“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”富士の巻 第三帖 Kellyさん的解釈 



今回も富士の巻 第三帖を解釈しまんねん。
原文は以下の通り、

メリカもギリスは更なり、
ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、
その覚悟で用意しておけよ。
神界ではその戦の最中ぞ。
学と神力との戦と申しておろがな、
どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、
一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、
畜生にも劣りてゐるぞ。
まだまだわるくなって来るから、
まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。
玉とは御魂(おんたま)ぞ、
鏡とは内に動く御力ぞ、
剣とは外に動く御力ぞ、
これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。
今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、
それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、
それでちりちりばらばらぞ。
アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、
この道理分らんか、
剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。
上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、
身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、
神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。
八月の十二日、 のひつくの 。


“日月神示”の文章は、いつもながら中々、意味深な文章って印象やけど…特に今回の富士の巻 第三帖は、そのことを強く感じさせる文やな。
そやからまず、冒頭の、

“メリカもギリスは更なり、
ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、
その覚悟で用意しておけよ。”

この文の“メリカ”“ギリス”…この表記は、大概の人が、米、英、やと思うやろけど、それは“日月神示” が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から“下”に垂れた=自動書記が行われていた時期が、戦争中やから、その時期に日本と関わっていた国として、“ドイツもイタリもオロシヤも”って書かれてると思う。
そやから時期的に、その当時の人たちのために伝えたメッセージとして、米、英…その意味もあるやろ。
そやけど、アメリカとイギリスの“ア”と“イ”が書かれて無いことにKellyさんは重要性を感じる。
その点で…やはりこの富士の巻 第三帖の“ア”と“イ”が抜かれた“メリカ”“ギリス”この表記は、外側(外国と幽界)の事象の観察を言い表した表記やと思える。
そしてこの文の“神の国”って表記は、智性(神性)の発現とその心(靈)の動きを示すと思われる。
“国”の意味については、前のブログから何回も言うて来たけど、それは後述するとして、そやから、人が、霊的成長、神格化に向かうことを妨げるという形骸の意味での、外側(外国と幽界)の事象の心(靈)…“外国”って表記で、それはした三つのチャクラの覚醒段階=自我の確立=固定化の人たちが見ている事象でもあるし、その段階の霊的成長度の人の認識(悟り、幸取=さとり)は、外側(外国と幽界)の事象だけが事象のすべてだと感じている。
認識が低い=霊的成長度が低いとそんなもんでんねん。そやからそれは、今の、地球人の大半の人たちの進化過程=霊的成長度は、外側(外国と幽界)の事象にとらわれている。
そやからこそ、自分の中に少し持っている“一”=智性=1番目のオーラを、思想や行動に活かすことが出来ていない。
そしてその心の動き由来の創造=この世界は、自己奉仕者の世界、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の価値観で満ち溢れ、恨みの連鎖の霊的干渉でいっぱいになり、その価値観を持った人は、今、問題にすべきことから目をそらせ(恨みの連鎖の霊的干渉、子供の浮遊霊を増やし、その霊的干渉で人が幼稚な心になること)、甘い言葉や価値観に酔ったり、目先の欲望…性欲とか物欲とか金銭欲とか…八戒(低い欲望に対する八つの戒め)の段階の心(靈)の動きしか持ってない。
そして“国”って表記は、場(フィールド)を示す(囗)くにがまえと、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示す表記の“玉(ぎょく)”で構成されている。
この“玉(ぎょく)”って表記の意味については、前のブログの、“思惑と顕現”の前半に書いてある。
要は、“王”の中の点が、腹の荷電粒子の回転を示し、それは“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転、日足(ひたり)回りになる。

“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転 日足(ひたり)回り



そして腹のエネルギーは、大日如来の条帛(じょうはく)のように上昇し、腹の心(靈)の発現である自我に、“慈悲”と“慈愛”って心(靈)の発現と動きが加味されて、人は智性(神性)を発現していく。
それが今の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程でもある。
その霊的進化過程=神格化への道程に対し、今、悪魔の思惑が入り込んでいる形骸の概念や、甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉……それは、下つ巻でよく出てきた表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になってる人)の人たちが、低い心の動き=(通貨としての)金に対する執着と、低い功名心と自尊心が生み出している形骸の価値観…その心(靈)の動きの産物でもある。
そやからそれは、“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)ではない。
そやから“役員づら”…今、そんな本や、サイト、セミナーなどが多い中で、本当に霊的成長って何なのか知りたい人は、さっき言うた前のブログの記事をぜひ参考にして欲しいもんでんな。
そやから話を戻し、自分の(肉体を伴った)心(靈)って言うのんは、常に、観察と認識ってことを(時間の進行とともに)行っていて、その自分自身(の本質、本霊、神性を含む意識)が観察している、外側(外国と幽界)の事象ってことを意味してると思える。
(そして、観察と認識って言う、すべての生命が持ちうる性質は、すべての生命に共通し、それはすべての生命が、神の“思惑の顕現”=現象化である証明でもあると、思える)
そしてそれは、さっき言うたとおり、“ア”と“イ”が抜けている。
そやからKellyさん的には、今までも言うて来たとおり“亜”“ア”は、現津(あきつ)、観察され得る事象の始まりであり、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑の始まりでもあり、そして、カタカナ表記の“イ”は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と|(たてぼう、こん、縦の磁性))で構成されているから、神の思惑が“下”に垂れたカタチを示し、それは“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”って行為、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)でもあり、神の“思惑の顕現”=現象化でもあると思え、それを担っているのが“日止、霊止”で、この“日止、霊止”って表記自体が、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの振動を止めるって表記でもある。 
そやから先生は、“人”って言う字の解字として、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)って解釈をした=“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受け、そう思うようになったと思える。

そして次の文、

“神界ではその戦の最中ぞ。
学と神力との戦と申しておろがな、
どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、
一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、
畜生にも劣りてゐるぞ。
まだまだわるくなって来るから、
まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。”

そやから冒頭の文の“外国”と、この文の“神界”さっき解釈した“神の国”と動議屋と思われ、そしてそれは、自分の心(靈)が認識している外側(外国と幽界)の事象と、それを観察している自分、そして智性(神性)、それを感じさせる文章でもある。
そやから簡単な表現をすれば、自分の内面と外側(外国と幽界)の事象の事象、そう認識していることを指し示しており、そして自分の内面が、外側(外国と幽界)の事象に繁栄し、それを認識するのがこの次元での“創造”であることを指し示す文章で、そして今、内面とか内側(心の中と感じている事)と外面のバランスの悪さを指摘していると思える。
そやから補足として説明しておけば、内面とか内側(心の中と感じている事)=思惑=日足(ひたり)。
外側(外国と幽界)の事象=外面とか=行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)して創造していると感じている事象=砌(みぎり)である。
そやからこそ、この文の表記の“神界”は、自分自身の心(靈)の“一”=智性の場(フィールド)であると感じさせる。
そやから、この文の“学”は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)であり、それは外側(外国と幽界)の事象の事象に対するものであり、自分が感じ(感じる磁性)る外側(外国と幽界)の事象の良いカタチを創造するための“力”でもあり、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の存在の意味と意義は、そこにしかないけど、今間違った“力”の使い方を自己奉仕者がしている。
“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方…“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“力”の使い方と、“慈悲”と“慈愛”の心を持った“日止、霊止”の“力”の使い方、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”ゆえの、高度な自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)由来の“力”の認識(悟り、幸取=さとり)と使い方。
どちらが“上”の思惑に沿ったものなのか。自分が持っている“力”をどう扱っていくのが、神格化に近づいていくべき心(靈)なのか…こんなことは何回も言うた。
そしてそれは、○○○大先生が前のブログとこのブログを通して伝えたい重要なテーマでもある。
その点で、“学と神力との戦”…間違った使い方をしているからこそ言われる言い方でもある。
神格化すべき心(靈)は、今後=アセンションに向け、この世界の文明の崩壊を観察し、失敗を体験し、その体験を認識しなければいけない。
その理由は、自分の心(靈)の教訓にすることでしかないし、その教訓を得た心(靈)は、生きていようが死んでいようが、自省(胸の磁性“十”)の“行”をする。
そしてそれは“力”の使い方を知る=大日如来の条帛(じょうはく)の“条”=法則性……事象の“創造”のための“力”の使い方の“道”と“理(ミチ)”…この二つをあわせて道理って言うけど、今、その道理を知らへん自己奉仕者ばっかりやから、“学と神力との戦と申しておろがな、”って言われてると思える。
ほんでからそれは“一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。”って言われてて、そやからこの世界…この事象の大半は、低い心の動きで腐ってる。この世界は、今の事象は、腐ってるものばかりが繁栄している世界でもある。
ほんでからそれは、恨みの連鎖の霊的干渉を生み出していて、少し智性(神性)を持ち始めた動物よりも、霊的成長度が少し“上”であるはずの人がやっていることは、まったく動物以下=“畜生にも劣りてゐるぞ。”って強調されていると思える。
そやから人間の心の動きの動物化…そんなことは今まで何回も言うたけど、腐ってる方向性に向かってて、自分の内在する低い心(靈)の動き、低い功名心と自尊心と低い欲望、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をしている人ばかりやから、自分たちが腐ってることすら判からへん。
そやから“日月神示”には“改心”とかって表記も何回もでてくるけど、それは“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”で、自分たちの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出し、その“上”で自分たちの今後=アセンション後を考えて行かんならんってことでんねん。

ほんでから次の文、これは霊的成長をしていく心(靈)について、前のブログのエピローグで言うたことと同じことを言うてる。

“玉とは御魂(おんたま)ぞ、
鏡とは内に動く御力ぞ、
剣とは外に動く御力ぞ、
これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。”

“玉(ぎょく)”についてはさっき言うたばかりなので省略。
“鏡”は“上”の思惑を受信する肉体の部分、それはアジナーチャクラに相当する。
“剣”は、骨髄中の鉄分子の結晶化を示す言葉でもある。そしてこの事象と反応するのは七つの椎骨=赤 橙 黄 緑 青 藍 紫の振動を認識しうる頚椎でもあるし、肉体の構造としてのチャクラは七つあり、それについては前のブログのエピローグからコピペしときまんねん。

“…“剣”、その意味は、刀を鍛えると鉄分子は磁性を持ちまんねん。
ほんでからに、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙の剣が、
七支の太刀とも言われてるって事は、
七つのチャクラで・・・
或は、首の骨=頚椎七個で、
それは光を認識=受信する為の肉体の器官って事でんねん。
そやからそれは、
七支=鞘だけではアカン。
刀=剣だけでもアカンって事でんねん。
強固な磁性を伴った鉄、それは剣、それを差し込まんとアカンって事でんねん。”

要は、“剣”って言うのんは、この事象の観察と認識をするため、色の認識をするために発達した頚椎七個=赤 橙 黄 緑 青 藍 紫の振動を認識するためであり、それは物質の世界の=現津(あきつ)、観察され得る事象の認識でもある。
“上”から“下”…電磁波の波長の中の、ほんの一部の、可視光=色の認識に関わるって前のブログで言うたから。
ほんでからちょっと前後するけど、“鏡”は、“上”の思惑を受ける部分で、そして自分の心(靈)の動きは、“上”の思惑が加味されたものでなければ自分たちが感じ(感じる磁性)る良い世界の“創造”なんて出来っこない。
また自分たちの心(靈)の動きが“下”(低い心(靈))の心(靈)ならば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在としか感応共振しない。それはたくさんの浮遊霊を自分に憑けることになり、そのときには先生の“主護霊”がS会=紫光会の交霊会で先生に言うた様に“動きが取れない”ってことになる。
(ローム太霊との出会い 良い発振のために 参照)
そやからそれは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の思惑ばかり受信してる=下三つのチャクラの覚醒段階の人は、自我の肥大になり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になる。
言うまでもなく、ローム太霊が、こう書き記せと伝えた“主護霊”って存在は、“主(ヌシ)”を護る存在なのだから、人の神格化を望んでいる存在でもある。
“主(ヌシ)”については画像をはっておきまんねん。

主(ヌシ)の解字


そやから“主(ヌシ)”って言うのんは天之御中主(あめのみなかぬし)の“主(ヌシ)”と同義なんやけど、話がそれるので別の機会に説明するとして…そやから“日止、霊止”の霊的成長は、人の神格化の道程=独り神(ひとりがみ、日取り神)になる過程は、自我が発現し、自己、自分を認識し、“力”を求め、幸福の概念を持ち、“上”と“下”=神と自分を認識し、そして“上”を目指す心(靈)を持ち、神を意識する。
その過程で、自我より“上”の心(靈)は、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”の心(靈)で、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持つには、左往右往して自省(胸の磁性“十”)しなければならない。何回も言うてきたことでんねん。
そやから今、地球人の大半の心(靈)は、心(靈)の動きとして自省(胸の磁性“十”)してない、心(靈)の構造として胸の磁性“十”が足りないので、その意味で、次の文、

“今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、
それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、
それでちりちりばらばらぞ。”

自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きと“創造”の法則性、“道”と“理(ミチ)”=道理である条帛(じょうはく)を示している、“玉(ぎょく)”が無いって言われてる。
良いカタチの“創造”をするための基準、先生の言葉なら天の御目(あめのおめ)を持ってない。
その基準がしっかりしてないから、腐ってるものばかり繁栄する。
だから“それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、”って言われてて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“創造”は、“ちりちりばらばらぞ。”ってことでんねん。

ほんでから次の文、

“アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、
この道理分らんか、”

“アとヤとワ”については前に解釈したからコピペしときまんねん。

“「ア」”は、
アイの“亜”、
ほんでからそれは、愛(炁)でもある。
そやから“亜”は、
根元の材料と認識され得る何か。
すべての原因とか結果とか、
事象を構成する何かとか、
事象の創造の根拠とか・・・色んな言い方が出来ると思える。
それが勢いよく、出(いずる)・・・枯れる事の無い泉のように。
そやからそれは、あい、アイ、愛(炁)・・・
そやけど・・・そのうち、
炁空無光眞奇力存(きくうむこうしんきりきぞん)の“炁”に付いても、
説明せんならんな。

今回は話が逸れるから、それはまた別の機会にして、

“「ヤ」”は、
“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”から引用すれば、
“その心は高台(たかと)高き段に進む”って、
書いてあった。
これは先生の概念の、
アイ、愛(炁)“亜”が出(いずる)・・・
その心(靈)の動きって言うのんは、
自分の良い形を求める。
ほんでから、自分を含めた現津(あきつ)=観察され得る事象の、
すべての良いカタチを求める。
そして、霊的成長そのものを指す。
そやから、
高台(たかと)高き段・・・そう認識され得る何かを、
求める。
時間の進行と共に求め続けるのが人(日止、霊止)でもある。
日止、霊止は、“上”の振動を止めるって言う意味でもある。
人は、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と、
乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)でもある。
そやから“「ヤ」”は、
その心(靈)の動きそのもののような気がするし、
それは、
右、砌(みぎり)のエネルギー=“いきり立つ心(奴と心)”(肝)、
それは創造のエネルギーなのかも知れへんな。
多分そうやろ。

ほんでから、“「ワ」”は、
同じく“道ひらき”の“風止麻邇言霊学(ふとまにことだまがく)”に、

“物を生む、生まれしものを和合する意”・・・とか、
生命(生きる使命=存在理由)の調整の義・・・
そう言う表現がしてあり、
ほんでから、
Kellyさん的に思う“生まれしもの”・・・それは、
現津(あきつ)=観察され得る事象そのものであり、
事象の創造は自分の思惑の顕現でもある。
それを心(靈)が観察するからこそ事象を認識出来得る。
そやから、
自分の心(靈)の発振、発信=息でもあり、
呼吸、息吹、気吹、生吹、でも有る。
そやから“「ワ」”は生命(生きる使命=存在理由)調整義で、
和合で、
それは左往右往でもある。
良いカタチの創造でもある。
それをせんならんのが人(日止、霊止)の使命でもあるな。


そやから上記の通り、“創造”の“元”、基本の材料といえる何かが“亜”“ア”であり、神の極性である日足と砌(ひたりとみぎり)を示しているのが、“ヤ”と“ワ”であると思える。
要は“思惑の顕現”が、自分たちの観察しうる事象になっていくってことでんねん。
もう一度言うとけば、“亜”“ア”は、愛(炁)“アイ”の“ア”で、
“ヤ”は、日足(ひたり)の極性、思惑が“上”に向かうことで、それは良いカタチの“創造”のための思惑。
“ワ”は、現象化。思惑と顕現が和することなのかもしれへんな。
多分そうやろ。

ほんでから次の文は、“玉(ぎょく)”の心(靈)の動きを持ってないことを、さらに強調している。

“剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。”

“剣”は、“力(ちから)の根(ね)”=肉体内の鉄分子、“カネ”の言霊(ことだま)で、骨は骨髄中に鉄分子を持っているから、そしてその回りに神経がコイル状に巻いているからこそ、思惑=電磁波を自分の心(靈)に取り込む。
それは(時間の進行とともに)自分の心(靈)の構築になっていく。
そして、さっき説明した“鏡”が受信する=感応共振する霊的存在の思惑は、“上”と“下”がある。
 さっきも言うた様に、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)(低い心(靈))と感応共振していたなら、それは、“日止、霊止”の霊的成長を示す意味での“玉(ぎょく)”ではない。
だからこそそれでは、自分の心(靈)の中の“上”と“下”を見出せず、低い功名心や自尊心にとらわれたり、甘いささやきに乗ったり、それらはすべて自分たちに内在する悪魔のささやきに感応共振する心(靈)の部分と言え、自分たちの心(靈)の動きの“上”と“下”を見出すことができなくなっている=“上”からの通信を自分の心(靈)に活かしていない……それはさっきも言うたけど、“主護霊”側の言い方として“動きが取れない”ことになる。
大体、霊的成長度の低い人の“上”と“下”の認識ってもんが間違ってるんやけど、そやからそれは、霊的成長度に於ける“上”と“下”ではなく、形骸の名誉や地位や物欲や(通貨としての)金に対する執着による認識で、それが成功者とか勝ち組とか思われてるけど、ほんまの“日止、霊止”の価値は、どれくらい神に近づいたのか=どれくらい“一”=智性=1番目のオーラを獲得したのか…“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はそれを評価するものでもある。
そやからその意味で次の文、

“上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、
身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、
神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。”

この文の、“上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、”って言うのは、今言うたばかりやけど、見せ掛けの、形骸の“上”と“下”の概念にとらわれていることを指し示し、それが今後=アセンション後、ひっくり返る。
そやからアセンション後は、霊的成長度による評価しかなくなる。
それがほんまの“上”と“下”でんねん。
ほんでから“身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、”って言うのんは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化は、“上”との感応共振になっていき、そうなっていくのが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)でもある。
それは自己奉仕者である人の評価ではなく=形骸の価値観の“上”と“下”ではなく、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が評価する。
だからこそ、今後=アセンション後、霊的成長度に於いて分けられるからこう言われてるだけやねん。
ほんでからに今、人の智性(神性)、富士の巻 第三帖の表記なら“神界”=智性(神性)の顕現した事象の“創造”を“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在が邪魔をしているとも言いうるからこそ“神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。”って、この富士の巻 第三帖の纏め(まとめ)として、言われてると思える。
そやから、今まで何回も言うてきたけど、“身魂掃除”“身魂洗濯”をして、それは自分が“上”と感応共振し、自分の智性(神性)を高め、自分自身の心の動きの“上”と“下”を見出す基準を自分が獲得する。
大体“日月神示”って言うのんは、人の霊的成長を示す文章に間違いはないと思うから……それは“ひつく”=太陽凝視で、そして腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンを、自省(胸の磁性“十”)の“行”をして、(サイクロトロンがシンクロトロンに移行)そして“慈悲”と“慈愛”と智性(神性)を活かした“創造”をする。
そのために“日月神示” は“上”から“下”に垂れたと思えるし、あえて言うとけば、“一”=智性=1番目のオーラを、通常の一生の霊的成長の過程より、よりも高める“行”が“ひつく”=太陽凝視でもある。

今回はこれくらいにしときまんねん。




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KellyさんとNominyan ∥*σ_σ*∥&Senyapoo λ*゜ο゜*λ との会話 (6)
☆ Kellyさん的“日月神示”解釈 (465)
Kellyさんが、“日月神示”の解釈をして行くに当たって・・・考えた事。 (15)
“日月神示” 上つ巻 (42)
“日月神示” 下つ巻 (38)
“日月神示” 富士の巻 (26)
“日月神示” 天つ巻 (30)
“日月神示” 地つ巻 (36)
“日月神示” 日月の巻 (68)
“日月神示” 日の出の巻 (23)
“日月神示” 磐戸の巻 (21)
“日月神示” キの巻 (17)
“日月神示” 水の巻 (36)
“日月神示” 松の巻 (30)
“日月神示” 夜明けの巻 (26)
“日月神示” 雨の巻 (18)
“日月神示” 風の巻 (15)
“日月神示” 岩の巻 (11)
“日月神示” 荒の巻 (13)
☆ Kellyさん的“ローム太霊講話集”解釈 (107)
☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
☆ ○○○大先生的バシャールの文言解釈 (9)
☆ 先生が撮るけったいな花の写真 (22)
☆ 先生が撮る比較的まともな写真 (32)
☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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