“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 磐戸の巻 第十九帖 Kellyさん的解釈

今回も、磐戸の巻 第十九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

向ふの国いくら物ありても、人ありても、生神が表に出て働くのざから、神なき国は、いづれは往生ざぞ。 
この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、腹帯しっかり締めてくれよ。
重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、守護神殿にたのむぞよ。
一月十四日、 ローレンツ力と ○ のひつ九のか三。

 この第十九帖も、“ほんとう”を見失しなっている人に“ほんとう”を教える、あるいは“ほんとう”を意識している人に対してはそれを理念とせよ、という言い回しであると思う。
 第十七~十八帖の様に()内に注釈を入れる形で解釈を述べることとする。
 
“向ふの国(“国”は心の意、自分の心が観察している外側(外国と幽界)の事象
いくら(形骸の価値の)物ありても、
“石屋の仕組み”による形骸の権威、名誉、地位、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い功名心と自尊心由来の価値においての)人ありても、
生神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
表に出て働く(顕現するということ。 これは相対的な言い回しで今はたいして顕現していないからいわれている)のざから、
神なき国(智性(神性)無き心)は、
いづれは往生(今後=アセンション後の事象には移行できないの意)ざぞ”

“この神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))の
申すこと(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”が示すこと
よく肚(はら、自我、“江戸と尾張”腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)に入れて、
もうかなはんと申す所(今までの価値観が通用しない)こらへて(自分の低い心(靈)、目下(めした)の心を諌めて)、
またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならん(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”は決まっているから、どうしてもその“理(ミチ)”に恭順に従うしかないし、それに耐えられないのは今までの進化の段階の心ゆえの認識による既成概念が台頭しているからであるので、今後=アセンション後はそのままではいけない。 また“理(ミチ)”に恭順ということ、それは第十六帖の“ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”の“ひつじ”=伊邪那美(いざなみ)の美と同義(“美”は、羊(恭順の意)+大(人が手足を広げた様)))といふ所こらへて、頑張りて下されよ、”

“神には(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は天の御目(あめのおめ)を持っていつも人を観察しているから
何も彼もよくわかりて(個々の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は承知していて)帳面に書きとめてあるから、
何処までも、死んでも(死んでからも成長するの意、生きている間に自省(胸の磁性“十”)出来なかったならそのことを悔やみ、“ほんとう”の成長を知れ)頑張りて下されよ、
其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ(役目=個々の心(靈)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと))、

“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の低い概念が台頭しているこの世界では)可哀さうなれど
神の臣民殿、こらえこらえてマコト(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性=“理(ミチ)”、そしてこの形骸の事象において“ほんとう”を求め、顕現することを)何処迄も貫きて下されよ、
マコトの生神(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すこの世界に顕現した生命が知らなければならない“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
その時こそ(アセンションの時期が来たら

表に出て(顕現して)、
日本(日=太陽、本=胸の磁性“十”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))に
手柄さして(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意)、
神の臣民に手柄たてさして(手柄=“上”の思惑を顕現させる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとらせて)、
神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、
腹帯(腹の水平磁場、あるいは腹までの心=自我)しっかり締めてくれよ(自我を戒めてがんばれ)。
重ねて神が臣民殿にたのむ(“マコト”“修理固成”(しゅうりこせい)、真実=真固止、“ほんとう”“完全なる人間の運営”(ローム太霊の言葉)を求めよ)ぞよ、
守護神殿(人を守っている個人個人の進化に相応した“上”、それはあまり高くないから“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるアセンションのことをしっかり理解していない“上”だからこそ)にたのむぞよ。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 磐戸の巻 第十八帖 Kellyさん的解釈


今回も、磐戸の巻 第十八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。
この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。
悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。
一月十四日、 ローレンツ力と ○ の一二のか三。

この第十八帖も、前回の第十七帖同様“ほんとう”のことを見失っている人に対する文であると思う。 

 まず、冒頭の文。
“今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ”

 最初に述べられている“今度(今後=アセンション後に移行すること)の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらん”は、“苦労に苦労した”=右往左往して左往右往するという霊的成長の概念が解っていないと読み解けないし理解も出来ない。 人生における苦痛や苦悩、何かを成し遂げよう、自分の希望を達成しよう、自分が幸福でありたい、満たされたい、いろんな思いがあるが、それらすべて心(靈)の動きであることは当たり前(この後の文に出てくる“コト”“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き))であり、この事象は“思惑の顕現”=現象化であり、現津(あきつ)、観察され得る事象そのものが自分の心の動きの反映でもあるのだが、それが“上”の思惑に沿っていなければ(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていなければ)“神の咎め”として失敗し挫折し苦痛を感じ苦悩して、そして自省(胸の磁性“十”)して自分の在り方を思うようになるものである。 
  またその過程におき、自分の思惑通りに事が進まないこと、あるいは“神の咎め”があることを思う、これらのことを通じて神と自分、自分を見ている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在を意識するものでもある。 それが出来ない人間、霊的成長度の低い人間のことをこの文では“外国好きの臣民”と称され、幾度となく述べていることだが“日月神示”表記の“外国”は外側(外国と幽界)の事象のこと、よってこの言い回し“外国好きの臣民”自分の外側(外国と幽界)の事象しか見ていない霊的成長度の低い心(靈)、自我の肥大した心のことを指した表記である。
  さらに“神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐた”は、“日月神示”表記の“世の元からの生神”の“神”の意であり、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が、今現在、見失われておちぶれていることを指し、そうさせたのは具体的には“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であり、その根拠となる“役員づら”の心の動き=“どういうつもり”は自分たちの利益、形骸の権威など“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が求める何かの結果でしかなく、それは自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、さらにそれは“岩戸閉め”(日の出の巻 第一帖の表記)で、自我の肥大を維持しようとする心の動きといい得る。
 いうまでもなく自我の肥大を維持しようという自分にとって都合の良い考えは、自省(胸の磁性“十”)に至らず“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現を妨げ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”になっていかないものである。
 やや余談になったが、今後=アセンション後に移行する際、自我の肥大したままの人間は今の腐った現実と同じ事象を“創造”しようとするからこそ、外側(外国と幽界)の事象しか見ないで自分の内面とか内側(心の中と感じている事)を観ない人は今後=アセンション後に移行できないから“外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになる”と述べられ、重複するが今後=アセンション後は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が顕現するのが当たり前の世になるからこそ“神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ”であり、これに続く“因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな”の“因縁”は、霊的成長して今後=アセンション後の“創造”を託されるべき人生を過ごしている心(靈)(ヒ)、そういった真に神格化を目指す人のことでもある。

次の文。
“改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ”

 これも一読すればすぐ“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”であり、それが“神国のやり方”=“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)を持った“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)の意であり、右翼が主張する神国というてんで低い概念ではない。 さらに見せかけの“改心”“懺悔”は、“人の前で懺悔するのは神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))きづつけることになると心得よ” それを念頭にこの文を読めば“改心と申して、人間の前で懺悔する”ということが単なる見せ掛けのことを示唆しているのがすぐ分かるもの。
 そして“ほんとう”の“改心”=自我の肥大を諌める心のこと、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”することを“神の御前にこそ懺悔せよ”と述べられており、その心の動きのことをこれに続く文の“コト”と称され、それは“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)のことでもあり、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
であり、
なにが停滞して集まって凝り固まり止まるのかは、“日止、霊止”の表記が意味するところの“上”からの荷電粒子=天意である。
 このことを踏まえ以下の文を見ると意味合いが理解できる。 ()内に注釈を入れておく。
“懺悔の悪きコト(今までの自我の肥大ゆえの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を自省(胸の磁性“十”)した心(靈))に倍した(今までの行いよりたくさんのエネルギーを贖って(あがなって))、
よきコト(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))タマ(“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、よって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由)のこと
のれ(宣れ、告れ、“上”の存在が神聖なる意向を人々に対し、口で言ったりして表明する、たとえば「中臣祓」「大祓詞」の「天津祝詞の太祝詞事を宣れ)よ、
コト高くあげよ(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を低振動から高振動にせよ)、
富士(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)晴れる迄コト高くあげてくれよ、
そのコト(心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))に
神うつり(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅))て、
何んな手柄でも立てさせて、
“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認める
万劫末代名の残る様にしてやる(またそれは今の自我の肥大、“石屋の仕組み”ゆえの形骸の名誉とかではないの意)”

 これに続く次の文は、自我の肥大した自己奉仕者に対する文言、特に詳しい解釈をしないが()内に注釈を入れておく。
“この仕組(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
判りたら
今の腐った事象における形骸の名誉や地位を持った=今の一般常識で上と思われている神から見て価値のない人間)上の臣民、
逆立ちしておわびに来る(自省(胸の磁性“十”)する)なれど、
其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。 
臣民、かわいから(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であろうが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者であろうが、すべての人は神の子であるからこそ)嫌がられても、此の方申すのざ”

 次の文は、今までの事象における常識や既成概念にとらわれるな、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)による新しい認識を獲得せよという意味合い。
(自我の肥大した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の既成概念における)悪と思ふことに
善(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の利益にならないという意味合い&“善(神格化の方向性と智性の受信)”)あり、
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が思う自分たちにとって都合の良い)善と思ふ事も悪(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”)多いと知らしてあろがな、
このことよく心得ておけよ、
今の事象が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されている)悪の世になってゐるのざから、
マコト(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、天意を止め“修理固成”(しゅうりこせい)して(コ)“上”が認める=正しき進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由))の神さへ悪に巻込まれて御座る程、
知らず知らずに(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌めることとなり、それは自我の肥大した人にとっては、損だと思われ)悪になりてゐるのざから、
今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめ(自我の肥大を保つ心(靈)の動き)ざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、
それ判りて貰はんと(先に述べた自我の肥大ゆえの認識が低く、進化の“理(ミチ)”に沿っていないことを知る)結構な御用つとまらんのざぞ、
時が来たら(自我の肥大を諌める時、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くのとき、自省(胸の磁性“十”)した時、“慈悲”と“慈愛”という心の発現の時)、
われがわれの口でわれが白状する様になりて来る(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来得る心になる、“自分を観察する自分の確立”がなされる)ぞ、
神の臣民はづかしない様にして呉れよ、
神の子としての)臣民はづかしことは、
神はづかし(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を辱めるという意)のざぞ”

 次の文でこれまで述べてきたことを総括している。
“愈々善と悪のかわりめ(これまでの“善悪”の既成概念は低すぎることを認識し、“悪”は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の反対、心の動きの本能化と低振動化であることを知り、“善”=神格化の方向性と智性の受信、天意との感応は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であることを知る)であるから、
悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌(腹における縦の磁束と横の磁束の強化)しめて、
この神示よんで、神の心くみとって(“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない)に流されず、“役員づら”の手法にも乗らないで
御用(神格化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))大切になされよ”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 磐戸の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈


今回も、磐戸の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ、世はクルクルと廻るのざぞ、仕合せ悪くとも悔やむでないぞ、それぞれのミタマの曇りとりてゐるのざから、勇んで苦しいこともして下されよ、上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ。
神が化かして使うてゐるのざから、出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことかと皆がびっくりするのざぞ、びっくり箱にも悪いびっくり箱と、嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、何も知らん臣民に、知らんこと知らすのざから、疑ふは無理ないなれど、曇りとれば、すぐうつる、もとの種もってゐるのざから、早うこの神示読んで洗濯して呉れよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ、神の道は無理ない道ざと知らしてあろが。 ミタマの因縁おそろしいぞ。 上下わき上がるが近うなりたぞ。
一月十四日、ローレンツ力と ○ の一二か三。

 この第十七帖を一読して思うのは、
霊的成長度において区分けされるのがアセンションだという認識が無い人、
人生における苦痛や苦悩、自省(胸の磁性“十”)の“行”、右往左往して失敗を体験し左往右往において自分たちが霊的成長するということをあまり知らない人、
さらに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の既成概念にはまっている人、
いわゆる“ほんとう”のことを見失っている人に対する文であると思う。
 その視点において、本文に注釈を入れる形で解釈を述べることとする。

“この神(“役員づら”の神の概念ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“上”の存在としての神)はよき臣民(霊的成長を目指し自分たちが苦痛や苦悩で自省(胸の磁性“十”)して自我の肥大を諌めるということを知っている人)にはよく見え、
悪き臣民(自我の肥大、“石屋の仕組み”にはまっている人)には(調子よく思惑通りに事が進んでいた人がこれまで通りにいかなくなり=左往右往、それは霊的成長度の低い人には進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は自分たちにとって都合の悪いものになるから)悪く見へるのざぞ、
鬼門の金神(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとってはそれくらい厳しい)とも見へるのざぞ、

世はクルクルと廻る(今後=アセンション後に移行する際、これまでの既成概念、低い価値観、低い幸福感は打破され、これまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍していた現津(あきつ)、観察され得る事象とは違ってくるの意)のざぞ、
仕合せ悪くとも(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては都合の悪い事象になり不幸だと悔やみ、霊的成長を目指す人にとっては苦痛や苦悩が自分たちを成長させる“上”からの試練であることをよく認識(悟り、幸取=さとり)しておけという意味で)悔やむでないぞ、

それぞれのミタマの曇り
とりてゐる(自我の確立=固定化から自我の肥大(“石屋の仕組み”)由来の思想、価値観、幸福感などを、諌めること)のざから、
勇んで苦しいこと(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人の霊的成長のために下す試練、自省(胸の磁性“十”)の“行”、左往右往のためのこと)もして下されよ、

上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍する右往左往の事象であるが、今後=アセンション後に移行する際は真に霊的成長を目指す人、霊的成長が何か知っている人、そして“ほんとう”の価値を知り、それを顕現する人が指導者となるから、現時点での形骸の名誉や地位を持っている上だと思われている人が馬脚を現すということになり立場が逆転する)
神が化かして使うてゐる(今は平均的地球人の霊的成長度の人を育てているから“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が台頭しているが、今後=アセンション後には“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人は移行しないし、そこにおいての平均的な霊的成長度というのは“慈悲”と“慈愛”、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”が中心になる)のざから、
出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことか(今の事象のように恨みの連鎖の霊的干渉の影響もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動の根拠である、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかの心の動きを顕現する人は居なくなる)と皆がびっくりするのざぞ、

びっくり箱にも(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとっては)悪いびっくり箱と、
((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして左往右往して“慈悲”と“慈愛”の心を十分に発現した人(日止、霊止)にとっては)嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、

何も知らん(霊的成長の順番が自我から“慈悲”と“慈愛”という“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解していない)臣民に、
知らんこと知らす(右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をさせ、“ほんとう”に良い事象の“創造”を自分たちが神から託されているということ)のざから、疑ふは無理ないなれど、
曇り(自我の肥大=“石屋の仕組み”)とれば、
すぐうつる(“上”と感応するから次の事象の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が理解できる)
もとの種(人は神の子であるから、神の子としての使命を)もってゐるのざから、
早うこの神示読んで(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すことを知り天意と感応して自らの思想を“上”の思惑に沿ったものにする)
洗濯して呉れよ(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して自省(胸の磁性“十”)して“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する)

どんな大峠(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”に移行するアセンションそのもの、そして外側(外国と幽界)の事象におけるアセンションに伴うこと)でも楽に越せるのざぞ、

神の道は無理ない道(今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が活躍して恨みの連鎖に満ち満ち、それがどんどん増大していく事象がこの文の“無理”=“理(ミチ)”、法則性に事象ということで、それは“上”から観たらとても理不尽である)ざと知らしてあろが。 

ミタマの因縁(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことの意味と、低い心(靈)=進化程度の低いミタマの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創りあげられる恨みの連鎖に満ち満ちた事象で、“メグリ”(帀)により自分たちが霊的成長を阻まれること)おそろしいぞ。 

上下(今、台頭している形骸の上下の概念を打破し、霊的成長度の“上”“下”を見極めさせる事象をはっきりさせること、そして今あまり認識されていない心の“上”“下”、“ほんとう”の“上”“下”を、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すこと)
わき上がるが近うなりたぞ(“創造”の“主(ヌシ)”の計画としての時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が近づいたの意)。”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 磐戸の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈


今回も、磐戸の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。
今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。
洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。
学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。 学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。
小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。
叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。 ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。 出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
一月十四日、 ローレンツ力と ○ の一二のか三。

冒頭の文。
“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。 
またそれはこれに続く“神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ”で述べられている“神徳”というのは、“上”との感応する心、そしてその心の動きによって形作られる事象ということ、それは“上”と感応した“日止、霊止”の思想が顕現し、真実=真固止の事象を“創造”するということでもあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、いわゆる霊的成長度がこの言葉に対して思うであろう現世利益、神さんが徳をくれるとか、あるいは自分たちが頑張らなくても祈ってさえいれば感謝さえしていればそれが徳とか、そんなことで自分たちが幸福になるなどというてんで低い発想由来のことではないことを、あえて述べておく。
それで“神徳”と“世の元からの生神が揃うて現はれた”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現した世界では“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”はなくなり、この概念や言葉そのものが消失するものでもある。 その低い心の動きの根拠になるのは(通貨としての)金に対する執着、形骸の権威を示すとか、すべて自我の肥大=“石屋の仕組み”という心の動きに由来することで、幾度となくこのことは述べてきたが、この今の世界そのものがそういった心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=願いと祈り、それを達成するための思想、そのためのエネルギーの贖い(あがない)をしてきたものであり、それはこの文の“神徳”でもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の低い人間は“大き器”でもなく自我が肥大しているから“掃除(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)した大きいれもの”でもないことを読み取るべき。
そして今述べたことを強調する言い回しが“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”であり、“上”の思惑が人(日止、霊止)の行動に活きること、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現する事象を創ることを示す文が“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐる”であり、“御用”はいうまでもなく自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格を持つことである。

さらに今述べたことを強調しているのが次の文。
“今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ”
 “日月神示”表記の“マコト”“○ 九 十”、○○○大先生の概念の“上”の思惑を真に固く止める、そうすればその人の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)になり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の行動に観られる不誠実ということではなくなるものでもあるが、“マコト”というカタカナ表記は“上”から視点の言い回しであるから、真実、真固止、誠、ということを“下”である人間が顕現していかなければならないことを読み取るべき。 そしてそれは“神のマコトの元の国”という表記に秘密が隠されており、この言い回しの“元”は肉体(月(ツキ))=二と時間の進行を示す儿部(じんぶ、にんにょう)、“国”は(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであるから、自我の肥大を諌める心の動きでもあるし、それが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くということでもあるし、よって“神のマコト”を顕現する心であるという解釈が妥当である。 そしてそこには“日本の国は小さいが天と地との神力強い”という言い回しがされており、この場合の“天と地との神力”は、縦の磁束、“上”と“下”の磁束の強化、これが無されていなければ“上”からの荷電粒子を止めて発振、発信(自らのオーラと成す)ことが出来ないものであり、“日本の国は小さい”の“日本”は当然のことながら縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が根拠の日本と外国ということではなく、日の本の国、太陽(日)を取り込んで自省(胸の磁性“十”)して時間の進行(儿部(じんぶ、にんにょう))を歩む心(靈)(ヒ)=“国”である。 いわゆる“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるが、これが“一”=智性=1番目のオーラを大きくして天意を受信でき得る肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)にする秘訣であるということは今まで述べてきたとおり。 そしてそれは先に述べた進化の法則性が顕現して“マコト”、真実、真固止、誠、が台頭する今の世界とは雲泥の差がある事象になるということが、この文の冒頭の“今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが”の意味合い。

次の文。
“洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ”
 冒頭の“洗濯”は言うまでもなく“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であり、今の平均的地球人の心のことを“人間心”と称し、それを“すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ”と述べられているのは、自省(胸の磁性“十”)して自分たちの行為を恥じて今後=アセンション後は“マコト”を顕現する事象の“創造”をするということであり、この文の“智恵や学”は今の平均的地球人の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)のことで、“力”の使い方が自分たちのためだけであるから恨みの連鎖の霊的干渉の増大になっていることを○○○大先生は著書で述べたが、それではダメということで、だから“洗濯”そして自我の肥大を諌め“上”に恭順になった心(靈)(ヒ)という意味合いで“神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ること”、このことをよく理解して理念として行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するようになれという意味合い。
 そして“ミタマ”という表記については例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用する。

“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根

 要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)、そして“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすること”の“肉体心すてて了ふて”は先の“人間心すてて仕舞て”と同様の意味であり、自我の肥大を諌めて、天意を受信する仕組みである“ミタマ磨き”=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化(自凝(おのころ))をよく理解して実行し、“上”と感応することが“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふ”“神の申す通りそむかん様にすること”の表記の意味合いで、それは“日月神示”表記の“天詞様”のこと。
 そしてこれに続く“学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。 学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ”の“学や智を力と頼むうち”というのは、今の平均的地球人の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を指し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“力”の使い方では“ミタマは磨けん”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道程を歩めないということ。 そして先に述べた天意の受信を指した表記が“学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか”。 さらにこれに続く“今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ”は、自我の確立=固定化&自我の肥大(“石屋の仕組み”)、要は“江戸と尾張”、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、“慈悲”と“慈愛”、胸の磁性“十”という進化に移行することが、ただ単に“神の咎め”(“上”が方向性を示すこと)を与えて自省(胸の磁性“十”)させるということではなく=“天災や戦ばかりでは中々らちあかん”、自分たちの心が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して変容していかなければ“ミタマから、根本からかへてゆく”“根本の改め”ということには成っていかないということ。
 これに続く以下の文は、本文に注釈を入れて解釈を述べる。
“(平均的地球人の霊的成長度の認識において“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”を対象に)小さいこと思ふてゐると判らんことになる(自分たちの進化の指標を見失う)と申してあろがな、この道理(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))よく肚(はら、“江戸と尾張”、自我という心)に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁(“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、それぞれは“上”と胸の磁性“十”と“下”の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で、その発振、発信で自分たちが事象の“創造”をしているから因縁という表記を使っている)によって、それぞれに目鼻つけて(その1番目、2番目、3番目のオーラ、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”か(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者化という結果になる)、悪も改心さして、善も改心さして(今の平均的地球人の既成概念における程度の低い認識での善悪ではなく)の岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我から“上”の心の発現)ざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ(たくさんのエネルギーを贖う(あがなう)つもりでいろよ)”。

 次の文。
“叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ”
 これは、先に述べた“神の咎め”のことも述べ、そして人間を霊的成長させる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、飴と鞭を使い分けるということ、“叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすこと”を述べている。
 そして相対的に悪と見えるものであっても“上”の思惑に恭順であれば“聞き分けよい悪の神、早く改心する”、一見善に見えても自分が正しいということを自我の肥大で思っているものは“聞き分け悪き善の守護神ある”と述べられ、やはり自分たちの既成概念とそれに感応しているあまり高くない“上”、低い霊的成長度の人間には低い“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)しか感応しないという“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の法則があるが、今後=アセンション後は低い人とそれに感応している低い“上”ではダメであり、一定以上の霊的成長度を獲得していなければ、今後=アセンション後の事象の“創造”には参加できないので、こういういわれ方がされていると思える。

 次の文。
“この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ”
 冒頭の“この道の役員”は、次の事象の“創造”をする、あるいは今後=アセンション後における指導者的存在、それは“一”=智性=1番目のオーラが大きい“天詞様”といい得るが、そういった人は“昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてある”=神の計画でこの低い星に降ろされた霊的成長度の高い心(靈)のこと。 それはアセンションが神の計画であるから“神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来る”=必ず生きている間に霊的成長度を高めて、今後=アセンション後に移行出来得る資格(“御用”)を獲得せよ、ということで、霊的成長度の高低により区分けされる作業がアセンションであることを知っておくべき(幾度となく述べたことではあるが)。
 
 次の文。
“ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。 出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。 ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”
 冒頭の“ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出す”は“上”と感応して自らの思想が神の思惑に沿ったものになるならば、当然自分の低い心(靈)の動きを諌めるから、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)というのもなくなるから、恨みの連鎖の霊的干渉の無い世界を実現できる、それがこの文の意味。
 これに続く“出雲(いずも)の神様 大切申せ”は、“雲”の意味するところが大事。 以前作った画像を貼っておく。

雲の解字


 これに続く“子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。 ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ”は、具体的な時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)が“子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場”であるだろうし、そして“世の立替へは水と火”というのは、日の出の巻 第二十二帖で、“左は火ぞ、右は水ざぞ、 ローレンツ力と ○ の神と渦巻き 左回転 の神ぞ、日の神と月の神ざぞ”と述べられているから、神の極性、日足と砌(ひたりとみぎり)のことであり、そしてそれは思惑と顕現ということでもあり、心の動きが現象化するということでもあり、人間においては心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))ということでもあるが、その極性のバランスは日足(ひたり)優先でなければ事象は腐っていくもので今の事象が砌(みぎり)優先で、肝=“いきり立つ心(奴と心)”が先だって脾=“思う、憂う”が後になっている=右往左往であるから、この世界は失敗の事象であり、日足(ひたり)優先を示す表記であるから先に日足(ひたり)=左と書かれているのが、この文でもあると思える。
 そして“ひつじの三月三日、五月五日”は、“ひつじ”は伊邪那美(いざなみ)の美の意味、羊が大きい、それは先に述べた“上”の思惑に恭順という意味合いであり、“三月三日”は、日付のことではなく、進化した生命が持つ“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラを持つ月=肉体と日=精神性、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)ということ、同様に“五月五日”の“五”も、五そのものが糸巻の象形文字が由来の漢字なので、神経が密になること、コイル状になり磁束の発現と磁束の多様化、ローレンツ力
ローレンツ力と ○ の強化という意味合いを持つ。
 要は“上”の思惑を取り込む仕組が“五”であり、それはある程度完成された生命、“一二三”のオーラのを持つ人ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その十六” (人間じゅんいち君と○○○大先生とKelly、“自己知識”についてディスカッションする)

お断り
Kelly 会話中 今回の記事は、“日月神示”磐戸の巻に出てくる表記の“マコト”、そして“ローム太霊講話集”第六話 四方の祈り 北 でローム太霊が述べておられる“完全なる人間の運営”のKellyさん的解釈をよく鑑みてお読みいただければ幸甚でんねん。

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○○○大先生会話中  「さて、このカテゴリーでよく使われる(この文章を作っている○○○大先生にとって)まったく都合の良い理不尽な展開なのだが、アタシとKellyは前回じゅんいち君が一人で考えていたことを十分知っているという設定で、今、三人で話をしようとしている。
 それで前回じゅんいち君は、“ほんとう”に対する“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の事象の比較、そして“ほんとう”と感じられることと“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”と感じられる何かは、それを生み出した、“創造”した心(靈)の違いであることに気が付き、理解しただろうし、またそれらは相対的な比較によるものであることを認識したね。 
その上でじゅんいち君は“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止))という概念を発想した。 
また“ほんとう”を求める人間が“前向きな考え方”をする人間ではないかともじゅんいち君は思った」

Kelly 会話中「その(エリナのセリフとしての)“前向き”というのは、霊的成長度の高さ、“上”の思惑を止める“日止、霊止”、真実=真固止の事象を“創造”する人であるということもじゅんいち君は思いはった。 
ほんでからにこの場合の“前向き”という言葉の受け取り方を、一般の既成概念で見てしまってたら間違えている人は多いと思うんやけど…エリナのセリフを通じて“上”が何を伝えようとしてしているのか、まほう色の瞳を書かせた“上”の思惑という視点のほんまの意味合いってことを考えるべきでもあるやん。 
その意味で“前向き”に対するじゅんいち君の概念はまっとうなものやと思いまんがな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「僕の概念がまっとう…そうなのかもしれません…。
それで、それらの考えを導き出すにあたって僕は“人間が今より相対的に神に近くならなければ“ほんとう”と感じることを知らず、“ほんとう”だと認識しうる行動をとらない…”とも思いました…ですが、僕は僕が考えたことに対して確信があるとは…思えない」

○○○大先生会話中 「うん、それについては何か具体的な事象を観て分析したら解っていくんじゃないかな。 
それでじゅんいち君が考えていたこと、“今より相対的に神に近くならなければ”という、じゅんいち君の“観察と認識”が大事だね。
そもそも、その“ほんとう”ということを論じるきっかけは、エリナのセリフの“自分は何もので、なんのために存在し、ほんとうの自分というものに近づくためには何をするべきか”という言い回しであり、この言い回しそのものが“私が言いたいのは、自己知識ということなの”にかかっていることは、このセリフ全体を一読すればすぐ分かる。
それで、このセリフの中の“自己知識”という言い回しは何を指すものなのか。
これについてもじゅんいち君は、前回“大半の人間が“(神の子である)人間の在るべきカタチ”を知らないからこそ、エリナのセリフの“自己知識ということ”そして“自分は何もので、なんのために存在し、ほんとうの自分というものに近づくためには何をするべきか”を考えなければならないのだと、今の僕はこのことを強く思ってしまう…”とつぶやいていたように、自分たちが神の子であるということをはっきり意識していない、あるいは神の子ということをしっかり理解していない、だから“何もので、なんのために存在”しているのかということを平均的な霊的成長度の地球人はたいして考えていないといえるし、大体、平均的地球人の霊的成長度でもある自我の肥大した人間に、自分たちが神の子であるという話をすると、(“役員づら”に刷り込まれている)まったく低いというか、自分たちの功名心や自尊心を満たそうとする勝手な解釈をしたりもするし、さらに平均的地球人の霊的成長度の人間がやっていることは、自分たちだけが神の子であるという都合の良い主張をしたりして、宗教戦争などの原因である自分たちの立場を強調するとか権威を主張するとか…こういうまったく浅ましく悍ましい(おぞましい)ことをしたりもしてそれが人殺しにつながっていることすら何とも思わず平気な人間は多すぎるね。 
こういったこと自体が、単に霊的成長度が低い、とても神の子とはいえないような低い心でしか事象を観ず、低い心の動きで行動しているからでしかないのだが、それだからこそ「小さな宇宙人 アミ」のシリーズや「まほう色の瞳」で、地球人自身の今後=アセンション後に向かうべき自分たちの在り方を示唆した文章を、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、この本の著者に憑依して通信を送り、文章を作らせた。
だが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の極端な介入は刷り込みに近いことになったりもするので、比較的、抽象的な表現をとり、そこから“上”の真意をくみ取り、自分の認識(悟り、幸取=さとり)にする人間の輩出をさせようとしている。
それが“上”の望んでいることだね。 それだからこそ、こういった類の本は、具体的にどうしろとかどう在るべきとかという表現はあまりない。
それで、程度の低い人が、文章の裏に高い存在の思惑を感じさせるものを読んだとしても、程度の低い間違った解釈をする、あるいは利用したり肖ったり(あやかったり)、単に言葉に酔ったり雰囲気に酔ったりという自我の肥大した人が行うワンパターンなことも起きるものでもあるが、実の話、間違えることも大事。
その間違いはいつか“上”が正すものであり、その時に自分の心の低さを知ることも学習として大事、そして間違えたと自分が思ったなら、なにが正しいか、なにが正解か自分で答えを見つけようとするもの。 
その答えを自分で見つけ出そうとする、それがあってこそ、自分たちの(霊的な)成長を自分たちで成し遂げることにつながる。
さらに、それを成していけば、それこそが自分の思想になり、その思想は崩れにくいものになり…その答えを導き出す時にかなり苦しんだりもするからね…またその思想由来の認識は、神と人間の正しい(“上”と“下”が合わさった表記が正しい)ものとなるが、この“正しい”という言葉ですら相対的なものであり、今の地球人が持っている“正しい”ということに対する既成概念も低いものであり、それはこのブログでたびたび引用した“絶対の善”には程遠いものがある。
やや複雑な言い回しをしたが、今述べた自分の間違いを自分でただすこと、それは自分の考えや行動を深く鑑みる(かんがみる)もので、そこで初めて自分が自我の肥大をしていたことを自覚するものでもある。 
その自覚すること、鑑みる過程が大事。 
いうまでもなくこれは自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあり、自分の心の動きを観ているのは“自分を観察する自分の確立”が行われているもの。
そして自分の心の中に高い低い、要は“上”“下”を見出し、どういった心の動きが神に近いかケダモノに近いのかを、自分で判っていく。
また、自分の心の動きが、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠であることをはっきり知るものでもある。 
これも“自己知識”ということの一環でもあるね」

Kelly 会話中「ほんでから今先生がいうてた行動の根拠が心(靈)(ヒ)の動きであること、こんなことは当たり前のことなんやけど、このことを大半の人がしっかり意識していない、そんなふうにも思えまんな。 
それが、以前先生と話をした“思惑の顕現”ってことでもあるんやけど、自分たちが自分の思う何かを達成しようとしていること、それがまたエリナのセリフの“自分は何もので、なんのために存在し、ほんとうの自分というものに近づくためには何をするべき”ほんでから“わたしたちはそれぞれの自分の人生をどう生きるべきか”という言い回しの裏にあることやねんな」
(そやけど大概の平均的地球人は、この言い回しの意味するところを理解できてへんやろな)

○○○大先生会話中 「それでじゅんいち君は、このブログに登場して以来、自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や自分の心の動きを自己観察してその“上”“下”を見出した。 
さらに、前回じゅんいち君が一人で考えたように(“今の世界には、“ほんとう”ってことはあまり無いともいえ、“ほんとう”に対する認識も低すぎると指摘できる”)、現津(あきつ)、観察され得る事象にも、相対的な比較として程度の高い低いがあることを知っており、それを換言すれば“ほんとう”と“ほんとう”と感じられない事象ということだと思うのだが、その区別は十分できていると思う。
 そして今じゅんいち君が述べた“人間が今より相対的に神に近くならなければ”ということ、これもまた換言すれば、どういう心の動きが“ほんとうの自分というものに近づく”のかでもあると思うが、どうだろうか」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「…そうですね、そういうふうに思えます。
 前に僕がKellyさんから教えていただいたエリナのセリフ“私が言いたいのは、自己知識ということ…中略…ほんとうの自分というものに近づくためには何をするべきか”を考えていた時、“自分を観察する自分の確立”ということに対する僕自身の理解が大事であり…はっきりとした自信はありませんが…
僕自身は僕の心の動きとその心の動きが根拠になっている行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の程度の差、
それが正しいか、間違っているか、
ほんとう”かそうではないのか、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”なのか、
それを見極めることが出来るようになったから“ブタのけつ”の程度の低さ、価値の無さというのも解るし、それを本当のことと思い込んでいる、そう刷り込まれている心を“ブタのけつを見ているアホ”と見て取れるようになったと思います」

Kelly 会話中「その通りやと思いまんがな。
ほんでからじゅんいち君はもう一つ大事なことを認識してはると思うけど」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「そうですね。 価値があるか無いか、くだらないものなのか貴いものなのか、“ほんとう”か“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”か、そう見て取れる(観察行為による)何かは、すべて心(靈)の動きが理由である…ってことですね。
 …ちょっと言葉が足らない言い回しをしたかもしれませんが、行動、何かをすること、そして行動によってカタチ作られた何か、それらに価値があるか、それらが“ほんとう”なのか、それを知ること、見極めることはとても大事である…。
ですが、それが出来ていない人間が多いからこそ“ブタのけつを見ているアホ”がこの世界に多く、どうでもよい価値観をインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)されている人も多い。
 …というよりも、今のお二人の話に合ったように“自分は何もので、なんのために存在”なんてことをしっかり考えている人間は少なすぎるのかもしれないし、このことをしっかり考えなければ“ほんとうの自分というものに近づくためには何をするべき”なんてことまで考えること自体、到底出来そうもない…と思います。
 そしてエリナはこのセリフの後に“神の存在…中略…神の息子や娘たちなの”って述べているけど、先ほど○○○大先生がおっしゃってらしたように、自我の肥大した人間が自分たちが神の子であると思ったなら、てんで低い解釈やそれ由来の行動をして、それは誰が見ても間違っていると感じそうなことなのだけれど、この星ではそれがまかり通っていて、それを容認している心の動きっていうのも何となく僕にはわかりますが、そんなことは本当に僕たち人間が神の子であるならば、あってはならないことでしょうね。 
 そしてそれがまかり通っている理由は、自分たちが神の子であるという概念を間違えているし、おそらく神に対する本当の理解もない、それだから神を利用して権威を示したりする…そして自分たちが神の子であるという本当の意味を考えてもいない…だから神を利用する…バカみたいですね…なんて地球人は低いのだろうかと思いますよ。
 そのバカみたいなことというのは、先回僕が考えた“人間が今より相対的に神に近くならなければ“ほんとう”と感じることを知らず、“ほんとう”だと認識しうる行動をとらない…”ということだと思うのですが、今夜僕はお二人と話して、このことについてもう少し考えてみたいと思いました」

Kelly 会話中「そうやな…そやからそれはさっきじゅんいち君が言うてたみたいに“僕は僕が考えたことに対して確信があるとは…思えない”ってことがあるから、じゅんいち君が様々な何かを見て、それはどういう心で創りあげられたものなのか、その心の動きは“上”か“下”か、それを分析する、判断するってことが必要なのかもしれん。
それは今の話、じゅんいち君が考えてみたいと思うこと、
人間が今より相対的に神に近くならなければ“ほんとう”と感じることを知らず
そして
ほんとう”だと認識しうる行動をとらない
ってことなんやろけど、このことをじゅんいち君が考えることはとても大事なことやと思いまんがな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「ですから次回のこのカテゴリーでの話は、僕がいろんな事象について考える…先ほど○○○大先生もその意味のことをおっしゃっていただいたし…その機会をいただきたいと思いますが、よろしいでしょうか」

Kelly 会話中「オッ○―牧場!」 ○○○大先生会話中 「おぱんつ▼お~ほほほ!!」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「ありがとうございます。 それでは今夜はこれで失礼させていただきます」
 

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
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Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
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Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
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Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
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Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
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“日月神示” 富士の巻 (26)
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“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
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☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
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☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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