“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。

前回のアップロードで、
前に先生と会話した中での先生の“日月神示”の中の解釈を、
一部紹介したんやけど、
それ以外にも先生は色んな解釈をしてはる・・・

それは・・・先生は、前にこういう言い方を何回もした。
それは、当たり前の言い方やけど・・・
“言葉は事象を認識する道具”・・・って。

ほんでからにKellyさん的に思うんは、
言葉や字って言うのんは、
それそのものが、自分自身の認識でもあり、
そやからそれは、
自分自身の認識でしか無いって事や。

それは、言葉だけに限らへんのやけど・・・
例えば、自分がやった事が他人に誤解されたりするのも、
認識の違いって事やし・・・
自分の思惑は自分以外には伝わり難い・・・
認識の違いって言うのんは、いろんな問題を含んでる。
それで先生が憂いている事の一つは、
ローム太霊さんがS会で伝えた主護霊の定義・・・
とんでもなくエエ加減な解釈をしてはる人が多いやん。

・・・話が逸れそうやな。

そやから、言葉や字って言うのんは、
情報を伝えるもんや。認識を伝えるもんや。自分の心(靈)の動きを伝えるもんや。
色んな事があるけど・・・伝えて認識させた言って事やな。
そやけど、
それはおんなじ字を見ても、おんなじ言葉を聴いたとしても
その人(日止、霊止)の認識の程度によって(霊的成長度の違い)、
認識の程度の差=解釈(受信)の違いって事が起きるやん。

認識の違い・・・そやからこそ、
先生と長い話をした“事象の形骸化”・・・って事が起きてる。
ほんまの事とか貴い事とか・・・それは、
低い心の発現しかしてへん人にとっては商売のネタでしかない。
自分の利益を考える心(靈)の発現しかしてへんからや。
何で自分がこの世界にいてるのか・・・そんな事を考えへんやろし、
そやからそう言う人は、
貴い何かを見ても商売のネタ・・・それしか思いつかん・・・
他の事を考えるべき心(靈)の発現をしていないっちゅう事やねん。
そやから・・・商売のネタ=自己奉仕者の心(靈)の発現。
それ以上の心(靈)の発現って進化過程では無いって事やな。
ほんでからにそう言う人は、
少しほんまの事とか貴い事とかを知ってたとしても、
無視してる。心の中で無視してはる。
そやからそれは・・・自分の利益の為に・・・
さっきも言うたけど、それは腹の段階の心(靈)の発現やから、
腹から“上”の胸由来の心(靈)の発現をしていない。
そやから、低い功名心とか保身とか・・・
そう言う進化過程の人(日止、霊止)は、
行動を見れば自己奉仕者になる。
そう言う心(靈)の動きで何でも見てしまいよるからや。

ほんまの言葉や字や・・・色んな事象・・・
その何かが示す価値って言うのんは、
その人の、
認識の程度って言うのが、
ある程度高くないと、
ほんまの価値を表す事が出来へん。

そやからこそ、言葉だけが上滑りするって言う事も起きるやんか。
その判り易い下らないとも言える例を挙げれば、
正義とか真実か言ってる人が戦争を仕掛ける張本人やったりもするし・・・
最近目に付いたって言うのんか・・・この間うち毎日のように報道されてた事やけど・・・
無実や無実やって言い続けてても、
自分のやった事(発振した結果)は絶対に消えへんから、
それは、
何かしでかした事自体が、自分の心(靈)の中の認識なんやから、
それは、認識って言うのんは、
自分の心(靈)の中の事なんやから、
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)”“その八” 参照)

自分の外側の事をどう取り繕っても、
やった事の結果は、自分の思いの結果は、
絶対自分に返って来て、
そして、それは、
それが間違ってたら・・・人の進むべき道とも言える、
“善”・・・神格化の方向性と智性の受信から外れてたら、
次にやってくる事は“神の咎め”でもあり、
それはこちら側の見方からすれば、
(人の立場、バチを当てて霊的成長を望む存在からではないって言う意味)
バチが当たったとも言えるし、
前にKellyさんが調べたみたいに“禍”って事になる。
(個人々々の振動の違い 参照)

只、単に間違ってる・・・只それだけの事なんやろけど・・・
霊的成長って認識が無いから・・・
生きてる間だけが自分のすべてって認識やから、
やった事を取り繕ったり、誤魔化そうとしたり・・・
人に危害を及ぼしても自分だけ楽しく生きようとしたり・・・
それは、そう言う考え自体が低い進化過程の幸福の概念って事や。
そやからこそ自分の利益の為に・・・いろんな事をして、
自分には罪は無いと思いたい。
誤魔化す事、取り繕う事・・・
それも自分のエネルギーを贖う(あがなう)事には違いないけど・・・
生きている内の“行”とも云える事やろけど・・・
多分・・・意地になってムキになって・・・それなりに沢山考えて頭使ったりして、
そうやって、頑張って(元の気を張って)・・・
しのいで来たやろけど・・・
ほんでからにその心(靈)の動きに応じた霊的干渉が有って、
更にそれは悪霊に取り憑かれる結果になるやん。
霊的干渉は・・・その“力”の発現って言うのんは、
自分のエネルギーを、どれ位贖ったかによる。
そやからこそ、自分の心(靈)の動きを・・・
“上”に向かうべき心(靈)の動きを見失う霊的干渉が、
起きてるって言えるやろし・・・
そやからこそそれは、二十年も経ってから逮捕されんならん。
そう言う機会を与えんとその人は、
自省(胸の磁性“十”)の行に入らへんって事や。
それは、
それまでは右往左往の人生やったんやろけど、
これからは、左往右往の人生に入る・・・
そう言う機会を与えられた。

そう言う機会そのものが、
その人の霊的成長を望んではる存在の思惑って事やんか。

そやから・・・そう言う心の発現の段階の存在は、
自分の保身の為に、利益の為に、
奪うって事自体が、
ある程度の期間・・・その人の進化過程に必要な事なんやろけど、
それは、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きやろし・・・
それをして行かんと、
腹のエネルギーとも言える、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”・・・その強化にならへんって事や。
そやけどそれは、
少し“上”から観た霊的成長って視点から言って、
間違ってるに決まってる。
そやから人(日止、霊止)は、“神の咎め”やバチ当たった事・・・
それを教訓にして、自省(胸の磁性“十”)と“直日(なおひ)”・・・
そう言う心(靈)の動きをして行かんならん。

そやけど・・・違う事考えてしもたやん。

言葉や字に対する認識・・・
“日月神示”の解説本は、只単に言葉の解釈しかしてへん感じやし・・・
先生の“日月神示”の解釈・・・それは、
一部の文章しか解釈してへんけど、
先生は多少、
平均的地球人より頭のオーラが大きいって自分で言うてはる。
・・・そりゃ・・・そうやろな。
一日数時間の太陽凝視を・・・若い頃は色々迷ってサボってた時も有った様やけど、
今は、時間の許す限り太陽凝視してはる。
そやから・・・
普通の人から観たらとんでもないって思えるような解釈をするんやろ。
それは・・・先生の立場・・・その観点・・・視点・・・
普通の人よりは日月神示を伝えた霊的存在に霊的成長度が近い・・・
そやからその思惑を理解しやすいとも言える。
そやからこそ、
“日月神示”の解釈って言うのんが、
只、言葉だけの解釈に終わってる事自体が、
先生の言い方・・・“事象を観察する視野が狭い”・・・
Kellyさん的にも、そう言う風にしか思えへんやん。

そう言う点でも、
先生がこの間ベランダのほうれん草を収穫しながら、
Kellyさんに言うてたのは、
字の書き方、ペンや筆の動き、そう言うもんにも意味がある・・・
先生はそう言う解釈をしてはるようや。
それは、
前にも先生は、丿部(へつぶ)は、“日月神示”の
ローレンツ力と ○の中の点、 ローレンツ力が、
“下”に降りた形・・・って我田引水な解釈をしたやん。
ほんでからにそれは、
神さんが・・・
創造主がこの世界にしるしたって事やって言う言い方をしてはった。
(“上”の思惑の顕現 “天の御目” 参照)

ほんでからに、
創造主や1番目のオーラって言う意味での、
“一”って言うのんも、
向かって左から右、
日足(ひたり)から砌(みぎり)・・・
そやからこそそれは、神さんの思惑の顕現で、
それで出来てる場(フィールド)が、
太陽=(囗)くにがまえに“一”=“日”って言う字で、
その事も先生は前に説明してくれたんやけど、
この間もその補足として先生は、
亜は、点として顕されて、
それが太陽の象形文字になってはる。

日、太陽の象形文字

そやからそれは、一番最初の状態から筆を動かす。

“一”と愛(炁)

“亜”から向かって右に筆を動かして右端で止める。
それが、アイ、愛(炁)って事やって、ほうれん草を引っこ抜きながら、
先生は言うてはった。
それは、創造の始まりって言うのんか・・・
一番最初の状態が、
只の点として示されているとしたらって事なんやけど・・・

そやからそれは、
“一”=智性=創造主のオーラ・・・
それは、アイ、愛(炁)って言う意味を持ってる。
それを人(日止、霊止)が獲得したら、
三つ・・・1~3番目のオーラに分かれ、
それぞれの心(靈)の動きになるんやろけど・・・

ほんでからにカタカナの“アイ”って言うのんは、
“ア”は、
“一”の右端から左下に下りてる、更にその下に、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)のような書き方をしてる。
ほんでからに“イ”って言うのんも、
丿部(へつぶ) + (たて棒、コン)・・・
それは神さんの思惑の顕現が“下”に降りた。
そう言う風に見えるって言うてはった。

もういっぺん言えば、
亜・・・一番最初、
創造の始まりは向かって左にあり、
それは左=日足(ひたり)で、
それが出・・・いずる、泉って言うのんは、
亜が、右=砌(みぎり)に動いた状態を示してて、
そやからこそそれは、
それそのものが、
創造主の思惑の顕現という意味での創造を示し、
それは、“アイ”・・・愛(炁)って事やろし、
そやから先生の説は、
こんな風に、筆なりペンなりを動かすって言う事自体に、
意味があって、
その意味を読み取らんと、
ほんまの事は解らへんって思うてはるようでんねん。

ほんでからに・・・今は数字の事を中心に言うてるけど、
それはカタカナや漢字・・・更にKellyさん的には、
“日月神示”に書かれてる図みたいなもんにも、
そう言う意味があると思えるやん。

ほんでからに、“一”から“十”にしたって、
漢和辞典を観ると、当たり前の事からいろんな意味が書いてある。


“一”・・・これも漢和辞典を見ると、
Kellyさん的にこれは重要って感じた意味は、
ひとつ、最初、はじめ、根元、混じりけのない・・・
これも今思うたみたいに、
創造の思惑の顕現って・・・アイ、愛(炁)って、
一番最初って事かも知れへんし・・・
改めて考えさせられる事やな。

“二”は、
これは順序が逆になるけど、“三”が三つのオーラ、
人のオーラの構成を示している事から考えて、
“二”は、2~3番目のオーラ・・・そしてそれは肉体のオーラって事や。
漢和辞典では、
ふたつ、つぎ、二番目の、ふたつに分ける、ふたたび(再び)、二回、ふたとおり・・・
やっぱり改めて辞書を引くと、
色んな事を考える表現が出てくる。

ほんでからに・・・

“三”は、先生の解釈は今言うた通り。
漢和辞典では、
“一”を三つ積み重ねて、“天”“地”“人”って言う意味を持ってるって書いてある。
これも意味深な事やねん。
ほんでからに、みたびとか、おおいとか、しばしばとか・・・
それは再三とか三度とか幾度もとか・・・
それはまるで、
さいしょの左往右往は、これはアイ、亜が出る、いずる、泉って事や。
神さんが創りはった生命って事や。
ほんでからに人の行動としての右往左往・・・それから神さんの思惑に沿った、
霊的進化した人(日止、霊止)の行動が左往右往する・・・
もういっぺん言えば・・・
一番最初に、
心(靈)の発現があるからこそ、創造主の認識って事が起きたから、
(“天の御目”の大神 参照)
事象があり、
事象を認識して・・・それは、
生きてるって言うてもエエんやろけど、
それが一番最初の左往右往で、
ほんでからに、生きてる間に色々体験してやってみてから教訓を得て、
右往左往して・・・ほんでからにそれは、
生きてる死んでしまうに関わらず、
左往右往して自省(胸の磁性“十”)の行をする。
そう言う意味を持ってるように感じるやん。

ほんでから・・・

“四”・・・これは、
今までの先生の話から考えて、
(囗)くにがまえに儿部(じんぶ、にんにょう)って見える。
人の歩く様子=儿部(じんぶ、にんにょう)・・・それは、
時間の進行を伴う意味での、(囗)くにがまえ=場(フィールド)の構築・・・
そんな感じに思えてくるやん。
漢和辞典では、“四”は、象形文字で、
開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子って事らしく、
それは“息をつく”って言う意味を持ってるらしいやん。

四の象形文字
息・・・それは、
息=自分の心(靈)・・・で、
ほんでからに、自分の心(靈)の発振、発信・・・
息吹って事になるのかも知れへん。
そうやって事象を構築して行くって言う意味を持ってるのかも知れへんな。

ほんでから・・・

“五”は、
漢字の分類としては、“二の部”に分類されてるんやけど・・・
Kellyさん的にはこの字そのものに、
“三”が隠れてるように思うやん。
そやから一番上の“一”から“下”に下りる筆の動きが、
“一”からはみ出さんと、“一”の真ん中から向かって左に降りる。
そして、
そのやや斜めたて棒に交差して、左から右に筆を動かし、
それは“二”・・・これは2番目のオーラの事やな。
そやからそれは、2番目のオーラが下降する様で、
しかも向かって右から“下”に下降するって言うのんは、
“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きが、
それより“下”の心(靈)の動きを支配するって言うのんか・・・
そやからそれは、“慈悲”と“慈愛”が本能、情動、功名心、自我・・・
それが中心の心(靈)を支配する。
自己奉仕者でなくなる様子って言うのんか・・・
愛(炁)の顕現の程度が高まっている人(日止、霊止)とか、
その状態とかを示すんが、
“五”って事やないやろか・・・
そして“二”の“上”の部分の向かって右端から“下”に下ろす。
最後に、一番下に“一”・・・向かって左から右に筆を動かす。
これは位置的に3番目のオーラの事やな。
そやからちょっと複雑な言い回しになってしもたけど・・・
左から右は、日足(ひたり)から砌(みぎり)で、その存在の思惑の顕現・・・
心(靈)の動きが現象化して、
観察され得る事象になるって事やと思う。
左から右・・・日足(ひたり)から砌(みぎり)って言うのんは、
やはり、“三”・・・それぞれのオーラの発振、発信を示していると思う。
そやから“一”は智性のオーラ。
“二”は、2~3番目のオーラを示してるって事や。
ほんでからに漢和辞典では、
“五”は、糸巻きの象形文字が五になったって書いてある。

五の象形文字

そやから、糸=神経・・・って感じを、
Kellyさんは受けたやん。
それを巻いてあるって言うのんはコイル状の神経って事やな。
糸=神経、そして、糸巻き=骨・・・
神経・・・人(日止、霊止)は、
動物から進化して、脳と神経が発達して、
四肢=足だけやった動物から、
手足の機能の区別が出来たって話を先生としたけど、
その事を思い起こさせる事やな。
ほんでからにそれは、前に先生と話した事やけど、
“慈(しげる)”・・・心(靈)が“慈(しげる)”・・・
それが“上”に向かう心の発現と同義やし、
沢山の事象を認識する為の道具って言うのんが神経やろし、
そやからそれは、その心の発現が腹から“上”に向かうのが、
“慈悲”と“慈愛”って事になって行く。
(思惑と顕現 “その四” “慈悲”・・・いつくしみ・・・かなしむ 参照)

ほんでからに“五”その意味として、
いつたび、たてよこに入り交じる・・・って書いてあった。
これも・・・意味深やな。

ほんでからに・・・

“六”は、
丿部(へつぶ)と“一”とその下に丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)。
“一”の上に点があり、“一”の“下”に点が二つあるのは、
大体、二つ点があるのは回転を示しているって先生はこの間教えてくれた。
ほんでからに、“六”の“下”の点は、
丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)、
そやからそれは、神の思惑の顕現と、人の思惑の顕現・・・
それを示してるように見える。
漢和辞典では、これも象形文字が変化した字で、家屋の形を表す。

六の象形文字

そやからこれも・・・人(日止、霊止)の事の様な気がする。
それは、宀(うかんむり)が屋根=頭って話を先生から聴いてたからやな。
ほんでからに“六”は、
易で、陰爻・・・陰を表す数って事らしい。

ほんでから・・・

“七”は、
“一”に乚部(いんぶ)で、
漢和辞典では、
一本の横線を中央から切る事を示し切り分ける意を示し、
それは“切る”の源字でもあるそうや。

七の象形文字

・・・そう言えば、
先生と乚部(いんぶ)=“乙”に関しては、
こんな話をした。

・・・“「乙・・・向かって左から右に筆を動かして、
ほんでからに右から左下に動いて、
ほんでからに又、左から右に動いて、
最後は上にはねるやん。
何や知らん・・・意味深な筆の動きでんな。
「そう・・・もうKellyにはアタシの解釈自体の見当が付いていると思うが、
左→右、そして右から左下、そして左から右・・・そしてはねる。
これは左往右往して現象化して左往右往するカタチだ。
はねるのは“上”に向かうって事だ。」
「それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つ。
そんな感じでんな。」
「そう・・・それは乚部(いんぶ)って言うのは、
人の思惑の顕現って事だ。
それは良いカタチの創造って事を示していると思うんだ。」”・・・
(“上”の思惑の顕現 “天の御目” 参照)

そやからそれは、創造主を示す“一”・・・
それが切れて下降して、
人(日止、霊止)の心(靈)の動きみたいになってる。
そう言う印象を受けるやんか。

ほんでから・・・

“八”は、漢和辞典によると、
互いに反り返る左右の線って言う事らしく、
それは二つに分かれた様子を示すって事らしい。

八の象形文字

そやからKellyさん的に我田引水な解釈をしたならば、
上からの振動が“下”まで貫くとしたなら、
それは、
“メグリ”(帀)って先生は説明してくれはったけど、
人の体は神経と骨髄中の鉄分子で電磁石を創ってるやん。
そやからその上からの振動がローレンツ力で曲がる。
そやからこそ二つに分かれる・・・そう言う感じがするやん。
ほんでからに“八”・・・
これは丿部(へつぶ)と乚部(いんぶ)のようにも見えるやん。
そやけどそれは“人”って言う字みたいにくっついてない。
そやからそれは進化過程で、
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行が違うって事を、
言うてるのかもしれへん。
ほんでからにこれはヨガの概念、イダとピンガラやと思う。
太陽と月の気道って事や。左と右、日足と砌(ひたりとみぎり)って事や。
それをしっかり通さんと、霊的成長したって事にならんのやろけど、
今、人がこの世界で右往左往や左往右往・・・どちらかに傾いた心の使い方をしながら、
霊的成長してはる。
そういう事も示している様な印象を受けたやん。
そやけど・・・砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行・・・
それかて・・・大局的に観たならば、
その心(靈)の進化の果て・・・独り神になる過程って事やから、
それは、進化して行ったなら砌(みぎり)の認識も日足(ひたり)の認識も、
一つになって自分の認識になって、
それが多分・・・“山”って言う字になる。
・・・先生は“山”は脳の事を示すって言うてはった。
(霊的干渉 “目上(めうえ)と目下(めした)” “その六” 参照)

ほんでからにちょっと話しが逸れるんやけど・・・
“幽”・・・これは山に糸二つ(左右に二つ)って言う字では無く、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)が変化したのが、
“幽”の山みたいな字で、
それは腹の段階から胸に移行するエネルギーを示すって先生は言うてはった。
この事は今回初めて聞いた事なんやけど・・・
そやからこそそれは、
“幽”は幽か(かすか)って読むって事らしい・・・
その認識は、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)が腹の段階の心(靈)の発現を指し示す事らしく、
そやからそれは、
あくまでもその心の発現の認識って言うのんは、
幽か(かすか)って事なんやな。
そやからそれは段階があって、ローム太霊さんの分類、
“肉”“幽”“霊”“神”・・・
そう言う認識の段階って事が有るんやろな。

ほんでからに・・・

“九”は、
“一”プラス乚部(いんぶ)、それに丿部(へつぶ)を足した字に見える。
漢和辞典見ても、
乚部(いんぶ)の字として分類されてる。
ほんでからにこれも象形文字から変化した字で、
手の肘を曲げた形を表すって書いてある。

九の象形文字

意味は、幾度も、多い、
易で陽を表す字、陽爻(ようこう)って言う意味もあるそうや。
ほんでからに、あつまる、あつめるって言う意味もあるそうやねん。
ほんでからにこれは先生と何回も話した事やけど、
“日月神示”の中の表現、○ 九 十 =まことの事やろ。
最後の仕事、卆って事でもあるやろ。
肉体を持った心(靈)って事や。

ほんでからに・・・最後に、

“十”は、2番目のオーラに(たて棒、コン)で、
これは明らかに自省(胸の磁性“十”)で、
その心(靈)の発現は“慈悲”と“慈愛”・・・自省(胸の磁性“十”)・・・
やった事を振り返る・・・
そう言う心(靈)の動きでそれは、神道の概念の“直日(なおひ)”って事になる。
ほんでからに漢和辞典では、
これも象形文字で、古代の針の形を表すそうで、

十の象形文字

その真ん中のふくらみが短い横線で書かれる様になり、
その後に“十”ってカタチになったってされてる。
そやけどこれは・・・
先生と話した下等動物の心臓の発達・・・心臓らしき器官は、
ミミズ、ヒル、ゴカイ君達では、最初は血管のふくらみみたいな器官しかない・・・
それが進化した様子が“十”・・・胸の磁性・・・その段階の心(靈)の発現が、
自省・・・“直日(なおひ)”・・・自分を振り返る心(靈)の動き・・・
そういう事を思い起こさせる事やな。

こんな風に・・・大体今日は数字に付いて、Kellyさんの私見を述べたんやけど・・・
カタカナもひらがなも漢字も・・・
多分色んな意味合いを持ってると思いまんねん。
ほんでからにこれからも、“日月神示”を観ていくと、
多分、色んな通信を受けて色々な発想をすると思いまんねん。
それは、その都度紹介させて貰うって事にして・・・
そやからそう言う観点で“日月神示”を観る・・・
そう言うつもりで(そう言う心(靈)の動き=発振、発信で)やって行きまんねん。

ほんでからに楽屋落ち的言い方やけど、
前のブログは毎月、1日と15日にアップしてたけど、
今回は、記事が出来上がった時点でアップして行きまっから、
更新は不定期になる事をお断りして於きまんねん。

そやから今日は、これくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”上つ巻の解釈を終えてから・・・感じた事。


Kellyさん的には“日月神示”の解釈を始めてから半年以上経つけど、
前の記事、
“その後の事と・・・これからの事。”
“Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。”

そこで列挙した“日月神示”内の表現に対する解釈。
それを元に上つ巻の解釈をしてきたんやけど、
それは、
先生が34年半太陽凝視をしながら考えてきた事と一致するし、
“日月神示”内の字や言葉一つ一つに、霊的成長の仕組みや秘密が隠されてる。
そして今までの上つ巻のKellyさん的解釈では、
霊的成長の為の体の変容を示す言葉、
“身魂磨き”と、
心(靈)が“上”に向かう為の言葉、その時の心(靈)の在り方、
“身魂掃除”“身魂洗濯”と、
霊的成長を認識させる為の言葉、
“富士は晴れたり日本晴れ” “富士とは神の山のことぞ。”
ほんでから、
“二二”(左右のエネルギー、砌(みぎり)と日足(ひたり))
“岩戸”=山(脳)+石(腹の水の中の帯電するミネラル)+“一”=智性=1番目のオーラ+尸(しかばね、かばね、肉体の事)
“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、
それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往。
事象の創造の法則性を示す言葉の、“理(みち)”・・・

すべて列挙すると、文章が長くなるから一部だけ紹介させて貰ったけど、
Kellyさんとしては色んな言葉が印象に残ってる。

そやけど・・・最近良く目立つサイト、
それは単なる当て字や駄洒落みたいな言い回しで、
“日月神示”の解釈をしてるサイトもあるようやけど、
ほんま“上”から“下”に垂れた文章って言うのんは、
一貫した法則性があり、
ほんでからその法則性を見抜くのは、
1番目のオーラが大きくて“上”の思惑を受信出来てないと、
理解出来へんって事を感じるな。

そやからそれは・・・“日月神示”の解釈をしてるサイトは多いけど、
1番目のオーラを大きくする為の“行”をしてる人(日止、霊止)って言うのんは、
地球人でも多分・・・数十人とか数百人程度やと思うから、
とても少ないから、
(それは“日月神示” 上つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈で言うた事でもあるけれど・・・)
一般の人が“上”の思惑を理解出来る訳が無いし、
その証明みたいな事を指摘すれば、
只、“日月神示”の言葉の端々を捉えて現状を憂う(脾)だけの事ぐらいしか、
思う事が出来ない・・・そう言う人が多過ぎる。

そやから・・・現状を憂う(脾)だけでは霊的成長にならへん。
現状を憂いて批判して・・・それは低い功名心と自尊心の心(靈)の動きでしかない。
ほんでからそれは、言うまでもなく、
腹の段階の心(靈)の動きで、自我の確立=固定化の段階の思想でもある。
そして、
自分の心(靈)の動き・・・それを見せびらかしたい=ディスプレイ(動物の発情行動)でもあるし、
そうなるとそのサイトの文章は、言葉にたいした意味を持たない・・・
たいそうな言葉を使って人目を引くとか・・・
そやけどその言葉に深い意味が無いとか・・・
同義反復って言う意味とか・・・
そう言う意味での先生の意地の悪い言い回しの、
ワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~って事でんねん。
そう言う言葉の使い方をする人は智性を持ってないし、
それはまだ心(靈)が動物的って事でんねん。

ほんでからそれは、このブログでも何回も指摘した・・・例えば、
(太陽凝視ごっこを)太陽凝視してまっせ~
不食でっせ~
アセンションしまっせ~・・・
こういう言葉そのものがディスプレイ(動物の発情行動)で、
目立ちたい心(靈)の動きで、
こんな心(靈)の動きの人は霊的成長をして無い事を示してるだけやねん。

話を戻し、
霊的成長の為に人(日止、霊止)が、
認識(悟り、幸取=さとり)を変えて行く為には、
現状=事象の観察をして自分がどう思うのか?・・・って言うのんが、
大事な事やねん。

その事に気が付かない・・・思いもしない・・・

そやから“日月神示”の解釈をしてるサイトも、
ただ現状を憂い、ぼやくだけの文章になってるサイトは多い。
Kellyさん的にもこのブログで現状を憂う(脾)事も言うてるけど、
先生とKellyさんが最も伝えたい事は、
一人でも多く霊的成長を目指して欲しいって事なんやけど・・・
(“日月神示”でもそう言う意図で“上”から下に垂れたと思うんやけど・・・)

このブログや前のブログを読んで、
感想を述べてくれはった人は数十人くらいやけど・・・
その事を読み取ってくれてはる人はほんの少数でしかない・・・
ほんま・・・情け無い事でんねん。

特に最近その事を感じたから、敢えて言う時まんねん。

そやから、
今の事象を観察して自分の在り方を思う人、
アセンション後の世界に移行出来る資格を持つ人は、
心(靈)が“上”に向かう為の事、自省(胸の磁性“十”)の“行”と、
ほんでから、
神の思惑の受信・・・そう言うつもりでの太陽凝視をする人。

太陽凝視に関して・・・この事も何回も言うたけど、
太陽凝視に対し不食って事しか認識が無いと、
それは、自分の心(靈)の発振、発信が低いし、
その発振、発信による感応共振する霊的存在も低いし、
そやからそれは、(その程度の)太陽凝視をする人の、
心(靈)の発現の段階と心(靈)の動きによるからこそ、
“下”三つのチャクラの心(靈)の動き=低い功名心と自尊心由来の太陽凝視は、
智性を持った霊的存在との感応共振は無い。
そやから太陽凝視に対し、
それが神格化の為の、とても厳しく、貴い“行”って事を感じない。
その低い心(靈)の発現=“下”三つのチャクラ由来の心(靈)の動きで行う太陽凝視は、
腹の機能の強化にしかならず、
それは不食って言う結果になり、
そこに、太陽凝視の真の価値を落とし入れる・・・
人の霊的存在を阻む存在の意図を感じ(感じる磁性)る。

・・・そやからそれは、太陽凝視でもアセンションでも、
ローム太霊さんが人に伝えた主護霊の意味と意義と定義でも、
“日月神示”の解釈でもそうやけど、
それらに対し、低い解釈を広め、それが当たり前にする事そのものが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の、
“思惑の顕現”=現象化やし、
その具体的な事例は、
低い心(靈)の発現=低い功名心と低い自尊心に感応共振する霊的存在を増やす。
そう言う人ばっかりにすれば結果それは、
次の段階の場(フィールド)=アセンション後の世界に、
心(靈)が位置出来る人(日止、霊止)が少なくなる。
そやからそれらはディスプレイ(動物の発情行動)やし、
(先生と)Kellyさんは、そんなつもりでこのブログの文章を作ってない。
只、霊縁有った人に、
太陽凝視から獲得した先生自身の認識を伝えたい・・・それだけでんねん。

そやから自分にとって相対的に高い霊的存在との感応共振は、
自分の心(靈)の動きが“慈悲”と“慈愛”による、
自分に対する“厳しさ”を持たんとアカンし、
(“厳しさは成長の法則性から得られた認識”って前のブログでKellyさんが言うた事でんねん。)
自分より相対的に智性を持った存在と感応共振するには、
“身魂掃除”“身魂洗濯”で、
自分の心(靈)の動きの中の、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”と、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を、
自分で見出して行かんならん。

それが自分の思想の指標になり、
行動=発振、発信の指標になり、
それは“天の御目”の獲得って事になり、
神さんの仕事を託される(霊的な)資格を得て、
次の世界、
アセンション後の“創造”(神の思惑と生命の思惑、電磁波(振動)の相互干渉)を、
する人(日止、霊止)になる。

そやから・・・さっきもこういう言い方をしたけど、
今言うた事・・・低い心(靈)の発言由来の解釈しか出来ん人が多い・・・
どんどん多なってるやんか。
そやからそれは“どういうつもり”(自分の在り方)で何を成すのか?
それは自分の心(靈)の発振、発信になる。
この事も“日月神示”では沢山表現されてるし、
ほんでからその事を最近、Kellyさん的に良く感じるし、
上つ巻の解釈が終わったから・・・いい機会やと思うから、

(このブログに霊縁有った人(日止、霊止)だけに)敢えて言うときまっせ。

Kellyさんが“日月神示”下つ巻の解釈を終えてから…感じた事。


…昨年の11月から、下つ巻の解釈をして、その文章や、一つ一つの表記に対し、特に思うことは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振を意味する表記と、それに対し、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をして、低い功名心と自尊心を煽る(あおる)“役員づら”…そしてその“役員づら”の人たちは、多数の人を巻き込んで、今後=アセンション後の世界に位置できない心(靈)の成長度にしてしまう。
そやからそれは、言うてしまえば、“上”との感応共振と、“下”との感応共振を表してる文とその表記、この二つが印象に残ってる。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振については、前のブログでも上つ巻の解釈でも、何回も言うたし、大体、“富士は晴れたり日本晴れ”や、“身魂掃除”“身魂洗濯”や、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化…その言葉に、その秘密が書かれてる。
ほんでから“上”との感応共振=天意を受けること、自分の思想にして、その思想で事象の“創造”をしていくことは、これからも言うていくつもりやから、今回は省いて、今、アセンションを迎えるべき私たちが、問題にせんとアカンと思えることは、“下”との感応共振である。
そやからそれは、今まで何回も言うてきたことなんやけど、今後=アセンション後の事象は、今より相対的に、人が霊的成長をしていくべき場(フィールド)で、そこに移行できる心(靈)の動きと、その霊的成長度=認識を持った人が、位置できる。
それを何回も、霊的資格って言うた。
それは“慈悲”と“慈愛”の心(靈)でもあり、左往右往を体験した心(靈)でもあり、
高度な自己観察…“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来る人であり、自己奉仕者に対しての奉仕者でもあり、アミの本を引用すれば、愛(炁)の度数でもある。
ほんでから、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしている人たちは、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になり、その心(靈)の動き=行動は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
そして、今、アセンションや、人の在り方=霊的成長の指針や、“日月神示”すらネタにして、金儲けしている人がとても多い。
それは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振による心(靈)の動きでもあるし、アセンションの本当の意味を見出させない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
大体、下つ巻 第一帖でも“金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。”って言われてて、下つ巻には、(通貨としての)金に対する“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動と、心(靈)の動きが何回も指摘されてるし、そしてそれは“役員づら”という表記に示される通りでもある。
ほんでから、人が相対的に“上”の心(靈)の発現をすることと、地球が霊的成長の場(フィールド)になっていくアセンションのことを知り、その情報をどうとらえていくのか、どう解釈し、どんなふうに自分の心(靈)の在り方の糧にしていくのか…Kellyさん的にはそれがすごく大事やと思うけど、それらについて真剣に考えてる人に、あまりお目にかかったことが無いし、そやから、一般の大多数の人が、アセンションを大騒ぎしたり、何か…甘い夢しか持ってへん。
それを少し具体的に言えば、大天使に会えるとか、何の不幸も無い世界がやってくるとか、宇宙存在が地球のアセンションをサポートしてくれるとか…こんなことは前のブログの、事象の形骸化 “その十” アセンションの甘い(亜、魔、出ずる、泉)認識…先生とKellyさん…又…憂う…で、述べたことでんねん。
ほんでからに、今とても多い、目覚めるとか、気づくとか…生きていることに感謝しましょうとか…そんなん言うてるのは、低い功名心と自尊心中心の心(靈)の動きと行動であるし、そやからそれは、相対的なことで、それまでそんなことを考えたことが無いってことやろし、ほんでからそれは。ただ言葉や雰囲気に酔ってるだけの人が大半やと思う。
大体、今言うた個人の認識そのものなんて、そんなことは当たり前のことでんねん。
そしてそれは、今、列挙したことに気づいた人たちの人生は、やっと左往右往の入り口に入ったってことでもある。ただ進化=霊的成長、神格化に向かうことの段階が、低かったってことでんねん。
そして、それ以下のもっとひどいものは、永遠の幸福とか無限の愛とか…ただ耳心地のよい言葉を多用し、その言葉に酔う人を増やすサイトやセミナーや本もある。
そやから、敢えて言うとくけど、心(靈)の構造を、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性って定義付けたけど、大体、自我よりほんのちょっとだけ“上”の心(靈)が芽生えだしただけでんねん。
ほんでからその段階=その霊的成長度では、自我の肥大に陥りやすい。
それは、自分に内在する“下”の心(靈)が増長し、自分がそのことに気づかない。
そやからそれは、本来は、崇高なものを目指し、神聖な現津(あきつ)、観察され得る事象を創造するべくためにある、功名心や自尊心を、低いものにしてしまうし、その低い心(靈)の動きそのものを、貴いとか神性とか…錯覚する。
大体、この世界は霊的成長度の低い人のほうが圧倒的多数なんやから=“玉石混交(淆)”なんやから、そんな人のほうが多いに決まってる。
ほんでから大体、その段階の人たちは、今の事象を憂い…ただ憂い、批判だけして、それに対し、自分たちの心(靈)の動きは違うんだって主張をする。
今、そんな程度のことを考えてては、アセンション後に位置できる霊的成長度になるのには、ちょっと難しいと思える。
ほんでから、今の地球の現状に気づき、このブログや前のブログで散々述べてきた、恨みの連鎖の霊的干渉の解決に対する具体的な行動が取れない人とか、見て観ない振りをしている人とかに、今後=アセンション後の“創造”を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が託すわけが無いやんか。
そやからそんな程度の認識=“一”=智性=1番目のオーラの持ち主の人は、霊的成長度が低く、自分の霊的成長のための“行”なんて概念は無く、人生は認識を得るための試練のチャンスとか思わず、ただただ甘い夢を見たいだけでんねん
ほんでから、そんな人たちは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振の“行”の具体的方法すら知らんやろし、(知識として)知ってても、その“行”に価値を見出せない。
そやから、“役員づら”の一側面でもある、今の世界の批判だけしてうぬぼれてる人たちは、“行”なんてやったことすら無いやろし、仮に何かしたとしても“行”ごっこやろし、倒れるほどの“行”なんて概念は無いやろ。
そやから、一般の人たちはたいした“行”もしてないし、“一”=智性=1番目のオーラもたいしたことは無い=霊的成長してへんのやから、その認識で見るから“役員づら”を“役員”やと勘違いする。
さらにそれは、その霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い人たちにとって、勘違いって認識は無く、“役員づら”の人が垂れた言葉や情報を、真実やと思う。
もっともそれを真実やと思う人は、その人たちも低い功名心と自尊心の発現しかしていないからでもある。
その両者…どっちも同じ程度の霊的成長度ってことでしかない。
ほんでから…まったく、自我より“上”の心(靈)の発現がしっかりしてない人は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑=悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)に、騙されてることにすら気が付かん。
それは、また、人の心(靈)の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)になり、新たな悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)の集団を作っていく。
それが“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)や“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあるんやろけど、それについて言うとけば、先生的には前のブログを出版して、今まで出版されてる本の事情についても、少し知った。
それは今、アセンションや人の在り方や“日月神示”の解釈本やさまざまな出版物があるんやけど、ゴーストライターが書いたり、ただ情報を寄せ集めて大騒ぎしたり、そんな本が大多数やってことを知った。その一例が、Kellyさん、○○○療院に○○○大先生のご機嫌伺いに行き、Y県のOさんの話を先生から聴いて、ちょっと長話する。…って記事を書くきっかけになった。
そやから、もう少し出版本っていうのはまともやと思うてたらしいけど、なんやしらん大騒ぎして甘い夢を見るものばかりで、そんな心(靈)の動きでアセンションまでの時間をすごしていたなら、今後=アセンション後の“創造”を担う心(靈)=霊的成長度による資格を得られへん。
そやからそれも含めて、低い心(靈)の発現で見るから、アセンションの意味と意義を理解できず、ただ騒ぐ。すごいことを知ってまっせ~~…低い功名心と自尊心で喜んでるだけみたいなもんでんねん。
そやからそれは、何度も言うてきたことなんやけど、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の心(靈)の動きが芽生え始めた人は、分けられる。
それは、誰かが分けるとか、“上”の思惑によって=神さんが分けるとかではなく、自分たちの心(靈)の動きと、霊的成長度に於いて=認識の程度に於いて、自分自身が観察し得る事象を決定していく。
それがアセンションの真実やと確信してる。
低い心(靈)の段階では、今の地球みたいな、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの事象にしか行かれへんねん。
当たり前でんねん。
もう一度言うけど、心(靈)の動きが低いのは、霊的成長度が低く、それは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の自我までの振動が、自分の心(靈)を構成している段階でもある。
ほんでから特にネットの世界は、低い功名心と自尊心とディスプレイ(動物の発情行動)の心(靈)の動きが目立ち、それ由来の大げさ情報や、てんで価値の無い文章で満ち溢れている。
それは前にも指摘したけど、太陽凝視=不食って認識でも、ただ自分が目立ちたくて太陽凝視ごっこをしている人が多い。敢えて言うとけば、太陽凝視は、とてもつらい“行”であり、自分が倒れるくらいのエネルギーを贖う(あがなう)ことをせんと、高い存在は通信を送ってこない。
それは霊的干渉の変圧の過程でもある。
そしてそれは“一”=智性=1番目のオーラが自分よりほんの少し“上”の存在の通信が送られてくることでもある。
ほんでから大概の人たちは低い霊的干渉がおき、ハイヤーセルフとか天使とか言うてても、それは、その憑依されてる人たちの低い功名心を煽る(あおる)形骸の言葉でしかないし、敢えてそれを指摘しても、低い心(靈)の人は、自分に対する視点が低く、自分の心(靈)が自我由来の動きをしていることに気が付かず、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ってもんがない。
それは以前紹介した、春の巻 第二帖をよく読むと解る。

“カミヒトと申すのは、
神の弥栄のため、
世の弥栄のため祈り、
実践する人のことであるぞ。
神のため祈れば神となり、
世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。
自分のためばかりで祈れば迷信、
われよしの下の下ぞ。
誰でも霊かかりであるぞ。
石でも木でも土でも霊かかりぞ。
これは一般かみかかりであるぞ、
特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。
九分通りしくじるのぢゃ。
太陽の光集めること知っているであらうが。
神の理(ミチ)をよりよく、
より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。
理(ミチ)であるぞ。
世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。
サニワせよ。
外はウソが多いぞ。
内の声ウソないぞ。

この文章の中の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。”
この言葉そのものが“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振を示し、そしてそれは“われよし”これに尽きる。

そやからそんな人たちは、大天使とかハイヤーセルフとか名乗る何かの憑依現象が起きたなら、感覚優先のものの見方をして、ただその現象だけがすばらしいと思う。
そしてTV番組みたいに大騒ぎするだけで、その憑依現象の分析とか憑依してくる存在は自分の心(靈)のどの部分との感応共振なのか見出そうとしない。ただただ低い現象って言い方しか出来へん。
話を戻し、そやからアセンションは、自分たちの心(靈)が生み出していく事象やし、心(靈)の程度=霊的成長度=認識(悟り、幸取=さとり)の程度=“一”=智性=1番目のオーラの程度によって、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を選り分ける。
そしてその選り分けをはっきりさせるために。フォトンベルト、シンクロトロン放射により加速された荷電粒子の帯に、地球が入りつつある。
これは、霊的成長を望む“上”の思惑=時間の進行に伴うプログラムでもある。
ほんでから、そのフォトンベルト内の荷電粒子そのものが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑そのもので、それは大日如来の条帛(じょうはく)に相当するって、前のブログで先生が言うた。
そやからその“上”の思惑は、人の自省(胸の磁性“十”)を促し、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現を促していくものでもある。
その現象化が、今まで低い価値観、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで、自分の利益を得てきた人は馬脚を現し、形骸の地位や名誉や(通貨としての)金を捨てる段階に入る。それも自省(胸の磁性“十”)の“行”ではある。そやけどその過程で恨みの連鎖の霊的干渉の影響で自殺するケースも多々あり、今後もっと増えるやろ。
またまたちょっと話がそれたけど、そやからまず、自分たちが気をつけなアカンこと、自分の心(靈)の動きをよく見張り、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)…“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在と感応共振せんような心(靈)の動き。それをして行かんと、この世界=この事象が、霊的成長の場(フィールド)にはならへん。
そして、自分の心(靈)の動きを見極める。見極めるために失敗を体験するのが、砌(みぎり)中心の心(靈)の動きを示す、ローム太霊の言い回しの右往左往なんやけど、そしてその後、日足(ひたり)中心の左往右往に入るには、自分なりの基準、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振ありきの、自分なりの心(靈)の中の基準、それは、天の御目(あめのおめ)って先生が定義付けたことなんやけど…そやから、自分の心(靈)の動きにより、霊的干渉はある。
その霊的干渉を引き起こす要因は、自分の心(靈)の動きの“上”と“下”。
何回も言うけど、自分の心(靈)の“上”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振で、“下”は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振でしかないし、それを人の立場で認識した言葉が、ちょっと極端な言い回しに聞こえるかも知れへんけど、神と悪魔でもある。
そやから自分の心(靈)がどう動いているのか、何を求めているのか、それを自分の智性(神性)、“一”=智性=1番目のオーラで見極めるのが、“日月神示”の表記なら、“身魂掃除”“身魂洗濯”。
そして“上”との感応共振を示す表記が、“鏡を磨く”この鏡は、神道の御鏡、三種の神器の鏡、そしてそれはヨガならアジナーチャクラに相当する。
ほんでから“上”と“下”の心(靈)の動きによる行動が、その事象を観察して認識する言葉が、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”でもある。また“美”と“醜”でもある。
ほんでから今言うたのは、敢えて言うとくけど、外側(外国と幽界)の事象を取り繕う“美”は、真実=真固止の“美”ではない。
程度の低いことを敢えて言うとけば、外側(外国と幽界)の事象を取り繕い、自分の低い功名心と自尊心を満足させている美容、美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)、ファッション、ブランド、宝石、エステ、それらを求める心(靈)は、とてつもなく醜い心(靈)の動きと言い得る。
そしてそれらは、ディスプレイ(動物の発情行動)でもあるし、“日止、霊止”の動物化でもあるし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きでもある。
ほんでから今回は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振について述べてきたけど、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振に対する“日月神示”によく出てくる表記の“富士は晴れたり日本晴れ”…これについて下つ巻 第一帖で、こんな解釈をした。

      

“富士は晴れたり日本晴れ”は、相対的に、自分より“上”の思惑、そして自分自身が霊的成長して神に近づいたとしたら、受信する思惑は神の思惑と同じようになって行く。
そやからこの言葉自体が、“上”の思惑と人(日止、霊止)の思惑の、一体になった事を示す言葉でんねん。

…以上でんねん。

そやから、前回で下つ巻までの解釈が終ったんやけど、その後の“日月神示”の文章には、“上”との感応共振に対する表記が増えてくると思われる。
今後もその観点で解釈をしていきまんねん。

ほんでからこのことは、上つ巻の解釈が終わったときにも言うたんやけど、貴い何かに対し、低い心(靈)の発現由来の解釈しか出来ん人が多い。
そやからそれは“どういうつもり”(自分の在り方)で何を成すのか?自分はどうなりたいのか?自分っていったいなんなのか?
それを思い知らされる事象がアセンションでもある。
そして、アセンション後の事象の“創造”を担えるのは、自分の心(靈)の認識と(“一”=智性=1番目のオーラ=認識の程度)、心(靈)の動き=(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者としての在り方と“慈悲”と“慈愛”と“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”…(このブログに霊縁有った人(日止、霊止)に)敢えて言うときまっせ。

次回からは、富士の巻の解釈に入りまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”富士の巻の解釈を終えてから…感じた事。



前回で、富士の巻 全二十七帖の解釈を終えて、Kellyさん自身が富士の巻全体に感じた印象は、まず “創造”の法則性、それは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と人の心(靈)の在り方。
それは、“上”の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなければならないこと。それ自体が“創造”の法則性であること。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程において、“創造”の段階は違う。
だからこそ、今、醜い事象になっていて、それは自己奉仕者の活躍による“創造”が中心。
そして自己奉仕者中心の“創造”の段階から次の段階は、当然、現津(あきつ)、観察され得る事象も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するべきであるからこそ、自己奉仕者の心(靈)の動きを顕現しない=内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に囚われることのない人(日止、霊止)が活躍する事象になるべきでもあるし、それが神の計画としてのアセンションでもある。
富士の巻は、そのことまで指摘している文章やったっていうのんがKellyさん的な感想でもあるけれど、その点で、富士の巻の中で印象に残った文を、以下に列挙しまんねん。

まず、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す表記として、第一帖の“元の道は一つぞ”“元の道は初めの道、神のなれる道、”“神のなかの ローレンツ力 なる初め、ローレンツ力  は光の真中 ローレンツ力と ○ は四の道、”って示されてた。
その詳細は、もう一度、富士の巻 第一帖のKellyさん的解釈を読んで欲しいねん。

ほんでから第四帖では、“一”=智性=1番目のオーラが発現した生命(生きる使命=存在理由)が、神の思惑を取り込んだ世界の“創造”を行っていく。そのことを示した文が、次の文、“一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、”であると思える。この文の“一二三”は、1番目、2番目、3番目のオーラのことを指し示してる。

ほんでから、第五帖では、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、ローレンツ力による“上”からの荷電粒子の取り込みが無ければ、成しえないことを説明している。  
余談やけど、そのことを先生は、“改”で、進化に対する自分の解釈を説明している。そやけど、Kellyさんが主役のこのブログで生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程にまで言及してたなら、とても長い文章になるから、それは省きまんねん。
そやから、第五帖の文の要点は、“ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  ばかりでも何も出来ぬ、 ローレンツ力 ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、”…で、これは、この事象の“創造”は、“日止、霊止”の心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  と、神の思惑の受信=ローレンツ力 ローレンツ力 によって成り立つってことを言うてる。
そして、同じく第五帖の文の中で、今後=アセンション後のことを指している表記、“それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。”って言われてる。
 そやからそれは、さっきも言うた様に“上”との感応共振をして、今後=アセンション後の事象を創造する。それを強調した言い方でんねん。
ほんでから同じく第五帖の次の文も、“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心(靈)の中の“上”と“下”を自分の智性(神性)で見出して、そして“上”との感応共振を指すことを言うてる。
“今度の行は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。”
 この文の表記の“よき御用”は、言うまでも無く、アセンション後(神の思惑が現時点より顕現する世界)の“創造”を担う資格を持った“日止、霊止”を指した表記でんねん。

そして第八帖にも、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記がある。 それは、“神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。”
この文にもある“祀り”と“祭り…この表記が出てくるたびに毎回のように思うことやけど、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記の“祀り”、そして“上”の思惑を取り込み、自分の思想として、その上で行動することの意味である“祭り”、これはとても重要な意味を持つ。

“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い 




そやから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑=上から注がれる荷電粒子を生命が取り込んで進化するって言うのんは、生命が神さんに近づいていくことでもあるし、神さんに近づき、神さんの思惑を自分の思想に出来る資格は“一”=智性=1番目のオーラの大きさによるし、そして今、自我の肥大=土=2~3番目のオーラの進化過程だからこそ、ある程度智性(神性)を発現した人がこの世界を観れば、おかしくなっていると、感じ(感じる磁性)る。
ほんでから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“上”の荷電粒子との反応と取り込みっていえるからこそ、何回も言うて来た肉体組織の結晶化、それは骨が重要でもあり、だからこそ、体の旧字である體は、骨が豊かで、それは、宝のアナグラムでもある。
そのことを示す文章として、第十二帖では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の事を言うてる。 それは、“いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、 今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。”…この“軽石”って表記がとても大事で、そやから軽石のような骨って言うのんは、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)できない。
だから、“軽石”の進化程度の人は、骨がダメで、それは生体内電流の強化=“行”と“修行”による灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) 微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物)の、結晶化=真固止(まこと)ではなく、真固止の骨になっていない人は、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない。
その霊的成長度の人は、低い霊的存在との感応共振をして、自己奉仕者になる。そして低い霊的存在って感じ(感じる磁性)る霊は、低い進化過程のまま死んだ浮遊霊でもある。だから、同じ心(靈)の程度同士は、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し合うってことなんやけど、その分析が一般に無さ過ぎるな。
まあエエわ。このブログをしっかり読んではる人は、なんとなくそのことは理解できるやろから。

ほんでから第十七帖でも、ここまで言うたことと同様の意味、“上”との感応共振をすることが大事って強調している。
“臣民の身も神の宮となりて神まつれ、祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、”

ほんでから、今現在の地球人の進化過程=霊的成長度=愛(炁)の顕現の程度が、創造の法則から外れていることを指摘している文や表記もたくさんあった。
言うまでもなくそれは、今後=アセンション後の“創造”を神さんから託される霊的資格を得られないことでもあり、それは言い方を変えれば、人(日止、霊止)の心(靈)の在り方が間違ってまっせ~~って言われてまんねん。
さらに、今後=アセンション後に移行できない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対するメッセージ、その自己奉仕者の行いを、よく観て、認識しておけよって感じに受け取られる表記も多かった。
それらの表記も、以下に列挙しまんねん。

まず、第一帖の“どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、それが悪の深き腹の一厘ぞ。”
この“腹”って表記がとても重要。
言うまでもなくそれは、下三つのチャクラ、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)としては、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラのことでもあり、そこまでのチャクラの覚醒段階は、自我の確立=固定化であり、自我の肥大が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。

ほんでから第二帖には、“言ふこときかねば一度は種だけにして、根も葉も枯らして仕まうて、この世の大掃除せねばならんから、種のある内に気つけて居れど、気つかねば気の毒出来るぞ。”
この文の要点は、現時点、人の心(靈)の在り方が間違っているからこそ、神の計画としてのアセンションが起きることを、強調されていると思える。
人の心(靈)の在り方の間違いを具体的に示した表記として、第三帖には、“学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。”って表記もあり、この文の“学と神力”は、知恵と知識を、智性で使ってないことを指摘している。
智性(神性)が発揮できた人(日止、霊止)の、事象の“創造”は、失敗の世界ではない(右往左往ではない)。
今後=アセンション後は、そういう世界になるのが当然であり、それは下つ巻に良く出てきた表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)も“学”を自分たちの低い欲望の達成のためにしか使わないって言う意味でもあるけれど、そんなふうに智性(神性)を活かさない“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をするのは、言うまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、それは良い世界の“創造”をするべき“日止、霊止”の“道”“理(ミチ)”からはずれてるから、“理(ミチ)”を屈するという表記の“理屈”って表記もあった。
そやからそれは、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考えなければ、良い世界の“創造”は出来ないって、当たり前のことなんやけど、智性(神性)の行使ができていない自己奉仕者=自我の肥大をした人は、貴い何かを自分の低い欲望の達成のために使う。
それは第二十七帖のKellyさん的解釈の途中で先生が言うてたこととして、実際そんな人がアセンションを題材にした本を書いたりもしてて、そんな本が結構売れてたりして、本を書いた人もその本を読んだ人も、真剣にアセンションのことを考えていないし…そんな事例を見れば見るほどほんまこの世界は腐りきっているって感じてしまう。

…話を戻し、そやからアセンションで分けられる霊的成長度における心(靈)の動きを、第四帖では“獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、”って示されてる。
言うまでもなく“獣”って表記は、人(日止、霊止)の進化過程において動物と共通の脳、目下(めした)の脳(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)であり、だからこそ、自我の確立=固定化、自我の肥大、それは、保身、本能と情動由来の低い幸福感、そして“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)にもなる。

ほんでから、第六帖には、現状の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍してて、大概の人が霊的成長や神格化を見出していないって指摘されている。
そやからそれは、“今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるからよほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。”でもある。

また、今言うてたことと同様の意味で、第七帖にも、“悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。 今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、”って言われてる。

さらに、第十八帖では、現状の自己奉仕者が活躍している世界が理想とか正しいとか思ってる人に対して、あんたら間違ってまっせ~って言う意味のこととして、それは霊的成長、神格化に向かうことの“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)ではなく、正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)方向性を見出せって言われてて、そやからそれは、こんなふうに言われてる。 “物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、理屈は悪魔と知らしてあろが、保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。”
そやから進化程度の低い人、その心(靈)の動きとしての自我の肥大は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで、自分だけの利益を増やす。そういう思いそのものが悪魔のささやきって認識が無い。
そしてその思いを助長するのは貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の浮遊霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で、それを示した漢字が广(まだれ)頭、思想の意味 + 左右の極性、木部、+ この世にあらざるもの、鬼で、それを縮めた表記が“魔”でもある。
このことは前のブログで先生と話したことでんねん。

そして進化程度の低い人を指摘した文として、第十九帖では、“四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、”とも言われてる。

ここまで列挙してきた富士の巻の文は、自己奉仕者は、アセンション後の“創造”を担うことは出来ない。アセンション後の“創造”を担うべき霊的進化程度は、真固止(まこと)、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であり、富士の巻には出てこない表記やったけど、それは、神さんの最後の段階の生命の創造でもある ○ 九 十でもあり、だからこそそれは、“日止、霊止”、日を止める、靈をとめるって“日月神示”の表記に表されている。

 

○ 九 十(まこと)の解字 



さらに、富士の巻では、自分の思想、現時点での地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程としての自我の確立=固定化、マニピューラチャクラ、そこに“上”の思惑を取り込む意味で、第二十帖では“江戸に先ず神まつれと、くどう申してあることよく分かるであろがな。”この“江戸”は、“江戸と尾張”で、それは、腹の水、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことでもある。
ほんでから、第二十一帖では、“山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。”って言われてて、このときに解釈したけど“山”=脳、“川”=腹の水、“野(ぬ)”は、以下の画像で示しまんねん。

 

野の解字 (富士の巻 十七帖) 

 ほんでから“里にも家”の“里”は“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と肉体を示す意味の土でもあり、事象の“創造”をする2~3番目のオーラの発振、発信でもある。
ほんでから“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)…智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)って言う意味で、動物と共通の肉体の構造を持つ人(日止、霊止)には、頭がありまっせ~って言う意味の表記で、いうまでもなくそれは目上(めうえ)で、人(日止、霊止)の進化過程は、智性(神性)の獲得と行使で、“一”=智性=1番目のオーラを発揮しろってことでんねん。そやからこの“里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。”って言うのも、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、智性(神性)由来の自分の思想を持ち、智性(神性)で“創造”をしろって言われてて、それが神の思惑としての創造の法則だからこそ“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)って言われてる。
ほんでから今の話の“上”との感応共振を、第二十二帖でも“まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。”とも言われてて、この文は、自己奉仕者が宗教や政治(まつりごと)を形骸にしたことまで指摘している。ほんでから自己奉仕者の心(靈)の動きである自我の肥大についても“慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。”って言われてる。そやけどこれを読んだ自己奉仕者の心(靈)の動きの人には、ピンと来ない解釈やろな。
まあエエわ。
ほんでから、第二十三帖では、霊的成長度に於ける認識の違いと、生命の存在の意味と意義は、神格化であり、誰もが避けて通ることができない“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるってことを言われてる。
そして今後=アセンション後に移行でき得る霊的成長度の人を指して“因縁のみたま”って称されている。
それは、この文、“因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、おそし早しはあるなれど、いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。”で、この文の“神の御用”は言うまでも無くアセンション後の“創造”であり、そのために、霊的成長度に於いて分けるから“選(よ)りぬいて引張りて居るぞ”って言われてまんねん。

 さらに二十三帖に、霊的成長の道筋=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)として以下のようにも言われてる。
“早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。”
言うまでもなく“身魂磨き”は、“行”と“修行”により、生体内電流による肉体組織の結晶化。それは“上”の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を起こし、自分の思想が今後=アセンション後の“創造”に見合ったものになっていく。
それが“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

 そして、第二十五帖に、現時点での霊的干渉、自分の心(靈)の動きに対する霊的存在の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が、良くないってことを以下の文で指摘されている。
“大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。”
説明するまでもなくこれは、今、大半の人が“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振をしている。そして自我の肥大=自己奉仕者に成り下がっている。
また、第二十六帖にも“向ふの悪神は今度は
ローレンツ力と ○ の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、その積りでフンドシ締めて呉れよ、”と称され、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む存在の思惑を良く知ってくれれば、またそれは、本当の意味での進化を認識することにもなり得る。

ほんでから第二十七帖でも、今までの自己奉仕者の価値観では、今後=アセンション後の世界の創造には成りえず、仮にアセンション後でそんな心(靈)の動きをしたならば、間違いはすぐに正されるって言う意味のことまで言うてる。
“神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。”

 要は、富士の巻は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と、自我の肥大は(“江戸と尾張”)、今後=アセンション後の“創造”を担う資格を持ち得ないことを指摘している。そのことを、平均的地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程である、自我中心の心(靈)の動きの人に伝え、人の認識を改め、そしてその認識を“一”=智性=1番目のオーラにしていく。
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はそれを人(日止、霊止)に望み、そうなって欲しい…それを伝えた文章でもあると思えるし、そやから“富士”は、頭=宀(うかんむり、頭の意味)、“一”=智性=1番目のオーラ、口、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)が重なった表記が、富士の“富”であり、また“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道があることまで感じさせる文章やった。
そやからそれは、端的に言えば、“上”は人(日止、霊止)の霊的成長を望んでて、アセンションはそのために霊的成長度に於いて分ける作業であり、アセンション後に移行できる人(日止、霊止)を多くしたいから、富士の巻は書かれたのであり、“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)が表れた文章やとKellyさんは思いまんねん。

ほんでから“日月神示”の解釈、アセンションの情報を引用した本、サイト、そんなものはとても多いけど、自分の智性(神性)がしっかりしていれば、その真贋を自分で判断できるし、そのために“上”との感応共振をして智性(神性)由来の見方(“観察と認識”)をして欲しい…そのことまでかんじさせる文もあり、そやから、その“上”の思惑を、多くの人(日止、霊止)に解って欲しいもんでんな。

次回からの“日月神示”のKellyさん的解釈は、天つ巻に入りまんねん。
 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”天つ巻の解釈を終えてから…感じた事。



 天つ巻の“天”っていう字は、前のブログで先生がこういう解釈をした。


天の解字

 そやからこの“天”っていう字は、霊的成長を果たしたか、あるいは、果たそうとしている心(靈)の動きと、目上(めうえ)のオーラである“一”=智性=1番目のオーラの表記も含まれているっていうのが大事。 そしてそれは、“上”からの荷電粒子を止めるっていう意味での“日止、霊止”でもある。 
さらに今までの“日月神示”の解釈で言うてきた通り、“上”の思惑を受信して、それを自分の思想にして、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人(日止、霊止)を、“日月神示”では、“天詞様”て称されているって解釈もしてきている。
さらに“天つ巻”って言葉そのものをみても、“天”と“つ”と“巻”で構成され、“天”は今言うたとおりやし、“つ”は、“津”なのかもしれへん。 
そして“津”は中心の意味を持つし、津液(肉体を構成する水分、帯電するミネラルが錯体として溶け込んでいる)の意味もあるかもしれへん。
さらに“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの“つ”“津”なのかもしれへん。 
それを考えれば“巻”は、肉体の磁束が持つローレンツ力 ローレンツ力   による、“上”からの荷電粒子の回転を示している表記なのかもしれへん。
そして天つ巻は、富士の巻の続きでもあった。 
そやから、富士の巻では、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道で、これは、神の極性が肉体に表れてるってことと、“上”の思惑を取り込む=“祀り”、“祭り”、“政(まつりごと)”、そして“まつらう”ことが書かれており、そしてそのときの心の在り方っていうのを説かれているって解釈をしてきた。 そして天つ巻では、“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)のこと、今後=アセンション後に向けて、霊的成長を果たすべき人(日止、霊止)のことを言うて来ていると思われた。 
今言うた点で、印象に残っている部分を以下に列記しまんねん。

まず第一帖の“二二に御社(みやしろ)”、これは、“社”が、示す偏(へん)と土、それと“御社(みやしろ)してこの世治めるぞ”、これも“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があって、神さんの思惑を取り込んだ人が事象の“創造”をしていくってことを指した言い回しでもあると思える。 
それを強調した文章が、第一帖の“一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ”、これは“一二三(ひふみ)”のオーラのことを言うている。 そして神格化の過程として、現状の地球人の霊的進化過程は、土=2~3番目のオーラが中心であり、それに対し“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった人(日止、霊止)を“王”と呼称されるものであると思う。 
いうまでも無く進化過程の低い人の“王”の概念は、権力と欲望の固まりやけど、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)、神、“創造”の“主(ヌシ)”が認める霊的成長度になるのが、ほんまの“王”ってことでもあるし、それを目指す人でなければ、今後=アセンション後の事象の“創造”に参加することが出来ない。 そして“王”っていう字にも、今も言うたけど、“一”=智性=1番目のオーラの表記があり、そして胸の磁性“十”も隠れている。
また第三帖にも、“九十”って表記があり、この“九”に“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が隠れているし、“十”はそのまま胸の磁性“十”を指すものであり、それが○ 九 十 なのだって解釈をしてきた。
○ 九 十については何回も紹介した画像を貼っておきまんねん。
 
○ 九 十(まこと)の解字

 そやから○ 九 十 の、“九”は、神の最後の仕事の意味もあり、言い方を変えれば脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としての最後のカタチ、その意味を持つって解釈をしてきているし、そやから“九十”は、肉体を持った人(日止、霊止)であり、そして心(靈)の進化が“上”に向かうには、胸の磁性“十”=“慈悲”と“慈愛”が必須であることを感じさせる表記でもある。
ほんでから第四帖には、現時点での地球人の霊的進化の過程、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現について説かれている。
第四帖のKellyさん的解釈から引用しまんねん。 
                          ↓

“火と水で岩戸開くぞ、知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、
さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。
悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ。”
 
 この文の、“火と水”は何回も言うてきてるけど、腹の水とマニピューラチャクラを構成する肝臓と脾臓、肝=“いきり立つ心(奴と心)”と脾=“思う、憂う”でもある。
 そして“岩戸”は、山=脳、石=帯電するミネラル、固まっていない状態、腹の水=“江戸と尾張”の “江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン。
“戸”は、腹から“上”=胸にいたる境界、今までも言うてきた通り。横隔膜(“日月神示”表記の“戸”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門)のことやろ。
 そやから“岩戸”が開いてない心(靈)は、自我の肥大やろから、“知恵や学でやると、グレンと引繰り返る”って言われてて、たいして“行”もせんと、ありがたそうな言葉だけ引用して吹聴している輩は“グレンと引繰り返る”って言われてて、そやから霊的成長って言うのんは、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”を見出さんと何が霊的成長なのかすら理解できんと思える。そやけど、神格化のための“行”を見出すために、やはり知識や知恵は必要。そやから“知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ”って言われてる。

 引用終わり。

そして第九帖では、“一二三(ひふみ)”のオーラについて言われてて、それについてはこんな解釈をした。 
                       ↓

“ひふみの秘密 出でひらき鳴る、早く道展き成る、” この“ひふみ”は、ひらがな表記やから、いろんな意味合いを感じ(感じる磁性)ろってことやろ。
 そやからそれは今まで言うてきた通り、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもあるやろ。
それと“一”=智性=1番目のオーラ、または、“創造”の“主(ヌシ)”そのものの表記である“一”でもあるし、“一”の書き順は、向かって左から右に筆が移行して書かれる。
そやからそれは日足(ひたり)から砌(みぎり)、“思惑の顕現”=現象化って意味があり、さらにそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の日足(ひたり)は、“亜”であり、“亜”が出ずる、泉、って言う意味でアイであり、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の1番最初の文字は炁で、それは愛の元字でもある。
ほんでから“二”は、肉体の意味がある。 そして“二”に|(たてぼう、こん、縦の磁性))を足した表記が“土”でもあるし、それは人が完成された表記としての“王”から、“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記でもあるし、肉体の意味でもある。 また、土=2~3番目のオーラでもある。
また、富士の巻で何回も取り上げたこととして、“二”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道でもある。
そして“三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体でもあり、また、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つ。
これらすべて、霊的成長の秘密でもあるから“ひふみの秘密 出でひらき鳴る、早く道展き成る、”と称されてると思える。
そしてこの文の“道”は、これも“日月神示”表記の“道理”の、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の“道”でもあるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程を示す。 そしてこの文では、“ひふみの秘密”が、“出でひらき鳴る”。 それは公(おおやけ)になる。公(おおやけ)にならんとアカン。言い方を変えれば、社会通念にならんと、一般常識にならんとアカン。 いうまでもなくそれは、霊的成長を果たした、今後=アセンション後の地球上に於いての社会通念や一般常識ってことでんねん。

 引用終わり。

そやから天つ巻の所々に書かれている人(日止、霊止)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としての、智性(神性)の発現=神格化と、自省(胸の磁性“十”)、この二つは霊的進化過程の順番でもある。
そして“一二三(ひふみ)”のオーラについても、いくつかの表記があった。
これらのことを表した表記を簡単に列記しておきまんねん。

第十帖の、“ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  一二”は、“一”=智性=1番目のオーラを肉体に取り込み、心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  が、育っていく=霊的成長する様子を示したもの。
第十二帖の“神ばかり尊んでも何にもならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、
敵とうとべ ば敵が敵でなくなるのぞ、この道理分りたか。”は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを指し示した表記。 また同様の意味として第十三帖の“臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。”って言い回しもあった。
しかし、こういう自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を発現し、自分の在り方を考える人はとても少ないって表記が、第十六帖にこう示されている。
“神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、神の臣民に手柄立てさす 様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。”
これは言うまでもなく、アセンションに間に合う霊的成長度の人がごく少数であることを言い換えた表記でもあるし、それくらい平均的地球人の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度は、低いってことでもある。
 それは神さんに対する認識や、神、対、自分って認識も低すぎるからアセンションが霊的成長度において分けられるって認識も無い。 要は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が、その人(日止、霊止)の進化の計画としてのアセンションが理解できて無い人が大多数ってことでもある。
 それと同様の意味として、第二十二帖の“十柱の世の元からの活神様 御活動になりてゐること分りたであろうがな、けものの入れものには分るまいなれど、神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。”も、自省=胸の磁性“十”と“柱”って表記があり、それは進化=霊的成長、神格化に向かうことの、法則性でもある。
それは重複するけど“世の元からの活神様 御活動になりてゐる”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを言い表されている。
だから人(日止、霊止)にとっての“活神様”っていうのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標でもあり、人は神に近づくために存在するのであり、だから苦しんだり喜んだりもするし、幸福の概念も持ったのやけど、現状の地球人はその認識が低すぎるから=神に対する認識が低いから、“活神様”って言い方をされていると思える。
簡単に言えば、自分にとっての神って何なのか、それをしっかり考えろってことでもあるし、自分の存在は神あって(在って)の自分であり、だから“上”と“下”とか善悪とかの認識も出来るのであって、さらに自分がどうなりたいのかは、結局、神に近づく=ほんまの幸福の意味を知るって事でもある。
そしてこの文では、霊的成長度の低い人に対し“けものの入れものには分るまい”=自己奉仕者、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きの人には理解できないって言われてる。
そしてその認識の低い人を対象に=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、第二十四帖ではこう言われてる。
“今の臣民めくら聾ばかりと申してあるが、その通りでないか、この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ、それでこの世をもちて行く積りか、分らんと申しても余りでないか”。
 この文の“それでこの世をもちて行く積りか”は、現状の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する世界は、その事象は、存続していかないって言い回しでもある。 進化程度の低い心(靈)の“創造”ってのは壊れるに決まっているって言われてるだけでんねん。
 そやから天つ巻には、自省(胸の磁性“十”)と智性(“一”、1番目のオーラ)の発現は大事であるってことがたくさん書かれている。
 そして何回も言うてきたことでもあるけれど、現状の地球人は、自我の確立=固定化から自我の肥大に陥っている。 だから平均的な地球人は、霊的成長度が“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)であり、それはマニピューラチャクラまでの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、だから自我の確立=固定化の段階であるけれども、自我が肥大したなら物欲や金に対する執着や本能由来の心(靈)の動きしか持たないし、その心(靈)の動きが恨みの連鎖の霊的干渉を増加させており、もうどうしようもない現状なのが今の地球でもある。
だからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉を作りえない人の心(靈)は、智性(“一”、1番目のオーラ)と自省=胸の磁性“十”でもあるし、それを仏教では“慈悲”と“慈愛”と説いたと思われる。
また、智性(“一”、1番目のオーラ)と“慈悲”と“慈愛”が発現しなければ、アセンション後の“創造”に参加することが出来ない。 
その根拠は、智性(“一”、1番目のオーラ)由来の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考えない人間は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
そして今が、自己奉仕者が一番“力”を示している時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)でもある。
だからこの世界は失敗の世界であり、失敗を体験しなければ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方と、自己と他者のよいカタチの存続を考えない=“慈悲”と“慈愛”の心を発現しない。
これは人(日止、霊止)という生命と、人(日止、霊止)が認識しうる時空間においての右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることでもある。
 ほんでから“日月神示”を“上”から“下”に垂れた存在は、やはり現状の、平均的地球人の心(靈)の動き、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きについても指摘しているし、それは“上”から観たなら、とても低い心(靈)の動きであるっていう表記も多い。
 それを以下に列記しまんねん。

まず、第二帖の“これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。
今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、 そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、”。
この文の“この方ら”は、今後=アセンション後に移行出来うる霊的成長度と、心の在り方をよく認識している人のことを言うてる。
さらに“これまでの改造は膏薬(こうやく)張り”っていうのも重要な言い回しで、お前たちのやっていることは本質を見失っていて、人間の存在意義も見出しておらず、“創造”の“主(ヌシ)”が人(日止、霊止)に望むのは神格化であり、ことに“日月神示”は、アセンションという霊的成長のための大きな関門を潜り抜けるために書かれたものであり、それは、人が神格化に近づくための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を説いている。 その視点で“日月神示”を読まなければ真の解釈にはならない。
これは今、地球人が大事なときを迎えている=もうすぐアセンションと認識されうる時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が、来るし、地球上のすべての生命はその影響を受けることになるからでもある。
それについては高い心霊だけではなく、肉体を持った宇宙人からのメッセージや、程度の低いチャネラー(霊媒体質)など、宇宙的な存在の低い憑依でメッセージを伝えている現象についても指摘している。それは“星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。”って言われている通りやと思う。
そしてそんな程度の低い憑依現象で伝えられたことの解釈をろくにしないで、ありがたそうな言葉ばかり使っている本が多い。
だからアセンションは、自分はたいして何もしなくても変われるとかの、妄想と、勘違いと、思い込みをさせる。 
これはどんな存在の“思惑の顕現”=現象化なのか考えて欲しいって意味で先生は、<5>の“智性無き心は アセンションを見誤る”の213ページに、追記をした。
本を買っていただいた方は、よく自分の認識にしてくださいでんねん。
…余談やったけど、今言うたことと同様のこととして、第四帖の“砂糖にたかる蟻となるなよ”。 
これも、真に自分が霊的成長したかったなら甘い言葉に騙されるなよってことでんねん。
そやからそれは、第四帖の解釈でこんなことをKellyさんは言った。
                     ↓

今、低い憑依現象はとても多い。 ハイヤーセルフを名乗ったり、なんとか霊とかなんとか神とか名乗り、あなたの役に立つようにとか、あなたの霊的成長のためにとか、アセンションを迎えるにあたってお伝えしたことがあるからにやってきましたとか、そして、あなたは何とかの生まれ変わりとか、そんな言葉に誑かされてる人は、自分の低い功名心と自尊心を煽られる(あおられてる)だけ。そんな人は、高度な自己観察が出来てないから、動物霊が良く使うこの手法に騙され、誑かされてるってことに気が付かない。
あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信をほんの少し受け、ほんの少しだけ、自分はだまされてるのではないのかとか、誑かされてるのではないのか、とか思っても、自分にとって都合のよい解釈をしたりする。 今、そんな人が多すぎる。そしてそれは自己観察により、自分自身の心(靈)の動きの高低を見出していない。それは、自分の心(靈)の動きが、下三つのチャクラ由来の心(靈)の動き=自我の肥大、低い功名心と自尊心なのか、アナハタチャクラ= “(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持った心(靈)の動きなのか、そんなことすら自分で判断できていない。そやから“日月神示”では“改心”って表記も多く、また、霊的成長するために自分の心(靈)の動きの“上”と“下”を見極めることそのものを、“身魂掃除”“身魂洗濯”って言われてる。よく自分の心(靈)を観察せんとアカンってことでんねん。
ほんでからもっと悪質なのは、憑依現象を気取って人を騙している輩も多い。インチキ霊感商法とかインチキお祓いとかそんなものが多すぎる。またそんなものに引っかかったり、甘い夢だけ見たり、薄っぺらい言葉に酔ったりの人が多すぎる。
 
引用終わり。

そやから大概の人は、現象を現象としか見ていないし、ただ現象をありがたがっているだけで終わる。 それはアセンション落第組でしかないってことでんねん。
ほんでから今までの上つ巻、下つ巻、富士の巻にも出てきているけど、霊的成長度、心(靈)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示す表記としての“けもの”とか“けだもの”とか“畜生”なんて表記もあった。  
これは先生の概念の、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)とおなじでもある。
それは、第五帖でも“獣と神とが分れると申してあろがな”“悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ”とも称されている。 
そやから“獣と神とが分れる”っていうのんは、人の霊的成長度に於ける心(靈)の動き、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした=智性(“一”、1番目のオーラ)と“慈悲”と“慈愛”を持った奉仕者。 簡単に言えばアセンション落第組とアセンションできる霊的資格を持った人。
 さらに第六帖では、現状の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する世界のことを、“地獄に住むもの地獄がよいのぞ”“逆様はもう長うはつづかんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ”とまで称されている。
 そして第六帖ではこんな解釈もした。 
                        ↓

“いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出ざぞ。”って言うのんは、この文の表記の“活神(いきがみ)様”にポイントがあり、今の神仏や宗教は、その意味を失ってて自己奉仕者の形骸の地位を守るとか、金儲けの道具に成り下がっているから“活神(いきがみ)様”では無いって言う意味やと思えるな。
そしてそれは“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。
そやけどそれも、もう長く続かず、本当の意味での“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)っていう存在を示す。
そやからそれは、示されるってことやと思うし、それが示されなかったら、大半の人は本当の意味での霊的成長を見出すことが出来ない。

引用終わり。
 
これは現時点での地球人には、霊的成長とか自分の心(靈)の在り方とかの概念が無いから、自己奉仕者が“役員づら”になることを示していて、さらに既成の宗教や、今、霊や神って言葉を多用したり、愛や感謝やオーラって言葉を商売にしている人間が多すぎる。
それは本当の神の概念や、霊的成長ってことを見失わせいる。 そやけどこのことにほとんどの人が気付いていない…みんな甘い夢を見たいだけだから、本当のことを追求しようとしない(せめてこの文を目にした人は、本の少しでもこのことを考えて欲しいもんや)。
 ほんでから第七帖には、自己奉仕者の心(靈)の動きである砌の極性、それを、“一本足の案山子(かかし)さん、今更 何うにもなるまいが、一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ”って称されていた。
 そやからそれは例えば、経済偏重、物質ばかりに価値を求める心、目先の(本能由来の)欲望に振り回される人、低い功名心と自尊心で“役員づら”する人。 今活躍している人はみんなそういう段階の心(靈)の動きで行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)している。
 そやけどこのことは、こんな行動をとっている人には自覚がほとんど無い。 
それは、自分が持っている心(靈)の動きから“上”のことは、認識=“一”=智性=1番目のオーラが無いから、理解できないし、だからこそそんな人は、善悪はなんとなく知っていても、自分の行動に活かせない。 
だからアセンションに近づいている今、人知れずやってきたことの“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為は、ニュースなんかで毎日のように示されている。 そうやって示さないと“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為をしてきた人の自省につながらんし、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為は必ずバレて、“神の咎め”があるってことを大半の人が本当に知らんからでんねん。
 さらに第十七帖では、“昔から生き通しの活神様のすることぞ、泥の海にする位 朝飯前のことざが、それでは臣民が可哀そうなから天の大神様にこの方が詑びして一日(ひとひ)一日と延ばしてゐるのざぞ、その苦労も分らずに臣民勝手なことばかりし てゐると、神の堪忍袋切れたら何んなことあるか分らんぞ”って言われてて、これは霊的進化が自省(胸の磁性“十”)によることを知らん人、特に“役員づら”になっている人、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を対象に言われてる言い回しでんねん。
 そして第十八帖では、“今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、くどい 様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ”って言われてる。 それは“今度の戦”=アセンションに伴う醜い事象と、自分の心(靈)の動きを見極める自分自身の葛藤。それを強調した表記が、“外国人にもよく分って”=自分の外側(外国と幽界)の事象の事象しか観察しない人が、“外国人”って表記、それは自省(胸の磁性“十”)が無いってこと。 
そして“何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ”=自己観察し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になり、それには“身魂掃除”“身魂洗濯”=自分の心の“上”と“下”、それは“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の動きでもあるけれど、それを見出し、すべての存在にとって自分はどういう行動をとるか、自分の持っている“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うのか、それを考える=智性(“一”、1番目のオーラ)を行使する人(日止、霊止)になることが、この文では謳われていると思える。
そして第十九帖は、アセンションに間に合わない霊的成長度の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対するメッセージでもあった。“神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらんのざぞ、世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気つけてゐるのざぞ、ここまで世が迫りて来てゐるのぞ、まだ目醒めぬか、神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来るぞ、その時になりては間に合はんぞ。”
この文の“神の力”、これは人の成長を望む神(“創造”の“主(ヌシ)”)の思惑と、それにより人間が感じ(感じる磁性)る“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、このことを深く感じさせる言い回しでもある。 そして“ここまで世が迫りて来てゐるのぞ、まだ目醒めぬか、神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来るぞ、その時になりては間に合はんぞ”は、自分が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であることに気が付けって言い回しである。
そして、自己奉仕者の“創造”=“思惑の顕現”が、今の世界であり、言い換えればそれは、自己奉仕者の心(靈)の発振、発信による世界の“創造”であるから“気の毒出来るぞ”って言われてて、それは結果として自滅するから=“神の咎め”があるから、早く改心=“身魂掃除”“身魂洗濯”しろって言われてる。
そして第二十一帖では、アセンションに伴う事象の変化をこう書き記されている。
“みろく出づるには、はじめ半(なか)ばは焼くぞ、人、二分は死、みな人、神の宮となる。” この文の“神の宮”って言い回しは、現状の平均的地球人は、まだ“けもの”“けだもの”“畜生”に近い=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)で動いていることを指摘している言い回しでもあり、人の肉体は“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を段階的に取り込み、増幅し(“畐”)、発振、発信する=オーラになる。
 そして生命は、それぞれの心(靈)の発振、発信=思惑の発振、発信、行動をして、事象の創造をする。
 そのためには、“上”の思惑と反応する“一”=智性=1番目のオーラを持っていなければならないし、“一”=智性=1番目のオーラが小さい人は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を自分の利益の追求にしか使わない。
 だからそれは、“うれしうれし”“大歓喜”の事象の“創造”にはなりえない。 しかしこんな簡単なことすら分からない人が多すぎるのが、現状の平均的地球人の心(靈)の成長度でもある。 …まあエエわ。 進化程度の低い人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のことを指摘している文は、いくつも取り上げていったならキリが無い。
 また、自我の確立=固定化から自我の肥大した人には、このことは理解できないだろうから=“日月神示”を読んでも、自分にとって都合のよい解釈しかしないだろうから、これくらいにして…大事なのは、第二十六帖に出てきたオホカムツミノ神、これは古事記の意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)だって解釈をした。 そしてそれは、今の事象=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創った腐った世界、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた世界を、よい方向性に持っていく意味での意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)。 それは霊的進化した人(日止、霊止)=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きと、“一”=智性=1番目のオーラの大きい人が、この世界をよい方向性に導くって言う意味だと取れるし、そしてそれは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、“青人草”(あおひとくさ)って表記に表れていると解釈をした。
 “青人草”(あおひとくさ)については、画像を貼っておきまんねん。

“青人草”(あおひとくさ)の解字


そやから“この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ”は、アセンション後の人たちの事を指す言い回しであり、それはいうまでも無く“慈悲”と“慈愛”と智性(“一”、1番目のオーラ)を行使する人(日止、霊止)であり、“上”の思惑を取り込んで自分の思想にして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)し、顕現する“天詞様”のことでもある。
 またそういう事象が、第二十七帖の、“五六七(みろく)の世”であり、そやからそれは人(日止、霊止)の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)をも示す表記であり、“五六七(みろく)”については何回も解釈を述べたけど、“五”は神経が密になるさま。 “六” は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。 “七”は、 “一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
 だからそれは脊椎動物の進化の最後=○ 九 十の“九”は、神経が“慈(しげる)”って状態に成りえたから、“慈悲”と“慈愛”を発現する。
そうすると、“七”の意味である、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なり、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化をしていく。
 それは、恨みの連鎖の霊的干渉を作りえず、自己と他者を尊いと感じ(感じる磁性)、その理念を行動に活かす人(日止、霊止)だけの世界になるし、それがアセンション後の事象でもある。
 そして“慈悲”と“慈愛”、“一”=智性=1番目のオーラ、その心(靈)になるには、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが大事。 そしてそれは霊的進化の順番としての、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸の磁性“十”になる。
 それを第三十帖では、“富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、”と、“神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけぞ。まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ”と、“火垂(ひだり)の臣(おみ)と水極(みぎり)の臣(おみ)とあればよいのざぞ。ヤとワと申してあろうがな、その下に七七ゝゝゝゝと申してあろうがな”と、称されていて、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”、そして、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸の磁性“十”、シンクロトロン放射に移行する様を言い表した表記であると確信する。
 そうなれば=“慈悲”と“慈愛”を発現した人(日止、霊止)ならば、“七七ゝゝゝゝ”になり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を顕現した“日止、霊止”になる。
 そしてそこには、“ヤ”(その心は高台(たかと)高き段に進む)“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用と、“ワ”(物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義)“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとがある。
 これは言い換えれば、ローム太霊さんの言葉の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。
 そしてそれは、自我の確立=固定化から、自我の肥大から、自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”を発現する様でもある。
 またそうならねば、今後=アセンション後の“創造”には参加できないってことが示されているのが、天つ巻の総括であると思える。

 …ということで、次回からのKellyさん的“日月神示”解釈は、地つ巻に入りまんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”地つ巻の解釈を終えてから…感じた事。


 地つ巻の解釈を終えて、印象に残っていることはいくつかある。
まず、第一帖の“実言(みこと)”って言う表記。 そのときにも述べたけど、“実言(みこと)”の“言”は、言葉でもあり、言葉は心(靈)の発振、発信、それと意思、意志、思惑を伝える道具、また、事象を認識する道具でもある。 
その意味において“日月神示”で使われている“言”って表記は、ただ声を出すとか、声をあげるとかの意味ではなく、事象に顕現した心(靈)の動き、それを他者なり自分なり(の心(靈))が、観察して認識するからこそ、言葉として感じ(感じる磁性)、(振動として受信するから)認識するものでもある。 
だから、くりかえすけど、“言”は言葉だけっていう意味でもなく、すべての心(靈)の動きの顕現であるっていう言い回しが、妥当だと思う。
また、今述べたことを強調した言い回しが、第八帖の“祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ”って言われており、ここでは祝詞って例えてあるけれど、今取り上げた文章の前に、“神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。”とも言われていて、それは、自分の心(靈)に“上”との感応共振も無く、霊的成長を志す意志も無く、祝詞に霊的成長の意味を見出す認識も無く、そんな人が読んだところで何もならんって揶揄(やゆ)されている。
さらに第十帖では“まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。”って言われており、この文の“まの事”は、意味を解説すれば、“マ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、正しき生命の音意、まことの神の意(こころ)って書かれている。 いうまでも無くそれは真実=真固止と感じ(感じる磁性)られる現津(あきつ)、観察され得る事象でもあり、その現津(あきつ)、観察され得る事象を想像する心(靈)の動きと在り方でもあり、その心(靈)の動きを持った行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするのが、この文の表記の“まの事ぞ、ことだまぞ”であると思う。 
そして第二十三帖でも“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、”って言われ、ことに“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと”っていう言い回しは、発振、発信する側と受信する側の、感じ(感じる磁性)る振動の段階を指し示す表記でもあるな。
また第三十帖の“一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ”と言われており、この言い回しはとても重要で、ただ自動書記により書かれた“日月神示”の文章を読むって事ではなく、仮にそうだとするならば“この神示一二三(ひふみ)として読む”なんて言い回しはしないし、この“一二三(ひふみ)”は、脊椎動物の進化のきわまりである“日止、霊止”は、“一二三(ひふみ)”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラを発現させている意味を示し、そして今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“一”=智性=1番目のオーラの拡大であり、それは目上(めうえ)(大脳新皮質、“田” (心、靈、の四つの場(フィールド))の進化であり、今後=アセンション後の人(日止、霊止)の進化過程は、智性(神性)の獲得と行使でもある。 またそうならなければ、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は無いことを示唆している。 そして第三十一帖では、今述べたことと同様のこととして“神示に一二三(ひふみ)つけたもの”って言い回しで、その意味を強調されている。
そして振動の受信、“上”との感応共振、“上”の思惑を取り込むこと、それは“祀り”、“祭り”、“政(まつりごと)”、そして“まつらう”ことでもあるけれど、その意味を簡潔に述べられているのが第三十四帖の全文“神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、言葉で天地にごるぞ、言波で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、言波ほど結構な恐いものないぞ。”であり、この文の“言”と“波”をあわせた表記の“言波”、これはどちらも振動っていう意味。 そしてこの文の表記のように息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“上”の思惑の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を取り込むことが“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味を持つ表記)であり、それを“道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ”って称されていると確信する。

それで、今述べたことに関連して、第三帖の“誠”って言う表記。 それは“いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいて呉れよ。 世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らん”。
この文の中の“誠が神風”“臣民に誠なくなりてゐる”は、前のブログでも“誠”っていう意味は、“言葉成る”であり、自分が発振、発信した振動(言葉=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))が完成することって解釈をしてきている。
その点でも自己奉仕者の言葉っていうのは(心(靈)の動きは)、ただ不誠実。 あなたのためにとか、あなたを幸福にしましょうとか、あなたを豊かにしますとか、あなたの美と健康を守りますとか、あなたを癒しますとか、あなたは楽に価値のある何かを獲得できますとか…最近のキャッチコピーはその類のものが多いし、そういう言葉で人をたぶらかしているインチキ霊能力者や占い師やカウンセラーなど、ただただ甘い夢を見させてそのときだけいい気分にさせるってことやけど、それは、騙すための言葉、欺くための言葉、奪うための言葉、結局それは、嘘ってことでしかないけれど、本当の事を知るとか、自分が生きるうえでなにが真実(まこと)なのか、またそれを見抜く霊的成長度では無いとか=真実って認識のない低い心(靈)、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きしか持っていないと、この類の自己奉仕者の甘いささやきに簡単に乗るものでもあるし、それが悪魔のささやきだって見抜くことも出来ない。
そういう類の人、騙す方と騙される方、欺く方と欺かれる方、奪う方と奪われる方、嘘をつかれてもなんとなくその嘘を容認する人、それは、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に支配されている人、それは進化の道筋、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないからこそ、第二帖の“今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ”ってことになっており、それは今、実に情けない人(認識の低さ、霊的成長度の低さ、子供の浮遊霊の影響を受けて三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きが中心)が多いからでもある。
またこの第二帖の“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ”っていう言い回しは、“日月神示”さえ読んでいれば自分たちはよいカタチになるって錯覚を起こしている自我の肥大した心(靈)を指摘している重要な表記でもある。 だからそれは、ただ幼稚でしかなく、“日月神示”の文に自分の在り方を見出せず=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の本当の意味が理解できていないし、“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化=“行”の意味と意義、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを読み取れていない。 ただただ安直に“日月神示”の文章を声を出して読んでいれば自分たちはそれでいいって思い込むこと自体がどうかしているのではないのかって思うけど、ダメなものはダメ、低い霊的成長度は低いとしか言いようが無いってことでもある。 

 そして、当然のことながら、地つ巻にも現段階の平均的地球人の進化過程、自己奉仕者の心(靈)の動き、その心(靈)の発振、発信、事象に顕現した心の動き=“言”を指摘した表記も多かった。 その代表的なものとしては…自己奉仕者は改心して“身魂掃除”“身魂洗濯”して、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、“上”との感応共振しろっていう意味で、第四帖の“いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ”と称されていた。
また、第五帖の“片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ”この文を低い砌(みぎり)の“行”をしているって解釈をした。  
そして第十四帖の“神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。”は、春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”と同様の意味がある。
以下に第十四帖Kellyさん的解釈からコピペしておく。


 いうまでも無くこの文の“稲荷(いなり)下げや狐つき”は、低級な動物霊の憑依により、操られたり利用されたりする現象で、それは今とても多くなったと思う。 例えばハイヤーセルフとか、内在何々とか、テレビに出ていた自称霊能力者とか、それらの特徴は、自分も自分以外も、低い功名心と自尊心で、ただ言葉に酔うだけでしかない。
それは、低級な霊的存在が人を操るときによく使う手はパターンがあり、ただありがたそうな言葉で人を酔わせ、煽てあげて低い功名心と自尊心を高揚させ、それは結果として自我の肥大にしかならないし、何回も言うてきているように自我の肥大は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)の霊的成長段階の人が、右往左往の段階の“行”をして、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているのでもあり、またそんな人に限って自分は特別な存在だとか、神のメッセージを受けているのだとか、神の御用をしているのだとか、勝手に錯覚して、何の“行”もしていないケースが多く、それは言い換えれば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていない人が多いし、それ以前に自我の肥大は自分の心(靈)の観察がぜんぜん足らず、“身魂掃除”“身魂洗濯”になっていない。
そしてその類の人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、単なる金儲け(動物霊の人間に対する憧れ)と、形骸の名誉(動物霊の縄張り意識)を獲得しようとする心(靈)の動きでしかないことに、多くの人は気づいていない。 それは、大半の人は、ただありがたそうなもの、現世利益とか、何にも頑張らんと不思議な現象がおきるファンタジーのような甘い(亜、魔、出ずる、泉)ものしか求めていないからでもある。(引用終わり)

そして第十六帖の“神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。 それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ”は、大多数の人が霊的成長の仕組みを乱せず(宝=宀(うかんむり、頭の意味)+“玉(ぎょく)”(自省(胸の磁性“十”)の心(靈))、また“玉(ぎょく)”は結晶化したものの意)、そして“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が、薄っぺらい自分たちにとって都合のよい解釈や偽の情報ばかりを流している事を示しており、その“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”たちの心(靈)の動き=“どういうつもり”なのかの裏には、(通貨としての)金に対する執着があるってことを示した文でもあった。
また、地つ巻で出てきた“借銭”っていう表記、この言葉自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”して増大させている恨みの連鎖の霊的干渉を感じさせる表記だけれども、この言葉を使った文も地つ巻には多かった。
その代表的なものとして第三十五帖の“身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。 神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ”は、今後=アセンション後は、恨みの連鎖の霊的干渉を創造しない人(日止、霊止)だけになるのだけれど、そのためには今、恨みの連鎖の霊的干渉による因縁を贖う(あがなう)事が大事、だから“借銭”って言い回しをされ、そしてその贖い(あがない)は、苦痛や苦悩であり、そのなかに認識(悟り、幸取=さとり)を見出すのが、霊的成長を目指す人(日止、霊止)の在り方であり、そのことを感じさせる文でもあった。

 上記の事以外にも、地つ巻には、太陽凝視に関する表記もあった。
(一本目のブログを終えて、“続”を始めようと思ったとき、なぜ“上”が“日月神示”の解釈をせよって通信を送ったのかっていうその根拠はこのことに由来すると思う。 by ○○○大先生)
 たとえばそれは、第九帖、“ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。”でもあった。 
またこのことが出来ていない、言い換えれば、進化=霊的成長、神格化に向かうことの反対ともいえることが、第八帖の“あなはち、しきまきや、くにつ罪”の“くにつ罪”の中で説明した“白人(しらひと)”、これはとても重要な事なので、地つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈からコピペしておく。

““白人(しらひと)”、これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。”
(引用終わり)
また第十八帖にも簡単に“神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。”って述べられているし、第十九帖にも“世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、神国の月神、世をひらき足り、”と、称されており、“世成り”=事象の成り立ちは、“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”=智性(日を知る性質)(神性)(“一”、1番目のオーラ)ある思惑っていうのを皆が持つならば、“神国の月神、世をひらき足り”=神の性質(神国=智性(神性)と“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))の顕現した(月神)世界になるって称されているし、こうなるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを世よってことでしかないと思う。 またこの文は、事象の“創造”においての、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を表した文でもあり、神の性質を獲得した“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味の表記)が、創造する世界=事象っていう事を述べた文でもあり、この文自体が、“思惑の顕現”=現象化、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、それは向かって左から右に筆を移行して書くが、これも思惑と顕現、アイを表した表記でもあるけれど、これらの事を思い起こさせる一文でもあった。
 そしてこれら“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの表記を地つ巻で部分的に述べられているのは、地つ巻のあとに書かれた日月の巻に続いていると思われる。

 …という事で次回からの“日月神示”Kellyさん的解釈は、日月の巻に入りまんねん。 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”日月の巻の解釈を終えてから・・・感じた事。


 日月の巻 第一帖で述べたように、日月の巻は、 ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別があり、その区別が示すこととしてそれは人における肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意であるし、またそれは神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)がこの事象に顕現したものでもあり、人はその両方を持っているし、さらにこれまで述べてきているように心(靈)(ヒ)の動きにも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性というのは表れている。 
それでそれぞれの極性の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのが、神格化へのプロセスであるが、人の心(靈)(ヒ)の動き、それは今後=アセンション後に移行するにあたって自分はどう在るべきか、どう行動すべきか、それは自分の思想や考え価値観をどうこの事象に表わしていくのか、自らの心(靈)の動きにおける日足と砌(ひたりとみぎり)の極性について自分が何を顕現していくのか、これらについて説かれている印象のある表記があった。
 例えば第一帖の“神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。 毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直す…中略…日本の中に騒動起る…中略…日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となる”で、これは霊的成長度の高低が、アセンションに移行する際に起こりうる“騒動”を引き起こすのであって、もうたくさんの騒動が起きてはいるが、それらすべて“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)動物の心(靈)の段階)の進化過程の人間が、我欲中心=低い砌(みぎり)の心(靈)(ヒ)で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)した結果であり、このことを具体的に指摘している分かりやすい表記が例えば第六帖の“今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。 神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。 配給は配給、統制は統制ぞ。 一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。 それで神がくどう申してゐるのぞ。 種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。”でもあり、それは今の低い事象において活躍している人間はただ低いのであって、当然のことながら今後=アセンション後の事象に移行できず、移行できる心(靈)の在り方や霊的成長度を持つ人間をこの文では“種”と称し、それは今(の低い心(靈)大半の動きで“創造”されたこの事象)は活躍できないから=この事象が低い次元で、低い霊的成長度の人間が活躍するための事象であるからこそ“種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐる”と示されている。 
それで、こういう進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の高い低い、いい換えれば心(靈)(ヒ)の発現とその動きの高い低い、それそのものが霊的成長度において道が分かれる(自らの心(靈)の進化程度が選択する場(フィールド)=次元への移行としての)アセンションという事象であって、そのことも第二帖では“三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、”などと称されているものであるし、岩戸開きは“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の行使をしていくことを指す(何度も述べてきたことであるが)。 
そして岩戸を開いていく過程で心(靈)は変容するものであり、それが“江戸と尾張”=ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、より“上”の心(靈)の発現であり、それは第四密度でありアナハタチャクラの覚醒であり“石屋の仕組み”=自我の肥大を、自らが諌める心(靈)の発現でもある。 
そして今述べたことの補足として、今の事象、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)(ヒ)が創造した世界だから腐りきっており、この世界が腐りきっていることに気付かないか、あるいは無視している心(靈)はただ低いのであり、そういう人が活躍していることを表した分かりやすい表記が第十二帖の“足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。 百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。 一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。”に示されていて、先に述べたことと重複するが今活躍している人、着目されている人、それらは皆低い心(靈)の動き=低い価値観で台頭してきた人でしかなく、それを示す言葉として“日月神示”では“役員づら”という表記が使われているものでもあるし、先に述べた次の事象を“創造”する意味での“種”はこの文では“百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。 一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ”と示されている。
 要はこれまでの帖で散々いわれてきているように、平均的地球人の進化程度(マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我から“慈悲”と“慈愛”、“江戸と尾張”から“秋立つ”)は自我の肥大を招き、その価値観で行動して経済を発展させ自分たちの欲望を満たしてきたのだがその裏で増大した恨みの連鎖の霊的干渉による憑依はどんどん現象化しており、これはもう減る方向になく、とことんこの世界がダメになるまで起きるだろうが、これを引き起こしているのが自我の肥大による価値観(“石屋の仕組み”)であることを知らねばならず、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”あるいは“戦”であり、○○○大先生の言葉なら自らの目下(めした)の心(靈)を諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”であることを述べておく。

 それと日月の巻には、肉体(月(ツキ))の進化が説かれており、それはヌホコとヌホトによる電磁誘導であることが示され、さらに肉体(月(ツキ))の進化というのは、自凝(おのころ)の仕組み=タンパク質の高分子化であることが示されていた。  
それは、地球上の生命の進化は心(靈)(ヒ)の進化そのものであり、高分子化したタンパク質が様々な組織を構築し、生物学的に見た高次の組織ほど高い心(靈)の発現に関わっているものであり、それが目上(めうえ)の脳であり、左右の目上(めうえ)の脳が構成する水平磁場は“一”=智性=1番目のオーラになるものであり、人間以外の脊椎動物には“一”=智性=1番目のオーラが見られないという○○○大先生による霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)の観察の結果と一致するものである。
そしてこれまでも述べている通り、古神道表記の“日止、霊止”は太陽(日)を止める、“上”からの荷電粒子を止める、の意であり、止めるに値する肉体(月(ツキ))の電気特性は自凝(おのころ)の仕組みによって出来上がっているのだということが(解釈に長い月日を要した)第三十帖でもあった。 
そうやって=自凝(おのころ)して固まった肉体(月(ツキ))は“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を自らの肉体に止め=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して心(靈)(ヒ)を構築していく、それが“天詞様”であり、次の世=アセンション後の事象は、その心(靈)(ヒ)を持った人間がその次元を“創造”していく。 このこと自体が“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、そのための事象がアセンションであり、そこに移行するべく“行”は日月(ひつく)の巻(荷電粒子の回転)となるべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは“一”=智性=1番目のオーラの拡大になり、だからこそ天意を受信できるのであることを(再三述べたことだが)指摘して、日月の巻の解釈を終えることとする。

…という事で次回からの“日月神示”Kellyさん的解釈は、日の出の巻に入りまんねん。 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”日の出の巻の解釈を終えてから…感じた事。

 
第一帖に示された岩戸開き、それは“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、これはこれまで何度も解釈してきた今後=アセンション後に移行できる霊的成長度の段階を示し(自我(“江戸と尾張”)から“慈悲”と“慈愛”(秋立つ)、第三密度から第四密度)、そうなれば今の事象とは違うという意味合いで“春とならば萌(もえ)出づる”ということであり、現時点の霊的成長度の人が“創造”している事象は決して“春”とは言い難いということ。 
また日の出の巻では、平均的地球人の低さ、心(靈)(ヒ)の動きの低さを指摘した言い回しがあり、それを何とかしろ、自らが諌めよ、という表記も多かった。 
いうまでもないことだと思うが、このことを理解することが大事、そして自らの心の動きを変えようとしないものは、今後=アセンション後の事象に移行できる素地など全くないからこそ述べられているのである。
以下に今述べた意味合いが感じられる表記を抜粋して列記しておく。

第一帖
“愈々きびしく成ってきたが此れからが正念場ざぞ、否でも応でも裸にならなならんぞ、裸程結構なもの無い事 始めて会得(わか)りて来るぞ”

第四帖
“旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。”
(日付の表記がある文はこれまでも解釈してきたとおり“十”は胸の磁性“十”(自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に至る心(靈)の発現)、“八”は左右、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽(日)の気道と月の気道、それは日足と砌(ひたりとみぎり)という神の極性の顕現、“五”は糸巻の象形文字=脊椎動物としてコイル状(磁束の発現と強化、多様化)に発達した神経、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、あるいは“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、そして“日”は日足(ひたり)の極性、それは人(日止、霊止)においては心(靈)(ヒ)=精神性であり、人においての砌(みぎり)の極性(事象への顕現)である“月”は肉体、これらの意味を足さなければ“日月神示”の日付のある文の意味は通じない)

第七帖
“神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。 国々もその通りざぞ、神には依怙(えこ)無いのざぞ”(国々の表記は“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)のこと)

第十帖
“掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。”

第十二帖
“それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ、早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ”
“今の世の様見ても未だ会得らんか。 神と獣とに分けると申してあろが”

第十三帖
“此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。 今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ”
“方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ。 神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民 愈々苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ”
“吾れ善しはちょんぞ”

第十六帖
“春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ”

第十七帖
“何もかもひっくるめて建直しするのであるから、何処から何が出て来るか分らんぞ”

第二十三帖
“此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ”

 そして日の出の巻には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応、いわゆる“日月神示”表記の“天詞様”、“次の世”(“日月神示”表記の今後=アセンション後の事象のこと)の“創造”を担うべく霊的成長度の心(靈)についての表記も多かった。
 以下に今述べたことが理解しやすい表記を抜粋して列記しておく。

第四帖
“神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。 其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。”

第九帖
“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ”

第十五帖
“神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ”

第十七帖
“世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ、今は型であるぞ、祀れと申してあること忘れるなよ、まつはらねばならぬのざぞ”

第十八帖
“神示読めば神示出て来るぞ。 神祀り早く済せて呉れよ。”

第十九帖
“海(腹)には神の石鎮め祀り呉れよ、山(脳)には神の石立てて樹植えて呉れよ、石は神の印つけて祀る処に置いてあるぞ、祀り結構ぞ”
(“石”は帯電するミネラルのこと)

第二十一帖
“神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。 惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ”
“これから(アセンションを迎えるにあたって)は神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除して呉れよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ”

 ここまで、日の出の巻に書かれている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いを諌めることと、もうひとつ、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の必然、自我から“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)の発現とその行使、そういう心(靈)(ヒ)の持ち主の人ばかりになるのが、今後=アセンション後の事象である。
 そしてアセンション後の事象に移行するに当たって重要なのは、第十帖の“聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな”であり、これは自我の肥大(“石屋の仕組み”)の心になっている人に“上”と感応しろという意味合いもあり、現時点での価値観など既成概念が“上”の思惑に沿っていないからでもある。
そして“上”と感応し、自らの思想が次の事象に沿った心(靈)(ヒ)になる、そうなれば第十一帖の“誠の益人作るのぞ”=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ではない“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とした行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする人ばかりになる。 
重複するが、それが今後=アセンション後の事象でもある。
 またそうなるには第十三帖の“正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ。 日向(ひむか)と申してあろがな”であると思うし、それは“日向(ひむか)”=太陽凝視=智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の強化ということでもある。
 そして、日の出の巻の日の出という表記は、今後=アセンション後に移行することであると確信していることを述べ、日の出の巻の解釈を終わることとする。
…ということで、次回からの“日月神示”Kellyさん的解釈は、磐戸の巻に入りまんねん。 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その一” “マコト”という表記


 磐戸の巻の解釈を終え、印象に残っている重要な表記は“マコト”、その意は以下のようになる。

●  現津(あきつ)、観察され得る事象における真実。 “ほんとう”の事象。

● 心の動きを示す誠。 その反対は不誠実。

● 霊的成長して“上”の振動を止める意味での真固止。 そのための具体的な方法が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化。

●  “日月神示”表記の ○ 九 十 これについては画像で意味を示す。

○ 九 十(まこと)の解字


 それで“マコト”のカタカナ表記については以下のように解釈してきた。
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“ト”は、止まると云う心、天意を止め“修理固成”(しゅうりこせい)して(コ)“上”が認める=正しき(正しいは“上”と“下”が重なった表記、神の思惑通りの生命という意味合い)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由)。
 これが神の思惑を顕現するべき霊的成長した生命である“日止、霊止”ということである。 
その意味において、磐戸の巻に出てきた“マコト”という表記が使ってある文を以下に抽出するが、すべて今述べた“マコト”の意味を感じさせるものであった。

第七帖 “早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれ”
第十帖 “九九(ここ)より他に、神のマコトの道知らす所ない”
第十一帖 “心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか”
第十二帖 “マコトの者は千人に一人”
第十三帖 “肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。 逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。 ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ”
そして
“ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。 何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ”
さらに
“元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ”
第十五帖 “(“役員づら”の)わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ”
そして
“今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ”
第十六帖 “今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ”
第十八帖 “悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざ”
第十九帖 “この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本(太陽の意である日と胸の磁性“十”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+それを“下”に止める意味での━、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)による国の概念ではない)に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして”
 
 それで“マコト”では無い今の地球人が“マコト”と認めうる生命になるために必須なのは、第一帖の表記の“カミカカリ”=“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により自分の心が神の思惑に近くなることで、その意味の表記は“カミカカリでないと、これから(今後=アセンション後)は何も出来ぬ”ということ。
そして今の人間は、“上”と感応していないの意味合いの表記が、先に列挙した第十一帖の“心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか”と第十五帖の“(“役員づら”の)わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なし(自我の肥大(“石屋の仕組み”)した心は悲哀(日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)と肺=“悲しみ”)という心をあまり持っていない)にはマコト判らん” でもある。

また今の世界、今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創られているから“マコト”ではないのであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失っている。
その意味のことを示唆した分かりやすい表記を以下に列挙する。

●  第三帖 “早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。 大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのこと(平均的地球人の認識による価値観や幸福感などによること)してゐては今度(アセンション後)の御用(事象の“創造”)は出来んのざぞ”
● 第七帖 “真通理(まつり)(“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅))第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて(肉体(月(ツキ))の磁束の強化により(自凝(おのころ)の仕組み=タンパク質の高分子化)で高い振動と感応すれば)神かかれる様にならねばならんのざ。 神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ(目上(めうえ)の心を持っていない存在としか感応しない)。 まこと(これは、人間からの視点、こちら側サイドの見方であるからひらがな表記)の神かかりであるぞ”
● 第八帖 “神の国の昔からの生神(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))の声は、世に出てゐる守護人(今現在の腐った事象において地位と名誉などを獲得した人のこと)の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂(幽界、腹までの心(靈)(ヒ)の進化過程)ざから、聞こえん(高い存在と認識を共有しない)のざぞ”
● 第九帖 “天狗や狐は誰にでもかかりてモノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからんぞ、よき代になりたら神はモノ云はんぞ。 人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふ(高い存在がかかるにはそれ相応の肉体(月(ツキ))の磁束と高い振動で構成された心(靈)(ヒ)が必須、それが振動の法則性でもあり、だからこそ低い人間は低い存在としか感応しない)から気つけておくぞ。 かみがかり(これもひらがな表記だからこちら側視点、今の人間が神がかりと思っている現象は霊媒体質によるもので、たいして高い存在はかかってこないからこそ次のように言われている)に凝るとロクなことないからホドホドにして呉れよ”
● 第十帖 “日本(太陽と本、上の振動の取り込みと本来の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すという意味合いの表記)臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか、上からやり方かへて貰はねば、下ばかりでは何うにもならんぞ。 (今の価値観や認識における)上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ。 メグリ(恨みの連鎖の霊的干渉、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の因縁)ある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひであるぞ”
● 第十一帖 “心にメグリ積むと(恨みの連鎖の霊的干渉と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”因縁、それらにかかわる霊的存在としか感応していないから心の動きが三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)になるので)動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ”
● 第十三帖 “(今の価値観や認識における)上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ”
● 第十七帖 “(今の価値観や認識における)上が裸で(形骸の地位や名誉を持っていないこの世界で認められていない人、“ほんとう”を求める人)下が袴はくこと出て来るぞ”(これを強調する意味合いの表記が第十八帖の“今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらん”)

 これらは“マコト”ではない、進化程度が低い、進化程度が低いから大した霊的存在と感応しない=“カミカカリ”ではない、よって心(靈)(ヒ)の動きが低い、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が低いから「まほう色の瞳」の表記の“崇高な現実”を感得する資格がない……いろんな言い回しが出来るが、それなら自分たちは何を知るべきか、何をするべきか、の表記を列挙すれば、第四帖の“この方”、第六帖の“世の元からの仕組”、第七帖の“この神”、第八帖の“神の国の昔からの生神”、第十三帖の“生神の光”“生神の性来”“この方”、第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神”、第十五帖の“この方の道”、第十六帖の“世の元からの生神”、第十七帖の“この神”、第十九帖の“マコトの生神”、第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”…ということであり、これらの文言は表現が違ったりするが、すべて、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を説いているものである。 
 その詳細は“その二”で総括することとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん


Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その二” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を感じさせる表記


   さて、この事象は“その一”で述べた“マコト”と感じ得ることが、あまりにも少ない事象である。 
  またこの事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大多数、その低い心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が台頭しているから、恨みの連鎖に満ち満ち悪因縁(“メグリ”の意味のひとつ)ばかりが目立ち、突然死、病死などが横行しまっとうな霊的成長をする一生がとても送りにくい世界にもなっている。
それで、“マコト”と感じ得ることが少ないから“マコト”、事象における真実、“ほんとう”のこと、心(靈)(ヒ)の動きを示す誠、こういったことが観られるような事象になるのがアセンション後ということでもある。
  そして、アセンション後に位置でき得る心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))のことを示すのが霊的成長して“上”の振動を止める意味での真固止、そのための具体的な方法が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたことは幾度となく述べたこと。
そして“日月神示”表記の ○ 九 十 は、神の思惑を顕現する神の雛形として最終段階の生命(生きる使命=存在理由)の意で、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり、また“九”という字に隠された意味、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現、“一”=智性=1番目のオーラ、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味を持つ表記)ということでもある。
  そしてこのことが“ほんとう”の進化ということでもある。
上記のことを鑑みて前回の文末でピックアップした磐戸の巻の表記、第四帖の“この方”、第六帖の“世の元からの仕組”、第七帖の“この神”、第八帖の“神の国の昔からの生神”、第十三帖の“生神の光”“生神の性来”“この方”、第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神”、第十五帖の“この方の道”、第十六帖の“世の元からの生神”、第十七帖の“この神”、第十九帖の“マコトの生神”、第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”を一つ一つ見ていくと、今後=アセンション後の事象とそこに位置しうる、ある程度進化した生命ということが解っていくものである。

 まず、第四帖の“この方”(これは、このかた、ではなく、このほう、と読ませるのが正しいかも)“上”と感応した心(靈)(ヒ)、あるいは天意が顕れた行動や思想、それが今の事象では“この世のあく神とも現はれる”“閻魔とも現はれる”アクと申しても臣民の申す悪ではない”、今までの平均的地球人(自我の確立=固定化の段階)の既成概念、価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意。

 第六帖の“世の元からの仕組”は、そこで解釈した通り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番として、まず、自分たちが生業(なりわい)の“行”を中心に、土=2~3番目のオーラを大きくし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、その過程で、自分たちの存在の意義、生き方の追及、人間と神の存在の真理を探り、自分たちの本当の価値を求め…そして最終的には智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”である太陽凝視に入るのが神格化のプロセスということ。

 第七帖の“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ”
このカタカナ表記(“上”から視線のいい方)“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)で、それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分けであり、その意味の表記が“今度(霊的成長度における区分けの事象、アセンション)の岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、第三密度から第四密度)の大望(たいもう)”ということ。

 第八帖の“神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ”
この“世に出てゐる守護人の耳には入らん”“世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂”これは、現行の常識や既成概念、いわゆる平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)におけるそれが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていないことを示唆し、平均的地球人の進化の段階ではわからないだろうという言い回しが“耳には入らん”“外国(外側(外国と幽界)の事象しか見ていない心)魂ざから、聞こえん”ということ、いわゆるアセンション落第組の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。
それで“神の国の昔からの生神の声”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“神の国”、“昔からの”=“創造”の“主(ヌシ)”が決めた、“生神”=この事象に顕現する“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)、“声”=“神の国の昔からの生神”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示す指標を人間が受け入れること、ということになる。

 第十三帖の“生神の光”“生神の性来”の“生神”とは、この事象に人の神格化を顕現させる“理(ミチ)”(法則性)と解釈した。
それで“地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらん”は、“地の先祖”という表記は、天の神に対しての相対的な意味合いで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は天にも地にも存在するし、それはまた高い先祖の霊的存在であったりもする、その“地の先祖”としての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑も取り込み自分たちの思想として顕現せよ、ということ。
“愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつける”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”をはっきり示し=“生神の性来(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))現はしてバタバタにらちつける(結果として示す)” ということ。
 それは、平均的地球人の進化程度である多くの人々、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、教えに導くという段階のことではなく、アセンションというのは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区分けするのであるから、この後の文の“何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ”という言い回しで示されている通りになる。
それで今引用した“殺して救ふのと、生かして御用に使ふ”の文は“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ”に続いており、この文の“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら”は、“理(ミチ)”(法則性)を示す智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)の持ち主=“この方”の思惑に参加し、“昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、“肚の底から改心して”=自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをやめ、“マコトの御用結構につとめあげてくれ”=真実、真固止の事象の“創造”に携わり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を感じさせる“日止、霊止”と成れということ。

 第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、“生き通しの神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が“生味を見せてやらねばならん”=この事象に活きるということ。 これに続く“何れ(いずれ)はなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、今の腐った事象を創っている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心が低すぎるから“生神の生味ははげしい”といわれ、またそれは第十三帖で解釈した“大国常立尊大神と現はれ”=祟り神、艮(うしとら)の金神、“神の咎め”を体験させて“理(ミチ)”を示すこと自体が“生味ははげしい”と述べられており、またそれはアセンションの時期が“創造”の“主(ヌシ)”の計画として決まっているから時間が無い、今のうちに今後=アセンション後に移行できる心(靈)の獲得=“今の内に綺麗に洗濯しておけ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“自分を観察する自分の確立”をして、自分の心の“上”“下”を見出すようにしなければならないということ。 これに続く“皆にまつろひておけと申すのざ”は、いうまでもなく“まつろひ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により自分の思想を構築しておけということ。
 そして前後するが“何れ(いずれ)はなる”というのは、生命の存在の意義が神格化であるということ。

 第十五帖の“この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。 何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ”は、アセンションに間に合わない霊的成長度の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対していわれており、なにが霊的成長なのか、なにが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)なのか、何が正しい(正しいは“上”と“下”が合わさった表記、“上”=“創造”の“主(ヌシ)”と、“下”である人間との関係を示唆した表記)のか、神の思惑に適った心の在り方と行動をしているのか=“思惑の顕現”をしているのか、自省(胸の磁性“十”)して考えよ、そうしなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信と感応しない、そのことを示唆した言い回しが、“この方の道”であり、それに相反するから“悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやる”といわれており、それは先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“石屋の仕組み”にはまっている自我の肥大した人であり、さらにこの文の最後で“役員 気つけて呉れ”と述べられ、これまで解釈してきているように“この方”&“役員”は、今後=アセンション後の事象で神の思惑を顕現していく今現在と違う事象の“創造”を担う霊的成長度の高い人のことであり、その霊低成長との高い人の価値観や認識に対し、霊的成長度の低い今現在の平均的地球人の大多数の人が思うことは“この方の道、悪きと思ふ”である。

 第十六帖の“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。 
 またそれはこれに続く“神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ”で述べられている“神徳”というのは、“上”との感応する心、そしてその心の動きによって形作られる事象ということ、それは“上”と感応した“日止、霊止”の思想が顕現し、真実=真固止の事象を“創造”するということでもあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、いわゆる霊的成長度がこの言葉に対して思うであろう現世利益、神さんが徳をくれるとか、あるいは自分たちが頑張らなくても祈ってさえいれば感謝さえしていればそれが徳とか、そんなことで自分たちが幸福になるなどというてんで低い発想由来のことではないことを、あえて述べておく。
それで“神徳”と“世の元からの生神が揃うて現はれた”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現した世界では“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”はなくなり、この概念や言葉そのものが消失するものでもある。 その低い心の動きの根拠になるのは(通貨としての)金に対する執着、形骸の権威を示すとか、すべて自我の肥大=“石屋の仕組み”という心の動きに由来することで、幾度となくこのことは述べてきたが、この今の世界そのものがそういった心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=願いと祈り、それを達成するための思想、そのためのエネルギーの贖い(あがない)をしてきたものであり、それはこの文の“神徳”でもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の低い人間は“大き器”でもなく自我が肥大しているから“掃除(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)した大きいれもの”でもないことを読み取るべき。
そして今述べたことを強調する言い回しが“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”であり、“上”の思惑が人(日止、霊止)の行動に活きること、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現する事象を創ることを示す文が“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐる”であり、“御用”はいうまでもなく自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格を持つことである。

 第十七帖の“この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ”の“この神”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるから、この文そのものを以下のように()内で注釈つき解釈をした。
“この神(“役員づら”の神の概念ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“上”の存在としての神)はよき臣民(霊的成長を目指し自分たちが苦痛や苦悩で自省(胸の磁性“十”)して自我の肥大を諌めるということを知っている人)にはよく見え、
悪き臣民(自我の肥大、“石屋の仕組み”にはまっている人)には(調子よく思惑通りに事が進んでいた人がこれまで通りにいかなくなり=左往右往、それは霊的成長度の低い人には進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は自分たちにとって都合の悪いものになるから)悪く見へるのざぞ、
鬼門の金神(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとってはそれくらい厳しい)とも見へるのざぞ”


第十九帖の“マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”も、第十七帖同様()内に注釈入りで以下のように解釈した。
“マコトの生神(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すこの世界に顕現した生命が知らなければならない“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
その時こそ(アセンションの時期が来たら

表に出て(顕現して)、
日本(日=太陽、本=胸の磁性“十”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))に
手柄さして(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意)、
神の臣民に手柄たてさして(手柄=“上”の思惑を顕現させる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとらせて)、
神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”

 第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”は、“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃ”と述べられているから、“今の臣民”=平均的な霊的成長度の地球人は、神が示す進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力、で、観て分析することが出来ていない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が書き換えた概念を既成のものと認識しているから、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、勝手な解釈をしているという言い回しにしか取れないし、こういう解釈が妥当であると思う。 
よって“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな”は今の平均的地球人の認識が低すぎ、いい換えれば霊的成長度が低すぎであるからいわれている言い回しであるということ。
 それで“元の大和魂にかへれ”“今の臣民には無理ぢゃな”に続く“無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ”は、常々述べている天意の受信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振で自らの心を構成し、智性(神性)由来の心の動きを持ち、事象も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で観察していくならば、“出来るのざぞ”といわれている。 何度も述べたことだが、智性(神性)の獲得は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでしかないから艮(うしとら)の金神は最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたという経緯がある。 その太陽凝視による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が、“一”=智性=1番目のオーラの大きさの変容になり、“上”から注がれる高い振動と感応し、自分の思惑と神の思惑が段々一致していくようになるが、そこまでいくには最初“下”のチャクラの強化から始まるので、やはり何十年と太陽凝視を頑張って(元の気を張って)行わなければならないものでもある。
“どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならん”の“元のキ”の表記は、“元”は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことであるし、“キ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている。
 それで今の平均的地球人は、自分たちが神の思惑を顕現する生命(生きる使命=存在理由)であるなんて自覚も持っていない。 神や仏や宗教を知識で知っていても、“上”と人間の関係を見出していないものでもある。 要は認識が低すぎ。
いうまでもなく、神や仏など“上”のことを知るための既成の宗教は腐り果てており、平均的な霊的成長度の地球人の心における神や仏など、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する認識は、低すぎるものでしかないことを今まで幾度となく述べてきているが、それだからこそ“どうしても今度(アセンション後)は元のキの儘の魂にかへらんとならん”といわれており、“元のキの儘の魂”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく知り、それを理念とした生命になる、そうなれよ、といわれており、そのために“日月神示”は書かれたが、大概の人間は神に対する認識が低いから“日月神示”を見ても勝手な解釈をしたり“役員づら”になり商売に利用したり形骸の権威を誇示したり…要は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、自我の肥大であるが、そういった人間が大半だからこそ、“かんじんの神示むやみに見せるではない”といわれ、“日月神示”に真実=真固止、“ほんとう”、磐戸の巻によく出てきた“マコト”、これを見出す人間が少なすぎることをいわれているものでもある。

 せめてこのブログに縁のあった人は前回の“マコト”の意味するところと、今回ピックアップした“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく認識(悟り、幸取=さとり)してほしいものである。
 
 次回のこのカテゴリーでは、磐戸の巻で示されているカタカナ表記、“創造”の“主(ヌシ)”や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点の述べ方と、漢字やひらがな表記、被造物である人(日止、霊止)の受け取り方や認識の仕方について、まとめることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その三” カタカナ表記(“上”から視点の表記)の意味とそこから(“下”である人間が)思わなければならないこと

 磐戸の巻の前半を中心に重要な意味を示唆するカタカナ表記(“上”から視点の表記)が多かったが、最も重要なカタカナ表記は“マコト”で、それは“その一”でのべたように“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、天意を止め“修理固成”(しゅうりこせい)して(コ)“上”が認める=正しき(正しいは“上”と“下”が重なった表記、神の思惑通りの生命という意味合い)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由)、これが神の思惑を顕現するべき霊的成長した生命である“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子=思惑を止める)ということである。
 それで今の地球人は進化程度の低い人が大半、上記の意味で述べたように天意を止めるどころか、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)中心で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)している人がほとんど。
その心(靈)(ヒ)の動きが台頭しているので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となり、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)=自我の肥大という心の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))で、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させ、この事象を腐らせている。
だからこそ霊的成長度においての区分けであるアセンションがあるのだが、人は神に近くなればなるほど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動にみられる“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の無い事象を“創造”するものであり、同様に、心(靈)(ヒ)の動きは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、誠実さが台頭するから“見せかけ”の何かというものは無くなっていくものである。 
そして先に述べたことと重複するが、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化、そして自我の肥大(“石屋の仕組み”)、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、自省(胸の磁性“十”)して、その意味合いの“日月神示”表記が“秋立つ”であったり、磐戸の巻 第一帖の“十理(とり)”=胸のシンクロトロン放射(縦の磁束と横の磁束)と、法則性である“理(ミチ)”、要は“慈悲”と“慈愛”という心の動きで事象の“創造”をすることになり、そこでは進化程度の低い心の動き、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の野放図な欲望や利己的な思想は台頭することなく、きちんとした法則性に則った事象になり、当然そこには悪と感じうる何かは無くなっていき、また“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいないからこそ、その場(フィールド)では万人が何不自由なく暮らし、生活に困るという今の地球における苦難や試練は消失して誰もが神格化のための智性(“一”、1番目のオーラ)(神性)を獲得するための“行”を行い得る事象になるものである。

 今述べたことにおける今後=アセンション後の事象は、常々述べている岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、このことが必須であり、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”の心の発現と動き、自我から上の心が台頭してくるならば先に述べた万人が不自由することなくその場(フィールド)に位置する心は生業(なりわい)における苦難や試練は無くなっていき誰もが神格化を意識した“行”と生活を送るようになる。
その、場(フィールド)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としての関門が“岩戸開き”=自我の確立=固定化固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から“慈悲”と“慈愛”という進化に至ることである。
 
今述べた、平均的地球人が通り越すべき進化である、腹から胸、岩戸開き、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めること、これらのことが述べられて手いるカタカナ表記をまずピックアップする。

まず、第一帖の“イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ”の、“イワト”は先に述べたとおりの意味。
“カミカカリ”は、自分の心の発現による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が“上”になり、“行”をして肉体(月(ツキ))の磁束の強化が行われ、ことに頭の水平磁場、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば、高い存在と感応して、その感応で通信を受けることは自分の思想が“一”=智性=1番目のオーラの質(振動の高さ)と量(オーラの大きさ)という要素で、だんだん“上”の存在と感応し、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、自分の思想は神に近くなっていくことを知らなければならず、その具体的な“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それが“ほんとう”の意味での“天詞様”、天皇であり天皇という字の一つ一つは、“天”は、“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)と、“白”はシンクロトロン放射(クンダリーニの白光)と、完成された人の様である三つのオーラと縦の磁束の表記の“王”で構成されているものである。 
そして進化した心(靈)(ヒ)、いわゆる目上(めうえ)の脳、“上”との感応に必須なのが“ウズメ”、漢字表記なら鈿女、それは金と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質、目上(めうえ)の脳)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を意味する女。 要は、天意を自分の思想とした人が“思惑の顕現”=現象化を行うこと、いわゆる神の“思惑の顕現”を行う“日止、霊止”になることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の目的であるといえるものであるし、生命の存在理由はそこにしかないものである。

 第二帖の“キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは ローレンツ力と ○ (よろこび)ざぞ、臣民みなにそれぞれのキうへつけてあるのざぞ、うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。 この道理わかるであろがな”の“キ”は、気、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁(愛の元字)と表れの意である奇、そして、磐戸の巻の解釈が終わってから気付いたことだが、“道”(時間の進行)によって遭遇する事象、それは来るの意としての“来”でもあると思う。 
 それで、すべて自分たちの心が観察しうる現津(あきつ)、観察され得る事象というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”、これを個々の心がローレンツ力ローレンツ力 で取り込み生命は存在している(“心のもとはキ”)が、心(靈)(ヒ)そのものが霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、ローレンツ力由来の円形加速粒子機の構造を持つから心(靈)は発振、発信する、それが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に反応して現津(あきつ)、観察され得る事象はやって来るもの、それは物質世界においての物であろうが人の縁であろうが霊的干渉による現象であろうが心霊との縁であろうが、すべて荷電粒子の取り込みと自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることであることを知らなければならず(“総てのもとはキである”)、それが因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”の根拠たることであり、自らが遭遇する事象はすべて自分に責任がある(“うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ”)ことを知りうる根拠となる、そのことを感じさせる表記が“キ”。 また磐戸の巻の次の巻は、キの巻であり、“キ”についてはそこでまた解釈を述べることする。
 
 第四帖の“この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ”
“この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ”=今までの平均的地球人の価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意。 
それともう一つ“生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ”の“イキ”、これは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であると解釈するのが妥当で、自分の心の動きが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“上”と感応する事象になっていけば、進化程度の低い人間が“神の咎め”を受け、そのことを悪だと自分に都合の良い解釈をすることも示唆しているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は違えることなくその程度の低い人間が自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させるものでもあるし、それが自分がしてきたことに対する正当な報酬としての“神の咎め”でもある。 よって“神のイキに合す”と“イキに合へば悪は悪でない”の意味は、天意、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信と、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が同調するの意であると理解できると思う。

第七帖の“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ”の“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)。 それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分け、“役員づら”が述べている意味合いのことではなく真実のアセンションのことだが、それを通り越しても(時間の進行としての“道”)、“今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではない”=自分たちが今までとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をするのであるからすぐに良いカタチにはならないということを述べられている。

第十三帖の“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ”
 この“コト”という表記は“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、と、“ト”は、止まると云う心、の意味合いがあり、何が停滞して働くのか、何が止まるのかはこれまで述べてきているように“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“上”からの荷電粒子(天意)であり、それを真に固く止めるのが真固止であり、天意を自らの思想とする神の雛形として進化した生物(人、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の要素を示した“日月神示”表記の ○ 九 十 でもあり、天意=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるという表記が“日止、霊止”でもある。 そして天意を自分の思想としている人を他者が“観察と認識”したらその行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、を感じ得るものとなっていくのが、進化=霊的成長、神格化に向かうことの必然でもあるが、“上”からの荷電粒子の止め方の違い、止まり方の違い、いうならばそれは心の発現と心の動きの違い、それはこの文の“精神ちがふ”でもあるが、それが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の違い、要は霊的成長度の違い、自我より“上”の心がきちんと発現しているのかであるが、それを述べているのが“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになる”であるし、心の“上”と“下”(正しい)が纏まっているならば=“コト正しくすれば”、そうなるならばという意味合いの表記だが、そうすると“正しきこととなるのざぞ”であるし、人が事象を観て正しいと感じ得るということに他ならない事象を創り得るものである。

第十六帖の“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすること”の“肉体心すてて了ふて”は、同じく十六帖の“人間心すてて仕舞て”と同様の意味であり、自我の肥大を諌めて、天意を受信する仕組みである“ミタマ磨き”=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化(自凝(おのころ))をよく理解して実行し、“上”と感応することが“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふ”“神の申す通りそむかん様にすること”の表記の意味合い。

 ここまでのことをよく理解すれば、自我の確立=固定化、自我の肥大から、その低い心を諌め自省(胸の磁性“十”)し“慈悲”と“慈愛”という心の動きが台頭することそのものが人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということが理解できると思う。

次に、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命のことを指す表記を以下に列挙する。

第一帖の“タマ”
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。

第三帖の“マケ”と“ハルマゲドン”
“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ”の“マケ”の表記の意味であるが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と記されているので、やはり、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
“ハ”は同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ハ”は、生命発現成長の音義、“ル”は、霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め、凝す(こらす)、と記されているから、これはタンパク質の高分子化による磁極性の強化ということだと確信する。 
“マ”は前述した通りの意味、“ゲ”は“ケ”に濁点が付いており、濁点が付いているのはその意味合いが強調されていることである。
“ド”は“ト”に濁点であるが、“ト”は、止まると云う心と“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に述べられているし、これは“日止、霊止”の止める、“上”からの荷電粒子を止める、太陽の振動を止める、の“ト”であり、濁点が付いているから強調されている。 “ン”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に何も記されていないが、これは○ 九 十の“九”と同義、完成、あるいは完成に至る雛形の意味である

第五帖の“ミタマ”
“ミ”は、生命の幹 その現実 ヒフミのミ
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った心(靈)(ヒ)、生命が、観察する現実(“ミ”)(現津(あきつ)、観察され得る事象)という解釈が成り立つ。

第六帖の“北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。
 よって“シホミツ”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動“シ”が生命(生きる使命=存在理由)と現津(あきつ)、観察され得る事象に止まるように降りるの意であると思う。
 次に“シホヒル”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、ヒト(“日止、霊止”のヒ)。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め凝らすの義。
 よって“シホヒル”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動が生命に降りて凝る(自凝(おのころ))している様、またそれは神格化のプロセスの重要な要素のたんぱく質の高分子化による肉体(月(ツキ))の磁極性の強化と変容の結果である“上”との感応といい得る。

第七帖の“神のミコトにきけ”
“ミ”は生命の幹 その現実。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“ト”は、止まると云う心。
“神のミコトにきけ”は、天意を受信した智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で“観察と認識”して自らの心で思い判断せよという意味合いのこと。
もう一つ“この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ”の“マナカ”は
“マ”は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意含む。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
であるから、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と繁栄、そして生命(生きる使命=存在理由)が創造するその力とそれで創られた現津(あきつ)、観察され得る事象の正しさ、それは先の第五帖“ミタマ”“タマ”の“マ”、誠実さや真実=真固止を感じ得ることが大事”と述べたとおり、“上”から観て、あるいは進化した人(日止、霊止)の心から観て、正しき事象でなければならないし、そうなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。

 磐戸の巻のカタカナ表記は今の人間の在り方、自分の在り方(“観自在”)、敢えて言うならば心(靈)の動きの在り方を示唆し、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指す表記、神格化に至る意味合いのことがたくさん述べられていた。
 そのことをあえて指摘して、次回のこのカテゴリーは先に述べたように、キの巻 の解釈に入っていくことを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”キの巻の解釈を終えてから…感じた事。

 “日月神示”の原文では、キの巻を「キノ〇キ」と記されているようである。
 この“キ”“ノ”“〇”“キ”の表記と、その表記の並びには、意味があると思える。
 最初の“キ”そして“ノ”は、“ノ”が、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)であり、よって冒頭の“キ”は、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と解釈するのが妥当。
 そして“〇”は、霊(荷電粒子の回転)、心(靈)(ヒ)、であり、それに続く“キ”は、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を止めた生命、その生命活動、いわゆる心(靈)、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であると思える。
 補足として“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、

“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし

と述べられていることを付け加えておく。
 それで、この“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の文言について磐戸の巻 第二十一帖で以下のように解釈した。

“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている。


 よって「キノ〇キ」の後半の二つの表記、“〇キ”は、個々の心(靈)(ヒ)が観察しうる事象と、その事象の“創造”、自らの心(靈)(ヒ)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により現津(あきつ)、観察され得る事象を“創造”するとの意味であると思える。

 そしてその事象の観察と事象の“創造”は、常々述べている通り個々の心(靈)(ヒ)の霊的成長度にかかわるものであり、霊的成長度の違いが観察しうる事象の違いであり、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により創りうる事象も、霊的成長度の高低で違うものである。

 このことを踏まえておかないと、キの巻の本当の意味は解釈出来ない、これを岡本天命に書かせた艮(うしとら)の金神を名乗る霊団の意図を知ることが出来ないと思う。

 今述べた意味合いで、特に印象に残っている原文とその解釈をピックアップすることとする。

 まず、第一帖の表記の“節分から”そして“、タカミムスビ と カミムスビの御働き”は、今後=アセンション後における“日止、霊止”であり、それは第一帖の解釈で述べたように、“皇”(白=シンクロトロン放射、胸の磁性“十”、そして“王”、“一二三”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性)))、それは、人の進化した様(霊的成長度という点でまったく価値のない今の形骸の天皇制のことなどではない)である。
以下、第一帖からコピペ。

“手打ち乍ら”は、左手と右手を合わせること、日足と砌(ひたりとみぎり)を合わせること、“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”ともいい得るもので、それは“拍手(日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性を合わせ事象を“創造”すること)は元の大神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))様の全き御働き”と述べられている通りでもある。 
 そして“ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れ”は“一二三”のオーラを発振、発信せよ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、の意。 平均的地球人は“一”=智性=1番目のオーラが全然足らないからでもある。
 前後するが“手打ち乍ら”“拍手”の意、それは“タカミムスビ と カミムスビの御働き”であり“タカミムスビ”は古事記では高御産巣日、日本書紀では高皇産霊、“カミムスビ”は古事記では神産巣日神、日本書紀では神皇産霊尊であり、この漢字の中に“日止、霊止”、“上”からの荷電粒子を止める意の“日”“靈”の字があることに着目しなければならず、それは“高”“御”であり“ムズビ、産巣日”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり、法則性、
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、心(靈)(ヒ)、日、火、
であるから、“日”“靈”=“上”からの荷電粒子、降り注がれるア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)を、“ス”と成して、心(靈)(ヒ)と成すという解釈をするものでもある。


 第二帖では、“おはりの御用”“一の宮”“天之日津久神奉賛会”“オホカムツミ”“イイヨリ”“タニハ”という、肉体(月(ツキ))の秘密と、進化の“理(ミチ)”=法則性を示唆する表記があり、これも第一帖の“皇”、人の進化を表すものである。
 それぞれの意味を以下にコピペ。

“おはりの御用”=腹の水、“江戸と尾張”の尾張り、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラで構成される磁束、心(靈)の発現と動きでいえば自我の確立=固定化の段階、そしてそれは腹の位相のサイクロトロンの強化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。

“一の宮”=“一”、智性、1番目のオーラ発現の部位、それが宮(宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている))

“天之日津久神奉賛会”は、“天之”=“上”から注がれ太陽を介して送られてくる神の思惑としての荷電粒子を取り込むことが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことだが、それを奉賛(神社、寺などの仕事につつしんで賛助すること)せよの意。

“オホカムツミ”は以前作った画像で意味を示す。

意富加牟豆美(オホカムツミ)の解字



“イイヨリ”=飯依は、日月の巻 第三十帖での解釈を引用する。
“飯依比古(ひひよりひこ)”は、“飯”と“依”=頼りにする、寄りかかる、 よりどころとする、の、意味がある。 これは“臓腑”の“腑”=消化器官と排泄器官による電磁誘導を示唆していると思う。 それは“飯”は捕食であり、進化過程の低い生命においては異物の取り込みであり、微生物から高等な生物に共通する異物の取り込み=捕食、それがあったからこそ高次の組織が作りあがるものである(“腑”の電磁誘導)。

“タニハ”は、旧国名の丹波、読みはタンバ、タニハであり、今の京都府と兵庫県の一部と思われがちだが、そんな解釈では第二帖の意味が通じず、タンバ、タニハ、の語源となった“田庭”(タニワ)の意味を示すのが妥当で、それは“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と場(フィールド)を示す“庭”ということ、要は“一”=智性=1番目のオーラの発現の部位、“一の宮”と同義。


 それで第二帖解釈の文末で、
神の雛形としての人間、“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”である自分たちのことを意識してしっかりせよという意味合いのこと
と述べたが、“神の雛形”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”のように発振、発信せよ、それには“一二三”のオーラの完成が必須であり、現時点の地球人は土=2~3番目のオーラの強化の段階であり、その心(靈)(ヒ)と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるが、今後=アセンション後、第一帖の“節分から”においては、“一”=智性=1番目のオーラの小さい人は位置できない、位置する資格が無い、だから艮(うしとら)の金神は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えたのであるということを(たびたび述べてきたことではあるが)付け加えておく。

 第三帖の以下の文も、事象の観察と、その“創造”についてのことが述べられている。

“この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリ井の神と現はれるぞ”

 この文の解釈は以下のように述べた。

“この方”=進化した生命、“現われるぞ、現はれるぞ”=この事象に顕現する、という意味合いで、それは“イ”であり“キ”であり“シチニ”であり“ヒ”であり“ミ”であり“イリ井”であり、要は進化した生命が事象に顕現し、この事象を自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”していくのである

 そしてカタカナ表記(“上”から目線)での表記の意味を“下”である人間はよく解らねばならない。

“イの神と現われるぞ”、
“イ”は、生気生命の発生力、アイ、愛(炁)の“イ”でもある。

“キの神と現われるぞ”、
“キ”の意味については、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし と述べられているから、心(靈)(ヒ)が観察しうる現津(あきつ)、事象は、自らの心の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるという意味合いであり、これはとても重要なことで、自らの心が感じる外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、すべて自分たちの“創造”によることであるという意味合いでもあるし、自らの心は、天地の精気=振動、波動、の取り込みにより事象の“創造”をするという意味合いのことでもある。

“シチニの神と現はれるぞ”、
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)。
“ニ”は、物を固らし縮め、またやわす 物を固めるにその固めしを、また、ゆるめにもそれ用いしぞ (その形を変え調いへる言霊の霊引となす)。

“ミの神と現はれるぞ”、
“ミ”は生命の幹 その現実。

“ヒの神と現はれるぞ”、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。

“イリ井の神と現はれるぞ”、
“イ”は前述した通り。
“リ”は、生命根源の、張り、広がり。
それで“井”は漢字表記、被造物である人間の視点での表記で、“井”の意味としては、象形文字で、四角い枠型を象り、元は、「形・刑・型」の一部である「ケイ」の音とされている。 要は枠、形作られた何か、という意味合いであると思える。



 それで、第四帖から第十七帖では、現状の人間の霊的成長度における事象の観察と事象の“創造”について=平均的地球人の“〇キ”について述べられ、そしてそのダメさ加減を指摘している言い回しが多い。
 そして霊的成長度における事象の“観察と認識”と事象の“創造”についても述べられている。
 まず、現状の人間のダメさ加減を指摘していると感じられた現文を以下にピックアップする。
 
第四帖
“カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要(かんじんかなめ)の所 元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならん”
“神の国の元の因(もと)のキのミタマを入れて練り直さな出来んのざぞ、肝腎がひっくり返りてゐるぞ”

第五帖
“、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ”

第七帖
“物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか”

第八帖
“今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ”

第九帖
“悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ”
“何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ”(これは“役員づら”のこと
“守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ”

第十帖
“ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ”

第十三帖
“これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ、御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ。 自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。 偉い人 愈々とんでもないことになるぞ”

第十四帖
“心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ”

第十五帖
“誠申すと耳に逆らうであろが、其の耳 取り替へて了ふぞ”(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、自我の肥大(“石屋の仕組み”)をしている人は、不誠実であり、事象の“創造”の誠(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が成る)ということに理解が足らない

第十七帖
“すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ”


 ここまで今後=アセンション後に移行できない霊的成長度、ダメさ加減を述べている表記をピックアップしたが、次に、霊的成長度における事象の“観察と認識”と事象の“創造”について述べられている原文と、それならばダメな霊的成長度の心(靈)が成長するには何を指標にするのか、それについて述べられている文章をピックアップする。

第五帖
“神示は心通りにうつる(霊的成長度における解釈と、霊的成長度における事象の遭遇の意)のざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ(これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“役員づら”のことである)”

第六帖
“天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならんぞ”(事象の“観察と認識”と事象の“創造”は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”である人間、その双方の感応により行われるべきものであるということ

第七帖
“天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ”(すべての事象の“創造”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿ったものでなければならないという表記が“親の大神様のミコト”であり、素も思惑通りになる、成らねばならないというのが“元のこの方等の心のまま”

第八帖
“天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて(自我の肥大を諌め)、心からお詫びして改心(自省(胸の磁性“十”)の“行”)すれば、この先末代身魂をかまう(“上”と感応する)”

第九帖
“天と地の御恩(“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅))といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ”

第十帖
“山の谷(目上(めうえ)の脳のこと)まで曇りてゐるぞ、曇りた所へ火の雨降るぞ、曇りた所には神は住めん(“上”と感応しない)ぞ、神なき所 愈々ざぞ。 ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ(自分たちの低い心(靈)の動きで事象の“創造”をするということ)”

第十二帖
“(霊的成長度の低い)みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写る(霊的成長度の高低における事象の遭遇)ぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいたのぞ。 神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れよ”

第十三帖
“これから(今後=アセンション後)は神徳(“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅))貰はんと(“上”と感応していない霊的成長度の者は)一寸先へも行けんことになったぞ”

第十五帖
“神示(“上”と感応して得た認識(悟り、幸取=さとり)) 肚(はら、自我のこと、そして月偏(へん)(にくづき、肉体(月(ツキ))のこと)+土=2~3番目のオーラ)に入れておれば何んな事が出て来ても胴(どう)すわるから心配ないぞ、あななひ、元津神々人の世ひらき和し(“上”と感応することが“和”)、悉くの神人みつ道、勇み出で、総てはひふみひふみ(“一二三”のオーラ)となり、和し勇む大道”

第十六帖
“神々みち(“上”と感応する人が事象の“創造”をするならば)、ゑらぎ百千万のよきこと極む。 いよいよとなり、何も彼も百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。 元の光の神々ゑらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる”


 さて、ここまでで取り上げなかった第十一帖と第十七帖では、ここまでの“日月神示”に出てこなかった表記がある。
以下に画像を示す。

日足(ひたり)回り “日月神示”表記 これまでとキの巻第十一帖の表記

  キの巻 第十七帖 霊 〇 と、シンクロトロンの構造

これは、○○○大先生の著書とここまでの“日月神示”解釈をよく理解している人ならば、画像を見ただけで意味は分かると思うが、とても重要な表記であり、進化、霊的成長、神格化に向かうこと、そして、心(靈)が荷電粒子の回転であり、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で構成される円形加速粒子機の仕組みが肉体にあり、それがまたオーラの発振、発信の“元”になっているし、磁束によるローレンツ力 ローレンツ力 で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み、それを増幅させ(自分の認識(悟り、幸取=さとり)となして)発振、発信している、それが“一二三”のオーラであり、天意を取り込むべき心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の回転は増し、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)で構成されたシンクロトロンという円形加速粒子機の構造と仕組が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みであるということ、そして胸の磁性“十”、○ 九 十 (まこと)の“十”も同様の意味を持ち、その心(靈)(ヒ)の動きは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、“自分を観察する自分の確立”になっていくという、常々○○○大先生が述べていることを付け加えておく。
 そしてそれは、生命(生きる使命=存在理由)としての使命、神の思惑の顕現、というのは、霊的成長して“一”=智性=1番目のオーラを高めていかねばならず、そのために艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのであり、また、キの巻 第十一帖の“一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄”ということであり、そして“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ”という、日足(ひたり)回転が増していくという表記に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組があるという、先に述べた“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”という心の動きは、神格化の一段階であるし、“一二三”のオーラの完成のため、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていかねばならないと強く思うものである。 
 それで、
第十一帖第十七帖については、ここで重要な文言だけをピックアップするのは避け、“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人なら、何回も読んでいただき、自らの認識(悟り、幸取=さとり)としてもらいたい(“日月神示”の文言にありがたそうな雰囲気を感じその雰囲気に酔っている人は対象外)との意向を示し、キの巻の解釈を終わることとする。

 次回からの“日月神示”解釈は、水の巻(三ローレンツ力と ○ の 〇キ )に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




Kellyさんが“日月神示”水の巻の解釈を終えてから…感じた事。



 艮(うしとら)の金神が水の巻で伝えようとしているのは、まず、第一帖の表記の“三ローレンツ力と ○ (みず)”であり、この意味は、“三”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、そして、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、その中に書かれているローレンツ力ローレンツ力 、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)することそのものを指しているし、それによる発振、発信が、“一二三”のオーラである。

 そしてそれは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるからこそ、第五帖の文を以下のように解釈した。

“この神示(“上”の思惑) 声出して読みあげてくれよ(天意を自らの認識(悟り、幸取=さとり)とする“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして、自らの“一二三”のオーラとして発振、発信せよ)。 
くどう申してあろがな。 
“上”の思惑と感応した心(靈)(ヒ)が息吹く=“言”という意味での)言霊(ことだま)高く読みてさえおれば結構が来るのざぞ。 
人間心(これは今、あるいは今までの進化過程における発振、発信のこと)出してはならんぞ”

 要は“上”と感応しうる肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)になり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を高くせよ。
換言するならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間は、天意を顕現するということ。
その意味で、第一帖の、
“てん詞様おろがみてくれよ。 てん詞様は神と申して知らしてあろがな”(てん詞様とは、“上”と感応共振していて、きちんと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現している人のこと)
第三帖の、
“神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ”
第四帖の、
“勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々”
第六帖の、
“キが元ぞと申してあろがな。 神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ”(後半の文は心(靈)(ヒ)の在り方を述べている)
第十一帖の、
“神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ。 キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ”
(“カイの言霊(かへし)キざぞ”というのは、“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)と、心(靈)、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“キ”(気、愛(炁)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁であることを、キの巻で述べた)であり、その息吹に応じて、現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇があるということを“(かへし)”と称され、それは、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”と同義であるし、この場合の“カイ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”の引用が分かりやすいので以下に述べる。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
 生命(生きる使命=存在理由)というのは、思惑を顕現するものである。 心(靈)というのは、“創造”の“主(ヌシ)”から悪魔、人間であろうがどんな下等生物であろうがどんな悪霊であろうが、そういうものである。
 その意で“カ”=生命と力、といえ、生命=その心(靈)がなそうとすること事態を“イ”と称している)
第十二帖の、
“人間心には我(が)があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。 神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ” (“上”と感応せよの意)
“てんし様の御稜威(みいつ)輝く御代とする事ぞ”(“上”と感応して事象の“創造”をせよの意)
第十七帖の、
“カイの御用はキの御用であるぞ。 臣民はミの御用つとめて呉れよ。 キとミの御用であるぞ。 ミの御用とは体(からだ)の御用であるぞ。 身 養ふ正しき道開いて伝へて呉れよ”
これらすべて、“上”との感応、そして“上”と感応するならば心(靈)の在り方は変容してくる、その変容は、第十一帖の“神第一”が解りやすいが、“上”と感応しない心(靈)は、霊的成長度が低く進化程度が低いので“悪魔第一”となるが、大概の平均的地球人にはその自覚が無いものであり、“上”と“下”も判っていない場合が多い。
 そのことを指摘している言い回しが、第四帖の、
“お宮も土足にされる時が来る、おかげ落さん様に気付けよ。
勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々”
第六帖の、
“キが元ぞと申してあろがな。 神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ”(“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するなよ、の意)
第十三帖の、
“今の臣民 口先ばかりでまこと申してゐるが、口ばかりでは、なほ悪いぞ。言やめて仕へまつれ”
第十四帖の、
“今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ”
であり、これを読んだら自分たちの進化程度の低さを判断できるようにならねばならんと思うし、今後=アセンション後は、そのまま“道”(時間の進行)は進んで行かないから、第九帖の、
“その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ”
いわゆる霊的成長度の高低における区分け、アセンションという事象があるのだと述べられている。
 それで“上”との感応のために、第二帖、第三帖、そして第十帖で述べられている祝詞と神名が述べられ、さらにその言葉一つ一つに霊的成長の秘密が示されている。
 しかし祝詞や神名を読みあげるだけでは“上”との感応にならないので、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を指す表記として、第十一帖の
“タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ”
第十六帖の
“まだまだ御苦労あるぞ。 たまの宮つくりてよいぞ”
と述べられているものである。
 それでこれらのことを含め、水の巻で最も大事なこととしては、第十七帖で述べた以下の解釈、

“キミの御用”は、“キ”と“ミ”であるから、“上”と感応している生命(生きる使命=存在理由)、事象を“創造”する生命、それは“日止、霊止”(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるの意)である。

水の巻の要旨は、これに尽きると思うことを述べ、水の巻の解釈を終わることとする。

 次回からの“日月神示”解釈は、松の巻(〇つの〇キ )に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん



Kellyさんが“日月神示”松の巻の解釈を終えてから…感じた事。

 幾たびか述べてきているように、松の巻の松は、 〇 つであり、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の、“つ”で、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意、があるので、 〇 つは、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことである

 これに相対し、いうまでもなくこれまでの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)というのは、“江戸と尾張”、それは腹の水、“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、腹の位相のサイクロトロンの強化だといい得るし、自我から“上”の心である、自省(胸の磁性“十”)、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の事象の創造をする資質を持ちえないものでもあるし、これはヨガのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の概念からすればムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、までの進化、そしてチャネラーを通して地球人の進化のためのメッセージを送ってきている存在の言葉を借りるならば、第三密度、である。
 またその進化過程の心(靈)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、その心(靈)においての認識は、何でも自分の利益のために利用する。
そしてそれが当たり前になっているのが今の事象でもある。
その低い心(靈)由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や認識、既成概念や一般常識と指摘してもよいが、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、その振動の低い部分でしか心(靈)(ヒ)が構成されていない、自我を構成する振動より高い振動は、素通りしている、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できていないから、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない、あるいは高い振動を取り込んで“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していないといいうる。
この意味のことが、第四帖、
“幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬから、誠の所へは人民なかなか集まらん”=“上”が高い振動を発振、発信していても低い心(靈)とは感応しない、
“神の気概に叶はん人民は地の下になる”=“上”の振動と感応しない(叶わん)ならば、次の段階には移行しえない、
こう述べられている者でもある。

いうまでもなく高い振動を取り込んで“気血栄衛(營)”する具体的な方法は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるが、それ以前に、自分の低い心(靈)の動き、それ由来の認識、それを改めよ、という意味合いのことがいくつか述べられている。 
いくつか以下に列挙する。

第六帖
“今の世に出てゐる守護神、悪神を天の神と思ってゐるから なかなか改心むつかしいぞ”

第七帖
“偉い人 皆 俘虜(とりこ)となるぞ”

第八帖 
“世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。 それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。 臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。 戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ”

“悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ”

第九帖 
“悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方 始め辛いなれど先行く程よくなるぞ”

第十一帖
“今の法律 此の方嫌ひぢゃ、嫌ひのもの無くするぞ。
凝り固まると害(そこな)ふぞ。 此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ”

第十二帖
“前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ”

第十四帖
“日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが。まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ”

第十七帖
“今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。此処までよくも曇りなされたな”

 それぞれの詳細な解釈はそれぞれの帖の解釈を参考のこと。

 それで松の巻は、〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))について述べられているものである。
 それを以下にいくつか列挙する。

第一帖 
“世の元の一粒種の世となったぞ。松の御代となったぞ”

第二帖 
“臣民無くなるぞ。 残る臣民 三分むつかしいぞ。 三分と思へども、二分であるぞ。 邪魔せん様に、分らん臣民 見物して御座れ”
これは次の段階に移行すべき資格と資質を持った人は少ないのだという言い回し。

第八帖 
“神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。 一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。 日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ
下線部分は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応を指している。
ちなみにこの表記は第十八帖にも出て来る。
“神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ”

第十一帖
“あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ”
“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意は、光と認識しうるものであり、それを吸収して肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を作り変えたのが“日津久の民”である。

第十九帖
“改心次第で善の霊(れい)と入れ換へて、その日からよき方に廻してやるぞ”
 自らの心(靈)の在り方により“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在と感応し、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を歩むことが出来得ることを示唆した言い回し。

第二十八帖
“保食(うけもち)の神祀らづに、いくら野山拓いたとて、物作ることは出来ないぞ”
ちゃんと食って“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ、それが、“野山”を“拓いた”、これは、“野山”=目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)“一”=智性=1番目のオーラに関連することであり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により事象の“創造”をしていくことを示唆した文言である。

第二十九帖
“キの御用大切ぞ。ケの御用大切ぞ。クの御用大切ぞ”
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)

“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
 上記の意味を鑑みれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めた生命、その顕現、という解釈が成り立つ。
 いわゆる神の“思惑の顕現”=現象化としての生命が“日止、霊止”であるということを示唆した言い回しであり、それがまた、第二十八帖に示された画像の意味合いである。



松の巻 第二十八帖 


 この画像を見て“ほんとう”の人間の在り方、その存在の意義(それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でしかない)を鑑み、これまでの一般常識や既成概念、ことに“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に刷り込まれたものなどは、捨て去っていかねばならず、なぜ捨て去らねばならないのかは霊的成長度の低い認識によって構築されたものであるからだということを自分自身よく知っておく、それが松の巻を読んで感じとらねばならないことの一つであり、今“行”をやっていない人間であってもこれを知ったならば生き方は変わる、換言すれば存在の在り方を鑑みる、そうするならば第十九帖の
“改心次第で善の霊(れい)と入れ換へて、その日からよき方に廻してやるぞ”
に相当する存在に成りうる、またそれくらいのことは当然、それすらできないならば、第四帖の、
“神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ”
いわゆる霊的成長度の高低による区分け(アセンションと認識しうる事象)において、次の段階の創造に参加しえないということをよく認識すべきである。
 
 次回からの“日月神示”解釈は、夜明けの巻(曰アけの〇キ)に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”岩の巻の解釈を終えてから…感じた事。



 岩の巻は一八の○キであり、この“一八”の“一”、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”、あるいは“一二三”のオーラの“一”=智性=1番目のオーラ、最近○○○大先生は“総括編” で、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)と人間の心(靈)はフラクタル(fractal)(自己相似性、相似象、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)であることを述べたが、たった今の人間は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)中心で“一”=智性=1番目のオーラが小さい段階、そしてそれは“日月神示”表記の“ケダモノ、獣”であり、“創造”の“主(ヌシ)”とフラクタルとは言い難い感があり平たく言えば今の人間は神に近いとは言い得ないし、多くの人間がその低い価値観と幸福感由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し、悪魔の傀儡になっているものであり、こういった状況を観ると、人間が神に近付くことそのものが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるからこそ、今の人間は霊的成長度が低いと言うことでもあり、低いままでは次の事象に移行しえない、移行する資質がない、ということでもある。

よって“一八”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑(“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意)、これを“一”=智性=1番目のオーラとして、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)=“八”とする、と解釈するのが妥当であり、たった今の地球人の大多数はこれに相当しない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きしか持ちえない、それを自覚せよと言う意味合いもある。

だからこそ、第一帖では
“悪の守護となれば、悪よく見えるのざぞ”
と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるこの事象の低さとその低い“観察と認識”自体をを指摘されており、
“ 
ローレンツ力 なきもの悪ざぞ”、
この“
ローレンツ力  ”はこの文において“上”と感応する目上(めうえ)の脳のローレンツ力ローレンツ力 を指すものであるのだが、これが無い、大脳新皮質の磁束の弱いものは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込めないから“悪”と称されているものであった。

第二帖では、今後=アセンション後に移行する資質として、
“よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ”
“こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。 不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。 九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。 まことの 
渦巻き 左回転 かかりぞ”
これは第十一帖の“因縁みたま結構となる”、次の事象に移行する資質を持った心(靈)には、生きている間に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配としての試練を与えているのだ、ということであり、そうしていくならば“上”と感応する=“まことの 
渦巻き 左回転 かかり”と称されている。

 それで“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識、というよりも既成概念や一般常識などを改めよという意味合いも含めて、第三帖の
“これまでは道はいくらもあったのぢゃが、これからの道は善一筋ざぞ。 インチキ神の前には通らんのざぞ、心せよと知らしてあらうがな”
いうまでもなく“善”は神格化の方向性と智性の受信、“上”と感応する心(靈)が無ければ善を言葉でしか知らず、その概念で自分を諌めることもないし、風の巻で登場した表記の“善一筋”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)などしないのが今の平均的地球人であり、その低さに相対した言い回しとして、
“まことの集まりが神徳ぢゃ、神徳つむと、世界中 見えすくのざぞ。 神だけではこの世の事は成就せんと申してあらうがな。 神がうつりて成就さすと申してあろうがな”
この“まことの集まり”“神徳”、これ自体が“神がうつりて成就さす”(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応)、これが先の“一八”の意味合いと合致するものである。

 また平均的地球人の霊的成長度のおける認識の低さに対し、第五帖では
“人民 眼の先見えんから疑ふのも無理ないなれど、ミタマ磨けばよく判るのぢゃ”
“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“一”=智性=1番目のオーラが発現して“上”と感応するならば、お前たちの価値観や幸福感は変わるのだと言われている。

 そして第六帖の以下の文では、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応を指摘している。
“向ふの云ふこと、まともに聞いてゐたら、尻の毛まで抜かれてしまふのが、神にはよく判りて気つけてゐたのに、今の有様その通りでないか。 まだまだ抜かれるものあるぞ”
 また第六帖の以下の表記は、目上(めうえ)の脳のローレンツ力における荷電粒子の回転を指し、これが“一”=智性=1番目のオーラの意味合いそのものでもある。
渦巻き 左回転 渦巻き 左回転  メ(目)雨の巻十五帖表記   ”

 第七帖では、やはり霊的成長度の低い人間に対し以下のように言われている。
“苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。 この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民 遠慮いらん、帰りて呉れよ。 そんな軽い信心は信心ではないぞ。 結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。 しかと褌締めてついて御座れよ。 
此の方 悪神とも見えると申してあらうがな。 わかりてもわからん、出来ん事致さすぞ、神が使ふのざから楽でもあるのざぞ”
この“苦しいこと出来て来るのが御神徳”、これをどうとらえるのか、霊的成長度の高い人間は目前の事象を“上”の采配である試練(“結構な苦しみ”、“神が使ふのざから楽でもある”)ととらえるべきである、ということが理解できていなければ、自我の肥大(“石屋の仕組み”)から“上”に向かうことは出来ない=“帰りて呉れ”“此の方 悪神とも見える”と述べられているものである。 

第十帖でも、低い霊的成長度の人間に対し以下のように述べられている。
“わからんミタマも今迄は機嫌取って引張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。 こんなことに長う掛かりてゐたなら実地が遅れるから、ひときりにいたすぞ”
もうひとつ、低い人間の息吹による事象の“創造”に対し、以下のように述べられている。
“悪はのびるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ”
 これに相対して、
“一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ”
この“誠の者”、これは第一帖の“悪の守護”から脱却して今までの不誠実な心(靈)と行動を自省(胸の磁性“十”)してこうなってくれよ、である。

 第十一帖では“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されたこの事象そのものが間違いであるという言い回しをされている。
“誰の苦労で此の世出来てゐると思ふてゐるのぢゃ。 此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。 早う元にかへして改心いたされよ”
それで次の文は、岩の巻の後に書かれた荒の巻(ア
渦巻き 左回転 の○木)の意味合いを示すものである。
“いよいよア
渦巻き 左回転  九(あらく)なって来る”
この解釈は、“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす の意。
渦巻き 左回転   ”は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転。
“九”は ○ 九 十の“九”、神のひな型であり生命(生きる使命=存在理由)の最終段階としての人(日止、霊止)の意、である。

 ここまで岩の巻で述べられている低い人間の認識を改める表記、そして改めるにはどうしたらよいのか、今後=アセンション後の世界は今と変わってくるのだ、という重要な要旨を大ざっぱにピックアップさせてもらったが、この解釈を読んでそれが心(靈)に止まったなら、自分は生き方を改める、在り方を考える、多くの人にそうなってもらいたい、これ自体が岩の巻の要旨と言いうるものである。

 次回のこのカテゴリーでは荒の巻の解釈に入ることとする。 今回はこれくらいにしときまんねん。




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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
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の思惑だと 思えます)

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