“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 日の出の巻 第十二帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ、まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ。
それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ、早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。
神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ。
十二月十二日、ひつ九のか三。

 冒頭の“日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ”は、自我の確立=固定化の進化過程から自我の肥大という心の動きで“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、そして“力”を示して低い功名心と自尊心を満足させてきたということから、次の段階に入るのであるから、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“という自らの心(靈)を諌める事象、それを体験することを述べている。
それはこれまで何度も述べている通り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番は、腹から胸、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒、第三密度から第四密度への移行であるからこそ、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で創られてきた現津(あきつ)、観察され得る事象は壊れ、それを“創造”してきた人は自省(胸の磁性“十”)して落胆(胆が落ちるという表記の意味は、肝=“いきり立つ心(奴と心)”が弱まるから)して、悲嘆、悲哀(日足(ひたり)のエネルギー=“思う、憂う”(脾)と肺=“悲しみ”)という心の動きに暮れる時が必要、それは左往右往の左往であり、日足(ひたり)の極性の強化ということになるものである。
だから平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の自我の肥大は諌められることが必須、それがアセンションに伴う醜い事象ということでもある。 そして以下の文は今述べたことを強調しているものであるし、これはほとんどの人が体験しなければならないことだとも思う。

“まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ”

 そしてこれに続く“それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ”も、先に述べた自省(胸の磁性“十”)をも含め、恨みの連鎖の霊的干渉の結果をそれぞれが贖う(あがなう)、これを“せなならん”といわれている。 
 それは何度も述べていることだが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きの人が自分たち、あるいは自分たちの周囲だけの都合しか考えない=薄っぺらい幸福感しか持っていない、それが動機の行動の結果が今の事象であり、三秒に一人子供は死んで浮遊霊になり、さらにたくさんの家畜を殺しているから人間に復習したい動物霊を増やしている。 
そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きを持つ子供の浮遊霊や動物霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、自らの心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということを考えもしないで、目先の快楽を追ったり、地球全体の状況を見て自分たちがどうあるべきなのかなど考えもしなくなるものである。
 しかしそんなことではいけないからこそ次のように述べられている。

“早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。”

 この文の“早い改心”と“洗濯次第で何んな神徳でもやる”、これは“日月神示”に一貫して述べられている自我の肥大を自らが諌めよということであるし、自我の肥大を諌めれば先に述べた悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きにくいものである。
さらにこの文の“神徳”という言葉は、程度の低い人は程度の低い解釈をするであろうが、それとは違い、神の“思惑の顕現”=現象化をなすべく人、その心の動きを持った人、それが今後=アセンション後の事象の“創造”でありまたそれは“喜悦(うれ)し喜悦(うれ)し”=恨みの連鎖の霊的干渉のない世界の実現、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の進化過程にある人が全くいない世界ということである。 それはその場(フィールド)にいる人たちは何の不安などないという言い方もできるが、その世界を“創造”するには資格がいる。 
その資格と、今取り上げた文中の“早い改心”と“洗濯次第で何んな神徳でもやる”このことは先に解釈した日の出の巻 第十帖の以下の文を見るとよく分かる。

“十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”

 “十月”は自省(胸の磁性“十”)の心を持った肉体(月(ツキ))。 自省(胸の磁性“十”)という心を持った自我の肥大より“上”の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人は、“ぼつぼつ会得る”ということでもある。 そしてアセンションに伴う醜い事象は、地球人の霊的進化に必須であるからこそ“掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな”でもあり、恨みの連鎖の霊的干渉の事象を贖う(あがなう)ことが“めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ”でもあり、霊的成長度において“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はこれからひどい目にあい、(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者の素地を持つ人、この両方において“花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”といわれているものである。
 また今取り上げている文の“神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ”は、これも先に解釈した日の出の巻 第九帖の以下の文を読むと分かりやすい。

“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ”
これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の結果といい得る。 またそれが“天詞様”でもあると今まで何度も解釈した通りのことでもある。

そして“神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ”については、“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の発現、そして“石屋の仕組み”=自我の肥大した心に、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の方向性がプラスされたときにその心(靈)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になるものであるが、それを見極めよ=“神と獣”、これは○○○大先生流に“目上(めうえ)と目下(めした)”=大脳新皮質における心(靈)の発現と大脳旧皮質、古皮質における心(靈)の動きといってもいいが、その心(靈)の発現と動きの程度、いい換えれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程の“上”“下”を分けること、それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画のアセンションであることを強調した言い方が“神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れ”であり、“上”からのメッセージを読み違えないで一人でも多くの人が次の“創造”に参加して欲しいのが“早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く”であり、またこれが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であることも述べており、そのためには先に解釈した“早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやる……洗濯次第で何んな神徳でもやる”ということでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十一帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

江戸に道場作れよ、先づ一二三(ひふみ)唱へさせよ、神示読みて聞かせよ、鎮魂(みたましずめ)せよ、鎮神(かみしずめ)せよ、十回で一通り会得る様にせよ、神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ。
誠の益人作るのぞ、此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ、神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ、身魂せんだくするぞ、神かかりと申しても狐憑きや天狗憑きや行者の様な神憑りでないぞ、誠の神憑りであるぞ、役員 早う取りかかり呉れよ。
十二月十一日、一二ローレンツ力と ○

 冒頭の“江戸”の表記は、これまで解釈してきたとおり腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン(荷電粒子の回転が上下に不安定)、そして“戸”は横隔膜、マニピューラチャクラからアナハタチャクラへの関門、心の動きでいえば自我の確立=固定化、そしてそれが増せば自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心の動きになり、その“上”の心(靈)の発現になっていないから岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くということが“日月神示”で述べられている。
 それは、自我由来の心、低い功名心と自尊心、縄張り意識、物欲、本能由来の欲など、これらは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きであるが、それを自らが諌めるには、自我の肥大で失敗してから自省(胸の磁性“十”)する(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)ことが必須でもあり、アセンションに伴う醜い事象はまさに失敗の事象でもあるのだが、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ほど偽のアセンション情報を信じ込む(誰もがアセンション出来るとか、不幸のない世界がやってくるとか、誰もが幸福になれるとか、こういった低い憑依現象(ほとんどが人間に恨みを持っている動物霊のいたずら)=ハイヤーセルフとかチャネラーとかによる根拠のないメッセージ)。
 それで自我の肥大を諌める心の動きには智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が必須であるからこそ“先づ一二三(ひふみ)唱へさせよ”といわれ、それは今の地球人が土=2~3番目のオーラの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)だからである。 
要は智性(神性)無き心ではいけないということでもあるし、ほとんどの人間は目上(めうえ)の脳があるからこそある程度の智性(神性)を有しているが、智性を行使して物を考えるとか行動するとかが足りなさすぎるゆえに、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きと行動をとっているものでもあるし、そういう人を対象に“江戸に道場作れ”=腹の心である自我を、道(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における時間の進行)場(場(フィールド)、自らが感じ(感じる磁性)うる事象)を作れという言い回しで、諌めている。 
そしてこれに続く“神示読みて聞かせよ、鎮魂(みたましずめ)せよ、鎮神(かみしずめ)せよ、十回で一通り会得る様にせよ、神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ”というのは、自我の肥大した人間ほど自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めないとか正当化するものであり、だから“鎮魂(みたましずめ)せよ”であり、“鎮神(かみしずめ)せよ”でもあるが、この場合の“鎮神(かみしずめ)”の神の表記は、自分の心よりほんの少し“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の霊的成長度の存在を指すと思うし、その自分よりほんの少し“上”の通信を無視するのが先に述べた“自我の肥大した人間ほど自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めないとか正当化するもの”ということになっていく。 
要は自分の心(靈)が低い心(靈)の動きしていれば、低い存在、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しかないからであるし、だから自らの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出せよということで“サニワで聞けよ”といわれてすらいる。 
そして“十回で一通り会得る様にせよ”は、自我の肥大した人間ほど強情であり自らを諌めようとしないから、ほどほどにしておけよという意味合いのことを揶揄した言い方であり、“神祀りて其の前でせよ、神がさすのであるからどしどしと運ぶぞ”は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)で自らの自我を諌め=“神祀りて其の前でせよ”であり、そうなれば自分は“上”を知り行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性になり、それは“絶対の善”を顕現しようとしなければ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない世界は実現できないし、それが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるし、さらにそれは“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適うから“神がさすのであるからどしどしと運ぶ”ということになると教えられているのだが、何回も述べるが自我の肥大した人間は自分の悪を“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と認めず、ただ突っ張るものでしかないからこそ進化の道筋(アセンションという時間の進行における“創造”の“主(ヌシ)”の計画)から遠ざかるものであることを示唆している。

そしてここまでのことを踏まえて次の文を読めば意味はよく通じるものである。
“誠の益人作るのぞ、此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ、神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな、神かかれる人 早う作るのぞ”
 自我の肥大した薄っぺらい人間の言葉は薄っぺらく、ただ耳心地の良い言葉を使って人を引き付けたりもしているし、今多いアセンションのことが歌ってあると見受けられる本や、スピリチュアル系の本なども“役員づら”が情報だけ引用して本を売るために言葉を使い、ひどいものはゴーストライターが書いていたりもするが、それが“誠の益人”でないことは一目瞭然であるし、それは言葉成るではない=“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が成るのではない。 よって“誠”という表記が使われているし、それは絶対にその条件を兼ね備えていなければならないからこそ“此んな事申さんでもやらねばならぬ事ざぞ”という言い回しで強調されている。
 これに続く“神は一人でも多く救ひ度さに夜も昼も総活動してゐる事 会得るであろがな”は、“上”の思惑が理解できていない“役員づら”や“役員づら”の情報を信じ込むダメな人間に対する言い回し、そしてこれに続く“神かかれる人 早う作る”は、時期に間に合わせるために“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する人、自我の肥大を自らが諌める人を作るのが神の計画であるということで、それには“身魂せんだくするぞ”が必須である。
 そして“神かかりと申しても狐憑きや天狗憑きや行者の様な神憑りでないぞ、誠の神憑りであるぞ、役員 早う取りかかり呉れよ。”は、平均的地球人の霊的成長度は土=2~3番目のオーラの進化過程だからこそ霊媒体質が多く、低い功名心と自尊心を煽る(あおる)低い存在の憑依現象がとても多いし、その憑依現象は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の存在が多いのだが、天使を名乗ったり何とかの神を名乗ったりハイヤーセルフとか思わせたりもするが、大事なのはそのメッセージの内容であり、またそれをどう見極めるのかも大事であり、先に述べたように進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示していない根拠のないアセンション情報を信じ込むのはただ甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)のであり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心だから自分にとって都合の良いことしか信じないものでもあるが、そのことをしっかり分れ、本当に自分がアセンション後の“創造”を担う“役員”ならば、上記の文の意味合いをよく理解して低い憑依現象など意に介さないで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく理解して進んでいけということが“誠の神憑りであるぞ、”=言葉成る、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した心(靈)で行動し、事象の“創造”をせよ=“役員 早う取りかかり呉れ”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第十帖 Kellyさん的解釈

 今回も、日の出の巻 第十帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

桜咲き神の御国は明けそめにけり。 十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。
あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。
聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。
十二月十日、ひつくのか三。

 冒頭の“桜咲き神の御国は明けそめにけり。 十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。”は、毎回解釈している通り時節のことではなく“桜咲き神の御国”は日の出の巻の第一帖の“春とならば萌(もえ)出づる”の“春”=“一二三”のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+日(太陽)であり、“神の御国”は智性(神性)の発現した心(靈)(ヒ)=“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)である。 
そして“十月”は胸の磁性“十”、自省の心(靈)の動きとその心の動きあってこその“慈悲”と“慈愛”という心の発現のことを指し、それを獲得した肉体=月(ツキ)のことである。 
要は霊的成長した“御国”=心(靈)(ヒ)、そして霊的成長した肉体(月(ツキ))を指した表記。この両方が備わっていなければ、神の思惑、アセンションという“創造”の“主(ヌシ)”の計画、その意義、そこにおいて自分はどう在るべきか、それが“ぼつぼつ会得る”ということであり、地球の次の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては何度も述べている通り、自省(胸の磁性“十”)と“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が必須であり、それが今の平均的地球人の進化過程から“上”であり、だからこそこの心(靈)と肉体(月(ツキ))を持っていなければ、今後=アセンション後に移行する資格はないということ。

そしてこれに続く“叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。”は、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、ローム太霊の言葉の右往左往から左往右往、これらはみな心の中の葛藤で“日月神示”ではよく“戦”という表記が使われていること。 
それは自我の肥大した人、自我の肥大という心の動き中心の人においては、この葛藤をよく体験して今までの低い価値観や薄っぺらい幸福感を捨て去らなければならず、それはまた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となるべく心(靈)の動きを獲得することでもあるし、ローム太霊の言葉なら“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ということでもある。
またこの表記の中の“めぐり”“借銭無しにする”は、どんな動機で、“どういうつもり”で頑張ってきたのかによることであり、それは、低い心(靈)ならば恨みの連鎖の霊的干渉の増大に加担しているものであり、またその心の動きはこの世界を腐らせていることを今まで説明してきたが、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人ほどこのことは理解できない=“上”の通信を受けていないか、多少分かっていても無視するものであり、それはただその時だけ良ければよい、目先のことしか考えていない。
結果それは、自分の低い心(靈)由来の欲を達成することが恨みの連鎖の霊的干渉を増してこの世界を腐らせていることを低い欲望由来の保身のため無視しているが、そういう低い心(靈)の持ち主は今後=アセンション後に移行する資格がないからこそ“神の咎め”として自省させるためにひどい目にあわす、あるいはそれで自省しないようなら“上”に殺され、死後の世界で自省するものであるが(閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)のこと)、それが“めぐり”=“どういうつもり”(思惑)でやってきたことの結果、“借銭無しにする”=その時だけいい目を見た“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、苦しんで自省(胸の磁性“十”)する、そのことを指した表記である。 
またこのことを強調した表記が“花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ”で、これは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者は今後=アセンション後で“花咲く”のであり、それは“上”に認められる“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適った思想と行動をとるからであり、“花散る”はいうまでもなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いで今出来上がっている形骸の物、それを代表するものとして日の出の巻 第九帖では“政治も教育も経済の大将”と述べられ、それは“上”の思惑に適ったものではないからこそ“神祀らねばならん”のであり、これは重複するが、神の思惑とは全然違うのだということを示唆しているのだと気付くべきであるし、これらが崩壊するのは、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、それをこちら側、人間が認識するならば人(日止、霊止)の進化、霊的成長、神格化に向かうことであるし、重複するが、これに適っていなければアセンションに伴う醜い事象=“神の咎め”を受けるということでしかない。

そしてこれに続く“あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。”は、“あめのひつ九”に関しては“上”=“あめ”、そして“ひつ九”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるだろうし、この場合“九”が書かれているのは、“九”は、“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるからで、この“ひつ九”の表記そのものが“上”からの荷電粒子を止める意味合いのことを強調しているし、またそれは“御神名”で、名(めい)は命、使命、役割(“日月神示”表記の役員)であるだろうし、“かミ”のミだけカタカナなのは、“上”から目線の言い回しで、ミは向かって左上から右下に書かれ、三つ斜めの棒が書かれているのは“一二三”のオーラをしめすものでもある。 それでこれは日足(ひたり)の極性、この場合は“上”の思想が神から見て“下”、事象の顕現=砌(みぎり)に顕現する…というよりも先に述べたとおり“上”から目線なので、必ず(人が“創造”している)この事象に顕現させるということだと思う。
 よってそれは神の計画、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、それを“書かす”=事象に示すということで、“それを皆の者に分けてやれよ”は、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、オーラの発振、発信、これがあるから霊縁とかは成り立つものであるが、今後=アセンション後の事象と縁ある人は“御神名書かす”=神の思惑を顕現するべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして、その人たちのオーラ、思想は、程度の低い人を影響していく、例えば智性(神性)由来の思想で導いて行ったりするなどの意である。

 これに続く“聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。”は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した人は、先に述べた事柄に対して大概反目するもので、それは、認めたくない、自分は正しい、自分が自分の利益を追求して何が悪い、これらの開き直りがあるから自らの心(靈)の動きを“サニワ”=審神者、“上”“下”を自分で判断せよ、しっかり自己観察して“聞けよ、何んなことでも聞かしてやる”ということで、これは“すべての事象は自分の在り方を示す”と○○○大先生は著書に書いたが、その意味合いのことでもある。 それと“火吹くぞ。火降るぞ。”は先に述べた“神の咎め”を強調した言い回しである。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

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“日月神示” 日の出の巻 第九帖 Kellyさん的解釈

  今回も、日の出の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

 人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ、それが真実(まこと)の神の世ぞ、神は人にまつはるのざぞ、ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と申してあろが、戦も ローレンツ力と ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。 それにはローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。
二四(にし)は剣(つるぎ)ざぞ。 
神まつりは神主ばかりするのではないぞ、剣と鏡とまつらなならんぞ、まつはれば霊(たま)となるのざぞ。 霊なくなってゐると申して知らせてあろがな、政治も教育も経済の大将も神祀らねばならんのぞ。
天の天照皇大神様は更なり、天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様、月の神様、特に篤く祀り呉れよ、月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となるのざぞ。
素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れよ、此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ、地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ、遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。
十二月八日、ひつ九のか三。

 

 冒頭の“人、神とまつはれば喜悦(うれ)しうれしぞ、まつはれば人でなく神となるのぞ”は何回も述べてきたとおり“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の結果といい得る。 またそれが“天詞様”でもある。
 そして今現在は、程度の低い人が多い世界だが、今後=アセンション後は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいなくなる。

(今現在が“真実(まこと)の神の世”ではないということまで、この文を読んで読み取れなくてはいけないと思う)

それでこのことも何回も述べているが、今後=アセンション後は自我の肥大(“石屋の仕組み”)から“上”の心(靈)(ヒ)の動き(“慈悲”と“慈愛”)を発現し、さらに天意を受信し自らの思想と行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす人だけになる。 それが“それが真実(まこと)の神の世ぞ”であり、“身魂磨き”がある程度できていれば“上”は通信を送れるし、それを感得でき得るので“神は人にまつはる”ということになるし、人間を通じて神の思惑を顕現出来るから“まつはれば人でなく神となる”ということでもある。

 

そしてこれに続く “ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) と申してあろが、戦も ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、ローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ。 それにはローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) 掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。”は、ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)は心(靈)(ヒ)、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、|(たてぼう、こん、縦の磁性))によるローレンツ力、それでローレンツ力の強化と取り込む振動の高振動化が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことの意義であるし、“上”からの荷電粒子を止める表記が古神道の“日止、霊止”でもある。

 だが太陽凝視を自らの“行”として行える地球人はごく少数(余談だが、仏陀、ゴータマ・シッダルタは短期間の太陽凝視をしたが、挫折してスジャータに介抱されたという記録がある)でしかないし、またそれは不食などを求める太陽凝視ごっこでもない。

大体、それ以前のこと=智性(神性)を増す“行”をする前に、自我の肥大を自らが諌める心の動きを持たなければならず、それが“日月神示”では“戦”と称されているものであると今までも解釈してきた。 

だからこそ自我の肥大した心による価値観や幸福感、それが由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自らが否定することになり、心の中の激しい葛藤があるからこそ“戦もローレンツ力 ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と壊し合ふのでは無いぞ、 ローレンツ力ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド) とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、和すことぞ”と述べられていると思うし、この文の“壊し合ふのでは無い”は“上”からの荷電粒子を取り込めば取り込むほど、今現在の自分を観察して自省(胸の磁性“十”)して否定することになるから、そんなことは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛()しか発現していない人”の心()は認めたくない。

それだからこそ“壊し合ふのでは無い”といわれているもので、それは、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、第三密度から第四密度といういろんな言い方があるが、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道筋の岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことになるので“岩戸開く一つの鍵”と称され“神国真中に和す”は、神の思惑を受信して認識(悟り、幸取=さとり)した心が“神国(“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”…“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))”であり、“真中に和す”は、縦の磁束が肉体(月(ツキ))の真ん中にあるからである。 これを強調する意味で“それには ローレンツ力を持っていない霊=○、荷電粒子の場(フィールド)掃除せなならんぞ、それが今度の戦ぞ、戦の大将が神祀らねばならんぞ。”と“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が“戦”であることを再度述べられている。

 そしてこれに続く“二四(にし)は剣(つるぎ)ざぞ。”、これは“二”=肉体、“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信、それは結晶化して磁性を帯びた鉄、それはカネの言霊、“力(ちから)の根()”=肉体内の鉄分子のことである。

次の“神まつりは神主ばかりするのではないぞ、剣と鏡とまつらなならんぞ、まつはれば霊(たま)となるのざぞ。”は、前半の“神まつりは神主ばかりするのではない”は、先に述べたことと重複するので説明の要は無い。
大事なのは“剣と鏡とまつらなならん”であり、“剣”は先に述べたとおり“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。

“鏡”はアジナーチャクラ、眉間のチャクラ、目上(めうえ)((日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳のチャクラのこと、ここで“上”からの荷電粒子を受信できないからこそ=目上(めうえ)の脳をあまり使っていないからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=ケダモノの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人は多いものである。 

だからそれは進化した心=靈ではない。 それが“霊なくなってゐる”の意味であり、靈については何度も使った解字の画像をいかに貼っておく。

靈の解字


 それで“上”の思惑、“創造”の“主(ヌシ)”の創造の法則性、それが分からないからこそ、受信できる資質がない人が今現在活躍しているからこそ“霊なくなってゐると申して知らせてあろがな、政治も教育も経済の大将も神祀らねばならん”といわれており、“政治も教育も経済”も、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛()しか発現していない人”の金儲け、権力を示す心()の動き(自我の肥大=“石屋の仕組み”)、それが如実に表れているものであるし、これらは霊的成長という点でたいして必要のないものに成り果てているし、その中身は腐り果てているものである=“真実(まこと)の神の世”ではないということである。

 

 そして第九帖の後半の“天の天照皇大神様は更なり、天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様、月の神様、特に篤く祀り呉れよ、月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となるのざぞ。

素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れよ、此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ、地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ、遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。”は、天意、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“天の天照皇大神様”であり、それを受信した様、降りた様が“天の大神様、地(くに)の天照大神様、天照皇太神様”であり、それは肉体(月(ツキ))に降りなければならず、そういう肉体(月(ツキ))にするのが“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であるが、それが“月の神様、特に篤く祀り呉れ”=天意を認識とせよ、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよということ。 そして今の世、今の事象を“闇の夜”と称され、それが肉体(月(ツキ))の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のオーラにより、“月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となる”といわれていると思う。

 これに続く“素盞鳴の大神様も篤く祀りて呉れ”も、天意を受け止める“盞”(杯、さかずき)の意、“素盞鳴(スサナル)”については以前紹介した画像を貼っておく。


“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字

 だが今の“素盞鳴(スサナル)”=自分たちの肉体(月(ツキ))の構造は自我の肥大中心=岩戸が開いておらず、だからこそその心(靈)(ヒ)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとるものであるし、この行動がこの事象を腐らせ“真実(まこと)の神の世”ではない世界を“創造”しているし、また個々の肉体(月(ツキ))は恨みの連鎖の霊的干渉による弊害をどうしようもないほど背負っているからこそ“此の神様には毎夜毎日御詑びせなならんのざぞ、此の世の罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ”といわれ、この文の後半の“罪穢(つみけがれ)負はれて陰から守護されて御座る”は、恨みの連鎖の霊的干渉を背負い、その中で自分たちの在り方を見出す、たとえば因縁を購うことにより霊的干渉の仕組みを知ったり、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出す目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心の動きを知ったりするが、それを知らなければ自らの在り方や霊的成長の方向性、人の存在意義の神格化を知り得ないからこういう言われ方がされていると思うし、これに続く“地の御神様、土の神様ぞ、祓ひ清めの御神様ぞ、国々の産土の神様 祀り呉れよ”も、“上”に対する“下”=この事象の意味合いの“地の御神”そして肉体(月(ツキ))の意味の“土の神”そして自省(胸の磁性“十”)の意味、“本津宮”(もとつみや)へ帰れの意味合いの“祓ひ清めの御神”そして“上”からの荷電粒子を受け止め反映する“地の神”である産土の太神は、個々の人間の肉体(月(ツキ))を管理しており、それは心(靈)(ヒ)=“国々”を見守るから“国々の産土の神様 祀り呉れ”と称されていると思う。

 最後の“遅くなればなる程 苦しくなるのざぞ、人ばかりでないぞ。”は、早く今の価値観を見直せ、自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠を見直せ、自省(胸の磁性“十”)せよ=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せよ、そうしなければアセンションの時期に間に合わず、それは個々の心の問題だけではなく、先の“政治も教育も経済の大将も神祀らねばならん”=このままでは政治も教育も経済も崩壊するということではあるが、どう見ても今のままでは崩壊するしかないし、崩壊してから自省(胸の磁性“十”)するしかないと私的に思うことを付け加えて…今回はこれくらいにしときまんねん。

 

“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その四”&第二~三話の総括

 前回も述べたとおり、「四方の祈り 東」は第一話の「物と心の満足を得る法」の続きであるし、第一話の解釈で述べたとおり、第一話ではローム太霊は“”という表記を使われ、それは霊的成長度の低い人が勝手に思うであろうただ満足を得て欲望を充たす方法ということではないと指摘した。 
それで、物を得る、心(靈)の満足を得る、それは自分の“思惑の顕現”=現象化であり、願いの達成であり、祈りといい得るし、祈るということ事態が心(靈)(ヒ)の発振、発信でもあるし、それは電磁波でもあり、この事象をこの世界と心が認識しうるのは電磁波の受信でもあることを前回述べた。 
だからここまでのローム太霊講話集では“波動”“受信”という言い回しもされているし、物を得る(と、心(靈)(ヒ)が認識する)ことは“合体”=感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の結果であることを述べられている。

そしてその“思惑の顕現”=現象化には霊的成長度の高低における程度の差ということがあり、それゆえ低い霊的成長度の人が願う思惑=“どういうつもり”は、本能由来の欲、物欲、金銭欲など目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きでもあるが、こんなことばかり顕現しているのが今の地球人の平均的霊的成長度でもあり、それではいけない、そのままの霊的成長度から“上”に移行して欲しいからこそローム太霊は“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい…中略…神自身の本当の気持ち…中略…この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”と今の人間のことを述べられており、それはもっとこのことを考えよということであるし、平均的地球人の心(靈)の動きである我欲中心、自我の肥大(“日月神示”表記の“石屋の仕組み”)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、そこから脱却せよ、自我から“上”の心(靈)(ヒ)である“慈悲”と“慈愛”ということを思え、そうするならば、その思いに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は今までの欲望由来の霊的干渉とは違ってくるものであることを伝えようとしたのがローム太霊の真意であると思う。

 更にこのことを強調した言い回しが“太陽でも人間でも夜死んで朝また生まれ変わると、同じ太陽であり同じ人間であっても、その見る時の心によって、自ずとこの宇宙を照らす太陽が無限の愛と慈悲との象徴であることが分かってくるであろう”でもある。 ○○○大先生は著書で少し触れたことの“その見る時の心によって”ということが大事で、この世界を“どういうつもり”で観ているか、自分はこの世界でどう存在していくべきか、どういう心の在り方が神の思惑通りなのか、このことを考えよということであるし、またこの文のストレートな意味通り、“どういうつもり”で太陽を見ると“太陽が無限の愛と慈悲との象徴”であることが理解できるのか、そう認識(悟り、幸取=さとり)出来得るのか、これも大事なことである。 
またそれは、自らの霊的成長度における認識でしかこの事象を観察しえない、程度の低い人は低い視点しか持ちえないし、ある程度進化したなら、智性=神性を持ち始めたならば、智性(神性)由来の観察と認識をするし、だからこそローム太霊講話集でも“日月神示”でもその解釈には程度の差が生じるものである。
それだからこそ“その二”で“東東神 東南神 東西神 東北神”について述べられたことに対し以下のように解釈を述べた。 ちなみにそれは“ただ同じ現世利益にしても、これを分担されている四主神の役割には多少の違いがあって……”のくだりである。

 大事なのは“思惑の顕現”、自らの欲望や希望の実現、これには東→南→西→北という段階があり、それを示しているのが、まず低い欲望の達成として“東東神は人間の現実の欲望”そして“東南神…中略…幾分感情や運命に関連したこと”そして“東西神…中略…理性に傾いたこと”そして“東北神…中略…叡智の対象となること”、この祈りの変容が、自分の心(靈)の在り方を示すものであることに気付くべきであるし、それはまた自分の心(靈)が求める事象の変化、どういう事象を“創造”していくのかという変容であるし、自らが創造する事象における本当の価値(真実=真固止)を求める順序ともいい得る。
 要は低い人間はまず“人間の現実の欲望を充たしてもらう商売の繁盛を祈る”ことを願い、そして次の段階は“幾分感情や運命に関連したこと”を願い、次に“理性に傾いたこと”を願い、最後には物を得るという事象において“叡智の対象となること”=智性(神性)由来の事象の“創造”ということになっていき、神に近づく人間、霊的成長を目指す人間は、物を得るということにでも、そうなる、そうなっていく、あるいはそう在るべきということを示唆していると思う。

 引用終わり。

 またここでローム太霊が使われた“現世利益”、この言葉に対して、やはり霊的成長度の差により解釈はまちまちであろうが、神が人に託した本当の人にとっての“現世利益”は“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、これをこの事象=“現世”に顕現していくべきであろうし、それが本当に人にとっての“利益”であるし、単なる商売繁盛とか物欲を充たすとか、そう思うのは本能由来の心(靈)の動きがあるだろうからであり、それと低い人が思う目先の欲望の達成とか低い認識の幸福ではない。 そんなこと由来で東に願うような人間は自らの低さを露呈しているようなものであるし、そのことも“その見る時の心によって”=その人の進化程度と心の動き、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在、その高低、要はその人の心(靈)(ヒ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在の“上”“下”を示しているものである。

それでちょっと蛇足になるが“太陽を拝むとすれば、やはり生まれたばかりの純なのがよいのであって、それは肉眼の対象にもなるが遅くなるとまぶしくて見えない”というのは、この霊訓が垂れられた時にまだ太陽凝視を教えてくれたKさんも○○○大先生もS会=紫光会には入っていなかったので、とても太陽凝視が出来そうもないその当時の紫光会の会員には“遅くなるとまぶしくて見えない”こういう言い回しがされているのだと思うし、“毎朝太陽の上がるときに祈るのが一番良いのであって”と“太陽を拝むとすれば、やはり生まれたばかりの純なのがよい”というのは、その当時の紫光会の会員に“肉眼の対象にもなる”=朝日くらい見よ、それくらいの“行”をしてみよ、これは“日月神示”を垂れた霊団(ローム太霊が述べた概念)と同じように黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのと同義だと思う。 

話を戻し、何回も指摘した程度の低い人間が思う自分勝手な低い“思惑の顕現”=現象化、これを諌める言い回しが“働かないで幸福を得ようとする、いわゆる僥倖を願って信仰に入いる者”そしてその思惑の顕現を“この殆んど凡ては天の神、地の神と言われる正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”とはっきり述べられており、これは今の人間がこのことを知らなさすぎるし、この霊的干渉に対して危機感をあまり持っていない=甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢ばかり追いかけているからでもあるし、これが悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であることすら一般にはあまり思われていない=平均的地球人の霊的干渉の認識は低すぎるし、しっかり考えるべきであるからこそ“どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”と述べられていると思うものである。 
 
そして“物を得る第一の方法は、前に述べた自力門の自分の努力”、これが大事であり、これに続く文の“人間は凡てその能力に応じた仕事をして世のために働き、それに対して世間が認める代価が支払われている”この言い回しに自分の仕事の在り方を考え得るべきであるし、そして“人間には物が必要であるから、生きている間はそれを受入れ肉を捨てる時に処分することになるのであるが、それは分らない神から借りていると思えばよいのであって、問題はどの位神から借金が出来るかということである”の“神から借りている”“借金”、これも自分がどれくらい頑張ったのか、その頑張りが“正統な神”=事象の“創造”の法則性、“理(ミチ)”に適ったものなのかということ、これも大事である。


要は自分の心(靈)の動き、願い、祈り、それは発振、発信であり息吹(自分の心(靈)が吹く)であり、またそれはオーラでもあるが、それに感応する霊的存在はその心(靈)の動きの高い低いによるものであり“自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用”というのは悪魔のささやきであることをしっかり認識すべきであらねばならない。 

だが、今、この世界の成功者とか(形骸の)地位を得た人たちはほとんどこういう霊的干渉の結果であり、それを証明するのが、物欲、金銭欲、本能由来の欲、その達成であり、そしてそれを誇示するディスプレイ(動物の発情行動)、またそれを褒めそやすのがこの世界では当たり前。
そしてそれは、その欲=願い、祈り、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)を持った浮遊霊、あるいは(通貨としての)金に執着している動物霊、その他もろもろ人間を堕落させる霊的存在であるからこそ“その背後を見極め”と指摘されている。
(そんな者が成功者と褒めそやされるこの世界そのものがもう腐り果てているものである)
 
それで第二~三話の解釈では、程度の低い人、程度の低い解釈ということを述べてきたが、要は人(日止、霊止)の使命、人の存在の意義でもあるこの事象=現界の“創造”、それは“思惑の顕現”=現象化であるが、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)により程度の差があるし、低い心(靈)は低い事象しか“創造”し得ないものである。
 それで“創造”には“道”(時間の進行と心(靈)(ヒ)が感じること)と“創造”の法則性=“理(ミチ)”があるし、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命であればあるほど“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)というものを(智性(神性)由来の)思想で認識するし、さらに“善(神格化の方向性と智性の受信)”をより強く認識してそれを顕現し、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすものであるからこそ、ローム太霊は“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”ということを述べられたのだと確信するし、これこそが霊的成長をめざし神格化を意識した生き方をする人が当然実現しなければならないことなのであり、だからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、それは紫光会の経文、四空経録の中の文言である“世為人為”でもあるし、これを深く思い行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理念として実現できる人と、実現する資質を持ちえない(そんな発想すらない)自我の肥大(“日月神示”表記の“石屋の仕組み”)した程度の低い心(靈)、その両者を分ける事象がアセンションという神の計画であることを(再三述べていることであるが)付記して、第二~三話の解釈を終わり、次回からこのカテゴリーは「四方の祈り 南」に入ることとする。
 
今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 日の出の巻 第八帖 Kellyさん的解釈


今回も、日の出の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。
神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。
心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治るのざぞ、心も身も分け隔て無いのであるが会得る様に申して聞かしてゐるのざぞ、取り違い致すでないぞ。
日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ。
集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ。
十二月七日、ひつくのかみふで。

 冒頭の表記の“一二三(ひふみ)”、この解釈を取り違えるとこの第八帖は読み取ることが出来ない。 
これまでも読み解いてきたように“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、そのことから鑑みれば(かんがみれば)、“食物(たべもの)”は自分の心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に取り込む振動、荷電粒子という解釈が成り立つ。
(“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる))

 そして平均的地球人の認識の“食物(たべもの)”というのは、通常(平均的地球人の霊的成長度における認識、いわゆる一般常識)では、物質としてしか見ていないが、そこにはいろんな(荷電粒子による)振動があるものであり、肉や魚なら自分たちの命を奪った人間に対する恨みの念があり、植物なら食べられることによって増殖をするからこそ植物の集合意識は人間に感謝の念を抱くものであり、人間が(物質を取り込む器官としての)口から食するものは大体このどちらかしかないけれど、どちらを食べて自分の心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を“創造”すべきかはもう説明したこと。
 ちなみに物質を取り込んで起きる肉体(月(ツキ))内の電磁誘導は、“臓腑”の“腑”の電磁誘導であり、それを貯めこむ(コンデンサー)のが“臓”であることを“改”で説明した。
 ちょっと蛇足だったが、それで“一二三の食べ方”という表記は、自分の“一二三”のオーラのどの部分の進化を考えるべきか、このことを意識せよということだと思うし、これまでの地球人の進化は土=2~3番目のオーラが中心であったが、今後=アセンション後は神の思惑をより顕現する世界を“創造”するのだから“一”=智性=1番目のオーラを大きくするべく心(靈)の在り方と行をすべきであり、だから“日月神示”は書かれたのであると確信するし、それは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでもあるし、あるいはまた自らの過去の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をよく自分で考え=自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、今後どういう考えを持ちどう行動するか、“どういうつもり”(思惑)で生きていくのかを考える(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)、それが智性(神性)由来の思想でもある。
 その意味合いで“一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ”の“唱(十七)へ”について。 この表記、“唱える”の意味は、主張する、大声で言う、叫ぶ、念仏を唱える、先んじて言う、これらの意味があり、そして“唱(十七)へながら”の“十七”は、胸の磁性“十”と“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。 よってそれは自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)が自分たちの思惑を顕現するということ。 
 そして“噛むのざぞ”については、あごを使い噛むことは、左右=日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の強化、それは“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道に、圧電による電磁誘導を励起することである。 単なる健康法という意味合いのことでないし、仙道でもこれに似た行法はある(著書でほんの少し触れた加持祈祷秘密大全に書いてある)。 また噛みしめることにより筋力が増すなどの実験はテレビでも紹介されている。
 それで“四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ”というのは、バカ正直な解釈ならば四十七回噛んでから食べ物を飲み込めば、そのことが“これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ”と、それと冒頭の“一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無い”に対して勝手な思い込みをしてしまうだろうけど、このこともあごが弱っている現在の平均的地球人にはとても重要だけれども、“四十七”の“四”は“善言(よごと)”=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信であり、善をしっかり理念とした心(靈)でなければならないということでもあり、それがまた神の思惑を顕現するための法則性であるからこそ“神に供へてから此の一二三の食べ方すれば”ということでもあるだろうし、その“四”に先に述べた“十七”が加わった表記であるし、自分の心(靈)が持つ振動に自分以外の振動を加味することそのものが“一二三の食べ方頂き方”であり、肉体(月(ツキ))の振動は土=2~3番目のオーラであり、“一”=智性=1番目のオーラは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことが大事だからこそ、何度も述べたことではあるが“日月神示”を書かせた存在はまず最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた。
 そして“病無い”“何んな病でも治る”の“病”の表記は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことで、それは肉食でもあり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自らの欲望の達成のために使った結果であり、またそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の回転、右回転であり、右回転の荷電粒子の回転は日足(ひたり)の回転で出来上がってきた=ある程度進化してきた遺伝子の崩壊を招き、その崩壊の現象、遺伝子を構成するたんぱく質の低分子化(アク=“亜”に戻すこと、ある程度できたものが朽ちる意味)は今医者が取り扱っている病気として認識されている。
(だが医学にはこの認識はほとんどない。 様々な病気に遺伝子の異常があることを発見し始めた段階でしかない)

 当然のことながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性(“理(ミチ)”)に則った振動の取り込み=“一二三(ひふみ)の食物(たべもの)”“一二三の食べ方頂き方”をすれば“何んな病でも治る”=恨みの連鎖の霊的干渉と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することはないということだと思うし、これは現地球人が自ら解決するべくその心の動きを持つべきでもあるし、それを強調した表記が“心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治る”であり、心(靈)(ヒ)は“一二三(ひふみ)”=1番目、2番目、3番目のオーラで構成されるべきであり、先に述べたあごの電磁誘導、噛むことにより肉体(月(ツキ))内の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道は、噛むこと、こめかみに力が入ることにより盛んになるから“肉体の病は四十七回噛む事に依りて治る”という言い回しがされていると思う。 
そしてそれは“心の病は一二三唱へる…肉体の病は四十七回噛む…”このどちらも、“上”が通信を送りそれを受信するべくするための心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を持てよということ。 また“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するためには“一”=智性=1番目のオーラが大きくなければならず、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が出来ていなければならず、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動き=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、ローム太霊の言葉の左往右往が出来ていなければならない。

 それでこれに続く“日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ”は、“此の方”=“上”、“創造”の“主(ヌシ)”、“日本の国”=“日(太陽)”と“本”と“国”、これは太陽の振動を取り込み(日)自省(胸の磁性“十”)の心(靈)(ヒ)を持つ(“本津宮”(もとつみや)の本)心(靈)(ヒ)、それは(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すので、これから進化するべく人のこと。 要は神の思惑を顕現していくに値する心(靈)の持ち主の意、そして“何んな宝もかくしてある”の“宝”は、真に価値のある宝=體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)、そして“神の御用なら”=進化の法則性に則り事象を“創造”するならば“何んなものでも与へる”ということ=“上”は援護する、力を加えるということ。

 最後の“集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ”は、霊的成長度の程度の低い人ほど“上”の教えを実践せず、また何の“行”もせず、そこに書かれてあることや概念を利用している=“役員づら”だが、その心(靈)の動きには自我の肥大があり、だから権力のために宗教を利用したり、自らを目立たせたいがために貴いものに肖る(あやかる)ことをしたりする。 当然のことながら、そんな人間を“上”は望んでいないし、これはいくら霊や神を語ったとしても、何の“行”も出来ていないし、“行”をやっていないし、また当然のことながら低い心(靈)の動きしか持っていないから、低い存在としか感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しない。 それは“集団(まどい)作る”=○○教や○○党などを見ればよく分かること。 要は程度の低い人は程度の低い団体を作りその心(靈)の動きは低い霊団(ローム太霊が述べた概念)を構成するからである。 
大事なのは“集団(まどい)”を作った心(靈)の動き、それは権力を行使するとか低い欲望、そして(通貨としての)金に対する執着、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心によるディスプレイ(動物の発情行動)であること、アセンション後に位置しようとするならばこんなことくらい見抜けなければいけない。 それで自分たちが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性に則って(のっとって)いるならばそれは、段々“道”(時間の進行)を共にして場(フィールド)を構成するので、少しづつ縁はついていくし、それは今の段階では“ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろ”ということであることを指摘して、今回はこれくらいにしときまんねん。

“ローム太霊講話集”第二~三話 四方の祈り 東 Kellyさん的解釈“その三”

 さて、“その一”“その二”でも述べたことではあるが、「四方の祈り 東」では自らの心(靈)がこの事象において感じ(感じる磁性)うる“思惑の顕現”=現象化を示唆したことが多い。 
 そして「四方の祈り 東」そのものが、第一話の「物と心の満足を得る法」の続きであること、それは“この前は、人間が物を得るには自分の努力の積み重ねによるものと、偶然の奇跡によるものと、他の力の助けによるものと、この三つの方法があるという話をした…中略…今日はそれに関連したこと”…こう述べられている。
 そして第一話には“人間は自分が求めているものを実際に手に入れることは中々面倒であるが、それはその波動が身近に来ていてもその受入れが出来ないからである”と述べられていらっしゃる。
 その“波動…その受入れ”は、自分が願う、祈る(共に息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))、この心(靈)の動きによる“思惑の顕現”=現象化といい得るし、それは第三話で“前にも言った通り、物は合体しなければ入いらないのであるから、若し自分が知らないでも物が入って来たら、それは合体したものと思ってよい”の“合体”=自らの心(靈)の動きと、その対象物との同調や感応ということであるが、そういう言い回しもされている。
それで“思惑の顕現”=現象化というのは、自らの心(靈)が感じ(感じる磁性)るからこそ、現実とかこの世界のこととかと認識するものであり、またそれは現界、幽界、霊界、神界、のうちの現界でもあるし、現界=この世界、この事象、それを自らの心(靈)が認識するのは感覚によってなされているが、感覚というのはすべて電磁波の受信で、その振動の違いで物、光、空、無、という言葉でいい換えることが出来る(このことはすでに○○○大先生が著書で述べたことでもあるし、S会=紫光会の真言の炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味合いの一つでもある)。

それでは、神としてはどんな世界どんな現津(あきつ)、観察され得る事象を人間に創らせたいのか? 
それは“その一”で述べたとおり、ローム太霊の以下の言葉に表れていると思う。
この地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う
人(日止、霊止)としては、このローム太霊がおっしゃられたこと“凡ての人間…”を常に思うべきであり、またローム太霊としてはS会=紫光会の会員とローム太霊講話集を読んだ人にはそう在って欲しいからこそ、そういう風に成長して欲しいからこそ“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよいのである”と述べられたと思う。
よってローム太霊がたいして霊的成長度が高くない人を対象に述べた言い回し、具体例を挙げれば
人間が物を得る”“商売が繁盛し金や物がどんどん入いってくる”“奇跡とか偶然とかそういうものによって自分の欲望を満たしてくれる物質的な力を求めている
この言い回しの裏には、こういうことを述べなければたいして自分のエネルギーを購わない人間が多いからであり、また自分の欲望の達成のために祈ることもしないからでもあり、それは自分がたいして何もすることなく天の僥倖しか求めないぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)でもあるだろうし、このことそのものが霊的に低いといい得るが、こういった言葉しか印象に残らない人は、その人の価値観や幸福感というのは低い=平均的地球人の霊的成長度であり、あるいは低い欲望の達成しか願わないのでもあるし、その心(靈)の持ち主=その霊的成長度では今と同じ世界しか創りえないからこそそれは、アセンション落第組でもある。

それで「四方の祈り 」では、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ことにより、“上”が力を加え、援護し、その祈りが「第一話 物と心の満足を得る法」の“”に則って(のっとって)いることが大事なのを、第三話では“東現に向って一心に祈ることが分ったら、次に人間は土の上に存在しているものであることを、確りと頭に入れておく必要がある。それはこの地の神に対する波動も物を得ることに深い関係があって、自分の住んでいる土地の氏神の信仰を持って東現の神に願うと、そのものは更に正しい道筋を通って入いってくるからである。従って、この氏神を中心とした地の神三十六神に対する信仰を強めるならば、東現の神の力と相俟ってその可能性は倍加されると思う。その次に重要なのは支配霊の力を借りることで、ある目的の物を得ようとする場合に、この支配霊を元として祈るということも頗る有効な手段の一つに挙げられる。その他、何ものも考えずただそのものを得ようとする方法も出てこようし、百の陰徳を積んで奇跡的に授かろうとする仕方もあろうが、これらは凡て自分は手を下さずに他から持って来る、即ち他力を中心とした欲望の達成である”と述べられており、この文の“更に正しい道筋”をよく意識して祈るべきでもある。
また先に述べた“上”が力を加えること援護することによる“物を得ること”=“思惑の顕現”、現象化をここでは“土地の氏神の信仰を持って東現の神に願う”と述べられており、それは“正しい道筋”であるし、また“思惑の顕現”=現象化をなすうえで大事な“支配霊の力を借りること”“支配霊を元として祈るということも頗る(すこぶる)有効な手段の一つ”そして、“自分は手を下さずに他から持って来る、即ち他力を中心とした欲望の達成”、これは霊的干渉そのものであり、ことに大事なのは“他力”=自分以外の力、これが自分の心(靈)(ヒ)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によって起きる霊的干渉の結果であることを理解して読み取るべきであるし、それはまた“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのであるから、どんなに物が得られたとしてもよくその背後を見極め、自分の信ずる神によって処置しなければならない”ということに留意し、自分の心(靈)がどんな存在と感応しているのか=“背後を見極め”、このことはすでに述べたことではあるが、常に自分の心(靈)は見張っていなければならないということでもあるし、程度の低い人間ほどこういった低い霊的干渉ばかりを期待するが、それは悪魔のささやきに乗りやすいということでもあるし、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)人間ともいい得るが、そんな人間になってはいけないということを第二~三話でローム太霊は述べられているものでもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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