“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 雨の巻 第九帖 Kellyさん的解釈 

 
 今回も、雨の巻 第九帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。 
何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。 
軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。 
人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。 五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。 
一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。
十一月二十七日、ひつくのか三。

 冒頭の文。
“神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、
ローレンツ力と ○ の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

この文は、ほとんどの地球人の既成概念や価値観と幸福感、それが“上”から観て間違っていることの指摘が中心である。
まず、
“神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となる”

これは“神の智”が生命の進化のためにある、すべての生命の進化、これはすべての生命の幸せ(“夭と屰”(ようとげき))と換言出来得るが、それに対し、現時点での人間の霊的成長度における“学の智”は、自分たちの薄っぺらい幸福感のためにしかないからであるし、それ由来の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の獲得と使い方しかしていないことを“先に行く程ンプ出来て来て天地の差”と称されている。
ちなみに“ンプ”は、
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
この“フ”に半濁音(「゜」が付いている)をつけその意味の“ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり)”を強め、それが“ン”、これ以上先には進まない、という意味合いを示しているものと思われるので、“学の智”では進化しえないのだと示した言い回しである。

 これに続く、
“ 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

文中の“薬”と“毒”、解りやすい表記であるがこれに気付かない人間は圧倒的に多いと思われる。 この文の最初に述べられている“ 
ローレンツ力と ○の神の薬のやり方”、霊=○、荷電粒子の場(フィールド)とローレンツ力ローレンツ力、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止める仕組み、いうまでもなくこれは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の仕組みであるが、それに相対して“悪の神の毒のやり方”という言われ方をされていて、それは
“神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐる”
この“人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐる”の言い回しにおいて“今の臣民 神の御用するのと人の御用する”の“人の御用”は先の“学の智”によるものであり、“毒”であり、現時点での人間の霊的成長度における“学の智”は、自分たちの薄っぺらい幸福感のためにしかないもので、そのために息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、そのために行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)する人間ばかりであるが、それはあくまで“今の臣民”の“人の御用”であり、霊的成長度が低い段階の“御用”であるという言い回し、それは“人の御用が神の御用であるなれど”という言い回しを観て、程度の低い段階においては先の“学の智”を行使した“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”としての生き方しかできないが、それも低い段階においての生業(なりわい)中心の生き方であるので、その段階をこなしていくのは霊的成長においては必須、という意味合い。
 それに相対し“神の御用する”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識して生業(なりわい)と“行”を行っている、あるいは行っていく、という言い回しであり、それは“薬”と称され、たった今の事象、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心に対しての“薬”と言いうるものでもある。

 この意を強調する言い方として
“見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”

この“見苦しき者”はいうまでもなく“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の段階、それは“上”から観たら“見苦しき者”なのだ、これまではその生き方、その存在を許容してきたが、今後=アセンション後はそれは許されないのだ、という言い回し、そして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”から(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者への変容が進化の筋道“何事も順正しくやりて下され”であり、“神は順である”は、進化は神に近付くのだから、という意味合いであり、たった今の地球人、“今の臣民”の“人の御用”をしている、そして“見苦しき者”は“順乱れた所”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った場(フィールド)を創りえないので“順乱れた所には神の能(はたらき)現はれん”、“上”は力を貸さない、低い心(靈)には“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は感応しえないからである、という言い回し、そして第七帖の“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆”、第五帖の“ さかさまのおー雨の巻第五帖(さかさまのおー)の世”というのも“順乱れた”に相当するものであることを付け加えておく。

 次の文。
“何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ”

 これは○○○大先生の著書の<4><5> 智性(神性)無き心シリーズを読んだ人ならすぐ判る文言である。
 それは、アセンションに対し大概の人間は時期が来たら自分たちは幸せになれるという自分たちにとって都合の良い解釈をする、その都合の良い解釈を広めるために“役員づら”はそれを吹聴し“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”を振りかざし商売をする、結果としてそれは、霊的成長できないので間に合わない、またこれを受け入れこれに騙される人間はご利益しか求めない実に情けない人間である、これらを総括した言い回しが“何もせんでゐて、よき事許り待ちてゐると物事後戻りになる”である。
 また、上記に該当する人間は“一(ハジメ)の火 消へてゐる”と称され、“一(ハジメ)”は、“一”=智性=1番目のオーラの意味合いと、“火”は、回転を示す点二つと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして“ハジメ”の言霊は
“ハ”は、生命発現成長の音義
“シ”は弱き光 と称され、それは次々に出る生命を育む(はぐくむ)意 “慈(しげる)”のシ
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
濁点の付いた“ジ”は意味を強調している
なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく生命(生きる使命=存在理由)は高い振動(“シ”)により育ち、育ったうえで事象の観察を成していく、の意味合いであるが、これが“一(ハジメ)の火 消へてゐる”=智性(神性)無き心、であるの意味合いである。

これに続く
“都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど”

これも、“役員づら”が行っている所業や、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の持ち主が価値のあると思っている対象、様々なことを○○○大先生は著書で述べたが、そんなものは形骸であり、程度の低い心(靈)が程度の低い心(靈)の持ち主を褒めそやしているだけであり“上”から観たら何の価値も無いものであるから“まだ判らんか”と強く述べられているのであり、それに相対し、アセンションは“創造”の“主(ヌシ)”の計画、霊的成長度の高低による区分けであるから“誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ”である。

 次の文。
“目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。 
軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ”

 これは霊的成長度の低い人、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の成れの果てを“目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。 行けども行けども白骨許りと申してあろがな”と称されており、またそこには“今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがる”、これに気付くようになれ、という意味合いと、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の中でも特に形骸の地位を獲得したものはその“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象で活躍するの意であるが、
“上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ”
たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭する現状、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)と感応している人間が活躍する今の事象、それは“上”の思惑ではないから許されない、の意味合いを述べられている。
ことに文中の“ぐれん”、これはひらがな表記、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点であり、これを人間自身が観るという意味合い。
ちなみにここまでの“日月神示”で幾たびか登場した“グレン”は、
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意 
“レ”は、元座道座(もとくらみちくら)稀に見ぬ心の持ち主 その持ち主は吾が心にそわずして また次座を訪れ 離れ離れて また元座道座(もとくらみちくら)に戻る それそれて またもとり 其のチカラ自らそれ ムレ クレ ヨレ ヒレフリの真澄心となりし其理 自ら幸取よかし(右往左往と左往右往と同義、個々の心(靈)(ヒ)が、“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)からそれたなら、それは“ほんとう”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性と“ほんとう”の時間の進行に戻る これは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す意)
と述べられていて、これはのことだと思え、よって、“レ”=元座道座(もとくらみちくら)の顕現が、“グレ”であり、“ク”に濁点をつけて意味合いを強調しており、“ン”は、その最終段階、終点、の意、であるが、それが顕現する世になり、文中の
“軽い者程 上に上に上がって来る”
“今度 神の帳面から除かれた”
=霊的成長度の低い人、“近慾に目くれて”こういった心(靈)の動きしかしない人は次の段階に移行しえないのだ=“折角のお恵みはづすでないぞ”ということを述べている。 
ちなみに文末の“神 キつけておく”の“キ”は、天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を“創造”し生命自身に事象を“創造”させるという意味合いと解することが出来る。

 次の文。
“人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ”

 冒頭の“守護神に使はれてゐると気の毒出来る”、これは第八帖の
“くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ”
これと同義であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)が勝手に思っている“守護神”といえ、それらの人は霊的成長度が低いからそれらの心(靈)よりほんの少しだけ“上”の“守護神”かもしれないが、結果としてそれは“上”から観て、同じく第八帖の表記の“悪も御役ながら”、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を示す役割でしかないということであるし、程度の低い人に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いをさせた存在ともいい得る。
 これに続く
“世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ”、
これは先の“見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ”の意味合いを強調している言い回しであり、たった今は“順乱れた所”なので、神の思惑通り=“順正しく”ではなく、そこにおいては、(程度の低い心(靈)が生み出している恨みの連鎖の霊的干渉により)どんな災厄が起きるのか、どんな霊的成長を阻む事態が起きるのか、これらは“先の判る世”では無く、これら一切消失させる事象を霊的成長度の高い人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で創らせるのが、神の計画である、の意なので、“先の判る世”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものを“先”と称され、これらを認識し理解する心(靈)だけになるのが今後=アセンション後の事象、“世”である。

 これに続く
“三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ”
この文中の“三エスの神宝(かんだから)”は、“一二三”のオーラと、
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(ことわり)
“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
要は進化と進化した生命の“一二三”のオーラの統一、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)により目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を制御して事象を“創造”すると換言してもよいし、補足として“一”=智性=1番目のオーラがしっかりしていない心(靈)は、人間であっても“ケダモノ”である。
 もう一つ“3S(スリーエス)の神宝”というのは、この“S”の表記は“日月神示”内に、この帖と風の巻 第九帖、“宮の跡は S となるぞ。ナルトとなるぞ”にしか登場しない。 この風の巻 第九帖の“S”を考えると、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、なので、やはり人間が進化した様であり、その“跡”が“S”“ナルト”に“なるぞ”、たった今はそうではないのだ、の意味合いであり、“ナルト”の言霊は、
“ナ”の行は、生命の殖え栄ひ進展の意含む
“ル”はチカラの止まり 物の流れ 走る を表す音根 この音根を綴る言霊こそ悉にその終わり又は止まりを示す あるいは霊流凝
“ト”は、止まると云う心
なので、進化した生命(“ナ”)が“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて(“ト”)、自らの心(靈)となして(“霊流凝”)、その上で事象を“創造”する(“ル”)の意であり、“S”にその意があることを鑑みて思いついたのは、これは“乙”を反対から観た表記であると思える。
 ちなみに“乙”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で、
乚部(いんぶ)は“乙”で草木が屈曲しながら芽を出すことの象形、それが文字の旁(つくり)の位置に置かれたとき“乙”は乚部(いんぶ)になる。
この“乙”は、向かって左から右に筆を動かし、右から左下に動いて、再び左から右に動いて最後は上にはねる。
左→右、そして右から左下、そして左から右…そしてはねる。これは左往右往して現象化して左往右往する形で、はねるのは“上”に向かう意。
それは、右往左往して“天の御目”を自分の心(靈)の中に持つということであり、これ自体が人の思惑の顕現であり、良い形の事象の“創造”を示す

と意味を述べた。
 乚部(いんぶ)は人の思惑の顕現であり、この乚部自体は人間目線の表記、それに対し“創造”の“主(ヌシ)”は人間の対面に位置しているから左右が逆になる、よって“S”の表記は、“創造”の“主(ヌシ)”が人間に、人間自体の思惑を顕現させようとする、それ自体が被造物である人間にとっての“神宝(かんだから)”の意味合いであると解釈する。
 それでよい機会であったので、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、人という字を構成するその部首の意味を画像にしたので以下に貼っておく。


人(丿部と乚部)の解字 
 
 それで“3S”で検索すると、3S政策(さんエスせいさく)、これは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策、という説明も登場するが、これが形骸の権威を守ろうとする“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の思惑が現れたことなので、その意もあるであろうが、それだけでは人間の霊的成長に結びついた表記とはいえないので、やはり前述した“乙”を対面から観た表記が正解であると思えるし“3”についても“一二三”のオーラ、それぞれの心(靈)の動き、腹から下、胸、頭、で発現されている息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)のことと思う。

 次の文。
“五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。 一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ”

 文中の“一方の3Sより判らん”、“創造”の“主(ヌシ)”は人間に事象を“創造”させ進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をさせているが、人間の“行(オコナイ)”は、“絶対の善”でもなく100%の悪でもない、“上”(進化の方向性)に向かうだけでもなく“下”(低い心(靈))に向かうだけでもない、これは日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の表れともいえるし、この“行(オコナイ)”自体がローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもある。
 その意味合いにおいて“五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れん”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”は体験しなければ自らの認識(悟り、幸取=さとり)とならない、それは先の“神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方”と換言しうるものでもあるし、この漢数字の表記そのものが右往左往と左往右往を表しており、日足(ひたり)と砌(みぎり)、どちらの極性に傾くか、また傾かねば“ほんとう”の認識は得られない、の意味合いであり、人間が認識しうる失敗や“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いを“カス出来るのざから”と称されており、それを良い方向に導く、“上”の采配、“神の咎め”、これ自体が“神の恩恵”“神の祝福”なのだが、それを“カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事”と言われ、進化した人間ならば“人民もカスの掃除する事 大切な御役である”と述べられている。
 これに続く
“毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか”、これは前述した右往左往と左往右往のこと。
 これに続く
“一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ”
この“一方の3S”も、前述した通り程度の低き人間の“行(オコナイ)”のこと、失敗の事象を体験して認識を得る過程のことであるから“人民 何時も悪に落ち込む”と称され、しかし“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性を理解したなら自分の在り方を見出す、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指標を見出す、それを“此の道は中行く道と申して知らしてあろがな”と言われており、これは程度の低い人間が考える中道とか中庸ではなく、自分の心(靈)をよく観よ、自分の心(靈)の中の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)と“上”と“下”を見よ、自己批判せよ、その上で自分の在り方を鑑みよ、の意である。
 これに続く
“誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ”
敢えて解釈の要は無いが、獲得した進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための認識は顕現せよ、思想に活かせ、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かせ、自分の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が事象の“創造”そのものになり、事象の“創造”は自分の霊的成長度の高低によるものである=“此の世の事は人民の心次第ぞ”である。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第八帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。
今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ。
世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。 
甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか。 神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十と 
ローレンツ力 とであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ。
十一月二十七日、ひつくのか三。

 この第八帖は、先回の第七帖の続きのような意味合いが多い、まず冒頭の文。
“大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ”

 この文の“大難小難にと祈れ”、これも“役員づら”がご利益を求める信者に期待させ賽銭を求めようとしてよく使う手法の意味合いではなく、すべての事象に対し、常にこういう心構えでいろ、これからアセンション後に移行する際に伴う醜い事象に対し、少しでも軽く、また多くの人間が次の段階に移行するように祈れ、祈りは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)だから息吹け、であるし、これを息吹くからこそ“上”と感応するのだ、でもあるし、さらにこれは先の第七帖の“神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ”と同義のことである。

 それで“上”としては“如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心”、たった今どんな状況であろうが、次の段階に移行すべく心(靈)の資質を最低限持っているならば“如何様にでも受け入れてよき様にしてやる”と述べられているし、これについて“判らんか”、“上”の思惑を判れ、と称している。

 これに続く“天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ”、この雨の巻が自動書記で書かれたときはおりしも終戦直後(昭和二十年十一月二十七日)であり、人の心(靈)は荒廃し投げやりになっていた時であろうが、その時の人間の心理は自分たちがダメになったのだからすべてダメになってしまえ、などと思いがち、それを諌めるために“天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山ある”と述べられており、これに続く“そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来る”、これは人の霊的成長を望む“守護神”ではなく、神国だから戦争しても勝てるのだという勝手な思い込みをさせた程度の低い存在のことを揶揄している言い回しである。

 これに続く次の文。
“今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ”

 この“守護神”も前述した通り程度の低い存在なので“悪の血筋眷属である”と称され、そして戦争に負ける、これはローム太霊の言葉右往左往であるし、これを体験しなければ自分たちが今後どう生きるべきか、何を思うべきか、これを見出すことが出来なかったので“悪も御役ながら”と称され、しかしそれは“奥表に出ては誠おさまらん”、戦争を起こした心(靈)の動きは自我由来の縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)であるから、そんな心が台頭していては“誠おさまらん”のであり、この戦争の体験が澄んだならば=右往左往したならば、自分たちにとって“ほんとう”の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)を見出そうとするし、自分たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)と心(靈)の動き、何が“善(神格化の方向性と智性の受信)”で何が“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、それが解るという意味合いで“悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ”と称され、人間が区別している既成の宗教(“卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構”)は形骸の権威を示すだけだが、そこには“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑があるからこそ“結構”と述べられ、既成の宗教に捉われるな、何が自分たちにとって“上”か、そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、“悪”の理解がなければ“善”の理解も無い、また既成宗教の中のどんな教えが自分たちを進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くか=“善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒結構(コトゴトク)の世となりなる神の仕組”、それを見出せ、の意味合いの文であると思える。

 次の文。
“世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々”

 文中の“世の元からの仕組”は、たびたび登場した“世の元からの生神”と意味合いが同義、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性、のことであり、その“中行く仕組、天晴(アッパレ)”その“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿って進化せよであり、“三千世界結構である”の“三千世界”は以前、
地つ巻 第四帖で述べたとおり“すべての現津(あきつ)、観察され得る事象をさす表記”であり、今後=アセンション後の事象に位置しうる資質を持つ心(靈)は“心の不二も晴れ晴れとなる”、この“不二”は、二つとないこと、無二、二つに見えるが、実際は一つであること、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ、の意味合いであり、先の“善結構、悪結構”、この両方を解った心(靈)だからこそ、進化を見出すのだ、の意味合いであると思える。 よって“結構々々”である。

 これに続く次の文。 
“甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか”

 この文の要旨は“喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか”であり、それを“甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ”と称され、辛い(からい)は、辛い(つらい)であり、文中の“苦しみである”の意、それに相対して、甘いは、文中の“喜びである”の意である。
 心(靈)が育っていくには、苦痛や苦悩は必須、そしてそれから逃げてはいけない、真摯に向き合わねばならない、そして苦痛や苦悩の意味や意義を考え認識(悟り、幸取=さとり)を獲得する、それをして心(靈)の在り方を学んでいき、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていくものであるが、その意味合いを感じさせるのは“辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな”、苦痛や苦悩を体験したならば、そこには霊的成長があるからこそ、その霊的成長は“ほんとう”の喜び(“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”)になっていくからこそ、こういった言い回しがされてると思われる。
 それと順不同になっているが“天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか”は、“役員づら”の手法により、てんで低い神の概念、御利益しか求めない、こんな既成概念を多くの人が持っているが、それではダメだ、の意であり、苦痛や苦悩を体験して育っていくなら喜びに到達するのだ、それを知れ、を強調した言い回しであるし“心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ”は、自分たちが持っている天で低い神の概念を捨て去れ、そして“上”と感応せよ=“神示読んで下され”であり、“何時迄も神待たれん”は、認識を改めないと次の段階には移行できないぞ、の意味合いである。
 それと“水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ”、この“水”と“火”の意味合いは、
日月の巻 第三十二帖の解釈から以下に引用する。

“火あって水動くぞ。水あって火燃ゆるぞ。 火と水と申しておいたが、その他に隠れた火と水あるぞ。”
 この文の“火”は、(これまでも同様の解釈をしてきたように)肉体(月(ツキ))の“腑”で取り込んだものを酸素とともにエネルギーに変える肝臓のこと、そしてそれは肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、事象の“創造”=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)のエネルギーとなるもの。
 そして“水”は体液、錯体のこと。
 それで“その他に隠れた火と水あるぞ”の文が示唆することは、自我を構成する肝臓と腹の水のことだけではなく、腹から“上”にも(思惑という情報を伝えるための)錯体である体液はあるしそれは循環しているのであり、そして自らの思想(思惑)を構築する目上(めうえ)の脳にも日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、砌(みぎり)の極性(事象への顕現)は“いきり立つ心(奴と心)”であるということで、それは“思惑の顕現”=現象化をするということでもある。


 よって“水の味”は、錯体が運ぶ“いきり立つ心(奴と心)”、事象に対し行動を起こす心(靈)の動き、“火の味”は、“いきり立つ心(奴と心)”そのものといえ、自分が育っていくために実際に行動する、その時々の霊的成長度において“思惑の顕現”=現象化をする、それは右往左往であるし、失敗を体験して認識を変えていく、それを“恐い味ない様な結構な恐さ”、やってみなければわからない=体験をしなければ認識は変わらない、失敗を恐れ都合の良いことばかり考える人間は成長の素地が足らない、こういったことを示唆する言い回しであると思える。

 次の文。
“神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十と  
ローレンツ力 とであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ”

 文中の“御心とは三つの御心ぞ、一と十と
ローレンツ力   とであるぞ”、これは“三つの御心”が“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“一”は智性、1番目のオーラ、“十”は胸の磁性“十”、“慈悲”と“慈愛”、そして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるローレンツ力ローレンツ力  、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)であるの意であるし、それは“世の元の神の仕組の現はれ”=生命(生きる使命=存在理由)が進化を果たす“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、その顕現であると称され、そうなったならばすべての事象=“三千世界”は、“あなさやけ”(あな清明)、これは、夜明の巻 第十二帖から引用する。

“あら楽(たぬ)し、あなさやけ”は、古事記において天照大神が岩戸から出てきた際の文言、「天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ」を、艮(うしとら)の金神は引用したものであると思え、これらはたった今の事象に対して相対的な言い回し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭によるたった今の事象は、“上”から観たら、あるいは霊的成長をある程度果たした者から観たら、先の“輝く御代”でもなく、“あら楽(たぬ)し”でもなく、“あなさやけ”、清くも明るくも無い、と読み取るべき。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第七帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。
三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ。
アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用  ローレンツ力と ○   (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ。
国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな。
十一月二十三日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”

 まず述べておきたいこととして“神の心の判りた臣民”という言われ方に何を感じ(感じる磁性)るのか、である。
 これはいわゆる相対的な言い回しであり、たった今ほとんどの人間が“神の心”に対して何も判っていない、人間と神の関係について理解が足らないから、自らがその霊的成長度における事象の観察=“天地よく見て悟りて呉れ”をしても、自分はどう在るべきか、どう行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)すべきか、が、判らない、その“判りた臣民”ではない心(靈)は低いのであり、またそれは大概の人間が“役員づら”に刷り込まれた薄っぺらく甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)神の概念しか持ちえないからこそ、あえてこういう言われ方をされているのだと気付くべき。

 これに続く
“助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ”
この“助ける”に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)解釈や、賽銭と引き換えに御利益や天の僥倖をもらうなどの思いを持つ人が多いだろうが、そうではなく、神と人間の関係をしっかり理解した人(自省(胸の磁性“十”)して霊的成長をした人)ならば、今後=アセンション後に移行する際の資質を人に伝えることが出来得る、霊的成長とは何か、を伝えることが出来得る、それは結果としてアセンションに伴う醜い事象に巻き込まれない人を増やす結果になるから“助ける御用”であり、またそれは恨みの連鎖の霊的干渉に満ち満ちたたった今の事象、その悪しき状態からの逸脱という結果に成りうるので“清めの御用で御座る”と称されていると思え、それが“神の心の判りた臣民”の“御用”であるといい得る。

 これに続く
“三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
この“三四五(みよいづ)”は幾たびか登場している表記で“三”は“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラ、“四”は息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、“五”は糸巻の象形文字で、進化した生命の神経が密になっている様を指す、要は進化を果たした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”が“三四五(みよいづ)の御用”であるし、そこには“一”=智性=1番目のオーラ、これによる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応があってこそ“三”の表記が当てはまるものである。
 そしてそれは“出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らん”、これは“一”=智性=1番目のオーラがしっかり発現し強化されたうえで、“上”と感応してその上でさまざまな事象を観る、事象の成り立ちを観る、事象の成り立ちは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によるものであることを悟る、そして育った自分の心(靈)を観る、自分の心(靈)の動きを観る、これをして初めて判るものであるの意であるし、“つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”の“つかわれてゐる”は“上”の憑依と感応により行動をする、行動は、現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現だが、その思惑は、“上”の通信を受けながら、であるので、自分の思惑だけではなく、常に“上”と感応する人間は、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を成していく。
 その状態において、自分は“上”ではない、神そのものではない、通信を受けて事象に“上”の思惑を顕現しているからこそ“つかわれてゐる”のであり、自分が“上”と同等の霊的成長度に至ったならば

“出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ”
これは“上”の思惑の周到さ、“上”が“下”(低い心(靈))を育てる心(靈)を育てるための心の動き、そして実際の感応、その感応により遭遇させる現津(あきつ)、観察され得る事象、そこにおいて、その“下”である人間を慮る(おもんぱかる)気持ち、“慈悲”と“慈愛”、などを実感する、の意味合いであると思える。

 次の文。
“アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちのローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”

 文中の“アメのひつ九のか三”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“メ”は、ムシ出された生命の芽 吾が心は目 その目に止まりてすべてのものはそれ現津するにあれ(“観察と認識”のこと)
“ひつ九”は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことと、○ 九 十の“九”、生命の最終段階の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これは目上(めうえ)の脳の進化、“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信部位、この二つの意味合いを含んだ言い回し、そして丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成されているのが“九”でもある。
“か三”は、神、神格化、そして“一二三”のオーラを含んだ言いまわし。
次の“アメの一二の神”は、
“アメ”は先に述べたので割愛、
“一二の神”は、“一”=智性=1番目のオーラが発現した肉体(月(ツキ))(“二”)、これは神格化である、あるいは神格化のステップであるの意。
次の“アメの 
ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、
が肉体(月(ツキ))、〇とローレンツ力
ローレンツ力 は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な仕組み、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意をローレンツ力ローレンツ力 で止め(“日止、霊止”の表記の意味合い)、肉体(左右のコンデンサー、人間は進化した左右相称動物)に溜め、それを回転させて心(靈)を構成するの意、これに前述した“アメ”の意が加味されるので、天意を受け、止め(“日止、霊止”の意)、結果として天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)と解することが出来得る。
 これに続く“元神で御座るぞ”の“元”は、“二”は肉体(月(ツキ))、儿部(じんぶ、にんにょう)は時間の進行(人があるく様を象る)、これは肉体(月(ツキ))を伴った進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるの意。
 次の“ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ”は、
“ム”は、生命は自ら多岐に分かれ、ムシ出すチカラこもれる(篭る)ヒ(靈)のチカラを…中略…次々に異なれる生命生まれ出る理(ことわり)
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
なので、生命の多様性と、生命が進化したならさらに新たな次の生命が生まれるの意、そして“元のままの肉体持ちて御座る御神様”“つちのひつ九のおん神様ぞ”は、肉体を持ち進化を果たすべく“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをしていく人間のことを指し、文中の“つちのひつ九”の“つち”に関しては、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記で人間目線の表記だが、その意は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
“チ”は、まず“タ”の行が、命が現れ立つ、建く高く成長する音義の意があり、“チ”はチカラ(力)意で、それは様々に現津(あきつ)(顕現)して世を成すもの(事象の“創造”をするの意)
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止めて集約し(“ツ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たして事象の“創造”をする(“チ”)、これそのものが“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、そして“ひつ九”、太陽凝視を行い生命の最終段階になる、それは前述した“○ 九 十”の“九”=丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であるとの解釈が成り立つ。
 これに続く
“つちの
ローレンツ力と ○ ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”
“つち”に関しては前述したので割愛、“
ローレンツ力と ○ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用(ひつき)の御神様”は、先の“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 ローレンツ力と ○ (つきひ)の神”と、表記が違うが、その意は先に述べたことと重複するが“アメの ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用ローレンツ力と ○  (つきひ)の神”は、天意を顕現し、事象を“創造”する進化しうる肉体を持った心(靈)、これに対し“つちのローレンツ力と ○  ツキ?(日月の巻 第二十五帖 表記)文章用 (ひつき)の御神様”は、天意を集約させ(“つち”)、それを肉体(月(ツキ))のローレンツ力ローレンツ力 で止めさせ、肉体(月(ツキ))に顕現させ得る意志を持つ“上”と解することが出来、その“上”と一体になる、しっかり感応して通信を受け自らの認識(悟り、幸取=さとり)とすること事態を“今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”、これが“今度の仕組”=今後、アセンション後の事象、あるいはそれに移行する際のおける霊的成長の仕組みであると解することが出来る。

 ここまでのことを承知した上で(“今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか”)、次のように述べられている。
“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”

 文中の“九二つちの神”“九二の御先祖”“九二つちつくること”の“九二”は、前述したが“九”は“○ 九 十”の“九”、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+“一”、智性、1番目のオーラ+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、の意、そして“二”は肉体(月(ツキ))の意、“つち”は、天意を集約して止め進化して事象の“創造”をする意。
 これを踏まえていれば“九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう”、いわゆる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のことを全く理解していない、解っていない、進化した“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=“九二の御先祖の神”のことも解っていない、換言すれば生命の存在意義が、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを全く理解していない、の意を述べていることが判るものである。
 これに続く“神は千に返るぞ”、これは神格化の必須要綱、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”、これが合わさった表記が“千”であり、生命の神格化=“神は”“返るぞ”、生命の存在の意義を果たすこと、それが“千”で表されている。
 これに続く
“九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。 それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”
この“九二つちつくる”は肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)の進化そのものであり、大概の人間にはそれが解っていないから“何んなに難儀な事か人民には判るまい”であり、これに続く“今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ”の“さらつ”は、“さら”が、 全く新しいこと、まだ全然使っていないこと、あるいはその様子、ひらがな(“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)表記の“つ”は、
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
なので、進化した生命が新しい事象を創るの意であることが出来るのだが、それを“人民もその型の型の型位の難儀せなならん”、“日月神示”では“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、心(靈)の在り方として“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、いわゆる自省(胸の磁性“十”)の“行”、これを“その型の型の型位”と称され、いわゆる次の事象に移行する際の最低の条件、最低の必須要綱として、という言い回しである。
 ちなみに“さらつ”の言霊は、
“サ”の行は、栄え発展する生命の音根
“ラ”は、生命発生の初音(ウネ) 物の根の意
“ツ”はつづまる(約まる)集う(つどう) 物をまとめ次々その形を変えて次なる新たななる生命を咲かすの意
である。
 これに続く“それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ”、これは先の“その型の型の型位の難儀せなならん”にかかる言い回し。
これに続く“今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ”、進化した生命は、次の事象を“創造”する、天意を“つち”とし、“九二”とするのでそれは現人神ともいえ、“天詞様”でもあり、要は“一”=智性=1番目のオーラが大きくなり、天意と感応する、これが生命の最終の段階、“○ 九 十”の“九”である。

 次の文。
“国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。 命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 冒頭の“国の洗濯はまだまだ楽”、これは国土のことと思え、それに相対し“ミタマの洗濯 中々に難しい”、人間はなかなか変わらない、低い人間ほど変わらない、“上”が何を伝え進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望んだとしても、伝わりにくい、程度の低い人間ほど認識(悟り、幸取=さとり)が変わらない、程度の低い価値観や既成概念で“日月神示”を読む、あるいは利用する、などの意味合いを“幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ”と称されているが、“上”は認識(悟り、幸取=さとり)の変容を待ち望んでいる=“人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座る”とも言われ、しかし、時期(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、が迫っているからこそ
“言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。 何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ”
とも言われている。
 ちなみに文中の“ミタマ”の言霊は、
“ミ”は生命の幹 その現実
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
“マ”の行は、有形生命、または正しき生命の音意の音根
本来、生命(生きる使命=存在理由)=肉体(月(ツキ))を持った心(靈)(ヒ)は、この“ミタマ”の意の通りでなければならないが、それを“洗濯”と称するまでに穢れきっており、生きることの意味、生命の意義、など、考えたことも無い人間ばかりになっているので、“ミタマの洗濯 中々に難しい”と称されているのだと気付くべき。
 これに続く、
“役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”
この“大のつく阿呆になれ”そして“ 
さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”、さかさまの大である“ さかさまの大 雨の巻第七帖 ”、これと同様の表記は第五帖の“王(おー)の世がさかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのである”があり、このさかさまの“さかさまの大 雨の巻第七帖  ”も、“大”の本来の意味合い、人間が手足を伸ばした様、あるいはこれを書いている○○○大先生的な解釈なら、胸の磁性“十”と、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった表記と解することが出来るが、その真逆の意であり、これを踏まえて“大のつく阿呆になれ”を観るならば、この言い方では意味が伝わりにくいが人間本来の姿、それは前述した生命の本来の在り方、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく存在が生命、よって生命の存在の意義を全うせよ、それが真の使命、であるの意と解することが出来、それに対し“  さかさまの大 雨の巻第七帖 のつく阿呆にあやまって呉れるな”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を見失っている、あるいは進化に対して認識がない程度の低い存在&人間に対し、“あやまって呉れるな”であり、文中の“阿呆”は、恭順になれ、の意であると解し、その意において“阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ”、これを読むならば、何に対し恭順であるべきか、“上”か“下”か、の意味合いであることが理解できる。

 これに続く次の文。
“命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。 何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”

 生命の本来の在り方、その存在の意義を全うすることは先の“難儀”であり、命がけであるからこそ“命捨てて”と称され、その時がもう近いので“命に生きる時”、生命の意義、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を意識してまっとうせよ、それが次の事象であるの意だが、たった今、“利巧”に生きている“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”に対し、“非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか”と言われている。
 ちなみに“アフン”の言霊は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“フ”は、ヒにより生まれし生命を更に太り栄えせしむる理(ことわり) 呼吸力、気吹(いぶき、息吹)、光線界が原素界へと進む
“ン”は、終わり、終焉、終わっている、最終段階、あるいは、これ以上先に進まないの意
なので、“ア”“フ”がこれ以上先に進まない、と解することが出来る。
 これに続く“何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”
この“何時も変らぬ松心”の“松”は松の巻の〇つ(これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))の意、要は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指せの意であり、“建替へ致したら世界は一たん寂しくなる”、これはたった今の地球の人口からすればごく少数、そしてこれまでの価値観や幸福感や一般常識や既成概念は通用しなくなるの意であるし、“神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな”“上”が人間の進化のため、こういった形で文言を残す、これは“日月神示”に限らず様々なものがあるが、これに留意し、意味を読み取り、真摯に受け止め、自分の在り方を観て自省(胸の磁性“十”)し、自らの認識(悟り、幸取=さとり)の糧として、たった今の自分をよく観よ、“自分を観察する自分の確立”をせよ、の意味合いである。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第六帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、雨の巻 第六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。
一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。 我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。
待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。 身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。 
あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。 淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。
十一月二十三日、ひつ九のかミ。

 冒頭の文。
“神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ”

 文中の“神示よく読め”“肚に入れ”(肚、腹の意)、これは“日月神示”で述べられていることの読み取り方もさることながら、理解して(しっかり意味を鑑みて実際の事象と照らし合わせた上で自分の思想を構築して)、その上で確たる認識(悟り、幸取=さとり)としてその心(靈)になったならば、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、“上”と感応する。
ことに“肚”の表記は“江戸と尾張”と同義であり、自我を指すものである。
それで、自分の心(靈)に自我がある、自我主体の心(靈)である、自我主体で心(靈)の動きがいびつである、などを(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、“自分を観察する自分の確立”で)解り、判っていくならば、文末の“素直になれば(自我の肥大をして“上”に逆らうな、の意)其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやる”、ということになっていく。
 ()で注釈を入れたが、“上”に対し、そして“上”の思惑に対し、また“創造”の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に対し、“素直になれば”、これは進化に沿っているからこそ“上”は感応していくものである。
文頭と文末の解釈をしたが、中ほどで述べられている“神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ”は、“上”と感応しているならば、ますます自分の存在の意義を知る、これを知る心(靈)は自我である、仮に自我が無かったならば、自分の存在そのものを認識できない、そしてたった今の地球人の進化過程は、自我の確立=固定化の段階だが、これも霊的成長にとっては必須であり、自我が強化され、自我を諌めることをする自我より“上”の心(靈)が発現し強化されていく(“神示胴に入れて頭下げて”)のが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の順番、段階、であるが、その意味合いを含めて“肚に入れると胴すわる”=自我が強化されていくし、“神示胴に入れて頭下げて”=自我を諌めることも出来得る。
 そして“世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ”、これは、今の世で“偉い人”というのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の頂点、または“役員づら”の頂点、であるので、霊的成長度はてんで低いし、自分の在り方や人の存在意義、“行”についてなど、“上”と感応しているならば、“上”から教えられそれを自らの認識(悟り、幸取=さとり)として“ほんとう”に霊的成長にとって必要なことを教えるのはたやすいのだ、の意味合い、だからこそ“まつりて下され”と括られているものである。

 次の文。
“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。 我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ”

 冒頭の“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)”は幾たびか登場した文言であるので、
日月の巻 第三十一帖から以下にコピペしておく。

“一”=智性(神性)、“創造”の“主(ヌシ)”の表記。1番目のオーラ。
“二”=肉体。
“三”は“一”=智性=1番目のオーラと、“二”=肉体。
“四”は、発振、発信。“日月神示”表記の善言(よごと)。“善(神格化の方向性と智性の受信)”の発振、発信。
“五”は、糸巻き。神経が密になり、コイル状に巻いた様。
“六”は、家屋の形を表す象形文字が変化したもの、そして陰爻、これはいんこうと読み、易で、陰を表す数。ほんでから爻部(こうぶ)は、交わるの意味。そしてその象形文字のカタチを観ると、屋根=頭の下に、左右の極性があるように感じ取れる。
“七”は、“一”=智性=1番目のオーラと乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。
ほんでから前に、“日月神示”表記の“七七七七”は、目上(めうえ)の脳、大脳新皮質の四つの機能、そしてそれは、“一霊四魂”であると解釈した。
“八”は、左右、日足と砌(ひたりとみぎり)の極性の顕れ。それは、“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道。
“九”は、“一”=智性=1番目のオーラと丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)。○ 九 十の“九”。
“十”は、胸の磁性“十”。腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンから、胸と手の磁性で、シンクロトロン放射に移行する様。
よってヒフミヨイムナヤコト=一二三四五六七八九十は、“一”(亜から出ずる、アイ)“創造”の“主(ヌシ)”の振動、それを止める(“日止、霊止”の表記の意味)、そして縦の磁束と横の磁束の意味を表している“十”、これこそが脊椎動物の進化の究極の形であり、それはシンクロトロン放射の構造をも示すものである。
 そしてこの文に続く“百千卍”、卍の意味は、左回転であることも以前解釈したし、この三つの表記については以前画像を作ったので以下に貼っておく。

百 千 万 の解字と解釈 

“創造”の“主(ヌシ)”の振動(“一”(亜から出ずる、アイ))を止め(“日止、霊止”の表記の意味)シンクロトロン放射の構造を持ち(“十”脳と背骨の縦の磁束と手と胸の水平磁場、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現)そして“百千卍(もちよろず)”するのは画像で示した通り、“上”の振動を止める表記が百と千であり、卍は左回転であるからこそそれは自我の確立=固定化から、“慈悲”と“慈愛”という心(靈)の発現であり、それは大日如来の条帛(じょうはく)で示されている左回りで“上”にエネルギーが上昇するさまであり、それそのものが神格化のプロセスである。
また“百”の画像で示した通り“上”の振動を取り込み自らの心(靈)の構成要素としての高い振動を取り込む具体的な手段は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであり、それは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化となっていくものであるからこそ、より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく。


 この引用の文末“より高い、より“上”の“創造”の“主(ヌシ)”の振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)することとなっていく”だからこそ“授け申して神人となる”=よりいっそうの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)になるという意味合い。
 これに続く“我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ”この文の“まだ思って御座る臣民まだで御座る”を読み飛ばしてはならず、自分の認識、心(靈)の動きが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来のものであり、またその価値観や幸福感があるならばそれは“まだ”であると気付かねばならないし、“上”と自分の関係があってこそ、事象の“観察と認識”をすることが出来得る≒自分の存在を感得するものであると知らなければならない。

 これに続く“神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ”、これは、たった今の地球人は進化程度が低すぎて、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を知らなさすぎる、の意味合いであり、先に述べられている“一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ”、この仕組み、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め進化を果たしていくのが生命であり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の具体的な説明であり、“上”の振動を止めるならば進化するのだという進化の根拠まで述べているのだから、その根拠を知れ、という意味合いで、“爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ”であり、神があるから人間の進化がある、の意味合いと、“役員づら”の信心や神頼みを揶揄した言い回しとして、“神許りでも生きてゆけん”と称されていると思える。
 これに続く“まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ”、これは、自らが観察しうる一切の事象、外側(外国と幽界)の事象も内面とか内側(心の中と感じている事)も、自分自身も含め、一切の事象が神である、という認識の上で、すべての事象に“上”を認識(悟り、幸取=さとり)したならば、今まで自分に止めることが出来なかった“上”の振動と感応しうる=“まつりせよ”“まつろへよ”、それがまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の秘訣でもあるの意味合いと感じられ、おりしも、先の
ローム太霊講話集解釈の 第十七話 仙道 尸解仙とその実例 Kellyさん的解釈“その四” で述べた、

すべてに神が関与していることを意識していないからこそ、すべての事象に在るといい得る“上”からの振動である神の思惑を受け取れない、感応しない、神の思惑を理解しえない、よって程度の低い心(靈)であるからこそ、すべての事象に都合の良いことを思い、すべてが神であるという認識に至ることが出来ない(事象を観察する視野が狭い)のだが“人間が分らない自然━━ここではそれそのもの即ち神と考えてよい”、この認識がはっきりしていくならば、今までほとんど無視し続けたといい得る“周囲のものから受ける非常な神の霊気”と感応していく、その影響を受けて認識が高まる、ということが述べられている

この意味合いと合致しているものでもある。 
 それで文末に述べられている“神拝む許りがまつりでないぞ”、これは先の““役員づら”の信心や神頼みを揶揄した言い回しとして、“神許りでも生きてゆけん”と称されている”と同義。

 次の文。
“待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。 身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ”

 文中の“日の出”は、日の出の巻の解釈の時、今後=アセンション後の事象を指すと解釈したが、そのことを“待ちに待ちし”=“創造”の“主(ヌシ)”の計画としての“日の出の御代となりにけり”=霊的成長度の高低における区分けが起きていく、と説明され、“一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり”、今までは土=2~3番目のオーラの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程、それは“いろは”では無い、の意味合い。 “いろは”“イロハ”“意露波(いろは)”に関しては、“その三”“その五”で述べたので割愛するが、それが“たちにけり”=事象に顕現する、これはたった今の事象がそうではないのだ、という意味合いでもある。
 そして“たちにけり”、たった今は事象に顕現していないことの説明として“身慾信心してゐる臣民人民”、この進化過程の人間ばかりだからだ、といわれ、その低い心(靈)ならば“今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来る”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を含んだ振動を自分の心(靈)で認識できない=高い振動は素通りする進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であるという意味合いであり、それをまた“毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たん”と称されている。
 これに続く“悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されん”、この“悪気”は、“役員づら”にとって理由や根拠を追求するならそれは形骸の権威を害するものであり、その連中にとっては悪かのように見られるものであるが、理由と根拠、人間の存在の本来の意味と意義、神と人間の“ほんとう”の関係、これらは深く鑑みることが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須だが、“役員づら”にとって都合の良い人間は、自分たちの言うことに素直に従う、御利益を強調することを述べたらそれを恭順に受け入れ、神と人間の関係など考えもしない、これも進化程度の低い心(靈)であるからこそ、それではダメなんだ、という意味合いで、“一二(ひつき)”は、“一”、智性、1番目のオーラと“二”、肉体(月(ツキ))の意味合い、“一”=智性=1番目のオーラが大きい人間の意味合いが“一二(ひつき)の御民”である。

 次の文。
“あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。 淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん”
 
 文中の“黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し”、これはアセンションに伴う醜い事象、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の極み、これは無くなる、無くなっていくの意。
 それに遭遇し、迷ったならば、自分の存在の意味合いを考えたならば、“淋しくなりたら神示尋ねて御座れ”そしてたった今の醜い事象、これからひどくなる醜い事象の意味合いを知りたかったら“上”と感応せよ=“神示読まねば益々判らん事になったであろう”、醜い事象は際限ないぞの意味合いが“天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ”、醜い事象が起きる成因は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、自我の肥大(“石屋の仕組み”)で高慢であり傲慢であり、事象の意味合いなどを考える心(靈)の素地を持っていないから右往左往と左往右往(やってみてから失敗を体験し、その失敗を教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)せよ、そして自我を諌めよ=“鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん”と称されている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

“日月神示” 雨の巻 第五帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第五帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神示に書かしたら日月の神(一二 
ローレンツ力と ○ )が天明に書かすのであるから其の通りになるのであるぞ、皆仲よう相談して悪き事は気付け合ってやりて下され、それがまつりであるぞ、王(おー)の世がさかさまのおー雨の巻第五帖  (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのであるから、その事 早う判っておらんと一寸の地の上にもおれん事になるぞ、今度の戦(いくさ)すみたら世界一平一列一体になると知らしてあるが、一列一平 其の上に神が居ますのざぞ、神なき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ、ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ、誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせんぞ。
十月十七日、ひつ九のかミ。

 第五帖の重要な要旨は、文末の以下の文である。
“誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせん”
 この文の“人民”は、たった今の大半の地球人、自我の確立=固定化の進化過程の心(靈)、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”を指しているが、これは“誠の生神”ではないの意(当たり前である)。
 それで“誠の生神”の表記の意味として、天意を止める人、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する人(日止、霊止)が、神の思惑を顕現することの意である。 それでたった今の地球人はこれに相当しないので“誠の神の道に返さす”と言われている。

 このことを解りやすく説く言い方として
“王(おー)の世が
さかさまのおー雨の巻第五帖  (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻す”
この“王(おー)”については○○○大先生の一冊目の著書でも述べられている通り、“一二三”のオーラ、1番目、2番目、3番目のオーラと、|(たてぼう、こん、縦の磁性))のことで、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んで行くならば“一”=智性=1番目のオーラが大きくなっていくのだが、これに相対して“ (さかさまのおー)の世”という表記は、3番目のオーラ主体の心(靈)のことを指しており、それは目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であり、本能と情動と低い功名心と低い自尊心、いわゆる自我の肥大という息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)でこの事象が“創造”されているから、それは神の思惑ではないので“今度は元に戻す”=今後、アセンション後は、“上”と感応する“一”=智性=1番目のオーラが大きい人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって事象の“創造”をなし、それ自体が神の“思惑の顕現”であるの意。
 
 上記のことを念頭に置いて第五帖を読むと意味がよく解る。
 
冒頭の文。
“神示に書かしたら日月の神(一二 
ローレンツ力と ○ )が天明に書かすのであるから其の通りになるのであるぞ”

あえて解釈の要は無いと思うが、“上”の思惑を伝える手段として自動書記を行っているのだ、これは岡本天明の思想ではないのだ、このことが判別できない人に対する言い回しである。

 次の文はやや複雑な言い回し。
“皆仲よう相談して悪き事は気付け合ってやりて下され、それがまつりであるぞ”

 この文の“皆仲よう相談して”これは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に対する言い回し。 お前たちは自分たちの欲望のために“集団(つどい)”(上つ巻 第十五帖表記、“今度は末代動かぬ世にするのざから、今までの様な宗教や教への集団(つどひ)にしてはならんぞ”)
を作り、権威を示したりするものだが、それをやってみて初めて自分たちが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の行いをしているのだと気付くならばそれは“上”の通信を受け感応をしている=“悪き事は気付け合ってやりて下され”“それがまつり(“上”と感応すること)”と、やや揶揄(やゆ)した言い回しをされている。
 これに続く “王(おー)の世が 
さかさまのおー雨の巻第五帖 (さかさまのおー)の世になって居るのを今度は元に戻すのであるから、その事 早う判っておらんと一寸の地の上にもおれん事になるぞ”に関しては先に解釈したので割愛する。

 これに続く、
“今度の戦(いくさ)すみたら世界一平一列一体になると知らしてあるが、一列一平 其の上に神が居ますのざぞ、神なき一平一列は秋の空ぞ、魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ”
これもたった今が、形骸の名誉で“上”から観て何の価値も無い位(くらい)を自己奉仕者たちが勝手に作っているから、“一列一平 其の上に神が居ますのざぞ”、神が“上”、人間が“下”、と述べているに過ぎない。 
 そして“神なき一平一列は秋の空”というのは、“秋”は自省(胸の磁性“十”)の意があることを幾度となく述べてきたが、神、“上”と感応しなければ、ただただ自省(胸の磁性“十”)が続くだけだぞ、“うれしうれし”“大歓喜”には成り得ないぞ、という言い回し。
 これに続く“魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ”は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む思惑、そういった存在、そして進化を望む存在、要は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を理解して、どちらと感応するのか、自分の心(靈)の在り方を決めよ、それが“旗印”の意であると思えるし、霊的成長をある程度果たした人が身近にいたならば、それを見よの意が“早う旗印見て悟りて下され”であると思える。

 次の文。
“神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らすのざぞ、これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ、論より実地見て早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ”

 これは人間が“観察と認識”をしている事象は人間のものである、そして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるには、厳しい“行”が必須、それがあって神の“思惑の顕現”を成していくが、それを“神は臣民人民に手柄致さして万劫末代、名残して世界唸らす”といわれ、そうなったならば“これ迄の事は一切用ひられん事になるのざと申してあろ”、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が創りあげた価値観や幸福感などは一切通用しなくなるの意であり、それを実現せよの意で“論より実地見て”と称され、それには“早う改心結構、何事も苦労なしには成就せんのざぞ、苦労なしに誠ないぞ、三十年一切(ひときり)ぞ”と、“改心”下から今日から変わるということではなく、時間はかかるが、それは“上”が認めるものであるからこそ“苦労なしに誠ない”と称されている。

 次の文。
“ひふみ肚に入れよ、イロハ肚に入れよ、アイウエオ早ようたためよ、皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ、祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ”

 この“ひふみ”“イロハ”に関しては、
第三帖の“いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”、この文の解釈を参照のこと。

 “アイウエオ早ようたため”は、
夜明けの巻 第十三帖 Kellyさん的解釈 “その三”で以下のように述べた。

たった今を示す“アイウエオ”というのは
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“イ”は、生気生命の発生力
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、が、地に降り(“ア”)、生命(生きる使命=存在理由)が発生(“イ”)、そして生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それは肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)の進化である、と解することが出来る。
よって“アイウエオ”、これは生命が発生した理由、そしてその状況、生命(生きる使命=存在理由)の存在意義を示していると思える。
 それに対し“アオウエイ”は、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“オ”は、生命発生の元根と説明されているが、この“オ”に関しては、物質を伴った進化=肉体を持った進化のこと
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“エ”は、“上”に向かう事、神格化に向かう事、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味、その“道理”=“道”(時間の進行)“理(法則性)
“イ”は、生気生命の発生力
なので、地に降りた生命(生きる使命=存在理由)(“ア”)が、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し(“オ”)、その肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命は、連綿と続き(“ウ”)、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して行き(“エ”)、それが生命の発生力(“イ”)、これの顕現、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の顕現、“創造”の“主(ヌシ)”が生命を創造した意図、意義、であると解することが出来る。
よって“アオウエイ”は、肉体(月(ツキ))と心(靈)(ヒ)を持った生命の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものが“創造”の“主(ヌシ)”の意図であり、今後=アセンション後は、これが台頭する事象になるのだ、と、読み取ることが出来る。

よってこの言い回しは“アオウエイ”になっていくのだと解することが出来る。

 これに続く“皆えらい取違ひして御座るぞ、宮の跡は草ボウボウとなるぞ”、これはたった今の“宮”が、“役員づら”の台頭によるものであるから“草ボウボウ”であり、“役員づら”が創りあげた形骸の宮は“えらい取違ひ”、“役員づら”が述べていることも“えらい取違ひ”の意である。

 これに続く次の文。
“祭典(まつり)の仕方スクリと変へさすぞ”

 “祭典(まつり)”は本来、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の意だが、これが間違っているので“スクリと変へさす”と言われ、“スクリ”の意は、

“ス”は、生命発現の基(モト)、真澄(マスミ)、素、巣の意、御統、統一(ミスマル)のス、自ら統一すべ治(シ)らすの言霊
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
“リ”は、生命根源の、張り、広がり

なので、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進んだ生命(生きる使命=存在理由)の顕現、それが広がる、の意であるが、たった今がそうではないから、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と真逆になっているからこう述べられているものだと思う。

 次の、“誠の神の道に返さすのざから、今度は誠の生神でないと人民やらうとて出来はせんぞ”、これについては先に解釈を述べたので割愛する。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“日月神示” 雨の巻 第四帖 Kellyさん的解釈 


 今回も、雨の巻 第四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。 洗濯足らんのであるぞ。 今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ。
信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ。
実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ。
十月十六日、ひつ九のか三。

 冒頭の文。
“世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふのざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。 洗濯足らんのであるぞ。 今度はめんめにめんめの心改めて下されよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ”

 この文言の要旨は“洗濯足らんのであるぞ”、それは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”、要は自省(胸の磁性“十”)が足らないのだ、であり、ほとんどの地球人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の段階であるからこそ言われているに過ぎない。
 
 それで、このことをはっきり認識せよ、という意味合いで、
“頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふ”
“人民 自分で首くくる様なことになる”
“今度はめんめにめんめの心改めて下されよ”
(“今度”=今後、アセンション後)(“めんめ”は、面面、おのおの、一人一人、各自、めいめい、の意)
 そして今後=アセンション後のこととして以下の言い回しがされている。
“世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが”
しかし“上”から観たならば
“頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふ”
“天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな”
(“天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様”=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑通りでなければいけないのだが、それを知っていても行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移せない、それは自我中心の心(靈)だからであり、“上”と感応すべく心(靈)の素地が足りないからであるし、だからこそ自省(胸の磁性“十”)せよ、である)
と言われている。
 これが出来たならば、
“改まっただけ おかげあるのざぞ。 今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ”
特に解釈の要は無いが、“岩戸開いたら”は、岩戸開き、“石”(帯電するミネラル)と“山”(脳の意味)で、“戸”(横隔膜)を開く、の意であり、自我より“上”の心(靈)の発現と強化の意味合いがあり、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象を“創造”していくならば“おかげある”そしてそれは“末代の事”という言い方がされていることに気付くべき。


 次の文。
“信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ”

 “役員づら”が(通貨としての)金と形骸の名誉のため(程度の低い人間が程度の低い人間を褒めそやすこと)、“信者引張り”を行っているのだが、互いの霊的成長のための価値のある霊縁ならば“神が引き寄せる”、そして“役員の所へも引き寄せる”と称されている。
 これに続く、
“訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどうしたら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ”
自分に縁あったすべての何か、すべての事象に対し、真摯に向き合う、ことに人間に対しては“役員づら”のように“うそ、ごまかし、にせもの、いつわり、まちがい”をしない、それを理念にしていくならば、価値のある霊縁は出来上がっていく、それは人間だけでなく、霊的干渉も高いものになっていくが、それそのものが“上”の采配で、先の“神が引き寄せる”に相当することが実現する、そうなっていくものである。
(ことにこれは、○○○大先生の著書の読者会のメンバーに伝えたいことである)
 これを実現させるために、
“今迄の心 大河に流してしまへば”
“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”由来の幸福感や価値観を改めることをしなければ、
“何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざ”
とはならないのだといわれている。
 これに続く
“まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわつら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ”
今後=アセンション後に移行する際の天変地異、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、これらは地球人がやってきたことに対する“正当な報酬”であるが、そのことが理解できない、そもそも因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”という事象の法則性も理解しえない程度の低い認識の人が多いし、自分たちは悪くないという自我の肥大した程度の低い人間も多すぎる、悪い出来事は自分達の霊的成長度における事象の遭遇であるという認識を持つのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す人間の在り方であり、だからこそすべてに真摯に向き合おうとする、その姿勢を“上”は観ている、その意味合いのことを感じさせる文章だが、大概の人はアセンションに伴う醜い事象の一側面だけ見て大騒ぎするだけ、それでは、その醜い事象が起きる理由と根拠が解らず、低い心(靈)が低い事象を“創造”しているということにも理解が及ばないので、“表面(うわつら)許り見てゐると判らん”、何かが起きた、その理由と根拠は何か、それについて思え、そしてそれを引き起こしているのは自分たちの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)なのだと思い知れ、の意味合いの文章である。
 これに続く、
“元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ”
この文の“元のキの神の子”の“キ”は、
天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
元々地球に有った、あるいは地球の生物由来の振動の現象化と解することが出来、
“渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子”
これは今後介入してくる霊的成長度の高い人間(宇宙人など)と、それに由来する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在の意であると思える。
 これに続く“アとヤとワと…以下略…”これは、
“ア”は、天より地に降った生命の初声、究極生命の符音、事の初め、アはそれ生之雷(イノチ)に至らす
“ヤ”は、その心は高台(たかと)高き段に進む
“ワ”は、物を生む、生まれしものを和合する意、生命(生きる使命=存在理由)の調整の義
なので、先の“元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならん”にかかる言い回しであり、“ア”=生之雷(イノチ)は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する=“ヤ”、そして生命と生命が“創造”する事象を調整し和合させていくものである=“ワ”ということ。


 次の文。
“実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ”

 この文の“実地”は、現津(あきつ)、観察され得る事象のこと、その事象を観察する心(靈)が生命(生きる使命=存在理由)だが、個々の心(靈)だけでは事象の“創造”に成り得ず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があってこそこれまでの事象が“創造”されてきたのだし、今後=アセンション後は“上”中心の感応(神の思惑の顕現)になっていく=“臣民はお手伝ひ”ということでもあるし、“上”と感応する心(靈)の素地を持った人の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)で事象は“創造”される、それを“実地の誠の生神でないと出来はせん”と称されており、たった今の地球人はそのことに理解が及ばない、自分たちが自分たちの世界を創っていると錯覚しているものであるからこそ、
“雨風さへどうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ”
と言われており、これに続く、
“今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやるぞ、早う心改めよ”
これに関してはあえて解釈の要は無いと思う。

 今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 

 今回も、雨の巻 第三帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。 種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ。
悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか。
改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな。
十月の十五日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文。
“草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。 種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”

 この文言中の、
“草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのである”“草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな”
ここまでは、すべての生命が行うべき贖い(あがない)を示した文である。 
それは、いかなる生命、進化程度が低かろうが高かろうが(下等な単細胞生物であろうが人間だろうが)、自らのエネルギーを贖いながら“上”に向かうのが生命であるし、植物は神格化はしないが、動物は(植物の集合意識という形態ではなく、自我を発達させて独り神(ひとりがみ、日取り神)になる)いずれ神格化するものであり(猿から進化したのが地球人であり)、人間は生業(なりわい)であろうが“行”であろうが、自らのエネルギーを贖いながら自らの欲するものを求め、実現させようとする。
それは“思惑の顕現”、自分が欲したもの、思ったこと、それらを現津(あきつ)、観察され得る事象への顕現を果たそうとする、あるいは果たしていくものであり、このこと事態が生命、生きる使命、生命の存在理由、であるの意。 
 それで、ことに人間の場合は、
“人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな”
それは、人間の一生における生業(なりわい)や“行”、いわゆるエネルギーの贖い(あがない)は、すべて神格化へのステップであるの意であり、また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たしていけばいくほど、“身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)(ひらがなの“みみ”は、“創造”の“主(ヌシ)”に対して被造物である人間の視点)となること嬉しい”、これは自分が観察している事象への奉仕であり、奉仕そのものが進化した生命の成すべきことでもあるし、それは事象への神の思惑の顕現、自分自身を介して神の思惑を実現する=“神の御身(みみ)”ということになる。
 またそれは、
“惟神のミミとはその事”
と称され、“惟神”=“上”との感応、“上”の思惑を自分の認識にした進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした心(靈)は、“ミミ”(カタカナ表記は“上”からの観方)、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
これが二つ並んでいるので、日足と砌(ひたりとみぎり)、思惑にも、思惑を顕現した事象においても、すべて“惟神”=“上”の思惑を取り込んでいくものであるの意。
 この意を、
“此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ”
と称され、たった今の人間は“役員づら”の台頭により“誠の惟神の道”を知らないから、間違えるなの意味合いもあり、“上”と感応していくならば、
“神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ”
あらゆる事象の意味合い、その事象の成り立ち、成因などの理由と根拠が解る、判る、ようになっていくものである。 このことを換言するならばやはり“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を取り込んで自らの心(靈)の認識(悟り、幸取=さとり)とした心(靈)になっていくのだといい得るものである。
 これに続く
“いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
この“いろは”は、
松の巻 第十帖でも“今度はいろはの世に戻す”の表記があり、その際に以下のように解釈した
 
この“いろは”は、ひらがな表記なので、“創造”の“主(ヌシ)”に対し被造物である人間の目線による“観察と認識”であり、“イ”“ロ”“ハ”それぞれの意味は、
“イ”は、生気生命の発生力
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”の振動の低振動化、“思惑の顕現”=現象化の意)
“ハ”は、生命発現成長の音義
なので、“創造”の“主(ヌシ)”が生命(生きる使命=存在理由)を“創造”し、その詳細、意味、生命の存在理由、人はなぜ生きているのか、神と人とは、の意味合いを認識しうる文言であるが、たった今はそうではなく=人間と神の関係性などを感じうる事象ではないので=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が台頭し活躍する事象なので、“今度はいろはの世に戻す”、今後=アセンション後は違ってくるのだという意味合いである。

 また、
キの巻 第十一帖に“意露波(いろは)”の表記があり、それは以下のように解釈した。 

“意”は、日に立つ心、太陽に立つ心の意、言うまでもなく太陽の振動を取り込むこと、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことであるし、“露”は、天意が降り注ぐ意味合いの雨、


雨の象形文字 解字 


そして路で構成されているが、路は、道のり、行程、あるいは、そこへ行く道、そこを通る道、の意味合いがあり、またそれは太陽の振動を取り込んで派生する“露”=水=錯体の意味があると思えるし、最後の“波”は振動の受発信のことを述べ、これらのことを一括して“意露波(いろは)”と称されている。

 これに続く
“一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”の“一二三”は1番目、2番目、3番目のオーラであり、たった今の事象には“一”=智性=1番目のオーラが反映していない、“上”と感応している人が創っている事象ではない、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応している“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が中心になって事象を“創造”しているからこそ、その意味において“一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ”と称されている。
 これに続く、
“天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ”
これは“上”=“天から”“ミロク”、これは、
“ミ”は生命の幹 その現実
“ロ”は、根を纏めチカラを詰め固める意、咲き裂くの意ありて物を清め広め 神の奇霊(くしみたま)(“創造”の“主(ヌシ)”
“ク”は、亜のくぐもり(つづまり、結合) 奇霊(くしみたま) 炁空無光眞奇力存の奇(あらわれ)の意
なので、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を顕現した生命、の意、を示した言葉であるが、それが“みづの御守護遊ばすなり”、この“みづ”は、稜威(“イツ” 古代日本語で、“イチ”が変化した言い方、意味は、神霊の威力、みいつ、天子の威光、 類義語として、威霊)のことであると思える。 
 そして“日の大神様は火の御守護なさるなり”=太陽からの振動は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)と点二つ(回転を示す)で構成された“火”は、自らのローレンツ力
ローレンツ力で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め肉体が持つ円形加速粒子機の構造で“一二三”のオーラを発振、発信して事象の“創造”をする、それが“火の御守護なさるなり”であるし、ここまでの、進化の仕組み、進化の理由と根拠、生命の存在の意義と意味、生命と“創造”の“主(ヌシ)”の関係、これらを“日月神示”で幾度となく述べられ、それをみずからのにんしきとせよ、という意味合いで“此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らん”と称され、この“判らん”に当たるのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)である。


 次の文。
“悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。 善も悪もないのざぞと申してあろがな、 
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか。
改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、地球人における進化の段階は、自我の確立=固定化から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現と強化、同時に智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)も高まっていかねばならないが、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の発現に至るには自省(胸の磁性“十”)の“行”を行う=“悪も善に立ち返りて”、それはローム太霊の言葉なら左往右往、“日月神示”表記なら“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”だが、これをせねば、自分がどう在るべきか考え得るべく素地が心(靈)に無い、その素地が無いからこそ“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は自分のことしか分かりえない、よって自分さえよければよい、というものであり、これら事態が進化過程の高低でもあるが、程度の低い心(靈)は程度の低い“思惑の顕現”=事象の“創造”をする、進化した心(靈)は進化したなりの“思惑の顕現”=事象の“創造”をする、どちらもこの第三帖の冒頭の“神の御身(みみ)となること”、神の思惑を顕現するべくエネルギーの贖い(あがない)には違いないので“善も悪もないのざぞと申してあろがな”と称されており、これに続く“ 
ローレンツ力と ○ の国真中に神国になると申してあろがな”、これは心(靈)=○がローレンツ力 ローレンツ力 により“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たし、心(靈)が神格化していく意を“真中に神国になる”、真ん中は天之御柱(あめのみはしら)、肉体における“上”と“下”を貫く磁性、頭と尾骨までと言ってもよい、そして“国”は(囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示すものであり、それがあってこそ神に近付く=“神国になると申してあろがな”ということ。
 これに続く“日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか”は、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが“善(神格化の方向性と智性の受信)”であろうが、“日本”=“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め自省(胸の磁性“十”)しながら進化(霊的成長、神格化に向かうこと)して内面とか内側(心の中と感じている事)を高めていくのであろうが、心(靈)が感じ得る外側(外国と幽界)の事象であろうが、一切が神、すべての事象が神、すべて神の手の内、の意味合いで“神の国あるのみ”と言われている。


 次の文。
“改心すれば 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。 此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 先に述べたことと重複するが、たった今の地球人の進化過程は自我の確立=固定化で自我の肥大をして“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ばかりの事象であるからこそ“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”して心(靈)(ヒ)の在り方を自らに問わねばならず=自省(胸の磁性“十”)の“行”をしていくのだが、それをしたならば、“上”からの振動も取り込む振動が違ってくる=“其の場からよき方に廻してやる”、この意味合いで“(天之御柱(あめのみはしら)“上”と“下”を貫く磁性によるローレンツ力) 
ローレンツ力 (たま)の入れかへ致して”と称されている。
 そして、
“何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。 我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ”
これは“上”と感応している心(靈)ならば神の思惑に沿っている、それは自分が思い実現しようとしたことが実際に事象に顕現する、これも神の思惑の顕現=“我がしてゐるなら自由になる”ということだといえ、それに対し、神は低い人間の思惑を無視して(当然のこと)、良いカタチの事象を“創造”しようとする、それを“我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ”、これは神が生命に対し、生命自身の幸福(“夭と屰”(ようとげき)、と、示す偏(へん)(神の意)と“畐”、“一”(“創造”の“主(ヌシ)”の振動)と口(吸収)と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質))を実現させるという思惑があるからであるの意、この進化の程度の高低におけるケースバイケース、これくらいのことは分っておけ=“此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ”である。
 これに続く“国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ”、この“国々所々”は、やはり自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す心(靈)(ヒ)のことであり、そこに“宮柱”=天之御柱の強化をして“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を取り込み顕現せよ=“太敷キ立て”、カタカナの“キ”は、
天地の精気 モノの現れを示す音根、その表し得ざる心の素幸霊(スサノオ)自ら明津(アキツ、現津(あきつ)、観察され得る事象)させんにぞかし
であるから、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を顕現せよの意味合いを強めているし、“たかしれよ”は、“たかしれ”(高知れ、立派に造る、立派に建てる、立派に治める)の意である。


 これに続く次の文。
“此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。 従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”

 敢えて解釈の要は無い文ではある、ここまでの“日月神示”で述べてきたこと、進化の仕組み、神と人間の関係、これらの事柄を考えないとこの先(今後=アセンション後)は、何事も解らず、何も通用しない、その意味合いで、たった今の進化過程、平均的地球人の心(靈)の段階では“我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ”といわれ、これからは“神烈しく(はげしく)”なる、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、に、沿って生きねばならないので“従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ”と称され、これがまっとうな事象の“創造”には必須の要綱、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めるために“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化する、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことをする、そして自分の在り方を鑑みる=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する素地を強化する、すべて“上”から注がれる振動、神の思惑を取り込むこと、なので、“高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな”と括られている。

 今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第十七話 仙道 尸解仙とその実例 Kellyさん的解釈 第十七話の総括


 ローム太霊講話集に霊縁があって読まれた方ならば、太霊の意図する人間の成長、これはなぜローム霊訓講話が行われたのか、でもあるが、いわゆる霊的成長、心(靈)が育つこと、について述べられているのだということに留意すべき。
 それで、仙人と仙道の項目を読んでも“その一”で述べたように、

● 仙道や仙人という言葉に勝手なイメージを抱いている、例えば、仙人を目指す、仙人になる方、これが述べられているのだという解釈をしている人は多すぎる
● こういった人間は、神や霊やオーラなどや、仙人や仙道という文言に対し、ただ言葉に酔う、雰囲気に酔う…中略…酔うだけで大した努力をしない


これに相当する人、いうまでも無くこういった人間は低すぎるし、太霊が仙道と仙人の話をした理由と根拠に気付かない、というよりも気付けない、

“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である太霊の意図と感応していないといい得る。

 またこういう類の人間は、第十六話の、

名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない…中略…真に行ずる者は、それが天の使命であるかないかは別として…中略…自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務めであるという自覚を確(しっか)りと持っていることが必要

この“名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考え”、これを安易に持つ、それは自分がどう在るべきか考えていない、あるいは考えが足らない人間であることをあえて述べておく。

 それで十七話の前半で述べられている以下の言い回し、

死の彼岸にある幽界とか霊界とかという分らない世界について少しずつ教えてきた

汝等の死に対する予期の一端に触れて、そこに一道の光明を与えるならば、真によき教え…以下略…

人間が分らない自然━━ここではそれそのもの即ち神と考えてよい━━の一部分であることをはっきりと認識してこそ、その中に自身を見出すことが出来る

自然に帰一する凡ての死に対する問題の解決が生に対する問題のための根本原理になると思えばよい

これに着目すべきであり、ことに“自然に帰一する凡ての死”そして“死に対する問題の解決”、これが“生に対する問題のための根本原理”、どう生きるべきか、生き方をしっかり鑑みよ、と述べておられるのであり、その上で、

昔から多くの人間が真実の道を求めて苦しみ、愛や慈悲によって世の人を救い、また死をもって信仰を守り続けた事蹟はあらゆる歴史に伝えられる通りである

これらの人々の最後の言葉は現在を没却せんとする悲痛な叫びであって、これこそ人間としての最高の悟りであり、一生を通じての最大の得点となるのである

と述べておられるが、これはどういうことなのかについては“その三~四”で述べたので割愛するが、これらを踏まえた上で、

死は…中略…永遠の生命を開く門であり現世に対する絶対の力の拠点である

と述べておられ、この文言の“現世に対する絶対の力の拠点”ということをしっかり考えなければならず、だからこそ、

死をもっと立派なものに変えて一生を終る人々の話をしてゆきたいと思う

これを教えたい、だからこそ仙人と仙道の話をしていくのだという太霊の思惑を感じ取るべきである。

 それでここまでのローム太霊講話集において、例えば第十六話の、

人間は死の門を潜るまでは何も大きなことをする必要はない…中略…自分と自分以外の人に対して、神の意志を誤りなく伝えることが出来たならば、その者は数億の人間を靡(なび)かしたと同じ段階にその身を…以下略…

これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)すべく人間の在り方を説いておられ、そして、

名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない…中略…真に行ずる者は、それが天の使命であるかないかは別として…中略…自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務めであるという自覚を確(しっか)りと持っていることが必要

こういう言い方もなさっておられる。

 それと“尸解仙(しかいせん)”の具体的な説明、

眠りが半分精神統一が半分という状態になって…中略…その間に周囲のものから受ける非常な神の霊気によって…中略…そうなればもう尸解仙の幼稚園に入ったようなもの

この文言は、第七話の、

幽体の離脱を楽にするために、人間が常に努力しているのが精神統一であり又信仰であるが、しかし 凡ての宗教が説くように、肉体を離れたからと言って直ぐにそのよい所へ行けるわけではない。大切なことは、人間が生まれてから死ぬまでの間に積み重ねたプラス(善行)とマイナス(悪行)との総計であって、それが少しでもプラスになっていれば善い人間と認めるべきであるが、誰しも聖人としての幽界入りは望ましいにしても、普通の人間は零(ぜろ)でもよいからマイナスにならないように心掛けて修行すればよいのである。その力は永遠に付き纏うものである

仙人からほど遠い当たり前の人間は、この文言を合わせて考えるべきであるし、その上で“尸解仙(しかいせん)”は“幽体の離脱”をより良い状態で行い“死をもっと立派なものに変えて一生を終る”のだと解するべきであるし、これらが第十七話の重要な要旨であることを指摘しておく。

 それで十七話の後半で述べておられる、

稀には左程の老年でなくても修行を積んで尸解仙になる者もあって、そのよい例が日本にあるから、ロームの聞いたままを話する

これについては、これと全く同じケースを○○○大先生が治療する人の知り合いで実際に有ったことだけを付け加えておく。

 次回のこのカテゴリーでは、第十八話、「地仙と天仙」の解釈に入ることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。


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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

神格化のプロセス
目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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発売中の一冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈1〉

ローム太霊との出会い


太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈1〉ローム太霊との出会い
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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