“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その二十二”(人間になったじゅんいち君とセブンちゃん、“ほんとう”を顕現しない心…という話をする)

Kelly 会話中 …例によってKellyさん爆睡中でんねん。 ほんでから今回の夢は、前回の夢の展開通り、人間セブンはんと人間じゅんいち君との会話でんねん。

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人間になったセブン 会話中 「じゅんいちさん、私とじゅんいちさんは
以前(“その十八”)で““ほんとう”はどこに在るか”という話をしましたね。

 
 その時じゅんいちさんは、

僕は外側(外国と幽界)の事象に“ほんとう”を求めていた…求めようとしていた…そこには答えが無いはずなのに

とお考えになり、自分の外側(外国と幽界)の事象に“ほんとう”が無いということを認識され、そしてじゅんいちさん自身が“ほんとう”を求めているという自分の心(靈)の動きを、ご自分で解り、ご自分で見出されました」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「そして、以下のようにもお考えになられました。

でも、僕が外側(外国と幽界)の事象に“ほんとう”を求めようとしている、それが“ほんとうの自分というものに近づく”ということでもある

 これはとても大事な気付きであると思います」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「じゅんいちさんが気付かれたこと、○○○大先生がじゅんいちさんに読むように勧めた「まほう色の瞳」の中のエリナのセリフ、
ほんとうの自分というものに近付く
…こういった心の動き、これはとても大切なことであるし、これが出来るならそれはある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したということであるとも思うのですが、これが出来る心の持ち主は、(この世界、今の事象では)とても少ないということも、じゅんいちさんはすでにご存知ですね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「また、このエリナのセリフ自体にも、“ほんとうの自分”を見出そうとすることのむずかしさを感じさせる…と思いますが、この文を読んで、そのことを見出せる人間も、とても少ないと思えますね。

 それは、多くの人間が、“ほんとう”ということを言葉でしか知らないし、また“ほんとう”に対しての認識が低すぎる人が多い、だからこそ“ブタのけつを見ているアホ”が多い…それが平均的な地球人の大半でもある。

それで、以前、じゅんいちさんは以下のように一人でお考えになっていらっしゃった。
“その十五”

先回僕が述べた“ほんとう”に対する対義語の“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”これが台頭しているのが、例えばセブンちゃんに出会った頃の僕、あるいはそれ以前の僕、自分の低い欲望を充たそうとしているから“うそ、ごまかし”みたいなことを言ったし、また“にせもの、いつわり、まちがい”の価値観が自分の心を占めていた…そしてそれは、今の大半の人間もそうなんだろう。 
それは“ブタのけつを見ているアホ”であるし“ブタのけつ”に価値があると思う“アホ”だからだ…。 
また“ブタのけつ”が“ほんとう”だと思い込んでいるからだ。 
そして自分が“ほんとう”だと錯覚している“ブタのけつ”以外に“ほんとう”を探さない、求めない、見出そうとしない“アホ”…それは○○○大先生が言っていたことの

“上”の思惑を真に固く止めるのが霊的成長度の高さを示すものであるし、また、真実=真固止、そして古神道の“修理固成”(しゅうりこせい)というのも、霊的成長して真実の世界を顕現せよという意味を感じ取れる


この言い回しの中の“霊的成長度の高さを示す”という言い方、これは人間が神に近くなる、近くなったならば…ということと同義なんだろう。 
だからこそ思うこと…人間が今より相対的に神に近くならなければ“ほんとう”と感じることを知らず、“ほんとう”だと認識しうる行動をとらない…そうとも思えるものだ。
それで、“霊的成長度の高さを示す”…このことを○○○大先生流に言えば、真固止の人間って言い方もできる…


…って」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「こうやってじゅんいちさんが気付かれたように“ほんとう”に対して認識の低い平均的地球人は、霊的成長度自体が低いといえますね。
 それはまた心(靈)(ヒ)が未熟、霊的成長度の低さは心(靈)の未熟さ、ともいえます。

 それで、じゅんいちさんが一人でお考えになったことを今鑑みれば(かんがみれば)、今私が述べたように、


● 平均的地球人は“ほんとう”ということを、言葉でしか知らない

● “ほんとう”に対してしっかり認識を持ちえないのは、霊的成長度が低いからである

● エリナのセリフ“ほんとうの自分というものに近付く”というのが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということに気付く人は、(地球上に)ほとんどいない

ということになりますが、大体それ以前に、平均的地球人には、霊的成長度の高低という認識そのものが既成概念に無いといいえますね。
 それは、霊的成長度の高低というのは神が認めるもので、霊的成長度の低い人間が解るものでもないし、当然のことながら認めるということも出来ない。

 むずかしいいい方をしましたからいいなおしますが、人間の霊的成長度が低ければ霊的成長度の高低など判断できるわけもない。

また、“ほんとう”の高低というのは、霊的成長度にあり、霊的成長度にしかないといえますが、こういった高低に対する認識が、錯覚やまちがいにみちている」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「平均的地球人に、“高低”、高い、低い、の話をすると、地位や(形骸の)名誉の話、位(くらい)がたかい、という話になったりもしますが、それはただ単に、金持ちが偉い、権力者が偉い、(形骸の)名誉に価値がある、ということでしかない。
こういったことはなんとなく間違いだと思っていても、それを認める、認めてしまっている人が大多数ですよね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「少々余談でした。 
 こういう錯覚を起こす心(靈)の動き、そしてそれを目指そうとする心の動き、それはあえてじゅんいちさんに問うまでも無く、低い功名心と自尊心です」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「ですが、その低い功名心と自尊心で心(靈)(ヒ)が動いているときには、その心(靈)(ヒ)の動きそのものが低いということに自分で気づかないことが多い。
それは霊的成長度の低さ、心が未熟であるということでもありますね。

 その霊的成長度の低さと心が未熟であるということ事態、そこにおける価値観や幸福感というのは地球人の大半が低い心(靈)しか持っていないからこそ、社会通念になり一般常識の基準となっているものでもありますし、このこともじゅんいちさんにはすぐ理解できることであると思えます。
 このことは以前(
“その十五”)、じゅんいちさんは以下のようにお考えになられたことでもあります。


(神の子である)人間は“ほんとう”を求め、“ほんとう”を基準とし、それを理念として行動しなければならないし、結果それが“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”の無い世界、そういった言葉や概念の無い世界、“ほんとう”の世界の“創造”をする…それが(神の子である)人間の在るべきカタチなのだ

こうやってじゅんいちさんは“(神の子である)人間の在るべきカタチ”という答えを、ご自分で考えて見出されましたね」


犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「それで、この答えを見出される前に、じゅんいちさんは以下のようにもつぶやいていらっしゃった。

““ブタのけつ”を“アホ”に刷り込ませて自分の利益にしている人間や、それが“ほんとう”であると錯覚している人間…そんな人ばかりの世界は当然“崇高な現実”とはいえないし、また“同時に、崇高な現実の一部になることが許される”のでもないことはすぐ分かる


それと、

今の世界は“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”が台頭しているものでもある…“ブタのけつ”を“ほんとう”と思い、あるいは“ブタのけつ”を信じ込ませ“ほんとう”を見出させない

もうひとつ、

また“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”っていうのは、心の動きに由来することだし、その心の動きの理由と根拠は自らの低い欲望に由来しているからこそ、悪と認識されうる事象を生み出すものなのだろう…

 なぜこんな人間が多いのか、これはじゅんいちさんにとっては愚問ですが、その心の動き=思惑=“どういうつもり”というのは、すぐ判ることと思います」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…低い功名心と自尊心由来のことだ」

人間になったセブン 会話中 「これらのことを鑑みて、“ほんとう”を見いだせない、“ほんとう”を求めない、“ほんとう”を言葉でしか知らず、“ほんとう”ということに対して意味や意義を見いだせないから“ほんとう”をこの事象に顕現しない、あるいはその資格がない心の動きですね。
そして“ほんとう”では無いものに価値を見出したり、それを褒めそやしたりありがたがったりもする、そう思ってしまったりそう判断してしまったりする心(靈)(ヒ)というのはどんな心(靈)の動きでその心(靈)(ヒ)が構成されているのかは…」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…低い功名心と自尊心由来のことだ」

人間になったセブン 会話中 「まったくそうですね。 
 霊的成長度が低い心(靈)は、自我の確立=固定化の進化過程だから、低い功名心と自尊心以外の心(靈)の動きをあまり持っていないってことでもあります。
その心の動きにおける認識や価値観、社会通念や一般常識で、大半の地球人は何かを成そうとしている。 
 その何かを成す、というのは、幸福を得よう、幸せになりたい、自分に価値を見出したい、美を求めたい、生きていることの意義を見出したい…など、いろんな言い回しが出来ますが、ここにも功名心と自尊心という心(靈)の動きを見出すことが出来ます。
 ですが、幸福の概念は(通貨としての)金に対する執着であったり、物欲であったり、本能由来の欲が満たされることであったり、自分の価値を形骸の名誉を得ることと錯覚して、地位や名誉を獲得することに努力したり、“ブタのけつ”であるブランド、ファッション、宝飾品のたぐい、化粧品、サプリメント、形骸の美にまつわる“ブタのけつ”は無数にあり、例に挙げるときりがありませんが、そんなものに騙され、錯覚して、外面(そとづら)の美を追い求め、外面の美をひけらかし誇示する“ブタのけつを見ているアホ”に成り下がり、そんなふうに成り下がっているという自覚も無い…。
 そういった人たちが“ほんとう”に自分の存在の意義、生きていることの意義を見いだせる訳もない」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「…すみません。 
 前回の○○○大先生とじゅんいちさんの話のように、私が一方的にしゃべるって形になっていますね。
 でもじゅんいちさんには、ここまで私が話してきたことの“ほんとうの自分というものに近付く”はすべて理解できることです。
それは、じゅんいちさん自身が見出した答えであるのですから。

そしてじゅんいちさんが思われたこと。

そんな人ばかりの世界は当然“崇高な現実”とはいえないし、また“同時に、崇高な現実の一部になることが許される
…このことも今の世界、今の地球人の心(靈)(ヒ)を観れば、“崇高な現実”を創ることが出来ないし、“崇高な現実の一部になることが許される”なんてことに成り得ない。

 その理由と根拠たる心(靈)の動きと、霊的成長度というのはじゅんいちさんには解っていらっしゃるはず…これもまた、じゅんいちさんの考えたことからの引用なのですから」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「今私がじゅんいちさんの考えたことから引用した「まほう色の瞳」のエリナのセリフである“崇高な現実の一部になること”。
 この言葉を平均的地球人が聞いたなら、理想論とか実現不可能とか机上の空論とかと、思うでしょうね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「そんなふうに思ってしまうこと事態が、ただ心(靈)の動きが低いからですね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん…そう思うよ」

人間になったセブン 会話中 「また、“理想論とか実現不可能とか机上の空論とか思う”こと事態が、“ほんとう”を知らない、“ほんとう”に対して認識が低い。

 そして“ほんとう”で無いものを認めてしまっている、さらに、“ほんとう”で無いものを利用して自分の利益を求めている=“ブタのけつ”を世にはびこらせ、“ブタのけつを見ているアホ”を増やしているという事態になっています。
 
 ですが、こんな人たちに比べて、じゅんいちさんは違いますね。

 それは、じゅんいちさん自身が“崇高な現実の一部になることが許される”ということに対しての答えである、
ほんとう”の世界の“創造”をする…それが(神の子である)人間の在るべきカタチなのだ
ということをお考えになられたのですから」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん」

人間になったセブン 会話中 「エリナのセリフの中の言葉“崇高な現実”、これは○○○大先生のいい方なら、“神聖な事象”という言い回しも出来ますが、○○○大先生の言い回しの方が、その事象に対しての貴さみたいなニュアンスを感じます…余談でした。

 それで“崇高な現実の一部になること”そして“ほんとう”の世界の“創造”をする”、この意味をじゅんいちさんは理解され、その意義を見出されていらっしゃるから、

霊的成長度の高さを示す”という言い方、これは人間が神に近くなる、近くなったならば…ということと同義なんだろう。 
だからこそ思うこと…人間が今より相対的に神に近くならなければ“ほんとう”と感じることを知らず、“ほんとう”だと認識しうる行動をとらない…そうとも思えるものだ。
それで、“霊的成長度の高さを示す”…このことを○○○大先生流に言えば、真固止の人間って言い方もできる…


とお考えになり、“真固止の人間”という概念も発想されました。

 これはとても貴い概念だし、この貴い概念を導き出したじゅんいちさんの心(靈)は、貴いのですよ」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…うん…ありがとう…。 セブンちゃんは、僕を励ましてくれていたのだね…」

人間になったセブン 会話中 「はいそうです」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…たびたびのご厚意に感謝します。 
それでひとつ訊ねたいのだけれど、どうしてそこまでセブンちゃんは○○○大先生の考えを理解しているのだろうか…って思ってしまうんだけれど…」

人間になったセブン 会話中 「それはですね…今の私はこのカテゴリーの話の理不尽な展開で犬から人間になっていますが、元々は犬です。
 犬の私は、私のママ(しσ_σし)が名古屋にいた時、○○○大先生とよく公園で遊んでもらいました。
 そのとき、○○○大先生は前のブログを書籍化されたときでした。
 それで○○○大先生としては、自分の考えや認識を世に問うということをし始めた時でもあったのですが…その手ごたえの無さを○○○大先生は感じ、この世界には“ブタのけつを見ているアホ”ばかりなのだ、ということを嘆いていらっしゃった。
その嘆き…それをひとりごとのように、私と公園で遊んでいた合間につぶやいていらっしゃった…。 その様子を以下に画像で示します。


§◕ェ◕§ ○○○大先生の愚痴を聞く

 また、私と○○○大先生が公園で、私が走り回った後、私を追いかけた○○○大先生はすでに初老ですからすぐ疲れてしまい、芝生でうたた寝をされるときが多かったのですが、その時、寝言でも手ごたえの無さを、よく愚痴っていらっしゃった。

 これらを私は聞いていた…というよりも、○○○大先生の心の動きを感じていた…。

 それは、犬の私は○○○大先生の愚痴の内容は言葉で理解できなかった…当たり前ですが、○○○大先生が貴いことを成そうとしていらっしゃった…でも、手ごたえが無いことを嘆いていらっしゃる…それはよく分かりました。

 ○○○大先生は、自分の成そうとしたことはまっとうであり、多くの人に“ほんとう”のことを知って欲しかった思いがあったのに…手ごたえが無かった。
 その時の○○○大先生は、いつもの明るく陽気で、悪意のない悪ふざけをする○○○大先生とは違う…孤独であったでしょうし、とても寂しかったのだと思えます。
 そのことも犬の私は、犬なりに分かっていました…。
 でも犬の私は、うたた寝している○○○大先生の頭を撫でて、ヨシヨシすることしかできませんでした。
 その様子も以下に画像で示します。



○○○大先生をヨシヨシ§◕ェ◕§ うたた寝している


 それで、人間になった私は、その当時の○○○大先生の愚痴の内容がよく理解できる…○○○大先生の愚痴は妥当なものであるということを知っている…○○○大先生がこの世界に対して成そうとしたことが理解できる…だから今回のような話が出来るのだと思います」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…そうだったのか…。
 この世界に“ほんとう”を求めようとすると、孤独になり寂しい気持ちになる…。
 そして○○○大先生は…憂いていた…。
 それは…今の僕も同じ…だ…」

人間になったセブン 会話中 「そうですね…人間になられたじゅんいちさんも、その時の○○○大先生と同じような気持ちだと思えます。

 そしてそれは、この世界に“ほんとう”が無いことを認識した人、この世界は“ブタのけつ”で満ちており“ブタのけつを見ているアホ”ばかりだと認識した人に、共通の思いだと思います。

 だから私はじゅんいちさんを励ましたかった…そして楽屋落ち的言い方ですが、最近行われている○○○大先生の著書の読者会に出席していらっしゃる方々へのメッセージ、それは、

この世界に“ほんとう”が無いことを知っても、それを嘆く心に捉われてはいけない。
自分たちは“ほんとう”を知り、ただただそれを顕現する、それが人(日止、霊止)の使命であるということを認識(悟り、幸取=さとり)として欲しい。


今回の話は、こういう思いが込められた文章であるということです」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「…なるほど…。 よく解りました」

人間になったセブン 会話中 「それでは私は失礼させていただきます。 
そして人間セブンとしての役割も終えたと思います。 多分この次じゅんいちさんにお会いするときは、犬に戻っていると思いますので、ご承知おきいただき、また機会があれば、お話しさせてくださいね」

犬じゅんいち君 人間になって会話中 「もちろんです。 これまでありがとう…人間セブンちゃん」

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Kelly 会話中 …ちゅうことで、人間じゅんいち君は自分の考えたことに自信が持てたかもしれへん。
 そやから今後のじゅんいち君は、○○○大先生との会話にきちんと対峙することが出来るやろ。
 ちゅうことは、今度はじゅんいち君が○○○大先生と会話するって展開になる…そのことをなんとなく告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” キの巻 第十七帖 Kellyさん的解釈

  今回も、キの巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ、今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからすのざから、この世の悪も善も皆御用と申してあろが。
身魂相当の御用致してゐるのざぞ、仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変るのざぞ、神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ、その上で人に此の道伝へてやれよ、無理するでないぞ。
我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ、愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ。
神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ。
富士は晴れたり キの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ。
三月二十日、ひつ九の神。


 まず冒頭の文。

“すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来んのざぞ、逃れようとするのは我れよしざぞ、今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからすのざから、この世の悪も善も皆御用と申してあろが”

 これは、“日月神示”が今後=アセンション後に移行すべく人に対して述べられている“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からのメッセージであることを鑑みれば、意味はすぐ解ることで、地球上の誰もが霊的成長度の高低において区分けされるアセンションから逃れられないから、
“すり鉢に入れてコネ廻してゐるのざから一人逃れ様とてのがれる事出来ん”
のであり、それは自我の肥大(“石屋の仕組み”)という心(靈)(ヒ)の動きを変えねばならず=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”=自省(胸の磁性“十”)しなければならないのであるが、これを避ける、今のままでよいと錯覚している、改心して自省(胸の磁性“十”)したくない、その心(靈)(ヒ)の動きを指摘しているのが、
“逃れようとするのは我れよしざぞ”
であり、今までの形骸の価値や薄っぺらい幸福感に酔いしれ、(通貨としての)金と物と本能由来の低い欲望の達成や低い自尊人や功名心を満足させることしかしていない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の人間ではいかん、ということが述べられている。
だが、それも個々の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、霊的成長度には段階があることを示されているのが、
“この世の悪も善も皆御用”
であり、人間のやっている“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)も含め、自分たちが観察しうる事象におけるすべての存在が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくから“この世の”であり、個々の霊的成長度により行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は違う、“上”と“下”があるから“悪も善も皆御用”ということである。

 それで前後するが、
“今の仕事 五人分も十人分も精出せと申してあろがな、急ぐでないぞ、其の御用すみたら次の御用にかからす”
の“五人分も十人分”は、“五”が糸巻の象形文字、神経が密になる、“慈(しげる)”であり、“十”は胸の磁性“十”のことで、よってこの文を額面通り読んでは意味が通じず、今生きていること、今の事象で“観察と認識”をしていることを証して“今の仕事”、そして“御用”といわれ、それは生業(なりわい)の“行”と霊的成長のための“行”の意味があると思うが、それにより肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して、神経が“慈(しげる)”なら、肉体(月(ツキ))の秘密である円形粒子加速器の構造が強化されローレンツ力ローレンツ力 も強化され“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め(“日止、霊止”の表記の意義)、自我より“上”の心である“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現と強化になり、それを示すのが“十”(シンクロトロンの構造)であり、そうなってくれという意味合いで“精出せともうしてあろがな”である。 
 それで“精出せと申してあろがな”は、文面を額面通り受け取れば今やっている生業(なりわい)としての仕事に精出せという意味合いにしか(霊的成長度の低い人は)取れないだろうが、そうではなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識し、その意義を知り、認識(悟り、幸取=さとり)として、生業(なりわい)の“行”と智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得のための“行”をして、霊的成長せよ、それが生命の存在の意義であり、自分たちは何のために生きているのかという疑問に対しての答えでもあるし、そのために“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを教えているのだ、という、艮(うしとら)の金神を名乗る“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を感じ取れると思う。


 次の文。

“身魂相当の御用致してゐるのざぞ、仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変るのざぞ、神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるなよ、その上で人に此の道伝へてやれよ、無理するでないぞ”

 この文も霊的成長の段階のことを“身魂相当の御用致してゐる”と示しているし、これに続く“仕事し乍ら神示肚に入れて行けば仕事段々変る”というのは、先に述べたように自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくなら生業(なりわい)の“行”も霊的成長のための“行”も進むのであるということが示され、たびたび“日月神示”に出て来る“肚”(はら)の表記は、自我という心(靈)(ヒ)であるし、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)と同義である。
 そして“神示声立てて読むのざと、申してあること忘れるな”も、この言い回しを額面通り受け取るようでは霊的成長度が低く、“声立てて読むのざ”は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるということを読み取らなければならないし、自分が霊的成長を真に果たしたなら、自分より“下”の霊的成長度の人間に自分の認識を伝えよ、という意味合いのことが“その上で人に此の道伝へてやれ”ということ。


次の文。

“我捨てて大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ、愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ。 
神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ”
 
 この文の冒頭の“我捨てて”は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を自らが諌めよ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きを“悪(心の動きの本能化と低振動化)”と見做し、自分にそれを許してはならないという自覚を持てということであり、これに続く“大き息吹きにとけるのざぞ、神の息吹きにとけ入るのざぞ、「御みいづ」にとけ入るのざぞ”は、自分より“上”の振動=“大き息吹き”“神の息吹き”“「御みいづ」”と、感応せよ=“とけるのざ”“とけ入るのざ”“とけ入るのざ”ということである。
 そして“「御みいづ」”は、
上つ巻 第二帖の、
“神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ”
の“稜威”(いつ)のことであり、その意味は、古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊、ということで、要は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいはそれを取り込んだ心(靈)(ヒ)(“天詞様”、真の意味の天皇)、それは霊的成長して“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっている人間の認識(悟り、幸取=さとり)を、自分に取り込めよ=“とけ入るのざ”である。
 これに続く、
“愈々神示一二三(ひふみ)となるぞ、一二三とは息吹ぞ、みみに知らすぞ、云はねばならぬから一二三として、息吹きとして知らすぞ”
の、“愈々神示一二三(ひふみ)となる”は、先の“我捨てて”にかかる言葉であり、“上”と感応すれば自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である“一二三”のオーラは変容し、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、天意を取り込んだ進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)ということを示唆しているし、先に解釈した“身魂相当の御用致してゐる”“神示肚に入れて行けば仕事段々変る”“神示声立てて読むのざ”“大き息吹きにとける”“神の息吹きにとけ入る”“「御みいづ」にとけ入る”は、すべて自分の霊的成長の段階とその段階における感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)のことであるから、それが自らの“一二三”のオーラに現れるのは当然のことであり、自らの進化の段階により=霊的成長するならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応は自分の霊的成長度において段々高い振動の取り込みになるという意味合いのことが、
“云はねばならぬ(“上”が人に進化の法則性を通信として送り贈る=発振、発信している)から(それと感応するならば自らの)一二三(のオーラ)として、息吹きとして知らす”と称されている。
 これに続く、
“神示よく読めば分ることぞ、神示読めよ、よむと神示出るぞ、此の巻は「キの巻」と申せよ”
も、文面を額面通り解釈していてはダメで“よく読め”は、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)せよ、であり、その資質を作るのが“行”であり、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であることを今までの“日月神示”解釈で述べてきている。

 それで第十七帖の文を要約するならば、平均的地球人の進化過程である自我の確立=固定化は、自我の肥大(“石屋の仕組み”)であり、またそれは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象しか生み出していないから恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた事象になっているが、それではダメであり、今後=アセンション後に移行し得る資格は当然のことながら持ちえないということ。
それで、“一二三”と述べられている通り、生命(生きる使命=存在理由)としての使命、神の思惑の顕現、というのは、霊的成長して“一”=智性=1番目のオーラを高めていかねばならず、そのために艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は黒住教で朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えたのであり、また、キの巻 第十一帖
の“一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄”ということであり、そして“一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、 渦巻き 左回転 であるぞ、 日足(ひたり)回転うず多い 小画像 であるぞ”ということでもある。 この詳細はリンク先を参照のこと。

キの巻 第十一帖 

また、この日足(ひたり)回転うず多い 小画像 の表記の意味が解らないようでは、人間の霊的成長の仕組みが理解できたとはいえない。

 それで原文の最後の、
“富士は晴れたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 (せかい)ばれ、岩戸あけたりキの巻十七帖 霊○、シンクロトロンの構造 小画像 ばれぞ”
の 、これも第十一帖の
日足(ひたり)回転うず多い 小画像  同様、ここまでの“日月神示”で初めて登場した表記であり、これについては画像で意味を示すこととする。

キの巻 第十七帖 霊 〇 と、シンクロトロンの構造
 要は、“岩戸あけたり”=岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く=自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)ということであり、こういった心を持った存在ならば“(せかい)ばれ”=観察しうる事象は晴れるという意味合いであり、この文の冒頭の“富士(二二)”と“日本晴れ”については、今まで幾度となく述べて来たので割愛するが、この文とこの画像の意味を、このブログに霊縁あった方には、よくお考えいただきたいものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集” 第八話 死の前後 病死と事故死の場合 Kellyさん的解釈“その三”

 前回告知した通り、今回は、第八話で述べられている“地縛(じばく)”ということについて、なぜローム太霊がこのことを述べられたのか、そして、このことを太霊に教えられたなら、自分たちは何を考えるべきなのか、について述べることとする。

 まず、
地縛の霊は、他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない
の“地縛(じばく)”、地に縛り付けられている、あるいは自縛=自分を自分の観念で縛り付けている、といういい方もできると思うが、なぜそうなるか、については、自分の死を受け入れていない、いわゆる
一遍に体の無くなった人間…中略…自覚は遅い”のであり、
そして第七話の
自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば”ではない、ということと、生きていた時のことに執着があるからであり=ほとんど執着という心の動きしかしていないからであり、同義反復のことを言うが、それは未練でもあるし、三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)でもある。 
 
 そういった心の動き、執着と未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心だから、自分を縛り付けているのであるし、またそれは、現世のことしか考えていない、死が霊的成長の一環であるという考えも無いし、その認識すら、平均的地球人にはないものであり、以前に述べたように平均的地球人の霊的成長度では、死のことを知らなさすぎるということ。

 また執着があり未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心というのは、現世、現界しか観察していない、いわゆる○○○大先生が著書で述べた“事象を観察する視野が狭い”ということであり、狭い事象しか観ていない、狭い事象しか見ることが出来ない心(靈)(ヒ)の動きをしているからこそ、そこ(その場所=“”)に縛り付けられる、自分で自分を縛っている=現界における低振動しか受信していないという言い回しも出来るが、低振動しか受信していない自分の心(靈)が、低振動により構成されているからという説明も出来るし、さらにそれは自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)であるし、執着や未練という心(靈)(ヒ)の動きは自我の肥大(“石屋の仕組み”=帯電するミネラルが固まっていない、“玉(ぎょく)”ではない)ということでもある。

 その自我の確立=固定化の心(靈)は、自分の死を納得しない、受け入れない、なぜ自分がこんな死に方をしなければならないのか、自分は“かわいそう”ではないか、という低い想念に捉われるからこそ、
他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない
という“地縛の霊”、自分だけが“かわいそう”な死に方をしたから、他の人間も同じように死なせて自分の苦しみを解って欲しいという心(靈)(ヒ)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になる。

 これは古神道でいうところの“本津宮”(もとつみや)に帰っていない=自省(胸の磁性“十”)していない、きちんとした自己観察が出来ていない、いわゆる霊的成長度が低いということでもある。
だからこそ、自分の死に対しても、神の采配があるなどという発想がない、それは“その一”で述べた“脳溢血で死ぬ場合”での死の時期を決定するべくこととして
軽いものは半身不随になるだけで死は避けられるが、それも早ければ三年位、長くても二十年とは生きられないであろう。この場合は霊妙なエクトプラズムによってその血管を修理しておくのであるが、それにはその人間を生かしておかなければならない条件が必要
の、
その人間を生かしておかなければならない条件
に、自分が該当しないということを認めないし、そのことを自分自身で判らなければならないということでもある。

 こういった“地縛の霊”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、結果として、
その場所に近付くとそこで地縛(じばく)になっている霊がその者に憑依
ということになり、これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でもあるが、この場合“その者”は、“地縛の霊”と同じような心(靈)の動きをしているということも読み解かねばならない。
 
 それは自分がどんな行いをしてきたか、先祖がどんな行いをしてきたか、恨みをどれくらい買ったのか=因縁であり、仮にそこで死ぬならば、それは“神の采配”であるということもいい得る。
 これが“魔の淵、魔の踏切など”に近付いた人間が、誰しも“不慮の死”ということには成り得ないということの根拠と理由でもある。

 それで太霊は“これは知らされていない”と述べられているが、これは、ただ単にその場所を“上”は教えない、という意味合いと、“上”はそこで“その者”が死ぬことを知っていても、それは“その者”のやってきたことと先祖の因縁など、恨みの連鎖の霊的干渉の結果であるから教えない、教えることを許可されていないという意味合いがあると思う。
 それはそこで死ぬこと事態が、“その者”に対する試し、試練、いわゆる霊的成長の一環として“地縛の霊”という体験をさせなければならないということであるが、それはただ単に霊的成長度が低いからであり、自分にどんな不幸なことが起こったとしても、それ自体が“神の采配”の要素があり、自分にとって必須の体験、必然なのだ、という認識があるならば、それは、早く“自覚”するものであるからこそ、太霊はこのことを述べられたのだと確信する。

 またそれは、自分に何が起こっても誰も恨まない、自分の運命を呪わない、という深い信心(自分の心(靈)を信じる)ということでもある(○○○大先生が著書で述べた“すべての事象は自分の霊的成長のためにある”ということ)。

 こういった心の動きをしているならば、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する悪霊になりにくいということも、悪霊予備軍の霊的成長度である平均的地球人は、しっかり鑑みるべきである。
 重複するが、自我より“上”の心(靈)の発現、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”があるならば、自省(胸の磁性“十”)し、死んでからも自分の在り方を鑑みる、それは悪霊が悪霊でなくなるということであり、それがまた古神道の“本津宮”(もとつみや)の意味でもあるということを、死に対して無知な平均的地球人は知らなければならないものである。

それと、
他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない…中略…自分は好きな所へ行かれて楽しいことのようであるが、その行く先はやはり人間でいうと地獄の方なのである
に関して、“地獄の方”というのは、“自覚”が遅く、自我の肥大ゆえの執着と未練という心(靈)(ヒ)の動きが中心だから、恨みの連鎖の霊的干渉に加担する悪霊になるということであり、先に述べてきたことと重複することであり、これを読んでいらっしゃる方にはここまでの文章を読んだなら、このことは理解できると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
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心(靈)の二面性であり、
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出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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