“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”地つ巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十七帖 を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天地には天地の、国には国の、びっくり箱あくのざぞ、
びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐること分るのぞ、
早う洗濯した人から分るのぞ、
びっくり箱あくと、神の規則通りに何もかもせねばならんのぞ、
目あけて居れん人出来るぞ、
神の規則は日本も支那も印度もメリカもキリスもオロシヤもないのざぞ、
一つにして規則通りが出来るのざから、今に敵か味方か分らんことになりて来るのざぞ。学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。
ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。
神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。
旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、
初めの役員それまでに引き寄せるぞ、
八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。
おそし早しはあるなれど、神の申したこと一厘もちがはんぞ、
富士は晴れたり日本晴れ、おけ。
十月の四日、ひつ九のか三ふみ。

冒頭の文、これも今まで何回も言うてきたとおり、今後=アセンション後は、現状と事象が違ってくる事をいっているし、“日月神示”の表記としては“ぐれん”とか“びっくり箱”とか言われている言い回しが多い。 
それは、如何に今の世界が自己奉仕者の心(靈)の動きの顕現、“われよし”の人の活躍で、その低い心(靈)の“創造”になっているのかってことでもあり、そんなものは今後=アセンション後は通用しなくなるからこそ指摘されている。
また自分の低い心(靈)を低い心(靈)の動きとして認識して、自分に自戒(“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”)しなければならないこそ=“身魂掃除”“身魂洗濯”して欲しいって“上”は思うからこそ、以下のような言い回しになると思える。

“天地には天地の、国には国の、びっくり箱あくのざぞ、
びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐること分るのぞ、”

 この文の“天地”は、私たちの心(靈)が観察する外側(外国と幽界)の事象。 そして“国”は、自分の心(靈)そのもの、だから外側と認識する事と自分の内面、心(靈)の動きって理解したらエエと思う。 ほんでから“国”の意味は、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”の心(靈)の動きのこと。 そやから地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、現状、自我の確立=固定化の段階で、自我の肥大に陥りやすいからこそ、そこに“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)が入り込み、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)で、恨みの連鎖の霊的干渉を増やす“創造”を行わせている。 
そやからそれは失敗の事象であり、だから文明は壊滅するやろし、失敗は神の創造の法則に則って(のっとって)いないからこそ、バチが当たり=“神の咎め”があり、それがあってはじめて自分の在り方を振り返るし、これも何回も言うてきているけど、失敗を体験し自分の在り方を考え、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方をよい事象の“創造”のために使うこと、それがローム太霊の言葉の、右往左往と左往右往の意味のひとつでもある。
 そして“びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐる”は、霊的成長度による“思惑の顕現”=現象化は、違うって言う意味である。 
低い心は低い事象しか“創造”できないし、“上”に向かう心は、全体が進化する事象の“創造”をなしうるし、それが神の思惑でもあるし、今後=アセンション後の事象はそうなすべきだからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は、存在する場(フィールド)を分けるっていうよりも、自分たちの心(靈)の動きにより、(時間の進行に伴い)行き先を自分で決定する。
 その意味で次の文。

“早う洗濯した人から分るのぞ、
びっくり箱あくと、神の規則通りに何もかもせねばならんのぞ、
目あけて居れん人出来るぞ、
神の規則は日本も支那も印度もメリカもキリスもオロシヤもないのざぞ、
一つにして規則通りが出来るのざから、今に敵か味方か分らんことになりて来るのざぞ”

 今後=アセンション後の事象の“創造”の理由、その根拠、それは神の“思惑の顕現”=現象化でもあり、それが、生命の進化=霊的成長、神格化に向かうことの過程でもある。 
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、認識の変容でもあるし、だんだん神と思惑を共有する事でもある。 
それが“日月神示”表記の“天詞様”でもあるし、生命の進化の最終段階と思わせる表記が“日月神示”の、○ 九 十でもある。
○ 九 十(まこと)の解字

だから古神道で、人は“上”の振動を止める意味での“日止、霊止”って表記がなされているものであり、それはまた、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の、“ヒ”=日、太陽と、“ト”=止める、胸の磁性“十”でもある。
だから、自分の心(靈)に発現し始めた智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で、自分の心(靈)の観察をする、それは自分の在り方を観る、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であり、それをなした人から“分かる”って言われている。
そやから、どんなことが“分かる”のかっていうのんは、この文の“神の規則”であり、それは“日月神示”表記から引用すれば“道理”であり、それは、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
そしてそれは、たった一つの法則性だから“一つにして規則通りが出来る”っていわれてて、さらにこの言い回しは“規則通りが出来る”=“上”の思惑が顕現するっていう意味のことまで述べている。
そして進化の法則性は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現であり、それは自分たちが観察しうる事象の“創造”でもあるからこそ、次の文。

“学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。
ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。
神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。”

 この文の“学”は、理屈だけ捏ね回して他者を利用して自分の利益にする人が多いとか、誰かの功績にあやかるとか、自分がエネルギーを贖わないでたくさんの利益を得ようとするとかの自己奉仕者の心(靈)の事をいっていると思える。 
そやけど今Kellyさんが使った言い回しでは具体的ではないから、ちょっと具体例を挙げておけば、地球人は動物に比べ学問や知識を得たけど、自分たちにとって都合のよい使い方をする。 
それがたとえばサプリメントやダイエットなど、通販番組のコマーシャルに見られる効果だけを強調して視聴者に、さも効果がありまっせ~~みたいな事を思わせる。 これは体裁のエエ騙しでもある。 それとか投機とか、アフィリエイトとか、自分がエネルギーを使わんと金儲けしようとするとか、これも“学”だけで自分の利益を得ようとする卑しい心(靈)の動きだと思う。
 そして誰かの功績にあやかり、それを吹聴して、あたかも自分がかくとくしたかのように見せかけて商売をする。 だからそんな人は、自分が何にも知らんのに“主護霊”の概念だけ利用して守護霊って言い換えてテレビに出たり、一時間なん十万のスピリチュアルカウンセリングをしたり、ほかにも自称だれだれの弟子とかを吹聴して本を出版したり、また、宗教の概念を講話で話したり、引用しただけの本やDVDなどを販売して商売をする。
 …こんな事はいちいち例を挙げていくときりが無いくらい多いけど、今の世界はそんなものであふれかえっているし、そんなものをありがたがっている程度の低い人は多すぎる。 
そやけどそれらは、S会=紫光会の経文の“世為人為”ではない。 さらにそんなものは、人を堕落させるものでしかない。
分かりやすい一例としてたとえばサプリメントやダイエットは、人間の心(靈)と肉体を虚弱にしているものでもあるし、そんなどうでもエエこと(人(日止、霊止)の進化の足を引っ張る事)に金を使わせる事自体が、“石屋の仕組み”で、それは霊的成長度の低い人、その低い功名心と自尊心=自我の肥大=マニピューラチャクラの心を、煽り(あおり)、またそれは、経済大国にしかない低い心(靈)の動きでもあり、そんなものに引っかかる人間は地球全体を見ないから、飢餓貧困で死ぬ子供の事など知らん存ぜぬやし、肉食はするし、それらの結果である恨みの連鎖の霊的干渉などまったく意に介さないものでもある。  
そやけど、こんなふうにアセンション落第組のことを詳しく指摘してても、何のらちも開かん。 
そやからアセンション落第組でもそうやし、自己奉仕者の“創造”でもそうやけど、それらは、どんな心(靈)の動きをしているのか、その心(靈)の動きの分析が重要で、一般の人のものの見方は、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は、それぞれの存在の“思惑の顕現”=現象化であるって認識が無いから、事象の“上”と“下”も理解できていないし、自分の心の“上”と“下”も分らんし、だから神さんや仏さんに現世利益を求めたりしていたりもする。
まったく甘いっていうのは、ただ、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ってことでしかない。
…まあエエわ。
ほんでから次の文。

“旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、
初めの役員それまでに引き寄せるぞ、
八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。
おそし早しはあるなれど、神の申したこと一厘もちがはんぞ、
富士は晴れたり日本晴れ、おけ。”

 これは、この第二十七帖を書かせている存在よりも、一段“上”の存在が、岡本天明はんにかかることの予告。 
そしてそれは、地つ巻の後に書かれた日月の巻のことやろ。
 ほんでから“初めの役員それまでに引き寄せるぞ、八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。”っていうのんは、本当に今後=アセンション後の“創造”を担える霊的資格を持つものを“初めの役員それまでに引き寄せる”と称されていると思えるし、それは地つ巻のあとの、日月の巻で述べる事がとても重要であるからこそ“それまでに引き寄せるぞ”って言われていると思える。
 ほんでから“神の申したこと一厘もちがはん”は、さっきも言ったとおり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、一つでしかない。 それは何回も言ったけど“日止、霊止”って表記に示されている。
 それとこの文でも“富士は晴れたり日本晴れ”って言われてて、これが何をさすのかは以前解釈した。 
そやからそれは、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
そして“晴れたり日本晴れ”については画像を以下に貼っておきまんねん。
“晴れたり日本晴れ”の解字

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、
今 御用ある臣民と、明日 御用ある臣民とあるのざぞ、
二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。
十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。
旧八月の十二日、ひつ九のか三。


この、第二十六帖は、第二十五帖と同様に、第二十四帖の“衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。”にかかる文章だと思える。 
それは第二十四帖の解釈で述べたとおり、“衣(ころも)”=肉体であり、心(靈)が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の発振、発信ならば=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ならば、“上”はかかれない。 それは当たり前のことやし、今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行かんならんのは、時間の進行に伴う“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、だから“日月神示”では“上”との感応共振をする人(日止、霊止)という意味の、“天詞様”と述べられているし、そうなるためには、自分の心(靈)を自分の智性(神性)で観る=自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する。 その意味の表記が“身魂掃除”“身魂洗濯”。 そして肉体組織の結晶化は、困難に立ち向かい、困難を試練として、生体内電流の増幅をして、それが“行”の意味と意義であり、それを“日月神示”では、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と称している。 
そして事象の“創造”っていうのは、自分たちの“思惑の顕現”=現象化であり、心(靈)の動きが大事であり、かかってくる霊的存在=通信を受けたりすること、思想を共有する事が大事でもある。 
また、自分の思惑が、今より早く顕現する事象になることが時空の結晶化でもある。 さらに“日月神示”では、今の事象よりも相対的な表記として、“半霊半物質”(今の事象よりも思惑が早く顕現する)という言い回しもしている。
ちょっと余談になったけど、まず冒頭の文。

“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、
晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、”
 
 これは揶揄(やゆ)した言い回しであると思える。 この文の“雨の日”は、人(日止、霊止)が背負っている因縁とか、それ以外にも(霊的なものの見方が出来ないから理由の分からない)災厄とか、不幸と感じる事象とか、それらはすべて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であるけれど、それを“雨の日”と称されていると思える。 
前のブログで述べた事やけど、恨みの連鎖の霊的干渉を背負ったなら、それに立ち向かい、逃げず、恨みの連鎖の霊的干渉にかかわっている霊的存在の自省(胸の磁性“十”)を促すのが、一番根本的な解決であり、それは恨みの連鎖の霊的干渉を背負っている人間と、背負わせている霊的存在、その両者の霊的成長になる。 しかし、今の人間は、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心(靈)の動きをするものが多いから、すぐ逃げるとか忘れようとするとかする。 
また苦難や試練を、忘れられたり逃げられた事を、癒されたなんて解釈をする人が大半でもある。 
 そんな人間を騙す形骸の宗教や、自称霊能力者、あなたの不幸を救いましょう、除霊、浄化しましょう、お祓いしましょうみたいな詐欺は、とても多いし、騙すほうも騙されているほうも、霊的な事柄に対する認識はとても低いとしか言いようが無い。
 またまた余談やったけど、この文の“雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬ”は、恨みの連鎖の霊的干渉がなくなる事象を“晴れたら要らぬ”と称され、いうまでも無くそれは、自省(胸の磁性“十”)を果たした人が“創造”する、今後=アセンション後の事象。
 そして“その時その時の御用ある”は、恨みの連鎖の霊的干渉で背負った因縁とかを自分たちが解決する。 
このことも、今、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”となっている地球を何とかすることでもあるけれど、アセンションにはタイムスケジュールがあるから、もうその方法だけでは、良い方向になりえない。 間に合わんってことでんねん。
 だから自省(胸の磁性“十”)の出来た人と、自我の肥大した自己奉仕者は、分けなければ、今と同じような恨みの連鎖の霊的干渉が増大していく事象はずっと連続して、最後には人間は完全に滅亡するやろ。
 当然のことながら“創造”の“主(ヌシ)”はそんな事を許さないし、だから“上”からの教えとして、さまざまな宗教も出来た。
また、S会=紫光会でローム太霊さんが述べた事、“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん。”は、自分が試練と立ち向かい、自分に背負った因縁の原因のひとつでもある、恨みの連鎖の霊的干渉由来の霊的存在に、自分が立ち向かっているところを観察させ、自省(胸の磁性“十”)を促すようにする…その意味のことも言っている。
(しかし、このローム太霊さんの言い回しでもっとも大事な事は、自分がやっている“行”に対し、その姿勢を忘れるな、もっともっと“行”を極め、もっともっと“上”からの通信を受けろ、感応共振しろっていう意味だと解釈する。 by ○○○大先生)

さらに“日月神示”でも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信で、人(日止、霊止)の霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の事を、さまざまな表現で述べているけれど、そこまで読み取れる人間はとても少なく、ただ、ありがたそうなところだけ引用し、自分たちの金儲けにする=“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り下がっている。
またまた余談やったけど、この文の“御用”は、恨みの連鎖の霊的干渉を解決するのが今の地球の現状を何とかする事であり、その心(靈)の動きを持ったものは、もう恨みの連鎖の霊的干渉を増大させないものでもある。
しかし、その心(靈)の動きを忘れるなっていう意味で“晴れた日とて傘いらぬのでないぞ”と称されていて、いつも自分の心(靈)の動きを見張る事をしろって言われてて、それは、人の心(靈)は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において、本能から発現し、今は、ほんの少し智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)、目上(めうえ)の心(靈)を発現した。 何回も説明している通り、自分の“上”の心(靈)が“下”に向かうのが“日月神示”表記の右回転でもある。
そしてそれは自我の肥大であるし、自我は独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程としての必須要素でもあるし、だから自分の自我をよく観察する事が重要。
その意味で、○○○大先生が解釈した“日月神示”の右回転の画像を以下に貼っておきまんねん。
 
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転 砌(みぎり)回り


 またまた余談になったけど、次の文。

“今 御用ある臣民と、明日御用ある臣民とあるのざぞ、”

この“今”と“明日”は、たった今の事象と今後=アセンション後の事をいっている。 あえて言うまでも無いし、S会=紫光会の交霊会でも、“これからの人、明日の人”って言い回しをしていた。 
先ほど述べたように、恨みの連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”、その原因と現象の根拠である恨みの連鎖の霊的干渉を解消すること、因縁に立ち向かい逃げない事、困難を避けない心(靈)、それがこの文の“今 御用ある臣民”だろうし、そして今、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、“上”との感応共振をして、“上”の思惑を顕現しようとする人が“明日御用ある臣民”だと思う。
そして次の文は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴う肉体の変容をさした表記。

“二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、
十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。”
 
 この文の“歳”は、時間の進行と、霊的成長度における“上”と“下”、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を指していると思われ、“二歳(ふたつ)”は、“富士(二二)”の“二”と同義、それは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道だと思われる。 
そして“五歳(いつつ)”は、“五”は、糸巻きの象形文字、それは神経が密になるさま。 生物の進化は神経が密になる事でもあり、それは一個体の肉体の磁性の強化と変容でもあり、“行”の意義=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意義でもあり、さらにそれは、心(靈)が“慈(しげる)”っていう意味で、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の“慈(しげる)”でもある。
 そして“十歳(とう)”は、胸の磁性“十”をさす表記。 
そして“着物”は、第二十四帖の“衣(ころも)”と同義で、肉体の事。 だからこの文は、霊的成長の秘密を解き明かした表記でもある。
 そして次の文。

“十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。”

 この文の“役変わる”は、今の恨みの連鎖の渦巻いた事象と、今後=アセンション後の事象では、当然その事象を酔い形に変えていくには違う事をする。
そやから、今後=アセンション後は、ただただ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”して、自分の神性の顕現のために、考え、思い、追求して行動をする。 
それは、今の物欲中心の世ではなく、言い換えれば、土=2~3番目のオーラの“行”ではなく、さらに言い換えれば、低い砌(みぎり)の“行”=右往左往ではない世界になり、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)それが中心の世になるやろ。
 そしてその心(靈)は、胸の磁性“十”中心であり、“十柱”っていうのは、要はこの表記が人の完成に至るっていう意味やけど、以前紹介した“柱”の解字の画像を以下に貼っておきまんねん。
柱の解字

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

新しくその日その日の生まれ来るのぞ、
三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、
時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。
今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。
何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、
この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。
何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。旧の八月の十一日、ひつ九のか三。

冒頭の文。

“新しくその日その日の生まれ来るのぞ、
三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、
時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。”

 あえて指摘することも無いけれど、私たちが現実と認識している事象は、時間の進行に支配されている。 それがこの文の“新しくその日その日の生まれ来る”であり、それは時間の進行を認識しているのは、自分たちの心(靈)なんやけど、その認識があるからこそ、進化ってことを、判り、解り、分かるものでもある。
 そして、先生が思う進化は、霊的成長と神格化への道程でもある。 
ほんでからこの文の“三日”“十日”は、太陽=日と、“三”と“十”が書かれてる。
今まで説明してきたとおり“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体やろし、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”天地人って言う意味を持つでもある。 そして“十”は、胸の磁性“十”、それはシンクロトロン放射の構造でもある。
そやから、人(日止、霊止)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を分かり、認識し始めたなら、今いうた“三”と、“十”と、太陽=日をよく理解して、時間の進行とともに“上”の荷電粒子を止める意味での“日止、霊止”になる。 そのために艮(うしとら)の金神は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えようとしたし、その意味のことを述べていると思われる。
そして“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、それをこの文では“時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことある”って称されていると思える。
ほんでから次の文。

“今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。
何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、
この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。
何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。”

 この文の“八月十一どの”は、肉体が持つ左右(日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、“富士(二二)”)が“八”、そして肉体を意味する“月”、さらに、胸の磁性“十”を示す“十”と、“一”=智性=1番目のオーラ。 これを忘れるな=“拝みて呉れ”ってことやろし、ほんでから“二十八日どの”は、肉体=“二”、“十”は胸の磁性“十”(“慈悲”と“慈愛”の心(靈))とシンクロトロン放射と、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)、“八”は“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義。 それに太陽を示す“日”をつけてあり、“どの”って称されている表記。
 ほんでからこの文の“何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。 何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、”って言うのんは、やはり時間の進行のことであり、アセンションの時期であり、時期を深く解釈すれば、今までも以下のように言うてきた。
“時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある”って。
そやから“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンション、その重要性を認識させようという言い回しであると思える。 そして“炒豆(いりまめ)にも花咲く”って言い回しは、ちょっと揶揄(やゆ)した言い方でもあるけれど、一見、花が咲きそうにない=今活躍していないなにかが、本当の何かであるって言い回し。
そしてこの文の最後の“草物いふぞ”の“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”であり、それはアセンション語の事象の“創造”を担える霊的成長の秘密でもあるし、“青人草”(あおひとくさ)の“草”であることを言うておきまんねん。 以下に、“青人草”(あおひとくさ)の解字の画像を貼っておきまんねん。
“青人草”(あおひとくさ)の解字


今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この方 明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであ るぞ。
衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、
神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。
衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。
今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。
悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。
の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。
十月とは十(かみ)の月ぞ、水平磁場 “日月神示”表記の横棒  と 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒 との組みた月ぞ。
九月の二十八日、ひつ九のか三。

冒頭の文。

“この方明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであるぞ。”

 この文の表記、“明神(みょうじん)”は、明るい=日、太陽と月の意味であり、そしてそれは日足(ひたり)と砌(みぎり)でもあると思える。 さらに“神”って表記は、示す偏(へん)に回転を示す“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている)でもある。
そして日足と砌(ひたりとみぎり)は“思惑の顕現”=現象化でもあり、“思惑の顕現”は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”でもある。
自分たちの心(靈)が観察し認識し、そしてこの世界に生きていると思っていること事態が、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、自分の荷電粒子の場以外の、電磁波を感じ(感じる磁性)ているから“観察と認識”をするのであって、それは神であろうが下等生物であろうが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の存在だろうが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在だろうが、すべての存在に共通する行為でもある。
そやからこの表記の“明神”それは、日と月でもあり、S会=紫光会の経文、四空経録の“日心月物”でもある。
分かりやすい言い方なら日=精神、月=肉体。 そやけどこの言い方はちょっと表現が幼稚に感じるけど、そう思ってもらってもエエやろし、ほんでから“思惑の顕現”=現象化には、自分たちの良いカタチを願うもんや。 そう思うこと、その心の動きが、幸福になりたいとか、喜びたいとか、“日月神示”の表記なら“うれしうれし”“大歓喜”なんやけど、それを実現するには、神さんに近い霊的成長度、言い換えるなら神さんの思惑を自分の思想に出来る心(靈)にならなければならないからこそ、“行”っていう具体的な方法論もある。 さらに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのんは、“日月神示”表記ならば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化になっていかねばならない。 そうならないと“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無い。
その意味で次の文。

“衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、
神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。
衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。”

 この文の“衣(ころも)はくるむもの”、これは肉体=月の事を指し、肉体が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化出来ているなら、“くるむとは、まつらふもの”ってことになる。 あえて言うとけば“まつらふ”は、祀り、祭り、政治の政、“政(まつりごと)”、すべて“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の意味があり、それをこの現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する意味でもある。
そやから“神の衣は人である”は、神の思惑を顕現するのは人の使命であることを指し示し、“汚(けが)れ破れた衣では神はいや”は、心(靈)の動きが“身魂掃除”“身魂洗濯”できていない=自分の心(靈)の動きを智性(“一”、1番目のオーラ)で観察できない人、それはまた、言い方を変えれば、悪霊が憑依する心の動き=三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)、さらに言い換えれば、低い欲望中心の人。
そんな心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では、“上”は、かかれないし、当然、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)出来ないから、“汚(けが)れ破れた衣”、“衣は何でもよいと申すやうなものではない”って言われている。
そして、次の文も、大体、今述べたことと同様の意味。

“今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。
悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。”
 
 この文は言うまでも無く、今の地球人の大半(“九分九厘の臣民”)、それは、霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)と肉体を指し示した言い方である。
 ほんでから次の文は、“思惑の顕現”=現象化ってことを説明している。

ローレンツ力と ○ の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。”

 “ ローレンツ力と ○ の国、霊の国”は、言うまでも無く“上”に向かう心=霊のことで、霊は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) で、“上”との感応共振をするべく縦の磁性の強化は、ローレンツ力 ローレンツ力 の強化になるから ローレンツ力と ○と示してあると思える。
そして、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)であることを何回も言うてきた。 
だから“上”が人に望むのは、“うれしうれし”“大歓喜”の事象の“創造”なんやけど、それをするために、今、地球人の大半は失敗の事象を“創造”している=(ローム太霊の言葉の)右往左往している。
 そして自省(胸の磁性“十”)したなら=“臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらう”、それは自分たちが感じる“うれしうれし”“大歓喜”の事象になり、それが神の“思惑の顕現”=現象化を実現する“日止、霊止”でもある。
 そしてそれは、進化した事象を創造するという生命の使命でもあり、法則性であるからこそ“この道理よく分りたか”と言われ、それは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 ほんでから次の文は、胸の磁性“十”、それは、縦の磁性と横の磁束=水平磁場のことを言っている。

“十月とは十(かみ)の月ぞ、 水平磁場 “日月神示”表記の横棒縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒との組みた月ぞ。”

 この文の“十(かみ)の月”、これは、“十”と“月”=肉体。
そやから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は、自我の確立=固定化から胸の磁性“十”の発現と強化になり、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が、“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”の心の発現をしていくことでもある。 こんなことは、ほんま、くどいくらい何回も言うてきたことやけど、楽屋落ち方言い方をすればこのブログの管理者の○○○大先生は、“日月神示”にこの表記があることを最近まで知らなかった。 そやから自分の考えと一致する大きな発見やったから【<◎><◎>】こんな顔をしてたようでんねん。
 余談やったけど、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、○○○大先生が“改”で説明している通り、縦の磁性 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒から始まり=脊索が出来、脊椎が出来、さらに、足が出来、手が出来た。 そして手足は指が出来、指は、骨の周りにたくさんのコイルが巻かれ=神経が密になり、電磁石の構造としては、体幹よりも末梢のほうが優れたものになっている。
また、手足と脳が出来ているのは、それぞれが水平磁場を持ち、水平磁場を構成するのは、腹、胸、頭、それぞれが違う性質のコンデンサーだからでもある。
 そしてその水平磁場は、“上”から注がれる荷電粒子を取り込み、自分のもの=自分の心(靈)の動きや思想とする。 
 さらに人間と四足獣の違いは、手の機能の進化でもある。 それはアナハタチャクラの発達であり、胸の磁性“十”であることを何回も言うてきた。
 以下の画像の緑色の楕円の部分にそれが示されている。

“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 

さらに補足として、心の発現の画像も貼っておきまんねん。
人(日止、霊止)の縦と横の電気特性 “一二三”のオーラ

そやからこのことをよく踏まえ“ 水平磁場 “日月神示”表記の横棒縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒との組みた月”。 そして“十(かみ)の月”=霊的成長した心と肉体。 
私たちがアセンション後の事象を“創造”する資格を獲得しようとするならば、この文の意味くらいのことは、すぐ分かるようにならんとアカン。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。
この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。
心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、
世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。
神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。
一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、
一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。 のくれのことを申すのざぞ。
九月の二十八日、ひつ九のか三。


 まず、冒頭の文。

“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。
この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。”

この文の中の“九エたして読みて呉れ”、これは“日月神示”表記の ○ 九 十 の解釈が出来ていないと理解できんと思う。 
○ 九 十(まこと)の解字 

 ほんでからこの“九エ”は、九重(ここのえ、きゅうちょう)を揶揄(やゆ)した言い回しだと思える。 九重っていうのんは、いくえにも重なった様子とか、宮中っていう意味がある。 
 さらに、古神道の太祝詞(ふとのりと)のヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十、この一から十までもそれぞれ意味があり(略してヒトっていう意味でもあり)、それは“日月神示”解釈を始める前に漢数字の解釈をした。
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。参照)
 ほんでから ○ 九 十の“九”は、画像で示したとおり、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)という解釈をしてきているし、この文の“九エ”の“エ”は、1番目、2番目、3番目のオーラの、2番目と3番目のオーラを縦の磁性(|(たてぼう、こん、))でつないだ様子に見えるし、それは、靈っていう字の下の部分に相当する。
靈の解字

 そやから“九エ”は、“創造”の“主(ヌシ)”の最後の生命の“創造”としての“九”、それと、人が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる必須条件としての自我の確立と固定化(自分と自分以外の認識をするため)、そのことを指し示す表記であり、また、“九エ”ここのえは、一から九までが積み重なったという意味もあると思う。
 一から九までの意味は、さっき紹介した、
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって…考えた事。を、参照のこと。
 今述べたことを踏まえこの文を解釈すれば“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、”の、“心で読みてくれ”は、読みながら“上”と感応共振して、自分の思想にしてくれって事。
そして“九エたして”は、今述べたとおり、“創造”の“主(ヌシ)”の最後の生命の“創造”である“九”を自分が良く知り、認識し、それを自分の自我に取り込み、自分の思想と行動に活かす=“思惑の顕現”=現象化をしてくれってことでんねん。
 そしてそうなれば“病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。”って言われ、ちょっと揶揄(やゆ)した言い方にも聞こえるけど、“草木”が、“草”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”、それと“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、この二つの字が使ってあるからこそ、太陽で自省(胸の磁性“十”)の心を増していく=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで、自我より“上”の心(靈)の発現=霊的成長する事を示しているとも思われる。
 そやからそれは“青人草”(あおひとくさ)って事を前に解釈して、そのときに草の意味を説明したから、その画像を以下に示しておきまんねん。
“青人草”(あおひとくさ)の解字


 ほんでから“この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。”っていうのは、あえて解釈はいらへんと思うけど、霊的成長は個人的な作業であり、“行”も一人で苦に耐えることであり、認識を獲得するのも自分にしかえられないものであり、何とか教団とか何とか宗教みたいに集団を作れば自我の肥大した自己奉仕者が権力を示して、金儲けの団体にしてしまったりするし、それは霊的成長と反対の方向性であるからこそ“日月神示”では“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)って言い表されていると思うし、この文の“まとゐを作りて呉れるなよ”は、自分が目立って、権力を誇示したり自分だけ認めてくれっていう心(靈)の動きを持つなよって事だと思える。
 参考のために“まとゐ”、まとい、纏のことをWikipediaから以下に引用しまんねん。

纏(まとい)とは、江戸時代に町火消が用いた、自分たちの組であることを示すもの。纏は各組により様々な意匠が凝らしてある。 概ね、上部に組を表す頭があり、馬簾と呼ばれる房飾りがついている。 下部は木の棒になっていて手に持って使う。

そやから“教会のようなものつとめてくれるな”“まとゐを作りて呉れるな”こんなもんで自分たちのことを目立たせようとしている心(靈)の動きは、“役員づら”にもなるし、またそれは、低い功名心と低い自尊心由来の行動でもあるし、言い換えれば目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)=ディスプレイ(動物の発情行動)をしててはアカンってことでんねん。

ほんでから次の文。

“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、
世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。
神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。”
 
 心、声、身体、それぞれ振動の程度は違うけど、善なら“善(神格化の方向性と智性の受信)”、悪なら“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、それぞれの思惑は伝わるもんや。
 そやからそれはどんな息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をせんならんのかって事を思い起こさせる文章でもあるけれど、神の思惑の顕現が生命(生きる使命=存在理由)であり、生命の最後の段階が人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、それは古神道の表記ならば、“上”からの荷電粒子を止めるという意味での“日止、霊止”ってことになるし、それがまた、“日月神示”表記の ○ 九 十 でもある。 そやから、“世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れ”って言うのんは、“日月神示”に書かれている“善(神格化の方向性と智性の受信)”をよく認識して、自分たちの思惑にして、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するのが、神の望む事象であり、自分たちにとっては“うれしうれし”“大歓喜”の事象って事にもなるけれど、自己奉仕者が自分たちの利益のために低い認識の情報を流したり、“日月神示”そのものを引用しただけの本を売ったりして貴いものを腐らせている。 それは何回も言うけれど“役員づら”であるし、役員と故障されるべき霊的資格を持っていない。当たり前や。大して“行”してへんのやから“上”から通信を受けるわけがない。 
そやから今、低すぎる認識が多く、そんなもんに惑わされるからそれは“考へてゐては何も出来ないぞ”“考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか”って言われてて、ただ“上”を信じ、“上”に任せ、自分は自分の心の中の“善(神格化の方向性と智性の受信)”を見出し=天の御目(あめのおめ)の構築をして、ますます“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、“上”の思惑を取り込み、“天詞様”と認められるべき存在となるのが、“日止、霊止”の使命やろ。
 その意味で“神も人も一つであるぞ”って言われてると思えるな。

 ほんでから次の文。

“一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、
一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。ローレンツ力と ○  のくれのことを申すのざぞ。”

 この文の“一”と“九”を使った言い回しの“一九(ひく)れ”は、やはり生命の最後の段階、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現の事でもあるし、そして“九”は、さっきも述べたけど、“九”(“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))でもある。
 そして、また重複するけど、○ 九 十 の、“九”でもある。 
 要は、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”の最後の段階って事であって、だから“日の暮れ”って言い回しがされてて、古神道の表記である“日止、霊止”のうちの、日を止める、の、完成形が“一九(ひく)れ”でもあるし、“日暮れ”でもあるやろ。 
そやから単なる夕方と間違えたらアカンっていう意味で“一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ”って言われてて、そして“日止、霊止”の完成に至る“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力、その両者が満ち満ちてこそ発振、発信されるオーラは大きくなり、神の思惑を取り込めば高振動化して、そのオーラの相互干渉で事象の創造をしていく=荷電粒子の集合体である心(靈)ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が感じ(感じる磁性)る、言い換えればそれは、すべての生命が行うことの“観察と認識”であり、だからこそそれは、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”ってことにもなる。
そやからそれはさっきの文と前後するけど“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れ”って言われてるし、だからこそ  ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、ローレンツ力 ローレンツ力 =“上”に向かう心の動きって思ったらいいし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))によるローレンツ力ローレンツ力 で、“上”からの荷電粒子を一個体の肉体に止めてきたからこそ、生命は神格化の道を歩んでいる。
その意味のことが述べられている文であると思える。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 地つ巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。
身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、
ローレンツ力と ○のうつりた人と
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、
ローレンツ力と ○
となるのざぞ、 と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。
どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、
今やめたらまだまだわるくなるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ。
今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、
早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ
お洗濯第一ざぞ。
九月の二十六日、ひつ九のか三。

 ここまで地つ巻を読み解いて思うのは、地つ巻は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している文が多い。 冒頭の文も、同様でんねん。

“われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。”
 
 いうまでもなく、今後=アセンション後の醜い事象に際し、自分だけ命が助かりたいとかの発想をする人は多い。 それは、たとえば某国の核シェルターとか、日本でも、とあるカルト教団が日本が水没すると思い、標高の高い土地ばかり買いあさっていた時期があった。
そしてこれは○○○大先生の本の読者から教えてもらったことやけど、某教団の教祖とその教団の地位の高い人だけ助かるための施設を作るから、教団員からいろんな名目で金を集めているって話も聞いた。 アホでんねん。
そやからこれらは、アセンションは霊的成長度において分けられるっていう認識がなく、ただ物理的に戦争や災厄から逃れれば次の段階に移行できるっていう安易な発想でしかない。
何回も言うてきているけど、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画で、今後の事象を良いカタチにするためのものであり、その事象の“創造”に参加でき得る資格は、霊的成長度、“一”=智性=1番目のオーラ、自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来た人=左往右往した人でなければならない。 
仮に“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が次の世界の創造に参加したなら、今と同様の世界になるし、今の世界が腐っているからこそ、アセンションという事象で人を分けるって事が起きる。
そやから自分たちだけエエ目を見たいなんて人は、今活躍してて、この世界を腐らせたの焼けど、それが神の思惑なのかって事でもあるけれど、霊的成長度の低い人にはそのことが理解できない。
…まあエエわ。

 次の文。

“身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、
ローレンツ力と ○のうつりた人と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、 ローレンツ力と ○となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”

 この文も、

上つ巻 第三十二帖 

下つ巻 第九帖

下つ巻 第二十一帖

地つ巻 第十二帖 


と同様に、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) =霊=○、荷電粒子の場(フィールド)という解釈と、 ローレンツ力=肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力っていう解釈が出来ないと読み解けない。
 脊椎動物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))、背骨の発現、そして背骨と神経が電磁石の構造を持ち、“上”から注がれる荷電粒子をローレンツ力で取り込み、下等生物から人に進化していく過程で、たんぱく質の高分子化、それと灰分(かいぶん)(Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム) Al(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム))を取り込み、一個体の電気特性は変容し、さらにさまざまな臓器の発現と発達や、手を使い出したことや、目上(めうえ)と目下(めした)の脳の違いが見られるようになり、さらに大脳は右脳と左脳に別れ、これらすべて心の発現にかかわるものでもある。
 そして本能から発現した心(靈)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程において智性と、自省(胸の磁性“十”)の心を持つようになった。
 要は“下”から“上”の心(靈)の発現が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるし、先に述べたとおり進化には、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、 ローレンツ力=肉体が持つ縦の磁束によるローレンツ力がかかわっている。
 ほんでからこの文を読み解くには、地つ巻 第十二帖で解釈したことが分かりやすいと思うから、以下にコピペしときまんねん。

“そしてこの文では“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)を掃除して居らぬと ローレンツ力はいらん”っていわれていて、それは自分の心=霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の在り方を指摘しているのであって、それが“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあり、自分の心(靈)の“上”と“下”、言い換えれば“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の動きを自己観察(“観自在” “直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)しなければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は通信を送れないって事でもある。

その意味で次の文。

“まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、
この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、
人集めて呉れるなと申してあらうがな。”
 
 この文の表記の“調和(まつり)”は、“上”の思惑を取り込んで事象の創造をしたならばっていう意味合いのことであり、“上”は、“創造”の“主(ヌシ)”は、人(日止、霊止)に良いカタチの事象の“創造”を望んでいるからこそ、“日月神示”では“うれしうれし”“大歓喜”と感じ(感じる磁性)られる事象になるっていわれている。“まつり”については、画像を貼っておきまんねん。
“祭り”と“祀り”の解字と意味の違い

 そして“調和(まつり)”は、“上”の憑依と、“上”の通信を受け自分の思想にすることありきの表記であり、それは逆を考えると分かりやすいけど、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の通信を受けている人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の心(靈)の動きは三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもあるからこそ、目先の欲望と金銭欲と形骸の名誉と…etc. そんなものばかりに自分の心(靈)は支配され、それさえ自分で気がつかないのが“身魂掃除”“身魂洗濯”できていない心(靈)でもある。
 だからそんな人が“上”からの通信を受け作られた価値のある何かを知れば、ただ自分の利益のためにしか利用しない。
 それが“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))でもある。
 だからこそこの文で“この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めて呉れるなと申してあらうがな。”って言われており、この内容のことはこれまでの“日月神示”解釈の中でも何回も言われている。
 またこれは、霊的成長はきわめて個人的な作業であることも示唆している。”

  引用終わり。
そやから今述べたことを念頭に置き、この文を解釈すれば、まず“身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、”の“身魂みがけた人”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ている人には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が憑依できる=“神うつる”。 
そやから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、これが無いと高い存在は通信を送れない。 
だからそれは、なぜ“行”するのかの根拠でもある。 ほんでからこのことは、決して今の形骸の宗教の“行”ごっこではない。 
そして“行”に対し、自分の肉体のどの部分の組織が結晶化すると、“上”がかかれるのか、この分析もとても重要であり、それについても地つ巻 第十二帖で述べたから、以下にコピペしときまんねん。

““日月神示”で謳われている“身魂磨き”は、“行”と“修行”による生体内電流の強化であり、その結果が肉体組織の結晶化であり(たんぱく質の高分子化でもあり)、またそれは、“石”(帯電するミネラル)の結晶化でもあり、とくにそれは頭と背骨と尾骨で構成された縦の磁束の強化になりえるから、ローレンツ力の強化になる。
そうなれば、“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との反応は、違ってくるし、同時に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在も、肉体の結晶化に応じてだんだん違ってくる。
またそうならねば、自分の思想は“上”の思惑を取り込んだものになりえない。
そして人(日止、霊止)が肉体を持って進化する意義は、3番目のオーラの拡大から2番目のオーラに変換され、また2番目のオーラが“一”=智性=1番目のオーラに高振動化する。 それは肉体の“下”のエネルギーを“上”に変換する作業でもあり、なぜそうなるのかは、肉体が縦に三つ並んだ内容物の違うコンデンサーの構造を持っているからでもある。 
そのコンデンサーは、腹→胸→頭であり、それぞれの肉体の部分々々の強化が、縦の磁束の強化につながり、だから肉体のどの部分の強化=どんな種類の“行”をするのかによって、肉体各部分にあるチャクラ(荷電粒子の回転を示す)の強化にもなるし、それが“行”の意義である。
また多くの宗教が伝えている“行”は、いろいろあるけれど、それぞれの“行”が肉体のどの部分の強化になるのかを考えれば、それによる“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が理解できる。
たとえば断食は、腹中心の“行”であり、滝行は、全身の筋肉の強化中心であり、当然断食や滝行を行う場(フィールド)に存在する比較的高い霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)もあるけれど、肉体の強化としては、大体、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの強化になる。
また下三つのチャクラと、その心(靈)の発現のことを“日月神示”では“江戸と尾張”、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、あるいは“ふんどししめて”って表記になっていると思われる。
(“日月神示”にたびたび出てくる表記の“ふんどし”は、腹に巻く部分が荷電粒子の回転を示し、帯の部分がへそから下の縦の磁束を示すから、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラのことだと思える)
しかし“上”のチャクラを強化するためには、“下”のチャクラの強化がなければ、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなるためには必要。 
だから、進化の順番を考え、“上”の存在はいきなり太陽凝視を人に教えなかったのだと確信する。
それは地球人の霊的進化程度に応じて、さまざまな“行”が示されてきたとも言いうるし、今、アセンションに向けて少しでも次の段階に移行させるべき“上”の思惑が、黒住教を通じて朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、そしてその後、人(日止、霊止)に垂れられた“日月神示”では、“ひつく”“日津久”、太陽凝視を“行”として行うことを教えたと思われる。
よって肉体組織の結晶化は、ひとことで言えば“身魂磨き”ではあるけれど、どの部分の強化=結晶化なのかを知るべきであり、それは分かりやすいから今までヨガのチャクラを引用してきたし、チャクラそのものが車輪とか回転とかの意味を持つことが、肉体の持つ縦の磁束、頭から背骨、尾骨にいたる電磁石によるローレンツ力で、“上”との荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の心(靈)は発現するものである。”

 引用終わり。
そやから“行”して“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してないと、“上”は憑依できないし、“上”がかかることが、祀り、祭り、政(まつりごと)でもある。
さらに“上”がかかり、“上”と思想を共有する人が“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
その意味で次の文。

ローレンツ力と ○のうつりた人とローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) のかかりた人との大戦ぞ、
ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがてはローレンツ力 を中にしてローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) がおさまるのぞ。
その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、 ローレンツ力と ○となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”

この文の“ ローレンツ力と ○のうつりた人と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人との大戦”は、“ ローレンツ力と ○のうつりた人”は、“上”の思惑を取り込める肉体と心(靈)を“行”によって獲得できた人=“天詞様”であり、“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人”は、今とても多い低い憑依現象でいろんなことをのたまわっている“役員づら”の人っていう意味もあるやろけど、もうひとつ深読みして思うのは、やはり自分の心の動きそのものであって、そやからそれは人の心には“上”と“下”があり、“上”がかかれる心の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“ローレンツ力と ○ のうつりた人”で、それは自省(胸の磁性“十”)の心を持ち智性(“一”、1番目のオーラ)が発現できている人、あるいは自分の心を智性(神性)で制御でき得る人、それに対し“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のかかりた人”は、自分の心の“下”の部分、それは本能、情動、功名心、自我間での心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に、感応共振する霊的存在は今とても多く、大半の人が自己奉仕者である原因でもあるけれど、それはまたなんかいも引用するけれど、春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”でもあるやろ。
そやから今いうた事を要約すれば、人の心の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、当然、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動があり、そやからそれは心(靈)の動きに“上”と“下”があり、“上”の心(靈)の発振、発信には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振があり、“下”(低い心(靈))の心(靈)の発振、発信には、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振がある。 また自分の心の“上”と“下”、それを自分で見極めることが“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるけれど、それを示唆したと思えるのがこの文の中の“
ローレンツ力  と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とが戦して、やがては ローレンツ力 を中にして ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)がおさまるのぞ。”であると思え、“ ローレンツ力
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とが戦して”っていうのは、自分が“上”に向かう心の動きをしているのか“下”に向かう心(靈)の動きをしているのかってことだと思える。 そやから先ほど述べたように自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に相応する霊的存在は感応共振する。
 自分が霊的成長して良いカタチになり、自分の心の高い部分で思惑を顕現するのが神の望むところだろうから、それには自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“上”と“下”を見出していかねばならないって事を述べていると思える。
 それで今述べたことの意味がこの文の中の“その時は ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)でなく、 ローレンツ力ローレンツ力でないのざぞ、ローレンツ力と ○ となるのざぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)のまつりぞと申してあらうがな。”で、それは“上”に向かう心の元である ローレンツ力と、自分の心そのものの表記の ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、一体になったのが、 ローレンツ力と ○って表記であり、それは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であるからこそ“ ローレンツ力と のローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)まつり”っていわれてると思う。

 ほんでから次の文、これも“国”の解釈を間違えると読み解けないと思う。

“どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、
今やめたらまだまだわるくなるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ。”

 この文の“国”は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、そやからこの文の“どちらの国も潰れるところまでになる”は、自分の内面、心の中の“上”と“下”、その葛藤をさしていると思え、そやからそれは“身魂掃除”“身魂洗濯”と同義でもある。
 そして自己観察により、自分の内在する悪を見出し、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”でもあるけれど、それは“上”との感応共振に必須の条件でもあるからこそ、“臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまだまだわるくなる”って言われてて、そやから今、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人が多すぎるから、こう言われていると思える。
 そしてこの文の最後の“ ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世となるのぞ、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)の世界となるのぞ”は、今後=アセンション後の事象は、自分の心の動きが顕現する世になるっていう意味。 その意味で“日月神示”では“半霊半物質”と言われ、それは、今の事象よりも思惑が早く顕現するってことでもあり、心の動きが現津(あきつ)、観察され得る事象に表面化するって事でもあるし、それが先生の概念の時空の結晶化でもある。
 その意味で次の文。

“今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、
早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ
お洗濯第一ざぞ。”

 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのは、心(靈)が育つことであり、“上”の心(靈)の発現でもあるし、そうなっていけば神の思惑を顕現して行くべき人(日止、霊止)になるけど、“今の臣民九分通り ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)になりてゐるぞ、早う戦すませて呉れと申してゐるが”っていうのは、まだ神の思惑を顕現するほどに成長はしていないってことであり、
そして“身魂掃除”“身魂洗濯”が出来ていないってことでもあり、だからこそ“今 夜明けたら、臣民九分通りなくなる”は、今後=アセンション後に移行できる人は少ないっていう意味であり、“夜明けたら”は、古事記の岩戸開きでもあり、その意味は“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くってことでもあり、それが出来ていないし、その資質を持って欲しいからこそ“身魂掃除”“身魂洗濯”=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”の意味で“お洗濯第一ざぞ”って、あえて言われてると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その四”


 この間考えたこと。 
それは、ローム太霊の言い回しの“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”。
それと、“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”“ほかの人のよいところの真(まこと)”。 だからこの言葉は、自分の心(靈)の中の善の概念、言い換えれば自分の認識として確立するみたいなことだと思うのが正しいと思う。
今回考える文章は、まさにこの続きみたいなものね。

人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。 それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来るのである。 その行為の一つ一つは陰徳となって現れ、倹約となって現れ、奉仕となって現れ、また感謝となって現れるのであって、人間各自が全生命をその中に注ぎこみ、病気をしていての祈りではやはりまずいから、完全な体になって神を拝んでこそ、真の幸福がそこに現われてくるのである。 汝等は人間の心の偉大さをよく知り、神の道一筋に進んで行けば、必ず行業の目的の一端が達成されるものと思う。

この文の“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。 それゆえ、汝等はその与えられた名前の下にその力を偉大にし自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来るのである”これは、人間の存在の意味と意義を示した言い方だわ。 
私たちが住んでいるところ、○○○大先生やKellyさんの言い方なら位置している事象、その事象を良いカタチにすることが、この間考えた“その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”であり、またこの文の“自分を立派にしてこそ、国家を立派にし世界を立派にすることが出来る”っていうことになる。
そしてこの文の“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところ”、神は人に何を望んでいるのか? 私たちはそのことを意識しなければならないのね。 
そしてそれは、どうして人間が神を認識するのかって事でもあるけれど、神を認識すること自体が自分の中に善を確立するみたいなことね。 
そして自分の善が顕れたならそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”になり、さらに自分以外の人の善の認識に触れたなら“ほかの人のよいところの真(まこと)”って感じ(感じる磁性)られるのね。
それはこの文の“その行為の一つ一つは陰徳となって現れ、倹約となって現れ、奉仕となって現れ、また感謝となって現れる”…これは、○○○療院のホームページのメールフォームにも使ってある言葉の“世為人為”で、○○○大先生はこの言葉に対し、この事象に対する奉仕って解釈をしている。 
でも、“この事象に対する奉仕”っていうのは、ちょっと間違えやすくって、本当の意味は、多くの人の霊的成長を望むことね。
だからそれは“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”を行使する人が行う生業(なりわい)は、神を意識し、神を認識し、神、対、自分、それは自分の霊的成長を認識するって事にもなる。
それが“行業一致”って言葉の意味の一環かもしれない。 
だから、自分が持っている能力を生かすのが仕事だけれども、そしてそれは“行業一致”の生業(なりわい)でもあるのだけれど、ローム太霊がローム太霊講話集のこの項目で述べているのは“尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない
この文の中の“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”これを考えなければならないのが人間の使命といえるわね。 そしてそのことを理解して業行を頑張れば“尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれる”って言われてるし、これはオーラでもあるだろうし、高い存在の憑依、“力”を加えてくれるってことでもあるのね。
 だから自分の“尚一段の行業一致のひたむきな努力”は、自分の心の在り方も大事だし、エネルギーを贖う(あがなう)ことも大事。 そうやって努力すれば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がある。
 でもその反対みたいなことが“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”ってことで、それはただ儲けたいとか、自分の欲望の達成のためにしかエネルギーを贖わない人、それは間違いなく霊的成長度が低い。 先生やKellyさんの言い回しなら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ね。 当然そんな人たちには“自分の真(まこと)”なんて無く、だからローム太霊は“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて”って言っていて、それは解っていないからあえてこういう言い方をしているとも思えるわね。
 だから人間は、“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”、このことを良く知っておかねばならない。 
 それがまた、“神の望まれるところ”だろうし、何回も思い出すけど“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”  この文の中の“自分の真(まこと)”と、“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”でもある。
 人はそう在るべきであるって言うことをローム太霊は言っている。

 …この間Kellyさんと話したことの要点は…。
(Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その一” のこと)

“K地はんの会社が、右往左往ではなく、左往右往の“行”をしている傾向があるからやないんでっか。
 それはつぶれるところはどんなことをしてもつぶれる。 そやけどつぶれへんところはどんなに危機的状況におちいったとしても、つぶれへんと思いまんねん”

それと、“今後のよいカタチの“創造”にかかわってる仕事は、どんなに危機になったとしても、それは神さんが必要と認めてる”。

それと、“人の仕事に対する考え方っていうのんは、やはり霊的成長度の“上”“下”においていろいろある”。

それと、“霊的成長度の低い一般の人たちっていうのんは、ただ儲かればエエとか、自分たちだけ幸せであればエエとか、そういう考えの元に価値観ってものを構築している。
それはただ低い、低すぎるから、低い霊的成長度の人が作ってきた文明だからこそ文明は壊滅するっていうのが先生の考えでもあるけれど、文明の壊滅そのものが自省(胸の磁性“十”)の“行”であることなんて、大概の人が実感を伴って思わへんもんでんねん”…これはローム太霊の言い回しなら、自分の認識の中に“真心(まごころ)”を持ってない人のことでもあるわね。

それと、あるプロスポーツについてこんなこともKellyさんは言っていた。
“神さんの目から見て価値のあるもんやったのか? スポーツでたくさんの収入を得ることが価値のあることやったのか? いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか? ほんでから大して価値の無いことで金を沢山得るっていうのが正当な報酬やったのか?”
 …これは事象に対する奉仕ではないわね。 単なる目先の喜びを供給しているだけなのだから。

 だからKellyさんはこんな言い方もした。
““上”から見てどうでもエエことっていうのんは、霊的成長に結びつかないことを大げさに取り上げて、そして付加価値をつけたくさんの(通貨としての)金を取る。 それは“上”から見たら正しい(“上”(“創造”の“主(ヌシ)”)と“下”(人)の思惑を取り込んだ事象)のか? そやから、人間の認識を獲得する作業としての、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするって過程があるんやけど、右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへんってことでもある”…まったくその通りね。

 だから“行業一致”は、自分の心に“真心(まごころ)”を持ち、それを顕したならば、“国家を立派にし世界を立派にすることが出来る”ってことになるけれど、今、そんな人は少ないし、一般の価値観って言うものが低すぎるから先生もKellyさんも憂いているし、 それはこの間のKellyさんの言葉を借りれば、こういう言い方になる。

“右往左往の段階は自分の理念が“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、言い換えればそれは、(今後=アセンション後の“創造”の基準と成り得る)天の御目(あめのおめ)を、その人たちが持ってへん”。
 
 だから、Kellyさんの言い方の天の御目(あめのおめ)、それとこの間私がちょっとだけ考えた絶対の善、それとこの項目の“真心(まごころ)”…それぞれ言葉が違うけど、それは自分の行動の指標にするべき自分の認識って事でもある。
 だからこそKellyさんは今後=アセンション後にも必要な仕事とか必要な“力”とかの概念を持っているのね。 
それを私に話そうとしたから、ローム太霊講話集188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 の文章を引用した…。  
 でも、ローム太霊講話集のこの項について、私自身がこれくらい考えれば、今後Kellyさんと会ったときには、たくさんの話が出来ると思う。

 それではKellyさんにメールして、待ち合わせをすることにするわ。
(“その五”へ続く)
 

“日月神示”地つ巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。
一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。
今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、
あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。
海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。
九月二十五日、ひつ九のか三。

 まず、冒頭の文。 

“神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。”

これは、神の思惑が顕現していない世界が、この第二十一帖の表記なら、“顕界”であり、それは、ローム太霊の言い回し、それは心の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度による事象の観察ということならば、現界、幽界、霊界、神界、のうちの、現界って事であり、だから“顕界”と現界、それは、肉体を持った人(日止、霊止)が観察しうる事象であることを述べている。
 しかし大半の人は“顕界”=現界のことしかわからない。 だからこそ、神さんの思惑を理解していないし、神さんの思惑を学習し自分の認識にするため生きているのだからこそ“顕界”、現界に、心(靈)が位置して、物質世界の事象の“観察と認識”をする。
 そのことがまた、時間の進行に伴う自分の心の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)=愛の顕現の程度が増していくようになる過程、それがローム太霊の言葉なら右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることでもある。 
 そうやって自分の心(靈)は霊的成長し、認識を拡大し、自分の思惑をこの世界に顕現する。 
そして、今後=アセンション後は、“上”の思惑を取り込み、自分の思想とした人でなければ事象の“創造”をすることが出来ない。 
これは何回も述べてきたことであり、だから現時点の地球人に対して、あんたらの認識は低いんでっせ~~~って言う言い回しがこの文の“神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分る”ってことであり、そのことが述べられている文であると思う。

 次の文、これは、霊的干渉、憑依現象、ローム太霊講話集にたびたび書かれている背後が力を加えるっていう意味のこと、それはローム太霊講話集の仙人や道士の項目でも触れられているけど、自分がエネルギーを贖い(あがない)、努力すれば、その道に堪能な存在が力を加えてくれるって事でもある。
余談になるけど、○○○大先生がS会=紫光会の交霊会である主護霊会に、二回目に出席したとき、“普通の人間は、一に一足す。 さすれば二である。 霊力を持った人間は、一、二、一、足す。 さすれば四となる。”って言われたことがある。
この先生の“主護霊”はんの言い回しの中の“霊力を持った人間は、一、二、一、足す”の、“”は、自分が努力し、エネルギーを贖い(あがない)、それが“善(神格化の方向性と智性の受信)”の法則性に乗ったものならば、“上”はより力を加え、自分の力以上の結果を、事象に顕すという意味合いのことであり、だから“行”して“霊力”を得よって言われ、そのことを自分の人生の指針とせよって事でもあるんやけど、この意味に近いことが、以下の文に述べられている。

“一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。
今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、
あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。”

 この文の冒頭の“一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れん”と、“神が蔭から守ってゐること分るであらう”は、先生の“主護霊”はんが、先生自身に言うた事と同様の意味。
 そしてこの文で大事なのは“あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのである”で、この文中の“臣民”は、霊的成長度の低い自己奉仕者が自分の価値判断で“あんな者”とか“阿房”とか思ったとしても、それは“上”、神さんに認められているのは、“素直”であって、その素直の意味は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の、自分の得しか考えない心の動きではない。
それを言い換えれば、うまいことやって、人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで儲け、自分の特しか考えないって事ではなく、この事象に対する奉仕って概念をきちんと持っている人は、一見、アホに見えるって事でもある。
 しかしそれが本来の人(日止、霊止)の在り方であり、自分の得しか考えん人間は、今、成功者とかって評価されているけど、そんな者は“上”は認めへんからこそ、アセンションっていう事象で、自己奉仕者の心(靈)の存在と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になるべき資質を持つ心(靈)とは分けられる…と、いうよりも、自分の心(靈)の動きが行き先を決定することでもある。

 ほんでから次の文は、“海”=腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、だから自我の肥大した人に、“つなみ”のような災厄が訪れ、自省(胸の磁性“十”)を促すっていう意味かと思うたけど、ちょっと深読みしすぎかも知れんので、アセンションに伴う事象については予告しておくっていう意味だと思うって事にしときまんねん。

“海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


 今回も、地つ巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界に変りたこと出来たら、それは神々様の渡られる橋ぞ。
本清めねば末は清まらんぞ、根絶ちて葉しげらんぞ、
元の田根(たね)が大切ざぞ、種はもとから択(よ)り分けてあるのざぞ、
ぜんぶり苦(にが)いぞ。
九月の二十四日、ひつ九のか三。

 とても短い文なんやけど、人の心の在り方、姿勢って言うたら分かりやすいかな。 それと“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことも言うている。
 冒頭の“世界に変りたこと出来たら、それは神々様の渡られる橋ぞ”は、ここ数年いろんなことがおきだしているけど、それらはすべてアセンションに伴うことであり、分かりやすいから引用するけど、それは、キリスト教でいうところの“最後の審判”でもあるし、また、それには不幸な事象が多いけど、多くの人が自省(胸の磁性“十”)するためのものでもある。
 そやからそれはローム太霊の言葉の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもあり、それをせんと、よいカタチの事象の“創造”ができない。
 そして当然のことながら、よいカタチの事象の“創造”をするには、今より相対的に“上”の霊的存在と感応共振する。 
それが“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そやからこの文で“神々様の渡られる橋”って言い方がされていて、“上”は“下”にわたってくるのが当然、それは“日月神示”の中の文でも“神烈しく(はげしく)”なんて言い回しがされている。
 そやから今現在の自己奉仕者が活躍する世界は、“神烈しく(はげしく)”でもないってことで、ほとんどの人が低い霊的存在と感応共振している=同じような心(靈)の動きをしている。
 その心(靈)の動きは言うまでもないことやけど、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)であり、貪は、むさぼる。本能由来の行動、瞋は、目をむいて感情をあらわにする、痴は、白痴の意味。認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らない、今そんな人ばかりになっている感があるけれど、全体がそんなふうだからほとんどの人たちが自分たちの心(靈)の動きが低いなんて自覚がない。
 だから自分の心(靈)の動きを観察し、自覚せよっていう意味で、“日月神示”では“身魂掃除”“身魂洗濯”=心(靈)の動きの“上”と“下”を見出せよって事が何回も言われている。
 そして心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))は、事象の“創造”にかかわること=“思惑の顕現”=現象化だからこそ、この文では“本清めねば末は清まらんぞ、根絶ちて葉しげらんぞ、”って言われている。 
そしてこの文の“本清めねば”は、本津宮の“本”でもあるやろ。 それは自分の在り方を見出せっていう意味で、今までたびたび説明してきたけど、自分がどう存在していくべきなのかを見出せよっていう意味の神道の言葉でもあるし、“富士は晴れたり日本晴れ”の“本”でもあるやろ。
ほんでから“元の田根(たね)が大切ざぞ、種はもとから択(よ)り分けてあるのざぞ”の“元”は、“二”=肉体と儿部(じんぶ、にんにょう)、そやから人間が時間の進行を認識していく=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくさまを言っている。
ほんでからこの文の“田根(たね)”は、意味深で、“田”は、目上(めうえ)の脳、それは、大脳新皮質、“田”心、靈、の四つの場(フィールド)の意味だと思う。
そやからそれは、<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) で述べている通り、目上(めうえ)の心(靈)は目下(めした)の心(靈)の動きを制御するものである。
そやから自己奉仕者の心(靈)の動きは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)主体の動きであり、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性っていう心(靈)の動きの、自我以下でもあり、そして字が中心の心(靈)は自我の肥大を招き、他者を利用したり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の欲望の達成のためにしか使わないって何回も言うてきている。
それは今後=アセンション後の事象に位置できる人の在り方では無い=アセンション落第組でもある。
そやから目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)、その意味で“田根(たね)”って言う表記が使われ、さらにそれは、今後=アセンション後に移行する人は(霊的成長度により)もう決まっているから“種はもとから択(よ)り分けてある”っていわれていると思える。
そして最後の文の“ぜんぶり苦(にが)いぞ”は、薬草のセンブリ(千振、学名Swertia japonica  リンドウ科センブリ属の二年草)に引っ掛けた揶揄(やゆ)した言い方で、今後=アセンション後は、今現在が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の横行している世界=事象なんやけど、それに対し、“善”が当たり前の世界になり、そやから当然、自己奉仕者の悪の行い=欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかは、無くなっていく。 
そやから自己奉仕者にとっては、“苦(にが)いぞ”ってことになり、今現在かて自己奉仕者にとっていろんなことが暴かれたり発覚したりして苦い思いをして、自省(胸の磁性“十”)している人は多い…当たり前や。 それが進化の道筋=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)なんやから。
話を戻し、今言うたことを含めて、この文では“ぜんぶり”って言われ、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”を振る、“善”が猛威を振るう=“神激しく”、そして悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無い=三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の存在は肉体を持った人(日止、霊止)だろうが霊的存在であろうが、今後=アセンション後は、いなくなるっていう意味だと確信する。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十九帖 Kellyさん的解釈

 今回も、地つ巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、
神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、
月光、総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、
神、仏、耶ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠(とわ)、
富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。
九月二十四日、一二 ローレンツ力と ○ ふみ。

第十九帖は短いけど、一つ一つが意味深い。 述べられているそれぞれの意味に於いて、分けて解釈しまんねん。

“世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、
神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、
月光、総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、”

この“世成り”は当然の事ながら“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”にかかる言葉。そして、“日止、霊止”って言う古神道の表記の内の、日の光を止める。 それは“一”=智性=1番目のオーラの強化であることを何回も述べてきているけど、そうなったならば、“皆みち足り”ている“世成り”ってことになり、“一”=智性=1番目のオーラの大きい人は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想とする。
アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成


 またそれが“日月神示”表記の“天詞様”でもある。 
よってアセンションは、霊的成長度において心(靈)の行き先が違い、それぞれの霊的成長度において観察しうる事象の相違となる。 
そして霊的成長度において分けられると感じうるのが、恨みの連鎖の霊的観照の結果としての、さまざまな災厄、戦争とか天災とか、わけの分からん犯罪とかいろいろでもあるけれど、みなそれぞれの心(靈)の成長度と心(靈)の在り方においておきると感じる=事象として観察するものであることを何回も言うてきている。
そやけど、自我の確立=固定化の段階、自我の肥大、“石屋の仕組み”、“江戸と尾張”、これらはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの発達の段階であり、それは霊的に低いから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きになり、そして恨みの連鎖の霊的干渉を増大させてきた。 しかしそんな世界は、この文の“神国”とは言われへんし、当然アセンション後の事象はそんなものではない。
それはこの文に、“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”が、日足(ひたり)のことを述べられ、そして“神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、月光、総てはみち、結び出づ”これは砌(みぎり)のことを述べているからでもある。
 神の極性は、日足(ひたり)と砌(みぎり)、それは太陽と月に象徴され、実際に太陽と月から送られてくるエネルギーが、S会=紫光会の経文、四空経録に書かれてあるとおり“日心月物”。
 だからそれは古事記の表記のように伊耶那美(いざなみ)(女)が伊耶那岐(いざなぎ)(男)よりも先に声をかけた=砌(みぎり)の極性のほうが強まったから、失敗をしたってことでもあり、よいカタチの事象の“創造”は日足(ひたり)の極性(思惑)が先に立ち、それから砌(みぎり)(事象への顕現)の極性の顕現をするのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるし、それを示した表記が“結び出づ”だと思われる。

 次の文。

“一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、”

 “一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、霊的成長を指し示した表記が“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。 
そして左右の磁性は“富士(二二)”でもあることを述べてきた。
 次に“三四五(みよいづ)”。 これは、よいカタチの事象の“創造”は、1番目、2番目、3番目のオーラを指し示した表記の“三”によるものでもある。
また“三”、これは“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体であり、“一”を三つ重ね“天”“地”“人”、天地人っていう意味を持つものでもある。 そやからそれは神さんと自分と地球でもある。
 そして“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”でもある。 “五”は、糸巻きの象形文字、それは神経が密になったさまであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した肉体でもある。
 そして“五六七(みろく)”は、“五”は今解説したとおり。 “六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味。 “上”と“下”の関係である神と人(日止、霊止)、その両者のことでもある。 そして“七”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記でもある“一”(亜から出ずる、アイ)に、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。 そやから神の思惑を顕現する様子でもあるし、それは“天詞様”であり、本当の意味での天皇、天=“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)の白い(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射))“王”(人の完成、三つのオーラに|(たてぼう、こん、縦の磁性))でもある。
 そしてそれは弥栄(いやさか)に示され、弥栄(いやさか)=彌栄(いやさか)は、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)であるって解釈をしてきた。
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


“日止、霊止”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、縦の磁性=背骨によるローレンツ力、それは荷電粒子の回転で、“上”から注がれる普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)を自分に止める。
 だから日の光を止め=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、靈を止めるって表記が、古神道で使われているのだと確信する。
靈の解字

 次の文。

“神、仏、耶ことごと和し、和して足り、太道ひらく永遠(とわ)、
富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。

“神、仏、耶”それぞれの宗教はあるけれど(“耶”は、耶蘇、キリスト教のこと)、霊的成長の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は一本道であり、それぞれに分けているのは“役員づら”の人間の都合でしかない。
 だから今後=アセンション後は、一本道になるからこそ“太道ひらく永遠(とわ)”って称されている。
 そして“富士は晴れたり”については、以前紹介した画像で以下に示すこととする。
“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやからこの第十九帖は、太陽と月、心(靈)と物質を伴った事象、思惑と顕現、日足と砌(ひたりとみぎり)、また言い方を変えれば“創造”の“主(ヌシ)”と人(日止、霊止)、それは“上”と“下”。 これらのことを指し示した文であり、また人(日止、霊止)にとっての太陽と月は、どういうものなのかすら示している。
 今後=アセンション後、人がこのことを理解したならば“太神は光り出づ、神国のはじめ”ってことになり、それは“神国のはじめ”=アセンション後の現津(あきつ)、観察され得る事象は、“うれしうれし”“大歓喜”の事象になるからでもあり、それは神の“思惑の顕現”=現象化であり、それを担っているのが、霊的成長をある程度果たした、人(日止、霊止)って事でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”地つ巻 第十八帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。
臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、
与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、
神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。
政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。
腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、
ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。
神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。
神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。
飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、
自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、
神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。
しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。
神の申すこと取り違ひせぬ様にして呉れよ。
よくこの神示(ふで)よんで呉れよ、元の二八基(じゃき)光理(こり)てわいて出た現空(あく)の種は二八基(じゃき)と大老智(おろち)と世通足(よつあし)となって、二八基には仁本の角、大老智は八ツ頭、八ツ尾、四通足(よつあし)は金母であるから気つけておくぞ。
世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐるから、守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。
九月二十三日、あのひつ九のか三。


 冒頭の文にあえて解釈はいらへん。

“われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。”

 これはいうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘しており、次の文も自己奉仕者=自我の肥大では、ダメな“創造”なのだって言っているし、ダメな“創造”に対し、神の思惑の顕現した事象は、天意を受信できる“日止、霊止”でなければならないことを言っているのが次の文でもある。

“臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、
与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、
神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。”

 この文の“神のやり方は日の光”、それは“上”の思惑=“上”からの荷電粒子を、自らの肉体の磁性により止め、そして溜めて(肉体が持つコンデンサーの性質)自分の心として発振、発信する。
それが“畐”でもあり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でもあり、発信された自分の心(靈)の動きそのものがオーラでもある。
そして今まで解釈してきた天意を受信して自分の思想にする人、それは“日月神示”では“天詞様”って表現がなされている。
それを指し示す言葉が“臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のこと”で、言うまでもなく今後=アセンション後の事象は“上下まつろひ合はす”=“上”の思惑を自分の思想にして(“日止、霊止”)、そして事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をする。 そうなっていくのが現時点の地球人よりも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人(日止、霊止)であると言いうる。
 だからこの文の“臣民のソロバンで政治や経済してはならん”は、金の亡者、金の奴隷、金さえ得られれば幸せであるとかの価値観、そんな心(靈)の動きを持っている(霊的進化程度の低い)自己奉仕者に言われていることでしかない。
 そしてそれはちゃんと“上”は観ているという意味で“日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ”って言われている。
そして、冒頭の文の“神のやり方は日の光”、これに対し“いくらあかりつけても夜は夜ぞ”は、自己奉仕者の人がいくら巧みな言葉で目先の幸福感を強調したとしても、あるいは、経済の繁栄が幸福だって強調しても、これらのことをこの文では“いくらあかりつけても”って称されており、そやからそんなものは神さんの思惑ではないって言い方でもある。
 そして何回もくどいほど言うてきているけど、物欲と(通貨としての)金、目先の快楽、そんなものがすばらしいと思っている人間、それは、S会=紫光会で引用された霊的成長の段階を示す、三蔵法師、孫悟空、砂(沙)悟浄、そして一番程度が低い心(靈)の段階を、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)。
 そやから、今、活躍している人の大多数は、八戒の心(靈)の動きにほんの少し知恵が加わって(知恵や知識、学問を追求し始める段階が砂(沙)悟浄、このことについては、ローム太霊との出会い に書いてあります)、その知恵を利用して人を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかに使い、結果として自分だけの利益とする。
 そんな人はいくら口で巧い(うまい、たくみ)こと言うたとしても、“与へる政治がまことの政治”なんてことにはなっていない。(ほんでから与えると返ってくるって言うのんは、前のブログから何回も言うてきたことなんやけど、最近、まるでそれをパクったような本も発売されている。 そやけどそれは、本当の意味での正当な報酬=因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”を知らんようで、ただ人を引き付ける甘いことだけ書いてある。 恨みの連鎖の霊的干渉も、自分に降りかかる因縁も、すべての不幸や災厄、これらは自分たちの心(靈)の動きによるものであることを知らへん) 
そしてそれは、この間からアップしている農業好きの社長婦人、K地M美はんとKellyさんとが話しているローム太霊講話集の中の言葉“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”に相当するものでもある。

そして次の文も、自己奉仕者の心(靈)の動きを指摘している。

“政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。
腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、
ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。”

 自分たちにとって良いことだろうが不幸なことだろうが、それらすべて自分たちの霊的成長のための事象であり、だからこそこの文では“政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではない”って言われており、さっき述べたとおりすべての事象は自分たちの進化のためであるという意味の言い回しが“まつりごと”であり、この意味は“上”との感応共振でしかない。
そやから進化程度の低い心(靈)は今、自己奉仕者で、それは物欲と(通貨としての)金に対する執着と、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)=本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)、それが中心の心(靈)でもあるし、またそれはチャクラの発達の段階でいえば、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラまでである。 またその段階では、自我の肥大って事が起きる。 そして自我の肥大した人の事象の“創造”は、低い砌(みぎり)の“行”であり、ローム太霊の言葉の右往左往でもある。
 だからそれは“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が無く、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)由来の低い霊的存在と感応共振する。
だから人(日止、霊止)が今より相対的に“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)すると、すべての事象の“観察と認識”は、自分たちの霊的成長のためであることが理解できるからこそ、“神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分らぬか、神のやり方は人の身魂(からたま)人のはたらき見れは直ぐ分るでないか。”と、そして“腹にチャンと神鎮まって居れば何事も箱さした様に動くのざぞ、いくら頭がえらいと申して胃袋は頭のいふ通りには動かんぞ、この道理分りたか、”ってことにもなるやろけど、現時点、平均的地球人の進化程度はこれが簡単に理解できる段階ではない。
そやからこの文の“いくら頭がえらい”っていうのんは、知恵をうまく使っていない=自己奉仕者の利益の追求のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使していないってこと。 そして、大体、この文で指摘されているとおり“神の臣民、魂と肉体の別ない”すら解らず、自分たちは生きている間だけが=肉体を持っている機関だけがすべてだっていう認識の人は圧倒的多数。 
そやから程度の低い心(靈)の人は、生きている間だけがすべてって前提で物事を考えるから、今、自分が楽しんで得をしなければ損だって発想をする。
だから“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分の利益のためにしか使わないものでもある。 
またこの文では、今、自己奉仕者の“創造”の極みであるけれど、それをよく観察しておくことは今後の自分たちの認識の拡大になる。 その意味でこの文では“ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならん”っていわれていると思える。
そやから自己奉仕者としての“力”、知識と知恵、程度の低い心(靈)が政治と経済とを自分たちの都合よく使い分けていることであったとしても、それは、自分たちの心が観察しうる事象の一端でしかない。
もう一度いうけど、すべての事象は自分たちの認識の拡大のために“観察と認識”をする。 そして自分たちの霊的成長度が高ければ、物欲や(通貨としての)金、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)に執着はしないものだけれども、低い霊的成長度の人はそれらがすべてみたいなものでもある。

そして次の文。

“神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。
神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。
飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、
自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、
神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。
しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。”

 冒頭の“神の政治はやさしい六ヶしいやり方ぞ、高きから低きに流れる水のやり方ぞ。”
これは、“上”の思惑を取り込むことを言っている。 だけれどもそれは、自分たちの心(靈)の在り方と、霊的成長を目指す“行”=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必要でもあるからこそ“六ヶしい”=むつかしいってことでもある。
 そして今、“役員づら”の人たちが活躍しているからこそ、本当のことが見出されないって言う意味で“神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ”って言われており、自分たちが何の苦労もしないで楽に生き、たとえばただ感謝だけ念じていれば自分たちは救われるとか幸福であるとかって謳っているのは、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であり、そんなことでは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にならん。
 “行”=“身魂磨き”は、自分が苦痛を感じなければ生体内電流の強化にはならん。 そして自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”が無ければ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は無い。
 そやから自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人は、目先の困難を試練と思わず、こんな風に思うのやろな=“悪の顔した神ある”。
 ほんでから、人は連綿と続き、いつか神格化するものであり、その進化過程が低いから今いろんなことが起きているし、それは霊的成長度において分ける作業としてのアセンションに伴う事象でもある。
そやからその意味で“自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。”って言われているけれど、低いものは低いし、そやからそれは間に合わんけど、いつか神格化するっていう意味のことでもある。
 ほんでから次の文。

“神の申すこと取り違ひせぬ様にして呉れよ。
よくこの神示(ふで)よんで呉れよ、元の二八基(じゃき)光理(こり)てわいて出た現空(あく)の種は二八基(じゃき)と大老智(おろち)と世通足(よつあし)となって、二八基には仁本の角、大老智は八ツ頭、八ツ尾、四通足(よつあし)は金母であるから気つけておくぞ。
世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐるから、守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。”

 この文の“元の二八基(じゃき)”、これは、“元”は、肉体=“二”と、時間の進行と進化を指し示す儿部(じんぶ、にんにょう)。
“八”は、“富士(二二)”と同義、それは、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
“基”は、そのままの意味。
“光理(こり)”は、“光”は“上”からの荷電粒子の可視光線の範囲。 “日止、霊止”って言う表記の日の光のこと。 
“理”は、“理(ミチ)”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性。
“現空(あく)”は、現津(あきつ)、観察され得る事象、事象を“空”と称されている。
“大老智(おろち)”の“大”は、自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)、儿部(じんぶ、にんにょう)(時間の進行と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味)。
“老”は、土(肉体)と左が重なった表記、肉体を持った人(日止、霊止)が老いて“上”の思惑を理解できるようになった様。
“智”は、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)の智。
“世通足(よつあし)”の“世”は、現津(あきつ)、観察され得る事象。 “通”と“足”は、時間の進行のことやろから、自分の心が顕現することってことやろ。
そやからこの文は、肉体を持った人(日止、霊止)が進化していくのは、ウエの思惑を取り込んで成長していく意味での“元の二八基(じゃき)光理(こり)”って事なんやけど、そこには程度の低い“創造”から始まるからこそ“空(あく)の種”って事に無り、それは最初は失敗であり、だから自省(胸の磁性“十”)して左往右往して“大老智(おろち)”になり、それは智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)を知ったって事でもある。
ほんでから“二八基には仁本の角”の“仁”と“本”は、生き方としての“仁”であり、“本”は、本津宮の本、自分の在るべき姿、神の子として在るべき姿。
“大老智は八ツ頭、八ツ尾”って言うのは、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)にかかることとしてとしか考えられん。 そやから八戒を戒める心(靈)は、“八ツ頭”であり、祖やけど欲望がないとこの世界の“創造”はできないから“八ツ尾”であり、この“尾”は、腹の磁性を示す表記の“江戸と尾張”と同義だと思える。
 “四通足(よつあし)は金母である”は、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信の意味、“通”“足“葉さっき解釈したとおり。
そやからこの言葉の“金母”は、(通貨としての)金のことではなく、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊であると思える。
 そやからそれは、人間は四足獣から直立して、手を使うようになってきた。 それに伴い目上(めうえ)の脳が進化してきた。 それは人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使でもあるし、手を使うことそのものがアナハタチャクラの覚醒の初期でもある。 だから人間は自省(胸の磁性“十”)の心を持つようにもなった。
 それは進化の道筋=“日月神示”表記なら“道理”であり、その意味は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 そしてこの文の最後の“世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐる”は、“世”は現津(あきつ)、観察され得る事象をさすってさっき解釈したとおり。
 そやから今説明した霊的成長を示す表記の“四通足(よつあし)は金母である”とは違うっていうことでもある。
 そやからそれは、地つ巻 第一帖の表記の“実言(みこと)”の“実”を使っての言い回しが“世通足はお実名に通(つ)いて分けてゐる”って事でもあり、人(日止、霊止)の存在意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、今、騙されて雰囲気に酔っ払っているだけの人が多いから、本当のことを見出せよっていう意味で“守護神どの、臣民どの、だまされぬ様に致して下されよ。”って言われている。
 そやからそれは形骸の宗教、そして似非スピリチュアルや、薄っぺらい感謝を売り物にするとか、尊い偉業をなしえた霊能力者を利用して、ただ引用しただけの人とか、それらすべて自己奉仕者であり、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でしかないってことでんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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