“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その八”

 今回は、水の巻 第三帖の

“次に「うけひ」の言葉しらすぞ。
 ご三たいのおほかみさま、ご三たいのおほかみさま、ひつきのおほかみさま、くにとこたちのおほかみさま、とよくもぬのおほかみさま、つきのおほかみさま、すさなるのおほかみさま、あめのかみさま、かぜのかみさま、いわのかみさま、キのかみさま、かねのかみさま、ひのかみさま、ひのでのかみさま、りゅうぐうのおとひめさま、やほよろづのいきかみさま、ことにいすずにます、てんしょうこうだいじんぐうさま、とようけのおほかみさまをはじめたてまつり、よのなかのいきかみさま、うぶすなのおほかみさまのおんまへに、ひろきあつきごしゅごのほど、ありがたく、とうとく、おんれいもうしあげます。このたびのいわとひらきには、千万いやさかのおはたらき、ねがひあげます。あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ、せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”

について解釈しまんねん。



 冒頭の“うけひ”という表記は、誓ひ、祈ひ、宇気比、これは、神に誓うことによって吉や凶を占う、物事の成否を占う、そして誓約、固く誓い約束する、という意味合いを当てることが出来得る。
 だがこれは、第三帖 “その二”の解釈で述べたように「“うけひ”=“受け、心(靈)(ヒ)”」という解釈が妥当で解りやすいと思うし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のうちの高い振動を取り込んだ=受けた心(靈)だからこそ、神の“理(ミチ)”(法則性)に沿い、霊的成長を自らに祈り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を誓う、そしてそれは宇宙の宇の気(振動)を取り込んで事象の“観察と認識”をして比(比較の比)をする、それは相対的なものの観方となり、外側(外国と幽界)の事象であろうが内面とか内側(心の中と感じている事)であろうが、そこに、目上(めうえ)の能で発現する心(靈)(ヒ)である智性(神性)由来の“観察と認識”において、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(・心の動きの本能化と低振動化)”を見出し、見出すからこそ自分の在り方を思い、理念の確立となり、その理念を持って“道”(時間の進行)を歩む、重複する言い方ではあるが、それが進化=霊的成長、神格化に向かうこと、それを自らに課す=約束する、その理念を真に固く止める(真固止)という解釈が大事であると思う。
 そしてこのことは、振動の高低、それを止める、いわゆる“日止、霊止”という表記において、比較をすると、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということがよく解るが、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の低い振動しか止められない、低い振動としか感応しない、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していないということであり、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我を構成する振動、それ中心で感応しているからこそ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるし、それも“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の止め具合、どういういった振動と感応しているのか(“日止、霊止”という表記の意味合い)が、心(靈)の発現と心(靈)の動き、いわゆるどれくらい進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したのかを示唆するものでもあるし、今後=アセンション後に移行すべき指標ともなりうるものである。

 それと、この“うけひ”が神話に登場するのは、須佐之男が伊邪那美(いざなみ)のいる根の国に行きたいといい、そのときに天地に甚大な被害を与え、それに怒った伊邪那岐(いざなぎ)が須佐之男を追放した、そして須佐之男が根の国に行く前に天照大神に会ってから根の国へ行こうと思い、天照大神が治める高天原へ行くが、そうすると山川が響動し国土が皆震動したので、天照大神は須佐之男が高天原を奪いに来たと思った。 それで須佐之男は天照大神の疑いを解くために、宇気比、誓約をしようといった…という表記があるが、これは砌(みぎり)の極性への傾き=伊邪那美(いざなみ)に会いに行こうとする、そして、砌(みぎり)の極性、事象への顕現、いわゆる事象の“創造”において、その思惑=日足(ひたり)の極性は、まっとうか、天意に沿っているのか、ということを示す話であると思う。
 以下に、
日の出の巻 第一帖で使った画像を貼って、須佐之男の表記の意味を示す。

須佐之男神の解字 


 そして日の出の巻第一帖からコピペ。

須佐之男は日足(ひたり)の極性=神の思惑を“力”として顕現せよの意であるから、それをさせないのが自我の肥大=岩戸閉めであり、そのことを“罪着せし時”と称されていると思う。
それで、その低い砌(みぎり)の極性が高まった時に起きるのがローム太霊の言葉である右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするという心(靈)の進化の“道”(時間の進行)と“理(ミチ)”(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法側性)であり、これが起きること、左往右往するには自省(胸の磁性“十”)するという心(靈)が必須であり、よってアセンションはその場(フィールド)その次元に存在する心(靈)が日足(ひたり)の極性に向かうことであり、それが出来ない心(靈)が今の地球と同程度の進化程度の場(フィールド)に移行させられるものであり、だからこそこの第一帖では“大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ”といわれ、神の“思惑の顕現”=現象化の妨げになる自我の肥大が高まった時が“岩戸閉め”と称され、その自我の肥大から自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持つことと“上”からの荷電粒子を受け入れ止めることが岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くという肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の変容であり、今度の岩戸開きは、これまでで一番大変であると示され、この次のアセンションは地球自体が進化するのだからもうアセンションに伴う醜い事象は起こらないし、そこに位置する人は自我の肥大を諌める心を十分に持った心(靈)(ヒ)であり、そういう心の持ち主でなければ次の段階の地球に移行できないということである


 それで、幾度となく述べてきている地球人の進化における“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は、自我から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と行使、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得、そのために艮(うしとら)の金神は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、を、黒住教で、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教えた経緯があり、太陽凝視をしていかねば、自我を構成する振動より高い振動を、自らに止め、自我より高い心(靈)の発現と行使をする、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということを知らなければならない。

 ここまでのことを踏まえ、“次に「うけひ」の言葉しらすぞ”以降の本文の解釈に入る

 まず、
“ご三たいのおほかみさま、ご三たいのおほかみさま”
これは伊邪那岐(いざなぎ)が禊をして左目から天照大神、右目から月読太神、鼻から須佐之男が現れたことになっているが、これは先に画像で示した通り、須佐之男=日足(ひたり)の極性で“力”を顕現して行くべき生命(生きる使命=存在理由)なる、そうなるべく生きる、という意味合いで、天照大神は太陽であるから日足(ひたり)の極性であり月読太神は砌(みぎり)の極性であると、神話を読んだ人間なら思うべきであるということ。 そして以前にも紹介したが、S会=紫光会の経文、四空経録には、“日心月物”=太陽は心(靈)(ヒ)を育て月は物質に関与する振動であると示され、そして“日月光華”と記してあり、太陽と月の光が華(実のなる花の意、盛ん、美しい、誉れの意)であると示されている。

 次の、
“ひつきのおほかみさま、くにとこたちのおほかみさま、とよくもぬのおほかみさま、つきのおほかみさま、すさなるのおほかみさま”
は、漢字にすれば、日月、国常立、豊雲野、月、素盞鳴、ということになるが、これは自分たちのことであり、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)が、“日止、霊止”であるから日月、そしてそれは心(靈)(ヒ)=“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)が、常に立つ、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、先に述べたように平均的地球人は自省(胸の磁性“十”)して“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現せねばならないから、その心(靈)の発現を常に立つと示され、これは“秋立つ”という“日月神示”独特の表記と同義でもあるし、豊雲野は、雲と野については以下に画像で意味を示し、それが豊かになるのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということでもある。

雲の解字 


野の解字 (富士の巻 十七帖) 
そして月は、いうまでも無く肉体(月(ツキ))を示し、素盞鳴についてはまた画像で意味を示す。

“素盞鳴(スサナル)”(日月の巻 第二十九帖の表記)の解字


 この素盞鳴の表記が示す通り、人間、“日止、霊止”は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を受け止め、それを発振、発信する、それが神の“思惑の顕現”=現象化となり、そうなったなら、この世界は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の発振、発信で創られた恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちた世界ではなくなる、それが“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”であり、今の醜い事象に対しての相対的な比較としての言い回しであり、そうなること事態がアセンションの意義でもある。

 これに続く以下の文言、
“あめのかみさま、かぜのかみさま、いわのかみさま、キのかみさま、かねのかみさま、ひのかみさま、ひのでのかみさま、りゅうぐうのおとひめさま”
この、雨、風、岩、金、火、日の出、竜宮の乙姫、これについては富士の巻あたりから、“十柱”(とはしら)の神として、この表記自体が登場するが、これについての解釈は日の出の巻 第十八帖から以下にコピペしておく。

“雨の神”は“メグリ”(帀)と左右に分かれた点四つは“上”からの荷電粒子の取り込み。
“風の神”は空気の取り込みによる電磁誘導、いわゆる空気の呼吸。
“岩の神”の岩は岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことの岩。
“金の神”は“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊。
“火の神”の火は荷電粒子の回転を示す点が二つの表記と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、あるいは異物の取り込み、食べること、それをエネルギーに変換すること、“改”で述べた“臓腑”の“腑”の電磁誘導。
“日の出の神”の日の出は、次の段階に移行すること、アセンション後。
“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍。


 そしてカタカナ表記のキの神のキは、キの巻(キノ〇キ)のそれと同義であり、“創造”の“主(ヌシ)”の発振、発信、ア(“亜”)から、イ(出る(いずる)、泉)、そしてそれは“創造”の“主(ヌシ)”の表記である“一”、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、であり、また、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を止めた生命、その生命活動、いわゆる心(靈)、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。
要は、自分の心(靈)(霊=○、荷電粒子の場(フィールド))が、自分に対し自分以外から受ける振動による電磁誘導のことを指した文言であり、電磁誘導自体が振動の受信、感応による結果であり、またそれは換言すれば感じ(感じる磁性)るということでもあり、すべての生命、高等な生物であろうが微生物であろうが、神であろうが悪魔であろうが、すべての生命と認識されうる存在が行っている事象の“観察と認識”というのは、これによるものである。
 ちなみに電磁誘導とは、磁束が変動する環境下に存在する導体に電位差(電圧)が生じる現象である。また、このとき発生した電流を誘導電流というが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みといい得るものである。

 これに続く以下の文言、
“やほよろづのいきかみさま、ことにいすずにます、てんしょうこうだいじんぐうさま、とようけのおほかみさまをはじめたてまつり、よのなかのいきかみさま、うぶすなのおほかみさまのおんまへに、ひろきあつきごしゅごのほど、ありがたく、とうとく、おんれいもうしあげます”
これは八百萬の生神、五十鈴にます(坐す)天照皇大神、豊受の太神、世の中の生き神、産土の太神という字をあてられるが、これも個々の心(靈)(ヒ)に対する進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性、それは“日月神示”表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と、電磁誘導を示唆するものであり、このことを鑑みれば、八百萬の生神は、すべての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であり、五十鈴にます(坐す)天照皇大神、豊受の太神は、日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性(事象への顕現)のことであり、単なる観光地に成り下がっている内宮と外宮のことではなく、進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)としての“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道ということをよく認識せねばならない。 そして産土というのは、氏神でもあるが、生きている間にその場所で霊的成長をする、それに関与するものである。

 これに続く以下の文言、
“このたびのいわとひらきには、千万いやさかのおはたらき、ねがひあげます。あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ、せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”
これも神話で述べられている岩戸開きの話をそのまま鵜呑みにしていてはダメで、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことであり、それは自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と行使に至ることを示し、そこに手力男、手の力と日足(ひたり)の極性で、岩戸を開く、ということを読み取ることが出来得る(胸の磁性“十”)。
 そうなれば“あめつちのむた、いやさかに、さかへまさしめたまひ”=天地の與(むた)(あたえる、の意)、彌栄(いやさか)に…となり、彌栄(いやさか)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組み、荷電粒子の受け止めの仕組みであることを述べてきたが、これも彌の旧字の画像で意味を以下に示す。



弓と璽(しるし) 彌の旧字の解字


 これに続く、
“せかいのありとあるしんみん、ひとひもはやく、かいしんいたしまして、おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに、かみくに、じょうじゅのため、はたらきますよう、おまもりくださいませ、そのため、このたま、このみは、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”
は、誰もが神の“思惑の顕現”=現象化をすべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する、そのためには改心、いわゆる“身魂掃除”“身魂洗濯”、をして、自我の肥大(“石屋の仕組み”)を自らに諌め=自省(胸の磁性“十”)して、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する、そうなれば“おほかみさまのみむねにそひまつり、おほかみさまのみこころのまにまに”=神の思惑を理解しうるものであり、それはまた、天意を自分の認識(悟り、幸取=さとり)とするから“かみくに”と称され、それは“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)の意味が大事であり、それを“じょうじゅ”するのが生命(生きる使命=存在理由)の使命といえ、そうなったならば“このたま(靈、魂)、このみ(肉体(月(ツキ)))は、なにとぞ、いかようにでも、おつかひくださいませ、みむねのまにまに、まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごくださいませ、かむながらたまちはへませ、いやさかましませ”=神の“思惑の顕現”=現象化をするべく、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を自分の認識(悟り、幸取=さとり)として、この事象において“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示し、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する、そのための進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、それは厳しいから“まことのかみくにのみたみとしてのつとめを、つとめさしていただくよう、むちうち、ごしゅごください”でもあり、そして神の思惑を自分に取り込んでいるからこそ“かむながら”=随神、惟神、神代のままに、神のおぼしめしのままに、神格化を目指す人間として、という意味合いであり、これが彌栄(いやさか)の“ほんとう”の意味である、ということを示唆した文言である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その七”

今回も、水の巻 第三帖の
“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと、はらえと四はしらのかみたちともに、もろもろのまがこと、つみけがれをはらえたまへ、きよめたまへとまおすことを、きこしめせと、かしこみかしこみもまおす”
について解釈するんやけど、これも“その三~六”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。
 
 今回取り上げる神名の“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと”は、古事記では、底津綿上津見神、底筒之男命、中津綿上津見神、中筒之男命、上津綿上津見神、上筒之男命、と記されている。 
 それで古事記でのこの表記に相当する場面において日本書紀では、底津少童命(そこつわたつみのみこと)、底筒男命(そこつつのをのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)、表筒男命(うわつつのをのみこと)、という表記になっており、艮(うしとら)の金神が岡本天明に書かせたひらがな表記とは違っており、よって、古事記の表記と同じ、底、中、上、そして津、筒、男、についてのみ取り上げることとする。
 また“はらえと四はしらのかみたち”とは、気吹戸主之神、速佐須良比賣之神、瀬織津比賣之神、速開都比賣之神、であるが、神名の表記が無いので、これについての解釈は見送ることとする。

 本題に戻り、“そこつわたつみのかみ、そこつつのおのかみ、なかつわたつみのかみ、なかつつのおのみこと、うわつわたつみのかみ、うわつつのおのみこと”の、古事記の表記は、底、中、上、そして、津綿上津見神、筒之男命、の組み合わせである。 そしてこれは、伊邪那岐(いざなぎ)が禊をした際、水底で滌(あらう、すすぐ、の意)、そして水の中=中滌、水面、空気に触れる場所=上滌、と記されている。
 ちなみに古事記の原文は以下のようになっている。

於水底滌時、所成神名、底津綿上津見神。次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿上津見神。次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿上津見神。訓上云宇閇。次上筒之男命。

 これはこの水の解釈が大事であり、やはりこの水の表記は、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)における“江戸と尾張”、腹の水、“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロン、のことであると思える。
そして綿の表記は、糸=神経に対するものであり、それは糸状のものの叢(むらがり)、腹腔と胸腔の内臓に分布している神経線維と、神経叢であると解釈する。
 ちなみに、神経叢とは、生物学では神経集網とも呼び、末梢神経系において、ニューロンの軸索(または神経繊維)がネットワークを形成しているところをいう。 ニューロンの軸索は豊富に分枝して他のニューロンの軸索の分枝と交錯するが、それぞれのニューロンに属する軸索の分枝はあくまでもそれぞれ個々のニューロンの一部である。

 それで、底、中、上、そして、津綿上津見神の表記は、下腹神経叢、太陽神経叢、心臓神経叢、であると思える。
 この三つの神経叢についてはWikipediaの自律神経の項目から以下に引用。

交感神経と脊髄神経は灰白及び白交通枝を通して連絡している。 灰白交通枝は交感線維を脊髄神経へ運び、白交通枝は脊髄線維を交感神経へ伝える。それぞれの脊髄神経は交感神経幹から灰白交通枝を受け取っているが、白交通枝は全ての脊髄神経から出てはいない。白交通枝は第一頚から第一腰神経までから分岐する一方、第二、第三、第四仙髄神経から直接骨盤神経叢へ向かう臓側枝がこの部類に入る。白交通枝を通して交感神経に届く繊維は有髄で、交感神経節の細胞から起こるこれらは殆ど完全に無髄である。 交感神経は遠心性と求心性の線維から構成される。3つの大きな結節した神経叢(側副神経叢)が胸部、腹部、骨盤部の脊柱の前に位置していて、それぞれ心臓神経叢、太陽神経叢、下腹神経叢と名付けられた。それらは神経と神経叢の集合体を構成、それらは交感神経幹と脳脊髄神経から分岐した神経に属する。それらは内臓に分枝を伸ばしている。

 それで、下腹神経叢、太陽神経叢、心臓神経叢を、チャクラ(荷電粒子の回転を示す)で換言すれば、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラが、底津綿、マニピューラチャクラが、中津綿、そしてアナハタチャクラが、上津綿に相当するものであるとの私見を持つ。
 また、この場合の津という表記の意味は、津の漢字自体の意味として、液が滲み出る、滲みでた液、という意味合いがあり、このことを指す、いわゆる錯体の意味合いであると思う。
 そして、底、中、上、筒之男命の筒の表記は、神経叢=綿、に対する、腹腔と胸腔であると思えるし、胸腔は先に述べた、水面、空気に触れる場所=上滌、呼吸器で空気を取り込む“臓腑”の電磁誘導という解釈が成り立つし、男命は、日足(ひたり)の極性を示す男=思想や考え、そして生きている間、現界に肉体を持って位置している間の使命、以下に自分が自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象を“創造”するのかということ=使命の命(みこと)という解釈をする。

 また、古事記原文の、

於水底滌時、所成神名、底津綿上津見神。次底筒之男命。
於中滌時、所成神名、中津綿上津見神。次中筒之男命。
於水上滌時、所成神名、上津綿上津見神。次上筒之男命。

の、滌(あらう、すすぐ、の意)は、血液、リンパ液、その他の体液の還流のことであり、それは先に述べたことと重複するが“江戸と尾張”の腹の水、そして胸腔内、心臓と肺に還流する血液などを指すと思える。
 また、腹腔、胸腔、を指す表記が、筒であると思える。
 そしてその錯体(電荷を持っている)としての水の還流が、コンデンサーの構造を持つ内臓を還流し、神経や神経叢に電流が発現したり流れたりするのは、肉体(月(ツキ))の生命活動でもあり、またそれは心(靈)(ヒ)の動きに関わっているものであるが、こういった視点は医学に無く、医学が如何に生命活動に関して疎いかは、生体内電流という視点の無さにあるとの○○○大先生の私見をあえて述べておく。

 それで、底津綿、中津綿、上津綿、に続く上津見、という表記は、底津綿、中津綿、上津綿で発現する心(靈)(ヒ)、その心(靈)(ヒ)の動き=本能、情動、功名心、自我、愛(炁)を、その心(靈)(ヒ)より“上”、智性(神性)で観察する=見、と、津(中心の意)、ということであると思う。

 よって、上津見、ということがなされる、それをしなければ本能も情動も自我も程度の低い愛(炁)が根拠の思いや行動も、自らが自らを諌めることが出来ない。
 そして本能や情動や自我の肥大や自分にしか発現していない愛(炁)は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の根拠と理由であり、それはまた、恨みの連鎖の霊的干渉(その結果が、“もろもろのまがこと、つみけがれ”と、個々の心(靈)(ヒ)が観察し、認識しうる事象となる)の根源であるといえるから、これを諌める、この低い心(靈)の動きを諌める、自分に憑依した悪霊たちの低い心(靈)の動きも諌める、その意味合いで、

“もろもろのまがこと、つみけがれをはらえたまへ、きよめたまへとまおすことを、きこしめせと、かしこみかしこみもまおす”

=自分たちの低い心(靈)の動きを諌め、自分たちの低い心(靈)に感応する悪霊の心(靈)の諌める、それが“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、の意味合いでもあり、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあり、“観自在”“直日”でもあるし、これが祓うということの根本かつ“ほんとう”の意味、であることを述べ、今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その六”


 今回も、水の巻 第三帖の
“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ、いづのめのかみ”について解釈するんやけど、これも“その三~五”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。
 
今回取り上げる神名の、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ、いづのめのかみ”は、古事記では、伊邪那岐(いざなぎ)が禊を行った際に出現したのが、八十禍津日神、大禍津日神、神直毘神、大直毘神、伊豆能賣とされている。 そして伊豆能賣に関しては、神、命、という表記を付けられていない。
日本書紀では少々違い、伊弉諾(いざなぎ)の禊の際、八十枉津日神、神直日神、大直日神が出現したとされ、伊豆能賣の表記は無い(日本書紀 第五段第六の一書)。 
そして大禍津日神に関しては、大直日神の出現の後、伊弉諾が、大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を吹き出したとされている。

それで、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ”の表記、古事記の禍津日(まがつひ)と、日本書紀の枉津日(まがつひ)の表記は、禍は、わざわい、(示す偏(へん)に咼(カ、カイ、よこしま、ゆがむ、の、意)であり、枉は、まげる、まがる、の意があり、これが、津日、という表記にかかると読み取れる。
津は中心であり、祓いの言葉の“本津宮”(もとつみや)に帰れ、の、津でもあり、日は、太陽であり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、と解釈するのが妥当であると思う。
よってこれは、伊邪那岐(いざなぎ)=日足(ひたり)の極性が、まがる、まげられている、そしてそれは、進化程度の低い日足(ひたり)の極性は、津日、神(日)に近付く(津)ではない、と解釈する。

“かむなほひのかみ、おほなほひのかみ”は、古事記では、神直毘神、大直毘神、日本書紀では、神直日神、大直日神、であり、日と毘の表記の違いがあるが、日はやはり太陽、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の意であるだろうし、毘は、たすける、力を合わせる、つらなる、の意がある。

そして“いづのめのかみ”、伊豆能賣の、伊は、亻(にんべん)(丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん、縦の磁性)))そして、尹は、手で神杖を持った様を表わす象形文字、よって伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表し、豆は、タンパク質の高分子化、いわゆる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、アミノ酸の積み重なりによる電気特性の変容と強化、“行”やった人間の肉体(月(ツキ))、といい得るし、能は、能力のそれであり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現であり、賣(売)は、日月の巻の“比売”と“媛”と同義であると思えるので、砌(みぎり)の極性を指す。

ここまでの事柄を鑑みて、“やそまがつひのかみ、おほまがつひのかみ、かむなほひのかみ、おほなほひのかみ”というのは、八十(やそ)は、八が肉体(月(ツキ))の二つの磁性、“日月神示”表記の“富士(二二)”、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、のことであり、十は、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)であるから、シンクロトロン放射を指し、胸の磁性“十”であるだろう。 
要は、肉体(月(ツキ))の進化の要のことである。
そして、大(おお)は、人が手足を広げた様の意があるので、肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)である人間がまっとうな活躍をする、“上”から認められた“思惑の顕現”=現象化を成す、という意味合いのことであろう。
それが、まがる、まげられている=禍、枉、というのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思想、進化していない幼稚な日足(ひたり)の極性といい得るし、そしてそれは、人(日止、霊止)に対しての禍は、恨みの連鎖の霊的干渉であると断言でき得るし、幼稚な進化過程の心(靈)の“思惑の顕現”=現象化が、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出している。
また、この恨みの連鎖の霊的干渉が人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の足を引っ張っているのであり、悪魔の“思惑の顕現”=現象化でもあるが、それを直す、直日、これは古神道では自省(胸の磁性“十”)の意味があることを何度も述べているが、地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化から自省(胸の磁性“十”)して、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の心(靈)の発現に至るものであり、これを換言すれば、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”=“石屋の仕組み”=自我の肥大した人、が、自省(胸の磁性“十”)し、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”する、これが地球人にとって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するためには必須の過程であるし、その具体的な意味合いがローム太霊の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということである。
またそれは、古事記の表記の、神直毘、大直毘、いわゆる神に近付く=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のため、毘(たすける、力を合わせる、つらなる=アミノ酸が連なる、タンパク質の高分子化)であるだろうし、それはまた大(人が手足を広げた様、まっとうな活躍)に直す、ということであるだろう。

これらのことを経て、先に述べた“いづのめのかみ”、伊豆能賣は、神の思惑を顕現するべく“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化した人間といえ、神の“思惑の顕現”=現象化その者であるからこそ人間は神の砌(みぎり)の極性である=神の子であるといい得る、ということであると思うし、これをひらがな(こちら側視点、神に対して人間の視点)で、岡本天明に書き記しるさせた艮(うしとら)の金神の意図は、古事記の表記と日本書紀の表記をよく鑑みろ、そこから人間の進化とは何かということを読み取れ、ということであると思う。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 水の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 “その五”


 今回も、水の巻 第三帖の
“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”について解釈するんやけど、これも“その三~四”同様“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、ということを、よく鑑みて解釈することが大事でんねん。

 さて、“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”は、古事記にしか出てこない表記のようで、古事記での表記は“奥疎神 (おきさかるのかみ)、奥津那芸佐毘古神 (おきつなぎさびこののかみ)、奥津甲斐弁羅神 (おきつかひへらのかみ)、辺疎神 (へさかるのかみ)、
辺津那芸佐毘古神 (へつなぎさひこのかみ)、辺津甲斐弁羅神 (へつかひへらのかみ)”ということになっている。
 それで、“奥”“奥津”は海の沖の意があるようで、古事記では沖の字は使わないで、その意を示す際、奥を用い、“辺”“辺津”は、“奥”“奥津”に対し、海岸に近い、海辺、という意味合いのことである。
 この、海を示す“奥”“奥津”“辺”“辺津”は、人間の肉体(月(ツキ))の構成の、錯体としての水、いわゆる“江戸と尾張”の“江”(“日月神示”の場合は、腹の水を指すことが多い)も同様の意味であるが、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)を示すものと思うし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のうちの、水で止める振動、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)が、自我の強化、そしてその前段階としての自我の確立=固定化、これは生命が独り神(ひとりがみ、日取り神)になるための必須の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程であり、自我が発現するから、個の意識となり、それは植物や下等な動物以下の進化過程の生命ではないということであり、さらに自我が無ければ、自己と他者、その心(靈)(ヒ)の区別、そして自分の心(靈)の動きの“上”と“下”、さらに自分と神、自分にとっての“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”、そして神に対しての悪魔(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅))という区別、その認識(悟り、幸取=さとり)も出来ない、そういった“観察と認識”が出来ないし、これらのことが出来るからこそ、自我があるからこそ、自分の在り方を鑑みる、その心の動きの要因が(進化した、進化を果たした)自我であると、換言でき得る。

 そしてこの神名は、“奥”“辺”をはずすと、同じ表記、“疎神”“津那芸佐毘古神”“津甲斐弁羅神”であり、疎神の疎は、うとい、うとむ、まばら、おろそか、という意味があり、これは密ではない、いわゆる結晶化していないという解釈が妥当であると思うので、奥疎神 (おきさかるのかみ)、辺疎神 (へさかるのかみ)、は、腹の水、あるいは、人間の肉体(月(ツキ))を構成している錯体としての水で止める“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、は、自我の確立=固定化、あるいは自我の強化、あるいは自我の肥大、ということを指し示す表記であると思う。

 奥津那芸佐毘古神 (おきつなぎさびこののかみ)、辺津那芸佐毘古神 (へつなぎさひこのかみ)、は、津が中心の意味があり、那は、多い、豊か、美しい、の意があり、芸は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現した、“力”を示すの意であるだろうし、佐は、亻(にんべん)と左であり、亻(にんべん)は丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が下降した様を|(たてぼう、こん)で示していると思われるし、毘古は、日月の巻で解釈したように男の極性=日足(ひたり)の極性を指すと思われるので、津那芸佐毘古という表記は、疎神の疎に対し、ある程度進化した自我の意であると思える。

 奥津甲斐弁羅神、辺津甲斐弁羅神、の、津は前述のとおり、甲斐は、意志を持って行動した結果、“どういうつもり”で“力”を顕現させたか、いわゆる“思惑の顕現”=現象化、そして“日月神示”表記の“カイの御用”もこの意味を含むと思うし、またそれは舟をこぐ“櫂(かい)”でもあり、肉体(月(ツキ))の磁性の左右の偏りを指すもので、よって右往左往と左往右往の意味もあるから、甲斐は、時間の進行=“道”を感じ(感じる磁性)ながら、進化の法則性と自分の在り方を認識していく=“理(ミチ)”、これを感得し、体得し、自らの認識(悟り、幸取=さとり)とするの意があると思う。
 それで弁と羅は、弁が、かんむり、かぶりもの、の、意があり、羅は○○○大先生が著書で説明した通り、目の下に錐体上に広がる神経(糸)のいみであるから、事象を観察し=目、そして自らの肉体(月(ツキ))が進化し=羅、という意味合いであると思う。

 また古事記では、伊邪那岐(いざなぎ)の、左の手纏(たまき、手に巻く飾り、または武具の意)より化生した神は、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神、右の手纏より化生した神は、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神、と示されており、これは手を持った生命は、腹のサイクロトロンの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から胸のシンクロトロンの進化に移行する、その意味合いも感じさせる(これは○○○大先生の未刊行の著書の現行で述べられている)。
 そして、手纏(たまき、手に巻く飾り、または武具の意)というのは、手の磁性、水平磁場の強化を示し、それはまた臂釧、腕釧、と、同義のことであると思え、要は腕の骨の結晶化を示すものであり、腕の骨が緻密(ちみつ)になれば、結晶化すれば、胸の磁性“十”の横棒━(よこぼう、水平磁場)の強化にもなりうるものである。

 …ということで今回取り上げた“おきさかるのかみ、おきつなぎさびこのかみ、おきつかひへらのかみ、へさかるのかみ、へつなぎさひこのかみ、へつかひへらのかみ”は、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程として必須な自我の確立=固定化と自我の強化、そして自我が在る所以の事象の観察と、同じく自我が在る所以で自分の在り方を鑑みることが出来、そしてそれは日足(ひたり)の極性と砌(みぎり)の極性の強化でもあり、これらのことは人が神格化していくのに必須であるから、冒頭で述べたように“みそぎはらえたまふときに…”=生命(生きる使命=存在理由)の神格化のためにみそぎ(禊)をする、その意味を深く感じさせるものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

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智性無き心は
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


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ローム太霊との出会い


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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
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