“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”下つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈


今回から、下つ巻の解釈に入りまんねん。
まず、下つ巻 第一帖の原文は、以下の通りでんねん。


富士は晴れたり日本晴れ。
青垣山めぐれる下つ岩根に祀り呉れた、御苦労ぞ、いよいよ神も嬉しいぞ。
鳥居はいらぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ。
皆の者 御苦労ぞ。
蛇(じゃ)が岳は昔から神が隠してをりた大切の山ざから、
人の登らぬ様にして、
竜神となりて護りて呉れた神々様にもお礼申すぞ。
富士は晴れたり日本晴れ。
いよいよ次の仕組にかかるから、早う次の御用きいて呉れよ、
神急けるぞ、
山晴れ、地(くに)晴れ、海晴れて、始めて天(てん)晴れるぞ。
天晴れて神の働き いよいよ烈しくなりたら、
臣民いよいよ分らなくなるから、
早う神心(かみこころ)になりて居りて下されよ。
つぎつぎに書かしておくから、よく心に留めておいて下されよ。
この道(おしへ)は宗教(をしへ)ではないぞ、教会ではないぞ、
道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。
道とは臣民に神が満ちることぞ、
神の国の中に神がみちみつることぞ。
金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。
七月の十二日の神示(ふで)、ひつくのか三。


冒頭の“富士は晴れたり日本晴れ。”に付いては、
上つ巻 第三十三帖 Kellyさん的解釈を読んで欲しいし、
又、上つ巻 第六帖にも、
“富士とは神の山のことぞ。
神の山はみな富士(二二)といふのぞ。”・・・って表現されてる。

そやから“富士”・・・そのKellyさん的解釈を一部言うとけば、

“富士”の“富”は、宀(うかんむり、頭の意味)と、
畐は、幅=増幅、何を増幅するのかはもう言うまでも無い。
自分の思惑と“上”の思惑が一体になって増幅する。
そやからそれは例えば、福=示す偏(へん) + 畐は、
示す偏(へん)そのものが神を示す意味があり、
そやから福って言う字を観たなら、
ほんまの“福”って言うのんは物でも金でも無いって言う、
当たり前の事でんねん。
“上”の思惑を増幅して発振、発信して行動に移す。
それは、又、
“一”=智性=1番目のオーラの事でも有りまんねん。
そしてそれは、余談やけど、
円形粒子加速器(サイクロトロンやシンクロトロン)の仕組みで、
キリストや天使の絵に描かれてる輪のような光輪になる時もある。
その事を先生は前のブログで書くのを忘れたから、今、言うときまんねん。

話を戻し、

“士”は、1番目のオーラと2番目のオーラに(たて棒、コン)、
“晴れたり”の“晴れ”の偏(へん)は、
日=太陽、
ほんでから、旁(つくり)の“青”って言う字を構成するのは、
何回も言うた事やけど、
この“青”の上半分は、生きると言う字から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した字、
ほんでからそれは、“乙”と同じやし、
それは又、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と同じ。

“乙”に付いて前に先生とこんな話をしたけど、コピペしときまんねん。

“「乙・・・向かって左から右に筆を動かして、
ほんでからに右から左下に動いて、
ほんでからに又、左から右に動いて、
最後は上にはねるやん。
何や知らん・・・意味深な筆の動きでんな。
「そう・・・もうKellyにはアタシの解釈自体の見当が付いていると思うが、
左→右、そして右から左下、そして左から右・・・そしてはねる。
これは左往右往して現象化して左往右往するカタチだ。
はねるのは“上”に向かうって事だ。」
「それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つ。
そんな感じでんな。」
「そう・・・それは乚部(いんぶ)って言うのは、
人の思惑の顕現って事だ。
それは良いカタチの創造って事を示していると思うんだ。」”・・・
(“上”の思惑の顕現 “天の御目” 参照)

そやから、“乙”って言うのんは、
人(日止、霊止)が思惑を持ち、どういうつもりで“創造”をして行くのかを、
表してる。
それは“乙”の上の部分が“一”の様に、
向かって左から右に筆を移行し、
それは、左往右往して現象化して、
そしてその“思惑の顕現”=現象化は、
右往した右端から左に下降し、
下降したって事が“下”=この世界に“上”の思惑が降りたって事で、
それから又、“下”の横棒は、左往右往して、
そして“下”の横棒の端の右は、
砌(みぎり)=この世界から“上”にはねる。
それは“天の御目”の獲得で、
それ自体がこの世界の“創造”の基準とか、
“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の思惑を示してる。

・・・なんやしらん複雑な言い回しになってしもたけど、

要は、
“乙”は霊的に成長した人の思惑の顕現、
それが人(日止、霊止)の乚部(いんぶ)で、
そやからこそ人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
神さんと人(日止、霊止)の思惑両方が相俟っていないと、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象にはならへんって事でんねん。
そやから簡単に言えば、
動物に近い心(靈)しかもって無い人は、その心(靈)の動きって言うのんは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性と認識される、
心(靈)の動きの、自我以下の心(靈)の動きで、
そやからそれは欲望中心、西遊記の八戒でもあり、
ほんでからその程度の心(靈)の発現は、
縄張りを示す心(靈)の動きとかディスプレイ(動物の発情行動)とかになる。
それは今後の世界=アセンションと認識される事象を通り越した後の場(フィールド)に、
移行出来る心(靈)では決してない。
その事を示してるのが又、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)って言う字やと思えるな。

そして“青”の下の部分は、これは月では無く丹で、
“丹”は、帯電するミネラルの意味って言うのも前に言うた事でんねん。
腹の水の中の錯体としてのミネラルでんねん。

そやから“富士”=“上”の思惑を受信して、
宀(うかんむり)=頭で、
増幅=畐・・・それは自分の思想にして、 そして行動に移す。
ほんでからさっきも言うたけど“富士”の“士”。
これは三つのオーラ“三”の、 “上”から二本の横棒を指し、
それは荷電粒子の回転をも示してるんやけど、
それが“上”に突き出てるし、
書き方としてその(たて棒、コン)は、
“上”から“下”に降ろす。
そやから“士”は、 “上”の思惑が人(日止、霊止)のオーラより“上”に在り、
それを“下”に降ろすことが又、“士”の意味するところでもあると思えるやんか。

日本晴れ”・・・は、 これも前に言うたからコピペしときまんねん。
     ↓

“日”=創造主の振動の場(フィールド)=太陽。
“日本晴れ”の“本”って言うのんは、
漢和辞典をみると、
木の太い根のところにつけた“一”は、
それは印って言う意味があって、
その場所を示していて、木の根もとの部分とか“もと”とか・・・の意味を持つ。
ほんでからに物事の根源とか中心になるものとかの意味もあるやん。
そやから本題とか本当とか本質とか・・・
そう言う表現に使われる字でもある。
それは、Kellyさん的に思うんは、
自省(胸の磁性“十”)に儿部(じんぶ、にんにょう)+“下”の右往左往。
それが“本”って言う字でもある。
そやからそれはちょっと解り難いけど、
自省、“直日(なおひ)”・・・胸の磁性“十”に、 
“下”の右往左往でもある“一”・・・これは位置から言って、
“三”の一番下の“一”。
ほんでからにそれを全部足して、日本晴れ。
これは文章どおり“二二(ふじ)”に掛かる言葉で、
人(日止、霊止)のあるべき肉体・・・神に近づくべく肉体の事を、
言うてると思いまんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖  Kellyさん的解釈)

そやからこれからも“日月神示”で何回も出てくる言葉、

“富士は晴れたり日本晴れ”は、
相対的に自分より“上”の思惑、
そして自分自身が霊的成長して神に近づいたとしたら、
受信する思惑は神の思惑と同じようになって行く。
そやからこの言葉自体が“上”の思惑と人(日止、霊止)の思惑の、
一体になった事を示す言葉でんねん。

ほんでから次の言葉、
“青垣山めぐれる下つ岩根に祀り呉れた、御苦労ぞ、いよいよ神も嬉しいぞ。”

この文の“青垣”の“青”はさっきも言うた通り、
“富士は晴れたり日本晴れ”の“晴れ”の“日”を外した“青”で、
そやから青の上半分は霊的成長を果たした、あるいは心(靈)が“上”に向かっている人(日止、霊止)の思惑の顕現=乚部(いんぶ)でもある。
ほんでからさっきも言うたけど“青”の下半分は、
帯電するミネラル=丹って言う事やねん。
そやから“青垣”は、
現状の人より“上”の思惑を受信して自分の思惑にして行く人、
その心(靈)の動きで場(フィールド)=“垣”を構築して行く。
それが、“垣”って事やと思いまんねん。
そやからそれはアセンション後の世界でも有りまんねん。
何度も言うけど、アセンション後の世界と認識される場(フィールド)は、
“上”の思惑と、人(日止、霊止)の思惑が、
一体になって構成されるべき場(フィールド)でも有りまんねん。
ほんでからそれは“山めぐれる”・・・この言葉に掛かるのは当然で、
“山”は、脳の意味を持ち、
それは、人(日止、霊止)の思想でもある。
そやから“めぐれる”は、山=“上”と“下”のその思想で、
場(フィールド)を構成するとか“上”と“下”が循環するとか、
回転するとかって事で、
“下つ岩根”は、
“上”から“下”に降りた振動=“上”の思惑が、
“根”・・・根元とか根拠とかの“根”やろし、
ほんでから順序が逆になったけど、
“岩根”の“岩”は、山 + 石、
それは、山=自分の思想=脳・・・そして“石”は、
帯電するミネラルが結晶化していない段階の事を指す。
それは先生が前のブログで言うた事で、
そやからそれは、生体内電流の発生で言えば、
腹の水、“日月神示”の言葉なら“江戸”の“江”で、
それは錯体としての電荷でも有り、
そしてその段階の心(靈)の発現は、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動からして、
自我以下の心(靈)の動き。
それは腹の段階の右往左往と左往右往、サイクロトロン。
その荷電粒子の発振、発信が3番目のオーラに相当するんやろな。
ほんでからその心(靈)の動きだけで行動するのが“石屋の仕組み”・・・
自己奉仕者の世界になり場(フィールド)の低振動化になり、
それが今の世界でんねん。
ほんでからそれは、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
人(日止、霊止)の霊的成長を阻む存在の意図した事でんねん。

そやからこの言葉、
“青垣山めぐれる下つ岩根に祀り呉れた、御苦労ぞ、いよいよ神も嬉しいぞ。”は、
上の振動を取り込んだ人の脳、思想、
それが“青垣山めぐれる”って表現され、
“下つ岩根に祀り呉れた、”は、
さっきも言うた通り、“山”=脳と“石”=腹の帯電するミネラルで、
それで人の思惑って言うのは決定される。
腹の段階の心(靈)の発現でもある砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と、
日足(ひたり)の思い・・・“思う、憂う”(脾)が無いと、
(事象の)“創造”って言う事が出来ないって事を示す言葉でもあると思えるな。


ほんでから次の言葉、
“鳥居はいらぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ。”

大体、“鳥居”っちゅうのんは、
俗なる人=“下”の段階と、相対的に“上”=神社とか神域を示す一種の門とか、
“上”と“下”の境界って事でんねん。

そやけどこの場合の“鳥居”って言うのんは、
腹の水=“石”=自我以下の心(靈)の動き・・・情動中心、目下(めした)の心(靈)、
それと、
思想=“山”、大脳新皮質、目上(めうえ)の心(靈)の、
境界やと思う。
それは“日月神示”内の表現“江戸と尾張”の“戸”に相当するし、
それは又“天の岩屋戸”の“戸”にも相当すると思える。
“戸”に付いては前のブログ、
“エピローグ 神の思惑と顕現・・・神聖な事象”を読んで欲しいし、
このブログでも、
“上つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈”で、
“理(みち)”を解釈した時に言うたから、そこを読んで欲しいねん。

ほんでから次の言葉、

“蛇(じゃ)が岳は昔から神が隠してをりた大切の山ざから、
人の登らぬ様にして、
竜神となりて護りて呉れた神々様にもお礼申すぞ。”

これは、“蛇(じゃ)が岳”・・・岳は山=脳と丘=盛り上がった様子で、
“蛇(じゃ)”“竜神”は、クンダリーニの上昇の事を言うてるとしか思えへん。
ヨガの言葉=クンダリーニと、仏教の言葉、軍荼利明王と摩多羅神と、
只、言葉が違うだけで、
人(日止、霊止)が持ってる“下”のエネルギーは、
蛇のようにとぐろを巻き“上”に向かう事が霊的成長でもあり、
今の地球人の進化過程としては、
自我中心の心(靈)から“慈悲”と“慈愛”に、
心(靈)の動きが変容する事でもある。
ほんでからそのエネルギーの上昇する様は、
左=日足(ひたり)回転の螺旋でもあり、
腹から“上”に向かう様が乳海攪拌でもあり、それはアムリタでもある。
(乳海攪拌は前のブログ、
思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)を読んで欲しいねん。)
要は、腹の水の荷電粒子のエネルギーが上昇していく。
そやからこの文章は、大脳新皮質=目上(めうえ)の事としか思えへん。

そやからこの文章にKellyさん的注釈を加えれば、

“蛇(じゃ)が岳は”・・・今言うた事で、
“昔から神が隠してをりた大切の山ざから、”・・・“昔から”は、
それは神さんが創造の開始から決めていた(絶対の)霊的進化の法則性で、
現状の人に解らへんからこそ、
“隠してをりた”って事で、
ほんでから現状の(霊的)進化過程の心(靈)の発現の人が登れないから、
“人の登らぬ様にして、”って事で、
その腹のエネルギーの上昇が霊的覚醒になり、
霊的成長でもあり、
“一”=智性=1番目のオーラの拡大になり、
智性(日を知った上で獲得した性質)の獲得=“天の御目”の獲得になる。
そやから、蛇(じゃ)・・・多分これは、古皮質の脳しか持ってない蛇、

生物として最初の心(靈)の発現の本能って言う意味もあると思えるし、
それはヨガのクンダリーニの解説では、
クンダリーニは尾骨に眠るとされているし、
ほんでからそれは“江戸と尾張”の、
尾を張る・・・この張るって表現は、
上つ巻 第五帖の言葉を引用すれば、

“見晴らし台とは身を張らすとこぞ、
身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。”

・・・って事やと、確信を持って言うときまんねん。

ほんでから又、同じ言葉があって、
“富士は晴れたり日本晴れ。
いよいよ次の仕組にかかるから、早う次の御用きいて呉れよ、
神急けるぞ、”

この文の中の“次の御用”は、
上つ巻と違う段階の事を言いまっせ~って事で、
“神急けるぞ、”は、敢えて言うまでもなく、
もう時間は無いぞ!って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“山晴れ、地(くに)晴れ、海晴れて、始めて天(てん)晴れるぞ。”

“山晴れ”=脳の事。
“地(くに)晴れ、”=帯電するミネラルの結晶化して無い状態、
そやからそれは“石”と同義。
“海晴れて、”=腹の水、“江戸と尾張”の“江”。
それが“晴れて”は、
“富士は晴れたり日本晴れ。”の“晴れ”と同義でんねん。
“上”の思惑を顕現した人の心(靈)って言うのがエエかもしれへんな。

そやからそれは、
人が天=霊的に“上”と、思惑を同一にして行くようになる。
ほんでから天は、
“一”=智性=1番目のオーラ+“大”で、
“大”は胸の磁性“十” + 人(丿部(へつぶ)神の思惑の顕現と乚部(いんぶ)人の思惑の顕現)でんねん。

そやから次の言葉、

“天晴れて神の働き いよいよ烈しくなりたら、
臣民いよいよ分らなくなるから、
早う神心(かみこころ)になりて居りて下されよ。”

この文の“天晴れて神の働き いよいよ烈しくなりたら、”は、
霊的に成長した“上”の思惑を受信する人(日止、霊止)の思惑は、
一般の人=自己奉仕者の心(靈)の動きの人に理解出来へん事になる。
そやから“上”の思惑を受信して、
“早う神心(かみこころ)になりて居りて下されよ。”・・・で、
特にこの言い回し、
“なりて居りて下されよ。”・・・“上”の思惑を受信出来る肉体と心(靈)、
それは“身魂磨き”って事で、
それまでに、
(アセンションと認識され得る事象を迎えるに当たって)そうなっておけ!
・・・って事でんねん。

今後“日月神示”ではその事を伝えたい・・・
そやから、次の言葉もその事を言うてる。

“つぎつぎに書かしておくから、よく心に留めておいて下されよ。”
・・・って事でんねん。

ほんでから次の言葉、
“この道(おしへ)は宗教(をしへ)ではないぞ、教会ではないぞ、
道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。”

言うまでもなく、霊的成長は個人的な作業でしかない。
そやから、個人的な作業っていう点でも次の言葉、

“道とは臣民に神が満ちることぞ、
神の国の中に神がみちみつることぞ。”

“神が満ちる”
天意を受信し、身魂磨き“下”肉体と心(靈)で“上”の思惑と感応共振し、
“上”の思惑と自分の思惑で“創造”を果たす。
それが神の“思惑の顕現”=現象化でもある。
神聖な事象の“創造”でもある。
“創造”は、神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉でもある。
天意を受信しそれを自分の思惑にするには、
“上”の思惑を、眉間=八咫鏡(やたのかがみ)で受信し、
腹の水に貯める=コンデンサーの仕組みでんねん。
頭と腹はそれ自体がコンデンサーの仕組みを持ってまんねん。
それを示す字が、“呂”でもあり、
神って言う字は、
“呂”を示すって言う字でんねん。
これは前のブログで言うた事でんねん。

ほんでから自己奉仕者に対し、
更に“日月神示”で金儲けする人が出てくるから、
それは低い心(靈)の発現由来の行動だからこそ、
次の言葉、

“金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。”

“日月神示”を利用して、例えば“日月神示”の解釈本を売ったり、
“日月神示”って言葉を使ってコミュニティを作り、
アフィリエイトで金儲けしてる人とかに言うておきたい事でも有るな。

そやから・・・自分が持ってる金は自分がエネルギーを贖った結果でもあるけれど、
それを自分がどう使っていくのか?
テレビに出てる低い霊能力者の事はこの間言うたけど、
大概の人は自己奉仕者やから飢餓貧困の救済になんか使わへん。
恨みの連鎖の霊的干渉って事を誰も思わへん・・・
自称、霊能力者でも思わへんやんけ。
そんな心(靈)の動きでは、地球は良い方向に向わへん。
解りきった事やけど・・・そうする人があまりにも少ないからこそ、
敢えて言うときまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。 


“日月神示” 下つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈




今回も下つ巻 第二帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、


今度 岩戸開く御用は、人の五倍も十倍も働く人でないとつとまらんぞ。
岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、
大工は大工の岩戸、
左官は左官の岩戸と、
それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ。
慾が出ると分らんことに、盲になるから、神、気つけるぞ、
神の御用と申して自分の仕事休むやうな心では神の御用にならんぞ、
どんな苦しい仕事でも今の仕事十人分もして下されよ。
神は見通しざから、つぎつぎによき様にしてやるから、
慾出さず、素直に今の仕事致して居りて呉れよ、
その上で神の御用して呉れよ。
役員と申しても、それで食ふたり飲んだり暮らしてはならん、
それぞれに臣民としての役目あるぞ、
役員づらしたら、その日から代りの身魂(もの)出すぞ、
鼻ポキンと折れるぞ、
神で食うて行くことならんから、呉れ呉れも気をつけて置くぞ。
七月の十三日、ひつ九のか三。
みなの者 御苦労であったぞ。


この、下つ巻 第二帖は、
自己奉仕者“日月神示”内の表現なら“われよし”、
それは、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の人・・・
その人達の認識を変えたいって言う言い方に聞こえるし、
その低い心(靈)の顕現しかして無い人を対象に言うてるような感じを受けるけど、
まず・・・冒頭の文、

“今度 岩戸開く御用は、人の五倍も十倍も働く人でないとつとまらんぞ。”

“今度 岩戸開く御用は、”って言うのんは、先生の岩戸の解釈、
それは、
“岩戸”=山(脳)+石(腹の水の中の帯電するミネラル)+“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね、肉体の事)・・・で、
今まで何回も言うた事でんねん。
現状の平均的霊的進化過程より相対的に、
“一”=智性=1番目のオーラを持った人(日止、霊止)、
そやからそれは、
智性(日を知った上で獲得した性質)を持った人(日止、霊止)って事でんねん。

その“岩戸”って言う言葉は、文を観れば解る通り以下の言葉に掛かる。
“今度”=アセンション後、
“御用”=アセンション後に位置出来る霊的資格って事でんねん。

そやからそれは自己奉仕者って言うのんは、
人を利用したり、沢山の金をたいした手間を掛けずに集める事をかんがえる。
手間を掛けずに金を儲ける・・・
前に先生と話したS会=紫光会の経文“四空経録”の中の言葉、
“諸物汗取(しょぶつかんしゅう)”
“諸財血贖(しょざいけっしょく)”
諸々の物や財は汗で獲得し血で贖う(あがなう)。
こういう言葉がアホらしいとか思い、
この言葉の貴さが解らへん人がやる事って言うのんは、
投機の類・・・株や投資信託・・・詐欺とか泥棒とかの犯罪とかももそうやな。
ほんでから自己奉仕者の考える事は、なんでも投機対象にする・・・
石油、バイオエタノールの為のトウモロコシ、ほんでからレアメタルなど・・・
少し財力を持ってると、低い心(靈)の発現の人の考える事って言うのんは、
大体パターンがある。
もっと稼ぎたい、儲けたい・・・それは悪魔の囁きでしかなく、
その為に誰かが犠牲になって、
恨みの連鎖の霊的干渉がどんどん増えるなんて夢にも思わへん。
そやから低い心(靈)の発現の自己奉仕者はそう言う事にしか興味を示さず、
そしてそれを実践して自分の“力”を示す・・・
それは低い功名心と自尊心の発現の霊的成長の過程でしか無い。
ほんでから今迄は、そう言う霊的進化過程の人が活躍する時期でも有り、
そして今後失敗する=右往左往から左往右往に入る前段階でも有る。
そやから今後はもっと凄い事が起きるやろし・・・
まあエエわ。
それぞれの霊的進化過程の事をいちいち問題にしてたらきりが無い。

話を戻し、次の文は、

“岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、
大工は大工の岩戸、
左官は左官の岩戸と、
それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ。”

この文の中の“大工”、
これは職業としての大工さんって言う意味だとはとても思えへん。
“大”って言う字は、
胸の磁性“十” + 人(日止、霊止)って言う解釈を先生が前にした。
ほんでから“大工”の“工”は
二=肉体のオーラに(たて棒、コン)で、
“日月神示”内の表現の“江戸と尾張”の、
“江”から(氵)さんずいを外した字でもある。
そやからこれは腹の段階の磁性やな。
腹の段階のサイクロトロンって言うてもエエな。
これは物質世界(と感じられる事象)の“創造”って事やな。

それに対し“左官”は、
左=日足(ひたり)の“宮”で、
“宮”は、宀(うかんむり)=頭と、“呂”
日足(ひたり)の思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の、
“呂”って事で、ほんでから“呂”は、エネルギーの回転やな。
そやからこれも、左官屋さんの事を言うてるとは思えへん。
そやからこの文の中の“大工”は、この世界の“創造”の為の発振、発信。
“左官”は、日足(ひたり)の思いの思想で、
この二つの言葉はこの文の冒頭の言葉、
“それぞれの岩戸”に掛かる。
物質世界の事象の創造をする人=大工は、
左官=日足(ひたり)の思想を持った人と違い、
仮にそういう事ならそれは、
霊的進化過程による区別になるけれど、
それは霊的進化による“上”と“下”の段階の事も言うてるな。
そやから当然、事象の創造って言うのんは、
日足(ひたり)の思いで創られんと良いカタチにはならへんって事で、
ほんでからこの言葉自体が自分達の心(靈)の中の事でも有り、
個人個人の霊的成長度に於いて、
その役割分担がハッキリするって事でも有るやろけど、
それだけでなく、
“大工”の役目とか“左官”の役目とかではなく、
やっぱり自分の心(靈)の動きの“創造”の仕組みが、
思惑と顕現って事で、順序が逆やけど、
思惑=“左官”で、顕現=“大工”って事やな。

そやからこの文そのものは、
今より相対的に霊的進化した人(日止、霊止)、
自我より“上”の心(靈)の発現をした人(日止、霊止)、
“慈悲”と“慈愛”の発現をし始めた人(日止、霊止)、
ほんでからそれは下つ巻 第二帖の一番初めの文、
“今度 岩戸開く御用は”・・・に、掛かるって事でんねん。
そやからこの文の中の“大工”と“左官”は、
人(日止、霊止)としての良いカタチの“創造”って事でんねん。

ほんでから次の言葉も自己奉仕者に言うてる言葉で、
“慾が出ると分らんことに、盲になるから、神、気つけるぞ、”
・・・って事でんねん。
そやからさっきも言うたけど自己奉仕者って言うのんは、
政治も宗教も天皇制も、
幸福の概念も、
霊能力も主護霊の概念もヨガもオーラも、なんでも形骸にして本当の事を知らん。
そしてそれを一般的な通念にする・・・それが悪魔の思惑でんねん。
ほんでから形骸しか認識が無いからそれは“盲”って事でんねん。
ほんでから前に解釈した、上つ巻 第二帖にもこんな文があったやん。

“盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、
気のついた人から、
まことの神の入れものになりて呉れよ、”

・・・とか、

“人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、
にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、
盲には困る困る。”

そやから“盲”=形骸の価値感しか認識として持ってへん様では、
あきまへんで~!!って事でんねん


ほんでから次の文は、

“神の御用と申して自分の仕事休むやうな心では神の御用にならんぞ、
どんな苦しい仕事でも今の仕事十人分もして下されよ。”

神の御用=“上”からの“思惑の顕現”=現象化は、
政治も宗教も“上”からの思惑が“下”に垂れたもので、
そやからそれは、
神聖な事象の創造をするにはこれくらいの心(靈)構えでなければいけないって事で、
その逆は、
何でも上手い事やって、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分の利益の為に利用する。
そやからそう言う発想をしてはいかんって事でもあると思いまんねん。
ほんでから今は、何でも上手い事やって金儲けして、
恨みの連鎖の霊的干渉を増やしたり、
高い心霊からの知識をどんどん低いものにしてる、
低い霊能力者が注目されたりもする。
これも地球の場(フィールド)としての右往左往でしか無いと思えるし、
その事も次の文で指摘されているやんか。

“神は見通しざから、つぎつぎによき様にしてやるから、
慾出さず、素直に今の仕事致して居りて呉れよ、
その上で神の御用して呉れよ。”

低い欲望が、
何でも価値のあるものを形骸にして行く心(靈)の動きになる。
そんなもんは“上”は知ってて“上”を信じて今やれる事を精一杯、
自分の心(靈)の中の相対的に“上”の心(靈)の動きで、
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に対し、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の心(靈)の動きで、
何でもやっていけばエエって事で、
“上”の思惑の受信による事象の“創造”と顕現が、
“神の御用”って事になりまんねん。

ほんでから次の言葉は、
形骸の価値感に振り回されてはいかんって言う意味と、
今現在、形骸の価値感でトップに立ってる人に言うてる言葉でんねん。

“役員と申しても、それで食ふたり飲んだり暮らしてはならん、
それぞれに臣民としての役目あるぞ、
役員づらしたら、その日から代りの身魂(もの)出すぞ、”

“役員づら”・・・よう自覚して欲しいもんでんな。
ほんでから次の言葉も形骸の価値感でtopに立ってる人に言うてる。

“鼻ポキンと折れるぞ、”

この言葉は何回も“日月神示”に出てくるけど、
天狗になってる人、エエ気になってる人、低い功名心と自尊心で慢心してる人、
政財界のtopとか形骸の宗教法人のtopとか、テレビに出てるとか、
それは大きな金を集める為でしかなく、自分の欲望の為に、
人に対し、
自分たちが持ってる“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
利用し、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか・・・そう言う事をして“力”を示し、
その事に対し善悪など感じない。
その場(フィールド)に共存する沢山の人を、
程良く霊的成長=(神格化の概念の元に考える)幸福に導く為の、
政治ではなく、私利私欲の為の形骸の政治になり、
ほんでから、
人の在り方を示す指標の為の“上”から“下”に降りた教示とも言える宗教を、
形骸にしてしもた。
そう言う人の事でも有る。

ほんでから功名心と自尊心は事象の“創造”の為に必要な心(靈)でもある。
“創造”の動機になる心(靈)の動きでもある。
自分の欲望を満たしたいのか・・・それで得られる功名心と自尊心。
自己と他者の霊的成長の為に“力”を贖う(あがなう)・・・
その達成感から得られた功名心と自尊心。
その両者には大きな違いが有るけど、
結果、功名心と自尊心は腹の段階の心(靈)の発現で、
チャクラで言えばマニピューラチャクラの段階の自我でもあるからで、
今言うた後者の心(靈)の動きになるには、
自我に、智性と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きがなければ、
そうはならない。
そやからそれは、
何の為にその心(靈)・・・功名心と自尊心を、
自分でどう扱い、
(自己観察し、“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”)
活かして行くのか・・・って事でんねん。

そう言う点でも次の言葉、

“神で食うて行くことならんから、呉れ呉れも気をつけて置くぞ。”

“上”から受信した知識=宗教とか、政治の為の法とか、
“上”から許可になった力=霊能力の発現とか、(科学の)発明発見とか、
そう言う“力”に対し、
それを貴いものにするにはその使い方が大事で、
何回も言うけど、今は自己奉仕者が、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
自分の為にしか使わず、
結果としては金儲けしかしていない。
そやから、そんなものには何の価値もなく、
当然そんな心(靈)の動きの人は、その進化過程の人は、
次の世界=アセンション後の“創造”を、
“上”から託される霊的成長度では無いって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第三帖  Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


この神のまことの姿見せてやる積りでありたが、
人に見せると、びっくりして気を失ふもしれんから、
石にほらせて見せておいたのにまだ気づかんから木の型をやったであろうがな、
それが神の或る活動の時の姿であるぞ、
神の見せ物にしてはならんぞ、
お山の骨もその通りぞよ、
これまで見せてもまだ分らんか、
何もかも神がさしてあるのぞ。
心配いらんから慾出さずに、素直に御用きいて下されよ、
今度のお山開き まことに結構であるぞ、
神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ、
神の話 結構ぞ。
七月の十三日、ひつ九のかみ。


冒頭の文の、

“この神のまことの姿見せてやる積りでありたが、
人に見せると、びっくりして気を失ふもしれんから、
石にほらせて見せておいたのにまだ気づかんから木の型をやったであろうがな、”

この文の中の“神のまことの姿”は、次の言葉の、
“石にほらせて見せておいたのにまだ気づかんから木の型をやった”
この言葉に掛かり、
それは、“石にほらせて見せておいた”の意味が解らんと、
アカンやろから、
この“石”に付いてKellyさんが私見を述べまんねん。
“石”って言う字は、下図の様になってる。

       

“石”の解字 

その意味は、下図参照でんねん。

      

石の意味 荷電粒子の下降 “上”の思惑の顕在化 

そやから“石”の字の“一”は、
“上”の思惑が下降し、それは“上”から地球に注がれる荷電粒子でも有り、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)でも有り、
宇宙線でも有り、太陽からの(可視光を含む)電磁波でもある。
それらすべて、
人の霊的成長を望む“上”の存在の思惑が電磁波として、
地球=“下”に下降し、
それを生命が取り込む様子、それを示してるのが“石”って事でもある。
ほんでからそれは肉体内の帯電するミネラルって言うのんが、
先生の解釈でもある。

そやけど“石”、
この段階の場合は、身魂磨き=肉体組織の結晶化では無く、
言い換えれば帯電するミネラルの結晶化では無く、
腹の水=“江戸と尾張”の“江”で、
体液中に錯体として存在する=イオン化してるミネラルでも有る。
そやからその“石”って段階は、
腹の段階の心(靈)の発現=その段階の霊的進化過程でも有り、
そやから肉体組織の結晶化に骨の結晶化に至ってないからこそ、
“身魂磨き”って言葉を“日月神示”では言うてる。

そやから現時点での人(日止、霊止)の進化は、
“石”中心の心(靈)の発現でもある。
それは腹の段階の心(靈)の発現、自我の確立=固定化の段階でもある。
ほんでからそれは、
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)の動きが生み出す“創造”は、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程で、
結果としてそれは、真実=真固止では無いって事でもある。

そやから今後、アセンション後の世界に位置する人が霊的進化して、
人(日止、霊止)って言う字の、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が、
双方相俟って、
更に“行”をして生体内電流の強化により身体磁場を強化し、
肉体組織が結晶化すれば、その“創造”は、
真実=真固止の、
現津(あきつ)=観察され得る事象となるやろ。
そやからこそ、
“下”の立場の人が感じ(感じる磁性)る、
(相対的な比較として)神聖な事象って事になるやろし、
それこそが、真に人が求めるべき神さんの“思惑の顕現”=現象化やろし、
それは又、真の意味での幸福、
それは、
幸=“夭と屰”(ようとげき)と、
福=(神さんを示す意味のある)示す偏(へん)と、
“上”からの思惑が思想になるって言う意味での“畐”って旁(つくり)になる。
(“畐”=“一”+口(場(フィールド))+田(大脳新皮質の四つの場(フィールド)、
或いは思い(心、靈、の四つの場(フィールド))

又、“畐”は、増幅とか輻射とかの意味もあると思える。
神の思惑を自分の思想(山=脳)で増幅し、オーラとして輻射するって事でんねん。

ほんでから余談やけど、
輻射って言うのんは放射って言葉にすりかえられほとんど死語になってるけど、
放射と輻射の違いって事をKellyさん的に思えば、
輻射の“輻”って言うのんは、車+畐・・・
これは先生的な概念から言えば、車=チャクラ=円形粒子加速器の構造で、
ほんでから漢和辞典で輻射の“輻”を見ると、
その意味は車輪の“や”って意味らしく、
それは、車輪って言うのんは、
外周の輪=輪木(りんぎ)と、
スポークにあたる部分=輻(や)と、
車軸に繋がっている部分=轂(こしき)がある。
      

            

車輪 輻射の輻 車と畐 チャクラ 



そやから、放射に対し輻射って言うのんは、
回転しながらエネルギーを放射する様子って思えるな。

・・・しかし・・・余談やった・・・
ちょっと引っかかったから敢えて、
放射と輻射の違いを紹介しときまんねん。
どっちも発振、発信って事には違い無いんやけども・・・


話を戻し、

相対的に今は、嘘っぱちの形骸の事ばかりで、
そこに真実=真固止と認識される何かはとても少ない。
それは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの低い心(靈)の発現由来の心(靈)の動き=発振、発信が、創造してる事象でしかないから、
それは霊的進化過程として=神さんに近付いていく過程としては、
てんで幼稚で下等で(霊的)進化の法則に則っていないし、
間違ってると言う事でも有る。
そやからこそこの世界の事象には、
真実=真固止、
誠=言葉成る(言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する)って事は、
とても少ない。
(言葉の成らん人ばかりが政○家になってるみたいなもんやし・・・
主護霊やオーラって言葉を自分の低い認識で形骸にして、
それをテレビで広め、甘い夢を見させて商売してる霊能力者が活躍してるのも、
そうやな。)

そやからこの世界は敢えて言うまでも無く、
霊的進化程度の低い段階の自己奉仕者が活躍して来た世界でも有る。

そやからこの文の中の、
“石”と、
そして“木”=胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)。
(左右の)木部・・・これに付いては何回も説明した事やから敢えて説明せんけど・・・
(これに付いては前のブログ、
思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)を、読んで欲しいねん。)

この二つの字そのものが人の神格化を示す為の仕組みとも言い得る事でもあるし、
現時点の平均的地球人の霊的進化過程は、
“日月神示”内の表現で言えば“石屋の仕組み”の“石”・・・
それは帯電するミネラルで得た“上”からの電磁波=情報が、
“呂”になっていない。
そやからそれは“下”三つのチャクラの覚醒段階とも言え、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言えば、
自我までしか発現していないとも言える。
そやから、
“石にほらせて見せておいた”=帯電する腹のミネラルが、
“木の型をやった”=木部で吸い上げ“呂”になる。
そしてそれは“日月神示”内の表現の“宮”で、
宀(うかんむり)は頭を示し、
“呂”はエネルギーの“上”と“下”の循環を示す。
それが肉体を持った心(靈)でも有る、
人(日止、霊止)の神格化への仕組みでも有る。

そやから“呂”は、
頭の場(フィールド)と腹の場(フィールド)、二つの“口”+丿部(へつぶ)、
そして丿部(へつぶ)そのものが向かって日足(ひたり)“下”に降りる。
それは、頭の磁性が強くなる=“一”=智性=1番目のオーラが大きくならんとアカンし、
人(日止、霊止)がそうなると“上”の思惑を理解して行く様になる=天意を受けるって事でんねん。
そやから“上”の思惑の積極的な受信と、
それを自分の思想にして認識にする為の“行”が又、太陽凝視でも有る。

そやから次の言葉は、自分に対しての言葉で、それは、
“それが神の或る活動の時の姿であるぞ、”
今言うた“石”と(左右の)木部で自分の思想=广(まだれ)を、
構築しろって事でんねん。
そやから自分の腹=“石”に“上”からの思惑=電磁波を受信し、
(左右の)木部で自分の“上”に吸い上げ、
自分の“上”は言うまでもなく腹から“上”のチャクラって事で、
そやからそれが人(日止、霊止)の在るべき姿でもある。

ほんでから人、日止、霊止、って言う意味での
日を止める、
(“上”からの受信を示してる字=靈という意味での)霊を止める、
(靈の解字に付いては、
思惑と顕現“その十一” “上”の思惑と顕現・・・“天の御目”を、
読んで欲しいねん。)
ほんでからそれは、
人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有る。

そやから“石”と木部は、神格化の為の仕組みで、
そやからこそこの文の表現、
“神の或る活動の時”=“上”の思惑を自分に取り込んだ時って事でんねん。

ほんでから次の言葉は、
“神の見せ物にしてはならんぞ、”
これは、宗教を商売にしてはアカンって事でもあるし、
“日月神示”を商売に利用するなって事でもあるし、
(“日月神示”の解釈本を売ってるだけではアカンって言う意味)
ほんでから、自分の認識する神って言うのんは、
自分の神性とか智性で認識するもんやって事でも有る。
誰かが教えるとか本を読めば、
神さんとか霊的成長が誰でも解るとかでは決してない。
そやからほんまは霊的に高い人が自分の外側(外国と幽界)に、
神さんの事を・・・神さんに対する高い認識を示してもあまり意味が無い。
それは、
その人の認識(悟り、幸取=さとり)に応じて=その人の霊的成長度に応じての神さんは、
それぞれ違うからや。
そやから形骸の宗教が出来たりカルト教団なんかも出来る。
ほんでからその形骸って言う意味での神さん・・・それは、
言葉成る・・・自分が発振、発信した振動が完成するって言う意味での、
“誠”では無い。

そやから人(日止、霊止)が霊的成長すれば、
自分と神さんの関係は自分で認識(悟り、幸取=さとり)する。
ほんでからその認識を生み出す高い心(靈)の動きって言うのんは、
自分の中にしか無いし、
当然、自分の外側(外国と幽界)の事象には無いし、
それは、外側(外国と幽界)の事象を自分がどう捉えるのかでしかないし、
(“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”)
そやからこそそれは認識の中にしかないって事でもある。

ほんでから自分が霊的成長して神性を獲得したとしても、
それを誰かが見たってすぐには解らへん。
そやから“見せ物”・・・誰かに示しても解らへん・・・
そう言う意味も感じるな。

ほんでから次の言葉も、
ここまでKellyさん的“日月神示”の解釈を読んではる人(日止、霊止)なら、
敢えて説明はいらんけど・・・敢えて注釈をすれば、

“お山の骨もその通りぞよ、”
“お山”=頭の骨の結晶化でしか無いって事でんねん。
これも霊的進化に関わる事やけど、誰かが観たって解らへん。
低い霊能力者がオーラを観測したって判らへん。
霊能力者が観測するオーラは、
自分が持っている認識、あるいは霊能に“力”を化している憑き物の認識以上のものは、
観測出来ん。
この事は先生が霊眼をもってたときに獲得した認識でもある。
そやからこそ先生は、
自分の持っている認識以上の事はほんの少し“上”のことしか解らないって、
前のブログで何回も言うたけど、
その事そのものが振動の変圧の過程が有るって事で、
そやから霊的に近い存在同士が互いに何かを分かり合い、
近いもの同士で理解を深め、
そうやって霊的進化して行く過程があるからこそ、
今後地球で起きるアセンションでは、
霊的成長度に於いて分ける事が必要になってくるって事でんねん。

ほんでから次の言葉は、“石”と(左右の)木部、
神格化の仕組み、肉体の仕組みを理解して欲しいって事でもあるな。

“これまで見せてもまだ分らんか、
何もかも神がさしてあるのぞ。”

この“何もかも神がさしてあるのぞ。”は、
“上”からの“思惑の顕現”=現象化が、
生物の進化になり、生物の進化には心(靈)の成長の過程が有り、
人としての霊的成長の仕組みは今回言うた事でもあり、
それに気が付いて欲しい。
そやから下等な生物から人間にまで進化した過程は、
すべて神の“思惑の顕現”=現象化でもある。
そやからこそ“何もかも神がさしてあるのぞ。”・・・でもあるな。

ほんでから次の言葉は、
“心配いらんから慾出さずに、素直に御用きいて下されよ、
今度のお山開き まことに結構であるぞ、”

この文の前半は、すべて“上”に任せておけって言う意味で、
自分の霊的成長度に応じて自分が観察する事象は決まっていく。
そやから今Kellyさんが言うてる事はアセンションの事を言うてるんやけど、
自分だけ自分だけ自分だけって言う人ほど、
“心配いらんから慾出さずに、”の反対の人は、
次の世界には移行出来へん事を言うてる。
ほんでからこの文の後半は、
生物としての人間の次の進化過程が“今度のお山開き”って事で、
段々、
“一”=智性=1番目のオーラが大きくなる事でもあり、
智性を持った人が、次の地球上での“創造”を担うって事でもある。

ほんでからその時の事を表現した言い方が次の文で、

“神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ、
神の話 結構ぞ。”

“上”と“下”の関係を今の地球人は言葉でしか知らん。
そやから宗教は形骸になってるし、神さんに甘い夢を持ってる人も多いけど、
この文の中の“神の話”は、
人が神さんに近付いていく話で、それは霊的成長でしかなく、
人(日止、霊止)の神格化でしかなく、
人(日止、霊止)が目指す何かって言うのはそれでしかなく、
そしてそれが(生物の)進化の本当の意味って事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第四帖  Kellyさん的解釈




今回も下つ巻 第四帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


早く皆のものに知らして呉れよ、神急けるぞ。
お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気が附かんか、
それを見ても神が使ってさして居ること、よく分かるであろうが、
それで素直に神の申すこと聞いて呉れて我(が)を出すなと申してゐるのぞ、
何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、
我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ。
五十九の石の宮出来たから五十九のイシ身魂いよいよ神が引き寄せるから、
しっかりして居りて下されよ。
今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。
人のようせん辛抱さして、
生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみざから、
みごと御用つとめ上げて呉れよ。
教会作るでないぞ、信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ。
この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、
世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ。
七月の十三日、ひつくのか三。


冒頭の言葉、

“早く皆のものに知らして呉れよ、神急けるぞ。”

もう説明の必要は無いけど・・・
時期が迫ってるから、一人でも多くアセンション後の世界に移行出来る霊的資格を、
持ってくれって事でしかない。
ほんでから次の言葉は、その霊的資格に関わってる言葉で、

“お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気が附かんか、
それを見ても神が使ってさして居ること、よく分かるであろうが、”

この文章の中の、“お山の宮も五十九の岩”
“五十九”は前にも出て来てる言い回しやけど、
それは、Kellyさん的な解釈としては、

“五”=糸巻きの象形文字、進化した生物としての神経の様子。
“十”=縦の磁性と横の磁性、人の手足のシンクロトロンの構造。
“九”=神の最後の仕事、それは、
肉体を持った生物としての人(日止、霊止)の事。
そしてそれは、神さんの器としての生物、言い換えれば、
心(靈)の発現って言う意味での生物は、神さんが心を持っているからでもあり、
神さんの心(靈)の顕現が、生命(生きる使命=存在理由)でもあり、
その生命(生きる使命=存在理由)には進化過程による段階があり、
心(靈)の動きの高い部分、“上”の部分が、
智性(日を知った上で獲得した性質)であり、
智性って心(靈)の動きを持った生物が、神性を顕現して、
事象の“創造”をして行く・・・それが、
人(日止、霊止)、人間って事で、
そやからそれは、その存在意義からの呼び方、
日止=太陽の振動を止める。
ほんでからもう一つ、
霊止=“上”からの振動を止める。
補足として、霊の旧字=靈は、
“一”と“メグリ”(帀)と、ローレンツ力 ローレンツ力 と、口三つと・・・色んな意味があるけれど、それは前のブログ、
思惑と顕現“その十一” “上”の思惑と顕現・・・“天の御目”に書いてある。
そやから“日月神示”の中の“九”って言う表現は、
そう言う共通の意味があると思えるな。

ちょっと長い説明になってしもたけど、一言で言えば、
生命(生きる使命=存在理由)を創り始めたと人が認識している創造主の最後の仕事・・・
それが人(日止、霊止)で、
この場合の“九”・・・“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と同義・・そう思えるな。

ほんでから補足として、
人(日止、霊止)が神性を顕現して行く過程、
そやから動物から人(日止、霊止)への霊的進化過程を大雑把に言えば、
本能から発現して感情を持ち、
自我の確立=固定化に至り、自分の欲望を満たす事を考えそれを根拠に行動し、
そして自省(胸の磁性“十”)して、左往右往して自分の在り方を考え思い、
その過程で“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の動きを持つようになり、
そして智性(日を知った上で獲得した性質)を発現して行く。
そやからそれは“日月神示”内の表現の、
まこと=○ 九 十 の、九と十に相当する。
ほんでから○は、荷電粒子で出来た霊、=○、荷電粒子の場(フィールド)でんねん。
又、心=靈って事でんねん。

ほんでから今言うた事すべて、この文の中の、
“お山の宮”に掛かる言葉で、
“お山”=脳、頭、
“宮”=宀(うかんむり)、頭と、
“呂”=頭と腹のエネルギーの循環、口+口+丿部(へつぶ)で、
この丿部(へつぶ)は、大日如来の条帛(じょうはく)に相当する腹から胸へのエネルギーラインでも有る。
ほんでからそれは“上”から観たら左回転=日足(ひたり)回転する。
そやからこそ“善の回転=日足(ひたり)回り”は
腹のエネルギーが日足(ひたり)回転して上昇する様子になる。

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転 日足(ひたり)回り 


そやからこの文の後半の、

“それを見ても神が使ってさして居ること、よく分かるであろうが、”

“それを見ても”は“五十九”に掛かる言葉で、
そやからそれは“上”の思惑の受信が、
高い振動を止める日止、霊止って事が、
智性(日を知った上で獲得した性質)の顕現になり、
そやからそれは“神が使ってさして居ること”・・・って、
表現されていると思える。

ほんでから次の言葉は、自我って言う心(靈)の発現の事を言うてる。

“それで素直に神の申すこと聞いて呉れて我(が)を出すなと申してゐるのぞ、
何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、”

自我って言うのんはなんでも自分の都合のエエ事しか考えんみたいところが有る。
そやから何でも間違えるって事でもあるし、間違ってる人は多いし、
そやからこそ“上”に任せるって事が大事でもあるな。
そやからこの文で、
“何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、”
・・・って事でもあるな。

ほんでから次の言葉、

“我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ。”

そやからこの文章みたいに、
自分だけ自分だけ自分だけって考えは、本能、情動、功名心、自我、
・・・それが中心の心(靈)で有り、自己奉仕者、“われよし”、
自分に対する愛(炁)しか顕現して無い霊的進化過程でも有る。
それは心(靈)が“下”に向かう事に繫がり易い・・・
悪魔の囁きに囚われ易いって事やろから、敢えてこう言われてるって事でもあるな。


ほんでから次の言葉、

“五十九の石の宮出来たから五十九のイシ身魂いよいよ神が引き寄せるから、
しっかりして居りて下されよ。”

“五十九の石の宮”これは人の肉体の事やな。
さっき説明した“五十九”と、“石の宮”
“石”と“宮”に付いては、
下つ巻 第三帖 Kellyさん的解釈を観て貰ったらエエけど、
生物として進化した人は、
胸の磁性“十”を持ち、“慈悲”と“慈愛”を発現してきた。
“慈悲”と“慈愛”の発現は自分の在り方を思う事になり、
それは智性を発現するステップでもある。
“イシ身魂”のカタカナの“イシ”は、
“イ”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生気生命の発生力とされてる。
そやからそれはKellyさん的に言えば、
命(いのち)息吹(いぶき)そして愛(炁)の、アイの“イ”でもある。
そしてアイは“一”で、
それは向かって日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行して書かれる“一”は、
神さんの“思惑の顕現”=現象化って事で、
向かって右端、砌(みぎり)端が、アイの“イ”って事になる。
ほんでから“シ”は、
これも同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
弱き光とされてて、
ヒの音の弱き下りつる音根にして霊の弱き生命のチカラを現すに用い・・・って書かれてる。
そやからこれをKellyさん的に解釈していけば、
“シ”は生命(生きる使命=存在理由)の進化過程の最初の段階でもある。
ここから生命は進化して行き、段々“上”に向かうんやけど、
その最初の段階の生命の心(靈)の発現は“シ”って事やと思う。
そやからカタカナの“シ”を観ても、
それはローレンツ力ローレンツ力 が上から二つあり、
その最後の書き方は左から右上にはねる。
日足(ひたり)から“上”に向かう事を表現した字が、
カタカナの“シ”でもあると思うやん。

カタカナの“シ” 解字 

そやから“イシ身魂”って言うのんは、
進化して行くべき生命の仕組みを示す言葉でもあるな。
そやから“五十九のイシ身魂いよいよ神が引き寄せる”は、
“五十九”=神経が発達して自省(胸の磁性“十”)を持った人(日止、霊止)と、
“イシ身魂”=“上”の“思惑の顕現”=現象化でもある、
アイの“イ”それは、命や息吹でも有り、
生命の進化を現した字でもある。
身魂は言うまでもなく、
身=肉体と、
魂=肉体を纏った心(靈)霊=○、荷電粒子の場(フィールド)って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。”
この言葉は、
右往左往から左往右往の霊的成長における大原則が、
“御苦労の身魂”って表現されていると思える。
実際、人生において苦痛や苦悩や試練を体験せんと、
それは自省(胸の磁性“十”)の“行”には成らへんし、
又、その体験が無いと、自分の在り方を考えるようには成らんって事でもあるな。
そやからローム太霊さんは、S会=紫光会の交霊会で何回も、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん。”って言うた。
常にそうあるべきその姿勢の人間が、高い智性の顕現をして行く。
そやからその苦痛や苦悩や試練を体験した人(日止、霊止)が霊的成長を果たして行くって事でんねん。
ほんでから次の言葉も、今言うた事と同義の事を含み、

“人のようせん辛抱さして、
生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみざから、
みごと御用つとめ上げて呉れよ。”

この文の中の、

“生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみ”

これはもう人の想像の及ばない過去からの計画って事を感じさせる言い方でんねん。
大体、今度の地球の変容=アセンションと認識されている事は、
数億年前から計画されてるって先生は“上”から受信してる・・・
そやからそれは神さんの計画で、神さんの“思惑の顕現”=現象化でも有る。

ほんでから、智性(日を知った上で獲得した性質)の顕現って事を少し説明すれば、
心(靈)が“上”に向かうには、
高い振動の受信をせんと自分の認識は高まって行かへん。
その自分の認識を高めていく方法が、先生の場合は、
太陽凝視でも有ったって事やけど、

“日月神示” 春の巻 第二帖から引用すれば、

“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。

太陽の光集めること知っているであらうが。”・・・で、

そやから“特別神かかり”=太陽凝視で、 
多分これは、
人(日止、霊止)が飛躍的な霊的進化をする為には絶対必要な事でもある。
そやけど、個人々々の霊的成長度により、太陽凝視がどれ位出来るのかは違う。
極端な話、太陽に当たっただけで皮膚癌になる人も居てるんやから、
誰でもが長時間の太陽凝視が出来る訳でも無い。
それは転生の回数とか、その転生した中での人生に於いて、
その“上”に向かう程度=霊的成長度には、
同じ地球人でもかなりの差があり、
(“玉石混交(淆)”って前のブログで説明した事)
そやからこそ以下の言い方、
“生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂のみ”・・・
長時間の太陽凝視をして沢山のエネルギーを贖った事を、
“人のようせん辛抱さして、”と表現され、
そして、
霊的成長度の高い事と同義の、
智性(日を知った上で獲得した性質)の顕現をする人は、
もう決まっていると思えるし、
ほんでから長時間の太陽凝視を地球上で過去にした人は、
太陽凝視を教えてくれたKさんとその家族と先生くらいしか居ない。
(我田引水な言い方やけど・・・)
ほんでから今後、
これ以上の太陽凝視をする人はアセンションを通り越すまでには現れない。
もう時間もあまり無い事やから・・・

話を戻し、次の言葉、

“教会作るでないぞ、信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ。”
これも敢えて説明の要は無い事やけど、
アセンション後の世界の“創造”に携わる霊的資格を獲得する事は、
自分の心(靈)の中の事でしか無いし、
心(靈)の在り方でしか無いし、
それは“身魂掃除”“身魂洗濯”と表現されている、
自分の心(靈)の動きの中の“上”と“下”を、
自分で見出して行く事、
それが(神対人って事で、人(日止、霊止)が認識する言葉として)、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事になる。

ほんでから大体、今の形骸の宗教団体を観れば、
誰かを教祖と崇めたいとか、団体を作って権力を示したいとか、
どっかの下らん巨大な宗教団体みたいに、マルチ商法まがいの金集めをしたりとか・・・
こんな事は例を挙げて行ったらキリが無いけど・・・
そやから本来は、人の心(靈)が“上”に向かう事を説いてる宗教を、
“下”の心(靈)の発現の人が、
多数の人を“下”の心(靈)の方向性に向かわせる事は、
言うまでもなく、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあるし、
その具体的な仕組みには(通貨としての)金が絡んでる。
(通貨としての)金を欲しがる低い振動の欲望が生み出してる事でんねん。
そやからそれは自我以下の心(靈)の発現やから、
智性を持ち始めた生物としての人がやる事として、絶対にアカン・・・
そうでは無いって事やから、
“教会作るでないぞ、”
“信者作るでないぞ、”
“無理に引張るでないぞ。”・・・って事やし、
ほんでから霊的成長の段階は、その資格って言うのんは、
個人の心(靈)の育ち具合って事やから、解らへんもんは解らへん・・・
そやから霊縁に任せるとか、縁有る人なら必ず“上”は縁を付けるもんでんねん。
それは、先生の人生を観るとよう判る事でも有るな。
先生が子供の頃から思い続けてきた事、考え続けてきた事、
ほんでから先生の認識に応じて段々霊縁も出来て行った。
その事は前のブログで言うたから敢えて言わへんけど、
何でも強く求めんと=発振、発信せんと人は、
認識(悟り、幸取=さとり)を獲得出来へんって事でも有り、
それは自分の心(靈)の発振、発信に応じた感応共振でも有るし、
ほんでからそれが人(日止、霊止)やったり霊的存在やったり、
言い換えれば、霊的干渉による通信でもあったり、
霊縁が有って故の事象でもあり=いろんな人に出逢ったり、
霊的存在だろうが人(日止、霊止)だろうが、
先生の目の前に現れた存在が、先生の心(靈)に影響を与え、
ほんでから先生も成長したって事でもあるな。

ほんでから次の言葉は、下つ巻 第四帖の締めくくりでもあるな。

“この仕組 知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、
世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ。”

そやから今回説明した、
“五十九”“イシ身魂”“御苦労の身魂”“生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂”・・・これらの事をさして言うてる言い方で、
自分達で木がついて欲しい言い方でもある。
神さんが神さんの立場で教える事は人(日止、霊止)の霊的成長にはならへんからでもある。
そしてそれは生物の進化の仕組みでもあるし、生物の進化は心(靈)の発現の段階を示している・・・
今、○○○大先生は、その事を証明する為に三本目のブログ“改”の文章を作ってる。

余談やった・・・

そやからこの最後の文章は、生物の進化って言うのんは、
“世の元からの仕組”で、
それは、
“岩戸開く時来た”に掛かってる言葉でんねん。

“岩戸”は今まで何回も言うた通り、
山=脳、頭、
石=帯電するミネラル、
“一”=山と石の間の境界、腹と胸の間の境、コンデンサーの構造としての境、
サイクロトロンからシンクロトロンに移行する境でもあるし、
ほんでから、
尸(しかばね、かばね)=肉体でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第五帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第五帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、


江戸に神と人との集まる宮建てよ、
建てると申しても家は型でよいぞ、
仮のものざから人の住んでゐる家でよいぞ。
の石まつりて、神人祭りて呉れよ。
それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。
淋しくなった人は集まりて その神示(ふで)見てよ、神示見れば誰でも甦るぞ。
この神示うつす役要るぞ、この神示 印刷してはならんぞ。
神の民の言葉は神たたえるものと思へ、
てんし様たたえるものと思へ、
人ほめるものと思へ、
それで言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、
それが臣民の言葉ぞ。
わるき言葉は言ってはならんぞ。
言葉はよき事のために神が与へてゐるのざから忘れん様にな。
七月の十五日、ひつくのかみのふで。


冒頭の言葉、
“江戸に神と人との集まる宮建てよ、
建てると申しても家は型でよいぞ、
仮のものざから人の住んでゐる家でよいぞ。”
この文の中の“江戸”と“神”と“人”、
この解釈が出来て無いとこの下つ巻第五帖は意味が通じへんな。
そやから今までも何回も言うた事やけど、
江戸の“江”は、(氵)さんずいと2~3番目のオーラのオーラを示す二、
“二”は、腹と胸のオーラでもあるし、
“江”そのものが腹の水って言う意味があると思える。
ほんでから“二”は、それは又、肉体のオーラでもあるし、
ほんでから、“戸”は一と尸(しかばね、かばね)、
尸(しかばね、かばね)も肉体の意味を持つ。
そやから、人(日止、霊止)から心(靈)を差し引いたなら、
肉体=尸(しかばね、かばね)って言い方も出来るし、
死んでから=肉体を土に還してから、自分自身の心(靈)が持っていく何かって言うのんは、
戸の一で、それは“一”=智性=1番目のオーラで、
自分が獲得した認識(悟り、幸取=さとり)でしかないって事でんねん。

ほんでからこの文の中の“神”は、
示すへんと、申=“呂”、エネルギーの回転を示す。

ほんでからこの文の“人の集まる宮”の“人(日止、霊止)”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と、
“宮”は宀(うかんむり)と“呂”
そやからそれは、神の思惑を受け=天意を受け、人の思惑の顕現をする。
“上”である神と、“下”である人(日止、霊止)と、その両方で、
事象の“創造”をする。
そやから、今言うた事を細かく説明すれば、
現津(あきつ)=観察され得る事象を、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉で、
人(日止、霊止)は時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう)の意味、人が歩く様に象る)と共に、良い世界を創ろうとする。
それが人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の、
集まる=肉体の磁性で“上”の振動、天意、神の思惑を集めるからこそ、
人は“宮”って表現され得ると思いまんねん。
ほんでから“宮建てよ”は、現在建ってないって事を言うてるし、
今の人が、(相対的に)
宀(うかんむり)=頭と“呂”=エネルギーの回転・・・そう言う“宮”の構造に、
なっていない進化過程って事でんねん。
そやからこう言われてまんねん。
早くそうなってくれでもあるし、それが又神格化のひな型でんねん。

・・・っちゅう事ことから考えて、
この文の中の表現の“家”っちゅうのんは、人(日止、霊止)の肉体って事やと、
思いまんねん。
そやから人の肉体=“家”の中には、
人(日止、霊止)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)があり、それは人(日止、霊止)の心(靈)って事でんねん。
ほんでからそれは、
“型でよいぞ、仮のものざから人の住んでゐる家”って言う表現のこの言葉は、
人の肉体の構造が神格化の仕組みを持っている。
神格化のひな型っていう事を言うてると思いまんねん。
それは、肉体の磁性により荷電粒子を取り込み回転させ増幅し発振、発信する。
そしてその荷電粒子は情報を持っている。
その情報には神の思惑もあれば、“魔”=マーラ(魔羅)の思惑もある。
そうやって人(日止、霊止)の心(靈)は、
何かの荷電粒子を取り込み、
時間と共に(時間の進行を心(靈)が認識して)、
心(靈)が変わり肉体も変わり、その事そのものが、
“気血栄衛(營)”の意味やと先生は思うてる。
そして荷電粒子の取り込みと増幅と発振、発信の肉体の仕組み、
それはチャクラそのものでもあり、ほんでからそれは“日月神示”の表現の、
“弥栄”→“彌栄(いやさか)”の“彌”の旧字、
弓(ゆみ)へん+璽・・・その字の意味やと先生は思うてる。

弥の旧字 


これに付いては前のブログ、
思惑と顕現“その十一” “上”の思惑と顕現・・・“天の御目”・・・で、先生は説明したから、このブログに霊縁があった人(日止、霊止)は是非読んで欲しいねん。

ほんでから“仮のものざから人の住んでゐる家”、
この言葉の“人の住んでゐる家”は、
家=肉体=心(靈)の入れ物って事で、
肉体を持っていると認識しながら心(靈)は成長する=神格化を認識して、
生きていくって段階に入る。
それが今後の人(日止、霊止)=アセンション後に位置する心(靈)っていうことでもあると思いまんねん。

ほんでから次の言葉、

○ ローレンツ力 の石まつりて、神人祭りて呉れよ。”
この言葉も“ ○ ローレンツ力 の石”が解らへんと、何のことか全然理解出来へんと思うけれど、
霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力  は、
人の霊的進化の構造を示す表記でもあるし、肉体の磁性を示すものでもある。
そやからローレンツ力でどれくらいの“上”の思惑と感応共振するのか、
言い換えれば、どれ位高い振動を獲得するのか。
そして自分の心(靈)は、
(現時点より相対的に)創られていく=“上”に向かっていくって事なんやけど、
感応共振する存在が自分より“上”ならば、
それは“上”のチャクラとの感応共振であり、
“下”の存在ならば“下”のチャクラでの感応共振ってことで、
その時の自分の心(靈)の中での認識は、
“上”ならば“善(神格化の方向性と智性の受信)”であり、
“下”ならば“悪(心の動きの本能化と低振動化)”って事でもあり、
その“上”と“下”との感応共振を選ぶのは、
自分の心(靈)の動き=“どういうつもり”=自分の在り方でしかない。
そやから自分の心(靈)の中の“上”と“下”の心(靈)の動き、
自分の心(靈)の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見極める=“身魂掃除”“身魂洗濯”が必要であるって事でんねん。

そやからそれはこの言葉の後半の言葉、
“神人祭りて呉れよ。”
“祭り”は前のブログでKellyさんが調べたみたいに、
月部(げつぶ、にくづき)と又=手足と、示す。
そやからこの“祭り”は“祀”りと違い、
肉体の中に祭るっていう意味で、そしてそれは“上”の思惑を取り込んだカタチが、
祭りって言う字に示されると思える。
それに対し読みが同じの“祀り”は、
“日月神示” 上つ巻 第四帖 Kellyさん的解釈で言うたからコピペしときまんねん。
     
“この“祀”・・・示すへんに巳。
示すって言う字は、
“二”=2~3番目のオーラ=肉体と、
亅部(けつぶ こう かぎ)=“上”から下に降り、
そして日足(ひたり)斜め上にはねる。
良いカタチで“下”から日足(ひたり)“上”に現象化するっていう意味と、
ほんでからに亅部(けつぶ こう かぎ)の左右に点が二つ、
この二つの点は回転を示し、それは人のエネルギーを示し、
そのエネルギーそのものが砌(みぎり)と日足(ひたり)でもある。
そしてこの点の書き方自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)・・・
そう言う意味を持ってると思いまんねん。

示すの中の丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ) 


ほんでから“巳”・・・
これは十二支の六番目の巳でもあり、
それは陰陽五行として“火”に属す。
そやからこの“祀る”って言う意味は、
肉体の事そのものでもあり、
その良い形が、
神=示すと“呂”エネルギーの回転による発振、発信・・・
それは“上”から降り注がれるエネルギーって言ってもいいし、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を、
取り込んでるって事でもある。
そやからそれは、相対的に高い心(靈)の発現って事になって行く・・・
地球人の(霊的)進化程度から言って、
自我より“上”の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”の発現になって行く。
又、さっきも言うた事やけどそれは、天意を伺うって事やねん。
段々“上”の思惑を受信するようになるって事でんねん。
それそのものを示した言葉が、“神祀り”・・・
そう思えまんねん。”

     
以上でんねん。


そやから“祭り”と“祀り”の違いは、
“上”から“下”に降りる振動、人の認識(悟り、幸取=さとり)での天意を受ける事が、
“祭り”で、
それに対し、
人(日止、霊止)が“上”を認識して心が“上”に向かおうとするとか、
段々自分の持っている振動が“上”に向かう事そのものが、
“祀り”って言う意味でもあると思いまんねん。

そやから、下つ巻 第五帖は、肉体と心(靈)、その霊的進化の事を言うてるから、
次の言葉、
“それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。”
“お告げ書かすぞ”は、先生の言い方なら通信を受けるって事でもある。
ほんでからそれは、“それが出来たら、”・・・それが出来たならって事でんねん。
そやから人(日止、霊止)が“上”の思惑を自分の心が感じ=感応共振し、
それは反応したと言ってもいいし、
その結果“上”の思惑を自分の思想にするって事でんねん。
それを“お告げ”と表現され、
“上”の思惑を自分の心(靈)の動きにした人(日止、霊止)でなければ次の“創造”を託されんって事を言うてるって事でんねん。

ほんでから次の言葉、
“淋しくなった人は集まりて その神示(ふで)見てよ、神示見れば誰でも甦るぞ。”
この言葉の中の“淋しくなった人” は祀りの意味を言うてる。
“淋”は、(氵)さんずいと木部が二つ=左右の磁性で、
胸の段階=アナハタチャクラの心(靈)の発現をする事でんねん。
腹の段階の心(靈)の発現が“上”に向かう=両手の磁束と胸の磁性で、
引き上がるって事でんねん。
サイクロトロンからシンクロトロンの最初の段階に移行することでもあるし、
それは心(靈)の動きとしては“慈悲”と“慈愛”の発言って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“この神示うつす役要るぞ、この神示 印刷してはならんぞ。”
“この神示うつす役”=“上”の思惑を取り込んで自分の思想にする。
そやからそれは印刷物なんかではダメってことでもある。
それは、同じ文章を読んでも、同じ言葉を使っていても、
人の認識によってその解釈はと使い方は“上”と“下”がある。
言い換えれば“善悪”(神格化&動物化=悪=亜の心=心の本能化)がある。
(“善悪”を認識出来るが、使っている当事者が解っていないって事)
その事の極端な例を挙げれば、
正義を振りかざして戦争をする某大国とか、
主護霊の解釈をてんで低いものにして金儲けした某霊能力者とか、
程度の低い人(日止、霊止)は程度の低い解釈しか出来ないし、
挙句の果てに、
尊い言葉を自分の都合で道具に使い自己奉仕する。
・・・アホでんねん。

そやからこの表現“この神示うつす役”は、
“上”からの通信を自分の心(靈)の動きに出来る人(日止、霊止)っていう、
意味でんねん。

ほんでから、以下の言葉も同じ意味でんねん。

“神の民の言葉は神たたえるものと思へ、
てんし様たたえるものと思へ、
人ほめるものと思へ、
それで言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、
それが臣民の言葉ぞ。”

“言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、”
言葉はそう使わんとアカンって事でんねん。
そして人の行動は誠(言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する)でなければならないし、
そやからこそ言葉の意味=言霊(ことたま)は、
“幸(さき)はふ”=“夭と屰”(ようとげき)で“幸”やから、
(“夭と屰”(ようとげき)の意味は前のブログ、
個人々々の振動の違い を読んでほしいねん)
沢山の認識(悟り、幸取=さとり)を生きている間に獲得せよって事やと思いまんねん。


ほんでから次の文は、

“わるき言葉は言ってはならんぞ。
言葉はよき事のために神が与へてゐるのざから忘れん様にな。”

言葉って言うのんは“事象の認識をする為の道具”って言い方を、
先生が前のブログで言うたけど、言葉そのものが発振、発信の意味もある。
それは誠=言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成するって事でもある。

そやからこの下つ巻 第五帖の終わりの言葉を、
先生流に言い換えれば、
“悪き言葉”=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識の発振、発信。
“言ってはならんぞ”=発振、発信するな。行動に移すな。
“言葉はよき事のために”=“よき事”は神聖な事象の“創造”の為にって事で、
そのための言葉=発振、発信は、
“神が与へてゐるのざから”=“上”から降り注いでいる(瀧原宮の滝の様に)荷電粒子を“上”から“下”へと、天から天意として、
“上”の思惑として、
人(日止、霊止)に与えているって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第六帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示” 下つ巻 第六帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

 
今までの神示 縁ある臣民に早う示して呉れよ、
神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るから、早う知らせて呉れよ、
誰でも見て読める様に写して神前に置いて、誰でも読めるやうにして置いて呉れよ、
役員よく考へて、見せるとき間遠へぬ様にして呉れよ、
七月の十五日、ひつくのか三神示。

今回の文章は短い。
そやからその中で忘れてはならへん重要な事を言うて於きまんねん。

冒頭の文、

“今までの神示 縁ある臣民に早う示して呉れよ、
神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るから、早う知らせて呉れよ、”
この文の中の
“神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来る”の、
“神々さま臣民まつろひて”は、神と人の関係を示す表現で、
それは下つ巻 第五帖の解釈で言うた“祭り”と“祀り”の違いでもあるな。
そやからそれは、“上”の思惑が物質に入り、生命(生きる使命=存在理由)になり、
人(日止、霊止)に成った事を“祭り”って言い表され、
それは“上”から“下”ってことでもあり、
それに対し“下”から“上”=人(日止、霊止)の立場から、
神を意識して認識して行く事が“祀り”ってことやから、
それは振動の受信と発振、発信をも示す事でもある。
ほんでから振動って事を表現してるのが次の言葉、
“言答(いわと)開くもと”の“言答(いわと)”で、
“言”と“答”は、自分の心(靈)の動きにより発振、発信することが、
“言”で、
それに対し自分より“上”の思惑を受信したり感応共振したりする事が、
“答”って事やと思う。
そやから今までも天意を受ける人(日止、霊止)なんて事を何回も言うたけど、
人が霊的進化するためには自分が“どういうつもり”=自分の在り方で、
発振、発信をする、行動に移す、それによる霊的干渉があり、そうやって時間の進行と共に自分も育ち、自分が認識する事象も創造し、そうやって場(フィールド)の構築をする。
ほんでから何回も言うたけど、
人(日止、霊止)の霊的成長度により、程度の低いものと相対的に高いものは分ける・・・それがアセンションと認識され得る事象でもある。

ほんでから次の文、
“誰でも見て読める様に写して神前に置いて、誰でも読めるやうにして置いて呉れよ、”
単に読むって事を言うてるのではなく、誰でも認識出来る霊的成長度に成ってくれよって事を言うてる。
それは次の言葉の“役員”に掛かる。
“役員よく考へて、見せるとき間遠へぬ様にして呉れよ、”


この“役員”って表現も“日月神示”には何回も出てくるけど、
“日月神示”の文の裏の裏まで解釈出来る人(日止、霊止)は多分とても少ない。
そやからそれは“上”から選ばれた霊的資格を持った人が解釈しなければ、
本当の意味が解らへんってことで、
ほんでから“日月神示”は、
霊的成長の仕組みと神格化の仕組みが書いてあるって事でんねん。

ほんでからこの文の中の“見せるとき間遠へぬ様に”は、
解釈を示すことそのものが、今“日月神示”の解釈をしてる人はとても多いし、
“日月神示”の解釈本もとても沢山あるけれど、
その内容に対し、
先生の視点は日、月、神、示す、 その意味と、

ほんでからまだ解釈するに至ってない、春の巻 第二帖の、


“誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ、
特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。
太陽の光集めること知っているであらうが。”


この解釈は太陽凝視以外にないってことで、
ほんでからそれは太陽凝視が神格化にいたる“行”で有る事を示す文でもあり、
それは三十年以上太陽凝視をしたからこそ、そして悩み・・・色々考え、
そやから“上”との感応共振があった。
だからこそある程度“日月神示”の意味が理解できるって言うのんが、
先生とKellyさんの我田引水な解釈でもある。
ほんでから“日月神示”の意味・・・それを示すって言うのんは難しいからこそ、
“間遠へぬ様に”って、表現されてると思う。

ほんでから“間遠へぬ”、
この言葉は多分、間遠の渡し(まとうのわたし)からの引用で、
間遠の渡しって言うのんは、七里の渡しのことらしく、
それは、壬申の乱(じんしんのらん、672年に起きた日本古代最大の内乱)で、天智天皇の太子、大友皇子(おおとものみこ)に対し、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、その後、反乱者である大海人皇子が勝利したんやけど、その際、大友皇子に追われ桑名(三重県)を船出した大海人皇子が、
熱田(愛知県名古屋市)までの七里の渡しを見て“間遠かな”と嘆いたそうで、
そやから桑名七里の渡しは、別名を間遠の渡しというようになった。
そやから要は、壬申の乱は皇位継承の権力争いやったって事なんやけど、
皇位って言うのんは、
霊的成長度、霊的資格で獲得する=“上”から選ばれるもんやとKellyさんは思うけど、
(そやから先生は、天皇の意味は天の白い“王”ってことやって言うた)
その権力争いで勝とうが負けようが、結果としてそれは、
霊的成長による皇位継承ってことでは無い。
そやから“間遠へぬ”・・・こういう表現をされてると思える・・・

そやからそれは何回も言うた事やけど、
今の人の形骸の価値感は、権力と物欲と見掛けで“上”と“下”を決めている。
ほんまに“上”“下”って言うのんは、霊的成長度でしかないし、
それは神さんが人を評価する視点でんねん。
そやから形骸の価値感って言うのんは“下”三つのチャクラでしか、
物事を判断しない傾向があるって事でんねん。
そう言う視点しか持ってないし、そう言う事象の観察しかしてないって事でんねん。
そやからそれは、“間遠へぬ”は、形骸の価値感で霊的成長の本筋からはずれ、
間違えて遠回りをしてるってことでもあるな。
ほんでからそれは、
今沢山ある“日月神示”の解釈本とか、“日月神示”を扱っているサイトとか、
ほんでから太陽凝視でもアセンションでも、
その意味と意義を低い心(靈)の発現で低いものにしている人すべてが、
霊的成長をしていない事を示す・・・そう言う言葉にも聞こえるな。
ほんでからこの下つ巻 第六帖は、
下つ巻 第七帖に続く感じやし・・・そやから今回は、これくらいにしときまんねん。


“日月神示”下つ巻 第七帖 Kellyさん的解釈


今回も、下つ巻 第七帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、
しかし無理には引張って呉れるなよ。
この神は信者集めて喜ぶやうな神でないぞ、
世界中の民みな信者ぞ、
それで教会のやうなことするなと申すのぞ、
世界中大洗濯する神ざから、
小さいこと思うてゐると見当とれんことになるぞ。
一二三祝詞(ひふみのりと)するときは、
神の息に合はして宣(の)れよ、
神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。
しまひだけ節(ふし)長くよめよ、
それを三たびよみて宣りあげよ。天津祝詞の神ともこの方申すぞ。
七月十五日、一二 ローレンツ力と ○


冒頭の文、

“この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、
しかし無理には引張って呉れるなよ。”

これも、敢えて説明することではなく、霊的成長って言うのんは個人的な作業でしかない。
それは前のブログで先生が何回も言うた。
人が目指す何かって言うのんは、その道程が何種類もあって、
その中途の過程しか地球人は知らへんからこそ、目先の事しか解らへん。
そやから低い功名心で教団を作ったり教会を作ったり団体を作ったり・・・
そうやって自分の低い功名心と自尊心を満足させ、
なんやしらん起きた事に対し、批判だけして時間を過ごしたりしてエエ気分になったりとか・・・そう言う人は意外に多い。
そやけどそんな事は霊的成長には結び付かへん。
今の段階の地球人の霊的成長は自省(胸の磁性“十”)の行をすることで、
自分達がやってきた事に対し、
自分がどう感じ(感じる磁性)、どう思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、今後、自分達は、どう行動するのか=どう、自分の思惑を発振、発信するのか=どう、事象を創っていくのか・・・それが重要って事でんねん。
そやからKellyさんは、前のブログで先生と話してて・・・何とかならへんのやろか・・・何とかする事・・・って何回も思うたけど、
それは自分の心(靈)の在り方って言う事と、
自分の心(靈)が対外的に観察してる、現津(あきつ)=観察され得る事象・・・
それを観て自分が思う事でしかない。
そやからそれは、
自分が進む道が霊的成長の早道なのか=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行動をとる事なのか、
或いは、
自分が相対的に霊的成長に向かわず、心(靈)の発現が“下”に向かい=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑を顕現するのか・・・
時間の進行により(儿部(じんぶ、にんにょう)の意味)、
そのどっちかしか方向性は二つしかない。
ほんでから、“・・・何とかならへんのやろか・・・何とかする事・・・”そう思う事そのものが、それは、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現でもある。
又、相対的に“慈悲”と“慈愛”の発現がないのが自己奉仕者でもある。
自己奉仕者の“創造”は“上”の思惑に沿っていないから、
それは示さんならんからこそ、
自己奉仕者の心(靈)の創造の結果は崩壊に向かうってことで、
それがアセンションに伴う不幸な事象になる。

ほんでから次の言葉もおんなじでんねん。

“この神は信者集めて喜ぶやうな神でないぞ、
世界中の民みな信者ぞ、
それで教会のやうなことするなと申すのぞ、”

敢えて説明するようなことでは無いな。前にもこういう言い方はあったし・・・

ほんでから次の文、

“世界中大洗濯する神ざから、
小さいこと思うてゐると見当とれんことになるぞ。”

これは、誰でもが通り越さんならんって事を言うてるだけでんねん。
ほんでから次の言葉は先生の概念がなければ本当の解釈が出来んと思えるな。

“一二三祝詞(ひふみのりと)するときは、
神の息に合はして宣(の)れよ、”

“一二三”は、人の心と肉体のオーラって事でんねん。
そやから“一二三祝詞”の“祝詞”・・・
大体“祝詞”って言うのんは、人間が神に対して自分の理想を延べ祈願するとか、
これは愛(炁)が動機の事やし、
ほんでから、神を称え崇敬する意思を表現する為に記した文章って事になってる。
ほんでからそれを声を出して奏上することが、
祝詞の語源、宣之言、宣処言、宣呪言(のりとごと)で、それは宣り聞かせる(のりきかせる)って事でんねん。
そやからそれは、“祝詞”っていう表現は、
自分の気持ち、心(靈)の動きの発振、発信、それは三つのオーラの発振、発信っていう事でんねん。
ほんでから“日月神示”では、先生自身がオーラの観測で得た三つのオーラの基底の事も何回も表現されていて、それは今後の文章でも出てくるんやけど・・・要は、
人の心と肉体の発振、発信は、“一二三”であるし、
霊的成長の仕組みは“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往って事でんねん。

ほんでからこの文の“神の息”は、
神の息吹で、神の発振、発信で、創造主のオーラでもある。
そやから人(日止、霊止)が“創造”をする。
それは、神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉って事でんねん。
そやからそれは、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との相互干渉で自分の心(靈)と、心が観察する(受信する)、
現津(あきつ)=観察され得る事象を創っていくって事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。
しまひだけ節(ふし)長くよめよ、”

“三五七”は、
“三”は人のオーラの構成、“一二三”と同義で、
“五”は糸巻き、人(日止、霊止)として進化した神経の構造、
“七”は、
“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは創造主のオーラの受信、感応共振って事で、それに乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が加わった字が“七”でもある。
そやからそれは、又、神の思惑を受信して感応共振して自分の思想にした人(日止、霊止)って事で、それは只、人の神格化の方向性を示すって事でんねん。
そやからそれを強調してるから、
“しまひだけ節(ふし)長くよめよ、”
それは人(日止、霊止)の在るべき姿、
人(日止、霊止)の進化の最終段階の神格化=完成の領域を示すからこそ、
こういう言い方をされてると思いまんねん。

ほんでから次の文、

“それを三たびよみて宣りあげよ。”

この“三たび”は、
霊的成長の仕組み、右往左往して失敗して教訓を得て、認識して、左往右往に入る。
そやから似たような言葉の連続で解りづらいかもしれへんけど、
右往左往は智性のない創造で、そやから失敗して考える。
アセンション前の・・・今の世界やな。
そこには程度の低い創造=右往と、
自省(胸の磁性“十”)の“行”=左往がある。
ほんでから自省(胸の磁性“十”)の“行”をして智性を獲得した人(日止、霊止)は、
“上”の思惑を顕現できるようになるからこそ、
左往右往=智性(日を知った上で獲得した性質)由来の創造をするようになる。
そやから“三たび”は、人(日止、霊止)の創造には、
心(靈)の発現の段階=霊的進化過程で、三段階あるって事でんねん。
このことを言い換えれば、最初は低い心(靈)の発現で、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程になり、
ほんでからそれは、
神さんの“創造”の法則性に則って(のっとって)いないから、
“神の咎め”=ローレンツ力による“曲霊(まがつひ)”による失敗の事象を体験し、
ほんでからその体験で、自分の認識を高めていき、
同時に“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をして行き、
ほんでからその後は、神さんの思惑と自分の思惑が一体になった“創造”をして行く。
・・・そう言う事でんねん。
そやから“よみて宣りあげよ。”は、発振、発信していけ!でもあるし、
左往右往=智性(日を知った上で獲得した性質)由来の思惑の顕現=創造をしていけって事やと思いまんねん。

ほんでから最後の文、

“天津祝詞の神ともこの方申すぞ。”

“天津祝詞の”
これは、天の中心=津って事でんねん。津には中心って言う意味がありまんねん。
そやから“天津祝詞の神ともこの方申すぞ。”は、
創造主の思惑の発振、発信=“祝詞”って事でんねん。
そやから下つ巻 第七帖は、“天津祝詞”=創造主の思惑と、
感応共振して行け=霊的成長を果たして行け・・・
とりあえず自己奉仕者の思いから“慈悲”と“慈愛”の発現をして、
少しでも今の不幸な事象を取り除く努力をして行く心(靈)に、
なって欲しいって事やろけど・・・不幸な事象は多分避けられへんな。
そやからそれも、
やってきた事の結果=ローレンツ力由来の“曲霊(まがつひ)”の事象=ブーメランの法則・・・の結果やろし・・・そやから避けられへん事は別にして、
一人でも多くその事を知って欲しいって言うのんが、下つ巻 第七帖を読んだ、
Kellyさんの感想でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第八帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

この神示(ふで)皆に読みきかして呉れよ。
一人も臣民居らぬ時でも声出して読んで呉れよ、
まごころの声で読んで呉れよ、
臣民ばかりに聞かすのでないぞ、神々さまにも聞かすのざから、
その積りで力ある誠の声で読んで呉れよ。
七月の十七日、ひつ九のか三。

オーラの相互干渉、霊的干渉が電磁誘導って概念が無いと、
この文章は、
只、書かれたものを読んで誰かに聞かせるって解釈しか出来へんな。
そやから先生とKellyさん的解釈では、

“この神示(ふで)皆に読みきかして呉れよ。”

神示、神を示す事、それを事象に現す事、顕す事、それは“上”から“下”に、
下ろして、筆、ふでの運びのように、発振、発信せよ=“読みきかして呉れよ。”

ほんでから、その事を強調する言い方として、
誰かに聞かせるって事やないからこそ、

“一人も臣民居らぬ時でも声出して読んで呉れよ、”

ほんでからそれは心(靈)の在り方であるからこそ、
“まごころの声で読んで呉れよ、”

更にそれは、言葉や声を聞かせるっていう意味ではなく、
自分のオーラの発振、発信で事象を創造するって言う意味やからこそ、

“臣民ばかりに聞かすのでないぞ、神々さまにも聞かすのざから、
その積りで力ある誠の声で読んで呉れよ。”

あらゆる事象、“上”から“下”まですべてにかかわる発振、発信・・・
創造主から悪魔まで、
進化した生物から微生物まで、
自分が住んでいる場所から認識し得る全空間までのことを含み、
自分の発振、発信、と、他の存在の発振、発信は、
互いに感応共振したり反発しあったり、
それはすべて電磁誘導による事でもあり、
それを、荷電粒子の場(フィールド)である、霊=○、
“日月神示”の表現である、まこと ○ 九 十 の、○、
言い換えれば、
自分(“個”の意識=独り神になるべく・・・まだその段階では無い)の心(靈)が、
感じ(感じる磁性)るからこそ、
事象の観察(電磁波の受信)をして行くし、
自分が望む事象の“創造”は・・・・・・まあこの文章ではそこまでの事は言うて無い。
ほんでからそれは、敢えて言うまでも無い事やな。

そやから今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈



今回も、下つ巻 第九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

今度の戦は
ローレンツ力と ○  とローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  との大戦ぞ。
神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、
下(しも)の神々様にも分らんぞ。
何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、
大神のみことによりて この方らが神徳出して、
九分九厘という所で、
神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、
悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、
神の国は神の力で世界の親国になるのぞ。
ローレンツ力と ○ とローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  とは心の中に「 ローレンツ力 」があるか「ローレンツ力  」がないかの違ひであるぞ。
この方は三四五(みよいつ)の神とも現われるぞ。
江戸の御社(みやしろ)は誰でも気楽に来て拝める様にして置いて呉れよ、
この方の神示(ふで)書く役員、
神示うつす役員、
神示説いてきかす役員要るぞ、
役員は人の後について便所を掃除するだけの心掛ないとつとまらんぞ、
役員づらしたら直ぐ替身魂使ふぞ。
七月の十七日、一二のか三。


この文章の中で大事なのは以下の二つの文で、これが解釈が出来へんと、
下つ巻 第九帖は、何の事か解らへんと思える。

“今度の戦は
ローレンツ力と ○ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) との大戦ぞ。”

ローレンツ力と ○ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とは心の中に「 ローレンツ力 」があるか「 ローレンツ力 」がないかの違ひであるぞ。”

ローレンツ力と ○ と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の違いをKellyさん的に説明すれば、
今までも述べてきたように、
 
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) は霊、そして心(靈)、それは荷電粒子の場(フィールド)で、
それは肉体を持っていようがいまいが、
生命(生きる使命=存在理由)でもあり、生命=靈=心であり、
ほんでから心(靈)って言うのんは、事象の観察をして認識をしている。
ほんでから、観察と認識って言うのんは、
神さんと共通の行いって事を、前のブログで先生と話した。
ほんでから生命は、霊的進化を果たす為に存在しているし、
神さんに近付く為に存在しているとも言い得る。
そして人は、霊的進化したならば、
“上”の思惑を自分達が創造する事象に顕現し、
それは、“日月神示”内の表現ならば“うれしうれし”“大歓喜”で、
先生の表現ならば自分が観察し得るすべての事象が神聖なものになって行く。
ほんでからにそれは、Kellyさんの幼稚な表現ならば、
前のブログで、天国の創造って事を先生と話しながら思ったやんか。

そやから人間と動物の違い、
それは幸福の概念を持ち、
自分たちより“上”の存在として神さんの認識をし始めた事。
そやからこそ人は自分達の幸福を求めてるし、良いカタチの創造をしようとしている。
そやけど今、間違えてる。
良いカタチの創造、神聖な世界の創造をするためには、
当然、智性(日を知った上で獲得した性質)=神性を持って無いとアカンのやけど、
どれ位、智性を取り込んだのかは“一”=智性=1番目のオーラに示されるんやけど、
それは自分の心(靈)が“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力 を持って無いと、
自分より“上”の思惑を取り込めない。

ほんでから、“上”の思惑を取り込むためのローレンツ力
ローレンツ力  は、
その要素として二種類が考えられ、
その二種類って言うのんは、
オーラの質と、大きさ=量やと思える。
(質量って言うのんは、この世界=三次元の物質世界の法則性の表れやと思う。)

そやから、オーラの質=“上”の心(靈)の発現。
それに付いて説明すれば、
前のブログでも、今までの“日月神示”Kellyさん的解釈でも何回も言うた事やけど、
人(日止、霊止)が動物と違い、心(靈)の発現が“上”に向かう、
それは自分が持っているローレンツ力
ローレンツ力 による荷電粒子の回転=チャクラ、
これを構成する振動が今までの進化過程より“上”でなければいけないし、
それは、動物よりも“上”のチャクラを覚醒して来た人(日止、霊止)、
人(日止、霊止)が持っている心(靈)の振動、
詳しく述べれば、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
愛(炁)=アナハタチャクラ以下の、
“下”三つのチャクラでの心(靈)の発現は、
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)。
そやから肉体の構造が、“一”“二”“三”、
言い換えれば“上”“中”“下”で違うから、
三つのオーラ、“一二三”のオーラの基底はそれぞれ違うし、
また、“一二三”のオーラの発振、発信をするのは、
頭、胸と手、腹と足、
それぞれ肉体を構成する器官の構造と電気特性は違う。
当然その部分々々で受信して増幅する振動も違うし、
発振、発信される振動も質が違う。
その質が心(靈)の発現とある意味同義でもある。
ほんでから、今までの地球での人(日止、霊止)の進化過程は、
腹の段階のオーラの発振、発信と、その心(靈)の発現で、
こんなことは何回も言うた事や。
そやから、
心臓=愛(炁)、アイ、アナハタチャクラのエネルギー循環が、
“下”三つのチャクラで行われてる心(靈)の発現とその心の動きが、
自我の確立=固定化で、
そして、その段階から“上”に向かうために、今、自我の肥大がおき、
そやから自己奉仕者の行いは失敗を体験する。
これも何回も言うた、右往左往から、左往右往に入るって事でんねん。
失敗せんと自省(胸の磁性“十”)して“上”に向わへんって事でんねん。
ほんでから、自分の心(靈)に対し、
“上”の心(靈)の発現に示されるその高い振動の取り込みは、
右往左往と左往右往の人生に於いて悩み苦しみ、
自省(胸の磁性“十”)の行をしながら、
段々、“慈悲”と“慈愛”と“智性”と、
智性由来の“力”の顕現と言い得る“智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)”の、
心(靈)の発現に至る。
そやから、今後の進化は=アセンション後の人の進化は、
アナハタチャクラ=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが中心になり、
それ由来の事象の“創造”=神の思惑と生命の思惑、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と、
人の肉体の磁性によるローレンツ力 により、
自分の心(靈)が今より相対的に“上”の電磁波(振動)との相互干渉をして行く。
そやからそれは、
今、とても多い心(靈)の動きの、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、
“下”三つのチャクラ由来の心(靈)の動き=自我の確立=固定化の段階に、
“魔”=マーラ(魔羅)が入り込み、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形の意味)になるってことは、
アセンション後はなくなる。

そやからこそアセンション後の世界に位置できる霊的資格って言うのんは、
自分の心(靈)の動きを自分で観察し、その中に、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と“善(神格化の方向性と智性の受信)”を、
見出せる人でもある。
それが又、“日月神示”の表現の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

ほんでからもう一つの要素、オーラの大きさ=量は、
肉体の磁性を構成する電圧の問題でもある。
それは生体内電流の強化でもあり、難行苦行でもある。
ほんでからそれは、又、
身に降りかかってる霊的干渉による因縁とか、
生きていく上で困難な事とか、苦難とかに遭遇し、
それらを自分に対する試練とする=そう捉えて生きる。
それらは自分の心(靈)の在り方でしかない。
そやからそれは、
心(靈)の在り方により“行と修行”って考え方もできるし、
霊的成長を果たしてくべき人は、
身に降りかかった因縁でも、“上”が自分を試しているテスト=試練って解釈をして、
しっかり向き合い、そこで頑張って(元の気を張って)対処する。
そう言う心(靈)の動きならば、“上”の存在は通信を送り、
その“行”と言える事をうまく乗り越すために手助けしようとする。
それが又、S会=紫光会の交霊会でよく言われた言葉、
神は乗り越えられない困難は与えない”の意味でもある。

人がその困難に対し頑張るからこそ、
“上”の霊的存在は、その人を導こうともするし手助けもする。
そやからそれは、教訓を得ようとする心(靈)の動きってことでもある。
教訓を得た心(靈)って言うのんは認識(悟り、幸取=さとり)を獲得し、
結果それはオーラの拡大って事になる。
又、智性の獲得により、段々神性の顕現って事にもなる。

そやけどそれに対し、頑張らんと逃げてる人には、
甘い囁きをするたくさんの悪霊が憑き、
目先の快楽とか、見せ掛けの愛(炁)の言葉に翻弄され、
癒しなんてことを求めたりもする。
ほんでから低い心(靈)の発現のまま“上”に向かわん人は、
生き方を間違えてあくどい金儲けしたり、人を食い物にしてまで金儲けしたり、
体を売ってまで金儲けしたり、そして(通貨としての)金を得ることが、
自分の幸福やと思い込む。
そやからそんな人は失敗して自省(胸の磁性“十”)せんならんし、
その時に自分の在り方を少し間違えると自殺したりもする。

話が逸れてもたけど、オーラの大きさと質を求めること自体が、
心(靈)の在り方、苦難を試練と捉える自分の心(靈)の動き、
そしてそれは、“上”の振動を取り込まんならん。
ほんでから敢えて言うまでもない事なんやけれど、
“上”の振動を取り込む事とその肉体の仕組みも、
一部、このブログで言うてるって事やねん。

そやからそれは、様々な宗教で説かれている“行と修行”・・・
今はこう言う事も形骸になってるけど、
単なる儀式や儀礼にしかなってないけど
苦しんだり苦痛を感じたり悩んだり行や修行をしたりすることそのものは、
すべて生体内電流の強化になる=ローレンツ力の強化にもなる。
その時の心(靈)の在り方をローム太霊さんは、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん
それと“粘りとやせ我慢”って言うてはる。
そうやって頑張らんと肉体の磁性は強化されず、
当然、“身魂磨き”=肉体組織の結晶化にはならない。

ほんでから、今現在の“行と修行”の通念って言うのんは、
形骸の宗教のおかげで、てんで甘い(亜、魔、出ずる、泉)ものになってて、
そやからそれは、お経を読んだり祝詞を唱えたりシャワーみたいな滝に入ったり、
宗教の概念で説法をといたり・・・そんな程度の事が、
“行”やと思われてるふしがある。そやけどそれは“行”ごっこでしかない。
そんな程度の事で、自分が霊的成長を果たし、
“身魂掃除”“身魂洗濯”“身魂磨き”が出来るって錯覚を起こさせるのが、
又、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)・・・
その存在の思惑と思える。
そやから今の形骸の宗教の認識の“行と修行”の通念は、
悪魔の思惑の顕現により、低いものになったと言える。
そして生体内電流の変容としての“行と修行”と、困難を自分の霊的成長に対する試練と思わない人、それを厳しく自分に行えない人は、悪魔の傀儡であると言い得る。
ほんでからに、
太陽凝視=不食って認識を与えようとしているのも、
“身魂掃除”“身魂洗濯”を身の回りの片付けとか思わせるのも、
アセンションに夢のような妄想を抱くことも、
すべて、
人の低い心(靈)の発現、低い自尊心と功名心をうまく利用している悪魔の囁きと言い得るし、
ほんでから、その囁きに心を取り込まれている人は、
低い自尊心と功名心=自我の肥大で、
自分が悪魔の傀儡になっているなんて考えもしない。
気が付かへんって事でんねん。

“行と修行”の通念が低くなってしまったことは、
宗教を形骸にした人にも責任があることなんやけど、
価値のあるものを形骸にした心(靈)の動きって言うのんは、
目先の欲、権力欲、(通貨としての)金、ほんでから低い功名心と自尊心、
そう言うことに囚われてる人を指して、下つ巻 第九帖では、
“役員づら”とか“替え身魂使ふ”って言われてると思う。
それは、形骸の価値感で形骸の地位と名誉を得たり、
又、形骸の地位と名誉を獲得しようとしたり、
ほんでから人に説法を説いたり・・・悪人の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を指摘して自分の低い功名心と自尊心を満足させ、
そんな事が素晴らしい事やって思われてる通念があるから、
そやから、今、只々現状を批判して、自分だけは違うって思うてる人は多い。

そんな事で霊的成長になる訳がない。

そう言う形骸の事に囚われてる自分の心(靈)の観察は、
自分の外側(外国と幽界)の観察由来の認識しか出来ず、
ほんでから、形骸の宗教に携わっている人とおんなじような事して、
自分が霊的成長して行くって思うてる人は、
言い換えれば錯覚してる人は、今、とても多い。
そやから“行と修行”=生体内電流の強化=オーラの拡大、
心(靈)の在り方=右往左往と左往右往。
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往。
それが理解できてへん=ここまで言うて来た通念の認識しか無い人は、
アセンションの時期にまにあわへんって結果にしかならへん。

ほんでからさっきも言うた事やけど、心(靈)が観察する事象、
観察による認識=オーラの質と、大きさ=量によって個人々々の差があること。
そこに、今回解釈してる下つ巻 第九帖の表現、

ローレンツ力と ○ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  とは心の中に「 ローレンツ力 」があるか「ローレンツ力  」がないかの違ひであるぞ。”

“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力 が加わってるからこそ、“上”の思惑を自分に取り込むことが出来る。
そしてそれは、現時点より相対的に“上”の心(靈)の発現になる。
それは先生の概念、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きを分類できるし、
人はこういう言葉を使って自分達の心(靈)の動きを観察出来得る。
動物に比べ人はそう言う知恵(智慧とは違うって言う意味)を持ったし、
自分の心(靈)の動きを観察してそして行動をする。
そこに智性が無いからこそ自我以下の振動が主体の人間が多い。
そやからそれは、“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力 の無い心(靈)、そう言う心(靈)の動きは、
先生の“悪”の概念でそれは神格化と反対でもある低い心(靈)の発現で、
それは又、人(日止、霊止)の動物化でもあり、
そやから先生は、“悪”を心(靈)の動きの本能化と低振動化って定義付けた。
ほんでから心(靈)に“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力 を持たず、
ただ目先の快楽とか見せ掛けの癒しを追い求める甘い(亜、魔、出ずる、泉)人と、
ほんでから現状の批判だけして自分だけ違うって思い込む事が、
それが悪魔の思惑で、
悪魔の思惑通りにする具体的な手段は、
人の低い心を少し煽れば、簡単に人は自分を落とし入れる方向に向かう。
ほんでからそれは何回も言うてるけど、
本能、情動、功名心、自我、・・・それが中心の心(靈)で、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程って事。
そやからこの世界は失敗の世界・・・失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)の“行”をして行く世界でもある。
この世界そのものが今、自分達の自省(胸の磁性“十”)を促す為の、
閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)みたいなもんやな。
そこで自分の心(靈)は“上”に向かわんと、
“上”の存在との感応共振は起きへんし、
“上”と感応共振せんと自分達の“創造”は、
神の思惑を取り込んだ事象にならん。
ほんでから、
と ・・・その違いって言うのんは、自分達が“行”して生体内電流の強化をして、
人(日止、霊止)として進化して来た、
横の、手と胸の磁性と、
頭と背骨と足で構成されてる縦の磁性、
その両者で構成されてるのが胸の磁性“十”で、
胸の心(靈)の発現=アナハタチャクラの覚醒、
“自省”、“観自在”、“直日(なおひ)”“慈悲”と“慈愛”自分の心(靈)を観察し、
良いカタチを求め、理想を求め、そしてそれは他者を害さないものになって行く。
ほんでからに“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力 を持っていない心(靈)の ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  は、
霊的進化の方向性ではなく、
さっき具体的に言うた心(靈)の動きをしている人たちの事でんねん。

そやから今言うたことを念頭において次の文を解釈すれば、 

“神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、
下(しも)の神々様にも分らんぞ。
何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、
大神のみことによりて この方らが神徳出して、
九分九厘という所で、
神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、
悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、
神の国は神の力で世界の親国になるのぞ。”

この文の、
“神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐる”
これは霊的進化の法則性でもある“上”の思惑を取り込む仕組み、
ローレンツ力
ローレンツ力 って事でんねん。
ほんでから人が神さんって認識してる霊的存在にも“上”と“下”がある。
それから・・・形骸の宗教で言われてる形骸の神様もある。
大体低い霊的成長度やと、本当の神の意味も判らへんし、
神さんに甘い夢を求めたりもする・・・そうやって今、形骸の宗教が成り立ってるし、
ほんでから現状の批判だけして、
自分は批判してる対象より“上”って錯覚してる人達の心、
例えば“日月神示”の解説本やら、
アセンションの事を話題にして心(靈)の在り方を考えましょう・・・
そやけどそう言う人たちでも所詮本を売って金儲けしてる。
それは一般の人に、
啓蒙や啓発って言う意味で神さんの事を述べたには違いないけれど、
それだけでは霊的成長にならず、
その人の価値はただ理屈を述べたに過ぎない。
それは自分の外側(外国と幽界)の事象の観察をして、
ただエラそうにした=低い功名心と自尊心を満足させたって事にしかならない。
ほんでから、今とても多い、
“日月神示”を扱ったサイト、太陽凝視を扱ったサイト、アセンションを扱ったサイト・・・そのサイトのほとんどに、そう言う低い心(靈)の動きが観られる。

そう言う意味の事も含め、以下の文、

ローレンツ力と ○ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とは心の中に「 ローレンツ力 」があるか「 ローレンツ力 」がないかの違ひであるぞ。”

今Kellyさんが言うた事をよく考え、自分を振り返って欲しいもんやな。

ほんでから次の文、

“この方は三四五(みよいつ)の神とも現われるぞ。”

“三四五(みよいつ)の神”は、
“三”=三つのオーラ、肉体を持った霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が持つ、
上中下のローレンツ力によるオーラの発振、発信
“四”=、“四”は、象形文字で、
開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子って事らしく、
それは“息をつく”って言う意味を持ってるやんか。
息・・・それは、 息と言う字の構成が自分の心(靈)で、
ほんでからに、自分の心(靈)の発振、発信が、息吹って事。

“五”=糸巻きの象形文字。肉体の磁性を構成する神経線維のこと。

“現われるぞ。”=発振、発信して示すってこと。

ほんでから次の文、

“江戸の御社(みやしろ)は誰でも気楽に来て拝める様にして置いて呉れよ、”

“江戸の御社(みやしろ)”の“江戸”は、
江は腹、戸は、腹の“上”に対する境界、
ほんでから“御社”は、
示す偏(へん)と“土”=肉体でんねん。
そやから、腹の段階の心(靈)の発現は“上”に向かわんと、
胸の心(靈)の発現“慈悲”と“慈愛”にはならん。
それを示しているのが古事記の天の岩屋戸の話で、
天照大神を引っ張り出したのは、
手の磁性を示す天手力男神(あめのたぢからおのみこと)で、
それは、腹の右往左往と左往右往、サイクロトロンの段階から、
シンクロトロンに移行する肉体の磁性の変化でもあるし、
手を使い出した四足の動物とは違う人間の進化過程でもある。
そうやって動物とは違う人の心(靈)の発現は、
自我から“上”の“慈悲”と“慈愛”になり、
同時に、
智性(日を知った上で獲得した性質)の振動を取り込む肉体の磁性の強化にもなって行く。
ほんでからにこの事は、こんな程度の説明では解り難いやろから、
前のブログの、“エピローグ 神の思惑と顕現・・・神聖な事象”・・・を、
よく読んでもらって、
ほんでから、
肉体の組織の結晶化に付いては、“思惑と顕現”ってタイトルが付いてる記事を、
よく読んで欲しいねん。

ほんでから次の文、

“この方の神示(ふで)書く役員、
神示うつす役員、
神示説いてきかす役員要るぞ、”

“この方の神示(ふで)書く役員、”=知識で理解すること。
“神示うつす役員、”=相対的に“上”の心(靈)の発現で、
それは智性(日を知った上で獲得した性質)と“慈悲”と“慈愛”で認識し、
“神示説いてきかす役員要るぞ、”=説いて聞かすって言うのんは、
相手に解らせる=認識させるっていう意味で、
神示(ふで)=神の思惑と、“上”の思惑を受信して現象化した肉体=示す、
示すは、二=肉体と亅部(けつぶ こう かぎ)これは“上”から“下”に書き、
“上”から“下”は(たて棒、コン)で表されてるけど、
亅部(けつぶ こう かぎ)は“下”から向かって左上にはねる。
“下”に降りた“上”からの振動は日足(ひたり)“上”に向かうからこそ、
良い“創造”=神の“思惑の顕現”=現象化が出来ていく。
そしてその亅部(けつぶ こう かぎ)の両側には、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)を示す、
二つの点があり、これは又先生の解釈としては回転を示しているって事になる。


そう言うオーラの発振、発信をするって事でんねん。
それが・・・そういう霊的進化を果たした人(日止、霊止)を指して、
“この方”と言い表され、
その行動=発振、発信=事象の創造が、今Kellyさんが説明したとおりの、
この事象に書き記すって言う意味で、
“神示(ふで)”って事でんねん。

ほんでから次の文、

“役員は人の後について便所を掃除するだけの心掛ないとつとまらんぞ、
役員づらしたら直ぐ替身魂使ふぞ。”

この文の中の“役員づら”はさっきも言うた事で、
形骸の認識しか持っていない人すべてを指し、
そう言う人は低い功名心と自尊心で心(靈)の動きが構成され、
ほんまに苦難や試練を“行”と捉えられないからこそ、
“人の後について便所を掃除するだけの心掛ないとつとまらんぞ、”って言われ、
それに対し、
自省(胸の磁性“十”)の“行”をしている人=左往右往に入っている人は、
“役員づらしたら”・・・なんて事はしないって事でもあり、
ほんでからに、
形骸の認識で批判だけして自分だけえらそうに振舞う人を対象にしている言葉が、
“役員づらしたら直ぐ替身魂使ふぞ。”でもある。
そしてこの言葉は、
本当の意味での“行と修行”をした人が、
形骸の認識で地位や名誉を獲得した今の宗教関係者や政治家やら、
アセンションや“日月神示”を自分なりの解釈で説明しただけの人、
その人たちの共通する点は低い功名心と自尊心、
それゆえの行動が、
それゆえの心(靈)の状態が“上”に向かうローレンツ力
ローレンツ力  の無い心の、
 
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) でもあり、
ほんでから今後はそう言う“行と修行”をしない人にとって代わり、
相対的に今と違う心(靈)の発現による価値感で次の世界の構築を、
果たして行くからこそ、

“大神のみことによりて この方らが神徳出して、
九分九厘という所で、
神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、
悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、”

これは、次の世界=アセンション後の事象の“創造”、
それは、神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く。
“上”の心(靈)の発現をして行動し、
事象の“創造”を時間の進行と共にして、段々、神さんの思惑を顕現して行く。
そう言う言葉やと思いまんねん。

その使命ある人が“大神のみことによりて”と示され、
それは霊的資格を示し、使命=“大神のみこと”を示し、
“上”の思惑を取り込んだ心(靈)の動き=発振、発信=行動をする人(日止、霊止)が
“この方らが神徳出して、”って事でんねん。

ほんでから・・・今でもそうやけど、今後どんどん醜い事象は増えていく。
それは、
 
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の心(靈)の人たちはどんどん失敗を体験して、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑に嵌まってしまった人は、
自省(胸の磁性“十”)もしない・・・自分の在り方を考えんからこそ、
自分より“上”の霊的存在の通信を受けず、
ちょっと浮游霊が囁いたなら、間違えて自殺したりもして、
ほんでから死んでしもたその人の心(靈)は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団に入り、
恨みの連鎖の霊的干渉に加担することになる。
そやから恨みの連鎖の霊的干渉も悪魔の思惑の顕現で、
今、自分たちが“上”に向かう世界を構築しようとするならば、
少しでもそう言うことを思うならば、
この事象の恨みの連鎖の霊的干渉を解決するように自分の“力”を使う・・・
そうして行くことそのものが、そう言う心(靈)の動きが又、
“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の在り方でもあると思えるんやけど、
それでも・・・やってきたことの結果は出るやろうけど・・・

・・・今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

八月の十日には江戸に祭りて呉れよ。
アイウは縦ぞ、
アヤワは横ぞ、
縦横揃うて十となるぞ、
十は火と水ぞ、
縦横結びて力出るぞ。
何も心配ないからドシドシと神の申す通りに御用すすめて呉れよ。
臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ。
七月の十七日、一二 ローレンツ力と ○


冒頭の文、
“八月の十日には江戸に祭りて呉れよ。”
これは決して日付のことを言うてるのではなく、
“八”は、左右=砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性。
そやから“八”と“月”=肉体。
“十”は、人(日止、霊止)の肉体が持つ縦の磁性と横の磁性、
そやからそれは、腹の段階の右往左往と左往右往=サイクロトロンから、
シンクロトロンに移行する様子を示したのが“十”であり、
ほんでからその時の心(靈)の発現って言うのんは、
自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”になって行く。
そやから胸の磁性“十”と“日”・・・“上”の振動、
“日月神示”の表現ならば“ひむか”。
ほんでからこれも今までも何回も言うた事やけど、
“江戸”は、腹の段階=“江”、腹と胸の境界=“戸”。

そやからこの文章自体が人(日止、霊止)のこれからの進化である、
胸=アナハタチャクラの心(靈)の発現を言うてるし、
それは自己奉仕者の世界=自我の確立=固定化から自我の肥大になっている段階の心(靈)の進化過程から“上”に向かうことを示す。

ほんでから次の二つの言葉、
“アイウは縦ぞ、”
“アヤワは横ぞ、”

この文の“アイウ”のアは、
愛(炁)、アイのア、“亜”でもある。
これも何回もその解釈を述べたから敢えて説明しまへんねん。

ほんでから、イとウに付いては以前の記事、
“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
コピペししときまんねん。

      

“「イ」”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + (たて棒、コン)
これも前に言うたけど、もう一回言うとけば、
“イ”は、神の思惑がこの世界に垂れた形を指し、
“「イ」”は、
息吹、伊吹、でも有り、
命(いのち)でも有り、
生きる、活きる、でもあり、
生きるって字そのものが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)
ほんでから、“生”から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した残りの字は、
三 + (たて棒、コン)で、
この場合の(たて棒、コン)は“一”=智性=1番目のオーラの“上”から、
“下”に降りてる。
そやから、 頭より“上”って事でんねん。

息吹と命の“「イ」”は、 愛(炁)、アイ、のイでもある。
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
生気生命の発生力って表現がされてる。
それはまさに、
“亜”“ア”が下に垂れる形が“イ”・・・
そう言う感じ(感じる磁性)を受ける。

ほんでから“「ウ」”は、
又、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生物を生み出す力で、
産土(うぶすな)の“ウ”でもある。
そやから、
“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ”

“「イ」「ウ」”は、
“身魂” に備わった仕組みでもあるし、
それは、
霊的成長=神格化=幸福の意味。
それを指し示し、
それを成さしめる仕組みでもあるからこそ、
“介添えの御用ぞ”・・・と、言われてると思える。
そやからそれは、
心(靈)が、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を、
(心(靈)が)認識し、
そして心(靈)は“上”に向かい、成長をする。
要は、
“「イ」「ウ」”で事象の創造をする。
それが、
人(日止、霊止)と神の性質とも言い得る、
観察と認識でも有り、
それは、
発振、発信と受信によって成されるって事でもある。

そやからこそ人(日止、霊止)は、
神に近づく事そのものが、
“上”に向かう事そのものが、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象を望み、
それは、
心(靈)の呼吸、息吹、気吹、生吹、によって成される。
その事を極めて地球人らしい言い方をすれば、
人は幸福を求めるって事で、誰もが幸せになりたいし、
それを、“日月神示”の表現で言えば、
“うれしうれし”でもあるけれど、
それは現状に対し、
相対的な観察でもあるな。

    ↑
・・・以上でんねん。      


ほんでから同じ様に、“アヤワ”のヤとワに付いても、
“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
コピペししときまんねん。

     

“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。
それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。

     ↑
・・・以上でんねん

ほんでからもう一つ“日月神示”上つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈から、
コピペしときまんねん。

      

“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂 や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂 わ と ○=心(靈) あるぞ、”

この文章の中の、
“「あ」「や」「わ」”・・・と、“ や と ○=心(靈)わ と ○=心(靈) ”・・・
この上つ巻 第二十六帖の表現自体が、
右往左往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きと、
左往右往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きの違いって事やと、
思えるな。

ちょっと複雑やから・・・今言うた事を簡単に表現すれば、
失敗を失敗と判らへんと・・・そう認識して無い心(靈)の発現の儘行動する・・・
それにもエネルギーはいるし、
それは言うまでもなく、
砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)やけど、
失敗を体験し、
そして自省(胸の磁性“十”)して、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現をして、
その心(靈)の発現をしたからこそ=自我より“上”の心(靈)の発現をしたからこそ、
そやからそれは、
霊的進化を少ししたからこそ、
よいカタチの創造を“上”から託される。
そやからそれは、
第二十四帖での表現でKellyさんが言うた事と反対やけど、
「あ」は、「ア」では無く、
こちら側からの観察の大極の根元での「あ」であるからこそ、
「や」は“その左の身魂、”って言われ、
それは、自分達が観察してる肉体と魂=身魂。
「わ」はその右の身魂で、
それは繰り返すけど、
左往右往の中の左と右、
只単純に右=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と、
左=日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)・・・って事では、
なくなるって事でんねん。

    ↑
・・・以上でんねん。

ほんでから次の文、
“縦横揃うて十となるぞ、”
これは言うまでもなく、胸の磁性“十”のことを指している。

ほんでから次の言葉、
“十は火と水ぞ、縦横結びて力出るぞ。”

火=灬(よつてん、れっか、れんが)腹から“上”に向かうエネルギー。
水=腹=“江戸と尾張”の“江”。
ほんでからこの文の中の言葉、
“縦横結びて力出るぞ。”
それは動物=四足獣から直立して手を使い出した人間への進化を示す。
それは手と胸の磁性でシンクロトロンの構造になって行くって事でんねん。
補足として言うとけばそれは、
天=“一”=智性=1番目のオーラ+人(日止、霊止)+胸の磁性“十”。
シンクロトロン放射のオーラ=白。それに“王”=三つのオーラ、一二三のオーラを縦につないだカタチの字。

そやからそれらを足して天皇。天の白い“王”って事でんねん。

もう一つ補足として、“日月神示”上つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈から
コピペしときまんねん。

      

“水”=腹=“日月神示”内の表現、“江戸と尾張”の“江”、
そして、
“火”は肝であり“いきり立つ心(奴と心)”であり、
“火”と表現されるには、
酸素=肺の機能が必要で、
酸素が無いと物質は火に表される化学変化を起こさない。
そやから“日月神示”やS会=紫光会では、
“火”って言う表現を使った。
多分それは間違いの無い事やろし、そしてそれは、
肝と脾と肺、
肝=“いきり立つ心(奴と心)”と、
脾=“思う、憂う”と、
肺=“悲しい”・・・心が非(いたむの意)、
この三つの心(靈)の動きが、
霊的進化の=心(靈)が“上”に向かう事の、
具体的な事でもあるし、
その為に肉体を持って(霊的)進化しているのが、
人(日止、霊止)でもあるし、
今の地球人は右往左往から左往右往=失敗を体験し、
そして、
自省(胸の磁性“十”)して“観自在”して、
自分を振り返るの意味がある“直日(なおひ)”する。
そしてその心(靈)の動きを自分(の心(靈))は観察している。
そしてその観察による認識は、
教訓になり、
行動=創造の指針になり、
今後の事象の創造に役に立つ。
それが高じれば、
“日月神示”内の表現で言えば“天意”やし、
先生と太陽凝視を教えてくれたKさんの言葉の、
“天の御目”って事になり、
それは、
神の思惑の顕現になる。

そやからこそ、
“火水”=秘密って表現したんやろし・・・


     
・・・以上でんねん。


ほんでから次の文は、

“何も心配ないからドシドシと神の申す通りに御用すすめて呉れよ。
臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ。”
この文も敢えて説明はいらんと思うけど、今、形骸の価値感で世界は動いている。
だから失敗の世界なんやけど、今後アセンションと認識され得る事象を通り越し、
その後はそれと反対が来るから、
“上”の思惑の受信をした人(日止、霊止)が次の世界を構築して行くからこそ、
“上”の思惑の発振、発信を人(日止、霊止)が受信して顕現して行くと言う意味で、
“ドシドシと神の申す通りに御用すすめて呉れよ。”
ほんでから
“臣民は静かに、神は烈しきときの世”って事でんねん。
今の形骸の価値で動いてる世界とあべこべの事象になり、
それは、アセンション後の地球に残った人(日止、霊止)が、
“上”の思惑を受信しながら、段々、
神聖な事象を創っていくって事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十一帖 Kellyさん的解釈



先生は先日、前のブログを出版用の原稿にするための整理がやっと終わりましてん。
…ほんでからその作業中に、
先生自身にたくさんの高い霊的存在の憑依があったようで、そういう憑依現象はたくさんのエネルギーを贖う(あがなう)から、
加筆訂正が全部終わって、出版社に添付ファイルをメールしてから…
・・・ゞ(_△_ )ゞ ヒクヒク・・・・・・ゞ(_△_ )ゞ ヒクヒク・・・・・・ゞ(_△_ )ゞ ヒクヒク・・・って、
一日くらいちょっとコケてたらしく…そやけどもう復活しましてんな。
中々しぶといジジイでんねん。(爆)

ほんでからに添付ファイルを送ってから、たま出版のチョ~お偉いさんからわざわざ電話いただいた。
…そのとき先生はお偉いさんに…“これで完成ですね”ってねぎらいの言葉を掛けて貰ったんやけど…その気使いの言葉に対し先生は……“いや~~先にやっとかんと気が済まんって言うのか…アタシの性格ですね”
……なんて、自分のことだけ言うただけで、
お偉いさんのねぎらいの言葉に対してのお礼を述べるのをコロッと忘れてたやん。
アホでんねん。
そやから、この場を借りて、Kellyさんが先生に成り代わってお詫びさせてもらいまんねん。
ペコm(_ _;m)三(m;_ _)mペコ・・・<( ̄∇ ̄)ゞゴメリンコ~♪ m(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・

……っちゅう事で、このブログも再開しまんねん。
今回は下つ巻 第十一帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り、


けものさへ神のみ旨に息せるを神を罵る民のさわなる。
草木さへ神の心に従ってゐるではないか、
神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、
あの姿に早う返りて呉れよ、
青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。
道は自分で歩めよ、
御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、
道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。
七月の十八日、ひつくのか三。


冒頭の文、

“けものさへ神のみ旨に息せるを神を罵る民のさわなる。”

この“神のみ旨”…この表記に大事な意味を感じるんやけど、Kellyさんがそう思う根拠は、
この後の文の、
“神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、あの姿に早う返りて呉れよ、”
この表記では“神のむね”って書かれてる。
そやから“神のみ旨”と“神のむね”…この表記の違い……

“神のみ旨”この“旨”っていう字は、匕部(ひぶ)ひ、さじ、さじのひ、(さじ、あるいは変化の意符をもつ)と、太陽の日で構成されてる字でもある。
さじは、匙、スプーン、中華料理に使う蓮華のことでんねん。
そやから、日=太陽、それは“上”からの振動、太陽由来の宇宙線、可視光線…色んなことを前のブログで先生と話したけど、それらはすべて創造主の愛(炁)の顕れやって先生は定義づけた。
(霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”その八 参照)
それを匕部(ひぶ)さじ、で受け止め、変化させる。
“神のみ旨”はそういう意味のことをいうてると思いまんねん。

ほんでから“息せるを”…これは息吹のこと、振動の受発信のことで、
“上”からの振動を息吹いて生命活動を行っている意味にしか取れへんな。
ほんでから振動の受発信って言うのんは、
どんな下等生物だろうが神さんであろうが共通の法則性であると思われるし、
そやからこそ観察行為と認識って言うのんは、
全存在に共通すると思われる。

観察行為と認識を言い換えれば、振動の受信と増幅で、
それは発振、発信につながり、
発振、発信した振動は自分に還り(ブーメランの法則と“曲霊(まがつひ)”)、
還ってきた振動を受信しながら現津(あきつ)=観察され得る事象を感じ(感じる磁性)る。
そやから生命の進化っていうのんは、
“上”からの振動を取り込み、細胞内で遺伝子が螺旋状に成って行ったことを先生は、
太陽凝視を行っている鍼灸師の話“改”の2009年1月1日の記事に書いたけど、
地球人の学者はそういう分析が出来ず、
ただ原核生物から真核細胞を持った生物に進化したって分類しか出来てない。
それは…生命っていうのんは、神の思惑の顕現って視点が無いからや。
そやから“神のみ旨”…“上”から降り注がれる荷電粒子による影響を受けているって視点が無いからや。
電磁波が生命の思惑そのもので、それが“上”からなら神のオーラやし、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)ってことやし、
それが人(日止、霊止)なら“一二三”のオーラってことになる。
動物なら“一”=智性=1番目のオーラがほとんどないから、“土”=2~3番目のオーラ、それは、肉体だけ=集合意識の心(靈)の発現って言うことで、それは集合意識から自我の確立=固定化の進化過程で、いずれ動物も自我の強化を行い、“上”からの振動を取り込む意味での表記の“日止、霊止”の段階に入り、そして独り神になる段階に移行する…人間と動物の進化過程の違いでんねん。
そして(自分の立場から相対的に)“上”でも、同位相でも、“下”からでも、
すべて、実在と感じる何かからの(自分に対しての)オーラの相互干渉があり、
それは自分の心(靈)の構築になる。
そこまでのことを考えさせられる文章でもあるな。

ほんでから神の思惑そのものが生命の進化で、
何のための進化かと言えば、生命の神格化でしかない。
ほんでからそのことを理解してない…“上”からの振動を息吹して、心(靈)が“上”からの振動を受けて自分の思想や認識にして受発信して、この事象を構成しているけど、
それを知らんから…はっきり解ってないからこそ“民のさわなる。”…障害の意味を持つ“さわ”…障るとかの意味をいわれてる。

そやから人は動物に比べ“上”からの受信をしたから“力”と“知恵”を持った。
そやからこそこの言い方は知恵をあんまり持ってない“けものさへ”“神のみ旨に息せるを”……人は“上”の思惑を取り込みながら進化してるのに、
今の人ときたら“神を罵る民のさわなる。”…悪知恵を働かせ、
この世界をダメな方向に向かわせる…こんなことは誰でも“日月神示”を読んだらそう思うやろけど、
その意味以外で、もうひとつ、
生命の進化の法則性は、神格化所以のことなんやって今の人は認識を持ってない……
Kellyさん的にはそんなふうに思えるやん。
そやからそれは…Kellyさんがそう思うのは、
下つ巻第十一帖は、下つ巻九帖と十帖の続きのような内容にも取れるからで、
そやからそれは下つ巻第九帖に

ローレンツ力と ○ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  とは心の中に「ローレンツ力」があるか「ローレンツ力」がないかの違ひであるぞ。”

これは霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の中のローレンツ力ローレンツ力  を示す。
ローレンツ力がなければ“上”からの振動を自分の磁性により回転させることが出来へん。
そのローレンツ力は、
縦の磁性、背骨とその周りのコイル状の神経によるものって言うのんが先生の解釈でもある。
そやからそれは“彌栄(いやさか)”の旧字に示されてる。

弥の旧字 
この解釈に付いては前のブログ、
思惑と顕現“その十一”“上”の思惑と顕現…“天の御目”を読んで欲しいねん。
これがチャクラのことやって言うのが先生の説でんねん。
ほんでからこの“彌”の旧字は、荷電粒子の回転と相互干渉まで記されてまんねん。
この字に対する解釈を先生は“改”で詳細に解説するつもりやけど…今だに原生動物の進化に付いて述べてる段階やから…何時になる事やら……。

ほんでからこの次元、物質世界に位置してる生命は、
肉体の磁性、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子が持つ磁性を持ってる。
そやからこそ、心(靈)が肉体を持っていると、霊的成長は効率よく進むと思われる。
言い換えればそれは、
心(靈)に“上”に向かうローレンツ力が加わってるからこそ、
“上”の思惑を自分に取り込むことが出来る。
それは智性(日を知る性質)の発現になって行く
そしてそれは、現時点より相対的に“上”の心(靈)の発現になる。
このことに付いても下つ巻 第九帖で述べたから、よく読んで欲しいねん。

ほんでからに“役員づら”した人は、
“上”に向かう心の動きを持っていない。
さっきも指摘した、進化をただ分類だけで観てるだけの認識の低い学者と、
低い功名心と自尊心で現状を批判して“日月神示”の文章を解釈してる人とか、
何とか大予言とか、何とかの黙示録とか…ただ文章を解釈して義務教育の道徳のようなことを説いてるだけでは、たいした霊的成長=“身魂磨き(肉体組織の結晶化)”にならへん。
霊的成長は“行と修行”が必要やし“行と修行”の苦痛や苦難や試練は、
生体内電流の強化ローレンツ力の強化になり、“上”からの思惑を取り込むようになる。
そやから“波羅密”“舎利子”のことを先生は前のブログで言うたやん。

話を戻し、これは先生がいつも思うてることなんやけど、
そんな批判だけして自分のサイトで意見を述べたり、自分の意見を出版してその利益を自分だけのために使ったり……いくら相対的に正しいことを言うとか、人の道とか、進化の方向性とか、アセンションを説いたとしても、それは“上”からの受信であり、
それを自分の利益にするだけならば、単なる自己奉仕者…“日月神示”の表現なら“われよし”で、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程でしかない。
そして低い功名心と自尊心はマニピューラチャクラの進化過程でしかない。
それを知ったなら自分はどんな行動をとるべきなのか…それが顕れんとアカンやん。
そんなんを“日月神示”では“役員づら”って呼称され、
低い功名心と自尊心の心の動きで慢心し、自分だけ違うと思い高慢になってる人は“鼻ポキンおれるぞ”…そうなってから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る…そうとしか思えへん。

ほんでからにローレンツ力…そやけどそこには“善の回転=日足(ひたり)回り”がなければならない。
そやからこそ心(靈)は腹=自我から“上”…智性に向かう。
それは縦の磁性で言うたならば、頭の磁性の強化でなくてはならない。
それが“呂”“宮”に示されてる。
ほんでから“悪の回転=砌(みぎり)回り”は自我から“下”…本能に向かう。
そやから先生は“悪”を心の動きの本能化と低振動化って定義した。神の思惑、生命の神格化の反対やからでんねん。
そやからこそ先生は“善”の定義を、神格化の方向性と智性の受信って言うた。
そういう点で今後は、
“身魂掃除”“身魂洗濯”して自分の心の動きを自分で判別できるようになるからこそ、
下つ巻 第十帖に書かれてるように、
“臣民は静かに、神は烈しきときの世”って事で、その解釈の時にもKellyさんは言うたけど、今の形骸の価値で動いてる世界とあべこべの事象になり、アセンション後の地球に残ったある程度霊的成長した人、自省(胸の磁性“十”)の“行”を体験して自分の在り方を常に考えてる人が“上”の思惑を受信しながら、
段々、神聖な事象を創っていくようになるって事でんねん。

ほんでから次の文章、

“草木さへ神の心に従ってゐるではないか、
神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、
あの姿に早う返りて呉れよ、
青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。”

この表現も“上”からの振動、特に草木って言うてるからこそ、
太陽のことを指すと思える。
そやから“神の心”=太陽ってことでしかない。
ほんでから“青人草”…これは日本書紀に出てくる、
“顕見蒼生、此をば宇都志枳阿烏比等久佐(うつしきあをひとくさ)と云ふ。”…のことらしく、ほんでから蒼生(そうせい)を青人草(あおひとくさ)と称され、それは国民、人民、民草ってことでんねん。
そやけどKellyさん的にはそんな意味だけではなく、そやからそれは…“青人草”
“青”“人”“草”に分けて考えれば、
青の上半分は生きるって言う字から丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した表現、ほんでからこれは前のブログ、
思惑と顕現その十上の思惑と顕現・・・“天の御目”に使った画像やけど、重要やと思うから貼っておきまんねん。

生きるの解字 丿部(へつぶ)三つのオーラ(たて棒、コン) 
ほんでから“青”の下半分は“丹”やって事で、
これは上つ巻の解釈で何回も言うたことやから詳細に述べるのはやめときまんねん。
ほんでから“人”は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。ほんでから“草”は、胸の磁性“十”と“日=太陽”と、クサカンムリ…そんなふうにしか見えへんな。
そやから“青人草”は、
“上”の思惑を取り込み“一二三”のオーラにして縦の磁性(たて棒、コン)で繋ぎ、
それは帯電するミネラルに“上”の思惑を取り込み蓄え肉体組織の結晶化をするのが“青”。
ほんでからそれは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、“人”。
進化して行く様子は“草”に現れてる。
“青人草と申すのは草木の心”
“草木”草と胸の磁性“十”と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)で、“木”。
何を取り込んだら人は進化=神格化して行くのか…それを問うてるように思える言葉やな。

ほんでから次の文、

“道は自分で歩めよ、
御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、
道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。”

“道”…生命の目的=神格化、
自分の在り方で発振、発信される振動の内容は決定され、その振動が自分に還り、
現津(あきつ)=観察され得る事象になり、
そのよい形を願うならば、自分のやるべき使命を理解して=“御用”を考え、
それは役員づらではなく“身魂磨き(肉体組織の結晶化)”、
高い振動を取り込み同時にローレンツ力の強化をして、
“上”の思惑を取り込む“行”をして、
そして、
自分の心の中の認識(悟り、幸取=さとり)でしか、
“道”=進化の方向性=神格化=心(靈)が“上”に向かう…そうなって行かへんいうことでんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十二帖 Kellyさん的解釈


今回も、下つ巻 第十二帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り、

この神は日本人のみの神でないぞ。
自分で岩戸開いて居れば、どんな世になりても楽にゆける様に神がしてあるのに、
臣民といふものは慾が深いから、
自分で岩戸しめて、それでお蔭ないと申してゐるが困ったものぞ。
早う気づかんと気の毒出来るぞ。
初めの役員十柱集めるぞ。
早うこの神示写して置いて呉れよ、神急けるぞ。
七月の十八日、ひつ九のローレンツ力と ○  。

冒頭の文、
“この神は日本人のみの神でないぞ。”
この場合の“日本人のみ”って言う表記は、全地求人っていう意味やろな。
“日月神示”の“日本”日の本っていう表現は今まで何回も解釈したけど、
(前の記事を読んでくださいでんねん)
この場合の言い方は“日本人のみ”っていうてるから、
全地求人すべてに対し言うてることや。
そして、全地求人の心(靈)の発現、霊的進化の程度が平均的に低いからこそ、
次の言葉、
“自分で岩戸開いて居れば、どんな世になりても楽にゆける様に神がしてあるのに、
臣民といふものは慾が深いから、
自分で岩戸しめて、それでお蔭ないと申してゐるが困ったものぞ。”

この文の“岩戸”これも今まで何回も言うたことやけど……岩は、
山=脳、石は帯電するミネラル、“石屋の仕組み”の“石”でもある。
戸は、
尸(しかばね、かばね)=肉体と“一”=智性=1番目のオーラ、
“上”からの思惑を取り込む。認識の拡大をする。霊的成長をする。
ほんでから、
“お蔭ないと申してゐるが困ったものぞ。”…“上”の思惑を取り込んで無くって、自己奉仕者の人が文句ばっかり言うてるってことでんねん。

しかし…これまでも言うたけど、
認識の拡大=“一”=智性=1番目のオーラを大きくするのは、
ただ“日月神示”を読んでればエエとか、形骸の“行と修行”ごっこをするとかでは無い。
苦痛を感じ(感じる磁性)苦難を乗り越え、自分の試練とし、
生体内電流の強化をして、
自分の肉体の磁性、一二三のオーラを立派にして、
そうなってから“上”の存在との感応共振=霊的干渉をする。
そやからそれは“上”の霊的存在、“上”の心(靈)との感応共振が、
必然になるってことでもある。
ほんでからにそれは、天意を受けるってことでもある。
そやから、今、そういう人がてんで少ない場(フィールド)が、この世界でもある。
だからこそこの世界はダメになりかかってる…そのことを指した文章でもあるな。
ほんでからその意味を早く解れって意味で次の言葉、

“早う気づかんと気の毒出来るぞ。”

…っちゅうことでんねん。


ほんでから次の言葉は、

“初めの役員十柱集めるぞ。”

…なんやけど、
これは“役員”を“十柱”…十人っていうことでは無く、
“日月神示”内で言われてる“役員”の意味は、
これも“日月神示”内でよく使われる表記“神の御用”をする人(日止、霊止)でなくてはいけない。
その“神の御用”をする人を指し“十柱”と表現されてると思える。
そやからそれは“十”と“柱”…それは、
胸の磁性“十”と、
木部と、
ローレンツ力 ローレンツ力 と、
“王”……

そやからそれは“土”=2~3番目のオーラの進化過程から霊的成長を果たし、
“一”=智性=1番目のオーラを獲得するからこそ、“土”から“王”になり、
そやから“日月神示”では“一二三”とか、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往って表現されてると思う。
ほんでから“主”は“王”の“上”にローレンツ力 ローレンツ力 があり、
“上”の思惑を取り込む様であると思える。

ほんでから“主”って言う字の向かって左…そやからそれは、
“柱”っていう字を人に見立てたなら、その人の右に木部がある。
右は砌(みぎり)で現象化で“思惑の顕現”でもある。
さらに細かく言うて置けば、木部は、
胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そういう現津(あきつ)=観察され得る事象を“創造”(神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉)するようになって行くのが、
霊的成長をして“上”に向かう人でもある。
それがまた、
“玉(ぎょく)”と“石”を分けるアセンションの意味と意義でもあるな。

ほんでから次の言葉、

“早うこの神示写して置いて呉れよ、神急けるぞ。”

この文の“神示写して”…
“神”は“呂”を示す

“示”は、“二”=肉体と、下降して向かって左にはねる亅部(けつぶ こう かぎ)と、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されてる。
“上”の思惑を取り込んだ心(靈)の付属物=肉体“二”で、顕現する様子でもあり、
そやからそれは、“上”の振動(思惑)を降ろす様は、
亅部(けつぶ こう かぎ)は“上”から“下”に降ろし、
向かって左上にはね、
それを人に見立てればその人の右=砌(みぎり)=現象化になり、
同時に上にはねてるから“上”に向かう心(靈)の発現を示す。
そやからそれは“示”っていう表記は、
“上”の思惑を取り込んで行動し(発振、発信し)事象の創造をする。
ほんでからに“写して”…自分に取り込む。自分の心(靈)の振動にする。
“上”の思惑を取り込む“行”をせんとアカンってことでんねん。

ほんでから…“行”…それを先生的には、
自分が子供の頃から思っていた疑問の答えを求めようとして、
太陽凝視を教えてくれたKさんやローム太霊さんや“ダキニホンテン”はんと霊縁があった。
そして色んなものを観て…観させられたって先生は思うてるようやけど…その過程で、
色々なことを考え、そして…“行”やって答えを求め続けてる……。
そうやって先生自身は霊的成長してきたし、今後も成長し続ける。

話がそれたけど、この文の表記の“神示写して”…っちゅうのんは、
“上”の振動、思惑、電磁波、それを取り込んで、
現津(あきつ)=観察され得る事象に顕現する。
それが“神の御用”…Kellyさん的にはそういう意味にしか取れへん。
…そやけどこの表記も、
認識の低い人はただ文章を写すくらいの発想しか無いやろけど、
そんな程度の事ではオーラは大きくならんし、
それは先生が霊眼を持っていたときにいろんな人を観測した。
はっきり言うとくけど宗教関係者のオーラはたいしたことはない。
“行と修行”の概念が、形骸になってるからやねん。
祓いが儀式にしかなってへんし、修行も形骸になってるからやねん。
シャワーみたいな滝に入ったり、ただ経文を読んだりすることが“行”やと思われてる。
そんな程度のことでは何の霊的成長にもならへんからやねん。
ほんでからに、
そんな程度のことが人間の霊的成長になるって錯覚を起こさせてるのが、
悪魔の傀儡になった現世利益の既成宗教に従事する人たちの考え…形骸になった既成宗教でもあるな。
そやからこそ既成宗教の関係者は、ただ金儲けの仕事しかしてへん。

まあエエわ。

そやから下つ巻の解釈に入ってからKellyさんが何回も思うことなんやけど、
“役員づら”…こんな人は今とても多い。
“日月神示”の解釈を一生懸命解釈してる人も中には居てるけど、文章の解釈だけしかしてないのはそれはてんで低い。
それだけでは“日月神示”内に書かれてる霊的成長の仕組みまで読み取ることが出来ん。
そして特にネット上では、
“日月神示”の解釈やアセンションの解釈がとんでもなく低いものもあり、
そんなんは“役員づら”以下の単なる目立ちたがり屋が多すぎる。
そやからそれは低い心(靈)の発現由来のディスプレイ(動物の発情行動)でしかない。
まだ、動物の進化過程に近いってことでんねん。
ほんでから低い心(靈)の発現しかしてない人は、それ以上のことが分からん。
そやから…ほんまこの世界は“玉石混交(淆)”で…しょうもない世界ってことを思うねんけど……そやから…そんなことではアカンから“神急けるぞ。”…で、もう時期(空間の回転による磁気)も迫ってる……。
そやから“上”は、今、
人(日止、霊止)に何をして欲しいのか…そこまで読み取るべきやと思いまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第十三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。
あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、
上にゐては足も苦しからうがな、
上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、
足はやはり下の方が気楽ぞ、
あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、
この道理分りたか。
岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ。
三(みち)の役員は別として、あとの役員のおん役は手、足、目、鼻、口、耳などぞ。
人の姿見て役員よく神の心悟れよ、
もの動かすのは人のやうな組織でないと出来ぬぞ。
この道の役員はおのれが自分でおのづからなるのぞ、それが神の心ぞ。
人の心と行ひと神の心に融けたら、それが神の国のまことの御用の役員ぞ、
この道理分りたか。
この道は神の道ざから、神心になると直ぐ分るぞ、金銀要らぬ世となるぞ。
御用うれしくなりたら神の心に近づいたぞ、
手は手の役、うれしかろうがな、
足は足の役、うれしかろうがな、
足はいつまでも足ぞ、
手はいつまでも手ぞ、それがまことの姿ぞ、
逆立して手が足の代りしてゐたから よく分りたであろうがな。
いよいよ世の終りが来たから役員気つけて呉れよ。
神代近づいてうれしいぞよ。
日本は別として世界七つに分けるぞ、
今に分りて来るから、静かに神の申すこと聞いて置いて下されよ。
この道は初め苦しいが、だんだんよくなる仕組ぞ、
わかりた臣民から御用つくりて呉れよ、
御用はいくらでも、どんな臣民にでも、それぞれの御用あるから、
心配なくつとめて呉れよ。
七月の十八日の夜、ひつくのか三。


冒頭の文の、

“逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。”

これは明らかに、
人(日止、霊止)の進化の方向性が、今、間違っていることを指摘してる言い方…敢えて言うまでもないことやな。
そやから人(日止、霊止)の進化…それは人間だけでは無く、
すべての生命の進化は、神格化でしかなく、
さらにそれは、生命(生きる使命=存在理由)の意味と意義でもある。
ただ、今の地球人は無知で、そのことをしっかり知らへんだけや。

ほんでからここ何百年…あるいは何千年…人の神に対する認識は、
進化=神格化の意味を見失っている。
そやからこそ“上”の存在は、進化の方向性を人が見出せるように、
特定の人を選び、憑依現象や通信を送ったりして宗教の開祖とした。
すべてそれは…“上”は、ただ人の霊的成長を望んでいる…それは、
“日月神示”でもそうでんねん。
S会=紫光会でも…ローム太霊さんの言うたことでもそうでんねん。
他にもたくさんありまんねん。
そやから“上”は“下”に教え、“下”の生命の霊的成長を望んでる。
そやけど…それすらしっかり認識してない人が多い…そやから既成宗教は、
形骸になった。
そやけど、今、形骸になってる宗教は、元々形骸では無かったやんか。
それは、日本の場合で言えば、
大化の改新より少し前くらいから、豪族が自分たちの権力のために天皇を利用した。
権力を得たいって心(靈)の動きは、言うまでもなく、
腹の段階の心(靈)の発現でもある。
“石屋の仕組み”…帯電するミネラルが固まってない進化過程でもある。
自我の確立=固定化の段階でもある。
マニピューラチャクラの心(靈)の発現でんねん。
そやから、
権力を得て低い功名心や自尊心を得たいって心(靈)の動きでもある。
そやけど一般にそんな見方はされてないし、そんな分析すら出来てへん。
それは分析する人の心(靈)の発現が低いからや。
学者さんの大半が、腹の段階の心(靈)の発現しかしてへんからや。
そやから天皇と豪族…そして今の天皇制…そこに霊的成長って要素が無いことを、
見抜けない。

…そやからKellyさんが言いたかったのは…天皇が形骸のものになって、
形骸のまま千何百年も経過してる。

先生の私見による、ほんまの意味での天皇は、
天の白い王を縮めて天皇…それを、さらに詳しく解字すれば、
“一”=智性=1番目のオーラ +
人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)) +
白(クンダリーニの白光、胸の磁性“十”によるシンクロトロン放射…肉体が持つ縦の磁性と横の磁性による円形粒子加速器の構造) +
王(三つのオーラの基底、水平磁場、それを縦の磁性(たて棒、コン)、クンダリーニでつないだ様子、クンダリーニの覚醒は頭の水平磁場の強化無しでは有り得ない)

天皇の解字 

そやから天皇=天の白い王…水平磁場の強化が高い振動の“上”の思惑=高い振動の電磁波との感応共振をして自分の心(靈)の構築になり、
それは段々、“上”…最終的には神と同等の思想を持つようになって行く。
そして人々に“上”の思惑=詔勅(みことのり)を述べ、
天皇自身が“上”の思惑を取り込んだ思想を示し、行動を示し、
それは天意を受けた人(日止、霊止)ってことでもある。
ほんでから、“上”の思惑を受信する、自分の思想になる…それ由来の行動をとる。

ほんでからに、“上”の思惑、神の要素、
進化って言うのんはその取り込みの段階を示しているってのが、
先生の私見でもある。
ほんでから、進化=神格化…それは真の幸福の意味でもある。

だんだん話が逸れてきてしまってるけど、
進化の本当の意味、
そして、
神の思惑の顕現…誰もが神に近づくための世界を、人(日止、霊止)が構築して行く…
それはある意味、神の理想なんやろけど…
そやからそれは“創造”の“主(ヌシ)”が、人に託したことでもあると思える。
そやけど、地球人の低い心(靈)の発現って言うのんは、
価値のあるものを何でも形骸にして、自分たちの利益のためだけのものにして来た。
そやから今の地球人の認識や価値感や…それが“上”と“下”で入れ替わってる。
そやからこそ物質偏重で心を見失い、多くの人が金儲けのためにしか仕事をしていない。
そやからそれは、
今の世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が中心で、そんな文明…この世界の現津(あきつ)=観察され得る事象は、崩壊する。
崩壊することが教訓になる。
そやから、ほんまの幸福(神格化)を忘れ、
形骸のものばかりが“力”を示す世界がこの世界、
そやからそれは右往左往の世界、
失敗を体験して自分たちの在り方を認識する世界、
そして自省(胸の磁性“十”)して霊的成長する世界、
…今まで色んな言い方をして来た。
そやけどその体験が無いと人は、霊的成長を果たすことが出来ない。
そやから、心(靈)の発現=進化過程として、
“恨みの連鎖は必然”って言い方を先生は前のブログでしたことがある。
しかし…今そのことを知っておけば、自分の認識は随分違うものになり、
その認識所以の観察は、
自分の在り方を真に知っていくことに成り得ると思えるやんか。

…ほんでから以下の文章も同様の意味でんねん。

“あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、
上にゐては足も苦しからうがな、
上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、
足はやはり下の方が気楽ぞ、
あたま上でないと逆さに見えて苦しくて逆様ばかりうつるぞ、
この道理分りたか。”

これはあたま=思惑
足=時間の進行、儿部(じんぶ、にんにょう)の意味でもある。
(人が歩く様を象る)
そやからそれは、心が時間の進行と共に事象を感じる。
生きているって認識していることでもある。
今Kellyさんが言うたことを詳しく述べるならば、
心(靈)が、時間=空間の回転による磁場=時期(磁気)の進行と認識され得る時間の認識、振動を受けながら受発信して、現津(あきつ)=観察され得る事象を心(靈)が感じ(感じる磁性)て行く。
心(靈)って言うのんは、磁性で出来ている。
荷電粒子を集めながら事象の認識をしている。
それが心(靈)の本質で、電磁波は思惑そのもので、
“上”の思惑を取り込まなければ神の思惑を理解出来んし、自分の思想にも出来んし、
神が人(日止、霊止)に託したことも理解出来んし、
神の理想と人(日止、霊止)の理想が一致するなんてことも理解出来ん。
そやから“上下逆様”とか言われてる。
ほんでから“苦しくて逆様ばかりうつる”…これは、さっき言うた、
神格化の方向性を見失った事象のことを言うてると思える。


ほんでから次の言葉、

“岩戸開くとは元の姿に返すことぞ、神の姿に返すことぞ。”

この文の“元の姿”元は“二”肉体のオーラと儿部(じんぶ、にんにょう)
“日月神示”でいわれてる““岩戸”=山(脳)+石(腹の水の中の帯電するミネラル)+“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね、肉体の事)開き”は、
“上”の思惑を受信して発振、発信する仕組みでもある。

ほんでから次の言葉、

“三(みち)の役員は別として、あとの役員のおん役は手、足、目、鼻、口、耳などぞ。”

この文の中の“三(みち)の役員”は、
“三(みち)”って言うのんは、人(日止、霊止)の完成された姿、
三つのオーラがすべて拡大した様を言うてると思える。
そやから、
そのために太陽凝視を教えてくれたKさんは、太陽凝視をしはった、
そのオーラの変化を観測した先生は、その真似をしてる…30年以上真似してる。
三つのオーラがすべて拡大したならば、それは、
神の思惑を顕現出来る生命(生きる使命=存在理由)と言い得る。

この文の後半の、
“あとの役員のおん役は手、足、目、鼻、口、耳などぞ。”…は、
“手、足、”は、2~3番目のオーラの発振、発信に関ってる。
物質世界の事象の創造に関わっている。
ほんでから“目、鼻、口、耳など”って言うのんは、五感やと思う。
そやからそれは、前のブログで先生と、
感覚って言うのんはすべて電磁波の受信やって話をした。
言い換えれば、究極微粒子で構成されている自分の心(靈)は、
物質っていう振動である肉体を介し、
自分の外側(外国と幽界)の認識を、
電磁波の受信によって観察して認識している。
それが感覚ってことでもある。
感覚があるからこそ、事象の観察が出来る。
事象の観察があるからこそ、認識の拡大がある。
認識の拡大は神格化と同義でもある。

そやから次の言葉は、今言うたことを含め、

“人の姿見て役員よく神の心悟れよ、
もの動かすのは人のやうな組織でないと出来ぬぞ。”

“人の姿”…人は人の心(靈)だけで行動を決定していない。
様々な霊的干渉を始終受けている。
自分の思惑に感応共振する霊的存在が居てる。
そしてその霊的存在には“上”と“下”がある。
自分が“下”の心(靈)しか発現して無かったら“上”との感応共振は有り得へん。
そやから“人の姿見て役員よく神の心悟れよ、”って言うのんは、
人の思惑の顕現…どういう動機で行動しているのか?…それをよく観察して、
神格化の方向性を見出していく…それが“役員”と称されてる。
ほんでからこの世界を良い世界にしたいって神の思惑があるからこそ、
“もの動かすのは”…物質の世界の事象は、
“人のやうな組織でないと出来ぬぞ。”…神の思惑だけでは出来ないってことでんねん。
物質世界にいてる生命やないと、物質世界の“創造”は出来へんってことでんねん。
そして“上”は、人に、
神の思惑を含んでいる荷電粒子で降り注ぎ、
人に受信させ、
人の思想にして…人(日止、霊止)自身が事象の“創造”をする。
ややこしい言い方をすれば、
日止、霊止…“上”からの振動を止める生命(生きる使命=存在理由)が、
“上”からの振動…高波長、高振動…を取り込んで、
心(靈)も体も創り変わり(高い振動での“気血栄衛(營)”)、
今より相対的に“上”の思想を顕現した世界を創っていく。

ほんでから“上”の高い思惑は、低い振動では伝えられへんから、
高い波長の電磁波、そやから光を食わんならん…太陽凝視せんならん。
太陽凝視=神格化のための“行”っていう認識を先生は持ってて、確信してはる。
そして“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)が、
次の世界の“創造”に関与する資格を持つ。
今、腹の段階の心(靈)の発現の人は=自己奉仕者の人は、
次の世界=アセンション後の“創造”を担う資格がない。

…ここまでの“日月神示”の文章には、それを感じさせるものが多いやん。

ほんでからに次の言葉、

“この道の役員はおのれが自分でおのづからなるのぞ、それが神の心ぞ。”

自分の認識、悟り、幸取=さとり、それは霊的成長度による違いがある。
心(靈)が“上”に向かっていないからこそ今の事象は、
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”による、崩壊に向かう世界でもある。
自分たちが自分の存在意義を知り、存在の目的を知り、そして進化が神格化で、
真の幸福の意味は神格化で、
すべての生命のゴールは神格化で、
それを“この道”と称し、
神格化を理解して行く過程を、以下の言葉、
“この道の役員は”…神格化って認識を獲得した人は、
“おのれが自分でおのづからなるのぞ、それが神の心ぞ。”…自分で神格化への道を見出し、
“行”をする…そやから“おのづからなるのぞ、”…で、
言うまでもなく、人(日止、霊止)の存在意義は神格化だからこそ、
“それが神の心ぞ。”…神の思惑ってことでんねん。

ほんでから、次の文章、

“人の心と行ひと神の心に融けたら、それが神の国のまことの御用の役員ぞ、
この道理分りたか。”

この文は、人(日止、霊止)が霊的進化したなら、
神の思惑を取り込み、人の思想になる事を示している文章でんねん。
敢えてこの文章内の言葉で指摘しておくならば、
“人の心と行ひと”…心(靈)の発振、発信と
“神の心に融けたら、”…“上”の存在である神と“下”の存在であるである人が感応共振したならば、
次の言葉“神の国のまことの御用の役員”…神格化を自覚し“行”をして、
そのオーラの発振、発信で事象の“創造”を果たしていく。

ほんでから次の文章、

“この道は神の道ざから、神心になると直ぐ分るぞ、金銀要らぬ世となるぞ。”

さっきの豪族のことでもそうやけど、今の人が、
低い心(靈)の発現で“金”の奴隷になってるからこそ、
価値のある何かは形骸になった。
(通貨としての)金と権力…それが“力”やと思うてる。
それが一般的…それが社会通念…そして、
低い功名心と自尊心を満足させる権力と、
見せ掛けの幸福の象徴の(通貨としての)金は…本当のことを見失わせる。
人の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を促進してる。
敢えて説明することでもないな。

ほんでから、

“御用うれしくなりたら神の心に近づいたぞ、
手は手の役、うれしかろうがな、
足は足の役、うれしかろうがな、
足はいつまでも足ぞ、
手はいつまでも手ぞ、それがまことの姿ぞ、
逆立して手が足の代りしてゐたから よく分りたであろうがな。”

これは“手”と“足”
2~3番目のオーラの発現に関わる電磁誘導のラインが、
経絡(ツボの流れ)って概念を先生は持ってるけど、
それはいつか先生が、
太陽凝視を行っている鍼灸師の話“改”で説明するやろから、
ここでは省き、
やはり“手”と“足”は、物質世界の事象の創造に関わる意味ってことやと思える。

頭=思惑だけではこの世界の“創造”は出来ん。
そして“上”と“下”が逆転してる世界になってしもてるから、
“逆立して手が足の代りしてゐたから よく分りたであろうがな。”
…ってことやと思いまんねん。
そしてローム太霊さんが定義した主護霊と支配霊、
支配霊の“支”って言う字は、
“十”、縦の磁性と横の磁性と、
“又”…この字は手足を示す字でもある。
ほんでからそれは、
主護霊は人の霊的成長に関り=心(靈)の成長と心(靈)の在り方に関り、
支配霊は、心(靈)の動きで事象を創造する…自分の“思惑の顕現”=現象化に関わる存在でもある。
そやけど、
主護霊と支配霊…ローム太霊さんがそう定義付けた理由に付いて、
ここで述べると…とても長くなるから別の機会にしっかり解釈するとして、
要は、人の思惑=日足(ひたり)は、主護霊で、
“思惑の顕現”=現象化は砌(みぎり)で支配霊であるってことでんねん。

ほんでから次の文章は、アセンションのことを言うてる。

“いよいよ世の終りが来たから役員気つけて呉れよ。
神代近づいてうれしいぞよ。”

“世の終わり”…今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の世界は崩壊し、
人の心(靈)は自省(胸の磁性“十”)して、
それからその後、
“神代”……これは、アセンション後に位置出来る霊的成長を果たした人(日止、霊止)の、場(フィールド)を指している言葉でんねん。

ほんでから次の文章、

“日本は別として世界七つに分けるぞ、
今に分りて来るから、静かに神の申すこと聞いて置いて下されよ。
この道は初め苦しいが、だんだんよくなる仕組ぞ、
わかりた臣民から御用つくりて呉れよ、
御用はいくらでも、どんな臣民にでも、それぞれの御用あるから、
心配なくつとめて呉れよ。”

この文章の始めの、
“日本は別として世界七つに分けるぞ、”…これは、
場所とか地域とか国とかを分けるとかって思うやろけど、そんなことを言うてるとは、
とても思えへん。
それに付いてのKellyさん的解釈は後述するけど、その前に、
“日本”は、
太陽=日、
本=胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と根元に書かれてる“一”…これも水平磁場を示すと思うやんか。
そやから“本”に付いては上つ巻 第一帖で、前に解釈したことがあるから、
コピペしときまんねん。
     ↓

“晴れたり、日本晴れ”・・・は、
“日”=創造主の振動の場(フィールド)=太陽。
“日本晴れ”の“本”って言うのんは、
漢和辞典をみると、
木の太い根のところにつけた“一”は、
それは印って言う意味があって、
その場所を示していて、木の根もとの部分とか“もと”とか・・・の意味を持つ。
ほんでからに物事の根源とか中心になるものとかの意味もあるやん。
そやから本題とか本当とか本質とか・・・
そう言う表現に使われる字でもある。
それは、Kellyさん的に思うんは、
自省(胸の磁性“十”)に儿部(じんぶ、にんにょう)+“下”の右往左往。
それが“本”って言う字でもある。
そやからそれはちょっと解り難いけど、
自省、“直日(なおひ)”・・・胸の磁性“十”に、 
“下”の右往左往でもある“一”・・・これは位置から言って、
“三”の一番下の“一”。
ほんでからにそれを全部足して、日本晴れ。
これは文章どおり“二二(ふじ)”に掛かる言葉で、
人(日止、霊止)のあるべき肉体・・・神に近づくべく肉体の事を、
言うてると思いまんねん。

     ↑
以上でんねん。

要は“日本”っちゅうのんは、
霊的進化を果たして行く心(靈)のことなんやけど、
その進化した心(靈)の事象の観察は、
すべての事象は人の心(靈)の動きで出来ていることを知る…認識する。
そういう意味で“日本は別として世界七つに分けるぞ、”
世界は、事象は、七つのチャクラの心(靈)の動きで出来ている。
それを先生は、心(靈)の構造として、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動って定義した。
それぞれ“下”から“上”のチャクラの心(靈)の発現でもある。
それに付いては“クンダリーニの白光”を読んで欲しいねんけど、
今の世界は“下”三つのチャクラの覚醒段階やからこそ、
本能と情動と功名心と自我…その心(靈)の動きで自己奉仕者が活躍している。
今後は=アセンション後は、
愛(炁)、
(良い形の)創造、
(人を神格化に結び付ける知識としての)知恵、
(知識としての知恵を智性で使いこなす意味での)智慧、
智性(神性)…
そういう心(靈)の発現が無ければいけないし、その心(靈)の発現をしたならば、
“上”から“下”を観ると、
すべての事象の形成の理由とも言い得る心(靈)の発現の段階を認識出来得るやんか。
そやから、現津(あきつ)=観察され得る事象って言うのんは、
人が感じてるこの世界は…人(日止、霊止)が感じ(感じる磁性)てるこの世界は、
自分たちの心(靈)と、“上”の思惑で構成されている。
それが“創造”…神の思惑と、生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉で、
神と人(日止、霊止)のオーラの相互干渉でもあり、
それは七つのチャクラ(肉体が持つ縦の磁性により回転させられている荷電粒子を示す)による心(靈)の発現で、創造されている。
そのことを示す字が、
人、日止、霊止、
“上”の思惑を止めるって言う字でもあり、
人は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成され、
人が歩く様に象る儿部(じんぶ、にんにょう)は、時間の進行を示す。
時間の進行を認識しなければ“創造”は出来ない…当たり前のことでんねん。

そやから“日月神示”でよく使われてる表記の“日本”は、
霊的進化の根本みたいなことでんねん。
そして、人と神のオーラの相互干渉を示してる。
ほんでから、神の思惑を顕現するのは、
太陽=“日”を自分に取り込み、そして時間の進行と共に(本=胸の磁性“十”と儿部(じんぶ、にんにょう)=人が歩く様子に象る)行動して行く。

Kellyさん的にはこの文章を読んでそういう解釈しか出来へんのやけど…
そやけどこの文章も、右翼傾向の強い人なんかが読めば、
日本だけが神国で、日本人だけが素晴らしいなんて勝手な解釈をするんやろけど、
Kellyさんが言いたいのは、
神が評価する、神が求めてる人間って言うのんは、
どれ位、霊的成長したのか、
どれ位、“行と修行”をしたのか、
どれ位、神に近づいたのか、
どれ位、神の思惑を顕現してこの世界を霊的成長の場(フィールド)にしたのか、
そのためにオーラを大きくして=水平磁場を大きくして、
“上”からの荷電粒子=神の思惑を取り込めるのか、
言い換えれば、神の思惑をどれ位自分の思想にできるのか、
それがまた“日月神示”によく出てくる、
○とローレンツ力 ローレンツ力
○は、靈で、荷電粒子の場(フィールド)、
それを合わせて ローレンツ力と ○ って表記されてると思える。

ほんでからこの文章の後半、

“わかりた臣民から御用つくりて呉れよ、
御用はいくらでも、どんな臣民にでも、それぞれの御用あるから、
心配なくつとめて呉れよ。”

“御用”は霊的成長そのもののことでしかない。
御用を認識するのは神さんへ近づくことを認識するのと同義でんねん。
当たり前でんねん。
“御用”をしている人の世界は、神聖な事象になるに決まっている。
そやから、
自分たちの霊的成長=オーラの拡大をして“上”の思惑と感応共振して、
神の思惑を理解して自分の思想にして行動して…それが、“日月神示”内の表記では、
“役員”とか“御用”とか言われてる。

そやけど……“日月神示”の言葉を、
今の世界の批判だけに使い、“役員づら”して低い功名心や自尊心を満足させている人、
そういう類のサイトとか…そして、
“日月神示”の解釈本を売って自分の利益だけにしている人…そういう類の人たちは、
“わかりた臣民”とは言えへん。

ほんまに“役員”“御用”…それを考えるならば、
今、自分たちは何をせんならんのか…
この星の低振動化を阻むには何をするべきなのか…
それを考えんならんと思えるやんか。
このことは、下つ巻の解釈に入り…そのことを思わせる文章が多い。
そやから前にも言うたことやけど、
“役員づら”…そんな心の動きを持たんようにせんならん。
今回もそのことを強く思うたから、敢えて…言うときまっせ。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”下つ巻 第十四帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第十四帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、なかなか大層と申すのぞ。
一二三(ひふみ)の仕組とは、永遠(とは)に動かぬ道のことぞ、
三四五(みよいづ)の仕組とは、みよいづの仕組ぞ、
御代出づとは神の御代になることぞ、この世を神の国にねり上げることぞ、
神祀りたら三四五の御用にかかるから、その積りで用意して置いて呉れよ。
この神は世界中の神と臣民と、
けだものも草木もかまはねばならんのざから、御役いくらでもあるぞ。
神様と臣民 同じ数だけあるぞ。
それぞれに神つけるから、早う身魂みがいて呉れよ、
みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ。
小さいことはそれぞれの神にきいて呉れよ、
一人ひとり、何でもききたいことは、病直すことも、それぞれの神がするから、サニワでお告うけて呉れよ、この方の家来の神が知らせるから何でもきけよ。
病も直してやるぞ、その神たよりたなら、身魂みがけただけの神徳あるぞ。
この世始まってない今度の岩戸開きざから、これからがいよいよぞ。
飛んだところに飛んだこと出来るぞ。
それはみな神がさしてあるのざから、よく気つけて居れば、
さきの事もよく分かるようになるぞ。
元の神代に返すと申すのは喩へでないぞ。
七から八から九から十から神烈しくなるぞ、
臣民の思う通りにはなるまいがな、それは逆立してゐるからぞ。
世界一度にキの国にかかりて来るから、一時は潰れたやうに、もうかなはんと云ふところまでになるから、神はこの世に居らんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたやうに見える時が来たら、神の代近づいたのぞ、
いよいよとなりて来ねば分らん様では御用出来んぞ。
七月の二十日、ひつ九のか三。


冒頭の文、

“臣民ばかりでないぞ、神々様にも知らせなならんから、なかなか大層と申すのぞ。”

この文の中の“大層”……通常、この言葉の意味は、
非常に、たいへん、はなはだ…そういう使われ方をするんやけど、
この文章の意味は、
“臣民”“神々様”“知らせなならなん”…それを“大層”と称されてるやん。
そやから、知らせることは“大層”ってことでもあるんやろけど、
決してそれだけでは無いと思えるやんか。
…そやから“大層”って言葉の裏側にある意味の解釈が出来ていないと、
この文自体の読み取りは全然違うものになると思えるやん。
そやからそれは“大”と“層”、
“大”は、今まで何回も言うて来たけど、
人(日止、霊止)(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)) + 胸の磁性“十”
ほんでから“層”は、
尸(しかばね、かばね)と、“曽”。
そやけど“層”の旧字は尸(しかばね、かばね)と“曾”が合わさった字で、
Wordで変換出来へんかったから画像を貼っておきまんねん。 

層の旧字  

この尸(しかばね、かばね)の“下”にある“曾”って言う字の意味は、
かさなる、かさねる…或いは、かつて、以前に。これまでに。すなわち。あげる。あがる。高い。ます。増える。ますます。すえ(末)そして三つ…色んな意味があり、
そして“曾孫(ひまご)”の“ひ”の表記でもある。
そやからこの文章の表記の“大層”は、
尸(しかばね、かばね)=肉体に“曾”かさなる…
何が重なるのかといえば、
“大”って言う字の、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と胸の磁性“十”…それは、人が霊的進化をしている様子、
それが、肉体=尸(しかばね、かばね)と“曾”=重なる…
要は、神の思惑と、人の霊的成長する様子を示す“大”…そして尸(しかばね、かばね)=肉体(この世界の自分に対する認識の一部)…そやから“大層”って言う表記は、
“上”の思惑と人の思惑が、“曾”=重なった事象(現津(あきつ)=観察され得る事象)を見せるってことが、
“知らせなならん”って事やと思いまんねん。

ほんでから次の文章もそのことを指してる。

“一二三(ひふみ)の仕組とは、永遠(とは)に動かぬ道のことぞ、
三四五(みよいづ)の仕組とは、みよいづの仕組ぞ、
御代出づとは神の御代になることぞ、この世を神の国にねり上げることぞ、
神祀りたら三四五の御用にかかるから、その積りで用意して置いて呉れよ。”

この文章の中の“一二三(ひふみ)の仕組み”…これはここまで先生のブログを読んでる人に敢えて説明はいらん。
ほんでからこの文の表記の、
“永遠(とは)に動かぬ道のことぞ、”
…これに対する補足として、
前のブログ、
事象の形骸化 “その一” Kellyさん・・・ぼやきたおす!!
…の、あの時先生がKellyさんに、
❤❤❤あ○やのカラ○オ❤❤❤で印刷してくれはった宿題の内の、
“アルレーム(亜流連無)より、オーラについての解説”…を読んで欲しいねん。

ほんでから…最近、先生は、
“一二三(ひふみ)”のオーラは、水平磁場って概念を持つようになった。
水平磁場…先生的に大体、その仕組みは解ってるようやけど、
もう少し“上”から通信を受けて先生自身が理解を深めたならば、
そのうち詳しく、説明すると思いまんねん。

ほんでから次の文、
“三四五(みよいづ)の仕組とは、みよいづの仕組ぞ、”
これに付いては下つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈からコピペしときまんねん。
       ↓

“この方は三四五(みよいつ)の神とも現われるぞ。”

“三四五(みよいつ)の神”は、
“三”=三つのオーラ、肉体を持った霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が持つ、
上中下のローレンツ力によるオーラの発振、発信
“四”=、“四”は、象形文字で、
開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子って事らしく、
それは“息をつく”って言う意味を持ってるやんか。
息・・・それは、 息と言う字の構成が自分の心(靈)で、
ほんでからに、自分の心(靈)の発振、発信が、息吹って事。

“五”=糸巻きの象形文字。肉体の磁性を構成する神経線維のこと。

“現われるぞ。”=発振、発信して示すってこと。

     
…以上でんねん。

そやからこの文章の後半の、
“御代出づとは神の御代になることぞ、この世を神の国にねり上げることぞ、
神祀りたら三四五の御用にかかるから、その積りで用意して置いて呉れよ。”

“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)は、“神の御代”になり、
そして、
アセンション後の霊的成長を目指す場(フィールド)を、
構築して行く(べき霊的資格を持った)人(肉体を持った心、靈)は、

“この世を神の国にねり上げる”

……言うまでも無く“国”って言う字は、
(囗)くにがまえ=場(フィールド)に“玉(ぎょく)”…霊的成長の仕組みをあらわす字が、
(囗)くにがまえに入ってるから、
それがほんまの意味での“国”って事でんねん。…“玉(ぎょく)”に付いては、
前のブログ“思惑と顕現”の前半を読んで欲しいねん。
(サイドバーにリンクが貼ってありまんねん)
そやから通常の“国”の認識、
それを、どっかの地域とかどっかの場所とか思う…今の地球人のとても低い心(靈)が生み出してる認識とは、大違いでんねん。
そんな、狭い、低い認識やからこそ、低い功名心と自尊心で、
他国にアホくさい“力”を示したりしまんねん。
そやから戦争しまんねん。
自国の経済…金儲けの為に兵器作ったり、兵器売ったり、人殺しでも何でもしまんねん。
そんな人が今の世界のトップでんねん。
ほんでから低い心(靈)の発現っていうのんは、
ほんま低いとしか言い様がないんやけど、
今、どっかの国の政治家の心(靈)の発現がとても低いことを示されてる。
そやけどそんな政治家の行為をなんとなく許してきた国民にも責任があり、
なんとなく許してきたことそのものが、
その政治家と同等の心(靈)の発現しかしてないからこそ、許してはいかん“悪(心の動きの本能化と低振動化)”やと思わへんねん。

まあエエわ…きっとそのうち低い心(靈)の発現の事象に付いては、
チョ~極上ラブラブ中高年夫婦の御主人はんとでも話す機会があるやろ。
御主人はんは低い心の発現の事象…特に、政治家に不満を一杯持ってはるからな。
そやから、そんな判りやすいことは置いといても、今、
“役員づら”してる人はとても多い。
飢餓や貧困…恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している事象…自己奉仕者の心(靈)の動きが“創造”した結果の醜い事象…そやからそれは、ほかの国のことはどうでもエエなんて思うてる人は、アセンション後の世界には位置出来へんねん。
特に“日月神示”の解釈をしてる本の著者やそういう類のサイトに多い、
どっかの国の批判だけしてる人、
それは先生のセリフを引用すれば“事象を観察する視野が狭い”…その醜い事象だけ観て憂いてるだけで、そして批判してエラそうな事言うてるだけの人は、
さっきも引用したけど、下つ巻に入ってよく出てきてる表記の、
“役員づら”でんねん。
その醜い事象を引き起こす心(靈)の動きは、進化過程として誰にでもあり、
それを自分が“上”の心(靈)の発現をして=智性由来の観察をして、
今後この世界をどうしたらエエのか…そのために今、
自分は何を成すべきなのか…
それを思うてない人がほとんどで…ほんまイヤになってくるな。

話を戻し、次の文章、

“この神は世界中の神と臣民と、
けだものも草木もかまはねばならんのざから、御役いくらでもあるぞ。”

この文は、“上”の思惑はすべての生命(生きる使命=存在理由)に関り、
すべての生命は霊的成長に向かうべきであり、
そして、
すべての生命に使命があるからこそ、“御役いくらでもある”ってことでんねん。

ほんでから次の文章、

“神様と臣民 同じ数だけあるぞ。
それぞれに神つけるから、早う身魂みがいて呉れよ、
みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ。”

この文章の“神様と臣民 同じ数だけあるぞ。”…これは、
霊的成長度の程度により、(それは個人差でもある)
それぞれの生命の心(靈)っていうのんは、
程度も違えば、思惑も違い、やることも違う。
そしてそれぞれの霊的成長度に応じての霊的干渉がある。
それぞれの“上”の存在がある。
そやけど自分たちが神とか“上”とか認識している存在は、
絶対としての“上”ではない。唯一者としての“創造”の“主(ヌシ)”でもない。
そやから変圧の過程、自分と極端に違う存在の通信は受けない…受けることが出来ない。
それが“神様と臣民 同じ数だけあるぞ。それぞれに神つけるから、”…って事で、
ほんでからこの文の言葉、
“早う身魂みがいて呉れよ、
みがけただけの神をつけて、”…っていうのんは、
これは“身魂磨き”出来た人(日止、霊止)=肉体組織の結晶化をした人、
それは、体の旧字の“體(からだ)”…結晶化した骨が豊かな人…
先生の概念、“人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる“…
これは“日月神示”の表記の“石屋の仕組み”に対する言葉でもあるな。
そやから今言うて来たのは、
“上”の思惑と感応共振する肉体の仕組みを得た人に対する言い方で、
それは厳しい“行と修行”により、その苦痛を感じ(感じる磁性)た生体内電流で、
肉体組織の結晶化をして行き、
そして自分の心(靈)の動き=“どういうつもり”=自分の在り方で“行と修行”をして行くのか…それによって感応共振する霊的存在は変ってくる。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“力”を得たいなら、
“悪”の行をすれば、悪霊が憑き、悪魔の傀儡になる。
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の“力”を…その“善”の存在の思惑を知りたいのなら、自分が“善”を良く解っていなくてはならず、
それが“日月神示”内の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”やって今まで散々言うて来た。
自分の認識だけが自分に対する“善悪”を知る…それをよう知っとかなアカンやんか。
これに付いては前のブログ、“事象の形骸化”…を中心にして、
霊的干渉っていうのんは自分の心(靈)の在り方って事を先生は何回も言うてるから、
今の間違った霊の概念に囚われず、
霊的干渉の無い時は無い。
霊的干渉は自分の心(靈)の発振、発信による=“どういうつもり”=自分の在り方で何かをするのか?…それに拠る事をたくさんの人に理解して欲しいもんやな。

ほんでからこの文章の残り、
“天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ。”
天、晴れ=日と青、これに付いても今まで言うて来からあえて説明はしませんねん。
ほんでから“後の世”この表記も言うまでもなくアセンション後のことで、
“残る手柄立てさすぞ。”…今言うたばかりやけど、
自分が今、アセンションの情報も知って、この世界の醜い事象も知って、
その醜い事象の原因とも言い得る人の心(靈)の低い動きも認識して、
そして神格化の為の太陽凝視も知っていたとするならば、
アセンションを迎えるまでに自分は“どういうつもり”=自分の在り方で生きるのか?
何をするべきなのか?
そしてこの世界の醜い事象を変えていくために自分の“力”をどう扱っていくべきなのか?
…ほんま、下つ巻の解釈に入ってから何回も思わされることやな。

…ほんでから次の文章は、“上”からの通信の仕組みを表現してる。

“小さいことはそれぞれの神にきいて呉れよ、
一人ひとり、何でもききたいことは、病直すことも、それぞれの神がするから、サニワでお告うけて呉れよ、この方の家来の神が知らせるから何でもきけよ。”

この文が言うてることは、さっきも言うたけど、いきなり“上”の思惑を人は受信出来へん、それには霊的干渉の変圧の過程がある。
そやからそれは“創造”の“主(ヌシ)”=愛(炁)の始まりの存在とは、
振動が違いすぎて地球人は感応共振出来ん…当たり前でんねん。
そやからこそ人は自分が持っている認識より少し“上”のことしか解らない。
少し“上”しか解らない事そのものが、変圧の過程でもある。
ほんでからそれは判りやすい例えをすれば、
誰か人を見たならば…自分と同じ考えを持っているのではないのか?
自分と同じような考え方をするのではないだろうか?…そんな錯覚を生む原因でもある。
人が思うこと、それは霊的成長度によって=その人の認識の程度によって=“一二三”のオーラの大きさの違いによって、思想や認識は違う。
それを極端な言い方をしたならば、神と人は思う事が違う。
ほんでから今、地球人が低すぎるからこそ、
この世界が腐ってるなんて思わへん人のほうが大半…自己奉仕者が大半…なんやけど、
又々、余談やった。

そやから自分の霊的成長度に応じての“上”の存在があり、
色んな苦難や試練に遭遇しつつ、そこで自分がエネルギーを贖い(あがない)、
その心(靈)の動きの方向性により=自分の発振、発信(息吹=自分の心(靈)を吹く)により、自分の心(靈)が相対的に“上”ならば“上”からの通信を受け、
苦難を試練と思わず、認識を得る過程の事やと思わず、
ただ、逃げたいとか…その意味を考えないとしたならば、
“下”の存在との感応共振があり、目先の快楽に溺れたりして堕落して行く。
ほんでから、癒し癒しって求めるのも…それはただ甘い(亜、魔、出ずる、泉)傾向で、おんなじでんねん。
そやけどそれも、右往左往と左往右往なんやけど…
そやから人は色んな通信を受けつつ、段々、
自分が神に近づいていく“道”を知って行くんやろけど、
それは、審神(さにわ)…自分の心(靈)が神の方向性に近いのか、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の方向性なのか、
それを自分で判断せんならん。
そのことそのものが“日月神示”の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
自分の心(靈)の動きの、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
自分で見極め=自分の在り方(“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”)を自分で思い、
そして、(時間の進行と共に遭遇する)事象に対する、
発振、発信とも言い得る行動を、自分自身の心(靈)の動きで決定して行く。
それは自分自身の霊的成長=“一二三”のオーラの拡大の為に。
そやから…そうならんと、
進化の目的とも言い得る独り神(ひとりがみ)には成り得んって事でんねん。
そやからこの文章そのものが、
人の霊的進化への“道”と、その過程のことを示してるって事でんねん。

ほんでから前後するけど“病直すことも、それぞれの神がするから、”…
この文の“病”って表記は、ただの病気だけでは無く、
それは辞書を引けば当然、やまい、って意味もあるんやけど、
やまいが重くなる。欠点。わずらい。わずらう。きず。そこなう。くるしめる。
病国。病民。苦しむ。疲れる。うれえる(憂える)。思い悩む。心配。せめる。とがめる(咎める)…そしてうらむ(恨む)って言う意味まである。
そやから“病”って言うのんは、医者が対象にする何とか病では無く、
自分が未熟ゆえに起きていることを指し示していると思える。
そやから自分の在り方を考えんと、“病”は重くなり、
欠点になり、傷になり、苦しみ…煩う、患う。(どちらも“わずらう”って読ませる)
そやけどそれは、“思う、憂う”…日足(ひたり)の思いでもある。
そやから、咎める、責める…自省(胸の磁性“十”)の“行”でんねん。
そやけどアホな人は、アセンション後は医者が対象にする何とか病の無い世界に成ると思うやろな。
そやから今言うたことを簡単に纏めれば“病”って言うのんは、
自分に対する試練でもあり、
自分の今後の在り方を示す指標でもある。
それは先生が前に言うた言葉にも示されてるのでコピペしときまんねん。


“「アタシ的には、
批判すべきは、自分自身だけでいいと思っているから・・・ 
前回、般若心経の観自在で説明したように、自分の在り方を考えればいい。
他者を批判するのは、敵を作るだけにしかならない。」
「でも、批判されないと自分のいけないところに気が付かないでしょう?」
「気が付くのは、批判をどう自分が受け止めるか、ではないかい?」
「あっ、そうか!」 
「自分の在り方を考える事象として、受け止めるか?否か?でしょう。
そうなれば、
批判だろうが、悪口だろうが、
別の話のように思うかもしれないが、
病気だろうが、事故だろうが、殺されようが・・・ 
すべて自分の在り方を示す、忠告となる。」”・・・ (見え始めた日 参照)

…以上でんねん。

ほんでから次の言葉、

“病も直してやるぞ、その神たよりたなら、身魂みがけただけの神徳あるぞ。”

今言うたことと重複してるけど、自分が霊的成長したならば、
“上”との感応共振があり、
それは“その神たよりたなら、”…自分の心(靈)が“上”に向いていたならば、
“身魂みがけただけの神徳あるぞ。”…感応共振による通信を受けたり、
認識の拡大の為の苦難でも、それは良い形になって行き、
具体的に言えば、右往左往から左往右往…形骸の価値感で一応成功し、
そして、失敗したりして、
(最近そんなニュースばっかりやけど)
その時に砌(みぎり)のエネルギーが無くなり、
心(靈)が折れたときに自殺したりして、その後は悪霊になったりする人が、
これまでも多いし、これからもっと増えていくやろけど、
それに対し“上”との感応共振があり、
自分の心(靈)の在り方で“上”と感応共振してさえいれば、
自分が夭折(認識を得ないで早く死ぬ、真の不幸の意味)することは“上”がさせない。
それを思わせる文章でもある。

ほんでから次の文章、

“この世始まってない今度の岩戸開きざから、これからがいよいよぞ。
飛んだところに飛んだこと出来るぞ。
それはみな神がさしてあるのざから、よく気つけて居れば、
さきの事もよく分かるようになるぞ。”

“岩戸開き”…これも今まで何回も言うたから、
簡単に要点だけ言うときまんねん。
山=脳、
石=帯電するミネラル、結晶化していないミネラル、錯体、腹の水に多い。(“江戸と尾張”の“江”)
戸=“一”=智性=1番目のオーラと尸(しかばね、かばね)=肉体。

この文の後半は今までとは違う事象に遭遇する…そういう意味やねんな。
それは、今までが普通やとか、当たり前とかの通念があるからこそ、
“上”との感応共振の世界は違うし、
ほんでから今“下”との感応共振の結果が示されてる…そやから醜い事象が多い。
そやけどそれも霊的進化過程の一端であり、それを示す言葉が、
“それはみな神がさしてあるのざから、”…っちゅう事で、
“上”との感応共振があり“身魂磨き”=肉体組織の結晶化が出来ているならば、
先生の言い回しの“天の御目”の獲得になり、それは、
“よく気つけて居れば、さきの事もよく分かるようになるぞ。”って事でんねん。

ほんでから次の言葉、

“元の神代に返すと申すのは喩へでないぞ。
七から八から九から十から神烈しくなるぞ、
臣民の思う通りにはなるまいがな、それは逆立してゐるからぞ。”

“元の神代”…この“元”はこれも今まで何回も言うたから、簡単に言うとけば、
二+儿部(じんぶ、にんにょう)…肉体を持った生命、人が歩く様子(儿部(じんぶ、にんにょう))…それは時間の進行と共に霊的進化をして行く。
それが人の存在意義でもある。
そやから“七から八から九から十から神烈しくなるぞ、”
七=“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)
八=左右の極性、
九=神の最後の“思惑の顕現”=現象化の形、人を指す。
それは、“日月神示”の表記の ○ 九 十(まこと)。
霊=○、荷電粒子の場(フィールド) + “一”=智性=1番目のオーラ +
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現) + 胸の磁性“十”…シンクロトロン放射でんねん。

○ 九 十(まこと)の解字 
シンクロトロン放射の白光は、高い波長から低い波長まで発振、発信する様子を示してまんねん。

ほんでから次の言葉、

“世界一度にキの国にかかりて来るから、一時は潰れたやうに、もうかなはんと云ふところまでになるから、神はこの世に居らんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたやうに見える時が来たら、神の代近づいたのぞ、
いよいよとなりて来ねば分らん様では御用出来んぞ。”

“キ”は、前のブログでKellyさんが解釈したから、コピペしときまんねん。
     ↓


“カイの御用はキの御用であるぞ。
臣民はミの御用つとめてくれよ。
キとミの御用であるぞ。
ミの御用とは体の御用であるぞ。
身養う正しき道開いて伝えてくれよ。
今までの神示読めば判るようにしてあるぞ。”

…“キ”って言うのんは
2~3番目のオーラの中を通って、
向かって左から右下に降りる縦棒みたいに見える。
そやからそれは、
“上”の思惑が日足(ひたり)から砌(みぎり)に降りる。
(思惑と顕現“その十一” “上”の思惑と顕現…“天の御目”)

     ↑

…以上でんねん。

そやから“キの国にかかりて来るから、”は、
霊的進化を阻む思惑=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑の現象化で、そやから次の表記、
“外国が勝ちたやうに見える時が来たら、神の代近づいたのぞ、
いよいよとなりて来ねば分らん様では御用出来んぞ。”

外側(外国と幽界)の事象は、今低い心(靈)の発現の人たちの価値感で動き、
価値のあるものは形骸になり、
それは低い欲望の象徴でもある(通貨としての)金によって動き、
大半の人は(通貨としての)金に囚われ…その価値感の奴隷になり…それは、
捕らわれるって言うたらエエやろけど…その現象の極みが今起きてる感じ(感じる磁性)やな。
そやから今まで何回も言うて来たけど、
アセンションを通り越すには…右往左往から左往右往の段階に入り、
色んな醜い事象を観察し、自分の在り方を振り返り、
そして、自省(胸の磁性“十”)の“行”をする…して行かんならんやん。

 
そやからこそ、
“一時は潰れたやうに、もうかなはんと云ふところまでになるから、神はこの世に居らんと臣民申すところまで、むごいことになるから、” ……そんな事象を観察せんならんのやな。

…今回は…これくらいにしときまんねん。

(グリムスキーワード 京都議定書)

“日月神示”下つ巻 第十五帖Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第十五帖を解釈しまんねん。
いつもの通り原文の紹介でんねん。 
 
この方祀りて神示(ふで)書かすのは一所なれど、
いくらでも分け霊(みたま)するから、
ひとりひとり祀りてサニワ作りてもよいぞ。
祀る時は先づ鎮守様によくお願いしてから祀れよ、
鎮守様は御苦労な神様ぞ、忘れてはならんぞ、
この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。
追ひ追ひ分かりて来るぞ、
一二七七七七七わすれてはならんぞ、次の世の仕組であるぞ。
身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、
黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、
神の国近づいたぞ。
七月の二十一日、ひつ九のか三。


冒頭の文章、

“この方祀りて神示(ふで)書かすのは一所なれど、
いくらでも分け霊(みたま)するから、
ひとりひとり祀りてサニワ作りてもよいぞ。”

“一所”は、
“日月神示”を書かせてる霊団、その立場から岡本天明はんを指した言い回しで、
そやから“上”からの通信は、何も“日月神示”だけではなく、
その人、個人々々の霊的成長度と、心(靈)の方向性…“上”か“下”か…それは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か…それによって霊的干渉は起きるし、“上”からの通信は、自分の心(靈)の在り方次第やからこそ、
“ひとりひとり祀りてサニワ作りてもよい”…これは自分の心の動きを観察せんならんって事でんねん。
ほんでから自分自身としては、神の“思惑の顕現”=現象化の一端を担うなら、
自分の心(靈)の方向性、動き、
それが“善悪”(神格化と、動物化=悪=亜の心=心の本能化)…なのか、
その心(靈)の発振、発信は=息吹は、
“上”に向いてるのか“下”に向いてるのか…それを知らんならんからこそ、
“サニワ”って言い表されてる。
そやから“サニワ”は、前回の下つ巻 第十四帖でも言うた通り、
それぞれの進化程度に応じた“上”の霊的干渉がある。
それは自分の心(靈)が“上”に向かわんと感応共振出来へん。
それは“日月神示”の表記なら右回転と左回転に表れてる。
自分の心(靈)が“上”に向かう仕組みは、
“玉(ぎょく)”って言う字に表され、ほんでから腹のエネルギーの日足(ひたり)回転って話を何回も先生としたから、
前のブログ、“思惑と顕現”のシリーズを読んで欲しいねん。
補足として画像を貼っておきまんねん。

腹の日足(ひたり)回転と砌(みぎり)回転  

ほんでから“祭り”と“祀り”の違いは、前にも言うたけど、
(上つ巻 第四帖)
“上”から“下”に降りる振動、人の認識(悟り、幸取=さとり)での天意を受ける事が、
“祭り”で、
それに対し、 人(日止、霊止)が“上”を認識して心が“上”に向かおうとするとか、
段々自分の持っている振動が“上”に向かう事そのものが、
“祀り”って言う意味でもあると思いまんねん。

ほんでから次の文章、

“祀る時は先づ鎮守様によくお願いしてから祀れよ、
鎮守様は御苦労な神様ぞ、忘れてはならんぞ、”

この文の“鎮守様”は言うまでもなく、地域を守護する神って言う意味がある。
そやからその場(フィールド)を管轄してる“上”の存在で、
それは、そこで生まれた人(肉体を持った心(靈))の管轄である、
産土之大神(うぶすなのおおかみ)=氏神(うじがみ)とはちょっと意味合いが違うけど、
要は、その場(フィールド)を神の思惑と人の思惑を足した、
段々“上”に向かうようにして行く。
それそのものが神の思惑であると確信してる。
そやからもうすぐアセンションと認識され得る事象を体験せんならん。
アセンションって言葉も形骸になり、
甘い夢を見させ、ひどい例はただの商売になり下がってるけど、
次元上昇の意味は、心(靈)が創造する事象(現津(あきつ)=観察され得る事象)が、その存在が認識する次元なんやから、
自分が霊的成長してなくて、心(靈)が上に向いていなければ、
今と同程度か、或いは今より“下”の世界に、
心(靈)が位置して行くだけの事でんねん。

…そやから、“鎮守様”であろうが、産土之大神(うぶすなのおおかみ)=氏神(うじがみ)であろうが、個人の“上”としての(本当の意味での)主護霊であろうが、
それよりもっと“上”の存在であろうが、
人は常に“上”の存在を意識していなければならない。
それはチャンネルを合わせる=同調ってことでもある。
そやからこそローム太霊さんが伝えた主護霊って言う言葉を、守護霊と書き換えることの功罪は、何回も述べたやん。

そやから、自分が天意を受け“上”と感応共振するには、
自分の心(靈)の在り方が、
今現在の心(靈)の動きは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動のどの部分なのか…それを常に観察する(“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”)…そして自我から“下”に向かわんようにする。
そやから自分の本能、情動、功名心、自我っていうのんは、
智性と“慈悲”と“慈愛”で、統括されるべきやねん。
それ由来の行動(心(靈)の付属物としての肉体を動かす事)をして、
それが又、
“日月神示”内の表現、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもありまんねん。
ほんでから“上”の振動は、
相対的に高い振動やからこそ、高い電磁波やからこそ、
自分が感応共振するには、肉体組織の結晶化=“身魂磨き”をせんならん。
ほんでから肉体組織の結晶化には骨が大事。
そして骨の結晶化には太陽光線が大事。
そやから先生は“上”の思惑の取り込みと肉体組織の結晶化のために、
長時間の太陽凝視をしてはるって事でんねん。

ほんでから次の文章…

“この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。
追ひ追ひ分かりて来るぞ、”

これも“日月神示”内の表記の、
“江戸と尾張”の意味を持つ“鳥居”って言葉が使われてる。
これも、下つ巻 第一帖で言うたから、コピペしときまんねん。
     

“鳥居はいらぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ。”

大体、“鳥居”っちゅうのんは、 俗なる人=“下”の段階と、相対的に“上”=神社とか神域を示す一種の門とか、 “上”と“下”の境界って事でんねん。
そやけどこの場合の“鳥居”って言うのんは、
腹の水=“石”=自我以下の心(靈)の動き・・・情動中心、目下(めした)の心(靈)、
それと、
思想=“山”、大脳新皮質、目上(めうえ)の心(靈)の、
境界やと思う。
それは“日月神示”内の表現“江戸と尾張”の“戸”に相当するし、
それは又“天の岩屋戸”の“戸”にも相当すると思える。
“戸”に付いては前のブログ、
“エピローグ 神の思惑と顕現・・・神聖な事象”を読んで欲しいし、
このブログでも、
“上つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈”で、
“理(みち)”を解釈した時に言うたから、そこを読んで欲しいねん。

     
…どうしても“日月神示”には、何度も同じ表記が出てくるから、理解したいなら何度も読んで欲しいねん。
そやから普通“鳥居”と“注連(しめ)”は、俗界と神域…要は“上”と“下”…結界のことやと思うやろけど…その意味もあるやろけど、
先生とKellyさん的には、“江戸と尾張”のように、肉体の電気容量の違いを作っているものやと思う。(“呂”が示す様に。)
そやから“江戸と尾張”は、腹の水と戸=横隔膜と仙骨の意味を持つ“尾張”…ほんでから“注連(しめ)”…これは横の磁性を示してると思える。
ほんでから横の磁性…それもそのうち、先生が、太陽凝視を行っている鍼灸師の話“改”で説明するやろ…いつになるか分からへんけど……。

ほんでから次の文章、

“一二七七七七七わすれてはならんぞ、次の世の仕組であるぞ。”

これは、この漢数字の羅列が解釈出来ないと何のことか判らへん文章やな。
この漢数字に付いては、今までに何回も言うたけど、
“一”=智性=1番目のオーラ、
“二”=肉体、完成された人(日止、霊止)のカタチを示す“王”から、
縦の磁性である(たて棒、コン)と“一”=智性=1番目のオーラを外した様。
ほんでから“七”が四回書かれてるのは、
七は“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が合わさった表記でもある。
そやから“七”は、
“一”=智性=1番目のオーラで、
智性の支配した行動=思惑の顕現が、人(日止、霊止)の行動になる。
そやけどそれは、“上”の思惑の受信装置ともいいうる大脳の新皮質(目上(めうえ)の脳)は、四つに分かれてる。
これに付いては前のブログ、霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”を読んで欲しいねん。
そやからこの文章自体が“上”からの受信をして、“一”=智性=1番目のオーラを(今より相対的に)大きくし、智性由来の行動をする。
それが“七”と言う字を構成する、乚部(いんぶ)に表され、
乚部(いんぶ)は人の思惑の顕現で、乙と同義で、それは、
向かって左から右に筆を動かして、 右から左下に動いて、左から右に動いて、 最後は上にはねる。“思惑の顕現”=現象化のカタチでもある。
前後するけどKellyさんの漢数字の解釈に付いては、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。
を読んで欲しいねん。

ほんでから次の文章は、

“身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、
黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、
神の国近づいたぞ。”

“身魂みがけば”は、これも今まで何回も言うて来たし、さっきも言うたばかりやけど、
肉体組織の結晶化で、それは先生の言葉の、
“人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる。
“上”からの振動を受信して生体内電流にして肉体に磁性を発現させ、
そして、新たな密度の骨を創らんと“上”との感応共振は起きない。
そやから骨がダメな人は“上”の思惑が解らへん。
ほんでから人(日止、霊止)の進化=神格化を阻みたい存在の思惑は、
人(日止、霊止)の骨の結晶化を妨げる事をさせる。
少し例を挙げれば、飲酒、喫煙、美白(骨の結晶化に結び付かない価値感)とか、
苦痛や苦悩を避ける鎮痛薬の多用とか見せ掛けの癒しとか…
これは、生体内電流の強化にならへんって事でんねん。そやからそれらは、
一言で言えば甘い(亜、魔、出ずる、泉)って心(靈)の動きでもある。

ほんでから人の肉体を構成する肉と骨は、
骨が駄目なら肉由来の発想しかしない。
肉中心の霊的干渉しかない。
肉中心の事象の観察が、外側(外国と幽界)しか判らへんようになってしまいよる。
ほんでから肉中心の心(靈)の動きは、智性を持っていない進化過程の低い霊的存在と感応共振する。
言い換えれば、“上”との感応共振は出来ず、
自分より“下”の存在、低級な浮游霊とか悪意を持っている動物霊とか、
殺された事を恨んでいる家畜の霊とか…具体的に上げるとキリがない。
しかしそこには“上”と“下”って分類が出来得る。
霊的干渉っていうのんは、心(靈)の“上”と“下”で分類をするべきや。
言い換えれば、
肉中心の思想、マニピューラチャクラが中心の思い、それは、
帯電するミネラルが固まっていない(真固止では無い)……そやから、
その進化過程の人の行動は、本能、情動、功名心、自我、…それが中心の心(靈)で、
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、
その人たちの行動は“一二七七七七七”では無いから、
自分の低い欲望の表れ…経済の為なら、
人が不幸になろうが死んでしまおうが、
そんな事は意に介さん今の社会の仕組みとも言い得る、
“石屋の仕組み”になる。

そやからこそ“身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな”は、
“上”との感応共振をしてすべての事象のよいカタチを創造する心の動きをするようになって行く。
“上”が、神が、人に望んでいるのはそれでんねん。
そやからもうすぐ“玉(ぎょく)”と“石”は、分けんならん。
それがアセンションでんねん。
そして、その時期が近いからこそ、
“神の国近づいたぞ。”
(示すへん + “呂” + (囗)くにがまえ、場(フィールド) + “玉(ぎょく)”(一二三のオーラと、縦の磁性と、ローレンツ力 ローレンツ力 がその存在の向かって右、その存在の腹の左=日足(ひたり)にある))
…って事でんねん。

…今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、下つ巻 第十六帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、
さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、
さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、
イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。
日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。
今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。
神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、
悪の神わたりて来てゐるから、
いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。
神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、心の内は幽界人(がいこくじん)沢山あるぞ。
富士から流れ出た川には、
それぞれ名前の附いてゐる石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、
お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、
みたま入れて守りの石と致してやるぞ。
これまでに申しても疑ふ臣民あるが、
うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。
因縁の身魂には神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。
江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。
てん四様を都に移さなならん時来たぞ。
江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。
前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。
江戸の仕組すみたらカイの御用あるぞ。
いまにさびしくなりて来るぞ。
この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。
七月の二十一日の夜、ひつ九のか三。



冒頭の文章、

“知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、
さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、
さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、”

これは、この間から取り上げてる“役員づら”してる人に対しての言い方としか思えへん。
形骸の“力”…知恵、知識…学問…能力、そして霊能力…今、活躍してる人のほとんどは、自分たちの利益を思い、自己奉仕者になり、そして、見せ掛けの言葉を使い、多くの人を…欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか…それゆえの“力”の使い方しかしていない。
その心(靈)の動きは、ほんまの人(日止、霊止)の進化っていう意味での、
“上”に向かう心(靈)、神格化を目的とする心(靈)の動きでは無いやん。
当たり前やん。
そやけどそういう人たちはそれを自分たちで認識出来へん。
それは、
その人たちの心(靈)の発現、霊的成長って意味での心(靈)の発現が、
自我中心でしかないからや。
そやからこそ、自分にとっての功名心や自尊心が、
自分で低いものやと認識出来へんし、そんな判断も出来へん。
“上”との感応共振が無いからや。
そやから…まったく、保身しかないみたいなもんやな。
極端な言い方をすれば、それがその人たちの認識のすべてでしかないからや。
そやから、自分たちがやって来た事の結果が、
アセンション(“上”のプログラム、この場合は自省(胸の磁性“十”)の“行”に入らせる事、右往左往)の影響で、今、たくさん暴かれたりしてるけど、
その進化程度の心(靈)の発現の人は、たいして自分が悪いとは思わへんやろ。
ほんでからにその段階の人は、
“悪”っていうのんは、心の動きの本能化と低振動化って概念もないやろ。
そやから、低い心(靈)の発現の人の認識っていうのんは、自分がすべてみたいなもんやから“上”から視点で自分の心(靈)の動きを観察出来へん。
(心(靈)の発現としての智性と“慈悲”と“慈愛”が無い、或いは、自分の中で無視しているという意味)
そやから、
冒頭の“知恵でも学問でも”……“力”を示すって言うのんは、“力”の存在意義って言うのんは、
自分たちの感じ(感じる磁性)取る、現津(あきつ)=観察され得る事象を、
自分たちでよいカタチにする為にあるもんや。
そやけど霊的進化過程の低い人は、自分の利益しか思わへん。
低い欲望と低い功名心と低い自尊心しか持ってないからや。
欲望を満たす為の利益の象徴が(通貨としての)金であり、
金の奴隷になり、ほんまに価値のある何かを薄っぺらい形骸のものにして、
もう充分、価値のあるものは、形骸の程度の低いものになってるけど、
それすら自分たちで判断出来んし、そんな認識を持つことも無い。
それは、生きてる間だけがすべてって思うてるからや。
そやからそれは、自分が生きてる理由なんて考えもせず、
死ぬまでにたくさん楽しんでおきたいって思うてるから、それが自分の人生に対する認識やからこそ、自分の欲望のためにしかエネルギーを贖わん。
ほんでから認識が低ければ=“上”の心(靈)が発現していなければ、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか…その心(靈)の動きを自分の中に見出しても、
それを自分で許してしまうんやろな。
ほんま…程度が低いっていうのんは、程度が低いとしか言いようが無い。
そやから薄っぺらい心(靈)の動きは形骸の言葉を発する……具体的な一例として、今、たくさん暴かれてる低い事象としてのなんやしらんみたいに…国民のためにとか…国民のために一生懸命頑張りますとか……
ほんでからに、見せ掛けの愛を語って霊的成長のための試練を忘れさせる言葉として、皆さん幸せになりましょうとか…笑って過しましょうとか…無限の愛とか、苦痛や苦悩の無い世界とか…そんな言葉を使ってる人も居てる。
今言うた中でも、とても程度の低いアホくさい言葉を使って、自分たちの利益中心で行動して来たとろくっさい政治家なんかは別にして、今、見せ掛けの言葉を使って雰囲気だけ楽しんでて、自分の低い功名心と自尊心を満足させ、そして、アセンションや“日月神示”や太陽凝視を甘い解釈にしてる人はとても多い…自分たちの心(靈)の発現の程度ってもんを自分で分析出来て無いからや。
そやから何でも程度の低いものにしてしまっている。
ほんまに人(日止、霊止)を“上”に導く為にある何かって言うのんは、
(政治でも宗教でもヨガでも天皇制でもオーラを知った事でも…)
自分たちの心(靈)の発現の程度、認識の程度により、
高いもんでもてんで低いもんになってしまい、
そして低いもんのほうが、今、
当たり前の概念になり、それは低い心(靈)の発現の人のほうが大多数やからや。
そやから“玉石混交(淆)”…霊的成長度の高い人は少数で、程度の低い人のほうが多いに決まってる。
そやからこの地球って場(フィールド)が霊的成長の“上”の段階に入るならば、
“玉石混交(淆)”の“石”は、付いて行かれへんから分ける。
それがアセンションの意義でもある。

ほんでから次の文章、

“イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。
日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。
今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。”


このカタカナの表記の“イシヤの仕組み”…これも、
このカタカナ一つ一つを解字していけば、以下のようになりまんねん。
イシヤの解字 



そやからカタカナ表記の“イシヤ”は、
“上”の思惑を受信して“上”に向かう心(靈)って事なんやけど、
進化過程が低すぎるから、自己奉仕者が大半の世界になってる。
そやからこの文章の表記として、
“イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。
日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。”

この文章の“日本精神”が、“仏教の精神や基督教の精神”って言葉に対するものやと思われてるやろから、形骸になってしもてる神道とか天皇制とかって思うんやろけど、
そんな意味のこととはとても思えへん。
それは前にも言うたけど、
“日”“本”“精”“神”…画像を作ったから貼っておきまんねん。

日本精神の解字 


そやからこの文で言うてるのは、ただ進化程度が低いから、
認識が低いから“上”に向かう方向性を間違えてる。
そして間違えた方向性は、平仮名と漢字の表記での“石屋の仕組み”に表れてて、
それは、この平仮名と漢字の表記=こちら側、人から視点での認識では、
“イシヤ”と“石屋の仕組み”は意味合いが違ってくるから、
“石屋の仕組み”が出て来た時に解釈を述べまんねん。

ほんでから次の文章、

“神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、
悪の神わたりて来てゐるから、
いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。”

この表記の“お土”(=肉体の意味、“土”=2~3番目のオーラ)と、
“悪を渡らすこと”と“悪の神わたりて来てゐる”は、
“神の国”に対する言葉で、
そやから“神の国”っていうのんは、
“上”からの振動を取り込んで腹の中で日足(ひたり)回転させる様が“玉(ぎょく)”…
“玉(ぎょく)”って表記そのものが腹の中の荷電粒子の回転を示し、
そしてそれは心(靈)が“上”に向かうことやって前のブログ思惑と顕現で先生と話をした。
“玉(ぎょく)”って字そのものが人(日止、霊止)の霊的進化を示す字でもあり、
心(靈)の在り方を示す表記でもある。
これも、画像を作っておいたので貼っておきまんねん。

“玉(ぎょく)”の解字 

“玉(ぎょく)” + (囗)くにがまえ =国って表記で、
それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を“渡らすこと”と、
“悪の神わたりて来てゐる”…今そうなっているってことを言うてるし、
生命の進化過程としては右往左往=行動してから考えるってことやから、
そしてその後は、左往右往=体験を教訓にして行動を決定する…
その過程として“悪(心の動きの本能化と低振動化)”がある。
自分の心(靈)の動きを“上”に向かわせたいのなら=神格化を目指すならば、
“身魂掃除”“身魂洗濯”をして、内省して自省(胸の磁性“十”)して、
“観自在”して“直日(なおひ)”して、自分の心(靈)の動き=発振、発信を、
智性(神性)由来のものにせんならん。
そんな肉体=“お土”にしてはアカンって言うてる…ほんでから、
“いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。”って表記は、先生の“魔”の解釈でもある。
それは、广(まだれ)=頭骸骨、
左右の木部=腹の水(“江戸と尾張”の江)で得た振動を頭に吸い上げ、
自分の思想が、鬼=この世にあらざる存在、自分が位置してる場(フィールド)に居る、
低級な思惑の浮游霊の受信をして、
そして心(靈)と体が創り変る事そのものが、“魔”=マーラ(魔羅)って事やって、
先生は前のブログで言うたから、
思惑と顕現“その九”“魔”…梵語でマーラ(魔羅)を読んで欲しいねん。
要は、この世界が低級な浮游霊の思惑、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)で創りあげられ…もう充分そうなってるから恨みの連鎖の霊的干渉ばかり目立つんやけど、
もうこの文章が、自動書記により書かれたときに言われてて、
今…或いはこの先数年が、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化の窮みになるんやろな。

ほんでから次の文章、

“神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、心の内は幽界人(がいこくじん)沢山あるぞ。”

“神の国ぞと口先ばかり”…“ 申してゐる”…形骸の認識で偉そうに言うてるだけの人は、
“幽界人(がいこくじん)”自分の心(靈)の内の“善悪”(神格化と、動物化=悪=亜の心=心の本能化)を見出さず、
外側(外国と幽界)の事象の“善悪”だけを批判して“役員づら”してるって事でんねん。

ほんでから次の文章、

“富士から流れ出た川には、
それぞれ名前の附いてゐる石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、
お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、
みたま入れて守りの石と致してやるぞ。”

“富士から流れ出た川”…この表記も、ただ言葉だけ捉えていたなら何の事か解らへん。
そやから、“富士”は、宀(うかんむり)は頭の意味、
畐=“一”=智性=1番目のオーラ、口、田、田は思いって言う字の上半分、
心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質って事でんねん。
“富士”の“士”は、“一二三”のオーラの“一”と“二”に相当する。
“一”の“上”に(たて棒、コン)が突き出しているのは、
“上”からの受信を示す。
ほんでから“流れ出た川”って言う表記は、
“川”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と(たて棒、コン)が二つ、
そして丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)の向かって右、
神の思惑の顕現を示すローレンツ力  の向かって左下(その存在自身の砌(みぎり))=砌(みぎり)“下”(事象に顕現する意)に伸ばした表記でもある。
そしてそれは“上”から“下”に書くって事でもある。
要は“上”の“思惑の顕現”を示している字でもある。
そしてそれは、“波羅密”=高い振動を受けて視床下部は体を創り変えるホルモンを出す。
それが“気血栄衛(營)”の意味でもある。
自分が事象を観察して、生体内電流に変換する意味での、
受信した振動=感じ(感じる磁性)=電磁波は、
般若心経の“波羅密”に表されてる。
そやから“富士から流れ出た川”は、自分が獲得した振動で自分自身の心(靈)と体が創り変わり、それは“名前の附いてゐる石”=帯電するミネラルに高い振動を取り込み、
心(靈)は“上”の思惑を理解して、
肉体は、“上”の振動を受信する為の、
“宝=体=體=骨が豊か”にならんとアカン。
そやからこの文章の後半の、

“お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、
みたま入れて守りの石と致してやるぞ。”

“お山まで行けぬ人”って言うのんは、山=脳やから、
そこまで“行けぬ”ってことで、それは認識にいたらずとも、
高い振動を“その川で拾ふて来い”って事でんねん。
そうしていたならば、いずれそれは、
“お山まで”って事になり、認識の拡大になる。
それは肉体を伴った霊的成長を果たしたって事になりまんねん。
そうなって欲しいって思惑を感じまんねん。

ほんでから次の文章は、“日月神示”の文章は霊的成長の仕組みを言うてる事を、
強調している。

“これまでに申しても疑ふ臣民あるが、
うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。”

ほんでからに次の文章は、帯電するミネラルの事を言うてる。

“因縁の身魂には神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。”

身魂磨き=肉体組織の結晶化…それは般若心経の舎利子でも同じ意味やけど、
帯電するミネラルが結晶化して行かんと、
高い振動(電磁波)である“上”の思惑と感応共振せん…自分の心(靈)に取り込む事が出来ない。
これはさっきの文章の、
“みたま入れて守りの石と致してやる”でも、同義の事やと思えるし、
そやから“因縁の身魂”…“御用”“役員”って表記も“日月神示”にはよく出てくるけど、
すべて霊的成長をする人、或いは、霊的成長を目指す人を指している表記である。
そやから、
“神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。”
これは、肉体が持つ帯電するミネラルに、“上”から=神から振動を与えて=思惑を送り、
“守護神の名つけて”
これは使命って言う意味での命名で、この場(フィールド)を護る、守る、その使命(氏名)をつけてやる。
要は、“上”が、結晶化した骨を持つ人(日止、霊止)に、
アセンション後の“創造”を託すって事としか思えへんねん。

ほんでから次の文章、

“江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。
てん四様を都に移さなならん時来たぞ。
江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。
前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。”

これは江戸=東京って言う意味もあるやろな。
東京からダメになるってことでもあるやろな。
まあ…これは先生の私見やけど、東京や大阪、神戸、横浜…だめになってる場(フィールド)は、もう右往左往の色んな現象が出だすやろ。
そやけどそんな事だけ言うてるのではなく、
“てん四様を都に移さなならん時来たぞ。”……“てん”と“四”は、
“四”は発振、発信の意味があり、息吹の意味がある。
それは、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。
の、四の象形文字のところを読んで欲しいねん。
そやからこの言い回しそのものが、
天意を受けた人のオーラの発振、発信という意味があると思える。
天意を受け=“上”との感応共振をした心(靈)の発振、発信は、
良いカタチの“創造”を目指すのが当然でんねん。
それが“人”って言う字を構成する、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)なんやからやねん。
ほんでから古神道で使われる表記の、“日止、霊止”って言うのんは、
日止は、太陽の振動を止める。
霊止は、“上”からの振動を自分の中で回転させる様子でもある。
これに付いては前のブログ、思惑と顕現“その十”“上”の“思惑の顕現”…“天の御目”を、読んで欲しいねん。
一部言うとけば、“メグリ”(帀)って部首に示されてまんねん。
ほんでから“都”って言うのんは、単なる首都って言う意味ではなく、
この表記も都には港がありそしてそれも含めて表す表記は、
“津”って、先生と話をした事がある。
それは前のブログのエピローグから、コピペしときまんねん。

     ↓

“津”って言う字そのものは、都とか港とかの意味を持ってる。
港は都にあり、それは、
水・・・腹の水、放射線を吸収する水と、帯電するミネラルが固まっていない状態、
イオン化したミネラル・・・それを集めるのが港と都=“津”。
東洋医学にも、“津液”って考え方があるって言うてましてん。
ほんでからにそれは、軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”でもあるし、
“日月神示”の中の、“江戸と尾張”の、“江”でもある。

     ↑
以上でんねん。

ほんでから次の文章、

“江戸の仕組すみたらカイの御用あるぞ。
いまにさびしくなりて来るぞ。
この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。”

この文章の、
“さびしくなりて来る”“この道栄えて世界の臣民みなたづねて来る”
これは現状に対しての相対的な表記でもある。
ほんでから、さっきの文章の表記の、
“江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。
前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。”
……これも同様の意味でんねん。
そやから、今までと違う価値感が支配する場(フィールド)になるからこそ、
この星が、今より高い霊的成長の場(フィールド)になるからこそ、
薄っぺらい低い心(靈)の動きの形骸の価値感で出来上がったものは崩壊し、
違う価値感を求めて行かんならん。
その事を言うてるだけやねんな。
ほんでから、
“江戸の仕組み”…“江戸と尾張”に付いては何回も言うたから、敢えて説明しませんねん。
ほんでから“カイの御用”…これに付いては前のブログの、
思惑と顕現“その五” “慈愛”…いつくしみ…いつくしむ
から、先生と話した事を抜粋してコピペしときまんねん。

     ↓

「普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)=愛(炁)=究極微粒子の振動・・・
その低振動化の事象が物質世界=三次元。
アタシ達が今持っている心の動き=神の要素の低い部分より相対的に高い要素・・・
それを取り込まなくては、進化した上での創造は出来ない。
当たり前だが・・・
それを三次元に現す事=創造。そしてそれは、時間の進行の概念があるからこそ進化であり、いきなり良いカタチになる訳が無い。だから低い創造から始まり・・・その中で“善悪”(神格化&動物化=悪=亜の心=心の本能化)を、見出していく。」
「低い創造・・・腹の右往左往と左往右往・・・でんな。」
「そう。そしてそれは、“日月神示”の中の表現で“カイの御用”・・・って言葉があるんだが・・・これは胸より下って事でも有り、霊的なものより下=物質って事でもある。
霊 > 物質って事だ。下の位って事だ。
そしてもう一つ“カイ”=“櫂(かい)”・・・舟を漕ぐ時の“櫂(かい)”の意味もあると思う。“櫂(かい)”の動きは、水の中で動く。腹は、水でもある。(江戸の江)
但し、今話した、“カイの御用”の解釈は、アタシの私見だという事を断っておく。
もっと違う解釈もあるだろう。」
「カイ=下位も、“櫂(かい)”も、下の位相・・・胸より下・・・腹。
腹=水・・・ほんでからに水の中の動き・・・腹の右往左往と左往右往って事でんな。
それはどういう言葉で表現されてるんでっか?」
「うん。それはこの言葉、

“カイの御用はキの御用であるぞ。
臣民はミの御用つとめてくれよ。
キとミの御用であるぞ。
ミの御用とは体の御用であるぞ。
身養う正しき道開いて伝えてくれよ。
今までの神示読めば判るようにしてあるぞ。”

そして、

“食い物大切に、
家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、
始めの行ざぞ”

そしてもう一つ、

“家の中キチンと食物大切がカイの御用ともうしてあろうがな”

この“家の中”って言う表現は、場(フィールド)でもあり、独り神でもあると思うし、
“日月神示”の○って言う表現でもあるし、
家って言う字そのものが“宮”って言う字の(宀)うかんむり、でもあると思う。
そして、漢字で表現されているものとして他にも、(囗)くにがまえ・・・なんかもそうだと思うんだが・・・他にも漢字には、一個体とか場(フィールド)を示す事があるんだが・・・
そしてそれらは、人(日止、霊止)の事そのものだと思う。」
「“宮”って言う字は、特別な意味を持ってるんやな。」
「うん・・・呂がエネルギーの回転を示している事は話したんだが・・・」
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” “その六”)
「・・・要は、“カイの御用”って言うのんは、“キとミの御用であるぞ。ミの御用とは体の御用”・・・“キの御用”は、Kellyさん的に思うんは、胸の磁性・・・“天の御目”の獲得・・・気の御用、又は、炁の御用・・・愛(炁)やな。
それは、“身養う正しき道”やから・・・それは下位・・・下の位相・・・ほんでからに“櫂(かい)”・・・船を進める時の左右の動きって事でんな。ほんでからに、

“食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用”

“家の中キチンと食物大切”・・・って、言うのんは、
食い物=振動の吸収=悟る・・・心(靈)は五つの口を持ってる。
そういう事でんな。
どういう振動の吸収の仕方をするのか・・・そういう事を言うてる感じやな。
ほんでからに何を食ったのか=どういう振動を吸収して心の構築をして行くのか・・・
それがカイの御用=下位の御用=三次元の事象の創造って事やな。
ほんでからにそれは、“櫂(かい)”・・・やから、
右往左往と左往右往せんならん。
良いカタチの創造を願ってるから“家の中キチンと”・・・って、言うてはるんやな。
そやから“食物”“食い物”・・・吸収する電磁波って事でんな。それは生体内電流になって脳を介して心(靈)で食う。(吸収と受信)
それが、自分の心の構築になって行くって事を言うてる感じやな。
結果それは、神さんに近づいて行くとするならば、“天の御目”の獲得になる。
しかし・・・“天の御目”か・・・
色んな事を考えされられる言葉でんな・・・
前にKellyさんが思うた事からは、随分違う印象にもなってるし・・・
(天の御目の大神 参照)

この言葉自体も、
深いものを感じるようになって来てるってるって言うのんか・・・

その事もKellyさんの認識が変容して言ったって事でんな。
そやから前のKellyさんは、
何かの言葉を見ても高い認識は得られへんかった。
少しずつ変わって来てる自分を感じ(感じる磁性)まんな。」
「そうだね。」
「言葉から何かを感じる・・・
今の地球人の平均的認識としたら・・・認識の低い事しか思い当たらへん・・・
言葉が形骸になってる。
言葉の使い方もヘタクソな感じやし・・・前に先生がそういう言い方してはったんを思い出しまんな。
そやから、今迄の先生との話でも、随分、言葉に対しての、解釈=認識の違う話をしてきたやん。
そやからそれは、一般的に、高い存在よりの言葉から、高い認識を得られへん・・・
振動を持っていないから・・・そやからこそ認識出来へん・・・高い振動を感じ(感じる磁性)取る事が出来へん・・・霊的成長度が低い・・・」

    ↑
…ここでも言うてるけど、
自分が感じ(感じる磁性)て行く事象って言うのんは、自分の霊的成長度に応じてしか、目の前にやってこない。
それが又“創造”って事でもあるし、自分の“思惑の顕現”…それは想像から現実になるって言う意味で、自分の心(靈)が“創造”をするって事でもある。
そしてそれは自分以外とのオーラの相互干渉の結果でもある。
そして自分の想像が時間の進行に妨げられず一瞬にして現津(あきつ)=観察され得る事象になる段階に必ず人(日止、霊止)は到達する。
それが自分の感じ(感じる磁性)る“時空の結晶化”でもある…そやけどこれは、
先生しか持ってへん概念やと思う。
そうなれば、自分が感じ(感じる磁性)る現津(あきつ)=観察され得る事象は、
何もかもが自分の理想になるし、そしてそこにはもう低い欲望由来の“創造”はない。
それを古事記の表記の独り神(ひとりがみ)やて先生は解釈してる。
そしてこの場(フィールド)も、独り神(ひとりがみ)の中の現津(あきつ)=観察され得る事象の一つであるって先生は確信している。
そやから今、その独り神の中の事象は、右往左往から左往右往に入り、
それが大日如来の条帛(じょうはく)に示され、
独り神そのものが、“玉(ぎょく)”になって行く…これに付いては説明するととても長くなるから、前のブログの“思惑と顕現”の後半をよく読んで欲しいねん。

そやからそういう点で地球人は、
まだ独り神(ひとりがみ)からは程遠いからこそ、
他の心(靈)と…要は他者とか、低い霊的存在とか…たくさんの存在が、
共通の事象を共有している。
そやからこそアセンションは、
その心(靈)の発現の程度=“上”と“下”を分ける為に起きる。
自分の心(靈)の発現が“上”に向かっている…或いは、もう“上”の心(靈)の発現をしているならそれは、
次の世界の“創造”を担う事が出来得るやん。

“上”の心(靈)の発現は、今までも言うて来たけど、例えば、
天意を受けるとか、
自分に対しての身近な“上”の存在、真の意味での主護霊の通信を受けるとか、
(そのためにローム太霊はS会=紫光会で主護霊の定義と存在意義を述べた)
神の思惑を直接受信して、
自分の心(靈)と体を時間の進行と共に創り変える(“気血栄衛(營)”、振動の受信による心(靈)と体の構築)、
(本当の意味での)太陽凝視とか、
それは“日月神示”内の表記なら“特別神憑り”なんやけど、
そやから今、“日月神示”の言葉を使って、
今の事象を批判だけしてる心(靈)の動きはとても低く、
それはこの下つ巻 第十六帖の冒頭の言葉のように、
知識と知恵を振りかざすだけに等しく、
自分自身の心(靈)も、
自分の心(靈)が観察して受信している現津(あきつ)=観察され得る事象も、
何の良いカタチにもならず、自分の低い功名心と自尊心の刺激にしかなって行かない。
そんな人が多すぎるし、ネット上ではそんなサイトばかりやし…もっと程度の低い、言葉だけを弄んでいるだけ、ただ目立ちたいだけのディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きだけのものも多いし、
ほんでから“日月神示”の解釈本は、解釈した人が霊的成長に対しての認識が低いからこそ、それは言い換えれば、たいした“行”をしてないからこそ、
“上”との感応共振が無いからこそ、
ただ、言葉や文章を解釈してるだけに過ぎない。
ほんま、低いっていうのんは低いとしか言いようがない。
…そやけど、それに対し、
たとえ不食を目指すって言う程度の低い段階の太陽凝視でも、
そやからそれは、太陽凝視の価値を低いものにしてしまっている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化であってすらも、
それはいずれ、
“身魂磨き”=肉体組織の結晶化に結びつく可能性はあるやん。
心(靈)って言うのんは、時間の進行と共に、段々、認識は変わって行くんやから…
そやけど“上”の心(靈)の発現は、
自分の心に高い振動を取り込むための具体的な手段を取らんとアカンし、
それを意識して=発振、発信して太陽凝視をせんならん。
ほんま…先生は…それを期待してるんやろけど……
今回もそんな事を強く思うたから、敢えて言うときまっせ。

そやから…これくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



今回も、下つ巻 第十七帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


学や知恵では外国にかなうまいがな、
神たよれば神の力出るぞ、
善いこと言へば善くなるし、
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。
今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。
天明は神示書かす役ぞ。
神の心取り次ぐ役ざが、慢心すると誰かれの別なく、代へ身魂使ふぞ。
因縁のある身魂はこの神示(ふで)見れば心勇んで来るぞ。
一人で七人づつ道伝へて呉れよ、その御用が先づ初めの御用ぞ。
この神示通り伝へて呉れればよいのぞ、自分ごころで説くと間違ふぞ。
神示通りに知らして呉れよ。
我を張ってはならぬぞ、我がなくてもならぬぞ、
この道六ヶしいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。
七月の二十一日、一二のローレンツ力と ○  。


冒頭の文章、これも言葉どおりの解釈では意味が通じへん。
それは、

“学や知恵では外国にかなうまいがな、”

この文の“かなうまい”…これを、
勝てないとか負けているとかの解釈をしていると、後の文章と繫がらへんやんか。
そやからKellyさん的に思うんは“かなうまい”…これは、
思いが叶うって言うことで、
そやからそれは“思惑の顕現”=現象化でもあり、
すべての“創造”や行動(発振、発信)の動機でもある。
ほんでから、創造主の“思惑の顕現”=現象化を示す意味での、
愛(炁)(“亜”から出る、泉、)でも、あると思うやんか。
そやから“外国”…これも、普通(普通の認識=低い霊的成長度)は、
“外国”を自分の外側(外国と幽界)の場(フィールド)と認識せず、
只、低い縄張り意識(自我の確立=固定化、下三つのチャクラの覚醒段階)で思う、
(低い認識の)国の概念、日本に対しての外国って意味にしか捉えへんやろな。
そやから“学や知恵では外国にかなうまい”…“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)では、自分の外側(外国と幽界)の事象に、
自分の思惑を顕現出来ない。
そやからどうすれば良いカタチの顕現が出来るのかは、
次の文章で言われてる。

“神たよれば神の力出るぞ、
善いこと言へば善くなるし、
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。
今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。”

この文章の冒頭の“神たよれば神の力出る”…
“上”の思惑の受信をしなければ、
言い換えれば“身魂磨き”=肉体組織の結晶化をしなければ、
“上”の“思惑の顕現”=現象化をする人(日止、霊止)には、
決して成りえへん。
只、甘い思いで、
言い換えれば形骸の現世利益の宗教みたいに“神たよれば”って事ではなく、
“神の力出る”って言う人(日止、霊止)にならんとアカン。
ほんでから次の表記、
“善いこと言へば善くなるし、
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。”
これも、人(日止、霊止)の思いの発振、発信、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の概念があり、自分の心(靈)の動きや行動は、“善悪”の区別を自分で出来る。
それを区別する心(靈)の動きは、智性=神性でしかない。
そして、自分が発振、発信した心(靈)の動きに応じてしか、
それのみでしか、事象は顕現しない。
それはブーメランの法則でもあり、“曲霊(まがつひ)”の意味でもある。
そやからこそ、
心(靈)が“上”に向かっている人(日止、霊止)と、“上”に向かう心(靈)の発現をしていない人を分けるアセンションって言う事象を、
これから体験して、
すべての存在(すべての心(靈)がという意味)が、それを観測して観察して認識(悟り、幸取=さとり)にして行く。
ほんでから“善悪”…それは人が思うことでもあり、
そやからこそ、自分の心(靈)の動きを自分で見極めるのが、
“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
そやからこの文章の表記の“神たよれば神の力出るぞ、善いこと言へば善くなる”
これは、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信が“善いこと言へば善くなる”と、
表現されてる。
そやからそれは、その人が発振、発信する思いっていうのんは、
発振されるオーラになり、
(心(靈)の動き=生体内電流やから)他の存在とのオーラの相互干渉で、
すべての事象は形成される。
ほんでから、事象の観察っていうのんは、
自分(の心(靈))が受ける電磁波の受信であり、それを肉体で言えば、
感覚器官で感じ(感じる磁性)、生体内電流に変換され、
そして脳を介して心(靈)が感じ(感じる磁性)る。
そのことすら今の地球人は、たいして認識が無いから、
自分が感じてる外側(外国と幽界)の事象がすべてやと思い込む。
言い換えれば自分が感じてる物質の振動だけが
すべての現津(あきつ)=観察され得る事象の大半やと錯覚し、
それのみが、現実で、真実やと思うてる。
そやからその認識の狭い観察の事象、
それ以外に(現津(あきつ)=観察され得る)事象なんてものは、
無いって思うから、
心を意識せず、霊を知らず、物質の観測しかしていない。
ほんまの事象っていうのんは、自分の外側(外国と幽界)にも自分の内にもあり、
外側(外国と幽界)って感じているのも、只、自分の心の中の観察でしかない。

解り難い説明なんやけど…

そやから、それだからこそ、物質だけに価値があると思い、
極端な言い方すれば、
物欲が自分にとっての最上級の価値感になり、
自分の価値感を顕現するために“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を求め、その求めた心(靈)の動きに感応共振する低い霊的干渉があり、
それもある意味“行”なんやけど、
そうやって“力”を獲得して行使して、自分の(低い心(靈)の発現に応じた)思惑を、
(低い心(靈)が感じ取っているのみの、狭い事象に=物質世界に)顕現して行く。
そやからそれは、進化程度の低い愛(炁)の顕現でもある。
そやから自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程、
それは、本能、情動、功名心、自我、…それが中心の心(靈)でもある。
ほんまに価値のある世界、誰もが幸福=神格化を目指す世界は、
“力”…この下つ巻 第十七帖の表記の、
“学や知恵では外国にかなうまいがな、”…自分の外側(外国と幽界)の事象に、
“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)では、
今より相対的に、
高い場(フィールド)、霊的成長を目指す場(フィールド)、そして、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの事象の無い世界は、
顕現出来はしないって意味にしか取れないんのやけど…通常(一般的な霊的成長度)では、
そんなふうに思わんやろな。

そやから今Kellyさんが言うた事等をしっかり解ってないからこそ、
“今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。”…って、
言われてまんねん。

話を戻し、次の文章、

“天明は神示書かす役ぞ。
神の心取り次ぐ役ざが、慢心すると誰かれの別なく、代へ身魂使ふぞ。”

これは岡本天明はんに対するメッセージやな。
通常、霊能力が発現すると、心(靈)の進化過程の低い人は、慢心する。
それは地球人の進化過程が“下”三つのチャクラの覚醒段階やから、
ある意味しょうがない…そやけど、
“日月神示”を書かせた存在は、そんな事も充分承知して、
人の低い心(靈)の動きも充分把握してる高い存在やから、
岡本天明はんに厳しく接した。それをうかがわせる文章でもある。
そやから、低い霊的干渉なら、その人の低い功名心や自尊心を煽る(あおる)。
あなたは選ばれた人ですとか…特別な存在ですとか…あなたはだれだれの生まれ変わりですとか…あなたの“力”でヒーリングして、(見せ掛けの)幸福の世界を作り上げましょうとか…
低い存在のメッセージには、その人の心(靈)の低い部分を煽る共通のパターンがある。
そして、自分の憑依現象を自慢して、そして金儲けに走ったりもする。
そやからそれは、
その人の(霊的な=心(靈)の動きの)堕落を目論だ、
低級な悪霊の霊的な罠でもある。
そしてそれは、その心(靈)の動きは、
自我より“上”に向かう心(靈)の動きではなく(日足(ひたり)回転では無く)、
自我より“下”に向かう心(靈)の動きになる(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、砌(みぎり)回転)。
それを“日月神示”ではウズ 右往左往、左往右往(サイクロトロン)   と示し、先生の解釈では、
以下の画像のようになる。

腹の日足(ひたり)回転と砌(みぎり)回転 



ほんでから次の文章、

“因縁のある身魂はこの神示(ふで)見れば心勇んで来るぞ。”

この“因縁ある身魂”は、次の世界の“創造”を託される資格のある人って言う意味でんねん。
何回も言うたから敢えて説明しませんねん。
ほんでから“この神示(ふで)見れば”…これを、
書いてあるものだけ見ればって解釈するのも、
とても低い解釈で、
“神示(ふで)”って言うのんは、
“神”と“示”にそれぞれの解釈があり、画像を作ったから貼っておきまんねん。

“神示(ふで)”の解字 
そやからこの“神示(ふで)”って表記は、
“上”の思惑を受信して、この世界に顕現することそのものであるやんか。
そやから、只、自動書記で書かれたものを指して言うてるのでは無く、
そこに書かれてる思惑を解釈して理解して認識(悟り、幸取=さとり)にして行く。
それは、書かれたものの意味を考えれば考えるほど、
“上”との感応共振になって行くからでもあるんやけど、
霊的成長度の低い人は、書かれたものから高い意味を見出すことが出来ない。
これは、先生が(現時点)35年太陽凝視をして、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)が拡大して行く過程で判ったことでもある。
そやから自分より“上”の存在が書いた文章っていうのんは、
一回読んだくらいでは解らへんし、
自分が“行”して行って、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなって行き、
(“一”=智性=1番目のオーラの大きい霊的存在の)“上”との、
感応共振がより出来るようになると、
より“上”の思惑を理解出来る様になる。
ほんでから一般の“日月神示”の解釈をしてる人は、たいした“行”なんてしてないからこそ、言葉しか理解出来ないって事でんねん。

ほんでから次の文章、

“一人で七人づつ道伝へて呉れよ、その御用が先づ初めの御用ぞ。”

これも(低い認識の)言葉の解釈では、意味が通じへん。
“一人”は、
“一”と“人”…それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
智性のオーラを“一”と示してる。
そして“七人”は、
“七”は、“一”と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、
智性由来の“思惑の顕現”=現象化を示す。
それは進化=霊的成長=愛(炁)の“創造”の進化=幸福の本当の意味である生命(生きる使命=存在理由)の神格化を言うてるからこそ、
それしかないからこそ、
“道”って言われてる。
そやからこの表記は、
さっきの“神示(ふで)”にかかってる文章って事でんねん。

そやから、これは何回も言わんならんのやけど、
只、“日月神示”の文章だけを解釈して知らせるだけが、
“御用”の本当の意味では無いし、そんなことしてるのは“役員づら”でんねん。

そういう意味でも次の文章、

“この神示通り伝へて呉れればよいのぞ、
自分ごころで説くと間違ふぞ。
神示通りに知らして呉れよ。”

“神示(ふで)”通りって事は、自分が霊的成長して、
“伝へて呉れれば”は、自分の心(靈)の発振、発信は、
良いカタチの事象を創っていく。それを言うてるだけでんねん。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息吹は、それは、
自分以外の存在とのオーラの相互干渉でんねん。
大体、創造の主(ヌシ)=神と、
自分(の心(靈))とのオーラの相互干渉が、
現津(あきつ)=観察され得る事象になってるって事なんやけど、
それすらも地球人は知らへんねん。

そやから進化程度の低い段階…今とても多い、
自我由来の心(靈)の動きで“日月神示”を解釈してるだけの人に対し、
現状を只批判して憂いているだけ(右往左往の左往、“思う、憂う”=脾)の、
心(靈)の動きを指し、
“自分ごころで説くと間違ふぞ。”と言われてる。
そやから、自我由来の心(靈)の動きでは“日月神示”のほんまの意味を理解出来んし、
そこに“行”の必要性とか、霊的成長の過程とか、
“上”の思惑の受信としての太陽凝視の意味を、
見出すことが出来ない。

そやけど…それを見出せるのは…極少数…しょうがないな。
“玉石混交(淆)”の場(フィールド)やから……

ほんでから次の文章は、
人(日止、霊止)の進化の目的、ある意味、生命(生きる使命=存在理由)のゴールとも言い得る、独り神(ひとりがみ)になる過程の、その意味での、
心(靈)の進化過程での自我の確立=固定化、下三つのチャクラの覚醒段階のことを言うてる。

“我を張ってはならぬぞ、我がなくてもならぬぞ、”

そやから自我だけではアカンし、
自分を認識する自我が無くてはアカンし、
自我由来の心(靈)の動きだけでは、自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程になる。
そやから、自我から“上”の心(靈)の発現は、
自省(胸の磁性“十”)の“行”をして行く…そこには苦痛や苦難や…様々な“苦”を体験せんならんし、その“苦”に対し、
自分がどう向き合うのか…そしてそれは、
ローム太霊さんが、S会=紫光会の交霊会で会員に述べた言葉、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん”…に、
示されてるし、
そしてその時の心(靈)の姿勢は、
粘りとやせ我慢”でなければならない。

ほんでから…その意味も含め以下の表記、

“この道六ヶしいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。”

この文の“この道六ヶしいなれど”は、
上つ巻 第十五帖 第二十一帖に出てくる表記の“六ヶ敷い”(むつかしい)とは、
ちょっと意味が違う。

そやから下つ巻 第十七帖の“六ヶしい”は、
自分の心(靈)の在り方を言うてるし、
それに対し、上つ巻 第十五帖と第二十一帖の表記の“六ヶ敷い”は、
場(フィールド)の意味を含んでいるからこそ、“敷い”って表現されてると思う。
解り難いから言い換えれば、
良い形を想像する思惑を“六ヶしい”と書き表し、
良い形そのものを、その“創造”の結果の場(フィールド)を言い表す表記は、
“六ヶ敷い”と書き表されたとKellyさんは思いまんねん。
参考のために“日月神示”上つ巻 第十五帖 Kellyさん的解釈
から、
“六ヶ敷い”のKellyさん的解釈をコピペしときまんねん。
      

 
“六ヶ敷い”は、
落語や講談によく出てくる言葉らしく、
“むつかしい”って読ませるらしいやん。
そやけどこの言葉をKellyさん的に観たなら、
六=陰爻=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑、その両方の顕現・・・
“六”についてのKellyさん的解釈は、
“Kellyさんが、“日月神示”を解釈して行くに当たって・・・考えた事。”
・・・を読んで欲しいねん。
そして、
“敷い”・・・これは場(フィールド)の構築としか思えへん。
神さんの思惑を受信し、
そして、
自分達が思想を構築し、その上で行動し・・・
場(フィールド)の構築をして行く。
それが事象=現津(あきつ)=観察され得る事象って事になり、
結果、
観察している何かって言うのんは、心(靈)の中の事なんやけど・・・
その創造って言うのんは“上”からの思惑を顕現していかんと、
貴いとか美しいとか価値があるとか・・・
そう言う色んな事を思わせる・・・感じさせる場(フィールド)を構築して行こうとするのが、
人(日止、霊止)としての生命(生きる使命=存在理由)やろし、
そやからこそ人(日止、霊止)は、
神の子なんやろし、
そして良い形の創造の概念が、
幸福って概念やし・・・ そやけど現状、幸福の概念が低いから、
欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事をして、
自分達の利益の追求をする人が多い・・・多すぎる。 多すぎるから失敗するんやけど、
それも、 事象=現津(あきつ)=観察され得る事象でもあり、
そやからそこには、失敗を通じ、 霊的成長の為の法則性=“道”が出来、
そやからこそ、
“六ヶ敷い”=むつかしい法則性を認識して行くのには、
困難を伴い、 そして獲得した認識は霊的成長の為の認識やからこそ、
“道(おしへ)”って言葉で示される・・・ こういう表現になってると思えるやん。

      


…以上でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十八帖 Kellyさん的解釈


今回も、下つ巻 第十八帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


この道は神の道であり人の道であるぞ。
この道の役員は神が命ずることもあるが、
おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、
たれかれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、
臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理ないなれど、
この事よく腹に入れて置いてくれよ。
神の土出るぞ、早く取りて用意して皆に分けてやれよ。
神に心向ければ、いくらでも神徳与へて何事も楽にしてやるぞ。
七月の二十三日、ひつ九のか三のふで。


冒頭の文章、

“この道は神の道であり人の道であるぞ。”

…今までも、そして前のブログでも何回も言うて来た事なんやけど、
すべての生命の存在の理由は、神格化で、
それは、
進化そのものが神に近付く事でもあり、
神の思惑と自分の思惑を足して(人って言う字は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されている)、
自分の心(靈)にして行き、
そしてその進化した心(靈)は、
この事象(現津(あきつ)=観察され得る事象)に、
現実として(“思惑の顕現”=現象化として)、
感じ(感じる磁性)られるように、
“上”から振動を受信して、
それを自分の認識にして=自分の心(靈)を構成するものとして、
そして肉体の発するオーラとして発振、発信し、
それは言い換えれば、自分の心(靈)が吹く…息吹って事でんねん。
ほんでから息吹く…自分の心(靈)が吹くを縮めて息吹く。
それは真の呼吸の意味でもあるし、振動の受発信の意味もある。
ほんでから、
自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)る現実…それは、
自分と自分以外のオーラの相互干渉で感じ(感じる磁性)、
受信して、
受信した振動を自分の心(靈)として行き、
そして又、心(靈)は発振、発信して、自分以外に影響を与え…
すべての生命(生きる使命=存在理由)は、
それが“上”であろうが“下”であろうがそうやって事象を顕現して行く。
そしてその事象の顕現は、すべて愛(炁)が動機での事でもある。
段々良いカタチを思い、願い、実現して行く。
…そやけど、今の地球人は心(靈)の発現があまりにも低いから、
右往左往の事象を創り=失敗の世界を創造し、
そして失敗して、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入っていく。
それが、(何回も言うたことなんやけど)アセンションの意義でもある。
そやから“神の道であり人の道である”…共に進化して、
神=“上”と、
人(日止、霊止)=“下”が、
“思惑の顕現”=現象化をして行くって事でんねん。
そして神の思惑と人(日止、霊止)の思惑がプラスされた事象を、
人(日止、霊止)に感じ(感じる磁性)て欲しい…そこまでの事を感じさせる文章やな。

ほんでから次の文章、

“この道の役員は神が命ずることもあるが、
おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、”

人(日止、霊止)の神格化の為に、“上”が下した“思惑の顕現”=現象化は、
色んな“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)やったりもするし、
解り易い例ならば、宗教の開祖に高い存在が憑依して通信を送ったりもする。
そして宗教は、人を霊的進化に導くはずのものやったんやけど…言うまでも無く、
人の低い心(靈)は、宗教を金儲けや低い功名心や自尊心を満足させる道具にしてしまった。
…話が逸れてるけど…
“この道の役員は神が命ずることもある”って言うのんは、
今言うた、宗教の開祖の事を考えれば解り易い。
“上”の“思惑の顕現”=現象化は…“上”が人(日止、霊止)を、
霊的進化に導くためには、地球人の平均的霊的成長度とは少し違う人を、
この世界に産まれさせたりもする。
そやからそれは、同じ霊的成長度の人だけの世界やったなら、
“上”と“下”が判らへんからやねん。
心(靈)の動きの“上”“下”が判らへんからやねん。
そやから、進化の法則性としても、霊的成長度が相対的に“下”の人は、
“上”を目指さんならんし、“上”がどんなもんか判らへんかったなら目指しようが無いやん。
そういう点でもこの世界は“玉石混交(淆)”になってる。

そやから…“おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、”って言われてるように、
自分の心(靈)が神格化の方向性を認識し、
“上”の心(靈)の発現=自我より“上”の心(靈)を意識しだしたならば、
それは“上”の存在との感応共振が起きる……。
そやから“自然と役員となる”のが当たり前でんねん。
それが人(日止、霊止)の“道”=進化=神格化でしか無いからやねん。

そやから何回も言うけど、すべての生命の存在の理由と目的は、
神格化でしか無いからやねん。
そやから“日月神示”を岡本天明はんに書かせた霊団の霊的存在は、
今の地球人の心(靈)の発現の儘では、
次の段階に移行出来ん事を憂いているからこそ、こんな言い方になると思いまんねん。
それは又、人(日止、霊止)の進化を望んでる“上”の存在は、
せっかく今まで“上”からのメッセージを伝えてきたのに、
例えば宗教は形骸になり、人の世界の良い構築の為の力と知恵の現われでもある政治なんかは(低い心(靈)の発現の段階の人が私利私欲で“力”を行使しているからこそ)腐ってるし、
そして“上”の心(靈)の発現に結びつくために教えられた、
主護霊の概念やヨガやオーラや心霊や…霊的生長度の先輩としての宇宙人のメッセージや…すべて人の低い心(靈)の発現…低い功名心と低い自尊心…その裏にある金儲け…自分の利益のために利用したい…そやから、
今言うた物のほとんどは本当の価値を無くし、
大半の人はその意義や意味を見失ってる。
ほんでからネット上では、只、甘い見せ掛けの言葉に酔いしれ…例えば、
無限の愛とか、生かされている事に感謝しましょうとか、
癒しとかヒーリングとか、ツインソウルとかソウルメイトとかハイヤーセルフとか…
そんな言葉を多用して、その言葉の意味することを考えもせず、
只、雰囲気を楽しんでる……。そやからそれは、
低い心(靈)の発現の段階、低い功名心と自尊心で楽しんでるだけでんねん。
そんな人は“上”の心(靈)の発現が無いからこそ、
現象を只楽しみ、感覚優先の心(靈)の動きで楽しんでいるだけで、分析して自分の認識(悟り、幸取=さとり)にするって発想も無く、
そして、自分に対する厳しさも無く、“行”って概念もなく、
“行”って概念が無ければ、霊的成長も無く=身魂磨き、肉体組織の結晶化も無い。
そやから自分の心(靈)より“上”の存在との感応共振も無い。
そういう人が大半なんやけど…そやから何も解らへん内に、
アセンションと認識されうる事象を迎え、そして霊的成長して無い儘で、
アセンション後の地球より“下”の世界に移行する事になる。

…ほんでから“日月神示”には、現状の地球人の心(靈)の発現の低さを憂いてる言い方は、これまでも何回も出てきてるし、これからも出てくるんやけど……
…まあエエわ。
そやからそのうち、
低い心(靈)が生み出してる事象に付いてもKellyさんが指摘して行くつもりやから、
機会を改めて説明するつもりやし……そやけどそんなんは、
前のブログでさんざん言うた事なんやけど……それが理解出来てない人が多いのは、
恨みの連鎖の霊的干渉で、
子供の浮游霊と人を恨んで嫉んでる家畜の霊の憑依で、
心(靈)と肉体を構築して来ている人が多いし(“気血栄衛(營)”)、
そやから、今、どんどん人の心(靈)は幼稚になってて、
それは又、自我以下の“下”の心(靈)の発現しかしていないし…
そやから、前のブログを読んだ人の中にも、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
“思惑の顕現”=現象化が、
自分たちの行動になってるって事を全然理解してない人がいる…
そやから具体的に指摘して解って貰いたいからやねん。

話が大幅に逸れてしもたやんか。

そやから…仮に今Kellyさんが言うたこんな事すら理解出来へんのは、
それが理解出来へん人の心(靈)の構成そのものが、
心(靈)の構造、心(靈)の発現の段階、進化過程としての、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性…その内の、
自我までの心(靈)の発現がその心を構成してる振動の大半で、
自我より“上”の“慈悲”と“慈愛”(自省=胸の磁性“十”)が無いからこそ、
自分の低い功名心と自尊心だけがすべてみたいなもんやろから、
そやからそんな人は“役員づら”して、
そして価値のあるものを金儲けなんかに利用してるなら、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程でもある。
これも具体的に指摘して行かんならん必要性を感じてるから、
そのうち記事にしまんねん。

本題に戻りまんねん…ほんでから、次の文章も同様のことを言うてる。

“たれかれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、
臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理ないなれど、
この事よく腹に入れて置いてくれよ。”

誰もが神格化への道を見出して欲しいからこそ、こんな言われ方をされてると思える。
そやから…今ほとんどの人が、
進化=神格化って概念が無いからこそ“臣民が人間ごころでは見当とれん”…って事やし、
ほんでから今、進化過程が低い心(靈)の発現やからこそ、
自我中心の心(靈)の構成でしかない進化過程やからこそ、
“人間ごころでは見当とれんのも無理ない”って言われてる。

ほんでから“腹に入れて置いてくれ”…これも只、
心で意識するって言う意味での気に留めてくれって言う意味だけでは無く、
実際に腹の水、帯電するミネラルを含む腹の水、
それは“上”からの思惑を腹に溜め、
そして肉体組織の構築に“上”の思惑を取り込んだ=“上”の思惑を帯電した、
腹の水の中の錯体=帯電するミネラルが固まってない状態の表記の“石”を、
身魂磨き=肉体組織の結晶化で固める。
それが真固止(まこと)の意味でもあり、
(人の進化=神格化の為の)良いカタチに固めて行く事そのものが、
古事記の表記での“修理固成”でもある。
そして腹の水の中の錯体、
それは“日月神示”の表記でよく出てくる“江戸と尾張”の“江”でもある。
又、それは、
“呂”って言う字に表されてる、頭と腹の二つの大きなコンデンサーの構造を示す表記が“呂”で、
それに頭の意味を持つ、宀(うかんむり)が加わると、“宮”って言う字になりまんねん。
そやから神は、示すへんと“呂”で、
それは大きなエネルギーの回転を示しているって事でんねん。
そのエネルギーの回転に同調するのが、左=日足(ひたり)回転でんねん。
それに付いては…そのうちに先生が、
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”で説明すると思いまんねん。


ほんでから次の文章、

“神の土出るぞ、早く取りて用意して皆に分けてやれよ。”

この文の表記の“神の土”…これは何通りかの解釈が考えられる。

“神”は、今も言うたばかりやけど、示すへんと“呂”で、
エネルギーの回転する様子でもあり、それは又、発振、発信する様子でもある。
要は、相対的に自分より“上”の振動って事でんねん。
それを“早く取りて用意して皆に分けてやれ”…この表記の中の“早く”も、
“日”と“十”…ちょっと深読みしすぎかな……そやけどKellyさん的には、
太陽凝視して自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、
シンクロトロン放射の構造を持つ肉体と(胸の磁性“十”)、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をした心に成って、
そして“皆に分けてやれよ。”=オーラの発振、発信として他者に影響を与えろ…そんなふうにしか解釈出来へんのやけど……。

そやけど…又話が逸れるけど…
一般には、心(靈)=霊的に“上”と“下”の概念が無さ過ぎるな。
それは心(靈)の発現の段階、心(靈)の進化過程、それを考えればすぐ判るんやけど、
そやから…例えば今、毎日ニュースでやってるチョ~とろくっさい事象は、
低い心(靈)の発現での“創造”やから、
様々な“悪(心の動きの本能化と低振動化)”が露呈してるだけやねん。
ほんでから“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現が無いから、
自分に対する“厳しさ”も無く、
ほんでから言う事もコロコロ変る…それは、
霊的成長してない心(靈)は、誠(言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する)を持って無いからやねん。
只、言葉を利用して保身に使ってきただけやねん。
そやからそれは、言葉に言霊を持ってない…口先だけでもありまんねん。
先生の意地悪い言い方すれば、
そんな人たちの大半は動物霊の憑依で、
言葉が只、ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~でしかないって事でんねん。
…そやから何が言いたいのかといえば、
すべての事象の観察の基準は、
事象そのものが生命(生きる使命=存在理由)の思惑の顕現なんやから、
どんな思惑で事象が形成されてるのかを分析するって言うのが必要な視点でもあるな。
そやからこれは、前回の下つ巻 第十七帖でも言われてた、

“学や知恵では外国にかなうまいがな、 (自分が感じる事象を良いカタチにして行くには)
神たよれば神の力出るぞ、 善いこと言へば善くなるし、(“上”の振動を受信して発振、発信する)
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。 (“下”の心と感応共振すれば“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象しか顕現しない)
今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。”

そやから“口先ばかり”…“上”の思惑を取り込んでないその心(靈)の動きを、
今、よく観させられて、
そしてその心(靈)の動きは自分の中にもあることを知れば=よく認識(悟り、幸取=さとり)すれば、
今後の(アセンション後)“創造”は、今より違う段階になるって事やねんけど、
低い心(靈)の動きの“創造”の事象…その分析が出来ず、理解してないから、
目先の観察しか出来へん…今はその傾向の人が多いんやな。

話を戻し…“神の土”は“神”と“土”やから、
“土”って言葉が、今までも言うたことやけど、
肉体の意味なのか、“土”=2~3番目のオーラの意味の“二”を縦の磁性でつないだ様子で、それは2~3番目のオーラの発振、発信を示すのか、
或いは、帯電するミネラルそのものの表記なのか…
そやけど、この下つ巻 第十八帖の表記は、
今言うた事すべてを含んでるな。
要は“神の土出るぞ、”…出るって表現されてるんやから。

ほんでから“土”に付いては、ちょっと先生口調で補足説明をしておきまんねん。

“土”は、帯電するミネラルで、心(靈)を構築して行くものでもある。
“上”の思惑=電磁波を帯電するならば、心(靈)は“上”に向かい、
自分の持っている心(靈)の発現より、
“下”の霊的存在の心(靈)の動きと感応共振すれば、
自分の心(靈)の発現より“下”の心(靈)の動きの強化になり、
それで思想を構築することが、“魔”=マーラ(魔羅)でもある。


ほんでから次の文章、

“神に心向ければ、いくらでも神徳与へて何事も楽にしてやるぞ。”

言うまでも無く、“上”の思惑は人の霊的成長を望んでるから、
それに同調すれば=“神に心向ければ”…“上”の思惑を取り込んだ事象の構築をして行き、
それは自分の心(靈)の発振、発信の結果でもあり、
そしてその事象を感じ(感じる磁性)て行けば、
“うれしうれし”“大歓喜”って言う、“日月神示”独自の表現を自分の心(靈)が(観察し得る事象として)感じ(感じる磁性)て行くようになりまんねん。
前回も言うたことやけど、事象の観察って言うのは心の中の事でんねん。
自分の内側と外側(外国と幽界)って分類も、自分の認識(悟り、幸取=さとり)の中の事でんねん。
それを自分の心(靈)が内と外って区別してるだけやねんけど、
すべて自分が感じてる事象は、
自分の認識(悟り、幸取=さとり)の中の事で、
それを良いカタチにして行くのが、すべての生命(生きる使命=存在理由)が持ってる、愛(炁)が動機の事でんねん。

そして、一瞬の内に=時間の進行に妨げられない“思惑の顕現”=現象化が、
出来る様になれば、
それは、
自分が感じ(感じる磁性)取る“時空の結晶化”を果たした事象って事になりまんねん。
そうなったならそれは…“個”の意識=独り神(ひとりがみ)で、
独り神(ひとりがみ)の言霊(ことだま)は、
“日”“取り”(特別神憑り=太陽凝視)“神”=示すへんと“呂”…でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第十九帖 Kellyさん的解釈




今回も、下つ巻 第十九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


苦しくなりたら何時でもござれ、その場で楽にしてやるぞ、
神に従へば楽になって逆らへば苦しむのぞ。
生命も金も一旦天地へ引き上げ仕まうも知れんから、
さうならんやうに心の洗濯第一ぞと申して、
くどう気附けてゐることまだ分らんか。
七月の二十三日、一二のか三。


冒頭の文章、

“苦しくなりたら何時でもござれ、その場で楽にしてやるぞ、”

これは心(靈)対心(靈)、感応共振の事を言うてる。
自分の心(靈)が作り出している事象が低いものならば、
それは進化=神格化の方向性で無いならば、
必ず失敗し=左往右往に入り、自分の心(靈)の在り方を振り返るときがやってくる。
それは、失敗の体験そのものが教訓になり、
それを自省(胸の磁性“十”)すればするほど、自分の“上”の存在=霊的成長を望む存在との感応共振が起きていく。

そやから重要なのは、自分の心(靈)が、
“上”の霊的存在との感応共振をしてるのか、
“下”の霊的存在との感応共振をしてるのか……
そやから(自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)る事としての)霊的干渉と、
無縁の場(フィールド)と、無縁の時は無い。
必ず何か感じ(感じる磁性)てるもんでんねん。
そして、自分と、自分の心(靈)と感応共振する霊的存在の双方で、
自分自身が、
現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をしている。

そやから、自分の心(靈)の動き…それを、
自分(の智性=神性)で、自己観察し、
自分の心(靈)の動きの分析を自分でするのが“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
常に自分がどう在るべきなのか、思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、考え、行動せんならん。
そやけど…今まで何回も言うたことやな……。

そして以下の文章も同様の事をいうてる。

“神に従へば楽になって逆らへば苦しむのぞ。”

神の“思惑の顕現”=現象化は、人(日止、霊止)の霊的成長度による。
そやから、
心(靈)の構造として、
心(靈)の動きとして、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の内の、
自分が持っている=心(靈)の動きとして発現している“下”の部分で、
その心(靈)の動き由来で行動=発振、発信していたなら、
それ相応の事象しか自分の目の前にやってこない。
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の心(靈)の“創造”の場(フィールド)は、必ず崩壊に向かう。
その事そのものが、自分達の低い心(靈)が生み出す“創造”って事でんねん。
ほんでから現時点、
心(靈)の発現と進化過程と心(靈)の動きが低すぎるし、低すぎる段階での創造をしてて、
更に、平均的地球人の進化過程、自我の確立=固定化から、どんどん“下”の方向性、
悪=心の動きの本能化と低振動化に向かっているからこそ、
次のように言われてる。

“生命も金も一旦天地へ引き上げ仕まうも知れんから、
さうならんやうに心の洗濯第一ぞと申して、
くどう気附けてゐることまだ分らんか。”


この文の、
“生命も金も一旦天地へ引き上げ仕まう”…形骸の価値に支配された心(靈)と、
霊的成長を目指す…本当の幸福の意味(神格化)…それを知った心(靈)は、
アセンションで“上”と“下”に分けられる。
そして形骸の価値の象徴である(通貨としての)金は、
アセンション後は、たいして意味の無いものになる。
そやから…“心の洗濯第一ぞ”…さっきも言うた事でんねん。
とかく自我の確立=固定化の段階の進化過程の心(靈)って言うのんは、
自分の低い功名心と自尊心…そして低い欲望…に傾きやすく、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的干渉が起きる隙が多い。
そやからこそ、自分の心(靈)の動きの“善悪”=“上”と“下”を、
自分で見出す=“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”…
それが必要で、それが又、
心(靈)が“上”に向かう=霊的成長の第一歩でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


今回も“日月神示”下つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


上(うえ)、中(なか)、下(しも)の三段に身魂をより分けてあるから、
神の世となりたら何事もきちりきちりと面白い様に出来て行くぞ。
神の世とは神の心のままの世ぞ、
今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。
臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。
今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。
神力が九分九厘まで負けた様になったときに、
まことの神力出して、
ぐれんと引繰り返して、神の世にして、
日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、
天地神々様にお目にかけるぞ。
てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、
岩戸開きぞ。
いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。
百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、
百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。
七月の二十三日、ひつ九の ローレンツ力と ○


まず、冒頭の文章、

“上(うえ)、中(なか)、下(しも)の三段に身魂をより分けてあるから、
神の世となりたら何事もきちりきちりと面白い様に出来て行くぞ。”

これは、ここまでこのブログや前のブログを読んではった人なら、すぐにピンと来る筈でんねん。そやから“上(うえ)、中(なか)、下(しも)”は“一二三”のオーラ、
それは、この文の表記を引用すれば、
“中(なか)”=胸のチャクラ=アナハタチャクラより“上”か“下”かでもある。
そして、“上(うえ)、中(なか)、下(しも)”は、
智性と愛(炁)と自我以下の心(靈)の動きとも言い得る。
それは、頭、胸、腹、それぞれの磁性があり、それぞれの心(靈)の発現と、
それぞれの心(靈)の動きがあるから“三段に身魂をより分けてある”って称されてる。
ほんでから三つのオーラの発振、発信は、それぞれの心(靈)の発現と心(靈)の動きが、
それぞれの、現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をする。
そやからそれは…今の世界は、
自我以下の心(靈)の発現の世界で、自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の心(靈)が創造してる世界でもある。
ほんでから“上(うえ)、中(なか)、下(しも)”…例えば、
“下(しも)”の心(靈)の創造は、
下つ巻に入ってからよく出てくる表記の“役員づら”…低い自尊心と功名心を言い表した表現って何回もこのブログで言うたけど、
今、最もそれが解り易いのは、TVで毎日のようにやっている低い心(靈)の発現の事象…保身、形骸の地位、それを守る為に言葉を弄んでるし、
そして自分の立場を守る為なら少々悪い事してもそれはそれでしょうがないとか……
そんなふうに思う事自体が、自分に対しての“厳しさ”がなく、
それは“慈悲”と“慈愛”の発現が無いって事なんやけど…そやからこんな程度の事は許されて当然とか、そんな程度の事を問題にするのがおかしいとか…そんな勝手な事ばかり言うてる。
その人達は、自分達の心(靈)の動きがアカンとか醜いとかの認識は、
あんまり無いように思える。
(これは言うまでもないけど、政治家の事でんねん)
そやからその人たちの心(靈)の構成は、この下つ巻 第二十帖の表記の、
“上(うえ)、中(なか)、下(しも)”の、
“下(しも)”中心の心(靈)の発現と心(靈)の動きでしかない。
そやからそれは“上(うえ)”=智性、
“一”=智性=1番目のオーラをたいして持ってへんねん。
言い換えれば、心(靈)が育ってなくって動物に近いって事でんねん。
ほんでからその人達の(心(靈)が)構成する場(フィールド)は、
そんな進化程度の心(靈)の人達だけやからこそ、
言い換えれば、
悪代官が悪代官を裁いて批判してる…悪徳貴族が悪徳貴族を批判してるみたいなもんやからこそ、自分たちは悪くないと思うやろし、
何かを暴かれたならそれは、運が悪かったとしか思えへんやろな。
そやからこそそんな人達は、これから自省(胸の磁性“十”)の“行”に入らんならん。
自省して自分の在り方を考え、今後自分達はどう生きるのか…どう存在するのか…それは死んでからも考えんならん。
それが心(靈)の進化過程=霊的成長の過程なんやから……。
自省(胸の磁性“十”)…それをして行かんと、
自分より“上”の存在との感応共振がないし、その思いが無ければ、
自分の身近な“上”の存在である真の意味での主護霊との感応共振が無いって事でんねん。
そやから主護霊はんの言い回しとしては、
その人がどんな悪人であろうがどんな大罪人であろうが、
死んでからも共に苦しみ共に霊的成長して行くからこそ、
S会=紫光会の交霊会で何回も言われた言葉…
共々にいく”…そういう言い回しをしまんねん。

ほんでからにそれは、
そんな低い心(靈)の発現の人の横暴を許してきた国民も責任のあることなんやけど……それは、ほとんどの人が“上”の心(靈)の発現をしていないからでもある。
そやから大半の人は、低い情動…そして低い…只低いと見受けられる本能由来の欲望……それ由来の低い幸福の概念…そやから低い欲望由来の仕事を選択したり、エネルギーを贖わないでたくさんの報酬を得る事が幸せやと思ったりもする。
ほんでからそこには物欲と金に対する執着があり、
それは、
飢餓貧困で死んだ浮游霊の通信を受けてて、表意されてる人と表意している霊的存在の感応共振が、その両者の心(靈)が“下(しも)”の感応共振でもある。
そやから、金の為なら、自分の欲望の為なら、他者の不幸はどうでもいい。
特に経済が発展したこの国とどっかの国はそんな人が大半の世界でもある。
そやから今後、
“上”の心(靈)との感応共振をして行かんならんのやからこそ、
今言うた“下”…その思いで自分のエネルギーを贖い“力”を獲得してきた人は、
今、それ自体が醜い事だとか、
心(靈)の発現として低い事だとか…それを示されてる。
ひとことで言えば、馬脚を現してるって事でんねん。
そやからそれは、下のチャクラの心(靈)の動き=3番目のオーラとも言い得る。
その点でも今後の人は=アセンション後に位置出来る心(靈)は、
“上”と“下”を区別出来るようにならんとアカンって、
当たり前の事でんねん。
そやから…そこまでの事をこの文章では言うてまんねん。
そやから自分が観察してる事象は、
智性って心(靈)の動きの事象なのか、
愛(炁)の事象なのか、
自我以下の心(靈)の動きの事象なのか…
今後、人(日止、霊止)が、
“上”の心(靈)の発現をしていったならば、
事象を観察する視野は段々広くなり、現時点と違うものの見方をする。
他者の行動や心(靈)の動き、そして自分の心(靈)の動きと行動にも、
“上”と“下”があることを認識するようになる。
そやからそれは、
すべての事象は“思惑の顕現”=現象化なんやから、
ここで言われてる“上(うえ)、中(なか)、下(しも)”の心(靈)の動きで、
事象を観察して自分の認識にして行かんとアカン。
もう一つ言うとけば……
今、とても多い、現象だけ見て批判するとか…“日月神示”の言葉の引用だけして今の世界の批判だけしてる“役員づら”の低い功名心と自尊心しか持ってへん人は、
霊的進化したとは言えず、それは、
自分の心(靈)の動きの“上”“下”の分析=“身魂掃除”“身魂洗濯”が出来ていない。
そやから、今より“上”の事象の“創造”=アセンション後の事象の創造をするならば、
自分の心(靈)の“上”と“下”を知り、
そのどちらの心(靈)の動きで事象の“創造”(神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉)をするのか…その点でもう一度、下つ巻 第十七帖の、

“学や知恵では外国にかなうまいがな、
神たよれば神の力出るぞ、
善いこと言へば善くなるし、
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。
今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。”

この“外国にかなうまい”これは、どう考えても自分が自分の外側(外国と幽界)と認識している事象に、
自分の“思惑の顕現”=現象化をする。
“上”の思惑か“下”の思惑か…それを言うてるからこそ、
“神たよれば神の力出るぞ、
善いこと言へば善くなるし、
わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。”
これは、自分の思いの発振、発信でしか事象は顕現しないし、
それが、神格化の方向性ならば“善”やし、それを“上”は望んでる。
ほんでからその反対は、心(靈)が“下”に向かうことでしかなく、
それを観察して認識すれば“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ってことになる。
そやから自分たち(の心(靈))は、
“善”の事象を創りたいのか、“悪”の事象を創りたいのか…
それを良く知る為に今、“下”の現象を観させられている。
ほんでから…これも何回も言うたことやけど、
今の事象は失敗の事象で、それは自分たちの心(靈)が、失敗を失敗として認識して、
失敗の事象を想像した理由は、“下”の心(靈)の発現であることを知る。
それを知ったならば、自分たちの“上”の心(靈)の発現も理解出来るし、
“上”の心(靈)の動き由来の創造をする事が出来るようになり、
それはアセンション後の事象の“創造”を担える心(靈)でもある。
そやけど…現時点、
アセンション後の“善”の事象を創造出来得る人は、とても少ないからこそ、
“上”の存在は色んなメッセージを伝えてる。
それは、多くの人に神格化=“善”の方向性を見出して欲しいからやねんな。

ほんでから次の文章は、人の心(靈)が…現時点の地球人の心(靈)の進化過程が、
如何に神に近づいていないのか…それを前提に言われてる事でんねん。

“神の世とは神の心のままの世ぞ、
今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。
臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。”

この文章の冒頭の表記の“神の世とは神の心のままの世”は、
(今より相対的に)“上”の思惑を顕現した世界に移行するからでもあるし、
言うまでもなくそれは、アセンション後の事象を言うてる。
そやからこの文では、“上”の思惑の受信の意味で、
“今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。”…人(日止、霊止)の進化は神格化でしかなく、
神格化は“上”の思惑を受信出来る人(日止、霊止)=“身魂磨き”(肉体組織の結晶化)をする人(日止、霊止)でしかなく、
今、その方向性を見失っているからこそ、
恨みの連鎖の霊的干渉で不幸な死や病気や災害や戦争や…それらはすべて、
“下(しも)”の心(靈)の動きの現象化でもある。
言うまでもなく自己奉仕者の世界は崩壊の方向にしか向かって行かん…そやから、
“臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。”って言われてまんねん。


ほんでから次の文章、

“今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。
神力が九分九厘まで負けた様になったときに、
まことの神力出して、
ぐれんと引繰り返して、神の世にして、
日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、
天地神々様にお目にかけるぞ。”

“神力と学力”…これは、“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)と智性=“一”=智性=1番目のオーラって事でんねん。
すべての“力”は智性由来の心(靈)の動きで使われんと“善”の方向に向かないってことでしかないし、ほんでから“神力が九分九厘まで負けた様になったとき”は、
今の世界で、
人(日止、霊止)の霊的成長のために“上”から示された様々な何かは、
その価値はすべて形骸になり、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程=“下(しも)”の心(靈)の動きにより、
金儲けとか、低い功名心や自尊心を満たすものに成り下がってる。

ほんでから、
“まことの神力出して、
ぐれんと引繰り返して、神の世にして、
日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、
天地神々様にお目にかけるぞ。”…この文の中の“日本のてんし様”…
これが国としての日本って言う意味ではなく、
日の本は…もう何回も言うたから敢えて説明しませんねん。

ほんでから次の文、

“てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、
岩戸開きぞ。”

“てんし様の光”=“一”=智性=1番目のオーラでんねん。
“三四五(みよいづ)の仕組”=これも下つ巻 第九帖の解釈で言うたから、
コピペしときまんねん。
      

“この方は三四五(みよいつ)の神とも現われるぞ。”

“三四五(みよいつ)の神”は、
“三”=三つのオーラ、肉体を持った霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が持つ、
上中下のローレンツ力によるオーラの発振、発信
“四”=、“四”は、象形文字で、
開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子って事らしく、
それは“息をつく”って言う意味を持ってるやんか。
息・・・それは、 息と言う字の構成が自分の心(靈)で、
ほんでからに、自分の心(靈)の発振、発信が、息吹って事。

“五”=糸巻きの象形文字。肉体の磁性を構成する神経線維のこと。

“現われるぞ。”=発振、発信して示すってこと。

     
そやから“三四五(みよいづ)の仕組”と、
“岩戸開きぞ。”…“岩戸”の山は、大脳で、それは“上(うえ)”で“一”=智性=1番目のオーラで、その下に“石”=帯電するミネラルが有り、それは“日月神示”の表記の“石屋の仕組み”の“石”で有り、
その帯電するミネラルに“上”の思惑を生かした行動をせんならん。
それが無ければ“下(しも)”の心(靈)の発現でしかなく、
それは、心(靈)の進化過程としては低いって言うだけの事で、
そやからアセンションは、心(靈)の進化過程の“上”“下”を分ける。

何回も言うた事でんねん。

ほんでから次の文、

“いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。
百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、
百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。”

この文の冒頭の“いくら学力強いと申しても”は、
やはり“上”の思惑の受信が出来ていない事を指しているとしか思えへん。
それは、下つ巻 第十七帖の“学や知恵では外国にかなうまいがな、”
これはさっきも言うた事やけど“上”の思惑を顕現した事象でなければ、
それは、良い世界では無いって事でしかない。
ほんでからそれ以下の文は、人の認識の低さを言うてると思える。
それは“百日の日照には飽かぬが三日の雨に飽く”って諺がある。
程度が低い進化過程の時間の認識やからこそ“神から云へば瞬きの間ぞ。”と、
言われてる。
すべての事象は、神の思惑=人の神格化であり、
その為に今、“神の咎め”の事象を体験しているとも言い得るし、
そやから“まことの神力出して、
ぐれんと引繰り返して、神の世にして、”…今の失敗の事象が、
極みになったときにしか“上”の思惑は一般に広まらない。
ほんでから“上”の存在が思う、
人(日止、霊止)の進化のプログラム=神格化は、
“下”の心(靈)の発現の人には理解出来ない…そやから今の失敗の事象が、
人の認識を改める為の事象で、右往左往から左往右往に移行する。
そして“下(しも)”の心(靈)しかない人は、
今の事象に対してそれほど問題意識も無く、
低い事象を観ても自分がどう在るべきなのか大して考えもせず、
見せ掛けの幸福感に酔いしれ…そんなふうに思ってる事自体が、
事象を観察する視野が狭く、このままでは地球全体での恨みの連鎖の霊的干渉の事象が、
もっと多くなり、そして大半の人が次の世界の創造を担えない結果になる。
それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
“思惑の顕現”=現象化って事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、



 ローレンツ力  ばかりでもならぬ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ばかりでもならぬ。
ローレンツ力と ○がまことの神の元の国の姿ぞ。
元の神の国の臣民は ローレンツ力と ○でありたが、
 ローレンツ力が神国に残り  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。
 ローレンツ力もかたわ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)もかたわ、 ローレンツ力と  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と合はせて まことの ローレンツ力と ○(かみ)の世に致すぞ。
今の戦は ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) との戦ぞ、
神の最後の仕組と申すのは ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  に ローレンツ力 入れることぞ。
 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)も五ぞ   ローレンツ力も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。
一厘の仕組とは ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に神の国の  ローレンツ力を入れることぞ、
よく心にたたみておいて呉れよ。
神は十柱五十九柱のからだ待ちてゐるぞ。
五十と九柱のミタマの神々様お待ちかねであるから、
早うまゐりて呉れよ。
今度の御役大層であるが、末代残る結構な御役であるぞ。
七月の二十四日、一二のか三。



この文章全体に言える事は、
これは前に
下つ巻 第九帖 で解釈した、
肉体の磁性により発生するローレンツ力と、
肉体を持ってない状態の霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の違い、
そしてもうひとつは、
せっかく肉体を持った霊として産まれ出た人であったとしても、
霊的成長のチャンスを与えられた人であったとしても、
“上”に向かう心(靈)=神格化を意識する心(靈)の動き=肉体の磁性の強化を意識した生き方…それらを考えん人=ローレンツ力を発生させない ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でんねん。
そやから…人は肉体を持っているからこそ、
生体内電流による磁性=ローレンツ力ローレンツ力 があり、
ほんでから、生体内電流がたくさん流れ、それ由来のローレンツ力ローレンツ力 の強化が、
“行と修行”の意味と意義でもある。
それは又、ローム太霊さんが言うた、
苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん”と“粘りとやせ我慢”…なぜローム太霊さんがその言葉を“下”に垂れたのか…その意味を考えんとアカンやんか。
そやから、ローレンツ力の強化そのものが段々“上”の思惑との感応共振になり、
“上”の思惑との感応共振は、“上”の思惑が下した試練と立ち向かう事にもなり、
更に、その試練と立ち向かって認識を獲得した人は、
霊的成長を果たす…こんな事は前のブログで何回も先生と話した。

そして自分の心(靈)の動き、
それには“上”と“下”がある。

そやからそれは、
自分の心(靈)の動きと、“上”との感応共振で自分の心(靈)の成長になる。
そやからこそ、自分で自分の心(靈)の“上”と“下”を見極めるのが、
“日月神示”の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”やってこのブログで何回も言うた。
又それは、
自分のやって来た事を振り返る…“観自在”“直日(なおひ)”自省(胸の磁性“十”)の“行”…その心(靈)の動きは“慈悲”と“慈愛”になるって話も先生とした。
そやから“身魂掃除”“身魂洗濯”が出来ないと、良い世界の“創造”が出来ない。
当たり前の事でんねん。

ほんでから今の世界に満足し、
自分達の低い欲望由来の幸福の達成の為に“力”を使い、
自分のエネルギーを贖っている人は、霊的成長度が低く、
そやからそれは、心(靈)の発現の段階が、アセンションに間に合わず、
そしてそれは、
自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程やから、
その人達の世界は自滅する。
自滅させる事が人の霊的進化を望まない存在の思惑であり、
その思惑と感応共振し人の心(靈)に入り込んだ時には、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)になるって、
前のブログで先生は言うた。
ほんでから今、ほとんどの人が悪魔の傀儡になっている。
特にこの国とアメリカ…経済が発展して見せ掛けの価値感に酔いしれ、
どうでもエエ事ばかりに金をつぎ込んできて、
それが前提の低い幸福感、自己奉仕者の認識の幸福感、
本能、情動、功名心、自我、…それが中心の心(靈)の人の見せ掛けの低い認識の幸福感は、
この星の恨みの連鎖の霊的干渉を盛んにしている。
そして、情けない事に…“上”からの霊的成長の為の情報すら、
自分達の利益の為の道具にしてしまっている。
アセンションや“日月神示”や霊能力やヨガやオーラを知ったことや…
それらの意味と意義を考えず、
仮にそれを題材にして本を出版したりしても、
ほんの少し知った知識を振りかざしてこの世界を批判して、
又、何とかをするとあなたは霊的成長し、アセンションを迎える事が出来ますとか…
そんなふうに、本を書いている人と本を読んでいる人の、
低い功名心と自尊心を満足させ、同じ程度の心(靈)の発現の場(フィールド)を作り、
その弊害として、同じ程度の心(靈)の動きの場(フィールド)では、
何かを観察して認識しようとしても、相対的に低いものの見方しか出来ず、
事象を観察する視野は狭くなり、
又、その程度の低い進化程度の心(靈)の強化に結びつき、
その進化程度の人が大多数やからこそ、この事象は低く…とても醜く、
そやけど心(靈)の進化程度が低い人はその醜さに気がつかん…或いは、
見ない様にして意識しないで、うわべの価値ばかり追い求めようとしている。
それは…低い人ほど甘い事を考える…甘い考えがその人のすべてって事でもある。
例えば…暖かい気持ちになりました…感謝して生きましょう…無限の愛を感じましょう…とても楽しい気分になりました…そんな甘い言葉を述べたりする。
そんな甘い言葉と雰囲気に酔っぱらってるだけでは、次の段階の“創造”を託される人になれず、当然、次の世に(“上”の“思惑の顕現”=現象化の為の事象に)、
移行出来る訳が無い。
そやから、今、アセンションに向かって自分たちがどう在るべきなのか…この事象を少しでも良い方向に向かわせるのは、
これも何回も言うたけど、恨みの連鎖の霊的干渉を減らして行く……。
その心(靈)の動きが無い人は、それを考えん人は、
心(靈)の発現が低く、事象を観察する視野も狭い。
そやけどそれがこの世界の人たちの平均的霊的成長度でしかなく、
そやから…一般に…
低い…甘い…只それだけの、その心(靈)の動きだけの、
形骸の夢と希望を見させるものばかり目に付く。

まったく話にならんくらいこの世界は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑に染まっている。

話を戻し、
心(靈)の発現の低さを“上”に高めていくのは、
“行と修行”由来のローレンツ力由来の身体磁場で、
身体磁場による荷電粒子の回転がチャクラで、
荷電粒子の回転速度を高めていくのが、
縦の磁性、それが“日月神示”の表記なら、
“岩戸”…山=脳、石=帯電するミネラル。
そして、
“江戸と尾張”…“江”“腹の水、
“尾張”=尾骨の磁性、
そやからこそ縦の磁性はクンダリーニであり、
クンダリーニ=軍荼利明王で、
一つ一つ解字すれば、
軍=冖部(べきぶ)、覆いかぶさるの意…それと回転を示す車、
荼=マニピューラチャクラの発振、発信、血液中の鉄分、ビリルビン、
利=縦のつながりの意味を持つ字、
明=日と月、日足と砌(ひたりとみぎり)、左右の極性、イダとピンガラ、右往左往と左往右往…たくさんの意味を持つ、
王=“一二三”のオーラを縦の磁性でつないだ字……なんやけど、
さっきの話に戻るけど、縦の磁性の強化は、
荷電粒子の回転速度と、七つのチャクラの水平磁場の強化になり、
その両方で“上”から降り注がれる“上”の思惑=電磁波との感応共振の違いが出来る。
そやからチャクラの覚醒ってヨガで言われてるのは、
“上”の思惑との感応共振と、自分が発現した心(靈)の段階で、
自分の呼吸、息吹、気吹、生吹、=オーラの発振、発信により、
霊的成長度に応じた事象に遭遇し、その事象から認識を得る。
更にそれが、自分の認識=“一二三”のオーラになって行く。
更に補足としてそれは、前回の下つ巻 第二十帖の表記の、
“上(うえ)、中(なか)、下(しも)の三段に身魂をより分けてある”って事になる。

そやから心(靈)の発現を分類した言葉の、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動は、
七つのチャクラに表れていて、
そやからそれぞれの心(靈)の発現の段階=思惑により、
“上”の振動を取り込む=ローレンツ力により“上”から降り注がれる荷電粒子の向きを変える=自分の心(靈)と肉体が構成する場(フィールド)に影響を与え、感応共振したり増幅して発振、発信したりする。
それが肉体内の七つのチャクラに示されてるし、
それぞれのチャクラでの心(靈)の発現になっている。
そして七つのチャクラは水平磁場を構成している。
水平磁場は“上”から“下”への荷電粒子との反応が起き、
それが又、感応共振の意味を持つ。
そうやって肉体を持った心(靈)っていうのんは(“神の元の国”の“元”の“二=肉体の磁性、肉体そのもの”)、
この現津(あきつ)=観察され得る事象で、
時間の進行(“神の元の国”の“元”の“儿部(じんぶ、にんにょう)=人が歩く様に象るの意”)を認識しつつ、
霊的進化して行く。

それが又、“日月神示”の表記なら、
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもあるし、
その心(靈)の動きっていうのんは前回の下つ巻 第二十帖の、
“上(うえ)、中(なか)、下(しも)の三段に身魂をより分けてある”ってことでも有るし、そやからこの二十一帖は二十帖の続きでもあるな。

ほんでからにKellyさんは、
下つ巻 第九帖でもこんな事を言うた…そやからコピペして示しておきまんねん。

 
      

……“行と修行”の通念が低くなってしまったことは、
宗教を形骸にした人にも責任があることなんやけど、
価値のあるものを形骸にした心(靈)の動きって言うのんは、
目先の欲、権力欲、(通貨としての)金、ほんでから低い功名心と自尊心、
そう言うことに囚われてる人を指して、下つ巻 第九帖では、
“役員づら”とか“替え身魂使ふ”って言われてると思う。
それは、形骸の価値感で形骸の地位と名誉を得たり、
又、形骸の地位と名誉を獲得しようとしたり、
ほんでから人に説法を説いたり・・・悪人の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を指摘して自分の低い功名心と自尊心を満足させ、
そんな事が素晴らしい事やって思われてる通念があるから、
そやから、今、只々現状を批判して、自分だけは違うって思うてる人は多い。

そんな事で霊的成長になる訳がない。

そう言う形骸の事に囚われてる自分の心(靈)の観察は、
自分の外側(外国と幽界)の観察由来の認識しか出来ず、
ほんでから、形骸の宗教に携わっている人とおんなじような事して、
自分が霊的成長して行くって思うてる人は、
言い換えれば錯覚してる人は、今、とても多い。
そやから“行と修行”=生体内電流の強化=オーラの拡大、
心(靈)の在り方=右往左往と左往右往。
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往。
それが理解できてへん=ここまで言うて来た通念の認識しか無い人は、
アセンションの時期にまにあわへんって結果にしかならへん…

      

そやから“行と修行”…それに対する認識って言うのんが今、
とても低くなっていて、
そやから下つ巻 第九帖とこの第二十一帖でローレンツ力の事を言うてるのは、
誰もが今、エネルギーを贖って“上”の心(靈)の発現をして行く=霊的成長して行くことが“行”やって思ってないからこそ言われてると思える。
肉体内の生体内電流の強化は、肉体の磁場の強化になり、
“身魂磨き(肉体組織の結晶化)”になり、
そして、
よりローレンツ力を強くして、
そして自分の心(靈)の動きに自我から“上”の心(靈)の発現があればこそ、
“上”の心(靈)の発現をした霊的存在との感応共振がある。
そうやって自分自身の心の中の認識って言うのんは高まっていく。
ややこしい言い方をすれば、
自分の肉体のローレンツ力の強化と自我より“上”の心(靈)の発現をして、
自分が自分の心(靈)の発現として持っている、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の比率が、
今の地球人はそれぞれの心(靈)の部分としての“上”の振動が低いからこそ、
その自分の心(靈)の振動より、言い換えれば(相対的に)自我より“上”の振動を持っている霊的存在との、感応共振=オーラの相互干渉をして、
そしてその“上”の霊的存在の思惑=荷電粒子を自分に取り込み、
そうやって自分の心(靈)は影響を受けていき、
それが又、肉体内の生体内電流に反映し、
更に“上”の霊的存在の思惑との感応共振をするようになって行く。
それが、霊的成長の為の具体的手段である“行と修行”である。
ほんでから今、既成宗教に関わっている人がやっている“行”は、
単なる儀式でしかなく、
只、僧侶とか神主とか…その形骸の資格を得る為にしか執り行われていない。

そやから認識の拡大=オーラの拡大としての“行と修行”っていうのんは、
ほんまのことを求め、
苦しみ…生きているうちに様々な苦難に遭遇し、
それに立ち向かい…目先の苦難の意味を考え…
そうやって行かんと“上”との霊的存在の感応共振はない。
そやから今の坊さんや神主さん霊的成長を果たした人はほとんどいない。
それは先生がオーラが観えてた時に観測した結果でもある。

そやから“行と修行”の意味と意義は、霊的成長でしかなく、神格化でしかなく、
本当の事を追い求める心(靈)の動きが、
真(真固止、○ 九 十、誠=言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する)を求める心(靈)の動きが、
自分の背負った因縁や苦難や苦痛を、自分の試練と認識して行くし、
その心(靈)の動きが有るからこそその意味を“上”は教えようとする。
その反対の、
さっき言うた甘い言葉や雰囲気に酔っぱらっている人は、
苦難を避ける苦痛を避ける…その甘い思いは、
只、甘い(亜、魔、出ずる、泉)からこそ、
じぶんより“下”の霊的存在=自我より“下”の心(靈)の動きの霊的存在との感応共振になる。
自分が持っている心(靈)の動きより相対的に“下”の心(靈)…その発振、発信と、
感応共振は…それは今まで、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)とか、
感覚優先の物の見方とか、色んな事を言うて来たけど、
自分の心(靈)の動きを自分で判断するっていうのんは、
誰もが自尊心と功名心って言う自我特有の心(靈)の動きを持っているからこそ、
自分の心(靈)の動きを自分で判断する時に贔屓目(ひいきめ)で観たりする。
そやから今の自分の心(靈)が低いとか、
恨みの連鎖の霊的干渉の影響を受けているとかの判断が出来てない。

ほんでからこれも何回も言うたことなんやけど…この星は、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化による(通貨としての)金によって外側(外国と幽界)の事象は形成されてる。
その結果、たくさんの恨みの連鎖に加担する霊的存在が増えている。
飢餓や貧困で今、三秒に一人増えている子供の浮游霊、
肉食の結果による家畜の霊、
それは心(靈)の動きが低いからこそ、
それと感応共振して影響を受け自分の心(靈)が霊的干渉の影響を受けたなら、
やる事成す事幼稚になり、動物的になり…元々持っていたほんの少しの智性ってものを見失っていく。
ほんの少しだけでも、子供の浮游霊との感応共振を考えたならば、
苦難を試練と思わないからこそ、
その場限りの幼稚な娯楽を求めたり…パチンコとかお笑い番組とかグルメ志向とか…風俗の流行とか…目先の楽しそうなことばかりを求めたりする。
そやから、その人の認識を高めていくのには程遠いものばかりが流行り、
そんなものが経済を動かし、ほんでから大半の金持ちは、
食う事とやる事(性的な事)しか思ってない。
まったく八戒の段階でしかない。
八戒の心(靈)の動き…その欲望の達成の溜めに仕事をして、
形骸の地位を得て大会社を作ったり…そんな価値感が素晴らしいと思ったりそれが今までの人生の目的って人も多い。
そやからこの世界は低い欲望で出来ている事象でもある…なんやけど、
まあエエわ。

まったく、こんな事一つ一つ言うてたらキリがない。
そやから、下つ巻 第二十一帖の解釈に話を戻しまんねん。

冒頭の文章、

ローレンツ力  ばかりでもならぬ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ばかりでもならぬ。
ローレンツ力と ○がまことの神の元の国の姿ぞ。”

さっき言うた通りの事でんねん。
補足として、“神の元の国”は、
“元”の“儿部(じんぶ、にんにょう)=人が歩く様に象るの意、
時間の進行の事であり、
“元”の“二”は、肉体の事でんねん。

次は、

“元の神の国の臣民は ローレンツ力と ○ でありたが、
 ローレンツ力 が神国に残り  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。”

この文の表記の“片輪”…これは障害者とかの意味ではなく、
片方の輪、荷電粒子の回転が二種類ある事を示す言葉でんねん。
そやからローレンツ力= ローレンツ力
ほんでから荷電粒子の場(フィールド)= ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 
その両方が揃わんと人の霊的成長になって行かへん。
そやから“ ローレンツ力  (ローレンツ力)が神国に残り”…この文の“神国”って言うのんは、
神=示すへんと呂、
国=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”
“上”からの荷電粒子=神の思惑を受信して人は“玉(ぎょく)”になり、
そして霊的成長を示す意味で先生は、
“人(日止、霊止)が“宝玉(ほうぎょく)”になる“って言うた。
これは腹の段階の心の発現の“石屋の仕組み”に対する言葉でもある。
これに付いては前のブログの“思惑と顕現”を、よく読んでほしいねん。
その“玉(ぎょく)”になっている人(日止、霊止)、その心(靈)の動きを発現している人が構築している場(フィールド)そのものが、
“国”って表記の本当の意味でんねん。

ほんでから“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) が外側(外国と幽界)で栄え”って言うのんは、
外側(外国と幽界)の事象だけって事で、
神国って言う場(フィールド)と、
外国=外側(外国と幽界)の事象っていうのんは、
言うまでも泣くどちらも自分の心の中の認識でんねん。
そやからこそほんまに神格化に向かう為の表記としての、
“元の神の国の臣民”であるには、
その“片輪”だけではアカンって言うてるだけやねん。

そやけど次の文章は、
その片方だけではアカンって言う意味で“かたわ”って言うてる。
そやからそれは、“上”の“思惑の顕現”=現象化としての人(日止、霊止)ではない形って言う意味でんねん。

“  ローレンツ力 もかたわ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)もかたわ、 ローレンツ力 と  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と合はせて まことの ローレンツ力と ○ (かみ)の世に致すぞ。”


…ほんでから次の文、

“今の戦は  ローレンツ力 と  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)との戦ぞ、
神の最後の仕組と申すのは   ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に  ローレンツ力 入れることぞ。”

もう敢えて説明するような事ではなく、
人(日止、霊止)の在るべき姿っていうのんは、
心(靈)は“上”を求め、自分の神格化を求め、
その為に自分の在り方を求め、考え思い、
その思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)は、
“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信になり、
自分より相対的に“上”の霊的存在との感応共振になり、
そして段々“上”の思惑を受信して自分と“上”との感応共振した心(靈)の発振、発信で事象の構築をして行く。
それが神の最後の仕事、卆って言う意味での、
○ 九 十って表記になる。

ほんでから次は、

ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)も五ぞ ローレンツ力 も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。”

この文章の表記の“五”は、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。…で言うた通り、
糸巻きを象る象形文字、そやから神経が構成する肉体の磁性でんねん。
結局、ローレンツ力の事を言うてまんねん。

ほんでから次の文、

“一厘の仕組とは ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に神の国の  ローレンツ力 を入れることぞ、
よく心にたたみておいて呉れよ。”

“一厘”は、大きさの単位ではなく、
“一”は“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラで、
“厘”の厂(がんだれ)と、
里って言うのんは、
厂部は「がけ」や「いわお」を意符としてもつ、そやから岩戸の岩と同じ意味。
ほんでから“里”は、
“田”と“土”、
この内の“田”は、思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)“一靈四魂”の意味を持つ。
“土”は言うまでもなく肉体の意味と、“一二三”のオーラの2~3番目のオーラの事でんねん。
ほんでから“土”=2~3番目は、この世界の“創造”に関る、外側(外国と幽界)って自分が認識してる事象の“創造”に関わるって事でんねん。
そやから“一厘の仕組”って言うのんは、
“上”の思惑と人(日止、霊止)の霊的進化した思惑が作り出す事象、
その仕組って言う意味でんねん。

ほんでから次の文、

“神は十柱五十九柱のからだ待ちてゐるぞ。
五十と九柱のミタマの神々様お待ちかねであるから、
早うまゐりて呉れよ。”

この文の表記に出てくる漢数字は、その意味は今まで何回も言うたから、
簡単に説明しときまんねん。

“十柱”は、心(靈)の動きとしての自省と、
腹の心(靈)の動き=サイクロトロンを螺旋にして、シンクロトロン放射に近づけて行く仕組みとしての、胸の磁性“十”。
“柱”は、“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、“柱”の偏になり、
旁(つくり)の主は、
S会=紫光会でローム太霊さんが教えた(本当の意味での)主護霊って表記の、
“主(ヌシ)”であり、
それは“一二三”のオーラとローレンツ力と縦の磁性を示す表記であり、
独り神(ひとりがみ、日取り神)になる仕組みを示した表記でもある。
ちょっと前に作った画像をはっておきまんねん。

主(ヌシ)の解字 


ほんでから“五十九柱”は、
“五”はさっきも言うたけど、糸巻きの象形文字としての“五”そやから神経、
“波羅密”の“羅(目の下の錐体状の神経)”とそれが密になる…それが又、
下等生物から高等な生物への進化過程でもある。
生物は進化して、神経が“慈(しげる)”って様相を示す。
そやから心(靈)の発現は“上”に向かう…そして“上”との感応共振をするから、
それは、要は、
神の思惑を取り込める段階に入ったって言う意味での、
日止=太陽の振動を止める。
霊止=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を止めるって言う意味でんねん。

“十”も敢えて言うまでもないけれど、今言うたばかりでもあるけれど、
自省(胸の磁性“十”)…“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現って言うときまんねん。

“九”も、何回も言うたけど、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)…神の“思惑の顕現”=現象化としての最後の仕事、最後の仕事っていう意味での“九”は卆の上半分であり、
それは“玉(ぎょく)”って言う意味で翡翠(ヒスイ)の翠のもうひとつの表記での翆であり、そしてそれは腕の磁性を示す羽と卆で構成され、そしてこの字の読みはミドリでもある。
それはアナハタチャクラ内奥の色でもある。

ほんでから次の文、

“今度の御役大層であるが、末代残る結構な御役であるぞ。”

この文の“大層”に付いては、
下つ巻 第十四帖を読んで欲しいねん。

ほんでから第十四帖でもKellyさんは言うてるけど、
“末代残る結構な御役”って言うのんは、
“上”の“思惑の顕現”は、人(日止、霊止)の仕事であり、
それを“日月神示”では“御用”“役員”って言い表され、
それをなすには“一二三”のオーラの拡大=認識の拡大をして行かんならん。
“一二三”のオーラを立派にするには、
“行と修行”…生体内電流の強化、ローレンツ力の強化、
そして自分の心(靈)が“上”に向かう事=自我中心の心(靈)から、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現になる。
その為に今、この世界は、
右往左往=失敗の事象から、
左往右往=自分の在り方を思い、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入ってる最中でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”下つ巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第二十二帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、
この仕組、言ふてはならず、
言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、
早う神心になりて呉れと申すのぞ、
身魂の洗濯いそぐのぞ。
二三三二二(アイカギ)、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ローレンツ力と ○      、
コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。
一二 ローレンツ力と ○ (ひつくのかみ)、七月の二十八日。


…何回も言うた事やけど、
この“岩戸”って表記の解釈がキチンと出来てなければ、何の事か解らへん。
そやから先生の“岩戸”に対する解釈って言うのんは、
前のブログの後半にも書かれてるけど、要約すれば、
“岩戸”=山(脳)+石(腹の水の中の帯電するミネラル)+“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね、肉体の事)って事でんねん。
それは、進化した生物として持った大脳の新皮質=目上(めうえ)の脳で、
“上”の思惑を受信して感応共振する。
それは智性の発現になり、“一”=智性=1番目のオーラになって行き、
それ由来の行動…その智性が智性以下の心(靈)の動きを支配したなら、
当然それは自分の心(靈)と“上”の思惑を取り込んだ行動になる。
そして自分の発振、発信=行動になって行くのが、
人って言う字の意味…丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でんねん。
それを踏まえて冒頭の文章を読んで欲しいねん。

“岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、
この仕組、言ふてはならず、
言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、”

“岩戸開く仕組”は、
“言ふてはならず、
言はねば臣民には分らん”…自分達で考え思って自分達で見つけろ!!
“上”に向かう心(靈)の動き=神格化を目指す事なんやけど、
今それが低すぎるからこそ、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)が入り込み、
ほとんどの人が霊的成長が具体的に何なのか解かってない。
“行と修行”の意味と意義も形骸になり、単なる儀式になってる。
ほんでから…宗教は形骸になり政治は金儲けになり天皇制は血筋で選ばれるようになり…
“上”との感応共振の為の霊能力は単なるバラエティになり、
“日月神示”やアセンションや主護霊の情報などすら、
単なる金儲けの為に利用されてる……そんなふうに今まで、
ダメになったものはいくつも指摘してきたけど、
そうなってしもてるのは、人の心(靈)の発現が平均的に低いからで、
それは後述する“石屋の仕組み”って心(靈)の動きしか持ってないからでんねん。
そやから“岩戸開く仕組”は、霊的生長の為の仕組は、
“この仕組、言ふてはならず、
言はねば臣民には分らんし、”…そんな心(靈)の発現の程度では、
感応共振して受信出来ん。
そやから“言はねば臣民には分らん”って言う言い方は、
“上”は霊的成長の仕組を知ってほしいから発振、発信してる=“言う”って事でんねん。
そやけど平均的に心(靈)の発現が低いからこそ、受信する智性=“一”…1番目のオーラを、大半の人が大して持ってへんからこそ解らへんねん。

以下の表記も同様の事を言うてる。

“早う神心になりて呉れと申すのぞ、
身魂の洗濯いそぐのぞ。”

自分の心(靈)の動きの“上”“下”を自分で知る事は、
智性の発現になる。
そしてそれは、自分より“上”の存在との感応共振になって行くからこそ、
“神心になりて呉れ”って事でんねん。
ほんでから何回も言うた事やけど、
自分の心(靈)の“上”と“下”、
自分の心(靈)の動きの“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分で判断する。
そしてそれ由来の発振、発信=事象に対する行動を取る事が、
“身魂掃除”“身魂洗濯”って意味でんねん。

ほんでから次の表記、

“二三三二二(アイカギ)、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) ローレンツ力と ○  、”

最初に“二”があり、
その後に“三”がふたつ列記され
その後に“二”がふたつ列記されている。
そやからこの表記は、最初の“二”は、
肉体の事と、“土”=2~3番目のオーラの事で、
その後の“三”と“二”は、
砌(みぎり)と日足(ひたり)、左右の極性の事やと思いまんねん。
そやからこそ“ ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  ローレンツ力と ○  ”
下つ巻 第二十一帖の表記と同じローレンツ力ローレンツ力 と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、
それがふたつ合わさった表記が“ ローレンツ力と ○ (かみ)”って表され、
それは人の神格化の仕組を示しているって事でんねん。

ほんでから次の表記、

“コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。”

これはカタカナ表記やから“上”から視点、
“上”の立場からのものの言い様で、
“コノカギハ”は、
“岩戸”=山(脳)+石(腹の水の中の帯電するミネラル)+“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね、肉体の事)開く為の、
鍵(かぎ)、秘訣って言う意味で、
“イシヤ”は、前に説明したし、そやから前に作った画像を貼って置きまんねん。

イシヤの解字 


ほんでから“イシヤ”って心(靈)の動きが、人(日止、霊止)の心(靈)が上を目指すことなんやけど、今の進化過程は、自我中心…自我の肥大…低い功名心と自尊心…見せ掛けの価値感、見せ掛けの幸福の概念、その裏にある(通貨としての)金に対する執着、
金があれば、物があれば幸せと錯覚させられている低い人の心(靈)、
それに感応共振する恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こす霊的存在、
感応共振する心(靈)の動きは自我中心で低い欲望で、
憑依する霊的存在の心(靈)の動きは、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)と、満たされなかった思い…食う事や性に関する事や…特に子供の浮游霊と家畜の浮游霊はその思いが強い。
そしてそれらと感応共振している人達は、
見せ掛けの幸福を求め、(通貨としての)金を求め、他者の存在の事を思わへん。
そやからこの星の恨みの連鎖の霊的干渉に付いて真剣に考えん。
自分達の身の回りだけが良ければそれでエエと思うてる自己奉仕者、“われよし”、自分に対する愛(炁)しか顕現して無い進化過程の人が大半…実に情けないと思うんやけど、
その人たちがはまってる仕組が、腹の段階の心(靈)の発現である低い功名心と自尊心を満たしたいから目立ちたいとか何かに付加価値をつけて商売して自分の利益にするとか…それは結果として欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって事になる。
宝石とか化粧品とかサプリメントとかダイエット関連商品とか…そんなものばかりに金を使い、この星の恨みの連鎖を解消することなど考えもせん。
ほんでから見せ掛けの癒し…前回も言うたけど、
暖かい気持ちになりました…楽しい気分になりました…そんなものばかり求め、
そんな程度の事を求めてる人っていうのんは、
この星が一個の場(フィールド)であり、恨みの連鎖の霊的干渉が自分達にも降りかかってるなんて思いもせず、
ただ目先の癒しばかり求めてる人が多い。

そやから今言うた事の裏にある心(靈)の動きっていうのんは、
低い功名心と自尊心と保身と…すべて腹の段階の心(靈)の発現とその動きでもある。
そんな心(靈)の段階の人が何かを求め何かをなすこと…(低い)愛(炁)が動機の事、
自分達の良い形を求め、“思惑の顕現”=現象化を求める…その結果を“石屋の仕組み”って“日月神示”では称されてると思えるやん。

そやから“上”に向かう心(靈)っていうのんは、真実を求める、真(真固止=肉体組織の結晶化=“身魂磨き”)、
ほんでから“日月神示”の表記の ○ 九 十、
これも画像を貼って置きまんねん。

○ 九 十(まこと)の解字 



ほんでから、誠=言葉成る、言葉の意味は自分が発振、発信した振動が完成する…
そうなって行かんとアカン。
そう言う人が“上”から評価される人でんねん。
又、それが、
S会=紫光会の交霊会で、ローム太霊さんや玉造霊神さんや、
他にも会員の主護霊がよく言うた、
真(真固止)の人(日止、霊止)って事でんねん。


今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第二十三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、
世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、
最後のことは 九(こ)の神でないと分らんぞ。
この方は天地をキレイに掃除して天の大神様にお目にかけねば済まぬ御役であるから、
神の国の臣民は神の申す様にして、
天地を掃除して
てんし様に奉らなならん御役ぞ。
江戸に神早う祀りて呉れよ、
仕組通りにさすのであるから、臣民 我を去りて呉れよ。
この方祀るのは天(あめ)のひつくの家ぞ、
祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、
臣民の性来(しょうらい)によって、
臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ、
神急けるぞ。
七月の三十日、ひつ九のか三。


冒頭の文章は、言うまでもなく、
今迄の自己奉仕者由来の社会や価値感、人の心(靈)の在り方、
これらすべてが今までと違ってくる事を言うてる。
そやからアセンションって言うのんは、第三密度から第四密度に移行する…
こんな表現を使ってる宇宙的存在も居てるけど、これは解りやすい表現とも言い得るな。
そやから第三密度って言うのんは、下から三つ目のチャクラ、
それは、マニピューラチャクラ、腹のチャクラ、自我の確立=固定化の霊的進化過程、
霊的進化過程っていうと特別な印象を持つ人が居てるとアカンから言うときまっけど、
心(靈)って言うのんは、下等な生物から人(日止、霊止)への進化を観ると、
本能から発現し、
地球人の平均的な心(靈)の進化過程=霊的進化過程は、
情動、功名心、自尊心、保身…これらは自我の確立=固定化の過程でもあり、
それが、下から三つ目のチャクラでもあるマニピューラチャクラの覚醒の段階でもある。
そして地球人の人(日止、霊止)としての進化過程は、大半が今、その霊的進化の段階でもある。

そやから、霊的進化=心(靈)の発現って事で、ほんでからすべての事象って言うのんは、
自分達の心(靈)が、
創造して観察して認識してるって事なんやけど……。
今の平均的地球人の心(靈)の進化過程が創造してる事象は醜い…低い心(靈)の創造やから醜い。
ほんでから、この世界、この事象に醜さを感じへんのは、心(靈)の進化過程が低いって事やねんな。
そやから今“力”を示してる人達の大半は、
自分達の保身と低い功名心と自尊心の為に、自分の利益を追求し、
それは自分達だけの狭い場(フィールド)の観察しかせず、
金と物欲中心の低い幸福の概念を生み出し、
そして、
地球が一個の場(フィールド)って認識を持たないから、
地球人全体の霊的成長を望まない=不幸を望んでる存在は、
腹の段階の心(靈)の発現を煽り(あおり)、
目先の利益を追求させ、自分達だけの幸せを願わせ(発振、発信させ)、
そして地球って場(フィールド)で、飢餓貧困を起こさせ、戦争や災害も起こさせ、
地球って場(フィールド)を恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいにする。
そやから、
その恨みの連鎖の霊的干渉を増す仕組み、その裏には、
一部の人の低い幸福の概念、経済の繁栄、たいして価値のないものに付加価値をつけて商売をして金儲けする…例えば、前のブログで取り上げたダイヤモンド、パワーストーン、ブランド品、ファッション、化粧品、サプリメント、ダイエット関連商品……etc…
きりが無いな。
ほんでから投機、アフィリエイト等、たいして労力を使わんと金だけ得たい発想をするのもそうやし、
見せ掛けの喜びや楽しさを与え、真剣に物事を考えさせないテレビ…お笑い、グルメ、ペット、霊能力バラエティ……。
ほんでから敢えて言うておきたいのは、
“日月神示”やアセンションの低い解釈を述べて、
言うてる事はご立派やけど、それらは所詮、
低い功名心と自尊心と金儲けでしかない。
そやからアセンションや人の在り方を説いてたとしても、
その著者と出版社はほとんどが自己奉仕者って事でんねん。
前回も言うたけど、ほんまに自分が今後どうやって生きていくのかを考えてる人には、
すべての事象って言うのんは“思惑の顕現”=現象化やから、
その思惑の程度、“上”なのか“下”なのか…そういう視点を持って欲しいもんやな。

話を戻し、
自己奉仕者の心(靈)の動きってのは、
腹の段階の進化過程=帯電するミネラルが固まってない段階での心(靈)の動きだからこそ、先生はそれを“石屋の仕組み”の仕組って解釈した。

それに対し、現時点の平均的な地球人より少し“上”の進化過程は、
愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動…それを発現して心(靈)の動きとして、
事象に顕していく。
簡単に言えば、自我中心の行動をとらんようになって行くって事でんねん。
そやから第四密度って言うのんは、
下から四番目のチャクラ、胸のチャクラ、アナタハチャクラの覚醒段階になる。
それは、前のブログで先生と話した、
アセンション後の事象を認識して観察出来る人、
その資格を持つ霊的成長を果たした人、
それを、S会=紫光会の交霊会の言い回しを引用すれば“これからの人(日止、霊止)、明日の人”は、その霊的成長度は、その心(靈)の発現は、その心(靈)の動きは、
“慈悲”と“慈愛”。
自己奉仕者ではなくなるって事でんねん。

ほんでから“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と動きを顕すようになるには、
その心(靈)の動きを獲得する過程は、
悲哀(日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)と肺=“悲しみ”)と、
自省(胸の磁性“十”)を体験せんならん。
それを踏まえ、この二十三帖の冒頭の分を読んで欲しいもんやな。

“世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、
世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、
最後のことは 九(こ)の神でないと分らんぞ。”

“元の神世”は、
“元”=“二”、肉体、+ 儿部(じんぶ、にんにょう)、人の歩く様に象る。時間の進行の意味。
“神世”=“上”の思惑を取り込んで、
現津(あきつ)、観察され得る事象、“世”に顕現する。
そして今までも、今も、人の心(靈)の在り方を説いている存在は多い。
そやから、
“世界ところどころにその事知らし告げる神柱ある”
“上”は人に憑依したり、通信を送ったりしてる…人の霊的進化を望んでるからでんねん。
ほんでから“最後のことは 九(こ)の神”…これは、
“九(こ)の神”って表記は、
“九”が“玉(ぎょく)”を示す翡翠(ヒスイ)の翠、この翠は“翆”とも書き、
それは羽と九と十と書く。
それは、前のブログで、
羽=胸の磁性、
九=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、
十=胸の磁性“十”って解釈した。
そやから“日月神示”の表記の、○ 九 十(まこと)。
これも動物としての人の霊的成長の段階を示し、
自省(胸の磁性“十”)して胸の磁性が強くならへんと、
“上”との感応共振が少ない=智性(神性)を獲得出来ん。
それが今の地球人の進化過程で、
そやからアセンションと認識される事象に遭遇するまでに、
自省(胸の磁性“十”)をせんとアカンから、
自己奉仕者の創造した結果って言うのんは、壊れていく。

ほんでから次の文章は、
この世界が自己奉仕者の創造で腐ってる事を前提に言うてる。

“この方は天地をキレイに掃除して天の大神様にお目にかけねば済まぬ御役であるから、
神の国の臣民は神の申す様にして、
天地を掃除して
てんし様に奉らなならん御役ぞ。”

敢えて説明する事ではないな。

ほんでから次の文章は、

“江戸に神早う祀りて呉れよ、
仕組通りにさすのであるから、臣民 我を去りて呉れよ。”

この文も、今まで何回も言うて来た、
先生とKellyさんの解釈でもある腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
それが自我の肥大になり、今の醜い事象を創っている。
そやからこそ腹の水=帯電するミネラルに、
“上”の思惑=高い振動の荷電粒子を、取り込んで、
腹→胸→頭は、肉体が持つコンデンサーでもあり、
コンデンサーが縦に並んでいるのは高い振動が“上”に上がっていく電気特性を持つ。
ほんでからコンデンサーとしての腹は、
その構成は水中心、
同じように胸は空気中心、
頭は、肉体なんやから有機物で構成されて入るけれど、
金属成分、カルシウムやマグネシウムや…その電気特性はしたから“上”に向かえば、
変化がある事を指摘出来る。
それは又、発振される“一二三”のオーラのオーラの振動数の違いにもなる。
そやから腹のオーラは3番目のオーラでもあり、
胸のオーラは2番目のオーラでもあり、
頭のオーラ、智性のオーラは1番目でもあるし、
神に近い心(靈)の発現は智性やし、それは、大脳の新皮質に関っているっていうのんが、
先生がオーラを見る能力を持ってたときの観測の結果でもある。
そやから先生の視点での脳の観察は、
“目上(めうえ)と目下(めした)”…その概念を先生は持ったやんか。

そやから“目上(めうえ)と目下(めした)”を簡単に表現すれば、
動物の進化の心(靈)の段階=目下(めした)で、
人(日止、霊止)としての進化は目上(めうえ)である。
ほんでから“力”(力、知恵、知識・・・学問・・・能力、そして霊能力を含む)を、
ほんまの智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)にするのは、
目上(めうえ)の脳の働き…これは“上”の思惑を受信して自分の心(靈)の動きにしているからこそ、人は智性=神性を持ち始めたと言い得る。

ほんでから次の文章、

“この方祀るのは天(あめ)のひつくの家ぞ、
祀りて秋立ちたら、
神いよいよ烈しく、
臣民の性来(しょうらい)によって、
臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ、
神急けるぞ。”

この文の“天(あめ)のひつくの家”
これは、天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)。
ほんでから“ひつく”……
これは“ひつく”は日付く、そして“日月神示”って言うのんは、
太陽と月=肉体、神=示すへんとエネルギーの回転を示す“呂”、
或いは“呂”は、
頭と腹のコンデンサーを日足(ひたり)回転の荷電粒子=両腕と胸と背中の骨の“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子が持つ磁性で、
サイクロトロンからシンクロトロンに移行させる。
それは心(靈)の発現としては“慈悲”と“慈愛”になって行く。
ほんでから“示”。
“示”は今まで何回も言うたし、この後の画像でも説明してるから、
それを御覧下さいでんねん。
ほんでから“家”は、
宀(うかんむり、頭の意味)と豕(しぶ、ぶた、家畜の意味)で、
動物の肉体と智性を発現する人の肉体の意味やと思える。

そやけど“ひつく”…この表記を“日月神示”の研究や解釈をしてる人は、
何て思うてるんやろ。

人(日止、霊止)の智性のオーラを増すのは、
先生が今まで太陽凝視をして来た過程と、結果とも言い得る“上”との通信と、
それから先生の“行”…“行”も含め先生の人生の体験と、
先生が18~33歳まで霊眼を持ってたときに観測した、たくさんの人のオーラと、
太陽凝視を教えてくれたKさんのオーラの観測の比較…
そして、自分自身のオーラの観測…
それと、高い存在が先生に文字を観させて“上”の思惑を伝えた事……
それらから考えてもこの“ひつく”って言うのんは、
後々出てくる表記の“特別神かかり”(智性を求める太陽凝視(春の巻 第二帖の表記))でもそうやけど、太陽凝視以外にない。
ほんでから今、
太陽凝視をしてはる人の大半は、低い功名心で不食を求め、
それは太陽凝視の意味と意義と価値を低いものにする。
太陽凝視なんて物は所詮そんなもんやって大半の人に思わせる意図がある。
どんな存在がそれを思わせてるのなんてのは敢えて言わへん。

そやからそれは、“日月神示”春の巻 第二帖に
“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。
太陽の光集めること知っているであらうが。”
…と、言い表されてる様に、
太陽凝視=不食って認識は“九分通りしくじるのぢゃ。”って事でもある。

ほんでから次の文…“祀りて秋立ちたら、”
これも何回も解釈したことではあるけれど、
“上”から“下”に降りる振動、人の認識(悟り、幸取=さとり)での天意を受ける事が、
“祭り”で、
それに対し、 人(日止、霊止)が“上”を認識して心が“上”に向かおうとするとか、
段々自分の持っている振動が“上”に向かう事そのものが、
“祀り”って言う意味でもあると思いまんねん。

画像を作ったから貼っておきまんねん。
この画像もこれから何回も使うと思いまんねん。

“祀”と“祭” 意味の違い 


ほんでから“祀りて秋立ちたら、”の、
“秋”は、季節の事を言うてるだけではなく“秋”の字は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+ 胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で、偏(へん)を構成し、
旁(つくり)の“火”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)+ 二つの点、これも回転を示す。
そやから“秋立ちたら”は、
胸の磁性の強化、霊的進化が“上”に向かう事の表記、
そやけどこれも、上つ巻で解釈した事でもあるな。

ほんでから次の文章、

“神いよいよ烈しく、
臣民の性来(しょうらい)によって、
臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならん”

地球人の霊的成長度って言うのんは、今回も何回も言うたけど、
自我の確立=固定化の段階。
そやからその段階から“上”の心(靈)の発現をしてるのか、
自我から心(靈)の動きが“下”に移行してるのか、
低い自尊心と功名心と低い欲望の達成と、
それらは(通貨としての)金に対する執着になるし、
金と物欲由来の低い幸福の概念になる。
その低い幸福の概念は恨みの連鎖の霊的干渉を増し、
この星は子供の浮游霊と家畜の浮游霊と、
その心(靈)の動き…貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)…の念で一杯になっている。
地球って場(フィールド)の意味はその心(靈)が発振、発信している振動でいっぱいで、
誰もが低い心(靈)から発現し“上”に向かって居るんやけど=霊的成長して神に近付いて行くんやけど、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑は、
智性由来の考えを人に持たさず、
目先の快楽や低い幸福感で人の霊的成長を阻んでいる。
そやからこそ、火との心(靈)の“上”と“下”、
この文の表記で言えば、
“臣民の中に神と獣とハッキリ区別”…それを自分で見極めて、
“慈悲”と“慈愛”由来の行動をするのか、
動物の心(靈)の進化過程の、自分達だけの欲望の達成の行動をするのか、
それを自分で見極めるのは、
“一”=智性=1番目のオーラの獲得でしかない。
ほんでから“一”=智性=1番目のオーラを獲得する過程は、
さっき言うた“祀りて秋立ちたら、”の、自省(胸の磁性“十”)をせんならん。
その心(靈)の発現、アナハタチャクラの刺激をせんと“上”の思惑を取りこめんと言い得るな。
それが、その傾向がこれから激しくなるからこそ、
それはタイムリミットがあるからこそ、
“神急けるぞ。”…って言い表されてる。…まあ、敢えて指摘する事でもない。

そやから大事なのは、
自分の心(靈)の“上”と“下”を見極める事を“日月神示”では、
“身魂掃除”“身魂洗濯”と称され、
ほんでから、“一”、“一二三”のオーラの1番目のオーラである智性の獲得は、
言い換えれば“上”との感応共振をして自分の心(靈)が神格化に向いていくには、
“身魂磨き”と称され、それは、肉体組織の結晶化、骨の結晶化、
その為に生体内電流を増す事が“行と修行”でもあるし、
そうやって“上”の思惑を直接自分に取り込み、
“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもあるし、
事象の観察を行い(受信して)、神経内の生体内電流に変換し、
生体内電流は脳に伝わる過程で視床下部を通り、
視床下部のホルモンで肉体を創り変える意味での“波羅密”でもあるし、
良いカタチの人(日止、霊止)の創り変わり=“元の神世”は、
“ひつく”=太陽凝視の真の意味である事を敢えて言うときまっせ。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第二十四帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


一が十にと申してありたが、
一が百に、
一が千に、
一が万になるとき いよいよ近づいたぞ。
秋立ちたらスクリと厳しきことになるから、
神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。
改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、
臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、
草の葉一枚でも神のものぞ。
七月の三十日、ひつくのか三。


この文章全体を見て感じられるのは、

“一”“十”“百”“千”“万”
これが何を示しているのか…この解釈がきちんと行われないと、何の事か解らへんし、
ほんでからこれは、前回の、下つ巻 第二十三帖の以下の文と関連があると思える。
それは、

“この方祀るのは天(あめ)のひつくの家ぞ、
祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、
臣民の性来(しょうらい)によって、
臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ、
神急けるぞ。”

この文の、“祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、”は、
“上”の思惑である高振動の荷電粒子が“いよいよ烈しく、”なり、それそのものが、
フォトンベルトやと思える。
そしてそれと感応共振する人の心(靈)の進化過程は、
“慈悲”と“慈愛”、それは前回も言うたけどアナハタチャクラの覚醒、そやからそれは第三密度から第四密度、マニピューラチャクラの覚醒段階=自我の確立=固定化から、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”って心(靈)の動きになって行く。
又、その心(靈)の発現に応じた事象を観察して行く。
そやから人(日止、霊止)が感じ(感じる磁性)てる事象って言うのんは、
その事象の観察と認識って言うのんは、
心(靈)の発現の程度に応じてしか感じ取れない=受信出来へんって事でんねん。
ほんでから今の平均的地球人の心(靈)の発現は、自我の確立=固定化の段階で、
その自我の強化の為に自己奉仕者の心(靈)の動きを顕している人がほとんどでもある。
ほんでから、その自我の確立=固定化と自我の強化の為のこの事象を、自己奉仕者の創造した醜い事象…それを、共有してるのは、共有して観察させらてるのは、地球人の中でも霊的に高い存在であろうが低い存在であろうが、
それを言い換えれば、
あまり智性を持ってない自我の確立=固定化の段階の成長の人であろうが、
ある程度、智性と“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現をしてて、この世界を観て嘆き、憂いていようが…今の地球人の霊的進化過程が、独り神(ひとりがみ、日取り神)では無いからやねん。
そやからこそそれは、前のブログで言うた“玉石混交(淆)”って事でもある。
又、それは、人(日止、霊止)の心(靈)の進化程度の“上”“下”を知る為に必要であり、
その自己奉仕者の“下”の心(靈)の動きをよく思い知る事が、次の創造を担う人には必要で、それは“下”の心(靈)の動きを知ったなら、
そして“下”の心(靈)の動きがこの世界の崩壊や不幸な事象の創造になる事を知ったなら、智性(“一”=1番目のオーラ)を持った人は、自分が持っている“下”の心(靈)の動きを自分で制御出来得る。
ほんでから自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を自分で見極め、そしてそれは、自分の心(靈)の動きの“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を知る事になる。
それが“日月神示”の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”って事でんねん。

人は、動物の心(靈)から“上”に向っていると言い得るから、本能や情動や自我ってもんは、智性によって支配され、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを顕していく…そうなっていくのが神格化への“道”でんねん。

ほんでからその、腹から胸へのエネルギーラインは、大日如来の条帛(じょうはく)に示され、又、そのエネルギーの上昇する様は“玉(ぎょく)”の中の点に示され、
前のブログでもこのブログでも言うた事なんやけど、
人の心(靈)の発現=霊的進化過程は、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性って、
何回も言うてるけど、
自我から愛(炁)…愛(炁)がより高い心(靈)の動きになって行くには、
砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)から、
日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)…腹のエネルギーの回転が、日足(ひたり)回りにならんとアカンし、それを示してる字そのものが、“玉(ぎょく)”で、
“玉(ぎょく)”には翡翠(ヒスイ)の意味があり、翡翠の翠は翆とも書き、それは羽=胸と腕の磁性を示し、その磁性を高める心(靈)の動きが、自省(胸の磁性“十”)の“行”、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)、自分の人生を振り返る段階の心(靈)の動き、それをせんならんから右往左往から左往右往の心(靈)の動きになり、心(靈)ってもんを持ってる生命(生きる使命=存在理由)は、心(靈)の持っている性質とも言い得る観察と認識…それそのものが神の性質でもあり、
その心(靈)の成長の段階には右往左往と左往右往って心(靈)の動きがあり、それをローム太霊さんはS会=紫光会の最後のローム霊訓講話で伝えたと思える。
(ウエサク祭を通じてローム太霊が伝えたかった事 参照)
ほんでから左右、日足と砌(ひたりとみぎり)って言うのんは、心(靈)だけではなく、
すべての事象の極性で、それはすべての創造に関るものやし、
そやからそれは、日足と砌(ひたりとみぎり)は神の極性とも言い得る。
ほんでから補足として言うとけば、
すべての事象って言うのんは、心(靈)ってもんが常に行っている“思惑の顕現”=現象化でもある。

ほんでからこの下つ巻 二十四帖の冒頭の文の、
“一”“十”“百”“千”“万”は、
“一”は、今まで何回も言うて来たように、“創造”の“主(ヌシ)”…“亜”が出ずる、泉、そしてそれは、“亜”を事象の最初として点で顕し、それがこちら側から観れば、日足(ひたり)から砌(みぎり)、
“創造”の“主(ヌシ)”の視点では砌(みぎり)から日足(ひたり)に、最初の状態の“亜”が移行する。
移行する事そのものが時間の進行でもある。

“十”は、縦の磁性と横の磁性、胸の磁性“十”でもある。
これは現状より相対的に良いカタチの事象の創造そのものに関る磁性でもあり、人(日止、霊止)の心(靈)の発現から言えば、自己奉仕者の段階、自我の確立=固定化の段階から“上”に向かう心(靈)である“慈悲”と“慈愛”の発現に関わる。
ほんでから胸の磁性“十”の発現は、動物は四足獣から直立して、人(日止、霊止)になって行く。更に手を使うことそのものが、指の神経の発達になり、両腕の磁性は、指先に向かうほど神経のコイル状の構造が密になるからこそ、“十”の横の磁性は強固になった。
それが人(日止、霊止)と動物の心の発現の違いでもある。
それを言葉で言い表すなら、“自省”“観自在”“直日(なおひ)”…ほんでからローム太霊さんが言うた“左往右往”でもある。
そやから簡単に言えば、四足獣の進化は“下”三つのチャクラの進化過程であり、
そこから“上”の心(靈)、チャクラの覚醒段階は、直立して腰の骨を刺激し両腕を使い…これを細かく説明すると長くなるから、それは先生が“改”でいずれ詳しく説明するとして、人(日止、霊止)の霊的進化=心(靈)の進化って言うのんは、
動物と比較すると、その違いを見出す事が出来る。

そやけど現状の地球人の大半は、まだ動物の心(靈)の発現に近い人が多いし、
動物の心(靈)の発現に近いからこそ(地球で死んだ恨みの連鎖にかかわっている)動物霊の憑依=低い心(靈)同士の感応共振があり、それは、(飢餓貧困で死んだ)子供の浮游霊も智性があまり無いって点から同様でもある。
ほんでから、この星の大半の人の心(靈)の成長度が低いからこそ、恨みの連鎖に関わり現象化させている動物霊と子供の浮游霊…そして、恨みの連鎖に巻き込まれて死んだ大人の霊、自縛霊とか貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの霊とか…地球は今そんな霊的干渉でいっぱいになっていて、その霊的干渉を起こしているのは自分達の低い心(靈)の動きって認識があまりにも無さすぎる。
そやからその低い心(靈)の動きの結果=“下”三つのチャクラの心(靈)の動きの“思惑の顕現”=現象化…それを知らんならんからこそ、
アセンションに伴う醜い事象を、今、見せられている…観させられている。

話を戻し、
“百”は、“一”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と太陽の“日”。
太陽=“日”が、“創造”の“主(ヌシ)”の振動である“一”を受けていることを示し、
ほんでから“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と“十”。
胸の磁性“十”を持った人(日止、霊止)が“百”を受けられる=感応共振して、
“上”に向かう心(靈)の動きを持つって解釈出来る。
ほんでから“万”は、よろず、あまた、多数って意味があり、
そやから“一”から“万”は、事象がたくさんになり、多様化する事を示し、
それは生命(生きる使命=存在理由)、段々、心(靈)の発現が多様になり、
現津(あきつ)=観察され得る事象は、多様化した心(靈)に伴って、
良いカタチ=神の思惑と人(日止、霊止)の思惑が一体になり、
それが人(日止、霊止)の霊的進化の結果でもあり、
霊的進化した人(日止、霊止)の心(靈)の動きが創造して、“万”よろず、あまた、多数の事象を形成する事をこの下つ巻 第二十四帖の冒頭の文は、示していると思われる。

ほんでから、心(靈)の発現は、何度も言うけれど、生命(生きる使命=存在理由)の一番最初の心(靈)の発現は本能であり、そして、霊的進化過程は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性…人(日止、霊止)だけに心(靈)の発現を分類して認識する為の、言葉が出来た。
そやからこの“一”“十”“百”“千”“万”って表記は、
“上”の思惑を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)=人(日止、霊止)が、
霊的進化して行って、段々、感じ(感じる磁性)て行く事象そのものを示す表記やと思える。
そやからそれは“創造”の“主(ヌシ)”の高振動である“一”(亜から出ずる、アイ)が多様になる。
そやから人(日止、霊止)が感じ(感じる磁性)られる…感じ(感じる磁性)る事の出来る事象を形成する。
その事象って言うのんは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の両方で作り上げられ、それが又“上”の思惑=“上”からの荷電粒子を止めるという意味での、古神道の表記“日止、霊止”って表記にもなると思える。

ほんでからすべての事象には“上”と“下”がある。
その“上”と“下”は、人(日止、霊止)が感じ(感じる磁性)て言葉にすると、
“善悪”であったり、“美と醜い”(振動の高い低い)であったり、智性(神性)と本能(物質を伴った心=生物の、一番初めの心(靈)の発現)であったりもする。
その比較、“上”と“下”の比較をするのは、動物には無い心(靈)の発現=智性によって行われ、そしてそれは“一二三”のオーラの“一”=1番目のオーラ、頭の磁性でもある。

そやから、宇宙的プログラムとしての人(日止、霊止)の進化は、
あまり高いもんと程度の低いものは別々の場(フィールド)に分かれ…それは自分達の心(靈)の発現と心(靈)の動きによって、自分達が行き先を決めると言い得るんやけど…それがアセンションでもある。

それはこの、下つ巻 第二十四帖の、

“秋立ちたらスクリと厳しきことになるから、
神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。”

この文の“秋立ちたらスクリと厳しきことになる”は、
自省(胸の磁性“十”)を示してる。
秋って言う字は、偏(へん)は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、胸の磁性“十”と、
儿部(じんぶ、にんにょう)、
ほんでから旁(つくり)は、人と回転を示す二つの点である事を今まで何回も言うた。
その“秋”が“立つ”んやから、それは、
胸の磁性“十”由来の自省、“観自在”“直日(なおひ)”“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現が起きて行く事を示してる。
ほんでからさっきも言うたけど、胸の磁性“十”の発現があまり無い人は、自己奉仕者であり、
(相対的比較として)動物に近い進化過程=霊的成長度でもある。
そやから、そう言う“下”の心(靈)の発現は、
ディスプレイ(動物の発情行動)とか、低い功名心と自尊心、低い欲望由来の保身…それは自我の肥大に伴う行動でもある。
ほんでから前回も言うたけど、アセンションや“日月神示”の解釈本を書いてる人達の大半も、そんな心(靈)の発現が中心にしか見えへん。
そやからそれは、アセンションや“日月神示”や人(日止、霊止)の在り方を説いてる人達の大半が、自分の利益の為の本を出してるならそれは、アセンション後の創造を“上”から託されんって言う滑稽な事になってる。ほんでから大半の人はそれに気が付かん。
気が付かん人は同じ霊的成長度でしか無いからでもある。
ほんでからそれは、日本やアメリカのような比較的裕福な国の人達が、アセンションを、
地球って場(フィールド)全体を考えていない金持ちの道楽みたいな物にしてしまっているからでもある。
そやからアセンション…地球って場(フィールド)を霊的に高い場(フィールド)にするには、
自分達の持っている“力”や金をどう扱っていくのか…それを考えるのは、
智性であり、現状の恨みの連鎖の霊的干渉を何とかしようとする心(靈)の動きは、
“慈悲”と“慈愛”である。
そやから“秋立ちたらスクリと厳しきことになる”は、胸の磁性“十”の強化が起きていくことを指し示し、そしてそれは、フォトンベルトの接近により、地球人の中でも、智性(“一”、1番目のオーラ)と、胸の磁性“十”が、高くなっている人は、フォトンベルトの荷電粒子と感応共振する。
それは、より“一”と胸の磁性“十”の強化になり、それはフォトンベルトが“上”に向かっている人(日止、霊止)の霊的成長を高めていく“上”のプログラムであると思える。

そやから今まで言うた事を踏まえ、残りの文章を読んで欲しいもんやな。

“神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。
改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、
臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、
草の葉一枚でも神のものぞ。”

敢えて説明するような事でもないけれど、“上”の思惑=“神の申すこと”で、
それは“一分一厘ちがはんぞ。”…“上”の思惑通りに今後の事象は進んで行くし、
ほんでから今後、自己奉仕者が自省(胸の磁性“十”)の“行”をせんならんからこそ、

“改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、
臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、
草の葉一枚でも神のものぞ。”

…って言われてまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示”下つ巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第二十五帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


今度の戦で何もかも埒ついて仕まふ様に思うてゐるが、
それが大きな取違ひぞ、
なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、
今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。
今に戦も出来ない、動くことも引くことも、
進むことも何うすることも出来んことになりて、
臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、
それからが、いよいよ正念場ぞ、
まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。
戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、
戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、
間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。
神は気(け)もない時から知らしてあるから、
いつ岩戸が開けるかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、
改心が第一ぞ。
七月の三十日、ひつくのか三のふで。



冒頭の文、

“今度の戦で何もかも埒ついて仕まふ様に思うてゐるが、
それが大きな取違ひぞ、
なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、
今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。”

これは“日月神示”が自動書記によって書かれてた時、それは、昭和19年から岡本天明はんが亡くなる2年前の昭和36年まで、17年間にわたり自動書記は続いたそうやけど、
下つ巻が書かれてた時は第二次世界大戦中やから、それを含めて言うてる。
ほんでからそれは、“埒(らち)ついて仕まふ”…戦争が終わったなら良い世界になるとか、戦争に勝利したらそれが自分達の喜びに繋がるとか…そんなふうに思う事が低い幸福の概念で、それは下三つのチャクラの覚醒段階での心(靈)の動きで、そやから当時の人はそんな事を思うたろうけど…そんなもんや無いって言うてまんねん。
ほんでから、心(靈)の動き、心(靈)の発現、チャクラの覚醒段階、それは今の人かておんなじでんねん。
そやから巷(ちまた)では、低い功名心と自尊心を満たさせるようなものばかり流行り、その裏には、腹の段階の心(靈)の発現を言い表した“日月神示”の表記の、
“石屋の仕組み”…
それは、どうでもエエ事に人の目を向けさせ、低い心の発現の人に、低い心の発現の人同士が価値の無いものに付加価値を付けて商売させ、金儲けさせ、
今の地球人の平均的なチャクラの覚醒段階である人の低い心(靈)、その低い功名心と自尊心を煽り(あおり)、それはファッションやったり、宝石やったり、ブランドやったり、化粧品であったりエステであったり…こんなもんは例をあげて言ったならキリが無いけれど、そんなどうでもエエことに金を使わせるのが、経済大国って言う狭い場(フィールド)の中の事でしかなく、それは使うべき“力”を良いカタチにしていないからこそ、
飢餓貧困の救済には繋がらず、恨みの連鎖の霊的干渉の拡大になって行き、そして、恨みの連鎖の霊的干渉そのものが、その霊的干渉で経済大国の人達の心(靈)の動きは、形骸の美の追求とか、低い欲望の達成を求めるとか(八戒)、そんなものばかりがいっぱいになる。
ほんでから、形骸の現世利益の宗教、アセンションの甘い認識…こんな事も先生と話したけれど、得にアセンションや“日月神示”に関しては、どんどん甘い解釈が広まっている。
まったく今の現世利益の形骸の宗教とおんなじやな。
それらは、本当に人が…人の心(靈)が“上”に向かう…それを思わせない=その発振、発信をさせない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑と思える。
そやからちょっと話が逸れるけど、大半の人が何か因縁を背負っている。
因縁が起きる理由って言うのんは、先祖の霊の貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の思いとか、恨みの連鎖の霊的干渉とか、たくさんあっていちいち例を挙げてならキリがないけれど、
因縁を背負い、自分がその因縁の為にエネルギーを贖う(あがなう)理由は、
因縁の原因になっている霊的存在を自省させるためでもある。
そやから因縁を背負っている自分は苦痛を感じ、苦悩し、自省する。
そうすれば“上”の存在は、霊的成長を望んでいる存在は通信を送ってくる。
そして自分の自省した心(靈)の動きと感応共振する。
そやから、人(日止、霊止)が歩んで行かんならん霊的成長の為に、苦痛や苦悩を体験し、それそのものが生体内電流の強化になり、その生体内電流の強化は因縁を贖う(あがなう)為には自分の智性ゆえの考えを持ち、心(靈)が“上”に向かい=“上”のチャクラの刺激になり、そしてその生体内電流は身体磁場の強化になり、
“身魂磨き”=肉体組織の結晶化になり、
結晶化した物質は、反応する電磁波(“上”の思惑)の違いになり、それは段々高い心(靈)の発現になる。

そやけど今Kellyさんが言うたこの概念は、
人生に於いて、たくさんの苦悩や苦痛を感じ(感じる磁性)、
それを自分の試練とした人、
そして“行”に関しては、倒れるくらいの“行”をした人でないと理解出来ん。
そんな人は全体を見ればごく少数でしかないし、だからこそアセンション後の創造を担える人はほんの少しでしかない。
そやからアセンション後の創造を担う事の出来ない人が思うのは、この世界の低い価値感で形骸になったものばかりを追い求め、それが一般的になり、アセンションに対しても“日月神示”に対しても、甘い、低い解釈ばかりが、多くなり、それが普通って思い、そんな人を増やすのが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑やと思える。
そやからそれは、多くの人が本当の事=苦痛や苦悩を試練として自省(胸の磁性“十”)して霊的成長する事を知り得ないまま、アセンションと認識される時を過す。
それは結果、アセンション後の創造を担う資格が得られない=間に合わない。
間に合わない事を望んでいる=人の霊的成長を望んでいない存在の思惑は、
人の腹の段階の心(靈)の発現を煽る(あおる)=低い功名心や自尊心を刺激する。
それにハマっている人が多いからこそ=腹の段階の心(靈)の発現しかしていない人が多いからこそ、
“大きな取違ひぞ、”
“なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、”
“今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。”
…認識を改めてくれって言うてる。

そやから、低い心(靈)の発現と低い心(靈)の動きは、霊的存在をさせたくない存在との感応共振になり、それが人の心(靈)の動き=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)…これは、广(まだれ)=頭、思想、
鬼=貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮游霊、
その通信を腹で受け=腹の段階の心(靈)の発現(下三つのチャクラ)と、
心(靈)の動きで感応共振し、
左右の木部で、广(まだれ)に吸い上げる。
そして、“魔羅”の“羅(目の下の錐体状の神経)”は、自分の心(靈)と肉体を、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の浮游霊の通信を受けた“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)をさせる。
そやから人の低い功名心と自尊心を煽る(あおる)のが“石屋の仕組み”で、
それは、ほんまに価値のあるものを見失う。
決してフリーメーソンだけが“石屋の仕組み”ではなく、
誰もが下三つのチャクラから心(靈)の発現をしているから、“石屋の仕組み”に、
取り込まれやすい。
ほんでから“石屋の仕組み”=フリーメーソンって認識を一般に植え付けた事自体が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の霊的存在の思惑だと思える。
そやからそれは、フリーメーソン以外、フリーメーソンだけを“石屋の仕組み”と思わせ、自分達は関係無いって思わせたい…
実に悪魔の思惑は、巧妙に、
人を堕落の方向にその人の自覚の無いまま…向かわせてる。

ほんでから次の文章、

“今に戦も出来ない、動くことも引くことも、
進むことも何うすることも出来んことになりて、
臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、
それからが、いよいよ正念場ぞ、”

これもこの時起きてた戦争の事を言うてるのではなく、
自分の心の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す事を言うてる。
それが“日月神示”の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。
その“身魂掃除”“身魂洗濯”の意義は、自分の心(靈)が感応共振する霊的存在は、
自分の心(靈)の動きで、選んでる。
それを判り易い例えを挙げれば、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、“思惑の顕現”=現象化は、今の政治…政治家の自我の肥大の結果は説明するに及ばず、
ほんでから経済の発展は、下らん価値の無いものの流行とかに顕れ、それらすべてに貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮游霊が関っている。
ほんでから貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの浮游霊は、一部の金持ちが増やしているとも言い得るし、それは以前、紹介したように、

“国連大学世界経済研究所によれば、富裕層2%が世界の家計資産の半分以上を所有し、
その中で最も裕福な10%の内訳を国別に見ると、
アメリカが4分の1、日本が5分の1を占め、
世界的な超富裕層と言うべき人々の割合の第1位がアメリカ人、
第2位が日本人、
そして富裕層の人口の1%は世界の富の40%の富を所有している・・・”
“太陽凝視を行っている鍼灸師の話” 出版の告知。(前のブログの事です)  ち~となりや~とかめ(少しだけ久しぶり)の、○○○大先生とKellyさんとの会話でんねん。 参照)

世界の経済の大半を日本とアメリカが持ち、そのために自分のエネルギーを贖った人、その低い心(靈)の発現と動きで、恨みの連鎖の霊的干渉を増している。
ほんでから毎日たくさん増えてる家畜の動物霊は、人の心(靈)の動きの下の部分と感応共振している。
そやからそれは、智性を持った心(靈)が“下”の心(靈)の発現と動きの本能化になって行く。
その結果、日本とアメリカの大半の人は、
見せ掛けの幸福を追い求め、自分勝手になり、低い欲望中心になって行く。
これも具体的に詳しく書きたいところやけど…今まで何回も言うたし、長くなるから、
敢えて書きませんねん。

ほんでから次の文章、

“まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。”

これは霊的成長度の違いを言うてるだけやねん。
何回も言うけれど、今の醜い事象は自我の肥大が生み出している。
それは今後の事象の創造にはなって行かず、壊れていく。もう、壊れかかってるな。

ほんでから壊れんと、
大半の人、自我の確立=固定化の霊的成長の段階で自我の肥大をしてる人は、自省(胸の磁性“十”)の“行”をせんからやねん。

その意味を含め、次の文章は、

“戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、
戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、
間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。”

これも当時の戦争の事を言うてるのではなく、自分の心(靈)の動きの事を言うてる。
自分達の心(靈)の動きが、たくさんの“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊的存在の通信を受け、感応共振したならば、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)に取り込まれ、自分が悪魔の傀儡になり、それが当たり前になっている。

そやから今言うた、悪魔の傀儡になるのが当たり前になる事を指して、
“戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、”
そして、
“間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。”
…って言われてると思える。

…悪魔の傀儡、
それは言うまでも無く“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”で、その人達の(事象の)創造の結果は、自分がひどい目に遭い、それは正当な報酬でもあり、自分の心(靈)の動きが発振、発信した結果=“曲霊(まがつひ)”でもあり“神の咎め”でもある。
そやから何回も言うけれど、見せ掛けの幸福を追い求め、自分達だけの低い幸福の概念を満たし、それは(通貨としての)金と物欲を追い求める事になる。
そんなもんは“上”の思惑に沿った事ではなく、
その点で最近、Kellyさん的に考えるのは、アセンションや“日月神示”や霊的成長の“道”まで、自分達の商売に利用したり、自分の低い功名心や自尊心を満たす為の対象にする。
そやからそれらが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑と自分達で気が付かん。
特に日本とアメリカはそんな人ばっかりやな…実に情けないな。

ほんでから次の文章、

“神は気(け)もない時から知らしてあるから、
いつ岩戸が開けるかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、
改心が第一ぞ。”

この文章の“神は気(け)もない時から知らしてあるから、”は、
“上”はいつも通信を送っている。只々人の霊的成長を望んでいる。
それを言うてるだけやねん。
ほんでから土壇場になって、この世界が低い心(靈)の創造の失敗の事象ってことを知っても、そんな認識では間に合わへんって意味も感じさせるな。
ほんでから、
“いつ岩戸が開けるかと云ふことも、”は、
前回の下つ巻 第二十五帖の、“祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、”に、
かかってる表記でもある。
“岩戸が開ける”に付いては何回も言うたから説明しませんねん。
ほんでから“開けるかと云ふこと”は、時期(磁気)をさす表記で、
それは“上”の振動の降り注ぎは、
人(日止、霊止)の霊的成長の為であり、
そしてそれはフォトンベルトに表れ、
その地球とフォトンベルトの感応共振は、
人(日止、霊止)の心(靈)の自省(胸の磁性“十”)を促す。
そやからそれは、自我の心(靈)の動きで行動してから自省(右往左往から左往)して、
そして“慈悲”と“慈愛”を発現して行く。
それが出来ないのは、只、霊的成長度が低く、或いは転生回数の少ない=認識が足らん心(靈)で、それはアセンション後の創造を担う事が出来ない心(靈)でもある。
これは前のブログの、“思惑と顕現”シリーズで先生と話した。
そやからそれは、
誰でもアセンション後の創造に参加出来る訳ではない。
ほんでから、自分がそれに参加したいと思うならば、
自分の心(靈)の動きを自分で良く見極め、
自省(胸の磁性“十”)し、“観自在”して、“直日(なおひ)”して、
自分の心(靈)の動きを良く振り返る…そうして行かんと、
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振は無いし、
“上”と感応共振しなければ=“上”の通信、“上”との霊的干渉が無ければ、
自分の心(靈)の智性を活かす事が出来ない。
そやから、人(日止、霊止)の進化って言うのんは、心(靈)の構造、心(靈)の動きを、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という言葉で分類でき、
本能と智性=“上”と“下”って振動があることを知った。
そやから自分が感じ(感じる磁性)ていく事象は、
自分の心(靈)の動き、それは“思惑の顕現”=現象化である事を知らんならん。
そやから低い心(靈)の動きでは、“日月神示”内の表記の“うれしうれし”“大歓喜”の事象を創造できへん=自分の心(靈)が認識出来ない…って、実に簡単な事なんやけど……。

ほんでから次の文章、

“神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、
改心が第一ぞ。”

この言葉自体が、ただ“日月神示”の文章を読めばよいって言う意味ではなく、
自分の心(靈)の在り方で“上”の思惑との感応共振がおきる事を、
“改心が第一ぞ。”って言われるんやから、
それをよう考えなアカン。

前にも解釈したけど“神示(ふで)”って言うのんは、この言い回しは、
“上”の思惑を受信した人が行動に顕す事でんねん。
ほんでから“よく読めば分かる様にしてある”は、その思惑を理解してくれって事でんねん。
それは智性を持った霊的存在=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振でもあるし、ただ読めば良いってものやおまへんねん。

“神示(ふで)”に付いては、画像を貼っておきまんねん。

“神示(ふで)”の解字 
そやから、人(日止、霊止)は、
肉体をまとっている霊=○、荷電粒子の場(フィールド)やから、色んな霊的存在との霊的干渉と、無縁の時は無い。有り得へん。
ほんでからそれは、自分の心(靈)が“上”に向かっているならば=“善(神格化の方向性と智性の受信)”ならば、霊的成長を望む存在の思惑の通信を受信し、
その反対の、自分の心(靈)が“下”に向かっていて=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ならば、自分の持っている“下”三つのチャクラ由来の心(靈)の動きに、
自分の心(靈)の“上”の部分の智性を活かす事が出来ない行動をとり、
その結果は自己奉仕者になり、
そうなる過程で、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑の存在は、
人の低い功名心や自尊心を煽り、薄っぺらい幸福の概念を持たせ、金や物に執着させ、
経済を発展させ、地球って場(フィールド)で飢餓貧困を起こさせ、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の思いの浮游霊を増やし、
そして地球そのものを、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きに支配された星にしてしまう。
そやから“日月神示”では、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”…それをよく自分で見極めるという意味での“身魂掃除”“身魂洗濯”をしてくれって言うてる。
それが“改心が第一ぞ。”って表記で言われてる。

そやからそれは、
霊的干渉と自分の心(靈)の在り方で、
自分の心(靈)が時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう))で、
霊的成長して行く=神格化に近付くステップである事を知って欲しいからやねん。
そやから、霊的成長…下つ巻 第二十五帖の表記の“まことの神の民”…
それを知って欲しい……。
知ること自体が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振でもあるし、
そやから、第二十五帖は、その“上”の思いが伝わってくる文章でもあるな。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示”下つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も下つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ。
天(あめ)のひつくの家とは天のひつくの臣民の家ぞ。
天のひつくと申すのは天の益人のことぞ、
江戸の富士と申すのは、
ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、
仮でよいのぞ。
こんなに別辞(ことわけ)てはこの後は申さんぞ。
小さい事はサニワで家来の神々様から知らすのであるから、その事忘れるなよ。
仏(ぶつ)も耶蘇(やそ)も、世界中まるめるのぞ。
喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ、この事忘れるなよ。
七月の三十一日、一二ローレンツ力と ○  。


冒頭の文章、

“神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ。”

これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受け、自分達の思想になることそのものが、“神祀る”って表記でもある。
それに付いては、これまでの上つ巻と下つ巻の解釈で、何回も祭りと祀りの違いに付いて説明してきたけど、画像を貼っておきまんねん。 
“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い  

そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑の顕現としての“祀り”
と“祭り”。
その表記の違いそのものが、相対的に今より高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在との感応共振で自分達の思想や考えとなるのが“祀り”で、その思想や考えで行動し=現津(あきつ)、観察され得る事象の創造とするのが“祭り”。
それだからこそ今後=アセンション後の世界は、現状より“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑が反映した世界に成り得る。
そして霊的生長度の低い人は=腹の段階の心の発現の人は、現状より“上”には行かれへんからこそ“神の国を真中にして世界分ける”と表現され、この文章の中の“神の国”は、霊的に高い存在、或いは、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在、或いは、フォトンベルトと感応共振する心(靈)…これは生きているとか死んでいるとか=肉体を持っていようがいまいがもうすぐ近付いてくるフォトンベルトの振動と、心(靈)が感応共振する。そしてそれは敢えて言うまでもないんやけど、肉体を持った霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=人(日止、霊止)であろうが、肉体を持っていない霊的存在であろうが、自省(胸の磁性“十”)の“行”を体験し、胸の磁性“十”をしっかり発現していなければ“慈悲”と“慈愛”ゆえの行動=発振、発信が出来ないことを前提に言うてる表記でもある。


次の文章、

“天(あめ)のひつくの家とは天のひつくの臣民の家ぞ。”

この文の“家”は宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)が合わさった表記で、そやからそれは智性を持った動物と言い表した表記とも言い得る。
それは人が、日止、霊止と称され、それは霊的成長を果たした動物という意味で、それが“日月神示”に出てくる“家”って言う表記とも言いうる。
そして“天(あめ)のひつく”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの思惑を太陽を介して送られている事を指し示し、そやからこそ“ひつく”…これは日付く、日月、太陽と月部(げつぶ、にくづき)=肉体…そう言った意味があると思える。
ほんでからそれに付いては、“日月神示”上つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈から、引用しまんねん。
     
     

“神のやり方は日の光” “稜威ぞ” …この言葉は、“イツ”古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、 それは、激しい雷光のような威力って事らしいやん。ほんでからに、 “稜威”を辞書で見ると、威稜とも言われその意味は、 神霊の威力。みいつ。天子の威光。 類義語として、威霊って表現もある。 Kellyさん的に思うんは、 天子の威光…これは天意を受けた人のオーラの事やと思いまんねん。 それを言い表した言葉が“稜威”やと思うし、
ほんでからにそう言う高くなった霊的存在を、 “威霊”・・・そう呼ぶと思いまんねん。

…以上でんねん。要は、智性を持った(霊的成長を果たした)動物が、人、日止、霊止で、
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの振動と感応共振するからこそ、
日を止める、霊を止めると称される。大体“日月神示”って言うのんは太陽と肉体としての月部(げつぶ、にくづき)と示すと“呂”と示すって書かれてるんやから、なんの事を艮の金神やひつくの神は言うてるのか、それすら気が付かへんのはどうかしてると思うんやけど…まあエエわ。
ほんでから“天”に付いては画像を作ったから貼っておきまんねん。
天の解字 

ほんでから次の文章は、今言うたのを踏まえて読むと、良く理解できる。

“天のひつくと申すのは天の益人のことぞ、
江戸の富士と申すのは、
ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、
仮でよいのぞ。”

この文の表記の“天の益人”も、現状より相対的な言い方で、今の人たち大半が“天の益人”では無いことを踏まえて言うてる。
前のブログで先生とも話したけれど、今の世界の大半の人は悪魔の傀儡であり、恨みの連鎖の霊的干渉を増やす結果になる事が価値のある事だと思い込み、物欲と、(通貨としての)金を求め、目先の薄っぺらい幸福感に酔い、価値のある筈の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)や“上”から垂れた思想である宗教などを形骸の価値感で金儲けの道具にしたり、腹の段階の心(靈)の発現で、低い功名心と自尊心を満たすための道具にしたりしている。そやからそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になり、ほんでからこの間から言うてるけど、アセンションや“日月神示”や人(日止、霊止)の在り方を説いた本を出版して自分の利益にしている人…自分の利益だけにしている人…そんな人たちは“天の益人”とは言われへんに決まっているし、アセンション後の創造を担う資格など到底ありえない。ほんでからそんな本を読んでもそれすら気が付かん人が大半…そやから下つ巻には言ってから“役員づら”って表記で示されてると思うし、“役員づら”と“天の益人”の違いをこの下つ巻 第二十六帖では指摘してると思える。
そやから今取り上げてる文章の“江戸の富士と申すのは、ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、”…この“江戸の富士”は、“江戸”は腹の段階の心(靈)の発現=“江”が、“上”に向かう=“戸”…これは横隔膜を示す表記でもあると思える。
そしてそれは、これも今まで言うたけど、腹の段階の荷電粒子の回転が胸の段階の荷電粒子の回転になって行く。それは日足(ひたり)回りでもあるし、それを示しているのが、大日如来の条帛(じょうはく)でもある。
そしてそれは、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)が、日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)になって行き、そのエネルギー=荷電粒子の回転は、胸の段階に移行すると“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になっていく。
そうなって行かんと自我の確立=固定化の霊的進化過程から“上”に行かれへん。
それは人(日止、霊止)の神格化への道程でもある。そしてそれは“慈悲”と“慈愛”と“一”=智性=1番目のオーラが、この文の表記の“宮”に示されてる。
“宮”って言うのんは宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、“呂”はエネルギーの“上”と“下”の回転を示す。
それは人(日止、霊止)が霊的進化した様子を示す表記でもある。
そやから現状の悪魔の傀儡になっている人達の進化過程って言うのんは、宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”の“下”の“口”だけみたいなもんやから、“下”の心(靈)の発現=貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の浮游霊の思惑と感応共振する。
それが又、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)って先生と話した。
そやからその悪魔の傀儡から“上”に向かうには=アセンション後の創造を担う霊的資格を獲得するためには、“天のひつく”“天の益人”でなければならないし、そやからこの文の表記“ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、”…これは、
“江戸の富士”に、“ひつくの家の中に富士の形作り”…“富士”は、宀(うかんむり、頭の意味)と“畐”で、そして“富士”の“士”は…画像を作ったから貼っておきまんねん。

 富士の解字 
そやから自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”…その心(靈)の発現は、アセンション後の創造を担える人となる。そうなって欲しいからこそ、次の文、

“こんなに別辞(ことわけ)てはこの後は申さんぞ。”
よく理解して欲しいって事でんねん。
ほんでから今回の下つ巻二十六帖では、“仮でよいのぞ”って言うてる。
それは何も今すぐ“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現で、そしてそれ由来の行動をとったならちょっと常識はずれな行動になる。それは、今の世界は物欲と薄っぺらい幸福感で満ちてるからなんやけど、そやけどそれを、“ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、”…“上”の思惑を取り込む意味での太陽凝視を“ひつくの家”と称し、“富士”と“宮”を創る。
それを自分の心(靈)の認識(悟り、幸取=さとり)として行かんと、自分自身の心(靈)は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的存在との感応共振は無い。
それを目指して欲しいからこそ、“仮でよいのぞ”って言われてる。
そして“上”との感応共振が大事だからこそ、それが自分の認識(悟り、幸取=さとり)になっていくのが大事だからこそ、次の文、

“小さい事はサニワで家来の神々様から知らすのであるから、その事忘れるなよ。”

この言い回しは“創造”の“主(ヌシ)”からの通信を、変圧の過程で、自分より少し“上”の霊的存在と感応共振し、そして通信を受け、自分の思想を構築して行く。
そやから“サニワ”=審神(さにわ)で、それは自分の心(靈)の動きに様々な霊的干渉がある事を良く知り、それが“上”からの通信なのか“下”からの通信なのか、それを自分で知らんならん。
それが“日月神示”の表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であり、自分の心(靈)の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分で見極める事になる。そやからこの文章はその事を言うてる…そやけどこういう言い方はこれまでも何回も出てきてるし、これからも何回も出て来るやろな。

ほんでから次の文、

“仏(ぶつ)も耶蘇(やそ)も、世界中まるめるのぞ。
喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ、この事忘れるなよ。”

この文の中の人の“仏(ぶつ)も耶蘇(やそ)も”って言うのんは、仏教と耶蘇(やそ)(イエス・キリストの事、イエスの中国語表記)で、自我の確立=固定化由来の低い功名心と自尊心は、宗教を自分達の権力に使い商売にしてる。
本当はもっと他の宗教も例に挙げるべきやと思うけど、あんまり長くなるから岡本天明はんに“日月神示”を書かせた存在は、たくさんの例を挙げなかったんやろな。
そやから今たくさんある(形骸の)宗教、それそのものが人の霊的成長を望まない存在の“思惑の顕現”=現象化でもあり、人の霊的成長を望んでる存在の通信なのかその逆なのかって事を今の大半の人は分析が出来へん。
本来の宗教は、霊的成長が神格化であり、それを果たして欲しいから宗教の開祖に“上”の通信があり、宗教の開祖は苦痛や苦難を自分の試練としたからこそ“上”との感応共振があり、そして宗教が出来たけど、今の宗教は形骸になり、腐りきってる。
そんなものはこれから崩壊し、すべての事象は自分の心(靈)の動きも含め、“上”と“下”、霊的成長って視点で“上”と“下”しかないことをこれからの人=アセンション後の創造を担う人たちは知っていく。
それが“世界中まるめるのぞ。”って言い方に示され、そして、低い功名心と自尊心で宗教を自分達の道具にしてしまった人たちに対し“喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ、”って言われてる。
そやからそんな形骸の宗教に携わってる人達は、自分達の価値感だけが素晴らしいって思い込んでるだけでんねん。
それは“上”から観たならば、妄想と、勘違いと、思い込みでしかなって事でんねん。
ほんでからそれは宗教に限らず、低い功名心と自尊心で価値のあるべき物事を何でも低いものにしてしまっている人たちすべてに言える事でんねん。そやから下つ巻 第二十六帖のこの文章は、その意味の事を言うてまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈

 

今回も下つ巻 第二十七帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、


この方は祓戸(はらへど)の神とも現はれるぞ。
この方祀るのは富士に三と所、 渦巻き 左回転 海に三と所、江戸にも三と所ぞ、
奥山、中山、一の宮ぞ。
富士は、榛名(はるな)に祀りて呉れて御苦労でありたが、
これは中山ぞ、
一の宮と奥の山にまた祀らねばならんぞ、
渦巻き 左回転 海の仕組も急ぐなれどカイの仕組早うさせるぞ。
江戸にも三と所、天明の住んでゐるところ奥山ぞ。
あめのひつくの家、中山ぞ、此処が一の宮ざから気つけて置くぞ。
この方祀るのは、真中に神の石鎮め、そのあとにひもろぎ、前の右左にひもろぎ、
それが「あ」と「や」と「わ」ぞ、
そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。
少しはなれて四隅にイウエオの言霊石 置いて呉れよ。
鳥居も注連(しめ)もいらぬと申してあろがな、このことぞ。
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の組立も、
みな七七七七と申してきかしてあるのには気がまだつかんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、
天のひつくの家には、どこでも前に言ふ様にして祀りて呉れよ。
江戸の奥山には八日、秋立つ日に祀りて呉れよ、
中山九日、一の宮には十日に祀りて呉れよ。
気つけてあるのに神の神示(ふで)よまぬから分らんのぞ、
このこと、よく読めば分るぞ。
今の様なことでは神の御用つとまらんぞ、正直だけでは神の御用つとまらんぞ。
裏と表とあると申して気つけてあろがな、
シッカリ神示読んで、スキリと腹に入れて呉れよ、
よむたび毎に神が気つける様に声出してよめば、よむだけお蔭あるのぞ。
七月の三十一日、一二 ローレンツ力と ○



この下つ巻 第二十七帖は、以下に列挙する言葉が解釈出来なければ、何のことなのか意味が解らへん。
そやから本文の解釈の前に、Kellyさん的に思う第二十七帖の重要な言葉の解釈を、先に言うておきまんねん。

渦巻き 左回転  海”、これは、今まで、前のブログでもこのブログでも言うたことなんやけど、日足(ひたり)回転であり、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)から、日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)に、心(靈)の動きが変わってくる事を指し、それはローム太霊さんの言葉の右往左往から左往右往にも示されてる。
そやけどほんまは、ローム太霊さんが言わはった右往左往と左往右往は、心(靈)の動きだけを指し示すのではなく、すべての事象には極性がある事を示し、そしてそれは砌(みぎり)の強化と日足(ひたり)の強化が時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう))と共に、現津(あきつ)=観察され得る事象で行われ、その事象の変化を、私達(の心(靈)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が(電磁波の受信で)感じ(感じる磁性)とり、自分達の認識(悟り、幸取=さとり)にして行く。
それが又、1番目のオーラの質に関ってくる。
ほんでから“海”は、“日月神示”内の表記の腹の水=“江戸と尾張”の“江”に相当する。そやから、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)から日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)に、心(靈)の動きが変わっていく事そのものが、左、日足(ひたり)回転であり、それは人が、動物に比べ、自我の確立=固定化をして、そして“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をして、更に智性を活かした行動=発振、発信をして、事象の“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く過程でもある。
またそれは、人(日止、霊止)の心(靈)の神格化のパターンでもある。
日足(ひたり)回転と砌(みぎり)回転は、画像を貼っておきまんねん。
腹の日足(ひたり)(“善”)回転と、砌(みぎり)(“悪”)回転 


ほんでから“カイの仕組”……前のブログで先生と話した“カイの御用”とは少し意味合いが違い、二十七帖では“仕組”って言われてる。
“カイの御用”に付いては、前のブログで、“櫂(かい)”、そして、胸より“下”の位(くらい)って解釈を、先生と話した。
その時話したのは、舟を漕ぐ“櫂(かい)”と“下”の位(くらい)…それは、腹の磁性の右往左往と左往右往でもあり、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)のエネルギーの強弱が、腹の磁性の強弱を作り出し、そして日足(ひたり)回転のように心(靈)が“上”に向かう。
だからこそ、“仕組”と言い表されてると思える。

ほんでから“富士”は、今まで何回も言うて来たけど、宀(うかんむり、頭の意味)と、畐、そして士は、“王”の一番目と二番目のオーラを指しその“一”=智性=1番目のオーラから“上”の“一”から胸の磁性“十”に降ろされてる上の思惑=荷電粒子をさすと思える。
それは、今までの地球人の霊的進化過程は、腹の段階=マニピューラチャクラの荷電粒子の回転と“上”との感応共振であり、その時の心(靈)の発現が自我の確立=固定化であり、それは人(日止、霊止)が独り神(ひとりがみ、日取り神)になるために必要な過程でもあるんやけど、もうその段階は卒業せんならん。
“富士”に付いては、前に作った画像を貼っておきまんねん。

富士の解字 



ほんでから、“奥山”“中山”…この二つの表記に共通する“山”は、高い心霊がよく使う脳の意味でもあり、そやからこそ、“奥山”=大脳の古皮質、“中山”=大脳の旧皮質やと思えるし、ほんでから“一の宮”は、“一”=智性=1番目のオーラの“宮”としか思えへん。そやからこの“一の宮”は大脳の新皮質、目上(めうえ)の脳で、それは1番目のオーラ、智性のオーラ、そして自分が持っている“力”を自分自身がどう扱って事象の創造をして行くのかに関る部分でもあるし、目上(めうえ)の脳そのものが動物と人間の進化の違いでもあるし、智性を持った動物としての言い回しが、下つ巻の後半に入って出て来てる表記の“ひつくの家”でもあると思える。
補足として、前にも解釈したことなんやけど、家は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)で、“日月神示”で言われてる“ひつくの家”は、智性を発現して行くべき動物って言う意味でもあると思える。そして“ひつく”は、太陽の振動を止める意味での、古神道で言う所の、日止、霊止って言う表記でもあると思える。

ほんでから“榛名(はるな)”は、“榛”は、植物のハシバミを指し、又、榛色(はしばみいろ)って色があるそうで、それは、くすんだ赤みの黄、黄色がかった薄茶色で、そやからこれも先生と前のブログで話した軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”に相当すると思える。
腹の段階の心(靈)の発現とオーラの色彩をさして言うてると思える。
ほんでから“榛名(はるな)”の“名”は、氏名=使命って言う意味。命名って言う意味やろし、そやからその“名”は“榛”=くすんだ赤みの黄、黄色がかった薄茶色を指し、マニピューラチャクラ以下からの発振、発信を指すと思える。

ほんでから“七七七七”…これは“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されている。
そやからこのことも前に言うたけど、“七七七七”は、大脳の四つの場(フィールド)、そして今まで何回も言うてるけど、“思”うって言う字は、心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質で“上”の荷電粒子と感応共振して出来上がる心(靈)でもある。
そやからこの下つ巻、二十七帖は、心(靈)の動きと心(靈)が“上”に向かう仕組を言うてるし、それは神格化への道程を指し示す表記やと思える。

そやから今列記したことを踏まえ、下つ巻 第二十七帖の解釈に入りまんねん。

冒頭の文、

“この方は祓戸(はらへど)の神とも現はれるぞ。”
“祓戸(はらへど)”の“戸”は、“一”=智性=1番目のオーラと尸(しかばね、かばね)で、人(日止、霊止)が“上”に向かう…肉体=尸(しかばね、かばね)を持ったまま、神に近くなっていくことを指した表記やと思える。
肉体を持ったまま神に近付いた人、現人神って言うてもエエやろけど、それは現状の地球人に対しての相対的な言い方やな。
そやから今後の世界=アセンションと認識される事象を通り越した場(フィールド)に位置出来る人(日止、霊止)を“この方”と称し、“現はれるぞ”と言い表していると思える。

ほんでから次の文章、
“この方祀るのは富士に三と所、 渦巻き 左回転 海に三と所、江戸にも三と所ぞ、”
“祀る”は、前回の第二十六帖にも画像を貼ったけど、“上”との感応共振を指す表記で、
感応共振する“上”の思惑=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から注がれる荷電粒子を取り込み、自分の心(靈)の構築にして行くことを指す。
ほんでからこの文章の“三と所”はプラス、マイナス、中性の三要素やと思える。
前のブログの最後のほうで、先生が言うた“メグリ”(帀)って部首に示されてる事でんねん。

ほんでから次の文章、

“奥山、中山、一の宮ぞ。
富士は、榛名(はるな)に祀りて呉れて御苦労でありたが、
これは中山ぞ、
一の宮と奥の山にまた祀らねばならんぞ、”

“奥山、中山、一の宮ぞ。”は、さっきも言うた通り人(日止、霊止)としての脳の構造を指し、特に“一の宮”は、人(日止、霊止)として持っている大脳の新皮質の事やと思える。
ほんでから“富士は、榛名(はるな)に祀りて呉れて御苦労でありたが、これは中山ぞ、”って言うのんは、“富士”が、さっき画像で示したとおり脳からの発振、発信を指す。
それは今までは、“榛名(はるな)”=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”=マニピューラチャクラからの発振、発信の色。
それは自我の確立=固定化の段階の進化過程を示し、今までと現状の大半の地球人の心(靈)の発現の進化過程でもある。
そしてそれは、“中山”=大脳の旧皮質、目下(めした)の脳の進化過程でもある。
そやから大半の地球人は、“榛名(はるな)”軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のオーラの発振、発信をし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になっている進化過程でもある。
そしてその心(靈)の発現と動きで求め、その進化過程の思いに“上”が感応共振することを“祀る”と称されていると思える。
そやから今までの進化過程を指して“富士は、榛名(はるな)に祀りて呉れて御苦労でありたが、”って言われてると思う。
そやけど今後=アセンション後は、そんな程度の進化過程=霊的成長度の人は、
“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉を、託されん。
それは前後するけど、この後出てくる表記の“あめのひつくの家”が大事で、
ひつく、日付く、日月=太陽と肉体(月部(げつぶ、にくづき))、これらの意味を、よう考えんならん。

ほんでから次の文章、

渦巻き 左回転  海の仕組も急ぐなれどカイの仕組早うさせるぞ。
江戸にも三と所、天明の住んでゐるところ奥山ぞ。”

さっき言うたように“渦巻き 左回転  海”も“カイ”も、ほんでから腹の水=“江戸と尾張”の“江”の意味での“江戸”も、腹の心(靈)の発現と動きを指す。
ほんでから“天明の住んでゐるところ奥山ぞ。”は、岡本天明はんに憑依して自動書記を行わせている事そのものが、岡本天明はんの認識による行為ではなく、単なる憑依現象であることを指していわれてると思う。
そやから霊媒体質の憑依現象って言うのんは、高い心霊のメッセージを直接伝える事はできるけど、それを伝えた人が霊的に成長しているのではない。
そやから岡本天明はんに対し、“奥山”…自分の思惑ではなく、“下”三つのチャクラの更に下等なエネルギーでこの憑依現象を行わせている…そういう言い方をしたんやろうな。
そやけど…このことは、
今、憑依現象でいろんなメッセージを受け取っている人すべてに伝えたいことでもあるな。
高い存在からのメッセージを伝えたからって言っても、
伝えた人は単なる受信機にしか過ぎず、霊媒体質って言うのんは腹の段階の進化過程で起きていることやって知っとかなアカン。
ほんでからそれ以前に、低い憑依現象が多く、何とか神と名乗ったり、ハイヤーセルフとか称したりもする。そんなもんはその人の低い功名心と自尊心を煽り、霊的成長させないための“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
そやから、ほんまに霊的成長したならば、それは憑依現象に頼らんでも、高い存在と同じような思惑を持つようになるもんでんねん。
そのことに付いても今後の“日月神示”内の表記に出て句るんやけど…話を戻し、
次の文、

“あめのひつくの家、中山ぞ、此処が一の宮ざから気つけて置くぞ。”
これもさっき言うた通り、“あめのひつくの家”は、天意を受ける、ひつく=日付く=太陽と肉体(月部(げつぶ、にくづき))…そして宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)。
ほんでからこの文の“中山”は大脳の旧皮質に近い部分の脳下垂体と視床下部やろな。そやからそれは脳下垂体=八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)やし、“ひつく”(太陽凝視)により“波羅密”…“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する事を指し示している文章やと思える。
そして人は“上”の思惑を取り込み、
“一”=智性=1番目のオーラを大きくして、宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)に、なって行く。
そやから“一の宮”は、霊的進化した人を指す表記でもある。

ほんでから次の文、

“この方祀るのは、真中に神の石鎮め、そのあとにひもろぎ、前の右左にひもろぎ、
それが「あ」と「や」と「わ」ぞ、
そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。”

この文の表記の“「あ」と「や」と「わ」”は、平仮名表記やから、
こちら側=人の立場としての表記でんねん。
カタカナ表記の“アヤワ”は、“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
コピペししときまんねん。

     

 
アは、 愛(炁)、アイのア、“亜”でもある
“「ヤ」”は、 “道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、 “その心は高台(たかと)高き段に進む”って、 書いてあった。
これは先生の概念の、 アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)… その心(靈)の動きって言うのんは、 自分の良いカタチを求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、 すべての良いカタチを求める。 そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、 高台(たかと)高き段…そう認識され得る何かを、求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、 その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、 同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、 “物を生む、生まれしものを和合する意”…とか、 生命(生きる使命=存在理由)の調整の義…そう言う表現がしてあり、 ほんでから、 Kellyさん的に思う“生まれしもの”…それは、現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、 事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、 自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、 呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。 そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、 和合で、それは左往右往でもある。 良いカタチの創造でもある。
それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。

     ↑
・・・以上でんねん

ほんでからもう一つ“日月神示”上つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈から、
コピペしときまんねん。

      ↓

“「や」とはその左の身魂、
「わ」とは右の身魂ぞ、
「や」には替へ身魂 や と ○=心(靈) あるぞ、
「わ」には替へ身魂 わ と ○=心(靈) あるぞ、”

この文章の中の、 “「あ」「や」「わ」”… と、“ や と ○=心(靈)わ と ○=心(靈)  ”…
この上つ巻 第二十六帖の表現自体が、 右往左往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きと、
左往右往の中の砌(みぎり)の心(靈)の動きの違いって事やと思えるな。
ちょっと複雑やから・・・今言うた事を簡単に表現すれば、
失敗を失敗と判らへんと…そう認識して無い心(靈)の発現の儘行動する…
それにもエネルギーはいるし、それは言うまでもなく、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)やけど、失敗を体験し、そして自省(胸の磁性“十”)して、
“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”と、“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心(靈)の発現をして、その心(靈)の発現をしたからこそ=自我より“上”の心(靈)の発現をしたからこそ、そやからそれは、霊的進化を少ししたからこそ、
よいカタチの創造を“上”から託される。
そやからそれは、 第二十四帖での表現でKellyさんが言うた事と反対やけど、
「あ」は、「ア」では無く、こちら側からの観察の大極の根元での「あ」であるからこそ、
「や」は“その左の身魂、”って言われ、それは、自分達が観察してる肉体と魂=身魂。
「わ」はその右の身魂で、それは繰り返すけど、左往右往の中の左と右、只単純に右=砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)と、左=日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)…って事では、なくなるって事でんねん。

    ↑
以上でんねん。

ほんでからこの文の後半の“そのあとに三つ七五三とひもろ木立てさすぞ。”は、
三つは、智性を持った肉体、人(日止、霊止)、豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)+宀(うかんむり、頭の意味)て言う意味での表記。

七は、“一”=智性=1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
五は、五感、感じる磁性、感じて認識して行くこと。
三は、七と五で進化して来た人(日止、霊止)の表記。三つのオーラを指し示す表記。
そやけどこの場合は、完成された人(日止、霊止)の表記としての“王”ではなく、
縦の磁性をさす(たて棒、コン)は書かれてないからこそ、今までの地球人の進化過程を指す表記やと思える。
そやからそれは、“ひもろ木立てさすぞ。”にかかり、“ひもろ木”って言うのんは、
神社や神棚以外の場所で、神を迎えるための依り代にするための“神籬(ひもろぎ)”やろから、それは“上”との感応共振をさす表記でんねん。
そして“ひもろ木”の“木”の表記は、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が合わさった表記でんねん。
何回も言うテルけど脊椎動物の進化過程は腹の段階の進化から胸の心(靈)の発現になる。
それを示すのが“十”やし、それは左往右往やし、日足(ひたり)の“行”でもある。
そうなって行かんと、そしてその心(靈)の動きと感応共振して心(靈)の構築をして行かんと、人(日止、霊止)は、今以上の進化をして行かれへんって事でんねん。

ほんでから次の文、

“少しはなれて四隅にイウエオの言霊石 置いて呉れよ。
鳥居も注連(しめ)もいらぬと申してあろがな、このことぞ。
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の組立も、
みな七七七七と申してきかしてあるのには気がまだつかんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、
天のひつくの家には、どこでも前に言ふ様にして祀りて呉れよ。”

“少しはなれて四隅に”って言うのんは、さっきの表記の“中山”=脳下垂体と視床下部に対しての言葉やと思える。そやからそれは大脳の新皮質の四つの場(フィールド)でもある。
余談やけど、思い(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と、男と、里…
これらに共通する“田”は、大脳新皮質によって出来上がる心(靈)の動きと認識(悟り、幸取=さとり)やって先生は思うてる。

“イウエオの言霊石”は、“上”の思惑を受信する帯電するミネラルの意味としての“石”やろな。
ほんでから、イとウに付いては“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、
コピペししときまんねん。

      ↓

“「イ」”は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + (たて棒、コン)
これも前に言うたけど、もう一回言うとけば、
“イ”は、神の思惑がこの世界に垂れた形を指し、
“「イ」”は、
息吹、伊吹、でも有り、
命(いのち)でも有り、
生きる、活きる、でもあり、
生きるって字そのものが、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でも有り、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)
ほんでから、“生”から、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)を外した残りの字は、
三 + (たて棒、コン)で、
この場合の(たて棒、コン)は“一”=智性=1番目のオーラの“上”から、
“下”に降りてる。
そやから、 頭より“上”って事でんねん。

息吹と命の“「イ」”は、 愛(炁)、アイ、のイでもある。
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、
生気生命の発生力って表現がされてる。
それはまさに、
“亜”“ア”が下に垂れる形が“イ”・・・
そう言う感じ(感じる磁性)を受ける。

ほんでから“「ウ」”は、
又、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
生物を生み出す力で、
産土(うぶすな)の“ウ”でもある。
そやから、
“「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ”

“「イ」「ウ」”は、
“身魂” に備わった仕組みでもあるし、
それは、
霊的成長=神格化=幸福の意味。
それを指し示し、
それを成さしめる仕組みでもあるからこそ、
“介添えの御用ぞ”・・・と、言われてると思える。
そやからそれは、
心(靈)が、
時間の進行=儿部(じんぶ、にんにょう)を、
(心(靈)が)認識し、
そして心(靈)は“上”に向かい、成長をする。
要は、
“「イ」「ウ」”で事象の創造をする。
それが、
人(日止、霊止)と神の性質とも言い得る、
観察と認識でも有り、
それは、
発振、発信と受信によって成されるって事でもある。

そやからこそ人(日止、霊止)は、
神に近づく事そのものが、
“上”に向かう事そのものが、
良いカタチの現津(あきつ)=観察され得る事象を望み、
それは、
心(靈)の呼吸、息吹、気吹、生吹、によって成される。
その事を極めて地球人らしい言い方をすれば、
人は幸福を求めるって事で、誰もが幸せになりたいし、
それを、“日月神示”の表現で言えば、
“うれしうれし”でもあるけれど、
それは現状に対し、
相対的な観察でもあるな。

    ↑
・・・以上でんねん。    

ほんでから“エ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、生命(生きる使命=存在理由)を生み出す源の音意。
“オ”は、生命発生の元根って書かれてる。そやから“イウエオ”はそういう意味合いのことなんやろな。
ほんでから“鳥居も注連(しめ)もいらぬと申してあろがな、このことぞ。” 
カタチだけの祭り、祀りではなく、人(日止、霊止)がそうなっていく。
“上”との感応共振をして自分の思想にして、自分の“思惑の顕現”=現象化、事象の創造をして行くってことを言われ、
“この方祀るのも、役員の仕事も、この世の組立も、
みな七七七七と申してきかしてあるのには気がまだつかんのか、
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、”
…は、“上”との感応共振で自分の思想=“七七七七”になっていくことを示し、それは上との感応共振をする帯電するミネラル=“石”を、自分の肉体=宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)に、取り入れ、そしてもう一度言うけど“祀る”=“上”との感応共振をする。

ほんでから、次の文は日付のことでは無いと思える。

“江戸の奥山には八日、秋立つ日に祀りて呉れよ、
中山九日、一の宮には十日に祀りて呉れよ。”

“八日”=肉体の左右の磁性、日足と砌(ひたりとみぎり)、ヨガで言うイダとピンガラと太陽=日。
“九日”=“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と、太陽=日。
“十日”=胸の磁性“十”と、太陽=日。
そやから“江戸の奥山には八日、”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江戸”は、左右の磁性の元でもある。
ほんでから“中山九日、”は、脳下垂体と視床下部=“中山”には、神の最後の仕事としての“九”がある。それは…このことも何回も言うたけど、翡翠(ヒスイ)の翠は、翆とも書き、それは羽=胸の左右の器官、九は今言うたばかり、十も敢えて説明せんでもエエな。

ほんでから、“秋立つ日に祀りてくれよ”…秋に付いても何回も言うたから説明しませんねん。要は胸の磁性“十”を立たせよ=発現せよって事でんねん。
それを立たせる秘訣は太陽=日にあるって言うてると思いまんねん。

ほんでから次の文、

“気つけてあるのに神の神示(ふで)よまぬから分らんのぞ、
このこと、よく読めば分るぞ。”

これも、ただ読めばいいってことではなく、発振、発信して感応共振して自分の心(靈)が出来上がっていく。それを知らんと頭の悪い人はただ読めばいいって思うやろな。
同様のことが次の文でも言われてて、

“今の様なことでは神の御用つとまらんぞ、正直だけでは神の御用つとまらんぞ。
裏と表とあると申して気つけてあろがな、
シッカリ神示読んで、スキリと腹に入れて呉れよ、
よむたび毎に神が気つける様に声出してよめば、よむだけお蔭あるのぞ。”

“神が気つける様に声出してよめば”は、“上”がほかっておかんくらいの発振、発信をして、“上”の存在を引き付けるくらいの“行”をしろって言う意味やとしか思われへんのやけど…形骸の“行”しかしてない人には、理解できんやろな。
そやからこそ、“行”をしてエネルギーを贖い(あがない)、“苦に苦を重ね苦を求め更に苦を求めるのだ、楽を求めてはいかん”って言うローム太霊さんの言葉くらいのことをせんと、“上”は通信を送ってこない。
それが“よむだけお蔭あるのぞ。”に示されてると思うやんか。

今回はこれくらいにしときまんねん。

ほんでからちょっとの期間、7月中旬位まで、先生は私事で忙しいようで、
そやからこのブログは、少し更新が滞る様でんねん。
悪しからず御了承くださいでんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈



前回の記事で、“7月中旬位まで、先生は私事で忙しいようで、 そやからこのブログは、少し更新が滞る様でんねん。”…と、お知らせしたんやけど、先生は一つ、大仕事(前のブログの出版のための入稿用原稿のチェック、六冊分)を終えましてん。
そやけど、まだまだやる事が残ってはいるけれど…それはと言うと、○○○療院の常連客が開催する数年に一度の日舞の発表会、そのプログラムの作成とか進行の手伝いとかの雑事…これはもう済ませましてん。ほんでからその発表会の写真撮影が残ってまんねん。それともうひとつ、毎年恒例の梅干の漬け込みが残ってる。
そやけど、もう先生のペースでできることやから、そやからこのブログは、ボチボチ更新して行きまんねん。

今回も下つ巻 第二十八帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

またたきの間に天地引繰り返る様な大騒動が出来るから、くどう気つけてゐるのざ、
さあといふ時になりてからでは間に合はんぞ、用意なされよ。
戦の手伝ひ位なら、どんな神でも出来るのざが、
この世の大洗濯は、われよしの神ではよう出来んぞ。
この方は元のままの身体(からだ)持ちてゐるのざから、
いざとなれば何んなことでもして見せるぞ。
仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、
仕まひにはその仮名に頭下げて来ねばならんぞ、
かなとは
ローレンツ力と ○ (カミ)の七(ナ)ぞ、神の言葉ぞ。
今の上の臣民、自分で世の中のことやりてゐるように思うているが、
みな神がばかして使ってゐるのに気づかんか、
気の毒なお役も出て来るから、早う改心して呉れよ。
年寄や女や盲、聾ばかりになりても、まだ戦やめず、
神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組もう見て居れんから、
神はいよいよ奥の手出すから、奥の手出したら、
今の臣民ではようこたえんから、
身魂くもりてゐるから、それでは虻蜂取らずざから、
早う改心せよと申してゐるのぞ、このことよく心得て下されよ、
神せけるぞ。
八月二日、ひつ九のか三。


今回の文章も、アセンションのことと、現状の地球人の霊的成長度のことを言うてる。ほんでから霊的成長度で分けることを言うてる。それを理解してないと、この文章は解釈できへんと思いまんねん。
そやからまず、冒頭の文、

“またたきの間に天地引繰り返る様な大騒動が出来るから、くどう気つけてゐるのざ、
さあといふ時になりてからでは間に合はんぞ、用意なされよ。
戦の手伝ひ位なら、どんな神でも出来るのざが、
この世の大洗濯は、われよしの神ではよう出来んぞ。”

この文章の中の“またたきの間に天地引繰り返る様な大騒動”…“さあといふ時になりてからでは間に合はん”…これは、アセンションが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑の顕現であり、神のプログラムであることを前提に言うてる。こんなことは、このブログと前のブログを読んでもらった人に、あえて説明せんでもエエんやろけど、アセンション後の創造を託されない霊的成長度の低い人は、アセンションって言葉に甘い夢を抱き、誰もが今後の世界に位置できると思いたい。そやから言うておきまんねん。
ほんでから“この世の大洗濯は、われよしの神ではよう出来んぞ。”…この文章の表記の“われよしの神”は、自己奉仕者、自分に対する愛(炁)しか発現していない人。その進化過程=霊的成長度においての神の認識(悟り、幸取=さとり)ってことを言うてると思える。
そやからそれは、程度の低い認識の人は程度の低い解釈しかしない。それぞれの霊的成長度に応じた認識ってもんがある。
そやから前のブログの“事象の形骸化”の中で、現状の地球人の平均的霊的成長度って言うのんは、価値のある何か…霊的成長のための指針となる事すら、自分達の商売にしてしまう。そのことを指摘した。(余談やけど、“事象の形骸化”は、出版される本の<4><5>になりまんねん)
そやから、程度の低い人(日止、霊止)の認識は、神であろうが霊的成長の指針となるべき宗教やヨガやオーラや主護霊の概念や…それら、とても価値のあるものすら、自分たちの商売に利用する。
ほんでから、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”…これは今まで何回も言うて来た、マニピューラチャクラの心(靈)の動き、そこから“上”の心(靈)の発現が足らん人、“慈悲”と“慈愛”を持っていない人、“石屋の仕組み”の段階の心(靈)の動き…いろんな言い方をして来たけど、心(靈)の発現が“上”に向かうのが霊的進化であり、進化の本当の意味を示すものでもあり、進化は神格化であり、人の神格化は神の思惑であり、神の“創造”の目的でもある。
そやからそれは、前のブログで、先生とKellyさんが長い話をした中での、結論の一つでもある。
人が、進化過程で=霊的成長度に於いて、心(靈)が育っていく過程で、神を意識しだしたなら、自分たちは、神格化…神に近づいて行くそのステップを思わんならん。
思うべきでんねん。
それがほんまの幸福(自分の認識の拡大=“一”=智性=1番目のオーラを増すこと=神格化)でんねん。こういう言い方をすると言葉は大げさになるんやけど、それをして行かんと、自分たちの世界は良い世界にならへんねん。ほんでからこの文章の表記の“この世の大洗濯”は、それを指して言うてる言い方でんねん。
それがまた人(日止、霊止)の“道”でもあると思えるんやけど、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)段階の心(靈)の動き)の段階の霊的成長度の心(靈)の動きは、なんでも自分の商売にする。それは、今、とても多なったアセンション関係の本でもそうでんねん。そやから、程度の低い心(靈)って言うのんは、価値のある何かを、なんでも自分の都合の良いものにしてしまう…利用だけするって事でんねん。
もっと簡単に言うたなら、アホはアホの解釈しか出来へんねん。
ほんでからアホの解釈を広め、アホを増やして多くの人を“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡にして、恨みの連鎖の霊的干渉を増して行く。それそのものが“石屋の仕組み”でんねん。
そやから、霊的成長度がある程度“上”になってて、それは平均的地球人よりも“上”って事なんやけど、そうなったなら自分が持ってる“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分でどう扱うのか考える。そしてその、自分の在り方由来の思想を、行動に移す=事象の創造に活かす。
そうなっていくのがまた“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”とか、“観自在”“直日(なおひ)”…そして自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、この世界=今の現津(あきつ)=観察され得る事象が、そういう霊的生長度の人(日止、霊止)の発振、発信で“創造”(神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉)されたのならば、価値のあるものは形骸にならない。誰もが本当の価値を認識出来るようになる。宗教も政治も天皇制もヨガも主護霊やオーラの認識もアセンションの情報も…etc…すべて自分達の霊的成長のための指針となるべきものであると認識され得るようになる。
そうなっていくのがまた、アセンション=霊的成長度に応じて、それぞれの(霊的)進化過程の場(フィールド)に振り分けられる事でもある。
そうせんと、それぞれ“上”と“下”の進化過程の心(靈)は、育ちにくいからやねん。そやからさっきも言うたけど“この世の大洗濯”は、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分の智性=“一”=1番目のオーラで見極める。それが完成された人を表した表記での“王”でもある。ほんでから自省(胸の磁性“十”)の心の動きを表した表記は“玉(ぎょく)”でもある。またそれが、“日月神示”内の表記では、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。

ほんでから次の文章、

“この方は元のままの身体(からだ)持ちてゐるのざから、
いざとなれば何んなことでもして見せるぞ。”

この文の“この方は”って表記は、霊的成長を果たし、アセンション後に位置した人の中でも、得に霊的に高く、“上”の思惑を直に感得し、今後の世界の“創造”に当たって指導者的な役目を持つ…その使命を託されてる人の事を言うてると思える。そやけど突拍子も無い事を言わんならんから、これ以上は説明をしませんねん。
ここまで先生の文章を詳細に読んではったなら、なんとなく判ると思いまんねん。

ほんでから次の文章、

“仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、
仕まひにはその仮名に頭下げて来ねばならんぞ、
かなとは
ローレンツ力と ○ (カミ)の七(ナ)ぞ、神の言葉ぞ。”

この文でも言われてる通り、“日月神示”そのものが人(日止、霊止)の神格化を説明し、神格化のステップであるアセンションを説明し、そして、それを伝えんならん理由と根拠は、今の世界=今の現津(あきつ)=観察され得る事象の創造をしてる人は、大半が霊的成長度が低いからやねん。
そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を伝えてるって言うてまんねん。 それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を含んだ荷電粒子でんねん。それを指して“神の言葉”って称されてまんねん。

ほんでから“ (カミ)の七(ナ)”…これも大半の人は解釈出来へんねん。
何回も言うた通り○は、荷電粒子の場(フィールド)、それは生命(生きる使命=存在理由)が縦の磁性を持っているから、心(靈)が育って行ったからでんねん。それとローレンツ力
ローレンツ力  でんねん。
ほんでから“七(ナ)”の“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でんねん。
ほんでから()内の“(ナ)”は“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)でんねん。
ほんでから“(ナ)”は、使命=氏名って言う意味での名=“ナ”やと思いまんねん。
要は“一”=智性=1番目のオーラの大きさ=認識の拡大した心(靈)が、今後(アセンション後)の世界の“創造”をして行く。それを言うてると思えるんやけど、この文章自体が中々気のきいた複雑な言い回しの表現でんねん…とても、平均的霊的成長度の地球人には解釈出来へん言い回しやと思いまんねん。

ほんでから次の文、

“今の上の臣民、自分で世の中のことやりてゐるように思うているが、
みな神がばかして使ってゐるのに気づかんか、
気の毒なお役も出て来るから、早う改心して呉れよ。”

冒頭の“今の上の臣民”は、今活躍してる人たち、形骸の価値観で上に立ってると思われてる人たちの事でんねん。経済のトップとかアホみたいな政治家とか、アセンションや“日月神示”の解釈本を売って儲けてる“役員づら”の人たちとか…要は、その人たちの心(靈)の動きは自己奉仕者でしかなく、“石屋の仕組み”でしかなく、ほんでからそれは現津(あきつ)=観察され得る事象としての右往左往…失敗の世界で失敗の認識を得て自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る。入らんならんから失敗せんならん。
自分たちの今までの創造が間違ってるって認識せんならんからこそ、経済の破綻や、政治家が如何にトロくっさいのか暴露されつつもあり、アセンションや“日月神示”を利用して自分の利益のために本を売ってる人たちも、これからその自己奉仕者ぶりが問題になるやろな。ほんでからそれを指して“気の毒なお役”でんねん。
そんな人たちがアセンション後の世界に居てるなら、今とおんなじ、腐った世界にしかならへんねん。そやからそれはかわいそうって言う意味ではなく、気、の、毒…発信される振動(息吹=心(靈)が吹く)が他者を害する“毒”でしかないってことを言うてると思いまんねん
話を戻し、アセンションに伴う経済の破綻や天変地異や戦争…きっとこれから起きるやろけど、それを体験した心(靈)やからこそ、今後の自分たちの存在の在り方…生きている死んでいるに関らず、自分の心(靈)の在り方ってことを考えていくようになる。
そういう意味で、“神がばかして使ってゐる”って言われてて、それは程度の低い心(靈)が低い解釈の神の概念を持つことをさっきいも言うたけど、下つ巻 第二十八帖内の表記での“神”やから、そのことを指してると思える。
そやからこれも“上”のちょっと意地の悪い言い回しで、神の認識を低くしてるのは、自分たち、自分の心(靈)の霊的成長度なんやって、あえて強調している文章やと思えるな。

ほんでから次の文章、

“年寄や女や盲、聾ばかりになりても、まだ戦やめず、
神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組もう見て居れんから、
神はいよいよ奥の手出すから、奥の手出したら、
今の臣民ではようこたえんから、
身魂くもりてゐるから、それでは虻蜂取らずざから、
早う改心せよと申してゐるのぞ、このことよく心得て下されよ、
神せけるぞ。”

この文章の要(かなめ)は、“奥の手”と“身魂くもりてゐるから…改心せよ”やろな。
そやからまず“奥の手”を解釈すれば、今までフォトンベルトって言うのんは、大日如来の条帛(じょうはく)に相当するとか、加速された荷電粒子やから白く光ってるとか言うて来た。ほんでからアセンションの時期=タイムスケジュールに合わせ、フォトンベルトに近付いてきてるって観測されてる。そやからこれまでも言うたけど、フォトンベルトの荷電粒子は人(日止、霊止)の自省(胸の磁性“十”)を促す。そこでフォトンベルトの荷電粒子と霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が“上”に向かう反応をすれば、今後の世界の良い“創造”と今後の自分の在り方を考えて行く。
そやけど、その反面、自分の在り方を振り返る人が多くなってるからこそ…増えてきてるからこそ、そこで、心(靈)が折れてる人の中で、たくさんの浮游霊に心の動きを支配されてる人たちは、自分を悔いて恥を知ったりして自殺をしたりもする。
これもアセンションに伴う事で、自省(胸の磁性“十”)の“行”には違いないけど、行き先は地獄(と認識されうる場(フィールド))で、地獄で自分の在り方を振り返る、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を見せられて、認識を改めるってことになる。
そやから、その人の霊的成長はとても時間が掛かり、霊的進化は遅れる…それが人(日止、霊止)の進化を阻む思惑=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもありまんねん。
今言うたことを踏まえ、この文章を一つ一つ読めば、
“年寄や女や盲、聾ばかりになりても、まだ戦やめず、
神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組もう見て居れんから、”…これは、
“年寄や女や盲、聾”…年寄は、砌(みぎり)のエネルギーを失った人、その反対は、クサカンムリに右=砌(みぎり)、これは現津(あきつ)=観察され得る事象の創造に関わるエネルギーでもある。ほんでから“女”は、男の思惑を後世に残す…子供を産んで男の思想を受け継がせる役目。ほんでから、男って言うのんは、その字を観ると上半分は“田”…これは思うって言う字の上半分と共通で、心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質を指し示す。ほんでから“田”の下の“力”は、事象の“創造”のための“力”を指し示す。
そやから、女だけではこの世界は出来上がって行かへんねん。
男と女は、神の極性、日足と砌(ひたりとみぎり)…言い換えれば“思惑と顕現”(“亜”“ア”から“出づる、泉、”“イ”=愛(炁))の現われでもあるからやねん。
ほんでから“盲”“聾”って言うのんは、障害者を指す表記ではなく、認識の低い人は高い振動を受けられへん。そういう意味の事でんねん。低い認識の人=霊的成長度の低い自己奉仕者は、価値のある何かを自分の認識の程度に応じた低い解釈をして、低い心(靈)の動きで利用する…さっき言うたばかりやな。
そやからそれは“上”の思惑を体得出来て無いし、ただ言葉だけ知ってて、金儲けに利用して、弄んでるだけでんねん。
そやから今の世界は、そんな人ばかりの世界になってて、それでも奪い合ってるから“まだ戦やめず、”と称されてる。
そやから“神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組”…神さんは、人の幸福を願ってる、人の良い在り方を願ってる。それが顕現できた事象=場(フィールド)を“神の国”と称されてる。ほんでからその“たね”=要因としての“たね”を“人だね”と称されてる。それを無くすのが“悪(心の動きの本能化と低振動化)の仕組”でんねん。
そやから“神の国”を顕現する…それがさっき説明した男って言う字の“田”と“力”に表れてて、この文章の表記の“神の国の人だね”は、日足(ひたり)の極性であり、それが人の性別に顕れてて、良い世界の構築をして行く役割は、その性別は男である。より良い思惑=日足(ひたり)を構築する性別が、男であるって事でんねん。
そやけど、こんなんおおっぴらに言うたなら、田○○子はんに怒鳴られそうなんやけど…今、自分の思想を誇る事が出来ない=たいした“行と修行”をしてない=苦痛や苦難を霊的成長するための試練ととらえられない低い心(靈)の動きのトロくっさい男ばっかりやから、きっと田○○子はんみたいな人が、チョ~~怒ってまんねん(笑)

ほんでから次の文、
“神はいよいよ奥の手出すから、奥の手出したら、
今の臣民ではようこたえんから、
身魂くもりてゐるから、それでは虻蜂取らずざから、
早う改心せよと申してゐるのぞ、このことよく心得て下されよ、
神せけるぞ。”
さっきも言うた様に“奥の手”は、“上”の思惑を含んだ荷電粒子の振動で、それは人の自省(胸の磁性“十”)の“行”を促す作用がある。
それに反応出来へん霊的成長度の心(靈)を指して、“ようこたえん”=感応共振出来ない。
ほんでから、“身魂くもりてゐる”=自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を判別できる智性を持ってない=自分自身の、事象の“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉に、“善悪”(神格化と、動物化=悪=亜の心=心の本能化)を見出すことが出来ない=“一”=智性=1番目のオーラが小さい。
ほんでから、“早う改心せよ”=自省(胸の磁性“十”)して“観自在”して“直日(なおひ)”せよ。
…そういう事でんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈



今回も“日月神示”下つ巻 第二十九帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、
それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。
白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、
薬のお土もあれば喰べられるお土もあるぞ、
神に供へてから頂くのぞ、何事も神からぞ。
八月二日、一二ローレンツ力と ○  。


この文の表記の“土”そして“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”これは、今までの解釈からして“土”=2~3番目のオーラ、その受発信は肉体の構造に由来する。あるいは、“土”そのものが(物質である)肉体を言い表した表記やと思える。
ほんでからそれは、帯電するミネラルをさすと思える。
ほんでから五行思想では、“白、赤、黄、青、黒”は、肺、心、脾、肝、腎、に相当する。
そやからそれは、肺=“悲しみ”、心=“喜び”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”腎=“恐れ”(本能)…それぞれの心(靈)の動きを指していると思える。その心(靈)の動きそれぞれは、霊的成長のためのものであり、神格化への心の動きを指し示す表記やと思える。
 心(靈)の発現は、進化過程の最初は本能から始まり、そやから先生は、前のブログで本能って心(靈)の発現しかしていないミミズ、ヒル、ゴカイ君達のことをよく引用した。
ほんでから本能より“上”の心(靈)の動きは、情動であり、情動と本能がプラスされて低い欲望になり、それは自ら(みずから)が、個を意識する(独り神(ひとりがみ、日取り神))になる過程)ことと同義でもあり、そして自我が発達し、そこから“上”の心(靈)が発現していない人は、自己奉仕者になり…そやからそれは、何回も言うてきた進化過程=霊的成長の過程なんやけど、自我の発達は、その心(靈)の発現=霊的進化過程は、四足獣の領域とも言い得る。
ほんでからその“上”の進化は、直立歩行をし始めた猿、それは直立したことにより、マニピューラチャクラの強化が行われる(腹と腰の筋肉の強化と腰椎に掛かる上半身の体重の負荷、腰椎に掛かる負荷そのものが圧電を引き起こし、椎骨の結晶化を促す)。
そしてもうひとつ、手を使うようになった。それは前足が手の機能を発現する=指先の神経が密になる=胸の磁性“十”の発現でもある。そして手を使うようになって大脳の前頭葉が発達してきているように観察される。
こんな説明では解りにくいやろけど、このことは前に先生が前のブログの、思惑と顕現 “その八” 摩多羅神 (またらしん)で、一部説明した。
ほんでから今Kellyさんが言うたこの概念は、生命(生きる使命=存在理由)の霊的成長=生物の進化…進化の意味は霊的成長と神格化、ほんでからそれは、神の“思惑の顕現”=現象化でもある。先生はそのことに確信を持ってはる。
そやから、この文の表記の“土”そして“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”に付いて、ちょっと長い説明になってしもたんやけど、今言うたことを踏まえ、この第二十九帖の文章を解釈すれば、
“神の土出ると申してありたが、土は五色の土ぞ、”
これは一言で言えば、心(靈)の動きが肉体に反映する事を言うてる。“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもある。ほんでから“気血栄衛(營)”の大切な要素である事象の観察による心(靈)の動きは、自分達の心(靈)の動きになるってことでもある。
ほんでから、この下つ巻 第二十九帖の表記では、わざわざ“神の土”って断ってある。何のために“神の土”って言うてるのか、それを考えんならん。そやからそれは次の文章につながっていく。
“それぞれに国々、ところどころから出るのぞ。”
この文章の表記の“国々”は、“玉(ぎょく)”と(囗)くにがまえやと思える。
人(日止、霊止)の完成された姿、霊的進化を果たした姿を“王”と言う字で示され、そして人(日止、霊止)が、霊的進化して行く心の動きを表現した字が、“玉(ぎょく)”って、先生は前のブログで言うた。そやからこの文の表記の“国々”は、外側の事象の観察で得られる日本とかアメリカとかロシアとかの国って言う意味ではなく、人が神格化して行くための心(靈)の動き=“玉(ぎょく)”に(囗)くにがまえを足した表記やと思える。
そやからこの文章の表記の“ところどころから出るのぞ。”は、さっき説明した、“白、赤、黄、青、黒”は、肺、心、脾、肝、腎、に相当し、それは、肺=“悲しみ”、心=“喜び”、脾=“思う、憂う”、肝=“いきり立つ心(奴と心)”腎=“恐れ”(本能)…それぞれの心(靈)の動きを指していると思える。
それが次の文、“白、赤、黄、青、黒の五つ色ぞ、”さっき説明したとおりでんねん。
ほんでから次の文章、
“薬のお土もあれば喰べられるお土もあるぞ、”
神格化のための役に立つ心(靈)の動き、それは、心(靈)の動きそのものが事象の観察による肉体内の電磁誘導でもあり、その電磁誘導による生体内電流は帯電するミネラルに蓄積され、骨として固まっていく。その激しいものが、生体内電流の強化が“行と修行”でもある。その結果は、修理固成と真固止でもあり、神格化の方向性として言い表されてることでもある。そやからこの文は、それを言い表した表記と思える。
そやから“薬”=今より“上”に向かうためのこと、今の心(靈)が病んでいるからこそ、神格化の方向性に向いていないからこそ、それは自己奉仕者の心(靈)の発現やからこそ“薬”って称されてる。
そして、肉体と心(靈)で感じ(感じる磁性)、自分の一部になっていく情報を含んでいる“土”=帯電するミネラルやからこそ、“喰べられる”と言い表されてると思える。
ほんでから次の文も、今言うたことを踏まえて読むと、深い意味がある。
“神に供へてから頂くのぞ、何事も神からぞ。”
この文の“神に供へてから頂く”は、自分がエネルギーを贖ったって表記でんねん。
何かの目的のために、欲望や希望や、その目的が程度の高い低いや、善悪はあっても、人は、エネルギーを贖う(あがなう)んやけど、その対象や、その時の自分の在り方=“どういうつもり”で、頑張って(元の気を張って)努力(肝=“怒り、いきり立つ心(奴と心)”で“力”を示し、現象化=現津(あきつ)=観察され得る事象にして行くのか…それそのものが砌(みぎり)の“行”でもある)をして行くのか。
そやから程度の低い心の発現の人は、右往左往から始まり、教訓を獲得し、今後の在り方を思うことができ、その教訓を活かしながらエネルギーを贖い(あがない)、そして事象の“創造”=神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉をして行く=左往右往になる。
そやからそれは神の思惑ってもんが活かされた事象の“創造”になるべきやからこそ、“何事も神からぞ。”って結ばれてると思う。                                

ほんでから、この、下つ巻 第二十九帖の表記の“神の土”…これに関しては、富士の巻 第十一帖に“神土(かみつち)”って表記がある。そして富士の巻 第十一帖は、同じく第十二帖に続いてる文章でもあるので、その時に再度、今言うたことを踏まえ、もう一度じっくり解釈しまんねん。
ほんでから前に解釈した、上つ巻 第一帖にも、
“このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。”って表記があり、やはり“お土”は、神格化に向かうための肉体の表記やと思える。
(“善(神格化の方向性と智性の受信)” “身魂掃除”“身魂洗濯”=心(靈)の在りようを自分の智性=“一”=智性=1番目のオーラで見極めること)
ほんでから天つ巻第二十帖にも、
“神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、”って表記があるし、そやから“土”って表記は、今後も出てくると思える。そやからKellyさんは、そのたびごとに、“土”=肉体って解釈で読み解いていくつもりでんねん。
ほんでから、この表記そのものが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の選んだ言葉でもあり、一貫した法則性を感じさせる意味深い言葉やと思いまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”下つ巻 第三十帖 Kellyさん的解釈


今回も“日月神示”下つ巻 第三十帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

八のつく日に気つけて呉れよ、
だんだん近づいたから、辛酉(かのととり)はよき日、よき年ぞ。
冬に桜咲いたら気つけて呉れよ。
八月二日、ひつくのかみ。

この文の表記の“八”は、肉体の左右の二つの磁性やと思える。何回も言うたことでんねん。
ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金の意味がある。
そやからそれは陰の金、木火土金水の金、それは五臓で言えば肺=“悲しみ”でもある。ほんでから“辛酉(かのととり)”は、陰の金って意味が二つ重なっている。それを五行思想では、比和(ひわ)って言い表されそれは、同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には益々良く、悪い場合には益々悪くなる。
そやから陰の金は肺=“悲しみ”であり、それは“慈悲”と“慈愛”を発現して行く(アナハタチャクラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”)霊的進化過程でもあると思える。
自省(胸の磁性“十”)を果たさんならんからこそ、やってきたことがばれたり、恥をかいたりする事象が多くなってる。それもフォトンベルト=加速された荷電粒子、白光する神の思惑、大日如来の条帛(じょうはく)、その影響を受けているから、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入り、自分の在り方を考えんならん。そやからその人たちが創り出してるその事象って言うのんは、例えば、うまい事やって儲けた人は、ばれて、恥をかかんならん。そうやって自省(胸の磁性“十”)をする。そして自分の人生を恥じ入り、その人の心(靈)は、肺=“悲しみ”でいっぱいになるやろ。
その過程を踏んで行かんと、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”は発現せん。その意味のことを言うてると思えるな。
ほんでからこの文章の最後の表記はその時期のことを言うてると思える。“冬に桜咲いたら”…冬に桜(そめいよしの)咲く狂い咲きのニュースは昨年暮れにあったやんか。そやから、もう、その時期に入ってまんねん。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

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このブログを書いている○○○の、
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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