“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 松の巻 第十七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

釈迦祀れ。 キリスト祀れ。 マホメット祀れ。 カイの奥山は五千の山に祀り呉れよ。 七月の十と二日に天晴れ祀りて呉れよ。 愈々富士晴れるぞ。 今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな。
二の山 三の山 四の山に祀り呉れよ。 まだまだ祀る神様あるぞ。
七月二日、あめのひつぐのかみ。

 既成の宗教は、すべて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が宗教の開祖に憑依、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)させ、開祖そのものに思想を構築させたり、あるいは“上”からの通信を伝えたものであり、なぜこういうことをさせたのかは、“上”が“下”(低い心(靈))である人間を育てたい、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くことを意図としているからである。

 だが、既成の宗教は“役員づら”により腐り果てており、ただ(程度の低い心(靈)同士で褒めそやすだけの)形骸の権威を示すものになり、金儲けの道具に成り果て、自我の肥大(“石屋の仕組み”)した“役員づら”が形骸の権威を示そうとするからこそ宗教戦争も起きているものであり、こういう現状は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の本意でないことは言うまでもないこと。

 また、既成の宗教が腐っており、その教えや理念は歪曲されており、今やそれが当たり前になっている。
これも程度の低い心(靈)が低い認識をするからこそ起きている、そして多くの人は低い認識しか持ちえないからこそ“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している。

 その現状をもさす言い回しが
“今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな”
であるが、上記のこと以外でも平均的地球人の霊的成長度における一般常識や既成概念や価値観や幸福感は“上”から観たら間違っている、“下”と感応してダメな思想を構築し、何を観ても、自分が観察しうる一切の現津(あきつ)、観察され得る事象に対しても、程度の低い認識しか持っていないという言い回しでもある。
 要は自分たちの心(靈)の在り方で“上”と感応しえない、そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を行っていないから“上”と感応しえない、ということであるが、第十七帖の要旨は“上”と感応せよ、そして思想と認識を改めよ、ということ。
 
 このことを踏まえ本文の解釈に入る。


“釈迦祀れ。 キリスト祀れ。 マホメット祀れ。 カイの奥山は五千の山に祀り呉れよ”

 冒頭の宗教の開祖の羅列は先に説明した通りであり“祀れ”は感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を指す。
 “カイの奥山”は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
であり、“奥山”は、以前、下つ巻 第二十七帖で以下のように解釈した。

“奥山”“中山”…この二つの表記に共通する“山”は、高い心霊がよく使う脳の意味でもあり、そやからこそ、“奥山”=大脳の古皮質、“中山”=大脳の旧皮質やと思えるし、ほんでから“一の宮”は、“一”=智性=1番目のオーラの“宮”としか思えへん。そやからこの“一の宮”は大脳の新皮質、目上(めうえ)の脳で、それは1番目のオーラ、智性のオーラ、そして自分が持っている“力”を自分自身がどう扱って事象の創造をして行くのかに関る部分でもあるし、目上(めうえ)の脳そのものが動物と人間の進化の違いでもあるし、智性を持った動物としての言い回しが、下つ巻の後半に入って出て来てくる表記の“ひつくの家”でもあると思える。
 
そして“五千の山”の“五”は、糸巻の象形文字由来の表記であるから神経線維、動物として進化した人間は、般若心経の“波羅密”の“羅”、これは目の下の錐体状の神経を刺した表記だが、これが発達している。 “千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+胸の磁性“十”であるので、神の思惑を取り込む自省(胸の磁性“十”)した(“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”)心(靈)(ヒ)の意味であるし、その心(靈)で“上”と感応して“山”=脳で思想を構築せよ=“五千の山に祀り呉れ”という意味。


“七月の十と二日に天晴れ祀りて呉れよ。 愈々富士晴れるぞ”

 神の“思惑の顕現”、生命(生きる使命=存在理由)としての人、これは“七”の表記の意味、“一”(智性、1番目のオーラ)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。  
その意味合いは“一”、智性、1番目のオーラを発現した動物である人間は、“上”と感応して思想を構築し、その思想由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現、“どういうつもり”で事を成すのか、をして、人の思惑の顕現=事象の“創造”をする、その意味合いである。 そしてそれはたった今の現実、これは現界ともいい得るが、自分たちが生きている場(フィールド)、そこで思想を顕現するのだから“七月”の“月”は、肉体(月(ツキ))を持って思想を顕現せよ、の意味合いである。
“十”は、自省(胸の磁性“十”)であり、自省(胸の磁性“十”)が無ければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すという発想は出来にくいし、“ニ”は、“富士(二二)”人が持つ二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、である。 この後の“日に天晴れ祀りて呉れ”、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、太陽を介して送られてくる“創造”の“主(ヌシ)”の振動を取り込め、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として“上”と感応する、それが“日に天晴れ祀り”である。


“今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。 此処までよくも曇りなされたな”
 
 これに関しては先に述べたので解釈の要はない。


“二の山 三の山 四の山に祀り呉れよ。 まだまだ祀る神様あるぞ”

 この“二”は、日足と砌(ひたりとみぎり)、精神性と行動(事象への“思惑の顕現”)、そして“三”は、“一二三”のオーラ、あるいは“一”、智性、1番目のオーラと、“二”=肉体、または2~3番目のオーラ、そして“四”は、発振、発信、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意(“四”は象形文字で開いた口の中に、舌や咽頭が見える様子、“息をつく”って言う意味を持つ)、これらすべて人間の要素、であり、また“二”、日足と砌(ひたりとみぎり)、“三”、“一二三”のオーラ、“四”、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これらの要因、要素、を決定づけるために“上”と感応せよ=“祀り呉れ”であり、冒頭で述べられた宗教の開祖以外にも“上”には“上”があるからこそ、“まだまだ祀る神様あるぞ”と称されているものである。
  
また、“二”“三”“四”、精神性と行動、“一二三”のオーラ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これらすべてが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すればするほど、“上”に近くなる、神に近付く、ということになり、ことに、下つ巻 第十六帖の表記の“てん四様”という表記の意味通り、“上”と感応して認識を改め思想を構築し、またそれは“一二三”のオーラに顕れて、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は今とは違う新たな事象を“創造”する、それが“てん四様”の意味であると改めて思うことを付け加えておく。


 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十六帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ。 
マツはもとのキざぞ、松植へよ、松供へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ、何時も変らん松心となりて下されよ。
松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが。
七月一日、あめのひつ九のかみ。

 今回解釈する十六帖は、これまでの松の巻で述べられている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と“役員づら”の功罪、その“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行為の指摘、そして霊的成長度における区分け、今後=アセンション後のこととは少々内容が違い、生命(生きる使命=存在理由)のこと、生命であり神の子としての人間の構造、そして人間の心(靈)が“創造”する事象、ということを述べている。

 人間の構造(心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ)))を述べている文が冒頭の、

“火と水と組み組みて地が出来たのである”

この“火と水”という表記はここまでの“日月神示”に何回か出てきており、“水”は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、錯体としての水、水で止める“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意というのは水で止める低い振動であるから自我という心になり、換言すればその進化過程は自我の確立=固定化の段階、それはまた腹の位相のサイクロトロンであると解釈してきており、“火”は、肉体(月(ツキ))の“腑”で取り込んだものを酸素とともにエネルギーに変える肝臓のこと(“腑”の電磁誘導)、そしてそれは肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり(“臓”の電磁誘導)、事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のエネルギーとなる、そしてもうひとつの意味として、エネルギーの上昇、腹のエネルギーが日足(ひたり)回転によって上昇する様(大日如来の条帛(じょうはく)はこれを示す)、また、そのエネルギーの上昇のゆらめきは“ひふみゆらゆら”=“一”“二”“三”のオーラ、それぞれの左右の磁性(“富士(二二)”)の右往左往と左往右往でもある。
 こういった要素をもつものが“地”、これは“天”、“上”、に対する“地”、“創造”の“主(ヌシ)”に対する被造物としての神の子である人間(“上”からの荷電粒子を止める“日止、霊止”)であり、または、“地”=“土”、“石”(帯電するミネラル)が固まった(自凝(おのころ)の仕組み)肉体そのもののことである。


 これに続く

“地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ”

この“マツ”は、カタカナ表記なので“上”から視点の言い回しであり、カタカナを解釈するならば、
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を自らに止めながら弥栄(いやさか)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していく生命(生きる使命=存在理由)そのものを示唆している。

 また松の巻は、〇つの○キである。 
 これに関しては、今述べたことと内容が重複するが、以前、水の巻 第五帖で以下のように解釈した。

“桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫(まんごう)変らぬ松の世と成るぞ。 松の国 松の世 結構であるぞ”
 この文の表記の“松の世”そして“松の国 松の世結構”の“松”の解釈が重要であると思う。 それは、今解釈している水の巻の次が、松の巻であり、水の巻の水が、三
ローレンツ力と ○   (みず)、これは“一二三”のオーラと霊=○、荷電粒子の場(フィールド)、そしてローレンツ力ローレンツ力   、の意味があるが、松の巻は、 〇 つであり、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の、“つ”である。
 例によって“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意、があるので、 〇 つは、“上”の思惑、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは日月の巻の表記の“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子が、つづまる(約まる)集う(つどう)して、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことである


 よって今取り上げている“地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ”というのは、“石”(帯電するミネラル)が自凝(おのころ)(タンパク質の高分子化)して生命(生きる使命=存在理由)が進化していくさまを要約した言い回しである。


 これに続く

“マツはもとのキざぞ”

は、
“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるから、生命が“創造”する事象、それを観察する自分自身の心(靈)、その元、の意味、単に“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の意味ではなく、その振動を止め自らの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と成して事象の“創造”をしていく、という意味合いが、この場合の“マツはもとのキ”=神の子としての生命は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めつつ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を成して事象を“創造”していくものなのだ、という言い回しにとれる。

 これに続く

“松植へよ、松供へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ”

は、〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))を意識せよ、その意味を知り得て貴く扱え、そして進化、弥栄(いやさか)を推進せよ、という意味合いであるし、“何時も変らん松心となりて下され”は、進化、弥栄(いやさか)をいつも忘れず意識して自分の在り方を見出せよ、という言い回しであると思える。


 最後の

“松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが”

は、事象の“創造”そのものは“〇つ”、“松”、生命である人間が“創造”してきたのだ、という意味合いと、現津(あきつ)、観察され得る事象の“創造”そのものがそれは心(靈)の動き由来のことだ、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”されるのだ、という言い回しが“松の国”の“国”、これは心(靈)(ヒ)であり、その意味は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すもの、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たそうとする生命(生きる使命=存在理由)であると解釈され得る。

今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第十五帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

この神示うぶのままであるから、そのつもりで、とりて呉れよ。 嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ、心得て次の世の御用にかかりて呉れよ。
世界の事ざから、少し位の遅し早しはあるぞ。 間違ひない事ざぞ。 大将が動く様では、治まらんぞ。 
真中動くでないと申してあろが、此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらんぞ。
此の方頼めばミコトでおかげやるぞ。 竜宮のおとひめ殿 烈しき御活動ぞ。
六月三十日、あめのひつぐのかみしるす。


 冒頭の文。

“この神示うぶのままであるから、そのつもりで、とりて呉れよ。 嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ、心得て次の世の御用にかかりて呉れよ”

 この“うぶ”の表記は、初めて、初心、世間ずれしていない、などの意味が当てられるが、なぜこういう言い回しをするのかは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としての艮(うしとら)の金神が、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)により、“日月神示”そのものを金儲けの道具にされ、勝手な解釈をして歪曲させて間違った個人の見解(文中の表記の“嘘”)が流布されること、またその、程度の低い解釈を受け入れたがる人間が多い、それは多くの人間が霊的成長度がてんで低い=甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)からである。 
こういった状況を予見していたからであると思うし、だからこそ艮(うしとら)の金神を名乗る霊団は、“役員づら”という表記も使っている。
 
 だが、“日月神示”は今指摘した程度の低い人間を対象に述べられたことではなく、自らを厳しく律することが出来得る人間、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”をして、自分の心(靈)の“上”と“下”を見出し、自分が常にどう在るべきか鑑みることが出来る霊的成長度の人間を対象に述べられ、そして更なる霊的成長を望むからこそ“ほんとう”の太陽凝視、不食ごっこなどではない“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、そして“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を自らに止める、これを例えば、地つ巻 第九帖では、

“神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな”

と、解りやすく説かれていたりもする。

 要は“上”は多くの人の霊的成長を望んでいるから“日月神示”を書かせたのではあるが、程度の低い人間は程度の低い解釈をしてそれを流布し、程度の低い人間はそれを信じ込む…というよりも甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈の方を好む、これも程度の低い心(靈)同士の感応ということではある。
 
 このブログを読んだ人ならば、こういった現状に気付く位の視点を持ってもらいたいものである。
 
 これに続く“嘘は書けん根本ざから此の神示通りに天地の規則きまるのざぞ”というのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示すことに“嘘”はない、それは“下”である人間を育てようとしているのであるからこそ、受け入れがたいことを述べてもそれは“ほんとう”であるという言い回しであるし、“心得て次の世の御用にかかりて呉れ”は、今後=アセンション後は段々人間の世界も“嘘”が無くなる事象になる、それに相反してたった今の事象は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍により“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”に満ち満ちているということに気付くべきでもある。

 これに続く
“世界の事ざから、少し位の遅し早しはあるぞ。 間違ひない事ざぞ。 大将が動く様では、治まらんぞ”
は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の“思惑の顕現”=現象化には時間差がある、それは例えば“神の咎め”を与えるにあたってもそのタイミングが大事であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”その者が、その低い心(靈)ゆえの悪い行いを十分に味わってからでないと、“神の咎め”を与えても自省(胸の磁性“十”)しえないから、という意味合いでもあるし、“役員づら”が述べている、時期が来たらみな幸せになるとか、災厄を避けるとか、程度の低い人間を引き付ける甘い手法通りには成り得ないという意味合いもあるだろうし、だからこそ“大将が動く様では、治まらん”と述べられているが、この“大将”は、先の第十四帖の“悪の総大将”のことを示していると思う。

 これに続く
“真中動くでないと申してあろが、此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらんぞ”
の“真中”の表記は、下つ巻 第二十六帖 “神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ”のそれと同義であり、これは何を示しているのかといえば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でしかなく、それは絶対の法則性を示唆するものであるからこそ“真中動くでないと申してあろ”と称され、それに相反してたった今は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、先に述べた“役員づら”“悪の総大将”などの活躍により腐りきっているからこそ“此の世の頭から改心せねば、此の世 治まらん”と述べられ、“頭”の表記は先に述べたことと重複するが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が褒めそやされ形骸の地位や名誉を得て“頭”になっているの意味合いである。

 これに続く、
“此の方頼めばミコトでおかげやるぞ”
の“ミコト”は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを自らに止め(“日止、霊止”の表記の意味)、それを顕現せよ、であり、“此の方”は、“上”を示唆する表記である。
 そしてその霊的成長の過程として“竜宮のおとひめ殿 烈しき御活動ぞ”と称され、これについては、日の出の巻 第十八帖の解釈から以下にコピペして意味を示す。

“竜宮の乙姫”の“竜宮”は竜の如く“下”のエネルギーが“宮”に上っていく(昇り竜)、宮は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で、これは頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている表記だが、この意味のこと、さらに“竜”の表記は呂と立つ、あるいは太陽に昇る竜、ちなみに月に昇る意味合いは龍


 要は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンの進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)から、自省(胸の磁性“十”)して腹のエネルギーが大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇する様を示す。
(最近一部の読者と少し話した“オイカイワタチ”、へその緒=“オ”、腹の“ワ”=サイクロトロン、それが“上”に向かい“タチ”=“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現、これと同義である)

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

裏切る者 沢山出てくるぞ、富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組。 ハルナ、カイの御用なされよ。
悪の総大将よ、早よ改心なされ、悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。 いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。 
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になるのぞ。 日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが。 まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ。
六月二十九日、あめのひつぐのかみ神示。

 この第十四帖では、“仕組”と“御用”、この解釈が大事である。 先にこの二つの表記の解釈を述べてしまえば、
“仕組”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、
そして、
“御用”=生業(なりわい)の“行”と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行” ということである。


 これを念頭に置いて、冒頭の文。

“裏切る者 沢山出てくるぞ、富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組。 ハルナ、カイの御用なされよ”

 この“裏切る”は、“仕組”に沿わない生き方、と、“御用”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿っていない生き方、という解釈が出来る。
 そして“富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組”の表記については、“富士(二二)”は、進化した左右相称動物である人間が持つ日足と砌(ひたりとみぎり)の極性、これは肉体(月(ツキ))にも心(靈)(ヒ)にも表れており、進化したからこそ発現する極性のことであり、“鳴門”“諏訪(スワ)マアカタ”については、以前解釈した、
日の出の巻 第十八帖から以下にコピペしておく。

 
 
渦巻き 左回転 海の御用とは 渦巻き 左回転 海の鳴門(なると)と 渦巻き 左回転 海の諏訪と  渦巻き 左回転 海のマアカタと三所へ祀りて呉れよ。その前の御用、言葉で知らした事済みたぞ、 渦巻き 左回転 海マアカタとは印幡ぞ”の“ 渦巻き 左回転 海の御用”は、左=日足(ひたり)回転であるから“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転。 そして“海”の表記は“江戸と尾張”の“江”と同義、よってこれも腹のサイクロトロンから胸のシンクロトロンに移行することを述べている。
 それで“鳴門(なると)”は、鳴る=振動の門という意味合いである。
“諏訪”の諏は漢字の意味で、はかる(謀る)、相談する、問う、たずねるの意があり、訪は訪れる(おとずれる)の意、それは次の段階、第四密度とかアナハタチャクラの覚醒とか“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くこと、これらすべて“創造”の“主(ヌシ)”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の計画=諏訪の諏の意味のはかる(謀る)こと、そして次の段階へ訪れるの意。 
“印幡”の印はしるし、これは霊的成長を示すしるし(黙示録にも霊的成長度を示す“額の御印”という表記がある)、幡(ばん)は、仏教で使う布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のこと、この詳細に興味のある人はWikipediaなどで調べればよいと思うが、これは繊維を織った布というよりも、人の肉体(月(ツキ))がより進化して神経線維が“慈(しげる)”という意味合いのことを感じ、それを幡(ばん)の如く立てるのであるから、“日月神示”表記の“五六七(みろく)”の五と同義、ちなみに“五”は神経線維が糸巻のように密に巻かれたという意味合いで、これと同じであると思う。 
よって“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”は特定の地名のことではないと思うし、特定の地名を当てはめてみるとこの文は解釈できない。 
それで“マアカタ”だが、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”では、“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根、アは“創造”の“主(ヌシ)”の表記のアイのア、あるいは“亜”、人の心(靈)が認識しうる根元の何か、究極微粒子、“上”から注がれる何か、“カ”は、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意、“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと、このカタカナ、“上”から目線で書かれた四文字で構成された“マアカタ”は、すべて先に述べた“鳴門(なると)”“諏訪”“印幡”の解釈と合わせて鑑みても、霊的成長のことでしかないし、カタカナ表記だからこそ“上”の計画といえることでもある

 要は、今の平均的地球人の霊的成長度から“上”の進化のことを示唆した表記である。

 それで“ハルナ、カイの御用”については、カタカナ表記なので“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用することとする。

“ハ”は、生命発現成長の音義
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”生気生命の発生力

よって“ハルナ、カイの御用”は、自分自身がどんな振動と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して=“ハ”“ナ”“カ”“イ”、
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくのか、

“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
これらを示した表記であるが、このこと事態が生命(生きる使命=存在理由)そのものであるし、振動の取り込みをしていきながら変容し(彌栄(いやさか))、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのが生命といえ、それはまた“創造”の“主(ヌシ)”、神の、“思惑の顕現”としての生命であり、よって生命(生きる使命=存在理由)は神の子であるという言い回しも出来るし、 “ル”の、霊流凝(ヒルコ)の如き生命素を集め凝らす の意味をよく鑑みるなら、今より進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たすために、より高い振動を取り込む“行”を艮(うしとら)の金神は教えたのだということに得心がいく。
(“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)


 これに続く以下の文は、単に今の世界で“力”を示し、権力を振りかざし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは違うことを多くの人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している“役員づら”や、形骸の権威をもっている人、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対しての言い回しである。

“悪の総大将よ、早よ改心なされ、悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。 いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。 
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になるのぞ。 日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが。 まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ”

 ことに“いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせん”に関しては、“神国”=神に近付く自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)、これに至るための進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、いわゆる“仕組”が解り得ない、人間にとって何が価値のあることなのか見出す智性(神性)(1番目のオーラ)を持ちえない、そういった程度の低い心(靈)のことを指していると思え、こういう人間は現状をただ憂うだけ、たった今アセンションに伴う醜い事象に満ち満ち、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化も加速的に増しているが、ただそれを騒ぐだけ、それを見て自分がどういう在り方をすべきなのか、などについて考えることをしない、それだからこそ“いくら焦りてあがいても”といわれていると思うし、平均的地球人の霊的成長度は自我の確立=固定化の段階であり、自我の肥大を起こしていることは幾度となく述べてきているが、それを改める、改めなければ自分の在り方を見出すことなどできっこない、だからこそ“悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度は何時迄も結構になる”=形骸の地位を得て行使している権力者と、“役員づら”、自分たちの慢心に気付け、ということであり、自省(胸の磁性“十”)するならば=“改心すれば”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を理解する入口に入るからこそ“何時迄も結構になる”と述べられている。
 
 そして先に指摘した、
今の世界で“力”を示し、権力を振りかざし、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは違うことを多くの人にインプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)している“役員づら”や、形骸の権威をもっている人、いわゆる“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”
こういった人間が台頭しているからこそ多くの人間は、“ほんとう”の人間の存在の意義、“ほんとう”の幸福や価値を見出していないことを“日本の臣民人民 皆思ひ違ふと、くどう知らしてあろが”と称されており、“まだ我捨てぬが、水でも掃除するぞ”とは、自我の確立=固定化の進化の段階は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”、腹の位相のサイクロトロンに由来することであるから、それを諌めるために“水でも掃除する”という言い回しがされている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集”第十三話 死後の種々相 事故死と自殺の場合 Kellyさん的解釈 第十三話の総括


 先回も述べたとおり、十三話の副題「死後の種々相 事故死と自殺の場合」は、第十三話の要旨、太霊が最も述べたかったと思しきことを感じさせない。

 “その三”で述べたように、太霊が人間の進化のために何を伝えようとしたかは、

その憎悪の念は幽界をさ迷う低級霊に感応する結果…中略…徐々に苦しめていく…中略…禍(まが)神(がみ)(悪神)の手下の支配霊が本人の肉体を犠牲の対象としてその相手を苦しめることが出来る…中略…本人はその憎念が消えるまで何百年でも殆んど知らずに眠らされる…中略…その相手も一定の時が来れば同じ憎念を抱いて幽界に来る…中略…これらの憎悪の念は三つ巴となって旋回しながら次第に膨張…中略…初めの一人の憎念がいわば台風の目となって終(つい)には大きな渦巻を起こし、その余波が現界にまで及ぶ…中略…今日の世相もこれを反映している

この“憎悪の念”=自我由来の情動(これは“日月神示”表記の右回転と同義)が、恨みの連鎖の霊的干渉の元になり、どんどん増大する、

その相手も一定の時が来れば同じ憎念を抱いて幽界に来る
初めの一人の憎念がいわば台風の目となって終(つい)には大きな渦巻を起こし
これを知らなければならない。

 そしてその“大きな渦巻”自体が、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化となっている、

今日の世相もこれを反映している
このことを、平均的地球人、自我の確立=固定化という進化過程の心(靈)は、よく認識しなければならない。

 だからこそ“今日の世相”=たった今のこの現津(あきつ)、観察され得る事象を観察している自分たちは、何を思い、どう自分を律するのか、について、太霊は以下のように述べておられる。

汝等は、憎悪は必ず相反撥しながら大きな竜巻になることと、どんな正当な理由があろうと自分が起こした悪の波動は必ず自分に返ってくるものであることとをよく悟り、自分の周囲には常に善き波動の渦巻を起こしながら、敢然と自らを正しいと信ずる道を進んで行けばよい

(ちなみに“渦巻”という言い回しは、○○○大先生が未刊行の<6><7>で述べている、円形加速粒子機の仕組み、生命(生きる使命=存在理由)=心=霊は、荷電粒子の回転、そのことを示唆していらっしゃるものである)

 これが第十三話の最も大事な要旨であり、このことを述べるまでに太霊は、
不慮の事故によって突然死んだ”&“相手を恨みながら覚悟の上で死んだ特殊の人間の場合”、その状況とその当事者の心(靈)の動きについて述べておられるし、ここで気づかねばならない重要なこととして、第十二話で述べられている、

幽体が執着を持っているものに纏わる
波動の合う所へは幽体を楽に持って行ける

これが理由で、

常に現世の絆(きずな)に引かれる者は終に地縛の霊となって、自分の死んだ場所に多くの人間を誘(おび)き寄せる魔の道をつくる

と成りうるし、

自分の死によってその相手に同じ苦しみを与えようとする…中略…その憎悪の念は幽界をさ迷う低級霊に感応…中略…その憎念を現界の相手に浴びせかけ、幽界から徐々に苦しめていく

となることを、よく理解しなければならない。


 この状況とその心(靈)の動き、これを念頭に置いて、ローム太霊講話集を持っている人は第十三話を読み返してもらいたいし、このことをよく理解したならば、第十二話で太霊が述べていらっしゃる以下のことをしっかり認識せねばならない。

人間は一旦物質である肉体を捨てたなら、あらゆる物質との関係を断つようにするのが幽体の間に努力すべきこと…中略…一つのものに纏わるということは絶対によくない…中略…汝等も益々修行をしてこの放下(ほうげ)する心を培(つちか)っていってもらいたい…中略…執着を断ち切るということは中々困難であるが、この諦めの心こそ自分の霊性を向上させる元となる…中略…現界でも幽界でも霊界でも、それぞれの界の法則によって得られるものはこの力

 自分が死んでから“放下(ほうげ)する心を培(つちか)って”、これが出来ないならばそれは、自分の心(靈)が目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心なのだということをよく認識せねばならないし、“幽界”においても“その二”で述べた
幽体の行である水、火、土、光、空の行
をして、自分の心(靈)に高い振動を取り込む(智性(神性)の発現と強化)、そしてそれを顕現する、いわゆる炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味そのものであるが、それが生命の進化、霊的成長、自分自身の神格化、神に近付く、このことそのものであり、そのために平均的地球人の進化の段階の多くの人は、先ず自省(胸の磁性“十”)をする、

自悔の原”&“悔悟に至る

(悪霊は自省(胸の磁性“十”)したなら悪霊ではなくなる、その意味合いのことが神道の“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、である)

この表記の意味をよく理解した上で、自分(の心(靈))に対し、何を思い、自分の心(靈)の動きをよく知ったならば、どう在るべきか、何を自分に課すべきか、そのことを太霊は第十三話で示唆しているのだということを指摘して、第十三話の総括とする。

 次回のこのカテゴリーでは「第十四話 死後の種々相 相思相愛の場合」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。






“ローム太霊講話集”第十三話 死後の種々相 事故死と自殺の場合 Kellyさん的解釈“その三”


  第十三話の後半は、

今度は相手を恨みながら覚悟の上で死んだ特殊の人間の場合

と前置きされてから、その状況、ことにその低い心(靈)の動き(目下(めした)(動物の心(靈)の段階))について詳細に述べられている。

(またこの心(靈)の動きが、副題の、自殺の場合 すべてに当てはまるものでもないと思う)


 その心(靈)の動きを示唆した太霊の言い回しを以下にピックアップすれば、

相手を恨みながら覚悟の上で
復讐の念に燃えながら
自分の力ではどうにもならない時に、自分の死によってその相手に同じ苦しみを与えようとする

これは自我由来の心(靈)の動きであることはいうまでもない。

 そしてその心(靈)の動きを起こしている根拠と理由としては、自我中心の心(靈)だから自分のことしか分からないからであり、こういった自分勝手な都合しか考えない人間は、自我の肥大(“日月神示”表記の“石屋の仕組み”)を起こしているものである。

 また、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、まだまだ自我の確立=固定化の段階(第三密度 “日月神示”表記の“江戸と尾張”)なので、相手を恨みながら自我を強化している人も多いという事情がある。
 こういったケースの自我の強化、これも進化(霊的成長、神格化に向かうこと)には必須の要綱といえるが、それは排他的であり、その心(靈)の動きには言うまでも無く“慈悲”と“慈愛”ゆえの他者に対する許容、そして、自分を諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“などという心は無い。
 この心(靈)の低さをよく知れというのが、第十三話の要旨であると思えるので、「死後の種々相 事故死と自殺の場合」 この副題のつけ方には非常に疑問を感じる。

 本題に戻り、先にピックアップした低い心(靈)の動きは何をまねくのか、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による結果はどうなるか、それについて太霊は以下のように述べておられる。

実際にはその憎悪の念は幽界をさ迷う低級霊に感応する結果となって、彼等は喜びと嘲(あざけ)りとを持ってその憎念を現界の相手に浴びせかけ、幽界から徐々に苦しめていくのである

これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である。 自分の心(靈)の動きが低いからである。
 
 そしてその感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の結果は、
彼にその復讐の念を起こさした禍(まが)神(がみ)(悪神)の手下の支配霊が本人の肉体を犠牲の対象としてその相手を苦しめることが出来る
これが悪魔(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅))の思惑の顕現、そのものである。

 その“復讐の念を起こさした禍(まが)神(がみ)(悪神)”が“どういうつもり”で“彼に”事を成させようとするか(思惑&行動)。
 また“手下の支配霊が本人の肉体を犠牲の対象として”、これも贖い(あがない)ではあるが、それをさせること事態が、人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げたい、という“禍(まが)神(がみ)(悪神)”の意図であり、その思惑には、自分以上を認めない、だから人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を認めない、これが“禍(まが)神(がみ)(悪神)”のゆがんだ自我の顕れであると思えるし、それだからこそ悪魔は動物的に描かれる=目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の顕れであるとの私見を持つ。

 ここまでのことをよく鑑みれば(かんがみれば)、

相手を恨みながら覚悟の上で
復讐の念に燃えながら
自分の力ではどうにもならない時に、自分の死によってその相手に同じ苦しみを与えようとする

こういう死に方をするならば、

これは本人自身は既に死んで無の境地に入いっている
そして、
本人はその憎念が消えるまで何百年でも殆んど知らずに眠らされるのである

という状況ではあるのだが、先にピックアップした通り、

憎悪の念は幽界をさ迷う低級霊に感応する
本人の肉体を犠牲の対象としてその相手を苦しめることが出来る

ということになる。

 
 そしてそれは“本人自身”のまねいたことであるからこそ、
目覚めてから悔悟に至るまで如何に苦しむかは察するに余りある
という結果になることを、太霊は憂いていらっしゃるし、誰もがこんなふうになってはいけないのだ、という太霊の強い思いを感じる。

 さらに、太霊が“今日の世相もこれを反映している”という言い回しをされたその裏にある詳細な説明が、
その相手も一定の時が来れば同じ憎念を抱いて幽界に来るのであるから、そうなるとこれらの憎悪の念は三つ巴となって旋回しながら次第に膨張してゆく
これは、恨みの連鎖の霊的干渉の過程そのものである。

 そして、
こうして初めの一人の憎念がいわば台風の目となって終(つい)には大きな渦巻を起こし、その余波が現界にまで及ぶのである
これは恨みの連鎖の霊的干渉の現象化=“その余波が現界にまで及ぶ”、これを示唆した言い回しである。
 
 そしてもう一つ、

本人に付き纏っている動物霊がその憎念によって相手を苦しめることもある

これも“本人”の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の動きとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)である。

 
 ここまでのことを第十三話から読み取れる霊的成長度の人ならば、
● 恨みという感情を歪んだ自我の肥大のまま自分に容認していては絶対にこれは消失しない
● だからこそ自分の低い心(靈)を諌めることが大事
という自分の在り方を思うことが出来る。

 またこれが、今の世界=自分の心(靈)が“観察と認識”をする現実、を、変えていく心(靈)の動きであることを知るべきではあるが、たった今の世界はもうどうしようもなく恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、毎日のように事件や事故、災害など、恨みの連鎖の霊的干渉の結果が報道されているが、大概の人間は現象にしか目がいかないもので、その理由と根拠には気付かない。
蛇足になるが、多くの人が気付いていないこと事態に対し、「恨みの連鎖の霊的干渉」という言い回しを使った○○○大先生は、もうこの世界=現実=現津(あきつ)、観察され得る事象は、手遅れなのだと憂いているし、多くの人が先の自分の在り方を鑑みるならば、次の事象たる今後=アセンション後の事象に移行するべく資質と成りうるのだということをあえて述べておくし、そこまでのことを考えるべきである、というのが、太霊が第十三話で述べたことの裏側にあるメッセージであると確信するものでもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集”第十三話 死後の種々相 事故死と自殺の場合 Kellyさん的解釈“その二”


 第十三話を読んだ人は知っていることであるが、前半は、
不慮の災難によって幽界行きとなった場合
変死の場合に共通した幽体の状態
について、

その者の死んでゆく状態は前に話した通りである
と前置きされて、

本人の側(がわ)から言うと
という言い回しをされ、

トラックに轢き殺された
というケースについて、具体的なことが述べられている。



 それでこの場合は、第七話 死の前後 自然死の場合 で述べられた、

先祖と背後の霊がその者に当てられた城郭の一定の場所に運んで行って、背後霊の保護の下に自覚させる時間が来るまで寝かしておく

この過程が無いことに気付くべきである。



 それで、この場合の死に方では、
変死の場合に共通した幽体の状態…中略…背後の霊達は何とかしてその事実を知らせようと努力をする…中略…本人には中々通じない…中略…諦めの時が来て自悔の原に導かれ行く…中略…ある程度死というものを納得させられている…中略…やっと来た荒野で自分の生前の行為をまざまざと見せられ、悔恨の涙を流してから先祖の力によって一定の城郭に引き取られる…中略…残した世への執着は中々に断ち難く、あらゆる苦悩を体験しながら…中略…初めて真の自覚が得られる

と、実に詳細に述べられており、この死に方の問題点として、

残した世への執着は中々に断ち難く
これが死んでからの自分の成長を阻むものであることを示しておられる。


 またこの後に続く文言で、

常に現世の絆(きずな)に引かれる者
ならば、
(というよりは、こういったケースの場合ほとんどがそうであると思えるが)

終に地縛の霊となって、自分の死んだ場所に多くの人間を誘(おび)き寄せる魔の道をつくることになる

いわゆる第九話で太霊が述べられた“憎悪の霊団”に加担することとなることを知っておかねばならないし、自分が仮に、

不慮の災難”や“変死
という死に方をした際、これらのことを知っておけば、
真の自覚が得られる
のは、早くなる。 

 だから太霊は、
本人の側(がわ)から

不慮の災難によって幽界行きとなった場合”“変死の場合に共通した幽体の状態
について詳細に述べられたのだと確信する。

 それは今のこの世界が恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、だからこそ“不慮の災難”や“変死”がとても多いのだということにも気付くべきでもある。

 そしてそれは前回ピックアップした、
今日の世相もこれを反映している

という状況の一部であることを、ローム太霊講話集を読んだ人はよく知るべきである。

 それで、この場合の死に方であろうが他のどんな死に方であろうが、心(靈)の成長には一定の法則性があり、現地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階であり、そこから自省(胸の磁性“十”)の“行”を経て“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現になっていくことは、これまで他のカテゴリーも含め散々述べてきたし、これは絶対に曲げられない進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であるから、太霊もこのことを述べていらっしゃる。

 よってこの場合の死に方についても、

終(つ)いには諦めの時が来て自悔の原に導かれ行く
荒野で自分の生前の行為をまざまざと見せられ、悔恨の涙を流してから先祖の力によって一定の城郭に引き取られる
あらゆる苦悩を体験しながら幽体の行である水、火、土、光、空の行を永い間させられて、初めて真の自覚が得られる

と、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくことが述べられている。
 
 ちなみにこの“水、火、土、光、空の行”は、
”=錯体、体液による振動の取り込み
”=自分に取り込んだ異物(捕食)による“腑”の電磁誘導と、“臓”、振動の貯め込み(これについては、
太陽凝視を行っている鍼灸師の話“改”を参照のこと)
土”=“石”(帯電するミネラル)による“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み
”=自分より相対的に高い振動の取り込み(相対的に高い振動は光と感じ得る)
”=光以上の振動の取り込み
いわゆる人間が生きている間に霊的成長のため行わねばならない“行”すべてであるという私見を持つし、死んで幽体になったとしても自分自身についての認識は、心と体であり、体は振動の受容器&発振、発信のための道具であるからである。
 また、振動の取り込みを示唆し、それを自分自身が“観察と認識”している現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するという意味合いのことが、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の意味でもある。

(“創造”の“主(ヌシ)”の振動、愛(炁)、炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“”、これが低振動化して空、無、光、これを取り込み(“日止、霊止”の意味)、=真固止の力をこの事象に表わせ、顕現せよ())



 ここまで述べてきたことを要約すれば、先回取り上げた以下の文言、
人間としては現界の修行を積むことが…中略…幽界に入いったら努めて肉体の欲を離れて現世の執着を断ち、一日も早く幽界を卒業して霊界に行くように心掛ける

この“人間としては現界の修行を積むこと”、これが振動の取り込みとその振動を息吹いて、自らが観察しうる事象(肉体、幽体、霊体、神体、の、どの場合においてもその現実)の“創造”をすることであることに気付くべきであり、

肉体の欲を離れ
現世の執着を断ち
が、
真の自覚が得られる
事につながっていくことを、しっかり読み取るべきである。

 次回は先にもピックアップした
今日の世相もこれを反映している
これについて解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (480)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (16)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (27)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
写真部に投稿した最新の写真
 ↓


powered by 写真部









○○○大先生の水草水槽記録
facebook 児玉登







このブログをリンクに追加する


自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード