“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集” 第七話~第十六話「死の前後」と「死後の種々相」の解釈に入る前に述べておきたいこと


 まず述べておかねばならないこととして、平均的地球人の死に対する認識は低すぎる。 
その低さゆえの発想、死んだら無になる、死んだら(自分の現界における行いの善し悪しに関わらず)天国に行ける(甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)考えでもある)、死んだら楽になれる、などというまったく低級な認識しか持っていない人も多い。 

それと(霊的成長度の低い)一般の人の既成概念では、あまり受け入れられないことだろうが、死ぬことは霊的成長の一環の側面がある。 
さらに、それぞれの死に方には、その人が背負ってきた因縁、恨みの連鎖の霊的干渉の影響、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の入り混じった生き方によるし、生き方は“思惑の顕現”であり、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。

また、現時点での平均定期地球人の霊的成長度では、人は死ななければこの世界から卒業できない。 換言すれば平均的地球人の霊的成長度では、死ななけれ、違う振動の事象、幽界、霊界、神界、を、認識できないからである。 

それで、 今述べた言い回しの裏には、この事象、肉体(月(ツキ))を伴って観察している現津(あきつ)、観察され得る事象そのもの、現界のことだが、ここは、低い心(靈)(ヒ)の成長を行っている世界であるということを前提にしている。 

さらに、平均的地球人の認識では、霊など無いと思っている人も結構大多数である。 たびたび述べてきたことではあるが、霊とは何かについてごく簡単に少しだけ以下にまとめることとする。

 なぜ霊というものが発現するのかについては、○○○大先生が“改”で説明した通り、霊は荷電粒子の回転であり、単細胞生物から多細胞生物、そして左右相称動物、心臓、目、脊椎、その他の骨、神経の発達など、生物の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは肉体(月(ツキ))の磁束の強化と変容(日月の巻で解釈した自凝(おのころ)の仕組み、タンパク質の高分子化)であり、その磁束由来のローレンツ力で“上”から=宇宙の中心から&宇宙背景放射&あまたの天体&地球の太陽などから送られ贈られる振動の取り込みの変容があり、それがあって心(靈)(ヒ)は育ち進化している。

(また、心(靈)(ヒ)が取り込んでいる振動の高低により、“観察と認識”しうる事象の違いがある)

 またその送られ贈られて来る振動というのは、いうならば、高い振動であればあるほど神の思惑を含んでおり、だから荷電粒子を取り込んで心(靈)(ヒ)を発現させ進化している生物というものは、神の子であるといい得るものでもある。
そして送られ贈られて来る振動の取り込みがだんだん高い振動になる=進化したならば、生物は神の思惑を自分の思想とするものとなる。 

 それが生命の神格化である。 

またそれは、神が人間に何をさせようとしているのか、それは第二話の“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う”であると思うし、そうなるためには第六話の“自分の使命を完成”と“完全なる人間の運営”が必須である。

  そして進化の段階というのは、今までの程度の低い平均的地球人の学問では肉体(月(ツキ))の変容中心の見方しかされていないが、“ほんとう”の進化の意義は霊的成長の過程であり、先に述べた肉体(月(ツキ))の変容、自凝(おのころ)の仕組みは、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階でもある。
その感応共振の段階で人は心の動き、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、を分類するようになったし、高い心の動きは動物にはなく人間にしかないことを知っている…が、そのことを真剣に考えている人間はごく少数であると思える。

 これからこのカテゴリーで、ローム太霊講話集の「死の前後」と「死後の種々相」の解釈をしていくのだが、これを読んでいる人には、今述べたことを念頭におかれて読んで欲しいものである。
 今述べたこと、これは太霊が、何を今の人間に教えようとしたか、今の人間は何を考えるべきなのか、それを知ったらどう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すべきなのか、これらのことを太霊はローム太霊講話集(ローム霊訓講話)を通じて、伝えようとしている、そう思うからである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“日月神示” キの巻 第二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示読めば何も彼も判る様になりてゐること分らぬか、おはりの御用 御苦労であったぞ、奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでないぞ、一の宮は桜咲く所へつくれよ、わかりたか、天之日津久神奉賛会でよいぞ、オホカムツミの神と申しても祀り呉れよ、祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよいぞ。
道場は一の宮と一つ所でよいぞ、イイヨリの御用 タニハの御用 御苦労であったぞ。
皆の者 愈々ざぞ、今から弱音では何も出来んぞ、春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが、愈々ざぞ、褌しめよ、グレンざぞ。
二月二十六日、ひつぐの神。

(文中の国民服とは、戦時中に着用した成人男子の洋服)

 第二帖には“おはりの御用”“一の宮”“天之日津久神奉賛会”“オホカムツミ”“イイヨリ”“タニハ”“ハルマゲドン”という、肉体(月(ツキ))の秘密と、進化の“理(ミチ)”=法則性を示唆する表記が出てくる。

 それぞれの表記を以下に列挙する。

“おはりの御用”=腹の水、“江戸と尾張”の尾張り、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラで構成される磁束、心(靈)の発現と動きでいえば自我の確立=固定化の段階、そしてそれは腹の位相のサイクロトロンの強化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。

“一の宮”=“一”、智性、1番目のオーラ発現の部位、それが宮(宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている))

“天之日津久神奉賛会”は、“天之”=“上”から注がれ太陽を介して送られてくる神の思惑としての荷電粒子を取り込むことが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことだが、それを奉賛(神社、寺などの仕事につつしんで賛助すること)せよの意。

“オホカムツミ”は以前作った画像で意味を示す。

意富加牟豆美(オホカムツミ)の解字


“イイヨリ”=飯依は、日月の巻 第三十帖での解釈を引用する。
“飯依比古(ひひよりひこ)”は、“飯”と“依”=頼りにする、寄りかかる、 よりどころとする、の、意味がある。 これは“臓腑”の“腑”=消化器官と排泄器官による電磁誘導を示唆していると思う。 それは“飯”は捕食であり、進化過程の低い生命においては異物の取り込みであり、微生物から高等な生物に共通する異物の取り込み=捕食、それがあったからこそ高次の組織が作りあがるものである(“腑”の電磁誘導)。

“タニハ”は、旧国名の丹波、読みはタンバ、タニハであり、今の京都府と兵庫県の一部と思われがちだが、そんな解釈では第二帖の意味が通じず、タンバ、タニハ、の語源となった“田庭”(タニワ)の意味を示すのが妥当で、それは“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)と場(フィールド)を示す“庭”ということ、要は“一”=智性=1番目のオーラの発現の部位、“一の宮”と同義。

“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドン”
まず“マケ”の解釈として、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、よって“マケ”は、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
そして
“ハ”は、生命発現成長の音義、“ル”は、霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め、凝す(こらす)、と記されているから、これはタンパク質の高分子化による磁極性の強化ということだと確信する。 
“マ”は前述した通りの意味、“ゲ”は“ケ”に濁点が付いており、濁点が付いているのはその意味合いが強調されていることである。
“ド”は“ト”に濁点であるが、“ト”は、止まると云う心と“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に述べられているし、これは“日止、霊止”の止める、“上”からの荷電粒子を止める、太陽の振動を止める、の“ト”であり、濁点が付いているから強調されている。 
“ン”は、○ 九 十の“九”“十”と同義、卆(そつ、卒業の卒の異体字)、完成の意、あるいは人の完成に至る神の雛形の意味である。

 今述べたことを踏まえ本文を解釈することとする。

“神示読めば何も彼も判る様になりてゐること分らぬか、おはりの御用 御苦労であったぞ、奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでないぞ”
アセンションに向かうこれまでの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は自我の確立=固定化、そして自我の肥大であり、またその心(靈)所以のものの見方、価値観、幸福感などが台頭しているが、仮にそのままでよいのなら霊的成長度の高低で区分けされるアセンションという事象は必要なく、今のままの価値観、幸福感、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)ではダメだから“日月神示”は書かれ、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人間はどう生きるべきか、どういう心(靈)の動きをするべきか=“何も彼も判る様になりてゐる”、ということを説いているのにもかかわらず、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の持ち主はそのことが分からず、生き方も変えず価値観や幸福感も変えないし、ひどい人間は“日月神示”を金儲けの道具にする(“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)。 だからこそ“分からぬか”といわれている。 そしてそれが解らない理由として、進化程度が低い=自我の肥大という心で“日月神示”を見ているから、ちょっと揶揄(やゆ)した表現で“おはりの御用 御苦労であったぞ”といわれており、それに続く“奥の奥のこと仕組通りになりてゐる、臣民心配するでない”は、今も起きつつあるアセンションに伴う醜い事象、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を諌める事象、左往右往、これらのことはすべて“上”の“思惑の顕現”=現象化であり、生きていようが死んでいようが人の心(靈)(ヒ)を良いカタチにする、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させるためのことだから“奥の奥のこと仕組通り…中略…心配するでない”ということ。

“一の宮は桜咲く所へつくれよ、わかりたか、天之日津久神奉賛会でよいぞ、オホカムツミの神と申しても祀り呉れよ、祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよいぞ”
 この文も先に解釈した“一の宮”の意味が分からないとなんのことか読み解けないと思うし、そもそも艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教を立ち上げさせた理由は、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)をさせたかったからである。 だから先に解釈した“天之日津久神奉賛会でよい”そして“オホカムツミの神と申しても祀り呉れ”である。 ちなみに“桜咲く所へつくれよ、わかりたか”は揶揄した表現で、今の事象もその事象の“創造”をしている人の心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)も桜など咲いているなんてものではないし、深読みすれば桜が咲くのは春だから、日の出の巻 第一帖の“春とならば萌(もえ)出づるのざぞ、草木許りでないぞ、何もかも もえ出づるのぞ”で解釈した通り、“春”は“一二三”のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と“日”太陽で構成された字である、そこまで考えたことを述べておく。 それで“祭典(まつり)、国民服の左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕してよい”の“祭典(まつり)”は、“上”と感応して事象を“創造”するの意、“国民服の左の胸”というのは、“日月神示”が書かれていた時に「国民服令」が法制化され、季節の区別なく着ることも出来たし、改まった席では国民服儀礼章を着用して礼装とすることができた、などの意味合いもあるが、大事なのは“左の胸に八(や)たれのシデ二本つけて キヌのシデつけて当分奉仕”であり、この“シデ“は、紙垂(しで)(四手)で、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙、御幣に近いものである。 以前御幣というのは、縦の磁束、あるいは背骨から展開する神経や他の組織という解釈をしたが、これは体全体に適用されることで、この文では“左の胸に八(や)たれのシデ”と述べられているから、胸の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”、あるいは“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“、自省(胸の磁性“十”)由来の“思惑の顕現”=現象化という意味合いで八(“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道と同義、あるいは八という字そのものが丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるという解釈も成り立つ)のように“下”に垂れ、そしてそれは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性で垂れよ=現象化せよという意味合いだと思う。 またそれは今よりも相対的に(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となるのであるから“当分の間奉仕”ということになる。

“道場は一の宮と一つ所でよいぞ、イイヨリの御用 タニハの御用 御苦労であったぞ”
 この文は先に少し述べたように今までの人間の肉体(月(ツキ))の進化と心(靈)(ヒ)の進化のことを述べている。 今後、アセンション後の“道場”=時間の進行と場(フィールド)は“一”=智性=1番目のオーラを獲得するのが主体の事象になるの意、そして“イイヨリ”は“腑”の電磁誘導だから腹の“行”、“タニハ”は田庭だから頭の“行”ということになる。

“皆の者 愈々ざぞ、今から弱音では何も出来んぞ、春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが、愈々ざぞ、褌しめよ、グレンざぞ”
 “愈々”はアセンションの時期が近い、“褌しめよ”は腹の縦の磁束と水平磁場であり、それは気張れよということ、“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケ、ハルマゲドンと申してあろが”については先に述べたので割愛する。 要は時期が近いから神の思惑を顕現すべき生命(生きる使命=存在理由)としての進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、神の雛形としての人間、“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”である自分たちのことを意識してしっかりせよという意味合いのこと。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” キの巻 第一帖 Kellyさん的解釈

 今回からキの巻の解釈に入りまんねん。 先ず第一帖の原文は以下の通り。

節分からは手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、拍手は元の大神様の全き御働きぞ、タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ。
節分境に何も彼も変りて来るぞ、何事も掃除一番ぞ。
一月二十九日、ローレンツ力と ○ のひつくの神しるす。

冒頭の“節分から”とこの文の後半以降の“節分境に何も彼も変りて来る”というのは、今後=アセンション後に移行した時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、からそれは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)からということ。 カレンダーに書いてある形骸の年中行事に成り下がった節分のことなどでは決してない。

それで次の文には、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)のことが述べられている、
“手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、拍手は元の大神様の全き御働きぞ、タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”
 この文の“手打ち乍ら”は、左手と右手を合わせること、日足と砌(ひたりとみぎり)を合わせること、“思惑の顕現”=現象化、現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”ともいい得るもので、それは“拍手(日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性を合わせ事象を“創造”すること)は元の大神(“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))様の全き御働き”と述べられている通りでもある。 
 そして“ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れ”は“一二三”のオーラを発振、発信せよ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)とせよ、の意。 平均的地球人は“一”=智性=1番目のオーラが全然足らないからでもある。
 前後するが“手打ち乍ら”“拍手”の意、それは“タカミムスビ と カミムスビの御働き”であり“タカミムスビ”は古事記では高御産巣日、日本書紀では高皇産霊、“カミムスビ”は古事記では神産巣日神、日本書紀では神皇産霊尊であり、この漢字の中に“日止、霊止”、“上”からの荷電粒子を止める意の“日”“靈”の字があることに着目しなければならず、それは“高”“御”であり“ムズビ、産巣日”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり、法則性、
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊、
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、心(靈)(ヒ)、日、火、
であるから、“日”“靈”=“上”からの荷電粒子、降り注がれるア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)を、“ス”と成して、心(靈)(ヒ)と成すという解釈をするものでもあるし、それは“皇”人の進化した様といい得るものである。
 それでその“御働き”は“御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”と記され、それは“上”からの荷電粒子を止めた心(靈)(ヒ)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”する現津(あきつ)、観察され得る事象で、“御音(おんおと)”は振動のこと、“和”“大和(だいわ)”は、“ワ”、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義、であるから、神の思惑を顕現する事象の“創造”で、またそれは“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が顕現するからこそ“言霊ぞ”と述べられている。
そしてそれは相対的に今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により創られている今の腐った事象とは雲泥の差があるからこそ“喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ”と述べられているものである。

ここまでのことを踏まえ第一帖の最後の文を読むと意味はよく解ると思う。

“節分(霊的成長度における区分け、アセンション)境に何も彼も変りて来るぞ(今より神の思惑が顕現する事象になる)、何事も掃除一番(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めよ)ぞ”

 今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その三” カタカナ表記(“上”から視点の表記)の意味とそこから(“下”である人間が)思わなければならないこと

 磐戸の巻の前半を中心に重要な意味を示唆するカタカナ表記(“上”から視点の表記)が多かったが、最も重要なカタカナ表記は“マコト”で、それは“その一”でのべたように“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、天意を止め“修理固成”(しゅうりこせい)して(コ)“上”が認める=正しき(正しいは“上”と“下”が重なった表記、神の思惑通りの生命という意味合い)進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す生命(生きる使命=存在理由)、これが神の思惑を顕現するべき霊的成長した生命である“日止、霊止”(“上”からの荷電粒子=思惑を止める)ということである。
 それで今の地球人は進化程度の低い人が大半、上記の意味で述べたように天意を止めるどころか、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)(ヒ)中心で行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)している人がほとんど。
その心(靈)(ヒ)の動きが台頭しているので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となり、“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)=自我の肥大という心の動き(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))で、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出し増大させ、この事象を腐らせている。
だからこそ霊的成長度においての区分けであるアセンションがあるのだが、人は神に近くなればなるほど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動にみられる“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の無い事象を“創造”するものであり、同様に、心(靈)(ヒ)の動きは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、誠実さが台頭するから“見せかけ”の何かというものは無くなっていくものである。 
そして先に述べたことと重複するが、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化、そして自我の肥大(“石屋の仕組み”)、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して、自省(胸の磁性“十”)して、その意味合いの“日月神示”表記が“秋立つ”であったり、磐戸の巻 第一帖の“十理(とり)”=胸のシンクロトロン放射(縦の磁束と横の磁束)と、法則性である“理(ミチ)”、要は“慈悲”と“慈愛”という心の動きで事象の“創造”をすることになり、そこでは進化程度の低い心の動き、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の野放図な欲望や利己的な思想は台頭することなく、きちんとした法則性に則った事象になり、当然そこには悪と感じうる何かは無くなっていき、また“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいないからこそ、その場(フィールド)では万人が何不自由なく暮らし、生活に困るという今の地球における苦難や試練は消失して誰もが神格化のための智性(“一”、1番目のオーラ)(神性)を獲得するための“行”を行い得る事象になるものである。

 今述べたことにおける今後=アセンション後の事象は、常々述べている岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、このことが必須であり、それは腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”の心の発現と動き、自我から上の心が台頭してくるならば先に述べた万人が不自由することなくその場(フィールド)に位置する心は生業(なりわい)における苦難や試練は無くなっていき誰もが神格化を意識した“行”と生活を送るようになる。
その、場(フィールド)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)としての関門が“岩戸開き”=自我の確立=固定化固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から“慈悲”と“慈愛”という進化に至ることである。
 
今述べた、平均的地球人が通り越すべき進化である、腹から胸、岩戸開き、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌めること、これらのことが述べられて手いるカタカナ表記をまずピックアップする。

まず、第一帖の“イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ”の、“イワト”は先に述べたとおりの意味。
“カミカカリ”は、自分の心の発現による息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が“上”になり、“行”をして肉体(月(ツキ))の磁束の強化が行われ、ことに頭の水平磁場、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば、高い存在と感応して、その感応で通信を受けることは自分の思想が“一”=智性=1番目のオーラの質(振動の高さ)と量(オーラの大きさ)という要素で、だんだん“上”の存在と感応し、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、自分の思想は神に近くなっていくことを知らなければならず、その具体的な“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それが“ほんとう”の意味での“天詞様”、天皇であり天皇という字の一つ一つは、“天”は、“一”=智性=1番目のオーラ+自省(胸の磁性“十”)+人(日止、霊止)と、“白”はシンクロトロン放射(クンダリーニの白光)と、完成された人の様である三つのオーラと縦の磁束の表記の“王”で構成されているものである。 
そして進化した心(靈)(ヒ)、いわゆる目上(めうえ)の脳、“上”との感応に必須なのが“ウズメ”、漢字表記なら鈿女、それは金と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質、目上(めうえ)の脳)と、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を意味する女。 要は、天意を自分の思想とした人が“思惑の顕現”=現象化を行うこと、いわゆる神の“思惑の顕現”を行う“日止、霊止”になることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の目的であるといえるものであるし、生命の存在理由はそこにしかないものである。

 第二帖の“キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは ローレンツ力と ○ (よろこび)ざぞ、臣民みなにそれぞれのキうへつけてあるのざぞ、うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。 この道理わかるであろがな”の“キ”は、気、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の炁(愛の元字)と表れの意である奇、そして、磐戸の巻の解釈が終わってから気付いたことだが、“道”(時間の進行)によって遭遇する事象、それは来るの意としての“来”でもあると思う。 
 それで、すべて自分たちの心が観察しうる現津(あきつ)、観察され得る事象というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の振動、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”、これを個々の心がローレンツ力ローレンツ力 で取り込み生命は存在している(“心のもとはキ”)が、心(靈)(ヒ)そのものが霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、ローレンツ力由来の円形加速粒子機の構造を持つから心(靈)は発振、発信する、それが息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に反応して現津(あきつ)、観察され得る事象はやって来るもの、それは物質世界においての物であろうが人の縁であろうが霊的干渉による現象であろうが心霊との縁であろうが、すべて荷電粒子の取り込みと自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることであることを知らなければならず(“総てのもとはキである”)、それが因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”の根拠たることであり、自らが遭遇する事象はすべて自分に責任がある(“うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ”)ことを知りうる根拠となる、そのことを感じさせる表記が“キ”。 また磐戸の巻の次の巻は、キの巻であり、“キ”についてはそこでまた解釈を述べることする。
 
 第四帖の“この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ”
“この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ”=今までの平均的地球人の価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意。 
それともう一つ“生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ”の“イキ”、これは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であると解釈するのが妥当で、自分の心の動きが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して“上”と感応する事象になっていけば、進化程度の低い人間が“神の咎め”を受け、そのことを悪だと自分に都合の良い解釈をすることも示唆しているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は違えることなくその程度の低い人間が自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させるものでもあるし、それが自分がしてきたことに対する正当な報酬としての“神の咎め”でもある。 よって“神のイキに合す”と“イキに合へば悪は悪でない”の意味は、天意、あるいは“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信と、自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が同調するの意であると理解できると思う。

第七帖の“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ”の“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)。 それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分け、“役員づら”が述べている意味合いのことではなく真実のアセンションのことだが、それを通り越しても(時間の進行としての“道”)、“今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではない”=自分たちが今までとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象の“創造”をするのであるからすぐに良いカタチにはならないということを述べられている。

第十三帖の“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ”
 この“コト”という表記は“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、と、“ト”は、止まると云う心、の意味合いがあり、何が停滞して働くのか、何が止まるのかはこれまで述べてきているように“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“上”からの荷電粒子(天意)であり、それを真に固く止めるのが真固止であり、天意を自らの思想とする神の雛形として進化した生物(人、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の要素を示した“日月神示”表記の ○ 九 十 でもあり、天意=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を止めるという表記が“日止、霊止”でもある。 そして天意を自分の思想としている人を他者が“観察と認識”したらその行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)、を感じ得るものとなっていくのが、進化=霊的成長、神格化に向かうことの必然でもあるが、“上”からの荷電粒子の止め方の違い、止まり方の違い、いうならばそれは心の発現と心の動きの違い、それはこの文の“精神ちがふ”でもあるが、それが(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の違い、要は霊的成長度の違い、自我より“上”の心がきちんと発現しているのかであるが、それを述べているのが“コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになる”であるし、心の“上”と“下”(正しい)が纏まっているならば=“コト正しくすれば”、そうなるならばという意味合いの表記だが、そうすると“正しきこととなるのざぞ”であるし、人が事象を観て正しいと感じ得るということに他ならない事象を創り得るものである。

第十六帖の“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすること”の“肉体心すてて了ふて”は、同じく十六帖の“人間心すてて仕舞て”と同様の意味であり、自我の肥大を諌めて、天意を受信する仕組みである“ミタマ磨き”=“身魂磨き”、(生体内電流による)肉体組織の結晶化(自凝(おのころ))をよく理解して実行し、“上”と感応することが“神からさづかってゐるミタマの命令に従ふ”“神の申す通りそむかん様にすること”の表記の意味合い。

 ここまでのことをよく理解すれば、自我の確立=固定化、自我の肥大から、その低い心を諌め自省(胸の磁性“十”)し“慈悲”と“慈愛”という心の動きが台頭することそのものが人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということが理解できると思う。

次に、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命のことを指す表記を以下に列挙する。

第一帖の“タマ”
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。

第三帖の“マケ”と“ハルマゲドン”
“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ”の“マケ”の表記の意味であるが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と記されているので、やはり、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
“ハ”は同じく“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“ハ”は、生命発現成長の音義、“ル”は、霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め、凝す(こらす)、と記されているから、これはタンパク質の高分子化による磁極性の強化ということだと確信する。 
“マ”は前述した通りの意味、“ゲ”は“ケ”に濁点が付いており、濁点が付いているのはその意味合いが強調されていることである。
“ド”は“ト”に濁点であるが、“ト”は、止まると云う心と“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に述べられているし、これは“日止、霊止”の止める、“上”からの荷電粒子を止める、太陽の振動を止める、の“ト”であり、濁点が付いているから強調されている。 “ン”は“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に何も記されていないが、これは○ 九 十の“九”と同義、完成、あるいは完成に至る雛形の意味である

第五帖の“ミタマ”
“ミ”は、生命の幹 その現実 ヒフミのミ
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、まこと神のマ(真固止)
ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った心(靈)(ヒ)、生命が、観察する現実(“ミ”)(現津(あきつ)、観察され得る事象)という解釈が成り立つ。

第六帖の“北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ミ”は生命の幹 その現実。
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意。
 よって“シホミツ”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動“シ”が生命(生きる使命=存在理由)と現津(あきつ)、観察され得る事象に止まるように降りるの意であると思う。
 次に“シホヒル”
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ。
“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)
“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ、ヒト(“日止、霊止”のヒ)。 心(靈)(ヒ)、日、火。
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝(ひるこ)の如き生命素を集め凝らすの義。
 よって“シホヒル”は“創造”の“主(ヌシ)”の振動が生命に降りて凝る(自凝(おのころ))している様、またそれは神格化のプロセスの重要な要素のたんぱく質の高分子化による肉体(月(ツキ))の磁極性の強化と変容の結果である“上”との感応といい得る。

第七帖の“神のミコトにきけ”
“ミ”は生命の幹 その現実。
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意。
“ト”は、止まると云う心。
“神のミコトにきけ”は、天意を受信した智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で“観察と認識”して自らの心で思い判断せよという意味合いのこと。
もう一つ“この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ”の“マナカ”は
“マ”は、有形生命、または正しき生命の音意の音根。
“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意含む。
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意。
であるから、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と繁栄、そして生命(生きる使命=存在理由)が創造するその力とそれで創られた現津(あきつ)、観察され得る事象の正しさ、それは先の第五帖“ミタマ”“タマ”の“マ”、誠実さや真実=真固止を感じ得ることが大事”と述べたとおり、“上”から観て、あるいは進化した人(日止、霊止)の心から観て、正しき事象でなければならないし、そうなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)である。

 磐戸の巻のカタカナ表記は今の人間の在り方、自分の在り方(“観自在”)、敢えて言うならば心(靈)の動きの在り方を示唆し、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指す表記、神格化に至る意味合いのことがたくさん述べられていた。
 そのことをあえて指摘して、次回のこのカテゴリーは先に述べたように、キの巻 の解釈に入っていくことを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その十九” (人間じゅんいち君と○○○大先生との会話“その二”)

Kelly 会話中 …例によってKellyさん爆睡中でんねん。
ほんでからタイトルにある、人間じゅんいち君と○○○大先生との会話“その二”っていうのが“その一”から回数を経ていて“その一”がかなり前の記事になっていることをお断りしておきまんねん。 
ほんでからこのカテゴリーでは、これからしばらく人間じゅんいち君と○○○大先生の会話が中心になっていくことを、お知らせしておきまんねん。

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○○○大先生会話中 「やあじゅんいち君、君は前回、人間セブンちゃんと話して“ほんとう”の友人って概念を即座に理解したね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はい、僕は人間セブンちゃんに“ほんとう”の友人と言って貰い、とてもうれしかったです」


○○○大先生会話中「うん…セブンちゃんも“ほんとう”を知っている、君も知っている、そして二人とも“ほんとう”を求める心の動きを持っている。 
またセブンちゃんは、君の心(靈)(ヒ)の動きが尊いと言っていたように、君の心(靈)(ヒ)の動きの中に君自身が“ほんとう”を見出したからこそ、君と話したいと思い、そして“ほんとう”の友人と認識した。
敢えて言うまでもないが、これはとても価値のあることで、友人だろうが恋人同士だろうが夫婦だろうが…あるいはちょっと受け入れがたいかもしれないが、親子とか身内でも“ほんとう”の人間関係なんてのはとても少ない…というよりも、ほとんど無いって言っても過言ではないと、アタシ的には思うからね。

それで、人間関係におけること、例えば、相手を信じる、相手に誠意を尽くす、相手の成長を願う、相手の幸福を思う、相手を愛する、あるいは誰かを愛する、これらの言葉の前に“ほんとう”って言葉を足して考えると、いかにアタシたちが“ほんとう”ではない、君が考えた“真固止の人間”からほど遠いか分かっていくものだ。

そして“ほんとう”、真実、真固止(“修理固成”(しゅうりこせい))、誠(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が完成する)、っていうのは、実際、厳しいことなんだけど、その厳しさは苦しみではなく、君がセブンちゃんに言ったようにうれしいものでもあるし、喜びを感じるものなんだよ」

(それが“日月神示”の表記の“うれしうれし”“大歓喜”の意味でもあるとも思うんだよ)

犬じゅんいち君 人間になって会話中「…まったくその通りです」
(…冒頭からすごく考え込まなければならないことをおっしゃる…)
 
○○○大先生会話中「それで今言った“うれしい”っていうのも相対的なことで、見せかけのうれしさや喜びっていうのもあるね。 
 また、“ほんとう”の価値が見いだせない何か、うれしくないものっていうのは、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”であったりもするが、これを見抜けないのが“ブタのけつを見ているアホ”でもある。
 だから“ブタのけつを見ているアホ”=霊的成長度の低い人は見せかけのものにうれしさや喜びを感じたりもするし、見せかけを見せかけと認識しないか、ある程度それが見せかけって知っていたとしてもそのことを無視したりする。
 
しかし“ブタのけつを見ているアホ”であっても、いつかそれが“ブタのけつ”だと認識して自分が“アホ”であることを知っていくし、そうなったらそれは、ある程度霊的成長したってことでもあるし、その過程が右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするってことでもあるね。 
その左往右往になった時、ある程度認識も拡大し、なにが“ほんとう”で何が“見せかけ”あるいは“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”であるか、そのことを見抜いていくものでもある。 
あえて言うまでもないが、君はもうそれを見抜く目を持っていると思うよ。

それで、程度の低い何か、程度の低い人、程度の低い人は、程度の低いものを“ほんとう”だと思わないとしても、“ほんとう”で無いもの、“見せかけ”の何かを求めたがるっていう話を今からしようと思っているけどいいかな?」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「はい、異存ありません、よろしくお願いします」

(おそらく○○○大先生は、以前僕が言った
僕は僕が考えたことに対して確信があるとは…思えない
に対しての
それについては何か具体的な事象を観て分析したら解っていくんじゃないかな
という話をされようとしているんだな)

○○○大先生会話中「そんなにかた苦しい言い方をしなくていいよ。 アタシにとっての君も“ほんとう”の友人なんだから」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「はい」

○○○大先生会話中「最近、時々○○○療院でmini読者会みたいなことをしてる。 世間話から始まって…世間話っていうのも現津(あきつ)、観察され得る事象の“観察と認識”ってことなんだが、そこにおける霊的な意味や、霊的干渉や、人の在り方みたいなことをディスカッションすることが多い。
それでこの間(5月30日)、金の精(自然霊)の話になり、ちょっとだけ、きれいな金と汚い金みたいなことが話題になった。
 この“きれいな金”“汚い金”って通念は割と一般的だが、このことをなんとなく意識してても“きれいな金”だけ得たい、自分の生業(なりわい)や仕事はそう在りたいとかって思う人はとても少ない。 
 ここまでの話に異論はないかな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「はあ、そう思いますね。
先回セブンちゃんと話したことでも、“インプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)、見せかけの報酬、エサ、そしてマインドコントロールや洗脳、その手法”を使う人、それにはまる“ブタのけつを見ているアホ”、そのどちらも“アホ”であり、“ほんとう”などということをあまり考えたこともないからこそ、この手法を使って商売をしても罪悪感を感じないとかは、とても“きれいな金”を得たとはいえませんね。
また明らかに“汚い金”と見受けられるものもある、窃盗、詐欺、売春などは、明らかに“汚い金”に決まっていますね。 
また、どうでもいい娯楽で金を儲けるとか、風俗で儲けるとか、マネーゲーム、投機とかで儲けるとか…これらも“きれいな金”とは言い難いですね。
 
 それとまた、きれい汚いは関係なく、たくさん金だけ持っていればそれでよいとか、それが幸福だとかって既成概念があるような気がするし、その既成概念を持ってそれを当たり前だと思っている、その既成概念みたいなことがあるから今○○○大先生がおっしゃられた““きれいな金”だけ得たい、自分の生業(なりわい)や仕事はそう在りたいとかって思う人はとても少ない”ってことにもなっているのだろうって思いますね。
 それで、この既成概念に疑問を持たない、あるいは疑問を感じ理不尽に思ったとしてもそれを根拠に行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を変えるとかをしなかったならそれは、そのことを真剣に考えたことがあまりない、いい換えれば“ほんとう”を求めていないってことでもある」

○○○大先生会話中「うん。
それで、mini読者会で話したことの補足と備忘録としてfacebookを利用しているのだが、そこで以下のような書き込みをした。

(通貨としての)金の精というのは幼稚な存在であることがローム太霊講話集で述べられている。 
それは人の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)に関わらず、金が好きならその人に加担する。 
それで今の事象では、幼稚な進化過程の人が金持ちであり、その金持ちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低く、だからこそそれに感応して集まる金の精も幼稚である。 
またそれは今の事象には、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬、ということが台頭していない、また金の精自体が“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬ということを認識できる進化をしていないということでもある

 
 どう思うかな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「…これはいろんなことを考えさせられますね。
 まず“金の精というのは幼稚な存在”、そして“幼稚な進化過程の人が金持ち”これはその双方の霊的成長度は低いってことであり、低いから低い存在と感応しあって影響するってことを述べていらっしゃる…って全く同義反復な言い回しをしてしまいましたが、このことはよく知っておかねばならないことですね。 

 そしてまた同義反復のことを述べますが、幼稚=霊的成長度が低いから“人の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)に関わらず、金が好きならその人に加担する”、これは“幼稚な進化過程の人が金持ち”って…またもや同義反復のことを言いましたが、まったくその通りだと思います。

そして“ほんとう”を求めようとするなら“今の事象には、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬、ということが台頭していない”ということもよく知っておかねばならない…」

○○○大先生会話中「うん、まず、幼稚な進化過程の金の精をたくさん集めたがる人は、幼稚な進化過程であることを知らなければならないね。
 またそういった人たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)はとても幼稚、最近でもちょっと話題になった某産油国の王子が日本円にして19億円で某テーマパークを三日間貸切にして利用したらしいが、こんなことにいったい何の価値があるのかって思うけど、その金を恨みの連鎖の霊的干渉の軽減、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心の動きを持った子供の浮遊霊を増やさないように飢餓貧困の救済に使ったらどれくらいの人の命が救われるのか、もしそれが出来たらその人はどれくらいの陰徳を積んだことになるのか、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)になるのか…などとアタシ的には思うけど、そんなことをまったく考えもしない、おそらくそんな発想など全くない“ブタのけつを見ているアホ”だからこんな金の使い方しかしないものでもある。
大体金持ちが考えることなんてのは、霊的成長度が低いからこそ、自分の欲望の達成、見栄を張る(ディスプレイ(動物の発情行動))、どうでもいいことを追い求めるなど、行動が、犬の卒倒…ワンパタン…ワンパターンなんだ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…」(昭和のジジギャグだ)

○○○大先生会話中「さらに、霊的成長度の低い人は、自分の自我の肥大を容認する傾向がある。 
それは、自分の欲望を達成することが何が悪いのだ、そのために金を儲けるのだ、自分は自分の希望、欲望の達成のために今まで一生懸命頑張ってきたのだ、だから自分は正しいのだ、誰にも文句は言わせないのだ、などという心の動きが見え見えでもある。
 仕事で頑張るのは大変結構ではあると思うが、その裏にそういった目下(めした)の心の動きしかない人は、高い車を買ったり美食したり色情を満たすことなど(八戒(低い欲望に対する八つの戒め))が自分の生きている価値だと思ったり実に情けないもので、その金をどう使うべきかなどという発想すらないのが、霊的成長度の低さを表しているものでもある。
 そして、大半の地球人は、先に述べた““きれいな金”だけ得たい、自分の生業(なりわい)や仕事はそう在りたい”なんて思う人はとても少ない、金さえ得られればそれでいい、という君が指摘した既成概念を持っている。 
要は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である平均的地球人は、自分の生業(なりわい)に高い思想が顕現していないってことでもある」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「それだからこそ“今の事象には、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬、ということが台頭していない”ってことになるのですね」


○○○大先生会話中「そうだね。
そして今述べたfacebookの書き込みには続きがある。 それは以下のようなことを書いた。

それで今後、霊的成長度において区分けされるアセンションが起き、低い存在がいなくなる事象になったら金の精はどうなっていくのか…という話をしたが、アセンション後は(通貨としての)金の無い世界になるから、金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていくのではないのかな…という話をさせてもらった

 どう思うかな…っていうよりも君には理解できると思うが」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「“金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていく”…こういうことまでなかなか気が付かないと思いますね。 
 すべての霊的存在っていうのは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するものであるし、ただ今の事象が低い人、“ブタのけつを見ているアホ”が大半で、その人たちの心の動きと行動でこの世界は創られている。
 それはこの世界そのものが低いってことではあるけれど、そのことに気が付く人はとても少ないってこともいえる。 
 だからこそ、気が付く人が少ないからこそ、“汚い金”、幼稚な霊的成長度の金の精が霊的成長度の低い人のところに集まる傾向がある。
 そしてこの世界には““善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬”ってことが少ないし、このことを今の世界であてはめれば“きれいな金”を得ることだともいえる」
 
○○○大先生会話中「うん。それでいいと思う」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「お言葉かえすようで恐縮ですが…よくありませんよ。
ここまでの話の中に出てきたこと、“きれいな金”“汚い金”“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬、これらのことをもっとしっかり考えるのが今の地球人にはとても大事なことではないのですか。
 それをそんなに簡単に“それでいいと思う”っておっしゃられても…」

○○○大先生会話中「うん、楽屋落ち的言い方をすれば、次回のこのカテゴリーで、君は、このことを考えるって展開だから、アタシは簡単に“それでいいと思う”って言ったのだ。  
そして君は、何が“ほんとう”であり、なにが“見せかけ”あるいは“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”かを見出す目を持っていることを、アタシや今までこのカテゴリーで君と会話してきた犬や人間、そしてじゅんいち君の心(靈)の動きの変遷をすべて読んだこのブログの読者は知っているからだ。
 だからこのテーマを深く追求することについて、君に託すこととする。
 承諾してくれるかな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「…それが僕の成長にもつながるってことなんですね」

○○○大先生会話中「うん」

犬じゅんいち君 人間になって会話中「分かりました…しっかり考えさせていただきます」

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Kelly 会話中…ちゅうことで次回のこのカテゴリーでは、人間じゅんいち君が一人でつぶやくって展開になることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



Kellyさんが“日月神示”磐戸の巻の解釈を終えてから…感じた事“その二” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を感じさせる表記


   さて、この事象は“その一”で述べた“マコト”と感じ得ることが、あまりにも少ない事象である。 
  またこの事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大多数、その低い心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が台頭しているから、恨みの連鎖に満ち満ち悪因縁(“メグリ”の意味のひとつ)ばかりが目立ち、突然死、病死などが横行しまっとうな霊的成長をする一生がとても送りにくい世界にもなっている。
それで、“マコト”と感じ得ることが少ないから“マコト”、事象における真実、“ほんとう”のこと、心(靈)(ヒ)の動きを示す誠、こういったことが観られるような事象になるのがアセンション後ということでもある。
  そして、アセンション後に位置でき得る心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))のことを示すのが霊的成長して“上”の振動を止める意味での真固止、そのための具体的な方法が、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、艮(うしとら)の金神が一番最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたことは幾度となく述べたこと。
そして“日月神示”表記の ○ 九 十 は、神の思惑を顕現する神の雛形として最終段階の生命(生きる使命=存在理由)の意で、それは、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と、卆(そつ、卒業の卒の異体字))であり、また“九”という字に隠された意味、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現、“一”=智性=1番目のオーラ、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”(太陽&宇宙の大極からの荷電粒子を止める意味を持つ表記)ということでもある。
  そしてこのことが“ほんとう”の進化ということでもある。
上記のことを鑑みて前回の文末でピックアップした磐戸の巻の表記、第四帖の“この方”、第六帖の“世の元からの仕組”、第七帖の“この神”、第八帖の“神の国の昔からの生神”、第十三帖の“生神の光”“生神の性来”“この方”、第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神”、第十五帖の“この方の道”、第十六帖の“世の元からの生神”、第十七帖の“この神”、第十九帖の“マコトの生神”、第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”を一つ一つ見ていくと、今後=アセンション後の事象とそこに位置しうる、ある程度進化した生命ということが解っていくものである。

 まず、第四帖の“この方”(これは、このかた、ではなく、このほう、と読ませるのが正しいかも)“上”と感応した心(靈)(ヒ)、あるいは天意が顕れた行動や思想、それが今の事象では“この世のあく神とも現はれる”“閻魔とも現はれる”アクと申しても臣民の申す悪ではない”、今までの平均的地球人(自我の確立=固定化の段階)の既成概念、価値観や幸福感を打破する役目を担っているの意。

 第六帖の“世の元からの仕組”は、そこで解釈した通り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番として、まず、自分たちが生業(なりわい)の“行”を中心に、土=2~3番目のオーラを大きくし、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をして、その過程で、自分たちの存在の意義、生き方の追及、人間と神の存在の真理を探り、自分たちの本当の価値を求め…そして最終的には智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得の“行”である太陽凝視に入るのが神格化のプロセスということ。

 第七帖の“この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ”
このカタカナ表記(“上”から視線のいい方)“ミチ”は“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)で、それが“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度においての区分けであり、その意味の表記が“今度(霊的成長度における区分けの事象、アセンション)の岩戸開き(“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”、第三密度から第四密度)の大望(たいもう)”ということ。

 第八帖の“神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ”
この“世に出てゐる守護人の耳には入らん”“世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂”これは、現行の常識や既成概念、いわゆる平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)におけるそれが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていないことを示唆し、平均的地球人の進化の段階ではわからないだろうという言い回しが“耳には入らん”“外国(外側(外国と幽界)の事象しか見ていない心)魂ざから、聞こえん”ということ、いわゆるアセンション落第組の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)。
それで“神の国の昔からの生神の声”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑=“神の国”、“昔からの”=“創造”の“主(ヌシ)”が決めた、“生神”=この事象に顕現する“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)、“声”=“神の国の昔からの生神”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が示す指標を人間が受け入れること、ということになる。

 第十三帖の“生神の光”“生神の性来”の“生神”とは、この事象に人の神格化を顕現させる“理(ミチ)”(法則性)と解釈した。
それで“地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらん”は、“地の先祖”という表記は、天の神に対しての相対的な意味合いで、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在は天にも地にも存在するし、それはまた高い先祖の霊的存在であったりもする、その“地の先祖”としての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑も取り込み自分たちの思想として顕現せよ、ということ。
“愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつける”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”をはっきり示し=“生神の性来(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))現はしてバタバタにらちつける(結果として示す)” ということ。
 それは、平均的地球人の進化程度である多くの人々、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、教えに導くという段階のことではなく、アセンションというのは(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者と“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を区分けするのであるから、この後の文の“何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ”という言い回しで示されている通りになる。
それで今引用した“殺して救ふのと、生かして御用に使ふ”の文は“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ”に続いており、この文の“この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら”は、“理(ミチ)”(法則性)を示す智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持った心(靈)(ヒ)の持ち主=“この方”の思惑に参加し、“昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“理(ミチ)”を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としたならば、“肚の底から改心して”=自我の肥大を諌め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをやめ、“マコトの御用結構につとめあげてくれ”=真実、真固止の事象の“創造”に携わり、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を感じさせる“日止、霊止”と成れということ。

 第十四帖の“生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、“生き通しの神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が“生味を見せてやらねばならん”=この事象に活きるということ。 これに続く“何れ(いずれ)はなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ”は、今の腐った事象を創っている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心が低すぎるから“生神の生味ははげしい”といわれ、またそれは第十三帖で解釈した“大国常立尊大神と現はれ”=祟り神、艮(うしとら)の金神、“神の咎め”を体験させて“理(ミチ)”を示すこと自体が“生味ははげしい”と述べられており、またそれはアセンションの時期が“創造”の“主(ヌシ)”の計画として決まっているから時間が無い、今のうちに今後=アセンション後に移行できる心(靈)の獲得=“今の内に綺麗に洗濯しておけ”=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、“自分を観察する自分の確立”をして、自分の心の“上”“下”を見出すようにしなければならないということ。 これに続く“皆にまつろひておけと申すのざ”は、いうまでもなく“まつろひ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により自分の思想を構築しておけということ。
 そして前後するが“何れ(いずれ)はなる”というのは、生命の存在の意義が神格化であるということ。

 第十五帖の“この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。 何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ”は、アセンションに間に合わない霊的成長度の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対していわれており、なにが霊的成長なのか、なにが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)なのか、何が正しい(正しいは“上”と“下”が合わさった表記、“上”=“創造”の“主(ヌシ)”と、“下”である人間との関係を示唆した表記)のか、神の思惑に適った心の在り方と行動をしているのか=“思惑の顕現”をしているのか、自省(胸の磁性“十”)して考えよ、そうしなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信と感応しない、そのことを示唆した言い回しが、“この方の道”であり、それに相反するから“悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやる”といわれており、それは先に述べた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、“石屋の仕組み”にはまっている自我の肥大した人であり、さらにこの文の最後で“役員 気つけて呉れ”と述べられ、これまで解釈してきているように“この方”&“役員”は、今後=アセンション後の事象で神の思惑を顕現していく今現在と違う事象の“創造”を担う霊的成長度の高い人のことであり、その霊低成長との高い人の価値観や認識に対し、霊的成長度の低い今現在の平均的地球人の大多数の人が思うことは“この方の道、悪きと思ふ”である。

 第十六帖の“世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。 神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”の“世の元からの生神”はこれまで解釈してきたとおり、進化の“理(ミチ)”、法則性、それが顕現することが“揃うて現はれたら”であり、その法則性が台頭してそれに従ってこれからは生きていかねばならないので“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間にとっては“皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になる”であり、重複するが、そうなってしまう人間は霊的に低い人間であるといえ、すでに進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し認識を持っている、“ほんとう”の“行”、“ほんとう”の価値観、人間が存在している“ほんとう”の意味や意義を知っている人にとっては、当たり前のことがこの世界に台頭してくるなと感じ、それに対し形骸の権威や価値をもてはやしたり、にせものの“行”ごっこをしたり、自分の利益や欲望の達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかしてきた“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人にとっては、今後=アセンション後はそうなるよ、心しておけよ、“神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ”=霊的成長してないと今後、アセンション後に移行できない、という言い回しである。 
 またそれはこれに続く“神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ”で述べられている“神徳”というのは、“上”との感応する心、そしてその心の動きによって形作られる事象ということ、それは“上”と感応した“日止、霊止”の思想が顕現し、真実=真固止の事象を“創造”するということでもあるが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、いわゆる霊的成長度がこの言葉に対して思うであろう現世利益、神さんが徳をくれるとか、あるいは自分たちが頑張らなくても祈ってさえいれば感謝さえしていればそれが徳とか、そんなことで自分たちが幸福になるなどというてんで低い発想由来のことではないことを、あえて述べておく。
それで“神徳”と“世の元からの生神が揃うて現はれた”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現した世界では“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”はなくなり、この概念や言葉そのものが消失するものでもある。 その低い心の動きの根拠になるのは(通貨としての)金に対する執着、形骸の権威を示すとか、すべて自我の肥大=“石屋の仕組み”という心の動きに由来することで、幾度となくこのことは述べてきたが、この今の世界そのものがそういった心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=願いと祈り、それを達成するための思想、そのためのエネルギーの贖い(あがない)をしてきたものであり、それはこの文の“神徳”でもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の低い人間は“大き器”でもなく自我が肥大しているから“掃除(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)した大きいれもの”でもないことを読み取るべき。
そして今述べたことを強調する言い回しが“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ”であり、“上”の思惑が人(日止、霊止)の行動に活きること、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性が顕現する事象を創ることを示す文が“神界にはビクともしぬ仕組出来てゐる”であり、“御用”はいうまでもなく自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格を持つことである。

 第十七帖の“この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ”の“この神”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるから、この文そのものを以下のように()内で注釈つき解釈をした。
“この神(“役員づら”の神の概念ではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を示す“上”の存在としての神)はよき臣民(霊的成長を目指し自分たちが苦痛や苦悩で自省(胸の磁性“十”)して自我の肥大を諌めるということを知っている人)にはよく見え、
悪き臣民(自我の肥大、“石屋の仕組み”にはまっている人)には(調子よく思惑通りに事が進んでいた人がこれまで通りにいかなくなり=左往右往、それは霊的成長度の低い人には進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性は自分たちにとって都合の悪いものになるから)悪く見へるのざぞ、
鬼門の金神(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”にとってはそれくらい厳しい)とも見へるのざぞ”


第十九帖の“マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”も、第十七帖同様()内に注釈入りで以下のように解釈した。
“マコトの生神(“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意、“ト”は、止まると云う心、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すこの世界に顕現した生命が知らなければならない“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))が
その時こそ(アセンションの時期が来たら

表に出て(顕現して)、
日本(日=太陽、本=胸の磁性“十”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))に
手柄さして(“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めるの意)、
神の臣民に手柄たてさして(手柄=“上”の思惑を顕現させる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をとらせて)、
神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ”

 第二十一帖の“元の大和魂に…中略…神に心向ければ…中略…今度は元のキの儘の魂”は、“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃ”と述べられているから、“今の臣民”=平均的な霊的成長度の地球人は、神が示す進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力、能力、で、観て分析することが出来ていない、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が書き換えた概念を既成のものと認識しているから、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、勝手な解釈をしているという言い回しにしか取れないし、こういう解釈が妥当であると思う。 
よって“元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな”は今の平均的地球人の認識が低すぎ、いい換えれば霊的成長度が低すぎであるからいわれている言い回しであるということ。
 それで“元の大和魂にかへれ”“今の臣民には無理ぢゃな”に続く“無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ”は、常々述べている天意の受信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振で自らの心を構成し、智性(神性)由来の心の動きを持ち、事象も智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で観察していくならば、“出来るのざぞ”といわれている。 何度も述べたことだが、智性(神性)の獲得は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことでしかないから艮(うしとら)の金神は最初に黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたという経緯がある。 その太陽凝視による“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が、“一”=智性=1番目のオーラの大きさの変容になり、“上”から注がれる高い振動と感応し、自分の思惑と神の思惑が段々一致していくようになるが、そこまでいくには最初“下”のチャクラの強化から始まるので、やはり何十年と太陽凝視を頑張って(元の気を張って)行わなければならないものでもある。
“どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならん”の“元のキ”の表記は、“元”は先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことであるし、“キ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、“キ”の音根はモノの現れを示す、その音根に現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)自ら明津(アキツ)させんにぞかし(ぞかし という表記は、…だぞ、…だよ、…である、強く念 を押して断定する意)と記されているので、この事象に顕現した生命=現わし得ざる心の素幸霊(スサノオ)(生物)が、観察しうる事象を自分の心の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、より良いカタチにする=自ら明(太陽と月、日足と砌(ひたりとみぎり))津(ツ、中心の意)させんにぞかし という解釈が成り立ち、先に述べたように文末に“ぞかし”と述べられているのは、生命(心の素幸霊(スサノオ)(生物))が、自ら観察しうる事象を自分の心の顕現とするということであり、それがまた神の子としての生命(生きる使命=存在理由)であるということを強調して述べられている。
 それで今の平均的地球人は、自分たちが神の思惑を顕現する生命(生きる使命=存在理由)であるなんて自覚も持っていない。 神や仏や宗教を知識で知っていても、“上”と人間の関係を見出していないものでもある。 要は認識が低すぎ。
いうまでもなく、神や仏など“上”のことを知るための既成の宗教は腐り果てており、平均的な霊的成長度の地球人の心における神や仏など、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)に対する認識は、低すぎるものでしかないことを今まで幾度となく述べてきているが、それだからこそ“どうしても今度(アセンション後)は元のキの儘の魂にかへらんとならん”といわれており、“元のキの儘の魂”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をよく知り、それを理念とした生命になる、そうなれよ、といわれており、そのために“日月神示”は書かれたが、大概の人間は神に対する認識が低いから“日月神示”を見ても勝手な解釈をしたり“役員づら”になり商売に利用したり形骸の権威を誇示したり…要は“石屋の仕組み”(帯電するミネラルが固まっていない=真固止ではない=腹の水(“江戸と尾張”の“江”)、自我の肥大であるが、そういった人間が大半だからこそ、“かんじんの神示むやみに見せるではない”といわれ、“日月神示”に真実=真固止、“ほんとう”、磐戸の巻によく出てきた“マコト”、これを見出す人間が少なすぎることをいわれているものでもある。

 せめてこのブログに縁のあった人は前回の“マコト”の意味するところと、今回ピックアップした“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をよく認識(悟り、幸取=さとり)してほしいものである。
 
 次回のこのカテゴリーでは、磐戸の巻で示されているカタカナ表記、“創造”の“主(ヌシ)”や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの視点の述べ方と、漢字やひらがな表記、被造物である人(日止、霊止)の受け取り方や認識の仕方について、まとめることとする。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
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Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
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Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (480)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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