“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

○○○大先生的バシャールの文言解釈“その七” (N先生のリクエスト その三)


 N先生のリクエスト、前回&前々回とは違う文言を解釈します。 原文は以下の通り。

天使たちも成長します。 ただ、ペースが違うだけです。
こういう考え方をするといいでしょう。
宇宙はすべての可能性を含んでいます。
創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。
「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません。
ですから、時間という概念がなくなるのですが、片方がもう一方より以前に存在したわけではないのです。

 このバシャールの言い回しは、当然のことながらチャネリングにおける質問の回答として述べられていることで、この言い回しをした理由と根拠、質問とそれに対する回答であることをよく理解していないと、この文言の意味は理解できないと思う。 それはこの言い回しの内容に、自己と他者の分類をしている“観察と認識”ということと、そして事象の観察というのは、自分たちの心(靈)(ヒ)の内面とか内側(心の中と感じている事)で起きていることであるという理解が不可欠であると思うからである。

 それで、今回N先生が疑問を感じられたこの言い回しが述べられる前の会話として、

質問者「バシャールさんは違う天体から来ていて、魂そのものは私たちと同じだということを、先ほどうかがいましたが…」
バシャール「すべての魂は同じです」
質問者「そうですね、私もそう思います。 そして私たちも自分の魂そのものの進化を求めるために、この世に生まれてきたり、あなたの天体のようなところに生まれます。 そして魂の浄化、進化を目的に再び生まれてくるわけですが…」
バシャール「そういうふうにみることもできます」
質問者「ただ私が読んだ本の中に、魂の中にもいろいろなレベルがある、というのがありまして…」
バシャール「でも、だからといって、最初から別々のものとして創られた、ということではありません。
“その魂がなにでできているか”ということと“その魂がどこまで自分に気づいているか”ということとは、だいぶ話が違います」
質問者「そうですね。 例えばキリスト教や神、モーゼスなどの魂の段階のレベルと、私たちのように普通に生まれてきた人たちの魂、そしてキリストや神は天使だと思うんですけれど、その天使以外のもっと最初からハイレベルな魂があると聞いています。 それらの魂の違いについてお聞きしたいのです」
バシャール「波動が違うだけです。 より高い波動なだけです。 “魂は完全である”ということに対しての気づきの程度の違いだけです。 わかりますか?」
質問者「はい、波動はわかるのですが、魂には終わりがなく、始まりがないというふうに聞いています。 永遠のものですね?」
バシャール「その通りです。 “成長”を時間の流れの中で考えるのは、皆さんのこの次元の見方です」
質問者「はい。 私たちのこの次元の考え方と、魂の世界では全然違うのは、なんとなく想像はつくんですけれど…」
バシャール「かなり違います」
質問者「でもどうして始まりがなくて終わりがないのに、最初の波動の違いがあるのか、ちょっと私にはわからないのです。 その波動の違いだけで、たとえばキリストと私たち一般市民がいるのか、そして全然魂の浄化を必要としない魂たちが霊界のなかにいるのか、聞きたいのです」

 このやり取りがあって、今回取り上げるバシャールの言い回しにつながっているが、この質問のやり取りを見て、アタシ的にとても引っかかることとして翻訳の問題があると思う。 
まず“魂”という言葉だが、これは霊と訳すのが妥当であると思える。 それは“続”の記事で時々述べているように、霊と魂という言葉は、意味合いが違う場合があるからである。
 魂は、その字の構成をみれば、偏(へん)が、肉体を示す“二”と厶部(しぶ)(物を囲い込んで自分のものとする様子に象る。手を「伸ばす、伸びる」の意がある)で構成され、旁(つくり)は鬼、これはこの世に在らざる者という意味合いのことである。 よって、死んで間もない霊や、あるいは肉体(月(ツキ))を持っている霊、いわゆるアタシたちのような人間が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を区別するときに使う言葉が魂であり、それに対し霊は、今述べた魂の意味合いも含むし、あらゆる霊的存在、荷電粒子の回転で存在している生命(生きる使命=存在理由)、これは悪魔であろうが神であろうが“創造”の“主(ヌシ)”だろうが靈、霊、であることは同じで、それを総称したのが霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であると思うからである。
 ちなみに英語の場合、魂も霊もa soul  a spirit あるいは the soul  the spirit であるが、それぞれの言葉に対して意味の相違は、たいしてなく、この英語を、霊と訳すも魂と訳すのも、翻訳する人間が決めることである。
 これは平均的地球人の既成概念における認識の中で、魂、霊、あるいは幽霊など浮遊霊や地縛霊などの悪霊、霊的存在の“上”と“下”、などの分析と分類がしっかりできていないからであると思える。
 そしてもう一つ、前々回で問題視して述べた“波動”という和訳、これは振動とした方が意味が通じやすいと思う。

 このことを踏まえ、この質問者とバシャールのやり取りと、今回n先生が疑問を感じた文言の解釈を述べることとする。

まず、バシャールが言ったように“すべての魂は同じ”これは先に述べたように、すべての霊は同じ、という訳が妥当である。 
そしてバシャールが言った“その魂がなにでできているか”→その霊がなにでできているか、というのは、霊が荷電粒子の回転であるということを述べるべき、またその荷電粒子は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、いわゆる天意であり、またそれは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と情報を含んでいるのが“上”からの荷電粒子である。 そしてその振動の取り込みの高低で心(靈)の発現は違っている、その違いが進化の違いでもある。
それで思うこととしては、バシャールが述べていることは言葉足らずであり、これは質問と回答というやり取りであるからしょうがないのかもしれないが、本当はこのことを念頭に置いて述べなければならないことだと思うし、バシャールの回答を聞いている方もこのことの理解が無ければならないと思える。
そして、質問者の“魂の中にもいろいろなレベルがある”の回答として“最初から別々のものとして創られた、ということではありません”というのは、すべての霊が荷電粒子の回転であるという意味合いのことである。 
そして、“その魂がどこまで自分に気づいているか”→その心(靈)(ヒ)がどこまで自分に気づいているか、は、どこまで認識(悟り、幸取=さとり)を得ているか、高い心を発現して事象を観察しているのか、ということであり、これは、心(靈)(ヒ)(霊)の発現の程度により、事象の遭遇は違うのだということが理解できていないといけない。 このことはこのブログの他のカテゴリーで幾度となく述べているが、高い心が発現していない霊は、人でいうところのケダモノとか動物とか下等生物とか、神の概念を間違ったり幸福を見誤ったり自分たちの存在の意義を追及するほどの心の成長度=霊的成長度を持っていないということで、バシャールが述べた“魂がどこまで自分に気づいている”は、その霊がどこまで自分の存在の意義と、霊的成長して高い心(智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”)を持っているのかということに換言できるものである。
今述べた心(靈)の発現の高低、これがあるから“霊(魂の表記の意味合い)の中にもいろいろなレベルがある”ということになる。
そして、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは、今、地球人であるアタシたちが事象を観て感じていることとして、時間の進行を認識しながら成し遂げられており、そいういった認識をもつものであるが、それについて、バシャールは““成長”を時間の流れの中で考えるのは、皆さんのこの次元の見方”と述べている。
これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たしたなら、時間の進行の感じ方が変わる、時間への認識も変わる、このことは未刊行の<7>の最後で述べた“時空の結晶化”に由来することであるが、“時空の結晶化”も、自分自身が自分と自分以外と現津(あきつ)、観察され得る事象を観察して得られる認識であり、時間の進行だろうが、現実とか自分の心(靈)の動き=すべての事象だろうが、自己と他者の区別であろうが、それらすべて自分の心(靈)の内面とか内側(心の中と感じている事)で認識することである。 
その意味合いを含んだバシャールの言い回しが、今回N先生が疑問を感じた文言の、

“宇宙はすべての可能性を含んでいます。
創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。
「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません。
ですから、時間という概念がなくなるのですが、片方がもう一方より以前に存在したわけではないのです”

であり、先に述べた“霊が荷電粒子の回転であるということを述べるべき、またその荷電粒子は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、いわゆる天意であり、またそれは、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”であり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑と情報を含んでいるのが“上”からの荷電粒子である”ということが理解できているならば、“創造”の“主(ヌシ)”の創造とその被造物である人間とすべての事象ということが“宇宙はすべての可能性を含んでいます”という文言から感じ取られ、そして“創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分を創造(自己組織化)していきます。「全体」は、その全体の「部分々々」が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます。
そして「部分」は「全体」を通して、自分自身を体験していきます。ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”も霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であり、心(靈)(ヒ)であり、“創造”の“主(ヌシ)”実塚らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が宇宙と生命の“創造”であることを示唆した言い回しである。 そして“創造”は、“創造”の“主(ヌシ)”の心とそうではない心、“創造”の“主(ヌシ)”=自己、と、被造物=他者、あるいはすべての事象、の区別がある。
そしてその区別があることによって、N先生が疑問を感じた文言に、()で注釈をいれ、以下に解釈を述べることとする。

“(“創造”の“主(ヌシ)”自身の)創造は、その中で考えられる限り無限の方法で、自分(“創造”の“主(ヌシ)”自身)を創造(自己組織化)していきます。
「全体」(“創造”の“主(ヌシ)”は全体である)は、その全体の「部分々々」(“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”した個々の生命、個々の心(靈)(ヒ))が自己認識をすることによって、自分自身に気づいていきます(個々の心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するということ)。
そして「部分」(個々の心(靈)(ヒ))は「全体」(“創造”の“主(ヌシ)”自体、“創造”の“主(ヌシ)”の場(フィールド))を通して、自分自身を体験していきます。
ですから本質的にその両方が、役に立つ体験となります。
ただ、そういう体験をするためには、相手が必要なのです(自己と他者、“創造”の“主(ヌシ)”と被造物)。
片方だけが存在していても、自分を認識することができません”

それで、今回述べたことは、著書の<1>で述べた以下の文章と共通するところがある。 

「神の智慧と力は普遍的に実在する。例えば、スポーツでも仕事でも、上達したい気があって、そこで頑張れば、自分の希望した何かは必ず獲得でき得るんだよ」
「……ビックリ……」
「いいかな……話を続けて」
「はい」
「じゃ、愛の解釈を言う。実は、Kellyが、さっき一人で感じたことは、以前からアタシも何度か感じていた。ずっと一人で暮らしてるからだろうけど……それで思ったことなんだが……唯一の存在、たった一つのもの、たった一つの意識、一番最初の状態を【亜】と呼んで、それが出る(いづる)こと、泉のようにわき出ることを、あ、い、【愛】とよぶ。愛の、一つの言い方だと思うよ。意識も、心も、感情も、感覚も、愛の顕れだと思う。感覚も感情も、人と神の共通のものとするならば、人の神性は感覚、感情、それそのものではないかい? だから、神は、創造は、愛なんだよ。
そして、受信した文は……
意識が最初にありました。意識は、自分一人だということに気づきました。意識は想像しました。対話できる相手を。そして自分を、二つに分けました。二つの意識は、お互いに違う性質を持ちました。対話が、お互いの意識を振動させるのを知りました。意識の振動が新しい振動を呼び起こし、別の意識が出来ました。意識は、自分が振動そのものだと気づきました。それぞれの意識の振動を互いに受けることに、喜びを見つけました。振動の高低がそれぞれの次元を創りました。振動の高低がさまざまな思いを派生させました。それぞれの次元で振動することで空間を創りました。空間で振動することを、生命と名付けました。意識は生命に入り込み、共振しました。生命に入り込んだ意識は心になりました。生命は、さまざまな感情を持ちました。より多くの喜びを見つけるために。振動の低い次元の生命は、喜びを多く求め、そのために欲という振動を持ちました。欲が自分のことだけ、思わせるのを知りました。欲が、他者から奪うことを知りました。欲が他者を傷つけるのを知りました。意識は、欲に制限が必要だと感じました。
無限の意識に対して、有限の法則を創りました。有限の法則は欲の制限のため、時間と物質を伴っていました。不自由という振動ができました。喜びが満たされないために出来た振動が、喜び以外の感情を手に入れました。それは一つ一つの心が完成を目指すための方法でもありました。そこに、愛と悪の振動が出来ました。
……ここから少し忘れちゃった。
有限の次元から無限の次元を見ようとしました。
……ここも忘れちゃった。
そして、それらの要素すべてを携えて、神の子が動物の肉体に宿り人間と、なりました。

以上、併せて読んでいただいて理解を深めていただければ、幸いです。

次回のこのカテゴリーは、N先生のリクエスト その四 になります。



Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その二十一” (人間じゅんいち君と○○○大先生との会話“その三”)


…例によってKellyさん爆睡中…

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

○○○大先生会話中 「さて、前回、君は一人で“きれいな金”“汚い金”そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”における正当な報酬について、深く考えを巡らしてくれた。 

それで君が気が付いたことの、
恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をする
こういったことに気が付く心(靈)の持ち主は中々いないと思えるし、これはとても重要な指摘であると思うのだよ。 

それで、君自身にこういった分析が出来ること、それは君がこのブログに登場して以来、これまでいろいろ悩みながら考えてきたからだね。 
このことは換言すれば、君自身が右往左往して左往右往した結果、君自身が自分の在り方ということを思ってきた過程でもある。 
その過程で君が獲得した認識(悟り、幸取=さとり)、高度な自己観察、自分の心(靈)の動きの解析、“自分を観察する自分の確立”が成されてきたということだ。
そしてこれも換言すれば、自分の心(靈)の動きを自分が良く見張っているのだから、心(靈)(ヒ)というものに対する認識、理解が深まってきている。
これは自己、あるいは自分、他者を問わずってことでもあるんだよ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうなんですか…そうですね」

○○○大先生会話中 「うん。 こういったことは中々自分自身では気が付かないことでもあるね。 
もう一度同じ意味のことを言うが、じゅんいち君は確実に、自分を含め、あらゆる存在の心の動き、思惑、“どういうつもり”、これらのことを見抜くことが出来るようになってきているのだと思うよ。

(そしてそれは、
あらゆる事象の“創造”の“元”となる理由、根拠、要因たることが、心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の顕現であるからこそ、すべての事象の成り立ち、根拠、その事象が顕現した理由を見抜き、深く理解できるということでもあるのだよ

だから、心(靈)の動きと、思惑、“どういうつもり”、その思惑の顕現、その結果といい得る事象を観る、これらの観察眼と理解が深まるからこそ、深まってきたからこそ、じゅんいち君は、“恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在…”ということに気付くことが出来得るということなんだよ。 
これは先に述べたように、心の動きが解ってきたということだし、いい換えれば心=霊だから、靈に対する認識も深まってきているのだと思う。 言うまでもないが、靈=心であり、アタシたちは肉体をまとった心(靈)(ヒ)であるのだからね。
また、自己、他者を問わず、心(靈)の動きに対する分析が出来るようになること自体が、進化、霊的成長、神格化に向かうこと、の、一側面でもあるのだよ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうなんですか…そうですね」

○○○大先生会話中 「それで、君が指摘した“恨んだり恨まれたり”ということなんだが、一般に、恨み、妬み、羨望、あるいは憎しみ、こういった心の動き、これらは、既成概念や一般常識では違う心の動きのように思われている場合が結構あると思う。 
だがこれらは、十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)で、低い情動と分類しうるものである。
ちなみに十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)の意味は、いろいろな種類のものを区別なしにひとまとめにして扱うこと、一つ一つ取り上げるほどの価値がないものとしてひとまとめに扱うこと、ということだ。 あえて説明するようなことでもなかったね。

今、アタシが今述べた“低い情動”という文類は、自分でいうのもちょっと烏滸がましくて(おこがましくて)なんなんだが、大局的なものの見方であり、それを、恨み、妬み、羨望、憎しみ、と細かく分類するのは、近視眼的見方ともいえる。 
ちょっと乱暴な言い方をしたかもしれないが、それは、その心の動きの根拠や理由を鑑みると解り得ることだ。
それでいろいろ検索してみた。
恨むとは、 ひどい仕打ちをした相手を憎く思う 気持ちをもちつづける、あるいは、人から不利益を受けた、としてその人に対する不満や不快感を心に抱き続ける…と解説されている。
そして恨む根拠は、仕返ししたいからだ。 これは自分が誰かに損なわれたと思うから、自分を守りたいから、擁護したいから、そう思い込むのだろうね。 そしてそれは、最近、ちまたでちょっとだけはやった言葉の“やられたらやり返す。倍返しだ!”そして“やられてなくてもやり返す。身に覚えのない奴にもやり返す。誰かれかまわず八つ当たりだ!”なんてことでもあるね。
それと、妬みについて検索すると、自分より優れて いる者や、恵まれた条件、環境にいる者を、うらやみ憎む、そう解説されているが、この解説文の中にすでに羨望と憎しみという意味のことが述べられているものだ。
要は、これらの心の動きは同種のものなのだということでしかないが、先に指摘した細かい近視眼的分類、あるいはそういった分類を妥当なものだと思い込む心(靈)は、自分が自分の心(靈)の動きを悪いニュアンスで受け取られたくないから、たくさんの言葉で分類しているという傾向があるのだと思う。
こういうことをすること自体が、自我の肥大の現れていることであるね。
そしてその“自分の心(靈)の動きを悪いニュアンスで受け取られたくない”というのも、自分をよく見せたいという心の動き(ディスプレイ(動物の発情行動))の現れであるし、さらに先に述べた“倍返し”“八つ当たり”なんてのも、自分を守りたいとか誰にも損なわれたくないとかと思うから、それが理由と根拠となっている行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもある。
これらの心の動き、これは自我の特性であること、これについてはアタシの著書を真剣に読んだ読者ならすぐ理解できることと思う。 

余談だった。

話を戻し、自分をよく見せたい(ディスプレイ(動物の発情行動))、自分を守りたい、擁護したい、仕返ししたい、という心理の裏には必ず自我の肥大があるものだ。
そしてこれらは、下から二番目のチャクラ、スワディスターナチャクラを強化するための心(靈)(ヒ)の動きともいい得るもので、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)で、よくみられるものでもある。
また平均的地球人の心(靈)(ヒ)は、自我中心、下から三つ目のチャクラ、マニピューラチャクラの強化の段階の進化過程であることが多いから、この低い情動中心、自我中心の心(靈)で動いているからこそ、自分の欲望や自分の低い功名心を満たしたいと思うものであることは君にならすぐ理解できると思う」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうなんですか…そうですね」

○○○大先生会話中 「今述べた、低い情動中心、自我中心、自分の欲望、自分の低い功名心、これらが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠であるからこそ、平均的地球人は(通貨としての)金に執着する。 そして(通貨としての)金と物欲由来の幸福の概念を持っていたりもする。
金の精については、ローム太霊講話集でローム太霊が述べていらっしゃるが、大概の人間=平均的地球人の霊的成長度における認識では、金の精のことを知ったりすると、どうやったら自分は儲かるか、あるいは金持ちになりたい…このことを中心に考えるもので、金の精の成り立ちや、金の精がどういった振動でできた妖精なのかなんて考えないものでもあるし、そんな発想しかできない人間は霊的成長度が低いものの観方しかしていないと断言できるものでもある。

 …金の精についての詳細な解釈は、Kellyが、今やってるローム太霊講話集解釈が進んだら、Kellyは正鵠な解釈と意見を述べるだろうからそれはおいといて…そして、平均的地球人が既成概念として持っている自分に対する報酬というものは、きれいだろうが汚かろうが金さえ入ればよいと思いがちだ。
そしてそのための頑張りは、君が指摘した通り、
“その手法、“ブタのけつ”で“アホ”から金を取る、それは“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方に問題があるが、このこと自体、一般には問題視されていない感があるものだ。 儲かりさえすればいいんだから”
ということになっているが、このこと自体に問題意識を持とうとしていない人間の方が圧倒的多数でもある」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうですね」

○○○大先生会話中 「それは平均的地球人の霊的成長度が自我の確立=固定化の段階であり、自我より“上”の心(靈)の発現はあまりなく、自我が肥大しやすいものであり、またそういった心の動きは、自分にはとても甘いから、自分が悪いことをしているのかな…なんて少し思ったとしても、それを容認する傾向があるし、そこに低い情動と自我中心の心が観られるものである。
 だが、ほとんどの平均的地球人が、自分の心(靈)の動きが低い、自分が低い心(靈)の動きを持っている、ということに気付かないか、あるいは認めたくない、認めたがらない。そしてその、認めたくない、認めたがらないこと自体も、自我の肥大である。
 こういったことは、じゅんいち君ならすぐ理解できるね」
 
犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうですね」

○○○大先生会話中 「余談だが、こういったことは、すでに著書で散々述べたことでもある。
 それで大事なのは、君が気が付いて指摘できたこと、金の精は低い振動で構成された妖精である、だからきれい汚いにかかわらず、金が好きな人のところに寄り集まるのだが、それは霊的成長度が低い心(靈)のところに集まりやすいものだ。
 こういった認識も、平均的地球人の認識の中にはあまり無いと思う。
 それは、君が前回指摘したように、
“○○○大先生が指摘した“幼稚な進化過程の人が金持ち”ってことの裏側にあることであり、その人たちの心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する金の精は“金の精も幼稚である” ってことになる”
全くその通りだと思う。
“幼稚な進化過程の人が金持ち”、いわゆる霊的成長度の低い人間というのは、心(靈)(ヒ)が低い情動主体だからだ。 
低い情動以外の心(靈)(ヒ)の動きをあまり持っていないからだ。
 それが自我の確立=固定化という進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に観られることでもあるのだよ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「はあ…そうですね」

○○○大先生会話中 「そして君が前回考えたこと、

“神の咎め”自体が人を育てることにつながるからだ。 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)導くことにつながるからだ。  それは絶対に間違いのないことだ” 

これは君がここまで苦労して思索して得た、貴い思想が現れた言葉だ。 その、君が体得したこと、自分の認識としたこと、これは換言すれば、すべての事象に神の思惑が顕現している、いわゆる神の采配ということがあり、すべての事象に神は働きかけているということだ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…はあ……そう……ですね……」

○○○大先生会話中 「君がこれまで考えてきたこと、それはこの重要な認識を自らが獲得する行程と作業であったともいい得るね。 
よく頑張ったと思うよ。
 今日の話はこれくらいにしておこう」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…はあ……ありがとうございました…」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「この夢を見ていらっしゃるKellyさん…ちょっとお話しできますか」

Kelly 会話中 「話せまっせ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「……僕は…」

Kelly 会話中 「…うん。 
Kellyさんには今のじゅんいち君の気分はよく解ると思いまんねん。
そやからそれは、じゅんいち君には、先生の話の内容はよく解ったんやろ。 
そやけど先生の話が一方的すぎで、じゅんいち君は先生の説明をかみしめて理解するヒマがなかったし、もうひとつ、先生が言うたように、じゅんいち君がこれまで悩んで一人で考えてきた過程が貴い認識を得る過程だったということに対しての実感があまり無い。
そういうことと違いまっか?」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「そうかもしれません…」

Kelly 会話中 「男対男の話っていうのんは、お互いの意見をいい合う、その上で相手の意見を深く考える、考えながら、深く思いながらまた話をする、そういったことがあると思いまんねん。
 これは男っていうのんが、日足(ひたり)の極性の現れであるからやねん。 そやから男対男の話っていうのんは、一方的だったり、意見のぶつかり合いだったり、なんとなく気まずいとか、円満な話になってはいかん傾向があると思いまんねん。
 ほんでから、○○○大先生と長い付き合いのKellyさんとしてよく解るのは、○○○大先生は自分の話に興が乗ると勢いが止まらへんという悪い癖がありまんねん。 
今回のじゅんいち君との話も、そういう○○○大先生の悪いところが少し出てるかもしれへん。 
ほんでからこの悪い癖は、今年に入って時々行われてる読者会においてもちょっとだけ出てるかもしれへん…出席された読者の方にはとても迷惑な話やろな…。
 それはおいといて、今回の話の要旨は、じゅんいち君が得た認識(悟り、幸取=さとり)、それを体得していく過程、そして、“正当な報酬”としての“神の咎め”、それは“神の采配”なんやってこと、それはまた、すべての事象に対する“神の働きかけ”ってことやと思いまんねん。
 このことがらを、○○○大先生とは違う相手と話をして、じゅんいち君が実感を得る、確かめる過程っていうのが必要やと思いまんねん。
 その相手としてちょうどいいのは…」

人間になったセブン 会話中 「はいはぁ~~い!! 私の出番ですね、Kellyさん」

Kelly 会話中 「そうやな、セブンはんはじゅんいち君と“ほんとう”の友人や。 ほんでからセブンはんとじゅんいち君は、犬から人間になったという理不尽な展開を歩んできた心(靈)なんやから、話をするのにも適切な相手やと思いまんがな」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「しかし…」

人間になったセブン 会話中 「言葉を遮るようですみませんが、じゅんいちさんは、私がじゅんいちさんと話すこと自体に少しためらいがあるのではないでしょうか。
 それは、犬だった時の私とじゅんいちさんの過去のいきさつ、そしてアズキ君アズキ がじゅんいちさんに会いたがっていなかったこと、このことを懸念していらっしゃるのではないのでしょうか」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…そのとおりです」

人間になったセブン 会話中 「いつかお話しした通り、じゅんいちさんの心の変容というのは、私にはよく解っているつもりです。
だからこそ私はじゅんいちさんのことを“ほんとう”の友人だと思いました。 
ですから、過去のいきさつ(犬じゅんいち君が犬セブンちゃんをナンパして、自分の気持ちを示すためにエロい行動をとったこと)については、なにも気にしてたりはしてません。
 それとアズキ君のことですが、アズキ君と私は、私がじゅんいちさんと話したことを話題にしてDiscussionしていたりもします。
 それは、じゅんいちさんの心の変容、認識の深まり、その考え方、などは、若いカップルである私たちには、とてもためになる重要な事柄だと思うからです。
 そして、いつかじゅんいちさんがつぶやいていらっしゃったこと、

僕はセブンちゃんに二人(犬だから二匹)が感じている神聖な深いつながりのある彼氏のアズキ君がいることを教えてもらったにもかかわらず、自分のエロさ丸出しの発言をしたり行動をとった。
 その発言や行動をとったその根拠は、その時の僕の価値観、僕の幸福感由来のことだし、それを言い換えれば僕は“ブタのけつを見ているアホ”であったからだ。 
そしてこのことはセブンちゃんにとってとても不快なことだったろうし、きっとまだ会ったことのないアズキ君にとっては…とても怒りを買うことであったに違いない。 
だからチョ~ベッピンはんのA野さんのおうちの犬の方々と話をした時にアズキ君は来てくれなかったのだろうから、いつか僕はアズキ君に会ってセブンちゃんをナンパしたことを謝罪しなければならない


このじゅんいちさんのつぶやきの裏にあるじゅんいちさんの心の動きを、アズキ君は十分承知しているように思います。 たびたび私とアズキ君は、このことを話題にしましたから。
 ですからご懸念無いように。
私とじゅんいちさんがたくさんの話をしても、アズキ君がやきもちを焼くとか、じゅんいちさんを妬むとか、そんなことは思わない、仮に少し思ったとしても自分がその心の動きに捉われるなら、自分がダメな心(靈)だからだってことをアズキ君は十分承知していますから」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…ありがとう。 セブンちゃんのたびたびのご厚意に感謝します」

人間になったセブン 会話中 「それではKellyさん、次回Kellyさんが爆睡されたとき、私とじゅんいちさんをKellyさんの夢の中に登場させてくださいね」

Kelly 会話中 「オッ○ー牧場おぱんつ▼お~ほほほでんがな。 二人がどんな話をするか楽しみでっせ」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

Kelly 会話中 「そやけど…○○○大先生が心の中で思ったこと、じゅんいち君と話し始めた時に、○○○大先生が言葉に出さなかったこと、

あらゆる事象の“創造”の“元”となる理由、根拠、要因たることが、心(靈)(ヒ)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の顕現であるからこそ、すべての事象の成り立ち、根拠、その事象が顕現した理由を見抜き、深く理解できるということでもある

これはとても重要なことや。 

(おそらくこのことは、今行われてる○○○大先生の読者会でたびたび話題になっている事柄やから、今回、まとめた文章にしはったんやろし…)(楽屋落ち的言い回しやけど)

 ほんでから、敢えて○○○大先生がこのことを言葉に出さなかったのは、じゅんいち君にこのことを考えて欲しい…自分で気付いて欲しい…そやから今日みたいな話し方をしたのかもしれへんな。
そやから、今後のじゅんいち君の認識の変容に、期待を持ちつつ…楽しみにして…今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ、御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ。
自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。 偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。 おかみも一時は無くなるのざ、一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ。
一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ。
三月十六日、ひつぐの神。
 
 冒頭の
“世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)”
というのは、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)のこと、あるいはそれを顕現すべき人=“御方(おんかた)御一方(おんひとかた)”、顕現すべき人ということならば、それは、平均的地球人よりはるかに霊的成長度の高い人ということである。 
そして“世に落ちておいでなさる”という言い回しがされているのは、平均的地球人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている低い次元、低い事象、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きによって創られているこの事象では、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、そしてそれを実践する人はたいして活躍していない、活躍できていない、活躍させてもらえる場(フィールド)ではない、ということで、言い回しを変えるならば、今の事象で神の思惑というものは顕現していないのだという意味合いのこと。
 これに続く
“竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ”
の“竜宮”については以前解釈した日の出の巻 第十八帖から以下にコピペ。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍
 それで日の出の巻 第十八帖とは違い、キの巻 第十三帖では“音姫”の表記になっており、“音”というのは日に立つであると思うし、“姫”は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)を指す女を意味した表記である。 
よってこれは“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをして霊的成長を果たし、その認識(悟り、幸取=さとり)、思想、これは平均的地球人より高いから、今後=アセンション後の事象に必要であるから顕現させねばならず、それには今までとはレベルの違う“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の援護があるという意味合いのことを述べた表記であると思うし、顕現させるからこそ、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すからこそ、“この方、天晴れ表に表れる”そして“これから(今後=アセンション後)は神徳貰はんと一寸先へも行けんことになった”といわれ、いよいよ神の思惑を顕現させる、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)では作れない事象を“創造”するという意味合いの表記である。
 そしてそれを強調するのが“神徳(智性(神性))貰はんと一寸先へも行けん”であるし、さらに自己奉仕者の“創造”を諌める言い回しとして“御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ”といわれており、この“メグリある金(かね)”と“メグリになる”は、恨みの連鎖の台頭している“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現が、その代価が(通貨としての)金であり、じゅんいち君の登場する記事で述べているように“恨んだり恨まれたりという心の動きの中で金の精は存在し、活躍をする”という現状であるし、それは神の“思惑の顕現”=現象化ではなく、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の思惑であるから、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の現象だから、“御用”では無いということ。
 今述べた恨みの連鎖=“メグリ”を引き起こしている形骸の地位や名誉を得た人を戒める言い回しが、
“自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。 偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。 おかみも一時は無くなるのざ”
であり、これまでも述べている通り“これまで世に出ておいでになる守護じん”というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度における程度の低い“上”ということ。 そしてそんな段階の人とその“上”では、“愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされる”=“改心”のための事象として“神の咎め”があるぞといわれ、早く“改心”白という意味合いで“今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い”と述べられ、形骸の地位や名誉は全く霊的成長にとって意味が無い、あるいは人の霊的成長ということの足を引っ張るからこそ“これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊”“おかみも一時は無くなる”といわれているに過ぎない。

 これに続く
“一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ”
の“一人々々…”というのは、今後=アセンション後の事象ではそこに存在しうる霊的成長度の人ならば、いい方を変えればこれからの世では、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)をだれもが認識としているから、そこにおける事象の“創造”に関して“一人々々何でも出来る様になりて”ということになり、今の世のように、政治や経済などあり得ないし、誰もが良いカタチの事象の“創造”に携わっているという意味合いのことであるし、その時期は近いのだということも述べており、それは“ひ(火=荷電粒子の回転を指す点二つと、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現))の太神”を、“気付けて呉れ”というのは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込め、そういった心(靈)(ヒ)になれという意味合い。
 さらに今述べたことをしました言い回しが
“一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ”
であり、この文の表記の“一厘”というのは荷電粒子の大きさを指した表記のこと。
それは以前、キの巻 第九帖で以下のように解釈した。

“たき火ともしは皆 日の大神様から頂く”は、“上”からの振動の太陽からの荷電粒子を示し、“御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐる”の“御土”は肉体のことをいっている。 これが生命の構成要素であり、そしてそれは大概の人間が気が付かない、そういう認識を持っていないから小さいの意味合いの“一厘”といういいまわしをされ、さらにそれは荷電粒子は小さいことを示している言い回しである
引用終わり。
 また、“ほんとう”に価値のあること、神の思惑が顕現した事象は真実=真固止であるが、今の世にはそれは目立たないしはっきり分かっていないから小さいと認識され得るという言い回し、それが“一厘”でもあると思うが、この文の“心と心で知らしたい”“心でとりて下され”の“心”の表記を、心(靈)(ヒ)にすれば解りやすい。 
それは、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)であり、オーラの相互干渉であり、感じ(感じる磁性)ることであり、それは心(靈)(ヒ)、対、心(靈)(ヒ)で行われることであり、その個々の心(靈)(ヒ)に“上”と“下”の違いがある、霊的成長度の違いがある、神と認識され得る、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と認識され得る、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)と認識され得る、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と認識され得る、の、違いが生じるものでもあるが、それは、個々の心(靈)(ヒ)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をどう感じ(感じる磁性)るかによることである。
 要は物ではなく、振動である、また振動が事象の“創造”の根源であるということでもある。
 そして
“よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ”
の“神示”は、神の思惑を顕現するの意であるから、それを“さとりて呉れ”=悟、五つの口が心(靈)(ヒ)にはあり、それは五感であることを○○○大先生は著書で述べたが、感じ(感じる磁性)ること自体が電磁誘導による新たな電流の発現であり、そこに“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の秘密があり、“上”からの振動の取り込みが、個々の心(靈)(ヒ)には神と認識され得るのであるから“神示(神が贈り送る荷電粒子の振動を自分の認識とする)読んで(荷電粒子の振動に含まれた情報を認識とする)さとり(幸取、さとり、)て呉れ”であり、そういった人が増えて欲しい、それが神の計画としてのアセンション、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がいない事象を“創造”するから、それが神の思惑であるからこそ“神たのむのざ”ということである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十二帖 Kellyさん的解釈


 今回も、キの巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写るぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいたのぞ。
神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れよ、それが天地への孝行であるぞ、てんし様への忠義であるぞ、鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、それで判らぬ様なれば お出直しで御座る。
三月十五日、ひつぐの神。

 冒頭の表記“みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写る”、これは霊的成長度における現津(あきつ)、観察され得る事象の遭遇ということ。
これについては、すべての事象の観察は、振動の受信によるということ、そして自分の心(靈)に相応した振動で構成された事象しか遭遇しえないことをことあるごとに述べているが、このことは、振動の絶対の法則性であり、程度の低い人間はその人間に分不相応な程度の高い事象に遭遇しえないということである。
  換言すると“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心しか持っていないならば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”した事象にしか位置できないし、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”以上の振動で自分の心(靈)が構成されているならば、その低い事象より少し“上”の事象に遭遇するものであるが、これがアセンションの真実でもある。
 それで“それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいた”そして“神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れ”と述べられているし、この文の“所々にみせしめしてある”も、近年、特に多くみられる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が馬脚を現す事例のことを述べている。 
その馬脚を現すような程度の低い人間のことが“それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ”という、いわゆる“神の咎め”があるぞ、と述べられているに過ぎない。
だが“神の咎め”は自省(胸の磁性“十”)させるためにある、自我の肥大を戒めるためにある、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長のために“上”が与えるのであり、これは先の第十一帖の“レ”で解釈した時の、間違った道に進んでいても必ず“元座道座(もとくらみちくら)”、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻るための“神の咎め”を説いているものである。

 そして“早う改心して呉れよ、それが天地への孝行であるぞ、てんし様への忠義であるぞ”の“天地への孝行”“てんし様への忠義”は、自分の心(靈)が低ければ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ならば、自我が肥大(“石屋の仕組み”)していて自分の欲望と利益しか考えないならば“天地への孝行”、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性を“ほんとう”に示すことが出来得る“てんし様”とは逆のことをしているからであり、それは恨みの連鎖の霊的干渉を増大させているし、恨みの連鎖で増え続けている浮遊霊は、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心を持ち、その憑依は、人の智性(神性)をどんどん麻痺させているからであり、多くの人がこのことを真摯に考えなければならないのだが、何も考えていない人の方が圧倒的多数であるから、それはもうどうしようもないほど三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の浮遊霊に心を乗っ取られている人が多いからでもあるのだが、だからこそ、こういわれているにすぎない。

 これに続く“鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、それで判らぬ様なれば お出直しで御座る”の“三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回”は、回数のことを述べているのではなく、“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体、の意であり、“五”は糸巻の象形文字、神経が“慈(しげる)”の意であり、進化した動物である人のことを指すのであり、“七”は、“一”=智性=1番目のオーラ、あるいは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)と、乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)の合わさった表記であるから“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)の顕現という意味、そして“回”は、荷電粒子の回転の表記であり、“十”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と水平磁場━を指す表記であると思える。
 よってこの“神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ”は、“神示”(神が示す“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を、“読み”=自分の認識として獲得する、“聞かせよ”=発振、発信せよ、そうやって事象の“創造”をせよといういみあいのことであるし、“三回、五回、七回”“三十回、五十回、七十回”の“十”の入った表記の違いは、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)の強化による荷電粒子の回転が高まっていくならば、“上”と感応する、今まで素通りだった“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるものであるからこういった表記になっていると思えるし、それが自我を諌める、自分の低い情動を戒める、“鎮魂(ミタマシズメ)”となり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見出すものであることを述べている。
そして“それで判らぬ様なれば お出直しで御座る”というのは、もうすぐ起きるアセンション、霊的成長度における区分けに間に合わない=“判らぬ様なれば”、何万年~何億年先になるか分からない次のアセンションに向かって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよ=“お出直しで御座る”ということ。

今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” キの巻 第十一帖 Kellyさん的解釈


今回も、キの巻 第十一帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。
一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。
一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ。
皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか。
三月十四日、ひつ九ノか三。

 この原文に何回も出て来る“一二三”、これの解釈がしっかりできていなければ、この文を読み解くことも出来ず、“日月神示”を書かせた霊団の思惑、何を伝えようとしているのかも解り得ないはずである。
 ここまで述べてきたように“一二三(ひふみ)”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、動物から人間への進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は1番目、2番目、3番目のオーラの強化と変容といい得る。
また、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなれば神に近くなるのであるし、神の思惑、神の認識、天の御目(あめのおめ)を、自分の心(靈)に獲得していくものである。
そのための“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、目上(めうえ)の脳のたんぱく質の高分子化による水平磁場の強化が、頭のシンクロトロン放射の強化になり、それは水平磁場の強化がシンクロトロンの荷電粒子の回転は加速につながるからである。
また荷電粒子の回転が加速すればするほど、高速回転すればするほど、高い振動と感応し、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める、それが“日止、霊止”の表記の意味であることを今まで述べてきた。
そして、この高い振動を止めることが出来ない肉体(月(ツキ))の持ち主の心(靈)は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心だから“日月神示”では“ケダモノ”“獣”などといわれているのである。
話しを戻し、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したなら人間は“一”=智性=1番目のオーラが大きくなる。 そして天意を止め、神の思惑を顕現する人となっていくのであるが、それが弥栄の意味であり、弥栄の旧字は、彌、であるが、さらにこれの旧字が、弓偏(へん)と璽(しるし)という字であり、これには、深い意味があることを過去に画像で述べてきた。

弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字

 また画像で示した通り、弓偏(へん)と璽(しるし)という字そのものが、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)の意味を示すことも、○○○大先生は未刊行の著書の<7>で述べている。
 そして“日月神示”には回転の表記がよく出て来るが、荷電粒子の回転、それが心(靈)(ヒ)であること、そして“日月神示”の回転の表記の意味合いを今後=アセンション後に移行すべき人は良く知っておかねばならないと思う。

 以上のことを踏まえ本文の解釈に入ることとする。 まず冒頭の文。
“一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”
 これは“一二三(ひふみ)”のオーラが、“神の弥栄(いやさか)”といわれているので、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が神の“思惑の顕現”=現象化であることを示しており、それは“限りなき”=無限、事象に限りはないのであり(事象に限りがあると思っているのは程度の低い霊的成長度の心の持ち主)、無限に続く(“道”時間の進行)ということである。 そしてこれに続く“一(ひ)は始めなき始”というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”(亜から出ずる、アイ)が、“創造”の始まりであるといわれ、この“一”の表記の意味はこちら側、人から見て日足(ひたり)から砌(みぎり)に筆を動かして書かれるので“思惑の顕現”=現象化であり,それはア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、であり、ひらがな表記の“(ひ)”は、人から視点の太陽、日、であり、また、すべての存在が心(靈)(ヒ)であるという意味合いのことであると思え、これは観察する側と観察される側の違いにより、カタカナ表記とひらがな表記の違いが生じ、個々の心が自分以外の心(靈)(ヒ)を観察してい認識したなら、ひらがな表記の“(ひ)”ということになり、“創造”の“主(ヌシ)”の表記の“一”も、心(靈)(ヒ)であるという意味合いを示していると思う。
 これに続く“ケは終りなき終りであるぞ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から“ケ”を引用すれば、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)と称されており、これも思惑=零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より、顕現=現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、よってこの文は、いわゆる神の“思惑の顕現”=現象化の意味を指すことである。
 これに続く“神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”は、そのまま読めば意味が通じそうなものだが、この文の“神の能(はたらき)”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、それを止める、高い振動も低い振動も止める、それが“日止、霊止”の表記の意味合いであり、高い振動が素通りしている人間が霊的成長度の低い人間で、またそれは“一”=智性=1番目のオーラが小さいということも幾度となく述べてきた。 
その意味のことをよく理解していれば、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、“下”から始まり、だんだん“上”になる。 換言すれば3番目のオーラ、2番目のオーラは“上”に昇華し(大日如来の条帛(じょうはく)が意味するところ)、そして1番目のオーラになっていくという、今まで述べてきたことを納得してもらうことが出来ると思う。 
それを意味する表記が“神の能(はたらき)が一二三である”ということ。 そして神の代理とか神の“思惑の顕現”=現象化をするのが“日止、霊止”であるという意味合いのことでもある。
ここまでの文は、事象の“創造”をしていくのは自分たち人間であり、このこと自体が神の“思惑の顕現”=現象化であるという意味合いの表記である。
これに続く“始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ”は、“中今(なかいま)”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と“創造”の真っ最中という意味合いのことであるし、それは人間が思う時間の概念を超えているから“始なく終なく”ということでもある。

 次の文。
“一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”
 この文の“神の息吹”とは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて1番目、2番目、3番目のオーラを発振、発信しているのが人間であるという意味。
“唱えよ”は、発振、発信の意。 
“神人共に一二三唱へて岩戸開ける”の“岩戸”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、マニピューラチャクラからアナハタチャクラ、自我中心の心から“慈悲”と“慈愛”の発現、第三密度から第四密度への意向ということ、“神人共に一二三唱へて”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるのは“日止、霊止”であり、今半分ケダモノの平均的地球人が“日止、霊止”になるには、先に述べた、高い振動を止める“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をする、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、ということであるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の止め具合が、自分の心(靈)の霊的成長度であり、それは“一二三”のオーラに具現化するという意味。
“とけよ”は、同化、同調せよ、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよ、の意。
“息せよ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、発振、発信せよ、の意。
“着よ”は、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化できた肉体(月(ツキ))なら“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めることができるが、そうなれよ、の意。
“食(お)せよ”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を吸収出来得るようになれよ、それには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化と自我の肥大(“石屋の仕組み”)を諌める“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”が必須、そして、胸の磁性“十”、胸、アナハタチャクラ、の、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)を強化せよ、そうすれば事象の見方も変わる、“慈悲”と“慈愛”という心の動きで自分の心(靈)を含めた事象の観察をするようになるということでもある。

(内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象の観察ということ、だがこれは、すべて自分の心(靈)の中で感じているということでもある)

 これに続く“始め一二三あり”は、事象の“創造”の根拠たることが“一二三”のオーラであり、個々の心(靈)(ヒ)の発振、発信するオーラの相互干渉により事象を感じ(感じる磁性)、この世界とか自分とか自分の心(靈)の中とかという思い方をするが、すべての事象は振動の受発信により“創造”されているから、感じ(感じる磁性)るのであり、そこに“観察と認識”というものがなりたつもので、これはすべての存在が霊=○、荷電粒子の場(フィールド)であるからということでもある。
 そして神であろうが人であろうが悪魔であろうが、個々の心(靈)(ヒ)は、霊的成長度の“上”と“下”の違いがあり、その霊的成長度の違いにより、観察しうる事象は違う、“創造”しうる事象も違う、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する振動の違いということである。
 そして今述べた個々の心(靈)(ヒ)の“上”“下”により、自分たち人間が神と名付けたり悪魔と名付けたりしているが、これも“上”と“下”の違い、そして“思惑の顕現”=現象化の違い、を分類しているにすぎないが、すべての事象の“元”たる“一二三”のオーラの受発信は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みによるから、それをどう止め、どう発振、発信するか、どういった事象の“創造”をするか、ありていに言えばどう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するか、ということで、このこと自体が、事象の“創造”、そしてその“創造”の根拠は、個々の心(靈)(ヒ)の思惑、日足(ひたり)の極性、“どういうつもり”、により、成されているもので、その意味のことが“一二三は神ぞ、一二三は道ぞ”、この場合の“神”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意のことと、自分の心(靈)が思う“上”、これは“上”の振動そのものといえ、高い振動のことであるし、その振動を取り込んだ自分の心(靈)、あるいは他者の心(靈)(ヒ)、“上”と認識する、神と認識する、そう認識しうる“一二三”のオーラといういみあいのことで、それはまた時間の進行を創り得るものであるから(時間の進行は個々の心(靈)(ヒ)の中の認識であるから)“道”と称されているものである。
 これに続く“一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”は、個々の心(靈)(ヒ)、その“上”“下”のことを述べているのと、“一二三”のオーラが高くなればなるほど、“創造”の“理(ミチ)”、法則性を尊守した事象の“創造”をする、それは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ではなく、“善(神格化の方向性と智性の受信)”であるから、“一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ”と称され、ことに“祓ひ清めとは弥栄ぞ”に、人が神の“思惑の顕現”=現象化を託されていることに気付かねばならず、それは“上”からの振動の止め方、同“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化するか、同“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”するかにかかっているからこそ、“上”を示す表記の“神の息”“てんし様の息”と称され、この場合の“息”は自らの心(靈)(ヒ)という意味合いでもあるが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であることを指摘しておく。
 その自らの心(靈)(ヒ)ということ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)ということを強調した言い回しがこれに続く“臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ”ということで、“上”であろうが“下”であろうが、心の成り立ちや構造が違おうが(草木は動物と心(靈)(ヒ)の成り立ち方が違う)、すべては“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みとその発振、発信で事象の“創造”をしているという意味合いの文である。
 
 次の文。
“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ”
 この文で示されている日足(ひたり)回転、“日月神示”を最初から読み解いてきて初めて出てきた表記の日足(ひたり)回転があるが、その違いを以下に拡大画像で示す。

日足(ひたり)回り “日月神示”表記 これまでとキの巻第十一帖の表記

 この渦が密になっている表記の意味は、荷電粒子の回転が水平磁場により加速され強化されている様子を示すものと確信する。 その加速と強化については先に述べたので割愛するが、これは霊的成長を果たした様であり、“一二三”のオーラの大きさの変容でもあるし、発振、発信するオーラの高振動化ということでもある。
 それで本文に述べられている“ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ”のそれぞれのカタカナ表記については、靈によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用して解釈を述べる。
“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、これは“上”の思惑を現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現する、神の“思惑の顕現”=現象化の意味合いということ。

“レ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし 
と述べられていて、これは右往左往と左往右往と同義のことだと思え、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る、それが“元座道座(もとくらみちくら)”と称されていると解釈でき得る。

“ホ”は 深き 高き 広き の意、それが備わったさま。(穂=禾(のぎへん)と恵)、神の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込んだ“日止、霊止”が、事象の“創造”を“深き 高き 広き”とするという意味合い。
 
 また、この“ケ”“レ”“ホ”は、太祝詞(ふとのりと)の最後の方の“ホレケ”と意味が同じであると思うし、順番が反対なのは、“上”から視点の言い回しか、“下”である人間の観方なのか、の違いであると思う。
 そしてすべての事象の成り立ち先に述べた“一二三”のオーラの受発信であるから“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ”と称され、それは今解釈した“ケ”“レ”“ホ”であり、さらに神の“思惑の顕現”=現象化をするならば、自らの心(靈)(ヒ)の荷電粒子の回転は加速され強化され得るというのが、うずの多い、うずの密度が高い表記の 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるということ。

 これに続く“皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか”は、“唱えさせよ”は、受発信のこと、“五柱”の五は糸巻の象形文字、神経が密になった様、コイル線の巻数が多い様子、磁場の強化で、
(“慈(しげる)”の意味でもあり、心(靈)(ヒ)が“慈(しげる)”ならば、“慈悲”と“慈愛”、すべての事象を慈しみ悲しみ慈しみ愛しむ(いつくしみかなしみいつくしみいつくしむ)ということになる)
磁場の強化があってこそ“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めて加速して発信するの意。
(それがまた“畐”の意味でもある)
(“畐”は、“創造”の“主(ヌシ)”の表記“一”を吸収する、取り込む意の口、そしてそれは頭で高い振動を止めるから、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)の表記がされている)

 そして“八柱”は、人が持つ“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道のことを指し、“十柱”は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(水平磁場)のこと、シンクロトロンの構造を指す。
 そして“五十連(いつら)ぞ”の、“五”と“十”は先に述べたことを強調するものであり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した生命である“日止、霊止”という意味合いのことでもある。
 そして進化した生命が成すこと、それが“意露波(いろは)”で、“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、
雨の象形文字 解字


そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されているものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
写真部に投稿した最新の写真
 ↓


powered by 写真部









○○○大先生の水草水槽記録
facebook 児玉登







このブログをリンクに追加する


自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード