“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“ローム太霊講話集”第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙 Kellyさん的解釈“その四”


 “その二”~“その四”で取り上げた文言の最後で、太霊は、

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える
と括っておられる。

 この“真の人間”(まことのにんげん)という言い回しは、ローム太霊講話集においてはこの第十九話で初めて登場する文言でもあり、また、S会=紫光会の交霊会に出席していた○○○大先生によれば、幾度も主護霊会において出席していた会員に対し、使われた文言でもある。

 それでなぜこういった言い回しを“上”である太霊や会員の“主護霊”が述べるのかについては、たった今の人間、そしてS会=紫光会の会員が目指すべきこと、それが“真の人間”であり、またそれはたった今の人間が“真の人間”ではなく、それを目指してもいないし、またこの文言自体の意味合いを大して考えていないからであると思える。

 先回も述べたように、

太霊はローム太霊講話集でもS会=紫光会の経文でも“行業一致”と述べておられ、その意は先の文言の通り“肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成”そして“精神をも立派に完成”この両方を為していけ、と述べておられるものであるし、今取り上げている文言の文末“神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間”、この“真の人間”に向かうべき要素としての“行業一致”でもある。

 この
真の人間”に向かうべき要素としての“行業一致
これについては、先に
このカテゴリーで取り上げた、第五十七話 行業一致の一途の努力 の以下の文言をよく読むと理解できるものである。 


汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 
世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない


 それで、この文中の
世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる
これが先に指摘した、

たった今の人間、そしてS会=紫光会の会員が目指すべきこと、それが“真の人間”であり、またそれはたった今の人間が“真の人間”ではなく、それを目指してもいないし、またこの文言自体の意味合いを大して考えていない

これに相当することであり、それどころかたった今の多くの人間、またこれを述べられた対象であるS会=紫光会の会員も含め“真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している”、こんな人間ばかりであると思える。

 余談になるが、人間は真摯に“上”に向かうべき“行”やっていけばいくほど、“上”と感応する。
 それは、
(“役員づら”の“行”ごっこではなく)“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す“行”ならば、自我より“上”の心(靈)の発現と強化、具体的には、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”、これが心(靈)の動きに台頭するものであるが、平均的地球人の霊的成長度は自我の確立=固定化であり、自我の肥大をしており、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるから、自分の損得中心にしか考えていない、そんな程度の心(靈)では、“上”と感応せず、当然のことながら自分がどう在るべきか、“真の人間”と“上”が評価するには、自分は何を考え何をするべきか、など、考えていないものである。

 それで、“次の地仙であるが…”の以下の文、

それぞれの道の修行鍛錬を積んだ最高の者を指す…中略…商売にしても碁将棋にしても剣術、医術にしても、凡てその道の名人達人と言われる者は地仙になる資格がある…中略…しかし尸解仙ですら杖仙、槍仙、剣仙となるにはあらゆる苦行をしなければならない…中略…数段上の地仙となると数も少なく…中略…汝等にしても数億の人の中から選ばれた者として釈迦、イエスぐらいのことは…中略…その伝えられているのと同じ不思議を示せとは言わないが、一生の間には何度かの奇跡を行なっている筈である…中略…世のため人のために真の自分を顕わす行為においてその方法を用いれば地仙と同じ…中略…地仙になるにはいくつかの階段があり、それに準ずる人々にしてもその名に応じた制限が加えられるが、汝等は必ず尸解仙の上のこの地仙にその目標を置くことが大切と思う

この文言中の、

世のため人のために
真の自分を
顕わす行為において
その方法を用いれば地仙と同じ

これが先に述べた“真の人間”を目指すべく“行業一致”でもあり、これらが
汝等は必ず尸解仙の上のこの地仙にその目標を置くことが大切”、
これそのものなのだ、そう太霊はおっしゃっておられることに気付くべきである。
 
 またここまでのことが理解できたなら、少々後戻りするが“一番下の尸解仙…以下略…”の文言、

道に入いったなら上仙達の指導の下に最下級の者として修むべき行を一つ一つ身に付けてゆき、次第に行そのものの中に食い入って尸解仙として為すべき行為の一端を握ればよい…中略…この行が益々進んで術となり條となり現、幽を通じて一人前の者に…中略…人間を守る神の下で働くようになる…中略…従って、同じ尸解仙でもその力の現われ方によってはっきり区別されるが、いずれにしてもその中の一つを捉えてこれに従事してゆくと、今までに習い覚えたものを実現させる一つの道具となり、またその中の一つを究めてその真髄を悟れば全部を統括する力となるのである。老祖のお経にある志堅心誠という言葉もこの精神を表わしたもの…以下略…

 この中の
尸解仙として為すべき行為の一端を握ればよい
そうすると“”の認識(悟り、幸取=さとり)が高まり、自分の“力”をどう扱うべきか思うようになるものである。
 そして
その中の一つを捉えてこれに従事してゆくと、今までに習い覚えたものを実現させる一つの道具となり、またその中の一つを究めてその真髄を悟れば全部を統括する力となる
これは“思惑の顕現”=現象化のためのことであるし、“”を備えたうえでの“思惑の顕現”=現象化、そのための“術”(“力”の顕現)の行使は、
その力の現われ方によってはっきり区別される
これは先に解釈したように“杖仙、槍仙、剣仙”に相対した言い回しであり、まっとうな“道”を進むべき、まっとうな“力”の行使をすべきであるという諫言でもあり、それはまた“志堅心誠”、志=“思惑の顕現”を為すべき意志、まっとうな“力”の使い方をするべく意志が、堅ければ、堅いならば、その心(靈)の動きは、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)であり、またそれは平均的地球人のように不誠実ではない、という意味合いである。

 それともう一つ

現に与えられている生業を捨てて深山に隠れ孤島に逃れて一生を終るというのは人間として恥ずべきことであるが、一定の年齢に達し自分の義務を完全に果たした後であれば差支えないのであって、正否はその一点にかかる

ここまでのことを理解しているならば、この文言の
生業を捨てて深山に隠れ孤島に逃れて一生を終るというのは人間として恥ずべき
そして
正否はその一点にかかる”なんてことは、すぐ理解できるものであり、これもやはり人間が“真の人間”を目指すべく“行業一致”を理念とせよ、という言い回しであることが解るものである。

 次回も“次の地仙であるが…”の文言中の“真の人間”を目指すべく文言について解釈することを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“ローム太霊講話集”第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙 Kellyさん的解釈“その三”



 今回は、先回の文末で告知した通り、

多くの人々はこの尸解仙になるべく全力を尽してその修行に没頭しているが、汝等はそれを欲してはならない
これについて解釈を述べる。


 “その二”がら取り上げている文言、

先ず一番下の尸解仙というのは…中略…多くの人々はこの尸解仙になるべく全力を尽してその修行に没頭しているが、汝等はそれを欲してはならない…中略…神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

このうちの、

汝等にしてもこの尸解仙になる位の素質は持っているのであるから、一応そこに目標をおいて修行してゆくと、力が増すにつれていろいろ面白い術が現われてくると思う

この“汝等”=当時の紫光会の会員に対して、
一応そこに目標をおいて修行…中略…力が増すにつれていろいろ面白い術が…以下略…”とは言われている。

 また、そのあとにこうも述べられている。

人間は常に修行と生業(なりわい)とのためにそれぞれの道に励んでいるが、この行業の一致ということは中々むずかしいとしても、一番大切なことは一度目的を定めたら脇目も振らずそれに向って敢然と進んで行くことである

これは以下の文につながる。

道に入いったなら上仙達の指導の下に最下級の者として修むべき行を一つ一つ身に付けてゆき、次第に行そのものの中に食い入って尸解仙として為すべき行為の一端を握ればよい

この文言の意味合いとしては、自分たちの霊的成長度において、何を求めるのか
=“道に入いったなら”、
そこにおいて、霊的成長度の低いうちは高いことを求めたりはしないものであり、その高い思惑としては第十八話の“衆生済度とか真理の探究とか”(“天仙”の思惑)、これはレベルの高い“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)とも言いうるが、いきなりそんなことは求めないで、まず、“術”(“力”の顕現)を求めたがるものであるし、そこからやってみよ
=“最下級の者として修むべき行を一つ一つ身に付け”、
と太霊は述べておられる。

 それで、これに続く以下の文言、

行が益々進んで術となり條となり現、幽を通じて一人前の者に育て上げられ…中略…そこで初めて山神、海神、木神、草神などの自然を守る神や男女老中幼の人間を守る神の下で働くようになる

これは
肉体を物体に変化させ…中略…例えば、肉体を杖とか剣とか槍とかに変える
に相対した言い回しでもあり、だからこそ
同じ尸解仙でもその力の現われ方によってはっきり区別される
と述べていらっしゃるものであるが、これはどちらがまっとうなのか、鑑みよ、という太霊の思惑を感じ得るものであるし、この文言で大事なのは、
行が益々進んで術となり條となり”、
“術”(“力”の顕現)を使っていくうちに“”を認識していく、この“”については○○○大先生が未刊行の著書の<7>で以下のように述べている。

それは、ロームさんの言う“道”を自分で確立し、そしてそのために努力する=贖う(あがなう)。努力っていう字は“いきり立つ心(奴と心)”に“力”、そして、もう一つ“力”。“力”が二つ重なった熟語だね。
そしてそれは贖うことだし、それに応じた霊的干渉もある。そしてそれは“術”を…“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を顕現することになっていく。しかし、その時点ではただ、“術”や“力”の獲得でしかない。“術”や“力”を使い、右往左往して左往右往して、使い方を考えるようになり、そしてそれは“條”になり“法(のり)”になり…それらは、心の動きを表わす言葉でもあり“力”と“術”を、この世界に現すための、心の発現と、法則ってことをいっている。“條”の意味は、条と同義らしく、それは、細長い枝、桑条(ソウジョウ)、桑の細い枝とか、すじ、筋道の筋(すじ)、細長いすじや紐(ひも)、あるいは、ひとすじずつ書いたものの意味、それは、条文とか条項、箇条書き。そしてそれは、物事の道理の筋道(すじみち)…条理。…そういう意味の字だよ。そしてそれは、大日如来の条帛(じょうはく)の意味でもある。


いわゆる“”は、“力”の使い方、“どういうつもり”で“術”(“力”の顕現)を使うか、その法則性を認識したならば…という意味合いのことである。
 少々蛇足になるが、ローム太霊講話集第十九話においての“”の注釈は、

“條というのは、術の方法と呪文と印とを條文に書き上げた巻物で、これさえ懐にしていればそこに書かれた術を行なうことが出来るのである。言わば神との條約であるから、一つの條を持っているとそれに対する一つの制限を受ける即ち特典に対する犠牲であって、例えば、その術によって得たものは私有にせぬとか貧者に分けるとかの類である。猶この條には巻物として渡されるものと、その者の体の中に植付けられるものと二通りあって、後の場合は非常に少ないが、釈迦やイエスはその一部分の力を発揮したものである”

であるが、ここでも
“神との條約…以下略…”
そして“それに対する一つの制限を受ける即ち特典に対する犠牲”
“術によって得たものは私有にせぬとか貧者に分けるとかの類”
などという表現もなされてはいる。 
だが、先に述べた「“力”の使い方」という点では、わかりにくく表現が不適切、それは認識(悟り、幸取=さとり)を獲得という点で
“巻物として渡されるものと、その者の体の中に植付けられるものと”
などという雰囲気に酔っぱらわせるような表現をあえてつかうのは、たとえそうであっても大事な説明を省略してしまっている感があると指摘させてもらう。

 本題に戻り、さらに太霊は、

何故(なぜ)ならロームは、行業一致、即ち肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成すると共に、この目に見えない精神をも立派に完成することが現界人としての使命であると言いたい

と述べておられ、この文言の、
肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成”そして“精神をも立派に完成”、
これが
現界人としての使命
それは“行業一致”であると述べられ、いわゆる“尸解仙になるべく…中略…修行に没頭”、これは“どういうつもり”、どういう思惑で頑張っているのか、それを当時のS会=紫光会の会員に問うているものであるし、お前たちが求めている何か、その高さと低さ、また求める何かのための“行”は“どういうつもり”の“行”なのか、ただただ“術”(“力”の顕現)のための修行か、この問い自体が、これらのことを考えさせるものであり、これを考える過程で“”を深く認識させうるからこそ、太霊はこういった言い回しをされたのだと思う。
 
 それは、自分が生きている間に“術”(“力”の顕現)を示す、そのために生きる、そのために頑張る(元の気を張る)というのは、
この目に見えない精神をも立派に完成することが現界人としての使命
これを為し得ない、それは“術”(“力”の顕現)にばかり目が行くのは、功名心と自尊心所以の示威行為になりがちであり、そこにまっとうな人間の在り方という要素を見失いがちである。
 だからこそ太霊はローム太霊講話集でもS会=紫光会の経文でも“行業一致”と述べておられ、その意は先の文言の通り
肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成
そして
精神をも立派に完成
この両方を為していけ、と述べておられるものであるし、今取り上げている文言の文末
神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間”、
この“真の人間”に向かうべき要素としての“行業一致”でもある。

 また、

凡ての教えは、ある一点から発したものを…中略…れぞれの波動に合うように説かれている…中略…それを受け入れられる人間は最も幸福と思わなければ…中略…しかし仙道に限らずいずれの道にも階級の段があって、その初めの段即ち初段を得るにもあらゆる艱難辛苦をして人生の道を全うする…中略…これが完成されてこそ立派な幽界人になれる…中略…尸解仙の根本もここに…以下略…

これは自分が求めた何か、これを
あらゆる艱難辛苦をして
人生の道を全うする”、
これをせよ、ではあるが、それは“立派な幽界人”という段階でしかない、ということであり、これに相対し第十八話の
幽界に行けるのが尸解仙とすれば、霊界にまで足を伸ばせるのが地仙である
を観れば判るが、それはやはり“一番下”であり、“地仙”の霊的成長度、心(靈)の動きよりは劣っているのだ、と読み取るべきであるからこそ、太霊は、
汝等はそれを欲してはならない
と述べておられるものである。

 次回は、今取り上げている“先ず一番下の尸解仙というのは…中略…神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える”、これに加え、“次の地仙であるが…”の文言とともに解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙 Kellyさん的解釈“その二”



 先回告知した通り、今回は、

先ず一番下の尸解仙というのは…中略…多くの人々はこの尸解仙になるべく全力を尽してその修行に没頭しているが、汝等はそれを欲してはならない…中略…神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

この文言で述べられていることの一部を解釈する。


 それで、先回文末で述べたこと、

● “尸解仙(しかいせん)”と“地仙”の霊的成長度の違い、それは、その思惑の違い、さらに“思惑の顕現”=現象化の違い

これに関しては、太霊も同様の意味合いとして第十八話での言い回し、

仙道を三大別して…中略…今度はその尸解仙、地仙、天仙の各を更に分類して

と述べられ、その上で第十九話において

先ず一番下の尸解仙…以下略…”、

これは“尸解仙”の霊的成長度は仙道の中で最も低い、それで“一番下”という言い回しをしていらっしゃるものである。

 それで第十九話における“尸解仙”の説明の中で、

● “自分の肉体を地上に置去りにした後、一週間から二週間の間(あいだ)にその幽体を物質化して現界の家族や友人の前に現われるのが普通

● “稀には自分の存在を永く地上に残すために、その肉体を物体に変化させ…中略…例えば、肉体を杖とか剣とか槍とかに変えるのであって…以下略…

 この二つは、どういった心(靈)の動き(“どういうつもり”、思惑)によるものなのか、それは、生きていた時のことに対する“執着”所以のことと思われる。

  それで、第十二話 死後の種々相 正常死の特別の場合 の解釈“その一”でピックアップした以下の太霊の文言、、

人間は一旦物質である肉体を捨てたなら、あらゆる物質との関係を断つようにするのが幽体の間に努力すべきこと…中略…一つのものに纏わるということは絶対によくない…中略…汝等も益々修行をしてこの放下(ほうげ)する心を培(つちか)っていってもらいたい…中略…執着を断ち切るということは中々困難であるが、この諦めの心こそ自分の霊性を向上させる元となる…中略…現界でも幽界でも霊界でも、それぞれの界の法則によって得られるものはこの力

この、
それぞれの界の法則によって得られるものはこの力
放下(ほうげ)する心
執着を断ち切る
この諦めの心こそ自分の霊性を向上させる元

ことに最後の“この諦めの心こそ…以下略…”が、霊的成長には必須の要綱であることを述べておられる。

  これに相対し“一番下の尸解仙”は、
幽体を物質化して現界の家族や友人の前に現われるのが普通
これは“家族や友人”に対する愛着や未練もあるだろうが、その“尸解仙”自身の心(靈)の動きは、やはり“執着”と言いうる。
 そして、
稀には自分の存在を永く地上に残すために、その肉体を物体に変化させ…中略…肉体を杖とか剣とか槍とかに変える
これは、自分が“術”(“力”の顕現)を求め、それを目的に“行”やってきた、その結果を示したい、という心(靈)の現われであると言いうる。

 ことにこの文言の後半の
残された杖や剣にはその者の霊が乗り移っていて不思議を現わす…中略…魔杖、魔剣として術に使われる

この、
不思議を現わす…中略…魔杖、魔剣として術に使われる”、
重複するがこれは、自分が生きていた間に培った努力、求めた“術”(“力”の顕現)を示したい、自分の“力”を現界で示したい、これは明らかに示威行為であるし、その示威行為の裏には、自分の力を示すことの執着、これは先にピックアップした第十二話の“執着を断ち切るということ”ではないし、この場合の“一番下の尸解仙”の“術”(“力”の顕現)や“行”の結果を示したいという“執着”の裏には、功名心と自尊心がある。
  だからこそ
自分の存在を永く地上に残すために、その肉体を物体に変化させ
そこまでして、さらにそのために
上仙(地仙、天仙などの高級のものを指す)の力を借りて”、
それは“神からの特別な命があった場合”とは述べられているが、それを求める、そうなりたい、その思惑、“どういうつもり”、においては、先の示威行為、こういった心(靈)の動きがあると分析しうるものである。

  それでこれに続く、

汝等にしてもこの尸解仙になる位の素質は持っている…中略…一応そこに目標をおいて修行…中略…力が増すにつれていろいろ面白い術が現われ…以下略…

これは当時のS会=紫光会の会員に対して述べられていることであり、お前たちは現界で“力”を示したいのだから…という言い回しである。

 そして自分が“力”を示したいならば、

一番大切なことは一度目的を定めたら脇目も振らずそれに向って敢然と進んで行く…中略…仙道も同じことで、この道に入いったなら上仙達の指導の下に最下級の者として修むべき行を一つ一つ身に付けてゆき、次第に行そのものの中に食い入って尸解仙として為すべき行為の一端を握ればよい

と、“力”の顕現をする際の心(靈)の在り方と、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により“上”である“上仙達の指導の下に最下級の者として修むべき”とも述べておられるが、これも自分の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)によることである。

 しかし太霊は、今回ピックアップした文言の中で、
多くの人々はこの尸解仙になるべく全力を尽してその修行に没頭しているが、汝等はそれを欲してはならない
と述べておられる。

 次回はこれについて解釈を述べることを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。



“ローム太霊講話集”第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙 Kellyさん的解釈“その一”


 今回から第十九話の解釈に入ることとする。 
それでタイトルは「仙道 再び尸解仙と地仙」とされてはいるが、十九話の太霊の文言には、人間としての在り方を示す表記があり、十九話の要旨としては、それが最も大事なことであると言いうる。

先ず“一番下の尸解仙…”の文言では、

行業一致、即ち肉を持つ者は肉に与えられたものを立派に完成すると共に、この目に見えない精神をも立派に完成することが現界人としての使命である

汝等はこの行業一致の精神を凡てのことに取り入れて、神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

と述べておられる。

 そして“次の地仙であるが、これは尸解仙の上の階級…以下略…”においては、

世のため人のために真の自分を顕わす行為においてその方法を用いれば地仙と同じ…中略…地仙になるにはいくつかの階段があり、それに準ずる人々にしてもその名に応じた制限が加えられるが、汝等は必ず尸解仙の上のこの地仙にその目標を置くことが大切

地仙の中にも…中略…自分の長生を求めるよりも、あらゆる迫害に堪え生命を犠牲にして人間のために尽そうとするものもいる…中略…これが汝等が現実に見ている母が子に対する行為、行為というより自然に出てくる力であり、これが神の愛であり慈悲であり、これがまた地仙の目指す最高の目的…以下略…

と述べておられる。

 また、
第十八話の総括 において 

尸解仙(しかいせん)”“地仙”“天仙”その霊的成長度の違いということを踏まえてから、太霊の文言を読み解き、自らの認識(悟り、幸取=さとり)としてもらいたい

と述べたが、“その霊的成長度の違い”による事柄も如実に述べられているものである。

 よって、この第十九話を読み解くにあたって先に述べた、

● 人間の在り方を示されている太霊の文言

そしてもうひとつ

● “尸解仙(しかいせん)”と“地仙”の霊的成長度の違い、それは、その思惑の違い、さらに“思惑の顕現”=現象化の違い

これらの事柄を述べていきたいと思う。

 それで次回は、

先ず一番下の尸解仙というのは…中略…多くの人々はこの尸解仙になるべく全力を尽してその修行に没頭しているが、汝等はそれを欲してはならない…中略…神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間と言える

ここまでの解釈を行うことを告知して、今回はこれくらいにしときまんねん。




“日月神示” 雨の巻 第十四帖 Kellyさん的解釈 


今回も、雨の巻 第十四帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ。 
此の道 難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。 今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。 まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。 表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ。
我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ。
此の神示 無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。 天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。 次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ。
人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。 
善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。 松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。
十二月十八日、ひつ九のかみ。

 冒頭の文。
“一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ”

 これまでの“日月神示”で、“落ちぶれて”あるいは“落ちぶれた”という表記がいくつかあったが、この文言の“一番尊い所 一番落してある”そして“此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)る”、これは“上”が認めうる霊的成長度の心(靈)、たとえば下つ巻 第三十七帖の“ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろ”、この表記は、霊的成長のために太陽凝視を行っている人間ほど世に認められないの意で、これに反し、悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)である“役員づら”ばかりがこの事象では一般に認められ受け入れられるものである。
それは、たった今の事象が霊的成長度の低い“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されている腐った事象であり、霊的成長度の低い大多数の人間が“上”から観て価値のない腐ったものを評価して誉めそやすので、霊的成長度の高い心(靈)の人の活躍や台頭が妨害されるものであり、よって“一番尊い所 一番落して”こうなってしまうものだ、という意味合いのこと。
 だが、そんな状況はいつまでも続かない、“上”は“上”の“思惑の顕現”をする、“上”と感応する人(“天詞様”)の活躍をさせうる、それが“神烈しく(はげしく)”の意味合いの一つでもあるし、だからこそたった今の腐った事象、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の台頭している状況は、“上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ”ということになるものである。
 それで先に述べた“上”が認めうる霊的成長度の心(靈)というのは、ここまでの“日月神示”に登場した“落ちぶれて”あるいは“落ちぶれた”の表記のある文言を観ると理解できるので、いくつか以下に列挙する。

上つ巻 第二十帖 
“神の臣民 言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。 足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。 上の者 下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ”

下つ巻 第三十七帖 
“ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。
何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ”

日月の巻 第二帖 
“三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、 此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、 みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。
今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ”

日月の巻 第六帖 
“一度は何もかも天地に引上げと申してあるが、次の四(よ)の種だけは地に埋めておかねばならんのざぞ。 それで神がくどう申してゐるのぞ。 種は落ちぶれてゐなさる方(かた)で守られてゐるぞ。 上下に引繰り返ると申してある事近づいて来たぞ”

 次の文。
“此の道難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。 今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。 まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。 神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。 表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ”

 この文の冒頭の“此の道”は、まっとうな進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を指しているし、これまでの“日月神示”表記の“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)と同義。
だが、この文で述べられている要旨は、霊的成長度の低いお前たちは進化の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)など解っていない

“未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ”であり、それは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理を解る以前に、何が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)か判りえない、その理由は“役員づら”の手法に乗せられている人間ばかりでご利益主義を刷り込まれている、よって神に対する認識(悟り、幸取=さとり)も、進化に対する認識もほとんどない、そんな人間は先の第十三帖の“まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ”でもある。
それでこれからの進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の過程、自我の確立=固定化の段階から“慈悲”と“慈愛”の心(靈)、自省(胸の磁性“十”)の“行”、これをして行け、それが文言中の“今が神国の初め”(“国”は“国”((囗)くにがまえ)と“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す))であるし、その際に気をつけろの意味合いで
“今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ”
それと
“まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山ある”
これは“役員づら”の手法に乗せられているご利益しか求めない“ブタのけつを見ているアホ”のこと。
 それで、自分たちが神に対する認識も深め、進化に対する認識も深めていかねばならない、そのために、“欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下され”=我欲、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)を自分で諌めよ、あるいは執着を捨てよ、と述べられているものである。
 今述べたことが出来ないならばそれは、先にも述べたとおり“上”から観たなら“盲聾(めくらつんぼ)”であるし、“人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな”=ほとんどの人間が…でもある。
それで、お前たちは自らの進化のため“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を求め、実践するべきであるが、その過程として、
“何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ”、
この“元”の表記は、“世の元からの生神”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)であり、たった今の霊的成長度に差があって低いものも高いものも同一の事象に存在(位置している)が、“何れ元に帰って来る”=進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理を見出し手それを実践するようになる、その過程において間違った認識で“役員づら”の手法に乗せられたりもするが、載せられなければ“ほんとう”のことが解らない=“元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返す”の“繰り返す”は、右往左往と左往右往の繰り返しをするのだ、の意であるし、これに続く“次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ”、これは冒頭の“一番尊い所 一番落してある”、真摯に霊的成長を求め“行”を実践する人間に対しこの腐った事象で満足している人間の妨害を指した文言でもある。
また、
“神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民 皆外国につく様になって、此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまう”
この“神の国は…中略…二度と立ち上がられん”くらい“一番尊い所 一番落してある”(第十四帖冒頭の文)ということになる、それはこの文中の“人民 皆外国につく”、この“外国”は外側(外国と幽界)の事象のことで、自己観察=“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”をせず、外側ばかりに捉われたものの見方をしているの意、であり、前後するが、
“事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用 事務所禁物ぞ”
これも外側(外国と幽界)の事象ばかりに捉われた人間の行いを“事務所作るのは表の仕組”で、形ではない、体裁でもない、大事なのは内面とか内側(心の中と感じている事)の変化、それを“裏の御用 事務所禁物”という言い回しで指摘しているし、このことが理解できていないから“人民臣民 早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな”であり、これに続く“それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ”、これも形や体裁ではない、“役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所”の“役員殿の住むとこ”は、心(靈)の入れ物である肉体(月(ツキ))を指しているものであるし、問題は心(靈)の在り方であるの意を“よく相談してやりて下され”と言われ、そうなると進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の道理が判る=“段々判りて来る”と称されているし、その過程には自らのエネルギーの贖い(あがない)が必須であるから、
“表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ”と言われており、それに相対し、“役員づら”の手法に乗せられている人間は、頑張らない、“神の采配”である試練から逃げ、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)ことを考えたい、ローム太霊の言葉である“苦に苦を重ね、苦を求め、更に苦を求めるのだ。楽を求めてはいかん”の逆、“粘りとやせ我慢”の逆、こればかり求めさせられるように“役員づら”のご利益主義を、インプリンティング(刷り込み(すりこみ)、刻印付け)させられているものである。
それと、今取り上げた文言の前に言われている、
“神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざ”
これも“役員づら”の手法に乗せられた人間がこの事象の主流になる、しかし、“世が落ちてしまうてから始めて神力現れる”、これは、必ず“上”の思惑は顕現し、程度の低い人間も程度の低い事象も必ず変化しうるのだ、の意であり、それを強調した言い回しが、
“今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ”
この“磨けば皆結構な身魂”、これは“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化をしなければならないの意であり、
“人民の肚さへたら”
この“肚”は自我のことをさし、自我の確立=固定化を強化させたならば、自分に対する見方も変わり、より自我を諌めうる、当然のことながらその段階に至ったならば、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”、というものを自らの心(靈)が獲得しているものであるからこそ“人民の肚さへたら天もさへる”、これは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意も、“神烈しく(はげしく)”によりもっともっと注がれるし、それと感応するからこそ“さへたら”、“さへる”ということになり、その意味合いで“心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ” と述べられている。
 少々長い解釈になったが、結果、霊的成長は内面とか内側(心の中と感じている事)の観察、自己観察、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、であり、自我の肥大を認めそれを諌めることをする、また自我の肥大をした人間は外側(外国と幽界)の事象に捉われていて、このこと自体が認識(悟り、幸取=さとり)が低いのだ、ということだが、それを要約したのが次の文言である。
“我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ”
この文末の“毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふ”の“草木”、これは“草”が、艸部(そうぶ)艹、クサカンムリと、太陽を示す“日”、それと胸の磁性“十”の合わさった表記、“木”は、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)である。 実際に“草木”になるわけではない。

 次の文。
“此の神示 無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。 天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。 次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ”

 冒頭の“此の神示 無闇(むやみ)に見せるでない”そして“神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ”これは勝手な解釈をする人間が多すぎることを暗に戒めたもののいいようであり、“役員づら”とご利益しか求めない程度の低い人間には見せたくないのだ、ということでもある。
 これに続く“天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ”の“千”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と胸の磁性“十”、この二つの意味合いが重なった表記で、神の思惑を顕現すべく心(靈)は自省(胸の磁性“十”)ができていなければならないの意であるし、“今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ”は、自省(胸の磁性“十”)ができない、自我の肥大を認めない、そんな心(靈)では“上”と感応しえないので“暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になる”と言われている。
 これに続く“次に世に出る番頭殿 まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ”
文中の“世に出る番頭殿”は、“日月神示”が書かれた時の時代背景、軍国主義の終わりとその後、その時の形骸の権力を示す者たち、これらは当然のことながら“上”と感応する資質などないに等しいので“神なきものにして御座るから一寸先も判らん”、また得に解釈の要はないと思うが“先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ”、要は、程度の低い人間が世を治めようとしても失敗する、それは“上”の思惑など判らない、解らないからだ、と言われているし、これに続く“此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ”も、程度の低い心(靈)が世を治めようとするが、それは現状通り“すればする程 悪うなる”であるし、“上”と感応している人間が政治をする…おそらくアセンション後は政治など消滅するだろうが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”がたった今政治をしているから失敗の事象の“創造”、右往左往の右往ばかりをするの意であるし、所詮、政治などでは人間の進化の指針にはならない、それが“神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ”の文言から感じられる。
 これに続く“神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど”、これは失敗を繰り返して自省(胸の磁性“十”)して成長する、それを“こうなる事判って呑んでゐる”、“上”は承知して見守っている、の意であり、これに続く
“それでは臣民 可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ”
この文言の要旨は、解らんでも見ろよ、見てもわからんだろうが見ろよ、そして“此の神示ウタにして”の“ウタ”は、
“ウ”は、生物を生み出す力と説明されている。 産土の太神の“ウ”に相当するもの
“タ”は、生命が現れ立つ、建く(たけく)高く成長の音義、進化=霊的成長、神格化に向かうこと
なので、生命(生きる使命=存在理由)の発現と進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を示す表記だが、これが書かれているのだ、それを“印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ”、これは、程度の低い心(靈)の持ち主にも、解らなくてもよいから見せろ、これが解らない程度の低い心(靈)は失敗の事象を体験してだんだん理解していくから見せろ、の意である。
 これに続く 
“神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ”
文中の“九十(コト)”、“九十”は、“九”が“一”=智性=1番目のオーラ+丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)+乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と胸の磁性“十”を持った心(靈)そのものが生命(生きる使命=存在理由)の最終段階、それは卆(そつ、卒業の卒の異体字)でもあり、“日月神示”表記の ○ 九 十 霊=○、荷電粒子の場(フィールド)と“九”と“十”でもあり、カタカナ表記の“コト”は第十三帖でも述べたが、
“コ”は停滞して働く意と細分の音義、物の凝り集まりに固まる意
“ト”は、止まると云う心
なので、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、“天津御空(あまつみそら)”、“上”からの振動、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止め進化する、進化して神の思惑を顕現する、その意を“神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐる”と称されて入いるが、たった今は“上”と感応する心(靈)が少なすぎるので“九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど”
と言われているが、感応すべく資質はやはり自省(胸の磁性“十”)なので“早う洗濯掃除せよと申してゐる”と言われている。

 次の文。
“人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ”

 冒頭の“人の十倍も今の仕事して”は、自分のエネルギーを購え、これができない自分にとって都合の良い考え方をする人間、天の僥倖、ご利益主義、漁夫の利、頑張らないでよい結果を得たい、そんな考え方をする心(靈)は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、そんなものを“上”は認めないという当たり前の事柄の意でもあり、たった今やっていること事態が“上”から観て価値のあることなのかを知るにあたっては、やはり右往左往と左往右往ではあるが、それを解るには“人の十倍も今の仕事”という家庭も必須なのだ、の、二つの意味合いを感じ取れる。
 結果それは右往左往の左往であり、自省(胸の磁性“十”)に至る、自分がどうあるべきか知り、それを生き方に活かす、それが“身魂掃除”“身魂洗濯”“改心”であるからこそ“洗濯ぞ、掃除ぞ”である。
 そのために自分は惑わず、悪魔のささやきに乗らず、天の僥倖、ご利益主義、漁夫の利、頑張らないでよい結果を得たい、そんなことを考えてはいけないの意で“地に足つけよと申した事判らんのか”と言われ、これに続く“百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか”は、実直になれ、堅実になれ、働いた分だけが報酬になる職業を示しており、それに反し現状は投機などで儲けたい人間、あるいは形骸の権威で儲けたい、“役員づら”になって儲けたい、そんな人間ばかりなのでこういわれているし、これに続く“ 
(てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざ”、この“ (てん)雨の巻第十四帖 (てん)”は、中国の漢字で、天、天国、天界、あるいは青い空(これは“秋立つ”を示していると思われる)、新緑を取り巻く空気、そういった意味合いがあるが、やはり高い振動そのものを指す表記であると思え、実直な生業(なりわい)や“行”をするならば…の意味合いが“ (てん)雨の巻第十四帖 (てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざ”、高い振動が“下”である人間に顕現するのだの意味だと思える。

 これに続く次の文。
“善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。 松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”

 人間の認識はとても低い、善と悪に対しても自分たちの立場を主張して相対的なものの言いようしかしないケースが多々あるが、これ自体が自我の肥大ゆえの思い方である。
 次の事象、今後=アセンション後は、“絶対の善”が顕現していくべき事象であるので、今持っている狭い認識の“善悪”ではいけない、自我の肥大ゆえの自分の立場の主張ゆえの善悪を説くのは、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)であり、だからこそ人間は奪い合い殺し合いまでしているものであるが、それを判れ、解ったなら自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)せよの意味合い。
これに続く“松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”
この“松”は、松の巻の〇つ、これまでの進化過程とは違う新たな生命となった心(靈))を指し、“松食(お)せよ”は、“〇つ”となるべく、天意と感応せよ、高い振動を取り込め、それを“食(お)せよ”と称され、そうなったならば“松おせば判らん病直る”、この“判らん病”は、“借銭”でもあり、悪因縁でもあり、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のことでしかないが、進化した生命(生きる使命=存在理由)の“創造”する事象は、恨みの連鎖の霊的干渉そのものが発生することがないからこういう言われ方をされているし、そうなれ、必ず自分自身を成長させて“〇つ”となれ、その意を、
“松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ”
という文言で括られているものである。

今回はこれくらいにしときまんねん。




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 Kelly & ○○○大先生

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心(靈)の二面性であり、
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
智性無き心は
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 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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発売中の二冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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