“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”地つ巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ、
悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。
日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけて居りて呉れよ、
一時は敵となるのざから、ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ。
今は日本の国となりて居りても、神の元の国でないところもあるのざから、雛型見てよく腹に入れておいて下されよ、後悔間に合はんぞ。
九月二十三日、ひつ九のか三。


まず、冒頭の文。

“まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ、
悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。”

 これは相対的な善悪を言っているに過ぎない。 今の地球人は、霊的成長度による善悪の概念が違いすぎる。 
それは、霊的成長度の低い自己奉仕者は、自我の肥大をしているから、自分たちの行いを“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認めないってことでもある。
だからそれは、今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”などいない世界になるし、人(日止、霊止)は霊的成長すれば、自己奉仕者の心を自分に許さないものでもある。
その視点を持たなければならないからこそ、この文では“まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ”と言われており、さらに今現在は、低い砌(みぎり)の“行”中心の自己奉仕者が活躍する世界だからこそ“悪の大将は光り輝いてゐる”と言われ、一見すると常識を守っている人のように思われているからこそ“悪人はおとなしく見えるもの”と称されている。
しかし、今後=アセンション後に向かいつつある今現在、今までの価値基準やこれまでの経済繁栄の仕組みは崩壊していく。 
それは、地球全体が“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かいつつあるための現象であり、それを自己奉仕者の人が感じることとしては、ローム太霊の言葉の意味のひとつ、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということでもある。
だからこそ、経済大国の人が体験している現状の甘い生活は崩れ、自分たちは失敗を体験し、その失敗そのものが自分たちの心(靈)の“創造”によるものであることを知るからこそ、この文の冒頭の“まことの善は悪に似てゐる”のでもあり、そして今、形骸の価値観や幸福感に酔いしれている人間には“まことの悪は善に似てゐる”と言われているだけや。

ほんでから次の文は、今説明した、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、自省(胸の磁性“十”)していくことを述べた文だと思える。


“日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、よほど気つけて居りて呉れよ、
一時は敵となるのざから、ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ。”

 自分が人生において失敗を体験する理由は、自分の心(靈)の動きが低いからでもあり、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いからこそ教訓を得るためでもある。 またそれをしていかないと、よい事象の“創造”は出来ないものでもある。
それが左往右往の左往=自省(胸の磁性“十”)して憂い、右往=教訓を得て失敗の体験をかてとしてよいカタチの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとる。
そうしていかなければ、この世界=現津(あきつ)、観察され得る事象は、よくならない。
その意味のことを言っていると思え、だから今、日本は失敗を繰り返している=左往右往をしている。 それは霊的成長の“理(ミチ)”(法則性)であり、また“道”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番)でもある。
またこの文の中の“日本の国は世界の雛形”は、“雛形”の解釈が重要であり、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は自分たちの心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されるものでもある。
そして右翼傾向の人がよく間違える“日本の国”っていうのんは、日=太陽、本=自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、人(日止、霊止)の在るべき心(靈)のカタチ、それは神道の言葉の本津宮でもある。
これだけでは説明が足らんから、以前紹介した画像、そのうちの“日本”のところをよく見て欲しいねん。

“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやからこの文の“日本の国は世界の雛形”は、自分たちの心(靈)の成長において現津(あきつ)、観察され得る事象が出来上がっていくという意味があり、そしてこの文の“一時は敵となる”は、自我の肥大した人が自我より“上”の心の動きを自分を害するものだと思い込んだりするっていう意味としかとれない。
だからこそ“雛形でないところは真の神の国でない”=自省(胸の磁性“十”)の心(靈)((囗)くにがまえに“玉(ぎょく)”)を持っている人の現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”でなければ、“神の国”ではない。
それを“よほど気つけて居りて呉れよ”“ちっとも気許せんことぞ、神が特に気つけておくぞ”って言われている。

ほんでから次の文。

“今は日本の国となりて居りても、神の元の国でないところもあるのざから、雛型見てよく腹に入れておいて下されよ、後悔間に合はんぞ。”

 これも、いまこの国が“日本”と呼ばれていても、“神の元の国でない”って言われていて、言うまでもなくそれは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”が活躍する国だからでもある。
 だからこそさっき解釈した“日本の国は世界の雛形”を忘れず、“雛型見てよく腹に入れておいて下され”って言われており、それは、自省(胸の磁性“十”)し、“身魂掃除”“身魂洗濯”して、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しておけってことでもあるし、アセンションは(宇宙の進化による)タイムスケジュールがあるから、“後悔間に合はんぞ”ってことでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その三”


……農業好きの社長婦人、K地M美さん、また、ぼやき中……

 さてと…この間読んだ続きの文章は…。

ところが人間は、自分はあんな所まで手が届かないとか、そんな大きな仕事は柄ではないとか、とかく自分を小さく身がちであるが、いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間である。 例えばここにABCの三人の人間がいて、Aは一億円持っており、Bは百万円持っており、Cは一万円しか持っていないとする。 そういう場合に、Cは自分には到底一億の金は出来ないと思う。 それが自分を小さく見すぎているのであって、物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれるのである。 それがロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものであるから、このことは常に心の中に縫い付けて置いてもらいたい。

 これは、前回考えた文の中の言葉の“人間が常に自分の力を卑下(ひげ)している”にかかっていることだわ。 
だからこそローム太霊は、“自分を小さく見すぎている”って言っている。 
そして“神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれる”って言っている。 これは神が認める努力を成し遂げた人間ならば、実際にそうなるってことでもあるんだわ。 
だから自分は神を信じ、頑張り…“ねばりとやせがまん”で頑張って(元の気を張って)行かなければならないし、だから私たちは、この文で言われているとおり“いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆく”…そう在るべきなのね。
そしてそこまで頑張る(元の気を張る)のが、“神が欲する人間”。 
だからこの章の最初の言葉のように“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない”…そこまで頑張れってことでもある。
だからちょっとまとめれば、この文の“いったん思い立ったら最高の力を求めてとことんまでゆくのが、神が欲する人間である。”…これは、この章の冒頭の文の“人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも押してゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言えるのである。
この文にかかっている言い回しだろうし、だからこの文で、神はこんな人間を望んでいるって言っているのね。
神はそれをどこまでも押してゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いない
またこのこと自体が“物であろうと心であろうと、神はその者の努力次第で億以上のものでも与えてくれるのである”にかかっている言い回しでもあるのね。 
…だから、いったん思い立ったらやりぬいてくれよってことでもあるし、さらにこの間思ったように、“自分の力を卑下(ひげ)”するような人間ではいけない。
それは、自分を小さく見てもいけない…仮に自分を小さく見ていたなら、頑張れないってことでもある。 
それだからこそ私たちはこの言葉を忘れてはいけない…“ロームの常に言う「ねばりとやせがまん」であって、その力は必ず人間に奇跡を起こさせるものである”。
そしてローム太霊は“常に心の中に縫い付けて置いてもらいたい”とも言っている。
また自分がやっていることが神に認められていることなのか…それは自分がやっていることが貴いことなのか、下賎なことなのか、それを自分で判断してエネルギーを贖う(あがなう)ことをする…人はそう在らねばならないってことを感じさせる文章でもある。
それは前回考えた以下の文。

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”のうちの“各の個人が良心によって定める善悪”でもあるのね。

そしてこの文は、この間Kellyさんと会ったときにKellyさんが指摘した文に続いている…。

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。

 この文の中の“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。
今まで考えてきた文章は、この文にかかっている文でもあるのだわ。
 この文の“真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者”…こんな人は今たくさんいるわね。 
それはKellyさんと○○○大先生の考え、目下(めした)の心(靈)中心の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。 
またそれについて○○○大先生は、自分の著書の<5>智性無き心はアセンションを見誤る で、“日月神示”内の言葉“石屋の仕組み”は、自我の肥大した人が作った仕組み…だからそれは進化程度の低い心(靈)の“創造”であるし、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているものであるって指摘している。(252ページ以降)
 それは、ただ進化程度が低く、自我の確立=固定化の段階の心(靈)だから、そうなるのだとも指摘している。
 自我の肥大した人には“真心(まごころ)”なんて無いのね。 当たり前ね。 自分のことしか考えないのだから。
 それとローム太霊は、この文の中で“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”って言い回しもしているし、それらが重なり加わってこそ“初めて自分の最大の力を発揮することが出来る”って言っている。
 この文の“真心(まごころ)”は、さっき考えた“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”…当然、そういう人を対象に言っている言葉。 
だからそれはこの間考えた(前回の記事 “その二”)“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”…この認識がない人、またそれは“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”ってことをしていないって言い回しでもあるのね。
 だから自分が自分を見て“各の個人が良心によって定める善悪”ってことを分かっていなければならない。 
それが分からないから、自己奉仕者の行いをする。 欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか…それをそうと分からないようにして、自分の利益を増やし、自分の低い欲望を達成する。 
低い欲望なんていうのは、(通貨としての)金、食うこと、性的なこと…etc.
八戒(低い欲望に対する八つの戒め)ね。
だから本能由来の欲望、そんな欲望に心がとらわれているっていうよりも、その心(靈)の発現しかしていないのが、進化程度の低いことを示しているって○○○大先生の本に書いてある。
 心(靈)の発現、心(靈)の進化の順番は、神格化で、それは心(靈)の発現の順番を考えればよく分かる。
 それは、○○○大先生の定義付けた心(靈)の動き、そしてその構造と発現、それは、下から=進化過程の低いほうから、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性。
 ○○○大先生は、先生の本の文章中で、低い本能しか発現していない、ミミズ、ヒル、ゴカイ君をよく引き合いに出していたけど、人間の場合、自我の確立=固定化の心(靈)の人は、自分のことしか分からない。 
それは言い換えれば自分の欲望がすべて。 
その認識の元において、自分の価値観や幸福感を構築しているからこそ、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”の“個人が良心によって定める善悪”も、低いって思えるわ。
 だからローム太霊は絶対の善みたいな言い方はしていない。 たぶんそういう理由。  だから、自分たちの認識の程度に応じての善悪の基準は、個人個人の霊的成長度の度合いにより違うのね。 
だから、私から見れば自己奉仕者の善悪の基準は低すぎるっていえるけど、自己奉仕者の人たちは、自分たちの行いが悪だなんて思わず、あるいは少し良心の呵責を感じたとしても無視する。 
自分が自分の良心を無視する理由は、欲望の達成のため。 欲望の達成は自我の確立=固定化のため。 自分が大事…自分だけが大事。
 だからそれは○○○大先生がいうところの、自我より“上”の心(靈)である“慈悲”と“慈愛”を持っていないし、その視点で自分の行動や心(靈)の動きを観察しない。
 そしてその心(靈)の動きには低い霊的干渉もあるのだわ。 
自分の心(靈)の動きが低かったなら、低い心(靈)の動きの霊的存在の通信を受けるし、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で、自分自身の低い心(靈)の動きと憑依してくる低い霊的存在の心(靈)の動きが一体になるみたいなものね。
 だから自分の欲望を第一に思い、自分が病気で体の調子が悪くても酒が飲みたいとか、酒をたくさん飲んで体の調子が悪くなった人でもそんなふうに思ったりする。
それとか、博打ばかりする…借金してでも博打するとか…全く幼稚ね。 子供の浮遊霊の心の動きと、(通貨としての)金に執着する動物霊の心(靈)の動きね。
それとか、誰かを欺いても性的欲望を満たしたいとか、それは女を金で買うとかもそうね。 人に対する尊厳なんて無い。 
それと、今年になって出版された本で、たくさんの異性と交わると自分は進化するなんて内容のものもあったけど、まさに低い心(靈)の動きで、自分のやってきたことを正当化しているみたいなものね。
 だからそれらは程度の低い善悪の認識でしかない。 
自分だけが正しいっていう自我の肥大による考えでしかない。 でもそれも“右往左往”なのね。 失敗の人生ね。 そして失敗を失敗と認識したなら、少し高い善の認識を持つ。 
だから心(靈)が進化していく過程では、失敗の体験も必要で、低い人は本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)に執着して、そのために自分のエネルギーを贖う(あがなう)。 またそれが人生においての成功だって思う。
 でもそれは“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではない”っていうローム太霊の言葉をよく考えれば、自分の中に確固たる“善(神格化の方向性と智性の受信)”の基準が出来たなら、それは、自我の肥大による自分にとって都合のよい考えを自分に許さなくなる。 
それが○○○大先生の概念の“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ね。
 それを持たなければそれは、この章でローム太霊が言っている“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて”ってことには成り得ないのね。
 だからこの文の中でも“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”…それと、さっき思ったように“初めて自分の最大の力を発揮することが出来る”…そうなっていく。 
そしてそれが、“そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”にかかっている言葉で、特にこの文の“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力”って言うのは、○○○大先生とKellyさんがよく使う、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”ってことで、“創造”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=心(靈)の動きによって成されるってことでもあるのね。
 そしてローム太霊がこの章でS会=紫光会の会員に伝えたかったって思えるのは、“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”…これも深い言い回しだけれども、やはりそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”であり、それは自分の心(靈)の中の善の概念の確立でもあり、その概念を自分の基準とするのが“凡ての人間に課せられた義務”…そうなってくれって言うのがローム太霊の伝えたいことなのね。

 …ふう~~、今回もそんなに長い文章ではないのだけれど、とてもたくさんのことを考えるわね…この続きはまた考えるとして、今日はこれくらいにしておくわ。

(“その四”へ続く)

“日月神示”地つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。
それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、
こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。
うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。
世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。
この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。
九月二十三日、ひつ九のか三。

 まず、冒頭の文。

“神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。
それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、”

 この文の“臣民の心の中に宝いけておいた”は、前のブログとこのブログを読んでいる人には説明はいらんと思うけど、念のために、宝の意味は、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であり、宀(うかんむり、頭の意味)と“玉(ぎょく)”の合わさった字であり、“玉(ぎょく)”は、自省(胸の磁性“十”)して腹のエネルギーが“上”に上がる様子を示した表記であり、だから霊的成長を果した人を天(“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止))の白い(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射))王(“一二三(ひふみ)”のオーラと|(たてぼう、こん、縦の磁性))と古来から日本では呼称してきたと思われる。
 それで霊的成長、言い換えれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは、(脊椎動物として)心(靈)の発現に順番がある。 
現時点の平均的地求人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化であり、“日月神示”表記ならそれは、“江戸と尾張”で、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンと述べてきた。
 その段階の進化過程は自我の肥大に陥りやすく、しかし自我が肥大した人ほど自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や心(靈)の動きが、悪だと思わないし、多少思ったとしても認めようとしない。 この文で述べられている“悪にまけて汚して仕まう”は、その意味のことを言っているし、それは内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動きでもあり、いうなれば目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)でもある。 だから“上”は“神の咎め”としてバチを当てて自省(胸の磁性“十”)させたりもする。
 そしてこの文では、自己奉仕者特有の欲望は、なんでも自分の欲望の達成のために利用するし、その欲望の象徴が(通貨としての)金でもあるからこそ、“一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか”って言われている。
 でもそれは、右往左往から左往右往、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)として仕方が無いって言い方もされていて、それが“それはまだよいのぞ”であり、いずれバチが当たって自省するけど、それまでは右往左往の右往=低い砌(みぎり)の“行”をせんならんものであり、自分がやってきたことが低いことであり、自己奉仕者の行いであることを自覚するためには、低いことでもやらんならん。 しかし今後=アセンション後の地球はそんなことは許されん。 
その理由は、言うまでも無く恨みの連鎖の霊的干渉を無くするためでもある。
 …と、それはおいといて、この文の“神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、”は、今、形骸の宗教でのし上がった人とか、アセンションの情報を引用して金儲けした人とか、薄っぺらい感謝を多用して人をひきつけて本やDVDを出したりした人とか、例を挙げるときりがないけど、これらすべて自我の肥大って心(靈)の動きによることであり、これまで何回も言うてきたとおりそれは、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもある。
 またほとんどの地球人の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が、自我の確立=固定化の段階だからこそ、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢やニセの情報を信じ込む人が多い。 だからこそ今後=アセンション後に移行でき得る心(靈)の人は、少ないって事でもある。
 また、自我の肥大した人は、自分がやっていることがなんとなくおかしいとか、悪の行為だとか、自己奉仕者の行いだとかって少し思ったとしても、さっき述べたとおり自分で認めようとしないからこそ、この文では“犬猫は正直でよい”とすら言われている。

 ほんでから次の文も、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、“役員づら”の人に対して言われている。

“こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。”

 あえて解釈する必要は無い。

ほんでから次の文。

“うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。
世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。”

 やってきたことの結果は自分が被るもの、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”って何回もいうてきたけど、そのとおりになるものでもあるし、それはアセンションという事象が、キリスト教でいうところの“最後の審判”でもある。
 要はローム太霊の言葉の左往右往であり、自省(胸の磁性“十”)しなければ自分たちは霊的成長の順番である自我から“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現にならんから言われている。 そしてこの文の“時節”は、あえていうまでも無く、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、人(日止、霊止)によい世界を作って欲しいからこそ、自己奉仕者と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、分けられるって事でもある。 
さらにこの文の後半は因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”の事象が“世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ”って述べられている。

 そして次の文。

“この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。”

 “腹に入れて”は、自分自身の自我を自我と認識して、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す。 さらに自分の心(靈)は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)していてはいけない。
 言うまでも無く“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)すれば、自分の心(靈)の動きは、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きになる。 だから低い霊的存在を増やす恨みの連鎖の霊的干渉は、食い止めなければならないのだけれど、もう手遅れやな…悲しいことやけど。
話を戻し、自分の心(靈)の“上”と“下”、それを見出すのが智性(“一”、1番目のオーラ)由来の自己観察、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味であり、自我の肥大した人が増大させているのが、恨みの連鎖の霊的干渉であるから、それはこの文で“病”と称されていて、それは対外的には低い悪霊の憑依もあるけれど、その悪霊の憑依で現象化する理由は、自分の心(靈)の動きにも原因がある。 
要は“どういうつもり”でこの事象において存在していくのかが大事である。
 そして今、大半の人が自省(胸の磁性“十”)していないし、“身魂掃除”“身魂洗濯”出来ていないともいいうる。 
だから人は甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を追いかけ、神に現世利益しか求めないし、似非(えせ)スピリチュアルが横行し、アセンションに甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を抱いたり、ひどいのは金儲けの材料にしかしていない。
 全く悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であるけれど、それに気づいている人はほとんどいない。 
 だからそんな心(靈)の人は、この文では“フニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになる”と、そして“神の入れものわやにしてゐる”って言われている。
 そやからこの第十六帖は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)を自分に見出して、“身魂掃除”“身魂洗濯”して=自分の心(靈)の“上”と“下”を見出して、霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出せよってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。
臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。
七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てん詞様が世界みそなはすのざぞ。
世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。
九月の二十三日、ひつ九のか三。

まず、冒頭の文。

“神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。”

 この文は、地つ巻 第十四帖と、上つ巻 第一帖などの表記の“カミ”(“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、“上”の思惑を取り込んだ人)が出てくる文章でもあり、そしてこの文の言い回しは、“神の国の役員”には、判っていないって言い回しがされていて、“役員”って表記は、今後=アセンション後の事象の“創造”を託されている人であることは間違いない。
 だからそれは、“役員”=今後=アセンション後の“創造”を託されている人、あるいは今後=アセンション後の指導者的立場の人、その人たちが真に霊的成長=神格化と、今後のよいカタチの想像のための心の在り方を判ったならば“バタバタに埒(らち)つく”っていわれてて、この文の“埒(らち)つくなれど”は、埒が明かないって言い回しに対しての表記っていえば分かりやすかもしれへん。
 この“埒(らち)”は、いろいろ調べると、馬場の周囲に巡らした柵とか、 物の周囲、仕切りとして設けた柵、物事の区切りっていう意味がある。
 そしてこの文の“埒(らち)つくなれど”は、埒が明かないって言い回しに対しての表記だから、霊的成長度における場(フィールド)の違い、それはアセンション後の霊的に高い地球と、今の自己奉仕者(平均的地球人の心(靈))が活躍する地球、その違いのようなものだと思われる。
 そして“学や智恵が邪魔してなかなかに判らん”って言い回しは、愛(炁)の顕現の程度っていうのんは、言い換えれば(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、知識や知恵を沢山得れば奉仕者になるとか、そういう心になるっていうものではない。 自我の肥大した人は、自分のためにしか知恵と知識を使わないものや。
(注 この地つ巻 十五帖の文には、知恵ではなく、智恵って表記がなされているけれど、前後の文を見る限り、○○○大先生が使う智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)っていう意味だとは思えない)
 だからこそ“学や智恵が邪魔してなかなかに判らん”は、たとえば“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の、アセンションの情報を引用しただけの本を書き、印税を儲けている人とかが多すぎる。 
 …まあエエわ。
そやから話を戻し、神さんに認められる人の行いは、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”(この事象に対する奉仕)であり、その行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が取れる霊的成長度は、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持った人でもあるし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするを繰り返して、自省(胸の磁性“十”)した人でもある。 人は成長したならば、そうなるもんでんねん。

ほんでから次の文は、“日月神示”に多いちょっと揶揄(やゆ)した言い回し。

“臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。”

 この文の“臣民物言はなくなる”は、“役員づら”が如何に自分たちの知恵と知識を行使して程度の低い情報を流布したとしても、そんなものは何の役にも多端って言うことをいっていると思える。 そしてそうなったときが“この世の終り近づいた時ぞ”であり、いうまでも無く“この世”は、今の自己奉仕者が活躍している事象。 それは終わらんならんってことでしかない。 
 それを強調している文が“神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。”で、程度の低い地球人がいろんな国を作り、自分たちの利益や権利を主張するから=自我の肥大した自己奉仕者だから、経済が発展したり飢餓貧困が起きたり戦争が起きたりする。
 しかしそれは地球全体が霊的に低いからでもあり、またそれ自体が低い砌(みぎり)の行でもあり、それはローム太霊の言い回しなら右往左往の右往の段階でもある。
 そやからそれは自我の肥大による縄張り意識でもあるし、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きの顕現でもある。 そやから、自国とか他国とかって認識を持っているような人間は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者にはなりえない。
 それを意味した言い回しが“みなが神の国ぞ”で、縄張り意識を誇示するような人間、そしてさっき指摘した“役員づら”、ただ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を誤っているから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
 さらに今言うたことを強調したのが次の文。

“七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てん詞様が世界みそなはすのざぞ。”

 今後=アセンション後は、今よりも霊的成長を求める人が構成するから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をする“天詞様”が“世界みそなはす”ってことになり、そこには今のような権力者とか支配者とかの概念は無い。 ただ霊的に“上”と“下”があり、それは身分でも階級でもないし、みなが神の子であり、みなが神格化を目指すっていう意味でもあるからこそ、今の地球のように権力を示す縄張り意識を持った支配者が沢山いる事象ではないからこそ“七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさす”って言われている。

 ほんでから次の文。

“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。”

 この“罪負ひておはします素盞雄の大神様”は、素盞雄(すさのお)は、古事記では
伊耶那岐命が黄泉の国から帰り、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行い、要は神産みの話なんやけど、その際最後に産まれたのが、左の目を洗うと天照大御神(太陽、日足(ひたり))が生まれた。右の目を洗うと月読命(月、砌(みぎり))が生まれた。
そして鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が生まれたとされている。
さらに日本書紀では、伊耶那岐命(男、日足(ひたり)の極性)と、伊耶那美命(女、砌(みぎり)の極性)の間に産まれたとされている。
そやからこの文の“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神”は、一人の神を指し示す表記ではなく、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性をもったものであり、そしてその極性の傾きが罪を作ったりもする。 それは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあると思える。
さらに日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の傾きは、“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
そうやって心は“上”に向かい、現時点の平均的地球人の心(靈)の発現の自我より“上”の心(靈)、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”を発現する。
それが霊的成長の順番でもあるし、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の傾きが(肉体における)霊的成長の仕組みでもあるし、現時点、地球人が低い進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だからこそ、低い砌(みぎり)の行をしており、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることそのものが、この文の“世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神”って言葉に示されていると思える。 そしてそのことに気がつかない人が大多数=地球人の霊的成長度は低すぎるからこそ“盲つんばばかりと申してもあまりでないか”って言われている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その二”

……農業好きの社長婦人、K地M美さん、ぼやき中……

 この間、Kellyさんと話したとき、Kellyさんが指摘してくれたローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 の中の文。
 その文の前には、こんなふうに書かれているのだった。

人間が常に自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいるのであるが、実際には自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味するのであって、体の器官が止まって初めてそう言えるのである。

 この文の“人間が全力を尽くすということは、死を意味する”…これはすごいことを言っている…死ぬまで頑張れってことでもある。 
改めて読まなければ、なかなか気づかないことだわ。
それと…“自分の力を卑下(ひげ)しているのに対し、神はそれをどこまでも
伸ばしてゆくように最も望んでいる”…この文の“自分の力を卑下(ひげ)している”についてだけど…いろんなことを感じさせる。
それは、この文では“自分はもうこれ以上出来ないという所までやりぬいた人間は、そう沢山いないのである。 人間が全力を尽くすということは、死を意味する”ってことをローム太霊は言っているのだから、自分が持っている“力”をそれくらい行使しろってことでもあるし、だから“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”って、言われてて、それは換言すれば、“どこまでも伸ばしてゆく”人間ならば、そういう行動をとる人ならば、神が認める人間ってことになるし、またそれは、神が認める人間はあまりいないってことでもあるんだわ。
それは、強固な信念ってことも考えてしまうわね。 だからこの 第五十七話 行業一致の一途の努力 っていう表題は、一途な努力って言い回しがされているのだろう。
またこの言葉自体が“自分の力を卑下(ひげ)している”にかかっている言葉と思えるわ。 大概の人間は、ちょっと困難なことがあったりするとあきらめたり投げ出したりする。 投げ出す理由は、こんなことは出来ないって思い込むから、だからそれは、自分はたいした人間ではないって思い込んでいるとか…努力できないとか…それは神が認める人間ではないって事でもあるし、信念を持っていないとか、信念を行動に活かしてないってことなんだわ。 
そういう意味のこともいっているのだわ…多分。
 そして、○○○大先生から聞いた、S会=紫光会の交霊会でよく使われた言い回しの“神は乗り越えられない困難は与えない”…この認識がないから、あきらめたり投げ出したりもするし、自分は困難を与えられて、だから自分は育ち、霊的成長をして神に認められる人間になって神格化するって概念が無い。 
それは、“行”ってことにもなるのだろう。
 その意味でもローム太霊は“行”=生体内電流による肉体組織の結晶化と、“業”=生業(なりわい)、事象の“創造”っていう意味で、“行業一致”って言い回しをしているのかもしれない。
それともうひとつ思うのは、“自分の力を卑下(ひげ)している”ってことは、自分のやっていることが貴いのか貴くないのかってことも思わされるわ。
仮にそれが貴いって自分で思うなら、信念を持つことも出来る。
それと違うのがKellyさんと○○○大先生が話していた前のブログと、“続”でも何回も指摘されている自己奉仕者の行い。 ことに前のブログでは、うまい嘘つきとうまい泥棒なんて言い回しがある。 
だから自己奉仕者の心の動きは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかが主体。 嘘をついて騙し、欺き、錯覚をさせたりしている…たとえば効果ばかりを強調したりするテレビの通販番組みたいなものね。 そして有名なタレントを使って視聴者に錯覚を起こさせて買わせる=泥棒と思わせないように奪うってことをする=自分たちの利益にする。  
それは、見せ掛けのことや、甘い(亜、魔、出ずる、泉)ことを言ったりもするのだけれど、それは、結果として自分のエネルギーをたいして贖って(あがなって)いないのだろうから、“神はそれをどこまでも伸ばしてゆくように最も望んでいる”ってこと、さっきから思う信念を持つってことになっていないと思う。
○○○大先生の治療を受けているとき、そのとき話していて私が思うのは、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は、貴い事象の“創造”のために使うもの。
だから何かを利用したりとか、何かを引用したりとか、盗用したりとか、何かにあやかるとか…そして人にそんなふうに思わせないで、あたかも自分たちの物のように見せかけて、結果として他人のふんどしで相撲を取るとか、それ以外にも投機とか…今、そんなことでなりあがっている人は多いけど、このローム太霊の言いたいことを深く考えるなら、そんなことは貴いことではない。 
それは自分自身のエネルギーを大して贖ったことになっていないし、そういう意味でも、自分が自分の“力”を見るに当たって、貴い行いをしていないからこそ“自分の力を卑下(ひげ)している”って言われているってことも思ってしまう。
それはローム太霊が言う言い回しだからこそ、神が認めていない人の行動っていう意味があるのだろうから、ローム太霊から見て、神に認められていない普通の人は“自分の力を卑下(ひげ)している”って言われているようにも思えるし、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を貴い事象の“創造”のために使っていないってことを指摘しているようにも聞こえる。
だから自己奉仕者の認識は、自分がやっていることが神に認められる行為とかなんて概念は無く、あるいは多くの宗教関係者のように見失っているだけで、ただ自分の利益だけを追求する。 
そして自分の利益を沢山得た人が成功者だと思いたいのだろうし、一般にそう思われているのがこの世界だわ。 
まさに低級な心(靈)の振動によって出来上がった世界ね。
自己奉仕者…それは決して神が認める人間ではなく、ただただ低い欲望のために自分のエネルギーを贖い(あがない)、低い欲望のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使っている。 だけれどもそんな思い方は一般的ではないから、○○○大先生は“事象の形骸化”って文章を書いた(太陽凝視を行っている鍼灸師の話<4><5>智性無き心シリーズのこと)。
今、私が思ったこと、それは、この間Kellyさんが指摘した文章にかかっていると思われるわ。

その全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである。
 しかし神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである。


 この文の“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはある”って言い回しは、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られる”って言葉にかかってて、それを強調するように“人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ている”って言われているのだわ。
 またそれはうまいことやって自分の希望通りになったって言う意味で“全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているもの”って言う、ちょっと皮肉交じりの言い方でもある。 
 それは正しくない…神が認める所業ではないって言い回しに感じられるし、だからこの文の中の“善”それは“一般の道徳で言う善悪ではなく”って言われてて、自分の心の中の基準があることを前提に言われてて、だけれども今、自分の心(靈)の中の基準で善悪を考えている人は少ないと思うわ。
 だから(通貨としての)金さえ得られればよいとか、形骸の名誉を得たいとか思うのだろうけど、決して神はそんな人間を望んでいるのではないし、人(日止、霊止)にそんな生き方を望んでいるのではない。 
そのことをローム太霊は言っているのだわ。
今、この世界で褒めそやされている人の大半は、金持ちと形骸の名誉をもっているとか、自分の一生で頑張ってそれを獲得したってされている人だけれども、結果それは、自己奉仕者でしかない。
また自己奉仕者は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)で、その心の動きで“創造”した世界は壊滅するって言うのが○○○大先生の考えでもあるのだけれど、そのことは、この文の“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”ってことを、深く認識している人で無ければ、理解できない。
 特にこの文では“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば”って言われてて、“善悪に従って努力すれば”っていうローム太霊の言い回しは、大概の人は自分の心の中の善悪を知っていてもそれに従って努力をしていないからこそ“すれば”って言われているのだわ。
またこのことが解っていない人が大多数だから、人は(通貨としての)金を求め、形骸の名誉を求め、低い功名心と自尊心を満たすようなことばかりしている。 それはKellyさんと○○○大先生の、人の心の動きの見方でもある自我の肥大…それに相当するものなのだわ。
だから、このことが理解できていないことそのものが、霊的成長度が低いともいえるし、
神が何を人に託したのか、どんな世界を神は人に“創造”させたいのか、そんなことまで“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”って言葉は感じさせるものではあるわね…。
 
 だけれども……フ~~……ちょっと読んだだけですごくいろんなことを考えるわね。 
今回、改めて読んだローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 の冒頭の文、これに限らずローム太霊講話集の中の文は、ちょっと読んだくらいでは理解できないことが多い感じだし、時間をかけながらゆっくり読み解いて、それからKellyさんを呼び出して話をすることにして…今日はこれくらいにしておくわ。

(“その三”へ続く)

“日月神示”地つ巻 第十四帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。
どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。
神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。
この道はきびしき行(みち)ざから楽な道なのぞ。
上にも下(しも)にも花さく世になるのざぞ、後悔は要らぬのざぞ。
カミは見通しでないとカミでないぞ、今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。
赤児になれよ、ごもく捨てよ、その日その時から顔まで変るのざぞ、
神烈しく結構な世となりたぞ。
九月二十三日、ひつくのか三。

この第十四帖は、“カミ”の解釈がきちんと出来てないと読み解けんと思う。 それは前に、上つ巻の第一帖で“カミ”って表記が出てきたから、以下のように解釈した。
上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈から抜粋して引用しまんねん。


“カミ”の“カ”は、“力”(ちから)みたいに、丿部(へつぶ)と“一”、ほんでから“一”の右端から“下”に降り、そして左上にはねる。
“ミ”は、向かって左から右斜め下に降りて止める書き方。 これは前にKellyさんが気が付いた事やねん。 それも前に先生と話をしたやん。 それは以下の通りでんねん。
(“上”の思惑と顕現…“天の御目” 参照)
“ミチ”って言うのんは、三つのオーラが向かって左から右下に降りてるのが“ミ”。 それは又、思惑の顕現みたいな感じでんな。 ほんでからに“チ”って言うのんは、丿部(へつぶ)+“一”+丿部(へつぶ)。 神さんの思惑と顕現が二つ重なって、それに“一”=智性=1番目のオーラが加わってる。そう言う風にも見えまんな。  
前のブログからの引用終わり。
そやからカタカナで書かれてる“カミ”は、“上”の振動を取り込んだ人で、それは三つのオーラが左上から右下に下降する。 日足(ひたり)“上”から砌(みぎり)“下”に現象化して、事象の創造をして行く。 それは神の思惑を取り込んだ様子って事でんねん。

                                               ↑
上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈からの引用終わり。 
そやから“日月神示”表記の“カミ”は、神さんから見て、“上”の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)っていう意味の表記やと、今回の地つ巻 第十四帖を読んで改めて思う。
それを踏まえて冒頭の文。

“この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。
どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。”

この文の表記の“神の御用”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化であり、それが人(日止、霊止)の使命であり、生命の存在の意義でもある。
 また“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を示した表記が、古神道の“日止、霊止”、それは、日を止める=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、もうひとつ、“上”からの振動、“一”(亜から出ずる、アイ)が“下”(低い心(靈))に垂れた表記が“メグリ”(帀)であり、その部首を使った漢字の靈、それを止めるっていう表記でもある。 今まで何回も説明してきたことでんねん。
 そやから神さんは人に何を託しているのか。 どんな事象を“創造”して欲しいのか。 その思惑があるからこそ、今、間違った方向に向かっている大多数の人に宗教を通じて人の在り方を説き、チャネラーを使ったり、肉体を伴った比較的地球人に近い宇宙人とコンタクトさせたりもした。
しかそそれらは、地球人の平均的霊的成長度がマニピューラチャクラまでやから、霊媒の憑依現象、それはT霊媒=竹内満朋の物理霊媒の現象や岡本天明の自動書記でもそうやけど、人の肉体を乗っ取ったカタチでのメッセージの伝え方しか出来なかった。
また霊媒の憑依現象は、低い霊的存在が入り込むことがとても多い。 それはその霊媒体質の人の心(靈)の動きによるものでもある。 低い功名心と自尊心で自分の現象を見ていると、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないで、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振するものでもある。
 そしてそのメッセージの“上”と“下”を見出せないで、ただ利用している自己奉仕者の人間がとても多い。 何回も言うけどそれは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかない。
 そやからほとんどの人が分かっていないから“この道分りた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ”ってあえて言われてて、それは裏を返せば、ほとんどの人が生命の“道理”、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を分かっていないってことでもある。

 その意味を強調した言い回しが次の文。

“神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。”

 いうまでも無くこの文の“稲荷(いなり)下げや狐つき”は、低級な動物霊の憑依により、操られたり利用されたりする現象で、それは今とても多くなったと思う。 例えばハイヤーセルフとか、内在何々とか、テレビに出ていた自称霊能力者とか、それらの特徴は、自分も自分以外も、低い功名心と自尊心で、ただ言葉に酔うだけでしかない。
それは、低級な霊的存在が人を操るときによく使う手はパターンがあり、ただありがたそうな言葉で人を酔わせ、煽てあげて低い功名心と自尊心を高揚させ、それは結果として自我の肥大にしかならないし、何回も言うてきているように自我の肥大は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)の霊的成長段階の人が、右往左往の段階の“行”をして、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているのでもあり、またそんな人に限って自分は特別な存在だとか、神のメッセージを受けているのだとか、神の御用をしているのだとか、勝手に錯覚して、何の“行”もしていないケースが多く、それは言い換えれば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていない人が多いし、それ以前に自我の肥大は自分の心(靈)の観察がぜんぜん足らず、“身魂掃除”“身魂洗濯”になっていない。
そしてその類の人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、単なる金儲け(動物霊の人間に対する憧れ)と、形骸の名誉(動物霊の縄張り意識)を獲得しようとする心(靈)の動きでしかないことに、多くの人は気づいていない。 それは、大半の人は、ただありがたそうなもの、現世利益とか、何にも頑張らんと不思議な現象がおきるファンタジーのような甘い(亜、魔、出ずる、泉)ものしか求めていないからでもある。
話を戻し、“身魂掃除”“身魂洗濯”は、自分が自分を見るときには、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が必要であるってことを次の文で言っている。

“この道はきびしき行(みち)ざから楽な道なのぞ。
上にも下(しも)にも花さく世になるのざぞ、後悔は要らぬのざぞ。”

 この文の“きびしき行(みち)”、これをよく考えなければ、この文の表記の“上にも下(しも)にも花さく世になる”っていう今後=アセンション後の事象を観察する資格を得られないって言い回しでもある。 資格はいうまでも無く、智性(“一”、1番目のオーラ)と“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現。

 ほんでから次の文は、冒頭で説明した“カミ”(“創造”の“主(ヌシ)”、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、“上”の思惑を取り込んだ人)のことを言っている。

“カミは見通しでないとカミでないぞ、今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。
赤児になれよ、ごもく捨てよ、その日その時から顔まで変るのざぞ、
神烈しく結構な世となりたぞ。”

 そやからこの文では“カミ”=“上”の思惑を取り込もうとしている人が、“身魂掃除”“身魂洗濯”や“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化や、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが、何も分かっていないからこそ、“見通しでないとカミでない”って言われ、さらに、“見通しどころか目ふさいでゐる”とすら言われている。
 そやから人(日止、霊止)が“上”との感応共振をして“天詞様”になっていかねばならないのだけれど、低い霊的成長度の段階では、霊媒の憑依現象でメッセージを伝えるしか方法が無かったとも言いうる。
 しかしそれは間違えることが多い。 
だから“稲荷(いなり)下げや狐つき”ってことが多く、また、これまで数回引用してきた春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”っていう文と、同様の意味合いのことでもある。
そしてこの文の“蛙(かえる)いくら鳴いたとて夜あけんぞ。”は、そんなことでは次の段階に進めないっていう事を揶揄(やゆ)した“日月神示”によく出てくる表記であり、次の文の“赤児になれよ、ごもく捨てよ”って言い回しも、自分が自我の肥大をしているってことを分かるには、心(靈)が裸にならねばならないってことを揶揄(やゆ)した言い回しでもあると思える。
 ほんでから最後の“神烈しく結構な世となりた”は、今、自己奉仕者の行いや心の動きはどんどんバレている。 これは“神の咎め”であり、ローム太霊の言葉を引用すれば、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。
 そしてそれは霊的成長の道筋であり、それを“日月神示”では“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ、
青いものは紫にうつるぞ。
今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ、
眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。
上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。
上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、
けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。
九月二十三日、一二 ローレンツ力と ○

 この第十三帖を一読して思うのは、ものの見方、社会観、自然観、人間観、自分の在り方、そして価値観、幸福の概念の“上”と“下”…言葉にすると沢山の言い回しがあるけれど、要は、現津(あきつ)、観察され得る事象の認識には、霊的成長度の程度により認識の違いがあるってことでもあり、そしてよいカタチの事象の“創造”のためには、きちんとした自分なりの基準を持たねばならないってことを強調して言っていると思えるし、その基準そのものは、霊的成長度により高低があり、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけば、だんだんその基準は高いものになり、“上”に認められるものになる。
そしてそれは○○○大先生流の言い回しならば、天の御目(あめのおめ)でもあり、またその基準を心(靈)に持つには、霊的成長し=右往左往と左往右往を体験して自省(胸の磁性“十”の“行”)をして、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現をして、智性(神性)(一、1番目のオーラ)を獲得する意味での、“日月神示”表記の“天詞様”にならねばならず、さらにそれは、天意を受ける=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がなければならないって事でもある。
 その意味で冒頭の文。

“赤い眼鏡かければ赤く見えると思うてゐるが、それは相手が白いときばかりぞ、
青いものは紫にうつるぞ。
今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ、
眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ。”

 この文の“赤い”や“青い”、そして“紫にうつる”は、先に述べたようにものの見方や価値判断などを指している。
 さらに“相手が白いときばかり”っていう言い回しは、白い相手などいないってことを揶揄(やゆ)した言い方に感じられるし、ことにこの文の言い回しの“白い”は、全くの善とか、穢れていないとかの意味だと思われるし、そんな存在は居てへんってことやろ。
 そやからまず、“赤”にかんして、それは、人の心(靈)が育っていく過程では、七つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)が、“下”(低い心(靈))から強化され、そのエネルギーは上昇するものであるし、ムラダーラチャクラの発振、発信は、赤が主体でもある。 
また、ムラダーラチャクラは、本能って心(靈)の発現でもある。 だから人間が可視光線として観察しうる“色”っていうのは、波長が長ければ赤く見え、波長が短ければ紫に見えるし、このことは、太陽凝視を行っている鍼灸師の話<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした)の最後の項目で説明した。 
さらにその項目では、赤方偏移と青方偏移についても少し説明した。
 だからこそ“赤い眼鏡かければ赤く見える”、これは人間の心(靈)が本能化するのか、あるいは、霊的成長して、相対的に今、自分が持っている心(靈)の動きより“上”の心(靈)を発現するのかの意味を指し示すものでもある。 
よってこの言葉の意味は、観察しうる対象に対し、赤く感じるっていうのは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であると述べていると思われるし、自分のものの見方が低ければ=霊的成長度の低い心(靈)には、貴いものでも赤くうつるって言い回しにも聞こえる。 
そやからそれは、今活躍している“役員づら”の人たちのことを考えてしまう。
何回も言うたことでもあるけれど、アセンションのために“上”から“下”に垂れられた情報など、それは宗教や霊的成長や“日月神示”やS会=紫光会の交霊会でもそうなのだけれど、それらをただ甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉に変えてしまい、人を引き付ける言葉だけ引用したりして、それで商売をして自分たちの欲望を満たしている人、そして自分の低い功名心と自尊心を満たしている=自我の肥大の心(靈)の動きが現れている人がいる。 
そういう類の人が、本当の貴さを見出していないのは、ただ自分の欲望のために利用するという低い心(靈)の動きがあり、それは智性(神性)が足らんとも言いうるし、またそれは、自分の心(靈)の本能化でもあり、結果、多くの人に本当の認識を与えない“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもあり、だから今、言葉だけもてあそんでいる人たちは多すぎるし、それはどんなに言葉で霊的成長を説いたかのように見えても、どんなにアセンションの情報を説いたとしても、どんなに宗教の言葉で感謝を説いたりしても、それは単なる騙しにしかならないのだからこそ“上”に認められず、そんな人はアセンション落第組でもあるけれど、大半の人は(霊的成長度が低いから)そのことに気がついていない。
 アセンション後の場(フィールド)に移行出来うる(霊的な)資格は、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)できる人であり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をよく思う人であり、だから“われよし”って表記のように自分の欲望のために使うのは、ただ自我の肥大の段階であり、それは霊的成長度が低すぎるから、次の段階の“創造”に参加できない。
 だからこそこの文では、“身魂掃除”“身魂洗濯”の意味と同義である言い回しの“眼鏡はづすに限るのぞ、眼鏡はづすとは洗濯することざぞ”って言われており、そして認識の程度=霊的成長度の程度、自分の心(靈)の発現と動きの程度により、なんでも、ものの見方は違うって言い回しのことを“今の世は色とりどり眼鏡とりどりざから見当とれんことになるのざぞ”って言われている。
 要は、貴いものを利用してはいかんし、貴いものの中に貴さを見出すってこと、それは、自分の在り方を見出す指標にするべきでもあるけれど、そんなものの見方ができる人は、人生でかなり失敗したりして=左往右往して、自省(胸の磁性“十”)出来ている人しか思えないことでもあるのだけれど、相対的にそんな人は少ない。 
こんなことを指摘していくと、また“事象の形骸化”のようなことを述べていかんならんから、これくらいにして、次の文。

“上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならんぞ。
上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、
けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。”

 これも少し揶揄(やゆ)した言い方であり、この文の“上ばかりよくてもならず、下ばかりよくてもならん”っていうのは、自分の心(靈)の発現には“上”と“下”があり、それは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性であり、ヨガならムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、そしてアナハタチャクラ、さらに、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、それぞれの心(靈)の発現と心(靈)の動きでもあるし、“下”から“上”のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)は、“上”から注がれる荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指し示すものでもある。
水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官

 要は、自分の心(靈)には“上”と“下”があるってことでもあるし、“下”の心(靈)ばかりだとケダモノのような人であり、だからといって智性って心(靈)の動きだけでは、事象の“創造”が出来ない。
 だから高い智性(“一”、1番目のオーラ)を持った“創造”の“主(ヌシ)”は、人に物質の段階の振動を持つ肉体を、与え、物質の世界=三次元の“創造”を託していると思われるし、物質の神道の世界をよい形に変えていくのが人(日止、霊止)の氏名でもあると思われる。
 だからこそ自分の心(靈)には“上”と“下”があり、それをよく自分で見極め=“身魂掃除”“身魂洗濯”して、それは第十三帖の言い回しなら“眼鏡はづすに限る”でもあり、
自分自身が、観察の基準、認識の基準をしっかり持ち=天の御目(あめのおめ)を獲得し=“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があるならば、“上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致す”ってことになり、ことにこの文の“けもの”は、本当の獣(けもの)のことではなく、自分の心(靈)の中の“下”の部分、本能、情動、功名心、自我までのことを指していると思われる。 
それは、人が、動物から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)してきた。 その低い心(靈)の動きも、人(日止、霊止)が肉体を持ったまま、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるのには必要でもあり、だからこそさっきも言うたけど、人(日止、霊止)は心(靈)と肉体を持っており、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるからこそ、日を止める、靈を止める意味で“日止、霊止”でもある。 そやから霊を止めるっていう意味を知ってもらうため、靈の解字の画像を貼っておきまんねん。
 
靈の解字

 さらに日(太陽)を止める意味の“日止”について述べれば、“日月神示”表記の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことは、目で太陽の思惑=太陽光線と可視光線以上の電磁波を受け止め、目上(めうえ)の脳で電磁誘導を起こし、その電磁誘導は、BDNF(脳由来神経栄養因子(のうゆらいしんけいえいよういんし))の新生になりうると考えられ=脳内の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、結果として“一”=智性=1番目のオーラの大きさになっていくものである。 そして自分が持っている“一”=智性=1番目のオーラの小さい人、あるいは自分の持っている智性(神性)を自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせない人は、アセンション落第組でもある。 さらにこの文の“新(あら)の世に致す”は、いうまでもなくアセンション後のことでもあるし、今、ニセの情報が多いからこそ=“役員づら”が活躍しているからこそ、“取り違へするなよ”と、あえて言われていると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その一”


「Kellyさん、こんにちはです。 いきなりですけど、今日もいろいろお話したいことがあるんですよ」
「なんでっか」
「ここ数年の不景気はKellyさんもご存知でしょうが、ここ数年、とくに今年に入ってからうちの会社もどんどん仕事が少なくなっていってるんですよ。 
そして、うちの取引先や関連会社も倒産してるところが多い…そのうちのいくつかは、ちょっと姑息な計画倒産だったりもするんですけど、建築業界全般を見渡すととにかく仕事は少なくなった。 
それでうちとしても、仕事が少なくって、ちょっと危機感を覚えたりもするんですけど、その割にはうちの会社は大丈夫で、倒産の連鎖のあおりを受けたりしないんですよね」
「それはK地はんの会社が、右往左往ではなく、左往右往の“行”をしている傾向があるからやないんでっか。
 それはつぶれるところはどんなことをしてもつぶれる。 そやけどつぶれへんところはどんなに危機的状況におちいったとしても、つぶれへんと思いまんねん。
 そやからそれは、極論に聞こえるかもしれんけど、今後のよいカタチの“創造”にかかわってる仕事は、どんなに危機になったとしても、それは神さんが必要と認めてるんやからつぶれへん。
 そやからそれは、今K地はんに、右往左往と左往右往っていうたけど、人の仕事に対する考え方っていうのんは、やはり霊的成長度の“上”“下”においていろいろあるやおまへんか。
 そやから左往右往っていうのんは、右往左往=失敗を体験してから、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考えてから事象の“創造”をするってことやけど、人の霊的成長度、価値観とかそれぞれの考えが、“上”から見て、正しいのか間違っているのか、それが分からん人は大きな失敗を体験してっていうよりも体験させられてる。 
ほんでからそのこと事態が、“上”がその人を導いていかんならんからでもあるけれど…」
「ですからそれは、右往左往から左往右往、自分たちの在り方を考えさせられる“行”みたいなものですね」
「そうでんな。 
そやから霊的成長度の低い一般の人たちっていうのんは、ただ儲かればエエとか、自分たちだけ幸せであればエエとか、そういう考えの元に価値観ってものを構築している。
それはただ低い、低すぎるから、低い霊的成長度の人が作ってきた文明だからこそ文明は壊滅するっていうのが先生の考えでもあるけれど、文明の壊滅そのものが自省(胸の磁性“十”)の“行”であることなんて、大概の人が実感を伴って思わへんもんでんねん。
そやからほとんどの地球人は、目先の幸福を追い求め、(通貨としての)金に執着し、形骸の名誉に執着し、そんなものがすばらしいって褒めそやすもんばっかりでんな。
その褒めそやすとか、(通貨としての)金に執着するとかけ以外の名誉に執着するとか目先の幸福を追い求めるっていうのんが、自我の肥大でもあり、それは“日月神示”表記の“石屋の仕組み”でもあるし、それがまた“われよし”でもあるやん」
「そうかもしれませんね…。 それは腹までの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ってことでもあるし、腹から“上”の心(靈)、言い換えれば胸のチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化になっていない」
「そう思いまんがな。
そやから今、ダメになっているものっていうのんは、建設業だけではなくって他にもたくさんある。 
ほんでからダメにさせられていること事態が、それにかかわった人たちの自省(胸の磁性“十”)を促すことでもある。 
特に最近話題になったのは、あるプロスポーツのことなんか分かりやすいけど、それは神さんの目から見て価値のあるもんやったのか? スポーツでたくさんの収入を得ることが価値のあることやったのか? いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか? 
ほんでから大して価値の無いことで金を沢山得るっていうのが正当な報酬やったのか? 金もらいすぎでっしゃろ。
そやからそれは、名古屋弁で言えば、とろくっさいことに金を使うんやないんでっか」
「そうですね。 プロスポーツは(通貨としての)金が動きすぎですよね」
「K地はんはそう言わはるけど、一般にそんなふうな認識は無いやん。 勝ったら褒めそやしたり、負けたらがっかりしたり、そして(通貨としての)金が沢山はいりそうだからあこがれたり目指したりするだけでんがな。 
そやけどスポーツっていうのんは、ほとんど肉体の“行”でしかない。 そやからそれは土=2~3番目のオーラの行でもある。
そやからプロスポーツ選手っていうのんは、活躍して賞金をもらっている間が右往左往であって、引退してからが左往右往になり、たとえば体を壊したりして自分のやってきたことを振り返り自省(胸の磁性“十”)の“行”にはいるけど、もっと若いうちから自省するべきでんな。 そやからそれはただ霊的成長度が低いって言い方も出来るし…」
「そうかもしれませんね。 活躍していたときは褒めそやされて、自我が肥大して…そして自分の低い功名心と自尊心のためにがんばるっていうのがスポーツの世界ですよね」
「そうなんやけど、そんなものの見方ができる人っていうのは、ごく少数でしか無いやん。
 ほんでから話が前後するけど、そやからそれは神さんから見て、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見て、ほんまに多くの人の霊的成長に結ぶつくことならば、今後=アセンション後も存続していくやろけど、そうでないものは今、どんどんダメになり、それは馬脚を現すっていうのんか、それにかかわってきた人たちの低い心(靈)の動きがバレてるだけやおまへんか」
「まったくそうですね」
「そやから今の話は比較的分かりやすい例やけど、“上”から見てどうでもエエことっていうのんは、霊的成長に結びつかないことを大げさに取り上げて、そして付加価値をつけたくさんの(通貨としての)金を取る。
 それは“上”から見たら正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか?
 そやから、人間の認識を獲得する作業としての、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするって過程があるんやけど、右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへんってことでもある」
「ですから最初私が話したこと、今、倒産しているところとかは、右往左往から自省(胸の磁性“十”)の“行”に入る過程でもある。
 そして私のところの会社は、左往右往の行をしているってKellyさんはおっしゃったけど、自分たちにはそんな認識はあまり無い…。
 自分たちの仕事に対する理念…それが“上”から認められているから、今後=アセンション後の“創造”に参加できる資格がある程度あるからうちの会社はつぶれない…そういうことなんですかね…そうかもしれませんが…。 ですからうちとしては、不誠実な仕事をしているつもりはありませんし…」
「そうやろな。 
そやから今K地はんがいうた“不誠実な仕事”、これはK地はんの人間性の表れた言葉でもあるし、そやからその言い回しは、仕事を通じて事象に対する奉仕をするって言う意味合いを感じさせる言葉でんな。
ほんでからに今K地はんが言うたみたいに、仕事が少なくなるとか倒産が多くなっているとかは、いろんなことが結果として表れているからでもあるんやないんでっか」
「それは先生の本に書いてあったこと、これまでやってきたことの結果が表れてくる。 
そしてそれは、アセンションに伴うことでもある」
「そうでんな。 
ほんでからこういう言い回しはちょっと説明を要することでもあるけれど、人の霊的成長に必要ではない仕事っていうのは、必要ではないからこそ、今後=アセンションに向かうためには、その仕事そのものが消失していくことも考えられる。
そして、自己奉仕者の行為、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れ、その“思惑の顕現”=現象化。 
そういう仕事をしてきた人は、今後=アセンション後の“創造”を担うことが出来ない。 要はその霊的資格がない。 
言い換えれば霊的成長度が低すぎる。
そやからそれは、“上”が、今後=アセンション後の“創造”に参加させるべきではないとの基準を設けたともいえるし、ちょっと意味合いが違うけど…神さんが今後=アセンション後の世界はそんなことを許さないとも言いうるし、そやからそれは正確に言い表せば、自分に内在する神性が顕現した人たちの世界になるからこそ、自我の肥大した心(靈)の動きによる仕事、それは利益を得る事が目的の仕事っていうのんは、今ダメになりつつあるし、またそれは多くの人に示されるべきものでもあるやんか」
「…とても難しい問題をKellyさんは感じていらっしゃるんですね。 そんなことまでしっかり考えなかったですよ。
 そしてうちの会社が左往右往の“行”をしている…そんな自覚は無いんですけど…そうなんですかね」
「さっきも言うたけど、K地はんの言葉を聴くとK地はん自身が左往右往の“行”をしてはる…その傾向はあると思えるし、そやから左往右往についてはK地はんにあえて説明することでもないけれど、自分の在り方を考え、それを理念として、そして仕事ならその自分の考えや認識を盛り込んだ生業(なりわい)とする。 そういう仕事をしていらっしゃるんやないんでっか」
「…そうかもしれません。 ですからそれは、その反対を考えれば分かりやすいですね。 
左往右往の生業(なりわい)、自分の在り方や仕事に対する理念、そんなことをたいして考えずにただ儲けてきた。 ですからそれは失敗を体験している過程でもあるし、その失敗っていうのは進化の法則性、○○○大先生の言い回しならば神格化の方向性ではなく、ですからそれは、自我の肥大って心(靈)の動きがあり、そして生業(なりわい)の裏には(通貨としての)金に対する執着と物欲ともっと程度の低い欲望があって、それを達成したいから仕事を頑張る(元の気を張る)ってことですよね。
そして今Kellyさんがおっしゃったこと。

“自己奉仕者の行為、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れ、その“思惑の顕現”=現象化。 そういう仕事をしてきた人は、今後=アセンション後の“創造”を担うことが出来ない。 要はその霊的資格がない。
言い換えれば霊的成長度が低すぎる”

だからそれは、自我の確立=固定化の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程は、マニピューラチャクラの強化であって、また自我が無ければ自己と他者を認識できないからこそそれは、独り神(ひとりがみ、日取り神)になっていく過程でもあるけれど、今の世界は“玉石混交(淆)”で程度の低いものとある程度霊的成長した心(靈)が混在している。
だからアセンションは、神が、“創造”の“主(ヌシ)”が、霊的成長度により人をより分けるっていう言い回しよりも、その霊的成長度が混在した人たちの世界は、やはり程度の低い人は程度の低いものを選択するし、それと反対に程度の高い人は程度の高い考えで行動する…“思惑の顕現”=現象化ですよね。 
だからこそ現津(あきつ)、観察され得る事象は、それぞれの場(フィールド)を構築するってことなんでしょうね。
だから事象、“思惑の顕現”=現象化が事象の“創造”であるからこそ、自分の考え、価値観、理念は、高いもので無ければならないし、そういう人が事象の“創造”をしなければ、進化した世界とは言いがたい。
そして今の世界は、お世辞にも進化した世界とは言いがたいですね。
たとえば甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を追い求めさせることとか、何も生み出さない娯楽とか、真剣に物事を考えさせない見せ掛けの癒しとか…今、テレビ番組にはそういう傾向の番組作りが多いですね。
こんなことはいちいち例を挙げていたらきりがないけど、そんなものが多すぎるし、そしてそれらは人の霊的成長に役に立っているとはとても思えない」
「そうでんな。 
そやから人(日止、霊止)は何を考え、何をするべきなのか、このこと自体が“思惑の顕現”=現象化でもあるけど、当然それは生業(なりわい)に表れるべきやってことを今K地はんは言いはったと思いまんねん。
 そやから今どうでもエエことに付加価値をつけたりして商売している人とか、自分の欲望のために貴い何かを利用して仕事をしている人とかは多いし、それが成功者って褒めそやされているやおまへんか。
 ほんまに自分の仕事が貴いならば、そこには自分の考えが反映するものであるし、当然それは理念になるべきやし、そしてその理念は“上”から見て、言い方を変えれば神さんに評価されるべきものなのか…常にそれを思うものやろ」
「それは時々先生が引用するS会=紫光会の経文の、“世為人為”ってことですね」
「そうでんな。 そやからローム太霊さんがS会=紫光会の会員に教えたいのはこの“世為人為”って言葉に表れてて、それはまた人の在り方を示す意味もあるやん。
ほんでからローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 って項目にも、同様の意味のことが述べられているけど、大概の人はそこまで深読みできへんもんでんねん」
「それは私も読ませていただきましたが、どの言葉のことを言ってるんですか」
「それはやな…。

その全力の半分も出さず、或いは殆んど手を下さずに自分の思いを遂げているものもたまにはあるが、普通の人間は努力することによって常に自分を向上させ、また必要なものを得ているのである。
 しかし神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである。


ほんでから189ページにも、

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。
 
それと…」

「Kellyさん、ちょっと待ってください。
 う~~ん…すでに読んだことのある内容ではあるんですが、このローム太霊の言葉は、ひとことひとことよく意味を考えないと理解しにくい感じですし、今のKellyさんとの会話を振り返って考えると、この文章にはいろんなことを思わされますね。
…ですから、もしKellyさんのご都合がよろしければ、私がローム太霊講話集のこの項目をよく読んでから、再度、お話ししたいですね」
「オッ○―牧場でんがな。 
そのほうが今の話の続きをしやすいやろし、そうやったなら今回の話はここまでにして、改めて連絡してくれまへんやろか」
「承知しました。 それでは少しお時間をください。 それでは今日はこれで失礼しますね」
「さいならでんねん」
Joしノ~~ マタネー♪ 
❤ ❤ ❤

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
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Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
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Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (464)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (12)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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