“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈

 
 今回も、日月の巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。一度マカリタと思へ。
掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。ゴモク捨てよと申してあろがな。人の心ほど怖いものないのざぞ。
奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。北に気付けよ。
神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。 今度のさらつの世の元となるのざぞ。
十一月七日、ひつ九のか三。

 この第十九帖の文も、今までたびたび“日月神示”の文章に出てきているように“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”や、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の心(靈)の動き=自我の肥大に対しての、重要な指摘である。
大半の地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化であり、そこにちょっと自分の在り方に対する認識の誤りがあれば、自我の肥大=“石屋の仕組み”になる。 
そしてその心(靈)の動きが産み出しているのが恨みの連鎖の霊的干渉で、最近のニュースを見ても動機の理解できない犯罪は多いが、これは恨みの連鎖の霊的干渉の憑依現象であることを前のブログでもこのブログでも指摘した。 そしてこのことは、今の地球人の大半が自分の自我の肥大に気付かず、恨みの連鎖の霊的干渉の増大にも気付かないから、これからもひどくなるに決まっているし、これもすべて、自分たちがやってきた事の結果、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”でもある。
 仮にそれらが直接自分に降りかかっていなくても、それらを見て自分に何を見出すのかが重要であり、また、自分の心の動きの中に、自分中心の考えがあり、それがひとつ間違えば自我の肥大になることを知り、自我の肥大が恨みの連鎖の霊的干渉の原因である事を知る。 それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”の意義であり、それはまた自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。 
だが、進化程度の低い人=“一”=智性=1番目のオーラの小さい人は、それが分からない=自省できない。 それただ、保身しか考えないとか、今が楽しければよいとの薄っぺらい幸福の概念を持つとか、因縁を試練と考えないとか、苦難を避ける事を癒しと勝手に解釈するとか、こういう人が大半でもある。
そして今、恨みの連鎖の霊的干渉による子供の浮遊霊の憑依は多く、ほとんどの人の心(靈)の中に幼稚な思いがあり、それは仏教の概念の三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもある。 前にも説明したが、三毒の意味を以下に述べることとする。
貪は、むさぼる。本能由来の行動。 
瞋は、目をむいて感情をあらわにする。
痴は、白痴の意味。認識が足らないとか智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)が足らないの意味。 
だから大半の人は(通貨としての)金があれば幸せ、物があれば幸せ、快楽を追求すれば幸せ、苦難を避ければ幸せなどの心(靈)の動きがあり、今成功している商売はこういう甘い(亜、魔、出ずる、泉)心(靈)の動きをついたものが多い。 そしてこれはスピリチュアルやアセンションや宗教の概念などを説いた出版物にさえ見られることでもあるし、今の大半の出版物はこんなものでしかない。 実に情けないことでもあるが、本当の事、自分の在り方、これらを真摯に考える人っていうのはごく少数でしかない。
だからこそ、この第十九帖の冒頭の文のように“今のやり方、考へ方が間違ってゐるからぞ。洗濯せよ掃除せよと申すのはこれまでのやり方考へ方をスクリと改める事ぞ。一度マカリタと思へ。”と述べられており、“身魂掃除”“身魂洗濯”ができれば=自分の心(靈)の動きの“上”と“下”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出せば、自分の在り方を見出せるし、自分の在り方を見出したなら、その心(靈)の動きによる霊的干渉があって当然であるし、如何にこの星が恨みの連鎖の霊的干渉で悪霊でいっぱいであったとしても、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)により自分の在り方を見出した人なら、その心(靈)には悪霊の影響を排除する基準(天の御目(あめのおめ))がしっかり確立されるものであり、それは自分以外には“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きにもなり、自分に対しては“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”にもなり、またそれは第四密度でもあり、アナハタチャクラでもあり、胸の磁性“十”(シンクロトロン)でもあり、それが本当の意味での魔よけであると思う。 

そしてこれが今後=アセンション後に移行するべき最低限での資格であると思う。

 この心(靈)の動きのない人、特に先に述べた“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の人たち、神や高い心霊、主護霊の概念を利用して商売したりアセンションの情報を利用して甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉で人をひきつけたり、薄っぺらい感謝や癒し、幸福などという言葉を、キャッチコピーのように使い、セミナーや自分の商売に利用したり、それらを吹聴する本を出版したりする人間は、神や心霊やアセンションなどの神聖さを知らず=その認識(悟り、幸取=さとり)も無く、感謝や癒し幸福をキャッチコピーにして本を出版して印税を儲けている人間と、それに同調する人間は、本当の苦難を知らないと思うし=まだその本当の苦難を与えられる霊的成長度ではなく、だから苦難を試練と思わず=霊的成長のチャンスと感じず、目先の苦難に遭遇しても(薄っぺらい保身の考え=自我の肥大で)逃げるし、苦難から教訓を得る姿勢も無く、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から教訓を与えられている事に気づかず、それに恩も感じない。
それはただただ低いとしか言いようが無いし、だからこそ貴い神や心霊の事やアセンションのことを利用して、自分の欲望の達成のために欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、それを恥じない。 とても不遜な行為でもある。

 余談になったが、内在する悪を見出した人なら、そういう人の心(靈)の動きには“上”からの通信があり、だからこそ次の文のようにいわれていると思う。
“掃除して何もかも綺麗にすれば神の光スクリと光り輝くぞ。ゴモク捨てよと申してあろがな。人の心ほど怖いものないのざぞ。”
 それでこの文に続く“奥山に紅葉(もみじ)あるうちにと申すこと忘れるなよ。”の“奥山に紅葉(もみじ)”って言い回しは、天つ巻 第八帖にもでてきているので、そのKellyさん的解釈から以下にコピペ。 ↓

“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ。”
 この文の、“てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来た”って言うのんは、さっきも言うたとおり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、“上”の思惑をこの世界に顕現していく人が指導者にならねば、この世界は良くなっていかん。
当たり前でんねん。
この世界は“石屋の仕組み”で腐ってる。“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)は、自我の肥大になり、自我の肥大は、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
何回も言うてきたことでんねん。
そやからそんなこと自体を“上”はいつまでも許しておかんからこそ“奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ”って言われてて、この文の“奥山”は、山=脳って解釈から言えば、奥の脳=大脳旧皮質と古皮質で、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きで、だからこそそれは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを指し示していて、さらに“紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ない”って言い回しは、いつまでも自我が肥大した自己奉仕者たちが、良い目を見るってことは“上”から許されないことを、揶揄(やゆ)した言い方でもあると思える。(引用終わり)

そして“北に気付けよ。”は、地球における北ではなく、宇宙の大極=N極、で“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化、言い換えれば生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもあるし、またそれは“日月神示”表記の“道理”で、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。
それで次の文は、今後=アセンション後の人はこう在るべきであると述べられている。
“神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下されよ。”
 この文の“神の詞(よ)”は、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信=息吹、その意味で“四”を充ててもいいし、“日月神示”表記の“詞(ことば)”でもいいと思うし、先に述べた自分の心の基準を獲得した人は“天詞様”になりうる資質を持ったということでもある。 その“神の詞(よ)”で、自我(マニピューラチャクラ、腹の心(靈))を制御せよっていう意味で“神の詞(よ)の仕組よく腹に入れておいて下され”であると思う。
 そして次の“今度のさらつの世の元となるのざぞ。”の、“さらつ”は、まっさらの“さら”で、それは新しいこと、まだ使用されていないとか触れられていないとかの様子を指し、“つ”は、“津”で、人が寄り集まる場所、港など船が停泊する場所の意味を示しているし、だから“さらつの世”は、今までの平均的地球人=自我の確立=固定化の段階とは違う霊的成長度の人が寄り集まる場(フィールド)でもあり、その“世の元”になりうるのは、先に述べた自省(胸の磁性“十”)の“行”をして天の御目(あめのおめ)を自分の心の基準とする、あるいはしようとしている人であり、それができない人はアセンション落第組であることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”日月の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ツギニ、イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。
日に日に烈しくなると申してあろがな。
水いただきにあげなならんぞ。お土掘らねばならんぞ。言波とくに磨きてくれよ。
コトに気つけて呉れとくどう申してあろが。
してはならず。せねばならず、神事(かみごと)に生きて下されよ。
十一月六日、ひつ九のか三しらすぞ。

 例によって冒頭のカタカナ表記は、漢字とひらがなを充てることとする。 そうすると以下のようになると思う。

次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて、共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))

 この文の要点は、アメノヌホトヲタマイテであり、それは先の第十七帖のアメノヌホコ、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)が先に出来、それを“次に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)に、天のヌ蕃登(女陰=ほと)を賜ひて”と記されているところにある。
それで“ヌ蕃登(女陰=ほと)”の“ヌ”には会えて漢字を充てなかったが、第十七帖の“沼矛”の“沼”あるいは日本書紀の表記の“瓊矛”の“瓊”も、妥当な意味だと思うので、あえてカタカナのままとした。 
それで“沼”は、水の滞った状態、あるいは水が溜まった状態を指し、この水の意味は、肉体でいえば、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、またこれは生命の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に於ける自我の確立=固定化の段階と共通の意味であると思うし、それは錯体を含んだ水ってことでもある。 それでこの“ヌ”が日本書紀表記の“瓊”ならば、何かが積み重なり=高分子化して電気特性が優れたもの(増幅の作用だろう)に変化した状態を指すと思う。 
さらに“ヌ”を、たびたび引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から紹介すれば“まもり強き神の心…中略…汝身それなし得ずば…”と記されており、これは神の理(ことわり)=法則性、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と共通の意味であると思う。
それで第十七帖と第十八帖で、“ヌホコ”と“ヌホト”という表記が示され、これは差し込むものと差し込まれるものと第十七帖で解釈した。 
それで、差し込むもの=“ヌホコ”は、差し込む意志があって差し込むものであり、差し込まれるもの=“ヌホト”は、受け止めるものであり、これは日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性でもあり、思惑や意図したこと=日足(ひたり)であり、またそれは男として記されている伊邪那岐(いざなぎ)でもあるし、同様に現象化、(思惑を受け止めて)顕現するのは砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、それは女として記されている伊邪那美(いざなみ)である。 このことを要約すれば、“思惑の顕現”=現象化ってことになる。
さらに第十八帖の“蕃登(女陰=ほと)”であるが、“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい=男と女=日足と砌(ひたりとみぎり))との表記が古事記でなされているものでもある。 そして“登”は、“上”に向かうとか進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味でもあろう。 また、“女陰=ほと”は、差し込まれるものの象徴でもあるが、一般の古事記の解釈は、性的なことしか取沙汰されていない感があり、事象の“創造”における日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の現れであるとの解釈にお目にかかったことが無いので、今回(○○○大先生の)解釈を述べておく。
それでこの文が示唆するところの差し込むものと差し込まれるものについて、“改”で使った画像が分かりやすいと思うので、以下に示して解釈を述べることとする。
宇宙の中心と、生物一個体の縦の磁束を大局的に観る
 
 
(おのおのの生命=個々の心(靈)が)宇宙の中心と認識している場(フィールド)は、ひとつであるって当たり前のことでもあるが、地球上に存在する肉体を持った生命は、縦の磁束が発現する。 また、古神道表記の天之御柱(あめのみはしら)、“上”と“下”を貫く磁性は、宇宙の中心と自分の“上”と“下”を貫く磁束でもある。
生命である自分が持つ縦の磁束の強化は、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)でもあり、その過程で神経が密になること、それは“慈(しげる)”、そして“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)、この神経の発達が一個体の肉体の電気特性を、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)により、変容させているし、だからこそ“五六七(みろく)”は、神経が密になり=“五”、そして“六”は爻部(こうぶ)で、それは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、交わるの意味があり、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記であるとの解釈が成り立つものであるし、それは、(神経の発達、たんぱく質の高分子化の程度という意味で)段階を経て、天意=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、宇宙線や太陽からの電磁波と認識されているものとの反応が変わってくる(その意味で“日止、霊止”って表記が成り立つ)ことを何度も説明してきたし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、天意(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の受信)であり、微生物から脊椎動物、そして人への進化は、多細胞化であり、“石”(帯電するミネラル)の結晶化=骨の進化(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味の一つ)でもあり、肉体を構成するたんぱく質の高分子化であり、神経が密になること=“慈(しげる)”、“茲”(左右の(コイル状の)神経の芽生えと発達を示す日月の巻 第三十帖の表記)でもある。 そして目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の発現を見るようになって初めて“一”=1番目のオーラが発現し、智性(神性)を行使できる資格を持ったといいうる。
これはすべて、“上”からの荷電粒子との反応、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることであり、だから肉体は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しなければならず、それがまた、“修理固成”(しゅうりこせい)の意味のひとつでもあり、“日月神示”表記の ○ 九 十 にも、その意味を感じ取れるものである。
またすべての事象は、何かの積み重なりでもある。 そしてその積み重なりが、積み重なったものの電気特性の変容や磁束の多様性を構成していく。 このことが空間であろうがすべての生命であろうが、すべての事象に共通する意味で、相似象であると思う。
さらに、日月の巻 第十二帖で、以下のように解釈した。
“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示すと思う。 
ちなみに○○○大先生は“改”で、進化に伴う生物の一個体内の電気特性の変化と、“上”からの荷電粒子の影響、その両方が進むことにより、電気特性を持つアミノ酸がつみ重なり、それはたんぱく質の高分子化になり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを説明しているが、それは巨大人の構造を持つ宇宙(場(フィールド))であっても同様で、宇宙は星間物質が凝り固まり(コ、(凝集の)凝、真固止の固)、星雲や星が出来ているし、密度の高い星(真に固い星)(白色矮星、ブラックホールなど)は、高いエネルギー(電磁波、高振動の星のオーラ)を放出している。 
そしてそれは、宇宙であろうが人であろうが下等な細菌であろうが、すべての事象は磁束と電気特性という性質において相似象であるとの解釈に基づいて思うことでもある。
だから“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人のオーラが大きくなるのが必然でもある。
少し余談だったけど、その意味合いで“角”“杙(杭)”は、尖ったもの=“角”、差し込むのも=“杙(杭)”という解釈をする。 
なぜその解釈が成り立つのかといえば、今後解釈する日月の巻の第十七、十八帖に“ヌホコ”“”ヌホト”って表記が出てくるのと、この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思うからであり、この詳細についてはそれぞれの帖で述べることとするが、その発電の仕組みを構成し始めること、成り立ちの初めの段階が、高分子化、分子の積み重なりであり、それが“角”“杙(杭)”である。
そして“角杙(つぬぐひ)”は、角として先に出来たものであり、杙=杭は、角から後(“妹”=末と、砌(みぎり)の極性(顕現)である女)に出来たのであるとの解釈をする。
だから“妹活杙(いもいくぐひ)”は、“杙”を“活かす”、そしてそれは“角”より後発であり、“思惑の顕現”=現象化の意味合いを持つものであり、だから角→杙、それは磁極性により(“亜”が材料の)何かが凝り固まり、それが差し込まれることにより“活”(活かす)(電磁誘導)ものであり、そしてそれは生命が観察して認識しうる砌(みぎり)=事象としての現象化であるとの解釈をする。(引用終わり)

これらを踏まえこの引用文の“この二つの表記は、電磁誘導による発電の仕組みを示すものでもあると思う”について、以下に画像で示すこととする。

ヌホコとヌホトによる電磁誘導


あるいは以下の画像のような説明の仕方もある。

角杙(つぬぐひ)と妹活杙(いもいくぐひ) 電磁誘導


 この二つの画像は、電気の知識に明るい人が見れば一目瞭然で理解できると思うので、あえて詳しく説明はしないし、実際はもっと多様になっているものでもある。
それで、先に述べた“蕃登(ほと)”の“蕃”は、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリ、芽生えるの意、そして番(つがい)=日足と砌(ひたりとみぎり))の発現であるとの解釈をした。
またこれが、増幅の“畐”であり、“畐”が進化すれば息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になるということでもある。
そして“上”からの荷電粒子の影響を示唆した文が“トモニ、タタヨヘル、コトクニ ツクリカタメナセト コトヨサシタマヒキ。”“共に、多陀用幣流(ただよえる)、光透(コト)国(國)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と、光透(コト)(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”で、
この文の“コトクニ”“光透(コト)国(國)”には、“上”からの荷電粒子の影響で“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)、いわゆる心(靈)が進化することを指し示す表記であると思う。

 次は、第十八帖の残りの文。
“日に日に烈しくなると申してあろがな。”は、“上”からの荷電粒子=太陽、日により、進化=“烈しくなる”っていう意味、そしてアセンションの時期が近いから、“上”の思惑は顕現して右往左往してきた人は左往右往して自省(胸の磁性“十”)の行をするという意味。
 そして“水いただきにあげなならんぞ。お土掘らねばならんぞ。言波とくに磨きてくれよ。コトに気つけて呉れとくどう申してあろが。”の“水いただきにあげなならん”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンが、胸の磁性“十”によりシンクロトロンに移行して、そのエネルギーが上昇する様は大日如来の条帛(じょうはく)に相当すると幾度と無く述べたが、その意味を示唆し、この文の“いただきにあがなならん”の“いただき”は、山=目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳である。 要は自我から“慈悲”と“慈愛”にいたり、智性(神性)を行使せよっていう意味。 またそれは肉体を持っているうちに成し遂げろっていう意味で“お土掘らねばならん”っていわれ、このことも何度も述べたが土=2~3番目のオーラ=肉体である。 そして自らの心の発振、発信=息吹は、事象の“創造”をしているのだという意味で“言波とくに磨きてくれよ”っていわれているし、以前解釈したように“言波”の“言”は、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動きであると思う。
 また自らの心(靈)の息吹は、“上”からの荷電粒子を取り込まねばならず、その意味で“コトに気つけて呉れとくどう申してあろが”であり、このカタカナ表記の“コト”は”“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)であると思う。
 そして“してはならず。せねばならず、神事(かみごと)に生きて下されよ。”は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の事象を自分の心の基準で見出すということが“してはならず。せねばならず”であり、“神事(かみごと)に生きて下され”は、上の思惑を顕現する資格を持つ人間になってくれっていう意味で、それは心(靈)の在り方である“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、“上”からの荷電粒子との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にあることをあえて指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その六”  (アズキ君とセブンちゃんの話)


……例によって、Kellyさん爆睡中……

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 また夢を見てるやん…。 いつもの公園が見えてるけど、今夜は…今夜もか、セブンはんが一人(一匹)で居てるだけやな。
おっ!! 見知らぬオス犬がセブンはんに近づいて話しかけようとしてるやないか。 ほんでからこの見知らぬオス犬は楽屋落ち的言い方をすれば、Kellyさんと犬たちの会話に初登場のキャラクターやな。 セブンはんとこのオス犬は、どんな話をするんやろ…しばらく様子を見てることにしときましょ。 

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

犬じゅんいち君 会話中「ちょっとそこを歩いているウルチョラスーパースッペシャルチョ~極上魅力たっぷりファンタスチックエクセレントミラクルセクシーナイスバディな美人犬のお嬢さん、僕と少しだけ、ウルチョラスィートな愛のある話をしてみませんか」
セブン あせる 「えっ!! …それは私のことなのですか?」(ナンパなのかしら…)
犬じゅんいち君 会話中「もちろん君の事だよ。 僕は君に出会った瞬間、一目で君のウルチョラスーパースッペシャルチョ~極上な魅力に魅入られてしまったし、君のファンタスチックエクセレントミラクルセクシーナイスバディの虜(とりこ)になってしまったんだ」
セブン 会話中 (なによ…最初のセリフに編集を加えただけの言い方ね。 例によってこの文章を作っている○○○大先生の手抜きが感じられるわね。 それなら手抜きついでに私のセリフもコピペを多用させてもらうことにするわ)
「過分なほめ言葉を頂いて大変恐縮ですが、私はただのメス犬ですので、あなたがおっしゃるように、ウルチョラスーパースッペシャルチョ~極上な魅力など持ち合わせていないと思いますし、標準的な体型だと思いますから、ファンタスチックエクセレントミラクルセクシーナイスバディな美人犬でもないと思います。 
そして私には、あなたとウルチョラスィートな愛のある話をするどころか、親しげに話す理由もありません。
 だいたい、今初めて会ったあなたが、私にはどんな犬なのかも分かりません。 ですから私があなたに過分なほめ言葉を頂く理由も、あなたとウルチョラスィートな愛のある話をする理由もありませんし、仮にあなたがおっしゃるウルチョラスィートな愛のある話をするようなことになるには、わたしとあなたがお互いの心(靈)をよく知り、そしてその上でお互いが好意が芽生え、その好意が育っていったならばウルチョラスィートな愛のある話をする事ができるのだと思うのです。 
それを、一足飛びに、初対面の私に“ウルチョラスィートな愛のある話をしてみませんか”などと言われても無理のあることです。 …それに私には、アズキ君というとても素敵な彼がいますし…」
犬じゅんいち君 会話中「そうなのか、君にはアズキ君という彼がいるのか。 
でも、僕にとって、そんな事はたいした問題ではないし、どうでもいい事なんだ。 今、僕が抱いた君への気持ち、僕はその気持ちに恭順でありたいって思う。 
だからぼくとウルチョラスィートな愛のある話をしようじゃないか」
セブン 会話中(…強引なオス犬ね。 なにが目当てなのよ)
「初対面のあなたとお友達としてお話することはかまいません。 でも私は、あなたに特別な好意を持っているわけではありません。 先ほども言いましたが、あなたがおっしゃるように、初対面でいきなりあなたと私がウルチョラスィートな愛のある話をする…そんな事は出来ません」 
犬じゅんいち君 会話中「確かにそうだね。 僕はまだ自分のことを何も話していなかった。 それで君が、僕の事をよく知って分かってくれたなら、君はきっと、僕に好意を持つに違いないだろう。 
それでは自己紹介させてもらうよ。 僕の名前はじゅんいち。 僕の飼い主の苗字は“い○だ”っていうから、僕は通称、“い○ださんちのじゅんいち君”って呼ばれてるんだ。 
そして僕にはたくさんのガールフレンドがいるんだ。 最近特に仲がいいのは、ひ○○おさんちのR子さんだ。 彼女はとってもスポーティーな魅力あふれるメス犬なんだけど、余談だったね。 
要は、僕はいつもモテモテだってことが言いたかったんだ。 
こんなモテモテな僕と知り合いになれて気味はとっても幸運だと思うよ。 
だから僕と親しい間柄にならないかい? それは君にとって決して損な事ではないと思うよ」
セブン 会話中(イヤミなオス犬ね…)
「それではお訊ねしますが、今あなたは“君にとって決して損な事ではない”っておっしゃいましたが、あなたと私がお付き合いしたとするなら、私にとってどんな良い事があるのですか?」
犬じゅんいち君 会話中「僕の飼い主は、テレビによく出てくる石○純一氏を師と仰いでいて、氏の行動に倣い(ならい)、たくさんの女友達と仲良くして人生をエンジョイしているのだ。 ちなみに僕の名前も、僕の飼い主が石○純一氏を師と仰いでいるからこそ“じゅんいち”って名前をつけてもらったんだ。
 前置きが長くなった。 石○純一氏は某テレビ番組で、女を口説けるスタメンって企画を組んでもらい、そこで石○純一氏の女性を口説くアイテムやシチュエーション、また精力がつく食事まで公開していた。 その番組を僕の飼い主のい○ださんは、録画して、い○しださん自身が女の人と仲良くなるために参考にしたし、そして、僕自身にもたくさんのメス犬と仲良くなれるようにって僕に見せてくれたんだ。 なんて愛情あふれる飼い主なんだって僕は感動した。
そのときの様子を、以下に画像で示す事にさせてもらうよ」

犬じゅんいち君 ブラ○ラ鑑賞中


犬じゅんいち君 会話中「それで僕は犬だから、石○純一氏がこの番組で紹介した人間のオスが人間のメスを口説くためのシチュエーションやアイテムのいろいろ。 
イタリアン、コンサート、東京タワー(の夜景)&ワイン、(夜景がきれいな)スウィートルーム、ゴルフ、ハワイ、(ブランド物の)腕時計&財布、バーベキュー、バラの花束&メッセージカード…この番組で紹介されたものすべてを使う事は出来ないけれど、これを参考にして君のためにいろいろサービスをしようと思う。 
だからまずイタリアン、石○純一氏はイタリアンの嫌いな女性はいないって言っていたし、一緒に軽くイタリアンな食事をしようって言えば、断る女性はほとんどいないって言っていた。 
でもこれは人間の話だ。
それで犬の場合、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードの嫌いなメス犬はいないだろうし、だから君と一緒にウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを毎日食べようじゃないか。 
そして時には、石○純一氏が言っていたように、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードにかまぼこを入れてもらい、お互いの精力をうんとたかめ、激しくプレイするのもよいだろう」 
セブン 会話中(何を唐突に“激しいプレイ”なんてエロいことまで言う犬なの。 やな感じね)
「私はウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを毎日食べようとは思いません。 私がそう思う理由、それは、私の彼のアズキ君の同居犬の方々、そしてアズキ君も、たびたび(
このブログのカテゴリー内で)以下のように述べていたからなのです」

バティ  「僕たちは、ママと一緒に暮らして、ママと仲良くするのがうれしい。それとたまにKellyさんとママと公園で遊ぶのがうれしい」
ミュウミュウ 「私たちの欲望や幸福の概念は、その程度だわ」
コロン 「それと、ドッグフードが毎日食べられればいい。 でも、たまにはウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードも食べたいけど、それは、僕たちがママやKellyさんに芸を見せたときだけでいい。 だからそれは、僕たちの芸に対する正当な報酬だ」
アズキ 「そうだ。そうだ。人間は正当な報酬以上の何かを求めるから大げさになるんだ」
キナコ 「そうよ。そうよ。人間は欲張りすぎよ。分相応ってことを忘れてるのよ」


セブン 会話中「この(過去の記事からコピペされた)アズキ君とアズキ君の同居犬が言っている事は、とても妥当な事だと思います。
そしてこのときのアズキ君の言い回し“そうだ。そうだ。人間は正当な報酬以上の何かを求めるから大げさになるんだ”と、キナコちゃんの言い回しの“そうよ。そうよ。人間は欲張りすぎよ。分相応ってことを忘れてるのよ”。
この二人(二匹)の言い回しには、自分たち(人も含め)犬が、どう在るべきなのかってことを感じさせます。 
だから私もこれに追随して倣い(ならい)たい。 
それで今あなたがおっしゃられたように“ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを毎日食べようじゃないか”、そして“そして時には、石○純一氏が言っていたように、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードにかまぼこを入れてもらい、お互いの精力をたかめ”などというのは、まっとうな犬にあるまじき事だと思いますし、それが仮に人間の場合でも“お互いの精力をたかめ、激しくプレイする”などと考えるのも、男と女の関係を性欲中心にしか見ていないと思います。 
…でも…すみません、初対面のあなたに失礼な言い方をしていますね。 
そして、私と、私の彼のアズキ君とは、心と心の深いつながりをお互いに感じています。 だから私はあなたのサービスを受ける理由も無い。 
ですからあなたとかまぼこ入りウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを食べるのは、ご辞退させていただきます」 
犬じゅんいち君 会話中「…なるほど、君の言う事にも一理ある。 
だけど君の考えだと、僕たちは、人間のように人生をエンジョイできないのではないかな? 
僕は、人間でも犬でも、そのときそのとき一瞬々々を楽しむために生きていると思うんだ。 
きっと僕の飼い主のい○ださんだって、そう思っているから、たくさんの女性と仲良くしているのだろう。 
 それで、僕が君を見ると、君自身が君の彼のアズキ君に義理立てていて、君自身の人生(犬だけど)を楽しんでいないかのように見える。 違うかな」
セブン 会話中(失礼な事を言うのね)
「私は、私とアズキ君との関係がとても大事であり、とても幸福だと感じています。 だから私は自分の人生(犬だけど)を、とても楽しいものだと認識しています。 
そしてそれは、あなたが言うように決して“アズキ君に義理立ていて、君自身の人生(犬だけど)を楽しんでいない”などということではありません。 
私がアズキ君に出会ったのはとても神聖な出会いだと思いますし、それは私とアズキ君がお互い感じていることでもあります」
犬じゅんいち君 会話中「そうなのかな。 
それは、君が、アズキ君以外のオス犬とプレイした事が無いからそう思うのではないのかな。 
 だから僕には、君の言う“私がアズキ君に出会ったのはとても神聖な出会い”って言う理由が分からない。 
それは、人間が読んでいる本の中にも、多数の異性と交尾するような関係を多く持ったなら自分は神に近くなり、それが霊止だって内容のものもあるようだし、その本は多くの人間に支持されているようだけれども、僕はそれがもっともだと思う。
だから、今、自分たちの欲望に恭順でなければ、僕たちの生きていること、存在の意義っていうものを見出せないと思うけど…だからこそ僕は、君に“君の彼のアズキ君に義理立ていて、君自身の人生(犬だけど)を楽しんでいないかのように見える”と述べたのだ。 
 もし僕の言ったことが間違いだっていうのなら、君と君の彼のアズキ君にはどんな事があって、その中の何が君にとって神聖に感じられたのか教えてくれないだろうか?」
セブン 会話中(またもや失礼な事を言うのね)
「…初対面のあなたに詳細に話す事ではないと思いますが…そんなふうに私とアズキ君のことをあなたが思うなら…そうですね。
 この間、私が、アズキ君のママ(飼い主)の、*σ_σ*さんのおうちにお泊りしたときのことを少しだけお話します。
 …それはとっても月の美しい夜でした。 
私とアズキ君は、みんなが寝静まったとき、明け方に二人(二匹)で起きて、寄り添って窓から月を眺めていました。 
…とってもロマンチックなひと時でした。
 そのときです。 
月を見ていた私たちは、同時に流れ星を見ました。 その流れ星を見て私は、私たちの関係を神様が祝福してくれたのだと思いました。 
アズキ君もそう感じたようで、そのときとても力強く、愛情をこめて、私をハグしてくれました。 
(注 このセブンちゃんのセリフは、エンリケ・バリオス著 まほう色の瞳 178pからのパクリがかなり入っています。 あしからず。 by ○○○大先生)

 そうして二人(二匹)は強く抱き合いながら、お互いがお互いの心(靈)を貴く思っていることを感じ(感じる磁性)合い、そして、私たちが出会えて、そのとき流れ星を一緒に観た事を…とても神聖な一瞬だと感じ、だからこそお互いがお互いの存在に深く感謝し、お互いが出会えた霊縁にも深く感謝し、そして私とアズキ君の霊縁を組み私たちを強く結び付けてくれた神様に、深い敬意を感じて感謝したのです。 
そのときの様子を以下に画像で示します」

明け方 窓から月を見るセブンちゃんとアズキ君

犬じゅんいち君 会話中「そうだったのか。 それはとてもロマンチックな夜だったんだね。 
でもそれは、石○純一氏が推奨する“東京タワー&ワイン”や“スウィートルーム”に相当する事ではないのかな。 
それに君たちは、月を見ながら石○純一氏が楽しむであろう高級なワインを二人(二匹)で味わったわけではないし…。 
きっと僕と君が一緒にいたなら、石田純一氏が楽しむであろう高級なワイン、そしてかまぼこ入りウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフード、さらに夜景のきれいなスウィートルームで夜の東京タワーを見ることができる。 
だから君が今言ったことと、同じような事を楽しめると思うけど、どうかな」
セブン 会話中(何も分かっていないのね…)
「お言葉ですが、あなたがおっしゃるように“同じような事を楽しめる”とは思いません。 それは私たち二人(二匹)は、とても深い信頼関係にあるからなのです。 
でも、その深い信頼関係は、いきなり出来上がったものではなく、私たちの最初の出会いは誤解に満ちていたもので、でもその誤解を解くためにアズキ君はすごく努力したのです。 また、そのアズキ君の努力の裏には、
犬Kelly犬Kelly 会話中 さんや, 犬○○○大先生犬と化した○○○大先生 会話中の助言や提案があり、
このお二人(二匹)に私たちはとても感謝しているのです。  .

でも余談でした。
今お話させていただいたように、私たち二人(二匹)は、誤解に満ちた出会い方をしましたが、アズキ君はその誤解を解くために自分のエネルギーを贖い(あがない)、そしてその上で私に真摯に向き合い(ワンコ空中三回転を会得した事)、また、私に好意を持ったこと事態にも真摯に向き合い、自分の気持ちを真剣に述べてくれた。 だからこそ私は、アズキ君にとても惹かれたのです」
犬じゅんいち君 会話中「…そうなのか。 君と君の彼のアズキ君は、そんなに強い結びつきをしているのか…ちなみに君とアズキ君の出会いはどんな様子だったのか教えてくれないだろうか」
セブン 会話中(そんな事まで話す理由は無いけれど…)
「アズキ君と初めて会ったのは、今あなたと話をしているこの公園です。 それは、私のママ(しσ_σし)とKelly(Jo)さんが話をしていたときのことです。
そのときアズキ君とアズキ君の同居犬と*σ_σ*さんが、偶然、散歩にいらして、私と初めて会ったアズキ君は、私を一目見て、好意を持ってくれたのです。
 それでアズキ君は、私に対する好意と親愛の情を示すため、お手をして、服従のポーズをとり、究極犬芸(チンチン)をしてくれました」
犬じゅんいち君 会話中 にやり 「なにッ!! 究極犬芸(チンチン)をしたんだって!! 
(ひょっとするとこのウルチョラスーパースッペシャルチョ~極上魅力たっぷりファンタスチックエクセレントミラクルセクシーナイスバディな美人メス犬は、究極犬芸(チンチン)したオス犬の○ン○ンを見るのが好きなのかもしれない。 
…なんてディープな性癖を持つエロいメス犬なんだ。 
チョ~スケベな僕の相手にピッタリじゃないか。 
これは楽しいプレイが期待出来そうなメス犬だし、とても気に入った)

 だったら、君の彼のアズキ君が初対面の君に行ったように、僕も究極犬芸(チンチン)をして、僕の君に対する好意を精一杯示してみせようじゃないか」
セブン あせる「えっ!! まだ話の途中だったのですが…それに私が話したことを勘違いしていらっしゃるのではないのでしょうか…」
犬じゅんいち君 会話中 にやり「よく見ててごらん、これが僕の究極犬芸(チンチン)だ!!」

じゅんいち君の究極犬芸(チンチン)


セブン 会話中 きれる 「じゅんいちさん、あなたは何も分かっていない。 それでは私がアズキ君との初対面で行った事と同じことを、あなたにさせてもらいます!!」
犬じゅんいち君 会話中 にやり「それは楽しみだ。 どんな事をしてくれるのかな」
(それはきっと、ファンタスチックウルチョラミラクルエクセレントスーパーチョ~極上なエロいことなんだ。 ワクワクするな)
セブン 会話中 きれる「そのままそこでしばらくお待ちください」

セブン じゅんいち君から遠ざかりUターンする 


セブン じゅんいち君にフライングキック 

じゅんいち君にウルチョラセブンキック 

じゅんいち君 かつら吹っ飛ぶ

セブン 会話中(じゅんいちさんのふさふさした頭髪…まるで人間のようで、なんとなく不自然な感じだったけど、かつらだったのね)
「じゅんいちさん、私とあなたが思うオス犬とメス犬の関係の認識はずいぶん違ってたようね。 
あなたは、私とアズキ君が出会ったときのことを曲解してしまっている。 その曲解はオス犬とメス犬の関係に対するあなた自身の認識の程度を示していると思います。
私とアズキ君は、今あなたが究極犬芸(チンチン)をしてあなたがエロ心を私に示したような関係ではないし、先ほども言いましたが、私たち二人(二匹)は、深遠で神聖なつながりなのですし、私たちはその貴さを認識しています。 
でもあなたは、オス犬とメス犬の関係を、自分の欲望を満たすものとしか思っていないようですね。 だから私は、初対面のあなたには失礼な事かもしれないけれど“初対面のメス犬をナンパして、たくさんエロいこと言って、挙句の果てに究極犬芸(チンチン)して、自分の逸物を見せびらかしてるんじゃないわよキ~~~クッ!!”を食らわせようと思った。
ごめんなさいね。
あなたはもう少し、オス犬とメス犬の関係をよく勉強したほうがいいと思うわ。 
それでは失礼させてもらいます」
かつらのとれた犬じゅんいち君 会話中 「ま…ま…待ってくれ。 僕は、僕の飼い主のい○ださんの価値観を見習ったからこそ、たくさんのメス犬と仲良くしようって思ったんだ。 そして犬は、飼い主に従うのが常だと思う。 
それをこんな仕打ちを受けるなんて納得がいかない。 
それに僕には、君が今言った“私とあなたが思うオス犬とメス犬の関係の認識”…その違いと、“深遠で神聖なつながり”とか“貴さ”がよく分からないんだ。 
だから僕は知りたい…“私とあなたが思うオス犬とメス犬の関係の認識”…その違いを…」
セブン 会話中「じゅんいちさん、あなたは、私と初対面にもかかわらず、いきなり欲望むき出しの本能中心の目下(めした)心(靈)で接しようとした。 
そして私とアズキ君の関係を、あなたの価値観で判断してしまった。 
だから私はあなたに腹を立てた。 
でも…私の“初対面のメス犬をナンパして、たくさんエロいこと言って、挙句の果てに究極犬芸(チンチン)して、自分の逸物を見せびらかしてるんじゃないわよキ~~~クッ!!”を食らって痛い目を見たのに、あなたはオス犬とメス犬の関係の深遠さとか神聖さとか貴さを知ろうと思っていらっしゃる……。
…私はあなたとお話して、あなたの認識の変容に手助けするのは、吝か(やぶさか)ではないわ。 
ですから、私とあなたがこうやってこの公園で出会ったのも何かの縁です。 これからはお友達としていろいろお話しませんか」
かつらのとれた犬じゅんいち君 会話中「出来ればそうさせてもらいたい。 
でも、君と話して、君の思う“オス犬とメス犬の関係の認識”を知る前に、もっといろんなことを知らなければならないと思う。 それは…僕には、さっき君が話していたことが僕の心に残っている。 さっき君は、以下のように話していた。

“このときのアズキ君の言い回し“そうだ。そうだ。人間は正当な報酬以上の何かを求めるから大げさになるんだ”と、キナコちゃんの言い回しの“そうよ。そうよ。人間は欲張りすぎよ。分相応ってことを忘れてるのよ”。
この二人(二匹)の言い回しには、自分たち(人も含め)犬が、どう在るべきなのかってことを感じさせます”って。 

だから僕は、君の彼のアズキ君とその同居犬、彼らと話して、“まっとうな犬の在り方”を知りたいと思うし、それからその後…機会があれば君と話したいと思うけど…」
セブン 会話中「じゅんいちさんの意向はよくわかりました。 それで私は、初対面のあなたの態度に腹を立てて、ひどいことをしましたが、あなたがそのことを真摯に受け止めて、あなた自身の認識の糧にしてしようとする、あなたの心の動きが貴いと思います。
ですから、私は、私の彼のアズキ君とアズキ君の同居犬の方々に、あなたの意向をお伝えします。 そしてその会話の場は、この公園が良いと思います」
かつらのとれた犬じゅんいち君 会話中「僕の認識を変えてくれるチャンスを与えてくれてありがとう。 君には面倒をかけてしまうことになってしまうね。 でも、よろしくお願いします。
 それでは今夜は失礼させてもらうよ。 また会える日を楽しみにしているね」 
セブン 会話中「わかりました。 今と認識が変わったあなたなら、私は親しい友達になれると思います。 私はあなたの認識(悟り、幸取=さとり)の変容に期待しています。 
頑張ってくださいね」
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

…Kellyさん、起床…

Kelly 会話中 ふ~~またもや長い夢やった。 
…セブンはんは、*σ_σ*はんのおうちにお泊りしたのか…。 ほんでからお泊りしたとき、アズキはんとセブンはんは、月夜に流れ星を見て、神の祝福を受けたって感じた。 
その認識(悟り、幸取=さとり)自体が、アズキはんとセブンはんの深いつながりの貴さを示している事やな。 
良かったやん。
ほんでから今回初登場のじゅんいち君、彼の心の動きにも期待できまんな。 
そやからKellyさん的には、今度、犬たちが出てくる夢を楽しみにさせてもらいましょ。 
 
 …ちゅうことで、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、日月の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコト イザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセト、ノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ。
神の国にも善と悪とあると申してあろがな。
この神示見せてよい人と悪い人とあるのざぞ。神示見せて呉れるなよ。
まことの神の臣民とわかりたら此の神示写してやりてくれよ。神示は出ませぬと申せよ。時節見るのざぞ。型してくれたのざからもう一(はじめ)の仕組よいぞ。
此の神示 表に出すでないぞ。天明は蔭の御用と申してあろが。
神示仕舞っておいてくれよ、一二三として聞かしてやって呉れよ。
此の方の仕組 日に日に変るのざから、臣民わからなくなると申してあろが。日に日に烈しく変りて来るのざぞ。神の子には神示伝へてくれよ。神せけるぞ。
渦海(うづうみ)の御用結構。
十一月四日、一二ローレンツ力と ○  。

 冒頭のカタカナ表記も、今までの日月の巻の例に倣い、漢字とひらがなを当てることとする。 そうすると以下のようになる。

“此処に(茲に)天津神、諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)(日足(ひたり)の極性)伊邪那美(いざなみ)の“実言(みこと)”(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))に、是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”

 この文の冒頭の“此処に”、これにはあえて“茲に”を当てたが、この“茲”という字は、日月の巻 第三十帖に出てくるとても重要な意味を持つ表記で、その表記の意味は、“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示していると思うし、またそれは、左右=日足(ひたり)と砌(みぎり)に展開している進化した左右相称動物の特徴である神経の表記でもある。 
要は、神経=この字の左右の“幺”(いとがしら)に表れ、それは、これまで“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の解釈として、“五”は糸巻きの象形文字で、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神経が密になり、“六”は、爻部(こうぶ)=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記で、その両方の思惑が交わるの意味があり、“七”=“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)があると述べてきたが、その“五”を示すのが、また、“茲”=左右のコイル状の神経の芽生えと発達を示す表記であると思う。 
そして“茲に”のあとに“天津神”=(“創造”の“主(ヌシ)”に近い)“上”の思惑が、事象の“創造”と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命を育てる意図=“諸々の命(“実言(みこと)”)持ちて”であるだろう。 そしてこの文自体は、日足(ひたり)=(“創造”、愛(炁)の顕現、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の)思惑=伊邪那岐(いざなぎ)。 それと、砌(みぎり)、現象化(“創造”の“主(ヌシ)”が意図する事象の顕現)、伊邪那美(いざなみ)。 この両者(事象の“創造”には神の極性としての二つの性質がある)に対して=“イザナギノミコト イザナミノミコトニ”って言われており、それは“是(これの)多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)、作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))”を“宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)”=それをせよ、実現(意図して創造して現象化)せよ、そう述べられている。
そして“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”、これは“多い”、“陀”“用”“幣”“流れる”“国(國)”に分けて解釈するならば、この表記の“陀”は、ななめ、平らではないという意味があり、“幣”は、御幣の幣で、それは以前(上つ巻 第三十四帖の解釈)、こんな画像を作ったことがある。

御幣 日足と砌(ひたりとみぎり)の発振、発信

 御幣そのものは、神の依り代と一般に解釈されているが、それは、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化を示したものであると思うし、だからこそ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、心(靈)の発現が“上”に向かう事であり、人間になって初めて智性(神性、“一”、1番目のオーラ)が観察できるようになった。
(…というのが、○○○大先生が霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)で、様々な人や動物などのオーラを観測して得た結論でもある)
そして御幣の構造の意味するところとして、○○○大先生的解釈は、御幣を支える棒が、背骨に相当し、そして背骨で発生する縦の磁束、それは、金(カネ)の意味でもある“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、それがまた“カネ”の言霊であり、背骨の周りの神経がコイル状で、生体内電流により電磁石の構造を持ち、 ローレンツ力  =ローレンツ力が発生することが、“上”との思惑(電磁波)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもある。 
分かりにくいやろから、今述べたことを言い方を変えるならば、事脊椎動物の進化の究極(○ 九 十 の“九”、これは、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”(“創造”の“主(ヌシ)”の表記と、“一”=智性=1番目のオーラの意味+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の意味がある)は、人=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、そして“上”からの荷電粒子を止める意味“霊止”と、太陽凝視(“ひつく”“日津久”)の意味を持つ“日止”=太陽の思惑である荷電粒子を、自分の心(靈)に止めるって表記。 それは、脊椎動物の進化は背骨=縦の磁束(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))、そして左右対称の神経や臓器や骨格など、要は人間は進化した左右相称動物であり、それだからこそ一個体の肉体が持つ磁束は多様化して、人間より下等な生物に無い高分子化したたんぱく質が出来上がり、それだからこそ“上”からの荷電粒子との反応や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、進化すればするほど心(靈)の多様性って結果にもなりうるものでもある。 そしてその意味も含め、日月の巻 第十二帖でこう解釈した。

“角杙(つぬぐひ)”“妹活杙(いもいくぐひ)”、この表記の“角”“杙(杭)”は、縦の磁束により高分子化されている様子、あるいは結晶化されていく様子を指し示す。

 すべての(心(靈)が観察しうる)事象、それは空間であろうが生命であろうが、何かが積み重なり、積み重なった何かで電気特性の変容がおき、またそれは場(フィールド)の構築になり、場(フィールド)は電磁波の発振、発信をするから、すべての事象はそれぞれの場(フィールド)(心(靈)をも含む)のオーラ(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による相互干渉で影響し合い、さらに高度で複雑な現津(あきつ)、観察され得る事象を(自分の心(靈)が電磁波を感じ(感じる磁性)ることにより)“観察と認識”するものでもある。
 それで、今述べたことが、この文の“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”に感じ取られ、それは“多い”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の多様性や、空間の広がり、“陀”は磁束の変化、ローム太霊が伝えた右往左往と左往右往の(個々の心の動き以外の)もうひとつの意味でもあり、そして“用”は“上”の思惑による生命がなさねばならぬ使命であり、“幣”は“上”の思惑を顕現する肉体の構造、“流れる”は、発振、発信。 そして“国(國)”は、心(靈)そのもの、ちなみに国の旧字、“國”、これは、囗(かこい、場(フィールド))、或(ワク)、(或は、弋(くい)(積み重なったなにか)と、囗(かこい、場(フィールド)と横棒―(水平磁場、日足と砌(ひたりとみぎり))で領域を区切ることを意味するので、やはり進化した心(靈)を意味する表記であると解釈する。 よってこれは、場(フィールド)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と、心(靈)の進化を指し示す表記であり、これに続く文の“作り固め成せ(“修理固成”(しゅうりこせい))と宣り乞ち(請ち)て(のりごちて)、天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)を賜いて、“光透(コト)”(光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖の表記))依し賜いき(よさしたま“いき”=息(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)))”は、このまま()内の表記を読めば分かると思う。
ただこの文の、“アメノヌホコ=天之沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)”については、第十八帖で、“ヌホト”って表記が出てくるが、それは、差し込む何かと差し込まれる何かによる電磁誘導ってことなんだけれども、そのときに詳しく解釈を述べることとする。
 ちなみにこの意味のことは、上つ巻 第三十四帖で“やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、”と、すでにほとんど同じ意味の事が述べられている。ただ日月の巻 第十七帖では、“多陀用幣流国(國)(ただよえるくに)”で、上つ巻 第三十四帖では“多陀用幣流天地(たたよへるくに)”であり、“国(國)”と“天地”の違いがあるが、これは個々の心=“国(國)”と、“上”と“下”の場(フィールド)=“天地”であり、どちらも(“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)“上”と(進化した生命=“日止、霊止”の思惑)“下”によることでもあるし、だから上つ巻 第三十四帖では、事象の“創造”を示す表記として“修理固成(かため)の終りの四あけである“と、すでに書かれていると思う。 

 次は、第十七帖の残りの文。 
まず“神の国にも善と悪とあると申してあろがな。”は、“神の国”は今まで出てきた表記の“神国”と同義で、自分の心(靈)そのものであり、それには“上”と“下”があるからこそ“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)があるという意味だし、だからこそ霊的成長は“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”=自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観察して、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”する事につながっていくし、それは智性(日を知る性質)(神性)(“一”、1番目のオーラ)によってなされ、だからこそ動物としての最終形態の人間の肉体の変化は、目上(めうえ)の脳の進化であり、その部位での心(靈)の発現=“上”からの荷電粒子との反応(彌栄(いやさか))が、智性に相当する。 
そして“この神示見せてよい人と悪い人とあるのざぞ。神示見せて呉れるなよ。まことの神の臣民とわかりたら此の神示写してやりてくれよ。神示は出ませぬと申せよ。”は、自己奉仕者の進化過程での心(靈)では“日月神示”の文を見ても“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)にしかなりえない事を強調しているし、“役員づら”と“役員づら”の解釈の文を見てもっともだと思うような人は、当然のことながらアセンション落第組でもある。 
そして“時節見るのざぞ。型してくれたのざからもう一(はじめ)の仕組よいぞ。”の“時節”は、時間の進行=神の計画によるアセンションの時期と、個人個人の霊的成長度により=“型してくれたのざから”から感じ取れる事であり、“型”は、心(靈)の進化のための肉体の構造、サイクロトロンやシンクロトロン、荷電粒子の回転=彌栄(いやさか))でもある。 だから霊的成長度の低い人間=“まことの神の臣民”では無い人には“神示見せてよい人と悪い人とある”“神示見せて呉れるな”と言われ、そして“神示は出ませぬと申せよ”=程度の低い人間は程度の低い解釈をして甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見るからこそ“此の神示 表に出すでないぞ”“神示仕舞っておいてくれ”でもある。
そして“天明は蔭の御用と申してあろが”は、岡本天明は、“上”の思惑を伝えるだけの使命であり、“日月神示”を自動書記で書かされているからって別に霊的に高いわけではない=霊媒体質(マニピューラチャクラ中心の進化)であるからってことを言われ、岡本天明自身に慢心するなってことでもある。 
そして“一二三として聞かしてやって呉れよ”は、自らの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“一二三”のオーラになり、だからそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人のオーラならば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人との霊縁があり、“役員づら”の心(靈)の発振、発信に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する人は、やはり同程度の霊縁による人でもあることを示唆するものであることを読み取るべきである。 
そして霊的進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度により、やること=“行”も、言葉(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き))も、違うから“此の方の仕組 日に日に変るのざから、臣民わからなくなると申してあろが。”と述べられ、アセンションに向かう時期が近いからこそ、程度の低い人は霊的成長のための“行”=“此の方の(霊的成長の)仕組”を見出せないから“臣民わからなくなると申してあろが”であり、時期、この第十七帖の表記なら“時節”が近くなればなるほど“日に日に烈しく変りて来るのざぞ”となる。 
さらにアセンション後の創造を担える資格=その霊的成長度の人に対し“神の子には神示伝へてくれよ”と言われ、そして時期=“時節”が近いから“神せけるぞ”と言われ、さらに“型”としての“渦海(うづうみ)の御用”=荷電粒子の回転の意味を持つ“渦(うづ)”と、自我の発現である原の水の表記の“海”、これは心(靈)が独り神(ひとりがみ、日取り神)になる重要な過程を示すことでもあり、だから進化過程としての自我の発現は大事だが、霊的成長度の低い人=智性(神性)を行使していない人がちょっと間違えると自我の肥大になり、それは“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)になり、恨みの連鎖の霊的干渉で地球と地球上の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻んでいるし、それ事態が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑でもある。
だから“渦海(うづうみ)の御用結構”は、自分の心(靈)が自我中心である事を知り、その進化過程だからこそ自己観察=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すことを自覚する=“御用結構”って言葉の意味であることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。
神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。
やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。
昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。
どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。
十一月三日、一二 ローレンツ力と ○

 この第十六帖の文も、今までの“日月神示”にたびたび述べられていたアセンションに伴うこの世界の変容を指摘している。 そしてその変容は、自己奉仕者が創造した腐った世界に対し、大半の人がそのことに気がついていないからこそ変容は起きることを述べている。 また、そのときに、自分たちはどう在るべきなのかを説いている。
 まず、冒頭の文。

“慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。”

 この文は、自分たちがやってきた事(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の結果は、必ず現象化=“何もかも返報(へんぽう)返しする”することを述べている。
(このことは、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”と同義でもある) 
例えば、人が何かをする(行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現))それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いは良い結果になり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いは、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けるという、どの宗教でも解いている実に明快な事でしかないが、内在する悪を容認している智性無き心(靈)の進化過程は、最近のニュースなど見ていても、(自己奉仕者の行いは)どんどん暴かれており、自己奉仕者の進化過程の人は自省(胸の磁性“十”)させられるし、それは“日月神示”表記の“道理”の意味である“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(法則性)である。 
また、アセンションそのものが“道”(時間の進行)に沿っておきる事であり、さらにアセンションに伴うその変容は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”(法則性)であることを“時節が何もかも返報(へんぽう)返しする”という言い回しで示唆している。 それは幾度と無く述べてきていることではあるが、平均的地球人の進化過程は自我中心(“江戸と尾張”)、そしてこれから=アセンション後の進化は、“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(日を知る性質)(“一”、1番目のオーラ)の進化をしていくものである。 
そしてこの文の“時節”“時の神様”は、アセンションに時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)があり、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の計画である事を示唆している。 
そして今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は存在し得ない地球になる。 だから分けるし、分けられねば“うれしうれし”“大歓喜”の事象にはならない。 
そして、自分の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によって、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)により、行き先が違うのがアセンションでもあるが、アセンションって言葉は形骸に成り果てているし、形骸に成り果てている理由は、自己奉仕者が“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に成り果てて、ダメな情報をダメな人に流布しているからでもあるし、ダメな人が多すぎるのが現時点での地球でもあるし、そして、ダメな人と“役員づら”は、程度の低い進化過程なのだから、アセンション後の地球に移行できる訳が無いが、ほとんどの人がこのことに気がついていないことを(このことも幾度となく述べたことではあるが)あえて指摘しておく。

そして次の文は、自己奉仕者の程度の低い認識について指摘している。

“神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。”

 “われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分の低い欲望の達成のために使い、だからその心(靈)の動きは(自我の肥大ゆえの)低い功名心と低い自尊心にもなり、その心(靈)の動きで巧みに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使い(“力”を利用して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをするし、そして、そのことに対して罪悪感を持たない=内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する心の動き)、たくさん儲けて、(通貨としての)金を得る事が幸福だと思い込んでいる(霊的成長度が低くて、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を発現していない)ダメな人間が大多数なのが、今の地球でもある。
そしてそのことは、“上”の思惑を受信した心(靈)=“神国”の政治の政、“政(まつりごと)”では無いのだという分かりやすい事も、この文で述べられている。
 また、このことも何度も述べてはいるが、今後=アセンション後は(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の世界になるし、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋だからこそ、それをあえて指摘している言い回しが“神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。”であり、“上”はこういう心(靈)の人間を評価するという当たり前のことをこの文から感じ取れない人は、(間違いなく)アセンション落第組。
 そして自己奉仕者の行いは、“今の(平均的地球人の心(靈)の動きとして)遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ”であり、自己奉仕者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=“気”では、ダメになるからこそ“早よう気付かぬと(自らの心(靈)が招く“返報(へんぽう)返し”として)気の毒”が“出来て来るぞ”であり、それは自己奉仕者が(通貨としての)金に執着して大事な事を形骸にしてきたからこそ“金いらぬと申してあろが”でもある。

 次の文。

“やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。
よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。”

 当然のことながら、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、学校のように誰かに教えられる事ではなく、自分が生きている間に様々な事に遭遇し、それは喜びであろうが死ぬほど苦しい事であろうが、それぞれの事象について自分が考え、そして行動し、失敗もして教訓を得て(右往左往と左往右往)認識を獲得し、その認識が自分の在り方を見出し、そして自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきか考えるものでもある。 
それが出来ていない程度の低い心(靈)は、目先の利益しか分からないとか物欲と(通貨としての)金由来の幸福感しか持ち得ないとか、毎日楽しく暮らしたいとか薄っぺらい癒しを求めるとか、…今までいろんなことを指摘してきたが、そんな考えを持っている人間も間違いなくアセンション落第組である。
今述べた、人生においての苦難を試練として認識を高めていく事、それと、“日月神示”では太陽凝視って言葉を使っていないようだが、それを示す表記はたくさんあり、だからこそ“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことという解釈をしているが、このことに気付けということと、そしてそこには自分の心(靈)の在り方を示す“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”があり、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの意義は“一二三”のオーラのオーラの拡大であり、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば天意を受信して“天詞様”と“上”が評価する“日止、霊止”になりうる。
これらの事を“やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてある”という言葉に感じ取れるものである。
そしてこの文の後半の“よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。”は、第十六帖の冒頭の“時節が何もかも返報(へんぽう)返しする”にかかる言い方であり、今の時点での自分が、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認して自己奉仕者に成り下がっていても、必ずそれは暴かれ、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けて、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)では、自省(胸の磁性“十”)ってことをするし、それが腹から胸への進化でもあるし、そうなった人は“人に知れぬ様によき事はするのざ”ってことを考えるものであるし、そういう心(靈)の動きと行動をとるようになるならば=自我の肥大した自己奉仕者が失敗して“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けて自省(胸の磁性“十”)して(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者になれば、“よき事も現れると帳消しとなる”って事だと思う。

そして次の文も“返報(へんぽう)返し”を強調して述べている。

“昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。
どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。”

 ことにこの文では、自己奉仕者の“メグリ”=“返報(へんぽう)返し”=恨みの連鎖の霊的干渉の結果(現象化)=“何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならん”について、深く思わされるし、自己奉仕者から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した、あるいは、その方向性を見出した人(日止、霊止)に対しては“どこにゐても救ふ臣民は救うてやる”って述べられ、自分が自分の心(靈)の動きを自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)して、内在する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を見出して、それを自分に許さない心=“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”をもつ。 それは重複するが、自分の心(靈)の動きを見定める基準であり、それは天意の受信につながり=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になり、自分の心の中の基準になるという意味で“真中動くでないぞ”=基準を見失うな!と言われており、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は自己奉仕者の行いが“返報(へんぽう)返し”により、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受けても、それはその人の成長に必須の事であるからこそ“知らぬ顔しておる事も起る”と言われ、そのときに自己奉仕者の心(靈)の人は「神も仏もあるものか」と、自分を擁護する勝手な都合のよい言い方をするだろうけど、神や仏は(“返報(へんぽう)返し”による)災厄、苦難(試練)を自己奉仕者に体験させ、それがその進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度において必要だからこそ=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は“知らぬ顔しておる事も起る”って事も体験させなければならないのだということを言っている。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第十五帖を解釈しまんねん。原文は以下の通り。

目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。
神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。
明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。
何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。
何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。
取違ひ致して呉れるなよ。
幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。
いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。
神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。
あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。
神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。
迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。
コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。
十一月の一日、ひつ九か三。

まず、冒頭の文。

“目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ。
神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。
明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。
何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。
何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。
取違ひ致して呉れるなよ。”

何度も述べてきているように、人っていう字は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成され、人の使命=存在目的は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”でもある。 またそれは、日月の巻 第十三帖で“蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ。”と述べられているが、それぞれの役割、使命、あるいは“日月神示”表記の“御用”は、その立場立場、霊的成長度に於いて、誰もが同じことをするのではない。 
だがそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)(法則性)に沿ったものでなければならない。 
そして進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解できない、あるいは間違えているものが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあるし、その心(靈)の動き(自我の肥大=“石屋の仕組み”)で創造されている事象は、恨みの連鎖の霊的干渉でもある。 
だからこそ自己奉仕者が創造した世界は壊滅するのが法則性(“理(ミチ)”)でもある
 このことを念頭において、この文を読み解けば、“目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕へまつる事に祈れよ”は、“道”(時間の進行)において“其の日の生命”=役割、“其の生命を神の御心(みこころ)のままに”=“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、“使えまつる事に祈れよ”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を尊守せよということでしかなく、そして弥栄(いやさか)は、一言でいえば縦の磁束と横の磁束による荷電粒子の回転(チャクラ)でもあるが、それは弥栄(いやさか)の弥の旧字に示されているので、以前紹介した画像を以下に貼っておきまんねん。
彌栄弥栄(いやさか) 弥の旧字 
弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


そしてその、弥→彌=(背骨の)縦の磁束と(進化した左右相称動物である人間が持つ)水平磁場による荷電粒子の回転は、肉体が“上”“下”に並んだ三つのコンデンサーの構造を持つからこそ、“一二三”のオーラになり、その“一二三”のオーラは、“上”からの荷電粒子と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して心が構成されているからこそ、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければ、“天詞様”と呼ばれる心(靈)には成りえないものである。 それを説明するために、“上”からの荷電粒子と平均的地球人の“一二三”のオーラのバランスを以下に示す。
平均的地球人と“上”との感応共振 


 だが、この平均的地球人の段階の霊的成長度の心(靈)は自我(腹、“日月神示”表記の“江戸”)中心でしかなく、それはいずれ進化していけば“慈悲”と“慈愛”中心の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と、高い智性(神性)を発現していくのだが、まだその部分のチャクラの発達の程度が低い。 そのことを日月の巻 第十二帖では“今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。”の、“型”(脊椎動物の進化のテンプレート)と称されており、だからそれは今の地球人の霊的成長度では“型”は整っただけでしかないということを指摘している。 
よって人は、今後、アナハタチャクラより“上”の進化に入る(第四密度)。 それは自己奉仕者の心(靈)ではなくなり、それを簡単に述べれば、自己と他者の良いカタチ、すべてのよいカタチを念頭におき、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え、自分の欲望を満たすだけの使い方をしなくなるものであるし、その思想を持った人間が事象の“創造”をしなければ、良い世界になるわけが無い。 
さらに、目上(めうえ)の脳を刺激する“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをなしたものは、“一”=智性=1番目のオーラの拡大になり、そして以下の画像の“一二三”のオーラのバランスとなり、頭の水平磁場の強化が理由で大きくなった“一”=智性=1番目のオーラは、“上”から注がれる荷電粒子の高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、高い智性(日を知る性質)を発現し、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすものでもある。

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成


 そして人の使命、“御用”は、“身霊相当”(霊的成長度において事象の“創造”の役割(“御用”)は、違うという意味、日月の巻 第十三帖の表記)でもあるが、今述べたように平均的地球人=自我の確立=固定化と、自我の肥大をした人間とは違う方向性を持つならばそれは、アセンション後の“創造”を担う“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をある程度認識しているのであるからこそ、日月の巻 第十四帖の表記の、(アセンション後の)“上下揃った光の世”の“創造”に参加出来うるものでもある。
そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それを教えるために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の計画として“日月神示”は書かれた。
(だが、その事を低い功名心と自尊心=自我の肥大による“役員づら”の心(靈)の動きでで履き違え、間違えている人が多すぎる)
 今述べた進化の“道理”、それを少しでも意識して自分の認識とするなれば、(個々の霊的成長度において程度の相違があるけれど)目の前の問題を、自分の課題として、あるいは困難を試練として、自らの成長に活かす思想を持つ。 
だから次のように述べられている。 
“明日の事に心使ふなよ。 心は配れよ。 取越苦労するなよ。 心配りはせなならんぞ。”
 ことにこの文の“明日の事に心使ふなよ”は、目前にある困難を試練と認識しない心(靈)の動きを指摘しているものであり、それは、自らの霊的成長のために“上”は困難を試練として与え(それは恨みの連鎖の霊的干渉由来の因縁である事が多いが)、それを乗り越える(贖う(あがなう))のが、ある意味“御用”でもあるし、だからこそS会=紫光会の交霊会では、“神は乗り越えられない困難を与えない”と何度も述べている。 
そして、目先の試練を自分が乗り越えるべき課題と意識すれば、“上”は通信を送ってくるものであるからこそ“心は配れよ。 取越苦労するなよ。 心配りはせなならんぞ。”と言われ、“明日の事に心使ふ”という、ただ問題を避けようとか、逃げようとか(それは、この文の前後を考えれば、安易な癒しとか、現世利益とか、苦難を避け目先の薄っぺらい幸福に酔いたい心(靈)であると確信する)の心(靈)の動きでは、課題を乗り越えることは出来ず、自分がその課題に真摯に向き合えば=“心は配れよ”“心配りはせなならん”とするなれば、自らと“上”の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があり、だからこそそれは、自分は頑張るけど、結果は“上”に任せる=“取越苦労するなよ”となり、その課題は外側(外国と幽界)の事象では解決しなくても、自分の心(靈)の中に認識が出来ていくし(右往左往と左往右往)、結果、自分の外側(外国と幽界)の事象に答えは無いのだが、認識を得たこと事態が、自分の霊的成長のための試練を乗り越えたのと同義であり、それは今後=アセンション後の“創造”に活かされるものである。 
それでまたちょっと前後するが、認識を獲得し乗り越えられたならば、それは、自分の霊的成長度の低さを知り=自我の肥大を知り、自分に“慈悲”と“慈愛”の厳しさが発現し、同時に智性(神性)も発現するものである。 
その意味のことを次の文、“何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ。 取違ひ致して呉れるなよ。”と述べられ、“何もかも神に任せよ”は先ほど述べたとおり、自分は頑張る(元の気を張る)が結果は“上”に任せ、そして、“上”との感応共振を示唆した言い回しが“神の生命、神の肉体となりきれ”であり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化がなければならず、そのことを意図して“行”するならば、“上”は見過ごさないものでもある。 そして苦難や困難を試練と思わない自我の肥大した心は、自分に制限を加えないでサプリメントに頼ったり(例えば血糖値を下げるものや、食べてもダイエットできますとかの類のもの)、現世利益に(通貨としての)金を使ったり、インチキスピリチュアルカウンセリングやインチキ占いに金を使ったり、“役員づら”の宗教の本やスピリチュアルの本を買って満足したり、薄っぺらい感謝に酔ったり、こんな事は例を挙げればきりがないが、すべてそれは自我の肥大が招く事でもあるけれど、そんな低い心(靈)の動きを自分自身が見出し、その心(靈)の動きに囚われていてはいけないからこそ“何もかも捨てきらねばならん”と言われ、そして今の地球上の事象は、霊的に高いものでも低いものでも共通の事象を観察して認識しているから、“天地皆神のものぞ、天地皆己のものぞ”と言われ、要はこの言い回しそのものは、観察して認識する事象そのものはすべて自分の心(靈)の内側にあることを示唆しているし、自分の霊的成長度に於いて、今後=アセンション後には、自分の心(靈)が観察する事象は、今の地球のように“玉石混交(淆)”ではなく、自らの霊的成長度の高低における事象を体験するものでもあるし、それが神の計画としてのアセンションの意義で、だからこそそれは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と自己奉仕者は区別されねばならない。 そして大半の人がこの文章から、今述べたこのことを読み取れないからこそ“取違ひ致して呉れるな”と述べられている。
 そして次の文の、“幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。 いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。”も、目前にある試練を乗り越せという意味のことを言っており、何回も指摘してきているが、“日月神示”表記の“神国”の“国”は、自らの心(靈)のことであり、だから自分が試練と戦う=“幾ら戦してゐても”、それは自分の霊的成長の過程だからこそ=“上”に向かう事だからこそ“天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ”ということになる。 
そしてこの文に続く“いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。”は、“いきの生命”は、息の生命(生きる使命=存在理由)が妥当だろうし、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する自分の心(靈)=“いきの生命”は“いつも光り輝いてゐる”=高い振動のオーラを息吹いているということで、それは“上”との感応共振を言い表した“神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな”であり、いうまでも無く“あめつち”は、“上”と“下”を示す天と地である。 
そして次の文の“神称へる辞(コト)が光透(コト)ぞ。 あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ。草木の心になれと申してあろがな。”も“上”との感応共振を述べている。 そしてこの文の表記“辞(コト)”は、敬意をもってへりくだって述べるの意味があり、それは“下”である自分が“上”に対する態度であり、述べること事態が自分の心(靈)の発振、発信であるからこそ息吹でもあるし、それに対し“上”からの荷電粒子が降り注ぐ様が“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味)と称されていると確信する。 そして“あめつち称へる言(コト)が光透(コト)ぞ”も、先に解釈を述べた天地=“上”“下”を知り、しっかり認識せねばならぬからこそ“あめつち称へ”と述べられ、それはまた“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であるからこそ“言(コト)が光透(コト)ぞ”であり、“草木の心になれ”は、“草”は、クサカンムリ(芽生えるの意味)と、太陽を示す“日”と胸の磁性“十”、そして“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
それで残りの文は、自分に対する事象が神の思惑のものもあれば=霊的成長を果たす事象もあれば、また、その反対の、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑(この場合の思惑は自分以外の心(靈)の発振、発信のこと)のものもあるからこそ “神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。” と言われ、だからこそ“迷ふでないぞ”と言われ、先ほど述べた例を挙げるときりが無い事、“苦難や困難を試練と思わない自我の肥大した心は、自分に制限を加えないでサプリメントに頼ったり(例えば血糖値を下げるものや、食べてもダイエットできますとかの類のもの)、現世利益に(通貨としての)金を使ったり、インチキスピリチュアルカウンセリングやインチキ占いに金を使ったり、“役員づら”の宗教の本やスピリチュアルの本を買って満足したり、薄っぺらい感謝に酔ったり”ってことが無いようになって欲しいから“神の申すコトはコトであるぞ”=“上”の思惑は“コト”(“上”からの荷電粒子の意味を持つ)“光透(コト)”であり、その光と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)してくれという意味で次のように述べられていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。”

Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (480)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
写真部に投稿した最新の写真
 ↓


powered by 写真部









○○○大先生の水草水槽記録
facebook 児玉登







このブログをリンクに追加する


自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード