“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、44年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”天つ巻 第十六帖 Kellyさん的解釈



 今回も、天つ巻 第十六帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。
一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、
神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、
ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。
神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、
神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、
今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。
神の国が勝つばかりではないのざぞ、
世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、
臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、
素直に神の申すこときくが一等ざぞ。
人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、
あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、
てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。
人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、
目に見せてあらうがな、これでも分らんか。
八月七日、一二 ローレンツ力と ○

 
第十六帖の冒頭の文は、アセンションに伴う醜い事象のことを“ゴタゴタ”と称されてる。
それと、自己奉仕者の認識での“王”、霊的成長度の低い認識でのいわゆる王様。 
権力を振りかざし、自分だけよい目を見たい意味で、自己奉仕者が求める意味での王様が説かれている。

“今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。
一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、
神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、
ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、
この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。”

 現時点での地球では、自己奉仕者が活躍している。そやからそれは、(通貨としての)金と権力を振りかざす自己奉仕者の概念での王様で、何のために自分は(程度の低い概念での)王様になりたいのか、それはあえて説明することでもないけど、八戒(低い欲望に対する八つの戒め)なんだってことだけ言うておきまんねん。
 ほんでから(通貨としての)金と権力を得た自己奉仕者=今の地球人の低い認識での王様。 それは、完成された人という意味での“王”でないことは、一目瞭然なんやけど、大概の人の“王”って概念は、自分だけが王様になり、自分だけ良い目を見たいってことしか思わへんやろ。
 そやからこの文で、なぜ、“てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなる”って言われてるのかが重要で、いうまでもなく“てんし様”は、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をして、自分の思想に“上”の思惑を取り込み、高い霊的存在と認識を共有して事象の“創造”をする人のことでもある。
 そしてそれは“一”=智性=1番目のオーラのオーラが大きくないと、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は起きえない。
 そやから“王”って表現は、“一二三”のオーラがバランスよく整った霊的成長を示す表記であり、現時点での地球人の頭のオーラは(霊的成長度が低いから)小さすぎる。
 今後=アセンション後の“創造”を担うべく人は、以下の画像のような霊的成長度で無ければならず、その人の“一二三”のオーラを見れば、“王”って字が示すカタチになる。

アセンション後の“創造”を神から託される人のオーラの構成 
 
ほんでから“外国には王はなくなる”っていうのんは、今、活躍している、自我の肥大による認識での王様なんてのは、いなくなる。
それは、自分がどんなにすごい“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を持っていようが、霊的成長したほど、“力”を金儲けに利用したり、“力”で権力を振りかざしたり自分を誇示したり、そんなことは自我の肥大って心(靈)の動きやからこそそれは、霊的成長した人(日止、霊止)がすることではないし、その自我の肥大ゆえの行為は、外側(外国と幽界)の事象にしか示すことが出来ない。
ちょっと分かりにくい説明かもしれへんけど、ほんまに自分が頑張って(元の気を張って)、(霊的干渉により)“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得したのであれば、その“力”そのものを貴いと感じ(感じる磁性)、思い、その認識ゆえの使い方をする。 そやからそれは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)に、“力”の使い方の基準を持ち、どう使うべきか考える。 そして智性由来の力の使い方をするようになるものでもある。
その点でも、今後=アセンション後の地球は、よいカタチの“創造”が反映した世界になり、そやから自己奉仕者の存在は許されないし、それはまた、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が許さないってことでもある。
ほんでからこの文の“一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。”っていうのんは、“日月神示”が自動書記により、書かれていたときが戦争中でもあるから、“一旦戦おさまりても”っていわれてるやろけど、決してそれだけのことではなく、その当時の戦争かて自我の肥大って心(靈)の動きの結果なんやから、ほんでから今起き始めているアセンションに伴う醜い事象かて、自己奉仕者が活躍してきた結果なんやから、そやから、人間が人間を観る視点に重要性を感じる人は、その心(靈)の動きが生み出している事象ってものを、よく知らなければならないと思う。
 そやからこれも今まで幾度となくいうてきたけど、すべての現津(あきつ)、観察され得る事象は、自分たちの心(靈)の動きで“創造”され、それを感覚器官で感じ(感じる磁性)るから、言い換えれば心(靈)が観察するからこそ、現実と認識する。
だからこそ、霊的成長度の低い自己奉仕者の“創造”は、醜い事象しか創造できないし、それ以前に自己奉仕者は、自分たちの“創造”が理に適っているとかの認識が無い。
 ほんでから今Kellyさんが引用した“理に適う(かなう)”って言い方すら、“日月神示”表記の“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)って表記で言い表されてると思える。
 そやからそれは、“この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてある”って言うことでもあると思えるやんか。

 ほんでから次の文。

“神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、
神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、
今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。”

 これも、人の“創造”は、“上”の思惑と自分たちの思惑が一致していかなければ、よいカタチの事象には成りえないって言われてる。 そしてこの文の“神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが”っていうのは、いうまでもなく“一”=智性=1番目のオーラが大きい人のことを指し、智性をしっかり発現しているならば、自分の心(靈)の動きって言うのをよく見極めることが出来、そしてそれは、自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にはならない。 
言い換えれば、自己奉仕者の心(靈)の動きを自分に許さない人になる。 
そしてそれをまた言い換えれば、“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を自分の心(靈)にしっかり持ち、自分の心(靈)の動きをよく自分で監視できる人でもあるからこそ、“観自在”“直日”と、自省(胸の磁性“十”)の“行”でもある。
 そして今も、“日月神示”が書かれた当時も、自己奉仕者が活躍していて、自己奉仕者の概念の幸福感とか価値観で満ち溢れていたからこそ、“今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もない”っていわれてる。
 そやから大事なのは、“神の手柄”で、それが一体何なのか? これを考えるにあたり、今まで述べてきたように、自己奉仕者の活躍は、醜い事象しか生み出さん。 
そやけど、智性を発現し、“慈悲”と“慈愛”をもち、自分に厳しい人は自分の心(靈)の動きに“上”と“下”=善と悪を見出し、それを基準に行動するからこそ、理に適う(かなう)人でもある。
 それが“日月神示”表記の“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるやろ。
 またあえて言うとけば、“一”=智性=1番目のオーラの強化の“行”は、“ひつく”=太陽凝視を“行”として行うことでもある。

 ほんでから次の文。

“神の国が勝つばかりではないのざぞ、
世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、
臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、
素直に神の申すこときくが一等ざぞ。”

 この文の“神の国が勝つばかりではない”っていうのんは、“上”の思惑が反映したからといってもそれは、事象の“創造”は、神さんと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し=神さんと認識を共有し、その霊的成長度の高い人の行動によって創られ、それは“日月神示”表記の“うれしうれし”“大歓喜”の事象になっていくから、“世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから”っていわれてる。
ほんでから“永遠(とことは)につづく神世に致す”ってのは、霊的成長の順番として、下等な生命でも持っている本能の発現から、情動、自我の確立=固定化があり、そして自我の確立=固定化は、自我の肥大に陥りやすい=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になりやすい。 
そしてその心(靈)の動き(“思惑の顕現”=現象化)は、失敗の事象を創造するし、それはローム太霊さんの言い回しの右往左往になる。 
さらにそれは、砌(みぎり)の極性の強化の段階でもあるからこそ、霊的進化の過程、霊的成長の順番として必要な過程ともいいうるけど、自我の肥大っていう心(靈)の動きがどんな世界を創ってきたのか、これはおかしいのではないのかって思う人は、左往右往に入って自省(胸の磁性“十”)を始めた人でもある。 
そやからそれは、自省(胸の磁性“十”)は、自我より“上”の心(靈)の発現でもある。 そしてそれは、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、ほんでから“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”になっていくものである。 
だからこそ“上”の思惑に従うべきであり、“上”の振動を獲得するべきであり、その意味で“素直に神の申すこときくが一等”といわれてると思える。
 
 ほんでから次の文。

“人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、
あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、
てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。
人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、
目に見せてあらうがな、これでも分らんか。”

 この文も、自己奉仕者の行いは間違っていて、“上”の思惑に沿っていないから、“人間の知恵でやれるなら、やって見よれ”と言われてて、“上”の思惑を取り込んでいない自己奉仕者の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、“あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ”って言われてる。
 ほんでから“覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ”っていうのんは、縄張りを守り、保身を考え、自分の形骸の地位を守ろうとしている自己奉仕者の心(靈)の動きを指摘していると思われる。 
そやからそれは、三文小説みたいに、自分の地位を守ろうとする根性無しの王様は、家来を犠牲にしてでも自分を守ろうとするし、低い欲望に執着するもんや。 
ほんでからその低い心(靈)の動きは、今の経済のトップとか、政治家とかを見るとよく判る。 またそれは、“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)でもそうでんねん。
 そやから、自分たちが“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、神さんの思惑と自分の思惑が近くなったなら=“てんし様”になったらば、またそれは、“一”=智性=1番目のオーラが大きくなったならば、真実=真固止を認識し、そういう人は自分の思惑を発信する意味での“誠”(言葉成る、意味は、自分が発振、発信した振動(言葉)が完成する)の人になり、そしてそれは、“日月神示”表記の、○ 九 十 なんやろ。
 そやけど今指摘したみたいに、今活躍している人は“腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭”やろし、そんな人たちは、自分たちの人生に真実=真固止を見出せんやろ。
 まあエエわ。
 そやから、真実を見出す。  ○ 九 十になる。
その意味で“人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな”は、今後=アセンション後は、真実=真固止の“創造”になり、それは“上”の思惑と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する“一”=智性=1番目のオーラを持った人でなければ、その時点の“創造”を“上”から託されないし、それが霊的資格でもあり、真固止の人と呼称される人なんやろ。
さらに、真固止、真に固く止める、これは、“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化の意味を持っていることも付け加えておきまんねん。

 ほんでから、アセンションを通り越しても、すぐよいカタチの“創造”にはならないという意味で、十六帖の冒頭の文の“一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ”といわれてると思えるし、今、ちまたで2012年12月某日がアセンションやと思われてるけど、そんな薄っぺらいものではなく、もう始まっているし、その日付以降も“ゴタゴタ”は続く。
 そやけどその“ゴタゴタ”は、自分たちの心(靈)の在り方を示す事象であり、その事象を観察して、自分の心(靈)の中の“上”と“下”=善悪を見出すのが、“日月神示”表記の“身魂掃除”“身魂洗濯”であることをあえて言うときまんねん。

 今回はこれくらいにしときまんねん。
 

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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。


太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”
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自分達の欲望を満たしたい… 
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こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
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