“ローム太霊講話集” 第三十五話 術と法と道 Kellyさん的解釈“その四”
今回は、先回取り上げた文言に続く以下の文言を解釈する。
“元来人間は誰しも、金力とか物力とか智力とか…中略…兎に角何かの力が欲しいのであって、その道一筋に進めばその力を持つことも出来る…中略…汝等にしても、自分が今日まで困難に堪えて努力してきた道では他の人より堪能…中略…それが力であり…中略…力が熟達すれば術となり…中略…術が進んで自分の最高の智慧によって裏付けされれば法(のり)…中略…この力と術と法とによって人間は伸び栄えるのであるが、この三つの力に誰が見ても正しい絶対の道というものが加わらないと、放縦に流れたり偏見に囚われたりする…中略…よく気を付けなければ…以下略…”
冒頭で述べられている
“元来人間は誰しも、金力とか物力とか智力とか…中略…兎に角何かの力が欲しい”
これは何のために“人間”である自分は“力”を“欲しい”と思うのか。 これを突き詰めて考えた人間はあまりいないと思う。
それで誰もが思う“力”の獲得と行使、それは霊的成長にかかわるものであるということが言いうるものであり、それは“金力とか物力”の、先回の表記の“物だけ”に関わるそれ、そして“智力”、頭を使いたくさん“物だけ”を集めるか、あるいは智性(神性)を発現して自分の“力”の使い方を考えるか、そこに霊的成長度の高低による差があるものである。
ならば、霊的成長度の高い人間は自分の“力”を何のために行使するか、それは、幾度も引用している第二話の
“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”
そしてこれに続く
“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”
前後するが、この“余り少ない”理由は、ほとんどの人間の傾向として、自分が努力して獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は自分だけのものとする、そういう人間は“力”を自分の利益と自分の損得のためにしか使わないからである。
しかし太霊は先の第二話の文言通り“人間”が、自分自身で“観察と認識”しうる事象に対し、“神自身の本当の気持ち”を解り、そのうえで“楽土”を顕現することを望んでいる。
それゆえ
“神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”
という言い回しをされていることに気づくべきである。
このこと事態が先回の
“人間が物に対することと心に対することとを完全に調和させてこそ、人間の理想を実現する元となる…中略…それはまた神の望まれる理想にも合致する…中略…人生の目的を達成するための強い力となる…中略…これでこそ真の道が開け神の命の下る人間となれる”
この“人間の理想を実現”に当たるものであり、それこそが自分の存在の意味と意義である“人生の目的を達成”そしてそれは“神の望まれる理想にも合致”ということになる。
また、そうなるならば“真の道が開け神の命の下る人間となれる”と述べられているものであることに気づくべきである。
これに続く
“その道一筋に進めばその力を持つことも出来る…中略…汝等にしても、自分が今日まで困難に堪えて努力してきた道では他の人より堪能…中略…それが力であり…中略…力が熟達すれば術となり…中略…術が進んで自分の最高の智慧によって裏付けされれば法(のり)…中略…この力と術と法とによって人間は伸び栄えるのであるが”
この“力”と“術”と“法(のり)”については先回述べたので割愛するが、これにより肉体を持った心(靈)である人間が観察しうる事象、それは“現界”のことだが、そこで
“力と術と法とによって人間は伸び栄える”
先に第二話を引用して説明したとおりのこと。
そしてそこで“伸び栄えるのであるが”と前置きされ
“この三つの力に誰が見ても正しい絶対の道というものが加わらないと、放縦に流れたり偏見に囚われたりする…中略…よく気を付けなければ…以下略…”
この“絶対の道”が“大道”に当たるものであり、お前たちはまだまだ霊的成長度が低いから、先の“神の望まれる理想”も“神自身の本当の気持ち”も解らないで、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”としての“力”の使い方をしている、それゆえに
“誰が見ても正しい絶対の道”
これが
“加わらないと、放縦に流れたり偏見に囚われたりする”
お前たちの“力”の使い方は間違いだらけである、という指摘である。
それは、他者を思う、全体を思う、ということをしない“力”の使い方は、恨みの連鎖の霊的干渉の原因となることを○○○大先生は著書で述べているが、このことを理解できるほどの霊的成長度の人間もとても少ないという現状が今の人間である。
少々蛇足だったが、それゆえに
“よく気を付けなければ”
と称されていることをしっかり読み取るべきである。
今回はこれくらいにしときまんねん。