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“続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話

太陽凝視を一生涯の“行”とし(現在、46年目)、実践し、その上で獲得した認識を述べています。

“日月神示”地つ巻 第八帖 Kellyさん的解釈



 今回も、地つ巻 第八帖を解釈しまんねん。 原文は以下の通り。

祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。
今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、
神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。
あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。
悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。
宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、
神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。
九月十九日、ひつ九のローレンツ力と ○  。

まず冒頭の文。

“祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。
借銭なしとはめぐりなくすることぞ、
昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、
人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。
世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。”

 この文の表記の“借銭”っていうのんは、(通貨としての)金のことを言っているのではない。 それはこの文自体の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”に示されている。
 そやからこの文の言い回しを考えれば、銭を借りるっていうのんは、助けてもらうとか力を加えてもらうって考えれば分かりやすいし、またこの言い回しには別の意味も感じられ、それは、恨みの連鎖の霊的干渉のことも言っていると思われるし、それがこの文の“祓ひせよ”に示されていると思える。 
 まず、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が助けるとか力を加えるとかのことから解釈を述べるけど、それは地球人が進化程度が低く、力不足だから、“上”は力を加えてきた。 
それは表現を変えれば、地球人がとても(霊的に)幼く、“上”の介入が無ければ今までの文明や社会は築くことが出来なかったともいえるし、“上”の介入はいうまでもなく憑依現象であり、“上”は地球人の進化のため、憑依現象でいろんなことを教えたり指導してきたりもしてきた。 
そうやって政治や宗教や科学や学問や、文明を構築してきたりもしたし、もっと低いことではスポーツなんかの現象もある。
余談になるけれど、重要なことだから補足しておくけど、すべての事象には霊的干渉の無いものは無いってことでもある。 常に人は、自分にどんな霊的干渉が起きているのか意識しなければならず、その霊的干渉は自分の心(靈)の動き=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって起きていることも深く考えるべきである。
本題に戻り、宗教はちょっと別の意味合いもあるけれど、政治、科学、学問、スポーツなんか、あらゆることに自分が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示したいって思うのは、愛(炁)が動機のこと。 簡単に言えば自分の理想を実現したいとか幸せになりたいとか思うことが、愛(炁)が動機のこと。
だから人(日止、霊止)は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を求め、力を示し、“術”(“力”の顕現)を獲得してきたけど、科学や政治や学問やスポーツが“術”(“力”の顕現)って認識は一般に無い。 
それは“術”って言葉に、甘い(亜、魔、出ずる、泉)幻想を抱いているからや。 
また“術”が、憑依現象による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現で、それは一般の認識、甘い幻想の、仙人の術とか天狗とか導士とか、魔法とか魔術とかだけではない。
そやからそれは、ローム太霊さんはローム太霊講話集でも、S会=紫光会の交霊会でも、“術”(“力”の顕現)については霊的干渉であり、自分の思い(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))による霊的存在の憑依や感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による現象化であることを述べている。 
またそこには、自分がエネルギーを贖わないと、高い存在は力を貸してくれないっていうとても大事なことが述べられている。 
これはきわめて重要な法則性でもあるし、また、“力”を獲得した人が、どう在るべきなのかを感じさせるものでもあるし、ローム太霊さんはそのことまでローム太霊講話集で述べており、それはまたS会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”(この事象に対する奉仕)にも顕れているものである。 
そして、ローム太霊講話集を読んだ人やS会=紫光会の交霊会に出席した人でも、そのことに気づいている人はあまりいないっていうのが、自分以外のS会=紫光会の会員に会い、話をした、○○○大先生の感想でもある。
そやからそれは、そこに自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう扱うべきなのか深く思わされるものであるけれど、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の人(日止、霊止)は、その“力”って物を自分のためにしか使わないし、その心(靈)の動きの裏には(通貨としての)金があり、物欲があり、目先の欲望があり、それにとらわれている人は、恨みの連鎖の霊的干渉を増大させていることを何度もいうてきた。 それが自我の肥大、“石屋の仕組み”でもある。
だから自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わないことを、この文では“借銭”と称されていて、本来“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が人(日止、霊止)に加えた“力”は、よい世界の創造のために行使するもんや。 決して自分だけの利益に使うものではないって当たり前のこと何やけど、進化程度の低い地球人はそのことすら真剣に考えたことが無い。
そやからそれは、こういう言い回しも今まで何回もしてきたけど、大半の地球人の霊的進化程度は低いし、だからものの見方が低いし、それは○○○大先生の言葉を引用すれば、“事象を観察する視野が狭い”ってことになるし、そしてそれはただ認識が低い=霊的に低いってことになる。 
だから、ただただ霊的なことや、術って言葉にも、甘い夢を見る現世利益みたいなことしか求めてない人が多い。 
そやからそれは前後するけど、S会=紫光会の会員でもそうやったってことでもあるし、○○○大先生が一冊目の本(ローム太霊との出会い)を出版して、ローム太霊講話集を読んだ人からも連絡やメールをもらったりして100人以上の人と話をしたんやけど、“術”(“力”の顕現)は憑依現象による“思惑の顕現”=現象化であり、それには自分の心の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が大事であるなんて認識を持っていた人は、ほとんどいなかったし、自分が頑張って(元の気を張って)発振、発信しなければ“上”は力を加えてくれないってことすら感じていない人が多かった。
ほんでから憑依現象っていうのんは、地球人の進化過程は現時点、腹の水=“江戸と尾張”の“江”…自我の確立=固定化の段階、そして腹の位相のサイクロトロンなのだから、霊媒体質の人が多く、何かの霊現象や“上”から通信を受けて発明や発見をしたとしても、スポーツなんかで力や技を示したとしても、それは低い感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の顕現でもあった。
そして霊媒体質の憑依現象は自分の心をのっとられることも多いし、さらに低い功名心や自尊心=自我の拡大、それは偏ったマニピューラチャクラの機能ともいいうるけど、自分の低い心(靈)に自分自身がとらわれることもとても多いものや。
そやから“力”の使い方を間違えて、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”になり、失敗の人生を送る(右往左往)。
そやけど今後=アセンション後、人(日止、霊止)が進化してマニピューラチャクラからアナハタチャクラの覚醒段階に至り、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”できるようになれば、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方と、“術”(“力”の顕現)をどう行使したらよいのか考える智性(“一”、1番目のオーラ)を持つようになる。
この進化(霊的成長、神格化に向かうこと)過程があれば、もう間違った“創造”はしないし、それは先ほど述べた自己奉仕者の力の使い方である“借銭”ではなく、そこには当然“上”が“創造”の法則性を示す意味での“神の咎め”はなくなるってことになる。  
それがこの文の“借銭なしとはめぐりなくすることぞ”であり、そして今、“神の咎め”として恨みの連鎖の霊的干渉は盛んになっている。 
それは心(靈)に日足と砌(ひたりとみぎり)の極性があり、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)としてまず、砌(みぎり)の極性が強くなるからこそ現時点の地球人は自我の肥大って霊的成長度でもある。
しかし自我の肥大って心(靈)の動きによる事象の“創造”は、他者の幸福を考えず、自分が位置する全体としての場(フィールド)のよいカタチを思わないから、“日月神示”では“われよし”と言われているし、それは“創造”の“主(ヌシ)”が人に託した“創造”のよいカタチではないからこそ、“神の咎め”として法則性を“上”は教える。
そしてそれがアセンションに伴う醜い事象そのものであり、それを体験した自我の肥大って進化程度の人は、自省(胸の磁性“十”)をするって今まで何度もいうてきた。
そして自省(胸の磁性“十”)って心を持ったならば、もう醜い事象を体験する理由がなくなる。 だからこの文で“世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ”と言われ、もう“上”が霊媒体質の人に憑依しなくても、自分たちが高い存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し、その上で獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)で、自己奉仕者の力の使い方ではなく、S会=紫光会の経文の言葉の“陰徳普及”“世為人為”を理念として、今後=アセンション後はよいカタチの“創造”をしていくことが出来るし、それを“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は望んでいるってことが言われている文章だと思われる。

その意味で次の文。

“今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、
神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。
あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。
悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。
祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。
宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、
神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。”

 この文の“宣る”って言い回しは、調べてみると、神や天皇が、神聖なる意向を人々に対し、口で言ったりして表明するって述べられている。 そして“祝詞(のりと)”の語源は「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)であるとされている。
 そやからそれは、神職の人が、祭神に祭祀の意義や目的を奏上する言葉であり、人間が神に対してみずからの祈願するところや、神を称えることを表現するために記した文章が祝詞でもある。 また、祭祀の場に参集した人々に宣り下される言葉でもあった。
 そやから“上”から“下”へ、何を宣り下すのかの解釈が大切で、それはいうまでも無く“上”の思惑であり、それを受けた人は“天詞様”であり、当然自己奉仕者の心(靈)ではない。
 そしてこの文では、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に対し、“神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。 あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。 悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。 祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。”と言われている。 
この文中の“あなはち、しきまきや、くにつ罪”は、畔放(あはなち)は、田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害することとされ、古事記・日本書紀にて、スサノオ命が高天原において天照大神の田に対してこれを行ったと記されている。 
頻播(しきまき)は、他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げることで、日本書紀に記されている。 要は他者に害を加えてはいけないってことでもあり、そして“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)に対し、“畦(あぜ)”を壊すとか、実りを妨害するとかは、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現を妨げることであるとの解釈を、あえてする。 大概の人は、この解釈を曲解やと思うやろけど、天照大神(太陽)の“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)に対し、害をなしたっていうのは、この解釈しか考えられん。
そして“くにつつみ”、国つ罪っていうのんは、病気や災害を指すことが多い。 そして、天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と捉えられている。 
それは恨みの連鎖の霊的干渉の結果であるとしか思えない。
 人間の行い=現時点での地球人の進化程度による事象の“創造”は、とても低く、だから恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ、その結果を自分たちが被る(こうむる)から、自分たちの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方を知るのでもあるし、それはローム太霊さんの言葉の右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもある。
 そして国つ罪の一般の解釈は、人間が疵を負ったり疾患を被り(こうむり)またこれによって死に至る。 それと、不適切な性的関係を結ぶ事による穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明されている。
 それを一つ一つ、下記にKellyさん的解釈も含めて述べることにしまんねん。

まず、“生膚断(いきはだたち)”、これは生きている人の肌に傷をつけることって解釈されているけど、すべての生命は傷つけてはいけないっていう意味としか思えない。
次に“死膚断(しにはだたち)”、これも死んだ人の肌に傷をつけることと解釈されていて、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるって解説されてるし、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる傷害致死罪に相当するとの説もあるって解説もされているけど、Kellyさん的には死体を傷つけるのは、家畜を殺して食う=肉食のことであるとしか思えないし、それは家畜の浮遊霊を増やし、家畜の浮遊霊は人の心(靈)に低い霊的干渉を起こし、それに囚われた人は本能、情動、功名心、自我までの心(靈)の動きしか持ち得ないし、また三毒、貪、瞋、痴(とん、しん、ち、)の心(靈)の動きになることを示唆した言葉であるとしか思えない。
ほんでから“白人(しらひと)”、これも、肌の色が白くなる病気「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされているけど、これはメラニン色素を失った状態であり、いうまでも無くメラニン色素が無ければ、骨の結晶化にならず、それは今当たり前のように美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)が良しとされているけど、それは“日月神示”表記の“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化にはなりえない。
そして“己(おの)が母犯せる罪”、これも、実母との相姦(近親相姦)と解釈されているけど、今のように性が乱れ、簡単に性交渉を持つ傾向にあることが罪だって意味だと思えるし、それは性に対し、貴さってものを見失っていて、同様に“己が子犯せる罪 (実子との相姦)”でも“母と子と犯せる罪(ある女と性交し、その後その娘と相姦する)”“子と母と犯せる罪 (ある女と性交し、その後その母と相姦する)”も、現状、動物霊の憑依や、子供の浮遊霊の憑依による、セックスそのものを快感を追及する行為としか捉えていない心(靈)の動きを指し示したこととし思えない。 進化した生命が思う性行為っていうのは、肉体を伴った心(靈)、対、肉体を伴った心(靈)による霊的干渉の一種であり、それはお互いの霊的成長のためであり、だから簡単に行ってはいけないものであり、相手をよく選択するもので無ければならない。
そして相手の選択は、霊的成長度のバランスを考えなければならず、性行為をする相手でもそれは貴い霊縁であるとの認識(悟り、幸取=さとり)もなければならない。
しかし現状は、ただやればいいって考えの人が多いし、たくさんの異性と交われば霊的進化して霊止になれるなんてくだらない内容の本まである。
まったく霊的進化程度の低い人、けだものに近い心(靈)、そんな人の発想はそんなものでんねん。
そして今列挙した四つのことを古事記の仲哀天皇段では、“上通下通婚(おやこたわけ)”と総括されている。 これらのことも、恨みの連鎖の低い霊的干渉で、人の心(靈)が低振動化して(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”)人の価値観や事象を観察する視点に、貴さが見失われていることを述べられた一例としか思えない。
そして“畜犯せる罪”、これも獣姦のことと解釈されており、同様に古事記の仲哀天皇段に、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)、犬婚(いぬたわけ)って述べられているけど、これも動物霊にのっとられた心(靈)の動きによる性行為や、その価値観や、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)としか思えない。
ほんでから“昆虫(はうむし)の災”、これは、地面をはう、毒蛇やムカデ、サソリなどによる災難であるとされているけど、人として進化した心(靈)が低振動化して本能主体の心(靈)になることだと思える。
ほんでから“高つ神の災”、これも落雷などの天災とされているけど、“神の咎め”以外の何物でもなく、“上”は物事=すべての事象に、“道理”=“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を示すからこそ、バチを当てるっていう意味だとしか思えない。
そして“高つ鳥の災”、大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には飛ぶ鳥の災とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされているけど、“上”が眷族を使い、バチを当て、“理(ミチ)”を示すことの具体的な例だと思える。
そして“畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪”、これも、家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のこととされているけど、このことも動物霊の恨みを利用したことであり、結果それは動物霊の恨みの連鎖の霊的干渉を指し示したこととしか思えない。
そやから大概の人はこれらのことを大して意識せず、神職ですら意識していないからこそ、この文では“あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか”と、称されており、それを強調する意味で“祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。”って言われている。
さらにそれは、宗教を生業(なりわい)としている人だけでなく、すべての人が、上と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しなければならないからこそ“神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。”って言われてる。
 そして“宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ”っていうのは、高い振動を受信でき得る肉体の構築をして、“上”の思惑と合体し、それをこの事象、現津(あきつ)、観察され得る事象に顕現するのが、人(日止、霊止)の使命であり、人の存在の根拠でもあり、そうなるためには“身魂磨き”=(生体内電流による)肉体組織の結晶化が必要であり、さらに右往左往して左往右往した心(靈)は、自省(胸の磁性“十”)し、“慈悲”と“慈愛”と“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ち、その進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした人は、失敗の事象の“創造”をしないからこそ、霊的成長度において分ける作業=アセンションってことが起きるのは、“創造”の“主(ヌシ)”の“思惑の顕現”=現象化でもあり、高い振動の受信、智性(“一”、1番目のオーラ)の発現は、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うことで成し得るのであることを、付け加えておきまんねん。
 
 今回はこれくらいにしときまんねん。

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 Kelly & ○○○大先生

Author: Kelly & ○○○大先生
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Kellyさんと○○○大先生は、
このブログを書いている○○○の、
心(靈)の二面性であり、
同一人物で有る事を、
お断りしておきます。

出版の告知

四冊目&五冊目は


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈4〉
智性無き心は
悪を容認する


太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈5〉
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アセンションを見誤る

 この二冊は、同時発売です。
太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <4> 智性無き心は 悪を容認する & 太陽凝視を行っている鍼灸師の話 <5> 智性無き心は アセンションを見誤る サムネイル
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2010年 4月20日(火)ごろより、全国書店(紀伊國屋書店・三省堂書店・旭屋書店・ジュンク堂書店・ブックファースト・リブロ・丸善など)にて順次陳列。


発売中の三冊目は


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〈3〉

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目上(めうえ)と目下(めした)


神格化のプロセス 目上と目下 縮小版 ブログ用
(クリックで拡大)


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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
〈2〉

ローム太霊の教え
日足(ひたり)と砌(みぎり)


サムネイル太陽凝視を行っている鍼灸師の話〈2〉ローム太霊の教え 日足(ひたり)と砌(みぎり) 
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太陽凝視を行っている鍼灸師の話
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この本に付いてはこちらを御覧下さい。


       




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☆ 紫光会経文の文言 Kellyさん的解釈 (18)
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☆先生が室内で写真を撮るときのセッティング (6)
その他 お知らせ (3)



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2005年10月1日~2008年1月15日まで、
“Kellyさんとの会話”で、説明して来た事・・・
その内容・・・それは・・・その何年も前から、
何か自分の考えをある程度公表しなければならない・・・
そう言う通信を受け・・・その理由は・・・地球人が低い心(靈)の発現しかしていない・・・
それを自覚していない人が多い。
その事由来の太陽凝視に対する認識、
(太陽凝視=不食・・・としか、認識させない存在の思惑を、受信している事)
霊的成長に対する認識、
神に対する認識、
心=靈に対する認識、
オーラに対する認識、
そして、
高い認識の上での進化の意味と幸福の概念と神の概念・・・
進化=霊的成長=神格化=(相対的に)高い認識を獲得する事・・・
霊的成長=神に近づく事=真の幸福の意味。
霊的成長度は1番目のオーラに顕れる。
よって、宇宙的プログラムにより次の段階に移行する人(日止、霊止)は、 何を考えるべきなのか・・・
そして、人(日止、霊止)の進化を阻む存在の思惑、
その心=靈の動き、それらの意図・・・それが一般に認知されていない事。
それらを伝えなければ成らない・・・そして一応・・・完結はしたのですが・・・
解り難い・・・理解しがたい・・・具体例を示して欲しい・・・そう言う感想も頂き、
そして自分なりにも説明が足らなかった事・・・
更に、
“Kellyさんとの会話”が完結してからも通信を受けている事・・・そう云う事もあり・・・
よって、このブログを立ち上げる事としました。
従って、
“Kellyさんとの会話”が、
自分の意見を述べる上での、ローム太霊の言葉、
“右往左往”(“いきり立つ心(奴と心)”で行動してから考える)・・・と、 するならば、 このブログはアタシ自身の、
“左往右往”(“思う、憂う”・・・体験を教訓として考え行動する)の、
作業になって行くと思います。



自分達の欲望を満たしたい… 
自分だけ幸福になりたい…
こういった進化程度の低い心(靈)の発現由来の思いが、
低い幸福の概念になり(目下(めした)の思い)
その結果が、飢餓貧困、戦争の原因になったりしています。
(子供の浮游霊の霊的干渉の影響を受け、 それがどんどん増して行く事等が、
“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)
の思惑だと 思えます)

恨みの連鎖による霊的干渉を増やさない為、
その解消の為にも、(この趣旨に反する類の物もありますが) クリックをお願いします。
クリックした人に、お金の負担はありません。 ↓↓




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