“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

Kellyさん、ややメタボ内科医のYっちゃん先生と、躁(そう)と鬱(うつ)は、心(靈)の動きの極性の一側面であるという話をする。 “その二”


……Yっちゃん先生 〔 ´゚Д゚`〕 …ぼやき中……


 …この間のKellyさんの話は…難しかった。 それと、Kellyさんはよくしゃべるおばさんだ。Kellyさんも○○○大先生同様、いろんなことを考えていて、たくさんの認識を持っていて、それを人に伝えようとすると、伝えたいことがたくさん出てきて止まらなくなってしまうんだろうな…きっと。

それはおいといて…この間の話の内容、とくに人の肉体にある左と右、日足(ひたり)と砌(みぎり)の極性の現れ…それによる荷電粒子の回転…生物が持つ縦の磁束に対し、ローレンツ力で荷電粒子が回転して場(フィールド)を構成し、それが心で、霊なんだってこと…その概念は、なんとなく分かる。
だから、その認識で考えれば、肉体の死は生体内電流の消失…この言い回しも正確な表現ではないんだ。 ただ単に、分かりやすい表現だな。この表現を使わなければ、生体内電流のことを認識しないからだ。

…人が死だって思ってること、それは、肉体内の生体内電流=荷電粒子の場(フィールド)が肉体内に無くなるから、その肉体という物質の中から、違うところへ移動するから、それを生きている人間が見ると…言い換えればその過程を観察して“死”って認識するんだな。
だから、それも、人(日止、霊止)って進化過程の心(靈)による“観察と認識”なんだ。
それだからこそ、人によって、死に対する認識の違いってことがあるんだな。
認識の低い人、極端に霊的成長度の低い人、死後の世界とか、霊的存在ってことに対し何も思わないとか、霊なんて無いって思ってる人は以外に多い。
特に医者の世界では、霊なんて概念はタブー視されてる傾向もある。
だから、霊や死後の世界に対して認識が無い人ってのは、自分自身が、物質をまとった心=霊って認識も無い。
肉体って言うのは、心(靈)が感じ(感じる磁性)ている物質なんだって認識が無い。
Kellyさんや○○○大先生の言い回しを引用すれば、そういう言い方にもなるな。

それに…うちの患者さんにもいろんな人がいる。
死んでしまって、はやく楽になりたいって言う人もいるし…死に対して、荷電粒子で出来た場(フィールド)の移動が、それが死なんだって認識ができていないから、死んだら終わりって低い考えを持つ人もいるんだ。
もっとも今、僕が思ったのは、これも○○○大先生とKellyさんの認識に由来することだし、それを通じて僕が思ったことだし、だからこそ“死と生”について僕自身が考えることができる。
だけれども…一般には、肉体から霊が抜け出ることが死なんだって言い回ししかないだろうし、その言い回しも、死を正確に言い表した言い方ではないかもしれない。
だから、今考えていた概念…死、生体内電流、霊が荷電粒子の回転によって構成されていること、そして心(靈)が行っている事象の“観察と認識”…これらのことはいちいち難しい言葉だが、妥当な表現だと思える。
そして、霊とか死後の世界とかに対して認識が低い、よく考えていないってのは、生きているってことと死に対する認識が低いってことになるのかもしれない。
生きていることは、やはり死を前提に考えるべきでもあるだろうし、死んでからだって自分自身って存在は無くなるわけではない。
それを考えるから、それだからこそ、自分の生き方、在り方ってことを深く思うこともできるのだろう。 そしてその考えを行うのは、大脳新皮質、○○○大先生の言い回しなら目上(めうえ)の脳だな。
…いいや、ちがうな。目上(めうえ)で発現した心(靈)だな。こういう言い方が正確な言い回しだな。
だからその心(靈)の発現と心(靈)の動き、それは智性(神性)だし、“死と生”を、きちんと認識できる…深く考えて、自分の生き方の指標にできる。
そのことを思うのは、智性(神性)でしかできないって言っても過言ではないな。
だからそれは、目上(めうえ)の脳をあまり持っていない動物には考える能力があるとは思えないし、ただただ本能中心の行動が多いだろうし、自我の確立=固定化の進化過程って“Kellyさんとの会話”(一本目のブログのこと)で何回も指摘されていたし、動物が進化して人になる。
それは、地球の場合、猿が人(日止、霊止)って段階に移行したみたいな言い回しだった。
だからこそ人しか言葉を使えない。
前のブログでは、茶化してワンワンニャ~ニャ~ブ~ブ~モ~モ~コケコッコ~って表記があったけど、動物の言葉ってのはその程度でしかないし、人間が鳴き声みたいにしか聞こえないことそのものが、人(日止、霊止)の観察による認識でもあり、だから動物は人間より下、“下”(低い心(靈))って感じられる。

今、僕は、違うこと考えてるけど、人って心(靈)はそうやって事象を観察し、自分の心(靈)なりの認識をする…それも、言葉によって認識をする。しかしそれは、人間と動物の違い、それは認識の違い、認識の違いは、霊的成長度の違い、それは“一”=智性=1番目のオーラに顕れる。
そんなことが前のブログには書いてあった。
だから…言葉って大事だな。

…でも、今考えていたこと、一般の認識としての霊って言葉に、生体内電流とか荷電粒子とかの認識は無い。そして、心が霊と同義なんて認識もあまり無いな。
だから霊なんて言葉はインチキ霊能力者が金儲けに利用するために相手を恫喝する言葉に成り下がっている。そして医者も、薬屋も、相手を恫喝するような言葉の使い方をすることが多い…そんなこともKellyさんは指摘してたし、僕自身もそう思うな。

…本題に戻ろう。

そして、動物から人(日止、霊止)、それも進化過程で、自我の確立=固定化から智性(神性)の発現、そして“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを持つようになる。
それがあまり無い人、心(靈)の動きとして観察されない…自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に表れない…自分の思惑として顕現できない…。
○○○大先生流の言い回しならこういう複雑な表現になるのだろうけど、要は、霊的成長度の低い人=愛(炁)の顕現の程度が低い人は、自分の欲望を満たすことしかしない。
仮に心(靈)の中に、“慈悲”と“慈愛”が少しあっても、そんな行動しか取らないってことだ。
だからそれは、“慈悲”と“慈愛”、そして智性(神性)由来の認識が自分の内面とか内側(心の中と感じている事)にあっても、外側(外国と幽界)の事象には顕すことができないって言い方もできる。

人って言うのは、誰でも多少なり智性を持っているだろうから、善悪も理解できるだろうし、自分たちのよいカタチである幸福って概念も持つだろうけど、智性(神性)や、“慈悲”と“慈愛”の心(靈)の動きを、自分の外側(外国と幽界)の事象に顕さないから、自己奉仕者になる。
だから自己奉仕者…結果それは、智性があまり無いとか、発揮できていない人って観察し得る。
それは、智性由来の思想を自分で持たない…智性由来の事象の観察をしない人だし、言い換えれば、自分の心の中にあると思われる心の動きとしての智性を、自分で無視してる人。
それは自分に甘い考えとも思えるし、自分の心(靈)の甘さが、自分の一生を左右し、そして病気って問題を自分がかかえたなら、それを排除できるとか、自分の甘さを克服するとか…その心(靈)の動きを持つまで苦しまなければならないだろう。
そして、智性があまり無い…“死と生”に対して認識があまり無い人は、病気って苦難を目の前にしても、自暴自棄になったり、やけくそなことを言ったり、極端な場合は自殺したりもするんだろう。
それも“死と生”に対する認識の低い人は、生きている間だけがすべてってことを前提に思うから、生きている間に楽しまなければ損だとか…糖尿病の食事制限ができない人みたいなものだな。
自分が好き勝手に生きてなぜ悪い、食べたいもの食べてなぜ悪い、飲みたい酒をなぜやめなければならないんだ、なぜタバコをやめなれればいけないんだ、自分が自分の思うように一生を過ごしてなぜ悪い、そんなこと誰にも指図されたくない…とか思うんだ。
まったく自我の肥大だな。
だからこそ、智性由来の考え方とか視点とかが無い…それは、自分の生き方とか在り方ってことを考えないし、この場合は、病気が自分に与えられた試練としての苦難なんて考えが無いからだな。
そういう死に方をした人は、きっとこの世界を彷徨う浮遊霊になるんだろう。
その心(靈)の動きを持った浮遊霊は、子孫に憑依して、自分の苦しみをわかって欲しいから子孫を病気にする…因縁霊って言うのは、そういうことをするものだろうけど、それは、その因縁霊自身が、生きていたときの認識しか持っていないからだな。
また、その霊的存在は霊的成長度が低いから、智性を持っていないからこそ自分自身の死の意味を考えず、死んだことを自省(胸の磁性“十”)の材料にもできず、因縁霊になるんだろう。
因縁霊と、因縁霊に憑依されている人、それを観たなら大概の人は、霊的存在だけが悪いように思うかもしれないけど、けっしてそうではないな。
結局、因縁霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をしなければいい。
そしたら自分は因縁霊の想念を受けない。影響されない。
だからそれは、さっき思ったみたいに、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ酒を飲み、そのことに価値があるって程度の低い考えを持って生き続け、人生の価値はそこにあるなんて思い込み、そして病気になった人は、その飲み食いしたことに対する執着が強く、その後死んでしまって、もっと楽しみたいって思いを発する浮遊霊になったらば、同じ考えを持つ人に憑依する…って言うよりも、引き合うみたいなもんだな。
それが多分、肉体が持つ中心の磁束の周りを回転する荷電粒子の回転が、同じような傾向を持つと、(肉体を持った心(靈)である)人に、霊的存在は、抵抗無く憑依できるのではないのかな。
多分そうだろう。
だからKellyさんは、“日月神示”表記の悪の回転、右回転の話をしたんだろうし、またそれは、砌(みぎり)の極性、肝=“いきり立つ心(奴と心)”の顕れっていうのが、○○○大先生とKellyさんの概念なんだな。
そしてそれは、憑依される人=生きている人と、自我の肥大をしたまま死んだ浮遊霊、その霊的成長の段階の霊的存在との感応共振なんだろう。

…自我の肥大、肝=“いきり立つ心(奴と心)”の強化…その顕現、心(靈)の動きが行動に現れること…だからこそ考えが論理的ではなく、自分のやっていることに対しても自分が持つ低い欲望を満たすことだけ前提に考える。
たんてきに言えば、自分にとって都合の良い考えだし、そしてそれが絶対に正しいと思う。
この間Kellyさんと話していた躁(そう)状態の人みたいなもんだな。
そしてそれは、人にも霊的存在にも同様のことがあるから、同じ考え方をするから憑依しやすいってことになるんだろうな。
同じ心(靈)の動きだからだな。
だから、憑依される人と憑依する霊的存在、その両者は死に対する認識が低い。
それだからこそ、いろんな問題を感じさせる。
仮に“死と生”に対し、きちんとした認識を持っている霊的存在ならば、自分が不幸な死に方をしたとか、突然の死とかにも、恨みの連鎖の現象とか、因縁を贖って(あがなって)いる人生を送り、それを因縁の要因とも言える因縁霊自身に見せ、因縁霊が自省するためのこととか、あるいは、その人自分が右往左往のまま死んで、死んでから左往右往する=自省(胸の磁性“十”)するための死とか、そういう考えを持つことができるだろう。
それは、自分の死に対し深く考えていない。それ以前に死の意味も知らないから、考えることができないから、彷徨うんだな。多分。
だから、人って言うのは、人(日止、霊止)の心(靈)って言うのは、死んでからも認識の拡大はある。
それは、霊的存在が永遠の存在ってことから考えれば、当然のことと思えるし、だからこそ宗教では、天国と地獄の概念を説かれているんだろう。
例えば、死んでからの自省(胸の磁性“十”)の“行”を示す、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)、自分がやってきた行いを何百年でも何千年でも見せられる地獄…自省して考えを変えるためだ。
自省しなければその心(靈)は、成長しない=“上”に向かわないからだ。
それがチャクラに表れているんだな。
今の地球人の進化過程は、ムラダーラチャクラ、スワディスターナチャクラ、マニピューラチャクラ=腹のチャクラから、アナハタチャクラ=胸のチャクラの覚醒にいたろうとしている。
胸のチャクラの覚醒と称されていること、それが、自省(胸の磁性“十”)してから自分の心(靈)の中にできていく“慈悲”と“慈愛”なんだろう。
だから、平均的地球人の進化過程は、自我の確立=固定化の段階から少し“上”に向かってて、それだからこそ、その人が生きてきた期間での自分自身の生き方、生きて来た過程に対する認識の低さってのがある。さっきも思ったように、それだから死んでから彷徨うんだ。
なぜ自分は生きているのだろうかとか、生きているって何の意味があるのだろうとか…それを思わない人は、ただただ目先のことばかり思うとか、例えば仕事のことしか考えていない…ちょっと悪く言えば、仕事で金を儲けて自分の低い欲望の達成だけを願って生きてきたとか…右往左往だな。そして右往左往は、心(靈)の極性としての砌(みぎり)の現われなんだ。
だから自我の肥大になるんだな。
そしてその心のまま死んだなら、それは、自分のやってきたことは死んでからも考えなければいけない。
それは、その霊的存在の心(靈)の動きは、脾=“思う、憂う”になっているんだろうな。

さっき、躁(そう)状態の人は、自我の肥大した人と、自我の肥大のまま死んだ霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)だって思った。
それに対し、鬱(うつ)は、自我の肥大の人生を送ったあとの、左往右往のとき、その心(靈)の動きのとき、それは間違いなく、脾=“思う、憂う”、日足(ひたり)の極性の現われだろうから、その人に憑依して感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在も、脾=“思う、憂う”、日足(ひたり)の極性が現れた霊的存在と同調するんだろうな。

だからそれは…この間Kellyさんが言ってたこと。

“躁(そう)状態の人は、砌(みぎり)のエネルギーが日足(ひたり)のエネルギーより勝っていることが理解できると思うけど、その人に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は、同調なんやから、おんなじ回転の向きをしているってことでんねん。
 そやから憑依現象による感応共振は、おんなじ心(靈)の動きやから感応共振する。
そやから悪霊の心(靈)の荷電粒子の回転を“上”から観たならば、さっき示した“日月神示”表記の右回転でもあり、それと感応共振する人の心(靈)の動きは、今の地球人は、自我中心の心(靈)の構成になっているからこそ、東洋医学で言うところの肝と脾、足の厥陰肝経と、足の太陰脾経でんな。
ほんでからこの二つの経絡(ツボの流れ)は、腹を通ってる。
そしてそれは肉体における左右の極性でもあり、肝臓と脾臓は大きなコンデンサーの構造を持っているから、左右の極性の構成要素でもある”

…Kellyさんはこの話のときに、荷電粒子の回転のことを説明したんだ。 そしてそれは、憑依される人と、憑依する霊的存在に荷電粒子の回転が共通するから、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するんだ。
だから、心の極性が砌(みぎり)に傾いている場合、その心(靈)の動きに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在も、砌(みぎり)の極性を持った存在が憑依する。
だから躁(そう)になるんだな。
その逆ともいえるけど、心(靈)の動きが日足(ひたり)に傾いているとき、脾=“思う、憂う”のときは、多少、自省(胸の磁性“十”)している霊的存在の憑依があるんだろう。
だから鬱(うつ)になるんだろう。
 そして、憑依される人と憑依する霊的存在の心(靈)の動きとしての智性が無い。智性を発揮していない。
“死と生”に対し、しっかりした認識を持っていない=霊的成長をしていない心(靈)同士の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)なんだな。
だから、躁(そう)状態と鬱(うつ)状態になるってのは、その人と、霊的存在の“一”=智性=1番目のオーラが小さい。
あるいは、憑依される人の目上(めうえ)の脳の機能が落ちているってことなんだろう。

…その原因みたいなこととして、二つの要因があるな。

一つ目は、智性(神性)を発揮しない心(靈)の動きは、自我の肥大だろうし、その心(靈)の動きのときは、智性由来の考えを持たない。
だから智性(神性)を発揮した霊的存在の憑依が無いとか、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信を受けにくいってことにもなるんだ
結果それは、その人の智性(神性)を発揮していないことだ。
そして二つ目は、智性(神性)を発現して智性(神性)由来の考えを持つと思われる目上(めうえ)の脳の機能が、酒、たばこ、薬物…etc そんなものの影響を受けてて、目上(めうえ)の脳内の電磁誘導が起きにくいとか、脳内の電流量が下がることがあるんだろうな。
そうならばそれは、その人が持っている、“一”=智性=1番目のオーラに相当する生体内電流の弱体化ってことになる。
だから、この二つの要因は、程度の低い霊的存在の影響を受ける。 そんな人だから、躁(そう)と鬱(うつ)は発症するのだろうな。

その人が智性由来の考えさえきちんと持っているなら、その人自身の持っている智性が発揮できてさえいれば、低い霊的存在との感応共振は無い…無くなるのだろうな。
 

…結論めいた考えになったけど、今度Kellyさんと話して、自分の考えをKellyさんに聞いてもらって、確認を取ることとしよう。



☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀ ☀



…ということで、今回は、僕、ややメタボ内科医のYっちゃん先生 〔 ´゚Д゚`〕 が、一人でぼやきました。 これは、楽屋落ち的言い方をすれば、前のブログで○○○大先生がよく使った手法でもあります。

一人でいろんなことを考えているってのは、瞑想に近いことでもあり、そのときの自分自身の心(靈)の動きが“上”に向かっているならば=真実(真固止)を追究しようとしているならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)がある。
要は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けて自分の考えを構築するってことになります。
それに対し、自分が自分に都合のよいことばかり考えているならば、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)があります。

○○○大先生が使うこの手法は、そのことを表現した文章でもあると思います。 

そして今回の話は、次回に続きます。

by ややメタボ内科医のYっちゃん先生 〔 ´゚Д゚`〕 でした。

« Kellyさん、ややメタボ内科医のYっちゃん先生と、躁(そう)と鬱(うつ)は、心(靈)の動きの極性の一側面であるという話をする。 “その三”|Top|“日月神示” 富士の巻 第二十五帖 Kellyさん的解釈 »

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 Kelly & ○○○大先生

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このブログを書いている○○○の、
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同一人物で有る事を、
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四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈3〉

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目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
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初めての方は、
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その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “改”
予約制 鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療 児玉療院
写真部の○○○大先生のページ
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○○○大先生の水草水槽記録
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自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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