“日月神示”上つ巻 第三帖 Kellyさん的解釈
今回も前回に続き、上つ巻 第三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り。
善言(よごと)は神、
なにも上下、
下ひっくり返ってゐるから、分らんから、
神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。
今にこのおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになるから、
それまでに身魂をみがいて置かんと、
身魂の曇った人には何ともよめんから、
早く神こころに返りて居りて呉れ、
何も一度に出て来る。
海が陸になり陸が海になる。
六月十一日の朝のお告げ、みよみよみよひつくの神。
まず・・・“善言(よごと)は神、”
これは、先生の概念での、
“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
“言”=発振、発信やと思いまんねん。
そやから、この文章に少し言葉を足したら理解し易いやん。
それをKellyさん的に言い換えれば、
“善言(よごと)=“善(神格化の方向性と智性の受信)”の、
発振、発信される様は、
“呂”エネルギーの回転と示す=神、”
そやからこれも、こちら側から観て(人、日止、霊止、の立場として)、
“上”の思惑の顕現って言う意味があるやん
ほんでからに大体、この文章は、
高い振動の受信の事、
それによる心(靈)の構築そのものの事を言うてると思いまんねん。
Kellyさんがそう思う根拠って言うのんか・・・
そう思わせる言葉が以下の事、
“このおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになる”
これは、
“一”=アイ=創造主の振動、
“二”=人(日止、霊止)の肉体、
“三”=人(日止、霊止)のオーラの構成。
ほんでからに、オーラ=その人(日止、霊止)の認識そのもの。
そやからこそ、ヒフミ・・・
“ヒ”=日=創造主の思惑を送ってくる存在。
“フミ”=思惑を言葉とした、
メッセージとしての文(ふみ)=“善言(よごと)”の“言”。
それを又、
人(日止、霊止)が受信すれば、
人(日止、霊止)のオーラの構成、“三”になる。
動物のオーラ“二”に対し、
“一”=智性=1番目のオーラを獲得した様を、“三”と表現される・・・
そう思いまんねん。
そやからこそ順序が逆になるけど、
“神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。”
人(日止、霊止)が、
“神の心”と同等になれば、
それは太陽凝視を教えてくれたKさんと先生の言葉でもある、
“天の御目”の獲得と認識って事やろし、
それは、
心(靈)が(霊的)進化過程で段々“上”に向かう。
それは、
人(日止、霊止)の心(靈)の構造、そう認識され得る言葉でもある、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動、
その言葉一つ一つを観れば解るやん。
ほんでからにこれは、“下”から“上”で、
チャクラの覚醒と同義でんねん。
そやから人(日止、霊止)は、
“メグリ”(帀)の“一”=創造主の振動=アイ=創造主の思惑の顕現・・・
そやから段々、“上”の視点での基準を獲得し、
それが“一”=智性=1番目のオーラになる。
それは、“鏡”・・・
これは、三種の神器としての鏡、
八咫鏡(やたのかがみ)、アジナーチャクラ、第三の目・・・
色んな表現があるけれど、
それは、
“メグリ”(帀)の、“一”から“下”に降りた、
真ん中の縦の棒でんねん。
(思惑と顕現 “その十一” “上”の思惑の顕現・・・“天の御目”
&
エピローグ 神の思惑と顕現 神聖な事象 参照)
ほんでからに、
“メグリ”(帀)のその真ん中のラインの受信は、
身体磁場の強化って事をせんと、
高い振動は受信出来へん、感応共振せんって事で、
それが足らん・・・そう言う人は、
動物に近い心(靈)の発現をしまんねん。
当然、行動も本能と情動が中心って事でんねん。
その身体磁場の強化の為にも、左右の磁性、エネルギーライン、
砌(みぎり)の行と日足(ひたり)の行があるやん。
それは右往左往と左往右往でもあるし、
その時の心(靈)の動きが自省(胸の磁性“十”)の行でもあるし、
“直日(なおひ)”でもある。
ほんでからに心(靈)の動き・・・それは“上”に向かうか“下”に向かうのか、
どっちかでしかないって事でもあるし、
例えばそれは、自分の在り方を考えへんのであれば、
智性を持った心(靈)が、
本能とか情動に向かっていれば、
“悪の回転=砌(みぎり)回り”砌(みぎり)回転やろし、
自省して自分の在り方を考える左往右往の心(靈)の動きであれば、
“善の回転=日足(ひたり)回り”=日足(ひたり)回転となる。
ほんでからにそれは、
“上”から注がれる(神の思惑としての)荷電粒子の取り込みの様子が、
“日月神示”の中の表現、
でもあると思いまんねん。
ほんでから、
日足(ひたり)の行と砌(みぎり)の行で、
事象の創造=発振、発信する振動で、
外の事象を形成してるのが、
(外国=外+(囗)くにがまえ+“玉(ぎょく)”)
卍とハーケンクロイツ。
日足(ひたり)発振、発信と砌(みぎり)発振、発信でんねん。
(“日月神示” 上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈 参照)
以上の意味でもあると思うし、ほんでからにそれは、
“二二”(ふじ)でもあると思えるやん。
(“日月神示”上つ巻 第一帖 Kellyさん的解釈 参照)
ほんでからに補足として、
“善言(よごと)”の、“言”・・・言葉って言うのんは、
発振、発信される振動やし、
それは、
存在から存在への意思の疎通の為の道具でんねん。
思惑を伝える道具って事でもありまんねん。
発振、発信と受信と認識って言う事でもありまんねん。
言い方を変えれば、
心(靈)から心(靈)への、
意思の疎通って=通信って言うた方が、解り易いかも知れへんな。
そやから人(日止、霊止)の場合、
意思の疎通、その為に普通に言葉もあり、
普通に使い・・・喋る。
それは、
動物にはあまり無い道具(力=能力)でもある。
動物の意思の疎通はワンワンニャ〜ニャ〜ブ〜ブ〜モ〜モ〜コケコッコ〜やし、
その事そのものが(力としての)知恵もない。
当然、
沢山の認識って言うもんも持ってない。
動物の心(靈)の発現も、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現でもある、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動から言って、
動物って言うのんは、人(日止、霊止)から観て、
動物って認識されうる生命は、
本能と情動が中心の心(靈)の発現って言うのが妥当やな。
そやから、
動物から進化した(と認識されてる)人(日止、霊止)の場合、
動物より高い認識を持ってる=言葉を使うようになったやん。
それが先生の言うせりふ、
“言葉は事象を認識する為の道具”・・・そう言う意味もあり、
人(日止、霊止)の認識と動物の認識の違いでもあるやん。
ほんでから、
ちょっと乱暴な言い方かもしれへんけど、
言葉を使い出した事そのものが、
“上”の存在に対する概念の芽生えと同義やと思いまんねん。
ほんでからにそれが、又、
神さんの認識と、
幸福の概念と同義やねん。
話が逸れましてん。
そやからそれは、例えば、
祝詞や真言やお経や・・・それは、
人(日止、霊止)=こちら側から、神さん=“上”に思惑を伝えるとか、
又は、先祖供養とか、
彷徨ってる心(靈)の認識を変える為、霊的成長して欲しいから唱える。
・・・これも動物には無い概念やな。
ほんでからに、心(靈)対心(靈)・・・
互いの霊的成長の概念の芽生えのひとつが、
先祖供養みたいなもんやな。
これも他者との幸福=神格化の概念を共有するって事になるな。
そやからそれは、
祝詞や真言やお経さんを唱えるって言うのんは、
音波としての振動と、
それに発振、発信される自分の念、(念=今の心(靈))
自分の思惑を伝えたい=息吹(自分の心(靈)が吹く)・・・
そう言う要素がありまんねん。
それに付いても先生と話した事があるやん。
(ウエサク祭 月の祭り)
ほんでからに“善言(よごと)は神、”
それが先生の概念である“善(神格化の方向性と智性の受信)”ならば、
それは相対的に、
こちら側から観測したなら高い振動って事になる。
一言で言えば、
それは創造主の思惑の仲介者としての太陽=ヒ=日、太陽のオーラ・・・
それを獲得して生体内電流として心と体を作り変えていく具体的な方法が、
“行と修行”としての太陽凝視でもあり、
ほんでからに、
太陽凝視そのものが、神さんの思惑の顕現の為にも、
高い振動を“下”に降ろし、
そして発振、発信し、
事象の創造をするって言う意味もあるやん。
ほんでから、
“善言(よごと)”・・・これが、
四五十って書いてあったとしたなら、
とても解釈しやすい事やけど・・・
岡本天明はんが直接書いたものを持ってないKellyさんとしては、
ただの憶測に過ぎへんのやけど・・・
もしそうならばって事で、Kellyさん的に解釈すれば、
“四”は、
(囗)くにがまえ+儿部(じんぶ、にんにょう)・・・
そして、
息吹(自分の心(靈)の発振、発信=吹く)って言う意味を持つ。
それは、事象の創造って言う意味やし、
“五”は、
糸巻き、それは神経の密になった状態=進化した様。
肉体の磁性が高まった様。
“十”は、
胸の自省(胸の磁性“十”)そのもの。“慈悲”と“慈愛”の発現。
そやから、
“十”と“五”で、高い心(靈)の発現をして、
“四”、
事象の創造をして行け・・・って事やねん。
現状、そう言う事が出来てない世界やからこそ、
以下の言葉、
“なにも上下、下ひっくり返ってゐるから、分らんから、
神の心になれば何事も分るから、
鏡を掃除して呉れよ。”
これは今までのKellyさんの解釈を解って貰ったなら簡単に解る文章で、
“天の御目”って基準を持ってへんから、
ひっくり返ってるねん。
しかも、
“上下、下ひっくり返ってゐる”
“上”“下”も判らへん。
更に、“下”がひっくり返ってるって事は、
“下”が主体って言うのんか、
“下”中心の心(靈)の発現の事象って事やと思いまんねん。
そやからそれは、
“上”と“下”、
“善悪”(神格化と動物化=心の本能化)の区別が付かへんって事でんねん。
ほんでからに“下”ばっかりの世界って事でんねん。
現状、
“善悪”の本当の意味と意義を理解出来へんって事でもあるし、
そこまで天意を受けれんような人ばっかりって事でんねん。
そやからこそ以下の言葉、
“今にこのおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになるから、
それまでに身魂をみがいて置かんと、
身魂の曇った人には何ともよめんから、
早く神こころに返りて居りて呉れ、”
身魂をみがいて置かんと=肉体の磁性の強化をして、
“一”の振動を獲得していないと、
それは、
“身魂の曇った人”
・・・って事でんねん。
ほんでからに、
“早く神こころに返りて居りて呉れ、”
これは、
“直日(なおひ)”=自省(胸の磁性“十”)の行をしてくれよって、
事やと思いまんねん。
自省(胸の磁性“十”)の行をせんと=左往右往せんと、
それは、
軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”のエネルギーが=腹のエネルギー・・・
要は、
腹のエネルギーが“上”に向かわんとアカン=高振動化せんとアカン。
それは、“幽”=外国=外側の事象の創造でもあるし、
それはエネルギーが上昇する意味としての、幽か(かすか)でもあるし、
(Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 参照)
そしてこれは、先生の解釈の“日月神示”内の言葉、
“江戸”でも有るんやけど、
それをカイ=“櫂(かい)”の御用と、
キの御用、と表現されてると思うんやけど・・・
それはこの“日月神示”の解釈が先に進んで、
その言葉が出てきたなら、改めて考える事にして・・・
ほんでからに前回も言うた事やけど、
その事そのものが、
大日如来の条帛(じょうはく)で示されてると思うし、
腹のエネルギーが、日足(ひたり)回転する事やと思いまんねん。
ほんでからに残りの言葉、
“何も一度に出て来る。
海が陸になり陸が海になる。”
これも、
今までの価値感が=自己奉仕者の世界の価値感で構築されたこの世界が、
左往右往の行に入り、
色んな事象がひっくり返るって事でんねん。
これは・・・この事は、
この後の“日月神示”の言葉にも沢山出て来る事でんねん。
大体・・・以上でんねん。
今回はこれくらいにしときまんねん。
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