“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈

 

前回は主に、
数字の解釈の事を中心にKellyさんはぼやいたんやけど、
そう言う風に“日月神示”を観ると・・・
最初、岡本天明はんが自動書記で書いたんは、下記のようやったそうで、

二二八八れ十二ほん八れの九二のま九十のちからをあら八す四十七れる

卍も十も九も八きりたすけて
七六かしい五くろうのない四かくるから 
三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を
十四て九れ四 

いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって二十十七一九六てある

・・・ほんまは、
そう言う形で書かれた物を観るのが、エエのかもしれへんけど・・・
色々探してみても、
最初に書いた状態って言うのんは、見つける事が出来へんかった。
その自動書記で書かれた原文を見ると、
違う解釈が出来るのかもしれへんけど、無いもんはしょうがない。
ほんでからに、
今残ってる“日月神示”の文章って言うのんは、
岡本天明はん自身がその原文を観て、
こう言う意味だろうとして文章としたもんやから、
それは、
最初書かれた状態のものを、
岡本天明はんが解釈したって言う事、そのものが、
憑依現象の変圧の過程で・・・
そう言う過程を経て人に意味が伝わったと解釈するのが、
妥当やろな。

そやからこそそれは、数字や記号で書かれた原文って言うのんは、
岡本天明はん自身の考えや思惑が入らんカタチの憑依・・・
ストレートに憑依した存在の思惑を伝えるカタチで、
岡本天明はんの肉体を、道具・・・それは、依り代として使った。
“上”の存在の思惑を“上”の言葉で伝えた。
・・・そういう事やと思うし・・・
そやけどそれでは・・・
(進化程度の低い=沢山の認識を得ていない)人には、
伝わり難い。
そう言う伝え方・・・
それはS会のT霊媒の能力のように、
ローム太霊さんや、
会員の主護霊の意思を肉声で伝えるって言う事でもそうや。
T霊媒の思惑って言うもんの介入が出来へん現象や。
そやから自動書記って言うのんも、
人の常識では考えられへんスピードで書かれたり、
書いてはる人=乗り移られてる人の知らん事を書いたりする。
それはKellyさんや先生にとっては当たり前に解釈出来る事やけど、
そう言う分析が又、
高い存在の憑依なのか・・・本当に価値の有る事なのか・・・
そう言う区別をして行かんならんし、
ほんでからに心霊現象に目が利く人が少ない。
それは問題やと思うやん。

そやから大体、高い存在の思惑が伝わる時は、
その伝えた依り代としての人、
今の話で言えば岡本天明はんとかT霊媒はんとか・・・
その依り代としての人達の考えや思惑は、
そのメッセージその物に介入出来ん形をとる。
そう言う場合が多いんやけど・・・
一般にそう言う分析が出来てへん。
そやから、
現象を起こしてる霊的存在の高低が判らへんと、
心霊現象を何でも一緒に考える。
それは、低い心(靈)の発現由来の観察・・・そういう事は言える。

そやからそれは、なんでも心霊現象をありがたがる・・・
程度の低い人ほどそう言う傾向があるやん。
只々ありがたいとか、現象を凄い事やって騒ぐとか・・・
そういう事に終始する。
それは感覚優先の物の見方でしかない。
ほんでからに、そう言う事象の観察をしてる人って言うのんは、
その中の本当の事を見出す事が出来へん。
そやから今の話・・・只々ありがたいって言うのんも、
感覚優先の低い心の発現由来の観察行為やから、
心霊やらUFOやら・・・そう言うサイトや、
アセンションに対する認識って言うのんも、
てんで低い事になってる・・・
ほんでからにひどい例は、それを商売にしてる。
こんな事も・・・前に先生と話した事やけど、
結果それは、そう言う心(靈)の動きの人が多いからこそ、
商売としてのインチキ宗教や、
霊感商法や、テレビに出てはる霊能力者のように、
自分の意見を相手に押し付け、
甘い事を言ったりして人の弱みに付け込む。
それは只単に霊とかオーラとか愛とかをバラエティにしてしまい、
その甘い(亜、魔、出ずる、泉)雰囲気に酔わせ、
そして数字を取り・・・結果としてその霊能力者は金を取るだけに終始する。
低い現象ほどそう言う傾向が強い。
インチキ宗教や霊感商法でも・・・それで金を取られた人・・・
しかしそれも、
そんな程度の低いもんと縁のあった、金持ちの、
物質しか判らへん価値感でエネルギーを贖って努力して来た人の、
右往左往って事でもあるやろけど、
沢山、金を贖って自分が背負ってる因縁を深く理解して行く・・・
それは自分の人生の価値を知る事にもなって行くやろし・・・
人(日止、霊止)って一体なんやろう・・・って、
考えになって行くやろし・・・
そやからこそ、騙されて金を取られ・・・それから、
考える過程が必要とも言えるやん。
そやからこそ、
そう言う程度の低い心霊現象とかインチキ宗教とか・・・
そう言うもんと、
程度の低い自己奉仕者の進化過程の人は、
縁がある。

これも霊縁や。

おんなじ程度の進化過程=心(靈)の発現が、
同程度やから、
そう言うもん同士、
騙したとか騙されたとか言い合って、
奪った奪われたと言い合って・・・罵り合って、
ほんでからに、
そういう事自体・・・自分の在り方を考える材料にして行かんならん。

・・・いらん事まで考えてしもたけど・・・

そやからそれは、心霊現象の高い低いの区別が出来へん・・・
その区別が出来へん人こそ、
“上”の心(靈)を持ってへんからや。
下三つのチャクラ由来の心の発現しかしてへんからや。
そしてそれは、騙す方も騙される方もそうや。
大体、騙す方かて、自分が“悪”の存在に操られてる・・・
傀儡(かいらい)になってる事すら気が付かへん場合が多いやん。
ほんでからにそれは色々失敗して・・・
失敗させる事自体が、
その人の霊的成長を望んではる存在の思惑なんやろけど、
そうは思わへんやろし・・・
そやからそれは、具体的には、
間違った霊視をしたりとかで、初めて操られてる事に気が付くんやろけど、
そやけど自分は、間違ってないと思いたい・・・
傀儡になってるなんて思いたくない。
それは、低い功名心由来の発想で・・・自分の立場を守りたい。
そやからそれは、愛を語ってはる割には、
自我が強い=低い心(靈)の発現しかしていない事の証明でもあるやん。
そやからこそ低い心(靈)の発現の段階の人が、
“上”に向かう為に・・・向かわんならんから失敗する。
失敗して恥かいて・・・それでも自分が悪くないって思いたい・・・
まるでこの間思うた二十年ぶりに逮捕された人の心境と、
おんなじやな。
ほんでからにこれも、右往左往と左往右往やな。

・・・まあエエわ・・・そんな事は・・・

今の話、
高い存在が思惑を人に伝えるって言うのんは、
きっと、
伝えた存在と、こちら側の認識・・・
人の認識って言うのんは違いすぎるからや。
“下”すぎるからや。
そやから、
人にはすぐその意味が通じん数字や記号の羅列って言うのんも、
それには高い存在からの通信・・・思惑って言うのんがあって、
それを解釈しようとする気持ち=発振、発信が、
又、
直接それを書かせた存在とは、振動の高低の違う霊的干渉を招き、
それは段々“下”に降りてきて、
さっきも言うたんやけど、
それは変圧っていう過程がある。

ほんでからにそれは、
そう言う変圧の過程そのものが、岡本天明はんの“行”って事になるんやろ。
自分より高い存在の憑依・・・
それは、先生も何回も体験のある事やけど、
自分より高い霊的存在の思惑の受信・・・
憑依は、通信を受ける事は、
自分のエネルギーを贖わんならん。
そやから先生も、
太陽凝視を教えてくれたKさんが呼び出した高い存在の通信を、
霊眼で観てはった時も、
その直後、倒れるように寝てしまった事がたくさんあるらしいやん。
それは、太陽凝視中にも目を開けたまま失神する事があるらしいし・・・
太陽凝視中に沢山の霊的存在の憑依も起きてるようやな。
ほんでからに楽屋落ち的言い方やけど、
前のブログの文章を考え、そして加筆訂正し、
アップし終わった時にもよく有った事らしいやん。

又々、話が逸れたやん。

数字や記号・・・それで書かれたものそのものは、
多分、それを伝えた存在の霊的階層・・・
そう言う場(フィールド)でしか、通じへん物なのかも知れへん。
そやけどそのままでは人間には全然解らへんって事やから、
その原文を観てた岡本天明はんに、
又、
こちら側に近い、
岡本天明はんより“上”の霊的存在の憑依現象があって、
解り易い様に通信を送り、
ほんでからにそれは、
岡本天明はん自身の発想って事になって、
今残ってる“日月神示”の文章に成った。

そやからそれは、原文は、
“上”から“下”に垂れたんやろけど、
それではあまりにも霊的階層が違いすぎるから、直接伝わり難い・・・
そやからそれをある程度霊的に成長した人に知らせる為に、
今の文章が出来た。
その為に岡本天明はん自身が、その文章の解釈をした。

そやから・・・それを解釈して行く・・・
そう言う方法で行きまんねん。

ほんでからに、
人に解り易い文章になってるって言うても、
意味不明の数字や記号や図みたいなもんや・・・
これはきっと、そのままになってる事自体が重要な事で、
それをどう解釈して行くのかって事が、
“日月神示”を伝えた存在の思惑を探る・・・
きっとそう言う事やと思いまんねん。
ほんでからにそう言うもんに対して先生は、
我田引水な解釈をしてはるけど・・・
それは・・・まる34年間の太陽凝視・・・
先生の太陽凝視の解釈は、
自分の智性を高める事・・・
智性(日を知った上で獲得した性質)を高めるって言うのんは、
自分より“上”の存在の憑依があり、
そして自分の心(靈)も肉体も変化して行く。
それは神に近づき、自分が神格化して行く為の“行”って事で、
そやからこそ先生は、
色んな事象を観る視点って言うもんが、ちょっと普通と違いよる・・・
それは、
キチガイ呼ばわりされた事も何回もあるって言うてはった。
そやからそれは、
頭のオーラ、“一”=智性=1番目のオーラの大きさが違うから、
憑依する存在も、
その霊的成長度に応じた存在が通信を送ってくる。
一般の憑依現象って言うのんは、
“下”三つのチャクラ由来の憑依が多いから、
そう言う程度の心(靈)の発現をした霊的存在が憑依する。
それは本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)やから、
憑依するほうも表意される人もおんなじ程度の霊的干渉で、
感応共振って事や。
そやからこそ自我より“上”の心(靈)を、
乗っ取られた現象が多い。
欲望に振り回されてる憑依現象が多い。
ほんでからに、Kellyさんが今思った事・・・
低い憑依現象の分析って言うのんと、高い存在の憑依・・・
その変圧の過程と、自分の心(靈)の発現の相関関係って言うのんか・・・
それを整理しておく事は、すごく必要な事やと思うし、
これもまた、Kellyさんの考えをしっかり整理せんとアカン事やし・・・
それは別の機会に考える・・・そう言う事にして・・・


まず“日月神示”の 上つ巻 第一帖

それは以下の通りでんねん。 ↓



二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。
このむすびは神の力でないと何も出来ん、
人間の算盤では弾けんことぞ、
日本はお土があかる、
外国はお土がさかる。

都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。
今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る
○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、
人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、
いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、
世界中の洗濯ざから、
いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、
カミと神、
アカとあか、
ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。
己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。
加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、
口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。
神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。
六月の十日、ひつくのかみ。


まず・・・Kellyさん的に思うんは、

“二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、”

この“二二”って表現は、
これは先生の解釈としたら、2~3番目のオーラの事やろし、
それが二つ並んで書かれてはるってって言うのんは、
左右・・・日足と砌(ひたりとみぎり)やと思いまんねん。
ほんでからに“二”・・・それは、
動物と共通のオーラやし、肉体のオーラって事やし、
ほんでからにそれは、高い振動とも言える“一”・・・
肉体=“二”より“上”の振動、“一”・・・ほんでからに、
創造主を示す“一”、
ほんでからにそれは、智性=1番目のオーラ。
動物には無いオーラ。
ある意味、
完成された人(日止、霊止)としての、“王”って言う字を構成する“一”。
それは、この文章には表現されてないって事や。
そやからそれは、前に先生と話した事として、
“王”から“一”を外すと“土”=2~3番目のオーラ=肉体。
ほんでからにそれは、左右のエネルギーラインを持ってる。
Kellyさん的に思うんは、左右のエネルギーライン、
それが、“八”に表れてて、
そやからこそ、原文の、

“二二八八れ十二ほん八れ”

・・・ちょっと纏めれば、
“二二”は、左右のエネルギー、砌(みぎり)と日足(ひたり)で、
それはこの間の“八”を観てKellyさんが思ったみたいに、
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行は、
やる事も思う事も違う・・・
その両方の行からから認識を得て、
人(日止、霊止)は、(霊的)成長をして(霊的)進化して行く。
そやからこそ、
“晴れたり日本晴れ”=“八れ十二ほん八れ”
八れ十=晴れたりって事でもあると思うけれど、
これも、先生の解釈から言うたなら、
“十”は、自省(胸の磁性“十”)って事やろし、
それは自省(胸の磁性“十”)=“直日(なおひ)”で、
自分を振り返る心(靈)の動きが無いと、
それはローム太霊さんの言葉、左往右往って事でもあるけれど、
それをして行かんと、霊的進化して行かへんって事を言うてはると思うやん。
そやからそれは、霊的進化程度の低い人(日止、霊止)は、
右往左往の行をしてはる・・・そうやって認識を得ていく過程やな。
人を犠牲にしてでも、恨みの連鎖を拡大しても、
力を示し、
自分の低い心(靈)の発現由来の欲望を満たす・・・
経済の為に頑張るとか、自分の功名心を満たしたいとか・・・
只それだけの低い幸福感由来の行動でしかない。
それは、
“力”の使い方って事をよう解ってない段階やな。
“力”=知恵、知識、学問、能力、そして霊能力・・・は、
“力”でしかないって事を知らへん。

そやからそれは“力”をどう使っていくのかが・・・
智性=神性(日を知った上で獲得した性質)由来の事やろし、
“力”を得た人は、
どうするべきなのかって事を、
右往左往の行で心(靈)の発現をしている人は、
左往右往=やってみて教訓を得て考える・・・
ほんでからに、
左往右往そのものが自省(胸の磁性“十”)の行やから、
そう言う心(靈)の動きをあまり持ってない。
そやからそれは、“目下(めした)の思い”やな。
ほんでからに右往左往、
ある程度それを体験したなら、左往右往の行に入って行かんならん。
それは誰でもが進まんならん過程やろし、
人(日止、霊止)は神の子やから、
どんな体験をしようとも、どんな悪人でも・・・
一定の認識を獲得するまで何回でも生まれ変わって、
そして認識=“一”=智性=1番目のオーラを高めていき、
最終的には神格化する。

そう言う事を知らへん・・・
そう言う認識が無いから、
大半の人は死んだら終わりやと思う。
そやから悪い事してでも自分の目先の損得勘定で動き、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・
ひどければ殺人・・・戦争なんかでもそうや。
そう言う心(靈)の動き由来の事象を自分で創って行きよる。
死んだ後の事なんか考えへんし・・・
生きてる間だけがすべて・・・
死んだ後の事は解らへん・・・
そう言う認識そのものが低い認識って事なんや。
そやから生きてる間に楽しみたい・・・大体そう言う発想そのものが、
低い心(靈)の発現由来の事でしかないやん。

自分は・・・自分の本質は・・・意識って言うのんは・・・
永遠の実在って事を知らんからや。

そやけど・・・
又、違う事まで考えてしもたけど・・・
霊的成長の仕組みは、右往左往して左往右往する。
“上”・・・相対的に高い心(靈)の発現の過程は、
大体・・・そういう事なんやと思いまんねん。

そやからそれは、“二二”って言うのんは、次の言葉に掛かる。

“神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、”

この、“神の国のまこと”・・・
まこと、眞、真、誠、
“日月神示”の中の表現でもある○ 九 十、
真実とか、誠実とか・・・の意味の“まこと”・・・

大体“まこと”って言葉は動物には無い認識やし、
当たり前やけど・・・

動物には無い認識=動物の進化過程では獲得出来ない、
認識=心(靈)の動きで、
その事そのものが、
動物の心(靈)の発現の段階が、
人(日止、霊止)の心(靈)の構造とも言える、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動・・・
そこから分類しても、
動物(・・・と、
人(日止、霊止)が認識している生物=肉体を持った霊的存在と言う意味)って、
言うのんは、
下三つのチャクラの心(靈)の発現の“自我”以下の振動しか持ってへん。
そう言う地球人も多いけど・・・
ほんでからに大体、動物はたいした言葉を持ってない。
自分の感情を表現した(発振した)声は出しても、
それは人が聞けば、(認識すれば)
ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~やねん。
そやからそれは、(“力”としての)知恵すら無いから、
言葉の種類が少ないとも言えるやん。
ほんでからに、
言うまでもない事やけど、“まこと”って言うのんは、
智性(日を知った上で獲得した性質)由来の認識やねん。
そやからそれは、相対的な比較として、
智性を持ってない存在を観れば判るやん。
それは、人の行動を見てても解る事や。
真実とか誠実とか・・・そう言う“上”の心(靈)の動き由来の行動をとらへん人は、
沢山居てるやん。
ほんでからに、
進化過程=心(靈)の発現の段階を“上”と“下”で観る・・・
その極端な例を挙げれば、先生の話の中でも何回も出てきた事やけど、
進化って言うのんは下等生物から人(日止、霊止)に進化して来たって、
認識されてるんやから、
それは、
先生のお友達のミミズ、ヒル、ゴカイ君達を見るとよう判る。
人が持ってる心(靈)の構造とも言える、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
本能しか持ってへん。
生き物の最初の心(靈)の発現は本能でしかない。
ほんでからに進化して行って、
心臓が出来て、脳が出来て、骨が出来て・・・
段々“上”の心(靈)の発現をして行く。
そして人(日止、霊止)になって“まこと”って認識も出来た。
ほんでからに、“まこと”・・・
この言葉に対する先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの概念、
真固止・・・真に固く止める・・・
古事記の言葉の修理固成でって事やねん。

修理固成って言葉でもそれは、
修理って表現がなされてるって言うのんは、
壊れた物を直すとか・・・正しい道に引き戻すって考えたらエエと思いまんねん。
そやからそれは“神の咎め”・・・“曲霊(まがつひ)”でもあるし、
右往左往と左往右往でもあるし、
アミの本の中の表現、ブーメランの法則とも言えまんねん。
ほんでからにそれは、
どんな事でもやってきた事は実るって事でもあるし、
蒔いた種は実るって事でもあるし、
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)であろうが、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の心(靈)の動きであろうが、
エネルギーを贖って発信するんやから、
どんな事でもそれは、時間の進行と共に実る。
この世界は、質と量の法則性で支配されてる世界やからとも言えまんねん。
発振されたエネルギーは必ず現象になる・・・事象として認識され得る。
その事を示しているのが、因果・・・
因は(囗)くにがまえに大・・・
“大”は、
人(日止、霊止)が発振、発信する様子でんねん。
自分が発振、発信して来た結果が、
観察され得る事象になるって言うのんが、
先生の言い回しやから、
間違った事をすれば、
修理=正すって事になるやん。
そやからそれは、何を間違えるのかって言うたならば、
自分が神格化の・・・
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いをしてへんからやねん。
ほんでからにそれは、
自分より高い存在・・・“上”の存在、
その人の進化を望んでいる主護霊やその配下や眷属・・・その霊的存在の思惑としたら、
バチを当てて道を正す。
修理固成やから、正さんならんやん。
そやから修め成して固め、完成に至る。
それが修理固成って事やねん。
それは、“理・・・この修理の理って言う字かて、
“王”に“田”に“土”=2~3番目のオーラと肉体でんねん。
ほんでからに重複するけど、
それを示してる事象が“神の咎め”・・・
バチが当たる事でもあるし、
その仕組みはローレンツ力の象徴とも言える“曲霊(まがつひ)”でんねん。
ほんでから、
修理固成の固め成すは、
骨を持ってない生物は、脳も心臓も発達してない。
ミミズ、ヒル、ゴカイ君達くらい低い進化過程の生物は脳なんかあらへんし、
心臓も血管が発達したくらいの物しかないやん。
そやからこそそれは、
てんで低い心(靈)の発現の段階しかしてへんのやし、
そやからこそ、肉しか持ってないミミズ、ヒル、ゴカイ君達は、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の低い部分としか、
感応共振せんって事や。
心(靈)の発現って言うのんは、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振・・・って、
言うのんが、先生の考えやし・・・
それは骨が大事やからこそ、
“宝=体=體=骨が豊か”やからこそ、
真に固く止める=真固止でんねん。
そやからこれは、
先生の解釈、○ 九 十(まこと)の卆、
最後の仕事・・・
神の思惑の顕現=人(日止、霊止)っていう事と同じやねん。

ほんでからに骨を構成しているミネラルって言うのんは、
宇宙線を受け止める。
そう言う話もした。
そやから進化程度の低いっちゅうのんは、
頭の骨が結晶化してへん。
それは、
沢山の生体内電流が頭に流れてへんって言う意味で、
そう言う意味での先生の認識として、
先生は、
古事記の、天の岩屋戸の話をした。
(エピローグ 参照)

ほんでからにさっきも思うたけど・・・人を観察してても、
低い心の発現の段階の人(日止、霊止)・・・そう言う人はいてるやん。
本能と情動だけで心(靈)の動きを構成してはる人・・・
それは、行い=行が動物に近い人。
ほんでからに、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念・・・それは、
進化を引き戻す・・・
最初の状態である“亜”の心(靈)にしてしまう。
亜の心(靈)に引き戻す。
そやからそれは、現時点から・・・
相対的な表現をすればって事やけど、
それは、心の動きの本能化と低振動化。
人は多少智性を持ってて、
“善”って言う概念も持ってるのに、大多数の人は道徳的な善悪しか考えん。
道徳的な事を振りかざして他者を批判したりする。
そう言う人はそれしか認識が無いって事や。

そやから“まこと”・・・
この言葉だけ見たとしてもそこまでの事を考えるやんか。

ほんでからに・・・途中を飛ばしたんやけど、

“晴れたり、日本晴れ。”

これは“二二”が晴れる、そして“日本晴れ”って表現されてる。
これは、晴れは、日と青。
青は、
三=三つのオーラと(たて棒、コン)と、月・・・
そやけどこれは辞書を見ると月部(げつぶ、にくづき)ではなく、
“丹”って言う字らしく、
それは地中にある鉱物って言う意味らしいやん。
そやからそれはストレートに帯電するミネラルって事を思わせる・・・
ほんでからに、“青”の上半分は、
生きるって言う字の、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した物らしいやん。
ほんでからにその、“青”の上半分は、
芽生えるって言う意味でもあるって辞書に書いてあった。
ほんでからにこれも、
三つのオーラを縦に繋いで、
ほんでからにそれは“一”の上に出てる・・・
それは“上”に向かう意志やねん。
そしてこの字そのものが、
“土”=2~3番目 + “一”って言う事やと思いまんねん。
更にこれは、先生と話した事やけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
乚部(いんぶ)で、乙で、
この事は前回のアップでも言うた事や。
“七”の象形文字のところを読んで欲しいねん。
そやからそれは、
日足(ひたり)“上”から横に砌(みぎり)“上”に移行し、
そして、
砌(みぎり)“上”から日足(ひたり)“下”に移行し、
そして、
日足(ひたり)“下”から砌(みぎり)“下”に移行し、
最後に“上”にはねる。

・・・複雑な言い回しをしたんやけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
こう表現するのが妥当やと思いまんねん。

ほんでからに(たて棒、コン)って言うんは、
上から下に書く。
それは神さんの意思・・・思惑が伝わる事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
丹=“青”の下半分は、
肉体の磁性を高めていく仕組みでもあり、
生きるの丿部(へつぶ)を外した表現は、
その“上”にあり、
人の思惑の顕現でもあり、
肉体を持った心(靈)=人(日止、霊止)の、
存在意義のひとつでもあるやん。
又、
“三” + (たて棒、コン)は、
自分の肉体のエネルギーをどう扱うのか・・・
それは上から下=(たて棒、コン)・・・“上”の思惑を取り込んで行かんならん。
そやから肉体の“土”=2~3番目のオーラを縦に繋いだ字って言うのんは、
その過程そのもので、
人の体の中の、
下三つのチャクラのエネルギー=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが、
胸の自省(胸の磁性“十”)によって変換されていく。
そう言う話を先生とした。
その時の心(靈)の発現が“慈悲”と“慈愛”・・・
そう言うもんを持ってへんとそれは、自己奉仕者に成る。
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)の発現って段階の、
進化過程って事やし、
それはS会での主護霊会でよく使われた言葉、
“これからの人(日止、霊止)、明日の人”・・・
アセンション後の人(日止、霊止)の心(靈)の発現って事やない。
そやから、“晴れ”・・・そう言う事を思わせる字でもあるやん。
それは霊的進化を果し、霊的成長をしたならば、
人(日止、霊止)が感じ取る“上”の要素・・・
神さんの思惑を沢山自分に取り込み、そしてそう言う肉体になる・・・
そしてこの世界の創造をして行く。
それが“青”で、その向かって左に、“日”が書いてあるのが、
“晴れ”って事やと思いまんねん。
ほんでからに“青”は、
赤 橙 黄 緑 青 藍 紫・・・物質世界で観察される振動・・・
可視光線としての、
相対的に本能の赤=ムラダーラチャクラの赤より、
振動の高い波長でもある。
相対的な観察として青方偏移・・・
自分が持ってる振動の波長よりも=チャクラの覚醒段階よりも・・・
自分の認識よりも高い認識に出逢ったならばそれは、
青く見える。
或はもっと高い波長ならばそれは、
白光になる。
そして光り輝くって事になるんやろ。

そやから“晴れたり、日本晴れ”・・・は、
“日”=創造主の振動の場(フィールド)=太陽。
“日本晴れ”の“本”って言うのんは、
漢和辞典をみると、
木の太い根のところにつけた“一”は、
それは印って言う意味があって、
その場所を示していて、木の根もとの部分とか“もと”とか・・・の意味を持つ。
ほんでからに物事の根源とか中心になるものとかの意味もあるやん。
そやから本題とか本当とか本質とか・・・
そう言う表現に使われる字でもある。
それは、Kellyさん的に思うんは、
自省(胸の磁性“十”)に儿部(じんぶ、にんにょう)+“下”の右往左往。
それが“本”って言う字でもある。
そやからそれはちょっと解り難いけど、
自省、“直日(なおひ)”・・・胸の磁性“十”に、 
“下”の右往左往でもある“一”・・・これは位置から言って、
“三”の一番下の“一”。
ほんでからにそれを全部足して、日本晴れ。
これは文章どおり“二二(ふじ)”に掛かる言葉で、
人(日止、霊止)のあるべき肉体・・・神に近づくべく肉体の事を、
言うてると思いまんねん。

そやからこそ、次の言葉、

“神の国のまことの神の力をあらはす代となれる”

神の国の神は、
“呂”を示すのが神で、それはエネルギーの回転を示してる。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” “その六”)
“国”って言うのんは、
“玉(ぎょく)”の場(フィールド)=(囗)くにがまえで
“まことの神の力をあらわす代”・・・
“代”って言うのんは、時間の進行を伴った表現で、
そやからそれは、(霊的)進化って事やねん・・・
読んだだけで分かると思うけれど・・・

ほんでからこの言葉から考えたなら、
今現在は“神の力”を“あらはしてない”って事やし、
そやからこそ、
人(日止、霊止)が、
“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・・

先生独自の言い方・・・それは、
真(真固止)・・・帯電するミネラルの結晶化・・・
それゆえの発振、発信が“国”を構成する。
ほんまの“国”って言うのんは、
そう言う意味を持ってると思いまんねん。
右翼の人がよう使う愛国心とかの意味での国とは全然違いまんねん。
大体、(今の進化過程の人が思ってる)国って概念が、
低い概念で、
それは縄張り意識の上での認識やねん。
進化した存在としての人(日止、霊止)は、
人種とか地域とか貧富とか・・・そんな事で人を区別せん。
ほんまの“国”って言うのんは、
“玉(ぎょく)”に成った人の場(フィールド)=(囗)くにがまえでんねん。
そやからそれは、
今後の世界・・・“これからの人(日止、霊止)、明日の人”が、
“慈悲”と“慈愛”を持ち、
それはアセンションとして認識され、
自己奉仕者なんていない場(フィールド)になって行くのが、
ほんまの“国”って事やと思いまんねん。

ほんでからに、
“卍もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

・・・この原文は、以下の通り、

卍も十も九も八きりたすけて
七六かしい
五くろうのない四かくるから 
三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を
十四て九れ四 
いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって
二十十七一九六てある


卍も十も・・・
これは卍=仏教もキリスト教もって解釈をされてる事が多い様やけど、
それはちょっと違うと思いまんねん。
卍って言うのんは日足(ひたり)回転やと思うけど、
ほんでからに、腹のエネルギー、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”が自省=胸の磁性“十”で上昇する様が、
日足(ひたり)回転やろけど、
この場合の卍って言うのんは、
渦巻き 左回転・・・“善の回転=日足(ひたり)回り”とは違い、
これは・・・内側から外側に発振されてる様子やと思いまんねん。

卍の回転方向
そやからそれは日足(ひたり)回転で発振、発信して事象の創造をする。
それに引き換え、“善”の回転とされてる、
渦巻き 左回転 は、
取り込んだ荷電粒子を自分の中心に送り込む。
それはそう言う心(靈)の動きを創っていく。
そう言う意味やと思いまんねん。

ほんでからに、
日足(ひたり)回転由来の事象の創造って言うのんは、
その逆を考えるとよう判るって言うのんか・・・
卍・・・その逆は、右回転=ハーケンクロイツ・・・
ナチに象徴される自己奉仕者の典型の思想。
自分達だけが優秀な民族やと思い込み他者を排斥する。
その心(靈)の動きが、ファシズム・・・
反個人主義、反自由主義、反民主主義、反議会主義、反社会主義、反共産主義等に、
現れたんやと思うし、
ファシズムって思想が、政治、経済を支配して、
国益が私益に対し絶対に優位やって思い込む・・・
まるで今のどっかの国みたいやな。
大体、今の政○家なんて言うのんは、
低い心(靈)の発現しかしてへんみたいやから、
国民の事なんか考えへん。
今どんどんそれがバレてる・・・そう言う話も先生としたやんか。
ほんでから、
低い心の発現しかしてへん特徴って言うのんか
選○演説なんかまったく意味の無いもんで、
それは、
ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~やねん。
自己奉仕者としての・・・自分の地位と立場と権利と・・・財布と・・・
保身の気持ち由来の発想が一番大事。
それがどんどんバレてる事はこれも、
先生と話したアセンションの振動の影響・・・
やって来た事の結果を出さんならんし、それを示さんならんやん。
ほんでからにそれは、神さんの腹の部分から胸の部分・・・
そう言う次元に移行する。
それを示してるのが大日如来の条帛(じょうはく)・・・
それも日足(ひたり)回転を示してる。
そして腹の段階の心(靈)の発現から、
胸の磁性“十”の心(靈)の発現になって行く
そういう事を示すからこそ、
“上”と“下”=霊的成長度って認識が出来、
それを観察して認識して行く事が、
又、
“これからの人(日止、霊止)、明日の人”に必要やろし、
その為に今、失敗の世界・・・そこに意識が位置してる・・・
そやからそれは普通の言い方をしたなら、
失敗を体験せんならん事の意義とも言える事やな。
そやけど・・・
先生みたいな根性悪い言い方してしもた。
・・・ゲロゲロ←死語。

ほんでから・・・“九も八きりたすけて”
これは、
“九も”は“何も彼も”
“八きりたすけて”は“はっきり助けて”
・・・そう言う風に読まれてる。

そやからこの場合の“九”って言うのんは、
事象の事で・・・
自分達が神の思惑を取り込んで想像した観察し得る事象の事で、
それは最後の仕事、卆の“九”・・・○ 九 十の、
“九”でもあると思いまんねん。
ほんでからに、
観察し得る事象って言う言い方がなんとなく先生的な言い方やけど、
簡単に言えばそれは、現実って事やねん。
現実と肉体を持っているって言う認識やと思いまんねん。

人(日止、霊止)の認識って言うのんは、
自分が認識した事のみ、
現実で、
それが、
本当の事やと思い込む。

これも先生が言いたかった事なんやろけど・・・

そやからそれは、
只単に現実の世界、ローム太霊さんの言う現界、
肉体に心(靈)が位置している世界・・・次元・・・
生きてる間に認識する世界=事象って事やねん。
そやけどそれ以外にも、
高い心(靈)の発現で認識して行く事象もあり、
それがある意味、
先生が太陽凝視中に失神して行く世界だったり、
寝てはる時に行ってはったり、
ハープのCDを聴いてはる時にも時々どっか行かはったりするらしいけど、
人(日止、霊止)の認識が高まる=“一”、智性、1番目のオーラが、
大きくなると、そう言う事が起きるらしいやん。

話が・・・凄く逸れてしもたやん。

そやからそれは“八”・・・“はっきり助けて”・・・
左右のエネルギーラインに神の要素が加わってから、
神格化して行く。
そういう事を示していると思いまんねん。

ほんでから・・・

“仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

この文の中の“七六かしい”・・・
これは、七は“一”+乚部(いんぶ)で、
創造主の振動が向かって右下に降り、そして“上”にはねる。
創造主の振動が顕現してそれは“六”・・・これは、陰爻で、
陰爻って言うのんは陽に対し陰やから、
物質化ってことやと思いまんねん。
事象の創造って事やねん。
それは、古神道では、
伊邪那岐之神は、
父系、霊系、精神、心、左回転、順流、陽神、男神 、
伊邪那美之神は、
母系、肉体、物質、右回転、逆流、陰神、女神 、
(ウエサク祭 月の祭り 参照)

・・・そう言う意味を持ってる。
改めて考えたなら・・・今までの話と一致する事が多い。
そやからこの間考えたみたいに陽と陰は、
“九”と“六”って言う事も考えられるやん。
そやから、
“七六かしい”・・・“一”から乚部(いんぶ)=乙・・・
そして現象化する・・・
そやからこそそれは、
“しちむずかしい”って読むのかもしれへんな。
上手くいってないって事やな。

ほんでから・・・
“御苦労のない代が来るから”は、原文では、
“五くろうのない四かくるから”
 
“五”は、
糸巻きって前回のアップで紹介したけど、
それは神経が密になる過程って事で、
それは“苦”でしかない・・・
言い換えれば“行と修行”の“苦”って事やと思いまんねん。
“苦”は腹のエネルギーが自省(胸の磁性“十”)で変化して、
それで自省(胸の磁性“十”)由来の心(靈)の動き、
“慈悲”と“慈愛”・・・そう言うもんが芽生えてくる事を示してるのが、
“苦”って言う字やって先生と話したやん。
そしてそれは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そういう事でそれは感覚優先の事象の観察から、
智性(日を知った上で獲得した性質)由来の観察になって行く・・・
それが(霊的)進化やって事やねんな。
そやからそれは、
“四かくるから”で、
“四”は、自分の心(靈)の発振、発信、息吹って事やな。
そうやって創造して行けよ・・・って事やな。

そやからそれは、次の言葉に掛かる。
“みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。”
この原文は、
“三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を十四て九れ四”

“三たま”は、三つのオーラ、“三”やろし、
ほんでからに、
天、地、人って事やろし、
そやからこそ、身魂磨き・・・肉体と霊を磨いていけって事やろし、
そやけど、
霊と魂って言うのんは、ちょっとニュアンスが違う。
魂って言うのんは、
“二”と、ム部(しぶ)・・・自分自身。
“二”が、肉体のオーラの事やから、
“二”とム部(しぶ)は、肉体を持った心(靈)由来のものって事・・・
そやからそれは、
“鬼”・・・これも前に先生と話した事があるけど、
鬼は、魂が体を離れて彷徨う・・・死者の亡霊って言う意味がある。
これは、こちら側・・・三次元の物質世界からの観察やろし、
大体それは、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)って事やと思う。
そやから、
心、靈、と、
魂って言うのんは、
ちょっと別に考えるべきやな。
そやからこそそれは次の言葉で、
“二たんにみかいて”
“みたまを不断に磨いて”って事で、
間断なき行でって事や。
“二”が、肉体のオーラの事で、
ほんでからにそれは、この世界でのオーラの事でもあるやん。
そやからそれは、
この世界の認識での時間の進行で、
磨いて行けよって事で、
それは“磨く”って言うのんも先生と話したけど、
广(まだれ)と左右の木部と“石”・・・
これに付いては、ここで説明するととても長くなるので、
思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)・・・を、
読んで欲しいねん。

そやからこそ、“二たん”“不断”は、
“二”=肉体のオーラの事やし、
これもまた重複するけど、
肉体の認識って言うのんは、
育つとか若いとか老いるとか・・・
そうやって最後には死を迎え、この世界を卒(卆)業し、
物質の次元でない世界・・・
物質の振動を伴っていない次元に心(靈)が位置しまんねん。
それが、ローム太霊さんの分類、
幽界、霊界、神界って事でんねん。
これも重要な意味が有る事をKellyさんは感じてるし、
“日月神示”の言葉の中にも幽界って言葉は出てくる。
それに付いてはまた別の機会にKellyさんの考えを述べる事として、
“三たまを二たんにみかいて
一すしのま九十を十四て九れ四”
この言葉自体が、
時間の進行を伴った表現でもあるし、
この世界で肉体を持ってる内に、
霊的成長して行けって事やとKellyさんは思いまんねん。

ほんでからに次は、
“一すしのま九十を十四て九れ四 ”
“一筋の誠を通して呉れよ。”

“一”=智性=1番目のオーラで、
まこと=○ 九 十・・・
肉体を持った霊・・・それを通してくれ・・・
そう言う事やろし、
ほんでからに、
“十四て九れ四”・・・やから、
“十”は自省で、胸の磁性“十”、
“四”は、発振、発信、息吹。
そして、
“九”は、肉体とか、卆の九でもあるし、
神の思惑の顕現・・・最後の仕事としての、
“九”であると思いまんねん。

そやからここまでの言葉、
“仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。”

・・・これは、
“五くろうのない四”
“御苦労のない代”・・・
こういう世界の創造をして行く為に、
“上”の思惑を取り込んで肉体に現象化するのが、“七六かしい”・・・
その為に、
“みたまを不断に磨いて”
“三たまを二たんにみかいて”
その方法が、
“一すしのま九十を十四て九れ四”
“一筋の誠を通して呉れよ。”

“一”=智性=1番目のオーラで、
真(真固止)の事象を創造して行けよ。
・・・そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、
“いま一十九十六あるか 
九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 
九の四八まって二十十七一九六てある”
“いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、
この世初まって二度とない苦労である。”

“いま一十九十六あるか ”は、
“一”=智性=1番目のオーラと自省(胸の磁性“十”)と、
肉体=“九”と、
そして自省(胸の磁性“十”)・・・“直日(なおひ)”。
そして“六”・・・陰爻・・・現象化って事やねん。

“九の九六八”
“この苦労は”・・・は、
“九”=肉体、
それは九と六、陽爻と陰爻、
それは陰陽でもあるし、
思いの現象化って事でもあるやろし、
思惑の顕現って言う意味でもあると思いまんねん。
そやからこそ、
“三たまを三かいておらぬ十こせぬ”
“身魂をみがいて居らぬと越せぬ、”

・・・もう敢えて説明せんでも解ると思いまんねん。

そやからそれは、アセンションに向かっての事やから、

“九の四八まって二十十七一九六てある”
“この世初まって二度とない苦労である。”

・・・この原文の表現の、
“九の四 八まって”・・・
この世=九の四 は、
二つのエネルギーライン=“八”で出来ていく。
それは右往左往と左往右往って言う、
砌(みぎり)と日足(ひたり)のエネルギーを高めながら、
バランスを崩しながら、
そして方向性(“善”)を見失い、
“神の咎め”を受けながら、
バチ当たりながら・・・
砌(みぎり)と日足(ひたり)のエネルギーを使って行きながら、
霊的進化して行く。
それはどんな過程を踏んでいったとしても、
ある程度霊的成長した人(日止、霊止)は、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
方向性に行く。
そして“上”の心(靈)の発現をして行く。
その為のアセンションって事やと思うし、
その事を示した表現やと思いまんねん。

そやからこそそれは、
“二十十七一九六てある”
“二度とない苦労である。”

・・・そう表現されてる。

そやけど、この中の、
“二十十七一九六”は、
肉体のオーラ=“二”
自省、胸の磁性“十”が二つ書かれてる。
それは、自省、胸の磁性“十”の行にも、
二つ、二種類あるって事やと思うし、
それは、
物質の事象=砌(みぎり)の事象から感得する認識と、
心(靈)の動き・・・自分の感情を観察して自省する・・・
その二種類やと思いまんねん。
そやから二つ“十”が書かれてる。
そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、
“七一九六”
“ない苦労である。”
・・・は、
“七”=“一”と乚部(いんぶ)・・・創造主の振動を切り分けて、
乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現とする。
そして“一”=智性=1番目のオーラで、
“九六”=陽と陰・・・
それは、人の心(靈)と肉体、
ほんでからにそれも、人(日止、霊止)って言うのんは、
創造主の思惑の顕現って言う事で、
そやからこれを続けて読むと、
肉体のオーラ“二”を、
物質の事象の観察と自分の心(靈)の動きを観察しながら、
神さんの思惑を受信し=“一”と乚部(いんぶ)・・・
そうやって“九六”・・・思惑と顕現をしていけって事やと思いまんねん。
ほんでからにそれが又、苦労って事やし、
“苦”=腹の段階のエネルギーから胸の磁性“十”が芽生える(クサカンムリ)って、
言う意味の字・・・そういう事やと思いまんねん。
この事に付いては、思惑と顕現 “その八” 摩多羅神
・・・を読んで欲しいねん。

そやからこそそれは、次の言葉に掛かるやん。

“このむすびは神の力でないと何も出来ん、
人間の算盤では弾けんことぞ、”

・・・現時点での人の目先の計算どおりにはならへんって事やねん。
当たり前でんねん。
人の低い心(靈)の発現だけで事象は構成されてへんから、
左往右往=失敗を体験して、教訓として自分の在り方を考え、
自省して“直日(なおひ)”して、
霊的進化して行くのが、
人の“道”って事を言うてるだけの事やねん。
ほんでからその時に自分より“上”の霊的存在の思惑も受信する。
それは自分の心の動き自体が“上”に向かってないと、
自分より“上”の存在の思惑は受信出来へん。
心(靈)が“下”に向かってれば、
苦難を試練と考えへん現実逃避とか、
目先の娯楽とか快楽を求めるとか苦労しないでよい結果を求めるとか・・・
一言で言えば・・・甘い夢とか・・・
そう言うもんを求めるようになり、
その心(靈)の動き=発振、発信が
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)・・・
そう言う受信をする・・・感応共振する。
そういう事に気をつけてくれって事でんねん。

ほんでからに次の言葉も、
そういう事を言うてると思いまんねん。
それは、

“日本はお土があかる、外国はお土がさかる。”

これはさっき言うた日本の解釈、
自省(胸の磁性“十”)の行に向かう=“直日(なおひ)”する心は、
二+(たて棒、コン)=“土”=2~3番目のオーラと肉体、
それが上がる。
日足(ひたり)回転で上がる。
そう言う意味やと思いまんねん。
そやからそれは、
自分の内面の観察って言う言い方が解りやすいと思うねんけど、
自己観察して、その心(靈)の動きを自分でよく観て、
ほんでから“観自在”・・・自分の在り方をよく観て、
そして“直日(なおひ)”=自省して、
それも左往右往って事やけど・・・
そうして時間の進行と共に存在して行く。

それに対し、
“外国”って言うのんは、
外は、外側の事象の観察で、
それは“直日(なおひ)”ではなく、
右往左往の心(靈)の動きやと思いまんねん。
本能、情動、功名心、自我・・・そういう振動で、
そう言う心の発現で事象を観て、自分の在り方を考えるならば、
それは低い欲望の達成って事でしかないし、
そやからそれは自己奉仕者って事でんねん。
ほんでからにそれは、自分の外側にしか価値を求めへん心(靈)の動き、
力を示すとか、
外見の美を求めるとか、
只々欲望を満たす為に努力するとか・・・
こんな事は低い事で、
その為に本来の価値を見失った何かって言うのんは、
たくさんあるって話を先生とした。
(事象の形骸化)

そやからそれは“外”の“国”・・・
この“外”って言うのんも辞書を見ると、
夕部(せきぶ)とト部(ぼくぶ)で、
夕部(せきぶ)って言うのは夕方、又は、
右足を意味し、
ほんでから月が半分だけ現れた様に象る・・・
そして夜の時間とか夜の活動とかの意味もある。
そやからそれは、日と月でもあるし、
陽に対しての陰やし、
思惑に対しての事象の認識=現象化って事やねん。

ト部(ぼくぶ)・・・これは、
古代中国での占い、亀の甲を火で焼いたり焙ったりして亀の甲羅に亀裂が出来る、
その亀裂で天意を伺い吉凶を占い、それを示してるのが、
ト部(ぼくぶ)で、
その占いは、これを亀卜・・・
それに近いもんに骨卜(こつぼく)という。
もともと日本にも有った事らしく鹿や猪の肩甲骨で行ったそうやねん。

そやからそれは、“天意を伺う”って事に意義があって、
何でもかんでも、
人(日止、霊止)の進化程度の低い心(靈)の発現で決めたら、
あきまへんで~・・・っていう意味やと思うやん。
ほんでからに、前に先生と話した古事記の話、
(ウエサク祭 月の祭り)
古事記をよく読むとその中にも、
太占(ふとまに)って出てきてる。
それは天の岩屋戸の話のときにも出て来ているやん。
そやからそれは、
今の形骸化した占いって事や無くって、
上の思惑ゆえの判断・・・それが天意って事で、
そうして色んな事を決めて行かんならんって事やねん。
その為に多分、天皇制・・・天意を受信する人(日止、霊止)・・・
神さんと、
人(日止、霊止)とのコミュニケーションの役割の人(日止、霊止)・・・
本来の天皇制って言うのんはそう言うもんやと思いまんねん。

又、話が逸れてしまいましてん。

要は“外国”って言うのんは、
外側の事象ばかり見てるって事で、
そう言う発振、発信で(囗)くにがまえ=場(フィールド)を構築してはる。
この場合の国って言うのんも、
“玉(ぎょく)”+(囗)くにがまえ。
“玉(ぎょく)”って言うのんは、
“王”+2~3番目のオーラ間の向かって右、
それは、
肝=怒り=“いきり立つ心(奴と心)”のエネルギーが向かって左にはねる。
日足(ひたり)にはねんとアカンのやけど、
その“国”って言う字の前に“外”って書いてあるやん。
そやから、
自分の外の観察ばかりしてるんは、
自分の外側の事象の観察しかしてへん人は、
その認識ゆえの発振、発信をして、
場(フィールド)を構築するって言うのんは・・・
言い換えればそれは“日本”に掛かり、
“直日(なおひ)”して自省(胸の磁性“十”)の行をしてへん人は、
お土がさかる・・・
右=砌(みぎり)回転して、
心(靈)が下がるって事やろし、
それは心(靈)の低振動化と本能化って言う意味での“悪”って事やねん。
又、それは、
2~3番目のオーラだけが盛るって事やと思いまんねん。
“一”=智性=1番目のオーラを獲得出来へんって事やねん。
そやからそれは、繰り返すけど、
自分の持ってるエネルギーって言うのんが、
“上”には行かへんって事で、
それそのものが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事やと、
思いまんねん。


ほんでからに・・・

“都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。
今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”

都、鄙、大洗濯・・・
鄙、これは鄙びた(ひなびた)とか・・・田舎って言う意味らしいやん。
この大洗濯って言う表現には“大”が使ってあり、
人の場合だけ“お洗濯。”って言うてる。
大は人が発振、発信する様子やって何回も先生と話した。
そやから都と鄙は場(フィールド)であるって事で、
人のお洗濯って言うのんは自分自身で、
それは霊的成長と同義の祓うって事やろ。
ほんでからにこれも先生と話した事やけど、
祓うって言うのんは、
それが悪霊を対象としても、人(日止、霊止)を対象としたとしても、
その存在の霊的成長を望む事や。
只、憑いてる悪霊を、
はがすとか自分と別々にするとか汚いもんを取り除くとか・・・
そう言う意味だけの事やないって先生は言うてはった。
それは、どんな悪霊も霊的進化して行かんならん。
そやから自分に危害を及ぼした悪霊かて、
それをした事はちゃんとした理由ってもんがあって、
その悪霊自身の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為は、
悪霊の自分の在り方を考える=自省(胸の磁性“十”)の為の指針って事になるやん。
そう言う意味で、今、
どんな地球人でも因縁から逃れる事は出来へん。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いは、
自分が“悪”って認識する事が大事で、
それを、
自分の心(靈)の動きの、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)を判別してから、
自分の行動を考える事そのものが、
左往右往で、
神格化の為にある過程とも言える事やし、
ほんでからにそれは、
生きてる人(日止、霊止)も、
死んだ存在も、
例え動物霊でも、それを知らんならんやん。

そやからこそ次の言葉、
“今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、
その積りでかかって来い、
神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”

“神の国の神の力”・・・
創造主の思惑の発振、発信=国、
神の力=“一”の右端から“下”に降り、そして日足(ひたり)“上”にはね、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を最後に書く。
要はこれから示すって事で、
そやからこそ、
“嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る”・・・
今までやってきたことの結果が出て、
目先の損得で動いてはった人は・・・言い換えれば低い心の発現由来の事で、
喜んではった人は、
苦しみ=右往左往し、
それに対し、ほんまに試練ばかり体験し、そう言う人生を送り、
自分の在り方を考え・・・苦難を試練として生きて来はった人は、
その結果が出て=“上”の存在に認められ、次の段階に移行出来る資格を持った。
そういう事やと思いまんねん。

ほんでから、

○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、
人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、
いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、
世界中の洗濯ざから、
いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、”

・・・この○は心(靈)って場(フィールド)を指してて、
ほんでからに
 
ローレンツ力は、人の神格化の為の身体内のローレンツ力で、
それがあるからこそ“上”の振動を取り込むことが出来る。
そやから、

“人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、”

・・・やろし、
それは“上”の思惑とも言い得る高い振動・・・
人の科学の分類で言えば宇宙線に近い振動。
そう言うもんを受けて、
自分の体の中で増幅しそして発振、発信する。
(サイクロトロンやシンクロトロンに似た構造)

そやから、
○ ローレンツ力は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、”

・・・当たり前でんねん。
進化程度の低い人が傲慢やから、
なんでも自分で何かをなしたと思いたいって事やから、
わざわざこう言う言い方をされてしまいよると思うやんか。
そやからこそそれは、人(日止、霊止)の存在意義=神格化から見たら、

“いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。”

どんなに力を示す事でも霊的干渉と無縁の事象は無い。
それを程度の低い人って言うのんは、
なんでも自分一人でなしたと思い込む。
必ず“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)と、
“術”って言うのんは、
自分のエネルギーを贖わんと現象化=事象の創造って結果にならへんねん。
沢山の霊的干渉があって、ほんでからにそれはうんと“上”の思惑って事があって、
それが変圧って過程を踏んで、“下”である人(日止、霊止)に垂れ、
そして色々体験し認識し・・・そうやって人は進化して行きまんねん。
そういう事を知らへんからこそ、
こんな言い方されてまんねん。
その霊的干渉と変圧・・・それは“上”からの意思=情報とか“力”とか・・・
そう言うもんは電磁波で、それを取り込む仕組みがローレンツ力でんねん。

そやからそれは、“神の国”は、
神は、示すに“呂”で、エネルギーの回転を示す事やし、
そのエネルギーを“下”=地球が地球の磁場で取り込んで、
ほんでからにそれを宇宙線とした。
そう言うもんの影響を受けてるのが人(日止、霊止)って事や。
そう言う存在が創った場(フィールド)を、
国=“玉(ぎょく)”と(囗)くにがまえ・・・
“玉(ぎょく)”の心(靈)の動きで構成されてるって事を言うてるんやと思うし、
そやからこそそれは、
“神の力でないと何んにも成就せん、”

“力”って言うのんは、さっきも簡単に言うたけど、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)に、
“一”の右端から“下”に筆を降ろし、
それは向かって右下=砌(みぎり)“下”に降ろし、
ほんでからに左上=日足(ひたり)“上”に、はねるやん。
書き順としてはイチの右端から左下に降ろし左上にはね、
ほんでからに最後に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を書く。
これは、“一”=アイって事で、
(前回の記事を読んで欲しいねん)
それは、
神の思惑の顕現の最初の段階とも言えるのが“アイ”で、
この世界の創造を示してて、
それを更に右から“下”に降ろすのは、
もっと低振動化って事になるんやろし、
それは生命の発生って事やと思いまんねん。
ほんでからにそれは、
創造主が創造主以外の意識の認識をした=創造したとも云える事やと、
思いまんねん。
そやけどそれは“力”って言う字が示すとおり、
単なる“力”でしかない。
そこにはまだ、
智性(日を知った上で獲得した性質)とか、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)とかの要素は無い。
そういう事やと思いまんねん。

ちょっと我田引水な解釈でも有るんやけど、
それは、この後に出てくる言葉でもそういう事を思わせる・・・
それは、以下の文章、

“カミと神、
アカとあか、
ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。”

このカタカナに対し、
ひらがなと漢字で表現されてるんは、
カタカナが“上”の意思、
ひらがなと漢字がこちら側、物質世界での認識って事やと思いまんねん。

そう思う根拠は、
“カミ”の“カ”は、
さっき思うた“力”(ちから)みたいに、
丿部(へつぶ)と“一”、
ほんでから“一”の右端から“下”に降り、
そして左上にはねる。
“ミ”は、向かって左から右斜め下に降りて止める書き方。
これは前にKellyさんが気が付いた事やねん。
それも前に先生と話をしたやん。
それは以下の通りでんねん。
(“上”の思惑と顕現・・・“天の御目”)



・・・“ミチ”・・・って言うのんは、
三つのオーラが向かって左から右下に降りてるのが“ミ”・・・
それは又、思惑の顕現みたいな感じでんな。
ほんでからに“チ”って言うのんは、
丿部(へつぶ)+“一”+丿部(へつぶ)・・・
神さんの思惑と顕現が二つ重なって、
それに“一”=智性=1番目のオーラが加わってる。
そう言う風にも見えまんな。

・・・って。


そやからカタカナで書かれてる“カミ”は、
“上”の振動を取り込んだ人で、
それは三つのオーラが左上から右下に下降する。
日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)“下”に現象化して、
事象の創造をして行く。
それは神の思惑を取り込んだ様子って事でんねん。

ほんでからに、
“アカとあか”
カタカナの“アカ”は、
アは“一”の筆の動き、日足(ひたり)から右で止まり、
それは、“アイ”を示す事でもあり、
そして左下に向かい、その先に丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を書く。
アイの下降・・・愛(炁)の顕現って事やと思いまんねん。
ほんでから、“カ”は、“カミ”で、今、説明したとおり。
そやから“アカ”って言うのんは、
“上”からの思惑が顕現した・・・顕現させたって言うのんか・・・
人がそれを取り込んだ事を表現した・・・
“上”の意識からの観察・・・そういう事やと思いまんねん。
それは、
ひらがなの“あか”って言うのを観ると、
“あ”は、“一”に(たて棒、コン)に、
右回りで“の”・・・みたいな字を書く。
“一”=“アイ”って事で、それが“下”に垂れてる様子を示してる。
“か”は、書き順を観ると、
向かって左から横、そして“下”に降りて左上にはねる。
そして、真ん中から左下に下ろす。
そして、向かって右にローレンツ力みたいな点を書く。
これは、ひらがなの“あか”は、
どちらも左から右の筆の動きがあり、
それは“あ”の中の“一”=創造主・・・その、
思惑の顕現って言う事でもあり、
良い形の思惑の顕現を示してるように思うやん。
そやけどそれは、
ひらがなの場合は、
こちらから(被造物としての人間が)感じる認識・・・
カタカナの場合は、
“上”から“下”に降ろした事情みたいな事を示してると思いまんねん。

ちょっと文章で表現しただけでは解り難いかもしれへんけど・・・

そう言う立場上の違い・・・
創造の意志とそれを受け取った人(日止、霊止)・・・
それによる表現の違いって事やと思いまんねん。
それとおんなじ様に、

“ヒトと人、
ニクと肉、
タマと魂のいくさぞ。”

“ヒト”と“人”、
カタカナのヒは、
乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現、
その向かって右=砌(みぎり)に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)・・・
カタカナのトは、
(たて棒、コン)とその向かって砌(みぎり)に、
点を書くやん。
その点も向かって日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)下に止める。
“上”からの意思がとどまるって事やと思いまんねん。
それに対して、漢字の人って言うのんは、
向かって日足(ひたり)に、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)で、
その砌(みぎり)に乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・

ほんでから、
カタカナのニクって言うのんは、
ニは2~3番目のオーラと肉体・・・
クは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”・・・
そして“一”の砌(みぎり)から日足(ひたり)“下”に向かって、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)のように書く。
そやからそれは、創造の思惑の顕現が人(日止、霊止)の肉体=ニ・・・
そう言う風に思えまんねん。
漢字の肉は、冂部(けいぶ)に人が二つ縦に並んでる。
冂部(けいぶ)って言うのんは、
都市から遠く離れた郊外の地を意味し、国境または城郭って言う意味がある。
ほんでからに人が二つ縦に重なってるんは、
人って言う字そのものが、
丿部(へつぶ)神の思惑の顕現と、乚部(いんぶ)人の思惑の顕現、
それが二つって言うのんはまさに“土”=2~3番目のオーラの事で、
それが冂部(けいぶ)からはみ出して“上”に向かってるのが肉って事やねん。
そうあって欲しいってことやねん。
そやけどその人二つはほとんど冂部(けいぶ)の中にあり、
まだ“上”に飛び出してない=“上”に位置していないって事で、
そやからこそ肉の世界=現界の事象は腐ってると感じるやん。

ほんでから、
“タマと魂”
カタカナのタは、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“一”とその砌(みぎり)端に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)みたいに垂れる。
そして砌(みぎり)端の中ほどに日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)下に点を書く。
さっきのカタカナのトの点とおんなじやねん。
カタカナのマは、“一”の砌(みぎり)端から日足(ひたり)“下”に降ろし、
そして今の点と同じように書く。
そやからこれも“上”の思惑の下降って事を示していて、
それに対し、
魂って言うのんはさっきも言うたけど、
ニ+ム部(しぶ)+鬼・・・
“魔”=マーラ(魔羅)っていう事になりやすいって事やと思いまんねん。
そやからここまでの話、
カタカナとひらがなと漢字で表現されてるんは、
カタカナは創造の思惑で、
その思惑通りの事象になってへん=右往左往してはるから、
“いくさぞ。”って言われてると思いまんねん。

ほんでから、
この後の言葉もそれを物語ってる感じで、
それは以下の通り。

“己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、”

・・・敢えて説明する事ではありまへんな。
自己観察以外に霊的進化はありえへんって事でもありまんな。

ほんでから、次の言葉は自己観察してから考えるべきの言葉・・・
“早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。
加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

掃除って言葉そのものが、
“己の心を見よ”=自己観察をするって言う概念から考えるべきやな。
そやからそれは何度も言うけど自省(胸の磁性“十”)と“直日(なおひ)”、
左往右往でもあるやん。
そやからそうなって欲しいから、
“さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、
さびしさ越へて時を待つ。”

これはKellyさんが思ったみたいに、

“何とかならへんのやろか・・・何とかする事・・・”

こう言う“上”の思惑を受信してるって言うのんは、
今“上”は、憂いてるからや。
これから“上”も左往右往の行に入り・・・もう入ってるんやな。
そやからその憂いの左往右往の思いが伝わってくるから、
今までやって来たことの結果は出て、
それに本当に価値があるのか・・・“まこと”の事やったのか・・・
観察させられ考えさせられる。
そやから、
“さびしさ越へて時を待つ。”・・・憂いてはるって事やねん。
ほんでからに次の言葉、
“加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

“加実”は、
場(フィールド)を示す(囗)くにがまえ・・・ただ単に口でもエエやろけど、
その日足(ひたり)に“力”・・・
さっきから何回も言ったカタカナのカと“力”、
創造主の思惑の顕現を示す字・・・
そやからこそ、“実”・・・
宀(うかんむり)に、
“三”=三つのオーラ・・・人(日止、霊止)のオーラの構成に、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
この場合宀(うかんむり)=頭って事でそう言う思想って言うのんか、
それは、
神さんの思惑を受信した様子が“加実”って事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
“世界の王になる”・・・そうならんとアカンって事やねん。
いうまでもない事やけど、“王”って言うのんは、
“三”を(たて棒、コン)で繋いだ様子で、
それは自省(胸の磁性“十”)の行もして、
“一”=智性=1番目のオーラを構成している様でんねん。
ほんでから、
“てんし様が神と分らん臣民ばかり”・・・
天意を受けたっていう意味やと思いまんねん。
天意を受信してはる人をてんし様って表現し、
それは“上”のエネルギーの示すへんと“呂”、
エネルギーの回転を示している様子を表してるのが神って言う字で、
それを受けているって事でんねん。
そやからこの文章は、
てんし様そのものが神って言う事では無く、
てんし様は神=示すへんと“呂”を受信してはるって事でんねん。
ほんでからにもっと穿った物の見方をするなら、
てんし=天使=天子・・・
天の使いはその字そのものやし、
天子って言うのんは、
子って言う字が、カタカナのアに“一”って事で、
それも創造の思惑を取り込んで“下”に垂れるって事やねん。
そやからこそ、てんし・・・ひらがなで書かれたのかも知れへんな。

ほんでから次の言葉、
“口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。”

口と心(靈)と行・・・
これは受信=口・・・そして場(フィールド)としての(囗)くにがまえ。
心は心(靈)で、それは“一”=アイを受信してはる様が、
靈って言う字やって先生は言うてはった。
(“上”の思惑の顕現・・・“天の御目”)
ほんでからにそれは、
この後の“日月神示”の文章に出てくる表現メグリ・・・
先生の解釈の“メグリ”(帀)・・・
それも“上”からの受信を示しているって言うてはった。
要は、受信して増幅して発振、発信して、
そして行=創造・・・時間の進行と共に事象を形成して行く。
それが、
神さんの思惑の最後の仕事でもある人(日止、霊止)って事や。
それは○ 九 十 の卆って事やねん。
そやからそれが人(日止、霊止)の存在意義・・・使命って事やねん。

ほんでからに、以下の言葉はもう説明はいらへんやん。
“神の臣民 みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。”

・・・何を掃除するのか・・・よう考えて欲しい・・・
これがKellyさんの感じた事やな。

そやけど・・・

(;・д・)∂ ぽりぽり・・・(A;´o`)=3=3=3=3=3=3 フゥウウウ・・・

ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε= ( ̄。 ̄;A)フゥ~~・・・ツカレタヤンカ・・・アア, シンド・・・

“日月神示”の一番最初の文章を解釈するのにもこんな長い時間がかかってしもたやん。
そやから今後、解釈して行くに当たって、
以前の解釈を紹介してたら凄く時間が掛かるから、程よくはしょるようにして行かんと、
時間が掛かりすぎて先生の寿命が尽きるとアカンから、
今後の解釈で説明をはしょり、それが理由で解り難いところは、もう一度読み返して欲しいねん。


そやからそれは、
このブログに縁のあった人(日止、霊止)、
先生の考えに共感を持った人(日止、霊止)は・・・
そう沢山居てへんやろけど、
説明をはしょったところは過去記事をもう一度読み直して、
自分の認識にして欲しいねん。

今日はこれくらいにしておきまんねん。

“日月神示”上つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈


今回は、上つ巻 第二帖 ・・・を、解釈しまんねん。

原文は以下の通り。


親と子であるから、
臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、
苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、
臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、
それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、
食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。
木の根でも食うて居れ。
闇のあとには夜明け来る。
神は見通しざから、心配するな。
手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、
人に知れんやうに、
人のため国のため働けよ、
それがまことの神の神民ぞ。
酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、
それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。
早く ローレンツ力と ○ (
モト)の神の申す通りにせねば、
世界を泥の海にせねばならぬから、
早うモトローレンツ力と ○ 心になりて呉れよ、
神頼むぞよ。
盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、
気のついた人から、
まことの神の入れものになりて呉れよ、
悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、
神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、
初めは辛いなれど、
さきを楽しみに辛抱して呉れよ。
配給は配給、
統制は統制のやり方、
神のやり方は日の光、
臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、
日の光は神のこころ、稜威ぞ。
人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、
にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、
盲には困る困る。
救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、
それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、
きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。
冬の先が春とは限らんぞ。
ローレンツ力と ○の国を八つに切って殺す悪の計画、
ローレンツ力と ○の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。
岩戸が明けたら一度に分かる。
六月の十日、書は、ひつくの神。てんめ御苦労ぞ。


・・・まず、Kellyさん的に思うんは、

“親と子であるから、
臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、
苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、
臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、”

この文章の前半、
神と人間、創造主と人(日止、霊止)・・・
そう言う関係やって事やねん。
ほんでからに、
創造主って言葉から連想される、被造物=人(日止、霊止)って概念も、
ほんまはおかしいと思いまんねん。
そやから“親と子”って言うてはる。
生命はみんな(霊的)進化して(霊的)成長したなら、
それはみんな神さんと同等になりまんねん。
ほんでから、
意識・・・存在・・・生命・・・
神さんが生命って言い方はちょっと矛盾を感じる向きもあるけれど、
意識を持ってはるから、
観察行為があり認識があり・・・そやから創造って事をする。
ほんでからにそれは、
“ア”から砌(みぎり)方向に移行した“イ”=愛(炁)・・・
そやからこそそれが低振動化して、
心(靈)の動きにもなり、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動にもなり、
ほんでからにそれは、アイが根元の振動やから、
アイは愛になり、
それは人(日止、霊止)としての愛(炁)の認識になり、
心(靈)が“慈(しげる)”・・・“慈悲”と“慈愛”になり、
自分でも他者でも良いカタチを求める・・・
ほんでから求める事・・・愛(炁)が動機の事。
これは、霊的成長度の程度の差って事を先生と何回も話したけど、
低すぎるから右往左往し、自滅し、その中で認識を得ていく。
今がそう言う世界やと思うけど・・・
ほんでから、
そう言う事を体験してでも、
もっと自分の良いカタチを望んでいく。
それは死んでからでもそうや。

そやからそう言う過程も含め、
多分そんな事を地球人は今まで何回もやって来てる。
それが輪廻転生とかの言葉(と認識)になってる。
そうやって得ていく認識、
それが、幸福=神格化の概念やと思うやん。

ほんでからに、
観察行為があり認識があり・・・事象の創造をして行く。
それは、
神さんと人(日止、霊止)と共通のもんやと思いまんねん。
そやから認識=受信。
それは人(日止、霊止)の科学が少し解き明かした電磁波の分類・・・
そう言うもんの(感覚器官での)受信で、
人(日止、霊止)は事象を認識する。
そして取り込んだ電磁波を増幅する道具が肉体。
そうやって行動し=発振、発信し、
事象を形成=創造して行く。

そして良いカタチを求める事・・・愛(炁)が動機の事。
それは(霊的)進化程度に応じた心(靈)の動きになり、
それには、
“上”と“下”の概念を持たんと、神さんに近付いて行く事は出来へん。
そやから神さんの立場から、
言い換えれば、
“上”から“下”を見たら、
それは、人(日止、霊止)を見たならば・・・(霊的に)育って欲しい

この言葉は、只それだけの事やと・・・思うけど・・・

只々、形骸になってしもた一般の宗教みたいに、
人(日止、霊止)に甘い思いを抱かせる宗教みたいに、
神頼みとか・・・現世利益とか・・・悪霊を祓うとか・・・
それは、目先の効能だけを求めるサプリメントとかと、
おんなじ発想でしかないやん。
そやから、神と人間の関係・・・
“臣民は可愛いから旅の苦をさしてある”

それは甘い事やない!!
・・・っていう事を、この言葉からも感じまんねん。

そやからそれは、S会での交霊会でよく言われた言葉、

神は乗り越えられない困難は与えない

・・・大体そんな認識は一般に無い。
色んな宗教の教義では言うてる事やろけど・・・

今の宗教を観てると・・・とてもそう言う考えが反映してるとは思えへんな。
お坊さんも神主さんも神父さんも・・・信者も、
みんな普通の=低レベルの神さんに対する認識しか、
持ってへんみたいに見える。
そやけどそれは、具体例を言わんと判らへん人が多いようで、
楽屋落ち的言い方やけど、
前のブログを読んではる人からの感想を先生が聞いた時に、
先生自身が感じた事でもあるやん。
そやから、
言葉では宗教が形骸になってる事を知ってても、
霊的成長って事や、
心(靈)が“上”に向かうって事が理解出来てへん人が多かった。
ひどい例は、先生のブログを印刷した物を読んではる人でも、
この間・・・自分が幸せになりたい一心から高い印鑑買わされてた人が居てたやん。
ちょっと家庭環境で悩んではるからやけど・・・
そやけど、印鑑買って開運・・・
自分が幸せになれるなんて言うのんは・・・カモ葱でんねん。
その事に気が付かへん・・・
自分を見失うって言うのんはそう言う事でんねん。
先生はその人に、
“事象の形骸化をよく読んでチョ~”
・・・って、言わはったらしいねん。

話が逸れましてん。

宗教・・・それが説いてる概念として、人の神格化・・・霊的成長・・・
それを“下”に垂れると戒律とか教義とかになり、
それは突き詰めて考えてしまえば、
“善”= 神格化の方向性と智性の受信って事にしかならへん。
その指針としての宗教って事なんやろけど、
今の宗教は、
ほんま儀式だけになってて、ほんでからに只の金儲けになってて、
そう言う宗教団体=場(フィールド)の構築をしてはる人の霊的成長度って言うのんは、
ほんまに低い・・・
それを具体的に言わんならん必要性も感じてるから、
それは又、別の機会に、
“Kellyさん的事象の観察と認識”で説明しまんねん。


又々話が逸れたやん。

親としての、創造の主としての神さんが、
子としての、人(日止、霊止)に望む事、
それは神さんに近付く事。
その成長過程で自分が“行と修行”し・・・段々それは、
人(日止、霊止)が神格化して行くんやろけど、
その段階があまりにも低すぎるのが地球人やって事で、
そう言う点でも、
色んな霊的存在や宇宙人や・・・霊的進化程度が少し“上”の存在は、
色んなメッセージをくれてはる。
“日月神示”でもそう言う事や。

そやから、そう言う少し“上”の存在から比較し、
今の平均的(霊的成長度の)地球人の認識って言うのんは、
やっと、
神さんと幸福の概念を持ち始めたって事でしかない。
それが・・・先生とKellyさんの感じてる事や。

そう言う点で、人は様々な事象を感じて行く=体験する。
例えば、今、現在(目先の事象)・・・
苦しんで生きてる事かて、
喜んでいる事かて、
自分の心の・・・心(靈)の動きの、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の中の、
どの部分の強化と受信と増幅=“行と修行”になってはるのか・・・
さっきの印鑑の話でもそうやけど、
それは自分の、或は自分達の回りだけの幸福を求める事が動機でんねん。
そやから苦難を=家庭環境が悪い事を、
自分達に問題があるなんて思いたくないから、
甘い言葉に乗ってしもて、印鑑買って・・・
何の解決にもならへんやん。

そやから、
霊的成長=愛(炁)の顕現の程度・・・
“上”に向かう心(靈)の動き・・・
それは自分に対する厳しさも持つようになる。
それが“慈悲”と“慈愛”でんねん。
そやから霊的成長・・・“上”の認識を獲得して行くと、
その過程で獲得する基準=“天の御目”・・・
それは段々、神さんと同等の基準を持つようになるやろ。
そうなって行くのが、霊的進化って事やろし、
その過程で、“苦”を感じていくから、
それは生体内電流の強化になり、
身体磁場の強化になり、
“行と修行”になり、
それそのものが、骨の結晶化になり、
段々、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の、
高い部分との感応共振になって行くやん。
そしてそれは自分の発振、発信するオーラにもなって行くし、
ほんでからに発振、発信に関わる肉体の構造、
そやからそれは、
骨が変容=結晶化して行く。
それが真固止って事やって言うのが先生の考えやねん。

その時の心境の変化って言うのんか・・・
それは、すべての事象は自分の在り方を示す=“観自在”。
そして自省(胸の磁性“十”)の行=“直日(なおひ)”。

ほんまはそう言う事を考えんならんのやろけど・・・

現状、今の地球人って言うのんは、
自我より“上”の心(靈)の発現があんまりない。
そやから失敗を体験させ、自省(胸の磁性“十”)させんならん。
そうやって人(日止、霊止)の心(靈)は“上”に向かい神格化して行く。
只、地球人は低すぎる・・・

そやから今Kellyさんが思うた認識・・・
そう言う分析が出来へん・・・
それだけの事なんやろけど・・・

そやからこの事を簡単に表現すれば、
現時点での平均的地球人の進化過程=“下”三つのチャクラの覚醒段階から、
“上”に向かうんは、
まず、自我=砌(みぎり)のエネルギーの強化。
そして、砌(みぎり)の行がある程度済むと、
日足(ひたり)の行に入り、
それは左往右往になり、
自省(胸の磁性“十”)し、“直日(なおひ)”する。
この事・・・それが先生の52年の人生で、
右往左往して左往右往して、
具体的に言えば、
若かった時は凄く仕事して少し金儲けして、
若いネーチャンとも付き合って、
それは、なんでも努力した結果が実ってた時もある。
砌(みぎり)の行=現象化の行でんねん。
そう言うエエ気分の時もあれば、その後・・・
凄く失敗して落ち込んだり・・・
騙されて人生の辛酸を舐めたり・・・
そう言う体験をしてはったらしいやん。
ほんでからに今は、ジジイになって来て、
自分の欲望の在り方も考え、必要な物以外は必要では無い・・・
そう言う考えになり、そこに低い功名心や自尊心は無い・・・
自分の人生は霊的成長の為にある・・・
そう言う自覚を持った。
それは左往右往の段階の思いやろけど・・・
ほんでからそう言う時には、精神的な糧って言うのんか・・・
そう言うもんを獲得している時やから、
物や金=砌(みぎり)の行で獲得する認識に関わる事・・・
そう言うもんはたいして手に入らん様になって来たらしいやん。
そやから、先生と話してると先生の決まり文句、
“うちはビンボ~”ってよく言わはる。

今の話は、先生の右往左往と左往右往・・・
ほんでからにその過程で、
太陽凝視や電気行もして、考えて考えて考えて・・・
今でも考え続けてはるけど、
そして得られたおぼろげながらの認識やけど・・・

それは“旅の苦”・・・苦難と試練・・・
その一つが、先生自身が背負ってはった因縁・・・
ある程度仕事で頑張って金儲けした事も・・・(20年前の事やけど)
ほんでから他にも、
先祖の因縁由来の病気と、
先生の御父さんが沢山の女の人を軽く扱った事。
それは、女の人を自分の欲望の対象とした・・・
結果としてそう言う事になった事。
それは先生の御父さんの右往左往って事やし、
先生の御父さんは大して霊的成長せずに早く死んでしもた。
糖尿病やったのに食事制限をしなかった=自省(胸の磁性“十”)の行を、
せんかったって事になる。
そやから先生の御父さんは、今、
閻魔の丁の浄玻璃の鏡で、
先生の人生を観て・・・見せられて、
自分の人生を悔やみ、自省(胸の磁性“十”)の行に入ってるんやろ。
ほんでからに先生の病気の場合は、
病気で死んだ先祖の因縁霊の、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きやし、
先生の御父さんは、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)より、
“上”の心(靈)の発現をあんまりしてへんかったから、
病気に負けてしもたって事やな。
そやからそれは、
因縁霊自身が思う自分が“かわいそう”・・・って、
心(靈)の動きしか持ってない。
そやから自分の苦しみを子孫に伝えたい・・・
そやけどそれは、“上”に向かう心(靈)では無いやん。
ほんでからに、
先生の御父さんが不幸にした女性の恨み・・・
御父さんが死んでしもてるから、
その恨みの連鎖由来の因縁・・・それを贖うのは、
男の兄弟は先生には居てへんから、
先生が贖う以外にないやん。

ほんでから、
その恨みの連鎖を先生は背負って、
ある程度、贖った。
因縁を贖う(あがなう)って事は、
ある意味、恨みの連鎖に加担している霊的存在の認識を変える事になるから、
それは奉仕の意義と意味を持ち・・・
他者と、自分以外の霊的存在と・・・そして、
自分自身の霊的成長って結果にもなる。
それが苦難と試練とも言える事やねん。

そやけど、一般にはそんな認識は無いな。
誰でも因縁を背負ってるんやけど・・・
只々、逃れたいって人ばっかりやん。

そやから“旅の苦”・・・って、言うてはるやん。
これは・・・只単に旅って事でなく、
存在するって言うのんは、そう認識するって言うのんは、
時間の認識が無いと、存在って実感が湧かんって言うのんか、
時間の進行を認識したからこそ、
事象の観察=認識って事がある。
進化(霊的成長=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)って事も、
あるやんか。
そやからこの言葉、“旅”・・・
只、意識が感じる時間の事やろし、
その時間の中で自分は、霊的成長をして神格化して行く。

ほんでからに“苦”がある・・・
今言うた因縁を贖うって事でもそうやけど、
それは霊的にも未熟って事やし、
未熟って言葉(の認識)に、対し、完成って概念がある。
それも良い形を望むって言う、愛(炁)が動機の概念やろし、
ほんでからにそれは・・・
ほんまの完成って言うのんは、字を観ると、
宀(うかんむり)に、
“二”に、
儿部(じんぶ、にんにょう)・・・
そして、成す。

宀(うかんむり)=頭、
“二”=肉体のオーラ、或は肉体そのもの。
儿部(じんぶ、にんにょう)=人の歩く様に象る。
そう言う事やと思いまんねん。
そやからそれは、
頭の磁性を、
“二”=左右のエネルギーライン=日足と砌(ひたりとみぎり)によって、
高めて行く。
その結果が、頭の骨の結晶化・・・それは螺鈿の様に成って行く。
(エピローグ 神の思惑と顕現・・・神聖な事象 参照)
それが肉体を持ってはる人(日止、霊止)の存在意義でもありまんねん。
それが完成の“完”って言う字で、
そう成すのが完成って事やねん。

そやから苦難と試練・・・
認識を得る為の方法論とも言える事やけど、神さんと人間の関係・・・
なんでも自分の甘い考えで、
“棚からぼた餅”的発想で、
自分が困ったら、のび太君的発想で、
ドラえもんに常識はずれなアイテムを要求する。
そんな発想そのものが、甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いの、
開運印鑑とか因縁を避けたいとか形骸の儀式だけの悪霊祓いとか、
たいして効果が無いのに、
重箱の隅をつつくようなデータをCMで流す、アホくさいサプリメントとかの発想なんやろけど、
そうやって人(日止、霊止)の肉体と心(靈)を、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の方向性に向かわしてる思惑が有る事すら、
誰も気が付かんって言うのんか・・・
真剣に思わへんやん。
そやからこの言葉自体が、そう言う霊的に鈍い人の事を言うてる。
霊的に鈍いって言うのんは、
言い換えれば、霊的進化って認識も、その概念すら無い。
そやからこそ、
只々霊的な現象を見ても、
感覚優先の物の見方で、
それをShowにしてしまいよる。
テレビでも、心霊とかUFO関係の本なんかでも、霊能力者でも、
そういう事を紹介しているサイトでも・・・
只々、感覚優先の低いものの見方ばかりの感じやな。
(事象の形骸化 “その七”~“その十” 参照)

そう言う霊的成長を示す為の事象・・・
その為に、
心霊現象やUFOや宇宙人の来訪やチャネラーの受信したメッセージや、
霊能力を示す事や・・・
そう言う事が起きだしてもう随分経って来ているんやけど・・・
それを見てそこに、
自分の霊的成長とか、自分の存在目的とか、
存在意義を見出す事が出来へんから、
それを見せる為の道具に使い、そして・・・その意味を形骸にして行きよる。
そやからそれも・・・具体例として先生と話した事もある。
その一例が、
S会に取材に来はった漫画家が、
“うしろの百太郎”を少年マガジンに連載し、
そして、
主護霊って言葉が一般に認知され、
死後の世界も認知され、
しかしそれは・・・幼稚な段階での認知でしかない。
それを知った人の大半が、
自我までの心(靈)の発現しかしていないからや。
ほんでからに死後の世界・・・
その知識を利用しただけのアホくさい映画が出来・・・
その映画を作った人を慕ってる人・・・低級な憑依現象で、
低級な解釈をしてはる人がテレビで持てはやされる。

そう言うもんが活躍する世界・・・
そやから先生は最近あんまりテレビを見んようになったらしい・・・
生身の人間を見てると心(靈)の発現があまりにも低いし、
テレビそのものが、
低い心(靈)の動きのディスプレイ(動物の発情行動)でしかない。
只、目立ちたい・・・そして金儲けしたい・・・
サプリメントの通販なんかでも、そう言う心(靈)の動きしかないやん。
そやからそれは、テレビって場(フィールド)を構成している人。
芸能人を見てるとそれはみんな自己奉仕者でしかなく、
そして番組を作ってはる人も、自己奉仕者でしかなく、
当然、スポンサーも自己奉仕者でしかなく・・・
そやから先生は、そんなものは見たくない。
テレビ見てると腹が立ってくるって言うてはった。

又々々、話が逸れたやん・・・

そやから次の言葉でも、今Kellyさんが思うた事とおんなじやな。

“苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、
臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、
それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、
食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。
木の根でも食うて居れ。
闇のあとには夜明け来る。
神は見通しざから、心配するな。
手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、
人に知れんやうに、
人のため国のため働けよ、
それがまことの神の神民ぞ。”

・・・そやからこの言葉も、
自分の在り方を考え、
自分より“上”の事を信じて行けって事でしかないねん。
目先の苦労を自分の試練と考えへんから、
“苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、
臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、”

・・・ほんま、
情けない事になってるな・・・って、言い方やねん。

ほんでからに
“鼠でも三日先のことを知るのに、
臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、”

鼠の予知能力・・・そう言う言い方をされる事もあるようやけど、
それも甘い期待を持った言い方でしかなく、
只単に地磁気に敏感・・・
それは、
人(日止、霊止)と鼠を相対的に比較したらって事でしかなくって、
現状の人は只、
“上”の存在との霊的感応に鈍感になってしもたって事やねん。
それは
“下”の霊的存在としか感応共振せんって事になってしもてるのが、
今現在の、価値のあるもんが形骸化した世界でんねん。
霊的感応って言うのんは、誰にでも起きてる事で、
只、そう言う自覚が無いって事で、
力を示すとかなんか発明するとか考えが閃くとか・・・
盗むとか奪うとか殺すとか・・・
そういう事かて現象として観察されるまでには、
沢山の霊的干渉と自分がエネルギーを贖い、
そして、
自分の心(靈)の発振、発信の結果でしかない。

現象として観察される・・・創造って事やろけど、
今言うた事かて、そこには一般に言う善悪もあるやん。
そう言う“善悪”って概念を持ち始める事そのものが、
“上”に向かう基準で、
その事を少し知ってるけど、先生の言う“善悪”・・・
神格化と、動物化=心の本能化って認識は無いな。

そやから、
心(靈)の動きが“下”に向かってはるから、
自分より相対的に高い存在=“上”の霊的存在からの思惑の受信が出来へん。
それは“上”と感応共振せんって事やねん。
そやからそれは、
自分の心を見失ったって言う下世話な表現も出来るけど・・・
これはその現状を正確に言い表した表現では無いな。
その言葉には、
心=靈って概念が無いし、
ほんでからに心(靈)は、
自分の外側の振動=事象の観察によって育って行くって事を知らん・・・
その上での表現が、
“心を見失った”・・・とか、“心無い”・・・とかって言い方になるんやな。
そやからそれは、
“慈悲”と“慈愛”って方向に心が向いてない。
自省(胸の磁性“十”)の行をした人(日止、霊止)が、
少ないって事でしかないやん。

そやからそれは少し“上”の事を考えれば判り易い。
自省(胸の磁性“十”)をした人(日止、霊止)なら、
それは、
愛(炁)の顕現の程度が違い、
自分の思想や行動にそれが現れ、
他者を利用するとか害するとかの振動を発しない・・・
それは、自己奉仕者では無い。
そう言う人(日止、霊止)になって行く。
“下”の心(靈)の発現、或は自分の心(靈)が“下”に向かってる。
そやからこそ自分より“上”の存在の思惑を受信せん。
“慈悲”と“慈愛”を持ってないから感応共振せん。
ほんの少し“慈悲”と“慈愛”を持ってても、
心(靈)が本能化してたなら、“悪”・・・
思いが“下”に向かってたら、
目先の苦難を、(霊的成長の為の)試練と考えんって事やねん。

人(日止、霊止)は肉体を持った心(靈)やから、
いつでも霊的干渉=電磁波の受信をしてはるし、
それを取り込んで霊的成長するんやけど・・・
その為にチャクラの覚醒って概念も有るんやろ。
それも“上”と“下”を知る為の事やねん。

ほんでからにチャクラの存在意義・・・
それは、発振、発信やから、
自分が苦難と試練に遭遇し、その中で考え考え考え・・・
更に思い続け、発振、発信し、
ほんでからそれによる霊的干渉がある・・・自分の心(靈)との感応共振がある。
その霊的干渉ってもんが、
自分自身の霊的成長って方向性の受信やったならそれは、
ほんまの意味での主護霊って存在からの通信で、
或は、その眷属からの通信を受信する。
そやけど、今言うたみたいに、
その人の心が“下”に向かってはったなら、
具体的に言えば、
逃れたい・・・避けたい・・・甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見たい・・・
苦痛は感じたくない・・・
試練なんて真っ平ゴメンでっせ!!・・・みたいな発想・・・
それがインチキ宗教や霊感商法や甘い夢を見させる占いや・・・高い印鑑や・・・
或はもっと本能的になるとしたら・・・
風俗行くとか、酒飲むとか、美食を追い求めるとか、博打でうさを晴らすとか・・・
それは、八戒やな。
そうやって、
もっと恨みの連鎖を増して行く、
悪魔=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の、
“魔”=マーラ(魔羅)の、
霊的存在の、傀儡の・・・その霊団の仲間になって・・・
死んでからも未練たらたらの浮游霊になって、
そして、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の場(フィールド)を構築して行く。
もうこの世界の人はそう言う霊的干渉ばかりの人やから、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの場(フィールド)になってる・・・
そやからそれは、前回言うた事、
天意を伺う事を忘れてしもてる・・・
そう言う心(靈)の動きを忘れてしもてる。
それは、何度も言うけど、
自分の心(靈)が本能化する方向性に向かってる事やねん。
そう言う事を言うてるだけやと思いまんねん。

纏めれば、
鼠の場合は自分の身を守る為に、地磁気の異常を感得するんやろけど、
人の場合は、
自分自身の良い形を願ってはる主護霊って存在がいて、
それは自分(の心=靈)にとって、
一番身近な“上”の存在でんねん。
ほんでからに蛇足やけど、
主護霊って言うのんはその人の死ぬ時期まで知ってはって、
その人が死ぬ一ヶ月前には何らかの形で知らせてくれてはるんやけど、
・・・こう言う事はローム太霊講話集に書いて有るんやけど・・・
その意味をあの本を読んだ人は・・・考えた事が有るんやろか?
その人の死ぬ時期まで知ってはるって事は、
それを避けようという考えではなく、
その死の体験が、その人の霊的成長にとって必要って認識を持ってはるから、
通信を送る。
今の人って言うのんは目先の事ばかり見てはるから、
その事に気が付かへん。
死に付いても意味があるに決まってるけど、
それも因縁とか恨みの連鎖とかの事を考えんならん。
そやからこの事も別の機会に、
Kellyさん的事象の観察と認識で考える事にして・・・

要は、
自分より“上”の霊的存在の通信を受けるって事が、
出来んようになって来た・・・
そやからそれは、
低レベル化=悪の方向性・・・心の動きの本能化と低振動化って事を言うてはる。
それそのものが先生と話した、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)・・・
自分達の心の中の事やねん。
そう言う人やからそれは、低い心(靈)の動きとしか感応共振せんやん。
それが、
自分の心(靈)の動きの、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事を認識せんと、
身魂掃除って事にならへんやんか。

そやからこの間も言うたけど、何を掃除するのか・・・
それは、自分の心(靈)の動き=発振、発信・・・
それを区別して行く事が“上”に向かう心(靈)の発現になって行くんやろな。
高度な自己観察・・・そしてそれは、
創造=事象の認識に繫がって行く。
そやからここまでの第二帖の言葉はそう言う事も言うてると思うし、
この言葉を読んだならそう言う事も考えるべきやな。

そやから、目先の事象で心(靈)が、
“悪”に向かわんようにって言う意味で、
次の様に言うてるように思うやん。

“それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、
食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。
木の根でも食うて居れ。
闇のあとには夜明け来る。
神は見通しざから、心配するな。
手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、
人に知れんやうに、
人のため国のため働けよ、
それがまことの神の神民ぞ。”

この後半の言葉、

“神は見通しざから、心配するな。
手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、
人に知れんやうに、
人のため国のため働けよ、
それがまことの神の神民ぞ。”

やって来た事の結果は全部自分の心(靈)の中にある。
認識って、そう言う事でもあるし、
そしてその努力=エネルギーを贖った事。

今の時代では、
自己奉仕者の場(フィールド)では、
神さんの腹の段階の心の発現の次元では、
右往左往=失敗を体験させる為の次元では、
ほんまに価値の有る事・・・それを現象化させる事は出来へん。
ほんまの事って言うのんは、
多くの人には判らへん・・・理解出来へん・・・
それやからこそ価値が有るともいえる事やし、
それは“玉石混交(淆)”って言葉が示している通りやし・・・
そう言う事も感じさせる言葉やな。
そやから、
ほんまに価値の有るもん=神格化への指標とかって言うのんは、
現時点、力を示す事が出来ん=顕現出来へんって事や。
価値の有るもんはなんでも形骸になってて、
その理由は、
大半の人の心(靈)の発現が自我までの進化過程やから、
そやからそれは、
失敗を認識せんならん事象=今の時代やからって事やねんな。
そやけどそれも、
段々・・・馬脚を現すっていうのんか・・・それは、この間も少しぼやいたけど・・・

人を欺いて利用して、
自分の欲望を満たす為の砌(みぎり)の行をした人達は、
日足(ひたり)の行に入らんならんから、
やって来た事がバレてきてるやん。
そやから、ほんまのアセンションって言うのんは、
そう言う心(靈)の動きの変化やって思うし、
その為に“上”はバチを当てる。
“神の咎め”があるやん。
ほんでからに自分が、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行い=発振、発信をして来てる人は、
それもいずれ、結果になるって事を言うてる。
それを示してる言葉が、

“闇のあとには夜明け来る。
神は見通しざから、心配するな。”

・・・って事やな。


ほんでからに、以下の言葉、

“酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、
それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。”

これは・・・例え話やな。
なんでも自分の創造した事は結果になって帰ってくるって事やな。
ほんでからに自分の霊的成長度が高まり、
それが、
事象の構築に関わって来るって言うのんが、
先生が思う・・・霊的進化の高くなった概念・・・

“時空の結晶化”・・・すべての想像は創造に繫がって行く。
それが極まれば、
なんでも思い通りの場(フィールド)を創って行く事が可能やろし、
可能とか不可能って言葉自体が死語になるやろし、
そやからそれは、
事象って言うのんは自分の心(靈)の中の認識に過ぎない・・・
それを共有してる、今の段階の心(靈)の進化過程って言うのんは、
まだ、動物の集合意識に近いのかもしれへんな。
物質の次元の認識を、
沢山の人で共有してるだけやな。

そやから人は“独り神”になったなら、
自分の場(フィールド)=自分の宇宙を構築出来る。
そこまで行かんと神格化って事にはならへん。
そう言う話も先生としたけど、
観察され得る事象そのものが、自分の内面の=心の中で感じている事って事。
大体そう言う認識すら無いけど・・・そんな事、
誰も考えた事は無いやろな。

その考えに基づいて今の世界を見たなら、
進化過程の、霊的成長度の低い、
心(靈)の発現由来の存在の場(フィールド)・・・
自己奉仕者の奪い合う世界になり、
それが当たり前になってる。
それは、人の霊的成長を望む世界になんか、
絶対にならへんって事を考えさせる事やな。

又々々々、大幅に話が逸れたけど、
この言葉を見てアホな人は、低い認識しか持ってへん人は、
酒と煙草の事しか考えへんやろけどな。

そやけど、酒や煙草、
そんなもんを思い通りにしても霊的成長出来へん。
ほんでからにこの言葉は時代背景もあっての事やろし・・・
そやから人(日止、霊止)って存在はいずれ、
どんな事でも自分の思い通りにする事が出来るようになる。
それまでは試練を体験して、
“行と修行”をして霊的成長して行かんならん。
その認識を持たん・・・それが出来へん人を指して、
“それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。”
・・・って事やろし・・・

そやけど・・・随分色んな事考えてしもたやんか。

ほんでからに次の言葉、

“早く ローレンツ力と ○ (
モト)の神の申す通りにせねば、
世界を泥の海にせねばならぬから、
早うモトローレンツ力と ○ 心になりて呉れよ、
神頼むぞよ。”

これは、
霊的進化の為の肉体の法則性って言うのんが、
身体磁場の強化によるローレンツ力で、
それが、
ローレンツ力と ○(モト)の神”って言われてる。

○=靈、荷電粒子で出来た心(靈)。
ほんでからに、
神=示すと“呂”、エネルギーの回転。
それを受信して感応共振する事が心(靈)の発現。
この事はもう説明はいらへんやろ。
そやから“モト”って言うてはる。
“モト”って言うのんは、
“モ”は、
“二” + 乚部(いんぶ)。
肉体の磁性とも言える2~3番目のオーラで、
乚部(いんぶ)=人の思惑の顕現をして行けって事やと思いまんねん。
ほんでからにそれは、“一”+乚部(いんぶ)であるなら、
・・・そうも見えるんやけど・・・
“一”=アイ=創造主の振動を切り分けて、
(七の象形文字の意味)
砌(みぎり)“下”に降ろす=現象化って事やねん。
“ト”は、
(たて棒、コン)と日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)“下”に止める点。
“上”の思惑が降り、砌(みぎり)=現象化したカタチやと思いまんねん。

ほんでからにこれはカタカナで書かれてるけど、
もし、“モト”が、“元”やったなら、
これは、
“二” + 儿部(じんぶ、にんにょう)で、
肉体の磁性=2~3番目のオーラと、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)やろし、
ほんでから儿部(じんぶ、にんにょう)は、
人の時間の進行を表してるから、人の創造・・・
そう言う意味になって行くやんか。

ほんでからに次の言葉は、
認識の低い人の事を言うてるし、
そして、今の指導者的立場の人の事を言うてる。
さっきも言うた、今、馬脚を表してる人だけや無くって、
ほんまに価値の有る事を形骸にしてしもてる人すべての事やねん。
甘い夢を見させる宗教も、
権力だけの天皇制も、
霊的成長の概念を捨ててしもたヨガも、
処置だけ考える医療も・・・例を挙げてたらきりが無いやんか。
ほんでからに、“上”のメッセージを低い解釈してる人も・・・
只単に、低い心の発現由来の認識でしかないから、
“盲”って表現されてる。
ほんでからに、それではアカンって事も言うてるやん。
それは以下の言葉、

“盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、
気のついた人から、
まことの神の入れものになりて呉れよ、”

“まことの神の入れもの”
これを先生的解釈を交えて換言すれば、
まこと=○ 九 十 神さんの最後の仕事としての人の肉体の創造。
(創造主の)思惑と顕現って事で、
それは真実=真固止の認識、
そしてそれは真に固く止める=骨の結晶化。
そうなって行かんと高い振動との感応共振が起きん=神さんの思惑を受信出来へん。
そう言う事でんねん。
その具体的方法が太陽凝視でんねん。
そやけど、どういうつもりで=発振、発信で、
太陽凝視して行くのかが・・・
言い換えれば、
神さんのオーラとの感応共振としての太陽凝視・・・
それが大事な事でんねん。

ほんでからに、
認識の低い心(靈)の発現の低い霊的成長度の人が、
活躍してる世界やから、
“盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら”って言い方になるし、
その結果が次の言葉で示されてる。

“悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、”
・・・今の世界そのものやねん。

それではアカンから、
“気のついた人”・・・に、対して、

“神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、
初めは辛いなれど、
さきを楽しみに辛抱して呉れよ。”

そう言うてはる。

ほんでからに、次の言葉は、
“配給は配給、
統制は統制のやり方、
神のやり方は日の光、
臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、
日の光は神のこころ、稜威ぞ。”

配給とか統制って言うのんは、
低い心(靈)の発現の人が考える事でんねん。
こんな事は説明する事自体アホくさい事でんねん。
物を制限して金儲けする・・・
そやから、
なんでも必要な物は手に入るって場(フィールド)を壊してしもて、
霊的に高い世界では物に困るって事はあらへんねん。
(通貨としての)金なんか無いねん。
そやから自分達の低い愛(炁)の顕現の為に奪い合って・・・
そやからこそ、それが間違いやから、
沢山の物を与えられんようになった世界が、
この世界でんねん。
それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の仕組み・・・
物質しか認識の無い心(靈)の発現の“石屋の仕組み”・・・
帯電するミネラルが固まっていない段階の心(靈)の発現、
その段階での愛(炁)の顕現の程度。
そやからそれは、腹の段階の心(靈)の発現でしか無い事やねん。
(事象の形骸化“その十一”
 事象を形骸にする仕組み・・・そして、真実=真固止の無い世界 参照)


大事な事は、
“神のやり方は日の光”
“稜威ぞ”
・・・この言葉は、“イツ”古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、
それは、激しい雷光のような威力って事らしいやん。
ほんでからに、
“稜威”を辞書で見ると、威稜とも言われ、
その意味は、
神霊の威力。みいつ。天子の威光。
類義語として、威霊って表現もある。
Kellyさん的に思うんは、
天子の威光・・・これは天意を受けた人のオーラの事やと思いまんねん。
それを言い表した言葉が“稜威”やと思うし、
ほんでからにそう言う高くなった霊的存在を、
“威霊”・・・そう呼ぶと思いまんねん。
そやからそれは、
大体、神さんや天皇の権威を示す言葉として使われてるんやけど、
ほんまの天皇って言うのんは、
天=“一” + 胸の磁性“十” + 人・・・
ほんでからに“白”と“王”。
この言葉そのものが霊的進化したオーラを示す事でんねん。
この場合の“白”って言うのんは、
クンダリーニの白光で、
白い光は、
波長の短い高い振動を相対的に観察した時の色でもあるし、
それは、
身体内のシンクロトロンの構造に由来するって言うのんが、
先生の説でんねん。
肉体がシンクロトロン様の構造を持つには、
胸の磁性“十”の強化と、
手足の神経(電磁石として)の発達と、
頭の磁性の強化が必要で、
“行と修行”による、
生体内電流の質の変化と、
量を獲得せんならん。

そやからそれは、
自省(胸の磁性“十”)の行と、
電気行と、
太陽凝視による高い振動=神さんの思惑の取り込みって言うのんが、
必要でんねん。
そやから低い心(靈)の発現由来の太陽凝視って言うのんは、
腹のエネルギーの強化、
それが中心の心(靈)やから、功名心と自尊心、
そやから目立ちたい・・・ディスプレイ(動物の発情行動)の言葉にもなり、
ほんの少し太陽凝視しても、
太陽凝視やってまっせ~とか、
不食でっせ~とか、
心身浄化してまっせ~とか、
アセンションしまっせ~とか・・・そんな言葉になるんやろ。
ほんでからに腹の段階の心(靈)の発言由来の太陽凝視は、
内蔵機能の強化=不食って事にしかならへんし、
そう言う進化過程やからこそ、“日月神示”の中の表現、
特別神憑り=太陽凝視・・・
これは先生の解釈でしかないけど、
それは“九部どおりしくじる”・・・そう言う事になると思いまんねん。
(思惑と顕現“その十” “上”の思惑の顕現・・・“天の御目” 参照)

ほんでからに次の言葉も、
只々“上”の存在が憂いてる言葉で、
それはKellyさんが思うた事、
“・・・何とかならへんのやろか・・・何とかする事・・・”
それとおんなじでんねん。

“人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、
にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、
盲には困る困る。
救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、
それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、
きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。
冬の先が春とは限らんぞ。”

そやから、
自分達の立場って言うのんか・・・
自分達は成長過程で低すぎる事を知らんから、
“盲”って表現されてるやんか。
それは先生のチョ~ややこやしい言い方と共通でんねん。
“事象を観察する視野が狭い”・・・

・・・よう覚えとかなアカン事でんな。

ほんでからに次の言葉は、

ローレンツ力と ○の国を八つに切って殺す悪の計画、
ローレンツ力と ○の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。
岩戸が明けたら一度に分かる。”

ローレンツ力と ○の国を八つに切って”
これは“上”からの振動の受信を、左右に分けてる事で、
それは、
砌(みぎり)の行と、
日足(ひたり)の行・・・それが一緒になってへんって事でんねん。
調和が取れて無いって事でんねん。
そやから、八つ=八個って事とちょっと違うと思いまんねん。
“八”に対してのKellyさんの解釈は、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。
・・・を読んで欲しいねん。

そやからそう言う点で、今の事象、
砌(みぎり)の行に傾いてる世界が、
今の自己奉仕者の世界で、
それは失敗して壊滅して自滅して崩壊するに決まってるやん。
ほんでからにそれそのものが
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の計画って事でしかない。
そしてそれは、
自分達の心(靈)の動きで創造して来た結果でもあるやん。
その自分達の心(靈)の動きに感応共振している霊的存在は、
目先の観察では低級な悪霊やけど、
その悪霊を増やした仕組みを作らせたのは、
その存在の思惑って言うのんは、人の甘さに付け入る事でしか無いやん。
そやからそれは、
甘い夢、
自分だけ幸福になりたい、
物質欲=物質しか認識の無い心(靈)の動きによる愛(炁)の顕現、
今の事象って言うのんは、
その心(靈)の発振、発信による事象って事や。
ほんでからにそれは、
砌(みぎり)ばっかりの行=失敗を体験せんならん行って事でしかない。
そやからそこには、人の進化を遅らせたい・・・
自省させない・・・人生を振り返らない・・・苦難を試練と考えたくない・・・
そういう事そのものがアセンションの振動の受信を遅らせる事で、
それは大日如来の条帛(じょうはく)に象徴されてて、
腹のエネルギーが、
日足(ひたり)回りになる事をさせないって事になるやん。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は、
砌(みぎり)回転やから、
心を“下”に向かわせる事やから、
心(靈)の本能化って事やから、
それそのものを悪の計画っていうてると思いまんねん。
もう一度言えばそれは、
やってきた事を振り返る心(靈)の動きを持たせたくない。
自省(胸の磁性“十”)の行をさせない。
自分の心(靈)の動きの分析をさせない。
心(靈)の動きの中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
“悪”と思わせない=掃除身魂出来へんって事やねん。
ほんでからにそれが、
先生の解釈の、
“悪”=亜の心(靈)=心の動きの本能化と低振動化の概念やねん。

それは、
ローレンツ力と ○ の国”って言うのんを解析したら解りまんねん。
○=心(靈)、 
ローレンツ力=ローレンツ力、
国=“玉(ぎょく)”になった人の構築する場(フィールド)、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる。
これは先生の認識やけど、
霊的進化の仕組みを示してる字が、“玉(ぎょく)”で、
それは、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)としての、
荷電粒子の取り込みをも、示し、
ほんでからにそれは
“善の回転=日足(ひたり)回り”をせんならんって事やねん。
そやから、この言葉自体が、
“上”からの振動を取り込んで霊的成長をして行く過程を言うてる。
そやから、
○=心(靈)の場(フィールド)と、
ローレンツ力=ローレンツ力、
荷電粒子の影響を受け、○=心(靈)の発現をして行く。
それは、物質を伴った心(靈)=人=丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)、
神さんの思惑の顕現と人の思惑の顕現、
それが又、日止、霊止って表現出来るやん。
ほんでからにそれは心(靈)と物質=肉体やから、
卆・・・○ 九 十 の、九と十・・・最後の仕事、
神さんの思惑の顕現の最後の仕事。
この九って言う字でも、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”+ 乚部(いんぶ)
“一”=アイ、愛(炁)が、
人(日止、霊止)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)に、
影響を与える事を示している字でもあるやん。

そやけど、自分達の心(靈)って言うのんは、
なんかの“苦”に遭遇すれば、
肉体を持ってるからこそ、
本能って振動を心(靈)に持ってるからこそ、
すぐ“下”に向かう傾向がある。
その事そのものが、外側の事象の観察=外国って事で、
目先の事に囚われやすくなってしまう心(靈)の動きやな。
ほんでからにそれは、
自分の心(靈)の動きの中の、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す事が、
出来ないって事やろし、
次の言葉はその事を言うてると思いまんねん。

ローレンツ力と ○の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。”

“外国の臣”=外側の事象の形成の為に場(フィールド)=(囗)くにがまえを、
構築している人、
その仕組みが“玉(ぎょく)”で、それは“上”の思惑の顕現でもある。
ほんでからにそれは、外=砌(みぎり)の行=現象化をしてる人って事やろし、
人(日止、霊止)はなんらかの“苦”に遭遇したら、
自分の心(靈)の動きを観察する事が出来へんようになり、
外側の事象のエエとこばっかり見るようになるやん。
そやから、
“外国にも神の子がゐる。”・・・
外側の事象の観察でも・・・それを成し得た人って言うのんは、
エネルギーを贖ってるし、
ほんでからにそれは、
“神の子”・・・この言葉が示してると思いまんねん。

この“神の子”って言うのんは、
“神”=示すへんと“呂”、エネルギーの回転、
それは普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)でもある。
それが“下”に降りたのが、
“子”・・・日足(ひたり)から砌(みぎり)端に向かい、
そして日足(ひたり)斜め下に下ろし、
次に
亅部(けつぶ こう かぎ)・・・“上”から“下”に降ろし、
日足(ひたり)上にはねる=日足(ひたり)の上昇って事やねん。
それそのものが、良いカタチの創造の為に、
“下”のエネルギーを日足(ひたり)“上”にはねる。
それを示してると思いまんねん。
ほんでからにその真ん中に“一”・・・アイがある。
この“一”は、“上”と“下”を区分けしてまんねん。
チョ~ややこやしい言い方してしもたけど、
“子”って言う字は、
第二帖の冒頭の言葉としての、
“親と子”・・・それは、
神さんの思惑の顕現って事でんねん。


そやからそれは、
“外国にも神の子がゐる。”
外側の事象の構築でも、
神さんの思惑があり、
そして神さんの思惑通り=“上”の心(靈)の発現の上で、
創造して行かんならんって事でんねん。

ほんでからに次の言葉は、
“岩戸が明けたら一度に分かる。”

岩戸=山+石+“一”+尸(しかばね、かばね)
これは、
脳=山の発達を示した言葉で、
それは、
戸=“一”、イチ、イツ、稜威、+ 尸(しかばね、かばね)肉体。
肉体を使って“行と修行”して、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と、
感応共振するからこそそれは、
“天の岩屋戸”って言われるやろし、
それは1番目のオーラに顕れるから“稜威”って事になる。
それやからこそ、
その砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行の仕組みって言うのんが、
“明けたら一度に分かる。”・・・で、
それは、
日と月、
日足と砌(ひたりとみぎり)、
そのエネルギーはイダとピンガラでもあるやろし、
“八”やろし、
そうやって日足と砌(ひたりとみぎり)の行を繰り返し、
岩戸=腹のエネルギーと脳を繋ぐ事、
そうやって人は神格化して行く・・・
そして神さんの基準でもある“天の御目”を獲得する。
そやからこそ、
“一度に分かる”って事になるんやろ。

そしてこれはチョ~我田引水な解釈やけど、
“明けたら”って言うのんは、
日、月、気、多、羅、で、
太陽凝視と月の凝視で、
沢山の振動=目で獲得した生体内電流を、
“羅(目の下の錐体状の神経)”に流すって事でも、
あると思いまんねん。
そやからそれは“波羅密”と同義でんねん。

以上・・・第二帖は、
神さんと人間の関係、
ほんでからに霊的成長の仕組み、
ほんでからに今その方向性から外れてまっせ!!
大体、そう言う事を言うてると思いまんねん。

今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第三帖 Kellyさん的解釈


今回も前回に続き、上つ巻 第三帖を解釈しまんねん。

原文は以下の通り。


善言(よごと)は神、
なにも上下、
下ひっくり返ってゐるから、分らんから、
神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。
今にこのおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになるから、
それまでに身魂をみがいて置かんと、
身魂の曇った人には何ともよめんから、
早く神こころに返りて居りて呉れ、
何も一度に出て来る。
海が陸になり陸が海になる。
六月十一日の朝のお告げ、みよみよみよひつくの神。

まず・・・“善言(よごと)は神、”
これは、先生の概念での、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
“言”=発振、発信やと思いまんねん。

そやから、この文章に少し言葉を足したら理解し易いやん。
それをKellyさん的に言い換えれば、
“善言(よごと)=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
発振、発信される様は、
“呂”エネルギーの回転と示す=神、”

そやからこれも、こちら側から観て(人、日止、霊止、の立場として)、
“上”の思惑の顕現って言う意味があるやん

ほんでからに大体、この文章は、
高い振動の受信の事、
それによる心(靈)の構築そのものの事を言うてると思いまんねん。
Kellyさんがそう思う根拠って言うのんか・・・
そう思わせる言葉が以下の事、

“このおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになる”

これは、
“一”=アイ=創造主の振動、
“二”=人(日止、霊止)の肉体、
“三”=人(日止、霊止)のオーラの構成。

ほんでからに、オーラ=その人(日止、霊止)の認識そのもの。

そやからこそ、ヒフミ・・・
“ヒ”=日=創造主の思惑を送ってくる存在。
“フミ”=思惑を言葉とした、
メッセージとしての文(ふみ)=“善言(よごと)”の“言”。

それを又、
人(日止、霊止)が受信すれば、
人(日止、霊止)のオーラの構成、“三”になる。
動物のオーラ“二”に対し、
“一”=智性=1番目のオーラを獲得した様を、“三”と表現される・・・
そう思いまんねん。

そやからこそ順序が逆になるけど、

“神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。”

人(日止、霊止)が、
“神の心”と同等になれば、
それは太陽凝視を教えてくれたKさんと先生の言葉でもある、
“天の御目”の獲得と認識って事やろし、
それは、
心(靈)が(霊的)進化過程で段々“上”に向かう。
それは、
人(日止、霊止)の心(靈)の構造、そう認識され得る言葉でもある、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動、
その言葉一つ一つを観れば解るやん。
ほんでからにこれは、“下”から“上”で、
チャクラの覚醒と同義でんねん。

そやから人(日止、霊止)は、
“メグリ”(帀)の“一”=創造主の振動=アイ=創造主の思惑の顕現・・・
そやから段々、“上”の視点での基準を獲得し、
それが“一”=智性=1番目のオーラになる。
それは、“鏡”・・・
これは、三種の神器としての鏡、
八咫鏡(やたのかがみ)、アジナーチャクラ、第三の目・・・
色んな表現があるけれど、
それは、
“メグリ”(帀)の、“一”から“下”に降りた、
真ん中の縦の棒でんねん。
(思惑と顕現 “その十一” “上”の思惑の顕現・・・“天の御目”
& 
エピローグ 神の思惑と顕現 神聖な事象 参照)

ほんでからに、
“メグリ”(帀)のその真ん中のラインの受信は、
身体磁場の強化って事をせんと、
高い振動は受信出来へん、感応共振せんって事で、
それが足らん・・・そう言う人は、
動物に近い心(靈)の発現をしまんねん。
当然、行動も本能と情動が中心って事でんねん。

その身体磁場の強化の為にも、左右の磁性、エネルギーライン、
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行があるやん。
それは右往左往と左往右往でもあるし、
その時の心(靈)の動きが自省(胸の磁性“十”)の行でもあるし、
“直日(なおひ)”でもある。
ほんでからに心(靈)の動き・・・それは“上”に向かうか“下”に向かうのか、
どっちかでしかないって事でもあるし、
例えばそれは、自分の在り方を考えへんのであれば、
智性を持った心(靈)が、
本能とか情動に向かっていれば、
“悪の回転=砌(みぎり)回り”砌(みぎり)回転やろし、

自省して自分の在り方を考える左往右往の心(靈)の動きであれば、
“善の回転=日足(ひたり)回り”=日足(ひたり)回転となる。

ほんでからにそれは、
“上”から注がれる(神の思惑としての)荷電粒子の取り込みの様子が、
“日月神示”の中の表現、

ウズ 右往左往、左往右往(サイクロトロン)でもあると思いまんねん。

ほんでから、
日足(ひたり)の行と砌(みぎり)の行で、
事象の創造=発振、発信する振動で、
外の事象を形成してるのが、
(外国=外+(囗)くにがまえ+“玉(ぎょく)”)
卍とハーケンクロイツ。
日足(ひたり)発振、発信と砌(みぎり)発振、発信でんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈 参照)

以上の意味でもあると思うし、ほんでからにそれは、
“二二”(ふじ)でもあると思えるやん。
(“日月神示”上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈 参照)


ほんでからに補足として、
“善言(よごと)”の、“言”・・・言葉って言うのんは、
発振、発信される振動やし、
それは、
存在から存在への意思の疎通の為の道具でんねん。
思惑を伝える道具って事でもありまんねん。
発振、発信と受信と認識って言う事でもありまんねん。
言い方を変えれば、
心(靈)から心(靈)への、
意思の疎通って=通信って言うた方が、解り易いかも知れへんな。
そやから人(日止、霊止)の場合、
意思の疎通、その為に普通に言葉もあり、
普通に使い・・・喋る。
それは、
動物にはあまり無い道具(力=能力)でもある。
動物の意思の疎通はワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~やし、
その事そのものが(力としての)知恵もない。
当然、
沢山の認識って言うもんも持ってない。
動物の心(靈)の発現も、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現でもある、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
動物って言うのんは、人(日止、霊止)から観て、
動物って認識されうる生命は、
本能と情動が中心の心(靈)の発現って言うのが妥当やな。

そやから、
動物から進化した(と認識されてる)人(日止、霊止)の場合、
動物より高い認識を持ってる=言葉を使うようになったやん。
それが先生の言うせりふ、
“言葉は事象を認識する為の道具”・・・そう言う意味もあり、
人(日止、霊止)の認識と動物の認識の違いでもあるやん。
ほんでから、
ちょっと乱暴な言い方かもしれへんけど、
言葉を使い出した事そのものが、
“上”の存在に対する概念の芽生えと同義やと思いまんねん。
ほんでからにそれが、又、
神さんの認識と、
幸福の概念と同義やねん。

話が逸れましてん。

そやからそれは、例えば、
祝詞や真言やお経や・・・それは、
人(日止、霊止)=こちら側から、神さん=“上”に思惑を伝えるとか、
又は、先祖供養とか、
彷徨ってる心(靈)の認識を変える為、霊的成長して欲しいから唱える。
・・・これも動物には無い概念やな。
ほんでからに、心(靈)対心(靈)・・・
互いの霊的成長の概念の芽生えのひとつが、
先祖供養みたいなもんやな。
これも他者との幸福=神格化の概念を共有するって事になるな。
そやからそれは、
祝詞や真言やお経さんを唱えるって言うのんは、
音波としての振動と、
それに発振、発信される自分の念、(念=今の心(靈))
自分の思惑を伝えたい=息吹(自分の心(靈)が吹く)・・・
そう言う要素がありまんねん。
それに付いても先生と話した事があるやん。
(ウエサク祭 月の祭り)

ほんでからに“善言(よごと)は神、”
それが先生の概念である“善(神格化の方向性と智性の受信)”ならば、
それは相対的に、
こちら側から観測したなら高い振動って事になる。
一言で言えば、
それは創造主の思惑の仲介者としての太陽=ヒ=日、太陽のオーラ・・・
それを獲得して生体内電流として心と体を作り変えていく具体的な方法が、
“行と修行”としての太陽凝視でもあり、
ほんでからに、
太陽凝視そのものが、神さんの思惑の顕現の為にも、
高い振動を“下”に降ろし、
そして発振、発信し、
事象の創造をするって言う意味もあるやん。

ほんでから、
“善言(よごと)”・・・これが、
四五十って書いてあったとしたなら、
とても解釈しやすい事やけど・・・
岡本天明はんが直接書いたものを持ってないKellyさんとしては、
ただの憶測に過ぎへんのやけど・・・
もしそうならばって事で、Kellyさん的に解釈すれば、

“四”は、
(囗)くにがまえ+儿部(じんぶ、にんにょう)・・・
そして、
息吹(自分の心(靈)の発振、発信=吹く)って言う意味を持つ。
それは、事象の創造って言う意味やし、

“五”は、
糸巻き、それは神経の密になった状態=進化した様。
肉体の磁性が高まった様。

“十”は、
胸の自省(胸の磁性“十”)そのもの。“慈悲”と“慈愛”の発現。

そやから、
“十”と“五”で、高い心(靈)の発現をして、
“四”、
事象の創造をして行け・・・って事やねん。

現状、そう言う事が出来てない世界やからこそ、
以下の言葉、

“なにも上下、下ひっくり返ってゐるから、分らんから、
神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。”

これは今までのKellyさんの解釈を解って貰ったなら簡単に解る文章で、
“天の御目”って基準を持ってへんから、
ひっくり返ってるねん。
しかも、
“上下、下ひっくり返ってゐる”

“上”“下”も判らへん。
更に、“下”がひっくり返ってるって事は、
“下”が主体って言うのんか、
“下”中心の心(靈)の発現の事象って事やと思いまんねん。
そやからそれは、
“上”と“下”、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)の区別が付かへんって事でんねん。
ほんでからに“下”ばっかりの世界って事でんねん。
現状、
“善悪”の本当の意味と意義を理解出来へんって事でもあるし、
そこまで天意を受けれんような人ばっかりって事でんねん。

そやからこそ以下の言葉、


“今にこのおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになるから、
それまでに身魂をみがいて置かんと、
身魂の曇った人には何ともよめんから、
早く神こころに返りて居りて呉れ、”

身魂をみがいて置かんと=肉体の磁性の強化をして、
“一”の振動を獲得していないと、
それは、
“身魂の曇った人”
・・・って事でんねん。

ほんでからに、
“早く神こころに返りて居りて呉れ、”

これは、
“直日(なおひ)”=自省(胸の磁性“十”)の行をしてくれよって、
事やと思いまんねん。
自省(胸の磁性“十”)の行をせんと=左往右往せんと、
それは、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが=腹のエネルギー・・・
要は、
腹のエネルギーが“上”に向かわんとアカン=高振動化せんとアカン。
それは、“幽”=外国=外側の事象の創造でもあるし、
それはエネルギーが上昇する意味としての、幽か(かすか)でもあるし、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

そしてこれは、先生の解釈の“日月神示”内の言葉、
“江戸”でも有るんやけど、
それをカイ=“櫂(かい)”の御用と、
キの御用、と表現されてると思うんやけど・・・

それはこの“日月神示”の解釈が先に進んで、
その言葉が出てきたなら、改めて考える事にして・・・

ほんでからに前回も言うた事やけど、
その事そのものが、
大日如来の条帛(じょうはく)で示されてると思うし、
腹のエネルギーが、日足(ひたり)回転する事やと思いまんねん。

ほんでからに残りの言葉、

“何も一度に出て来る。
海が陸になり陸が海になる。”

これも、
今までの価値感が=自己奉仕者の世界の価値感で構築されたこの世界が、
左往右往の行に入り、
色んな事象がひっくり返るって事でんねん。
これは・・・この事は、
この後の“日月神示”の言葉にも沢山出て来る事でんねん。

大体・・・以上でんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈

今回も、“日月神示”上つ巻 第四帖の解釈でんねん。

原文は以下の通り。
 
急ぐなれど、臣民なかなかに言ふこときかぬから、
言ふこときかねば、きく様にしてきかす。
神には何もかも出来てゐるが、臣民まだ眼覚めぬか、
金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。
早く神祀りて呉れよ、神祀らねば何も出来ぬぞ。
表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。
神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力出ないのぞ。
お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。
この神をまつるのは、みはらし台ぞ、
富士みはらし台ぞ、
早く祀りてみつげを世に広めて呉れよ。
早く知らさねば日本がつぶれる様なことになるから、早う祀りて神の申す様にして呉れ。神急けるよ。
上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、
上下揃ふたよき世が神の世ぞ。
卍も一十もあてにならぬ、世界中一つになりて の国に寄せて来るぞ。
それなのに今のやり方でよいと思うてゐるのか、
分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと云ふことまだ分らぬか。
神と人とが交流(まつり)合はして この世のことが、さしてあるのぞ。
人がきかねば神ばかりで始めるぞ。
神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀そうなから、
臣民みなやり直さねばならぬから、気をつけてゐるのに何してゐるのざ、
いつ何んなことあっても知らんぞ、
神祭第一、神祭結構。
二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ。
コハナサクヤ姫様も祀りて呉れよ。
六月十三の日、ひつくのか三。



まず、冒頭の文章の、

“急ぐなれど、臣民なかなかに言ふこときかぬから、
言ふこときかねば、きく様にしてきかす。
神には何もかも出来てゐるが、臣民まだ眼覚めぬか、”

これはもう、時期が決まってるって事を言うてる。
そやからこそ“急ぐなれど”って言うてはる。

地球の(生命としての)霊的進化、その時期(磁気)・・・
こんな事は今まで何度も先生と話したから、
敢えて説明する事でも無いし、
ほんでからそれは、
それに相応した霊的進化の人(日止、霊止)しか、
今後の地球には残れへんから、
それやからこそこういう言い方をされてるやん。

そやからこの文章は、
それに間に合えよ!!って事でしかない。

ほんでからにこの事は、
もう随分前から“上”の存在が人に教えようとしている。
(霊的干渉を理解する為に・・・ 参照)

ほんでから最近使われるようになったアセンションって言葉も、
今後の地球と、
それに相応する人(日止、霊止)の進化と変容を言うてるに過ぎへん。
その霊的資格を獲得しろって事を言うてる。
それは“玉璽”って言葉に示されてる事やねん。
(思惑と顕現 “その十一” “上”の思惑と顕現・・・“天の御目” 参照)

霊的資格・・・それは、
“行と修行”して、
人が“宝玉(ほうぎょく)”になって、
或はその方向性に向いていくって事やけど・・・
それは、
肉体も心(靈)も変化してって事やけど・・・

そやから、ほんまに自分の心(靈)が“玉(ぎょく)”になって、
その上で“上”の存在に認められた“璽”、
これは“しるし”=印って事で、
この後“日月神示”の文章の中にも“彌栄(いやさか)”って言葉は出てくる。
それに付いては、前に先生と話した事があった。
(思惑と顕現 “その十一”
“上”の思惑と顕現・・・“天の御目” 参照)
ほんでからに“しるし”・・・印。
それは新約聖書の黙示録の中にもそう言う表現があり、
それは、額の御印って表現されてて、
それは、
前回の記事での鏡って事やねん。

今は“日月神示”の解釈をしてるからその事には触れへんけど・・・
黙示録の中の表現、
額の御印(みしるし)と獣の刻印・・・
これも獲得する振動の種類の事で、
そやからこそ機会が有ったなら黙示録の解釈もして行きたいと思うてる・・・

そやから、
“しるし”・・・“上”に認められた“しるし”・・・

その“しるし”を獲得する・・・
それは、
“上”に認められた心(靈)の在り方。
今後の創造を“上”が託すのに値する心(靈)の動きを持った人(日止、霊止)。
それは、自分の心(靈)の在り方・・・
“観自在”、自省(胸の磁性“十”)の行、“直日(なおひ)”。
それは、
自分の心(靈)の動きが“上”に向かってる人(日止、霊止)。
それをよく認識して欲しいって言うのんが先生の思惑。
楽屋落ち的言い方やけど、
前のブログもこのブログもその為に立ち上げたって事でんねん。
ほんでからにこれは特殊なケースとして、
アセンション後、
“上”の意思を受信する為に・・・それは、
その後の人に、“上”の思惑を伝える為に、
高い存在との感応共振をする為に、
その為の、高い心(靈)の発現をする為の太陽凝視・・・
その為に、
太陽凝視を教えてくれたKさんの家族と先生は、
条件が良ければ、
時間の許す限りの太陽凝視と、
受信する振動を高め、
そして増幅して発振、発信する為に、電気行をして来た・・・
特にKさんは、
自分の人生の中で、この期間は行をする為の期間なんだって言う自覚を持ち、
そして、仕事を投げ打ってでも極貧になってでも、
太陽凝視をした期間があった。
そういう事を先生は見て知ってはる。
それは行の為に様々な何かを贖った。
エネルギーを費やした。
それはとても厳しい・・・行の期間やった。

その結果がそれは、頭の骨の結晶化って結果になり、
(エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象 参照)

普遍的に、
“上”から降り注がれてる高い存在の思惑と感応共振する。

太陽凝視を教えてくれたKさんの一生はそう言う事やったって・・・
先生は“上”から通信を受けてる。

そやから、しっかりとした目的を持った太陽凝視・・・
言い換えればそのつもりで太陽凝視をして来はった。
それは、
そう言う発振、発信による高い存在との霊的干渉をしながら、
太陽凝視して来たって事で、
それは今、少しでも太陽凝視してはる人に伝えたい事でんねん。
そやからそれは・・・この間も言うたけど、
太陽凝視やってまっせ~とか、
不食でっせ~とか、
心身浄化してまっせ~とか、
アセンションしまっせ~・・・そういう事しか言うてへんって言うのんは、
単なる目立ちたがり屋でしかなく=ディスプレイ(動物の発情行動)でしかなく、
それ以上の認識を持ってない。
そやからそう言う人って言うのんは、
心(靈)の発現が腹の段階=下三つのチャクラの覚醒段階=自我の確立=固定化の過程。
そやからこそ太陽が送ってくる“上”から“下”の振動の、
相対的に低い部分としか感応共振せんって事でもある。
そやから、相対的に低い功名心で行動する事は、
低い功名心しか持ってへん(霊的)存在との感応共振しかないって事でんねん。
太陽凝視しても、
自分が持ってる振動=その時点での心(靈)の発現の段階以上の振動とは、
変圧の過程ってもんがあるからこそ、
自分より極端に高い振動とは感応共振せんって事やねん。
誰でも高い存在の思惑を理解し、そして自分の認識に出来る・・・
太陽凝視にはそう言う意義があるけど・・・
そうなるには、
沢山のエネルギーを贖わんとアカンって事でんねん。

ほんでから、振動の変圧の過程・・・
前のブログを読んではる人のなかにも、
これがよう解らへんかった人が居てた様やから、
解り易い説明をすれば・・・
それは肉体を持った人と人の関係でもそうやねん。
おんなじ程度の振動を持った人同士は、
おんなじ程度の心の発現をした人同士は、
おんなじ様な心(靈)の動きをして、
それがある意味共通の価値感とか・・・共通の認識とか・・・
そう言う場(フィールド)を構成して行く。
もっと単純な解りやすい例を挙げれば、
自己奉仕者の政財界とか・・・全然“上”の心(靈)の発現をしてへんように見える。
自分達の財布の為にえらそうな言葉を使ってるだけやねん。
ほんでからにもう一つ例を挙げれば、
この間言うた、テレビ番組を作る方と視聴者の関係みたいなもんでんねん。

こんな事はいちいち例を挙げてたらどうにもならへんくらい多いやん。
そやけどそこには、
心(靈)の発現の段階の共通の法則性がある。
進化って言うのんが、心(靈)の発現と同義って言うのが、
先生の考えやし、
そやから、
“下”から“上”に向かうのが進化と霊的成長って事でんねん。
ほんでからに今・・・話が逸れてるけど・・・
上つ巻 第四帖の冒頭の言葉からもそれを感じまんねん。

ほんでからに上の心(靈)の発現って言うのんは、
例えば、
今抱えてる自分の問題と対処したり・・・すべての事象を観察して、
そして自分の在り方を考えていく人・・・
自分も他者も良いカタチを目指す為の事を考え、
そう言う発振、発信=行動=事象の創造をする。
その為の心(靈)の動きと言える事が、
繰り返すけど、
“観自在”=自省(胸の磁性“十”)の行= “直日(なおひ)”してはる人でないと、
“上”には行かれへんって事やねん。
それそのものが、修理固成って事やし、
そしてそれは、
真実=真固止って認識になりまんねん。
ほんでからに真固止=骨の結晶化。
心(靈)も体=“宝=体=體=骨が豊か”も創り変わっていくって事になりまんねん。
そやけど・・・
ほとんどの人がその事を考えてないし、知らんって事やねん。

そやから、その霊的資格って言うのんは、
次の世界の創造を担える心(靈)の発振、発信をしてへんと、
それは選り分けられるって事でしかない。
ほんでからにその資格=心(靈)の発現の段階とその上での心(靈)の動き・・・
それは、
このブログに霊縁の有った人に知って欲しい事でも有りまんねん。

そう言う点でも、
前のブログを詳細に読んではる人ならある程度理解出来てるのやろけど、
今、なんでも“上”の情報って言うのんは、
人(日止、霊止)の霊的成長の為の情報って言うのんは、
低い心(靈)の発現の人の解釈で、
ダメなもんになってる。
そやから大体、アセンションって言葉自体が、
(低い心(靈)の発現の)人に、
甘い夢を見させるもんになってしもてるんやけど・・・
それは、話にならへん事なんやけど・・・
(事象の形骸化 その“九~十” 参照)

ほんまに“上”に向かうって事は厳しい事でんねん。

ほんでからに今の地球って言うのんは、
低的進化程度の違う心(靈)がおんなじ場(フィールド)にいてるから、
何度も言うけど、“玉石混交(淆)”やから・・・

ほんでからに、
低い心の発現の人(日止、霊止)のほうが圧倒的多数やから、
色んなもんの価値が形骸になって、
それが又、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在・・・
人の進化を望んでへん存在の意図する所で、
それは人の心(靈)に入り込み(受信して)、
それが当たり前になってる。

その事も前に先生と沢山ぼやいたけど・・・

どうも・・・前のブログを読んではる人の中でも、
その事を理解出来へんかった人が多いやん。
そやからそれは又、
機会を新たにKellyさんがぼやくつもりやねん。

話が逸れたやん。

そやからこの、 上つ巻 第四帖の冒頭の言葉は、
もうこの世界は、
霊的成長度の違う存在を分けんならんとこまで来てる。
そやけど、
一人でも“上”に行って欲しいって事もこの言葉は言うてる。

次の世界の創造=アセンションと認識されてる事。
そこに自分(の心(靈))が位置する為には、
人(日止、霊止)の心(靈)が“上”に向かい、
その上で事象の創造をして行かんならん。

そう言う点でも次の言葉、

“金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。”

通貨としての“金”・・・
低い幸福の概念の象徴でもある“金”・・・
金が有れば幸せやと思う。
金を使う事が幸福やと思う。
通貨としての“金”があれば、
なんでも手に入れられると思う事自体が、
低い心(靈)の発現段階でしかないんやけど、
それを自覚して無い人が多い。
ほんでからに低い幸福の概念しか持ってないって事が、
甘い夢を見させる事ばかりが盛んになり、
本来の使い方・・・力としての金の使い方を忘れ、
自分達のどうでもエエ贅沢とか・・・
健康不安を煽り大して効果の無いものを買わせる通販番組とか、
形骸の美の概念で骨をダメにする美容の価値感とか・・・
特に、
美容なんて低い価値感が生み出してる低い認識として、
とんでもなく解り易い例を挙げれば、
煙草や酒で肌が荒れ、
その荒れた肌の角質だけ取り除ければ自分は綺麗になったと思い込み、
その為に金を使う・・・
ほんまに肌を綺麗にしたければ酒や煙草をやめるべきやねん。
そう言う発想にはならへん人が圧倒的に多く、
只、その場限りの形骸の美の為に美容が発達し、
それは、
人(日止、霊止)の在り方って事を忘れさせ、
そしてそう言うどうでもエエ事に金を使い、
その事自体が、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の、
子供の浮游霊の憧れになり、
自分が綺麗になりたいって思いが発振、発信に成り、
美容を体験出来へんかった女の子の霊的存在の憑依を招き、
通信を受け・・・
もっともっと自分が(外側だけ)綺麗になる事ばかり考える。
その心(靈)の動きで生み出されてるのが、
ファッションとか化粧品とかエステとか・・・

こう言う事でもそれは、形骸の美が本来の人の在り方を問わない・・・
そんな事を考えさせない。

今のは、形骸の美・・・美容って価値感が人をダメな方向性に向かわせる事やったけど・・・

それも、
自己奉仕者の世界=今の地球って言うのんは、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで・・・
それを人によう分からんようにするのが、上手い商売みたいなもんで、
甘い事言うて“金”だけ取って、
結果として霊的成長の方向性からはずれ、
たいした認識を得ないまま死んでしまう事を望んでる存在の思惑やねん。
ほんでからにうわべだけ理屈並べ立てて甘い夢を見させて“金”を取る。
そう言う事を“力”って思い込んでる節もあるし、
その結果が、
一部の金持ちが経済を動かし、低い功名心や自尊心を高揚させてるやん。
ほんでからにほとんどの人は見せ掛けの価値感に酔いしれ、
その為に仕事をして・・・
心(靈)の発現の程度の低い人は、
自己奉仕者由来の行動、金持ちを見習い、
上手く・・・上手に・・・
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・
その為の“力”=知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を得る。
そして結果として“金”の奴隷としての人生を送り、
高い心(靈)の発言をしないまま死に、
この世界に対し、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)しかもってない、
未練たらたらの浮游霊になる。

・・・アホでんねん。

ほんでからに金持ちの価値感って言うのんが、
結果として、
飢餓や貧困を生み出し、戦争も起き、
そしてこの星が恨みの連鎖で、
“痛みと悲しみの星”になってしもてるから、
低振動の想念でいっぱいの場(フィールド)になってるから、
それをほんまは、
自分達で=地球人が解決していかんならんのやけど、
その為に個人個人が自分の問題とか因縁とかに、
“上”の心(靈)の発現由来の思いを持ち、
そして自分と恨みの連鎖に関わる霊的存在と、
例えば因縁霊と・・・それだけではなく、
自分と霊縁有った存在すべてが、
“上”に向かうように、
発振、発信=行動と事象の創造をせんならん。

そやけどそれでは間に合わん。
そう言う方法では、
それだけでは、
“上”に移行出来る人(日止、霊止)はあまりにも少ない・・・
それはさっきの冒頭の言葉のように時期(宇宙的な磁気)が決まってるから・・・
それを、その事を、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在=人の進化を阻む存在も、
知っているからこそ、
今、色んな事を、“悪”の存在なりに頑張って、
さっきの形骸の美でもそうやけど・・・“悪”の思惑の顕現をしようとしている。
そやけどそれも“悪”の存在自身の霊的な進化として、
認識を得る為の、成長する為の右往左往とも言える事なんやろけど・・・
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在も、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在も、
どちらも、
“行と修行”=エネルギーを贖う(あがなう)事をして、
自分達の理想とする事象の創造を達成しようとしている。

そう言う事情も人は知っとかなアカンって先生は思うてはる・・・

そして、
その“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の発振されてる想念の受信は、
人の體(からだ=骨が豊か)が持つ磁性による感応共振は、
どちらを選択するのも自由・・・
そやけど今、
見せ掛けの“善”もあるし見せ掛けの“悪”もある。
それを見抜く心(靈)の基準ってもんを持たんならんから、
先生はそれを、
“天の御目”と解釈しているやん。
ほんでからにKellyさんが“日月神示”を観て思った、
天意を伺うって事になりまんねん。

ほんでからに“悪”の存在の思惑の顕現・・・
その事を示してる事として、
前々回解釈した上つ巻第二帖の言葉、

“悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、”

“神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、
初めは辛いなれど、
さきを楽しみに辛抱して呉れよ。”

・・・そう言う事でんねん。


・・・そやけど・・・この言葉・・・

“金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。”

この言葉を見て、
てんで程度の低い心(靈)の発言の人って言うのんは、
甘い事しか考えへんやろな。
誰も働かんと贅沢できる・・・そんな風に思うやろ。

それに対し、
心(靈)が“上”に向かってて、自分の在り方も考え、
そしてその上で、
自分の周りの事(自分の発振、発信による場(フィールド)=事象)も考える人は、
誰もが良いカタチになるように考え、行動し、
そう言う思いですべての事象を観察する。
それは例えば、仕事を取ってみても、金儲けの為の仕事ではなくなる。
金儲けの為の仕事ではなく、
人と人が縁があって巡り合い、そしてお互いの霊的成長の為の行動をする。
そこには低い功名心と自尊心は観られない。
そやから、
自分の心(靈)が“上”に向かう事由来の、
今より相対的に高い価値感と、その思いで仕事をするようになる。
そう言う人の多い場(フィールド)って言うのんは、
金の奴隷の場(フィールド)ではなくなる。

そやから奪い合いの経済を発展させてたのは、
人の心の低い部分って事も言えるし、
そんな奪い合いの為の金の使い方は、
もう止めんと、
どうしようの無いダメな世界になって行くやん。

もう・・・なってるって言えるし・・・

そやから、心の発現が低いからこそ、
“力”のね(根)って言う意味の、
(この事は、
思惑と顕現 “その二”
力(ちから)の根(ね)と、神の“しるし”を読んで欲しいねん。)

“金”の解釈を間違えて、
それは通貨としての“金”の事しか思わへん事自体が、
低い幸福の概念でしかない事やねん。
その為に生き方を間違えてる人も多い・・・
それは例えば、
低い概念の幸福の為に風俗で働いたりもする・・・
そして沢山の浮游霊に取り憑かれたりもして、
結果としてその人は大事なもんを失って行く。
そう言う話も先生としたな・・・

そやから・・・
生き方=霊的成長の為の体験・・・

それは間違えたらアカンし、
今後の世界って言うのんは、通貨としての“金”に振り回されて、
恨みの連鎖を創ってる場(フィールド)であっては、アカンから、
恨みの連鎖を生み出さんって事自体が、
何の不安も無い・・・飢餓や貧困や犯罪や事故や災害や・・・
それらを引き起こす低い霊的干渉の事象は無くなり、
“楽の世になるぞ”・・・って事やと思いまんねん。

ほんでからにさっき言た自分の仕事の事。
“上”の心(靈)の発現って言うのんは、
自己奉仕者に対し奉仕者やって事やねん。
そやから、
ある程度、霊的進化した人が構成する場(フィールド)って言うのんは、
そこに居てる人たちすべてが、
やって来た事は=どういうつもりで贖う(あがなう)のかって事は、
それは必ず結果になって帰ってくるって事をしっかり認識してる。
だからこそ、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・って事は、
段々無くなっていくやろし、
当然、
(通貨としての)金なんてもんは、価値が無くなっていく。

そう言う点でも次の言葉、

“早く神祀りて呉れよ、神祀らねば何も出来ぬぞ。
表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。
神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力出ないのぞ。
お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。”

この文章の中の、
“神祀りて呉れよ”

この“祀”・・・示すへんに巳。
示すって言う字は、
“二”=2~3番目のオーラ=肉体と、
亅部(けつぶ こう かぎ)=“上”から下に降り、
そして日足(ひたり)斜め上にはねる。
良いカタチで“下”から日足(ひたり)“上”に現象化するっていう意味と、
ほんでからに亅部(けつぶ こう かぎ)の左右に点が二つ、
この二つの点は回転を示し、それは人のエネルギーを示し、
そのエネルギーそのものが砌(みぎり)と日足(ひたり)でもある。
そしてこの点の書き方自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
そう言う意味を持ってると思いまんねん。
示すの中の丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)


ほんでから“巳”・・・
これは十二支の六番目の巳でもあり、
それは陰陽五行として“火”に属す。
そやからこの“祀る”って言う意味は、
肉体の事そのものでもあり、
その良い形が、
神=示すと“呂”エネルギーの回転による発振、発信・・・
それは“上”から降り注がれるエネルギーって言ってもいいし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を、
取り込んでるって事でもある。
そやからそれは、相対的に高い心(靈)の発現って事になって行く・・・
地球人の(霊的)進化程度から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”の発現になって行く。
又、さっきも言うた事やけどそれは、天意を伺うって事やねん。
段々“上”の思惑を受信するようになるって事でんねん。
それそのものを示した言葉が、“神祀り”・・・
そう思えまんねん。

補足として、陰陽五行の火に付いて。
火や水や土っていう表現は、
S会の交霊会でも、“日月神示”の中にも出て来るんやけど、
火の事に付いて少し述べれば、
これは火=灬(よつてん、れっか、れんが)・・・
酸素が加わって変化するって言う意味らしいねん。
そやからそれは、(空気の)呼吸に関わる器官と、
取り込んだ物質=食べ物をエネルギーに変える器官=肝臓って意味がある・・・
そう先生は言うてはった。
食べたもんが肝臓で“いきり立つ心(奴と心)”になり、
そして、肺で、悲しむ=心がいたむ(非)になって行く。
その過程が“思う、憂う”・・・脾・・・
そう言う事やと思いまんねん。

ほんでから“肝”=“いきり立つ心(奴と心)”以前の段階が、
水で、
それは帯電するミネラルが固まってない状態を示し、
それは心(靈)の発現の段階として、
“幽”でもあり、
“日月神示”の中の表現の幽界=外国・・・
それは自分の外側の事象しか認識出来へん、
心(靈)の動きでもあると思いまんねん。
ほんでからにこれも前に言うた事やけど、
“日月神示”の中の“江戸”の江って言うのも
(氵)さんずいと二と(たて棒、コン)で構成された字。
この字そのものが大きな川って言う意味がある。
戸は、“一”と尸(しかばね、かばね)。
この場合の“一”は横隔膜って言うのが先生の解釈。
尸(しかばね、かばね)は肉体そのもの。
そやから心(靈)の発現の段階としては、
水から火・・・水=氵(さんずい)から火=灬(よつてん、れっか、れんが)、
そして横隔膜を超え、胸に移行して行く。
それは自省(胸の磁性“十”)の行をするって事やねん。
ほんでからに、“幽”・・・その山みたいな字が火=灬(よつてん、れっか、れんが)で、
それは、心(靈)の発現が、
幽か(かすか)って言う意味を持ってると思えるやん。
そやから、
チャクラの覚醒でも“下”から“上”に向かう。
そして、
腹のチャクラから=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”から、
少し“上”に向かう心(靈)・・・それが、
心が非(いたむの意味がある)で、
その時に神経も密になるから、それを“慈悲”と呼ぶ。
それが先生の“慈悲”の解釈でもあるやん。

そやからそれは、
進化過程=心(靈)の発現の過程ってのは、
最初、
低い心の発現で頑張る事=右往左往して、
何でも自分のエネルギーを贖った事が結果になり=事象の創造になり・・・
ほんでからにそれは、
砌(みぎり)の行で喜んでる段階やけど、
若いってそう言う事やと思うけど・・・
(右にクサカンムリ、砌(みぎり)のエネルギーが芽生える事)
ほとんどの地球人の幸福の概念はそこに有るんやけど・・・

ほんまの幸福って言うのんは、そんなもんや無いから、
自分の欲望の為にエネルギーを贖い頑張った人(日止、霊止)は、
すべての存在の神格化=ほんまの幸福の実現の為の法則性ともいえる、
“神の咎め”“曲霊(まがつひ)”ブーメランの法則で、
簡単に言えば、
バチが当たり自省して“観自在”するようになる。
その事自体を“直日(なおひ)”って言い表されてると思うやん。
そうやって右往左往から左往右往して、
そして段々、
“上”の心(靈)の発現として認識出来る、
“慈悲”と“慈愛”を持つようになる。

ほんでからに“慈悲”と“慈愛”は、
心(靈)の動きとしては自省、
そして肉体の構造としては、
胸の磁性“十”やからこそ、次の言葉、

“この神をまつるのは、みはらし台ぞ、
富士みはらし台ぞ、”

富士=“二二”やと思いまんねん。
日足と砌(ひたりとみぎり)の極性とエネルギーラインの事を、
“富士”“二二”って言うてると思いまんねん。
そやからそれは、“富士=二二”の、みはらし台。

富士の富って言う字でも、
宀(うかんむり)=頭、
ほんでからに“一”と口と田=四つの場(フィールド)。
それは“一”=アイを吸収した大脳新皮質って感じに見えるやんか。
そして大脳新皮質の機能そのものが“思う”で、
それは、心(靈)の四つの場(フィールド)でもあり、
一靈四魂でもあるって言うのんが先生の考えでんねん。

ほんでから“みはらし台”・・・
この言葉は、
ム部(しぶ)=自分自身と言う意味がある部首を使ってるし、
そやからこの、“みはらし台”
これは自分自身を現してる表現やと思いまんねん。

“台”って言うのは、ム部(しぶ)と口、
この字の位置関係からして、口は腹の事やねん。
前に先生と話した“苦”とおんなじ意味での“口”でんねん。
ほんでからにム部(しぶ)は、
砌(みぎり)“上”から日足(ひたり)下に降ろし、
そして向かって砌(みぎり)斜め上にほんの少し向かう。
ほんでからに最後に点のような字、
この点は、日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)斜め下に降ろし、
止めるやん。
そやからこれは、
自分自身が“上”からの振動を取り込んで、
止めた=固めた様子やと思いまんねん。

そしてこの言葉そのものの、
“みはらし台”・・・これは何の台かって言えば、
霊的成長の為の台、
“上”に向かう為の台、
そう言う意味を感じまんねん。

そやから今の話、
腹=口、そしてム部(しぶ)、
“上”からの振動を取り込み、
大脳旧皮質と腹で増幅し、それは感情の発現でもあり、
動物から相対的に比較すれば判り易いから言うんやけど、
ミミズ、ヒル、ゴカイ君達には無い心(靈)の発現でもあり、
そして、
その感情としての生体内電流は、神経を伝わり、
心(靈)の観察行為で大脳新皮質により制御されたりもする。
それも、頭の磁性の強化になるやん。

今の話は・・・
感情以外・・・表現が妥当やないな・・・
そやから言い換えれば、
情動以外の、情動より“上”の、
心(靈)の構造の構築に関わって行くと思いまんねん。
そやからそれは、腹の段階の心(靈)の発現が、
本能、情動、功名心、自我で、
この場合は功名心以下の振動って事でんねん。
又、
心(靈)の発現=進化過程として情動ってエネルギーを持ってへんと、
“いきり立つ心(奴と心)”→“思う、憂う”→“慈悲”と“慈愛”→喜び、大歓喜。
それは 肝 → 脾 → 肺 → 心。
生命として、心(靈)の発現として一番最初とも言い得る本能って振動が、
段々高くなって“上”の心(靈)の発現をして行く。
それを意味してると思いまんねん。
ほんでからに取り込むべき“上”からの振動って言うのんは、
自分の心(靈)の発現が段々“上”に向かえば向かうほど、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)とか、
太陽凝視で言えば、太陽の高い振動と感応共振する。
そして、
それを踏まえた心(靈)の発現をする。
それは、
地球人の認識の智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)と智性(神性)って事に、
なりまんねん。
その為の“みはらし台”って事でんねん。

ほんでからに次の言葉、

“早く祀りてみつげを世に広めて呉れよ。
早く知らさねば日本がつぶれる様なことになるから、
早う祀りて神の申す様にして呉れ。
神急けるよ。
上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、
上下揃ふたよき世が神の世ぞ。”

天意を受けた心(靈)の発現をして、
その為に“みはらし台”って言葉を使って、
その上で高い心(靈)の発現をして、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の高い部分と、
太陽凝視で言えば、
太陽の高い振動の獲得をして、
“みつげ”=発振、発信してくれって事でんねん。
ほんでからに、“みつげ”は、上つ巻 第三帖の、
“善言(よごと)”と同義やと思いまんねん。

それは自分達自身が発振、発信する振動が、
事象の創造をして行く。
それは相対的に、
段々高い事象を観察出来るようになるって事でもあるやん。
神聖な場(フィールド)の認識・・・創造は、
自分達の心(靈)が神聖でなければならない。

そやからこそそれは、
情報を只知らしただけではアカンからこそ、
それは単なる知識でしかないから、
高い振動を自分の認識にして=智慧と智性にして、
オーラの発振、発信にして、
事象の創造をして、
それが、
“早う祀りて神の申す様にして呉れ”

・・・そう言うてはるって事でんねん。

ほんでからに次の言葉は、
“上”と“下”=人の立場の違いを言うてはる。

“上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、
上下揃ふたよき世が神の世ぞ”

“上ばかり”=“上”の思惑。
“下ばかり”=現象化、事象の創造と認識。
その両方がいいカタチにならんとアカンって事でんねん。
神さんの思惑を取り込んで=天意を受けて心(靈)の創造をして、
そしてその価値感で現象化させて行くって事やねん。
そうせなアカンって事でんねん。

ほんでからに次の言葉は、

“卍も一十もあてにならぬ、
世界中一つになりて
ローレンツ力と ○の国に寄せて来るぞ。
それなのに今のやり方でよいと思うてゐるのか、
分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと云ふことまだ分らぬか。
神と人とが交流(まつり)合はして この世のことが、さしてあるのぞ。
人がきかねば神ばかりで始めるぞ。”

“卍も一十もあてにならぬ”

これは日足(ひたり)発振、発信の卍、
一十は、人(日止、霊止)って事やと思う。
一=一二三、ひふみのヒ、
それを止める=十・・・そう言う意味での人。

ほんでからこの文章は、
“卍”と“一十”=人(日止、霊止)、
それは良い形の事を言うてるけど、
それを観察するだけ=それが認識した知識だけでは、
アカンって事を言うてると思うやん。
言い換えれば、
自分の外側の事象やからこそ、
只、知識を観察してるだけではアカンって事で、
そやからこそ“あてにはならぬ”・・・そう言う事やと思いまんねん。
ほんでからにこの事は次の言葉に掛かる。

“世界中一つになりて
ローレンツ力と ○ の国に寄せて来るぞ。”

○=靈、
ローレンツ力=ローレンツ力、
国=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”
そやから、
宇宙的プログラムによる“上”からの振動による変容が、
アセンションで、
そやから“
ローレンツ力と ○の国に寄せて来るぞ。”・・・でんねん。
それは、
フォトンベルトに地球が入りつつあるって事で、
そやからそれは“世界中一つになりて”・・・逃れられへんって事でもある。
そやからそれは、
先生の解釈の大日如来の条帛(じょうはく)=フォトンベルトで、
それは・・・
そうなったら自省(胸の磁性“十”)の行に入るからこそ、
今色んな事を振りかえらなアカンからこそ、
やってきた愚かな行為は、どんどんバレて、
愚かさ=心(靈)の発現の低さ由来の事象の創造が・・・
示されて観察され認識されてる。

それは今の地球人が、
ほんまの“上”と“下”を知る為の事でもあるやん。

ほんでからにこの文章の後半も、
天意を受ける心(靈)の事を言うてるだけでんねん。
天意を受けてない心(靈)の発現由来の創造が、
今までの地球やったって事でしかない。
それは今更言うまでもない事やし、
敢えて説明する事ではないと思いまんねん。
そう言う点でも以下の言葉、


“神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀そうなから、
臣民みなやり直さねばならぬから、気をつけてゐるのに何してゐるのざ、
いつ何んなことあっても知らんぞ、”

これも、“上”の思惑通りに事を進めるのは簡単って事を言うてるんやけど、
何の為に肉体を持った心(靈)として、
地球人が地球にいてるのか・・・
それをよう考えて欲しい・・・それは、
アンタらしっかりせなアカンで~って事やねん。

ほんでからに次の言葉は、

“神祭第一、神祭結構。”

さっきの“神祀り”に対し、
今度は、“神祭り”って言うてはる。
この違いは、
祭りって言うのんは、月部(げつぶ、にくづき)と又と示す。
これは肉体そのものの事を言うてる・・・
この字の意味はKellyさんが前に調べた事がありまんねん。
(個人々々の振動の違い 参照)

そやからこれは、
肉体と、神さんの思惑が一体になった事を言うてると思いまんねん。
そう言う行動をとる=事象の創造をする。
そう成らんと、あきまへんで~って事でんねん。


ほんでからに次の言葉、

“二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ。”

“二三”=2~3番目のオーラ、そして肉体。

“木”=胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
カタカナの“ノ”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と同義、
花は、チャクラの事。
咲くは、チャクラの覚醒、開く事。
そやから“二三の木ノ花咲”、
これは、肉体のチャクラから発振される様子やと思いまんねん。
それはさっきの言葉、
“神祭り”に掛かってる言葉でんねん。
ほんでからに“耶”は、
耳=空気の振動を受信する器官と(阝)おおざと=邑(むら)って事で、
それは場(フィールド)の構成と受信でんねん。
そやからこそ“二三”・・・肉体で受信する振動の相対的に高いものとして、
空気の振動=耳で、
これは空の行でもありまんねん。
ほんでからに、“姫”は、
女=現象化、事象の顕現の事やと思いまんねん。

ほんでからに次のカタカナで書かれた言葉、

“コハナサクヤ姫様も祀りて呉れよ。”

“コ”は、
向かって日足(ひたり)から砌(みぎり)に移行し、
それはアイでもあり、
そのまま砌(みぎり)“下”に降ろし=現象化して、
そして最後に日足(ひたり)“下”から砌(みぎり)“下”に移行する。

“ハ”は、
これは象形文字の八と同義やろ。
日足と砌(ひたりとみぎり)のエネルギーラインって事でんねん。

“ナ”は、
“一”の真ん中に交差してる丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)。

“サ”は、
“一”とその向かって日足(ひたり)に(たて棒、コン)と、
向かって砌(みぎり)に丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)。

“ク”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)。

“ヤ”は、
日足(ひたり)から砌(みぎり)に移行して、
そして日足(ひたり)“下”にはねる。
最後の斜めの棒は、
日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)下に降ろして止める。

すべて“上”の思惑=日足(ひたり)の思いが、
現象化した=砌(みぎり)に移行するって事やと思いまんねん。
ほんでからに、
“コハナサクヤ姫”・・・姫だけ漢字で書かれてる。
これも、
女=現象化を示している事やと思いまんねん。

更に、ここでも、
“祀りて呉れよ”って言うてはる。

“祀り”・・・腹のエネルギーが火=灬(よつてん、れっか、れんが)によって、
変化する事を示す。
そやからそれは、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”が、
“慈悲”と“慈愛”になって行く。
心(靈)が“上”に向かう事でんねん。

そやからこの言葉の違い、
“二三の木ノ花咲耶姫”は
肉体を持った人の、事象の創造、顕現って言う意味があり、
それに対し、
“コハナサクヤ姫”は、
神さんの思惑が顕現したカタチを言うてると思いまんねん。
ほんでからにそれは、“上”の思惑=神さんの思惑と、
“下”の顕現=人(日止、霊止)の発振、発信による事象の創造って事で、
そやからこそ“上”と“下”の意味を言うてる文章、

“上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、
上下揃ふたよき世が神の世ぞ。”

そして、

“分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと云ふことまだ分らぬか。
神と人とが交流(まつり)合はして この世のことが、さしてあるのぞ。”

そやからこそそれは、
“交流(まつり)合はして”
“祀り”
“祭り”って言う意味がありまんねん。
その事を良く知っておけって事でんねん。

そやからこの、上つ巻 第四帖は、
もう時期が迫っているって事と、
そしてアセンション・・・霊的資格を得る為には、
自分の心(靈)の在り方と、
今までの価値感を捨てんとアカンって事と、
次の場(フィールド)って言うのんは今までの価値感では通用しないって事と、
そうなる為には“上”に向かう心(靈)が必要やし、
そやからこそ、
腹の段階のエネルギーを変化させる事を“神祀り”と称し、
ほんでからそれが進めば、
“神祭り”=“上”の思惑を受信して、
それが“交流(まつり)合はして”・・・
自分の心(靈)の創造と、
心(靈)の発振、発信をして、
その上での認識し得る事象の創造をして行かんならん。

そういう事を言うてる文章やと思いまんねん。

今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第五帖 Kellyさん的解釈

今回も、“日月神示”上つ巻 第五帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。



富士とは神の山のことぞ。
神の山はみな富士(二二)といふのぞ。
見晴らし台とは身を張らすとこぞ、
身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。
臣民の身の中に一杯に神の力を張らすことぞ。
大庭の富士を探して見よ、
神の米が出て来るから、それを大切にせよ。
富士を開くとは心に神を満たすことぞ。
ひむかとは神を迎えることぞ、ひむかはその使ひぞ。
ひむかは神の使ひざから、九の道を早う開ひて呉れよ、
早う伝へて呉れよ、
ひむかのお役は人の病をなほして神の方へ向けさすお役ぞ、
この理をよく心得て間違ひないやうに伝へて呉れよ。
六月十四日、ひつくのか三。


この冒頭の文章の、
“富士とは神の山のことぞ。”

この言葉は一言で言えば脳の事でしかないやん。

それはまず、
“富士”・・・これは、宀(うかんむり)・・・その意味は、
これも先生と前に話した事が有るんやけど、
宀(うかんむり)の意味は、
交差して覆う屋根の形に象り、家屋を意味する・・・
そやからそれは、
宀(うかんむり)=頭の場(フィールド)やって言う事やねん。

ほんでからに“神の山”、

神=示すへんと申、
ほんでからに、
申=“呂”=回転。
神って言う字そのものが、
“上”の振動の回転・・・それを示す。

そして“山”、
この山って言う字自体が、
向かってまず真ん中の棒を書き、
それは“メグリ”(帀)の中心のラインでもあり、
そして向かって日足(ひたり)“上”から“下”に降ろし、
向かって砌(みぎり)横に書き、
そして最後に、
砌(みぎり)“上”から砌(みぎり)“下”に書き、
止める。
それは、振動が高ければ、
α、β、γ、・・・放射線とか宇宙線とか・・・そう言う分類になるんやけど、
振動の高い低いに関わらず、
粒子には粒子の共通の法則性があり、
それは、プラス、マイナス、中性の粒子って事でんねん。
ほんでからにそれは、
すべての事象の法則性でもありまんねん。

ほんでから、
山=脳って言うのが先生の解釈でもある。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)”“その六” 参照)

そやからこの言葉は“富士”って書かれてるけど、
それは“二二”・・・
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行で認識を得て=左右の極性で、
育っていく=霊的成長して行く事でしかない。
それは、
心(靈)の入れ物としての脳が、
霊的進化に伴って動物と違っている事でもあるし、
動物より相対的に霊的進化した生命が、
人、日止、霊止・・・って事でもある。
そやから心(靈)の発現は、
“下”から“上”に行くものでもあるやん。
それが進化って事でんねん。法則性って事でんねん。

進化の概念も、
心(靈)の発現って観察が無いから、
地球人にはよく解ってないって事でんねん。
そやからそれは、心(靈)の構造としての言葉、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動って事を、
何回も言ったけど、
本能と智性と、
どっちが動物に近く、
どっちが神に近いのかって事でしかない。
それが又、先生の概念、
“目上(めうえ)と目下(めした)”そのものでもある。
そしてそれは人(日止、霊止)の認識でもある、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもある。

そしてそれはこの後の言葉を見ても解る。

“神の山はみな富士(二二)といふのぞ。
見晴らし台とは身を張らすとこぞ、
身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。
臣民の身の中に一杯に神の力を張らすことぞ。”

“富士”の、士は、
三=三つのオーラの構成の一の“上”に(たて棒、コン)が突き出ている。

一二三のオーラの構成から考えてこの“士”は、
1番目のオーラ=“一”の“上”から“下”に(たて棒、コン)を書き、
そして、
二番目のオーラ=“二”の真ん中で止まっている。
これは、この事は、
霊的進化には、
手の磁性が関わっている事を示していると思えるやん。

動物と人間の違い(と、観察され、認識されてる事)は沢山あるけど、
今の話・・・手の機能でもあるし、
手の機能の発達が胸の磁性“十”の発現でもあるし、
それは、指を使うようになった事による、
両手の骨と神経が構成する磁場の強化でもあり、
両腕の磁束の強化に繋がり、
それは腹の段階のサイクロトロン、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”=腹の段階のエネルギーの螺旋の上昇に繋がり、
それが高じればシンクロトロン様の発振、発信になり、
そして“上”=頭と、
“下”=骨盤や尾骨の磁性の強化により、
クンダリーニの白光=シンクロトロン放射になる。

それが先生のクンダリーニに対する分析でもある。

そやけどそれは太陽凝視と電気行をかなり頑張らんと、
シンクロトロン様の発振、発信にはならへん。
その前段階としての手の機能の発達が、
平均的地球人の獲得した霊的成長の過程とも言える事でんねん。
・・・そう言う話も先生と前にしたな。

そやから、そう言う点でも次の言葉、

“見晴らし台”

前回の上つ巻 第四帖には、“みはらし台”って書かれてあった。
今度は漢字で書かれてはる。
それは、
以下の言葉をよく読んでみると、

“見晴らし台とは身を張らすとこぞ、
身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。
臣民の身の中に一杯に神の力を張らすことぞ。”

“見晴らし台”・・・見て晴らす台、
“晴”は、日と青、青の解釈は、
上つ巻第一帖での解釈をそのまま引用しまんねん。
それは以下の文

“晴れは、日と青。
青は、
三=三つのオーラと(たて棒、コン)と、月・・・
そやけどこれは辞書を見ると月部(げつぶ、にくづき)ではなく、
“丹”って言う字らしく、
それは地中にある鉱物って言う意味らしいやん。
そやからそれはストレートに帯電するミネラルって事を思わせる・・・
ほんでからに、“青”の上半分は、
生きるって言う字の、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した物らしいやん。
ほんでからにその、“青”の上半分は、
芽生えるって言う意味でもあるって辞書に書いてあった。
ほんでからにこれも、
三つのオーラを縦に繋いで、
ほんでからにそれは“一”の上に出てる・・・
それは“上”に向かう意志やねん。“

ほんでから、

“身を張らすとこぞ”

・・・これは、
“とこぞ”って言うのんは場所を特定した言い方。
これもさっきの話と重複するんやけど、
体の構造である左右の極性=“二二”・・・その“上”と“下”の事やと思いまんねん。

そやからそれは、
“上”の振動をローレンツ力で獲得せよ=生体内電流の強化をせよ。
身体磁場の強化をせよ。
そやから、“見晴らし台”=心(靈)の発現がだんだん“上”に向かう。
そういう事を言うてると思いまんねん。

そして、“張らす”
・・・この表現は、弓(ゆみ)と長い。
弓(ゆみ)=背骨、それは“長い”に掛かってる。
人が感得し得る振動の種類と、
背骨の数は、
一致するって言うのんが先生の説やし、
そやからそれは、
“上”から“下”の振動を示す事でもあり、
その振動の種類の幅は長い。
そう言う事やと思いまんねん。

それが、この三次元での事象の分類からして、
物質と気体と光・・・
それを人(日止、霊止)は感じて=吸収して生きている。

物質の振動=腰椎五個=木火土金水、これは陰陽五行でもある。
この間言うた、
水=腹、
火=酸素と肝臓、
空=肺・・・これは生命活動=肉体の活動での分類って事になるんやけど、
ここまでは新陳代謝って生命活動を表した言葉を使うのがわかりやすいな。
それに対し、人(日止、霊止)の心(靈)の創造に関わる肉体の法則性は、
木部=自省(胸の磁性“十”)+丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)
金=帯電するミネラル・・・そう言う事やと思いまんねん。
そやからそれは、
物質の性質を持つ肉体の法則性でも有る事やし、
肉体を持っている意義=生きている間の霊的進化=認識の拡大と変容・・・
その事を感じさせる事でも有りまんねん。

ほんでから次は、
気体の振動=十二音階=胸椎十二個、

ほんでからにその“上”の振動は、
可視光線の振動=頚椎七個=赤 橙 黄 緑 青 藍 紫、

ほんでからにこの事も付け加えて起きたいんやけど・・・
可視光線以上の振動を人の(“力”としての)知恵としての、
科学では、
紫外線以上の振動・・・エックス線や放射線も宇宙線も含むんやけど・・・
きっとそれは、
“上”の振動の分類としては片手落ちな分類で、
振動が持ってる性質って事を人は理解していない。
振動が持っている性質・・・これもKellyさん的には良い説明の仕方では無く、
それは、振動=情報って認識が無い。

そやから、地球人の科学では、
只情報を伝える為に電磁波を利用しているからそう思い込む。
電磁波・・・機械で測定出来る振動だけに限り、
そう呼んでいる傾向があるって言うのんが、先生の考えでもある。
地球人が知らん振動の種類はまだ沢山あると思えるし、
ほんでからに、
“上”の思惑だろうが“下”の思惑だろうが、
それらはすべて荷電粒子で出来ていて、
それを人は感得する。
それが又、霊的干渉の意味でもある。

そう言う点で、
振動に情報や思想が含まれている事を学者は考えへん・・・
そやけど今Kellyさんが使った表現そのものが、
本末転倒な概念で、
それは、
こちら側からの見方やからしょうがないって先生は言うてるんやけど、
(物質の次元での観測)
そやから、一言で簡単に表現すれば、
思惑=振動って事やねん。

そもそもこの世界だろうが・・・
もっと高次元の世界だろうが・・・
すべては(“上”であろうが“下”であろうが)、
観察され得る事象って言うのんは、
思惑の顕現であり、
それを観察して認識する=受信と増幅する事そのものが、
生命って事やろ。
ほんでからにあらゆる振動を吸って吹く。
それを呼吸って言う。

こんな話はかなり常識はずれな事やろけど・・・
そんな事を学者さんは思いつきもせん。
それは、学者さんの心の発現が、
“上”に向いてない傾向があるって事やと思いまんねん。
功名心と自尊心・・・腹の段階の心(靈)の発現から、
その同位相でエネルギーを回転し増幅してはる。
(腹のサイクロトロンの段階=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”=自我の確立と固定化)
そやからそれは、
自分達が獲得した“力”としての知恵や知識を、
“上”から受信した“力”とも言える知恵を、
自分達の低い愛(炁)の顕現の=自己奉仕者としての使い方しかしない。
結果それは、
傲慢な考えとか低い功名心とか自尊心中心の心(靈)の動きになる。
そやから地球人の科学なんてのは、
物質の段階の=腹の段階の心(靈)の発現由来の観察と認識でしかない。
余談やけど・・・例えば、
相対性理論なんかもこちら側からの観察と認識でしかないから、
それは本当の事を知る過程でしかなく、
まだ“上”の認識を獲得した訳ではなく、
先生がエピローグで言うてはったけど、
今、地球人が知ってる物理法則は、
この次元でしか通用しない事で、
そやから光速は一定ではなく、質量も不変ではなく、
時間の進行も、
場(フィールド)によっては同一ではなく、
多分、地球人が思うてる程、宇宙もそんなに物質に満ちてない。
しかし学者さんは、
低い心(靈)の認識に囚われてるから、
物質を基準とした観察と認識しか出来ない。

そやけど、段々、
人(日止、霊止)の認識が“上”に行くならば、
それ相応の知恵と知識と認識と・・・
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を獲得するようになる。

そやから自分が認識している場(フィールド)・・・
それはほんの一部分でしかない。
全体を知る・・・
こういう言い方そのものが幼稚な表現やけど、
自分達より“上”の場(フィールド)や“上”の法則性を知りえない・・・
地球人は、まだそう言う段階では無いって事でんねん。

そやからそれは、例えば、
先生の振動に対する認識って言うのんは・・・

認識=思想・・・一言で言えば思惑・・・
色んな表現が有るんやけど、
意識活動そのものが発振する事を振動って言う・・・
それは吹くともいい、
息吹(自分の心(靈)が吹く)とか伊吹とか気吹きとか言う。
この間の“善言(よごと=四五十?)”でもそれは、
“上”からの発振、発信で、
それを感じる事が、
観察と認識と・・・受信と吸収と・・・
そやからその両方を纏めて、
“呼吸”って言う。
そして呼吸する事そのものが、
生命=生きている使命=存在の意義でもある。

それが先生の認識で、
そやから、地球人が分類し始めた地球人が知り得る限りの電磁波にも、
当然、
思惑があり、
そやからこそそれは、
意識、対、意識の、
相互干渉とか感応共振とか受信とか発振、発信とかが、
すべての事象を形成している事でもあり、
それを観察するのが生命で、
それには“上”と“下”があり、
それは何回も先生との話で言い尽くされた事でもあるけど、
人は自分の持っている認識以上の事は自分より少し“上”の事しか認識出来ない。
そやからこそ変圧って過程がある。
そして人(日止、霊止)が認識し得る進化って言うのんは、
ある意味霊的成長の人以下の事を認識したって事でんねん。


そやからそう言う点で、
物質の世界での認識で肉体を持った人間が感じ得る、
一番高い振動でもある光も含め、
それ以上の何か・・・それ以上の“上”の振動を、
ローム太霊さんは、
炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)と言い表したと思えるやん。

ほんでからに今、
次元の認識の事を少し言うたんやけど、
今は“日月神示”の解釈やから、
話が逸れるし・・・大分話が逸れてしもてるけど・・・

次元って認識に付いても・・・近々、Kellyさんが私見をぼやく事にしまんねん。

ほんでからに次の文章は、

“大庭の富士を探して見よ、
神の米が出て来るから、それを大切にせよ。
富士を開くとは心に神を満たすことぞ。”

この文章の中の、“大庭”

大=人+胸の磁性“十”・・・
“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)“観自在”・・・
左往右往してはる人の場(フィールド)=“庭”・・・
そう言う事やと思いまんねん。

そやからこそ、
“大庭の富士を探して見よ、”

自省(胸の磁性“十”)をしてはる人が発振、発信してる“富士”、
富士=宀(うかんむり)と畐・・・一と口と田。
“一”の振動を吸収してる意味が“口”・・・
そしてそれは田=四つの場(フィールド)でもあり、
それが、
動物には無い心(靈)の発現=思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)
これは人の大脳新皮質=目上(めうえ)の脳そのものでんねん。

そして“神の米”、

この事は前のブログには書いてない事やけど、
米って言うのは固めの芽でもあるって先生は言うてはった。
そう先生が思う根拠は、

“コ”=凝り固まる、凝集する。
それは真固止の固でもある。
“メ”=蒸し出された生命の芽。
そしてそれは目、心の目・・・
それは、観察と認識って事やって先生は思った。
(現津(あきつ)=観察され得る事象)

それは、この間、
先生のところに太陽凝視を教えてくれたKさんの長男、
現役神主のYAはんが来はって、
先生に、
“風止麻邇(ふとまに)言霊学 道ひらき”の本を渡して行かはった。
同時に荒深道斉さんの本も沢山渡して行かはった。
その本の中の今の、
“コ”と、
“メ”の話・・・大体そんな表現やった。

今後この本からの引用もして行きまんねん。

先生的には道ひらきとか荒深道斉さんとかは、
その言葉と名前くらいしか知らんかったんやけど・・・
そこに書かれてある事は、先生の考えと一致する事が多かった。
それは段々、
人(日止、霊止)が“上”に向かうと、
共通の認識を得て行くって事でもあるやん。
“上”に行けば行く程、それは答えは一緒になって行く。
認識の程度=霊的成長度の段階=愛(炁)の顕現の程度。
それは同義やから、その時点時点での進化過程では共通の認識をして行く。
そしてその事そのものが霊的世界の階層でもあり、
それを肉体を持った地球人が認識しやすい事として、
大脳の旧皮質=目下(めした)、
大脳の新皮質=目上(めうえ)って事やねん。

そやけど・・・もの凄ぉぉぉぉぉく・・・話が逸れてる・・・

振動の話に戻りまんねん。

人(日止、霊止)に限らず、
生命の(霊的)成長・・・進化って言うのんは、
段々“上”の振動を感得し、獲得して行く事でもある。
そやからそれは米の象形文字を見ると解るやん。

米の象形文字に見られる振動の三つの性質



プラス、マイナス、中性の粒子、
砌(みぎり)と日足(ひたり)・・・そして背骨。
その極性の事を言うてる字でんねん。
ほんでから、この字そのものが、
地球人の心(靈)の発現の段階を示している事でもあるし、
それは“下”の極性と“上”の極性を持っている事でもある。
ほんでから今地球人の心(靈)の発現は、
米の象形文字の下半分の段階って事でもあるし、
そやからこそ固めの芽=コメ、
それは真固止に通じ、米を食わんと骨の結晶化には繋がり難い事も示してると思うけど、
ほんまはそんな事だけではなく、
すべての現津(あきつ)=観察され得る事象の良いカタチの在り方を望み、
そして段々心(靈)の発現の段階が変容することそのものが、
“上”の振動を真に固く止める=真固止って事でもあり、
それが段々神さんに近付いて行くって事になる。

そやから次の言葉もそういう事を言うてる。

“富士を開くとは心に神を満たすことぞ。”

脳の機能=思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)で、
開く=“上”に向かう思想を持つ・・・自省して“直日(なおひ)”して“観自在”して、
心(靈)が“上”に向かう=更なるよい形を求める。
それは神格化に向かう思想・・・
そうなるには、
心(靈)に神=“上”の振動の回転による発振された振動を受信する=満たす。
そう言う事でんねん。

そやからそれは次の言葉に掛かり、

“ひむかとは神を迎えることぞ、ひむかはその使ひぞ。
ひむかは神の使ひざから、九の道を早う開ひて呉れよ、
早う伝へて呉れよ、”


“ひむか”=日向で、
これは祝詞なんかでもよく出てくる言葉でんねん。
そやから、
太陽が、創造主の思惑を仲介してくる生命って言うのんが先生の認識で、
それを受信する=吸収する=食う事が、
太陽凝視そのものであり、
それはそう言うつもりで太陽凝視することが大事。
(心(靈)の発振、発信)
そやから先生の太陽凝視に対する概念は、
神格化の為の具体的な手段であるって事でんねん。

ほんでからに人(日止、霊止)の進化=神格化に向かう事。
それを阻む存在の思惑を受信してるのが、
太陽凝視=不食・・・

人(日止、霊止)は進化して行ったなら、
そんなに物を食わんでもよくなるんやろけど・・・
現に先生も、
初秋から初冬まではあんまり食事を摂らへんのやけど、
太陽凝視をする動機・・・
どういうつもりで太陽凝視するのか=心(靈)の発振、発信。

そやから、
不食不食って事ばかり注目させるのが、
人(日止、霊止)に太陽凝視の真の意味を教えたくない存在の思惑って言うのんが、
先生の解釈でもある。
当然そう言う霊的干渉しか起きない=あんまり物を食わん動物霊の憑依って結果になる。

そやから、
人が求めるもんって言うのんはそれぞれ自由やけど、
それは、
心(靈)の発現の段階がどれ位“上”に向かっているのか、
それは、霊的成長の程度で、
求める事は違ってくる。

そやからこそ、
太陽凝視でも、
幸福の概念でも、
神さんに対する認識でも・・・
心霊現象でも、チャネラーのメッセージでも、オーラに対する認識でも・・・
その解釈は霊的成長度により人それぞれ違う・・・
大事な事はそこに自分達の心(靈)の発現の段階を知る事で、
それは自分の心の動き、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
どの部分が顕れているのか・・・
それを自分で観察し分析する事・・・その心(靈)の動きが、
“上”に向かう為の基準=“天の御目”の獲得に繫がって行く。

そういう事を意識して行かんと、自分なりの基準は獲得出来へんって事やねん。
ほんでからにそれは神さんとしての最後の思惑の顕現=“九”、
○ 九 十 の、“九”でもあり、
それは人を示す儿部(じんぶ、にんにょう)に、
“一”=創造主の思惑=智性=1番目のオーラが、
加わった字でもある。

そやから次の言葉、

“ひむかは神の使ひざから、九の道を早う開ひて呉れよ、”

“九の道”は、
人(日止、霊止)が霊的成長し、
自分なりの基準を獲得し=“天の御目”を獲得し、
今より神聖な事象の創造をして行く。
それは人(日止、霊止)自身の完成に至る為の道でもあるって事やねん。
それが人の完成って概念やし、それは神格化でしかない。

そやからそれは次の言葉に掛かる、

“ひむかのお役は人の病をなほして神の方へ向けさすお役ぞ、
この理をよく心得て間違ひないやうに伝へて呉れよ。”

この文章の中の、
“病をなほして神の方へ向けさす”

この場合の“病”は、
当然病気の事も含めて言うてるけど、
それだけや無くって、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きの低い部分が生み出した何か、
それを“病”って表現されてると思えるやん。

人の自我の発言の段階で、低い幸福の概念で、
そして恨みの連鎖が拡大し、今現在そう言う事象ばかりになってる。
病気かてそういう事に過ぎへんって事でんねん。

それは、
人の低い心(靈)の発振、発信がそう言う結果になってる。
こんな事はいまさら説明せんならん事でもないな。

そやからそれは、
“神の方に向けさす”=“上”の心(靈)の発現に向かう。

そうならんとアカンって事でんねん。


ほんでから“病”に付いても調べたんやけど、
病は、
疒部(だくぶ)と、丙(へい、ひのえ)で構成された字で、
疒部(だくぶ)は、
爿部(しょうぶ)と横棒で構成されていると辞書に書いてある。
ほんでからに、爿部(しょうぶ)の意味として、
爿の字は木を裂いて二つにしたものの左半分を意味する。

丙(へい、ひのえ)は、これも辞書を見ると、
神への生贄を供える台を象ったとされてて、
ほんでからこの、
丙(へい、ひのえ)は、
陰陽五行説では木火土金水の火性の陽に割り当てられており、
ここから日本では「ひのえ」(火の兄)ともいう。

そこから得られたKellyさんの認識は、
地球人の心(靈)の発現が今現在、
自我の確立=固定化の段階を示してて、
そやからそれは“下”から見ると、
水=腹=帯電するミネラルが固まってない段階=“石屋”
火=肝、“いきり立つ心(奴と心)”、砌(みぎり)、
それは空気を吸って酸素を取り込んで物質を変容させていく様でもあり、
その過程の=振動の吸収過程としての、
その心(靈)の発現の段階を、
幽か(かすか)って言う。
それは“上”から観たら、たいして立派な心(靈)の発現になってない。
やっと自我の確立=固定化の段階でしかない。
そう言う事やと思いまんねん。

そう言う点でも、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現は、
更に“上”に向かわんならんから、
自省(胸の磁性“十”)の行をして、
その前段階が、脾=“思う、憂う”・・・
そして肺=“悲しむ”・・・更に“慈悲”と“慈愛”になる。
そうなっていくのが霊的成長の過程でもある。

そやからこの世界は失敗を体験し・・・神さんの右往左往の段階でもあるし、
現にこの世界は、失敗だらけの世界やし、
先生はその事でこの世界が大嫌いになってる・・・
そやから永遠の実在としての人(日止、霊止)の意識って言うのんは、
ひどい目にあって失敗を体験し、ほんでから、
自省(胸の磁性“十”)して行かんならんけど、
その失敗を今回の上つ巻 
第五帖では“病”って表現されてて、
ほんでからに心(靈)の進化は、“上”の振動に向かい、
それを取り込む事、そやからそれは、
“ひむか”って事になりまんねん。

そやから“上”の心(靈)の発現・・・そう言うつもりの太陽凝視。
そういう事も意識して欲しいって言うのんが、
今回の、
上つ巻 第五帖を読んだKellyさん的感想でもありまんねん。

今日は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第六帖 Kellyさん的解釈

 

今回も、“日月神示”上つ巻 第六帖 の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。


第六帖

外国の飛行機が来るとさわいでゐるが、まだまだ花道ぞ、
九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。
臣民は目のさきばかりより見えんから、
可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。
大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。
この知らせをよく読みて呉れよ。
十月まで待て。
それまでは、このままで居れよ。
六月十七日。ひつくのか三。


冒頭の文章の、

“外国の飛行機が来るとさわいでゐるが、まだまだ花道ぞ、”

これが書かれたのは昭和19年、
第二次世界大戦の真っ只中やから、そう言う言われ方をしただけやと思うけど、
以下の文章は、
その時代背景の事だけ言うてるのとは、
少し違うと思えるやん。

それは・・・

“九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。”

“九”・・・○ 九 十 (まこと)の、九、
それは神の思惑の顕現でもある、
創造主の最後の仕事でもある、“卆”。
人(日止、霊止)の創造による事象・・・

この世界の創造の事を言うてると思うやん。

ほんでからに“十”・・・これは、胸の磁性“十”、
それは、

頭、脊椎、骨盤、足・・・
それぞれの骨と神経で構成される磁束。
これは縦の磁束。
それと、
手と手の指、そして肋骨、鎖骨、胸骨で構成される磁束。
これは横の磁束。

その二つの磁束が重なった表現が“十”・・・

そして横の磁束があるからこそ、
腹の段階の軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが、
上昇する。
その時の心(靈)の発現が、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)から“慈悲”と“慈愛”になり、
それによってシンクロトロン放射が可能になり、
そのシンクロトロン放射の強化が結果として、
クンダリーニの白光になる。

更に、補足として、
シンクロトロン放射の強化の為には、
頭の磁性の強化=1番目のオーラの拡大、
腕と胸の磁性の強化=2番目のオーラの拡大、
骨盤と足の磁性の強化=3番目のオーラの拡大、

そやからこそそれを、
一二三(ひふみ)と表現されてると思う。

その具体的な方法が、
“日月神示”内の表現でもある、
特別神憑り=太陽凝視って事になるんやろけど・・・
先生と前に話したとおりそれは、
“九部通りしくじる”・・・
そうやって“日月神示”の中にも書かれてはる。
(思惑と顕現“その十一”“上”の思惑の顕現・・・“天の御目” 参照)

そやから、ほんまの事を教えたくない、
“悪”の存在の思惑の受信をしてはる人の方が多い・・・
それが太陽凝視=不食・・・
結果として太陽凝視のほんまの意味と意義に付いて、
あんまり考えへんと、時間だけ過ごさせて間に合わんようにする。
ほんでからに不食を追求するあまり、そう言う心(靈)の発振、発信は、
低い霊的干渉しか起きへん。
それが引き起こす事として一例を挙げれば、
アセンションに対する認識でも、
それは、時間が来れば・・・その時期になれば、
たいして“行と修行”せんでも、
又、
心(靈)の在り方が変わらんでも、
誰でも苦しまんとアセンション出来るっていう甘い認識・・・
その後は只、
何の苦しみもない世界がやってくると思いたい・・・

自分達の創造する場(フィールド)って言うのんは、
自分達の心(靈)の発振、発信由来の事象・・・
その観察と認識、その概念がない。

甘い認識・・・
こう言う事を思う自分の心(靈)の動きって言うのんを、
自分で自己観察出来へん。
それは低い霊的干渉による自我の肥大でしかない・・・

話が逸れてしもた。

ほんでからに、
シンクロトロン放射は相対的に高い波長の発振、発信になる。
それは白い光を放つ。
そして、そう言う霊的成長を極めた人(日止、霊止)を、
天の白い王=天皇って事やと思う。
ほんでからにそう言う霊的成長をしたからこそ、
“上”の思惑と感応共振して=天意を受けて、
そして自分より霊的成長度が“下”の人を率いて行く。
それがほんまの天皇って事やと先生は思うてる。

ほんでからに、
シンクロトロン放射する為に、
それが人(日止、霊止)の神格化への道って事を証明する為に、
もう少し補足説明すれば・・・

動物から人への進化って言うのんは、
四足獣が直立するようになった。
手を使うようになった。
同時に大脳の新皮質の発達があった。
それは、
大脳の進化=1番目のオーラ、
直立して手を使うようになった=2番目のオーラの質の変化、
そやからこそ腹の段階のサイクロトロンから、
シンクロトロンに移行する構造を持つようになったとも言い得るやん。
そしてそれに伴い、
段々心(靈)の発現の段階も変化してきている。
それは、人(日止、霊止)の心(靈)の動きともいえる・・・構造とも言える、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を、
顕す様になって来た。
そやからこそ人間を見ても、
霊的成長度の違い=心(靈)の動きの分析って事が出来るようになってきた。
本能や情動や低い功名心や低い自尊心や縄張り意識や・・・
それは進化した心(靈)の顕現では無いやん。
そやから、
(霊的)進化程度の低い人ほど自己奉仕者となり、
自分の利益の為なら他者を害しても構わないって心(靈)の動きになる。
こんな事は今まで何回も先生と話して来た。
只、
学者さんの進化論にはそう言う概念は無いって事でんねん。
今後、
次の世界の創造を担える進化程度の人(日止、霊止)は、
それをよう理解しとかんとあきまへんで~って事でんねん。

そやけど・・・強固なシンクロトロン放射=クンダリーニの白光、
次の世界に移行する人のほとんどは、そこまで行かんでもエエんやろけど・・・
それは特別な使命を持った人(日止、霊止)が、
そうならんとアカンって事でんねん。

話を“日月神示”の文章に戻しまんねん。

この場合の“九”と“十”・・・
そう表現されてるのは、
それは、
人の創造が“九”で示され、
その霊的進化の仕組みが“十”で示されてる文章やと思う。

そやからこそ、
“ボツボツはっきりするぞ。”・・・って事やし、
それは、
“まだまだ花道ぞ”・・・って言葉に掛かり、
それはまだ、見失っていない段階って事を思わせるし、
そして、段々・・・
方向性を見失って行くって事を思わせる文章でんねん。
そやからそれは・・・今現在は見失ってる。
形骸の価値感で世界は動いてる。
この世界は腐ってる・・・そう言う話を先生と沢山した。

そやから・・・そう言う事も言うてると思える。

そやからそれは、もういっぺんおんなじ様な事を言うんやけど・・・

今の世界の事象で目立ってるんは、
“十”・・・自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の発現の、
あんまり無い人の創造する世界とも言える事で、
それは簡単に言うたなら、
自己奉仕者の低い幸福の概念で動いてる世界・・・
自分だけ幸せになる、物欲を満たすことが幸福やと思う。
この世界はたのしまな損やって思い込む。
そう言う霊的進化程度の低い人が中心に、
この世界を動かしてる。
(“玉石混交(淆)”)
そやからそれは崩壊する=失敗を体験してから自省する。
その体験の結果、
生きてても死んでからでも、自分の存在の意味や意義を考えるようになる・・・
それは、
霊的成長度の低い人が“上”に向かう為の事とは言え、
考えを変えれば、
回避出来る事やと思いまんねん。

そういう事を“日月神示”ではたくさん言われてる。
そやから、
誰も無駄な失敗をする必要は無いって事やけど、
この世界は、
恨みの連鎖の霊的干渉に満ちていて、
大多数の人は貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の発現段階で、
そやから、
醜い事象ばかり起きるやん。

・・・今後もどんどん増えるやろ。

恨みの連鎖・・・その霊的干渉の仕組みを誰も説き明かさん・・・
解き明かす必要があるからこそ先生は、
前のブログを立ち上げた・・・そう言う事もありまんねん。

今起きてる醜い事象・・・観察され得る事象・・・
それが恨みの連鎖由来の霊的干渉の現象が多いし、
その仕組みや霊的干渉を認識して理解して行く為に、
それを、
“下”である人(進化程度の低い地球人)に示す為に、
霊能力の発現が、(“上”の存在から)ある種の“術”として、
許されてると思うけど・・・

今言うたみたいに、
程度の低い自己奉仕者の心(靈)の霊能力者ばかりが、
活躍する世界でもあるやん。
そやから、
甘い言葉だけ言うて、オーラの解釈もとても低く、
狭い観察での霊的干渉を脚色して、
見てはる人の情動に訴え、そしてテレビで数字を取り、
ほんでから、主護霊の認識を低いもんにして、
それを一般に広めてる。
ほんでからに、
低い功名心由来のディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きの、
ただ目立ちたいだけのアセンションのサイトかて、
そう言う事でしかない。
それが・・・太陽凝視してまっせ~とか、
ちょっと汗をかいたとか下痢をした程度の事で心身浄化しまっせ~とか・・・
これはイン○キデ○ックスの情報しか知らんからやな。
只々、認識が低いとしか言いようの無い事でんねん。

そう言う点でも、
このブログでKellyさんが思うたみたいに“日月神示”で言うてる、
身魂掃除とか、
鏡を磨くって言うのんは、
結果、心(靈)の在り方を変える事でしかないし、
それは発振、発信に繋がる事でしかないし、
それに伴う、
肉体と心(靈)の創造をして行かんならんやん。

そやから、
心(靈)の在り方が変わり、
それに伴い、
(自分の心(靈)の創造の結果でもある=顕現でもある)肉体も変わり、
それが宝の意味でもある“宝=体=體=骨が豊か”・・・
そして骨の結晶化って事になり、
より“上”の思惑を受信するようになり、
それは“上”の存在と協調して世界の創造をして行く。
その霊的資格を持つ人(日止、霊止)だけが、
アセンション後の創造に関わる事が出来る。
先生はそう思うてるし、Kellyさんもそう思う。

そやから、“日月神示”内の言葉でもある、
身魂掃除、
鏡を磨く、
身魂磨き・・・
それは、
自分の心(靈)の動きの中の、
“上”と“下”を自分で見極める事と同義やろし、
“上”の思惑である高い振動との感応共振を示す言葉でもある。
そやからそう言う人(日止、霊止)の肉体は、
宝のほんまの意味でもある、
“宝=体=體=骨が豊か”って事になる。

そして、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
しっかり認識する・・・そうなれば、
心(靈)の進化=霊的進化=心(靈)が“上”に向かう・・・
そういう事が理解出来る様になるやろし、
沢山の人がそうならんとこの世界は、
良くならへんって事でんねん。

ほんでからに今言うた事は、
進化のほんまの意味でもある神格化。
それは“天の御目”の獲得でも有るんやろけど、
その心(靈)の基準を獲得する為には、
苦難を試練として・・・
それは右往左往でもあるし、生体内電流の強化でもある。
その強化法として、
人生の体験で起きる苦難と試練を乗り越える事と、
もう一つ、“行と修行”でもある。
この二つはちょっとニュアンスが違いまんねん。
そこには、エネルギーを贖い、
自分の肉体の磁性の強化をして行くって事は、
共通やけど、
獲得する振動と、
増幅する振動=心(靈)の動きって言うのんは、
種類の違い=質の違いって事がありまんねん。

そやけどその両方をして行かんと、
人(日止、霊止)は、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)も、
ある種の“術”も、
ほんでから、
“力”を使う為の基準も=“天の御目”も、
獲得出来へん。

その“力”と、
“力”を使う為の基準の獲得は、
“力”=砌(みぎり)と、
基準である“天の御目”=日足(ひたり)でもあり、
それは、
事象の創造と、
精神性って事でもあり、
思惑と顕現でもあるやん。
そやから、良いカタチの創造を果たして行くのには、
その為には、
自分の在り方を考えて行かんならん。
(“直日(なおひ)” 自省(胸の磁性“十”) “観自在”)
それは自分の心(靈)の動きより、
相対的に、
“上”の心(靈)の振動を獲得せんならん。

その為に試練を与えられ、
成長を見込まれてるから試練を与えられ、
その中で自分の心(靈)の在り方を導いてくれはるのが、
ほんまの主護霊の存在意義でもある。
それは、
自分より霊的成長度の高い先輩って事でもあるやん。

ほんでから、
人生の中で“行”って事に目覚めてはったなら、
自分より“上”の振動を食わなアカン。
そして心身を作り変える・・・
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる。

・・・それは先生の言葉でもある。

その為の“行”が、
一部の人に許された厳しい太陽凝視でもある。
更にそれが進めば、
骨の結晶化の具体的方法としての電気行の事を、
“上”から受信して、
そしてそれを行って更に高い振動の受発信をするようになる。
それは使命を持った人(日止、霊止)って事でんねん。

そやから太陽凝視でも、
今、太陽凝視をする人は増えてきてるようやけど、
その人の認識=霊的成長度によって、
それは、“行”の内容・・・随分程度が違う・・・
先生はその事を憂いてる。

・・・話が逸れてしもてるけど・・・

このブログを立ち上げてから何回も言うてる事やけど、
ただ太陽凝視って言うたならそれは、
みんなおんなじ事をするのでは無いって事で、
その程度って事を見極めて欲しいし・・・
太陽凝視=神格化への具体的な方法って認識を、
人に与えたくない存在の思惑って言うもんを、
良く理解して、
自分の心がそう言う存在と感応共振して欲しく無いって事でんねん。

話を戻しまんねん。

そやからそれは、
太陽凝視に限らずなんでも方向性を見失わせる。
この、上つ巻 第六帖の言葉はそういう事を言うてる感じがするやん。

そやからその事は、次の言葉に掛かる。

“臣民は目のさきばかりより見えんから、
可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。”

・・・でもあるし、

“大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。”

・・・でもあるやんか。

ほんでからに次の言葉、

“この知らせをよく読みて呉れよ。
十月まで待て。
それまでは、このままで居れよ。”

“十月まで待て。”

これは、自省(胸の磁性“十”)と月。
月=肉体の事でんねん。
心の発現と思惑の顕現としての肉体=月でんねん。
そやから肉体の“上”に“十”を書く。
(このブログは横書きやから解り難いかもしれへんけど、
大体日本語は、元々縦書きやったって事でんねん。)

そう言う点でその当時はまだ、その方向性を見失っていない・・・
物欲に支配されていない・・・
ほんでからに戦争が起きてるってこと自体が、
今までやってきた事の結果でもあるし、
それは右往左往から左往右往の段階に入る兆しとしての、
第二次世界大戦やったとも思えるやん。

それはそう言う意味の事やったって思うし、
多分それは、
その当時の日本人全体の霊的進化の為に、
第二次世界大戦を体験し、
そして戦争が終わり、
敗戦し、
一時的に左往右往に入り、
そして時間が過ぎて国力が増し、経済大国になり、
それは右往左往って事になり、
そして心(靈)の方向性を見失ったから、
今度、失敗して、
左往右往する=経済の崩壊や戦争や文明の消失・・・そう言う失敗の事象を体験する。
これは多分、
世界的にそう言う傾向があるって事でんねん。
ほんでから今がその時期やと思いまんねん。

そやからこの文章は、そう言う事を言うてると思うし、
当時、
今ほど低い心(靈)に囚われてる人(日止、霊止)はいなかった。
それが、

“まだまだ花道”

・・・って事でもあると思えるし、
それは今、
形骸の価値感に人は囚われてるからこそ、
今、全般に、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を、
忘れてるから、
失ってるから、
この世界は腐ってる・・・

そやから・・・
もうすぐやってくるアセンションの時期を指して、

“それまでは、このままで居れよ”

・・・そうやって言われてると思いまんねん。

今日は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第七帖 Kellyさん的解釈

今回も“日月神示”上つ巻 第七帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。


いくら金積んで神の御用さして呉れいと申しても、
因縁のある臣民でないと御用出来んぞ。
御用する人は、
何んなに苦しくても心は勇むぞ。
この神は小さい病直しや按摩の真似させんぞ、
大き病を直すのぞ。
神が開くから、人の考へで人を引張って呉れるなよ。
六月の十七日、一二のか三。


まず、今までの“日月神示”の文章を解釈を思いながら、
冒頭の文章を読むと、

“いくら金積んで神の御用さして呉れいと申しても、
因縁のある臣民でないと御用出来んぞ。”

“神の御用”・・・それは、

形骸の天皇制や、
霊的成長の理念を失った宗教団体や、
自己奉仕者の政治家や金持ちや大企業なんかに対する・・・
皮肉っぽい文章に聞こえるな。

霊的成長の理念を失った天皇制・・・
人(日止、霊止)が“上”に向かう為に(霊的成長する為に)、
“上”の思惑を受信する。
それは、天意を受ける事の出来る人=天皇。
それは、
受信出来る=感応共振出来る(相対的に高い振動で構成された)心(靈)の発現と、
高い振動の受信に耐え得る、強固な身体磁場を持った人(日止、霊止)、
それを、
天皇(天の白い王、クンダリーニの白光)と呼ぶべきなんやろ。

そやから、
ほんまの“上”の思惑としてのメッセージとして、
それを伝える為の詔勅(みことのり)・・・
これも、形骸になった言葉やな。

そやから、権力と象徴だけの天皇制、
それを利用してる政治家と、宗教団体、
その裏には自己奉仕者の金持ちがいる。

それは経済の発展・・・低い幸福の概念・・・その為にエネルギーを贖ってきた。
その事そのものが右往左往でもあるけれど、
そう言う形骸の価値感で人を率いている事そのものが、
この世界をダメなもんにしていった・・・
そう言う話を先生とくどいくらい話したけど、
この間言うた、
高い印鑑みたいな話・・・
ちょっと前のニュースの霊感商法・・・
そう言う事は沢山ある。
それは、誰もが苦痛から逃れたい・・・
自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)・・・自分の在り方を考えん。
楽になりたい、楽しい事だけしていたい、
Happyになりたいって言う甘い夢・・・

最近多なったアセンションのサイトでも、
そう言う心(靈)の動きで文章が書かれてる事が多いような感じを受ける。
ただ現状の苦痛や苦悩から逃れたいからこそ、
甘い夢を見たい。

話が逸れてるけど・・・

そやからこそ、低い幸福感を手に入れたい=目下(めした)の思い。
その心(靈)の発現由来の行動を=創造をする。
経済の発達の側面にはそういう事が多い。

金があれば幸福やと思う。
金があればなんでも手に入ると思う。
金があれば自分は偉いと思いたい。
(“下”三つのチャクラの覚醒段階で“下”に向かう心(靈)=低い功名心と自尊心)

そして形骸の美で、
(ファッション、宝石、化粧品=美肌と美白の価値感、ダイエット等、)
形骸の健康の価値感で、
(薬に依存しすぎる医療、サプリメント、癒しを強調するある種の療法等)
ほんでから、形骸の宗教で・・・
幸せになれると思わせる商法が多い。

“いくら金積んで”

・・・そやからこそ、
そんな人は“神の御用”はさせて貰えへんって事でんねん。

ほんでから、
“神の御用”・・・この言葉そのものの解釈でも、
心(靈)の発現の低い人が多いからこそ、
形骸の宗教やインチキ霊感商法や低い霊能力者や甘い夢を見させる占いや、
ヨガを形骸にして商売したり、
アセンションって言葉だけで人(日止、霊止)を引き付け、
甘い事を言うて商売したり、
そんな人やからこそ=自己奉仕者やからこそ、
それは、
アセンション出来へんって事やけど、
そんな事すら考えてない=気が付いてへん・・・
只々自分の利益になるもんは、
何でも利用せんと気がすまへん・・・
それは、
目先の損得しか判らん心(靈)の発現の段階でしかない。

そやからその心(靈)の進化程度、
それは平均的地球人の霊的成長の段階=下三つのチャクラの覚醒の段階、
そしてそれが“上”に向わへんから、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)になる。
ほんでから、死んでからも、
その程度の心(靈)の振動しか持ってへん。
(浮游霊の事)
そやからこそ何でも金で物が動き、
人に憑く浮游霊もおんなじ心(靈)の発現しかしていない。
それが自分の心(靈)の振動との感応共振でもあるやん。
そやからこそ、
人も浮游霊も、
人(日止、霊止)の生活に憧れ人を恨んでる動物霊も、
金に靡き(なびき)、
おんなじ程度の(霊的成長度の)心(靈)の発現の場(フィールド)を作る。
この星(地球)は、そうなってしもてる。

そんな事ばっかりの世界でもあるやん。
そやからこそ金では無いって事を言うてる。

そやけど今、
ほとんどの人がそう言う心の発現しかしてない・・・
情けないって事でんねん。

そう言う人の心(靈)の発現で、
その価値感で行動した結果が、
飢餓貧困災害戦争・・・そして貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きの、
浮游霊が多なった=恨みの連鎖の低振動の想念の星になってきた。

そやからそれは、
左往右往して壊さんと、
自分達の心の成長度と、
その上の心(靈)の発現って言うのんが解らへん。

ほんでからに甘い人に限ってそう言う現状を知っていても、
自分のせいやと思わへん。
そんなの関係ないって思う。
他者の痛みや苦しみは自分と無関係・・・
只々自分だけが(低い概念の)幸福であればいい。
そう言う人が多いからこそ、
壊さんならんって言うよりも、
それは必然として、
(霊的)進化の法則性として、
自滅するって事でんねん。

ほんでからに今後、壊れるし、
その時に“神の御用”をする人の事を言うてる。
それは、
“神の御用”に対し“因縁のある臣民でないと御用出来ん”・・・と表現されてる、
次の世界の創造(アセンション後)を託されてる人(日止、霊止)は、
以下の言葉のように、

“御用する人は、
何んなに苦しくても心は勇むぞ。”

それは、
形骸の価値感に振り回されてないって事でもあるし、
そして今現在、
左往右往の段階に入り、そう言う人生を送り、
そう言う人生になって行く為にその人の主護霊は、
右往左往の人生を送らせる事もある。
それは、善悪に関わらず、
仕事が上手く行ったり、
なんでも頑張れば手に入ったり、
エネルギーを贖った分だけなんでも思い通りになり、
それは、
その人をエエ気にさせる事もある。
“いきり立つ心(奴と心)”=砌(みぎり)の行でもあるやん。

ほんでからにそれだけでは、
右往左往だけでは、
沢山の認識を生きている間に獲得出来へんから、
失敗させて、
左往右往させる為に試練を与えるって事が多い。
それは、
この間先生と瀧原宮に行く途中に話したYAはんの事でもそうやし、
先生自身でもそうやし、
Kellyさんでも・・・沢山そういう事はあった。

その時の心(靈)の変化って言うのんは、
自省(胸の磁性“十”)やし、
“直日(なおひ)”やし、
“観自在”やし、
その心(靈)の発現に伴う肉体の変化が、
ゲホゲホ!!ゴホン!!ゲホゲホ!!ゴホン!!
ズル~ズル~ズルル~~~やった。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)”“その二~四”)

それは具体的に言うたなら、
物欲に囚われないとか、
自分の心(靈)の動きを良く観察する様になるとか、
そう言う心(靈)の発現をする様になるのは当然の事で、
そして自分の存在とか、
神とか、
ほんまの幸福とか・・・

左往右往で心が折れてるからこそ、
失敗したからこそ、
悲しんでいるからこそ、
(肺=“悲しみ”、脾=“思う、憂う”の心(靈)の発現)
そういう事を思うようになる。

それは心(靈)が“上”に向かう事になり、
それはその時より前の霊的干渉より、
それは、
相対的に右往左往の霊的干渉よりも、
“上”の霊的干渉も起きるようになり、
そしてそれは、
自分の霊的成長をほんまに望んでるほんまの意味での主護霊との通信を、
し易くなって行くって事にもなる。
そやけど・・・現状、主護霊の概念もてんで低い事になってて、
そんな事まで低い霊能力者は気が付いてへん。

そやけど・・・又、低い事象の事を考えてしもてる・・・

そう言う点でも、この間Kellyさんが解釈した、
上つ巻 第二帖の言葉、

“盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、
気のついた人から、
まことの神の入れものになりて呉れよ、
悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、
神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、
初めは辛いなれど、
さきを楽しみに辛抱して呉れよ。”

・・・この言葉にも示されてる事でんねん。

そやから自分たちは、
“盲”って認識を持たんとアカンって事でんねん。
それは、先生の言葉、
“事象を観察する視野が狭い”・・・でもあるし、
前にKellyさんがぼやいた言い方としては、
どんな貴い価値のあるもんでもその人の認識の程度の事しか理解出来へん。
簡単に言えば、アホはアホの解釈しかせんって事でんねん。

ほんでからどんなに霊的成長しても、
“上”には“上”があるって事もあるし、
今言うてるのはそう言う段階でなく、

只、普通の人は、
下三つのチャクラの覚醒段階やから、
自分の心(靈)が字が由来の心(靈)の動き=低い功名心や自尊心に
囚われやすい・・・っちゅうのんか・・・
それしか持ってないって事でんねん。
そやからやってる事自体がアホで、
自分でその事に気が付かんのは・・・アホでんねん。

それをよう自覚しとかんと、
自分より“上”の思惑って言うのんは理解出来へん。
それは、
先生が色々失敗の人生を送って得られた認識でもありまんねん。

又・・・話が逸れてるけど・・・

次の文章の、

“この神は小さい病直しや按摩の真似させんぞ、
大き病を直すのぞ。”

“小さい病直しや按摩の真似”・・・目先の癒しとか、
薬漬け医療は、人を進化の方向性から逸らす。
それは、形骸の美でもそうやけど、
人は生物学的に見てもダメな方向に向かってる。
そやけどそれをたいして誰も問題にせん。
商売したいからや。
そやからそれは、美白の価値感が骨をダメにし、
薬の多様が免疫機能の低下を招き、
神経の電気的導通を遮断する鎮痛剤とかは、
骨の結晶化の反対の事をさせる。
こんな事も先生と話をした事があった。
(事象の形骸化 & 思惑と顕現 “その十一” “上”の思惑と顕現・・・“天の御目”)

こんな事は例を挙げてたらきりがない。
そしてその裏には、
只々利益だけ上げたいって心(靈)の動きがある。

ほんまに地球人が問題にせんとアカンのは、
その心(靈)の動き・・・自分の利益の追求が人の進化を阻んでる。
それは、心(靈)の低振動化でもある。
(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”)

・・・そしてそれが引き起こしてる事象・・・
“悪”の事象の創造が、結果として恨みの連鎖にもなり、
そして今後、
保身の心(靈)の発現由来の戦争も起きるやろ。
もう起きかかってる感じやな。

そやけどそれは、
それを体験せんと、
次の段階の心(靈)の発現に結び付かへん人が、多いって事でもある。

そやからそれは、
この後の“日月神示”の言葉にも出てくる“立替え”とか“立て直し”、
ほんでからにそれは、

“グレンと変わりて来るぞ”
“グレンとひっくりかえる”
・・・とか、表現されてると思えるやん。

ほんでからに、その後・・・地球規模の失敗をした後、
それを立て直すのは、
今までと違う価値感と基準を持った人でなければならないって事でんねん。
それは、
天意を受けた人(日止、霊止)の価値感や行動で立て直すからこそ、
以下の言葉、

“神が開くから、人の考へで人を引張って呉れるなよ。”

“上”の思惑を受信して、
今までの人の、
形骸の価値感や思想で人を導くな・・・って事でんねん。
その事も戒めてる文章やと思うし、

今、ほんの少し、
この世界がおかしいと思うてる人は、
それは、
ほんの少し“上”の思惑を受信し始めてる人(日止、霊止)は、
現状を良く観察し認識し理解して、
今後の創造=自分のエネルギーの発振、発信に活かして行く為に、
この醜いと感じる事象を、
(ほとんどの人はそう思うてないやろけど)
良く知っとかなあきまへんで~・・・って事も、
窺い知れる文章でんねん。


ほんでから、
今回何回も言った低い心(靈)の発現に付いては、
近日中にKellyさんがその具体例を、
Kellyさん的事象の観察と認識でぼやく事にしまんねん。

きっとこの事を・・・何回もぼやかんならんような気がする・・・
そう言う感じもしまんねん・・・

・・・嬉しい事や無いんやけど・・・

今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈

今回も“日月神示”の上つ巻 第八帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り。


秋が立ちたち、
この道ひらくかた出て来るから、
それまでは神の仕組書かして置くから、
よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。
その時になりて、あわてて何も知らんといふ様ではならんぞ、
それまでに何もかにも知らして置くから、
縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。
六月の十七日、ひつくのか三。


まず、冒頭の言葉、

“秋が立ちたち、”
これは上つ巻 第六帖と同じで、
単なる時代背景の事を言うてるとはとても思えへん。

Kellyさんがそう思う根拠は、
“秋”・・・禾(のぎへん)と、火で構成された字やからや。

そやからそれは、
禾(のぎへん)が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と木部で構成されてる。
木部って言うのんは、
胸の磁性“十”の下に、儿部(じんぶ、にんにょう)を足した字やって言う事で、
そやからそれは、禾(のぎへん)自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 胸の磁性“十” + 儿部(じんぶ、にんにょう、人が歩く様子に象るの意味=時間の進行)で、
それは時間を伴う霊的進化そのものを表してる。
言い換えれば、
時間って言う振動の変化を吸収しながら、
(時間の認識を持ち)心(靈)は育っていく。
そういう事を表してるように思えるやん。
ほんでからにそれは、禾(のぎへん)と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)と共に書かれてるから、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は、
幽界の“幽”、
幽か(かすか)の左右の糸を外した山みたいな字と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は同じで、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現が、
(“上”から観て相対的に)幽かな時は、
自分の外側しか見ないって事でもある。
ほんでから、“日月神示”内の表現としては、
幽界=外国で、
そやからそれは自我の確立=固定化の進化過程やし、
その時の心(靈)の動きは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
本能、情動、功名心、自我・・・迄やから、
目先の欲望や低い自尊心や功名心や・・・それが中心の心(靈)になる。
そしてその心(靈)の動き由来の行動=発振、発信をする。
そう言う創造をして来たのが今の世界でもあるやん。

ほんでから“幽”の左右の糸、
左右の極性、砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性で、
心(靈)は・・・(霊的)進化過程の心(靈)の発現って言うのんは、
腹=下三つのチャクラから、
胸=アナハタチャクラの覚醒って事になる。
そやからそれは一言で言えば、
心(靈)が“上”に向かって行く。
段々、アナハタチャクラ由来の心(靈)の発現をして、
“慈悲”と“慈愛”を発現して行く。
この事が解り難かったなら、
前のブログ、
思惑と顕現 “その三~八”までを読んで欲しいねん。
その中で特に“摩多羅神”の所は、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の進化過程が、
解り易いと思いまんねん。

心(靈)の発現・・・
“上”に向かうから、
段々神さんに近付いて行こうとするから、“慈悲”と“慈愛”を自分の心(靈)に持つ。
そう言う意味で、禾(のぎへん)と火になり、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”の振動を獲得し、
胸の磁性“十”をしっかり構成する為の事でもあると思えるやん。
又、別の表現をすれば、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そしてそれは自省=左右の磁性でもある。
帯電するミネラルが固まっていく様が、
心(靈)が“慈(しげる)”事でもあり、
固まってない=水の中の帯電するミネラルの段階が、
腹=水=江戸の“江”の段階の心(靈)の発現ゆえの価値感、
“石屋の仕組み”でもあると思えるやん。

そやから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”から垂れた振動を、
人(日止、の振動を取り込み、
胸の磁性“十”をしっかり作って行き、
その時の心(靈)の発現が、
“慈悲(いつくしみ、かなしむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって行く。

そやからそれは“秋”と書かれてると思う。

そしてもう一つ、
“秋が立ちたち”・・・立ちたちって二回立つって言うてる。
これも、
左右の極性の事としか思えへんって事でんねん。
そしてこの間先生と行った、
瀧原宮の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の、
“竝(ならぶ)”と同義やと思える。

そやから動物から人(日止、霊止)への進化って言うのんは、
心(靈)の発現が段々“上”に行く。
その為に、その時に、
前足が手になったとも言い得るやん。

手が構成する磁束は、
肉体のシンクロトロンの構造を持つ土台みたいなもんや。
それは、進化って言うのんは、
“上”の振動を取り込まんならんのやし、
より“上”の振動と感応共振する為の変化=ほんまの進化の意味、
神格化への道程でもあると思えるやん。
そやからこそ現時点、地球上で起きてる事象でその具体的な事としては、
失敗を体験して自省する=右往左往から左往右往でもあるし、
その時点時点で感応共振する霊的干渉でもあるし、
特に、左往右往=自省・・・その時の霊的干渉の中心になるのは、
やはり、
一番身近な霊的成長度の先輩としての主護霊って事になるやろ。
そやからそれは、
どんなに失敗してどん底であろうが、
その結果が不幸な死であろうが、
共々にいく”って事になる。

ほんでから、
左往右往に入る前に、
自分自身の低い心の発現由来の思惑の顕現をしようとする。
それが砌(みぎり)の“行”、右往左往やけど、
その時に起きる霊的干渉は、
目先の欲望とか甘い思いとかの発振、発信に感応共振する霊的存在やし、
それは左往右往の時期に入るまで主護霊は見守る・・・
それは、自分が間違った事をしてるって自分で気が付く為には、
失敗の体験は必要って事になる。
そやから自省する・・・自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、
“直日(なおひ)”=自分を振り返る事でもあるし、
“観自在”=自分の在り方を観察するって事になる。

そう言う意味でも、
“秋が立ちたち”・・・
腹の段階の心(靈)の発現から、
左右の神経を使い、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
この字の構成は
茲(やしないそだてる、いつくしみ)と心(靈)で、
ほんでからに茲(やしないそだてる、いつくしみ)の左右の糸の“上”にあるのは、
クサカンムリやし、
それは芽生えるって事でんねん。

そやからこれは以下の言葉に掛かる、


“この道ひらくかた出て来るから、
それまでは神の仕組書かして置くから、
よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。”

“道ひらくかた”

それは、進化の方向性が、“道ひらく”
そして“かた”は、方でもあるやろし、
そう言う進化した人(日止、霊止)が出てくるって事でもあるし、
ほんでから、
型・・・進化のテンプレートでもあると思える。

これは自己奉仕者では無い人=“慈悲”と“慈愛”の発現をした人(日止、霊止)。
それと、
人(日止、霊止)の心(靈)が“上”に向かう構造、
それは“慈悲”と“慈愛”の発現の為の、
型としての腕の磁束でもあると思えるやん。
そしてそれは、胸の磁性“十”であるって事やねん。
そしてそれを示してるのが上つ巻 第六帖の、
“まだまだ花道ぞ、
九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。”
それと、“十月まで待て。”って事やと思いまんねん。
ほんでから、
手の機能と大脳新皮質の前頭葉の機能とは、
密接な関係がある。
そして、
動物の脳と人の脳の違いは大脳新皮質でもあるし、
それは“目上(めうえ)と目下(めした)”でもあるやん。
そう言う話も先生とした。

そう言う意味での“型”=進化のテンプレート=神格化へのテンプレート、
それを、
“それまでは神の仕組書かして置く”・・・
それは、“日月神示”は進化のテンプレートの事を言うてまっせ~!!
・・・って事を、言うてると思いまんねん。
そやからそれは、
ここまでの上つ巻の解釈をKellyさん的にしてても、
人の肉体の事と、
心(靈)の発現の事を言うてると思えるし、
それは、
人(日止、霊止)の神格化の事を言うてるとしか思えへんし、
先生の結論でもある、
太陽凝視=特別神憑りって事から考えても、
それは、
“神の仕組み”=人(日止、霊止)の進化=人(日止、霊止)の神格化でしかないと、
思えるやん。

ほんでから、
相対的に今の進化過程から、
次の段階に入るのがアセンションって認識されてる事やし、
そやから、
アセンションの時期を指して、次の言葉、

“その時になりて、あわてて何も知らんといふ様ではならんぞ、
それまでに何もかにも知らして置くから、
縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”

・・・そやけどこれは・・・
縁がある方は少ないやろって事も・・・言うてるな。

ほんでから、上つ巻 第八帖は、

“よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。”
“この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”

同じ表現の言葉を二回言うてるやん。

その“腹の中”って言うのんは、
“上”の振動を取り込んだ腹の水の中の錯体=“上”の思惑=情報を含んだ荷電粒子で、
電磁誘導=生命を営んで行けって事やと思いまんねん。
それは腹=消化器官、肉体の材料って言う意味もありまんねん。
ほんでからにそれは、“日月神示”内の表現でもある、
尾張と江戸・・・
尾張=尾骨の極性と、
腹の磁性=江戸の江の事やと思いまんねん。

ほんでから今は、進化過程が低いから、
あんまり“上”の存在の思惑と感応共振してないって事で、
そやからこそ、
“この知らせをよく読んで”
“よく読んで腹の中によく入れて”って事でんねん。
それは只“読む”って事ではなく、
これも強調して二回言うてるけど、
吸収して腹の中に入れて、
“置いて呉れよ。”って事でんねん。

ほんでから生命=電磁誘導って言葉も、
ほんまは生命活動のすべてを表してるとは思えへんけど、
さしあたって地球人の科学の言葉として解り易い表現が、
電磁誘導で、
それは、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振、
“上”の思惑との感応共振が、
生きているって事で、
その証明が、
動物でも人(日止、霊止)でも、
死んでしもたならそれは、
生体内電流は観測出来へんって事でんねん。

ちょっと話が横道に逸れたけど・・・
今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈

今回も“日月神示”上つ巻 第九帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。


この世のやり方、わからなくなったら、
この神示録(しるし)をよまして呉れと云うて、
この知らせを取り合ふから、
その時になりて慌てん様にして呉れよ。
日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。
一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。
その時にお蔭を落さぬやう、
シッカリと神の申すこと腹に入れて置いて呉れよ。
六月の十七日、ひつくのか三。


冒頭の言葉、

“この世のやり方、わからなくなったら、”

“この世のやり方”・・・その言葉から受ける印象・・・
それこそ人(日止、霊止)の認識の程度=霊的成長度によって、
色々やろけど、
Kellyさん的には、
この世界の創造の仕方=自分の心(靈)の発振、発信する振動を見極め、
自分の心(靈)の在り方を深く考察するって言う風にしか思えへん。

そやから、“この世”・・・

すべての事象って言うのんは、
自分の観察行為で認識される。
ほんでから、
自分の心(靈)の発振、発信する振動によって、
場(フィールド)が構成されていく。

それをこの世界やと感得する。
それが、“この世”の観察と認識でもあるやんか。
そこに自分が居てる=存在すると思うやんか。

そやからそれは、
創造でもあるし、
発振、発信でもあるし、
行動でもあるし、
心(靈)の動きの顕現でもあるし、
それこそ程度の差こそあれ、“上”と“下”の差こそあれ、
思惑と顕現って事になる。

その創造の仕方、顕現の仕方、
それを、
“やり方”と表現され、
そしてそれが、
“わからなくなったら”・・・

それは、今の世界の事でしかない。
今、色んな事がおかしな方向に向かってる。
そやけどそれは、
人の低い心(靈)の発現由来の事でしかない。
自分達がやってきた事の結果・・・創造の結果でしかない。

そやから・・・“この世”の観察と認識・・・
心(靈)の発現と創造される事象・・・

自分と、この世の概念・・・

自分の存在の認識と自分以外の事象の認識、
それを言い換えれば、
自分と“この世”なんやろけど、
ほんまは自分と“この世”を観察してる自分の心(靈)がある・・・
そう言う言い方が正解やな。

ほんでから、観察したなら何でも良いカタチを望むようになる。
そやからこそ、“やり方”を考えんならん。
それは・・・(進化の概念を含め)自然な事でもあり、
愛(炁)が動機の事でもある。

そやけど、
その時の心(靈)の発現の程度により、
現状の地球人の心(靈)の発現は、進化程度が低いから・・・
腹の段階の右往左往やから、自己奉仕者が多い。
そやから、
宗教でも天皇制でも政治でもヨガでもアセンションに対する認識でも、
自分の体に対する良い在り方でも、
自分の心(靈)の方向性でも・・・
いろんな事が形骸になり、
商売に利用されて、本当の価値を見失って・・・
今、ほとんどのものが偽者になり、
ほんでから、
形骸のものほど力を示す世界になってる。

そやから失敗してる事が多い・・・
そう観えるけど、
それが失敗やって認識を大多数の人は持ってない。

その事に・・・
失敗やって事に段々気が付く人が増えてくるから、
それは相対的に、
心の発現が今より“上”の観察やから、
“わからなくなったら”・・・って、言われてると思うやん。

そやけど、低い心(靈)の発現段階の人は、
解らんまま時間を過ごして時期を過ごす。
アセンションの意味も形骸のまま認識して、
そのまま過ごす。

そう言う人を増やしたい・・・それが人(日止、霊止)の進化を阻む存在の、
思惑でもある。
それは、
今までの地球の段階と同じ場(フィールド)に移行する霊=心って事でんねん。

そやから失敗の認識・・・それを誤魔化してる人が、
圧倒的多数やって事をKellyさん的には思うやん。
多分・・・先生も同じ事を・・・
そう言う事を感じてるからこそ、
この世界が大っ嫌いになったやん。

そやからこそ、
“この世のやり方、わからなくなったら、”・・・で、
自分達のやって来た事が間違ってるって認識を持ったなら、
それは、
左往右往に入ったなら、


その現象としては、
心(靈)の進化過程としての=自我の確立=固定化の右往左往の結果としての、
経済が崩壊するとか、
それに関わる事として政治家の嘘とか欺瞞とか、
こんな事はどんどんバレていく。
他にも、
災害とか戦争とか病気とか犯罪とか・・・それは、
恨みの連鎖による低い浮游霊の思惑の現象化。
自分達が低い幸福の概念で使うべきところに金を使わんかった。
自分達だけ幸福になりたいって思うからこそ金に執着し、
その為に誰かが犠牲になっても知らん顔をして来た。
それが飢餓や貧困を生み出し戦争の原因にもなる。
そして自我の確立=固定化の段階やから、
やられたらやり返す・・・それが当たり前の世界でもあるやん。
そうやって沢山の浮游霊の場(フィールド)になってしもてるのがこの世界。

そやから大多数の人は、
この世界に執着のある浮游霊に妬まれ、
憑依され、
憑依された人はその浮游霊と同程度の心(靈)の発現をして行く。
それは感応共振やからやねん。
霊的成長度が浮游霊と同程度やからやねん。
そやから金に執着し、物に執着し、目先の快楽に執着し・・・
その為にエネルギーを贖う(あがなう)・・・
そして、自我の確立=固定化の段階の心(靈)やから、
勝ち負けの概念だけが自分の心(靈)を支配する。
そやからこそ、誰かを犠牲にするとも言い得るな。
そうやって一部の人は薄っぺらい幸福を得て来たやん。
その裏側では貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の浮游霊を増やしてきた。
地球って場(フィールド)を構成して来た人間は、
そう言う霊的成長をして来たって事でんねん。

そやからそれを観て、
ほんまに自分達が考えんならん事や、やらんならん事を真剣に思わんとアカン。
それが、
地球人が体験せんならん霊的成長でもあり、
それは、
心(靈)が腹から“上”に向かう事でもあり、
心(靈)の動きで言い表せば、
本能、情動、自我・・・自我の確立=固定化から、
“慈悲”と“慈愛”に心(靈)の動きが変化して行く。

そやけど・・・もう結果は出さんならんから、
今更こんな事を言うてもたいして解決にはならん。
体験して自分の認識にして、
そして、
今後の(アセンション)在り方を考える人、
S会=紫光会での言葉を引用すれば、
これからの人(日止、霊止)、明日の人”になるって事が、
大事やと思うやん。

そやから以下の言葉、

“この神示録(しるし)をよまして呉れと云うて、
この知らせを取り合ふから、”


“取り合ふから、”は、
自分が右往左往の今までの失敗を認識して、
左往右往に入り、
心(靈)が折れ、
砌(みぎり)のエネルギー=肝=“いきり立つ心(奴と心)”が無くなり、
日足(ひたり)のエネルギー=脾=“思う、憂う”の心(靈)の動きになり、
そして腹のエネルギー=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”は、
心が痛み・・・肺=“悲しむ”(心(靈)と非、非は痛むの意味がある)、
その心(靈)の動き=感情の発現で、上昇して行く。
(大日如来の条帛(じょうはく)、この空間で言えば、それはフォトンベルトに相当する。)

その時に、
“上”からの通信をするから=“取り合ふから、”・・・って、
事でんねん。

その時に初めて、
自分が右往左往してた事に気が付き、
自分がエエ気になってるって事に気が付き、
物欲由来の行動とか自分の心(靈)の傲慢さとか・・・
自分の心(靈)の低さ(目下(めした))を、
目上(めうえ)の心(靈)で認識する。
そして自分の心(靈)の動きの基準とするようになる。

そやから、左往右往に入る時・・・
大体その時に、
失望したり厭世観に囚われたり、鬱になったり、
それが自殺に繋がったりもする。
それは結果として悪霊を増やすって事にしかならない。
そやからこそ人の霊的進化って事を知らんならん。
そやからこそ、以下の言葉、

“その時になりて慌てん様にして呉れよ。”

自分を見失うな。
これから色んな醜い事象は起きる・・・もういっぱい起きてるけど、
その意味に付いて考えてる人はとても少ない。
只、
なんか起きて世の中大変な事になってるって騒いでるだけでしかない。

騒いでるだけでは自分の心(靈)の方向性は見出せんやん。

ほんでから何回も言うた事やけど、
相対的に今より心(靈)の発現が“上”になった人(日止、霊止)や、
“上”に向かいつつある人(日止、霊止)でないと、
次の地球上での創造を担う事は出来ん。
そやからそれは分けられる・・・
その事もアセンションの意味の一つでもある。

そやけど、
アセンションって言うのんは、
もっと心(靈)の事でしかないと思えるやんか。
そやからそれは、観察される外側の事象の事を言うてるんや無い。
自分の心(靈)の変容=心(靈)が“上”に向かわんと、
次の場(フィールド)に移行する事が出来へんし、
どんな場(フィールド)に移行するのも、
自分の心(靈)の成長度と、
心(靈)の方向性でしかないって事でんねん。
ほんでからにそれは“自由”やって事でんねん。
このことも何回も先生と話した。
自分の心(靈)の位置する場(フィールド)は、
自分の心(靈)次第で選択するって言う意味での自由でんねん。

ほんでから今後の世界は、
それは今より相対的に、
天意を受け、神の思惑の顕現をして行かんならん。
この事に付いては何回も説明した。

そやから“日月神示”でもそれ以外のメッセージでも、
“上”の思惑の受信をして=天意を受けて、
そして、
場(フィールド)の創造をする人(日止、霊止)を、
期待してはるって事やねん。

ちょっと話を進めすぎたやん。

そやからその前段階として以下の言葉、

“日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。
一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。”

これは心(靈)が折れた状態でんねん。
“いきり立つ心(奴と心)”が無くなると、
誰もがこうなりまんねん。
これは霊的成長の法則性でんねん。

そやから、

“その時にお蔭を落さぬやう、”

自分の霊的成長の過程を忘れんように、
それはそこまで育って来んやから=“お蔭”、
言い換えれば何回も転生して、
地球人は平均800回転生してるって情報を先生は受信してはる。
そやから、そこまで霊的成長して来たんやから、
左往右往に入った時・・・
それはもう、
自分なんかどうでも良くなるくらい心(靈)は折れるやろけど、
自分の存在の意味とか意義とか・・・霊的成長とか、
その事を知る為に・・・その為に苦難や試練はある。
そやから、
神は乗り越えられない困難は与えない”、
これはS会=紫光会の交霊会での言葉。
それを忘れんようにして、
自暴自棄になったり自殺したりする事が、
それそのものが、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の場(フィールド)の構築になるから、
そやからそれが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑やろから、
そうならんようにして欲しいって事でんねん。

そやからこれは次の言葉に掛かり、

“シッカリと神の申すこと腹に入れて置いて呉れよ。”

これも、上つ巻 第八帖、
“縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”
これと同じでんねん。
敢えて説明する事では無いな。


そやから今日は、これくらいにしときまんねん。


“日月神示” 上つ巻 第十帖 Kellyさん的解釈



今回も、“日月神示”上つ巻 第十帖 の、解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、


神に目を向ければ神がうつり、
神に耳向ければ神がきこえ、
神に心向ければ心にうつる、
掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。
掃除出来た方から神の姿うつるぞ、
それだけにうつるぞ。
六月十九日、ひつくのか三。

・・・短い文章やけど、感応共振の事を言うてる。
それは、
自分の心(靈)の受発信でもあるし、
霊的干渉でもある。

ほんでからに、

“神がうつり”
“神がきこえ”
“心にうつる”

それは“上”の認識を持って欲しいって事でもあるし、
ほんでから上つ巻 第九帖 の言葉、
“この世のやり方”の為に、
自分と神の認識を持って欲しいって事でもある。

ほんでから、
“掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。
掃除出来た方から神の姿うつるぞ、
それだけにうつるぞ。”

これは心(靈)の発現の段階の事も言うてる。
低い心(靈)の発現の段階の人って言うのんは、
ほんまに価値の有る事を自分の利益の為の商売にしてしまう。
その事は前回も言うたし・・・何回も先生と一緒にぼやいた事でもあるけど、
その事そのものが、
自分達の心(靈)の発現の段階を示してるって言う自覚が無いのが、
自己奉仕者やな。
そやからこそ“上”の概念も、
只単に言葉を知っているだけでしかない。

そやから、

“掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。”

これは、
心(靈)の発現が、どれ位“上”に向かっているのかと、
そして、
“上”と“下”の概念=変圧の事も言うてる。

そやからこそさっきも言うたけど、
低い霊的成長度の人は何を見ても、
低い、
甘い(亜、魔、出ずる、泉)解釈しかせん。

そやからこの文章は、
自分の心(靈)の発現の程度=霊的成長度に応じてしか、
感応共振せんって言う、
(すべての事象の成り立ちの法則性としての)
振動の事も言うてる。

それは“掃除の程度”・・・
掃除・・・どうもこの言葉が一般に誤解を招いてるようで、
何回も“日月神示”の中に出てくる言葉、
“身魂掃除”って言うのんは、
自分が場(フィールド)を構築して行く際に、
発振、発信する振動をよく考える。

それは心(靈)の動きって事でしかないと思うやん。

そやから“日月神示”では、


渦巻き 左回転 左回転=“善の回転=日足(ひたり)回り”
渦巻き 右 回転  右回り=“悪の回転=砌(みぎり)回り”

それは人が、
(霊的)進化して獲得して来た認識でもある、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念でしか無いと思うし、
それは、
心(靈)が“上”に向かえば、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さんようになる。
そやからそれは、
自分に厳しくなるって言ってもエエ事やな。
ほんでからに“悪”は、
自分の心(靈)の動きが“亜”=最初の状態に向かう。
そやからそれは、
出来上がって来た何かを、
崩すとか朽ちるとか腐らせる・・・
最初の状態に戻そうとする思惑が、悪=亜の心(靈)。

そやけど現時点、
善悪の認識は単なる道徳的な事でしか無い様に思う。
その言葉からほんまの進化の意味と意義を知る事、
それが出来へんのは、
只目先の善悪しか知らん。
それしか認識出来へんって事でんねん。

そやからそれは、
人(日止、霊止)が良いカタチを認識して=“上”から通信を受けて、
そして、
場(フィールド)の構築をして行く。
その反対は、単なる破壊・・・

それが善悪って事でもあるし、
良いカタチの構築が幸福の概念でもあるやん。
そやから今まで、
人(日止、霊止)と創造主は、
共に、
何を創り上げようとして来たのか・・・

それは完成してへんし、
完成してへんからこそ人は求める。
良いカタチを求める。

ほんでから出来上がってきた何かを、
崩す、朽ちさせる、腐らせる・・・
それを“悪”=“亜”の心(靈)に向わせると呼ぶべきやと思うやん。

良いカタチ、
そやからこそ人(日止、霊止)は、
“力”=(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を求め、
それを使い・・・その低い段階が自己奉仕者でもある。
そしてそれを使いつつ、
右往左往して=失敗して教訓を得て、自分の在り方を思うようになり、
自省し、胸の磁性“十”を獲得しつつ、
善悪の概念を持つようになるやんか。

そやけど、
自己奉仕者の段階の、
心(靈)(下三つのチャクラの覚醒段階、自我の確立=固定化の段階)の、
程度の人は、
自己奉仕者の霊的成長にふさわしい場(フィールド)で成長するべきやし、
それに対し、
少し“上”に心(靈)が向かい、
自分の中の“悪”を許さへん心(靈)・・・
それは、
“慈悲”と“慈愛”を発現し出した人(日止、霊止)は、
違う場(フィールド)の構築をして行く。
それは心(靈)の進化=霊的進化の段階でもあり、
愛(炁)の顕現の程度とも言えるし、
そやから、
あんまり進化程度の違う存在は、
それぞれ違う場(フィールド)を構成する。
それが、
アセンションの意味と意義やって言うのんが、
先生とKellyさんの認識でんねん。

ほんでからに余談やけど、
低い心(靈)の発現由来の解釈は、
部屋を掃除するとか鏡を磨くとか不用品を片付けるとか・・・
只、そう言う風に思うてる人が多いようやけど、
それは大事な事やけど当たり前の事でしかない。

身魂掃除は、
自分の心(靈)の動きによる行動=発振、発信が、
場(フィールド)の構築になり、
それを感得する事が、
前回の、上つ巻 第九帖の“この世”でもあり、
その創造を“上”の存在から託されてるのが、
人(日止、霊止)って事やから、
自分の心(靈)の在り方が場(フィールド)の構築になり、
ほんでから進化程度の違う人が多なったからこそ、
進化程度の違いを認識する為の場(フィールド)から、
(場(フィールド)=現在の地球の事、進化程度の違い=“玉石混交(淆)”)
より霊的進化を目指す場を創って行く。
そやから、“上”と“下”の認識、自分と創造主の認識、
人(日止、霊止)の存在意義と意味、
それを考え、その上で良いカタチの創造をする。
それをしっかりと、自分の心(靈)の基準とした人(日止、霊止)が、
次の場(フィールド)に移行する=今までとは違う創造をする。

そやからこそ分けんならんって事でんねん。

ほんでからにそれは、
鏡を磨く=八咫鏡(やたのかがみ)=眉間の事。
(エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象 参照)
頭の骨の結晶化って事をせんならん。
結晶化した骨やから高い振動と感応共振し、
それを発振、発信する事が出来るし、
それを真に固く止める・・・
それを、真固止(まこと)と言う。
そうならんと“上”の思惑=天意は受信出来へん。
そやから、部屋の鏡を磨くのとは違いまんねん。

頭の骨の結晶化、
それは、
“掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。
掃除出来た方から神の姿うつるぞ、
それだけにうつるぞ。”

人(日止、霊止)が霊的進化程度=チャクラの覚醒段階によって、
ローレンツ力  = ローレンツ力で感応共振する、 
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の程度の違い、
それを言い表した言葉でもあるな。

そやからこの上つ巻 第十帖では、
鏡って言葉は使ってないけど、
“うつる”とか“うつりかた”とかって表現されてる。

そやから自分の鏡=眉間の骨=御鏡、八咫鏡(やたのかがみ)
それは感応共振の事でしかない。
それが今までKellyさん的に思ってきた、
天意を受けるとかでもあるやん。
そうやって心(靈)は“上”の振動を受信し、
心(靈)は成長し、
その心(靈)の発現は、
段々“上”に向かう。

何度も言うた事やけど、もう一度、
心(靈)の構造と認識されてる言葉を列挙すれば、
“下”から、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動・・・
そう言う事になる。
ほんでからにそれは、
チャクラの覚醒の段階と同義でもある。

そやから極端な言い回しをすれば、
人が取る行動を観て、
本能中心の行動と、
智性由来の行動、
どっちが“善”と“悪”なのかって事やねん。

そやから自分の心(靈)の成長度が高くなったなら、
一般に言う善悪ではなく、
霊的進化って概念から先生が定義付けた、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”。

それを認識せんと、
(相対的に今より)“上”には行かれへんって事が、
以下の言葉、

“掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。
掃除出来た方から神の姿うつるぞ、
それだけにうつるぞ。”

・・・そう言う事やと思うやん。

そやからこそ、さっきも言うたけど、
善悪の認識も“力”の使い方も思惑の顕現も、
人の霊的成長度により違うけど、
あんまり違う程度の霊的成長度の人を一緒にして置く事が出来ん。
それが、アセンション=次元上昇・・・
次元=人(日止、霊止)が認識し得る事象、
古神道の言葉では、現津(あきつ)・・・これは、
“道ひらき”からの引用やけど、
自分の心(靈)が観察する事象と認識されてる事でもあるやん。

そやから今回は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第十一帖 Kellyさん的解釈

今回も“日月神示”上つ巻 第十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


いづくも土にかへると申してあろうが、
東京も元の土に一ときはかえるから、
その積りでゐて呉れよ。
神の申したこと違はんぞ。
東京は元の土に一時はかへるぞ、
その積りで用意して呉れよ。
六月の十九日、一二のか三。


冒頭の言葉、

“いづくも土にかへると申してあろうが、”

・・・そやからそれは、
“いづくも”=すべて、ほとんど、“土にかへる”・・・

“土”=2~3番目のオーラの発振、発信の事象、物質的肉体のオーラでもある。
その心(靈)の発現で、
その発振、発信で、(そう言うつもりで、その価値感で、)
土=物質を作り変えてる・・・それがこの文明って事でもあると思えるやんか。

そやから、
物質を色々移動させたり形を変えたり・・・利用したり、
それが、
力を示す事やと思うてる心(靈)の発現の段階の人が多い。

ほんでからに物質の法則性を探る・・・物質だけを観察する・・・
それが科学とか、
(“力”としての)知識を得る為だけの学問とか・・・
そういう事が価値のある事やと思うてる場(フィールド)が、
この世界でもある。
そして、“力”って言うのんは、
権力を示す事やったり、
金持ちになる事やったり・・・でもある。

その心(靈)の動きにあるのは、
自分の目先の欲望の達成・・・
自我の確立=固定化の心(靈)の動きでもある、
(低い)幸福の概念やったりもする。

ほんでからにその低い幸福の概念は、
(霊的)進化過程としてはとても低い。

自分だけ自分だけ・・・或は、自分の周りだけ・・・
それはボス猿の縄張り意識に近い。

物質の繁栄・・・その為に“力”を得てきた事、
そしてその裏にある霊的干渉・・・
科学の発展かて、何かの発明や発見かて、
“上”から許可が出たから、
“上”からの通信を受けて学者さんが発想する。
それをローム太霊さんは、“術”と表現したと思えるやんか。
それは、
先生とKellyさんがローム太霊講話集を読んで思う事なんやけど・・・
低い心(靈)の発現の人があの本を読んだなら、
天狗や仙人のローム太霊さんの説明を、
そう言う風には受けとらへんやろな。

話が逸れたやん・・・

物質の繁栄、科学・・・学問、文明の発展、
それは、
その為にエネルギーを贖った“行”をした結果でもあるけど・・・
それは、
先生やKellyさんが観たなら、
ローム太霊さんの言葉でもある右往左往でしかない。
そやからそれは失敗し、教訓を得る過程でもある。

その具体例が、
核エネルギーを発見した地球人はそれを兵器に利用した。
これは人間型生命の“力”の獲得のパターンでもあるって、
先生は“上”から通信を受けてる。

そこで今まで人間型の生命の文明が崩壊したケースは、
宇宙的には沢山あるし、
それは一部チャネラーも受け取ってるメッセージでもある。

そやから、今の話の核エネルギー・・・
それは、
“力”をどう扱うのか・・・それは試金石でもある。
地球人は試されてる。
ほんまの価値を知ってる人は、人殺しなんかに使わへん。

そやけど・・・低い心(靈)の発現の人が多いから、
きっとこれからもあるやろ。

そやから、
物質の繁栄・・・砌(みぎり)の“行”・・・右往左往・・・
それが現時点、この世界では力を示す事やし、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)は、
その為にあると思われてるし、
そやからこそ自己奉仕者が活躍する世界でもある。
そしてその為にエネルギーを贖ってきた人(日止、霊止)は、
右往左往から左往右往って霊的成長の法則性があるから、
必ず失敗し、
自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、
“観自在”・・・自分の心(靈)の在り方を観察し、
それそのものが、
神道の言葉でもある“直日(なおひ)”の意味でもある。


そやから・・・物質の繁栄・・・それらの事象は、
“すべて土にかへる”
土に戻すって意味でもあると思う。

そう言う意味で、次の言葉、

“東京も元の土に一ときはかえるから、
その積りでゐて呉れよ。”

“東京”・・・“東”と、“京”、

“東”・・・これは字の意味として、
物を入れ棒を通して両端をくくった袋を象った形が、
東って字になった。
そやから“東”は物質の繁栄を象徴してると思えるやんか。
大体“東”って言うのは物の繁栄に関わってる事が多いと思える。
それは、ローム太霊講話集の中でも、
東の方角の東照大権現大神は、
物質の神さんやってローム太霊さんは言うてる。

そう言う命名(使命、役割由来の名前)なんやろ。
ほんでからに、“京”・・・この漢字の意味は、
丘の上に立つ家の形、神殿や貴族の住む丘の上の住居の意味がある。

そやからなんやしらんこの文章の中の“東京”って言うのんは、
地名としての東京もあるけれど、
東京なんてもう心(靈)を失ってる場(フィールド)でもあるって事なんやろけど、
物質の繁栄だけをして来た創造の意味も、
あると思えるやん。

そやからこそそれは、

“元の土に一ときはかえるから、
その積りでゐて呉れよ。”

・・・“元の土”
これは、二=肉体のオーラと、
儿部(じんぶ、にんにょう)・・・人(日止、霊止)が認識する時間の進行と、
“土”=2~3番目のオーラが(たて棒、コン)で、
縦の磁性で繋がれてる様子・・・それが今までの進化過程って事でんねん。

そやからそれは、
日月神示内の表現でもある“江戸”の、
“江”・・・
(氵)さんずい=水と、エ=二に縦の磁性が足された字。
それが今までの人の進化過程って事で、
心(靈)の発現が“上”に向かって言ってない事を示してる。
そやからこれは、上つ巻 第六帖の、
“まだまだ花道ぞ”・・・と、言われてるのと同じで、
段々人は、“上”の心(靈)の発現の方向性を見失っていく。
そう言う意味でもあると思える言葉やな。
ほんでからに今、もう“花道”では無く、
どんどん自滅の方向に向かってるからこそ、

“東京は元の土に一時はかへるぞ、”
・・・って言い方になるやろし・・・

“その積りで用意して呉れよ。”
・・・ちゅうのんは、
その心積もり・・・教訓を得なさいよって事やと思う。

ほんでから “神の申したこと違はんぞ。”

神=“呂”を示す、エネルギーの回転、発振される振動が、
“下”=私達の心(靈)が肉体を伴って位置している場(フィールド)=地球に、
注がれてる・・・
それが、“申したこと”で、
“上”から“下”に垂れてる=発振、発信で、
それは霊的進化の法則性(右往左往と左往右往)を伴っているからこそ、
“申したこと”=神の思惑は、
“違はんぞ。”=必ず法則性通りになるって事でんねん。

そやからKellyさん的に思うんは、
今、観察され得る事象はほとんど物質でしかない。
外側の事象=外国とか幽界とか・・・
そう言う表現も“日月神示”内で使われてる。
そしてそれは、人、対、人でも、そう言う傾向はある。
誰かが誰かを見ても、その裏にある心(靈)の動きと、
霊的干渉に付いてはあまり誰も意識していない。
霊とか神とか愛とか・・・そう言う言葉を使っていてもそれは、
人(日止、霊止)の低い心(靈)の発現由来の、
低い自尊心や功名心由来の事が多い。

そのほんまの意味を、
S会=紫光会の交霊会での言葉を引用して、
これからの人(日止、霊止)、明日の人(日止、霊止)”=アセンションを経験した人は、
自省(胸の磁性“十”)の“行”をし、
“観自在”し、
“直日(なおひ)”する。

それは、
物質しか判らへん心(靈)の発現の人(日止、霊止)は進化過程が低いからこそ、
神や霊や愛やオーラや主護霊や・・・価値のある何かを形骸にする。

そこを良く見抜ける人(日止、霊止)=心(靈)の発現が“上”に向かっている人(日止、霊止)・・・

上つ巻 第十一帖は、
そう言う人(日止、霊止)を、
期待した言葉でもあると思いまんねん。

今日は、これくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第十二帖 Kellyさん的解釈

今回も、上つ巻 第十二帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。


大将を誰も行かれん所へ連れて行かれんやうに、
上の人、気をつけて呉れよ。
この道はちっとも心ゆるせんまことの神の道ぞ。
油断すると神は代りの身魂使うぞ。
六月の二十一日の朝、ひつくのか三。

この文章全体がそれは、大将=指導者とかの意味もあるやろけど・・・
それだけの事を言うてるとは思えへん。

そやからこの“大将”って言う表現が、
Kellyさん的にはとても重要に思えるやん。


それは、“大将”の、“将”、
この旧字は“將”って書きまんねん。
ほんでからこの字の意味は、
爿部(しょうぶ)と、
月部(げつぶ、にくづき)と、
この場合の寸って言うのんは、手の意味があるって辞書には書いてある。
そやから“將”は、
手で肉をささげるとか、すすめるとかの意味があるって事らいしいやんか。
そやからこそKellyさん的に思うんは、
“將”・・・これは、
両手の磁性による肉体のシンクロトロンの構造の事を言うてるとしか思えへん。

ほんでから順序が逆やけど
“大将”の“大”は、
人(日止、霊止)の発振、発信する様子でんねん。
これは先生と何回も話した事でんねん。
そやからそれは、人 + 十 = 大
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)
それに自省(胸の磁性“十”)を足した字が、
“大”っちゅう事でんねん。

ほんでから胸の磁性“十”は、
肉体の縦の磁性は(たて棒、コン)やろし、
それに対し、
“王”これは三つのオーラを縦に繋いだ字なんやけど、
その“三”の真ん中の横棒“一”は、
両手で構成される横の磁性でもある。
そやからこそ四足獣に比べ、手を使い出した人間は、
肉体のシンクロトロンの構造を持ち始めたとも言い得るやん。
そやからサイクロトロンとシンクロトロン、
サイクロトロンは自我の確立=固定化、
それは今の地球人の平均的な心(靈)の進化過程。
前に先生と話した事としては、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”=腹のエネルギー、
肝=“いきり立つ心(奴と心)”と、
脾=“思う、憂う”・・・
その右往左往と左往右往がサイクロトロンで、
その段階の心(靈)の発現が自我の確立=固定化・・・
そしてそのサイクロトロンの螺旋運動が、
本能と情動のチャクラ、
ムラダーラチャクラとスワディスターナチャクラの磁性で、
“下”に向かう事が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”で、
それを“上”の視点=神さんの視点から見たら、
砌(みぎり)回転になる。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り



そう言う人は、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の
本能と情動と功名心・・・その心(靈)の発現由来の行動をする。
その行動は、人の観察と認識で“悪”の行いって事になり、
その心(靈)の動きを表現した言葉が、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・そういう事になるって事や。

ほんでから心(靈)が“上”に向かうって言うのんは、
下三つのチャクラの心(靈)の発現=自我の確立=固定化から、
今言うた両手の磁性と胸の磁性、
それは何度も言うたけど“十”に示され、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが“上”に向かい、
その段階の心(靈)の発現が、悲しみ、慈しみ、愛しむになり、
そやからそれは、
自省(胸の磁性“十”)やし、
“観自在”やし“直日(なおひ)”でもあり、
自分に対する“厳しさ”にもなる。

そやからこそ今後、
アセンションを経て、次の世界の創造を担う人達は、
自省(胸の磁性“十”)を体験して、
そして自分に対する“厳しさ”を持ってへんとアカン。
それを持ってない人が多いからこそ、
今、自我の肥大で、自己奉仕者の行いで、
この世界はどんどんおかしくなっているやんか。

そやから、
“大将を誰も行かれん所へ連れて行かれんやうに”

今のKellyさん的解釈の“大将”、
それは、自省(胸の磁性“十”)をした人、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をした人、
そやから、
相対的に今の平均的地球人より、
“上”の心(靈)の発現をした人(日止、霊止)、
それがアミの本で表現されてる愛の度数って事やな。
ほんでからアミの本の中には、
その星が霊的進化のある段階を通り越す時に、
(第三密度から第四密度への移行)
壊滅的な事が起き=右往左往し=やって来た事の結果を体験し・・・
それが、
災害とか戦争とか動機が理解出来へん恨みの連鎖由来の犯罪とか・・・
そういう結果になり沢山の人が死ぬ。
その時にそれに巻き込まれないように、
愛(炁)の度数の高い人(日止、霊止)を一時的に避難させる。
その為にUFOで少しだけ霊的進化した人(日止、霊止)を拾い上げる。
そやから、
“誰も行かれん所へ”=地球以外の場(フィールド)と、
“連れて行かれんやうに”=救い上げて避難させる。

・・・その事を言うてると思えるやんか。

そやから、
“上の人、気をつけて呉れよ。”
この場合の“上の人”は、
今のこの形骸の価値感の世の中で、
力を示している人、
政財界のトップとか現世利益の宗教団体のトップとか・・・
例を挙げたらきりが無いけど、
この人達の心(靈)の発現って言うのんは、
自我の確立=固定化の段階やし、
砌(みぎり)の“行”をしてる人達やし、
ほんでから、
いくら立派な言葉や人を思いやるかのような言葉を、
使ってたとしても、
それは、只、自分の名誉とか利益とか保身とか・・・
その為の言葉でしか無いやん。
その事自体がたくさんの人を騙してるって事すら自覚が無い。

そやからそう言う人は、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分の為に使う=自己奉仕者でもある。

・・・まあエエわ。
そんな低い事を指摘してても対して何の解決にもならへんし・・・

そやからこの場合の“上の人”に対し、
“この道はちっとも心ゆるせんまことの神の道ぞ。”
“油断すると神は代りの身魂使うぞ。”
こう言われてると思えるやん。

そやから、
“この道”=左往右往の進化過程は、
“ちっとも心ゆるせん”と“油断”で、
これは、言葉どおりやな。

ほんでから“まことの神の道ぞ。”
それは、人の神格化への道程でもあり、
“まこと”は、
真に固く止める真固止でもあり、
古神道の言葉の“修理固成”、
理=ことわり、霊的進化の法則性で、
修め=右往左往してから左往右往して認識を得て、
固め=結晶化して、
成す=完成する=神格化になる。
それを示してるのが“日月神示”の表現での、
○ 九 十でもあり、
○=荷電粒子で出来た場(フィールド)、靈、心でもあり、
それは卆=九と十、最後の仕事って事になる。

ほんでからその事自体が先生の表現の、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・
でもあり、
それは結晶化した頭の骨、
天鈿女命(あめのうずめのみこと)の螺鈿の鈿でもあり、
その事そのものが“身魂磨き”の意味でもあると思えるやんか。
そやから頭の骨の結晶化、その為には、
天の岩屋戸の話・・・それも先生と話したんやけど、
それは、岩は、
山=脳、
石=帯電するミネラル、
屋は、
尸(しかばね、かばね)とム部(しぶ)と土、
その上にある横棒“一”は横隔膜、
そして土は2~3番目のオーラ、肉体のオーラやし、
肉体を持って生命が存在している理由は、
岩=脳と帯電するミネラル・・・その結晶化で、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の高い部分との感応共振をする。
その事を示してる言葉が、
天の岩屋戸で、
それを開いていくのが、
手の磁性=シンクロトロンの構造を示した言葉、
天手力男神(あめのたぢからおのみこと)で、
それが動物に比べての人の肉体の構造の違いでもあるし、
それが(時間の進行を認識した為の概念の)進化でもあると思えるやん。
ほんでから人(日止、霊止)の神格化には、
特別神憑り=太陽凝視が必要って解釈を先生はしてはる。
それが頭の骨の結晶化、螺鈿の鈿になり、
神さんのオーラ=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との、
高い部分との感応共振と増幅と発振、発信、
その事そのものが“天意を受ける”って事になると思えるやん。
そやからこのことの詳細は、
エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象
を、しっかり読んでほしいねんけど・・・
余談やけど、
今、太陽凝視のサイトはとても多なってるけど、
ほんまに頭の骨の結晶化って事をして行くのには、
朝日や夕日限定の数分の太陽凝視は、
太陽凝視ごっこでしかない。
ほんでからそれを低い功名心で喜んで、
ネットで公開し、
自分の低い自尊心を満足させてるのは、
“下”の心(靈)の発現由来の事でんねん。

又、何回も言うた事やけど、
朝日や夕日の太陽は赤の波長が強い。
そやからこそそれは、
下三つのチャクラの強化になり、
その結果が功名心由来の行動のディスプレイ(動物の発情行動)になり、
只目立ちたい・・・
大体、 なんか始めるとそう言う段階から始まるんやろけど、
それは、
高い事では無いって事をお知らせしときまんねん。
この事は先生の伝えたい事の一つでもあり、
前のブログを完結させてから、もう終わりにしようって先生は思うてたんやけど、
あまりにも現状がひどすぎる・・・
その為に今、“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話を、
立ち上げたって事でもありまんねん。

話を戻して・・・

“油断すると神は代りの身魂使うぞ。”
この言葉も今の“上の人”・・・
形骸の価値感でのし上がった、
自我の確立=固定化の進化過程で“力”を得た、
そやからそれは、
自分の為にエネルギーを贖った人に対しての言葉やな。
そんなもんでは、
次の創造は担えへんって事を言うてるって事やねんな。


今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 上つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈

今回も、上つ巻 第十三帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、

元の人三人、その下に七人、
その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、
この仕組は成就するのざ、
この五十九の身魂は神が守ってゐるから、
世の元の神かかりて大手柄をさすから、
神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、
これが世の元の神の数ぞ、
これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。
この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、
たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、
どんなに落ちぶれている臣民でも、
たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。
何事も時節が来たぞ。
六月の二十一日、ひつくのか三。


この文章全体から受ける印象は、
それは前回の、上つ巻 第十二帖からの続きでもあり、
次の創造を担う人(日止、霊止)、
アセンションを体験し、その後の場(フィールド)の構築をして行く・・・
そやから、

“この五十九の身魂は神が守ってゐるから、
世の元の神かかりて大手柄をさすから、”

やろし・・・

“これが世の元の神の数ぞ、
これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。”

この言葉が、今後の創造・・・その中心になる人の人数の事やと思うけど・・・
それは、それくらい少ないって事でもあるやろし・・・

ほんでから今そう言う人達は、
本当に次の段階の創造を担える人は、
今の形骸の価値感で構成されているこの世界で、
活躍出来へんから、
表面に現れんからこそ、

“この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、
たづねて来てもわからんから、”

・・・でもあると思えるやん。

そやから、
今現在活躍してて有名な人とか力を示してる人とかは、
本当に価値の有る事を形骸にしてる・・・
金儲けとか・・・
自分の低い心(靈)の発現由来の低い功名心とか低い自尊心とかを満足させる。
そやからこそ、色んなものをその為に利用する。
そんなエネルギーの贖い方しかしていない。
そやからそれは、圧倒的に自己奉仕者が多い。
そう言う事を言うてると思えるな。

ほんでからこの文章の中の言葉の端々には、
霊的進化の仕組みも表現されてると思えるやんか。

例えばそれは、冒頭の、
“元の人三人、”

これは元=二+儿部(じんぶ、にんにょう)

そやから“二”は、
心(靈)の顕現でもある肉体・・・そして2~3番目のオーラ。
ほんでから“元”から“二”をはずした、
儿部(じんぶ、にんにょう)は、
時間の進行を認識している心(靈)の意味やと思うし、
時間って言うのんは自分達の認識の中の事象でもある。
(儿部(じんぶ、にんにょう)は人が歩く様子を象るの意がある)
そやから、
この二つ、“二”と“儿部(じんぶ、にんにょう)”それそのものが、
心(靈)より相対的に振動の低い物質的肉体と、
心(靈)・・・その両方、
そやから肉体を伴った進化って事やな。

そやから、
先生とKellyさんが思う、
肉体を伴った霊的成長と霊的進化って言うのんを、
“日月神示”の言葉で簡単に纏めれば、

※ 肉体の構造の変化=結晶化・・・それが身魂磨き。

※ 現時点での心(靈)の発現の平均=自我の確立=固定化より“上”の、
心(靈)の発現・・・それが身魂掃除。


ほんでから身魂掃除、この言葉自体が、
今、とてつもなく誤解されてると思うんやけど・・・
その低い心(靈)の発言由来の解釈って言うのは、
前にも言うた事やから敢えて説明はせんけど・・・

身魂掃除、
そやからそれは自分の心(靈)の動きの区別、
それを自分で観察する事。
さっきも言うた低い功名心とか自尊心とか・・・
自我の確立=固定化の過程の低い心(靈)の発現。
それ由来の行動=その心(靈)の発振、発信による事象の創造。
それが低いとか高いとかが自分で判断出来ん。
それはそう言う人は、
自我より“上”の心(靈)の発現をしていない霊的進化過程でもある。

そやからそれは、具体的に言えば、
“上”の心(靈)の発現がなければ、
自分の心(靈)の動きそのものの、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
区別出来へん。

この間のチョ~ベッピンはんのA野はんとの話でもあったけど、
人(日止、霊止)は沢山の霊的干渉を受けてる。
そして、
霊的干渉と無縁の事象も無ければ、
霊的干渉(による電磁誘導)の無い時間・・・そんなものは有り得へん。
大体一般にそう言う認識が無い。
そやからこそ自分の心(靈)の動きって言うのんが、
“上”に向かってる時にも、
“下”に向かってる時にも、
もっと平たく言えば、
自分が悪い事してるのかエエ事してるのか・・・
それすら自覚が無いって言うのんは、
或は、
自覚があっても悪い事するって言うのんは、
沢山の、
(自分の心(靈)の発現より相対的に低い霊的存在の)通信を受けてて、
その通信の相対的な差・・・
それを見極める事が出来んようになってる。
そやから自分で判断する事として、
自分の心(靈)の発現の段階も自分で良く知っておいてから、
それを良く承知しておいてから、
自分の心(靈)の動きにおける霊的干渉・・・
それが、
自分の心(靈)の動きを構成している要因って事も知ってから・・・
そして自分の心(靈)を自分で観察する。

それをかんたんに表現すれば、

“上”からの通信なのか?
“下”からの通信なのか?

言い換えれば、

悪霊からの通信か?
自分の霊的成長を望んではる存在の通信か?

その区別を自分でして行かんならん。
それは受信する振動=(霊的存在の)思惑を選択する事になる。

その区別をする基準を獲得するのは、
自分が苦しんで思って憂いて悲しんで心が折れて・・・
左の磁性を強くして=日足(ひたり)の行をして、
日足(ひたり)のエネルギーが増して行く・・・
それを“上”から観たら、
神さんからの視点で観れば、
腹の段階のエネルギーが、日足(ひたり)回転って事になる。

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転 日足(ひたり)回り


ほんでからその日足(ひたり)回転のエネルギーは、
両手の磁性で構成される磁束で、
腹より“上”に上がる。
それを示してるのが大日如来の条帛(じょうはく)で、
ほんでから条帛(じょうはく)の条は、
ローム太霊講話集の中でローム太霊さんの“術”の説明にもある、
“條”と同義って話を、先生とした。

そやからそれは、
自分の“力”=“術”
その使い方を示すって言う意味もあるって事でんねん。
そやから、
“力”の使い方を間違えるから、この世界はダメな方向に向かってるし、
それはさっきも言うた自己奉仕者が力を示してるから、
この世界は腐ってる。
その結果が出だしてるって事でもある。
その一例が、
経済に依存する物のやり取り=通貨としての金しか思わん価値感は、
必ず崩壊する。

そやから、
ダメな事はダメって示さんとアカンし、
そのダメな方向性に向かった動機=心(靈)の動きを、
今後の創造を担う人(日止、霊止)は、
よう知っとかなアカン。
そやからこそ、今、色んな事が現象化してる。
観させられてるって事でんねん。
それもアセンションの意味の一つでもあるし、
そこから得られる何かって言うのんは、
自分の心(靈)の中の事でしかないし、
認識でしかない。

その認識は、次の創造をする際に役に立つからって事でしかない。

そやから、
人が獲得出来る何かって言うのんは、
体験から得た認識、それだけでしかない。

その過程・・・認識を得る過程が、
右往左往と左往右往でもあり、
それは、
すべての事象に極性が存在するからでもあり、
そして・・・自分の心(靈)の動きが、
“上”の心(靈)の発現をしてへんと、
なんでも価値のあるもんを形骸にして金儲けして、
自分の利益にして、
そして、
恨みの連鎖の霊的干渉を増やし、その結果、
一時活躍して、
そしてその後、
失敗を体験し=左往右往して、
自省(胸の磁性“十”)してる最中、
心(靈)が折れた人=砌(みぎり)のエネルギーが無くなって来てはる人なんかは、
例えば最近も有ったけど、
そう言う心の状態で、
低い霊的干渉しかなかったら=“上”からの通信を受けてなかったら、
それは先生の主護霊はんが先生に言うたみたいに、
沢山の浮游霊が憑いてたら、その通信しか受けてなかったなら、
動きが取れない”・・・
そうなるから、
そやから目先の事ばかりに心(靈)が囚われて、
自分の今後の在り方を思う余裕が無くなって、
その結果、自殺したりする。
ほんでから自殺した人は自縛霊になり、
同じ条件で誰かを引き込み、
そして自縛霊から浮游霊に移行するんやけど、
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一員になり、
その人の心(靈)が貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の動きになり、
自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るのを遅らせる。
それが、
人(日止、霊止)の霊的成長を阻む=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を助長する、
霊的存在の思惑でもある。

ニュース見てたりしたらそんな報道ばっかりになってる。

そう言う事にも、
このブログと(霊)縁が有った人(日止、霊止)には、
気が付いて欲しいって思うたから、
ちょっと余分な事も言うてしもたやんか・・・

そやから・・・今日はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”上つ巻 第十四帖 Kellyさん的解釈

今回も、上つ巻 第十四帖 を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


この神示(ふで)よく読みて呉れよ、
読めば読むほど何もかも分りて来るぞ、
心とは神民の申す心でないぞ、
身魂とは神民の申す身魂でないぞ、
身たまとは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、
神の神民 身と魂のわけ隔てないぞ、
身は魂、魂は身ぞ、
外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり、
神は身魂の別ないぞ、
この事分りたら神の仕組みがぼつぼつ分るぞ、
身魂の洗濯とは心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ、
よく気をつけて呉れ、
神の申すことちがはんぞよ。
六月の二十二日、ひつくのか三。


この文章全体を読んでKellyさん的に受ける印象は、
頻繁に“日月神示”の中に出てくる表現、

“身魂”・・・この認識・・・
これをよう考えて於かなアカン。

そやから、
身=肉体・・・人の心(靈)の顕現でもある物質的な側面の自分と、
それに関わる物質の振動の事象。
そやから、人(日止、霊止)は、
心(靈)と肉体=物質で構成されている。

自分が自分を観察し認識し、
又、
他者(や他の生命(生きる使命=存在理由))を認識し、
そして又、
自分以外の他者から観れば、そう認識し得る事でもあるやん。

そやけど所詮、
心(靈)も肉体も、
共に、
一番最初の材料と仮定される究極微粒子=“亜”の振動の高低やし、
その振動の違い=受信(認識)で、
心(靈)や肉体の分類を自分の心(靈)がしている。

そやからそれも、
自分が位置している事象=この次元って認識している場(フィールド)、
“道ひらき”の表現を引用すれば、現津(あきつ)・・・
それを先生的な言い方をすれば、
自分の心(靈)が観察し、感じ(感じる磁性)、
そして自分の認識=受信で観察され得る事象・・・
纏めれば、
心(靈)も肉体も、
現津(あきつ)・・・三次元って言うてもエエのかな。
三次元って言葉が不確定な言葉やと思うんやけど・・・
解りやすく言うとその言葉を使うしかないし、
そやからそれは、
自分が位置している場(フィールド)、そこで、
観察され得る事象に過ぎないやん。

ほんでから、
心(靈)と肉体、それを区別するのは、
自分とか他者とか・・・生命が生命を観察すると
認識出来る事とも言い得るし、
言い換えれば、
心(靈)が、
自分以外の存在、他者を認識すると、
そう言う観察が出来るって事になる。

ほんでからその事そのものが、
神が創造を始めた根拠にも成るって思うんやけど・・・
話が逸れるので、
それは又、別の機会に、
次元の認識と生命(生きる使命=存在理由)って言うのんは、
共に観察し得る事象って事で、
生命(生きる使命=存在理由)と、
次元(認識し得る場(フィールド))と、
霊的進化は、
同義って概念をKellyさんはおぼろげに持ってるんやけど、
ほんでからそこには、
ほんまの意味での進化・・・生命の神格化って言う事を、
感じ取れるを説明したいと思うてるけど・・・
その文章も作りかけてるけど・・・何時になったらアップ出来るか・・・
そやから・・・それを文章にした時にでも考える事として・・・

そやから今までの話しを簡単に纏めれば、
心(靈)も肉体も、
振動の違いを観察した自分自身の認識でしかないとも言い得る。

ほんでからその概念を知った上での認識としての、
魂・・・身魂の魂。
魂って言う字は、
“云”と“鬼”で構成されてる。

“云”と、“鬼”。
その字の構成を観ても、
結論から言えば
魂と靈・・・それは同義やとは思えへん。

そやからそれを説明する為に、
最初に考える事として、
“云”=二とム部(しぶ)。
そして、
“鬼”=この世にあらざる存在、亡者、
魂が体を離れて彷徨う・・・死者の亡霊って言う意味がある。
それは、
この次元に位置してるこの世界に対する未練たらたらの浮游霊やな。

そやからまず、“云”の解釈として、
二は、“土”=2~3番目のオーラ=肉体・・・
そこから(たて棒、コン)を外した状態で顕されてる。
ほんでから、(たて棒、コン)は、
頭から背骨、尾骨の磁性と磁束。
それが又、“日月神示”内の表現でもある“江戸と尾張”。
そういう事でもあると思うし、
話が逸れたんやけど・・・
肉体に観察される縦の大きな二つの磁性S極とN極。
それは“上”から“下”に下降する荷電粒子に対し、
ローレンツ力を生じさせるものでもあり、
そのローレンツ力が、
自分以外の電磁波・・・他の生命のオーラ・・・
それは、
神さんのオーラ=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)をも含めて、
それを取り込むからこそ、
自分の心(靈)を構成する振動にも出来るし、
取り込んだ荷電粒子が身体内で・・・肉体全体がコンデンサーの性質を持ってる事やし、
それを溜め込んで、
又、
発振、発信する事も出来る。
それがオーラの一側面でもあるし、
そやから“行と修行”・・・苦難や試練は生体内電流の増加をさせ、
又、増幅もするし、
それが又、
先生の幸福の概念でもある、幸=“夭と屰”(ようとげき)
夭折って言うのんは沢山の認識を獲得しないままの死で、
それに逆らう事が屰。
ほんでから、
福=示すへんと畐・・・
畐は、
“一”=“亜”から向かって右に、砌(みぎり)に移行し、
それは神の思惑の顕現が“一”でもあり、
これは前に説明した事があった事なんやけど・・・
それを口=受信して取り込み、
田=自分の心(靈)の四つの場(フィールド)を構成する。
それが一靈四魂でもあるし、
“思う”って言う字の構成でもある。
それが生命(生きる使命=存在理由)の霊的進化で、
それは神格化っていう事になる。

また話が逸れてもたけど、

荷電粒子との干渉が起きる事、
それはそこには電磁誘導=霊的干渉が起き、
それそのものが、
生体内電流の発生でもあり、
その事そのものが、
生命(生きる使命=存在理由)って事・・・
そやけど、この事を今説明すると、
とても長い話になるし・・・今でさえ何回も話が逸れてるから、
これくらいにして・・・

話を戻して・・・

そやから今言いたい事は、
魂と、
靈=心って言うのんは、
同じもんやって思ってはアカンって事で、
そして、同じでは無いって事で、

それは、
“云”の字そのものを観ても判る事やし、
それは、人(日止、霊止)が転生して何回も生まれ変わり、
平均的地球人は約800回位の転生の体験があり、
その一つ一つの人生における認識による心(靈)の成長を指し示す言葉が、
魂でもある。

Kellyさんと先生がそう思う根拠は、
さっきも言うたけど、
“云”=二+ム部(しぶ)で、
“二”は、肉体のオーラを示し、
肉体のオーラにより感応共振して心(靈)が育って行く。
それは時間の認識と同義でもあり、
時間を認識した心(靈)やからこそ、
肉体=物質を持ち、進化の概念を自分に感じ取り、
そして、
霊的に成長して神さんに近付いていくのが、
ほんまの幸福の概念って事を先生と話した。
そやから“云”、
この字そのものが、自分以外の靈=心・・・
それは一般に言う霊的存在であろうが肉体を持った生命であろうが、
自分が肉体を持っている期間の=人生に於いて、
自分以外の他者とのオーラの感応共振を示した字でもあるやん。

ほんでから大体、
この“云”って言う字は雲の旧字でもあるそうやし、
それは入道雲とか水蒸気が立ち上る様、
そう言う意味がある。
そやからそれは腹の水、
“日月神示”内の表現なら“江戸”の“江”
帯電するミネラルが固まっていない進化過程、
そやからそれは、
その段階の心(靈)の発現が自我の確立=固定化、
下三つのチャクラの覚醒の段階、
それが砌(みぎり)回転して、
下から三番目のチャクラでもあるマニピューラチャクラ=自我や功名心や自尊心が、
それより下のチャクラの磁性により、
そのサイクロトロンの荷電粒子の回転が、
(軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”)
下降したなら、
それは、
ムラダーラチャクラは、簡単に表現すれば本能やし、
スワディスターナチャクラは情動やし・・・
そやから自我は、
その“下”の心(靈)の発現に支配され、
その時の人の心(靈)の動きが、具体的に言えば、
八戒=低い欲望とか、
ディスプレイ(動物の発情行動)とか、
目立ちたいとか見栄を張るとか・・・注目されたいとか・・・

また話が逸れるけど・・・
最近、
太陽凝視やアセンションって言葉を使ってるサイトは増えてるけど、
そんな心(靈)の動きの物ばっかりやな。
太陽凝視をし始めた人は、
最初、低い功名心から発現するのはしょうがないけど、
自分の心(靈)の構成が、
“下”から構成されてるからしょうがないんやけど・・・
その事をよう自覚して欲しいもんやな。
そうやないと・・・
自省(胸の磁性“十”)を獲得する心(靈)の動きにはならへん。

話を戻して、

ほんでから“下”の心(靈)の発現に支配された自我・・・
それは、
虚栄の幸福を求めるとか、幸福の概念を低いもんにしてる。
ほんでからその心(靈)の動きは、
もっと自分の事しか考えんようになると、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)って事になる。
そして、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)・・・
そう言う心(靈)の発現の段階の浮游霊を増やしてるのが、
恨みの連鎖=戦争、貧困、飢餓・・・そして数々の因縁、
様々な現象になってるけど、
その解決は、
アセンションの時期に間に合わへんって言うのんが、
先生とKellyさんの認識。
その“下”の発現の心(靈)由来の事象の創造が、
砌(みぎり)回転やし、
それは人が“玉(ぎょく)”の構成を持ってない。
そやからそれは、
帯電するミネラルが固まっていない状態の心(靈)の発現で、
それを“石屋の仕組み”と称されてるって言うのんが、
先生の説やし、
そやからこの“云”って言う字そのものが、
心(靈)の発現の段階の一時期を示してる=霊的進化過程を示す。
そやから簡単に言えば、
魂と心(靈)って言うのんはニュアンスが違うって事でもあるし、
それは魂<心(靈)って概念も出来る。

ほんでから低い心(靈)の発現由来の霊的干渉は、
“魔”=マーラ(魔羅)の中の“鬼”やし、
そやから低い心(靈)の発現しかしてへん人は、
鬼=貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の浮游霊、
その受信しか出来ない。
そう解釈してもエエ事やな。
そやから“魔”=マーラ(魔羅)って言う字は、
广(まだれ)=頭骸骨=頭の意味があり、
それを二つの左右の磁性でもある木部二つで、
广(まだれ)=頭に吸い上げる。
何を吸い上げるのかと言うと、
腹の段階の心(靈)の発現の、鬼由来の思想・・・
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)・・・
そやからそれを“魔”と言い表され、
ほんでから“魔”は梵語でマーラ(魔羅)
“魔”と“羅(目の下の錐体状の神経)”・・・
それによって自分の心(靈)と肉体の構築をして行く。
そしてそれを行動に顕して行く事を、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の顕現・・・

悪魔や鬼は・・・そう言う存在は居てるやろけど、
それは、自分達の心(靈)の動きの事でもある。
そやから、
“力”としての知恵をもってる霊的存在としての悪魔や鬼は、
悪魔や鬼って人に見破られるとか・・・簡単に判るようには活躍していない。

そやから今までの、
身と、魂、
そのKellyさんの概念を踏まえて、
上つ巻 十四帖を読めば、

“この神示(ふで)よく読みて呉れよ、
読めば読むほど何もかも分りて来るぞ、”

表面的な・・・
これは先生とKellyさんが思う“日月神示”の解説書に対する感想でも有るんやけど、
数字や記号みたいな表現・・・その意味を理解していない。
そやから何度も読んで、
それはエネルギーを贖う(あがなう)事になり、
真剣に求めるからこそ“上”からの通信を受ける。
そやから、一般の解説書は、
言葉の解釈しかしてへんって思うたからこそ、
今Kellyさんが解釈をしてるんやけど、
“上”からの思惑の顕現のひとつでもある“日月神示”は、
“上”より相対的に、
“下”の心(靈)の発現しかしていない人が読んだかて、
その意味を簡単に理解出来る訳が無いやん。
それは、その“上”の存在と近い霊的成長度の認識を持って無いと、
只単に、
言葉の解釈しか出来なかったり、或は間違えたりもする。
その一例が、
身魂掃除を、片付けとかお部屋の掃除とか・・・
部屋の鏡を磨きましょうとか・・・
そんな事を思うようになってしもてる。

ほんまに価値のある何かって言うのんは簡単に理解出来ん。

ほんでから低い心(靈)の発現の人は、
相対的に地球では圧倒的多数やし、
ネットで検索すれば段々低い解釈の方が上位にヒットするようになってくる。
その事も前に先生と話した事がある。
ほんまの価値をはぐらかす・・・その為にインターネットは出来た。
これも、
人(日止、霊止)の(霊的)進化を阻む思惑・・・
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑と思える事やな。

ほんでから自分の思った事をほんまの事やと思い込む。
それは低い功名心と自尊心由来の思い込みでもあるし、
そやからそれは、自分が低いとかの認識が無く、
何か知ったなら・・・
それに付いて自分が何か思ったとしたら、
それを誰かに知らせたいとか教えたいとか吹聴したいとかになる。
ほんでから、
ありがたそうな言葉を知ったなら、
それを利用して自分の低い功名心を満足させたりもする。
ひどいのはそれで商売する・・・
それは“上”からの通信に対し、
とんでもなく無責任の行動になるって事や。
特にネットって言うのんは、ネット全体が、
ディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きに支配されてる傾向があり、
只、注目されたい、目立ちたい・・・
そやからほんまの価値を見出さん内に無意味な時間をすごし、
間に合わんようになる・・・
そうさせるのが又、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑やろな。
そやからそれに気が付いて欲しいって事も思うKellyさんやな。

又々々々・・・今回は何回話がそれたんやろ・・・

・・・しかし・・・
すっかり先生のおせっかいなところがKellyさんにも伝染してるな。

ほんでから以下の文章、

“心とは神民の申す心でないぞ、”
“身魂とは神民の申す身魂でないぞ、”
“身たまとは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、”

そやからこの文章が、さっき説明した事を指してて、
身=物質と、
魂=この事象で、肉体を持った心(靈)が生まれて死ぬまでに経験した、
心(靈)が獲得した認識、
それを持った心(靈)=魂。
生まれてから死ぬまで、物質世界で得た認識を持った心(靈)が、
魂で、
そやけどそれもその人の心(靈)全体の一部って事になるから、
次の言葉、

“神の神民 身と魂のわけ隔てないぞ、”
“身は魂、魂は身ぞ、”

ほんでから次の言葉は、
認識の低い心(靈)の観察・・・
そやからそれは自己観察をしない。
外の事象ばかり見る=外国=自分が外側と認識する事象って事で、
この外国の解釈は、
今までも言うたから説明を省きまんねん。

そやからそれは偏った観察をするからこそ、

“外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり、”

身と魂を同一視出来へん、
低い(発現の心(靈)由来の)観察って事でんねん。
そやからこそ次の言葉、

“神は身魂の別ないぞ、”

当たり前でんねん。
霊的進化って言うのんは沢山の人生を体験せんとアカンって事でもあるし、
自分の今の一生って言うのんは、
自分の心(靈)が永遠の実在って視点から考えれば、
ほんの一瞬みたいなもんでしかないし、
そやけどその一瞬には自分の霊的成長度を高めるチャンスがあり、
その為に今、
アセンションって認識されてる体験をしていると言う事でもありまんねん。
そやから・・・重ねて言うけれど、
一瞬一瞬・・・永遠の実在からして観ての一瞬って言うたとしても、
それは今、
とても価値のある試練と苦難が待ってるし、
それを体験せんと、
自分は霊的成長し“上”から認められた存在にならん。
ほんでから、
“上”から認められた存在を一人でも多くする為に伝えられたのが、
この“日月神示”でもそうやろし、
主護霊の本当の意義と意味を伝えたローム太霊さんでもあるし、
そやけど・・・それを、
低い心(靈)の発現の人がダメな解釈にしてしもてる。
その事をほんま・・・“上”の存在は・・・憂いてる・・・
そういう事まで思わされるな。

そやから今、アセンションの影響はどんどん出てて、
それは今まで地球人がやってきた事の結果、
それを観る・・・そして体験する・・・
そして自省(胸の磁性“十”)し、
今後の自分の在り方を考え=“観自在”と“直日(なおひ)”し、
次の創造をして行く。
その事を指してる言葉が、

“この事分りたら神の仕組みがぼつぼつ分るぞ、”

“この事”=右往左往と左往右往、
自分達のやってきた結果を体験し、
自省(胸の磁性“十”)する。
それが現時点での平均的地球人の霊的成長度で、
必要な体験で、
それを通り越さんとアカン試練やろし、
それを重ねて言うてるのが次の言葉、

“身魂の洗濯とは心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ、”

心(靈)の洗濯、身魂掃除、
何回も言うたけど自分の心(靈)の発現の段階を知り、
それは自分の中の“上”と“下”を認識する事と同義でもあるし、
それは今後の行動=創造の指針になり、
それは永遠の実在としての心(靈)の在り方の指針でもあるからこそ、
“魂ばかりの洗濯でないぞ、”=一生の内の薄っぺらい認識で無く、
永遠の実在故の・・・その上での善悪の概念、
これは、
先生の定義付けた概念やけど、
何回も書いた事やけど、もう一度言うときまんねん。

“善”は神格化の方向性と智性の受信。
“悪”は心(靈)の動きの本能化と低振動化。

それを良く認識して無いと神さんの仕事を託されん。
それは創造をする資格が無いって事でんねん。
そやから“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)
それを良く見極める事、
自分の心(靈)の中に“善悪”を見出し、
そして行動の指針にする。

ほんでから、善悪の認識が低すぎるし、
言葉しか知らん人が多いからこそ、
次の言葉、

“よく気をつけて呉れ、
神の申すことちがはんぞよ。”

・・・でもあると思えるやん。

今日はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”上つ巻 第十五帖 Kellyさん的解釈

今回も、上つ巻 第十五帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、



今度は末代動かぬ世にするのざから、
今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ、
人を集めるばかりが能ではないぞ、
人も集めねばならず、六ヶ敷い道(おしへ)ぞ。
縁ある人は早く集めて呉れよ、
縁なき人いくら集めても何もならんぞ、
縁ある人を見分けて呉れよ。
顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、
顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ。
やりかけた戦ぞ、
とことんまで行かねば納まらん。
臣民一度は無くなるところまでになるぞ、
今のうちに この神示よく読んでゐて呉れよ。
九月になったら用意して呉れよ。
六月の二十四日、ひつくのか三。


冒頭の、

“今度は末代動かぬ世にするのざから、”

これは、
現時点より霊的成長度の高い場(フィールド)の事を言うてる。
ほんでから、

“末代動かぬ世”

こう表現されるのも相対的な比較でしかなく、
現時点のこの世界が、
霊的成長の場(フィールド)としては“上”からの視点で観れば、
下等で低級で不安定であり、
そして、壊滅する要素があるって事で、
その理由は、
地球人の平均的な心(靈)の進化過程が、
自我の確立=固定化で有るからって事やな。
そやからそれは相対的な比較・・・そやけど、
“下”の心(靈)しか発現してへん人、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動からして、
自我位までしか、心(靈)の発現が無い人(日止、霊止)は、
それ以上の事は認識出来ない・・・
そやから宗教や政治や天皇制やヨガやオーラの概念や・・・
そしてアセンションの概念や太陽凝視までも・・・

今までも何回も、
価値のある何かが形骸になって来ている事を言うたんやけど、
人の良い形とか、良い形の場(フィールド)とか、霊的成長の真の意味とか、
そう言うもんを形骸にする、
形骸にしてしまう心(靈)の動きは、
自己奉仕者由来の心(靈)の動きでしかなく、
なんでも自分の都合の良いものにしてしまいよる。
そしてそれで、金儲けをしたり低い功名心を満足させたりする。
そしてそれに関わった人すべてが・・・真の価値を見出さんうちに一生を終える。
それが幸福に対しての夭折って事になる。
たいして認識を獲得しないうちの死になるって事でんねん。
それはまさに、
人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑でしかないんやけど・・・
一般にそう言う認識は無いな。
そやからそう言う意味の事も含め、
次の言葉・・・低い心の発現由来の場(フィールド)って言うのんは
今、とても多いからこそ、次のように言われてる。

“今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ、
人を集めるばかりが能ではないぞ、”

そやから今も一部言うた、
形骸の宗教や価値の無いセミナーや政治団体や・・・
ほんでから最近、
“太陽凝視”“アセンション”で検索すると多なってきた、
目立ちたいだけの低い功名心由来の、
低い解釈のアセンションや短時間の太陽凝視を大げさに言うサイトや、
低級な憑依現象を何でもハイヤーセルフって思いたいとか・・・
これは低い霊能力者の主護霊の解釈と同程度で、
憑いてる存在は何でも主護霊やと思いたいとか、
霊的な現象が自分に確認出来たから、
それを知って欲しいとかの心の動きでしかない。

そして・・・○○が査定した何とか・・・とか、
こんな事にまで太陽凝視やアセンションって言葉が利用されてるんやったなら、
これは一つ間違えれば、
もう、カルト教団みたいになる。

そやけどその人達はそう言う危険性があるって事を感じへんやろし・・・
その感じへん事そのものが、
自我より“上”の心(靈)の発現をしていないって事なんやけど・・・
又その心(靈)の動きは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)に、
入り込まれやすい。
又、そう言うサイトで只目立ちたい心(靈)の動きは、
右往左往でしかなく、
いつかそれは左往右往する段階にはいるんやろけど・・・
その前に問題を起こしそうな気もするやん。

大体・・・この間も少し言うたみたいに、
インターネットって言うのんは、
低い功名心の場(フィールド)になってる。
ほんでからネットの場(フィールド)って言うのんが、
そんな心(靈)の動きばかりになってくるんやったなら、
おんなじように思われたくないから、
もし今後そう言う傾向が今よりひどくなって来たなら、
先生もKellyさんもネットで自分の意見や認識を公開する事をやめる・・・
大体、
太陽凝視を教えてくれたKさんや先生がやって来た太陽凝視は、
昨日今日、太陽凝視を始めたばかりの人には理解出来へん事でんねん。
そもそも、
前のブログもこのブログも、
太陽凝視を教えてくれたKさんの子供達に、
彼等自身に対し、
自分達がやって来た太陽凝視や電気行の事を、
赤の他人の先生が、
お父さんとしてのKさんの立場では無く違う立場で説明する・・・
それは、父親から子供に対する説明と、
赤の他人からの説明は、
立場が違うからこそ、
太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たちは理解を深めていく。
それが目的やったし、
ほんでから、前のブログを通じて、
真剣に太陽凝視を追及する人とも縁が出来た。
・・・ほんの数人やけど・・・

そやから、
ある程度目的は達成したと思えるし・・・
そやから今、先生とKellyさんの認識をネットで公開する事に対し・・・
その意義が無くなって来たのであれば、
ネット上から先生とKellyさんの意見をすべて削除する・・・
そう言う事も考えてる。
それも今後、考慮して行かんならん事やな。
これはいつか先生と話をして決める事として・・・


もう少し、相対的比較の表現でもあるさっきの言葉、

“末代動かぬ世”・・・を考えれば、

現時点、
地球が低い心(靈)の発現の人が多数の場(フィールド)やからこそ、
低級で不安定で・・・
それは、その段階の心(靈)の進化程度の人は、
低い幸福の概念を持ち・・・
そやけどそれは、
幸福の概念の初歩とも言える事で、しょうがない事でも有るんやけど・・・
それ由来の価値感と思想・・・それが動機で、
その為に自分のエネルギーを贖い・・・
自分と自分の狭い周りの為にしかエネルギーを使わへん。
そやからそれは、
そう言う平均的地球人の心(靈)の発現の段階では、
現時点より、
高い霊的進化の場(フィールド)を構築する=アセンション後の場(フィールド)の創造の法則性に、
則って(のっとって)いないから、
今の世界は失敗して、
そして、
ほんの少し心(靈)が“上”に向かってる一部の人は、
自省する。

自省(胸の磁性“十”)せんと、
相対的に高い幸福の概念=霊的進化と神格化、
その事を真に理解出来へん・・・解らへんって事でもある。
そやから、
左往右往して、失敗の体験を自分の師として、
今後の創造をして行かんならんのやけど・・・

今も起きてる・・・アセンションに伴う変容・・・
アセンションに対し、
そう言う解釈をし、そう言う認識を持って行く事が大事な事やと思うんやけど・・・
さっきも言うたばかりやけど、
アセンションって言葉は今、ネット上ではとても甘い解釈になっていて、
そして、
太陽凝視って言葉も、
只、低い心(靈)の発現の段階の人に利用されてるだけのようで、
そこには、
アセンションや太陽凝視の意味と意義を見出させない・・・
人の霊的成長を阻む存在の思惑・・・
そう言う存在の思惑を感じるんやけど・・・
それは低い心の発現の人が多数って事に由来する事でしかない。

そやけど・・・この事は話が逸れるから別の機会に・・・

話を戻して・・・

そやから左往右往、
その失敗は具体的に言えば、
戦争でもあるし災害でもあるし経済の破綻でもあるし、
最近の訳の解らん事件でもあるし・・・例を挙げればきりが無い。
そやけどそこには、
低い心(靈)の発現由来の創造による恨みの連鎖の霊的干渉があり、
それらは、その結果でしかない。

そやから、今後の事を考える心(靈)が“上”に向かっている人達が、
その事象を観察して考えんならん事は、
問題は、
その醜い事象を生み出してるのは、
自分達やって事で、
人は下等生物の要素も持っているからこそ、
本能や情動を持ってるからこそ、
自分の心(靈)が“下”に向かえば、
それは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、
“日月神示”内の表現で言えば、右回り、

先生の言い方なら、
砌(みぎり)回りすれば、
その事象の創造は精神性とも言い得る、
左=日足(ひたり)の要素が無いからこそ、
高い思惑の反映が事象の創造に無いからこそ、
右回転の発振、発信による創造は、
自滅する。

そしてそれは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認識され得るって事なんやけど・・・
自分の心(靈)の動きの結果=低い段階の心(靈)の発現の、
思惑の顕現でしかないって事なんやけど・・・
それが理解出来て無いからこそ、
自己観察が足らんからこそ、
“日月神示”でよく使われる表現、

“外国”と“幽界”
この言葉に対する先生とKellyさん的解釈は、
それは、
“外国”=自分の外側の事象の観察、
“幽界”=腹の段階の心(靈)の発現由来の観察=マニピューラチャクラの覚醒=自我の確立=固定化の段階。
補足としてもう一度言うて置くなら、
“幽”って言う字は、“幽”の山みたいな字は、
火で、
それは肝で、肝は食べた物=物質と呼吸した酸素で化学変化を起こす所やから、
S会=紫光会の交霊会でも良く使われた言葉でもある。
そしてそれは創造のエネルギーでもあるって事でんねん。

そしてそれは右、砌(みぎり)=肝だけでは、
バランスの取れた創造は出来へん。
左、日足(ひたり)の要素=脾と肺・・・これが無いとアカン。

それは肝は、
心(靈)の動きとしては“いきり立つ心(奴と心)”で、
そのエネルギーを上昇させるのは日足(ひたり)回転でもある脾やし、
それが右から左上に移行する=大日如来の条帛(じょうはく)に示されてるのが、
肺を介し、
心=喜びに至る過程でもある。
その霊的進化は左右の神経に現れ、
左右の糸=神経って事で・・・これも今まで何回も言うた事やけど、
その糸の意味は、
それは、
心(靈)が茲(やしないそだてる、いつくしみ)=慈で、
“慈悲”と“慈愛”でもある。

そやから火=灬(よつてん、れっか、れんが)は、
肝、“いきり立つ心(奴と心)”のエネルギーで、
それは日足(ひたり)回転して上昇し、
その為に、心(靈)の発現が“上”に向かう為に、
生物の進化としては、四足獣が前足を使うようになり、
両手の骨と神経で構成される横の磁束が、
人(日止、霊止)の肉体のシンクロトロンの構造を持ち、
それは、“大”って言う字に表され、
腹のエネルギー、サイクロトロン様のエネルギー=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”が、
上昇する。
その段階の心(靈)の発現が、
“慈悲”と“慈愛”になり、
それは心(靈)の発現が“上”に向かったって結果でもある。
地球人はそう言う段階に入ったって事でもある。

そやから、
そう言う事も自覚して自己観察せんならんのやけど・・・
心(靈)が“下”に向かう事自体が、
自我の肥大になってるだけやな。

そやから要は、自己奉仕者と奉仕者、
それぞれの心(靈)の発現の違い・・・そう言う事でしかない。

そして、さっき言うた自滅する現象・・・
その現象って言うのんはすべて自己奉仕者の行いの結果でもある。
そやけど、低い視野しか持って無い人は霊的干渉も理解出来んし、
その事そのものが、
目先の事しか理解出来ん“下”の心(靈)の観察やと思えるやん。
そやから、
地球人はたくさんの恨みの連鎖や因縁を背負ってて、
それを贖う事が・・・
それはある意味、犠牲になる事が教訓になるとか、
今後の創造の為の指針になるとかの認識が無い。
それを思わんのはまさに自我の肥大って事なんやけど・・・

この説明だけでは解り難いから、
本当に低い一例を挙げれば、
人が犯罪を犯し、それが発覚して・・・発覚する事自体が“神の咎め”やし、
それは自省(胸の磁性“十”)の“行”をせんならんのやけど、
自分はそんな事知らんとかやってないとか・・・
しらを切る・・・或は、自分に責任が無いって言うのは、
自我の肥大でしかない。
そして無責任でしかない。

そやから、
すべての事象は自分達に責任の有る事で、
霊的干渉の概念や、
神や、“神の咎め”の概念や、
主護霊の存在の意義と意味は、
現時点、
人が理解出来へん現象の意味を深く理解する事になるんやけど、
それは“必然”って認識を得る為の事なんやと思うけど・・・
事象を観察する視野が狭いから・・・
そう言う分析が無いから、
なんでも偶然とか、犯罪者そのものがアカンとか、
その状況がアカンとか・・・
その視点そのものが、
これも、
幽界=外国・・・自分の外側の事象の観察・・・
そう“日月神示”で表現されてる、
低い心(靈)の発現の段階の観察しかないからでもある。

そして・・・
自分達の心(靈)の動きの結果が、
今の世界=現津(あきつ)=観察され得る事象って事でもあるし、
その事を知る事が大事やからこそ、
今、色んな現象が起き・・・これからもっと多くなるやろ。

大分話が飛躍したけど・・・話を戻せば、

“今度は末代動かぬ世にする”

霊的成長度の低い存在はそこには位置出来ない場(フィールド)になる。
自我の確立=固定化の段階の霊的成長の段階の場(フィールド)ではなくなる。
そやから分けられる。

そやから、
そう言う段階の低い心(靈)の発現の進化過程の人は、
当然そこにはいないし、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・誰かを自分の為に利用するとか・・・
そう言う心(靈)の動き由来の事象は消滅する。

ほんでからそこには、
恨みの連鎖による霊的干渉が原因と思われる戦争や災害や病気や・・・
当然そんなものも無くなる。

ほんでからこんな事は、
前のブログを読んではったこのブログに霊縁有った人に対し、
今更、言うまでも無い事なんやけど・・・
ほんでから、
さっき言うた事と重複するけど・・・

最近多なって来た家畜の動物霊の恨みの現象化・・・
ミンチ状にしてトイレに流すとか・・・
誰でもいいから殺したいとか・・・
それは・・・これからも多なるやろし・・・

低い心(靈)の発現の段階の人(日止、霊止)が、
悩み苦しみ・・・
それに感応共振する霊的存在が、
人を恨んでる家畜の霊とかこの世界に未練たらたらの浮游霊とか・・・
そう言うもんと感応共振する・・・
しかしそれも、
自分の心(靈)が“上”に向かっていたなら、
霊的成長して、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが確たるものになり、
自分に対しての“厳しさ”って言うもんを自覚していたなら、
心が折れた時とかに、
瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持ったとしても、
それに囚われる事は無いやろ。
そやからもう一度言えばそれは、
その人が“上”の心(靈)の発現をしていないから、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きに囚われやすく、
自我より“上”の心(靈)の発現由来の=“慈悲”と“慈愛”故の、
自分に対する“厳しさ”とか・・・
自己観察とか・・・
自分の在り方とかを考えんから、
そう言う低い霊的存在も“上”の心(靈)の発現をしていないからこそ、
感応共振する。
そして結果、憑依現象がおき、
目的を達成した霊的存在は事件が済んだらいなくなる。
これも無責任でしかないんやけど・・・
それは、
その霊的存在が霊的に幼いからでもある。

そやから今の話は動物霊と浮游霊と因縁霊・・・
それに纏わる霊的存在や霊団を挙げて行けば、
きりが無いけど・・・
その霊的存在すべてに言える事は、
自分の運命を受け入れてない=自省(胸の磁性“十”)の行をしていない。
そもそも家畜の動物霊にそんな心(靈)の発現は無い。
そして、因縁を背負うのも、
霊的成長度の低い=自省(胸の磁性“十”)の行をしていない儘死んだ、
先祖の認識を変える為の事やし、

最近特に多い、
子供の浮游霊の憑依現象と観察される、
食への執着、性への執着、低級な娯楽への執着・・・
まさにこれも、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でしかない。
そやからこそ、
戦争や飢餓貧困は無くさんとアカンのやけど、
ほとんどの地球人がその為には自分の金を使わない傾向がある・・・
そんな事にエネルギーを贖いたくないって事でんねん。
そやからその事そのものが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の顕現とも言える、
どうでもエエ事に金を使わせる事ばかりが流行ったり、
(美容とかサプリメントとか低級な娯楽とか・・・etc・・・よう考えて欲しいねん)

ほんでからに投機とか・・・兵器産業とかもそうやな。
それに関わっている政治化とか経済のトップとかもそうやな。
これも心(靈)の発現の段階が低いからこそ、
自分達の“力”をどう扱えばいいのかを知らへんだけや。

そやから今後も、
低い心(靈)の動きによる発振、発信の事象が現象化して、
さっきも言うたみたいに貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の霊的干渉の現象が、
恨みの連鎖の結果が起きていくやろ。
ほんでから、こう言う事に気が付かんアホな霊能力者ばかりが注目される・・・
それも、優しさだけの見せ掛けの愛に依存したい・・・
この心(靈)の動きも試練や苦難から癒されたいとか・・・
それも心(靈)の発現が低いって事でしかない。

・・・もう一度、
霊能力者の在り方って事を考えれば、
霊能力を発現したら、
なんでもそれは金儲けにしてしまうことそのものが、
その人の心(靈)の発現が“上”に向かっていないことの証明でも有るんやけど・・・
今の話・・・一般にそんな認識は無いな。

そやからそれは、
先生も若い頃、霊能力を発現してた。
そやけど先生はそれを利用して金儲けに使った事は無い。
それは先生自身が自負している事でもあるし、
自分が自分の霊能力に対し、
その意味と意義を思い・・・深く考え・・・そして得た結論は、
霊能力は“上”との意思の疎通の為にある。
それを思わんと、
金儲けに利用する=貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きに支配されてる霊能力者は、
結果として人に甘い夢を見させ、
そして霊能力は所詮そんなもんなんやって認識を多くの人に植え付ける。
そやからそれも、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑って思うてる。

大分話が逸れてるけど・・・
そやから、
今後の世界に位置したいって思う人は、
心(靈)の発現の段階と、
霊的成長度と、
自己観察して自分の心(靈)が“上”に向かってるのか“下”に向かってるのか・・・
そういう事を知っとかなアカンって事で、
これらの事は、
自分達の心(靈)の低い部分が生み出した結果・・・
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”やし、
自分の心(靈)の動き=発振、発信による創造を、
高い霊的成長の場(フィールド)を構築する為の発振、発信にする。
それやからこそ、
自分の心(靈)の中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
良く観察する事そのものと、
それ由来の創造=思惑の顕現が、
“日月神示”内の表現でもある、
“身魂掃除”って事なんやと思うやん。

そやからそれは、
自省(胸の磁性“十”)と“観自在”“直日(なおひ)”・・・自分の在り方を観察する。
そして自分がするべき事を考える・・・そしてその行動=発振、発信=創造は、
決して他者を害さない・・・
他者の霊的進化を願う・・・そして自分の霊的進化も願う・・・
その概念をしっかり持ち、
そしてそれが霊的に高い場(フィールド)の法則性でもある。
その心(靈)の動きがあれば、
そして今後の世界は、アセンションを体験した世界は、
“慈悲”と“慈愛”・・・
アナハタチャクラの覚醒が進んだって言ってもエエけど、
そう言う人(日止、霊止)だけの=そう言う霊的成長度の人(日止、霊止)だけの場(フィールド)になる。

それを構築する為に、
今、
より分けられてる。

自分に“慈悲”と“慈愛”の心(靈)が発現し、
そしてその上で自己観察すれば・・・
その上で得られる認識って言うのんは・・・

争うべき何かって言うのんは、
戦うべき何かって言うのんは、自分の中にしか無い。

自分の心(靈)の発現の過程は、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動やからこそ、
現時点より“下”の心(靈)の発現をして、
それに囚われる事そのものがアカンって認識を持つ。

その事を自覚した、
自省(胸の磁性“十”)の行をした人(日止、霊止)の、
場(フィールド)やから、
他者を害する事も無ければ、
恨みの連鎖や自己奉仕者の行いの結果とも言える戦争も無いし災害も無いし、
それを引き起こす恨みの連鎖の霊的干渉も無い。
そう言う霊的存在はいなくなるって事でんねん。

そやから地球が、
今後そう言う場(フィールド)に成る為に、
今、
低い心(靈)の発現ゆえの事象が目立つ・・・
そんな事ばかり見せられる・・・
そやけどそれはしっかり観て、自分の認識にして於かなアカン事でもある。

そやけど・・・自己奉仕者の行動や恨みの連鎖の現象・・・
その意味を考えさせない・・・思わせない・・・
それを忘れさせる娯楽みたいな物ばかり流行る。
お笑いとか・・・異常なペットに対する愛着とか・・・形骸の美を求める事とか・・・
インチキ宗教やサプリメント・・・
低い心(靈)の発現の霊能力者ばかりがもてはやされるとか・・・
醜い事象を観察させない・・・観察して何かを思う事を、
阻む。
阻む事を意図している。
それも、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現やと・・・先生は思うてる。

そやから次の場(フィールド)に移行出来る人(日止、霊止)、
言い換えれば、
霊的成長度の段階によりその場(フィールド)に位置出来る人(日止、霊止)は、
今、沢山の苦難を体験し、
その上でその苦難と試練を自分の師として、
段々“天の御目”=心(靈)が“上”に向かう為の基準の獲得に至り・・・
その方向性に向かい・・・って事やな。
それは、自分の在り方を考え、
そして心(靈)が“上”に向かう事を意識して生きて行く。
せめてこのブログに霊縁のあった人(日止、霊止)には、
その事をよう考えて欲しい・・・

大分話が逸れてしもたけど・・・ほんでから次の言葉、

“六ヶ敷い道(おしへ)ぞ。”

この“六ヶ敷い”は、
落語や講談によく出てくる言葉らしく、
“むつかしい”って読ませるらしいやん。

そやけどこの言葉をKellyさん的に観たなら、
六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現・・・
“六”についてのKellyさん的解釈は、
“Kellyさんが、“日月神示”を解釈して行くに当たって・・・考えた事。”
・・・を読んで欲しいねん。

そして、
“敷い”・・・これは場(フィールド)の構築としか思えへん。
神さんの思惑を受信し、
そして、
自分達が思想を構築し、その上で行動し・・・
場(フィールド)の構築をして行く。
それが事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事になり、
結果、
観察している何かって言うのんは、心(靈)の中の事なんやけど・・・
その創造って言うのんは“上”からの思惑を顕現していかんと、
貴いとか美しいとか価値があるとか・・・
そう言う色んな事を思わせる・・・感じさせる場(フィールド)を構築して行こうとするのが、
人(日止、霊止)としての生命(生きる使命=存在理由)やろし、
そやからこそ人(日止、霊止)は、
神の子なんやろし、
そして良い形の創造の概念が、
幸福って概念やし・・・

そやけど現状、幸福の概念が低いから、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事をして、
自分達の利益の追求をする人が多い・・・多すぎる。

多すぎるから失敗するんやけど、
それも、
事象=現津(あきつ)=観察され得る事象でもあり、
そやからそこには、失敗を通じ、
霊的成長の為の法則性=“道”が出来、
そやからこそ、
“六ヶ敷い”=むつかしい法則性を認識して行くのには、
困難を伴い、
そして獲得した認識は霊的成長の為の認識やからこそ、
“道(おしへ)”って言葉で示される・・・
こういう表現になってると思えるやん。

ほんでから次の言葉、

“縁ある人は早く集めて呉れよ、”

この言葉は前後するけど、
“今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ、
人を集めるばかりが能ではないぞ、
人も集めねばならず、”・・・に掛かる言葉でもあり、
これは、
“縁ある人”
通常使われてる縁では無く、
霊的成長度の高さ、どれくらいの心(靈)の発現をしているのか、
そして、
心(靈)が“上”に向かっているのか=自省しているのか・・・
それを言うてる事でんねん。
段々そう言う霊縁ある人(日止、霊止)と、
今までの低い心(靈)の発言由来の場(フィールド)・・・
現世利益の宗教や政治団体や・・・
それらは区別されていく。
そやから同程度の心(靈)の発現の人同士は、
自然に場(フィールド)を構築するって事でもあるけれど、
自分達の心(靈)の発現の段階って言うのんは、
自然に霊縁が出来ていくって事でもある。
そう言う点で、作為的に人を集める事・・・
形骸の宗教やインチキセミナーや・・・
さっきも言うた○○の査定した何とかは、
それはたいした霊縁では無いって事でんねん。

そやからその補足として、次の言葉、

“縁なき人いくら集めても何もならんぞ、
縁ある人を見分けて呉れよ。”

これも、霊的成長度の低い人を集めても何にもならん。
又、霊的成長って言うのんは個人的な作業でしか無く、
その認識が無い人は、集団を作って喜ぶ傾向がある。
同じ価値感の人同士が只雰囲気を楽しみ・・・
低い功名心を満足させる。

そやからそう言う人たちは、
自分の心(靈)の動きに問題を見出す事が出来ないのか、
或は自分の心(靈)の中の問題を無視したいから他者を批判して、
そう言う行為に終始したい。
そして、
これは今の形骸の価値感で動いてるさっき言うたばかりの団体を指してる言葉でんねん。
ネット上でもそう言う感じ(感じる磁性)でしかない事やねん。

そうやって・・・
見せかけの幸福や、政治家の騙しの言葉や、
低い功名心でこの世界の事を批判してる・・・批判だけして喜んでる、
どっかの団体や、
金を取って知識をひけらかすだけのインチキセミナーや、
そういう事に酔いしれてる内に、
人は、
自省(胸の磁性“十”)を忘れ、
苦難や試練を忘れ、
忘れる事そのものを癒しと思い込み、
只、自分の人生に課せられた、
自分自身の霊的成長の為にエネルギーを贖う為の事=“行と修行”から逃げ、
結果、たいした認識を得ないまま・・・
自分の心(靈)を観察するに当たって、
自分に対する“厳しさ”って言うものを獲得せん内に、
時期(磁気)が来て=アセンションって認識されてる事を済まして、
麦と毒麦は分けられ・・・
毒麦を増やしたいのが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあり、
その現象ばかりが目立つ世界になってるのが、
今の事象やな。

ほんでから次の言葉は、

“顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、”

“顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ。”

これはさっきも言うた外側の事象の観察の事やと思いまんねん。

自省してる人(日止、霊止)と、
形骸の幸福を説いてる人みたいな表現でんねん。

ほんまに自省(胸の磁性“十”)して霊的成長の方向性を見出してたなら、
それは、
形骸の言葉を使ってるインチキ宗教みたいな事はせんって事でんねん。
そやから自分が霊的成長をしたくって何かを観る際に、
見かけに騙されんようにって事でんねん。
ほんでからにこの言葉は自己観察の事も言うてる・・・
自分が霊的成長の為にしていると思える事・・・
それを低い心(靈)の発現の人は、錯覚しやすい。
何回も言うけど・・・
見せ掛けの愛は苦難や試練を体験してる人の霊的成長の足を引っ張り、
形骸のインチキ宗教や低い解釈のアセンションは、
本当の事に気が付かん内に時間を過ごす結果になり、
それは次の場(フィールド)に移行する霊的成長をしないって事になる。

外側の観察=“外国”では、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きは判らないって事でもあるし、
そして今、
見せ掛けの愛や癒しや浄化を語っている人はとても多いし・・・
これも外側の事象の観察しか出来ない人(日止、霊止)、
そう言う心の発現の人は、
自己観察が出来ないし、
自省(胸の磁性“十”)もせん、“観自在”も無いし、“直日(なおひ)”でもない。
そやからその人の心(靈)の動きは経済とか物欲とか低い功名心とか自尊心とか・・・
サル山のボス猿みたいな心(靈)の動きになる。
さっき言うた○○が査定した・・・も、
この心(靈)の動きでしかない。

そやからそれは霊的成長の法則性とも言える右往左往から左往右往し、
その過程では失敗も有るからこそ、
次の言葉、

“やりかけた戦ぞ、
とことんまで行かねば納まらん。”

霊的進化の為の体験、右往左往と左往右往でしかない。
その心(靈)の現われ=顕現が、
今、右往左往の行をしてる人が多いからこそ、
形骸の何かが力を示してるけど、
失敗をするからこそ、破綻するからこそ、
次の言葉、

“臣民一度は無くなるところまでになるぞ、
今のうちに この神示よく読んでゐて呉れよ。”

・・・で、しかない。

ほんでから次の言葉、

“九月になったら用意して呉れよ。”

これも只単に暦の九月って事ではなく、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
“九”
そして月部(げつぶ、にくづき)って事で、
神の思惑+“一”=智性=1番目のオーラと創造主を示す“一”=アイ+人の思惑の顕現
それに肉体である月部(げつぶ、にくづき)をプラスした表現が、
“九月”
これは前にも上つ巻 第五帖の言葉、

“九の道を早う開ひて呉れよ”
“ひむかは神の使ひざから、九の道を早う開ひて呉れよ、”

・・・で言うた事やな。

“九の道”は、
人(日止、霊止)が霊的成長し、
自分なりの基準を獲得し=“天の御目”を獲得し、
今より神聖な事象の創造をして行く。
それは人(日止、霊止)自身の完成に至る為の道でもあるって事やねん。
それが人の完成って概念やし、それは神格化でしかない。
ほんでから、
上つ巻 第六帖を解釈した時にも

“九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。”

“九”・・・○ 九 十 (まこと)の、九、
それは神の思惑の顕現でもある、
創造主の最後の仕事でもある、“卆”。
人(日止、霊止)の創造による事象・・・

大体“日月神示”の表現として、
九月、十月は、
九 + 月・・・月は月部(げつぶ、にくづき)で肉体の事、
十月も、胸の磁性“十” + 月部(げつぶ、にくづき)・・・

肉体そのものに“上”の思惑を顕現する・・・
そして、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をする。
それが“ひむか”=太陽凝視って事やと思いまんねん。

今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



今回も上つ巻 第十六帖の解釈をしまんねん。
そやけど、
いきなり上つ巻 十六帖の感想を述べるのもなんやけど・・・
霊的成長の為の肉体の仕組みを、
具体的に言うてる感じ(感じる磁性)になって来てるな・・・

・・・原文は以下の通りでんねん。

ひふみの火水とは結ぞ、
中心の神、表面に世に満つことぞ、
ひらき睦び、
中心に火集ひ、
ひらく水。
神の名二つ、
カミと神世に出づ。
早く鳴り成り、
世、新しき世と、国々の新しき世と栄へ結び、成り展く秋来る。
弥栄に神、
世にみちみち、中心にまつろひ展き結ぶぞ。
月出でて月なり、
月ひらき弥栄え成り、
神世ことごと栄ゆ。
早く道ひらき、
月と水のひらく大道、月の仕組、
月神と日神二つ展き、
地上弥栄みちみち、
世の初め悉くの神も世と共に勇みに勇むぞ。
世はことごとに統一し、
神世の礎極まる時代来る、
神世の秘密と云ふ。
六月二十四日、一二 文(ふみ)。



冒頭の、

“ひふみの火水とは結ぞ、
中心の神、表面に世に満つことぞ、”

この“ひふみ”だけ平仮名なのは、ちょっと納得がいかんのやけど、
もしこれが“一二三”って書かれたとしたなら、
Kellyさん的にはとても解釈し易いんやけど、
それは間違いなくそう言う意味でもあるやろし、
ほんでから今は、
これが平仮名で書かれてる事に付いては、
現時点、Kellyさんが気が付かん・・・なんやしらん意味の有る事かもしれへんけど・・・
それとも只単に“一二三”を“ひふみ”って読ませたのかもしれんし・・・
そやから・・・
さし当たって解釈出来る事から解釈するとして・・・

“ひふみの火水”

これは今までも何回も言うてるように、
“ひふみ”=“一”と“二”と“三”で、
人のオーラの構成の事でも有り、
肉体が持つ三つの磁場でもあり、
そして肉体=“土”=2~3番目のオーラに、
智性のオーラ=“一”を足して、
“王”って言う字になる。
ほんでからその“王”って言う字そのものが、
人の完成されたカタチを示しているって言うのんが、
先生の考えで、
それが又、先生の34年の太陽凝視と、電気行で得た、
認識(悟り、幸取=さとり)で、考えでんねん。

そやけど・・・この事も今まで言うたけど、
この“王”の解釈は、
低い心(靈)の発現の認識の“王”では無いって事でもある。

霊的成長度の低い人=自我までの心(靈)の発現が中心の人(日止、霊止)・・・
その心(靈)の発現の程度の人が創造している事象・・・
崩壊に向かってるこの世界・・・
そんな事ばかり最近考えてるけど・・・

そやからこそ、
“中心の神、表面に世に満つことぞ、”
・・・でもあると思える。

この表現、
“中心の神、”“表面に”と、そして“世に満つことぞ、”・・・

“中心の神”は、
高い振動でもあり、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)でいえば、
人が観測し得る宇宙線でもあり、
創造主の思惑とも言えるし、
現時点、その事を人が理解出来ていない事でもある。

そやから、
すべての霊的存在の発振、発信=思惑で、
それぞれの霊的存在=○は、
“日月神示”内の表現でもある、
○ 九 十の、
○は、
その個体個体の思惑の相互干渉=オーラの相互干渉をしているし、
すべての事象を観察するのは=感覚器官は、
様々な振動を感得し、
そやから、すべて、
感じた何かって言うのんは、
神経が生体内電流で脳に伝え、脳を介して心(靈)が感じ(感じる磁性)、
そして、
脳内の電気的活動=心(靈)の動きになり、
それは観察と認識っていう言葉で表され、
観察と認識(悟り、幸取=さとり)そのものが、
神の性質であり、
すべての生命は神の子であるからこそ、
神の性質を持ち、
そやからこそ、生命(生きる使命=存在理由)は、
観察と認識をする。

そして、
その観察と認識(悟り、幸取=さとり)を、
良いカタチにしようとする心(靈)の動きは、
愛(炁)とも言い得る事やな。
そして、
創造主の愛(炁)は、
一番初めの思惑の顕現とも言え、
そやからこそ、
“亜”から向かって右=砌(みぎり)に移行する、
“一”に示される。
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)


今の話は・・・要は、
高い存在の思惑は高い電磁波と観測され、
それは太陽が送ってくる=もっと“上”の思惑を仲介してくるのが、
宇宙線でもある。
この事は、前のブログを読んで欲しいねん。

ほんでから様々な電磁波、
それを人は“水”に取り込む事が出来る。

この事も前に先生と話し、確認したやん。

そやから、高い振動としての電磁波は、
水・・・“火水”の水、
そしてそれは、腹=“日月神示”の表現の“江戸”・・・
そしてそれが自分の思惑になる事を示しているのが、
頭と腹、大きな二つのコンデンサーの構造と、
それが(囗)くにがまえ、或は口、
それが二つで示され
それを結ぶラインの丿部(へつぶ)で、
“呂”でもあり、
“上”の思惑と自分の思惑が同一になる事が神格化で、
それは示すへんに“呂”=申で、
“神”って言う字になる

取り込む方法は言うまでも無い事やな。

そやから現時点、
“中心の神”は世に満ちていないって事で、
人は“上”の思惑を取り込んでいないって事でもあり、
その段階の人の思惑の創造が、それが、
現時点での現津(あきつ)=観察され得る事象って事でもある。

そやから今後、
霊的成長の程度により分けられる事=アセンション。

“一”=智性=1番目のオーラの小さい人、
そして、智性を使わない事、
言い換えれば自分の中にある神性の発現をしない人、
それは、心(靈)が“上”に向かっていない人。
そしてそれは、
先生と何回も話した人間の動物化・・・
その心の動きそのものが、
人の認識(悟り、幸取=さとり)し得る概念の、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”・・・

ほんでからそれは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑の顕現・・・
そやからこそ現時点、
神性=智性を発現した心(靈)の人(日止、霊止)は少ない。
智性由来の創造=行動をする人も少ない。

そう言う点でも・・・話を戻せば、
程度の低い心(靈)の発現人の“王”の認識は、
只、権力を示すとか、
なんでも自分の思い通りにしたいとか・・・支配者とか・・・
そんな程度の認識でしかない。
この認識そのものが、如何に地球人の心(靈)の発現が低いレベルなのか・・・
その証明みたいなもんやけど・・・
ほんでから、
今まで上つ巻の解釈をしてきても、
今言うた自己奉仕者由来の勝手な低い心の発現由来の認識に付いて、
“日月神示”を人(日止、霊止)に垂れた存在は、
何回も言うてる。

その代表的な一文を挙げれば、

“神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力出ないのぞ。
お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。”
(上つ巻 第四帖 参照)


そやからこれは誰の事やと思うてるのか・・・
今のアホな政治家や経済のトップ・・・
所謂、形骸の“王”の概念を持ってる権力者に読ませたらなアカンな。
ほんでから、
こう言う心(靈)の動きって言うのんは、
誰でもが持ってる事やし、
それを自分がどう扱うのかって言うのんが、
自分の在り方を考える・・・自省(胸の磁性“十”)やし、
“観自在”やし、
“直日(なおひ)”でもある。
それらの言葉で表現された心(靈)の動きは、
智性の発現に繋がる事・・・当たり前の事でんねん。

ほんでから、
そう言うアホみたいな、“力”の使い方をしてる人だけでなく、
只、権力を示し、
なんでも自分の思い通り=低い欲望を満たしたいが為の、
“力”の使い方をしたい人はたくさんいてる。
その心の現われ=その段階の思惑の顕現が、
低い幸福の概念やったりもするんやけど、
そやけど、
その人達自身に自分の幸福の概念が低いって認識は、
無い。
そやから大半の人は自己奉仕者やし、
前に先生と話した事でもある、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡・・・
それに成り下がってて、
自分達が傀儡って認識も無くって、
その価値感故の事ばかり目立つ時期が、今の事象やな。
そやからそれは崩壊せんと、
自分達がやってきている事自体が、
宇宙の創造の法則に則って(のっとって)いない事を、
理解出来へん。

そやから、今、
“力”示している何かって言うのんは、ほとんど形骸の価値感のものが多い。
それは右往左往の段階の事でしかない。
そやからこんな事を何回も蒸し返さんならんのやけど・・・
“日月神示”を読めば読むほど・・・そう言う思いに駆られるな。

ほんでから、
右往左往から左往右往を何回も繰り返す事、
そのものが、
“日月神示”内の表現では、まだ出てきてない言葉やけど・・・

“ひふみゆらゆら”・・・

一二三=ひふみ=“一”と、“二”と“三”。
“二”と“三”を縦の磁性(たて棒、コン)で繋いだ形が、
“土”=2~3番目のオーラ=肉体の磁性で、
その、磁性の変化とエネルギーラインの強化、
それが神道の砌(みぎり)と日足(ひたり)でもある。
ヨガのイダとピンガラでもある。

そやけど・・・又、話が逸れてしもてる・・・

そやから、
相対的に低い心(靈)の発現の事象って言うのんは、
その心(靈)の発現が、
低い欲望・・・本能に近い欲望と低い功名心と低い自尊心で、
今、地球人に霊的成長の概念がしっかり無いのは、
それ以上の心(靈)の発現をしてへんからこそ、
只、経済的に裕福になるとか、物欲とか・・・
それそのものが恨みの連鎖の原因でもあるのに・・・
ほんでから形骸の美の概念のファッションとか美容とか・・・
そんなことばかり追求させてるのが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもある。

ほんでからこんな心(靈)の動きって言うのんは、
只々、
認識(悟り、幸取=さとり)の程度=霊的成長度が低く、
自分の存在が、只、
この世界だけでしか無いって前提で考えるからでもあるな。
そやからその低い認識での思惑は、
今さえ良ければ、
生きている間さえ良ければ、それで自分は満足って概念を持ち、
その概念での事象の一例が、
今も少し言うたけど美容やサプリメントとかエステとか・・・
たいして苦難を背負っていないのに癒されたいとか・・・
なにも産み出さん低級な娯楽とか・・・
形骸の事ばかり生み出している。

大体それらは、
今、経済を潤わしてる事ばかりやし、
そして、それで金儲けしたい人ばかりやな。
ほんでから・・・今言うたばかりやけど、
低級な娯楽とか、
お笑い番組とか・・・真剣に物事を考える時間を失わせる・・・

そやから、

自分の心(靈)が、
どう在るべきなのかって言うのを、
考え始めるのが、
霊的成長の第一歩やろけど・・・

ほんでから自分はもっと霊的成長して、
自分の存在意義や、
神の存在意義や、神の認識や、
様々な疑問に対処して行って、
もっと認識を高めていく行為そのものが
“行”や“修行”でもあるし、
そしてその過程で、
段々、
“上”の思惑を受け=通信を受信し、
その事自体が、
自分の心(靈)の動きになって行くようになるんやろけど・・・

低い功名心や自尊心は、
自分の霊的成長度の心(靈)より、
相対的に低い霊=心(靈)の動きの霊的存在の思惑との感応共振を、
する様になる。

それに一役買ってるのが、低い霊能力者の主護霊の解釈・・・
憑いてる存在は何でも自分に都合よく動いてくれていると思いたい。
その一例が、とんでもなくアホくさい例を挙げれば、
今日はパチンコで儲かったから主護霊が力貸してくれたとか、
今日は風俗行ってサービスのエエネーチャンに当たったから、
主護霊が巡り会わせてくれたとか・・・
そんな程度の低い解釈をする人もいてる。
ほんでから、
芸能界で活躍する事を主護霊の導きやと思うたり・・・
それそのものが、
形骸の幸福の概念であり、
それらすべてが、
右往左往って認識が無い。
そやからそう言う生き方をして来た人は、
死んでから、自省(胸の磁性“十”)する。
それが、
ローム太霊さんがローム太霊講話集の中でも説明した、
閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)でもあり、
そやからこそ生きてる間の事って言うのんは、
右往左往から左往右往に入らんならん・・・
砌(みぎり)の“行”から、失敗を体験せんならん。
それが又、何回も言うけど、
般若心経の言葉の“観自在”でもあり、
神道の“直日(なおひ)”の概念でもある。

そやから右=砌(みぎり)だけって言うのんは、
それが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事やけど・・・
そやから自分の心(靈)の動きを自分で観察して、
自分の心(靈)の中の、
“上”に向かう心(靈)の動き=“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“下”に向かう心(靈)の動き=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
自分で良く区別する事が、
“日月神示”の表現の、“身魂掃除”でもあり、

そう言う点で、高い存在との感応共振をする為には、
先生が目指して来た事とも言える、
肉体の組織の・・・特に、骨の結晶化をせんならん。
その事は前のブログでも何回も言うた事で、
その事自体が、
“日月神示”の表現の、“身魂磨き”で、
その具体的方法が、
この言葉も、“日月神示”の表現で、
“特別神憑り”=太陽凝視で、
それを示してる言葉がこの間も出てきた言葉の、
“ひむか”でもあるやん。

“王”の話に戻るけど・・・

そやから、
“上”が望む、人(日止、霊止)の在るべき姿、

人が“王”に成る為には・・・

“上”に向かい=段々神に近づき、
“上”からの思惑を受け、
それを発現した形が、
“王”って事でもあり、
それは人(日止、霊止)の完成された形の現われでもある。
それ自体が、
神の思惑の顕現やし、
神が、
人(日止、霊止)に望む事やと思いまんねん。

そして・・・話が飛躍するけど、
人(日止、霊止) + 胸の磁性“十” + “一”=智性=1番目のオーラで、
天って言う字になる。
そして、
頭と骨盤の二つの磁性S極とN極=縦の磁性で、
シンクロトロン放射をする。
シンクロトロン放射は白光になる。
それが“天”の“白い”“王”=天皇の本当の意味であり、
“上”の思惑を伝え、相対的に霊的成長度の低い人を率いるのが、
ほんまの天皇やと先生は思うてる。

そして今言うた、
シンクロトロン放射の白光が、
それ自体が、
クンダリーニの白光であり、
真の意味での、
(クンダリーニに対し、低い甘い解釈が多いからこそ言うんやけど・・・)
クンダリーニの覚醒になる。

その具体的な方法は、
頭の磁性の強化と、
両腕の磁束によるシンクロトロンの構造と・・・これは横の磁性で、
それに対し、
頭骸骨と脊椎をはじめ・・・これは縦の磁性による事なんやけど・・・
それを示してるのが、又、
“王”の中の“十”でもある。
特に、
頭の骨の結晶化をする事自体が、
太陽凝視の目的でもあり、
(エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象
・・・を読んで欲しいねん)

それに対し、
太陽凝視=不食って認識は、
人(日止、霊止)の飛躍的な霊的成長に対し、
ほんの些細な事でしかなく、
それに注目させる事自体が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現やと先生は思うてる。

そやから、不食しか思わせん事が、
“上”の思惑の受信に繋がらない太陽凝視になり、
それを目的に太陽凝視を行っている人は、
太陽凝視してまっせ~とか、
不食でっせ~とか、
アセンション成就しまっせ~とか・・・
只単に低い功名心由来の言葉を使うやん。

そやからそれは、
結果としてアセンションの時期に間に合わん人を増やす・・・
先生はそう言う思惑を感じてる・・・

そやから今言うた事は、
不食=太陽凝視って認識と、
頭の骨の結晶化は、
高い振動の受信、“上”の思惑の受信に繋がる事・・・

どっちが本当の太陽凝視の意義なのか・・・

せめてこのブログに縁のあった人(日止、霊止)は、
考えて欲しいもんやな。

・・・まあ、この間もKellyさんが思うた事やけど・・・
ネットの場(フィールド)は低い心の発現の人の方が、
多いから、
この文章そのものがあんまり目に触れる事は無いやろけどな。

今回は・・・話が大幅に逸れてもたけど・・・

上つ巻 十六帖の言葉の“火”と“水”、
順序が逆になるけど、
“水”=腹=“日月神示”内の表現、“江戸と尾張”の“江”、
そして、
“火”は肝であり“いきり立つ心(奴と心)”であり、
“火”と表現されるには、
酸素=肺の機能が必要で、
酸素が無いと物質は火に表される化学変化を起こさない。
そやから“日月神示”やS会=紫光会では、
“火”って言う表現を使った。
多分それは間違いの無い事やろし、そしてそれは、
肝と脾と肺、
肝=“いきり立つ心(奴と心)”と、
脾=“思う、憂う”と、
肺=“悲しい”・・・心が非(いたむの意)、
この三つの心(靈)の動きが、
霊的進化の=心(靈)が“上”に向かう事の、
具体的な事でもあるし、
その為に肉体を持って(霊的)進化しているのが、
人(日止、霊止)でもあるし、
今の地球人は右往左往から左往右往=失敗を体験し、
そして、
自省(胸の磁性“十”)して“観自在”して、
自分を振り返るの意味がある“直日(なおひ)”する。
そしてその心(靈)の動きを自分(の心(靈))は観察している。
そしてその観察による認識は、
教訓になり、
行動=創造の指針になり、
今後の事象の創造に役に立つ。
それが高じれば、
“日月神示”内の表現で言えば“天意”やし、
先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの言葉の、
“天の御目”って事になり、
それは、
神の思惑の顕現になる。

そやからこそ、
“火水”=秘密って表現したんやろし、
大概の(平均的地球人の進化程度の)人は、
そんな意味に気が付かんからやろ。

そして次の言葉は、
“上”の思惑の顕現による事象の創造の事を言うてる。

“ひらき睦び、
中心に火集ひ、
ひらく水。”


“ひらき睦び、”=“上”の思惑と繋がり、
“中心に火集ひ、”は、
“いきり立つ心(奴と心)”=肝=“火”って言う事。
そやからこの言葉そのものが、
“上”の思惑を受信しながら、それが自分の思想になり、
その上での創造をしていく。
ほんでから、

“ひらく水。”

これは、
人間としての肉体の構造=サイクロトロンの構造の強化と、
高い振動の受信の事なんやけど、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”、
肝と脾=腹の段階の左右の磁性を構成するもの、
様々な電磁波は水に吸収される、
そしてさっきも言うたけど、
腹自体が大きなコンデンサーみたいなもんや。
その荷電粒子って言うのんは、錯体が中心やろけど、
それは肉体の創造と三次元の物質世界での創造・・・
発振、発信と行動・・・同義の事を言うてしもたけど、
物質(と認識され得る振動の領域)の次元の創造、
それに関わる事そのものが、
腹の段階の発振、発信でもある。
そやから、

“ひらき睦び、”

“上”の思惑を自分の思想にして、
その事自体を“ひらき”と称され、

“中心に火集ひ、
ひらく水。”

腹の段階だけ=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”の思惑は、
今までも何回も言うたけど、
“上”の心(靈)の発現が無いからこそ、
動物とほとんど同じやからこそ、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)になりやすいし、
今の事象は、
そんな心(靈)の動きのもんばっかりやな。

そやからこそ、
“ひらく水。”・・・

“上”の思惑を腹に、コンデンサーとしての腹に貯め、
そして、
“中心に火集ひ、”・・・
火=肝=“いきり立つ心(奴と心)”で、
当然の事ながらそれは、
意欲って事になり、
意欲って言うのんは、意=日に立つ心(靈)の動きを欲する・・・でも、
有るんやけど、
“ひらく水。”=“上”の思惑を自分の思想として、
事象の創造をして行く。

ほんでから次の言葉、

“神の名二つ、
カミと神世に出づ。”

カタカナの“カミ”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”
これは前にも言うた事でんねん。
そのままコピペしときまんねん。



“カミ”の“カ”は、
“力”(ちから)みたいに、
丿部(へつぶ)と“一”、
ほんでから“一”の右端から“下”に降り、
そして左上にはねる。
“ミ”は、向かって左から右斜め下に降りて止める書き方。
これは前にKellyさんが気が付いた事やねん。
それも前に先生と話をしたやん。
それは以下の通りでんねん。
(“上”の思惑と顕現・・・“天の御目”)

・・・“ミチ”・・・って言うのんは、
三つのオーラが向かって左から右下に降りてるのが“ミ”・・・
それは又、思惑の顕現みたいな感じでんな。
ほんでからに“チ”って言うのんは、
丿部(へつぶ)+“一”+丿部(へつぶ)・・・
神さんの思惑と顕現が二つ重なって、
それに“一”=智性=1番目のオーラが加わってる。

↑ 

・・・ちゅう事やねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈 参照)



ほんでから次の言葉、

“早く鳴り成り、
世、新しき世と、国々の新しき世と栄へ結び、成り展く秋来る。”

“世、新しき世と、国々の新しき世と栄へ結び、”

この言葉の中の“国々”は、
(囗)くにがまえ+“玉(ぎょく)”で、
それぞれの心(靈)が感得し得る場(フィールド)って事でんねん。
ほんでからその感得し得る、
現津(あきつ)=観察され得る事象が、
“成り展く秋来る。”

展開して完成して、
ほんでから“日月神示”内の表現の“秋”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と木部と火でもある。
これも前に言うた事やからコピペしときまんねん。




“秋”・・・禾(のぎへん)と、火で構成された字やからや。
そやからそれは、
禾(のぎへん)が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と木部で構成されてる。
木部って言うのんは、
胸の磁性“十”の下に、儿部(じんぶ、にんにょう)を足した字やって言う事で、
そやからそれは、禾(のぎへん)自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 胸の磁性“十” + 儿部(じんぶ、にんにょう、人が歩く様子に象るの意味=時間の進行)で、
それは時間を伴う霊的進化そのものを表してる。
言い換えれば、
時間って言う振動の変化を吸収しながら、
(時間の認識を持ち)心(靈)は育っていく。
そういう事を表してるように思えるやん。
ほんでからにそれは、禾(のぎへん)と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)と共に書かれてるから、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は、
幽界の“幽”、
幽か(かすか)の左右の糸を外した山みたいな字と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は同じで、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現が、
(“上”から観て相対的に)幽かな時は、
自分の外側しか見ないって事でもある。
ほんでから、“日月神示”内の表現としては、
幽界=外国で、
そやからそれは自我の確立=固定化の進化過程やし、
その時の心(靈)の動きは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
本能、情動、功名心、自我・・・迄やから、
目先の欲望や低い自尊心や功名心や・・・それが中心の心(靈)になる。
そしてその心(靈)の動き由来の行動=発振、発信をする。
そう言う創造をして来たのが今の世界でもあるやん。

ほんでから“幽”の左右の糸、
左右の極性、砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性で、
心(靈)は・・・(霊的)進化過程の心(靈)の発現って言うのんは、
腹=下三つのチャクラから、
胸=アナハタチャクラの覚醒って事になる。
そやからそれは一言で言えば、
心(靈)が“上”に向かって行く。
段々、アナハタチャクラ由来の心(靈)の発現をして、
“慈悲”と“慈愛”を発現して行く。
この事が解り難かったなら、
前のブログ、
思惑と顕現 “その三~八”までを読んで欲しいねん。
その中で特に“摩多羅神”の所は、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の進化過程が、
解り易いと思いまんねん。

心(靈)の発現・・・
“上”に向かうから、
段々神さんに近付いて行こうとするから、“慈悲”と“慈愛”を自分の心(靈)に持つ。
そう言う意味で、禾(のぎへん)と火になり、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”の振動を獲得し、
胸の磁性“十”をしっかり構成する為の事でもあると思えるやん。
又、別の表現をすれば、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そしてそれは自省=左右の磁性でもある。
帯電するミネラルが固まっていく様が、
心(靈)が“慈(しげる)”事でもあり、
固まってない=水の中の帯電するミネラルの段階が、
腹=水=江戸の“江”の段階の心(靈)の発現ゆえの価値感、
“石屋の仕組み”でもあると思えるやん。

そやから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”から垂れた振動を、
人(日止、の振動を取り込み、
胸の磁性“十”をしっかり作って行き、
その時の心(靈)の発現が、
“慈悲(いつくしみ、かなしむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって行く。

そやからそれは“秋”と書かれてると思う。

 

・・・大体こう言う事でんねん。
(“日月神示”上つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈 参照)



ほんでから次の言葉、

“弥栄に神、
世にみちみち、中心にまつろひ展き結ぶぞ。”

この、“弥栄に神、”・・・

“彌栄(いやさか)”の先生の解釈は、
前のブログ、
思惑と顕現“その十一”
“上”の思惑と顕現・・・“天の御目” 
を、読んで欲しいねん。
ほんでからこの言葉、
“弥栄”に対し、
“神”って言うのんは、“呂”を示す=神で、
神は“上”の思惑を“下”に垂れている。
それを受信する様子と形と構造を示すのが、
“彌栄(いやさか)”の“彌”の旧字でもある。
この事も、
“上”の思惑の顕現・・・“天の御目”・・・を、
しっかり読んで欲しいねん。

知りたかったならの話やけど・・・

ほんでから次の言葉、

“月出でて月なり、
月ひらき弥栄え成り、
神世ことごと栄ゆ。”

この場合の“月”は肉体の事で、
“月ひらき弥栄え成り、”は、
肉体に備わる縦の磁性と横の磁性で構成されてるチャクラが、
“上”の思惑である荷電粒子を取り込む事を言うてる。
それが又、“彌栄(いやさか)”の意味でもある。
そやからこそ、
“神世”=“上”の思惑の顕現でもある。

そやから肉体の構造に伴う“上”の高い振動の取り込みが、
チャクラと示されている事でもあるし、
チャクラの秘密は、
肉体の磁性に有るからこそ、
磁性の強化=生体内電流の強化と、
それに伴う肉体組織の結晶化、得に骨の結晶化、
それをして行かんと、
“上”の思惑を自分の心(靈)の動きに出来へん。
そしてそれが、太陽凝視でもある。
それは断言出来る。

ほんでから次の言葉、

“早く道ひらき、
月と水のひらく大道、月の仕組、”

“早く”は、
時期が迫ってる=アセンションに間に合えって事やし、

“道ひらき”は、
創造の法則性と霊的成長を、
認識(悟り、幸取=さとり)しろって事やし、

“月神と日神二つ展き、
地上弥栄みちみち、”

“月神”は、事象の創造は肉体でするから、
月部(げつぶ、にくづき)=月に表され、
それに対し“上”の思惑は、
日足(ひたり)の“日神”で有り、
その二つで展開=創造をして行けって事やし、
それが又、
“上”の思惑を受けた、
“上”のチャクラの覚醒をした人(日止、霊止)=頭の骨の結晶化と、
胸の磁性“十”で、
シンクロトロン放射をしている人の創造による事やから、
それそのものが人に望む神の思惑やからこそ、
思惑通りになったならば・・・次の言葉、

“世の初め悉くの神も世と共に勇みに勇むぞ。”

そして、
“世はことごとに統一し、
神世の礎極まる時代来る、”

そやからそれは、“上”の、創造主の思惑の顕現やから、
それを指して、次の言葉、

“神世の秘密と云ふ。”

“神世”=神の、“上”の、
創造主が思う人の良いカタチを顕現した場(フィールド)。
それを指し示す言葉が冒頭の言葉、
“火水”=秘密で、
それは“彌栄(いやさか)”に示される“上”の思惑の顕現で、
その具体的方法が“天の岩屋戸”“岩戸開き”に示される、
腹から“上”の心(靈)の発現と、
腹の水で受信した、
太陽凝視で受けた“上”の思惑=振動を、
循環させ、
シンクロトロン放射で、
発振、発信させる事、
それは・・・それ自体が、
霊的に高い存在としてのオーラでも有り、
それそのものが、
神が人(日止、霊止)に望む事でも有り、
その肉体の構造を示したのが、
“彌栄(いやさか)”の“彌”の旧字、

弥の旧字


弓へん=背骨と、
“璽”は、

神格化の“しるし”
 
“メグリ”(帀)と、
“メグリ”(帀)の“一”の“下”に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)があり、
その“メグリ”(帀)の中の、
“爻”・・・
これは左右の極性が交わる形でもあり、
そして肉体の腹の磁性=ローレンツ力、
でもあり、
それは“上”の思惑を取り込むカタチを示す字でもあり、
そして肉体の磁性=ローレンツ力により、
メグル、周る、巡る、輪る、廻る、循る、旋る、邏る・・・etc
そして車輪の意味を持つチャクラでもあり、
それを示す事そのものが、
“玉(ぎょく)”でも有り、
そうなって行く事自体が“石”から“玉(ぎょく)”になり、
それは結晶化を示し、先生の表現の、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・
宀(うかんむり)=頭と、“玉(ぎょく)”・・・
肉体の磁性による=ローレンツ力による肉体組織の結晶化=身魂磨き。
そしてそれは、
心(靈)が“上”に向かう事で、
相対的に今の地球人としては、
自我の確立=固定化の段階から、
自省(胸の磁性“十”)の“行”をする・・・

その段階を必ず経て行かんならんって思えるな。

今日はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”上つ巻 第十七帖 Kellyさん的解釈


今回も、上つ巻 第十七帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。


この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、
お土からとれた物、
みな先づ神に供へよ、
それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、
神には献げずに、
臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、
何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。
今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。
六月の二十五日、ひつくのか三。



冒頭の、

“この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、”

これも先生と話した事、

すべての事象は、
究極微粒子=“亜”と認識され得る何かの、低振動化であり、
(“亜”から“イ”、
愛(炁)アイ、
イは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が下降する様子)

それは、人が持っている振動、
現時点持ち得る振動って言う表現が解り易いと思うけど・・・
それは、
“下”から“上”=低周波振動から超高周波振動の荷電粒子が、
磁性により=ローレンツ力により、
集合して、
それは凝集する。
それが、

“お土からとれた物、”

“ニ”と“三”を(たて棒、コン)で繋いだ字が、
“土”=2~3番目のオーラでもあり、
肉体の磁性=ローレンツ力でもある。
そやから“とれた物”は、
自分の(肉体を持った)心(靈)の動きに、
感応共振した“上”からの振動の事。
それそのものが、
心(靈)の発現の段階になり、
それそのものが霊的進化程度の段階でもある。
ほんでから“上”から“下”に垂れる振動、
それが“靈”と言う字に示され、
(思惑と顕現“その十一”
“上”の思惑と顕現・・・“天の御目” 参照)
その事を、この間YAはんが先生の所に持って来はった、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、

“コ”は、
停滞して働く意と細分の音義を含む。
そやからその意味は
“凝る”=荷電粒子の凝集した場(フィールド)。
又、
心(靈)・・・こころの“コ”、
事・・・現津(あきつ)=観察され得る事象の“事”=コト、
それは、“コ”と、止める、留まるの“ト”。
そして真、誠・・・言葉成るの“誠”。
言葉成るは、
発振された振動=言の葉(ことのは)が、
現津(あきつ)=観察され得る事象になる事。
そして・・・真実・・・
これは、
真実=真固止の現津(あきつ)=観察され得る事象の固=“コ”でも有り、
ほんでから、“日月神示”の表現なら、
○ 九 十=マコトで、
それは“コ”=“九”・・・
“玉(ぎょく)”=翡翠(ヒスイ)の翠の翆、
その卆の“九”でも有りまんねん。
ほんでから、上つ巻に良く出て来た“九月”の“九”でもある。

そやから“上”の振動が、
今、私達の居てる場(フィールド)に垂れ、
それと私たち自身が、
“身”=肉体と、
“魂”=靈より下位に位置するとも言えるし、
靈の一部が魂とも言い得る。
そやから心(靈)の一部と付属物、
それは、魂と身、
それと感応共振する。
それが、自分達の場(フィールド)を構成して、
○=心(靈)となり・・・
それは言い換えれば、
現時点での地球人の霊的成長度、
認識(悟り、幸取=さとり)の程度、
自分の心(靈)に持ち得る振動で、
そやからこそ事象は、
認識=受信と増幅される。

そやから、
“この世はみな” ←すべての事象は、

“神のものざから” ←示すへんに“呂”で“神”、
相対的に高い振動の回転、
それは“上”からの発振、発信=神の思惑。

それを自分の認識=荷電粒子で構成された心(靈)で感応共振する。
それが受信=認識=悟り、幸取=さとり、でもある。

ほんでからこの中の表現、
“身魂ふとる”

これは、“お土からとれた物、”に、掛かる言葉やけど、
肉体の材料である物質としての食べ物の事だけ言うてるのでは、
決して無い。
“身”と“魂”って言うてるんやから。


そやから先に“魂”が太るから解釈していけば、
そやから、
魂を太らせるって言うこの表現は、
認識(悟り、幸取=さとり)の拡大=霊的成長でしか無く、
それは、
“ひふみゆらゆら”=“一”の磁性と“二”の磁性と“三”の磁性の、
右往左往と左往右往。
結果それは、
“一”=智性=1番目のオーラの拡大に繫がって行く。

補足として言うとけば・・・こんな事は前のブログで何回も言うたけど、
“一”=頭骸骨の磁性、
“二”=両腕と肋骨と肩甲骨と鎖骨の磁性=横の磁性、
“三”=骨盤と両足の骨の磁性。
それを縦に繋いだ状態を“王”と示される。


そやからこの事象で、現津(あきつ)で、
時間の進行と共に、様々な認識を得て行く事に遭遇する・・・
人生ってそう言うもんやけど・・・
肉体を持った心(靈)って言うのんは、そう言う機会を与えられた。
そやから、苦難や試練があればあるほど、
その人の心(靈)は、認識の拡大をする。
それは最初、
霊的に幼い自分の心(靈)の発現は低い段階から始まるから、
本能と欲望中心の行動=創造をする。
そして・・・今とても多い形骸の価値感で動く。
それは、(自分だけ)幸せに成りたいとか、
物欲とか、
感謝とかありがとうとか永遠の幸福とか無限の愛とかの、
言葉だけに酔う。
そやからそれは、
認識が低いからこそその過程で、
(相対的に低い)幸福の概念を持つ。
そして、その人達も右往左往でしかないから、
自分が間違った事をすれば=霊的成長の法則性に則った(のっとった)、
行動=創造をしなければ、
“神の咎め”=“上”からの通信を受けた事象を体験する。
その低い具体例は、今までやって来た事がバレたりもする。
最近はそんなニュースばっかりやな。
そんな事は・・・まあエエわ。

“神の咎め”バチが当たり自省(胸の磁性“十”)する事。
それは、結果として自分自身が、真の幸福の概念・・・
いきなり突拍子も無い事を言えば、
神格化の概念に自分が気付き、
それ以前の段階として、
他者を害さないとか、
傷つけないとか・・・いわゆる外側(外国と幽界)の、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念を認識し、
“悪”の事象・・・それを引き起こしているのは、
自分達の心(靈)の動きだという事に気付き・・・
ほんまに“悪”って言うのんは、
自分の中にしかないって事に気付く。

話が逸れてるけど・・・

その段階から更に、幸福=神格化への道を求め、
それは、
肉体の磁性の強化と高い振動の受信に繋がる“行と修行”を求め、
更にその過程で、
自分の心(靈)に対し、
相対的に“上”に位置する、
神の概念を持つ・・・それは、より神を深く認識し、
(アイの)創造を理解して行く。
そして、
より“上”に近付こうとすれば、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”を認識し、
その認識故の行動=創造をする。

そやから、行動=創造には、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が有る事を、
しっかり認識し、
そこまで行けば、
自分がどう生きるのか=どうこの世界に位置して行くのかを、
自分で判断出来る様になる。
そして、
そう言う人たちで構成された場(フィールド)は、
相対的に外側(外国と幽界)の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為は、
無くなって行く。
そう言う現津(あきつ)=観察され得る事象の創造の為に、
霊的成長度の違う人を分ける。

それがアセンションでもある。

そやけど・・・
アセンションの解釈を低いものにしてしまう霊的成長度の人って言うのんは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の分析が足らんって言うのんか、
只単に、
“悪”を駆逐すれば解決するとか、汚い物は捨ててしまえばよいとか、
そんな程度の認識しか持ってないんやろな。
そして最も程度の低い解釈は、
お部屋のお掃除やお部屋の鏡を磨くとか・・・
そんなものでは、
“上”の心(靈)との感応共振は起きない=天意は伝わらん。
そやからそんな程度の低い解釈をする人って言うのんは、
相対的に、
人生に対して苦難や試練を感じてなくって、
自分の在り方なんて概念はあまり無い人なんやろな。
それは、
たいした体験が無い・・・その事を自分自身が知らん・・・
そやからそれは、
“上”から試練を与えられて無い程度の霊的成長度やからやな。
霊的に幼い・・・そやからそれは、
霊的成長度に応じた試練と苦難しか与えられん。
それが、
S会=紫光会の交霊会での言葉でもある、

神は乗り越えられない試練を与えない

の言葉から得られた認識でもあるやん。

そやから、霊的成長度が低いからこそ、
目先の価値感で一生安泰な高収入の仕事を選択したり
たいして苦難や試練の無い職業を選択したりもするんやろな。
それが、公務員とか銀行員とか・・・投機で儲けるとか・・・
その中でも自分の生きて行く意味を見出していく人も、
少数は居てるやろけど・・・大半はそんな感じやな。
そやからそれは、自分の“力”を増して行く職業ではない。
それはたいした“行”になってない。
ほんでから、
主護霊やオーラや双子の魂って言葉だけ利用する低級な霊能力者とか・・・
それは、
S会=紫光会のT霊媒の言葉を思い出すとよく判る事や。
それは・・・前のブログで先生が言うてはった事・・・
太陽凝視を教えてくれたKさんと先生だけに、
他の人に聞こえん様に、
T霊媒が、交霊会の会場でそっと小声で言わはった事・・・

“毎回、交霊会の度に死ぬ思いだ・・・”

それくらいの苦痛を贖って獲得した事が、
ローム太霊さんの言葉でもあるし、
ローム太霊さんが人に伝えた主護霊の定義と認識でもある。
そやから、
自分が苦痛を贖わんとその言葉だけ使って金儲けするのは、
それは“上”から観たら、
盗む事と等しい。
そやけど・・・今の世界はそれが当たり前になってる。
何でも上手い事利用して自分の利益にする・・・
そやからそれは、
耳心地の良い言葉だけ聴いて、
ありがたいって思う人に忠告したい事でもあるな。
その事自体が自分の基準を持ってない事を示しているんやけど・・・
ほとんどの人がその事を理解出来ない・・・
それくらいこの世界は、
低い心(靈)の発現の人の事象でいっぱいって事でもある。

話を戻して・・・そやから前回も言うたけど、

“ひふみゆらゆら”
それは、
“一”“二”“三”の肉体の磁性の右往左往と左往右往。
それはすべて認識の拡大、1番目のオーラの大きさに繋がる事でしかない。
そやから、
人(日止、霊止)が時間の進行を認識しながら存在してるって言うのんは、
砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性、
思惑=日足(ひたり)と、
顕現=現津(あきつ)=観察され得る事象=砌(みぎり)。
それは、
自分の心(靈)がどういうつもりで発振、発信し、
(言の葉)
現象化=創造をして行き、
その時間の進行に伴う変化=現津(あきつ)=観察され得る事象とするのか?
その事が理解出来て無いと、
この上つ巻 第十七帖の言葉の解釈は、
てんで解らへんと思えるやん。

ほんでからこの言葉は、どの“日月神示”の解説書にも書いてある通り、
食べ物の事も言うてる。
それは、
“今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。”

一部の人間が食べ過ぎてるから飢餓と貧困が起きてるって言う事もある。
そして飢餓と貧困は恨みの連鎖の霊的干渉を招く。
心(靈)の発現の程度の低い霊能力者はその事に気が付かん。
或は無視してる。
そんなの関係ない・・・自分の功名心と自分の財布が最も大事やから、
テレビに出て金儲けする。

又・・・話が逸れたやん・・・

そやから物質としての食べ物
その事も言うてるけど・・・決してそれだけの事を言うてるのとは違う。

それが、次の言葉、

“お土からとれた物、
みな先づ神に供へよ、”

最初に言うた物質としての食べ物以外の事、
“土”=“二”“三”の肉体の磁性で獲得した振動を、
自分の霊的進化のための認識(悟り、幸取=さとり)とする事と、
もう一つ、
“上”の思惑の反映した現津(あきつ)=観察され得る事象を創造するには、
自分の内在する神性=智性によるところやから、
それが、
“先づ神に供へよ”
でもあると思えるし、
以下の言葉も同義やと思いまんねん。


“神には献げずに、
臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、”

“何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。”

自分の中の智性・・・心(靈)の発現として最も神に近い部分、
それを良く認識し、それ故の行動をとる・・・
それは、
太陽凝視を教えてくれたKさんと先生の認識でもある、
“天の御目”でもあるな。

今日はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”上つ巻 第十八帖 Kellyさん的解釈


今回も、上つ巻 第十八帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、


岩戸開く役と岩戸しめる役とあるぞ。
一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、
シッカリ身魂みがいて置いて呉れよ、
身魂みがき第一ぞ。
この道開けて来ると、
世の中のえらい人が出て来るから、
どんなえらい人でも分らん神の道ざから、
よくこの神示読んで置いて何んな事でも教へてやれよ、
何でも分らんこと無いやうに、
この神示で知らして置くから、
この神示よく読めと申すのぞ。
この道はスメラが道ざ、
すめるみ民の道ぞ。
みそぎせよ、はらひせよ、
臣民 早くせねば間に合はんぞ。
岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、
この世はまだまだ悪くなるから、
神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、
とことんまで落ちて行くぞ。
九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。
臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、
よきことわるく映り、
わるきことよく映るぞ。
今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、
これで世が治まると思ふてか、
あまりと申せばあまりぞ。
神は今まで見て見んふりしてゐたが、
これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、
その積りでゐて呉れよ。
神の申すこと、ちっともちがはんぞ。
今の世に落ちてゐる臣民、
高い所へ土持ちばかり、
それで苦しんでゐるのざ。
早う身魂洗濯せよ、
何事もハッキリと映るぞ。
六月二十六日、ひつくのかみ。



冒頭の、

“岩戸開く役と岩戸しめる役とあるぞ。”

“岩戸”・・・この解釈。
これは、先生の我田引水な意見・・・先生の認識(悟り、幸取=さとり)。
“岩戸”という言葉そのものに、
霊的進化と、
霊的進化を早める意味での太陽凝視と、
(不食=太陽凝視という認識ではなく・・・との意味。)
もう一つ、アセンションの意味とその解釈・・・

先生とKellyさん的解釈は、
自分達の霊的進化により、
自分達が位置する場(フィールド)を創造し、
自分達の心(靈)の発現が、言い換えれば、霊的進化程度が、
自分達の創造する場(フィールド)の高低を、
(自分達で)決めて行く。

そう言う解釈が無いと、
さっぱり意味不明になるんや無いんかいな。

そやからそれは、前のブログ、
“エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象”
・・・に、
先生の“岩戸”・・・“天の岩屋戸”の解釈は説明してある。
それを読んで貰わんと、
それは“岩戸”の解釈が出来てへんと、
理解不能って事になるし・・・

ちょっとだけ説明しとくなら、
人(日止、霊止)の霊的進化=心(靈)が成長して、
神に近付く為の、肉体の構造って言うのんは、
岩は、
山=脳と、
石=帯電するミネラルを指す。

そやから帯電するミネラルは、
肉体内の水、
“日月神示”の表現なら、“江戸と尾張”の“江”
これまで何回も“水”の事は言うたから、
この解釈を知りたい人は、前の記事を読んで欲しいねん。

そやから、
“岩戸開く役”
“岩戸しめる役”

この二つの、現津(あきつ)=観察され得る事象・・・
そう言う人達・・・
今ここに居てる人すべてが、
そのどちらかでしかないって事なんやけど・・・

そやから、
アセンションに向かい、
やる事や考える事が違う人が出て来て、
その結果の事象が、
今起きだしてる醜い事象やからこそ、
“岩戸しめる役”=心(靈)が“上”に向かわん人、
自我と情動と本能の心(靈)の発現でこの世界の創造をしてる人、
いわゆる自分に対する愛しか持ってない低い愛(炁)の顕現の人、
こんな事も何回も言うた。
そやから敢えて説明せんけど・・・

そう言う人達の創造の結果、それがもう出始めてて、
それがもっと今後はっきりして行く。
そやから、次の言葉、

“一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、”


霊的成長度の低い=心(靈)の発現の段階の低い人、
自我までしか発現して無い人。
心(靈)の発現が低いからこそ、
経済優先とか、物欲とか、自分だけ良ければいいとか、
そやから、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・
そう言う事を上手くやる。

又、それを・・・
自分でその心(靈)の動きが低いって自覚を持ったとしても、
その事に付いて、
自省(胸の磁性“十”)をせんとか、
目先の欲望に負けてしもてるとか・・・
今さえ良ければいいとか・・・
そう言う考え方をする人、
それは、心(靈)が“下”に向かってる人やな。

そやから、今まで何回も言うた、
心(靈)の発現の低い人が創った結果、
それが戦争や無差別殺人や・・・飢餓貧困や・・・
恨みの念の現象化の災害とかになる。
それらには霊的干渉って事があり、
その霊的干渉を知る・・・絶対に知っとかな、
次の創造は出来へん。

そやから、自分達は、
肉体=物質を纏った心(靈)であり、
生きていようが死んでいようが、
自分達は永遠の存在であり、
そやからそれは、心(靈)は不滅で有り、
その心(靈)の動きに自分の霊的進化程度を知る。
自分で自分の心(靈)の動きの高低を認識する。
それらを理解せんと、
今より相対的に良い世界の創造は出来ん。

そやからこそ、
“一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、”

醜い事象・・・それを観んならんやん。
人の心(靈)の低さ・・・その心(靈)の動きが引き起こす、
醜さと、
結果を、
知らんならんやん。


そやからこそ、今、
(一般的な視点で)どんどん訳の解らん事が起きていく。
訳が解らん様ではアカンって事でもあるけれど、
その醜い事象の裏に、
“下”の霊的干渉があるって事を見抜ける人(日止、霊止)は、
ごく小数でしか無いな。

そやからこそ、次の言葉、

“シッカリ身魂みがいて置いて呉れよ、
身魂みがき第一ぞ。”

身魂磨き=心(靈)と体の結晶化、
そうせんと“上”の存在は、
その人に憑依出来んし、通信も送れない。
そやからこそ自分の肉体の磁性を強化して、
それは、
生体内電流の強化=“行と修行”を求め、
肉体のどの部分が結晶化して行く事が霊的成長に結びついて行くのか・・・
それに付いては前のブログで先生が言うたから、
敢えて説明しませんねん。
その具体的方法としては、
自分に“上”の心(靈)の発現を求める・・・
そのつもりで=その心(靈)の動きで=その発振、発信で、
太陽凝視をする。
その事を知っておいて欲しいもんやな。


そやから、次の言葉

“身魂みがき第一ぞ。”

“上”の思惑を理解する為の、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)にする為の、
“身魂磨き”=結晶化であり、
“上”=天意を受けた自分達は、
自分の持っている基準や行動の指標が、
“上”の思惑に沿ったものになる。

そうならんとそれは、アセンションでは無い。

そうなってくれ・・・それは、
今までの“日月神示”の文章には出てない言葉やけど、
特別神憑り=太陽凝視。
これも先生は・・・その解釈以外に無いって思うてる。
そして肉体の・・・特に骨の結晶化をして行く。
同時に神経も発達する=“波羅密”でもある。

そやから、
“身魂磨き”が、
お掃除や片づけや部屋の鏡を磨く事と、
“上”の思惑を受信する肉体と心(靈)の変容と・・・
どっちがほんまの“身魂磨き”なのか・・・
よう考えて欲しいねん。

ほんでから次の言葉、

“この道開けて来ると、
世の中のえらい人が出て来るから、
どんなえらい人でも分らん神の道ざから、
よくこの神示読んで置いて何んな事でも教へてやれよ、”

これは霊的成長度の高い人が出てくる事を言うてる。
それが、
“この道開けて来ると、
世の中のえらい人が出て来る”

・・・でも有り、
それは今までの形骸の価値感でのし上がった人を指す次の言葉、
“どんなえらい人でも分らん神の道”
・・・でも、あるやん。

ほんでから、上つ巻は、
“日月神示”としてはまだ最初の部分やからこそ、
次の言葉、

“何でも分らんこと無いやうに、
この神示で知らして置くから、
この神示よく読めと申すのぞ。”

・・・でもあると思うやんか。

ほんでから、次の言葉、

“この道はスメラが道ざ、
すめるみ民の道ぞ。”

“スメラ”

この言葉は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
統一の意味がある。
何に統一するのかって言うのんは、
創造の法則性、
高い愛(炁)の顕現ゆえの創造、
そやから今後、現状に比べ、
自己奉仕者はいなくなる。

ほんでから低い心(靈)の動き由来の言葉、

(数分の)太陽凝視してまっせ~とか、
自分は不食を目指しまっせ~とか、
程度の低い霊的干渉でも、
五次元のハイヤーセルフでっせ~とか、
お掃除して片付けて鏡磨いて水かぶって、
身魂磨きしてまっせ~とか、
そんな程度の低い解釈をする人も、
そやからアセンション後は、
そんな程度の事をアッピールする人もいなくなる。

今言うた事は・・・悪口みたいに聞こえるやろけど、
自分達の心(靈)の動きがどんな程度なのか?
それを自分で判断出来へんのは、
只、霊的に幼い・・・

そやから敢えて指摘させて貰いましてん。

話を戻して・・・

“スメラ”=皇(すめら)は、
天皇の皇、
天皇は天の白い“王”、
これも何回も言うたけど、
ひふみ=“一”“二”“三”・・・
人(日止、霊止)が持ってる三つの磁性、
それを(たて棒、コン)で繋ぐ。
そやから、
(たて棒、コン)は、縦の磁性、
それは、頭の磁性と、
もう一つ、“日月神示”内の表現なら、
“尾張”=尾骨の磁性、
そして、
手と胸の磁性で構成される横の磁性、
そして“上”から“下”への磁性は、
強固な物になり、
そしてサイクロトロンやシンクロトロン、
肉体の粒子加速器の構造の強化にもなり、
高い振動の発振、発信に成る。
その結果、当然オーラは大きくなり、
振動も高い物になって行く。

先生は霊眼が発現してた時、
それを、その事を、
太陽凝視を教えてくれたKさんに見出した。
そして、
先生自身の認識(悟り、幸取=さとり)としたからこそ、
34年半、長時間の太陽凝視をしてる。
多分・・・死ぬまでやるつもりやろ。
そやから今、太陽凝視をしてるって言う人なら、
それくらいの事なんや!!
・・・って、思うて欲しい事やな。

話が逸れてるから・・・戻して・・・

身魂磨き=結晶化、
そして、
“上”の思惑=高い振動の受発信をする。
それは感応共振の法則があるからでもある。
簡単に言えば、
高い心(靈)の発現をしていない人は、
高い存在と感応共振出来ん。
これも振動の法則でもある。

現時点、高い存在と感応共振出来る人(日止、霊止)はいないから、
色んな宗教や宗教の言葉なんかが形骸になってる。
その事も先生と話したんやけど・・・
そやから低い心(靈)の発現の人が、
“上”から“下”に垂れた価値のある言葉を観ても、
その意味が理解出来ない=“上”との感応共振が無い。
そやから大半の人は、
言葉だけしか知らんって事になる。

それは言い換えれば、
自分の持ってる基準でしか理解出来ん。
自分の今まで獲得した認識(悟り、幸取=さとり)の範囲でしか、
解釈が出来ん。
そやからお経も祝詞も真言も・・・“上”から“下”に垂れた言葉を、
その意味を解釈出来ん。
特に、
先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの解釈の、
般若心経の言葉、
“波羅密”は、霊的進化そのものの事を言うてる。
そやけど程度の低い人は、
般若心経の写経をすればその気を吸い取りエネルギーを頂くなんて思い込む。
それも多少あるやろけど・・・程度の低い霊的干渉もあるやろけど、
そんな事ではたいした霊的進化にはならん。

“波羅密”は写経によるそんな程度の事を言うてる訳では無いし・・・
特に両眼の事を言うてる訳やし、
そやから、
“波羅密”
光を、振動を吸収して、
生体内電流に変換し、その結果、
自分の磁性にし、
そして心(靈)と肉体が造り変わっていく。
結果それは、
振動の強弱と振動の種類により、
“上”を求めれば、
苦痛と試練・・・ローム太霊さんの言葉、


苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん。

・・・で頑張れば、
“上”の思惑の受信になる。
そやから“上”の思惑を受信出来るって言うのんは、
霊的進化した証明であり、
そやからこそ様々な事象を観て感じる事って言うのんは、
その人の霊的成長度によって相違がある。
話が飛躍したけど・・・それが神格化への道でもある。

そして現時点、
横の磁性を持ち出したのが地球人の進化過程でもある。
それに呼応して、“一”=智性=1番目のオーラのオーラが発現しだした段階が、
地球人でもある。
そやから・・・その程度やからこそ地球人は、
何にも“上”の思惑を理解していない。

それを今後、
“上”の思惑に、
“スメラ”=皇(すめら)・・・統一するって事やねん。

そやからそれまでは、
言い換えれば、今までは・・・って事やけど、
失敗を体験させる事をせんと、
人(日止、霊止)の認識(悟り、幸取=さとり)って言うのんは、
霊的成長の方向性を知らん。
ぜんぜん解ってへん。
そやからこそ、
右往左往で醜い事象がおき、
それを観察して、
自省(胸の磁性“十”)する人が、次の世界の創造を担う資格を持つ。
それだけの事やねん。

そやから、次の言葉、

“みそぎせよ、はらひせよ、
臣民 早くせねば間に合はんぞ。”

禊ぎも祓いも単なる宗教儀式になってるけど、
そんな儀式の事や無く、
自分の発振、発信=呼吸、息吹、気吹、生吹、が、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造に関わる事を知って、
そやからこそ、
自分の心(靈)の在り方を自分で知る。

そして、
自分の心(靈)の動きに応じての霊的干渉がある。
言い換えれば自分の心(靈)の発現の程度と、
心(靈)の方向性が、
“上”に向かってるのか=“慈悲”と“慈愛”に向かってるのか、
“下”に向かってるのか=本能化して、目先の欲望の為に生き・・・、
それと平行して自我より“下”の、
“情動”で何でも見てしまう・・・
そやから感謝とかありがとうとか・・・
永遠の幸福とか無限の愛とか・・・
そんな甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉ばかり使う。
又、それを吹聴する=低い功名心の発現でもある。

そやから、今言うた事は、
自分の心(靈)に応じてしか霊的干渉は無いって事になる。
ほんでから、
自分の心(靈)が“下”に向かい・・・今、大半の人がそうなんやけど、
低い霊的存在・・・貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の浮游霊とか、
(進化程度の低い)動物霊が、
沢山憑けば憑くほど、
それを・・・その事自体を、
“罪(つみ)”と言い、その意味は、
罪=積み=何層も低い霊に取り付かれ、
自分の心(靈)が“上”から通信を受けない事でもある。
それは、先生の主護霊の言葉を引用すれば、

動きが取れない

・・・でもある。
(良い発振の為に 参照)

そやから自分の心(靈)の動きを自分で判断する。
それが“観自在”でもあるし、
自省(胸の磁性“十”)やし、
“直日(なおひ)”でもある。
そやからそれが、
“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”が、
自分の心(靈)の動きになり、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の低級な浮游霊の憑依を招かないし、
それは“下”の心(靈)の発振、発信=呼吸、息吹、気吹、生吹、
・・・では無いし、
そやからアセンション後=今後の世界は、
自分の在り方を考える人ばかりやからこそ、
自分を観察しても、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心は、
進化過程で誰でも持ってる心(靈)の動きやって事を、
充分知ってるし、
それを自分で観察し、智性で制御出来るから、
そう言う人は、
死んでもその心(靈)の動きで彷徨ったりしない。
それは、
そんな浮游霊は存在出来ない場(フィールド)になるって事で、
そやから低い霊的干渉による事件なんかは無くなる。
精神病なんかも無くなる。
そやから、そう言う世界は、
自分達の心(靈)の動きで創って行かんならんって事でもあるな。

もう少し補足説明しておけば、
心(靈)の発現の進化程度の低い動物を殺せば、
家畜の恨みの連鎖を招く事も今後の世界では、
常識になるから、肉を食わんようになる。
そんな事は当たり前の事になるって事でんねん。

そやから低い心(靈)の動き・・・それは自分自身も、
自分の外側(外国と幽界)の事象にも無い・・・
そういう世界になる事も示してる言葉やし、
それを、
その事を知らんと、現状の心(靈)の動きの儘行けば、

“間に合わんぞ”・・・って言うてる。

そやからそれは、
必ず、宇宙的プログラムで、
時間の進行と共に決められてる事やからこそ、

“間に合わんぞ”・・・は、
間に合ってくれ!!・・・って事でもある。
これは“上”の思惑の愛(炁)の顕れた言葉でもあるって事でんねん。


そして、アセンション後の世界を構築するまでの事を、

“岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、
この世はまだまだ悪くなるから、
神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、
とことんまで落ちて行くぞ。”

これもさっき言うた、
心(靈)の発現の低い人(日止、霊止)の創造した事象=結果の事を、
強調して言うてる。

ほんでから、次の言葉、

“九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。”

この“九月”の解釈も、
只、季節の九月ではなく、
“九”と“月”=肉体。

神さんの最後の仕事である、
神さんの創造の最終段階としての九、
それは、人(日止、霊止)の事でしかない。
何回も言うたけど、
九は、翡翠の翆の羽と卒=卆、
それを○ 九 十と言い表してる。

神の思惑の最終段階=九月・・・
それは、神の器と成り得る人(日止、霊止)が現れたって事でんねん。
そうなってくれ・・・って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、
よきことわるく映り、
わるきことよく映るぞ。”

この“鏡”の解釈も、
“メグリ”(帀)の真ん中のラインでしかない。
これも、前のブログ、
“エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象”
・・・を、読んでもらって、
八咫鏡(やたのかがみ)の事を良く理解して欲しいねん。


ほんでから、形骸の価値で動いてる世界やからこそ、
“よきことわるく映り、
わるきことよく映るぞ。”・・・って言うてる。

それは、
惑わされてる人が多いし・・・間違ってる人も多い。
その自覚が無いって事でもある。

それに対し・・・
例えば先生の解釈・・・それは、
先生の34年半の太陽凝視で得られた認識で、
太陽凝視を教えてくれたKさんの家族を除いたら、
30年以上の太陽凝視をした地球人って言うのんは、
多分、地球史初の事でんねん。
そやから、前のブログやこのブログでも、
一般には、あまりにも受け入れがたい解釈が多いと思うんやけど、
それが・・・この言葉の意味でもあったり・・・も、するな。

そやから・・・
形骸の価値感しか持って無い人には、あまりにも高い事は理解出来ん。
そやけど先生は、公開出来そうな事しか言うて無い。
そやからネットで公開出来る事って言うのんは、
先生の認識(悟り、幸取=さとり)の一部でしかない。
もっと突拍子も無い認識もあるけれど・・・

今言うてる事かて、まあ・・・人(日止、霊止)の見方によっては、
単なるキチガイやけど、
あまりにも“気”が違いすぎると・・・
何かの見方=観察と認識って言うのんは、相対的なもんやし、
誰でも、自分の理解出来る範囲内の事からしか解らへん。
自分の心(靈)の発現と自分が獲得して来た認識(悟り、幸取=さとり)でしか、
何かを観察して認識=受信する事しか出来ん。
その事も先生は、
今まで色んな人と話をして身に染みてる。

そやから、先生の言葉、
“人(日止、霊止)は、
自分の持っている認識より、
少し“上”の事しか理解出来ない。”

それは、
受信と感応共振出来へん変圧の過程があるからでもあり、
誰でも理解出来んって言うのんは、
認識(悟り、幸取=さとり)の違い=霊的成長度の違いでもあり・・・
ほんでから今、いきなり高い世界には移行出来へんからこそ、
心(靈)の発現の程度の低い人と、
次の創造を担える人(日止、霊止)は、
分けられ始めてる。

何回も言うけど、それがアセンションでもある。


ほんでから次の言葉、

“今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、
これで世が治まると思ふてか、
あまりと申せばあまりぞ。”

これはさっき言うた事と重複してるから、
敢えて説明しませんねん。

ほんでから次の言葉、

“神は今まで見て見んふりしてゐたが、
これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、
その積りでゐて呉れよ。”

・・・と、

“神の申すこと、ちっともちがはんぞ。”


この文章二つは、
神の思惑通りの世界になるって事を言うてるし、
それに適う人(日止、霊止)・・・
そう言う霊的成長を目指す人(日止、霊止)に成って欲しいって事でんねん。
そやからこそ、次の言葉、

“今の世に落ちてゐる臣民、
高い所へ土持ちばかり、
それで苦しんでゐるのざ。”

“高い所へ土持ちばかり、”・・・この言葉、
それは、“土”=2~3番目のオーラの価値感だけで生きてる・・・
そう言う心(靈)の発現しかしていない。
そやからそこには、
“一”=智性=1番目のオーラの大きい人が無いからこそ、
その程度の霊的成長度の人が、
“高い所へ”・・・“上”と思い込んでいるって事やし、
権力や物欲や目下(めした)の思いで行動し、
そして“力”を得て、示す事が、
勝利とか幸福とか思う。
その・・・(神格化に対し)程度の低い認識の人達を指して、
“土持ち”・・・
“王”から“一”=智性=1番目のオーラを外した、
現時点での霊的成長度の人達、
神から見れば、2~3番目のオーラの拡大は、
動物の進化過程でしかないから、
それが、
“それで苦しんでゐるのざ。”
・・・っていう結果になる。

そやからそれは、
自分が獲得した“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分達がどう使って行くのか・・・
そこには“一”=智性=1番目のオーラが無いと、
創造の法則性に則った行動は取られへんって事でも有り、
その事を言うてると思えるな。

そやからこそ次の言葉、

“早う身魂洗濯せよ、
何事もハッキリと映るぞ。”

身魂掃除でも身魂洗濯でも、
それは自分の心(靈)の動きであるし、
それは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動と、
認識され得る言葉を考えていけばエエ事やし、
それで自分の心(靈)の動きや行動を判断し、
それが、“上”か“下”か、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”か、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か・・・

自分の心(靈)を対象に観察し、
自分の心(靈)の動きそのものを、
判断し、
認識する人(日止、霊止)を望んでる。

そやからこそ前のブログでも今のブログでも・・・
先生とKellyさんがいいたい事。

進化とか神とか霊とかオーラとか、
幸福とか愛とか・・・

その事が理解出来てへん人が多い・・・
そやからこそ、
太陽凝視とかアセンションとか、
五次元とかハイヤーセルフとか、
身魂磨きや身魂掃除・・・
言葉だけ使ってても、何にも解ってない人ばかりって事やねん。

ほんでから・・・今言うた事に関連して、
先生は、
○○○療院のホームページに次の文章を追加しましてん。
それは、
あまりにも心(靈)の発言が低い人が目立つ・・・
ほんでから、
心(靈)の発現が低い人が、
太陽凝視やアセンションって言葉を使ってるからこそ、
先生自身がそう言う見方をされ、
先生は業を煮やし・・・その結果が次の文章でんねん。

そのままコピペしときまんねん。  ↓




最近、
太陽凝視や霊的干渉等に付いて訊ねられる事も多くなってきました。
これは結構な事だと思います。

人(日止、霊止)の進化は、
心(靈)を意識し出し、
意識し始め、
現状、一般的にようやく霊を認識し始めた段階だと思います。

霊を認識しだした・・・
その上で、因縁や醜い事象や事件や災害や戦争・・・etcに、
霊的干渉が有る事を見出して行き、
それを観察し、
そしてそこから自分が感じた認識(悟り、幸取=さとり)として、
結果、自分の在り方を強く意識し、
(“観自在” 自省(胸の磁性“十”)の“行” “直日(なおひ)”)
段々心(靈)が“上”に向かい、
(“慈悲”と“慈愛”)
そして、神格化に結びついて行く・・・
それが、
“太陽凝視を行っている鍼灸師の話”の総括の一部でも有ります。

しかし・・・現時点、
低い功名心で、只、目立ちたいとか自分を褒めそやしたいとか・・・
自我の肥大による心(靈)の動きのサイト・・・
太陽凝視やアセンションや心霊現象や宇宙人の来訪や“日月神示”の解釈などに対しても、
只々、
そう言う低い心(靈)の発現由来の解釈が多く、
その下らない一例が、
テレビの興味本位の番組作り・・・霊能力バラエティや只々現象だけを紹介する。
そう言う類のものの影響で、
アタシのサイトに対してもそう言う見方しかされていない人が多く・・・
それは、
今まで色々質問を受けましたが、少数列挙すれば、
“太陽凝視にはどんなご利益がありますか?”
“先生の太陽凝視は何秒ですか?”
“犬が大好きで飼っていますが、私の主護霊は犬ですか?”
・・・とか、

自分が乗り越えなければいけないから与えられている試練に対し、
その事も何回も書いてはいるのですが、
“因縁から逃れるのはどうしたらいいのですか?” ・・・とか、

まるで、
ご利益で人を釣る現世利益の形骸の商売宗教のような事を求められたり、
又、
チャクラに対し、
それは人(日止、霊止)の霊的成長の為のものであり、
それは肉体内の生体内電流と磁性の現象であり、
その解説も沢山したのですが・・・
“先生はチャクラをご存知ですか?”・・・とか・・・


あまりにも程度の低い質問ばかり・・・
それは、
アタシのブログのタイトルしか見ていない・・・

そう云う事を感じましたので、
情けない事ではありますが、この文章を追加する事としました。

特に太陽凝視に関しては、
“太陽凝視”で検索し、すべて太陽凝視は同じだと思う・・・

これも、
人(日止、霊止)の進化程度により、解釈がまちまちになる。
認識の程度の低い人は=霊的成長度の低い人は、
何を観ても、
程度の低い解釈しかしない。

その事も強く伝えたい事では有ったのですが・・・
まったくそういう事を読み取っていらっしゃらない・・・
特に、太陽凝視に関し、
“日月神示”の、 春の巻 第二帖の言葉を引用すれば、
“誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ、
特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。
太陽の光集めること知っているであらうが。”

この一文の前の言葉として、
“自分のためばかりで祈れば迷信、
われよしの下の下ぞ。”

“われよし”・・・これは、
低い心(靈)の発現の自己奉仕者の事でも有り、
それは、
時期=アセンションが迫っているからこそ、
自己奉仕者の創造の程度の低さを示さなくてはいけない事でもあり、
そして、
程度の低い解釈のサイトが多くなる事も示しており、
低い自己奉仕者の霊能力者が活躍する事も示しており、
それは以下の言葉に示されています。

“世、迫って、
霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。”

・・・ですから、
自我の確立=固定化の段階の心(靈)の発現・・・
低い功名心と低い自尊心、
それに問題が有る事を示す言葉でもあり、
その事を理解する事も、
今後の世界の創造に関わる事なのですが・・・
そして、
今多くなってきた程度の低い太陽凝視・・・
太陽凝視は不食の為に行うとか・・・
朝日や夕日の太陽凝視だけ・・・とか、
それは、“九分通りしくじるのぢゃ。”でもあり、
そして、
アセンションを、自分達の都合の良い物に思ってしまう・・・
その一例は、“日月神示”内の表現、
“身魂掃除”や“身魂磨き”の解釈を、
部屋の片付けとか掃除とか部屋の鏡を磨くとか・・・
そんな程度の事にしてしまい、
そしてそれを、ネット上に広め、
大多数の人の、
太陽凝視やアセンションや霊的成長の概念を、
とてつもなく低いものにしてしまう・・・
それは、
人(日止、霊止)の進化を阻む、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑そのものだと思います。

アタシが現時点、34年半行ってきた太陽凝視は、
低い功名心と自尊心・・・そう言う動機のものでは無く、
自分の生き方を真剣に求め、
そして、何回も倒れ・・・
様々な苦難に遭遇し、自分の在り方を考え、
その上で行ってきた事でも有り、
そう言う低い心(靈)の動きのサイトと同一視されては困ります。
従って、
疑問があり、何かお訊ねになりたいのであれば、
基本的には答えたいと思っていますが、
今列挙した、程度の低い心(靈)の発現で、
太陽凝視や霊的な能力や心霊現象やアセンション等に対し・・・
低い解釈をしてそれを広めたい・・・そう言うサイト。

アタシ自身はアタシの太陽凝視や霊能力等に対し、
そんな考えを持っているのでは無く、
ブログを始めた動機は、
太陽凝視や霊に対する認識・・・特に主護霊に対する一般の認識が、
あまりにも低いからでもあり、
よって、
低い功名心や低い自尊心由来の物の見方をしておりません。

ですから・・・質問をされる方は、アタシの意図を理解してから・・・
それはせめて、ブログを読んでからお訊ねになってください。
それが又、本当の事を知りたいと思う姿勢でもあると思いますし、
質問をするには質問をする資格も必要である・・・
興味本位の質問はお断りしたいと言う事でもあります。

以下、
“日月神示”春の巻 第二帖の全文を紹介しておきます。

       ↓
“カミヒトと申すのは、
神の弥栄のため、
世の弥栄のため祈り、
実践する人のことであるぞ。
神のため祈れば神となり、
世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。
自分のためばかりで祈れば迷信、
われよしの下の下ぞ。
誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ、
特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。
太陽の光集めること知っているであらうが。
神の理(ミチ)をよりよく、
より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。
理(ミチ)であるぞ。
世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。
サニワせよ。
外はウソが多いぞ。
内の声ウソないぞ。

旧、元旦、
日月神。”

2008年7月2日 ○○○大先生


・・・ちゅう事でんねん・・・

今日はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第十九帖 Kellyさん的解釈




今回も、上つ巻 第十九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


神の国 ローレンツ力と ○の山に ローレンツ力と ○祭りて呉れよ、
祭るとは神にまつらふことぞ、
土にまつらふことぞ、
人にまつらふことぞ、
祭り祭りて嬉し嬉しの世となるのぞ、
祭るには先づ掃除せねばならんぞ、
掃除すれば誰にでも神かかるやうに、
日本の臣民なりて居るぞ、
神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ。
六月二十七日、一二 ローレンツ力と ○
 



冒頭の言葉の、

“神の国 ローレンツ力と ○の山に ローレンツ力と ○
祭りて呉れよ、”

“神の国”は“上”からの振動を受け、
“国”は、
(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で、
自分の発振した振動で構成される場(フィールド)が、
“国”って事で・・・
それは、人の腹のエネルギーが上昇する様を表す、
“玉(ぎょく)”構成された場(フィールド)でもある。
ほんでから人(日止、霊止)は、
霊的成長し、
自身の完成を目指す事そのものが、
自分に対する崇高な愛(炁)でもあり、
(自己奉仕者の低級な愛の発現とは違い・・・って事でんねん。)
そやからそれは、
“上”の思惑を取り込む脳・・・それが、
ローレンツ力と ○ の山”・・・

山は脳を示し、思想を示す。
こんな事は前にも何回も言うた事やねんな。

そしてそれは・・・今言うた事を理解する為には、


ローレンツ力と ○・・・この解釈が出来て無いと意味が通じんと思うんやけど・・・

そやからそれは、
前のブログでもこのブログを始める時にも言うたんやけど、
は、
○ 九 十(まこと)ので、
それは荷電粒子で構成された場(フィールド)でも有り、
それが霊でもあり、心(靈)でもある。
ローレンツ力 は、ローレンツ力を示し、
それは“曲霊(まがつひ)”でも有り、
それは=心(靈)の中での回転も示す。

心(靈)が感じ(感じる磁性)る何かって言うのんは、
荷電粒子の振動であり、
それが感覚になり、
認識になる。
感覚器官から脳に伝わり、
脳を介して心(靈)が感じ(感じる磁性)る過程は、
只、
生体内電流でしかないとも言い得るし、
それは現時点の医学で説明が出来る事でも有るんやけど・・・

要は、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものは、
自分の認識って事をあまり意識して無い。
言い換えれば、
自分の心(靈)の中で認識されてるって事なんやけど・・・
このブログに縁のあった人(日止、霊止)は、
その事を良く考えて欲しいもんやな。

話を戻して・・・

そしてその荷電粒子には“上”から“下”が有り、
神の思惑も有り、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑も有り、
それを自分が、感じ(感じる磁性)る事は、
霊的成長度と心(靈)の方向性により、
チャンネルを合わせ、
振動=思惑を取り込んで、
荷電粒子の粒子加速器の構造を持つ肉体で、
自分の取り込んだ振動=電磁波=様々な存在の思惑を、
自分の認識や思想や・・・そう言う心(靈)の動きにして行き、
そして、発振され、
現津(あきつ)=観察され得る事象を構成するのが、
ある意味、オーラでもある。

それが先生のオーラに対する考えでもある。

そして荷電粒子を取り込み、
場(フィールド)==心(靈)を構成する・・・
それは現津(あきつ)=観察され得る事象=場(フィールド)を認識するには、
磁性が必要でもあり、
その磁性の変化が、生物の進化でもあり、
一足飛びに飛躍した結論を言えば、
磁性の強化が、
神格化への“道”でもあるっていうのが先生の考えでもある。

そやからこそ、生体内電流の強化と高振動化で、
肉体の磁性を増して行く事そのものが、
“行と修行”でもある。

そして、取り込むべき荷電粒子・・・
神の思惑を仲介して送ってくる太陽からの振動・・・それを取り込む。
それが太陽凝視でもある。
しかし・・・

太陽凝視をどういうつもりでするのか?
どういう認識を太陽凝視自体に持つのか?

それが、
自分の心(靈)の発振、発信でもあり、
太陽から送られてくる“上”から“下”の振動の、
どの部分に、
自分のチャンネルを合わせるのか=どういうつもりで太陽凝視するのか。
この事は何回も言うた事やし、先生が懸念してる事でもある。

また話が逸れたけど、

思惑=電磁波・・・荷電粒子の振動。
それを取り込み、そしてそれは、
自分の心(靈)の中で回転をするからこそ、

それは、
ローレンツ力と ○・・・=心(靈)とローレンツ力でもある。

そやから・・・こういう物理学の言葉でも、
それは、

自分達の存在って何なのか?
霊って何なのか?
心(靈)って何なのか?
神って何なのか?
事象=次元って何なのか?

・・・そういう事を認識する為の、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の受信でもあると思うんやけど、
大概の人は、
只、霊とか神とか騒いでるだけに等しい。
何の意味も意義も感じて無い。
それは言葉を知っただけに等しい。

そやから・・・
すべての事象が神と自分達の創造の結果なんやから、
自分達が神の子であったなら、
それは、
自分達の思いついた=“上”から受信した、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)とか“力”とかで、
分析と判断が出来る様にならんとアカンのやけど・・・
その事そのものが、
自分を知り、
神を知り、
そして自分達はどう在るべきなのかを考えて行く事になる。
“上”はそれを、強く期待していると・・・思えるやん。

又々話が逸れたやん。

そやから・・・ひと昔前は科学もそんなに発達してなかった。
そして、
物理も段々、物質の構成を探るようになった。
素粒子を発見したり、量子論も人は理解しだしたとも言い得る。
それは、それを知る為に、
エネルギーを贖った人が獲得した=“上”から受信した、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)でもある。

そやけど・・・“上”からの受信・・・
その分析も一般には無い。

誰でも自分が思いついたならそれは、
自分の利益の為にしか使いたくない
そう言う心(靈)の発現の段階が、
地球人の進化過程の低さを示している事なんやけど・・・

まあエエわ・・・そんな事は・・・

話がどんどん違う方向に言ってしまいよるから、
別の機会に考える事として・・・

次の言葉は、受信の事を言うてる。

“祭るとは神にまつらふことぞ、”
“人にまつらふことぞ、”
“祭り祭りて嬉し嬉しの世となるのぞ、”

この言葉、
“祭り”と“まつらふこと”・・・

“祭り”って言うのんは前にも言った事があるけど、
“上”の思惑と、
肉体(月部(げつぶ、にくづき)と又=四肢)を持った自分自身(の、心(靈))が、
一体になった様を示している字でんねん。
前の記事で詳細に説明してまんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈 参照)

そやから“まつらふこと”は、
思惑の受信でもあり、その思惑の受信の選択は、
自分の(心(靈)の)在り方でしかない。

そやから、

“神にまつらふこと”
“人にまつらふこと”

その受信は=心(靈)の在り方は、

自分の(心(靈)の)中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の、
(時間の進行による)両方の方向性があるからこそ、
次の言葉、
今とてつもなく低い解釈をされてる言葉、

“祭るには先づ掃除せねばならんぞ、”

身魂掃除は、
自己観察し、自分の心(靈)の動きに、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が有る事を知り、
その方向性は、
自分で選択している事を知り、
それゆえの行動と創造をするべき・・・

そうやないと、

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)には、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊の憑依があり、

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信には、
人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在の憑依が有り、

それぞれ通信を受ける。
これも“祭り”でんねん。

そやからこそ、
霊=心(靈)の動きの事を知ったなら、
それが理解出来んとアカンし、
すべての事象には複雑な霊的干渉がある事が理解出来たなら、
この言葉自体にそう言う意味が有る事を、
見抜ける人(日止、霊止)にならんと、次の創造は任されん。

それが見抜けん人こそ、“日月神示”内の表現で言えば、
“身魂の曇った人”でもあるな。

そやから“上”から観て、
次の創造をする資格を持たんならん・・・
持って欲しいって事でんねん

そして、
身魂掃除=心(靈)の善悪を知り、
自分の在り方を考える人は、
そう言う発振、発信をするからこそ、

“掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、”

この“日本の臣民”は只単に日本人って言う意味の事ではなく、
日の本の臣民、
太陽を自分の胸の磁性“十”に取り込み、
そして儿部(じんぶ、にんにょう)と、“十”の下に横棒を書く。
これも前に言うた事やな。

そう言う行い=“行”をすると良いって事でんねん。

それが、
“日本の臣民なりて居るぞ、”やと思いまんねん。

決して、日本人だから・・・って、事やおまへんねん。
それは程度の低い物の見方でんねん。

そして、次の言葉、

“神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ。”

只単に、
外側(外国と幽界)をキレイにしたって事ではなく、
仮に、
外側(外国と幽界)と認識する事象だけキレイにする事が、
アセンションならば、
お掃除を生業にして商売してる人は、
とっくにアセンションしてる=次の創造を担える人(日止、霊止)の、
霊的成長度を獲得してるって事になる。

こんな・・・アホくさい言い方をせんならん様な事を、
敢えて言いたくは無いけど・・・
あまりにも最近そう言うサイトが多いので言わせて貰いまんがな。


そやから、この文の中の、
“神州清潔”の“州”は、
辞書を見ると中州や国っていう意味がある。
中州って言うのんは川の中にある陸地、
それはKellyさん的に解釈すれば、
“上”から“下”に流れてる振動で固まった自分・・・
それは州の象形文字を見ると理解出来る・・・けど、
ちょっと我田引水かな?

“州”の象形文字


ほんでからに川の流れって言うのんは、
“日月神示”の表現、“江戸と尾張”の“江”でもある。
腹の段階の心(靈)=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”でもあり、
同位相の右往左往と左往右往=サイクロトロンの構造でもある。

そやからそれは、(物質の世界の)創造のエネルギーでもある。
これも先生と前に話した事でんねん。
そしてもう一つ前に話した事を言うとけば、
腹の段階だけの心(靈)の発現が、
帯電したミネラルが固まっていなくて、
それは“玉(ぎょく)”になっていなくて、
その段階の心(靈)の創造が、
“石屋の仕組み”でもありまんねん。
そやからそれは、自我の肥大って事でんねん。
そやからそれは、現時点での地球人の心(靈)でもある。
そして“国”って言うのんは、
何回も言った(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”でもある。
ほんでから・・・
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・

これは先生の言い回しやけど、
太陽凝視を少しでもしてはる人は、
前のブログも読んで貰ってこの事も考えて欲しいもんやな。

そやから、“神州清潔”は、
神=“上”から“下”に垂れた思惑=振動で、
=心(靈)が出来上がった。
今後、その(現時点、程度の低い)心(靈)=は、
“神にまつらふこと”で、
事象を創造する=アセンション後の世界を自分達で構築する。
そう言う事やと思いまんねん。

・・・ちゅう事で、
せめてこのブログに霊縁有った人には、
今多なった、
程度の低い解釈に流されんようにして欲しいもんでんねん。

今日はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”上つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈



今回も、“日月神示”上つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


神がこの世にあるならば、
こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、
神には人のいふ善も悪もないものぞ。
よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。
表の裏は裏、
裏の表は表ぞと申してあろうが、
一枚の紙にも裏表、
ちと誤まれば分らんことになるぞ、
神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、
そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、
理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。
言挙げせぬ国とはその事ぞ、
理屈は外国のやり方、
神の臣民 言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、
それが神の真の民ぞ。
足許から鳥が立つぞ、
十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。
上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、
岩戸開けるぞ、
夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、
加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。
六月二十七日、ひつくのか三。


冒頭の言葉の、

“神がこの世にあるならば、
こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、
神には人のいふ善も悪もないものぞ。”

これは・・・
先生が中学生くらいの時に考えてた事みたいな事でんねん。

それは、例えば、
事件とか災害とか戦争とか病気とか・・・不幸な死や苦しまんならん事・・・
それに巻き込まれた人の人生には、何の意味があるのか?
神が実在するのなら・・・何故そんな事を見過ごすのか?
こういう事を考え・・・そやけどそれは、
只単に、
神に依存する甘い(亜、魔、出ずる、泉)考えなんやけど・・・

話を戻し、
そう言う事を考えつつその当時の先生は、
唯物論的な物の見方をしていた。
そしてそれは、自分自身に対してもそうやったらしい。

そやから・・・自分の人生に価値を見出せない・・・
何の為に自分は苦しんで生きているのか・・・
その思いに取り付かれ・・・それしか思わない自分が在り、
ほんでからにそれは・・・前に言うてたけど・・・
自分をもう終わりにしたい=自殺まで考えたようやねん。

そやから、自分の人生・・・
中学生やからたかだか15年くらいの事なんやけど・・・
それは・・・病弱で・・・友達もいなく・・・寂しい子供だったらしい・・・
余談やけど、
今の先生を見ると子供の頃・・・病弱だったなんて、
ほとんどの人が信じへんくらい丈夫そうなジジイなんやけど。

そやから・・・先生が子供の頃思うてた事は、
何で自分がこんな境遇に生まれてしもたんやろか・・・とか、
自分の運命を呪うとか・・・

そやけど、
そんな事で自分の人生を嘆くなんてのは、
それは、只単に、事象を観察する視野が狭い。

これは・・・もう少し小うるさい表現をすれば、
現津(あきつ)=観察され得る事象を、
観察する・・・
観察して認識するって言うのんは、
自分が持ってる認識(悟り、幸取=さとり)の程度=視野。
そやから、
自分自身の認識が幼かったなら、
観察して得られる認識も、
幼い・・・幼稚なものになる。

只、それが霊的に幼いから・・・
これは年を取っているとか若いとかはあまり関係の無い事やし・・・
最も、
先生がこういう考えに囚われてた時は、
子供やったって事もあったんやろけど・・・

ほんでから・・・これも、
先生の言葉の引用でもあるけれど・・・

自分が、
その時持っている心(靈)の発現の程度と、
それまでの体験による認識(悟り、幸取=さとり)・・・
何かを観察して感じ取り、
それが自分の人生での体験やったりもするんやけど、
そして・・・その上で自分が思う=認識って言うのんは、
その、時点、時点の事でしかない。
そやからそれは、目先の観察でしかないとも言い得る事やし、
そやからそれは、
(霊的に)幼稚なら、幼稚な認識しか出来ん。

それは、相対的に、
“上”の心(靈)が発現していないって事でもあるな。

そやから、
心(靈)の成長過程、
霊的進化の過程を考えれば、
動物から人(日止、霊止)への進化過程でもあると感じられる、
集合意識から“個”の意識に成り、
それは、
独り神になる過程で有り、
そやからこそ地球人は、
自分達のより良いカタチを求め始める為、
動物には無い幸福の概念を持ちだした。

余談やけど・・・何回も言うけど・・・
今、幸福の概念はとても間違ってると思うけれども・・・
それは先生やKellyさん・・・そして一部の人(日止、霊止)の、
物の見方でしかないとは・・・思うんやけど・・・

話を戻して、

ほんでから、自分達より“上”とか“下”の概念、
それは、
霊的な“上”“下”の概念を感じ取り、
それが、
自分より“上”でもある、
神さんや創造主の概念やったりもする。
ほんでから、
自分達より“下”の存在や、
自分達を堕落させようとする悪魔の概念を、
感じ取ったりする。

今言うた概念・・・そやからそれは、
自我の確立=固定化の過程やからこそ、
認識出来た・・・認識し始めた、
まだまだ幼稚な概念でもあると思えるやん。

それが良く判っていない段階の人が思う事そのものが、
この、上つ巻 第二十帖の冒頭の言葉でもあるな。

そやから先生の言葉、
前のブログで一番最初に先生から聞いた言葉でもある、

“事象を観察する視野が狭い”・・・

先生は、
今言うたみたいに色々苦しみ、
その後、色々な体験をして、又苦しみ・・・
そう言う境遇で色々考えたからこそ“上”からの通信もあり、
様々な霊縁もあり、
そやからこそ今の先生は、今の認識を得たとも言える。
そやからローム太霊さんは18歳の先生に、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん。
・・・って言うた。
(ローム太霊 参照)

そやから・・・
現津(あきつ)=観察され得る事象の観察の程度・・・それが、
低い認識の上での観察やったなら、
なんでも都合よく考えたり間違えて考えたりする・・・
ほんでからそこに付け込むのが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)でもあるやんか。

そやから・・・
自分の境遇とか不幸な事象とか因縁とか・・・
すべてに理由がある事=必然である事=霊縁である事=“上”の思惑がある事。
それらすべてが自分自身の霊的成長の為の、
苦難と試練であり、
S会=紫光会の交霊会で使われた言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない”・・・でもあるけれど、
その事を理解出来る人はとても少ない。
そやから目先の苦難と戦わず、
そやからこそ、自分がイヤになり、自分の人生がイヤになり・・・
逃げる事ばかり考えてる人は意外に多い。
大体そう言う人がする事って言うのんはパターンがあり、
例えば、酒飲むとか美食するとか目先の快楽で苦痛を忘れたいと思う。
ほんでからそう言う人は・・・もう自分は死んでもエエわ・・・とか、
強がるんやけど・・・
それも自我の肥大ゆえの言葉であり、
ほんまは自分自身の事を憂いて、
左往右往して・・・
そやけどそれは、
自省(胸の磁性“十”)して無い心(靈)の動きでもある。

そやからそう言う人、それも・・・
今言うた事を理解出来ない事そのものが、
霊的成長度が低い認識ゆえの、
現津(あきつ)=観察され得る事象の、
観察と認識でもあり、
自分に甘いとかも自分で判断できず、
そやから、自分が“かわいそう”・・・とか、
そんな発想くらいしか出来ん。

それは、恨みの連鎖とか試練とか・・・
それを低い認識で表現すれば、不幸な因縁とかって言い方になるんやけど、
それらが、
自分達の贖わなければならない事とか、自分の認識の拡大の為の事象であり、
それを通じ、
自分の霊的成長を果す=認識(悟り、幸取=さとり)の拡大=オーラの拡大。
その認識が有れば、例えば・・・

騙されたら騙し返す、
奪われたら奪う、
殺されたら殺す・・・それをせんと自分が損やと思う。
そんな事をせんようになる。

そやから、
その発想そのものが、
右=砌(みぎり)=肝=“いきり立つ心(奴と心)”でもあり、
その人の心(靈)の発現は相対的に日足(ひたり)が無く、
“いきり立つ心(奴と心)”しかない発想でもあり、
それも自我の確立=固定化で起きる自我の肥大であり、
自己奉仕者の発想でもある。

そやけど・・・今言うた事は極端な話でもあるし、
こんな事は考えられへん・・・そう受け取られるのが、
平均的地球人の霊的成長度でもある。

今言うた、
殺されても相手を恨まないなんてのは、
今の地球人の心(靈)の進化過程では、考えられへん非常識な事やろけど、
自分は、自分と言う存在は、
現時点、肉体を纏っているだけであり、
肉体を纏っているからこそ様々な体験があり、
その機会を与えられた・・・
或は、自分で選択してここに生まれた。
そして地球は、
恨みの連鎖の想念でいっぱいであり、
自分が因縁を背負っている事そのものが、
その恨みの念を発振している低い心(靈)の発現の存在の認識を、
変えて行く事に繋がる・・・

それもある意味、生きている事の意味でもあるんやけど・・・

・・・そんな発想は出来へんやろな。

只々、
自分の損得しか考えへん心(靈)の発現の程度の存在が、圧倒的多数の星やし・・・

そやから・・・もう一度言えば、
目先の不幸と感じる事象・・・それもある意味、
低い心(靈)の発現の存在の認識を変えて行く事に繋がるのやから、
それは、奉仕になり、
心(靈)が“上”に向かう人の場(フィールド)を構成する事になり、
恨みの連鎖を解消するという結果に繋がり、
そやからこそ、
それを済ました人(日止、霊止)の居てる場(フィールド)は、
その場(フィールド)に居てるすべての存在の霊的成長だけを、
望む存在になり、それだけになり、
そう言う心(靈)の存在が構成する場(フィールド)は、
当然の事ながら、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか由来の、
行動=創造は、有り得へん。
そう言う世界を創る事そのものが、
アセンション=事象の高次元化=それを構成する人の心(靈)の動きの変容・・・
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現由来の創造=発振、発信の結果・・・
呼吸、息吹、気吹、生吹、って言ってもエエ事やし、
それは、
自分の霊的成長度による観察由来の事象の創造って事になる。
程度の低い人は今までと同じ場(フィールド)に移行し、
“上”の心(靈)を発現した人は、
現状と違う世界を事象として感じて行く。

それがアセンションでもある。

そやから分ける事・・・その為に今、
低い心(靈)の発現で何かをなした人は、
失敗して自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、
自分自身に対する認識を変えていく・・・
それは生きている死んでいるに関わらずって事なんやけど、
これも受け入れがたい認識(悟り、幸取=さとり)やろな。


そやから、
善悪の認識も、それを考える人自身の認識が幼い・・・言い換えれば、
認識(悟り、幸取=さとり)が幼い=霊的成長してへんと、
自分の目先の損得とか、目先の善悪しか解らへん。

そやからこそ、次の言葉のように言うてる。

“神には人のいふ善も悪もないものぞ。”

善悪の認識も、
その人自身のものでしかなく、
目先の“悪”を試練と捉えられへん人は多い。
因縁解消とか悪霊払いとか浄霊とか・・・
その発想自体がとても幼いって事を知らんならん。
そして、
その言葉を利用している自己奉仕者はとても多い。
話にならんくらい多い。

ほんでから、
太陽凝視に対してもアセンションに対しても、
そう言うものの見方しかしていない人も圧倒的に多い。
太陽凝視には何とかの効果があります・・・とか、
アセンションすると不安の無い世界になります・・・とか、
まるで、
只無駄に金を使わせる通販番組や、
たいして効果の無いお茶のCMみたいな言葉の使い回しをする。

そやから、これも先生と話した事、

幼い霊的成長度の人ほど、
感覚優先の物の見方をしたり、
現象だけをありがたがり、
結果、目先の簡単な事しか思わへん事になる。

そやけど今のこの世界は、
そう言う心(靈)の発現の低い人ばかりの世界とも言い得る。
そやからこそ、今、
形骸の何かしか目立たへんともいえる。

そして・・・価値のある何か・・・
太陽凝視やアセンションの意味と意義・・・

今まで、
人の低い心(靈)の発現で価値がとんでもなく間違った物になった事は沢山ある。
こんな事は何回も言うた事なんやけど・・・
宗教、ヨガ、政治、天皇制、オーラソーマ、宝石(結晶化を示す事)・・・etc

せめて・・・太陽凝視くらい、
本当の事を知って欲しいって言うのんが、
前のブログとこのブログの目的でもある。
それは・・・先生が最近憂いている事でもある。
ほんでから先生がパソコンを始めた動機は、
“上”から通信を受け、
一部の人に先生の太陽凝視に対する認識(悟り、幸取=さとり)を伝える。
多分その為だった・・・楽屋落ち的言い方やけど・・・

話を戻して・・・

“よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。”

今Kellyさんが言うた認識の低い“悪”・・・
それは形骸の善悪ではなく、
すべての事象は自分の在り方を示す・・・
これも先生の認識で、
只、目先の損得とか自分が害されたとか・・・
そう言う思い方に問題が有る事を示す事でもあり、
心(靈)が“上”に向かっているなら、
自分に起きた事すべてが自分を結果として高めて行く事に繫がって行く事を、
理解し、
そして最終的には自分は神格化する。
その為に今、
低い事象から学習しているって事を認識(悟り、幸取=さとり)とする。
この言葉は、
そうなってくれって事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“表の裏は裏、
裏の表は表ぞと申してあろうが、
一枚の紙にも裏表、
ちと誤まれば分らんことになるぞ、”

これも、
形骸の見せ掛けの概念に囚われるな。
ほんまの霊的成長って言うのんは、自分の心(靈)の動きの観察をして、
その中に、
“悪”=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と、
“善”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出し、
時間の進行と共に思い考え発振し=呼吸、息吹、気吹、生吹、して、
創造=現津(あきつ)=観察され得る事象の中での自分の在り方を、
自分が・・・自分自身が見出す。
それが“上”の思惑に沿った物なら、
不幸な事象はなくなり、
それを“上”は人(日止、霊止)に託し期待しているからこそ、
今苦難を体験せんならん。

そやから次の言葉、

“神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、”

これも、
天意を受けた人、上の思惑を受信した人(日止、霊止)を指す言葉やけど、
いきなり地球人はそんな進化過程に入らん。
まず、“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)の意味から考えて、
自分たちの心(靈)の動きが、
現津(あきつ)=観察され得る事象になる事を知らんならん。
そやからこそ、
今もこれからも、
醜い事は起きていく。

そしてそれを体験し、
そして自省(胸の磁性“十”)し、
自分の在り方を考える人(日止、霊止)であるなら、
次の世界の創造を託される。
何回も言うけど・・・それがアセンションの意義でもある。

そしてその世界では、

“そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、
理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。”

さっきも言うた天意が伝わる事、
“上”からの通信をストレートに受け、
それが自分の思想になるからこそ、
“理屈のない世”になり、
今現在、
理屈だけで形骸の“善悪”の概念に囚われてて、
何も、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を、
自分の心(靈)の動き=発振、発信にしてないからこそ、
こういう言われ方をすると思えるやんか。

そやからこれは、
今の世界に比べ、相対的なものの言い様でもあるな。

これはやってエエ事でっせ~とか、
あきまへんで~とか、
そう言う心(靈)の動きは自分に許してはあきまへんで~とか・・・
そやからそれは、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の事でんねん。
そやから、
こうすると霊的成長しまっせ~とか、
霊的成長が・・・それが生きてはる目的でっせ~とか・・・
そんな事は、
次の世界・・・そこに居てる誰もが、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)になる世界になるって事でんねん。
そんな事を理屈で示さんならん世界は、
この程度の低い・・・
アホが活躍する世界って事でんねん。
それは、
この世界そのものが霊的にとても低い世界やからって事でんねん。


ほんでから次の言葉も、
発振、発信=“言挙げ”で、
それが出来て無い“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”
そう言う意味があると思えるやんか。

“言挙げせぬ国とはその事ぞ、”

理屈だけ、形骸の事だけ、
外側(外国と幽界)にしか善悪を見出さん人が多い世界、
自分の心(靈)の動きに、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と“善(神格化の方向性と智性の受信)”を、
見出さん事そのものが、
外側(外国と幽界)の事象の観察でしかなく、
それは、
自分の心(靈)の動きにより、
現津(あきつ)=観察され得る事象が形成され、
そしてそれを認識する・・・
それが又、生命(生きる使命=存在理由)って事でも有るんやろけど・・・
只々その認識(悟り、幸取=さとり)が無いのが、
今の地球人の心(靈)の段階。
そう言う事でんねん。

そやから本当に目覚めたって思える人は、
ほんまの事とかほんまの幸福とかほんまの価値のある事って言うのんは、
自分の中にしかなく、
戦うべき“悪”や敵・・・霊的成長を阻む何かって言うのんは自分の中に存在し、
今言うた事を、
それを、
自分の外側(外国と幽界)に求めたり、
認識したり・・・
その事そのものが、
認識の低い=“一”=智性=1番目のオーラの小さい段階って事なんやけど・・・

今言うた事を思いつつ次の文章を読んで欲しいものやな。

“理屈は外国のやり方、
神の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、
それが神の真の民ぞ。”

ほんでから次の言葉、

“足許から鳥が立つぞ、
十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。”

この、
“足許から鳥が立つ”・・・この言葉は諺(ことわざ)で、
その意味は、
身近で思いもよらなかったことが起こる事・・・とか、
急に思い付いたように慌てて物事をし始める様子の事・・・も、
言い表すようで、
似た意味の言葉としては、
“寝耳に水”“晴天の霹靂”“藪から棒”・・・とかが、あるやん。

そやからこそそれは、
“用意なされよ、
上下にグレンと引繰り返るぞ。”

・・・でも有り、それはこの言葉に掛かる。

“十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、”

“十理(トリ)”・・・この言葉の解釈としては、
胸の磁性“十”と、
ことわり=理・・・そしてこの字は、
“王”と“里”で、
“里”って言う字は、
“田”=四つの場(フィールド)・・・大脳でも有り、
“思う”から心(靈)をはずした字でもあり、
そしてそれは、
“一靈四魂”をも示すって言うのんが先生の説でもある。

ほんでから田の“下”に、
“土”=2~3番目のオーラを構成する意味での肉体がある。
それは“日月神示”内の表現の“江戸と尾張”・・・
腹の水=“江”が、
“戸”・・・天の岩屋戸の“戸”で隔てられ、
天の岩屋戸が開かんと=天意を受け、それは、
心(靈)の発現が“上”に行く。

補足として、

岩屋は、
山=脳と、
帯電するミネラル=“石”・・・“石屋の仕組み”の“石”と、
それを隔てられてる戸・・・
現時点、
次の心(靈)の発現の為に強化されていると思える、
マニピューラチャクラ・・・
そやから腹の磁性やろし・・・
それは多分、横隔膜って言うのんが先生の解釈でもある。
その腹の段階の右往左往と左往右往=サイクロトロンの構造を、
その発振、発信を、
“上”に引き上げるのは、
シンクロトロンの構造でもある胸の磁性“十”であり、
その時の心(靈)の動きが、
心(靈)が茲(やしないそだてる、いつくしみ)故の、
慈しみ悲しみ愛しむでもある。

そやからその段階に入る・・・

それ以前の腹の段階の心(靈)の発現が、
自我の確立=固定化でも有り、
特に、右往左往=肝=砌(みぎり)中心の心(靈)の発現は、
それによる行動=創造は、
右=砌(みぎり)回転になるし、
それを“日月神示”では、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”= 渦巻き 右 回転
と、称されていると思えるやんか。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り 


そやから、上つ巻 二十帖の言葉、
“十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、”

胸の磁性“十”由来の発想をして、
現時点と違う認識を持って、
間に合ってくれって事でもある。
ほんでから又、補足として言うて於けば、
胸の磁性の心(靈)の動きをを表した言葉は、
“慈悲”と“慈愛”。

そやから“十理(トリ)”は、
動物より相対的に、
“上”の磁性でもある、両手の磁性を獲得した・・・
そやから、
人(日止、霊止)としては、
動物より相対的に“上”=神の思惑を受信出来、
それを、
認識(悟り、幸取=さとり)に出来る。
そやから簡単に言えば、人と動物は違うって事でんねん。
当たり前のチョ~簡潔な説明何やけど・・・
それを意識して欲しいもんやな。

ほんでから次の言葉は、
現状、
砌(みぎり)の“行”ばかりが注目されてる今の世界を指して、
そして自己奉仕者も指して=自分の為にしか“力”を使わん人を指して、
次のように言われてると思えるやんか。

“上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、
岩戸開けるぞ、
夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、”

この、

“早う身魂のせんだくして呉れよ、”

これも、自己観察して、
自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を、
よく認識して、
在るべき自分をこれからどう確立して行くのか?
・・・を、問うてる言葉やと思うし、
それは、
自分の思想になるからこそ、
“岩戸開けるぞ、”・・・やと思えるやんか。

そしてこれから、形骸の価値感で自分の力を示した人は、
“上の者 下に、”・・・に、なり、
ほんまに霊的成長の為にエネルギーを贖い・・・
そう言う生活をして来た人は、
心(靈)の糧を得てる時は物や金は入らへん・・・
それは相対的にビンボーになる。
そやから、人が獲得して認識(悟り、幸取=さとり)して行く何かって言うのんは、
砌(みぎり)の“行”か、
日足(ひたり)の“行”か・・・
そのどちらかしか得られへんのがこの世界やからこそ、
そう言う相対的なものの言い様で、

“落ちぶれた民 上になるぞ、”

・・・でも有り、
これから・・・今も起きてるけど、
今、形骸の価値感で構成されたこの世界で、
それに準じつつ力を示した人は、
左往右往に入り、失敗し、
それに対し、
現時点あまり力を示して無い人が、
今後、霊的生長の為に、ほんまの人の価値とも言える事の為に、
力を示すようになる。

・・・それを暗示してる言葉やな。

そやから今後、
色々慌てるような事象は増える。
今かてとても多い・・・
毎日のように訳の判らん事ばかり起きる。
そやけど、訳が解らへんって言うのんは、
それは、
霊的干渉って事を知らんからでもあり、
そやからこそ、上つ巻 二十帖の中で言われた言葉、

“こんな乱れた世”
“表の裏は裏、
裏の表は表ぞ”
“道理分らずに理屈ばかり申してゐる”

・・・でもあるな。

ほんでから次の言葉、

“加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。”

この中の言葉、
“加実”は、
前にも言うたからそのままコピペしときまんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈 参照)
          
            


“加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、”

“加実”は、
場(フィールド)を示す(囗)くにがまえ・・・ただ単に口でもエエやろけど、
その日足(ひたり)に“力”・・・
さっきから何回も言ったカタカナのカと“力”、
創造主の思惑の顕現を示す字・・・
そやからこそ、“実”・・・
宀(うかんむり)に、
“三”=三つのオーラ・・・人(日止、霊止)のオーラの構成に、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
この場合宀(うかんむり)=頭って事でそう言う思想って言うのんか、
それは、
神さんの思惑を受信した様子が“加実”って事やと思いまんねん。
そやからこそそれは、
“世界の王になる”・・・そうならんとアカンって事やねん。
いうまでもない事やけど、“王”って言うのんは、
“三”を(たて棒、コン)で繋いだ様子で、
それは自省(胸の磁性“十”)の行もして、
“一”=智性=1番目のオーラを構成している様でんねん。


・・・以上でんねん。・・・ほんでから、

“加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。”

の、“千”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”でもある。
それは“加実の申すこと”=“上”からの発振、発信で、
天意を受けた人を指す言葉でもあり、
そやからこそそれは、
今後色んな事が起きるやろけど・・・
今よりもっと醜い事象でいっぱいになるやろけど・・・

それは右往左往で起きるべくして起きる・・・

そして、
次の世界に位置する人(日止、霊止)は、
(心(靈)の発現の段階で次の世界に位置する資格を獲得するという意味で)
なるべくしてなるからこそ、

“一つもちがはんぞ。”
・・・って言われてると思えるやんか。

今日はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”上つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、上つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、
この仕組 分りてはならず分らねばならず、
なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、
知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。
外国がいくら攻めて来るとも、
世界の神々がいくら寄せて来るとも、
ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、
神は心配ないなれど、
ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、
掃除すれば何事も、
ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。
今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。
洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、
神が臣民にお礼申すから、
一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。
因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、
早う改心せよ、
おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。
神は帳面につける様に何事も見通しざから、
神の帳面 間違ひないから、
神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。
初めつらいなれどだんだん分りて来るから、
よく言うこと聞いて呉れよ、
外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、
元の神の神力出して世を建てるから、
臣民の心も同じぞ、
江戸も昔のやうになるぞ、
神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、
今に元のままにせなならんことになるぞ。
富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、
富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。
富士は神の山ざ、
いつ火を噴くか分らんぞ、
神は噴かん積りでも、
いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、
それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、
神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
まつりまつり結構。
六月の二十八日、ひつ九のか三。



冒頭の言葉、


“世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、
この仕組 分りてはならず分らねばならず、
なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、
知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。”

この文の中でも、特に、

“この仕組 分りてはならず分らねばならず、”


これは、
“世の元の大神(かみ)の仕組といふもの”・・・に掛かる言葉やけど、
その言葉が指してる意味って言うのは、
言葉で教えても何もならんって言う意味の事やと思える。

それは、言葉だけ知ってても、
この世界の色んな貴い事って言うのんは、
どんどん形骸になってるからこそ、こんな言われ方をするって事でもあるし、

話が逸れるけど・・・只、言葉だけ聴いたとしても、
その言葉の意味を知っていたとしても、
それは、
その事自体は単なる知識でしかなくって、
それは又、
知恵と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の違いでもある。
もっと下世話な言い方をすれば、
知識を知ってても自分の生き方に活かせないとか、
結果それは、
自分の持ってる知識をどう扱うのか?・・・の、
心(靈)の発現が無く、
それは、智性を持ってない。
そやから・・・知識だけ知っててそれを自分の生き方に生かせない人は、
知識の羅列された何か、例えば、
本やパソコンや・・・そんなもんに等しい。
しかしそれは、
神の子としての生命(生きる使命=存在理由)では無い。

そやから、
知識を指すのに妥当な知恵って言葉は、
単なる“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)で、しかない。

そやからそれは“力”をどう扱うべきなのか?
今の話、自分が得た知識をどう使うべきなのか?
自分がその知識・・・
どう“力”を使って行く事が、
創造の法則性に則って(のっとって)いる事なのか?

それを決めていくのはその人の心(靈)の在り方でしかない。
そして、智性由来の自分の考えでしかない。

ほんでからアセンション後の世界は、
そう言う人(日止、霊止)だけに成るとも言い得る。

そやからこそ・・・

“この仕組 分りてはならず分らねばならず、”

こんな言われ方をすると思える・・・
それは、
体得して認識してくれって事でんねん。

そやからそれは・・・今までも何度も言うた事やけど、

神性を発現した、
(平均的地球人より相対的に)霊的成長を果した人(日止、霊止)が、
認識する事。

智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)と、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)としての知恵・・・
その両方があるけれど、
その違いを認識出来る人はてんで少ない世界が、
この世界でもある。

自分自身の霊的成長=認識(悟り、幸取=さとり)の拡大って言うのんは、
苦しんで悩んで自省して・・・“観自在”“直日(なおひ)”・・・
それが有って初めて、
自我から“慈悲”と“慈愛”・・・
胸の磁性“十”ゆえの心(靈)の発現をする。
そうなれば、
霊的成長度の低い人=自己奉仕者ではなくなるし、
自己奉仕者由来の考えでもある、目先の損得とか、
自分の利益の為に誰かを害してもそれを優先するとか・・・
そんな事を自分自身に許さん様になる。
それが、
“慈悲”と“慈愛”ゆえの、
自分に対する“厳しさ”でもあり、
他者に対する尊厳でも有り、
その心(靈)の確立が、
自分の低い欲望を制御出来るとも言い得る。

そして、
野放図とも言い得る人の低い心(靈)の発現由来の創造が、
今の世界やし、
そやからこそそれは、よく“日月神示”の表現として出てくる言葉、
“グレン”と、ひっくり返り、
壊れるって結果になる。

そやから簡単に纏めれば・・・
霊的成長を果した人(日止、霊止)は、
自我より“上”の“慈悲”と“慈愛”ゆえの行動をする。

自分の心(靈)が、
ほとんど自我しか発現していない人は、自分の事しか考えん。
或は、自分の身近な人の事しか考えん。
そやから自分達の(低い概念の)幸福の為に、
誰かを害したりする事は平気でもある。
それは自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)って事でもある。

そして・・・
自分達の利益の為に本当に価値の有る事を、
勝手に利用するからこそ、
宗教や政治やヨガや・・・
霊能力や主護霊の存在の意義と意味や、
オーラやチャクラや・・・
太陽凝視や・・・アセンションの意味する何かとか・・・
すべて、
低い心(靈)の発現の人がその価値を低いものにして、
広め、
所詮そんなもんなんやって沢山の人に思わせる・・・
それは、その事自体が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現やと先生は思うてる。

そやから・・・もう一度繰り返すけど、
知識を含む、
あらゆる“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分が得たなら、
それをどう扱うべきなのかを考える。
それは、
自分、又は自分の身近な周囲の人の為の利益=低い幸福の概念。
自分と他者・・・あらゆる存在の霊的成長の為か=(相対的に)高い幸福の概念。
それを思うべきでもあるやんか。
その事を深く考えん人ばかりの世界やからこそ、
この世界は失敗の世界でもある。

そやからそれは、
智性由来の“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)の使い方を、
表す言葉でもある、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)となる。

知恵と智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の言葉の意味の違いは、
そこにあるし、
その違いを認識しなければいけない・・・
その為に知恵と智慧の言葉の違いを教えられてるのは、
その理由って言うのんは・・・
地球人は・・・何回も言うたけど平均的に自己奉仕者で、
そしてその人達は、
自我より“上”の心(靈)の発現の程度が低いから、
自分達自身が、
自分達自身を観察する=自分の行動や心(靈)の動きを観察するに当たっても、
自己奉仕者って認識があまり無い。
その人の心(靈)は自我が大半を占めてるからでもある。
そやからこそそれ以上、自我以上の認識は無い。
その事自体が、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現の程度が足らん事を、
示してるし、
自分に対しての厳しさも無いから、
目先の損得の為に他者を利用する事などなんとも思わない。
最近のニュースは、そんな人がやってきた事を示すものばっかりやし、
それは一言で言えば・・・自分に甘いって言える事やな。
この間のニュースの・・・一時隆盛を極めた、
経済で“力”を示した有名な人の第二審も・・・
裁判官から反省したところがまったく見られないような事を言われ、
まさにそんな感じやった。(ホ○○○○の事でんねん。)

そやから・・・地球人が平均的に自己奉仕者が多くなった。
そやからこそそれは右往左往でも有り、
体験せんならん事でも有り、
そして右往左往の失敗を体験して、
自省して自分の教訓にする。
その段階の事を今やっていると思えるし、
今その事がピークでも有り、
そしてこれから失敗を体験する。
それはアセンションと認識されてる事象に伴う変化でも有り、
そしてそれを通して、
自省(胸の磁性“十”)し、
そやからこそアセンション後の不安の無い世界を創造する。
創造出来得るって事でんねん。
そやから、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)・・・
それは体験から得られた、
そして自分がエネルギーを贖いその上で、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を得た上での、
認識で、
それこそが自分にとって、一番貴い何かって事でもあり、
それは、
“一”=1番目のオーラでしかないって話を先生としたし、
その事そのものが又、先生の認識でもある。

それは・・・34年半の太陽凝視と、
何年やってはるか知らんけど、
骨の結晶化の為の電気行と、
そして、Kellyさんのよう知らん事・・・それは・・・
先生自身のプライベートな体験・・・
それは、
肉体を持っている上での因縁を、
贖った事からこそ、
先生が得た先生の認識(悟り、幸取=さとり)・・・

その認識の一部が、
本当の幸福の意味って言うのんは、
神格化であり、
その事そのものが、
生命・・・生きる使命=存在理由でもあるって言うのんが、
先生自身の認識(悟り、幸取=さとり)・・・でもある。

こんな事はいくら(言葉としての)知識を知ったとしても、
得られない認識でもあるやん。

そして、先生の認識・・・
霊的成長の仕組みとも言い得る右往左往と左往右往・・・
それは、“日月神示”の表現ならば、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の、
右往左往と左往右往でもある。
こんな見方が出来るのも、
今まで先生自身が、
右往左往と左往右往して沢山苦しんだ・・・
そして・・・認識を得たからでもある。
そやから、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往、
その事そのものが霊的成長の為の法則性でもあり、
それは創造主の創造の始まりが、
極性を創った=認識した・・・
それに由来する事でもあるって先生は言うてはる。

今言うた、“極性を創った=認識した・・・”

この言葉自体がちょっと解り難い言い方やけど、
それに付いては、先生が、
もう一本別ブログを立ち上げてから細かく説明するつもりでんねん。

そやから、今言いたい事は、
体験して失敗して、
砌(みぎり)の“行”と日足(ひたり)の“行”をして、
それを自分自身が観察して、
自分自身の認識(悟り、幸取=さとり)の拡大=オーラが大きくなって行く事そのもの・・・
その事を先生は霊眼を発現してた時に認識した。
その事を根拠に先生自身は、
“行”やってはるって事やし、
それは、太陽凝視を教えてくれたKさんも、
そう言う認識を持っていたからこそ、
自分の子供達・・・11人の子供達に、
太陽凝視と電気行をさせた。

そして・・・又、余談やけど、
もっと昔から人は自己奉仕者になって来た傾向が有るんやけど・・・
その判りやすい一例が、
聖徳太子が現れた事・・・豪族が天皇を自分達の権力の為に利用するようになった。
その時点で、
天意を受け民衆を指導し率いて行くべき筈の、
真の天皇制は、崩れてしもたって先生は思うてる。
そして又々、余談やけど・・・
その頃にあった価値のある文献等は、
大化の改新の時に焼けてしもたって先生は思うてる。
その中の価値のある預言書とも言えるものが、
暦(こよみ)=来る世を見る、来世見(観)・・・
そう言うものが有った事、
その事を先生は“上”から通信を受けてる。
そして他にも、肉体のチャクラに相当する記録や、
人(日止、霊止)の肉体の霊的干渉(電磁誘導)のラインでもある、
経絡図譜に相当する物も、それ以前には有ったって先生は思うてる。

それらの事は、
人の霊的成長を示す重要な法則性が示されている物やから、
日本にも必ずあった筈・・・そやからその一部が、今、
古神道の鎮魂法として残っている。
しかし、それを日本から無くする事が、
又、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあった。
そやからそれを実行させるには・・・
要は、その具体的な方法って事なんやけど、
大化の改新で燃やされた事自体が、
人の低い心(靈)の発現を煽れば、
簡単に事を済ます事が出来る・・・その事を、
人の霊的進化を望まない存在は知っている・・・熟知している。

それは・・・そのパターンは今かてそうやねん。

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
傀儡の人の言葉は、
みんな幸せになりましょう・・・とか、
美しくなりましょう・・・とか、
健康になりましょう・・・とか・・・
今までやってきた事を振り返る事をさせない。

そして先生が憂いている事・・・それは、
太陽凝視にはこんな効果があります・・・とか、
アセンションすると不安の無い時代が来ます・・・とか・・・

そう言う甘い言葉。

それは大体、人を落とし入れようとする存在は、
甘い囁きで人を唆す(そそのかす)。
そして、
感覚優先の物の見方をさせ甘い夢を見させる。

アセンションっていうのは、
人の生き死にに関わる事やし、
その重要性を考えさせん・・・
ほんでから太陽凝視は、
沢山の苦痛を贖わんと本当に価値のある通信は受けん。

そやから、
(霊的に低い)甘い人ほど、そんな事は考えん。
思いたくも無い。

この事も何回もいうけれど・・・敢えて指摘させてもらいまんねん。

・・・そやから、
地球自体が自己奉仕者の活躍する場(フィールド)になったのは、
もう随分前からの事で、
ほんでからそのころから地球そのものが右往左往の段階に入り、
その結果が今の世界でもあり、
それは、
低級な欲の振動で出来た世界でもあり、
恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいの世界でもあり、
低い心(靈)の発現の段階の人が活躍する=“力”を示す世界でも有り、
そして・・・
形骸の価値感で行動する人が圧倒的多数の場(フィールド)になってしもてる。

しかし・・・余談やった。

上つ巻 第二十帖の解釈からとんでもなく話が逸れたけど、
“日月神示”で言うてる事は、
人の形骸の認識を戒めてる事も多いから、敢えて言うときまんねん。

ほんでから、前後するけど、

“世の元の大神(かみ)の仕組”・・・

この言葉の一つ一つを解析していくと、
世=事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事を思わせる。

それは“元の大神(かみ)”・・・
“元”は、二と儿部(じんぶ、にんにょう)、
肉体のオーラと時間の進行を示す字でもある。
儿部(じんぶ、にんにょう)は、人の歩く様に象る部首でんねん。
ここまで前のブログとこのブログを読んでくれはった人なら、
この言葉の意味は、すぐ理解出来ると思いまんねん。

ほんでから“大神(かみ)”
大は人の発振、発信する様子。
それは人(日止、霊止)+ 胸の磁性“十”
そして神=示すへんに“呂”。
それはエネルギーの回転で発振、発信する様子。
そして人(日止、霊止)は肉体を持っているやんか。
それは縦の磁性=(たて棒、コン)と、
頭、胸、腹の磁性、“一”“二”“三”(ひふみ)を持っている。
そしてそれを繋ぎ合わせた字が“王”で、
二と三の間のエネルギーの回転を示すのが、
“玉(ぎょく)”の中の点、
ローレンツ力でもある。
そして、
腹の心(靈)の発現は、
大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、
その時の心(靈)の発現が“慈悲”と“慈愛”やし、
ほんでから体質にもよるんやけど、
その時に起こりやすい変化が、肺の経絡を病む、
ゲホゲホゴホン、
ズルズルズル~~~でもあるやんか。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” その二~四 参照)

そやからこそ、
腹の段階の心(靈)の発現由来の観察を示す言葉が、
次の言葉、

“外国がいくら攻めて来るとも、
世界の神々がいくら寄せて来るとも、
ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、
神は心配ないなれど、
ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、
掃除すれば何事も、
ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。”

この文の中の“外国”は、
ちょうど戦争が起きてる時にこの文章が書かれたからって事もあるやろけど、
やはりKellyさん的に感じるのは、
外側(外国と幽界)の、
現津(あきつ)=観察され得る事象の観察って事でしか無いと思う。
それは簡単に一言で言えば、
自己観察が足らん。
自分の心(靈)の動きを自分で分析出来ん。

自分の目先の、
外側(外国と幽界)の事ばかり意識している心(靈)の状態でもある。

そやから外側(外国と幽界)の観察をしてる段階って言うのんは、
自我の確立=固定化の段階の霊的成長過程で、
それは動物から人(日止、霊止)になる過程でもある。
そして人(日止、霊止)は、
段々“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持ち始める。
その時に起きる肉体的な変化は、
前足が両手になる。
両腕と胸を構成する骨で腹のサイクロトロンの段階から、
シンクロトロンに移行するとも言い得る。
それは前にも言うたけど、“日月神示”内の言葉であれば、
“江戸と尾張”が腹の磁性で、
○ 九 十(マコト)の“十”は、
胸の磁性“十”を表す。

それは頭と尾骨の磁性が、縦の磁性で、
両腕の磁性が、横の磁性・・・
そやからそれは“十”と表現された。
そやからこそそれは、心(靈)の発現が段々“上”に向かうとも言い表す事が出来、
そしてそれは、
円形粒子加速器の構造が、車輪を表すチャクラって言葉になった。
それが先生のチャクラに対する解釈でもある。
そしてこの事は、
生きている肉体にしか生体内電流が観測出来ない事、
これがとても重要な根拠になってる。

そやからこそ先生独自の概念でもある事。
○=荷電粒子の場(フィールド)=心(靈)。
それを構成するのは縦の磁性と横の磁性。
心(靈)の発現は、
“上”から降り注がれる(瀧原宮の命名に示される滝の如くの様に・・・)荷電粒子を、
肉体の磁性=ローレンツ力で取り込んで、
その事そのものが、
○=心(靈)の創造になって行く。
但しそれは、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の場合で、
もっと下等な生物の心(靈)の発現と、
その下等生物の肉体の構造が持つ電気特性を、
先生は、三本目のブログで説明するらしい・・・
それは、
なんでも自分達より“下”から理解せんと、
自分達の心(靈)の発現がよう解らんからからでもある。
ほんでからそのブログは、秋くらいから始まる・・・そのつもりで今、
先生は文章を作ってはる様やねん。
さっきも言うた楽屋落ち的情報やけど・・・

ほんでから、

“ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、”


“ぎりぎりになりたら”・・・敢えて説明する事では無いな。
その時期が来て文明が崩壊して・・・って事やな。
それは次の言葉に掛かり、
“神の元の神の神力出して”・・・くどい表現のように見えるけど、
“神の”と、
“元の神の神力”には、
それぞれ意味があり、
これはさっきも言うたけど、
“元”=二と儿部(じんぶ、にんにょう)・・・肉体を持った人(日止、霊止)の、
時間の進行に伴う創造を示し、
そやから“元の神”は、
よいカタチを創造する事を人(日止、霊止)に託した、
“上”の意思でもあると思えるし、
“神力出して”は、
身魂掃除、身魂洗濯=自己観察して、
自分の心(靈)の中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
見出し、区別し、
その方向性を自分で決定する事と、
そして身魂磨き=結晶化。
それが出来て無いと出来ない事でもある。
そやから次の言葉、

“岩戸開いて一つの王で治める”
戸の“上”の岩。
岩は、
山=脳と腹の水の中の帯電するミネラルをさす“石”。
それが固まって=結晶化、
そして水で“上”の意思を受信して脳で認識する。
(電磁波は水に吸収される性質を持つ、前のブログを参照の事)
そうやって人(日止、霊止)は完成されていく事、
それが、
“一つの王で治める”・・・
一人の“王”が治めるって事ではなく、
自分の心(靈)の在り方をよく考える人=霊的成長を果した人(日止、霊止)は、
現状より良いカタチの創造しかしないし・・・
自分の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分に許さない。
そう言う人の世界がアセンション後の世界って事でもある。
そやけど・・・認識の程度の低い人は、
この言葉を見て、
独裁者が現れるとか、たった一人の王様が政治を治めるとか・・・
そんな事しか思わんやろけど・・・
まあエエわ・・・そんな事は・・・

今まで言うた事、そやからこそ次の言葉、

“神のまことの世に致す”

霊的成長を果した人(日止、霊止)が創造する世界って事でんねん。
真実=真固止の認識を得られ、
それしか無い世界でんねん。
そやから、
現状の世界は、
チャクラの覚醒が低い段階の人の創造した、
なんでも形骸の価値感で動いてて、
形骸の“力”で出来上がったとも言い得る、
失敗の世界を、
今、観察させられてる。
それが、現津(あきつ)=観察され得る事象でも有り、
そこから得られる認識は、
平均的に地球人は、
腹の段階のチャクラ、マニピューラチャクラまでの段階が機能している。
そやから自我の確立=固定化でもあるし、自己奉仕者が多い世界でもあるし、
それは“日月神示”の言葉の、
腹の水と尾骨の磁性を指す、
“江戸と尾張”でもある。


話を戻し、次の言葉、

“今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。
洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、
神が臣民にお礼申すから、
一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。”


“とことはに変らぬ世”

この言葉はアセンション後の世界を指し、
今起きてる、
右往左往と左往右往が引き起こす醜い事象が無くなるからこそ、
そしてその世界は、
さっきも言うた霊的に高い人、
智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を持ってる人(日止、霊止)、
“力”の使い方を、
全体の奉仕を中心に考える人ばかりの世界に成るから、

“洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致す”
“神が臣民にお礼申す”
・・・こういう表現をされると思うやん。

そして今とても誤解されてる表現、

“洗濯できた臣民”
“身魂掃除”
そして、“身魂磨き”・・・

この表現自体は、
その人が高い振動を受信出来、
それを自分の認識に出来る人(日止、霊止)=骨の結晶化をして、
相対的に今よりも、
“上”からの高い振動を受発信出来る人(日止、霊止)が、
“洗濯できた臣民”である事。
こんな事も何回も言うた事やから、
くどくど説明するのはやめときまんねん。
要は、
自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識して、
そして“行”すればエエ事やねん。

そやからその事の補足として、次の言葉、

“因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、
早う改心せよ、
おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。”

“因縁の身魂”
背負っている因縁は自分の在り方を示し、
そして因縁と戦いながら自分を構築し、
そして“力”と認識(悟り、幸取=さとり)を得る。
ややこしい難しい言い方やけど、
ここまで・・・前のブログとこのブログを読んでくれはった人(日止、霊止)なら、
すぐ解ると思うから細かい説明はしませんねん。

ほんでからこの言葉の中の
“六ヶ敷”
これは前にも言うた事があるからそのままコピペしときまんねん。
(Kellyさん的“日月神示”解釈 上つ巻第十五帖 参照)

     ↓


“六ヶ敷い”は、
落語や講談によく出てくる言葉らしく、
“むつかしい”って読ませるらしいやん。

そやけどこの言葉をKellyさん的に観たなら、
六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現・・・
“六”についてのKellyさん的解釈は、
“Kellyさんが、“日月神示”を解釈して行くに当たって・・・考えた事。”
・・・を読んで欲しいねん。

そして、
“敷い”・・・これは場(フィールド)の構築としか思えへん。
神さんの思惑を受信し、
そして、
自分達が思想を構築し、その上で行動し・・・
場(フィールド)の構築をして行く。
それが事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事になり、
結果、
観察している何かって言うのんは、心(靈)の中の事なんやけど・・・
その創造って言うのんは“上”からの思惑を顕現していかんと、
貴いとか美しいとか価値があるとか・・・
そう言う色んな事を思わせる・・・感じさせる場(フィールド)を構築して行こうとするのが、
人(日止、霊止)としての生命(生きる使命=存在理由)やろし、
そやからこそ人(日止、霊止)は、
神の子なんやろし、
そして良い形の創造の概念が、
幸福って概念やし・・・

そやけど現状、幸福の概念が低いから、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事をして、
自分達の利益の追求をする人が多い・・・多すぎる。

多すぎるから失敗するんやけど、
それも、
事象=現津(あきつ)=観察され得る事象でもあり、
そやからそこには、失敗を通じ、
霊的成長の為の法則性=“道”が出来、
そやからこそ、
“六ヶ敷い”=むつかしい法則性を認識して行くのには、
困難を伴い、
そして獲得した認識は霊的成長の為の認識やからこそ、
“道(おしへ)”って言葉で示される・・・
こういう表現になってると思えるやん。


・・・以上でんねん。

とても重要な言葉と概念やと思うから、
くどいようにコピペしときまんねん。

ほんでから、
“何うしても改心せねばならん”・・・

それをせんと次の段階に移行出来ん。
それは“因縁の身魂”に掛かり、
今の低い事象を構成している人達の事を言うてる。
それは何回も言うたけど、
人(日止、霊止)の低い心(靈)の創造でもある。

特に最近目立つ、
誤魔化したり欺いたり・・・そうやって自分の利益を得てきた人。
それは低い幸福の概念でもあり、
その心(靈)の発現は、
低い功名心と自尊心=自我の肥大=マニピューラチャクラの覚醒段階。
そして自省(胸の磁性“十”)し、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をする。
そやからその具体例は、
生きてる間に、
閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)に、
似た体験をして、
批判され自分以外の誰もが敵になり、落ちぶれ・・・
前回の、
“日月神示”上つ巻 第二十帖の言葉を引用すれば、
“上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、”・・・やろし、
そしてその中で自省し、
自分を戒め、
自分の在り方を確立しなければならない。
そやから今、その事象と直接関係が無いと思われる人も、
その事象を見せられてる。
それは今後、誰もが考えんならん事でもあるからでもある。
(さっき言うたホ○○○○でもそう言う事でんねん。)

その事を補足として説明してるのが次の言葉、

“神は帳面につける様に何事も見通しざから、
神の帳面 間違ひないから、
神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。
初めつらいなれどだんだん分りて来るから、
よく言うこと聞いて呉れよ、”

この言葉は、
“上”の存在はすべて知ってるし、
バチを当てる時期まで計算してる。
ほんでから、
バチは霊的成長度に応じてしか当たらへん。
それが又、S会=紫光会の交霊会での言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない
の意味の一部でもある。

そして、
次の言葉も人の観察行為の様子を示す側面があり、
外側(外国と幽界)の事象しか観てない人の事を言うてると思えるやん。

“外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、
元の神の神力出して世を建てるから、
臣民の心も同じぞ、”


この言葉の中で重要な事を感じさせるのがやっぱり、
“元の神の神力”で、
さっきも言うたけど、
“元”=“二”(肉体のオーラ)と儿部(じんぶ、にんにょう)。
人(日止、霊止)は完成=“王”を目指す。
そやからこそ、
“神力出して世を建てるから”・・・でも有り、
“上”の思惑を現象化した人(日止、霊止)、
それは自省(胸の磁性“十”)を果した、
霊的に高い人の創造=発振、発信でもあり、
元=2~3番目のオーラと儿部(じんぶ、にんにょう)で、
事象の形成をして行く。
それを・・・その事を“上”は望んでる。
だからこそ、

“臣民の心も同じぞ”

・・・って言うてると思えるやんか。


ほんでから次の言葉、

“江戸も昔のやうになるぞ、
神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、
今に元のままにせなならんことになるぞ。”

“昔のやうになるぞ”
・・・は、さっき言うた事、
今の時代は自己奉仕者が活躍する時期やからこそ言われてる事で、
もっと昔・・・天皇制が形骸になっていなかった時は、
腹で=“江戸と尾張”で、
受信して発振、発信する人の思惑には、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が無かった。
そういう事を感じさせる言葉やな。
そやから、

“神の身体から息出来ぬ様にしてゐる”

この言葉の中の“息”=自分の心(靈)。
それを呼吸、息吹、気吹、生吹、と言ってもエエ事やし、
発振、発信やし、
そして創造して事象を感得する。
それが出来て無い・・・だから、
“神の身体から息出来ぬ”・・・

神の思惑を取り込むべき身体から、
発振、発信=息出来ないように成ってしまった。

そう言い表すのが妥当と思えるし、
一言で言えば、人(日止、霊止)の思惑が“上”の思惑通りになってない。
それは、恨みの連鎖由来の、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを、
大多数の人が受信してるから、
その受信で自分の心(靈)を構築してるから、
重ねて言うけど、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の世界の創造を、
今、大多数の人がしているって事やと思えるんやけど・・・

そやから次の言葉、

“富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、”

この文の中の“祀りて呉れよ”は、
“日月神示” 上つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈”で、
既に述べた事屋から説明しませんねん。

例に拠ってコピペしときまんねん。
       ↓

“祀”・・・示すへんに巳。
示すって言う字は、
“二”=2~3番目のオーラ=肉体と、
亅部(けつぶ こう かぎ)=“上”から下に降り、
そして日足(ひたり)斜め上にはねる。
良いカタチで“下”から日足(ひたり)“上”に現象化するっていう意味と、
ほんでからに亅部(けつぶ こう かぎ)の左右に点が二つ、
この二つの点は回転を示し、それは人のエネルギーを示し、
そのエネルギーそのものが砌(みぎり)と日足(ひたり)でもある。
そしてこの点の書き方自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
そう言う意味を持ってると思いまんねん。

示すの中の丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ) 

ほんでから“巳”・・・
これは十二支の六番目の巳でもあり、
それは陰陽五行として“火”に属す。
そやからこの“祀る”って言う意味は、
肉体の事そのものでもあり、
その良い形が、
神=示すと“呂”エネルギーの回転による発振、発信・・・
それは“上”から降り注がれるエネルギーって言ってもいいし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を、
取り込んでるって事でもある。
そやからそれは、相対的に高い心(靈)の発現って事になって行く・・・
地球人の(霊的)進化程度から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”の発現になって行く。
又、さっきも言うた事やけどそれは、天意を伺うって事やねん。
段々“上”の思惑を受信するようになるって事でんねん。
それそのものを示した言葉が、“神祀り”・・・
そう思えまんねん。

      ↑
・・・以上でんねん。


ほんでから“三十里四里”は、
距離の事ではなく、
“富士”も、地名としての富士山とか富士市の事では無い。

“富士”=“二二”で、
それは肉体の持つ左右の極性でもあると思える。
この事はこのブログの初めの頃の文章で説明したな。

ほんでから、
“三十里”は、
“三”は三つのオーラで、
“十”は何回も言うたから敢えて説明しませんねん。
そやから、
“三”と“十”を足すと、
人(日止、霊止)の完成された様子を示す“王”に成る。

ほんでから“四里”は、
“四”は、発振、発信する様で、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

“里”は、
この間、上つ巻 第二十帖の“十理(トリ)”の解釈で言うた様に、
“田”と“土”で構成された字でもある。
思想と行動=発振、発信・・・それによる、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造でも有り、
それは人(日止、霊止)の思惑と顕現でもあるって事でんねん。
人の思惑と顕現には“上”の思惑を足さんとアカンって事でんねん。
“上”の思惑を認識する肉体の器官は、
“田”に示される大脳新皮質・・・目上(めうえ)の脳って事でんねん。
これもいちいち説明するととても長くなるから、
霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”を、
よく読んで欲しいねん。

そやから、
“三十里”と“四里”は、
すべて“里”に掛かる言葉で、
それは“富士”と、一体ではない・・・そう言う表現がエエのか知らんけど、
“上”の思惑が肉体のオーラと一体ではなく、
その肉体のオーラの発振、発信が“上”の思惑通りでは無いからこそ、
“上”からの通信を受けた認識が、
人の創造し得る事象に生かされて無いからこそ、

“富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、”

・・・って言葉になる。
“上”の思惑と、
人(日止、霊止)の思惑が一体では無いって事を指し示し、
そやからこそ、
“祀りて呉れよ”=受信して自分に体得して、
それを、
大脳で感じる認識(悟り、幸取=さとり)にしてくれ・・・って、
事でもあると思えるな。

ほんでから次の言葉も、今言うた事と同義、

“富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。”

“富士”=“二二”で、それは、肉体の左右の極性。
“上”の思惑が、富士=左右の極性に活き、
人(日止、霊止)の思惑と“上”の思惑が一体になり、
そして事象の創造をして行く事を示す言葉で、
それがアセンションの時期に遭遇する、
フォトンベルト=大日如来の条帛(じょうはく)で、
条帛(じょうはく)そのものが、
“呂”=“上”と“下”の口 + 丿部(へつぶ)、
それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を示し、
左往右往を示す事でも有り、
腹のエネルギーの上昇する様子でもある。
そして人(日止、霊止)は、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現する。
この事も前のブログで先生が説明した事やから、
敢えて説明しませんねん。

そやからその時期が来るまでは、
次の言葉のように言われてる・・・

“富士は神の山ざ、
いつ火を噴くか分らんぞ、”

これは実際に富士山が噴火するって事も言うてるんやろけど、
“火を噴く”は、
肝=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”・・・
そしてそれはS会=紫光会の交霊会などで“火”とされている。
この事もこのブログで前述した。
それは、
物質が酸素(呼吸で)でエネルギーに変換される事でもある。
創造って言うのんは、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”が無いと、
出来ないって事でも有り、
その創造自体が砌(みぎり)回転=心(靈)が“下”に向かう事=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ならば、
それは右往左往で失敗になる。
そやけど、
“富士は神の山”
これは、
“二二”=左右の極性に、
“神の山”=“上”の思惑を受信した脳を指す言葉、
それは天意を受けた人の認識(悟り、幸取=さとり)を指し示すと思えるな。

そして次の言葉は、人に対する期待の込められた言葉・・・

“神は噴かん積りでも、
いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、
それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、”

時期が来たら(自己奉仕者としての)人の都合など、
関係なく事を済ます。
でも・・・その時期に間に合って欲しい・・・
その為に自省(胸の磁性“十”)の“行”をして欲しい。
“慈悲”と“慈愛”の発現をして欲しい。

間に合わせたい・・・一人でも多く・・・
そやからこそ“日月神示”は、
“上”から垂れた文章で重要な情報でもある。

それと同義の事として、以下の言葉、

“神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、
肉体もなくてはならんから、
さうして祀りて呉れ。
まつりまつり結構。”

とにかく“上”からの思惑を意識してくれって事やと思いまんねん。
意識せんと感応共振せん事やし、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑は、
憑いてる霊的存在は、
何でも主護霊と思わせる・・・これも何回も言うた事でんねん。

そやからこの一例をとっても、
それは今、
なんでも形骸の価値感で動いてる・・・
その形骸の価値感を作っているのは、
人の心(靈)の低い分部でしか無いし、
その自覚を持ってない人が大多数・・・
そやからこそ、“上”の思惑を受信する事を指して、

“まつりまつり結構。”

・・・そうなってくれって事でんねん。
今日はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”上つ巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


今回も上つ巻 第二十二帖を解釈しまんねん。
短いけれど・・・原文は以下の通り。

いよいよとなれば、
外国強いと見れば、
外国へつく臣民沢山できるぞ。
そんな臣民一人もいらぬ、
早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。
六月二十の八日、一二のか三。

冒頭の、

“いよいよとなれば、
外国強いと見れば、”

外側(外国と幽界)の価値感・・・
形骸の幸福の概念とか、
本当に価値のあるものを、
その人の低い心(靈)で低い価値のものにした人の事を、
指し示す言葉でんねん。
そやからそれは、自己奉仕者でんねん。

そやけど前回も言うたけど、
ちょうど戦争中に書かれた文章やからそう言う意味も有るんやろけどな。
今となってはその事自体にあまり意味の無い事やし・・・
そやからこそこの外国=外側(外国と幽界)って解釈が妥当と思えまんねん。

そやからこそ、形骸の価値を示す次の言葉、

“外国強いと見れば、
外国へつく臣民沢山できるぞ。”

形骸の宗教や、
天皇制や、
霊感商法や、
低い霊能力者や、
高い印鑑や、
甘い夢を見させる占いや、
インチキ政治家や、
食品偽装や、
都合のよい正義の概念で人殺しをするどっかの国や、
たいして価値の無いものを高く売りつけるブランドやサプリメントや、
苦痛や苦悩から逃れる事を考える(骨の結晶化に結びつかない)新薬の開発や、
医師が自分の利益しか追求しないから健康保険が破綻する事や・・・
ほんでから、
アセンションの甘い解釈や、
太陽凝視を自分の低い功名心を満足させる為に行うとか・・・

・・・きりが無いな。

・・・で、そんな人たちの事象の創造って言うのんは、
“上”の思惑通りでは無いからこそ、
次の言葉、

“そんな臣民一人もいらぬ、”

・・・で、
そして次の言葉は、
今まで何回も言うた事やから細かくは説明しませんねん。

“早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。”

“日月神示”内の表現、○ 九 十 マコト。
先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの概念、真固止と修理固成。
そして身魂磨き=骨の結晶化。
神=示すへんに“呂”、エネルギーの回転。
国=(囗)くにがまえに“玉(ぎょく)”。
“堅めてくれよ”=場(フィールド)の構築。
・・・その為の発振、発信(呼吸、息吹、気吹、生吹、)=心(靈)の在り方。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”上つ巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈

今回も“日月神示”上つ巻 第二十三帖を解釈しまんねん。
又、短いけれど・・・原文は以下の通り。

神なぞ何うでもよいから、
早く楽にして呉れと言ふ人沢山あるが、
こんな人は、
今度はみな灰にして、なくして仕まふから、
その覚悟して居れよ。
六月の二十八日、ひつくのか三。

これはこの文章全体が、上つ巻 第二十帖と共通で、
そして以下の言葉は、いかにも自己奉仕者の発想を指摘してる事でんねん。

“神なぞ何うでもよいから、
早く楽にして呉れと言ふ人沢山あるが”

“神の咎め”を知らん・・・右往左往の段階でその人生しか体験がなく、
ほとんど自分の思い通りになった人の認識はこういうもんでんねん。
それは人生においてまだ失敗の体験がなく、
この間ちょっとだけ言うたホ○○○○でも、
全然自省して無い。
自分が自分の思い通りに生きて何が悪い・・・そんな事しか思うてない自我の確立=固定化の段階でしかない。

そやからこそ次の言葉、

“こんな人は、
今度はみな灰にして、なくして仕まふ”

・・・言うまでもなく、こんな人には次の世界の創造は任されん・・・
“上”から託されんって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈




今回も、上つ巻 第二十四帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通りでんねん。


七の日はものの成る日ぞ。
「ア」と「ヤ」と「ワ」は本(もと)の御用ぞ、
「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ。
あとはだんだん分りて来るぞ。
六月の二十八日は因縁の日ざ、
一二のか三。


冒頭の言葉の、
“七の日”は、
極めて我田引水なKellyさん的解釈をすれば、
“一”+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
“七”

それは、
智性を持った人(日止、霊止)の思惑の顕現で、
それは、
真固止の現津(あきつ)・・・現津(あきつ)=観察され得る事象の創造の事。

そうとしか思えへん。

そやからこそそれは、
思惑の顕現やからこそ、
“ものの成る日”・・・と、称されていると思える。

そやから、
(現状より)智性を持った人の思惑の顕現・・・それは、
それそのものが、
進化した心(靈)の事象の創造と、
観察と認識(悟り、幸取=さとり)で、
それを別の言い方をすれば、
自分の思ったとおりの世界になる。
それは、
先生の概念の“時空の結晶化”でもある。
“上”の存在は、
人(日止、霊止)にそうなって貰いたい・・・

突拍子もない事なんやけど、
人が霊的進化を果して行ったなら、
段々、霊的成長して、神に近くなって行ったなら、
あらゆる事はすべて可能になる。
そやから、
人(日止、霊止)は独り神になる。
独り神になる資格を得ていくのが霊的成長でもある。

そして、独り神に成り得た時点で、
その心(靈)が観察し得る事象は、
他者のそれとは、
ある意味、
隔絶されたものでも有り、
それは現状のように、
生命(生きる使命=存在理由)が、
進化過程の段階でもある低い愛(炁)の概念を持ち、
そして自分達の、
進化程度の低い、目先の低い幸福の概念を持ち始めた事により、
誰かが誰かを害したり、
恨みの連鎖の霊的干渉を招いたり、
他者の霊的成長の足を引っ張ったりもしない。

それは、
この世界を構築しているそれぞれの心(靈)の発振、発信は、
それは“個”の意識=独り神ではない。
まだ動物の集合意識に近い。

そう言う事を感じましてん。

さっきも言うたけどこれは・・・突拍子も無い考えやけど・・・な。

ほんでから“ものの成る日”=すべての事象の完成は、
完成された人(日止、霊止)=“王”によって成され、
いずれ、
人を始めとした生命(生きる使命=存在理由)は、
誰もがそうなるんやけど、
今は“ものの成る日”=その日、その段階では無い。

進化過程が低く、
まだ出来てへんって事も意味してると思いまんねん。

ほんでから・・・上記のこの言葉は、
文面どおり、

“「ア」と「ヤ」と「ワ」”

に、掛かり、

“「ア」”は、
アイの“亜”、
ほんでからそれは、愛(炁)でもある。
そやから“亜”は、
根元の材料と認識され得る何か。
すべての原因とか結果とか、
事象を構成する何かとか、
事象の創造の根拠とか・・・色んな言い方が出来ると思える。
それが勢いよく、出(いずる)・・・枯れる事の無い泉のように。
そやからそれは、あい、アイ、愛(炁)・・・
そやけど・・・そのうち、
炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”に付いても、
説明せんならんな。

今回は話が逸れるから、それはまた別の機会にして、

“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。
それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。
ほんでからそれは、
“本(もと)の御用ぞ、”で、
“本(もと)”は、
胸の磁性“十” + 丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) +
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現) + “十”の下に位置する、
“一”・・・

この事は前に説明したから敢えて説明しませんねん。

そやから観察され得る、
現津(あきつ)=観察され得る事象の認識(悟り、幸取=さとり)、
それそのものが神の性質と云える事でもあり、
人(日止、霊止)は段々、
認識の拡大をして行く事そのものが、
霊的成長であり、
神格化でもある。

そう言う意味の言葉が、
“「ヤ」”と“「ワ」”・・・そう言う風に思えるな。

ほんでから次の言葉

“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ。”

“「イ」”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + (たて棒、コン)

これも前に言うたけど、もう一回言うとけば、
“イ”は
神の思惑がこの世界に垂れた形を指し、
“「イ」”は、
息吹、伊吹、でも有り、
命(いのち)でも有り、
生きる、活きる、でもあり、
生きるって字そのものが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

ほんでから、“生”から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した残りの字は、
三 + (たて棒、コン)で、
この場合の(たて棒、コン)は“一”=智性=1番目のオーラの“上”から、
“下”に降りてる。
そやから、
頭より“上”って事でんねん。

ほんでから、“晴”は
“二二は晴れたり、日本晴れ。”・・・
ほんでから、“見晴らし台”の“晴”の、
日を外した青の、
上半分で、
その事は、上つ巻 第一帖で、言うた事やし、
“見晴らし台”の解釈は、
上つ巻 第五帖 ・・・で説明したから読んで欲しいねん。

・・・話が飛躍したけど、
息吹と命の“「イ」”は、
愛(炁)、アイ、のイでもある。
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
生気生命の発生力って表現がされてる。
それはまさに、
“亜”“ア”が下に垂れる形が“イ”・・・
そう言う感じ(感じる磁性)を受ける。

ほんでから“「ウ」”は、
又、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生物を生み出す力で、
産土(うぶすな)の“ウ”でもある。

そやから、
“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ”

“「イ」「ウ」”は、
“身魂” に備わった仕組みでもあるし、
それは、
霊的成長=神格化=幸福の意味。
それを指し示し、
それを成さしめる仕組みでもあるからこそ、
“介添えの御用ぞ”・・・と、言われてると思える。
そやからそれは、
心(靈)が、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を、
(心(靈)が)認識し、
そして心(靈)は“上”に向かい、成長をする。
要は、
“「イ」「ウ」”で事象の創造をする。
それが、
人(日止、霊止)と神の性質とも言い得る、
観察と認識でも有り、
それは、
発振、発信と受信によって成されるって事でもある。

そやからこそ人(日止、霊止)は、
神に近づく事そのものが、
“上”に向かう事そのものが、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象を望み、
それは、
心(靈)の呼吸、息吹、気吹、生吹、によって成される。
その事を極めて地球人らしい言い方をすれば、
人は幸福を求めるって事で、誰もが幸せになりたいし、
それを、“日月神示”の表現で言えば、
“うれしうれし”でもあるけれど、
それは現状に対し、
相対的な観察でもあるな。
それは、今より良くなるって事でんねん。
そやからこそ・・・
失敗を繰り返し良い形を理解して行く=右往左往と左往右往。
そやから次の言葉、

“だんだん分りて来るぞ。”・・・って言い方になる。

ほんでから今までの言葉は、
次の、
“六月の二十八日は因縁の日ざ、”
・・・に掛かり、
この文の字を一つ一つ解釈していけば、

“六”は、前にも言うたからコピペしときまんねん。
     ↓

“六”は、
丿部(へつぶ)と“一”とその下に丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)。
“一”の上に点があり、“一”の“下”に点が二つあるのは、
大体、二つ点があるのは回転を示しているって先生はこの間教えてくれた。
ほんでからに、“六”の“下”の点は、
丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)、
そやからそれは、神の思惑の顕現と、人の思惑の顕現・・・
それを示してるように見える。
漢和辞典では、これも象形文字が変化した字で、家屋の形を表す。

六の象形文字 


そやからこれも・・・人(日止、霊止)の事の様な気がする。
それは、宀(うかんむり)が屋根=頭って話を先生から聴いてたからやな。
ほんでからに“六”は、
易で、陰爻・・・陰を表す数って事らしい。



・・・引用したのは以上何やけど、補足として言うとけば、
陰爻・・・陰・・・
陰陽って言うのんは、
気と肉体って言う意味もある様で、
それもまさに、
思惑の顕現で、
心(靈)と、
心(靈)が感じ(感じる磁性)る、
現津(あきつ)=観察され得る事象って事でもある。
それが又、“六”と“九”・・・
○ 九 十 の“九”・・・
“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
“九”
“上”の思惑の、
最後の仕事(人(日止、霊止)が託された仕事)としての、
“九”・・・に、示されてると思えるな。


ほんでから、“六月の二十八日”の、残りの字、

“月”=(物質としての自分)肉体。

“二”=2~3番目のオーラ、肉体の発振、発信。

“十”=胸の磁性“十”=左往右往によって得られる心(靈)の発現、
それは動物の肉体の磁性に手の磁性が加わって出来た心(靈)の発現、
“慈悲”と“慈愛”。

“八”=肉体の左右の磁性。
日足と砌(ひたりとみぎり)。
イダとピンガラ。
それは又、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。

そやからこそ“因縁の日ざ、”
“因縁”=原因と結果=思惑の顕現。
因縁の因は、
(囗)くにがまえと大=人が発振、発信する様。
縁=霊縁とか場(フィールド)の構築とか・・・
要は自分達の発振、発信が良いカタチの世界を創造し、
その為に今、霊的成長度の違う存在を分ける・・・
それぞれの成長度に応じた場(フィールド)を創る。
それが、
“上”の思惑の顕現でもある、
“上”の計画でもある、
アセンションでもある。

そやから・・・“六月の二十八日”
日付の裏に隠された意味があると思える事やな。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈


今回も、上つ巻 第二十五帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


一日に十万、
人死にだしたら神の世がいよいよ近づいたのざから、
よく世界のことを見て皆に知らして呉れよ。
この神は世界中のみか天地のことを委(まか)されてゐる神の一柱ざから、
小さいこと言ふのではないぞ、
小さいことも何でもせなならんが、
小さい事と臣民思うてゐると間違ひが起るから、
臣民はそれぞれ小さい事もせなならんお役もあるが、
よく気をつけて呉れよ。
北から来るぞ。
神は気もない時から知らして置くから、
よくこの神示、
心にしめて居れよ。
一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、
いくら買溜めしても神のゆるさんもの一つも身には附かんぞ、
着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。
早う神心にかへりて呉れよ。
この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、
踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからはお手柄さして、
とことはに名の残る様になるぞ。
元の世に一度戻さなならんから、
何もかも元の世に一度は戻すのざから、
その積りで居れよ。
欲張っていろいろ買溜めしてゐる人、気の毒が出来るぞ、
神よく気をつけて置くぞ。
この道に縁ある人には、
神からそれぞれの神を守りにつけるから、
天地の元の・(てん)の大神、
くにの大神と共に、
よく祀りて呉れよ。
六月の三十日、ひつくのか三。



冒頭の言葉、

“一日に十万、
人死にだしたら神の世がいよいよ近づいたのざから、
よく世界のことを見て皆に知らして呉れよ。”

・・・今までの右往左往の文明は崩壊する。
それを知らせてくれ・・・それは、
右往左往の砌(みぎり)の創造だけではバランスが悪い。
それは、
神の思惑とも言い得る神聖な世界の創造に繋がらない。
そしてそれは、この世界が失敗の世界って事を、
その場(フィールド)に居る=位置しているすべての心(靈)は、
生きていようが死んでいようが、
それは、
肉体を持っていようがいまいが・・・
必ず自分達のやってきた結果って言うのんは、
観察し、
認識する。

観察と認識、その事は絶対に知っておかんならん。
それが生命(生きる使命=存在理由)でもある。
ほんでからこれは矛盾のある言い方やけど、
死んでからも生命(生きる使命=存在理由)って事でもある。
又、こういう世界に下りてくる事があるから・・・でもあるし、
その事すら地球人は知らん・・・

まあエエわ。

自分が霊的生長する為には、観察と認識をする。
これは神の性質でもあるって先生と話をした事がある。
そやから生命(生きる使命=存在理由)は、
神の子でもある。

そして、観察と認識、右往左往と左往右往から得られた認識、
認識が拡大し心(靈)が“上”に向かい、
“上”の心(靈)の発現をして行く=霊的進化をして神に近付く。
・・・人(日止、霊止)の神格化。

その霊的生長を果たした人(日止、霊止)が、
思惑の顕現をする・・・
それは、現津(あきつ)=観察され得る事象を創っていく。
その事自体が、
神の思惑やと先生は思うてるし、
それは先生と長い話をしたKellyさんとしても、
納得の行くKellyさん自身の認識になってる。

だから今も起きてる事・・・これからも増える事、
右往左往の結果ともいえる、
戦争も起き、災害も起き、
恨みの連鎖由来の霊的干渉の訳の分からない犯罪も増え、
そして最近多い、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
罠とも言える事、
人の心が折れて鬱になり、
砌(みぎり)のエネルギーが相対的に無くなり、
“思う、憂う”=日足(ひたり)の“行”に入った時の自殺者も、
増える。
それは、(砌(みぎり)の)心が折れた時に、
色んな通信を送って、
その試練から逃れる発想をさせ、
それは・・・自殺を選択させ、
そして死んで自縛霊になり、
同じ条件で死ぬ人をそこへ引き込み・・・
これは・・・この事は自縛霊が、
その心(靈)を縛り付けられたその場(フィールド)から、
動けるようになるんやけど・・・
それは霊的成長の方向性ではなく、
この世界に未練たらたらの浮游霊になり、
(霊的成長してへんからでもあり、自省(胸の磁性“十”)して無いからでもあり)
そして、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一員になる。
それが又、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現のひとつでもある。

そやから、
生きてる間に心が折れる体験の無い人=右往左往の人、
それは今、
自分の利益の為に“力”を示し、
自分達の為だけに“力”を行使して、
何かを獲得する事が幸福やと思い込んでいる、
認識の低い人=生きる事の本当の意味を見出していない人。

そういう人たちの価値感は、
(通貨としての)金と物欲と目先の快楽と見せかけの幸福感・・・
その人たちの行いは、
結果として恨みの連鎖に加担する事になる。
そやから・・・経済優先、利益優先・・・
(通貨としての)金しか考えて無い世界。
“金(かね)”の本当の意味、
“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子が持つ磁性って事を、
知らへん人。

まあエエわ・・・解らへんもんは解らへん・・・

自分の霊的成長度の段階より“上”の認識は、
自分が霊的成長をせん事には理解出来ん。

そやから話を戻し、
目先の幸福感・・・その為に他人はどうなってもいい。
そう言う心(靈)の進化過程の人を一言で言えば、
自己奉仕者、
アミの本を引用すれば、
自分に対する愛しかもっていない人、
それは愛(炁)の顕現の程度が低い・・・
腹の段階の心(靈)の発現しかしていない霊的成長度の人、
そう言う心(靈)の発現の人の思惑の顕現が、
“日月神示”内の表現ならば、
“石屋の仕組み”でも有るし、
“われよし”・・・でもある。

そして、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
やり口って言うのんは、凄く狡猾で、
一見人には分からないように、
甘く(亜、魔、出ずる、泉)囁き、
人の心(靈)の情動を昂らせ(たかぶらせ)、
それは、
低い功名心で動く人を増やし、
低い自尊心で達成感を感じ、
見せ掛けの幸福感に人を酔わせ、
見せ掛けの達成感を人に与え、
見せ掛けの満足を人に与え・・・それが幸せって思い込ませる。
その裏には、低い心(靈)の発現由来の低い価値感・・・
物欲、(通貨としての)金・・・
形骸の名誉・・・
ほんでからディスプレイ(動物の発情行動)やな。

こんな話は先生といっぱいした。

そやから人は、
霊的成長して自分の力を示し=砌(みぎり)の“行”=右往左往。
そして、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を獲得し、
その使い方や良いカタチを考える過程として、
必ず失敗の体験をせんならん=日足(ひたり)の“行”=左往右往。

そやからそれは右往左往と左往右往・・・
その体験が無いと、
認識は高まって行かん=霊的成長を果す事が出来ない。

そやからこの上つ巻 第二十五帖の冒頭の言葉は、
今現在、右往左往の人が多く、
(通貨としての)金と物欲・・・そんなものばかり求め、
その事自体が示す事は霊的成長度の低い人が多く、
ほんでから“上”からの通信でもある神や霊やオーラや・・・
その価値を見出さず甘い夢しか持っていない人が多く、
そう言う人が本当の事を知る為には、
“日月神示”内の表現なら、
“グレン”とひっくり返らんとアカンって事でもある。

そしてそれは、何回も言うけど右往左往から左往右往、
“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”・・・
それは自我より“上”の心(靈)の発現になり、
それは、
人が認識し得る言葉としての、
“慈悲”と“慈愛”であり、
それは、又、自分に対する厳しさを持つ。
欲望を制限する心(靈)の発現にもなる。
そして、
より“上”の思惑を感得しようとする心(靈)の発現でもあるな。
そやからこそ人生は、
“行と修行”の為にあると思う事が出来るように成るって事や。

そやからそれは、
“厳しさは成長の法則性から得られた認識”・・・でもある。

“慈悲”と“慈愛”・・・その心(靈)の発現は、
四足獣から直立し、
前足から手の機能を持つようになった進化過程、
腹のサイクロトロン=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”から、
“慈悲”と“慈愛”の発現に至る・・・
それは段々“上”の思惑を自分に取り込む為の、
アンテナの構造でも有り、
安定した螺旋運動をさせる為の磁性=シンクロトロンでもあり、
サイクロトロンより強力な円形粒子加速器の構造でもある。
ほんでからそれは、
脊椎動物としての人の、
肉体を持った時の霊的進化の必然でもあるし、
生きている時にしか出来ないと思える事でもある。

そして右往左往から左往右往・・・自省(胸の磁性“十”)し、
“観自在”し、“直日(なおひ)”して、
自分達のよい在り方を強く思う人が場(フィールド)の構築をする。
その事そのものが、この文章の言葉、
“神の世がいよいよ近づいた”って事になる。
そやからこそ霊的進化過程の低い段階の人=自我の確立=固定化の段階の、
その心(靈)の発現の行動をしてる人は、
分けられる。

それがアセンションでもある。

そして低い心(靈)の発現の人が圧倒的多数やからこそ、

“一日に十万、人死にだしたら”・・・って事になる。

死って言うのんは、
ある意味、

人としての、
生命(生きる使命=存在理由)としての、
とてつもなく大きな右往左往でも有り、
失敗して肉体を失い、
その後・・・肉体を失ってからも、
左往右往して考えんならんって事でもある。

そやからこそ・・・そういう事を言うてる・・・

そやけど、
これからの人(日止、霊止)は、
アセンション後に場(フィールド)の構築をする人は、
その事をしっかり認識しておかんならん・・・


そやからこそ次の言葉、

“この神は世界中のみか天地のことを委(まか)されてゐる神の一柱ざから、
小さいこと言ふのではないぞ、”


この文章の中の言葉、
“小さいこと言ふのではないぞ、”

地球人は地球全体の事すら観察して無い。
例えば、テレビなんか特にその傾向が強い。
意味の無いバラエティとかお笑いとか・・・
動物霊の憑依現象を見てるみたいなもんや。
ほんでから、
グルメ番組や大食い・・・飢えて死んだ子供の霊の憑依現象って視点が無い。
大体そういう事を分析できる霊能力者がいない・・・
そう言う点でも先生はチョ~ベッピンはんのA野はんに、
“あんなもんは話にならん”

・・・そう言うたと思えるな。

ほんでからニュースでも、
人目を引く作り方しかしてへんし、
それはスポンサーの為、言い換えれば(通貨としての)金の為、
数字が取れれば低い功名心を満足させる。

まあエエわ・・・こんな事言い出してたらきりが無い。

そやから今言いたかった事は、
人は目先の裕福・・・形骸の幸福感を求め、
それに失敗すれば恨みの連鎖に加担する霊的存在になり、
又、それにある程度満足した人は、そう言う人が思う事は、
さっきも言うたけど、
自分、或は自分の周囲だけの狭い場(フィールド)の幸福だけを、
思う。
ほんでから、それしか考えん・・・

事象を観察する視野が狭い・・・先生の言葉。
そう言う人(日止、霊止)が大多数・・・
そしてこの世界は、
そう言う世界になってしもてる・・・それが当たり前になってる。
そやからほとんどの人は、
悪魔の傀儡になってるって話を先生とした。
(思惑と顕現“その十”
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔=マーラ(魔羅)”
・・・その思惑と顕現 参照)

だからこそそう言う人たちの発振、発信が、
この腐った世界を創ってるんやけど、
左往右往に入らんならんから、
自省(胸の磁性“十”)の“行”をせんならんからこそ、
その結果を体験し・・・

“一日に十万、
人死にだしたら”・・・って事になるんやろな。

ほんでから次の言葉、

“小さいことも何でもせなならんが、
小さい事と臣民思うてゐると間違ひが起るから、
臣民はそれぞれ小さい事もせなならんお役もあるが、
よく気をつけて呉れよ。”

これも一般的地球人の認識の低さを指摘してる言葉で、
“小さい事と臣民思うてゐると間違ひが起る”・・・

何が自分達の思惑の顕現に大事なのか・・・それを知らん人が多い。
マスメディアは形骸の幸福を大々的に人に情報として与える。
ほとんどの人はそれを見て、
そして、
それ以上の事を考えん。

大事な事は、
人(日止、霊止)の生命(生きる使命=存在理由)は、
神格化でしかなく、
そのために人は相対的に今より高度な自己観察をする。
それがこの文章の言葉の、
相対的に“小さい事”やと思える。

そやから、自分の心(靈)の中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
自分でより分けて行動する。
それが“日月神示”の表現なら、
“身魂掃除”とか“身魂洗濯”とかになると思える。

自分の心(靈)の動き、それをより分けるのは、
“上”の思惑の受信、
それは、右往左往と左往右往の体験で獲得した“天の御目”やし、
そしてそれは“上”の思惑の顕現を自分がする事になり、
それは思想の構築とか行動とか・・・
それは荷電粒子の増幅と発振、発信でもあり、
そして現津(あきつ)=観察され得る事象は構築されていく。

その事を言うてると思えるな。

ほんでから次の言葉、

“北から来るぞ。”

これは宇宙の極性の事やな。
北=“上”の思惑って事やな。
色んな宗教で北って言うのんは大極とされてるから、
ほんでから大極=“上”の思惑って事でんねん。
ほんでから北は、
“上”の思惑を発振、発信する場(フィールド)って事でもある。
ほんでから南って言うのんはそれを受けるって事やな。
そやから、明るい場(フィールド)=南に対し、
光源としての北って言う事でもあるし、
南って言うのんはこちら側の場(フィールド)で、
それは顕現で、
それに対し北って言うのんは、
エネルギーを発している場(フィールド)とも言い得るし、
そのエネルギーは、神の思惑と言い得るって事でんねん。

そやから今、
私達は、
神の思惑を知り、
理解し、
体得し、
自分の思想にして、
そして発振、発信して、
それを顕現する為に=事象の創造をする為に生きている。

神の思惑の受信、そして発振、発信=創造に結びつく事、
その具体的な方法が、
太陽凝視でもある。

それは太陽凝視が、
“上”の思惑の受信そのものでもあるって事でんねん。
決して不食の為なんて、
ケチ臭い功名心の為のものだけでは無いって事でんねん。

ほんでから“上”の思惑の受信、それが、
“人”って言う字、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)に顕され、
そして人は日止・・・太陽の振動=思惑を止める。

ほんでから霊止は、霊の旧字・・・この事は、

思惑と顕現“その十一”
“上”の思惑と顕現・・・“天の御目”・・・で、
先生が説明したから、敢えてここでは長く説明しまへんねん。

それを止めるから、霊止で、
そやからそれは“メグリ”(帀)に顕れてるし、
それそのものが、
“一”=アイ=愛(炁)=神の思惑の右に移行した様でもある。

ほんでから“上”の思惑の受信そのものが霊の旧字に顕れ、
“上”の思惑は、
神=示すへんに“呂”=エネルギーの回転でもある。
そしてエネルギーって言うのんは回転せんと、
強力な発振、発信には成らん。
それは、
磁性とローレンツ力でも有り、
サイクロトロンとシンクロトロン・・・
地球人が、
電界と磁界を知り、
物理学を通じ理解した仕組みでもある。

まあエエわ・・・又、長い説明になってしまうから程々にして、
次の言葉の、

“神は気もない時から知らして置くから、
よくこの神示、
心にしめて居れよ。”

この文章の、
“神は気もない時から知らして置く”

これは、その前兆が無い時からって事やな。
この文章が書かれた時は、
まだその段階では無いって事でもあるな。

そやけど今、その前兆は起きてる・・・
そして、
その意味を真剣に考えん人ばかりに思えるな。

特にネット上では、
形骸の幸福や、
ええころかげんなアセンションの解釈や、
低い功名心を満足させる為に程度の低い太陽凝視をするとか、
不食でっせ~とか、
心身浄化してまっせ~とか、
アセンションしまっせ~とか・・・

この事も何回も言うた。

ほんでから、
霊能力は見せ掛けの幸福の為にあるとか・・・
先生が憂いてる事ばかり目に付く・・・アホくさなってくるな。

まあエエわ。

ほんでから次の言葉は、
経済が崩壊し・・・もう崩壊しかかってると思うけど、
その時の事を言うてるな。

“一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、
いくら買溜めしても神のゆるさんもの一つも身には附かんぞ、
着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。
早う神心にかへりて呉れよ。”

(通貨としての)金、金、金・・・それしか頭に無い人ばっかりで、
その事を指摘もしてる。
ほんでから、それに対し次の言葉、

“この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、
踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからはお手柄さして、
とことはに名の残る様になるぞ。”

“岩戸開く”・・・この解釈は、
エピローグ 神の思惑と顕現・・・神聖な事象・・・で、
先生が言うた。
人(日止、霊止)の霊的成長の為の肉体の構造でもある。
それを成さんならんのやけど・・・
そんな人はごく少数でしかないって事やな。
ほんでからそのごく少数の人・・・それは今、
何も芽が出て無い、
“力”を示していない左往右往の人を指してるからこそ、

“踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからはお手柄さして、
とことはに名の残る様になるぞ。”

・・・って事で、
今、
形骸の価値感でのし上がってる人とは違いまっせ~って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“元の世に一度戻さなならんから、
何もかも元の世に一度は戻すのざから、
その積りで居れよ。”

この文の中の言葉、
“元の世に一度戻さなならん”

これは、
“二”=2~3番目のオーラ、肉体の磁性、
肉体を持ってる時の霊的進化の為の構造を指し示し、
それは時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)に顕れてる。
それが“元の世”って事で、
今それが間違った方向性、
砌(みぎり)と日足(ひたり)のバランスが崩れているからこそ、
右往左往から左往右往に入る。
そして、
今までやって来た事は失敗やったって認識(悟り、幸取=さとり)を、
獲得する。
そやから今は失敗の世界って事を言うてる。
それは次の言葉でも言われてるやんか。

“欲張っていろいろ買溜めしてゐる人、気の毒が出来るぞ、
神よく気をつけて置くぞ。”

これは投機の事とかを言うてると思えるな。
株、先物取引、投資信託・・・色々あるけれど、
それは銭ころがしやな。
上手い事やって銭儲けする事・・・そんな儲け方=“力”の示し方が、
人としての・・・神の子としての、
人(日止、霊止)の在り方ではない。
ほんでから銭を儲けて幸せになるって言うのんは、
物欲と金に対する執着=動物霊の思いやな。
ほんでからそれが上手く行った時に得られるのは、
ほんまに程度の低い功名心でしか無いと思うんやけど、
そう言う認識すらない人がほとんどやな。

そやから儲けるとかの話ではなく、
“力”の示し方・・・自分が、自分自身が、
認識(悟り、幸取=さとり)として、
価値のある何かを獲得するのは、
真実=真固止を獲得するのは、
自分でエネルギーを贖う(あがなう)・・・
それをして行かんならん。
そやけど、
見せ掛けの幸福感や形骸の価値感って言うのんは、
そういう事を思わせん。
その事そのものが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
甘い(亜、魔、出ずる、泉)囁きって事に気が付かん・・・
そやから今の世の中の人は・・・
“上”から観たならアホばっかりでんねん。

ほんでから次の言葉、

“この道に縁ある人には、
神からそれぞれの神を守りにつけるから、
天地の元の・(てん)の大神、
くにの大神と共に、
よく祀りて呉れよ。”

言うまでも無く、
“この道に縁ある人”は、
今後の世界の創造を神さんから託される(霊的)資格を持つ人、
そやから何が起きても・・・一日に十万人が死んでも、
残る人は残るし、
どんな条件でも(霊的)資格のある人は、
死なへんって事でんねん。

そやからこそ、
“神からそれぞれの神を守りにつける”

・・・って事でんねん。

ほんでから、
“天地の元の・(てん)の大神、”

これは、
“天地”=神と人(日止、霊止)。
“元”=肉体を持っている時の霊的成長の構造、
サイクロトロンとシンクロトロン=“二”・・・でも有り、
それは時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)で、
成され、
成さんとアカンって事で、
それは
・(てん)・・・太陽の象形文字の中の点、
太陽の象形文字は、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。

・・・で、紹介して有りまんねん。

画像でんねん。


日、太陽の象形文字 

“一”と愛(炁) 

 

 

そやからその点は、元の気とかアイとか・・・
色んな言葉で表現できる。
そやから、
“天地の元の・(てん)の大神、”
その事をしっかり認識して、
次の言葉、
“くにの大神と共に、”
これは平仮名で書かれてるけど、
くに=国って事やろし、
国は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で、
自分達が霊的成長して、
“上”の思惑を受信して発振、発信して、
その上での創造した場(フィールド)をさして、
国って事やろ。

そやからこそこの文章は、

“天地の元の・(てん)の大神”

と、

“くにの大神”

・・・って、注釈が成されてると思えるやん。

ほんでから
“よく祀りて呉れよ。”

この“祀り”は、
示すへんに巳、
巳は蛇を示し火を示す。
それは多分、エネルギーの上る様でも有り、
外側の事象・・・“日月神示”の表現なら“外国と幽界”
その“幽”・・・火=灬(よつてん、れっか、れんが)って言う意味での、
“巳”って事やと思う。
そやからそれは、
S会=紫光会で言われた表現、
火=肝と酸素を取り込みエネルギーを変化させる事。
そう言う事やと思いまんねん。

そやから肝=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”、
そうやって肉体の“行”をして行き、
肉体の変容は酸素を取り込み=火で行われ、
その事を示しているのが“祀り”って事やと思いまんねん。

要は、上つ巻 第二十五帖は、
“上”の思惑を受信して、
神の思惑を知り、
その上での創造=場(フィールド)の構築をして行け。
そしてその(霊的)資格の無い人は冒頭の言葉通りになる・・・

そう言う事なんやろけど・・・

・・・冒頭の言葉に対してちょっとKellyさんが思い出した事、
それは・・・

最近・・・前のブログに、
“核の使い方”って検索Wordでいらっしゃった方がいてるけど、
この言葉そのもの・・・核の使い方・・・
それは核兵器を使う正当性とか・・・そんな視点でしか語られていないサイトが多いけど、
そんな事を考えてる程度の頭の人間は、
それこそ“日月神示”の表現を引用すれば、
灰にしてしまわんとアカンって事やと思う。

それは自分達の為にしか核を使わへん、
戦争の為に、
戦争をする為だけに自分達が思う、
正当な理由を・・・理由付けをしたいって発想でしかない。
それはてんで低い心(靈)の発現の人の発想でしかなく、
Kellyさんはそう思うたからこそ、
前のブログで先生と話した事を、
一部、コピペしときまんねん。

     ↓

「前にも話したが、力・・・科学、能力、その結果の文明の繁栄。
文明が核の使い方を間違えて、
それは人が進化の方向性を見出して行く事を試練とし、試されている事。
そういう認識をアタシたちの心に教えてくれるものである事。
それを考えさせる事がそういう存在の意思だと思うのだが・・・

そういうことを考えもせず、
目先の欲望の充足という視点で使われ、
どんな優れた力も知識も知恵も・・・単なる商売に成り下がる。
これは宗教でも政治でも、
今の世界のあらゆる事にそういう傾向はあるけどね・・・情けない事だ。」
「それって前に先生が言うてた
“事象の形骸化”
ほんとの意味が解らへんとうわべの世界を創っていく・・・
いやっ・・・そうやないな!
創り上げてしまったんやな。」
(霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”その五 参照)

・・・この事も地球人はよう知っとかなアカンと思いまんねん。

しかし・・・こう言う事を知らせたとしても、
もう手遅れの感があるし、
そして核戦争が起きたとするなら、
それも右往左往の結果って事なんやし、
地球人自身が認識を得る為の必然って事になるやろし、
その程度の心(靈)の発現しかして無かったって事なんやし・・・

・・・しょうがないな。

そやけど、知っておく事は大事やから、
敢えて知らせておきまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”上つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、上つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。
そやけどこれは、
上つ巻 第二十四帖の続きとも言い得る文章やと思えるな。

原文は以下の通りでんねん。


「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、
「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂わ と ○=心(靈) あるぞ、
「あ」も「や」も「わ」もや と ○=心(靈)わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。
みたま引いた神かかる臣民を集めるから急いで呉れるなよ、
今に分かるから、それまで見てゐて呉れよ。
「い」と「う」はその介添の身魂、
その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、
いづれは分ることざから、それまで待ちて呉れよ。
言ってやりたいなれど、
今言っては仕組成就せんから、
邪魔はいるから、
身魂掃除すれば分かるから、
早う身魂洗濯して呉れよ。
神祀るとはお祭りばかりでないぞ、
神にまつらふことぞ、
神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、
神かかれば何もかも見通しぞ、
それで洗濯洗濯と、臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。
七月の一日、ひつくのかみの道ひらけあるぞ。



・・・この、
上つ巻 第二十六帖を観ると、
第二十四帖ではカタカナで表現されてた、
“「ア」「ヤ」「ワ」「イ」「ウ」”・・・
それに対しこの文章は、
“「あ」「や」「わ」「い」「う」”・・・
平仮名で書かれてる。

そして、
“「ゑ」「を」”・・・と、“「え」「お」”・・・
それが追加されてる。

まず、冒頭の文章を観れば、

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、
「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂 わ と ○=心(靈) あるぞ、
「あ」も「や」も「わ」もや と ○=心(靈)わ と ○=心(靈)  も一つのものぞ。”


そやから、
“「あ」「や」「わ」「い」「う」”から解釈していけば、

“「あ」”は、“掛替ない”・・・かけがえない・・・そう読ませるんやろな。
そやからそれは、
根本のとか、大元の・・・とか、根元とか・・・大極とか・・・
創造の元とか先生の概念の究極微粒子と認識され得る何かとか・・・
すべての事象の・・・創造の理由とか根拠とか・・・
そう言う何かを指すと思えるな。

そやからこの事を、違う言い方をすれば、
創造の材料とそれに思惑が加わり、
現津(あきつ)=観察され得る事象を構成しているのやろけど、
その事象の元とか・・・
陳腐な表現みたいやけど、材料とか・・・
その事そのものが、
アイ、愛(炁)、“亜”が出づる、泉の如く・・・とか、
そやからこそ地球人の認識とも言える言葉として、
創造主が愛であり、神は愛(炁)であり・・・
そして人が、
相対的に高い心(靈)の発現をして行く事が、
他者を愛して行く・・・自己奉仕者から奉仕者になって行く。
それは“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現でもある。
そやから、そう言う心(靈)の動きそのものが、
自我の確立=固定化から、
“上”の心(靈)の発現で、
それは霊的進化過程に必然の事でもある。
その過程に、
右往左往から左往右往・・・失敗して体験して教訓を得て創造に活かす。
そうせななんでも理屈は解らんし、
自分がどう行動=創造したらエエのかの指標も無い。
そしてそれは必ず良い形=幸福を求め、
高い心(靈)の発現の幸福の概念は、
神格化と神聖な事象の創造でしかない。
ほんでからちょっと、はしょったけど、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”・・・
その心(靈)の動きも体験せんならん。

そうやって、自分の“力”の在り方を考える。
“力”の示し方=事象の創造の良いカタチも考える。
それは、智性(日を知った上で獲得した性質)(神性)を、
自分の心(靈)に持ち、
人(日止、霊止)は(霊的に)進化して行く。

そやから“「あ」”って言うのんは、そう言う意味の事を、
以下の文章・・・

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、”

・・・そう表現されてると思えるな。

ほんでからこういう言葉自体が、
今・・・たった今の瞬間の認識・・・
或は、現状・・・
それは、人が観察して認識してる現津(あきつ)=今の事象・・・
観察と認識は、
ある意味、
神の性質とも言え、
それをしているからこそ、
生命(生きる使命=存在理由)で、
そしてすべての生命は、
神の子であるとも言い得る。

そやから今言うた、この文章の中の「あ」、
上つ巻 二十四帖の「ア」、
そしてアイ、愛(炁)“亜”が出ずる、泉、
これも現状からの相対的な比較から出てくる言葉で、
そやからそれは、
始まり(と認識される事、創造の根拠、理由、)に対し、
結果(今の事象)でもあり、
原因と結果でもあるし=因果って事でもあるし、
そやからそれは、
創造の始まりが「あ」で、
すべての創造の始まりって言う事を示してるのが、
ア、あ、“亜”で
それが向かって右に移行した=現象化、思惑の顕現、事象の創造・・・
それを示している形が、
“一”でもあり、
それは・・・前に紹介した画像をもう一度貼って置きまんねん。

“一”と愛(炁) 



そやからそれは“アイ”でも有り、
“愛(炁)”でも有り、
“亜”が出ずる、泉、でも有り・・・

この事も今まで何回も解釈した。

ほんでから、カタカナの“ア”と平仮名の“あ”の違いは、
創造主から観た視点と、
こちら側、
私達の居てる場(フィールド)から見る視点の違いやと思える。
そやからそれは、
“上”から“下”を観た表現が、
カタカナで、
“下”から“上”・・・
それは、私達人(日止、霊止)が、
神を感じ(感じる磁性)る時に使う表現が、
平仮名って事に成ると思える。
更に、
漢字で書かれてる“亜”は、
“上”と“下”の横棒の中に、
口のような(囗)くにがまえのような・・・それは場(フィールド)でも有り、
それに(たて棒、コン)が二つ・・・これは、
プラスマイナス・・・陰陽やろな。
その二本の棒が“上”と“下”の場(フィールド)を繋ぐ形になってる。
それは創造そのものを示す文字やと思えるな。

“亜”の解字 


そやからそれは、
感じ=電磁波を感じる事、
感覚そのものの感じ(感じる磁性)=その感覚を認識したのが・・・
それを言葉で表すのが漢字でもある。

ほんでから“亜”そのものが、
生命(生きる使命=存在理由)って感じでもあるな。

・・・余談やった。

もう一つ余談ついでにKellyさんが思ってる事は、
私達が認識し得る空間の中心に、
神さんが居てると仮定して、
それは、
中心に対し外側に場(フィールド)が構成され、
そしてそれは“上”と“下”という関係になり、
ほんでからそれは、
先生の概念の究極微粒子の低振動化って事になり、
それそのものが、
創造主の思惑の顕現でも有るんやろけど、
太陽の象形文字をよく観て勝手な解釈をするならば、
Kellyさん的には・・・こんなふうに観えるやんか。

 

現津(あきつ)=観察され得る事象と“上”と“下”の場(フィールド)の関係 



この太陽の象形文字に示される・と○・・・
上つ巻 第二十五帖では、
“天地の元の・(てん)の大神”・・・その元の・(てん)・・・
それが天地の元なんやから、
創造の始まりとか根拠とかになり、
そしてそれが、
“下”に降り、
創られてる事象と生命(生きる使命=存在理由)が、
・と、
私達の心(靈)の場(フィールド)=○ に、
示されてると思える。

解り難いかもしれんからもう一度言うと、
・ =“上”=創造の根元と根拠・・・
もっと良い表現の仕方があるかも知れへんけど・・・
そして○は、
・ が、“上”から“下”に降りた様。
その ・ と、○・・・
その間の場(フィールド)が、
事象と生命(生きる使命=存在理由)でもある。
そして、事象と生命は、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉・・・
それによって構築されていて、
それを観察と認識で感じ(感じる磁性)るのが、
神でも有り、
私達でも有り、
その“創造”の仕組みを指してるのが、
“亜”って言う字に示されてると思える。

そやからそれは、
究極微粒子としての荷電粒子の下降と、場(フィールド)の構築。
それが、
私達が感得し得る、現津(あきつ)・・・観察され得る事象やろし、
それは、“亜”の中の、
口とか(囗)くにがまえで示される場(フィールド)の概念って事になる。

ほんでから、
“上”から“下”に下降するプラスマイナスの荷電粒子、
(たて棒、コン)が二つは、
私達の心(靈)=○を通るからこそ、
肉体の磁性によるローレンツ力で回転をする。
それは砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転がある・・・
その回転方向により自分達が創造する=発振、発信により創造される事象には、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が、
観察され、
その発振、発信による創造の結果は、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)・・・
どちらかしか結果(因果)は無い。

今まで先生とKellyさんが言うて来た事って言うのんは、
そう言う事なんやけど・・・


話を戻し・・・
“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂
や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂
わ と ○=心(靈) あるぞ、”

この文章の中の、
“「あ」「や」「わ」”・・・と、“
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) ”・・・
この上つ巻 第二十六帖の表現自体が、
右往左往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きと、
左往右往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きの違いって事やと、
思えるな。

ちょっと複雑やから・・・今言うた事を簡単に表現すれば、
失敗を失敗と判らへんと・・・そう認識して無い心(靈)の発現の儘行動する・・・
それにもエネルギーはいるし、
それは言うまでもなく、
砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)やけど、
失敗を体験し、
そして自省(胸の磁性“十”)して、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現をして、
その心(靈)の発現をしたからこそ=自我より“上”の心(靈)の発現をしたからこそ、
そやからそれは、
霊的進化を少ししたからこそ、
よいカタチの創造を“上”から託される。
そやからそれは、
第二十四帖での表現でKellyさんが言うた事と反対やけど、
「あ」は、「ア」では無く、
こちら側からの観察の大極の根元での「あ」であるからこそ、
「や」は“その左の身魂、”って言われ、
それは、自分達が観察してる肉体と魂=身魂。
「わ」はその右の身魂で、
それは繰り返すけど、
左往右往の中の左と右、
只単純に右=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と、
左=日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)・・・って事では、
なくなるって事でんねん。

補足として・・・上つ巻 第二十四帖のKellyさん的解釈を一部コピペしとけば、

      ↓


“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。



・・・こうKellyさんは解釈した。
それに対し、第二十六帖では、
“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂
や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂
わ と ○=心(靈) あるぞ、”

“「ヤ」”と“「や」”そして“「ワ」”と“「わ」”は、
一見すると左右が逆になってるけど、
さっきも言うた様に“上”から視点と、
“下”から視点、人(日止、霊止)が“上”を見る視点は、
左右が逆になる。
そやから八咫鏡(やたのかがみ)等の“鏡”って言う言葉に示される様に、
事象の観察って言う、
神と人の共通の認識って言うのんは、
それが視覚で成されるなら、
見る、観る、視る・・・って言うのんは、
イメージを感じる・・・映像を見ている。
そやけどそれは、
平面の連続体=二次元の事象であり、
そこに立体の概念を感じたり時間の進行を感じたりするのは、
自分達の心(靈)の中の認識でもあるという話を先生とした。
(大脳の後頭葉の発達の事、
霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)” “その四”&“その七” 参照)
そやからこそ、
平面を見てるからこそ“上”からと“下”からでは、
左右は逆になる。

そやからこそ、
カタカナと平仮名に分けて表現されてると思える。
ほんでから、
砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転は、
“上”から観るのと“下”から観るのでは、
回転方向が違う。
それは反転でもあるし、
大極に対しこちら側の場(フィールド)って事にもなる。
それがカタカナの「ヤ」と「ワ」と、
平仮名の「や」と「わ」の違い・・・
少し霊的進化した心(靈)の中の左往右往の中の、
右=砌(みぎり)と左=日足(ひたり)・・・
そやからそれは反転してる。

・・・そやけどこれは、屁理屈にしか聞こえんかもれへんな・・・


そやから・・・左往右往の中の、
砌(みぎり)=よいカタチの事象を思いながらの創造のエネルギー・・・

霊的成長の法則性とも言い得る、
右往左往から左往右往する心(靈)の動きは、
それは簡単に表現すれば、
失敗の体験を教訓にして今後の創造をするって言うのんは、
日足(ひたり)の心(靈)の動きが、
砌(みぎり)に活かされるべきで、
その思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)は、
自省(胸の磁性“十”)の“行” 
“観自在”
“直日(なおひ)”・・・って事になって行く。

その事を言うてると思えるな。

ほんでから、
自分の心(靈)の中の砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その心(靈)=○=荷電粒子の場(フィールド)・・・
その中の“や”と“わ”が、カタカナの“ヤ”と“ワ”ではなく、
平仮名=こちら側からの視点で示され、
それは身魂の中の事やから、肉体を持った心(靈)やからこそ、

“や”と“わ”に、
○=心(靈)=荷電粒子で出来た場(フィールド)が加わって、
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) って表現されていると思える。

そやからそれは、
自分の外側(外国と幽界)では無く、
自分の中の心(靈)の動きって言う事で、
心(靈)の動きって言うのんは、
その発振、発信が、オーラの相互干渉でもそうなんやけど、
電磁波の受発信が事象の創造に関わる事でもあるし、
その事を言うてる感じがするな。

そやから何回も言うけれど、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きって言うのんは、
左往右往=思ってから意欲を出して創造して行く=良いカタチの創造を願い実現する。
それは又、
“上”の思惑と、
自分達の思惑が、
同程度になって行く事を示し、
そう言う世界の現津(あきつ)=観察され得る事象の創造を、
託されてるのが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
人(日止、霊止)って言う字になると思える。

・・・ほんでから、
“替え身魂”って表現されてる言葉、
何の“替え身魂”なのかって事でんねん。
神さんの仕事を託された身魂なのか、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑の、
それを顕現する眷属の憑依の起きてる身魂なのか、
一見して善悪って言うのは解らへん。
ほんまにそれは、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか・・・
そやから、
“替え身魂”って言葉は、
上つ巻 第二十六帖の冒頭の言葉の、

“「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、”

その“「あ」”って言葉に掛かると思える。

そやから“替え身魂”って言う表現は、
それは、神さんの思惑の顕現がすべてって事では無く、
今、神さんの思惑だけを受信してるのでは無く・・・

そやから心(靈)の構築って言うのんは、
様々な、
オーラの相互干渉・・・霊的干渉(電磁誘導)で行われてる。

それは例えば、
人対人・・・心(靈)の成長度が同程度の人達は、
場(フィールド)を構築する。
同程度の価値感同士の人は、
あまり極端に“上”の振動や“下”の振動を、
認めへんって言えばエエのかな。

そやから・・・簡単に表現すれば、
いきなり神さんの思想は理解出来んし、
仮に神さんの思惑だけの受信で心(靈)が構築されたなら、

“「あ」も「や」も「わ」も
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。”


そんな説明をせんならん理由は無い。
それが“掛替ない「あ」の身魂”って表現になると思える。

話が逸れたやん・・・話を戻し、

人はいきなり神さんの思惑を理解出来んし、
それに対し
極端な悪魔の思惑も理解出来んに決まってる。
それは変圧の過程があるからこそ、
自分の霊的成長度よりほんの少し“上”か“下”しか認識出来へん。
しかしそれでは、
ほんまに“上”に向かうには時間がとても掛かる。
そやからこそ、
“上”の振動を積極的に受信する=太陽凝視が人に示されている。
但し太陽凝視は、
自分の心(靈)の進化過程により、
心(靈)の発現の段階により、
どういうつもりでするのかってことが重要やって何回も言うたけど・・・
その事をこのブログに霊縁の有った人(日止、霊止)には、
“くどく”言っときまんねん・・・
まるで“日月神示”内の言い方みたいやけど・・・(笑)

今言うた“上”の振動の受信、
それに対し、
“下”の振動の受信は・・・今まで何回も言うたから・・・
それは事象の形骸化として示されてるから、
敢えて言うのはやめときまんねん。
それは、自分の心(靈)の、
“上”と“下”が有る事を理解出来たなら、
“上”と“下”の感応共振って事を考えたなら、
判断出来る事やからでんねん。

そやから何が言いたいかと言えば、
この“替え身魂”って言うのんは、
“下”の振動の受信・・・それによって心(靈)の構築がなされてる人、
それは、悪魔の傀儡になってる事が多いからこそ、
言われてる表現・・・

それは今も言うたけど、人にはたくさんの憑依現象が起きてる。
恨みの連鎖でいっぱいの星・・・
痛みと悲しみの星・・・
進化した宇宙的存在が使う表現でもある、
地球の今の様子。

しかしそれらは、
“下”の心(靈)の発現と、
それに感応共振する霊的存在との感応共振・・・
その霊的干渉・・・それによる心(靈)の構築・・・
その事自体が、
人を霊的進化程度によって分けなければならなくなった理由とも言える。
(アセンションの事)

ほんでから“上”と“下”の思惑の受信、
それは、
人(日止、霊止)の心(靈)の動き=乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
それによる事象の創造・・・
それがある意味、

“二”=肉体を伴ったオーラと儿部(じんぶ、にんにょう)で、
“元”でも有るんやけど・・・

要は、
色んな“上”と“下”の思惑の受信をして、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)は、
心(靈)の動きとしている。

そやから、霊的干渉と無縁の事象は無い。
霊的干渉が無い時間って言うのんは有り得へんって事でんねん。

そやから、簡単に言い直せば・・・

人(日止、霊止)って言うのんは、
悪霊の憑依もあり、
そして又、
“善”の思惑の霊的存在の通信も受けつつ、
右往左往と左往右往しながら、
色んな体験を教訓にして心(靈)が成長するんやけど、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・が、
日止、霊止・・・として在るべき方向性は、
(自分で決めて行く方向性は)
神格化と神聖な事象の創造でしかないからこそ、
以下の言葉が述べられてると思えるやんか。


“神祀るとはお祭りばかりでないぞ、
神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、
神に従ふことぞ、
神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、
神かかれば何もかも見通しぞ、
それで洗濯洗濯と、臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。”

この中で表現されてる、
“祀り”と“祭り”の違い・・・
これは前にも言うたから説明しませんねん。
ほんでから“まつらふ”と、
“まつはりつく”と、
“従ふ”と、
“子が親にまつはること”・・・
言うまでもなく創造主と人(日止、霊止)の関係を示し、
それは、
人の神格化と、
神聖な事象の創造を託されてる“子”であるって事でんねん。

ほんでから後半の言葉の、

“神にまつらふには洗濯せなならんぞ、
洗濯すれば神かかるぞ、”

・・・人って言うのんは何回も言うけれど、
人=丿部(へつぶ)神の思惑の顕現と、
乚部(いんぶ)人の思惑の顕現、
それはその両方、
神さんと人の思惑で、
現津(あきつ)=観察され得る事象を創造して行く。
そやからこそ人(日止、霊止)は神の子でも有り、
そやからこそ人が成すべき事って言うのは、
神の思惑を受け=“祀り”“まつらふ”“従う”と表現されてるし、
それを顕現すること自体が“祭り”でもあると思えるな。

そして“上”の振動の受信を示すのが、
日止、霊止でも有り、
その字が示すように何を止めるのかって事でもあるし、
それを真に固く止めるのが、
真実=真固止 
○ 九 十
誠=言葉成る・・・
言葉=発振した振動が成立し完成する。

そやから真実=真固止・・・
そう認識される事象を形成して行くのが、
霊的進化を果たした人(日止、霊止)の創造でもあると思える。
ほんでから、真固止って言う漢字の意味は、
Kellyさんや先生的解釈を言えば、
自分が発振、発信した振動が完成・・・それは、
上つ巻 第二十四帖の、
“七の日はものの成る日ぞ。”って事でもあると思えるな。

要は、
自分自身が霊的成長し、
“上”の思惑を受信し、
そして、自分の認識(悟り、幸取=さとり)として、
それを、顕現=現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をする。
それは、
現時点より段々神聖な世界に成る。
そこに真固止の反対の事象・・・虚構とか虚偽とか・・・
こんな言葉自体が陳腐何やけど・・・
そんなものは無くなり、その言葉自体が死語になると思えるやんか。

そやから、そうするべく私達は・・・自分で、
思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、
考え、
そして、
その思いや考えによる発振、発信に、
感応共振する、
“上”の思惑を取り込み、
心(靈)に止め・・・
それが、
人(日止、霊止)であるし、
そして発振、発信し・・・オーラとして発振、発信し、
生命対生命、
心(靈)対心(靈)・・・
それは“上”も“下”も、
互いが互いに影響を与え合いながら、
この場(フィールド)で・・・地球で・・・霊的成長をして行く。

ほんでから、
オーラの相互干渉=霊的干渉(電磁誘導)は
それは肉体を持った人(日止、霊止)同士でも有り、
神と人(日止、霊止)でも有るんやけど、
そうやって時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を認識して行きながら、
貴い事象を創造して行く。
その為には、
この世界=物質の振動を纏った世界に居てる私達は、
物質である肉体の結晶化を伴った成長=身魂磨きと、
この文章の中の表現“洗濯”、
それは、
自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を区別する。
その心(靈)の動きの“上”“下”に対し、
その振動に応じた霊的干渉があるって事で、
そのよいカタチを自分で判断する為に、
先生が知った事は、
心(靈)には“目上(めうえ)と目下(めした)”があるって事でんねん。

それは、
自分が神聖な事象を創造するには、
目上(めうえ)=“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、
目下(めした)=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、
それを理解したらエエ事やねん。

それが、先生とKellyさんが思う、
“身魂掃除”と“身魂洗濯”でんねん。

そして“上”の振動により肉体と心(靈)が、
時間の進行と共に創り変る事が、
“行と修行”でも有り、
又、繰り返すけど、
良いカタチに身魂を=肉体と心(靈)を作り変る事、
そのものが、
“身魂磨き”って事でも有り、
それは先生の表現では、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になるって事でんねん。
それは、
自分の心(靈)=○の中の磁性も、
“上”を向き、
物質である肉体も、自分の発する相対的に強磁場により、
分子の方向性が整列する=結晶化する。
そうすればなお、
“上”の思惑=高い振動と感応共振する。
そうなるべく具体的な方法が、
太陽凝視でも有り、
そして太陽凝視と電気行をあわせて行えば、
より骨の結晶化は進むんやけど・・・電気行の具体的方法の公開は、
“上”から許可が出て無いので、
只、そう言う方法があるって事を言うときまんねん。
ほんでからにこれも楽屋落ち的言い方やけど、
太陽凝視を教えてくれたKさんの子供たち・・・
彼等は、
太陽凝視と電気行を小さい時から訳解らずにやって来たって事もあるやろから、
先生の解釈を言うておく・・・そう言う事でも有りまんねん。

ほんでから“行と修行”、苦難と試練・・・それらは、
生体内電流に変る事でもあるって事でんねん。
ほんでから、肉体の生体内電流の発生って言うのんは、
肉体が磁性を持つ事に由来しているし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)や、
他生命の発振、発信する電磁波=心(靈)の動きの影響で、
それはオーラの相互干渉とも言い得るし、
すべての事象は電界と磁界で構成されているからとも言い得るし・・・

要は、
様々な電磁波を受信し=認識し、
それで生体内電流は発生する。

ほんでから、
取り込む振動の違いで=“上”の思惑と“下”の思惑で、
心(靈)の発現って事が起きる・・・それが先生の考えでもある。

それらの事を指し示してる言葉が、
前後するけど、
以下の言葉の一側面でもあると思えるやんか。

“「あ」も「や」も「わ」も
や と ○=心(靈) わ と ○=心(靈) も一つのものぞ。”


人(日止、霊止)って言うのんは、
そう言うものやって事でんねん。


ほんでから次の言葉、

“みたま引いた神かかる臣民を集めるから急いで呉れるなよ、
今に分かるから、それまで見てゐて呉れよ。”

これも“上”の思惑を受信するのか“下”の思惑を受信するのか、
それは“みたま引いた神かかる臣民”で、
受信の仕組みを持っている人(日止、霊止)は・・・
それは誰でもそうなんやけど、
“神かかる臣民”は、
“上”の思惑を受信するべく、
その時期(磁気)に間に合った人を指し、
それは、
アセンション後の創造を担える人(日止、霊止)を指していると思えるな。

ほんでから、
“「い」と「う」はその介添の身魂、”

これも上つ巻 第二十四帖と同じで、
視点が違うからこそカタカナと平仮名の違いでも有り、
平仮名の“い”は、
肉体の持つ左右の極性、
左目=天照大神=精神性=日足(ひたり)
右目=月読大神=物質の創造=事象の創造=砌(みぎり)
それはヨガならイダとピンガラって事になる。

ほんでからこれは平仮名やから、
こちら側からの始点での表現でもある。

補足として又、上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
以下にコピペしときまんねん。

     ↓

“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ。”

“「イ」”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + (たて棒、コン)

これも前に言うたけど、もう一回言うとけば、
“イ”は
神の思惑がこの世界に垂れた形を指し、
“「イ」”は、
息吹、伊吹、でも有り、
命(いのち)でも有り、
生きる、活きる、でもあり、
生きるって字そのものが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

ほんでから、“生”から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した残りの字は、
三 + (たて棒、コン)で、
この場合の(たて棒、コン)は“一”=智性=1番目のオーラの“上”から、
“下”に降りてる。
そやから、
頭より“上”って事でんねん。

ほんでから、“晴”は
“二二は晴れたり、日本晴れ。”・・・
ほんでから、“見晴らし台”の“晴”の、
日を外した青の、
上半分で、
その事は、上つ巻 第一帖で、言うた事やし、
“見晴らし台”の解釈は、
上つ巻 第五帖 ・・・で説明したから読んで欲しいねん。

・・・話が飛躍したけど、
息吹と命の“「イ」”は、
愛(炁)、アイ、のイでもある。
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
生気生命の発生力って表現がされてる。
それはまさに、
“亜”“ア”が下に垂れる形が“イ”・・・
そう言う感じ(感じる磁性)を受ける。

ほんでから“「ウ」”は、
又、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生物を生み出す力で、
産土(うぶすな)の“ウ”でもある。

そやから、
“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ”

“「イ」「ウ」”は、
“身魂” に備わった仕組みでもあるし、
それは、
霊的成長=神格化=幸福の意味。
それを指し示し、
それを成さしめる仕組みでもあるからこそ、
“介添えの御用ぞ”・・・と、言われてると思える。
そやからそれは、
心(靈)が、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を、
(心(靈)が)認識し、
そして心(靈)は“上”に向かい、成長をする。
要は、
“「イ」「ウ」”で事象の創造をする。
それが、
人(日止、霊止)と神の性質とも言い得る、
観察と認識でも有り、
それは、
発振、発信と受信によって成されるって事でもある。

そやからこそ人(日止、霊止)は、
神に近づく事そのものが、
“上”に向かう事そのものが、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象を望み、
それは、
心(靈)の呼吸、息吹、気吹、生吹、によって成される。
その事を極めて地球人らしい言い方をすれば、
人は幸福を求めるって事で、誰もが幸せになりたいし、
それを、“日月神示”の表現で言えば、
“うれしうれし”でもあるけれど、
それは現状に対し、
相対的な観察でもあるな。


     ↑
・・・以上でんねん。



ほんでから残りの言葉、

“その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、
いづれは分ることざから、それまで待ちて呉れよ。
言ってやりたいなれど、
今言っては仕組成就せんから、
邪魔はいるから、
身魂掃除すれば分かるから、
早う身魂洗濯して呉れよ。”


この文の中の、

“その魂と組みて「え」と「を」、
「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”

この文の中の“「え」と「を」”

「え」と「を」・・・これをカタカナに変換すると、
「エ」「ヲ」で、これを“道ひらき”の、
“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
カタカナのエは、
生命を生み出す源の音意とされ、
カタカナのヲは、完成と終り・・・

それを平仮名で表現されてるんやから、
結果、言葉の意味としても、
生命(生きる使命=存在理由)を生み出す事=創造・・・
もう一度創造の事を言えば、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉って事でもあり、
そしてそれは完成と終り・・・神格化でもある。

ほんでから、
“「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”の、
「ゑ」と「お」をカタカナに変換すると、
「ヱ」と「オ」になる。

“ヱ”って言うのは、満ち足りた生命 笑・・・ってことらしい。
それを平仮名やからこちら側から見た視点で示されてる。
この世界をそうしたらエエって事やな。
そうするべく・・・私達は今の事象を観察し、
そしてもっとよい世界の創造を果して行く。
そやからこそ、
“「ゑ」と「お」が生まれるぞ、”・・・でもあるな。

ほんでから“ヱ”・・・この字の意味として検索すると、
表面が崩れたとか複雑な形状の意って事も今回解った事でもあり、
そやからそれは、
最初は単純な構成でもある何か・・・それが、
ア、あ、“亜”・・・でもあり、
そしてそれに神さんの思惑と人の思惑が加わり、
段々複雑な事象を示して行く。

・・・そう言う意味やと思えるな。

ほんでから“お”は、
これも“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
カタカナのオは、
生命発生の元根・・・そう書かれてる。
それをこちら側からの視点で示されてるから、
平仮名の“「お」”に、
なっていると思えるな。

解釈が前後したけど・・・この上つ巻 第二十六帖は、

要は、
私達が良い世界を想像し、
それは“上”の思惑に沿ったものであるからこそ、
感応共振して“上”の思惑を受信し、
そして、顕現し、
そして、創造して行けって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈





今回も、上つ巻 第二十七帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、



何もかも世の元から仕組みてあるから神の申すところへ行けよ。
元の仕組は富士(二二)ぞ、
次の仕組はウシトラ三十里四里、
次の仕組の山に行きて開いて呉れよ、
今は分るまいが、やがて結構なことになるのざから、
行きて神祀りて開いて呉れよ、
細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、
臣民は子ざから、
子に手柄さして親から御礼申すぞ。
行けば何もかも善くなる様に、
昔からの仕組してあるから、
何事も物差しで測った様に行くぞ。
天地がうなるぞ、上下引繰り返るぞ。
悪の仕組にみなの臣民だまされてゐるが、
もう直ぐ目さめるぞ、
目さめたらたづねてござれ、
この神のもとへ来てきけば、何でも分かる様に神示で知らしておくぞ。
秋立ちたら淋しくなるぞ、
淋しくなりたらたづねてござれ、
我(が)を張ってゐると、
いつまでも分らずに苦しむばかりぞ。
この神示も身魂により何んなにでも、
とれるやうに書いておくから、取り違ひせんやうにして呉れ、
三柱と七柱揃うたら山に行けよ。
七月一日、ひつくのか三。



まず、冒頭の文章は、

“何もかも世の元から仕組みてあるから神の申すところへ行けよ。”

この中の、
“世の元から仕組みてある”・・・は、
霊的進化の法則性とか、生命の存在の理由とか・・・
その事でしか無く、
それは、
生命の存在の理由は、霊的進化で、
霊的進化は神格化で、
それが神の思惑で有り、
当然そこには、法則性が認識され得る。
又、
法則性が認識出来んとアカンって事でもあるな。
認識出来へん人ほど霊的成長度が低いって事やな。

そやからそれは、神さんの思惑・・・それを、
人(日止、霊止)が認識するなら、
造物主と被造物・・・その事自体が、
“上”の存在の創造って行為そのものであり、
そして、
人が認識する創造の仕組みって言うのんは、
神の思惑と生命の思惑、創造主と被造物の思惑、
それぞれ、
オーラの発振、発信でもあり、
発振、発信する電磁波(振動)の相互干渉って仕組みがある。

そして、この文章の中の言葉、

“神の申すところへ行けよ。”・・・は、

自分達が思う・・・理想とか・・・良いカタチとか、
それは、
生命の発生から段々心(靈)が発現し、
最初は=霊的に低ければ、
その思う理想や良いカタチの実現は、自己奉仕者としての行動になり、
段々“上”の心(靈)の発現をして行くならば、
それは結果として
“神聖な事象”を思い、
そして自分達の思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)として、
発振、発信し、創造し・・・そやから人(日止、霊止)が成す事って言うのんは、
その実現でしかない。

それは、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を認識する心(靈)が、
自分達が構築する場(フィールド)を持つ事により=認識する事により、
“下”の心(靈)の発現から“上”に向かい、
更に色々、
感じ(感じる磁性)て行き、
自分達が求めるよいカタチを、
想像し、
そして、
創造し、
それを達成する為に、私達は幸福の概念を持ち始めた。

そやから何回も言うてる事やけど、
より高い幸福の概念は神格化に繋がるって事でしかなく、
今、間違った幸福の概念が地球では多いからこそ、
こんな事も言われてるって事やし、
ほんでから間違った幸福の概念には、
甘い(亜、魔、出ずる、泉)考えが入り込んでるけど、
それ自体が甘いとかの認識を持ってる人がほとんど居て無いみたいなもんや。
それは、
自己奉仕者由来の発想とかの認識が、
自己奉仕者の心(靈)の発現の段階=自我の確立=固定化の人と、
自己奉仕者の行動をとっている人こそ、
自己観察が出来ない=自分の心(靈)の中の、
“上”と“下”を見出せないでいる。

そして、
創造の法則性を見出して無いとか、
神聖な事象の創造に伴う自分自身の成長の、
その法則性ゆえの、自分に対する厳しさを持っていないとか・・・

そう言う事が判らへんって事やし・・・
そんな概念すら無い。

そやから、霊的進化程度の低い人ほど、
自分の心(靈)の動きって言うのんが、
目先の欲望の充足が自分の心(靈)のほとんどになってるとか・・・
それを自分で判断出来ん・・・そやから自己奉仕者になる。
その判らへん事自体が、
心(靈)の発現の段階が自我の確立=固定化の段階でしかなく、
それ以上の価値感とかは、
そう言う人には理解出来ないって事でもあるし、
それ以上・・・自我より“上”の振動を獲得するチャクラが、
覚醒して機能していない。
それは、
心(靈)が“上”を向いていないって事と同義でんねん。
ほんでから、
自分の心(靈)が“上”を向いてるのか、
“下”を向いてるのかは、
“日月神示”で言われてる、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転=日足(ひたり)回り”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転=砌(みぎり)回り、

その違いでんねん。

それは儿部(じんぶ、にんにょう)=時間の進行と共に、
自分の心(靈)と、
肉体と観察され得る、
それぞれの事象を形成して行く事になり、
その事を指した言葉が、
仙道の概念=東洋医学の言葉の“気血栄衛(營)”でもあるな。

ほんでから、
心(靈)の方向性の“上”と“下”、
それは現時点の自分より、
相対的な事(相対的な観察から得られる認識)でしかなく、
その事を理解したら、
自分の在り方を判断する指標になるんやろけど・・・

自我より“上”の心(靈)の発現が出来て無いか、
或は、
“慈悲”と“慈愛”を少し持ってても、
その心(靈)の動きを自分で無視する・・・
そやからそれは、
相対的に観て霊的成長度が低い=霊的に幼いって事でもある。
そやからそう言う人達と、
少し“上”の心(靈)の発現をした=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をした人達を、
一緒にしておいては、良い世界の創造は出来へん。

そやから分けんならん=アセンションと認識される事を体験せんならん。

そして何回も言うけれど、
自我の確立=固定化の段階の人がやる事=その段階の創造は、
(通貨としての)金と、
物欲と目先の快楽と・・・八戒やな。
そしてそれも、
その為にエネルギーを贖わないで、
楽に事を済まそうとする傾向が強い。
その事自体がそれは、
心(靈)と肉体の創造にたいして繋がらん。
ほんでからそう思う事自体が、
人の霊的成長を望まない存在の思惑で、
その具体例が、
比較的簡単に利益を生み出そうとする発想を、
人にさせ=通信を送り、
そしてその思いの発振、発信で霊的干渉させ、
その事自体も又、
金を使ってみたかった・・・金に憧れを持っている低級な動物霊の憑依や、
甘い夢を達成出来なかったり、
金に執着を持ってる浮游霊の憑依を招く。
そして今、そう言う人達が経済を動かしている。
そう言う人達がもてはやされてる。
そやから、
どんなに金持ちになったとしても、
その(通貨としての)金の使い方って言うのんは、
ほとんどが目先の欲望の為であり、
低い功名心の為であり・・・それが、
大多数の金持ちの心(靈)の発現の程度を示してる。

ほんでから前後するけど、

自分がエネルギーを贖わないで、
沢山の利益を産む事を望む甘い(亜、魔、出ずる、泉)発想の、
株とか投機とか投資信託とか先物取引とか・・・
アフィリエイトなんかもそうやな。
ほんでから、水商売とか風俗とか・・・
泥棒とか・・・人を騙す事とか・・・
こんな事は例を挙げてたらきりが無いけれど・・・

“上”の認める仕事って言うのんは、
自分がどれ位エネルギーを贖い、
更に、
霊的成長=神格化を認識した上での、
法則性に則って(のっとって)いるのか・・・

そう言う仕事をせんと、
それは、
“上”に認められない。

この事は、
今までの“日月神示”の文章でも言われてて、
今後も沢山出てくる。
そやから通貨としての金、
それにかかわる目先の欲望、自分がエネルギーを贖わない・・・
その意味を・・・
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑なんやけど、
その事を良く知ってほしいもんやな。


蛇足として・・・

“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現は、
人を堕落させ何も生み出さん娯楽とか、
テレビのバラエティとかお笑い番組とか・・・
ダイエットとかサプリメントとか美容や美白とか・・・
そう言うものにも現れてるし・・・
こんな事も例を挙げたならきりが無いくらい、
いっぱいある・・・
ほんでからにそれが、
心(靈)の発現の段階が低い人こそ、
見せ掛けの何かって気が付かへんのやな。

そやから話を戻し、
自分がほんまに成長の法則性を自分が見出し、
自分の心(靈)が“上”に向かう。
それ自体が、
ほんまの意味での“正しい”って事でんねん。
ほんでから“正しい”って言う字は、
“上”と“下”が繋がった字でもある。


・・・かなり話が横道に逸れたやんか。

要は、人(日止、霊止)が目指すべき、
何かを示してるって事なんやけど・・・


ほんでから、次の文章は、

“元の仕組は富士(二二)ぞ、
次の仕組はウシトラ三十里四里、
次の仕組の山に行きて開いて呉れよ、”


この文章の、

“ウシトラ三十里四里”

カタカナの“ウシトラ”は、
漢字で書けば=人が感じ(感じる磁性)る認識(悟り、幸取=さとり)としては、
“艮”で、
その字の意味は、前のブログからコピペしときまんねん。
(エピローグ 神の思惑の顕現・・・神聖な事象)

     ↓
“艮(うしとら)”って言うのんは、
目と、反対側を向いた人とを、
合わせた字で、
反目するとか、逆らうの意味がある。
ほんでからに、
とどまるとか、かたいとか・・・押しが強いとか・・・
そう言う意味もある。
これは試練や苦難に対する言葉やって先生は思うてる。


     ↑
以上でんねん。

ほんでから、
“元の仕組は富士(二二)”
・・・の、
“富士(二二)”と、
“三十里四里”に付いては、
以前、
“日月神示”上つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈
・・・で解釈した事を、
コピペしときまんねん。

     ↓

“三十里四里”は、
距離の事ではなく、
“富士”も、地名としての富士山とか富士市の事では無い。

“富士”=“二二”で、
それは肉体の持つ左右の極性でもあると思える。
この事はこのブログの初めの頃の文章で説明したな。

ほんでから、
“三十里”は、
“三”は三つのオーラで、
“十”は何回も言うたから敢えて説明しませんねん。
そやから、
“三”と“十”を足すと、
人(日止、霊止)の完成された様子を示す“王”に成る。

ほんでから“四里”は、
“四”は、発振、発信する様で、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)

“里”は、
この間、上つ巻 第二十帖の“十理(トリ)”の解釈で言うた様に、
“田”と“土”で構成された字でもある。
思想と行動=発振、発信・・・それによる、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造でも有り、
それは人(日止、霊止)の思惑と顕現でもあるって事でんねん。
人の思惑と顕現には“上”の思惑を足さんとアカンって事でんねん。
“上”の思惑を認識する肉体の器官は、
“田”に示される大脳新皮質・・・目上(めうえ)の脳って事でんねん。
これもいちいち説明するととても長くなるから、
霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”を、
よく読んで欲しいねん。

そやから、
“三十里”と“四里”は、
すべて“里”に掛かる言葉で、
それは“富士”と、一体ではない・・・そう言う表現がエエのか知らんけど、
“上”の思惑が肉体のオーラと一体ではなく、
その肉体のオーラの発振、発信が“上”の思惑通りでは無いからこそ、
“上”からの通信を受けた認識が、
人の創造し得る事象に生かされて無いからこそ、

“富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、
富士にも祀りて呉れよ、”

・・・って言葉になる。
“上”の思惑と、
人(日止、霊止)の思惑が一体では無いって事を指し示し、
そやからこそ、
“祀りて呉れよ”=受信して自分に体得して、
それを、
大脳で感じる認識(悟り、幸取=さとり)にしてくれ・・・って、
事でもあると思えるな。

ほんでから次の言葉も、今言うた事と同義、

“富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。”

“富士”=“二二”で、それは、肉体の左右の極性。
“上”の思惑が、富士=左右の極性に活き、
人(日止、霊止)の思惑と“上”の思惑が一体になり、
そして事象の創造をして行く事を示す言葉で、
それがアセンションの時期に遭遇する、
フォトンベルト=大日如来の条帛(じょうはく)で、
条帛(じょうはく)そのものが、
“呂”=“上”と“下”の口 + 丿部(へつぶ)、
それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を示し、
左往右往を示す事でも有り、
腹のエネルギーの上昇する様子でもある。
そして人(日止、霊止)は、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現する。


     ↑

・・・長かったけど、以上でんねん。

そやから、“ウシトラ三十里四里”
試練に立ち向かう心(靈)の動き、
それは左往右往の段階での、
砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)とも言え、
それは前回の上つ巻 第二十六帖の、
替へ身魂わ と ○=心(靈)  の、
心(靈)の動きでもある。

それは、Kellyさん的には、
“左往右往の中の、
砌(みぎり)=よいカタチの事象を思いながらの創造のエネルギー”
・・・って解釈をした。
そして、左往右往、その時の心(靈)の発現が、
“慈悲”と“慈愛”で、
それは重複するけど、
“三”と、
胸の磁性“十”と
“里”=田と“土”=2~3番目、肉体のオーラと、
“四”=発振、発信の意味と、事象の創造を示し、
(Kellyさんが“日月神示”の解釈をして行くに当たって 参照)

今起きている事やこれから起きる苦難、
それを体験し、そして自分の在り方を思い=“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の行をして、
そして今後の創造を自分達が思い、
良いカタチの創造を自分達で実現する。
そう言う事でんねん。
そやからその意味に掛かる言葉として、
次の言葉、

“今は分るまいが、やがて結構なことになるのざから、
行きて神祀りて開いて呉れよ、”

・・・そう言う事でんねん。

ほんでから、
“神祀りて開いて呉れよ”は、
“祀り”と“祭り”・・・その違い。
それも人が高い心(靈)を発現して“上”の思惑を取り込み、
自分の心(靈)にするのが“祀り”で、
それを事象に実現する事自体が、
“祭り”・・・
今までも言うた事やけど、敢えて言うて置きまんねん。


ほんでから次の言葉は、簡単な意味やけど、

“細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、
臣民は子ざから、
子に手柄さして親から御礼申すぞ。”

自分達でエネルギーを贖って、
苦難を霊的成長の為の試練と捉え、
ローム太霊さんの言葉、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん
・・・や、
S会=紫光会の交霊会でよく言われた言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない

その意味が解るなら、
この文章は良く理解出来る。

そやからそれは、
贖い(あがない)、
霊的進化せんと、
認識(悟り、幸取=さとり)は得られない。

“上”の心(靈)の発現由来の認識は、
自我より“上”の心(靈)の発現が無いと得られない。
それを言うてるだけやねん。

ほんでから、

“行けば何もかも善くなる様に、
昔からの仕組してあるから、
何事も物差しで測った様に行くぞ。”

これも、進化の法則性を示し、
自我の心(靈)の発現の段階やからこそ、
今の地球の事象は、
痛みと悲しみの星になってて、
恨みの連鎖でいっぱいになってる。

それに対し、相対的な比較としての言い方でもあるな。
そやからそれは“日月神示”の表現ならば、
“うれしうれし”とか“大歓喜”って事になる。

そやからこの文自体が、冒頭の言葉の、
“世の元から仕組みてある”=霊的成長の結果は、
そう言う事って事でんねん。

ほんでから、次の言葉も、

“天地がうなるぞ、上下引繰り返るぞ。
悪の仕組にみなの臣民だまされてゐるが、
もう直ぐ目さめるぞ、”

・・・言うまでもなく、
今、盛んになっている形骸の価値感の現象化と、
それをもてはやす自己奉仕者の心(靈)の動きの事を言うてる。
さっきも言うたけど、
見せ掛けの癒しとか、
簡単に金を儲けるとか、
自分が気をつけんならん事を避け、
サプリメントで健康を維持しようとか、
見せ掛けの美・・・ブランドとかファッションとか、
美容や美白の概念で太陽を避け、骨の結晶化をさせないとか・・・

・・・余談やけど、
先生は前のブログで、
線維筋痛症や慢性疲労症候群は、
美白や美容の価値感で、
人(日止、霊止)が太陽を避けるようになった結果なんだって文章を、
作ったんやけど・・・ボツにしましてん。
それは・・・
補足説明をもう少ししっかりして、違う機会に紹介するかもしれませんねん。

話を戻し・・・今、言うた事なんかも含め、
それらすべてが低い心(靈)の発現の段階での価値感、
外側(外国と幽界)の事象の観察ゆえの価値感で、
ほんでからその事が、
形骸で、
それは、
真実=真固止ではない。

そやから、
“悪の仕組にみなの臣民だまされてゐる”
“もう直ぐ目さめるぞ、”
・・・って事でんねん。

そやから、本当の事を知りたいとか、
価値のある何かを獲得したいとか、
それは幸福=神格化でしかないって事で、
それに目覚めたなら=少し“天の御目”を自分の心(靈)に、
持ったならば、

以下の言葉、

“目さめたらたづねてござれ、
この神のもとへ来てきけば、何でも分かる様に神示で知らしておくぞ。”

“目さめたら”=“天の御目”って基準を獲得するには、
“慈悲”と“慈愛”・・・
左往右往の体験により胸の段階の心(靈)の発現があるからこそ、
言うまでもなく次の言葉は、
季節の“秋”の事ではなく、

“秋立ちたら淋しくなるぞ、
淋しくなりたらたづねてござれ、
我(が)を張ってゐると、
いつまでも分らずに苦しむばかりぞ。”

この文章の中の“秋”・・・

“秋”に付いては、
“日月神示” 上つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈で、
前に解釈したからコピペしときまんねん。

     ↓

“秋が立ちたち、”
これは上つ巻 第六帖と同じで、
単なる時代背景の事を言うてるとはとても思えへん。

Kellyさんがそう思う根拠は、
“秋”・・・禾(のぎへん)と、火で構成された字やからや。

そやからそれは、
禾(のぎへん)が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と木部で構成されてる。
木部って言うのんは、
胸の磁性“十”の下に、儿部(じんぶ、にんにょう)を足した字やって言う事で、
そやからそれは、禾(のぎへん)自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 胸の磁性“十” + 儿部(じんぶ、にんにょう、人が歩く様子に象るの意味=時間の進行)で、
それは時間を伴う霊的進化そのものを表してる。
言い換えれば、
時間って言う振動の変化を吸収しながら、
(時間の認識を持ち)心(靈)は育っていく。
そういう事を表してるように思えるやん。
ほんでからにそれは、禾(のぎへん)と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)と共に書かれてるから、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は、
幽界の“幽”、
幽か(かすか)の左右の糸を外した山みたいな字と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は同じで、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現が、
(“上”から観て相対的に)幽かな時は、
自分の外側しか見ないって事でもある。
ほんでから、“日月神示”内の表現としては、
幽界=外国で、
そやからそれは自我の確立=固定化の進化過程やし、
その時の心(靈)の動きは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
本能、情動、功名心、自我・・・迄やから、
目先の欲望や低い自尊心や功名心や・・・それが中心の心(靈)になる。
そしてその心(靈)の動き由来の行動=発振、発信をする。
そう言う創造をして来たのが今の世界でもあるやん。

ほんでから“幽”の左右の糸、
左右の極性、砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性で、
心(靈)は・・・(霊的)進化過程の心(靈)の発現って言うのんは、
腹=下三つのチャクラから、
胸=アナハタチャクラの覚醒って事になる。
そやからそれは一言で言えば、
心(靈)が“上”に向かって行く。
段々、アナハタチャクラ由来の心(靈)の発現をして、
“慈悲”と“慈愛”を発現して行く。
この事が解り難かったなら、
前のブログ、
思惑と顕現 “その三~八”までを読んで欲しいねん。
その中で特に“摩多羅神”の所は、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の進化過程が、
解り易いと思いまんねん。

心(靈)の発現・・・
“上”に向かうから、
段々神さんに近付いて行こうとするから、“慈悲”と“慈愛”を自分の心(靈)に持つ。
そう言う意味で、禾(のぎへん)と火になり、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”の振動を獲得し、
胸の磁性“十”をしっかり構成する為の事でもあると思えるやん。
又、別の表現をすれば、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そしてそれは自省=左右の磁性でもある。
帯電するミネラルが固まっていく様が、
心(靈)が“慈(しげる)”事でもあり、
固まってない=水の中の帯電するミネラルの段階が、
腹=水=江戸の“江”の段階の心(靈)の発現ゆえの価値感、
“石屋の仕組み”でもあると思えるやん。

そやから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”から垂れた振動を、
人(日止、の振動を取り込み、
胸の磁性“十”をしっかり作って行き、
その時の心(靈)の発現が、
“慈悲(いつくしみ、かなしむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって行く。

そやからそれは“秋”と書かれてると思う。

そしてもう一つ、
“秋が立ちたち”・・・立ちたちって二回立つって言うてる。
これも、
左右の極性の事としか思えへんって事でんねん。
そしてこの間先生と行った、
瀧原宮の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の、
“竝(ならぶ)”と同義やと思える。

そやから動物から人(日止、霊止)への進化って言うのんは、
心(靈)の発現が段々“上”に行く。
その為に、その時に、
前足が手になったとも言い得るやん。

手が構成する磁束は、
肉体のシンクロトロンの構造を持つ土台みたいなもんや。
それは、進化って言うのんは、
“上”の振動を取り込まんならんのやし、
より“上”の振動と感応共振する為の変化=ほんまの進化の意味、
神格化への道程でもあると思えるやん。
そやからこそ現時点、地球上で起きてる事象でその具体的な事としては、
失敗を体験して自省する=右往左往から左往右往でもあるし、
その時点時点で感応共振する霊的干渉でもあるし、
特に、左往右往=自省・・・その時の霊的干渉の中心になるのは、
やはり、
一番身近な霊的成長度の先輩としての主護霊って事になるやろ。
そやからそれは、
どんなに失敗してどん底であろうが、
その結果が不幸な死であろうが、
共々にいく”って事になる。

ほんでから、
左往右往に入る前に、
自分自身の低い心の発現由来の思惑の顕現をしようとする。
それが砌(みぎり)の“行”、右往左往やけど、
その時に起きる霊的干渉は、
目先の欲望とか甘い思いとかの発振、発信に感応共振する霊的存在やし、
それは左往右往の時期に入るまで主護霊は見守る・・・
それは、自分が間違った事をしてるって自分で気が付く為には、
失敗の体験は必要って事になる。
そやから自省する・・・自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、
“直日(なおひ)”=自分を振り返る事でもあるし、
“観自在”=自分の在り方を観察するって事になる。

そう言う意味でも、
“秋が立ちたち”・・・
腹の段階の心(靈)の発現から、
左右の神経を使い、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
この字の構成は
茲(やしないそだてる、いつくしみ)と心(靈)で、
ほんでからに茲(やしないそだてる、いつくしみ)の左右の糸の“上”にあるのは、
クサカンムリやし、
それは芽生えるって事でんねん。


     ↑


“秋”に付いては大事な事やと思うから、
ちょっと長かったけど・・・そのままコピペしましてん。

要は、
自己奉仕者の心(靈)の発現と、
その心(靈)の動きを自分で理解して、
自己観察し、
それが、その心(靈)の動き=発振、発信と行動が、
事象に及ぼす、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、
或は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、
それを理解せんならんからこそ、
次の言葉、

“我(が)を張ってゐると、
いつまでも分らずに苦しむばかりぞ。”

・・・って言われてると思えるな。

そう言う点でも・・・次の以下の言葉は、
心(靈)の発現の段階によって、
自分の受け取り方=認識は違う事を、
指し示しているやん。

“この神示も身魂により何んなにでも、
とれるやうに書いておくから、取り違ひせんやうにして呉れ、”

そやから、
間違えたらあきまへんで~って事でんねん。
霊的に低い人は低い解釈しか出来ん=低い振動しか持ってないし、
低い思惑=低振動の荷電粒子しか、
自分の心(靈)に取り込む事が出来ない。
ほんまに価値のある貴い何か・・・
それは、
心(靈)の発現の低い段階の人が大多数の地球上では、
商売に利用されたり、
低い功名心を満たすことに利用されたり・・・なんでも形骸になってる。

そのうちで特に・・・先生が懸念してる事の一例を挙げれば、
心(靈)の発現の段階の低い人が太陽凝視をすれば、
単なる不食を目指す事になり、
太陽凝視は不食の達成の為にあるものだと思い込み、
更に、
アセンションの解釈や、
“身魂磨き”や“身魂掃除”や“身魂洗濯”や、
“鏡を磨く”・・・“日月神示”内の言葉を、
とんでもなく低い解釈にする。
そしてそれをネットで広める・・・それが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
目的=思惑って気が付かん。
それは、
“われよし”=自己奉仕者の人には解らへんって事でんねん。

そやから、
解る人(日止、霊止)にしか、
判らへんって事なんやけど・・・

話を戻し、以下の文章・・・

“三柱と七柱揃うたら山に行けよ。”

この言葉も我田引水な解釈をすれば、
“柱”って字を構成している木部は、
胸の磁性“十”と、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)。
ほんでから、柱の木部を外した字は“主”って字やけど、
ローレンツ力 +“王”って字に観える。

  柱の解字 そやから“三柱”・・・
“三”と柱は、三つのオーラの事を指し、
それは頭と、胸と両腕と、腹と腰と骨盤と足・・・
その三つの磁性を指し、
そして、
“七柱”は、
肉体内の七つのチャクラ、七つの磁性による回転を指し示してると思える。
それが揃ったなら、
“山に行けよ。”

この解釈も何回も言うたけど、
山=脳って事でんねん。
肉体の発振、発信である“三”=三つのオーラと、
荷電粒子を取り込み発振、発信する仕組み=チャクラは、
すべて自分の思想になり、
それは思いって字に表され
心=靈、
思い=心(靈)の四つの場(フィールド)=田、
そしてそれは、大脳の新皮質の機能を指し示し、
そしてそこで行われてる心(靈)の発現自体が、
相対的に高い心(靈)の構築になる。

そやから、“三柱と七柱揃うたら山に行けよ。”は、
人の完成の仕組み、
霊的進化の仕組みを示した言葉でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈




今回も上つ巻 第二十八帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、



世界中まるめて神の一つの詞(王)で治めるのぞ。
それが神のやり方ぞ、
百姓は百姓、
鍛冶は鍛冶と、
今度はとことはに定まるのぞ、
身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、
茄子の種には瓜はならんぞ、
茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、
今の世はみなそれでないか。
これで世が治まったら神はこの世に無いものぞ。
神とアクとの力競べぞ。
今度はアクの王も神の力には何うしてもかなはんと心から申す所まで、
とことんまで行くのざから、
アクも改心すれば助けて、
よき方に廻してやるぞ。
神の国を千切りにして膾(ナマス)にするアクの仕組は分りて居る、
アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、
天地ひっくり返る大戦となるのぞ。
残る一厘は誰も知らぬ所に仕かけてあるが、
この仕組、
心で取りて呉れよ、
神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。
臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。
七月一日、ひつ九のか三。


“世界中まるめて神の一つの詞(王)で治めるのぞ。”

これは、
場(フィールド)の構築の法則性っていう事を、言うてると思いまんねん。

前回の、上つ巻 第二十七帖でも、
すべての事象や、
自分達の存在の理由とか、
生命(生きる使命=存在理由)の進化=霊的成長の法則性とかを、
感じさせる言葉やった。
それは、以下の言葉、
“何もかも世の元から仕組みてあるから神の申すところへ行けよ。”
この言葉の印象は、
根元の・・・とか、私達の存在の理由とか根拠とか・・・
そういう事を思わせる言葉やった。
(前回の記事を読んで欲しいねん。)

それに対し、今回の二十八帖はさっきも言うた通り、
ちょっと違う事を言うてる。


Kellyさんがそう思う根拠は、文中の言葉、

“神の一つの詞(王)”・・・“治めるのぞ。”・・・“世界中まるめて”

その中の“詞(王)”
まず、詞って言う字は、
読みは、
音読みで、シ、ジ、
訓読みで、ことば、
辞書を観るとその意味は、
言葉の最小単位で“虚字”(それ自体に意味の無く、文法的な役割をはたす語)とか、
“次々とつなぐ言葉の意”って言う事でんねん。
そやから、副詞、動詞、形容詞、名詞、代名詞・・・って使われ方をする。

要は、この冒頭の文章の中の“詞”そのものに
何か特定されるべき意味は無く、
その後に書かれてる(王)に意味があると思えるな。
そやからそれは音読みの“ことば”とか、
“次々とつなぐ言葉の意”って事が、要点やと思える。

そやからまず、“ことば”って言うのんは、
今まで何回も言うたけど、
“誠”=言葉成る、
言葉成る・・・の“言葉”の意味は、
自分が発振、発信した振動が完成するって言う事を思わせるし、
それは 上つ巻 第三帖の中の言葉、
“善言(よごと)は神、”
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信は神って事でもある。

ほんでから“(王)”
“王”=三つのオーラを縦に繋いだカタチ、人の完成された様。
霊的進化の法則性って言うのんは、
段々人(日止、霊止)が完成に近づくって言うのんは、
人が神格化に近付くって言うのんは・・・
前のブログでもこのブログでも何回も言うたけど・・・

今の地球人の進化過程って言うのんは、
“王”=霊的進化した存在から観察すれば、
“土”=2~3番目のオーラの進化過程が中心でもある。
そやからそれは、
“一”=智性=1番目のオーラのオーラがあまり無い段階。
ほとんどの地球人はそう言う霊的成長度って事でんねん。

しかしそれでは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑に、
支配されやすいし・・・
それは低い心(靈)の発現しかしていないからこそ、
自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)=○ やからこそ、
同程度の心(靈)の発現の霊的存在・・・いわゆる悪霊と認識される霊的存在。
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊って事で、
その悪霊に心(靈)の動きを乗っ取られてる人が沢山居てる。
そして今、沢山の現象が起きてる・・・これからどんどん増えて行くやろな。
そやからそれは、上つ巻 第二十五帖の文章のように、
“一日に十万、
人死にだしたら神の世がいよいよ近づいたのざから、
よく世界のことを見て皆に知らして呉れよ。”

・・・これくらいの悪霊の憑依現象の結果を、
人が観察して体験して・・・認識して、
それからでないと、
今の世界は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡の世界で、
失敗の世界で、
右往左往の世界やって事に気が付かん。


こんなことも何回も言うた事やし・・・
心(靈)が“上”に向かって無いとか、
“上”の心(靈)の発現をしていない人(日止、霊止)には判らへん。

まあエエわ。

そやから今説明した“詞(王)”・・・に対しての事が、
次の言葉、

“それが神のやり方ぞ、
百姓は百姓、
鍛冶は鍛冶と、
今度はとことはに定まるのぞ、”

これも只単に、
百姓=農業と、
鍛冶屋=金属を加工する商売の事を言うてるとは思えへん。

Kellyさん的に思う“百姓”は、

“一” + 丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 日=太陽・・・

そやからそれは、“日月神示”内の表現で言えば、

“神のやり方は日の光、
臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、
日の光は神のこころ、稜威ぞ。”

・・・これは、上つ巻 第二帖の言葉でんねん。
最初からこう言う事を“日月神示”は言うてまんねん。

ほんでからそれと別の解釈として、

“一”+ 白=(クンダリーニの白光)・・・そう言う解釈も出来る。
クンダリーニの白光はシンクロトロン放射で、
両腕と胸の磁性と=横の磁性と、
頭と、腹、骨盤と足による縦の磁性、
その両方によって起きるのが、
○ 九 十の、“十”に示されるシンクロトロン放射の成り立ち、
シンクロトロン放射だからこそ白い光を出す。
先生は太陽凝視を教えてくれたKさんのオーラを、
一番最初に観た時に、
それを観測した。
(クンダリーニの白光 参照)

ほんでからそれは人(日止、霊止)の霊的進化過程の段階でもある、
“土”=2~3番目のオーラの拡大の過程から、
“王”・・・智性を持った人(日止、霊止)になる為の事でもある。

ほんでから“百姓”の“姓”は、
“女”って言う字の解釈は前のブログでも言うたけど、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)
+ “一”=智性=1番目のオーラ + 丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)。

そやからそれは、
神の思惑の顕現と人の思惑の顕現が重なって、
そして人が獲得する神性と智性・・・
そう認識され得る心(靈)の動きが、“一”=1番目のオーラに示される。
そうやって事象は創造され、
言い換えれば自分達の1番目のオーラの大きさにより、
事象として観察される事を示してる。

そやから前後するけど、その事を言うてるのが、
“世界中まるめて神の一つの詞(王)で治めるのぞ。”

霊的に進化した人たちの、
場(フィールド)の構築って事やと思える。

そやから・・・それに対し、
今の地球の平均的霊的成長度では、
1番目のオーラが宇宙的に観て小さい。
今現在は、“土”=2~3番目の“行”ばっかりの世界やからこそ、
右往左往の事象ばかりやからこそ、
この世界は崩壊しかかってる。
様々な物が形骸になってる。
低い価値感を低いと認識出来へん世界でもある。
それは、霊的に進化していない=智性を持ってへんからや。
又、それは、
智性=神性を獲得する“行”=左往右往と自省(胸の磁性“十”)の“行”を、
やってはる人は、
(地球上では)相対的にごく少数って事でんねん。
その事を示してるのが又、上つ巻 第二十五帖の文章を引用すれば、

“一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、
いくら買溜めしても神のゆるさんもの一つも身には附かんぞ、
着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。”

・・・右往左往の失敗を示してるし、それに対し、

“早う神心にかへりて呉れよ。
この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、
踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからはお手柄さして、
とことはに名の残る様になるぞ。”

・・・左往右往して、
“観自在”して自省(胸の磁性“十”)して、“直日(なおひ)”して、
そして智性を獲得する人(日止、霊止)=“王”の事を言うてる。


ほんでから“百姓”の“姓”の“女”=事象の現象化、思惑の顕現、砌(みぎり)と、
そして生む=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、
生から丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した字は、
上つ巻 第一帖で言うたけど、
そのKellyさん的解釈の対象の文章は、

“二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、”

・・・で、これも大事な事やと思うからそのままコピペしときまんねん。


     ↓



“二二”が晴れる、そして“日本晴れ”って表現されてる。
これは、晴れは、日と青。
青は、
三=三つのオーラと(たて棒、コン)と、月・・・
そやけどこれは辞書を見ると月部(げつぶ、にくづき)ではなく、
“丹”って言う字らしく、
それは地中にある鉱物って言う意味らしいやん。
そやからそれはストレートに帯電するミネラルって事を思わせる・・・
ほんでからに、“青”の上半分は、
生きるって言う字の、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した物らしいやん。
ほんでからにその、“青”の上半分は、
芽生えるって言う意味でもあるって辞書に書いてあった。
ほんでからにこれも、
三つのオーラを縦に繋いで、
ほんでからにそれは“一”の上に出てる・・・
それは“上”に向かう意志やねん。
そしてこの字そのものが、
“土”=2~3番目 + “一”って言う事やと思いまんねん。
更にこれは、先生と話した事やけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
乚部(いんぶ)で、乙で、
この事は前回のアップでも言うた事や。
“七”の象形文字のところを読んで欲しいねん。
そやからそれは、
日足(ひたり)“上”から横に砌(みぎり)“上”に移行し、
そして、
砌(みぎり)“上”から日足(ひたり)“下”に移行し、
そして、
日足(ひたり)“下”から砌(みぎり)“下”に移行し、
最後に“上”にはねる。

・・・複雑な言い回しをしたんやけど・・・
生きるの丿部(へつぶ)を外した残りは、
こう表現するのが妥当やと思いまんねん。

     ↑


・・・以上でんねん。


ほんでから、もう一つ文中の中の“鍛冶屋”・・・
鍛えると、治めると、
屋=“尸(しかばね、かばね)”と、
“一”と、
ム部(しぶ)と、
土=2~3番目のオーラの意味と肉体の意味・・・その両方を持つと思えるやんか。

前後するけど、鍛えるって言うのんは、
金へんと段、金属の段階、
肉体に持っている、
“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子が持つ磁性の事でも有り、
ほんでから、帯電するミネラルの結晶化は、
生体内電流による磁性で行われる。
その事そのものが“行と修行”の目的と意義でもある。
そして帯電するミネラルの結晶化は相対的に高い振動と感応共振し=同調し、
増幅し、発振、発信する。
そして他者にオーラの発振、発信として影響を与えて行く。
そう言う話を先生とした。
それそのものが、
霊的成長を果たした人(日止、霊止)が構築する、
場(フィールド)になって行くって事でんねん。
ほんでから先生は、
自分の太陽凝視と電気行に対し、
その認識をしっかり持ってはるからこそ・・・一応頑張ってはる・・・
そやけど・・・最近はジジイになってきて、
体力が無くなってきて段々踏ん張りが効かんようにもなってきたらしいけど・・・
それは、
肉体の顕現=この世界で心(靈)が物質を纏いながら、
“行”をするって言うのんは、
特別な許可が無いと永遠には出来へんやろって先生は思うてはる。
それは先生自身が、
年齢に伴う肉体の崩壊=死を意識し始めてるって事でも有るんやろけど・・・
無くなってきた体力の中で、
やはりしっかり“行”をするって事が大事で、
それも自分の体力=贖うべきエネルギーがあり、
その中でも若い頃に比べだんだん“行”が・・・
特に電気行がレベルが上がらんようになってきてるけど・・・
それでもやめんと頑張る事が大事。
それはローム太霊さんの言葉でもある、
不断の祈りと間断なき行”って事でもある。

・・・話が逸れてしもた。

ほんでから次の言葉、

“身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、”

まず、“身魂の因縁によりて”
これは、
“身魂”=肉体と心(靈)、
但し、この事象での心(靈)は魂と呼ぶのが妥当、
ほんでから、
“因縁”=結果とか、因果、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”、
それは・・・やって来た事の結果って事で、
それは言い直せば霊的成長度によりやって来た事、
更に言い直せば、
自分の心(靈)の動きゆえの事象の観察=創造、発振、発信、
それには“上”と“下”があるって事で、
その“上”と“下”を認識(悟り、幸取=さとり)せんならんからこそ、
この世界=地球上での事象は、
“玉石混交(淆)”って事になる。
ほんでからに相対的に、
それは神の視点からして、
“下”の心(靈)の発現=帯電するミネラルが結晶化していない人が起こす事象=“石屋の仕組み”・・・
それは、
低い心(靈)の動きゆえの欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・
そう言う世界を構築してきた。
それにより、以下の言葉、

“今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、”

アセンションと認識され得る事象により、
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”
と、
そう言う大多数の地球人に対し、
次の世界の創造を担えるだけの智性=神性を獲得し、
それゆえの自分の目下(めした)の心(靈)の動きに対する“厳しさ”を持った人、

・・・ちょっと複雑な言い回しをしたけど、
そやから後者の創造する場(フィールド)は、
真実=真固止、
○ 九 十、
誠=言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する・・・
そう言う場(フィールド)になって行く。

その事を示してるのが次の言葉、


“茄子の種には瓜はならんぞ、
茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、
今の世はみなそれでないか。
これで世が治まったら神はこの世に無いものぞ。”

本当の事をはぐらかすのが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の仕組み。

本当のことって言うのは、
真実=真固止、
○ 九 十、
誠=言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する・・・

今まで先生とKellyさんはそう言う表現をした。
それは、
右往左往して左往右往して獲得する認識でもあるし、
それは“身魂磨き”=肉体の組織・・・
特に骨の結晶化で、
段々普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の、
高い振動と、
自分の心(靈)が感応共振し、
それ自体が、
相対的に“上”の心(靈)の発現になり、
自我の確立=固定化=腹の段階の心(靈)の発現より、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現になって行く。

そうなるべく人は、
その前提に於いて、
自分の心(靈)を意識して行くべきなんやろけど・・・

腹の段階の心(靈)の発現・・・
見せ掛けの幸福感、見せ掛けの癒し、
自分がエネルギーを贖わないで幸福になれると思わせる事、
今まで色んな言い方をして来たけど、
それは霊的進化の法則性に則って(のっとって)いない。
その具体例が、
インチキ宗教、ヨガを低い解釈で商売にしてしまっている事とか、
占いとか、何とかセラピーとかオーラソーマとか・・・
悪霊払いとか浄化とかがうたい文句のインチキ霊感商法とか、
サプリメントを売る為に人の不安を煽る健康番組とか、
お笑い番組、グルメ番組、霊能力バラエティとか、
例を挙げると話にならんくらい沢山ある。

それらに共通する事は、
それぞれに低い霊的干渉と低い心(靈)の発現と、
金に対する執着と、
低い功名心と・・・それらすべてが“石屋の仕組み”・・・
腹の段階の心(靈)の発現って分析が出来るんやけど、
ほとんどの人がそう言う段階の人やからこそその事が理解出来て無い。
そやから価値のあるものは形骸になり、
見せ掛けの価値感で人は騙されその裏で甘い汁を吸っている人がいて、
それは新たな恨みの連鎖の霊的干渉の種になる。
そやから・・・
“茄子の種には瓜はならんぞ、
茄子の蔓に瓜をならす”・・・この言葉の印象は、
そういう事を感じさせる言葉やな。

ほんでから、
今、この文章を打ち込んでいる時に受信した事やから、
敢えて・・・伝えて置くんやけど・・・
茄子=紫の果実、
赤 橙 黄 緑 青 藍 紫からして、
相対的に高い振動の実り。
ほんでから、
“蔓”=つる、かずらって事なんやけど、
回転して“上”に向かう様を表し、
それには、
瓜=甘い(亜、魔、出ずる、泉)果実は実らず、
そして大体、
甘いものって言うのんはすぐ腐る=崩壊する・・・
それは出来上がった何かを“亜”に戻す、
朽ちる・・・
そやから“悪”アクって事でんねん。

そう言う意味の事も含め次の言葉、

“神とアクとの力競べぞ。
今度はアクの王も神の力には何うしてもかなはんと心から申す所まで、
とことんまで行くのざから、
アクも改心すれば助けて、
よき方に廻してやるぞ。”

このカタカナの“アク”は“上”から視点やからカタカナで表現されてる。
そして“アクの王”は、
“悪”の権力者とか王様とか“悪”の神さんとかではなく、
人が霊的進化して段々高い振動を身につける様が、
“王”って言う字に示され、
その進化過程においても、簡単に、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)は、
入り込む。
それは“土”=肉体を持っているからこそ、
八戒の“行”があり、
それ故の低級な欲って言うのんは、無くなる事は無い。
それは心(靈)を構成するものやし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の低い部分でもあるし、
低い部分の振動の獲得から生物は進化して行ったからでもある。
そやからそれは、
先生がよく引用したミミズ、ヒル、ゴカイ君達のように、
低い本能しか発現していない生物を観察すると良く解るけど、
低い本能でしか行動していない人間も沢山いてるな。
その事を私たちはよく観て自分の認識にせんと、
それを教訓にして行動しよい世界の創造は出来ないって事でんねん。
そやから、
低級な欲を自制するのが、智性・・・
智性=神性=“上”の心(靈)の発現・・・
それは、
“一”=1番目のオーラって事でもある。

そして“悪”の仕組みっていうのは巧妙でも有り、
甘い囁きとか低い功名心を煽るとか・・・
どんなに自分が霊的進化したと思っても、
それに踊らされる事がある。
それは先生にも体験があった事でもある。
自分が恨みを持った人の娘を猛烈に好きになり、
それを思わせた存在は恨みを晴らしたかったって言う思惑が有り、
先生自身にもそう言う心(靈)の動きがあり、
そしてその上で霊能力を発揮してその娘のプライベートな事を夢で見させた。

その時の先生自身の心(靈)の動き・・・先生がその事に気が付き、
そして自分の心(靈)の“下”の部分を、
自分で区別して、その醜さに自分で呆れ・・・
結果それは、
人の心(靈)には、
“上”と“下”があるって事を教訓として教えられた体験やったって事なんやけど・・・
その事も一部・・・前のブログに書いてある。

・・・思い出してしもたから、敢えていうときまんねん。

ほんでから“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の仕組み、
真実=真固止と認識され得るのは、
幸福=神格化=霊的成長でしかなく、
その事をはぐらかすのが低い価値感ゆえの事象でもある事を示す・・・
次の言葉、

“神の国を千切りにして膾(ナマス)にするアクの仕組は分りて居る、”

説明が中途半端やったからもう一度言うけど、
生命は生きる使命、
そしてそれは存在理由で、その前提で幸福を考えたなら、
幸福の概念って言うのは今も言うたけどひとつしか無い。
それに対し、
低い心(靈)の発現で=低級な欲の振動を獲得している人達の価値感で、
見せ掛けの事を言ったり、
甘い言葉を囁いたり、
重箱の隅をつつくような事を追求させたり、
人の不安を煽って商売をしたり・・・こんなことも今まで何回も言うたから、
細かく例を列挙するのはやめておきまんねん。

そやから幸福=神格化、
それは厳しく・・・自分がどう在るべきなのか常に思わんならんのやけど、
それを思わせん事が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の仕組みで、
それは何回も言うたけど、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に対し、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”を思い、
その事を思わせないのが、
人の霊的成長を阻む・・・そう言う存在の思惑でもある。
そしてそれは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑も、
やはり振動=情報を持った荷電粒子やから、
自分の“下”の心(靈)と感応共振する。
それを見極める・・・自分で自分の心(靈)の動きを見極めて、
自分がどう思い、
どう行動=発振、発信するのかって事が、
“身魂掃除”“身魂洗濯”って事でんねん。


ほんでから次の言葉も今言うた事と重複する・・・

“アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、
天地ひっくり返る大戦となるのぞ。”

霊的進化して行く過程には、
必ず功名心の高揚とか、自我の肥大とかがあって、
それは簡単に言えば、
エエ気になるとか、調子こく・・・とか、
その事自体が、
自分の心(靈)の中の低い分部って認識をしっかり持たんと、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑が、
入りやすい。
そして今、悪魔の傀儡の世界で、
悪魔の傀儡が活躍してる世界やからこそ、
その事が素晴らしいと思い込んで勘違いしている人が大多数やからこそ、
そんなことばかり目立つ世界やからこそ、
“天地ひっくり返る大戦となるのぞ。”
・・・って事になる。

ほんでから次の言葉、

“残る一厘は誰も知らぬ所に仕かけてあるが、
この仕組、
心で取りて呉れよ、”

一厘は、“一”=智性=1番目のオーラと厂(がんだれ)と里・・・
厂(がんだれ)は、
广(まだれ)・・・とこれは岩屋を示す部首でそれに対し、
厂(がんだれ)は切り立った崖の形とか、
その下に人が住む住居とかの意味がある。
そやから厂(がんだれ)は、广(まだれ)から、
ローレンツ力  ローレンツ力を外した表現でもある。
ほんでから广(まだれ)は、
頭骸骨の意味があるって前のブログで先生が説明した。
これに付いては、

“太陽凝視 广(まだれ)”って検索Wordで、
ググったらええと思いまんねん。

ほんでから、
“里”は今までも言うた事があるけれど、
田=思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の心(靈)を外した物と、
“土”=2~3番目のおーら、肉体、
そやからこそ、
思惑の顕現そのものが、
“里”って言う字に示されてる。

そやから“一厘”・・・

もう一度言えば、
“一”=智性=1番目のオーラと、
厂(がんだれ)=頭骸骨と、
里=四つの場(フィールド)、一靈四魂と大脳の新皮質と、
“土”=2~3番目のオーラと、肉体を示す。

・・・まあ、相対的に、
霊的進化して次のアセンション後の創造を担う人が、
とても少ないからこそ、
“一厘”って表現されてる・・・そういう事も感じられる事やな。

ほんでから次の言葉、

“神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。
臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。”

この文は、神と人間の関係・・・
人は神の子・・・進化すれば神格化する・・・
ここまで“日月神示”を解釈してきても、
そういう事を感じさせる言葉は沢山有り、
その肉体と心(靈)の仕組みの事も、
霊的に進化してへん人には=心(靈)が“上”に向かっていなくって、
認識が狭い人には、
言葉しか分からんやろけど、霊的進化と霊的成長の事を沢山言うてる。

そやからそれを知り、
そして自分がいずれ神格化するって事を知った上で、
常に自分の在り方を思い、
謙虚に事象を観察し、
その上で、
認識(悟り、幸取=さとり)を獲得せよって事でんねん。

さっきも言うた事やけど・・・決してエエ気になってはいかんって事でも、
ありまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈

今回も、上つ巻 第二十九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


この世が元の神の世になると云ふことは、
何んなかみにも分って居れど、
何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、
かみにも分らんこと人にはなほ分らんのに、
自分が何でもする様に思ふてゐるが、
サッパリ取り違ひぞ。
やって見よれ、
あちへ外れ こちへ外れ、
いよいよ何うもならんことになるぞ、
最後のことは この神でないと分らんぞ。
いよいよとなりて教へて呉れと申しても間に合はんぞ。
七月一日、ひつくのか三。



冒頭の言葉、

“この世が元の神の世になると云ふことは、
何んなかみにも分って居れど、
何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、”

“元の神の世”と“元の世”、
この違いは、“神の”=示すへんに“呂”・・・神の思惑の受信、
そして“元の世”は、
“二”は肉体、
それに儿部(じんぶ、にんにょう)を足した字が“元”で、
それは肉体を持った心(靈)=人(日止、霊止)が、
時間の進行と、
時間の進行を感じ(感じる磁性)る心(靈)の中での認識・・・

複雑な言い回しになってしもたけど、
要は、
時間が進んでいると自分で感じる事。
そやから、時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)、
それ自体が霊的進化を示す事でもあるし、
始まりに対しゴールがある。
(しかし・・・
多分、ゴールなんて無いのかもしれへんのやけど・・・
意識は、
心(靈)は、
観察行為と認識、
受信と発振、発信は、
時間の進行の概念を、いずれ超越するのやろから・・・)

そして、
時間の進行の中で心(靈)が観察している対象が、
現津(あきつ)=観察され得る事象。
そやからそれは、
神の子である人(日止、霊止)が神の思惑を受信して、
自分の心(靈)の構築をして、
そして、“世”って言うのんは、
発振、発信した自分の振動で、
観察する現津(あきつ)=事象である事。

そやからそれは、
霊的進化をして、
その過程で“行”をして、
肉体を持っている段階であれば=生きているうちは、
生体内電流の強化をして行き、
肉体が持つ身体磁場により、
発振、発信する振動(オーラ)の高振動化が、
“行”で、
それは肉体の磁性の強化=ローレンツ力の強化であり、
その結果“上”の心(靈)の発現と、
それによる心(靈)の構築をして行き、
その時に様々な霊的干渉(電磁誘導)、
他の生命(“上”の存在も含む)や、
霊的存在とのオーラの相互干渉があり、
心(靈)も肉体も時間の進行と共に創り変わり、
良いカタチの事象の創造は、
神の思惑の顕現と人の思惑の顕現が、
両方プラスされた事象である事。

そう言う事を言うてると思えるな。

(注 
“行”って言うと宗教だけの事やと思われがちやけど、
人の行いは、
すべて生体内電流に関わる事って言う意味での、
“行”って言う意味でんねん。
ほんでから“行”を含め、
すべての人(日止、霊止)の行いには、
霊的干渉(電磁誘導)があるって事でんねん。)


そやから、
現時点の進化過程の地球人には、
その事がよく理解出来て無いし、
そんな概念すら持って無い人のほうが圧倒的多数やし、
ほんでから、
今言うた事を伝えるべきやった筈の宗教は、
“上”の概念=神の概念や仏の概念、
それすら形骸にして現世利益に利用して、
自分達の縄張りを示す事に利用して(宗教戦争の事)、
そして、
霊的成長の概念を伝えないし、たいして研究もしていない。
ほんでから、
形骸の宗教の“行”って言うのは、
単なる儀式でしか無く、
祓いも儀式でしか無く、
それらすべて単なる金儲けに成り下がっている。
(職業としての神主とか坊さんとか神父とかの事でんねん。)

その裏には、人の低い価値感=心(靈)の発現の低い段階での思い、
どんな価値のあるものでも自分だけの為に利用して、
現世利益とかの甘い言葉で金儲けして、
結果それは、
“上”の思惑の通信=宗教の教義を形骸にして、
それそのものも、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
思惑の顕現でもある。
そして形骸の宗教に携わっている人は、
悪魔の傀儡に成り下がっている人が多い。


話が逸れたやん。

霊的成長して、
神の思惑を受信して、
そして、
この世界=現津(あきつ)=観察され得る事象を、
神聖な事象にして行き、
そこで感じられるのは、
“日月神示”の表現、“うれしうれし”“大歓喜”って事になるんやろけど、
そんな概念すら気が付いて無いからこそ、
次の言い方、

“何んなかみにも分って居れど、”

“上”の存在は、
その事を思いながら、
“下”に振動を垂れてるけど=発振、発信してるけど、
現時点での地球人の大半を指し、
“何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、”
・・・って言われてる。

そして、
それを強調する文章が次の言葉、

“かみにも分らんこと人にはなほ分らんのに、
自分が何でもする様に思ふてゐるが、
サッパリ取り違ひぞ。”

自我の拡大の事を指摘している言葉が、
“自分が何でもする様に思ふてゐるが、
サッパリ取り違ひぞ。”
・・・でも有り、

“かみにも分らんこと人にはなほ分らんのに、”

・・・って言うのんは、
時間の進行の結果=創造の結果って言うのんは、
神の発振、発信と、
それを受信する人(日止、霊止)・・・
そして人(日止、霊止)自身の発振、発信の結果で、
事象は形成され、
“上”はよいカタチを望んでいるけど、
人(日止、霊止)の進化過程は、
動物の心(靈)の発現から=“下”の心(靈)から発現している。
そやからこそ、
この物質の低次元の創造が出来るとも言い得るんやけど、
それは・・・自分が認識し得る事象の創造って言うのんは、
自分の思惑で創っていくのやから、
“上”にも自分にも、
結果が具体的にどうなるのかは、
“かみにも分らんこと人にはなほ分らん”・・・って事になる。
それは“自由”って事でもあるし、
低い心(靈)の発現由来の事象なら低い結果にしかならへんし、
高い心(靈)の発現由来の事象なら、
神聖な事象になるけど、
それは具体的には分からへんし、そう言う意味の事やろな。
ほんでから、
“個”の意識=独り神になったなら、
それは、
自分の思惑のすべてを顕現し=事象として観察する事が、
出来るようになる。
思った事は全部可能になるって事でんねん。
それが、
人の目指す幸福の概念の結果といい得るし、
すべての事象を思い通りにするって言うのが、
そしてそれを感じていくのが、
又、
“個”の意識=独り神って事でもある。
そやけどそれは、前にも言うたけど、
決して他者の心(靈)を害する事にはならへん。
それは現津(あきつ)=観察され得る事象って言うのんは、
すべて自分の心(靈)の中の観察であり、
あたかもそれが、自分の外側(外国と幽界)に在るかのように、
思い込んでいる・・・んやけど、
この事も又、説明すると長くなるから、
検索Word “太陽凝視 独り神”で、ググったらエエねん。


ほんでから話を戻し、次の言葉は、

“やって見よれ、
あちへ外れ こちへ外れ、
いよいよ何うもならんことになるぞ、”

失敗の事象・・・霊的進化の法則に乗っ取っていない行動、
その結果が今の世界で、
そやからこそ、

“いよいよ何うもならんことになるぞ、”

それは、
“上”から観たなら、
今が、大変な事になってるって事でんねん。
そして地球人の大半は、
その認識を持ってへんって事でんねん。
そやから、“上”の望む事は、
沢山の人に失敗をして欲しくないって事でもあるし、
一人でも多く、
次の世界の創造に携わって欲しいって事でもある。

そやから今、
形骸になっているアセンションの本当の意味、
霊的成長度により場(フィールド)を構築する為に分け、
分けんならんって事なんやけど・・・
それも“上”の思惑の顕現なんやけど・・・

そやから、それを理解して、
その為に自分の心(靈)の動きを自分で見極め、
“上”と“下”、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の、
心(靈)の動きの方向性を、
自分で観察して認識して、それが、
“身魂掃除”“身魂洗濯”であり、
“上”の思惑の受信が、
“特別神憑り”=太陽凝視でもあり、
そして肉体と心(靈)が創り変わって行く事そのものが、
“身魂磨き”・・・肉体組織の結晶化と、
心(靈)が“上”に向かい、
認識し得る事象もだんだん高次になり、
先生のように、
太陽凝視中に失神したり、寝ている間とか目を閉じた時とか、
その時に、起きている間に感じる事象とは違う何かを感じ、
通信を受け、
認識(悟り、幸取=さとり)を拡大するようになる。

ほんでから・・・おせっかいやけど、
今、太陽凝視って言葉を使ってサイトを開いてる人は、
アフィリエイトや自分の心(靈)の中の低い功名心・・・
そやからそれは、ディスプレイ(動物の発情行動)で、
只、目立ちたいだけの心(靈)の動きではなく、
せめて、
それくらいの太陽凝視を目指して欲しいもんでんな。

ほんでから次の言葉、

“最後のことは この神でないと分らんぞ。”
“いよいよとなりて教へて呉れと申しても間に合はんぞ。”

上つ巻 第二十九帖は、
人(日止、霊止)の進化は神格化って事も思わせる文章なんやけど、
それが、“最後のことは この神でないと分らんぞ。”
・・・でもあり、
ゴール、結果は、
“上”の思惑と人(日止、霊止)の思惑の結果って事で、
ほんでからそれは、
それぞれ“個”の意識=独り神が、感じる事やから、
その事をこの言葉自体が言ってるって事でんねん。

ほんでから、その前段階として、
早く、
右往左往と左往右往とか、
自省(胸の磁性“十”)とか、
“観自在”とか、
“直日(なおひ)”とか・・・
その意味するところとその心(靈)の発現、
その事を自分達の認識(悟り、幸取=さとり)にしてくれ!!
・・・って事でんねん。

その事自体を表してるのが、この言葉、

“いよいよとなりて教へて呉れと申しても間に合はんぞ。”

それは今、
右往左往で間違えてる人が大多数やからって事でんねん。

そやから上つ巻 第二十九帖の文章は、
一人でも多く、
次の世界の創造を担ってくれって事でんねん。
その心(靈)の在り方を、
認識して欲しいって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”上つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈



今回も、上つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。
短いけれど・・・重要な事を簡潔に言っている感じ(感じる磁性)やな。
原文は以下の通り、


富士を開いたら
まだ開くところあるのざ、
鳴戸へ行くことあるのざから
このこと役員だけ心得て置いて呉れよ。
七月一の日、ひつくのか三。


冒頭の、
“富士を開いたら
まだ開くところあるのざ、”

“富士”・・・そして“二二”

この言葉は今までも何回も出てきているし、
Kellyさん的に何回も解釈した。

その纏めとして、
上つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈から、コピペしときまんねん。
     ↓


“富士は神の山”
これは、
“二二”=左右の極性に、
“神の山”=“上”の思惑を受信した脳を指す言葉、
それは天意を受けた人の認識(悟り、幸取=さとり)を指し示す・・・

     ↑
以上でんねん。


ほんでから“日月神示”の文章にこれからも何回も出てくる言葉、
そう言う意味での“富士”・・・

今までの上つ巻の中でも、

第四帖 “富士みはらし台ぞ、”

第五帖 “富士を開くとは心に神を満たすことぞ。”
“神の山はみな富士(二二)といふのぞ。”

他にもあったかもしれへんけど・・・
“富士”と“二二”・・・何回も言うた事やから敢えて説明しまへんけど、
それに付いては、
“太陽凝視 富士”
或は、
“太陽凝視 二二”で、ググったらエエねん。

要は、
“富士”は、宀(うかんむり)=頭、
(これに付いてもその根拠を前に説明してるけど、
これも、“太陽凝視 宀(うかんむり)”で、ググったらエエねん。)

宀(うかんむり)の下の“一”=智性=1番目のオーラと、
口=吸収=受信と、
田=四つの場(フィールド)=思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)。

そして“鳴戸へ行くことあるのざから”・・・
そしてそれは、
“まだ開くところあるのざ、”・・・

この言い方は、まだ開いて無いって事でんねん。

この文章の中の“鳴戸”
これは淡路島の鳴門とは違い、大体、字も違う。
淡路島の鳴門は鳴る門、
それに対し、上つ巻 第三十帖の表現は
“鳴る”と、
“戸”=“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね)
そやから“戸”は、
霊的成長を果たした人(日止、霊止)の肉体の顕現を指す言葉でんねん。

纏めれば、
“上”の振動を時間の進行で獲得し、
それを自分の心(靈)に加味した思惑=霊的成長を果たした人(日止、霊止)の思惑、
それが“富士”で、
そうなる為の仕組みが、
肉体の左右の極性である“二二”で、
それは、
砌(みぎり)と日足(ひたり)、
砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転、
右往左往と左往右往、
イダとピンガラ、

・・・色んな言い方が出来るし、
それぞれが霊的成長の仕組みを表現してる。

そして、
“上”の思惑を受信し認識し行動=発振、発信するのは、
それは大脳の新皮質でもあり、
“上”の思惑を受信して思う事を指し、
それは智性=神性の顕現であり、
それは下降して、
“鳴戸”=智性を獲得した肉体の発振、発信になり・・・
そうならんとアカンって事でもある。

そやから前にも言うたけど、
想像は、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉になるって事で、
そやからそれは、
“鳴る”って事でんねん。
それは、簡単に言うたなら、
思惑の顕現=事象を形成する為に、発振、発信をする・・・

事象の観察は、今、大体、
(地球人の平均的霊的成長度に於いて)
物質を中心に観察してる段階やけど、
その低い振動=物質の振動・・・と認識され得る振動としてって事で、
ちょっと解り難い言い回しやから言うて置くけど、
物質を観察し感じ(感じる磁性)ているのも、
心(靈)が場(フィールド)であり、
心(靈)=○が、
○ 九 十(“日月神示”内の表現でのまこと)の○が、
荷電粒子で構成されてるからであり、
物質を観察し認識する事そのものが、
神経が生体内電流により脳に情報を伝え、
それを心(靈)が感じ(感じる磁性)、物質であると認識される。

そやから、
感覚って言うのんはすべて生体内電流に変換され、
物質の認識って言うのも、それは電磁波の受信であるって事でんねん。

そやから物質と物質以外の振動の何か・・・
例えば心(靈)の動きとか、
霊とか、UFOとか、心霊現象とか・・・それを認識するのも、
心(靈)が感じ(感じる磁性)ている認識(悟り、幸取=さとり)であり、
“上”の心(靈)の発現をして行くと=段々霊的成長すると、
解ってくる=その振動を受信して理解するようになる。

そやからそれは、
低い心(靈)の発現の人ほど低い振動しか認識出来へんって事でも有り
それは、
物がすべてとか、金がすべてとか、人を物のように扱うとか、
自分は死んだら人生は終りとか・・・そう言う発想になり、
それは、“日月神示”の表現なら、
“われよし”やろし、
“自己奉仕者”
“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”・・・
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)でも有り、
例えば今の政治家や、自分の欲の為に犯罪を犯す人や・・・
それ以外にも、
物質以外の事が理解出来へん頭の悪い物理学者なんかもそうやな。
それは、
霊なんて有り得へんとか宇宙人とかはいないとか、
それは相対的に“上”の心(靈)を意識して無い事と同義でも有り、
神の認識も自分の心(靈)に無く、言葉だけを知っているに過ぎず、
それも自分に、
“上”の心(靈)が発現していないからでもあり、
そう言う認識の人そのものが、
てんで心(靈)の発現が低く、まだ動物の認識(悟り、幸取=さとり)に近い。
動物やからこそ、動物の進化過程に近いからこそ物しかわからず、
心(靈)を意識する事が無いとも言い得る。
その事自体が自分にも他者に対しても人は物質だけやと思い込む事になる。
ほんでから後先考えんから=生きている間だけがすべてやと思い込んでるから、
そう言う人達の執る行動は無責任・・・
自分がイヤになったらすぐに仕事を放り出す・・・
上唇の薄い誰かみたいなもんやな。
(他者への愛(炁)の発現が相対的に少ない人相)

・・・余談やった。

話を戻し、
“富士”“鳴戸”で、神聖な事象の“創造”
神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く。
そう言う世界を構築し、
それは、
“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で構成される場(フィールド)を、
自分達が創る。
それには“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の動きの、
“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出し、
そして“身魂磨き”=肉体と心(靈)の進化、心(靈)と体の結晶化、
人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる・・・そうなると、
“上”の思惑と感応共振する。

人(日止、霊止)は、
そうなって行かんならんって事で、
その人達=アセンション後の世界を構築する人達に対し、

“このこと役員だけ心得て置いて呉れよ。”

・・・って、言われてる。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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“日月神示” 地つ巻 (36)
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“日月神示” 日の出の巻 (23)
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“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (20)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
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