラのトひにヒラくぞ)。 八百の道(理)の寄る(ヤホのミチのヨる) 把立名(榛名)吾基(安芸)(ハルナ アキ)時節来て(ジセツキて)、誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)、夜明けの神々覚れよと(ヨアけのカミガミサトれよと)、神(可務)露務(カムロム) 可務露基(カムロキ) 可務露実の命もち(カムロミのミコトもち) 八百万の神々(ヤホヨロズのカミガミ)神集ひに集ひ給ひ(カミツドひにツドひタマひ) 神計りに計り給ひ(カムハカりにハカりタマひ) 言問ひし草のかきはも言止め(コトトひしクサのかきはもコトヤめ)、天の岩戸(言答)開放ち(アメのイワトアケハナち)、天の弥栄弥栄に智湧きに智湧き(アメのイヤサカイヤサカにチワきにチワき)、大実光りの尊き御代ぞ(オオミヒカりのトウトきミヨぞ)、神在す天下(カミイマすアメガシタ) 四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす) 寿命大神(大実親)の字の理(スメオオカミのチのミチ) 網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)ことごとく定まりし(ことごとくサダまりし) 弥勒の世とぞ成りふるなり(ミロクのヨとぞナりふるなり)。

 冒頭の文。
“弥栄鳴戸(成答)は(ヤサカナルトは)、光の御座の問ひに開くぞ(コのミクラのトひにヒラくぞ)”

 “弥栄(ヤサカ)”については荒の巻で幾度となく画像を紹介したので省略、“鳴戸(成答)”は、荒の巻の表記の“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)であり、これが“成(ナル)”であるし、“鳴戸”の“戸”は横隔膜、これは“日月神示”表記の“戸”すべて共通であり、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、自我の強化から自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至ることを指し示すものである。 それは“光の御座の問ひ(コのミクラのトひ)”、これを“問ひに開くぞ(トひにヒラくぞ)”なので、これは先の“答(トー)”であるし、“光の御座(コのミクラ)”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が止まる部位と解し、これは目上(めうえ)の脳であり、目上(めうえ)の脳の心(靈)の動きにおいて“問ひ(トひ)”、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の“観察と認識”で自分の存在の意義と意味を“問ひ(トひ)”それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行いながらの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのもの、それが“弥栄鳴戸(成答)(ヤサカナルト)”と称されている。

 次の文。
“八百の道(理)の寄る(ヤホのミチのヨる) 把立名(榛名)吾基(安芸)(ハルナ アキ)時節来て(ジセツキて)、誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)、夜明けの神々覚れよと(ヨアけのカミガミサトれよと)、神(可務)露務(カムロム) 可務露基(カムロキ) 可務露実の命もち(カムロミのミコトもち) 八百万の神々(ヤホヨロズのカミガミ)神集ひに集ひ給ひ(カミツドひにツドひタマひ) 神計りに計り給ひ(カムハカりにハカりタマひ) 言問ひし草のかきはも言止め(コトトひしクサのかきはもコトヤめ)、天の岩戸(言答)開放ち(アメのイワトアケハナち)、天の弥栄弥栄に智湧きに智湧き(アメのイヤサカイヤサカにチワきにチワき)、大実光りの尊き御代ぞ(オオミヒカりのトウトきミヨぞ)、神在す天下(カミイマすアメガシタ) 四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす) 寿命大神(大実親)の字の理(スメオオカミのチのミチ) 網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)ことごとく定まりし(ことごとくサダまりし) 弥勒の世とぞ成りふるなり(ミロクのヨとぞナりふるなり)”

 この祝詞の様な文言は艮(うしとら)の金神が度々使う手法であり、読めばわかることだが祝詞そのものではなく、その文言と言葉の使い方と漢字の表記に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としての艮(うしとら)の金神の思惑を込めているものであると解する。 

 このことを踏まえてまず、
“八百の道(理)の寄る(ヤホのミチのヨる)”
この“八”の表記は“富士(二二)”と同義、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、また丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の意、“百”は“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”、あるいは“一”=智性=1番目のオーラ、そして丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)、太陽を示す“日”であり、“道(理)”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、“寄る(ヨる)”は近付くの意であり、この文言自体が次の文言にかかる。

 それは
“把立名(榛名)吾基(安芸)(ハルナ アキ)時節来て(ジセツキて)”
“把”は、にぎる、つかむ、把握するのそれ、“立名”は、“名”として使命、存在の使命、それは存在の意義が他者から観て命名が出来得る、他者から観て、同時に“上”から観て“観察と認識”が出来得る、ありていに言えば命名しうるほどの顕現となる、“(榛名)(ハルナ)”は”は下つ巻 第二十七帖に登場した表記、“榛”は、植物のハシバミを指し、又、榛色(はしばみいろ)って色があり、それはくすんだ赤みの黄、黄色がかった薄茶色、軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”に相当すると思え、それ自体が腹の水=“江戸と尾張”の“江、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、腹の段階の心(靈)の発現とオーラの色彩を指し、“榛名(はるな)”の“名”は、氏名=使命って言う意味。命名の意、よって腹の段階、マニピューラチャクラ以下からの発振、発信の息吹により現界の事象の“創造”をするの意、“吾基(アキ)”は自身、その意の吾、その“基(キ)”、これに関しては荒の巻に入って度々述べているので省略、“安芸”の“芸”は修練して身につけた技能、学問、技術、わざ、いわゆる“力”の顕現(術)、それが“安”、たやすい、あんぜん、などの意、なので“安芸(アキ)”は、その“力”の行使を“上”に認められ、しかも今後=アセンション後の事象の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った使い方が出来得る、それが“安芸”であり、“吾基”は今後=アセンション後における外側(外国と幽界)の事象の“創造”のそれと解することが出来得る。

 これに続く
“誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)、夜明けの神々覚れよと(ヨアけのカミガミサトれよと)”
たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”が不誠実であることは幾度となく述べてきており、それに相対する言い回しとして“誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)”であり、たった今の事象を言い表わすならば“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在の感応による思惑で創られている事象=現実であり、そこには“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)などない、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが台頭し、それを自分の利益のために容認している人間ばかりだが、今後=アセンション後、いわゆる“夜明け(ヨアけ)”、そこでは先の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在と感応するような心(靈)ではダメであり、今後=アセンション後においては個々の心(靈)が“上”と感応するべきであり、不誠実などということは自分自身にも他者にも許さないのは当然、そしていずれ不誠実という言葉と概念は消失する、消失せねば進化した心(靈)が“創造”した事象ではない、また、そういった心(靈)でなければ“上”が何か、どういった存在なのか理解しえない、認識しえない、そしてその“上”と感応する資質とは何かを自分に見いだせない、だからこそ“誠もの云ふ神の世の(マコトものイふカミのヨの)、夜明けの神々覚れよと(ヨアけのカミガミサトれよと)”の“神々覚れ(カミガミサトれ)”と言われているものである。

 これに続く
“神(可務)露務(カムロム) 可務露基(カムロキ) 可務露実の命もち(カムロミのミコトもち)”
“神(可務)”は、可能の可と任務の務、今後=アセンション後の事象の“創造”における使命、それが可能、その意であり、それは“上”の思惑でもあるからこそ“神(可務)”と称され、“露務(ロム)”の“露(ロ)”は“意露波”のそれ、意味は、“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称され、これが理解できれば“露務(ロム)”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをした心(靈)が行う“術”(“力”の顕現)や使命を全う、の意であり、“可務露基(カムロキ)”も荒の巻に幾度となく登場する“基(キ)”における“務(ム)”これが可能、またそれは“意露波”由来のことでなければならない、そして“可務露実(カムロミ)”の“美(ミ)”は伊邪那美(いざなみ)のそれであり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、であり、その命を持つ、自分自身の存在の使命とする、という意味合いが“神(可務)露務(カムロム) 可務露基(カムロキ) 可務露実の命もち(カムロミのミコトもち)”である。

 これに続く
“八百万の神々(ヤホヨロズのカミガミ)神集ひに集ひ給ひ(カミツドひにツドひタマひ”これは今後=アセンション後、“上”と感応する資質と霊的成長度を獲得した心(靈)だけの存在になったならば、の意味合いであり、やはりこれも現状を見ると解り易く、たった今の事象は悪霊と感応している目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が台頭しているからこういう言われ方をされており、これに続く
“神計りに計り給ひ(カムハカりにハカりタマひ) 言問ひし草のかきはも言止め(コトトひしクサのかきはもコトヤめ)”
これはたった今とは違い、“上”の基準、もう一つ高い人間が獲得するべき高い霊的成長度における基準、価値観も幸福感も今の腐った事象とは比較にならないほどの変容を見せる、それを示唆しているのが神の基準(天の御目(あめのおめ))が台頭するの意の“神計りに計り給ひ(カムハカりにハカりタマひ)”、その“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)、これを求め=“言問ひし(コトトひし)”、この文言はまた荒の巻に幾たびか登場する“答(トー)”を求めよ、であり、“草のかきはも言止め(クサのかきはもコトヤめ)”の“草(クサ)”は艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと太陽を示す“日”、そして胸の磁性“十”、この振動、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を止める=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する、それが“草のかきはも言止め(クサのかきはもコトヤめ)”であり、これに続く“天の岩戸(言答)開放ち(アメのイワトアケハナち)”、たった今の地球人の平均的霊的成長度である自我の確立=固定化、自我の肥大から岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くして、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をするの意、それを称した文言であり、これに続く
“天の弥栄弥栄に智湧きに智湧き(アメのイヤサカイヤサカにチワきにチワき)”
“弥栄(イヤサカ)”、簡単に言えば霊的成長であるが、これが天に通じる、“上”が認めうる霊的成長度と解し、もしそうなるならば“智湧きに智湧き(チワきにチワき)”、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、これが湧くのだ、と称され、“弥栄弥栄(イヤサカイヤサカ)”“智湧き(チワき)”が二回述べられているのは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性のことである。

 これに続く
“大実光りの尊き御代ぞ(オオミヒカりのトウトきミヨぞ)、神在す天下(カミイマすアメガシタ) 四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす) 寿命大神(大実親)の字の理(スメオオカミのチのミチ) 網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)ことごとく定まりし(ことごとくサダまりし) 弥勒の世とぞ成りふるなり(ミロクのヨとぞナりふるなり)”
これは逆から解すると理解しやすく、“弥勒の世とぞ成りふるなり(ミロクのヨとぞナりふるなり)”は今後=アセンション後の事象、“網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)ことごとく定まりし(ことごとくサダまりし)”、この“網母(現実親)(モモ)”は“その五”で“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“母(モ)”は“上”から“下”へ“網(モ)”のように、と解したが、これが事象の“創造”の“(現実親)”であり、またそれは“空字(国)(クジ)”、これは“その四”で解釈した“理の極の光の答の山路(大空間)”、そして“その十四”の“理の(真理)御山(大空間)”、そして“その七”の“軸(時間空間)読(このふでジクヨミ)”、これらの意味を含み、“(国)”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、その心(靈)で“創造”された場(フィールド)、“空字(クジ)”の“字”は荒の巻で幾度となく述べてきた“普字”のそれであり、

普字の解字

“寿命大神(大実親)の字の理(スメオオカミのチのミチ)”、この“字の理(チのミチ)”は先の“普字”となるべく“理(ミチ)”法則性の意、それが“寿命大神(大実親)(スメオオカミ)”と称され、この表記は先の“網母(現実親)”“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性、これに対し“創造”の“主(ヌシ)”の日足(ひたり)の極性、これを“(大実親)”、大は人間が手足を広げた様、これを実らせる=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させる、その親、と解し、またそれは“寿命(スメ)”寿は祝うべきめでたい事柄(“上”が認めうる)長寿の意、それそのものが使命、生命(生きる使命=存在理由)をまっとうする、の意、これが“神在す天下(カミイマすアメガシタ) 四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす)”、人間が霊的成長して“上”と感応する意が“神在す天下(カミイマすアメガシタ)”、いわゆる今後=アセンション後の事象に移行するべき人間はすべてが“天詞様”であり、それは今後=アセンション後においてあらゆる場に存在しその事象を統治するのだの意が“四方の国々(ヨモのクニグニ) 治すし食す(シろしメす)”であり、“大実光りの尊き御代ぞ(オオミヒカりのトウトきミヨぞ)”、先に述べた進化した人間を指す“大”、これが“実”、これは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして息吹くの意が“光り”であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間が統治する時代が“御代(ミヨ)”、“上”と感応し“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を顕現する人間、いうなれば“天詞様”が統治する時代の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十八”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

成るは(ナるは)、誠の開きの秘の山の(マコトのヒラきのヒのヤマの)神基開く(カミモトヒラく)真の神にかかり給ひしぞ(マコトのカミにかかりタマひしぞ)。
 空字御霊(クニミタマ) 大皇命神の秘の(オースメガミのヒの)、仰ぐさまの良き時ぞ(アオぐさまのヨきトキぞ)。 理実る世(ミチミノるヨ) 数の極(カズのキワミ) 真理ぞ(シンリぞ)。

 ここまでの荒の巻の解釈を読んでいらっしゃる方には、冒頭の“成るは(ナるは)”の意味合いの重大さがすぐ理解できると思う。 
 それは
“誠の開き(マコトのヒラき)”、たった今の事象が不誠実に満ち満ちている、だが今後=アセンション後はそうではなくなる。 
 それが“秘の山の(ヒのヤマの)”、
この“山(ヤマ)”は目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化を指しており、これが無ければ“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していかないことは前のブログから幾度となく述べてきており、こうやって心(靈)が“上”に向かう、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を発現してそれを顕現していくこと事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した事象の“創造”に繋がっていくものであるし、これを次の文言の
“神基開く(カミモトヒラく)”、
この“神基(カミモト)”、これが何を指すのかは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、それは目上(めうえ)の脳=“秘の山(ヒのヤマ)”で発現する、そうなっていくならば、高い存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことを
“真の神にかかり給ひしぞ(マコトのカミにかかりタマひしぞ)”
と称されており、この“真の神(マコトのカミ)”という表記も、たった今の人間の霊的成長度では高い存在が“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の法則性があるからこそかかれない、感応し得ない、神を名のっている霊的存在の多くは程度の低い存在であることまで示唆しているものであるが、今後=アセンション後は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がしっかり発現した心(靈)でなければその場(フィールド)に存在を許されず、当然のことながら程度の低い霊的存在もいないし、その感応もない、また恨みの連鎖(“日月神示”表記の“借銭”)も消失するので悪霊も生み出されない、よって、たった今の事象における霊的干渉とは全く違うものになり、これまでとは全く違う事象になることをこの文言で示されているし、ここまで述べたこと一切が“成るは(ナるは)”であり、このブログに霊縁あった方にはこのことに気付いてほしいものである。

 これに続く
“空字御霊(クニミタマ)大皇命神の秘の(オースメガミのヒの)、仰ぐさまの良き時ぞ(アオぐさまのヨきトキぞ)”、
“空字御霊(クニミタマ)”の“空字(クニ)”は“普字(フジ)”の“字”と事象を示す“空”、それは先回の“網母(現実親)の空字(国)(モモのクジ)”、これを実現する“御霊(ミタマ)”の意であり、それが“大皇命神の秘の(オースメガミのヒの)”、この“大皇”は“大(オー)”は人間が手足を広げた様、“皇(スメ)”は今の形骸の天皇ではなく人間が霊的成長して“上”と感応する意である“天詞様”の意、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をしっかり発現させた“日止、霊止”(“上”からの振動を止めるの意)、その“秘の(ヒの)”は、今の人間は先の“神基(カミモト)”を肉体に備えてはいるのだがしっかり機能しておらずほとんど目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であり(“日月神示”表記の“獣”“ケダモノ”)、智性(神性)無き心になっているが、それが今後=アセンション後は顕現していく、そしてそれ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるが、その秘訣、あるいは今の人間が認識していない進化の秘密、の意が“大皇命神の秘の(オースメガミのヒの)”であり、これに続く“仰ぐさまの良き時ぞ(アオぐさまのヨきトキぞ)”は特に解釈の要は無いが、たった今の事象が“上”から観て“良き時(ヨきトキ)”ではないということは分かっておかねばならない。

 これに続く“理実る世(ミチミノるヨ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が実現する事象の意、そして“数の極(カズのキワミ) 真理ぞ(シンリぞ)”、これについては“その三”の
“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”、
これの解釈を以下にコピペしておくので意味を読み取ってもらいたい。

“日継(ヒツギ)”、“日”を“継ぐ”これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を具体的に止めることそのもの、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、これ自体が天意を顕現(“天詞様”)していくことになる。 そして“数と字の(カズとジの)”は、“字”は“普字”のそれであり“数”は物事の多い少ないの程度を指す表記、これが“絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)”にかかっており、“絶対”の“光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを受け止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する“行”が太陽凝視であることはすぐ解り、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”であり、“絶対”の表記は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものがこれ以外にないのだ、という厳しい言い回し

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その十九”


 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

普字の山(不二の大空間)(フジのヤマ)晴れたり(ハれたり)。 光り(秘加理)輝やきて(ヒカりカガやきて) 御空に太まに(ミソラにフトまに)百草のかき葉も競ひかも(モモグサのかきハもキソひかも)、寄り集ふ誠一つの神の世ぞ(ヨりツドふマコトヒトつのカミのヨぞ)。 読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)。 くくりし読は惟完読(くくりしヨミはカンナガラヨミ)。 軸字(ジクジ) 軸字と木霊と木霊(ジクジとコダマとコダマ)、字開き(ジヒラき)、数開き成る言(カズヒラきナるコト) 網母(現実親)に有り(モモにアり)。鳴戸(成答)理開きに開き(ナルトミチヒラきにヒラき)、貴人の御代成り成るぞ(ウズヒトのミヨナりナるぞ)。 弥栄つぎに通基つきて(イヤサカつぎにツキつきて)、御代印しの基継ぐ成るぞ(ミヨジルしのモトツぐナるぞ)。 艮めに普字の神産み給いき(トドめにフジのカミウみタマいき)、普字数叉名立の神現れ(フジスサナルのカミアれ) 生き生き給ひき(イきイきタマひき)。

 まず
“普字の山(不二の大空間)(フジのヤマ)晴れたり(ハれたり)”
この文言自体が今後=アセンション後の事象のこと。 荒の巻に幾たびか登場する“普字”は画像のとおりの意味合いで
普字の解字

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対してとても重要な表記であり“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで(“天詞様”)日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を強め=霊的成長し、それを画像の“字”の意味とせよ、であり、“不二の大空間”は“不二”が二つとないこと、あるいは同じものが二つに見える意、同一不二、これも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を持った心(靈)と解することが出来、“大空間”は心(靈)が“観察と認識”しうる事象そのもの、そしてその事象を認識するのは“山”=進化した脳、目上(めうえ)の脳、そして目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化を“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで進めていき、“上”からの高い振動、いわゆる神の思惑を止めて自分の思想として息吹いて現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”をする、その事象の“観察と認識”を行うのは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現している“山(ヤマ)”と解することもできうる。 
その高い事象に対したった今は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象であるからこそ、相対的な言い回しとして“晴れたり(ハれたり)”と称されているものである。

 これに続く
“光り(秘加理)輝やきて(ヒカりカガやきて) 御空に太まに(ミソラにフトまに)百草のかき葉も競ひかも(モモグサのかきハもキソひかも)、寄り集ふ誠一つの神の世ぞ(ヨりツドふマコトヒトつのカミのヨぞ)”

この“光り(秘加理)輝やきて(ヒカりカガやきて)”については、“その十四”の解釈をコピペしておく。

“光り神(ヒカりカミ) 太光り(秘加理)ぞ(フトヒカりぞ)”
“上”からの振動は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を太陽が自らのローレンツ力 
ローレンツ力 により取り込んで太陽が生命でもあるからこそ、太陽の思惑とともに地球に天意を送っており、それを取り込んで生命(生きる使命=存在理由)は下等な本能を発現させたものから発現して(大体、原核生物から下等な軟体動物までの進化過程)、ある程度進化した生命である人間は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の“下”からある程度“上”まで取り込んできたからこそ、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という心(靈)の発現をしているものである。 
この“上”からの振動の取り込みが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”、法則性であり、また“道”、時間の進行によってなされてきたことでもあり、“光り神(ヒカりカミ)”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、自らのローレンツ力 
ローレンツ力 で取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、今後=アセンション後に移行するにはこれが大事、ということでもあり、先に述べた進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を表わした文言でもあるし、“太光り(フトヒカり)”の“太”は、人間が手足を広げた様の“大”にローレンツ力 ローレンツ力 を足した表記であり、“(秘加理)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣と“理(ミチ)”、法則性、これを“加”加える、それが又“太光り(フトヒカり)”の先の意味合いを加味したものである。

 これに続く“御空に太まに(ミソラにフトまに)”、
これは、天、“上”、“御空(ミソラ)”に対して“太まに(フトまに)”、これは太占、天意をうかがうの意、神の思惑に自分たちが適っているかどうかを“上”に問う、占いの字は共通でも一般の占いの概念とは全く違うので敢てひらがな表記になっているのかもしれないが、その意味の表記。 
 これに続く
“百草のかき葉も競ひかも(モモグサのかきハもキソひかも)”、“百草(モモグサ)”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と太陽を示す日で“百”が構成され、“草”は太陽と胸の磁性“十”、これが芽生え育つ意味で艸部(そうぶ)艹、クサカンムリが当てられており、“かき葉も競ひかも”、これは先の“草”にかかり、これがかき集めるくらいになる、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことにより胸の磁性“十”が育つ表記の意味で“かき葉も競ひかも(かきハもキソひかも)”である。
 これに続く
“寄り集ふ誠一つの神の世ぞ(ヨりツドふマコトヒトつのカミのヨぞ)”
先の“太まに(フトまに)”、天意をうかがう、自分の生き方や在り方が“上”の思惑に適っているのか? これ自体が生き方、在り方の指標となり、そこにはやはり胸の磁性“十”の強化が無ければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たしたとは言えないのだが、そういった心(靈)ならば“誠一つ(マコトヒトつ)”に近付いていく。 
余談になるがこれは“日月神示”表記の“善一筋”に近い感がある。 
そしてそれは、同じ霊的成長度の者は寄り集まる法則があり、それをローム太霊は霊団と称したが、今後=アセンション後に寄り集まる霊的成長度の者は“誠一つの神の世(マコトヒトつのカミのヨ)”を実現する、この文言の意味合いはそれである。

 次の文。
“読字(黄泉)ぞ(ヨミジぞ)。 くくりし読は惟完読(くくりしヨミはカンナガラヨミ)”

 “その三”で解釈した通り“読字”は、“普字”を体得し認識(悟り、幸取=さとり)としたさま、“(黄泉)”は、黄色が軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”であり、これは腹の振動、それは“泉”(腹の水の意もある、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロン)のごとく湧き出るの意、よって“くくりし読は惟完読(くくりしヨミはカンナガラヨミ)”の“読(ヨミ)”は霊的成長を果たしたうえでの認識の高まり、“惟完読(カンナガラヨミ)”の“惟”は、ただ、これ、あるいは、おもんみる、おもうに、の意があり、それは“完読”=完成された高い認識の意、にかかり、それを“(カンナガラヨミ)”と称され、かんながら、惟神は、“上”との感応を指す言葉だが、その読みが当てられているものである。

 次の文。
“軸字(ジクジ) 軸字と木霊と木霊(ジクジとコダマとコダマ)、字開き(ジヒラき)、数開き成る言(カズヒラきナるコト) 網母(現実親)に有り(モモにアり)”

 冒頭に二回登場する“軸字(ジクジ)”、“その七”の表記“軸(時間空間)”と同義、は時間の進行に伴う事象の観察の意、であり、それに“普字(フジ)”の“字(ジ)”を加えているので、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで進化した心(靈)が観察しうる事象の意となり、“木霊と木霊(コダマとコダマ)”の“木”は胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の表記、これと“霊”なので進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし自我の確立=固定化の進化過程から胸の磁性“十”を発現させ強化させて、天意を受けてそれを人間の思惑として顕現する、事象の“創造”をするの意であり、二回続けて同じ文言が述べられているのは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示す。 これに続く“字開き(ジヒラき)”の“字(ジ)”は先に述べたとおり“普字(フジ)”が開く、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するの意であり、“数開き成る(カズヒラきナる)”の意味合いは、“その三”で取りあげた文言の解釈を以下にコピペしておく。

“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”
“日継(ヒツギ)”、“日”を“継ぐ”これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を具体的に止めることそのもの、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、これ自体が天意を顕現(“天詞様”)していくことになる。 そして“数と字の(カズとジの)”は、“字”は“普字”のそれであり“数”は物事の多い少ないの程度を指す表記、これが“絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)”にかかっており、“絶対”の“光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを受け止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する“行”が太陽凝視であることはすぐ解り、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”であり、“絶対”の表記は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものがこれ以外にない


そして“数開き成る言(カズヒラきナるコト)”の“言(コト)”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と同義、それは事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き、であるし、これに続く“網母(現実親)に有り(モモにアり)”の“網母(現実親)”、この“網母”と“現実親”、“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)、それは事象の親、これに関しては“その五”で解釈した以下の文言を参照されたい。

“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)、網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”
“日継(日通基)(ヒツギ)”は言うまでもなく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、()内の漢字表記は、太陽の日、通る、これは“上”から送り贈られてくる高い振動が肉体に通る、“基”は、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基の意、これが“開く文字(ヒラくモジ)”、“文字”は“普字”のことであり、“網母成る極みなり(モモナるキワみなり)”、“創造”の“主(ヌシ)”の砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“母(モ)”は“上”から“下”へ“網(モ)”のように、“成る(ナる)”、そしてそれは“日継(日通基)(ヒツギ)”そのものが“極みなり(キワみなり)”、生命の“答(トー)”“成答(ナルト)”ということ。

 次の文。
“鳴戸(成答)理開きに開き(ナルトミチヒラきにヒラき)、貴人の御代成り成るぞ(ウズヒトのミヨナりナるぞ)”

“成答(ナルト)”はすでに幾度か解釈した通り“答(トー)”(生命の存在、神と人間の関係の答えと解した)が“成(ナル)”であり、“鳴戸”の“戸”は横隔膜、これは“日月神示”表記の“戸”すべて共通であり、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、自我の強化から自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至ることを指し示すものであるし、同義のこととして岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、ということ、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”法則性、これが“開きに開き(ヒラきにヒラき)”この動議の文言が二回述べられているのも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の進化を指し、これに続く“貴人の御代成り成るぞ(ウズヒトのミヨナりナるぞ)”、この“貴人(ウズヒト)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり天意を自分の思想に反映させた“天詞様”のことであり、“御代(ミヨ)”天皇が治める世の意味だが、形骸の権威に酔っぱらっているたった今の程度の低い人間が程度の低い人間を天皇と称しているそれではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する“一”=智性=1番目のオーラ、智性(神性)を持った人間が治め、神の思惑を顕現していく事象、世のことであり、それが今後=アセンション後は“成り成るぞ(ナりナるぞ)”と述べられている。

 次の文。
“弥栄つぎに通基つきて(イヤサカつぎにツキつきて)、御代印しの基継ぐ成るぞ(ミヨジルしのモトツぐナるぞ)”
 “弥栄(イヤサカ)”は幾度となく画像で意味を示したので省略、要は肉体(月(ツキ))における進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みそのもの、これに続く“つぎに通基つきて(つぎにツキつきて)”、“弥栄(イヤサカ)”の“つぎに”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしたならば、“通基つきて(ツキつきて)”、この“通基(ツキ)”
日の出の巻第三帖 “次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ” これの解釈を参照されたい。 これに続く“御代印しの基継ぐ成るぞ(ミヨジルしのモトツぐナるぞ)”、“御代(ミヨ)”は先に述べたとおり、“印しの基継ぐ成るぞ(ジルしのモトツぐナるぞ)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、天意と感応した上で思想を構築し、それが又“御代(ミヨ)”を“継ぐ(ツぐ)”ための“印しの基(ジルしのモト)”であり、それが“成るぞ(ナるぞ)”と称されている。
 
 次の文。
“艮めに普字の神産み給いき(トドめにフジのカミウみタマいき)、普字数叉名立の神現れ(フジスサナルのカミアれ) 生き生き給ひき(イきイきタマひき)”
 “艮めに(トドめに)”、この“艮”にはいくつか意味があるが、これは最終段階の意であり、それは“普字の神産み給いき(フジのカミウみタマいき)、普字数叉名立の神現れ(フジスサナルのカミアれ)”にかかり、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことして神格化した心(靈)の現われ=“神産み給いき(ウみタマいき)”そして“数叉名立の神現れ(スサナルのカミアれ)”の“数叉名立(スサナル)”の意味は
“その九”を参照のこと。 
今取り上げた二つの文言の意味合いが“生き生き給ひき(イきイきタマひき)”となるのが“艮め(トドめ)”であると称されているし、これが今後=アセンション後の極みと認識(悟り、幸取=さとり)してもよいと思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 荒の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その二十”



 今回も、荒の巻の以下の文(先回の続き)を解釈をおこなうこととする。

玆に(ココに) 誘名基の神(イザナキのカミ) 神加実達に理給ひて(カミガミタチにミチタマひて)、喜び光賜ひき(ヨロコびヒカリタマひき)。 陽の神は秘の国(ヒのカミはヒのクニ)、通基の神は実数の国(ツキのカミはミズのクニ) 数叉名立神は(スサナルカミは)、名波裸治らせ(ナハラシらせ) と給ひき(とタマひき)。 それは(それは)、その時より(そのトキより) 理決まれる事にぞあれば(ミチキまれるコトにぞあれば)、何も彼も真問ひ理に来いとぞ(ナニもカもマトひミチにコいとぞ)。 あななひの道ざぞ(あななひのミチざぞ)。 弥栄の理ざぞ(イヤサカのミチざぞ)、あなさやけ、(あなさやけ)あな清々し世ぞ(あなスガスガしヨぞ)。

 今回取り上げる文言は当然のことながら今後=アセンション後の現実、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した事象の成り立ちについて述べられており、それは“その一”の

今後=アセンション後に移行すべく資質を持った進化した生命が、自らが“観察と認識”をする現津(あきつ)、観察され得る事象を創造する、そこに進化した心(靈)ゆえの思惑を顕現していく、また事象の“創造”は肉体を持った心(靈)が観察している現実=現界、これが荒い振動で構成されているゆえに“荒”と示され…中略…高い思惑を顕現していくのは、高い振動の低振動化の意味合いがあり、それゆえの“荒”の表記である

 この事が理解できているならば文末の
“弥栄の理ざぞ(イヤサカのミチざぞ)、あなさやけ、(あなさやけ)あな清々し世ぞ(あなスガスガしヨぞ)”
この“弥栄の理(イヤサカのミチ)”は幾度となく述べてきたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性であり、“あなさやけ、(あなさやけ)あな清々し世ぞ(あなスガスガしヨぞ)”の文言の意味合いは、夜明の巻 第十二帖から引用する。

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。
 
 そして“世(ヨ)”は事象、その時点での現実、ということであるし、“弥栄の理(イヤサカのミチ)”とは、今後=アセンション後は“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、これがしっかり顕現する(たった今は一部にしか顕現していない)、名となす、という意味合いの文言である。

 それで今回取り上げている文言は、今取り上げた文末から逆に解釈すると解りやすいので、次の文は以下の文言を取り上げる。
“それは(それは)、その時より(そのトキより) 理決まれる事にぞあれば(ミチキまれるコトにぞあれば)、何も彼も真問ひ理に来いとぞ(ナニもカもマトひミチにコいとぞ)。 あななひの道ざぞ(あななひのミチざぞ)”

 冒頭の“それは(それは)、その時より(そのトキより) 理決まれる事にぞあれば(ミチキまれるコトにぞあれば)”、その時点から“道”(時間の進行)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が“理決まれる事にぞ(ミチキまれるコトにぞ)”であり、それは“何も彼も真問ひ理に来いとぞ(ナニもカもマトひミチにコいとぞ)”、この“真問ひ(マトひ)”、文言を観れば真を問う、真実とは何か? だいたいこんなことを考えている人間はとても少ないが、それはここまでの荒の巻に幾度か登場した“答(トー)”、これは生命の存在、神と人間の関係の答え、と解したが、これ事態が“理に来いとぞ(ミチにコいとぞ)”、真実を求めその答えを求める心は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に“来いとぞ(コいとぞ)”の“とぞ”は、格助詞「と」+係助詞「ぞ」であり、文中に用いて「と」の受ける叙述を強調する意を表すものであるから、これが“真問ひ(マトひ)”の“答(トー)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、“理(ミチ)”であり、“理(ミチ)”でしかない、という意味合いであり、文末の“あななひの道ざぞ(あななひのミチざぞ)”は、自らのエネルギーをしっかり贖う(あがなう)、あがなったことに応じてしか結果は出ない、楽に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はしえない、ローム太霊の“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”、そして“粘りとやせ我慢”、こういった言葉をも思い起こさせるが、自分の成長は自分がいかに頑張ったか、それによる、それを“あななひの道(あななひのミチ)”=贖う(あがなう)“道”(時間の進行)と称されている。

 その前の文。
“陽の神は秘の国(ヒのカミはヒのクニ)、通基の神は実数の国(ツキのカミはミズのクニ) 数叉名立神は(スサナルカミは)、名波裸治らせ(ナハラシらせ) と給ひき(とタマひき)”

 冒頭の文は、太陽と月を揶揄して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を説いている文言で、“陽の神は秘の国(ヒのカミはヒのクニ)”は、太陽、日足(ひたり)の極性、それは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を育てる=“国”であり、月、砌(みぎり)の極性、事象への顕現、それが、“実(ミ)”と“数(ズ)”、そして“国”、この場合のこの表記は場(フィールド)であるが、こう称されておりそれは“その三”で取りあげた解釈が理解しやすいのでコピペ。

“日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)数と字の絶対光の道(カズとジのゼッタイコーのミチ)”
“日継(ヒツギ)”、“日”を“継ぐ”これは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を具体的に止めることそのもの、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、これ自体が天意を顕現(“天詞様”)していくことになる。 そして“数と字の(カズとジの)”は、“字”は“普字”のそれであり“数”は物事の多い少ないの程度を指す表記、これが“絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)”にかかっており、“絶対”の“光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを受け止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する“行”が太陽凝視であることはすぐ解り、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”であり、“絶対”の表記は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものがこれ以外にないのだ、という厳しい言い回しであり、もうひとつ、たった今の事象はたびたび使っている“絶対の善”では無い、また、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“上”の思惑通り=“絶対”、そして岩の巻で登場した“善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”しかない“道”)ではない、しかし今後=アセンション後は“上”の思惑が“絶対”であり、それしか顕現しえないのだと言う意味合いでもある


 これに続く“数叉名立神(スサナルカミ)”、これは“その九”で取りあげた解釈が理解しやすいので以下にコピペ。

“数の極み大素佐成(大数叉名立)(カズのキワみオースサナル)”、この“大素佐成”は、“大(オー)”は人間のが手足を広げた様、“素(ス)”は“素盞鳴(スサナル)”のそれ、画像で意味を示す。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字 

 “佐成(サナル)”の“佐(サ)”は亻(にんべん)と左、亻(にんべん)は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん)なので、“上”である神の思惑が“下”である人間に下降した様子、左は日足(ひたり)の極性、これが成る、の意味合いであるし、“(大数叉名立)”は、“大”は前述した通り、“数”も前述した通り、“叉”は二股になった様、これは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性でもあるし、思惑(日足(ひたり))と顕現、現象化(砌(みぎり))と解してもよい、“名”と“立”は、形なすもの(名)となりそれが立つ、しっかりはっきり表れるものという意味合い

 これに続く“名波裸治らせ(ナハラシらせ) と給ひき(とタマひき)”、“名(ナ)”は上記コピペ文にある通り“形なすもの”であり、“波(ハ)”は形なすべく振動と解し、“裸(ラ)”は虚飾の無い姿、それは自我の肥大を捨て去った心(靈)と解し、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、“理(ミチ)”に必須、という意味合いである。
 
 その前の文。
“玆に(ココに) 誘名基の神(イザナキのカミ) 神加実達に理給ひて(カミガミタチにミチタマひて)、喜び光賜ひき(ヨロコびヒカリタマひき)”

 日月の巻で登場した表記の“茲”、これは、やしないそだてる、いつくしみ、の意味合いと、左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示すものであり、これ事態が肉体の進化に伴うし、これが進めば進むほど、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意との感応が進み、肉体も心も“上”に向かっていく、これが進化の真実と言いうることである。 
これに続く“誘名基の神(イザナキのカミ)”、これも神名を揶揄して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を説いている言い回しで、“誘(イザ)”、これはいざなう(誘う)、そして“名(ナ)”とする、これは“基(キ)”にかかっており、“基”は、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基の意であるが、ここまで登場した荒の巻の以下の表記の解釈を参考にされたい。
“その二”
“那美(名美)那岐(名基)の(ナミナキの)理の玉継ぐ(ミチのタマツぐ)”
“玉基理ぞ(タマキミチぞ)”
“通基秘理(ツキヒミチ)”
“その四”
“智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)”
“生(基)の極みたり(セイのキワみたり)”
“その五”
“日継(日通基)開く文字(ヒツギヒラくモジ)”
“その六”
“答の名基荷負う始め(コタヘのナキニナうハジめ)”
“その九”
“幹(実基)字(ミキジ) 完し(マットウし)、完し(マットウし)”
“基の大数叉名立大神(キのオースサナルオーカミ)”
“その十”
“名基の世(ナキのヨ) しかと開き(しかとヒラき)、生の基の誘基の命現れき(キのモトのイザナキのイノチアれき)”
“その十六”
“今(イマ)、始る世(詞)の基(ハジマるヨのモトイ)。 雨の神(アメのカミ) 風の神(カゼのカミ) 岩の神(イワのカミ) 荒の神(アレのカミ) 地震の神(ジシンのカミ) 世の基にして(ヨのモトにして)”
“その十八”
“誠の開きの秘の山の(マコトのヒラきのヒのヤマの)神基開く(カミモトヒラく)真の神にかかり給ひしぞ(マコトのカミにかかりタマひしぞ)”
“その十九”
“弥栄つぎに通基つきて(イヤサカつぎにツキつきて)、御代印しの基継ぐ成るぞ(ミヨジルしのモトツぐナるぞ)”

 これに続く“神加実達に理給ひて(カミガミタチにミチタマひて)、喜び光賜ひき(ヨロコびヒカリタマひき)”、冒頭の“神加実達(カミガミタチ)”は“神”と“実”と“加”の表記があり、“実”は先の“通基の神は実数の国(ツキのカミはミズのクニ)”の“実数(ミズ)”、 “数”が顕現する、“実”となるの意味合いを含め、“理給ひて(ミチタマひて)”、“給ひて”は、あたえる、くださる、の意であり、“理(ミチ)”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性であり、よって“玆に(ココに)”から始まるこの文言自体が今後=アセンション後の進化した心(靈)とその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象を示し、それは“上”、神も、“下”、人間、人(日止、霊止)も、“喜び光賜ひき(ヨロコびヒカリタマひき)”となり、ことに“光賜ひき(ヒカリタマひき)”は、“上”と感応して心(靈)を育てる(S会=紫光会の経文、四空経録の“日心月物”)、光を賜れ、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、これをせよ、である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
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目上(めうえ)と目下(めした)


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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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