“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 松の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。 一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。 日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。
戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。 それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。 今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。 ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。 
世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。 それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。
臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。 戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。 
悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。 悪も改心すれば助けてやるぞ。 
海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。 海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。 まつわり呉れよ。 竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。 朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。 宝 愈々世に出るぞ。 人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ。
六月二十三日、アメのひつ九のかみ。

 この第八帖も、これまでの松の巻同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識を改めよ、という言い回しであり、その低い霊的成長度の人が自らが諌めるため、その指標として、今後=アセンション後に移行すべき資質そのものを少し述べている感がある。

 まず、冒頭の文。

“神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。 一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。 日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”

 この一文はすべて感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を述べている。 いわゆる霊的成長度の高低における霊的干渉、それは、自らの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)=思惑、“どういうつもり”に対し、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が憑依して影響を成すか、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)のそれか、を、鑑みよ、そして鑑みることにより自分は自分の在り方を見出すものであるのだというメッセージを読み取ることが出来る。
 このことを踏まえて“神の国には昔から神の民より住めん”を観るならば、“上”と感応している智性(神性)がたかまった心(靈)が場(フィールド)を構築するならそれは、“神の国”といい得るだろうし、そこに居るのは“神の民”であるという言い回しであるということ、それと、“神国”という表記が登場するたびに述べていることではあるが、右翼傾向の強い人間が勝手に思い込んでいるそれではないということを付け加えておく。
 そして“幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き”、自我中心の心(靈)、幽界は幽体が発達する場(フィールド)であることをローム太霊講話集解釈で述べているが、今のこの世界そのものが自我の確立=固定化を成すべき低い進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の場(フィールド)であり、今後=アセンション後は自分たちが観察しうる事象=現実と認識するそれは、その進化過程ではなくなり、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)を理念とする奉仕者の場(フィールド)になっていくのだから、その場(フィールド)に位置できない霊的成長度の心(靈)は“幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き”=アセンション後の事象より低い事象、それは今の地球のような世界であるが、そこへ行くのだ、という言い回し。 これを強調する言い回しが、
“一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。 渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ”
であり、この文の表記の“一寸”(ちょっと)は、わずか、程度が低い、あるいは軽い気持ち、の意味を感じさせ、具体的に述べるなら、神や霊、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し、しっかりした認識を持ちえない、御利益しか求めない人間やスピリチュアルな雰囲気に酔っぱらっている人間、そういったことが台頭している“土”=肉体は、進化した人が位置する場(フィールド)には住めないし、そんな心(靈)は次の事象にはいないのだ、の意であり、たった今の事象が“渡れん者が渡りて”=次の事象に位置でき得る資質を持ちえないものが今の事象で台頭して今の事象を“穢して仕舞ふてゐる”のであり、そして大事な神の計画としてのアセンション、霊的成長度の高低における区分けの概念も“穢して仕舞ふてゐる”、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)が、偽の概念を流布=“渡れん者が渡りて”=資質のない程度の低い霊的成長度の心(靈)が活躍しているの意である。
 そして“日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”は、今の人間を揶揄した言い回しであり、“大和魂”を勝手に解釈して程度の低いものにしてしまった軍国主義、右翼、それは暴走族の特攻服に付いているそれと同様の自我の肥大によるものであるが、そんな程度の認識ではダメで、それはこの一文のように“大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ”ということを知れよ、の意でしかない。



 
 次の文。

“戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。 それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。 今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ”

 この“戦いよいよ烈しくなると”については、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が台頭した戦争のことを含め、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍とその右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、の意、を含む。
 要は自省(胸の磁性“十”)の“行”のことである。
それでこれに続く“日本の兵隊さん”という表記、これと同義の表記は、
水の巻 第十四帖 にあるので、以下にコピペしておく。

冒頭の“神の子でないと神の国には住めん”は、先に述べた今後=アセンション後のことであり、今の世が“闇の世”、“ケダモノ”“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている現津(あきつ)、観察され得る事象であり、重複するがそんなものを“上”はいつまでも許可しないということを述べているに過ぎない。 
 そしてこれに続く、
“幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ”
の“幽界(がいこく)”という言い回しは、自我主体の心(靈)を指し、生きている間と死んでからの、現界、幽界、霊界、神界、のことそのものではなく、自我中心の心(靈)、自我の肥大した心が生み出している低い事象、そこへ“逃げて行かなならんぞ。二度と帰れん”、これが霊的成長度の高低における区分け、低い心(靈)は低い事象に移行する、低い事象とは今の地球のことであるという言い回しである。
 それではいけない、“上”はそんなことを多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現した人間に許さないから“根本から心入れかへて呉れよ”と述べている。
 そして先に指摘した形骸の名誉でトップになっている人間、“何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ”、これに従属している人間、何が“ほんとう”の価値なのか、自分たちがどう生きるべきか、などを鑑みたことが無い人間、いわゆる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使していない人間に対し“日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ”といわれており、それはこの文の冒頭の“日本の国”=太陽、“本津宮”(もとつみや)の“本”、自省(胸の磁性“十”)の意、“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す)ということをしっかり鑑みよ、という言い回しである。


 水の巻 第十四帖そのものが、今回の表記に似ているが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認識しそれを真摯にとらえている心(靈)=“日本の兵隊さん”ですら、霊的成長度の高低における区分けが執行される際、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も醜いことが台頭する、それを“戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来る”と称されており、このままでは何もかもが無に帰するのではないか=“それでどうにもこうにもならん事になる”と思うほどそれは醜いことが起きる、そういった意味合いの表記であると思う。
 そしてその際には自分自身に何が起きようとも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を思い、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“上”と感応せよ、の意が、“それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。 誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ”であると思えるし、この“誠ですがれ”は、先の“一寸の住むお土”に相対した言い回しであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を知っているならば真摯に求めよ=“誠ですがれ”、それをしなければ、“上”と感応しないので“誠ですがれば、その日からよくなる”といわれている。
 これに続く“今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ”、“建替”は、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する事象を崩して今までとは違う事象を“創造”するの意であるが、そこに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が無ければ次の事象は成り立たないの意が“戦ばかりで建替出来んぞ。 世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来る”の“生き神が改める”であり、この“生き神”は“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の意であるし、それが顕現する事象になって、次の事象に位置する資質を得るの意である。
 よってこれも、“生き神が改める”=自省(胸の磁性“十”)を指すのであり、そして“どの家もどの家も、身魂も身魂も”の表記の“家”は、宀(うかんむり、頭の意味)と豕部(しぶ、ぶた、家畜の意味)、智性を持った進化した動物=人(日止、霊止)の意味であるし、“身魂”は肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意であるから、そういった人間になれよの意である。
 これに続く“ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせん”、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が頑張っても人間が“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”せねば、事象は変わらないの意である。
 ちなみにこのカタカナ表記の“ミタマ”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
であるから、“ミタマの神”という表記は人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をもくろんでいる存在といい得る。
 しかしその存在は貴いが、人間が“誠ですがれ”ということをしなければ、真摯に進化を求めなければ、“何も出来はせん”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が顕現しないということである。

 
 次の文。

“世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。 それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。 臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。 戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ”

 先に述べたように“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これは進化の理であり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するにはそれしかないのであり、それを体得して顕現するには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を受け入れよ=“素直に言ふ事聞けとくどう申す”であり、今後=アセンション後ではこれまでの“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が持っている程度の低い認識の神の概念も当然のことながら変化するの意と、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の発現という今の地球人の進化過程から一段上に移行するから“今度は神の道もさっぱりとつくりかへる”そして程度の低い人間を対象にした言い回しの“臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ”といわれている。
 これに続く“戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。 赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ”、これは“戦の手伝い”“御用はなかなかにむつかしい”の表記の意味をよく考えなければならず、アセンションの情報を流す、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を解っていないのに神や霊のことを述べる、などという程度の低いことを“手伝い位 誰でも出来る”と称されているが、“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は“御用”であり、それは“なかなかにむつかしい”といわれている。
 それで程度の低い人間のやっている情報の流布、いわゆる“役員づら”の活躍による既成概念を改めよの意図して“赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふ”、程度の低い認識では程度の高い認識に到達しないの意である。 蛇足だが右翼傾向の強い人が思う共産主義=赤、の意などでは決してない。
 またこの意を強調する言い回しが次の文。
“悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ”
であり、これに続く“悪も改心すれば助けてやるぞ”は、どんな悪の存在であろうが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)はするのだし、それには自省(胸の磁性“十”)が必須であるということを述べているに過ぎない。


 次の文。

“海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。 海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。 まつわり呉れよ。 竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。 朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。 宝 愈々世に出るぞ。 人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ”

 この文の“海”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン、のことを指し、これまで解釈してきたように“竜宮のおとひめ様”は、腹のエネルギーが日足(ひたり)回転で上昇する(大日如来の条帛(じょうはく))ことを指す。
 よって“竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかん”の意は、自我を諌めて、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)を発現させないと“けりつかん”=進化したとはいえない、の意である。
 これに続く“朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてある”、これは艮(うしとら)の金神が最初に教えた黒住教、朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)をさすものであり、それが“ほんとう”の“宝”であり、それは前のブログで述べた、體(体の旧字、骨が豊か、そして、宝(たから)のアナグラム)であり、換言すれば“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、のことである。
 そして太陽凝視を行ってきて智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めた人間が今後=アセンション後台頭するの意が“宝 愈々世に出る”である。
 これに続く“人民の改心第一ぞ。 顔は今日でも変るぞ。 民の改心なかなかぞ”については、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をして、“上”と感応せよのいであり、かいしゃくのむづかしいもんごんではないが、大変重要なことだし、ことに“日月神示”は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対する言い回しが多いが、それに相当するほとんどの地球人が忘れてはならない一文である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

偉い人 皆 俘虜(とりこ)となるぞ。
夜明け近くなったぞ。 夜明けたら何もかもはっきりするぞ。 夜明け前は闇より暗いぞ、慌てるでないぞ。
神の国一度負けた様になって、終ひには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ。 腹の中のゴモク一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わんし、いよいよ荒事にかかるから そのつもりで覚悟よいか。 わからん人民 退いて邪魔せずに見物してござれよ。
六月二十三日、アメのひつ九の
ローレンツ力と ○   。

 この第七帖も、これまでの松の巻同様、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識を改めよ、という言い回しである。

 冒頭の、
“偉い人 皆 俘虜(とりこ)となるぞ”
この“俘虜(とりこ)”の意は、言葉の意味として捕虜と同義、敵軍にいけどりにされた者、第二次世界大戦以前では、公式には俘虜(ふりょ)と呼んだそうである。
 だがこれも戦争における捕虜のことではなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の認識、形骸の価値観、薄っぺらい幸福感、経済主体の考え方、そして自国や他国という縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)など、いわゆる目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の認識と思想、進化の妨げとなるそれ(進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の敵軍)の“俘虜(とりこ)”ということで、今現在はこういった霊的成長度の低い人が、(形骸の)地位を得て世に出ているものである。
 そして形骸の価値観、薄っぺらい幸福感、経済主体の考え方…ことに経済主体の考え方と縄張り意識に沿った行動は、今現在大きな戦争の火種になっており大変なことになっていく感があるが、大概の人は目先の事象にしか目がいかず(批判しかしていないということ)、自分たちの低い心(靈)と高い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化が今の事象であることに気付いていない感がある。
だからこそその低い心(靈)に気付け、低い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化を自分が見たなら他者の批判ではなく自己観察をして自分を諌めよ、という意味をこの文言に感じ得る。
 それに大きな戦争になっていくのは恨みの連鎖の霊的干渉の現象化であるので、今これを何とかしようとしても、この現象化には原因と結果があることなので避けることは出来ず、戦争を通じて死んで悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)に入り悪霊として活躍しそれから自省(胸の磁性“十”)するという過程の心(靈)も多いということがあり、これも霊的成長の一環であるから必要な事象は必要ではある…情けないことではあるが…。

 これに続く、
“夜明け近くなったぞ。 夜明けたら何もかもはっきりするぞ。 夜明け前は闇より暗いぞ、慌てるでないぞ”
これは霊的成長度の高低における区分け(アセンションと認識しうる事象)を“夜明け”と称しており、それに至るまで、その前段階として“夜明け前は闇より暗い”、醜い思惑と醜い事象が展開するの意、その心積りをしておけの意で“慌てるでない”といわれ、醜い思惑とその結果である醜い事象は、霊的成長度の低い人間の“思惑の顕現”=現象化であるが、今後=アセンション後はそれが無くなる、その無くなった時にそこに残った人たちには、神の計画としてのアセンション、霊的成長度の高低における区分けがあったからこそ、心(靈)の高低、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と進化を妨げる自分たちの目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)を“はっきり”と自覚するの意で“夜明けたら何もかもはっきりする”といわれている。

 これに続く、
“神の国一度負けた様になって、終ひには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ”
この“神の国”という表記もこれまで述べてきているように右翼傾向の強い人が思う神国の概念(これこそが縄張り意識)ではなく、進化=“神”に向かう心(靈)、それと“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”の心(靈)の動きを示す)で示している。
 だがたった今は先の表記の“偉い人 皆 俘虜(とりこ)となる”、こういった程度の低い人が今の醜い事象を“創造”しており、自省(胸の磁性“十”)の心を持ち始めた人は活躍できない、その思惑を顕現できないの意が“神の国一度負けた様になって”であるが、時期が来て“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がもう結果を出してよいと判断したなら、霊的成長度の高低における区分けは必ず起きるものであるから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指している心(靈)=“神の国”は、“終ひには勝ち、また負けた様になって勝つ”であり、この言葉の“負けた様になって勝つ”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観では“負けた様”に見える、それは形骸の価値や薄っぺらい幸福感などではその価値は解らない、理解しえないからであるという意である。
 
 次の、
“腹の中のゴモク一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わんし、いよいよ荒事にかかるから そのつもりで覚悟よいか”
この“腹の中のゴモク”は、表に出さず考え思っていることの意であるが、これは霊的成長度の高低に関わらず、高い心(靈)の思惑であろうが低い心(靈)の思惑であろうがそれは両方とも結果として現象化する=“一度に引張り出してもならぬし、出さねば間に合わん”、それは、自分たちの思惑は必ず“創造”となり=現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現となり、自分たちが“観察と認識”するものであるの意であるし、これから霊的成長度の高低における区分けが進んで行くにあたっては、醜い事象の台頭、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化がどんどん進んで行くので“荒事にかかる”と称され、“そのつもりで覚悟よいか”とは、これからの事象が自分たちの低い心(靈)と高い心(靈)、その双方の“思惑の顕現”=現象化であるのだぞ、という意味合いであり、よく観ておけ、の意である。
 
 最後の、
“わからん人民 退いて邪魔せずに見物してござれよ”
これは、たった今の醜い事象の台頭、これからの醜い事象の台頭、来れの理由と根拠が理解できない人間は進化、霊的成長、神格化に向かうこと、も解り得ない、それは自分たちの高い心(靈)と低い心(靈)の区別もつかない=目上(めうえ)と目下(めした)の区別を、自分の心(靈)を観て判断できない、それは自分を諌めることが出来ない=“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”出来ないに等しい。
 そういった進化程度の低い人間は、先に述べた霊的成長度の高低における区分けなど理解できるわけもないが、それを観て、観させられて、自省(胸の磁性“十”)の糧とせよ、自分たちの心(靈)は死んでからも進化することをローム太霊はローム太霊講話集で述べていらっしゃるが、誰もが死んでから様々なことを考えることが出来得るし、今アセンションに間に合わない人間が多いのだが、進化は永遠のものであるので、それを観よ、そして自身の心(靈)の認識(悟り、幸取=さとり)とせよ、の意で“退いて邪魔せずに見物してござれ”と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


“ローム太霊講話集”第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合 Kellyさん的解釈 第十二話の総括


 心=霊というものは、現津(あきつ)、観察され得る事象、その“観察と認識”を(時間の進行を認識しながら)常に行っているものである。

 その“観察と認識”は、自分自身の心(靈)とそこに位置する場(フィールド)の振動の高低の違いにより、現界、幽界、霊界、神界、を認識する。
(換言すれば、自分が、現界、幽界、霊界、神界、のどこにいても、そこには自分が観察しうる現実(現津)というものがある。
 このことはローム太霊講話集第二十四話において、太霊は以下のように述べていらっしゃる。
この地球の上には…中略…現界、幽界、霊界、神界の四つの世界があって、そのどこの居住者でも現在住んでいる所がその者にとっての現実である”)

 そして、自分の心(靈)と、自分の心(靈)で観察している、現津(あきつ)、観察され得る事象、これの構成そのものは振動によるものである。

 また、自分自身の心(靈)を構成している振動が低い振動中心なら、現界>幽界>霊界>神界という様に、高い振動で構成されている場(フィールド)ほど認識しにくいし、想像も及ばないであろう。
(だからこそ、進化程度の低い地球人に死んだ後の霊的成長のことを太霊は教えた)
(どんな人間であろうがどんな悪霊であろうが、それは心(靈)であるからこそ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して段々高い振動を獲得していくものである)
(さらに、自分の心(靈)の成長度が低い場合、低い振動で構成されているから、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現は脆弱である

神に近くない、といい得る)

 大概の地球人は死んだ直後、あるいは生きていた時の事柄に“執着”をする。 
それは幽体が自我中心の心(靈)、換言すれば自我を構成する振動中心で出来上がっている心(靈)だからである。
換言すれば、平均的地球人の霊的成長度で死ぬ、自分自身の心(靈)が死んだ直後、大概の地球人は進化過程が自我の確立=固定化であり、
幽体=自我中心の心(靈)で死ぬので、
その心(靈)は現界と程度の低い幽界程度しか認識しえない。

 そのことを太霊は、

第七話 死の前後 自然死の場合」で、
幽体が完全に目覚めた時に先ず何を見ようとするかというと、やはり今まで身近にいた人達である…中略…そのうちに、段々自分の心の中にさまざまなものが見え出してきて、そこには自分が毎日会っていた者もいるが、こちらを見ても知らぬ顔をしている…以下略…

第九話 死の前後 殺人の場合」で、
若しその者が死というものを覚悟し、死後のことをも知っていたなら、その相手に取り付く代りに自分の霊の向上を神に祈ったであろうが、普通の人間はその相手にこびりついて一緒に連れて行こうとする、俗にいう浮遊霊(ふゆうれい)となるのである。仮にどんな事情があるにせよ、まだ生活力の旺盛な人間が無理に生命を断たれたのであるから、その相手に喰らいついてこれを倒そうとするのは当然と思われないでもないが、この執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる

第十話 死の前後 天災、戦争による集団死の場合」で、
一時に何十万人という人が死んだ場合は、生前と同じ状態が続いていて…中略…現界と少しも変らないから、誰も死んだとは思わない…中略…自分が生きているという観念によってなされる幽界での一つの現象であって…以下略…

という様に詳細に述べられていらっしゃるし、こういったことになるのが、第十二話で述べられている、
幽体が執着を持っているものに纏わる
波動の合う所へは幽体を楽に持って行ける
ということであるし、これは低い振動との感応共振ゆえのことである。

 それでこのことについては先回、以下のように解釈を述べた。

凡て幽体が執着を持っているものに纏わるのは、波動の合う所へは幽体を楽に持って行けるからである
これは、
幽体が執着を持っているもの=自分の外側(外国と幽界)の事象に執着することそのもの
波動の合う所へは幽体を楽に持って行ける”=自我は、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象を区別しうる心(靈)であり、現界における外側(外国と幽界)の事象はほとんど物質であり、死んで幽体になったとしても執着する対象が物質であるならばそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が大幅に遅れる


 ここまでのことを鑑みて、なぜ太霊が第十二話において
それぞれの界の法則によって得られるものはこの力
と述べていらっしゃるのかについて、先に述べたように、振動の低い順に現界、幽界、霊界、神界、であるから、幽体は現界に執着してはならず、霊体は幽界と現界に執着してはならず、神体は霊界と幽界と現界に執着してはならないということが読み取れる。

 また自分が、肉体をともなった心(靈)、あるいは幽体、霊体、神体、であろうが、自分の心(靈)を構成する振動に対し相対的に低振動の何かに執着すること事態が、自分と同程度の振動かあるいは低振動の取り込み、その感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でしかないのだと解るものである。
 
 結果それでは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にならないということを太霊は述べていらっしゃる。

 そして低い振動の何かに“執着”することに対し、
放下(ほうげ)する心
執着を断ち切る
この諦めの心こそ自分の霊性を向上させる元
と述べておられるのは、単に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)ということそのものが、相対的に高い振動の取り込みであるということを示唆している。
 そしてそれは現界、幽界、霊界、神界、のどこに自分の心(靈)が位置しようとも、行なわれるべきものである。
 その大切な事柄をも、この言葉で示しておられる。

 それで、自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というものを認識する、その上で進化しようとするならば、それを志すならば、高い振動の取り込みを意図した“行”を実践すべきである。 

(“役員づら”が吹聴している行ごっこのことなどではない。 平均的地球人の“行”に対する認識は“役員づら”にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)されていてとても低いものになっている)

 また、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”により、平均的地球人の心(靈)の発現と強化の段階、いわゆる自我そのもの、それを諌めることが、高い振動の取り込みにつながるものである。
(自我の肥大をしてはならない)

 重複するが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というのは、自分が如何に高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、自分の心(靈)が高い振動で構成されていくのか、であるし、太霊はローム太霊講話集を読んだ人に対し、より高い“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んでいらっしゃるのだということを読み取るべき。

 それと、十二話の要としてもうひとつ、
繰り返して言うが、この正常死の場合でも、自分が生まれてから死ぬまでのプラスとマイナスの差引が零であればよい…中略…一点でもプラスになっていれば…以下略…
このことは「第七話 死の前後 自然死の場合」で詳細に述べられていることなので“繰り返して”とおっしゃっておられるが、これが今の地球人にとっていかに重要なことなのかをよく考えろよ、ということである。
 これについては第七話の解釈をよく読んでいただきたいものである。

 太霊が第十二話で説いておられる最も大事なことは、今述べたことであり、「死後の種々相 正常死の特別の場合」の
生前一つの宗教に凝っていた場合
その人間が神とか霊とかを全然知らない場合は、その者自身は死んだと考えない
その人間が生前一つのもの、例えば、女とか金とか碁、将棋とかに凝っていたとすると…以下略…
これは“幽体”が育っていく過程を述べていらっしゃる、またそれはケースバイケースであるということを説明しておられる。
 そこにおいては“一つのものに纏わるということは絶対によくない”ということを読み取らなければならない。

 次回のこのカテゴリーでは「第十三話 死後の種々相 事故死と自殺の場合」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集”第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合 Kellyさん的解釈“その四”


  今回は第十二話の、
一つのものに纏わるということは絶対によくない
について解釈を述べる。

 なぜ太霊がこのことを述べたかについては、今の地球人のほとんどが自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、それは重複するが、自我中心の心(靈)であり、肉体、幽体、霊体、神体、の、肉体と幽体が育っている過程である。

 よってほとんどの人が肉体を捨てた時=死んだときには、自我中心の心(靈)、そういった心(靈)のまま幽体になる。
 そしてその進化過程の心(靈)は“因縁霊”になる素地を持っているからである。

 これを踏まえ太霊の言い回し、
凡て幽体が執着を持っているものに纏わるのは、波動の合う所へは幽体を楽に持って行けるからである

これは、
幽体が執着を持っているもの”=自分の外側(外国と幽界)の事象に執着することそのもの

波動の合う所へは幽体を楽に持って行ける”=自我は、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)と外側(外国と幽界)の事象を区別しうる心(靈)であり、現界における外側(外国と幽界)の事象はほとんど物質であり、死んで幽体になったとしても執着する対象が物質であるならばそれは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が大幅に遅れる

という事柄を読み取ることが出来る。

 この具体例として、
生前一つのもの、例えば、女とか金とか碁、将棋とかに凝っていたとする…以下略…
ある男が自分の愛している女を残して死んだ場合…以下略…
碁盤の例…以下略…
という“因縁霊”の霊的干渉と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による解りやすい現象の説明、その現象の理由と根拠を述べていらっしゃる。

 そして、
心霊を知っている者の中には…中略…その家の守り神の系統の霊と自分の主護霊、支配霊との援助によって人間界に働きかける者もいるが、これはある特典によって許されたもの
こういったケースがあることを述べていらっしゃるが、これは“ある特典”が“執着”ということだけではなく、その“人間界に働きかける”こと事態が結果として“世為人為”となる、人の霊的成長の手助けになるというケースである。

 だが、これはあくまでも特例であることを知らなければならない。

 本題に戻り、大概の人間は自分が死んだら生きていた間のことに執着を持つ、そして彷徨い、それが結果としては自分の霊的成長も遅れる。

 さらに執着した対象が人間なら“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の影響があるケースが多いのだということを知る。

 そのことを承知しておいて、自分が死んだならば、このことを思い出して自分の自我中心の心(靈)を諌めるようにしていくのが、死んでからの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)も早まるものだし、これも太霊が第十二話で述べていらっしゃることの要旨のひとつであると思える。

 次回、“その一”でピックアップした、

それぞれの界の法則によって得られるものはこの力
放下(ほうげ)する心
執着を断ち切る
この諦めの心こそ自分の霊性を向上させる元

これについて述べ、第十二話の総括とすることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合 Kellyさん的解釈“その三”


 今回は第十二話の、
その人間が神とか霊とかを全然知らない場合は、その者自身は死んだと考えない
このケースについて解釈を述べる。

 まず、無知が所以、あるいは知識として“神とか霊とかを全然知らない”、そういった人間が死んだなら
死んだと考えない
“(自省(胸の磁性“十”)のための)野原も見えない
ということになる。
 そういった意味合いのことも太霊は述べていらっしゃる。

 そしてそのままではいけない、死を自覚させることが必須であるから、
その幽体を現実に放浪させるのである
背後の霊達はこの現界の放浪を諦めさせる
ということをさせたりもする。
 それは結果として、
中々死を自覚しない”その心(靈)の“自覚”を促す、それをしなければ“因縁霊”になるということを読み取るべき。
 またその“因縁霊”は、恨みの連鎖の霊的干渉に加担するものである。
 これを避けるため、
背後の霊達は…中略…現界の放浪を諦めさせる…中略…普通はその寝かしてある間に幽体の中の霊体、神体を通じて目覚めさせるようにする
ということをする。
 
 それで、先に述べた“そういった意味合いのこと”とは別のことを述べる。

 常々、平均的地球人は低いのだということを述べてはいるが、地球人全体の“神とか霊とか”に対して、そんなものは無い、と思っている人は、だんだん少なくなりつつあるとは思う。
 しかしそれではダメ、知っているだけではダメ、そんな程度ではダメで、この“神とか霊とかを全然知らない”というのは、言葉や知識で“神とか霊とかを”知っていたとしても、その人間の心(靈)の認識が低い場合も含めるのだということを解らねばならないと思う。

 その認識の低さを列挙するならば、まず、自分は肉体をまとった霊であり、それが人間でいうところの心なのだという認識が無い、そして神と人間の関係など真剣に考えたことも無い、だから神と人間の関係由来の“ほんとう”の信心も無い、また程度の低い信心、例えば御利益やおかげ話をありがたがり大難が小難になるなど、神や心霊に対してそんな程度の認識しか持ちえない、あるいは信心しているふりをしていたりもする…など、こういった霊的成長度の低い人間を含むものと思うし、こういう人間が薄っぺらい御利益で人を釣る既成宗教などを、さきの「信心しているふりをしていたりもする」これは体裁を繕うために偽の信心をするみたいなことだが、これも“神とか霊とか”に対する認識がてんで低いといえるし、こういった人間は多いと思う。

 また、
神と人間の関係など真剣に考えたことも無い、だから“ほんとう”の信心も無い、程度の低い信心、御利益やおかげ話をありがたがり大難が小難になるなど、神や心霊に対してそんな程度の認識しか持ちえない、あるいは信心しているふりをしていたりもする
これはその人間の認識(悟り、幸取=さとり)の低さと、神や霊に対する依存、甘えというものがある。
 さらにこのことは今回取り上げた“その人間が神とか霊とかを全然知らない場合は、その者自身は死んだと考えない”の後で述べられている、
一つのものに纏わるということは絶対によくない
これに関連することも含んでいるものであると強く思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



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 Kelly & ○○○大先生

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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