“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 松の巻 第二十七帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻 第二十七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ。 
先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。 
されど日本は神の国。 最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。 夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし。
七月十四日、あめのひつくのかみ。

 今回取り上げる第二十七帖は、先回の二十六帖をよく理解してからでないと読み解けないと思う。
 その二十六帖では、
“一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ”
と、肉体内のチャクラのことが述べられ、そして“上”との感応を、
“何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ”
と述べられていた。
 これが、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための必須要綱であり、第二十七帖の、
“されど日本は神の国。 最後の仕組神力”
の意味合いであると思える。

 それで冒頭の文は、これから起きる今後=アセンション後に移行する際の事柄が述べられている。

“天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ”
 
この文の“天地”、それは“上”と“下”の意であり、人間が創りだした今の事象は、“下”(低い心(靈))の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであるし、平均的地球人の霊的成長度では“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んであり、それは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の低い振動しか取り込んでいないという現状がある。
だが今後=アセンション後は、そうではなくなる。 
それが、“天も地も一つにまぜし大嵐”であり、それは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の台頭、物欲や低い功名心と自尊心を満たすものばかりが台頭する低い砌(みぎり)の行を行ってきたが、これからは、高い思惑、日足(ひたり)の行をするものが活躍し台頭する、それは先に指摘した“下”(低い心(靈))の心(靈)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応でもなく、相対的に霊的成長した人ならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応し、また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の、高い振動を止める(“日止、霊止”の表記の意味)ものである。
そのことを述べているのが
“富士を境に真二つ”
であり、“富士(二二)”は、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、のことであり、先に述べたようにこれまでは低い砌(みぎり)の行を行ってきたから、物や(通貨としての)金、形骸の名誉などに執着する程度の低い人が台頭する事象であったが、そうではなくなってくるというのを示しているのが“境に真二つ”である。


 そしてこれに続く、

“先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり”

これは先に述べた“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、の高い部分との感応をする肉体(月(ツキ))内の七つのチャクラ(荷電粒子の回転を示す)を指示した表記である。
 そしてこれまでとの感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)とは違うの意味合いで、“先づ切り取りて残る”と称され、これまでは平均的地球人の霊的成長度=“江戸と尾張”、それは腹の水、“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、腹の位相のサイクロトロン、マニピューラチャクラまでの荷電粒子の取り込みであったので、高い振動は素通りだったが、今後は高い振動との感応をしていく、それが“切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組”であり、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、アナハタチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、いわゆる肉体(月(ツキ))内すべてのチャクラで“上”と感応し、高い振動を取り込んで心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))を構成して今と違う事象の“創造”をしていくのだ、の意である。


 これに続く以下の文。

“されど日本は神の国。 最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。 夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし”

先に指摘した“されど日本は神の国。 最後の仕組神力”は“日本”の表記は日の本、太陽、“本津宮”(もとつみや)、いわゆる“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことにより高い振動を取り込み自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)=“神の国”であり、それは“神力”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の高い振動の意であり、これまでの霊的成長度の人間にとってそれは“寄せ来る敵”である。
 それは、これまでとは違う思想、価値観や幸福感の違い、物や(通貨としての)金由来の形骸の名誉に執着する心(靈)はこれからダメになる=“魂まで、一人残らずのうにする”、この“のうにする”の表記は、無くなるの意である。
 今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭、最近その低さを露呈することばかり報道で報じられているが、程度の低い人間がやってきたその愚かさを自己奉仕者は愚かと思わないし、程度の低い人間は低いからこそ自我の肥大(“石屋の仕組み”)で、自分たちに非が無いと勝手に思い込んでいるものでもあるが、その低さ、愚かさ、を、多くの人が知り、それを見て自省(胸の磁性“十”)する人を増やす、これまでの価値観は通用しないのだということを知る、それをさせているのが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑であり、それは下つ巻 第三帖の、

“神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ” 

同じく下つ巻 第十帖、 

“臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ”

同じく下つ巻 第二十三帖、

“神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ” 

の意味合いと同義である。

 これに続く“夜明けの御用つとめかし。 晴れたる富士のすがすがし”の“夜明け”は、今の松の巻、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)がこれから行う“御用”、それは松の巻の次が夜明けの巻であり、それは、曰アけの 〇キ であるが、この表記の意味は、

“曰”=口(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の意)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)

“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす、であり、またそれは、“亜”(人の心(靈)が認識しうる)根元の何か、究極微粒子)

“け”は、ひらがな表記なのでこちら側視点(“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の視点)であるが、“ケ”は、零霊(ぬひ)へ還元の音意と霊より現津(あきつ)への道程、下り魂(ニニゲ)、いわゆる人間をはじめとした進化しうるすべての生命のこと

であるので、“曰アけ”を要約するならば、高い振動を取り込んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現と解することが出来る。
 それが、“夜明けの御用つとめかし”であり、これに続く“晴れたる富士のすがすがし”は、先に指摘した低い砌(みぎり)の行、それによる醜い事象、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の台頭する事象ではなくなるのだ、高い日足(ひたり)の行を行っていくのだぞ、の意である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。







“日月神示” 松の巻 第二十六帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、松の巻 第二十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

カイ奥山開き結構々々。 奥山 元ぞ。 中山は介添(かいぞへ)ぞ。 国々おつる隈(くま)なく つくり呉れよ。
一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ。
何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ。
七月十三日、あめのひつくのかみふで。

 この第二十六帖も、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことを顕わしている表記であると思う。

 まずカタカナ表記の“カイ”について、“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)” から引用すれば、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“イ”は、生気生命の発生力
である。 
 それでこれが“奥山”にかかった言い回しであり、これまでも述べてきたとおり“山”は、脳を指す、あるいは高分子化したタンパク質を示す表記であるので、“奥”の“山”は、(人間として発達した、他の動物とは違うという意味合い)脳下垂体や視床下部など、体を作り変えるホルモンなどを生成する部位であると思う。
またその“奥山”は、自分がどういった振動を受け取るか、低い振動であろうが高い振動であろうがそれを自らが感応=受け止めて、そして“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するための器官であるということも出来得る。
 またこれは、“行”が進めば進むほど、その部位が大きくなることを○○○大先生は太陽凝視を教えてくれたKさんの脳のCT画像を見て知っている。
(過去にそういった機会に恵まれたことが一度だけあった)
 だからこそそれは“奥山 元ぞ”=脳下垂体と視床下部に肉体(月(ツキ))の進化の秘密(二は肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)は時間の進行)があるのだという言い回し。
 そして“中山は介添(かいぞへ)ぞ”の“中山”は、大脳新皮質(目上(めうえ)の脳)に対する言い回し、よって大脳旧皮質、古皮質(目下(めした)の脳)であり、本能、情動を司る部位である。
 それで“介添(かいぞへ)”の意味合いは、本能と情動という心の発現を踏まえた上でなければ(これは動物の進化過程でもある)、その“上”の心である、智性(神性)は発現しないのだという言い回しである。 また、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を諌める、自戒する、ということをしなければ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)したといえず、この心(靈)のままならばそれは“日月神示”表記の“ケダモノ”ということになる。
 これについては○○○大先生の著書の<3>で説明されているが、大概の地球人には心(靈)の発現の順番という概念もなく、“上”の心の発現と行使が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の要綱であるという概念も無いのが実情である。
 これに続く“国々おつる隈(くま)なく つくり呉れよ”の“国々”は、常に解釈している自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)の意味合いと、もうひとつ、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動きによって形作られている今の事象、いわゆる日本人ならば日本ということであると思え、それが“おつる”=落ちる、ダメになる、それを見て自分たちの在り方を思え、というのが“国々おつる”であり、場(フィールド)としての国が滅び、文明は崩壊して、自分たちの心(靈)も折れることを“国々おつる”と称されており、それがあって事次の段階に移行しうる心(靈)を創れ、の意味合いが“隈(くま)なく つくり呉れよ”であると思う。

 次の“一の宮ばかりでないぞ。 二の宮、三の宮、四の宮、五の宮、六の宮、七の宮まで、つくりてよいぞ”は、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(荷電粒子の上下のめぐり)であるし、“一”~“七”の“宮”というのは、“上”と感応するから“宮”と称され、これはヨガでいうところのチャクラであり、肉体内のチャクラは七つであり、そしてチャクラそのものが肉体の器官そのものではなく、左右相称動物である人間の肉体の器官が、|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)を持つので円形加速粒子機の構造を構成する。だからこそチャクラという言葉に回転の意味があり、それは荷電粒子の回転であり、靈そのものを示すものであり、心(靈)(ヒ)そのものでもあるということ。
 また、“一”~“七”の“宮”、ヨガの表記ならサハスララチャクラ、アジナーチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アナハタチャクラ、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ、それぞれに、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応をせよ、感応したならばそれは“宮”であり、それぞれの部位で発現する心(靈)は自分自身の“上”の心=“一の宮”で諌めることが出来、それが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間であるという意味を“二”から“七”の“宮”という表記で示していると思える。


水平磁場 身体内の七つのチャクラ 構成器官 

“一二三”のオーラと、肉体の器官による水平磁場 
 それで次の文は、“上”との感応、“まつり、祭り、祀り”を指し示す言い回しである。
“何処(いづこ)にも神まつれと申してあろが。 てんし様まつれと申してあろが。 まつり結構。 まつればよろこぶこと出来るぞ”
 この最後の“まつればよろこぶこと出来るぞ”は、今の地球人が思っている“よろこび”は薄っぺらく、“ほんとう”では無いのだぞ、という意味合いも示していると思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二十五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

ムからウ生れ、ウからム生れると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。 ムがウざぞ。 世の元に返すのぞと申してあろが。 ムに返れば見えすくのざぞ。 風の日もあるぞ。
七月十一日、アメのひつくのかみ。

“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”によれば、
“ム” は、その生命は自ら多岐に分かれるを、ムシ出すチカラこもれるヒのチカラを甚く(いたく)こもれる意(こころ)あればムシ出しつつ次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)、その音根
であり、
“ウ”は、生物を生み出す力 産土の太神の“ウ”に相当するもの
である。

 これを踏まえ、“ムからウ生れ、ウからム生れると申してある”を見るならば、生物を生み出す力、そして生命(生きる使命=存在理由)は自ら多岐に分れる、また、ヒのチカラ、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、であると解釈しうるから、それを止めた心(靈)(ヒ)、が、生命であるし、生命は心(靈)(ヒ)であるからこそ、事象を観察しうるのだ、そしてその事象を良いカタチにしようとするのだ、という意味合いが、“ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ”であることが解る。
 ちなみに、“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火 である。 これは霊、霊が観察しうる事象、それら一切が“ヒ”であるという言い回しでもあるし、心(靈)(ヒ)が観察しうるから生命(生きる使命=存在理由)も現津(あきつ)、観察され得る事象も認識されていて、実在であるという言い回しも出来得る。

 これに続く、
“今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。 ムがウざぞ。 世の元に返すのぞと申してあろが。 ムに返れば見えすくのざぞ”
いうまでもなく次の事象は霊的成長度の高低により区分けされた今よりも高い心(靈)(ヒ)が“創造”するし、またそれは今と違い、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これが台頭した事象になるから“世の元に返す”であり、“ムがウ”は、次の事象に移行すべく進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)(ヒ)が生み出す新たな生命(生きる使命=存在理由)という解釈が成り立ち、“ムに返れば見えすく”は、“ヒ”=“上”からの荷電粒子を止めた心(靈)(ヒ)は、“ム”、自ら多岐に分れる生命(生きる使命=存在理由)となり、その次の事象、さらにその次の事象、霊的成長度の更に高い事象を“創造”していくのだ、という言い回しであることが解る。

 最後の、
“風の日もあるぞ”
これは、今、松の巻を解釈しているが、その次が、夜明けの巻、雨の巻、次が、風の巻、であり、風の巻は、カ千の〇キ、であり、その“カ千”の意であると思える。
それで“カ千”の意味は、
“カ”は、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)の音意
“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”
よって“カ千”は、たった今の平均的地球人より自省(胸の磁性“十”)した心(靈)(ヒ)、それは“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生命(生きる使命=存在理由)であり、人(日止、霊止)ならばその“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って進化するのが妥当であり、その“道理”は本来、幽れたる(かくれたる)生命と力(ちから)ではあるが、それが台頭する、顕現する、またそれは“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)が当てられている、その意であると思える。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 松の巻 第二十四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、松の巻 第二十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我(われ)死なねば、大我(われ)もなき道ぞ、元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ、成りむつび、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ。
元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む。
元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ、富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地また大地動き、うづまくぞ、真理なりて極まり、鏡の如くなり、極まりて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ。
七月十日、あめのひつくのかみ。


 この第二十四帖も、先回の二十三帖同様、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)のことを述べている。


 まず、冒頭の文。

“早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我(われ)死なねば、大我(われ)もなき道ぞ”

 この言い回しは単に、自我の肥大を戒めよ、自らが自分の自我を諌めよ、それは“われよし”などという“ケダモノ”の段階のことなどを指すのではなく(そんな段階は問題外)、霊的成長度が低い自我中心の心(靈)では進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は望めないぞ、である。 
それで“早く早くと申せども”というのは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の希望、“下”である人間に望んでいることで、“立体の真道”というのは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を認識とし、体得し、実践せよ、それは理論や理屈でもなく、進化ということ自体に対し効果効能を説くことでもなく(ご利益を求める心ではないということ)、ただ、真摯に、謙虚に、実践せよ、ということである。
 この価値のある文言、その意味、そして解釈を述べたが、今述べたことを理解できる資質のある人間というのは、とても少ないと思う。
 その理由は、大概の人間が神や霊に対する認識が低すぎ、また自分の存在の意味や意義を求める心の動きになっていない、それだから神と自分ということを深く考えたことも無い、換言すれば自分が生きていることをしっかり考えたことも無い、まあ薄っぺらくは考えているであろうが…それはただ単に低いし、低い人間ほど“役員づら”の手法に嵌っており、自分を見る視点も低い、神を認識する視点も低いものである。
本題に戻り、この文で述べられている上記の要旨は次の文章に続いている。

“元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ”
 
 この文の“元”、この字自体が肉体を示す二、そしてそれに、儿部(じんぶ、にんにょう)であり、時間の進行(“道”)をともなった進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示す表記であることは幾度となく述べてきた。
そして、“世の元からの生神”という磐戸の巻の表記、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すのだが、その表記の中の“元”とこの文言のそれは、同義である。

よって、
“元栄えひらき鳴る神、”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)は次の時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)になったなら、より多くの人間に認識され=“ひらき”、それはこの事象にひろまるから、“鳴る”ということ。

“元にひらき成る神、”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った存在が、神そのものであるというのが、“元に”“ひらき”そして“成る神”、“神性”(“一”=智性=1番目のオーラ)を獲得した生命が神であるということ。

“元津神日の神、極みきわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ”
進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と、その振動を受け増幅して発振、発信する太陽=“日の神”は、この事象とそこにいる生命が進化したならば、今など比較にならないほど真に深く、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と神と、神の振動を送ってくる太陽(その振動を止める“行”が“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと)、というのを、認識するからこそ“極みきわまりて足り”であり、神の“思惑の顕現”である人間、“日止、霊止”は、神に対し砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であるから“月”であり、“上”と“下”の交流を“はらみ”とのべられ、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をきちんと受け止める生命を称して“月の神はらみ交わりさかゆ”といわれている。
 そして天意を止めて自らの心(靈)と成した存在が、二十三帖の“神人”という表記の意味である。

(私的には、太陽凝視に不食などという効果効能を求める低い心(靈)の人は、この文を読んで太陽凝視の意味と意義をよく考えて欲しいものであると思う…だが、検索してネット上の書き込みを見ると期待薄ではあるし、見れば見るほど幻滅を感じるものでもある)


 これに続く次の文は、上記の意味を引き継ぎ、そうなったならば、という意味合いである。

“成りむつび、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ”

 この文の“成りむつび”は、“上”と“下”の結び(むつび)で、生命は完成に至ることを示し、そうなったなら先の“元”の表記があった分の意味合い通りになるものであり、それはまた“ひふみ”=“一二三”のオーラの完成であり、“よろづ、ち、もも”は、万、千、百、であるが、これについては以前作った画像で意味を示す。

百 千 万 の解字と解釈 

 それで“ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく”をまとめれば、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を止める、自身のローレンツ力 ローレンツ力で取り込み“一二三”のオーラとして発振、発信する、それが先に述べたように生命の完成といえ、そうなったならば、“歓喜の大道”、これは今の腐った事象、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたたった今の現実に対する相対的な意味合いもあるが、進化した生命が創る事象は喜びしかないものであることを付け加えておくし、それ自体が神の思惑、神が人に望むことであり、そうなったならば、ますます、“神々更に動きひらき栄ゆ”、“上”の思惑は活発になり顕現され得る、それこそが神の弥栄(いやさか)という言い方も出来得るものである。


 次の文。

“元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む” 

 この文の“ナルト”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、いわゆる自省(胸の磁性“十”)のことをもさすが、それよりも、

“ナ”は、生命の殖え栄ひ進展の意
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝の如き生命素を集め凝らすの義
“ト”は、止まると云う心

であるから、生命の完成、程度の低い進化過程の地球人が“上”からの荷電粒子を真に固く止める(真固止)生命となるのが、“日止、霊止”の表記の意味であり、それ自体が先に述べたように神の“思惑の顕現”であるからこそ、
“元”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)
“津”=中心の意味合い、あるいは船着場の意味があるが、それは“上”が“下”に着く場という意味合いでもあり、よって“元”その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)の中心に近付き体得し、心身(日月)に止め“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)(“一二三”のオーラ)となす
 これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものであり(二十三帖表記の“神人”)、それ自体が“永遠に進み”、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”=“いき”は、進化が進めば進むほど、という意味合いで“ひらき極む”であり、その認識を持って“元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む”という文言を観るべきである。


 次の文。

“元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ”

 この文の“かくりみ”は、隠身、検索すれば「神は人間の肉眼では見えないこと、またその神の身。現人神の対」という意味を知ることが出来るが、これは平均的地球人の認識ゆえの解釈である。
私見を述べるならば、物質しか認識しえない程度の低い人間の視点では神を見ることが出来ない、また程度の低い人間は神を認識していない、換言すれば言葉で神を知っていてもそれはただ単に言葉でしかないということであり、自分の人生に神が関わっている、自分の人生は霊的成長のためのものであると認識していない、よって神と人間の関係を自分の一生に見出すことが出来ていない、それは神が見えていないに等しい。
 その低い段階は善悪の概念も形骸、そして価値観も低い、幸福の概念も低い。
 さらに“役員づら”のこと、程度の低い人間ほど神と言う言葉を利用して金儲けをしていることはいやになるほど述べてきているが、それすら見抜けないのが今の大半の地球人であるが、そういった程度の低い進化過程の心(靈)は次の段階に移行しえない。
 それがこの文の“元津大神かくりみ”、たった今は神の思惑は顕現していないといえ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)も認識されていないが、それは厳に実在し、資質の備わった人間が顕わしていくものであるという言い回しであると思える。
 それで、“次になる神”、今後=アセンション後は資質の備わった人間、完成を目指す生命(生きる使命=存在理由)である“日止、霊止”が、“元”を示す、世に、現津(あきつ)、観察され得る事象に示す、それは天意を受信して顕現する人(“神人”)だからこそ、“ほんとう”の意味合いで“現人神”(あらひとがみ)といい得るが、そういった人間が台頭するのが次の事象であるし、それは先に解釈した“ナルト”=“上”からの振動を止めて“一二三”のオーラとして息吹くのであるが、この進化の仕組みと“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)が認識されていないからこそ“次になる神かくりみ”、大半の人間には解らないという言い回しである。
 これに続く“富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地また大地動き、うづまくぞ”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、であり、“火”は、エネルギーの昇華、あるいは肝=“いきり立つ心(奴と心)”、事象を“創造”する意欲、“うづまき”は、心(靈)が荷電粒子の回転であることを示し、それは円形加速粒子機の構造を持つからこそ“鳴り”であり、進化すればするほど今述べた“富士”“火”“うづまき鳴り”が、“極みに極みて”となり、そうなっていくならば、この事象は今とは違う事象になることを“地また大地動き、うづまくぞ”と称され、重複するが今の腐った事象が“上”の振動を取り込んだ生命(“地”)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により変容することを“地また大地動き”“うづまくぞ”である。
 
 このことを踏まえて次の文。

“真理なりて極まり、鏡の如くなり、極まりて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ”

 たった今の事象は“真理”などと表現するには能わない(あたわない)、“上”から観たら不条理で幼稚な世界なのだということをこの文から読み取るべきであるし、進化したならば神の思惑が台頭するからこそそれは“真理なり”といえ、それがさらに“極まり”であり、“上”と“下”、神と人間が、“鏡の如くなり”、“上”の思惑を映す、“上”の思惑が反映するの意味合いが述べられ、それが“極まりて、動きひらき”、ますます盛んになり(神の弥栄(いやさか))、そしてそれが神の思惑の顕現、人を創造した理由、それが成る、その意味合いが“極まりて大道、遂に成るぞ”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 松の巻 第二十三帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、松の巻第二十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。正しくひらけ弥栄へて更につきづ、鳴る道に成り、交わる。 永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。 展きてつきず、極まり成る神の道。 
苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉く歓喜弥栄ゆ。
七月十日、あめのひつくのかみ。

 これまで述べてきたように松の巻の〇つは、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)を指すものである。
 このことをよく解ってないと、第二十三~二十四帖は読み解けないと思う。

 まず、冒頭の文。

“国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ”

 この文の“神人”は、たった今の平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)に相対する言い回しであることはすぐ分かる。
 これまで幾度となく述べてきたように平均的地球人は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、第三密度であり、“江戸と尾張”(腹の水=“江戸と尾張”の“江”、自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロン)であり、“石屋の仕組み”にはまって進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という点でほとんど価値のないものを追い求め続ける、それが幸福だと喜んでいる“ブタのけつを見ているアホ”ばかりであり、智性(神性)無き心であり、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるから、“日月神示”では“ケダモノ”などという表記を使われている。
 当然のことながらそれは“神人”ではないし、神の思惑を顕現する資格も資質も無い、だが、これから(今後=アセンション後)は、そうではなくなる、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)した人間(松の巻の〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈)))は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、を、自らに止め(“日止、霊止”の表記の意味)、思想を構築し(日足(ひたり)の極性)、行動に顕わす(砌(みぎり)の極性(事象への顕現))ものである。
 このことを解っているならば、
“国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む”
これからの“世”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その“道”によって“ひらき極む”、だから、これからの(場(フィールド)としての)“国”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人、“神人”が、天意を取り込んで感応する=“鳴り”、そしてその思惑を顕現する=“動く”、と述べられいることが解るものである。


 次の文。

“日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ”

 天、“上”、その振動、を“日月”と称し、“地”は、自分たち人間のこと、これまでは天意と人間は“交わり結び”とは言い難かったが、これからは違うのだ、という言い回し。
 先に述べたように“神人”は天意を顕現するのであるから、神の思惑は、“更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え”であり、その資格と資質、天意を自らに止めるには“大地固成”、“大”は人間が手足を広げた様、“地”は天意=“上”に相対した言い方としての“下”(低い心(靈))でもあり、あるいは“石”(帯電するミネラル)の意味を持つ。
 そして“行”の意義は、“固成”それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化であり、“石”(帯電するミネラル)が結晶化するからこそ、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、のより高いそれと感応していくのだが、このことすら大概の地球人は全く理解に及ばない程度の低い進化過程である。


 次の文。

“正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ”

  この“正し、三神”は、これまでの“日月神示”によく使われた“御三体の…”という解釈でもいいが、ただ“上”と解釈するのが妥当であると思うし、“正し”は、但しではなく、まっとう、正当、という意味合いであり、これまでの人間の認識による“御三体…”“上”の認識はてんで低く、“役員づら”によって歪曲されてしまってそれが既成概念や一般常識になっているからこそ“正し”という表記が使われているのだと思う。
 そしてこれまでの間違った神の概念ではなく、まっとうな神の認識、“上”から観て正しい神の認識、というものが広まるし、それを体得しているのが“神人”ということでもあるから“正し、三神は世に出づ”であり、その“神人”の“ひふみと鳴り成る”は“一二三”のオーラの発振、発信がたかまっていくことを指す。


 次の文。

“正しくひらけ弥栄へて更につきづ、鳴る道に成り、交わる。 永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。 展きてつきず、極まり成る神の道” 

 これまでの世は神の思惑も顕現されていない、間違った世であったが、先に述べたようにこれからは“上”と感応しうる“神人”だけの世界になる、それは“上”から観て正しいカタチである、それを指す言い回しが“正しくひらけ弥栄へて”であり、更に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくからこそ“更につきづ、鳴る道に成り、交わる”である。
 そしてそれは“永遠の世光る”、ことに“光る”の表記の意味は、自ら持っている振動より相対的に高い振動は光と感じ得るからこういい現わしている、そしてそれは“永遠の大道”であり、“上”と“下”、神と人間が感応してその“一二三”のオーラが事象を“創造”するから“息吹き大地に充ち満つ道”であり、より神の思惑は高く広く展開する=“展きてつきず、極まり成る神の道”である。


 次の文。

“苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉く歓喜弥栄ゆ”

 これは、これからのこと、“神人”が台頭する世になること、それまでは、“苦しむ道”だが、それをする=“道をひらき”、天意と感応するその“行”の苦しみ、苦痛、苦悩、これらすべて神の試練であるが、それが人間にとっての“ほんとう”の価値であるからこそ“日月地に苦しむ喜び出で”であり、より神と感応していくからこそ“神の国むつび”であり、幾度となく述べてきたが今後=アセンション後は、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の元もないし、恨みの連鎖そのものが無くなっていくからこそ、“悉く歓喜弥栄ゆ”=今と比べて相対的に“うれしうれし”“大歓喜”の世になっていくものである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

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