“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”日月の巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日月の巻 第二十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。
神の事いふよりみことないぞ。
物云ふなよ。みこと云ふのぞ。
みこと神ざぞ。道ぞ。アぞ。
世変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。
光食へよ。息ざぞ。
素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。急ぐぞ。
うなばらとはこのくにぞ。
十一月二十五日、一二 ローレンツ力と ○

 第二十九帖の“みこと”って表記は、以前、地つ巻で解釈した“実言(みこと)”と共通の意味を持つと思う。 よって地つ巻 第一帖の解釈から、以下にコピペ。

“実”は、みのる、完成、真実の実。 
“言”は、言葉、言葉は心(靈)の発振、発信、それと意思、意志、思惑を伝える道具、また、事象を認識する道具。 
それを踏まえ、この文の“世界は一つの実言(みこと)となる”と“それぞれの言の葉はあれど、実言(みこと)は一つとなる”は、人間の感じうる事象は、一つの方向性しかなく、それは進化=霊的成長、神格化に向かうことであり、そして、“てん詞様の実言(みこと)に従ふのざぞ”と称されている通り、“上”の思惑を受信して自分の思想にする人(日止、霊止)が指導者になることを指し示しているし、それが本当の天皇の意味であると何回もこのブログで述べた。 そして、“命(みこと)”は、使命、存在の理由、存在の意義を指し示し、霊的成長度が“上”になれば、それより“下”の人は、それに従うって称されている。
さらに、今の形骸の価値観で=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観と認識で、位(くらい)が高いとか偉いって思われていることは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から見れば大して価値の無いことでもあり、またその人たちは自我が肥大していて、恨みの連鎖の霊的干渉を増しているから進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性ではない。
だから今の人間の思っている上と下はひっくり返る。 そんな表記も今まで解釈してきた上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻に、何回か出てきている。
そやから地つ巻の第一帖は、その意味のことも述べていると思われる。
また、“てん詞様”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を顕現するのだから、その“創造”は、真実=真固止、○ 九 十(まこと)、そして“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)でもある。
それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかってことが無い。

 引用終わり。

 今まで述べてきたように、人の存在の意義は、人っていう字に示されるとおりでもある。 神の思惑の顕現の意味を持つ丿部(へつぶ)と、人の思惑の顕現の意味を持つ乚部(いんぶ)で成り立つ。
また、神の思惑の顕現をするために“上”からの荷電粒子を止めるっていう表記が古神道の表記の“日止、霊止”である。 
そして“上”からの荷電粒子は、神の思惑っていう情報を持っており、それは、太陽から、あるいは宇宙の大極、中心と認識されうる場(フィールド)から注がれる“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、だからこそ“日止、霊止”は、それを止める意味ってことでもある。
そして生命(生きる使命=存在理由)である“日止、霊止”は、何を顕現するのか、何を、どんな“創造”を“上”から託されているのか。 それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”であり、それを達成するために、今、心(靈)は(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)によって)成長させられており=“苦”と感じることを体験させられて、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して、“上”との感応共振ができるようにされているともいい得る。
(ちなみに“苦”という字は、芽生えるの意である艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、胸の磁性“十”(自省の心、“慈悲”と“慈愛”)と、場(フィールド)(肉体の場合は腹)を示す“口”で構成されている)
これらのことは幾度となく述べてきたことであるが、今回、(日月の巻 第二十八帖の)スサナルの漢字表記、“素盞鳴尊(スサナルノミコト)”を見て、その解釈をして、このことを思わされるものである。 以下に“素盞鳴(スサナル)”の解字の画像を示す事とする。
“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字

画像にも少し書いたが、“素”は原材料の意味があり、事象の“創造”と生命(生きる使命=存在理由)の素は、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”の、“ア”“亜”である。 ちなみに混同されがちな“元”の意味は、元に戻るとか、元からやり直すとか、それは時間の進行とある程度カタチになったものに対し、その過去のカタチの意味を持ち、例えば元教師とか元議員とか元暴力団員とか…って表記が分かりやすい。
少し余談になったが、今述べたことを踏まえて、第二十九帖の解釈に入る。

まず冒頭の文。
“一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。 神の事いふよりみことないぞ。 物云ふなよ。 みこと云ふのぞ。 みこと神ざぞ。 道ぞ。 アぞ。”

この文の“一日一日(ひとひひとひ)”は、時間の進行であり、よって“日月神示”表記の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))のように時間が進めば、神の思惑は顕在化して、進化した生命(生きる使命=存在理由)である人は、より“日止、霊止”になり、“上”の思惑を受けて“実言(みこと)”を顕現し、そのために“創造”し、それを自分たちの心(靈)が“観察と認識”するものである事を示唆した文であると思う。 そのことが表れた表記が“神の事いふよりみことない”であり、“神の事”を“いふ”(発振、発信)こと以外に“実言(みこと)”は無いっていう言い回しであり、自分たちが外側(外国と幽界)の事象に感じている“物”を“云ふなよ”は、外側(外国と幽界)の事象に真実=真固止は無く、自分たちの認識(悟り、幸取=さとり)が真実=真固止であり、事象の“創造”は“思惑の顕現”=現象化であり、真実=真固止の認識を持った人、霊的成長した人(日止、霊止)でなければ、神の“思惑の顕現”=現象化、“実言(みこと)”は成し得ないことをいっていると思う。 それが“みこと云ふのぞ”の意味だと思う。
 そして“みこと神ざぞ。 道ぞ。 アぞ。”は、“実言(みこと)”=神の“思惑の顕現”=現象化であり、だからそれは“神ざぞ”であり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)だからこそ“道ぞ”であり、“素盞鳴(スサナル)”の“素”だから“アぞ”であり、それはまた、第二十八帖の“アは (ヒツキクニ)の神様なり”の“ア”と同義でもある。 以下に第二十八帖で紹介した“ヒツキクニ”の解釈の画像を貼っておく。
ヒツキクニの解釈 その一
ヒツキクニの解釈 その二


 次の文。
“世変るのぞ。 何もはげしく引上げぞ。 戦も引上げぞ。 役に不足申すでないぞ。”

 この文はいうまでも無くアセンションのことを示唆しており、またアセンションが霊的成長度において分けられる作業であることを示し、それはこの文の“何もはげしく引上げ”と“戦も引上げ”に示されており、“引き上げ”られない霊的成長度の人間は、自我の肥大をして困難や試練を避けたり、困難や試練に遭遇した自分に対しての自分の在り方を見出さず、ただ甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見たり、困難や試練を真剣に考えず逃げるから快楽におぼれたりもする。
 しかし困難や試練は、自分が育つためのことであり、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするために“上”から与えられるものであり、それを乗り越えて自省したならばそれは認識の拡大=霊的成長になるものであり、それがまた“役に不足申すでない”の“役”である。

 次の文。
“光食へよ。 息ざぞ。 素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。 急ぐぞ。 うなばらとはこのくにぞ。”

 “光食へよ”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、そしてそれは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)(“一二三”のオーラ)であり、“素盞鳴尊(スサナルノミコト)”は、“上”からの荷電粒子を自分が受けることが尊いってことであり、第二十八帖の解釈で述べたとおり、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物である自分たちと、自分たちが感じ(感じる磁性)得る(“観察と認識”をしている)事象、その両方の意でもある。
そして“急ぐぞ”は説明は要はない。
そして“うなばら”は海原であり、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンでもあるし、その意味は、自我で認識する事象=物質の世界(外側(外国と幽界)の事象)である。 そして自分の外側(外国と幽界)の事象を感じ(感じる磁性)るのは、“このくに”で、“くに”は、“国”は、自分の心(靈)、 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  であり、その自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)得る現津(あきつ)、観察され得る事象を、“うれしうれし”“大歓喜”にするには、先に述べたことと重複するが、補足説明としてこの文の冒頭の“光食へよ”であり、それはまた、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするための“行”、“日月神示”表記の“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その八” 


 Kelly 会話中
 …っていうか、このカテゴリーもいろんな犬キャラクターが登場してきているから、だんだんこのタイトルにそぐわないものになってきているけど、これを読んではる人には、あしからずご了承くださいでんねん。
 ほんでから例によってKellyさん爆睡中でんねん。 
そして、前回の続き、○○○大先生が仕組んだ強引な展開やから、Kellyさんは犬Kellyになってからじゅんいち君と話をすることにしときまんねん。
  Kelly 会話中→ 犬Kelly 会話中   
(Kellyさん、例によって犬Kellyに変身)

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犬じゅんいち君 会話中 「こんばんワォンワォン初めまして犬Kellyさん、い○ださんちのじゅんいちです。 Kellyさんにおかれましては、わざわざ犬に変身して登場していただいて恐縮です」
犬Kelly 会話中「こんばんワンコ、こちらこそ初めましてでんねん、じゅんいち君」
犬じゅんいち君 会話中「それで、今回犬Kellyさんをお呼び立てしたのは…」
犬Kelly 会話中「話をさえぎってなんやけど、Kellyさんは、前回、チョ~ベッピンはんのA野はんの愛犬たちとじゅんいち君が話をした一部始終を知ってまんねん。 
そやから事細かに、じゅんいち君の意向を述べる必要はおまへんねん。 
今夜は、じゅんいち君自身が気がついた低い価値観由来の認識、これについてたくさん犬Kellyさんと話をしようやおまへんか」
犬じゅんいち君 会話中「さすが、犬Kellyさんは僕が何を知りたいのかすでにご存知でいらっしゃる。ありがとうございます」
犬Kelly 会話中「そんなふうに言うてもろて恐縮やけど、Kellyさんは、セブンはんやチョ~ベッピンはんのA野はんの愛犬たちとじゅんいち君が話してたのを(夢で)見てただけや。 
そやからKellyさん的に思う大事なことは、その会話で、じゅんいち君が何を感じ、何を思ったってことやおまへんか。 
それを言い換えれば、これまでのじゅんいち君の認識による感想とか、またその会話でじゅんいち君の心はどんなふうに動き、新たな認識を得たのかってことやと思うんやけど。
そやから、セブンはんと話し、それからチョ~ベッピンはんのA野判の愛犬たちと話し、それからのじゅんいち君は何を感じ思うたのか、それをじゅんいち君に訊ねたいんやけどエエやろか?」

犬じゅんいち君 会話中「…そうですね…犬Kellyさんのおっしゃるとおりですね。

(そうか…大事なのは僕自身の内面とか内側(心の中と感じている事)…要は、僕自身の認識の変容なんだな)

 それで、先ほど犬Kellyさんもおっしゃったように、“低い価値観由来の認識”…僕の心は、その低い認識にとらわれていたっていうのか、それしか無かったっていうのか、その僕自身の認識に価値があり、それがすべてだと思っていたのかもしれない…。
 だからこそ僕は、セブンちゃんと初対面のときに、セブンちゃんにアズキ君っていう彼がいることを聞いたにもかかわらず、セブンちゃんのあふれる魅力に僕が欲情して…それは僕が自分の本能由来の欲望を満たしたいって思惑で、こんな軽佻浮薄な事を言ってしまった。
今、僕が抱いた君への気持ち、僕はその気持ちに恭順でありたいって思う。 だからぼくとウルチョラスィートな愛のある話をしようじゃないか

さらに僕は、このセリフを言う前にも、こんな事を言ってしまったんだ。
そうなのか、君にはアズキ君という彼がいるのか。 でも、僕にとって、そんな事はたいした問題ではないし、どうでもいい事なんだ

 そして僕は、僕自身がそれまで持っていたメス犬に対しての価値観を、すばらしいもののようにセブンちゃんに吹聴して話してしまった。
僕にはたくさんのガールフレンドがいる…僕はいつもモテモテだ…こんなモテモテな僕と知り合いになれて君はとっても幸運だと思うよ。 だから僕と親しい間柄にならないかい? それは君にとって決して損な事ではないと思うよ

そして僕は、初対面のセブンちゃんに、自分の欲望丸出しでこんな事を言ってしまった。
君と一緒にウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを毎日食べようじゃないか。 
そして時には、石○純一氏が言っていたように、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードにかまぼこを入れてもらい、お互いの精力をうんとたかめ、激しくプレイするのもよいだろう
”って。
なんと僕は、このとき初対面のセブンちゃんに“激しいプレイ”をする事まで提案してしまっていた…。
なんて軽率な態度だったんだろうか……。

…そしてそのとき、セブンちゃんは以下のように話して、僕を窘めた(たしなめた)ことを思い出します。
今あなたがおっしゃられたように“ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードを毎日食べようじゃないか”、そして“そして時には、石○純一氏が言っていたように、ウルチョラスーパーベリベリデリシャスドッグフードにかまぼこを入れてもらい、お互いの精力をたかめ”などというのは、まっとうな犬にあるまじき事だと思いますし、それが仮に人間の場合でも“お互いの精力をたかめ、激しくプレイする”などと考えるのも、男と女の関係を性欲中心にしか見ていないと思います

 そしてセブンちゃんは、こうも話していた。
私は、私とアズキ君との関係がとても大事であり、とても幸福だと感じています。 だから私は自分の人生(犬だけど)を、とても楽しいものだと認識しています。 
そしてそれは、あなたが言うように決して“アズキ君に義理立ていて、君自身の人生(犬だけど)を楽しんでいない”などということではありません。 
私がアズキ君に出会ったのはとても神聖な出会いだと思いますし、それは私とアズキ君がお互い感じていることでもあります


 こんなふうにセブンちゃんは、僕に男と女の関係(犬だからオスとメス)の神聖さを述べてくれた。 それは、セブンちゃん(の心(靈))が感じた、セブンちゃんとアズキ君の関係から得られた深い認識だったのだと思います。 

そして今の僕は、そのセブンちゃんの認識(悟り、幸取=さとり)が、とても貴い事だと思い始めている…。

でも僕は、セブンちゃんとアズキ君のつながりを、僕の“低い認識”で見てしまい、勝手な思い込みをしてしまったから、以下のようにセブンちゃんに話してしまった。
君が、アズキ君以外のオス犬とプレイした事が無いからそう思うのではないのかな。 
 だから僕には、君の言う“私がアズキ君に出会ったのはとても神聖な出会い”って言う理由が分からない。 
それは、人間が読んでいる本の中にも、多数の異性と交尾するような関係を多く持ったなら自分は神に近くなり、それが霊止だって内容のものもあるようだし、その本は多くの人間に支持されているようだけれども、僕はそれがもっともだと思う。
だから、今、自分たちの欲望に恭順でなければ、僕たちの生きていること、存在の意義っていうものを見出せないと思うけど…だからこそ僕は、君に“君の彼のアズキ君に義理立ていて、君自身の人生(犬だけど)を楽しんでいないかのように見える”と述べたのだ
”って。

 …今、僕が思い出したセブンちゃんに話した事の内容や、そのときの僕の態度…それを振り返ると…僕はとても恥ずかしい…。

 さらに僕は、前回、アズキ君の同居犬たちの話も聞き、そしてキナコちゃんに、セブンちゃんとアズキ君の恋が成就した経緯(いきさつ)を、こんなふうに聞かせてもらったけど、そのときキナコちゃんはこんな事も言っていた。
進化程度の低い心(靈)は、低い心(靈)でしか何かを見ないし、低い心(靈)でしか認識しないからこそ、何を見ても自分の低い心(靈)=欲望の対象としてしまうのではないでしょうか。
 その心(靈)の動きによる見方(“観察と認識”)では、すべての事象が神聖なものであるという認識には到達し得ないと思います

 
 このキナコちゃんのセリフは、とても深い意味を持っていると思うし、このことを聞いたからこそ僕は僕自身の認識の低さを確信したって事でもある…。
 そしてキナコちゃんは、アズキ君とセブンちゃんのつながり、霊縁って言うのかな…それについてもこんなふうに語っていた。
個々の心(靈)が、自分以外の心(靈)に相対する。 それはいろんなことがあると思うのですが、その一つ一つはとても大切であり、たとえそれが良いことでも 悪いことでも大切であり、すべて自分の認識の糧になることであり、だからこそ神様は、誰かと誰かが巡り会うように霊縁を組んでくださっていると思うので す。 
 多分、アズキ君とセブンちゃんは、このことをしっかり自覚していると思うのです。
 それでじゅんいちさんがご覧になった、あの番組の企画、“
女性を口説くスタメン”なんてのは、ただ自分の欲望を満たしたいがために、いろんなシチュエーションやアイテムを使う。 そしてそれを賞賛するかの様な番組でもあると思うのです。 
でも、そうやって仲良くなっても、それは自分たちが深い認識を得ることにつながるのでしょうか


 この話を聞いたときにも思ったけれど、セブンちゃんとアズキ君…あの二人(犬だから二匹)のつながりは、簡単に成り立ったものではない。
 この話にもあるように、セブンちゃんは、アズキ君がアズキ君自身の好意を示したパフォーマンスを、ただ○ン○ンを見せられたものだと誤解して、あの技…以下に画像で示す事とします。
セブン アズキにフライングキック 
ウルチョラセブンキック

 セブンちゃんはこの技をアズキ君に食らわせて、アズキ君はそのことを理不尽に感じ、それでグレたけど、グレたアズキ君はKellyさんの忠告を聴き、自我が肥大してしまっていた自分自身を諌め、そして犬○○○大先生の提案を受け入れて、犬Kellyさんとアズキ君は脚力を鍛え、犬○○○大先生が提案したワンコ空中三回転を会得して、セブンちゃんの技に対抗してから、アズキ君の思いをセブンちゃんに伝えたって話を聞かせてもらった。

僕はその話を聞いてとても感動を覚えました。

ですからあの二人(犬だから二匹)のつながりの深さは、二人(二匹)が出会い、その出会いには誤解があり、アズキ君の思いは伝わらず誤解を招いてしまった。 
そしてそのときのアズキ君は、自分の思いが通じず、あの技を食らい、一時グレたけど、そのグレた理由は、自分自身がセブンちゃんへの好意そのものを大事に思っていることに由来するって事に気付き、そしてアズキ君自身が自分はグレたままではいけないと思い、そしてワンコ空中三回転を会得するまでのアズキ君の心境の変化を含め、それはアズキ君の心の動きには、たくさんの苦悩があり、グレたり、セブンちゃんを思ったり…そんな思いに満ち満ちていたと思うけど、結果、アズキ君は自分の思いをセブンちゃんに伝えることができた。

 …僕は、今までたくさんのメス犬と仲良くなったけど、当然、こんな体験は無い…。 

そしてアズキ君が苦しんだ事、苦悩した事…その上でアズキ君とセブンちゃんは深く結ばれた…そのことに、何か羨望のような思いを持つことを禁じえない…。

僕がそんなふうに思ってしまうこと、それは、今までの僕は、あの番組で紹介され賞賛されていた“女性を口説くスタメン”に準じて、メス犬の気を引いてきたのだし、それに僕が求めていた相手は、ただ僕自身の欲望を満たしたいがために求めていたのだと思う。

…さらに僕は、アズキ君とセブンちゃんが初めて出会い、アズキ君が究極犬芸(チンチン)をして好意を示したことを僕の価値観で曲解したりもした。
だからそれも僕の低い認識由来の見方でしかなく、そのことが如実に表れている言い方が、以下の言い方だと自分で思う。
なにッ!! 究極犬芸(チンチン)をしたんだって!! 
(ひょっとするとこのウルチョラスーパースッペシャルチョ~極上魅力たっぷりファンタスチックエクセレントミラクルセクシーナイスバディな美人メス犬は、究極犬芸(チンチン)したオス犬の○ン○ンを見るのが好きなのかもしれない。 …なんてディープな性癖を持つエロいメス犬なんだ。 チョ~スケベな僕の相手にピッタリじゃないか。 これは楽しいプレイが期待出来そうなメス犬だし、とても気に入った)
 だったら、君の彼のアズキ君が初対面の君に行ったように、僕も究極犬芸(チンチン)をして、僕の君に対する好意を精一杯示してみせようじゃないか)


…僕は、今“”で示した文の()内のこと…。
こんなことをセブンちゃんに思ってしまったからこそ、あの技をセブンちゃんに食らった…以下に画像で示します。

セブン じゅんいち君にフライングキック 
じゅんいち君にウルチョラセブンキック

じゅんいち君 かつら吹っ飛ぶ


 
 こうやってセブンちゃんは、僕の価値観や思想、低い認識を諌めた。 今の僕はそう思っています。
そして、セブンちゃんにこの技を食らったからこそ、僕は過去の自分を振り返り、今のように、男と女(犬だからオス犬とメス犬)の関係に、今までの低い認識を改めてみようっていうような心境になれたと思います。
…そして何よりも…あの二人(犬だから二匹)の関係、その深く貴いつながり…。
あの二人(二匹)は、お互いの心(靈)の動きが貴いと感じているからこそお互いが大事であり、だからこそあの二人(二匹)は深く結ばれた…。
それはとても深いものだと…今の僕は思っています。

すみません、何か僕ばかりが一方的にしゃべってしまっていますね。 でも今話した事が、今現在の僕の偽らざる心境です」

犬Kelly 会話中「…そうでっか。 
 今のじゅんいち君の話を聴いて犬Kellyさん的に思うのは、もうじゅんいち君は過去の低い価値観や認識に囚われていないって思いまんがな。 
そやからそれは、今じゅんいち君が話してくれた言葉の中にも感じ取れる。 ほんでからに、今、じゅんいち君が話してくれたことは、じゅんいち君の心(靈)の動きそのものの話やし、そしてそれはじゅんいち君が過去の自分を振り返り、自省(胸の磁性“十”)した心(靈)の動きも十分見て取れるやん。
そやから今のじゅんいち君の話は、じゅんいち君自身が自分で答えを導き出したって話やと思いまんがな。 
ほんでからじゅんいち君は、今までとは違うものを求めてはる…その心(靈)の動きも十分感じ取れるやん」
犬じゅんいち君 会話中「ありがとうございます。 
それで今、犬Kellyさんは“過去の低い価値観や認識に囚われていないって思いまんがな”っておっしゃっていただいた。
…でも僕は、今の僕の考えは確信に満ちたものではない…そんなふうにも思います。 
 それは…僕はこの公園でセブンちゃんに会い、セブンちゃんに好意を持ち、今までの価値観や認識で、セブンちゃんに好意を示し、そしてセブンちゃんに諌められて、それからアズキ君の同居犬の方々と話をして、自分の認識が低いって自覚を持ち始めたのですが…僕はその自覚を持ったことに対しての自信が…まだ…あまり無い…」

犬Kelly 会話中(じゅんいち君…ちょっと心(靈)が折れてるみたいやな…当然か。 
今までと違う体験をして、そして今までの自分を自省する機会に遭遇したからやな。 頑張りや~)
「そやからじゅんいち君、今のじゅんいち君に出来上がりつつある今までと違う認識、それをじゅんいち君自身が“確信に満ちた”ものにするには、いろんな人や犬と話をしたらエエと思いまんがな。
 そやから今夜、犬Kellyさんと話すのはこれくらいにして、今度は、犬○○○大先生と話をしてみたらどないでっか?
(注 犬○○○大先生→犬と化した○○○大先生 会話中  )

 ほんでから犬○○○大先生は、男と女の関係については自分なりの価値観や認識をしっかり持ってはる人やし、そしてその価値観と認識どおりに行動してきたと思いまんがな。
 それは、このカテゴリーの過去の記事、

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その五”  (アズキ君とセブンちゃんの話)

の、“ある人”の恋の話にも表れてるやん。

 それでいつか、じゅんいち君の考えがまとまったなら、セブンはんや、前回じゅんいち君に会うのをイヤがっていたアズキはんとも話をしてみたらいいと思うし…みんな仲良くっていうよりも、お互いがお互いの認識を高めあう話ができるようになると思いまっせ」
犬じゅんいち君 会話中「…重ね重ねありがとう犬Kellyさん。 
僕は、前回のキナコちゃんの話の中で(チラッと)登場した犬○○○大先生とも、ぜひ話をしてみたいって思っていました。
(いったいどんな心の持ち主なんだろう…)
 それでは犬Kellyさんにはお手間を取らせてしまいますが、犬○○○大先生に会わせていただけますでしょうか」
犬Kelly 会話中「オッ○―牧場でんがな。 
なんていったってこの場(フィールド)はKellyさんがみてる夢の中のことや。 そやから楽屋落ち的言い方やけど、Kellyさんやじゅんいち君が願うことは必ず実現するっていう実に都合のよい展開を、この文章を作ってる○○○大先生は考えてるに決まってる。
 そやからじゅんいち君が“犬Kellyさんにはお手間を取らせてしまいますが”なんて思う必要はおまへん。
 次回、このカテゴリーの話は、じゅんいち君と犬○○○大先生の話ってことにしとこやおまへんか。
 そやから今夜はこれくらいにしといたらどないでっか」
犬じゅんいち君 会話中「承知しました。 犬○○○大先生と話すのを楽しみにしています。
 それでは犬Kellyさん、そろそろ失礼させてもらおうと思います。 今夜はたくさん話を聞いていただいてありがとうございました」
犬Kelly 会話中「ほな、さいならでんねん」

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 Kelly 会話中
 …っちゅうことで、次回のこのカテゴリーの話は、じゅんいち君と犬○○○大先生の会話ってことになりまんねん。  そやからそれは、ますますタイトルにそぐわないものになっていきまんねん。 冒頭でも述べた通り、これを読んではる人にはあしからずご了承くださいでんねん(笑)。


“日月神示”日月の巻 第二十八帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。 この巻 役員読むものぞ。
世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。
くもでて くにとなったぞ。 
出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。
スサナルの神はこの世の大神様ぞ。
はじめは 渦巻き 右 回転 であるなり、 渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転   (ヒツキクニ)の神様なり、 ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。
この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ。
アメの ローレンツ力と ○ つ九のローレンツ力と ○

 さて、第一帖で“ちなみに日月の巻は、 ローレンツ力と ○(ヒ)の巻(第一帖~第二十七帖)と月(ツキ)の巻(第二十八帖~第四十帖)の区別がある”と述べたとおり、日月の巻 第二十八帖からは、文章の内容やニュアンスが違ってきている感がある。 それについては(とても長くなるので)日月の巻の解釈がすべて終わってから述べることとする。

まず、第二十八帖の冒頭の文。
“岩戸あけたり日本晴れ、富士ひかるぞ。 この巻 役員読むものぞ。”

 この文の大事なところは、“役員読むものぞ”であり、それは、“日月神示”でいうところの(真の)“役員”は、今後=アセンション後の“創造”を担うべき霊的成長度の人という解釈をしてきており、よってこの巻の文は、その霊的成長度の人を対象に述べているのだって最初に示されているものであると思う。 
その“役員”について、分かりやすいので述べておくが、今後=アセンション後の“創造”を担う人=“役員”に対して、“日月神示”では、“役員づら”って表記もあることを述べてきた。 その“役員づら”の霊的成長度は、自我の確立=固定化の段階の霊的成長から自我の肥大をしており、だからこそ貴い言葉や概念など、何かを自分の欲望の達成のために利用するとか、肖る(あやかる)とか、そして自分が目立ちたい(ディスプレイ(動物の発情行動))とか褒めそやされたいって心(靈)の動きしかしていない人が多い。 
その具体的な例を挙げれば、宗教の概念、高い心霊からのメッセージ、チャネラーの情報など、それらを引用して勝手な解釈をして金儲けに利用(例えば“主護霊”を守護霊と言い換え足りして言葉だけ利用してスピリチュアルカウンセリングを行うとか、祓う意義(自省させること=“本津宮”(もとつみや)に帰れ)も知らず、除霊や浄霊などとインチキお祓いをするとか、ゴーストライターを使って本を出すとか、マルチのように信者を集め集団を作り例えば政党を作るとか)するというようなことをして、結果それは、一般の人の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する通念を、とんでもなく低いものにしてしまっている。 だからこそ“役員づら”は、形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であると述べてきた。 またこの霊的成長度の人は、貴い何かを利用したりするだけであり、それは自分でエネルギーを贖うことをせず=“行”をせず、“行”の意味と意味も見出せないから“行”ごっこをしたりしてもいるが、結果として何の認識(悟り、幸取=さとり)も獲得していないのが、また、“役員づら”でもある。
あえていうまでも無い事であるが、その辺のところをこのブログと縁のあった人には、今述べたことを見極める視点と観点、それを持って欲しいものである。
 話を戻し、冒頭の文の“岩戸あけたり”これは、これまでも述べてきているように、“岩”は、“山(脳)”と、“石”(帯電するミネラル)が縦に重なった表記。 そして“日月神示”表記の“戸”は、横隔膜。 それはマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門で、現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)として、自我の確立=固定化(腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)から、胸の磁性“十”(シンクロトロン)にいたる過程である。 そしてこの心の動きと認識されうること、それが進化の道筋である事も今まで述べてきたし、ローム太霊の言葉の右往左往から左往右往、この言葉の裏にある人の心(靈)の動き、そこからもこのことを感じ取れるものである
 よって“岩戸あけたり”は、今後=アセンション後に移行するべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、そうなるには“日本晴れ”の意味が示す事が大事であり、そして、“富士ひかるぞ”っていう表記も、霊的成長を示すとても大事な意味を持っており、ちなみに今までも“日月神示”の表記の“富士”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道って解釈をしたし、また単に“富士”って表記だけならば、頭、あるいは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の発現=目上(めうえ)の脳とその進化という表記だと思う。 その点で“富士ひかるぞ”は、今の時点の地球人は、“一”=智性=1番目のオーラが足りず=智性無き心であるってことを示す言い回しでもある。
“日本晴れ”と“富士”についてはこれまで何回も示した画像を以下に貼っておく。

“晴れたり日本晴れ”の解字 


富士の解字 


 次の文。
“世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。”

 この文の“世の元”は、自分たちの心(靈)が“観察と認識”しうる事象=“世”っていう意味で、“元”は、肉体=“二”と、時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)であり、それは肉体を持った自分たちの心(靈)の動きが創り得るのが、現津(あきつ)、観察され得る事象って言い方が妥当だと思う。
そして、低い霊的成長度の心(靈)は低い世界=“世”(事象の“創造”)をするものであり、それは恨みの連鎖に満ち満ちた今の事象であり、このままでは何もかもが崩壊するからこそ(もう大分、この間の地震のように警告として示されているけど)、霊的成長度における区別が必要になり=アセンションが起き、そしてその霊的成長度の区別は、自我の肥大=“石屋の仕組み”、“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの心(靈)の段階の人と、“慈悲”と“慈愛”の発現をした=胸の磁性“十”(シンクロトロン)の心(靈)の発現をした人との区別でもある。
 よってこの文は、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”は、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”、“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”って意味を充てることが出来る。 
この“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”については、天つ巻 第三十帖で “富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ”って述べられ、それは、“富士、火の仕組み=火乗(ひだり)”と“渦うみ、水の仕組み=水極(みぎり)”、これは、肉体の腹と胸であり、心(靈)の動きとしては、自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”を発現していく様子を言い表しているって解釈をしたし、それは、愛(炁)の顕現の順番=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋の“上”と“下”でもある。
 だからこの文の言わんとするところは、霊的成長度における“上”と“下”、それによって観察しうる事象は違ってくるし、今述べた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度による観察しうる事象の違い、それがアセンションの真実であることすら示唆していると思う。

 次の文。
“くもでて くにとなったぞ。 
出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。
スサナルの神はこの世の大神様ぞ。”

 この文の冒頭のひらがな表記は、漢字を充てると“雲出て 国となったぞ”だと思うが、“国”は今まで述べてきたとおり霊的成長を目指す心(靈)っていう意味であり、“雲出て”は、“雲”の解字を今回作ったから、それを見て感じ取ってもらうこととする。

雲の解字


 要は、“雲”は、“上”からの荷電粒子を止め=神の思惑を肉体の磁性で止め、心(靈)が発現して=自分のものとするっていう意味を示唆していると思う。
 そして“出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。 スサナルの神はこの世の大神様ぞ。”っていうのは、自分たちの心(靈)が創る事象っていう意味で“出雲”と“地(くに)”って表記をされていると思うし、“地”は“土”であり、完成された人の表記である“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記であると思うし、またそれは、肉体を持った心(靈)=人、“日止、霊止”ってことを示唆した表記でもある。
 そして“スサナル”、これについては漢字の表記が出てきたときに詳しく述べることとするが、先に簡単に述べておけば、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物である自分たちと、自分たちが感じ(感じる磁性)得る(“観察と認識”をしている)事象、その両方の意であると思う。

 次の文。
“はじめは 渦巻き 右 回転 であるなり、 渦巻き 左回転 (うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転   (ヒツキクニ)の神様なり、 ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。”

 この文は、今までの“日月神示”の表記の“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回転と、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、砌(みぎり)回転とは意味合いが違い、“上”から“下”、“創造”の“主(ヌシ)”から被造物を見る視点での表記だと思う。 よって被造物側、こちら側、人から目線、それと、“上”から“下”、神から人、その回転の方向は真逆になると解釈する。 
それは、日月の巻をここまで解釈してきて、事象の“創造”の秘密が述べられてきたことが多かった。 
それは冒頭に述べたように、日月の巻の第一帖から二十七帖までは、 ローレンツ力と ○ (ヒ)の巻であり、第二十八帖からは、月(ツキ)の巻、この違いは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を述べ、その事象の“創造”の仕組みを述べているのが、第二十七帖までであり、第二十八帖からは、こちら側、被造物としての人(日止、霊止)視点でのことが述べられていると思うからでもある。 
ちょっと今述べたことは解りにくい言い回しになったから、簡単に要約すれば、第二十七帖までは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑においての事象の“創造”=顕現、そして第二十八帖からは、人(日止、霊止)が自分たちの心(靈)において思い、感じ(感じる磁性)、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すること、これらの事が述べられていると思うし、それは人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化ってことでもあるし、これまでたびたび述べているように、事象の“創造”の思惑と顕現(日足(ひたり)と砌(みぎり))は、自分が“どういうつもり”で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするかにかかっている。 またこのことが、自分たちにとって良いと感じる事象の“創造”ってことになり、それは今後=アセンション後において、“創造”の“主(ヌシ)”が人に託したことであると思う。
それで、今、取り上げている文の最初に“はじめは 渦巻き 右 回転であるなり、 渦巻き 左回転(うご)いて月となり地となりたのざぞ”の日足(ひたり)回転と砌(みぎり)回転の意味は、以下の画像のようになると思う。
 
日月の巻 第二十八帖 砌(みぎり)回転と日足(ひたり)回転


 そしてこの文の“ 渦巻き 左回転(うご)いて月となり地となりた”は、被造物である人(日止、霊止)(あるい人間以外の肉体を持つ生命体っていってもよいと思うが)が、心(靈)を持ち進化させ、“創造”の“主(ヌシ)”=神を認識し、それは“上”からの荷電粒子を肉体の磁性=“日月神示”表記のローレンツ力 で、取り込んでいき、そして肉体を持ったまま神格化するためのこととしていわれていると思う。 
ちなみにいうまでも無く“地”と“月”は、心(靈)の入れ物の肉体とか、事象の観察における物質とか、“思惑の顕現”の顕現の方の意味である。
 また“ 渦巻き 左回転(うご)いて”っていう表記は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑が顕現(動く、動いて)したっていう意味であり、だからこそ“創造”の“主(ヌシ)”以外の心(靈)という、心(靈)を持った被造物は出来上がってきたのだということを示唆していると思う。
 それで次の文“アはアはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転 (ヒツキクニ)の神様なり”、この“ア”は、被造物である人(日止、霊止)から視点なら“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)であり、今まで述べてきている“創造”の“主(ヌシ)”の表記、“アイ”“愛(炁)”、これは
ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”が示す、日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を移行して書く様子に示されている=“思惑の顕現”は、事象の“創造”=現象化ってことであると思う。 
 またこの文の表記の“ヒツキクニ”は、“ヒ”=太陽、日、“上”からの荷電粒子、そして“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆し、“ツキ”は肉体、砌(みぎり)、現津(あきつ)、観察され得る事象に物質を伴った心(靈)として存在する人(日止、霊止)、それは神の“思惑の顕現”=現象化としての生命の“創造”としての人っていう意味、そして“クニ”は、“上”を目指す、神格化を目指し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する事を目指す心(靈)の意味、それは“国”=(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すってことであると思う。
 さらにこの“ アはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転(ヒツキクニ)”を、事細かに解釈すれば以下の画像のようになると思う。
ヒツキクニの解釈 その一 

 またこの文の表記の“ アはヒツキクニの神様なり 日月の巻第二十八帖の表記 日足(ひたり)回転(ヒツキクニ)”には、以下のようなことも感じ取れた。

ヒツキクニの解釈 その二

 この日足(ひたり)回転が、“ア”“亜”から始まり、人(日止、霊止)から視点で、向かって左=日足(ひたり)に終わっているのは、“上”の思惑は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人の心(靈)自身の思惑になりうるっていう意味だと思う。 
そしてそれは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”と、進化したした生命としての人(日止、霊止)(○ 九 十 が指し示す意味)が持ちうる“一”=智性=1番目のオーラの意味であると思う。
よって人は“ヒツキクニ”=“日”(神の思惑の仲介者としての太陽)と“月”(肉体を持った心(靈))と、“国”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)とならなければならないし、それが人の完成であり、“日月神示”表記の“天詞様”であり、真実=真固止の天皇(天の白い王、シンクロトロン放射(クンダリーニの白光))となるべきであることを感じさせる。
 
そして“ ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現 (ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ”の“ ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現(ヨ)”は、“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、と、“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む、この両者とも“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して解釈してきたし、それぞれ日足と砌(ひたりとみぎり)の意味を感じさせるものであるし、だからこそ“ワ ヤ と霊、○、荷電粒子の場(フィールド) 事象への顕現ヨ”は、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を持ち、また、“思惑の顕現”=現象化でもあるし、その顕現=現象化は、人の
肉体(月)を持った心(靈)ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) =“クニ”(“国”)が観察しうる事象になるっていう意味だと思う。

 


それで、第二十八帖は、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と“創造”の“主(ヌシ)”のかかわり=“雲”と“アイ”“ヒツキクニ”が述べられ、その前に“火”“水”が述べられ、平均的地球人の進化の順番、(進化の法則に則った)道筋(道理)を述べていた。
特に冒頭に述べられていた進化の順番と道筋、そのことを理解していれば、以下のような言い回しになると思う。
“この事はじめに心に入れれば掃除タワイないぞ、グレンとは上下かへる事と申してあろうがな、云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ。”
 
 いうまでも無くこの文は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道理”(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を知れ、そして現地球、今の現津(あきつ)、観察され得る事象は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“道理”をよく知らず
“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ておらず、間違った“創造”をしているからこそ“グレンとは上下かへる事”と述べられており、しかしこのことは自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を教訓として、自省(胸の磁性“十”)して、自分の認識にせねばならず、それは学校のように誰かに教えれても、自分の認識にならず、また、当然のことながら“役員づら”の人の言葉にも教訓を得られるものではないからこそ“云ふてはならぬ事ぞ。いはねばならぬ事ぞ”って言われているとKellyさん的には感じてるってことを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、日月の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。
道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。
世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。
臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。
天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。
日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。
今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。
十一月二十三日、一二 ローレンツ力と ○

 まず、冒頭の文。
“神の国は生きてゐるのざぞ、国土おろがめよ、神の肉体ぞ。神のたまぞ。”

 この文も、“国”“土”を、そのまま解釈してては意味が通じない。 これまでも述べているとおり“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”であり、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、完成(“王”=“一二三”のオーラの大きくなった形容)を目指す心(靈)って述べるのが妥当。
 そして心(靈)の入れ物、心(靈)が育つために必要なのが、“土”=肉体であり、肉体があるからこそ、(動物と共通の)2~3番目のオーラがあり、それは“一”=智性=1番目のオーラに昇華しうるし、そうなるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことって方法論がある。
 今述べた“一”=智性=1番目のオーラの獲得、それを強調しているのがこの文の後半の“神の肉体ぞ。神のたまぞ。”であり、この文の“神”を、“日止、霊止”が獲得しうる“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)って当てはめて読めば、理解しやすいと思う。
 
その意味で次の文。
“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。
曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ。”

 これも、地球人が未熟であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程であるからこそ述べられているからであり、当然未熟な地球人(の心(靈))は、神が持ちうる基準や思想を理解できていない。
 しかしそれを求めるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
 だから人間は、(ローム太霊の言葉の)右往左往と左往右往するものでもある。
(補足として述べるが、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもある)
 今、大半の地球人は、“江戸と尾張”(腹の水、“江”は、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンをしめす)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、“上”から見たら未熟でもある。 しかし、未熟ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をするからこそ、自分の認識は高まる=右往左往と左往右往でもある。 
それが霊的成長の一端でもあるし、それが無ければ、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の認識(悟り、幸取=さとり)がきちんとできない。 
そして“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を理解し始めれば、だんだん“創造”の“主(ヌシ)”の視点や観点に近づく=天の御目(あめのおめ)の獲得になっていくものである。
 それを踏まえ、この文を読めば、“道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、”は、今述べた、右往左往と左往右往により、だんだん進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の基準の獲得をする=天の御目(あめのおめ)の獲得をするって解釈が妥当だと思うし、それを理解できていない進化過程、自我の確立=固定化の段階の心(靈)は、自我が肥大しやすく、自分は間違っていないとか自分は正しいとかの考えに陥りやすく、それをこの文では“人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど”って示され、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を戒めて諌めている文だと思う。
 そしてこの文に続く“曲ってゐるのが神の道ぞ。曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ”は、今述べた自分が未熟って自覚が無い=自我の肥大をしている人に対しての言い回しであり、“曲ってゐる”=右往左往から左往右往するのが心(靈)の進化=霊的成長の過程であることを示唆しているし、それがまた進化の道筋だから“人の道も同じ”と述べられ、そしてそれは、現状の地球人の進化過程の、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行するって事。
またそれは、大局的な見方としての進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としては、“曲って真直ぐいのざぞ”ってことでもある。
そして“江戸と尾張”の心(靈)の動きで出来た事象は、今後=アセンション後、“日月神示”表記の“グレン”と変わるから“足許から鳥立つぞ。愈々が近づいたぞ”って言われ、それは重複するが“愈々”って事でもある。

 次の文。
“世の元と申すものは泥の海でありたぞ。
その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。
一度はどろどろにこね廻さなならんのざぞ。”

 これも先に述べたことと重複しているが、人(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現))と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が、“創造”している現津(あきつ)、観察され得る事象は、人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)=“世の元”であり、“世”は、現津(あきつ)、観察され得る事象であり、“元”は、人の肉体=“二”と、時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)(人が歩くさまに象る)でもある。
 そしてそれは、“泥の海”って称されており、高い心霊が使う“泥”→“石”→“玉(ぎょく)”、あるいは同様の意味として、“土”→“塔”=“山(脳)”って言い回しもあり、“土”“塔”“山”は、たんぱく質の高分子化を感じさせるものでもあるが、それが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の段階を示すものであり、同時にそれは、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における心(靈)の発現を示すものでもある。 
そのことを示しているのが“その泥から神が色々のもの一二三で、いぶきで生みたのぞ。人の智ではわからぬ事ざぞ”であり、この文の“神が色々のもの一二三で、いぶきで生みた”は、宇宙の中心と認識される大極からの発振、発信=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それで“上”からの荷電粒子(アイ)を、生命は受け(受信と感応)て進化してきた。 
これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもある。 
またこの文の“色々のもの一二三で”って称されているのは、こちら側(“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物)からみた、振動の違いであり、それはまた、人の発信しうる“一二三”のオーラになりうる要素ってことだと思う。
それで今の地球人の進化の概念には、当然こんな概念は無いので、それを揶揄された言い方が“人の智ではわからぬ事ざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ”って言い回しであり、低い進化過程の既成概念で判断するなってことを言われている。
そして“一度はどろどろにこね廻さなならん”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するには、今起きている醜い事象や、心(靈)の中の葛藤を体験せねば=右往左往と左往右往しなければ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”にならず、自省(胸の磁性“十”)も発現しないことを示唆していると思える。

次の文。
“臣民はどない申しても近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐるが、神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか。”

 あえて解釈が必要ないようなことでもあるが、“近慾ざから先見えんから慾ばかり申してゐる”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程の心(靈)が行っていること。 それは低い認識と低い既成概念、目先の欲望の達成が幸福だと思うとか、金儲けのために“善悪”を無視するとか、今までいろんな指摘や言い回しをしてきたが、神は人を生かし、進化させたいからこそ“神は持ち切れない程の物与へてゐるでないか。幾ら貧乏だとて犬猫とは桁違ふがな。それで何不足申してゐるのか。”って述べており、それは、このことを理解しろって言い回しであり、このことを理解させるためにアセンションに伴う醜い事象=自己奉仕者の行いの結果を示すってことを、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑として顕現し、それがこの文の“まだまだ天地へ取上げるぞ。日々取上げてゐる事わからんか。”ってことでもあり、しかし神は猶予を与え、考える時間をくれており、それは自省(胸の磁性“十”)の時間でもある。それを感じさせるのが“神が大難を小難にして神々様御活動になってゐること眼に見せてもわからんか”でもあると思う。

 次の文。
“天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の神の世にかへるぞ。”

 言うまでも無く“天地でんぐり返る”は、今の価値観や既成概念は崩壊し、先に述べたように地球人のごく一部は、腹の心(靈)、マニピューラチャクラ、“江戸と尾張”、第三密度、から、胸の心(靈)=自省(胸の磁性“十”)、アナハタチャクラ、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、第四密度、に移行する。
 それがまた、“日月神示”で多用されている“富士は晴れたり日本晴れ”の意味であり、これについては何回も示した画像を以下に貼っておく。

富士の解字 
“晴れたり日本晴れ”の解字



 画像を詳細に見ればわかることだが、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“日止、霊止”であり、それは“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の発現であり、それが最終段階での進化過程=霊的成長の過程、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階であり、それはまた“日月神示”表記の、○ 九 十 の、“九”“十”に示されており、卆(そつ、卒業の卒の異体字)から感じられる意味でもある。
 そしてそれはこの文の“元の神の世にかへるぞ”って文章からも感じられ、“元の神の世”は、進化した人間=“元”が、智性(神性)由来の事象の“創造”をすることを示唆しており、それは神の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑だからこそ“かへるぞ”って言われていると思う。

 次の文。
“日の巻終りて月の巻に移るぞ。愈々一二三が多くなるから、今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれよ。”

 これまでの地球人の進化過程は“上”からの荷電粒子との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は、主に2~3番目のオーラ=“土”の段階であり、今後=アセンション後はそれが変わってくるからこそ“愈々一二三が多くなる”って言われており、“上”からの思惑、人を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させたい思惑は、だんだん高振動になり、それを受ける人(日止、霊止)は、“一”=智性=1番目のオーラを大きくするものであり、そうならなければまた、進化=霊的成長、神格化に向かうことでは無いといいうる。
 そのことを今までの“日月神示”の文で、自己奉仕者の進化過程の心(靈)を見極めろ=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよとか、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化せよとか、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを示唆した文章もあったが、このことを現状の地球人の心(靈)=自我の確立、固定化の段階、それはマニピューラチャクラの進化過程だからこそ“今までに出してゐた神示よく腹に入れておいてくれ”って言われている。 だからこれは、本当の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を自覚せよって事でもあり、そのためにはまず、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねばならないからこそ“臣民 早よ洗濯して鏡に映る様にしてくれ”って言われ、“鏡に映る”は、自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)せよってことであるし、それはまた、地獄で自省(胸の磁性“十”)を促す、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)の“鏡”でもあるだろう。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、自分の人生における体験から認識されうるものであるからこそ、先に述べた右往左往と左往右往が必要でもあり、それをせねば天の御目(あめのおめ)、基準って言ってもいいけど、それを獲得しないし、それを獲得しなければ進化は見出せないからこそ“知らせねばならず、知らしては仕組成就せず”って言われていると思う。

 次の文。
“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな。神まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが。
鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ。”

 あえていうまでも無く、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの顕現中心で、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちているからからこそ“今の世 地獄とわかってゐるであろがな。今のやり方 悪いとわかってゐるであろがな”って称され、それを解決するには“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である“神まつれと申すのぞ”ってことであるし、それは“日月神示”表記の“天詞様”でもある。
 そしてこの文の“外国には外国の神あると申してあろが。み戦さすすめて外国に行った時は、先づその国の神まつらねばならん”の“外国”を言葉通りに解釈しては意味が通じないと思うし、それは自分の心が観察しうる外側(外国と幽界)の事象であり、“国”は心(靈)そのものでもあるし、それで結局、人が行う事象の“創造”は、外側(外国と幽界)の事象にあり、それは自分の内面とか内側(心の中と感じている事)の顕現であり、だからこそ、“上”の思惑を取り込んだ思想や認識で、外側(外国と幽界)の事象の“創造”を行い、それは結果として神の思惑を顕現する役目としての“日止、霊止”になりうるのであるけれど、この文の“み戦さすすめて外国に行った時”っていうのは、自分の内面の葛藤、心(靈)の動き、神の基準を獲得する過程って言えば分かりやすいが、それが“み戦さすすめて”であり、それゆえの事象の“創造”が“外国に行った時”であり、その事象の“創造”=“外国に行った時”には、“先づその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろふ事と申してあろが”って言われており、これは“上”との感応共振を示す意味での“まつる”“まつろふ”でもある。
 そしてそれは“鉄砲や智では悪くするばかりぞ。”と言われており、反目する心(靈)を“鉄砲”と揶揄され、自我の肥大ゆえの既成概念を“智”と揶揄(やゆ)されていると思う。
 そしてそんなことでは、神の思惑の反映した事象の“創造”はできないから“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。此の方の申すこと小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界の事ぞ”って言われ、自分の心(靈)が観察しうるすべての事象=“三千世界”(“三千世界”は、地つ巻 第四帖にも出てきた言葉で、そのときに、「三千世界は、“上”から“下”、霊的成長度の高い低いにかかわらず、神だろうが人(日止、霊止)だろうが下等生物だろうが肉体を持っていようがいまいが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の行いの霊的存在だろうが、悪魔だろうが、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であろうが、すべてをひとつの事象とみなした概念と解釈した)に、“神先づまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではない”でもあり、この場合の“日本”も、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)ゆえの国の認識の“日本”ではなく、その意味は先に示した“晴れたり日本晴れ”の“日本”を参照のこと。

 次の文。
“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ。この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。富士晴れるのざぞ。神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ。”

 あえて解釈することでもないが、“創造”の“主(ヌシ)”は、すべての存在の幸福=霊的成長、神格化、を、願っている。
 それがこの文の“日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民 皆わが子ぞ。わけへだてないのざぞ”であり、“日月神示”に示されている霊的成長の秘密は、今後=アセンション後に移行するのに当たって必須のことでもあるからこそ“この神示よみて聞かしてくれよ。読めば読むほどあかるくなるぞ。”でもあり、事にこの文の“あかるくなるぞ”が、ひらがなで書かれていることに着目し、本当は、日+月=明るい、それはまた、日足と砌(ひたりとみぎり)の要素が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須であることを感じさせる。 いうまでも無くそれは日月の巻でたびたび使われている意味での“御用”で、太陽凝視=“ひつく”“日津久”中心の“行”であり、そして月の凝視も行うべきことを感じさせるし、それは日月の巻 第二十五帖の“臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ”に示された意味でもある。 そして“益人”、そうなれば、神、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑は、人(日止、霊止)が感じうる=“創造”し得る、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現されるからこそ“神の心晴れるのざぞ。あらたぬし世ぞ(アセンション後の事象)”って示唆されていると思えることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示”日月の巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈

今回も、日月の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウざぞ。 昔の世の元ぞ。
ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。
サタナハマからあるぞ。
一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。
五十九の神、七十五柱これで判りたか。
ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。
ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。
冬の先 春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。
十一月二十二日、ひつ九 ローレンツ力と ○

 この第二十六帖の文の要は“ ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力ざぞ。”にあると思う。
 常々引用している“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によると、“ム”の意味としては、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)。 産霊(むすひ)、結び、息子(むすこ)、息女(むすめ)、群れ、の、む、と、示されている。 
これは“ム”の言霊として、生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の多様性、形(進化により、物質としての肉体っていう意味)の変化、(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)による心(靈)の発現と行使っていう)心の変化、いろんな要素を示しているのが“ム”であると思う。 
そしてこれまでも解釈してきたとおり、カタカナ表記は“上”から視点の言い回しなので、“創造”の“主(ヌシ)”の視点からの意味合いでもある。
 よってこの文の“ ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力ざぞ”を解釈すれば、
ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は、“ム”と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) (霊=○、荷電粒子の場(フィールド))の重なった表記でもあり、心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の要は、ローレンツ力 ローレンツ力であり、それは“ア”“亜”、宇宙の中心から発振、発信(“イ”、出ずる、泉、アイ、愛(炁)の、“イ”“い”)される究極微粒子の低振動化したものの受信と、増幅(“畐”、(オーラとして)吹く(息吹く=自らの心(靈)が吹く))であり、肉体が持つ磁束によるローレンツ力 ローレンツ力で、神の思惑=“ア”“亜”を、自分の心(靈)= ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に、取り込んでいると述べているのと、同義でもあると思う。
 これを踏まえ、この第二十六帖の文を読み解くこととする。
 まず、“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウざぞ。 昔の世の元ぞ。”だが、これは、この文の前半は、“昔の世の元ぞ”にかかっている言い回しなのはすぐ分かる。 
それで“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ウ、うにアエオイウ”の意味だが、 ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は、今述べたとおり、次に、“ ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、ウ、うに”と記されており、 ウ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)=“ウ”と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))の重なった表記が二つ並んでいるし、“ウ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するものでもあると示されている。
そして“ウ、う”と、カタカナ表記とひらがな表記が示されているのは、“上”からの“ア”“亜”が、“下”に低振動化して、“ウ、う”となり、カタカナ表記は、日足(ひたり)の極性、(“上”の)思惑であり、ひらがな表記は、取り込んだ心(靈)、心(靈)= ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に、心(靈)が持つ(人(日止、霊止)の心(靈)の動きとしての)日足(ひたり)の極性があることを示唆していると思う。 
 それで次の“アエオイウざぞ”は、“ア”が、“エ”“オ”“イ”“ウ”なんだって断定的な言い回しになっている。(“ざぞ”って記述)
 これは、“ア”から“エ”であり、“エ”は以前、地つ巻 第二十九帖の解釈で出てきた表記でもあり、そのときに、“エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命(“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用)って述べた。 その意味は“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを指し示していると思うって述べた。
 そして同様に“オ”は生命発生の元根と(“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”で)説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと。
 “イ”は、先に述べたとおり。
 “ウ”も、先に述べたとおり。
 よって、“アエオイウ”は、“ア”が、“エ”(生命を産み出す源(みなもと))となり、“オ”(生命発生の元根)となり、“アイ”(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)の“イ”となり、“ウ”(生物を生み出す力)となるってことだと思う。 そしてそれは、“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”を志した(思惑という意味)ってことだから、“創造”の根源、時間の進行としては“昔”であるからこそ、“昔の世の元ぞ”って示されていると思う。
 それで次に“ ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ。”って記されている。 この文の前半の“ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、”、これも“ア”“ヤ”“ワ”が、心(靈)=
ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)に重なった表記である。 それは、心(靈)= に、“ア”“ヤ”“ワ”があるって表記。 そしてそれは、“ア”は、先に述べたとおり人(日止、霊止)が認識しうる究極微粒子や最も高振動な何か、“アイ”の“ア”であり、“ヤ”と“ワ”は、上つ巻 第二十四帖の解釈で述べたとおり、“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の心(靈)日足(ひたり)(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の思惑)であり、“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の顕現、砌(みぎり)であると思う。
 そして“ ア と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ヤ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  、 ワ と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 、”のあとに“ヤ、ワあるぞ、世の元ぞ”ってあるのは、生命のそれぞれの心(靈)=ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)  には、日足(ひたり)を示す“ヤ”と砌(みぎり)を示す“ワ”があるぞってことだと思うし、それは観察しうる事象の“元”だからこそ、“世の元ぞ”って示唆されていると思う。
 そして次の“サタナハマからあるぞ。”の“サ”“タ”“ナ”“ハ”“マ”は、同じく、地つ巻 第二十九帖で、“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、“ハ”の行は、生命発現成長の音義、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、って述べた。
 要は生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、それはまた、心(靈)= の進化であり、進化は“サ”“タ”“ナ”“ハ”“マ”それぞれに示されているとおり、栄え発展、建く(たけく)高く成長、殖え栄ひ進展、生命発現成長、有形生命、または正しき生命、こうなっていくのが、重複するが(“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化としての)生命(心(靈))ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) の進化であるってことだと思う。
 そして次の“一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱、と申してあろがな。”は、“柱”は、生命の心(靈)(日足(ひたり))と肉体(砌(みぎり))を示すと思うし、“柱”については以前画像を作ったので以下に貼っておく。
柱の解字

 それで“柱”と一緒に示されている数字は、今までもたびたび述べてきているが、以下に意味を示すこととする。
 “一”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記(アからイ、日足(ひたり)から砌(みぎり))、そして、智性=1番目のオーラ。
 “二”は、肉体、あるいは、人の完成された表記としての“王”から“一”=智性=1番目のオーラをはずした表記の、土でもあり、それはまた2~3番目のオーラの意味でもある。
 “三”は、“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
 “四”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)。
 “五”は、進化した肉体の特徴でもある、神経が糸巻きのように密になること。
 “七”は、“一”(亜から出ずる、アイ、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑)に、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記。
 “八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道の意味。
 “九”は、○ 九 十 の、九、それは“一”+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。 生命(心(靈))の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の最終段階を示す。
 “十”は、胸の磁性“十”、自省の心(靈)の動き(“慈悲”と“慈愛”)、そしてシンクロトロン放射。
 その要素が生命(心(靈))の肉体=“柱”にはあるっていう意味。
 そして次の“五十九の神、七十五柱これで判りたか。”は、“五”と“十”と“九”の神って記されており、それは進化した肉体は神経が密になり(五)、手が発達してアナハタチャクラの覚醒にいたり(“十”)、それそのものが進化した心(靈)の最終段階(“九”)であり、それは神の要素、独り神(ひとりがみ、日取り神)になるための要素であるってことだと思う。
そして“七”と“十”と“五”の“柱”って表記は、神の思惑を取り込んだ人(日止、霊止)の“思惑の顕現”=現象化(七)は、シンクロトロン放射、第四密度、アナハタチャクラ、“慈悲”と“慈愛”によるものであり、それは神経が密になる=糸巻きのようになることに秘密がある(五)ってことで、それは肉体の進化の秘密であることを示唆していると思う。
そしてこの文自体の最後には“判りたか”って書かれており、これは、分かるとか、解るって書かれていないので、理解しろってことではなく、進化の仕組みを判断しろってことである。
(大概の地球人は、進化を神格化として理解していないからこそ、“判れ”と記されたのであると思う)
 そして次は“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。”だが、“ム と、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)ローレンツ力  ざぞ。”は、先に述べたとおり。 そして“ ローレンツ力には裏表上下あるのざぞ。”は、個々の生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)多様性としての“裏表”があり、それは進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においての“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”でもあったりもすることを示唆していると思うし、ローレンツ力 ローレンツ力による進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“上”と“下”があるのだって断定されている。(“ざぞ”って表記)
 そして次の表記の“冬の先 春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。”は、今、アセンションに向かう時期でもあり、個々の心の進化のため、自省(胸の磁性“十”)を促す醜い事象がおきている=“冬”でもあるが、程度の低い進化過程の心(靈)(自我の肥大、自己奉仕者)は、その心(靈)が改まらない限り(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”))をしないと、“冬の先 春とばかりは限らん”っていわれているのであり、ある程度進化した心(靈)、自省の心の動きを持つ人は、アセンションに伴う醜い事象に遭遇しても、自分の在り方を見出し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋を見出すからこそ“冬に桜咲く”って示されていると思う。

 それで、今回多用したカタカナ表記の解釈は、“日月神示”地つ巻 第二十九帖 Kellyさん的解釈によるものが多かったので、参考のためそこから一部コピペしたものを以下に貼っておき、今回はこれくらいにしときまんねん。


“この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。”

 この文の“アとヤとワ”は、以前解釈した、上つ巻の第二十四帖の“「ア」と「ヤ」と「ワ」は本(もと)の御用ぞ”と、同様の意味。
少し説明しておくと、この文の“ア”は、愛(炁)、“亜”であり、それは、愛(炁)の“ア”でもある。 そして“亜”“ア”は、すべての事象の根元の材料と認識され得る何かでもある。
人(を含めすべての生命)が、事象を観察して認識することとしての、すべての原因とか結果とかが、“亜”“ア”が、出ずる、泉、で、愛(炁)、アイ、と言葉で認識していると思える。 原因と結果、思惑(ア)と、顕現=現象化(イ)っていう言い方も出来るし、すべての事象の“創造”は、愛(炁)が動機の事であり、愛(炁)の顕現の程度が低いから自分しか大事に思えないって心(靈)の動きになり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度が低いから、自己奉仕者、“日月神示”表記なら“われよし”でもある。
そして“ヤ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、その心は高台(たかと)高き段に進むってことであり、それは、日足(ひたり)の極性、“上”に向かうこととも言いうる。
そして“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義ってことだから、これはよいカタチの“思惑の顕現”=現象化であり、左往右往の結果でもあり、霊的成長した心(靈)が“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象の事を指すと思う。
 それで重複するけれど“ヤとワ”は、“日月神示”上つ巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈から、以下にコピペしておきまんねん。 ↓


“「ヤ」” は、“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、書いてあった。 これは先生の概念の、アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)、その心(靈)の動きって言うのんは、自分の良い形を求める。 ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、すべての良いカタチを求める。 そして、霊的成長そのものを指す。
 そやから、高台(たかと)高き段…そう認識され得る何かを、求める。 時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。 日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
 人は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、その心(靈)の動きそのもののような気がするし、それは、右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。 多分そうやろ。
 ほんでから、“「ワ」”は、同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、“物を生む、生まれしものを和合する意”とか、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、そう言う表現がしてあり、ほんでから、Kellyさん的に思う“生まれしもの”、それは、現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。 そやから、自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、呼吸、息吹、気吹、生吹、でもある。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、和合で、それは左往右往でもある。 良いカタチの創造でもある。
 それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。
 
↑ 引用終わり。
そやからこの文の“アとヤとワのつく役員”は、このことを認識として行動している心(靈)、霊的成長を果たした心(靈)という意味やと思う。
そして“アとヤとワのつく役員”は、当然の事ながらよいカタチの事象を“創造”する心(靈)だから、今後=アセンション後に位置する、位置する資格がある心(靈)とも言いうるし、そやから“日月神示”表記の“役員”は、“創造”の法則性をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す表記でもある。
そしてこの文の“おもてぞ”は、顕在化、表面化、現象として現れるとかの意味であり、実際に“創造”に携わる役を示す表記で、これは次の文にもかかっている表記であるから次の文。

“旧九月までにはその御方お揃ひぞ、
カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり、
うらおもてあると申してあらうがな、
コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ、
文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ。”

 この文の冒頭の“旧九月”は、地つ巻 第二十七帖の“旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ”と同様の意味だと思う。
 そやからそれは、“その御方お揃い”っていうのは、“天(アメ)の日つくの神の御神示”を指し示す存在で、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、これを岡本天明はんに書かせている存在よりも“上”の存在ってことを示す言い方であり、またその存在が書かせる文章は、日月の巻で、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行う事の説明になっていくのだと思われる。
 そして“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”の“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)
の音意と説明されている。 
 だから先ほど述べた、“日月神示”表記の“役員”(“創造”の法則性(日足(ひたり)と砌(みぎり))をよく認識した霊的成長度の高い人と、その人に通信を送っている=感応共振している霊的存在を指す)が、今後=アセンション後、事象の“創造”をする。
 そして事象の“創造”は、“思惑の顕現”=現象化であるし、自分たちが観察する現実=現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心の反映であるけれど、その“創造”に関わる“カ”、心の中に幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意って事だと思える。
 そして“タ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義って説明されている。
 これは進化=霊的成長、神格化に向かうことって事でしかないと思う。
 だから“カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり”っていうのは、今述べた、“カ”=“思惑の顕現”=現象化をする力(ちから)と、“タ”のつく役員は、霊的成長、神格化に向かうことであり、それが実際の事象に見られる、観察できるようになる事が、この文の“うらなり”と“おもてなり”ってことだと思うし、もう一度“うらおもてあると申してあらうがな”と、繰り返して強調されている。
 だからこそ“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”、それには、思惑を顕現する力(ちから)と、その結果である霊的成長、この分の表記なら“タ”、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長って事だと思う。
 そして“コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”の“コ”は、同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して、停滞して働く意と細分の音義って説明されている。 さらに、物の凝り集まりに固まる意、とも、称されている。
 だから心(靈)っていうのは、何が凝り集まり、そして固まらなければならないのかってことを示す意味もあり、それが地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”でもあると思う。 この“実言(みこと)”の詳細については第一帖をよく読んで欲しいねん。

 そして“ト”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”には、トの言霊の心は、止めると云う心、人のトって称されている。 そやからそれは“日止、霊止”の止めるって言う表記と同じであるし、“上”からの荷電粒子、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑そのものである太陽からの光と荷電粒子を止めるのが、“日止、霊止”でもある。
 今説明した意味を含む表記がこの文の“コト”であり、それは“コトによりて伝へるのが神はうれしきぞ”って言われているとおり、“上”の思惑を心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))に止める“行”が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもあるからこそ、それは霊的成長の具体的な“行”だし、神格化にいたる“行”だからこそ、“神はうれしきぞ”と言われており、だから、艮(うしとら)の金神は、黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのだと思う。
 そして“文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ”っていうのは、“日月神示”表記の特殊な文字は“基”に“通る”って言う言葉の使い方をしているのだぞって言う意味のことを強調していると思う。 だから基本の“基”、これは“創造”の“元”って言ってもいいと思う。 その意味を読み取ってくれってことでんねん。

…中略…
“アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。
アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、
サとナとハとマとまつはりて呉れよ、
ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”

 この文の“アとヤとワから表に出す”は、先ほど述べたとおり、事象の“創造”の法則性を自分のものにした存在が、“思惑の顕現”=現象化をすることであり、だからこそそれは神に認められており、認めうる霊的成長度の世であり、その意味の言い回しが“(霊的成長度の高い)上の人も耳傾ける”って事だと思う。
 そして“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ”の、“ア”は、先ほど説明したとおり。
“イ”は、やはり“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、生気生命力の発生力って説明されているし、Kellyさんとしては息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の“イ”であり、それはアイ、愛(炁)の“出(いづる)、泉”の意味だと思う。
 “ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するものでもある
  “エ”は、生命を産み出す源(みなもと)の音意、ただしき、それ最と清き(すがしき)すべての優れたる生命って説明されているから、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことを指し示していると思う。
 “オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のことだと思う。 そう思う根拠は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、大山津見神淤穂(おおやまつみほ)(地気にて成る生物)が、強い身をツクリ作るの意って説明されているからでもある。 そして“オ”は、日足(ひたり)の極性が現れた男の“オ”であり、砌(みぎり)の極性が現れた女の“オ”でもあると思う。 要は生物として進化した最後のカタチ、それは“日月神示”表記の ○ 九 十 (まこと)と同義の意味だと思う。 それで次の文、“ヤもワも同様ぞ”は、“ア”と同様に、“ヤ”(日足(ひたり))も“ワ”(砌(みぎり)も)、“イウエオ”という変化や、意味合いを持つっていう意味だと思われるし、これはこの後の“日月神示”の文で説明されていると思う。
 
 そして“カはうらぞ、タはおもて”、これは先ほど説明したとおり。
 そして“サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。”の、“サ”の行は、栄え発展する生命の音根、“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む、“ハ”の行は、生命発現成長の音義、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ラ”の行は、生命発生の初音(ウネ)に関する音義、
以上のように説明されている。 そやから “ア”“ヤ”“ワ”“カ”“タ”“サ”“ナ”“ハ”
“マ”、それぞれア行の“イウエオ”に相当する意味合いを持つって説明だと思う。 だからこそそれは“アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ”って言われており、生命は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“思惑の顕現”=現象化をして、事象の“創造”をするが、それは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑に沿ったものであるからこそ、生命は、栄え発展、発現成長、(進化をある程度果たした)有形生命、正しき生命、それらの意味でもあり、それは“日月神示”表記の彌栄(いやさか)って言葉に相当するものでもあると思う。 
そして、彌栄(いやさか)の“彌” は、背骨(|(たてぼう、こん、縦の磁性)))と、チャクラを指し示しており、それは、生命の発生が、縦の磁束から始まり、“上”からの荷電粒子と反応し、微生物から人(日止、霊止)になり、その進化過程において心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が発現していくっていうのが○○○大先生の進化の概念でもあるけど、この事も感じさせる表記でもある。

引用終わり。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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