“日月神示” 上つ巻 第九帖 Kellyさん的解釈
今回も“日月神示”上つ巻 第九帖の解釈をしまんねん。
原文は以下の通り。
この世のやり方、わからなくなったら、
この神示録(しるし)をよまして呉れと云うて、
この知らせを取り合ふから、
その時になりて慌てん様にして呉れよ。
日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。
一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。
その時にお蔭を落さぬやう、
シッカリと神の申すこと腹に入れて置いて呉れよ。
六月の十七日、ひつくのか三。
冒頭の言葉、
“この世のやり方、わからなくなったら、”
“この世のやり方”・・・その言葉から受ける印象・・・
それこそ人(日止、霊止)の認識の程度=霊的成長度によって、
色々やろけど、
Kellyさん的には、
この世界の創造の仕方=自分の心(靈)の発振、発信する振動を見極め、
自分の心(靈)の在り方を深く考察するって言う風にしか思えへん。
そやから、“この世”・・・
すべての事象って言うのんは、
自分の観察行為で認識される。
ほんでから、
自分の心(靈)の発振、発信する振動によって、
場(フィールド)が構成されていく。
それをこの世界やと感得する。
それが、“この世”の観察と認識でもあるやんか。
そこに自分が居てる=存在すると思うやんか。
そやからそれは、
創造でもあるし、
発振、発信でもあるし、
行動でもあるし、
心(靈)の動きの顕現でもあるし、
それこそ程度の差こそあれ、“上”と“下”の差こそあれ、
思惑と顕現って事になる。
その創造の仕方、顕現の仕方、
それを、
“やり方”と表現され、
そしてそれが、
“わからなくなったら”・・・
それは、今の世界の事でしかない。
今、色んな事がおかしな方向に向かってる。
そやけどそれは、
人の低い心(靈)の発現由来の事でしかない。
自分達がやってきた事の結果・・・創造の結果でしかない。
そやから・・・“この世”の観察と認識・・・
心(靈)の発現と創造される事象・・・
自分と、この世の概念・・・
自分の存在の認識と自分以外の事象の認識、
それを言い換えれば、
自分と“この世”なんやろけど、
ほんまは自分と“この世”を観察してる自分の心(靈)がある・・・
そう言う言い方が正解やな。
ほんでから、観察したなら何でも良いカタチを望むようになる。
そやからこそ、“やり方”を考えんならん。
それは・・・(進化の概念を含め)自然な事でもあり、
愛(炁)が動機の事でもある。
そやけど、
その時の心(靈)の発現の程度により、
現状の地球人の心(靈)の発現は、進化程度が低いから・・・
腹の段階の右往左往やから、自己奉仕者が多い。
そやから、
宗教でも天皇制でも政治でもヨガでもアセンションに対する認識でも、
自分の体に対する良い在り方でも、
自分の心(靈)の方向性でも・・・
いろんな事が形骸になり、
商売に利用されて、本当の価値を見失って・・・
今、ほとんどのものが偽者になり、
ほんでから、
形骸のものほど力を示す世界になってる。
そやから失敗してる事が多い・・・
そう観えるけど、
それが失敗やって認識を大多数の人は持ってない。
その事に・・・
失敗やって事に段々気が付く人が増えてくるから、
それは相対的に、
心の発現が今より“上”の観察やから、
“わからなくなったら”・・・って、言われてると思うやん。
そやけど、低い心(靈)の発現段階の人は、
解らんまま時間を過ごして時期を過ごす。
アセンションの意味も形骸のまま認識して、
そのまま過ごす。
そう言う人を増やしたい・・・それが人(日止、霊止)の進化を阻む存在の、
思惑でもある。
それは、
今までの地球の段階と同じ場(フィールド)に移行する霊=心って事でんねん。
そやから失敗の認識・・・それを誤魔化してる人が、
圧倒的多数やって事をKellyさん的には思うやん。
多分・・・先生も同じ事を・・・
そう言う事を感じてるからこそ、
この世界が大っ嫌いになったやん。
そやからこそ、
“この世のやり方、わからなくなったら、”・・・で、
自分達のやって来た事が間違ってるって認識を持ったなら、
それは、
左往右往に入ったなら、
その現象としては、
心(靈)の進化過程としての=自我の確立=固定化の右往左往の結果としての、
経済が崩壊するとか、
それに関わる事として政治家の嘘とか欺瞞とか、
こんな事はどんどんバレていく。
他にも、
災害とか戦争とか病気とか犯罪とか・・・それは、
恨みの連鎖による低い浮游霊の思惑の現象化。
自分達が低い幸福の概念で使うべきところに金を使わんかった。
自分達だけ幸福になりたいって思うからこそ金に執着し、
その為に誰かが犠牲になっても知らん顔をして来た。
それが飢餓や貧困を生み出し戦争の原因にもなる。
そして自我の確立=固定化の段階やから、
やられたらやり返す・・・それが当たり前の世界でもあるやん。
そうやって沢山の浮游霊の場(フィールド)になってしもてるのがこの世界。
そやから大多数の人は、
この世界に執着のある浮游霊に妬まれ、
憑依され、
憑依された人はその浮游霊と同程度の心(靈)の発現をして行く。
それは感応共振やからやねん。
霊的成長度が浮游霊と同程度やからやねん。
そやから金に執着し、物に執着し、目先の快楽に執着し・・・
その為にエネルギーを贖う(あがなう)・・・
そして、自我の確立=固定化の段階の心(靈)やから、
勝ち負けの概念だけが自分の心(靈)を支配する。
そやからこそ、誰かを犠牲にするとも言い得るな。
そうやって一部の人は薄っぺらい幸福を得て来たやん。
その裏側では貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の浮游霊を増やしてきた。
地球って場(フィールド)を構成して来た人間は、
そう言う霊的成長をして来たって事でんねん。
そやからそれを観て、
ほんまに自分達が考えんならん事や、やらんならん事を真剣に思わんとアカン。
それが、
地球人が体験せんならん霊的成長でもあり、
それは、
心(靈)が腹から“上”に向かう事でもあり、
心(靈)の動きで言い表せば、
本能、情動、自我・・・自我の確立=固定化から、
“慈悲”と“慈愛”に心(靈)の動きが変化して行く。
そやけど・・・もう結果は出さんならんから、
今更こんな事を言うてもたいして解決にはならん。
体験して自分の認識にして、
そして、
今後の(アセンション)在り方を考える人、
S会=紫光会での言葉を引用すれば、
“これからの人(日止、霊止)、明日の人”になるって事が、
大事やと思うやん。
そやから以下の言葉、
“この神示録(しるし)をよまして呉れと云うて、
この知らせを取り合ふから、”
“取り合ふから、”は、
自分が右往左往の今までの失敗を認識して、
左往右往に入り、
心(靈)が折れ、
砌(みぎり)のエネルギー=肝=“いきり立つ心(奴と心)”が無くなり、
日足(ひたり)のエネルギー=脾=“思う、憂う”の心(靈)の動きになり、
そして腹のエネルギー=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”は、
心が痛み・・・肺=“悲しむ”(心(靈)と非、非は痛むの意味がある)、
その心(靈)の動き=感情の発現で、上昇して行く。
(大日如来の条帛(じょうはく)、この空間で言えば、それはフォトンベルトに相当する。)
その時に、
“上”からの通信をするから=“取り合ふから、”・・・って、
事でんねん。
その時に初めて、
自分が右往左往してた事に気が付き、
自分がエエ気になってるって事に気が付き、
物欲由来の行動とか自分の心(靈)の傲慢さとか・・・
自分の心(靈)の低さ(目下(めした))を、
目上(めうえ)の心(靈)で認識する。
そして自分の心(靈)の動きの基準とするようになる。
そやから、左往右往に入る時・・・
大体その時に、
失望したり厭世観に囚われたり、鬱になったり、
それが自殺に繋がったりもする。
それは結果として悪霊を増やすって事にしかならない。
そやからこそ人の霊的進化って事を知らんならん。
そやからこそ、以下の言葉、
“その時になりて慌てん様にして呉れよ。”
自分を見失うな。
これから色んな醜い事象は起きる・・・もういっぱい起きてるけど、
その意味に付いて考えてる人はとても少ない。
只、
なんか起きて世の中大変な事になってるって騒いでるだけでしかない。
騒いでるだけでは自分の心(靈)の方向性は見出せんやん。
ほんでから何回も言うた事やけど、
相対的に今より心(靈)の発現が“上”になった人(日止、霊止)や、
“上”に向かいつつある人(日止、霊止)でないと、
次の地球上での創造を担う事は出来ん。
そやからそれは分けられる・・・
その事もアセンションの意味の一つでもある。
そやけど、
アセンションって言うのんは、
もっと心(靈)の事でしかないと思えるやんか。
そやからそれは、観察される外側の事象の事を言うてるんや無い。
自分の心(靈)の変容=心(靈)が“上”に向かわんと、
次の場(フィールド)に移行する事が出来へんし、
どんな場(フィールド)に移行するのも、
自分の心(靈)の成長度と、
心(靈)の方向性でしかないって事でんねん。
ほんでからにそれは“自由”やって事でんねん。
このことも何回も先生と話した。
自分の心(靈)の位置する場(フィールド)は、
自分の心(靈)次第で選択するって言う意味での自由でんねん。
ほんでから今後の世界は、
それは今より相対的に、
天意を受け、神の思惑の顕現をして行かんならん。
この事に付いては何回も説明した。
そやから“日月神示”でもそれ以外のメッセージでも、
“上”の思惑の受信をして=天意を受けて、
そして、
場(フィールド)の創造をする人(日止、霊止)を、
期待してはるって事やねん。
ちょっと話を進めすぎたやん。
そやからその前段階として以下の言葉、
“日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。
一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。”
これは心(靈)が折れた状態でんねん。
“いきり立つ心(奴と心)”が無くなると、
誰もがこうなりまんねん。
これは霊的成長の法則性でんねん。
そやから、
“その時にお蔭を落さぬやう、”
自分の霊的成長の過程を忘れんように、
それはそこまで育って来んやから=“お蔭”、
言い換えれば何回も転生して、
地球人は平均800回転生してるって情報を先生は受信してはる。
そやから、そこまで霊的成長して来たんやから、
左往右往に入った時・・・
それはもう、
自分なんかどうでも良くなるくらい心(靈)は折れるやろけど、
自分の存在の意味とか意義とか・・・霊的成長とか、
その事を知る為に・・・その為に苦難や試練はある。
そやから、
“神は乗り越えられない困難は与えない”、
これはS会=紫光会の交霊会での言葉。
それを忘れんようにして、
自暴自棄になったり自殺したりする事が、
それそのものが、
貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の場(フィールド)の構築になるから、
そやからそれが、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の思惑やろから、
そうならんようにして欲しいって事でんねん。
そやからこれは次の言葉に掛かり、
“シッカリと神の申すこと腹に入れて置いて呉れよ。”
これも、上つ巻 第八帖、
“縁ある方から、
この知らせをよく読んで腹の中に入れて置いて呉れよ。”
これと同じでんねん。
敢えて説明する事では無いな。
そやから今日は、これくらいにしときまんねん。
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