“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第一帖 Kellyさん的解釈


  今回から、日月の巻の解釈に入りまんねん(ちなみに日月の巻は、 (ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある)。 
まず、第一帖の原文は以下の通り。

富士は晴れたり日本晴れ。 ローレンツ力と ○ の巻 書き知らすぞ。
此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。
今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。
神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。
此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。
今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。
我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。
毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。
日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。
日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。
小さくしたいなれど。
旧九月一日、ひつくのか三。

まず、冒頭の文。

“富士は晴れたり日本晴れ。 ローレンツ力と ○ の巻 書き知らすぞ。”

 これまで“日月神示”に幾度となく出てきている霊的成長を示す言葉の“富士”と“日本晴れ”、これについては画像で意味を示しておく。

富士の解字

“晴れたり日本晴れ”の解字

 そやから画像の文で示したとおり“富士”と“日本晴れ”、これは、現状の地球人の進化過程=自我の確立=固定化、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、そして腹の位相のサイクロトロンから、“慈悲”と“慈愛”、“一”=智性=1番目のオーラの発現と行使、この発現と行使ってことそのものが、“思惑の顕現”=現象化ってことでもあるし、地つ巻で述べられた“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)でもあると思う。
 だからわかりやすくいえば、思惑は心(靈)の動きであり、顕現は、(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する)現象化でもあり、心(靈)が行動に現れる事でもある。
 そしてそれは、思惑=精神性=日足(ひたり)であり、顕現=砌(みぎり)の意味でもある。 さらに日足と砌(ひたりとみぎり)は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”の意味でもあり、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の、“一”でもあるし、これをまた“ヒ”とよませるものであり、さらに“ヒ”は、太陽を示す“日”であり、“日本晴れ”の“日”でもあるし、霊の旧字の“靈”(ヒと読ます)でもある。
 そして冒頭の文の後半“ の巻 書き知らすぞ”は、 っていう表記は、霊=、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力 ローレンツ力 を示す表記でもある。
 これまでもたびたび述べているとおり、縦の磁束由来のローレンツ力ローレンツ力 は、生命(生きる使命=存在理由)の進化過程において、背骨の発現に由来し、背骨が電磁石の仕組みを有するからこそローレンツ力は発生し、“上”からの荷電粒子(普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射))を自分の肉体と心(靈)に取り込むものである。 また、今述べた意味を持ち、そのことを指し示す字が、霊の旧字“靈”(ヒ)でもある。
靈の解字


 だからこそ古神道では、日を止める、霊を止めるっていう意味の“日止、霊止”っていう表記が使われ、また“止”(ト)はヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十の“十”(縦の磁束、 縦の磁性(脊椎動物の背骨) “日月神示”表記の縦棒 (たてぼう、こん、縦の磁性))と水平磁場 水平磁場 “日月神示”表記の横棒 が重なった表記、シンクロトロン放射の仕組み、地つ巻 第二十四帖の表記)でもある。
そして“日止、霊止”っていう表記の意味、これは“上”からの荷電粒子、神の思惑、神の思惑の仲介者である太陽、その振動、電磁波、これを止めるのが心(靈)の発現が生物の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において“上”に向かう事と同義でもあるし“目上(めうえ)と目下(めした)”の心(靈)の発現と同義でもある。
よって今後解釈する日月の巻以降は、これらの事もだんだん詳細に説かれていると思う。

 次の文。

“此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。”

 これは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指摘している文章で、自分たち(の心(靈))が観察して認識しているその対象、物であろうが他者の心(靈)であろうが、宇宙だろうが次元だろうが、人が感じうる神の概念と認識(悟り、幸取=さとり)だろうが悪魔のそれであろうが、動物であろうが人であろうが霊的存在であろうが、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であろうが、それらは、すべて、神の思惑の顕現と人(日止、霊止)の思惑の顕現の結果でしかないといいうるけど、ちょっとむずかしいかな。
 まあエエわ。 これが難しいと思う人は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い人ってことでしかない。
 話を戻し、それら観察の対象、そして認識そのものが、神と人の“創造”(の結果)っていえるし、だからそれそのものは、すべてがすべての存在のためのなにかっていえるけど、それらを全部自分たちの欲望の達成のためにしか思わないのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、その心(靈)の発振、発信=息吹は、低い欲で出来た世界を創った。 その結果が恨みの連鎖の霊的干渉でもあることは何回も述べてきた。
 だからその認識を持てってことで、自分のもの、自分の所有物、なんて物はないっていう意味で“此の世に自分の物と云ふ物は何一つない”と言われ、そして“早う自分からお返しした者から楽になる”っていうのは、今述べた認識が必要でもあり、それがまたローム太霊の言葉の“行業一致”と、S会=紫光会の経文、四空経録の中の“世為人為”っていう悟りにもなるものでもあるし、自己奉仕者は自己奉仕者特有の来る氏を背負うから=(通貨としての)金しかわからない心(靈)、金の奴隷、物欲の奴隷になっているからこそ“楽になるのざぞ”と言われていると思う。

 次の文。

“今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。
神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。
此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。
今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。
我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。”

 この文の“三つの大洗濯が一度になって居る”と“神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐる”は、じぶんの心(靈)が観察する対象のことを言っており、“神の国”は、神性(智性(日を知る性質)、または“一”=智性=1番目のオーラ)が発現し始めた自分の心(靈)、これも地つ巻で何回も述べた“神国”(“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)と同義であり、“外国”は、自分が観察する外側(外国と幽界)の事象であり、“世界ひっくるめた”の“世界”は、内も外も、自分も自分以外も、すべてを“ひっくるめた”事象である事を示唆している。
 そして“そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。”は、“神の御用”は、今後=アセンション後の“創造”に携わる事を指し、今後=アセンション後に移行する今は“此れからがいよいよの正念場”であるッて言われている。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、“我(が)出したら判らなくなる”って言われており…わざわざ解釈するような事でもなかったけど、そして、“てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ”は、何かにあやかる事ではなく、自分が“上”との感応共振をせよ、だから霊的成長した心(靈)って何なのかを追い求めよ、追い究めよってことを言っていると思うし、それが神格化への道筋であり、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
 そして地球と地球人は、その段階に入った=アセンションっていうタイムスケジュールがあるからこそ“神はいよいよの仕組にかかった”と言われている。

 次の文は解釈するまでも無い。 “創造”の“主(ヌシ)”の計画であるアセンションに向かえば、今より霊的成長度の高い人(日止、霊止)=愛(炁)の顕現の程度の高い人(日止、霊止)が建て直すとか、お立替とかっていう事になることを示唆している。

“毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。”
 
要は、今まで(自己奉仕者の心)と進化過程の違う心(靈)が“創造”の中心になるっていう意味でしかない。

 次の文。

“日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。
日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。
小さくしたいなれど。”

 この“日本”を、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての国って解釈をしていると読み解けない。
 要は、自分の心、冒頭で解字を示した“日本晴れ”の“日”=太陽と“本”=自省(胸の磁性“十”)して成長する心(靈)と同義であるし、それは自分の心の中の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもあるから“神の臣民 気つけて呉れ”って言われている。 そしてそれはこの後に続く文を読むとよくわかる。 
それは“日本も神と獣に分れている”っていうのは、自分が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を顕現していく過程において、“日本晴れ”の画像の“本”で示したとおり、自分の心(靈)は右往左往と左往右往するし、それは“日月神示”表記の“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性の右往左往と左往右往でもある。
 そして自我から“上”に向かうのが日足(ひたり)回転であり、自我から“下”に向かうのが砌(みぎり)回転でもあるし、そのことが神格化を目指す心とケダモノ化した心の違いでもあるし、さらにそれは、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)でもある。
 そやから“日月神示”表記の左回転と右回転の画像を以下に示して、今回はこれくらいにしときまんねん。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転



Kellyさんが“日月神示”地つ巻の解釈を終えてから…感じた事。


 地つ巻の解釈を終えて、印象に残っていることはいくつかある。
まず、第一帖の“実言(みこと)”って言う表記。 そのときにも述べたけど、“実言(みこと)”の“言”は、言葉でもあり、言葉は心(靈)の発振、発信、それと意思、意志、思惑を伝える道具、また、事象を認識する道具でもある。 
その意味において“日月神示”で使われている“言”って表記は、ただ声を出すとか、声をあげるとかの意味ではなく、事象に顕現した心(靈)の動き、それを他者なり自分なり(の心(靈))が、観察して認識するからこそ、言葉として感じ(感じる磁性)、(振動として受信するから)認識するものでもある。 
だから、くりかえすけど、“言”は言葉だけっていう意味でもなく、すべての心(靈)の動きの顕現であるっていう言い回しが、妥当だと思う。
また、今述べたことを強調した言い回しが、第八帖の“祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ”って言われており、ここでは祝詞って例えてあるけれど、今取り上げた文章の前に、“神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。”とも言われていて、それは、自分の心(靈)に“上”との感応共振も無く、霊的成長を志す意志も無く、祝詞に霊的成長の意味を見出す認識も無く、そんな人が読んだところで何もならんって揶揄(やゆ)されている。
さらに第十帖では“まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。”って言われており、この文の“まの事”は、意味を解説すれば、“マ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、正しき生命の音意、まことの神の意(こころ)って書かれている。 いうまでも無くそれは真実=真固止と感じ(感じる磁性)られる現津(あきつ)、観察され得る事象でもあり、その現津(あきつ)、観察され得る事象を想像する心(靈)の動きと在り方でもあり、その心(靈)の動きを持った行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするのが、この文の表記の“まの事ぞ、ことだまぞ”であると思う。 
そして第二十三帖でも“この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、”って言われ、ことに“心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと”っていう言い回しは、発振、発信する側と受信する側の、感じ(感じる磁性)る振動の段階を指し示す表記でもあるな。
また第三十帖の“一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ”と言われており、この言い回しはとても重要で、ただ自動書記により書かれた“日月神示”の文章を読むって事ではなく、仮にそうだとするならば“この神示一二三(ひふみ)として読む”なんて言い回しはしないし、この“一二三(ひふみ)”は、脊椎動物の進化のきわまりである“日止、霊止”は、“一二三(ひふみ)”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラを発現させている意味を示し、そして今後=アセンション後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“一”=智性=1番目のオーラの拡大であり、それは目上(めうえ)(大脳新皮質、“田” (心、靈、の四つの場(フィールド))の進化であり、今後=アセンション後の人(日止、霊止)の進化過程は、智性(神性)の獲得と行使でもある。 またそうならなければ、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は無いことを示唆している。 そして第三十一帖では、今述べたことと同様のこととして“神示に一二三(ひふみ)つけたもの”って言い回しで、その意味を強調されている。
そして振動の受信、“上”との感応共振、“上”の思惑を取り込むこと、それは“祀り”、“祭り”、“政(まつりごと)”、そして“まつらう”ことでもあるけれど、その意味を簡潔に述べられているのが第三十四帖の全文“神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、言葉で天地にごるぞ、言波で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、言波ほど結構な恐いものないぞ。”であり、この文の“言”と“波”をあわせた表記の“言波”、これはどちらも振動っていう意味。 そしてこの文の表記のように息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“上”の思惑の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を取り込むことが“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味を持つ表記)であり、それを“道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ”って称されていると確信する。

それで、今述べたことに関連して、第三帖の“誠”って言う表記。 それは“いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいて呉れよ。 世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らん”。
この文の中の“誠が神風”“臣民に誠なくなりてゐる”は、前のブログでも“誠”っていう意味は、“言葉成る”であり、自分が発振、発信した振動(言葉=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))が完成することって解釈をしてきている。
その点でも自己奉仕者の言葉っていうのは(心(靈)の動きは)、ただ不誠実。 あなたのためにとか、あなたを幸福にしましょうとか、あなたを豊かにしますとか、あなたの美と健康を守りますとか、あなたを癒しますとか、あなたは楽に価値のある何かを獲得できますとか…最近のキャッチコピーはその類のものが多いし、そういう言葉で人をたぶらかしているインチキ霊能力者や占い師やカウンセラーなど、ただただ甘い夢を見させてそのときだけいい気分にさせるってことやけど、それは、騙すための言葉、欺くための言葉、奪うための言葉、結局それは、嘘ってことでしかないけれど、本当の事を知るとか、自分が生きるうえでなにが真実(まこと)なのか、またそれを見抜く霊的成長度では無いとか=真実って認識のない低い心(靈)、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きしか持っていないと、この類の自己奉仕者の甘いささやきに簡単に乗るものでもあるし、それが悪魔のささやきだって見抜くことも出来ない。
そういう類の人、騙す方と騙される方、欺く方と欺かれる方、奪う方と奪われる方、嘘をつかれてもなんとなくその嘘を容認する人、それは、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に支配されている人、それは進化の道筋、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないからこそ、第二帖の“今は闇の世であるから夜の明けたこと申しても、誰にも分らんなれど、夜が明けたらなる程さうでありたかとビックリするなれど、それでは間に合はんのざぞ、それまでに心改めておいて下されよ、この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ”ってことになっており、それは今、実に情けない人(認識の低さ、霊的成長度の低さ、子供の浮遊霊の影響を受けて三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きが中心)が多いからでもある。
またこの第二帖の“この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ”っていう言い回しは、“日月神示”さえ読んでいれば自分たちはよいカタチになるって錯覚を起こしている自我の肥大した心(靈)を指摘している重要な表記でもある。 だからそれは、ただ幼稚でしかなく、“日月神示”の文に自分の在り方を見出せず=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の本当の意味が理解できていないし、“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化=“行”の意味と意義、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを読み取れていない。 ただただ安直に“日月神示”の文章を声を出して読んでいれば自分たちはそれでいいって思い込むこと自体がどうかしているのではないのかって思うけど、ダメなものはダメ、低い霊的成長度は低いとしか言いようが無いってことでもある。 

 そして、当然のことながら、地つ巻にも現段階の平均的地球人の進化過程、自己奉仕者の心(靈)の動き、その心(靈)の発振、発信、事象に顕現した心の動き=“言”を指摘した表記も多かった。 その代表的なものとしては…自己奉仕者は改心して“身魂掃除”“身魂洗濯”して、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、“上”との感応共振しろっていう意味で、第四帖の“いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ”と称されていた。
また、第五帖の“片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ”この文を低い砌(みぎり)の“行”をしているって解釈をした。  
そして第十四帖の“神の御用と申して稲荷(いなり)下げや狐つきの真似はさせんぞよ。”は、春の巻の“世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。”と同様の意味がある。
以下に第十四帖Kellyさん的解釈からコピペしておく。


 いうまでも無くこの文の“稲荷(いなり)下げや狐つき”は、低級な動物霊の憑依により、操られたり利用されたりする現象で、それは今とても多くなったと思う。 例えばハイヤーセルフとか、内在何々とか、テレビに出ていた自称霊能力者とか、それらの特徴は、自分も自分以外も、低い功名心と自尊心で、ただ言葉に酔うだけでしかない。
それは、低級な霊的存在が人を操るときによく使う手はパターンがあり、ただありがたそうな言葉で人を酔わせ、煽てあげて低い功名心と自尊心を高揚させ、それは結果として自我の肥大にしかならないし、何回も言うてきているように自我の肥大は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)の霊的成長段階の人が、右往左往の段階の“行”をして、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているのでもあり、またそんな人に限って自分は特別な存在だとか、神のメッセージを受けているのだとか、神の御用をしているのだとか、勝手に錯覚して、何の“行”もしていないケースが多く、それは言い換えれば“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしていない人が多いし、それ以前に自我の肥大は自分の心(靈)の観察がぜんぜん足らず、“身魂掃除”“身魂洗濯”になっていない。
そしてその類の人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、単なる金儲け(動物霊の人間に対する憧れ)と、形骸の名誉(動物霊の縄張り意識)を獲得しようとする心(靈)の動きでしかないことに、多くの人は気づいていない。 それは、大半の人は、ただありがたそうなもの、現世利益とか、何にも頑張らんと不思議な現象がおきるファンタジーのような甘い(亜、魔、出ずる、泉)ものしか求めていないからでもある。(引用終わり)

そして第十六帖の“神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。 一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。 それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ”は、大多数の人が霊的成長の仕組みを乱せず(宝=宀(うかんむり、頭の意味)+“玉(ぎょく)”(自省(胸の磁性“十”)の心(靈))、また“玉(ぎょく)”は結晶化したものの意)、そして“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が、薄っぺらい自分たちにとって都合のよい解釈や偽の情報ばかりを流している事を示しており、その“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”たちの心(靈)の動き=“どういうつもり”なのかの裏には、(通貨としての)金に対する執着があるってことを示した文でもあった。
また、地つ巻で出てきた“借銭”っていう表記、この言葉自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”して増大させている恨みの連鎖の霊的干渉を感じさせる表記だけれども、この言葉を使った文も地つ巻には多かった。
その代表的なものとして第三十五帖の“身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。 神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ”は、今後=アセンション後は、恨みの連鎖の霊的干渉を創造しない人(日止、霊止)だけになるのだけれど、そのためには今、恨みの連鎖の霊的干渉による因縁を贖う(あがなう)事が大事、だから“借銭”って言い回しをされ、そしてその贖い(あがない)は、苦痛や苦悩であり、そのなかに認識(悟り、幸取=さとり)を見出すのが、霊的成長を目指す人(日止、霊止)の在り方であり、そのことを感じさせる文でもあった。

 上記の事以外にも、地つ巻には、太陽凝視に関する表記もあった。
(一本目のブログを終えて、“続”を始めようと思ったとき、なぜ“上”が“日月神示”の解釈をせよって通信を送ったのかっていうその根拠はこのことに由来すると思う。 by ○○○大先生)
 たとえばそれは、第九帖、“ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。”でもあった。 
またこのことが出来ていない、言い換えれば、進化=霊的成長、神格化に向かうことの反対ともいえることが、第八帖の“あなはち、しきまきや、くにつ罪”の“くにつ罪”の中で説明した“白人(しらひと)”、これはとても重要な事なので、地つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈からコピペしておく。

““白人(しらひと)”、これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。”
(引用終わり)
また第十八帖にも簡単に“神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。”って述べられているし、第十九帖にも“世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、神国の月神、世をひらき足り、”と、称されており、“世成り”=事象の成り立ちは、“神国の太陽足り満ちて、皆みち足り”=智性(日を知る性質)(神性)(“一”、1番目のオーラ)ある思惑っていうのを皆が持つならば、“神国の月神、世をひらき足り”=神の性質(神国=智性(神性)と“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))の顕現した(月神)世界になるって称されているし、こうなるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを世よってことでしかないと思う。 またこの文は、事象の“創造”においての、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性を表した文でもあり、神の性質を獲得した“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味の表記)が、創造する世界=事象っていう事を述べた文でもあり、この文自体が、“思惑の顕現”=現象化、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、それは向かって左から右に筆を移行して書くが、これも思惑と顕現、アイを表した表記でもあるけれど、これらの事を思い起こさせる一文でもあった。
 そしてこれら“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの表記を地つ巻で部分的に述べられているのは、地つ巻のあとに書かれた日月の巻に続いていると思われる。

 …という事で次回からの“日月神示”Kellyさん的解釈は、日月の巻に入りまんねん。 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その九”


「クリームぜんざいごちそうさまでした。 ^人^
それで、今までのKellyさんとの話、それは、人には霊的成長度の違いがあり、低い人は、低い心(靈)の発現で理想を追い求め、業務の業、仕事をする。 
またそれは(通貨としての)金を得る事しか考えていないから、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって心の動きと、それが根拠の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自分に容認する。 でもそれは、神の思惑ではない。 神が人に望む人の在り方ではない」
「そやけどそれも、心(靈)の動きであり、人が霊的成長する過程、心(靈)が育っていく過程でもあるやん」
「そうですね。 ですから、現段階の地球人の進化過程は、自我の確立=固定化、そして自我の肥大を起こし自己奉仕者になっている人が大半。 そしてこの大半の人には、自分たちの霊的成長度の程度なんて認識は無いですね。 だから、自分が自我の肥大をしているとか、自分たちが(自我の肥大した価値観において)追い求めているものが、神の思惑に沿ったものなのかって認識が無い。 そして、大半の人が“善悪”も真剣に考えてないって思えますね」
「そうやな。 大体、自我の肥大している人は、自分が正しい、間違ってない、そして、自分の欲望を達成する事が幸福の意味だと思うし、その幸福の概念は低い欲望に由来するものである事が多い。 そやから大半の人は幸福の概念が低いし、幸福の真の意味(“夭と屰”(ようとげき)、示すへん(神の意味)、“畐”)の追求も無いし、低い幸福の概念由来の価値観しかもってへんやん。 あえてK地はんに言うまでも無いことやな」
幸福 (“夭と屰”(ようとげき)、示す偏(へん)と“畐”) の解字

「そうですね。 
だからその霊的成長度の人は自己奉仕者になる。 そして自己奉仕者は、失敗を体験して自省(胸の磁性“十”)の“行”をする。 ローム太霊の言葉の右往左往と左往右往ですね。
そして左往右往、その失敗の体験が無ければ、自分を振り返る事もないし、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方も思わないで、ただ、自分の欲望を満たすだけに終わる。
 それで、今私が言った自省(胸の磁性“十”)の基準になる心の動き、ちょっと複雑な言い回しをしましたが、自分の心(靈)の動きを見出す基準は、やはり“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ってことでしかないし、自分自身で自分が悪かったとかって思うことでもあり、それは自分の心(靈)に内在する“悪”を、自分自身がはっきり見出す事でもありますね」
「そうやな」
「さらにその“善悪”の概念は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱っていくのか? そのことを見出す基準にもなるのですね。
 だからローム太霊は、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 で、“善”について述べ、さらに人の“善”の認識には高低があるってことを示唆する言い方をした。
それが“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”っていう文章だった」
「そうでんな。
ほんでからK地はんは、“絶対の善”なんてことも考えた。 
それをK地はんが思ってしまうのは、この世界が“善”を感じさせる世界ではないってことや」
「そうですね。 
ですから、これまでKellyさんと話してきたことは、今の地球人はただ低い。 
そして今の霊的成長度から霊的進化して、認識が高まれば、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識が違ってくる。
それがこの文の“一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになる”ってことでもあり、今の地球人の業務の業は、“善悪”の認識が低い行動だから、高い認識を得て欲しいっていう意味でローム太霊は“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”してくれってことと、もうひとつ、それを実践すれば“必ず善において物が得られる”って示唆している。
ですから私たち地球人は、そうならねばならないって話になってますよね」
「まったくそうでんな。
ほんでから霊的成長度の低い人が追い求める理想、価値観、幸福感、これもその低い霊的成長度の人が認識(悟り、幸取=さとり)を獲得するためには、必要で、それを通り越さんと次の進化過程に行かへん」
「次の進化過程っていうのは、当然、アセンション後の世界ってことでもあるのですね」
「そうでんな。
 そやからアセンション後の事象に移行する人っていうのんは、自分の自我の肥大もよく分かり、分かるからこそ自我の肥大を自分で戒める事が出来る。 そやからそれは、自分の心の動きっていうのも自分でよく判るってことでんねん」
「自分の心(靈)を自分で見るに当たって○○○大先生が定義付けた、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動を、自分の中に見出す。
 それが出来るようになれば、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を自分の心(靈)の動きに許さないようになる」
「そうでんな。 
そやけど今のK地はんの話、これは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観たときの“観察と認識”でんな。
 ほんでから自分の外側(外国と幽界)の事象に対することとしては、自分が“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)をよく知り、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”をよく知る。
そやからアセンション後に移行している人たちは、それを表に出さないっていう進化過程やし、その心(靈)の動きを理念とする行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとるようになるやん。
 そやからそれを簡単にいえば、そこに居てる人たちは、自己奉仕者ではない業務の業=生業(なりわい)をするようになる。
 ほんでから自己奉仕者が追い求めている何かっていうのんは、低い欲望、低い幸福の概念、物欲、(通貨としての)金に対する執着、そやからそれは、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)みたいなもんでんな。
そやから大半の地球人が求めている対象は薄っぺらいもので、そんなものばかりを追い求めているのがこの世界でもあるやん」
「まさに、低い欲望、低い欲っていう心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、創りあげられた世界が今の世界。
ですから、事象の“創造”っていうのは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって創造される。 
事象の“創造”は自分たちの心(靈)の動きによって出来ている。 
そのことを略した言い方が、先生の一冊目の本の目次、 欲の振動で出来た世界 って項目のタイトルでもあるのですね。
それで、人(日止、霊止)の心(靈)が欲を持つのは、愛(炁)が動機の事でもあるけど、今の地球人の愛(炁)の顕現の程度は低いってことですよね」
「まったくそうでんな。
 ほんでから、アセンション後に移行する人は、自己奉仕者の心(靈)ではないから、幸福の真の意味を知っているともいえる。 それは一度、薄っぺらい幸福の概念を持ち、それ由来の価値観を持ち、そして事象の創造をした。
そして失敗したからこそ、その低い心(靈)を低いと認識して捨て去っているのやから。 
そやから目先の欲望の達成や、自分に内在する低い欲望、これは目下(めした)の心(靈)っていってもエエけど、それを自分の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)で、制御できうる人(日止、霊止)ってことになっている」
「そうですね。 そうならねばならないのでしょうね。 
またそれが、自我の確立=固定化の進化過程から“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を自分の心(靈)の動きとする。 それは霊的進化したってことなのですね」
「そのとおりやな。
 そやからアセンション後の地球っていうのんは、自分の欲望のためだけに仕事をしない。 
ほんでからこのことは、何も仕事に限らず、すべての行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、自分の欲望のためだけのものではなくなるけど、K地はんと今話しているのは、仕事、業務の業が話題になっているから、今回はそのことには触れまへん」
「あら、ちょっと残念ですね。 
今、Kellyさんが言った“すべての行動は自分の欲望の達成のためだけではなくなる”に関しては、Kellyさんがそのうち誰かと話をするってことを感じさせる言い方ですね」
「そうでんねん。 楽屋落ち的言い方をすれば、この文章を作っている○○○大先生は、そういう文章も考えてるし、それは多分、最近現れた先生の本の読者で手ごたえのあった人、ある意味先生と認識を共有している人がモデルになると思いまんねん。
話を戻しまんねん。
そして人が獲得してきた“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方も、自己奉仕者の心(靈)の使い方ではなくなり、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”を理念とするようになる。
 そうなると、今の世界みたいに仕事仕事仕事って追い回されんでもよくなると思えまへんか」
「…そうかもしれませんね」
「K地はんは前に話したとき、先生にいくつか本を借りた事があるって言うてましたやおまへんか」
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“上”から伝えられたメッセージには、高低があり、それは人の霊的成長度に差があることによるって話をする。参照)


「Kellyさんの言いたいことは分かります。
それは、地球人は今より相対的に進化したなら、追い求めるものが当然変化してきて、だからこそ仕事に従事する時間が短くなり、自分たちがどう育っていくのか考える時間を作るようになる。 そしてそれは霊的成長ってことをするのが当たり前になる世界になる。
そしてそこでは、生活様式が農園のようになるって○○○大先生に何回か聞かされていますし、それは○○○大先生にお借りした本、アミの本(アミ 小さな宇宙人 もどってきたアミ―小さな宇宙人 アミ 3度めの約束―愛はすべてをこえて)、まほう色の瞳、それと村田正雄(白光真宏会元副理事 故人)の空飛ぶ円盤と超科学 宇宙人と地球の未来―空飛ぶ円盤金星にとぶ、セムヤーゼとマイヤーのコンタクト記録の本の、宇宙人との遭遇、これらの中には、それに近い表記がいくつかあったですね」
「そうですねん。 
そやから今の地球人の進化過程は、自己奉仕者で、自己奉仕者が低い欲望の達成のために努力し、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使い、物と金を集めている。
 そやけどそれは物と金しか集めてないともいえるやん。 ほんでからその人たちは、自我の確立=固定化から自我の肥大をして、自分だけ自分だけ自分だけって言う考えに囚われているから自省(胸の磁性“十”)してないし、そやからその人たちは、いうならば物欲に支配された(通貨としての)金の奴隷ってことなんやけど、大概の人はこのことに気がついていないし、物や金はいくら集めてもキリがないってことを頭で知ってるだけでんねん。 そしてそれは、業務の業だけを追い求めている姿勢で、決して“行業一致”ってことにはなっていない。 
…そやけど、アホでも分かるような事でんな。
 ほんでから自分の欲望の達成のために業務の業をする。 それが今、既成概念になっているし、(通貨としての)金のために仕事をして何が悪いのかっていう、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する心(靈)の動きにもなっていると思えまへんか」
「そうですね。 
だから今の世界は、無駄なものばかり追い求めるし、そのために自分のエネルギーを費やし、時間を無駄にしているのですね。
そしてその無駄なものっていうのは、自分たちの霊的進化につながらない事。
形骸の美、ファッション、宝石など装飾品、化粧品、エステ、ダイエット。
そして形骸の健康の概念、サプリメント、医者が処置しか考えていない事、薬屋になっている医者が多い事、それから先生がかなり怒っている無資格のマッサージとか、これらは自分たちの仕事に尊厳を見出していないし、儲ける事が主体の仕事でしかない。
また、自分がうまいことやって儲けるっていう発想の投機、自分のエネルギーを贖わない発想ですね。
そして何も生み出さない娯楽や、テレビのお笑い番組とか、とても正当な報酬だと思えないプロスポーツ、そしてそれを見て喜んでいる人たち、これらは自分たちがどう生きるのかを真剣に考える時間を失っていくだけでしょうし、またそれらは決して“世為人為”ではない。
こんな事を例を挙げるとキリが無いですし、まったくどうでもいいものばかりがこの世界にはあふれている」
「そうでんな。
 今K地はんが言うたのはほんの一部なんやけど、いうならばそれは正当な報酬として神さんに認められたものなのか?  ほんでから大して価値の無いことで、あるいは自分でエネルギーを贖わない事で金を沢山得るっていうのが、正当な報酬やったのか? 
 そやからバチが当たる。 バチが当たって自省する。 
ほんでからそのバチが当たる理由が、自分で分かる霊的成長度にならんとアカン」
「そうですね。 左往右往ですね。 
またそれは自分の在り方を見出す事なのですね。
そして人間としての在り方は、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 の“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”の、“善において物が得られる”にならなければならないし、このことをよく意識する事が必要ってことですね。 
そして業務の業、それは、やはり、人は神の子だから、“世為人為”であるべきであるってことですね」
「そうでんな。 
ほんでからそれが理念になっている人が“創造”する事象は、自分の時間を霊的成長に費やす。 そやからその世界では目先の欲望のためにたくさんの仕事をするってことをしない世界になり、またそこでは、自己奉仕者の奪い合いの世界ではないから、人が人に奉仕する世界だからこそ、K地はんが先生から借りた本の中に書いてあるように、必要なものは必ず手に入るって世界にもなる。 
このことは今の地球人の既成概念では到底理解できない事でもあることなんやけど、必ずそうなっていくと○○○大先生とKellyさんは思いまんねん」
「そうですか……。

今回も有意義な話が出来ました。 Kellyさんとこれまで話した事を、自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念としたいと思います。
 何回もお呼び出ししてお手間をかけました。 ありがとうございました」
「おそれいりまんねん。 
またなんかありましたら、お気軽に呼び出してくださいでんねん。 ほなさいなら」

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…農業好きの社長婦人、K地M美さん、帰宅してからぼやき中…

ちょっと前に、娘の事でKellyさんと話したとき、Kellyさんは霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度のことを言っていた。
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、“術”(“力”の顕現)と霊的成長度について、場当たり的な話をする 参照)

それは、こんな内容だった。

「体を使う期間からある程度、卒業し、そやからこそ興味の対象も変わってきたと思うし、心(靈)の動きも肉体を発達させる期間とは違ってきて、知識としての知恵を獲得し始めてるんやと思いまんねん。
あえて言うとけば、心(靈)の構造って言うのんは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を観ても、最初は本能って心(靈)の発現から始まり、人(日止、霊止)になってはじめて智性(神性)を持ち始め、そやから人(日止、霊止)は“一”=智性=1番目のオーラを発現しだした。
そやから娘はんは、成長の段階として=心(靈)の発現の段階として、まず肉体を使い、それから、だんだん知識としての知恵を獲得する。知識はそれは言うまでも無く、脳の機能でっしゃろ。
ほんでからそれは、動物と人間の違いでもありまんねんな。
ほんでからに、自分が獲得した知恵を、自分がどう扱い、どう行使するのか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていくのかは、智性(神性)やおまへんか。
そやから地球上で一番進化している人(日止、霊止)って言う生物は、智性(神性)を持ち始めたことで、神さんの認識も持ち、そして自分たちの幸福を願うこともするようになった。それも動物と人間の違いでんな」
「目上(めうえ)と目下(めした)のちがいでもありますね」
「そうでんねん。
ほんでからに自分が獲得した知恵、知識としての知恵を良いカタチの“創造”に活かしていく。その過程が(霊的)成長の一端でもありまんねん」
「言われてみればそうですね。今Kellyさんがおっしゃったことは、良い世界の“創造”に結びつく過程なんですよね。
だから、人が霊的成長して智性(神性)を行使した行動をすれば、当然、この世界は良くなっていく。当たり前ですよね。
ですけど、相対的にまだ動物に近い心(靈)の動きの人が多い。
だからこの星は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍し、その活躍が連鎖の霊的干渉の結果としての“痛みと悲しみの星”…地球をそんな星にしてしまった。
だから今後、霊的成長度に於いて分けることが必要で、それがアセンション…先生のこの世界の観方と考えは、今私が言った先生のアセンションの概念に結びついている」


この会話を今思い出すと、霊的成長の順番とその段階ってことを感じさせる。
 今の私たちは自己奉仕者の心(靈)であり、それは霊的成長度が低く、だからKellyさんはこのときに“自分が獲得した知恵を、自分がどう扱い、どう行使するのか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かしていくのかは、智性(神性)やおまへんか。
そやから地球上で一番進化している人(日止、霊止)って言う生物は、智性(神性)を持ち始めたことで、神さんの認識も持ち、そして自分たちの幸福を願うこともするようになった。それも動物と人間の違いでんな
”って言い回しをした。
またそれは“相対的にまだ動物に近い心(靈)の動きの人が多い”ってことでもある。
そしてそれは、子供の心=幼稚な心(靈)でもあるし、だから“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、子供がたくさん死ぬ(夭折)世界を創り、人(日止、霊止)の目下(めした)の心(靈)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)させた。
だからそれは、この会話の中の“自分が獲得した知恵、知識としての知恵を良いカタチの“創造”に活かしていく。その過程が(霊的)成長の一端”とか、“人が霊的成長して智性(神性)を行使した行動をすれば、当然、この世界は良くなっていく”ってことになっていないし、だから恨みの連鎖の霊的干渉は、ますますこの世界を幼稚にしているし、それが悪魔の意図ね。
その悪魔の意図を見出し、自分の業務の業を“善悪”の基準を当てはめ、それで仕事をして“世為人為”を理念とする。
それが今後=アセンション後の地球人の在り方であるべきで、だからローム太霊は“行業一致”を説いた…というよりも、説く必要性があったのね。
そしてそれは、今後=アセンション後の人の在り方を説く事でもあったのね。 
それで、私たちは、これからも進化する。 それは、神の子としての自分は、どう存在するべきなのか、どう在るべきなのかってことだけれど、それを深く考えさせられる文章が、ローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致と一途の努力 でもあった。
そしてローム太霊が、このことをS会=紫光会の交霊会の霊訓講話で伝えた意図は、ローム太霊が今の地球人の霊的成長度を憂いているし、一人でも多く次の段階=アセンション後に移行させたいから、“善”を説き、そして人の存在の理由を示唆させることも伝えた。
それは、“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”って言い回しをしている。
 だから今回Kellyさんと話した“行業一致”と“世為人為”、これは今後=アセンション後の人(日止、霊止)の指標となるべきことで、それは間違いの無い事なのね。

 そして、ローム太霊講話集の内容はとても深い、そのことも思わせられたわね。 それで、ス○○ヤラーメンからの帰り際、Kellyさんはまた気軽に呼び出してくれって言ってくれてた。 これからも、ローム太霊講話集を読んで、私が何か疑問を感じたら、今度はKellyさんを味噌煮込みうどんにでも誘って、話をする事にさせてもらうことにするわ。

☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀

 …という事で、
Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。

このシリーズは今回で終了です。

 このシリーズを詳細に読むと分かると思いますが、ローム太霊講話集の内容は、高い霊的存在からのメッセージであり、自分の霊的成長度が高くないと読み解けない文章が多く、流し読みをしたり、目先の興味を引くところだけ読んでも、自分の認識には成りえないものです。
 ですから、ほんの少しでもローム太霊講話集と縁のあった方は、何度も何度も読み返し、“どういうつもり”で“上”はこの文章を伝えたのかってことに注意深く留意して読んで欲しい…それが18歳の時からローム太霊講話集を読んでいるアタシのおせっかいである事を、今回、お伝えしておきます。

by ○○○大先生
 

“日月神示”地つ巻 第三十六帖 Kellyさん的解釈



今回も、地つ巻 第三十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

二二は晴れたり日本晴れ、てんし様が富士(二二)から世界中にみいづされる時近づいたぞ。
富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山ざから臣民登れんやうになるぞ、神の臣民と獣と立て別けると申してあろうが、世の態(さま)見て早う改心して身魂洗濯致して神の御用つとめて呉れよ。
大き声せんでも静かに一言いえば分る臣民、一いへば十知る臣民でないと、まことの御用はつとまらんぞ、
今にだんだんにせまりて来ると、この方の神示(ふで)あてにならん だまされてゐたと申す人も出て来るぞ、
よくこの神示読んで神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れよ。分らんと申すのは神示読んでゐないしるしぞ、身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになるのぞ、
それがまことの臣民と申してあらうがな、
山から野(ぬ)から川から海から何が起っても神は知らんぞ、
みな臣民の心からぞ、改心せよ、掃除せよ、洗濯せよ、雲霧はらひて呉れよ、
み光出ぬ様にしてゐてそれでよいのか、気つかんと痛い目にあふのざぞ、
誰れかれの別ないと申してあらうがな。
いづれは天(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は烈しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、
よくとことん掃除せねば御かかり六ヶしいぞ、役員も気つけて呉れよ、御役ご苦労ぞ、その代り御役すみたら二二晴れるぞ。
十月十一日、一二か三。

 まず、冒頭の文。

“二二は晴れたり日本晴れ、てんし様が富士(二二)から世界中にみいづされる時近づいたぞ。”

 この文の、“二二”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。 そしてこの文の“富士(二二)”、“富士については、何回も使った画像を以下に貼っておきまんねん。
富士の解字


 ほんでから“二二は晴れたり日本晴れ”の、“日本晴れ”についても、画像で意味を示す事とする。

“晴れたり日本晴れ”の解字


 ほんでから今述べた文は、“てんし様が富士(二二)から世界中にみいづされる時”にかかる。 
そして“みいづ”は、上つ巻 第二帖の“神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。”の、“稜威”(みいつ)のこと。
 そやからこの文自体が、アセンション後に位置する神格化へ向かう人間=“神のやり方は日の光”“日の光は神の心”、こういう人(日止、霊止)が、この事象に自分の思想を含んだオーラの発振、発信をする=“世界中にみいづされる”。
そしてそのときは近いってことを言うている。 補足として、上つ巻 第二帖 Kellyさん的解釈から、以下の文をコピペしときまんねん。


“大事な事は“神のやり方は日の光”と、“稜威ぞ”で、この言葉は、“イツ”古代日本語で、“イチ”が変化した言い方で、それは、激しい雷光のような威力って事らしいやん。 ほんでからに、“稜威”を辞書で見ると、威稜とも言われ、その意味は、神霊の威力。みいつ。天子の威光。 類義語として、威霊って表現もある。
 そやから、Kellyさん的に思うんは、天子の威光、これは天意を受けた人のオーラの事やと思いまんねん。 それを言い表した言葉が“稜威”やと思うし、ほんでからにそう言う高くなった霊的存在を“威霊”…そう呼ぶと思いまんねん。
 そやからそれは、この言葉は大体、神さんや天皇の権威を示す言葉として使われてるんやけど、ほんまの天皇っていうのんは、天=“一” + 胸の磁性“十” + 人、ほんでからに“白”と“王”。 この言葉そのものが霊的進化したオーラを示す事でんねん。 この場合の“白”っていうのんは、クンダリーニの白光で、白い光は、波長の短い高い振動を相対的に観察した時の色でもあるし、それは、身体内のシンクロトロンの構造に由来するっていうのんが、先生の説で、先生が太陽凝視を教えてくれたKさんのオーラを観測し30年以上考えて得られた結論のひとつでもありまんねん。
ほんでから、肉体がシンクロトロン様の構造を持つには、胸の磁性“十”の強化と、手足の神経(電磁石として)の発達と、頭の磁性の強化が必要で、“行と修行”による生体内電流の質の変化と、量を獲得せんならん。 そやからそれは、心(靈)の動きとしての自省(胸の磁性“十”)の行と、電気行と、太陽凝視による高い振動=神さんの思惑の取り込みっていうのんが必要でんねん。”(引用終わり)

 次の文。

“富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山ざから臣民登れんやうになるぞ、神の臣民と獣と立て別けると申してあろうが、世の態(さま)見て早う改心して身魂洗濯致して神の御用つとめて呉れよ。”

 この文も、“富士”“火の山”“元の山”っていう、人間の神格化に対する重要なキーワードが述べられている。 それは高い心霊が使う“山”っていう表記や言い回しは、脳のことである(このことも何回も述べてきた)(さらに補足として、神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) の125ページ以降を参照のこと)。
 そやから、この文の冒頭の“富士は火の山、火の元の山”っていうのは、“富士”は、先ほど述べたばかりやから省く。 そして“元”は、肉体の意味を持つ“二”と、時間の進行を表す儿部(じんぶ、にんにょう)、そやから肉体を伴った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ってことでもある。 そして進化した“山”は、目上(めうえ)の脳=大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)で、そこで発生する水平磁場が“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信にかかわるものでもある。
 そして“火の山”の、“火”は、火=灬(よつてん、れっか、れんが)。 そして幽界の幽っていう字の山のような表記は、灬(よつてん、れっか、れんが)でもある。 さらに“観察と認識”っていうすべての生命に共通の行為として、外側、外国と幽界の事象を観察するのは、腹の発現の心(靈)、自我でもある。 
また、“火”=灬(よつてん、れっか、れんが)の、重要な意味として、人が動物から進化していく過程っていってもいいけど、腹のオーラ=3番目のオーラは、胸のオーラ=2番目のオーラに昇華する。 同様に2番目のオーラは、“一”=智性=1番目のオーラに昇華する。 これは、肉体が内容物の違うコンデンサーで構成され、それが直列になっている(下の振動は高振動化する構造)からでもあるし、それは腹=水(江戸)、胸=気体、頭=灰分(かいぶん)という内容物の違いでもある。 
さらに、灰分(かいぶん)は、Ca(カルシウム)P(リン)Mg(マグネシウム)K(カリウム)微量のAl(アルミニウム)Fe(鉄)Zn(亜鉛)Si(珪素)Na(ナトリウム)それらの化合物で、これは土って表記でもいいし、“石”(帯電するミネラル)でもあるけれど、これらがたんぱく質に取り込まれて、たんぱく質の分子の電気特性にかかわり=結晶構造による磁束が派生し、そしてたんぱく質は高分子化するものでもある。
ちょっと説明がくどくなったけど、今述べた、下のエネルギーを上に昇華させる具体的な方法が、“行”である。
そして、下のエネルギーが昇華することを“火”と称され、それは、火は酸素の取り込みによる変化を表し、腹の水が(空気の)呼吸で、胸のエネルギーに移行し、さらに胸より上のエネルギーに移行する様が、火=灬(よつてん、れっか、れんが)であると思う。
そして自らの意志で行う“行”による苦痛と、その過程=心(靈)の発現と動きによる霊的干渉(通信を受けたりする事など)で、自分が思うことや苦悩などを感じたりするのは、すべて肉体内の生体内電流に変換され、その生体内電流は、たんぱく質の高分子化=結晶化となり、肉体の電気特性の変容となるものでもある。 
そやから“行”によるたんぱく質の高分子化、それが“日月神示”表記の“身魂磨き”でもある。
また“身魂磨き”できた肉体と心(靈)は、上”から注がれる荷電粒子(天意)との反応も、違ってくるものであるからこそ、“日月神示”では“上”の思惑を取り込んで、自分の思想にする人の事を“天詞様”と称している。
このことを踏まえ、この文を解釈すれば、“富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山ざから臣民登れんやうになる”ていうのは、この後の文“神の臣民と獣と立て別けると申してあろう”にかかっており、これは進化のプロセスを述べているし、霊的成長度において=(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を分けるアセンションっていう作業のことをも、示唆している。 
そやからそれは、平均的地球人は、自我の確立=固定化から自我の肥大っていう心(靈)の進化過程(“江戸と尾張”)であり、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になっている。 それは智性(神性)無き心(靈)だからこそ、ケダモノであり、“獣”の心(靈)でもある。
そやから“富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山”っていう言い回しは、エネルギーが昇華した脳は、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり、それは“天詞様”になるって事でもある。
さらにこの文は、三十六帖冒頭の“てんし様が富士(二二)から世界中にみいづされる”にもかかっている。
そやから人の進化、それは目上(めうえ)と目下(めした)の脳と、それぞれの心(靈)のはつげんの違い、また、目上(めうえ)と目下(めした)の心(靈)の動きで、高い事象と低い事象が創造されている。
低い事象の“創造”=低い欲の振動で出来た世界は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のそれであり、“獣”の世界でもある。
それではアカンから、下のエネルギーを昇華しろっていう意味で“富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山”って言われている。
ほんでから余談になるけど、この文を富士山に登れなくなるなんて解釈をしている人がいるとするならば、“上”が伝えようとしている霊的進化の意味を、何も読み取っていないと思う。

 次の文。

“大き声せんでも静かに一言いえば分る臣民、一いへば十知る臣民でないと、まことの御用はつとまらんぞ、
今にだんだんにせまりて来ると、この方の神示(ふで)あてにならん だまされてゐたと申す人も出て来るぞ、
よくこの神示読んで神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れよ。分らんと申すのは神示読んでゐないしるしぞ、身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになるのぞ、
それがまことの臣民と申してあらうがな、”

 この文の“声”“一言いえば”、これをただ言葉を発するって解釈をすると、この文の意味は通じなくなる。 
 何回も述べてきているように、言葉っていうのは自分の心(靈)の発振、発信の意味で、それは思惑そのものでもあるし、自分の心(靈)の動きを他者に伝える道具でもあるし(このことは神が人に伝えるっていう意味もある)、自分の心(靈)が事象を観察して認識して整理する道具が、また、言葉でもある。
 そしてここまで解釈してきた“日月神示”内の表記では、“善言(よごと)”(“善(神格化の方向性と智性の受信)の発振、発信)。 さらに地つ巻の第一帖では“実言(みこと)”って表記もあった。
(“世界は一つの実言(みこと)となるのぞ、それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなるのであるぞ。てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ”)
 さらに○○○大先生の“誠”の解釈は、言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成するっていうこともある。
 要は、“声”“一言いえば”っていうのは、“上”からの発振、発信であり、それを受信して自分の思想にする(“身魂磨き”して霊的成長した)“天詞様”は、この文の“大き声せんでも静かに一言いえば分る臣民、一いへば十知る臣民”ってことになり、“一”=智性=1番目のオーラが小さい人、上からの思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)出来ない霊的成長度の人は、仮に神さんがたくさんのエネルギーを贖って伝えようとしても=“大きな声”、分からんものは分からんっていう言い回し。 それを感じさせる文でもある。
 そしてこの文に続く“今にだんだんにせまりて来ると、この方の神示(ふで)あてにならん だまされてゐたと申す人も出て来るぞ、よくこの神示読んで神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れよ。分らんと申すのは神示読んでゐないしるしぞ、身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになるのぞ、”でも、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“息吹として言葉として”って説明されている。 
さらに“神の仕組、心に入れ”と称されており、この“神の仕組み”は、神格化のためのことをやってくれって事で、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、これは自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。
 そして“分らんと申すのは神示読んでゐないしるしぞ、”は、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)出来ない霊的成長度を指し示している。
それは“日月神示”から神格化のプロセスを読み取れないし、読み取っていない“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもあるやろし、そやから、艮(うしとら)の金神が黒住教で最初に伝えた朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)すら、理解できていない事を指し示しているのだとも思える。
そしてこの文の“身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになるのぞ”は、“上”からの荷電粒子(天意)を取り込み、“光出したら”は、肉体は円形粒子加速器の構造をもち、それは肉体が持つ縦の磁束、この文の表記なら“芯”でもある。 そやから、人(日止、霊止)が神格化する過程において、“上”からの荷電粒子との反応は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が進めば進むほど、高い思惑と感応共振する。 
そして肉体はコンデンサーの構造を持ち、取り込んだ振動を増幅(“畐”)し、自分のオーラとして発振、発信する。 それが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意味でもある。
 だからあえて解釈する事でもないけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)が創った世界は穢れているっていうのが“上”からの視点であるからこそ“神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れ”でもある。
 そして重複するけど、“神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れよ。…中略…身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになる”っていうのは、“上”の思惑を取り込み、自分の思想にしたアセンション後に位置する人の事を指し、この文に続く“まことの臣民”は、今まで何回となく述べてきたように、真実=真固止の“創造”をする人、誠実の“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を理念とした人、さらに“日月神示”表記の ○ 九 十 神の子としての人、これは神の最終段階の生命の“創造”を指し示す表記で、それは“上”と感応共振する“天詞様”。
だから“上”の思惑を取り込んだ“天詞様”は、(“われよし”の思惑で創造された穢れた事象ではない)“まことの御用”=真実=真固止の“創造”が出来るって事でもある。

次の文。

“山から野(ぬ)から川から海から何が起っても神は知らんぞ、
みな臣民の心からぞ、改心せよ、掃除せよ、洗濯せよ、雲霧はらひて呉れよ、
み光出ぬ様にしてゐてそれでよいのか、気つかんと痛い目にあふのざぞ、
誰れかれの別ないと申してあらうがな。”

 この文の“山”は、脳、“野(ぬ)”については以前解釈した画像をはっておきまんねん。
野の解字 (富士の巻 十七帖)

 ほんでから“川”“海”は、腹の水、自我の心(靈)の発現と動き、平均的地球人の進化過程、すべて自分の心(靈)の発現と動きを指し示す表記であり、心(靈)の発現と動きには“上”と“下”があり、その“上”“下”を自分で見極めるのが智性(神性)であり、見極める作業そのものが自省(胸の磁性“十”)の“行”であり、“身魂掃除”“身魂洗濯”でもある。 
 だからこそこの文で“みな臣民の心からぞ、改心せよ、掃除せよ、洗濯せよ、雲霧はらひて呉れ”って言われており、要は“山”“野(ぬ)”“川”“海”、それぞれの心(靈)の発現と動きを自分でよく見極めよ、自省せよ、(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は)改心せよってことでもある。
 そして“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ない心(靈)には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はかかれないし、“上”からの荷電粒子(天意)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)もありえないから“み光出ぬ様にしてゐてそれでよいのか、気つかんと痛い目にあふ”って言われている。

 次の文。

“いづれは天(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は烈しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、
よくとことん掃除せねば御かかり六ヶしいぞ、役員も気つけて呉れよ、御役ご苦労ぞ、その代り御役すみたら二二晴れるぞ。”

 人は、“日止、霊止”になり、“上”からの荷電粒子(天意)を取り込み、自分の思想とする。 またそうならねば、神の思惑をこの事象に顕現できない。 当たり前でんねん。
 今の事象は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大半で、その心(靈)の動きには、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の浮遊霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が中心だからこそ、自分の欲望しか分からないし、その心(靈)は薄っぺらい価値観と幸福感に囚われている。
 しかし人は、“日止、霊止”になるのが進化の必然であるからこそ“いづれは天(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはある”って言われているけれど、アセンションは霊的成長度の高低により、分ける作業だから、“天詞様”になりうる資格のある人(日止、霊止)しか移行できないけれど、アセンション落第組でもいずれは、“おそし早しはある”って言われているとおり、いずれは神格化の道程を歩む事になる。 そのことを指し示した文だと思うし、それは、たった今、それを知り、早く神格化のための“行”をして欲しいっていう“上”の“慈悲”と“慈愛”の心(靈)が現れた言葉だと思う。
 さらに今述べたことを強調して“早う身魂みがかねば御かかりおそい”“とことん掃除せねば御かかり六ヶしい”(六ヶしいは、むつかしい)って称されており、“上”の思惑が顕現した事象は、下つ巻によく出てきた表記の“神烈しき”“神烈しく”ってことになりうるっていうのが“この神様の御神示は烈しきぞ”でもある。
 そして“その代り御役すみたら二二晴れるぞ”の、“御役すみたら”は、今の醜い(“われよし”の心(靈)が創造した)事象を、よく見て、先ほどの文の中の言葉、“身魂みがかねば”“とことん掃除せねば”を指し示している。
ほんでから重複するけど、“二二”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道で、それは神格化のための肉体の仕組みであり、それが“晴れる”っていうのは、冒頭で紹介した画像で、再度示す事として、今回はこれくらいにしときまんねん。


“晴れたり日本晴れ”の解字




Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。“その八”

「こんにちはKellyさん。 メールで提案した事ですが、ス○○ラーメンと味噌煮込みうどん、どちらを食べましょうか」
「Kellyさん的にはス○○ヤラーメンをごちそうになりたいなんやけど、それでよろしいやろか」
「オッ○―牧場です。 それでは行きましょう」

K地 Kelly ス○○キヤラーメンすすり中



「ごちそうさまでんねん。 J^人^し 
K地はんが考えはった事、聞かせてもろてもエエやろか」
「はい、あの日コ○ダから帰って一人でいろいろ考えたのですよ……っていうよりも、私一人で考えたかったから、何か話の途中で席を立ってしまったようで、Kellyさんにはちょっと失礼でしたね。 ごめんなさい」
「ぜんぜんかまわへんねん。 一人で考えるのもすごく大事やと思いまんねん」 

(それは、一人で考えるっていうのんは瞑想に近い。 自分の心(靈)の動きを自分で観察しやすいし、またその方が“上”の通信を感じやすい。 そやから“上”も通信を送りやすいし、K地はんの心(靈)が受信しやすいってこともあるから) 

「それで私が思ったのは、この間Kellyさんがコメダで言ってらしたこと。

“事象 の“創造”っていうのんは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じてなされていく。 霊的進化程度の低い人は心が低い=霊的成長度が低いし、そやから、低い人は低い事象を“創造”する”。
それと“自分たちの心(靈)が霊的成長すれば、この世界は良い世界になるっていう簡単な事なんやけど、幼稚な心(靈)の人は自分の欲望しか思わへんから、この世界そのものを腐らせている”。

このKellyさんが言ったことは、この世界は低すぎる人が創っている世界ってことなんでしょうけど、私たちはそのことをよく分かっていないし、その実感も無いっていうのか、低い人が創っている世界って一般には思われていない。 
当たり前ですよね。 大半の地球人が低すぎるからですよね。
それだからローム太霊は、このローム太霊講話集の第五十七話で自己奉仕者の行動や心(靈)の動きを“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”って指摘しているし、このことを知っている人、分かっている人が多いならば、わざわざローム太霊は自己奉仕者の心(靈)の動きと行動を指摘する必要性が無いですよね」
「そうでんな。 
そやからそれは、低い人が低い事象を見てもそれが当たり前って思うし、低い事象そのものに問題意識を持たへんってことでんな。 
ほんでからそれが、個々の霊的成長度における“善悪”に対する認識の違いってことも言えまんな」
「そうですね。 “善”と“悪”の認識の相違っていうのは大きいですよね。 
だから、大半の人が自己奉仕者であり、自己奉仕者は自己奉仕者の活躍を褒めそやしている。 
そして大半の人が自己奉仕者の心(靈)の動きに“悪”を見出さず、活躍したとか、儲けたとか、名声を得たとか、それが成功者であるとか、そんな評価しかしていない。
しかしそれは今回話題にしているローム太霊講話集の第五十七話の“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである”ってことではないですね。 
だから“真心(まごころ)”と“真(まこと)”、これを考えていないですよね。 
大体、この“真心(まごころ)”と“真(まこと)”って言葉に対しても、これを貫き通して仕事をしている人がいるのかどうか、とても疑問ですよね。 
それは、大概の人は自分の利益優先、または、仕事における地位や名誉が優先、これは自分の欲望に対する思いと功名心と自尊心って言い換えてもいいですよね。 
またそこには、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”なんてことを、感じさせない。
だから、自分にとっての目先の利益と地位と名誉、これが第一みたいなもので、それさえ得られれば成功者って思ったり、あるいは自己奉仕者の人はそれが一番の価値なのだから、さっきも言いましたけど自己奉仕者が自己奉仕者を評価して褒めそやして…それは憧れるってことなんでしょうね」
「そうでんな。 
そやからそれは霊的成長度の低い視点っていえまんがな。 ただ結果さえよければエエってことでもあるし、その結果を得た心(靈)の動きなんてものを、誰も対して読み取っていないし、さっきも言うたけど問題意識を持たへん」
「心(靈)の動き、それは、○○○大先生やKellyさんがよく使う言い回しの“どういうつもり”であったのかってことですね」
「そうでんな。 
そやから“どういうつもり”っていうのは、どういう心(靈)の動きを実現しようとしたのかってことでもあるし、それは“思惑の顕現”=現象化ってことにもなる。 それがローム太霊講話集の第五十七話の…」
「それは“神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことですよね。 
そして、この文章の前に“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、”ってローム太霊は言っている。 
さらに前後しますけど“凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない”っていうのは、神が人間に“創造”を託しているからこそ、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”を自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の指標にしなければならないって思いますね」
「そうでんな。 それが神の子である人間の在るべき姿ともいえまんな」
「そうですね。 
でも、この世界は大半の人が自己奉仕者の霊的成長度だし、その霊的に低い人が活躍して創っている世界だからこそ、恨みの連鎖の霊的干渉は生み出され、どんどん増大している。 それは、Kellyさんが今、“続”で解釈している“日月神示”から引用すれば“江戸と尾張”の霊的進化過程だからでもある。 そしてその霊的成長度の人の行為が“石屋の仕組み”で、どうでもいいことに付加価値をつけて、そのこと自体が自己奉仕者の心(靈)の欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの表れでもあるし、うまい嘘つきとうまい泥棒って前のブログでKellyさんと○○○大先生が指摘していた事になりますし、そんな事で自分たちだけの利益を追求している。
そして、その“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の無い人たちが頑張った結果は、恨みの連鎖の霊的干渉が盛んになり…一部の人は薄っぺらい幸福に酔い、多くの人は不幸を背負うとか、因縁を背負うのも同様の事ですよね。
だからそれは、○○○大先生の言い回しを引用すれば、どんどんこの世界は腐って行く。
それと、恨みの連鎖の霊的干渉、特に子供の浮遊霊の憑依と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることも具体的に思ったのですよ。 幼稚な人がどんどん増えて行くこと、ほとんどの人が幼稚な発想しかしなくなっている。
その幼稚になった人たちは、自分たちの不幸の原因を、目先の事しか分からないから、その裏にある恨みの連鎖の霊的干渉を見出せない。 
だから、苦難から逃れたいとか避けたいとか、自分だけ薄っぺらい幸福に酔いたいとか思うから、インチキお祓いやインチキ除霊や高い印鑑や高額なスピリチュアルカウンセリングや相手の機嫌をとるだけの占いなどに甘い夢を抱いたり心惹かれたりするのだろうけど、それらが自己奉仕者の心(靈)の、欺く、騙す、嘘をつく、奪うとかに、相当するなんて考えていないし、大体そのことに気がついていない人が多い」
「そうでんな。 
そやから(霊的成長度の)低い人は、低いものを求める。 そしてそこには“真心(まごころ)”と“真(まこと)”なんてものが無いってことに気が付かへん。 そんな人が大半、それがこの世界の、この事象の現状でもありまんな」
「だからこのままでは人間は進化の方向性を見失う。 甘い夢ばかり追い求め、自分の低い欲望を追い求め、薄っぺらい癒しを追い求め、形骸の“美”を追い求め、いったい今の地球人は何を追い求めてるんだっ!!…って、○○○大先生が私の治療中に言ったことがありましたけど、だからそれは、○○○大先生は今の地球を憂いている。 多くの人間の行き先を憂慮している。 
そしてその言葉の裏側、それは、多くの人が早くよいカタチになって欲しいっていう先生のおせっかいな気持ちがあらわれたことでもある」
「まったくそうでんな」
(先生は治療中にいったい何を話してるんやら…K地はんにとっては、けっこう迷惑なことかもしれへんな)

「だから神の計画としてのアセンションは、霊的成長度の低い人と、今後=アセンション後の世界を創造し得る心(靈)の成長度の人を分ける。
分けなければ”人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”ってことには、到底なりえないし、このローム太霊の言い回しから引用すれば、“考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務”で、このことはKellyさんがさっき言ってた“神の子である人間の在るべき姿”ってことでもあるでしょうし、そのためには“真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて”ってことを、私たちは実践しなければならないし、実践するためにはこのことを自分の理念としなければならない。
ですから、今よりも霊的進化を果たした人が“創造”していく世界は、今、私が言ったことを理念として実践する人が創っていく…そうやって創造していくのが、恨みの連鎖の霊的干渉の無い事象にもなるって考えられますよね。
またそれは、自己奉仕者の心の動きである、欺く、騙す、嘘をつく、奪う、こんな事が無い世界、また自分にも他者にもそんな心(靈)の動きを許さない霊的成長度だからこそ、そんなものにおびえる事のない世界、それがアセンンション後の事象とも思えますね」
「そうでんな。 
 そやからローム太霊さんが示した“行業一致”っていう言葉。 業務の業と、修行の“行”を一致する。 あるいは一致せよ、一致しなければならない、そういう意味も感じ取れるけど、今の人間っていうのんは業務の業に囚われているし、それしか考えていない。 
 だから金を儲ける事、それだけを自分の仕事に求めている。 その業務の業が低い幸福の概念に直結しているともいえるやん。 
ほんでから、物がたくさんあることが豊かであるとかの錯覚もするやん。 
ほんでから、低い欲望が満たされれば、幸福感を感じるとかの実に情けない事になっているやんか。
 ほんまの幸福と豊かさっていうのはそんなもんやないなんて、あえてK地はんに言うことでもないけれど、今よりも霊的進化して、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の意味をよく理解し、自分に厳しく、他者には誠実にってことを理念とした人が仕事をするならば、それは、自分の低い欲望を満たすこと中心の仕事ではなくなる」
「そうでしょうね。 
だからローム太霊はローム太霊講話集の第五十七話 行業一致と一途の努力 で“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”とも述べているけど、この言い回しの中の“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っている”って事をよく考えるべきですよね。 
そしてこの言い回しそのものが、人(日止、霊止)は永遠の存在でなければいけないし、人は神に“創造”を託され、だから神の子として、永遠に“創造”し続けるってことまでも示唆していると思える。 
そしてこれは、当然のことながら、今、私たちが直面しているアセンションを含めって事でもあるし、アセンション後に移行するためには、Kellyさんが今言った“今よりも霊的進化して、“真心(まごころ)”と“真(まこと)”の意味をよく理解し、自分に厳しく、他者には誠実にってことを理念とした人”…こう在らねばならないって思いますよね。 
またローム太霊は自己奉仕者の心(靈)の動きを“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”とまで、指摘しているのだから、それではいけない。 
そんな心(靈)の動きでは、“永遠に種を残してその生命と仕事とを守っている”って事につながらない。 
それは、自己奉仕者の世界は必ず崩壊する。 ○○○大先生の一冊目の本にこんなふうに記してあった事ですよね(ローム太霊との出会い 個人個人の振動の違い 34ページ)。


「自我の肥大はよく分かりますよ。自分のことしか分からなくなって、自分の欲望、満たすためには、他人の迷惑なんて無視してしまうことでしょ」
「そうだね、それがどういうことになるか考えてみて。 他人の迷惑無視することを主眼においてね」
「自分の欲望を満たすことのみにしか、関心がないってことは、盗んでも、奪っても、だましても、そのために誰かが不幸になっても……知らん顔ってことですよね。自分のことだけ思えばいいから」
「そうだね、もう少し想像を膨らませてみて」
「??? よく分からないけど……泥棒や犯罪者だけの世界になってしまうんじゃないですか」
「泥棒や犯罪者は、共存できる?」
「泥棒が泥棒から盗む……でしょうから、最後は殺し合いになる……そしたらその世界では一人しか生きられない。そうなれば盗む事もできない。あるいは共倒れで誰もいなくなる……」


 …改めて思い出したんですけど、これって分かりやすいですよね。 
そしてこの会話の続きには、自己奉仕者と奉仕者の違いを述べてますよね。
 

「この世界はそういう世界?」
「ウ~~ン……犯罪者は多い……多すぎると思うけど、犯罪が成立してるのは、犯罪を犯さない人がいるからですよね」
「犯罪者は何? 普通なんて言う?」
「そりゃ~、悪人でしょ」
「今、なんて言った?」
「悪、人、そうか、破壊に向かう人ってことですか!」
「そうだね。じゃあ今度は他人の迷惑というよりも、他者を思いやる人だけの世界を想像してみて」
「想像しにくいですよ、そんな天国みたいな世界……」
「想像できたんじゃないの? 天国って……」
「ウ~~~ン……、ようわからん……」
「まあ現実からかけ離れているからね。でも必ずそうなるよ。ただそこに住むには、資格が必要なだけだよ」


 この会話の中で○○○大先生が言った“他者を思いやる人だけの世界”と、Kellyさんの言った“天国みたいな世界……”、これは実現できる事ですよね。 
だから、自己奉仕者ではない霊的成長度の人が大半になった世界ならば、○○○大先生のセリフのように“必ずそうなるよ”ってことになる」
「そうでんな。 
ほんでから今K地はんは、霊的成長度における“善”と“悪”の認識の違いのことを言うた。 ほんでから低い霊的成長度の人は、“悪”を容認して、自分の利益を追求している事も言うたやん。
 そやからそれは自分たちの認識の中の“善悪”の概念の違いともいえるし、霊的成長度の低い人の“善悪”の概念はとても浅く低いともいえるからこそ、自己奉仕者を容認している人が多いし、容認している人が自己奉仕者の霊的成長度ってことでもあるやん。 自己奉仕者の行いに問題意識を持たず、なんとなく許してるんやから。 
そやからその人たちの認識では、この世界が腐っているなんて考えず、ただただ自分の欲望の達成のために仕事、業務の業をする。
 それではアカンからローム太霊さんは“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”って述べてるやん」
「そうですね。 
だからそれは、ただ低い、低すぎる、だから“善悪”が分からない、“善悪”に対する認識が低い…でもこれは、私とKellyさんと、そして○○○大先生が思うことでしかなく、平均的な地球人は“善悪”の基準が低い。  
 言い換えれば、自分に内在する目下(めした)の心(靈)、本能、情動、功名心、自我の肥大を容認する。 
そしてそれを容認しているようではいけないからこそ、ローム太霊は“自分が考える善において”と、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”って言っているけど、この言い回し自体が人の霊的成長度における“善悪”の認識の違いを示唆している。 
仮に“善悪”の認識がすべての地球人において、同様のレベルであるならば、みんながしっかり“善”を認識しているならば、こんな言い回しをする必要性も無く、大体、このことを述べる必要性も無いですよね」
「まったくそうでんな。 
そやからこの間からK地はんと話している事は、霊的成長度の低い人の認識は低いってことを詳細に話してるみたいな事でもあるんや。 またそんなふうではアカンから、ローム太霊さんはローム太霊講話集の第五十七話 行業一致と一途の努力 で“業行”(生業(なりわい)と“行”)のことを述べた。
そやからそれは、自分たちの行い、それは“業行”(生業(なりわい)と“行”)であろうが普通の生活であろうが、それ以外のどんな行為であろうが、自分が“どういうつもり”=心(靈)の動き=思惑で、行動するのか=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する“創造”をするのか。
そしてそれは神さんが認めるものなのか。 神さんに認められるものなのか。 
それを考えるならば、自分の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の基準っていうのは確立されていくし、この基準そのものが、“行”して智性(“一”、1番目のオーラ)が大きくなり、智性(神性)は高まり、神さんと同等になるっていう意味で、○○○大先生は“天の御目(あめのおめ)”って言い回しをしている。 
ほんでから、今言うたこと、その基準、“天の御目(あめのおめ)”、これを思い起こさせる概念が、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”で、○○○大先生はこの言葉に対して“この事象に対する奉仕”って注釈を入れているやん。
そやから今回話題にしているローム太霊講話集の五十七話にも、“人間は、発生以来連綿と続いて死滅することなく、永遠に種を残してその生命と仕事とを守っているのであるが、これこそ神の望まれるところであろう。”って、さっきK地はんが引用した文章なんやけど、この意味を深く考えるならば、私たちは神の子としての在り方ってことを深く思うもんや。
またこの文を読んで、そのことが読み取れるくらいの認識を持ってないとアカンやん」
「それは、ローム太霊が日本に来て、妙高山で、玉造霊神や重明霊人(T霊媒=竹内満朋の祖父)に会い、そのままそこに留り、その後S会=紫光会を発足させたした理由に由来する事でもあるのですね(ローム太霊講話集 13ページから引用)。
そこには、“人間は何のために生まれどうしたら神の意に適い福寿円満な一生が送れるのか、”って、ローム太霊講話集を編纂した寺見文夫氏の注釈がありますけど、それは、今の人間は、平均的に霊的成長度が低い。 
ここまで私とKellyさんが話してきたこと、人間は、自分たちのやっている事の“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出す基準すら確立していない。 
また、儲ける事主体の心(靈)の動きだから、儲ける事が業務の業だと思い込んでいる低い認識だから、自己奉仕者の心(靈)=自分自身に内在する悪を容認している人が多いし、そのことすら分かっていない人が大半。 
そして、人の認識が低いからこそ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としてのローム太霊は、必要な事を述べた。 
述べなければならなかったのですね。 
述べなければ、今後=アセンション後に移行するべき認識の人を輩出できないってことですね」
「そうでんな。 
そやからK地はん、大半の地球人の認識が低いってことは、もうお互いによく分かっているから、認識が高まっていったならば、自分たちはどうなっていくのかって話に話題を変えたらどないでっしゃろか?」
「そうですね。 
低い人の認識と、低い人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を話題にしていても、それは私たちの今後(アセンション後)の在り方の指標にはならないのかもしれませんね。
分かりました。 オッ○―牧場です」
「そやったなら、ここまでちょっと長い話をして小腹がすいたから、(ス○○ヤラーメン定番メニューの)クリームぜんざいはいかがでっか? 今度はKellyさんが奢り(おごり)まんがな」
「それはうれしいですね。 農業好きの社長婦人、K地M美 美味しそう    ごちそうになりますね。 それではクリームぜんざいを食べてから、またたくさん話をしましょう」
(“その九”へ続く)
 

“日月神示”地つ巻 第三十五帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第三十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日本の国はこの方の肉体であるぞ。国土おろがめと申してあらうがな、日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ。
外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな、今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ、南の島に埋めてある宝を御用に使ふ時近づいたぞ。
お土の上り下りある時近づいたぞ。
人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭済(な)しの時となりたのぞ、改心第一ぞ。
世界に変りたことは皆この方の仕組のふしぶしざから、身魂みがいたら分るから、早う身魂みがいて下されよ。
身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。
神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、
神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ、世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐるであらうがな。
借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持よいであらうが、昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ。
十月十日、ひつ九のか三。

冒頭の文に“日本”“国”って表記が出てくるけど、これを縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての国って解釈をすると、この文は読み解けんと思う。 それを踏まえて解釈しまんねん。

“日本の国はこの方の肉体であるぞ。国土おろがめと申してあらうがな、日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ。”

 “日本の国はこの方の肉体である”っていうのは、“この方”=“上”、あるいは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振をする人、それは“日月神示”表記なら“天詞様”、その意味のことを述べていると思う。 
そやからそれは、“この方の肉体”は、高い存在との感応共振を指し示す意味での依り代(よりしろ)ってことだと思える。 
補足として、依り代(よりしろ)について、Wikipediaから引用しまんねん。

“依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域をしめす。
日本の古神道の由来の民間信仰・神道の根底には、自然崇拝の考え方があり、あらゆる物に神・精霊や魂などの霊的存在が宿ると考えるアニミズムの要素があった。その意味では、「森羅万象が依り代となり、その始まりは磐座・神籬信仰ともいわれ、自然に存在し人間が恩恵を受ける太陽(お日様)、山河、森林、海などが崇拝の対象となり、身近なものとして巨石・岩や大木が祀られ、その依り代の証しとして、現在も注連縄が飾られる。 また、日本の神として古事記や日本書紀にある人格神(人の形や人として捉えられる神)を崇拝する場合にも、根底に同じ考え方があり、所縁のある物や象徴する物などに内在している、あるいは、それらに依り憑いて具象化することで力を及ぼすと考えられたようである。太陽神(お日様・日輪)にとっての太陽(日)やそれを象徴する鏡などが依り代にあたる。
 依り代という明確な呼ばれ方はしないが、「言霊」や「息吹」といった表現には、人の思いや生きている事の態様にも、魂や神が宿ると考えていることの現れである”(引用ここまで)

 ほんでから“この方の肉体”=依り代(よりしろ)は、“日本の国”って言葉にかかっている。 そして“日本の国”の“国”は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”で、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しており、これは今までも述べてきたとおり神格化への心(靈)の動き。 
そやから“国”って表記は、“上”に向かう心(靈)っていう意味って言い換えてもいい。
ほんでから“日本の国”の“日本の”っていうのは、“日”は“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の仲介者である太陽、“本”は、人の在るべき心の姿勢、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そしてこの字の下にある“一”は、物後の根本、本質っていう意味がある。
そやから“日本の国”を要約すれば、進化=霊的成長、神格化に向かうことを意識し、それを実践する、それは高い“思惑の顕現”=現象化をする心(靈)ってことになる。 
そやからこそこの文の“国土おろがめと申してあらうがな”は、“上”に向かう心(靈)と、“土”=肉体のこと、そして“土”は完成された人の表記である“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記で、2~3番目のオーラのことでもある。 そやから“おろがめ”の意味は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)が可能な心(靈)の姿勢と肉体の条件を指し示した言い回しで、それは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と、自己観察して心(靈)の“上”“下”を見出す意味の、“身魂掃除”“身魂洗濯”。
そして今述べた“身魂掃除”“身魂洗濯”のことを、以下の文“日本は国が小さいから一握りに握りつぶして喰ふ積りで攻めて来てゐるなれど、この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになるのぞ”のうちの、“日本は国が小さい”と“小さい国”と揶揄(やゆ)され、それは“上”に向かう心(靈)は、自我の肥大(自己奉仕者の心(靈))に隠れてしまっている。 だから自分たちは内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出せないし、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の基準は、人によって違う=霊的成長度によって違うから“絶対の善”を顕現できない。 そして、今の世界は、自分たちの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度に応じた“善(神格化の方向性と智性の受信)”の認識を行使していないからこそ、この世界は腐っているのだけれど、大概の人はそんな事をまったく意識していないし、目先の事しか分からないし、分かろうとしない。 それは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)と智性(“一”、1番目のオーラ)があまり無いからでもあり、だからこそ“日本は国が小さい”と“小さい国”なんて言われている。 そして霊的成長の順番として、自我から“慈悲”と“慈愛”にいたるため、左往右往するため、自我の肥大した人は、自省(胸の磁性“十”)を促す事象が現象化するであろうことを、“この小さい国が、のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れといふやうに、とことんの時になりたら改心せねばならんことになる”と言われている。 
そしてこの言い回しは、今後=アセンション後は、相対的に高い“善(神格化の方向性と智性の受信)”の認識を持った人が、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)し、事象の“創造”をするからでもある。 だから“のどにつかえて何うにも苦しくて勘忍して呉れ”は、自己奉仕者の心(靈)が自省する様子でもある。 

次の文。

“外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな、今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ、南の島に埋めてある宝を御用に使ふ時近づいたぞ。”

 この文の“外国人”も、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての外国ではなく、外側(外国と幽界)の事象っていう意味だと思う。 それは自分の心(靈)が観察して認識する自分の内側と外側のことでもあるし、ことに物質世界の事象は、腹のエネルギー、下三つのチャクラで“創造”することを述べてきているけど、今の世界、この腐った事象は、自己奉仕者の自我の肥大による“創造”であり、しかしその腐った事象でさえ下三つのチャクラによるものであり、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)は、“上”からの荷電粒子との反応(肉体が縦の磁性を持つから)ていう要素もある。 
要は、チャクラは下から上に発現し、発達し、覚醒するけど、それは心(靈)の発現の順番(目下(めした)から目上(めうえ))の、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動でもある。 
だからこの文の冒頭の“外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらう”の意味は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程は、心(靈)の発現と動きが自我中心、自我しかないみたいなものだけれども、これも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番って意味を示唆し、“今に日本の国の光出る”は、“日本の国”については先ほど説明したとおり、“上”に向かう心(靈)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識して“業行”(生業(なりわい)と“行”)する人(日止、霊止)っていう言い回しがエエかもしれんし、“国の光出る”は、智性(“一”、1番目のオーラ)由来の、“慈悲”と“慈愛”由来の心(靈)=“国”の動き、それは“上”からの荷電粒子=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)と反応し、それを心(靈)に取り込み、思想にし=“畐”(ふく)、そして息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=発振、発信する。
それは相対的に高い振動であるからこそ、光と認識されうる(このことについては、太陽凝視を行っている鍼灸師の話<3>神格化のプロセス 目上(めうえ)と目下(めした) の、238ページからの文章を読んでもらって、その意味を感じ取ってくださいでんねん)。
 要は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、早く“改心”するべきってことを述べているのだけれど、そのことを強調する言い回しが“その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ”であり、この文の中の言い回しの“日本のお土の上”は、“土”は肉体の意味だし、依り代(よりしろ)でもあるから、自我の肥大の心(靈)のままでは“日本のお土の上に居れんやうになる”ってことでもある。
そして、現状の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程は、自我から“慈悲”と“慈愛”、これは日足(ひたり)回転でもあるし、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)でもある。
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転と“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転


 さらに人(日止、霊止)が“上”の心(靈)を発現するには、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなることと同義でもある。 そして“一二三”のオーラは、腹、胸、頭、それぞれがコンデンサーの構造を持ち、その三つのコンデンサーに対し、縦の磁束が貫いている。 それが脊椎動物の肉体に共通することでもあるし、3番目のオーラを構成する下三つのチャクラのエネルギーは、日足(ひたり)回転により=自分を省みて“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”という心(靈)を発現し、そして智性(“一”、1番目のオーラ)となっていく。
 その下三つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)=ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラのことを、縦の磁束の極性であるS極という意味で“南の島に埋めてある宝を御用に使ふ時近づいたぞ”と言われており、“南の島”は、腹の場(フィールド)、同様の意味。 同様の事として“日月神示”には“フンドシ”(腹における水平磁場と縦の磁束)って表記も使われている。 そして下のエネルギーは、“宝玉の仕組み”で、“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)となるのが神格化のプロセスでもある。 そしてこれも前に説明したと思うけど、宝は、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であり、宀(うかんむり、頭の意味)と“玉(ぎょく)”でもある。

 次の文。

“お土の上り下りある時近づいたぞ。
人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭済(な)しの時となりたのぞ、改心第一ぞ。
世界に変りたことは皆この方の仕組のふしぶしざから、身魂みがいたら分るから、早う身魂みがいて下されよ。
身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。”

 この文の冒頭の“お土の上り下り”は、土=肉体のエネルギーの昇華と、事象に神聖な思想を顕現するために、智性(“一”、1番目のオーラ)で下のエネルギーを支配する事を指す。 その意味で“人の手柄で栄耀してゐる臣民、もはや借銭済(な)しの時となりたのぞ、改心第一ぞ”は、自己奉仕者の行いは、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかで自分の欲望を満たすことをしているし、○○○大先生的にとても印象に残っている不快なこととしては、ある有名な人がのたまわった“麗しき誤解の中で、人のふんどしで相撲をとる”…最小のエネルギーの行使で、多くの人に妄想と、勘違いと、思い込みを起こさせて自分だけが儲け、自分だけの“力”のように振舞う。 またこんな人が成功者だと思われているのがこの腐った事象でもある。 
げっそりでんねん。 
そやから自分が“業行”(生業(なりわい)と“行”)しているならそれは、正当な報酬は“上”から約束されているものであり、掠め取ったり誤魔化したりして自分の利益にしているのも、低い愛(炁)の顕現でもあるけれど、そのことを地つ巻 第三十五帖では“借銭”って言われている。
(“日月神示”表記の“借銭”は、恨みの連鎖の霊的干渉により背負った因縁の意味もある)
何回も述べているとおり、今後=アセンション後は、相対的に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した事象になるから、自己奉仕者の心(靈)の動きは許されず、自分がエネルギーを自分の心(靈)の中の認識の“善(神格化の方向性と智性の受信)”において、贖う(あがなう)ことをすれば、神に認められた報酬が得られるのは当たり前であり、その事象にはもう、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出す要因が無いし、恨みの連鎖の霊的干渉を作ってしまう自己奉仕者は、アセンション後の“創造”を託されないものでもある。 そして今、自己奉仕者の自省(胸の磁性“十”)を促すことはたくさん起きている。 
それが“世界に変りたことは皆この方の仕組”で、この文に続く“身魂みがいたら分るから、早う身魂みがいて下されよ。身魂みがくにはまつりせねばならんぞ”であり、この文の“まつり”は、“上”との感応共振、それは、祭り、祀り、政治の政、“政(まつりごと)”でもある。 
さらに“上”の思惑を自分の思想に取り込むには、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしなければならないが、宗教が腐り、一般の“行”の概念、社会通念としての“行”はとんでもなく低いものになっている。 ありがとうと述べること、毎日を感謝していきましょうとか、そんな程度の事を感謝行と称している程度の低い人もいるし、この事象に本当に感謝を感じるのなら、現状の恨みの連鎖の霊的干渉を少しでも軽減するように行動したらどうなのかって思うけど、そんな程度の低い人はほかっておいて、真の“行”の意味と意義と、“行”の意味を見出せない霊的成長度の低い心(靈)の人のことを、この文の” まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと、神祭りはしないでゐる臣民居るが、神祭り元ぞ、神迎えねばならんぞ、とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ”って称されており、この文中の“神祭り”は、肉体に“上”がかかる意味の“祭り”に示されているとおり、下から上への“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、それはチャクラの覚醒と同義でもあるけれど、今の地球人の“業行”(生業(なりわい)と“行”)は、下三つのチャクラの覚醒段階での“思惑の顕現”=現象化でもある。 だからこそ何回も重複して述べるけど、地球人の進化は自我から“慈悲”と“慈愛”、そして智性(“一”、1番目のオーラ)の発現になるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)として妥当な事。
そして自我の確立=固定化の進化過程の人がよく間違えるので“とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ”って言われており、それは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもあり、人の霊的成長のために“上”が示したローム太霊講話集や“日月神示”を低い解釈しかできず、ことに“日月神示”に関して霊的成長の秘密を読み解いている人はいないと思う。 程度の低い例を挙げれば、声を出して読めばよいとかなんていうのは“日月神示”表記にある言い回しだけれども、これが自分の心(靈)の発振、発信である事を読み取れば、“身魂掃除”“身魂洗濯”も“身魂磨き”も、“天詞様”などの言葉の意味を、真に知る事ができると思う。 
ちょっと話が横道にそれたけど、声を出して読むっていうことをそのまま馬鹿正直に解釈しているなら、そんな程度の事では、生体内電流の強化になりえない。 
そしてそんな程度に満足している心(靈)の動きは、当然、自我の肥大、この文の表記なら“とりちがへと天狗”であるから、“上”はかからないし、かかれない。 そして、その低い心(靈)と感応共振するのは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)しか憑依しないから“千匁(せんじん)の谷へポンと落ちる”って言われている。

次の文。

“神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、
神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ、世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐるであらうがな。”

 この文も自己奉仕者の心(靈)の動きを指摘しており、進化の法則、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それは自我から“慈悲”と“慈愛”、そして智性(“一”、1番目のオーラ)の発現だからこそ、“神の規則”と称され、また“規則”と認識しうる心(靈)は、霊的進化した心(靈)って事でもある。 それは自己奉仕者が今、他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしている事は、“隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてある”って称されており、いずれバレるから“神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ”って言われている。 
そして“家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐる”の、“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ)(家畜の意味)で、智性(“一”、1番目のオーラ)を持ち始めた動物=人間の意味、そして“国”は、先ほど述べたとおり。 だからこの“家は家の、国は国の”っていう表記は、体と心ってことであるし、心(靈)の動きは肉体を通じて“思惑の顕現”=現象化をする事も示しているのだけれど、低い心(靈)の動きは“借銭”だらけの事象を創造するし、自我から“慈悲”と“慈愛”、智性(“一”、1番目のオーラ)を顕現しようとする心(靈)は、“家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐる”を、実現しようとする。 
そうなれば“済(す)ましたら気楽な世になる”ってことでもあるし、そこには自己奉仕者の行動、欺く、騙す、嘘をつく、奪うのない、“うれしうれし”“大歓喜”の事象になるっていうよりも、その世界を志していくのが“上”に向かう心(靈)=“国”で、だからこの文では、神性を顕現しようとする心(靈)の動きっていう意味で“神の国”って表記を使っていると思うし、今、腐った事象だからこそ、新年の夜明け前の意味で“世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐる”って言われている。

 次の文。

“借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持よいであらうが、昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ。”

 これも先の文と同様、“借銭”について述べているし、今後=アセンション後は、“借銭”の発生しない、誰も欺くことのない、騙すなんてありえない、嘘をつくこともない、奪うことも自分に許さないし、奪われる不安も無い事象になるからこそ“返したあとの晴れた気持よい”って言われてるけど、それまでが自省(胸の磁性“十”)の“行”だから“借銭(かり)返すときつらい”とも言われている。 当然でんねん。 
 そして“苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って”っていうのは、“上”の思惑を取り込んで自分の思想にして、自分の行動の基準にして事象の“創造”をせよってことでもあるし、その基準は、○○○大先生の言い回しなら“天の御目(あめのおめ)”ってこと。
 それを自分の観察の基準とし、行動の指標とする。 
人はそうなっていくのが、神の御目に適う(かなう)ってことでもあるやろ。 
そしてそれは霊的進化の道筋、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
ほんでからそれは、それぞれ縄張り意識としての国の事情や、民族の事情ってもんがあるから“日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな”っていわれているけれど、外人だろうが日本人だろうが人(日止、霊止)には違いない。そして人は“日止、霊止”になっていくのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。 それは人の完成の意味そのものでもあるし、だからこの地つ巻 三十五帖の最後で“九十に気つけて用意して呉れ”って言われており、この“九十”は、“日月神示”表記の ○ 九 十 のそれに相当する。 そやから何回も使っている ○ 九 十 の解字の画像を以下に示して、今回はこれくらいにしときまんねん。

○ 九 十(まこと)の解字

Kellyさん、農業好きの社長婦人、K地M美さんと、ローム太霊の言葉の“行業一致”とS会=紫光会の経文(四空経録)の言葉“世為人為”について論じる。 “その七”

……農業好きの社長婦人、K地M美さん、コ○ダから帰宅してぼやき中……


 この間からKellyさんと話しているテーマとしての“行業一致”、そしてKellyさんはS会=紫光会の経文、四空経録から、“世為人為”って言葉を引用して話をしている。
 Kellyさんとこの話をし始めたとき、Kellyさんは私に何を伝えようとしたのか、なぜローム太霊の言葉、“行業一致”と、S会=紫光会の経文、四空経録の“世為人為”って言葉を引用したのかってことを思うけど、それは私がローム太霊講話集の188ページからの、第五十七話 行業一致の一途の努力 を読んで、いろいろ自分なりに考えて思ったこともある。
 人が仕事をする事、業務の“業”は、生活に必要な事でもある。
またそれは、今の社会通念として、既成概念として、生活のため金を得る事でもある。 でも、(通貨としての)金を得る事しか考えていない人が、自己奉仕者の心(靈)の動き=欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしている。 
これは明らかに“世為人為”ではないし、この言葉に対して○○○大先生は、○○○療院のホームページのメールフォームのあるページで“この事象に対する奉仕”って言っている。
だから、業務の“業”、人は何のために仕事をするのか? その事を思い起こさせる文章が、ローム太霊講話集の188ページ、第五十七話 行業一致の一途の努力 でもあったわ。
 だから(“その一”で)Kellyさんにこの項目の文章の一部を指摘され、それを踏まえて私がもう一度この話を読んだ。 
それで私は、“絶対の善”なんてことも考えたけど、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が通信を送ってきているからこそ発想したのかもしれない。
 それは人の進化過程、○○○大先生やKellyさんの言い回しなら、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、チャネラーが使う表現としての第三密度から第四密度、アミシリーズの愛(炁)の度数。
 そして○○○大先生やKellyさんは、人が進化したならば、自己奉仕者ではなくなるって言う。 またこの事自体が、進化の順番でもあるって言う。
そして今、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が低いから、自我の確立=固定化の段階の心(靈)が自我の肥大をして自己奉仕者になり、内在する悪に囚われるから、“善悪”の基準を無視して自分の利益や低い欲望を追求する。
これも重要な進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だって前のブログであの二人は言っているし、今の世界は低すぎる人が多いから“玉石混交(淆)”だとも言っていた。
 だからそれは“善”が、行動の根拠になっていないともいい得ることなのだし、(“その二”で)私は“それは正しくない…神が認める所業ではない”なんて発想もした。
そしてそれは、自己奉仕者の心(靈)は進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が低いから、“善”と“悪”の基準を事象に活かしていない。 言い換えれば“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識が無いって言いうるのね。
そして今は、(通貨としての)金を得る事を中心にしか考えていない自己奉仕者が活躍しているし、その結果として経済は発展した。
また、経済が発展した国は、どうでもいいことばかり追い求めている感がある。 
ファッションとかグルメとか、○○○大先生の口の悪い言い回しを借りれば“何をたいして美しくもないものを守っとるんだ”っていう美容や美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)関連の通販の商品とか…通販で思い出すのはやはりどうでもいい化粧品とかサプリメントとか、通販ってことで思うのは、テレビが自己奉仕者のものに成り下がっている感がとても強いわね。 だからテレビには、その場限りだけ楽しい気分にさせるとか、どうでもいいことをエモーショナルに訴え、視聴者がその場限りの感傷に浸るとか、(“その一”)でKellyさんが指摘した(通貨としての)金が動きすぎるプロスポーツとか、特にプロスポーツなんていうのは報酬が大きすぎる感があるし、またスポーツを生業(なりわい)にしているのは、土=2~3番目のオーラの進化過程でもあるのね。 
他にも、どうでもいいバラエティとか、芸人がどうでもいいものを見せて笑わせるお笑い番組とか、さっきも思ったけどファッションとかグルメとか、ほかにもペットとか、数字を取るための番組っていうのはパターンが決まっているし、そのための番組作りしか行われていないし、番組を作らせるのに影響の大きいテレビのスポンサーは、どうでもいいサプリメントとか美容や美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)関連の通販のコマーシャルばかり流すし、そしてどうでもいい娯楽を追い求めさせるスポンサーもあるわ。 
だから、数字を取るためのどうでもいいテレビ番組は、人に真剣に生きる事を考えさせないし、視聴者にどうでもいい事ばかり追い求めさせている。 
これは決して“世為人為”ではないわね。 当たり前なんだけど。 
そして、テレビばかり見ている人にそんな認識はない。 認識が無いから業務の“業”に自分の生き方を追い求めるなんて考えはないわね。 これも当たり前ね。 
今、私が思ったのはテレビの事だったけど、今の地球人はほとんどの人が進化程度が低いから、心の発現が低いから、心(靈)の動きが低いから、どうでもいいことを求め、それがすばらしい事だって思い込む…思い込むっていうよりもそれ以上のことを考えていないってことね。 自分たちが楽しみ、自分たちの低い欲望しか認識が無いっていうのが妥当ね。 
 だからそれは、進化程度の低い心(靈)で、低い心(靈)は低いものを求めるけど、自分たちが低いっていう認識も視点も観察眼も無いのね。
前のブログで、○○○大先生とKellyさんが“事象の形骸化”ってことをかなり長く話していたけど、薄っぺらい幸福の概念、(通貨としての)金と物欲中心の価値観、これは霊的成長度が低いから物事も見方が低いってことをあの二人は何度も言っている。
それは今の地球人がもう少し進化したなら、今と違うものを追い求めて行くってことも示唆しているのだろうし、私たちが自我の確立=固定化から、右往左往して、それから自分の在り方を観る意味での左往右往をしたなら、自分の生業(なりわい)に対しても考え方は変わる。
それは、Kellyさんが指摘してくれたローム太霊講話集の第五十七話で述べられているように、“神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよいのである。 それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば、必ず善において物が得られることになるのである”の“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”ってことが大事で、この“個人”の“善悪”は、霊的成長度によって違うし、違いすぎる感があるわね。 
だから今、大半の地球人が自我の肥大をしているから“善”と“悪”の認識が低すぎるのだろうし、低い認識の自己奉仕者の人がエネルギーを贖った=努力したから、経済は発展し、人は低い価値観と薄っぺらい幸福感を持つようになったのね。
そして今の地球人が、今よりも進化したならば=自我の肥大から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現したなら、多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)を持ち、自分の心(靈)や行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を観るとするなら、ローム太霊が言うように“必ず善において物が得られる”ってことになる。
そしてこのローム太霊の言い回しは、お前たちには“善悪”の認識が無さ過ぎるのだって指摘しているようにも(間違いなく)取れるし、仮に私たちが“善悪”を自分の認識として自分の心(靈)を観察したり、その基準で行動しているならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であるローム太霊は、こんな言い回しをする必要性は無いわ。
そしてローム太霊は、“世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。”と述べて、自己奉仕者のことを指摘した。
それと、“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”って言葉を使って、自己奉仕者と“世為人為”を理念とする人の違いを強調しているし、それはこのローム太霊講話集を読んだ人に対し、そうなってくれってことでもあるのね。
だからローム太霊は、ただ単に仕事の事、生業(なりわい)の事だけ述べず、“行業一致”って言葉を使い、業務の“業”と、“行”を一致せよって言っている。 
当然の事ながら“行”は、霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の作業でもある。 
でも今考えていたように、大半の地球人は心(靈)の進化程度=霊的進化の段階がマニピューラチャクラの段階だからこそ、自我の確立=固定化から自我の肥大に陥っている人が多い。 
そして一般の地球人には、“行”を実践して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するなんてことを考えている人は少ない。 
ことに“行”を説かねばならない宗教が、金儲けに利用されているからこそ、一般の人たちの“行”に対する認識も低くなっているともいえるし、ただ感謝を述べ、それを繰り返している事が“行”になるっていう感謝行なんて薄っぺらい言葉をもてあそんでいる人もいるし、それに同調している人も多数いる。 なんて認識が低いのかって思うし、こんな薄っぺらい言葉に酔っている人は、真剣に何かを追い求めたとか、真剣に考えるその状況を体験させられたとか=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から試練を与えられたとかの体験の無い人なのだろうし、当然この類の人たちは、今の事象を見て、今の地球を見て、恨みの連鎖の霊的干渉って大きな問題を見出せない。 
それは“事象を観察する視野が狭い”っていう○○○大先生の言い回しを思い起こさせる。
だから、霊的成長度の低い人は、何かを真剣に考えた事のない人っていえるし、何も真剣に追い求めてないからこそ、ありがとうとか、感謝って言葉に酔う。
さっき思ったテレビ番組のことと、そのスポンサーの事も同様の心ね。 ただ雰囲気に酔って無駄な時間をすごしているのだけれど、そういう自覚は無いのね。 またそれが、自我の肥大した低い功名心と自尊心しか持ち得ない心の特徴でもあるっていい得るわね。 結果それは、それ以上のことに気がつかないし、それは、毎日を薄っぺらい感謝って言葉に酔い、この世界全体を見回すこともしないから、安易なスピリチュアルっぽい言葉に酔い、感謝やありがとうって言葉に酔う。
 そしてローム太霊講話集で検索すると、ネット上には、ローム太霊講話集の事を引用しているサイトは結構あるけど、仙人の話を読むとそこにある霊的干渉の在り方を見出せず、ただ仙人になる方とか、金の精の話を読むと金持ちになる方とかって錯覚している人も多いけど、これは自分が“どういうつもり”(自分の心(靈)の動き)でエネルギーを贖い(あがない)、それによる霊的干渉のことをローム太霊は述べているのに、ほんと、薄っぺらい人は薄っぺらい解釈しかしないのね。
だから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としてのローム太霊は、私たちがどうやって生きていくのか、それをローム太霊講話集の 第五十七話 行業一致の一途の努力 で説明しているともいえるわ。 
それは、ローム太霊が言うように、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮す ることが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡 ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”の、“凡ての人間に課せられた義務”と、この言葉にかかる言葉として“考えの現われを現界に残してゆく”べきでもあるし、それが神の望む人間の在り方っていえる。
そしてそれは、“世為人為”でなければならない。 
だから“世為人為”を理念としない人、自己奉仕者は、進化していないから、今後=アセンション後の地球には位置できないっていうあの二人の言い回しはよく理解できる。
そして自己奉仕者が生み出して増大させている恨みの連鎖の霊的干渉、これは私たちが“世為人為”(この事象に対する奉仕)を理念とし、さらに“各の個人が良心によって定める善悪”の認識がたかまり、自分の心(靈)の中に“真心(まごころ)”“自分の真(まこと)”を確立するなら、この世界=私たちが観察する事象は、こんな腐った世界にはならない。 
この世界は腐っているっていうのは、○○○大先生の口癖みたいなものでもあるし、私は何回も治療中にその言葉を聞かされている。 ちょっとくどくてウザイけど…。
それはともかく、今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象は多いと思う。 
 
 いつだったか、風俗嬢が自分の子供を餓死させて、腐乱させてしまったっていう事件があったけど、これは明らかに子供の浮遊霊の霊的干渉によるものだわ。 ホスト遊びに夢中になり、母親としての責任を放棄した…いや、ちがうわ。 母親の責任なんて自覚、認識が無かったのね。 
それは子供の浮遊霊と心(靈)の動きが一緒だったから=感応共振して、心(靈)を乗っ取られていたからなのね。 だから遊ぶ事が第一、とても幼稚な心(靈)に成り果てたっていえる。
その事件から考えさせられるのは、恨みの連鎖を増大させている“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑は、人間を幼稚にしてしまっている。 それを目論んでいるともいえる。
そしてそれはさっき思った薄っぺらい感謝や、ありがとうって言葉に酔う人も、とても幼稚だといえるし、件の風俗嬢のことと同じようなケースっていうのか、私の会社にも親が自分の子供に対して責任を放棄したっていうのか、子供のことを大事に思わなかったっていうのか、そんな事があったわ。
それは、中学を卒業してうちに入社した子がいたのだけれど、自分の給料を親に取られていたって愚痴っていた。 その話を聞くと、子供を金づるにしていたような印象だったし、どうも立派な親とは思えない。 
それで、○○○大先生にその話をしたら“親っていうのは子供の犠牲になるくらいの覚悟があってしかるべきでしょう、K地さん!!”って力説していたけど、何を言いたかったのかはよく分かる。 
子供から甘い汁を吸っていた人間は、明らかに自己奉仕者の心だし、自己奉仕者としてもとてもレベルの低い心だと思う。
それは、進化程度の低い動物だって自分の子供を食い物にはしない。
これも今、三秒に一人死んでいる子供の浮遊霊の霊的干渉の結果だと思うし、そして親が子供を食い物にするのは、ものすごく低い心(靈)だっていえる。 動物以下ね。
またこんな人間ばかりを増やし、“世為人為”(この事象に対する奉仕)を考えさせもしないで、ただ自分の欲望を幼稚に追い求める。 
それがまた、自分だけが金持ちになり、自分だけが幸福になるっていう低い考えを持たせる事になっているのだろうし、人間として許せないようなこと、子供を放棄したり、子供を食い物にして甘い汁を吸うなんて人が増える。 
これは明らかに悪魔の思惑だと思うし、それはローム太霊がいうところの、“人間は真(まこと)というものを良く知り抜いて、自分の真(まこと)の上にほかの人のよいところの真(まこと)を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮す ることが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡 ての人間に課せられた義務と思わなければならない。”の、“凡ての人間に課せられた義務”と、この言葉にかかる言葉として“考えの現われを現界に残してゆく”べきってことから、とんでもなく外れているし、だからこそローム太霊は、人間の行き先を懸念して“真(まこと)というものを良く知り抜いて”って言っているのだわ。
さっきKellyさんが、コ○ダで言っていたこと。

“事象 の“創造”っていうのんは、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に応じてなされていく。 この事はK地はんはもう理解していらっしゃると思う けど、霊的進化程度の低い人は心が低い=霊的成長度が低いし、そやから、低い人は低い事象を“創造”するってことも前のブログやこのブログでも何回も言う てきている。
 だから、自分たちの心(靈)が霊的成長すれば、この世界は良い世界になるっていう簡単な事なんやけど、幼稚な心(靈)の人は自分の欲望しか思わへんから、この世界そのものを腐らせている。
その幼稚さの原因、恨みの連鎖の霊的干渉による子供の浮遊霊と家畜の浮遊霊の霊的干渉、その実態、私たちはそれを知らんならんやん。 
 それを知ったなら自分の心(靈)の動きに活かす事が出来るやん。
 自分たちはどう生きるべきなのか、今、この、瞬間、瞬間に、何を思い、どんな行動を起こすべきなのか、考える事が出来るやんか”

 …この言葉を聞いて、私はいろんなことを思ったから席を立ったのだけれど、話の途中で席を立ってしまった感があるわ。 
だからもう一度Kellyさんを呼び出して、コ○ダから帰って思ったことも話してみたいわ。 
 …このところちょっと寒くなってきたから、今度は大盛りシ○○○ールではなく、ス○○ヤラーメン叉焼抜きか、味噌煮込みうどん卵抜きにでも誘ったらいいわね。
Kellyさんにメールして、待ち合わせる事にするわ。

(“その八”へ続く)

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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初めての方は、
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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