“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その二”



 今回も、夜明の巻 第十三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。 あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。
取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。 祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。 天明まつりの真似するでないぞ。 役員まつりせい。 何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。 仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。 天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ。 口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか。
今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。
イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。 今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 
神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ。 悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ。 
神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。 愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ。 実身掃除せよ。 ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ。 ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ。 
まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。 神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ。 信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。 みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ。 
「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」
 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ。 
此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。
 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす。

 冒頭の文。
“あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。 あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが”

 これは、さきに解釈した第十二帖の
“あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり…中略…大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ”
これを強調した言い回し、そして今の世、たった今の事象が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で“創造”されている低い事象、それが変わってくる、自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の人よりも、“上”である岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことをある程度成した人=“”をした霊的成長度の高い人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“創造”される事象=“世”になるからこそ“すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり”であり、その事象そのものが“世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり”である。 そして“此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。 神界幽界のことも言ふて知らしてある”は、“此の神示の臣民”=次の事象の“創造”に携わる心(靈)の資質と霊的成長度を持つ人と、その人に感応する霊的存在を指すが、これも相対的な言い回しで、これまでは自我の確立=固定化の進化過程における“上”の感応、これが平均的地球人の霊的成長といえるけれども、今後=アセンション後は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことをした人に対する“上”の感応ということになる。
 要は、これまでの“上”の感応よりは、レベルアップした“上”が感応するの意であると思える。

 次の文。
“取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。 祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。 天明まつりの真似するでないぞ。 役員まつりせい。 何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。 仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。 天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ。 口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか。
今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”

 たった今の事象は、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)の台頭で、“上”との感応である“まつり”の意味や意義を理解できないし、形骸の儀式でしかない“祭典(まつり)”が当たり前であるという認識でしかない。 当然のことながらこの低い認識の持ち主では次の事象の“創造”に参加する資質は無い。
 幾度となく述べてきたように、人の霊的成長には“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が必須、そして“上”と感応する息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は自分の在り方によるものであり、何を思い何を考え何を追求しなければならないか、また自らと遭遇する事象に対し何を感じ(感じる磁性)何を考えるべきか、常にこれに留意しなければならないものである。
 冒頭で述べられているように“取違ひ慢心一等恐い”、これは自我の肥大(“石屋の仕組み”)による心(靈)の動きで“取り違ひ”=“上”の思惑を書き換え、“慢心”=“取り違ひ”を受け入れそれを褒めそやし、低い功名心で“取り違ひ”の教義みたいなものを尊び喜んで雰囲気だけに酔っぱらっている“ブタのけつを見ているアホ”これが大多数を占めているのがたった今の腐った事象、“われよし”“自己奉
仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、その低い振動で“創造”された事象である。
 そのことに気付けの意味合いで“祭典(まつり)、国民服もんぺでもよい”、形骸の儀式などに対して意義がないから、当たり前の服装で臨んでもよい、ということでもあり、“天明まつりの真似するでない”は、“上”との感応は“真似”ではなく、“行”を重ね“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化を自らの意志で進め、自らの肉体(月(ツキ))の磁性が強化されてそのローレンツ力 ローレンツ力 のたかまりにおいて“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込むことをする、そして荷電粒子自体が情報を含む=神の思惑であるので、それと感応するべく資質を持たなければならないのだ、の意である。 その意味合いで“役員まつりせい”、次の事象の“創造”に関わる、その資質を持つ、その霊的成長度、“上”が認める“役員”は、“上”と感応せよ、である。
 これに続く“何も云ふでないぞ。 言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか”これは今取り上げている文言の“口先ばかりでなく、誠祈れよ。 祈らなならんぞ。 口先ばかりでは悪となるぞ。 わかりたか”にかかる言い回し。
 “役員づら”は、“日月神示”に対し(当然のことながら“日月神示”だけではないが)、勝手な解釈をして吹聴し、利用して金儲けをしており、間違った程度の低い解釈を流布してそれを世に広めること自体が悪魔の思惑であることに気付いていないし、“役員づら”の解釈を受け入れている程度の低い人間自体も、自分たちが悪魔の思惑通りになっていることに気付きもしないという現状があるから、“口先ばかりでは悪となる”と称されている。
 要は、低い解釈をする人間は先の“取違ひ慢心”であり、それは不誠実である、“上”に対する冒涜である、これに気付けの意味合いで“口先ばかりでなく、誠祈れ”、真摯に追い求め、自分と神の関係を深く鑑みよ、“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”を流布するな、勝手な解釈や憶測を述べるな、“ほんとう”の解釈をする霊的成長度の高い人間=“役員”に委ねよ、の意味合いである。
 それで前後するが“仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ”、この“仕へる者無き宮”とは、“役員づら”が祀り上げている賽銭を徴取する目的の神社仏閣のことではなく、人が“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化して“上”と感応して“宮”(宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”(荷電粒子の回転の意))となれ、の意であり、“産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ”、“産土”は、人の誕生から死に至るまでを管轄する土地の神、氏神であり、その“横下にいくら祀ってもよい”は、“上”と感応する人間をたくさんにするのだ、の意であると思える。
 もうひとつ“天明は祈れ。 祈れ。 天に祈れ、地に祈れ、 引潮の時引けよ。 満潮の時進めよ。 大難小難にと役員も祈れよ”、これは岡本天命自身が“上”と感応せよ、の意味合いと、その時々の情勢という者をよく鑑みて息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)せよの意味合いで“引潮”“満潮”と称されており、“大難小難にと役員も祈れ”は、アセンションに移行する際におきる醜い事象に対してのことであり、霊的成長度が進んだ人間が増えるならば“大難”は“小難”に成り得るのだ、という意味合い。

 次の文。
“今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”

 この“借銭”については今まで幾度か出てきた表記であり、これについては、
地つ巻 第八帖が解りやすいので以下にコピペしておく。  


“祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。”

 この文の表記の“借銭”っていうのんは、(通貨としての)金のことを言っているのではない。 それはこの文自体の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”に示されている。
 そやからこの文の言い回しを考えれば、銭を借りるっていうのんは、助けてもらうとか力を加えてもらうって考えれば分かりやすいし、またこの言い回しには別の意味も感じられ、それは、恨みの連鎖の霊的干渉のことも言っていると思われるし、それがこの文の“祓ひせよ”に示されていると思える。 
 まず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が助けるとか力を加えるとかのことから解釈を述べるけど、それは地球人が進化程度が低く、力不足だから、“上”は力を加えてきた。 
それは表現を変えれば、地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかったともいえるし、“上”の介入はいうまでもなく憑依現象であり、“上”は地球人の進化のため、憑依現象でいろんなことを教えたり指導してきたりもしてきた。 
そうやって政治や宗教や科学や学問や、文明を構築してきたりもしたし、もっと低いことではスポーツなんかの現象もある。
余談になるけれど、重要なことだから補足しておくけど、すべての事象には霊的干渉の無いものは無いってことでもある。 常に人は、自分にどんな霊的干渉が起きているのか意識しなければならず、その霊的干渉は自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって起きていることも深く考えるべきである。
本題に戻り、宗教はちょっと別の意味合いもあるけれど、政治、科学、学問、スポーツなんか、あらゆることに自分が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示したいって思うのは、愛(炁)が動機のこと。 簡単に言えば自分の理想を実現したいとか幸せになりたいとか思うことが、愛(炁)が動機のこと。
だから人(日止、霊止)は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、力を示し、“術”(“力”の顕現)を獲得してきたけど、科学や政治や学問やスポーツが“術”(“力”の顕現)って認識は一般に無い。 
それは“術”って言葉に、甘い(亜、魔、出ずる、泉)幻想を抱いているからや。 
また“術”が、憑依現象による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現で、それは一般の認識、甘い幻想の、仙人の術とか天狗とか導士とか、魔法とか魔術とかだけではない。
そやからそれは、ローム太霊さんはローム太霊講話集でも、S会=紫光会の交霊会でも、“術”(“力”の顕現)については霊的干渉であり、自分の思い(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による霊的存在の憑依や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による現象化であることを述べている。 
またそこには、自分がエネルギーを贖わないと、高い存在は力を貸してくれないっていうとても大事なことが述べられている。 
これはきわめて重要な法則性でもあるし、また、“力”を獲得した人が、どう在るべきなのかを感じさせるものでもあるし、ローム太霊さんはそのことまでローム太霊講話集で述べており、それはまたS会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”(この事象に対する奉仕)にも顕れているものである。 
そして、ローム太霊講話集を読んだ人やS会=紫光会の交霊会に出席した人でも、そのことに気づいている人はあまりいないっていうのが、自分以外のS会=紫光会の会員に会い、話をした、○○○大先生の感想でもある。
そやからそれは、そこに自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきなのか深く思わされるものであるけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)は、その“力”って物を自分のためにしか使わないし、その心(靈)の動きの裏には(通貨としての)金があり、物欲があり、目先の欲望があり、それにとらわれている人は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることを何度もいうてきた。 それが自我の肥大、“石屋の仕組み”でもある。
だから自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わないことを、この文では“借銭”と称されていて、本来“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人(日止、霊止)に加えた“力”は、よい世界の創造のために行使するもんや。 決して自分だけの利益に使うものではないって当たり前のこと何やけど、進化程度の低い地球人はそのことすら真剣に考えたことが無い。
そやからそれは、こういう言い回しも今まで何回もしてきたけど、大半の地球人の霊的進化程度は低いし、だからものの見方が低いし、それは○○○大先生の言葉を引用すれば、“事象を観察する視野が狭い”ってことになるし、そしてそれはただ認識が低い=霊的に低いってことになる。 
だから、ただただ霊的なことや、術って言葉にも、甘い夢を見る現世利益みたいなことしか求めてない人が多い。 
そやからそれは前後するけど、S会=紫光会の会員でもそうやったってことでもあるし、○○○大先生が一冊目の本(ローム太霊との出会い)を出版して、ローム太霊講話集を読んだ人からも連絡やメールをもらったりして100人以上の人と話をしたんやけど、“術”(“力”の顕現)は憑依現象による“思惑の顕現”=現象化であり、それには自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が大事であるなんて認識を持っていた人は、ほとんどいなかったし、自分が頑張って(元の気を張って)発振、発信しなければ“上”は力を加えてくれないってことすら感じていない人が多かった。
ほんでから憑依現象っていうのんは、地球人の進化過程は現時点、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンなのだから、霊媒体質の人が多く、何かの霊現象や“上”から通信を受けて発明や発見をしたとしても、スポーツなんかで力や技を示したとしても、それは低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現でもあった。
そして霊媒体質の憑依現象は自分の心をのっとられることも多いし、さらに低い功名心や自尊心=自我の拡大、それは偏ったマニピューラチャクラの機能ともいいうるけど、自分の低い心(靈)に自分自身がとらわれることもとても多いものや。
そやから“力”の使い方を間違えて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になり、失敗の人生を送る(右往左往)。
そやけど今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化してマニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒段階に至り、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”できるようになれば、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方と、“術”(“力”の顕現)をどう行使したらよいのか考える智性(“一”、1番目のオーラ)を持つようになる。
この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程があれば、もう間違った“創造”はしないし、それは先ほど述べた自己奉仕者の力の使い方である“借銭”ではなく、そこには当然“上”が“創造”の法則性を示す意味での“神の咎め”はなくなるってことになる。  
それがこの文の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”であり、そして今、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉は盛んになっている。 
それは心(靈)に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としてまず、砌(みぎり)の極性が強くなるからこそ現時点の地球人は自我の肥大って霊的成長度でもある。
しかし自我の肥大って心(靈)の動きによる事象の“創造”は、他者の幸福を考えず、自分が位置する全体としての場(フィールド)のよいカタチを思わないから、“日月神示”では“われよし”と言われているし、それは“創造”の“主(ヌシ)”が人に託した“創造”のよいカタチではないからこそ、“神の咎め”として法則性を“上”は教える。
そしてそれがアセンションに伴う醜い事象そのものであり、それを体験した自我の肥大って進化程度の人は、自省(胸の磁性“十”)をするって今まで何度もいうてきた。
そして自省(胸の磁性“十”)って心を持ったならば、もう醜い事象を体験する理由がなくなる。 だからこの文で“世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ”と言われ、もう“上”が霊媒体質の人に憑依しなくても、自分たちが高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、その上で獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)で、自己奉仕者の力の使い方ではなく、S会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”を理念として、今後=アセンション後はよいカタチの“創造”をしていくことが出来るし、それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は望んでいるってことが言われている文章だと思われる。


 引用終わり。 
 よって“今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ”というのは、今までは“地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかった”のだが、今後=アセンション後は、誰もがしっかりとした思想を持ち、誰にとってもどんな人にとっても良い条件の事象を“創造”する、そのための“力”の使い方をする、当然霊的成長しているから先に述べたレベルアップした“上”との感応があり、またそれは憑依ではなく自らの思想となるものであり、
その思想の顕現ゆえの事象となる、だが、そうなるためには“苦し行せなならん”であるし、その資質を持たなければ“お土の上には住めん事”と述べられている。

 次の文。
“イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。 今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 
神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ。 悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ”

 この文の“イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できる”。
まず“イシの人”については、“イ”が、生気生命の発生力、“シ”は、弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ、であるので、高い振動=弱き光と感得しうる振動、高振動での生命(生きる使命=存在理由)となるの意。
 “キの人”は、“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし、であるので、“上”から“下”=天地の振動を取り込み顕現する生命(生きる使命=存在理由)の意。
 “ヒの人”は、“ヒ”は その音霊こそすべての物の根、ヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十のヒ。 心(靈)(ヒ)、日、火。なので、現津(あきつ)、観察され得る事象の根源=すべての物の根、これを発振、発信する、息吹く、これまでとは違う事象を“創造”する生命(生きる使命=存在理由)の意。
 “ミヅの人”は、水の巻、三ローレンツ力と ○ (みず)の○キ、の“三ローレンツ力と ○ ”。
 “三ローレンツ力と ○ ”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラのこと、そして〇は、霊、荷電粒子の場(フィールド)であり、〇と ローレンツ力ローレンツ力 が合わさった表記は、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、肉体(月(ツキ))の|(たてぼう、こん、縦の磁性))と横棒━(よこぼう、水平磁場)で止め、それを円形加速粒子機の構造で発振、発信する仕組みをも表すので、今の地球人よりも“一”=智性=1番目のオーラが大きくなった智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)ある人間の意。
 これに続く“今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるなよ。 神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。 神頼むぞ”、この“チリチリバラバラに一時はなる”は、たった今の事象においては低いものが寄り集まり、それはこの後に出て来る“まどゐ”=人々が輪になって座ること、車座(くるまざ)団欒(だんらん)、この場合は“役員づら”とそれに迎合する集団のこと、でもあるが、次の事象の“創造”を担う資質のある人は、たった今は“チリチリバラバラ”これに“一時はなる”、これは孤立無援で四面楚歌に追い込まれるが、それも神の思惑としての試練であるし、それに耐え、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)を待て、“上”に委ねよ=“その覚悟よいか。 毎度知らしてあること忘れるな”であり、それまでに自分の認識を高めておけ=“神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下され”である。

 次の文。
“悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ。 信ずる者皆人に知らしてやれよ。 神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。 天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ”

 この第十三帖そのものが、霊的成長度の低い“役員づら”とそれに迎合する信者みたいな人間に対するメッセージの部分が多い、“役員づら”の解釈が“取り違ひ”“慢心”であることに気付け、でもあるし、“日月神示”を“ほんとう”に理解しうる人間ならば、その霊的成長度ならば“悟った方 神示とけよ。 といて聞かせよ。 役員 皆とけよ”である。  
これに続く“神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが”は解釈の要なし。
これに続く“天明は神示書かす役ぞ。 アホになれと申してあろが、まだまだぞ”は、“上”の思惑を自動書記で記すのが岡本天命の使命なので、それ以上のことを思うな、程度の低い人間は褒めそやすだろうが、それは“役員づら”の手法だからおだてに乗るな、の意。
これに続く“役員 気付けて呉れ”は、“役員づら”の手法に乗るな、気を付けろ、の意と、“上”と感応して高い振動を取り込め=“気”“付けて呉れよ”である。

次の文。
“神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。 愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ。 実身掃除せよ。 ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ。 ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ”

 この文の“ミ身”そして“実身”この表記の意味が肝要で、カタカナの“ミ”は生命の幹 その現実、の意があり、漢字の“身”は、現界に居る肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の意であり、“実”は、実った様、あるいは偽物ではないもの、真に意味と意義のあるものの意であると思える。
 よって文中の“神示の代りにミ身に知らす”は、“日月神示”の文言そのものではなく、“上”の思惑を、生命(生きる使命=存在理由)である(“ミ”)と肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)に荷電粒子で送る、その時期が近づいたので“愈々の時ぞ。 神示で知らすことのはじめは済みたぞ”であり、その荷電粒子、高い振動と感応すべく資質を作っておけよの意で“実身掃除せよ”、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化してしっかり“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止められる肉体(月(ツキ))を作り、当然心(靈)の発現も自我から“上”の強化が成されているから、“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ていなければならず、そうならば、そこまでの資質が整っているならば、“ミ身に知らすぞ。 実身に聞かすぞ”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を伝えるぞ、であり、それは今後=アセンション後の事象に位置する心(靈)には必須のことであるからこそ“聞かな聞く様にして知らすぞ。 つらいなれど、がまんせよ”であるし、たった今、自我の確立=固定化を促す振動に満ち満ちているこの事象では、“取違ひ”“慢心”しやすいからこそ“ゆめゆめ利功出すでないぞ。 判りたか”である。
 これに続く“百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。 何にでもなれる様にしてあるでないか。 役員も同様ぞ”は、それぞれの使命、氏名は天命、“上”から告げられ、それを成していくことが、“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)となる次の事象になるのだ、ただそれは人が人を観るならば、やることの違いはあるのだ、だが、それはすべて神の思惑であり、全体への奉仕であり、奉仕するからこそ奉仕を受ける権利が派生するという今の事象とは違う仕組みになっていくのだ、の意である。

 次の文。
“まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。 神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ。 信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。 みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”

 “まどゐ”は先に述べたとおり、“役員づら”の集団、例えば規制の宗教、インチキスピリチュアルを信じ込む御利益を求める低い心(靈)の集まりとその霊団も含んでいる。 話にならない低い人間と、それに感応する低い霊的存在の集まりを指すものである。
 そしてそれらは低いからこそ物欲と金に対する執着があり、それが台頭しているならばそれらは低いのだ、という判断をするのが確かなものの見方でもあるが、これが出来ていない人が圧倒的多数なのがたった今の事象。
 これに続く“神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。 此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。 いや栄へるぞ”、これは先に述べた、全体に奉仕するものは奉仕を受ける権利が派生する、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”のように“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の利益のためだけにしか使わないのは、霊的成長度が低いし、当然、次の事象の“創造”には参加する資格なしであることを含んだ言い回しである。
 ちなみに、これまでの“日月神示”で幾たびか登場した表記の“此の方”は、次の事象へ移行する霊的成長度の高い心(靈)の持ち主を指す。
 これに続く“信者つくるでないぞ。 道伝へなならんぞ。 取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。 神示いただけよ。 日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。 世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”は、“役員づら”を当たり前のように扱っているこの事象、そしてそれが既成概念になっていることに対する言い回しも含め、それは、“取違へ”と“慢心”だから、そうならん様にしろ、の意味合い、低い功名心と自尊心、自我の肥大のない心(靈)=“生れ赤児の心で神示読め”であり、“神示いただけよ”は、“上”と感応して高い振動を取り込み認識(悟り、幸取=さとり)を拡大せよ、心(靈)を育てよ、である。
 これに続く“日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ”は、右翼傾向の強い霊的成長度の低い人間が間違える文言であろうが、太陽と本、それが“日本”の表記であり、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める資質を持つ、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことを長年行って、次の事象の“創造”を担う使命、“役員”たる人間のことを指すし、そういう人が台頭する事象になったなら“ 世界の人民 皆よろこぶ世が来る”のであり、そのために“祈りて呉れよ”×2、であり、これに続く“てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。 このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。 御民いのち捨てて生命に生きよ”、これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が認めた“役員”=“てんし様”“みこと”に“服(まつ)ろへ”=倣う、従属する、恭順に受け入れる、そうなるならば、“このこと出来れば他に何も判らんでも、峠(アセンションに伴う事象)越せる”のであり、それに真摯に向き合う、死にもの狂いに向き合う、“御民いのち捨てて”ならば次の事象において“生命に生きよ”、“上”から使命、天命を付与されるものであるの意。

 これに続く次の文
“「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」
 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ”

 この文の“「鳥鳴く声す 夢さませ…以下略…」”は、これまでとは違った夜明(アセンション後のこと)が来ますよ、の意味合いである。
 これに続く“「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」”、これは艮(うしとら)の金神が大本教を通じて教えたいろは歌である。 これを唱えて、“上”と感応せよの意味であると思う。
 これに続く“「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」
 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。 五十九柱ぞ”は、深い意味合いを感じるので、次回、“その三”で解釈することとする。
 
 次の文。
“此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。
 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。
 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす”

この文の“この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ”は、ここまでの“日月神示”、上つ巻、下つ巻、富士の巻、天つ巻、地つ巻、日月の巻、日の出の巻、磐戸の巻、キの巻、水の巻、松の巻、夜明けの巻、であり、ここまでのことをしっかり読み取り自分の認識として実践するならば“何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ”ではあるのだが、“判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ”=それぞれの霊的成長度でしか認識にはならないのだ、と言われているものでもある。 これは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の法則でもあり、“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)ということが分っていないといけないし、高い存在と感応するには、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をして、さらに“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしなければならないのだということを述べておく。
 このことを強調する言い回しが“天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。 あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ”であり、
“天津日嗣皇尊”は、先回の画像の意味合いである、“創造”の“主(ヌシ)”の振動が下降して生命(生きる使命=存在理由)が発現し、それは“一二三”のオーラであり、その思想により息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)をして事象を“創造”するのだということを理解しなければならない。
 さらに“天津日嗣皇尊”の表記そのものに“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を嗣ぐという意味合いがあることを以前作った画像で示す。

天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)の解字


 これに続く“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)”
これは、
日月の巻 第三十一帖で述べたので以下にコピペしておく。

百 千 万 の解字と解釈


“創造”の“主(ヌシ)”の振動(“一”(亜から出ずる、アイ))を止め(“日止、霊止”の表記の意味)シンクロトロン放射の構造を持ち(“十”脳と背骨の縦の磁束と手と胸の水平磁場、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現)そして“百千卍(もちよろず)”するのは画像で示した通り、“上”の振動を止める表記が百と千であり、卍は左回転であるからこそそれは自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現であり、それは大日如来の条帛(じょうはく)で示されている左回りで“上”にエネルギーが上昇するさまであり、それそのものが神格化のプロセスである。
また“百”の画像で示した通り“上”の振動を取り込み自らの心(靈)の構成要素としての高い振動を取り込む具体的な手段は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化となっていくものであるからこそ、より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく。


 最後の“秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす”の、“秋満つ日”は、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が満ちた日、その時、という意味合いである。

“秋立つ”の解釈と解字
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その一”

  今回は、第十三帖に描かれている以下の画像の解釈をさせてもらう。  
 次回、本文の解釈をさせてもらうこととする 

夜明の巻第十三帖

“ローム太霊講話集”第七話~第十六話 死の前後 死後の種々相 Kellyさん的解釈の総括


 ローム太霊講話集の第七話から十六話を読んで誰にでもすぐに解りそうなこととしては、情報としての死んでからのこと、そして幽体が育っていくさま、平均的地球人が死んだならどうなっていくか、またその死に方において心=霊は、どういう過程を経ていくか、この詳細は、平均的地球人が余りにも死に対して無知、また、よい死に方、まっとうな死に方をしていないものが多いという点でも、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である太霊の事情として、これを説明しなければならなかったということはある。

 それで霊的成長度の低い人は、第七話~第十六話を読んでも、情報以外に心(靈)に残らない、いわゆる太霊の伝えようとしていることすべてに対し、たいして感応していないということである。
 いうなればそれは、平均的地球人の霊的成長度では太霊が述べている文言に、自分たちの在り方、どう生きるか、自分たちの存在の意義と意味、を見出すことが出来にくいと幾度となく指摘してきたこと。

(これは、ローム太霊講話集を編纂した寺見文夫氏にもいえる、それは第七話~第十六話の副題のつけ方が妥当なものではないと思えるからである)

 そして先に述べた“情報としての死んでからのこと”、いうならば自省(胸の磁性“十”)の“行”だが、これについての太霊の文言を以下にピックアップする。

第十話
自分が肉体を持って生きてきた生涯の幻影(まぼろし)が走馬灯のように次々と現われて、あれは悪かったこれは善かったというふうに、自分の善悪の業(ごう)がしみじみと悟らされる…中略…そのうちに段々善い方のことは頭に浮かばなくなり悪い方のことばかりが思い出されてきて、終(つい)には悔恨の涙に咽ぶ…中略…中でも一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと

第十一話
閻魔の庁の浄玻璃(じょうはり)の鏡で、この自身の悪業に対する悔恨を如何に処理すべきかが幽体自身の使命

第十三話
自分の生前の行為をまざまざと見せられ、悔恨の涙を流してから先祖の力によって一定の城郭に引き取られる

 ここで述べられているのは、平均的地球人が自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、自省(胸の磁性“十”)が足らないからであるし、自省(胸の磁性“十”)できない霊は悪霊であることに気付くべきでもある。

 それ以前に、大概の人は霊的成長度が低いから、死んだ後には何もないと思ったりもする。 ○○○大先生の著書の読者会において、こういった人間、「死んだ後には、何も無いと思っている人間について」に対して皆さんはどう思うか、というテーマを提起したことがあったが、こういう人間は霊的成長度が低い、欲望を満たすことが生きることだと思っている、よってそれは、生きることの意味を真摯に考えたことが無い、 また、霊など無いと思うから自殺したり人を殺したりもする、という意見を賜った。
 極めて妥当な認識由来の意見であったと思う。

 それに相対し、大半の地球人の認識は、心、霊、が同じであり、その心(靈)の動きには高低、“上”と“下”があり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は心(靈)が“上”になっていくことなのだ、神に近付くということは現地球人においては、自我より“上”の心(靈)の台頭となっていくのだという概念も無い。
 だからこそ霊的成長度の低い大半の人間は、太霊の文言に対して情報しか解りえない、そこで説かれている自我からの霊的成長、そして人間の在り方について、これら重要な事柄に対し、気に留めないで読んでしまっているということになるものである。

 それで太霊が第七話~第十六話で伝えようとした死後のことにおいても、平均的地球人の霊低成長度における「自然死」(第七話)「正常死」(第十一話)ならば、平均的地球人の霊的成長度における妥当な死に方と言いうるが、地球人全員が因縁を背負っており、その因縁は恨みの連鎖の霊的干渉によるものであるし、よって副題から引用すれば「病死と事故死」「殺人」「天災、戦争による集団死」「事故死と自殺」などの死に方がある。
 これらは第七話の太霊の言葉を借りれば“不慮の死”であり、その場合、その心(靈)は“自覚は遅い”のであり、この“自覚は遅い”霊を増やしたいのが悪魔の思惑であり、その結果として、恨みの連鎖の霊的干渉があり、現時点どんどんそれが増しているということをも、しっかり読み取るべき。
 その具体例として太霊が述べていらっしゃる文言を以下にピックアップする。

第八話
地縛の霊は、他の人間を自分と同じ状態で死なせないとその縛(いまし)めが解けない…中略…そうすれば自分は好きな所へ行かれて楽しいことのようであるが、その行く先はやはり人間でいうと地獄の方

第九話
幽体そのものが憎悪の固まりとなって

執念(しゅうねん)のために自分は浮遊霊に成り下がる

相手の霊は、必ず自分が前に殺した者の霊と一団となってそこに再び二つの魂の争いが続けられる…中略…それらの魂は凡て同じ系統を引いた類魂(るいこん)によって、憎悪の霊団に入いりその一員となる仕組みになっている

第十話
何といっても一番困るのは戦争…
その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う…中略…戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが…中略…相手国の首脳や国民を永遠に恨む…中略…戦勝国の戦死者の霊達も…中略…相手国に憎悪の念を持ち続ける

第十三話
常に現世の絆(きずな)に引かれる者は終に地縛の霊となって、自分の死んだ場所に多くの人間を誘(おび)き寄せる魔の道をつくる

本人自身は既に死んで…中略…彼にその復讐の念を起こさした禍(まが)神(がみ)(悪神)の手下の支配霊が本人の肉体を犠牲の対象としてその相手を苦しめることが出来る…中略…本人はその憎念が消えるまで何百年でも殆んど知らずに眠らされるのであるが、目覚めてから悔悟に至るまで如何に苦しむかは察するに…以下略…

これらの憎悪の念は三つ巴となって旋回しながら次第に膨張してゆく。こうして初めの一人の憎念がいわば台風の目となって終(つい)には大きな渦巻を起こし、その余波が現界にまで及ぶ

憎悪は必ず相反撥しながら大きな竜巻になることと、どんな正当な理由があろうと自分が起こした悪の波動は必ず自分に返ってくるものである

第十四話
その死んだ場所に地縛となって、現界の者を引き入れないと自分達が抜け出せないとなると、これは困ったもの

第十六話
恨みに対する願いの場合は、その陰にいる諸々の悪霊達(俗に幽鬼などと言われる者)が…中略…苦行している人間の力を利用して、ある程度その目的を遂げさせる

 これらを読んで、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に気付かないならそれは、単なる大ばか者であると(アタシは)思う。 
 そして、現地球人が因縁を背負っており、その理由と根拠となっている恨みの連鎖の霊的干渉を見出し、それを解決の方向性に導くことをする、そこにおける自分の在り方を鑑みるべきであると思う。
 ことに“憎悪の固まり”“執念”“憎念”“永遠に恨む”“憎悪”“恨みに対する願い”、この心(靈)の動きに捉われる、やられたらやり返したい、殺されたら殺して仕返ししたい、それを達成しないと気が済まないという発想をするのは、自我の肥大である。
 それを諌めよと、第九話の以下の文言で太霊は示しておられる。

汝等は常に心の鍛錬をしているが、人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神になること…中略…誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造ることが大切…中略…仮令拷問(ごうもん)にかけられ爪を燃やされる思いであろうと、それに堪え得るだけの精神の修養はロームが常に教えている筈である。そんなもの恨んだところで何になる。 絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っているのである

 こういったとても大事な心(靈)の在り方について、多くの人が鑑みるべきである。

 それで、死んだ後の霊的成長、平均的地球人の死後の幽体は、自我主体の心(靈)の動きであると解釈しているし、“自覚は遅い”ものでもある。
 また、死ぬ前の心掛け、死んでからの霊的成長に関わることとして、太霊は以下のように述べていらっしゃる。

第七話
幽体の離脱を楽にするために、人間が常に努力しているのが精神統一であり又信仰である
この“精神統一”については、第一話の解釈で以下のように解釈したから、コピペしておく。

「第一話でいうところの“精神統一”に対し、ローム太霊は“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”と述べられておられるから、肉体、現界、そして幽体と幽界を感じうる自らの心(靈)が持つ低い振動だけでなく、霊体、霊界、そして神体、神界を感じうるのは本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された自らの心(靈)の、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動で構成された部分で、要は自らの心(靈)が持つ一番上の振動は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)なのだが、智性の発現の少ない平均的地球人を対象に述べられていることとして、その智性(神性)を中心に自らの心(靈)とするならば“四つの体が統一されてその統合した力を発揮し、種々な活動をする状態が真の精神統一なのである”ということになると思うし、そう思う根拠は、この世界が、(あまり智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)の無い)自我の肥大した人の活躍で“創造”されており、恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちており、もうすぐこの世界そのものが崩壊の局面に至るからである。 よってローム太霊が第一話で使った“精神統一”という言葉の示唆することは、本能から智性(神性)まですべて統一せよということ」
 それと、ここで述べられている“信仰”というのは、いうまでもなく“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が流布しているそれではないことを付け加えておく。

同じく第七話
大切なことは、人間が生まれてから死ぬまでの間に積み重ねたプラス (善行)とマイナス(悪行)との総計であって、それが少しでもプラスになっていれば善い人間と認めるべきであるが、誰しも聖人としての幽界入りは望ましいにしても、普通の人間は零(ぜろ)でもよいからマイナスにならないように心掛けて修行すればよい

第八話
北神の祈りにあったように、人間は生命のある限り世のため人のために尽すという気持を忘れないでいれば…以下略…

第九話
その者が死というものを覚悟し、死後のことをも知っていたなら、その相手に取り付く代りに自分の霊の向上を神に祈ったであろう

第十話、
一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたことで、同じ欺瞞(ぎまん)でも他人に見破られた場合はよいが、それが成功して名声を博したり巨富を積んだりして一生を終ったということになると、それが自分の心の癌(がん)となって…以下略…

汝等に行をせよ行をせよと言っている…中略…寿命は百年とは続かない…中略…その短い間に何か一つ自分の出来る仕事をすればよい…中略…名や富を得る必要はなく、その採点は必ず神によって為される

第十一話
常に善いことをしていながら、世間からどんなに偽善者呼ばわりされようとも、確固たる信念をもって自分に偽るところなければ、それでよい

第十二話
人間は一旦物質である肉体を捨てたなら、あらゆる物質との関係を断つようにするのが幽体の間に努力すべきこと…中略…一つのものに纏わるということは絶対によくない…中略…益々修行をしてこの放下(ほうげ)する心を培(つちか)って…以下略…

第十三話
人間としては現界の修行を積むことが最も大切であることはいうまでもないが、幽界に入いったら努めて肉体の欲を離れて現世の執着を断ち

第十六話
名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない…中略…真に行ずる者は、それが天の使命であるかないかは別として、自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務めであるという自覚を確(しっか)りと持っていることが必要

 ここまでのことをローム太霊講話集と縁があった人ならば、在り方を考える、自分の生きる指針とするべきであると強く思う。

 なお、人間は高い心(靈)と低い心(靈)を持っている。 それを感じうるのが第十四話の以下の文言。

愛着の念について…中略…これを禍(わざわ)い穢(けが)れというふうに見るものもある…中略…心に蟠(わだかま)り即ち邪念がなければ…中略…却って向上する場合もある

そして第十五話
それならもっと行をなさい、必ずその男を憐れんでやる立派な天使になれます

これを読んで、自分の心(靈)の動きには高い低いがある。 “上”と“下”がある。 
それが理解できたなら、自分はどういった心(靈)を顕現すべきか、その指標になるのが、第二話の、
神自身の本当の気持ち
これは
何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい
であるが、それを実現していくために、自分は何を思い、どう行動するか、そして、第七話から第十六話を読んで、たった今の自分の生きる指針、そして死に際して、死んでからここで述べられていることを思い、霊的成長の方向性を見出す、これが太霊の伝えたいことの要旨なのだ、ということを述べ、総括とさせてもらう。

 次回からこのカテゴリーでは、第十八話~第二十六話の「仙道」、これについて解釈を述べていくことを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 夜明けの巻 第十二帖 Kellyさん的解釈 



 今回も、夜明の巻 第十二帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。
岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。
今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。
申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。
一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。 覚悟よいか。 待ちに待ちにし秋来たぞ。
八月の七日、アメのひつくのかみ。
ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ、八月八日、秋立つ日、アメの一二のおほかみ。

 冒頭の、

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり”

これは、“元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり”から読んで行けば理解しやすく、たった今の事象は“元津御神の御光の、輝く御代”ではない、だがそれが近づいてくるならば“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”となっていくの意である。
 それで“元津御神”は、第十帖の“元津大神”の“元津”と同義、その“御光”であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”=“上”からの振動=“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、と同義。
 それを取り込み、心(靈)(ヒ)と肉体(月(ツキ))に止めた“日止、霊止”が創造する事象、それが“輝く御代”となる。
 “あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。
 もうひとつ、古事記表記の「あな手伸し」は、胸の磁性“十”の水平磁場、岩戸をひらいた天手力男神(アメノタヂカラオ)の手も、肉体(月(ツキ))内の水平磁場(クンダリーニの白光(シンクロトロン放射)に必須のこと)を示したものであると思う。

 これに続く次の文も霊的成長を示唆したものであると思う。

“岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ”

 岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開くことであり、自我から“上”の心(靈)の発現をしていくことは幾度となく述べてきた。
 そしてそれは、心(靈)の在り方でもあるのだが、自分が自省(胸の磁性“十”)しようと思っていても、情動と感応する“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在は多いし、その“下”の存在を増して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻んでいるのが悪魔の思惑の一つでもある。 
その“下”との感応、悪魔の思惑に嵌らないためにも、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化ということがあり、ことに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の部位である目上(めうえ)の脳が進化する様を示す表記、“野”、これは以下に画像で意味を示す。

“秋立つ”の解釈と解字


 
 そして“山”は、(高分子化したタンパク質、自凝(おのころ)の仕組みの極致といいうる)脳そのものを示す。
 それで“岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ”の意味は、自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くならば、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳に“草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ”、“草の片葉(かきは)”は、統一されていないさま、そよぐさま、“言(こと)止(や)めて”は、統一されてないから程度の低いものと感応し、統一に背く、それを示していると思われ、それが“大御光に寄り集ふ”は、統一され結晶化されていくさまを示していると思われ、それは肉体(月(ツキ))の電気特性の変容でもあり、その変容により=“身魂磨き”により、“上”と感応して自分の低い心(靈)、本能、情動、功名心、自我、を、諌めて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行くのだ、それを示しているのだと思える。
 そういった人、そういった心(靈)ならば“誠の御代ぞ楽しけれ”という事象になり、それは“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)を体現し、理念としており、またそれは、不誠実でもなく“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”もなく、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”もいない、幾度となく述べてきている霊的成長度の高低における区分けが成された事象を示しているものである。

 これに続く次の文。

“今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。
申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ”

 この文の“目出度けれ”、これは「めでたい」に、已然形(いぜんけい)または仮定形(かていけい)の“けれ”なので、こうなっていく、目出度くなる、の意だが、これも相対的な言い回しで、たった今が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)あるいはある程度霊的成長を果たした心(靈)から観るならば“目出度けれ”ではないからであり、“目出度けれ”になっていく過程として“今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど”と称され、それは先に述べた“誠の御代ぞ楽しけれ”という事象になっていくのだからこそ“楽しき苦労ぞ”であり、“申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年”は、時の移り変わり、“道”(時間の進行)であり、最後の“子の年”は、干支の始まりが“子の年”なので、これまでとは違う時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)の移り変わりであるということである。

 次の文。

“一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。 覚悟よいか。 待ちに待ちにし秋来たぞ”

 いうまでもなく“一二三(ひふみ)”は、1番目、2番目、3番目のオーラであり、霊的成長そのものをさすが、その“裏の御用”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”ではなく、業務の業、いわゆる生業(なりわい)であり、これは先の“誠の御代ぞ楽しけれ”を強調した言い回しであると思え、なぜならばそれは、たった今が不誠実な事象、不誠実な業務の業、不誠実な生業(なりわい)を行っている者がほとんどだからである。 (通貨としての)金と形骸の権威や名誉、程度の低い人間ほど家柄とか自分たちの(程度の低いものが程度の低いものを褒めそやした)功績とかを示威し、示威する心(靈)の動きが自我の肥大(“石屋の仕組み”)なのだということも知り得ない、ただただ自分たちは偉いのだと思い込んでいる大ばか者は多すぎる感があり、そんなものは“上”から観たらゴミに等しいし、“上”の評価の対象には成り得ない、なるはずもない。
 このことを“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す者ならば、よく知っておかねばならない。
 その意味合いで“待ちに待ちにし秋”、自省(胸の磁性“十”)した人間が台頭する事象“誠の御代”になっていくのだと示され、“その覚悟せよ。 覚悟よいか”は、自我の肥大した人間に対し、これまで通りにはいかないのだ、“上”は自我の肥大を許さないのだ、の言い回しである。

 最後に述べられている以下の文。

“ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そおたはくめか、うをえ、にさりへて、のます、あせえほれけ、八月八日、秋立つ日”

 これは太祝詞(ふとのりと)であるが、これを唱え“上”と感応せよ、そうすれば“秋立つ”=自省(胸の磁性“十”)の“行”に入っていくものであるし、“八月八日”の“八”は、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、であり、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもあるので、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”である人間が合致した“誠の御代”になっていく、それを強調したものであると思えるし、たった今の事象は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と人間の“下”(低い心(靈))との感応による“思惑の顕現”=現象化が台頭しているからこそ“元津御神の御光の、輝く御代”そして“誠の御代”には到底程およばない腐った事象であることを蛇足ながら述べておく。

 今回はこれくらいにしときまんねん。


 

新年 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。


 近年、人の心(靈)の“下”の台頭を示す事象、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の活躍が余りにも目立っております。 

 これは、“下”(低い心(靈)の動き)に“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)(悪魔の傀儡)が感応して起きている腐った事象ですが、
それを目ざとく見出すならば、
その人たちよりも“上”の心(靈)の発現で観察しており、
その心(靈)で、たった今のこの事象を憂いて自分の在り方を鑑みることをさせる、
それが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の意図であると思われます。 

 この“下”を判別する“上”の心(靈)を自らに見出し、尊び、自らの理念として、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階、,本能と情動中心、それによる自我の肥大)の心(靈)を律する、
これが、神の思惑を顕現すべく資質のひとつであり、
それに反し、“下”と感応し現状を容認している甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)心(靈)は、次の事象の“創造”に移行しえない霊的成長度の低い心(靈)である。 

 これらの事柄をアタシの著書、そしてブログ(ことに“日月神示”解釈とローム太霊講話集解釈)から感じ取って、それぞれの認識としていただき、一人でも多くの方が、次の事象の“創造”に参加していただけますよう願っております。



Top

HOME

tuyukusanotuyu




 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
FC2ブログへようこそ!


Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
(クリックで拡大)

2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
(クリックで拡大) 

お近くの書店にない場合は
たま出版のサイトでお買い求めください。

発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
(クリックで拡大)

お近くの書店に無いときは
たま出版のサイトでお買い求めください。

この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




初めての方は、
・・・その後の事と・・・これからの事。
からお読みください。

それぞれのカテゴリーをクリックすると
古い順に、記事が閲覧できます。

        

☆ Kellyさん的事象の観察と認識 (104)
Kellyさんがこのブログに霊縁あった人(日止、霊止)に伝えたい事 (22)
Kellyさんと○○○大先生との会話 (7)
Kellyさんとチョ~極上ラブラブ中高年夫婦はんとの会話 (6)
Kellyさんとチョ~ベッピンはんのA野はんとの会話 (7)
Kellyさんと∪・ω・∪ ▼・。・▼ ▼・。・▽ U・。・U U。・ェ・。U たちとの会話 (33)
Kellyさんとメタボ研修医のYっちゃん先生との会話 (2)
Kellyさんとややメタボ内科医のYっちゃん先生との会話 (7)
Kellyさんと和風のベッピンはんのSはんとの会話 (2)
Kellyさんと農業好きの社長婦人K地M美はんとの会話 (12)
KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



fxwill.com


2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
写真部に投稿した最新の写真
 ↓


powered by 写真部









○○○大先生の水草水槽記録
facebook 児玉登







このブログをリンクに追加する


自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




飢餓救済のホームページ

JWord クリック募金

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード