“日月神示” 上つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈
原文は以下の通り。
秋が立ちたち、
この道ひらくかた出て来るから、
それまでは神の仕組書かして置くから、
よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。
その時になりて、あわてて何も知らんといふ様ではならんぞ、
それまでに何もかにも知らして置くから、
縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。
六月の十七日、ひつくのか三。
まず、冒頭の言葉、
“秋が立ちたち、”
これは上つ巻 第六帖と同じで、
単なる時代背景の事を言うてるとはとても思えへん。
Kellyさんがそう思う根拠は、
“秋”・・・禾(のぎへん)と、火で構成された字やからや。
そやからそれは、
禾(のぎへん)が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と木部で構成されてる。
木部って言うのんは、
胸の磁性“十”の下に、儿部(じんぶ、にんにょう)を足した字やって言う事で、
そやからそれは、禾(のぎへん)自体が、
丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現) + 胸の磁性“十” + 儿部(じんぶ、にんにょう、人が歩く様子に象るの意味=時間の進行)で、
それは時間を伴う霊的進化そのものを表してる。
言い換えれば、
時間って言う振動の変化を吸収しながら、
(時間の認識を持ち)心(靈)は育っていく。
そういう事を表してるように思えるやん。
ほんでからにそれは、禾(のぎへん)と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)と共に書かれてるから、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は、
幽界の“幽”、
幽か(かすか)の左右の糸を外した山みたいな字と、
火=灬(よつてん、れっか、れんが)は同じで、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現が、
(“上”から観て相対的に)幽かな時は、
自分の外側しか見ないって事でもある。
ほんでから、“日月神示”内の表現としては、
幽界=外国で、
そやからそれは自我の確立=固定化の進化過程やし、
その時の心(靈)の動きは、
本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動の、
本能、情動、功名心、自我・・・迄やから、
目先の欲望や低い自尊心や功名心や・・・それが中心の心(靈)になる。
そしてその心(靈)の動き由来の行動=発振、発信をする。
そう言う創造をして来たのが今の世界でもあるやん。
ほんでから“幽”の左右の糸、
左右の極性、砌(みぎり)と日足(ひたり)、
その砌(みぎり)と日足(ひたり)の極性で、
心(靈)は・・・(霊的)進化過程の心(靈)の発現って言うのんは、
腹=下三つのチャクラから、
胸=アナハタチャクラの覚醒って事になる。
そやからそれは一言で言えば、
心(靈)が“上”に向かって行く。
段々、アナハタチャクラ由来の心(靈)の発現をして、
“慈悲”と“慈愛”を発現して行く。
この事が解り難かったなら、
前のブログ、
思惑と顕現 “その三〜八”までを読んで欲しいねん。
その中で特に“摩多羅神”の所は、
人(日止、霊止)の心(靈)の発現の進化過程が、
解り易いと思いまんねん。
心(靈)の発現・・・
“上”に向かうから、
段々神さんに近付いて行こうとするから、“慈悲”と“慈愛”を自分の心(靈)に持つ。
そう言う意味で、禾(のぎへん)と火になり、
それは丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”の振動を獲得し、
胸の磁性“十”をしっかり構成する為の事でもあると思えるやん。
又、別の表現をすれば、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
そしてそれは自省=左右の磁性でもある。
帯電するミネラルが固まっていく様が、
心(靈)が“慈(しげる)”事でもあり、
固まってない=水の中の帯電するミネラルの段階が、
腹=水=江戸の“江”の段階の心(靈)の発現ゆえの価値感、
“石屋の仕組み”でもあると思えるやん。
そやから丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)=“上”から垂れた振動を、
人(日止、の振動を取り込み、
胸の磁性“十”をしっかり作って行き、
その時の心(靈)の発現が、
“慈悲(いつくしみ、かなしむ)”と、
“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”になって行く。
そやからそれは“秋”と書かれてると思う。
そしてもう一つ、
“秋が立ちたち”・・・立ちたちって二回立つって言うてる。
これも、
左右の極性の事としか思えへんって事でんねん。
そしてこの間先生と行った、
瀧原宮の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の、
“竝(ならぶ)”と同義やと思える。
そやから動物から人(日止、霊止)への進化って言うのんは、
心(靈)の発現が段々“上”に行く。
その為に、その時に、
前足が手になったとも言い得るやん。
手が構成する磁束は、
肉体のシンクロトロンの構造を持つ土台みたいなもんや。
それは、進化って言うのんは、
“上”の振動を取り込まんならんのやし、
より“上”の振動と感応共振する為の変化=ほんまの進化の意味、
神格化への道程でもあると思えるやん。
そやからこそ現時点、地球上で起きてる事象でその具体的な事としては、
失敗を体験して自省する=右往左往から左往右往でもあるし、
その時点時点で感応共振する霊的干渉でもあるし、
特に、左往右往=自省・・・その時の霊的干渉の中心になるのは、
やはり、
一番身近な霊的成長度の先輩としての主護霊って事になるやろ。
そやからそれは、
どんなに失敗してどん底であろうが、
その結果が不幸な死であろうが、
“共々にいく”って事になる。
ほんでから、
左往右往に入る前に、
自分自身の低い心の発現由来の思惑の顕現をしようとする。
それが砌(みぎり)の“行”、右往左往やけど、
その時に起きる霊的干渉は、
目先の欲望とか甘い思いとかの発振、発信に感応共振する霊的存在やし、
それは左往右往の時期に入るまで主護霊は見守る・・・
それは、自分が間違った事をしてるって自分で気が付く為には、
失敗の体験は必要って事になる。
そやから自省する・・・自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあるし、
“直日(なおひ)”=自分を振り返る事でもあるし、
“観自在”=自分の在り方を観察するって事になる。
そう言う意味でも、
“秋が立ちたち”・・・
腹の段階の心(靈)の発現から、
左右の神経を使い、
それは心(靈)が“慈(しげる)”・・・
この字の構成は
茲(やしないそだてる、いつくしみ)と心(靈)で、
ほんでからに茲(やしないそだてる、いつくしみ)の左右の糸の“上”にあるのは、
クサカンムリやし、
それは芽生えるって事でんねん。
そやからこれは以下の言葉に掛かる、
“この道ひらくかた出て来るから、
それまでは神の仕組書かして置くから、
よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。”
“道ひらくかた”
それは、進化の方向性が、“道ひらく”
そして“かた”は、方でもあるやろし、
そう言う進化した人(日止、霊止)が出てくるって事でもあるし、
ほんでから、
型・・・進化のテンプレートでもあると思える。
これは自己奉仕者では無い人=“慈悲”と“慈愛”の発現をした人(日止、霊止)。
それと、
人(日止、霊止)の心(靈)が“上”に向かう構造、
それは“慈悲”と“慈愛”の発現の為の、
型としての腕の磁束でもあると思えるやん。
そしてそれは、胸の磁性“十”であるって事やねん。
そしてそれを示してるのが上つ巻 第六帖の、
“まだまだ花道ぞ、
九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。”
それと、“十月まで待て。”って事やと思いまんねん。
ほんでから、
手の機能と大脳新皮質の前頭葉の機能とは、
密接な関係がある。
そして、
動物の脳と人の脳の違いは大脳新皮質でもあるし、
それは“目上(めうえ)と目下(めした)”でもあるやん。
そう言う話も先生とした。
そう言う意味での“型”=進化のテンプレート=神格化へのテンプレート、
それを、
“それまでは神の仕組書かして置く”・・・
それは、“日月神示”は進化のテンプレートの事を言うてまっせ〜!!
・・・って事を、言うてると思いまんねん。
そやからそれは、
ここまでの上つ巻の解釈をKellyさん的にしてても、
人の肉体の事と、
心(靈)の発現の事を言うてると思えるし、
それは、
人(日止、霊止)の神格化の事を言うてるとしか思えへんし、
先生の結論でもある、
太陽凝視=特別神憑りって事から考えても、
それは、
“神の仕組み”=人(日止、霊止)の進化=人(日止、霊止)の神格化でしかないと、
思えるやん。
ほんでから、
相対的に今の進化過程から、
次の段階に入るのがアセンションって認識されてる事やし、
そやから、
アセンションの時期を指して、次の言葉、
“その時になりて、あわてて何も知らんといふ様ではならんぞ、
それまでに何もかにも知らして置くから、
縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”
・・・そやけどこれは・・・
縁がある方は少ないやろって事も・・・言うてるな。
ほんでから、上つ巻 第八帖は、
“よく読んで腹の中によく入れて置いて呉れよ。”
“この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”
同じ表現の言葉を二回言うてるやん。
その“腹の中”って言うのんは、
“上”の振動を取り込んだ腹の水の中の錯体=“上”の思惑=情報を含んだ荷電粒子で、
電磁誘導=生命を営んで行けって事やと思いまんねん。
それは腹=消化器官、肉体の材料って言う意味もありまんねん。
ほんでからにそれは、“日月神示”内の表現でもある、
尾張と江戸・・・
尾張=尾骨の極性と、
腹の磁性=江戸の江の事やと思いまんねん。
ほんでから今は、進化過程が低いから、
あんまり“上”の存在の思惑と感応共振してないって事で、
そやからこそ、
“この知らせをよく読んで”
“よく読んで腹の中によく入れて”って事でんねん。
それは只“読む”って事ではなく、
これも強調して二回言うてるけど、
吸収して腹の中に入れて、
“置いて呉れよ。”って事でんねん。
ほんでから生命=電磁誘導って言葉も、
ほんまは生命活動のすべてを表してるとは思えへんけど、
さしあたって地球人の科学の言葉として解り易い表現が、
電磁誘導で、
それは、
普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)との感応共振、
“上”の思惑との感応共振が、
生きているって事で、
その証明が、
動物でも人(日止、霊止)でも、
死んでしもたならそれは、
生体内電流は観測出来へんって事でんねん。
ちょっと話が横道に逸れたけど・・・
今日はこれくらいにしときまんねん。
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