FC2ブログ

“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地震の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 今回から、地震の巻(二曰んの○キ)の解釈に入ることとする。

 この、二曰んの○キ の表記の意味は
“二”は肉体の意、“曰”は、口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“ん”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
 そして、“○キ”は、その心(靈)、霊の表記が○、そして“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”をする霊的成長度の高い生命(生きる使命=存在理由)である人間、あるいはその“思惑の顕現”をする資質、“一”=智性=1番目のオーラを獲得し、高い存在と感応する“ほんとう”の意味での“天詞様”、または、その資質を獲得する法則性、いわゆる“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを示している。

 よって“二曰ん”は、肉体の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の最終段階、最終段階とは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進み、完成に近づいた、ある程度めどが立った、それは“ほんとう”の意味合いでの惟神(かんながら)であり、それは“上”との感応、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を理解し認識(悟り、幸取=さとり)とする、またこれが出来得るのが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まった肉体と心(靈)、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを“行”とし。霊的成長した者、それであるといえ、“一”=智性=1番目のオーラが高まるならば“日月神示”表記の“天詞様”、“上”と感応して神の思惑を自分の思想に活かしている様、と言いうるし、その“の”“○キ”と処されており、“の”は“二曰ん”にかかり、“○キ”も“一”=智性=1番目のオーラが高まってこの事象に神の思惑、天意、これを顕現する“天詞様”の意である。

 第一帖の原文は以下の通り。

われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである。 善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。 霊人に空間はない。 それは、その内にある情動によって定まるが故である。 また、その理によって一定せる方位もない。 また時間もなく只情動の変化があるのみである。 地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。 創造されたものならば、永遠性はあり得ない。 宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。 その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは 
ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。  ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体であり、渦巻き 左回転 はその用である。 それは、善でもなく悪でもない。 真でもなく偽でもない。 美でもなく醜でもない。 また愛でもなく憎でもない。 プラスでもなければマイナスでもない。 しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。 善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。 これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。 神が意志するということは、神が行為することである。 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。 神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。 神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。 神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。 月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。 故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。 地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。 月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。 ために二義的の歓喜となる。 故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。 おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。 この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。 これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。 地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。 それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。

 この第一帖は、文末の
“以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである”
これを念頭に置いておくと理解しやすいし、この“二義的”を認識しうるのは、平均的地球人には想像もつかないほど高い存在であり、その高い存在ゆえの“観察と認識”によることを説き、事象の実相をお前たちが解れ、というのが、二曰んの○木であると言いうる。
(※ 二義的 根本的でない 主眼の意義でないの意)
 それで地震の巻はそれぞれが長文であり、難解な意味合いを含んでいるので、それぞれの帖をいくつかに分けて解釈していくこととする。 
 今回解釈するのは

“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”

ここまでとする。

 まず冒頭の文。
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
 これは自分たちの心(靈)が“観察と認識”しうる現津(あきつ)、観察され得る事象、その実相について述べているし、その事象は“創造”であり、“創造”の“主(ヌシ)”と自分はともにあるのだ、ということも示されている。 
それは文中の“生れつつある”“生まれつづけている”そして“常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”そして“只存在するものが生れに生れつつある”、さらに“只生れゆき栄えゆくのみ”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)と、さらに“理(ミチ)”(法則性)、これに沿った事象の“創造”を指しており、それは
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
と述べられているものである。
これに続く
“太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”
これはその事象の性質を示し、言ってしまえばそれは日足と砌(ひたりとみぎり)、それぞれの極性のことを述べているし、その極性事態も先の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って“絶えず生れつづけている”ものであると称されている。
 これに続く
“一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”
これは、お前たちの“観察と認識”に相対し、“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”しているこの事象は、ということであり、そこにはお前たちが浅い認識(悟り、幸取=さとり)で思う“一定不変の神”“宇宙”などというものは無い、というよりも(霊的成長度の低い)お前たちには現時点では理解できない、“創造”というものそのものは、“常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”=弥栄(いやさか)は霊的成長、生命が神に近付くと解し、常にそれをしていきながら(それをするのが生命であるが)、生命と生命が存在している場(フィールド)は“限りなく生れに生れゆく”と称されている。
 これに続く 
“過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”
これは先に述べた高い存在、その視点での“観察と認識”であり、人間が思う“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”は、人間の心の中においての“観察と認識”であり、一切の事象は一切の事象であるという観方であり、個々の心(靈)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていったなら必ずそこに到達する、先にも述べたが事象の“観察と認識”は自分の心(靈)の中において行われているものであり、その認識(悟り、幸取=さとり)に低さゆえに“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”という分類をするものであり、これら一切が“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の範疇のことであることをお前たちは知らない、よって“只存在するものが生れに生れつつある”と称され、さらにお前たちとお前たちが“観察と認識”している事象一切は、“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である生命、この両者によって成り立っている、それを“只自分自身のみの行為はない”と称され、お前たちが“観察と認識”している事象と“創造”の“主(ヌシ)”の行為は“創造”であるという言い回しが“只生れゆき栄えゆくのみである”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回は、地震の巻 第一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。 霊人に空間はない。 それは、その内にある情動によって定まるが故である。 また、その理によって一定せる方位もない。 また時間もなく只情動の変化があるのみである。 地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。 創造されたものならば、永遠性はあり得ない。 

 先回に続く上記文言は、文中に登場する表記の
“地上人”、“地上人は、肉体を衣とするが故に”
この“地上人”の心(靈)が事象を観察してその観察ゆえに心(靈)が動き、その心(靈)の動きが様々な事象を新たに産みだすことを述べているし、それは文末の表記の“霊人”に相対しているのだ、ということを示している。 
 ちなみに“霊人”に関しては“その三”以降で詳細に解釈する。

 “地上人”に関してまず最初に
“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”
“何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである”
と述べられており、“地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”のは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標となることではある、しかしながらそれは“地上人”の“生前、生後、死後”と認識され得る“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)において
“思うことは行為すること”
であると述べられ、これが“地上人”における進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ではあるのだが、事象の実相としては
“生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”

“地上人”の事象の“観察と認識”の中にある“生前、生後、死後”は“一連の存在”と見做すべきである、別々と判別すること事態が“地上人”のものの観方であり、低い“観察と認識”であり、その実相は重複するが
“存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
であるし
“故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない”
この“地上人が自分自身でなすこと”
これは先の
“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”
“何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”
であるが、それは
“総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない”
と称されており、お前たち“地上人”の認識、その狭い認識の中においてはこれが解っていない。 
 それゆえに、“総て永遠の生命”それは“弥栄”であり、“存在は生命であり、生れつつあるもの”、そういうものであるのだが、“地上人”においてはその認識が無いということである。
 よって“総て永遠の生命”それは“弥栄”であることを認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、であるし、“地上人”がこの事象を観てそう思うのは、先の
“肉体を衣とするが故に”
肉体という物質の振動を纏った(まとった)心(靈)であるからで、これも重複するが、
“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”
“何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである”
さらにこれに続く文言中の
“地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく”
これが“地上人”ではあるが、実相は
“しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ”
これが先の
“一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
また
“総て永遠の生命” “弥栄” “存在は生命であり、生れつつあるもの”
ということを知れ、であり、先の“生前、生後、死後”も“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”そして“地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”これら一切が“存在以外の何ものもない”であり“存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”ということを知れ、に関して
“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
この“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない”、これは先の“地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない”であり、これに相対し事象の実相の説明として
“必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
お前たち“地上人”が思うこと以前に“その前なるものによって”、生命はこういうものなのだ、と定められ、それは“呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する”ものなのだ、そしてそれは“地上人”から観たならば“無なる”と認識するだろうが“総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”、これが“生命”であり、事象の実相であるということを示している。

 これに続く
“地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ”
これは先の“地上人”の認識の中のことをもう一度説明して、それらが“総ては神の中での存在である”ことを示し、お前たちが考える“善でもなく、悪でもなく”、それ事態、“生命”事象の実相、これは“只生れつつあるのみ”、先の“総て永遠の生命”“弥栄”、これと同義である。

 これに続く
“霊人に空間はない。 それは、その内にある情動によって定まるが故である。 また、その理によって一定せる方位もない。 また時間もなく只情動の変化があるのみである”
これは“地上人”に相対しての“霊人”の事象の“観察と認識”と言え、先に述べたとおりこれに関しては“その三”以降で解釈をするが、
“空間はない”そして“その理によって一定せる方位もない”、これは外側(外国と幽界)の事象という認識が無い、と解し、“霊人”の事象は内面とか内側(心の中と感じている事)であるが故に“その内にある情動によって定まる”そして“時間もなく只情動の変化があるのみ”と称され、“霊人”と“地上人”の事象の“観察と認識”は“地上人は、肉体を衣とする”ことをしているので、“生命”事象の実相、これに対しての観方が違うのだということである。

 これに続く
“地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。 創造されたものならば、永遠性はあり得ない”
これも“地上人”のものの観方、お前たちの低い認識においては“宇宙の総てを創られたものの如く考える”のだが、そうではなく先の“必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”であり、“生命”事象の実相はこういうものなのだ、またそれは“創造されたものならば、永遠性はあり得ない”、これは“生命”事象の実相は“永遠”であり、“その前なるものによって”定められたのだ、という意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。 その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは 
ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。 ローレンツ力と ○   は大歓喜の本体であり、 渦巻き 左回転 はその用である。それは、善でもなく悪でもない。 真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。 また愛でもなく憎でもない。 プラスでもなければマイナスでもない。 しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。 善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。 これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。 神が意志するということは、神が行為することである。 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。

 今回取り上げる文言も先回と同じく“地上人”の認識の低さを指摘したものである。 その認識の低さの理由と根拠としては先回解釈した以下の要綱があるものである。
  •  “地上人は、肉体を衣とするが故に”
  •  “善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”
  •  “地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”
  •  “生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである” これに対する認識が無い

要は、
  •  何が“必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する”による“生命”なのか
  •  何が事象の実相なのか

これらに対しての理解があまりにも低いが故に、物質を纏った“地上人”の思いが“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”を生み出していること事態を知り得ないものである。

 それでは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”とは…ということになるが、○○○大先生は著書で、アルレーム(亜流連無)とアーローム(亜呂無)という存在について少しだけ触れ、これは“創造”の“主(ヌシ)”の日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の現われであることを、今、認識している。
 この日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を示した文言が“その一”で取りあげた
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”
これに相当し、アルレーム(亜流連無)とアーローム(亜呂無)の“上”として、おそらく“創造”の“主(ヌシ)”そのものではないが、それに近い存在が在り、それを“その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する”と称されているのだと思える。
 それは“その前なるもの”の“創造”により“一切は生れ”そして“太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけ”ており、その最下層が“地上人”であると言いうるものである。

 これらのことを踏まえて本文の解釈に入る。 まず冒頭の文。
“宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある”

文中の“神”は、言うまでもなく“創造”に携わる存在であり、これについては先に説明した通りである。

 次の文。
“その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである”

 これは“地上人”が“その前なるもの”の“創造”を“観察と認識”したならば“その用は愛と現われ、真と見ゆるも”、という言い回しを先に述べている。
 しかし“創造”というのはそんな程度のものではない、“愛”や“真”という分類は不要であり、それに相対する何かなど無い、あり得ない、ということが示されており、さらにそれを“只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄する”と述べられ、この文言中の“存在に存在しつつ”は“その一”で取りあげた
“只存在するものが生れに生れつつある…中略…只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”
この“只自分自身のみの行為はない”、自分が“地上人”であってそれは“生命”事象の実相の最下層であっても“その前なるもの”と共にあることを示している言い回しであり“創造”するものと被造物は“大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄する”ものであるということである。

 次の文。
“存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは 
ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。 ローレンツ力と ○   は大歓喜の本体であり、 渦巻き 左回転 はその用である”

 これは先の“神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”、その“上”としての“その前なるもの”の振動を受けとって“生まれつつある”のであり、これは最下層の“地上人”であろうが“その前なるもの”の“下”の“太陽は太陽として、太陰は太陰として”であろうが、一切の“生命”はフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であり、それが又“創造”の法則性と言いうるが、そのことを示されており、それは心(靈)○と“上”からの振動の取り込みに関わるローレンツ力 
ローレンツ力 、そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転であるということである。

 次の文。
“それは、善でもなく悪でもない。 真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。 また愛でもなく憎でもない。 プラスでもなければマイナスでもない”

 これは先の“その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない”、この意味合いを強調した言い回しであり、“地上人”の低い認識の“善”“悪”“真”“偽”“美”“醜”“愛”“憎”こういった相対的な分類は“その前なるもの”の“創造”に対しては不要なのだ、であるが、これに続く次の文は、“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のために向けたものである。

“しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。 善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない”

 “善”と“悪”、“真”と“偽”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とその逆、進化を妨げる何か、ともに“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標となることであるが、それら自体も“存在”であり“働き”であることが述べられ、これも“生命”事象の実相と言いうるものであることが述べられている。

 次の文も、今述べたことの意味合いの強調と“生命”事象の実相の説明である。
“これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。 神が意志するということは、神が行為することである。 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である”

 “生命”事象の実相、“地上人”がこれを“観察と認識”するならばさまざまな受け取り方や解釈などをするが、“これらの総ては”、“その前なるもの”の“創造”であり、“生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。 それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがため”であり、それは“神が意志するということは、神が行為すること”であり、文言そのままであるが“神が意志するということは、神が行為することである。 そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である”、ということを認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、と“地上人”に対して述べられているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第一帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第一帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。 神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。 神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。 月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。 月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。 故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。 地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。 日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。 月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。 ために二義的の歓喜となる。 故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。 おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。 この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。 これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。 地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。 それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。 以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。

 今回の文言も“その一”で取りあげた
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”
この“太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている”

“生命”事象の実相、これにおける日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、その極性の顕われが“日の霊人”と“月の霊人”と解釈しうる。 
  そして文中にあるように
“月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い”
これは低い砌(みぎり)の極性の顕われが“地上人”になることを示している。 

 それで日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕われた“霊人”、これは以下のように説かれている。
 まず
“神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群”
“日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである”
これに相対する表現として
“神の歓喜を外的にうけ入れる霊人”
“月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。 故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。 地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い”
と“日の霊人”と“月の霊人”の相違について述べている。

 それではなぜその相違があるか、であるが、“月の霊人”の“神の歓喜を外的にうけ入れる霊人”“神の歓喜をその智の中にうけ入れ”、これは自分の心(靈)の高い認識として“神の歓喜”、これを外側(外国と幽界)の事象として“うけ入れ”て“智”(智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質))としているのだ、と、解するものであり、これは肉体(月(ツキ))を持った心(靈)である“地上人”が神に近付くために、あるいは“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のパターンはこういった形をとるのだ、ということを述べているのだと思え、それに相対し“日の霊人”は“神の歓喜を内的にうけ入れる“神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り”と称されており、これは“日の霊人”自体の“神の歓喜”に対する認識は“月の霊人”のそれとは違い、違いがあるが故に、先に述べたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のパターンにも相違がある。

 それは
“日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。 月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。 ために二義的の歓喜となる”
と述べられている通り、“神の歓喜”に対して“疑いをもたない”そして先の“神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り”、これが“日の霊人”であり、
“神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる”そして先の“神の歓喜をその智の中にうけ入れる。 故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない”
これが“月の霊人”であると述べられ、この相違の理由と根拠は先にも述べたが、進化のパターンの相違所以のことであり、それは“月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い”の“地上人”は、肉体を持つ進化過程を経て、神に近付く、これは“地上人”、いわゆる人が“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して止めるの意)を目指して、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程であると思えるが“日の霊人”は“神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とする”“疑いをもたない”“その生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り”なので、自分(の心(靈))と“神の歓喜”の区別が無い、区別の必要が無い、すでに神と一体であると言いうる。

 またその違いを
“故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。 おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである”
とも述べられているし、
“この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。 これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。 地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。 それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている”
と、
“二つの世界”の
“中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在”
ということも述べられており、それは“中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている”のであり、今後=アセンション後は、この世界に近付く、“半霊半物質”の事象になっていくものであると思え、これについては○○○大先生の著書の<1>で少し触れられており、その場(フィールド)では人対人は今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)対心(靈)であるから、相手の心(靈)の動きや様子がすぐわかり、たった今の低い心(靈)の息吹で創られた事象とは違い、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、などは一切なく、お互いがお互いの霊的成長のためのことしか思わない、あるいはそれしか行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現れない事象になるものであるが、こういった事象ゆえ、心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は今(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”された事象)より相対的に進むものである。

 それで“日月神示”は言うまでもなく“地上人”のために述べられたのであり、お前たち“地上人”はこういった存在なのだ、肉体を持つ進化の過程を道程とするのだ、その理由は“神の歓喜”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)とするためであり、そこが“日の霊人”とは違うのだ、また“地上人”は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるために存在しているのだ、そこが“日の霊人”の存在自体が“神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とする”“疑いをもたない”“その生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り”とは違うのだ、お前たち“地上人”は“神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる”、これは“神の歓喜”を認識(悟り、幸取=さとり)としていきながら、またそれを“観察と認識”して=一つの事象として観ながら“批判的となる”“これを味わわんとし”“神の歓喜を(自分の心(靈)における)歓喜として感じ”そして“ために二義的の歓喜となる”、と、事細かに“日の霊人”との違いを述べられ、またこの過程を経て進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだ、ということが述べられているものであるし、これをよく承知して、第一帖で述べられている“生命”事象の実相、そしてその日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕われである“日の霊人”と“月の霊人”そして“月の霊人”所以の“地上人”、その低さ所以の“神の歓喜”に対する認識、捉え方、これについても鑑みろ、であり、しかしながら“生命”事象の実相、これに関しては“地上人”の認識は低い、それは“二義的”(根本的でない 主眼の意義でないの意)なのだ、これを知ったうえで“地上人”は“生命”事象の実相、これを認識しうるのだ、というのが、第一帖の要旨であり、第一帖の最後の文言の
“以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである”
これはここまでの要旨を簡潔にまとめたものであるし、“その一”で述べたように、人間=“地上人”が思う“過去”“現在”“未来”“生”“死”“善”“真”“美”は、人間の心の中においての“観察と認識”であり、一切の事象は一切の事象であるという観方をするべきであり、それが又“生命”事象の実相、そして“一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”、このことを知っておくべきである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第二帖の解釈に入ることとする。 第二帖の原文は以下の通り。

天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。 その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。 何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。 秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。 しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる。 其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。 一なるものは、平面的には分離し得ない。 二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。 分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。 ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。 一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。 しかし、大歓喜にまします太神のローレンツ力 は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。 霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。 生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。 即ち、死後は生前の形式による。 形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。 而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。 愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。 これら二つが相関連せるを外の真と云う。 外の愛も外の真も共に生命する。 人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。 表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。 故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。 許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。 歓喜は神であり、神は歓喜である。 一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。 生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。 故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。 死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。 先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。 夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。 しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。 何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。 而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。 故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。 内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。 生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。 生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。 偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。 この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。 故に、同一の環境には住み得ないのである。 かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。 そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。

 今回解釈するのは
“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。 その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。 何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。 秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。 しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である”
ここまでとする。

 今回取り上げる文言を一読すれば、それぞれの“界”、“天界”“地界”、自分が位置していると認識しうるそれ、場(フィールド)、現津(あきつ)、観察され得る事象、そしてそれらを“観察と認識”している自分自身の心(靈)。
 これら一切が、第一帖で使った“生命”事象の実相、であり、それを構成している振動の高低を述べていることが以下の文言から読み取れる。
“各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している” 
 そしてそれは“無限段階”であり、“地上人”が思う“上”から“下”など想像が及ばないほど無限であり、その振動の高低において、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)という法則性があるからこそ
“その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はない”
この“内的交流”は、“上”からの通信、“下”からの通信、いわゆる感応と解することが出来るの意、心(靈)自体に通信を受けるということであるが、それに相対し“全面的交流”、例えば人が人と対峙するようには、振動の違う“界”は、その違いゆえに、“観察と認識”しえない、よって“内的交流”=ただ通信を受けるのみ、ということである。 

 しかしながら、自分の心(靈)を構成する振動と近い、その近い心(靈)、あるいは近い“界”ならば、“変圧”はあまりないので、
“同一線上に於ける横の交流は、可能である。 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である”
であり、もうひとつ
“何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである”
これは“自ら”を構成する振動、それを
“自ら”(を構成する振動によって)“なる”
(その振動の)“段階”
と称されており、自分の心(靈)を構成する振動と違いすぎる振動とは感応し得ない、ということが述べられ、これこそが同程度の霊的成長度の者同士がそれにふさわしい振動で構成された場(フィールド)に位置して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たす、それは人間がいきなり天国や地獄に行くことが出来ない、という言い回しは少々不適切ではあるが、実際そうであるし、また、人間がいきなり神に近付けない、人間がいきなり悪魔にならない、などという解り易い説明を付け加えておく。
 この、振動の高低によって構成され得る、“上”と“下”の心(靈)と、“界”=場(フィールド)、これこそが、先に述べた振動の高低による区分、“段階的秩序”であり、これ自体が“上”から“下”まで一切を貫く法則性であることを
“秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない”
と称されており、
“秩序”“法則”これを構成するのは高い振動で構成されている“神そのもの”“神自身”であると称されているものである。 
 そして“神自身もこれを破ることは許されない”その理由と根拠が、先に述べた“変圧”、やはり同程度の霊的成長度の者同士がその場(フィールド)でお互いがお互いに影響を与え、またその場(フィールド)に降り注がれる“上”からの振動、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が個々の心(靈)に影響を与えて、心(靈)はその段階から少しづづ“上”に向かって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくものであるし、その進化事態を第二帖では“歓喜”と称されているものであると思え、それは少々先走るが以下の文言の意味するところである。 
“善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。 歓喜は神であり、神は歓喜である”

また今回取り上げた文言、これもまた“生命”事象の実相、第一帖の表記
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
この“生まれつつある”、その一側面を表わしたものであると言いうる。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回は、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる。 其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。 一なるものは、平面的には分離し得ない。 二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。 分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。 

 今回取り上げている文言中の“分類”と“分離”は、先回の
“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している”
この“無限段階”のことを指している。

 それは“生命”事象の実相、これを個々の心(靈)が“観察と認識”をする、そしてその霊的成長度の高低における認識となる。 それは“地上人”ならば第一帖の
“日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである”
であり、たとえそれは“二義的”なものであったとしても一切が“生命”事象の実相、であり、同じく第一帖の“一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”でもあるが、この事を理解しておくと今回取り上げる文言は解りやすい。

 それで
“総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる”
これは個々の心(靈)が、“生命”事象の実相、に対し、“観察と認識”したならば=“分類”したら、“分類”されたもの、そのもの自体が個々の心(靈)が認識しうる“生命”であり、それは先に取り上げた第一帖の“生まれつつある”であり、“二義的”でもあり、“呼吸”(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))であり“脈”(振動の発振、発信)であるということ。 “創造”を行っている神より“下”の個々の心(靈)の“観察と認識”においては、“生命”事象の実相、に対してこういう観方をして、その観方故に神の“創造”、“生命”を、認識し理解するものであるということが述べられ、“下”である個々の心(靈)の認識の中では“分類しては、生命の統一はなくなる”=一切が、“生命”事象の実相、であるということがその“観察と認識”の中では消失し、消失しているのが“地上人”の常であるの意。
 
 これに続く
“其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる”
この“分離と統合”、個々の心(靈)が認識している“二義的”なものであってもそれは“生命”事象の実相、であり、“創造”を行っている神からすれば一つのもの=“統合”であるが、“下”である個々の心(靈)では、“分離”されたもののように認識されているということ。
 そして“無限段階”の一部である“霊界と現実界”においてもそれは“分離と統合”であり、“微妙極まる関係”なのだということ。 
そしてそれは“その一”で述べたように振動の高低があるが故に、“無限段階”があり、“平面的には”というのは、同程度の振動で構成された心(靈)と場(フィールド)ということだが、“無限段階”そして“霊界と現実界”は、その構成の振動には相違がある、しかしながらそれも“生命”事象の実相、であるからこそ“”お前たち“地上人”からしたらそれは“平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる”と称されている。

 これに続く
“一なるものは、平面的には分離し得ない。 二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。 分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている”
この“一なるもの”は、神の“創造”事態を指し、“創造”の結果として“二なるもの”と称されている。
神の“創造”=“一なるもの”は、“無限段階”、振動の高低、神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と言えば分りやすいかもしれないが、そういった要素があり、“創造”の結果=“二なるもの”は、“創造”を行う神の“下”の個々の心(靈)による“観察と認識”であるから“二なるものは、平面的には一に統合し得ない”、神の“創造”事態と同一視できない、そういう観方をする。
しかしながらそれは程度の低い“観察と認識”であることを“分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二”、これは“上”と“下”、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である“生命”事象の実相、そして個々の心(靈)、これ自体が“統合”されているものであるから“天地一体、神人合一”であり、“陰陽不二”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を指すのだが、その極性も“統合”なのだ、ということを述べている。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。  

 この文言にはローレンツ力 ローレンツ力 と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の表記がある。 この二つが合わさったのが“日月神示”に幾度となく登場する以下の表記である。

霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 大画像

 まず、ローレンツ力 =ローレンツ力について私見を述べる。
 地震の巻に入って使っている“生命”事象の実相、という表記、それを“地上人”が“観察と認識”したならば、空間(場(フィールド))、物質、(電荷を持つ)電磁波、そして荷電粒子で構成されている心(靈)、これが狭義での生命(生きる使命=存在理由)であるが、こういった大ざっぱな分類が出来得るし、物質を構成している素粒子も、電荷を持っている。 これは一切の何かは電荷を持っていると言いうることである。

 たった今の物理では素粒子が物質を構成する最小の単位とされているが、第二帖“その一”で取りあげた表記の“無限段階”を鑑みるならば、今の進化過程の人間の理解を超えた素粒子以外の粒子も在ると思え(在るに決まっている)、その粒子の振動も一切の事象、“生命”事象の実相、に対し、影響するものである。 

 それで、電荷を持っている何かが寄り集まれば(自凝(おのころ)すれば)、必ず磁束が発現するものであり、そこにはその「何か」の大きさや質量には関係なくローレンツ力が発生する。 

 また“上”からの振動、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、これも“無限段階”であることが第二帖の表記から分ることでもある。

 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、いわゆる心(靈)は、肉体(月(ツキ))をもつ“地上人”においては、“行”や生業(なりわい)における苦痛や苦悩、それが生体内電流の強化になり、生体内電流の強化自体が肉体のローレンツ力 ローレンツ力 の強化と変容になることを幾度となく述べてきているし、それが“日月神示”表記の“身魂磨き”の意味合い、それは生体内電流による肉体組織の結晶化、結晶化は自凝(おのころ)の良い形であり、電気特性の変容であるからこそ、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)も変わるのだ、という解釈である。

 これらの事に関して言い方を変えれば、ローレンツ力で取り込む振動、それによって構成されている何かは、自分たちをも含む“生命”事象の実相、であり、空間(場(フィールド))、物質、(電荷を持つ)電磁波、そして荷電粒子で構成されている心(靈)、であるが、これも“無限段階”であり、その段階が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程、心(靈)ならば霊的成長の段階、であるとすることが出来る。

 これらのことを踏まえて“ ローレンツ力 については一なるも”を観るならば、これは上からの振動の取り込みを指し、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、仕組みとも言えるし、“一なるも”は、“○ に於ては二となり三となり得る”にかかる文言であり、“二となり三となり”のその意は、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が観察しうる“生命”事象の実相、であり、これは“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”を始める、あるいは第一帖の表記の“その前なるもの”が“創造”を始める、そしてこれら“上”に対しての被造物、“下”である個々の心(靈)は、事象に“創造”の結果としての多様性を見出す、これ自体が“上”の“思惑(日足(ひたり))の顕現(砌(みぎり))”=現象化ともいえ、それを“○ に於ては二となり三となり得る”と称され、このこと事態が“○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する”の“歓喜”であり、これは第一帖の
“只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それはローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。 ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体であり、渦巻き 左回転 はその用である”
この意味合いと重複し、さらに今回の文言自体が“生命”事象の実相、に関して述べられたものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。 しかし、大歓喜にまします太神の ローレンツ力 は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。 

 冒頭の“一は一のみにて一ならず”、これは先回の“ローレンツ力 については一なるも”にかかる文言であり、先回のこの文言に対して
「“上”からの振動の取り込みを指し、これ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、仕組み」
と解した。
しかし“生命”事象の実相、これには“上”と“下”があり、仮に“上”だけしか存在しえないならば、それは単一であり、単一でしかないものであり、その意のことが今回取り上げている文言の“一は一のみ”であり、これに相対し“下”があって“上”が認識され得るの意が“一は一のみにて一ならず”である。 
言い方を変えれば、この「法則性、仕組み」だけでは“生命”事象の実相、の多様性の認識はあり得ない、それは“下”があってこそ“上”があると認識されるのであり、“上”は“創造”を行う際、“創造”のための「法則性、仕組み」を定めたが、その「法則性、仕組み」を認識するのは“下”である“地上人”であり、“日月神示”自体が人間に対して書かれている文言であるからこそ、“下”である人間に対し“上”に対することを述べているものであり、さらに換言すればこの“上”と“下”、“創造”する側と“創造”された側、そして“創造”された側が“上”に対して思うこと、感じること、“上”と認識すること、自分たちが“下”であることを認識する、これら自体も“生命”事象の実相、であり、“その二”で取りあげた
“総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる”
この文言が理解し易いと思うので、その解釈を参照されたい。

 ここまでのことが理解できているなら、これに続く“善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない”の意味はすぐ解り、この文言自体が“上”と“下”、“創造”する側と“創造”された側、“下”が“上”を目指す=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これについて述べていることが解り、先の“一は一のみにて一ならず”と同義なのが“善は善のみにて善ならず”“真は真のみにて真となり得ない”、これは“善”と相対する悪があってこそ、“真”に相対する偽があってこそ、“善”と“真”の理解がある、認識しうる、ということである。
これに続く“神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない”、これも“上”と“下”の関係、これは“創造”する側と“創造”された側、その関係でもあるが、それ以外にも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と、“上”が育てている“下”(低い心(靈))=人間、“地上人”ということも述べているものである。 
 これに続く
“しかし、大歓喜にまします太神の ローレンツ力 は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である”
これは、“創造”する側、第一帖の“その前なるもの”、かなり“創造”の“主(ヌシ)”に近いと思しき存在、これを“大歓喜にまします太神のローレンツ力 ”と称され、これに関しては“上”“下”関係なくこの“太神”自体が“生命”事象の実相、であり、うんと高いならば、“創造”の“主(ヌシ)”に近いならば、ただただ“上”からの振動を自らのローレンツ力ローレンツ力 で取り込んで、“下”に送り贈る、この事を“そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する”=発振、発信し続ける、し続けている、し続けながら進化する=“存在し、弥栄する”と述べられ、それは“亜”(究極微粒子)が出ずる、泉、ということを○○○大先生は著書で述べたが、これに相当するものであるし、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、であり、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であり、これらを示した画像を以前作ったので以下に貼っておく。

“創造”の意味と意義

 そしてその存在そのものは“下”である人間、“地上人”には想像も及ばない、認識しえないから“立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故”、ことに“無の存在”という表記は、お前たちから“観察と認識”したならあまり高すぎて無いに等しいくらいなのだ、高い振動ほど無に近いのだ、例えば般若心経の色即是空、色(物質、可視光線で認識しうる何か)、是(これ)即ち空なり、可視光線で認識しうる事象もその元(構成要素)は色など認識しえない振動=空、であるという意味合いであるが、こんなことをはるかに凌駕した高いレベルの意味合いの表記であると思える…という私見を付け加えておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。 生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。 即ち、死後は生前の形式による。 形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。 而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。

 今回取り上げる文言中には“形式”という表記が八回登場する。 この文言の意味合いは先回の
“一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない”
これにかかるものであるし、その“一は一のみにて一ならず”が“形式”として顕現している、仮に存在が“創造”の“主(ヌシ)”単一であるならば、単一でしかないならば“生命”事象の実相、これなど成り立つはずがない、という意味合いであるし、その“生命”と事象の実相、これに対する“観察と認識”、これ自体が“創造”の“主(ヌシ)”と個々の心(靈)が行う“創造”の一側面であると解することも出来得る。
またその“創造”が行われていること事態も先に述べたとおり“生命”事象の実相、であるし、さらにそれ自体が“歓喜”であり、そのことが解り易い表記として第一帖の以下の文言が理解しやすい。
“宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。 その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは ローレンツ力と ○ であり、 渦巻き 左回転 なるが故である。  ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体であり、 渦巻き 左回転 はその用である”
この文言中の“ ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体”、“上”からの振動をローレンツローレンツ力 力 で取り込み霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が成り立つ、また“上”からの振動との感応が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付いているものである。
そして個々の心(靈)は“上”と“下”=“創造”の“主(ヌシ)”に近い存在から悪魔に近い存在、あるいは悪魔そのものまでに渡って、その一切が“生命”事象の実相、これの“観察と認識”をしていくものであることを今回取り上げている文言が示しているものであるし、さらに、どんなに“上”と“下”の相違があっても個々の心(靈)は“ ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体”であり、それは同じく第一帖の以下の文言、
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく”
こういったものであると述べられている。

 なお“生命”事象の実相、に関して“その三”で以下のように解釈をしたのでコピペしておく。

“生命”事象の実相、それを“地上人”が“観察と認識”したならば、空間(場(フィールド))、物質、(電荷を持つ)電磁波、そして荷電粒子で構成されている心(靈)、これが狭義での生命(生きる使命=存在理由)であるが、こういった大ざっぱな分類が出来得る。

 これらのことを踏まえて今回取り上げている文言を観ると
“霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である”

これは個々の心(靈)の存在の説明であることが理解できる。 物質=肉体(月(ツキ))を伴った心(靈)である“地上人”、これは“外的形式”、いわゆる外側(外国と幽界)の事象であると称され、これに相対し“内的形式”は、心(靈)、“霊人”、内面とか内側(心の中と感じている事)であると称されている。

 これに続く次の文。
“生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。 即ち、死後は生前の形式による”

 これは、“地上人”における個々の心(靈)は輪廻転生をしており、その個々の心(靈)も“生命”事象の実相、の、一部であり、そしてそれは先の第一帖の文言の“宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある”の“常に神と共に永遠に生れつつある”ものでもある。 
それでこの文言は単に“生前”であろうが“生後”であろうが“死後”であろうが、それぞれがその心(靈)の“形式”に関わっているという意味合いではなく、この“永遠”である個々の心(靈)の存在は、生きている間は様々な因果や因縁を背負い、因縁を贖い(あがない)ながらこの事象に奉仕していき、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくものであることを○○○大先生は著書で述べているが、この因縁を贖う(あがなう)ことと、この事象に対する奉仕、これ自体が“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付いており、さらにこれについては次の文言に続いている。
“形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる”

 この“愛”“真”“善”“美”(断わっておくが外側(外国と幽界)の事象の形骸の“美”の概念ではなく、“美”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示すものである)、これらは個々の心(靈)が因縁を購いながら神に近付くための指標であり、これらをまっとうするために存在をする、存在している、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)につながることになり得るし、さらにこれも個々の心(靈)が他の存在に示し得る“形式”の一側面であると言いうる。

 それで次の文言では“形式”、これを“観察と認識”しうる、それは実在はしている、しかしながらそれは“創造”の一側面、“生命”事象の実相、この一部、であるという意味合いの文言である。
“而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない”

 一切の“生命”事象の実相、これに対し“その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜”これは先の“ ローレンツ力と ○ は大歓喜の本体”でもあり、ローレンツ力ローレンツ力 と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、その霊=○は、“上”と“下”の相違はあっても、“創造”に関与しともに“弥栄”(地震の巻でのこの表記の意味は単に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示しているものであると思う)していくし、“創造”の“主(ヌシ)”と個々の心(靈)はともに“弥栄”するという文言が“歓喜なき所に形式なく、存在は許されない”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その六”


 今回も、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。 これら二つが相関連せるを外の真と云う。 外の愛も外の真も共に生命する。 人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。 表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。 故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。 許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。 歓喜は神であり、神は歓喜である。 一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。 生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。 故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。 

 ここまでの第二帖で“その一”で取りあげた文言では、“生命”事象の実相、は“無限段階”であり、“その二”では、“無限段階”を個々の心(靈)が“観察と認識”して“分類”する、また“分類”をしなければ“総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない”と称され、“その三”では、個々の存在のローレンツ力
ローレンツ力 で取り込む振動、それによって構成されている一切の何かは、自分たちをも含む“生命”事象の実相”、であり、その成り立ち事態が個々の存在のローレンツ力ローレンツ力 に由来することであり“その四”では、“生命”事象の実相、これには“上”と“下”があり“その五”においては、“生命”事象の実相、これを“地上人”が“観察と認識”するならば、“形式”として認識され得る、と称されてきた。

 これらのことを踏まえたうえで、今回取り上げる文言を解釈する。 
 まず冒頭の文。
“愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。 これら二つが相関連せるを外の真と云う。”

 これは“その五”で取りあげた“形式”それは“形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。 而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない”のであり、個々の心(靈)が“生命”事象の実相、を“観察と認識”するならばそれは“形式”として“その二”の“分類”として認識する、そして地震の巻での表記の意味合いとしての“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“愛の善”そして“真の美”、この“合一”、これは個々の心(靈)が目指すべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標たり得ることであり、この“形式”を“分類”して自分はどう在るべきか鑑みる、その鑑みること事態を“呼吸”と称されている。
そして“現の現人”これは“地上人”における外側であり、その内面とか内側(心の中と感じている事)は“霊の霊人”と“分類”しうる、これが“合一”せねば“生命”ではない、と称されているし、“これら二つ”とは“現の現人にして霊の霊人”であり、これも“地上人”を“観察と認識”したうえで“形式”と認識され得ること、それを“外の真”と称されている。

 これに続く次の文。
“外の愛も外の真も共に生命する”

 “外”という表記、これは個々の心(靈)を他者が“観察と認識”して“分類”“形式”と認識しうることであり、これ事態も“外”ではあるが、“生命”事象の実相、であるの意。

 次の文。
“人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。 表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。 故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。 許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。 歓喜は神であり、神は歓喜である。 一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。 生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。 故に本質的には善悪のないことが知られるであろう”

 これは文末の“本質的には善悪のないことが知られるであろう”、この文言の意味合いが理解できなければ意味を理解しにくい。
それは“生命”事象の実相、これを個々の心(靈)が“観察と認識”して“分類”して“形式”と認識している、この個々の心(靈)の所作も“生命”であり、その“分類”と“形式”は“外”と認識されていても
“表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ”のであり、その意のことが
“人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたる”

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の未熟な個々の心(靈)は、こういうものではあるが、進化(弥栄)していくならば
“許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない”
のであり、“浄化し弥栄し”=“上”に向かって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくその何か自体が、個々の“分類”“形式”にとって定まっていることであり(ローム太霊講話集表記の“法(のり)”)、それを
“浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。 歓喜は神であり、神は歓喜である”
と称され、これは一切の事象、“生命”事象の実相、これに対し個々の心(靈)がどんなふうに“分類”と“形式”という認識をしたとしても、重複するが一切は“歓喜は神であり、神は歓喜”なのだ、ということである。
 そしてこれに続く
“一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである”
これは“その三”と“その四”で解釈した“ 
ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。 一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない”
これを強調した言い回しであり、“一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなす”と個々の心(靈)が認識してもこういったこと事態が“みなこれ歓喜する歓喜の現われ”、“分類”と“形式”であり、これに続く
“生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える”
この“生み出し”は、“歓喜は神であり、神は歓喜”の所作に相当し、これを個々の心(靈)が“分類”と“形式”と認識しているのだが、先に述べたように一切の事象、“生命”事象の実相、これ自体は、
“故に本質的には善悪のないことが知られるであろう”
であり、自分たちも含め、個々の心(靈)の所作、また、この事象すべて、どんなに“分類”し、“形式”と認識したとしても、すべては“歓喜は神であり、神は歓喜”、一切が神であるという意味合いの文言である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第二帖 Kellyさん的解釈 “その七”



 今回も、地震の巻 第二帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。 先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。 夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。 霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。 しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。 何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。 而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。 故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。 内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。 生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。 生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。 偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。 この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。 故に、同一の環境には住み得ないのである。 かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。 そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。

 
 冒頭の文。
“死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。 先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。 夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。 霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。 しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。 何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。 而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される”

 これは“地上人”であるわれわれが死んだならば、“地上人”由来の“観察と認識”に捉われている。 それを
“最初の状態は生存時と殆ど変化がない”
“最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいている”
と称され、それゆえ
“外部的のもののみが強く打ち出される”
のであり、この“生存時の想念、情動”が“そのままにつづいて”これが “死後の世界に入った最初の状態”であり、その“状態”であるからこそ
“想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになる”という“霊界”においては
“死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない”
と称されており、それを具体的には
“先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。 夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができる”
と述べられている。 
しかしそれは“かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない”のであり、“地上人”も死後に“霊人”と称される段階に移行していくから、ということが述べられているし、その理由と根拠として“想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである”、この“想念の相違”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、その息吹による事象の遭遇ということになり得るからである。

 次の文。
“故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。 内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである”

 これは先の“而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される”この“外部的のもののみが強く打ち出される”そして
“故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれる”
その状態から“かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない”を経て“霊人”になっていく“段階”を
“外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていく”
と称されている。
そしてそれは
“内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえる”
この文言の重要な点は“霊人の本態は内分”、そしてそれは先の“霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになる”ということをよく理解しておかねばならないし、さらにこれは次の文に繋がっている。

“生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる”

 これは“霊人の本態は内分”であり、自分が“霊人”になったならば“霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになる”が故に、
“内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる”
これは
“生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為”
これが“外部的のもの”であり、これは“限られたる範囲外には出られない”、この“限られたる”というのは、“生命”事象の実相、この一部しか“観察と認識”しえない、分らない、それはまた“地上人”ゆえのことであり、死後、“霊人の本態は内分”“内分の自分となれば”、この状態において“想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになる”となり、それはまた“地上人”由来の“生存時に於て…中略…限られたる範囲”ではなく、“内分”こそが“自由自在”であり、“想念のまま”になるのだ、ということである。 そしてこれは“内分”における“観察と認識”を理解するうえでとても重要な事ではある(後々重要な意味合いを示すこととなり得るの意)。

 次の文。
“生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。 偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである”

 先の“想念のままになる”その段階に入ったならば、という文言であり、
“生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見…以下略…”は、“偽り”が無いゆえに“天国的光明の扉をひらく”=“上”に向かう、これに関しては特に解釈の要は無いが、そのあとの
“偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。 かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである”この“偽りの生活”は先の“外部的のもの”であり、これに捉われて“霊界は、想念の世界である…中略…想念のままになる”になるなら“地獄的暗黒に自分自身で向かう”のであり、その“偽りの生活”を省みて自省(胸の磁性“十”)する(閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)が理解しやすい)、いわゆる“霊人の本態は内分”という段階に至るまでに
“生存時に於ける、あらゆる行為が清算される”、
自省(胸の磁性“十”)して清算せよ、という意味合い。

 次の文。
“この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。 故に、同一の環境には住み得ないのである。 かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる”

 この“善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み”、これは霊的成長度の違いといえ、どれくらい“上”か“下”か、神に近いか悪魔に近いか、あるいはその“中間”か、ということであるが、それぞれの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の遭遇、先の“想念のままになる”ということにおいて、
“悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。 故に、同一の環境には住み得ない”
のであり
“善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み”
ということになるし、その“世界”において
“善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為する”
と称されている。

 最後の文。
“そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”

 これは先回の終わりで解釈したように“地上人”であるわれわれが“生命”事象の実相、の“観察と認識”において、自分たちも含め、個々の心(靈)の所作、また、この事象すべて、どんなに“分類”し、“形式”と認識したとしても、すべては“歓喜は神であり、神は歓喜”、一切が神である、ということであり、それゆえ、“善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為”していたとしても、
“その時の各々にとっては、その時の真実”
なのであり、“その時の各々”が“善”であろうが“悪”であろうが、一切が“生命”事象の実相、であり、すべてが神、であるからこそ“その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第三帖の解釈に入ることとする。 第三帖の原文は以下の通り。

愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。 地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。 個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。 更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。 極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。 かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。 真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、ローレンツ力と ○   の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。 これが、大歓喜そのものであって、神は、この ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである。 一物の中の ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。 生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。 神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。 歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。 世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。 天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

 今回解釈するのは
“愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。 地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”
ここまでとする。

 冒頭の文。
“愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく”

 “影”という表記が二回登場するが、これは映し出された形、の意である。 そして“愛”の表記に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈をする人がいそうだが、愛(炁)の顕現には霊的成長度の高低において程度の差があるものであり、“日月神示”表記の“ケダモノ”に近い人間、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き中止の人間は自分に対する愛(炁)しか行使しえないのであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほど、先の程度の低い愛(炁)から“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって、他者、一切の事象、そして自分、に対する高い愛(炁)を顕現しようとするし、自分に対しては自分自身の霊的成長を望むからこそ“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“という表記を○○○大先生は使っているし、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“下”(低い心(靈))である人間を育てようとする際も、その人間の成長の段階に応じた“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を行使するし、これがまたS会=紫光会の交霊会でよく言われた“神は乗り越えられない試練は与えない”、この文言の裏にあること。
 こういった霊的成長度の高低における“愛”の顕現、低い“愛”には“真”は感じられないが=“観察と認識”しえないが、高い“愛”、高くなればなるほどそこには“真”を観てとれるようになるというのが“愛の影には真があり”。
そして“愛”と“真”が個々の心(靈)の霊的成長の指標となる、どういった形で示すか、どう顕現するか、それを鑑みる、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で鑑みるならばそれはまっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)への“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)となっていく、その意が“真の影には愛がはたらく”であると解する。

次の文。
“地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない”

 “地上人”と“霊人”、これは第二帖で説かれた“分類”と“形式”であり、この文言そのものはその両者が無ければならない、互いに相関しているものである。
その意が“地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない”であり、“存在せず”は他者から認識しえないの意、“呼吸しない”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しえない、の意、そして互いの関係として“地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する”と述べられている。

 次の文。
“地上人は常に霊界により弥栄する。 弥栄は順序、法則、形式によりて成る。 故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”

 これも先の“地上人”と“霊人”の相関を述べており、その両者があってこその“弥栄”、霊的成長、神に近付くことそのもの、であるの意。 そして“弥栄”は、個々の心(靈)の“観察と認識”において“順序、法則、形式によりて成る”、そういうものであると認識され得るの意であり、これはまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と言え、ローム太霊の言葉の“法(のり)”であるとも言いうるし、これに準じる、これに沿った存在の在り方、それが“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるの意が“順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない”であり、この“呼吸”は先にも解釈したが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。 

 文中の“個”は個々の心(靈)の意、“全体”は、個の心(靈)である自分をも含めた一切の事象、それは“生命”事象の実相、であり、今回取り上げている文言は個の心(靈)が“生命”事象の実相、を、“観察と認識”している、そして個の心(靈)も全体の一部である、それは観察しうる事象、自分と自分以外の一切が神である、ということを前提に説かれているものであり、このことを踏まえて読まなければ意味が通じない。
 
 冒頭の文。
“個の弥栄は、全体の弥栄である”

 個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“弥栄”は、一切の事象の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるということ。

 次の文。
“個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”

 個の心(靈)は“弥栄”して“個性”を顕現し、それを他者から観れば“分類”と“形式”と認識され得るものであるが、これ自体が新たな“個性”“分類”“形式”、これらが多種多様となり、そのこと事態を“全体は益々その次を弥栄する”と称されている。

 次の文。
“個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である”

 先の“個性”“分類”“形式”、これは“個と全体”と認識され得ることでもあり“愛と真”と認識され得ることでもある。 そして“との差が益々明らかになれば”とは、“個性”“分類”“形式”が多種多様となりはっきりと“差”を認識すればするほどその関係や関連付けもそれぞれのこの心(靈)の中の認識においてはっきりしてくる(より“個性”“分類”“形式”として“観察と認識”する)ものであるが、それを“結合は益々強固となる”と称され、この“差”と“結合”を認識すること事態、“創造”であり、事象の“創造”というのはこういうものなのだ、そしてこれが神の取り決め、“創造”における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、なので“神律”と明快な命名がされている。

 次の文。
“霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである”

 “霊界と物質界”も“全体”を“分類”“形式”と認識したものであるし、それぞれの“弥栄”、先の“個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”ならば、その“関係”も“全体は益々その次を弥栄”となり得る。
また“分類”“形式”“個性”がはっきり示されれば、それぞれの個の心(靈)の認識によりそうなっていくならば、先の“神律”“結合は益々強固となる”と認識され得るものであり、この認識事態が、私見ながら“神性”であり、この認識そのものは、一切の生命、“上”であろうが“下”であろうが、“創造”の“主(ヌシ)”であろうが人間だろうが悪魔であろうが、一切の“生命”に共通する行為であるし、その認識の中に“大歓喜が生れ、栄えゆく”、この事を踏まえてこの解釈を読んでいらっしゃる方は、以下の文言をよく読み解いてほしいものである。

“其処にこそ(認識の中にこそ)、
大生命(“生命”事象の実相)があり、
大歓喜が生れ、栄えゆく(“神性”)のである”

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。 極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。 すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。 かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。 これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である。 

 冒頭の文。
“更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。 極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である”

 文中の“映像され”“映像される”は、事象として顕現しそれを個の心(靈)が“観察と認識”するの意。
そして個の心(靈)である“地上人”向けのこの文言は、“極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界”これらを通じて、お前たち自身が永遠の存在であり、先回取り上げた“個の弥栄は、全体の弥栄である”なのだからこそ、お前たちは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくべきなのだ、進化するものなのだ、これはお前たちが存在する理由と根拠であり、一切の存在は“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するものなのだ、それがまた、個の心(靈)の存在の理由でもあるのだ、ということである。

 次の文。
“極内は極外に通じて 
渦巻き 左回転 を為す。 すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない”
 
 “善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転である“ 
渦巻き 左回転 ”、これは先の“極内世界は生前、極外世界は死後”この時間の進行において、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を“為す”のだの意。 これに続く“すべて一にして”、これに近い表記はこの後に登場するが(“千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”)、その意は、“生命”事象の実相、これは先回の表記の“全体”であっても一つであるし、それを個の心(靈)が“観察と認識”して“個性”“分類”“形式”としている、そのことを“すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない”と称されている。

 次の文。
“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”

 冒頭の“かくして”は、結果を示す表記、こうして、とか、このようにして、とかの意味合いであり、“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”の意味合いは、先の“極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である”にかかっており、この“極内”“中間”“極外”を通じて、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が“上”から“下”へ注がれ、それを電荷を持った何か、それは個の心(靈)であろうが生きている間の肉体であろうが、電荷がある故にローレンツ力
ローレンツ力 が発現しているので“上”からの振動を止めつつ(これに関しては第二帖 “その三”の解釈を参照のこと)、さらに自らの“下”のエネルギーを条帛(じょうはく)のように上昇させつつ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、智性(神性)の発現とその行使をしていくのが先の日足(ひたり)回転“渦巻き 左回転  ”の意味合いでもあるし、個の心(靈)に対しての“上”は“大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”と称されているものである。

 次の文。
“これによりて、新しく総てが生れ出る。 太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。  
渦巻き 左回転 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”

 冒頭の“これによりて、新しく総てが生れ出る”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意により、一切の存在なり事象なりが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“弥栄”してそれを個の心(靈)が“観察と認識”して“個性”“分類”“形式”とするのだの意、であるし、このこと事態が“生命”事象の実相、の存在理由たることでもある。 
 これに続く“太陽は、神の生み給えるものであるが”、これは先の“かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる”と同義。
これに続く“逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである”の意は“上”からの振動の取り込みにより個の心(靈)も事象も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して神に近付く、ことにこの文言自体は“地上人”に向けられているものであるから、お前たちの存在の意義は、独り神(ひとりがみ、日取り神)になる、そのための存在なのだ、ということを示している。
 これに続く“
渦巻き 左回転  は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。 親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”
先に説明した“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転“
渦巻き 左回転  ”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートと言いうるものであり、“下”のエネルギーが条帛(じょうはく)のように日足(ひたり)回転で“上”に向かい智性(神性)となる、それが神格化である、それが“絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”、一切の生命も一切の事象もこの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のテンプレートにより“新しき総ては”“生れ出て、更に大完成に向って進みゆく”ものであり、個の心(靈)である“地上人”は、“大完成に向って進みゆく”…には程遠いと思うが、先の“個の弥栄は、全体の弥栄である”ということをよく知っておくべきであり、またそこには“神の中に歓喜として孕(はら)み”、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”そのものが“歓喜として”“孕(はら)み”(子を宿すの意)に相当することであることを知れ、それを強調する文言がこれに続く“親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない”であることを読み取るべきである。
 これに続く“されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。 一なるが故に、永遠である”、これは先に述べた“個性”“分類”“形式”を“千変万化”と称し、しかしながらそれも“全体”であるが故に“一である”と言われ、“全体”“生命”事象の実相、は、“永遠”であるということを認識の狭い“地上人”向けに説明されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。 共に神の御旨の中に真実として生きるのである。 真実が益々単にして益々充実し、円通する。 

 まず冒頭の文。
“愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである”

 「小さな宇宙人 アミ」シリーズ、そして○○○大先生の著書やブログの読者は“愛は愛に属する総てを愛とし”の意味合いはすぐ理解できるはず。 
それは、愛(炁)の顕現には霊的成長度の高低という要因があり、霊的成長度の低い心(靈)は自分のためだけにしか愛(炁)を行使しえないものであり、その程度の低さは自分の存続のため他者を殺して食する肉食獣を観るとよく理解できる。 また“日月神示”の表記の“われよし”“獣、ケモノ、ケダモノ”も、単に人間としての知恵や知識が加わっただけで肉食獣同様に自分のためにしか愛(炁)を行使しえない、程度の低い愛(炁)しか発現していない霊的成長度の低い心(靈)を指すものである。 またこの程度の低い愛(炁)の行使事態が“憎を生じ”ているし、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の元であると言いうる。 
しかしそれも程度の低い愛(炁)の顕現であるがゆえに“愛に属する総てを愛とし”という言い回しをされており、これに続く“総てを愛とし、善となさんとする”の意は、その“愛”の顕現と行使において“善”を指標にすると、先の肉食獣のように程度の低いものはそれについていけない、“善”ゆえの“愛”の顕現と行使が出来得ないので“故に悪を生じ、憎を生じ”ていくものである。
 これに続く“真”についても“真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずる”と述べられており、それは程度の低い愛(炁)の顕現と行使には“真”を観ることが出来ない、“美”と見受けられない、それは不誠実であり自分にとって都合の良いものであるからであり、またそれは形骸の“美”の概念、“美”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示すものだと○○○大先生は著書で述べているし、これに相対して形骸の“美”は外側だけを取り繕う(ディスプレイ(動物の発情行動))からであるが、それも進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い段階で、先の“愛に属する総てを愛”には違いない。
よって、程度の低いものにとっての“真”と“美”の認識も低いものであり、それは自分たちにとって都合の良い“真”、そして程度の低い“美”たることである。
このことを理解しやすいのが第二帖の最後の文言“そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”、この“その時の各々”、これは高いものも低いものもという意味合いを持ち、自分たちが“観察と認識”しうる“真”と“美”にも、霊的成長度の高低による程度の差があるものであり、低い認識の“真”と“美”は“上”から観たなら“偽”“醜”となるのだの意。

 次の文。
“悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである”

 個の心(靈)は霊的成長度が低ければ程度の低い“愛”の行使を“悪”としてこの事象に示し、同様に霊的成長度の低いものの認識の“美”は“上”から観たら“醜”であると認識され得る。
しかしこれらが解った、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して心(靈)が育つ過程において“善”も“美”もその認識は高いものになっていく、その過程をこの文言で説かれており、ある程度心(靈)が育ち自らの“悪”を“悪”と認識したならば、そこで自分がどう在るべきか鑑みる、そして高い“善”の行使に至るものであり、同様に形骸の“美”を求めつくしていきその結果が“醜”と理解しそこには価値が無いことを認識したならば、何が“ほんとう”の“美”なのかを思い、それを行動に活かすようになっていく、これらが霊的成長の過程であると言いうるし、この文言はそれを示しているものである。

 これに続く次の文。
“悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。 共に神の御旨の中に真実として生きるのである”

 文言中の“御用の悪”と“御用の醜”は程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”と“醜”をよく認識する、認識したならばそれより“上”、“善”と“ほんとう”の“美”を求め、顕現しようとするの意。 
またそれは先に引用した第二帖の“それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”に相当するから“悪は悪として悪を思い”と“醜は醜として醜を思い”であり、これは先の“善”と“美”を理解していくために、程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”“醜”をよく解らねばならない、これがこの場合の“御用”である。
そしてそれは第二帖の文言と意味が同じ“その時の各々にとっては、その時の真実”であるからこそ“共に神の御旨の中に真実として生きるのである”と称されている。
それは“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”、こう“観察と認識”され得る何か、それは程度の高い低いにかかわらず、一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これに含まれているものである。
そして、自分、個の心(靈)、一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これらそのものが神であるからこそ“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”も、個の心(靈)の成長の過程において必須。
そして、個の心(靈)の成長そのものが“その二”で取りあげた“個の弥栄は、全体の弥栄である”でもあるからこそ、この過程、低い認識から高い認識に移行するためにも、“悪”も“醜”も、先の“憎”と“偽”という“御用”が必要であり、これらもが神の一部であるという意味合いも含む。

 そしてそれは今回取り上げている最後の文言に続いている。
“真実が益々単にして益々充実し、円通する”

 第二帖の“その時の各々にとっては、その時の真実”、これは霊的成長度の高低における“真実”の相違という言い方もできるし、そこに程度の差も観察しうるものであるが、個の心(靈)が何を求めるべきか、であり、個の心(靈)には霊的成長度の高低があるからこそ、“上”から“下”への観方によっては“愛”も“善”も“真”も“美”も、“悪”と“憎”と“偽”と“醜”となり得る、それを“真実が益々単にして”の“単”(ひとえ、単純なもの)と示されているが、それも霊的成長度の高低において“真実”を求める過程であり、個の心(靈)が育ち先の“個の弥栄は、全体の弥栄”となっていく過程に必須であるし、それを“真実が益々単にして”この霊的成長度の低い過程を経て“益々充実”、“全体の弥栄”となり、それはさらに“円通する”と称され、円通は、真理があまねく行き渡っているさま、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

されば、 
ローレンツ力と ○ の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。 これが、大歓喜そのものであって、神は、この ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである。 一物の中の ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。 生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。 

 冒頭の“されば”は先回の“円通する”にかかり、これに続く
“ 
ローレンツ力と ○ の中の ローレンツ力 の中なる ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 の中なる一切万象”
これは第二帖“その三”の
“ 
ローレンツ力 については一なるも、○ に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する”
この解釈が理解できているなら、文言中の“一切万象”=一切の事象、全体、“生命”事象の実相、これの霊的成長度という視点においての“上”から“下”、もうひとつ“分類”と“形式”としてのマクロからミクロ、極大から極小と“観察と認識”しうるもの、さらに第二帖の表記の
“極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される”
この“極内世界、中間世界、極外世界”これら一切が“の中の”と“の中なる”という表記において、同じく第二帖の表記の“無限段階”であると読み取れる。 ちなみに“無限段階”の表記は以下の文言に登場する。
“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している”
 そして“上”から“下”、マクロからミクロ、“極内世界、中間世界、極外世界”、これら自体が“無限段階”の“一切万象”であり、その“分類”“形式”にかかわらず“一切万象”は必ず電荷を有しているからこそ“上”からの振動を取り込むローレンツ力 
ローレンツ力 があり、その仕組みそのものが生命と言いうるし、また、相対的に“上”の振動をローレンツ力で取り込むこと事態が生命であると言いうる。
そしてその仕組み自体、ローレンツ力により“上”からの振動を取り込んで“一切万象”がなり立つのであるからこそ、それは、相似象、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを、“ 
ローレンツ力と ○ の中のローレンツ力   の中なるローレンツ力と ○   のローレンツ力  の中なる”ローレンツ力ローレンツ力  と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であると、この文言で述べていると気付くことが出来得る。

 これに続く
“万物中の最も空にして無なるものの実態である”
これは先の仕組みを指す文言であり、お前たち“地上人”の段階における“観察と認識”では“最も空にして無なるもの”としか認識しえない、しかしその仕組み自体が“一切万象”における生命の仕組みの“実態”であるという言い回し。

 これに続く
“これが、大歓喜そのものであって、神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである”
ローレンツ力で取り込む振動、人間は電磁波を利用して情報を送ったり受け取ったりする仕組みを利用する段階に至ったが、そんな小さな事象ではなく、このことは“一切万象”に共通であり、神の思惑は“上”から“下”に反映するという文言が“神は、この
ローレンツ力   に弥栄し給える”であるし、それがまた神自体における“観察と認識”という行為になるという意味合いが“故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得る”であり、さらにこれ自体が“大歓喜”神は愛(炁)であり歓びであるということを指す。
 少々余談になるが、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の到達点は“大歓喜”であり、さらに“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”事態が“創造”の“主(ヌシ)”にとっての“大歓喜”であり、その“創造”における被造物も一切の事象において“うれしうれし”“大歓喜”になるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の最終段階と言いうるものである。

 これに続く
“始めなき始めの 
ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである”
これは“地上人”の“観察と認識”における時間の経過を指す文言であり、さらに、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の始め=“始めなき始め”、これと“一切万象”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の到達点である“大歓喜”=“終りなき終り”、その進化の様相というか“地上人”的な“観察と認識”で観るならば“ 
渦巻き 左回転 ”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みの日足(ひたり)回転であるし、この日足(ひたり)回転そのものが神の思惑を取り込むことと、“上”である神の思惑を“下”である取り込んだ生命に、“上”である神が反映することに相当する、これを生命(生きる使命=存在理由)の進化の仕組みであるローレンツ力、この中に神の思惑があるの意を“始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故”と称され、これに続く“○ の外の無にいまし、中間に位する力の渦巻き 左回転   の中に生命し給う”、この文中の“○”は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、生命であり、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が日足(ひたり)回転“渦巻き 左回転  ”であり、その中に神の思惑、神の“観察と認識”が行為する、の意が“中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給う”と称されている。

 これに続く
“一物の中の 
ローレンツ力 なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない”
これは個の心(靈)が“観察と認識”して“分類”“形式”とした“一物”、それは先の“無限段階”の度の段階においても“一物”であり、それはローレンツ力による振動の取り込み、その仕組み、これを“万象万物であることを知覚しなければならない”と、“地上人”向けの言い回しがされているものである。

 これに続く
“生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである”
この文言は“地上人”の“生前”と“死後”についてではあるが、そこに“様相”が観察され得るのは“生前”と“死後”の間に“上”からの振動を取り込んで進化(霊的成長、神格化に向かうこと)している=“様相として弥栄ゆる”のだ、そしてそれはお前たちより“下”に息吹いてもいる=“呼吸するが故に死後の呼吸とつづき”であり、こういったことが“無限段階”における“上”から“下”までの進化の仕組みであり、さらに進化の仕組みの“様相”であり、そこに神の思惑は反映し、“上”から“下”までの“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、これら一切と、さらにお前たち“地上人”の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)にも反映しているのだ、と述べられている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地震の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その六”



 今回も、地震の巻 第三帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。 歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。 世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。 天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。 呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。 天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

 冒頭の文。
“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”

 これは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”、それは文中の“神が生み、神より出て”であるし、さらに先回取り上げた
“これが、大歓喜そのものであって、神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給えるが故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。 始めなき始めの ローレンツ力 の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの○ の外の無にいまし、中間に位する力の 渦巻き 左回転 の中に生命し給うのである”
これの“神は、この 
ローレンツ力 に弥栄し給える”そして“故に、最外部の ○ の外にも弥栄し給う”と同義であり、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はローレンツ力 によるものであり、その仕組みと、先回の“一切万象”と“創造”の“主(ヌシ)”と被造物は、フラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということ=“神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”、これを強調して述べている文言である。 
 なお以前にも述べたことがあるが、“地上人”の低い認識の上でのフラクタル(fractal)は外側(外国と幽界)の事象にしか見出していないものであり、心(靈)そのものが神とフラクタル(fractal)であるということを付け加えておく。

 次の文。
“歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである”

 これも“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”、これに対する被造物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを述べており、“創造”の“主(ヌシ)”をお前たち“地上人”が“観察と認識”するならば“親”“根元”であり、ことに“根元に通ずる”は、神と認識を共有する、それは進化した動物である人間の心(靈)は先のフラクタル(fractal)、神に近くなるものであるし、そしてそれは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の強化の意味合いをも、含んでいる。 またこれこそが“日月神示”表記の“天詞様”の意味合いである。

 次の文。
“世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。 何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。 地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない”

 文中の
“世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活”
“地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤り”
“社会生活の中に行ずることが、天国への歩みである”
一部の既成宗教にあるように聖職者は独身でなければならない、これを貫き通してたった今は同性愛者がはびこっている、こういったことが現状であるようだが同性愛は日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の劣化につながるので進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の逆光であることを述べておく。
それで、先に述べた通り、心(靈)が神とフラクタル(fractal)であるからこそ、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という心(靈)の動き、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して神に近付いたとしても、“上”から“下”の心(靈)の動きは消失しない、ただ一番低い本能にしても、情動や功名心も、自我も、智性(神性)があってこそのそれになり、智性(神性)無き心の本能や情動や(低い)功名心や自我の肥大、これらの行使所以の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする者は、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、低い心(靈)を自分で律することをしなければ神に認められないことは○○○大先生の著書を読むと理解できるものであるし、この智性(神性)ゆえの心(靈)の動きを“社会生活の中に行ずることが、天国への歩み”この“行ずる”と称されており、自分たちがこの事象を“天国”にするには、自分の低い心(靈)を智性(神性)で律することをする、そういった肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)となるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)の器である肉体において先の本能や情動や(低い)功名心や自我の肥大を律して諌めていくならそれは智性(神性)の行使に繋がり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するから自分も進化し、自分に憑いている悪霊も諌められ(“本津宮”(もとつみや)へ帰れ=本来の自分の在りようを鑑みよ=自省(胸の磁性“十”)せよ)(また肉体が形代(かたしろ)と同義である)、自分の霊的成長を見守っている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)も同時に感応の影響を受けて進化するからこそ“何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっている”と称されている。 またこれは第二帖の“神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない”、これを詳細に説明している文言でもある。

 次の文。
“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。 因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。 その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。 呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。 故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない”

 文中の“天国”と“地獄”、“光明”と“暗黒”、これは個の心(靈)が“観察と認識”して“分類”と“形式”とした結果であるが、それは相対的なものであるのだ、の意を
“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である”
と称されている。 
 さらにそれは“一切万象”の内にある、先の“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”ものだからこそ“因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て”と述べられ、その関係性について“一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする”と称されているが、これを“呼が吸となりゆく道程”と称し、これが“一切万象”の進化、“弥栄”であり、結果として“歓喜は更に歓喜を生ず”、これを説明した言い回しが
“呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる”、
これ自体が“神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われである”、“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、当然のことながら個の心(靈)である自分を含めて、こういったものであるのだ、それを“知らねばならない”、お前たちの知らないことだが今後=アセンション後に向けて理解しておかねばならない必須の概念なのだ、ということである。

 次の文。
“天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。 何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。 この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである。 また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである”
 
 冒頭の“天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある”これは、第二帖の“天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している”と意味合いは同じ。
そこにおいて“何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって”、これは先の“天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。 地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である”これにより“因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず”となり“一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする”それ故のことでもあり、“その二”で取りあげた“個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である”、これと併せて考えると理解しやすい。
 そして“如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである”、これに続く“この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。 地獄は本来ないのである”、この文中の“平衡”、“悪”“偽”“醜”と“観察と認識”している個の心(靈)自体が、“悪”“偽”“醜”それそのものではない、あくまでも“観察と認識”において、“一切万象”を“分類”と“形式”した上のことであり、それはまた第二帖の
“善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり…以下略…”
ではあるが、今取り上げた第二帖の文言にも記されている通り、“一切万象”それ自体は“歓喜である”し、この文言では
“この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。 只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである”、
“一切万象”、全体、“生命”事象の実相、自分を含め、すべて神の内、先の“神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる”でもあり、“観察と認識”においての“分類”と“形式”は認識しうるが、一切が神、すべてが神、自分を含めて何もかもが神、それを“平衡の上におかれた場合”、こういった認識を持ち、すべてが“只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみ”、またこれは第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである”
これと併せて読むと理解しやすい筈である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第四帖の解釈に入ることとする。 第四帖の原文は以下の通り。

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。 生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。 生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している。 生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。 またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。 総ては 
ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである。 ローレンツ力   と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合もローレンツ力   は ローレンツ力 であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして  ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない。 歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中にローレンツ力と ○   を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる。 生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。 されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである。

 今回解釈するのは
“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。 生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”
ここまでとする。

 上記文言には、ローム太霊が述べた“類魂”と“霊団”、これと共通の要綱があり、これに関してはローム太霊講話集から以下に引用するが、第四帖の文言全体の解釈をするにあたってもこの概念が必須であることを前もって述べておく。

第九話 死の前後 殺人の場合
この執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる…中略…その者の手にかかるか 公(おおやけ)の裁(さば)きによるかして殺される相手の霊は、必ず自分が前に殺した者の霊と一団となってそこに再び二つの魂の争いが続けられる…中略…それらの魂は凡て同じ系統を引いた類(るい)魂(こん)によって、憎悪の霊団に入いりその一員となる仕組み…以下略…
一つの覚悟(さとり)を常に心に思い浮かべ、主護神、主護霊の導きの下に大きな御光(みひかり)の中の霊団、憎悪ではなく燃える太陽のような愛の霊団の一員となり、死に際しては凡てのことを後輩に委ね、自分は幽界から霊界への神の道一筋に進むよう心掛ければよい

第十話 死の前後 天災、戦争による集団死の場合
一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う…中略…戦敗国の戦死者の霊団は固より…中略…相手国の首脳や国民を永遠に恨む…中略…戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続ける…中略…そこで高級な神霊達は協力して、それらの霊を集団的に幽界の特別な場所に連れて行き、その浄化向上を…以下略…

第十一話 死後の種々相 正常死の場合
自分の犯した欺瞞は生きている間に発表して世の人に批判を受けるべき…中略…反対に、常に善いことをしていながら、世間からどんなに偽善者呼ばわりされようとも、確固たる信念をもって自分に偽るところなければ、それでよい…中略…これらのことが幽体の進む方向の霊団に入いる元となる…中略…汝等は自らを欺いてはならないと同時に、自分の存在は何万年もの前から続いている先祖の現在での現われであるから、自らを欺くことは先祖を欺くことになる
同じ波動を持つ類似の霊団へと導かれて行くものと思えばよい

第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合
生前一つの宗教に凝っていた場合は、その野原に来ると迎いに集まった類魂の連中がその者を取り巻いて自分達の広場に連れて行き、そこでその宗教の戒律に従ってその幽体が完全に形成されるようにするのであるから、宗教というものも中々よく出来ている。それと同じように、凡てのものを通じてその一番奥を研究している心霊とか密教とか秘密結社の特殊な団体とかでは、その自悔の原でその者が完全な幽体として立派に独り立ちが出来るようになるまで見守ってから自分達の城郭に連れて行き、そこで霊団の一員としての新しい使命を授けて、その道に従い修行をさせることになる

引用終わり。

 冒頭の文。
“同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ”

 文中の“同気同類”は先の“類魂”“霊団”に相当する、そしてそれは“同一の情態” (情態は心(靈)のありさまの意)であり、“同じ所に”は、“無限段階”である場(フィールド)の特定の位相と解し、その特定の位相に位置する理由と根拠たることは、心(靈)の動きと霊的成長度が近いからであると解するし、これに続く“和し、弥栄え”は、霊的成長度の近いもの同士の寄り集まり、これは霊が荷電粒子の回転であることを鑑みれば、霊自体にも磁束が発現し、それはローレンツ力となり“上”からの振動を取り込むものであるから、一人の靈よりも近いもの同士が寄り集まり集団(霊団)となり、その“情態”が同じように息吹くならば、ローレンツ力も人数分、あるいはそれ以上に強力になることが考えられる。 これに続く“然らざるものは”(そうでない、そのようではない、の意)は、“類魂”でも“霊団”を構成するものではないから、“その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる”と述べられ、違う霊的成長度、違う“情態”ならば、別々に“弥栄え”となり、これに続く“同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ”は“類魂”と“霊団”のことである。 

 次の文。
“生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる”

 文中の“生前の世界は、地上人の世界の原因”、これは第一帖の
“生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
これと併せて読むと理解しやすいが、大概の“地上人”の認識においては、地上での生活しか視野にないので、“生前、生後、死後は一連の存在”などと考えることが出来得ないものである。 この文は“生前の世界”から“地上人の世界”に影響を与え、その影響自体が“主体”なのだ、そしてそれは“地上人”の“死後”においても“通ずる”のだと述べている。
 その意としては、第一帖の文言の解釈を以下にコピペしておく。

“地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく”
これが“地上人”ではあるが、実相は
“しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ”
これが先の
“一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”
また
“総て永遠の生命”“弥栄”“存在は生命であり、生れつつあるもの”
ということを知れ、であり、先の“生前、生後、死後”も“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すこと”そして“地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”これら一切が“存在以外の何ものもない”であり“存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである”ということを知れ、に関して
“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
この“何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない”、これは先の“地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない”であり、これに相対し事象の実相の説明として
“必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”
お前たち“地上人”が思うこと以前に“その前なるものによって”、生命はこういうものなのだ、と定められ、それは“呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する”ものなのだ、そしてそれは“地上人”から観たならば“無なる”と認識するだろうが“総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する”、これが“生命”であり、事象の実相であるということを示している。


 この““生命”であり、事象の実相である”ということを理解しておけ、でもあり、“生前、生後、死後”においても“一連の存在”と称されているのは、先の“類魂”と“霊団”所以の目的があってこそ、お前たち“地上人”においては、どんな心(靈)であっても、また、それぞれの個の心(靈)においても“生前、生後、死後”という過程があるのだということを知れ、である。

 次の文。
“同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる”

 これは“類魂”と“霊団”、同じ“情態”、そして“上”“下”はあったとしても、霊的成長度が近い“霊人”の集まりのことを述べ、そこにおいては“地上人”とは違い“且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる”、この集団を構成する心(靈)対心(靈)においては、“同気”=同じような“情態”、“同一線上”=同じような霊的成長度、ならば、こういったものなのだ、と述べられている。

 次の文。
“生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”

 先の“同気同一線上にいる霊人たち”を“かかる霊人”と称し“肉体人として生れ出でた場合の多く”においては、“同気”であるから“同一の思想系をもつ”と述べられ、これに関してはあえて解釈することでもなかった感があるが、大事なのはこれに続く“但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる”
この“時間と空間に制限されるが故”“相会し、相語られざる場合も生じてくる”、これはこの後の文言の“部分的には相違し、同一のものは一つとしてない”あるいは“生前の生活と同様のことを繰り返すこともある”ということを説明している文言であり、“同気同一線上にいる霊人たち”“根本的容貌は非常に似ている”であっても“肉体人として生まれ出た場合”は、“部分的には相違し”“同一のものは一つとしてない”ということになり、これは多様性であり、またこういったこと事態が神に近付くことである、それはまた“生前、生後、死後”において同じことの繰り返しをしているならば“弥栄え”ではないし、ことに“時間と空間に制限される”“地上人”の過程においては、その“制限”ゆえに模索もある、間違えたりもする(これは右往左往と左往右往の意味合いでもある)、そして人生の在り方(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を見出そうとするものである。
それは“生前、生後、死後”において、この過程が大事だからこそ“生後”=“地上人”として生まれるのだ、であり、それはまた“存在の意義”でもあり、先の、“制限”ゆえに模索もある、間違えたりもする、これがあるからこそ“真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくる”と言われている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している。 生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。 

 今回取り上げる文言も、先回に引用したローム太霊講話集の“類魂”と“霊団”の理解があれば解釈はしやすい。

 冒頭の文。
“生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している”

 この文言は先回取り上げた“同気同一線上にいる霊人たち”の説明であり、その“霊人”の心(靈)の動きは“自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われ”と説かれているし、“自分自身のもつ内の情動”に対し“反する顔面をもつことは許されない”、そしてそれは“一時的に満たすことはできても、長くは続かない”と述べられている。 
これは、その“同気同一線上にいる霊人たち”、“類魂”と“霊団”が、何を目的としているのか、何を目的として集まったか、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“同気同一線上”であるのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるということの説明であり、それは“地上人”においても、換言すれば“霊人”が先回の表記の“肉体人”となっても、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“同気同一線上”に近い=“この情態の原理は、地上人にも、反影している”ではあるが、先回取り上げた文言にあるように“その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない”のである。

 次の文。
“生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである”

 これは“類魂”と“霊団”のことであり、“生前の世界”において、“同気同一線上の霊人たち”が“肉体人”“地上人”となることをここまでの第四帖で述べられているし、“生前の世界”は“類魂”による“霊団”で構成されているのだと読み取ることもできうる。  
それはここで述べられている
“同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい”
“各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている”
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている”
“若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない”
これらすべて“類魂”による“霊団”ゆえのことであり、ことに重要なのは
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め”
これは
“惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっている”
この“惟神”(かんながら)の表記はこれまでの“日月神示”に幾たびか登場しており、“役員づら”の神主が述べている概念、「神でおわしますまま、神の御心のまま」というあいまいな表現よりも、自らが霊的成長して“上”と感応する智性(神性)を獲得し、それを心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす、常に“上”と感応している、という言い回しが正鵠であると断言するが、“類魂”による“霊団”=“集団の中心”においては、“最も神に近い霊人が座を占め”=最も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を有した者が“座を占め”そして“惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっている”、その“集団”における強化された息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とローレンツ力により、“上”からの振動を取り込む=“歓喜によって”=神の思惑によって、その“集団”自体が“自ら定まっている”のだと解することが出来る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。 総ては
ローレンツ力と ○   の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである。  ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合もローレンツ力   はローレンツ力   であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして  ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない。 

 冒頭の文。
“またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない”

文中の“集団”の表記は、先回と先々回で取りあげた“同気同一線上にいる霊人たち”であり“類魂”による“霊団”のこと、またそれはそれぞれの“集団”の“情態”による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が違う、そして霊的成長度にも相違があるからこそ“集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない”と述べられており、これはまた“集団”を構成している個の心(靈)がもつ振動の相違と言えるし、“集団と集団との交流は…中略…自由ではない”、これ自体が振動の法則性でもある。
それはさておき、“地上人の如く自由”、この文言を読んで“地上人”の世界は、霊的成長度と“情態”による息吹に相違があっても交流出来得るのだ、それは○○○大先生が著書で述べた“玉石混交(淆)”、程度の高いものも程度の低いものも同じ場(フィールド)に位置しているのだ、程度の高いものは程度の低いものに対し高いことを示しそれ自体が“理(ミチ)”を示すことにもなり得る、そういった影響を与えうるのだ、ということまで気付くべきである。

 これに続く次の文。
“総ては 
ローレンツ力と ○ の ローレンツ力 を中心として ローレンツ力と ○ の姿を形成しているのである”

 これは個の心(靈)のことではなく、先の“集団”、“類魂”による“霊団”のことであり、先回解釈したように、“集団”における強化された息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とローレンツ力
ローレンツ力 により、“上”からの振動を取り込んで“集団”自体が“弥栄”していく様を述べており、それはこの文言の最初の“ローレンツ力と ○”は集団を指し、その集団によるローレンツ力を“ ローレンツ力 ”で示し、次の“ローレンツ力と ○ ”は“集団”によるローレンツ力で上からの振動を取り込んで“集団”として“姿を形成している”ことを示している、それは先回の
“各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである”
これを言い換えた言い回しである。

 次の文。
“ 
ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。 しかし、この場合も ローレンツ力 は ローレンツ力 であり○ は○ である。 これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである”

 この文の前半は先の“集団”の詳細な説明であり、この文におけるローレンツ力 
ローレンツ力 は“集団”と、それを構成する個の心(靈)における“同気同一線上”の息吹、それによる“上”からの振動の取り込みのことを指す。
それで、その振動の取り込み、“集団”の息吹による“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“上”からの振動すべてではないことに気付くべきであり、“集団”を構成する個の心(靈)すべてが同じ振動しか取り込んでいないならば、それは多様性とはならない、個の心(靈)の個性とはなり得ない、そのことを
“ 
ローレンツ力 と○ とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではある”
と称されており、“集団”を構成する霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がその“集団”において進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していき、ある段階に入ったならば
“或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる”
となり、それまでとは違う進化に入ると説明され、“集団”を構成する個の心(靈)が、その“集団”で取り込む振動と違う振動を取り込む、それを“分離”と称されている。 
 これに続く“しかし、この場合も
ローレンツ力   は ローレンツ力 であり○ は○ である”は、個の心(靈)の構成、そして個の心(靈)の集まりである“集団”、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はローレンツ力による“上”からの振動の取り込みであり、その振動との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により、“上”の思惑、“歓喜”と称してもよいと思うが、それが反映するのが心(靈)=○、そして心(靈)の集まりである“集団”=○、であるということ。
 重要なのはこれに続く
“これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである”
であり、“生前”と“地上の世界”には相違があり、個の心(靈)の個性、多様性、これを高める=“その分離、乱用の度が更に加わって”これが起きるのが“地上世界”なのだ、というのがこの文の要旨である。
 この文の解釈、これに近い内容は第四帖の以下の表記があり、それぞれの解釈も参考にされたい。
“その二”
“生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している”
“その一”
“生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである”

 これに続く次の文。
“悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして 
ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない。 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”

 冒頭の“悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである”は、先の“地上世界の行為に移りたる場合”であり“真偽混乱に及ぶもの”、この“真偽”の“混乱”は、“地上人”ゆえの自我の肥大によることだと思え、その自我の肥大は“生前界”には強く反映しない、反映しえないから“集団”を構成しうると解するものである。
 その“地上世界”に相対して“生前界”の“悪”ということが説かれているが、これは“地上人”が“地上世界”で行うそれとは違い、“御用”であると称されている。 その意は、“生前界”の“御用の悪”は、“地上世界”の個の心(靈)に、何が“善(神格化の方向性と智性の受信)”か何が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、その指標たることを“集団”が、息吹いているものと解しその“生前界”の“御用の悪”は“地上世界”の“悪”とは違うのだ、それを
“生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。 この場合の悪は、悪にあらずして 
ローレンツ力と ○ の ○ であることを知らねばならない”
と称され、ことに“  
ローレンツ力と ○ の ○ であること”の表記は、“上”からの振動をローレンツ力で取り込んだ心(靈)=○が行っているのだ、重複するがそれは“御用”、他者、自分以外の個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためのことなのだ、ということであるし、これに続く“即ち、道を乱すが故である”は、“地上世界”の個の心(靈)にたくさんの種類の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をさせる、個性、多様性、の獲得のため、“生前界”の“集団”のような、一様な振動の取り込みではなく、様々な事を思わせ、自我由来の欲望の達成もさせそのためにエネルギーを購わさせること事態が“地上世界”におけるこの心(靈)の進化に結び付くのだということであるし、“生前界”の“集団”が、その“集団”の種類における息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をしている、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもあり、“御用の悪”でもあり、このこと事態が“地上人”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、先の個性と多様性の獲得に結び付くのだの意が示されているのが、“地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される”
である。
 そして“地上人の悪人にも善人”にも、何を考え何を為すか、いわゆる“思惑の顕現”をして現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”をしていき、成長をしていく、その過程を“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する”、程度の低い愛(炁)から“慈悲”と“慈愛”、そして“真”=“ほんとう”を求め顕現すること事態が、愛(炁)の度数(アミ 小さな宇宙人シリーズにおける表記)の高まりとなり、自己奉仕者から奉仕者(テオドールから地球へ における表記)になり、これ自体が“地上世界”に位置する個の心(靈)の進化であるが、なぜこれを行うのか、そのために“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を体験しなければならないのか、なぜ右往左往と左往右往を繰り返すのか、それは神が愛であり、“歓喜”であり、神に近付くこと事態が自分の心(靈)が歓びしかないという状態になる、そのため沢山の体験をして苦しんだり歓んだりするのが個の心(靈)の成長に必須である、という、常々○○○大先生が考えていることを示唆する文言が
“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”
であり、個の心(靈)である自分や他者が“観察と認識”する(自分を含めての)“一切万象”は、自分たちが神に近付くためにあり、神に近付くこと事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、その具体的な事が“愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する”であり、その過程における個の心(靈)の息吹が“上”からの振動を取り込む=“根底力をなすは歓喜”であり、最後の“歓喜なき所に真実の愛はない”は、神があるからこそ“真実”と“愛”がある、個の心(靈)が“真実”と“愛”を認識しうる理由と根拠は、神が実在する

“その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない”
ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 
ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる。 生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。 

 文節の区切りが中途半端であるが、まず冒頭の文。
“歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。 その歓喜の中に、また歓喜があり”

 文中の“歓喜”に関してはここまで解釈してきたので述べないが、冒頭の“歓喜の愛”とこれに相対する“歓喜なき愛”、これに対し“愛の善”そして“愛の悪”という言い回しに何を見出すべきか、当然のことながらこれは“地上人”に対して言われていることでもあり、お前たちは“上”からの振動を取り込み自分の在り方を鑑みながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではない高い愛(炁)を行使していく、そうするならばそれは“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのだ、であり、“上”からの振動を取り込んでいない、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しながら愛(炁)を行使するならばそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのだということでしかない。 これは○○○大先生の著書の<4>以降をしっかり読んだ人ならすぐ理解しうる文言であると思える。
 そして“歓喜の中に、また歓喜があり”というのは、“上”からの振動=神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“歓喜”を取り込んでいる個の心(靈)、個の心(靈)がその振動の取り込むこと自体が個の心(靈)にとっての“歓喜”と言え、重複するが“上”からの振動そのものが神の思惑であり神の智慧であるからこそこれも“歓喜”である。 
それは、お前たちの心(靈)は“上”からの振動=“歓喜”の取り込みで成り立っているのだ、またその振動そのものに神の“観察と認識”があるものであり、その神の振動そのものも生命であり、意志あるものであり、“観察と認識”をお前たちの心(靈)の中で行っているものであるがそれも歓喜なのだの意であり、心(靈)の成り立ちに関してはこのブログで幾度となく使ってきた以下の画像どおりである。
“メグリ”(帀)の解字 


雨の象形文字 解字 
靈の解字 
靈(心)の解字 

 また、お前たちの“歓喜”は、お前たちの霊的成長度により取り込める振動、それは“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の過程があるから高低があるのだけれど、その高低に関わらず“上”からの振動は“歓喜”そのものと形容しうるのだ、である。 

 それでこれに続く
“真があり、真の真と顕われ”
というのは、今述べた霊的成長度の高低による“上”からの振動の取り込みにより、お前たちが“観察と認識”しているこの事象に対し“真”を如何に顕現しうるか、程度の低い段階においての“真”は“真があり”程度のことであり、お前たちが霊的成長を果たして“上”に向かっていくならば“真の真と顕われ”と称されるくらいになる、“上”から観たらそう観えるくらいになるが、それを程度の低い霊的成長度である“地上人”は目指すべく生きよ、そう読み取るべきである。

 そしてこれに続く
“ 
ローレンツ力と ○ となり、 ローレンツ力 と集約され、その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ、更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”
最初の“ 
ローレンツ力と ○ ”は“上”からの振動を取り込みながら進化していく個の心(靈)であり、個の心(靈)の進化はさらに“上”からの振動の高いものを取り込んでいくようになる

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によりローレンツ力も変容し

“ 
ローレンツ力 と集約され”、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は高いものに変容する、その意であり、これに続く“その集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)してローレンツ力が変容してより高い振動を取り込むその段階において、個の心(靈)=“集約の ローレンツ力 の中に ローレンツ力と ○ を生じ”ていくものであるの意、そして“更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”は先の“上”からの振動、神の息吹、そして神の思惑、神による“観察と認識”、これが個の心(靈)に反映することを指す文言であり、これは“真があり、真の真と顕われ”の“真の真”、個の心(靈)が進化しながら顕現する“真”は、神の思惑、この顕現と同義であるし、それを取り込むローレンツ力をも指した文言が、重複するが“更に尚 ローレンツ力 と弥栄ゆる”である。

 これに続く
“生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である”
お前たち“地上人”の“観察と認識”では“生前”から“地上世界”から“死後の世界”という区切り(“分類”と“形式”)とするであろうが、神は“一切万象”であり、“生命”事象の実相、そのものであるといえ、そこにおいて
“一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである”、
お前たちの区切りなど関係なく“一貫せる大神の大歓喜の流れ”であるのだ、そして神は個の心(靈)の中で“観察と認識”をして“弥栄える”、よって
“大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり”そして神自体も“完成より大完成へ向い進む”のであり、その過程における神の息吹をさらにこの心(靈)が受け取るものであるが、この神の息吹を“完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸”、息吹=“大歓喜の呼吸”と称している。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第四帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである。

 冒頭の文。
“されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる”

 文中の“されど、地上人に於て”そして“地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ”は、先回の“生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである”にかかる文言で、“地上世界”の“地上人”は“一貫せる大神の大歓喜の流れ”に沿っていない、沿えない、またそれは“地上人としての尊きかなしさが生じてくる”と称され、それは“其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなる”であり、これには理由と根拠があることをこの後の文言で説いている。

 次の文。
“霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである”

 この文言で大事なのは“悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない”そして“悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許され”、これは“地上人”の“光栄ある大使命”であり、これがあるからこそ“何故ならば、それがあるために弥栄し、進展する”と称されている。
 この“地上人の光栄ある大使命”が“霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない”、これに“地上人”が該当しない、先の“一貫せる大神の大歓喜の流れ”に沿っていない、沿えない、またそれは“地上人としての尊きかなしさが生じてくる”と称され、それは“其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなる”、こうだからこそ“悪を御用の悪として育て”ているのであるし、それは“一切万象”の“弥栄”、進化につながることであり、“必要悪、必要偽”は、“善”と“真”の相対的、“二義的”なことであり、“善”“悪”そして“真”“偽”があるからこそ、“地上人”であろうが“霊人”であろうが、“一切万象”の進化=“弥栄”になると説かれているのである。

 次の文。
“悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。 霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである”

 先の“御用の悪”があるからこそ“一切万象”は“弥栄”するのだということが理解できていれば“悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである”の文言の意味合いはすぐ理解できる。 そしてこれに続く“霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである”は“地上人”と“霊人”それぞれの関係性を説いた文言であり、これに続く“霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである”も“地上人”と“霊人”の関係性、そして“地上人”“霊人”と“神”、“一切万象”の関係性を示した文言で、“霊”だけ、あるいは“地上人”だけ、あるいは“神”だけ、では、“一切万象”は“弥栄”しえない、それぞれの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=“成長”それぞれの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“呼吸”、これが“全体”“一切万象”の“弥栄”であり、これ自体が人間の低い情動などでは想像しえない“歓喜”であり、これをわれわれ“地上人”と“霊人”が“観察と認識”したならば“神と現われ給う”、“一切万象”、自分たちの“弥栄”に“神”を見出せる、という文言である。 
これに続く“霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである”、“地上人”は肉体を持った“地上人”を生む、という当たり前のことに相対した文言ではなく、“一切万象”の“弥栄”がある、先の“地上人”の“御用の悪”も含め“一切万象”の“弥栄”もあるからこそ、“霊人”の“子”は“歓喜”なのである、という意味合いの文言であり、これも“全体”“一切万象”の“弥栄”の一端と言いうることなのだ、である。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第五帖の解釈に入ることとする。 第五帖の原文は以下の通り。

全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。 過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。 故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。 部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる。 本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。 悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。 故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。 善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。 生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。 生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。 生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。 悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。 何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。 地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。 これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。 しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである。 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である。 生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては○ である。 ○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、ローレンツ力   と集約される。 故に、これらの総ては無にして有である。 人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。 故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。 悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。 歓喜に審判なく、神に戒律はない。 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。 このことは神自らを切断することである。 裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。 行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。 生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。  ローレンツ力と ○ は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。 これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。 生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。 地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。 地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。 しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

 今回解釈するのは
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。 故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。 過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。 故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。 部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる”
ここまでとする。

 ここまでの地震の巻で述べられていたこと、自分たちを含め“一切万象”“全体”、それは“生命”事象の実相、であり、それを個々の心(靈)が“観察と認識”して“形式”“分類”としている、このことが理解できているなら
“全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである”
この意味は解る。
そして、自分を含めた一切が神、その神の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を自分の心(靈)の中にローレンツ力 
ローレンツ力 で取り込んで存在しているのが自分たちであり、またそれはそれぞれ個々の心(靈)に神が存在しうるカタチであるということを解っていたなら
“故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である”、
これは“一切万象”“全体”がフラクタル(fractal)(自己相似性、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であるということを述べていることに気付けるはずであるし、“一切万象”“全体”の元が、神であり=“神そのものの現われの一部”、その顕現が、個の心(靈)、個々の生命であったり、“形式”“分類”され得るそれぞれの事象であることが理解できる。
 これに続く“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
これは個の心(靈)の中で“弥栄”し続ける神、“神性”と称してもよいが、これが一切の生命に共通である“観察と認識”という行為そのものであり、その個の心(靈)の中の“観察と認識”の中では“現在”と言え、その認識においては“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在”しうるのだということ。 
これに続く“生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
これは個の心(靈)の中にある認識の“生前も死後の世界も”、これらを含め先に述べたように一切が神である、“生前”“死後”という認識は個々の心(靈)の中にあるのであり、“地上人”と“霊界人”の区別なく、それら個々の心(靈)の“神性”はあり、それがまた神の存在であり、そこで息吹くことをして“弥栄”しているのだの意が
“過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している”
この文言から読み取れるものである。
 これに続く
“故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている”
これは個々の心(靈)の“観察と認識”が“分類”“形式”をするからこそ“一切万象”“全体”、“生命”事象の実相は、“弥栄”する、それは第一帖の
“われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある”
この文言を思い起こさせるものである。
 これに続く
“部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。 故に、歓喜が生ずる”
これはここまで述べたことを総括している言い回し、“一切万象”“全体”これを個々の心(靈)が“観察と認識”して“分類”“形式”として“雑多”になるが、それが“全体”であり、その“雑多”ゆえ、そして先の第一帖の“われわれの一切は生れつつある”であるから、“全体は存在し、力し、弥栄し、変化する”のであり、それがまた“歓喜が生ずる”これは神そのものの“弥栄”であるの意、である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その二”



  今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。 悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。 故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。 善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。

 今回取り上げた文言は、第一帖の“二義的”ということの意味が理解できていないと読み解けない(二義的 根本的でない 主眼の意義でないの意)。
 それと、先回取り上げた第五帖の文言では、自分たちを含めた“一切万象”“全体”、それは“生命”事象の実相、であることを述べていたが。それを個々の心(靈)が“観察と認識”して“形式”“分類”としている、それが“二義的”である“善”と“悪”、“真”と“偽”であり、今回取り上げている文言では“有”と“影”という言い表わし方をしている。 
 これは個々の心(靈)の中における認識の問題ということと、もう一つ、“善”と“悪”、“真”と“偽”という“分類”と“形式”は“地上人”と“霊人”、いわゆる個の心(靈)を他者である個の心(靈)が“観察と認識”した際に観られ得る、認識とするものであるが、これを進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性、地震の巻の表記の“弥栄”を自分=個の心(靈)が理解し、進化の指標とせよ、という意味合いである。

 これらのことを踏まえ本文の解釈に入る。
“本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。 故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。 影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。 悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない”

 これは“二義的”なことではない、“本質的”という表記が使われていることに気付くべきであり、有るものとその影、影は、そこに有るものに“本質的”には“働き得ない”と言われているし、“本質的”に“有”と認識しうる対象は“善”“真”であるのだ、という言い回しである。

 次の文。
“悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。 善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている”

 冒頭の“悪は”“総てを自らつくり得、生み得る”“ものと信じている”、この“影”である“悪”を人格化させたような言い回しは、個の心(靈)の中に“分類”と“形式”として存在しうる“悪”であり、さらにそれは自我の特性を言っていると解する。 
それは、自我という心(靈)の発現だけでは人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しえないものであり、自我より“上”の心(靈)、自我を諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”と智性(神性)と“力”としての知恵の行使の意味合いの智慧と創造、という要素が無ければならず、この要素が無いならば“悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている”、これは“信じている”というよりも、思い込んでいる、という表記が妥当であると思えるが、これくらいのことは文章を読んで“ほんとう”を察する能力をお前たちが身に付けよ、という“上”の配慮(試し)だと解する。 
少々蛇足だったが、これに続く“善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている”、これも個の心(靈)の中にある“善”、これは神が存在しうるが故の理(ことわり)であるという認識を個々の心(靈)が持っているからこう思うのだ、という言い回しであり、その認識自体に対して、実はそうではなく、“上”からの振動を取り込み進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すること事態が“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるが、“善”事態は神が決めた理(ことわり)ということではなく、“善”を認識した個の心(靈)が“創造”し構築して顕現していくものなのだ、という意味合いの文言であると解する。

 これに続く次の文。
“故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない”

 これは先の“本質的”そして“有”である“善”に相対した言い回し、“悪”には“本来の力はなく”、と称されているが、これは“悪”が“弥栄”し得ない、進化に結び付かない、“大歓喜”ではない、の意味合い。

 これに続く次の文。
“善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する”

 “善”は先に解した通り神の存在そのものではない、神の理(ことわり)でもない、神は振動を送り贈る(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)、それを“無限の”(“無限段階”の)(“弥栄”のための)“力”、これを“うけるが故”、これによってこの心(靈)の中の“善”は“益々弥栄”、益々進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだ、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その三”



 今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。 生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。 生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。 悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。 何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。 地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。 これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。 この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。

 冒頭の文。
“生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。 生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている”

 まず“生前”=生まれる前、そしてこの文言中に表記の無い“地上人”、そして“死後”、これらについて述べられていることに気付いたうえで、“生前”と“死後”は“有”である“善”なのだ、と述べられていることを読み取るべき。 そしてその“有”である“善”=“生前の自分の行為”、これが“地上人たる自分に結果して来ている”、生まれる前の自分の行為の結果がたった今の“地上人”であるお前たちなのだ、と称されている。

 次の文。
“生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある”

 冒頭の“生前の行為が生後審判され、酬いられている”、生まれる前の個の心(靈)がその界において何を為して何を考えて来たか、いわゆる因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、これは個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるので、こういった言い回しがされているにすぎないのであり、重要な点としては“それは、悪因縁的には現われない。 そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある”、これは“地上人”のカタチをとった個の心(靈)が地上において“善”を為していく、それ自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり○○○大先生が定義づけた“善”=神格化の方向性と智性の受信、ということに該当するものであるし、“創造”の“主(ヌシ)”は個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程と言いうる“生前”“地上人”“死後”において進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、“弥栄”させている、というのは語弊があるが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のためにこの道程があるのだ、という言い回しが妥当。 そしてその道程において個の心(靈)は神に近付く、それが“そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある”の言葉の意味合いそのものである。

 これに続く次の文も今述べたことを強調している。
“悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。 何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである”

 最初の“悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない”というのは、“地上人”の“観察と認識”における“善”と“悪”は視点が低い、お前たちの“観察と認識”における“生後”=“地上人”の段階で判断しうる“善”と“悪”、これは結果として“善”であり“弥栄”であるということ、これは解り易いたとえとして教訓を得るための“御用の悪”というものもあり、それは味わってみなければ“悪”であることを実感できない、しかし実感したならばそれは教訓となり認識(悟り、幸取=さとり)となり自分の在り方を考えることが出来る。 これを“地上人”の段階で体験させようとしているのが“上”であるし、結果としてその“御用の悪”を味わうこと事態が“善”となるし、それは“大神は大歓喜”、これに近付くことになるものであり、このことをこの文言全体で示しているものである。 ちなみに“三千世界”、これは仏教用語で仏教の世界観における全宇宙のこと、であるが、“観察と認識”しうる“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、当然のことながら“生前”“地上人”“死後”の道程も含まれ、こう言い換えれば意味はよく通じる。

 次の文。
“地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である”

 これは先の文言の解釈で述べたことに該当すること。

 次の文。
“これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである”

 また重複するが、“生前”“地上人”“死後”、それぞれの段階において個の心(靈)であるお前たちは、“善”や“悪”を“観察と認識”して“弥栄”していくが、お前たちの考える“地獄的なもの”、これが“あり得ない”、それは既成宗教の概念の“地獄”は、ただ懲罰を与えられるものである印象が強いが、それは間違いであり、お前たちは自分の在り方を鑑みるべきであるからこそ“地獄”を意識せよ、であるから、個の心(靈)である自分たちが、先の教訓を得て認識を高め自省(胸の磁性“十”)していくならば、その過程自体を“川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である”と称されており、それは“地獄的”ではないし、この過程自体が“弥栄”であり神に近付く過程であることを知っておけ、というのがこの文言の要旨である。

 次の文。
“この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ”

 “生前”“地上人”“死後”、これを“この一貫して弥栄し”と称され、先に述べたことと重複するがこれ事態が神に近付くことであり、さらにこういった個の心(靈)の“弥栄”が、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これの“弥栄”となるという意味合いの文言が“大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ”であり、ここで区切って次の文言を観るとよく解ると思う。
“永遠に生命する真相”

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その四”



 今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。 本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである。 一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である。 生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては○ である。 ○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、 ローレンツ力 と集約される。 故に、これらの総ては無にして有である。 

 先回取り上げた文言の要旨は
“一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相”
であり、これを“地上人”向けに“生前”“地上人”“死後”という“分類”と“形式”において、その“分類”と“形式”にかかわらず
“超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する”
ということを述べていたし、そういった観点から言えば、お前たちの認識しうる“生前”“地上人”“死後”において
“地獄的なものはあり得ない。 川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。 要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はない”、
そこに“善”と“悪”があり“因縁”があるのだが、それが顕現したとお前たちが認識してもしても一切が“弥栄”である。
それは
“地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄”
ということを述べていた。 これも“悪と感覚し、偽と感覚し得る結果”、その“場合”であっても“何れもが弥栄”なのだの意。

 これに相対し、今回取り上げる文言は、“生前”“地上人”“死後”における“弥栄”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程、道程、換言すれば自分たち個の心(靈)が“観察と認識”している時間の経過、そしてそれに伴う進化の段階、そこにおけるお前たちの心(靈)の動きは、
“天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である”
こういったことをしている、と述べられている。
なぜそれをするのかについて、
“本来なきものをつくり出し、一を二にわける。 だが、分けることによって力を生み弥栄する。 地獄なきところに天国はない。 天国を思念する処に地獄を生ずるのである。 善を思念するが故に、悪を生み出すのである”
と述べられている。 
 この文言の“本来なきもの”は文脈から判断すれば“無き地獄を自らつくり出し、生み出す因”にかかるのであり、この
“自らつくり出し”と
“天国を思念する処に地獄を生ずる”と
“思念するが故に、悪を生み出す”、
これを、それぞれ個の心(靈)が行っている、その行いは個の心(靈)の内面とか内側(心の中と感じている事)における“思念”であるし、“思念”あるが故に“観察と認識”が為されていくものである。 そしてこれを行うこと事態が“天国”と“善”の認識を確たるものとしていくのだ、ということを示しているものである。
またこういったこと、“思念”して“観察と認識”をしていくこと自体を“本来なきものをつくり出し、一を二にわける”と称されており、これが無ければ“弥栄”しえないのだ、と述べられており、“本来なきもの”は先に述べた通り“無き地獄を自らつくり出し、生み出す因”であり、これを“思念”によって“分けることによって力を生み弥栄する”と述べられているものである。
それは個の心(靈)における“思念”が無いならば“弥栄”、個の心(靈)と“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”にはならないのだと読み取るべきであるし、この事をお前たち“地上人”は知っておけよ、ということである。

これに続く
“一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。 即ち、一は二にして、二は三である”

この“一あり二と分け”は、“思念”による“分類”と“形式”、これを“観察と認識”していく、さらにそれは“はなれてまた、三と栄ゆる”、これは“本来なきもの”を“分類”と“形式”として“観察と認識”していく個の心(靈)の行為は新たなものを生み出す=“一”でもなく、“一”から“分け”た“二”でもない“三”を生じていくのだし、こういったこと事態が“弥栄”であるの意を述べられ、“即ち、一は二にして、二は三である”とは、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”なのだ、の意である。
 またこの行為、個の心(靈)の行いである“思念”と“観察と認識”は、“上”からの振動の取り込み、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と同義であるの意がこれに続く、
“生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては○ である”
この“それらの総ては○ ”、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と称され、さらに“生前であり、生後であり、死後であり”は“弥栄”の過程、道程の意である。

 これに続く
“○ は 
渦巻き 左回転 であり ローレンツ力と ○ であり、 ローレンツ力 と集約される。 故に、これらの総ては無にして有である”

これは霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が有している進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みを指し、“○ は 
渦巻き 左回転 であり”とは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が日足(ひたり)回転(“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転)により“弥栄”するの意であり、それは“上”からの振動の取り込み、霊自体のローレンツ力 ローレンツ力 によって、それゆえ霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が構成されているからこそ“ ローレンツ力と ○ であり”であり、さらにそれは個の心(靈)が持つローレンツ力の強化になり得るからこそ“  ローレンツ力 と集約される”と称され、個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程における“分類”と“形式”、“天国”と“地獄的なもの”、そして“善”と“悪”、その“観察と認識”は“弥栄”の過程、“超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する”ものである個の心(靈)の行いであり、これに続く
“故に、これらの総ては無にして有である”
は、“本来なきもの”を“分類”と“形式”として“思念”して“観察と認識”することは先に述べた通り“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”になる、なり得る、それは“弥栄”という点で“有”である、これを換言するならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって価値のあることである、という解釈が“観察と認識”が狭い“地上人”向けには妥当な文言かもしれない。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その五”



 今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。 故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。 悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。 歓喜に審判なく、神に戒律はない。 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。 このことは神自らを切断することである。 裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。

 今回取り上げる文言も“地上人”の“観察と認識”の低さを指摘したものである。 

 まず、多くの地上人は自分たちが輪廻転生を重ねて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しているということを知り得ない、まずそれを知れ、という意味合いで

“人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く”

と称されており、その輪廻転生=“生前”“地上人”“死後”における個の心(靈)の進化とそれに伴う“観察と認識”の変容、これを

“立体となり、立々体と進み、弥栄する処”

と称され、この表記は個の心(靈)の状態の変容と進化に伴う“観察と認識”の進み具合を指しているものである。

 また、この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴う“観察と認識”の変容と、個の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを“弥栄”であると述べられ、そして、

“弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。 浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる”

と称され、“生前”“地上人”“死後”における“弥栄”は“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”でもあるのであり、それがまた“つきざる歓喜”=個の心(靈)が神に近付くことと“一切万象”の“弥栄”でもあるのだ、であるし、個の心(靈)の“観察と認識”による“分類”と“形式”における“善悪美醜”、その、個の心(靈)の“呼吸”=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“弥栄”と“歓喜”に近付くためのことであり、重複するがこれが自分たちを含めた“一切万象”の“弥栄”と“歓喜”なのだの意を“善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する”と称され、この“一の段階より二の段階へ、更に三の段階”を“生前”“地上人”“死後”という“分類”と“形式”としているのだ、と述べられている。

 これに続く
“浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。 故に、神の中に神として総てが弥栄するのである”

これは、個の心(靈)の“分類”と“形式”による“善悪美醜”は単に相対的な事、地震の巻の表記なら、“二義的”でしかなく、“善悪”であろうが“美醜”であろうが、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、の、“弥栄”になっていくものであるが、そこにおいて個の心(靈)がその“善悪美醜”を観て“浄化”をするならば“弥栄”となるのだ、よって個の心(靈)の“観察と認識”による“分類”と“形式”は個の心(靈)の“弥栄”となるのだ、という意味を含み、これに続く“故に、神の中に神として”とは、“上”からの振動により個の心(靈)が構成され、そこに“神性”があり、その“神性”による“観察と認識”は個の心(靈)を通じての、“創造”の“主(ヌシ)”の“観察と認識”となり得るの意であり、これにより“総てが弥栄する”と称されている。

 次の文。
“悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである”

 これは先の“地上人”の段階における“分類”と“形式”による“善悪美醜”、これに関して“悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念”と定義され、これは先の“浄化、弥栄することにより”=個の心(靈)のこういった作業により、“善悪美醜のことごとくは歓喜となる”のだ、の意であるし、この“地上人”の個の心(靈)の作業自体は、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これを“弥栄”して“歓喜”とする“神の意志、行為、弥栄”、これとは“離れたもの”なのだ、の意であり、この“離れた”は違うという意味合いではなく、“無限段階”の相違、霊的成長度の高低、レベル差、という解釈が極めて妥当である。

 これに続く次の文も今述べた解釈が当てはまるものである。
“歓喜に審判なく、神に戒律はない。 戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。 このことは神自らを切断することである。 裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない”

 これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これを“弥栄”して“歓喜”とする“神の意志、行為、弥栄”のことを述べているのであり、決して“地上人”である程度の低い個の心(靈)に当てはまることではないということであり、意味合いが重複するが文中の“審判”“戒律”は個の心(靈)の中においての“善悪美醜”を“分類”と“形式”とすることであって、それは“神の意志、行為、弥栄”と同じであると思ってはいけないのだ、の意であり、よってお前たち“地上人”の“観察と認識”では“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、この“弥栄”は理解しえないだろうし実感も伴わないだろうが、“無限段階”の“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、は、“すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない”、この“すべては”、が、“無限段階”を指し、お前たち“地上人”の認識で“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、を、解った気でいるな、の意味合いである。

 ここまでの解釈を理解したなら、第一帖の以下の文言の意味合いもよく解るものだと思えるので、以下にコピペして、今回はこれくらいにしときまんねん。

われわれの一切は生れつつある。 神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである。 善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 
…中略…
また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。




“日月神示” 地震の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 “その六”



  今回も、地震の巻 第五帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。 生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。  
ローレンツ力と ○ は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。 以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。 これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。 故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。 生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。 地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。 地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。 しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

 冒頭の文。
“行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。 生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む”

 この文言は逆から読んでいくと理解しやすい。 まず“生前の霊人は、生後の地上人を生む。 地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む”、これは“生前”“地上人”“死後”という輪廻転生の過程において、個の心(靈)が育つ=“弥栄”することを述べており、またその過程において心(靈)が育つ理由と根拠は、“生前”の心(靈)の動きと行いによる因果があるからこそ“生後”である“地上人”を“生む”と称され、さらに“地上人”の“死後”は“地上人”の段階における心(靈)の動きと行いにより“死後の霊人”となるが、それはこういった過程において“弥栄”していく、これまでとは違う進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した心(靈)と変容していくので“生む”という表記が当てられているし、この繰り返し、輪廻転生により進化していくことを“死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む”、そして“生前の霊人は、生後の地上人を生む”、これに繋がっていく、と、説明されているし、それはこの前の文の“原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む”、輪廻転生して、その繰り返しにおいて、さらなる“弥栄”となると称されている。
 この“弥栄”していく過程の“結果は、更に原因となりて”、これに関しては前半の文の“行為は結果である。 思念は原因である”と称され、当たり前のことだが“原因”の無い“結果”はあり得ないし、これがまた“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、における絶対の法則性であり、この文の表記の“思念”は日足(ひたり)の極性、そして“行為は結果”というのは砌(みぎり)の極性であることを読み取るべきで、一切の事象は“思惑の顕現”であり、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”からも読み取れるものである。

“創造”の意味と意義 

 次の文。
“ 
ローレンツ力と ○ は 渦巻き 左回転 となりて廻り、極まるところなくして弥栄える”

 個の心(靈)は、○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 
ローレンツ力 により、“上”からの振動を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して“弥栄”し、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転していきながら、であり、さらにそれは“無限段階”=“極まるところなくして”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する=“弥栄える”と称されているものである。

 次の文。
“以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである”

 輪廻転生、先の“原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む”、これによる“弥栄”は、“本体が歓喜と知られるであろう”、お前たちはこの事を知らないから“知られるであろう”という言い回しがされている。 そしてそれは個の心(靈)の“本体”それは“歓喜”であり、この事を知ったならお前たち特有の“分類”と“形式”による“善悪美醜”は“弥栄”の過程、道程、であることが解る、解るならば、解ったならば、そうなるならば=“されば”、“常に歓喜に向ってのみ進むのである”と称されているものである。

 次の文。
“これは只、霊人や地上人のみではない。 あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。 故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである”

 これも先に取り上げた“原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む”と “弥栄”は、“本体が歓喜と知られる”、これが個の心(靈)の観察対象である“森羅万象の悉く”、これが法則性=“同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至る”であり、“極内より極外”とは“無限段階”であるし、“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これの“悉く”の“弥栄”という意味合い。 そして“故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し”そして“これらの三は極めて密接なる関係”というのも“原因は結果となり…以下略…”を説明しているものであるし、“その根本の大呼吸は一つ”は、個の心(靈)を含む“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、これの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることを指しており、これも最初に取り上げた“行為は結果である。 思念は原因である”、いわゆる“思惑の顕現”、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、これらが“弥栄”となるのだ、あるいは“弥栄”による“歓喜”と同義なのだ、の意である。

 次の文。
“生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる”

 これは先の“思惑の顕現”の説明でもあるし、“生前”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“生後”=“地上人”の段階、そして“死後”という事象の理由と根拠たりうるのだ、の意である。

 次の文。
“地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある”

 これは“生前の世界”の具体的な説明と共に、“生前”の息吹が理由と根拠たりうる“生後”の事象、それは“思惑の顕現”であることを説明している文言である。

 次の文。
“地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。 しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。 時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ”

 お前たち“地上人”の“観察と認識”においては、“生前、死後は映像の如く感覚される”と前置きされているが、“生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎない”、これは先に取り上げた“以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。 されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである”という点において、お前たちは“映像”にとらわれがちであるといえ、“本体が歓喜”であるということに対する認識が出来ていない、それをよく認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、の意味合いで
“時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば”
これは“一切万象”“全体”“生命”事象の実相、を、“観察と認識”して、理解して、認識(悟り、幸取=さとり)としていくならば、
“以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ”
“三界”は“生前”“生後(地上人)”“死後”という“分類”と“形式”、その過程、これは“思惑の顕現”である、それは冒頭で取りあげた
“行為は結果である。 思念は原因である。 原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む”
これそのものである、これが“三界の真実”であるという“地上人”に対しての言い回しである。
 それで“本体”に関して、先回も取り上げた第一帖の文言が理解しやすいと思うのでこれを以下にコピペして、今回はこれくらいにしときまんねん。

また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。




“日月神示” 地震の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 “その一”


 
 今回から、地震の巻 第六帖の解釈に入ることとする。 第六帖の原文は以下の通り。

霊界人は、その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。 中心は、歓喜の中の歓喜である。 それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。 霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。 故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。 地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。 各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。 各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。 地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。 映像として真実であるが、第一義的真理ではない。 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。 内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。 故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。 霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。 要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。 歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。 この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。 しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。 霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。 何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。 現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。 地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。 交叉混交はしても、同一方向には向っていない。 そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

 今回解釈するのは
“霊界人は、その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。 中心は、歓喜の中の歓喜である。 それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。 霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。 故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである”
ここまでとする。

 冒頭の文。
“霊界人は、その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。 中心は、歓喜の中の歓喜である”

 これは個の心(靈)である“霊界人”、これの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味合いとしての“弥栄”を述べている。 それは“中心”と認識しうる “創造”の“主(ヌシ)”の位置する場(フィールド)、位相、そして個の心(靈)が“観察と認識”しうる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と、その指標、という意味合いであり、その“中心”は“歓喜の中の歓喜”であると述べられており、ここまでのことが理解できたなら“霊界人”は“その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味”、この文言の意味は理解でき得るものである。

次の文。
“それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである”

 これは先に解釈した“中心”、これを“基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向”これが“定まっている”と述べられて入いるが、物理的、空間の位相、という意味合いだけではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と指標、これを含んだ意味合いで、いわゆる個の心(靈)が神に近付くための“それを基として”、そして“方向が定まっている”と解するのが妥当。

 次の文
“霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない”

 これは先に述べたことと重複するが、個の心(靈)である“霊界人”が何を行い、何を思い、=“何れの方向に向っていようと”、と前置きされ、“向っている方向が中心”であることを述べており、そして、お前たち“地上人”の“観察と認識”においてはそれが理解できないからこれをよく知っておけ、お前たち“地上人”もいずれ“霊界人”となる段階があるのにきまっているから、という意味合いである。

 次の文。
“故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである”

 これは先の“向っている方向が中心”だからこそ、“常に前方から光を受け、歓喜を与えられている”、これは“創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を感得しているの意であり、“創造”の“主(ヌシ)”の説明として“絶えざる愛”と述べられ、それを個の心(靈)が感得したならば“真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命している”と称され、これも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標としての意味合い、それは“真理”、真固止(まこと)の理(ことわり)を含んだ文言であるし、これに続く“要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなす”というのも、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物である個の心(靈)の関係、“上”からの振動を自らのローレンツ力
ローレンツ力 で取り込んで心(靈)を構築して“弥栄”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、さらに個の心(靈)は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、個の心(靈)それぞれが観察しうる、現津(あきつ)、事象の“創造”をしているものである、この意を含む文言が“霊人たちの呼吸と脈拍の根元”であるし、“呼吸”は“上”からの振動との感応とそれによる進化と進化した心(靈)が行う事象の“創造”、そして“脈拍”は“上”からの振動の取り込みと、個の心(靈)の動き、そして心(靈)の動きを事象に顕現する、の意を読み取ることが出来得る。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 地震の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、地震の巻 第六帖の以下の文言(先回の続き)を解釈することとする。

地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。 各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。 各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。 地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。 映像として真実であるが、第一義的真理ではない。 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。 内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。 故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。 

 冒頭の文。
“地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。 各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない”

 前半の“地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる”、これは先回解釈したように、“霊人”は“創造”の“主(ヌシ)”に対して、“中心歓喜に向って座し、向って進んでいる”ということを述べており、そのうえでお前たち“地上人”由来の“観察と認識”において“上下、左右、前後に折り重なっていると見えても”、これも先回解釈を述べた通り物理的な位置や位相ということだけではなく、心(靈)の動きとその顕われにおいて、という意味合いを含んでおり、さらにそれはお前たち“地上人”の場合は、“上下、左右、前後に折り重なっている”=物理的な位置と位相、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性に心(靈)が向かっていないように観えたとしても“霊人たちには障害とならない”のであり、それは第三帖の以下の文言が理解しやすい。

“悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。 共に神の御旨の中に真実として生きるのである”
 この文言中の“御用の悪”と“御用の醜”は程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”と“醜”をよく認識する、認識したならばそれより“上”、“善”と“ほんとう”の“美”を求め、顕現しようとするの意。 そしてこれ自体が第二帖の“それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である”に相当するから“悪は悪として悪を思い”と“醜は醜として醜を思い”であり、これは“善”と“美”を理解していくために、程度の低い“愛”の行使ゆえの“悪”“醜”をよく解らねばならない、これがこの場合の“御用”であるし、そしてそれは“その時の各々にとっては、その時の真実”であるからこそ“共に神の御旨の中に真実として生きるのである”と称されている。
 しかしながら“地上人”の場合は“善悪美醜”にとらわれがちである。 これに関しては第一帖の以下の文言が理解しやすい。

“善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ”
 この文言中の“地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思う”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標たることではあるが、あくまでも“地上人”の段階においてのそれであることを、お前たち“地上人”は解っておけよ、という意味合いのことが“それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない”という文言の要旨である。 また、少々余談になるが、“地上人”の段階においてその世界では、恨みの連鎖の霊的干渉があり、これを生み出しているのは先に引用した第一帖の“地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うから”、これに由来したことであるからである。
これに続く“各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない”、“各々”は個の心(靈)の“上下、左右、前後に折り重なっていると見えても”にかかり、そうであっても“他からの障害をうけない”“その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない”、いわゆる“霊人”の段階の個々の心(靈)たちが何を思い何を為そうが、それは一切が“弥栄”であり“それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる”ということを述べている。

 次の文。
“各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である”

 この文言自体は“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を述べているものであり、個の心(靈)が先の“中心歓喜に向って座し、向って進んでいる”から“各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある”と述べられ、これに続く“霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのである”は、“額”眉間のチャクラ、アジナーチャクラ、と称してもよいし、神道で使われる御鏡(みかがみ)もこの部位を指したものであるとの私見を持つが、この部位が“上”からの振動を受け止め心(靈)が育っていく仕組みになっているものである。

 これに続く次の文。
“地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである”

 これも個の心(靈)が“地上人”の段階であっても、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により“内的真実のものは額でのみ見得るもの”であることを述べられ、お前たち“地上人”が目で見ている何か、それは“地上的約束下におかれ、映像された第二義的なもの”、それは“一切万象”“全体”“生命”、事象の実相、これの“弥栄”に直接結びつくものでなく、“地上人”の段階の心(靈)はその段階の“観察と認識”における“善悪美醜”にとらわれており、このこと事態が単に“二義的なもの”であることを指摘されている。

 これに続く次の文。
“映像として真実であるが、第一義的真理ではない。 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。 内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。 故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである”

 先に述べた通り“地上人”の“観察と認識”は“二義的”なものであり、それを“映像として真実であるが、第一義的真理ではない”と称され、先に取り上げた文言ではあるが“目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なもの”であり、“第一義的真理”=“それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる”これによる“一切万象”“全体”“生命”、事象の実相、の“弥栄”と、まったく同義ではないの意であり、そこに“地上人”と“霊界人”の“観察と認識”の相違があるのだということを“霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ない”のではあるが、“地上人”と“霊界人”という段階の違いに関わらず、“弥栄”のために事象の“観察と認識”をしているには違いない、ということを“内質に於ては同一である”と称され、その段階における“観察と認識”の相違を“現われ方や位置に於いては相違する”と述べられているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



Top|Next »

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (107)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (24)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (34)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (603)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (46)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
“日月神示” 地震の巻 (93)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (156)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード