“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” キの巻 第七帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか。
行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ。
神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。
天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。
後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。
元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ。 
キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。
三月十一日、ひつ九の神。

 第七帖は、第五帖、第六帖で述べられていることと共通している。
それは第五帖で解釈した
“キが元ざ”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、(自分の心(靈)が感じ(感じる磁性)認識しうる)すべての、現津(あきつ)、観察され得る事象の根拠となることをよく知っておけ、ということ。
そして第六帖の“神示よく読めよ、肝腎のこと判りては居らんぞ、一のことぞ。 一
ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力 三(ひふみざぞ)”、この文を以下のように解釈した。
“神示(“上”が示した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))
よく読めよ(よく理解し実践せよ)、
肝腎のこと判りては居らんぞ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことが全く理解されていない。 また、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して独り神(ひとりがみ、日取り神)になることが人間としての、生命=生きる使命=存在理由である)、
一(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、そして、智性(“一”、1番目のオーラ))のことぞ”
 さらに次の文で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みで、人は霊的成長し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだということが示唆されているし、事象の“創造”は自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“一二三”のオーラによるものであることが簡潔に示されている。
“一ローレンツ力
ローレンツ力ローレンツ力三(ひふみざぞ)”
1番目、2番目、3番目のオーラの構成は、“一”=智性=1番目のオーラを構成するローレンツ力
ローレンツ力 、二番目のオーラを構成するローレンツ力ローレンツ力 、三番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、であり、ローレンツ力 ローレンツ力そのものが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みにより心(靈)が構成されているものであるし、先に述べたことと重複するが、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”というのは、自らの心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)“一二三”のオーラの発振、発信により、なされる。

 今引用した第五~第六帖の要、それは、生命(生きる使命=存在理由)は霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、“上”からの荷電粒子をローレンツ力
ローレンツ力 で取り込んで止め(“日止、霊止”の表記の意味)、その“上”から注がれる(愛(炁)、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”)荷電粒子の振動、それの、より高いものを(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化によることで)獲得することが心(靈)(ヒ)が育つことであり、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、心(靈)(ヒ)の発振、発信は現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”となるものであり、それがすべての生命に共通の“観察と認識”という行為であることをこれまで述べてきているし、進化した心と進化してない心は観察しうる事象の相違が生じる、換言すれば霊的成長度により自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創りあげる事象の差が生じるものである。 
これは自分たちの心を構成している振動の高低により観察しうる事象は違うのだといういい方が出来るし、それがアセンションという、“創造”の“主(ヌシ)”の計画、今より“善(神格化の方向性と智性の受信)”が顕現する事象を創る、進化した生命に創らせる、ということでもあるし、今この事象に生きている人間においても、それぞれの霊的成長度、これまでの行動、その行動の根拠である心(靈)の動き、そして自分の霊的成長度における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)=霊的干渉により、たとえ今の事象を共有して感じていたとしても、観察しうる事象は違うものであることを指摘できる。
(ちょっと解りにくい言い回しになったので、例を挙げれば、どんな災難に遭おうが生きるものは生き死ぬものは死ぬ、それは自分たちがやってきたことの結果ということ、これを考えれば解りやすいと思う)
だからこそ“日月神示”を書かせた存在、艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、今の地球人が一人でも今後=アセンション後の事象に移行しうる霊的資格を得させるために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えたい、その表れが黒住教で教えた朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)であったことはこれまで幾度となく述べてきている。

これらのことを踏まえ、第七帖の本文の解釈を述べることとする

まず最初の文。
“物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか”

冒頭の“物”という表記、これは物質(という振動)の世界の事象の意である。 それで、霊的成長度の低い心である“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、自我の肥大で、何もかもが自分の物のように思い、他者の物でも騙して奪い取るの意があるから“天”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑に対する“賊でもある。 また、どんな事象でも自分の都合の良いような思い方しかしない、“上”が課した試練とか霊的成長のための苦難とかの認識が無いのが“賊”(人を傷つけ金品を奪い秩序を乱す者)、そう思う根拠は“皆てんし様の物ざ”という表記の裏にある意味、それはすべての事象は霊的成長のためにしかない、すべての事象に自分の心(靈)を育てる要素がある、それは認識(悟り、幸取=さとり)であるということが分かっていないという意味合いのことで、これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の認識における神、霊、オーラ、など、すべて霊的成長に関与する概念が全く理解できていないからこそ“天の賊”でもある。
言うまでもないが“創造”の“主(ヌシ)”の思惑、それはすべての心が“天詞様”“てんし様”=“上”と感応して神の思惑を顕現するべく生命(生きる使命=存在理由)になる、それが人の存在目的でもあるから、だからこそこの事象にあるもの感じ得るものを、自分の認識(悟り、幸取=さとり)にして霊的成長することを指したのが“てんし様の物ざと、クドウ申してある”である。

 次の文。
“行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ”

 “われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭している今の事象は、言葉で人を引き付け、そして、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをするが、それはいうまでもなく真実=真固止ではなく“ほんとう”でもなく、程度の低い“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)であり程度の低い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、だから“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない、不誠実ということ。 
また“役員づら”によく見られる口先だけの人間は(“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化としての)“行”をせず、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“もなく(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が出来ておらず)、ただただ形骸の名誉や“汚い金”を求め、目先の快楽を求めたりもする。 それが低い霊的成長度の心における認識の成功者とか勝利者でもあるが、そういった類の人間が“行(おこない)出来て口静かにして貰ふ”ではないから、“行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ”であり、それは“上”の思惑に適っていないからであり、この文言の後半“何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむ”は“上”の思惑を理解させるための試練、それは“神の咎め”であり右往左往と左往右往をさせて霊的成長させるの意。 
 要は良い事象、“善(神格化の方向性と智性の受信)”が台頭した事象なら“何事もスラリとゆく”のであるが、この世界は(この事象は)霊的成長度のある程度高い人と点で低い人が混在している。 それが<6><7>で述べた“玉石混交(淆)”の意味だが、この世界は“石”(帯電するミネラル)が固まっていない、“玉(ぎょく)”ではない肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の存在が多いから、このままではダメだから“行”をしろ、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化しろ、結晶化した肉体(月(ツキ))を伴う心(靈)(ヒ)は“上”の高い振動を取り込んで止め(“日止、霊止”の意)“一”=智性=1番目のオーラとせよ、そうなれば先の“てんし様”でもある。

 次の文。
“神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ”

 この“神の国”という表記はどこどこの場所の意ではなく“国”は((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すのであるから、神格化を目指す、霊的成長しつつある心(靈)(ヒ)と解釈するのが妥当。 そして“神の国の半分の所にはイヤな事ある”というのは、霊的成長に伴う自省(胸の磁性“十”)の“行”、右往左往に対する左往右往、それをしなければ“洗濯出来た臣民”には成り得ず、“上”もかかれない=高い振動は素通りしてしまう。 それではいけないので、“上”と感応でき得る=“洗濯出来た臣民に元の神がうつり”であり、“元の神”の表記は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のことである。
 それで霊的成長して“上”と感応していくならば“サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ”と述べられ、これはアセンションの時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)のことだから“サア今ぢゃ”であり、今までの事象とは大違い、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない事象だから“悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あく”ということになるものである。

 次の文。
“天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。
後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ”

 これも“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人を対象に述べていることで、解りやすい表記をピックアップすれば“いくら悪神じたばたしたとて手も出せん”そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑で“この世 三角にしようと四角にしよう”としているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は決まっている、それは“元のこの方などの心のまま”と示され、先に述べた“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と同義の文言である。
 そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていないからこそ“今に恥づかしい事になる”=自省(胸の磁性“十”)の“行”にはいるぞ、と述べられている
 これに続く“後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてある”は、霊的成長度の低い“上”、あるいは“役員づら”が説いている神や仏や守護霊などの概念は低く、あるいはまったくのにせものに成り下がっており、今の人間を霊的成長に導くどころか御利益優先、天の僥倖ばかり求めるダメな人間を増やしていることを示唆し、今後=アセンション後の事象の“創造”を担う資格を得た霊的成長度の心=“役員”には“さうならん様に神示で知らしてある”と述べられ、その“神示”をしっかり自分の腹、自我に入れ、自我を諌めよという表記が“よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れ”ではあるのだが、その“役員”と認めうる霊的成長度の人間はとても少数であると、あえて述べておく。
 ちなみにすでに述べたことであるが、この文のカタカナ表記の“ミコト”は以下の意味がある。
“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心、“日止、霊止”の止
要は“上”からの荷電粒子を止め、事象を“創造”する生命(生きる使命=存在理由)ということ。

 次の文。
“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ”

 あえて説明の要はないと思うが“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら”は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を尊守して霊的成長した心を“元の大和魂”と呼称し、“元の大和魂”という表記については
磐戸の巻 第二十一帖  を参照のこと。
 そして、地球人の進化として必須のマニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我から“慈悲”と“慈愛”、“江戸と尾張”から“秋立つ”、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、をこなし、今後=アセンション後に移行出来得る霊的成長度の人間はごく少数であることを示唆した文が“元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就する”であり、それは“創造”の“主(ヌシ)”の計画だから“末代動かぬ世の元の礎”でもあることをあえて述べておく。

 次の文。
“キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ”

 自分たちが取り込んでいる振動の高低=“キが元と申してあろ”は、自分達の霊的成長度を示唆するものであり、今は霊的成長度の低い人間がこの事象を創っている。
だが、今後=アセンション後はそうではなくなることを示す文言が“上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざ”であり、“上は(今より)上の行”(これは修行の行のこと、進化した心は生業(なりわい)より“行”を優先する)をするものであり、霊的成長度の低い心は生業(なりわい)の行、仕事などをして、形骸の名誉を求めたり“汚い金”を集めたり目先の快楽を求めたり…要は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いをするから“下は下の行ひ”をすると述べられ、これを一緒にしない=“マゼコゼにしてはならん”のがアセンションであり、だから霊的成長度の高低、進化程度の“上”と“下”は分ける、それが“上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ”の文言の意味、要は今後=アセンション後に移行出来得る資格は、霊的成長度が“上”であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は“下”(低い心(靈))であることを述べているにすぎないし、“上”の心は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応するし、段々神の思惑を顕現するものであるが、それに対し“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である“下”の心は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するということを述べているものである。
そしてこのこと事態が、(すべての事象を構成している=“キが元”)振動の法則性ということでもある。
だからこそ今後=アセンション後は“マゼコゼ”(先に述べた“玉石混交(淆)”)から“キチリキチリと”分けられる、それは観察しうる事象の相違、住んでいる世界が違う、ということになるものである。
それでこの文言は、形骸の見せかけの地球人の既成概念や一般常識における礼儀、形骸の名誉、“汚い金”を集めた金持ちなどに形骸の敬意を示したり称賛するなどという礼儀、あるいは対人関係における礼儀を述べているのではないことを、蛇足ながら付け加え、今回はこれくらいにしときまんねん。




Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その二十” (人間じゅんいち君、前回○○○大先生と会話したことを鑑みる)


…例によってKellyさん爆睡中…

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犬じゅんいち君 人間になって会話中 この間の大先生との話…僕に課せられたこと、○○○大先生が“このテーマを深く追求することについて、君に託すこととする”っておっしゃられたこと…。

“きれいな金”“汚い金”そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬

それと…○○○大先生が話された瞬間に、すごく考え込んでしまうって僕が思ったこと…その言い回し…。

“人間関係におけること、例えば、相手を信じる、相手に誠意を尽くす、相手の成長を願う、相手の幸福を思う、相手を愛する、あるいは誰かを愛する、これらの言葉の前に“ほんとう”って言葉を足して考えると、いかにアタシたちが“ほんとう”ではない、君が考えた“真固止の人間”からほど遠いか分かっていくものだ。
そして“ほんとう”、真実、真固止(“修理固成”(しゅうりこせい))、誠(“言”(事象に顕現され、(自己と他者に)観察された心(靈)の動き)が完成する)、っていうのは、実際、厳しいことなんだけど、その厳しさは苦しみではなく、君がセブンちゃんに言ったようにうれしいものでもあるし、喜びを感じるものなんだよ


こんな難しい内容のことをさらっと言ってのけてしまう○○○大先生…○○○大先生は自分の人生でこれまで如何にこれらのことを深く考えてきてらしたのか…それはどれくらい“ほんとう”では無い人間関係で悩んだのかってことでもあるんだろうけど…そのことを感じさせる…憶測だが…。 

…本題に戻ろう。 

まず“汚い金”っていうのは、それ自体が“汚い”って感じる、認識するってことが無ければならない。 それは前回○○○大先生と話した通り、“汚い金”を汚いって思っていない、あるいは汚くたって儲かればいいって思っている人はとても多いし、今の世界はそれが当たり前でもある…。
いうまでもなくそれは、“汚い金”でも、“汚い金”を得る行為でも、自分にとっては価値があると思う=“ぶたのけつを見ているアホ”ってことだろう。

また“ほんとう”の価値を持たない何か=“ブタのけつ”を利用して、“ぶたのけつ”に価値があるかのように見せかけて“アホ”から金を巻き上げる手法、それは…それがっていうのが正鵠(せいこく)を射た(的を得るの意)言い方になるんだろうが、それが“汚い金”ってことになる。 
また、その手法、“ぶたのけつ”で“アホ”から金を取る、それは“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方に問題があるが、このこと自体、一般には問題視されていない感があるものだ。 儲かりさえすればいいんだから。
そしてそれは…その手法に“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きである、騙す、欺く、嘘をつく、が台頭している、だがその手法を上手にこなしたのがインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)であったりもする。

だけどそれは、僕や○○○大先生の見方では“汚い金”を得る低劣と思われるやり方であり、それは奪うってことに等しいが、奪われた方は奪われたってあまり思わない、あるいは思わせないやり方ってことでもあるんだけど、それが見せかけの報酬、いつか犬○○○大先生と犬Nominyanさんと犬Senyapooさんと話した“エサ”に相当するもので、奪われたと思わせないようにする…これも明らかに、騙しであり、欺くことであるんだが、結果として“ブタのけつ”が価値のあることかのように“アホ”を騙している…。 
しかしこれに騙され、あるいは騙されていようが、見せかけの報酬、“エサ”に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を抱いて(通貨としての)金を払う人間はとても多い。
そのこと自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きを容認する…それは多くの人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるから、いい換えれば、同じような霊的成長度だからきれい汚いはどうでもいいってことでもある。
そして大半の人は、その低い霊的成長度であるからこそ、騙して(通貨としての)金を儲けてもいいんだと思う…思っている…そんな価値観が当たり前。
だからそれは、その双方が同じような霊的成長度だから…物事に“ほんとう”を見出さないとか、自分の思想に“ほんとう”ってことが、あまり、無いからだろう。
それだからこそ、今考えていること、(通貨としての)金のきれい汚いは、たいして論じられない、問題にされない、また“汚い金”を得てでも自分の思う(“ほんとう”ではない)幸福を得たいと思う人は多いのだろう。

しかしそれは“ほんとう”を見出していないからこそ“ブタのけつ”で喜んでいる“アホ”ってことでもあるし、金のきれい汚いってことを論じること自体がナンセンスだって思う人間は多いと思える…。 

そしてこの間○○○大先生がfacebookの書き込みの後半に書いたっておっしゃられていたこと。

“それで今後、霊的成長度において区分けされるアセンションが起き、低い存在がいなくなる事象になったら金の精はどうなっていくのか…という話をしたが、アセンション後は(通貨としての)金の無い世界になるから、金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていくのではないのかな…という話をさせてもらった


この言い回しの中の“金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていく”…またもや○○○大先生はこのことをさらっとおっしゃられたが、“正当な報酬”って言葉にいったい何を感じるのか、何を思うべきなのかってことがすごく問題であるとも思う。

それは、さっき考えていた金のきれい汚い、汚い手法を使って(通貨としての)金を儲け成功者と褒めそやされたなら、そのこと自体に必ず“正当な報酬”としての“神の咎め”があるのだろう…。 それが右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするだからだ。
そして“神の咎め”、これは“汚い金”を得ようとする心の動き、それは“どういうつもり”(思惑)で行動するのかってことでもあるのだけれど、“汚い金”を得ようとする心の動きっていうのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きだから、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかだから、恨んだり恨まれたりするものでもあるだろう。 

そして、その恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をするってことにもなるだろう。

だからこそ○○○大先生は
金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていく
ということを指摘したと思われる。 それは今の金の精が低い、それはこの書き込みの前に○○○大先生が書かれたこと

“(通貨としての)金の精というのは幼稚な存在であることがローム太霊講話集で述べられている。 
それは人の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)に関わらず、金が好きならその人に加担する。 
それで今の事象では、幼稚な進化過程の人が金持ちであり、その金持ちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低く、だからこそそれに感応して集まる金の精も幼稚である。 
またそれは今の事象には、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬、ということが台頭していない、また金の精自体が“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬ということを認識できる進化をしていないということでもある


前回この書き込みのことを教えてもらった時も思ったけど、
金の精というのは幼稚な存在
そして
人の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)に関わらず、金が好きならその人に加担
そして
幼稚な進化過程の人が金持ちであり、その金持ちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は低く、だからこそそれに感応して集まる金の精も幼稚である

これは今僕が考えていたことの

“恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をする”

これを具体的に○○○大先生は指摘していない…きっとこのことを僕に指摘させようと、気づかせようとしたのかも…しれない。
 
 だがこのこと、“恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をする”
よくよく考えればこれは当然のことだな。

 そして、低い霊的成長度というのは自分の都合しか考えない、自分の都合しか考えないから自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わない、それは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ではないって指摘も出来るが、それ以前に“善悪”を自分の行動や思想に活かしていない、善と悪ってことを言葉でしか知らないからただただ自分の欲望のために生き、他者を利用し、“力”を自分のために使い、金を集め、低い欲望を充たし、そして恨まれるってことでもある…さらにそういった人は“神の咎め”として汚い金を失ったり、形骸の地位や名誉を失ったり、失墜したなら、自分が悪いと思わずなんだが、自分が悪いって思わない、自省(胸の磁性“十”)しないってこと事態が、低い心ってことだし、その心の動きが自分以外の何かに対する恨みや妬みって心(靈)の動きになるものだろう。
それが、○○○大先生が指摘した“幼稚な進化過程の人が金持ち”ってことの裏側にあることであり、その人たちの心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する金の精は“金の精も幼稚である”ってことになる。 

 そしてここまでのことを考えて僕が思うのは…こういった恨みや妬みという心の動きを“ほんとう”に体験し“ほんとう”に分かり、それが自分たちにとって“ほんとう”に害を及ぼす霊的干渉になる、それが○○○大先生の訴えている恨みの連鎖の霊的干渉の元になっている、そのことをよく知り、自分の認識(悟り、幸取=さとり)としなければ、先に少し思った、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることとしての“神の咎め”を受ける意味も無ければ意義もない。 

 それは“神の咎め”自体が人を育てることにつながるからだ。
 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)導くことにつながるからだ。 
 それは絶対に間違いのないことだ。

だが“ブタのけつを見ているアホ”って霊的成長度の人間ならば“神の咎め”があるなんて真剣に思っていないだろうし、“神の咎め”自体が自分の生き方を示唆することだなんてあまり思わないだろうし…それは先に思ったように幼稚な進化過程の人は、単なる失敗とか、運が悪かったとかって勝手なことを思うだろうが、その思い方そのものが自分中心、自我の肥大、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の考え方の…前回の○○○大先生の言葉を借りるならば、犬の卒倒…ワンパタン…ワンパターンなんだろう。

そしてそのワンパターンな考え方は、実に自分にとって都合が良いことしか思わないもので、そこに自分がやってきたこと、“汚い金”を得ようとしてきたこと、それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”だと思わない、思ったとしても無視してきたこと、それに対する“正当な報酬”が、“神の咎め”、自分の生き方を“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示しているなんてことに気付かないか、思っても無視するんだろう。

…ちなみにセブンちゃんに出会う前の僕なら、こういった考え方をしたかもしれない…それは、セブンちゃんが僕に行った“初対面のメス犬をナンパして、たくさんエロいこと言って、挙句の果てに究極犬芸(チンチン)して、自分の逸物を見せびらかしてるんじゃないわよキ~~~クッ!!”を自分の低劣なエロい心(靈)由来の行動に対する“神の咎め”だとは思わなかっただろうし、セブンちゃんキックがあの時の低い心が台頭していた僕に対する“正当な報酬”だとも、多分思わなかっただろう。

でも僕はセブンちゃん と話した時にこういった。

“僕には、君が今言った“私とあなたが思うオス犬とメス犬の関係の認識”…その違いと、“深遠で神聖なつながり”とか“貴さ”がよく分からないんだ。 
だから僕は知りたい…“私とあなたが思うオス犬とメス犬の関係の認識”…その違いを…”


そして

“君と話して、君の思う“オス犬とメス犬の関係の認識”を知る前に、もっといろんなことを知らなければならないと思う。 それは…僕には、さっき君が話していたことが僕の心に残っている。 さっき君は、以下のように話していた。
“このときのアズキ君の言い回し“そうだ。そうだ。人間は正当な報酬以上の何かを求めるから大げさになるんだ”と、キナコちゃんの言い回しの“そうよ。そうよ。人間は欲張りすぎよ。分相応ってことを忘れてるのよ”。
この二人(二匹)の言い回しには、自分たち(人も含め)犬が、どう在るべきなのかってことを感じさせます”って。 
だから僕は、君の彼のアズキ君とその同居犬、彼らと話して、“まっとうな犬の在り方”を知りたいと思う”


あの時僕がこう思い、そのことを口にしたからこそセブンちゃんは
あなた自身の認識の糧にしようとする、あなたの心の動きが貴い
と言ってくれたのだ。

また、このセブンちゃんの言葉を聞いていなかったら、僕は何をどう考えていいのか…分からなかったかもしれない…一つ間違えたなら、自分は悪くないとか、自分のせいではないとか、自分を正当化するようなことしか考えなかったかもしれない…また、やけくそになって、目先の快楽を求めるとかの低劣なエロい行動をしていたかもしれない…。 
その低劣なエロい行動の中で自分を擁護する…これは自我の肥大ゆえのことだろうが…今の僕にはそれが自分を育てることになっていないことがよく分かる。 
よって目の前の事象、それが自分にとってどんなに不都合なことだろうが、それ事態を自分の“認識の糧”とすること、僕は僕の心を諌め僕の心の中に“ほんとう”を求めようとしてきた…手前みそだが、これは間違いないことだ。
だから僕は僕にとって都合の良い考え方を自分に許さなかったし、人間セブンちゃんに“ほんとう”の友人という光栄な言葉までかけてもらう資格を得たのだと…自画自賛になってしまうが…思うものでもある。

…なにか、今考えていることはテーマから外れているような気がしないでもないが、低い心は恨み妬みが台頭し、それは自省(胸の磁性“十”)って心(靈)が無いからでもあるだろうし、だから今金持ちなのはその低い心の段階の進化過程といい得るし、恨み妬みという心の動きを盛んに行っているといえる。 
さらにその低い進化過程に感応する(通貨としての)金の精は幼稚で低いから金持ちに加担する。
しかしそれではいけないっていうのが○○○大先生のfacebookの後半の書き込みの

それで今後、霊的成長度において区分けされるアセンションが起き、低い存在がいなくなる事象になったら金の精はどうなっていくのか…という話をしたが、アセンション後は(通貨としての)金の無い世界になるから、金の精も進化して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬に関わる精になっていくのではないのかな…という話をさせてもらった
という文言の裏にあることなのだって思う。

○○○大先生会話中 唐突だがじゅんいち君、もうそれくらいでいいんじゃないかな。

犬じゅんいち君 人間になって会話中○○○大先生! びっくりしました。 でも…僕の考えは…まとまったものでなく整理が出来ていないとは思いますが…。

○○○大先生会話中うん、それはおいといて、君はもう十分考えたし、その考えはじゅんいち君自身の認識になっていると思うよ。 
次回君と話す時は、今回君が考えたことをアタシとまとめればいいよ。

犬じゅんいち君 人間になって会話中 はあ…それではお言葉に甘えて、次回お話しできる時を楽しみにさせてもらいます。

☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀

Kelly 会話中 …ちゅうことで、次回のこのカテゴリーでは○○○大先生とじゅんいち君が話して、今回じゅんいち君が考えたことをまとめ、そして多分おせっかいな○○○大先生が補足みたいなことを述べるって展開であることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




猛暑の中で行う太陽凝視の意義について


 最近○○○大先生は、facebookで自分の考えを述べることが多くなった。 ほんでから○○○大先生のfacebookでのお友達っていうのんは少人数なんやけど、真剣に太陽凝視に取り組んでいる人も幾人か居てる。 

 その中の一人の方が○○○療院に治療に訪れた際、表題の通り“猛暑の中で行う太陽凝視の意義”について話をした。 
 そしてその方は、今年の7月初めの猛暑に○○○大先生が一日十時間以上の太陽凝視を約一週間連続でしたことも知っているし、そやからこそ太陽凝視は厳しい“行”なんだという認識を持ち始めている人でもある。
 だからこそ、○○○大先生はいろんな説明をその人にするんやけど、その時のことを○○○大先生はfacebookに書き込みはった。 
 それは以下の通りでんねん。

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 以前、真夏の太陽凝視を行う際の工夫について質問を受け、それに答えたことがあった。

真夏の太陽凝視と太陽凝視の捉え方の違いについて(コメントで質問いただいた蓮様への回答です)


 当然のことながら、上記記事で述べた工夫をいかに上手に行っても、暑いことからは逃れられるものではない。 そして猛暑だからという理由で“行”としての太陽凝視を放棄するわけにもいかない。
またそれは、猛暑に耐えることと、猛暑という事象が存在すること事態が、“行”の一環であるというお話をさせていただいた。

 その“行”の意義として、暑いときは誰でも汗をかく、そして肉体(月(ツキ))内においては水分が足りなくなり塩分(ナトリウム)を中心としたミネラルの補給(電解質、錯体の構成、そして“石”(帯電するミネラル)の一部)が必須である。
 その水分とミネラルの吸収を行うのは肉体(月(ツキ))のどの部分なのか、それは主に大腸と小腸である。汗をかけばかくほど大腸と小腸に負担がかかる、これは腹の“行”ということになる。 さらに腎臓の再吸収(腎臓の糸球体では血液中の尿素、アンモニアはもとより、アミノ酸、糖、電解質など身体に必要なものまでろ過され、これがそのまま尿として体外に出てしまうと、体の機能を損なうので、再吸収ということを行う。再吸収されるものは、水、アミノ酸、糖、電解質など)も盛んに行われる。
 これら大腸と小腸、そして腎臓の刺激、これは下三つのチャクラの強化につながるものであり、三番目のオーラの強化ということに成り得る。
またそれは、S会=紫光会の交霊会でよくいわれた言い回しの、盛炎の“行”、あるいは、水、火、空、光の“行”という言い回しもされたが、そのうちの水の“行”であり、さらに“日月神示”表記の“江戸と尾張”の腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの強化という意味合いがあるものである。

 それで、この暑い時期を乗越す、それはムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、の強化であり、三番目のオーラの強化であり、次にやって来る高い振動が贈られ送られてくる秋冬には、夏に強化された三番目のオーラが高い振動に変換され(肉体(月(ツキ))は三つの大きなコンデンサーが縦に直列に並んでいるので低い振動から高い振動が上に移行することを確か<6>で述べた)、二番目のオーラ、“一”=智性=1番目のオーラに変換されていく“行”をするものであるから、暑い時期に頑張る(元の気を張る)ことは意義のあることであり、暑い時期の次の“秋立つ”(“日月神示”の表記)の時期に移行すれば、自我より“上”の心(靈)の発現と強化の“行”ということになっていく。



“秋立つ”の解釈と解字


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 この書き込みの中で大事なのは、

● チャクラ(荷電粒子の回転を示す)の覚醒と称されている肉体(月(ツキ))の強化は、心(靈)(ヒ)の強化でもあるということ。

● 真夏に太陽凝視をすることは三番目のオーラの強化になること。

● 猛暑に耐えること事態がローム太霊の言葉の“粘りとやせ我慢”でもあること。 

● 猛暑の太陽凝視で“粘りとやせ我慢”を伴って培われた三番目のオーラは、秋の太陽凝視で、自我より“上”の心の発現と強化になること。 

● 幾度も述べていることだが、自我から“上”の心(靈)の発現と強化は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番である。

 ほんでからなぜこのfacebookの書き込みをこのブログで紹介したのかは、以前からいうてることなんやけど、太陽凝視に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢を見ている人間が多すぎるし、ネットの書き込みでは、御利益めいたことを求めるから、不食になれるとか、超人になれるとかのディスプレイ(動物の発情行動)由来の見苦しい書き込みが目立つからで、そやからそれは、太陽凝視が神格化のための“行”なんて認識もなく、それ以前に“行”がなんなのかも解っていず、さらに、御利益を求める甘い心(靈)の動きをするのは霊的成長度が低く、その霊的成長度では苦痛や苦悩が自分を育てる試練だという認識をあまり持っていないと思うからである。

 またそういった霊的成長度の低い人間は、先に述べたとおり御利益めいたことを求め、御利益を吹聴する、そして“行”の意義を多くの人に見失わせる“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))になっているものであるし、換言すれば、そういう人間は“ほんとう”に貴い“行”である太陽凝視を、“ブタのけつ”にしてしまい、ネット上で太陽凝視のご利益を述べること事態が“ブタのけつを見ているアホ”を増やす結果になっていると思うからである。

 よってこのブログに霊縁あってこの記事を読まれた方が居たならば、

ほんとう”の“行”、
ほんとう”の太陽凝視、

ということを考えてもらいたい、この記事はそういった意図があるものであることを最後に述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第六帖 Kellyさん的解釈

 今回も、キの巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

道場開き結構でありたぞ、皆の者 御苦労ぞ、知らしてある様に道開いて下されよ、天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならんぞ。
桜咲く所、桜と共に花咲くぞ、夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならんぞ、戦すんでからが愈々のイクサぞ、褌しめよ、役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ。
神示よく読めよ、肝腎のこと判りては居らんぞ、一のことぞ。
ローレンツ力
ローレンツ力ローレンツ力三(ひふみざぞ)。
三月十一日、ひつぐの神。

冒頭の“道場”を、何とか道場と解釈するとまったく意味が通じず、これは“道”=時間の進行、“場”=自らの心が観察して認識しうる現津(あきつ)、観察され得る事象、場(フィールド)ということである。 
このことを前提に“道場開き結構でありたぞ、皆の者 御苦労ぞ、知らしてある様に道開いて下され”という文言を観れば、“天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならん”=天意、“上”との感応をして自らが感じ(感じる磁性)観察しうる事象の“創造”をせよ、人間だけでは良い事象の“創造”=“結構”な“道場開き”は出来ないのだ、という、この文言の意味がすぐ分かるものである。
そして“結構でありた”“道場開き”は“天と地と合せ鏡”、“上”との感応で“創造”され得るその事象が“桜咲く所、桜と共に花咲く”という揶揄(やゆ)した言い回しをされているが、いうまでもなくそれは、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きが台頭する醜い恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象とは大違いであり、“上”と感応=“天と地と合せ鏡ぞ、一人でしてはならん”という事象は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”が顕現し、この“善(神格化の方向性と智性の受信)”ということ事態が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であり、“上”と感応したならば自らの心の動き、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を許さない、そういった人だけの世界ならば、恨みの連鎖の霊的干渉は生み出されず、当然のことながら“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きの、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということは無くなるものである。
それが“ほんとう”の(“日月神示”表記の)“うれしうれし”“大歓喜”ということだと思えるし、そこに霊的成長度の高低においての区分け、アセンションの意味があるものである。

この文言に続く“夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならんぞ”の“マケ”に関しては、磐戸の巻 第三帖の解釈から以下にコピペしておく。

“春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ”の“マケ”の表記の意味であるが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と記されているので、やはり、神の子としての生命(生きる使命=存在理由)である人が事象の“創造”をするの意がある表記だと思えるし、これに春夏秋冬が当てられてるのは、地球の公転により四季があるのであるから、宇宙の中心(“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))と、黄道十二宮などの天体、そして太陽と地球、これら位相の変化により“上”からの荷電粒子の取り込みに変化があることを指し示しているし、そうやって生命(生きる使命=存在理由)である心(靈)(ヒ)は育っていることを指したのが春夏秋冬と“マ”と“ケ”の表記の意味であると思える。 
要は霊的成長ということの一端として“上”からの荷電粒子を取り込み自らの心(靈)(ヒ)と成していく、それには時間の進行(“道”)が必須であり、それには完成に至る周期というものがあり、“創造”の“主(ヌシ)”の計画としてのアセンションは、宇宙の“創造”と生命の完成という点で大きな周期といえ、それが“ハルマゲドンの大峠”と示されていると思う。


 それで“夏マケ、秋マケ、となったら冬マケで泣きあげてはならん”というのは、四季=天体の運行による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みの変化を指し、そうやって人(日止、霊止)の心(靈)(ヒ)は育つのだという意味であり、それは磐戸の巻 第三帖の“ハルマゲドンの大峠”=霊的成長度の高低における区分けであるアセンションを乗越せ、その資質を得よ、ということであり、それは次の文言の“戦すんでからが愈々のイクサぞ、褌しめよ、役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ”の“戦”=自らの心の中の葛藤、自省(胸の磁性“十”)をして、それは“日月神示”表記ならば“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”これがどんどん進む、自分の在り方を考え鑑みることが、“愈々のイクサ”ということである。 そして“褌しめよ”は、自我という心の動きを構成している腹の縦の磁束と横の磁束の表記で、“しめよ”は自我を諌めよという意味合いのこと。 その自我を諌めることの辛さ、またどんなに進化した心であろうが(独り神(ひとりがみ、日取り神)になるため)自我という心の構成は必須、よって自我を諌めること自体が苦痛や苦悩であるから、そしてそれは霊的成長度の高低に関わらず必ず体験しなければならないことであるからこそ“役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざ”ということ。
これに続く“九、十、気付けて呉れ”は、○ 九 十 の、“九”と“十”、これは、“九”が“一”(亜から出ずる、アイ)あるいは“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)であり、“十”胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”の心のことである。

これに続く以下の分は非常に重要、そしてごく短い文で霊的成長の仕組みを示しているものであるが、“一二三”のオーラのことが理解できていないとまったく意味が通じないものでもある。
()内に注釈を入れておく。
“神示(“上”が示した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
よく読めよ(よく理解し実践せよ)、
肝腎のこと判りては居らんぞ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことが全く理解されていない。 また、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して独り神(ひとりがみ、日取り神)になることが人間としての、生命=生きる使命=存在理由である)、
一(ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、そして、智性(“一”、1番目のオーラ))のことぞ”

 さらに次の文で、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みで、人は霊的成長し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのだということが示唆されているし、事象の“創造”は自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、“一二三”のオーラによるものであることが簡潔に示されている。
“一
ローレンツ力ローレンツ力ローレンツ力 三(ひふみざぞ)”
1番目、2番目、3番目のオーラの構成は、“一”=智性=1番目のオーラを構成するローレンツ力
ローレンツ力、二番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、三番目のオーラを構成するローレンツ力 ローレンツ力、であり、ローレンツ力ローレンツ力 そのものが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応であるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みにより心(靈)が構成されているものであるし、先に述べたことと重複するが、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”というのは、自らの心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)“一二三”のオーラの発振、発信により、なされるものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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 この二冊は、同時発売です。
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
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“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
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“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
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☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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