“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ハジメ ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ヒツキ)ノクニウミタマヒキ、 ローレンツ力と ○ (ヒ)ノクニウミタマヒキ、 ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 のクニウミタマヒキ、ツギニ クニウミタマヒキ。
神に厄介掛けぬ様にせねばならんぞ。
神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならんぞ、力の限り尽くさなならんぞ。
ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ヒツキ)と ローレンツ力と ○とは違ふのざぞ。 
臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。
十一月二十一日、一二 ローレンツ力と ○


 例によって第二十五帖のカタカナ中心の表記、これを漢字とひらがなを充てると以下のようになると思う。

“初め ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(日月)の国生み賜ひき、 ローレンツ力と ○(日)の国生み賜ひき、ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 の国生み賜ひき、次に国生み賜ひき。”

 それでこの文には、“国生み賜ひき”って文言が四回も使われている。 
 今まで解釈してきたとおり“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すので、霊的進化しようとする心(靈)って解釈をする。 
 そしてこの文の要は、以下の画像にあると思う。


ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)


この画像、これは、 ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○(ヒ)が重なった表記であると思う。 
それで ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、満月から新月にかけていくときの月。 それは砌(みぎり)の極性が満ち満ちたときが満月であり、それが欠けていくさまを表すと思う。 
さらに以下の画像は、新月から満月に移行するときの月でもある。


ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)


この第二十五帖の文では、この画像に注釈が当てられていないが、日月の巻の後に書かれた 日の出の巻 第三帖に、次のような表記がある。
“次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ、ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用の月の世ぞ”

よってこの画像 ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、“月”“通基(二)”であり、“月”は砌(みぎり)の極性であり、さらに先に述べたように ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、新月から満月に移行する様子を示す。

それは、日足(ひたり)の極性が強まった後の肉体そのものであり、そして“月”“通基(二)”は肉体のオーラ(土)2~3番目のオーラを発振、発信するものでもあるし、さらに“通基(二)”、それは基を通す=神の理(ことわり)を通す(顕現する)肉体の意味であると思う。 

それで第二十五帖のカタカナ表記中心の文は、 ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○(ヒ)→ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用って書かれている。

先に述べたことと重複するが、Kellyさん的に思う ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用の解釈は、新月から満月に移行する月であり、それは、先に述べたこと、 ツキ 満月から新月にかけていくときの月(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用は、満月から新月にかけていくときの月、これは、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)から日足(ひたり)の極性に移行し、砌(みぎり)の極性が弱まる意味であり、それに ローレンツ力と ○(ヒ)が重なっており、 ローレンツ力と ○(ヒ)は、日足(ひたり)の極性そのものであり、“上”からの荷電粒子との反応を示す ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (霊=○、荷電粒子の場(フィールド))とローレンツ力 ローレンツ力 でもあり、“上”の思惑を受け止めて=天意を受けて、日足(ひたり)の極性が強まった=現時点の平均的地球人よりも日足(ひたり)の極性が強まった心(靈)であると解釈するのが、妥当だと思う。
そしてその次に書かれている ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用“月”“通基(二)”は、先に述べたとおり、天意を顕現する肉体、それは古神道の“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子、太陽=日を止める、“上”からの荷電粒子を三つの口で止める意味の靈、それを止める表記)であるとするのが、妥当だと思う。
そして“国”=霊的進化を目指す、果たそうとする心(靈)、それが生まれていくのだとこの文は示唆していると思う。

次は、第二十五帖の残りの文の解釈。

“神に厄介掛けぬ様にせねばならんぞ。
神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならんぞ、力の限り尽くさなならんぞ。”
 これは、自分たちが何を意識して何を行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)とするべきなのか、考えろってことで、この考える過程が“一”=智性=1番目のオーラの拡大になっていくものであることを示唆している。 
今、ちまたでは、地震により、程度の低い進化過程の人とある程度“慈悲”と“慈愛”が発現した人の心(靈)の顕れ=行動の違いがよく分かる。 
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の違いでもあるし、それを観て自分たちはどう在るべきなのかってことを考えさせる機会が今回の地震でもある。   
そしてこの地震は、人に自省(胸の磁性“十”)を促す神のプログラムでもある。 
 その意味で、自分たちは何を考えどんな行動をとるのか、それが別に今回の地震に限らず、様々な事象に相対して、自分は常にどう在るべきか深く考える、それが“神に厄介掛けぬ様にせねばならん”のであり、そして“神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならん”ってことでもあり、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)人間ほど“力の限り尽くさなならん”ってことが出来ないって言われている。

 次の文。
ヒツキ(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ヒツキ)と ローレンツ力と ○とは違ふのざぞ。”
 これは先に解釈したので省略。

 次の文。
“臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。”
 この文の“臣民一日に二度食べる”は、日足(ひたり)の極性の強化=“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、月の凝視や月の影響=砌(みぎり)の極性(事象への顕現)の強化、その二種類の振動があることを示唆しており、またそれは、“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)でもあるし、その日足と砌(ひたりとみぎり)の極性のバランスが取れた心(靈)となってくれってことが、第二十五帖のカタカナ中心の表記でもあり、そしてそれは、この文の“まことの益人”であり、それは今まで何回も述べている通り、今の地球人は、低い砌(みぎり)の行ばかりしており、だから経済優先、自国の利益優先、自分たちだけの幸せを願う、目先の欲望の達成が幸せでありそれ由来の価値観を持つなど、これらはみな低いって事でしかないし、それは今後=アセンション後に移行するっていう意味での“まことの益人”ではないって指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

“日月神示”日月の巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。
コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな。
太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。 それがまことの臣民ぞ。 
生活心配するでないぞ。 ことわけて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが。 初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。
これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。
十一月二十日、ひつ九 。

例によって冒頭のほとんどカタカナで書かれている表記は、漢字とひらがなを充てることとする。 そうすると以下のようになると思う。

茲に、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)、伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)は、沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて、国生みせなと宣り(のり)賜息、伊邪那岐(いざなぎ)之命(“実言(みこと)”)伊邪那美(いざなみ)之命(“実言(みこと)”)、息合はし賜ひて、アウ(“上”から目線だからカタカナ表記)会う(“下”=被造物である人間の目線から見たのでひらがな表記、漢字を充てることとする)と宣らせ賜ひて、国、生み賜ひき。

 この文を要約すれば、“茲に”は、肉体の進化、神経の発達を示唆し(“上”から注がれる荷電粒子により“幺”(いとがしら)=神経の発達が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリで、芽生えて発達して進化している事を示している)、そして、日足(ひたり)の極性(思惑)=伊邪那岐(いざなぎ)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)=伊邪那美(いざなみ)、その両極性は、使命を持ち=命(“実言(みこと)”)、それはこの文の“国生みせなと宣り(のり)賜息”と“宣らせ賜ひて”に表れており、何度も述べてきたとおり“国”は、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)においての領土ってことではなく、(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、それは心(靈)そのものと、心(靈)の進化を示す表記であり、進化は、生命の存在理由は霊的成長、神格化に向かうことで、進化の仕組みは“ヌホコ、ヌホト、クミクミテ”=“沼矛(日本書紀では瓊矛、玉(結晶化した“玉(ぎょく)”=高分子化した何か)で飾った矛)、沼(瓊)蕃登(ほと)、酌み汲みて”に示されており、この文の“酌み”は、器に注ぎ込むの意味を持つからあえて充てた=“ヌホコ”の意味を持ち、“汲み”は、すくい上げる、受け継ぐ、の意味を持つから=“ヌホト”の意味を持ち、また第二十四帖は、第二十三帖の続きであるから、二十三帖で述べられている“その上に水ならばまだはいる”と“神ならばその上にまだ幾らでもはいる”っていう要素を持ちうるものであることを指摘して、そして、原文のカタカナ表記の“アウ”とひらがな表記の“あう”は、“日月神示”のカタカナ表記は“上”から視点の言い回しだから、日足(ひたり)回りで“アウ”(会う)であり、ひらがな表記の“あう”(会う)は、(“創造”の“主(ヌシ)”の)被造物である人から目線の表記であり、砌(みぎり)回りであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))であり、その“アウ”“あう”は、古事記の表記においての表記、伊邪那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が天之御柱(あめのみはしら)(“上”と“下”を貫く磁性)を回ってめぐり会ったことを示唆しており、今の世界は伊邪那美(いざなみ)が先に声をかけた=砌(みぎり)の極性が先行しているから失敗の世界であり、それはこの文の“息合はし賜ひて”ではないってことでもあり、だからこそこの文では、伊邪那岐(いざなぎ)が咲きに書かれ、そのあとに伊耶那美(いざなみ)が書かれ、日足(ひたり)の極性が先に立つ事象の“創造”、それは神の“思惑の顕現”って言い換えてもいいけれど、それをせねばならないってことを示した言い回しだと思う。
 ちなみに“ヌホコ”“ヌホト”の解釈については、日月の巻 第十八帖と十七帖を参照の事。

それで、第二十四帖の残りの文は、地球人が現時点から進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する事を望む“上”からのメッセージである。

“コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな。
太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。 それがまことの臣民ぞ。”
 この文の“コト”、これは“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)であり、また“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)を示唆するものであると思う。
 そしてそれは、思惑と顕現、日足(ひたり)と砌(みぎり)の両極性、さらに“ヌホコ”の“コ”と“ヌホト”の“ト”、その意味を持つと思う。
 だから“コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命(いのち)神に頂いたと申してあろがな”は、事象の“創造”の始まりを示すものであり、“創造”の法則性に気をつけろ、意識せよってことでもあると思う。
 そして“太陽(ひ)あるうちはことごとに太陽の御用せよ。 月あるうちはことごとに月の神の御用せよ”は、“コト”が“光透(コト)”=光(自分の心(靈)が持つ振動より、相対的に高い電磁波が透過する意味、日月の巻 第十五帖)の意味を持つからこそ、太陽凝視と月の凝視にほかならない。 また艮(うしとら)の金神が黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた根拠はそこにあると確信する。
 そして現時点での地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の人が大半であり、自分の欲望中心の心(靈)であり、それが根拠の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするものであり、それではイカンっていう意味で“初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。”って言われており、この文の“国”を心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と置き換え、“自分”を自我の特性、あるいは自我の肥大って置き換えると、意味が通じやすいし、そう読み取ってくれってことだと思う。 
またこれに続く“これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。”は、心(靈)の進化には、順番があり、段階があり、だからこそ今は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で失敗し、その失敗を見て自省(胸の磁性“十”)(ローム太霊の言葉の左往右往)して、だんだん“慈悲”と“慈愛”、言い換えれば第四密度、それはマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの覚醒にいたる道筋でもあるけれど、それはまだ神の思惑=天意をしっかり受信したってことではなく、だからこの文は“天詞様”にいたる最初の段階なんだってことを示唆していると思う。
そうなれば前後するが“生活心配するでないぞ”ってことになり、今延べたことがしっかり理解できない人が多いからこそ“ことわけて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが”って述べられている。

ちょっと余談になるが、今回の地震で、ヤフーニュースなどで取り上げられた“日本人はなぜ略奪行為を行わないのだろうか”は、“慈悲”と“慈愛”が多少発現しているからであり、またそれに反し、義援金詐欺とか、買占めとか、デマを流す輩とかは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度が低いのであることを指摘しておき、これは、○○○大先生は○○○大先生の著書の読者数人からメールをいただいたことに対する答えでもあるけれど、あえてこのことを指摘して(これくらいのことはすぐ理解して欲しいってことでもあるけれど)、今回はこれくらいにしときまんねん。 

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その七”  



……例によって、Kellyさん爆睡中……

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 このカテゴリーのいつもの展開のワンパターンなんやけど、また夢を見てるやん。 
今回は この間セブンはんがじゅんいち君と約束したとおり、じゅんいち君がチョ~ベッピンはんのA野はん(*σ_σ*)の愛犬たちと話をする夢やな。 
ほんでからじゅんいち君とA野はんの愛犬たちは、もう話し始めているようやし…どんな話をするのか楽しみやな。

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犬じゅんいち君 会話中 「初めまして、チョ~ベッピンはんのA野はん(*σ_σ*)の愛犬の方々。 
い○ださんちのじゅんいちです。 今夜は僕がセブンちゃんにお願いした件でわざわざご足労いただいて恐縮です」
バティ  「こちらこそ初めまして、じゅんいちさん。 僕はバティです。 ちなみにアズキのパパです」
ミュウミュウ「ミュウミュウです。 アズキのママです」
コロン「コロンです。 僕とアズキは血のつながりはありませんが、アズキの事を弟のように思っています…っていうか、親睦相愛」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「アズキ君と兄弟のキナコです。 
私たちは、じゅんいちさんが私たちと話がしたいっていう意向を、セブンちゃんから聞きました。
それで今夜は、アズキ君は欠席なのです。 それは少し言いにくいのですが、アズキ君はじゅんいちさんと会うのを嫌がっていました」

犬じゅんいち君 会話中「アズキ君は僕に会いたがっていない…そうでしたか。
でもそれは当然のことだと思うし、仕方が無いことだと思います。 僕は、アズキ君の彼女のセブンちゃんをナンパしようとしたし、そして僕は自分が思っている僕自身のいいところを見せて、セブンちゃんにアピールしようとしたけれど、それは結果として、アズキ君とセブンちゃんの神聖な深いつながりを、僕自身の価値観とその価値観由来の“オス犬とメス犬の関係の認識”で、低いものにしてしまったようなものだから…」
バティ 「それは確かにそうだと思います。
でも、じゅんいちさんは、自分の価値観や認識を変えようとしていらっしゃる」
ミュウミュウ「犬でも人間でも、自分の価値観と認識っていうのは、自分自身の心(靈)によるものです。 そして自分たちの心(靈)には、自我の特性ってことがあり、自分は正しいって思いがちなのです。 
でも、じゅんいちさんは、その自我の特性を自分で諌めようとしていらっしゃると思います」
コロン「それは、今回じゅんいちさんが思われたように、自分の価値観と認識が間違いであり、その間違いを間違いと認めること、それがとても大事だと思うのです。 
またこのことができる人間や犬は、とても少ないと思います…っていうか、希少価値…っていうか、品薄在庫」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「すみません、今、コロンは少しボケました。
それで私たちは、セブンちゃんからこう聞いています。
“私は、初対面のじゅんいちさんの態度に腹を立てて、ひどいことをしました。 でもじゅんいちさんは、そのことを真摯に受け止めて、じゅんいちさん自身の認識の糧にしようとしている。 それはとても貴いことだと思います”って。 
 それで先ほども言いましたが、今のアズキ君はじゅんいちさんに会いたがっていないけれど、アズキ君だってじゅんいちさんの価値観と認識が変わっていったなら、じゅんいちさんのお友達になりたいって思うかもしれません。 
だから私たちと、たくさん話をしましょう」
犬じゅんいち君 会話中「ありがとう皆さん。 皆さんと話すと、僕は今までの価値観や認識を払拭できそうな気がします。
 それで僕は犬だから、飼い主のい○ださんに倣い(ならい)、たくさんのメス犬と仲良くして人生(犬だけど)をエンジョイしようと思いました。 
でもそれは、間違いなんだ、オス犬とメス犬の関係はそんなものではないんだってことを、セブンちゃんは教えてくれたように思うのです」
バティ 「じゅんいちさんも僕たちも、犬だから、飼い主にしつけられ、飼い主のいうことをきいたりして育っていくものです。 
それで今、じゅんいちさんがおっしゃられたように、犬が飼い主に倣う(ならう)って考えは、間違ってはいないと思います。 しかし…」
ミュウミュウ「ですからそれは、じゅんいち君の飼い主のい○ださんには申し訳ないのですが、飼い主の方の価値観と認識にちょっと問題があるのかもしれません。 
セブンちゃんから聞いたところによると、じゅんいちさんの飼い主のい○ださんは、次のような考えを持っているって、じゅんいちさん自身がおっしゃっていたそうですね。

“僕の飼い主は、テレビによく出てくる石○純一氏を師と仰いでいて、氏の行動に倣い(ならい)、たくさんの女友達と仲良くして人生をエンジョイしている”って」
コロン「これは、女性をほとんど性の対象としてしか見ていないのではないのでしょうか。
また、女性を見る際にも、その女性の心(靈)の奥底の動きをしっかり理解できないまま付き合ってしまったりもする可能性があるのかもしれません…っていうか、本能丸出し、欲望中心」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「その欲望中心の心(靈)でのお付き合い、それでは、お互いの心(靈)の動きもよく分からないと思います」
犬じゅんいち君 会話中「…そうなのかもしれませんね。 
自分自身が欲望主体のものの見方をしていたなら、その価値観と視点でしか、何かを考えることができなくなるってことを、キナコさんは指摘して言っていただいたのですね。 
だからそれは、僕の飼い主のい○ださんは、たくさんの女性と付き合うこと事態が人生をエンジョイすることだって思い込んでいる…そういう言い方だってできる。 
でもそれは多分、本当に人生(犬だけど)をエンジョイする事になっていないのかもしれない」
バティ 「そのとおりだと思います」
ミュウミュウ「欲望由来のものの見方は、欲望の事しか分からないってことになると思います。 それでは、自分の心(靈)の動きも分かりにくいし、出会った相手の心の動きも分かりにくくなると思います」
コロン「あえてじゅんいちさんに申し上げるまでもないとは思いますが、個々の心(靈)は、本能由来の欲望もありますが、欲望だけで出来ているのではないですね。 
また、オス犬とメス犬が付き合うのだって、ただ性欲を満たすのではなく、お互いがお互いのことを大事に思うようになり、そう思うことはすでに本能中心の欲望の現われとは違ってきますよね。
そして、生命の心(靈)っていうのは、○○○大先生の著書から引用すれば、心(靈)の構造は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動であり、個々の心(靈)はだんだん進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するからこそ、本能より“上”の心(靈)が発現していくものです…っていうか、進化の必然」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「ですから進化程度の低い心(靈)は、低い心(靈)でしか何かを見ないし、低い心(靈)でしか認識しないからこそ、何を見ても自分の低い心(靈)=欲望の対象としてしまうのではないでしょうか。
 その心(靈)の動きによる見方(“観察と認識”)では、すべての事象が神聖なものであるという認識には到達し得ないと思います。
 さらに、低い心(靈)由来のものの見方、それは、セブンちゃんがとても嫌うことだと思うのです。 
それは、セブンちゃんがセブンちゃんのママの、和風のベッピンはんのSさん(しσ_σし)の仕事を嫌っていた。 
それを少し詳しく話せば、セブンちゃんのママは、過去にクラブホステスをしていた。 そのとき、セブンちゃんのママが相手をしていたお客は、自我が肥大し、セブンちゃんのママを、自分の欲望の対象としてしか見ていなかった人が大半。
でもセブンちゃんのママは、そのお客に媚びへつらい、毎日美容院に行き、厚化粧して着物を着たりドレスをまとったりしながら、お店に出勤していた。
セブンちゃんはそういうセブンちゃんのママを見て、セブンちゃんのママの生き方に疑問を持ち、不満を持ち、ときどきセブンちゃんのママのいうことをきかなかったことがあったってきいています。
また、セブンちゃんのママ自身が、目先の利益のためにホステスを続けていた事に疑問を持ち、それは自分の心(靈)を偽っていたことを自覚し始め、ちょうどそのときに○○○大先生と縁があり、○○○大先生の治療中、○○○大先生の老婆心ゆえの言葉、“Sさんは答えを知っているんだ”っていうその言葉の意味を考え、ちょうどそのとき○○○療院の玄関先でKellyさんと会い、Kellyさんと話す機会を持ち、自分の考えを確認するっていう意味でもKellyさんと話し、そして結果として、セブンちゃんのママはホステスを引退したのです。 
ちなみにそのときKellyさんは、セブンちゃんのママにこんなふうに話したのだそうです。

“お客はんにとってのホステスも、自分の欲望を満たすための道具でしかない。 そして、極端な一例として、低い心のホステスは、相手…お客はんでんな。 その心(靈)の低さを利用して、体を売ったりして(通貨としての)金を儲けたりもする。 おんなじ様に、低い心の発現のお客はんも、そのホステスはんを買ったりして、欲望の達成を果たし、低い功名心と自尊心を満足させ、お客はん自身は以下に社会的名誉を持っていたとしても、今までの人生で辛酸をなめたり、頑張ってきたとしても、結果、低い心の発現の人、霊的成長度の低い人は、自分の欲望の達成のために仕事をしてはる……。
ほんでから一般にも、それが目的で仕事をしてはる人も多い。
たくさんの金を儲け、たくさん、自分の低い欲望を満たす…それが幸せやと思うてる。物欲、食欲、性欲…アホみたいでんな。
そやからそれは、生きることについての認識が低すぎまんねん。 ほんでからそこには、自分に対する尊厳も、他者に対する尊厳も無い。そう思いまへんか?”

もうひとつ…

“ほんまに価値のある位(くらい)の高いって言うのんは、神さんが認める“日止、霊止”ってことでんねん。 そやからそれは、どれくらいの認識を獲得したのか。 どれくらい霊的成長を果たして神さんに近くなったのか。 言い換えれば、どれくらい苦しんでエネルギーを贖って(あがなって)、“行”したのかってことでもあるけれど、こんな言い回しは分かりにくいでんな。
そやから解りやすいことをいえば、Sはんのお店に来てSはんの体だけ求める人は、そんな人は神さん視点での位(くらい)が高いわけではない。 
当たり前でんねん。 
そんな心(靈)の動きの低い人は、到底、神さんは認めへんって話をしただけでんねん”

 この、Kellyさんの言い回しは、低い心(靈)しか持ち得ない人のことを指摘しているし、低い心(靈)の人(その進化過程)は、生きることに対する認識も低いし、自分にも他者に尊厳も見出せないし、心(靈)の動きの低い人は神様が認めないって言ってらっしゃいますが、そのとおりだと思います。
 ……すみません、ちょっと長い話になっていますが、もうひとつじゅんいちさんに知っておいて欲しい事として、アズキ君とセブンちゃんの恋が成就したいきさつをお話します。
 アズキ君とセブンちゃんが初めて会ったのはこの公園です。 
そのときアズキ君は、セブンちゃんに一目ぼれをしてしまい、そして自分の好意を精一杯示すために、セブンちゃんにお手をして、服従のポーズをとり、究極犬芸(ちんちん)をしたのですが、セブンちゃんにはアズキ君の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)が、○ン○ンを見せたようなものに映り、アズキ君のことを欲望中心の犬だと思ってしまった。 
だからセブンちゃんは、初対面のアズキ君に、セブンちゃんの必殺技“初対面のメス犬に、いきなり服従のポーズや究極犬芸(ちんちん)をして、○ン○ンを見せてるんじゃないわよ!!キ~~クッ!!”を食らわせた。
でもそこには、セブンちゃんの誤解がありました。
また、その技を食らって激しく落ち込んだアズキ君は、やけくそになり、私たちに理由もなく噛み付いたり部屋中スネションしたりして、ちょっとだけグレました。
ちなみにグレていたときのアズキ君の画像を以下に貼って示します。



アズキ君 普段の顔とグレた顔


でも、グレたアズキ君は、Kellyさんの諌言により、グレていた自分の心(靈)の動きを見出して、自省(胸の磁性“十”)しました。 
そしてアズキ君は、このままではいけないと思いました。 
それでアズキ君は、アズキ君のセブンちゃんに対する思いはとても貴く、重いものである事をアズキ君自身が知り、自分の思いをきちんとセブンちゃんに伝えるにはどうしたらよいのかをKellyさんに相談し、そのときKellyさんは、セブンちゃんと親しい人間である○○○大先生の意見を聞いたらよいのではないかって思い、○○○大先生を呼び、○○○大先生は犬○○○大先生
犬と化した○○○大先生 会話中 となって現れ、犬○○○大先生はセブンちゃんを呼び、セブンちゃんがアズキ君に対してどう思っているのかを訊ねました。
…そんな経緯があり、アズキ君はセブンちゃんの必殺技に対抗する技を獲得した。 それは犬○○○大先生の提案を受け入れ、犬Kellyさん
犬Kelly 会話中 と一緒に脚力をつけ、“ワンコ空中三回転”をアズキ君が努力して獲得し、その技をセブンちゃんに示した。
だからこそセブンちゃんは、アズキ君に好意を持った。
また、そのときのセブンちゃんは、アズキ君がセブンちゃんに対して抱いた好意、そのアズキ君の心(靈)の動きそのものに、アズキ君自身が真摯に向き合いっていることを感じ取った。 
そうやってアズキ君とセブンちゃん、二人(二匹)の恋は成就したのです」
犬じゅんいち君 会話中「…そうだったのですか。 この間セブンちゃんは“
セブン あせる えっ!! まだ話の途中だったのですが…それに私が話したことを勘違いしていらっしゃるのではないのでしょうか…”って言ってたから、今キナコさんが教えてくれたことまで僕に伝えようとしていたんですね」
バティ 「そうだと思います。 ただそこに、じゅんいちさんの早合点があった。
そしてセブンちゃんとアズキ君のつながりを、じゅんいちさんの価値観で見てしまった。だからセブンちゃんはじゅんいちさんに “初対面のメス犬をナンパして、たくさんエロいこと言って、挙句の果てに究極犬芸(チンチン)して、自分の逸物を見せびらかしてるんじゃないわよキ~~~クッ!!”を仕掛けたのだと思います」
ミュウミュウ「私たちが思うのは、人であろうが犬であろうが、個々の心(靈)であり、自分が自分以外の人間や犬、言い換えれば自分以外の心(靈)と巡り会った時には、巡り会ったこと事態に何かの意味があると思うし、そう考えるのが私たちの在り方であると思います」
コロン「また、巡り会った相手と心の動きの違いを感じたなら、それは、教訓を含むものであったりもすると思うのです。 
そして個々の心(靈)の出会い、それはセブンちゃんとアズキ君のように、深い恋に落ちたりすることもあるでしょうし、そしてお互いの好意、その心(靈)の動きの神聖さ、自分の思いの神聖さ、いろんなことに気づいていくものでもあると思います…っていうか、相思相愛」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「ですから、個々の心(靈)が、自分以外の心(靈)に相対する。 それはいろんなことがあると思うのですが、その一つ一つはとても大切であり、たとえそれが良いことでも悪いことでも大切であり、すべて自分の認識の糧になることであり、だからこそ神様は、誰かと誰かが巡り会うように霊縁を組んでくださっていると思うのです。 
 多分、アズキ君とセブンちゃんは、このことをしっかり自覚していると思うのです。
 それでじゅんいちさんがご覧になった、あの番組の企画、“女性を口説くスタメン”なんてのは、ただ自分の欲望を満たしたいがために、いろんなシチュエーションやアイテムを使う。 そしてそれを賞賛するかの様な番組でもあると思うのです。 
でも、そうやって仲良くなっても、それは自分たちが深い認識を得ることにつながるのでしょうか」

犬じゅんいち君 会話中「…そうですね。 おっしゃるとおりですね。 僕が今まで持っていた僕自身の価値観とその価値観由来の“オス犬とメス犬の関係の認識”…これが如何に低いものであったかを少し理解できたように思います。 ありがとうございます。
 それでひとつ質問なのですが、あなたたちは今のお話でたくさん心(靈)の動きのことを説明してくれました。 
それは、心(靈)の動きってことに、あなたたちはとても深い認識を持っているように思います。 どうやってその認識を獲得されたのでしょうか」
バティ 「それは、僕たちがKellyさんとたくさん話をしたからです」
ミュウミュウ「私たちは、人間の行動に疑問を持ち、たくさんKellyさんに質問をしました。 Kellyさんは人間の習性と、その裏にある心(靈)の動きを教えてくれました」
コロン 「それでよく分かったのは、自我の特性、自我の肥大、自己奉仕者、自分に対する愛(炁)しか発現していない人の心(靈)の動き…っていうか、“日月神示”表記の“われよし”」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン「ですからじゅんいちさんも、Kellyさんといろいろ話をされたらよいのではないかって思います。 老婆心ですが…」

犬じゅんいち君 会話中「そうですか。 それはぜひKellyさんと話をしてみたいと思います。
それで今の僕はまだいろんなことが分かっていないけれど、もう少したくさんの認識を得たなら、また皆さんとお話させていただいてもよろしいでしょうか」
バティ  「もちろんです」
ミュウミュウ「私たちがじゅんいちさんと出会ったのも」
コロン「神様が組んでくれた霊縁だと思います…っていうか、合縁奇縁」
キナコ Kellyお手製ブラジャー(ちちふんどし)パレオ(おこし)装着バージョン
「じゅんいちさんがKellyさんと話をして、たくさんの認識を獲得されることを祈ります。 
そして今夜、じゅんいちさんと話した内容を、アズキ君とセブンちゃんにも伝えておきます。 それは、いつかじゅんいちさんが、アズキ君とセブンちゃんと話せるようにってことです」

犬じゅんいち君 会話中「ありがとうございます。 今夜は僕のためにいろいろお話いただいてありがとうございました。 また会えるときを楽しみにしています。  それでは失礼します」
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……Kellyさん、起床……
Kelly 会話中  …またもや長い夢やったな。 ほんでから今度はKellyさんがじゅんいち君と話をせんならんことになってるやないか。 例によってこの文章を作ってる○○○大先生が仕組んだ強引な展開やな。
 …まあエエわ。 
じゅんいち君と有意義な話ができることを、楽しみにしときましょ。

 …っちゅうことで、今回はこれくらいにしときまんねん。 

“日月神示”日月の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈


今回も、日月の巻 第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。 その上に水ならばまだはいるのざぞ。
神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。 神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。
江戸の仕組 世の終わりぞ。 天おろがめよ。 つちおろがめよ。 まつはれよ。
秋の空グレンと申してあろがな。 冬も春も夏も気つけてくれよ。
十一月十三日、ひつ九か三。

 この第二十三帖の前半の文は、間違いなくたんぱく質の高分子化、肉体組織の結晶化、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の事を示唆した文章であると思う。 
 人の肉体は、視点を変えてみれば一個の大きなコンデンサーであり、コンデンサーだからこそ霊=○、荷電粒子の場(フィールド)が、憑依することができる。
だがその憑依には、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則性である同調ってことが大事。 
だから低い心(靈)の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))には、低い霊的存在=“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑の霊的存在が感応共振するものである。
また自分の心(靈)も、荷電粒子の回転で構成されていることが理解できていて、これまでたびたび述べてきた“一二三”のオーラのこと、そして肉体の構造によるサイクロトロン(“江戸と尾張”)やシンクロトロン(“慈悲”と“慈愛”、自省(胸の磁性“十”)の“行”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)。
そして“上”からの荷電粒子と反応(“日止、霊止”っていう古神道の表記の意味するところ)。
さらに、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく過程で構築されてきたともいい得る心(靈)の動きの“上”から“下”である、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、これが理解できていたならこの文の意味はよく理解できると思う。
 今述べたことを踏まえ、冒頭の“一升枡”は、電気容量のことを述べられており、“豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来る”と“その上に水ならばまだはいる”は、“豆”だけなら空洞だらけで低密度、それに“粟”を加えれば高密度(真固止、“修理固成”(しゅうりこせい)が意味するところ)になることを示唆していると思う。
さらに錯体の入れ物としての“水”って表記まで成されているからこそ、冒頭の“一升枡”、これは人(日止、霊止)の肉体のことである。
そしてこれに続く“神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。”は、これまで幾度となく述べてきているように“上”の思惑=天意を受信できる肉体は、“行”による生体内電流で肉体組織が結晶化しなければならないし、それが本当の意味での“宝玉の仕組み”であると、○○○大先生は自分の“行”(太陽凝視、月の凝視、電気行)を通じて認識している。
また、人(日止、霊止)の存在理由は、神の“思惑の顕現”=現象化でもあるからこそ、霊的成長、進化があるし、生命が進化する根拠はそこにある。
(だがこの概念は、平均的地球人の低い認識ゆえの進化論では、説明ができないことでもある)
 それでこの文の“神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。”は、現時点での“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)が大半の場(フィールド)での、この事象とは違ってくるっていう相対的な比較の上での言い回しであり、今の世界はケダモノに近い心(靈)の人が活躍しているからこそ、神の思惑は顕現されていない。 当たり前の事だけれど、神の思惑を顕現できる肉体と心(靈)の条件を持ちえた“日止、霊止”=“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”できた人ばかりになったなら(アセンション後のこと)ば、“人が思はぬ事出来る”“千人力与へる”(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の憑依による事)ってことになり、それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”が当てはまる事象になるってことだと思う。
 そして次の文の“江戸の仕組 世の終わりぞ。”は、現時点での平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)=“江戸と尾張”(腹の水、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)の事を言われ、その進化過程の段階のままでは自我の肥大(“石屋の仕組み”)を招き、先に進まない=自己奉仕者が創造した文明は壊滅するっていう意味で“江戸の仕組 世の終わり”って言われている。
そして、それに続く文の“天おろがめよ。 つちおろがめよ。 まつはれよ。”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことで、それは“天おろがめ”=天意を意識しろ=その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になれ。
“つちおろがめ”=“つち”は肉体(土=2~3番目のオーラ)のこと、肉体の作り変わり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を意識せよ)。
“まつはれ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)そのものの意を述べられていると思う。
そして“秋の空グレンと申してあろがな。 冬も春も夏も気つけてくれよ。”は、“秋”は“日月神示”表記ではこれまでも述べているとおり、やはり自省(胸の磁性“十”)のことをさしていると思うし、また人の心(靈)が認識する事象としての春夏秋冬=季節は、“上”からの荷電粒子に種類があることを示し、秋以外の季節は、例えば今、春だが、春は動物の発情期でもあり、それはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラの刺激であり、太陽光線も赤外線の波長が多いときでもある。 
要は、四季による“上”からの荷電粒子との反応っていうのは、人の肉体と心(靈)が“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するってことなんやけど、今大切なのは“秋”の振動、それは心(靈)の動きとしての、自省(胸の磁性“十”)=東洋医学の概念の脾(“思う、憂う”)である事を指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

お宮も壊されるぞ。臣民も無くなるぞ。上の人臭い飯食ふ時来るぞ。
味方同士が殺し合ふ時、一度はあるのざぞ。大き声で物言へん時来ると申してあろがな。之からがいよいよざから、その覚悟してゐて下されよ。
一二三が正念揚ぞ。臣民の思ふてゐる様な事でないぞ。
この神示よく腹に入れておけと申すのぞ。ちりちりばらばらになるのざぞ。
一人々々で何でも出来る様にしておけよ。
十一月十一日、ひつ九か三。

 この第二十二帖、この文も、前回の第二十一帖同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化程度の人に向けたメッセージであると思う。 
 それは今、既成の宗教っていうのは商売に成り果て、一般の人の宗教に対する認識も、「宗教なんてこんなものだ」って認識しかない。 それが如実に現れているのが、例えば、パワースポットをありがたがるとかでもあるが、それはただご利益を求めるだけでしかなく、そしてただパワースポットに来たって、雰囲気を楽しむだけでしかなく、先に述べたように如何に現世利益で商売をしている既成の宗教が一般の人の宗教の概念を腐らせたのかってことを感じるものであり、仮にパワースポットに高い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在が居たとしても、自分がエネルギーを贖わずパワースポットに来ただけで何か良いことがおきるなんてとても甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いを持っている心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の持ち主に“力”を加えるわけがない=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がおきるわけがない。 
そして甘い(亜、魔、出ずる、泉)思いには、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きの霊的存在が感応共振するっていう当たり前のことすら分かっていない人のほうが大多数でもある。 
それで、このことを考えてみても、如何に大半の人の神や霊やスピリチュアルに対する認識が腐っているのかって事がよく分かるものでもあるし、これは既成の宗教に限らず、“役員づら”=形骸の宗教、アセンションや霊的成長、心霊、スピリチュアルなどに対し甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たちすべてにいえることだし、またそれを容認している人すべてが、ただ低いってことでもある。
そして、その意味のことを述べているのがこの文の冒頭の“お宮も壊されるぞ。臣民も無くなるぞ。上の人臭い飯食ふ時来るぞ。”ってことであり、先に述べた形骸に成り果てたなにかには、そんなものに価値がないってことが示されるであろうし、そして“臣民”って概念も今の指導者たる者が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)で自分たちの権威を示しているだけの事に気がついてないからこそ“臣民も無くなるぞ”と言われている。 ちなみに臣民は、君主国において、君主の支配の対象となる人々。 明治憲法下において、天皇、皇公族以外の国民っていう意味でもある。
 そしてその形骸の権威を示す者たち(“役員づら”の一部)の行いは、そんなものに価値などない、神が認めたものではないってことを、多分これから示されるだろう。 
またそれは最近ニュースで示されたプロスポーツのように、(通貨としての)金と権威=自我の肥大=“石屋の仕組み”で構築されたものであり、その心(靈)の動きを持つもの、それは今後=アセンション後には存在を許されないからこそ“(形骸の権威や地位の)上の人臭い飯食ふ時来るぞ”って言われていると思う。
 
そして次の文は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きで出来上がっている今の事象を指摘していると思う。

“味方同士が殺し合ふ時、一度はあるのざぞ。大き声で物言へん時来ると申してあろがな。”

 前回の第二十一帖でも指摘したとおり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをする人は、目先の低い欲望の達成のためにエネルギーを贖い(あがない)、それに応じた霊的干渉があり、それは他者に対して貴さとか尊厳とかって認識などまったくないかのように見えるが、これに気付いている人はほとんどいない。 
そして今、他者に対して尊厳を見出していない人ほど、商売で成功したり、薄っぺらい価値のものを多く集めたりもしているものである。 
また、このことにもほとんどの人が気付いていないものでもある。 
そしてそれは、この文の“味方(だと思っていた人)同士が殺し合ふ時、一度はある”とか“(見せ掛けの形骸の付き合いや人間関係なので)大き声で物言へん”とか言われていると思う。

 そして次の文。

“之からがいよいよざから、その覚悟してゐて下されよ。
一二三が正念揚ぞ。臣民の思ふてゐる様な事でないぞ。
この神示よく腹に入れておけと申すのぞ。ちりちりばらばらになるのざぞ。
一人々々で何でも出来る様にしておけよ。”

 “之から”=今後=アセンション後であり、それは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が間違っていたなら=“一二三が正念揚”(注 “一二三”のオーラ)であり、それは、自己奉仕者の心(靈)の動きを自分に容認していたならば、アセンション後の事象に移行できる資格は無く、だからこそ“いよいよざから、その覚悟してゐて下され”と言われている。 そして今の成功者とか、形骸の権威を持つもの=この文の中の表記の上とかは、今位(くらい)が高いとか褒めそやされたりしているが、先に述べたようにそんな者には価値は無く、だからこそ“臣民の思ふてゐる様な事でない”って称されている。
 そしてこれに続く文は、何回も“日月神示”内の表記で言い表されている事、腹の心(靈)=自我、それを制御できる思想、それは“上”の思惑を自分に取り込んだ思想、それを獲得せよっていう意味で“この神示よく腹に入れておけと申す”って言われている。
 そしてそれに続く文の“ちりちりばらばらになるのざぞ。 一人々々で何でも出来る様にしておけよ。”は、自分が自分の在り方を見出し、“役員づら”の情報や間違った認識に踊らされず、また形骸の権威や価値観に踊らされない心を持たなければならないが、そうなると自分は一般の人からかけ離れた思想や価値観を持ち、低い霊的成長度の人とはどんどん縁遠くなるものでもある(これは○○○大先生が経験していることでもある)。
それがこの文の“ちりちりばらばらになる”ってことであり、信じる何かは、自分の中の貴い基準、それは天意を受信して得られた天の御目(あめのおめ)でしかなく、それを獲得したならばもう方向性を見失う事はないから“一人々々で何でも出来る様”になるってことでもあり、そうなれば“上”はその人が(アセンションに移行する際におきる醜い事象において)どんな目に遭おうとも、“上”は見放したりはしないってことを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十一帖 Kellyさん的解釈

今回も、日月の巻 第二十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ。神示よんで聞かして呉れよ。
声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。
火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。
引くり返るぞ。世が唸るぞ。神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか。
仕組通りにすすめるぞ。神待たれんぞ。
十一月十日、ひつ九か三。

 この文も、前回の第二十帖同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化程度の人に向けたメッセージであると思う。 
そしてこの文においては、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動き=自我の肥大=“石屋の仕組み”を、改めるために、冒頭で“人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ”と言われており、これまで何回も述べているとおり“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の心(靈)は、人にも、自分の仕事(生業(なりわい)=自分に課された使命)にも、尊厳や貴さを見出さず(見せ掛けの言葉を使ったり行動はするが…)、ただ自分の利益を追求し、自分の利益を追求する心(靈)の動きは低い欲望の達成って動機があり(目下(めした)の心(靈))、それが動機で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する。
当然のことながらそれは“人まづ和し、人おろがめよ。拍手打ちて人とまつろへよ”ではない。
その具体的な心(靈)の動きが現れた事が、他者を、欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、奪うとかでもあるけれど、体裁の良いものを利用するとか、耳心地の良い言葉を引用するとか、功績のあった人に肖る(あやかる)とかをするので、何が本当で何が偽者なのかを見出す基準を持たない(進化程度の低い)人は、このことが分からないし気付きもしない。
また、何かに肖る(あやかる)っていうのんは、たいして自分のエネルギーを贖う(あがなう)ことなく、利用するし、だからそれは、このブログで幾度と無く指摘している“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)には気をつけて欲しいのだけれど、これに気付く人はほとんどいないっていうのが、本を出版して全国から142人の読者から連絡を貰い電話やメールのやり取りや、○○○療院に直接おいでになった方々に話をした○○○大先生の感想でもある。
(連絡をいただいたほとんどの人は、ただ言葉に酔うとか、雰囲気を楽しんでいるだけの人が多かったってことで、自分の生き方を真剣に考えている人はごく少数であったってこと)
また程度の低い進化程度の人は、程度の低いものを好むっていう“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の法則もあるので、この世界は程度の低い腐ったものでいっぱいというのが、Kellyさんと○○○大先生が感じていることでもある。
しかし“上”の存在は、そのままではいけない、何とかしてアセンションの時期に間に合う人間を増やしたいからこそ、(教祖に対する憑依現象が中心であるが)宗教を興し、チャネラーを通して情報を伝えたり、ローム太霊がS会=紫光会を発足させ人(日止、霊止)の道=神格化を説いたり、“日月神示”でも同様の理由で岡本天明に“上”がかかり、書かされていたものであるが、意味を履き違えている人も多いし、“役員づら”に成り果てて、(自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度によるところの)自分に解釈できる文章だけ引用して本を出版したりサイトを運営していたりする人も多いが、これは自我の肥大=低い功名心と自尊心、ディスプレイ(その人に取り憑いている動物霊の発情行動)があることを指摘しておく。
少し余談になった。

そしてこの文に続く“声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みっていうのは、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”であり、富士の富は、宀(うかんむり、頭の意味)と“畐”、また“渦うみ、水極(みぎり)”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを指す。
だからこそ“声出して天地に響く様のれよ。火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのざぞ。
火近づいたぞ。水近づいたぞ、厭(いや)でも応でもはしらなならんぞ。”って言われており、“声出して天地に響く”は、“日月神示”表記の“言波”(地つ巻 三十四帖の表記)の“言(こと)”と同義で、またそれは、事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動きであり、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、オーラでもあるし、オーラの相互干渉が=個々の心(靈)が発振、発信する電磁波が、事象の存在を感じ(感じる磁性)させている。
(ただ単にそこには、“上”と“下”があるって事でもある)
それでこの文の重要なところは“声出して”=自分が発振、発信して、“火(ひ)と水(み)、ひふみとなる”=頭と腹は、“ひふみとなる”=“一二三”のオーラになるって事でもある。
そして今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の人たちの心は“厭(いや)でも応でもはしらなならん”って言われているとおり、早く“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねばならんって言われている。

 次は、第二十一帖の最後の文。

“引くり返るぞ。世が唸るぞ。神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか。
仕組通りにすすめるぞ。神待たれんぞ。”

この文は、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画だからこそ“仕組み通りにすすめる”“神待たれんぞ”と言われ、また低い霊的成長度の者は、低い霊的成長度の何かにすがり、ただありがたそうな言葉や雰囲気に酔っ払ったりしているものが多いが、本当に自分の生き方を考え、真実=真固止を見出そうとする心の持ち主=心(靈)が“上”に向かいつつあり、自分に対しても“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持つ者は、今のような“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する事象を創造しない(“石屋の仕組み”)からこそ、“上”に認められた者は“上”が組んだ霊縁により、集まってくる=“神示よめば縁ある人集まって来て、神の御用するもの出来て来る事わからんか”ってことを示唆した文章であるのを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の用意は何もかも済んでゐると申してあろが。 臣民の洗濯 早よ致してくれよ。
さらつの世の用意 早よしてくれよ。
今度の世には四十九の御役、御仕事あるのざぞ。四十九の身魂と申してあろがな。
神の申したこと次々と出て来ておろうがな。 早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は暫く此の神示出ぬぞ。 大切の時には知らすなれど、そのつもりでおりて呉れよ、ヌの種 大切にして下されよ。毒吐き出せよ。
十一月の八日、ひつくのか三。

 何度も述べているように、アセンションは、霊的成長度において(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区別するための事象であるし、それは“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、それは、言い換えれば、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための計画であり、その時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が近いから“日月神示”は書かれたという事情(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“下”である人間に知らせた)があるし、アセンション後に移行できる最低限の資格は心(靈)の在り方を見出す=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”できて、自省(胸の磁性“十”)の“行”を果たした人でもある。 
だが、大半の地球人は自我の確立=固定化から自我の肥大をしている人が多いからこそ、冒頭の文のように“神の用意は何もかも済んでゐると申してあろが。 臣民の洗濯 早よ致してくれよ。”と言われている。 
それで、先に述べた今後=アセンション後に移行できる最低限の資格を持ちえた人は、第十九帖で初めて出てきた表記の“さらつの世の元”であり、その詳細は第十九帖を見てもらうことにしてここでは詳細に説明しないが、ちなみに第十九帖では以下のように言われている。
“今度のさらつの世の元となるのざぞ”
 そして第二十帖では“さらつの世の用意 早よしてくれ”と述べられているが、個々の心(靈)が行わなければならない“用意”は、先に述べたように心(靈)の在り方=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”である。
 それでこの文に出てくる“四十九”は上つ巻 第十三帖に出てきた表記でもある。
 そのときはうまく解釈できなかったが、今なら以下のように解釈できる。
“四”は、発振、発信、“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。 “十”は、胸の磁性“十”(シンクロトロン)、“慈悲”と“慈愛”。 “九”は、○ 九 十 の“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”(亜から出ずる、アイ)(智性=1番目のオーラ)(“創造”の“主(ヌシ)”の表記)。
 要は“四十九”は、天意を受信(感応共振)して、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった人が胸の磁性“十”(シンクロトロン)で発振、発信して、そのオーラの相互干渉で事象の“創造”をするってことだと思う。 
そしてそれは先に述べた第十九帖の“さらつの世の元”になりうる人ってこと。 だから次のように述べられている。
“今度の世には四十九の御役、御仕事あるのざぞ。四十九の身魂と申してあろがな。”
 そやからそれは、改めて、上つ巻 第十三帖を読むとよく分かる。

“元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。”(上つ巻 第十三帖の原文の一部)

 この文でも、“仕組は成就する”“世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れ”(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化)“これが世の元の神の数”“これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となる”って部分では、今後=アセンション後の“創造”を担う人のことがよく分かるはずである。

それで以下の文は、アセンションに伴う事象の変化、やってきた事の結果はすべて出ること。 またそれは、キリスト教でいうところの最後の審判に相当する。 
“神の申したこと次々と出て来ておろうがな。”
だからこそ今、自己奉仕者の行いは暴かれ、自省(胸の磁性“十”)の“行”に入らされている。 
それで次の文は、心(靈)の在り方を言っている。
“早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は暫く此の神示出ぬぞ。 大切の時には知らすなれど、そのつもりでおりて呉れよ、ヌの種 大切にして下されよ。毒吐き出せよ。”
 ことにこの文の“早よこの神示腹に入れよ。 早よ知らしてくれよ、今迄の神示 役員の腹に入る迄は”が大事で、自分の自我は、自我より“上”の心(靈)で制御されなければならない。 それは、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”の心(靈)でもあるし、それが分かっている、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”ができ、そういう人ならばこの文の“ヌの種 大切にして下され”ってことになり、“ヌ”は、第十八帖と十七帖の表記の、“ヌホコ”と“ヌホト”の“ヌ”に相当し、そしてそれは第十八帖で以下のように解釈した。

“ヌ”を、たびたび引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から紹介すれば“まもり強き神の心…中略…汝身それなし得ずば…”と記されており、これは神の理(ことわり)=法則性、“日月神示”表記なら“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と共通の意味であると思う。(引用終わり)
 
 それで、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るには、自我の肥大を自分で見極め、自分がやってきた事の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、自分の心(靈)の中に巣くっている内在する悪を見出さなければならないからこそ、この文では“毒吐き出せよ”と言われていることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。
 

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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