“ローム太霊講話集” 第三十四話 精の形とその利用法 Kellyさん的解釈“その三”
今回も、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。
“人間は物を沢山持つことによって裕福に…中略…この物質だけの問題なら、その妖精を可愛がることによってそれを完全に握ることが出来る…中略…そのため多くの宗教では、現実の利益を目的として稲荷とかその他の眷属を使いこれを利用して人間の心を弄ぶものも…中略…汝等大道に生きる者は、そういう物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じていればよい…中略…人間の真の道は物でないことがはっきり分る”
冒頭の文言には、
“人間は物を沢山持つことによって裕福”
と述べられ、それから、
“物質だけの問題なら、その妖精を可愛がることによってそれを完全に握ることが出来る”
と称されている。
これに関しては“その一”で取り上げた
“自分に必要と思う精を可愛がってその気を十分に捉える…中略…現界での希望は大体満たされる”
と、ほぼ同義でもある。
だが、これは誰もが持っている物欲(目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階))、これを満たす際の事柄のみを述べている。
それで、この後の文言の“人間の真の道は物でない”、これに相対した言い回しが“物質だけの問題”であり、“物を沢山持つことによって裕福”になれると自分が思うならば“その妖精を可愛がることによって…以下略…”と述べられていることに気づかねばならないし、“ほんとう”の“裕福”が、“物を沢山持つこと”ではないから
“汝等大道に生きる者は、そういう物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じていればよい”
と述べられ、これが太霊の教えであり“大道に生きる者”となれ、これを考えよ、という意図のある文言であることにも気づくべきである。
そして前後するが、“物質だけの問題”、これしか頭にない人間をだます手法としてのことが以下のように述べられている。
“多くの宗教では、現実の利益を目的として稲荷とかその他の眷属を使いこれを利用して人間の心を弄ぶものも”
これも、お前たちは“ほんとう”の“裕福”ということは何かを考えよ、その指標としての意味合い、それは“現実の利益を目的として”、この低い心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応する“稲荷とかその他の眷属を使い”、結果としてその人間の霊的成長を妨げる、それは“これを利用して人間の心を弄ぶ”、これに気をつけよ、そして先の“大道”とは何か、どうしたら自分は“大道に生きる”と“上”が認め得る人間となるのか、これについて考えよ、であるし、その考える指標として
“人間の真の道は物でない”
よって
“物質については自ら求めずともその系統によって自然と運ばれて来ることを信じ”
これは神に任せる、任せることが出来るのは、その資質とは、“大道に生きる”、あるいはこれを真摯に求める、であり、“物を沢山持つことによって裕福”だと思うのは低い心(靈)なのだ、ということを知るべきである。
それは“その一”で取り上げた“高級なものから低級なもの”という表記にもこの意味も含まれていることに気づいてもらいたいものであるし、その“低級”、それは“人間の真の道は物でない”のであり、この“真”、これは読み仮名が付いていないが、
(これを書いているS会=紫光会の会員で交霊会に何回も出席し、“真”(まこと)という言葉を直接何回も聞いた児玉登としては)
“まこと”という言葉をあてておくべきであるし、この表記の意味は、古神道の表記の真固止、何を真に固く止めるのか、それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に伴い神の思惑を自分の認識(悟り、幸取=さとり)としてこの現津(あきつ)、観察され得る事象(現実)に活かす、これがまた“日止、霊止”、太陽を止める、靈を止める、の意味でもある。
ちなみに、靈を止める、に関しては以下の画像を参照のこと。

この“人間の真の道”、霊的成長度の低い人間は“物を沢山持つことによって裕福”だと思うだろうが、それは、“低級”なのであり、よって、“人間の真の道は物でないことがはっきり分る”、これは太霊の言い回しとして“はっきり”と分かれよ、という意味合いであることを述べておく。
今回はこれくらいにしときまんねん。