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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示” 地つ巻 第七帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第七帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

神にまつらふ者には生も死もないのぞ、
死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、
なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。
世の元と申すものは天も地も泥の海でありたのざぞ。
その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働きで五六七(みろく)の世が来るのざぞ。
腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ、高天原ぞ、
神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れるでないぞ。
そこから分りて来るぞ。
海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ、
海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国に、幽国(がいこく)の悪わたり来て神は残念ぞ。
見ておざれ、神の力現はす時来たぞ。
九月十八日、ひつ九ローレンツ力と ○  。

まず冒頭の文。 この言い回しは、現時点の地球人より高度な認識(悟り、幸取=さとり)を持った心(靈)の、死の概念でもある。

“神にまつらふ者には生も死もないのぞ、
死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、
なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。”

 人(現時点の地球人)が思う死の認識は、死んだら終わり、あるいは死後の世界がなんとなくあるんじゃないのかな…程度のものでしかない。
 これまでも(前のブログも含めて)言うて来ているとおり、自分の心(靈)は生死にかかわらず、永遠の存在で実在であり、だから、今の一生の前であろうが後であろうが、心(靈)ってものは“観察と認識”ってことをする。 
そして“観察と認識”は、全生命に共通の行為であり、“観察と認識”があるから心(靈)は育つのであり、そして生命の“上”と“下”が、神と人間と下等生物みたいなものでもある。
 そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)っていうのんは、認識(悟り、幸取=さとり)の拡大であり、それが霊的成長であり、認識の拡大した心(靈)は、自分の在り方を思い、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を考え、それが智性(“一”、1番目のオーラ)の発現と行使になり、それは人(日止、霊止)の肉体の進化での目上(めうえ)の脳(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))に現れることも説明してきた。
 それにたいし、智性(神性)を発揮できず=智性(“一”、1番目のオーラ)をたいして持っていない霊的成長度の人間の行為は、“日月神示”表記の“けだもの”とか“畜生”に近いのであり、またそれは“日月神示”表記の“われよし”で、前のブログとこのブログの言い回しなら“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”“愛(炁)の顕現の程度の低い人”でもある。
 その愛(炁)の顕現の高低は、霊的成長度に比例するものであり、自分が神に近くなればなるほど、全存在のよいカタチってことを理念にするものである。
 またそう思うのが、神格化に伴う心(靈)の動きでもある。
だからこそ、霊的成長の頂点に立つ神って認識されうる存在は、愛であると呼称されるし、そう呼ばれ、人(日止、霊止)が認識するその根拠であると、確信する。
 そして全生命は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)程度の高低にかかわらず“思惑の顕現”=現象化ってことをする。 
またそれが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現れるものでもある。 
 それがこの文の“それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。”って言い回しであり、この文の“みこと”は、地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”であり、それは霊的成長度の高い心(靈)の“思惑の顕現”=現象化でもある。
そしてこの文の前の文、“死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、”っていうのは、肉体の死が自分の心(靈)の死ではなく、おぎゃ~と生まれて死ぬまでの期間も、自分の心(靈)の成長の一環でしかなく、人の心(靈)が生き死にを体験し、その前後において霊的成長をして認識を拡大するには、まずそのことを念頭において考えなければならないのは当然のことでもあるし、今、“上”から“日月神示”を垂れられたこの時期は、すべての生命の霊的成長度の大きな節目であり(アセンションは数億年に一度の事象)、人(日止、霊止)が認識しうる空間は、神の肉体と同義のようなものでもあり、神が=“創造”の“主(ヌシ)”が巨大人としての構造を持ち、だから神のマニピューラチャクラからアナハタチャクラへの移行が、第三密度から第四密度でもあり、そのエネルギーの上昇は大日如来の条帛(じょうはく)に例えられ(フォトンベルト)、それがまた“玉(ぎょく)”の中の点に示されていることも、前のブログで説明したし、だからそれに伴い、人は、“宝玉”と呼称される肉体と心(靈)を、自分で獲得しなければならない。

“玉(ぎょく)”の解字

少し説明すれば、“宝玉の仕組み”は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことによる“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化でもある。 
また、現時点の地球人の心(靈)は、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンであり、それは“石屋の仕組み”=自我の肥大って心(靈)の動きで、それが平均的地求人の霊的成長度における行為でもある。
 だから今、失敗の事象はとても多いし、それは個人個人がやってきたことの結果でもあり、そしてその霊的成長度の心(靈)は、ローム太霊の言葉の、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあり、それがなければ自省(胸の磁性“十”)って心(靈)の動きは芽生えないし、それがまた、自我から“慈悲”と“慈愛”=マニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒ってことでもある。
 そうやって人(日止、霊止)は進化していくのだけれども、また心(靈)の進化に伴い、貴い事象の“創造”=“思惑の顕現”をするのだけれど、現時点の平均的地球人の心(靈)はとても低く、だから三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)由来の心(靈)の動きを持った浮遊霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、目先の快楽や物欲が幸福だと思い込んで錯覚している人間が多いけれど、それはこの文の“神にまつらふ者”ではなく、当然その低い価値観は、死ですべて終わりって前提で物事を考えているからこそ、自分が永遠の実在って認識が無いからこそ、他者(自分以外の心(靈)、神であろうが下等生物であろうが人(日止、霊止)であろうが)を、利用して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかって行為をするのが、自我の肥大した人=“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもある。
 だからそんな人たちの行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や、“思惑の顕現”=現象化は、この文の“みこと”、そして地つ巻 第一帖の“実言(みこと)”ではないってことでもあるし、“実言(みこと)”っていうのは“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)した心(靈)の動きによる事象の“創造”でもある。
 また“実言(みこと)”は、真実=真固止の“創造”でもあり、それが進化した人に託され他“創造”であるからこそ、“日月神示”では、○ 九 十 って表記を使っていると確信する。


○ 九 十(まこと)の解字
 だから“実言(みこと)”、○ 九 十の“創造”、その“思惑の顕現”=現象化、貴い事象の“創造”について、次のように語られてる。

“世の元と申すものは天も地も泥の海でありたのざぞ。
その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働きで五六七(みろく)の世が来るのざぞ。”

 “世の元”は、“泥の海”であり、それは、“上”の思惑が“下”にたれていない、たての磁束の無い事象ともいえ、言い方を変えれば結晶化していない事象であり、高い心(靈)の動きによる事象の“創造”ではないってことを言っている。
 そして“その時からこの世初まってから生き通しの神々様の御働き”は、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であり、愛(炁)の顕現って言い方も出来るし、それは“一”(亜から出ずる、アイ)って字に表れており、“一”(亜から出ずる、アイ)から下に事象が展開するから“メグリ”(帀)って字が出来ていて、“メグリ”(帀)を元に、雨ができ、靈って字が出来ている。
“メグリ”(庶「)の解字 
雨の象形文字 解字 
靈の解字 

 

だから心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)でもあるし、絶対の道筋=時間の進行とも言いうる。
 そしてこの文の“五六七(みろく)の世が来る”っていうのは、“五六七(みろく)”は、“五”は、糸巻きの象形文字で、神経が密になる様子、“六”は爻部(こうぶ)、交わるの意味、“七”は、“一”(亜から出ずる、アイ)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)が重なった字。
 要は進化した心(靈)ってことでもあるし、いうまでも無く“五六七(みろく)の世が来る”っていうのは、霊的成長度において人の心(靈)は位置する場(フィールド)を自分で選択する。
 それが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者を分ける事象でもある。

 そして次の文。

“腹が出来て居ると、腹に神づまりますのざぞ、高天原ぞ、
神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れるでないぞ。
そこから分りて来るぞ。”

 これは、地つ巻 第七帖の冒頭の、“神にまつらふ者”にかかる言い回しであり、この文の“腹”は、自我、マニピューラチャクラであり、だからこの文自体が“上”の思惑を自分の心の一部である自我に活かせって言い回しでもある。簡単な言い回しをすれば自分のことしか考えんのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、だから上の思惑を自分の腹=自我に取り込めよってことでもあり、それはまた“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”ってことにもなりうるものである。
 そしてこの文の“神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)”は、“岐”と“美”は、伊耶那岐命(イザナギノミコト)=男神、伊耶那美命(イザナミノミコト)=女神、の“岐”と“美”であり、“岐”は、山(脳)と支(わける、わかれる、わかれ出たもの)で構成され、それは思想であり、“美”は、羊と大きいで構成され、それはおとなしく従うの意味でもある。
 そして“岐”は、思想だからこそ思惑であり、思惑は日足(ひたり)の極性であり、日足(ひたり)の極性におとなしく従うのが本当の意味での“美”だと思える。
 だから古事記では、伊耶那美命(イザナミノミコト)=女神、砌(みぎり)の極性の表れのほうから声をかけ、失敗の事象の“創造”をしたことを示していると思われる。
 要は高い思惑、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)をした思想による“思惑の顕現”=現象化が、今後=アセンション後の事象でもあるって当たり前のことでんねん。
 そして神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)は、神が“上”から漏れるように、思想と、思想に従う事象の創造をするっていう意味の事柄だと思え、それがよいカタチの事象の“創造”につながるのだという言い回しでもある。
 そしてこの文では、“上”の思惑が“下”に垂れ、それを取り込み、その意味で神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)と称されているし、それは要は“天詞様”でもある。

 そして次の文も、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンのことを言っている。

“海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ、
海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国に、幽国(がいこく)の悪わたり来て神は残念ぞ。
見ておざれ、神の力現はす時来たぞ。”

 この文の“幽国(がいこく)の悪”っていうのは、外側(外国と幽界)の事象であり、それは自己観察できない程度の低い心(靈)、霊的成長度の低い段階、要は自我の肥大。
 それは、外側(外国と幽界)の事象の観察しか出来ない程度の低い心(靈)でもあるから、自分の在り方など思わず、目先のことしかわからない薄っぺらい幸福の概念を持っている段階の心(靈)のことやろ。 
それをこの文では“海をみな船で埋めねばならんぞ、海断たれて苦しまん様にして呉れよ”って言われてて、“海”は、腹の水で、マニピューラチャクラのことでもある。
 そやけど自我の肥大、それも進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、人(日止、霊止)が神格化して、その進化過程としては、自我の確立=固定化が必要、ちょっと間違えると自我の肥大になり、それは右往左往でもあるけれど、自我が無ければ、独り神(ひとりがみ、日取り神)にはなりえないのであり、だからこの文で“海めぐらしてある神の国、きよめにきよめておいた神の国”っていうのは、自分自身の肉体と心(靈)のことを称しており、それは、“国”は、(囗)くにがまえと“玉(ぎょく)”、“玉(ぎょく)”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示しており、だから“上”の思惑をだんだん獲得することを“神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)”って称されているけど、現時点、薄っぺらい“われよし”の価値観や行為や行動に囚われていて、何が貴いのか見失っている人がほとんどでもある。
 それについて具体例をあげてるとキリがないので省略するけど、今後=アセンション後の事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化でもあり、だから“見ておざれ、神の力現はす時来たぞ”って言われており、いうまでも無くそれについていける人は、自省(胸の磁性“十”)の行をした人で、“実言(みこと)”の“創造”、真実=真固止の創造をする人であり、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑を自分の思想にする人=“日月神示”表記の“天詞様”でもある。

 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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智性無き心は
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
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